2010年11月19日金曜日

戦国南信濃国人名辞典


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【あ】

赤須清玄【あかすせんげん(15??~15??)】

伊那郡赤須城主。片切家枝連衆。赤須清玄は、武田晴信に属した。1582年、織田信忠勢の「大島城の戦い」で討死した。

上松義豊【あげまつよしとよ(15??~1600)】

木曾義康家臣。木曾義康の次男。兄木曾義昌が武田勝頼を裏切り織田信長に付いた際には、人質として上松義豊が織田信忠の家臣菅屋長頼の元へ送られた。その後、甥木曾義利が、木曾家の家督を相続した。1600年。木曾義利は叔父上松義豊とは折り合いが悪く、仲は険悪だった。そのため、木曾義利によって謀殺された。木曾義利は、松平元康の怒りを買い、木曾家は改易となり10,000石は没収された。

有賀泰時【ありがやすとき(15??~1546)】

諏訪郡有賀城主。諏訪頼重家臣。1542年、高遠頼継が挙兵すると武田晴信に属した。1546年、木曾義昌に通じたとして武田晴信に討たれた。

飯島為政【いいじまためまさ(15??~15??)】

伊那郡飯島城主。1532年、飯島為政は武田晴信の「伊那郡侵攻」に対して松尾城主小笠原信定に属して、武田晴信勢を迎え撃った。1554年、知久頼元の神之峰城が落城すると伊那郡の諸将士は動揺し、武田晴信勢に降る者、あるいは国外に逃亡する者などに分かれた。飯島為政は、片切為房らと共に武田晴信に降った。伊那部重親、宮田親房、殿島重国の三家は武田晴信に滅ぼされ、飯島為政、片切為房、上穂重清、赤須清玄、大嶋の五人衆らは武田晴信に降り、五人合して五十騎の軍役に服し信州先方衆の一翼を担った。1567年、生島足島神社において飯島大和守為方は武田晴信に起請文を出し、飯島為政は片切為房、伴野三衛門と連名の起請文を差し出した。

飯島重家【いいじましげいえ(15??~1582)】

飯島為政の男。1582年、織田信長の「武田家討伐」で、飯島城は落城、飯島重家は高遠城で討死した。飯島家は「大塔合の戦い」や「高遠城の戦い」などに参加。その後は松平元康の家臣井伊直政に属した。その後、織田信長が「本能寺の変」で討死すると、飯島家の支族で山県衆であった飯島作右衛門大尉、原隼人正衆の飯島作三郎、その他飯島伝三郎、飯島宮内大輔らは松平元康に帰属し、飯島右馬助、飯島弥兵衛らは小笠原家臣となった。

飯島家臣団【いいじまけかしんだん】

片切為房、判野三衛門。

岩間為遠【いわまためとう(15??~15??)】

伊那郡岩間城主。片切家臣。1582年、織田信忠勢の「大島城の戦い」で討死した。

埋橋多賀茂【うずはしたがもり(15??~1582)】

伊那郡埋橋城主。1582年、埋橋多賀茂は織田信長勢侵攻による「高遠城の戦い」で討死した。

上穂重清【うわぶしげきよ(15??~15??)】

伊那郡上穂城主。官途は伊豆守。藤沢頼親に属した。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が、川中島で越後長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日(伊那部)重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反した。上穂重清は福与城に籠もって武田晴信に抵抗したが落城とともに降伏した。枝連衆の上穂重勝は大島城で討死にした。戦後狐島で磔にされた。

鈴岡小笠原信定【おがさわらのぶさだ(1521~1569)】

伊那郡鈴岡城主。小笠原長棟の次男。官途は民部大輔。通称孫次郎。分家である松尾小笠原家に対抗するため父と兄により派遣され、鈴岡小笠原家を再興する。兄小笠原長時が敗北した後も、伊那地方に拠り抵抗を続けた。1554年、武田晴信の伊那侵攻の前に敗れた。兄とともに三好氏を頼り、その客将となる。1569年、三好家一族と共に足利義昭を本国寺に襲撃するも敗れ、小笠原信定は討死した。

鈴岡小笠原長継【おがさわらながつぐ(15??~15??)】

小笠原信定の男。官途は山城守。通称孫左近。小笠原頼貞の養育を受け、小笠原貞慶に仕えて侍大将を務めた。1582年、日岐盛武拠る日岐城攻めに参陣した。1583年、信濃進出を図る越後長尾家に対抗して安曇郡に出兵、保科正直拠る伊奈高遠城攻めなどに活躍した。1583年、塔原城にあった海野家の旧領を領した。

松尾小笠原貞忠【おがさわらさだただ(15??~1534)】

伊那郡松尾城主。1493年、松尾小笠原定基が鈴岡小笠原政秀を討った。鈴岡小笠原政秀の男、鈴岡小笠原長貞も討たれたためこの家系は断絶となった。鈴岡小笠原政秀の室は小笠原家伝来の家宝などを持って逃れ、その没後は下条時氏が家宝などを守った。1534年、深志小笠原長棟が松尾小笠原貞忠を討ち、小笠原家の内乱に終止符を打った。

松尾小笠原信貴【おがさわらのぶたか(15??~15??】

小笠原貞忠の男。本家の小笠原長棟と対立。伊那郡に武田晴信侵攻すると武田家に属して、信濃先方衆として活躍した。1562年、松尾小笠原信貴の領地を坂西長忠が押領したため、松尾小笠原信貴によって武田晴信に訴えた。坂西長忠は武田晴信勢と松尾小笠原信貴勢に攻められ、多勢に無勢で城を脱出して木曾谷に逃れようとしたが捕捉され坂西家枝連衆を、ことごとく討取った。武田晴信の元では山県昌景隊に属し、伊奈先鋒衆100騎を預った。

松尾小笠原信嶺【おがさわらのぶみね(1547~1598)】

小笠原信貴の男。父小笠原信貴と同様に武田晴信麾下の信濃先方衆として働いた。武田晴信の病没後も引き続き武田勝頼に仕えて、遠江方面の要衝を守備した。1582年、織田信長の「武田家討伐」が始まると降伏した。織田信長が「本能寺の変」で討死したため、松平元康に属し、酒井忠次の家臣として各地を転戦、松尾城などの知行を安堵された。1584年、下条頼安を誘殺するなど支配力の強化にも努めた。

松尾小笠原信巨【おがさわらのぶこま(15??~1582)】

小笠原信貴の次男。伊豆木城主。別名伊豆木美作守。1582年、織田信長の「武田家討伐」により小笠原信巨は討死した。

荻原元忠【おぎわらもとただ(15??~15??)】

木曾義康家臣。

小田切正則【おだぎりまさのり(15??~15??)】

下伊那郡の国人衆。藤沢頼親家臣。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が、川中島で越後長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

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【か】

春日重慶【かすがしげよし(15??~15??)】

伊那郡春日(大島)城主。官途は大和守。別名伊那部重慶。

春日重成【(15??~15??)】

春日重慶の男。官途は但馬守。

春日重親【かすがしげちか(15??~1556)】

春日重成の男。通称左衛門尉。高遠頼継に属したが、高遠家が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1546年、武田晴信は上伊那郡北部に侵攻した。福与城主藤沢頼親は籠城し抵抗するが、小笠原長時は龍ヶ崎城に、その弟小笠原信定は春日城に入って福与城を支援した。武田晴信勢が龍ヶ崎城を攻撃し、小笠原長時が敗退したことから援軍を絶たれた藤沢頼親は、弟権次郎を人質に出して和睦した。伊那の緒衆も軍門に降った。1556年、武田晴信が、川中島で越後長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

春日昌吉【かすがまさよし(15??~15??)】

春日家枝連衆。官途は河内守。1556年、武田晴信に、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされると、春日昌吉が春日(大島)城主に任じられた。

春日昌義【かすがまさよし(15??~15??)】

春日昌吉の男。官途は河内守。1582年「武田家討伐」では、織田信忠勢が50,000余りが伊那路、木曾路から伊那郡に侵入した。春日城主春日昌義は織田信忠勢の攻撃を受け落城、そのまま部下と共に高遠城に入り、仁科盛信と共に善戦したが激戦の末、全員討死した。

片切久信【かたぎりひさのぶ(15??~15??)】

伊那郡葛島城主。1533年、武田晴信の「伊那侵攻」に際しては、他の伊那衆とともに松尾の小笠原信定に属して武田勢を迎え撃った。1554年、武田晴信が再び伊那郡に侵攻し、知久頼元が屈服すると、伊那郡の諸将士は動揺し、武田晴信勢に降る者あるいは国外に逃亡する者などに分かれた。
春日重親、宮田親房、殿島重国の三家は武田晴信に滅ぼされ、飯島為政、片切為房、上穂重清、赤須清玄、大嶋の五人衆らは武田晴信に降り、五人合して五十騎の軍役に服し信州先方衆の一翼を担った。1567年、生島足島神社において飯島大和守為方は武田晴信に起請文を出し、飯島為政は片切為房、伴野三衛門と連名の起請文を差し出した。1575年、武田勝頼が「長篠の戦い」で大敗を喫すると武田家の勢力圏は急速に後退した。1582年、織田信長は「武田家討伐」の軍を起こした。織田信長は嫡男織田信忠を大将に命じて伊那郡に兵を進めた。これに対して、片切隼人正昌為は織田信忠勢を迎え撃ち枝連衆の片切信正と岩間為遠と共に「大島城の戦い」で討死した。

片切信正【かたぎりのぶまさ(15??~1582)】

伊那郡葛島城主。片切家臣。1582年、織田信忠勢との「大島城の戦い」で討死した。

金刺昌春【かなさしすまさはる(15??~15??)】

山吹城主。金刺興春の男。諏訪下社大祝職。1518年、諏訪頼満の攻撃を受け、甲斐の武田信虎を頼って逃亡した。これにより諏訪下社と諏訪上社が統一された。1528年、武田信虎は金刺昌春を擁して諏訪郡に侵攻、諏訪頼満と神戸堺川に戦うが敗北した。

唐沢義景【からさわよしかげ(15??~15??)】

伊那郡唐沢城主。片切家臣。1534年、唐沢城は、西箕輪から転封した唐沢義景が築城した。

木曾義在【きそよしあり(1493~1558)】

筑摩郡木曾福島城主。木曾義元の男。1504年、父木曾義元は、飛騨国の姉小路家が木曾侵攻を行った際に討死した。幼年期に父を失った木曾義在は叔父木曾義勝の後見を受けながら成長した。1542年、木曾義康に家督を譲り黒川口松島に隠居するが、隠居後にも政務に関与した。木曽材木販売、中山道の整備領内の内政を行った。

木曾義康【きそよしやす(1514~1579)】

木曾義在の男。官途は中務大輔。1542年、木曾家の家督を相続した。1542年、武田信虎の追放で揺れる武田晴信の甲斐国へ村上義清、深志小笠原長時、諏訪頼重と共同で侵攻したが大敗した。1549年、侵攻して来た武田晴信勢を鳥居峠にて撃退した。1554年、南信侵攻においては東美濃恵那郡の国衆遠山景前も武田晴信に帰属しており、美濃国の長井規秀との関係悪化を招いた。1555年、長井規秀、織田信長による遠山領侵攻が行われ武田晴信は援軍派兵、和睦交渉を行っており、木曾義康は東美濃の情勢を武田晴信に伝えた。以後は美濃国、飛騨国の国境を守る武田家親族衆として木曾郡を治めた。

木曾義昌【きそよしまさ(1540~1595)】

木曾義康の男。官途は伊予守。室は武田晴信の娘(真理姫)。隣接する美濃国、飛騨国との国境地帯を押さえていたため、武田晴信は木曾義昌に三女(真理姫)を娶らせ、親族衆として木曾郡を安堵した。木曾家臣や親族を甲府に人質として置き、武田家の属国化を余儀なくされた。1575年「長篠の戦い」で敗れると、武田勝頼は新府城を築城するが、木曾義昌は賦役増大と重税に不満を募らせたせた。1582年、美濃国恵那郡岩村城主遠山友忠を通じて織田信長に降った。武田勝頼は人質だった木曾義昌の嫡男木曾千太郎、長女岩姫を処刑、木曾郡に兵を進めた。織田信長は「武田家討伐」を起こした。武田勝頼勢は木曾谷に侵攻できず敗退した。1982年、武田勝頼が討死すると、織田信長より筑摩郡の本領安堵と安曇郡で加増を受けた。「本能寺の変」で、織田信長が討死すると、深志の旧領主小笠原貞種が越後国の長尾景勝の助勢を得て旧臣らに蜂起し木曾義昌は深志城を奪われ、本領木曽福島城へ撤退した。木曾義昌は松平元康と盟約を結び、再度安曇、筑摩両郡および木曾谷安堵の約定を得た。1584年、松平元康と羽柴秀吉との対立をうけて木曾義昌は、次男木曾義春を人質として羽柴秀吉に属した。松平元康は、妻籠城を攻撃したが木曾義昌勢は撃退した。1590年、松平元康の関東転封に伴い下総国阿知戸城10,000石を領した。この転封によって精神的にも経済的にも逼迫した木曾義昌は、失意のままに同地で病没した。

木曾千太郎【いそせんたろう(15??~1582)】

木曾義昌の男。母は武田晴信の娘(於真理)。1582年、父木曽義昌が織田信長に属すと、武田勝頼に人質だった木曾義昌母娘三人とともに処刑した謀殺された。
 
木曾義利【きそよしとし(1577~1640)】

木曾義昌の三男。1595年、木曾家の家督を相続した。叔父上松義豊を謀殺したため改易された。

木曾義春【きそよしはる(15??~15??)】

木曾義昌の次男。通称長三郎。
 
木曾義辰【きそよしたつ(15??~15??)】

木曾義利の男。官途は玄蕃充。

木曾家臣団【きそけかしんだん】

野尻家益、野尻家秀、西牧満兼、西牧貞兼、西牧満忠、大矢友重、大矢友則、西野友重、古根義胤、古根義正、古根義照。

北原彦右衛門【きたはらひこざえもん(15??~15??)】

保科家老臣。※『槍弾正の逆襲』by中村彰彦

木下惣蔵【きのしたそうぞう(15??~15??)】

木下(箕輪)城主。藤沢頼親から養子(藤沢重時)を迎えた。

黒河内政信【くろかわうちまさのぶ(15??~15??)】

下伊那郡の国人衆。通称隼人。藤沢頼親家臣。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が、川中島で越後長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

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【さ】

桜井重久【さくらいしげひさ(15??~15??)】

伊那郡中島城主。高遠頼継に属していたが、のちに武田晴信に降った。

桜井茂八郎【さくらいもはちろう(15??~1582)】

伊那郡叶尾城主。1582年、織田軍の「武田家討伐」の「高遠城の戦い」で討死した。

座光寺頼近【ざこうじよりちか(15??~15??)】

伊那郡座光寺城主。知久頼元家臣。座光寺頼近は松岡城主松岡頼貞や神之峰城主知久頼元の麾下に属した。1542年、武田晴信が伊那に侵攻すると、伊那の諸将とともに武田晴信に属した。

座光寺貞信【ざこうじさだのぶ(15??~1555)】

座光寺頼近の枝連衆。1552年「第一次川中島の戦い」を、終えて伊那郡代秋山信友に対して、知久頼元、座光寺貞信らの下伊那衆は神之峰城に籠って叛旗を翻した。1553年、武田晴信は自ら兵を率いて伊那郡神之峰城を攻撃し叛乱を鎮圧、座光寺貞信は生け捕りとなった。1555年、河口湖で処刑されました。

座光寺貞房【ざこうじさだふさ(15??~15??)】

座光寺頼近の枝連衆。通称三郎左衛門尉。

座光寺為時【ざこうじためとき(1551~1643)】

座光寺為清の男。官途は内膳。通称九兵衛。武田晴信が伊那郡に侵攻すると、武田家に属した。1582年、武田勝頼の滅亡後は松平元康に仕えた。1590年「小田原の役」後、松平元康が関東に転封されると上野国碓氷郡大竹館950石を領した。1600年「関ヶ原の役」の際には松平秀忠に属して「第二次上田城の戦い」に参陣し、真田昌幸勢に奮戦した。役後、旧領の信濃国山吹城1,000石を領した。のちに410余石加増された。

沢重信【さわしげのぶ(15??~15??)】

諏訪郡粟沢城主。諏訪頼重家臣。諏訪頼重没後、武田晴信に仕えた。

沢房重【さわふさしげ(15??~15??)】

沢重信の男。官途は長門守。茅野房清と共に松平元康の許へ諏訪頼忠の使者として赴いた。茅野房清と共に松平元康の前に召された。

沢外記【さわげき(15??~15??)】

諏訪頼重家臣。沢外記は諏訪頼重没後、武田晴信家に仕えた。

島崎重綱【しまざきしげつな(15??~15??)】

妻籠城主。木曾家臣。

島崎重通【しまざきしげみち(15??~15??)】

島崎重綱の男。1584年、南信濃国と美濃国を結ぶ要地、妻籠城を守備した。松平元康方の菅沼定利、諏訪頼忠、保科正直の軍に攻められ落城した。

下条家氏【しもじょういえうじ(15??~1534)】

伊那郡吉岡城主。下条家は甲斐国巨摩郡下条から興った武田家の庶家、室町時代中期に小笠原家から養子が入り、信濃下伊那郡へ入国した。

下条時氏【しもじょうときうじ(15??~1555)】

下条家氏の男。松尾小笠原家を攻略し伊那谷西南部一帯を支配した。天文年間に本格化した武田晴信の「信濃侵攻」においても反武田家勢に加わった。1554年、鈴岡城攻略前後に武田晴信に属して、知久家領を与えられた。

下条信氏【しもじょうのぶうじ(1529~1582)】

下条時氏の男。官途は伊豆守。通称兵庫助。室は武田信虎の娘。1555年、下条時氏の病没により家督を相続した。下条信氏は秋山信友の麾下となり、信濃先方衆として戦功を挙げた。1557年「三河国武節城の戦い」に参陣した。1571年、足助城番を務めた。1572年、美濃国岩村城番を務めている。1582年、織田信長による「武田家征伐」が始まると、吉岡城は織田方河尻秀隆や森長可らに攻められ、弟下条氏長が織田信長勢に内応したため落城し、下条信氏は嫡男下条信正と共に三河国に落ち延びた。

下条氏長【しもじょううじなが(15??~15??)】

下条氏時の次男。1582年、織田信長による「武田家征伐」が始まると、下条氏長は織田勢に内応したたに落城吉岡城は落城した。

下条信正【しもじょうのぶまさ(1552~1582)】

下条信氏の男。1582年、織田信長の「武田家討伐」が始まると吉岡城に籠城するが叔父下条氏長が織田方に内通したため落城した。父下条信氏と三河国に落延びたがまもなく病没した。

諏訪頼満【すわよりみつ(1473~1539)】

諏訪郡上原城主。諏訪政満の次男。諏訪大社大祝職。官途は安芸守。通称碧雲斎。室は武田信虎の娘。1483年、枝連衆の諏訪継満(大祝家)、金刺興春(諏訪下社)、高遠継宗らの謀反によって父諏訪政満と兄諏訪宮若丸を謀殺れたため十歳で諏訪家の家督を相続した。1518年、金刺昌春を萩倉城に攻めて甲斐国に追放し、高遠頼継を降伏させて諏訪郡を統一した。1528年、神戸境川において武田信虎勢を撃破し、積極的に領国を拡大した。諏訪家の最盛期を築き上げ内政、外交、軍事に渡って優れた手腕を発揮し「諏訪家中興の祖」と称された。1530年、嫡男諏訪頼隆が病没したため、嫡孫諏訪頼重に家督を譲って出家して碧雲斎と称した。1531年、甲斐国人領主らを後援した「河原辺の戦い」では敗退した。1535年、武田信虎と和睦しその娘を諏訪頼重の室とした。1539年、背中に出来た腫瘍の悪化によって病死した。

諏訪頼隆【すわよりたか(1499~1530)】

諏訪頼満の男。官途は刑部大輔。父諏訪頼満に諏訪大社大祝職を譲られて大祝となったが、嫡男諏訪頼重が誕生すると、1520年に大祝を頼重に譲っている。隣国の甲斐において武田信虎が台頭するとこれと対立し、信虎の諏訪侵攻を撃退し、のちに信虎が家臣の今井氏や飯富氏らと対立すると、父と共に出陣し、反信虎勢力を支援した。1530年に父に先立ち没した。

諏訪満隣【すわみつちか(1500~1582)】

諏訪頼満の次男。官途は伊豆守。通称新太郎。別名竺渓斎。諏訪家の枝連衆として重用された。1542年、甥諏訪頼重が武田晴信によって攻められると抗戦するが敗れて降伏した。高遠城主高遠頼継が諏訪で反乱を起こすと武田晴信に属して討伐に参陣した。以後も武田晴信に従った。1582年「武田家討伐」では、嫡男諏訪頼豊が討死し、武田勝頼も滅亡するが、次男諏訪頼忠を擁立して諏訪家再興を目指した。

諏訪満隆【すわみつたか(15??~1546)】

諏訪頼満の三男。官途は薩摩守。兄諏訪満隣と共に甥諏訪頼重を支えた。諏訪頼重が武田晴信によって攻められると抗戦するが敗れて降伏した。
1542年、諏訪郡での復権と諏訪の総領家を目論んだ高遠頼継と矢島満清が反乱を起こすと討伐に参陣して高遠頼継、高遠頼宗を攻めた。1546年、武田晴信と諏訪御寮人との間に生まれた諏訪勝頼(武田勝頼)の諏訪家継承が決定すると、不満を抱いて反乱を起こしたが鎮圧され自刃を命じられた。

諏訪頼重【すわよりしげ(1516~1542)】

諏訪頼隆の男。官途は左近大輔。室は武田信虎の三女(禰々姫)。側室は麻績家の娘(華蔵院)。1520年、諏訪大祝職に就任した。1539年、祖父諏訪頼満の病没により諏訪家の家督を相続した。1540年、室に武田信虎の娘を迎えた。1541年、武田信虎、武田晴信による佐久海野家攻めには村上義清とともにこれに協力した。1541年、武田信虎は息子武田晴信により武田家の家督を奪われ駿河に追放させた。武田晴信は諏訪家との友好関係を改め諏訪郡に侵攻した。武田晴信は高遠城主頼高遠継と語らい諏訪家を挟撃した。諏訪頼重は桑原城に籠城したが精強を誇った諏訪家臣団も敗色濃厚な諏訪家に味方せず落城した。

諏訪頼高【すわよりたか(1528~1542)】

諏訪頼隆の次男。通称勝三郎。1538年、兄諏訪頼重の命により、叔父の諏訪頼寛から諏訪大社大祝を継承した。1542年、武田晴信の諏訪郡に侵攻に抗戦するが敗れて降伏した。その後も諏訪に残るが、禰宜太夫の矢島満清の讒言にあい、甲斐国に送られて自刃させられた。

諏訪頼豊【すわよりとよ(15??~1582)】

諏訪満隣の男。官途は越中守。通称新六郎。1542年、諏訪家滅亡後、弟諏訪頼清と共に武田晴信に仕えた。1582年、織田信長による「武田家討伐」の際、鳥居峠において織田信長勢と戦って討死した。諏訪頼清も高遠城に籠城、落城と共に討死した。

諏訪頼清【すわよりきよ(15??~1582)】

諏訪満隣の次男。1542年、諏訪家滅亡後、兄諏訪頼豊と共に武田晴信に仕えた。1582年、織田信長による「武田家討伐」の際、高遠城に籠城、落城と共に討死した。

諏訪頼忠【すわよりただ(1536~1605)】

諏訪満隣の三男。官途は安芸守。1542年、諏訪家滅亡後高遠頼継の諏訪郡撤退により諏訪頼忠が大祝職を相続したが諏訪郡から退去した。1582年「本能寺の変」により信濃国が空白地になると高島城に復帰した。「信濃攻略」を進める松平元康に属したが酒井忠次と対立、甲斐国に後北条氏政が侵攻すると北条家に好を通じ、北条家は大道寺政繁を派遣するなど松平元康対立したが、和睦して松平元康に属した。

諏訪頼水【すわよりみず(1570~1641)】

諏訪頼忠の男。官途は因幡守。室は本多康重の娘(貞松院)。1577年、父諏訪頼忠から諏訪大社大祝職を譲られた。父諏訪頼忠と共に甲府で松平元康に拝謁し、本多康重の娘を室とするよう命じられた。1590年「小田原の役」に参陣した。その後、松平元康の関東に転封により諏訪郡を離れて関東に移り、武蔵国奈良梨に所領を与えられた。1600年「関ヶ原の役」では、松平秀忠勢に属して、信濃国や上野国の守備を命じられた。1601年、信濃国高島城27,000石を領した。諏訪頼水は政治手腕に優れ、前領主の七公三民で荒れ果てていた農地に逃散していた百姓を呼び戻して新田開発を奨励するなど、高島領の安定に尽力した。1614年「大坂冬の陣」では甲府城の守備を命じられ、嫡男諏訪忠恒が諏訪家勢を率いて参陣した。1615年「大坂夏の陣」では、参陣を強く願ったが甲府城の守備を命じられた。

諏訪頼定【すわよりさだ(15??~1602)】

諏訪頼忠の次男。1584年、松平元康の元へ人質として送られてたがまもなく出奔した。

諏訪頼雄【すわよりかつ(15??~1631)】

諏訪頼忠の四男。官途は美作守。通称源太左衛門尉。室は松平近正の娘。1592年、上野国総社領主となった兄諏訪頼水に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では、松平秀忠勢に属した諏訪頼水と共に上野国高崎城を守備した。1601年、諏訪頼水が、旧領信濃国高島へ転封となるとそれに従った。諏訪頼水の意向に従って、領内原山の新田開発を指揮した。1611年、江戸藩邸で火災が起こり、火元となった高山左太夫の処罰を巡って、厳罰を主張する諏訪頼水に諫言して対立し、他の重臣達と共に藩を退去した。1612年、屋代秀正、小笠原秀政の仲裁により帰参した。1614年「大坂夏冬両陣」では、諏訪頼水と共に甲府城守備を命じられた。

諏訪湖衣姫【すわこいひめ(1530~1555)】 

諏訪頼重の娘。武田晴信の側室で武田(諏訪)勝頼の実母。父諏訪頼重が武田晴信に討たれた後、武田晴信の側室となり、1546年、武田勝頼を産んだ。※「武田信玄」by新田次郎。

諏訪五十騎衆【すわごじゅっきしゅう】

諏訪家臣団。上社は、諏訪越中守、千野丹波守、小坂藤三、千野伊豆守、有賀紀伊守、矢島織部丞、牛山周防守、山中主水、花岡藤兵衛、金子助右衛門尉、長田大隅守、田辺新兵衛、鮎沢善右衛門、小井弓大炊允、守屋彦九郎、村岡石見守ら36騎で「諏訪五十騎衆」。

諏訪下社武士団【すわしもしゃぶしだん】

諏訪家臣団。大和監物、諏訪右衛門尉、諏訪左近、諏訪藤七郎、高木喜兵衛門、山田備前守、中村平左衛門尉、小口民部少輔、横内民部左衛門尉、三沢対馬守、竹居宮内、藤森治部ら14騎で「諏訪下社武士団」。

諏訪西方衆【せいほうしょう】

諏訪家臣団。諏訪上社に奉仕する氏神衆。小坂、花岡忠常、有賀泰時、胡桃沢の諸家がある。

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【た】

高島十人衆【たかしまじゅうにんしゅう】

諏訪家臣。高島十人衆は小松又七郎ら十騎衆。

高遠頼継【たかとうよりつぐ(1513~1552)】

伊那郡高遠城主。高遠満継の男。官途は紀伊守。室は諏訪頼満の娘。1543年、諏訪家惣領家の座を狙う高遠頼継は武田晴信と結び諏訪頼重を挟撃した。諏訪領は武田晴信と分割され高遠頼継は西半分を支配していたが、諏訪家惣領を志向する高遠頼継は伊那郡福与城の藤沢頼親らと武田領へ侵攻し、武田晴信と戦ったが弟高遠頼宗が討死するなどして敗れ高遠城に敗退した。1544年、武田晴信を離反した藤沢頼親を支援し、鎮定にやってきた武田勢を撃破した。1545年、高遠城を攻撃されて降伏甲府へ送られ自刃させられた。

高遠頼宗【たかとうよりむね(15??~1542)】

高遠満継の次男。1542年、武田晴信と同盟して諏訪本家の諏訪頼重を攻め、諏訪頼重が自刃すると兄高遠頼継はその跡を継ごうとして挙兵し、武田晴信と「安国寺の戦い」に及んだ。しかし、敗れて討死した。

竹松外記【たけまつげき(15??~15??)】

伊那郡橋場城主。1582年、織田信長勢の「武田家討伐」では武田勝頼に属し没落した。

田中淡路守【たなかあわじのかみ(15??~15??)】

諏訪郡粟沢城主。諏訪家臣。諏訪家五十騎のひとり。

茅野伊豆入道【ちのいずにゅうどう(15??~1542)】

諏訪郡大熊城主。諏訪頼重家臣。諏訪家軍師。1542年、武田晴信が諏訪郡に侵入すると矢崎原に迎い撃ったが、下諏訪の金刺家、伊那郡の高遠頼継が武田家に付き形勢不利になり上原城に退却した。最後は弟茅野南名庵とともに二十七騎で高遠頼継の陣地へ突入壮絶な最後を遂げた。※「武田信玄」by新田次郎。

茅野南明庵【ちのなんめいあん(15??~1542)】

諏訪頼重家臣。諏訪家軍師。千野伊豆入道の弟。兄千野伊豆入道と共に諏訪満重の滅亡時に戦うが討死した。

茅野重清【ちのしげきよ(15??~15??)】

諏訪頼重家臣。諏訪家滅亡後は武田晴信に属した。1544年、武田晴信により家督を安堵された。

茅野昌房【ちのまさふさ(15??~15??)】

茅野重清の男。1582年「本能寺の変」後、諏訪頼忠に属して茶臼山城を攻略した。
 
茅野房清【ちのふさきよ(15??~15??)】

諏訪頼重家臣。官途は丹波守。茅野重清の弟。二つの城の城主で1,300石を領した。1582年、諏訪頼忠が酒井忠次を追い返したあと、松平元康が側近の者を遣わして以前のようにするようにとの言葉を伝えた後、諏訪頼忠が松平元康に遣わした使者のひとり。。

茅野昌房【ちのまさふさ(1533~1629)】

茅野光弘の男。官途は伊豆守。諏訪郡有賀城800石を領した。諏訪頼水の武蔵国転封にも従った。

千村家晴【ちむらいえはる(1497~1558)】

木曾義康家臣。兄に千村右衛門佐がおり、千村家晴の死後も千村家の家政を執っていた。

千村家政【ちむらひえまさ(1527~1608)】

千村家晴の男。木曾義康、木曾義昌の二代に仕えた。1590年、下総国に転封となった木曾義昌に従った。

千村政勝【ちむらまさかつ(15??~1555)】

千村家政の男。官途は掃部助。1555年、塩尻峠から侵入した武田晴信勢は贄川砦の千村政勝を攻撃して落城させました。楢川に進出した武田晴信勢を向え討つために木曾義康は鳥居峠へ陣を構えるが 戦わずに退却した。

千村良重【ちむらよししげ(1566~1630)】

千村家政の次男。通称平右衛門。兄千村政勝が討死したため千村家の家督を相続した。はじめ木曾義昌、その没後は木曾義利に仕えた。木曾義利が不行跡により改易されると浪人した。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属した。山村良勝と共に木曾路の交通の確保を命じられた。山村良勝と共に石田三成勢の石川光吉の家臣原孫右衛門の籠城する桜沢砦を攻略した。この戦功により、美濃国可児、土岐、恵那三郡4,400石を領した。信州、遠州榑木奉行に任じられた。1614年「大坂冬の陣」では、松平元康方に属し、妻籠の関所や飯田城の守備を務めた。1619年、松平秀忠の命令で幕府直臣、信州、遠州榑木奉行のまま、尾張松平義直に仕えた。

知久頼元【ちひさよりもと(15??~1554)】

伊那郡神之峰城主。1542年、上原城主諏訪頼重が武田晴信に滅ぼされると知久頼元も下伊那郡の座光寺貞信、下条信氏らと共に武田晴信に従った。1554年、知久頼元、座光寺貞信らは神之峰城周辺に兵を集め、武田晴信に叛旗を翻した。高遠城主秋山信友を先鋒に武田晴信が伊那へ進攻した。知久頼元は、武田晴信勢を迎え撃ったが、知久頼元の嫡男知久頼康をはじめ知久家勢の多くが討たれ、神之峰城は落城。知久頼元父子らは生け捕りとなった。

知久頼康【ちひさよりやす(15??~1554)】

知久頼元の男。1554年、父知久頼元、座光寺貞信らは神之峰城周辺に兵を集め、武田晴信に叛旗を翻した。高遠城主秋山信友を先鋒に武田晴信が伊那へ進攻した。武田晴信勢は、神社、仏閣を始め民家等を焼き払い、知久家勢を攻めたて激戦となった。知久頼康は、父知久頼元と共に武田晴信勢を迎え撃ったが討死し知久家勢の多くが討たれた。

知久頼氏【ちひさよりうじ(15??~15??)】

知久頼元の次男。

殿島重国【とのしましげくに(15??~1556)】

春日家臣。春日重成の次男。通称新左衛門。別名春日重国。藤沢頼親に従うが藤沢頼親が武田家に降ったあとは、武田家に臣従。1556年、武田晴信が川中島で長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日(伊那部)重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

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【な】

中越備中守【なかごしびっちゅうのかみ(15??~15??)】

上伊那郡北の城主。1561年、近郷の小身衆と共に武田晴信の麾下に属した。

中沢義忠【なかさわよしただ(15??~15??)】

伊那郡高見城主。倉沢家枝連衆の中沢義忠は武田晴信の侵攻に抵抗して討死した。

中原四郎左衛門【なかはらしろうざえもん(15??~15??)】

伊那郡登城主。

中山道賢【なかやまみちかた(15??~1582)】

伊那郡牛ヶ城主。1582年、織田信長勢の「武田家討伐」で、武田勝頼に属し高遠城で討死した。た。

奈良井家信【ならいいえのぶ(15??~15??)】

南筑摩郡国人衆。木曾家臣。木曾路の中でも重要な中継点であった奈良井を押さえる豪族として狭い範囲ながらも確固たる勢力を築いていた。木曽谷を攻略した武田晴信も奈良井家信の存在を重視した。奈良井を要地たらしめたのが鳥居峠であった。

奈良井義高【ならいよしたか(15??~1584)】

奈良井家信の男。木曾家とは従属的な関係だが、武田家が南筑摩郡に進出すると武田晴信に属した。奈良井家は武田家の目付的役割を担うようになった。1582年、武田勝頼に反旗を翻した木曾義昌は武田家の遠征隊を鳥居峠に迎え撃ち、勝利を収めた。この敗北により武田勝頼は勢力回復の手だてを完全に失い、動揺甚だしい武田家領国は織田信長勢の侵攻を受けて脆くも崩れ去った。1582年、武田勝頼が滅ぶと木曾義昌に謀殺された。

浪合胤成【なみあいたねなり(15??~1575)】

伊那郡浪合村の豪族衆。1575年「長篠の戦い」で討死した。

贄川重有【にえがわしげあり(1535~1584)】

木曾家村の男。1584年、小笠原貞慶に内通した。木曾義昌居館を襲撃したが討死した。

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【は】

畑谷新八郎【はたやしんぱちろう(15??~15??)】

伊那郡羽場城主。1582年、織田信忠勢の「高遠城の戦い」で討死した。

馬場昌次【ばばまさつぐ(15??~1618)】

木曾義昌家臣。木曾家枝連衆。室は千村良重の娘。1590年、木曾義利の下総国網戸城の転封にさいして従った。1600年、下野国小山の陣で松平元康に拝謁した。石田三成が挙兵すると千村良重、山村良勝と共に木曽路の交通を確保するよう命じられた。馬場昌次は病のため陣中に残った。千村良重らの戦功を松平元康に言上し褒美を賜った。小笠原信嶺に附属し、妻籠城を守り、松平秀忠勢に加わり時服を賜った。役後、美濃国土岐、可児、恵那三郡1,600石を領した。

羽生光定【はぶみつさだ(15??~15??)】

伊那郡松下城主。知久頼元家臣。1554年、知久頼元、座光寺貞信らは神之峰城周辺に兵を集め、武田晴信に叛旗を翻した。高遠城主秋山信友を先鋒に武田晴信が伊那へ進攻した。武田晴信勢は、神社、仏閣を始め民家等を焼き払い、知久家勢を攻めたて激戦となり松下城mp落城した。

坂西正俊【ばんざいまさとし(15??~15??)】

伊那郡飯田城主。知久平の20,000石の覇権を知久家と争った。

坂西政之【ばんざいまさゆき(15??~15??)】

坂西正俊の男。1546年、知久頼元と領地争いを起こし坂西政之は敗北した。松尾小笠原信定、下条信氏の仲介で和睦し、知久頼元に黒田、南条、飯沼、上野の地を割譲し、知久頼元の娘を嫡男坂西長重の室に迎えた。武田晴信が伊那郡に侵攻すると降り、秋山信友の寄騎となり軍役六十騎を勤めた。

坂西長重【ばんざいながしげ(15??~15??)】

坂西政之の男。室は知久頼元の娘。若くして病没したため、坂西家の家督は嫡男坂西忠長が相続した。

坂西忠長【ばんざいただなが(15??~1562)】

坂西長重の男。父坂西長重が若くして病死したため、坂西長忠が家督を相続した。1562年、坂西長忠は松尾小笠原信貴の領地を押領したため、小笠原信貴によって武田晴信に訴えられた。結果、坂西長忠は武田晴信勢と松尾小笠原信貴勢に攻められた。飯田城は落城、木曾谷に落延びる途中、松尾小笠原信貴勢に捕捉され坂西家枝連衆はことごとく討死をとげた。

坂西経定【ばんざいつねさだ(15??~15??)】

坂西家臣。通称織部。1573年、武田勝頼に属して「長篠の戦い」に参陣した。1582年、織田信長勢の侵攻によって坂西経定は城を棄てて西山へ逃れたが、進退に窮し自刃した。

樋口光久【ひぐちみつひさ(15??~1545)】

伊那郡大石城主。官途は長門守。1545年、武田晴信の福与城攻めの際に落城した。

白狐島太郎左衛門【びゃこじまたろうざえもん(15??~15??)】

諏訪家臣。1542年、武田晴信、高遠頼継、禰宜満清に攻められ、諏訪頼重が桑原城に籠城した際、白狐島太郎左衛門は矢島頼光と共に板垣信方勢に抵抗した。白狐島太郎左衛門は飛礫の名手で寄せての板垣信方勢を悩ました。※「武田信玄」by新田次郎。

藤沢隆親【ふじさわたかちか(15??~15??)】

伊那郡福与城主。

藤沢頼親【ふじさわよりちか(15??~1582)】

藤沢隆親の男。室は小笠原長棟の娘。1540年、藤沢家の家督を相続した。1542年、武田晴信は、高遠頼継らと結び諏訪宗家の諏訪頼重を滅ぼすが、諏訪統治を巡り頼継が対立し、高遠頼継は福与城の藤沢頼親や上伊那の春近衆らを糾合して武田方と敵対する。武田方は諏訪頼重の遺児虎王を奉じて諏訪一族を糾合すると高遠高継らを撃破した。武田晴信が上伊那に侵攻し福与城を囲まれ藤沢頼親は武田方に降伏し、甲府へ出仕したという。1545年、武田方から離反しは再び福与城には攻められた。信濃国守護で義兄にあたる筑摩郡の小笠原長時と結んで抵抗する。1546年、伊那高遠城を攻略した武田方が福与城を囲み和睦が成立した。武田一門衆の穴山信友、小山田信有、勝沼信友らの勧告を受けると弟の権次郎を人質に降伏し、起請文を提出し秋山信友の傘下に配せられた。1549年「上田原の戦い」における武田方の敗北を機に小笠原家と結び再び武田晴信から離反するが、秋山信友を通じて武田家に降った。

藤沢頼広【ふじさわよりちか(15??~15??)】

藤沢頼親の男。1582年、武田勝頼、織田信長が次々に滅ぶと北条氏直に属することを企図するが、松平元康に属する保科正直に攻められ、田中城で父藤沢頼親とともに自刃した。

藤沢重時【ふじさわしげとき(15??~1582)】

藤沢頼親の次男(木下惣蔵)。1582年、藤沢頼親と共に滅亡した。

井深茂右衛門【ふかいしげざえもん(15??~15??)】

保科家臣。※『槍弾正の逆襲』by中村彰彦

古畑重家【ふるはたしげいえ(15??~15??)】

木曾家臣。官途は伯耆守。木曾家庶家。古畑重家は飛騨勢の侵入を打ち払う戦功をあげた。1551年、武田晴信のもとから木曾家に復帰した古畑重家に対して、その旧地を安堵した。

文明寺行尊【ぶんみょうじぎょうそん(15??~15??)】

保科家客将。※『槍弾正の逆襲』by中村彰彦。

保科正俊【ほしなまさとし(1510~1593)】

高遠頼継家臣。保科正則の男。「槍弾正」の異名で知られた。1545年、高遠頼継が滅ぶと福与城主藤沢頼親らと共に、武田晴信に降伏した。1551年、武田晴信の麾下の武将として信濃各地を転戦した。武田晴信家臣として信濃先方衆騎馬120騎持。

保科正直【ほしなまさなお(1540~1601)】

保科正俊の男。織田信長の武田家討伐の際は坂西織部とともに飯田城を守ったが、森長可と戦って敗れるなど苦戦し同城の守備を放棄して高遠城へ入るが、落城前に脱出。松平元康の信濃国進出を受けて従属した。

保科正光【ほしなまさみつ(1561~1631)】

保科正直の男。1582年、武田勝頼の滅亡後は松平元康に仕えた。1584年「小牧、長久手の役」に参陣した。

保科家臣団【ほしなけかしんだん】

保科正房、保科三左衛門、赤羽又兵衛門、金子左近、上島伝太。※『槍弾正の逆襲』by中村彰彦。

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【ま】

松岡頼貞【まつおかよりさだ(15??~15??)】

伊那郡松岡城主。官途は兵部大輔。武田晴信の伊那侵攻で武田家に降った。山県昌景の寄騎衆として五十騎の軍役を負担した。

松岡貞利【まつおかさだとし(15??~15??)】

松岡頼貞の男。通称右衛門佐。1582年「本能寺の変」が起こると伊那郡は松平元康の勢力下に置かれ、松平元康に属した。1585年、深志城主小笠原貞慶は、松平元康方から羽柴秀吉方に変心し、松平元康方の保科正俊を高遠城に攻め、逆に小笠原貞慶は大敗を喫して深志城に後退した。その時松岡貞利は、小笠原貞慶に属して戦ったが、その行為を家臣座光寺次郎右衛門が訴え出た為、岡貞利は改易を命ぜられ、その所領は没収された。

松岡家臣団【まつおかけかしんだん】

片桐二郎右衛門、座光寺次郎右衛門。

松島貞実【まつしまさだざね(15??~1547)】

伊那郡松島城主。藤沢頼親家臣。官途は筑前守。1547年、木曾義昌により謀殺された。

松島信久【まつしまのぶひさ(15??~15??)】

松島貞実の男。官途は豊前守。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が川中島で長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

溝口長友【みぞぐちながとも(1485~1551)】

鈴岡小笠原信定家臣。1545年、武田晴信は、藤沢頼親の拠る福与城を攻撃した。小笠原長時は、妹婿でもある藤沢頼親を援けるため、軍を発したが戦うことなく兵を退いた。1548年「上田原の戦い」において、村上義清と武田晴信が戦い、武田勢に大勝した。この勢いをかって、小笠原、村上、仁科、藤沢の連合軍は諏訪郡に討ち入った。これに対し、武田晴信は甲府より急行し、小笠原長時は兵を退いて塩尻峠に陣を布いた。武田群は塩尻に押し寄せ、合戦になったが、ついに小笠原長時は大敗して林城に退いた。1546年、武田晴信は村井に陣を布いた。これに対して小笠原長時は桔梗ケ原で応戦につとめたが、草間肥前守、泉石見守らを討たれて、小笠原長時は林城に退いた。これにより、洗馬の三村入道、山家、坂西、島立、西牧の諸家は武田晴信に降った。小笠原長時に属したのは、二木、犬甘、平瀬らの諸家のみであった。

溝口長勝【みぞぐちながかつ(1512~1565)】

溝口長友の男。官途は右馬助。父溝口長友は小笠原信定(小笠原長時の弟)に仕えていた。1550年「野々宮の戦い」ののち、村上義清のもとにあった小笠原長時を援助した。1554年、長尾家のもとにあった小笠原長時を伊那郡鈴岡城に迎えたが、武田晴信の攻撃を受けて信濃国から落延びた。父溝口長友とともに小笠原長時に従って三好長慶を頼り、河内高屋城に寄寓していたが、同地において病没した。

溝口貞泰【みぞぐちさだやす(1539~1608)】

溝口長友の八男。官途は美作守。1582年、小笠原貞慶が金松寺に入った際、これに仕えて深志復帰に尽力した。その後政務を担当する。1582年「日岐城の戦い」では侍大将として参陣。1608年『溝口家記』を著して小笠原秀政に献じた。

宮田親房【みやだちかふさ(15??~15??)】

伊那郡の国人衆。官途は左近正。藤沢頼親家臣。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が川中島で長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

溝口正慶【みぞぐちまさよし(15??~15??)】

伊那郡の国人衆。官途は民部少輔。藤沢頼親家臣。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が川中島で長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

守屋頼真【もりやよりまさ(1505~1597)】

諏訪上社の神長官。守屋満真の男。諏訪大社大祝家の諏訪家に従い、たびたび禰宜太夫の矢島満清と対立する。特に諏訪大祝就任の際に争いには劣勢だった。1538年、諏訪頼高の大祝就任時に復権した。また諏訪大社への課税をめぐって諏訪頼重とも対立した。1542年、武田晴信による諏訪侵攻時の在任者。1542年「高遠城の戦い」攻めでは諏訪頼重の遺児である寅王を晴信は前面に押し出したため、諏訪一族の諏訪満隆や諏訪家に従属していた守矢頼真はこれと戦うことを拒否して高遠勢から離脱した。1559年、引退し、嫡子で禰宜太夫に就けていた守矢信真に神長官を譲った。武田家滅亡後は諏訪満隣らと諏訪家再興を図る一方、諏訪大社の復興にも力を入れた。

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【や】

矢島満清【やじまみつきよ(15??~15??)】

諏訪上社の禰宜。1542年、武田晴信による諏訪侵攻に協力した。その後高遠頼継が所領問題から武田家を離反するとこれに与した。高遠頼継が、諏訪上社の禰宜矢島満清の共謀して謀反を起こす。上原城を攻め落とし、下諏訪を放火、諏訪の上下両社を押さた。高遠頼継と矢島満清は謀反を起したが、武田晴信のすぐ対応して、板垣信方を先発させると、武田晴信が主力率いた。安国寺の宮川の橋付近で戦闘が開始され、高遠頼継は敗走、捕らえられた矢島満清は禰宜職を免じられた。

矢島満綱【やじまみちつ(15??~15??)】

矢島満清の男。

矢島頼光【やじまよりみつ(15??~15??)】

諏訪家臣。西諏訪衆のひとり。

大和十人衆【やまとじゅうにんしゅう】

諏訪家臣。大和十人衆は大和監物ら10騎衆。

山村良利【やまむらよしとし(1514~1599)】

木曾家臣。官途は三河守。武田晴信から直接知行も与えられ、木曾領の代官的性格も併せ持っていた。1575年、武田晴信の上洛作戦の折りにも、山村良利に独自に作戦を指示した。

山村良候【やまむらよしとき(1544~1602)】

山村良利の男。木曾義昌、木曾義利の二代に仕えた。木曾義利が転封後も筑摩郡に残って松平元康に属した。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成方に捕らえられた。のち解放され、その忠節によって筑摩郡の支配を命じられ木曾郡で5,700石を領した。

山村良勝【やまむらよしかつ(1563~1634)】

山村良候の男。通称甚兵衛。室は遠山友忠の娘。父山村良候と共に木曾義昌に仕え、その没後は木曾義利に仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」では羽柴秀吉に属し信州妻籠城を守備した。松平元康家臣の菅沼定利、諏訪頼忠らの攻撃を受けるが撃退した。木曾義昌が転封されるとこれに同行した。木曾義利が不行状により改易されると松平元康に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では松平元康勢に属した。山村良候は、石田三成勢に属した石川貞清に敗れて犬山城に拘禁された。このため、山村良勝は木曾郡国人衆を率いて犬山城を攻撃して山村良候を救出した。木曾谷は尾張藩の所領となったため、山村良勝は松平義直に仕えて木曾谷の代官に任じられた。1608年、嫡男山村良安に家督を譲って隠居した。

山村良安【やまむらよしやす(15??~1619)】

山村良勝の男。1608年、山村家の家督を相続した。

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【資料Ⅰ】

南信濃国(5郡/240,000石)

諏訪郡:上原城。
北筑摩郡:
南筑摩郡:木曾福島城。
上伊奈郡:高遠城。
下伊那郡:飯田城。

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【資料Ⅱ】

春近衆【はるちかしゅう】

飯島為政、片切為房、上穂重清、赤須清玄、大嶋。

高遠衆【たかとうしゅう】

高遠。

箕輪衆【みのわしゅう】

松島。

大和十騎衆【やまとじゅっきしゅう】

諏訪郡の豪族衆。

西諏訪衆【にしすわしゅう】

矢島頼光、花岡忠常、以下調査中。

上伊那十三騎衆【かみいなじゅうさんきしゅう】

樋口七郎右衛門、以下調査中。

小野七騎衆【おのななきしゅう】

調査中。

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【資料Ⅲ】

南信濃国【みなみしなのこく】

信濃国は、本州の中央に位置する東山道の国。南北に長い内陸国で北部と南部では気候も風俗も異なる。南信濃国は、周囲を北信濃国、甲斐国、飛騨国、三河国、美濃国、遠江国と接している。戦略的には、北に南信濃国、東に甲斐国、西に美濃国と周囲を強国に囲まれ侵入を受けやすい。国土防衛には不利な位置にあるが、標高の高い山岳地帯で形成された山がちな国で、険しい峠を越えないと領国に侵入できない。平地は少なく木曽郡と伊那郡の両郡はほとんどを山地に覆われている。諏訪郡には平野が広がるが隣接する甲斐国には強国の武田家からの侵入を受けやすい。

諏訪大社【すわたいしゃ】

信濃国諏訪郡諏訪湖の周辺に四箇所の境内地をもつ神社。信濃国一宮で名神大社。上社では諏訪家が、下社では金刺家が大祝を務めた。諏訪湖の南側に上社(本宮、前宮の二宮)、北側に下社(春宮、秋宮の二宮)があり、計四つの宮から成る。社殿の四隅に御柱と呼ぶ木の柱が立っているほか社殿の配置にも独特の形を備えている。この御柱であるが、それ以前のミシャグチ信仰の石柱との関連性があるという説が有力である。神長官守矢によると御柱はミシャグチを降ろす依り代である『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われている通り、軍神としても崇拝され、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際に戦勝祈願をしたとされる。また、中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業の守護祈願でも知られる。

諏訪湖【すわこ】

信濃国諏訪郡にある湖。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に活躍した国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「戦国関東名将列伝」隋想社、「(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧」秋田書院、「武田信玄(全四巻)」文春文庫、「武田信玄(全三巻)」講談社、「武田勝頼(全三巻)」講談社、「甲州武田家臣団」新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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