2015年12月6日日曜日

羽柴秀吉家臣団辞典(五奉行+大谷吉継編)

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【あ】

青木市左衛門【あおきいちざえもん(15??~15??)】

石田三成家臣。鉄炮頭を務めた。1600年、「関ヶ原の戦い」で松平元康勢に捕縛された。「佐和山城の戦い」で開城を促す使者となった。

赤座三右衛門尉【あかざさんうえもんのじょう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

浅野長勝【あさのながかつ(15??~1575)】

織田信秀家臣。浅野長詮の男。通称又右衛門。室は杉原家利の娘(七曲殿)。織田信秀に弓衆として仕えた。その後、織田信長の意向を受け羽柴秀吉に寄騎衆となった。杉原定利の娘である寧々、彌々の姉妹を養女として養育した。また姉婿の安井重継の甥浅野長政を彌々の婿養子に迎えた。寧々が羽柴秀吉に嫁いだことから浅野家は杉原家定とならんで羽柴秀吉の姻戚となった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

浅野長政【あさの ながまさ(1547~1611)】

安井重継の男(浅野長勝の養子)。官途は弾正少弼。通称弥兵衛。室は浅野長勝の娘(彌々)。1573年、「小谷城の戦い」で戦功を挙げた。羽柴秀吉が長浜城主となると120石を領した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、羽柴秀吉に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げて、近江国大津城20,000石を領した。1584年、五奉行の筆頭を務めた。1587年、「九州征伐」に参陣して戦功を挙げ、若狭国小浜城80,000石を領した。1593年、「文禄の役」でも戦功があり、加藤光泰の病没後に収公された甲斐国府中城215,000石を領した。検地や甲府城の修築を行い、甲斐国支配を進めた。1599年、前田利長らとともに松平元康謀殺の嫌疑を受け、家督を浅野幸長に譲って武蔵国府中に隠居した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属した。浅野長政は中山道を進み、浅野幸長は松平元康勢の先陣を務めて戦功を挙げた。役後、浅野幸長が紀伊国和歌山城370,000石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅野幸長【あさのよしなが(1576~1613)】

浅野長政の男。官途は左京大夫。室は池田恒興の娘。1590年、「岩槻城の戦い」で父浅野長政とともに参陣した。1592年、「文禄の役」に参陣した。1595年、「羽柴秀次の事件」連座し、能登国津向に配流されたが、前田利家、松平元康の取り成しにより復帰した。1597年、「慶長の役」では、蔚山城に拠って明国勢の李如梅と戦った。1598年、羽柴秀吉の病没後、加藤清正、福島正則、池田輝政らとともに五奉行の石田三成らと対立した。1599年、前田利家の病没後には福島正則、加藤清正らとともに石田三成の館を襲撃した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属した。「関ヶ原の戦い」では、南宮山の毛利秀元、長束正家勢に備え、垂井一里塚付近に陣を構えた。役後、紀伊国和歌山城370,000石を領した。1611年、加藤清正と協力して二条城における松平元康と羽柴秀頼の会談を実現させ、加藤清正とともに二条城の警備を行った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅野長晟【あさのながあきら(1586~1631)】

浅野長政の次男。官途は右兵衛佐。室は松平元康の三女(振姫)。1594年、羽柴秀吉に仕えて3,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して、役後備中国足守城24,000石を領した。1613年、兄浅野幸長が嗣子無くして病没したため、浅野家の家督を相続して紀伊国和歌山城主となった。1614年、「樫井の戦い」では、松平元康勢に属して塙直之らを討取る戦功を挙げた。紀伊国内では「北山一揆」「紀州一揆」と土着勢力の相次ぐ蜂起に遭い、役後すぐに領内に戻り一揆の鎮圧にあたった。1619年、福島正則が改易されると、その後を受けて安芸国広島城420,000石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅野長重【あさのながしげ(1588~1632)】

浅野長政の三男。通称長兵衛。室は竹谷松平家清の娘(松平元康の養女)。1593年、羽柴秀吉は、浅野長重を継嗣が宇都宮国綱の養子にする工作を行った、芳賀高武の反対により失敗に終わった。1599年、松平秀忠に小姓として仕えた。1600年、「関ヶ原の役」には、若年を理由に参陣できなかった。芳賀高武の旧領である下野国真岡城20,000石を領した。1611年、浅野長政の病没後、隠居料の常陸国真壁城50,000石を領して、真岡城20,000石を返上した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」では、毛利勝永らと戦い、家臣30人、雑兵100人余りを失い敗走した。1622年、本多正純が改易されると、宇都宮城の収城使を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅野氏次【あさのうじつぐ(15??~15??)】

浅野長勝の男。通称善左衛門。

浅野氏重【あさのうじしげ(15??~1619)】

浅野氏次の男。官途は左衛門佐。1593年、浅野長政が甲斐国に転封になると、それに従い、都留郡勝山城を改築し、領内に北口本宮冨士浅間神社の西宮本殿を造営した。1600年、「関ヶ原の役」の戦功により浅野幸長が紀伊国和歌山城370,000石を領すると、筆頭家老職を務め、田辺城30,000石を領した。1613年、浅野幸長が病没すると、三弟の浅野長重を浅野家の後継者に推したが、次弟の浅野長晟が浅野家の家督を相続した。1615年、「樫井の戦い」では、亀田高綱らとともに、羽柴秀頼勢の大野治房、塙直之、淡輪重政らを撃破る戦功を挙げた。1619年、浅野長晟が安芸国広島城に転封になると、浅野長晟と対立して謀殺された。

浅野忠吉【あさのただよし(1546~1621)】

浅野長忠の男。官途は右近大夫。1593年、浅野長政が甲斐国に転封になると、それに従い、身延山にある久遠寺の本殿を造営した。1600年、「関ヶ原の役」の戦功により浅野幸長が紀伊国和歌山城370,000石を領すると、紀伊国新宮城28,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」の参陣中、所領の熊野で北山一揆が勃発するが、戸田勝直らが一揆の拡大を防ぎ、浅野忠吉も大坂から折り返してこれを鎮圧した。1619年、浅野長晟が安芸国広島城に転封となると、備後国三原城30,000石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅野正勝【あさのまさかつ(15??~15??)】

浅野長政家臣。通称六右衛門。1590年、伊達政宗から会津領を接収する役目に任じられた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅野良重【あさのよししげ(15??~16??)】

浅野長政家臣。通称左衛門佐。1615年、「大坂夏の陣」で、羽柴秀頼勢の塙直之を討取る戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安見甚七【あみじんしち(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

有坂宮内【ありさかくない(15??~15??)】

長束正家家臣。1589年、「武蔵忍城の戦い」で、家所帯刀 、臼杵平四郎 、一宮善 兵衛、有坂宮内、増田新次郎らとともに戦功を挙げた。

安西左傳次【あんざいさでんじ(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

安藤直重【あんどうなおしげ(15??~1600)】

石田三成家臣。別名蒲生将監。はじめ蒲生氏郷に仕えた。蒲生氏郷の病没後、石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の戦い」で討死した。

家所帯刀【いえどころたてわき(15??~1600)】

長束正家家臣。1589年、「忍城の戦い」で臼杵平四郎、一宮善兵衛、有坂宮内、増田新次郎らとともに戦功を挙げた。1600年、「水口城の戦い」で長束正家が亀井茲矩、池田長吉らと本領の安堵を条件に和議を結ぶが、嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞らとともに捕縛され自刃に追い込まれた。

石川民部【いしかわみんぶ(15??~16??)】

増田長盛家臣。1600年、「伏見城の戦い」では、増田長盛の陣代として福西源次郎、大岡佐左衛門、福原清左衛門らを率いて参陣した。

石井三承【いしいさんじょう(15??~15??)】

浅野長政家臣。下野国検地では、浅野長政の家臣筆頭として功を挙げた。

石田為広【いしだためひろ(15??~15??)】

近江国坂田郡石田館主。和歌や文学に造詣が深い人物。

石田正継【いしだまさつぐ(15??~1600)】

石田為広の男。官途は隠岐守。通称藤右衛門。石田三成が羽柴秀吉に仕えると、代官職を務めて補佐した。1595年、石田三成が佐和山城主に任じられると、佐和山城代30,00石を領して石田三成の留守居役を務めた。1592年、「文禄の役」では、楠木正虎とともに肥前国名護屋城にあって帳簿関係を担当した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田正澄とともに佐和山城留守居役を努めた。石田三成勢が敗退すると、小早川秀秋らの猛攻を受け自刃した。

石田正澄【いしだまさずみ(15??~1600)】

石田正継の男。通称は弥三。弟の石田三成とともに羽柴秀吉に仕えた。近江国高島郡の代官職や堺町奉行を務め、近江国内で15,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、物資を朝鮮に輸送する任務につき、石田三成とともに功を挙げた。1597年、「慶長の役」では、伏見城留守居役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田正継とともに佐和山城を守備した。石田三成勢が大敗すると、小早川秀秋らの猛攻を受け自刃した。

石田朝成【いしだともなり(15??~1600)】

石田正澄の男。通称右近。1598年、弟の石田主水正とともに羽柴秀頼に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、父石田正澄らとともに佐和山城を守備した。石田三成勢が大敗すると、小早川秀秋勢の猛攻を受け自刃した。辞世の句は、「気にさそなにしに心はいそかるるかたふく月も今はいとはし」。

石田主水正【いしだもんどのしょう(15??~1600)】

石田正澄の次男。1600年、「関ヶ原の役」では、羽柴秀頼に対する人質として大坂城に留め置かれた。石田三成勢が大敗して佐和山城が小早川秀秋勢の猛攻を受け落城すると、高野山の木喰上人を頼ったが、まもなく自刃した。

石田三成【いしだみつなり(1560~1600)】

石田正継の男。官途は治部少輔。室は宇多頼忠の娘(皎月院)。辞世の句「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。

石田重家【いしだしげいえ(1583~1686)】

石田三成の男。官途は隼人正。1600年、「関ヶ原の役」では、羽柴秀頼に対する人質として大坂城に留め置かれた。石田三成勢が大敗して佐和山城が小早川秀秋勢の猛攻を受け落城すると、京都妙心寺塔頭寿聖院の住職伯蒲恵稜によって剃髪して仏門に入った。京都所司代奥平信昌を通じて助命を願い、松平元康から許され、寿聖院の住職を務めた。

石田重成【いしだしげなり(1589~1641)】

石田三成の次男。官途は隼人正。通称仁兵衛。別名杉山源吾。羽柴秀頼に小姓として仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢が大敗して佐和山城が小早川秀秋勢の猛攻を受け落城すると、津軽信建とともに津山甚内らとともに陸奥国に落延びた。大浦為信の庇護を受け深味村に隠棲した。

石田佐吉【いしださきち(15??~15??)】

石田三成の三男。別名深長坊清幽。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢が壊滅すると、津田清幽、津田重氏が脇坂安治の家臣村瀬忠兵衛を捕縛して松平元康と石田佐吉の助命を交渉した。役後出家して甲斐国河浦山薬王寺十六世を務めた。

石田佐兵衛【いしださへい(15??~1600)】

石田三成の甥。1600年、「関ヶ原の役」では、能登国安代原城を守備した。松平元康勢の攻撃を受け自刃した。

五十表小平次【いそおもてこへいじ(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

磯野平三郎【いそのへいざぶろう(15??~15??)】

石田三成家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」で石田三成勢が壊滅すると、石田三成に渡辺勘平、塩野清助とともに従って落延びた。しかし、石田三成の意向を受け別々に落延びた。

一宮善兵衛【いちのみやぜんえもん(15??~15??)】

長束正家家臣。1589年、「武蔵忍城の戦い」で、家所帯刀 、臼杵平四郎 、一宮善 兵衛、有坂宮内、増田新次郎らとともに戦功を挙げた。

稲沢家貞【いなさわいえさだ(15??~15??)】

増田長盛家臣。

今中光安【いまなかみつやす(15??~16??)】

浅野長政家臣。通称勘右衛門。足利義昭に仕え山城国普賢寺城を領した。織田信長勢の攻撃を受け没落した。1577年、浅野長政に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で戦功を挙げた。1614年、「大坂の陣」では、和歌山城留守居役を務めた。

岩田五助【いわたごすけ(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

岩間伝五郎【いわまでんごろう(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

入江権左衛門【いりえごんざえもん(15??~15??)】

石田三成家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」では、島津義弘勢の中央突破に従い先導役を務めた。

上原久兵衛【うえはらきゅうべい(15??~15??)】

増田長盛家臣。ルソン壺の代金受け取りの督促状を組屋甚四郎に送った。

鵜飼藤助【うかいとうすけ(15??~15??)】

長束正家家臣。1600年、「伏見城の戦い」で鳥居元忠は内藤家長、内藤元忠、佐野綱正、松平家忠、松平近正、駒井直方、岩間光春、多賀作左衛門、深尾清十郎、木下勝俊、上林竹庵らとともに伏見城に籠城したが、宇喜多秀家勢40,000余り攻撃を受けたが頑強に持ち堪えた。鵜飼藤助は長束正家の意向を受け、鳥居元忠勢の深尾清十郎を寝返らせて城内に火を放たせた。

臼杵平四郎【うすきへいしろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1589年、「武蔵忍城の戦い」で、家所帯刀 、臼杵平四郎 、一宮善 兵衛、有坂宮内、増田新次郎らとともに戦功を挙げた。

大滝源右衛門【おおたきげんざえもん(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

大谷吉房【おおたに しふさ(15??~15??)】

羽柴秀吉家臣。官途は伊賀守。別名は大谷吉定。室は東殿。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が滅亡すると、羽柴秀吉に仕えた。

大谷吉継【おおたによしつぐ(15??~1600)】

大谷吉房の男。官途は刑部少輔。通称は紀之介。業病を患い、面体を白い頭巾で隠して戦った。石田三成の推挙により、羽柴秀吉に仕え150石を領した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げた。1587年、「九州征伐」では、石田三成とともに兵站奉行を務めた。1589年、越前国敦賀城50,000石を領した。癩病を病み、両目の視力を失うに及んで羽柴秀吉に解職を願い出たが、その能力の高さゆえに許されなかった。1589年、「小田原の役」後、羽後国の検地奉行を務めた。1592年、「文禄の役」では、石田三成とともに船舶の調達にあたった。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に従うために兵1,000余りを率いて美濃国垂水まで進むが、石田三成の説得を受け石田三成勢に属した。大谷吉継は北陸方面を転戦後、美濃国に侵攻した。「関ヶ原の戦い」では、小早川秀秋勢の離反に備えて赤座直保、朽木元綱、脇坂安治、小川祐忠らとともに陣を引いたが、小早川秀秋が離反すると、赤座直保、朽木元綱、脇坂安治、小川祐忠の内応して、側背面を衝かれ大谷吉継勢は壊滅して討死した。

大谷吉治【おおたによしはる(1581~1615)】

大谷吉継の男。官途大学助。1597年、羽柴秀吉の饗応役を大谷吉継に代わりに務めた。1598年、羽柴秀吉が病没すると、遺品の「鐘切りの刀」を受け取った。1600年、「関ヶ原の役」では、父大谷吉継とともに石田三成勢に属するが、小早川秀秋勢の離反により大谷吉継勢は壊滅したが、越前国敦賀城に落延びた。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢に属して足軽大将を務めた。1615年、「天王寺、岡山の戦い」では、真田信繁勢とともに松平忠直勢と戦うが討死した。

大谷頼継【おおたによりつぐ(15??~1600)】

大谷吉継の次男。官途は山城守。別名木下頼継。羽柴秀吉に仕え越前国内で25,000石余りを領した。1600年、「関ヶ原の戦い」では、父大谷吉継とともに石田三成勢に属した。小早川秀秋勢の離反により大谷吉継勢は壊滅したが、越前国敦賀城に落延びたが、まもなく病没した。

大谷泰重【おおたにやすしげ(15??~15??)】

大谷吉継の三男。官途は治部。

大石良定【おおいしよしさだ(1540~1608)】

山口宗永家臣。大石朝良の男。通称平左衛門。1600年、「関ヶ原の役」では、山口宗永に従って石田三成勢に属したが敗れて浪人した。

大石一定【おおたにかずさだ(15??~15??)】

大石良定の男。浅野長重に仕えた。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で羽柴秀頼勢に討死した。

大石良信【おおいしよしのぶ(15??~1599)】

羽柴秀次家臣。大石朝良の次男。通称久右衛門。室は進藤長治の娘(志茂)。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃すると、浪人となった。

大石良照【おおいしよしてる(15??~15??)】

大石良信の男。

大石良勝【おおいしよしかつ(1587~1650)】

大石良信の次男。通称内蔵助。父大石良信は羽柴秀次に仕えた。石清水八幡宮の宮本坊で仏門に入ったが、まもなく武士に戻った。1604年、浅野長重に仕え300石を領した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で戦功を挙げ、筆頭家老職を務め1,500石を領した。

大石信云【おおいしのぶこと(1592~1675)】

大石良信の三男。通称八郎兵衛。室は奥野尚次の娘。兄大石良勝とともに浅野長重、浅野長直に仕え450石を領した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」では、大石良勝とともに戦功を挙げた。1645年、隠居して次男大石信澄に家督を譲った。

大岡佐左衛門【おおかさぜえもん(15??~16??)】

増田長盛家臣。1600年、「伏見城の戦い」では、陣代の石川民部に従って参陣した。

大谷次郎右衛門尉【おおたにじろうえもんのじょう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

大橋掃部【おおはしかもん(15??~1600)】

石田三成家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」で小早川秀秋が内応すると、石田三成勢が壊滅した。黒田長政の家臣後藤基次と一騎打ちとなり討取られた。

大場土佐守【おおばとさのかみ(15??~15??)】

石田三成家臣。官途は土佐守。通称三左衛門。若江八人衆のひとり。藤堂玄蕃、舞兵庫、大山伯耆らとともに羽柴秀次に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」でも羽柴秀次勢に属して参陣した。1584年、「小牧、長久手の戦い」にも参陣した。1595年、「羽柴秀次事件」で、羽柴秀次が自刃すると、石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の戦い」では、石田三成の侍大将として参陣した。「関ヶ原の役」後は、蜂須賀至鎮に仕えた。

大山伯耆守【おおやまほうきかみ(15??~1600)】

石田三成家臣。若江八人衆のひとり。官途は伯耆守。豊臣秀次に仕え馬廻衆を務めた。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃すると、石田三成に仕えた。1600年、「伏見城の戦い」では、高野越中守とともに石田三成の陣代理を務めた。「関ヶ原の戦い」では、石田三成勢の先陣を務めたが討死した。

岡部小衛門【おかべこえもん(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

岡村数馬助【おかむらかずまのすけ(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

奥村左馬助【おくむらさまのすけ(15??~15??)】

長束正家家臣。1600年、「水口城の戦い」では、池田長吉、亀井茲矩らのもとに赴き長束正家が自刃するための猶予を乞い認められた。長束正家は弟長束直吉とともに家臣奥村左馬助の介錯で自刃した。

岡本修理【おかもとしゅり(15??~15??)】

浅野長晟家臣。1619年、浅野長晟が安芸国広島城を領すると、浅野良重は備後国三原城を領することを望んだが、備後国三次城30,000石を領することになった。浅野良重はこれを拒否して屋敷に立て籠もった。岡本修理が浅野長晟の意向を受け木村石見守、平尾形部らとともに浅野良重を討取った。

大音新助【おとわしんすけ(15??~15??)】

石田三成家臣。1594年、石田三成が領国に帰還すると、石田三成に代わって
黒川左近助、高橋新太夫、坂上源之丞、河崎新六ら奉行衆を率いて薩摩国、大隅国、日向国の検地の総奉行を務めた。

小野覚雲【おのかくうん(15??~15??)】

浅野長政家臣。通称覚雲。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃すると、浅野長政に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」に参陣して戦功を挙げた。1619年、浅野長晟が安芸国広島城426,000石を領すると、それに従い1,000石を領した。

小幡信世【おばたのぶよ(1578~1600)】

石田三成家臣。,通称助六。石田三成に仕えて納戸頭を務めた。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢が壊滅すると、近江国石山寺に落延びたが捕縛された。石田三成の所在を問い質されたが白状せずに自刃した。

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【か】

笠井慶秀【かさいよしひで(15??~16??)】

大谷吉継家臣。笠井満秀の男。1600年、「関ヶ原の役」で大谷吉継が討死すると、井伊直政に仕えた。

柏原彦右衛門【かしはらひこえもん(15??~16??)】

石田三成家臣。1600年、使者として大谷吉継もとに派遣された。「美濃岐阜城の戦い」では、河瀬左馬助、柏原彦右衛門、柏原内膳、大西善左衛門、松田重太夫らとともに石田三成勢に属した織田秀信への援軍に派遣され、美濃瑞龍寺山砦を守備した。浅野幸長や一柳直盛らの攻撃を受けた。

上坂吉次【かみさかよしつぐ(15??~1650)】

浅野長政家臣。通称六右衛門。浅野長政に200石で仕えた。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。

河瀬左馬助【かわせうまのすけ(15??~15??)】

石田三成家臣。1600年、「岐阜城の戦い」では、柏原彦右衛門、柏原内膳、大西善左衛門、松田重太夫らとともに石田三成勢に属した織田秀信への援軍に派遣され、美濃瑞龍寺山砦を守備した。浅野幸長、一柳直盛らの攻撃を受けた。

河瀬織部【かわせおりべ(15??~15??)】

石田三成家臣。1600年、「佐和山城の戦い」では、搦手を守備した。

川副式部丞【かわふくしきぶのじょう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

河村長門守【かわむらながとのかみ(15??~15??)】

増田長盛家臣。1600年、上杉景勝に誓詞を求めるため、伊奈昭綱とともに会津に下向した。

岸久七【きしきゅうしち(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

北村権右衛門【きたむらごんえもん(15??~15??)】

長束正家家臣。1597年、安房国の検地奉行を務めた。

木下小次郎【きのしたこじろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

木村石見守【きむらいわみのかみ(15??~15??)】

浅野長晟家臣。1619年、浅野長晟が安芸国広島城を領すると、浅野良重は備後国三原城を領することを望んだが、備後国三次城30,000石を領することになった。浅野良重はこれを拒否して屋敷に立て籠もった。岡本修理が浅野長晟の意向を受け木村石見守、平尾形部らとともに浅野良重を討取った。

熊沢直勝【くまざわなおかつ(15??~15??)】

浅野長政家臣。通称兵庫介。浅野長政に仕え2,400石を領した。1614年、「紀州一揆」では、大坂に参陣していたが地元に戻って鎮圧に務めた。「百貫島の戦い」で一揆勢の山室彦左衛門と一騎打ちを行った。1619年、浅野長晟が安芸国広島城426,000石を領すると、それに従い3,200石を領した。

桑島治右衛門【くわじまじえもん(15??~15??)】

石田三成家臣。1599年、前田利家が病没すると、福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政らと石田三成、増田長盛、長束正家らとの仲裁を図るものがいなくなった。福島正則らは石田三成の屋敷を襲撃し、石田三成を討取ることを企てた。石田三成は羽柴秀頼に侍従する桑島治右衛門の通報によりそれを察知し、島清興らとともに佐竹義宣の屋敷に落延びた。

小堺是成【こさかいこれなり15??~1582)】

織田信長家臣。1582年、「本能寺の変」で明智光秀勢と戦い討死した。

小堺吉景【こさかいよしかげ(15??~1614)】

浅野長政家臣。官途は兵部少輔。浅野長政に仕え戦功を重ね1,500石を領した。1614年、「木津川口の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い討死した。

小島利元【こじまとしもと(15??~16??)】

浅野長政家臣。小島清右衛門の男。通称九郎兵衛。浅野長政に仕えた切米50石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、馬廻衆として参陣した。

小西治右衛門【こにしじえもん(15??~15??)】

長束正家家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」で石田三成勢が敗れ、長束正家が自刃すると、形見の品を拝領した。

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【さ】

堺猪左衛門尉【さかいいざえもんのじょう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

坂井平三郎【さかいへいざぶろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

佐久間与左衛門【さくまよざえもん(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

三位融盛【さんいゆうせい(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

塩屋法順【しおやほうじゅん(15??~15??)】

増田長盛家臣。郡山城代を務めた。

篠原金助【しのはらきんすけ(15??~15??)】

長束正家家臣。1597年、安房国の検地奉行を務めた。安房国長狭郡の小原村と小町村は、領地を巡り争うと、領地を取り決める裁定に列席した。

島清興【しまきよおき(1540~1600)】

石田三成家臣。官途は左近。別名島勝猛。松倉重信とともに筒井順昭に仕え、「筒井家の右近左近」と称された。1585年、筒井定次と不仲になり筒井家を辞し、羽柴秀長に仕えた。1594年、羽柴秀保が病没すると、石田三成に仕えた。1600年、「杭瀬川の戦い」では、中村一栄勢を撃破した。「関ヶ原の戦い」では、石田三成勢の先陣を務め、黒田長政勢と戦ったが、銃撃を受けて討死した。

島信勝【しまのぶかつ(1585~1600)】

島清興の男。通称新之丞。別名島政勝。父島清興が加増を固辞したため、代わりに3,000石を領した。1600年、「関ヶ原の戦い」では、大谷吉継勢の軍奉行を務めた。藤堂高虎の甥藤堂良政を討取る戦功を挙げるが、藤堂良政の家臣山本牛三郎に討取られた。
 
島友勝【しまともかつ(15??~15??)】

島清興の次男。通称吉次郎。別名島忠正。室は財満貞之丞の娘。1600年、「関ヶ原の役」には参陣せず敗報を聞き母とともに安芸四日市に落延びた。後に「白牡丹酒造」を興した。

島清正【しまきよまさ(15??~1600)】

島清興の四男。1600年、「関ヶ原の役」では、大谷吉継隊に属して戦い討死した。
 
島勘左衛門【しまかんえもん(15??~15??)】

嶋清興の従弟。島清興とともに石田三成に仕えた。

下河原惣左衛門【しもがわらそうざえもん(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

杉江勘兵衛【すぎえかんべえ(15??~1600)】

石田三成家臣。もと稲葉良通に仕えた。島清興、舞兵庫とともに猛将さを謳われた。1600年、「美濃岐阜城の戦い」で藤堂高虎、黒田長政、田中吉政らと戦い、田中吉政の家臣辻重勝に討取られた。

薄田源太郎【すすきだげんたろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

菅田四郎右衛門【すだしろうえもん(15??~16??)】

浅野長政家臣。1614年、「伯楽淵砦の戦い」では、池田輝政の家臣箕浦右近が一番頸の戦功を挙げた。頸実検で菅田四郎右衛門が平子貞詮の頸であることを証言した。

須藤権右衛門【すどうごんえもん(15??~15??)】

石田三成家臣。石田三成のもとで、城下の民衆との夫役問題では交渉役を務めた。

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【た】

高田一英【たかだかずえい(15??~15??)】

増田長盛家臣。官途は遠江守。もと 羽柴秀長家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、高野山に蟄居した増田長盛の意向を受け開城を命ずる書状を受け取り山川半平とともに大和郡山城にと届け開城させた。

高樋主水【たかとうもんど(15??~1615)】

増田長盛家臣。通称主水。1600年、「関ヶ原の役」後、増田長盛が改易処分に処されると、浪人となり大和国に隠棲した。1615年、「大坂夏の陣」では、上洛する松平元康の焼討ちを図るが、河内国駒ヶ谷で捕縛され、奈良奉行中坊秀政のところに送られた。

高橋二郎兵衛【たかはしじろうべい(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

高野盛定【たかのもりさだ(15??~15??)】

浅野長政家臣。通称吉右衛門。1600年、「関ヶ原の役」後、浅野幸長が紀伊国和歌山城370,000石を領しすると、それに仕え300石を領した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。1619年、浅野長晟が安芸国広島城426,000石を領すると、それに従った。

高野越中守【たかのえっちゅう(15??~15??)】

三好康長家臣。官途は左馬助。別名平尾形部。羽柴秀次が三好康長の養子になるとその家臣となり、馬廻衆組頭を務めた。若江八人衆のひとり。1595年、「羽柴秀次事件」後、石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。役後、浅野幸長に仕えた。1619年、浅野長晟が安芸国広島城を領すると、浅野良重は備後国三原城を領することを望んだが、備後国三次城30,000石を領することになった。浅野良重はこれを拒否して屋敷に立て籠もった。岡本修理が浅野長晟の意向を受け木村石見守、平尾形部らとともに浅野良重を討取った。

拓殖吹郎吉【たくしょくふきろうきち(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

竹内伊右衛門【たけうちいえもん(15??~15??)】

長束正家家臣。

田中藤七郎【たなかとうしちろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

田中三十郎【たなかさんじゅうろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

谷市助【たにいちすけ(15??~15??)】

増田長盛家臣。

津田清幽【つだきよふか(15??~15??)】

石田正澄家臣。織田信氏の次男。1600年、「佐和山城の戦い」では、継嗣の津田重氏とともに幾度も小早川秀秋勢を撃退した。松平元康の使者舟越景直と和議の交渉を行った。石田正澄の自刃を条件に城兵の和議が結ばれたが、羽柴秀頼の家臣長谷川守知が内応、小早川秀秋、小川祐忠、脇坂安治、田中吉政らを城内に引き入れ佐和山城は落城、石田正澄、石田正継らが自刃した。津田清幽は脇坂安治の家臣村越忠兵衛を捕縛すると、松平元康と交渉を行ない石田佐吉の助命を認めさせた。

津田重氏【つだしげうじ(15??~15??)】

津田清幽の男。1600年、「佐和山城の戦い」では、父津田清幽とともに幾度も小早川秀秋勢を撃退した。

津田新八【つだしんぱち(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

津田重長【(15??~15??)】

増田長盛家臣。

土田成久【つちだなりひさ(15??~1600)】

石田三成家臣。別名東雲斎。石田三成に仕えた。1600年、「佐和山城の戦い」で小早川秀秋勢と戦い自刃した。

土田友成【つちだちもなり(15??~15??)】

土田成久の次男。1600年、「佐和山城の戦い」後、石田朝成とともに西国に落延びた。

土屋守四郎【つちやもりしろう(15??~15??)】

大谷吉継家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」では、最後まで本陣に留まった。

津山甚内【つやまじんない(15??~15??)】

石田三成家臣。通称喜内。1600年、「関ヶ原の役」では、石田重成とともに大坂城を守備した。石田三成勢が壊滅すると、石田重成とともに大浦為信を頼って落延びた。

戸田勝直【とだかつまさ(15??~16??)】

浅野長政家臣。1583年、浅野長政に仕え100石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、浅野幸長が紀伊国和歌山城370,000石を領すると、浅野忠吉の附家老職に任じられ新宮城代を務めた。1614年、「紀州一揆」では、新宮城が一揆勢3,000余りの攻撃を受けたが手勢60余りで夜襲を行ない一揆勢を敗走させる戦功を挙げた。1619年、浅野長晟が安芸国広島城426,000石を領すると、浅野忠吉が備後国三原城主に任じられ、その城代を務めた。

戸部武直【とべたけなお(15??~1600)】

石田三成家臣。戸部正直の男。1600年、「関ヶ原の役」では、佐和山城留守居役を務めた。「佐和山城の戦い」で松平元康勢と戦い討死した。

戸部忠直【とべただなお(15??~16??)】

戸部武直の男。1600年、「関ヶ原の役」では、父戸部武直とともに佐和山城留守居役を務めた。「佐和山城の戦い」で松平元康勢に捕縛されたが、後に許されて最上義光に仕えた。

富永主膳【とみながしゅぜん(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

伴五兵衛【ともごへえ(15??~15??)】

長束正家家臣。1600年、「伏見城の戦い」では、陣代の家所帯刀に従って参陣した。甲賀衆の鵜飼藤助の働きによって城内の甲賀衆を寝返らせ、伏見城攻落とす戦功を挙げた。1637年、「島原の乱」では、岩根勘右衛門に従って松平信綱勢に属して参陣した。島原城に潜入して兵糧不足を報告する功を挙げた。

伴藤三郎【ともとうざぶろう(15??~15??)】

長束正家家臣。

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【な】

中田六兵衛【なかたろくべい(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

中村金六【なかむjらきんろく(15??~16??)】

増田長盛家臣。1600年、「大津城の戦い」では、陣代の増田作左衛門に従って参陣した。京極高次の家臣浅見藤右衛門を討取る戦功を挙げた。

長束正家【なつかまさいえ(1562~1600)】

丹羽長秀家臣。水口盛里の男。通称利兵衛。室は本多忠高の娘(栄子)。1585年、丹羽長秀が病没すると、奉行衆として羽柴秀吉に仕えた。蔵入地の管理や検地に功を挙げた。1589年、「忍城の戦い」では、家臣の家所帯刀、臼杵平四郎、一宮善兵衛、有坂宮内、増田新次郎らが戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城で小荷駄奉行を務めた。1595年、近江国水口城50,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して大坂城下に残る諸将の妻子を人質とする作戦を担当したが山崎家盛らの知略により失敗した。「伏見城の戦い」では、陣代の家所帯刀を派遣して甲賀衆の鵜飼藤助の働きによって城内の甲賀衆を寝返らせることに成功、城を落城させる戦功を挙げた。「関ヶ原の戦い」では、南宮山に布陣したが、本戦には参陣せず石田三成勢は壊滅した。山岡道阿弥勢の追撃を受け、弟の長束玄春が討死したが。松田秀宣の奮戦で水口城に帰還した。亀井茲矩、池田長吉らと本領の安堵を条件に和議を結ぶが、嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞らとともに捕縛され、弟の長束直吉とともに家臣奥村左馬助の介錯で自刃した。

長束助信【なつかすけのぶ(1589~16??)】

長束正家の男。通称半右衛門。室は細川忠興の娘(伊也姫)。1600年、「関ヶ原の戦い」では、室の実家(吉田兼治の屋敷)に難を避け、さらに細川藤孝の居城である田辺城へ匿われた。父長束正家が改易処分に処されると、細川忠興に仕えた。

長束直吉【なつかなおよし(1567~1600)】

水口盛里の次男。官途は伊賀守。通称次郎兵衛。兄長束正家とともに小荷駄奉行を務めた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組頭を務めた。近江国内で10,000石を領した。平野新八とともに羽柴秀次の領地、日野輝資の領地の検地奉行を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、兄長束正家の近江国水口城を守備した。石田三成勢が壊滅をると、池田長吉勢に水口城を包囲され、桜井谷で長束正家とともに自刃した。

長束玄春【なつかげんしゅん(15??~1600)】

水口盛里の三男。1600年、「関ヶ原の戦い」で石田三成勢が壊滅すると、長束正家は水口城に撤退した。山岡景友勢の追撃を受けて敗走、長束玄春は捕縛され斬頸に処された。

長束与十郎【なつかよじゅうろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、長束正家の自刃すると、形見の品を拝領した。

西川兵庫【にしかわひょうごう(15??~15??)】

長束正家家臣。織田信長に仕えた。1585年、「伊勢宮山城の戦い」で木造具康勢と戦い戦功を挙げた。1589年、「武蔵忍城の戦い」でも戦功を挙げた。1600年、「伏見城の戦い」では、陣代として長束正家勢を率いた。1600年、「近江水口城の戦い」では、亀井茲矩、池田長吉勢に包囲され、本領安堵の条件で城から出たところ長束正家とともに捕縛された。このとき嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞らも池田長吉勢に捕縛され自刃した。

野依時【のよりとき(15??~1635)】

増田長盛家臣。通称清右衛門。大和宇陀野依荘出身。羽柴秀保が病没すると、郡山城主となった増田長盛に仕えた。1600年、「大津城の戦い」に参陣した。役後、生駒政俊、筒井定次らに仕え、最後に藤堂高虎に使え1,000石を領した。

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【は】

伯蒲恵稜【はくほえりょう(1543~1628)】

臨済宗の僧。龍安寺、妙心寺で位頭を務めた。石田三成に招かれ、石田正継の菩提所寿聖院開山となる。後に石田三成の継嗣石田重家は松平元康勢の落武者狩りから逃れるため、寿聖院に落延びた。

橋元久八【はしもとひゅうはち(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

橋与兵衛【はしよへい(15??~16??)】

増田長盛家臣。郡山城代を務めた。

長谷藤十郎【はせとうじゅうろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

林守家【はやしもりいえ(1559~1621)】

浅野長政家臣。通称六郎左衛門。織田信孝に仕えた。1583年、織田信孝が自刃すると、福島正則に仕え1,000石を領した。1594年、浅野長政に仕え310石を領した。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。浅野幸長が紀伊国和歌山376,000石に転封されると熊野地方の代官職を務めた。1614年、「大坂冬の陣」では和歌山城の南門を守備した。

林半助【はやしはんすけ(15??~15??)】

石田三成家臣。石田三成に仕え700石を領した。1600年、「杭瀬川の戦い」で一番頸を上げる戦功を挙げた。

原可永【はらよしなが(15??~15??)】

浅野長政家臣。通称勘兵衛。日野根弘就に仕えた。浅野幸長に仕えた。1606年、組頭となり2,500石を領した。1615年、「紀州一揆」の鎮圧で戦功を挙げた。

引塩伝右衛門【ひきしおでんえもん(15??~15??)】

大谷吉継家臣。1594年、明国の講和使節沈惟敬が来日した際、相調可申添奉行務めた。

一柳大六【ひとつやなぎだいろく(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

日比野小十郎【ひびのこじゅうろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

平塚久賀【ひらつか ひさよし(15??~15??)】

石田三成家臣。平塚入道無心の次男。官途は越中守。兄平塚為広とともに猛将として知られた。松平元康から仕官の誘いを受けるが、それを断って石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の戦い」で石田三成勢が壊滅すると、松平元康勢に捕縛されたが、許された。

広瀬加兵衛尉【ひろせかへいのじょう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

伏兎彦之丞【ふくとひこのじょう(15??~1600)】

長束正家家臣。1600年「関ヶ原の役」で亀井茲矩、池田長吉に水口城を攻められ籠城した。亀井茲矩、池田長吉らに本領の安堵を約束されるが城から出たところ長束正家とともに捕縛された。このとき伏兎彦之丞、嶺三郎兵衛、家所帯刀らも入城した池田勢に捕縛され自刃した。

福原清左衛門【ふくはらせいざえもん(15??~16??)】

増田長盛家臣。1600年、「伏見城の戦い」では、伏見城内に籠城する甲賀衆に寝返りを促し落城に導いた。

福西源次郎【ふくにしげんじろう(15??~16??)】

増田長盛家臣。1600年、「伏見城の戦い」では、陣代の石川民部に従って参陣した。

古高正永【ふるたかまさなが(15??~15??)】

長束正家家臣。

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【ま】

舞兵庫【まいひょうご(1560~1600)】

石田三成家臣。別名前野忠康。室は前野長康の娘。若江八人衆のひとり。はじめ羽柴秀次に仕え各地を転戦した。1595年、「羽柴秀次事件」では、羽柴秀次が自刃すると、附家老職を務めていた岳父前野長康が自刃したため、石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の戦い」では、石田三成勢の先陣を島清興とともに務め、黒田長政勢、田中吉政勢、藤堂高虎勢を何度も撃退した。石田三成勢が敗走を始めると、松平元康勢に突撃して継嗣の舞三七郎とともに討死した。

舞三七郎【まいさんしちろう(15??~15??)】

舞兵庫の男。1600年、「関ヶ原の戦い」で黒田長政勢や田中吉政勢と戦い父舞兵庫とともに討死した。

舞左馬助【まいうなのすけ(15??~15??)】

舞兵庫の次男。1600年、「関ヶ原の戦い」で父舞兵庫が討死したため、藤堂高虎の仲介で丸亀城主生駒一正に仕えた。

前田基勝【まえだもとかつ(1539~1602)】

前田基光の男。官途は民部卿法印。別名前田玄以。五奉行衆のひとり。室は村井貞勝の娘。はじめ尾張国小松原寺の僧侶であったが、織田信長に仕えた。後に織田信長の意向を受け織田信忠の附家老を職を務めた。1582年、「本能寺の変」では、二条御所から織田信忠の継嗣織田秀信とともに落延びた。1583年、織田信雄から京都所司代に任じられた。1584年、羽柴秀吉に仕え京都所司代として朝廷との交渉役を務めた。1588年、後陽成天皇の聚楽第行幸では奉行を務めた。1598年、羽柴秀吉が病没すると、内部抗争の沈静化に尽力した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したが西国の状況を逐一松平元康に伝えた。病気を理由に戦場へは参陣しなかった。役後、丹波国亀山城の本領を安堵された。

前田秀以【まえだひでもち(1576~1601)】

前田基勝の男。官途は左近将監。通称半右衛門。洗礼名「パウロ」。父前田基勝とともに羽柴秀吉に仕えた。前田基勝の影響を受け切支丹に改宗した。1596年、羽柴秀吉の意向を受け畿内の切支丹を弾圧した。前田秀以は密かに切支丹を匿った。前田基勝は前田秀以に棄教するように促したが、前田秀以はこれに従わず、弟前田茂勝に継嗣の座を譲った。

前田正勝【まえだまさかつ(1581~1623)】

前田基勝の次男。通称半右衛門。室は小野四郎右衛門の娘。1600年、「関ヶ原の役」では、江戸城に留め置かれた。役後丹波国桑田、船井両郡において1,000石を領した。

前田茂勝【まえだしげかつ(1581~1621)】

前田基勝の三男。官途は主膳正。通称彦四郎。洗礼名「コンスタンチノ」。1600年、「丹後田辺城の戦い」では、細川藤孝が守る田辺城を攻め、開城の使者も務めた。役後、所領を安堵された。1602年、父前田基勝の病没後、前田家の家督を相続した。その後、丹波国亀山城から丹波国八上城に転封された。基督教を信仰していたため、松平秀忠から危険視された。自身も政治を省みずに放蕩に耽り、諫言をする家臣の尾池清左衛門を謀殺した。改易処分に処され堀尾忠晴に預けられた。

牧野成里【まきのしげさと(1556~1614)】

石田三成家臣。牧野成継の男。官途は伊予守。通称伝蔵。若江八人衆のひとり。滝川一益、織田信雄、長谷川秀一らに仕えた。1592年、「文禄の役」で長谷川秀一が陣没すると、羽柴秀吉の意向を受け長谷川秀一勢を指揮した。日本に帰還後、羽柴秀次に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃すると、石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の戦い」では、石田三成勢が壊滅すると、池田輝政のもとに落延びた。1603年、松平元康に仕えて、下野国簗田館で3,000石を領した。1606年、御持筒頭に任じられた。

増田長盛【ましたながもり(1545~1615)】

羽柴秀吉家臣。官途は右衛門少尉。通称仁右衛門。室は森可成の娘。1573年、羽柴秀吉に仕えて300石を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、先陣を務め、戦功を挙げ20,000石を領した。1587年、「九州征伐」では、小荷駄奉行を務めた。五奉行に任じられ検地、庶務、民政などで功を挙げた。1589年、「小田原の役」でも小荷駄奉行を務めた。1595年、大和国郡山城200,000石を領して羽柴秀保の家臣高田一英、浅井井頼らを召抱えた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して大坂城留守居役を務めた。役後、改易処分に処され高野山へ追放された。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼への使者を命じられたが拒絶した。1615年、「大坂夏の陣」で継嗣の増田盛次が羽柴秀頼勢に属したため、自刃を命じられた。

増田盛次【ましたもりつぐ(1580~1615)】

増田長盛の次男。通称兵部大輔。1590年、羽柴秀次に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃すると、連座して謹慎処分に処された。1600年、「関ヶ原の役」では、父増田長盛とともに石田三成勢に属した。役後、増田長盛が改易処分に処されると、増田盛次と兄増田長勝は叔父増田長俊の養子となり連座を免れ松平義直に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」では、松平義直勢に属して参陣し戦功を挙げた。その後、松平義直の了承を得て、増田長盛とともに羽柴秀頼のもとに参陣した。1615年、「大坂夏の陣」では、長宗我部盛親勢に属した。「天王寺、岡山の戦い」で敗走する長宗我部盛親勢の殿を務めたが、藤堂高虎の家臣磯野行尚に討取られた。

増田安俊【ましたやすとし(15??~16??)】

増田長盛家臣。通称作左衛門。1600年、「大津城の戦い」では、増田長盛の陣代として参陣した。

増田新次郎【ましだしんじろう(15??~15??)】

長束正家家臣。

増田安俊【ましたやすとし(15??~15??)】

増田長盛家臣。通称作左衛門。1600年、「大津城の戦い」では、増田長盛の陣代を務め湖側から大津城を攻撃した。

松田秀宣【まつだひでのぶ(15??~1600)】

長束正家家臣。指物に『天下一卑怯者』と大書して各地を転戦した。蒲生氏郷に仕え戦功を重ね鉄砲頭を務めた。蒲生氏郷の病没後、長束正家に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、退却する長束正家勢の殿を務めたが池田輝政勢の追撃を受け討死した。

松田重太夫【まつだじゅうだいふ(15??~15??)】

石田三成家臣。1600年、「岐阜城の戦い」では、河瀬左馬助、柏原彦右衛門、柏原内膳、大西善左衛門らとともに石田三成勢に属した織田秀信への援軍に派遣され、美濃稲葉山砦守将を守備した。井伊直政勢の攻撃を受けた。

溝口理兵衛【みぞぐちりへえ(15??~16??)】

浅野長政家臣。通称理兵衛。1614年、「樫井の戦い」後、浅野長晟が紀伊国山口に帰陣した際、和歌山まで戻ったため、罪に問われ改易処分に処された。

三浦喜太夫【みうらきちだいふ(15??~15??)】

大谷吉継家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」で石田三成勢が壊滅して大谷吉継が自刃すると、大谷吉継の頸を袋に包んで従軍僧祐玄に持せた。湯浅隆貞とともに藤堂高虎勢と戦い討死した。

南彦右衛門【みなみひこえもん(15??~15??)】

長束正家家臣。1597年、安房国の検地奉行を務めた。安房国長狭郡の小原村と小町村が領地を巡って争うと、領地を取り決める裁定に列席した。

嶺三郎兵衛【みねさぶろべえ(15??~1600)】

長束正家家臣。1600年、「水口城の戦い」では、亀井茲矩、池田長吉勢の攻撃を受けるが、長束正家が亀井茲矩、池田長吉らと本領の安堵を条件に和議を結ぶが、城から出たところ長束正家とともに捕縛された自刃した。

武藤安成【むとうやすなり(1558~1624)】

増田長盛家臣。武藤安盛の男。通称理兵衛。室は鈴木重五左衛門の娘。1600年、「関ヶ原の役」で増田長盛が改易処分に処されると、山城国に酬恩庵に隠棲した。
1606年、松平元康に勘定奉行として仕え大和国式下郡内で510石を領した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。1615年、「大坂夏の陣」には、継嗣の武藤安信とともに参陣した。

武藤安信【むとうやすのぶ(15??~15??)】

武藤安成の男。

武藤安之【むとうやすゆき(15??~15??)】

武藤安成の次男。

武藤安通【むとうやすみち(15??~15??)】

武藤安成の三男。

牟礼朝泰【むれともやす(15??~15??)】

石田重成家臣。通称孫兵衛。石田重成に仕え700石を領した。

森九兵衛【もりきゅうべい(15??~15??)】

石田三成家臣。若江八人衆のひとり。1600年、「渡川の戦い」では、舞兵庫らとともに松平元康勢と戦い、敗れて退却した。「関ヶ原の戦い」では、舞兵庫とおtもに石田三成勢の先陣を務め、奮戦したが討死した。

諸角余市【もろずみよいち(15??~15??)】

大谷吉継家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」では、最後まで本陣に留まった。

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【や】

安井正忠【やすいまさただ(15??~15??)】

浅野長政家臣。通称喜内。若江七人衆のひとり。羽柴秀次に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃すると、前田基勝に仕えた。前田茂勝が改易されたため再び浪人となった。1608年、「大坂夏の陣」では、浅野長晟勢に属して足軽大将を務めた。1619年、浅野長晟が安芸国広島城426,000石を領すると、それに従い2,300石を領した。

八十島助左衛門【やそじますけざえもん(15??~15??)】

石田三成家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」では、戦闘を静観する島津義弘勢のもとに参戦を促す使者となった。馬上から石田三成からの口上を述べたため、島津豊久を激怒させた。

矢野源六郎【やのげんろくろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

山川半平【やまかわはんぺい(15??~15??)】

増田長盛家臣。1600年、「伏見城の戦い」で、京極高次のもとに降伏を勧める使者として赴いた。

山口三十郎【やまぐちさんじゅうろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

山田上野介【やまだうえのすけ(15??~15??)】

石田三成家臣。茶阿局の実兄。1600年、「佐和山城の戦い」で松平元康勢と戦い討死した。

山田隼人正【やまだはやとのじょう(15??~15??)】

山田上野介の男。室は石田三成の娘。1600年、「佐和山城の戦い」で父山田上野介は討死したが、親戚の孝蔵主のもとに落延びた。松平忠輝に仕え家老職を務めた。

山田半三郎【やまだはんざぶろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

山名市十郎【やまないちじゅうろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

山羽虎蔵【やまばとらぞう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

湯浅隆貞【ゆあさたかさだ(15??~1600)】

大谷吉継家臣。別名湯浅五助。大谷吉継に仕え馬屋別当職を務めた。1600年、「関ヶ原の戦い」で小早川秀秋勢の攻撃を受け大谷吉継勢が壊滅すると、大谷吉継の介錯を務めた。湯浅隆貞は大谷吉継の頸をを戦場から離れた場所に埋めたが、藤堂高虎の家臣藤堂高刑に発見され、自らの頸を差し出し大谷吉継を頸の在り処を隠匿した。

湯浅十郎左衛門【ゆあさじゅうろうざえもん(15??~16??)】

湯浅隆貞の男。1600年、「関ヶ原の役」後、高力家に仕えた。

渡辺勘兵衛【わたなべかんべえ(15??~1600)】

石田三成家臣。通称新之丞。石田三成に仕え500石を領したが、石田三成は知行の10分1を与える約束をして雇用した。石田三成が佐和山城主となると、渡辺勘兵衛の知行を加増しようとしたが、渡辺勘兵衛は「殿が100万石の大名になるまで知行500石のままでいます」と固辞した。1600年、「関ヶ原の戦い」では、黒田長政の家臣後藤基次と一騎打ちを行った。石田三成勢が壊滅すると、重傷を負い自刃した。

龍神頼春【りゅうじんよりはる(15??~15??)】

浅野長政家臣。1619年、浅野長晟が安芸国広島城426,000石を領すると、それに従った。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

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【資料Ⅰ】

五奉行【ごぶぎょう】

前田基勝、浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家。

若江八人衆【わかえはちにんしゅう】

大場土佐守、(石田三成勢の右翼を守備し奮戦した)、大山伯耆守(石田三成勢の先陣を務め奮戦したが討死した)、高野越中守(石田三成勢に従って奮戦した。役後、浅野幸長に仕えた)、藤堂良政(藤堂高虎勢の先陣を務めて奮戦したが討死した)、舞兵庫(石田三成勢の先陣として奮戦したが、継嗣とともに討死した)、牧野成里(石田三成勢の後備を守った。役後、松平元康に仕えた)、森九兵衛(石田三成勢の先陣を務め、奮戦したが討死した)、安井喜内(浅野幸長に仕えた)。

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戦国人名辞典は1520~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は示していますが、歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。

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武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、『武田信玄(全4巻)』by新田次郎、『武田信玄(全2巻)』by津本陽、『武田勝頼(全3巻)』by、『国盗り物語(全4巻)』by新潮文庫、『兵は詭道なり 斎藤道三』by学研M文庫、『ふたり道三(全3巻)』by徳間文庫、『斎藤道三(戦国史記)』by光文社文庫、『浅井長政の決断―賢愚の岐路』by笹沢左保、『浅井長政―信長に反旗を翻した勇将』by星亮一、『浅井長政』by江宮隆之、『甲州武田家臣団』by新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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