2010年11月27日土曜日

戦国陸奥国+鹿角郡人名辞典

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【あ】

相坂顕明院【あいさかけんみょういん(15??~1588)】

北信愛家臣。臨済宗の僧侶。1588年、羽後国比内郡の戦いで北愛清(北信愛の枝連衆)に属して、三浦秀兼(五城目兵庫)の救援に赴いた。この戦いは、南部信直勢の敗北となり北愛清と相坂顕明院は家臣十一人とともに敗走したが、五城目で安東実季勢に包囲されたため自刃した。

赤沼備中守【あかぬまびっちゅう(15??~1539)】

南部安信家臣。津軽郡赤沼館主。1539年、奥瀬安芸守との訴訟に敗れ、これを斬って三戸城に放火して逃走したが、下斗米昌家に討たれた。

朝日高義【あさひたかよし(1520~15??)】

浪岡北畠具統家臣。津軽郡飯詰城主。

朝日行安【あさひゆきやす(15??~1588)】

朝日高義の男。通称左衛門尉。1578年、大浦為信が浪岡城を攻撃し北畠顕村を追放すると、外津軽地方の反大浦為信勢の拠点が次々落城した。その後、朝日行安は約10年にわたって大浦為信に抵抗した。1588年、阿部信友の道案内を受け飯詰城を包囲した大浦為信勢に、朝日行安勢は籠城し抵抗したが落城、朝日行安は討死した。

姉帯兼実【あねたいかねぜね(1558~1591)】

九戸信仲の次男。二戸郡姉帯城主。通称蔵人。姉帯兼実が姉帯城を築き姉帯家を称し姉帯城1,500石を領した。1591年、「九戸政実の乱」では姉帯兼実、姉帯兼興、姉帯兼信らは九戸政実勢に属し、北進する蒲生氏郷勢を迎撃するため姉帯城に籠城した。姉帯城は蒲生氏郷勢の猛攻を受けて落城し、嫡男姉帯兼興の正室小瀧の前、次男姉帯兼信も城外に討って出て善戦するも多勢に無勢で、姉帯兼実、姉帯兼興、姉帯兼信、松山道長らは自刃した。

姉帯兼興【あねたいかねおき(15??~1591)】

姉帯兼実の男。通称大学。室は小瀧御前。1591年、「九戸政実の乱」では姉帯兼興、姉帯兼信兄弟は九戸政実勢に属した。蒲生氏郷勢を迎撃するため、姉帯城に籠城した。蒲生氏郷勢28,000余りに対し、姉帯兼興勢は寡兵200余人をもって応戦した。姉帯兼興、姉帯兼信兄弟や室で長刀の名手小滝の前、棒術の名手である小屋野摂津守の他、樋口与五右衛門、月館左京、岩館彦兵衛、野田久兵衛、吉田門助、高館播磨守、中里弾正忠、一戸毘沙門堂の別当西法院などが討死した。姉帯兼興は、蒲生氏郷家臣石黒喜助と差し違えて討死した。

姉帯兼信【あねたいかねのぶ(15??~1591)】

姉帯兼実の次男。通称五郎。1591年、「九戸政実の乱」では、姉帯兼信は敵陣に切り込み討死した。

阿部兵庫介【あべひょうごのすけ(15??~15??)】

乳井建清家臣。沖館城主。1579年、比内郡から比山六郎、比山七郎兄弟が津軽地方に侵攻すると、北畠顕則、滝本重行らも兵1,000余りを率いて津軽郡に侵攻した。乳井建清が不在の乳井城は落城した。阿部兵庫介の沖館城も攻撃を受けたが撃退した。

天内治右衛門【あまうちはるざえもん(15??~1597)】

千徳政久家臣。天内館主。千徳政久に仕え40石を領した。1597年、浅瀬石城主千徳政久が大浦為信の攻撃により落城すると、天内治右衛門も討死した。

新屋源次郎 【あらやげんじろう(15??~15??)】

滝本重行家臣。津軽郡新屋城主。新屋城1,900石を領した。新屋源次郎は尾崎城主尾崎喜蔵らととに大光寺城主滝本重行に属した。1575年、大浦為信の攻撃を受けて滝本重行が討死すると、新屋源次郎は尾崎喜蔵とともに大浦為信に降伏し大浦為信に仕えた。

石井又三郎【いしいまたさぶろう(15??~15??)】

南部信直家臣。1591年、南部信直は、「和賀一揆」に参陣しようとする白井右衛門を阻止するため、石井又三郎を派遣した。石井又三郎は一番鑓の戦功を挙げた。

石亀信房【いしがめのぶふさ(1499~1583)】

南部政康の四男。官途は紀伊守。兄南部安信に石亀館主に任じられ石亀家と称した。不来方城の守備などを務め南方の斯波経詮らに備えた。

石亀政頼【いしがめまさより(15??~1593)】

石亀信房の男。1583年、石亀信房の病没後に石亀家の家督を相続して250石を領した。

石亀直徳【いしがめなおとく(15??~15??)】

石亀政頼の男。石亀直徳は400石余りを領して、家老職として南部信直に仕えた。

石川高信【いしかわたかのぶ(1495~1571)】

津軽郡石川城主。南部政康の次男。通称左衛門尉。別名南部高信。側室は一方井安政の娘。智勇を兼ね備えた武将で、兄南部安信から絶大な信任を受け、津軽地方の統治(津軽郡代)した。その後も甥南部晴政をよく補佐して津軽地方の経略を担当した。1524年、「堤浦の乱」を鎮圧する戦功を挙げた。1569年、鹿角郡をめぐって安東愛季と戦い、鹿角郡に侵攻してきた安東愛季勢を打ち破った。1570年、津軽地方で起こった反乱を鎮圧する戦功を挙げた。1571年、大浦為信は石川高信に堀越城の改修を願い出て修築すると見せかけて兵糧や武具を運び込み、大工や人夫に見せかけ兵を引き入れた。改修が終わった堀越城に石川高信の家老衆、金沢円松斎、栃尾靭負、靏浪外記を招き、三人を謀殺した。その夜、石川高信が残る石川城を急襲し、石川高信は防戦したが敵わず自刃した。

石川政信【いしかわまさのぶ(1556~1572)】

石川高信の次男。南部晴政、南部晴継相次いで没すると、兄南部信直が南部宗家の家督を相続した。そのため、次男の石川政信が石川家を相続して津軽郡代に任じらえた。1572年、石川政信は大浦為信と戦い討死した。

石鳥谷正友【いしどりやまさとも(15??~15??)】

鹿角郡石鳥谷館主。別名南部正友。南部晴政勢が鹿角郡に侵攻すると、石鳥谷館には石鳥谷正友が館主として入城し、以後南部晴政に従った1566年、檜山城主安東愛季が鹿角郡に侵攻した。この際、大葛街道比内口に位置した石鳥谷館は安東愛季勢の攻撃を受け落城した。

石名坂久清【いしなさかひさきよ(15??~15??)】

千徳政武家臣。田舎郡石名坂館主。千徳政朝、千徳政武の二代に仕えた。大浦城主大浦為信が勢力を伸ばすと、千徳宗家の浅瀬石城主千徳政氏は大浦為信に属したが、田舎千徳政武は南部晴政に属して対立した。

石名坂正長【いしなさかまさなが(15??~1585)】

石名坂久清の男。官途は近江守。1585年、大浦為信は油川城を攻略して外ヶ浜郡を制圧した。南部信直は、名久井城主東政勝に兵3,000余りを預け、大浦為信を支援する浅瀬石城主千徳政久を攻撃するが「宇杭野の戦い」敗退した。南部信直勢の支援を受けられなくなった田舎館城は孤立無援の状態になった。大浦為信は千徳政氏とともに攻撃すると、田舎館城主千徳政武は籠城したが、衆寡敵せず千徳政武とともに討死した。

泉山康朝【いずみやま(15??~15??)】

南部安信家臣。石亀信房の次男。三戸郷泉山を領したことから泉山家を称した。

泉山古康【いずみやまふるやす(1536~1585)】

石亀政頼の男(泉山康朝の養子)。官途は出雲守。泉山康朝の養子となり家督を相続した。娘(慈照院)を南部信直に継室として嫁がせた。

泉山政義【いずみやままさよし(1560~1629)】

泉山古康の男。別名石亀政義。石亀信房が病没した為、石亀宗家が断絶、南部信直の命により石亀家の家督を相続した。姉の子南部利直が南部宗家を継承したことにより、家老職として岩崎城代などを務めた。

石田辰姫【いしだたつひめ(1592~1623)】

津軽信枚の室。石田三成の娘(三女)。別名「荘厳院」。1598年、羽柴秀吉の病没後に高台院の養女となった。1600年、「関ヶ原の役」で父石田三成が松平元康に敗北すると、高台院の庇護のもと成長した。1610年、大浦信建に仕えていた兄石田重成の仲介により津軽信枚に嫁いだ。1613年、松平元康が養女満天姫(松平康元の娘)を津軽信枚に降嫁させた。津軽信枚は松平元康をはばかって満天姫を正室として迎え、辰姫は側室に降格となった。辰姫は津軽信枚が「関ヶ原の役」の恩賞として得た上野国大舘に移され、大舘御前と称された辰姫の仲はよく大浦信義をもうけた。この際に乳母として登用されたのが、「船橋騒動」の火種となる旧宇喜多秀家家臣の船橋半左衛門の室であった。

一戸政連【いちのへまさつら(1511~1581)】

南部晴政家臣。二戸郡一戸城主。通称兵部大輔。1581年、南部晴政と九戸政実と南部信直、南長義、北信愛の対立において、南部信直に属する一戸政連は次男一戸出羽守とともに九戸政実に属する平館城主平館政包によって謀殺された。

一戸出羽守【いちのへでわのかみ(15??~1581)】

一戸政連の次男。1581年、南部晴政と九戸政実と南部信直、南長義、北信愛の対立において、南部信直に属するは一戸出羽守は父一戸政連とともに九戸政実に属する平館城主平館政包によって謀殺された。

一戸実富【いちのへさねとみ(15??~1591)】

一戸政連の三男。九戸政実家臣。二戸郡宮野城主。官途は図書介。通称彦次郎。別名一戸助光。嫡男であったが一戸家の家督は相続せずに、九戸政実の執事を務め物資調達などの任にあった。九戸政実は一戸政連を謀殺すると一戸実富を城主に任じたが、南部信直勢は一戸城を奪還して北信愛の次男北秀愛を城主とした。1591年、「九戸政実の乱」では九戸政実に属して戦ったが敗れ、首謀者のひとりとして栗原郡三迫で斬首とされた。

出間日向守【いづるまひゅうがのかみ(15??~15??)】

津軽郡出間館主。和徳城主小山内讃岐守の攻撃を受け落城、討死した。

板垣将兼【いながきまさかね(15??~1600)】

大浦為信家臣。津軽郡杉館主。通称兵部。石川高信に属したが、大浦城主大浦為信の勢力が増すとそれに属した。1571年、石川城主石川高信を、大浦為信とともに攻撃、壱番隊として兵200余りを率いた。この戦功により石川城代に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」では、松野信安、尾崎喜蔵、多田玄蕃とともに出陣準備をするも、松野信安以外の板垣政兼ら三将は参陣を遅らせ、堀越城に籠城して謀反を起こした。大浦城留守居役の金信則勢の攻撃を受け討死した。

一町田信建【いっちょうだのぶたけ(14??~1569)】
 
大浦光信家臣。赤石城主。官途は壱岐守。1492年、兄大浦光信の命で赤石城を守備した。一町田館を領して町田家と称した。

一町田信清【いっちょうだのぶきよ(15??~1574)】

一町田信建の男。大浦為信の代に独孤村に移った。1571年、「石川城の戦い」に参陣した。1574年、大浦為信の「大光寺城の戦い」に参陣するも、討死した。

一町田森清【いっちょうだもりきよ(15??~1642)】

一町田信清の男。官途は兵部。通称太佐衛門。1603年、佐竹義宣が隣国の羽後国に入部した際、佐竹義宣との取次ぎ役となった。のちに不始末で領地を召し上げられたが、大浦信枚の時に300石を領して再び仕えた。

出間日向守【いづるまひゅうがのかみ(15??~15??)】

出間館主。和徳城主小山内永春の攻撃を受け落城した。

伊保内政常【いぼないまさつね(15??~1591)】

九戸政実家臣。伊保内城主。官途は美濃守。1591年、「九戸政実の乱」に参陣し、九戸城に籠城したが討死した。

大浦政信【おおうらまさのぶ(1497~1541)】

鼻輪郡大浦城主。大浦光信の男(大浦盛信の養子)。1541年、津軽平野の制覇を目指し、津軽郡代石川高信の留守をついて津軽郡和徳城に小山内満春を攻撃した。「三味線河原の戦い」で小山内満春を討取るも、小山内満春の嫡男小山内永春勢が援軍を率いて参陣すると盛り返されて、大浦政信勢は敗退大浦政信は討死した。

大浦為則【おおうらためのり(1520~1567)】

大浦政信の男。1541年、父大浦政信の討死により大浦家の家督を相続したが病弱であったため家政は弟武田守信が行った。娘の戌姫( 阿保良)を大浦為信に嫁がせて継嗣にした。

大浦為信【おおうらためのぶ(1550~1607)】

武田守信の男(大浦為則の養子)。官途は右京亮。別名津軽為信、久慈為信。室は大浦為則の娘(戌姫)。1568年、大浦城主大浦為則の娘、戌姫(阿保良)の婿養子となった。1571年、大浦為信は石川高信に堀越城の改修を願い出て修築すると見せかけて兵糧や武具を運び込み、大工や人夫に見せかけ兵を引き入れた。堀越城修築完了と祝宴を大浦城で行う旨を石川高信に伝え、石川高信の家臣金沢円松斎、栃尾靭負、靏浪外記の家老を誘き寄せ謀殺して石川城を急襲した。石川城主石川高信は防戦したが敵わず自刃した。1574年、大光寺城主滝本重行を攻撃するも敗退した。1578年、無頼漢を潜入させておき放火、撹乱で浪岡城を落城させ北畠顕村を自刃に追い込んだ。1585年、油川城を攻略し外ヶ浜郡を制圧した。浅瀬石城主千徳政氏が南部信直勢の名久井城主東政勝3,000余りの攻撃を受けると大浦為信は援軍を出して支援した。大浦為信は千徳政氏とともに田舎館城主千徳政武を攻め滅ぼした。1589年、安東実季と和議を結び家臣八木橋備中守を上洛させ羽柴秀吉に名馬と鷹を献上して、津軽内三郡(田舎、鼻和、平賀郡)、津軽外三郡(山辺郡、外ヶ浜郡、西ヶ浜郡)の45,000石の所領安堵を受けた。1589年、羽柴秀吉の「小田原の役」の際、家臣十八騎を率き連れて大浦為信が参陣した。「九戸政実の乱」や「文禄、慶長の役」などで戦功を挙げた。1597年、千徳政氏の嫡男千徳政康を攻撃して、盟友関係にあった千徳政康を滅ぼした。1600年、家臣の森岡信元を謀殺した。「関ヶ原の役」では、三男大浦信枚とともに、松平元康勢に属した。

大浦信建【おおうらのぶたけ(1574~1607)】

大浦為信の男。官途は宮内大輔。別名津軽信建。室は安藤実季の娘。継室は松前慶広の娘。1600年、「関ヶ原の役」では、大浦信建は羽柴秀頼に仕え大坂城にいたが、石田三成勢が壊滅すると石田三成の次男石田重成らと共に帰国した。役後は一時蟄居したが、大浦信建は独自の家臣団を編成、津軽建広、津軽建友ら側近を中心に内政、外交を行った。

大浦信堅【おおうらのぶかた(15??~1597)】

大浦為信の次男。別名津軽信堅。1596年、弟大浦信枚とともにキリシタンに改宗した。

大浦信枚【おおうらのぶひら(1586~1631)】

津軽為信の三男。官途は越中守。別名津軽信枚。室は松平康元の娘(満天姫)。大浦信建の遺児熊千代との家督争いを制して大浦家の家督を相続した。松平元康と深い繋がりを築き、これを利用した。1610年、弘前城を築城した。1611年、松平元康の養女満天姫を娶った。その後も、殖産興業、灌漑、開墾、街道、城下街の整備を行い領内の安定を図った。

大浦熊千代【おおうらくまちよ(1600~1623)】

津軽信建の男。1607年、父津軽信建と祖父大浦為信が相次で病没。大浦家の家督を相続するはずであったが、大浦熊千代が幼少であることを理由により、叔父津軽信枚を擁立する派閥が現れ家中が分裂したが松平秀忠の裁定で、大浦信枚が大浦家の家督を相続した。嫡流の大浦熊千代が家督を相続できなかった理由は、陸奥国は蝦夷地への備えを持つ重要性と、父大浦信建が「関ヶ原の役」において、石田三成勢として行動したためとされている。

大浦戌【おおうらいぬ(1555~1628)】

大浦為則の娘。津軽為信の室。別名阿保良。大浦為信の叔父大浦為則の娘で、大浦為信が婿養子として家督を継いだ。良室として知られ、大浦為信の津軽地方統一を影から支え続けた。1571年、「石川城の戦い」では、大浦為信が集めてきた無頼漢に対して炊きだしを行い、激励して送り出した。感動した無頼漢たちは大浦為信の期待以上の働きをして勝利を導いた。鉄砲の火薬と弾が不足すると城内の錫製品を提出させて溶かし、銃弾を鋳造した。火薬は自身がすりこぎを回しすり鉢で調合して送った。討死した家臣の子弟を引き取っては養育し大浦家の家臣にした。

大浦建広【つがるたけひろ(15??~1640)】

三河国の外科医大河内江三の次男。官途は左馬助。別名大河内江春、津軽建広。室は大浦為信の娘(富子)。北条氏政の外科医を務めた。1589年、「小田原の役」で、北条氏直が滅ぶと大浦為信に仕え、長女の富子を娶った。1601年、大光寺城主に任じられ10,000石を領した。1607年、大浦為信と大浦信建が相次いで病没すると、その弟大浦信枚が大浦家の家督を相続した。大浦建広は大浦信建の嫡男大浦熊千代が家督を継ぐことを主張し、本多正信を通じて松平元康に直訴した。訴状は本多正信に受け入れられ、大浦熊千代の相続が決定するかと思われたが、安藤直次がこれに反対した。1609年、大浦信枚の家督相続が正式認められた。大浦信枚は藩内の大浦熊千代派の粛清を行った。大浦信建の腹心であった金信則は領地召し上げの上切腹、大浦建広は追放処分となったが、大浦建広の居城引渡しを巡って家臣が大光寺城に籠城した。大浦信枚家臣の高坂蔵人の活躍などにより、村市館の一戸兵庫之助らとともに騒動は鎮圧された。大浦建広は後に上京して、松平秀忠の御典医となった。

大里備中守【おおさとびっちゅうのかみ(15??~15??)】

鹿角郡大里城主。阿保三人衆のひとりで大里城1,000石を領した。大里家は鎌倉期に鹿角に入部した武蔵丹党安保家の庶家。大里館主大里備中守、花輪館主花輪中務、柴内館主柴内相模守は同族で鹿角盆地中部の米代川東、西岸地域を領した。1566年、大里備中守、花輪中務、柴内相模守は檜山安東愛季に属して、南部晴政に属する長牛館を攻撃した。1568年、南部信直が鹿角郡に侵攻すると阿保三人衆は安東愛季の元に落延びた。1582年、南部晴政と南部信直による南部惣領家の家督を巡る内訌が起こると、南部晴政に仕え旧領に戻った。

大里親基【おおさとちかもと(1552~1591)】

大里備中守の男。官途は修理大夫。1582年、南部晴政が病没して、南部晴継が南部惣領家の家督を相続するが、まもなく南部晴継も謀殺された。九戸実親と南部信直の家督を相続争いが起こると阿保三人衆は、九戸実親を支持したが南部信直が家督を相続した。南部信直は、阿保三人衆を冷遇した。1591年、「九戸政実の乱」では、大湯昌次と共に九戸政実に属した。中心的役割を果たしたとして九戸城降伏の際、九戸政実らと共に栗原郡三迫で処刑された。

大里親易【おおざとやすちか(15??~15??)】

大里親基の男。1591年、「九戸政実の乱」では、父大里親基が九戸政実に属した。その後、大里親基は蒲生氏郷勢に敗れ捕縛され、栗原郡三迫で処刑された。1593年、大里親易は南部信直に属したが謀殺を恐れ安東愛季を頼り、柴内相模守とともに秋田に落延びた。

大湯昌光【おおゆまさみつ(15??~15??)】

鹿角郡大湯鹿倉館主。大湯主は鎌倉中期に鹿角に入部した武蔵武士団奈良家の惣領家。大湯家は大湯川南岸から花輪北部までを領地とし、枝連衆(小枝指家、新斗米家)をこの地域に分知して支配した。1566年、大里備中守、花輪中務、柴内相模守、大湯昌光は檜山安東愛季に属して、南部晴政に属する長牛館を攻撃した。

大湯昌次【おおゆまさつぐ(15??~1591)】

大湯昌光の男。通称四郎左衛門。1589年、南部信直に属して大館城を攻撃した。1591年、「九戸政実の乱」では大湯昌次は九戸政実に属して「奥州仕置」の攻撃を受けた。大湯城は大光寺正親によって落城、大湯昌次は九戸城に籠城した。九戸城は西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要害であった。城の南側には蒲生氏郷と堀尾吉晴が、猫淵川を挟んだ東側には浅野長政と井伊直政が、白鳥川を挟んだ北側には南部信直と蠣崎慶広が、馬淵川を挟んだ西側には大浦為信、安東実季、小野寺義道、由利十二頭らが布陣した。九戸政実は蒲生氏郷勢の包囲攻撃に寡兵で健闘したが、城兵の半数が討取られると、浅野長政が九戸政実の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者にたて「開城すれば残らず助命する」と城を明け渡すよう説得させた。九戸政実はこれを受け入れて、弟九戸実親に後を託して大湯昌次、大湯昌忠、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光種、大里親基、一戸実富らとともに白装束姿で降伏した。助命の約束は反故にされて、九戸実親はじめ城内に居た者は全て二の丸に押し込められ謀殺された。捕虜となった九戸政実らも栗原郡三迫で自刃させられた。

大湯昌忠【おおゆままさただ(15??~1591)】

大湯昌光の次男。1591年、父大湯昌光とともに九戸政実に属して、九戸城に籠城したが、蒲生氏郷勢の攻撃を受け降伏、その後謀殺された。

大湯勝三郎【おおゆまかつさぶろう(15??~15??)】

大湯昌次の男。1591年、「九戸政実の乱」では父大湯昌次が討死、九戸政実に属した際弟大湯伴二郎とともに大浦為信に預けられた。後、大湯家は大浦家の重臣の家柄となった。

小笠原信清【おがさわらのびきよ(15??~1599)】

大浦為信家臣。官途は伊勢守。通称与四郎。別名小笠原信浄。大浦為信の旗揚げ当時からも家臣で、森岡信元や兼平綱則らと並んで大浦家三家老と称された。1571年、石川高信が籠城する石川城を攻撃に森岡信元と共に兵250余を率いて参陣した。1585年、千徳政武が籠城する田舎舘城の攻撃では兵500余を率いて参陣した。大浦為信が津軽地方を制圧する戦い貢献した。

小笠原信久【おがさわらのぶひさ(15??~16??)】

小笠原信清の男。通称宗左衛門。1601年、大浦為信に100石で新規に召しだされた。

小笠原兵部【おがさわらびょうぶ(15??~1591)】

三戸郡法師岡館主。1591年、「九戸政実の乱」に参陣して討死した。

小栗山左京【おぐりやまさきょう(15??~15??)】

大浦為信家臣。1571年、石川高信が籠城する石川城を攻撃した際の先手の大将。

尾崎三郎右衛門【おざきさぶろうざえもん(15??~15??)】

大光寺城主滝本重行家臣。大浦信則の次男。尾崎城1,600石を領した。

尾崎喜蔵【おざききぞう(15??~1600)】

尾崎三郎右衛門の男。1575年、大浦為信の攻撃を受けて大光寺城が落城すると、尾崎喜蔵は新屋城主新屋源次郎と共に大浦為信に降伏した。1600年、「関ヶ原の役」では、尾崎喜蔵は津軽にて留守居役に任じられた。尾崎喜蔵は松野久七、多田玄蕃、板垣兵部らと800余りの兵を率いて参陣するはずだったが多田玄蕃、板垣兵部らと謀って、謀反を起こして堀越城を占拠した。今信則の指揮する軍勢の攻撃を受け討死した。

小山内満晴【おさないみつはる(15??~1541)】

平賀郡和徳城主。南部安信家臣。官途は出羽守。1541年、大浦政信は、津軽平野の穀倉地帯である平賀郡和徳城を兵800余りで攻撃した。小山内満晴との「三味線河原の戦い」では、大浦政信勢の三上宗衛門が小山満晴の頸を挙げるも、小山内永春勢が加勢し形勢が逆転、大浦政信は討死し、大浦政信勢敗北に終わった。

小山内永春【おさないさぬきのかみ(15??~1571)】

小山内満晴の男。官途は讃岐守。1571年、大浦為信は、南部信直に謀反を起こすと、石川城主石川高信を攻撃して自刃させた。続いて、和徳城を攻撃、小山内永春は寡兵の兵をよくまとめ健闘したが、嫡男小山内主馬、次男小山内求馬、三男小山内弥三郎とともに討死した。

小山内勝建【おさばいかつたて(15??~1541)】

大浦政信家臣。小山内勝経の男。1541年、大浦政信が和徳城主小山内満春を攻撃した際の「三味線河原の戦い」で討死した。

小山内建吉【おさまいたてよし(15??~1554)】

小山内勝建の男。通称雅楽。1554年、武田守信とともに南部晴政の要請で南部領桜庭へ参陣したが、武田守信とともに討死した。

小山内於市【おさないおいち(1577~1601)】

千徳政武の室。小山内永春の娘。1571年 父和徳城主小山内永春が大浦為信の攻撃を討死した後に、十五歳のとき千徳政武に輿入れした。1585年、千徳政武は、大浦為信の兵3,000余りの攻撃を受け自刃した。田舎館城に籠もった城兵330余りも討死した。1601年、津軽地方を平定した大浦為信は、清水杜野で討死した将兵の霊を供養する為法要を開いた。於市はその法要の席で「亡き魂 (たま) よ あわれと思え そえねせし 三年 (みとせ) の夢も さめやらぬに」と辞世の句を残して自刃した。

小野茶右衛門【おのちゃうえもん(15??~1613)】

津軽郡茶右衛門館主。津軽海賊衆。1613年、小野茶右衛門が「津軽騒動」で謀反を起こすと、大間越奉行笹森建房の攻撃を受けた。寡兵の兵をまとめ戦ったが討死した。小野茶右衛門の娘千鶴姫は、許婚の五島久三とともに自刃した。

奥瀬判九郎【おくせはんくろう(15??~15??)】

外ヶ浜郡油川城主。油川湊は蝦夷地への渡航地である陸奥湾沿岸部の中心として栄えた湊街。蝦夷交易の中心地だった十三湊の衰退とともに交易の中心地となった。本願寺教団が油川城下に法源寺、円明寺を建立した。

奥瀬善九郎【おくせぜんくとう(15??~15??)】

奥瀬判九郎の男。南部信直は外ヶ浜郡に堤浦城主堤弾正忠、油川城主奥瀬善九郎、蓬田城主蓬田越前守、大開城主平俊忠を配置して、大浦為信に対抗した。1585年、大浦為信が油川城主を攻撃した際、大浦為信は城近くの山上で多数の篝火をたかせ、多数の兵が襲来したと見せかける謀計を用いた。これに驚いた奥瀬善九郎は側近とともに田名部城に落延びた。

奥瀬定直【おくせさだなお(15??~1539)】

南部安信家臣。上北郡奥瀬館主。官途は安芸守。南部家四天王のひとりで奥瀬館を領して奥瀬家と称した。1539年、奥瀬定直は所領の境界を巡って訴訟を起こした赤沼備中守によって謀殺され、赤沼備中守の放った火により三戸城が消失した。

奥瀬定重【おくせさだしげ(15??~15??)】

奥瀬定直の男。官途は治部少輔。

奥瀬重之【おくせしげゆき(15??~15??)】

奥瀬定重の男。官途は内蔵助。南部信直に仕えて奥瀬館800石を領した。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直勢に属した。

小栗山左京【おぐりやまうきょう(15??~15??)】

大浦為信家臣。小栗山館主。大浦為信の津軽平定戦に参陣して戦功を挙げた。

小野井裕政【おだいすけまさ(15??~15??)】

荒田城主。官途は讃岐守。1533年、小野井裕政が荒田城を築城した。

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【か】

深浦葛西頼清【かさいよりきよ(14??~1533)】

深浦館主。官途は伊勢守。1502年、深浦館を築城した。1533年、南部安信勢との「大光寺城の戦い」で討死した。

深浦葛西信清【かさいのびきよ(15??~15??)】

葛西祐清の男。官途は伊勢守。1533年、父葛西頼清が南部安信に討取れたため、大光寺城から落延びた。小笠原信浄の推挙で大浦為則に仕えた。1571年、「石川城の戦い」「和徳城の戦い」に参陣した。1574年、大光寺城攻撃に参陣するも敗退した。1575年、大浦為信と共に大光寺城を攻撃、落城させた。1578年「浪岡御所の戦い」に参陣した。1585年、千徳政武との戦いでも戦功を挙げた。後に大浦為信の勘気を被り逐電し深浦葛西家は断絶した。

葛原祐清【かさはらすけきよ(15??~1600)】

大浦為信家臣。葛原館主。官途は治部。1600年、謀反を起こした尾崎喜蔵と戦い討死した。

金沢円松斎【かなざえんちくさい(15??~1571)】

石川高信家臣。石川高信家三家老のひとり。1571年、大浦為信の堀越城の改修許可を津軽郡代石川高信に求めた。石川高信は改修許可を与えると共に、改修の支援も行った。堀越城の改修後、大浦為信は石川高信の家臣金沢円松斎、栃尾靱負、靏浪外記らを堀越城に祝宴に招き謀殺後、兵を起こして石川城を攻略した。

兼平盛純【かねひらもりずみ(14??~15??)】

津軽郡兼平館主。官途は伊豆守。通称五郎。別名種里盛純。大浦盛信の弟大浦盛純が、兼平館に移り、兼平家と称した。

兼平綱則【かねひらつなのり(15??~1625)】

兼平盛純の男。官途は金吾。室は武田守信の娘。森岡信元、小笠原信浄と並ぶ大浦家三家老のひとりとして1,200石を領した。大浦為信の津軽地方制圧に尽力し、数々の戦功を挙げた。1567年、大浦為信の野崎村の調練に参陣した。1571年、「石川城の戦い」「和徳城の戦い」では大浦城を守備した。1574年「大光寺城の戦い」では、大浦為信とともに本陣にいたが敗走した。1578年「浪岡城の戦い」に参陣した。1579年、安東愛季の援護を受けた比山六郎、比山七郎兄弟や北畠顕則らを迎え撃つため「六羽川の戦い」に参陣した。1585年、「田舎館城の戦い」でも、千徳政武勢を討取る戦功を挙げた。1591年、「九戸実政の乱」に参陣した。1592年、「文禄の役」では名護屋に大浦為信の陣代として参陣した。

兼平信秋【かねひらのぶあき(15??~1624)】

兼平綱則の男。官途は伊豆守。兼平綱則の隠居により、兼平家の家督と1,200石を相続した。1623年、松平家光の上洛に際し、大浦信枚が供奉した際、供として上洛した。

兼平信孝【かねひらのぶたか(15??~1646)】

兼平信秋の男。官途は伊豆守。室は大浦為信の娘(梅姫)。別名津軽信孝。1624年、父兼平信秋の病没後、1200石を相続した。1634年、津軽家譜代衆と新参衆の騒動「船橋騒動」が起ると、譜代衆に筆頭として家中をまとめようとした。1636年、幕府裁定により喧嘩両成敗となり、長門国に流罪となった。

樺山行貞【かばやまいくさだ(15??~1588)】

朝日行安家臣。朝日高義の次男。通称団右衛門。1588年、兄朝日行安は飯詰城に籠城して大浦為信勢に抵抗した。兵糧の蓄えがあったが、大浦為信により城内に通じる水脈を絶たれた。白米で馬を洗って見せるなど抵抗をするも、飯詰城は落城した。朝日行安は自刃し、枝連衆も徹底的に捜索の末に謀殺された。その後、城址周辺では、鎧武者や女の亡霊が現れたり、日照りや長雨などの天候不順に見舞われ、朝日一族の祟りと噂された。

北致愛【きたむねちか(1503~1540)】

三戸郡剣吉城主。南部信義の男。父南部信義が病没した翌日誕生した為、八戸信長の反対によって南部惣領家の家督を相続に就任できず、母方の北家に追いやられた。1540年、北家の家督を北信愛に譲り隠居した。

北信愛【きたのぶちか(1523~1613)】

北致愛の男。官途は尾張守。室は南長義の娘。1571年、「屋裏の変」では、南部信直を匿い南部晴政と対立した。南部晴政の隠居後は、南部晴継を補佐した。南部晴継が元服時する際、烏帽子親として加冠の儀を執り行った。1582年、南部晴継が謀殺されて南部宗家の家督問題が発生すると、南部信直を擁立した。その後、南部部直の側近となり、内政や外交面で南部宗家を取り仕切った。1587年、前田利家に鷹を献上し、羽柴秀吉に属する意思を示した。1591年、「九戸政実の乱」では上洛して羽柴秀吉に援軍を要請を行った。1598年、花巻城代を勤めていた次男北秀愛が病没すると花巻城代として8,000石を領した。1599年、南部信直が病没すると隠居を願い出るが、後を継いだ南部利直は許さず、側近として重用された。信心深く、合戦の際には髻(もとどり)に観音像を忍ばせ、戦場に向かった。

北愛一【きたちかかず(15??~1634)】

北信愛の男。通称彦助。別名北定愛。南部信直から父北信愛の戦功により2,050石を領した。1591年、「九戸政実の乱」後、寺田館2,500石を領した。父北信愛から独立していたため、弟北秀愛と父北信愛の死で断絶した花巻北家の名跡は継がなかった。父北信愛が名跡継承を願わず病没してその所領が南部信直に接収されたため、北愛一と弟北直継は新たに所領を得て別家を興した。嫡男北直愛が2,100石を領して北家を相続した。弟北愛言は分家した。北直愛の病没後に北家の家督を相続した北愛時は遺領のうち500石しか相続を許されなかった。北愛時が病で隠居すると嫡男北岩松が早世して北家の嫡流は断絶した。

北秀愛【きたひであい(15??~1598)】

北信愛の次男。室は南部晴政の娘(五女)。1591年、「九戸政実の乱」では一戸城主一戸図書が九戸政実勢に属すると南部信直に報告して一戸城を攻落して援軍を待った。この最中に流れ弾により負傷し討死したとの虚偽の流言を行った。「九戸政実の乱」後、戦功により花巻城代に任じられた8,000石を領した。1598年、鉄砲傷が悪化し花巻城で病没した。

北愛邦【きたちかくに(1575~1590)】

北信愛の三男。大浦為信、安東実季から大館城が攻撃された際、城代であった北愛一とともに参陣して討死した。

浪岡北畠具永【きたばたけともなが(1487~1555)】

田舎郡浪岡御所館主。北畠顕具の男。官途は左近衛中将。鎮守大将軍北畠顕家の末裔で、将軍を御所と敬称する当時の慣習から陸奥国一帯で「浪岡御所」と称された。外交、内政手腕が高く、京都の朝廷と交渉するため、上洛して近衛従中将四位下の任官を受けた。

浪岡北畠具統【きたばたけともむね(1509~1555)】

北畠具永の男。官途は弾正少弼。父北畠具永の築いた基盤をもとに勢力を拡大し、浪岡北畠家の最盛期をもたらした。大光寺信愛や大浦為則などと協力して津軽地方を統治し、津軽の支配強化に努めた。寺社の修築に力を入れ、油川湊の熊野権現宮や今別の八幡宮猿賀の権堂、浪岡京徳寺などが修築された。それが北畠家の財政的負担を招いた。

浪岡北畠具運【きたばたけともかず(1532~1562)】

北畠具統の男。官途は式部大輔。室は平俊忠の娘。1562年、「河原御所の乱」では叔父北畠具信と浪岡北畠家の家督を争いがもとで謀殺された。

浪岡北畠顕範【きたばたけあきのり(15??~1578)】

北畠具統の次男。別名滝井顕範。通称左衛門尉。北畠具運の補佐を務めた。1562年、「河原御所の乱」で兄浪岡北畠具運が河原北畠具信に謀殺されると、北畠具信を討取って兄の嫡男である北畠顕村を新たな当主に擁立し、その後見役を務めた。1578年、大浦為信に攻められて浪岡北畠家が滅亡した際に討死した。

浪岡北畠顕村【きたばたけあきむら(1555~1604)】

北畠具運の男。通称三郎兵衛。室は安東愛季の娘。1562年、「河原御所の乱」で浪岡北畠具運が謀殺された後、叔父の浪岡北畠顕範の後見を受けて家督を相続した。「河原御所の乱」で失った勢力を取り戻すことができなかった。1578年、大浦為信に浪岡城を攻め落とされた。

浪岡北畠顕忠【きたばたけあきただ(15??~1578)】

北畠顕範の男。通称左衛門。1562年、 大叔父川原北畠具信が、北畠具運を謀殺すると、父北畠顕範とともに北畠具信を討取った。北畠顕範とともに北畠顕村を後見した。

浪岡北畠顕則【きたばたけあきのり(15??~15??)】

北畠顕忠の次男。剛勇を知られた。1578年、北畠顕則の留守中、大浦為信勢の攻撃を受け浪岡落が落城。その際に不在だったのを悔やんで浪岡北畠家の家再興の機会を窺った。1579年、挙兵するも大浦為信勢との「六羽川の戦い」で敗れ敗走した。

浪岡北畠顕佐【きたばたけあきさ(15??~15??)】

北畠顕忠の三男。

河原北畠具信【きたばたけとものぶ(15??~1562)】

浪岡北畠具永の次男。父北畠具永の命で断絶していた分家河原御所の家督を相続した。所領問題で浪岡北畠具運と争った。1562年、北畠具信、北畠顕重親子は「河原御所の乱」で、北畠具運を謀殺した。北畠具信も北畠具運の弟北畠顕範の討取られた。この乱は、浪岡北畠宗家の衰退を招くことになった。残党は水木館に籠城して抵抗した。

河原北畠顕信【きたばたけあきのぶ(15??~1579)】

北畠具信の男。通称虎五郎。別名水木顕信。1562年、北畠具信が討死すると、北畠顕範に養育され後に、水木館主となり、水木顕信と称した。1578年、大浦為信の攻撃を受け浪岡北畠顕忠が討死すると、大浦為信に属したが「六羽川の戦い」で討死した。

北村宗統【きたむらむねのり(1546~1618)】

津軽為信家臣。通称平右衛門。別名河村与七郎。はじめ細川氏綱の被官であったが、羽柴秀吉により所領を失い浪人となった。1600年、「関ヶ原の役」の際、大浦為信に500石で仕え、御旗奉行を勤めた。1610年、弘前城構築では東海幸義とともに縄張りを行った。1612年、深浦城代となった。1615年、吾妻沢原野開拓に着手するも、道半ばで病没した。

北村宗容【きたむらなかた(1590~1648)】

北村宗統の男。通称久左衛門。1618年、父北村宗統の病没により、深浦城代となった。1624年、深浦の開発に着手した。1644年、家老職となり1,000石を領した。1647年、「正保の変」では、大浦信義廃立謀議のひとりであったが変心し、大浦信義に密告した。1648年、裏切り行為に義憤した村山滋朝によって、弘前城内で謀殺された。

木村越後守【きむらえちご(15??~15??)】

千徳政康家臣。猿賀館主。1597年、千徳政康が大浦為信と対立すると、大浦為信に心を寄せる家臣木村越後守、盛岡金吾ら大浦為信派と対抗する派に二分された。家中の争いに敗れた木村越後守、盛岡金吾ら十七人は、堀越城の落延びた。大浦為信は、これを契機に木村越後守、盛岡金吾らを先鋒に立て浅瀬石城を攻撃した。大浦為信勢は兵を三手に分け、城の背後の攻手は木村越後守、盛岡金吾らが担った。千徳政康勢は攻撃を支えきれず、千徳政康は自刃して浅瀬石城は落城した。

木村秀清【きむらひできよ(15??~15??)】

南部晴政家臣。三戸郡五戸古館主。

木村秀勝【きむらひでかつ(15??~15??)】

木村秀清の男。

切田兵庫介【きりたひょうごのすけ(15??~15??)】

南部信直家臣。1589年、「九戸政実の乱」では南部信直に属して討死した。

櫛引清実【くしびききよみち(15??~15??)】

八戸郡櫛引城主。櫛引城3,000石を領した。1567年、櫛引清実は八戸政栄の留守中にその所領を侵略し近隣に放火した。1571年、八戸政栄勢によって櫛引城は攻撃を受けた。東政勝が櫛引清実を支援したが、櫛引清実は降伏した。

櫛引清長【くしびききよなが(1540~1591)】

櫛引清実の男。1591年、「九戸政実の乱」では、九戸政実に属して二戸城に籠城した。南部信直に属した浅水城主南盛義を攻撃するが失敗、法師岡館まで退却した。櫛引清長は追撃する南盛義勢を「法師岡館の戦」で打ち破り、南盛義、南康政兄弟を討取った。法師岡館は南部信直方の根城八戸政栄、中野家の攻撃を受け落城した。九戸城に籠城したが偽りの和議に応じ斬首された。

櫛引清政【くしびききよまさ(15??~1591)】 

櫛引清実の次男。1591年、「九戸政実の乱」で討死した。

久慈信義【くじのぶよし(15??~15??)】

久慈郡久慈城主。久慈治義の男。官途は三河守。通称与三郎。室は九戸信仲の娘。久慈信義は、久慈治義と不和になり、大浦為則の婿養子になった。

久慈直治【くじなおはる(15??~1591)】

久慈信義の男。官途は備前守。1591年、「九戸政実の乱」では、嫡男久慈政則とともに九戸政実勢に属して九戸城に籠城、搦手の副将を努めて奮戦した。九戸城の開城に伴い九戸政実とともに捕らわれ、栗原郡三迫に送られ斬首された。

久慈政則【くじまさのり(1554~1591)】

九戸信仲の次男(久慈直治の養子)。室は久慈直治の娘。久慈直治の女婿となり久慈家の家督を相続した。1591年、「九戸政実の乱」では、久慈政則とともに加担し九戸城の搦手を守備して抵抗した。九戸政実の降伏で終結し、久慈直治、久慈政則父子は捕縛され、栗原郡三迫で処刑されました。
 
久慈五郎【くじごろう(15??~15??)】

久慈治義の三男。

工藤兼綱【くどうかねつな(15??~1591)】

九戸政実家臣。九戸郡上館城主。1591年、「九戸政実の乱」では、九戸政実勢に属したが討死した。

九戸信仲【くのへのぶなか(1514~1589)】

三戸郡九戸城主。通称右京。室は八戸但馬守の娘。次男九戸実親は三戸南部家に、三男九戸政親は久慈家に、四男九戸康実(高田康真)は斯波家に、それぞれ婿入りさせた。

九戸政実【くのへまさざね(1536~1591)】

九戸信仲の男。官途は左近将監。室は北の方。1569年、南部晴政の要請により、安東愛季が侵略した鹿角郡の奪取などに協力し、その勢力を拡大した。1582年、南部晴政が病死すると三戸南部家は南部晴政の養子田子信直と実子南部晴継の家督相続争いが始まった。南部晴政の跡は、南部晴継が継いだ。父南部晴継の葬儀の終了後、三戸城に帰城する際に謀殺された。南部家枝連衆や重臣が一堂に会し大評定が行われた。後継者としては、南部信直と九戸実親が候補に挙げられたが北信愛が事前に八戸政栄を調略し、南部信直が後継者に決定した。1591年、南部信直に属することを拒絶し兵5,000余りで挙兵した。精鋭であった九戸政実勢(九戸政実、九戸実親、櫛引清長、櫛引清政、七戸家国、久慈政則、久慈主水、円子右馬丞元綱、大里修理、大湯四郎左衛門、美濃部貞継、坂本仲満、坂本新吉、畠山師泰、嶋森安芸守、嶋森主膳、姉帯与次郎、中野造酒正政行、花崎弥十郎、上野右衛門、工藤右馬助業綱、工藤新十郎、晴山治部、高家将監、円子金十郎、蛇口弥助、晴山玄蕃、長門伝左衛門、長門正兵衛、堀野彦兵衛、江刺家一熈斉、野田左衛門、伊保内美濃守政常、山根彦右衛門、宮野弥三郎、二戸一休斉、軽米兵右衛門、山崎作十郎、奥寺右馬丞、夏井久膳、大野弥五郎、大野彦太郎、三日市越前守、三上斉太郎、車門小左衛門、諏訪新右衛門、小神弥七郎、二子喜右衛門、種市伝左衛門、大森左馬、泉山兵部、鳥谷部孫助、小田代民部、南館玄蕃、横浜左衛門尉、野辺地久兵衛、天間館源左衛門、和田覚左衛門、大浦主殿助、新館兵部、花松左近、有戸喜右衛門、戸伊良監物、簗田甚兵衛ら)は強く、南部信直は自力での九戸政実討伐を諦めて羽柴秀吉に使者を送り「九戸家討伐」を要請した。羽柴秀吉は羽柴秀次を総大将とし蒲生氏郷や浅野長政、石田三成を主力とする軍勢が組織された。さらに小野寺義道、戸沢政盛、秋田実季、大浦為信が参陣し60,000余りの兵を集めた。圧倒的戦力の差に敗れ九戸政実は自刃した。

九戸実親【くのへさねちか(1542~1591)】

九戸信仲の次男。室は南部晴政の娘。南部晴継没後の継嗣争いでは南部信直と争った。1591年、「九戸政実の乱」では主戦派で、兄九戸政実の降伏後も九戸城二の丸に籠城したが射殺された。

車門小左衛門【くるまもんこさえもん(15??~1591)】

九戸政実家臣。九戸郡車門城主。1591年、「九戸政実の乱」では、九戸政実に属して討死した。

玄徳寺休西【げんとくじきゅうさい(15??~15??)】

浪岡玄徳寺の和尚。出羽国浄願寺六世寂助について真宗の教えを受けた名僧。蓮如上人の御真筆を贈られた。※「津軽風雲録」by長部日出雄。

毛馬内秀範【けなないひでのり(1521~1585)】

鹿角郡毛馬内城主。南部政康の五男。別名南部秀範。毛馬内秀範は鹿角郡代として赴任し北鹿角郡毛馬内城を居城としたために毛馬内家を称した。安東愛季の攻撃から鹿角郡を死守した。鹿角郡で2,000石を領した。

毛馬内政次【けまないまさつぐ(15??~1642)】

毛馬内秀範の男。別名南部政次。1608年、居城を柏崎館に移した。

高家将監【こうけたしょうげん(15??~15??)】

九戸政実家臣。九戸郡高家城主。

小技指宗元【こえさしむねもと(15??~15??)】

鹿角郡小枝指館主。小枝指家は鹿角四頭奈良家の庶流。小枝指館の南側には小平館、新斗米館と同族奈良家庶流の居館があり、花輪北部から大湯間の根市川流域を同族支配していた。

小技指知宗【こえさしともむね(15??~15??)】

小技指宗元の男。1566年、小枝指家は南部家に敵対し続けた奈良家、安保家一族の中では、檜山城主安東愛季が鹿角侵攻をした時も、一族の大湯家、安保家系の花輪、柴内、大里の諸家が檜山安東愛季に属するなか、小枝指家は長牛家、毛馬内家等とともに南部家に組した。1565年、南部晴政に属した。鹿角郡が安東愛季に制圧されると一旦は落延びるが、南部晴政勢が再び鹿角郡を占領するとによって旧領に戻ることが出来た。

小技指茂宗【こえさししげむね(15??~15??)】

小技指知宗の男。

小軽米久俊【こかるまいひさとし(15??~1591)】

九戸郡小軽米城主。通称左衛門佐。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直勢に属した。小軽米城は、九戸政実勢を牽制する絶好の背後地にあり、南部信直は野田掃部助らを援軍に差向けた。

小鳥谷摂津守【こずやせっつのかみ(15??~1591)】

九戸政実家臣。二戸郡五月館主。1591年、「九戸政実の乱」では九戸政実に属して姉帯城に籠城したが討死した。

小平彦次郎【こだいらひこじろう(15??~15??)】

鹿角郡小平館主。鹿角郡四頭のひとり。1566年、檜山城主安東愛季の「鹿角郡侵攻」では、奈良家総領大湯家や安保家系の大里、花輪、柴内の諸家らと檜山安東愛季に内応し、南部家勢力と対峙し安東愛季の鹿角郡支配に尽力した。1568年、南部晴政勢が鹿角郡に侵攻し安東愛季勢力を鹿角郡を駆逐すると、安東愛季に属した反南部勢力は鹿角郡から他国へ逃れた。

小平左近【こだいらうこん(15??~1591)】

瀬田隠岐守の弟。別名月館左近。1588年、兄瀬田隠岐守は南部信直に属して「高水城の戦い」で戦功を挙げた。1591年、「九戸政実の乱」では兄瀬田隠岐守とともに南部信直勢に属して、九戸政実勢の一戸城を攻撃した。乱後に瀬田隠岐守は戦功により月館館主を領して月館家と称した。

後藤宅庸【ごとうたくほ(15??~15??)】

滝本重行家臣。猿賀館主。通称五郎左衛門。

金為家【こんためいえ(15??~1523)】

金則綱の男。官途は備中守。羽後国金山の住人。1491年、津軽地方に来て下新岡村で500石を領した。1487年、父金則綱は、羽後金沢城代であったが、南部義政の代に仙北郡に移された。1523年、久慈元信に属して、南部安信に押領された旧領回復を目論むも、鬼柳において南部安信勢に捕縛され、金則綱も久慈元信とともに謀殺された。

金信綱【こんのぶつな(15??~1563)】

金為家の男。官途は備中守。通称彦八郎。1523年、父金為家の遺領を継ぎ500石を領した。浮田村の水田開発に尽力した。

金信忠【こんのぶただ(15??~1577)】

金信綱の男。官途は備中守。1554年、大浦為則は南部晴政の援軍要請に従って、武田守信、堤則景らとともに南部家領桜庭へ参陣するも、武田守信が討死しため撤退、金信忠が武田守信の亡骸を持ち帰った。

金信就【こんのぶなり(15??~1603)】

金信忠の男。官途は備中守。通称勘解由左衛門。武勇と知略に優れ、沈着な性格で家中の人望も高かった。1564年、金家の家督を相続した。1567年、大浦為信の野崎村調練に参陣した。1571年、「石川城の戦い」に参陣した。1575年、「大光寺城の戦い」にに参陣した。1578年、「浪岡城の戦い」に参陣した。1585年、「油川城の戦い」では、二本柳三郎右衛門を調略して、無血開城に成功した。1585年「田舎館城の戦い」では、千徳政武と戦い戦功を挙げた。1590年、「小田原の役」では、沼津で津軽為信とともに羽柴秀吉に謁見した。1600年、「関ヶ原の役」にも参陣した。その後も、大浦為信の政治にも積極的に参画した。大浦家三家老である、兼平綱則、森岡信元、小笠原信浄に次ぐ重臣として活躍した。

金信則【こんのぶのり(15??~1609)】

金信就の男。官途は主水。通称小三郎。1600年、「関ヶ原の役」の際、石田三成勢に属して堀越城に籠城した板垣将兼、多田玄蕃、尾崎喜蔵らが三将を討取る戦功を挙げた。1603年、父金信就の病没後、その領地を継ぎ1,500石を領した。1609年、大浦為信の病没後に三男大浦信枚と大浦信建の遺児大浦熊千代の後継者争い「津軽騒動」で熊千代側として争い幕府の裁定で敗れ自刃した。

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【さ】

桜庭光康【さくらばみつやす(15??~15??)】

南部安信家臣。桜庭家は南部家初代、南部光行からの譜代の家柄で三上家、安芸家、福士家と並んで南部家四天王と称された。1565年、鹿角郡に派遣されていた桜庭光康は、侵攻してきた安東愛季を撃退した。1572年、石川高信の津軽地方の平定戦にも参陣した。閉伊郡侵攻では、謀略を用いて閉伊郡豪族衆の離反を誘い和井内家、刈屋家を内応させて相手の兵力を削いだ後、楢山義実ととも攻め込み、田鎖家などを攻撃し、閉伊郡を制圧した。寺社を保護し、没落した侍に俸禄を与えて家臣とした。

桜庭直綱【さくらばなおつな(15??~1620)】

桜庭光康の男。官途は安房守。室は木村秀茂の娘。1591年、「九戸政実の乱」では領地である閉伊地方の豪族衆が、南部信直に属するよう調略活動を行った。1600年、「関ヶ原の役」では最上義光の救援に向かった南部信直勢の中に居たが、伊達政宗が和賀忠親、稗貫広忠らを支援して南部信直の領内一揆を起こさせた。桜庭直綱は領地に戻り馬上の侍大将として70人の部隊を率いて、和賀忠親、稗貫広忠ら一揆勢と戦った。1601年、伊達政宗と結んだ遠野地方の阿曽沼広長を討伐するため350余りを率いて阿曽沼広長勢と戦いこれを撃破った。

笹森建房【ささもりたてふさ(15??~16??)】

大浦為信家臣。津軽郡笹森館主。官途は勘解由。別名砂子瀬勘兵衛。1571年、大浦為信が石川高信を攻撃する際小栗山左京とともに野伏衆83余りを率いて戦功を挙げた。武勇名高く、諜報活動にもたけ笹森館を領し「鬼勘解由」と恐れられた。大間越奉行となり、佐竹義宣領との国境を菊池刑部、山上衛門佐、七戸修理らとともに守った。1613年、小野茶右衛門が謀反を起こすと、大間越奉行笹森建房が大将となって小野茶右衛門を討伐した。※「津軽風雲録」by長部日出雄。

沢里重経【さわさとしげつね(15??~15??)】

八戸南部家臣。官途は大和守。1539年、八戸義嗣が病没後、家臣の中舘義成、沢里重経、新田盛政、田中宗祐らが八戸宗家の跡目をめぐって協議を行ったが、田中宗祐が座を破り、郎従を率いて八戸根城を占拠した。田中宗祐の父田中清祐は十四代八戸信長の嫡男であったが庶男であったため家を継げなかったことを遺恨に思ったためであった。その時城中に入り説諭帰腹せしめたのが大慈寺四世中興大樹正棟であった。大慈寺正棟は八戸義嗣の弟であり大慈寺中興の僧と称された。田中宗祐は剃髪して龍穏寺で出家したが後に謀殺された。

沢里主膳【さわさとしゅぜん(15??~15??)】

沢里重経の男。

沢田助三郎【さわだすけさぶろう(15??~15??)】

南部信直家臣。上北郡沢田城主。別名恵比奈左近。沢田城1,300石を領した。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直に属した。

七戸直国【しちのへなおくに(1517~1570)】

上北郡七戸城主。七戸慶国の男。

七戸家国【しちのへいえくに(1549~1591)】

七戸直国の男。通称彦三郎。室は九戸信仲の娘。大浦為信と戦い領地であった平内を奪われた。1591年、「九戸政実の乱」では九戸政実に属して、近隣の出法寺城や六戸城を攻撃した。九戸政実らと共に羽柴秀吉勢を翻弄したが降伏した。後に、首謀者のひとりとして斬首に処された。

七戸慶高【しちのへよしやか15??~1591)】

七戸直国の次男。1591年、「九戸政実の乱」では九戸政実に属して近隣の出法寺城や六戸城を攻撃した。九戸政実らとともに蒲生氏郷勢を翻弄した。降伏後に、首謀者のひとりとして斬首に処された。

七戸持文【しちのへもちふみ15??~15??)】

七戸家国家臣。上北郡野辺地城主。官途は将監。野辺地城2,000石を領した。

柴内相模守【しばうちさがみのかみ(15??~15??)】

鹿角郡柴内館主。国人領主で1,300石を領した。柴内家は安保家の庶流。鹿角安保家は鎌倉期に鹿角郡に入部した武蔵武士団丹党で、大里館、花輪館、柴内館に分地し花輪周辺を支配した。1565年、柴内相模守は鹿角郡支配を目論む檜山城主安東愛季の誘いに応じ、大里備中守、花輪中務とともに長牛館を攻撃し、安東愛季の鹿角支配に加担した。1568年、南部晴政が鹿角郡を回復すると、柴内相模守は大里備中守とともに郡外に逃れました。1573年、南部晴政と南部信直が対立すると南部晴政に属して旧領を回復した。1591年「九戸政実の乱」では、大里備中守、花輪中務と共に九戸政実に属した。乱後に柴内相模守は没落した。

四戸義武【しのへよしたけ(15??~15??)】

二戸郡四戸城主。

四戸義時【しのへよしとき(15??~15??)】

四戸義武の男。

四戸宗泰【しのへむねやす(15??~15??)】

四戸義時の男。四戸宗泰は九戸政実の叔母を室に迎えて勢力を拡大した。1591年、「九戸政実の乱」では弟金次郎の流言のため羽後国に落延びて病死した。

苫米地忠純【しまとまいただずみ(15??~15??)】あ

南部信直家臣。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直に属した。九戸政実勢の櫛引清長の攻撃を受けた際、高橋館主高橋駿河守勢とともに苫米地館に籠城して九戸政実勢を撃退した。

嶋森安芸守【しまもりあきのかみ(15??~15??)】

櫛引清長家臣。三戸郡嶋森館主。1591年、「九戸政実の乱」では櫛引清長が九戸政実の属したが敗北して没落した。

下斗米将家【しもとまいまさいえ(15??~15??)】

南部信安家臣。1539年、三戸城火災の際、宿直をしていたが、放火して奥瀬安芸守を謀殺した赤沼備中守を追跡、討果たした。

下斗米行胤【しもとまいゆきたね(15??~15??)】

下斗米将家の男。枝連衆にあたる上斗米家との間に対立が生じて、支配地の一部であった上斗米を失領した。

下田長勝【しもだなががつ(15??~15??)】

上北郡下田館主。

下田直政【しもだなおまさ(15??~15??)】

南長義の四男(下田長勝の養子)。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直に属した。

下新岡出雲守【しもしんおかいずもかみ(15??~15??)】

大浦為信家臣。1571年、石川高信の石川城を攻撃する際に後陣の大将を務めた。

東海吉兵衛【しょうじきちへいべ(15??~1626)】

大浦為信家臣。加賀国の生まれで、大浦為信に仕えて400石を領した。北条流軍学にも精通し兵法、特に弓に優れていた。1610年、弘前城築城の際、縄張りを担当。和徳から大石を城の二の丸堀まで引き入れたところ、病気療養中の八木織部の代理人と口論になり、大脇差で謀殺した。

浄法寺重安【じょうほうじしげやす(15??~15??)】

二戸郡浄法寺城主。南部晴政家臣。官途は修理介。浄法寺重安は安比川流域と鹿角郡の一部8,000石を領した。南部晴政家臣の中では八戸信栄、九戸政実、浄法寺重安が大身とて他の家臣とは別格の存在だった。1589年、「一戸城の戦い」では枝連衆の浄法寺重行と浄法寺主膳の企みにより、落城の汚名を着せられた。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直に属したが積極的には戦わなかった。

浄法寺重好【じょうほうじしげよし(15??~15??)】

浄法寺重安の男。1591年、「九戸政実の乱」では先鋒となって九戸城を攻撃した。1601年、「和賀の乱」を南部利直は一時休戦にして、和賀城に浄法寺重好を置き、三戸城に帰った。和賀城を任された浄法寺重好は、部下を残したまま密かに浄法寺城へ帰ってしまった。 このことが後に戦陣の規律を破ったとされ、知行家禄屋敷を没収され蟄居処分となった。

浄法寺重行【じょうほうじしげゆき(15??~15??)】

浄法寺重安の次男。1589年、南部信直が一戸城を攻落すと浄法寺重安と東朝政に守備を命じた。浄法寺重行は枝連衆の浄法寺主膳とともに留ヶ崎城に九戸政実勢が向かっていると嘘の情報を流した。浄法寺重安と東朝政は留ヶ崎城の救援に赴くが、手薄になった一戸城を九戸政実勢によって攻略された。浄法寺重行は大湯四郎左衛門のいる鹿倉館の救援に向かったが、泥濘にはまり動けなくなったところを大湯四郎左衛門に浄法寺重好勢と誤解され討取られた。

白鳥伊右衛門【しらとりいざえもん(15??~1600)】

大浦為信家臣。羽後国萢山開の白鳥沼に住人で、後に大浦為信に300石で仕えた。1600年、「関ヶ原の役」に際し、大浦為信が上方に参陣すると、堀越城代を任された。板垣将兼、尾崎喜蔵、多田玄蕃らの反乱にあい討死した。

白鳥信治【しらとりのぶはる(15??~1628)】

白鳥伊右衛門の男。通称瀬兵衛。別名山口信治。父白鳥伊右衛門の討死により白鳥家の家督を相続した。1612年、「高坂蔵人の乱」では戦功を挙げ家老職として800石を領した。1618年、大浦信枚、佐竹義宣の国境協議で、服部康成とともに協力し、大浦信枚の有利に状況で問題を解決した。1625年、青森湊普請に際し、服部康成、乾安儔とともに普請奉行として活躍した。

白鳥信次【しらとりのぶつぐ(15??~1642)】

白鳥信治の男。通称熊蔵。別名山口信次。父白鳥信治の病没後に、白鳥家の家督を相続したが嗣子無く病死し、知行は没収された。弟白鳥武実が大浦家に仕えた。白鳥信治の次男白鳥英富も別家を立て大浦家に仕えた。

瀬田隠岐守【せたおきのかみ(15??~15??)】

鹿角郡瀬田石館主。官途は隠岐守。別名月館隠岐守。1588年、瀬田隠岐守は南部信直に属して「高水城の戦い」で戦功を挙げた。1591年「九戸政実の乱」では弟小平左近と共に南部信直勢に属して、九戸政実勢に属する一戸城を攻撃した。乱後、瀬田隠岐守は戦功により月館館主を領して月館家と称した。

千徳政氏【せんとくじまさうじ(15??~1588)】

田舎郡浅瀬石城主。千徳政吉の男。官途は大和守。別名浅瀬石政氏。室は津軽石勝富の娘。1561年、千徳政氏は大浦為信と「永禄の約」を結んだ。「永禄の約」は共同して津軽地方の諸城を攻め、統一後は大浦為信と千徳政氏が津軽を二分して治めるとするものであった。1576年、千徳政氏は、大浦為信とともに南部信直から離反して滝本重行が城代を勤める大光寺城を攻略した。南部信直は、名久井城主東政勝を大将とする兵3,000余りが浅瀬石城を攻撃したが大浦為信の援軍と協力して、深田に誘き寄せ700余りの兵で打ち破った。

千徳政康【せんとくまさやす(1540~1597)】

千徳政氏の男。官途は安芸守。1597年、千徳政康は、津軽地方の大部分を押える大浦為信と対立すると、千徳政康家臣団は、大浦為信に心を寄せる木村越後守、盛岡金吾ら大浦為信派と対抗する派に二分された。家中の争いに敗れた木村越後守、盛岡金吾ら十七人は、堀越城の落延びた。大浦為信は、これを契機に木村越後守、盛岡金吾らを先鋒に立て浅瀬石城を攻撃した。大浦為信勢は兵を三手に分け、城の背後の攻手は木村越後守、盛岡金吾らが担った。千徳政康勢は攻撃を支えきれず、千徳政康は自刃して浅瀬石城は落城した。

千徳正武【せんとくまさたけ(1549~1585)】

田舎郡田舎館主。通称掃門。室は小山内永春(於市)。1585年、大浦為信の兵3,000余りの攻撃を受け自刃した。田舎館城に籠もった城兵330余りも討死した。1601年、於市は、大浦為信の主催した法要の席で自刃した。

千徳善勝【せんとくよしかつ(15??~15??)】

南部晴政家臣。笠間館主。通称治郎左衛門。1583年、千徳善勝は津軽石勝富を謀殺すると、弟中津山善連は津軽石勝富の居城払川館を攻略した。

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【た】

大光寺信愛【だいこうじのぶあい(15??~15??)】

平賀郡大光寺城主。南部晴政家臣。別名南部信愛。大光寺城16,000石を領して、城下は商家90軒と津軽地方では有数な城下街に発展させた。平賀郡、田舎郡、津軽郡の三城主のひとり。

大光寺光愛【だいこうじみつあい(15??~15??)】

大光寺信愛の男。別名南部光愛。1575年、大浦為信の攻撃を受け、大光寺城は落城し、大光寺光愛の男比内六郎、比内七郎は比内郡に落延びた。1579年、比内六郎と比内七郎は、滝本重行や北畠顕則らと共に比内郡より兵1,000余りを率いて津軽地方へ侵攻した。乳井城、乳井茶臼館を落城させたが、沖館城を攻めきれずに苦境に陥り、大浦為信勢と戦った「六羽川の戦い」において敗れたため撤退した。

平俊忠【たいらとしただ(15??~15??)】

浪岡北畠顕信家臣。津軽郡大開城主。大浦為信の為に城を追われ、南部信直を頼った。

滝本重行【たきもとしげゆき(15??~15??)】

石川高信家臣。官途は播磨守。1565年、猛将として知られ、乳井福王寺の別当である乳井城主乳井玄蕃を後藤五郎左衛門に襲撃させ、荒田引座川畔で謀殺して、高畑城を攻略して勢力を広げた。1574年、大浦為信は兵3,000余りを率いて大光寺城の攻略を図ったが、滝本重行は兵700余りを率いて、大浦為信の本隊に突入、不意を突かれた大浦為信は敗走した。1576年、再度の攻撃を受けると奮戦むなしく落城し、三戸城に落延びた。1579年、安東愛季の支援を受けた比内郡から六郎、比山七郎兄弟が津軽に侵攻すると、北畠顕則らと共に兵1,000余りを率いて大光寺城の奪還を狙うも「六羽川の戦い」で敗退し比内郡へ敗走した。

滝本重久【たきもとしげひさ(15??~15??)】

滝本重行の弟。通称刑部左衛門。

高倉盛次【たかくらもりつぐ(15??~1636)】

大浦信枚家臣。御所袋若狭守の男。通称六郎次郎。別名高倉盛治。最上家親の改易後に大浦信枚に仕えた。1524年、大浦信義の傅役として500石を領した。1634年、津軽信義と諍いを起こし浪人となった。婿養子は鍋倉秀道の次男盛成。盛成は高倉盛次の外孫であり、その血縁から婿養子に迎えられたと。
 
高倉盛成【たかくらもりなり(1608~1683)】

鍋倉秀道の次男(高倉盛次の養子)。官途は主計。室は高倉盛次の娘。1634年、義父高倉盛次とともに津軽信義のもとを去り浪人になった。

高畑主水【たかはたもんど(15??~15??)】

白井右衛門家臣。1591年、鈴木将監を討取り、八木澤興四郎は仁井田内膳を討取った。これにより白井右衛門は敗走した。

堀越武田重信【たけだしげのぶ(15??~15??)】

鼻輪郡堀越主。大浦為則の攻撃を受け堀越城は落城、武田重信も降伏し、大浦政信の次男武田守信を養子に迎えた。

堀越武田守信【たけだもりのぶ(1524~1554)】

大浦政信の次男(武田重信の養子)。官途は紀伊守。通称甚三郎。別名大浦守信。室は武田重信の娘(長福院)。大浦為信の実父。兄大浦為則が武田重信の守備する堀越城を攻め落とし、武田守信を武田重信の養子に送り込んだ。足の不自由な兄大浦為則に代わり大浦家の政務を補佐した。1554年、南部晴政の要請で南部桜庭へ参陣するも討死した。

堀越武田信勝【たけだのぶかつ(15??~15??)】

武田守信の男。官途は壱岐守。通称五郎左衛門。別名大浦信勝。

堀越武田建康【たけだたてやす(15??~15??)】

武田守信の次男。通称友馬助。別名大浦建康。

堀越武田勝建【たけだかつたて(15??~1591)】

武田守信の三男。通称主殿助。別名大浦勝建。1591年、「九戸政実の乱」では、九戸政実に属して九戸城に籠城したが討死した。

多田玄蕃【ただげんば(15??~1600)】

南部晴政家臣。津軽郡唐牛館主。通称釆女。大浦為信が津軽地方で南部晴政から独立を図ると大浦為信に属した。1600年、大浦為信が「関ヶ原の戦い」のため上方に参陣すると尾崎喜蔵らとともに謀叛し、大浦為信勢と戦って討死した。

田中吉祥【たなかきちじょう(15??~1579)】

大浦為信家臣。通称太郎五郎。1579年、「六羽川の戦い」では大浦為信の本陣まで攻め込まれる激戦となったが田中吉祥が大浦為信の身代わりに討死し危機を救った。反撃の機会を捉えた大浦為信勢は盛り返し滝本重行、内六郎、比内七郎、北畠顕則らの南部信直勢を撃退した。

田中宗久【たなかむねひさ(15??~1519?)】

田中吉祥の男。通称宗右衛門。

田中清祐【たなかきよすけ(15??~15??)】

八戸義嗣家臣。南部信長の男。

田中宗祐【たなかむねすけ(15??~1539)】

田中清祐の男。官途は飛弾守。1539年、八戸義嗣が病没後、家臣の中舘義成、沢里重経、新田盛政、田中宗祐らが八戸宗家の跡目をめぐって協議を行ったが、田中宗祐が座を破り、郎従を率いて八戸根城を占拠した。田中宗祐の父田中清祐は十四代八戸信長の嫡男であったが庶男であったため家を継げなかったことを遺恨に思ったためであった。その時城中に入り説諭帰腹せしめたのが大慈寺四世中興大樹正棟であった。大慈寺正棟は八戸義嗣の弟であり大慈寺中興の僧と称された。田中宗祐は剃髪して龍穏寺で出家したが後に謀殺された。

谷口仁兵衛【たにぐちじんべい(15??~15??)】

大浦為信家臣。1610年、弘前城築城の際、竿奉行に任じられた。

千葉与四郎【ちばよしろう(15??~15??)】

滝川重行家臣。館田館主。1574年、滝本重行によって館田館が築城され家臣千葉与四郎を置いた。1574年、大浦為信の「大光寺城の戦い」では大浦為信勢700余りの攻撃を受け落城した。

長光寺薩天【ちょうこうじさつてん(15??~15??)】 
 
九戸家菩提寺長光寺住職。1591年、「九戸政実の乱」を鎮圧するため派遣された浅野長政は長光寺薩天に九戸政実を説得を命じた。長光寺薩天は九戸政実にその武勇を浅野長政が賞賛していると伝え、落城の時も迫っており、早々に降伏すれば武勇の士として恩赦もあるだろうと説得した。さらに長光寺薩天は浅野長政の降伏勧告の書状を九戸政実に渡した。九戸政実勢は降伏すべきかを議論したが、薩天は生きながらえる事が先祖への供養になると諭した。

津軽石勝富【つがるいしかつとみ(15??~1583)】

田舎郡払川館主。一戸義富の男。1583年、千徳城内で誘殺された。随従していた家臣荒川佐助は払川館に逃げ戻り、籠城して抵抗したが落城、討死した。

築地長胤【つきじながたね(15??~15??)】

千徳政氏家臣。最上義秋の男。室は千徳政氏の妹。官途は周防守。通称十郎。浅瀬石城主千徳政氏に仕え妹を娶り中野不動館主となった。

対馬右衛門太郎【つしまうえもんたろう(15??~15??)】

浪岡北畠顕村家臣。1578年、大浦為信に浪岡城が攻撃され、北畠顕村が討死すると、大浦為信に属した。1588年、大浦為信が飯詰城を攻撃した際に先鋒を務めた。

堤光康【つつみみつやす(15??~15??)】

外ヶ浜郡堤城主。別名田子佐衛門。南部信時は四男堤光康を堤浦の古館に置いて津軽地方の統治にあたらせた。1498年、堤光康は横内城を築いて移り、荒野であった青森平野を開拓した。堤光康は剛勇を謳われた。1524年、津軽郡代であった堤光康は、石川高信に郡代職を奪われた。

堤則景【つつみのりかげ(15??~1554)】

堤光康の男。官途は弾正忠。1554年、堤則景は、堀越城主武田守信とともに参陣し鹿角郡で討死した。堤則景の室である朝日御前は仏門に入り剃髪した。1561年、朝日御前も後を追うように亡くなり、横内城跡に建つ常福院に葬られた。

堤弾正忠【つつみだんじょうちゅう(15??~1585)】

堤則景の男。1585年、大浦為信の外ヶ浜攻略において油川城が落城した報を聞き、堤弾正忠は城を出て大浦為信勢を迎え撃ったが、高陣場において福士弥三郎、福士小三郎らによって討取られた。

津村伝右衛門【つむらでんうえもん(15??~15??)】

南部信直家臣。伝法寺館主。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直勢に属して九戸政実勢に属する七戸家国から攻撃を受けたが、伝法寺館に籠城して七戸家国勢を撃退した。

靏浪外記【つるなみげき(15??~1571)】

石川高信家臣。1571年、大浦為信の堀越城の改修許可を津軽郡代石川高信に求めた。石川高信は改修許可を与えるとともに、改修の支援も行った。堀越城の改修後、大浦為信は石川高信の家臣金沢円松斎、栃尾靱負、靏浪外記らを堀越城に招き祝宴で謀殺、部将の居ない石川城を一気に攻落した。

天間館源左衛門【てんまげんざえもん(15??~1591)】

七戸直国家臣。上北郡天間館主。1589年、七戸家国勢の天間源左衛門、野辺地久兵衛、横浜慶房らは北上郡羽立館主津村伝右衛門を攻撃した。
津村伝右衛門は援兵の米田義勝らとともに防戦したが、七戸国家勢の猛攻により陥落、伝法寺館に落延びた。1591年、七戸家国とともに「九戸政実の乱」に参陣して討死した。1590年、南部信直は七戸家国を討伐するため八戸政栄を大将に任じ2,000余りの兵を派遣した。八戸政栄は新田政盛と南直政を副将に又重秀俊、戸来保秀、中市常之、木村秀茂らの豪族衆を率いて北上郡に侵攻した。七戸家国は1,000余りので迎い撃ったが敗退した。1591年、「九戸政実の乱」では七戸家国に属して木村秀茂、戸来保秀、中市常之、石沢左近らが守る又重城を攻略した。

田頭直祐【でんどうなおすけ(15??~15??)】

南部晴政家臣。田頭城主。葛巻信祐の次男。通称佐衛門佐。田頭城1,000石を領して南部晴政に仕えた。1591年、九戸政実が南部信直に対し兵を挙げた際、平館城主一戸政包は九戸政実に属して南部信直に属した田頭城を攻撃した。田頭家勢は必死に防戦したが落城、田頭直祐は夏間木まで落延びたが、追手が迫り自刃した。

陸奥土岐則基【ときのりもと(15??~1578)】

外ヶ浜郡高田館主。官途は大和守。はじめ浪岡北畠具永に仕えたが、南部政康の勢力が拡大すると石川高信に仕え800石を領した。石川高信による「三代主水の乱」に参陣して戦功を挙げた。1578年、大浦為信が津軽統一のために浪岡北畠具永の居城である浪岡城を攻撃した際に、浪岡城で討死した。

陸奥土岐則古【ときまさしげ(15??~1590)】

土岐則基の男。通称善兵衛。1590年、大浦為信に高田館を攻撃され討死した。

陸奥土岐則忠【ときのりただ(15??~15??)】

土岐則基の次男。通称善助。土岐則忠と土岐則吉は浪岡郡代石川政信の娘を連れて三戸城に落延びた。石川政信の娘は七戸城主七戸直時に嫁いだ際、にはこれに従い七戸直時の命で高田家に改め、七戸に定住した。

陸奥土岐則吉【ときのりよし(15??~15??)】

土岐則基の三男。通称善四郎。土岐則忠と土岐則吉は浪岡郡代石川政信の娘を連れて三戸城に落延びた。石川政信の娘は七戸城主七戸直時に嫁いだ際、にはこれに従い七戸直時の命で高田家に改め、七戸に定住した。

戸沢惣助【とざわそうすけ(15??~1588)】

北信愛家臣。1588年、羽後国比内郡の戦いで、北愛清(北信愛の枝連衆)に属して、三浦秀兼(五城目兵庫)の救援に赴いた。この戦いは、南部信直勢の敗北となり北弾正忠は家臣十一人と共に敗走したが、五城目で安東実季勢に包囲された為、自刃した。

栃尾靱負【とちおもみゆき(15??~1571)】

石川高信家臣。1571年、大浦為信の堀越城の改修許可を津軽郡代石川高信に求めた。石川高信は改修許可を与えると共に、改修の支援も行った。堀越城の改修後、大浦為信は石川高信の家臣金沢円松斎、栃尾靱負、靏浪外記らを堀越城に招き祝宴で謀殺、部将の居ない石川城を一気に攻落した。

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【な】

長牛政武【ながうしまさたけ(15??~15??)】

鹿角郡長牛城主。別名一戸政武。

長牛友義【ながうしともよし(15??~15??)】

一戸政武の男。別名一戸友義。1566年、檜山安東愛季が鹿角郡に侵攻した。落城寸前の長牛城に、檜山安東愛季は矢文を送った「長牛はせたくれ牛にさも似たり あぶにさされて尾をぞふりけり」。これを見た一戸友義は「あぶ三つ せたくれ牛に食いついて尾にてひしがれ しようこともなし」と送った。長牛城は落城して鹿角郡は檜山安東家の勢力圏に入った。1569年、南部晴継勢の石川高信を総大将に長牛友義、七時雨街道から九戸政実が鹿角郡に侵攻して安東愛季勢を一掃しすると鹿角郡は南部晴継の勢力圏に入った。

中館長知【なかやかたながとも(15??~15??)】

八戸義嗣家臣。

中館義成【なかやかたよしなり(15??~15??)】

中館長知の男。1539年、八戸義嗣が病没後、家臣の中舘義成、沢里重経、新田盛政、田中宗祐らが八戸宗家の跡目をめぐって協議を行ったが、田中宗祐が座を破り、郎従を率いて八戸根城を占拠した。田中宗祐の父田中清祐は十四代八戸信長の嫡男であったが庶男であったため家を継げなかったことを遺恨に思ったためであった。その時城中に入り説諭帰腹せしめたのが大慈寺四世中興大樹正棟であった。大慈寺正棟は八戸義嗣の弟であり大慈寺中興の僧と称された。田中宗祐は剃髪して龍穏寺で出家したが後に謀殺された。

中館政常【なかやかまさつね(15??~1627)】

中館義成の男。

中津山善連【なかつやまよしつら(15??~15??)】

千徳善勝家臣。笠間館主。通称治郎左衛門。千徳善勝の弟。1583年、兄千徳善勝が津軽石勝富を謀殺すると、千徳善連は津軽石家の居城払川館を攻略した。

楢山義実【ならやまよしざね(1550~1603)】

石亀信房の次男。別名石亀義実。南部晴政に二戸郡楢山城主に任じられ、楢山家と称した。1591年「九戸政実の乱」では、戦功を挙げた。嫡男石亀直隆は八戸直政と共に越後国高田城普請に行き、八戸直政の帰国により作事奉行を努めた。

徳仁豊前守【なるひとぶぜんのかみ(15??~16??)】

大浦為信家臣。大浦為信家臣の中でも裕福な人物で、そのために驕慢になり、放蕩生活を送っていた。1610年、その罰として弘前城建設に際し、長勝寺構に土塁を建設するよう命じられた。

南部安信【なんぶやすのぶ(1493~1525)】

三戸郡三戸城主。南部政康の男。1524年、津軽に次弟石川高信を津軽郡代に任じ津軽地方を安定させ、三弟南長義を浅水城主とし枝連衆の内宗家に並ぶ勢力を保持する九戸、八戸両家に対抗させ、四弟石亀信房を石亀城主として斯波郡の斯波家への押さえとし、五弟毛馬内秀範には鹿角郡毛馬内城として安東家に侵攻に対応させた。

南部晴政【なんぶはるまさ(1517~1582)】

南部安信の男。官途は大膳大夫。1525年、三戸南部家の家督を相続する。1539年、家臣赤沼備中のために居城三戸城を焼失。檜山安東家の津軽郡の北西部と鹿角郡奪い、陸奥の地で檜山安東家と激戦を繰り広けた。南下して斯波家、和賀家、稗貫家、葛西家らとも争うなど四隣に勢力を広げた。主に北、北西には石川高信、南、南西には九戸政実を派遣した。叔父石川高信の男、南部信直を娘(長女)の婿に迎えて継嗣にしたが、実子南部晴継が産まれるとこれを遠ざけた。

南部晴継【なんぶはるつぐ(1570~1582)】

南部晴政の男。通称彦三郎。1582年、父南部晴政の病没を受けて家督を継ぐが、その直後の葬儀帰りに謀殺された。

南部信直【なんぶのぶなお(1546~1599)】

石川高信の男。官途は大膳大夫。別名田子信直。室は南部晴政の娘。継室は泉山古康の娘(慈照院)。はじめ三戸南部晴政の長女の婿に迎えられて継嗣となったが、1570年、三戸南部晴継が生まれると疎んじられ、三戸南部晴政の攻撃を受け蟄居させられた。1582年、三戸南部晴政、晴継が相次いで死去したため継嗣争いが起きたが、田子信直は北信愛の支援を受けて家督を相続した。斯波郡の斯波詮直の家中騒動に乗じて高水寺城を攻略し、戸沢、安東家らと争う。1591年「小田原の役」に参陣して所領安堵を受けた。大浦為信が先に津軽地方の所領安堵の朱印状を得た為、津軽三郡を失った。1592年、九戸政実が「九戸政実の乱」を起すと南部信直単独では鎮定できず、羽柴秀吉に援軍によって鎮圧した。1591年、「大崎葛西一揆」による所領変更で和賀郡、稗貫郡、斯波郡の三郡の加増を受けた。

南部利直【なんぶよしなお(1576~1632)】

南部信直の男。官途は信濃守。室は蒲生氏郷の娘(源秀院)。側室は山田九郎左衛門の妹(法源院)。1599年、父南部信直の病没により南部家の家督を相続し羽柴秀頼に拝謁した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康の「会津征伐」に参陣した。南部利直は最上義光の後援として山形に出陣するが領土拡大を図った伊達政宗が和賀忠親を煽動して和賀郡や稗貫郡で一揆を起こしたため、帰国を許された。1601年、一揆を鎮圧した。以降は南部家領の整備に着手し、白根金山や西道金山等の鉱山開発を行い財政を安定させた。1615年、盛岡城を築城して城下街を形成し、三戸城下の住民も盛岡城下に移した。「九戸政実の乱」の教訓から血縁関係のない家臣の多くを処罰、追放して独裁集権化を進めた。

新田盛政【にったもりまさ(15??~15??)】

八戸勝義家臣。室は南部信長の娘。新田城は中館と共に根城の支城で、根城を軸に「三館一城」と称した。1548年、八戸勝義が二十四歳で病没すると、新田行政の嫡男新田政栄は、八戸勝義の娘を娶り八戸家に養子に入り、八戸家の家督を相続した。八戸家の実権は新田盛政が掌握した。

新田行政【にいだゆきまさ(1526~1567)】

新田盛政の男。嫡男八戸政栄が幼少のうちに八戸家の家督を相続したため、新田行政が後見役を務めた。その後も八戸政栄の重臣として戦功を挙げた。1552年、七戸城主七戸慶胤が八戸家領に侵攻、新田政行は「小田野の戦い」で、七戸慶胤勢を撃退した。1556年、浅水城主南信勝が剣吉城主北直愛を攻撃すると、新田政行は南信勝勢に参陣した。

新田政盛【にいだまさもり(1547~1603)】

新田行政の次男。官途は近江守。兄八戸政栄が八戸家の家督を相続したため、次男新田政盛が新田家の家督を相続した。1539年、八戸義嗣が病没後、家臣の中舘義成、沢里重経、新田盛政、田中宗祐らが八戸宗家の跡目をめぐって協議を行ったが、田中宗祐が座を破り、郎従を率いて八戸根城を占拠した。田中宗祐の父田中清祐は十四代八戸信長の嫡男であったが庶男であったため家を継げなかったことを遺恨に思ったためであった。その時城中に入り説諭帰腹せしめたのが大慈寺四世中興大樹正棟であった。大慈寺正棟は八戸義嗣の弟であり大慈寺中興の僧と称された。田中宗祐は剃髪して龍穏寺で出家したが後に謀殺された。1567年、八戸政栄の父新田政行が没し、その葬儀のため八戸政栄らが新田城に赴いていた隙をついて、櫛引弥六郎が八戸城を攻撃したが撃退した。1590年、南部信直が「小田原の役」に参陣し所領安堵の朱印状を受けた。

新田政広【にいだまさひろ(1562~1620)】

新田政盛の男。八戸祢々を補佐した。1614年、「大阪冬の陣」では、八戸祢々の名代として新田政広と中館政常が南部利直に属して参陣した。

乳井玄蕃【にゅういいべんば(15??~15??)】

平賀郡乳井城主。乳井福王寺別当職。乳井玄蕃は乳井薬師堂の乳井城の館主であり、周辺に武威を振るった。近隣の南部晴政とも対立し、その威風ある態度から「沙門天」と称された。1565年、乳井玄蕃は南部晴政に属する大光寺城主滝本重行よって謀殺された。

乳井建清【にゅういたてきよ(15??~1584)】

乳井玄蕃の男。別名覚林坊大隅守。父乳井玄蕃が滝本重行に討たれ、抑えとして高畑城を築城され乳井建清は劣勢に陥った。高畑城には、滝本重行の家臣平岡盛影が入った。1571年、大浦為信が石川城を急襲し、石川高信を討取り南部信直からの独立すると乳井建清は、高畑城を急襲して平岡盛影を討取り、高畑城主となった。南部信直は、瀬田石隠岐守に兵を預け高畑城を攻撃した。乳井建清は板垣信成とともに善戦し、兼平綱則の兵150余りの援軍を得ると、南部信直勢を撃退した。1575年、大浦為信に属して大光寺城を落とし、滝本重行を津軽地方から追い落とした。1579年、安東愛季の支援を受けた、比山六郎、比山七郎兄弟が比内郡から平賀郡へ侵攻した。比山勢には滝本重行、北畠利顕らが参陣して、乳井茶臼館や乳井城を攻略した。1579年、大浦為信は、乳井建清とともに「六羽川の戦い」で、比山六郎、北畠利顕らを討取り敗走させた。

乳井日向守【にゅういひゅうがのかみ(15??~16??)】

乳井建清の男。大浦信枚が柏木館野での狼狩りの演習の際、勢子大将を勤めた。1623年、大浦信枚が松平家光上洛に当たり供奉した際、ともに参加した。

乳井建定【にゅういたてさだ(15??~1545)】

乳井建清の次男。官途は美作守。室は津軽信枚の娘(富姫)。1634年、兼平信孝、乳井建定らと船橋長真、乾安儔らによる対立が表面化「船橋騒動」が起った。1636年、松平秀忠の裁定により乳井建定は長州萩藩に流罪と決まり乳井家の家督は弟の乳井建吉が相続した。

沼田祐光【ぬまたすけみつ(1533~1612)】

大浦為信家臣。官途は上野之介。別名面松斎。大浦三家老のひとり。1568年、易、天文を得意とし、軍師として上方との連絡を担当し、大浦為信を影で支えた。1571年、「石川城の戦い」に参陣した。1575年、「大光寺城の戦い」に参陣した。1585年、津軽為信の上洛に随行した。

沼田祐正【ぬまたすけまさ(15??~16??)】

沼田祐光の男。通称勘右衛門。大浦為信に仕え500石を領した。後に大浦信建付の家臣となったが大浦信建の病没後、知行を召し上げられた。

沼山勘解由【ぬまやまあげゆ(15??~15??)】

北畠顕忠家臣。官途は備中守。室は北畠顕忠の娘。1578年、北畠顕則の留守中、大浦為信勢の攻撃を受け浪岡落が落城した際、北畠顕忠は城にはおらず、行方不明の際しを見つけ出し北畠顕村の娘と自身の嫡男北畠顕佐を沼山勘解由に預けた。沼山勘解由は二人を婚姻させ北畠家の再興を図ったが北畠顕佐は羽後国に落延びた。沼山勘解由は大浦為信に仕え、津軽地方に残った北畠家枝連衆を保護した。

念西坊頼英 【ねんさいぼうよりえい(15??~15??)】

油川城下の田明寺の僧。1585年、「外ヶ浜の戦い」では大浦為信に属して参陣して油川城下周辺に放火をした。

野田義親【のだよしちか(15??~15??)】

南部晴政家臣。九戸郡野田城主。通称源左衛門。

野田正義【のだまさよし(15??~15??)】

野田義親の男。通称源左衛門。別名一戸政義、南部義親。野田正義は宇部館から三日市場に拠点を移し野田城を築城した。1591年、「九戸政実の乱」では野田正義、野田政親親子は、南部信直勢に属した。九戸政実に属した久慈城主久慈政則勢の攻撃を受けた。

野田直親【のだなおまさ(15??~15??)】

野田正義の男。

野田政親【のだまさちか(15??~15??)】

野田正義の次男。通称掃部助。別名一戸政親。1591年、「九戸政実の乱」では、野田正義、野田政親父子は南部信直勢に属して九戸政実勢の久慈城主久慈政則と対峙した。このため野田正義の宇部館は久慈家領との境目になり久慈政則勢の攻撃を受けた。

野辺地久兵衛【のべちきゅうべい(15??~1591)】

七戸直国家臣。1589年、七戸家国勢の天間源左衛門、野辺地久兵衛、横浜慶房らは北上郡羽立館主津村伝右衛門を攻撃した津村伝右衛門は援兵の米田義勝らとともに防戦したが、七戸国家勢の猛攻により陥落、伝法寺館に落延びた。1590年、南部信直は七戸家国を討伐するため八戸政栄を大将に任じ2,000余りの兵を派遣した。八戸政栄は新田政盛と南直政を副将に又重秀俊、戸来保秀、中市常之、木村秀茂らの豪族衆を率いて北上郡に侵攻した。七戸家国は1,000余りので迎い撃ったが敗退した。1591年、「九戸政実の乱」では七戸家国に属して木村秀茂、戸来保秀、中市常之、石沢左近らが守る又重城を攻略した。

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【は】

箱石左衛門丞【はこいしさえもんのじょう(15??~15??)】

箱石館主。早池峯新山神社神殿建立に協力した。1602年、新山神社宝前に幣帛を捧げた。

八戸義継【はちのへよしつぐ(15??~1539)】

八戸郡根城主。八戸治義の男。父八戸治義の早世により幼少にて家督相続したが間もなく病没したため、弟八戸勝義が八戸家の家督を相続した。

八戸勝義【はちのへかつよし(1525~1548)】

八戸治義の次男。官途は弾正少弼。1539年、兄八戸義継の早世を受けて家督を相続した。南部晴政に属して陸奥国各地を転戦した。

八戸政栄【はちのへまさよし(1543~1610)】

新田行政の男(八戸勝義の養子)。官途は薩摩守。通称彦次郎。室は八戸勝義の娘。北信愛や南慶儀とともに、南部晴政を惣領職的地位にまで高めた。1572年、南部晴政が病没すると、後継の南部晴継が謀殺され南部宗家の家督争いが起こると、南部信直の擁立に尽力した。三戸南部宗家に次ぐ家柄で宗家に嗣子なきときは八戸家から当主を出すしきたりがあった、一族の櫛引清長との対立で内紛となり宗家の運営から手を引く、しかし宗家の南部信直を補佐し九戸政実、津軽信為を牽制し南部家の大名としての地位確立に貢献した。1590年、「小田原の役」では、南部信直に羽柴秀吉のもとへの参陣を薦めた。南部信直の肥前名護屋滞陣の際、八戸名代として新田栄連に軍兵をつけて派遣した。

八戸直栄【はちのへなおひで(1561~1595)】

八戸政栄の男。室は南部信直の娘(千代子)。八戸直栄と千代子姫の間に生まれたのが八戸弥々姫。1590年、「小田原の役」では、南部宗家の名代として父八戸政栄とともに参陣した。1592年、「文禄の役」では三戸城の留守居を務めた。その後嫡男に恵まれないまま八戸直栄は病没したため、弟八戸直政を婿養子として八戸弥々と結婚し八戸家を相続した。南部利直の代になり、南部利直は宗家としての立場を強め、八戸家中は八戸弥々を中心に政治力と才量を発揮して、遠野南部家を纏め挙げた。

八戸直政【はちのへなおまさ(1587~1614)】

八戸政栄の次男。1614年、石亀直隆(楢山義実の男)とともに越後高田城の普請を務めたがまもなく病没した。

八戸弥々姫【はちのへねねひめ(15??~1644)】

八戸直政の室。八戸直栄の娘。別名「清心尼」。父八戸直栄が男子を得なかったため、その弟八戸直政と結婚した。八戸直政と後を継ぐはずだった八戸久松に先立たれ、未亡人となった。二十九歳で女大名として八戸根城主となった。1627年、南部利直が八戸家の勢力を削ぐため、遠野に転封を行った。遠野の治安回復のため、旧領から領地の移動を申し付けられて、その時治めていた八戸から「遠野郷の殿様」、女の殿様として遠野の地へ入部した。以後、八戸家は遠野南部家と称し、八戸祢々は政治力と才量を発揮した。

服部康成【はっとりやすなり(1566~1635)】

大浦為信家臣。官途は長門守。はじめ美濃岐阜城主織田秀信に仕えたが、のちに浪人した。後に、大浦為信に仕え300石を領した。1600年「大垣城の戦い」では、津軽家忍衆を率いて城内を撹乱する戦功を挙げた。1607年、津軽為信の病没後、松平元康より大浦信枚の後見人として、大浦信枚から2,000石、松平元康から1,000石の3,000石を領して、大浦家筆頭家老として藩政を統括し「無類の良臣」と称された。

服部成昌【はっとりなりまさ(15??~16??)】

服部康成の男。通称左近。1634年、「船橋騒動」が起こり幕府裁定で喧嘩両成敗となるとこれを不服とし大浦家を離れ、加賀藩前田家に仕えた。

花輪親行【はなわちかゆき(15??~15??)】

鹿角郡花輪館主。官途は伯耆守。鹿角四頭のひとり。1565年、安東愛季と結んで南部晴政勢の長牛城を攻撃した。1568年、南部晴政勢は反撃に転じて安東愛季を撃退、花輪親行も撤兵した。その後、南部晴政に仕えた。

1568年、南部晴政勢が再び鹿角郡を奪還すべく出兵すると安東愛季勢は敗退し、花輪親行も一時退去せざるを得なかった。しかし南部氏の当主である晴政・信直父子が対立の兆しを見せると、親行は晴政に仕える事になった。

晴政が死去すると花輪氏は一族離散の目に会うが、親行の子である帯刀延親の代に信直に召し出され、九戸の円子村で200石を賜って円子氏を称した。

天正18年(1590)、信直は大光寺正親を花輪城に置いて安東氏に対する拠点とし、翌19年(1591)の諸城破却令の際にも花輪城はそのまま残された。
その後明暦3年(1657)には毛馬内九左衛門長次が、延宝2年(1674)には中野吉兵衛康敬が城代として入城した。

花輪延親【はなわのべちか(15??~15??)】

花輪親行の男。花輪延親は、南部信直に仕え200石を領した。

花輪定親【はなわさだちか(15??~15??)】

花輪延親の男。

原子平内兵衛【はらこへいないひょうえ(15??~15??)】

原子城主。北畠家四天王のひとりで浪岡城の北西を守った。1578年、大浦為信の攻撃を受け浪岡城が落城すると原子平内兵衛は羽後国に落延びた。原子平内兵衛は、吉町弥右衛門の挙兵の企みを大浦為信に密告し家臣になった。

晴山忠房【はれやまただふさ(15??~15??)】

九戸政実家臣。九戸郡晴山城主。官途は治部少輔。1591年、「九戸政実の乱」では晴山玄蕃とともに九戸政実勢に属した。

東政重【ひがしましげ(15??~15??)】

南部政康家臣。三戸郡名久井城主。

東政勝【ひがしまさかつ(15??~1590)】

東政重の男。官途は中務。1556年、東家の家督を相続した南部晴政と南部信直の対立では南部晴政勢に属した。南部信直に属する北信愛を、南部晴政や八戸政栄、四戸義時らとともに攻撃した。1567年、櫛引清長とともに八戸政栄の根城を攻略したが、八戸政栄の反撃を受け敗退した。八戸政栄の家臣作田相模守の仲介で八戸政栄と和議を結んだ。1571年、八戸政栄が櫛引清長を攻めた際、後詰として櫛引清長に属するが敗北した。1582年、南部晴政が病没した直後に後継の南部晴継も病没したため、南部宗家の家臣が集まり後継者会議が開かれた。東政勝らは南部晴政の娘婿の九戸実親を支持するが、南部信直を支持する北信愛の工作によって南部信直が南部宗家に擁立された。一貫して反南部信直派であった東政勝だが、南部信直が南部宗家を相続すると南部信直に属した。1585年、南部信直勢の大将として津軽地方に侵攻して大浦為信と戦うが補給を絶たれ敗退した。

東重康【ひがししげやす(15??~15??)】

東政勝の男。

東直義【ひがしなおよし(15??~1615)】

東重康の男。官途は中務尉。室は南部晴政の娘。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直に属して戦功を挙げ3,000石を領した。

東重義【ひがししげよし(15??~15??)】

東直義の男。

平岡盛影【ひらおかもりかげ(15??~15??)】

滝本重行家臣。高畑城主。平岡盛影は乳井大隅守の攻撃を受け討死した。高畑城は乳井大隅守のものとなった。

平館政包【ひらだてまさかね(15??~1591)】

岩手郡平館主。一戸政連の弟。官途は信濃守。別名一戸政包。平館家の家督を相続して1,000石を領した。1581年、九戸政実に属して父一戸政連を謀殺した。平館政包の次男平館政敏は、南部信直も出仕した御足軽頭を務めた。三男平館義豊勝は花巻城に出仕した。

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【ま】

松野信安【まつおかのぶやす(15??~15??)】

大浦為信家臣。武田九郎左衛門の男。通称新四郎。1591年、父武田九郎左衛門が「九戸実政の乱」に参陣した際、松野信安は大浦為信に預けられた。松野家と称して大浦為信に仕え家老職となった。1600年、「関ヶ原の役」では大垣城の攻撃に加わり戦功を挙げた。

三日市越中守【みっかいちゅうのかみ(15??~1591)】

南部信直家臣。上北郡三日市館主。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直勢に属して戦ったが討死した。

南長義【みなみながよし(1497~1583)】

南部信安家臣。南部政康の四男。屋敷が三戸城の南にあったため南家と称された。兄南部信康に属して陸奥各地を転戦した。1571年、「屋裏の変」では、南長義は南部信直を支持し北信愛とともに南部晴政と戦い南部信直の家督相続に貢献した。

南盛義【みなみもりよし(15??~1591)】

南康義の次男。室は南部晴政の娘。兄南義晴の早世により南家の家督を相続した。1591年、「九戸政実の乱」では南部信直勢に属して戦ったが討死した。

宮館文左衛門【みやだてもんざえもん(15??~16??)】

大浦為信家臣。1610年、弘前城築城の際、総奉行となった。

森岡為治【もりおかためはる(1500~1541)】

大浦政信家臣。大浦盛信の男。官途は山城守。通称十郎左衛門。大浦政信に仕え3,000石を領した。1541年、大浦政信と共に和徳城主小山内満春を攻撃した。「三味線河原の戦い」では小山内満春を討取ったが、小山内満春の嫡男小山内永春が援軍として加勢して形勢が逆転、大浦政信と共に討死した。

森岡信治【もりおかのぶはる(15??~15??)】

森岡為治の男。官途は山城守。通称源三郎。1541年、父森岡為治の討死により森岡家の家督を相続した。大浦為則を後見した。

森岡信元【もりおかのぶとも(15??~1600)】

森岡信治の男。官途は山城守。通称十郎左衛門。大浦家三家老のひとり。1569年、大浦為信の使者として最上義光のもとを訪ねて誼を通じた。1571年、「石川城の戦い」に参陣し戦功を挙げ和徳城主に任じられた。1579年、南部信直勢の茶臼館を攻略するなど大浦為信の津軽平定戦に尽力した。1600年、謀反を疑われて鍛冶仁右衛門に謀殺された。

森岡信年【もりおかのぶとし(15??~16??)】

森岡信元の男。通称采女。1600年、父森岡信元の死後、追子野木に隠棲した。1621年、加増を受け200石を領した。1640年、大浦家老職となり700石を領した。

森山季定【もりやますえさだ(15??~1546)】

檜山安東尋季家臣。津軽郡森山館主。官途は飛騨守。1546年、森山季定が檜山安東家を離反したため、森山館は安東尋季、蠣崎季広から攻撃を受けた。安東尋季は正面から、蠣崎季広は搦手から攻め、進退に窮した森山季定は自刃して果て森山館は落城した。

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【や】

八木橋家里【やぎはしいえさと(14??~15??)】

八木橋城主。官途は備中守。1489年、津軽種里に城を築いた。

八木橋里負【やぎはしさちます(15??~1595)】

八木橋家里の男。官途は備中守。1521年、大浦光信に仕えて大浦為信の代には家老職に任じられた。1589年、外交能力が高く大浦為信の名代として上洛し、羽柴秀吉に名馬と鷹を献上して、津軽三郡の所領を安堵を受けた。

八木橋定久【やぎはしさだひさ(15??~1574)】

八木橋里負の男。通称左衛門四郎。1574年、「大光寺城の戦い」に参陣したが討死した。

八木橋宜春【やぎはしのりはる(15??~15??)】

八木橋里負の次男。通称嘉兵衛。1574年、兄八木橋定久が「大光寺城の戦い」で討死したため、八木橋家の家督を相続した。

八木織部【やぎおりべ(15??~15??)】

大浦為信家臣。弘前城築城中に病を得て代理の者を派遣した。代理の者は東海吉兵衛と口論になり謀殺された。

横浜慶房【よこはまよしふさ(15??~15??)】

七戸直国家臣。上北郡横浜館主。通称左衛門尉。1589年、七戸家国勢の天間源左衛門、野辺地久兵衛、横浜慶房らは北上郡羽立館主津村伝右衛門を攻撃した。津村伝右衛門は援兵の米田義勝らとともに防戦したが、七戸国家勢の猛攻により陥落、伝法寺館に落延びた。1590年、南部信直は七戸家国を討伐するため八戸政栄を大将に任じ2,000余りの兵を派遣した。八戸政栄は新田政盛と南直政を副将に又重秀俊、戸来保秀、中市常之、木村秀茂らの豪族衆を率いて北上郡に侵攻した。七戸家国は1,000余りので迎い撃ったが敗退した。1591年、「九戸政実の乱」では七戸家国に属して木村秀茂、戸来保秀、中市常之、石沢左近らが守る又重城を攻略した。

吉町弥右衛門【よしまちよえもん(15??~15??)】

北畠具運家臣。北畠具運は、家老には赤松隼人、沼山備中守、和田五郎左衛門、源常館主源常顕忠、東方に軽井沢館主軽井源左衛門椽、小和清水には強清水恵林、北方に大釈迦館主奥井万助、西北に原子館主原子平内兵衛、西方に杉銀館主吉町弥左衛門、南方に本宮館主本宮源内等の股肱屈指の武士を置いて四方を堅めた。

蓬田則政【よもぎだのりまさ(15??~1585)】

外ヶ浜郡蓬田城主。南部信直家臣。官途は越前守。別名相馬越前守。1585年、津軽為信の侵攻により蓬田城は油川城と共に落城し、蓬田則政は南部信直を頼って落延びた。

和田五郎左衛門【わだごろうざえもん(15??~15??)】

北畠具運家臣。北畠具運は、家老には赤松隼人、沼山備中、和田五郎左衛門、源常館主源常顕忠、東方に軽井館主軽井源左衛門椽、小和清水には強清水恵林、北方に大釈迦館主奥井万助、西北に原子館主原子平内兵衛、西方に杉銀館主吉町弥左衛門、南方に本宮館主本宮源内等の股肱屈指の武士を置いて四方を堅めた。

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【資料Ⅰ】

陸奥国(11郡/98,000石)

津軽郡(内津軽、外津軽)

内津軽(3郡/38,000石)

平賀郡:大光寺砦(6,000石)、石川城(10,000石)、矢立峠(街道)。
鼻和郡:大浦城(10,000石)。
田舎郡:浪岡御所(10,000石)、横内砦(2,000石)。 

外津軽(3郡/12,000石)

山辺郡:(2,000石)
外ヶ浜郡:蓬田砦(4,000石)、油川湊(商業都市)。
西ヶ浜郡:福島砦(4,000石)、種里砦(2,000石)、十三湊(商業都市)。 

北郡(2郡/8,000石)

上北郡:七戸砦(4,000石)、野辺地湊(商業都市)。
下北郡:横浜館(2,000石)、田名部砦(2,000石)、恐山(景勝の地)。

三戸郡:三戸城(10,000石)、九戸城(10,000石)。
二戸郡:浄法寺砦(6,000石)、姉帯砦(4,000石)。
鹿角郡:毛馬内砦(6,000石)、花輪館(4,000石)。

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【資料Ⅱ】

安保三人衆【あほさんにんしゅう】

花輪次郎、大里備中、花輪弥次郎。

大浦家三家老【おおうらけさんかろう】

沼田祐光、服部康成、森岡信元 or 小笠原信清、森岡信元、兼平綱則。
※参考文献によって三家老が違っています。

大浦家十勇士【おおうらけじゅうゆうし】

斎藤平内兵衛門、桜田宇兵衛門、奈良岡豊後守、小比内藤蔵、神丹波守、阿保中務、相馬伊賀守、新岡源次郎、宮舘与五郎。

鹿角郡四頭【かづのぐんよんとう】

鹿角四頭とは、鎌倉後期に鹿角に移封してきた成田(高市、谷内、長嶺、湯瀬、神田、毛馬内、大地、荒川、高清水、関上の諸家)、奈良(大湯、小平、新斗米、瀬田、芦名の諸家)、秋元(大里、花輪、柴内、中柴内、小枝指、乳牛、長内、三ヶ田、夏井、石鳥屋、松館、尾佐利、血牛、折加内の諸家)、阿保(黒土、高瀬、高屋、小坂、濁川、高梨)の四家を称した。在地領主として郷村を名字として分立した。郡内でお互いに勢力を競ったが、西方の南部晴政や東方の安東愛季の動向に左右された。

鹿角郡豪族衆【かづのぐんごうぞくしゅう】

八幡館主:秋元兵部、小坂館主:秋元筑後守、大地館:大地基之丞(成田)、荒川館:荒川備中(成田)、濁川館:濁川但馬(秋元)、碁石館主:神田十郎(成田)、高梨館主:高梨土佐守(秋元)、瀬田石館主:瀬田石太郎左衛門(奈良)、高清水館主:高清水豊後(成田)、関神館主:関神安房(成田)、当麻館主:毛馬内備中(成田)、芦名沢館主:芦名沢太郎兵衛、尾去館主:尾去備中守(安保)、黒土館主:黒土丹後守(秋元)、乳牛館主:乳牛六郎(安保)、新斗米館主:新斗米左近(奈良)、高市館主:高市玄蕃(成田)、小平館主:小平彦次郎(奈良)、高屋館主:高屋筑前守(秋元)、高瀬館主:高瀬土佐守(秋元)、丸館主:奈良越後守、三ヶ田館主:三ヶ田左近、長峯館主:長嶺下総(成田)、湯瀬館主:湯瀬中務(成田)、小豆沢館主:小豆沢駿河守(秋元)、石鳥谷館主:石鳥谷九郎(安保)、松館主:松館越前守(安保)、夏井館主:夏井但馬守(安保)、白懸館主:白懸勘兵衛、谷内館主:谷内氏(成田)、玉内館主:玉内大炊助(安保)、長内館主:長内刑部(成田)、昌斎館主:北畠昌教、折ヶ内館主:折ヶ内勘右衛門、成田彦右衛門、湯瀬宮内、笹木宗右衛門、風張藤七、折壁主殿、唐牛兵蔵、原村三十郎。

浪岡北畠家四天王【きたばたけけしてんのう】

奥寺万助、強清水恵林、軽井源左衛門、浪岡吉六。

南部家四家老【なんぶけよんかろう】

奥瀬定直、桜庭光康、泉山康朝、石亀信房。

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【資料Ⅲ】

陸奥国【むつのくに】

本州最北端の国。北は津軽海峡を挟んで蝦夷国と接し、南は陸中国と羽後国に接する。陸奥湾には良湊が多く蝦夷地、日本海を通じて北陸沿岸諸国との交易が盛んである。

岩木川【いわきがわ】

白神山地雁森岳に源を発し、岩木山南麓を北東に流れる。津軽地方から概ね北に向きを変え、津軽平野を潤す。津軽半島西部を流れ、河口近くに十三湖を形成したのち五所川原市十三で日本海に注ぐ。

恐山【おそれざん】

下北半島の中央部に位置する外輪山の霊場で、高野山、比叡山と並ぶ日本三大霊場のひとつ。恐山はカルデラ湖である宇曽利湖を中心とした外輪山の総称。外輪山は釜臥山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山、剣の山、地蔵山、鶏頭山の八峰。寺名は恐山菩提寺、本坊は田名部にある曹洞宗円通寺。

鹿角郡【かづののぐん】

鹿角郡は「鹿角四頭」と呼ばれる小豪族が支配した領域。安東愛季は、米代川をさかのぼって比内郡、鹿角郡に勢力を伸ばした。鉱山、森林資源の豊かなこれらの地域は、安東愛季と西進してくる南部晴継との激しい争奪戦が繰り広げられた。

津軽平野【つがるへいや】

岩木川流域に広がる沖積平野で、北西部は日本海に面し、南西部には岩木山を望む。日本海沿岸は七里長浜とよばれ、砂丘地帯の海岸が続く。また、沿岸部には十三湖をはじめ、いくつもの沼や池が点在しており、水田も発達。津軽米の産地となっている。

十三湊【とさみなと】

十三湊は、安東家が南部家によって追われると急速に衰微し、北方交易地の拠点機能は、野辺地湊や油川湊に奪われた。また河川からの飛砂が堆積して水深が浅くなり、湊としての機能は低下した。大浦信枚は、港湾機能整備行い、岩木川を下って来た津軽平野の米を鯵ヶ沢湊へと中継する「十三小廻し」が行われた。また、北前船のルート上にあって、深浦湊、鯵ヶ沢湊、三厩湊、青森湊などとともに重要港湾であり、上方から蝦夷地へ向かう船の寄港地として、米や木材の積み出し湊して栄えた。

十和田湖【とわだこ】

陸奥国、羽後国にまたがる湖で十和田火山の噴火で形成された典型的な二重カルデラ湖。約三~二万年前の火山活動により第一カルデラ湖が形成され約一万年前の火山噴火によりカルデラ内部五色岩火山が形成され、5400年前の噴火で第一カルデラ湖から湖水が流れ込み十和田湖の形が出来上がった。

長興寺【ちょうこうじ】

九戸郡にある寺で曹洞宗。山号は鳳朝山。長興寺は九戸家の菩提寺として創建された。1504年、九戸信仲の開基により、加賀宗徳寺大陰恵善和尚が開山した。江刺家長徳寺、伊保内円通寺などを末寺として持つ。1591年、「九戸政実の乱」の際、薩天和尚は九戸政実と蒲生氏郷との和議の斡旋を行った。1693年、山火事によって類焼し一切を消失した。

野辺地湊【のべちみなと】

野辺地湊は陸奥湾東南の沿岸に位置し、日本海との中継点として南部家領国の重要湊湾を担った。1593年、南部信直が「文禄の役」で肥前国名護屋に参陣中の南部信直が兵糧米の購入と回漕のために、野辺地や横浜で「蝦夷船」を多数建造して、庄内米を購入して野辺地湊から回漕させた。野辺地湊の後背地で産出される檜材などを用いての造船業も発展した。それらの船舶は野辺地湊から東北地方のみならず九州地方までも輸送船の運航が可能であった。

油川湊【ゆかわみなと】

油川湊は外ヶ浜郡の中心都市として宇須岸など蝦夷国への中継地として栄えた湊街。別名大浜湊とも称された。鎌倉を発し、東北を縦断する幹線道路、奥大道の終着点であり、本州と蝦夷国の結節点として海陸交通の要衝を占めた。蝦夷国交易の興隆とともに人口が増加し鮭、昆布、鮑などの特産物加工生産も行い湊湾機能に優れた油川湊の人口が増加し発展した。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

(※)印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康、田子信直は南部信直、津軽為信は大浦為信に統一しました。

※参考文献:「津軽秋田安東一族」新人物往来社、「東北大名の研究(戦国大名論集2)」吉川弘文館、「会津芦名一族」歴史春秋社、「最上義光(戦国の驍将)」新人物往来社、「奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)」宝文堂、「会津芦名四代」歴史春秋、「伊達政宗(全8巻)」講談社、「天を衝く(全3巻)」講談社文庫、「独眼竜伊達政宗」時代小説文庫、「津軽風雲録」時代小説文庫、「政宗に睨まれた二人の老将」宝文堂、「秋田『安東氏』研究ノート」無明舎、「(史伝)伊達政宗」学研M文庫、「独眼竜政宗」講談社文庫、「奥羽永慶軍記(全2巻)」新人物往来社、「津軽南部の抗争(南部信直)」、「秋田の中世浅利氏」無明舎出版、「独眼龍政宗」文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、「陸奥南部一族」新人物往来社、「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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