2010年11月13日土曜日

戦国上野国人名辞典

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【あ】

青柳忠家【あおやぎただいえ(15??~15??)】

長野家臣。1566年、武田晴信勢と長野業盛勢は城外で戦うが長野業盛勢はひと合戦終わると籠城に入った。長野業盛勢は1,800余りと全盛期に比すると少ないが、新城主長野業盛を中心に新陰流の祖となった上泉秀綱、長野主膳、藤井正安、青柳忠家ら長野十六人槍率いる精鋭で包囲する武田晴信勢に抵抗し、越後長尾景虎の援軍を待った。※「剣の天地」by池波正太郎。

青山四郎二郎【あおやましろうじろう(15??~15??)】

赤井家臣。検断職。享禄年間頃、赤井照光に仕えた。

赤井照光【あかいしょうこう(15??~1545)】

邑楽郡館林城主。白井長尾家臣。官途は山城守。板倉の真下越前守、小泉の富岡太郎四郎、北大島の片見因幡守師方、藤岡の富田又十郎らを被官とした。1528年、青柳城から城沼南岸の大袋城に移る。1531年、館林城築城開始。赤井照光は成田長泰の器量が父成田親泰より劣ると判断。所領拡大のため武蔵国成田領に攻め込むこととした。1536年、5,000余騎を率いて成田家を攻める。荒木村河辺で須賀出雲守隆宗に背後から攻められ、白石勢が総崩れとなり、首三十を奪われた。赤井照光はその夜のうちに兵をまとめ、須賀城に放火。虚を突かれた須賀勢は成田家のもとへ逃れた。

赤井照康【あかいしょうこう(1510~1559)】

赤井照光の男。北条家に属す。1562年、越後長尾景虎の攻撃を受けて降伏した。但馬守。青柳城に生まれ、父の死後、館林城主となる。妻は岩井城主白石久盛の娘。1551年、赤井家の家督を相続した。青柳より町屋三百五十軒を外加法師に移した。嫡男赤井照景が十一歳と幼いため、遺言として重臣の小曽根政義、毛呂季忠に照景補佐を任せた。

赤井照景【あかいてるかげ(1548~1573)】

赤井照康の男。1556年、父赤井照康が館林城を築城すと程なくして死去したために、姉婿である長尾当長の後見を受けて館林城主となる。我儘で家臣の人望が薄く、越後長尾景虎の「関東出兵」にも北条家や古河公方足利義氏の威を借りて出陣を拒んだ。1562年、越後長尾景虎が長尾顕長の案内を受けて館林城を攻略する。赤井照景は幼少である事を考慮されて助命されて宇都宮広綱の元に出奔した。

赤井家臣団【あかいけかしんだん】

宝田義勝、毛呂刑部、淵名治部、竜木四郎右衛門、入ヶ谷民部、橋本新蔵、鉢形縫右衛門、川島五郎四郎。

赤見山城守【あかみやましろのかみ(15??~15??)】

長尾家臣。沼田顕泰の三男。別名沼田六郎綱泰。下野国佐野の士豪赤見家の家督を相続する。1582年、北条氏直に降り、吾妻郡中山城将に任じられる。中山地衆、沼田浪人衆、上川田衆、下川田衆、須川衆等57人を寄親として率いた。

赤堀上野介【あかぼりこうずけのすけ(15??~15??)】

由良成繁家臣。通称又次郎。1571年、長尾景虎から厩橋城主北条高広の寄騎衆に任じられた。1582年、後北条家の勢力が上野国東北部まで拡大すると、後北条家に属した。

赤堀又太郎【あかぼりまたたろう(15??~15??)】

赤堀上野介の男。白井長尾家臣田留城主牧和泉守の娘婿となった。1583年、牧和泉守の嫡男牧采女といさかいを起こした、牧和泉守は赤堀又太郎を頼った。1587年、北条方の阿曾砦の在番を命じられた。同城は真田家との戦いの最前線であり兵力を多く駐留させるため経済的負担が多かった。

赤堀山城守【あかぼりやましろのかみ(15??~1577)】

赤堀家枝連衆。1558年、安中越前守の麾下の武将として北条方に参陣した。1573年、赤堀山城守と牧和泉守は長尾憲景麾下に属した。1583年、織田信長が「本能寺の変」で横死にすると上野北西部で真田家と後北条家が対立、赤堀山城守は麾下の豪族衆を従えて、北条氏直方に参陣して所領を安堵された。後北条家は長尾憲景の献策を受けて中山城を攻略し、同城に赤堀山城守を在番させ、中山地衆五十七人を麾下に置いた。1577年、中山城は真田家に奪還され赤掘山城守も討死した。

阿久沢左馬助【あくざわさまのすけ(15??~15??)】

黒川谷の豪族衆。1569年、北条氏康と長尾景虎の和睦の使者として越後に派遣させた。阿久沢家は桐生佐野家の麾下の武将であったが、佐野家げ弱体化すると、由良家に従った。1574年、長尾

朝羽秀綱【あさわひでつな(15??~15??)】

赤井家臣。赤井七騎衆のひとり。赤井七騎衆とは、白石久盛、片見師方、間下範宗、朝羽秀綱、淵名智宗、富田吉晴、富田重朝の七人。

新居長重【あらいながしげ(15??~15??)】

長尾景長の家臣。1561年、上野国に出兵した越後長尾景虎に勢多郡女淵城代に任じられた。

安中忠政【あんなかただまさ(15??~1564)】

碓氷郡松井田城主、安中城主。上野八家。武田晴信の上野侵攻が開始されると、信濃国と国境を接する松井城は度々攻撃を受けた。1564年、安中城の安中忠成は降伏したが、安中忠政は最後まで抵抗したが自刃させられた。

安中忠成【あんなかただなり(15??~1575)】

安中忠政の男。1564年、安中城の安中忠成は降伏したが、安中忠政は最後まで抵抗したが自刃させられた。

安中久繁【あんなかひさしげ(15??~1575)】

安中春綱の男。武田家の麾下となった安中家は抗戦した安中忠成から庶家の安中久繁に代わった。1568年、武田晴信が駿河今川領に侵攻し、武田晴信は相模国後北条氏康と敵対する。後北条家は越後長尾家との越相同盟をもちかけたため西上野は武田家と越後長尾家、後北条家間の最前線となり、この結果安中家は北条家に対する武田領の最前線の守将に位置づけられた。北条氏康から北条氏政に代わると「甲相同盟」の回復により北条氏政と武田勝頼は和睦し西上野は安定する。1578年、越後長尾家における「御館の乱」を契機に「甲越同盟」の成立「甲相同盟」の破綻で西上野は再び緊張した。1575年「長篠の戦い」に参陣して安中久繁は討死した。

安中家臣団【あんなかけかしんだん】

安中家繁、安中繁勝。

飯島宇太之助【いいじまうたのすけ(15??~15??)】

赤井照光家臣。赤井照光が館林城を築くと、奉行衆として街割を行った。城下街は外加法師から善長寺に及んだ。

石井信房【いしいのぶふさ(15??~15??)】

室田鷹留城主。官途は讃岐守。長野家軍師。

泉繁俊【いずみしげとし(15??~15??)】

山田郡矢田掘館主。横瀬家臣。官途は伊予守。

猪子瀬兵衛【いのこせへい(15??~15??)】

小幡信貞家臣。小幡信貞の侍臣。※「剣の天地」by池波正太郎。

稲垣新三郎【いながきしんざぶろう(15??~15??)】

館林の士豪衆。赤井家滅亡後、長尾景長より館林羽田郷内に五十五貫文を与えられた。

入江内膳【いりえないぜん(15??~15??)】

小幡信貞家臣。

岩松昌純【いわまつまさずみ(1485~1529)】

新田郡金山城。岩松尚純の男。父岩松尚純が横瀬泰繁に幽閉れ、当主の座についたが横瀬家の傀儡でしかなかった。1529年、横瀬泰繁を討とうとしてしたが発覚、金山城で討死した。

岩松氏純【いわまつうじずみ(1507~1548)】

岩松昌純の男。1529年、父岩松昌純は家老の横瀬泰繁によって殺害され、形式上岩松家当主となった。1548年、自刃した。

岩松守純【いわまつもりずみ(1532~1616)】

岩松氏純の男。1548年、父岩松氏純は家老の横瀬(由良)成繁によって自刃させられている。岩松氏純が家督を継いだが名目だけの当主であった。

宇城宇兵衛【うしろうへいべい(15??~15??)】

赤井家臣。1572年、毛呂勢の小曽根館攻めに際し、先陣に立って応戦した。他に高坂半四郎、武川弥内ら二十余名も先陣に立った。

内田頼信【うちだよりのぶ(15??~15??)】

長野家臣。

大崎瀬兵衛【おおさきせへい(15??~15??)】

小幡景純家臣。

大熊高忠【おおくまたかただ(15??~15??)】

長野家臣。※「剣の天地」by池波正太郎

小幡憲重【おばたのりしげ(1517~1575)】

甘楽郡国峰城主。小幡顕高の男。山内上杉家臣。長野業正の妹婿。上野八家。一族の内紛によって小幡信尚によって国峰城を奪われる。武田晴信の元に身を寄せ、翌年武田晴信の助力によって国峰城を回復した。その後は西上野衆の筆頭として武田晴信に仕えた。1575年長篠の戦いで討死したとされている。

小幡信貞【おばたのずさだ(1540~1592)】

小幡憲重の男。長野業正の娘婿。1575年、父小幡憲重の死により、小幡家の家督を相続する。1582年、武田家が滅ぶと、関東管領滝川一益の寄騎となるが、同年織田信長が「本能寺の変」で討死すると、北条家の家臣となった。

小幡景純【おばたかげすみ(15??~1561)】

小幡家臣。長野業正の娘婿。1560年、小幡信貞の国峰城をを奪うが翌年奪還され自刃した。

小幡信尚【おばたのぶなお(15??~15??)】

鷹巣城主。小幡家臣。

小幡兼行【おばたかねゆき(15??~15??)】

小幡信尚の男。

小幡家臣団【おばたけかしんだん】

内匠城:倉股大炊助。

岡山播磨守【おかやまはりまのかみ(15??~15??)】

小泉富岡家臣。

大沢政随【おおさわまさずい(15??~15??)】

横瀬家臣。官途は下総守。

大沢政道【おおさわまさみち(15??~15??)】

勢多郡膳城主。横瀬家臣。官途は備後守。

大沢政光【おおさわまさみつ(15??~15??)】

大沢政道の男。官途は下総守。

大沢政助【おおさわまさすけ(15??~15??)】

大沢勝男の男。林高次の養子。官途は大和守。

大谷休伯【おおたにきゅうはく(1521~1578)】

山内上杉家臣。灌漑、新田開墾等に活躍した。1552年、山内上杉憲政の居城の平井城が、北条氏康により落城し、その後は、館林城の長尾顕長の招聘を受け、防風林や用水路を作る。防風林については、太田金山の松苗を移植した。21年間に150万本の松を植栽し「大谷原山林」を造成した。また用水路は、後に「休泊掘」と呼ばれ農業生産力の向上に貢献した。配下に荒山義友、朝倉善三郎がいた。

大場昌弘【おおばまさひろ(15??~15??)】

長野家臣。長野業政の侍臣。※「剣の天地」by池波正太郎

岡谷平内【おおたにへいうち(15??~15??)】

沼田家臣。※「まぼろしの城」by池波正太郎。

岡山播磨守【おかやまはりまのかみ(15??~15??)】

邑楽郡岡山城主。富岡家臣。富岡家は赤井家の麾下に属した。1582年、後北条家が館林、金山城を攻めるが、岡山播磨守は岡山城に籠城し交戦した。

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【か】

梶山重芳【かじやましげよし(15??~15??)】

長野家臣。※「剣の天地」by池波正太郎。

上泉秀綱【かみいずみひでつな(1508~1573)】

上泉城主。上泉憲綱の男。長野家臣。新陰流兵法流祖、小笠原流軍学伝承者。官途は伊勢守。新陰流の剣聖として知られる。常陸の松本備前守の愛洲(移香斎)久忠から剣の指導を受けた。長野業正とともに武田家、北条家の上野侵攻を防いだ。1555年、北条氏康に攻められ、開城降伏。長尾景虎に協力して大胡城を奪回、箕輪城主長野信濃守業正の麾下となって戦功があり、長野十六人槍に数えられ、さらに上野一本槍の感状を受けた。長野業正の死後、嫡子右京進業盛が城主となったが武田晴信のため箕輪落城した。上泉秀綱は箕輪城士200余とともに武田勢に編入されたが、新陰流兵法並氏隆流軍学の修行弘流の希望を述べ、武田家を辞した。上泉秀綱は兵法を松本備前守政元または塚原ト伝高幹に、それぞれに新道流、新当流など香取、鹿島系の兵法を学んだとも、念阿弥慈恩にはじまる念流を学んだとも伝えられているが、その流名新陰流でも察せられるように、愛洲移香斎久忠にはじまる陰流を中心に諸流を勘案して新流を立てた。

上泉秀胤【かみいずみひでたね(1530~1564)】

上泉秀綱の男。兵法家としても名を残し、上泉流軍法を大成したという。1557年、武田晴信が長野業正の箕輪城に攻撃しようとした際に碓氷峠で武田義信の軍を破ったとされている。長野業正の死後、南方からの北条氏康からの圧迫に苦しんだ信綱は秀胤を人質として小田原に送り圧力の緩和を策した。その後、上泉秀胤はそのまま後北条家に仕官した。1564年「国府台の戦い」で重傷を負い死去した。

上泉泰綱【かみいずみひでたね(15??~1600)】

上泉秀胤の男。室は北条氏忠の娘。会津一刀流剣術の開祖。後北条家に仕えていた父上泉秀胤が「第二次国府台の戦い」で討死した後に上泉家督を相続した。1590年「小田原の役」で後北条家が滅亡すると浪人になった。1600年「関ヶ原の役」では、戦役前に越後長尾景勝が軍備強化の一環で仕官を求められたとき、それに応じて長尾家臣となり、直江兼続の配下となった。そして最上家との戦いである「長谷堂城の戦い」で、最上家の武将志村光安と戦ったが、敗れて討死した。上泉泰綱の娘の元へ志駄義秀の子が養子として入婿し、300石で跡を継ぎ上泉秀富と名乗った。

上泉秀綱【かみいずみやすつな(1583~1615)】

上泉泰綱の男。通称源五郎。上泉泰綱の嫡男として後北条家の小田原城で誕生する。1590年「小田原の役」によって後北条家が没落すると父上泉泰綱と共に小田原を後にし、上野国館林、信濃国井上を転々とする。1597年、越後長尾景勝に仕官した。1598年、長尾家安江繁家の娘を室に迎えた。1600年「長谷堂の戦い」で父上泉泰綱が討死して家督を相続した。父上泉秀胤の功によって1,500石を与えられて直江兼続の麾下に置かれた。1601年、越後長尾家が米沢城300,000石に減封されるにあたって、上泉秀綱の禄高も500石に減らされた。1607年、江戸城普請を命じられた越後長尾家の中奉行として工事を指揮した。1614年「大坂冬の陣」では鉄砲隊を率いて「鴫野の戦い」で羽柴勢を破るが、その戦闘で上泉秀綱自身も重傷を負った。

金子家清【かねこいえきよ(15??~15??)】

沼田家臣。沼田景義の叔父。

金子欅御前(ゆのみ)【かねこけやきごぜん(15??~15??)】

沼田顕泰の側室。※「まぼろしの城」by池波正太郎。

鎌原幸重【かまはらよししげ(15??~15??)】

吾妻郡鎌原城主。山内上杉家臣。官途は宮内少輔。1560年、鎌原幸重、鎌原重澄父子は、真田幸隆を介して信州平原において武田晴信に謁見し、その麾下となった。以後、鎌原幸重は武田晴信を後楯として斎藤憲広と抗争したが、斎藤方には同族の羽尾家が味方するなど、鎌原幸重は次第に劣勢に追い込まれていった。1562年、斎藤、羽尾家の攻撃を受けた鎌原幸重は、鎌原を引き払って一門ことごとく信州佐久郡へ退去した。鎌原幸重を受け入れた武田晴信、小県郡浦野領内に領地を宛行って武田家に尽した功に報いた。信州に領地を与えられたとはいえ鎌原幸重は、鎌原回復の策謀を練り、ほどなく武田家、真田家の支援を得て本領と鎌原城を回復している。

鎌原重澄【かまはらしげずみ(15??~1575)】

鎌田幸重の男。官途は筑前守。吾妻郡は真田幸隆が守護として治めるところとなった。鎌原幸重は岩櫃城代に任ぜられ、真田幸隆の寄騎衆として武田晴信の上野侵攻戦に活躍した。1572年、武田晴信は念願であった上洛の軍を起したが、持病を悪化させて帰らぬ人となった。1575年、武田勝頼が「長篠の戦い」で織田、徳川連合軍との戦いに大敗を喫した。この戦いに吾妻郡の武士たちは真田信綱に属して出陣したが、真田信綱は、鎌田重澄とともに討死した。

鎌原重春【かまはらしげはる(15??~15??)】

鎌田重澄の男。官途は宮内少輔。鎌原家は「長篠の戦い」後も真田昌幸に属した。1590年、羽柴秀吉は小田原北条家征伐の軍を起した。この陣に真田昌幸も参陣し、鎌原重春も加わり松井田城攻めに活躍した。沼田城に真田信幸が25,000石で封ぜられると。鎌原家は武田晴信以来の格別の家柄として、真田家中でも破格の待遇を受けた。鎌原重春の息子である鎌原重宗は「大坂の陣:に参戦した。鎌原重宗の息子鎌原重継は沼田真田家で筆頭家老を務めた。

片見師方【かたみもろかた(15??~15??)】

北大島城主。赤井家臣。官途は因幡守。赤井家七騎衆のひとり。赤井家滅亡後、長尾顕長、後北条家と仕えた。1589年「小田原の役」後は常陸に配流された。 

金井秀景【かないひでかげ(15??~1590)】

倉賀野城主。官途は淡路守。別名倉賀野秀景。倉賀野行政麾下、倉賀野十六騎衆の一人として関東管領の山内上杉憲政に従った。1546年、倉賀野行政が「河越城の戦い」で討死すると、他の十六騎と共に倉賀野行政の嫡男倉賀野為広をよく助け城を守る。1547年「小田井原の戦い」では、籤引きで先鋒に選ばれた倉賀野為広の陣代として参陣する。武田晴信と戦うが大敗を喫した。1559年、倉賀野為広が病死すると倉賀野尚行が後を継いだ。1566年、箕輪城は落城し長野業盛も自刃した。倉賀野尚行は越後長尾景虎のもとに落延びた。1570年、金井秀景は武田家麾下の城主として倉賀野城主となり姓を倉賀野に改める。1582年、武田勝頼が滅亡した後は織田家の武将滝川一益に伺候する。金井秀景はこの時武田豊信に出仕を促がし、梶原政景を仲介するなど滝川一益の補佐役に位置する立場にあった。「神流川の戦い」でも北条氏直率いる軍勢と戦い奮戦するが、破れた滝川一益が関東から撤退すると、和田信業等と共に北条家の麾下に属した。1590年「小田原の役」では北条方武将として小田原城に籠城し、早川口の守備についた。

金岡五郎作【かねおかごろうざ(15??~15??)】

赤井家臣。1572年、毛呂勢の小曽根館攻めに際し、先陣に立って応戦した。

金子伊豆守【かねこいずのかみ(15??~15??)】

赤井照光家臣。赤井照光が館林城を築くと、普請奉行衆として街割を行った。

烏山高繁【からすやまたかしげ(15??~15??)】

新田郡烏山城。横瀬家臣。官途は丹後守。

軽井沢貞光【かるいざわさだみつ(15??~15??)】

長野家臣。1561年、長野業正が病死すると、武田晴信が箕輪城を攻略軍を起した。そのさい軽井沢貞光が武田晴信の先導役を勤めるが、裏で長野業成に通じ、武田勢の動くを逐一知らせた。※「武田信玄」by新田次郎。

木部範虎【きべのりとら(15??~1582)】

木部城主。官途は駿河守。室は箕輪城主長野業政の娘。武田晴信の上野侵攻に長野業政とともに抵抗した。1561年、長野業政が病死し箕輪城が武田勢に攻略されると、木部氏範は武田晴信に降伏しました。その後、木部氏範は武田勢に属して各地に転戦した。1582年、織田、松平連合軍に追われた武田勝頼に従い「天目山の戦い」で討死した。

木部高成【きべたかなり(15??~15??)】

木部氏範の男。木部高成は武田家滅亡後、上野国に侵攻した織田信長の滝川一益に出仕しました。1582年「本能寺の変」で織田信長が横死すると上野国に侵攻した北条氏政に属した。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、後北条家に従い小田原城に入城した。北条氏政、北条氏直父子が降伏し、高野山に流された北条氏直に随行した。木部家の家督は木部高成の弟木部直高が相続し、関東に入封した松平家に仕えた。

桐生祐綱【きりゅうすけつな(15??~15??)】

桐生城主。上野八家。1544年、菱城を領していた細川内膳の持ち馬の「小すずめ」という名馬を桐生祐綱が所望したが、細川内膳はこれを拒否した。桐生祐綱は、これに怒り、津府久常陸介に下菱の館を襲わせた。この攻撃で細川内膳は自刃した。膳城主膳康道の妹は細川内膳の室だったため、仇討ちを名目に桐生に侵攻した。1545年、膳康道は、斎藤右近、鶴貝玄蕃、野村弾正、関口友之助の四家老に兵500余人を諏訪の森に集結させ、桐生に向かって押し出した。桐生勢も兵600余りを集め、谷丹後守を将として「間の原の戦い」を行った。膳勢の先陣鶴貝、関口率いる70人は、渡良瀬川を渡って桐生勢の陣に突進し、両軍の激しい戦いが開始された。桐生方は次第に新手を加えて戦い、膳勢は続く加勢なく、足並み乱れるのを見た膳因幡守は激しく下知し、150余を一手にまとめ魚鱗の陣に連ねて突撃した。桐生勢もよく支えて激戦数合、流石の膳因幡守も馬が疲れて徒歩となり引き上げるのを、桐生方の先陣大谷勘解由が手勢40人を率いて追いすがれば、膳方の斎藤右近は踏みとどまり大谷目掛けて矢を射かけ、勘解由は馬の膝をのぶかに射抜かれうち倒された。膳勢に囲まれ大谷勘解由も危うく見えた時、折から通りかかった野州小俣の渋川義勝の家臣板倉尾張守が、駆け付け救い出した。横瀬成繁の足軽大将金井太左衛門宗清は広沢の茶臼山の砦の番頭であったが、眼下の合戦を見、30余人を引き連れて駆けつけ、桐生方に加勢して膳勢に突入、膳方が崩れて逃げるを追って笠懸野を駆け抜け、日暮方には膳城に追い詰め、前後から囲んで激しく攻め立てた。竜源寺の和尚は、間に入って様々仲介し、膳因幡守は弟の大学と家老鶴貝玄蕃を人質に出して降参したので、桐生方は囲みを解いて帰陣した。桐生祐綱の妹が膳因幡守に輿入れし、人質は返され和睦し桐生家全盛の時代を築いた。1560年、越後長尾景虎が関東に侵入すると長尾方に属した。

桐生親綱【きりゅうちかつな(15??~15??)】

佐野昌綱の次男。桐生祐綱の養子。桐生祐綱が病の為死去すると、桐生家譜代衆の谷右京や大屋勘由左衛門と佐野からやってきた佐野衆の荒井主税之助、茂木右馬之丞、山越出羽守、津府子形部の四人が対立した。家中の乱れに乗じて隣国の由良家が侵入し、桐生城は落城桐生親綱は実家の佐野家へ落延びた。

桐生家臣団【きりゅうけかしんだん】

安威式部少輔、薗田左馬助、津布久常陸守、山越大膳亮、松崎大和守、阿久沢対馬守。

倉賀野為広【くらがのためひろ(15??~15??)】

倉賀野城主。山内上杉家臣。上野八家。

倉賀野尚行【くらがのなゆき(15??~15??)】

倉賀野為広の男。山内上杉家臣。室は長野業正の娘。1560年、長野家の滅亡後は長尾景虎の助力を得て、武田家、北条家に対抗した。その後も山内上杉方として北条氏康、武田晴信の侵攻をよく防いだが、重臣の金井秀景が離反したことや上野国の旗頭であった長野業正の病没という苦境に陥った。1565年、武田晴信の攻撃を受けて倉賀野城は落城し、倉賀野尚行は越後の長尾景虎のもとへ落延びた。1574年、倉賀野尚行は倉賀野城奪還を目論んで東上野に潜伏し工作活動を行ったが倉賀野城への復帰は果たせなかった倉賀野尚行は越後を本拠とし、名を長左衛門統基と改めて直江兼続に仕えた。

倉賀野行重【くらがのゆきしげ(15??~15??)】

倉賀野尚行の男。

熊井戸重綱【くまいしげつな(15??~15??)】

小幡城主。小幡家臣。

小金井繁光【こがねいしげみつ(15??~15??)】

新田郡小金井城主。横瀬家臣。通称四郎右衛門。

小林河内守【こばやしかわちのかみ(15??~15??)】

小泉富田家臣。富岡重朝とともに佐野家を撃退した。後北条家に属す。1589年「小田原の役」のさいは、近藤石見守とともに小泉城留守居役となった。羽柴勢の攻撃を受け開城した。

虎山一峰【こざんいっぽう(15??~15??)】

上泉家菩提寺西林寺住職。上泉秀綱が少年の頃、文事、古学の教えを受けた。※「剣の天地」by池波正太郎。

近藤石見守【こんどういわみのかみ(15??~15??)】

小泉富田家臣。富岡重朝とともに佐野家を撃退した。後北条家に属す。1589年「小田原の役」のさいは、小林河内守とともに小泉城留守居役となった。羽柴勢の攻撃を受け開城した。

後閑(新田)景純【ごかんかげずみ(15??~15??)】

甘楽郡丹生城主。1555年、北条政時を滅ぼして後閑城を攻略した。1559年、武田晴信の配下となった。1560年、越後長尾景虎の関東進出に際し、甲斐国に移り死去した。息子の新田信純は後閑家を称した。

後閑(新田)信純【ごかんのぶずみ(15??~15??)】

碓氷郡後閑城主。1563年、後閑城に移った後閑景純は箕輪城主長野業政に属した。1563年、後閑景純の子新田(岩松)信純のとき、武田晴信の侵略を受けて敗れその幕下に降る。1560年、越後長尾景虎が管領上杉憲政を奉じて関東に出兵した、そのとき、越後長尾景虎の陣に馳せ参じた関東諸将の幕紋を記録したのが箕輪城主長野家ら上野諸将の幕紋が記されているが、後閑家の幕紋はみえない。1556年、荒廃していた長源寺を後閑信純が修復して寺領若干を寄進した。

後閑(新田)信重【ごかんのぶしげ(15??~15??)】

後閑信純の男。武田晴信の上野侵攻すると武田家に属した。1582年、武田家が滅ぶと越後長尾家に属した。1584年、後北条家に属した。1590年「小田原の役」では小田原城に籠城し落城後は領地を失った。

小曾根政義【こそねまさよし(15??~1633)】

足利鉢形城主。赤井家臣。官途は玄蕃充。赤井照康に従属した。1570年、赤井照景の補佐を命じられるが、毛呂季忠の謀反にあう。館林城は奪われ、鉢形城に籠もり、足利城主足利顕長に援軍を要請した。長尾顕長は小曾根政義とともに毛呂季忠を攻め、高根にて打ち破る。和議と称して館林善長寺に季忠を招き、逆に包囲して自刃させた。長尾顕長は館林城を赤井照景に渡さず自領とし、赤井照景は追放された。小曾根政義は長尾顕長に仕え、金山籠城時には館林城を守った。1584年、佐野家臣小野高吉の守る小野城を攻め落とし城主となる。後北条家が館林城を攻めると多々良鶉小城を守る。1585年、家臣豊島彦七郎が佐野宗綱を討ち取る大手柄を挙げた。

五代又左衛門【ごだいまたさえもん(15??~15??)】

上泉家臣。上泉秀綱の室小松殿の父。※「剣の天地」by池波正太郎。

小虎八郎三郎【ことらはちろうさぶろう(15??~15??)】

赤井家臣。1572年、毛呂勢の小曽根館攻めの際、館に籠もる。城外の味方が劣勢になると、二階堂七郎左衛門、始澤与四郎、青山勘十郎、印口若狭、印口次郎兵衛らと共に城を出て、味方を救援。これにより、毛呂勢は撤退した。

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【さ】

岩櫃斎藤憲広【さいとうのりひろ(15??~15??)】

吾妻郡岩櫃城主。斎藤憲次の次男。山内上杉家が越後国に移ると吾妻郡で勢力を拡大した。1562年、武田晴信の麾下の真田家に鎌原城を奪われた。1563年、常田俊綱の長野原城を攻撃、真田幸隆の弟の常田俊綱を討取る。1564年、信玄は真田幸隆を大将として三千騎の兵をもって岩櫃城攻撃を決意した。合戦は双方ともに有利に展開せず、力攻めの不利をさとった真田幸隆は和議を進め憲広も受け入れたため、一応、戦いは終熄した。その間、幸隆は岩櫃城内に内応工作を施し、内応工作の効き目を実感した幸隆は岩櫃城攻撃を再開した。急をつかれた憲広は城を出て戦うことができず籠城策をとった。ところが、先の戦いとは違って今回は城内に内応者がいたことが斎藤氏にとって致命傷となった。城内は大混乱となり、憲広は自刃しようとしたところを嫡子太郎に止められて岩櫃城から落ちていった。その後、岩櫃城の奪回を試みたが、結局失敗に終わり斎藤氏は没落の運命となった。

岩櫃斎藤憲宗【さいとうのりむね(15??~15??)】

斎藤憲広の男。永禄八年の秋、斎藤憲広の嫡男憲宗は上杉謙信の加勢を得て、沼田城将の栗林政頼、白井長尾憲景、中山・尻高氏らの助力により嶽山城に入った。この情勢を岩櫃城でみていた真田幸隆は、一計を案じて、嶽山城に和睦を申し入れて互いに人質を交換した。そのとき、嶽山城の重臣である池田佐渡守を調略した。 嶽山城から池田佐渡守が退出したことを確認した幸隆は、城攻めを開始した。両軍は城の西方にある成田原で戦ったが、重臣の佐渡守を失っている城方が敗勢となり、ついに城に引き揚げようとした。そこを真田勢に追い討ちをかけられ、ついに城主斎藤憲宗、弟虎城丸らは自害した。吾妻郡は武田家の勢力下に置かれた。

岩櫃斎藤家臣団【さいとうけかしんだん】

池田重安、早川源蔵。

斎藤右近【さいとううこん(15??~15??)】

膳家臣。

赤萩里見勝広【さとみかつひろ(15??~15??)】

赤萩城主。桐生家臣。桐生家中の乱れを憂いた里見勝広は桐生親綱に現状を訴えたが逆に佐野四人衆に謀反の疑いをかけられ自刃した。

赤萩里見勝政【さとみかつまさ(15??~15??)】

赤萩里見勝広の男。

尻高重定【しつたかしげさだ(15??~15??)】

吾妻郡尻高城主。戦国争乱の時代になると近隣の諸豪からの圧迫を受けるようになっていた。すなわち、越後国の長尾景虎、甲斐国の武田晴信、相模国の北条氏康らを後楯とする大小の豪族たちで、尻高は中山とともにこれら群雄の接点にあり、その保身も容易ではなかった。

尻高重治【しつたかしげはる(15??~1559)】

尻高重定の男。官途は摂津守。戦国時代、吾妻郡では岩櫃城主の斎藤家が最大の勢力を誇り、斎藤家は長尾景虎に属して武田方の鎌原家と戦った。

尻高景家【しつたかかげいえ(15??~15??)】

尻高重治の男。官途は左馬介。通称庄次郎。尻高景家は斎藤家の枝連衆として、岩櫃斎藤家に味方していた。1563年、武田晴信の部将真田幸隆の攻勢によって岩櫃城は落城し、城主斎藤憲広は越後に逃れ去った。斎藤憲広の子斎藤憲宗は越後長尾家の支援を得て嶽山城に籠って再挙を図ると、尻高景家も嶽山城籠城に加わった。やがて、武真田幸隆と斎藤憲宗は和睦したが、真田幸隆の調略によって内応者が出て嶽山城は落城し、斎藤家は滅亡した。1571年、尻高景家は真田幸隆に嫡子の源次郎を人質に差し出して武田勢に降伏した。1574年、尻高景家は武田家に対して謀反を起こした。真田幸隆は尻高城に攻め寄せるが、尻高景家は結城玄灌、里見大膳を大将に迎い撃つも、衆寡敵せず尻高景家は討死した。

尻高基勝【しつたかもとかつ(15??~15??)】

岩櫃斎藤家臣。吾妻郡豪族。

尻高家臣団【しつたかけかしんだん】

蟻川入道、桑原大蔵。

下沼田豊前守【しもぬなまたぶぜんのかみ(15??~15??)】

沼田家臣。※「まぼろしの城」by池波正太郎。

白石久盛【しらいしひさもり(15??~15??)】

赤井家七騎衆の一人。官途は豊前守。1562年、岩井山城城代。毛呂因幡守の謀叛では、小曽根玄蕃とともに毛呂父子を討取った。下野足利の橋本家らも毛呂弾正討伐に参加している。1583年、後北条家と和睦を図り、富岡又十郎とともに小田原城に向かうが、そこで捕らえられの身になった。長尾顕長が館林城を後北条家に明け渡すと開放された。

白倉家重【しらくらいえしげ(15??~15??)】

白倉城主。上野八家。

白倉重家【しらくらしげいえ(15??~15??)】

上野白倉城主。関東出兵する長尾景虎と上野に進出する武田晴信の間にあって離合集散を繰り返した。最終的に後北条家に属した。1589年「小田原の役」では白倉城に弟白倉重高を置いて守らせて、白倉重家は小田原城に籠城したが降伏した。

白川満勝【しらかわみちかつ(15??~15??)】

長野家臣。※「剣の天地」by池波正太郎。

下田昌勝【しもまさかつ(15??~15??)】

長野家臣。

白井の局【しらいのつぼね(15??~1565)】

長尾景春の娘。忍城主成田長泰の室。1553年、京都に下り、足利義輝の近侍となった。1565年、松永久秀、三好三人衆が二条城を急襲した際、薙刀で奮戦した。

神保昌光【じんぼまさみち(15??~15??)】

神保城城主。小幡家臣。

神後宗治【じんごむねはる(15??~15??)】

長野家臣。※「剣の天地」by池波正太郎。

名胡桃鈴木重則【すずきしげのり(1547~1589)】

利根郡名胡桃城主。沼田家臣。真田家が利根郡に侵入すると真田家に従属する。1588年、真田家と北条家の領地争いが起き羽柴秀吉が仲裁に入り沼田城は北条家に属することになったが名胡桃城は引き続き真田家に属した。1589年、北条氏邦麾下の猪俣邦憲は突如沼田城を奪取した。北条の知略で名胡桃城を留守にしていた鈴木重則は自分の不明を恥じ正覚寺で自刃した。鈴木重則の男、鈴木忠重は北条家に捕らわれ人質となった。これをきっかけに羽柴秀吉の小田原討伐が行われ北条家は滅びた。※「真田太平記」by池波正太郎。

名胡桃鈴木忠重【すずきただしげ(15??~1558)】

鈴木忠重は名胡桃城が真田家に戻された後も名胡桃城には戻らず真田昌幸に引き取られた。羽柴秀吉の唐入りが始まると鈴木忠重も真田家の武将として出陣を希望するも叶えられず真田家を出奔する。1596年、柳生から新陰流を学び真田家に帰参真田信幸の重臣となり、真田信幸死去の際に殉死した。※「真田太平記」by池波正太郎

佐貫鈴木越前守【すずきえちぜんのかみ(15??~15??)】

赤井照光家臣。佐貫の街頭。赤井照光が館林城を築くと、奉行として街割を行った。

膳宗数【ぜんむねかず(15??~15??)】

膳城主。官途は因幡守。善家は菱城主の細川家と姻戚関係を結ぶなど、勢力の維持に努めていた。1554年、桐生城主桐生佑綱が細川内膳が所持する名馬を望み、それを細川内膳が拒否したことから合戦沙汰となり細川内膳と妹とが討たれた。これに怒った膳宗数は、桐生に押し出し「間之原の戦い」で桐生方と合戦となった。膳宗数率いる善方は奮戦したが、桐生方に佐野家が援軍を送り、さらに由良家も桐生家に味方したことで、ついに総崩れとなった。

膳宗向【ぜんむねこう(15??~15??)】

膳宗数の弟。桐生家と渡良瀬川の合戦で膳宗数が敗れ桐生祐綱の妹を膳宗数の室に向かえ、膳宗向が桐生家に人質として出仕することで和議がが結ばれた。

膳宗次【ぜんむねつぐ(15??~15??)】

膳宗数の男。膳宗次は身丈六尺余、二尺七寸の武勇優れた武将であったが、横瀬(由良)家や桐生家の寄騎的な立場に立たされた。1572年、膳宗次は由良家らとともに北条方に転じた下野国小俣の渋川義勝を攻めた。渋川義勝の堅守に対して膳宗次は、自ら先頭に立って搦手を強襲したが反撃を受け討死した。膳宗次の討死を聞いた由良成繁は、膳宗次を評して「大将妄に強くば却って軍法を破る」と語ったと伝えられている。

膳宗広【ぜんむねひろ(15??~15??)】

膳宗次の男。父膳宗次を討ち取った渋川勢は、由良、桐生家と連合して善城に押し寄せた。ときに膳宗次の嫡男春松丸は四歳の幼子で、老臣斎藤右近に助けられて膳城から脱出、沼田城に陣する越後長尾景虎のもとに走った。城に残った一族、家臣らは、連合軍の攻撃を迎え撃ったが、討死にして善城は陥落した。 

曽我兵庫助【そがひょうごのすけ(15??~15??)】

山内上杉家臣。本庄宮内少輔らとともに最後まで山内上杉家憲政に忠誠を尽くす。

園田成光【そのだなりみつ(15??~15??)】

山田郡園田城主。横瀬家臣。園田成光は桐生城主桐生重綱に攻められ、小倉鹿田の地を奪われた。園田家の勢力では桐生家に及ばず、園田成光は金山城主横瀬国繁の支援を要請した。横瀬国繁は園田成光と桐生重綱とは系譜的に同族関係でもあり和睦を進めたが桐生重綱は聞かず、却って兵を起して園田家を討とうとした。園田成光の嫡子園田秀光は横瀬国繁に援軍を求めると、一族を指揮して防戦につとめた。桐生勢は横瀬国繁に敗れて退去し、園田成光は危機を脱するとともに倉鹿田の地を回復したのである。

園田秀光【そのだひでみつ(15??~15??)】

園田成光の男。1560年、越後長尾景虎が関東管領上杉憲政を擁して関東に出兵した。このとき、園田秀光は横瀬国繁の麾下の武将として参陣した。園田家は嫡流が由良家麾下にあり、庶流が桐生家麾下にあった。

園田秀政【そのだひでまさ(15??~15??)】

桐生家臣。官途は右京亮。1574年、園田秀政は由良成繁に属して「谷山の戦い」において越後長尾景虎方として活躍した。

園田秀重【そのだひでしげ(15??~15??)】

園田秀政の男。園田秀重は横瀬国繁と後北条家との合戦において功名をたてた。1590年「小田原の役」では、横瀬国繁は後北条方として行動した。その結果、小田原開城後に横瀬国繁は所領を没収され、園田秀重もともに所領を失い没落した。

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【た】

大胡勝行【だいごかつゆき(15??~15??)】

大胡城主。上野八家。1541年、大胡勝行は太田金山城の横瀬泰繁の勢力に押され、後北条家を頼って武蔵牛込城へと移り住んだ。

大胡民部左衛門【だいごみんぶざえもん(15??~15??)】

上泉秀綱家臣。

高田遠春【たかだちかはる(15??~1547)】

甘楽郡高田城主。山内上杉家臣。官途は伊豆守。1537年、北条氏綱は扇谷上杉家の支配下にあった河越城を攻略、確実に武蔵国を蚕食していった。1546年、山内上杉憲政は扇谷上杉、古河公方を語らって80,000余の大軍を動員、北条綱成が守る河越城を攻撃した。結果は大軍を擁した連合軍が、北条氏康の夜襲によって散々な敗北を喫したのである。1547年、武田晴信の攻撃にさらされる信濃佐久郡の志賀城を支援するという行動に出た。このとき、志賀城主笠原新三郎清繁と親戚関係にある高田遠春父子が援軍として城にたて籠った。しかし、志賀城は武田勢の猛攻の前に陥落、城兵300余人が討ち取られ、高田遠春も討死した。

高田憲頼【たかだのりより(15??~1573)】

高田遠春の男。官途は大和守。別名繁頼。1547年、信濃国佐久郡志賀城の笠原清繁は武田晴信の攻撃を受け、山内上杉家に援軍を求めた。高田憲頼は、笠原清繁とともに志賀城に籠城するも落城した。その後山内上杉憲政麾下の諸将は次々と北条方に走り、天文二十一年、山内上杉憲政は越後長尾景虎を頼って越後に逃れ去った。上野は北条氏の勢力が浸透、さらに西上野には武田氏の勢力が伸張してきた。1560年、山内上杉憲政を擁した景虎が関東に出兵してきた。このとき景虎が作成した『関東幕注文』には、箕輪衆として、高田憲頼は景虎の陣に参じた。

高田信頼【たかだのぶより(15??~15??)】

高田憲頼の男。1572年、高田憲頼、高田信頼は、武田晴信の上洛戦にも参陣した。「三方ヶ原の戦い」に活躍した。1573年「三方ヶ原の戦い」で受けた戦傷により高田憲頼が死去したことにより、高田信頼が家督を相続した。1575年「長篠の戦い」において武田勢は織田、徳川連合軍に惨敗、多くの将兵を失った。武田家の滅亡により上野国は後北条家の支配するところとなり、高田信頼も後北条家に従った。

高田直政【たかだなおまさ(15??~15??)】

高田信頼の男。1589年、後北条家も羽柴秀吉の「小田原征伐」によって没落、関東の戦国時代は終焉を迎えた。後北条家に味方した高田直政は高田城を離れ信濃国塩田村に移住、鎌倉以来、高田を支配した在地領主高田家の歴史は幕を閉じた。1600年、松平元康に召し出された高田直政は「上田城の戦い」に加わり、「大坂両度の陣」にも従い功があった。

高山満重【たかやまみつしげ(15??~15??)】

緑野郡高山城主。山内上杉家臣。高山満重は累代山内上杉家に属し、高山満重も上杉憲政に仕える。1552年、平井城落城前後に北条氏康に降った。高山満重の次男高山光重の長女が小幡図書の養子神成城次郎に嫁いだ。

高山定重【たかやまさだしげ(15??~1590)】

高山満重の男。官途は遠江守。通称彦兵衛尉。1552年、以降、越後長尾景虎 、武田晴信、織田家臣滝川一益と各勢力に従属した。1582年「神流川の戦い」では、滝川方に付き、甥の高山重正が武功を挙げた。北条氏直に降るが重用された。1585年、宇津木氏久と共に新田金山城の守将を務める。1589年「小田原の役」で後北条家敗れると没落した。

高山家臣団【たかやまけかけかしんだん】

高山泰重、高山行重、高山重正。

滝窪瀬兵衛【たきくぼせへい(15??~15??)】

上泉秀綱家臣。※「剣の天地」by池波正太郎

富沢但馬守【とみざわたじまのかみ(15??~15??)】

岩櫃斎藤家臣。1565年、岩櫃斎藤家が武田家に追われると真田家に仕えた。

豊島彦七郎【としまひこしちろう(15??~15??)】

小曽根家臣。1583年、佐野宗綱を討取った。

富田吉晴【とみたよしはる(15??~15??)】

藤岡城主。赤井家臣。通称又十郎。赤井七騎衆のひとり。赤井家の滅亡後、長尾顕長、北条氏政に仕えた。1589年「小田原の役」により藤岡城を攻め落とされた。

富岡秀信【とみおかひでのぶ(15??~1568)】

邑楽郡小泉城主。富岡秀信は、結城家の流れを組む。「結城合戦」の主役結城氏朝の弟、久朝の子直光が祖とされる。結城久朝は討死したが、結城直光は脱出し、小泉城を築城して小泉を本拠としたため小泉家となった。佐貫庄21郷のほか吾妻郡71村、武蔵深谷などを領して古河公方政氏を支えた。1534年、富岡秀信が梵海正音を招いて龍泉院を創建した。

富岡秀親【とみおかひでちか(15??~1569)】

富岡秀信の男。1562年、古河公方足利家に属していたが越後長尾景虎の館林城攻めに従軍した。1569年「越相同盟」が結ばれるとそれまで、越後長尾景虎に属して戦っていた富岡秀親は、佐貫庄上郷五郷を由良家の手より取り戻すため後北条家に属するようになった。富岡秀親が後北条家に属したのは、佐野家との対立、強力な軍事力をもって戦国大名に成長した由良家に対抗するため、強力な後楯を必要としたためであった。1569年、富岡秀親は成田家との「古戸の戦い」で討死した。

富岡重朝【とみおかしげより(15??~1585)】

小山高朝の三男。富田秀信の養子。1569年、富岡秀親が討死すると後継ぎがおらず、家臣たちが相談して小山家から養子として富岡(小山)重朝を迎えた。武勇に優れた人物であった。1570年、北条氏政は富岡重朝の家督相続を祝し、祝儀として「太刀一腰一文字」を送っている。後北条家にとって、富岡重朝は東上州進出に重要な武将であった。

富岡秀朝【とみおかひでより(15??~1615)】

富岡重朝の男。1580年、武田勝頼によって小泉城下を焼討ちされた。1584年、北条家の館林城の攻撃で戦功があった。1590年「小田原の役」では北条家に属し館林城に籠城したが石田三成の攻撃を受け落城した。その後は松倉重政に仕えた。1615年「大坂夏の陣」で真田信繁勢と戦い討死した。

富岡新三郎【とみおかしんざぶろう(15??~15??)】

富岡枝連衆。1573年、佐野家との合戦で活躍。富岡六郎四郎ら数百騎とともに攻め込み、大貫伊勢守を討ったうえ、藤川方面にまで追撃をかけた。

富岡家臣団【とみおかけかしんだん】

富岡大学、富岡新三郎。

友松行実【ともまついくみ(15??~15??)】

小幡家臣。

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【な】

長野業正【ながのなりまさ(1491~1561)】

上野国群馬郡箕輪城主。長野憲業の男。武勇優れた武将で上州の黄斑と呼ばれた。山内上杉家の家臣として活躍するが、山内上杉家が越後に落ちた後は長尾景虎の支援により上州を維持武田家や北条家の攻撃を度々凌いだ。勇猛な家臣も多く最盛期は160,000~180,000石の支配領域を持ったが病には勝てず病死した。

長野業盛【ながのよしもり(1546~1563)】

長野業正の男。1561年、父長野業正の死後武田晴信の攻撃を度々受けた。1563年、力尽き落城自刃した。

長野正【ながのまさ(15??~15??)】

長野業正の長女。小幡信貞の正室。1560年、国峰城が小幡景純に奪われた為、小幡信貞ととこに武田晴信を頼って甲州に落ち延びたが翌年小幡信貞は国峰城を回復した。※「剣の天地」by池波正太郎

長野富【ながのとみ(15??~1561)】

長野業正の次女。小幡景純の正室。上泉秀綱より剣術を学んだ。1561年、国峰城落城の際には小幡信貞が武田勢とともに国峰城を奪還する際、夫小幡景純とともに白絹の女鉢巻と女鎧で身をかため薙刀をかこいこみ陣太刀を佩いて戦うが国峰城は落城し討死した。※「剣の天地」by池波正太郎

厩橋長野方業【ながのかたなり(15??~1560)】

群馬郡厩橋城主。長野憲業の男。1527年、惣社長尾顕景を兄長野信業とともに攻撃。

厩橋長野賢忠【ながのけんちゅう(15??~1560)】

長野方業の男。

中山安芸守【なかやまあきのかみ(15??~15??)】

岩櫃斎藤家臣。吾妻郡豪族。

名塚義冬【なづかよしふゆ(15??~15??)】

長野業正家臣。諜臣。※「剣の天地」by池波正太郎

根岸頼行【ねぎしよりゆき(15??~15??)】

佐位郡毛呂城代。官途は三河守。

沼田顕泰【ぬまたあきやす(1515~1569)】

利根郡沼田城主。山内上杉家臣。通称万鬼斎。上野八家。1529年、沼田城を築城。豪勇無双の武将と呼ばれた。1551年、山内上杉憲政が越後に落ち延びると沼田顕泰は北条家に従属した。長尾景虎の関東遠征が開始されると越後と上野往来の要所である沼田城は長尾景虎に属した。沼田顕泰は嫡子沼田朝憲を謀殺し側室の子である沼田景義を当主にしたが家臣の支持が得られず岩代国の芦名家を頼って落延びた。

沼田朝憲【ぬまたとものり(15??~15??)】

沼田顕泰の男。室の長野業政の娘との間に生まれる。

沼田景義【ぬまたかげよし(1552~1581)】

沼田顕泰の次男。1569年、父沼田景義を後継にしようとして沼田朝憲を謀殺した。これは当然家中の反発を招き、父子揃って会津へ逃れた。その後沼田城の奪還を画策し、それを察知した真田昌幸に討たれた。

沼田朝憲【ぬまたとものり(15??~1569)】

沼田顕泰の男。1569年、沼田景義の擁立をはかる父沼田顕泰によって謀殺された。

沼田家臣団【ぬまたけかしんだん】

久屋平六、岡谷平左衛門、鶴淵左衛門。

那波宗元【ななみむねもと(15??~15??)】

那波郡那波城主。

那波重行【ななみしげゆき(15??~1575)】

那波宗元の男。1560年、那波宗元が長尾景虎に降ったとき那波家を出奔した。武田晴信に仕え活躍した。1575年「長篠の戦い」で討死した。

那波顕宗【ななみあきむね(1548~1591)】

那波宗俊の男。室は厩橋城主北条高広の娘。上野先方衆で今村城主。那波家は鎌倉期以来の国衆で東上野赤石城を本拠としていたが、上杉謙信の攻撃によって没落。顕宗は謙信への人質とされ、厩橋城に置かれた。のち謙信に今村城主として取り立てられた。岳父北条高広に従って武田家に従属した、武田家滅亡後は織田家、北条家に従属するが、岳父北条高広の北条家からの離叛には同調せず、北条家への従属を維持した。小田原合戦によって没落、上杉家に仕えたが出羽仙北一揆鎮圧に際し嫡子那波元俊とともに討死した。

惣社長尾顕方【ながおあきかた(15??~15??)】

惣社城城主。山内上杉家臣。長尾景致の男。長尾顕忠の婿養子。官途は尾張守。通称孫五郎。室は長尾顕忠の娘。1509年、養父長尾顕忠の死により幼くして惣社長尾家の家督を相続する。関東管領山内上杉顕定の後継争いで伯父の成田顕泰と共に上杉顕実を支持し、武蔵の鉢形城に拠って山内上杉憲房と争うが横瀬景繁、長尾景長に敗北し、勝った上杉憲房によって家宰の地位を奪われて長尾景長に与えられる「永正の乱」。これ1524年、深く恨んだ長尾顕方は、北条氏綱に内応して謀叛を図るが、上杉憲房の後を継いだ上杉憲寛の命を受けた従兄で庶流の高津長尾顕景に攻められて当主の座も失った。

惣社長尾顕景【ながおあきかげ(15??~15??)】

惣社長尾家の庶流高津長尾定明の男。関東管領山内上杉顕定に仕えた。1510年、越後長尾為景との戦いに加わった父が「長森原の戦い」において顕定とともに討たれたため、その後を継ぐ。1524年、従弟で総社長尾氏当主の長尾顕方が山内上杉家の家宰職を足利長尾氏の長尾景長に奪われたことを恨んで北条氏綱と内応した。これを知った関東管領上杉憲寛によって長尾顕方は廃され、代わりに長尾顕景が当主となった。長尾顕景も白井長尾景誠とともに長尾為景と通じたため、1527年、上杉憲寛の命を受けた長野信業に攻められて降伏、出家して知龍斎元昶(ちりゅうさいげんえい)と名乗って家督を長尾景孝に譲った。

惣社長尾景孝【ながおかげたか(15??~15??)】

高津長尾家顕景の男。通称左衛門佐。高津家は父である長尾顕景の代に上野国守護代の地位を獲得した。1527年、長野家によって圧迫され、長尾顕景は幼児であった長尾景孝に家督を譲る。1545年、弟長尾景総に家督を譲った。

惣社長尾景房【ながおかげふさ(15??~15??)】

総社長尾顕景の男。通称は能登守。1545年、惣社長尾家の家督を相続した。1545年、兄長尾景孝より家督を譲られた。1566年、武田晴信の上野侵攻で総社の所領を失い、越後の越後長尾景虎の許へ逃れた。1569年、出家して長建と称した。

惣社長尾家臣団【そうじゃながおけかしんだん】

調査中。

白井長尾景誠【ながおかげのぶ(15??~15??)】

白井城主。白井長尾景英の男。山内上杉家臣。上野国守護代。父長尾景英の病没により、白井長尾家の家督を相続する。長野家の援助を受けつつも、総社長尾顕景や越後守護代長尾為景と軍事的に盟友関係を結んだ。家督を継いだ翌年、家臣によって討たれてしまう。長野業正の斡旋によって、跡を総社長尾家の長尾憲景が家督を相続した。

白井長尾憲景【ながおのりかげ(1511~1583)】

惣社長尾顕忠の男。白井長尾景誠の養子。官途は左衛門尉。通称孫四郎。総社長尾顕忠の男で、白井長尾景誠の養子となり、長尾景誠の横死後に長野業正の斡旋で当主となる。1567年、武田晴信の上野国侵攻で、白井の所領を失い、越後長尾景虎の許へ逃れた。その後は長尾景虎に従って各地を転戦後、白井城に復帰した。1572年、真田幸隆に白井城を攻められ、八崎城に落延びた。この際、次男長尾輝景に長尾家の家督を譲った。1573年「越相同盟」が結ばれ上野国への諸将の影響力が薄まったために白井城に戻る。長尾景虎の死後は「御館の乱」で長尾(北条)景虎に与したため、乱後は武田勝頼、滝川一益、後北条家に仕えた。

白井長尾輝景【ながおてるかげ(15??~1593)】

白井長男憲景の男。父長尾憲景の隠居により白井長尾家の家督を相続した。1582年、武田勝頼が織田信長に滅ぼされると、滝川一益と結んで白井城を奪還した。「本能寺の変」で織田信長が黄死すると、後北条家に属した。1583年、父長尾憲景が病没すると、北条氏政に出仕している次男白井長尾政景を当主に推す派が現れた。長尾政景と親北条派の家臣が長尾輝景派の家臣を謀殺すると、長尾輝景は親北条派家臣の出仕を停止するなど家中の緊張が高まった。1589年、長尾輝景が病気で倒れると、親北条派は強引に長尾輝景を隠居させて長尾政景を擁立した。1590年、羽柴秀吉の「小田原の戦い」により、白井長尾家は没落した。長尾輝景は越後長尾景勝を頼って落延びた。

白井長尾政景【ながおまさけげ(1573~1630)】

白井長尾憲景の次男。後北条氏家臣。1582年、兄長尾輝景の命によって後北条家の人質として小田原城に赴く。帰国後するも重臣である牧家の居城田留城を所望する。長尾輝景と牧家はこれを拒むが、長尾政景は親北条派の家臣達の支持を受けて独断で牧家一族を滅ぼして田留城を奪取た。1589年、兄長尾政景を隠居させて家督を奪った。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」後に白井長尾家は没落した。

白井長尾家臣団【ながおけかしんだん】

神庭三河守、飯塚大学。

長久保右内【ながくぼうない(15??~15??)】

小幡信貞家臣。小幡信貞の侍臣。※「剣の天地」by池波正太郎。

長根重清【ながねしげきよ(15??~1590)】

小幡家臣。1556年から石倉城を守った。1580年、膳城攻撃のさい討死した。

二階堂左衛門【にかいどうさえもん(15??~15??)】

赤井家臣。小曾根政義は毛呂季忠の密書を二階堂左衛門、始澤与四郎、入小屋上野、龍木右衛門三郎に見せ、毛呂征伐を計画した。

庭屋左衛門尉【にわやさえもん(15??~15??)】

小幡家臣。

野内成巌【のうちなりしげ(15??~15??)】

新田郡反町城主。横瀬家臣。官途は豊前守。

野内成道【のうちなりみち(15??~15??)】

野内成巌の男。官途は修理亮。

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【は】

羽尾景幸【はねおかげゆき(1481~1540)】

吾妻郡羽尾城主。官途は治部少輔。羽尾家の出自については、戦国期に海野幸棟の子海野景幸が羽尾治部少輔を名乗った。羽尾家は滋野姓海野家の分かれとして、大戸、真田家らとも同族。1533年、北条氏綱が快元僧都をして鶴岡八幡宮再建のための奉加を関東の諸将に求めたとき、羽尾家も奉加に応じている。

羽尾幸世【はねおゆきよ(1501~1563)】

羽尾景幸の男。1541年、羽尾家の本家筋にあたる海野棟綱が、武田晴信、村上義清らと戦い敗れ上州に落ちてきた。羽尾家はこれを受け入れ、保護を与えた。1560年、山内上杉憲政を庇護した越後長尾景虎が関東に出陣してきた。岩下衆(吾妻郡内の国人)の旗頭である岩櫃城主斎藤越前守と同一行動をとった。箕輪衆の旗頭は長野業政で、越後長尾景虎とともに山内上杉家を援けて、上野国の箕輪城に拠って甲斐の武田晴信、相模国の後北条氏康らの侵攻に対抗していた。1560年、羽尾幸世は、弟海野長門守幸光、海野能登守輝幸(上原能登守とも)や斎藤越前守と結んで鎌原家を攻めた。1562年、鎌原家は武田家から信濃国に領地を宛行われて退去した。 

羽尾幸全【はねおゆきぜん(1521~1563)】

羽尾幸世の男。

羽尾(海野)幸光【はねおゆきみつ(1526~1581)】

羽尾幸世の次男。官途は長門守。弟羽尾輝幸とともに羽尾家を離れて岩櫃城主斎藤憲広に属した。真田幸隆が岩櫃城を攻略するに当たって斎藤家を見限り内応した。 岩櫃城を真田方に落城させるきっかけをつくった。1581年、真田昌幸に羽尾幸光、羽尾輝幸、羽尾幸貞の3人は謀反の疑いをかけられ自刃した。

羽尾(海野)輝幸【はねおてるゆき(1532~1581)】

羽尾幸世の三男。官途は能登守。兄羽尾幸光とともに岩櫃城主斎藤憲広の属した。真田幸隆の岩櫃城攻めに際し、真田勢を手引きし臣従した。 真田昌幸の上州攻略の際には、沼田城留守居役を務めた。1581年、謀反の疑いをかけられ、自刃している。

早川田兵庫【はやかわだひょうご(15??~15??)】

赤井家臣。小曾根政義が毛呂季忠征伐のため挙兵すると、幼少の赤井照景を連れて白石豊前守のもとへ落延びた。板倉権八郎も同行した。

林高次【はやしたかつぐ(15??~15??)】

佐波郡赤石城主。横瀬家臣。官途は伊賀守。

林高瑞【はやしたかずい(15??~15??)】

林高永の男。林高次の養子。官途は近江守。

林高崇【はやしたかむね(15??~15??)】

新田郡矢嶋城主。横瀬家臣。官途は越中守。

林高膳【はやしたかぜん(15??~15??)】

林高崇の養子。

疋田景兼【ひきたかげかね(15??~1605)】

上泉秀綱家臣。疋田陰流槍術の開祖。通称文五郎。疋田文五郎は「剣聖」上泉伊勢守信綱の最古参の門弟であった。性格は明朗闊達、且つ根っからの剣術好きで、上泉も「彼は竹刀さえ持たせておけば機嫌が良い」とからかったりもした。それだけに技量は凄まじく、上泉は見知らぬ強敵の技量を見極める際には必ず疋田を立ち合わせた。その際、相手が木刀であろうと真剣であろうと竹刀で立ち向かった。疋田の技法は実戦的であり、しかしそれ故に、彼の剣技を見た徳川家康に「彼の剣技は優れているが、所詮足軽程度の技で、大将の習う剣技ではない」と師範役を断られてしまう事も有った。上泉信綱の死後、槍術を中心とした一流を立てた。羽柴秀吉に重用され、羽柴秀次の槍術師範に任命されたが、秀次の失脚によって出家。京洛を引き払って九州に移り、栖雲斎と称して細川家、加藤家の家臣に槍術を伝えた。1600年「関ヶ原の役」後大坂城に入り、羽柴秀頼の師範を勤めた。※「剣の天地」by池波正太郎。

藤井友忠【ふじいともただ(15??~15??)】

長野家臣。長野家筆頭家老。官途は豊後守。野戦の名手であり、箕輪城落城のときにわずかな兵を率いて城外に打って出て、攻め手の武田勝頼を討取る寸前まで迫ったが、背後に回った原胤元に討取られた。

藤生善久【ふじおよしひさ(1547~1590)】

山田郡伊達城代。横瀬家臣。官途は紀伊守。1573年、桐生家を相手にした戦いにて横瀬家の指揮をとり、戦勝をおさめる(桐生家はこの戦に破れ追放となる)。道原城主横瀬繁詮に仕えて城代を勤めた。智謀才学にすぐれた武将と称された。

淵名智宗【ふちなともむね(15??~15??)】

飯野城主。赤井家臣。赤井家七騎衆のひとり。栗田采女と飯野城を守るが、越後長尾景虎に攻め落とされる。後北条家に属した。1589年「小田原の役」後は居城を失った。

菱細川内膳【ほそかわないぜん(15??~15??)】

菱城主。室は、膳城主膳因幡守康道の妹。桐生祐綱の頃、桐生領はよく治まっていたが、桐生川の東、菱村を領していた。細川内膳を些細なことから滅ぼして問題を起こした。1544年、細川内膳の持ち馬の「小すずめ」という名馬を桐生祐綱が所望したが、細川内膳はこれを断ってしまった。これに腹を立てた桐生祐綱は、津府久常陸介に下菱の館を襲わせた。細川内膳は、抵抗したが城門を打ち破れれ自刃した。細川内膳は摂津国の幕府重臣細川家の庶流で、菱村を領する名家であった。

発知刑部【ほっちぎょうぶ(15??~15??)】

沼田家臣。※「まぼろしの城」by池波正太郎。

掘久十郎左衛門【ほりひさじゅうろうざえもん(15??~15??)】

赤井家臣。1572年、毛呂勢の小曽根館攻めにより、城外で応戦。しかし、味方は上田五郎兵衛、古山三郎兵衛、伊藤伝助、深野新八のみとなる。しかし、城内からの援軍により、毛呂勢を撃退することが出来た。

掘角弥八郎【ほりすみやはちろう(15??~15??)】

小曾根家臣。小曽根館にて物見役。1572年、毛呂勢が館に迫ったことに気づき、小曾根政義に報告した。

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【ま】

間下範宗【ましたのりむね(15??~15??)】

板倉城主。赤井家臣。官途は越前守。赤井家七騎衆のひとり。赤井家滅亡後は長尾顕長、後北条家と仕えた。1589年「小田原の役」後、常陸国に配流にされた。

松井義康【まついよしやす(15??~15??)】

邑楽郡千石岡山城代。官途は豊前守。

松井満秀【まついみつひで(15??~15??)】

新田郡高林城代。官途は豊後守。

妙印尼(輝)【みょうしょうあん(1514~1594)】

赤井照光の娘。横瀬(由良)成繁の室。1590年、横瀬国繁が後北条家とともに小田原城に籠城すると、横瀬家臣達は横瀬国繁の母である妙印尼を擁立して籠城した。

宮室甚蔵【みやむろじんぞう(15??~15??)】

小幡景純家臣。※「剣の天地」by池波正太郎

松本吉久【まつもとよしひさ(15??~15??)】

小幡家臣。

松本定吉【まつもとさだきち(15??~15??)】

小幡家臣。

森平策之進【もりひらさくのしん(15??~15??)】

小幡家臣。

毛呂季忠【もろすえただ(15??~1570)】

赤井照康家臣。官途は因幡守。赤井照景の補佐を命じられるが、これに謀反し、江口四郎三郎、土橋右京之進、赤城平九郎、梶原市十郎ら足軽大将とともに嫡男毛呂内膳を館林城主にしようとした。館林城を奪うが、謀反を察知した小曾根政義が赤井照景を落延びさせた。さらに援軍要請に応じた長尾顕長勢に攻められ、茂林寺住職らにより善長寺で和議を図ることになる。小曾根政義、長尾顕長はこの善長寺に兵を出し、毛呂季忠、内膳親子らを自刃させた。。

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【や】

八木原信忠【やぎはらただのぶ(15??~15??)】

長野家臣。

矢羽助信【やばねすけのぶ(15??~15??)】

横瀬家臣。

矢野山城守【やのやましろのかみ(15??~15??)】

白井長尾家臣。

山上氏秀【やまがみうじひで(15??~15??)】

山上城主。上野八家。

矢場国隆【やばくにたか(15??~15??)】

山田郡矢場城主。横瀬成繁の次男。1504年、矢場城を築いて移り、矢場家を称した。

矢場繁勝【やばしげかつ(15??~15??)】

横瀬成繁の次男。矢場国隆の養子。

吉崎角兵衛【よしざきかくべい(15??~1561)】

小幡景純家臣。

横瀬(由良)泰繁【よこせやすしげ(1486~1545)】

横瀬景繁の男。岩松家臣。岩松昌純に仕え、筆頭家老として専権を振るった。このため岩松昌純によって排斥される陰謀を企てられたが、横瀬泰繁は逆に岩松昌純を謀殺して、その嫡男岩松氏純を岩松家の当主に擁立し、岩松家重臣の小金井繁光、沼尻大膳と盟約を結んだ。1528年、岩松家から新田金山城を奪い、姓を横瀬から由良に改めた。1545年「壬生の戦い」で討死した。

横瀬(由良)成繁【よこせなりしげ(1506~1578)】

横瀬泰繁の男。官途は信濃守。室は館林城主赤井重秀の娘輝子(妙印尼)。横瀬家の領国である上野国は、武田家、越後長尾家、山内上杉家、古河公方足利家、後北条家と周囲を強大な勢力に囲まれており、横瀬成繁はいずれかの勢力に属して生き残りを図った。当初、関東管領山内上杉家に属したが、山内上杉憲政は越後長尾家のもとに落延び没落。その後、後北条家、長尾景虎、再度後北条家と次々と所属勢力を変えた。1569年、北条氏康のもとで、北条氏康と長尾景虎の「相越同盟」の成立に、長尾当長と共に貢献した。1573年、館林城を陥落させ、後桐生家の居城である柄杓山城を落として桐生家を滅ぼす。1574年、居城であった金山城を息子国繁に譲り、柄杓山城に隠居した。そして鳳仙寺を建立し城下町を整備するなど善政を敷いた。1584年、室の妙印尼は金山城が北条家に攻撃された際、71歳で篭城戦を指揮した女傑である。

横瀬(由良)国繁【よこせくにしげ(1550~1611)】

横瀬成繁の男。官位は信濃守。通称は新六郎。室は結城晴朝の娘。1574年、父横瀬成繁の隠居により横瀬家の家督を相続した。1584年、関東に派遣された織田信長家臣滝川一益に仕えたが、滝川一益が「神流川の戦い」に敗れて関東を去ると後北条家に仕えた。1584年、後北条家の命により、上野国金山城から柄杓山城(桐生城)に移封した。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、横瀬国繁は羽柴勢に与しようとしたが、後北条家に脅迫されて小田原城に籠もることを余儀なくされた。しかし、嫡男横瀬貞繁と母妙印尼が羽柴秀吉に与して功を挙げたことにより、後北条家滅亡後は罪を問われず、羽柴秀吉の家臣として仕えた。戦後、妙印尼は秀吉から常陸国牛久城において5,4000石余の所領を安堵された。羽柴秀吉の死後は松平元康に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では、江戸城の守備を命じられた。戦後、下総国相馬郡内1,600石余の加増を受け、都合7,000石余を領した。

横瀬(由良)貞繁【よこせさだしげ(1574~1621)】

由良国繁の男。室は近藤秀用の娘。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、父横瀬国繁は北条家に脅迫されてやむなく小田原城に籠もることを余儀なくされたが、祖母の妙印尼輝子が横瀬貞繁を大将として、総勢200の兵を集め上野国松井田城を攻撃していた前田利家の陣へと参陣しこれに従軍した。この活躍で妙印尼は上総国牛久城5,000石を領した。横瀬(由良)家は滅亡を免れた。その後安堵された領地は横瀬国繁が継いだ。その後横瀬貞繁は松平元康に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では、永井直勝の部隊に属して出陣。1615年「大坂夏の陣」では土井利勝に従って参陣したが「鴫野口の戦い」で負傷した。

横瀬長繁【よこせながしげ(15??~15??)】

山田郡今泉城主。横瀬家臣。官途は掃部。

横瀬成高【よこせなりたか(15??~15??)】

横瀬長繁の男。

吉里対馬守【よしさとつしまのかみ(15??~15??)】

白井長尾家臣。1533年、後北条家主導による鶴ヶ岡八幡宮再建の寄進に応じた。

吉里備前守【よしざとびぜんのかみ(15??~15??)】

白井長尾家臣。1585年、吉里備前守は沼田城の真田昌幸との「津久田の戦い」で戦功を挙げ、北条氏政から賞された。白井長尾憲景からの重臣で長尾輝景が備前守の嫡男と矢野山城守の弟の出仕を停止したことに対して抗議を行なった。

寄井三郎兵衛【よりいさぶろびょうえ(15??~15??)】

赤井家臣。毛呂季忠の謀反の密書を受け取る。

和田光久【わだみつまさ(15??~15??)】

沼田顕泰家臣。※「まぼろしの城」by池波正太郎。

和田光政【わだみつまさ(15??~15??)】

和田光久の男。沼田顕泰家臣。※「まぼろしの城」by池波正太郎。

和田信輝【わだのぶてる(15??~1538)】

群馬郡和田城主。和田勝政の男。山内上杉家臣。室は長野業正の姉。1538年「河越の戦い」で討死した。

和田業繁【わだなりしげ(15??~1575)】

和田信輝の男。通称八郎。官途は右衛門大夫。室は長野業正の娘。長野業正らとともに武田晴信の上野侵攻を防いだ。1560年、武田晴信に降り、西上野衆として騎馬三十騎持。1563年、越後長尾景虎の攻撃を受けるが撃退し、武田方の防塁となっていた。1575年「長篠の戦い」に武田方として参戦し、武田信実に麾下として「鳶ノ巣砦の戦い」で酒井忠次隊と激しい争奪戦を繰り広げたが負傷して敗走、信濃駒場に至り死去した。「鳶ノ巣砦の戦い」で負傷した和田業繁と嗣子和田信業を救出した家臣(秋山逢殿助、松本九郎兵衛、栗原内記、真下下野、大沢備後、福島嘉兵衛、長嶋因幡)らを、矢中七騎(和田七騎)と称された。

和田信業【わだのぶなり(15??~15??)】

和田業繁の男。官途は右衛門大夫。最初、父和田業繁と同様長野業正と協力して武田晴信の上野国侵入を防ぐ。その後父とともに武田家に降って「長篠の戦い」で活躍する。1582年、武田家の滅亡後はにより織田方滝川一益の麾下となった。「本能寺の変」が起こり「神流川の戦い」に滝川一益は大敗、以後は後北条家に属した。1589年「小田原の役」でも後北条方にあったが落城により紀伊国に逃れた。

和田家臣団【わだけかしんだん】

長竹昌基、反町大膳、秋山逢殿助、松本九郎兵衛、栗原内記、真下下野守、大沢備後守、福島嘉兵衛、長嶋因幡守。

渡瀬繁詮【わたらせ しげあき(1555~1595)】

由良成繁の次男。後北条家臣。室は有馬則頼の娘。1590年、後北条家が「小田原の役」で没落すると、中央に上って羽柴秀吉の家臣となり、紀伊国秀吉の「千石堀城の戦い」などで活躍した。その後、羽柴秀吉の命で羽柴秀次付の家老となる。1595年「羽柴秀次切腹事件」に連座して改易されたうえ、切腹を命じられた。 嫡男がいたが遺領の相続は許されず、家臣で義弟(正室の弟)にあたる有馬豊氏が領地と家臣団を継承した。これは領内悪政のためと言われる。

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【資料Ⅰ】

上野国(14郡/420,000石)

碓氷郡:安中城、松井田城。
片岡郡:高崎城。
甘楽郡:国峰城。
多胡郡:片山城。
緑野郡:平井城。
那波郡:厩橋城、那波城。
群馬郡:箕輪城。
吾妻郡:岩櫃城。
利根郡:沼田城、名胡桃城。
勢多郡:山名城。
佐位郡:赤堀城。
新田郡:金山城。
山田郡:桐生城、矢場城。
邑楽郡:館林城。

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【資料Ⅱ】

吾妻郡七騎衆【あずまぐんななきしゅう】

富沢伊予守、唐沢玄蓄、富沢伊賀守、富沢豊前守、割田下総守、浦野平兵衛、蜂須賀伊賀守。

矢中七騎衆【やなかななきしゅう】

秋山逢殿助、大沢備後守、栗原内記、長嶋因幡守、福島嘉兵衛、真下下野守。※「長篠の戦い」で活躍した武田方上野矢中郷の地侍衆。「和田七騎」とも呼ばれている。

倉賀野十六騎馬衆【くらがのじゅうろっきしゅう】

金井小源太、福田加賀守、富田伊勢守、須田大隈守、田沼庄衛門。

上野国八家【うえのこくはっけ】

山上氏秀、小幡憲重、桐生助綱、白倉家重、大胡勝行、沼田顕泰。

赤井家七騎衆【あかいけななきしゅう】

白石久盛、片見師方、間下範宗、朝羽秀綱、淵名智宗、富田吉晴、富田重朝。

長野家十六人衆【ながのけじゅうろっきしゅう】

上泉秀綱、長野主膳、藤井正安、青柳忠家、白川満勝、大道寺信方、岸信保、多比良守友、高山満重、白倉左衛門宗任、上田又次郎政広、倉賀野淡路守照時、和田業繁、和田兵部介、後閑信純、長根左馬介、大戸豊後守。

長野家城詰四家老【ながのけよんかろう】

下田大膳太夫正勝、内田因幡守頼信、大熊備中守高忠、八木原下総守信忠。

横瀬家四家老【よこせけよんかろう】

野内成巌、大沢政道、林高次、林高崇。

膳家四家老【ぜんけよんかろう】

斎藤右近、鶴貝玄蕃、野村弾正、関口友之助。

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【資料Ⅲ】

上野国【うえのこく】

関東地方の北部に位置する東山道の国。北は陸奥国、越後国、西は信濃国、東は下野国、南は武蔵国と周囲を他国に囲まれた内陸国である。北は越後山脈、西は白根山、浅間山、南は妙義山などの山に囲まれた地形で、山地は国土の七割以上を占める。東南部には関東平野に続く平地が開かれているが、榛名山、赤城山といった山地を国内に持つために、農業に適しているとはいえず、平野部の農地も水田は少なく畑が多くなっている。国の中央を流れる利根川は西流して武蔵との国境を形成する。周囲を山に囲まれた典型的な内陸性気候で寒暖の差が激しく、雷と強風で名高く、気候温順とは言えない。古来より名馬の産地と知られ、鎌倉時代には新田家をはじめとする東国武士団の根拠地として名を馳せた。

浅間山【あさまやま】

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

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※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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