2011年12月24日土曜日

戦国備中国人名辞典

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【あ】

赤木忠国【あかぎただくに(15??~15??)】

川上郡穴田瀧谷城主。1537年、尼子経久勢に属して瀧谷城主となった。1540年、大内義隆の意向を受け、毛利元就の郡山吉田城を包囲した尼子晴久の後方陣地を鶴首城主三村家親らとともに攻撃して、その糧道を断ち、尼子晴久勢を撤退に追い込んだ。以後毛利元就勢に属した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

赤木忠房【あかぎただふさ(15??~15??)】

赤木忠国の男。官途は蔵人。1574年、松山城主三村元親が織田信長と結び毛利輝元勢と戦うと、成羽城主三村親成とともに毛利輝元勢に属して、備中国の先導役を務めた。1575年、「松山城の戦い」に参陣した。その後も父赤木忠国とともに毛利輝元勢に属して中国各地に転戦して戦功を挙げた。1577年、「播磨佐用城の戦い」でも戦功を挙げた。1582年、「備中高松城の戦い」では、妙見山に陣取って羽柴秀吉勢と対峙した。1585年、「四国討伐(天正の陣)」では、小早川景隆勢に属して、高尾城主金子元宅を討取る戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元のもとを離れ塩田村に帰農した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

赤木忠直【あかぎただなお(1573~1603)】

赤木忠房の男。官途は丹後守。通称与四郎。三村元親勢に属した。三村元親が毛利輝元から離反すると父赤木忠房とともに毛利輝元勢に属した。1582年、「備中高松城の戦い」に参陣して羽柴秀吉勢の陣に夜襲を掛けた。その戦功により丸山城1,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長に減封になると塩田村に帰農した。1614年、「大坂冬の陣」では、中島昌行らととも松平元康勢に属して参陣した。参考文献:『高梁歴史人物辞典』by佐藤享。

赤木景忠【あかぎかげたか(15??~15??)】

赤木忠国家臣。長池城主。官途は弾正忠。

赤木久忠【あかぎひさただ(15??~15??)】

赤木景忠の男。官途は丹波守。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢に属して参陣して戦功を挙げた。

赤木忠興【あかぎただおき(15??~15??)】

志良計城主。通称左衛門尉。

明石俊重【あかしとししげ(15??~15??)】

三村元親家臣。官途は兵部大輔。。1575年、「備中兵乱」では、援軍として鬼身山城に派遣されていたが、上田家実とともに毛利輝元勢に内応した。

明石兵部少輔【あかしへいぶしょうゆ(15??~15??)】

明石俊重家臣。伊与部山城主。嗣子無く、中島大炊助の四男彦四郎を養子とした。
 
明石余次【あかしよつぎ(15??~15??)】

中島大炊助の四男(明石兵部少輔の養子)。通称彦四郎。

阿部市介【あべいちのすけ(15??~15??)】

三村元親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

荒木兵庫頭【あらきひょうごのかみ(15??~15??)】

上田家実家臣。馬首城主。猛将として知られ備中各地を転戦して戦功を挙げた。1575年、「備中高松城の戦い」では、毛利輝元勢に属して高松城に籠城した。

有岡右京【ありおかうきょう(15??~15??)】

小田政清家臣。政所山城主。1564年、「龍の口の戦い」で討死した小田小太郎の亡骸を馬鞍山城まで運んだ。

有岡新之丞【ありおかしんのじょう(15??~15??)】

走出城主。1566年、東南の馬鞍山城主小田政清と西北の高越城主伊勢盛勝、伊勢高晴父子の両勢力狭間で苦境に立たされ、城を棄てて落延びた。小田政清が折敷山城を治めた。

有木平内【ありきひらない(15??~15??)】

三村親宣家臣。

家近十郎【いえちかじゅうろう(15??~1575)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け討死した。

池田勘解由【いけだかげゆ(15??~15??)】

赤坂城主。1570年、三村元範勢の攻撃を受け伯耆国に落延びた。

石蟹守元【いしがもりもと(15??~15??)】 

哲多郡石蟹城主。官途は山城守。通称与兵衛。室は庄氏敬の娘。尼子晴久勢の攻撃を受け捕縛され13年間月山富田城で幽閉された。1553年、三村家親、毛利元就勢が尼子晴久勢に属する猿掛城主庄為資を攻撃すると、庄為資を支援した。1570年、宇喜多直家勢の攻撃を受け降伏、佐井田城主植木秀長への攻撃の先導役を務めた。

石蟹元宣【いしがもとのぶ(1555~1571)】

石蟹守元の男。官途は山城守。通称孫兵衛。庄為資と結び三村家親と対抗したため幽閉された。1575年、「備中兵乱」では、毛利元就勢に属して旧領を安堵された。美作国久米郡一ノ瀬城主竹内久盛が毛利元就勢に属するとその支援に赴いた。

石川家久【いしかわいえひさ(15??~15??)】 

窪屋郡高山城主。

石川久智【いしかわひさとも(15??~1567)】

石川家久の男。三村家親と結んで宇喜多直家勢と戦った。1567年、「明禅寺の戦い」で三村元親とともに宇喜多直家勢と戦って敗北、石川久智は負傷し、その傷がもとで没した。

石川久式【いしかわひさのり(1557~1575)】

石川久智の男。通称源左衛門。室は三村家親の娘。1567年、父石川久智の病没により石川家の家督を相続した。1571年、毛利元就に従って九州に参陣中に尼子勝久勢に高山城を奪われた。毛利元就勢の支援を受けてこれを奪回した。1574年、三村元親が織田信長勢に属して毛利輝元勢から離反すると、それに従った。「松山城の戦い」では、三村元親の副将格として入城したが敗れ、落延びるが家臣の裏切りにより自刃した。

石川久孝【いしかわひさたか(15??~15??)】 

石川久智家臣。高松城主。通称左衛門佐。

石田与市左衛門【いしだよいちざえもん(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

石田備前守【いしだびぜんのかみ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

伊勢盛勝【いせもりかつ(15??~15??)】

高越山城主。室は小田政清の娘。1566年、「萌黄ヶ原の戦い」では、小田政清勢を支援して村上隆重勢と戦った。

伊勢高晴【いせたかはる(15??~15??)】

伊勢盛勝の男。

伊勢国寛【いせくにひろ(15??~1575)】

三村元範家臣。粒根城主。官途は掃部亮。三村元範の剣術指南役を務めた。1575年、「備中兵乱」では、楪城に三村元範らとともに籠城したが小早川隆景勢の攻撃を受け討死した。

井上春忠【いのうえはるただ(15??~15??)】

小早川景隆家臣。浅口郡鳶山城主。井上資明の男(井上秀俊の養子)。官途は伯耆守。通称又右衛門尉。1550年、井上元兼ら枝連衆の多くが毛利元就に粛清されたが、井上春忠は連座を免れた。竹原小早川隆景が沼田小早川家を相続した際、附家老職を務めた。1597年、小早川隆景の病没後は、毛利輝元に仕えたが冷遇されたため、継嗣の井上景貞とともに出奔した。

井上景貞【いのうえかげさだ(15??~15??)】

井上春忠の男。通称五郎兵衛。小早川隆景に仕えた。1592年、「文禄の役」では、粟屋景雄とともに小早川隆景勢の先陣を務めた。「碧蹄館の戦い」では、李有曻を討取る戦功を挙げた。1597年、小早川隆景の病没後は、毛利輝元に仕えた。1601年、毛利輝元のもとで冷遇されたため、父井上春忠とともに出奔した。

井上有景【いのうえありかげ(15??~15??)】

毛利輝元家臣。賀陽郡庭瀬城主。1575年、毛利輝元から庭瀬城主に任じられた。1582年、「備中高松城の戦い」では、境目七城(冠山城、高松城、宮地山城、鴨庄城、日幡城、松島城、撫川城)のひとつとなり、井上有景が800余りを率い守備した。吉川元春、小早川隆景から撤退命令を受けたが、羽柴秀吉勢と戦い敗れた。

植木秀長【うえきひでなが(15??~15??)】

庄為資家臣。小田郡佐井田城主。植木藤資の男。1533年、「松山城の戦い」で上野頼久を滅ぼした。1567年、「明禅寺の戦い」では、三村元親勢に属して参陣した。1568年、宇喜多直家勢の攻撃を受け降伏した。1569年、穂井田元清勢の攻撃を受けたがこれを撃退した。

上田家実【うえだいえざね(15??~15??)】

下道郡鬼身城主。別名上田阿西。1575年、「備中兵乱」では、小早川隆景は、川上郡国吉城を降すと、哲多郡楪城主三村元範を攻め落し、鬼実山城主上田家実を攻撃した。上田家実は援将の明石俊重とともに養子上田家親の自刃を条件に毛利輝元勢に降伏した。

上田家親【うえださねちか(1556~1575)】

三村家親の四男(上田家実の養子)。別名三村実親。1575年、「備中兵乱」では、毛利輝元勢の攻撃を受け鬼身城は包囲された。上田実親と城兵は苦戦を強いられ、城兵の命と引き替えに自刃し、鬼身城は落城した。

上田勝親【うえだかつちか(15??~15??)】

上田家親の男。

上田吉親【うえだいしちか(15??~15??)】

上田家親の次男。

上田加介【うえだかすけ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

上野頼久【うえのよりひさ(15??~1521)】

上房郡松山城主。足利義稙家臣。官途は兵部大輔。1509年、足利義稙の意向を受け鬼邑山城に任じられた。上野信孝は、上野高直に鬼邑山城、上野頼久に松山城を預けて帰洛した。上野頼久は備中国内で勢力拡大、継嗣の上野頼氏に松山城を譲り、次男上野右衛門尉を小松山城入れた。参考文献:『高梁歴史人物辞典』by佐藤享。

上野頼氏【うえのよりうじ(15??~1533)】

上野頼久の男。官途は伊豆守。1521年、父上野頼久の病没により上野家の家督を相続した。1533年、「松山城の戦い」で尼子晴久勢の支援を受けた庄為資勢の攻撃を受け叔父上野右衛門尉とともに討死した。庄為資勢に属した植木秀長に討取られた。参考文献:『高梁歴史人物辞典』by佐藤享。

上野右衛門尉【うえのうえもんのじょう(15??~1533)】

上野頼久の次男。小松山城主。1533年、「松山城の戦い」で尼子晴久勢の支援を受けた庄為資勢に属した植木秀長の家臣若林次郎右衛門に討取られた。参考文献:『高梁歴史人物辞典』by佐藤享。

宇治頼宜【うじよりのぶ(15??~15??)】

赤木忠国家臣。白毛ヶ城主。通称左衛門尉。室は赤木忠国の娘。「白毛城の戦い」では、籠城戦を続け、糧食も底をつき落城寸前に追い込まれた。苦肉の策として、米の半分を島木川に流し、残り半分を握り飯にして、兵に城壁の上で食べさせた。これを見た寄せ手は兵糧攻めをあきらめ、引き上げた。参考文献:『高梁歴史人物辞典』by佐藤享。

生石中務少輔【おいしなかつかさしょうゆう(15??~15??)】

石川久智家臣。通称惣左衛門。1574年、「松山城の戦い」で石川久式が滅亡すると、小早川隆景に属した。1582年、「備中高松城の戦い」では、加茂城を守備した。羽柴秀吉に内応して宇喜多秀家勢を城内に引き入れたが、城主桂広繁の反撃を受け落延びた。その後宇喜多秀家の家臣岡家利の寄騎衆を務め1,500石を領した。1599年、「宇喜多家騒動」で岡家利とともに宇喜多秀家のもとを退去した。

大槻源内【おおつきげんない(15??~15??)】

竹井直定家臣。

小田政清【おだまさいえ(15??~15??)】

小田郡岩屋山城主。小田勝清の男。官途は治部少輔。1555年、「神戸山城の戦い」では、荘実近勢の攻撃を受け三光寺に落延びた。1565年、毛利元就勢の支援を受け神戸山城に帰還した。1566年、「萌黄ヶ原の戦い」では、村上隆重勢の攻撃を受けたが伊勢盛勝、穂井田元祐の支援により撃退した。

小田勝清【おだかつきよ(15??~1564)】

小田政清の男。通称小太郎。1564年、「龍の口の戦い」で討死した。

小田隆清【おだたかきよ(15??~1575)】

小田政清の次男。官途は民部少輔。1568年、神護寺本堂を建立した。 

小田元家【おだもといえ(15??~15??)】

小田高清の男。通称孫兵衛。1592年、「文禄の役」に参陣した。1595年、毛利輝元の意向を受け安芸国に転封した。「長雨に照日の本のてらされば 小田にみのらぬ いねといふなり」という一首を詠んで本貫の地を離れた。

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【か】

上山元忠【かみやまもとただ(15??~15??)】

毛利元就家臣。下道郡加茂城主。通称兵庫介。1562年、平佐藤左衛門、吉川経安、山県左京とともに本城常光を謀殺後、山吹城を接収してそれを守備した。1582年、「備中高松城の戦い」では、桂広繁、生石中務少輔らとともに加茂城を守備した。

神原与三左衛門尉【かみはらよさざえもん(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

神原六郎左衛門尉【かみはらろくろうさえもんのじょう(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け討死した。

軽部治部【かるべじぶ(15??~1575)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け討死した。

河上孫九郎【かわかみまごくろう(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

川西之秀【かわにしゆきひで(15??~15??)】

三村元親家臣。荒平城主。通称三郎左右衛門。1575年、「備中兵乱」では、小早川隆景勢の攻撃を受け、城兵の助命と引き替えに児島に退去した。

河原直久【かわはらなおひさ(15??~15??)】

三村家親家臣。通称六郎左衛門尉。1575年、河原直久と竹井直定は、毛利輝元勢に内応して、都窪郡幸山城主石川久式の備中松山城天神の丸を乗っ取り、石川久式の妻子を人質にした。これにより兵の結束は乱れ、備中松山城の落城を早めた。

梶尾織部【かじおおりべ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」では、小早川隆景勢の攻撃を受け石川久式、三村右京亮、井山雄西堂、日名助左衛門、吉良常陸介ら50余りとともに城内本丸に最後まで踏み留まった。

神崎豊後守【かんざきぶんごのかみ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

神崎兵衛左衛門【かんざきへいざえもん(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

国弘高実【くにひろたかざね(15??~15??)】

小早川隆景家臣。官途は隠岐守。1575年、「備中兵乱」で石川久孝が家臣友野石見守に謀殺されると、小早川隆景の意向を受け幸山城を守備した。

吉良常陸介【きらひたちのすけ(15??~15??)】

三村元親家臣。藤木城主。1575年、「備中兵乱」では、松山城に籠城して毛利輝元勢と戦ったが敗れて自刃した。

吉良七郎左衛門尉【きらしちろうざえもんのじょう(15??~15??)】

吉良常陸介の男。1575年、「備中兵乱」では、父吉良常陸介とともに松山城に籠城して毛利輝元勢と戦ったが敗れて自刃した。

吉良丹後守【きらたんごのかみ(15??~15??)】

三村元親家臣。豆木城主。1575年、「備中松山城の戦い」では、松山城に籠城して毛利輝元勢と戦った。

国府市正【こういちまさ(15??~1582)】

石川智家家臣。1582年、「備中高松城の戦い」では、清水宗治ととのに羽柴秀吉勢と戦った。清水宗治の介錯を務めた後、自身も自刃した。

小林亦三郎【こばやしあかざぶろう(15??~15??)】

竹井直定家臣。

小原主計【こはらしゅけい(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

近藤掃部頭【こんどうかもんのかしら(15??~1575)】

三村家親家臣。笹尾城主。1575年、「備中兵乱」では、毛利元就勢に属した赤木忠直の攻撃を受け、松山城に落延びて籠城したが、討死した。

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【さ】

佐藤右京亮【さとううきょうのじょう(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

佐藤右京進【さとううきょうのしん(15??~15??)】

佐藤右京亮の男。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

佐藤庄三郎【さとうしょうざぶろう(15??~15??)】

藤井皓玄家臣。1569年、「神辺城の戦い」では、藤井皓玄に従って、藤井六郎左衛門、寺地又兵衛、藤代五郎入道ら500余りとともに神辺城を攻撃した。

佐野忠職【さのただおり(15??~1559)】

石川久智家臣。浅口郡亀山城主。官途は和泉守。1559年、毛利元就勢の攻撃を受け討死した。

清水宗綱【しみずむねつな(15??~15??)】

石川家久家臣。賀陽郡清水城主。

清水宗則【しみずむねのり(15??~15??)】

清水宗綱の男。官途は備後守。1567年、「明禅寺城の戦い」で石川久智家勢に属して参陣した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、三村元親、細川通薫、中島輝行、上野頼氏らとともに毛利元就勢に従って参陣した。

清水宗知【しみずむねとも(15??~1582)】

清水宗則の男。官途は備後守。通称左近。別名月清入道。庶子であったため、清水家の家督は弟の清水宗治が相続した。1568年、「立花鑑載の乱」では、大友義鑑と戦い戦功を挙げた。1582年、「備中高松城の戦い」では、清水宗治とともに備中高松城に籠城した。しかし羽柴秀吉の水攻めという奇策に遭い、最終的には兵士の助命を条件に、清水宗治ともに自刃した。辞世は句は「世の中の惜しまるるとき散りてこそ 花も花なれ 色も有りけれ」。

清水行宗【しみずゆきむね(15??~1597)】

清水宗知の男。官途は右衛門尉。1582年、「備中高松城の戦い」では、父清水宗知とともに高松城に籠城した。清水宗知は自刃したが、自身は生き残り小早川隆景に仕えた。1592年、「文禄の役」に参陣して戦功を挙げた。

清水宗治【しみずむねはる(1537~1582)】

清水宗則の男。通称長左衛門尉。室は石川久孝の娘。兄清水宗知に代わって清水家の家督を相続した。1565年、石川久孝とその継嗣が相次いで病没すると、高松城主の座を長谷川掃部と争った。1575年、「備中兵乱」では、毛利輝元勢に属して戦功を挙げた。1582年、「備中高松城の戦い」では、羽柴秀吉勢の攻撃を受けた。水攻めにより落城寸前に追い込まれたが、清水宗治の自刃を条件に毛利輝元と羽柴秀吉の間で和議が成立、兄清水宗知とともに自刃した。辞世の句「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して」。

清水宗之【しみずむねゆき(15??~1600)】

清水宗治の男。1600年、「伊勢安濃津城の戦い」で討死した。

清水景治【しみずかげはる(1571~1649)】

清水宗治の次男。官途は美作守。通称は源三郎。1582年、「備中高松城の戦い」で父清水宗治が自刃すると、小早川隆景に仕えた。1592年、「文禄の役」でも小早川隆景勢に属して戦功を挙げた。1597年、小早川隆景の病没後は小早川秀秋に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。小早川秀秋が改易処分に処されると毛利輝元に仕えた。父清水宗治の功により、家老職に次ぐ寄組士の席に列し2,500石余りを領した。

庄為資【しょうためすけ(15??~1558)】

小田郡猿掛城主。官途は備中守。1507年、足利義尹の要請を受け安芸国に侵攻した。1533年、「松山城の戦い」では、植木秀長と結び松山城主上野頼久を討取った。1540年、尼子晴久勢に属して備後国に侵攻したが敗退した。1553年、「猿掛城の戦い」では、毛利元就の支援を受けた三村家親勢の攻撃を受け、継嗣庄元祐を穂田実近の養子にする条件で和議を結んだ。

庄高資【しょうたかすけ(15??~1570)】

庄為資の男。1561年、「備中松山城の戦い」では、毛利元就勢と結ぶ三村家親勢の攻撃を受け落城、宇喜多直家のもとに落延びた。宇喜多直家勢の支援を受けて松山城を奪還した。1570年、毛利元就勢の支援を受けた三村元親勢の攻撃を受け討死した。

庄元資【しょうもとすけ(15??~1568)】

三村家親の男(庄高資の養子)。官途は式部少輔。1561年、三村家親が庄高資を撃破った際、和議の条件として庄高資の養子に迎え入れられた。1568年、「斉田城の戦い」で宇喜多直家勢の攻撃を受け討死した。

庄勝資【しょうかつすけ(15??~1580)】

庄高資の男。宇喜多直家が備前国に帰還すると、毛利元就勢の攻勢を受け植木秀資、庄勝資らは出雲国に落延びた。1571年、「松山城の戦い」では、三村元親、毛利元清勢の攻撃を受け庄高資が討死、佐井田城も攻撃を受けたが、植木秀資の支援を受け撃退した。

庄右京進【しょううきょうのしん(15??~15??)】

庄勝資の次男。円通山城主。1575年、「麦飯山の戦い」で宇喜多直家勢と戦い戦功を挙げた。

庄実近【しょうさねちか(15??~1571)】
 
庄高資家臣。松山城代を務めた。1571年、三村元親勢の攻撃を受けて討死した。

進藤掃部【しんどうかもん(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

杉三郎兵衛尉【すぎさぶりょうびょうえ(15??~15??)】

三村家親家臣。寺山城主。1575年、「備中兵乱」では、毛利輝元勢の攻撃を受け落城、松山城に落延びた。「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

杉重国【すぎしげくに(15??~1568)】

伊達重興家臣。通称左衛門尉。継室は赤木忠国の娘。1568年、「鬼山城の戦い」では、三村元親の攻撃を受けて落城し討死した。

杉重春【すぎしげはる(15??~15??)】

杉重国の男。通称太郎左衛門。1575年、「備中兵乱」では、伊達信衡とともに鞆に滞在中の足利義昭を護衛した。三村元親勢と戦いになり、阿部七党の渡辺与惣太郎、田中左京進を討取る戦功を挙げた。1600年、「大津城の戦い」では、毛利元就勢に従って参陣して戦功を挙げた。

諏訪藤介【すわとうすけ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

曽祢内蔵【そねくらぞう(15??~15??)】

三村元範家臣。1575年、「楪城の戦い」では、富屋大炊助、八田主馬らとともに小早川隆景勢に内応して毛利輝元勢を城内に引き入れた。

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【た】

田井又十郎【たいまたじゅうろう(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

田井長門守【たいながとのかみ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

田井左近丞【たいさこんのじょう(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

高橋英光【たかはしひでみつ(15??~15??)】

毛利元就家臣。窪屋郡流山城主。1570年、尼子勝久勢の攻撃を受け降伏した。

竹井将監【たけいしょうげん(15??~1582)】

石川久式家臣。都窪郡早島城主。官途は将監。1582年、「備中高松城の戦い」では、冠山城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。攻城戦の最中、内応者が冠山城に火を放ち落城した。加藤清正と壮絶な一騎打ちの末、討死した。

竹井直定【たけいなおさだ(15??~15??)】

三村家親家臣。通称宗左衛門。1574年、桂元盛、赤川元之、岡元良らとともに備前国勝山城を守備した。1575年、「備中兵乱」では、三村親成とともに毛利輝元勢からの離反に反対した。1582年、「備中高松の戦い」では、毛利輝元勢に内応した。

多治部景忠【たじべかげただ(15??~15??)】

阿賀郡潮城主。1515年、備中国守護職細川政春に仕えた。1515年、徳光兵庫守、伊達宗衡とともに新見庄へ侵攻、新見国経と激しく争った。1546年、三村宗親の攻撃の前に降伏した。1552年、「笠岡の戦い」では、猿掛城を攻撃する毛利元就、三村宗親勢と尼子晴久勢に属する石蟹守元、伊達信衡とともに戦った。

多治部景治【たじべかげはる(15??~1595)】

多治部景忠の男。官途は雅楽頭。新見庄を領していた新見国経や楢崎豊景と争った。庄為資と結び三村家親に対抗した。1546年、三村家親勢の攻撃を受け落城した。1575年、「備中兵乱」では、毛利輝元の家臣福頼元秀勢に属して戦功を挙げ、旧領に帰還した。1577年、「播州上月城の戦い」に参陣して羽柴秀吉勢と戦った。

多治部景勝【たじべかげかつ(15??~15??)】

多治部景治の男。官途は治部大輔。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。

楽々尾豊後守【たたらおぶんごのかみ(15??~15??)】

三村元親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

田中直重【たなかなおしげ(15??~15??)】

三村家親家臣。国矢倉城主。1575年、「備中兵乱」で毛利輝元勢の攻撃を受け、松山城に落延びた。

田中藤兵衛【たなかとうべい(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

田中左京進【たなかさきょうのしん(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

甲籠伊達宗衡【だてむねひら(15??~15??)】

阿哲郡甲籠城主。伊達重興の男。官途は常陸介。1517年、伊達宗衡は父伊達重興、楪城主新見国経とともに三村宗親、多治部景忠勢と戦うも捕縛された。

伊達信衡【だてのぶひら(15??~15??)】

甲籠伊達宗衡の男。通称三左衛門。1541年、尼子晴久勢に属する穂井田実近と毛利元就勢に属する三村家親が争うと、毛利元就勢に属して穂井田実近勢と戦った。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で尼子義久が滅亡すると、毛利元就勢に属した。1575年、「備中兵乱」では、毛利元就勢に属して三村元親勢と戦い戦功を挙げた。1570年、宇喜多直家、秋上綱平勢の攻撃を受け落城した。

丹下与兵衛【たんげよへい(15??~1574)】

三村政親家臣。1574年、「国吉城の戦い」では、三村政親、宮野蔵大夫らとともに宍戸元続の陣を襲撃したが、宍戸元続の家臣山角阿弥と一騎打ちとなり、相打ちとなった。丹下与兵衛の頸級は宍戸元続の家臣三上平内が上げた。

津々範宗【つつのりむね(15??~1571)】

川上郡加葉山城主。官途は加賀守。庄高資勢に属していたが、後に毛利元就勢に降伏した。1571年、尼子勝久勢が備中国に侵攻すると、これに属した。「杉山城の戦い」では、細川通菫を攻撃するも、福井資重とともに討死した。

津々範宗【つつのりむね(15??~15??)】

津々範宗の男。官途は加賀守。別名津々範家。1575年、「麦飯山城の戦い」で先陣を務め戦功を挙げた。「備中兵乱」後、毛利元就勢に降伏した。1582年、「八浜合の戦い」で戦功を挙げた。

綱島道久【つなしまみちひさ(15??~15??)】

粧田山城主。通称兵部。1571年、三村元親勢に属した。1575年、「備中兵乱」で毛利輝元勢の攻撃を受け落城した。

寺地又兵衛【てらちまたべい(15??~15??)】

藤井皓玄家臣。1569年、「神辺城の戦い」では、藤井皓玄に従って、藤井六郎左衛門、佐藤庄三郎、藤代五郎入道ら500余りとともに神辺城を攻撃した。

富屋大炊介【とみやおおやのすけ(15??~1575)】

三村元範家臣。朝倉城主。1575年、「備中兵乱」で小早川隆景勢の攻撃を受け落城した。

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【な】

長尾景利【ながおかげとし(15??~15??)】

尼子経久家臣。岩木山城主。通称四郎左衛門。

中島輝行【なかじまてるゆき(15??~15??)】

賀陽郡経山城主。中島氏行の男。石川家久、高橋、清水宗綱、祢屋七郎兵衛、日幡景教らと結び大内義隆勢に属した。154?年、「第一次月山富田城の戦い」に父中島氏行が参陣するうと、経山城が浦上宗景勢の攻撃を受けたが撃退した。

中嶋元行【なかじまもとゆき(1552~1614)】

中島輝行の男。通称大炊助。室は清水宗治の娘。1571年、「経山城の戦い」では、尼子勝久勢の攻撃を受けた。1582年、「備中高松城の戦い」では、清水宗治の副将として高松城に籠城した。高松城が落城すると、清水宗治の継嗣清水景治の後見役を務めた。小早川隆景が病没すると、清水景治は毛利輝元に仕えたが、中島元行は継嗣の中島義行とともに小寺村で帰農した。著書に『備中兵乱記』。

中島九右衛門【なかじまくえもん(15??~15??)】

中島輝行の次男。

中島義行【なかじまよしゆき(15??~15??)】

中嶋元行の男。15??年、小早川隆景が筑前国名島城を領すると、清水景治とともに小早川隆景に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後、結城秀康に仕えた。

中島昌行【なかじままさゆき(15??~15??)】

中島義行の男。

中村家好【なかむらいえよし(15??~15??)】

三村家親家臣。通称吉右衛門尉。忍び衆のひとり。三村家親の意向を受け乱舞の芸者として猿掛城の動きを探った。

名越修理【なごししゅり(15??~15??)】

小田政清家臣。1564年、「龍の口の戦い」で討死した小田小太郎の亡骸を馬鞍山城まで運んだ。

梨羽景連【なしわかげつら(15??~15??)】

小早川景隆家臣。賀夜郡松島城。官途は中務丞。1582年、「備中高松城の戦い」では、松島城を守備して羽柴秀吉勢と戦った。

南江備前守【なんこうびぜんのかみ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

南江馬右衛門【なんこううまのすけ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

難波宗忠【なんばむねただ(15??~1582)】

清水宗則の男。通称伝兵衛。1582年、「備中高松城の戦い」では、兄清水宗治、清水行宗らとともに高松城に籠城するも、降伏開城の際、兄達とともに湖上で自刃した。

新見国経【にいみくにつね(15??~1542)】

阿哲郡郡楪城主。新見賢直の男。1512年、尼子経久勢の支援を受け備中国に侵攻して阿賀郡潮城主多治部景忠と戦った。三村元親の侵入に対し尼子晴久勢と結んで対抗した。

新見貞経【にいみさだつね(15??~15??)】

新見国経の男。尼子晴久勢に属した。1566年、三村元親の攻撃を受け落城した。

新見左京【にいみさきょう(15??~15??)】

石蟹守元家臣。

禰屋七郎兵衛【ねやしちろうざえもん(15??~15??)】

賀陽郡長良山城主。1564年、「龍の口の戦い」では、備中国の諸将とともに龍の口城に籠城して戦功を挙げた。1582年、「備中高松城の戦い」では、冠山城に籠城して、羽柴秀吉勢と戦った。

禰屋与七郎【ねやよしちろろう(15??~15??)】

禰屋七郎兵衛の男。

乃美元信【のびもとのぶ(15??~15??)】

賀夜郡宮地山城。浦賢勝の次男。小早川隆景家臣。通称少輔七郎。1582年、「備中高松城の戦い」では、城兵400余りを率いて宮地山城に籠城したが、宇喜多秀家の家臣信原内蔵充の降伏勧告を受け開城に応じた。

野山益朝【のやまますとも(15??~15??)】

上房郡野山城主。官途は宮内少輔。毛利元就勢に属した三村元親に従って備前国、美作国を転戦して浦上宗景、宇喜多直家らと戦った。1575年、「備中兵乱」では、三村元親勢に属して毛利輝元勢と戦ったが乱後は毛利輝元勢に属した。

野山朝経【のやまともつね(15??~15??)】

野山益朝の男。1575年、「備中兵乱」では、父野山益朝とともに三村元親勢に属して野山城に籠城した。

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【は】

橋本正秀【はしもとまさひで(15??~15??)】

伊達信衡家臣。通称賀茂丞。

橋本正光【はしもとまさみつ(15??~15??)】

伊達信衡家臣。通称孫右衛門。

八田主馬【はったしゅめい(15??~15??)】

三村元範家臣。1574年、「楪城の戦い」では、富屋大炊介、曾禰大蔵らとともに小早川隆景の家臣中島大炊介に内応して小早川隆景勢を城内に引き入れた。

林重真【はやししげさね(1531~1582)】

賀陽郡冠山城主。通称三郎左衛門。1582年、「備中高松城の戦い」では、冠山城に籠城するが、羽柴秀吉勢の攻撃を受け落城した。林重真の頸は織田信長のもとへと送られた。

林宗重【はやしむねしげ(15??~1586)】

林重真の男。1852年、「備中高松城の戦い」では、父林重真ととも冠山城に籠城するも落城した。禰屋久秀、松田盛明、三村親宣らとともに高松城に退却した。備中高松城が落城すると小早川隆景に仕えた。1586年、「九州討伐」で小早川隆景に従って参陣したが筑前国で討死した。

日幡景教【ひばたかげのり(15??~15??)】

都宇郡日幡城主。三村家次家臣。毛利元就勢が備中国に侵攻すると、それに仕えた。

日幡景親【ひばたかげちか(15??~1582)】

日幡景教の男。通称六郎兵衛。1551年、「第一次龍ノ口城の戦い」では、浦上宗景勢を撃退した。1554年、「第二次龍ノ口城の戦い」でも備中国の諸将とともに戦功を挙げた。1580年、「日畑城の戦い」では、毛利輝元勢の上原元祐、来島通房らの支援を受け宇喜多直家勢を撃退した。1582年、「備中高松城の戦い」では、日幡城に籠城するが、援将の上原元祐と弟の大森蔵人が羽柴秀吉に内応、上原元祐に討取られた。小早川隆景は家臣の楢崎忠正に上原元祐の内室(毛利元就の娘)を救出させた。



平川忠親【ひらかわただちか(15??~15??)】

平川元忠の弟。川上郡菖蒲城主。官途は伊豆守。1514年、平川忠親は分家して菖蒲城を築城した。

平川経貞【ひらかわつねさだ(15??~15??)】

平川忠親の男。官途は長門守。尼子経久勢に属した。後に毛利元就勢に属した。1600年、「関ヶ原の役」後は帰農して庄屋を務めた。

平川正親【ひらかまさちか(15??~15??)】

馬屋原信春の男(平川久親の養子)。官途は弾正忠。室は平川久親の娘。

平川親貞【ひらかわちかさだ(15??~15??)】

平川経貞の次男。

福井高資【ふくいたかすけ(15??~15??)】

庄高資家臣。大山城主。通称孫六左衛門尉。1569年、「佐井田城の戦い」では、城主植木秀長とともに毛利元就勢と戦った。1570年、尼子勝久が山中幸盛とともに備中国に侵攻すると、それに従った。1571年、毛利元就、三村元親勢の攻撃を受け出雲国に落延びた。1575年、「麦飯山の戦い」では、毛利輝元勢に属して宇喜多直家勢と戦い戦功を上げ大山城主に復帰した。

福井勝資【ふくいかつすけ(15??~15??)】

福井高資の男。1571年、毛利元就、三村元親勢の攻撃を受け父福井高資とともに出雲国に落延びた。1575年、「麦飯山の戦い」では、毛利輝元勢に属して父福井高資とともに宇喜多直家勢と戦い戦功を上げ大山城主に復帰した。

福田武倫【ふくだたけとし(15??~15??)】

福田城主。官途は対馬守。1582年、「備中高松城の戦い」では、毛利輝元勢に属して高松城に籠城した。

藤井皓玄【ふじいこうげん(15??~1569)】

後月郡正霊山城主。山名氏勝家臣。官途は能登守。別名藤井好元。山名氏政が大内義隆に追われると、次席家老職を務めた。1557年、杉原理興が継嗣をもうけず病没すると、杉原盛重が杉原家の家督と神辺城主を相続したため、継嗣の藤井広告、大江田隼人祐らとともに杉原盛重のもとから出奔した。1568年、毛利元就勢に従って杉原盛重が北九州に参陣すると、尼子勝久勢とともに備中国に侵攻した。1569年、「神辺城の戦い」では、藤井六郎左衛門、佐藤庄三郎、寺地又兵衛、藤代五郎入道ら500余りを率いて神辺城を攻撃した。神辺城には、杉原元盛、杉原景盛、所原肥後守、鱠江備前守、馬屋原中務入道、高橋大三郎ら留守居役が居たが寡兵により落城した。毛利元就勢の楢崎豊景、村上祐康、三吉隆亮らの反撃を受け、神辺城は落城、藤井皓玄は落延びる途中、細川道薫勢の攻撃を受け自刃した。

藤井広告【ふじいひろとも(15??~15??)】

藤井皓玄の男。高屋城主。通称新介。1557年、杉原盛重が杉原家の家督と神辺城主を相続したため、父藤井皓玄とともに杉原盛重のもとから出奔した。

藤井六郎左衛門【ふじいろくろうざえもん(15??~15??)】

藤井皓玄家臣。1569年、「神辺城の戦い」では、藤井皓玄に従って、佐藤庄三郎、寺地又兵衛、藤代五郎入道ら500余りとともに神辺城を攻撃した。

藤代五郎【ふじしろごろう(15??~15??)】

藤井皓玄家臣。1569年、「神辺城の戦い」では、藤井皓玄に従って、藤井六郎左衛門、佐藤庄三郎、寺地又兵衛ら500余りとともに神辺城を攻撃した。

布施左衛門大夫【ふせさえもんだいふ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け討死した。

布施内蔵助【ふせくらのすけ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け討死した。

穂井田元資【ほいもとすけ(15??~1571)】

小田郡猿掛城主。三村家親の男(荘為資の養子)。官途は民部大輔。通称を四郎。別名荘元祐。1559年、「猿掛城の戦い」では、三村家親勢の攻撃を受けたが、毛利元就の仲介により和議を結び、荘為資の養嗣子として荘家に迎えられ。穂井田元資は毛利元就勢に属した三村家親に従って山陽地方を転戦した。1567年、「明禅寺の戦い」では、宇喜多直家に謀殺された三村家親の弔い合戦として三村元親勢の右翼を任されたが、総軍苦戦の中で惨敗を余儀なくされた。1571年、「佐井田城の戦い」で浦上宗景、宇喜多直家勢と戦い討死した。

穂井田元清【ほいだもときよ(1551~1597)】

毛利元就の四男(穂井田元資の養子)。官途は伊予守。室は来島通康の娘。1582年、「備中高松城の戦い」では、加茂城の支援して戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、羽柴秀吉の意向を受けて虎を生け捕りにした。

野州細川通政【ほそかわみちまさ(1504~1553)】

浅口郡鴨山城主。細川政春の男。備中国守護職。官途は安房守。室は赤松卜安の娘。1536年、「摂津天王寺の戦い」で兄細川晴国が討死したため、野州細川家の家督と備中国と伊予国2郡(宇摩郡、温泉郡)の守護職を相続した。

野州細川通薫【ほそかわみちただ(1535~1587)】

細川晴国の男(細川通政の養子)。官途は下野守。備中国を追われ、伊予国川之江城に落延びたが、毛利元就勢の支援を受け鴨山城に帰還した。1571年、「杉山城の戦い」では、備中国に侵攻した尼子勝久勢と戦い津々加賀守、福井孫左衛門らを討取ったが、敗れ幸山城に落延びた。

野州細川元通【ほそかわもとみち(15??~1589)】

細川通薫の男。官途は下野守。別名浅口少輔九郎。室は穂井田元清の娘。毛利輝元勢に属して山陽地方を転戦して戦功を挙げ、浅口郡鴨山城6,071石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長に減封になると、長門国長府城主毛利秀元の家老職を務めた。

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【ま】

真壁行信【まかべゆきのぶ(15??~15??)】

三村元親家臣。土井城主。通称大炊頭左内。

升原内蔵助【ますはらくらのすけ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

宮野蔵大夫【みやのくらだいふ(15??~15??)】

三村政親家臣。1574年、「国吉城の戦い」では、三村政親、宮野蔵大夫、丹下与兵衛ら300余りは、宍戸元続の陣を襲撃したが撃退された。

笠岡村上隆重【むらかみたかしげ(15??~15??)】

小田郡笠岡城主。村上隆勝の三男。官途は左近大夫。別名笠岡掃部。能島村上家の家督騒動では村上武吉を擁立して、村上義益勢を撃破った。1540年、「萌黄原の戦い」では、陶山民部少輔を支援して小田政清勢と戦ったが敗北した。

笠岡村上景広【むらかみかげひろ(15??~15??)】

村上隆重の男。通称八郎左衛門尉。官途は弾正忠。1576年、「第一次木津川口海戦」で負傷しながらも戦功を挙げた。1581年、織田信長勢に内応した宇喜多秀家勢の海上交通路を切断し、八浜二子山城を攻略した。1600年、「関ヶ原の役」では、浦景継、九鬼嘉隆らとともに海賊衆を率い、松平元康勢の海賊衆を撃破して尾張知多半島の西岸の六浦を制圧した。役後は、細川忠興に仕え10,000石を領した。

三上重信【みかみしげのぶ(15??~1562)】

三村家親家臣。柏山城主。官途は淡路守。

三上重吉【みかみしげよし(15??~15??)】

三上重信の男。室は石川久智の娘。1562年、父三上重信が病没したため、十三歳で三上家の家督を相続した。

三村宗親【みむら むねちか(1479~1533)】

川上郡成羽鶴首城主。通称新左京亮。1508年、大内義興が足利義尹を擁して
上洛すると、石川家久、荘為資とともに従った。1517年、多治部景忠とともに新見庄に侵攻して新見国経、伊達重興、伊達宗衡らと戦い伊達宗衡を捕縛する戦功を挙げた。

三村家親【みむらいえちか(1517~1566)】

三村宗親の男。官途は修理亮。庄為資と結んで勢力を拡大した。1561年、「松山城の戦い」で毛利元就の支援を受け尼子義久勢に属する庄高資を攻略した。その後も毛利元就勢に属して伯耆国に侵攻して入江正高、行松正盛、杉原盛重、南条宗勝らとともに伯耆国内の尼子勢の諸城を攻略する戦功を挙げた。1565年、美作国三星城主後藤勝元を攻略した。1566年、「美作興善寺の戦い」で宇喜多直家の家臣遠藤秀清、遠藤俊通兄弟に謀殺された。

三村親成【みむらちかなり(15??~15??)】

三村宗親の次男。通称孫兵衛。別名成羽親成。兄三村家親の死後、甥の三村元親を補佐した。1570年、毛利元就勢の支援を受け松山城を奪還した。毛利輝元が宇喜多直家と和議を結ぶと、三村元親は毛利輝元勢から離反して織田信長勢に属した。三村親成は竹井直定らとともに毛利輝元勢に残ることを主張したが鬼身城主上田実親、常山城主上野隆徳も毛利輝元勢からの離反を支持したため、継嗣の三村親宣とともに小早川隆景のもとに落延びた。1575年、「備中兵乱」では、小早川隆景に従って先陣として三村元親勢と戦った。乱後、川上郡鶴首城3,451石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、福山城主水野勝成に仕え家老職として1,500石を領した。

三村政親【みむらまさちか(15??~1575)】

三村宗親の三男。国吉城主。官途は左京亮。1575年、「松山城の戦い」では、松山城に籠城して宇喜多直家勢と戦うが三村元親ととも討死した。

三村忠秀【みむらただひで(15??~15??)】

三村宗親の四男。通称大蔵。美袋山城主。1575年、兄三村政親、弟三村七郎左衛門とともに国吉城に籠城した。

三村親頼【みむらちかより(15??~15??)】

三村宗親の五男。通称七郎左衛門。兄三村政親、三村忠秀とともに国吉城に籠城した。

三村親宣【みむらちかのぶ(15??~15??)】

三村親成の男。官途は紀伊守。通称孫太郎。別名成羽親宣。1575年、父三村親成が毛利輝元勢から離反する三村元親と対立したため、三村親成とともに毛利輝元のもとに落延びた。小早川隆景勢の備中侵攻の先導役を務めた。1582年、「備中高松城の戦い」では、冠山城に援軍を率いて入城した。落城に伴い、高松城に転戦した。

三村親良【みむらちかよし(15??~15??)】

三村親成の次男。

三村元親【みむらもとちか(1554~1575)】

三村家親の次男。官途は修理進。兄三村元資が荘為資の家督を相続したため、三村元親が三村家の家督を相続した1567年、「明禅寺の戦い」で宇喜多直家勢と戦ったが石川久智、中島加賀守らを失い、継嗣も庄元資も負傷してして大敗した。1568年、毛利元就が北九州に参陣すると、宇喜多直家勢の攻撃を受け斉田城主植木秀長が降伏した。1570年、松山城、佐井田城を奪還して勢力の回復に努めた。1574年、毛利輝元が宇喜多直家と結ぶと、毛利輝元勢から離反して織田信長勢に属した。1575年、「備中兵乱」で毛利輝元勢の攻勢を受け支城も次々陥落した。「備中松山城の戦い」でも小早川隆景勢の攻撃を受け自刃した。

三村元範【みむらもとのり(1548~1575)】

三村家親の三男。官途は宮内少輔。室は三輪半左衛門の娘。1575年、「備中兵乱」では、楪城に朝倉城主富谷大炊介、粒根城主伊勢国寛、竹野城主三村元威、角尾城主三村元高、鳶ヶ巣城主三村親重らとともに籠城したが、小早川隆景勢の攻撃を受け落城、落延びる途中討死した。

三村元成【みむらもとなり(15??~15??)】
 
三村家親の五男。竹野城主。別名三村元威。1575年、「楪城の戦い」では、三村元範を支援して伊勢国寛らとともに小早川隆景、多治部景治勢と戦うが、敗れて三村元範が討死した。

三村元高【みむらもとたか(15??~15??)】

三村家親の六男。角尾城主。通称六郎。

三村親重【みむらちょかしげ(15??~15??)】

三村元親家臣。鳶ヶ巣城主。通称左馬亮。別名三村親当。1561年、「鳶ヶ巣城の戦い」で三村家親勢が毛利元就勢の支援を受け尼子晴久の家臣徳光兵庫守を討取り、三村親当が城主に任じられた。1575年、「備中兵乱」で毛利輝元勢の攻撃を受け落城した。

三村親富【みむらちかとみ(15??~15??)】

三村親重の男。通称太兵衛尉。

三村勝親【みむらかつちか(15??~15??)】

三村実親の男。

三村吉親【みむらよしちか(15??~15??)】

三村実親の次男。

三村五郎兵衛【みむらごろべえ(15??~1566)】

三村家親家臣。1566年、三村家親が宇喜多直家の家臣遠藤秀清、遠藤俊通らに謀殺されると、仇討ちのために宇喜多直家領に侵攻しするが、宇喜多忠家勢3,000余りと戦い討死した。

三村兵部【みむらひょうぶ(15??~1575)】

三村家親家臣。猿掛城主。1575年、「猿掛城の戦い」では、小早川隆景勢の宍戸隆家、三村親成、中島大炊助らの攻撃を受け、松山城に落延びた。

三村与七郎【みむらよしろう(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「猿掛城の戦い」では、小早川隆景勢の宍戸隆家、三村親成、中島大炊助らの攻撃を受け、松山城に落延びた。

三村勝法師丸【みむらかつほうしまる(15??~15??)】

三村元親の男。

宮崎三郎兵衛【みやざきさぶろうびょうえ(15??~15??)】

楢崎元兼家臣。割亀山城主。

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【や】

薬師寺弥五郎【やくしじよごろう(15??~15??)】

細川通薫家臣。真壁城主。1564年、「備前龍ノ口城の戦い」で戦功を挙げた。

薬師寺久持【やくじしひさもち(15??~15??)】

薬師寺弥五郎の孫。通称五郎。

安原元吉【やすはらもとよし(15??~15??)】

三村元範家臣。通称彦左衛門。巨漢の猛将。1574年、「楪城の戦い」で毛利輝元勢に属した三村元範に従って、敵将の伊勢国寛を討取る戦功を挙げた。

山県国吉【やまがたくによし(15??~1580)】

毛利元就家臣。有漢飯山城主。通称三郎兵衛。1575年、「備中兵乱」で三村元親が滅亡した後、飯山城代に任じられた。1580年、「備前虎倉の戦い」で討死した。

山本左馬助【やまもとさまのすけ(15??~15??)】

三村元親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

吉田義辰【よしだよしたつ(15??~15??)】

尼子経久家臣。通称左京亮。1524年、尼子経久の支援を受けて八橋城を領した。三村家親勢と戦い討死した。

吉田源四郎【よしだげんしろう(15??~15??)】

吉田義辰の男。1565年、「大江城の戦い」で三村家親勢の攻撃を受けて出雲国に落延びた。

吉田兼久【よしだかねひさ(15??~15??)】

尼子経久家臣。小金山城主。通称六郎。小金山城主に任じられ、吉岡銅山を守備した。

渡辺市郎兵尉【わたなべいちろうへいじょう(15??~15??)】

三村元親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

渡辺左京進【わたなべさきょのしん(15??~15??)】

三村元親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

渡辺平三【わたなべへいぞう(15??~15??)】

三村元親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

渡辺藤内【わたなべふじいち(15??~15??)】

三村元親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

渡辺杢之允正【わたなべもくのじょうただし(15??~15??)】

小平井城主。1532年、備後国沼隈郡山田館主の渡辺杢之允正が小平井村の領主となった。1535年、春日明神を再建した。

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【資料Ⅰ】

備中国(11郡/182,000石)

都宇郡:日幡城。
窪屋郡:幸山城。
賀陽郡:高松城。
上房郡:松山城。
下道郡:鬼邑山城。
川上郡:成羽鶴首城。
浅口郡:鴨山城。
小田郡:猿掛城、笠岡山城。
後月郡:正霊山城(5,800石)
哲多郡:
阿賀郡(英賀郡):

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【資料Ⅱ】

備中境目七城【びっちゅうさかいめななじょう】

備中高松城主清水宗治、宮地山城主乃美元信、冠山城主林重真、鴨庄城主上山兵庫、日幡城主日幡景親、庭瀬城主井上有景、松島城主梨羽中務丞。

野州細川家【ほそかわけ】

細川京兆家の分家のひとつ。備中国浅口郡と伊予国宇摩郡の分郡守護を務めた。細川持春の子細川政国が典厩家の細川持賢の養子に入り、その細川政国が典厩家の当主となるなど、京兆家との一体性が強い典厩家との間にも緊密な関係を保った。

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【資料Ⅲ】

備中国【びっちゅうのくに】

中国地方の中央に位置する山陽道の国。東は備前国、美作国、西は備後国と境を接し、北は中国山地で伯耆国との国境を作る。南は瀬戸内海に面し、水島灘の向こうに讃岐国を臨む。古くは吉備国の一部であったが、天武朝の時に備前国、備中国、備後国の各国に分離された。南北に長い地形を持ち、北部は中国山地の高峰、中央部は吉備高原の高原地帯、南部は岡山平野西部の低平地と、国内は三分されている。国内には中国山地に源を発する高梁川の水系と、吉備高原から流れる足守川、小田川水系が縦横に流れ、東南部の沖積平野を形成している。この平野部は弥生時代以来農業が盛んな先進地帯である。産業としては、農業の他にも沿岸部で製塩業、山間部で鉱業が盛んである。特に銅は日本有数の生産量を誇る銅山があり、また古代から続く備中鉄の生産も盛んである。この鉄を使った刀剣類は備中の名産のひとつであり、中でも青江荘を中心にした青江鍛冶の手によるものは、古来名刀として評価が高い。

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戦国人名辞典は1520~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は示していますが、歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

尼子詮久は尼子晴久、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2011年12月18日日曜日

戦国備後国人名辞典

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【あ】

赤畝加賀守【あかうねかがのかみ(15??~15??)】

村上尚吉家臣。星ヶ浜城主。

秋山伊勢守【あきやまいせのかみ(15??~15??)】

和泉久勝家臣。1526年、毛利元就への帰属を巡って和泉久勝対立、三吉致高の支援を受け原勘兵衛、原但馬守、間鍋五郎左衛門、秋山伊勢守らとともに和泉久勝を謀殺した。人質となっていた和泉信行を擁立して毛利元就勢に属した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

栗飯原政永【あわいはらまさなが(15??~15??)】

神石郡土居城主。栗飯原政保の男。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

栗飯原仁右衛門【あわいはらじんざえもん(15??~15??)】

栗飯原政永の男。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

粟屋隆信【あわやたかのぶ(1531~1591)】

三吉隆亮の次男。高田郡勝山城主。官途は刑部少輔。別名三吉隆信。兄の三吉隆亮より、三吉広高の後見役に任じられた。武術は素より硬骨練直な武人。1591年、三吉広高に謀殺された。

東政幸【あずままさゆき(15??~15??)】

奴可郡蟻腰城主。通称左衛門尉。室は宮高盛の娘。1523年、毛利元就の意向を受け、五品嶽城主宮高盛のもとで附家老職を務めた。1533年、大富山城に拠点を移し宮高盛を補佐した。1536年、備後国に侵攻した尼子経久勢を撃退した。1540年、東政幸は讒言を受け宮景盛に攻撃され自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

有坂長次【ありさかながつぐ(15??~1634)】

杉原盛重家臣。通称仁右衛門。1582年、杉原盛重の病没後、杉原家が断絶となると吉川元春に仕えた。上洛して、羽柴秀吉の砲術師範であった石田玄斎から石田流砲術を学び、吉川家の砲術の師範となった。1600年、「安濃津城の戦い」では、吉川広家の鉄砲隊、大筒隊を指揮して戦功を挙げた。毛利輝元の防長二ヶ国に転封されると、吉川広家に仕えた。

有地正信【ありちまさのぶ(15??~15??)】

芦田郡有地城主。官途は美作守。宮直信の弟。別名有地清元。尼子経久勢に属した兄宮元信と不仲になり、国竹城を築城して毛利元就に属した。兄は宮直信は
1534年、「亀寿山城の戦い」では、毛利元就に従って参陣して宮直信を滅ぼして、宮家惣領職を相続した。

有地隆信【ありちたかのぶ(15??~15??)】

有地正信の男。1555年、「利鎌山城の戦い」で福田勝雅を攻撃してこれを討取る戦功を挙げた。

有地又左衛門【ありちまたざえもん(15??~1592)】

有地正信の次男。1592年、「文禄の役」では、毛利輝元に従って参陣したが釜山浦で討死した。

有地盛信【ありちもりのぶ(15??~1600)】

有地正信の三男。通称九右衛門。神石郡に侵攻して、階見城、高蓋城を攻落として、高蓋城を領した。1600年、「伊勢安野津城の戦い」で討死した。

有地元盛【ありちもとのぶ(15??~15??)】

有地隆信の男。沼隈郡佐方城主。官途は民部少輔。1576年、「第一次木津川口の海戦」では、村上亮康、渡辺元盛とともに参陣して戦功を挙げた。

有福義秀【ありふくよしひで(15??~15??)】

甲奴郡有福城主。1532年、尼子経久勢に属した。後に大内義隆に属した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

有福義国【ありふくよしくに(15??~1600)】

有福義秀の男。通称九郎。1600年、「関ヶ原の役」では、毛利輝元勢に属して参陣して討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

池上丹波守【いけがみたんばのかみ(15??~15??)】

三吉広隆家臣。御調郡雲雀城主。1544年、「比叡尾山城の戦い」では、森光景近、上里通職らとともに尼子晴久勢に属して大内義隆勢の三吉致高を攻撃した。

石田尾張守【いしだおわりのかみ(15??~15??)】

和泉久勝家臣。1526年、原勘兵衛、原但馬守、間鍋五郎左衛門、秋山伊勢守らが三吉致高の支援を受け和泉久勝を謀殺すると、和泉信行を擁立した。毛利元就と結び、人質として継嗣の石田孫三郎を吉田郡山城に送った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石田孫三郎【いしだまごさぶろう(15??~15??)】

石田尾張守の男。1526年、和泉信行が毛利元就と結ぶと人質として吉田郡山城に送られた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石原観氏【いしはらかんし(15??~16??)】

三上郡鈴神城主。山内隆通家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、山内広通が転封になると帰農した。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。

和泉久勝【いずみひさかつ(15??~1526)】

恵蘇郡黒岩城主。室は三吉致高の娘。1521年、尼子経久に降伏して継嗣の和泉信行を人質として月山富田城に送った。義父の三吉致高から毛利元就勢に属するように勧められたが拒否した。1526年、毛利元就への帰属を巡って、家臣団(原勘兵衛、原但馬守、間鍋五郎左衛門、秋山伊勢守ら)と争いて謀殺された。

和泉信行【いずみのぶゆき(15??~15??)】

和泉久勝の男。通称三郎五郎。1526年、父和泉久勝が家臣に謀殺されたため、黒岩城に帰還した。その後は、毛利元就に属した。1553年、「和泉城の戦い」では、尼子晴久勢と戦い戦功を挙げ、三次笠野山城を領した。

和泉久正【いずみひさまさ(15??~15??)】

和泉信行の男。通称三郎。1553年、「和泉城の戦い」では、父和泉信行に従って毛利元就勢に属して戦った。父和泉信行の病没後、黒岩城主となった。のち三次郡に福谷山城を築城した。

井上高重【いのうえたかしげ(1507~15??)】

三吉隆亮家臣。前田秀貫次男(井上新左衛門の養子)。土居館主。官途は佐渡守。室は粟屋隆信の娘。家老職を務めた。

井上高令【いのうえたかれい(15??~15??)】

井上高重の男。官途は日向守。通称新左衛門。室は小滝丹後守の娘。

井上隆房【いのうえたかふさ(15??~15??)】

井上高令の男。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封となると、それに従った。

今田久景【いまだひさかげ(15??~15??)】

山内直通家臣。1542年、「第一次月山富田城の戦い」に敗れ、敗走する毛利元就が甲山城へ立ち寄った際、山内直通の意向で敗走中の毛利元就の警護を務め、そのまま毛利元就に仕えた。

入江正高【いりえまさたか(15??~15??)】

山内直通家臣。芦品郡森定城。官途は大蔵少輔。家老職を務めた。1536年、山内直通が隠居後、杉原盛重の家老職を務めた。

石崎信実【いわさきのぶざね(15??~15??)】

宮元清家臣。品治郡泉山城主。1534年、「備後宮城の戦い」では、毛利元就に内応して、宮元清を討取った。

上原元祐【うえはらもとすけ(15??~1582)】

世羅郡沼城主。室は毛利元就の娘。1582年、「備中日幡城の戦い」では、羽柴秀吉勢に内応して毛利輝元勢から離反した。日幡景親の弟大森蔵人を内応させ、日幡景親を討取った。小早川隆景の家臣楢崎忠正勢の攻撃を受け討死した。

上山広信【うえやまひろのぶ(15??~1544)】

山内隆通家臣。高八山城主。1544年、「布野の戦い」では、毛利元就勢に属して、尼子晴久勢と戦うが討死した。

上山重広【うえやましげひろ(15??~15??)】

上山広信の男。

上山元忠【うえやまもとただ(15??~15??)】

上山重広の男。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が減封になると、それに従って防長へ移った。

江田隆連【えだたかつら(15??~15??)】

三谷郡旗返城主。大内義隆家臣。室は三吉到高の娘(重森の方)。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢に謀殺されると、毛利元就勢に属した。1553年、尼子晴久勢が侵攻すると、それに属したが毛利元就勢の反撃を受け、尼子晴久のもとに落延びた。

馬屋原信春【うまやはらのぶはる(15??~15??)】

神石郡九鬼城主。官途は但馬守。1557年、毛利元就他17名連署の盟約状には、枝連衆を代表して署名した。

馬屋原宮寿【うまやはらいやじ(15??~15??)】

馬屋原信春の男。早世した。

馬屋原少輔五郎【うまやはらしょうぶごろう(15??~15??)】

敷名元範の男(馬屋原宮寿の養子)。官途は兵部大輔。1590年、神石郡で1,600石を領した。

馬屋原元詮【うまやはらもとあき(15??~15??)】

神石郡固屋城主。別名入道休閑。毛利輝元から「黒印」を預るほどの権勢を振るった。1600年、「関ヶ原の戦い」後、毛利輝元に従って防長二ヶ国に転封した。 

馬屋原範政【うまやはらのりまさ(15??~15??)】

毛利元就家臣。
 
馬屋原義政【うまやはらよしまさ(15??~15??)】

馬屋原範政の男。

岡崎頼兼【おかざきよりかね(15??~1549)】

小早川繁平家臣。御調郡頼兼城主。通称十郎左衛門。1549年、「神辺城の戦い」に参陣せず、小早川隆景勢の攻撃を受け討死した。

小奴可定実【おぬかえきさだざね(15??~1534)】

大内義隆家臣。亀山城主。官途は下野守。通称又次郎。1521年、「柏村の戦い」では、尼子経久勢の宮政盛に属して参陣し戦功を挙げた。1534年、毛利元就勢の攻撃を受け籠城中に病没した。

小奴可隆盛【おぬかえきたかもり(15??~1553)】

小奴可定実の男。官途は下野守。1553年、「旗返山城の戦い」で毛利元就勢と戦って討死した。

小奴可盛常【おぬかえきもりつね(1536~1573)】

小奴可隆盛の男。通称民部太夫。別名宮盛常。1553年、「旗返山城の戦い」で父小奴可隆盛が討死すると、久代之地は大内義隆の直轄領とされたが、所領の返還を求めて嘆願を繰り返した。

小奴可盛慶【おぬかえきもりよし(1558~1599)】

小奴可盛常の男。通称中務少輔。別名宮盛慶。1591年、太閤検地が行われると、小奴可盛慶は穂井田元清を通じて小早川隆景に久代之地の返還を願い出たが叶えられず、安国寺恵瓊、堅田元慶を通じて、次に小寺鎮賢、国司就信を通じて小寺鎮賢へ訴えたが返還されることはなかった。

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【か】

片山連総【かたやまつらふさ(15??~15??)】

村上吉充家臣。天秀庵城主。通称数馬。船奉行職を務めた。

上山広信【かみやまひろのぶ(15??~1544 )】 

世羅郡高八山城主。官途は掃部助。別名長井広信。1544年、「布野の戦い」で毛利元就に従って尼子晴久勢と戦い討死した。

上山重広【かみやましげひろ(15??~15??)】

上山広信の男。

上山元忠【かみやまもとただ(15??~15??)】

上山重広の男。通称兵庫介。1562年、平佐藤左衛門、吉川経安、山県左京とともに本城常光を謀殺後、山吹城を接収してそれを守備した。1582年、「備中高松の戦い」では、広繁、生石中務少輔らとともに加茂城を守備して戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封になると、それに従った。

河内隆季【かわちたかよし(15??~15??)】

三吉致高家臣。亀山城主。

河内隆実【かわうちたかざね(15??~15??)】

河内隆季の男。

河内隆孚【かわうちたかふ(15??~15??)】

河内隆実の男。

上里通職【かみざとみちおり(15??~15??)】

三吉広隆家臣。御調郡丸山城主。大内義隆家臣。上里周防守の男。通称善九郎。1544年、「比叡尾山城の戦い」では、尼子晴久勢の森光景近、池上丹波守らの攻撃を受けた。

上里助実【かみざとすけざね(15??~15??)】

上里通職の男。通称民部。

上里元実【かみざともとざね(15??~15??)】

上里助実の男。通称四郎三郎。

上里守光【かみざともりみつ(15??~15??)】

三吉致高家臣。尾関山城主。官途は越後守。

河北俊興【かわきたとしおき(15??~15??)】

山内隆通家臣。1542年、「第一次月山富田城の戦い」に敗れ、毛利元就が甲山城の落延びると、山内直通の意向を受け吉田郡山城まで毛利元就の警護役を務めた。その後、毛利元就に仕えた。

桑原通兼【くわはらみちかね(15??~15??)】

毛利元就家臣。椋山城主。

栗原元胤【くりはらもとたね(15??~15??)】

毛利元就家臣。世羅郡浦壁城主。官途は河内守。

興禅寺竹英【こうぜんじちくえい(15??~1567)】

小奴可定実の弟。興禅寺住職。1537年、毛利元就が継嗣毛利隆元を人質として大内義隆に差し出すと、従者として従った。興禅寺は吉田郡山城内にあった臨済宗の大寺院。

古志為信【こしためのぶ(15??~15??)】

沼隈郡大場山城。古志久信の男。官途は備前守。1512年、「大場山城の戦い」で尼子経久勢の属したため、大内義興の意向を受けた毛利興元勢の攻撃を受けた落城した。尼子経久の支援を受け奪還した。

古志宗信【こしむねのぶ(15??~15??)】

古志為信の男。

古志景信【こしかげのぶ(15??~15??)】

古志久信の次男。1544年、「亀寿山城の戦い」では、毛利元就勢に属して宮元盛勢と戦い戦功を挙げた。1548年、「神辺城の戦い」では、毛利元就勢に属して参陣した。

古志景勝【こしかげかつ(15??~15??)】

古志宗信の男。

古志豊長【こしとよなが(15??~1572)】

古志景勝の男。通称清左衛門。1572年、「鷲尾山城の戦い」で杉原元恒と戦ったが、小早川隆景の仲介により和議を結んだ。後に小早川隆景に謀殺された。

小寺元武【こでらもとたけ(15??~15??)】

毛利元就家臣。世羅郡岩熊城主。官途は佐渡守。通称十郎左衛門尉。卓越した外交能力を持っていた。1555年、毛利元就に意向を受け、小倉元実とともに大友義鎮のもとに赴き、防長への干渉を取り除くことに成功した。また、笠岡村上隆重を毛利元就に臣従させた。1564年、因幡武田高信と結び南条宗勝とともに因幡国に侵攻して尼子晴久、山名豊国勢を駆逐した。

小寺就武【こでらなりたけ(15??~15??)】

小寺元武の男。官途は木工允。1580年、「備前虎倉城の戦い」で宇喜多直家勢の伏兵を受け敗走した。

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【さ】

篠塚貞忠【しのづかさだただ(15??~15??)】

村上吉充家臣。千守城主。

渋川義陸【しぶかわ よしたか(15??~15??)】

御調郡小童山城主。官途は右衛門佐。1507年、尼子経久勢の侵攻を受けたが、小早川扶平勢の支援を受け尼子経久勢を撃退した。

渋川義正【しぶかわよしまさ(15??~15??)】

渋川義陸の男。室は毛利弘元の娘(八幡上姫)。1561年、毛利元就の沼田新高山城訪問に親族として随行した。

渋川頼基【しぶかわよりもと(15??~15??)】

渋川義陸の次男。

渋川義満【しぶかわよしみつ(15??~1573)】

渋川義正の男。官途は宮内大輔。娘は毛利輝元の仲介で冷泉元満の内室となった。

末長景盛【すえながかげもり(15??~15??)】

村上吉充家臣。豊田郡堀ヶ城主。末長盛平の男。官途は常陸介。別名磯兼景盛。1555年、「厳島の戦い」では、村上吉充を説得して毛利元就勢に参陣して戦功を挙げた。1561年、「蓑島沖の戦い」では、村上武吉に従って大友義鎮の家臣若林鎮興勢と戦い戦功を挙げた。

末長景道【すえながかげみち(15??~15??)】

末長景盛の男。官途は左近太夫。通称長又三郎。別名磯兼景道。1555年、「厳島の戦い」では、父末長景盛とともに村上吉充を説得して毛利元就勢に参陣して陶晴賢の家臣伊香賀十郎左衛門尉を討取る戦功を挙げた。新高山城の留守居役を務めた。1597年、小早川隆景が病没すると、毛利輝元に仕えた。

末長景綱【いそかねかげつな(15??~15??)】

乃美宗勝の六男(末長景道の養子)。別名乃美景綱。1597年、小早川隆景が隠居すると付き従い、その病没後は毛利輝元に仕えた。

末永景光【すえながかげみつ(15??~15??)】

村上吉充家臣。馬神城主。通称馬介。1600年、「関ヶ原の役」では、毛利輝元勢に属して伊予国に侵攻した。

杉原理興【すぎはらただおき(15??~1557)】

沼隈郡銀山城主。杉原時興の男。官途は宮内少輔。1538年、「神辺城の戦い」では、大内義隆の支援を受け、備中国守護職山名忠勝を討取る戦功を挙げた。1542年、「第一次出雲討伐」が失敗に終わると、尼子晴久勢に属した。1548年、大内義隆勢の攻撃を受け月山富田城へ落延びた。1551年、大内義隆が討死すると、毛利元就に属した。1557年、杉原理興が病没すると、家老職の杉原盛重が養子となって後を継いだ。

杉原盛重【すぎはらもりしげ(1532~1581)】

杉原理興家臣。杉原匡信の次男。官途は播磨守。室は毛利興元の娘。1557年、杉原理興が継嗣のないまま病没すると、吉川元春の意向を受け杉原家の家督を相続した。また、備後国忍衆の頭目を務め、徳岡久兵衛、佐田彦四郎、佐田五郎、佐田小鼠、別所雅楽允や野武士や山賊、海賊、忍び崩れなどを率いた。藤井皓玄が謀反を起こし神辺城を乗っ取るが、これを鎮圧して藤井皓玄を自刃に追い込んだ。1564年、伯耆国の行松正盛が病没すると、その後家を娶り尾高城主となった。1569年、尼子勝久の家臣山中幸盛勢の攻撃を受け尾高城を奪われた。1580年、南条元続、小鴨元清勢の攻撃を受けるが撃退した。

杉原元盛【すぎはらもともり(15??~1582)】

杉原盛重の男。通称弥八郎。1581年、父杉原盛重の病没により杉原家の家督を相続した。1582年、伯耆国佐陀城主杉原景盛に謀殺された。

杉原景盛【すぎはらかげもり(15??~1582)】

杉原盛重の次男。官途はは左近進。通称又次郎。1582年、伯耆国佐陀城にいた杉原景盛は、兄杉原元盛を謀殺して杉原家の家督を相続したが、吉川元春勢の攻撃を受け自刃した。

杉原春良【すぎはらはるよし(15??~15??)】

山名理興の次男。官途は内蔵允。兄杉原直良に継嗣が無かったため、杉原家の家督を相続した。1562年、杉原春良の母が、伊予国へと嫁いだ宍戸隆家の娘、河野通直の母(春松院)の側に仕えたため、河野通宣に仕え熊野山城6,000石を領した。1585年、「四国討伐」で羽柴秀吉勢の攻撃を受け河野通直が滅亡すると、毛利輝元に仕えた。

杉原景良【すぎはらかげよし(15??~15??)】

杉原春良の男。1600年、「安濃津城の戦い」では、毛利輝元勢に従って参陣して戦功を挙げた。

杉原直盛【すぎはらなおもり(15??~1562)】

杉原直良の男。通称太郎左衛門尉。1562年、「石見福屋城の戦い」で熊谷信直勢に属して参陣したが討死した。

杉原隆盛【すぎはらたかもり(15??~15??)】

御調郡鷲尾山城。杉原光恒の男。官途は越前守。別名木梨高盛。尼子晴久勢の攻撃を受け父杉原光恒を失い、大内義隆のもとに落延びた。大内義隆の支援を受け鷲尾山城を奪還した。後に小早川隆景に属した。その後、石原忠直勢の攻撃を受け討死した。

杉原元恒【すぎはらもとつね(15??~15??)】

杉原隆盛の男。千光寺山城主。官途は民部大輔。通称小次郎。別名木梨元経。1572年、石原忠直の攻撃を受け、父杉原隆盛が討死すると、古志豊長を頼り、新庄大庭山城に落延びた。後に小早川景隆の支援を受け、石原忠直を討取り、鷲尾山城を奪還した。1595年、毛利輝元の意向により、周防国爪止庄に転封した。

救井義親【すくいよしちか(15??~15??)】

村上吉充家臣。通称太郎左衛門尉。村上吉充のにもとで筆頭家老を務め2,196石を領した。

角秀正【すみひでまさ(15??~15??)】

上原元祐家臣。官途は右馬允。

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【た】

多賀山通続【たがのやまみちつぐ(1506~1570)】

比婆郡蔀山城主。多賀山通忠の男。官途は伯耆守。室は山内直通の娘。1526年 尼子経久から離反して大内義興勢に属したため、尼子経久勢の攻撃を受けた。1528年、大内義興が病没すると、再度尼子経久勢に属した。1535年、毛利元就勢の攻撃を受けた。

多賀山通定【たがやまみちさだ(15??~15??)】

多賀山通続の次男。別名多賀山通憲。1549年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢に属して参陣するが、大敗して継嗣の多賀山通安とともに山口に落延びた。「蔀山城の戦い」では、次男の多賀山通則と家臣が籠城したが落城した。1551年 大内義隆が討死すると山内隆通とともに毛利元就勢に属した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」に参陣して、蔀山城を奪還した。

多賀山通安【たがやまみちやす(15??~15??)】

多賀山通定の男。別名多賀山通広。

多賀山通信【たがやまみちのぶ(15??~15??)】

多賀山通安の次男。1591年 高松城後詰などの責任を問われ改易処分に処された。

滝口通英【たきぐちみちえい(15??~15??)】

山内隆通家臣。

田部通政【たべみちまさ(15??~15??)】

山内隆通家臣。官途は隼人正。通称宗左衛門尉。1560年、「瀬戸山城の戦い」では。毛利元就勢に属した山内隆通に従って、赤穴久清の家臣烏田権兵衛、森田左衛門らを討取る戦功を挙げた。

田中河内守【たなかかわちのかみ(15??~15??)】

山内隆通家臣。笹丸城主。1559年、「団司川原の戦い」で宮景盛の家臣奥宮豊後守と戦った。

田辺光吉【たなべみつよし(15??~15??)】

沼隈郡串山城主。官途は越前守。1562年、和光寺を再興して田辺寺と改称した。

鳥居資長【とちいすけなが(15??~15??)】

村上吉充家臣。宮地明光の次男。通称次郎。家老職を務めた。1555年、「厳島の戦い」後、村上吉充が向島城に拠点を移と余崎城を領した。1567年、因島青木城に転封した。

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【な】

長満光綱【ながみつみつつな(15??~15??)】  

世羅郡平井城主。官途は伊予守。

中村慶久【なかむらよしひさ(15??~15??)】

三吉致高家臣。官途は石見守。

楢崎豊景【ならざきとよかげ(15??~15??)】

芦田郡楢崎城主。官途は三河守。毛利元就に属した。1569年、「石見温湯城の戦い」で杉原盛重が神辺城を留守にすると、藤井皓玄が謀反を起こし神辺城を占拠した。「神辺城の戦い」で村上吉充、三吉隆亮とともに藤井皓玄勢と戦い戦功を挙げた。

新見元致【にいみもとまさ(15??~15??)】

甲奴郡小堀城主。官途は能登守。

新見元高【にいみもとたか(15??~15??)】

新見元致の男。通称少輔六郎。 

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【は】

長谷部元政【はせべもとまさ(15??~15??)】

山名隆通家臣。翁山城主。官途は飛騨守。1554年、「折敷畑の戦い」では、毛利元就勢に属して戦功を挙げた。

長谷部元信【はせべもとのぶ(15??~16??)】

長谷部元政の男。通称大蔵左衛門。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封すると、それに従った。

八谷通成【はちやみちなり(15??~15??)】

山内隆通家臣。官途は壱岐守。1542年、「第一次月山富田城の戦い」に敗れ、毛利元就が甲山城の落延びると、山内直通の意向を受け吉田郡山城まで毛利元就の警護役を務めた。その後、毛利元就に仕えた。

原田綱道【はらだつなみち(15??~15??)】

原田館主。官途は備前守。別名越智綱道。1555年、祇園社を勧請した。

原勘兵衛【はらかんべい(15??~15??)】

和泉久勝家臣。1526年、毛利元就への帰属を巡って和泉久勝対立、三吉致高の支援を受け原勘兵衛、原但馬守、間鍋五郎左衛門、秋山伊勢守らとともに和泉久勝を謀殺した。人質となっていた和泉信行を擁立して毛利元就勢に属した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

原但馬守【はらたじまのかみ(15??~15??)】

和泉久勝家臣。1526年、毛利元就への帰属を巡って和泉久勝対立、三吉致高の支援を受け原勘兵衛、原但馬守、間鍋五郎左衛門、秋山伊勢守らとともに和泉久勝を謀殺した。人質となっていた和泉信行を擁立して毛利元就勢に属した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

林武長【はやしたけなが(15??~15??)】

毛利元就家臣。別名菊池武長。菊池能運の家臣だった。1504年、菊池能運が滅亡すると安芸国に落延びた。毛利元就に仕え備後世羅郡松岡城主を務めた。石見銀山で採掘の奉行職を務めた。

林足早【はやしそくはや(15??~15??)】

林武長の男。小早川隆景に仕えた。

林就長【はやしなりなが(1517~1606)】

林武長の次男。官途は山城守。通称木工允。兄林足早が小早川隆景に仕えたため、林家の家督を相続して毛利元就に仕えた。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、毛利元就に従い参陣した。備後国世羅郡松岡城主を務めた。1581年、柳沢元政とともに石見銀山奉行職を務めた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」後、羽柴秀吉との取次役を務めた。惣国検地を担当した。1586年、「豊前香春岳城の戦い」では、継嗣の林元善、渡辺石見守、二保右衛門太夫、井上伯耆守らとともに参陣して戦功を挙げた。1587年、惣国検地では、検地奉行、打渡奉行職を務めた。備後聖神社を再建し、鎧等を奉納した。因幡国、伯耆国の統治を任された井上就重を小倉元悦ととも補佐した。1591年、平佐就之の後任として柳沢元政とともに石見銀山の銀山奉行を務めた。

林元善【はやしもとよし(15??~15??)】

林就長の男。官途は志摩守。1578年、「播磨上月城の戦い」では、毛利輝元に従って参陣して戦功を挙げた。1586年、「豊前香春岳城の戦い」では、父林就長に従って参陣して戦功を挙げた。

福田盛雅【ふくだ もりまさ(15??~15??)】

芦田郡利鎌山城主。福田勝雅の男。官途は遠江守。通称三郎左衛門尉。別名福田盛昌。1508年、備後国衆が大内義興に従い上洛すると、山城石清水八幡宮に書状を送った。毛利元就勢に属して美作国医王山城主となった。

福田勝雅【ふくだかつまさ(15??~1555)】

福田盛雅の男。別名福田久重。毛利元就勢に属して勢力を拡大していた有地隆信と争った。1555年、「利鎌山城の戦い」で有地隆信勢の攻撃を受け討死した。

福田盛雅【ふくだ もりまさ(15??~15??)】

福田勝雅の男。通所助四郎。別名福田盛昌。1580年、「医王山城の戦い」では、湯原春綱、小川元政とともに宇喜多直家勢の攻撃を受けた。1591年、備後国恵蘇郡、周防国吉敷郡で166石を領した。

本庄豊前守【ほんじょうぶぜんのかみ(15??~1557)】 

飛地山城主。1557年、「飛地山城の戦い」で杉原盛頼勢の攻撃を受け討死した。

祝甲斐守【ほうりかいのかみ(15??~1553)】

江田隆連家臣。三谿郡旗返城主。知波夜比古神社社司。1553年、「高杉城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受けると、継嗣の祝長門守、宗徒、久代修理亮のらとともにに高杉城に籠城したが討死した。

祝長門守【ほうりながとのかみ(15??~1553)】

祝甲斐守の男。1553年、「高杉城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け父祝甲斐守とともに討死した。

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【ま】

前田秀貫【まえだひでぬき(15??~15??)】

三吉隆亮家臣。官途は駿河守。

間鍋五郎左衛門【まなべごろうざえもん(15??~15??)】

和泉久勝家臣。1526年、毛利元就への帰属を巡って和泉久勝対立、三吉致高の支援を受け原勘兵衛、原但馬守、間鍋五郎左衛門、秋山伊勢守らとともに和泉久勝を謀殺した。人質となっていた和泉信行を擁立して毛利元就勢に属した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

光成隆正【みつなりたかまさ(15??~15??)】

有地隆信家臣。掛平山城主。

南泰統【みなみやすむね(15??~15??)】

村上吉充家臣。土居城主。通称彦四郎。五番家老職を務めた。美可崎城に城番を置き海運通行税を徴収した。

新市宮直信【みやなおのぶ(15??~1534)】

芦治郡亀寿山城主。官途は下野守。宮家総領職。1534年、「亀寿山城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け討死した。
 
新市宮元盛【みやもともり(15??~15??)】

宮直信の男。1534年、「亀寿山城の戦い」で父宮直信が討死すると、叔父宮光音のもとに身を寄せた。1551年、尼子晴久の支援を受け毛利元就勢と戦った。1552年、「志川滝山城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け滅亡した。

滝山宮光音【みやみつなり(15??~1552)】

尼子経久家臣。深安郡志川滝山城。1552年、「志川滝山の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受け、落延びるが捕縛され継嗣の宮光寄とともに斬頸に処された。

滝山宮光寄【みやみつより(15??~1552)】

宮光音の男。1552年、「志川滝山の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受け、落延びるが捕縛され斬頸に処された。

久代宮高盛【みやたかもり(15??~15??)】

神石郡五品嶽城主。宮景友の男。1533年、「八鳥、二本松の戦い」で尼子経久勢を撃退した。1534年、「亀寿山城の戦い」では、宮直信とともに毛利元就勢と戦った敗れた。1536年、「五品嶽城の戦い」では、尼子経久勢の攻撃を受けたが撃退した。
 
久代宮興盛【みやおきもり(15??~1540)】

宮高盛の男。
 
久代宮景盛【みやかげもり(15??~15??)】

宮高盛の次男。官途は上総介。1540年、兄宮興盛の病没により宮家の家督を相続した。1559年、「段司河原の戦い」で田中河内守勢を撃破した。尼子義久勢からの離反した伯耆国生山城主山名藤幸を匿い、次男の山名景幸をその養子として伯耆国山名家を相続した。1569年、「生山城の戦い」で尼子義久勢に属する蜂塚義光を支援して山名藤幸を討取る戦功を挙げた。

久代宮智盛【みやとももり(15??~15??)】

宮景盛の男。
 
久代宮広尚【みやひろなお(15??~15??)】

宮智盛の男。通称左衛門。毛利輝元に従った。1592年、「文禄の役」の軍役負担を回避するため、知行高を詐称したが露見して、伯耆国日野に転封処分に処された。

小糸宮勝信【みやかつのぶ(15??~1550)】  

沼隈郡郡小糸城主。官途は兵部大輔。1550年、「小糸城の戦い」で大内義隆勢の攻撃を受け討死した。

掛迫宮勝国【みやかつくに(15??~1566)】

沼隈郡掛迫城主。官途は治部大輔。1550年、「小糸城の戦い」で大内義隆勢の攻撃を受け落城した。

甲谷宮信定【みやのぶさだ(15??~15??)】

沼隈郡甲谷城主。

戸山宮正味【みやまさみ(15??~1552)】

沼隈郡戸山城主。1552年、「戸山城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け討死した。

三吉豊高【みよしとよたか(15??~15??)】

比婆郡比叡尾山城主。 山名政豊家臣。比叡尾山城80,000石を領した。

三吉致高【みよしまさたか(15??~15??)】

三吉豊高の男。1507年、足利義稙を擁する大内義興に従って上洛した。1513年、「石見二ツ山城の戦い」で高橋元光を討取る戦功を挙げた。1516年、「志和地長野の戦い」では、宍戸元源と結び毛利興元と戦った。1518年、「赤屋館の戦い」では、尼子経久勢の木梨匡信勢の攻撃を受けた赤屋館を毛利興元とともに支援した。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、祝屋城への尼子晴久勢に従い先導役を務めた。154年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢に属して尼子晴久勢と戦った。1544年、「比叡尾山城の戦い」で尼子晴久勢の攻撃を受けたが、毛利元就の支援を受けて撃退した。

三吉隆亮【みよしたかすけ(15??~16??)】

三吉致高の男。1553年、父三吉致高とともに毛利元就に従った。娘は毛利元就の側室となり、椙杜元秋、出羽元倶、末次元康をもうけた。1573年、継嗣の三吉広高とともに毛利輝元と盟約の起誓文を交換した。

三吉広高【みよしたかひろ(15??~16??)】

三吉隆亮の男。官途は安房守。1591年、比熊山城を築城、比叡尾山城から転封した。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封になると、所領を失った。浅野長晟に仕え200石を領した。

三吉隆勝【みよしたかかつ(15??~1583)】

三吉隆亮の三男。大内山城主。官途は若狭守。

三吉隆俊【みよしたかとし(15??~15??)】

三吉隆亮の四男。

三吉久高【みよしひさたか(15??~15??)】

三吉豊高の次男。

三吉三郎右衛門【みよしさぶろうえもん(15??~1541)】

三吉豊高の三男。

三吉五郎右衛門【みよしごろうえもん(15??~15??)】

三吉豊高の四男。三吉郡原村沼城主。

三吉豊後守【みよしぶんごのかみ(1532~1587)】

三吉三郎右衛門の男。通称新四郎。

因島村上尚吉【むらかみなおよし(15??~15??)】

沼隈郡因島青影城主。村上吉直の男。官途は加賀守。通称新蔵人。因島村上尚吉、能島村上雅房、来島村上通康とともに瀬戸内海を支配した海賊衆。1541年、「安芸桜尾城の戦い」で友田興藤を支援したため、大内義隆の攻撃を受けた。1543年、「神辺城の戦い」では、大内義隆に従って尼子晴久に属した山名理興勢と戦い戦功を挙げ鞆浦の領地18貫を加増された。

因島村上吉充【むらかみよしみつ(1534~1623)】

村上尚吉の男。通称蔵人。室は乃美賢勝の娘。1555年、「厳島の戦い」では、小早川隆景から毛利元就勢への参陣を求められ、末長景道勢を派遣して戦功を挙げた。毛利元就と大内義長の戦いでも関門海峡を封鎖するなどの戦功を挙げた。1561年、「豊前門司城の戦い」では、乃美宗勝に従って大友義鎮の家臣若林 鎮興勢を撃退する戦功を挙げた。1576年、「第一次木津川口の戦い」では、織田信長の家臣九鬼嘉隆勢の海賊衆を壊滅させた。1582年、村上通昌が羽柴秀吉に寝返ると、弟村上亮康、村上隆吉とともに毛利輝元への忠誠を誓い、その恩賞として500貫を加増された。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封になると、1,800石の領地しか与えらなかったため、因島で帰農した。

因島村上隆吉【むらかみたかよし(15??~1582)】

村上尚吉の次男。1582年、村上通昌が羽柴秀吉に寝返ると、兄村上吉充、村上亮康とともに毛利輝元への忠誠を誓い、その恩賞として100貫を加増された。

因島村上亮康【むらかみすけやす(1534~1608)】

村上尚吉の三男。沼隈郡大可島城主。官途は衛門大夫。村上尚吉の意向を受け鞆津代官職を務めた。1569年、「備後神辺城の戦い」で杉原盛重の家臣藤井皓玄が謀反を起こして神辺城を占拠した。「備後神辺城の戦い」で村上吉充、楢崎豊景、三吉隆亮、所原肥後守らとともに藤井皓玄勢と戦い神辺城を奪還する戦功を挙げた。毛利輝元を頼ってきた足利義昭の警護役を務め、毛氈、鞍覆、白傘袋の使用を認められた。1576年、「第一次木津川口の戦い」では、織田信長の家臣九鬼嘉隆勢と戦い戦功を挙げた。1582年、村上通昌(来島通総)が羽柴秀吉に内応すると、村上吉充、村上隆吉とともに毛利輝元に忠誠い、その恩賞として100貫を加増された。

因島村上景康【むらかみかげやす(15??~1587)】

村上亮康の男(村上吉充の養子)。別名村上景隆。1587年、「九州征討」では、羽柴秀吉勢に属して参陣するが、日向国延岡で病没した。

因島村上吉亮【いんのしまよしすけ(15??~1596)】

村上亮康の三男(村上吉充の養子)。通称新左衛門。別名村上吉祐。室は浦宗勝の娘。1575年、「播磨上月城の戦い」では、小早川隆景に従って参陣して織田信長の家臣尼子勝久勢と戦い戦功を挙げた。兄村上景康が病没したため、村上吉充の養子となり因島村上家の家督を相続したがまもなく病没した。

因島村上元充【むらかみもとみつ(15??~16??)】

村上吉亮の男。(村上吉亮の養子)。1600年、「伊予松山城の戦い」では、幼少であったため、村上吉忠が名代として出陣した。役後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封になると、それに従い、周防三田尻にで船手組番頭を務めた。

因島村上元吉【むらかみもとよし(1566~15??)】

村上隆吉の男。通称喜兵衛。1581年、毛利輝元に仕えた。1592年、「文禄の役」では、毛利秀元に従い村上景親とともに戦功を挙げた。

因島村上吉国【むらかみよしくに(15??~16??)】

村上吉忠の男。1600年、「伊予松山城の戦い」で父村上吉忠が討死したため、村上吉充の養子となった。

因島村上吉忠【むらかみよしただ(15??~1600)】

村上亮康の四男。通称八郎右衛門。1600年、「伊予松山城の戦い」では、村上元充の陣代として因島村上海賊衆を率いて参陣した。能島村上元吉に従って加藤嘉明の家臣佃十成と戦い討死した。

因島村上吉国【むらかみよしくに(15??~16??)】

村上吉忠の男(村上吉充の養子)。別名村上義光。1600年、父村上吉忠が討死すると村上吉充の養子となった。慶長十三年、伊予国越智郡大島に転封した。後

百島村上吉房【むらかみよしふさ(15??~15??)】

沼隈郡百島茶臼山城。官途は丹後守。

百島村上吉高【むらかみよしたか(15??~1572)】

村上吉房の男。通称喜兵衛。1572年、「幸崎城の戦い」では、村上範和と結び幸崎城を攻撃するも敗退、逆に因島村上吉充の反撃を受け討死した。

百島村上高吉【むらかみたかよし(1533~1597)】

村上吉高の男。通称喜兵衛。1572年、「茶臼山城の戦い」で村上吉充勢の攻撃を受け落延びた。叔父村上吉卿に呼び戻され、因島海賊衆の海将として活躍した。1555年、「厳島の戦い」では、毛利元就勢に属して戦功を挙げた。1576年、「第一次木津河口の戦い」では、織田信長の家臣九鬼嘉隆勢と戦い戦功を挙げた。1579年、百島萬松山西林寺を建立した。1592年、「文禄の役」では、小早川隆景に従って参陣した。

百島村上吉卿【むらかみよしあき(15??~15??)】

村上吉房の次男。官途は越後守。1572年、「茶臼山城の戦い」で村上吉充勢の攻撃を受け兄村上吉高が討死した。島内に残り抵抗を続け、和議を結んだ。兄の継嗣村上高吉を呼び戻して、百島村上家の再興した。以後、村上高吉の補佐を行い、各地の海戦で活躍した。

因島村上吉之【むらかみよしゆき(15??~15??)】

村上吉充家臣。1557年、村上吉充が余崎城に転封すると、長崎城守将となる。

因島村上吉満【むらかみよしみつ(15??~15??)】

村上吉充家臣。村上治部少輔の男。岡島城主。通称又三郎。永禄年間、鉾八幡神社の社殿を改修した。
 
因島村上義房【むらかみよしふさ(15??~15??)】

村上吉充家臣。寺崎城主。官途は丹後守。別名村上吉房。天正二年、斎島神社に刻銘の入った燈籠を寄進した。

因島村上吉高【むらかみよきたか(15??~1580)】

村上吉充家臣。葛籠屑城主。官途は内蔵大夫。1580年、来島通総に加勢したとして、河野家に攻められ自刃した。

因島村上弘正【むらかみひろまさ(15??~15??)】

村上吉充家臣。明沢城主。官途は信濃守。

森光景近【もりみつかげちか(15??~15??)】

三吉広隆家臣。御調郡牛の皮城主。通称新四郎。1544年、「比叡尾山城の戦い」では、池上丹波守、上里通職らとともに尼子晴久勢に属して大内義隆勢の三吉致高を攻撃した。

森光近宗【もりみつちかむね(15??~15??)】

森光景近の男。官途は下総守。

森光元清【もりみつもときよ(15??~15??)】

森光近宗の男。通称左衛門

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【や】

備後山内直通【やまのうちなおみち(15??~15??)】

比婆郡甲山城主。山内豊成の男。通称新左衛門尉。1542年、「相合元綱の乱」では、相合元綱を支援して毛利元就と敵対した。毛利元就に敵対した渡辺通、塩冶興久らを保護した。1536年、「甲山城の戦い」で尼子晴久勢の攻撃を受け和議の条件として、備後山内家の家督を孫の山内隆通に譲った。

備後山内豊通【やまのうちとよみち(15??~15??)】

山内直通の男。室は毛利興元の娘。毛利興元の娘を嫁に迎えたが、父山内直通より先に病没した。

備後山内隆通【やまのうちたかみち(1530~1586)】

多賀山通続の男(山内直通の養子)。室は山内豊通の娘。別名多賀山隆通。1536年、「甲山城の戦い」で山内直通が隠居すると、備後山内家の家督を相続した。1553年、毛利元就勢に属した。

備後山内元通【やまのうちもとみち(15??~15??)】

山内隆通の男。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封になると、それに従った。

備後山内広通【やまのうちひろみち(15??~15??)】

山内隆通の次男(山内元通の養子)。官途は大隈守。1589年、「小田原の役」では、毛利輝元に従って参陣した。1590年、「伊豆山中城の戦い」では、吉見広頼らとともに戦功を挙げた。

備後山内元資【やまのうち(15??~15??)】 

山内広通の男。

湯浅元宗【ゆあさもとむね(15??~15??)】

山内直通家臣。世羅郡尾首山城主。官途は美濃守。官途は治部大輔。通称五郎二郎。後に毛利元就勢に属した。「神辺城の戦い」「志川瀧山城の戦い」「高杉城の戦い」まどで戦功を挙げた。毛利輝元の元服時に太刀一振、青銅500疋を献上した。

湯浅将宗【ゆあさまさむね(15??~15??)】

湯浅元宗の男。官途は治部大輔。1577年、香川元景、三好長安の救援に派遣された。後に井原元造とともに広島城堀普請奉行に任じられた。

湯川元常【ゆかわもとつね(15??~15??)】

山内隆通家臣。官途は甲斐守。通称三郎左衛門。1542年、「第一次月山富田城の戦い」に敗れ、毛利元就が甲山城の落延びると、山内直通の意向を受け吉田郡山城まで毛利元就を警護役を務めた。その後、毛利元就に仕えた。その後、毛利元就に仕え、井上就正とともに周防四郡(都濃、熊毛、玖珂、大島)の段銭奉行を務めた。

柚谷元家【ゆたにもといえ(15??~15??)】

和智豊郷の次男。通称新三郎。別名湯谷久豊。1569年、毛利隆元を毒殺した疑いで兄和智誠春とともに厳島に幽閉され、誅殺された。

柚谷実義【ゆたにさねよし(15??~1569)】

柚谷元家の男。通称又左衛門。柚谷元家の意向を受け福山城を守備した。1569年、父柚谷元家が叔父の和智誠春とともに毛利隆元を毒殺した疑いで毛利元就に謀殺されると、萩原城に籠城したが、一戦も交えることなく自刃した。

横山盛資【よこやまもりすけ(15??~15??)】

杉原盛重家臣。深安郡小森館主。官途は備前守。1557年、杉原盛重が神辺城主になると勢力を拡大した。1581年、杉原元盛が杉原景盛に謀殺され滅亡した後も、小早川景隆から所領を安堵された。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に減封されると帰農した。

横山盛政【よこやまもりまさ(15??~15??)】

横山盛資の男。継嗣の九郎左衛門を吉川元春に人質として差出した。

吉原元親【よしはらもとちか(15??~15??)】

世羅郡杉城主。官途は豊後守。毛利元就に属した。

吉原元種【よしはらもとたね(15??~15??)】

吉原元親の男。瀬賀山城主。

吉原親俊【よしはらちかとし(15??~15??)】

吉原元親の次男。官途は備前守。1600年、「関ヶ原の役」後に毛利輝元が防長二ヶ国に減封されると、世羅郡で帰農した。

渡辺七郎左衛門尉【わたなべしちろうざえもんのじょう(15??~15??)】

宮高盛家臣。五品嶽城代を務めた。

和智豊郷【わちとよさと(15??~15??)】

三谿郡南天山城主。尼子経久、大内義隆、毛利元就らの狭間にあって苦慮したが、大内義隆に属した。1522年、「南天山城の戦い」では、尼子経久勢の攻撃を受け降伏した。1553年、「旗返山城の戦い」では、毛利元就勢に属して江田隆連と戦った。

和智誠春【わちまさはる(15??~1568)】

和智豊郷の男。官途は左衛門尉。室は福原広俊の娘。1562年、「第二次月山富田城の戦い」に赴く毛利隆元を饗応するも、その直後に毛利隆元が急逝したため、謀殺の嫌疑を受けた。1568年、弟湯谷元豊とともに厳島に監禁された。1568年、番衆の隙を狙い脱出。厳島神社の神殿内に逃げ込み神殿を焼き払おうとしたため、熊谷就政、児玉元村によって謀殺された。

和智元郷【わちもとさと(15??~15??)】

和智誠春の男。1568年、父和智誠春が毛利隆元毒殺の嫌疑で厳島に幽閉されると毛利元就に忠誠を誓う起請文を提出し謀殺を免れた。

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【資料Ⅰ】

備後国(14郡/186,000石)

安那郡:銀山城、光照寺寺。
深津郡:
神石郡:五品嶽。
奴可郡:
沼隈郡:神辺城、鞆城。
品治郡:
芦田郡:有地城、楢崎城、府中城、福田城。
甲奴郡:
三上郡:
恵蘇郡:黒岩城、甲山城、久代城、亀山城、青影城。
御調郡:三原城、木梨城、尾道街、因島城。
世羅郡:茶臼城、龍王山城。
三谿郡:南天山城。
三次郡:比叡尾城、江田城、志和地城、三次街、三良坂寺。

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【資料Ⅱ】

宇賀島衆【うかしま しゅう】

備後国尾道と向島の間の尾道水道に浮かぶ宇賀島を根拠地とした海賊衆。宇賀島衆は宇賀島を中心に周辺海域で航行船舶から礼銭、関料を徴収していた。1540年、朝鮮の日本回礼使宋希璟は尾道で海賊船十八隻の待ち伏せを受けて食料を求められた。1551年、梅林守龍は竹原で海賊衆に囲まれて「過分の礼銭」を支払った。1554年、村上吉充と結んだ小早川隆景によって滅ぼされた。

因島村上海賊衆【いんのしまむらかみかいぞくしゅう】

備後国因島を中心に瀬戸内海を支配した。1554年、小早川隆景から所領を安堵されると、毛利元就勢に属するようになった。その後も毛利元就に従い周防国、長門国の攻略や、大友義鎮、織田信長との戦いなどに参陣した。能島村上★が羽柴秀吉と対立して、瀬戸内海から追放されるが、因島村上吉充は毛利輝元の船手組番頭としてその後も家門を維持した。

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【資料Ⅲ】

備後国【びんごのくに】

瀬戸内海に面した山陽道の国。東は備中国、西は安芸国といずれも山地で結ばれ、北は中国山地を境に伯耆国、出雲国、石見国の三国と接する。南は瀬戸内海の備後灘に面し、海上に横島、田島、走島などの諸島を経て伊予国と向かい合う。七世紀に吉備国が備後、備中、備前の三国分離し、西境の十二郡をもって備後国となり、後に二郡を加え、南七郡が外郡、北七郡が内郡と称された。北部は中国地方を東西に連なる中国山地の南の吉備高原を中心とた山国で平地が乏しい。南部は芦田川がその流域に平野部を作り、河口部では広い福山平野を形成して瀬戸内海に注ぐ。こうした地形のため、南部の方が農業、経済ともに発達、備後灘に面する沿岸部と数多くの島々では、海上交通と漁業も盛んである。特に尾道、柄の湊は瀬戸内海航路の要湊として発展した。また沿岸部では製塩が盛んである。北部の山岳地帯では林業と並んで、鉱業、特に製鉄が重要な産業となっている。

瀬戸田【せとだ】

高根島との水道部に面した生口島の北西部に位置する湊街。周辺海域の水運の中核として栄えた。瀬戸田は小早川家海賊衆の中核を構成する生口海賊衆や直属船の停泊地となり、小早川家の外湊となった。備後塩は生口島産だけではなく、その他の品とともに瀬戸田に集められ集荷された。1535年、瀬戸田の商人瀬戸田彦右衛門が厳島神社の回廊再建費用の寄進した。1555年、檀越生口隆平のもと瀬戸田の街衆が向上寺に梵鐘を寄進した。

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戦国人名辞典は1500~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は文献を表示していますが、架空歴史小説も含まれるため、記載されている人物が史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

陶隆房は陶晴賢、尼子詮久は尼子晴久、大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、立花道雪は戸次鑑連、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2011年12月3日土曜日

織田信長家臣団辞典(四天王編)

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【あ】

青山宗勝【あおやまむねかつ(1561~15??)】

丹羽長秀家臣。官途は修理亮。通称助兵衛。はじめ丹羽長秀に仕えた。1585年、丹羽長秀が病没すると、羽柴秀吉の家臣となり、黄母衣衆に列せられ、越前国で20,000石を領した。1587年「九州征伐」に参陣した。伏見城普請でも功績を挙げた。1598年、越前国丸岡城で46,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では西軍に属し、東軍に属した前田利長と戦ったが、そのために役後、改易された。

明智光継【あけちみつつぐ(1468~1538)】

可児郡長山明智城主。明智頼弘の男。官途は民部少輔。室は若狭守護武田信豊の娘。小勢力ながら素早い情勢判断、情報力、さらには政治力を繰り出し、外交感覚を頼りに生き延びた。長井規秀が台頭すると、すかさずこれに属し、まだ幼い娘であった小見の方を人質に差し出した。この姫はのちに長井規秀の室となって、織田信長の室である濃姫を産んだ。長井規秀から「東美濃の梟雄」と称された。

明智光綱【あけちみつつな(1497~1535)】

明智光継の男。室は進士信連の娘。はじめ、父明智光継とともに長井規秀に仕えた。のち長井規秀による「明智城の戦い」で討死した。明智光綱が討死したときは明智光秀はまだ若年で、その成人まで明智光安が明智城主として後見した。

明智光秀【あけちみつひで(1528~1582)】

明智光綱の男。官途は日向守。通称十兵衛。室は山岸光信の娘(千草)、継室は妻木範煕の娘(煕子)。

明智光安【あけちみつやす(1500~1556)】

美濃国明智城主。明智光継の三男。室は斎藤利胤の娘。官途は兵庫頭。明智家の家督は父明智光継が隠居し、長兄明智光綱が相続した。1535年、明智光綱が病没すると、明智光秀がまだ幼かったため、明智光継に明智光秀の後見を命じられ、後に明智光秀が元服した後も明智家の家政を担った。1547年、将軍足利義晴に謁見し、また従五位下兵庫頭となった。た長井規秀が美濃を奪取すると長井規秀に接近し、妹(小見の方)をその継室とした。1556年、長井規秀は子の斎藤義龍と対立を深め。1556年、斎藤義龍とそれに加担する稲葉良通ら諸将に敗れて討死した。明智光安は長井規秀の外戚という立場であったために斎藤義龍と対立し、弟の明智光久や三宅藤兵衛、藤田藤次郎、溝尾庄左衛門、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由、妻木城主の妻木広忠ら諸将とともに明智城籠城する。しかし斎藤義龍方の揖斐光就、長井道利らに攻められ、く明智光久とともに自刃した。

明智光忠【あけちみつただ(1540~1582)】

明智光秀家臣。明智光安の男。丹波国八上城主。通称次右衛門。室は明智光秀の娘。明智家五宿老のひとり。1575年、丹波国過部城攻めの戦功で、織田信長より感状を下された。1582年「本能寺の変」では、織田信長の嫡男織田信忠らが籠城二条城を攻撃した。その際に鉄砲で撃たれ重傷を負い知恩院で療養していたが「山崎の戦い」で、明智光秀が羽柴秀吉に敗れ討死すると自刃した。

明智光近【あけちけみつちけ(15??~1582)】

明智光忠の男。通称十郎左衛門。1582年「山崎の戦い」に参陣して片桐且元に討たれた。

明智光慶【あけちみつよし(1569~1582)】

明智光秀の男。1582年「本能寺の変」では、亀山城に在城していた。坂本城に移り西国防備にあたった。「山崎の戦い」で父明智光秀が敗走中討たれると、中川清秀、高山右近らの攻撃を受け坂本城は落城、討死した。

明智秀満【あけちひでみつ(1536~1582)】

明智光秀家臣。三宅藤兵衛(綱朝)の男。官途は左馬助。別名三宅弥平次。室は明智光秀の次女(倫子)。明智五宿老のひとり。1578年、明智秀満は明智光秀の次女室に迎える。明智光秀の次女は荒木村重の嫡男荒木村次に嫁いでいたが、荒木村重が織田信長に謀反を起こしたため離縁されていた。その後、明智秀満は明智姓を称した。1581年、丹波国福知山城代となる。1582年、明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き、羽柴秀吉との「山崎の戦い」では明智光秀の後詰めとして打ち出浜で堀秀政と戦うが敗れ、坂本城に入った。堀秀政勢に城を囲まれた秀満は、財宝を包囲軍に渡した後、明智光秀の妻子を刺し殺し、城に火を放って自刃した。

明智巳蔵【あけちみくら(15??~1582)】

明智光秀家臣。1582年「山崎の戦い」に参陣して討死した。

浅見忠実【あさみただざね(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。官途は宮内少輔。もとは浅井長政家臣、浅井家滅亡後丹羽長秀に仕えた。丹羽長秀の妹婿。

池田輝家【いけだてるいえ(15??~1582)】

可児郡池田城主。明智光秀家臣。官途は織部正。美濃時代からの家臣。1556年「明智城の戦い」で籠城した。「本能寺の変」のさいには伏見の警護を務める。「山崎のの戦い」後、坂本城で討死した。

石森九郎左衛門【いのもりくろうざえもん(15??~15??)】

明智光秀家臣。織田家臣従後、織田信長より美濃可児郡の旧長山領を与えられた明智光秀に代官として長山城に在城した。

一ノ瀬新左衛門【いちのせしんざえもん(15??~15??)】

柴田勝家家臣。足軽大将。1575年「越前侵攻」に参陣した。

井上久八郎【いのうえひさはちろう(15??~15??)】

柴田勝家家臣。侍大将。通称清八。1575年「越前侵攻」に参陣した。

上田重安【うえだしげやす(1563~1650)】

丹羽長秀家臣。官途は主水助。通称は佐太郎。別名上田宗箇。茶道の上田宗箇流の流祖。茶人、造園家として現在も残る業績を残した。上田重元の男。1573年、父上田重元が亡くなり、祖父上田重氏に養育された。元服後は丹羽長秀の家臣として各地を転戦した。1582年「本能寺の変」後の一連の騒乱では明智光秀への関与を疑われた津田信澄を討取った。1583年「賤ヶ岳の戦い」の後、越前国で10,000石を領した。羽柴秀吉により丹羽長重が減封された後は羽柴秀吉の直臣となった。1587年「九州の役」「小田原の役」「文禄の役」参陣し、戦功を重ねる傍ら古田重然に茶道を学ぶ。
1600年「関ヶ原の役」では西軍に属して敗戦し、領地を没収されて摂津国に隠居して剃髪した。その後蜂須賀家政に請われ、その客将となり、徳島に住んだ。この間に蜂須賀家政の依頼で徳島城表御殿庭園を作庭した。その後、姻戚の浅野幸長に仕え10,000石を領した。浅野家に仕えている間に和歌山城西の丸庭園、粉河寺庭園を作庭している。1615年「大坂夏の役」では松平方として出陣し、敵方の塙直之を討取る戦功を挙げた。1619年、浅野家が和歌山城から広島城に転封されると上田重安は佐伯郡で12,000石を領した。その後は、茶道と造園を趣味として生活を送り、浅野家の別邸縮景園、請われて名古屋城二の丸庭園の作庭を担当した。数々の戦功により西軍に就いた罪を許された上田重安は松平家より出仕を促されたが、自身の出仕は断り、代わりに嫡男上田重秀を松平家に仕えさせた。

江口正吉【えぐちまさよし(15??~1603)】

丹羽長秀家臣。別名江口三郎右衛門。1582年「清須会議」後の四宿老の合議体制の下に、丹羽長秀の京都奉行となった。1583年「賤ヶ岳の戦い」で、丹羽長秀に従って舟で出陣した。戦後、丹羽長秀が越前国に転封されると7,600石を領した。丹羽長秀死後はその子丹羽長重に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では、丹羽長重に従い西軍。東軍の前田利家を「加賀浅井の戦い」で打破った。役後、丹羽家没落に伴って結城秀康に仕え10,000石を領した。

大鐘貞綱【おおがねさだつな(15??~15??)】

柴田勝豊家臣。通称藤八郎。越前国の豪族衆。丸岡城城代。1583年「賤ヶ岳合戦」に羽柴方。1597年、遠江国に隠居した。

大屋兵衛門【おおやひょうえもん(15??~1583)】

柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳の戦い」後の北ノ庄城の守備に付いたが落城討死した。

奥田景綱【おくだかげつな(15??~15??)】

明智光秀家臣。官途は宮内少輔。1556年「明智城の戦い」で籠城した。「山崎の戦い」に参陣して討死した。

奥山重定【おくやましげさだ(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。佐久間盛重の男。官途は佐渡守。別名奥山盛昭。佐久間氏の一族だが、先祖のゆかりの地である越後国奥山荘の地名を取って奥山姓を称した。1585年、丹羽長重の国替えの際に羽柴秀吉の直臣になり越前国で11,000石を領した。その後、羽柴秀吉に従って「九州征伐」や「小田原の役」に参陣した。「小田原の役」の後、後北条家に仕えていた同族の佐久間安政、佐久間勝之兄弟が野に潜伏していたが、奥山盛昭は羽柴秀吉の命によって兄弟を仕官させる説得にあたった。これは奥山盛昭の姉が兄弟の長兄佐久間盛政の室であり、また父佐久間盛重が兄弟の父盛次の従兄であった縁による。1592年「文禄の役」の参陣後に病没した。

織田順元【おだのぶもと(15??~15??)】

織田順俊の男。官途は対馬守。通称金左衛門。別名津田順元。若年より織田信長に仕え、のちに柴田勝家に仕えた。1583年、斯波t勝家死後、溝口秀勝に仕えた。

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【か】

加藤景利【かとうかげとし(15??~15??)】

柴田勝家家臣。通称次左衛門。1570年、柴田勝家の奉行として諸政にあたる。

蒲生郷成【がもうさとなり(15??~1614)】

柴田勝家家臣。坂勝則の男。通称源左衛門。初め坂源次郎と名乗り、父坂勝則とともに関成政、次いで柴田勝家に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家が滅ぶと、蒲生氏郷に仕えた。「九州征伐」での「岩石城の戦い」で戦功を挙げ、羽柴秀吉にも称賛されたため、のちに蒲生姓を許され、蒲生郷成と名乗った。1590年、蒲生家の会津に転封に従って白石城代を務め、次いで二本松城主となり、40,000石を領した。朝鮮出兵中の蒲生騒動では蒲生郷可と蒲生郷安との間を仲裁した。1598年、蒲生秀行が下野国宇都宮城へ転封されると、常陸国笠間城30,000石を領した。その後、同僚の岡重政と対立したことにより、蒲生家を出奔し、嫡男蒲生郷舎とともに藤堂高虎に仕えた。

蒲生郷可【がもうさとよし(15??~1598)】

柴田勝家家臣。はじめ近江国の土豪上坂兵庫助の養子となって上坂左文と名乗り浅井長政に仕えた。浅井家の滅亡後、柴田勝家に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家が自刃すると、蒲生氏郷に武勇を買われて蒲生家に仕えた。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」の「岩石城の戦い」で先鋒を務め戦功を立てたため、のちに蒲生姓を許され、蒲生郷可と名乗った。1590年、蒲生家が会津に移封されると、中山城主となり13,000石を領した。「蒲生騒動」で仕置奉行(家老)筆頭であった蒲生郷安と対立して、後に蒲生郷安を追放した。蒲生秀行の代に蒲生家が下野宇都宮へ転封されると、河原城主となり6,000石を領した。

亀田高綱【かめだたかつな(1558~1633)】

柴田勝豊家臣。溝口半左衛門の男。官途は大隅守。通称半之丞。はじめ柴田勝豊に仕えた。のち柴田家を追われ,姓を亀田と改め、浅野長政に仕えた。「小田原の役」「文禄、慶長の役」「関ケ原の役」に参陣して戦功を挙げた。1601年、浅野家の紀州に転封では7,000石を領した。1615年「大坂夏の陣」に戦功を挙げる。1624年、論功のことで上田重安と争い浅野家を去った。武功に誇る戦国武将の一徹さに由来するとされる。和泉堺、のち高野山下に隠棲した。著書に『亀田大隅一代働覚』『泉州樫井表合戦次第覚書』がある。

可児吉長【かによしなが(1554~1613)】

福島正則家臣。通称可児才蔵。宝蔵院流槍術の開祖、覚禅房胤栄に槍術を学んだ。討取った首に笹を噛ませ目印にしたことから「笹の才蔵」と呼ばれた。はじめは斎藤龍興に仕えたが斎藤家が滅亡したため、柴田勝家、明智光秀、前田利家、森可成らに仕えた。1583年、織田信孝に仕えるも織田信孝が羽柴秀吉の攻撃を受けて自刃したため羽柴秀次に仕えた。「小牧、長久手の戦い」で羽柴秀次が松平元康に大敗を喫すると、羽柴秀次と対立して浪人になった。その後は佐々成政に仕えたが長続きしなかった。その後、伊予国110,000石の領主となった福島正則に仕え750石の知行を与えられた。1590年「小田原の役」では北条氏規が守備する韮山城攻撃に参加し、このとき先頭に自ら立って攻撃した。1600年「関ヶ原の役」では福島勢の先鋒隊長として参加し、この戦いでも敵兵の首を十七も取り松平元康からも大いに賞賛された。この武功により1,250石を領した。福島正則が関ヶ原の功績により安芸国広島藩に加増移封されると、それに従って広島に赴いた。

神戸伯耆守【かんべほうきのかみ(15??~1569)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

木下一元【きのしたかつもと(15??~15??)】

柴田勝豊家臣。官途は美作守。通称半右衛門。柴田勝家の養子柴田勝豊に仕えた。1583年、柴田勝豊が病死後は、羽柴秀吉に仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」に参陣し、武功を挙げた。その後、羽柴秀次に属した。1592年「文禄の役」は、羽柴秀次ともに在京した。1600年「関ヶ原の役」では、西軍に属し大坂城留守居守備隊として大坂城周辺を守備した。この為役後に改易された。

河野三吉【こうのさんきち(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

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【さ】

斎藤五八【さいとうごはち(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

斎藤利三【さいとうとしみつ(1534~1582)】

明智光秀家臣。官途は内蔵助。室は長井規秀の娘。継室は稲葉一鉄の娘(安姫)。明智家五宿老のひとり。妹は土佐の長宗我部元親の室。春日局の父。はじめ松山新介に仕え、次いで斎藤義龍に仕え、後に、西美濃三人衆の一人稲葉良通が織田信長へ寝返ると、稲葉良通家臣となり、美濃国曽根城主となった。稲葉良通のもとから出奔して、明智光秀秀に仕えるようになった。明智光秀には、明智秀満と並ぶ明智家筆頭家老として用いられた。丹波国氷上郡代として黒井城10,000石を領した。1582年「本能寺の変」では斎藤利三、藤田行政、溝尾茂朝、明智秀満などの重臣に計画を諮ったが、明智秀満は賛成したが斎藤利三はその無謀さから反対した。しかし明智光秀の本意を覆すことができず「本能寺の変」に参陣した。中国から引き返してきた羽柴秀吉との「山崎の戦い」では先鋒として活躍するが、敗れて逃走した。羽柴秀吉の執拗な捜索により近江国堅田で捕縛され、六条河原で斬首となった。

斎藤利光【さいとうとしみつ(1567~1647)】

斎藤利三の男。別名明智平三郎。1582年「本能寺の変」では父斎藤利三とともに本能寺攻撃軍に加わった。「山崎の戦い」では織田信孝の家臣野々懸彦之進を討取った。乱戦の最中父とはぐれ敗戦後、落延びた。,剃髪して立本と称した。1592年「文禄の役」には加藤清正に従い朝鮮に渡った。妹春日局の縁で松平家光につかえた。

斎藤三存【さいとうみつなか(1580~1625)】

斎藤利三の三男。通称与三兵衛。義兄稲葉正成との縁で小早川秀秋に仕えた。1600年「関ヶ原の役」後、小早川家を離れる。1615年、松平秀忠に召し出されて2,0000石を領した。

佐久間十蔵【さくまじゅうぞう(1568~1583)】

柴田勝家家臣。前田利家の娘(摩阿姫)と婚約した。1583年「賤ヶ岳の戦い」に敗戦後の北ノ庄城の守備につくも落城討死した。

佐治益氏【さじますうじ(1527~1636)】

滝川一益家臣。通称新助。滝川一益の家老格として数々の戦功を挙げた。1582年、先鋒として越後国人衆を三国峰に撃退した。「本能寺の変」で織田信長が横死すると、織田家中は羽柴秀吉派と反秀吉派に分かれて反目した。反秀吉派の柴田勝家は羽柴秀吉に「賤ヶ岳の戦い」で敗れ越前北之庄城にて自刃。滝川一益も伊勢長島で反旗を揚げ、佐治新助が任された亀山城は籠城半年にして落城したが、その奮闘を賞されて助命された。

柴田勝義【しばたかつよし(15??~15??)】

愛知郡上社城主。官途は土佐守。尾張国守護斯波家の庶流。

柴田勝家【しばたかついえ(1522~1583)】

柴田義勝の男。官途は修理亮。通称権六。室は織田信秀の娘(於市)。若年の頃から織田信秀に仕えた。1551年、織田信秀が病没すると、次男織田信行に家老として仕えた。1552年、尾張国下四郡を支配する守護代で清洲城主織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老坂井甚介を討取った。1553年、清洲城攻めで大将格で参陣し「萱津の戦い」で30騎を討ち取る武功を挙げた。1557年、織田信勝が謀反の計画を企んだときには織田信長に事前に密告したとされており、織田信勝は自刃した。織田信勝の死後、罪を許され、織田信長の家臣となった。以後は織田信長の忠実な家臣として「上洛作戦」「畿内平定戦」などでは織田軍の先鋒として多くの戦功を挙げた。六角承禎との戦で、長光寺城に篭城したとき、糧米、飲料水が尽きてくると、甕を割って残りの水をことごとく流し捨てたため、返って味方が決死の覚悟となって敵を破った。1572年、越前の朝倉義景攻めは、信長軍総動員となり朝倉氏を滅ぼした。北近江の浅井長政攻めなどにも参加したが、羽柴秀吉が先鋒を務めた。1575年、織田信長が越前を平定したのち、北ノ庄城にあって越前国を治める。織田信長麾下の佐々成政、不破光治、佐久間盛政、前田利家らを率いて、加賀一向一揆も平定。能登、越中に進出し、長尾景勝と対峙した。1582年「本能寺の変」では長尾家方の越中国の魚津城、松倉城を攻囲中のため動けず、羽柴秀吉の明智光秀討伐に遅れを取った。織田信長の後継者に三男神戸信孝を擁立しようとしたが「清洲会議」において羽柴秀吉に主導権を握られ、織田信長の第一の宿老として、織田信長の妹於市の方(浅井長政未亡人)を娶り、羽柴秀吉との対立姿勢を深めた。柴田勝家は、越前、加賀、能登、越中に加え北近江地方の約1,800,000石を領し、美濃の織田信孝、伊勢の滝川一益らと反羽柴秀吉派を形成。1583年、神戸信孝、滝川一益らと羽柴秀吉を討つべく越前に兵を挙げたが、岐阜から急遽引き返した羽柴秀吉と「賤ヶ岳の戦い」において決戦し、大敗。北ノ庄城に逃れたが、羽柴秀吉勢に追撃され、於市の方とともに自刃した。辞世の句は「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」。

柴田勝豊【しばたかつとよ(1556~1583)】

柴田勝家の姉婿吉田次兵衛の男。柴田勝家の養子。官途は伊賀守。室は稲葉貞通の娘。生母は柴田勝家の姉であり、柴田勝家の甥にあたることから養子となった。1576年、北ノ庄城の支城丸岡城を築き、その城主となって45,000石を領した。「加賀平定戦」に佐久間盛政、佐々成政との先鋒争いに敗れ遺恨を残す。1581年、織田信長の京都馬揃えでは柴田勝家とともに上洛し参加した。1582年、織田信長没後の「清洲会議」で柴田勝家の所領となった近江長浜城の守備を任された。しかし、柴田勝家が同じ養子の柴田勝政を優遇して自分を冷遇することと、従兄にあたる佐久間盛政と仲が悪いことなどもあって、に羽柴秀吉家臣大谷吉継の調略を受けて、長浜城ごと羽柴方に寝返った。1583年「賤ヶ岳の戦い」では家臣を代理として参陣させた。「賤ヶ岳の戦い」の直前、京都東福寺にて病没した。

柴田勝久【しばたかつひさ(1568~1583)】

柴田勝家枝連衆。柴田勝家の妹の子。通称権六。1583年「賤ヶ岳の戦い」で敵地に深入りした佐久間盛政をさとすために柴田勝家に派遣された。羽柴秀吉勢の反撃にあって捕らえられ斬首にされた。

柴田勝政【しばたかつまさ(1557~1583)】

佐久間盛次の三男。通称は三左衛門。別名佐久間勝政。室は日根野高吉の妹。母は柴田勝家の妹。兄佐久間盛政と共に織田信長に仕え、柴田勝家の北陸平定軍に属した。1580年「加賀一向一揆平定」で先陣を努め戦功を挙げた。柴田勝家に気に入られてその養子となった。同じく柴田勝家の養子であった柴田勝豊とは仲が悪く、常に対立していた。柴田勝家も柴田勝政を重用して柴田勝豊を軽視するようになった。1583年「賤ヶ岳の戦い」での柴田勝豊の裏切りにつながった。「賤ヶ岳の戦い」で撤退中、羽柴勢の追撃を受け、脇坂安治に討たれた。

柴田勝政家臣団【しばたかつまさかしんだん】

山本猪右衛門。

柴田勝重【しばたかつしげ(1579~1632)】

通称三左衛門。柴田勝政の男。室は織田長政の娘、佐久間勝之の娘、日根野吉時の娘。1583年、北ノ庄城落城の折、祖父柴田勝家により愛用の兜を与えられ、郎党とともに母方の祖父である上野国の日根野高吉のもとに落延びた。1599年、松平元康に仕え上野国で2,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」で初陣を飾る。1614年「大坂の役」の戦功により500石の加増を受けた。

柴田勝之【しばたかつゆき(1568~1634)】

佐久間盛次の四男。官途は大膳亮。通称は源六郎。別名佐久間勝之。室は佐々成政の娘。継室は庄野式部の娘。1582年「武田討伐」の「高遠城の戦い」で初陣し戦功を挙げた。柴田勝家の養子となったが、後に佐々成政の娘を室に迎え養子となった。1584年「末森城の戦い」などに活躍するが、佐々成政が羽柴秀吉に降伏すると、室を離縁し、兄佐久間安政と共に関東の後北条家に仕えた。後北条家の滅亡後、兄とともに蒲生氏郷に仕えた。蒲生氏郷が病没すると羽柴秀吉に仕え近江国山路城3,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では東軍に属した。役後常陸国北条城10,000石を領した。1615年「大坂夏の陣」では羽柴方の将竹田永翁を討取る戦功を挙げた。

柴田勝敏【しばたかつとし(1568~1583)】

柴田勝家枝連衆。柴田勝家の養子。通称権六郎。1575年「越前侵攻」に参陣した。1577年、菅屋長頼から織田剣神社の宛がいを指示される。1583年「賤ヶ岳の戦い」に敗れて柴田勝家が北ノ庄城で自刃した後、柴田勝敏は家臣の手引きで落延びたが、羽柴秀吉の執拗な探索によって捕縛され、近江佐和山で斬首された。。

柴田義宣【しばたよしのぶ(15??~1577)】

柴田勝成の次男。官途は土佐守。官途は監物。柴田勝家の北ノ庄城入りで北袋城を与えられた。一向一揆の残党七山家の勝山城を攻めたが、一揆勢の反撃にあい討死した。

柴田勝安【しばたかつやす(15??~1583)】

柴田義宣の養子。佐久間盛政の弟。柴田義宣戦死の翌年、谷城を攻略した。織田信長が「本能寺の変」で倒れると、柴田勝家と羽柴秀吉とが後継を争い「賤ヶ岳の戦い」に柴田勝安も参陣し、羽柴勢の七本槍と激戦となり奮戦するも、混乱の中で討死した。

柴田勝全【しばたかつまた(15??~15??)】

柴田勝家枝連衆。通称次左衛門尉。1575年「越前侵攻」に参陣した。のちに堀秀政に仕えた。

柴田勝定【しばたかつさだ(15??~15??)】

柴田勝家枝連衆。官途は佐渡守。通称源左衛門尉。1575年「越前侵攻」に従軍。越前領内の寺社奉行。1578年、北ノ庄城城代、丸岡城救援。

柴田弥右衛門【しばたよざえもん(15??~1583)】

柴田勝家枝連衆。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の留守居役。

進士貞連【しんしさだつら(15??~15??)】

明智光秀家臣。通称作左衛門。1582年「山崎の戦い」後は明智光秀と共に勝竜寺城を出る。先行して落ち武者狩を警戒していたが後方で明智光秀が自刃すると落延びた。後細川家に仕え細川忠隆付きになる。1600年「関ヶ原の役」後の細川忠隆廃嫡時にも忠隆に従い加賀まで行くが、後前田家預かりの身となった。

杉江彦四郎【すぎえほこしろう(15??~15??)】

柴田勝家家臣。侍大将。1575年「越前侵攻」に参陣した。

鈴村主馬【すずむらしゅめい(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

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【た】

建部寿徳【たけべ じゅとく(1537~1607)】

建部秀清の次男。丹羽長秀家臣。官途は内匠頭。通称与八郎。室は山村甚右衛門の娘。継室は有馬則氏の娘。近江国神崎郡建部の豪族衆。六角家臣であった建部秀清の次男。若年の頃から僧形となり寿徳を称した。父建部秀清は六角家と織田信長の戦で討死に、兄建部秀直は六角義治に仕えていたが駒井某に謀殺された。織田家仕官後の建部寿徳は戦に出ることはほぼ無く、吏僚として織田信長に仕えた。のちに、丹羽長秀の配下に転じ若狭国の小浜郡代として小浜城に入った。北陸の陸路、海路の物資集散の中継地点の代官職をこなした建部寿徳はやがて羽柴秀吉にその才を認められ「本能寺の変」の後頃から羽柴秀吉配下に転じた。羽柴秀吉は物資の荷扱いや兵糧、弾薬などの管理に長ける、建部寿徳を羽柴秀吉の蔵入地となっていた摂津国尼崎30,000石の代官に任命し、大坂の西の備えとして尼崎城と尼崎湊の管理を行なった。1587年「九州討伐」では小西隆佐らと共に羽柴勢の補給の任にあたり、西征の中継基地である尼崎には一時的に人員が集まり兵糧、馬糧、軍船、武器、弾薬など莫大な物資が集められたが建部寿徳は混乱無くそれらを管理m運搬して補給の任を無事果たした。1600年「関ヶ原の役」には嫡男建部光重が西軍として参陣したが、役後池田輝政の取り成しで改易を免れ所領、尼崎郡代職ともども安堵されている。

建部光重【たけべみつしげ(1578~1610)】

建部寿徳の男。官途は内匠頭。通称弥作。室は下間頼龍の娘(池田輝政養女)。父建部寿徳の摂津尼崎郡代を継ぎ、羽柴秀吉、羽柴秀頼父子に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では西軍に属し、長宗我部盛親、毛利秀元らと富田信高の守る伊勢安濃津城攻めに加わり、所領を一時没収されたが、義父池田輝政の取り成しで赦された。1604年、羽柴秀頼の命により奉行として吉野水分神社を完成させた。

滝川一益【たきがわかずます(1525~1568)】

織田信長家臣。滝川資清の男。官途は左近将監。近江国用賀郡の出身で、浪人中を尾張の織田信長に登用され「先駆けは一益、殿(しんがり)も一益」とうたわれるほどの勇将であった。織田家においては伊勢方面の攻略を担当、豪族衆の懐柔や小規模な合戦で戦功を挙げた。1569年、尾張国蟹江城主となる。織田信雄とともに「北畠家討伐」「伊勢長島の一向一揆を討伐」「伊賀討伐」に戦功を挙げ、北伊勢五郡を支配した。1582年「武田討伐」では先鋒として参陣した。武田勝頼を「天目山の戦い」で討取る戦功で、上野国と及び小県郡と佐久郡の信濃の二郡を与えられ、厩橋城に移り関東管領を称した。1582年「本能寺の変」の際には、滝川一益は関東諸将の人質を変換の上で事実を打ち明け、ともに力をあわせて反勢力である後北条家と戦った。しかし、関東管領となってから、まだ3ヶ月も経っておらず、その上織田信長の死による部下の動揺も去り難く「神流川の戦い」で北条氏直に敗北。伊勢長島城に帰城した時は「清洲会議」は終了していた。1583年、柴田勝家、織田信孝らと組み、羽柴秀吉と戦ったが、滝川一益自身は長島城に籠城し孤軍奮闘したものの、北陸戦線の柴田勝家が敗北したため降伏すした。1584年「小牧、長久手の戦い」で羽柴秀吉につき、伊勢と尾張に兵を挙げ、松平元康勢と戦った。しかし蟹江城を包囲され、降伏した。

滝川一忠【たきがわかずただ(1553~1615)】

滝川一益の男。1582年「本能寺の変」後、父滝川一益や弟滝川一時と共に柴田勝家と組んで羽柴秀吉と敵対するが「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家が敗死すると羽柴秀吉に降伏する。1584年「小牧、長久手の戦い」にも父滝川一益に従い参戦したが「蟹江城の戦い」で松平元康、織田信雄の連合軍に敗れ、羽柴秀吉に責任を取らされて追放処分となった。 

滝川一時【たきがわかずとき(1568~1603)】

滝川一益の次男。通称八郎。1582年「本能寺の変」の後、関東から帰城した父滝川一益を迎え、羽柴秀吉と対立。1583年、柴田勝家が「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に攻め滅ぼされた為に、父滝川一益と共に羽柴秀吉に降伏した。所領を没収された。1584年「小牧、長久手の戦い」で羽柴秀吉側として参陣した。「蟹江城の戦い」で松平元康、織田信雄連合軍に敗れたが、羽柴秀吉から12,000石を与えられた。兄滝川一忠は敗戦の責任を取らされて追放された。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康本隊の一員として戦った。1603年、滝川一時が病没すると、滝川家の家督は嫡男滝川一乗が継いだが、幼少の為に甥滝川一積が名代を務めた。また、羽柴秀吉から与えられた12,000石は没収された。

滝川一積【たきがわかずあつ(1583~1660)】

滝川一忠の男。通称三九郎。室は真田昌幸の五女(於菊)。父滝川一忠は羽柴秀吉により追放されて浪人となった。1600年「関ヶ原の役」では、真田昌幸から五女の於菊を託された。その後、織田長益の推挙によって中村一忠に仕えたが「横田騒動」で再び浪人した。叔父滝川一時が若くして没し、子の滝川一乗がまだ幼少ということもあって、滝川一乗が元服するまでの名代に任じられて松平元康に仕えた。その後「大坂の役」では松平方使番として参陣し戦功を挙げた。1616年、滝川一乗が元服後になっても所領を譲ろうとしなかったため滝川一乗に訴えられ、その結果滝川一乗に750石を分与し、滝川一積は1,000石の馬廻衆となった。また於菊を室にしていた縁から、討死にした真田信繁の娘を養女に迎え、伊予松山藩家老蒲生郷喜に嫁がせるなどたびたび真田家のために働いた。1632年、真田信繁の娘を養女として他家に嫁がせたことなどを罪状にされ、幕府使番の職を解かれて除封された。

滝川益重【たきがわますしげ(1523~1592)】

滝川一益家臣。別名滝川儀太夫。滝川一益に従い「伊勢討伐」「武田征伐」などで戦功を挙げた。滝川一益が信濃国二郡と上野国一国を与えられ、厩橋城に入城すると、滝川益重は城代として真田昌幸が明け渡した沼田城に入城した。1582年「本能寺の変」により上野国を失い伊勢国に戻った滝川一益が「賤ヶ岳の戦い」において関盛信の留守に乗じ亀山城を奪い、峯城にいた羽柴秀吉派の岡本宗憲を駆逐すると、亀山城に佐治新介、峯城に益重が入れられ、両城は羽柴勢の猛攻を受ける事となる。峯城は兵糧攻めにより落城するが、滝川益重はその奮戦振りを羽柴秀吉に称えられ、戦後は羽柴秀吉に仕えた。「小牧、長久手の戦い」や「九州征伐」などに参陣した。

滝川益氏【たきがわますうじ(1527~1635)】

滝川一益家臣。1582年滝川一益に従って「武田征伐」や「本能寺の変」の後に起こった後北条家との「神流川の戦い」に参陣した。「本能寺の変」により上野国を失い伊勢国に戻った滝川一益が「賤ヶ岳の戦い」において関盛信の留守に乗じ亀山城を奪い、峯城にいた羽柴秀吉派の岡本宗憲を駆逐すると、亀山城に佐治新介益氏、峯城に滝川益重が入れられ、両城は羽柴勢の猛攻を受ける事となる。亀山城は包囲され攻撃を受け、よく防戦したが落城の危機をむかえた。滝川一益が使者を亀山城に派遣し開城を薦めた為、滝川益氏は開城し長島城に入った。

滝川忠征【たきがわただゆき(1559~1635)】

滝川一益家臣。木全忠澄の男。通称彦五郎。官途は出雲守。室は南部兼綱の娘。滝川一益に仕えて滝川姓を許される。名古屋城築城の奉行のひとりに名を連ねている。1616年、松平義直に属して6,000石を領した。

多治見国清【たじみくにきよ(15??~1582)】

土岐郡多治見城主。明智光秀家臣。官途は修理。美濃時代からの家臣。1582年「山崎の戦い」で討死した。

近松豊前守【ちかまつぶぜんのかみ(15??~1569)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

妻木範熈【つまきひろただ(1514~1582)】

美濃国土岐郡妻木城主。明智光秀家臣。室は水野信元の姪。明智光秀の室である妻木煕子の父。尾張国の戦国大名織田信長に仕えて、明智光秀の寄騎衆となり戦功を挙げた。1582年「本能寺の変」の後「山崎の戦い」で明智光秀が敗れ、近江国坂本城が陥落すると、西教寺で関係者一族の墓を作った後に、墓の前で自刃した。

妻木範賢【つまきひろかた(15??~15??)】

妻木範熈の男。官途は主計頭。1582年「本能寺の変」後は明智秀満の「近江討伐」に従った。長浜城に入城した妻木範賢は、荒木行重、荒木重仲、三宅業朝、今峰泰正と言った明智諸将の他に佐和山城に居る若狭の武田元明、近江の京極高次ら誘降に成功した旧守護勢力の裔、居城山本山城に戻っていた阿閉貞征、阿閉貞大父子や多賀一族などの誘降した近江国衆に招集をかけた。諸将はとりあえず留守中の仕置をして安土城に向かう事になった。

妻木範武【つまきひろたけ(15??~15??)】

妻木範熈の次男。通称忠左衛門。1582年「山崎の戦い」に参陣して討死した。

妻木範之【つまきひろゆき(15??~15??)】

妻木範熈の三男。通称七右衛門。1582年「本能寺の変」に際しては亀山留守居を務める。

妻木貞徳【つまきさだのり(1544~1618)】

妻木範熈の四男。通称源二郎。室は延友信光の娘。斎藤家臣だったが織田信長による美濃侵行にあたって織田家臣に転じた。織田信長の馬廻衆を務めた。1582年「本能寺の変」のさい、明智勢に同調する姿勢は見せなかったが「山崎の戦い」で父妻木範熈が自刃すると、妻木範熈が謀反人に与した責任を取ってか隠居し嫡男妻木頼忠に家督を譲り隠居した。1600年「関ヶ原の役」を前にして妻木頼忠が松平元康を支持した事で、羽柴方の美濃諸勢力との小競り合いを広げた。妻木頼忠と共に出馬して、妻木領から人質を取ろうとしていた田丸直昌家臣田丸具安の軍勢を奇襲し、人質を奪い返すと共に田丸軍の大将2人の首を取る勝利を収めた。役後、妻木頼忠は土岐郡内に7,500石を領した。

寺沢弥九郎【てらさわよくろう(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

寺西正勝【てらにしまさかつ(15??~1600)】

丹羽長秀家臣。官途は筑後守。通称次郎介。はじめは丹羽長秀に仕えた。丹羽長秀が病没すると、羽柴秀吉の直臣となった。「九州討伐」「文禄の役」に参陣した。名護屋城の本丸、山里丸の一部分を造営した。のちに越前国10,000石を領した。1595年、京都伏見向島の羽柴秀吉の茶亭の留守居となる。千利休の門人。

寺西是成【てらにしこれなり(1557~1619)】

寺西正勝の男。別名寺西清行。羽柴秀吉に仕え伊勢国で10,000石を領した。1600年、父寺西正勝の遺領のうち700石を加増される。「関ヶ原の役」では西軍に属し、北国口の防備にあたりる。東軍の前田利長に備える為に兵500余りを率いて、丹羽長重の守る加賀国小松城に入る。西軍の敗戦を知り逃亡た。剃髪して吸庵と号した。

道家正栄【どうけまさひで(15??~15??)】

滝川一益家臣。通称彦八郎。滝川一益の関東進軍に従って小諸城代となった。1582年「本能寺の変」後に炊く側一益とともに伊勢へ撤退した。

徳永寿昌【とくながながまさ(1549~1612)】

柴田勝豊家臣。徳永昌利の男。通称権之助。官途は下総守。越前国の豪族衆。1583年「賤ヶ岳の戦い」では羽柴方。その直後、柴田勝豊が病没したため、羽柴秀吉の家臣となり、美濃国松ノ木城30,000石を領した。羽柴秀吉の病没後、朝鮮に在陣していた日本勢へ撤兵を伝える使者を務めた。1600年「関ヶ原の役」では東軍に与し、西軍に属した隣城高須城10,000石の城主高木盛兼を攻めこれを落とし、また駒野城に篭城した池田秀氏を降伏させた。戦後、戦功により高須城20,000石を加増された。そして、本多正信や大久保忠隣らとともに、関ヶ原の戦いで奮戦した諸大名の戦功を調べる役目を務めた。

徳永昌重【とくながまさしげ(1581~1642)】

徳永寿昌の男。官途は左馬助。通称左太郎。室は下間頼龍の娘。父徳永寿昌と共に羽柴秀吉に仕えていた。1600年「関ヶ原の役」では父徳永寿昌と共に東軍に与して高須城を攻略居城とした。1611年、禁裏の普請助役を務めている。1612年、父徳永寿昌の病没により徳永家の家督を相続した。「大坂の役」などでも戦功を挙げて50,700石を領した。1628年、大坂城石垣普請助役工事の遅延を理由に除封され、庄内藩酒井家にお預けとなった。

徳山秀現【とくやまひであき(1545~1606)】

柴田勝家家臣。通称吉右衛門。1575年「越前侵攻」に参陣した。1583年「賤ヶ岳の戦い」では佐久間盛政の先鋒をつとめた。柴田家滅亡後、丹羽長秀の配下となり、ついで前田利家、松平元康に仕えた。1600年、美濃徳山城に5,000石を領した。

戸田勝成【とだかつしげ(1557~1600)】

丹羽長秀家臣。戸田勝隆の弟。官途は武蔵守。はじめは丹羽長秀、丹羽長重父子に仕えていた。丹羽家に内紛があり、それを機に羽柴秀吉の家臣となって、越前国足羽郡安居城で10,000石を領した。羽柴秀吉の「九州征伐」「小田原の役」に参陣した。1592年「文禄の役」において肥前国名護屋城に駐屯した。伏見城の普請を命ぜられ、その功で10,000石の加増を受けた。1600年「関ヶ原の役」では西軍につき北国口を守備していた。東軍が迫るとともに美濃方面へと陣を移した。本戦においては、大谷吉継の麾下に属して奮戦したが、松尾山に陣を張る小早川秀秋に続く脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠ら四隊の寝返りにあい壊滅、戸田勝成も織田有楽斎長男の織田長孝の部隊に捕捉され、応戦するも織田長孝の槍を頭部に受けて討死した。この時、嫡男戸田内記も討死した。

戸波隼人【となみはやと(15??~1583)】

拝郷久盈家臣。鉄炮頭。1583年「賤ヶ岳の戦い」で加藤清正に討たれた。

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【な】

長崎元家【ながさきもといえ(1538~1610)】

滝川一益家臣。通称弥左衛門尉。はじめ滝川一益に仕える。1582年「本能寺の変」後、滝川一益より松平元康の元へ援軍要請に本多正重と共に遣わされたが、なし得なかった。滝川一益没落後、織田信雄に仕える。のち羽柴秀吉に仕えた。羽柴秀吉の命により小早川秀秋の家臣となり「文禄、慶長の役」で戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では松平元康への使者となり、小早川秀秋が東軍へ味方したい旨を伝えた。1602年、小早川秀秋が病没すると松平元康に仕えて1,600石を領した。

中村宗教【なかむらむねのり(15??~1583)】

柴田勝家家臣。通称文荷斎。娘は柴田勝家の養女となり下総の高城胤則と婚姻した。1583年「賤ヶ岳の戦い」に敗戦後の北庄城の留守居役。柴田勝家と於市の方を介錯し、自らも自刃した。

中村与左衛門【なかむらよざえもん(15??~15??)】

柴田勝家の侍大将。1575年「越前侵攻」に参陣した。

長束正家【なつかまさいえ(1562~1600)】

丹羽長秀家臣。水口盛里の男。通称利兵衛。室は本多忠勝の妹(栄子)。はじめ丹羽長秀に仕えた。1585年、丹羽長秀が病没すると羽柴秀吉の奉公衆に抜擢された。高い算術能力を買われて財政を一手に担い、羽柴家の蔵入地の管理や「太閤検地」の実施に当たった。「九州討伐」「小田原の役」では兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍し「小田原の役」では200,000石の兵糧を滞りなく輸送したほか、小田原周辺において30,000石を買占め小田原城を兵糧攻めにした。支城の戦いでは家臣家所帯刀、臼杵平四郎、一宮善兵衛、有坂宮内、増田新次郎らが忍城攻めにおいて戦功を挙げた。「文禄、慶長の役」では肥前名護屋に在陣し兵糧奉行も務めた。1595年、近江水口城50,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する。開戦当初には山崎家盛に欺かれ、池田輝政の妻子を大坂城に人質として抑留することに失敗している。初め陣代家所帯刀、武者奉行伴五兵衛らを将として伏見城攻めに兵を送り、家臣甲賀衆鵜飼藤助の働きによって城内の甲賀衆を寝返らせることに成功、城を落城に導く戦功を挙げた。「関ヶ原の戦い」では毛利秀元、吉川広家とともに南宮山に布陣し合戦前には浅野隊と南宮神社付近で交戦、池田輝政隊と銃撃戦を展開したが、広家の妨害のため、毛利秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると撤退した。水口城を目前に山岡道阿弥率いる軍勢の攻撃を受けて敗走、弟玄春が捕らえられ、処刑されている。正家は松田秀宣の活躍で入城に成功するも、寄せ手の亀井茲矩、池田長吉に本領の安堵を約束されるが城から出たところ欺かれ捕縛された。このとき重臣嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞以下6人も入城した池田軍に捕縛されている。捕えられた長束正家は弟長束直吉と共に家臣奥村左馬助の介錯で自刃した。

長束助信【なつかすけのぶ(1589~16??)】

長束正家の男。通称半右衛門。水口城在城時、細川藤孝の外孫徳雲院を娶った。1600年「関ヶ原の戦い」の折には、正室の実家(藤孝の娘・伊也の婿である京都の吉田兼治の屋敷)に難を避け、さらに細川藤孝の居城である田辺城へ匿われた。

長束直吉【なつかなおよし(1567~1600)】

水口盛里の次男。通称次郎兵衛。官途は伊賀守。「九州の役」「小田原の役」には兄長束正家と共に兵糧奉行を担当した。1592年「文禄の役」では肥前国名護屋城に在陣し、三の丸御番衆馬廻組三番組頭を務め木下小次郎、津田新八、赤座三右衛門尉、坂井平三郎、川副式部丞(孝蔵主の甥の縁者か)、一柳大六、安見甚七、岡村数馬助、山名市十郎、日比野小十郎、矢野源六郎、岸久七、広瀬加兵衛尉、大谷次郎右衛門尉、山羽虎蔵、長谷藤十郎、山口三十郎、薄田源太郎、田中藤七郎、拓殖吹郎吉、五十表小平次、安西左傳次、山田半三郎、堺猪左衛門尉、田中三十郎を率いた。近江国で10,000石を領した。広瀬加兵衛が寄騎衆として附属した。平野新八と羽柴秀次の領地、日野輝資の領地の検地を行う。1598年、長束正家の下で越前国検地の奉行の一人として働いた。奉行には伊東長次、井上新介、吉田益庵、小堀正次、木村由信、朽木元綱、駒井重勝、杉若藤次郎、建部寿徳、新庄直忠、長谷川以真、服部正栄、林伝右衛門、速水守久、溝江長氏、御牧景則、山口正弘の18人が確認されている。1600年「関ヶ原の役」では、兄長束正家の近江国水口岡山城を守備した。本戦で戦わずして敗走した正家が水口に入り城を固めたが、池田長吉に欺かれて城を出て、桜井谷で長束正家とともに自刃した。

成田道徳【なりたみちのり(1526~1588)】

丹羽長秀家臣。通称弥左衛門。「賤ヶ岳の戦い」後に丹羽長秀が越前、若狭を領した際に勝山城27,000を領した。1585年、丹羽長秀の死後、嫡男丹羽長重が家中不穏などのかどで減封となった時、羽柴秀吉打倒の言を弄したことが露見したため出奔。伊勢山田に逃れた。1588年、討たれた。

丹羽長秀【にわながひで(1535~1585)】

丹羽長政の次男。官途は越前守。通称五郎左衛門尉。室は織田信広娘(深光院)、側室は杉若無心の娘。丹羽家はもともと斯波家の家臣であったが、丹羽長秀からは織田信長に仕えた。1553年「梅津表の戦い」で初陣した。1556年「稲生の戦い」では織田信長方に付いた。1560年「桶狭間の戦い」にも今川義元の攻撃部隊には入っていないものの参陣した。1568年、足利義昭を奉じて織田信長が上洛した際「観音寺城の戦い」で戦功を挙げた。その後も「高屋城の戦い」「長篠の戦い」や「越前一向一揆征伐」など、各地を転戦して戦功を挙げた。丹羽長秀は軍事だけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮し、安土城の普請奉行を務めるなど多大な功績を挙げた。1571年、「姉川の戦い」後近江佐和山城の磯野員昌が降伏すると、丹羽長秀が佐和山城主と若狭国を領した。1581年「京都御馬揃え」においても、一番に入場するという厚遇を与えられた。軍事的な面では、独立した軍団を持つ柴田勝家、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉などの一段下とみなされた。若狭国の知行宛行は遠敷郡が丹羽長秀、三方郡が粟屋勝久、大飯郡が逸見昌経であり各領主は所領内に独立した支配権を持っていた。丹羽長秀の家臣として溝口秀勝、長束正家、建部寿徳、山田吉蔵、沼田吉延などがおり、また与力としては信長直臣となった若狭衆(武田元明、粟屋勝久、逸見昌経、山県秀政、内藤、熊谷等の若狭武田氏及び旧臣)が他国への出兵時に丹羽長秀の寄騎衆として参陣した。1582年、三好康長、蜂屋頼隆とともに神戸(織田)信孝の四国派遣軍の副将を命じられた。「本能寺の変」が起こると、丹羽長秀は神戸信孝を補佐し、ともに羽柴秀吉勢に参陣して「山崎の戦い」で明智光秀を討った。1583年、羽柴秀吉と柴田勝家とが天下を争った「賤ヶ岳の戦い」では羽柴秀吉を支援し、若狭国に加え越前国(敦賀郡、南条郡の一部、大野郡の一部を除く)及び加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝が領する)約1230,000石を領した。

丹羽長重【にわながしげ(1571~1637)】

丹羽長秀の男。官途は加賀守。通称小松侍従。1583年、父丹羽長秀と共に「賤ヶ岳の戦い」に参陣した。1584年「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1585年、父丹羽長秀が没すると越前国、若狭国、加賀国二郡1230,000万石を領した。佐々成政の「越中征伐」では家臣の不手際により羽柴秀吉によって越前国、加賀国を召し上げられ、若狭一国150,000石と減封になった。さらに重臣の長束正家、溝口秀勝、村上義明らの武将が独立した。1587年「九州討伐」の際にも家臣の不手際で若狭国を取り上げられ、加賀国松任城40,000石を領した。1589年「小田原の役」に参陣して、加賀国小松城120,000石に加増移封された。1600年「関ヶ原の役」では西軍に与して「浅井畷の戦い」で東軍の前田利長と争ったが役後に改易となった。1603年、常陸国古渡城10,000石を領した。1622年、陸奥国棚倉50,000石に加増移封された。

丹羽長正【にわながまさ(1576~1620)】

丹羽長秀の次男。官途は備中守。1585年、父丹羽長秀が病没すると、家督は兄丹羽長重が継ぎ、丹羽長正はそのもとで500石を領した。1587年、羽柴秀吉のもとで越前国藤枝城50,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、西軍に属して東軍の前田利長と敵対したため、役後に松平元康によって改易された。その後、大坂城の羽柴秀頼に仕えた。1614年「大坂冬の陣」の前に大坂から脱出した。

野村勝次郎【のむらかつじろう(15??~15??)】

柴田勝豊家臣。1583年「賤ヶ岳の戦い」に羽柴方。のちに堀尾吉晴に仕えた。

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【は】

拝郷家嘉【はいごういえよし(1549~1583)】

柴田勝家家臣。通称五左衛門。勇猛さで知られ、北陸戦線で戦功を挙げ、加賀国大聖寺城主に任じられるなど重用された。1582年、柴田勝家と羽柴秀吉が天下の覇権を争った「賤ヶ岳の戦い」に参陣し、柴田勝家方の将として佐久間盛政の攻撃隊に属した。一時優勢になったものの、羽柴秀吉の機敏な動きに対応できず劣勢となり、佐久間盛政、柴田勝政、山路正国らとともに退却する際に福島正則に近江柳ヶ瀬で討取られた。

拝郷治太夫【はいごうじぶだいふ(15??~15??)】

拝郷家嘉の男。。1582年、柴田勝家と羽柴秀吉が天下の覇権を争った「賤ヶ岳の戦い」に参陣し、柴田勝家方の将として佐久間盛政の攻撃隊に属した。一時優勢になったものの、羽柴秀吉の機敏な動きに対応できず劣勢となり、北ノ庄城に籠城するも落城、拝郷治太夫は落ち延びて丹羽長重に仕えた。1600年「浅井畷の戦い」で参陣した。次男の孫十郎は尾張国津島に落ち、後に織田長益に仕えた。

肥田家澄【ひだいえずみ(15??~15??)】

土岐郡肥田城主。官途は玄蕃頭。1556年、斎藤義龍は斎藤方に加担しない東美濃の明智家を討つべく長井隼人正道利を大将として、井上忠右衛門道勝、国枝大和守正則、二階堂出雲守行俊、大沢次郎左衛門為泰、遠山主殿助友行、船木大学頭義久、山田次郎兵衛、岩田茂太夫等、兵3,700余りで長山明智城を攻めさせたのである。土田甚助、土田弥平次などが織田信長へこの危急を報告し援軍を要請するが、織田弾正忠家自体が危険な状態であった為、織田信長は援軍を出す余裕がなく、犬山城主織田信清の手勢を救援に向かわせた。土田甚助、土田弥平次も前野党50騎、生駒党40騎等を従えて明智城救援に出陣した。斎藤勢に包囲された明智城で籠城する明智勢は明智兵庫頭光安、明智次左衛門光久、溝尾庄左衛門、三宅式部大輔秀朝、藤田藤次郎、肥田玄蕃頭家澄、池田織部正輝家、奥田宮内少輔景綱、可児才右衛門、森勘解由等一族郎党合わせて兵870余りであった。明智光安勢は果敢に戦ったが兵力に劣る明智勢は追い詰められ、明智光安は斎藤勢に突撃を敢行するが明智勢は壊滅した。肥田玄蕃家澄、池田織部正輝家、奥田宮内少輔景綱、三宅式部大輔秀朝などは、明智光秀に付き従い後年の「山崎の戦い」に参陣した。「本能寺の変」以後は東濃をめぐり兼山城主森長可と対立する。

藤田行政【ふじたゆきまさ(15??~1582)】

明智光秀家臣。通称伝五郎。明智家五宿老のひとり。明智光秀とともに畿内各地を転戦。1582年「本能寺の変」に先立って、明智光秀から織田信長弑逆の決意を披瀝された。山城国静原城攻め後、同城を預かる。「山崎の戦い」では筒井順慶の説得に向かうも不首尾に終わる。「山崎の戦い」では本陣右備を務め六ヶ所の傷を負い淀まで退却するも自刃した。

藤田行久【ふじたゆきひさ(15??~1582)】

明智光秀家臣。通称藤三。藤田行政の弟。1582年「山崎の戦い」には兄藤田行政と共に参陣するが討死した。

藤田秀行【ふじたひでゆき(15??~1582)】

藤田行政の男。通称伝兵衛。1582年「山崎の戦い」には父藤田行政と共に参陣するが討死した。

古川久介【ふるかわひさすけ(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

古川九兵衛【ふるかわきゅうべい(15??~15??)】

明智光秀家臣。明智(足軽大将)三羽鴉のひとり。

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【ま】

牧野成里【まきのしげさと(1556~1614)】

滝川一益家臣。牧野成継の男。官途は伊予守。通称伝蔵。羽柴秀次に仕えた若江八人衆のひとり。はじめ滝川一益に仕え、滝川一益が没落した後は織田信雄に仕えたが、織田信雄も没落したため、長谷川秀一の家臣となる。しかし長谷川秀一も「文禄の役」で陣没したため、羽柴秀吉の命令で長谷川秀一代理として長谷川勢を指揮を取った。その功績を羽柴秀吉から評価され、日本に帰国した後は羽柴秀吉の甥羽柴秀次の家臣となった。1595年「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃すると、石田三成家臣となった。1600年「関ヶ原の役」では石田隊の武将として参陣したが、石田三成が敗北すると池田輝政のもとに落延びた。1603年、松平元康より罪を許され馬廻衆として松平家に仕え下野国簗田に3,000石を領した。

松浦九兵衛門【まつうらきゅうえもん(15??~15??)】

柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳の戦い」後の北ノ庄城の守備に付いたが落城討死した。

松原直元【まつばらなおもと (15??~15??)】

丹羽長秀家臣。通称五郎兵衛尉。丹羽長秀の家臣で5,000石を領した。丹羽家減封後、佐々成政に仕えた。佐々成政の長女随星院を娶る。肥後国人一揆平定の戦いで奮戦し「鬼松原」の異名をとり、肥後侍から恐れられた。佐々家改易後、室とその妹、岳星院を伴い浪人。京都所司代前田玄以を便り、羽柴秀吉に仕官。黄母衣衆に加えら600石を領した。1592年「文禄の役」では肥前名護屋城に在番した。男子がなく、岳星院の子佐々重勝を婿養子に迎えた。

松原伊賀守【まつばらいがのかみ(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。越前の豪族。丹羽長秀の妹婿(丹羽長政の娘)。

溝尾茂朝【みぞおしげとも(1538~1582)】

明智光秀家臣。通称庄兵衛。別名明智茂朝。明智家五宿老のひとり。明智光秀が織田信長に仕える以前から、明智光秀に仕えた。明智光秀の側近として常に補佐役を務めた。1582年、明智光秀に従って松平元康の接待役を務めた。「本能寺の変」でも織田信長を討つことを賛成した。「山崎の戦い」にも参陣し、一番の中備を務めたが、敗れて明智光秀と落延びた。明智光秀が百姓によって重傷を負わされると、明智光秀の介錯を務めた。そして明智光秀の首を近江の坂本城にまで持ち帰った後、自刃した。

溝口秀勝【みぞぐちひでかつ(1548~1610)】

丹羽長秀家臣。溝口勝政の男。官途は伯耆守。別名金右衛門尉定勝。室は長井源七郎の娘(瑞雲院)。若年より丹羽長秀に仕えた。1581年、織田信長からその才能を見出され、直臣として若狭国大飯郡高浜城5,000石を与えられた。1582年「本能寺の変」で織田信長が横死した後は、羽柴秀吉の麾下に属した。1583年「賤ヶ岳の戦い」後、越前国北ノ庄城に入封した丹羽長秀の寄騎衆として、加賀国江沼郡大聖寺城44,000石を領した。1585年、丹羽長秀が病没し、丹羽長重が家督を継いで北ノ庄城となるが若狭国に転封となり、代わって北ノ庄城に入封した堀秀政麾下の寄騎衆とし引き続き配属された。1592年「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。1598年、越後国蒲原郡新発田城60,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では東軍に与し、越後国において長尾景勝が煽動する一揆の鎮圧に努めた。戦後、松平元康から所領を安堵された。

溝口宣勝【みぞぐちのぶかつ(1582~1628)】

溝口秀勝の男。はじめ父溝口秀勝と共に羽柴秀吉に仕えた。1600年「関ヶ原の役」に際しては、長尾景勝に扇動された越後一揆を父溝口秀勝とともに制圧した。1610年、父溝口秀勝の病没により溝口家の家督を相続した。溝口家は60,000石の大名であったが、溝口宣勝は相続にあたって弟溝口善勝に12,000石を分与して別家を建てさせた(2,000石分は新田開発によるもの)。その後も溝口宣勝は積極的な新田開発を行ない15,500石の新田を開いた。1615年「大坂夏の陣」では松平忠輝の麾下に属した。

溝口善勝【みぞぐちよしかつ(1584~1634)】

溝口秀勝の次男。はじめ父溝口秀勝と共に羽柴家に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では東軍に与し、役後は松平秀忠の家臣となった。1610年、父溝口秀勝が病没して溝口家の家督は兄溝口宣勝が相続した。兄溝口宣勝から12,000石を分与され、それまで領していた2000石と合わせて14,000石を領した。1614年「大坂冬の陣」においては松平方に与し、土井利勝の寄騎衆として戦功を挙げた。1627年、大坂城の守備を務めた。

溝口糸姫【みぞぐちいとひめ(15??~1636)】

溝口秀勝の五女。別名秋香院。家臣の溝口盛政(700石)に嫁ぎ五人の子をもうけた。糸姫の死後、溝口盛政は柿本正方の娘を継室に迎えた。

溝口富介【みぞぐちとみすけ(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

箕浦新左衛門【みのうらしんざえもん(15??~15??)】

明智光秀家臣。通称大内蔵。明智(足軽大将)三羽鴉のひとり。のち羽柴秀長、浅野長政に仕えた。

三宅秀朝【みやけひでとも(15??~15??)】

明智光秀家臣。官途は式部大輔。美濃時代からの家臣。1556年「明智城の戦い」で明智城に籠城した。「本能寺の変」の際には京都の仮所司を務めた。

三宅業朝【みやけよりとも(15??~15??)】

明智光秀家臣。官途は周防守。1582年「本能寺の変」後は明智秀満の寄騎衆として「近江討伐」に従った。

三宅重利【みやけしげとし(1580~1637)】

明智秀満の男。通称は藤兵衛。1582年「本能寺の変」の時は勝竜寺城の留守居役だったが「山崎の戦い」後に細川家に保護される。のちに細川家を辞去し、寺沢堅高に仕えた。キリシタンだったが棄教し「島原の乱」では富岡城代として天草四郎率いる一揆勢と幕府方として戦い討死した。

村上義明【むらかみよしあき(15??~1604)】

丹羽長秀家臣。官途は周防守。通称次郎右衛門尉。別名村上頼勝。はじめ丹羽長秀に仕えた。1585年、丹羽長秀が死去すると、丹羽家のもとから去って羽柴秀吉の直臣となり、加賀国能美郡で65,000石を領した。その後、羽柴秀吉の命で堀秀政、堀秀治の寄騎大名となり「九州征伐」「小田原の役」に参陣した。1598年、越後国本庄城90,000石に転封された。1600年「関ヶ原の役」では東軍に与して越後国に在国し、国内で起こった長尾景勝の旧臣による一揆鎮定に務めた。その戦功により役後、松平元康から所領を安堵された。村上義明には男子がなく、はじめ堀秀政の男掘(村上)義忠を養子として貰い受けたが早世したため、娘婿戸田内記の子戸田(村上)忠勝を養子にした。内記室は後に織田忠辰に嫁したという。

村上忠勝【むらかみただかつ(15??~1623)】

丹羽長秀家臣。戸田内記の男。村上義明の養子。官途は周防守。室は花井吉成の娘。1616年、村上家の家督を相続した。1618年、家臣の魚住角兵衛が暗殺され、その黒幕が家老高野権兵衛ではとの風評が立ち論争となる。幕府に報告して裁決されたが、騒動が収まらず家中の論争が多いとの理由で改易された。捨扶持300石を与えられて丹波国篠山に流罪とされ、松平康重に預けられた。林八郎右衛門ら家臣20数名が同地に従った。

村本甚五兵衛【むらもとじんごへい(15??~1583)】

明智光秀家臣。1583年「賤ヶ岳の戦い」に敗戦後の北庄城の守備した。

毛受免受【めんじょうめんじょう(15??~1583)】

柴田勝家家臣。毛受照昌の男。通称茂左衛門。毛受勝照の兄。1583年「賤ヶ岳の戦い」に弟毛受勝照とともに討死した。

毛受勝照【めんじょうかつてる(15??~1583)】

柴田勝家家臣。毛受照昌の次男。柴田勝家の小姓として取り立てられ、後に小姓頭となり10,000石を領した。1571年「伊勢長島城の戦い」で、柴田勝家勢の馬印が一揆勢に奪われるという事態に陥った。馬印を奪われたままでは武門の恥と、死を覚悟して羽柴勝家は突入を試みたが、家臣に諌められた。その間に毛受勝照は敵陣に突入し、見事馬印の奪還に成功した。1575年「越前侵攻」に参陣した。1580年、加賀平定報告の使者を勤める。1583年「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家勢が敗れ、柴田勝家が討死を覚悟すると、退却を進言する。自らは時間稼ぎの為に兵200を率いて柴田勝家の馬印「金の御弊」を掲げ、柴田勝家の身代わりとなる。羽柴秀吉勢の大軍を惹きつけ果敢に応戦、勝家の逃走時間を十分に稼いだとみて兄毛受免受とともに討死した。

森勘解由【もりかげゆ(15??~1582)】

明智光秀家臣。美濃時代の家臣。明智光秀家臣。官途は修理。美濃時代からの家臣。1582年「山崎の戦い」で討死した。

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【や】

安田国継【やすだくにつぐ(1556~1597)】

明智光秀家臣。通称源右衛門。別名安田作兵衛。明智(足軽大将)三羽鴉のひとり。明智光秀配下の斎藤利三の家臣。「本能寺の変」では、先鋒として京都に進出。織田信長を槍で攻撃し、行く手を阻んだ森成利(蘭丸)に十文字槍で下腹部を突かれるも討ち取る功を挙げた。「山崎の戦い」で敗走し、天野源右衛門と改名して浪人する。羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷と仕えたがいずれも長続きせず浪人した後、かつて討った森成利の兄である森長可に仕えた。「小牧、長久手の戦い」には同行せず、森長可が討死すると森家を出奔し再び浪人した。その後、立花宗茂に仕え「九州征伐」では立花勢に属して戦功を挙げた。1592年「文禄、慶長の役」では朝鮮に出陣し、羽柴家へ使者として立った。最後は寺沢広高に仕え、8,000石を領した。著書に『立花朝鮮記』がある。

山路正国【やまじまさくに(1546~1583)】

山路正幽の三男。柴田勝家家臣。通称に将監。織田信長の重臣である柴田勝家の家臣として仕え、織田信長没後の清洲会議で近江長浜城主となった柴田勝家の養子柴田勝豊の家老として仕えた。1582年、羽柴秀吉の攻撃を受けて、柴田勝豊と共に羽柴秀吉に降伏した。1583年「賤ヶ岳の戦い」では、病気のために出陣できない柴田勝豊に代わって軍を率いて羽柴方として参戦した。佐久間盛政の調略を受けて柴田方に寝返った。その後、佐久間盛政の部隊の一員として共に羽柴勢に奇襲をかけて一時は成功したものの、羽柴秀吉の反撃を受けて佐久間勢は壊滅し、山路正国は羽柴秀吉家臣加藤清正に討取られた。

山田高定【やまだとかさだ(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。官途は修理介。斯波家旧臣。丹羽長秀の娘婿。溝口秀勝とともに家老職を務めた。

山田大兵衛【やまだだいべい(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

山中長俊【やまなかながとし(1547~1607)】

丹羽長秀家臣。山中為俊の男。官途は山城守。甲賀二十一家の山中家の庶流。はじめ六角家に仕えた。1568年、織田信長によって六角義賢が居城を追われた際は甲賀郡に保護して織田信長と抗戦した。1573年、石部城に籠城、包囲軍の佐久間信盛家臣林寺熊之介を討ち、六角義賢から感状を受けた。1574年、石部城が開城すると、六角家を去って織田家臣となり、柴田勝家に属し3,000石を領した。北陸方面での攻略においては柴田勝家の発給文書に副状を添えたり、河田長親の誘降工作を担当した。1583年、柴田勝家が「賤ヶ岳の戦い」によって滅びたのちは丹羽長秀に仕えた。丹羽長秀の没後、丹羽家中が乱れた為、堀秀政に寄食した。1585年、羽柴秀吉に召し出され右筆となる。1590年「小田原の役」「奥州仕置」に参陣し、外交折衝などで活躍した。1592年「文禄の役」では肥前国名護屋城に在陣した。1593年、羽柴家蔵入地の越前国北袋銀山代官、筑前国蔵入地代官職に任じられた。1595年、摂津国西三郡等で10,000石を領した。その後、畿内の羽柴家の蔵入地30,000石の代官となった。1600年「関ヶ原の役」の際は西軍に属し大坂城留守居。守備隊として大坂城周辺を守備した。この為、戦後に改易となった。著書に『中古日本治乱記』がある。

吉田次兵衛【よしだじへい(15??~15??)】

柴田勝家枝連衆。柴田勝豊の実父。柴田勝家の姉を娶った。草履取りから越前丸国城45,000石まで出世した。柴田勝豊に家督を譲り隠居した。

吉田弥左衛門【よしだよざえもん(15??~15??)】

吉田次兵衛枝連衆。通称八左衛門。

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【資料Ⅰ】

調査中。

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【資料Ⅱ】


明智家五家老【あけちけごかろう】

斎藤利三、溝尾茂朝、明智秀満。

明智家三羽鴉【あけちけさんばからす】

安田作兵衛、古川九兵衛、箕浦大蔵丞。

織田家四家老【おだけよんかろう】

柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には居城の名を入れています。資料Ⅰは国、郡の石高、城郭、街。資料Ⅱは集団についての説明。資料Ⅲは国の詳細説明になっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※徳川家康は松平元康に、豊臣秀吉は羽柴秀吉、斎藤道三は長井規秀、稲葉一鉄、稲葉良通はに名前を統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2011年11月23日水曜日

戦国越前国人名辞典

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【あ】

青木景康【あおきかげやす(15??~15??)】 

朝倉孝景家臣。青木康延の男。官途は上野介。府中奉行職を務め、南条郡、今立郡、丹生郡の段銭や棟別銭、夫役や臨時の諸役を徴収した。1529年、今立郡日尾郷の用水争いの訴えを裁決した。1553年、坂井郡内に棟別銭を課した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

青木康忠【あおきやすただ(15??~1573)】

青木景康の男。官途は上野介。1568年、朝倉義景のもとに落延びた足利義昭の警護役を務めた。1570年、「第一次越前討伐」では、朝倉義景に従って参陣して織田信長勢と戦った。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

青木康延【あおきやすのぶ(15??~15??)】

朝倉氏景家臣。官途は隼人佐。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

阿波賀景賢【あばがかげかた(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。朝倉高景の男。通称小三郎。1575年、「鉢伏城の戦い」で織田信長勢の攻撃を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

阿波賀藤四郎【あばがとうしろう(15??~15??)】 
 
朝倉孝景家臣。御能役者。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

阿波賀大膳【あばがだいぜん(15??~15??)】 

朝倉孝景家臣。「吉田神道伝授」を吉田兼右に申し出た。

阿波賀権少副【あばがごんしょうふく(15??~15??)】 

阿波賀大膳の男。
 
阿波賀四郎左衛門尉【あばがしろうざえもんのじょう(15??~15??)】 

朝倉孝景家臣。

赤座直則【あかざなおのり(15??~15??)】 

朝倉孝景家臣。

赤座直保【あかざなおやす(15??~1606)】

赤座直則の男。官途は備後守。通称久兵衛。1573年、織田信長に従った前波吉継勢に属した。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に従って本領を安堵された。1590年、「忍城の戦い」では、石田三成勢に属して戦功を挙げ越前今庄城20,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢に属して大谷吉継とともに北陸地方を転戦した。小早川秀秋が松平元康勢に寝返ると、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠らとともに内応して大谷吉継勢を壊滅させた。役後、改易処分に処された。前田利長に仕えて松任城7,000石を領した。1606年、越中大門川の氾濫の検分中濁流に呑まれて溺死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤座孝治【あかざたかはる(15??~1660)】

赤座直保の男(永原重治の養子)。通称右京。別名永原孝治。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に三ノ丸御番衆御馬廻組で長束直吉の率いる三番組に属した。1600年、「関ヶ原の役」後、父赤座直保が前田利長に仕えるとこれに従い加賀国に赴いた。1606年、赤座直保が越中大門川の氾濫の検分中に溺死すると松任城代職と7,000石を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、前田利常に従って参陣したが、真田信繁勢の攻撃を受け撤退した。

朝倉貞景【あさくらさだかげ(1473~1512)】

足羽郡一乗谷城主。朝倉氏景の男。越前国守護職。官途は弾正左衛門尉。通称孫次郎。室は斎藤利国の娘。1486年、父朝倉氏景の病没したため、朝倉惣領家の家督を相続した。1487年、「長享の乱」では、足利義尚の意向を受け陣代の朝倉景冬を派遣して六角高頼勢と戦った。1493年、「明応の政変」では、細川政元を支援して足利義材を捕縛する戦功を挙げた。1503年、「朝倉景豊の乱」では、朝倉景豊が謀反を起こしたが朝倉教景とともにこれを鎮圧した。1506年、「九頭竜川の戦い」では、越前国に侵攻した加賀、越中、能登国の一向一揆勢と戦いこれを撃退した。

朝倉孝景【あさくらたかかげ(1493~1548)】

朝倉貞景の男。官途は弾正左衛門尉。通称孫次郎。室は武田元信の娘(光徳院)。1512年、父朝倉貞景の病没したため、朝倉惣領家の家督を相続した。朝倉教景の補佐を受け、加賀国の一向一揆と戦い勢力の拡大を図った。武田元光、浅井亮政、土岐政頼らを支援して各国の守護家や諸勢力に軍事的優位性、政治的影響力を確保した。1517年、丹後国の守護代延永春信が武田元光から離反して若狭国を攻撃すると、朝倉教景を派遣してこれを撃退した。1526年、「山城七条の戦い」で足利義晴、細川高国、武田元光らが三好元長勢に敗退すると、朝倉教景を派遣して足利義晴勢を支援した。1529年、細川晴元に逐われた細川高国を支援した。1535年、後奈良天皇の践祚の大礼に一万疋を献上した。1537年、大覚寺義俊の仲介で五ヶ条の条件を提示して本願寺証如との和議を図った失敗に終わった。1537年、「美濃篠脇城の戦い」で東常慶を攻撃したが撃退された。参考文献:『戦国時代人物辞典(歴史群像編集部編)』by学研。

朝倉義景【あさくらよしかげ(1533~1573)】

朝倉孝景の男。官途は左衛門督。通称孫次郎。別名朝倉延景。室は細川晴元の娘。継室は近衛稙家の娘。1548年、父朝倉孝景の病没により朝倉惣領家の家督を相続した。叔父朝倉教景を陣代に加賀国、越前国の一向一揆勢と戦った。1564年、朝倉景鏡を加賀国に派遣して一向一揆勢と戦ったが平定することはできなかった。1566年、三好三人衆、松永久秀に追われた足利義昭を保護した。1570年、「第一次越前討伐」では、浅井長政が織田信長から離反して織田信長勢の背後から攻撃するが、織田信長を討取ることはできなかった。「姉川の戦い」では、浅井長政を支援するために朝倉景健を派遣したが、織田信長、松平元康勢と戦い敗退した。1573年、「刀禰坂の戦い」で壊滅的損害を受け、大野郡へ落延びたが朝倉景鏡が離反したため、賢松寺で自刃した。参考文献:『戦国時代人物辞典(歴史群像編集部編)』by学研。

朝倉阿君【あさくらくまぎみ(1562~1568)】

朝倉義景の男。1562年、朝倉義景と鞍谷嗣知の娘小宰相の長男として生まれた。1568年、阿君が病没すると、朝倉義景はこれを機に失意に陥り、政務を放棄して鬱々とした生活を送った。
 
朝倉愛王丸【あさくらあいおうまる(1570~1573)】

朝倉義景の次男。異母兄の阿君丸が早世していたため、朝倉義景から溺愛された。1573年、朝倉義景とともに大野郡賢松寺に落延びたが、朝倉景鏡の謀反に遭い捕らえられ織田信長に引き渡された。京へ送られる途中の今庄で謀殺された。

大野朝倉景高【あさくらかげたか(1495~1543)】 

大野郡戌山城主。朝倉貞景の次男。大野郡惣領職。官途は右兵衛尉。通称次郎左衛門。室は烏丸冬光の娘。1518年、美濃国の土岐政頼が朝倉孝景を頼って越前国に落延びてくるとこれを保護した。1519年、朝倉景高は土岐政頼を擁して兵3,000余り率いて美濃国に侵攻するも敗北した。後に朝倉孝景と対立して武田元光を頼り落延びた。1541年、朝倉孝景と対立関係にあった本願寺証如の支援を得ようとして「門徒になる、越前のうち三郡を寄進する、誓紙を差し出す」とゆう三つの提案を示したが、本願寺証如に拒否され、西国に落延びた。公家の娘を室とし、公家や将軍家との文化交流盛んな風流人でもあった。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大野朝倉景鏡【あさくらかげあきら(1525~1574)】

朝倉景高の男。官途は式部大輔。通称孫八郎。別名土橋信鏡。1541年、父朝倉景高が越前国を追われた後も枝連衆筆頭の地位を維持した。1568年、朝倉義景が足利義昭、二条晴良を招いて宴席の席次は朝倉景鏡、朝倉景健、朝倉景尚、朝倉景盛の順だった。1564年、加賀国に参陣中に内紛が起きて朝倉景光が謀殺されると、朝倉景紀と朝倉景鏡の家中の勢力争いが拡大した。1570年、「第一次越前侵攻」では、浅井長政勢の退路を遮断により孤立した織田信長勢をを追撃した。「姉川の戦い」では、朝倉景健に従って参陣したが織田信長、松平元康勢と戦い大敗した。「坂本の戦い」では、森可成、織田信治、青地茂綱、坂井政尚らを討取る戦功を挙げた。1573年、「刀禰坂の戦い」では、織田信長勢の追撃を受け壊滅的打撃を被った。朝倉義景を自刃に追い込み織田信長に降伏した。1574年、一向一揆勢の攻撃を受け平泉寺で主従三騎になるまで戦い、多数の敵中に突撃して討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大野朝倉景次【あさくらかげつぐ(15??~15??)】

朝倉景高の次男。

大野朝倉存重【あさくらありしげ(1545~1615)】

朝倉景高の三男。父朝倉景高が叔父の朝倉孝景との抗争に敗れて没落すると、西国に落延びた朝倉景高に対して朝倉存重は駿河国に落延びた。その後中村一氏に仕え、さらに松平元康に仕えた。

大野朝倉宣正【あさくらのぶまさ(1573~1637)】

朝倉存重の男。官途は筑後守。通称藤十郎。別名「上田七本槍の一人」。1589年、「小田原の役」では、松平元康に従って参陣して北条氏直勢と戦った。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸勢と戦い戦功を挙げたが、軍律違反の罪に問われた。1614年、「大坂冬の陣」では、江戸城留守居役を務めた。1625年、松平忠長の駿河附家老職に任じられ駿河掛川城26,000石を領した。1631年、松平忠長が蟄居となると、松平忠行に預かりとなった。

敦賀朝倉景冬【あさくらかげふゆ(15??~1495)】

朝倉家景の四男。官途は遠江守。別名「小天狗」。1458年、「長禄の戦い」では、兄朝倉孝景とともに甲斐常治勢に属して斯波義敏勢と戦った。朝倉孝景が病没すると、甥の朝倉氏景を補佐した。1487年、「長享、延徳の乱」では、足利義尚に従って参陣して六角高頼勢と戦い戦功を挙げた。1490年、足利義政の東山山荘に仙洞御所の松を移植する奉行を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

敦賀朝倉景豊【あさくらかげとよ(15??~1503)】

朝倉景冬の男。敦賀郡司職。通称孫四郎。室は朝倉景総の娘。1495年、父朝倉景が病没したため鶴賀朝倉家の家督を相続した。1503年、「敦賀城の戦い」では、父の朝倉景総が結んで朝倉貞景に謀反を企てたが、露見して朝倉貞景勢の攻撃を受け自刃した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

敦賀朝倉教景【あさくらのりかげ(1477~1555)】

敦賀郡敦賀城主。朝倉孝景の男。敦賀郡惣領職。通称太郎左衛門。別名朝倉宗滴。1503年、兄朝倉景総が朝倉景豊と結んで朝倉貞景に謀反を起こすと、朝倉景豊を討取り、朝倉景総を加賀国に追落した。1504年、朝倉景総の攻撃を受けるが撃退した。1506年、「九頭竜川の戦い」で本泉寺蓮悟の率いる加賀一向一揆勢を撃破った。1517年、若狭武田元光を支援して丹後国の守護代延長春信勢を撃破った。1525年、浅井亮政を支援して六角定頼勢を撃破った。1523年、加賀国へ侵攻して一向一揆勢と戦ったが敗退した。1527年、「山城泉乗寺の戦い」で細川晴元勢を支援して三好元長を撃破した。1531年、加賀国へ侵攻して一向一揆勢を撃破った。1544年、美濃国へ参陣した織田信秀とともに長井規秀を攻撃するが敗退した。1548年、朝倉孝景が病没して朝倉義景が家督を相続するとこれを補佐した。1555年、「加賀小松城の戦い」で、加賀一向一揆勢を破ったが陣中で病没した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

敦賀朝倉景紀【あさくらかげとし(15??~1572)】

朝倉貞景の四男(朝倉教景の養子)。通称九郎左衛門。1527年、「山城泉乗寺の戦い」で養父朝倉教景とともに足利義晴、細川晴元を支援して三好元長勢を撃破した。「東寺の戦い」では、三好元長勢らを撃退する戦功を挙げた。1531年、「湊川の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。1555年、「加賀小松城の戦い」で朝倉教景が病没すると敦賀朝倉家の家督を相続した。1561年、若狭国で武田義統に謀反を起こした栗屋勝久、逸見昌経を撃破った。1570年、「姉川の戦い」では、朝倉景健に従い松平元康勢と戦うが本多忠勝、榊原康政勢の猛攻により敗走した。文芸面では連歌を好み、京都滞陣中に三条西実隆らと交流を持った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

敦賀朝倉景光【あさくらかげみつ(15??~1564)】

朝倉景紀の男。通称太郎左衛門。1558年、父朝倉景紀から敦賀朝倉家の家督を相続した。1561年、武田義統に謀反を起こした逸見昌経、栗屋勝久らを鎮圧した。1564年、「加賀侵攻」で朝倉景隆、朝倉景鏡らと意見の対立があり陣中で自刃した。

敦賀朝倉景恒【あさくら かげつね(15??~1571)】

朝倉景紀の次男。官途は中務大輔。別名「松林院鷹瑳」。1564年、兄朝倉景光が陣中での口論の末に自刃した後に、還俗して敦賀郡惣領職を務めた。1566年、足利義昭が越前国に落延びると敦賀城に迎え歓待した。足利義昭が一乗谷に移ると、父朝倉景紀とともに朝倉景鏡と席次を争った。1568年、足利義昭が織田信長を頼りに岐阜に向かうと、前波景当とともに近江国まで足利義昭の警固役を務めた。1570年、「金ヶ崎城の戦い」では、金ヶ崎城に籠城するが織田信長勢の降伏勧告を受け入れ開城した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

敦賀朝倉貞紀【あさくらさだのり(15??~15??)】

朝倉景紀の三男。

敦賀朝倉道景【あさくらみちかげ(1558~1573)】

朝倉景恒の男。通称彦四郎。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。

足羽朝倉経景【あさくらさつねかが(1538~1591)】

足羽郡安居城主。足羽郡惣領職。官途は下野守。通称与三右衛門尉。1458年、「長禄の戦い」では、兄朝倉孝景を補佐して戦った。1468年、京都に甥朝倉氏景を残して、朝倉孝景、朝倉光玖、朝倉景冬らとともに越前国に帰還した。1471年、朝倉孝景が東軍に寝返り、越前国の国内平定に乗り出すとこれに従った。朝倉孝景の病没後は朝倉氏景を補佐した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

足羽朝倉景職【あさくらかげもと(1484~1535)】

朝倉経景の男。通称与三右衛門尉。室は朝倉貞景の長女(北殿)。北殿を室に迎えたことで、朝倉枝連衆の中でも高い地位を得た。1506年、「九頭竜川の戦い」では、朝倉教景に属して兵3,800余りを率いて一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。 1513年、笛の名人であった彦兵衛より秘伝書「遊舞集」を授かった。1517年、若狭国逸見家の叛乱の際、朝倉教景とともに参陣し、大飯郡高浜城の番代を務めた。1525年、美濃内乱時に土岐頼武救援のため総大将として参陣し稲葉山城へ兵を進め内乱を鎮圧した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

足羽郡朝倉景隆【あさくらかげたか(1508~1570)】

朝倉景職の男。通称右兵衛尉。猛将。1555年、「加賀小松城の戦い」で朝倉教景が病没すると、その陣代を務めた。1564年、朝倉景鏡とともに総大将となって加賀国に参陣した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

足羽朝倉景健【あさくらかげたけ(15??~1575)】

朝倉景隆の四男。通称孫三郎。別名安居景高。室は朝倉義景の娘。1570年、「第一次越前侵攻」では、朝倉景鏡とともに織田信長勢と戦った。「姉川の戦い」では、朝倉義景勢を率いて織田信長勢と戦うが敗退した。「志賀の陣」で森可成、青地茂綱、織田信治らを討取る戦功を挙げた。1573年、「刀禰坂の戦い」では、朝倉義景を落延びさせるため殿を務めたが、織田信長勢の追撃を受け降伏した。1574年、富田長繁が一向一揆勢と結んで織田信長に謀反を起こすと、北ノ庄に派遣されていた織田信長家臣木下祐久、津田元嘉らの京都退去させた。1574年、富田長繁が一向一揆勢と対立すると、一向一揆勢と結び富田長繁を討取った。1575年、織田信長勢の反撃を受け一向一揆勢が敗退すると、下間頼照、下間頼俊らの頸級を持って降伏するが許されず、斬頸に処された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

丹生朝倉景延【あさくらかげのぶ(14??~15??)】

丹生郡織田城主。朝倉貞景の六男。官途は兵庫助。通称孫十郎。1504年、南条郡今泉浦での道普請につて進言を行った。

丹生朝倉景綱【あさくらかげつな(15??~15??)】

朝倉景延の男。官途は兵庫助。別名織田景綱。1570年、「第一次越前侵攻」では、河野口を守備して織田信長勢と戦った。1573年、「刀禰坂の戦い」では、朝倉義景の意向を無視して織田城に退却した。「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長に降伏した。1574年、「長泉寺城の戦い」では、一向一揆勢に属して富田長秀を攻滅ぼした。「織田城の戦い」では、織田信長勢に属したため、七里頼周勢の攻撃を受け落延びた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

三留朝倉景儀【あさくらかげのり(15??~15??)】

丹生郡三留館主。朝倉孝景の次男。通称九郎左衛門。兄朝倉時景の没落後、丹生郡三留館主を務めた。雷沢宝俊を開山として霊泉寺を開いた。

三留朝倉景冬【あさくらかげふゆ(15??~1555)】

朝倉景儀の男。通称孫六郎。1555年、「加賀小松城の戦い」で朝倉教景に従って参陣したが討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

三留朝倉景信【あさくらかげのぶ(15??~1574)】

朝倉景冬の男。通称孫六郎。1555年、「加賀小松城の戦い」で父朝倉景冬が討死したため、三留朝倉家の家督を相続した。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると織田信長勢に属した。1574年、「三留館の戦い」で一向一揆勢の攻撃を受けて討死した。

三富朝倉景近【あさくらかげちか(15??~15??)】

朝倉景純の男。朝倉孝景家臣。別名月浦宗市。朝倉景尚が朝倉家の家督を相続した。

三富朝倉景尚【あさくらかげなお(15??~15??)】

朝倉景純の次男。官途は次郎左衛門尉。通称又三郎。兄朝倉景近の跡を受けて家督を相続した。足利義昭が一の谷城を訪ねた際、席次の三番目に位置した。

三富朝倉景盛【あさくらかげもり(15??~1574)】

朝倉景尚の男。官途は出雲守。通称孫六郎。朝倉左近助の男。官途は出雲守。通称孫六郎。1568年、朝倉義景が足利義昭、二条晴良を招いて宴席の列席した。1568年、越前国に落延びた足利義昭に謁見した。 1572年、織田信長勢への夜襲を成功させたが、戦局的な勝利に終わった。1573年、「一乗谷の戦い」で朝倉義景が討死すると、織田信長勢に属した。朝倉景鏡、朝倉景健とともに上洛して、織田信長に謁見した。1574年、富田長繁が一向一揆と結び織田信長に謀反を起こすと、これと戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

三富朝倉景茂【あさくらかげもり(15??~15??)】

朝倉景盛の男。

坂井朝倉氏景【あさくらうじかげ(15??~15??)】

坂井郡朝倉山城主。

坂井朝倉貞景【あさくらさだかげ(15??~15??)】

朝倉氏景の男。

坂井朝倉景宗【あさくらかげむね(15??~15??)】

朝倉氏景の次男。官途は玄蕃助。朝倉貞景に仕え、一乗谷奉行職を務め、北陸各地を転戦した。

坂井朝倉景連【あさくらかげつら(15??~1566)】

朝倉景宗の男。官途は玄蕃充。前波景定、小泉長利、河合吉統らとともに朝倉義景の奉行職を務めた。1555年、「加賀津葉城の戦い」で朝倉教景に従って参陣して戦功を挙げた。1561年、朝倉義景が大窪浜で催した犬追物に参加した。1562年、大覚寺義俊を慰問する曲水宴に参列した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

坂井朝倉景胤【あさくらかげたね(15??~1575)】

朝倉景連の男。景泰の兄。通称三郎。1573年、「一乗谷の戦い」で朝倉義景が討死すると、織田信長勢に属した。1574年、富田長繁が一向一揆と結び織田信長に謀反を起こすと、朝倉景健とともにこれに属した。1575年、織田信長勢の反撃を受けると、一揆の頭目の頸を持って降伏するが、許されず斬頸に処された。

坂井朝倉景泰【あさくらかげやす(15??~15??)】

朝倉景連の次男。通称七郎。1573年、「一乗谷の戦い」で朝倉義景が討死すると、織田信長勢に属した。朝倉景鏡、朝倉景健らとともに、上洛して織田信長に謁見した。1574年、越前国の一向一揆には参陣しなかった。

土佐朝倉景範【あさくらかげのり (15??~15??)】

朝倉景光の男。官途は土佐守。1506年、「九頭竜川の戦い」で、朝倉教景の戦いに敗れた一向一揆勢だったが、再び越前国に侵攻してきた。朝倉景範は豊原口で一揆勢と戦い、これを撃破した。

土佐朝倉景行【あさくらかげゆき(15??~1573)】

朝倉景範の男。官途は土佐守。北ノ庄城主。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉教景勢に大敗した一向一揆勢が再度侵攻すると、朝倉景行が撃退した。1568年、織田信長の上洛要請に反対した。1570年、織田信長勢が越前国に侵攻すると兵2,000余りを率いて参陣した。1573年、「刀禰坂の戦い」で羽柴秀吉勢の追撃を受け討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

朝倉景総【あさくらかげふさ(14??~1505)】

朝倉孝景の四男。官途は弾正忠。通称孫五郎。別名朝倉元景。1484年、朝倉教景を謀殺したため、叔父の朝倉光玖勢の攻撃を受けた。1496年、「美濃船田の戦い」では、朝倉貞景勢を率いて参陣した。越前国を離れ京都の細川政元に仕えた。1503年、朝倉景豊、朝倉教景らとともに朝倉貞景に謀反を企てたが失敗に終り加賀国に落延びた。1504年、加賀一向一揆勢の支援を受け、朝倉貞景勢と戦ったが敗れて能登国に落延びた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

朝倉光玖【あさくらこうきゅう(1440~1494)】

朝倉家景の五男。別名慈視院光玖。京都の臨済宗建仁寺の僧。1461年、兄朝倉孝景の代官として坪江、河口庄で段銭徴収を行った。1489年、洞雲寺に大野郡鍬懸、弘名の所領を安堵した。大野郡司に任じられ越前国内平定勢に尽力、朝倉孝景が病没すると、甥の朝倉氏景の補佐した。養子に迎えていた甥の朝倉教景が、朝倉景総に謀殺されると、朝倉景総と戦ったが後に和議を結んだ。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

朝倉時景【あさくらときかげ(15??~15??)】

丹生郡織田城主。朝倉孝景の六男。通称孫七郎。父朝倉孝景と対立して没落した。

朝倉之景【あさくらゆきかげ(15??~15??)】

朝倉時景の男。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、北条氏政に仕えた。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると備前国に移住した。

朝倉政景【あさくらまさかげ(15??~15??)】

朝倉秀景の男。

朝倉政元【あさくらまさもと(1546~1629)】

朝倉政景の男。官途は右京進。通称彦四郎。1573年、「一乗谷の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、北条氏政に仕えた。伊豆衆として鎌田館を領していた。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、羽柴秀次に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して改易処分に処された。1603年、松平元康に仕えた。紀州松平頼宣に仕え、後に水戸松平頼房に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝倉政明【あさくらまさあき(15??~16??)】

朝倉政元の男。松平秀忠の馬廻衆となり500石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝倉信景【あさくらのぶかげ(1571~1652)】

朝倉義景の三男。1573年、「一乗谷城の戦い」で父朝倉義景が滅亡すると、本願寺教如のもとに落延びた。1628年、武蔵国遍立寺を建立して、本願寺宣如より本尊を譲り受けて住職となった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

敦賀朝倉景嘉【あさくら かげよし(1534~15??)】

朝倉義景家臣。官途は修理亮。1568年、足利義昭の警固役を務めた。1570年、伊勢神宮に参拝して田地を寄進した。1573年、「一乗谷城の戦い」で浅倉義景が滅亡すると、長尾景虎に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝倉与三【あさくらよぞう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称与三郎。1574年、朝倉景健とともに一向一揆勢に属した。1575年、織田信長勢の柴田勝家、丹羽長秀の攻撃を受けた。

朝倉駿河守【あさくらするがのかみ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷の戦い」で朝倉義景が討死すると、織田信長勢に属した。

朝倉大炊助【あさくらおおいのすけ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。官途は近江守。1573年、「一乗谷の戦い」で朝倉義景が討死すると、織田信長勢に属した。

朝倉近江守【あさくらおうみのかみ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従って参陣したが織田信長勢の攻撃を受けると降伏した。

朝倉景梁【あさくらかげむね(15??~15??)】

朝倉義景家臣。官途は掃部助。別名「紹空」。奉行人を務めた。

朝倉掃部助【あさくらかもんおすけ(15??~1573)】

朝倉景梁の男。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従って参陣したが織田信長勢と戦い討死した。

朝倉景郡【あさくらかげ(15??~15??)】

朝倉貞景の三男。通称小太郎。
 
朝倉道郷【あさくらみちさと(15??~15??)】

朝倉貞景の五男。通称彦四郎。波多野庄を領した。
 
朝倉景均【あさくらかげさと(15??~15??)】

久嶽紹良の男。左近将監。
 
朝倉左近助【あさくらさこんのすけ(15??~15??)】

朝倉景均の男。
 
朝倉九郎兵衛【あさくらきゅうべい(15??~15??)】

朝倉景豊の男。
 
朝倉春蘭軒【あさくらしゅんらんけん(15??~15??)】

朝倉景豊の次男。
 
朝倉景純【あさくらかげずみ(15??~15??)】

朝倉景明の男。通称小次郎。
 
朝倉景近【あさくらかげちか(15??~15??)】

朝倉景純の男。
 
朝倉景尚【あさくらかげなお(15??~15??)】

朝倉景純の次男。官途は次郎左衛門尉。通称又三郎。
 
朝倉余六【あさくらよろく(15??~15??)】

朝倉景総の男。弟地蔵院が跡を継いだ。
 
朝倉地蔵院【あさくらじどういん(15??~15??)】

朝倉景総の次男。
 
朝倉貞紀【あさくらさだのり(15??~15??)】

朝倉景紀の末子。1573年、「一乗谷城の戦い」で浅倉義景が滅亡すると、前田利家の家臣青木信照に仕えた。

朝倉景善【あさくらかげよし(15??~15??)】

朝倉貞紀の男。
 
朝倉小七郎【あさくらこちちろう(15??~15??)】

朝倉孫九郎の男。

朝倉景伝【あさくらあげでん(15??~15??)】

朝倉景理の男。官途は越中守。通称玄番助。奉行職。
 
朝倉景亮【あさくらかげすけ(15??~15??)】

朝倉景儀家臣。
 
朝倉景良【あさくらかげよし(15??~15??)】

朝倉景亮の男。官途は兵庫介。

朝倉景澄【あさくらかげずみ(15??~15??)】

弘治元年、加賀敷地城の守将を務めた。

朝倉景亮【あさくらかげりょう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。官途は出雲守。
 
朝倉景満【あさくらかげみつ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。官途は左近充。奏者役を務めた。
 
朝倉治部丞【あさくらじぶのじょう(15??~1573)】

朝倉義景家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従って参陣したが織田信長勢と戦い討死した。

阿波賀小四郎【あばがしこしろう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1568年、朝倉義景が足利義昭、二条晴良を招いて宴席で1568年、朝倉義景が足利義昭、二条晴良を招いて宴席の席次は朝倉景鏡、朝倉景健、朝倉景尚、朝倉景盛の順だった笛を担当した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿波賀三郎【あばがさぶろう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1570年、朝倉義景が比叡山に在陣した際、織田信長勢と戦い、織田甲斐守ら1,500余りを討取った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

池田隼人助【いけだはやとのすけ(15??~1572)】

朝倉義景家臣。1572年、北近江国の浅井長政を支援するために朝倉景鏡に従って参陣した。織田信長勢に内通しようとしたことが発覚し陣中で斬頸され、遺児二人も越前国で斬頸にされた。

石来民部丞【いしきみんぶのじょう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が討死すると、広徳院を警護した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

石黒吉富【いしぐろよしとみ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称弥左衛門尉。朝倉家三奉行職を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

石黒冬信【いしぐろふゆのぶ(15??~15??)】

朝倉義冬家臣。通称又三郎。1487年、朝倉義冬に書状を送った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

伊勢左衛門尉【いせさえもんのじょう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。坂井郡帯刀館主。官途は帯刀。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

伊勢帯刀【いせたてわき(15??~15??)】

堀江景忠家臣。坂井郡清永館主。河北ノ衆。1506年、「九頭竜川の戦い」では、朝倉教景に従って参陣して加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。

一色治部大輔【いっしきじぶだいゆう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢の追撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

石徹白胤清【いとしろたねきよ(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。大野郡石徹白館主。

石徹白胤弘【いとしろたねひろ(15??~15??)】

石徹白胤清の男。官途は紀伊守。室は東常慶の娘。朝倉義景から美濃郡上八幡城への参陣を命じられたが、これに反発して朝倉義景から離反した。朝倉義景は石徹白胤弘を誘き寄せ謀殺した。

石徹白胤正【いとしろたねまさ(15??~15??)】

石徹白胤清の次男。

井上弥五郎【いのうえよごろう(15??~15??)】

朝倉氏景家臣。1479年、「金津の戦い」では、朝倉氏景に従って参陣したが佐々布光林坊らとともに討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

上田則種【うえだのりたね(15??~15??)】

朝倉教景家臣。通称三郎左衛門。敦賀奉行職を務めた。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。

上田紀勝【うえだとしかつ(15??~1570)】

上田則種の男。官途は兵部丞。三段崎紀存とともに敦賀奉行衆を務めた。1570年、「天筒山の砦」で織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『戦国時代人物辞典(歴史群像編集部編)』by学研。

上村内蔵助【うえむらくらのすけ(15??~15??)】

朝倉景盛家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」で竹内三助とともにの織田信長勢の陣営にて火を放ち、軍勢を混乱させた。朝倉義景勢は織田信長勢の陽動と誤認し、この好機を活かすことはできなかった。

魚住景宗【うおずみかげむね(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。魚住景貞の男。官途は備後守。一乗谷四奉行職を務めた。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。1517年、武田元光を支援する朝倉教景に従って丹波国に参陣した。1525年、浅井亮政を支援するために近江国へ参陣した。

魚住景栄【うおずみかげひで(15??~15??)】

魚住景宗の男。官途は左衛門尉。通称は帯刀。

魚住景固【うおずみかげかた(1528~1574)】

魚住景栄の男。官途は備後守。通称彦四郎。1567年、堀江景忠の謀反が噂されると、山崎吉家とともに鎮圧に赴いた。1570年、「姉川の戦い」では、朝倉景健に従って参陣したが、軍令に従わず静観した。1573年、近江丁野城に在番した。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、継嗣の魚住彦三郎を人質に差し出して織田信長に降伏した。1574年、富田長繁に龍門寺城へと招かれ、次男魚住彦四郎とともに謀殺された。

魚住彦三郎【うおずみひこさぶろう(1528~15??)】

魚住景固の男。1573年、父魚住景固が織田信長に降伏すると、人質として織田信長のもとに赴いた。

魚住彦四郎【うおずみひこしろう(1528~1574)】

魚住景固の次男。1573年、父魚住景固とともに富田長繁に謀殺された。

宇野景久【うのかげひさ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。

宇野景重【うのかげしげ(15??~15??)】

宇野景久の男。通称新左衛門。三国湊で舟奉行職を務めた。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。1507年、堀江景実とともに越前国沖の警固役を務めた。

大月景秀【おおつきかげひで(15??~1573)】

朝倉義景家臣。官途は備中守。通称三郎左衛門。室は朝倉景梁の妹。医師として朝倉義景に仕えた。1562年、大覚寺義俊を慰問する曲水宴に参列した。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると出家した。北庄で妙薬「万金丹」を創製した。

小河六郎左衛門【おがわろくろうざえもん(15??~15??)】

朝倉教景家臣。

小河三郎左衛門【おがわさぶろうざえもん(15??~15??)】

朝倉義景家臣。小河六郎左衛門の男。1573年、「一乗谷城の戦い」に敗れ朝倉義景が野郡に落延びると父小河六郎左衛門とともにこれに供奉した。賢松寺で朝倉義景が自刃すると、朝倉義景妻子を守るため自刃を思いとどまり、織田信長勢と和議の交渉を行った。

小河吉持【おがわよしもち(15??~15??)】

朝倉教景家臣。官途は式部丞。1533年、敦賀奉行職を務めた。1540年、連歌師宗牧は一乗谷の吉持邸で和歌を詠んだ

小川左衛門二郎【おがわさえもんじろう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「毛詩」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【か】

甲斐敏光【かいとしみつ(14??~1481)】

斯波義敏家臣。甲斐常治の男。越前守護代職。通称は八郎。1458年、「長禄の戦い」では、父甲斐常治、朝倉孝景とともに斯波義敏の支援を受けた堀江利真、朝倉将景、朝倉景正勢と戦いこれを鎮圧した。1459年、「金ヶ崎城の戦い」で斯波義敏勢を追落として斯波義良を斯波家惣領職に擁立した。「今川範将の乱」では、朝倉孝景とともに遠江国に出兵してこれを鎮圧した。1461年、渋川義鏡の男斯波義廉を越前守護職に擁立して、越前守護代職に復帰した。1467年、「応仁の乱」では、斯波義敏が斯波義良を擁して細川勝元勢に属すと、斯波義廉、朝倉孝景とともに山名宗全に属した。1471年、朝倉孝景が足利義政から越前守護職に任じられると、東軍に内応して越前国内の西軍勢力と戦った。1472年、「長崎の戦い」で朝倉孝景勢に敗れ加賀国に落延びた。1474年、富樫幸千代の支援を受け朝倉孝景勢と戦うが敗れて和議を結んだ。1475年、足利義政から遠江国守護代に任じられて、駿河国守護職の今川義忠と戦い、これ討取った。1479年、斯波義良とともに朝倉孝景、朝倉氏景勢と戦い敗れて加賀国に落延び没落した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

甲斐信久【かいのぶひさ(14??~1472)】

甲斐敏光の男。1459年、在京する父甲斐敏光に代わり、越前守護代、遠江守護職を継承した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

斯波義廉を擁立し、斯波義敏と対立した。「応仁の乱」では、渋川義廉に従い

西軍。今川義忠と抗争。1472年越前表にて戦死か。

片岡与三郎【かたおかよさぶろう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「六韜」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
金津正直【かなつまさなお(15??~1600)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、明智光秀に仕えた。のち細川藤孝に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、大坂細川屋敷でガラシャとともに自刃した。

印牧美次【かねまきよしつぐ(15??~1540)】

朝倉孝景家臣。印牧広次の男。通称新右衛門。府中奉行を務めた。1518年、上洛する伊達稙宗の使者に利便を図った。1528年、大谷寺と小河村が越知山の所属を巡って争うと、同僚の青木景康とともに朝倉孝景に報告して裁断を仰いだ。北国街道の管理及び東条郡、今立郡、丹生郡の訴訟を管轄した。

印牧美満【かねまきよしみつ(1500~15??)】

印牧広次の次男。官途は丹後守。1540年、兄印牧美が父印牧広次に続いて病没したため、印牧家の家督を相続した。1555年、「加賀小松城の戦い」で朝倉教景が病に倒れて朝倉景隆が代代を務めるとそれを補佐した。朝倉景連の意向を受け敦賀郡河野浦、今泉浦の百姓の通行警備を要請するなど府中奉行職を務めた。

印牧吉広【かねまきよしひろ(15??~15??)】

印牧広次の三男。通称弥二郎。富田慈源に剣術を学び、門弟に達人を多く輩出した。

印牧能信【かねまきよしのぶ(15??~1573)】

南条郡鉢伏城主。朝倉義景家臣。通称弥六左衛門。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢に捕縛された。織田信長はその名を惜しんで一命を援けようとしたがこれを拒否、面前にて自刃した。

河合吉統【かわいよしむね(1521~1573)】

朝倉義景家臣。官途は安芸守。通称五郎兵衛。内政手腕に優れ、朝倉義景の奏者として活動した。1550年、奉行衆に任命され、朝倉家臣団最高位の行政全般に関与した。1570年、「姉川の戦い」では、2,000余りを率いて参陣した。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。

北ノ庄景頼【きたのしょうかげより(15??~1520)】

北庄景種の男。官途は土佐守。1491年、越前国に下向した細川政元を歓待した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
北ノ庄景継【きたのしょうかげつぐ(15??~15??)】

北ノ庄景頼の男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北ノ庄景種【きたのしょうかげたね(15??~1573)】

北ノ庄景継の男。次郎右衛門尉。坂井郡荒居、細呂の代官職を務めた。1572年、「近江堅田の戦い」では、朝倉義景勢を率いて織田信長勢と戦った。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢の追撃を受け討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北ノ庄景隆【きたのしょうかげたか(15??~15??)】

北ノ庄景種の次男。官途は掃部助。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北ノ庄景契【きたのしょうあkげけい(15??~15??)】

北ノ庄景隆の男。官途は掃部助。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北ノ庄景頼【きたのしょうかげより(15??~1573)】

北ノ庄景契の男。寺島館主。通称与七。官途は掃部介。1561年、朝倉義景が大窪浜で催した犬追物に参加した。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢の追撃を受け討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北村次郎五郎【きたむらじろうごろう(15??~15??)】

朝倉教景家臣。1528年、京都在陣中に三条西実隆に扇面詩歌を所望した。

久津見清右衛門【くつみせいうえもん(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」に敗北を喫した朝倉義景が一族の朝倉景鏡を頼って越前大野庄へ逃れる際に供奉した。その後東雲寺から賢松寺に移ったときもこれと同道した。朝倉義景の自刃後は自身も殉じようとしたが、小河三郎左衛門とともに朝倉義景の女房衆の世話をした。

窪田竹松【くぼたたけまつ(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「論語」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

桑原石松【くわはらいしまつ(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「六韜」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

桑原貞久【くわばらさだひさ(14??~15??)】

坂井郡桑原館主。通称次郎右衛門尉。1479年、京都清水寺を再興する勧進奉加帳した。

黒坂景久【くろさかかげひさ(15??~1570)】

朝倉義景家臣。官途は備中守。1570年、「姉川の戦い」で黒坂景久、小林瑞周軒、魚住左衛門尉らとともに松平元康勢と戦い討死した。

毛屋猪介【けやいのすけ(15??~1574)】

富田長繁家臣。大野郡毛屋館主。1573年、「刀禰坂の戦い」では、富田長繁、戸田与次郎らととに織田信長勢に降伏した。1573年、「第二次長島城の戦い」では、織田信長に属した富田長繁に従って参陣し戦功を挙げた。大垣城に帰陣途中の織田信長が一揆勢に襲われたが、毛屋猪介は一揆を何度も撃退した。1574年、「一乗谷城の戦い」では、富田長繁に従って前波吉継を討取った。七里頼周勢の攻撃を受け討死した。

小泉長利【こいずみながとし(15??~1574)】 

朝倉義景家臣。通称藤左衛門。1550年、朝倉景連、河合吉統、前波景定らとともに一乗谷奉行職を務めた。1574年、一向一揆勢の攻撃を受け溝江長逸らとともに自刃した。

小泉長治【こいずみながはる(15??~1574)】

小泉長利の男。通称藤左衛門。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長に降伏した。1574年、「溝江館の戦い」で一向一揆勢の攻撃を受け溝江長逸とともに討死した。参考文献:『戦国時代人物辞典(歴史群像編集部編)』by学研。

小林吉隆【こばやしよしたか(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称三郎二郎。1568年、足利義昭が朝倉館を訪れた際、斎藤屋敷の警護役に任じられた。1570年、「第一次越前侵攻」では、500騎余りを率いて朝倉義景勢の脇備を務めた。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長勢に降伏して富田長繁に属した。1574年、富田長繁が朝倉景健と戦うと、富田長繁を裏切って謀殺した。

小布施修理大夫【こふせしゅりだいふ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。坂井郡御簾尾館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【さ】

斎藤刑部丞【さいとうぎょうぶのじょう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。官途は刑部少輔。1573年、「近江大岳砦の戦い」では、浅井長政の支援を受け織田信長勢と戦ったが羽柴秀吉に降伏した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、羽柴秀吉の意向を受け越中国内の瑞泉寺、安養寺に一揆を起こさせ柴田勝家勢の後方を撹乱した。

斎藤兵部少輔【さいとうひょうぶしょうゆう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。朝倉義景の愛妾小少将の父。1570年、「第一次越前侵攻」では、て一乗谷城留守居役を務めた。1573年、「一乗谷城の戦い」では、賢松寺に落延びる朝倉義景に供奉し続けた。

斎藤吉用【さいとうよしもち(14??~1520)】

朝倉孝景家臣。通称民部丞。1506年、「九頭竜川の戦い」で朝倉教景に従って参陣して加賀一向一揆勢と戦った。

桜井景道【さくらいかげみち(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称新左衛門。1568年、朝倉義景が足利義昭、二条晴良を招いて宴席に列席した。1570年、「第一次越前侵攻」では、朝倉義景に従って杉津口の守備した。1573年、「一乗谷城の戦い」では、賢松寺に落延びる朝倉義景に供奉し続けた。

桜井正次【さくらいまさつぐ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称平右衛門。越前白山神社の御師を出自とし、白山権現の社人石徹白長澄とも交流を持った。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長に仕えた朝倉景鏡に従った。

桜井平四郎【さくらいへいしろう(15??~15??)】

桜井正次の男。1575年、織田信長の意向を受け京都に赴く途中謀殺された。織田信長から下手人の追及指示が出された。

桜井十郎【さくらいじゅうろう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「論語」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

諏訪神九郎左衛門【すわがみきゅうざえもん(15??~15??)】

朝倉教景家臣。1506年、「九頭竜川の戦い」で朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。

諏訪三郎兵衛【すわさぶろべえ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長に仕えた。1575年、織田信長から本領を安堵状を受けた。

勝蓮華景継【しょうれんげかげつぐ(15??~15??)】

朝倉景冬家臣。坂井郡勝蓮華館主。通称右京進。通称又太郎。別名朝倉景継。室は朝倉景冬の娘。1506年、「九頭竜川の戦い」で朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。

勝蓮華景基【しょうれんげかげもと(15??~15??)】

勝蓮華景継の男。官途は近江守。

勝蓮花義海【しょうれんげよしうみ(15??~15??)】

勝蓮花景純の男。通称又太郎。
 
勝蓮花景保【しょうれんげかげやす(15??~1573)】

勝蓮花義海の男。官途は右京進。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景に従って参陣してが織田信長勢と戦い討死した。

新開一右衛門【しんびらきいちえもん(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1572年、奉行職の魚住景固から河和田の所領を安堵状を受けた。
1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長の家臣柴田勝家に従い200石を所領を安堵された。

杉若無心【すぎわかみしん(15??~15??)】

朝倉義景家臣。娘が丹羽長秀の側室として嫁ぎ、その継嗣が丹羽秀長の養子となった。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して改易処分に処された。

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【た】

高橋景業【たかはしかげなり(15??~1573)】

朝倉義景家臣。通称甚三郎。鳥居景近とともに朝倉義景に近侍として仕えた。1573年、「一乗谷城の戦い」で織田信長勢に敗れた朝倉義景に従って鳥居景近とともに賢松寺に落延びた。朝倉景鏡が謀反を起こすと朝倉義景の介錯を務め、自らも自刃した。

託美景統【たくみかげむね(15??~1531)】

朝倉教景家臣。1531年、「加賀手取川の戦い」では、朝倉教景に従って参陣したが、加賀三ヶ寺(松岡寺蓮綱、光教寺蓮誓、本泉寺蓮悟)勢と戦い討死した。

竹内三助【たけうちさんすけ(15??~15??)】

朝倉景盛家臣。1570年、「虎御前山の戦い」で織田信長勢に陣地に火を放ち混乱させた。朝倉義景勢は織田信長勢の陽動と誤認し、この好機を活かすことはできなかった。

築山清左衛門【つきやませいざえもん(15??~1573)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が落延びると、城兵が逃亡したのを恥じ妻子を刺し殺して自刃した。参考文献:『戦国時代人物辞典(歴史群像編集部編)』by学研。

堤権右衛門尉【つつみごんえもんのじょう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。姉は丹羽長秀の側室となった。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

掘平右衛門【つぼひらうえもん(15??~1570)】

朝倉義景家臣。1570年、「近江堅田の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

寺田采女正【てらだうねめのしょう(15??~1570)】

朝倉景恒家臣。敦賀郡天筒山城主。1570年、「天筒山砦の戦い」では、疋壇城を守る朝倉景恒に従って天筒山砦を守備した。織田信長勢の攻撃を受け討死した。

栂野吉仍【とがのよしあつ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称三郎右衛門。1561年、朝倉義景が大窪浜で催した犬追物に参加した。1562年、大覚寺義俊を慰問する曲水宴に参列した。1570年、「第一次越前侵攻」では、朝倉義景に従って参陣した。織田信長の撤退後は疋壇城の守備した。

豊島源左衛門【とよしまげんざえもん(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長に仕え本領の16石を安堵された。

戸田与次郎【とだよじろう(15??~15??)】

富田長繁家臣。1572年、「刀禰坂の戦い」で富田長繁、毛屋猪介らとともに織田信長に内応した。1575年、「越前一向一揆の戦い」で織田信長勢に従って参陣した。

冨田勢源【とだせいげん(1523~15??)】

朝倉義景家臣。富田景家の男。通称五郎左衛門。大橋高能から中条流を学んだ。弟子に一刀流の鐘捲自斎、東軍流の流祖川崎鑰之助らを持った。眼病を患ったため剃髪し、家督を弟の冨田景政に譲り美濃の朝倉成就坊のもとに寄寓した。

富田景政【とだかげまさ(15??~1593)】

富田景家の次男。通称治部左衛門。眼病を患ったため剃髪した兄富田勢源から富田家の家督を譲られた。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると前田利家に仕えた。1582年、「賤ヶ岳の戦い」で継嗣の富田景勝が討死すると、山崎景邦から養子を迎えた。「越中魚津城の戦い」で戦功を挙げ4,000石を領した。越中国阿尾城主菊地武勝を内応させた。羽柴秀次の剣術指南役を務めた。

富田重政【とだげまさ(1554~1625)】

山崎景邦の男(富田景政の養子)。官途は下野守。通称六左衛門。別名「名人越後」。室は富田景政の娘。富田流剣術を継ぎ、前田利家に仕えた。1583年、「末森の戦い」では一番槍の戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」で戦功を挙げ13,680石を領した。1615年、「大坂夏の陣」で前田利常に従って参陣して頸級十九頸を取る戦功を挙げた。

富田吉順【とだよしじゅん(15??~15??)】

朝倉義景家臣。

富田長繁【とだながしげ(1551~1575)】

富田吉順の男。別名弥六郎。1570年、「第一次越前侵攻」では、織田信長勢と戦った。1573年、「刀禰坂の戦い」では、前波吉継、毛屋猪介、戸田与次郎らとともに織田信長勢に内応して朝倉義景を自刃に追い込んだ。「長島一向一揆戦い」では、織田信長に従って参陣して戦功を挙げた。1574年、「一乗谷城の戦い」では、一向一揆衆と結び前波吉継を討取り、織田信長の家臣木下祐久、津田元嘉、三沢秀次らを追放した。「鳥羽城の戦い」では、魚住景固、魚住彦三郎、魚住彦四郎らを討取った。1575年、「帆山河原の戦い」では、寡兵を率いて一向一揆勢を撃破る戦功を挙げた。一向一揆勢に内応した小林吉隆に謀殺された。

富田弥六【とみたよろく(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢に寝返った。織田信長から府中の所領を安堵されてた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

鳥羽景忠【とばかげただ(15??~15??)】

鳥羽城主。

鳥羽景春【とばかげはる(15??~15??)】

鳥羽景忠の男。官途は出羽守。別名朝倉景春。室は朝倉景冬の娘。
 
鳥羽景富【とばかげとみ(15??~15??)】

鳥羽景忠の男。官途は右馬助。別名朝倉景富。1568年、足利義昭が朝倉義景を頼り落延びてくると、朝倉屋敷で足利義昭に謁見した。伺候した朝倉家同名衆十九名中七番目の席次。
 
鳥羽景忠【とばかげたか(15??~15??)】

鳥羽景富の男。官途は右馬助。通称与三。別名朝倉景忠。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、一向一揆勢に属して越前国各地を転戦した。1575年、「鳥羽城の戦い」で織田信長の家臣柴田勝家、丹羽長秀勢の猛攻を受け、越後国に落延びた。1578年、足利義昭、毛利輝元の支援を受けた朝倉宮増丸に擁立され、朝倉惣領家の家督を相続を図るが失敗した。

鳥居景近【とりいかげちか(15??~1573)】

朝倉義景家臣。官途は兵庫助。朝倉義景の奏者番を務めた。1570年、織田信長の「第一次越前侵攻」では朝倉義景の脇備として500騎余を率いて参陣した。1573年、「刀禰坂の戦い」に敗れた朝倉義景に従って大野庄まで落延びた。朝倉義景が自刃に追い込まれると、朝倉景鏡勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

鳥居与一左衛門【とりいよいちざえもん(15??~1567)】

朝倉孝景家臣。1527年、「山城桂川原の戦い」で三好長之勢と戦い戦功を挙げた。1555年、「加賀小松城の戦い」でも戦功を挙げた。1567年、「熊坂口の戦い」で加賀一向一揆勢と戦い討死した。

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【な】

中村新兵衛【なかむらしんべえ(15??~1573)】

朝倉義景家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」では、朝倉義景に従って参陣したが、羽柴秀吉勢の兼松正吉に討取られた。

中村宗直【なかむらむねなお(15??~15??)】

朝倉教景家臣。通称七郎左衛門。1519年、敦賀郡の奉行職を務めた。

中村五郎右衛門【なかむらごろざえもん(15??~15??)】

朝倉教景家臣。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。

中村平五郎【なかむらへいごろう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「六韜」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【は】

萩原宗俊【はぎわらむねとし(15??~1570 )】

朝倉教景家臣。通称八郎右衛門尉。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。1555年、「加賀小松城の戦い」で朝倉教景の加賀一向一揆攻めに参陣した。1570年、「第一次越前侵攻」で織田信長勢と戦い討死した。著書に『朝倉宗滴話記』。

八杉喜兵衛【はちすぎぜんべい(15??~15??)】

福岡石見守家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、福岡石見守とともに朝倉義景の息女二人を守って落延びた。福岡石見守が討死すると、本願寺顕如の継嗣本願寺教如の内室となるべく石山本願寺城に届けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

半田吉就【はんだよしなり(15??~15??)】

朝倉教景家臣。通称源左衛門。1555年、「津葉城の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦った。1568年、足利義昭が朝倉義景を頼り落延びてくると、朝倉義景との奏者役を務めた。

疋壇久保【ひきたひさやす(1469~1573)】

朝倉孝景家臣。敦賀郡疋壇城主。官途は対馬守。通称六郎三郎。1525年、丹後国に参陣した。1570年、「第一次疋壇城の戦い」では、織田信長勢の攻撃を受けると敗走した。1573年、「第二次疋壇城の戦い」では、栂野吉仍らとともにに籠城して織田信長勢と戦うが討死した。

深町式部少輔【ふかまちしきぶしょうゆ(15??~15??)】

朝倉教景家臣。坂井郡坪江館主。1561年、河口、坪江荘の年貢を大乗院に納入した。

深町左京丞【ふかまちさきょうのじょう(15??~15??)】

朝倉教景家臣。

福岡吉清【ふくおかよしきよ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称三郎右衛門。朝倉義景の奏者役を務めた。1555年、「菅生口の戦い」で朝倉教景に従って参陣して加賀一向一揆勢と戦った。1561年、朝倉義景が大窪浜で催した犬追物に参加した。

福岡石見守【ふくおかいわみのかみ(15??~1573)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」に敗れた朝倉義景から二人の息女を預けられた。息女の一人は本願寺教如に嫁ぐことが決まっており、豊原寺に息女を届ける途中、落ち武者狩りに遭い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

福岡吉家【ふくおかよしいえ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1572年、「近江堅田の戦い」で朝倉義景に従って参陣して織田信長勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

堀江景用【ほりえかげもち(14??~15??)】

坂井郡堀江館主。朝倉貞景家臣。堀江景経の男。官途は石見守。通称七郎。1458年、「長禄の戦い」では、惣領家の堀江利真が斯波義敏勢に属して甲斐常治勢と戦った。1459年、堀江利真が甲斐常治勢の朝倉孝景に討取られたため、堀江景用が惣領職を相続した。1474年、「杣山の戦い」で戦功を挙げた。

堀江景実【ほりえかげざね(15??~15??)】

堀江景用の男。官途は石見守。通称左衛門三郎。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉貞景に従って加賀一向一揆勢を迎撃した。1507年、宇野景重とともに三国湊の警護を行なった。坂井郡三国湊の舟奉行職を務めた。1531年、加賀一揆一揆では、黒瀬覚道らを支援するため、朝倉孝景の意向を受け300余りを率いて加賀国に参陣した。

堀江景忠【ほりえかげただ(15??~1576)】

堀江景実の男。官途は中務丞。通称左衛門三郎。室は武田元度の娘。1555年、「加賀大聖寺城の戦い」では、朝倉教景に従い1,000余りを率いて大聖寺城を攻落とす戦功を挙げた。1567年、「河口館の戦い」では、謀反の嫌疑を受け魚住景固、山崎吉家らの攻撃を受けた。大和田真孝の仲介で和議を結び能登国隈木に隠居した。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が討死すると、越前一揆一揆衆と結んで溝江景逸らを討取った。織田信長勢に内応通して越前一向一揆討伐に協力した。1576年、三国瀧谷寺で織田信長勢に謀殺された。

堀江利茂【ほりえとししげ(15??~15??)】

堀江景忠の男。通称左衛門三郎。1567年、「河口館の戦い」では、謀反の嫌疑を受け魚住景固、山崎吉家らの攻撃を受けた。1575年、「第二次越前侵攻」で織田信長に内応して戦功を挙げ津葉城主に任じられた。

堀江景利【ほりえかげとし(15??~15??)】

堀江景経の次男。

堀江景道【ほりえかげみち(15??~15??)】

堀江景経の三男。

堀江景好【ほりえかげよし(15??~15??)】

堀江景経の四男。

堀吉重【ほりよししげ(15??~1570)】

朝倉義景家臣。通称平右衛門。1561年、朝倉義景が大窪浜で催した犬追物に参加した。1562年、大覚寺義俊を慰問する曲水宴に参列した。1568年、足利義昭が朝倉義景を頼って落延びると警固役を務めた。朝倉阿君丸が病没すると、これを悲しんで出家した。1570年、「近江堅田の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。

堀江兵庫【ほりえひょうご(15??~15??)】

堀江景忠家臣。坂井郡下関館主。1552年、加賀国に侵攻した朝倉教景に従った堀江景忠とともに参陣した。

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【ま】

前波吉熙【まえばよしさと(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。官途は豊前守。通称藤右衛門尉。一乗谷四奉行職を務めた。1506年、「九頭竜川の戦いの戦い」で朝倉教景に従って参陣して加賀一向一揆勢と戦った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

前波景定【まえばかげさだ(15??~1563)】

朝倉孝景家臣。通称藤右衛門尉。朝倉景連、小泉長利、河合吉統らとともに一乗谷四奉行職を務めた。1539年、足利義晴への奏者役を務めるなど、評定衆として家中で重きを成した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

前波景当【まえばかげまさ(15??~1570)】

前波景定の男。通称左衛門五郎。1561年、朝倉義景が大窪浜で催した犬追物に参加した。1567年、足利義昭が朝倉義景を頼り落延びてくると、朝倉義景とともにこれを迎えた。1568年、足利義昭が織田信長を頼ることになると、近江国境まで足利義昭を警固した。1570年、「近江堅田の戦い」で織田信長の家臣森可成、織田信治、青地茂綱、坂井政尚らを討取るなどの戦功を挙げたが討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

前波吉継【まえばよしつぐ(15??~1574)】

前波景定の次男。官途は播磨守。通称九郎兵衛。別名桂田長俊。1562年、大覚寺義俊を慰問する曲水宴に参列した。1570年、「姉川の戦い」では、朝倉景健に従って参陣して織田信長勢と戦った。1570年、「近江堅田の戦い」で、兄前波景当が討死したため、前波家の家督を相続した。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長に内応してその先陣を務めた。「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると織田信長から越前国守護代職に任じられた。1574年、「一乗谷城の戦い」で富田長繁、一向一揆勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

前波勝秀【まえばかつひで(15??~16??)】

前波景当の男。通称吉右衛門。1574年、父前波景当の討死より前波家の家督を相続した。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、羽柴秀吉の御伽衆を務めた。1598年、羽柴秀吉の遺物として黄金三枚の拝領された。その後、松平元康に仕えた。

前波吉勝【まえばよしかつ(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。通称弥四郎。一乗谷四奉行職を務めた。1555年、「加賀小松城の戦い」で朝倉教景に従って参陣して加賀一向一揆勢と戦った。

前波吉連【まえばよしかつ(15??~15??)】

朝倉教景家臣。通称七郎右衛門。上田則種とともに敦賀郡奉行職を務めた。1506年、「九頭竜川の戦いの戦い」で朝倉教景に従って参陣して加賀一向一揆勢と戦った。

前波吉長【まえばよしなが(15??~15??)】

前波吉連の男。通称弥七郎。1515年、敦賀郡の奉行職を務めた。1544年、多気神宮の造営にあたって奉行職を務めた。

前波弥五郎【なえばよごろう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「論語」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

前波虎千代【まえばとらちよ(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「論語」、「六韜」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

真柄直隆【まがらなおたか(1536~1570)】

朝倉義景家臣。今立郡真柄館主。通称十郎左衛門。武勇に優れた人物。黒鹿毛の馬に跨り、越前の刀匠千代鶴の作による五尺三寸もの太刀「太郎太刀」を振り回して戦いでは常に暴れまくった。1570年、「姉川の戦い」では、撤退する朝倉義景勢の殿を務め、織田信長勢に包囲され討死した。

真柄隆基【まがらたかもと(15??~1570)】

真柄直隆の男。1570年、「姉川の戦い」では、織田信長勢と戦い奮闘するが、殿を務め父真柄直隆とともに討死した。

真柄直澄【まがらなおすみ(15??~1570)】

真柄直隆の弟。通称は十郎左衛門。兄真柄直隆同じく五尺三寸の巨大な太刀を振るう猛将。足利義昭に、九尺五寸の化け物刀を披露した。1570年、「姉川の戦い」では奮戦するも兄真柄直隆とともに討死した。

増井甚内【ますいじんない(15??~15??)】

富田長繁家臣。丹生郡新光寺城。1573年、「刀禰坂の戦い」で富田長繁に従い参陣するが、富田長繁とともに虎御前山で織田信長に降伏した。「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長から旧領を安堵された。1574年、「新光寺城の戦い」で一向一揆勢の攻撃を受け討死した。

松尾彦三郎【まつおひこさぶろう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。坂井郡河口庄関郷の政所御供米銭を負担した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
松尾五郎兵衛尉【まつおごろうひょうえのじょう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

松尾新介【まつおしんすけ(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

溝江景逸【みぞえかげやす(15??~1574)】

坂井郡溝江館主。朝倉義景家臣。官途は河内守。1555年、「加賀小松城の戦い」では、朝倉教景に従って参陣して一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。1573年、「一乗谷の戦い」では、織田信長勢に降伏した。1574年、「溝江館の戦い」では、加賀一向一揆勢の攻撃を受け討死した。

溝江長逸【みぞえながやす(15??~1574)】

溝江景逸の男。官途は大炊助。1567年、堀江景忠が謀反を起こすと溝江館を本陣とした。1573年、「一乗谷城の戦い」では、父溝江景逸とともに織田信長勢に降伏した。1574年、「溝江館の戦い」では、父溝江景逸、富樫泰俊らとともに加賀一向一揆勢と戦うが敗れて討死した。

溝江長氏【みぞえながうじ(15??~1600)】

溝江長逸の男。官途は大炊助。別名溝江長澄。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が討死すると、羽柴秀吉に仕え坂井郡溝江館3,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、名護屋城東二の丸を守備した。1598年、小早川秀秋の附家老職に任じられ10,000石を領した。

溝江長晴【みぞえながはる(15??~1646)】

溝江長氏の男。通称彦三郎。1600年、父溝江長氏の病没により溝江家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属し北国口を守備したが、丹羽長重勢の攻撃を受け降伏した。役後、井伊直孝に仕え500石を領した。

溝江彦次郎【みぞえひこじろう(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
溝江虎市【みぞえとらいち(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

溝江彦九郎【みぞえひこくろう(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

溝江左馬助【みずえさまのすけ(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

溝江紀伊守【みぞえきいのかみ(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

溝江三郎右衛門尉【みぞえさぶろうえおんもんのじょう(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
溝江景家【みぞえかげいえ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称大炊充。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
溝江景嘉【みぞえかげかな(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称藤三。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
溝江景満【みぞえかげみつ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称左近充。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

三段崎紀存【みたざきとしまさ(15??~15??)】

朝倉教景家臣。官途は勘解由左衛門。1547年、敦賀郡の奉行を務めた。1570年、「金ヶ崎城の戦い」では、織田信長勢に捕縛されたが若狭国で釈放された。

三段崎為之【みたざきためゆき(15??~1573)】

朝倉義景家臣。通称勘右衛門。弓の名手で猛将。1555年、「加賀小松城の戦い」では、朝倉教景に従って参陣して一番槍の戦功を挙げ、さらには敵陣三段目まで攻め込んだ。1573年、「刀禰坂の戦い」では、山内一豊の家臣大塩正貞に討ち取られた。

三段崎新右衛門【みたざきしんえもん(15??~15??)】

三段崎勘右衛門の男。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が討死すると、長尾景虎に仕えた。その後北条氏政、結城秀康らに仕え300石余りを領した。

三段崎六郎【みたざきろくろう(15??~1573)】

三段崎為之の弟。1573年、「刃禰坂の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。

三段崎虎松【みたざきとらまつ(15??~1573)】

朝倉高景の男。

三段崎景敬【みたざきかげたか(15??~1573)】

朝倉義景家臣。通称三郎右衛門尉。

三段崎景佳【みたざきかげよし(15??~15??)】

朝倉義景家臣。

三段崎三郎兵衛【みたざきさぶろうべえ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。

三段崎権頭【みたざきごんどう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1568年、足利義昭の警固役を務めた。

三富景盛【みとみかげもり(15??~1555)】

朝倉左近助の男。通称孫六。丹生郡三富村を領した。1555年、「加賀小松城の戦い」で加賀一向一揆勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
三富景茂【みとみかげしげ(15??~15??)】

三富景盛の男。通称孫六。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

三田村三助【みたむらさんすけ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長に仕え本領の20石を安堵された。坂井早治から朱印銭の提出を催促された。

三輪三郎【みわさぶろう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「論語」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

向久家【むかいひさいえ(15??~15??)】

坂井郡向館主。官途は駿河守。別名向景乙。向館主として10,000石を領した。1568年、足利義昭が朝倉義景のもとに落延びると、朝倉屋敷で義昭に謁見した。1573年、「一乗谷城の戦い」では、織田信長勢に寝返った。1574年、一向一揆勢に属して織田信長勢と戦った。1575年、織田信長が越前一向一揆勢を攻撃すると、再び織田信長勢に寝返った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

向景友【むかいかげとも(15??~15??)】

向久家の男。

武曾左馬助【むそうさまのすけ(14??~15??)】

朝倉孝景家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

武曾摂津守【むそうせっつのかみ(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。龍沢寺に田畑を寄進した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

武曾勝融【むそうかつゆう(14??~1564)】

朝倉義景家臣。坂井郡瓜生館主。官途は信濃守。2400貫を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

武曾刑部【むそうぎょうぶ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。坂井郡矢地館主。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

武曾義連【むそうよしつら(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。通称三郎。龍沢寺に田畑を寄進した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

村野景政【むらのかげまさ(15??~1575)】

朝倉景健家臣。足羽郡鑓噛館主。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が討死すると、朝倉景健とともに織田信長に降伏して旧領を安堵された。1574年、一向一揆勢の越前国内で蜂起すると、朝倉景健とともに一向一揆勢に属した。1575年、「鑓噛城の戦い」で織田信長勢の攻撃を受け朝倉景健とともに討死した。

村野景宗【むらのかげむね(15??~15??)】

村野景政の男。1573年、朝倉義景が討死すると父村野景政とともに織田信長に降伏した。1574年、越前一向一揆勢が国内で蜂起すると、父村野景政は一向一揆勢に属したが、村野景宗は織田信長に従った。

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【や】

山崎長吉【やまさきながよし(15??~1573)】

朝倉孝景家臣。官途は肥前守。通称小次郎。1506年、「九頭竜川の戦い」に参陣して加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。1573年、「刀禰坂の戦い」では、撤退する朝倉義景勢の殿を務めて討死した。

山崎吉家【やまさきよしいえ(14??~1573)】

山崎長吉の男。官途は長門守。通称新左衛門。1531年、「加賀今湊川の戦い」に参陣した。1555年、「加賀小松城の戦い」に朝倉教景に従って参陣した。1567年、「堀江景実の乱」では、加賀一向一揆と結んだ堀江景実勢との戦いで戦功を挙げた。1568年、足利義昭が朝倉義景を頼って落延びてくると朝倉義景とともにこれを迎えた。1570年、「金ヶ崎城の戦い」では、先陣を務め織田信長勢と戦った。「坂本城の戦い」では、森可成、青地茂綱、織田信治らを討取る戦功を挙げた。1573年、「刀禰坂の戦い」では、朝倉義景を落延びさせるため、殿を務め討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

山崎吉延【やまさきよしのぶ(15??~1573)】

山崎長吉の次男。通称七郎左衛門。1573年、「刀禰坂の戦い」では、兄山崎吉家とともに殿を務めたが、織田信長勢の追撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

山崎長徳【やまさきながのり(1552~1620)】

山崎吉延の男。官途は長門守。通称小七郎。1573年、朝倉義景が討死すると、織田信長に降伏した。明智光秀に従って700石を領した。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀に従って羽柴秀吉勢と戦ったが敗れて越前国で逼塞した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、柴田勝家の家臣佐久間安次に従って参陣したが羽柴秀吉勢に敗れた。1590年、「武蔵八王子城の戦い」では、前田利家に従って参陣して戦功を挙げた。1600年、「加賀大聖寺城の戦い」では、前田利長に従って山口正弘勢と戦い戦功を挙げた。「浅井畷の戦い」でも、丹羽長重勢と戦い戦功を挙げ役後14,000石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

山内弥六左衛門尉【やまのうちやろくざえもんのじょう(15??~1573)】

朝倉義景家臣。足羽郡角原館主。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従って参陣したが討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

吉川吉登【よしかわよしとう(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。通称与四郎。1479年、清水寺再興奉加帳に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

吉川吉明【よしかわよしあき(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。通称主計尉。1479年、清水寺再興奉加帳に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

和田満重【わだしげみつ(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。足羽郡和田館主。通称三郎左衛門尉。1479年、清水寺再興奉加帳に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

和田三郎左衛門【わださぶろうざえもん(15??~1573)】

朝倉義景家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従って参陣したが討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

和田吉次【わだよしつぐ(15??~1573)】

朝倉義景家臣。通称清左衛門。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従って参陣したが討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

鰐淵吉広【わにぶちよしひろ(15??~1573)】

朝倉義景家臣。官途は将監。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従って参陣したが討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

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【資料Ⅰ】

越前国(8郡/652,000石)

敦賀郡:敦賀城、手筒山城、疋田城、敦賀湊、気比寺(20,000石)。
丹生郡:宮崎城、安居城、国見城、今泉街、織田神社(84,000石)。
今立郡:河和田城、真柄城、池田城、鯖江街、大虫寺(84,000石)。
足羽郡:一乗谷城、北ノ庄城、三峰城、清水寺、浅生街(90,000石)。
大野郡:大野城、土橋城、犬山城、羽生城、平泉寺(94,000石)。
坂井郡:丸岡城、堀江城、溝江城、藤島城、三国街(180,000石)。
吉田郡:村岡城、志比城、河合城、勝山城、永平寺(80,000石)。
南条郡:脇本城、杣山城、木芽城、今庄街、武生寺(38,000石)。

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【資料Ⅱ】

敦賀郡司家三家老衆【つるがぐんつかさけさんかろうしゅう】

三段崎紀存、真柄直隆、印牧能信。

敦賀両奉行衆【つるがりょうぶぎょうしゅう】

上田紀勝、三段崎紀存。

一乗谷四奉行衆【いちのたによんぶぎょうしゅう】

前波景定、朝倉景連、小泉長利、河合吉統。

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【資料Ⅲ】

越前国【えちぜんのくに】

若狭湾に東岸に面した北陸道の国。北は白山火山脈の山系から大日山、福井平野の北を結ぶ線で加賀国に接し、東から南にかけては両白山地と屏風山地が飛騨、美濃両国と境を形成する。南は伊吹山地の西で近江国、野坂山地の中央で若狭国と境を隔てる。国の東部は山地が続くが、西部には平地が広がる。特に九頭竜川、日野川、足羽川の三大河川は三国付近で合流して日本海に注ぎ、その流域に広がる平野部は豊富な水量により灌漑農業が行なわれ生産性も高い。越前国には敦賀、三国等の良湊も多く、日本海沿岸諸国、渤海国との交易も盛んである。

三国湊【みくにみなと】

越前国の平野部を貫流する大河川、九頭竜川の河岸に位置した湊街。越前国の海の玄関口として日本海沿岸部はもとより、海外との交易でも栄えた。三国湊は渤海などの海外使節が入港する国際交流の場であった。1574年、織田信長は北庄の薬種商、橘屋に、「三ヶ庄」と一乗、端郷、そして三国湊に「唐人之座」と「軽物(生糸、絹織物)座」を認めた。唐人座、軽物座はともに輸入品を扱う座であったとみられ、三国湊はこのような唐物の輸入を担う国際湊であった。

敦賀湊【つるが】

敦賀湾の奥に位置し、古代以来、日本海航路における京都への玄関口としての地位を占め、大いに繁栄した湊街。日本海沿岸部各地から廻送された多くの物資は敦賀で陸揚げされ、運送を請け負う問を仲介して、海津や塩津など琵琶湖北岸の港町へ運ばれ、さらにそこから水運で近江南部、京都へと運ばれた。川舟座や河野屋座といった船道座が形成され、敦賀郡司のもとで敦賀と敦賀湾周辺の商業、運送業を独占した。

吉崎【よしざき】

越前国の最北部、大聖寺川と北潟湖の河口部に位置する港町。加賀の安宅と越前の三国湊を結ぶ海路の中継港として、また陸路でも街道によって北陸道と結ばれる交通の要衝として栄えた。中世、港湾部の竹の浦や春日社を中心とする原集落などが形成され、白山信仰とも結びついて、都市的な発展を遂げていた。

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戦国人名辞典は、1467年の「応仁の乱」から1637年の「島原の乱」までの期間に活躍した武将をサイト管理人(takatoshi24)の独断と偏見に基づいて編集した国別の戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいますが、親子は年代順、本家と分家がある場合、分家をしたにして居住地域をを苗字の頭に入れています。資料Ⅰは国、郡別の石高、城郭、寺院、街、湊などを記載。資料Ⅱは国で有名な集団(三好三人衆など)についての説明をしています。資料Ⅲは国の詳細(各国の特性、景勝の地、特産品など)を説明しています。また、武将の名前が変わる場合(松平元康→徳川家康)など、松平元康で統一しています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

山名宗全は山名持豊、徳川家康は松平元康、木下藤吉郎は羽柴秀吉。朝倉宗滴は朝倉教景に名前を統一しました。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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