2010年11月22日月曜日

戦国越中国人名辞典

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【あ】

赤川久次【あかがわひさつぐ(15??~1505)】

東岩瀬城主。官途は出雲守。1505年、「東岩瀬城の戦い」では、長尾能景勢の攻撃を受け、長尾能景の家臣金子監物に討取られた。

有沢図書助【ありさわずしょのすけ(15??~1582)】

土肥政繁家臣。1567年、土肥政繁から家督相続を許された。土肥政繁とともに長尾景虎勢に属した。1578年、長尾景虎が病没すると、織田信長勢に属した。1581年、佐々成政から新川郡内の所領500石を安堵された。1582年、「弓庄城の戦い」で討死した。

有沢采女【ありさわうねめ(15??~15??)】

土肥政繁家臣。有沢図書助の弟。1581年、佐々成政との和議を結ぶ際、佐々成政のもとに人質として送られた。

荒木善太夫【あらきぜんだいふ(15??~15??)】

砺波郡城端城主。1570年、城端城を善徳寺に寄進して廃城となった。

荒木太夫坊【あらきだいふぼう(15??~15??)】

荒木館主。1570年、「石山本願寺城の戦い」では、越中国門徒衆を率いて参陣した。

有沢長俊【ありさわながとし(15??~1631)】

土肥政繁家臣。官途は釆女。1600年、「慶長出羽の戦い」では、土肥半左衛門ととも庄内攻略戦に参陣した。役後、最上義光に仕え下吉忠の寄騎衆として小国城650石を領した。最上家親から下吉忠が処分を受けると、最上家親もとから離れた。船で紀伊国に向かう途中、難破して能登国に漂着し、前田利長に仕えた。

安藤職張【あんどうともはる(15??~15??)】

神保長職家臣。1572年、日宮城主神保覚広が、武田晴信の調略に応じた一向一揆勢の攻撃を受けた。神保覚広は、神保覚広、神保職鎮、安藤職張、水越職勝らとともの籠城し、越中国新庄城主鰺坂長実に援軍を要請した。鰺坂長実は、山本寺定長らとともに援軍として駆けつけるが、呉服山で一揆勢の奇襲を受け退却。そこを追撃されて、惨敗した。援軍を失った神保覚広勢fは一向一揆勢と和議を結び能登国石動山天平寺に落延びた。

飯田利忠【いいだとしただ(15??~15??)】

神保長職家臣。婦負郡井田城主。1541年、「井田城の戦い」で長尾景虎に属した寺崎盛永勢の攻撃を受け大敗した。この戦いで弟の飯田利常、飯田利憲が討死した。

石黒将監【いしぐろしょうげん(15??~15??)】

神保長職家臣。礪波郡木舟城主。1532年、安楽寺城主高橋則秋を討取る戦功を挙げた。

石黒成綱【いしぐろなりつな(15??~1581)】

礪波郡木舟城主。通称左近蔵人。越中国石黒家の庶流であったが、惣領家を凌ぐ勢威を築いた。1566年、勝満寺を攻撃し、門徒衆の小倉六右衛門と戦った。1576年、長尾景虎が越中国に侵攻すると、長尾景虎勢に属した。1578年、長尾景虎が病没すると、織田信長勢の神保長住に属した。1581年、越中国一向一揆の勝興寺を勝興寺顕幸の留守中に夜襲し焼討ちした。長尾景勝勢の吉江宗信に木舟城を攻略された。長尾景勝への内通を疑われ、家臣石黒與左衛門、石黒光重、伊藤次右衛門、水巻采女佐ら30騎と安土城に向かった。近江国長浜で丹羽長秀の手勢に襲われ、一族郎党諸ともども謀殺された。

石黒成栄【いしぐろなりえい(15??~1581)】

石黒成綱の男。1581年、織田信長の意向を受けた丹羽長秀勢に近江国長浜で父石黒成綱ともどもに謀殺された。

石黒光重【いしぐろみつしげ(15??~1581)】

石黒成綱家臣。通称与三右衛門。家老職を務めた。1581年、織田信長の意向を受けた丹羽長秀勢の近江国長浜で石黒成綱ともどもに謀殺された。

石黒與右衛門【いしぐろこうえもん(15??~15??)】

石黒成綱家臣。家老職を務めた。1581年、織田信長の意向を受けた丹羽長秀の勢近江国長浜で襲われた際、落延びて砺波郡中岡で帰農した。

石黒清右衛門【いしぐろきよえもん(15??~15??)】

石黒成綱家臣。

石黒光直【いしぐろみつなお(15??~15??)】

新川郡蓮沼城主。通称又次郎。日蓮宗でありながら本願寺とも友好関係を結んだ。1579年、石黒成綱と和議を結び木舟城に移った。1574年、長尾景虎勢の攻撃を受けた。

伊藤次右衛門【いとうつぐえもん(15??~1581)】

石黒成綱家臣。家老職を務めた。1581年、織田信長の意向を受けた丹羽長秀勢の近江国長浜で石黒成綱ともどもに謀殺された。

稲見茂周【いなみしげちか(15??~15??)】

椎名康胤家臣。長女は武隈元直、次女は椎名康胤に嫁いだ。

岩倉薩摩守【いわくらしまのかみ(15??~15??)】

細川越中守家臣。1577年、「岩倉城の戦い」では、長尾景虎の家臣有坂備中守の攻撃を受けたが撃退した。

岩田采女【いわたうねめ(15??~15??)】

菊池武勝家臣。早借館主。天正年間、祈願所として250石を寄進した。

上野勝重【うえのかつしげ(15??~15??)】

椎名康胤家臣。新川郡長瀬城主。1560年、長尾景虎勢の攻撃を受けた広嶺城主寺崎民部左衛門は、上野勝重に救援を求めた。上野勝重は、増水した常願寺川で長尾景虎勢と対峙すると、上野勝重は周辺から牛を集め牛を先頭に長尾景虎勢に奇襲をかけ敗走させた。

江上重左衛門【えがみしげざえもん(15??~15??)】

轡田雅正家臣。日方江館主。家老職を務めた。日方江館3,000石を領して東岩瀬、新庄、水橋などを勢力下に置いた。岩瀬や水橋は、街道沿いの渡し場があり、神通川や常願寺川を含む北陸交通を支配した。

大前左近【おおまえさこん(15??~15??)】

狩野良政家臣。飯久保城を奥野主馬とともに守備した。

岡崎義村【おかざきよしむら(15??~15??)】

椎名康胤家臣。

奥野主馬【おくのしゅめい(15??~15??)】

狩野良政家臣。飯久保城を大前左近とともに守備した。

小倉六右衛門【おぐらろくえもん(15??~15??)】

砺波郡小倉館主。勝満寺有力門徒宗のひとり。1566年、石黒成綱が勝満寺を攻撃した際、小倉館も攻撃を受け落城した。

小谷六右衛門【おだにろくえおもん(15??~15??)】

神保長住家臣。1560年、長尾景虎が神保長住の増山城を攻撃すると、神保長住勢に属して戦功を挙げた。

小幡和泉守【おばたいずみのかみ(15??~15??)】

椎名康胤家臣。升方城主。通称九助。椎名康胤の家老職を務めた。

小幡九兵衛【おばたこへい(15??~15??)】

小幡和泉守の養子。前田利家に仕えた。

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【か】

桂田善左衛門【かつらだぜんざえもん(15??~15??)】

土肥政繁家臣。郷田砦主。家老職を務めた。

勝興寺実玄【かつおきじじつげん(1486~1545)】

砺波郡勝興寺住持。光教寺蓮誓の次男。室は顕証寺蓮淳の娘。父光教寺蓮誓から土山御坊を譲り受けた。1519年、土山御坊が焼討ちされたため、勝興寺を創建して移転した。舅の父光教寺蓮淳と円如による本願寺の一門制が敷かれていたが、例外的に一門衆に加えられた。1531年、「大小一揆」では光教寺顕誓と超勝寺実顕が加賀国の支配権を巡って争うと、勝興寺実玄は「大一揆」に属して瑞泉寺証心とともに越中国一向一揆の指導者層に立った。

勝興寺玄宗【かつおきじげんそう(15??~15??)】

勝興寺実玄の次男。

狩野良政【かのうよしまさ(15??~15??)】

神保長職家臣。飯久保城主。官途は中務丞。1560年、神保長職から長尾景虎勢との戦いに参陣を求められた。

狩野宣久【かのうのぶひさ(15??~15??)】

狩野良政家臣。1560年、長尾景虎勢が越中国に侵攻すると、神保長職とともに富山城を放棄、増山城に撤退した。

狩野道州【かのうどうしゅう(15??~15??)】

神保民部大夫家臣。1563年、神保民部大夫が討死すると、その家督をを神保弥次郎に相続させるため、長尾景虎に裁可を求めた。

神前和泉守【かみまえまごごろう(~1562)】

椎名康胤家臣。椎名慶胤の弟。

神前筑前守【かみまえちくぜんのかい(15??~1562)】

神前和泉守の男。室は椎名康胤の娘。1562年、「神通川の戦い」では、神保長職と戦い討死した。

唐人親広【かろうぞちかひろ(15??~15??)】

神保長職家臣。新川郡小出城主。1572年、富山城が一向一揆勢の攻撃を受けると、一向一揆方に内応、富山城が落城した。1576年、長尾景虎が越中国を制圧すると長尾景虎勢に属した。1578年、長尾景虎が春日山城で病没すると、織田信長勢に属した。1588年、長尾景勝の連歌会に列席して一首を詠んだ。後年、岸和田流炮術の名人として長尾景勝のもとで鉄炮指南役を務めた。

唐人広親【かろうどひろちか(15??~15??)】

唐人親広の男。官途は丹後守。

唐人兵庫【かろうどひょうご(15??~15??)】

椎名長常家臣。官途は式部大輔。

川瀬与八郎【かわせよはちろう(15??~15??)】

土肥政繁家臣。池田城主。

狩野良政【かのうよしまさ(15??~15??)】

神保長職家臣。射水郡飯久保城主。

狩野宣久【かのうのぶひさ(15??~15??)】

狩野良政家臣。1561年、寺に寄進を行った。

阿尾菊池武勝【きくちたけかつ(1530~1606)】

射水郡阿尾城主。神保長職家臣。1576年、「加州表の戦い」に参陣し、長尾景虎から感状と短刀「紀新太夫行平」を拝領した。

阿尾菊池安信【きくちやすのぶ(15??~1596)】

阿尾菊池武勝の男。長尾景虎に属した。長尾景虎の死後は織田信長に属す。1580年、一族屋代十郎左衛門尉とともに、織田信長より越中氷見郡の内、屋代一家分と二十年来の新知行とを安堵された。

轡田雅正【くつたただまさ(15??~15??)】

新川郡大村城主。官途は豊後守。越中五大将のひとりで大村城10,000石を領した。1578年、長尾景虎勢の河田長親から攻撃を受け城を枕に討死した。

桑崎輝長【くわさきてるなが(15??~15??)】

椎名康胤家臣。堀切館主。1564年、長尾景虎勢の攻撃を受け討死した。

桑崎信隆【くわさきのぶたか(15??~15??)】

桑崎輝長家臣。

鞍川清房【くらかわきよふさ(15??~1550)】

新川郡鞍川城主。1550年、「能登天文の乱」では、遊佐続光勢に属した。温井総貞勢に属した寺島職定と戦ったが討死した。

小浦一守【こうらかずもり(1547~1615)】

新川郡池田城主。小浦光康の男。官途は石見守。別名松原斉安。1567年、父小浦光康の病没により小浦家の家督を相続した。1576年、継嗣の小浦内匠を人質として差し、長尾景虎勢に降伏して長沢光国の寄騎衆を務めた。1578年、長尾景虎が病没すると、織田信長勢に属して佐々成政に仕えた。1585年、佐々成政が羽柴秀吉に降りると佐々成政に従い肥後国に転封した。1587年、佐々成政の没後、越後国の堀秀政に仕えた。

小島職鎮【こじまもとしげ(1533~1582)】

神保長職家臣。射水郡日宮城主。通称六郎左衛門尉。武田晴信派の寺島職定と対立してこれを排除し神保家中の実権を握った。1572年、加賀国一向一揆衆が越中国に侵攻すると日宮城に籠城するが、長尾景虎の援軍到着前に降伏した。長尾景虎勢は神通川で一揆勢の奇襲を受け大損害出した。1582年、魚津城を攻囲中の織田信長勢の背後を突いて唐人親広とともに富山城を急襲、織田信長勢の神保長住を幽閉するが柴田勝家勢の反撃を受け討死した。

小林壱岐守【こばやしいきのかみ(15??~15??)】

上杉房能家臣。1505年、宗守砦主に任じられた。連歌師里村昌休を招いた。上杉房義没後、越後国に撤退した。

小間常光【こまつねみつ(15??~15??)】

椎名康胤家臣。通称右近。

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【さ】

雑賀安芸守【さいがあきのかみ(15??~15??)】

川合田館主。元亀年間、長尾景虎勢の攻撃を受け落城した。天正年間、佐久間盛政勢の攻撃を受け討死した。

雑賀日向守【さいがひゅうが(15??~15??)】

雑賀安芸守家臣。

斎藤利基【さいとうとしもと(15??~1582)】

婦負郡城生城主。官途は伯耆守。天文年間、神保長職に服属した。1582年、佐々成政勢の攻撃を受け降伏したが、佐々成政は和議の条件として、斎藤利基の頸を求め、自刃した。頸は佐々成政勢のもとに届けられた。佐々与左衛門は城を攻め続け落城した。
 
斎藤信利【さいとうのぶとし(1554~1610)】

斎藤利基の男。通称次郎右衛門尉。室は三木良頼の娘。1573年、父斎藤利基の隠居により、斎藤家の家督を相続後、長尾景虎に属した。1578年、長尾景虎が春日山城で病没すると織田信長勢に属した。織田信長は越中、能登、加賀国を結び交通の要地ある城生城に斎藤利治、佐々長穐、神保長住らを送り込み守備を固めた。1578年、「月岡野の戦い」では、長尾景勝勢を撃退した。1582年、「本能寺の変」の後、長尾景勝と結び佐々成政勢と戦ったが、神保氏張勢の攻撃を受け城生城は落城、三木頼綱のもとに落延びた。松平元康に仕えて下総国内で1,500石を領した。

斎藤信言【さいとうのぶごと(15??~15??)】

斎藤利基の次男。通称五郎次郎。

斎藤信吉【さいとうのぶよし(1559~1610)】

斎藤利基の三男。通称久右衛門尉。別名斎藤利信。1578年、「月岡野の戦い」で今泉城を攻略する戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」後、斎藤信利は、長尾景勝勢に属するが、佐々成政勢の攻撃を受け没落した。松平元康に仕え上総国内で400石を領した。1600年、「第二次上田城の戦い」では、松平秀忠勢に属して戦功を挙げたが軍規違反を咎められ、上野国吾妻郡に蟄居した。後に赦免され大番頭、組頭を務めた。

斎藤利次【さいとうとしつぐ(15??~15??)】

斎藤信利の男。

斎藤利治【さいとうとしはる(15??~15??)】

斎藤信利の次男。

斎藤利政【さいとうとしまさ(15??~15??)】

斎藤信利の三男。

斎藤正利【さいとうまさとし(15??~15??)】

斎藤信利の四男。

斎藤利信【さいとうとしのぶ(15??~15??)】

斎藤信利の五男。

斎藤喜右衛門【さいとうきえもん(15??~15??)】

斎藤利基家臣。1582年、豊島茂助とともに佐々成政への和議の使者を務めたが、佐々成政から提示された和議の条件は斎藤利基の頸だった。

佐々木藤次【ささきどうじ(15??~15??)】

唐人親広家臣。

笹村太郎左衛門【ささむらたろうざえもん(15??~15??)】

神保職家家臣。礪波郡上見城主。

三膳朝宗【さんぜんともむね(15??~15??)】

菊池武勝家臣。池田城主。

椎名慶胤【しいなよしたね(14??~1520)】

新川郡松倉城主。新川郡守護代職。椎名順胤の男。通称新七郎。1520年、「境川の戦い」では、神保慶宗勢に属して畠山尚順、長尾為景勢と戦うが敗退の討死した。新川郡守護代職を長尾為景に奪われた。

椎名長常【しいな ながつね(15??~15??)】

椎名慶胤の次男。通称弾正左衛門尉。1520年、「神保慶宗の乱」では、椎名慶胤が神保慶宗勢に属して畠山尚順勢と戦ったため、新川郡守護代職を長尾為景に奪われたが、長尾為景に服属して椎名長常は長尾為景から越中国新川郡の統治を任された。長尾為景の討死後、後ろ盾を失った椎名長常の勢力は衰退し、「越中大乱」で神保長職と争い没落した。

椎名康胤【しいなやすたね(15??~1576)】

椎名長常の男。通称右衛門大夫。室は稲見茂周の娘。後継の椎名長常はその又守護代として長尾為景に服属していたものの、長尾為景の討死後に神保長職の攻勢を受けて衰退していた。1555年、「弘治の内乱」では、畠山義綱勢に属して八代俊盛を援軍として派遣した。1559年、神保長職が再び攻勢を強めたため、椎名康胤は長尾景虎に援軍を要請した。1560年、長尾景虎勢の攻撃により富山城、増山城は陥落し、神保長職は逃亡した。1562年、「神通川の戦い」では、神保長職勢に神前孫五郎を討取られるなどの大敗を喫し、松倉城まで攻め込まれたが、長尾景虎勢の援軍により撃退した。1568年、武田晴信の調略で長尾景虎を離反、越中一向一揆とも結んだため長尾景虎の攻撃を受け松倉城に籠城したが落城した。1573年、長尾顕景を通じて、長尾景虎への帰参を申し入れるが拒絶された。1576年、一揆勢と結び、籠城していた砺波郡蓮沼城を長尾景虎勢から攻撃を受け自刃した。

椎名景直【しいなかげなお(15??~15??)】

長尾景久の男(椎名康胤の養子)。通称小四郎。別名長尾景直。長尾景虎の馬廻衆として軍役81人を負担した。長尾藤景の養子となるが、後に椎名康胤の名跡を継ぎ、椎名小四郎と称した。1578年、「月岡野の戦い」では、織田信長勢に敗退した。1578年、「御館の乱」では、長尾三郎景虎勢に属したため、減封処分を受けた。その後、織田信長勢に寝返った。1581年、織田信長勢に属して、唐人親広とともに神保長住と戦った。

椎名重胤【しいなしげたね(15??~15??)】

椎名康胤の男。1576年、父椎名康胤の没落後は武田勝頼を頼って落延びた。その後、千葉邦胤を頼って関東に赴いた。

椎名泰種【しいなやすたね(15??~15??)】

椎名康胤家臣。1561年、「第四次川中島の戦い」で長尾景虎が北信濃国に参陣すると、越後国春日山を狙って押し寄せる気配を見せた。参考文献:『蝶の戦記』by池波正太郎。

柴田久光【しばたひさみつ(15??~1579)】

椎名康胤家臣。官途は丹後守。1579年、蓮沼城を守備したが、石黒成綱勢の攻撃を受け討死した。

島村丑之助【しまむらうしのすけ(15??~15??)】

細川越中守家臣。新川郡猿倉城主塩谷秋貞が留守中、猿倉城を攻略した。長尾景虎勢の津毛城主村田秀頼の攻撃を受け討死した。

神保慶宗【じんぼうよしむね(15??~1521)】

畠山尚順家臣。神保長誠の男。越中国守護代職。1501年、内乱を経て神保家の家督を相続した。1506年、加賀一向一揆衆の侵攻で大敗、越後守護代長尾能景を頼る。1506年、長尾能景と神保慶宗は、婦負郡の「寒江蓮台の戦い」において一揆勢を撃破した。しかし神保慶宗は長尾能景と距離を置くようになる。「般若野の戦い」では長尾能景は一揆勢に敗退し長尾能景は討死した。神保慶宗は本願寺家の家老下間家と婚姻を行い一向一揆方との和睦を進め、尾州畠山家からの独立を図った。1519年、能登畠山義総は長尾為景と越中を挟撃、守勢にたった神保慶宗は守山城に籠城した。能登畠山義総の軍を急襲敗走させ窮地を脱した。1520年、再び能登畠山家と長尾家の挟撃を受け新庄の戦いで敗北自刃した。

神保慶明【じんぼうよしあき(15??~15??)】

神保長誠の次男。1519年、畠山尚順の意向で、兄神保慶宗と戦った。

神保長職【じんぼうながとも(1514~1572)】

神保慶宗の男。1520年、父神保慶宗の自刃で衰退した神保家の復興に努めた。1531年、「享禄の錯乱」に出兵するほどの回復させた。1543年、神通川を越えて椎名長常の勢力圏に富山城を築城した。椎名長常は新川郡国人衆とともに反撃に出た。神保長職は城生城主斎藤家を攻撃した。1544年、神保長職は常願寺川以西を併呑し神保家の最大勢力圏を築いた。1559年、長尾景虎の支援を受けた椎名康胤と戦った。1560年、長尾景虎は越中に出兵、富山城は落城神保長職は増山城へ撤退した。1562年、「神通川の戦い」では長尾景虎、椎名康胤勢を撃破し、神保民部大夫、神前孫五郎を討取る戦功を挙げるが、長尾景虎の反撃で再び和議を結び、神通川の東側を失ったが射水郡、婦負郡の支配権は保持された。1566年、畠山義綱の七尾城復帰を図った。1568年、寺島職定が神保長住を擁立、小島職鎮と内乱に発展した。長尾景虎の介入で内乱は終息したものの小島職鎮の台頭を招き、家督を神保長城に譲り隠居した。

神保長住【じんぼうながずみ(1539~1583)】

神保長職の男。官途は越中守。1568年、武田晴信や一向一揆衆との同盟を推進したが、長尾景虎勢に属する父神保長職と家臣小島職鎮と対立した。1569年、長尾景虎が越中国に侵攻したため、畠山義続を頼って落延びた。1566年、畠山義続が家臣団に追放されると、上洛して織田信長に仕えた。1578年、長尾景虎が病没すると、織田信長勢の先陣として飛騨国経由で越中国に侵攻した。国人衆の斎藤信利、小谷六右衛門、二宮長恒らが参陣して増山城を攻略し、越中国西南部を制圧した。1578年、「月岡野の戦い」で長尾景勝、椎名康胤勢に大勝した。神保長住は北進して富山城を攻略、更に東進して新庄城、松倉城などを攻撃した。1581年、佐々成政が越中国に入るとその寄騎衆となった。1582年、小島職鎮、唐人親広らの攻撃を受け富山城で捕縛された。柴田勝家勢の反撃により救出されたが追放処分を受けた。1583年、伊勢神宮へ越中還住を祈願した。

神保長城【じんぼながしろ(15??~15??)】

神保長職の次男。1569年、兄神保長住が神保長職と対立したが、長尾景虎勢に越中国を追われると、神保家の家督を相続した。その後、神保長職が再び長尾景虎勢から離反して一向一揆と和議を結ぶと、神保長城も行動をともにした。1572年、神保長職が病没した後も、長尾景虎勢と敵対した。1576年、長尾景虎勢の攻撃を受け増山城は落城、討死した。

神保長国【じんぼうながくに(1544~1578)】

神保長職の三男。

守山神保氏重【じんぼうじしげ(15??~1584)】

神保長職家臣。守山城主。

守山神保氏張【じんぼうじはる(1528~1592)】

神保氏重の男(畠山義綱の猶子)。官途は安芸守。通称清十郎。別名神保氏晴。室は織田信秀の娘。温井総貞らと結び、寺島職定とともに長尾景虎と敵対したため、惣領家の神保長職に所領を没収された。1572年、長尾景虎勢の攻撃を受け降伏した。1578年、長尾景虎が病没すると、再び織田信長勢に転じ神保長住、長連龍らととも織田信長勢の越中国、能登国平定戦で戦功を挙げた。佐々成政の寄騎衆を務めた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、佐々成政とともに松平元康、織田信雄勢に属した。「末森城の戦い」では、前田利家勢の援軍を阻止できず敗退した。羽柴秀吉勢に寝返った阿尾城主菊池武勝を攻撃したが、留守の守山城で家臣が謀反を起こして、城代の神保氏重が討取られた。神保氏張は反転して反乱を鎮圧したが、改めて出陣した阿尾城攻めは前田利益らの援軍により撃退された。1587年、「九州征伐」後、佐々成政が肥後国に転封なると、神保氏張もこれに従った。「肥後国人一揆」では、隈本城籠城に指揮を執り戦功を挙げるが、佐々成政が改易、自刃したため浪人となった。1589年、松平元康に仕えて下総国香取郡内で2,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に参陣した内藤信成に代わり江戸城を守備したがまもなく病没した。

神保氏興【じんぼうじおき(15??~15??)】

神保氏張の男。室は佐々成政の娘。佐々成政が越中国に入ると、父神保氏張とともにそれに属した。佐々成政の娘を娶りその枝連衆となった。

神保氏長【じんぼうじなが(15??~15??)】

神保氏張の次男。

神保職広【じんぼともひろ(15??~15??)】

神保長職家臣。

神保覚広【じんぼうよしひろ(1523~1572)】

神保長職家臣。1569年、長尾景虎と神保長職との取次役を務め、神保長職から加増を受けた。

神保長国【じんぼながくに(15??~15??)】

神保長職の三男。通称孫三郎。兄神保長住とともに越中国内を転戦した。1577年、清水寺成就院に寄進を行った。

神保民部大夫【じんぼみんぶだいふ(15??~15??)】

神保長職家臣。1562年、「神通川の戦い」では、長尾景虎、椎名勢勢に属して神保長職勢と戦ったが討死した。家臣の狩野道州は、神保家の家督許可を長尾景虎に求めた。

神保弥次郎【じんぼよじろう(15??~15??)】

神保民部大夫の男。1562年、父神保民部大夫の討死により神保家の家督を相続した。

瑞泉寺証心【ずいせんじしょうしん(15??~15??)】

礪波郡井波城主。末寺三百七十寺を擁し、礪波郡南部を支配、井波街も栄え街屋3,000軒を数えた。長尾景虎勢と争った。1575年、長尾景虎と和議を結んだ。

瑞泉寺顕秀【ずいせんじけんしゅう(15??~15??)】

瑞泉寺証心の男。1579年、佐々成政勢の攻撃を受け落城、堂舎、街屋も焼失した。敗れた一揆勢は五箇山に落延びた。

鈴木国重【すずきくにしげ(15??~1505)】

魚津城主。官途は大和守。1505年、「魚津城の戦い」では、長尾能景勢の攻撃を受け、長尾能景の家臣荻田監物に討取られた。

薗新左衛門尉【そのしんざえもん(15??~15??)】

椎名康胤家臣。

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【た】

高橋則秋【たかはしのりあき(15??~1554)】

射水郡安楽寺城主。1554年、石黒成綱勢の攻撃を受け討死した。

武隈元員【たけくまもとかず(15??~15??)】

椎名康胤家臣。小菅沼城主通称左門五郎。椎名康胤の家老職を務めた。1549年、椎名康胤の名代として武田晴信に援軍要請を行った。武田晴信から信州更級郡内に数千畝の田地を与えられた。

武隈元直【たけくまもとなお(15??~15??)】

武隈元員家臣。1571年、松倉城が長尾景虎勢の攻撃を受け、椎名康胤は礪波郡に落延びると、一向一揆に勢に属して長尾景虎勢に対抗した。1576年、「蓮沼城の戦い」で長尾景虎勢の攻撃を受け椎名康胤が自刃すると、長尾景虎勢に降伏した。

武隈元重【たけくまもとしげ(15??~15??)】

武隈元長の男。通称左衛門。

豊島茂助【としましすけ(15??~15??)】

斎藤利基家臣。1582年、斎藤喜右衛門とともに佐々成政への和議の使者となったが、和議の条件は斎藤利基の頸だった。

土地半兵衛【とちはんべい(15??~15??)】

細川越中守家臣。

館弾正忠【たちだんじょうちゅう(15??~15??)】

新川郡館の城主。

土肥政繁【どひまさしげ(15??~15??)】

新川郡弓庄城。官途は美作守。長尾景虎勢に属した。長尾景虎が病没すると、織田信長勢に属した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、長尾景勝勢に属したた。

土肥源十郎【どひべんじゅうろう(15??~15??)】

土肥政繁家臣。堀江城主。官途は美作守。1569年、長尾景虎勢の攻撃を受け落城した。

栃屋縫右衛門【とちやぬいさえもん(15??~15??)】

土肥政繁家臣。

寺崎行重【てささきゆきしげ(15??~1550)】

神保長職家臣。新川郡願海寺城主。1550年、長尾景虎勢の攻撃を受け討死した。

寺崎盛永【てらさきもりなが(1533~1581)】

寺崎行重の男。官途は民部左衛門。1550年、父寺崎行重が長尾景虎勢と戦い討死したため、寺崎家の家督を相続した。1552年、「天神林の戦い」では、長尾景虎勢に属して井田城主飯田利忠を撃破る戦功を挙げた。1578年、長尾景虎が春日山城で急死すると織田信長勢に寝返った。1581年、「第一次小出城の戦い」では、長尾景勝勢の攻撃を受け降伏した。「第二次小出城の戦い」で柴田勝家勢の反撃を受け小出城に籠城したが、家臣の小野大学助、大貝采女が柴田勝家勢に内応したため、柴田勝家勢に捕縛された。近江国佐和山に送られ、継嗣の寺崎喜六郎とともに自刃した。

寺崎喜六郎【てらさききしろくろう(15??~1581)】

寺崎盛永の男。1581年、「第二次小出城の戦い」で柴田勝家勢の攻撃を受けたが、家臣の小野大学助、大貝采女らの内応により、柴田勝家勢に捕縛された。近江国佐和山に送られ、父寺崎盛永とともに自刃した。

寺島職定【てらしまもとさだ(1515~1569)】

神保長職家臣。新川郡池田城主。1550年、「能登天文の乱」では、温井総貞勢に属して、遊佐続光勢に属した鞍川城主鞍川清房を討取り、戦力を拡大した。寺島職定は一向宗門徒衆の関係維持に努力し神保長職と本願寺顕如の家臣下間頼廉の娘との婚姻の仲介を務めた。1560年、神保長職が長尾景虎勢に敗れると、反一向一揆政策を取る小島職鎮との対立し神保長住を擁立して戦ったが、敗れて自刃した。

寺島盛徳【てらしまもりのり(15??~1605)】

神保長職家臣。通称牛介。(寺島職定の養子)。兄小島国綱(甚助)とともに剛勇をもって知られた。1562年、「金屋の戦い」では、長尾景虎勢と戦い頸一つを取る戦功を挙げた。神保長職の没落後は長尾景虎に属して、本領五位庄を安堵された。1581年、長尾景勝の越中国侵攻に呼応して富崎城に籠城するが、織田信長勢に鎮圧され、大道城に落延びた。その後も五箇山の一向宗門徒、神保家旧臣らと合流して織田信長への抵抗を続けた。1582年、「本能寺の変」が起こると、混乱に乗じて湯原国信(石黒成綱の弟)らとともに魚津城から撤退する織田信長勢に追撃をかけた。佐々成政が越中国を平定すると5,000石で仕えた。

「末森城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。佐々成政が羽柴秀吉に降伏した後は前田利家に仕え1,500石を領した。

寺嶋三八郎【てらしまさんぱちろう(15??~15??)】

猿倉城主。密蔵坊の男(寺嶋孫右衛門の養子)。通称兵部。長尾景虎勢の村田大炊介に討られた。

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【な】

中尾五郎左衛門【なかじまごろうざえもん(15??~15??)】

寺島職定家臣。

名越左馬助【なごしうまのすけ(15??~15??)】

菊池武勝家臣。

榎美庄助五郎【なつみしょうすけごろう(15??~15??)】

小出城主。1563年、長尾景虎勢が小出城を攻略した際、榎美庄助五郎が城主に任じられた。1566年、長尾景虎勢の攻撃を受け落城した。

南部尚吉【なんぶなおよし(15??~15??)】

砺波郡隠尾城主。通称源左衛門。1560年、長尾景虎勢の攻撃を受け討死した。

南部源右衛門【なんぶ(15??~15??)】

南部尚吉の男。1560年、長尾景虎勢の攻撃を受け隠尾城が落城すると、家臣小原作蔵とともに飛騨国に落延びた。

南保家隆【なんぽいえたか(15??~15??)】

宮崎長康家臣。新川郡南保城主。宮崎長康の弟。

西孫左衛門【にしまござえもん(15??~15??)】

寺島職定家臣。

蜷川常嗣【にながわつねつぐ(15??~1505)】

太田城主。官途は治部少輔。1505年、「月岡野の戦い」で長尾能景勢の攻撃を受け討死した。

蜷川親元【にながわちかもと(15??~15??)】

椎名康胤家臣。

入善安家【にゅうぜんやすいえ(15??~15??)】

宮崎長康家臣。新川郡入善館主。

二宮長恒【にのみやながつね(15??~15??)】

神保長職家臣。上熊野城主。1571年、津毛城を攻める。1574年、長尾景虎に属した。長尾景虎が病没すると神保長住に仕えた。1579年、織田信長から知行を安堵された。

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【は】

萩原内記【はごわらないき(15??~15??)】

椎名康胤家臣。

府久呂兼久【ふくろかねひさ(15??~1505)】

椎名慶胤家臣。滑川城主。通称藤右衛門。別名多飯地式部。1505年、「滑川城の戦い」では、長尾能景勢の攻撃を受け討死した。

藤田丹波守【ふじたたんばのかみ(15??~15??)】

土肥政繁家臣。1581年、「弓庄城の戦い」で敵将の頸級を挙げた。

舟木治部左衛門【ふなきじぶざえもん(15??~15??)】

土肥政繁家臣。1581年、「弓庄城の戦い」では、土肥政繁勢の窮地を救った。

舟羽権平【ふねはねごんぺい(15??~15??)】

宮崎長康家臣。新川郡境城主。1584年、長尾景勝勢の攻撃を受け、城兵300人が27人にまで討減らされる激戦の後、籠城六日目に開城した。

越中細川越中守【ほそかわえっちゅうのかみ(15??~15??)】

椎名康胤家臣。新川郡仏生寺城主。越中五大将のひとり。飛騨国人衆の攻撃にたびたび受けた。

越中細川惣十郎【ほそかわそうじゅうろう(15??~1581)】

細川越中守の男。1581年、佐々成政勢の攻撃を受け城内で自刃した。

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【ま】

増気左衛門【ますけさえもん(15??~15??)】

椎名康胤家臣。松倉城は、椎名左衛門、法名道三の居城であった。道三は若い時子供が無く、飛騨の江馬小四郎子息、三郎を養子に迎えた。後に実子が出来て康胤と称した。女子も一人出来て、これは家老、小幡和泉守の子息九助の妻となった。右衛門が病死して後、家老、小幡和泉守・増気左衛門・神前筑前らが申し合わせ、康胤に家督を継がせた。三郎は、飛騨に送り返し、心有る武士の仲にはこれに従うものもあった。

水巻采女佐【むずまきうねめのさ(15??~1581)】

石黒成綱家臣。家老職を務めた。1581年、織田信長の意向を受けた丹羽長秀の勢近江国長浜で石黒成綱ともどもに謀殺された。

三浦五郎左衛門【みうらごろうざえもん(15??~15??)】

椎名康胤家臣。箕輪城主。家老職を務めた。越中箕輪城は松倉城とともに長尾景虎勢に攻め落とされた。

蓑輪五郎左衛門【みのわごろうざえもん(15??~15??)】

椎名康胤家臣。

宮崎長康【みやざきながやす(15??~15??)】

椎名康胤家臣。新川郡宮崎城主。

水越勝重【みずこしかつしげ(1503~1562)】

神保長職家臣。新川郡富山城主。天文年間、神保長職の意向で富山城を築城した。1562年、富山国本覚寺に寄進した。

水越職勝【みずこしもとかつ(15??~15??)】

水越勝重の男。1572年、神保長職の病没後、神保覚広や小島職鎮らとともに長尾景虎勢に、一向一揆が越中に攻め込んだ事についての注進した。

宮崎権進【みやざきごんすけ(15??~15??)】

土肥政繁家臣。有金館主。1569年、長尾景虎勢の攻撃を受けた。

村田縫殿助【むらたぬいのけ(15??~15??)】

寺島職定家臣。

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【や】

八代俊盛【やしろしゅんせい(15??~1569)】

射水郡氷見城主。畠山義綱家臣。官途は安芸守。1555年、「弘治の内乱」では、温井景隆勢の攻撃を受け椎名康胤のもとに落延びた。1557年、「」では、椎名康胤の支援を受け畠山義綱とともに能登国に復帰した。1566年、「永禄の政変」で長続連、遊佐続光らとともに畠山義綱及び畠山義綱派家臣を追放した。畠山義綱の追放後は畠山義慶に仕えた。温井続宗の旧領を得ていたため、温井景隆の復帰後、立場が弱くなった。1569年、「鶏塚の戦い」で、畠山義慶勢の長続連と戦い討死した。

八代外記【やしろげき(15??~1569)】

八代俊盛の男。室は長綱連の娘(玉姫)。1569年、父矢代俊盛が能登鶏塚で挙兵すると行動をともにし、畠山義慶勢の長続連らに敗れ討死した。

八代肥後守【やしろひごかみ(15??~1580)】

八代俊盛の弟。1569年、兄八代俊盛が能登鶏塚で挙兵すると行動をともにした。畠山義慶勢の長続連らと戦い敗れ越後国に落延びた。1580年、。「菱脇の戦い」では、温井景隆、三宅長盛、弟の八代主水とともに織田信長勢に属した長連龍勢と戦ったが敗れ討死した。

八代主水【やしろもんど(15??~1580)】

八代俊盛の弟。官途は越中守。1569年、兄八代俊盛が能登鶏塚で挙兵すると行動をともにし、畠山義慶勢の長続連に敗れ越後国に落延びた。1580年、。「菱脇の戦い」では、温井景隆、三宅長盛、兄の八代肥後守らとともに織田信長勢に属した長連龍勢と戦ったが敗れ討死した。

遊佐慶親【ゆさよしちか(15??~15??)】

畠山尚順家臣。礪波郡蓮沼城主。礪波郡守護代職。通称新右衛門尉。1519年、畠山尚順の意向により神保慶宗勢と戦った。1527年、埴生護国八幡宮に石段を寄進した。加賀一向一揆勢力の圧迫に抗しきれず越後国に落延びた。

湯原国信【ゆはらくにのぶ(15??~15??)】

石黒成綱家臣。石黒成綱の弟。1582年、「本能寺の変」後、長尾景勝に報じて出兵を要請し、魚津城から撤退する織田信長勢を寺島盛徳らとともに追撃した。

龍珠院夫【りゅうしょうんふ(15??~15??)】

神保慶宗家臣。僧侶。1520年、神保慶宗は長尾為景への降伏の使者として龍珠院を派遣した。

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【資料Ⅰ】

越中国(4郡/420,000石)

礪波郡(120,000石):木舟城、勝興寺、瑞泉寺。
射水郡(100,000石):氷見城。
婦負郡(80,000石):
新川郡(120,000石):富山城、松倉城、小出城。

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【資料Ⅱ】

越中五大将【えっちゅうごたいしょう】

細川惣十郎、轡田雅正、。

越中一向一揆衆【えっちゅうこうくもんとしゅう】

瑞泉寺と土山御坊門徒らが中心となった一向一揆。1481年、加賀守護富樫政親の攻撃を受けた加賀国一揆衆は越中国礪波郡瑞泉寺に落延びた。越中国内での一向一揆が拡大を懸念した福光城主石黒光義が瑞泉寺を襲撃しようとしたが、逆に討取った。これ以降、礪波郡に瑞泉寺の勢力が浸透した。1488年、富樫政親も加賀国一向一揆に討ち取られ、加賀国は本願寺蓮如の三人の息子、松岡寺住持蓮綱、光教寺住持蓮誓、本泉寺住持蓮悟)が実質統治した。本願寺蓮如の次男蓮乗は如乗、勝如尼夫妻の婿となって瑞泉寺と本泉寺を譲られた。蓮乗の弟蓮誓も勝如尼から土山御坊を譲られ、越中の門徒指導にあたった。蓮誓は土山御坊を次男実玄に譲渡、光教寺は三男顕誓が相続した。1519年、安養寺御坊(勝興寺)を築いた。瑞泉寺も蓮乗の病没後は義弟蓮欽(勝如尼の甥、妹了如の夫)の子孫が、本泉寺は弟の蓮悟が相続していった。1531年、加賀一向一揆と本願寺が対立、大小一揆と呼ばれる内乱を起こすと勝興寺は本願寺側の大一揆に与した。加賀国は本願寺の直接統治下に入ったが、越中は勝興寺と瑞泉寺の支配下に入った。その後は長年に渡って強大な勢力を維持し、畠山義続、長尾為景、神保長職らと敵対した。

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【資料Ⅲ】

越中国【えっちゅうのくに】

富山湾に面した北陸道の国。東は飛騨山脈を境として越後国、信濃国に接し、西は宝達丘陵、両白山地で能登国、加賀国に接する。南は飛騨高地で飛騨国と接し、北は富山湾から日本海に臨む。国境地帯はいずれも山地であり、特に東部の越後国、信濃国との国境には白馬連峰、立山連峰が連なり、外部からの侵入を防いでいる。冬期には、豪雪によって山岳地帯の移動が困難になる。沿岸線でつながった越後国、能登国からの侵入する必要がある。北部から中部にかけて広い平野が広がり、農業の生産性は高い。平野の各地には、庄川、神通川、常願川、黒部川などの急流河川が流れ、広い海岸線を持つ富山湾と接合により水上交通は盛んである。

越中勝興寺【しょうこうじ】

浄土真宗本願寺派の寺院。1471年、蓮如が砺波郡蟹谷庄土山に創建した土山御坊で、蓮如の四男蓮誓が置かれた。1494年、蟹谷庄高木場へ移転。1517年、佐渡国にあった順徳天皇御願寺勝興寺を再興、寺号を相続して「勝興寺」 と称した。1519年、安養寺村に移転、蓮誓の次男実玄が安養寺城を建てた。勝興寺は戦国時代、瑞泉寺と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るった。1581年、顕幸の時に石黒成綱に焼き討ちされた。1584年、佐々成政が古国府城の土地を越中一向一揆に寄進、顕幸が移った。

越中瑞泉寺【ずいせんじ】

真宗大谷派の寺院。越中一向一揆の拠点とされ、伽藍は堅牢な石垣に囲まれた。1581年、瑞泉寺顕秀のもと、織田信長の家臣佐々成政勢と戦ったが焼き討ちに遭い、堂宇を焼失した。

黒部川【くろべがわ】

黒部川は、鷲羽岳に源を発し、立山連峰と後立山連峰の間に黒部峡谷を急流となって流れる河川。山地を抜けると黒部市愛本を扇頂とする広大な扇状地を北西に流下し、日本海に注ぐ。

常願寺川【じょうがんじがわ】

常願寺川は、北ノ俣岳に源を発し湯川、次いで称名川、和田川が合流し越中国の中央部を流れ日本海に注ぐ。常願寺川も急流河川で頻繁に破堤し、その度に洪水の被害を受けた。1581年、佐々成政が大堤防を築いた。

神通川【じんつうがわ】

神通川は飛騨国の川上岳に源を発し、飛騨国内を流れ、高原川と合流し神通川となる。神通峡などの山峡の地から富山平野に至るまでは河岸段丘を形成し、その後、越中国のほぼ中央を貫流し日本海に注ぐ。

庄川【しょうがわ】

庄川は烏帽子岳の源を発し。飛騨国の尾上郷川、六厩川、大白川等の支川と合流しながら白川郷などを流れ、越中国の五箇山、庄川峡を抜け利賀川と合流したのち、庄川扇状地の東端で日本海に注ぐ。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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