2010年11月27日土曜日

戦国陸奥国+鹿角郡人名辞典

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【あ】

相坂顕明院【あいさかけんみょういん(15??~1588)】

北信愛家臣。臨済宗の僧侶。1588年、羽後国比内郡の戦いで北愛清(北信愛の枝連衆)に属して、三浦秀兼(五城目兵庫)の救援に赴いた。この戦いは、南部信直勢の敗北となり北愛清と相坂顕明院は家臣十一人とともに敗走したが、五城目で安東実季勢に包囲されたため自刃した。

赤沼備中守【あかぬまびっちゅう(15??~1539)】

南部安信家臣。津軽郡赤沼館主。1539年、奥瀬安芸守との訴訟に敗れ、これを斬って三戸城に放火して逃走したが、下斗米昌家に討たれた。

朝日高義【あさひたかよし(1520~15??)】

浪岡北畠具統家臣。津軽郡飯詰城主。

朝日行安【あさひゆきやす(15??~1588)】

朝日高義の男。通称左衛門尉。1578年、大浦為信が浪岡城を攻撃し北畠顕村を追放すると、外津軽地方の反大浦為信勢の拠点が次々落城した。その後、朝日行安は約10年にわたって大浦為信に抵抗した。1588年、阿部信友の道案内を受け飯詰城を包囲した大浦為信勢に、朝日行安勢は籠城し抵抗したが落城、朝日行安は討死した。

姉帯兼実【あねたいかねぜね(1558~1591)】

九戸信仲の次男。二戸郡姉帯城主。通称蔵人。姉帯兼実が姉帯城を築き姉帯家を称し姉帯城1,500石を領した。1591年、「九戸政実の乱」では姉帯兼実、姉帯兼興、姉帯兼信らは九戸政実勢に属し、北進する蒲生氏郷勢を迎撃するため姉帯城に籠城した。姉帯城は蒲生氏郷勢の猛攻を受けて落城し、嫡男姉帯兼興の正室小瀧の前、次男姉帯兼信も城外に討って出て善戦するも多勢に無勢で、姉帯兼実、姉帯兼興、姉帯兼信、松山道長らは自刃した。

姉帯兼興【あねたいかねおき(15??~1591)】

姉帯兼実の男。通称大学。室は小瀧御前。1591年、「九戸政実の乱」では姉帯兼興、姉帯兼信兄弟は九戸政実勢に属した。蒲生氏郷勢を迎撃するため、姉帯城に籠城した。蒲生氏郷勢28,000余りに対し、姉帯兼興勢は寡兵200余人をもって応戦した。姉帯兼興、姉帯兼信兄弟や室で長刀の名手小滝の前、棒術の名手である小屋野摂津守の他、樋口与五右衛門、月館左京、岩館彦兵衛、野田久兵衛、吉田門助、高館播磨守、中里弾正忠、一戸毘沙門堂の別当西法院などが討死した。姉帯兼興は、蒲生氏郷家臣石黒喜助と差し違えて討死した。

姉帯兼信【あねたいかねのぶ(15??~1591)】

姉帯兼実の次男。通称五郎。1591年、「九戸政実の乱」では、姉帯兼信は敵陣に切り込み討死した。

阿部兵庫介【あべひょうごのすけ(15??~15??)】

乳井建清家臣。沖館城主。1579年、比内郡から比山六郎、比山七郎兄弟が津軽地方に侵攻すると、北畠顕則、滝本重行らも兵1,000余りを率いて津軽郡に侵攻した。乳井建清が不在の乳井城は落城した。阿部兵庫介の沖館城も攻撃を受けたが撃退した。

天内治右衛門【あまうちはるざえもん(15??~1597)】

千徳政久家臣。天内館主。千徳政久に仕え40石を領した。1597年、浅瀬石城主千徳政久が大浦為信の攻撃により落城すると、天内治右衛門も討死した。

新屋源次郎 【あらやげんじろう(15??~15??)】

滝本重行家臣。津軽郡新屋城主。新屋城1,900石を領した。新屋源次郎は尾崎城主尾崎喜蔵らととに大光寺城主滝本重行に属した。1575年、大浦為信の攻撃を受けて滝本重行が討死すると、新屋源次郎は尾崎喜蔵とともに大浦為信に降伏し大浦為信に仕えた。

石井又三郎【いしいまたさぶろう(15??~15??)】

南部信直家臣。1591年、南部信直は、「和賀一揆」に参陣しようとする白井右衛門を阻止するため、石井又三郎を派遣した。石井又三郎は一番鑓の戦功を挙げた。

石亀信房【いしがめのぶふさ(1499~1583)】

南部政康の四男。官途は紀伊守。兄南部安信に石亀館主に任じられ石亀家と称した。不来方城の守備などを務め南方の斯波経詮らに備えた。

石亀政頼【いしがめまさより(15??~1593)】

石亀信房の男。1583年、石亀信房の病没後に石亀家の家督を相続して250石を領した。

石亀直徳【いしがめなおとく(15??~15??)】

石亀政頼の男。石亀直徳は400石余りを領して、家老職として南部信直に仕えた。

石川高信【いしかわたかのぶ(1495~1571)】

津軽郡石川城主。南部政康の次男。通称左衛門尉。別名南部高信。側室は一方井安政の娘。智勇を兼ね備えた武将で、兄南部安信から絶大な信任を受け、津軽地方の統治(津軽郡代)した。その後も甥南部晴政をよく補佐して津軽地方の経略を担当した。1524年、「堤浦の乱」を鎮圧する戦功を挙げた。1569年、鹿角郡をめぐって安東愛季と戦い、鹿角郡に侵攻してきた安東愛季勢を打ち破った。1570年、津軽地方で起こった反乱を鎮圧する戦功を挙げた。1571年、大浦為信は石川高信に堀越城の改修を願い出て修築すると見せかけて兵糧や武具を運び込み、大工や人夫に見せかけ兵を引き入れた。改修が終わった堀越城に石川高信の家老衆、金沢円松斎、栃尾靭負、靏浪外記を招き、三人を謀殺した。その夜、石川高信が残る石川城を急襲し、石川高信は防戦したが敵わず自刃した。

石川政信【いしかわまさのぶ(1556~1572)】

石川高信の次男。南部晴政、南部晴継相次いで没すると、兄南部信直が南部宗家の家督を相続した。そのため、次男の石川政信が石川家を相続して津軽郡代に任じらえた。1572年、石川政信は大浦為信と戦い討死した。

石鳥谷正友【いしどりやまさとも(15??~15??)】

鹿角郡石鳥谷館主。別名南部正友。南部晴政勢が鹿角郡に侵攻すると、石鳥谷館には石鳥谷正友が館主として入城し、以後南部晴政に従った1566年、檜山城主安東愛季が鹿角郡に侵攻した。この際、大葛街道比内口に位置した石鳥谷館は安東愛季勢の攻撃を受け落城した。

石名坂久清【いしなさかひさきよ(15??~15??)】

千徳政武家臣。田舎郡石名坂館主。千徳政朝、千徳政武の二代に仕えた。大浦城主大浦為信が勢力を伸ばすと、千徳宗家の浅瀬石城主千徳政氏は大浦為信に属したが、田舎千徳政武は南部晴政に属して対立した。

石名坂正長【いしなさかまさなが(15??~1585)】

石名坂久清の男。官途は近江守。1585年、大浦為信は油川城を攻略して外ヶ浜郡を制圧した。南部信直は、名久井城主東政勝に兵3,000余りを預け、大浦為信を支援する浅瀬石城主千徳政久を攻撃するが「宇杭野の戦い」敗退した。南部信直勢の支援を受けられなくなった田舎館城は孤立無援の状態になった。大浦為信は千徳政氏とともに攻撃すると、田舎館城主千徳政武は籠城したが、衆寡敵せず千徳政武とともに討死した。

泉山康朝【いずみやま(15??~15??)】

南部安信家臣。石亀信房の次男。三戸郷泉山を領したことから泉山家を称した。

泉山古康【いずみやまふるやす(1536~1585)】

石亀政頼の男(泉山康朝の養子)。官途は出雲守。泉山康朝の養子となり家督を相続した。娘(慈照院)を南部信直に継室として嫁がせた。

泉山政義【いずみやままさよし(1560~1629)】

泉山古康の男。別名石亀政義。石亀信房が病没した為、石亀宗家が断絶、南部信直の命により石亀家の家督を相続した。姉の子南部利直が南部宗家を継承したことにより、家老職として岩崎城代などを務めた。

石田辰姫【いしだたつひめ(1592~1623)】

津軽信枚の室。石田三成の娘(三女)。別名「荘厳院」。1598年、羽柴秀吉の病没後に高台院の養女となった。1600年、「関ヶ原の役」で父石田三成が松平元康に敗北すると、高台院の庇護のもと成長した。1610年、大浦信建に仕えていた兄石田重成の仲介により津軽信枚に嫁いだ。1613年、松平元康が養女満天姫(松平康元の娘)を津軽信枚に降嫁させた。津軽信枚は松平元康をはばかって満天姫を正室として迎え、辰姫は側室に降格となった。辰姫は津軽信枚が「関ヶ原の役」の恩賞として得た上野国大舘に移され、大舘御前と称された辰姫の仲はよく大浦信義をもうけた。この際に乳母として登用されたのが、「船橋騒動」の火種となる旧宇喜多秀家家臣の船橋半左衛門の室であった。

一戸政連【いちのへまさつら(1511~1581)】

南部晴政家臣。二戸郡一戸城主。通称兵部大輔。1581年、南部晴政と九戸政実と南部信直、南長義、北信愛の対立において、南部信直に属する一戸政連は次男一戸出羽守とともに九戸政実に属する平館城主平館政包によって謀殺された。

一戸出羽守【いちのへでわのかみ(15??~1581)】

一戸政連の次男。1581年、南部晴政と九戸政実と南部信直、南長義、北信愛の対立において、南部信直に属するは一戸出羽守は父一戸政連とともに九戸政実に属する平館城主平館政包によって謀殺された。

一戸実富【いちのへさねとみ(15??~1591)】

一戸政連の三男。九戸政実家臣。二戸郡宮野城主。官途は図書介。通称彦次郎。別名一戸助光。嫡男であったが一戸家の家督は相続せずに、九戸政実の執事を務め物資調達などの任にあった。九戸政実は一戸政連を謀殺すると一戸実富を城主に任じたが、南部信直勢は一戸城を奪還して北信愛の次男北秀愛を城主とした。1591年、「九戸政実の乱」では九戸政実に属して戦ったが敗れ、首謀者のひとりとして栗原郡三迫で斬首とされた。

出間日向守【いづるまひゅうがのかみ(15??~15??)】

津軽郡出間館主。和徳城主小山内讃岐守の攻撃を受け落城、討死した。

板垣将兼【いながきまさかね(15??~1600)】

大浦為信家臣。津軽郡杉館主。通称兵部。石川高信に属したが、大浦城主大浦為信の勢力が増すとそれに属した。1571年、石川城主石川高信を、大浦為信とともに攻撃、壱番隊として兵200余りを率いた。この戦功により石川城代に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」では、松野信安、尾崎喜蔵、多田玄蕃とともに出陣準備をするも、松野信安以外の板垣政兼ら三将は参陣を遅らせ、堀越城に籠城して謀反を起こした。大浦城留守居役の金信則勢の攻撃を受け討死した。

一町田信建【いっちょうだのぶたけ(14??~1569)】
 
大浦光信家臣。赤石城主。官途は壱岐守。1492年、兄大浦光信の命で赤石城を守備した。一町田館を領して町田家と称した。

一町田信清【いっちょうだのぶきよ(15??~1574)】

一町田信建の男。大浦為信の代に独孤村に移った。1571年、「石川城の戦い」に参陣した。1574年、大浦為信の「大光寺城の戦い」に参陣するも、討死した。

一町田森清【いっちょうだもりきよ(15??~1642)】

一町田信清の男。官途は兵部。通称太佐衛門。1603年、佐竹義宣が隣国の羽後国に入部した際、佐竹義宣との取次ぎ役となった。のちに不始末で領地を召し上げられたが、大浦信枚の時に300石を領して再び仕えた。

出間日向守【いづるまひゅうがのかみ(15??~15??)】

出間館主。和徳城主小山内永春の攻撃を受け落城した。

伊保内政常【いぼないまさつね(15??~1591)】

九戸政実家臣。伊保内城主。官途は美濃守。1591年、「九戸政実の乱」に参陣し、九戸城に籠城したが討死した。

大浦政信【おおうらまさのぶ(1497~1541)】

鼻輪郡大浦城主。大浦光信の男(大浦盛信の養子)。1541年、津軽平野の制覇を目指し、津軽郡代石川高信の留守をついて津軽郡和徳城に小山内満春を攻撃した。「三味線河原の戦い」で小山内満春を討取るも、小山内満春の嫡男小山内永春勢が援軍を率いて参陣すると盛り返されて、大浦政信勢は敗退大浦政信は討死した。

大浦為則【おおうらためのり(1520~1567)】

大浦政信の男。1541年、父大浦政信の討死により大浦家の家督を相続したが病弱であったため家政は弟武田守信が行った。娘の戌姫( 阿保良)を大浦為信に嫁がせて継嗣にした。

大浦為信【おおうらためのぶ(1550~1607)】

武田守信の男(大浦為則の養子)。官途は右京亮。別名津軽為信、久慈為信。室は大浦為則の娘(戌姫)。1568年、大浦城主大浦為則の娘、戌姫(阿保良)の婿養子となった。1571年、大浦為信は石川高信に堀越城の改修を願い出て修築すると見せかけて兵糧や武具を運び込み、大工や人夫に見せかけ兵を引き入れた。堀越城修築完了と祝宴を大浦城で行う旨を石川高信に伝え、石川高信の家臣金沢円松斎、栃尾靭負、靏浪外記の家老を誘き寄せ謀殺して石川城を急襲した。石川城主石川高信は防戦したが敵わず自刃した。1574年、大光寺城主滝本重行を攻撃するも敗退した。1578年、無頼漢を潜入させておき放火、撹乱で浪岡城を落城させ北畠顕村を自刃に追い込んだ。1585年、油川城を攻略し外ヶ浜郡を制圧した。浅瀬石城主千徳政氏が南部信直勢の名久井城主東政勝3,000余りの攻撃を受けると大浦為信は援軍を出して支援した。大浦為信は千徳政氏とともに田舎館城主千徳政武を攻め滅ぼした。1589年、安東実季と和議を結び家臣八木橋備中守を上洛させ羽柴秀吉に名馬と鷹を献上して、津軽内三郡(田舎、鼻和、平賀郡)、津軽外三郡(山辺郡、外ヶ浜郡、西ヶ浜郡)の45,000石の所領安堵を受けた。1589年、羽柴秀吉の「小田原の役」の際、家臣十八騎を率き連れて大浦為信が参陣した。「九戸政実の乱」や「文禄、慶長の役」などで戦功を挙げた。1597年、千徳政氏の嫡男千徳政康を攻撃して、盟友関係にあった千徳政康を滅ぼした。1600年、家臣の森岡信元を謀殺した。「関ヶ原の役」では、三男大浦信枚とともに、松平元康勢に属した。

大浦信建【おおうらのぶたけ(1574~1607)】

大浦為信の男。官途は宮内大輔。別名津軽信建。室は安藤実季の娘。継室は松前慶広の娘。1600年、「関ヶ原の役」では、大浦信建は羽柴秀頼に仕え大坂城にいたが、石田三成勢が壊滅すると石田三成の次男石田重成らと共に帰国した。役後は一時蟄居したが、大浦信建は独自の家臣団を編成、津軽建広、津軽建友ら側近を中心に内政、外交を行った。

大浦信堅【おおうらのぶかた(15??~1597)】

大浦為信の次男。別名津軽信堅。1596年、弟大浦信枚とともにキリシタンに改宗した。

大浦信枚【おおうらのぶひら(1586~1631)】

津軽為信の三男。官途は越中守。別名津軽信枚。室は松平康元の娘(満天姫)。大浦信建の遺児熊千代との家督争いを制して大浦家の家督を相続した。松平元康と深い繋がりを築き、これを利用した。1610年、弘前城を築城した。1611年、松平元康の養女満天姫を娶った。その後も、殖産興業、灌漑、開墾、街道、城下街の整備を行い領内の安定を図った。

大浦熊千代【おおうらくまちよ(1600~1623)】

津軽信建の男。1607年、父津軽信建と祖父大浦為信が相次で病没。大浦家の家督を相続するはずであったが、大浦熊千代が幼少であることを理由により、叔父津軽信枚を擁立する派閥が現れ家中が分裂したが松平秀忠の裁定で、大浦信枚が大浦家の家督を相続した。嫡流の大浦熊千代が家督を相続できなかった理由は、陸奥国は蝦夷地への備えを持つ重要性と、父大浦信建が「関ヶ原の役」において、石田三成勢として行動したためとされている。

大浦戌【おおうらいぬ(1555~1628)】

大浦為則の娘。津軽為信の室。別名阿保良。大浦為信の叔父大浦為則の娘で、大浦為信が婿養子として家督を継いだ。良室として知られ、大浦為信の津軽地方統一を影から支え続けた。1571年、「石川城の戦い」では、大浦為信が集めてきた無頼漢に対して炊きだしを行い、激励して送り出した。感動した無頼漢たちは大浦為信の期待以上の働きをして勝利を導いた。鉄砲の火薬と弾が不足すると城内の錫製品を提出させて溶かし、銃弾を鋳造した。火薬は自身がすりこぎを回しすり鉢で調合して送った。討死した家臣の子弟を引き取っては養育し大浦家の家臣にした。

大浦建広【つがるたけひろ(15??~1640)】

三河国の外科医大河内江三の次男。官途は左馬助。別名大河内江春、津軽建広。室は大浦為信の娘(富子)。北条氏政の外科医を務めた。1589年、「小田原の役」で、北条氏直が滅ぶと大浦為信に仕え、長女の富子を娶った。1601年、大光寺城主に任じられ10,000石を領した。1607年、大浦為信と大浦信建が相次いで病没すると、その弟大浦信枚が大浦家の家督を相続した。大浦建広は大浦信建の嫡男大浦熊千代が家督を継ぐことを主張し、本多正信を通じて松平元康に直訴した。訴状は本多正信に受け入れられ、大浦熊千代の相続が決定するかと思われたが、安藤直次がこれに反対した。1609年、大浦信枚の家督相続が正式認められた。大浦信枚は藩内の大浦熊千代派の粛清を行った。大浦信建の腹心であった金信則は領地召し上げの上切腹、大浦建広は追放処分となったが、大浦建広の居城引渡しを巡って家臣が大光寺城に籠城した。大浦信枚家臣の高坂蔵人の活躍などにより、村市館の一戸兵庫之助らとともに騒動は鎮圧された。大浦建広は後に上京して、松平秀忠の御典医となった。

大里備中守【おおさとびっちゅうのかみ(15??~15??)】

鹿角郡大里城主。阿保三人衆のひとりで大里城1,000石を領した。大里家は鎌倉期に鹿角に入部した武蔵丹党安保家の庶家。大里館主大里備中守、花輪館主花輪中務、柴内館主柴内相模守は同族で鹿角盆地中部の米代川東、西岸地域を領した。1566年、大里備中守、花輪中務、柴内相模守は檜山安東愛季に属して、南部晴政に属する長牛館を攻撃した。1568年、南部信直が鹿角郡に侵攻すると阿保三人衆は安東愛季の元に落延びた。1582年、南部晴政と南部信直による南部惣領家の家督を巡る内訌が起こると、南部晴政に仕え旧領に戻った。

大里親基【おおさとちかもと(1552~1591)】

大里備中守の男。官途は修理大夫。1582年、南部晴政が病没して、南部晴継が南部惣領家の家督を相続するが、まもなく南部晴継も謀殺された。九戸実親と南部信直の家督を相続争いが起こると阿保三人衆は、九戸実親を支持したが南部信直が家督を相続した。南部信直は、阿保三人衆を冷遇した。1591年、「九戸政実の乱」では、大湯昌次と共に九戸政実に属した。中心的役割を果たしたとして九戸城降伏の際、九戸政実らと共に栗原郡三迫で処刑された。

大里親易【おおざとやすちか(15??~15??)】

大里親基の男。1591年、「九戸政実の乱」では、父大里親基が九戸政実に属した。その後、大里親基は蒲生氏郷勢に敗れ捕縛され、栗原郡三迫で処刑された。1593年、大里親易は南部信直に属したが謀殺を恐れ安東愛季を頼り、柴内相模守とともに秋田に落延びた。

大湯昌光【おおゆまさみつ(15??~15??)】

鹿角郡大湯鹿倉館主。大湯主は鎌倉中期に鹿角に入部した武蔵武士団奈良家の惣領家。大湯家は大湯川南岸から花輪北部までを領地とし、枝連衆(小枝指家、新斗米家)をこの地域に分知して支配した。1566年、大里備中守、花輪中務、柴内相模守、大湯昌光は檜山安東愛季に属して、南部晴政に属する長牛館を攻撃した。

大湯昌次【おおゆまさつぐ(15??~1591)】

大湯昌光の男。通称四郎左衛門。1589年、南部信直に属して大館城を攻撃した。1591年、「九戸政実の乱」では大湯昌次は九戸政実に属して「奥州仕置」の攻撃を受けた。大湯城は大光寺正親によって落城、大湯昌次は九戸城に籠城した。九戸城は西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要害であった。城の南側には蒲生氏郷と堀尾吉晴が、猫淵川を挟んだ東側には浅野長政と井伊直政が、白鳥川を挟んだ北側には南部信直と蠣崎慶広が、馬淵川を挟んだ西側には大浦為信、安東実季、小野寺義道、由利十二頭らが布陣した。九戸政実は蒲生氏郷勢の包囲攻撃に寡兵で健闘したが、城兵の半数が討取られると、浅野長政が九戸政実の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者にたて「開城すれば残らず助命する」と城を明け渡すよう説得させた。九戸政実はこれを受け入れて、弟九戸実親に後を託して大湯昌次、大湯昌忠、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光種、大里親基、一戸実富らとともに白装束姿で降伏した。助命の約束は反故にされて、九戸実親はじめ城内に居た者は全て二の丸に押し込められ謀殺された。捕虜となった九戸政実らも栗原郡三迫で自刃させられた。

大湯昌忠【おおゆままさただ(15??~1591)】

大湯昌光の次男。1591年、父大湯昌光とともに九戸政実に属して、九戸城に籠城したが、蒲生氏郷勢の攻撃を受け降伏、その後謀殺された。

大湯勝三郎【おおゆまかつさぶろう(15??~15??)】

大湯昌次の男。1591年、「九戸政実の乱」では父大湯昌次が討死、九戸政実に属した際弟大湯伴二郎とともに大浦為信に預けられた。後、大湯家は大浦家の重臣の家柄となった。

小笠原信清【おがさわらのびきよ(15??~1599)】

大浦為信家臣。官途は伊勢守。通称与四郎。別名小笠原信浄。大浦為信の旗揚げ当時からも家臣で、森岡信元や兼平綱則らと並んで大浦家三家老と称された。1571年、石川高信が籠城する石川城を攻撃に森岡信元と共に兵250余を率いて参陣した。1585年、千徳政武が籠城する田舎舘城の攻撃では兵500余を率いて参陣した。大浦為信が津軽地方を制圧する戦い貢献した。

小笠原信久【おがさわらのぶひさ(15??~16??)】

小笠原信清の男。通称宗左衛門。1601年、大浦為信に100石で新規に召しだされた。

小笠原兵部【おがさわらびょうぶ(15??~1591)】

三戸郡法師岡館主。1591年、「九戸政実の乱」に参陣して討死した。

小栗山左京【おぐりやまさきょう(15??~15??)】

大浦為信家臣。1571年、石川高信が籠城する石川城を攻撃した際の先手の大将。

尾崎三郎右衛門【おざきさぶろうざえもん(15??~15??)】

大光寺城主滝本重行家臣。大浦信則の次男。尾崎城1,600石を領した。

尾崎喜蔵【おざききぞう(15??~1600)】

尾崎三郎右衛門の男。1575年、大浦為信の攻撃を受けて大光寺城が落城すると、尾崎喜蔵は新屋城主新屋源次郎と共に大浦為信に降伏した。1600年、「関ヶ原の役」では、尾崎喜蔵は津軽にて留守居役に任じられた。尾崎喜蔵は松野久七、多田玄蕃、板垣兵部らと800余りの兵を率いて参陣するはずだったが多田玄蕃、板垣兵部らと謀って、謀反を起こして堀越城を占拠した。今信則の指揮する軍勢の攻撃を受け討死した。

小山内満晴【おさないみつはる(15??~1541)】

平賀郡和徳城主。南部安信家臣。官途は出羽守。1541年、大浦政信は、津軽平野の穀倉地帯である平賀郡和徳城を兵800余りで攻撃した。小山内満晴との「三味線河原の戦い」では、大浦政信勢の三上宗衛門が小山満晴の頸を挙げるも、小山内永春勢が加勢し形勢が逆転、大浦政信は討死し、大浦政信勢敗北に終わった。

小山内永春【おさないさぬきのかみ(15??~1571)】

小山内満晴の男。官途は讃岐守。1571年、大浦為信は、南部信直に謀反を起こすと、石川城主石川高信を攻撃して自刃させた。続いて、和徳城を攻撃、小山内永春は寡兵の兵をよくまとめ健闘したが、嫡男小山内主馬、次男小山内求馬、三男小山内弥三郎とともに討死した。

小山内勝建【おさばいかつたて(15??~1541)】

大浦政信家臣。小山内勝経の男。1541年、大浦政信が和徳城主小山内満春を攻撃した際の「三味線河原の戦い」で討死した。

小山内建吉【おさまいたてよし(15??~1554)】

小山内勝建の男。通称雅楽。1554年、武田守信とともに南部晴政の要請で南部領桜庭へ参陣したが、武田守信とともに討死した。

小山内於市【おさないおいち(1577~1601)】

千徳政武の室。小山内永春の娘。1571年 父和徳城主小山内永春が大浦為信の攻撃を討死した後に、十五歳のとき千徳政武に輿入れした。1585年、千徳政武は、大浦為信の兵3,000余りの攻撃を受け自刃した。田舎館城に籠もった城兵330余りも討死した。1601年、津軽地方を平定した大浦為信は、清水杜野で討死した将兵の霊を供養する為法要を開いた。於市はその法要の席で「亡き魂 (たま) よ あわれと思え そえねせし 三年 (みとせ) の夢も さめやらぬに」と辞世の句を残して自刃した。

小野茶右衛門【おのちゃうえもん(15??~1613)】

津軽郡茶右衛門館主。津軽海賊衆。1613年、小野茶右衛門が「津軽騒動」で謀反を起こすと、大間越奉行笹森建房の攻撃を受けた。寡兵の兵をまとめ戦ったが討死した。小野茶右衛門の娘千鶴姫は、許婚の五島久三とともに自刃した。

奥瀬判九郎【おくせはんくろう(15??~15??)】

外ヶ浜郡油川城主。油川湊は蝦夷地への渡航地である陸奥湾沿岸部の中心として栄えた湊街。蝦夷交易の中心地だった十三湊の衰退とともに交易の中心地となった。本願寺教団が油川城下に法源寺、円明寺を建立した。

奥瀬善九郎【おくせぜんくとう(15??~15??)】

奥瀬判九郎の男。南部信直は外ヶ浜郡に堤浦城主堤弾正忠、油川城主奥瀬善九郎、蓬田城主蓬田越前守、大開城主平俊忠を配置して、大浦為信に対抗した。1585年、大浦為信が油川城主を攻撃した際、大浦為信は城近くの山上で多数の篝火をたかせ、多数の兵が襲来したと見せかける謀計を用いた。これに驚いた奥瀬善九郎は側近とともに田名部城に落延びた。

奥瀬定直【おくせさだなお(15??~1539)】

南部安信家臣。上北郡奥瀬館主。官途は安芸守。南部家四天王のひとりで奥瀬館を領して奥瀬家と称した。1539年、奥瀬定直は所領の境界を巡って訴訟を起こした赤沼備中守によって謀殺され、赤沼備中守の放った火により三戸城が消失した。

奥瀬定重【おくせさだしげ(15??~15??)】

奥瀬定直の男。官途は治部少輔。

奥瀬重之【おくせしげゆき(15??~15??)】

奥瀬定重の男。官途は内蔵助。南部信直に仕えて奥瀬館800石を領した。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直勢に属した。

小栗山左京【おぐりやまうきょう(15??~15??)】

大浦為信家臣。小栗山館主。大浦為信の津軽平定戦に参陣して戦功を挙げた。

小野井裕政【おだいすけまさ(15??~15??)】

荒田城主。官途は讃岐守。1533年、小野井裕政が荒田城を築城した。

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【か】

深浦葛西頼清【かさいよりきよ(14??~1533)】

深浦館主。官途は伊勢守。1502年、深浦館を築城した。1533年、南部安信勢との「大光寺城の戦い」で討死した。

深浦葛西信清【かさいのびきよ(15??~15??)】

葛西祐清の男。官途は伊勢守。1533年、父葛西頼清が南部安信に討取れたため、大光寺城から落延びた。小笠原信浄の推挙で大浦為則に仕えた。1571年、「石川城の戦い」「和徳城の戦い」に参陣した。1574年、大光寺城攻撃に参陣するも敗退した。1575年、大浦為信と共に大光寺城を攻撃、落城させた。1578年「浪岡御所の戦い」に参陣した。1585年、千徳政武との戦いでも戦功を挙げた。後に大浦為信の勘気を被り逐電し深浦葛西家は断絶した。

葛原祐清【かさはらすけきよ(15??~1600)】

大浦為信家臣。葛原館主。官途は治部。1600年、謀反を起こした尾崎喜蔵と戦い討死した。

金沢円松斎【かなざえんちくさい(15??~1571)】

石川高信家臣。石川高信家三家老のひとり。1571年、大浦為信の堀越城の改修許可を津軽郡代石川高信に求めた。石川高信は改修許可を与えると共に、改修の支援も行った。堀越城の改修後、大浦為信は石川高信の家臣金沢円松斎、栃尾靱負、靏浪外記らを堀越城に祝宴に招き謀殺後、兵を起こして石川城を攻略した。

兼平盛純【かねひらもりずみ(14??~15??)】

津軽郡兼平館主。官途は伊豆守。通称五郎。別名種里盛純。大浦盛信の弟大浦盛純が、兼平館に移り、兼平家と称した。

兼平綱則【かねひらつなのり(15??~1625)】

兼平盛純の男。官途は金吾。室は武田守信の娘。森岡信元、小笠原信浄と並ぶ大浦家三家老のひとりとして1,200石を領した。大浦為信の津軽地方制圧に尽力し、数々の戦功を挙げた。1567年、大浦為信の野崎村の調練に参陣した。1571年、「石川城の戦い」「和徳城の戦い」では大浦城を守備した。1574年「大光寺城の戦い」では、大浦為信とともに本陣にいたが敗走した。1578年「浪岡城の戦い」に参陣した。1579年、安東愛季の援護を受けた比山六郎、比山七郎兄弟や北畠顕則らを迎え撃つため「六羽川の戦い」に参陣した。1585年、「田舎館城の戦い」でも、千徳政武勢を討取る戦功を挙げた。1591年、「九戸実政の乱」に参陣した。1592年、「文禄の役」では名護屋に大浦為信の陣代として参陣した。

兼平信秋【かねひらのぶあき(15??~1624)】

兼平綱則の男。官途は伊豆守。兼平綱則の隠居により、兼平家の家督と1,200石を相続した。1623年、松平家光の上洛に際し、大浦信枚が供奉した際、供として上洛した。

兼平信孝【かねひらのぶたか(15??~1646)】

兼平信秋の男。官途は伊豆守。室は大浦為信の娘(梅姫)。別名津軽信孝。1624年、父兼平信秋の病没後、1200石を相続した。1634年、津軽家譜代衆と新参衆の騒動「船橋騒動」が起ると、譜代衆に筆頭として家中をまとめようとした。1636年、幕府裁定により喧嘩両成敗となり、長門国に流罪となった。

樺山行貞【かばやまいくさだ(15??~1588)】

朝日行安家臣。朝日高義の次男。通称団右衛門。1588年、兄朝日行安は飯詰城に籠城して大浦為信勢に抵抗した。兵糧の蓄えがあったが、大浦為信により城内に通じる水脈を絶たれた。白米で馬を洗って見せるなど抵抗をするも、飯詰城は落城した。朝日行安は自刃し、枝連衆も徹底的に捜索の末に謀殺された。その後、城址周辺では、鎧武者や女の亡霊が現れたり、日照りや長雨などの天候不順に見舞われ、朝日一族の祟りと噂された。

北致愛【きたむねちか(1503~1540)】

三戸郡剣吉城主。南部信義の男。父南部信義が病没した翌日誕生した為、八戸信長の反対によって南部惣領家の家督を相続に就任できず、母方の北家に追いやられた。1540年、北家の家督を北信愛に譲り隠居した。

北信愛【きたのぶちか(1523~1613)】

北致愛の男。官途は尾張守。室は南長義の娘。1571年、「屋裏の変」では、南部信直を匿い南部晴政と対立した。南部晴政の隠居後は、南部晴継を補佐した。南部晴継が元服時する際、烏帽子親として加冠の儀を執り行った。1582年、南部晴継が謀殺されて南部宗家の家督問題が発生すると、南部信直を擁立した。その後、南部部直の側近となり、内政や外交面で南部宗家を取り仕切った。1587年、前田利家に鷹を献上し、羽柴秀吉に属する意思を示した。1591年、「九戸政実の乱」では上洛して羽柴秀吉に援軍を要請を行った。1598年、花巻城代を勤めていた次男北秀愛が病没すると花巻城代として8,000石を領した。1599年、南部信直が病没すると隠居を願い出るが、後を継いだ南部利直は許さず、側近として重用された。信心深く、合戦の際には髻(もとどり)に観音像を忍ばせ、戦場に向かった。

北愛一【きたちかかず(15??~1634)】

北信愛の男。通称彦助。別名北定愛。南部信直から父北信愛の戦功により2,050石を領した。1591年、「九戸政実の乱」後、寺田館2,500石を領した。父北信愛から独立していたため、弟北秀愛と父北信愛の死で断絶した花巻北家の名跡は継がなかった。父北信愛が名跡継承を願わず病没してその所領が南部信直に接収されたため、北愛一と弟北直継は新たに所領を得て別家を興した。嫡男北直愛が2,100石を領して北家を相続した。弟北愛言は分家した。北直愛の病没後に北家の家督を相続した北愛時は遺領のうち500石しか相続を許されなかった。北愛時が病で隠居すると嫡男北岩松が早世して北家の嫡流は断絶した。

北秀愛【きたひであい(15??~1598)】

北信愛の次男。室は南部晴政の娘(五女)。1591年、「九戸政実の乱」では一戸城主一戸図書が九戸政実勢に属すると南部信直に報告して一戸城を攻落して援軍を待った。この最中に流れ弾により負傷し討死したとの虚偽の流言を行った。「九戸政実の乱」後、戦功により花巻城代に任じられた8,000石を領した。1598年、鉄砲傷が悪化し花巻城で病没した。

北愛邦【きたちかくに(1575~1590)】

北信愛の三男。大浦為信、安東実季から大館城が攻撃された際、城代であった北愛一とともに参陣して討死した。

浪岡北畠具永【きたばたけともなが(1487~1555)】

田舎郡浪岡御所館主。北畠顕具の男。官途は左近衛中将。鎮守大将軍北畠顕家の末裔で、将軍を御所と敬称する当時の慣習から陸奥国一帯で「浪岡御所」と称された。外交、内政手腕が高く、京都の朝廷と交渉するため、上洛して近衛従中将四位下の任官を受けた。

浪岡北畠具統【きたばたけともむね(1509~1555)】

北畠具永の男。官途は弾正少弼。父北畠具永の築いた基盤をもとに勢力を拡大し、浪岡北畠家の最盛期をもたらした。大光寺信愛や大浦為則などと協力して津軽地方を統治し、津軽の支配強化に努めた。寺社の修築に力を入れ、油川湊の熊野権現宮や今別の八幡宮猿賀の権堂、浪岡京徳寺などが修築された。それが北畠家の財政的負担を招いた。

浪岡北畠具運【きたばたけともかず(1532~1562)】

北畠具統の男。官途は式部大輔。室は平俊忠の娘。1562年、「河原御所の乱」では叔父北畠具信と浪岡北畠家の家督を争いがもとで謀殺された。

浪岡北畠顕範【きたばたけあきのり(15??~1578)】

北畠具統の次男。別名滝井顕範。通称左衛門尉。北畠具運の補佐を務めた。1562年、「河原御所の乱」で兄浪岡北畠具運が河原北畠具信に謀殺されると、北畠具信を討取って兄の嫡男である北畠顕村を新たな当主に擁立し、その後見役を務めた。1578年、大浦為信に攻められて浪岡北畠家が滅亡した際に討死した。

浪岡北畠顕村【きたばたけあきむら(1555~1604)】

北畠具運の男。通称三郎兵衛。室は安東愛季の娘。1562年、「河原御所の乱」で浪岡北畠具運が謀殺された後、叔父の浪岡北畠顕範の後見を受けて家督を相続した。「河原御所の乱」で失った勢力を取り戻すことができなかった。1578年、大浦為信に浪岡城を攻め落とされた。

浪岡北畠顕忠【きたばたけあきただ(15??~1578)】

北畠顕範の男。通称左衛門。1562年、 大叔父川原北畠具信が、北畠具運を謀殺すると、父北畠顕範とともに北畠具信を討取った。北畠顕範とともに北畠顕村を後見した。

浪岡北畠顕則【きたばたけあきのり(15??~15??)】

北畠顕忠の次男。剛勇を知られた。1578年、北畠顕則の留守中、大浦為信勢の攻撃を受け浪岡落が落城。その際に不在だったのを悔やんで浪岡北畠家の家再興の機会を窺った。1579年、挙兵するも大浦為信勢との「六羽川の戦い」で敗れ敗走した。

浪岡北畠顕佐【きたばたけあきさ(15??~15??)】

北畠顕忠の三男。

河原北畠具信【きたばたけとものぶ(15??~1562)】

浪岡北畠具永の次男。父北畠具永の命で断絶していた分家河原御所の家督を相続した。所領問題で浪岡北畠具運と争った。1562年、北畠具信、北畠顕重親子は「河原御所の乱」で、北畠具運を謀殺した。北畠具信も北畠具運の弟北畠顕範の討取られた。この乱は、浪岡北畠宗家の衰退を招くことになった。残党は水木館に籠城して抵抗した。

河原北畠顕信【きたばたけあきのぶ(15??~1579)】

北畠具信の男。通称虎五郎。別名水木顕信。1562年、北畠具信が討死すると、北畠顕範に養育され後に、水木館主となり、水木顕信と称した。1578年、大浦為信の攻撃を受け浪岡北畠顕忠が討死すると、大浦為信に属したが「六羽川の戦い」で討死した。

北村宗統【きたむらむねのり(1546~1618)】

津軽為信家臣。通称平右衛門。別名河村与七郎。はじめ細川氏綱の被官であったが、羽柴秀吉により所領を失い浪人となった。1600年、「関ヶ原の役」の際、大浦為信に500石で仕え、御旗奉行を勤めた。1610年、弘前城構築では東海幸義とともに縄張りを行った。1612年、深浦城代となった。1615年、吾妻沢原野開拓に着手するも、道半ばで病没した。

北村宗容【きたむらなかた(1590~1648)】

北村宗統の男。通称久左衛門。1618年、父北村宗統の病没により、深浦城代となった。1624年、深浦の開発に着手した。1644年、家老職となり1,000石を領した。1647年、「正保の変」では、大浦信義廃立謀議のひとりであったが変心し、大浦信義に密告した。1648年、裏切り行為に義憤した村山滋朝によって、弘前城内で謀殺された。

木村越後守【きむらえちご(15??~15??)】

千徳政康家臣。猿賀館主。1597年、千徳政康が大浦為信と対立すると、大浦為信に心を寄せる家臣木村越後守、盛岡金吾ら大浦為信派と対抗する派に二分された。家中の争いに敗れた木村越後守、盛岡金吾ら十七人は、堀越城の落延びた。大浦為信は、これを契機に木村越後守、盛岡金吾らを先鋒に立て浅瀬石城を攻撃した。大浦為信勢は兵を三手に分け、城の背後の攻手は木村越後守、盛岡金吾らが担った。千徳政康勢は攻撃を支えきれず、千徳政康は自刃して浅瀬石城は落城した。

木村秀清【きむらひできよ(15??~15??)】

南部晴政家臣。三戸郡五戸古館主。

木村秀勝【きむらひでかつ(15??~15??)】

木村秀清の男。

切田兵庫介【きりたひょうごのすけ(15??~15??)】

南部信直家臣。1589年、「九戸政実の乱」では南部信直に属して討死した。

櫛引清実【くしびききよみち(15??~15??)】

八戸郡櫛引城主。櫛引城3,000石を領した。1567年、櫛引清実は八戸政栄の留守中にその所領を侵略し近隣に放火した。1571年、八戸政栄勢によって櫛引城は攻撃を受けた。東政勝が櫛引清実を支援したが、櫛引清実は降伏した。

櫛引清長【くしびききよなが(1540~1591)】

櫛引清実の男。1591年、「九戸政実の乱」では、九戸政実に属して二戸城に籠城した。南部信直に属した浅水城主南盛義を攻撃するが失敗、法師岡館まで退却した。櫛引清長は追撃する南盛義勢を「法師岡館の戦」で打ち破り、南盛義、南康政兄弟を討取った。法師岡館は南部信直方の根城八戸政栄、中野家の攻撃を受け落城した。九戸城に籠城したが偽りの和議に応じ斬首された。

櫛引清政【くしびききよまさ(15??~1591)】 

櫛引清実の次男。1591年、「九戸政実の乱」で討死した。

久慈信義【くじのぶよし(15??~15??)】

久慈郡久慈城主。久慈治義の男。官途は三河守。通称与三郎。室は九戸信仲の娘。久慈信義は、久慈治義と不和になり、大浦為則の婿養子になった。

久慈直治【くじなおはる(15??~1591)】

久慈信義の男。官途は備前守。1591年、「九戸政実の乱」では、嫡男久慈政則とともに九戸政実勢に属して九戸城に籠城、搦手の副将を努めて奮戦した。九戸城の開城に伴い九戸政実とともに捕らわれ、栗原郡三迫に送られ斬首された。

久慈政則【くじまさのり(1554~1591)】

九戸信仲の次男(久慈直治の養子)。室は久慈直治の娘。久慈直治の女婿となり久慈家の家督を相続した。1591年、「九戸政実の乱」では、久慈政則とともに加担し九戸城の搦手を守備して抵抗した。九戸政実の降伏で終結し、久慈直治、久慈政則父子は捕縛され、栗原郡三迫で処刑されました。
 
久慈五郎【くじごろう(15??~15??)】

久慈治義の三男。

工藤兼綱【くどうかねつな(15??~1591)】

九戸政実家臣。九戸郡上館城主。1591年、「九戸政実の乱」では、九戸政実勢に属したが討死した。

九戸信仲【くのへのぶなか(1514~1589)】

三戸郡九戸城主。通称右京。室は八戸但馬守の娘。次男九戸実親は三戸南部家に、三男九戸政親は久慈家に、四男九戸康実(高田康真)は斯波家に、それぞれ婿入りさせた。

九戸政実【くのへまさざね(1536~1591)】

九戸信仲の男。官途は左近将監。室は北の方。1569年、南部晴政の要請により、安東愛季が侵略した鹿角郡の奪取などに協力し、その勢力を拡大した。1582年、南部晴政が病死すると三戸南部家は南部晴政の養子田子信直と実子南部晴継の家督相続争いが始まった。南部晴政の跡は、南部晴継が継いだ。父南部晴継の葬儀の終了後、三戸城に帰城する際に謀殺された。南部家枝連衆や重臣が一堂に会し大評定が行われた。後継者としては、南部信直と九戸実親が候補に挙げられたが北信愛が事前に八戸政栄を調略し、南部信直が後継者に決定した。1591年、南部信直に属することを拒絶し兵5,000余りで挙兵した。精鋭であった九戸政実勢(九戸政実、九戸実親、櫛引清長、櫛引清政、七戸家国、久慈政則、久慈主水、円子右馬丞元綱、大里修理、大湯四郎左衛門、美濃部貞継、坂本仲満、坂本新吉、畠山師泰、嶋森安芸守、嶋森主膳、姉帯与次郎、中野造酒正政行、花崎弥十郎、上野右衛門、工藤右馬助業綱、工藤新十郎、晴山治部、高家将監、円子金十郎、蛇口弥助、晴山玄蕃、長門伝左衛門、長門正兵衛、堀野彦兵衛、江刺家一熈斉、野田左衛門、伊保内美濃守政常、山根彦右衛門、宮野弥三郎、二戸一休斉、軽米兵右衛門、山崎作十郎、奥寺右馬丞、夏井久膳、大野弥五郎、大野彦太郎、三日市越前守、三上斉太郎、車門小左衛門、諏訪新右衛門、小神弥七郎、二子喜右衛門、種市伝左衛門、大森左馬、泉山兵部、鳥谷部孫助、小田代民部、南館玄蕃、横浜左衛門尉、野辺地久兵衛、天間館源左衛門、和田覚左衛門、大浦主殿助、新館兵部、花松左近、有戸喜右衛門、戸伊良監物、簗田甚兵衛ら)は強く、南部信直は自力での九戸政実討伐を諦めて羽柴秀吉に使者を送り「九戸家討伐」を要請した。羽柴秀吉は羽柴秀次を総大将とし蒲生氏郷や浅野長政、石田三成を主力とする軍勢が組織された。さらに小野寺義道、戸沢政盛、秋田実季、大浦為信が参陣し60,000余りの兵を集めた。圧倒的戦力の差に敗れ九戸政実は自刃した。

九戸実親【くのへさねちか(1542~1591)】

九戸信仲の次男。室は南部晴政の娘。南部晴継没後の継嗣争いでは南部信直と争った。1591年、「九戸政実の乱」では主戦派で、兄九戸政実の降伏後も九戸城二の丸に籠城したが射殺された。

車門小左衛門【くるまもんこさえもん(15??~1591)】

九戸政実家臣。九戸郡車門城主。1591年、「九戸政実の乱」では、九戸政実に属して討死した。

玄徳寺休西【げんとくじきゅうさい(15??~15??)】

浪岡玄徳寺の和尚。出羽国浄願寺六世寂助について真宗の教えを受けた名僧。蓮如上人の御真筆を贈られた。※「津軽風雲録」by長部日出雄。

毛馬内秀範【けなないひでのり(1521~1585)】

鹿角郡毛馬内城主。南部政康の五男。別名南部秀範。毛馬内秀範は鹿角郡代として赴任し北鹿角郡毛馬内城を居城としたために毛馬内家を称した。安東愛季の攻撃から鹿角郡を死守した。鹿角郡で2,000石を領した。

毛馬内政次【けまないまさつぐ(15??~1642)】

毛馬内秀範の男。別名南部政次。1608年、居城を柏崎館に移した。

高家将監【こうけたしょうげん(15??~15??)】

九戸政実家臣。九戸郡高家城主。

小技指宗元【こえさしむねもと(15??~15??)】

鹿角郡小枝指館主。小枝指家は鹿角四頭奈良家の庶流。小枝指館の南側には小平館、新斗米館と同族奈良家庶流の居館があり、花輪北部から大湯間の根市川流域を同族支配していた。

小技指知宗【こえさしともむね(15??~15??)】

小技指宗元の男。1566年、小枝指家は南部家に敵対し続けた奈良家、安保家一族の中では、檜山城主安東愛季が鹿角侵攻をした時も、一族の大湯家、安保家系の花輪、柴内、大里の諸家が檜山安東愛季に属するなか、小枝指家は長牛家、毛馬内家等とともに南部家に組した。1565年、南部晴政に属した。鹿角郡が安東愛季に制圧されると一旦は落延びるが、南部晴政勢が再び鹿角郡を占領するとによって旧領に戻ることが出来た。

小技指茂宗【こえさししげむね(15??~15??)】

小技指知宗の男。

小軽米久俊【こかるまいひさとし(15??~1591)】

九戸郡小軽米城主。通称左衛門佐。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直勢に属した。小軽米城は、九戸政実勢を牽制する絶好の背後地にあり、南部信直は野田掃部助らを援軍に差向けた。

小鳥谷摂津守【こずやせっつのかみ(15??~1591)】

九戸政実家臣。二戸郡五月館主。1591年、「九戸政実の乱」では九戸政実に属して姉帯城に籠城したが討死した。

小平彦次郎【こだいらひこじろう(15??~15??)】

鹿角郡小平館主。鹿角郡四頭のひとり。1566年、檜山城主安東愛季の「鹿角郡侵攻」では、奈良家総領大湯家や安保家系の大里、花輪、柴内の諸家らと檜山安東愛季に内応し、南部家勢力と対峙し安東愛季の鹿角郡支配に尽力した。1568年、南部晴政勢が鹿角郡に侵攻し安東愛季勢力を鹿角郡を駆逐すると、安東愛季に属した反南部勢力は鹿角郡から他国へ逃れた。

小平左近【こだいらうこん(15??~1591)】

瀬田隠岐守の弟。別名月館左近。1588年、兄瀬田隠岐守は南部信直に属して「高水城の戦い」で戦功を挙げた。1591年、「九戸政実の乱」では兄瀬田隠岐守とともに南部信直勢に属して、九戸政実勢の一戸城を攻撃した。乱後に瀬田隠岐守は戦功により月館館主を領して月館家と称した。

後藤宅庸【ごとうたくほ(15??~15??)】

滝本重行家臣。猿賀館主。通称五郎左衛門。

金為家【こんためいえ(15??~1523)】

金則綱の男。官途は備中守。羽後国金山の住人。1491年、津軽地方に来て下新岡村で500石を領した。1487年、父金則綱は、羽後金沢城代であったが、南部義政の代に仙北郡に移された。1523年、久慈元信に属して、南部安信に押領された旧領回復を目論むも、鬼柳において南部安信勢に捕縛され、金則綱も久慈元信とともに謀殺された。

金信綱【こんのぶつな(15??~1563)】

金為家の男。官途は備中守。通称彦八郎。1523年、父金為家の遺領を継ぎ500石を領した。浮田村の水田開発に尽力した。

金信忠【こんのぶただ(15??~1577)】

金信綱の男。官途は備中守。1554年、大浦為則は南部晴政の援軍要請に従って、武田守信、堤則景らとともに南部家領桜庭へ参陣するも、武田守信が討死しため撤退、金信忠が武田守信の亡骸を持ち帰った。

金信就【こんのぶなり(15??~1603)】

金信忠の男。官途は備中守。通称勘解由左衛門。武勇と知略に優れ、沈着な性格で家中の人望も高かった。1564年、金家の家督を相続した。1567年、大浦為信の野崎村調練に参陣した。1571年、「石川城の戦い」に参陣した。1575年、「大光寺城の戦い」にに参陣した。1578年、「浪岡城の戦い」に参陣した。1585年、「油川城の戦い」では、二本柳三郎右衛門を調略して、無血開城に成功した。1585年「田舎館城の戦い」では、千徳政武と戦い戦功を挙げた。1590年、「小田原の役」では、沼津で津軽為信とともに羽柴秀吉に謁見した。1600年、「関ヶ原の役」にも参陣した。その後も、大浦為信の政治にも積極的に参画した。大浦家三家老である、兼平綱則、森岡信元、小笠原信浄に次ぐ重臣として活躍した。

金信則【こんのぶのり(15??~1609)】

金信就の男。官途は主水。通称小三郎。1600年、「関ヶ原の役」の際、石田三成勢に属して堀越城に籠城した板垣将兼、多田玄蕃、尾崎喜蔵らが三将を討取る戦功を挙げた。1603年、父金信就の病没後、その領地を継ぎ1,500石を領した。1609年、大浦為信の病没後に三男大浦信枚と大浦信建の遺児大浦熊千代の後継者争い「津軽騒動」で熊千代側として争い幕府の裁定で敗れ自刃した。

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【さ】

桜庭光康【さくらばみつやす(15??~15??)】

南部安信家臣。桜庭家は南部家初代、南部光行からの譜代の家柄で三上家、安芸家、福士家と並んで南部家四天王と称された。1565年、鹿角郡に派遣されていた桜庭光康は、侵攻してきた安東愛季を撃退した。1572年、石川高信の津軽地方の平定戦にも参陣した。閉伊郡侵攻では、謀略を用いて閉伊郡豪族衆の離反を誘い和井内家、刈屋家を内応させて相手の兵力を削いだ後、楢山義実ととも攻め込み、田鎖家などを攻撃し、閉伊郡を制圧した。寺社を保護し、没落した侍に俸禄を与えて家臣とした。

桜庭直綱【さくらばなおつな(15??~1620)】

桜庭光康の男。官途は安房守。室は木村秀茂の娘。1591年、「九戸政実の乱」では領地である閉伊地方の豪族衆が、南部信直に属するよう調略活動を行った。1600年、「関ヶ原の役」では最上義光の救援に向かった南部信直勢の中に居たが、伊達政宗が和賀忠親、稗貫広忠らを支援して南部信直の領内一揆を起こさせた。桜庭直綱は領地に戻り馬上の侍大将として70人の部隊を率いて、和賀忠親、稗貫広忠ら一揆勢と戦った。1601年、伊達政宗と結んだ遠野地方の阿曽沼広長を討伐するため350余りを率いて阿曽沼広長勢と戦いこれを撃破った。

笹森建房【ささもりたてふさ(15??~16??)】

大浦為信家臣。津軽郡笹森館主。官途は勘解由。別名砂子瀬勘兵衛。1571年、大浦為信が石川高信を攻撃する際小栗山左京とともに野伏衆83余りを率いて戦功を挙げた。武勇名高く、諜報活動にもたけ笹森館を領し「鬼勘解由」と恐れられた。大間越奉行となり、佐竹義宣領との国境を菊池刑部、山上衛門佐、七戸修理らとともに守った。1613年、小野茶右衛門が謀反を起こすと、大間越奉行笹森建房が大将となって小野茶右衛門を討伐した。※「津軽風雲録」by長部日出雄。

沢里重経【さわさとしげつね(15??~15??)】

八戸南部家臣。官途は大和守。1539年、八戸義嗣が病没後、家臣の中舘義成、沢里重経、新田盛政、田中宗祐らが八戸宗家の跡目をめぐって協議を行ったが、田中宗祐が座を破り、郎従を率いて八戸根城を占拠した。田中宗祐の父田中清祐は十四代八戸信長の嫡男であったが庶男であったため家を継げなかったことを遺恨に思ったためであった。その時城中に入り説諭帰腹せしめたのが大慈寺四世中興大樹正棟であった。大慈寺正棟は八戸義嗣の弟であり大慈寺中興の僧と称された。田中宗祐は剃髪して龍穏寺で出家したが後に謀殺された。

沢里主膳【さわさとしゅぜん(15??~15??)】

沢里重経の男。

沢田助三郎【さわだすけさぶろう(15??~15??)】

南部信直家臣。上北郡沢田城主。別名恵比奈左近。沢田城1,300石を領した。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直に属した。

七戸直国【しちのへなおくに(1517~1570)】

上北郡七戸城主。七戸慶国の男。

七戸家国【しちのへいえくに(1549~1591)】

七戸直国の男。通称彦三郎。室は九戸信仲の娘。大浦為信と戦い領地であった平内を奪われた。1591年、「九戸政実の乱」では九戸政実に属して、近隣の出法寺城や六戸城を攻撃した。九戸政実らと共に羽柴秀吉勢を翻弄したが降伏した。後に、首謀者のひとりとして斬首に処された。

七戸慶高【しちのへよしやか15??~1591)】

七戸直国の次男。1591年、「九戸政実の乱」では九戸政実に属して近隣の出法寺城や六戸城を攻撃した。九戸政実らとともに蒲生氏郷勢を翻弄した。降伏後に、首謀者のひとりとして斬首に処された。

七戸持文【しちのへもちふみ15??~15??)】

七戸家国家臣。上北郡野辺地城主。官途は将監。野辺地城2,000石を領した。

柴内相模守【しばうちさがみのかみ(15??~15??)】

鹿角郡柴内館主。国人領主で1,300石を領した。柴内家は安保家の庶流。鹿角安保家は鎌倉期に鹿角郡に入部した武蔵武士団丹党で、大里館、花輪館、柴内館に分地し花輪周辺を支配した。1565年、柴内相模守は鹿角郡支配を目論む檜山城主安東愛季の誘いに応じ、大里備中守、花輪中務とともに長牛館を攻撃し、安東愛季の鹿角支配に加担した。1568年、南部晴政が鹿角郡を回復すると、柴内相模守は大里備中守とともに郡外に逃れました。1573年、南部晴政と南部信直が対立すると南部晴政に属して旧領を回復した。1591年「九戸政実の乱」では、大里備中守、花輪中務と共に九戸政実に属した。乱後に柴内相模守は没落した。

四戸義武【しのへよしたけ(15??~15??)】

二戸郡四戸城主。

四戸義時【しのへよしとき(15??~15??)】

四戸義武の男。

四戸宗泰【しのへむねやす(15??~15??)】

四戸義時の男。四戸宗泰は九戸政実の叔母を室に迎えて勢力を拡大した。1591年、「九戸政実の乱」では弟金次郎の流言のため羽後国に落延びて病死した。

苫米地忠純【しまとまいただずみ(15??~15??)】あ

南部信直家臣。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直に属した。九戸政実勢の櫛引清長の攻撃を受けた際、高橋館主高橋駿河守勢とともに苫米地館に籠城して九戸政実勢を撃退した。

嶋森安芸守【しまもりあきのかみ(15??~15??)】

櫛引清長家臣。三戸郡嶋森館主。1591年、「九戸政実の乱」では櫛引清長が九戸政実の属したが敗北して没落した。

下斗米将家【しもとまいまさいえ(15??~15??)】

南部信安家臣。1539年、三戸城火災の際、宿直をしていたが、放火して奥瀬安芸守を謀殺した赤沼備中守を追跡、討果たした。

下斗米行胤【しもとまいゆきたね(15??~15??)】

下斗米将家の男。枝連衆にあたる上斗米家との間に対立が生じて、支配地の一部であった上斗米を失領した。

下田長勝【しもだなががつ(15??~15??)】

上北郡下田館主。

下田直政【しもだなおまさ(15??~15??)】

南長義の四男(下田長勝の養子)。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直に属した。

下新岡出雲守【しもしんおかいずもかみ(15??~15??)】

大浦為信家臣。1571年、石川高信の石川城を攻撃する際に後陣の大将を務めた。

東海吉兵衛【しょうじきちへいべ(15??~1626)】

大浦為信家臣。加賀国の生まれで、大浦為信に仕えて400石を領した。北条流軍学にも精通し兵法、特に弓に優れていた。1610年、弘前城築城の際、縄張りを担当。和徳から大石を城の二の丸堀まで引き入れたところ、病気療養中の八木織部の代理人と口論になり、大脇差で謀殺した。

浄法寺重安【じょうほうじしげやす(15??~15??)】

二戸郡浄法寺城主。南部晴政家臣。官途は修理介。浄法寺重安は安比川流域と鹿角郡の一部8,000石を領した。南部晴政家臣の中では八戸信栄、九戸政実、浄法寺重安が大身とて他の家臣とは別格の存在だった。1589年、「一戸城の戦い」では枝連衆の浄法寺重行と浄法寺主膳の企みにより、落城の汚名を着せられた。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直に属したが積極的には戦わなかった。

浄法寺重好【じょうほうじしげよし(15??~15??)】

浄法寺重安の男。1591年、「九戸政実の乱」では先鋒となって九戸城を攻撃した。1601年、「和賀の乱」を南部利直は一時休戦にして、和賀城に浄法寺重好を置き、三戸城に帰った。和賀城を任された浄法寺重好は、部下を残したまま密かに浄法寺城へ帰ってしまった。 このことが後に戦陣の規律を破ったとされ、知行家禄屋敷を没収され蟄居処分となった。

浄法寺重行【じょうほうじしげゆき(15??~15??)】

浄法寺重安の次男。1589年、南部信直が一戸城を攻落すと浄法寺重安と東朝政に守備を命じた。浄法寺重行は枝連衆の浄法寺主膳とともに留ヶ崎城に九戸政実勢が向かっていると嘘の情報を流した。浄法寺重安と東朝政は留ヶ崎城の救援に赴くが、手薄になった一戸城を九戸政実勢によって攻略された。浄法寺重行は大湯四郎左衛門のいる鹿倉館の救援に向かったが、泥濘にはまり動けなくなったところを大湯四郎左衛門に浄法寺重好勢と誤解され討取られた。

白鳥伊右衛門【しらとりいざえもん(15??~1600)】

大浦為信家臣。羽後国萢山開の白鳥沼に住人で、後に大浦為信に300石で仕えた。1600年、「関ヶ原の役」に際し、大浦為信が上方に参陣すると、堀越城代を任された。板垣将兼、尾崎喜蔵、多田玄蕃らの反乱にあい討死した。

白鳥信治【しらとりのぶはる(15??~1628)】

白鳥伊右衛門の男。通称瀬兵衛。別名山口信治。父白鳥伊右衛門の討死により白鳥家の家督を相続した。1612年、「高坂蔵人の乱」では戦功を挙げ家老職として800石を領した。1618年、大浦信枚、佐竹義宣の国境協議で、服部康成とともに協力し、大浦信枚の有利に状況で問題を解決した。1625年、青森湊普請に際し、服部康成、乾安儔とともに普請奉行として活躍した。

白鳥信次【しらとりのぶつぐ(15??~1642)】

白鳥信治の男。通称熊蔵。別名山口信次。父白鳥信治の病没後に、白鳥家の家督を相続したが嗣子無く病死し、知行は没収された。弟白鳥武実が大浦家に仕えた。白鳥信治の次男白鳥英富も別家を立て大浦家に仕えた。

瀬田隠岐守【せたおきのかみ(15??~15??)】

鹿角郡瀬田石館主。官途は隠岐守。別名月館隠岐守。1588年、瀬田隠岐守は南部信直に属して「高水城の戦い」で戦功を挙げた。1591年「九戸政実の乱」では弟小平左近と共に南部信直勢に属して、九戸政実勢に属する一戸城を攻撃した。乱後、瀬田隠岐守は戦功により月館館主を領して月館家と称した。

千徳政氏【せんとくじまさうじ(15??~1588)】

田舎郡浅瀬石城主。千徳政吉の男。官途は大和守。別名浅瀬石政氏。室は津軽石勝富の娘。1561年、千徳政氏は大浦為信と「永禄の約」を結んだ。「永禄の約」は共同して津軽地方の諸城を攻め、統一後は大浦為信と千徳政氏が津軽を二分して治めるとするものであった。1576年、千徳政氏は、大浦為信とともに南部信直から離反して滝本重行が城代を勤める大光寺城を攻略した。南部信直は、名久井城主東政勝を大将とする兵3,000余りが浅瀬石城を攻撃したが大浦為信の援軍と協力して、深田に誘き寄せ700余りの兵で打ち破った。

千徳政康【せんとくまさやす(1540~1597)】

千徳政氏の男。官途は安芸守。1597年、千徳政康は、津軽地方の大部分を押える大浦為信と対立すると、千徳政康家臣団は、大浦為信に心を寄せる木村越後守、盛岡金吾ら大浦為信派と対抗する派に二分された。家中の争いに敗れた木村越後守、盛岡金吾ら十七人は、堀越城の落延びた。大浦為信は、これを契機に木村越後守、盛岡金吾らを先鋒に立て浅瀬石城を攻撃した。大浦為信勢は兵を三手に分け、城の背後の攻手は木村越後守、盛岡金吾らが担った。千徳政康勢は攻撃を支えきれず、千徳政康は自刃して浅瀬石城は落城した。

千徳正武【せんとくまさたけ(1549~1585)】

田舎郡田舎館主。通称掃門。室は小山内永春(於市)。1585年、大浦為信の兵3,000余りの攻撃を受け自刃した。田舎館城に籠もった城兵330余りも討死した。1601年、於市は、大浦為信の主催した法要の席で自刃した。

千徳善勝【せんとくよしかつ(15??~15??)】

南部晴政家臣。笠間館主。通称治郎左衛門。1583年、千徳善勝は津軽石勝富を謀殺すると、弟中津山善連は津軽石勝富の居城払川館を攻略した。

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【た】

大光寺信愛【だいこうじのぶあい(15??~15??)】

平賀郡大光寺城主。南部晴政家臣。別名南部信愛。大光寺城16,000石を領して、城下は商家90軒と津軽地方では有数な城下街に発展させた。平賀郡、田舎郡、津軽郡の三城主のひとり。

大光寺光愛【だいこうじみつあい(15??~15??)】

大光寺信愛の男。別名南部光愛。1575年、大浦為信の攻撃を受け、大光寺城は落城し、大光寺光愛の男比内六郎、比内七郎は比内郡に落延びた。1579年、比内六郎と比内七郎は、滝本重行や北畠顕則らと共に比内郡より兵1,000余りを率いて津軽地方へ侵攻した。乳井城、乳井茶臼館を落城させたが、沖館城を攻めきれずに苦境に陥り、大浦為信勢と戦った「六羽川の戦い」において敗れたため撤退した。

平俊忠【たいらとしただ(15??~15??)】

浪岡北畠顕信家臣。津軽郡大開城主。大浦為信の為に城を追われ、南部信直を頼った。

滝本重行【たきもとしげゆき(15??~15??)】

石川高信家臣。官途は播磨守。1565年、猛将として知られ、乳井福王寺の別当である乳井城主乳井玄蕃を後藤五郎左衛門に襲撃させ、荒田引座川畔で謀殺して、高畑城を攻略して勢力を広げた。1574年、大浦為信は兵3,000余りを率いて大光寺城の攻略を図ったが、滝本重行は兵700余りを率いて、大浦為信の本隊に突入、不意を突かれた大浦為信は敗走した。1576年、再度の攻撃を受けると奮戦むなしく落城し、三戸城に落延びた。1579年、安東愛季の支援を受けた比内郡から六郎、比山七郎兄弟が津軽に侵攻すると、北畠顕則らと共に兵1,000余りを率いて大光寺城の奪還を狙うも「六羽川の戦い」で敗退し比内郡へ敗走した。

滝本重久【たきもとしげひさ(15??~15??)】

滝本重行の弟。通称刑部左衛門。

高倉盛次【たかくらもりつぐ(15??~1636)】

大浦信枚家臣。御所袋若狭守の男。通称六郎次郎。別名高倉盛治。最上家親の改易後に大浦信枚に仕えた。1524年、大浦信義の傅役として500石を領した。1634年、津軽信義と諍いを起こし浪人となった。婿養子は鍋倉秀道の次男盛成。盛成は高倉盛次の外孫であり、その血縁から婿養子に迎えられたと。
 
高倉盛成【たかくらもりなり(1608~1683)】

鍋倉秀道の次男(高倉盛次の養子)。官途は主計。室は高倉盛次の娘。1634年、義父高倉盛次とともに津軽信義のもとを去り浪人になった。

高畑主水【たかはたもんど(15??~15??)】

白井右衛門家臣。1591年、鈴木将監を討取り、八木澤興四郎は仁井田内膳を討取った。これにより白井右衛門は敗走した。

堀越武田重信【たけだしげのぶ(15??~15??)】

鼻輪郡堀越主。大浦為則の攻撃を受け堀越城は落城、武田重信も降伏し、大浦政信の次男武田守信を養子に迎えた。

堀越武田守信【たけだもりのぶ(1524~1554)】

大浦政信の次男(武田重信の養子)。官途は紀伊守。通称甚三郎。別名大浦守信。室は武田重信の娘(長福院)。大浦為信の実父。兄大浦為則が武田重信の守備する堀越城を攻め落とし、武田守信を武田重信の養子に送り込んだ。足の不自由な兄大浦為則に代わり大浦家の政務を補佐した。1554年、南部晴政の要請で南部桜庭へ参陣するも討死した。

堀越武田信勝【たけだのぶかつ(15??~15??)】

武田守信の男。官途は壱岐守。通称五郎左衛門。別名大浦信勝。

堀越武田建康【たけだたてやす(15??~15??)】

武田守信の次男。通称友馬助。別名大浦建康。

堀越武田勝建【たけだかつたて(15??~1591)】

武田守信の三男。通称主殿助。別名大浦勝建。1591年、「九戸政実の乱」では、九戸政実に属して九戸城に籠城したが討死した。

多田玄蕃【ただげんば(15??~1600)】

南部晴政家臣。津軽郡唐牛館主。通称釆女。大浦為信が津軽地方で南部晴政から独立を図ると大浦為信に属した。1600年、大浦為信が「関ヶ原の戦い」のため上方に参陣すると尾崎喜蔵らとともに謀叛し、大浦為信勢と戦って討死した。

田中吉祥【たなかきちじょう(15??~1579)】

大浦為信家臣。通称太郎五郎。1579年、「六羽川の戦い」では大浦為信の本陣まで攻め込まれる激戦となったが田中吉祥が大浦為信の身代わりに討死し危機を救った。反撃の機会を捉えた大浦為信勢は盛り返し滝本重行、内六郎、比内七郎、北畠顕則らの南部信直勢を撃退した。

田中宗久【たなかむねひさ(15??~1519?)】

田中吉祥の男。通称宗右衛門。

田中清祐【たなかきよすけ(15??~15??)】

八戸義嗣家臣。南部信長の男。

田中宗祐【たなかむねすけ(15??~1539)】

田中清祐の男。官途は飛弾守。1539年、八戸義嗣が病没後、家臣の中舘義成、沢里重経、新田盛政、田中宗祐らが八戸宗家の跡目をめぐって協議を行ったが、田中宗祐が座を破り、郎従を率いて八戸根城を占拠した。田中宗祐の父田中清祐は十四代八戸信長の嫡男であったが庶男であったため家を継げなかったことを遺恨に思ったためであった。その時城中に入り説諭帰腹せしめたのが大慈寺四世中興大樹正棟であった。大慈寺正棟は八戸義嗣の弟であり大慈寺中興の僧と称された。田中宗祐は剃髪して龍穏寺で出家したが後に謀殺された。

谷口仁兵衛【たにぐちじんべい(15??~15??)】

大浦為信家臣。1610年、弘前城築城の際、竿奉行に任じられた。

千葉与四郎【ちばよしろう(15??~15??)】

滝川重行家臣。館田館主。1574年、滝本重行によって館田館が築城され家臣千葉与四郎を置いた。1574年、大浦為信の「大光寺城の戦い」では大浦為信勢700余りの攻撃を受け落城した。

長光寺薩天【ちょうこうじさつてん(15??~15??)】 
 
九戸家菩提寺長光寺住職。1591年、「九戸政実の乱」を鎮圧するため派遣された浅野長政は長光寺薩天に九戸政実を説得を命じた。長光寺薩天は九戸政実にその武勇を浅野長政が賞賛していると伝え、落城の時も迫っており、早々に降伏すれば武勇の士として恩赦もあるだろうと説得した。さらに長光寺薩天は浅野長政の降伏勧告の書状を九戸政実に渡した。九戸政実勢は降伏すべきかを議論したが、薩天は生きながらえる事が先祖への供養になると諭した。

津軽石勝富【つがるいしかつとみ(15??~1583)】

田舎郡払川館主。一戸義富の男。1583年、千徳城内で誘殺された。随従していた家臣荒川佐助は払川館に逃げ戻り、籠城して抵抗したが落城、討死した。

築地長胤【つきじながたね(15??~15??)】

千徳政氏家臣。最上義秋の男。室は千徳政氏の妹。官途は周防守。通称十郎。浅瀬石城主千徳政氏に仕え妹を娶り中野不動館主となった。

対馬右衛門太郎【つしまうえもんたろう(15??~15??)】

浪岡北畠顕村家臣。1578年、大浦為信に浪岡城が攻撃され、北畠顕村が討死すると、大浦為信に属した。1588年、大浦為信が飯詰城を攻撃した際に先鋒を務めた。

堤光康【つつみみつやす(15??~15??)】

外ヶ浜郡堤城主。別名田子佐衛門。南部信時は四男堤光康を堤浦の古館に置いて津軽地方の統治にあたらせた。1498年、堤光康は横内城を築いて移り、荒野であった青森平野を開拓した。堤光康は剛勇を謳われた。1524年、津軽郡代であった堤光康は、石川高信に郡代職を奪われた。

堤則景【つつみのりかげ(15??~1554)】

堤光康の男。官途は弾正忠。1554年、堤則景は、堀越城主武田守信とともに参陣し鹿角郡で討死した。堤則景の室である朝日御前は仏門に入り剃髪した。1561年、朝日御前も後を追うように亡くなり、横内城跡に建つ常福院に葬られた。

堤弾正忠【つつみだんじょうちゅう(15??~1585)】

堤則景の男。1585年、大浦為信の外ヶ浜攻略において油川城が落城した報を聞き、堤弾正忠は城を出て大浦為信勢を迎え撃ったが、高陣場において福士弥三郎、福士小三郎らによって討取られた。

津村伝右衛門【つむらでんうえもん(15??~15??)】

南部信直家臣。伝法寺館主。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直勢に属して九戸政実勢に属する七戸家国から攻撃を受けたが、伝法寺館に籠城して七戸家国勢を撃退した。

靏浪外記【つるなみげき(15??~1571)】

石川高信家臣。1571年、大浦為信の堀越城の改修許可を津軽郡代石川高信に求めた。石川高信は改修許可を与えるとともに、改修の支援も行った。堀越城の改修後、大浦為信は石川高信の家臣金沢円松斎、栃尾靱負、靏浪外記らを堀越城に招き祝宴で謀殺、部将の居ない石川城を一気に攻落した。

天間館源左衛門【てんまげんざえもん(15??~1591)】

七戸直国家臣。上北郡天間館主。1589年、七戸家国勢の天間源左衛門、野辺地久兵衛、横浜慶房らは北上郡羽立館主津村伝右衛門を攻撃した。
津村伝右衛門は援兵の米田義勝らとともに防戦したが、七戸国家勢の猛攻により陥落、伝法寺館に落延びた。1591年、七戸家国とともに「九戸政実の乱」に参陣して討死した。1590年、南部信直は七戸家国を討伐するため八戸政栄を大将に任じ2,000余りの兵を派遣した。八戸政栄は新田政盛と南直政を副将に又重秀俊、戸来保秀、中市常之、木村秀茂らの豪族衆を率いて北上郡に侵攻した。七戸家国は1,000余りので迎い撃ったが敗退した。1591年、「九戸政実の乱」では七戸家国に属して木村秀茂、戸来保秀、中市常之、石沢左近らが守る又重城を攻略した。

田頭直祐【でんどうなおすけ(15??~15??)】

南部晴政家臣。田頭城主。葛巻信祐の次男。通称佐衛門佐。田頭城1,000石を領して南部晴政に仕えた。1591年、九戸政実が南部信直に対し兵を挙げた際、平館城主一戸政包は九戸政実に属して南部信直に属した田頭城を攻撃した。田頭家勢は必死に防戦したが落城、田頭直祐は夏間木まで落延びたが、追手が迫り自刃した。

陸奥土岐則基【ときのりもと(15??~1578)】

外ヶ浜郡高田館主。官途は大和守。はじめ浪岡北畠具永に仕えたが、南部政康の勢力が拡大すると石川高信に仕え800石を領した。石川高信による「三代主水の乱」に参陣して戦功を挙げた。1578年、大浦為信が津軽統一のために浪岡北畠具永の居城である浪岡城を攻撃した際に、浪岡城で討死した。

陸奥土岐則古【ときまさしげ(15??~1590)】

土岐則基の男。通称善兵衛。1590年、大浦為信に高田館を攻撃され討死した。

陸奥土岐則忠【ときのりただ(15??~15??)】

土岐則基の次男。通称善助。土岐則忠と土岐則吉は浪岡郡代石川政信の娘を連れて三戸城に落延びた。石川政信の娘は七戸城主七戸直時に嫁いだ際、にはこれに従い七戸直時の命で高田家に改め、七戸に定住した。

陸奥土岐則吉【ときのりよし(15??~15??)】

土岐則基の三男。通称善四郎。土岐則忠と土岐則吉は浪岡郡代石川政信の娘を連れて三戸城に落延びた。石川政信の娘は七戸城主七戸直時に嫁いだ際、にはこれに従い七戸直時の命で高田家に改め、七戸に定住した。

戸沢惣助【とざわそうすけ(15??~1588)】

北信愛家臣。1588年、羽後国比内郡の戦いで、北愛清(北信愛の枝連衆)に属して、三浦秀兼(五城目兵庫)の救援に赴いた。この戦いは、南部信直勢の敗北となり北弾正忠は家臣十一人と共に敗走したが、五城目で安東実季勢に包囲された為、自刃した。

栃尾靱負【とちおもみゆき(15??~1571)】

石川高信家臣。1571年、大浦為信の堀越城の改修許可を津軽郡代石川高信に求めた。石川高信は改修許可を与えると共に、改修の支援も行った。堀越城の改修後、大浦為信は石川高信の家臣金沢円松斎、栃尾靱負、靏浪外記らを堀越城に招き祝宴で謀殺、部将の居ない石川城を一気に攻落した。

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【な】

長牛政武【ながうしまさたけ(15??~15??)】

鹿角郡長牛城主。別名一戸政武。

長牛友義【ながうしともよし(15??~15??)】

一戸政武の男。別名一戸友義。1566年、檜山安東愛季が鹿角郡に侵攻した。落城寸前の長牛城に、檜山安東愛季は矢文を送った「長牛はせたくれ牛にさも似たり あぶにさされて尾をぞふりけり」。これを見た一戸友義は「あぶ三つ せたくれ牛に食いついて尾にてひしがれ しようこともなし」と送った。長牛城は落城して鹿角郡は檜山安東家の勢力圏に入った。1569年、南部晴継勢の石川高信を総大将に長牛友義、七時雨街道から九戸政実が鹿角郡に侵攻して安東愛季勢を一掃しすると鹿角郡は南部晴継の勢力圏に入った。

中館長知【なかやかたながとも(15??~15??)】

八戸義嗣家臣。

中館義成【なかやかたよしなり(15??~15??)】

中館長知の男。1539年、八戸義嗣が病没後、家臣の中舘義成、沢里重経、新田盛政、田中宗祐らが八戸宗家の跡目をめぐって協議を行ったが、田中宗祐が座を破り、郎従を率いて八戸根城を占拠した。田中宗祐の父田中清祐は十四代八戸信長の嫡男であったが庶男であったため家を継げなかったことを遺恨に思ったためであった。その時城中に入り説諭帰腹せしめたのが大慈寺四世中興大樹正棟であった。大慈寺正棟は八戸義嗣の弟であり大慈寺中興の僧と称された。田中宗祐は剃髪して龍穏寺で出家したが後に謀殺された。

中館政常【なかやかまさつね(15??~1627)】

中館義成の男。

中津山善連【なかつやまよしつら(15??~15??)】

千徳善勝家臣。笠間館主。通称治郎左衛門。千徳善勝の弟。1583年、兄千徳善勝が津軽石勝富を謀殺すると、千徳善連は津軽石家の居城払川館を攻略した。

楢山義実【ならやまよしざね(1550~1603)】

石亀信房の次男。別名石亀義実。南部晴政に二戸郡楢山城主に任じられ、楢山家と称した。1591年「九戸政実の乱」では、戦功を挙げた。嫡男石亀直隆は八戸直政と共に越後国高田城普請に行き、八戸直政の帰国により作事奉行を努めた。

徳仁豊前守【なるひとぶぜんのかみ(15??~16??)】

大浦為信家臣。大浦為信家臣の中でも裕福な人物で、そのために驕慢になり、放蕩生活を送っていた。1610年、その罰として弘前城建設に際し、長勝寺構に土塁を建設するよう命じられた。

南部安信【なんぶやすのぶ(1493~1525)】

三戸郡三戸城主。南部政康の男。1524年、津軽に次弟石川高信を津軽郡代に任じ津軽地方を安定させ、三弟南長義を浅水城主とし枝連衆の内宗家に並ぶ勢力を保持する九戸、八戸両家に対抗させ、四弟石亀信房を石亀城主として斯波郡の斯波家への押さえとし、五弟毛馬内秀範には鹿角郡毛馬内城として安東家に侵攻に対応させた。

南部晴政【なんぶはるまさ(1517~1582)】

南部安信の男。官途は大膳大夫。1525年、三戸南部家の家督を相続する。1539年、家臣赤沼備中のために居城三戸城を焼失。檜山安東家の津軽郡の北西部と鹿角郡奪い、陸奥の地で檜山安東家と激戦を繰り広けた。南下して斯波家、和賀家、稗貫家、葛西家らとも争うなど四隣に勢力を広げた。主に北、北西には石川高信、南、南西には九戸政実を派遣した。叔父石川高信の男、南部信直を娘(長女)の婿に迎えて継嗣にしたが、実子南部晴継が産まれるとこれを遠ざけた。

南部晴継【なんぶはるつぐ(1570~1582)】

南部晴政の男。通称彦三郎。1582年、父南部晴政の病没を受けて家督を継ぐが、その直後の葬儀帰りに謀殺された。

南部信直【なんぶのぶなお(1546~1599)】

石川高信の男。官途は大膳大夫。別名田子信直。室は南部晴政の娘。継室は泉山古康の娘(慈照院)。はじめ三戸南部晴政の長女の婿に迎えられて継嗣となったが、1570年、三戸南部晴継が生まれると疎んじられ、三戸南部晴政の攻撃を受け蟄居させられた。1582年、三戸南部晴政、晴継が相次いで死去したため継嗣争いが起きたが、田子信直は北信愛の支援を受けて家督を相続した。斯波郡の斯波詮直の家中騒動に乗じて高水寺城を攻略し、戸沢、安東家らと争う。1591年「小田原の役」に参陣して所領安堵を受けた。大浦為信が先に津軽地方の所領安堵の朱印状を得た為、津軽三郡を失った。1592年、九戸政実が「九戸政実の乱」を起すと南部信直単独では鎮定できず、羽柴秀吉に援軍によって鎮圧した。1591年、「大崎葛西一揆」による所領変更で和賀郡、稗貫郡、斯波郡の三郡の加増を受けた。

南部利直【なんぶよしなお(1576~1632)】

南部信直の男。官途は信濃守。室は蒲生氏郷の娘(源秀院)。側室は山田九郎左衛門の妹(法源院)。1599年、父南部信直の病没により南部家の家督を相続し羽柴秀頼に拝謁した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康の「会津征伐」に参陣した。南部利直は最上義光の後援として山形に出陣するが領土拡大を図った伊達政宗が和賀忠親を煽動して和賀郡や稗貫郡で一揆を起こしたため、帰国を許された。1601年、一揆を鎮圧した。以降は南部家領の整備に着手し、白根金山や西道金山等の鉱山開発を行い財政を安定させた。1615年、盛岡城を築城して城下街を形成し、三戸城下の住民も盛岡城下に移した。「九戸政実の乱」の教訓から血縁関係のない家臣の多くを処罰、追放して独裁集権化を進めた。

新田盛政【にったもりまさ(15??~15??)】

八戸勝義家臣。室は南部信長の娘。新田城は中館と共に根城の支城で、根城を軸に「三館一城」と称した。1548年、八戸勝義が二十四歳で病没すると、新田行政の嫡男新田政栄は、八戸勝義の娘を娶り八戸家に養子に入り、八戸家の家督を相続した。八戸家の実権は新田盛政が掌握した。

新田行政【にいだゆきまさ(1526~1567)】

新田盛政の男。嫡男八戸政栄が幼少のうちに八戸家の家督を相続したため、新田行政が後見役を務めた。その後も八戸政栄の重臣として戦功を挙げた。1552年、七戸城主七戸慶胤が八戸家領に侵攻、新田政行は「小田野の戦い」で、七戸慶胤勢を撃退した。1556年、浅水城主南信勝が剣吉城主北直愛を攻撃すると、新田政行は南信勝勢に参陣した。

新田政盛【にいだまさもり(1547~1603)】

新田行政の次男。官途は近江守。兄八戸政栄が八戸家の家督を相続したため、次男新田政盛が新田家の家督を相続した。1539年、八戸義嗣が病没後、家臣の中舘義成、沢里重経、新田盛政、田中宗祐らが八戸宗家の跡目をめぐって協議を行ったが、田中宗祐が座を破り、郎従を率いて八戸根城を占拠した。田中宗祐の父田中清祐は十四代八戸信長の嫡男であったが庶男であったため家を継げなかったことを遺恨に思ったためであった。その時城中に入り説諭帰腹せしめたのが大慈寺四世中興大樹正棟であった。大慈寺正棟は八戸義嗣の弟であり大慈寺中興の僧と称された。田中宗祐は剃髪して龍穏寺で出家したが後に謀殺された。1567年、八戸政栄の父新田政行が没し、その葬儀のため八戸政栄らが新田城に赴いていた隙をついて、櫛引弥六郎が八戸城を攻撃したが撃退した。1590年、南部信直が「小田原の役」に参陣し所領安堵の朱印状を受けた。

新田政広【にいだまさひろ(1562~1620)】

新田政盛の男。八戸祢々を補佐した。1614年、「大阪冬の陣」では、八戸祢々の名代として新田政広と中館政常が南部利直に属して参陣した。

乳井玄蕃【にゅういいべんば(15??~15??)】

平賀郡乳井城主。乳井福王寺別当職。乳井玄蕃は乳井薬師堂の乳井城の館主であり、周辺に武威を振るった。近隣の南部晴政とも対立し、その威風ある態度から「沙門天」と称された。1565年、乳井玄蕃は南部晴政に属する大光寺城主滝本重行よって謀殺された。

乳井建清【にゅういたてきよ(15??~1584)】

乳井玄蕃の男。別名覚林坊大隅守。父乳井玄蕃が滝本重行に討たれ、抑えとして高畑城を築城され乳井建清は劣勢に陥った。高畑城には、滝本重行の家臣平岡盛影が入った。1571年、大浦為信が石川城を急襲し、石川高信を討取り南部信直からの独立すると乳井建清は、高畑城を急襲して平岡盛影を討取り、高畑城主となった。南部信直は、瀬田石隠岐守に兵を預け高畑城を攻撃した。乳井建清は板垣信成とともに善戦し、兼平綱則の兵150余りの援軍を得ると、南部信直勢を撃退した。1575年、大浦為信に属して大光寺城を落とし、滝本重行を津軽地方から追い落とした。1579年、安東愛季の支援を受けた、比山六郎、比山七郎兄弟が比内郡から平賀郡へ侵攻した。比山勢には滝本重行、北畠利顕らが参陣して、乳井茶臼館や乳井城を攻略した。1579年、大浦為信は、乳井建清とともに「六羽川の戦い」で、比山六郎、北畠利顕らを討取り敗走させた。

乳井日向守【にゅういひゅうがのかみ(15??~16??)】

乳井建清の男。大浦信枚が柏木館野での狼狩りの演習の際、勢子大将を勤めた。1623年、大浦信枚が松平家光上洛に当たり供奉した際、ともに参加した。

乳井建定【にゅういたてさだ(15??~1545)】

乳井建清の次男。官途は美作守。室は津軽信枚の娘(富姫)。1634年、兼平信孝、乳井建定らと船橋長真、乾安儔らによる対立が表面化「船橋騒動」が起った。1636年、松平秀忠の裁定により乳井建定は長州萩藩に流罪と決まり乳井家の家督は弟の乳井建吉が相続した。

沼田祐光【ぬまたすけみつ(1533~1612)】

大浦為信家臣。官途は上野之介。別名面松斎。大浦三家老のひとり。1568年、易、天文を得意とし、軍師として上方との連絡を担当し、大浦為信を影で支えた。1571年、「石川城の戦い」に参陣した。1575年、「大光寺城の戦い」に参陣した。1585年、津軽為信の上洛に随行した。

沼田祐正【ぬまたすけまさ(15??~16??)】

沼田祐光の男。通称勘右衛門。大浦為信に仕え500石を領した。後に大浦信建付の家臣となったが大浦信建の病没後、知行を召し上げられた。

沼山勘解由【ぬまやまあげゆ(15??~15??)】

北畠顕忠家臣。官途は備中守。室は北畠顕忠の娘。1578年、北畠顕則の留守中、大浦為信勢の攻撃を受け浪岡落が落城した際、北畠顕忠は城にはおらず、行方不明の際しを見つけ出し北畠顕村の娘と自身の嫡男北畠顕佐を沼山勘解由に預けた。沼山勘解由は二人を婚姻させ北畠家の再興を図ったが北畠顕佐は羽後国に落延びた。沼山勘解由は大浦為信に仕え、津軽地方に残った北畠家枝連衆を保護した。

念西坊頼英 【ねんさいぼうよりえい(15??~15??)】

油川城下の田明寺の僧。1585年、「外ヶ浜の戦い」では大浦為信に属して参陣して油川城下周辺に放火をした。

野田義親【のだよしちか(15??~15??)】

南部晴政家臣。九戸郡野田城主。通称源左衛門。

野田正義【のだまさよし(15??~15??)】

野田義親の男。通称源左衛門。別名一戸政義、南部義親。野田正義は宇部館から三日市場に拠点を移し野田城を築城した。1591年、「九戸政実の乱」では野田正義、野田政親親子は、南部信直勢に属した。九戸政実に属した久慈城主久慈政則勢の攻撃を受けた。

野田直親【のだなおまさ(15??~15??)】

野田正義の男。

野田政親【のだまさちか(15??~15??)】

野田正義の次男。通称掃部助。別名一戸政親。1591年、「九戸政実の乱」では、野田正義、野田政親父子は南部信直勢に属して九戸政実勢の久慈城主久慈政則と対峙した。このため野田正義の宇部館は久慈家領との境目になり久慈政則勢の攻撃を受けた。

野辺地久兵衛【のべちきゅうべい(15??~1591)】

七戸直国家臣。1589年、七戸家国勢の天間源左衛門、野辺地久兵衛、横浜慶房らは北上郡羽立館主津村伝右衛門を攻撃した津村伝右衛門は援兵の米田義勝らとともに防戦したが、七戸国家勢の猛攻により陥落、伝法寺館に落延びた。1590年、南部信直は七戸家国を討伐するため八戸政栄を大将に任じ2,000余りの兵を派遣した。八戸政栄は新田政盛と南直政を副将に又重秀俊、戸来保秀、中市常之、木村秀茂らの豪族衆を率いて北上郡に侵攻した。七戸家国は1,000余りので迎い撃ったが敗退した。1591年、「九戸政実の乱」では七戸家国に属して木村秀茂、戸来保秀、中市常之、石沢左近らが守る又重城を攻略した。

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【は】

箱石左衛門丞【はこいしさえもんのじょう(15??~15??)】

箱石館主。早池峯新山神社神殿建立に協力した。1602年、新山神社宝前に幣帛を捧げた。

八戸義継【はちのへよしつぐ(15??~1539)】

八戸郡根城主。八戸治義の男。父八戸治義の早世により幼少にて家督相続したが間もなく病没したため、弟八戸勝義が八戸家の家督を相続した。

八戸勝義【はちのへかつよし(1525~1548)】

八戸治義の次男。官途は弾正少弼。1539年、兄八戸義継の早世を受けて家督を相続した。南部晴政に属して陸奥国各地を転戦した。

八戸政栄【はちのへまさよし(1543~1610)】

新田行政の男(八戸勝義の養子)。官途は薩摩守。通称彦次郎。室は八戸勝義の娘。北信愛や南慶儀とともに、南部晴政を惣領職的地位にまで高めた。1572年、南部晴政が病没すると、後継の南部晴継が謀殺され南部宗家の家督争いが起こると、南部信直の擁立に尽力した。三戸南部宗家に次ぐ家柄で宗家に嗣子なきときは八戸家から当主を出すしきたりがあった、一族の櫛引清長との対立で内紛となり宗家の運営から手を引く、しかし宗家の南部信直を補佐し九戸政実、津軽信為を牽制し南部家の大名としての地位確立に貢献した。1590年、「小田原の役」では、南部信直に羽柴秀吉のもとへの参陣を薦めた。南部信直の肥前名護屋滞陣の際、八戸名代として新田栄連に軍兵をつけて派遣した。

八戸直栄【はちのへなおひで(1561~1595)】

八戸政栄の男。室は南部信直の娘(千代子)。八戸直栄と千代子姫の間に生まれたのが八戸弥々姫。1590年、「小田原の役」では、南部宗家の名代として父八戸政栄とともに参陣した。1592年、「文禄の役」では三戸城の留守居を務めた。その後嫡男に恵まれないまま八戸直栄は病没したため、弟八戸直政を婿養子として八戸弥々と結婚し八戸家を相続した。南部利直の代になり、南部利直は宗家としての立場を強め、八戸家中は八戸弥々を中心に政治力と才量を発揮して、遠野南部家を纏め挙げた。

八戸直政【はちのへなおまさ(1587~1614)】

八戸政栄の次男。1614年、石亀直隆(楢山義実の男)とともに越後高田城の普請を務めたがまもなく病没した。

八戸弥々姫【はちのへねねひめ(15??~1644)】

八戸直政の室。八戸直栄の娘。別名「清心尼」。父八戸直栄が男子を得なかったため、その弟八戸直政と結婚した。八戸直政と後を継ぐはずだった八戸久松に先立たれ、未亡人となった。二十九歳で女大名として八戸根城主となった。1627年、南部利直が八戸家の勢力を削ぐため、遠野に転封を行った。遠野の治安回復のため、旧領から領地の移動を申し付けられて、その時治めていた八戸から「遠野郷の殿様」、女の殿様として遠野の地へ入部した。以後、八戸家は遠野南部家と称し、八戸祢々は政治力と才量を発揮した。

服部康成【はっとりやすなり(1566~1635)】

大浦為信家臣。官途は長門守。はじめ美濃岐阜城主織田秀信に仕えたが、のちに浪人した。後に、大浦為信に仕え300石を領した。1600年「大垣城の戦い」では、津軽家忍衆を率いて城内を撹乱する戦功を挙げた。1607年、津軽為信の病没後、松平元康より大浦信枚の後見人として、大浦信枚から2,000石、松平元康から1,000石の3,000石を領して、大浦家筆頭家老として藩政を統括し「無類の良臣」と称された。

服部成昌【はっとりなりまさ(15??~16??)】

服部康成の男。通称左近。1634年、「船橋騒動」が起こり幕府裁定で喧嘩両成敗となるとこれを不服とし大浦家を離れ、加賀藩前田家に仕えた。

花輪親行【はなわちかゆき(15??~15??)】

鹿角郡花輪館主。官途は伯耆守。鹿角四頭のひとり。1565年、安東愛季と結んで南部晴政勢の長牛城を攻撃した。1568年、南部晴政勢は反撃に転じて安東愛季を撃退、花輪親行も撤兵した。その後、南部晴政に仕えた。

1568年、南部晴政勢が再び鹿角郡を奪還すべく出兵すると安東愛季勢は敗退し、花輪親行も一時退去せざるを得なかった。しかし南部氏の当主である晴政・信直父子が対立の兆しを見せると、親行は晴政に仕える事になった。

晴政が死去すると花輪氏は一族離散の目に会うが、親行の子である帯刀延親の代に信直に召し出され、九戸の円子村で200石を賜って円子氏を称した。

天正18年(1590)、信直は大光寺正親を花輪城に置いて安東氏に対する拠点とし、翌19年(1591)の諸城破却令の際にも花輪城はそのまま残された。
その後明暦3年(1657)には毛馬内九左衛門長次が、延宝2年(1674)には中野吉兵衛康敬が城代として入城した。

花輪延親【はなわのべちか(15??~15??)】

花輪親行の男。花輪延親は、南部信直に仕え200石を領した。

花輪定親【はなわさだちか(15??~15??)】

花輪延親の男。

原子平内兵衛【はらこへいないひょうえ(15??~15??)】

原子城主。北畠家四天王のひとりで浪岡城の北西を守った。1578年、大浦為信の攻撃を受け浪岡城が落城すると原子平内兵衛は羽後国に落延びた。原子平内兵衛は、吉町弥右衛門の挙兵の企みを大浦為信に密告し家臣になった。

晴山忠房【はれやまただふさ(15??~15??)】

九戸政実家臣。九戸郡晴山城主。官途は治部少輔。1591年、「九戸政実の乱」では晴山玄蕃とともに九戸政実勢に属した。

東政重【ひがしましげ(15??~15??)】

南部政康家臣。三戸郡名久井城主。

東政勝【ひがしまさかつ(15??~1590)】

東政重の男。官途は中務。1556年、東家の家督を相続した南部晴政と南部信直の対立では南部晴政勢に属した。南部信直に属する北信愛を、南部晴政や八戸政栄、四戸義時らとともに攻撃した。1567年、櫛引清長とともに八戸政栄の根城を攻略したが、八戸政栄の反撃を受け敗退した。八戸政栄の家臣作田相模守の仲介で八戸政栄と和議を結んだ。1571年、八戸政栄が櫛引清長を攻めた際、後詰として櫛引清長に属するが敗北した。1582年、南部晴政が病没した直後に後継の南部晴継も病没したため、南部宗家の家臣が集まり後継者会議が開かれた。東政勝らは南部晴政の娘婿の九戸実親を支持するが、南部信直を支持する北信愛の工作によって南部信直が南部宗家に擁立された。一貫して反南部信直派であった東政勝だが、南部信直が南部宗家を相続すると南部信直に属した。1585年、南部信直勢の大将として津軽地方に侵攻して大浦為信と戦うが補給を絶たれ敗退した。

東重康【ひがししげやす(15??~15??)】

東政勝の男。

東直義【ひがしなおよし(15??~1615)】

東重康の男。官途は中務尉。室は南部晴政の娘。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直に属して戦功を挙げ3,000石を領した。

東重義【ひがししげよし(15??~15??)】

東直義の男。

平岡盛影【ひらおかもりかげ(15??~15??)】

滝本重行家臣。高畑城主。平岡盛影は乳井大隅守の攻撃を受け討死した。高畑城は乳井大隅守のものとなった。

平館政包【ひらだてまさかね(15??~1591)】

岩手郡平館主。一戸政連の弟。官途は信濃守。別名一戸政包。平館家の家督を相続して1,000石を領した。1581年、九戸政実に属して父一戸政連を謀殺した。平館政包の次男平館政敏は、南部信直も出仕した御足軽頭を務めた。三男平館義豊勝は花巻城に出仕した。

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【ま】

松野信安【まつおかのぶやす(15??~15??)】

大浦為信家臣。武田九郎左衛門の男。通称新四郎。1591年、父武田九郎左衛門が「九戸実政の乱」に参陣した際、松野信安は大浦為信に預けられた。松野家と称して大浦為信に仕え家老職となった。1600年、「関ヶ原の役」では大垣城の攻撃に加わり戦功を挙げた。

三日市越中守【みっかいちゅうのかみ(15??~1591)】

南部信直家臣。上北郡三日市館主。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直勢に属して戦ったが討死した。

南長義【みなみながよし(1497~1583)】

南部信安家臣。南部政康の四男。屋敷が三戸城の南にあったため南家と称された。兄南部信康に属して陸奥各地を転戦した。1571年、「屋裏の変」では、南長義は南部信直を支持し北信愛とともに南部晴政と戦い南部信直の家督相続に貢献した。

南盛義【みなみもりよし(15??~1591)】

南康義の次男。室は南部晴政の娘。兄南義晴の早世により南家の家督を相続した。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直勢に属して戦ったが討死した。

宮館文左衛門【みやだてもんざえもん(15??~16??)】

大浦為信家臣。1610年、弘前城築城の際、総奉行となった。

森岡為治【もりおかためはる(1500~1541)】

大浦政信家臣。大浦盛信の男。官途は山城守。通称十郎左衛門。大浦政信に仕え3,000石を領した。1541年、大浦政信と共に和徳城主小山内満春を攻撃した。「三味線河原の戦い」では小山内満春を討取ったが、小山内満春の嫡男小山内永春が援軍として加勢して形勢が逆転、大浦政信と共に討死した。

森岡信治【もりおかのぶはる(15??~15??)】

森岡為治の男。官途は山城守。通称源三郎。1541年、父森岡為治の討死により森岡家の家督を相続した。大浦為則を後見した。

森岡信元【もりおかのぶとも(15??~1600)】

森岡信治の男。官途は山城守。通称十郎左衛門。大浦家三家老のひとり。1569年、大浦為信の使者として最上義光のもとを訪ねて誼を通じた。1571年、「石川城の戦い」に参陣し戦功を挙げ和徳城主に任じられた。1579年、南部信直勢の茶臼館を攻略するなど大浦為信の津軽平定戦に尽力した。1600年、謀反を疑われて鍛冶仁右衛門に謀殺された。

森岡信年【もりおかのぶとし(15??~16??)】

森岡信元の男。通称采女。1600年、父森岡信元の死後、追子野木に隠棲した。1621年、加増を受け200石を領した。1640年、大浦家老職となり700石を領した。

森山季定【もりやますえさだ(15??~1546)】

檜山安東尋季家臣。津軽郡森山館主。官途は飛騨守。1546年、森山季定が檜山安東家を離反したため、森山館は安東尋季、蠣崎季広から攻撃を受けた。安東尋季は正面から、蠣崎季広は搦手から攻め、進退に窮した森山季定は自刃して果て森山館は落城した。

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【や】

八木橋家里【やぎはしいえさと(14??~15??)】

八木橋城主。官途は備中守。1489年、津軽種里に城を築いた。

八木橋里負【やぎはしさちます(15??~1595)】

八木橋家里の男。官途は備中守。1521年、大浦光信に仕えて大浦為信の代には家老職に任じられた。1589年、外交能力が高く大浦為信の名代として上洛し、羽柴秀吉に名馬と鷹を献上して、津軽三郡の所領を安堵を受けた。

八木橋定久【やぎはしさだひさ(15??~1574)】

八木橋里負の男。通称左衛門四郎。1574年、「大光寺城の戦い」に参陣したが討死した。

八木橋宜春【やぎはしのりはる(15??~15??)】

八木橋里負の次男。通称嘉兵衛。1574年、兄八木橋定久が「大光寺城の戦い」で討死したため、八木橋家の家督を相続した。

八木織部【やぎおりべ(15??~15??)】

大浦為信家臣。弘前城築城中に病を得て代理の者を派遣した。代理の者は東海吉兵衛と口論になり謀殺された。

横浜慶房【よこはまよしふさ(15??~15??)】

七戸直国家臣。上北郡横浜館主。通称左衛門尉。1589年、七戸家国勢の天間源左衛門、野辺地久兵衛、横浜慶房らは北上郡羽立館主津村伝右衛門を攻撃した。津村伝右衛門は援兵の米田義勝らとともに防戦したが、七戸国家勢の猛攻により陥落、伝法寺館に落延びた。1590年、南部信直は七戸家国を討伐するため八戸政栄を大将に任じ2,000余りの兵を派遣した。八戸政栄は新田政盛と南直政を副将に又重秀俊、戸来保秀、中市常之、木村秀茂らの豪族衆を率いて北上郡に侵攻した。七戸家国は1,000余りので迎い撃ったが敗退した。1591年、「九戸政実の乱」では七戸家国に属して木村秀茂、戸来保秀、中市常之、石沢左近らが守る又重城を攻略した。

吉町弥右衛門【よしまちよえもん(15??~15??)】

北畠具運家臣。北畠具運は、家老には赤松隼人、沼山備中守、和田五郎左衛門、源常館主源常顕忠、東方に軽井沢館主軽井源左衛門椽、小和清水には強清水恵林、北方に大釈迦館主奥井万助、西北に原子館主原子平内兵衛、西方に杉銀館主吉町弥左衛門、南方に本宮館主本宮源内等の股肱屈指の武士を置いて四方を堅めた。

蓬田則政【よもぎだのりまさ(15??~1585)】

外ヶ浜郡蓬田城主。南部信直家臣。官途は越前守。別名相馬越前守。1585年、津軽為信の侵攻により蓬田城は油川城と共に落城し、蓬田則政は南部信直を頼って落延びた。

和田五郎左衛門【わだごろうざえもん(15??~15??)】

北畠具運家臣。北畠具運は、家老には赤松隼人、沼山備中、和田五郎左衛門、源常館主源常顕忠、東方に軽井館主軽井源左衛門椽、小和清水には強清水恵林、北方に大釈迦館主奥井万助、西北に原子館主原子平内兵衛、西方に杉銀館主吉町弥左衛門、南方に本宮館主本宮源内等の股肱屈指の武士を置いて四方を堅めた。

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【資料Ⅰ】

陸奥国(11郡/98,000石)

津軽郡(内津軽、外津軽)

内津軽(3郡/38,000石)

平賀郡:大光寺砦(6,000石)、石川城(10,000石)、矢立峠(街道)。
鼻和郡:大浦城(10,000石)。
田舎郡:浪岡御所(10,000石)、横内砦(2,000石)。 

外津軽(3郡/12,000石)

山辺郡:(2,000石)
外ヶ浜郡:蓬田砦(4,000石)、油川湊(商業都市)。
西ヶ浜郡:福島砦(4,000石)、種里砦(2,000石)、十三湊(商業都市)。 

北郡(2郡/8,000石)

上北郡:七戸砦(4,000石)、野辺地湊(商業都市)。
下北郡:横浜館(2,000石)、田名部砦(2,000石)、恐山(景勝の地)。

三戸郡:三戸城(10,000石)、九戸城(10,000石)。
二戸郡:浄法寺砦(6,000石)、姉帯砦(4,000石)。
鹿角郡:毛馬内砦(6,000石)、花輪館(4,000石)。

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【資料Ⅱ】

安保三人衆【あほさんにんしゅう】

花輪次郎、大里備中、花輪弥次郎。

大浦家三家老【おおうらけさんかろう】

沼田祐光、服部康成、森岡信元 or 小笠原信清、森岡信元、兼平綱則。
※参考文献によって三家老が違っています。

大浦家十勇士【おおうらけじゅうゆうし】

斎藤平内兵衛門、桜田宇兵衛門、奈良岡豊後守、小比内藤蔵、神丹波守、阿保中務、相馬伊賀守、新岡源次郎、宮舘与五郎。

鹿角郡四頭【かづのぐんよんとう】

鹿角四頭とは、鎌倉後期に鹿角に移封してきた成田(高市、谷内、長嶺、湯瀬、神田、毛馬内、大地、荒川、高清水、関上の諸家)、奈良(大湯、小平、新斗米、瀬田、芦名の諸家)、秋元(大里、花輪、柴内、中柴内、小枝指、乳牛、長内、三ヶ田、夏井、石鳥屋、松館、尾佐利、血牛、折加内の諸家)、阿保(黒土、高瀬、高屋、小坂、濁川、高梨)の四家を称した。在地領主として郷村を名字として分立した。郡内でお互いに勢力を競ったが、西方の南部晴政や東方の安東愛季の動向に左右された。

鹿角郡豪族衆【かづのぐんごうぞくしゅう】

八幡館主:秋元兵部、小坂館主:秋元筑後守、大地館:大地基之丞(成田)、荒川館:荒川備中(成田)、濁川館:濁川但馬(秋元)、碁石館主:神田十郎(成田)、高梨館主:高梨土佐守(秋元)、瀬田石館主:瀬田石太郎左衛門(奈良)、高清水館主:高清水豊後(成田)、関神館主:関神安房(成田)、当麻館主:毛馬内備中(成田)、芦名沢館主:芦名沢太郎兵衛、尾去館主:尾去備中守(安保)、黒土館主:黒土丹後守(秋元)、乳牛館主:乳牛六郎(安保)、新斗米館主:新斗米左近(奈良)、高市館主:高市玄蕃(成田)、小平館主:小平彦次郎(奈良)、高屋館主:高屋筑前守(秋元)、高瀬館主:高瀬土佐守(秋元)、丸館主:奈良越後守、三ヶ田館主:三ヶ田左近、長峯館主:長嶺下総(成田)、湯瀬館主:湯瀬中務(成田)、小豆沢館主:小豆沢駿河守(秋元)、石鳥谷館主:石鳥谷九郎(安保)、松館主:松館越前守(安保)、夏井館主:夏井但馬守(安保)、白懸館主:白懸勘兵衛、谷内館主:谷内氏(成田)、玉内館主:玉内大炊助(安保)、長内館主:長内刑部(成田)、昌斎館主:北畠昌教、折ヶ内館主:折ヶ内勘右衛門、成田彦右衛門、湯瀬宮内、笹木宗右衛門、風張藤七、折壁主殿、唐牛兵蔵、原村三十郎。

浪岡北畠家四天王【きたばたけけしてんのう】

奥寺万助、強清水恵林、軽井源左衛門、浪岡吉六。

南部家四家老【なんぶけよんかろう】

奥瀬定直、桜庭光康、泉山康朝、石亀信房。

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【資料Ⅲ】

陸奥国【むつのくに】

本州最北端の国。北は津軽海峡を挟んで蝦夷国と接し、南は陸中国と羽後国に接する。陸奥湾には良湊が多く蝦夷地、日本海を通じて北陸沿岸諸国との交易が盛んである。

岩木川【いわきがわ】

白神山地雁森岳に源を発し、岩木山南麓を北東に流れる。津軽地方から概ね北に向きを変え、津軽平野を潤す。津軽半島西部を流れ、河口近くに十三湖を形成したのち五所川原市十三で日本海に注ぐ。

恐山【おそれざん】

下北半島の中央部に位置する外輪山の霊場で、高野山、比叡山と並ぶ日本三大霊場のひとつ。恐山はカルデラ湖である宇曽利湖を中心とした外輪山の総称。外輪山は釜臥山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山、剣の山、地蔵山、鶏頭山の八峰。寺名は恐山菩提寺、本坊は田名部にある曹洞宗円通寺。

鹿角郡【かづののぐん】

鹿角郡は「鹿角四頭」と呼ばれる小豪族が支配した領域。安東愛季は、米代川をさかのぼって比内郡、鹿角郡に勢力を伸ばした。鉱山、森林資源の豊かなこれらの地域は、安東愛季と西進してくる南部晴継との激しい争奪戦が繰り広げられた。

津軽平野【つがるへいや】

岩木川流域に広がる沖積平野で、北西部は日本海に面し、南西部には岩木山を望む。日本海沿岸は七里長浜とよばれ、砂丘地帯の海岸が続く。また、沿岸部には十三湖をはじめ、いくつもの沼や池が点在しており、水田も発達。津軽米の産地となっている。

十三湊【とさみなと】

十三湊は、安東家が南部家によって追われると急速に衰微し、北方交易地の拠点機能は、野辺地湊や油川湊に奪われた。また河川からの飛砂が堆積して水深が浅くなり、湊としての機能は低下した。大浦信枚は、港湾機能整備行い、岩木川を下って来た津軽平野の米を鯵ヶ沢湊へと中継する「十三小廻し」が行われた。また、北前船のルート上にあって、深浦湊、鯵ヶ沢湊、三厩湊、青森湊などとともに重要港湾であり、上方から蝦夷地へ向かう船の寄港地として、米や木材の積み出し湊して栄えた。

十和田湖【とわだこ】

陸奥国、羽後国にまたがる湖で十和田火山の噴火で形成された典型的な二重カルデラ湖。約三~二万年前の火山活動により第一カルデラ湖が形成され約一万年前の火山噴火によりカルデラ内部五色岩火山が形成され、5400年前の噴火で第一カルデラ湖から湖水が流れ込み十和田湖の形が出来上がった。

長興寺【ちょうこうじ】

九戸郡にある寺で曹洞宗。山号は鳳朝山。長興寺は九戸家の菩提寺として創建された。1504年、九戸信仲の開基により、加賀宗徳寺大陰恵善和尚が開山した。江刺家長徳寺、伊保内円通寺などを末寺として持つ。1591年、「九戸政実の乱」の際、薩天和尚は九戸政実と蒲生氏郷との和議の斡旋を行った。1693年、山火事によって類焼し一切を消失した。

野辺地湊【のべちみなと】

野辺地湊は陸奥湾東南の沿岸に位置し、日本海との中継点として南部家領国の重要湊湾を担った。1593年、南部信直が「文禄の役」で肥前国名護屋に参陣中の南部信直が兵糧米の購入と回漕のために、野辺地や横浜で「蝦夷船」を多数建造して、庄内米を購入して野辺地湊から回漕させた。野辺地湊の後背地で産出される檜材などを用いての造船業も発展した。それらの船舶は野辺地湊から東北地方のみならず九州地方までも輸送船の運航が可能であった。

油川湊【ゆかわみなと】

油川湊は外ヶ浜郡の中心都市として宇須岸など蝦夷国への中継地として栄えた湊街。別名大浜湊とも称された。鎌倉を発し、東北を縦断する幹線道路、奥大道の終着点であり、本州と蝦夷国の結節点として海陸交通の要衝を占めた。蝦夷国交易の興隆とともに人口が増加し鮭、昆布、鮑などの特産物加工生産も行い湊湾機能に優れた油川湊の人口が増加し発展した。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

(※)印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康、田子信直は南部信直、津軽為信は大浦為信に統一しました。

※参考文献:「津軽秋田安東一族」新人物往来社、「東北大名の研究(戦国大名論集2)」吉川弘文館、「会津芦名一族」歴史春秋社、「最上義光(戦国の驍将)」新人物往来社、「奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)」宝文堂、「会津芦名四代」歴史春秋、「伊達政宗(全8巻)」講談社、「天を衝く(全3巻)」講談社文庫、「独眼竜伊達政宗」時代小説文庫、「津軽風雲録」時代小説文庫、「政宗に睨まれた二人の老将」宝文堂、「秋田『安東氏』研究ノート」無明舎、「(史伝)伊達政宗」学研M文庫、「独眼竜政宗」講談社文庫、「奥羽永慶軍記(全2巻)」新人物往来社、「津軽南部の抗争(南部信直)」、「秋田の中世浅利氏」無明舎出版、「独眼龍政宗」文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、「陸奥南部一族」新人物往来社、「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2010年11月22日月曜日

戦国越中国人名辞典

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【あ】

赤川久次【あかがわひさつぐ(15??~1505)】

東岩瀬城主。官途は出雲守。1505年、「東岩瀬城の戦い」では、長尾能景勢の攻撃を受け、長尾能景の家臣金子監物に討取られた。

有沢図書助【ありさわずしょのすけ(15??~1582)】

土肥政繁家臣。1567年、土肥政繁から家督相続を許された。土肥政繁とともに長尾景虎勢に属した。1578年、長尾景虎が病没すると、織田信長勢に属した。1581年、佐々成政から新川郡内の所領500石を安堵された。1582年、「弓庄城の戦い」で討死した。

有沢采女【ありさわうねめ(15??~15??)】

土肥政繁家臣。有沢図書助の弟。1581年、佐々成政との和議を結ぶ際、佐々成政のもとに人質として送られた。

荒木善太夫【あらきぜんだいふ(15??~15??)】

砺波郡城端城主。1570年、城端城を善徳寺に寄進して廃城となった。

荒木太夫坊【あらきだいふぼう(15??~15??)】

荒木館主。1570年、「石山本願寺城の戦い」では、越中国門徒衆を率いて参陣した。

有沢長俊【ありさわながとし(15??~1631)】

土肥政繁家臣。官途は釆女。1600年、「慶長出羽の戦い」では、土肥半左衛門ととも庄内攻略戦に参陣した。役後、最上義光に仕え下吉忠の寄騎衆として小国城650石を領した。最上家親から下吉忠が処分を受けると、最上家親もとから離れた。船で紀伊国に向かう途中、難破して能登国に漂着し、前田利長に仕えた。

安藤職張【あんどうともはる(15??~15??)】

神保長職家臣。1572年、日宮城主神保覚広が、武田晴信の調略に応じた一向一揆勢の攻撃を受けた。神保覚広は、神保覚広、神保職鎮、安藤職張、水越職勝らとともの籠城し、越中国新庄城主鰺坂長実に援軍を要請した。鰺坂長実は、山本寺定長らとともに援軍として駆けつけるが、呉服山で一揆勢の奇襲を受け退却。そこを追撃されて、惨敗した。援軍を失った神保覚広勢fは一向一揆勢と和議を結び能登国石動山天平寺に落延びた。

飯田利忠【いいだとしただ(15??~15??)】

神保長職家臣。婦負郡井田城主。1541年、「井田城の戦い」で長尾景虎に属した寺崎盛永勢の攻撃を受け大敗した。この戦いで弟の飯田利常、飯田利憲が討死した。

石黒将監【いしぐろしょうげん(15??~15??)】

神保長職家臣。礪波郡木舟城主。1532年、安楽寺城主高橋則秋を討取る戦功を挙げた。

石黒成綱【いしぐろなりつな(15??~1581)】

礪波郡木舟城主。通称左近蔵人。越中国石黒家の庶流であったが、惣領家を凌ぐ勢威を築いた。1566年、勝満寺を攻撃し、門徒衆の小倉六右衛門と戦った。1576年、長尾景虎が越中国に侵攻すると、長尾景虎勢に属した。1578年、長尾景虎が病没すると、織田信長勢の神保長住に属した。1581年、越中国一向一揆の勝興寺を勝興寺顕幸の留守中に夜襲し焼討ちした。長尾景勝勢の吉江宗信に木舟城を攻略された。長尾景勝への内通を疑われ、家臣石黒與左衛門、石黒光重、伊藤次右衛門、水巻采女佐ら30騎と安土城に向かった。近江国長浜で丹羽長秀の手勢に襲われ、一族郎党諸ともども謀殺された。

石黒成栄【いしぐろなりえい(15??~1581)】

石黒成綱の男。1581年、織田信長の意向を受けた丹羽長秀勢に近江国長浜で父石黒成綱ともどもに謀殺された。

石黒光重【いしぐろみつしげ(15??~1581)】

石黒成綱家臣。通称与三右衛門。家老職を務めた。1581年、織田信長の意向を受けた丹羽長秀勢の近江国長浜で石黒成綱ともどもに謀殺された。

石黒與右衛門【いしぐろこうえもん(15??~15??)】

石黒成綱家臣。家老職を務めた。1581年、織田信長の意向を受けた丹羽長秀の勢近江国長浜で襲われた際、落延びて砺波郡中岡で帰農した。

石黒清右衛門【いしぐろきよえもん(15??~15??)】

石黒成綱家臣。

石黒光直【いしぐろみつなお(15??~15??)】

新川郡蓮沼城主。通称又次郎。日蓮宗でありながら本願寺とも友好関係を結んだ。1579年、石黒成綱と和議を結び木舟城に移った。1574年、長尾景虎勢の攻撃を受けた。

伊藤次右衛門【いとうつぐえもん(15??~1581)】

石黒成綱家臣。家老職を務めた。1581年、織田信長の意向を受けた丹羽長秀勢の近江国長浜で石黒成綱ともどもに謀殺された。

稲見茂周【いなみしげちか(15??~15??)】

椎名康胤家臣。長女は武隈元直、次女は椎名康胤に嫁いだ。

岩倉薩摩守【いわくらしまのかみ(15??~15??)】

細川越中守家臣。1577年、「岩倉城の戦い」では、長尾景虎の家臣有坂備中守の攻撃を受けたが撃退した。

岩田采女【いわたうねめ(15??~15??)】

菊池武勝家臣。早借館主。天正年間、祈願所として250石を寄進した。

上野勝重【うえのかつしげ(15??~15??)】

椎名康胤家臣。新川郡長瀬城主。1560年、長尾景虎勢の攻撃を受けた広嶺城主寺崎民部左衛門は、上野勝重に救援を求めた。上野勝重は、増水した常願寺川で長尾景虎勢と対峙すると、上野勝重は周辺から牛を集め牛を先頭に長尾景虎勢に奇襲をかけ敗走させた。

江上重左衛門【えがみしげざえもん(15??~15??)】

轡田雅正家臣。日方江館主。家老職を務めた。日方江館3,000石を領して東岩瀬、新庄、水橋などを勢力下に置いた。岩瀬や水橋は、街道沿いの渡し場があり、神通川や常願寺川を含む北陸交通を支配した。

大前左近【おおまえさこん(15??~15??)】

狩野良政家臣。飯久保城を奥野主馬とともに守備した。

岡崎義村【おかざきよしむら(15??~15??)】

椎名康胤家臣。

奥野主馬【おくのしゅめい(15??~15??)】

狩野良政家臣。飯久保城を大前左近とともに守備した。

小倉六右衛門【おぐらろくえもん(15??~15??)】

砺波郡小倉館主。勝満寺有力門徒宗のひとり。1566年、石黒成綱が勝満寺を攻撃した際、小倉館も攻撃を受け落城した。

小谷六右衛門【おだにろくえおもん(15??~15??)】

神保長住家臣。1560年、長尾景虎が神保長住の増山城を攻撃すると、神保長住勢に属して戦功を挙げた。

小幡和泉守【おばたいずみのかみ(15??~15??)】

椎名康胤家臣。升方城主。通称九助。椎名康胤の家老職を務めた。

小幡九兵衛【おばたこへい(15??~15??)】

小幡和泉守の養子。前田利家に仕えた。

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【か】

桂田善左衛門【かつらだぜんざえもん(15??~15??)】

土肥政繁家臣。郷田砦主。家老職を務めた。

勝興寺実玄【かつおきじじつげん(1486~1545)】

砺波郡勝興寺住持。光教寺蓮誓の次男。室は顕証寺蓮淳の娘。父光教寺蓮誓から土山御坊を譲り受けた。1519年、土山御坊が焼討ちされたため、勝興寺を創建して移転した。舅の父光教寺蓮淳と円如による本願寺の一門制が敷かれていたが、例外的に一門衆に加えられた。1531年、「大小一揆」では光教寺顕誓と超勝寺実顕が加賀国の支配権を巡って争うと、勝興寺実玄は「大一揆」に属して瑞泉寺証心とともに越中国一向一揆の指導者層に立った。

勝興寺玄宗【かつおきじげんそう(15??~15??)】

勝興寺実玄の次男。

狩野良政【かのうよしまさ(15??~15??)】

神保長職家臣。飯久保城主。官途は中務丞。1560年、神保長職から長尾景虎勢との戦いに参陣を求められた。

狩野宣久【かのうのぶひさ(15??~15??)】

狩野良政家臣。1560年、長尾景虎勢が越中国に侵攻すると、神保長職とともに富山城を放棄、増山城に撤退した。

狩野道州【かのうどうしゅう(15??~15??)】

神保民部大夫家臣。1563年、神保民部大夫が討死すると、その家督をを神保弥次郎に相続させるため、長尾景虎に裁可を求めた。

神前和泉守【かみまえまごごろう(~1562)】

椎名康胤家臣。椎名慶胤の弟。

神前筑前守【かみまえちくぜんのかい(15??~1562)】

神前和泉守の男。室は椎名康胤の娘。1562年、「神通川の戦い」では、神保長職と戦い討死した。

唐人親広【かろうぞちかひろ(15??~15??)】

神保長職家臣。新川郡小出城主。1572年、富山城が一向一揆勢の攻撃を受けると、一向一揆方に内応、富山城が落城した。1576年、長尾景虎が越中国を制圧すると長尾景虎勢に属した。1578年、長尾景虎が春日山城で病没すると、織田信長勢に属した。1588年、長尾景勝の連歌会に列席して一首を詠んだ。後年、岸和田流炮術の名人として長尾景勝のもとで鉄炮指南役を務めた。

唐人広親【かろうどひろちか(15??~15??)】

唐人親広の男。官途は丹後守。

唐人兵庫【かろうどひょうご(15??~15??)】

椎名長常家臣。官途は式部大輔。

川瀬与八郎【かわせよはちろう(15??~15??)】

土肥政繁家臣。池田城主。

狩野良政【かのうよしまさ(15??~15??)】

神保長職家臣。射水郡飯久保城主。

狩野宣久【かのうのぶひさ(15??~15??)】

狩野良政家臣。1561年、寺に寄進を行った。

阿尾菊池武勝【きくちたけかつ(1530~1606)】

射水郡阿尾城主。神保長職家臣。1576年、「加州表の戦い」に参陣し、長尾景虎から感状と短刀「紀新太夫行平」を拝領した。

阿尾菊池安信【きくちやすのぶ(15??~1596)】

阿尾菊池武勝の男。長尾景虎に属した。長尾景虎の死後は織田信長に属す。1580年、一族屋代十郎左衛門尉とともに、織田信長より越中氷見郡の内、屋代一家分と二十年来の新知行とを安堵された。

轡田雅正【くつたただまさ(15??~15??)】

新川郡大村城主。官途は豊後守。越中五大将のひとりで大村城10,000石を領した。1578年、長尾景虎勢の河田長親から攻撃を受け城を枕に討死した。

桑崎輝長【くわさきてるなが(15??~15??)】

椎名康胤家臣。堀切館主。1564年、長尾景虎勢の攻撃を受け討死した。

桑崎信隆【くわさきのぶたか(15??~15??)】

桑崎輝長家臣。

鞍川清房【くらかわきよふさ(15??~1550)】

新川郡鞍川城主。1550年、「能登天文の乱」では、遊佐続光勢に属した。温井総貞勢に属した寺島職定と戦ったが討死した。

小浦一守【こうらかずもり(1547~1615)】

新川郡池田城主。小浦光康の男。官途は石見守。別名松原斉安。1567年、父小浦光康の病没により小浦家の家督を相続した。1576年、継嗣の小浦内匠を人質として差し、長尾景虎勢に降伏して長沢光国の寄騎衆を務めた。1578年、長尾景虎が病没すると、織田信長勢に属して佐々成政に仕えた。1585年、佐々成政が羽柴秀吉に降りると佐々成政に従い肥後国に転封した。1587年、佐々成政の没後、越後国の堀秀政に仕えた。

小島職鎮【こじまもとしげ(1533~1582)】

神保長職家臣。射水郡日宮城主。通称六郎左衛門尉。武田晴信派の寺島職定と対立してこれを排除し神保家中の実権を握った。1572年、加賀国一向一揆衆が越中国に侵攻すると日宮城に籠城するが、長尾景虎の援軍到着前に降伏した。長尾景虎勢は神通川で一揆勢の奇襲を受け大損害出した。1582年、魚津城を攻囲中の織田信長勢の背後を突いて唐人親広とともに富山城を急襲、織田信長勢の神保長住を幽閉するが柴田勝家勢の反撃を受け討死した。

小林壱岐守【こばやしいきのかみ(15??~15??)】

上杉房能家臣。1505年、宗守砦主に任じられた。連歌師里村昌休を招いた。上杉房義没後、越後国に撤退した。

小間常光【こまつねみつ(15??~15??)】

椎名康胤家臣。通称右近。

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【さ】

雑賀安芸守【さいがあきのかみ(15??~15??)】

川合田館主。元亀年間、長尾景虎勢の攻撃を受け落城した。天正年間、佐久間盛政勢の攻撃を受け討死した。

雑賀日向守【さいがひゅうが(15??~15??)】

雑賀安芸守家臣。

斎藤利基【さいとうとしもと(15??~1582)】

婦負郡城生城主。官途は伯耆守。天文年間、神保長職に服属した。1582年、佐々成政勢の攻撃を受け降伏したが、佐々成政は和議の条件として、斎藤利基の頸を求め、自刃した。頸は佐々成政勢のもとに届けられた。佐々与左衛門は城を攻め続け落城した。
 
斎藤信利【さいとうのぶとし(1554~1610)】

斎藤利基の男。通称次郎右衛門尉。室は三木良頼の娘。1573年、父斎藤利基の隠居により、斎藤家の家督を相続後、長尾景虎に属した。1578年、長尾景虎が春日山城で病没すると織田信長勢に属した。織田信長は越中、能登、加賀国を結び交通の要地ある城生城に斎藤利治、佐々長穐、神保長住らを送り込み守備を固めた。1578年、「月岡野の戦い」では、長尾景勝勢を撃退した。1582年、「本能寺の変」の後、長尾景勝と結び佐々成政勢と戦ったが、神保氏張勢の攻撃を受け城生城は落城、三木頼綱のもとに落延びた。松平元康に仕えて下総国内で1,500石を領した。

斎藤信言【さいとうのぶごと(15??~15??)】

斎藤利基の次男。通称五郎次郎。

斎藤信吉【さいとうのぶよし(1559~1610)】

斎藤利基の三男。通称久右衛門尉。別名斎藤利信。1578年、「月岡野の戦い」で今泉城を攻略する戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」後、斎藤信利は、長尾景勝勢に属するが、佐々成政勢の攻撃を受け没落した。松平元康に仕え上総国内で400石を領した。1600年、「第二次上田城の戦い」では、松平秀忠勢に属して戦功を挙げたが軍規違反を咎められ、上野国吾妻郡に蟄居した。後に赦免され大番頭、組頭を務めた。

斎藤利次【さいとうとしつぐ(15??~15??)】

斎藤信利の男。

斎藤利治【さいとうとしはる(15??~15??)】

斎藤信利の次男。

斎藤利政【さいとうとしまさ(15??~15??)】

斎藤信利の三男。

斎藤正利【さいとうまさとし(15??~15??)】

斎藤信利の四男。

斎藤利信【さいとうとしのぶ(15??~15??)】

斎藤信利の五男。

斎藤喜右衛門【さいとうきえもん(15??~15??)】

斎藤利基家臣。1582年、豊島茂助とともに佐々成政への和議の使者を務めたが、佐々成政から提示された和議の条件は斎藤利基の頸だった。

佐々木藤次【ささきどうじ(15??~15??)】

唐人親広家臣。

笹村太郎左衛門【ささむらたろうざえもん(15??~15??)】

神保職家家臣。礪波郡上見城主。

三膳朝宗【さんぜんともむね(15??~15??)】

菊池武勝家臣。池田城主。

椎名慶胤【しいなよしたね(14??~1520)】

新川郡松倉城主。新川郡守護代職。椎名順胤の男。通称新七郎。1520年、「境川の戦い」では、神保慶宗勢に属して畠山尚順、長尾為景勢と戦うが敗退の討死した。新川郡守護代職を長尾為景に奪われた。

椎名長常【しいな ながつね(15??~15??)】

椎名慶胤の次男。通称弾正左衛門尉。1520年、「神保慶宗の乱」では、椎名慶胤が神保慶宗勢に属して畠山尚順勢と戦ったため、新川郡守護代職を長尾為景に奪われたが、長尾為景に服属して椎名長常は長尾為景から越中国新川郡の統治を任された。長尾為景の討死後、後ろ盾を失った椎名長常の勢力は衰退し、「越中大乱」で神保長職と争い没落した。

椎名康胤【しいなやすたね(15??~1576)】

椎名長常の男。通称右衛門大夫。室は稲見茂周の娘。後継の椎名長常はその又守護代として長尾為景に服属していたものの、長尾為景の討死後に神保長職の攻勢を受けて衰退していた。1555年、「弘治の内乱」では、畠山義綱勢に属して八代俊盛を援軍として派遣した。1559年、神保長職が再び攻勢を強めたため、椎名康胤は長尾景虎に援軍を要請した。1560年、長尾景虎勢の攻撃により富山城、増山城は陥落し、神保長職は逃亡した。1562年、「神通川の戦い」では、神保長職勢に神前孫五郎を討取られるなどの大敗を喫し、松倉城まで攻め込まれたが、長尾景虎勢の援軍により撃退した。1568年、武田晴信の調略で長尾景虎を離反、越中一向一揆とも結んだため長尾景虎の攻撃を受け松倉城に籠城したが落城した。1573年、長尾顕景を通じて、長尾景虎への帰参を申し入れるが拒絶された。1576年、一揆勢と結び、籠城していた砺波郡蓮沼城を長尾景虎勢から攻撃を受け自刃した。

椎名景直【しいなかげなお(15??~15??)】

長尾景久の男(椎名康胤の養子)。通称小四郎。別名長尾景直。長尾景虎の馬廻衆として軍役81人を負担した。長尾藤景の養子となるが、後に椎名康胤の名跡を継ぎ、椎名小四郎と称した。1578年、「月岡野の戦い」では、織田信長勢に敗退した。1578年、「御館の乱」では、長尾三郎景虎勢に属したため、減封処分を受けた。その後、織田信長勢に寝返った。1581年、織田信長勢に属して、唐人親広とともに神保長住と戦った。

椎名重胤【しいなしげたね(15??~15??)】

椎名康胤の男。1576年、父椎名康胤の没落後は武田勝頼を頼って落延びた。その後、千葉邦胤を頼って関東に赴いた。

椎名泰種【しいなやすたね(15??~15??)】

椎名康胤家臣。1561年、「第四次川中島の戦い」で長尾景虎が北信濃国に参陣すると、越後国春日山を狙って押し寄せる気配を見せた。参考文献:『蝶の戦記』by池波正太郎。

柴田久光【しばたひさみつ(15??~1579)】

椎名康胤家臣。官途は丹後守。1579年、蓮沼城を守備したが、石黒成綱勢の攻撃を受け討死した。

島村丑之助【しまむらうしのすけ(15??~15??)】

細川越中守家臣。新川郡猿倉城主塩谷秋貞が留守中、猿倉城を攻略した。長尾景虎勢の津毛城主村田秀頼の攻撃を受け討死した。

神保慶宗【じんぼうよしむね(15??~1521)】

畠山尚順家臣。神保長誠の男。越中国守護代職。1501年、内乱を経て神保家の家督を相続した。1506年、加賀一向一揆衆の侵攻で大敗、越後守護代長尾能景を頼る。1506年、長尾能景と神保慶宗は、婦負郡の「寒江蓮台の戦い」において一揆勢を撃破した。しかし神保慶宗は長尾能景と距離を置くようになる。「般若野の戦い」では長尾能景は一揆勢に敗退し長尾能景は討死した。神保慶宗は本願寺家の家老下間家と婚姻を行い一向一揆方との和睦を進め、尾州畠山家からの独立を図った。1519年、能登畠山義総は長尾為景と越中を挟撃、守勢にたった神保慶宗は守山城に籠城した。能登畠山義総の軍を急襲敗走させ窮地を脱した。1520年、再び能登畠山家と長尾家の挟撃を受け新庄の戦いで敗北自刃した。

神保慶明【じんぼうよしあき(15??~15??)】

神保長誠の次男。1519年、畠山尚順の意向で、兄神保慶宗と戦った。

神保長職【じんぼうながとも(1514~1572)】

神保慶宗の男。1520年、父神保慶宗の自刃で衰退した神保家の復興に努めた。1531年、「享禄の錯乱」に出兵するほどの回復させた。1543年、神通川を越えて椎名長常の勢力圏に富山城を築城した。椎名長常は新川郡国人衆とともに反撃に出た。神保長職は城生城主斎藤家を攻撃した。1544年、神保長職は常願寺川以西を併呑し神保家の最大勢力圏を築いた。1559年、長尾景虎の支援を受けた椎名康胤と戦った。1560年、長尾景虎は越中に出兵、富山城は落城神保長職は増山城へ撤退した。1562年、「神通川の戦い」では長尾景虎、椎名康胤勢を撃破し、神保民部大夫、神前孫五郎を討取る戦功を挙げるが、長尾景虎の反撃で再び和議を結び、神通川の東側を失ったが射水郡、婦負郡の支配権は保持された。1566年、畠山義綱の七尾城復帰を図った。1568年、寺島職定が神保長住を擁立、小島職鎮と内乱に発展した。長尾景虎の介入で内乱は終息したものの小島職鎮の台頭を招き、家督を神保長城に譲り隠居した。

神保長住【じんぼうながずみ(1539~1583)】

神保長職の男。官途は越中守。1568年、武田晴信や一向一揆衆との同盟を推進したが、長尾景虎勢に属する父神保長職と家臣小島職鎮と対立した。1569年、長尾景虎が越中国に侵攻したため、畠山義続を頼って落延びた。1566年、畠山義続が家臣団に追放されると、上洛して織田信長に仕えた。1578年、長尾景虎が病没すると、織田信長勢の先陣として飛騨国経由で越中国に侵攻した。国人衆の斎藤信利、小谷六右衛門、二宮長恒らが参陣して増山城を攻略し、越中国西南部を制圧した。1578年、「月岡野の戦い」で長尾景勝、椎名康胤勢に大勝した。神保長住は北進して富山城を攻略、更に東進して新庄城、松倉城などを攻撃した。1581年、佐々成政が越中国に入るとその寄騎衆となった。1582年、小島職鎮、唐人親広らの攻撃を受け富山城で捕縛された。柴田勝家勢の反撃により救出されたが追放処分を受けた。1583年、伊勢神宮へ越中還住を祈願した。

神保長城【じんぼながしろ(15??~15??)】

神保長職の次男。1569年、兄神保長住が神保長職と対立したが、長尾景虎勢に越中国を追われると、神保家の家督を相続した。その後、神保長職が再び長尾景虎勢から離反して一向一揆と和議を結ぶと、神保長城も行動をともにした。1572年、神保長職が病没した後も、長尾景虎勢と敵対した。1576年、長尾景虎勢の攻撃を受け増山城は落城、討死した。

神保長国【じんぼうながくに(1544~1578)】

神保長職の三男。

守山神保氏重【じんぼうじしげ(15??~1584)】

神保長職家臣。守山城主。

守山神保氏張【じんぼうじはる(1528~1592)】

神保氏重の男(畠山義綱の猶子)。官途は安芸守。通称清十郎。別名神保氏晴。室は織田信秀の娘。温井総貞らと結び、寺島職定とともに長尾景虎と敵対したため、惣領家の神保長職に所領を没収された。1572年、長尾景虎勢の攻撃を受け降伏した。1578年、長尾景虎が病没すると、再び織田信長勢に転じ神保長住、長連龍らととも織田信長勢の越中国、能登国平定戦で戦功を挙げた。佐々成政の寄騎衆を務めた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、佐々成政とともに松平元康、織田信雄勢に属した。「末森城の戦い」では、前田利家勢の援軍を阻止できず敗退した。羽柴秀吉勢に寝返った阿尾城主菊池武勝を攻撃したが、留守の守山城で家臣が謀反を起こして、城代の神保氏重が討取られた。神保氏張は反転して反乱を鎮圧したが、改めて出陣した阿尾城攻めは前田利益らの援軍により撃退された。1587年、「九州征伐」後、佐々成政が肥後国に転封なると、神保氏張もこれに従った。「肥後国人一揆」では、隈本城籠城に指揮を執り戦功を挙げるが、佐々成政が改易、自刃したため浪人となった。1589年、松平元康に仕えて下総国香取郡内で2,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に参陣した内藤信成に代わり江戸城を守備したがまもなく病没した。

神保氏興【じんぼうじおき(15??~15??)】

神保氏張の男。室は佐々成政の娘。佐々成政が越中国に入ると、父神保氏張とともにそれに属した。佐々成政の娘を娶りその枝連衆となった。

神保氏長【じんぼうじなが(15??~15??)】

神保氏張の次男。

神保職広【じんぼともひろ(15??~15??)】

神保長職家臣。

神保覚広【じんぼうよしひろ(1523~1572)】

神保長職家臣。1569年、長尾景虎と神保長職との取次役を務め、神保長職から加増を受けた。

神保長国【じんぼながくに(15??~15??)】

神保長職の三男。通称孫三郎。兄神保長住とともに越中国内を転戦した。1577年、清水寺成就院に寄進を行った。

神保民部大夫【じんぼみんぶだいふ(15??~15??)】

神保長職家臣。1562年、「神通川の戦い」では、長尾景虎、椎名勢勢に属して神保長職勢と戦ったが討死した。家臣の狩野道州は、神保家の家督許可を長尾景虎に求めた。

神保弥次郎【じんぼよじろう(15??~15??)】

神保民部大夫の男。1562年、父神保民部大夫の討死により神保家の家督を相続した。

瑞泉寺証心【ずいせんじしょうしん(15??~15??)】

礪波郡井波城主。末寺三百七十寺を擁し、礪波郡南部を支配、井波街も栄え街屋3,000軒を数えた。長尾景虎勢と争った。1575年、長尾景虎と和議を結んだ。

瑞泉寺顕秀【ずいせんじけんしゅう(15??~15??)】

瑞泉寺証心の男。1579年、佐々成政勢の攻撃を受け落城、堂舎、街屋も焼失した。敗れた一揆勢は五箇山に落延びた。

鈴木国重【すずきくにしげ(15??~1505)】

魚津城主。官途は大和守。1505年、「魚津城の戦い」では、長尾能景勢の攻撃を受け、長尾能景の家臣荻田監物に討取られた。

薗新左衛門尉【そのしんざえもん(15??~15??)】

椎名康胤家臣。

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【た】

高橋則秋【たかはしのりあき(15??~1554)】

射水郡安楽寺城主。1554年、石黒成綱勢の攻撃を受け討死した。

武隈元員【たけくまもとかず(15??~15??)】

椎名康胤家臣。小菅沼城主通称左門五郎。椎名康胤の家老職を務めた。1549年、椎名康胤の名代として武田晴信に援軍要請を行った。武田晴信から信州更級郡内に数千畝の田地を与えられた。

武隈元直【たけくまもとなお(15??~15??)】

武隈元員家臣。1571年、松倉城が長尾景虎勢の攻撃を受け、椎名康胤は礪波郡に落延びると、一向一揆に勢に属して長尾景虎勢に対抗した。1576年、「蓮沼城の戦い」で長尾景虎勢の攻撃を受け椎名康胤が自刃すると、長尾景虎勢に降伏した。

武隈元重【たけくまもとしげ(15??~15??)】

武隈元長の男。通称左衛門。

豊島茂助【としましすけ(15??~15??)】

斎藤利基家臣。1582年、斎藤喜右衛門とともに佐々成政への和議の使者となったが、和議の条件は斎藤利基の頸だった。

土地半兵衛【とちはんべい(15??~15??)】

細川越中守家臣。

館弾正忠【たちだんじょうちゅう(15??~15??)】

新川郡館の城主。

土肥政繁【どひまさしげ(15??~15??)】

新川郡弓庄城。官途は美作守。長尾景虎勢に属した。長尾景虎が病没すると、織田信長勢に属した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、長尾景勝勢に属したた。

土肥源十郎【どひべんじゅうろう(15??~15??)】

土肥政繁家臣。堀江城主。官途は美作守。1569年、長尾景虎勢の攻撃を受け落城した。

栃屋縫右衛門【とちやぬいさえもん(15??~15??)】

土肥政繁家臣。

寺崎行重【てささきゆきしげ(15??~1550)】

神保長職家臣。新川郡願海寺城主。1550年、長尾景虎勢の攻撃を受け討死した。

寺崎盛永【てらさきもりなが(1533~1581)】

寺崎行重の男。官途は民部左衛門。1550年、父寺崎行重が長尾景虎勢と戦い討死したため、寺崎家の家督を相続した。1552年、「天神林の戦い」では、長尾景虎勢に属して井田城主飯田利忠を撃破る戦功を挙げた。1578年、長尾景虎が春日山城で急死すると織田信長勢に寝返った。1581年、「第一次小出城の戦い」では、長尾景勝勢の攻撃を受け降伏した。「第二次小出城の戦い」で柴田勝家勢の反撃を受け小出城に籠城したが、家臣の小野大学助、大貝采女が柴田勝家勢に内応したため、柴田勝家勢に捕縛された。近江国佐和山に送られ、継嗣の寺崎喜六郎とともに自刃した。

寺崎喜六郎【てらさききしろくろう(15??~1581)】

寺崎盛永の男。1581年、「第二次小出城の戦い」で柴田勝家勢の攻撃を受けたが、家臣の小野大学助、大貝采女らの内応により、柴田勝家勢に捕縛された。近江国佐和山に送られ、父寺崎盛永とともに自刃した。

寺島職定【てらしまもとさだ(1515~1569)】

神保長職家臣。新川郡池田城主。1550年、「能登天文の乱」では、温井総貞勢に属して、遊佐続光勢に属した鞍川城主鞍川清房を討取り、戦力を拡大した。寺島職定は一向宗門徒衆の関係維持に努力し神保長職と本願寺顕如の家臣下間頼廉の娘との婚姻の仲介を務めた。1560年、神保長職が長尾景虎勢に敗れると、反一向一揆政策を取る小島職鎮との対立し神保長住を擁立して戦ったが、敗れて自刃した。

寺島盛徳【てらしまもりのり(15??~1605)】

神保長職家臣。通称牛介。(寺島職定の養子)。兄小島国綱(甚助)とともに剛勇をもって知られた。1562年、「金屋の戦い」では、長尾景虎勢と戦い頸一つを取る戦功を挙げた。神保長職の没落後は長尾景虎に属して、本領五位庄を安堵された。1581年、長尾景勝の越中国侵攻に呼応して富崎城に籠城するが、織田信長勢に鎮圧され、大道城に落延びた。その後も五箇山の一向宗門徒、神保家旧臣らと合流して織田信長への抵抗を続けた。1582年、「本能寺の変」が起こると、混乱に乗じて湯原国信(石黒成綱の弟)らとともに魚津城から撤退する織田信長勢に追撃をかけた。佐々成政が越中国を平定すると5,000石で仕えた。

「末森城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。佐々成政が羽柴秀吉に降伏した後は前田利家に仕え1,500石を領した。

寺嶋三八郎【てらしまさんぱちろう(15??~15??)】

猿倉城主。密蔵坊の男(寺嶋孫右衛門の養子)。通称兵部。長尾景虎勢の村田大炊介に討られた。

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【な】

中尾五郎左衛門【なかじまごろうざえもん(15??~15??)】

寺島職定家臣。

名越左馬助【なごしうまのすけ(15??~15??)】

菊池武勝家臣。

榎美庄助五郎【なつみしょうすけごろう(15??~15??)】

小出城主。1563年、長尾景虎勢が小出城を攻略した際、榎美庄助五郎が城主に任じられた。1566年、長尾景虎勢の攻撃を受け落城した。

南部尚吉【なんぶなおよし(15??~15??)】

砺波郡隠尾城主。通称源左衛門。1560年、長尾景虎勢の攻撃を受け討死した。

南部源右衛門【なんぶ(15??~15??)】

南部尚吉の男。1560年、長尾景虎勢の攻撃を受け隠尾城が落城すると、家臣小原作蔵とともに飛騨国に落延びた。

南保家隆【なんぽいえたか(15??~15??)】

宮崎長康家臣。新川郡南保城主。宮崎長康の弟。

西孫左衛門【にしまござえもん(15??~15??)】

寺島職定家臣。

蜷川常嗣【にながわつねつぐ(15??~1505)】

太田城主。官途は治部少輔。1505年、「月岡野の戦い」で長尾能景勢の攻撃を受け討死した。

蜷川親元【にながわちかもと(15??~15??)】

椎名康胤家臣。

入善安家【にゅうぜんやすいえ(15??~15??)】

宮崎長康家臣。新川郡入善館主。

二宮長恒【にのみやながつね(15??~15??)】

神保長職家臣。上熊野城主。1571年、津毛城を攻める。1574年、長尾景虎に属した。長尾景虎が病没すると神保長住に仕えた。1579年、織田信長から知行を安堵された。

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【は】

萩原内記【はごわらないき(15??~15??)】

椎名康胤家臣。

府久呂兼久【ふくろかねひさ(15??~1505)】

椎名慶胤家臣。滑川城主。通称藤右衛門。別名多飯地式部。1505年、「滑川城の戦い」では、長尾能景勢の攻撃を受け討死した。

藤田丹波守【ふじたたんばのかみ(15??~15??)】

土肥政繁家臣。1581年、「弓庄城の戦い」で敵将の頸級を挙げた。

舟木治部左衛門【ふなきじぶざえもん(15??~15??)】

土肥政繁家臣。1581年、「弓庄城の戦い」では、土肥政繁勢の窮地を救った。

舟羽権平【ふねはねごんぺい(15??~15??)】

宮崎長康家臣。新川郡境城主。1584年、長尾景勝勢の攻撃を受け、城兵300人が27人にまで討減らされる激戦の後、籠城六日目に開城した。

越中細川越中守【ほそかわえっちゅうのかみ(15??~15??)】

椎名康胤家臣。新川郡仏生寺城主。越中五大将のひとり。飛騨国人衆の攻撃にたびたび受けた。

越中細川惣十郎【ほそかわそうじゅうろう(15??~1581)】

細川越中守の男。1581年、佐々成政勢の攻撃を受け城内で自刃した。

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【ま】

増気左衛門【ますけさえもん(15??~15??)】

椎名康胤家臣。松倉城は、椎名左衛門、法名道三の居城であった。道三は若い時子供が無く、飛騨の江馬小四郎子息、三郎を養子に迎えた。後に実子が出来て康胤と称した。女子も一人出来て、これは家老、小幡和泉守の子息九助の妻となった。右衛門が病死して後、家老、小幡和泉守・増気左衛門・神前筑前らが申し合わせ、康胤に家督を継がせた。三郎は、飛騨に送り返し、心有る武士の仲にはこれに従うものもあった。

水巻采女佐【むずまきうねめのさ(15??~1581)】

石黒成綱家臣。家老職を務めた。1581年、織田信長の意向を受けた丹羽長秀の勢近江国長浜で石黒成綱ともどもに謀殺された。

三浦五郎左衛門【みうらごろうざえもん(15??~15??)】

椎名康胤家臣。箕輪城主。家老職を務めた。越中箕輪城は松倉城とともに長尾景虎勢に攻め落とされた。

蓑輪五郎左衛門【みのわごろうざえもん(15??~15??)】

椎名康胤家臣。

宮崎長康【みやざきながやす(15??~15??)】

椎名康胤家臣。新川郡宮崎城主。

水越勝重【みずこしかつしげ(1503~1562)】

神保長職家臣。新川郡富山城主。天文年間、神保長職の意向で富山城を築城した。1562年、富山国本覚寺に寄進した。

水越職勝【みずこしもとかつ(15??~15??)】

水越勝重の男。1572年、神保長職の病没後、神保覚広や小島職鎮らとともに長尾景虎勢に、一向一揆が越中に攻め込んだ事についての注進した。

宮崎権進【みやざきごんすけ(15??~15??)】

土肥政繁家臣。有金館主。1569年、長尾景虎勢の攻撃を受けた。

村田縫殿助【むらたぬいのけ(15??~15??)】

寺島職定家臣。

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【や】

八代俊盛【やしろしゅんせい(15??~1569)】

射水郡氷見城主。畠山義綱家臣。官途は安芸守。1555年、「弘治の内乱」では、温井景隆勢の攻撃を受け椎名康胤のもとに落延びた。1557年、「」では、椎名康胤の支援を受け畠山義綱とともに能登国に復帰した。1566年、「永禄の政変」で長続連、遊佐続光らとともに畠山義綱及び畠山義綱派家臣を追放した。畠山義綱の追放後は畠山義慶に仕えた。温井続宗の旧領を得ていたため、温井景隆の復帰後、立場が弱くなった。1569年、「鶏塚の戦い」で、畠山義慶勢の長続連と戦い討死した。

八代外記【やしろげき(15??~1569)】

八代俊盛の男。室は長綱連の娘(玉姫)。1569年、父矢代俊盛が能登鶏塚で挙兵すると行動をともにし、畠山義慶勢の長続連らに敗れ討死した。

八代肥後守【やしろひごかみ(15??~1580)】

八代俊盛の弟。1569年、兄八代俊盛が能登鶏塚で挙兵すると行動をともにした。畠山義慶勢の長続連らと戦い敗れ越後国に落延びた。1580年、。「菱脇の戦い」では、温井景隆、三宅長盛、弟の八代主水とともに織田信長勢に属した長連龍勢と戦ったが敗れ討死した。

八代主水【やしろもんど(15??~1580)】

八代俊盛の弟。官途は越中守。1569年、兄八代俊盛が能登鶏塚で挙兵すると行動をともにし、畠山義慶勢の長続連に敗れ越後国に落延びた。1580年、。「菱脇の戦い」では、温井景隆、三宅長盛、兄の八代肥後守らとともに織田信長勢に属した長連龍勢と戦ったが敗れ討死した。

遊佐慶親【ゆさよしちか(15??~15??)】

畠山尚順家臣。礪波郡蓮沼城主。礪波郡守護代職。通称新右衛門尉。1519年、畠山尚順の意向により神保慶宗勢と戦った。1527年、埴生護国八幡宮に石段を寄進した。加賀一向一揆勢力の圧迫に抗しきれず越後国に落延びた。

湯原国信【ゆはらくにのぶ(15??~15??)】

石黒成綱家臣。石黒成綱の弟。1582年、「本能寺の変」後、長尾景勝に報じて出兵を要請し、魚津城から撤退する織田信長勢を寺島盛徳らとともに追撃した。

龍珠院夫【りゅうしょうんふ(15??~15??)】

神保慶宗家臣。僧侶。1520年、神保慶宗は長尾為景への降伏の使者として龍珠院を派遣した。

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【資料Ⅰ】

越中国(4郡/420,000石)

礪波郡(120,000石):木舟城、勝興寺、瑞泉寺。
射水郡(100,000石):氷見城。
婦負郡(80,000石):
新川郡(120,000石):富山城、松倉城、小出城。

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【資料Ⅱ】

越中五大将【えっちゅうごたいしょう】

細川惣十郎、轡田雅正、。

越中一向一揆衆【えっちゅうこうくもんとしゅう】

瑞泉寺と土山御坊門徒らが中心となった一向一揆。1481年、加賀守護富樫政親の攻撃を受けた加賀国一揆衆は越中国礪波郡瑞泉寺に落延びた。越中国内での一向一揆が拡大を懸念した福光城主石黒光義が瑞泉寺を襲撃しようとしたが、逆に討取った。これ以降、礪波郡に瑞泉寺の勢力が浸透した。1488年、富樫政親も加賀国一向一揆に討ち取られ、加賀国は本願寺蓮如の三人の息子、松岡寺住持蓮綱、光教寺住持蓮誓、本泉寺住持蓮悟)が実質統治した。本願寺蓮如の次男蓮乗は如乗、勝如尼夫妻の婿となって瑞泉寺と本泉寺を譲られた。蓮乗の弟蓮誓も勝如尼から土山御坊を譲られ、越中の門徒指導にあたった。蓮誓は土山御坊を次男実玄に譲渡、光教寺は三男顕誓が相続した。1519年、安養寺御坊(勝興寺)を築いた。瑞泉寺も蓮乗の病没後は義弟蓮欽(勝如尼の甥、妹了如の夫)の子孫が、本泉寺は弟の蓮悟が相続していった。1531年、加賀一向一揆と本願寺が対立、大小一揆と呼ばれる内乱を起こすと勝興寺は本願寺側の大一揆に与した。加賀国は本願寺の直接統治下に入ったが、越中は勝興寺と瑞泉寺の支配下に入った。その後は長年に渡って強大な勢力を維持し、畠山義続、長尾為景、神保長職らと敵対した。

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【資料Ⅲ】

越中国【えっちゅうのくに】

富山湾に面した北陸道の国。東は飛騨山脈を境として越後国、信濃国に接し、西は宝達丘陵、両白山地で能登国、加賀国に接する。南は飛騨高地で飛騨国と接し、北は富山湾から日本海に臨む。国境地帯はいずれも山地であり、特に東部の越後国、信濃国との国境には白馬連峰、立山連峰が連なり、外部からの侵入を防いでいる。冬期には、豪雪によって山岳地帯の移動が困難になる。沿岸線でつながった越後国、能登国からの侵入する必要がある。北部から中部にかけて広い平野が広がり、農業の生産性は高い。平野の各地には、庄川、神通川、常願川、黒部川などの急流河川が流れ、広い海岸線を持つ富山湾と接合により水上交通は盛んである。

越中勝興寺【しょうこうじ】

浄土真宗本願寺派の寺院。1471年、蓮如が砺波郡蟹谷庄土山に創建した土山御坊で、蓮如の四男蓮誓が置かれた。1494年、蟹谷庄高木場へ移転。1517年、佐渡国にあった順徳天皇御願寺勝興寺を再興、寺号を相続して「勝興寺」 と称した。1519年、安養寺村に移転、蓮誓の次男実玄が安養寺城を建てた。勝興寺は戦国時代、瑞泉寺と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るった。1581年、顕幸の時に石黒成綱に焼き討ちされた。1584年、佐々成政が古国府城の土地を越中一向一揆に寄進、顕幸が移った。

越中瑞泉寺【ずいせんじ】

真宗大谷派の寺院。越中一向一揆の拠点とされ、伽藍は堅牢な石垣に囲まれた。1581年、瑞泉寺顕秀のもと、織田信長の家臣佐々成政勢と戦ったが焼き討ちに遭い、堂宇を焼失した。

黒部川【くろべがわ】

黒部川は、鷲羽岳に源を発し、立山連峰と後立山連峰の間に黒部峡谷を急流となって流れる河川。山地を抜けると黒部市愛本を扇頂とする広大な扇状地を北西に流下し、日本海に注ぐ。

常願寺川【じょうがんじがわ】

常願寺川は、北ノ俣岳に源を発し湯川、次いで称名川、和田川が合流し越中国の中央部を流れ日本海に注ぐ。常願寺川も急流河川で頻繁に破堤し、その度に洪水の被害を受けた。1581年、佐々成政が大堤防を築いた。

神通川【じんつうがわ】

神通川は飛騨国の川上岳に源を発し、飛騨国内を流れ、高原川と合流し神通川となる。神通峡などの山峡の地から富山平野に至るまでは河岸段丘を形成し、その後、越中国のほぼ中央を貫流し日本海に注ぐ。

庄川【しょうがわ】

庄川は烏帽子岳の源を発し。飛騨国の尾上郷川、六厩川、大白川等の支川と合流しながら白川郷などを流れ、越中国の五箇山、庄川峡を抜け利賀川と合流したのち、庄川扇状地の東端で日本海に注ぐ。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2010年11月19日金曜日

戦国南信濃国人名辞典


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【あ】

赤須清玄【あかすせんげん(15??~15??)】

伊那郡赤須城主。片切家枝連衆。赤須清玄は、武田晴信に属した。1582年、織田信忠勢の「大島城の戦い」で討死した。

上松義豊【あげまつよしとよ(15??~1600)】

木曾義康家臣。木曾義康の次男。兄木曾義昌が武田勝頼を裏切り織田信長に付いた際には、人質として上松義豊が織田信忠の家臣菅屋長頼の元へ送られた。その後、甥木曾義利が、木曾家の家督を相続した。1600年。木曾義利は叔父上松義豊とは折り合いが悪く、仲は険悪だった。そのため、木曾義利によって謀殺された。木曾義利は、松平元康の怒りを買い、木曾家は改易となり10,000石は没収された。

有賀泰時【ありがやすとき(15??~1546)】

諏訪郡有賀城主。諏訪頼重家臣。1542年、高遠頼継が挙兵すると武田晴信に属した。1546年、木曾義昌に通じたとして武田晴信に討たれた。

飯島為政【いいじまためまさ(15??~15??)】

伊那郡飯島城主。1532年、飯島為政は武田晴信の「伊那郡侵攻」に対して松尾城主小笠原信定に属して、武田晴信勢を迎え撃った。1554年、知久頼元の神之峰城が落城すると伊那郡の諸将士は動揺し、武田晴信勢に降る者、あるいは国外に逃亡する者などに分かれた。飯島為政は、片切為房らと共に武田晴信に降った。伊那部重親、宮田親房、殿島重国の三家は武田晴信に滅ぼされ、飯島為政、片切為房、上穂重清、赤須清玄、大嶋の五人衆らは武田晴信に降り、五人合して五十騎の軍役に服し信州先方衆の一翼を担った。1567年、生島足島神社において飯島大和守為方は武田晴信に起請文を出し、飯島為政は片切為房、伴野三衛門と連名の起請文を差し出した。

飯島重家【いいじましげいえ(15??~1582)】

飯島為政の男。1582年、織田信長の「武田家討伐」で、飯島城は落城、飯島重家は高遠城で討死した。飯島家は「大塔合の戦い」や「高遠城の戦い」などに参加。その後は松平元康の家臣井伊直政に属した。その後、織田信長が「本能寺の変」で討死すると、飯島家の支族で山県衆であった飯島作右衛門大尉、原隼人正衆の飯島作三郎、その他飯島伝三郎、飯島宮内大輔らは松平元康に帰属し、飯島右馬助、飯島弥兵衛らは小笠原家臣となった。

飯島家臣団【いいじまけかしんだん】

片切為房、判野三衛門。

岩間為遠【いわまためとう(15??~15??)】

伊那郡岩間城主。片切家臣。1582年、織田信忠勢の「大島城の戦い」で討死した。

埋橋多賀茂【うずはしたがもり(15??~1582)】

伊那郡埋橋城主。1582年、埋橋多賀茂は織田信長勢侵攻による「高遠城の戦い」で討死した。

上穂重清【うわぶしげきよ(15??~15??)】

伊那郡上穂城主。官途は伊豆守。藤沢頼親に属した。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が、川中島で越後長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日(伊那部)重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反した。上穂重清は福与城に籠もって武田晴信に抵抗したが落城とともに降伏した。枝連衆の上穂重勝は大島城で討死にした。戦後狐島で磔にされた。

鈴岡小笠原信定【おがさわらのぶさだ(1521~1569)】

伊那郡鈴岡城主。小笠原長棟の次男。官途は民部大輔。通称孫次郎。分家である松尾小笠原家に対抗するため父と兄により派遣され、鈴岡小笠原家を再興する。兄小笠原長時が敗北した後も、伊那地方に拠り抵抗を続けた。1554年、武田晴信の伊那侵攻の前に敗れた。兄とともに三好氏を頼り、その客将となる。1569年、三好家一族と共に足利義昭を本国寺に襲撃するも敗れ、小笠原信定は討死した。

鈴岡小笠原長継【おがさわらながつぐ(15??~15??)】

小笠原信定の男。官途は山城守。通称孫左近。小笠原頼貞の養育を受け、小笠原貞慶に仕えて侍大将を務めた。1582年、日岐盛武拠る日岐城攻めに参陣した。1583年、信濃進出を図る越後長尾家に対抗して安曇郡に出兵、保科正直拠る伊奈高遠城攻めなどに活躍した。1583年、塔原城にあった海野家の旧領を領した。

松尾小笠原貞忠【おがさわらさだただ(15??~1534)】

伊那郡松尾城主。1493年、松尾小笠原定基が鈴岡小笠原政秀を討った。鈴岡小笠原政秀の男、鈴岡小笠原長貞も討たれたためこの家系は断絶となった。鈴岡小笠原政秀の室は小笠原家伝来の家宝などを持って逃れ、その没後は下条時氏が家宝などを守った。1534年、深志小笠原長棟が松尾小笠原貞忠を討ち、小笠原家の内乱に終止符を打った。

松尾小笠原信貴【おがさわらのぶたか(15??~15??】

小笠原貞忠の男。本家の小笠原長棟と対立。伊那郡に武田晴信侵攻すると武田家に属して、信濃先方衆として活躍した。1562年、松尾小笠原信貴の領地を坂西長忠が押領したため、松尾小笠原信貴によって武田晴信に訴えた。坂西長忠は武田晴信勢と松尾小笠原信貴勢に攻められ、多勢に無勢で城を脱出して木曾谷に逃れようとしたが捕捉され坂西家枝連衆を、ことごとく討取った。武田晴信の元では山県昌景隊に属し、伊奈先鋒衆100騎を預った。

松尾小笠原信嶺【おがさわらのぶみね(1547~1598)】

小笠原信貴の男。父小笠原信貴と同様に武田晴信麾下の信濃先方衆として働いた。武田晴信の病没後も引き続き武田勝頼に仕えて、遠江方面の要衝を守備した。1582年、織田信長の「武田家討伐」が始まると降伏した。織田信長が「本能寺の変」で討死したため、松平元康に属し、酒井忠次の家臣として各地を転戦、松尾城などの知行を安堵された。1584年、下条頼安を誘殺するなど支配力の強化にも努めた。

松尾小笠原信巨【おがさわらのぶこま(15??~1582)】

小笠原信貴の次男。伊豆木城主。別名伊豆木美作守。1582年、織田信長の「武田家討伐」により小笠原信巨は討死した。

荻原元忠【おぎわらもとただ(15??~15??)】

木曾義康家臣。

小田切正則【おだぎりまさのり(15??~15??)】

下伊那郡の国人衆。藤沢頼親家臣。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が、川中島で越後長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

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【か】

春日重慶【かすがしげよし(15??~15??)】

伊那郡春日(大島)城主。官途は大和守。別名伊那部重慶。

春日重成【(15??~15??)】

春日重慶の男。官途は但馬守。

春日重親【かすがしげちか(15??~1556)】

春日重成の男。通称左衛門尉。高遠頼継に属したが、高遠家が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1546年、武田晴信は上伊那郡北部に侵攻した。福与城主藤沢頼親は籠城し抵抗するが、小笠原長時は龍ヶ崎城に、その弟小笠原信定は春日城に入って福与城を支援した。武田晴信勢が龍ヶ崎城を攻撃し、小笠原長時が敗退したことから援軍を絶たれた藤沢頼親は、弟権次郎を人質に出して和睦した。伊那の緒衆も軍門に降った。1556年、武田晴信が、川中島で越後長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

春日昌吉【かすがまさよし(15??~15??)】

春日家枝連衆。官途は河内守。1556年、武田晴信に、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされると、春日昌吉が春日(大島)城主に任じられた。

春日昌義【かすがまさよし(15??~15??)】

春日昌吉の男。官途は河内守。1582年「武田家討伐」では、織田信忠勢が50,000余りが伊那路、木曾路から伊那郡に侵入した。春日城主春日昌義は織田信忠勢の攻撃を受け落城、そのまま部下と共に高遠城に入り、仁科盛信と共に善戦したが激戦の末、全員討死した。

片切久信【かたぎりひさのぶ(15??~15??)】

伊那郡葛島城主。1533年、武田晴信の「伊那侵攻」に際しては、他の伊那衆とともに松尾の小笠原信定に属して武田勢を迎え撃った。1554年、武田晴信が再び伊那郡に侵攻し、知久頼元が屈服すると、伊那郡の諸将士は動揺し、武田晴信勢に降る者あるいは国外に逃亡する者などに分かれた。
春日重親、宮田親房、殿島重国の三家は武田晴信に滅ぼされ、飯島為政、片切為房、上穂重清、赤須清玄、大嶋の五人衆らは武田晴信に降り、五人合して五十騎の軍役に服し信州先方衆の一翼を担った。1567年、生島足島神社において飯島大和守為方は武田晴信に起請文を出し、飯島為政は片切為房、伴野三衛門と連名の起請文を差し出した。1575年、武田勝頼が「長篠の戦い」で大敗を喫すると武田家の勢力圏は急速に後退した。1582年、織田信長は「武田家討伐」の軍を起こした。織田信長は嫡男織田信忠を大将に命じて伊那郡に兵を進めた。これに対して、片切隼人正昌為は織田信忠勢を迎え撃ち枝連衆の片切信正と岩間為遠と共に「大島城の戦い」で討死した。

片切信正【かたぎりのぶまさ(15??~1582)】

伊那郡葛島城主。片切家臣。1582年、織田信忠勢との「大島城の戦い」で討死した。

金刺昌春【かなさしすまさはる(15??~15??)】

山吹城主。金刺興春の男。諏訪下社大祝職。1518年、諏訪頼満の攻撃を受け、甲斐の武田信虎を頼って逃亡した。これにより諏訪下社と諏訪上社が統一された。1528年、武田信虎は金刺昌春を擁して諏訪郡に侵攻、諏訪頼満と神戸堺川に戦うが敗北した。

唐沢義景【からさわよしかげ(15??~15??)】

伊那郡唐沢城主。片切家臣。1534年、唐沢城は、西箕輪から転封した唐沢義景が築城した。

木曾義在【きそよしあり(1493~1558)】

筑摩郡木曾福島城主。木曾義元の男。1504年、父木曾義元は、飛騨国の姉小路家が木曾侵攻を行った際に討死した。幼年期に父を失った木曾義在は叔父木曾義勝の後見を受けながら成長した。1542年、木曾義康に家督を譲り黒川口松島に隠居するが、隠居後にも政務に関与した。木曽材木販売、中山道の整備領内の内政を行った。

木曾義康【きそよしやす(1514~1579)】

木曾義在の男。官途は中務大輔。1542年、木曾家の家督を相続した。1542年、武田信虎の追放で揺れる武田晴信の甲斐国へ村上義清、深志小笠原長時、諏訪頼重と共同で侵攻したが大敗した。1549年、侵攻して来た武田晴信勢を鳥居峠にて撃退した。1554年、南信侵攻においては東美濃恵那郡の国衆遠山景前も武田晴信に帰属しており、美濃国の長井規秀との関係悪化を招いた。1555年、長井規秀、織田信長による遠山領侵攻が行われ武田晴信は援軍派兵、和睦交渉を行っており、木曾義康は東美濃の情勢を武田晴信に伝えた。以後は美濃国、飛騨国の国境を守る武田家親族衆として木曾郡を治めた。

木曾義昌【きそよしまさ(1540~1595)】

木曾義康の男。官途は伊予守。室は武田晴信の娘(真理姫)。隣接する美濃国、飛騨国との国境地帯を押さえていたため、武田晴信は木曾義昌に三女(真理姫)を娶らせ、親族衆として木曾郡を安堵した。木曾家臣や親族を甲府に人質として置き、武田家の属国化を余儀なくされた。1575年「長篠の戦い」で敗れると、武田勝頼は新府城を築城するが、木曾義昌は賦役増大と重税に不満を募らせたせた。1582年、美濃国恵那郡岩村城主遠山友忠を通じて織田信長に降った。武田勝頼は人質だった木曾義昌の嫡男木曾千太郎、長女岩姫を処刑、木曾郡に兵を進めた。織田信長は「武田家討伐」を起こした。武田勝頼勢は木曾谷に侵攻できず敗退した。1982年、武田勝頼が討死すると、織田信長より筑摩郡の本領安堵と安曇郡で加増を受けた。「本能寺の変」で、織田信長が討死すると、深志の旧領主小笠原貞種が越後国の長尾景勝の助勢を得て旧臣らに蜂起し木曾義昌は深志城を奪われ、本領木曽福島城へ撤退した。木曾義昌は松平元康と盟約を結び、再度安曇、筑摩両郡および木曾谷安堵の約定を得た。1584年、松平元康と羽柴秀吉との対立をうけて木曾義昌は、次男木曾義春を人質として羽柴秀吉に属した。松平元康は、妻籠城を攻撃したが木曾義昌勢は撃退した。1590年、松平元康の関東転封に伴い下総国阿知戸城10,000石を領した。この転封によって精神的にも経済的にも逼迫した木曾義昌は、失意のままに同地で病没した。

木曾千太郎【いそせんたろう(15??~1582)】

木曾義昌の男。母は武田晴信の娘(於真理)。1582年、父木曽義昌が織田信長に属すと、武田勝頼に人質だった木曾義昌母娘三人とともに処刑した謀殺された。
 
木曾義利【きそよしとし(1577~1640)】

木曾義昌の三男。1595年、木曾家の家督を相続した。叔父上松義豊を謀殺したため改易された。

木曾義春【きそよしはる(15??~15??)】

木曾義昌の次男。通称長三郎。
 
木曾義辰【きそよしたつ(15??~15??)】

木曾義利の男。官途は玄蕃充。

木曾家臣団【きそけかしんだん】

野尻家益、野尻家秀、西牧満兼、西牧貞兼、西牧満忠、大矢友重、大矢友則、西野友重、古根義胤、古根義正、古根義照。

北原彦右衛門【きたはらひこざえもん(15??~15??)】

保科家老臣。※『槍弾正の逆襲』by中村彰彦

木下惣蔵【きのしたそうぞう(15??~15??)】

木下(箕輪)城主。藤沢頼親から養子(藤沢重時)を迎えた。

黒河内政信【くろかわうちまさのぶ(15??~15??)】

下伊那郡の国人衆。通称隼人。藤沢頼親家臣。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が、川中島で越後長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

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【さ】

桜井重久【さくらいしげひさ(15??~15??)】

伊那郡中島城主。高遠頼継に属していたが、のちに武田晴信に降った。

桜井茂八郎【さくらいもはちろう(15??~1582)】

伊那郡叶尾城主。1582年、織田軍の「武田家討伐」の「高遠城の戦い」で討死した。

座光寺頼近【ざこうじよりちか(15??~15??)】

伊那郡座光寺城主。知久頼元家臣。座光寺頼近は松岡城主松岡頼貞や神之峰城主知久頼元の麾下に属した。1542年、武田晴信が伊那に侵攻すると、伊那の諸将とともに武田晴信に属した。

座光寺貞信【ざこうじさだのぶ(15??~1555)】

座光寺頼近の枝連衆。1552年「第一次川中島の戦い」を、終えて伊那郡代秋山信友に対して、知久頼元、座光寺貞信らの下伊那衆は神之峰城に籠って叛旗を翻した。1553年、武田晴信は自ら兵を率いて伊那郡神之峰城を攻撃し叛乱を鎮圧、座光寺貞信は生け捕りとなった。1555年、河口湖で処刑されました。

座光寺貞房【ざこうじさだふさ(15??~15??)】

座光寺頼近の枝連衆。通称三郎左衛門尉。

座光寺為時【ざこうじためとき(1551~1643)】

座光寺為清の男。官途は内膳。通称九兵衛。武田晴信が伊那郡に侵攻すると、武田家に属した。1582年、武田勝頼の滅亡後は松平元康に仕えた。1590年「小田原の役」後、松平元康が関東に転封されると上野国碓氷郡大竹館950石を領した。1600年「関ヶ原の役」の際には松平秀忠に属して「第二次上田城の戦い」に参陣し、真田昌幸勢に奮戦した。役後、旧領の信濃国山吹城1,000石を領した。のちに410余石加増された。

沢重信【さわしげのぶ(15??~15??)】

諏訪郡粟沢城主。諏訪頼重家臣。諏訪頼重没後、武田晴信に仕えた。

沢房重【さわふさしげ(15??~15??)】

沢重信の男。官途は長門守。茅野房清と共に松平元康の許へ諏訪頼忠の使者として赴いた。茅野房清と共に松平元康の前に召された。

沢外記【さわげき(15??~15??)】

諏訪頼重家臣。沢外記は諏訪頼重没後、武田晴信家に仕えた。

島崎重綱【しまざきしげつな(15??~15??)】

妻籠城主。木曾家臣。

島崎重通【しまざきしげみち(15??~15??)】

島崎重綱の男。1584年、南信濃国と美濃国を結ぶ要地、妻籠城を守備した。松平元康方の菅沼定利、諏訪頼忠、保科正直の軍に攻められ落城した。

下条家氏【しもじょういえうじ(15??~1534)】

伊那郡吉岡城主。下条家は甲斐国巨摩郡下条から興った武田家の庶家、室町時代中期に小笠原家から養子が入り、信濃下伊那郡へ入国した。

下条時氏【しもじょうときうじ(15??~1555)】

下条家氏の男。松尾小笠原家を攻略し伊那谷西南部一帯を支配した。天文年間に本格化した武田晴信の「信濃侵攻」においても反武田家勢に加わった。1554年、鈴岡城攻略前後に武田晴信に属して、知久家領を与えられた。

下条信氏【しもじょうのぶうじ(1529~1582)】

下条時氏の男。官途は伊豆守。通称兵庫助。室は武田信虎の娘。1555年、下条時氏の病没により家督を相続した。下条信氏は秋山信友の麾下となり、信濃先方衆として戦功を挙げた。1557年「三河国武節城の戦い」に参陣した。1571年、足助城番を務めた。1572年、美濃国岩村城番を務めている。1582年、織田信長による「武田家征伐」が始まると、吉岡城は織田方河尻秀隆や森長可らに攻められ、弟下条氏長が織田信長勢に内応したため落城し、下条信氏は嫡男下条信正と共に三河国に落ち延びた。

下条氏長【しもじょううじなが(15??~15??)】

下条氏時の次男。1582年、織田信長による「武田家征伐」が始まると、下条氏長は織田勢に内応したたに落城吉岡城は落城した。

下条信正【しもじょうのぶまさ(1552~1582)】

下条信氏の男。1582年、織田信長の「武田家討伐」が始まると吉岡城に籠城するが叔父下条氏長が織田方に内通したため落城した。父下条信氏と三河国に落延びたがまもなく病没した。

諏訪頼満【すわよりみつ(1473~1539)】

諏訪郡上原城主。諏訪政満の次男。諏訪大社大祝職。官途は安芸守。通称碧雲斎。室は武田信虎の娘。1483年、枝連衆の諏訪継満(大祝家)、金刺興春(諏訪下社)、高遠継宗らの謀反によって父諏訪政満と兄諏訪宮若丸を謀殺れたため十歳で諏訪家の家督を相続した。1518年、金刺昌春を萩倉城に攻めて甲斐国に追放し、高遠頼継を降伏させて諏訪郡を統一した。1528年、神戸境川において武田信虎勢を撃破し、積極的に領国を拡大した。諏訪家の最盛期を築き上げ内政、外交、軍事に渡って優れた手腕を発揮し「諏訪家中興の祖」と称された。1530年、嫡男諏訪頼隆が病没したため、嫡孫諏訪頼重に家督を譲って出家して碧雲斎と称した。1531年、甲斐国人領主らを後援した「河原辺の戦い」では敗退した。1535年、武田信虎と和睦しその娘を諏訪頼重の室とした。1539年、背中に出来た腫瘍の悪化によって病死した。

諏訪頼隆【すわよりたか(1499~1530)】

諏訪頼満の男。官途は刑部大輔。父諏訪頼満に諏訪大社大祝職を譲られて大祝となったが、嫡男諏訪頼重が誕生すると、1520年に大祝を頼重に譲っている。隣国の甲斐において武田信虎が台頭するとこれと対立し、信虎の諏訪侵攻を撃退し、のちに信虎が家臣の今井氏や飯富氏らと対立すると、父と共に出陣し、反信虎勢力を支援した。1530年に父に先立ち没した。

諏訪満隣【すわみつちか(1500~1582)】

諏訪頼満の次男。官途は伊豆守。通称新太郎。別名竺渓斎。諏訪家の枝連衆として重用された。1542年、甥諏訪頼重が武田晴信によって攻められると抗戦するが敗れて降伏した。高遠城主高遠頼継が諏訪で反乱を起こすと武田晴信に属して討伐に参陣した。以後も武田晴信に従った。1582年「武田家討伐」では、嫡男諏訪頼豊が討死し、武田勝頼も滅亡するが、次男諏訪頼忠を擁立して諏訪家再興を目指した。

諏訪満隆【すわみつたか(15??~1546)】

諏訪頼満の三男。官途は薩摩守。兄諏訪満隣と共に甥諏訪頼重を支えた。諏訪頼重が武田晴信によって攻められると抗戦するが敗れて降伏した。
1542年、諏訪郡での復権と諏訪の総領家を目論んだ高遠頼継と矢島満清が反乱を起こすと討伐に参陣して高遠頼継、高遠頼宗を攻めた。1546年、武田晴信と諏訪御寮人との間に生まれた諏訪勝頼(武田勝頼)の諏訪家継承が決定すると、不満を抱いて反乱を起こしたが鎮圧され自刃を命じられた。

諏訪頼重【すわよりしげ(1516~1542)】

諏訪頼隆の男。官途は左近大輔。室は武田信虎の三女(禰々姫)。側室は麻績家の娘(華蔵院)。1520年、諏訪大祝職に就任した。1539年、祖父諏訪頼満の病没により諏訪家の家督を相続した。1540年、室に武田信虎の娘を迎えた。1541年、武田信虎、武田晴信による佐久海野家攻めには村上義清とともにこれに協力した。1541年、武田信虎は息子武田晴信により武田家の家督を奪われ駿河に追放させた。武田晴信は諏訪家との友好関係を改め諏訪郡に侵攻した。武田晴信は高遠城主頼高遠継と語らい諏訪家を挟撃した。諏訪頼重は桑原城に籠城したが精強を誇った諏訪家臣団も敗色濃厚な諏訪家に味方せず落城した。

諏訪頼高【すわよりたか(1528~1542)】

諏訪頼隆の次男。通称勝三郎。1538年、兄諏訪頼重の命により、叔父の諏訪頼寛から諏訪大社大祝を継承した。1542年、武田晴信の諏訪郡に侵攻に抗戦するが敗れて降伏した。その後も諏訪に残るが、禰宜太夫の矢島満清の讒言にあい、甲斐国に送られて自刃させられた。

諏訪頼豊【すわよりとよ(15??~1582)】

諏訪満隣の男。官途は越中守。通称新六郎。1542年、諏訪家滅亡後、弟諏訪頼清と共に武田晴信に仕えた。1582年、織田信長による「武田家討伐」の際、鳥居峠において織田信長勢と戦って討死した。諏訪頼清も高遠城に籠城、落城と共に討死した。

諏訪頼清【すわよりきよ(15??~1582)】

諏訪満隣の次男。1542年、諏訪家滅亡後、兄諏訪頼豊と共に武田晴信に仕えた。1582年、織田信長による「武田家討伐」の際、高遠城に籠城、落城と共に討死した。

諏訪頼忠【すわよりただ(1536~1605)】

諏訪満隣の三男。官途は安芸守。1542年、諏訪家滅亡後高遠頼継の諏訪郡撤退により諏訪頼忠が大祝職を相続したが諏訪郡から退去した。1582年「本能寺の変」により信濃国が空白地になると高島城に復帰した。「信濃攻略」を進める松平元康に属したが酒井忠次と対立、甲斐国に後北条氏政が侵攻すると北条家に好を通じ、北条家は大道寺政繁を派遣するなど松平元康対立したが、和睦して松平元康に属した。

諏訪頼水【すわよりみず(1570~1641)】

諏訪頼忠の男。官途は因幡守。室は本多康重の娘(貞松院)。1577年、父諏訪頼忠から諏訪大社大祝職を譲られた。父諏訪頼忠と共に甲府で松平元康に拝謁し、本多康重の娘を室とするよう命じられた。1590年「小田原の役」に参陣した。その後、松平元康の関東に転封により諏訪郡を離れて関東に移り、武蔵国奈良梨に所領を与えられた。1600年「関ヶ原の役」では、松平秀忠勢に属して、信濃国や上野国の守備を命じられた。1601年、信濃国高島城27,000石を領した。諏訪頼水は政治手腕に優れ、前領主の七公三民で荒れ果てていた農地に逃散していた百姓を呼び戻して新田開発を奨励するなど、高島領の安定に尽力した。1614年「大坂冬の陣」では甲府城の守備を命じられ、嫡男諏訪忠恒が諏訪家勢を率いて参陣した。1615年「大坂夏の陣」では、参陣を強く願ったが甲府城の守備を命じられた。

諏訪頼定【すわよりさだ(15??~1602)】

諏訪頼忠の次男。1584年、松平元康の元へ人質として送られてたがまもなく出奔した。

諏訪頼雄【すわよりかつ(15??~1631)】

諏訪頼忠の四男。官途は美作守。通称源太左衛門尉。室は松平近正の娘。1592年、上野国総社領主となった兄諏訪頼水に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では、松平秀忠勢に属した諏訪頼水と共に上野国高崎城を守備した。1601年、諏訪頼水が、旧領信濃国高島へ転封となるとそれに従った。諏訪頼水の意向に従って、領内原山の新田開発を指揮した。1611年、江戸藩邸で火災が起こり、火元となった高山左太夫の処罰を巡って、厳罰を主張する諏訪頼水に諫言して対立し、他の重臣達と共に藩を退去した。1612年、屋代秀正、小笠原秀政の仲裁により帰参した。1614年「大坂夏冬両陣」では、諏訪頼水と共に甲府城守備を命じられた。

諏訪湖衣姫【すわこいひめ(1530~1555)】 

諏訪頼重の娘。武田晴信の側室で武田(諏訪)勝頼の実母。父諏訪頼重が武田晴信に討たれた後、武田晴信の側室となり、1546年、武田勝頼を産んだ。※「武田信玄」by新田次郎。

諏訪五十騎衆【すわごじゅっきしゅう】

諏訪家臣団。上社は、諏訪越中守、千野丹波守、小坂藤三、千野伊豆守、有賀紀伊守、矢島織部丞、牛山周防守、山中主水、花岡藤兵衛、金子助右衛門尉、長田大隅守、田辺新兵衛、鮎沢善右衛門、小井弓大炊允、守屋彦九郎、村岡石見守ら36騎で「諏訪五十騎衆」。

諏訪下社武士団【すわしもしゃぶしだん】

諏訪家臣団。大和監物、諏訪右衛門尉、諏訪左近、諏訪藤七郎、高木喜兵衛門、山田備前守、中村平左衛門尉、小口民部少輔、横内民部左衛門尉、三沢対馬守、竹居宮内、藤森治部ら14騎で「諏訪下社武士団」。

諏訪西方衆【せいほうしょう】

諏訪家臣団。諏訪上社に奉仕する氏神衆。小坂、花岡忠常、有賀泰時、胡桃沢の諸家がある。

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【た】

高島十人衆【たかしまじゅうにんしゅう】

諏訪家臣。高島十人衆は小松又七郎ら十騎衆。

高遠頼継【たかとうよりつぐ(1513~1552)】

伊那郡高遠城主。高遠満継の男。官途は紀伊守。室は諏訪頼満の娘。1543年、諏訪家惣領家の座を狙う高遠頼継は武田晴信と結び諏訪頼重を挟撃した。諏訪領は武田晴信と分割され高遠頼継は西半分を支配していたが、諏訪家惣領を志向する高遠頼継は伊那郡福与城の藤沢頼親らと武田領へ侵攻し、武田晴信と戦ったが弟高遠頼宗が討死するなどして敗れ高遠城に敗退した。1544年、武田晴信を離反した藤沢頼親を支援し、鎮定にやってきた武田勢を撃破した。1545年、高遠城を攻撃されて降伏甲府へ送られ自刃させられた。

高遠頼宗【たかとうよりむね(15??~1542)】

高遠満継の次男。1542年、武田晴信と同盟して諏訪本家の諏訪頼重を攻め、諏訪頼重が自刃すると兄高遠頼継はその跡を継ごうとして挙兵し、武田晴信と「安国寺の戦い」に及んだ。しかし、敗れて討死した。

竹松外記【たけまつげき(15??~15??)】

伊那郡橋場城主。1582年、織田信長勢の「武田家討伐」では武田勝頼に属し没落した。

田中淡路守【たなかあわじのかみ(15??~15??)】

諏訪郡粟沢城主。諏訪家臣。諏訪家五十騎のひとり。

茅野伊豆入道【ちのいずにゅうどう(15??~1542)】

諏訪郡大熊城主。諏訪頼重家臣。諏訪家軍師。1542年、武田晴信が諏訪郡に侵入すると矢崎原に迎い撃ったが、下諏訪の金刺家、伊那郡の高遠頼継が武田家に付き形勢不利になり上原城に退却した。最後は弟茅野南名庵とともに二十七騎で高遠頼継の陣地へ突入壮絶な最後を遂げた。※「武田信玄」by新田次郎。

茅野南明庵【ちのなんめいあん(15??~1542)】

諏訪頼重家臣。諏訪家軍師。千野伊豆入道の弟。兄千野伊豆入道と共に諏訪満重の滅亡時に戦うが討死した。

茅野重清【ちのしげきよ(15??~15??)】

諏訪頼重家臣。諏訪家滅亡後は武田晴信に属した。1544年、武田晴信により家督を安堵された。

茅野昌房【ちのまさふさ(15??~15??)】

茅野重清の男。1582年「本能寺の変」後、諏訪頼忠に属して茶臼山城を攻略した。
 
茅野房清【ちのふさきよ(15??~15??)】

諏訪頼重家臣。官途は丹波守。茅野重清の弟。二つの城の城主で1,300石を領した。1582年、諏訪頼忠が酒井忠次を追い返したあと、松平元康が側近の者を遣わして以前のようにするようにとの言葉を伝えた後、諏訪頼忠が松平元康に遣わした使者のひとり。。

茅野昌房【ちのまさふさ(1533~1629)】

茅野光弘の男。官途は伊豆守。諏訪郡有賀城800石を領した。諏訪頼水の武蔵国転封にも従った。

千村家晴【ちむらいえはる(1497~1558)】

木曾義康家臣。兄に千村右衛門佐がおり、千村家晴の死後も千村家の家政を執っていた。

千村家政【ちむらひえまさ(1527~1608)】

千村家晴の男。木曾義康、木曾義昌の二代に仕えた。1590年、下総国に転封となった木曾義昌に従った。

千村政勝【ちむらまさかつ(15??~1555)】

千村家政の男。官途は掃部助。1555年、塩尻峠から侵入した武田晴信勢は贄川砦の千村政勝を攻撃して落城させました。楢川に進出した武田晴信勢を向え討つために木曾義康は鳥居峠へ陣を構えるが 戦わずに退却した。

千村良重【ちむらよししげ(1566~1630)】

千村家政の次男。通称平右衛門。兄千村政勝が討死したため千村家の家督を相続した。はじめ木曾義昌、その没後は木曾義利に仕えた。木曾義利が不行跡により改易されると浪人した。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属した。山村良勝と共に木曾路の交通の確保を命じられた。山村良勝と共に石田三成勢の石川光吉の家臣原孫右衛門の籠城する桜沢砦を攻略した。この戦功により、美濃国可児、土岐、恵那三郡4,400石を領した。信州、遠州榑木奉行に任じられた。1614年「大坂冬の陣」では、松平元康方に属し、妻籠の関所や飯田城の守備を務めた。1619年、松平秀忠の命令で幕府直臣、信州、遠州榑木奉行のまま、尾張松平義直に仕えた。

知久頼元【ちひさよりもと(15??~1554)】

伊那郡神之峰城主。1542年、上原城主諏訪頼重が武田晴信に滅ぼされると知久頼元も下伊那郡の座光寺貞信、下条信氏らと共に武田晴信に従った。1554年、知久頼元、座光寺貞信らは神之峰城周辺に兵を集め、武田晴信に叛旗を翻した。高遠城主秋山信友を先鋒に武田晴信が伊那へ進攻した。知久頼元は、武田晴信勢を迎え撃ったが、知久頼元の嫡男知久頼康をはじめ知久家勢の多くが討たれ、神之峰城は落城。知久頼元父子らは生け捕りとなった。

知久頼康【ちひさよりやす(15??~1554)】

知久頼元の男。1554年、父知久頼元、座光寺貞信らは神之峰城周辺に兵を集め、武田晴信に叛旗を翻した。高遠城主秋山信友を先鋒に武田晴信が伊那へ進攻した。武田晴信勢は、神社、仏閣を始め民家等を焼き払い、知久家勢を攻めたて激戦となった。知久頼康は、父知久頼元と共に武田晴信勢を迎え撃ったが討死し知久家勢の多くが討たれた。

知久頼氏【ちひさよりうじ(15??~15??)】

知久頼元の次男。

殿島重国【とのしましげくに(15??~1556)】

春日家臣。春日重成の次男。通称新左衛門。別名春日重国。藤沢頼親に従うが藤沢頼親が武田家に降ったあとは、武田家に臣従。1556年、武田晴信が川中島で長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日(伊那部)重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

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【な】

中越備中守【なかごしびっちゅうのかみ(15??~15??)】

上伊那郡北の城主。1561年、近郷の小身衆と共に武田晴信の麾下に属した。

中沢義忠【なかさわよしただ(15??~15??)】

伊那郡高見城主。倉沢家枝連衆の中沢義忠は武田晴信の侵攻に抵抗して討死した。

中原四郎左衛門【なかはらしろうざえもん(15??~15??)】

伊那郡登城主。

中山道賢【なかやまみちかた(15??~1582)】

伊那郡牛ヶ城主。1582年、織田信長勢の「武田家討伐」で、武田勝頼に属し高遠城で討死した。た。

奈良井家信【ならいいえのぶ(15??~15??)】

南筑摩郡国人衆。木曾家臣。木曾路の中でも重要な中継点であった奈良井を押さえる豪族として狭い範囲ながらも確固たる勢力を築いていた。木曽谷を攻略した武田晴信も奈良井家信の存在を重視した。奈良井を要地たらしめたのが鳥居峠であった。

奈良井義高【ならいよしたか(15??~1584)】

奈良井家信の男。木曾家とは従属的な関係だが、武田家が南筑摩郡に進出すると武田晴信に属した。奈良井家は武田家の目付的役割を担うようになった。1582年、武田勝頼に反旗を翻した木曾義昌は武田家の遠征隊を鳥居峠に迎え撃ち、勝利を収めた。この敗北により武田勝頼は勢力回復の手だてを完全に失い、動揺甚だしい武田家領国は織田信長勢の侵攻を受けて脆くも崩れ去った。1582年、武田勝頼が滅ぶと木曾義昌に謀殺された。

浪合胤成【なみあいたねなり(15??~1575)】

伊那郡浪合村の豪族衆。1575年「長篠の戦い」で討死した。

贄川重有【にえがわしげあり(1535~1584)】

木曾家村の男。1584年、小笠原貞慶に内通した。木曾義昌居館を襲撃したが討死した。

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【は】

畑谷新八郎【はたやしんぱちろう(15??~15??)】

伊那郡羽場城主。1582年、織田信忠勢の「高遠城の戦い」で討死した。

馬場昌次【ばばまさつぐ(15??~1618)】

木曾義昌家臣。木曾家枝連衆。室は千村良重の娘。1590年、木曾義利の下総国網戸城の転封にさいして従った。1600年、下野国小山の陣で松平元康に拝謁した。石田三成が挙兵すると千村良重、山村良勝と共に木曽路の交通を確保するよう命じられた。馬場昌次は病のため陣中に残った。千村良重らの戦功を松平元康に言上し褒美を賜った。小笠原信嶺に附属し、妻籠城を守り、松平秀忠勢に加わり時服を賜った。役後、美濃国土岐、可児、恵那三郡1,600石を領した。

羽生光定【はぶみつさだ(15??~15??)】

伊那郡松下城主。知久頼元家臣。1554年、知久頼元、座光寺貞信らは神之峰城周辺に兵を集め、武田晴信に叛旗を翻した。高遠城主秋山信友を先鋒に武田晴信が伊那へ進攻した。武田晴信勢は、神社、仏閣を始め民家等を焼き払い、知久家勢を攻めたて激戦となり松下城mp落城した。

坂西正俊【ばんざいまさとし(15??~15??)】

伊那郡飯田城主。知久平の20,000石の覇権を知久家と争った。

坂西政之【ばんざいまさゆき(15??~15??)】

坂西正俊の男。1546年、知久頼元と領地争いを起こし坂西政之は敗北した。松尾小笠原信定、下条信氏の仲介で和睦し、知久頼元に黒田、南条、飯沼、上野の地を割譲し、知久頼元の娘を嫡男坂西長重の室に迎えた。武田晴信が伊那郡に侵攻すると降り、秋山信友の寄騎となり軍役六十騎を勤めた。

坂西長重【ばんざいながしげ(15??~15??)】

坂西政之の男。室は知久頼元の娘。若くして病没したため、坂西家の家督は嫡男坂西忠長が相続した。

坂西忠長【ばんざいただなが(15??~1562)】

坂西長重の男。父坂西長重が若くして病死したため、坂西長忠が家督を相続した。1562年、坂西長忠は松尾小笠原信貴の領地を押領したため、小笠原信貴によって武田晴信に訴えられた。結果、坂西長忠は武田晴信勢と松尾小笠原信貴勢に攻められた。飯田城は落城、木曾谷に落延びる途中、松尾小笠原信貴勢に捕捉され坂西家枝連衆はことごとく討死をとげた。

坂西経定【ばんざいつねさだ(15??~15??)】

坂西家臣。通称織部。1573年、武田勝頼に属して「長篠の戦い」に参陣した。1582年、織田信長勢の侵攻によって坂西経定は城を棄てて西山へ逃れたが、進退に窮し自刃した。

樋口光久【ひぐちみつひさ(15??~1545)】

伊那郡大石城主。官途は長門守。1545年、武田晴信の福与城攻めの際に落城した。

白狐島太郎左衛門【びゃこじまたろうざえもん(15??~15??)】

諏訪家臣。1542年、武田晴信、高遠頼継、禰宜満清に攻められ、諏訪頼重が桑原城に籠城した際、白狐島太郎左衛門は矢島頼光と共に板垣信方勢に抵抗した。白狐島太郎左衛門は飛礫の名手で寄せての板垣信方勢を悩ました。※「武田信玄」by新田次郎。

藤沢隆親【ふじさわたかちか(15??~15??)】

伊那郡福与城主。

藤沢頼親【ふじさわよりちか(15??~1582)】

藤沢隆親の男。室は小笠原長棟の娘。1540年、藤沢家の家督を相続した。1542年、武田晴信は、高遠頼継らと結び諏訪宗家の諏訪頼重を滅ぼすが、諏訪統治を巡り頼継が対立し、高遠頼継は福与城の藤沢頼親や上伊那の春近衆らを糾合して武田方と敵対する。武田方は諏訪頼重の遺児虎王を奉じて諏訪一族を糾合すると高遠高継らを撃破した。武田晴信が上伊那に侵攻し福与城を囲まれ藤沢頼親は武田方に降伏し、甲府へ出仕したという。1545年、武田方から離反しは再び福与城には攻められた。信濃国守護で義兄にあたる筑摩郡の小笠原長時と結んで抵抗する。1546年、伊那高遠城を攻略した武田方が福与城を囲み和睦が成立した。武田一門衆の穴山信友、小山田信有、勝沼信友らの勧告を受けると弟の権次郎を人質に降伏し、起請文を提出し秋山信友の傘下に配せられた。1549年「上田原の戦い」における武田方の敗北を機に小笠原家と結び再び武田晴信から離反するが、秋山信友を通じて武田家に降った。

藤沢頼広【ふじさわよりちか(15??~15??)】

藤沢頼親の男。1582年、武田勝頼、織田信長が次々に滅ぶと北条氏直に属することを企図するが、松平元康に属する保科正直に攻められ、田中城で父藤沢頼親とともに自刃した。

藤沢重時【ふじさわしげとき(15??~1582)】

藤沢頼親の次男(木下惣蔵)。1582年、藤沢頼親と共に滅亡した。

井深茂右衛門【ふかいしげざえもん(15??~15??)】

保科家臣。※『槍弾正の逆襲』by中村彰彦

古畑重家【ふるはたしげいえ(15??~15??)】

木曾家臣。官途は伯耆守。木曾家庶家。古畑重家は飛騨勢の侵入を打ち払う戦功をあげた。1551年、武田晴信のもとから木曾家に復帰した古畑重家に対して、その旧地を安堵した。

文明寺行尊【ぶんみょうじぎょうそん(15??~15??)】

保科家客将。※『槍弾正の逆襲』by中村彰彦。

保科正俊【ほしなまさとし(1510~1593)】

高遠頼継家臣。保科正則の男。「槍弾正」の異名で知られた。1545年、高遠頼継が滅ぶと福与城主藤沢頼親らと共に、武田晴信に降伏した。1551年、武田晴信の麾下の武将として信濃各地を転戦した。武田晴信家臣として信濃先方衆騎馬120騎持。

保科正直【ほしなまさなお(1540~1601)】

保科正俊の男。織田信長の武田家討伐の際は坂西織部とともに飯田城を守ったが、森長可と戦って敗れるなど苦戦し同城の守備を放棄して高遠城へ入るが、落城前に脱出。松平元康の信濃国進出を受けて従属した。

保科正光【ほしなまさみつ(1561~1631)】

保科正直の男。1582年、武田勝頼の滅亡後は松平元康に仕えた。1584年「小牧、長久手の役」に参陣した。

保科家臣団【ほしなけかしんだん】

保科正房、保科三左衛門、赤羽又兵衛門、金子左近、上島伝太。※『槍弾正の逆襲』by中村彰彦。

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【ま】

松岡頼貞【まつおかよりさだ(15??~15??)】

伊那郡松岡城主。官途は兵部大輔。武田晴信の伊那侵攻で武田家に降った。山県昌景の寄騎衆として五十騎の軍役を負担した。

松岡貞利【まつおかさだとし(15??~15??)】

松岡頼貞の男。通称右衛門佐。1582年「本能寺の変」が起こると伊那郡は松平元康の勢力下に置かれ、松平元康に属した。1585年、深志城主小笠原貞慶は、松平元康方から羽柴秀吉方に変心し、松平元康方の保科正俊を高遠城に攻め、逆に小笠原貞慶は大敗を喫して深志城に後退した。その時松岡貞利は、小笠原貞慶に属して戦ったが、その行為を家臣座光寺次郎右衛門が訴え出た為、岡貞利は改易を命ぜられ、その所領は没収された。

松岡家臣団【まつおかけかしんだん】

片桐二郎右衛門、座光寺次郎右衛門。

松島貞実【まつしまさだざね(15??~1547)】

伊那郡松島城主。藤沢頼親家臣。官途は筑前守。1547年、木曾義昌により謀殺された。

松島信久【まつしまのぶひさ(15??~15??)】

松島貞実の男。官途は豊前守。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が川中島で長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

溝口長友【みぞぐちながとも(1485~1551)】

鈴岡小笠原信定家臣。1545年、武田晴信は、藤沢頼親の拠る福与城を攻撃した。小笠原長時は、妹婿でもある藤沢頼親を援けるため、軍を発したが戦うことなく兵を退いた。1548年「上田原の戦い」において、村上義清と武田晴信が戦い、武田勢に大勝した。この勢いをかって、小笠原、村上、仁科、藤沢の連合軍は諏訪郡に討ち入った。これに対し、武田晴信は甲府より急行し、小笠原長時は兵を退いて塩尻峠に陣を布いた。武田群は塩尻に押し寄せ、合戦になったが、ついに小笠原長時は大敗して林城に退いた。1546年、武田晴信は村井に陣を布いた。これに対して小笠原長時は桔梗ケ原で応戦につとめたが、草間肥前守、泉石見守らを討たれて、小笠原長時は林城に退いた。これにより、洗馬の三村入道、山家、坂西、島立、西牧の諸家は武田晴信に降った。小笠原長時に属したのは、二木、犬甘、平瀬らの諸家のみであった。

溝口長勝【みぞぐちながかつ(1512~1565)】

溝口長友の男。官途は右馬助。父溝口長友は小笠原信定(小笠原長時の弟)に仕えていた。1550年「野々宮の戦い」ののち、村上義清のもとにあった小笠原長時を援助した。1554年、長尾家のもとにあった小笠原長時を伊那郡鈴岡城に迎えたが、武田晴信の攻撃を受けて信濃国から落延びた。父溝口長友とともに小笠原長時に従って三好長慶を頼り、河内高屋城に寄寓していたが、同地において病没した。

溝口貞泰【みぞぐちさだやす(1539~1608)】

溝口長友の八男。官途は美作守。1582年、小笠原貞慶が金松寺に入った際、これに仕えて深志復帰に尽力した。その後政務を担当する。1582年「日岐城の戦い」では侍大将として参陣。1608年『溝口家記』を著して小笠原秀政に献じた。

宮田親房【みやだちかふさ(15??~15??)】

伊那郡の国人衆。官途は左近正。藤沢頼親家臣。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が川中島で長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

溝口正慶【みぞぐちまさよし(15??~15??)】

伊那郡の国人衆。官途は民部少輔。藤沢頼親家臣。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が川中島で長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

守屋頼真【もりやよりまさ(1505~1597)】

諏訪上社の神長官。守屋満真の男。諏訪大社大祝家の諏訪家に従い、たびたび禰宜太夫の矢島満清と対立する。特に諏訪大祝就任の際に争いには劣勢だった。1538年、諏訪頼高の大祝就任時に復権した。また諏訪大社への課税をめぐって諏訪頼重とも対立した。1542年、武田晴信による諏訪侵攻時の在任者。1542年「高遠城の戦い」攻めでは諏訪頼重の遺児である寅王を晴信は前面に押し出したため、諏訪一族の諏訪満隆や諏訪家に従属していた守矢頼真はこれと戦うことを拒否して高遠勢から離脱した。1559年、引退し、嫡子で禰宜太夫に就けていた守矢信真に神長官を譲った。武田家滅亡後は諏訪満隣らと諏訪家再興を図る一方、諏訪大社の復興にも力を入れた。

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【や】

矢島満清【やじまみつきよ(15??~15??)】

諏訪上社の禰宜。1542年、武田晴信による諏訪侵攻に協力した。その後高遠頼継が所領問題から武田家を離反するとこれに与した。高遠頼継が、諏訪上社の禰宜矢島満清の共謀して謀反を起こす。上原城を攻め落とし、下諏訪を放火、諏訪の上下両社を押さた。高遠頼継と矢島満清は謀反を起したが、武田晴信のすぐ対応して、板垣信方を先発させると、武田晴信が主力率いた。安国寺の宮川の橋付近で戦闘が開始され、高遠頼継は敗走、捕らえられた矢島満清は禰宜職を免じられた。

矢島満綱【やじまみちつ(15??~15??)】

矢島満清の男。

矢島頼光【やじまよりみつ(15??~15??)】

諏訪家臣。西諏訪衆のひとり。

大和十人衆【やまとじゅうにんしゅう】

諏訪家臣。大和十人衆は大和監物ら10騎衆。

山村良利【やまむらよしとし(1514~1599)】

木曾家臣。官途は三河守。武田晴信から直接知行も与えられ、木曾領の代官的性格も併せ持っていた。1575年、武田晴信の上洛作戦の折りにも、山村良利に独自に作戦を指示した。

山村良候【やまむらよしとき(1544~1602)】

山村良利の男。木曾義昌、木曾義利の二代に仕えた。木曾義利が転封後も筑摩郡に残って松平元康に属した。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成方に捕らえられた。のち解放され、その忠節によって筑摩郡の支配を命じられ木曾郡で5,700石を領した。

山村良勝【やまむらよしかつ(1563~1634)】

山村良候の男。通称甚兵衛。室は遠山友忠の娘。父山村良候と共に木曾義昌に仕え、その没後は木曾義利に仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」では羽柴秀吉に属し信州妻籠城を守備した。松平元康家臣の菅沼定利、諏訪頼忠らの攻撃を受けるが撃退した。木曾義昌が転封されるとこれに同行した。木曾義利が不行状により改易されると松平元康に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では松平元康勢に属した。山村良候は、石田三成勢に属した石川貞清に敗れて犬山城に拘禁された。このため、山村良勝は木曾郡国人衆を率いて犬山城を攻撃して山村良候を救出した。木曾谷は尾張藩の所領となったため、山村良勝は松平義直に仕えて木曾谷の代官に任じられた。1608年、嫡男山村良安に家督を譲って隠居した。

山村良安【やまむらよしやす(15??~1619)】

山村良勝の男。1608年、山村家の家督を相続した。

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【資料Ⅰ】

南信濃国(5郡/240,000石)

諏訪郡:上原城。
北筑摩郡:
南筑摩郡:木曾福島城。
上伊奈郡:高遠城。
下伊那郡:飯田城。

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【資料Ⅱ】

春近衆【はるちかしゅう】

飯島為政、片切為房、上穂重清、赤須清玄、大嶋。

高遠衆【たかとうしゅう】

高遠。

箕輪衆【みのわしゅう】

松島。

大和十騎衆【やまとじゅっきしゅう】

諏訪郡の豪族衆。

西諏訪衆【にしすわしゅう】

矢島頼光、花岡忠常、以下調査中。

上伊那十三騎衆【かみいなじゅうさんきしゅう】

樋口七郎右衛門、以下調査中。

小野七騎衆【おのななきしゅう】

調査中。

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【資料Ⅲ】

南信濃国【みなみしなのこく】

信濃国は、本州の中央に位置する東山道の国。南北に長い内陸国で北部と南部では気候も風俗も異なる。南信濃国は、周囲を北信濃国、甲斐国、飛騨国、三河国、美濃国、遠江国と接している。戦略的には、北に南信濃国、東に甲斐国、西に美濃国と周囲を強国に囲まれ侵入を受けやすい。国土防衛には不利な位置にあるが、標高の高い山岳地帯で形成された山がちな国で、険しい峠を越えないと領国に侵入できない。平地は少なく木曽郡と伊那郡の両郡はほとんどを山地に覆われている。諏訪郡には平野が広がるが隣接する甲斐国には強国の武田家からの侵入を受けやすい。

諏訪大社【すわたいしゃ】

信濃国諏訪郡諏訪湖の周辺に四箇所の境内地をもつ神社。信濃国一宮で名神大社。上社では諏訪家が、下社では金刺家が大祝を務めた。諏訪湖の南側に上社(本宮、前宮の二宮)、北側に下社(春宮、秋宮の二宮)があり、計四つの宮から成る。社殿の四隅に御柱と呼ぶ木の柱が立っているほか社殿の配置にも独特の形を備えている。この御柱であるが、それ以前のミシャグチ信仰の石柱との関連性があるという説が有力である。神長官守矢によると御柱はミシャグチを降ろす依り代である『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われている通り、軍神としても崇拝され、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際に戦勝祈願をしたとされる。また、中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業の守護祈願でも知られる。

諏訪湖【すわこ】

信濃国諏訪郡にある湖。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に活躍した国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「戦国関東名将列伝」隋想社、「(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧」秋田書院、「武田信玄(全四巻)」文春文庫、「武田信玄(全三巻)」講談社、「武田勝頼(全三巻)」講談社、「甲州武田家臣団」新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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