2011年1月27日木曜日

戦国蝦夷国人名辞典

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【あ】

相原政胤【あいはらまさたね(14??~15??)】

大館下国定季家臣。松前郡小館主。官途は周防守。1454年、南部光政によって田名部に抑留されていた安東政季と共に蝦夷地に渡海、のち及部の館に住み、大館主下国定季を補佐した。1457年、「コシャマインの蜂起」では茂別館、花沢館以外の全ての豪族衆の館が陥落、相原政胤も捕縛されるが乱の鎮圧後に助けられた。その後、隠居して嫡男相原季胤に相原家の家督を譲った。

相原季胤【さがらすえたね(14??~1513)】

相原政胤の男。通称彦三郎。父相原政胤が隠居により相原家の家督を相続した。1496年、大館主下国恒季が素行不良を理由に蠣崎光広ら館主連合軍に討たれた後に大館主になった。1512年、相原季胤は矢越岬の海神の怒りを鎮めるために、アイヌ族の娘20人を海に沈め人身御供としたため、アイヌ族は蜂起した。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」ではアイヌ衆に小館主を包囲された相原季胤は、二人の娘を連れて大沼まで落延びるが逃げ切れず娘達は自刃した。相原季胤も弟相原吉胤とともに湖中の小島で自刃した。相原季胤は愛馬に山上に逃げるよう言い聞かせ、これに従った馬は勢い良く山に上った。そのため、この山を駒ヶ岳と称し、相原季胤が外した鞍を掛けた岩が鞍掛岩と称された。

相原吉胤【あいはらよしたね(15??~1513)】

相原政胤の次男。大館主下国家の補佐。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では、大館が攻撃を受け兄相原季胤とともに討死した。

青山宗右衛門【あおやまそうえもん(15??~15??)】

下国由季家臣。室は下国由季の娘。

明石季衡【あかしすえひら(15??~15??)】

蠣崎義広家臣。通称右馬介。室は蠣崎義広の娘。生国は羽後国秋田郡で蝦夷国に渡り蠣崎季広に仕えた。蠣崎季広の次男蠣崎元広が明石季衡の娘と結婚し婿養子となり明石元広と称した。その後、娘を得るが明石元広が実姉(南条広継の室)に謀殺された。明石元広の遺児で明石季衡の孫娘は長じて、岡部季村の室となって岡部広衡と岡部元村を得た。岡部広衡は明石家の養子となって明石家の家督を相続し、岡部元村は岡部家の家督を相続した。

明石元広【あかしもとひろ(1540~1562)】

蠣崎義広家臣。蠣崎季広の次男(明石季衡の養子)。通称万五郎。室は明石季衡の娘。1562年、実の姉であった南条広継の室に自分が女で家督を継げないことを逆恨みされ、毒を盛られ謀殺された。

明石広衡【あかしひろひら(15??~15??)】

岡部季村の男(明石元広の養子)。母方の親である明石元広が病没して明石家が断絶したため、明石広衡が家督を相続した。

厚谷重形【あつやしげかた(14??~15??)】

蠣崎義広家臣。比石館主。通称十郎。1532年、アイヌ衆が徳山館を攻撃した際、蠣崎義広とともに撃退した。

厚谷重政【あつやしげまさ(15??~1590)】

厚谷重形の男。官途は備中守。通称四郎兵衛。室は蠣崎義広の娘。1546年、蠣崎季広が安東舜季の要請により、深浦森山館主森山季定を攻撃するため軍勢84騎余りを率いて参陣した。

厚谷季貞【あつやすえさだ(15??~1570)】

厚谷重政の男。官途は備中守。室は蠣崎季広の娘。蠣崎慶広より「寄合席」とされ「奥用人兼家老職」に任じられた。

厚谷貞政【あつやさだまさ(15??~1637)】

厚谷季貞の男。通称四郎兵衛。蠣崎家三代に仕えた。1637年、福山館の火災で火薬庫に火が燃え移って爆発した際、蠣崎公広を酒井広種と共に救出した。厚谷貞政は重傷の火傷を負いまもなく病没した。

今井季景【いまいすえかげ(14??~1513)】

小林政景の男(今泉季友の養子)。与倉前館主。通称小次郎。1457年、今井季友の病没後、志苔館主小林良定より養子に入り、今井家の家督を相続した。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では与倉前館も攻撃を受け討死した。

今井景宗【いまいかげむね(14??~15??)】

今井季景の男。通称小三郎。1512年、父今井季景の討死後、今井家の家督を相続した。1515年、大館に移ってきた蠣崎義広に属した。

江口義顕【えぐちよしかき(14??~1512)】
 
村上政儀家臣。江口義盛の男。官途は民部丞。1457年、アイヌ衆の蜂起で父江口義盛が上ノ国で討死後、江口家の家督を相続した。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では志苔館に援軍に向かうも夷狄の流矢を受けて討死した。

江口顕輝【えぐちあきてる(14??~1513)】

江口義盛の次男(館頼重の養子)。官途は権頭。1512年、伯父館頼重の養子になっていたが、兄江口義顕が討死すると江口家の家督を相続した。1513年、では、アイヌ勢の攻撃を受け討死した。

岡部季澄【おかべすえずみ(14??~1513)】

戸井館主。通称六郎右衛門。原口館築城、本拠とした。1457年、「コシャマイン蜂起」が起こり原口館は陥落した。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」ではアイヌ勢が大館を攻撃、相原季胤らとともに討死した。

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【か】

蠣崎義広【かきさきよしひろ(1479~1545)】

松前郡徳山城主。檜山安東尋季家臣。蠣崎光広の男。1513年、蝦夷地東部の酋長であったショヤタイン(庶野)、コウジ(訇時)兄弟が率いるアイヌ衆が蜂起し、数ヶ所の館を襲撃した。上国守護職であった父蠣崎光広とともに撃退した。1514年、アイヌ衆に攻落されいた松前大館を奪還した。安東尋季の裁定により蠣崎家の家督相続前であったにもかかわらず、蠣崎義広が上国松前両守護職に任じられ、蝦夷地を訪れる和人の商船から運上を徴収することを認められた。運上は安東尋季に送られたものの、蠣崎義広が他の渡党へ優越する権限を持つことができた。1521年、蠣崎家の家督を相続した。長年交易をめぐってアイヌ衆と対立し落城寸前まで追い込まれた。1529年、蠣崎義広は工藤祐兼、工藤祐致兄弟に命じて西蝦夷のタナサカシの本拠を攻撃したが敗北、工藤祐兼は討死した。逆にタナサカシに大館に隣接する勝山城を包囲され、蠣崎義広は和議を申し出た。そして、賠償品を受け取りに来たタナサカシを謀殺して勝利を収めた。1536年、タナカサシの女婿タリコナが蜂起すると再びタリコナ夫妻を和議と称し宴会に招き謀殺して危機を脱した。

蠣崎季広【かきさきすえひろ(1507~1595)】

蠣崎義広の男。通称彦太郎。官途は若狭守。室は河野季通の娘(伝妙院)。父蠣崎義広の代までアイヌ衆との抗争を繰り返し、これを教訓としてかアイヌ衆との和議を進めた。1551年、和人居住地と交易について「夷狄の商舶往還の法度」を制定、アイヌ衆に対する交易の優位を確立。 蠣崎家は先祖が安東舜季の協力を得たことで、その被官の地位にあった。1546年、安東舜季の要請により蝦夷海賊衆を率いて本土へ渡海した。1550年、瀬田内(道南西部)の酋長ハシタインと知内(道南東部)の酋長チコモタインらと会談、和人地を上ノ国から知内の国境することに合意して和議を結んだ。この和議で確定された和人地は、「コシャマインの蜂起」で道南十二館の占有地の約三分の一に縮小した。アイヌ諸部族連合体は和人勢力を渡島半島の一角に追いやることに成功しており、「コシャマインの蜂起」以来のアイヌ衆の戦いは、軍事的には成功した。父蠣崎義広は多くの子女を道南、羽後国、陸奥国に配したので、蠣崎家としては各勢力との離合集散にも苦慮した。

蠣崎舜広【かきさきとしひろ(1539~1561)】

蠣崎季広の男。妹(南条広継室)に毒殺された。蠣崎季広に後継者に指名され、蠣崎舜広と称した。1561年、父蠣崎季広に将来を嘱望されていたが、南条広継の室(季広の長女、舜広の姉)に毒殺された。

蠣崎元広【かきさきもとひろ(1540~1562)】

蠣崎季広の次男。妹(南条広継室)によって謀殺された。

蠣崎慶広【かきさきよしひろ(1549~1616)】

蠣崎季広の三男。官途は志摩守。通称新三郎。室は村上季儀の娘。別名松前慶広。1590年、「小田原の役」では安東実季に属して参陣した。1591年、「九戸政実の乱」では、アイヌ衆を率いて参陣した。1592年、「文禄の役」では肥前国名護屋に参陣した。1593年、蝦夷国の領有を認められたが、檜山安東実季の家臣という立場であった。1599年、松平元康に蝦夷国地図などを献上した。1600年、「関ヶ原の役」では、安東実季が石田三成勢に属して三春城に減封されると、蠣崎慶広の外交手腕により、正式に蝦夷国の領主権を得た。羽柴秀吉への接近と歓心を買うための献身的行動、羽柴秀吉の病没後に松平元康に通じるなど、その独自外交と先見性は、蝦夷国という遠国にありながら畿内の小大名より高い外交能力を示した。

蠣崎正広【かきさきまさひろ(1547~1586)】

蠣崎季広の四男。通称右衛門大夫。上ノ国城代。1578年、蠣崎慶広の名代として上洛、織田信長に拝謁した。1586年、安東実季の援軍として羽後国に参陣中、病没した。

蠣崎基広【かきさきもとひろ(1506~1548)】

蠣崎高広の男。蠣崎季広と家督をめぐって争い討死した。

蠣崎盛広【かきざきもりひろ(1571~1608)】

蠣崎慶広の男。官途は若狭守。室は下国直季の娘。別名松前盛広。1598年、羽柴秀吉の病没後、父蠣崎慶広と共に松平元康に属した。1600年、松前家の家督を相続した。政務は依然として蠣崎慶広は執り行った。1604年、松平元康から黒印制書を受け蝦夷地の蠣崎家の領有権が確定した。1608年、父蠣崎慶広に先立って病没した。このため、蠣崎盛広の嫡男蠣崎公広が蠣崎慶広の養子になって蠣崎家の家督を相続することになった。

蠣崎忠広【かきざきただひろ(1580~1617)】

松前慶広の次男。官途は隼人正。通称甚五郎。別名松前忠広。幼少期から詩歌や武勇に優れた聡明な人物。1599年、父蠣崎慶広と共に上洛して松平元康に拝謁した。1604年、蠣崎慶広から江戸で分家することを許され、松平秀忠に仕えた。1610年、下総国結城郡内で1,000石を領した。1615年「大坂夏の陣」に参陣した。1615年、この戦功により加増を受け2,000石を領した。1617年、松平秀忠の上洛に従ったが病に倒れ、伊勢国桑名で病没した。

蠣崎利広【かきざきとしひろ(15??~15??)】

松前慶広の三男(南部利直の養子)。別名松前利広。養父の南部利直と不和になって義絶されて松前城に戻り、父蠣崎慶広の補佐に務めた。1616年、蠣崎慶広が病没後に蠣崎公広が松前家の家督を相続すると、蠣崎家の簒奪を図った。蠣崎公広の寵愛を得ていた側近杉山左内(蠣崎定広の娘婿)と結んで事を進めたが、杉山左内と犬猿の仲だった杉山平内が蠣崎公広に密告し密議が発覚、松前城から落延びた。

蠣崎由広【まつまえよしひろ(1594~1614)】

蠣崎慶広の四男(蠣崎盛広の養子)。通称数馬。別名松前由広。嫡男がなかった兄蠣崎盛広の養子となったが、蠣崎盛広に実子蠣崎公広が誕生して嗣子に定められた。このため蠣崎盛広とは不和となった。1614年、「大坂冬の陣」の際、羽柴秀頼勢に内通の嫌疑を受け、蠣崎慶広の命を受けた工藤祐種により謀殺された。

工藤祐兼【くどうすけかね(14??~1529)】

瀬田内館主。工藤祐長の男。通称九郎左衛門。1529年、「タナサカシの蜂起」では、瀬田内館が攻撃された際、工藤祐兼は殿軍を引き受け工藤祐致を落延びさせたが自身はアイヌ衆に包囲され討死した。

工藤祐致【くどうすけとき(15??~15??)】

工藤祐兼の男。通称九兵衛。1529年、「タナサカシの蜂起」では、瀬田内館が襲撃された。蠣崎義広はタナサカシとの和議を提案、その使者となった。タナサカシが和議を結ぶため、瀬田内館にやってくると、宴会の席で謀殺した。

工藤祐種【くどうすけたね(15??~16??)】

工藤祐致の男。通称九兵衛。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢への内通を疑われた松前由広を謀殺した。

コウジ【こうじ(15??~1515)】

蝦夷地東部の酋長。訇時。1513年、兄ショヤタインとともに蜂起し、宇須岸館、志濃里館、与倉前館を攻落した。1514年、大館を攻落した。1515年、蠣崎光広の館を攻撃したが、蠣崎光広との和議の宴会で謀殺された。

河野政通【こうのまさみち(14??~15??)】

箱館主。官途は加賀守。通称右衛門。1454年、南部家によって田名部に抑留されていた安東政季と共に蝦夷地に渡海、下之国に箱館を築城、守備し、茂別館主下国重季を補佐した。1457年、「コシャマインの蜂起」では茂別館、花沢館以外の全ての土豪の館が陥落、河野政通は捕縛されるが、鎮圧後助けられた。1513年、「ショヤタイン、コウジの蜂起」には、孫娘を伴い松前城に落延びた。

河野季通【こうのすえみち(15??~1513)】

河野政通の男。通称弥次郎右衛門。父河野政通とともに蝦夷地開拓を行っていたがそれがアイヌ衆との軋轢を生んだ。1513年、「ショヤタイン、コウジの蜂起」では宇須岸館が攻撃され、父河野政通のと三歳になる娘を落延びさしたあとアイヌ衆と戦い討死した。娘は蠣崎季広の室となり、松前慶広などを生んだ。河野季通の病没、河野家の名跡は断絶していたが、松前慶広の六男が継ぎ河野景広と称した。

河野景広【こうのかげひろ(1600~1558)】

松前慶広の六男(河野季通の養子)。官途は伊勢守。通称右衛門。別名松前景広。室は下国由季の娘。1602年、父松前慶広の命で、松前慶広の母の出自、箱館館主河野家の名跡を再興した。1634年、西町館に居所を移した。1638年、居所に稲荷大明神の社殿を造営した。1643年、松前家の氏神新羅大明神の社を建立、信仰心が高かった。1645年、松前系図伝を書写し、代々の事柄を編纂した「新羅之記録」を著した。

コシャマイン【こしゃまいん(15??~1457)】

蝦夷地東部の酋長。渡島半島南岸には和人が定住し、館主と称される小領主群が形成された。館主は東は志濃里館、西は花沢館を根拠地としてアイヌ衆との交易を行ったがアイヌ衆との軋轢を生んだ。1456年、志濃里の鍛冶屋でアイヌ衆が製作を依頼した小刀の良し悪しと値段をめぐって争いとなり、アイヌ衆が謀殺される事件が起こった。1457年、コシャマインらはアイヌ衆を率いて東は牟川から西は与市に至る間で蜂起し、志苔館主小林良景、箱館主河野政通、中野館主佐藤季則、脇本館主南条季継、穏内館主蒋土季直、覃部館主今泉季友、禰保田館主近藤季常、原口館主岡部季澄、比石館主厚谷重政、小館主相原政胤らの館を攻落した。和人で残ったのは、花沢館主蠣崎季繁、茂別館主下国家政のみだった。蠣崎季繁の家臣武田信広に和議と称して宴会に招かれ謀殺された。

小平季久【こだいらすえひさ(15??~15??)】

蠣崎季広家臣。

小平季遠【こだいらすえとお(15??~15??)】

小平季久の男。通称藤兵衛尉。室は蠣崎季広の娘(四女)。蠣崎家が檜山安東家の蝦夷代官の立場だった、小平季遠は娘婿として軍事面で小平季広を支えた。のちになって檜山安東家に内応したと、小平季広に疑われ謀殺された。嫡男小平季長は寛永期に活躍し、金山奉行を務め、財政を統括した。また次男小平季時は三関家として別家を立てた。

小林良定【こばやしよしさだ(14??~1513)】

志苔館主。小林良景の男。通称弥太郎。1456年、父小林良景が「コシャマインの蜂起」で討死したため小林家の家督を相続した。1513年、、「ショヤタイン、コウジの蜂起」では、アイヌ衆に志苔館を囲まれ籠城するが討死した。

小林良治【こばやしよしはる(14??~15??)】

小林良定の男。通称三郎右衛門。1513年、「ショヤタイン、コウジの蜂起」では志苔館が陥落、父小林良定が討死した。1514年、蠣崎光広、蠣崎義広父子が松前大館に転封してくるとそれに属した。

小林良道【こばやしよしみち(1514~1563)】

小林良治の男。1543年、若狭国の武田信豊に使者として派遣された。蠣崎家は若狭武田家の血を引くといわれるが、このときが初の使者の派遣であった。

蒋土季成【こもつちすえなり(14??~15??)】

穏内館主。兵庫之介。父蒋土季直の病没により蒋土家の家督を相続した。蒋土季成には娘しか生まれず家系は断絶した。

小山興重【こやまおきしげ(15??~15??)】

蠣崎義広家臣。小山隆政の謀反以来、蠣崎義広から追放されていた小山家であるが小山興重の代になり帰参を許された。しかし小山隆政のような重臣待遇ではなく、奉行級の中堅家臣であった。

小山重政【こやましげまさ(15??~15??)】

小山興重の男。通称弥次兵衛。蠣崎盛広、蠣崎公広、蠣崎氏広、蠣崎高広の四代に仕えた。父小山興重と同様に、奉行級の中堅家臣の待遇であった。

小山元政【こやまもとまさ(15??~15??)】

小山興重の次男。通称小次郎。

紺広長【こんひろなが(15??~15??)】

蠣崎盛広家臣。官途は備後守。1514年、蠣崎盛広が大館を本拠としたことは、安東尋季の意を汲むものではく了承を得るKとおができなかったが、三回目の交渉役に抜擢され彼の手腕で承諾を得た。

近藤信武【こんどうのぶたけ(14??~1527)】

禰保田館主。官途は左京亮。1512年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では禰保田館は陥落、蠣崎光広を頼って落延びた。

近藤季武【こんどうすえたけ(14??~1527)】

近藤信武の男。官途は帯刀。

近藤義武【こんどうよしたけ(1568~1638)】

近藤季武の男。通称吉左衛門。近藤義武の代に禰保田館から松前城に移った。1610年、花山院忠長が女官との淫行の咎で蝦夷国に配流の際、饗応役、帰洛の供奉を務めた。1615年、「大坂夏の陣」に松前忠広の傅役として参陣した際、合戦中喉が渇いたため自らの乗馬を殺しその血を啜った。

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【さ】

斎藤実繁【さいとうのりざね(15??~15??)】

出羽由利郡の豪族衆。斎藤実繁の娘が、蠣崎慶広の継室のなった縁で蠣崎慶広に仕えるようになった。

斎藤直政【さいとうなおまさ(1582~1654)】

斎藤実繁の男。1591年、羽柴秀吉の「奥州討伐」により所領を失い、斎藤直政の姉が蠣崎慶広の継室となった縁を頼って父斎藤実繁と共に蠣崎慶広に仕えた。1641年、蠣崎氏広に家老職に抜擢された。

酒井広種【さかいひろたね(15??~1637)】

蠣崎公広家臣。通称伊兵衛。父酒井七助は羽後国仙北郡の豪族であったが没落して蠣崎家に仕えた。1637年、火災により松前城の火薬庫が爆発した際、松前公広を厚谷貞政と共に助け出したが、酒井広種自身も火傷を負いまもなく病没した。

佐藤季則【さとうすえのり(14??~1513)】

中野館主。通称三郎左衛門。父佐藤季行と共に蝦夷地に渡った。1457年、「コシャマイン蜂起」が起こり中野館は陥落した。父佐藤季行の隠居により、佐藤家を家督を相続した。1504年、勝山館主蠣崎光広に属した。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」の際、再び中野館は陥落、その戦いの傷がもとで病没した。

佐藤季連【さとうすえつら(14??~15??)】

佐藤季則の男。通称彦助。室は蠣崎季広の娘。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」の際、中野館は陥落した。中野館は建されることなく、佐藤季連は徳山館に転封してのちに蠣崎季広に属した。

佐藤季平【さとうすえひら(15??~15??)】

佐藤季連の男。通称左衛門。室は河野景広の娘。

下国重季【しもぐにしげすえ(15??~1596)】

下国師季の男。官途は式部。通称孫八郎。室は蠣崎季広の娘。父下国師季が瀬田内に追放されると、下国家の家督を相続した。嗣なく弟下国直季の男下国由季を後継とした。

下国直季【しもぐになおすえ(15??~15??)】

下国重季の男。通称加兵衛。室は蠣崎季広の娘。

下国由季【しもぐによしすえ(15??~1594)】

下国直季の男(下国重季の養子)。官途は主典介。通称久三郎。室は蠣崎守広の娘。伯父で宗家の下国重季に子が無く、下国重季の養子となりるも、下国家の家督を相続したが早世した。

下国盛季【しもぐにもりすえ(15??~15??)】

下国直季の次男。

下国広季【しもぐにひろすえ(15??~15??)】

下国直季の三男。通称内記。室は 松前慶広の娘。兄下国由季が伯父下国重季の養子になったため、下国直季の跡を継いだ。

下国師季【しもぐにもろすえ(1523~1563)】

茂別安東家臣。下国家季の男。官途は下野守。通称安東八郎。松前之守護職を安東尋季より任じられた家柄。父下国家季が早世しているため、祖父下国家政の跡を継ぎ、茂別館を守った。1562年、アイヌ衆の攻撃により茂別館から松前城に逃れ蠣崎光広に仕えた。

シャクシャイン【しゃくしゃいん(15??~1669)】

蝦夷地東部の酋長で五大勢力のひとつ。カモクタイン家臣。通称沙武者。1653年、蝦夷地西部の酋長オニビシによって静内の酋長カモクタインが謀殺されたため酋長になった。寛永年間から商場知行制を推進したため、アイヌ衆間での漁猟をめぐる対立が頻発した。東部を押えるシャクシャインと西部を押えるカモクタインとで対立が強まった。1648年、センタインが病没するとシブチャリ川を中心にアイヌ衆同士の戦いが起こった。1655年、カモクタインが討死すると蠣崎高広が調停に入り和議が結ばれた。1665年、蠣崎高広が交易価格を大幅に上げたためオニビシが蜂起した。1567年、蠣崎高広勢と戦いオニビシ率いるアイヌ衆は大敗した。シャクシャインは蠣崎高広勢との戦いを決意しアイヌ衆に参陣を呼びかけ一斉に蜂起した。商船19隻を破壊,乗り合わせていた者273人を討取った。蜂起のさなかシャクシャインは謀殺された。

ショヤタイン【しょやたいん(15??~1515)】

アイヌ衆の酋長。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では、箱館館、志苔館、与倉前館が攻撃を受け館主小林良定、河野政通が討死した。生き残った豪族衆は蠣崎光広のもとに落延びていった。ショヤタインはコウジとともに大館を攻撃し、相原季胤、村上正儀の両名は討死し大館陥落した。1515年、ショヤタインとコウジ兄弟は再び蜂起したが、蠣崎光広は偽りの和議を結び彼らを徳山館に誘い出し酒宴を設けて彼らを酔わせた後、謀殺した。

隋良【ずいりょう(15??~15??)】

蠣崎季広の四男。蠣崎家の菩提寺を法源寺から法憧寺に移したため、法源寺との関係悪化を懸念した蠣崎季広が出家した随良を法源寺に送り込んだ。晩年、随良は法源寺の住職となり、僧侶として生涯を過ごした。

杉山左内【すぎやまさない(15??~15??)】

松前公広家臣。室は蠣崎定広の娘。1618年、松前利広と結託して藩を乗っ取ろうとしたが、杉山左内と仲の悪かった、杉山平内が松前公広に密告したため失敗に終った。

杉山平内【すぎやまへいない(15??~15??)】

松前公広家臣。1618年、松前利広と杉山左内が結託して松前公広の謀殺を図ったが、杉山左内と犬猿の仲だった杉山平内が松前公広に密告したため失敗に終った

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【た】

建部七郎右衛門【たけべしちろうえもん(1615~1691)】

蝦夷地交易を担った近江商人。近江国柳川に住んで行商し、敦賀湊から松前湊にまで活動を広げ、田付新助とともに両浜組を組織し、松前湊に漁場を開いた。

タリコナ【たりこな(15??~1536)】

蝦夷地西部の酋長。室はタナサカシの娘。1529年、蠣崎義広によって謀殺されたタナサカシの娘婿。タリコナは室に蠣崎義広への復讐戦へ立ちあがるよう度々すすめられた。1536年、蜂起したが蠣崎義広に偽りの和議の酒宴の席で夫婦ともども謀殺された。この復讐戦の真の主役はタリコナの室(タナサカシの娘)でありタリコナやタナサカシのように広域的な地域の長につながる女性の政治的、社会的地位を裏付ける戦いであった。

タナサカシ【たなさかし(15??~1529)】

蝦夷地西部の酋長。多那嶮。1525年、セタナイ(瀬棚)を本拠とするアイヌ衆の圧力が蠣崎義広に対し強まった。1529年、蠣崎義広はタナサカシの南下に対抗し工藤祐兼、工藤祐致兄弟に命じてタナサカシの本拠を攻撃したが失敗し工藤祐兼が討死した。一方タナサカシは長駆して上ノ国勝山館を攻撃し蠣崎義広を包囲した。蠣崎義広はタナサカシに和議を申し入れ、賠償品の宝器を受け取ろうとしたタナサカシを勝山館で謀殺した。

チコモタイン【ちこもたいん(15??~15??)】

蝦夷地東部(志利宇知)の酋長。知古茂多院。東蝦夷奉行。コシャマインの戦以来100年間続いたアイヌ衆と和人との戦いに終止符を打った。1550年、講和体制の東部側の酋長。蠣崎季広は和人地と蝦夷地の境界を東部は知内以西を蠣崎季広の勢力範囲とし、和人商人の唯一の統制者としてアイヌ衆に認めさせチコモタインを「東夷の尹」に位置づけた。蠣崎季広は講和の印として「夷狄商船往還法度」を作り、彼の持ち場である知内沖を通過する商船に帆を降ろさせてチコモタインに敬意を払わせた。蠣崎季広から扶持米を与えられたがこの扶持米は諸国から来る商人に負担させた。

富田広定【とみたひろさだ(15??~15??)】

蠣崎家臣。官途は豊後守。1548年、若狭国の武田信豊に使者として派遣された。武田信豊とよしみを結ぶ事に成功した。外交能力に長けていた。

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【な】

長門広益【ながとひろます(15??~15??)】

蠣崎基広家臣。通称藤六。岩亀館主小山隆政の弟武田信広とともに小山隆政を討取った麓廣政の子孫。1548年、蠣崎基広の謀反を起こした際、蠣崎基広を討取って頸を持ち帰った。

南条広継【なんじょうひとつぐ(1529~1562)】

勝山館主。南条光継の男。蠣崎基広家臣。官途は越中守。室は蠣崎季広の娘(長女)。1548年、蠣崎基広と蠣崎季広の家督争いによって空白となった上ノ国館主に任じられた。しかしこの騒動は南条広継の室となっていた蠣崎季広の娘の企てであった。さらに蠣崎舜広、蠣崎元広の謀殺にも関わったとれ、南条広継の室は謀殺された。

南条宗継【なんじょうむねつぐ(15??~15??)】

南条広継の男。通称五郎。

新井田義成【にいだほしなり(15??~15??)】

蠣崎基広家臣。通称民部。室は村上広任の娘。

新井田広貞【にいだひとさだ(15??~15??)】

新井田義成の男。通称右京之進。室は蠣崎季広の娘(十三女)。文禄年間に新井田と改む新井田三家の祖。

ニシラケアイヌ【にしらけあいぬ(15??~15??)】

メナシの酋長。数十艘を率いて虎皮など数十枚を蠣崎慶広に贈った。蠣崎慶広は特に大きいと評判の獣皮を松平元康に献上した。
 
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【は】

ハウカセ【(はうかせ15??~15??)】

蝦夷地の五大勢力のひとつの酋長。石狩川流域を本拠地とし、その政治的勢力範囲は南はオタルナイ(小樽)、北はマシケ(増毛)にまでおよんでいた。1669年、「シャクシャインの蜂起」では、武装中立を堅持したが蠣崎季広が推し進める商場知行制には反対した。近江八幡出身の金太夫という娘婿に本土から鉄砲50挺を購入させた。

ハシタイン【はしたいん(15??~15??)】

蝦夷地西部(瀬田内)のアイヌ酋長。波志多院。1456年、「コシャマインの蜂起」以来100年以上続いたアイヌ衆と和人の戦いを蠣崎季広と講和を結ぶことにより終止符を打った。1550年、講和体制の西部側の酋長代表者。蠣崎季広は和人地と蝦夷地の境界を西部は天ノ河以南を蠣崎季広の勢力範囲として,また蠣崎季広を和人商人の唯一の統制者としてアイヌ衆に認めさせようとハシタインを「西夷の尹」に位置づけた。蠣崎季広は講和の印として「夷狄商船往還法度」を作り、瀬田内沖を通過する商船に対し、チコモタインに敬意を払わせた。蠣崎季広は、ハシタインを西蝦夷奉行として扶持米を与えた。この扶持は「夷役」と呼ばれた。これにより蠣崎季広はアイヌとの交易による利益を独占することに成功した。

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【ま】

三関為久【みせきためひさ(14??~15??)】

相原季胤家臣。通称孫三郎。松前守護の相原季胤の家臣であったが相原季胤の討死により蠣崎義広に仕えた。

三関広久【みせきひろひさ(15??~15??)】

三関為久の男。官途は右近。室は蠣崎正広の娘。蠣崎季広に仕えた。1587年、蠣崎慶広の嫡男蠣崎盛広とともに徳山湊より商船に乗って敦賀湊に向かうが、河北郡戸賀沖で暴風に遭い、七昼夜洋上を漂った後にようやく敦賀湊に到着することができた。京都で羽柴秀吉に謁見後、熊野参詣に随行した。

三関季時【みせきすえとき(15??~16??)】

小平季遠の次男(三関広久の養子)。官途は内匠。

村上政儀【むらかみまさよし(15??~1513)】

下国恒季家臣。小館主。官途は三河守。信濃国を追われ、羽後国の枝連衆を頼って落延びる途中、暴風で蝦夷地上之国泊に漂着した。相原政胤とともに下国恒季に仕えた。1496年、下国恒季が討死した後、相原季胤が大館主になったためそれに仕えた。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では、アイヌ衆の攻撃を受け大館、小館が落城し討死した。

村上季儀【むらかみすえよし(14??~15??)】

村上政儀の男。官途は三河守。1513年、大館陥落、父村上政儀の討死後に蠣崎慶広に養われ、娘が蠣崎慶広の室となったことにより蠣崎家の重臣となった。

村上直儀【むらかみなおよし(15??~16??)】

松前公広の四男(村上季儀の養子)。官途は三河守。室は蠣崎季広の娘。兄村上忠儀は庶子で別家していたため、村上家の家督を相続した。村上直儀の跡目には嗣子なく、松前家より松前広諶が養子となり、村上広諶と称した。

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【や】

休之【やすゆき(15??~15??)】

松前慶広の六男。専念寺の住職を務めて、権僧都になった。

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【資料Ⅰ】

蝦夷国(渡島国八郡/30,000石)

爾志郡:江刺館。
檜山郡:勝山城、比石館、花沢館。
津軽郡:原口館、禰保田館、大館、覃部館
福島郡:脇本館、穏内館
上磯郡:志苔館、茂別館、中野館。
茅部郡:砂原館。
亀田郡:宇須岸館(箱館)。
奥尻郡:奥尻砦。

※実際には蝦夷国は稲作に適さないため30,000石格。

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【資料Ⅱ】

道南十二館【どうなんじゅうにたて】

蝦夷地(後の渡島国)渡島半島にあった渡党領主の館の総称。東は志苔館から西の上ノ国町の花沢館まで渡島半島南端の海岸線に分布する。安東氏の被官である館主はこれらの館をアイヌ民族や和人商人との交易や領域支配の重要拠点とした。

志苔館主:小林太郎左衛門尉良景、箱館主:河野加賀右衛門尉政通、茂別館主:下国(安東)式部大輔家政、中野館主:佐藤三郎左衛門尉季則、脇本館主:南条治部少輔季継、穏内館主:蒋土甲斐守季直、覃部館主:今泉刑部少輔季友、大館主:下国山城守定季、禰保田館主:近藤四郎右衛門尉季常、原口館主:岡部六郎右衛門尉季澄、比石館主:厚谷左近将監重政、花沢館主:蠣崎修理大夫季繁。

蝦夷国三守護職【えぞこくさんしゅごしょく】

安東政季は、茂別館主:安東家政(下国守護)、大館主:下国定季(松前守護)、花沢館主:蠣崎季繁(上国守護)の三名を「守護」に任じ、他の館主を統率させた。

アイヌ衆【あいぬしゅう】

蝦夷国では、粟、稗、黍などの雑穀が小規模ながら栽培されていたがアイヌ文化の成立とともに、農耕は縮小する傾向にあった。これは寒冷な気候ゆえに耕作を諦めたというより、本州との交易用の毛皮や干魚を確保するため、狩猟や漁労を重視した結果農作は縮小した。農耕民族の和人と狩猟採集民族のアイヌ衆は、それぞれの生活様式によって確保した生産物を交易で交換した。アイヌ衆は魚や毛皮を輸出品目とし、和人の生産する道具(鉄器や漆器)や嗜好品(米、茶、酒)と交換した。樺太アイヌは北方のツングース系などの諸民族とも交流があり、それを介して大陸の中華王朝とも関係を持った。1264年、樺太に侵入したアイヌとニヴフとの間に紛争が勃発した。この戦いにはモンゴル帝国軍が介入し、アイヌからの朝貢を取り付けた。その後もアイヌは大陸との交易を続けていた。この交易は山丹交易と呼ばれ、アイヌが交易によって清朝などから入手した絹織物や官服が「蝦夷錦」と呼ばれて日本国内にも流通した。

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【資料Ⅲ】

蝦夷国【えぞのくに】

日本列島の北端に位置するアイヌ衆の居住地。日本の内地とは津軽海峡越しに津軽方面と海路で結ばれ、北方では千島列島や、樺太など北方民族の居住地と交易げ盛んであり、文化的には北方文化圏と称された。こうした立地条件から、蝦夷地に進出している豪族間の勢力争いはあるものの、内地の戦国大名らの領地争いとは無関係な状態が続いた。また蝦夷地の豪族衆の勢力圏も南部の渡島国に限定されている。国土は広範囲にわたるが、未開発の地域がほとんどで、農業、商業、工業、林業といった産業も未発達であった。主要な戦略物資(食料、衣類、武器等)は本土からの交易で得る必要があった。交易品は、鮭、鰊、昆布が蝦夷三品と呼ばれ重要な産物となっていた。また野生の毛皮、矢羽根の原料となる鷹の羽なども産物となっている。産物のほとんどが、アイヌ衆が収穫したものを和人が交易によって手に入れていたが、交易条件をめぐってアイヌ衆と和人の間で争いが継続的に起った。

松前湊【まつまえみなと】

海峡を隔てて本州の津軽半島と最短距離にある松前半島先端部に位置し、中世、蝦夷地和人拠点の中心的地位にあった湊街。1456年、蝦夷から羽後国小鹿島に渡った安藤政季は道南の勢力圏を三つに編成し、その一つである「松前守護」に大館館主下国定季を配した。1525年、和人集落は上ノ国と松前城周辺を残すのみとなった。1514年、道南の有力者として台頭していた蠣崎義広が本拠を上ノ国から松前大館に移しており、松前は大幅に縮小した道南和人勢力圏の中心都市となった。『新羅之記録』によると、蠣崎義広は「松前守護」の地位の承認を得るため、諸国から松前に来航する「商船旅人」より「年棒」を徴収し、その「過半」を安東舜季へ進上することを約束した。1551年、アイヌ衆との和議が成ると、諸国から来航する商船から年棒を徴収し、これを「夷役」として「西夷」と「東夷」の両酋長に配分することや、アイヌの商船の往還する際の方式など、アイヌ衆と和人との交易方法も定められた。東西各地から来航する蝦夷人らは松前に鮭や鰊、白鳥、猟虎皮、鷹、上質の絹布などをもたらし、本土からもたらされる米や酒、小袖、木綿などと交換していた。アイヌ衆は秋田湊などにも来航していた。

宇須岸湊【うすけしみなと】

函館の旧名。渡島半島東部の物資の積出港の役割を担っていた湊街。宇須岸を交易湊とする現在の函館市地域は、居住環境もよく、蝦夷国における和人居住区の経済的中心地として繁栄した。宇須岸の全盛期には小浜湊、敦賀湊に代表される若狭国からの商船が定期的に来航し、海岸には問屋が軒を連ねていたのである。また随岸寺の開山嘉峯和尚も同じく商船に乗って来航したとしていることから、商人とともに宗教勢力が扶植されていた。

与市湊【よいちみなと】

蝦夷国の積丹半島の東の付け根、余市川河口部に形成され、蝦夷地に進出した和人の最前線を担った湊街。与市湊は陸奥国の十三湊を中心として北方交易の最北端であり、アイヌとの交易の最前線に位置する湊であった。

厚岸湊【あっけしみなと】

東蝦夷地の天然の良湊。厚岸湾の奥に位置し、松前方面と、千島列島方面とを結ぶ交通の要衝を担ったアイヌの集落。

泊湊【たまりみなと】

千島列島最南の国後島の南端に位置する天然の良湊。蝦夷国と国後島は根室海峡を隔てて向かいあう位置にあり、古くからアイヌの寄湊地、交易地であった。

奥尻島【おくしりとう】

蝦夷国奥尻郡奥尻島。南西部の日本海上に浮かぶ島。

函館八幡宮【はこだてはちまんぐう】

亀田郡函館。1445年、亀田郡の領主であった河野政通が函館に城を築く際、城の鎮守として城域東南隅に八幡神を勧請した。1512年、河野家はアイヌに攻められて城を追われ、一族は八幡神を奉じて亀田郡赤川村に逃れた。1649年、河野家一族の巫女伊知女が霊告を受けて元町の河野館跡地に八幡宮を遷した。

松前専念寺【まつまえせんねんじ】

大谷派僧侶真徳が松前専念寺を草創した。以後専念寺は松前藩と何度も婚姻関係を結び、蝦夷地の仏教界で大きな力を持った。

蝦夷浄願寺【えぞじょうがん じ】

戦国期、蝦夷地、北奥地域への教線拡大を進めた本願寺教団の最有力中継ぎ本山として布教の中心を担った寺院。1471年、蓮如の意向を受けて奥羽に派遣された弘賢により蝦夷地松前に浄願寺が建立された。1514年「大谷本願寺親鸞聖人御影」が「蝦夷浄願寺」に下された。蝦夷浄願寺はアイヌの蜂起が深刻化すると「秋田土崎湊」に移転するが、以後も「蝦夷浄願寺」を称しつつ、三代目了専のときに桧山浄明寺をはじめ弘前、浪岡、鯵ヶ沢に新寺を建て、四代了乗のときに塩越浄専寺、大曲安養寺を、五代了賢のときにも能代、船越、角館をはじめ、湯沢や酒田などにも新寺を次々に起立した。蝦夷浄願寺は蝦夷国、北奥地域における本願寺教団布教活動の中核的役割を担っていた。

山丹交易【さんたんこうえき】

山丹人(ウィルタ族、ニブヒ族、オロチョン族など沿海州の民族)と、アイヌ衆との間で、主として樺太を中継地として行われた交易。広義には清朝が黒竜江下流域に設けた役所との朝貢交易から、山丹人、さらにアイヌ衆を介して蝦夷地の松前藩にもたらされた交易。山丹人は、清朝に貂皮を上納する代わりに下賜された官服や布地、鷲の羽、青玉などを持参して樺太に来航し、アイヌ衆は猟で得た毛皮や、和人よりもたらされた鉄製品、米、酒等を、山丹人が持ち込んだ品と交換した。また、アイヌ衆の中には山丹交易をするばかりではなく、清朝に朝貢していたものもいた。

蝦夷鮭【えぞさけ】

蝦夷地でアイヌ衆によって採られ、乾燥加工されたとみられる鮭。「蝦夷鮭」は、南北朝期成立の『庭訓往来』が紹介する各地の特産品の中の一つで「宇賀昆布」とともに蝦夷地を代表する産物。1306年、越前国三国の預所代、刀禰が佐機良泊へ停泊した「関東御免津軽船二十艘之内随一」の大船から「漂倒船」の名目で、その積荷を押領する事件が起き、押領された積荷には鮭が含まれていた。「津軽船」の積荷であることから、この蝦夷鮭とみられ、既に鎌倉期には日本海を運航する廻船によって北陸、畿内方面にもたらされていた。 1618年、蝦夷の松前領に潜入したキリスト教宣教師アンジェリスの報告によれば、毎年東部のほうにあるミナシの国から松前へ百艘の船が、乾燥した蝦夷鮭や蝦夷鰊、猟虎皮をもってきた。く中世においては蝦夷鮭、蝦夷昆布、蝦夷鰊など北海の産物は、アイヌ衆によって宇須岸湊や松前湊といった蝦夷地の和人拠点、十三湊など津軽地方の湊にもたらされ、そこから全国に流通した。

猟虎皮【らっこかわ】

ウルップ島など千島列島が点在するオホーツク海域で捕れたと思われる猟虎の毛皮。1423年、足利義量の将軍職就任祝賀として安東康季が昆布五百把、鷲目銭二万匹(疋)とともに猟虎皮二十枚を贈った。安東康季は十三湊を中心に蝦夷との北方交易で繁栄していた。1593年、蠣崎慶広は羽柴秀吉に猟虎皮三枚を献上した。1618年、蝦夷国東部にあるミナシの国から松前へ、百艘の船が鮭や鰊とともに多量の猟虎皮を運び高価な価格で取引された。1620年、北東方から六十三日間の航海を経て来航した蝦夷人が「ウルップ島」でとれた猟虎皮を生きた鷹や鶴、鷲の羽とともに松前家に献じた。

鷲の羽【わしのはね】

アイヌ衆の人々によってもたらされ、矢を飾る羽などに用いられた鷲の羽。鷲の羽は、近世の山丹交易の交易品として蝦夷錦などとともにみえており、中世、蝦夷地で入手された鷲の羽の中にも大陸からの伝来品もあった。1558年、八幡大菩薩の文字のある鷲の羽が、「奥蝦夷之国(樺太)」から蠣崎季広のところにもたらされた。1620年、松前領に潜入した宣教師カルワーリヤの報告によれば、北東方から松前に来る蝦夷人はラッコ皮や生きた鷹、鶴とともに日本人が箭に付けて飾る鷲の羽をもたらすとしており、中世においても鷲の羽などの商品がアイヌ衆の交易活動により、松前などの蝦夷地の和人拠点にもたらされていた。

蝦夷錦【えぞにしき】

中国東北部(黒竜江下流域、沿海州)から樺太を経由して蝦夷地にもたらされた中国製の絹織物の総称。近世の山丹交易(前述地域間の交易)において最も珍重された商品のひとつ。アイヌ衆が沿海州の民族との交易で入手した、雲竜などを織り出した中国産絹や清朝官服のことである。かつて、アイヌは北方のツングース系民族とも交流があり、彼らと山丹交易と呼ばれる交易を行っていた。ツングース系民族は大陸の中華王朝と交流があったため、中華王朝の物産がツングース民族を介してアイヌ衆に伝わった。アイヌ衆は松前藩の半支配下に置かれ、不平等な交易をさせられた。その交易の中で、中華王朝の清からツングース民族を介してアイヌ衆にもたらされた満州風の錦の衣服が蝦夷地にもたらされた。

蝦夷金【えぞきん】

蝦夷地で採掘された金。1608年、松平元康は佐渡奉行大久保長安に命じて金山を調査する「鉱山師」を松前に派遣したが松平元康の蝦夷地への介入を拒む松前慶広によって、金山開発は拒否された。1616年、松前公広が跡を継ぐと、知内川流域を中心に金山開発に着手した。1620年、松平秀忠に金百両を献上して金山の権利を得た。さらに移住規制を緩和して採掘者を募ったため、一攫千金を狙う和人が松前に押し寄せた。このゴールドラッシュともいえる和人の金山開発、および自然破壊が後の「シャクシャインの蜂起」につながった。

夷狄の商舶往還の法度【いてきのしょうはくおうかんのはっと】

「日の本蝦夷」と称され、半島東部シリウチ(上磯郡)一帯に居住するアイヌの酋長チコモタインと、「唐子蝦夷」と称された半島西部セタナイ(久遠郡)一帯に居住するアイヌの酋長ハシタインが、安東舜季が仲介に立ち、松前大館主蠣崎季広と結んだ和議。この和議によって、他国の商人との交易において蠣崎季広が徴収した関銭の一部をチコモタインとハシタインに支払うこと、シリウチから天河までの地域より北東を蝦夷地とし和人の出入りを制限すること、渡島半島南西部の松前と天河は和人地としアイヌの出入りを自由とすること、シリウチの沖または天河の沖を船が通過する際は帆を下げて一礼することが定められた。

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戦国人名辞典は1527~1637年の期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城か郡の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

※徳川家康は松平元康、豊臣秀吉は羽柴秀吉に統一しました。

※参考文献:「津軽秋田安東一族」新人物往来社、「東北大名の研究(戦国大名論集2)」吉川弘文館、「会津芦名一族」歴史春秋社、「最上義光(戦国の驍将)」新人物往来社、「奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)」宝文堂、「会津芦名四代」歴史春秋、「伊達政宗(全8巻)」講談社、「天を衝く(全3巻)」講談社文庫、「独眼竜伊達政宗」時代小説文庫、「津軽風雲録」時代小説文庫、「政宗に睨まれた二人の老将」宝文堂、「秋田『安東氏』研究ノート」無明舎、「(史伝)伊達政宗」学研M文庫、「独眼竜政宗」講談社文庫、「奥羽永慶軍記(全2巻)」新人物往来社、「津軽南部の抗争(南部信直)」、「秋田の中世浅利氏」無明舎出版、「独眼龍政宗」文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、「陸奥南部一族」新人物往来社、「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2011年1月16日日曜日

戦国若狭国人名辞典

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【あ】

青井右京亮【あおいうきょうのすけ(15??~15??)】

武田元光家臣。三方郡小村城主。1538年、小村城主粟屋元隆が没落すると、青井右京亮が城主に任じられた。1560年、寺井源左衛門、松宮玄蕃勢の攻撃を受け落城した。

青井将監【あおいしょうげん(15??~15??)】

足利義輝家臣。大飯郡青井城主。幕府奉公人衆。

粟屋元隆【あわや もとたか(15??~1542)】

三方郡佐柿国吉城主。笑鴎軒悦岑の男。武田元光家臣。官途は大膳大夫。室は勧修寺尚顕の娘。小浜代官を務め、霞美ヶ城を築いた。1538年、武田元光の次男武田信高を擁して謀反を起こすが、武田信豊勢お攻撃を受け敗れた。1542年、「和泉太平寺の戦い」では、畠山稙長、木沢長政らとともに、細川晴元勢の三好政長、三好長慶、遊佐長教らと戦ったが敗れて討死した。

粟屋勝久【あわやかつひさ(1523~1585)】
 
粟屋元隆の男。官途は越中守。室は丹羽長秀の娘。1542年、父粟屋元隆の病没により粟屋家の家督を相続した。1561年、松永長頼の支援を受けて逸見昌経が武田義統に反乱を起こした。武田義統は単独では戦えず。朝倉義景の支援を受け反乱の鎮圧を図った。粟屋勝久は武田義統の継嗣武田元明を擁して、朝倉義景勢の介入を阻止した。1568年、朝倉義景に武田元明が一乗谷に幽閉されると、若狭国内の反朝倉義景勢は、織田信長の支援を受け対抗した。1570年、「第一次越前侵攻」では、織田信長勢に属して幽閉されていた武田元明を救出した。1575年、武田元明とともに旧領復帰を織田信長に願い出るが許されなかった。1575年、「第二次越前侵攻」では、織田信長勢に属して参陣した。1581年、京都馬揃えでは丹羽長秀勢に属して参列した。1582年、「本能寺の変」後も丹羽長秀勢に寄騎衆として仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

粟屋勝長【あわやかつひさ(15??~16??)】

粟屋勝久の孫。1600年、「関ヶ原の役」後、豊後国臼杵城主稲葉貞通に仕え家老職を務めた。

粟屋光若【あわやみつわか(15??~15??)】

武田信豊家臣。粟屋家長の男。遠敷郡山内城主。侍大将、奉行人を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

粟屋元行【あわやもとゆき(15??~154)】

粟屋元勝の男。官途は左京亮。粟屋元隆らの家が惣領家で、粟屋元行は庶家。代々在京奉行を務め、粟屋元行は遠敷郡幕府御領所の代官を務め、公用銭の収納などを担当した。

粟屋勝春【あわやかつはる(15??~1535】

粟屋親栄の男。武田元光が武田元信の隠居により武田家の家督を相続するとその後見役を務め、近畿を転戦した。三条西実隆から『源氏物語』の講義を受けた。

粟屋弥四郎【あわややしろう(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。粟屋勝久らとともに織田信長に降った。1575年、「越前討伐」では、粟屋勝久ら若狭国海賊衆とともに海上より越前国沿岸を攻撃した。後、羽柴秀吉に仕え馬廻衆を務めた。1592年、肥前名護屋城三の丸の守備役を務めた。

粟屋右衛門大夫【(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。大飯郡白石山城主。

粟屋小次郎【あわやこじろう(15??~15??)】

粟屋右衛門大夫の男。1570年、織田信長勢に属した。

粟屋右馬允【あわやうまのじょう(15??~15??)】

粟屋元隆家臣。1552年、武田家浪人衆らとともに近江国から若狭国に侵攻して吉田村を焼打ちした。武田信孝、熊谷勝直らとともに武田信方勢と戦うが朝倉教景の介して和議を結んだ。

粟屋勝家【あわやかついえ(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。通称五郎右衛門。1566年、「岩出山砦の戦い」では、朝倉義景勢が国吉城に撤退する粟屋勝家勢500余り攻撃を掛けたが、国吉城から火矢を放って小屋を焼き払い、朝倉義景勢を撃退した。

伊崎為堯【いざきよりたか(15??~15??)】

大飯郡稲葉館主。1538年、武藤友賢勢の攻撃を受け、交戦したが降伏した。伊崎為堯は蟄居した。

伊崎光義【いざきみつよし(15??~15??)】

伊崎為堯の男。1538年、父伊崎為堯武藤友賢勢の攻撃を受け降伏したが、武藤友賢につくことをいさぎよしと武田信豊に仕えた。

伊崎義誠【いざきよしのぶ(15??~15??)】

伊崎光義の男。

伊崎義康【いざきよしやす(15??~15??)】

伊崎義誠の男。1540年、武藤友賢から稲葉館の城代に任じられた。1580年、本郷泰茂勢の攻撃を受け稲葉城は落城した。

市川定照【いちかわさだてる(15??~15??)】

武田信豊家臣。三方郡能登野館主。

市川信定【いちかわのぶさだ(15??~15??)】

市川定照の男。官途は山城守。火矢名手。山内一豊に仕えた。1589年、「小田原の役」に参陣して戦功を挙げた。山内一豊が遠江国掛川城主に任じられると1,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢のもとから見性院(千代)を救うため、使者として派遣された。

一宮賢成【いちのみやかたなり(15??~15??)】

三方郡一宮城主。官途は壱岐守。

打它宗貞【うちだむねさだ(1559~1643)】

敦賀の豪商。別名茂住宗貞。飛騨国高山城主金森長近に仕え、鉱山開発で財をなした。1608年、越前国敦賀湊に移った。廻船業をいとなみ、若狭国小浜城主酒井忠勝に仕え敦賀代官職を務めた。参考文献:「デジタル版日本人名大辞典+Plus」。

大草公広【おおくさきみひろ(15??~15??)】

大飯郡難波江城主。官途は三河守。幕府奉公衆。1532年、足利義晴に仕えて戦功を重ねた。1538年、武田元光は足利義晴から大草公広に所領を返却するよう命じられた。.

大塩吉次【おおしよよしつぐ(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。大塩吉信の男。田繩城主。官途は長門守。1562年、湯岡城主南部久方の攻撃を受け落城した。粟屋勝久を頼って落延びた。

大塩吉忠【おおしおよしただ(15??~15??)】

大塩吉次の男。1562年、父大塩吉次が南部久方の攻撃を受けた。粟屋勝久に仕えた。

太田祐安【おおたすけやす(15??~15??)】

遠敷郡三重城主。

小原帯刀【おばらたてわき(15??~15??)】

武田義統家臣。1567年、武田義統が病没すると、朝倉義景勢が武田元明を幽閉するために若狭国に侵攻した。小原帯刀と野田甚太夫は朝倉義景勢に対抗するため、守護館近くの誓願寺前に防御線を敷き戦ったが敗れ、武田元明は越前国に連れ去られた。

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【か】

香川右衛門大夫【かがわうえもんのたいふ(15??~15??)】

武田義統家臣。鳥羽谷麻生野城主。1570年、武田義統や他の国衆とともに織田信長に降った。1575年、「越前一向一揆討伐」では、若狭海賊衆とともに一揆勢を海上から攻撃した。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢に属して、戦後所領を没収された。

梶又左衛門【かじまたざえもん(15??~15??)】

武田義統家臣。1569年、若狭武田家36人衆のひとりとして、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀、中川重政の四奉行に所領安堵された。

月甫清光【がっぽきよみつ(15??~1538)】

武田信繁の五男。武田元光の後見役を務めた。1487年、武田国信や寺井賢仲らと南禅寺仙館院の和漢聯句の会に列座した。京都の三条西実隆と交流して、物を贈り詠草を添えて和歌の指導を受けた。1531年、三条西実隆に「金葉集の内、抜書、1両首」を贈った。

菊池治郎助【きくちじろうすけ(15??~15??)】

武田義統家臣、1569年、若狭武田家36人衆ひとり。丹羽長秀、羽柴秀吉、、明智光秀、中川重政の四奉行に所領安堵された。

木下和泉守【きのしたいずみのかみ(15??~15??)】

遠敷郡小浜湊の交易商人。羽柴秀吉から遠敷郡の所領を安堵された。羽柴秀吉蔵入地の年貢の収納、販売、運送、さらには兵糧米の輸送にあtった。組屋とともに前田利長の蔵宿を務めた。

熊谷勝直【くまがいかつなお(15??~1552)】
  
武田信豊家臣。官途は弾正大夫。幕府料所安賀荘の代官を務めた。1552年、不義を働いたとして武田信豊の意向により自刃した。

熊谷直之【くまがいなおゆき(15??~1595)】

三方郡井崎城主。武田信豊家臣。官途は大膳亮。通称伝左衛門。別名熊谷直澄。1568年、朝倉義景勢が若狭国に侵攻するとこれに抵抗した。1570年、「二次越前侵攻」以降、武田元明が織田信長に属すると、枝連衆の熊谷伝左衛門、熊谷式部丞らとともにこれに従った。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に属した。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して京都嵯峨ニ尊院にて自刃した。辞世の句は「あはれとも問ふひとならでとふべきか 嵯峨野ふみわけておくの古寺」。

熊谷統直【くまがいむねなお(15??~15??)】

武田義統家臣。1566年、謀反を起こしたが、武田義統と起請文を交わして和議を結んだ。

組屋隆行【くみやたかゆき(15??~1556)】

遠敷郡小浜湊の交易商人。室は関戸久興の妹(恵鏡)。組屋隆行は関戸久興とともに小浜本境寺の開基した。

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【さ】

沢村吉重【さわむらよししげ(1554~1660)】

逸見昌経家臣。官途は大学。通称才八。逸見昌経の没落後、若狭国に入部した細川藤孝、細川忠興父子に仕えた。以後、三十数度の戦いに参陣した。細川忠興が肥後国を領すると5,000石を領した。1637年、「島原の乱」にも参陣した。

潤甫周玉【じゅんぽうしゅうぎょく(1504~1549)】

武田元信の次男。臨済宗の僧。若くして出家した。1539年、遠敷郡名田荘雲外寺を開山した。1543年、建仁寺第二八二世に迎えられた。父武田元信や、兄武田元光とともに三条西実隆との交流を持った。

春沢永恩【しゅんたくえいおん(14??~1592)】

武田元信の六男。臨済宗。京都建仁寺の九峰以成の継いだ。のち建仁寺,南禅寺の住持となった。詩文にすぐれ、策彦周良らと親交を持った。著書に『春沢和尚録』、『枯木藁』。

白井光胤【しらいみつたね(15??~15??)】

武田信方家臣。加茂城主。官途は石見守。別名白井清胤。1567年、武田信方が武田義統に謀反を企てると、これに反対して継嗣の白井勝胤とともに武田信方のもとを退去した。

白井勝胤【しらいかつたね(15??~15??)】

白井光胤の男。官途は民部丞。1559年、逸見昌経が謀叛を起こすと、武田信豊勢に属して参陣した。1567年、武田義統の弟武田信賢との対立した、粟屋勝久、内藤勝高、逸見宗全、松宮玄蕃、熊谷直之、寺井源左衛門、白井勝胤、寺川左馬助、香川右衛門大夫ら若狭国人衆は、織田信長勢に属した。

白井政胤【しらいまさたね(15??~15??)】

白井勝胤の男。官途は民部少輔。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、丹羽長秀に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して没落した。

白井長胤【しらいながたね(15??~1639)】

白井勝胤の次男。通称九兵衛。1587年、藤堂高虎に仕えた。1592年、「文禄の役」に参陣した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。

関戸久興【せきどひさおき(15??~15??)】

遠敷郡小浜湊の交易商人。官途は豊前守。1550年、陸奥国戸館の馬(糠部の名馬)を武田信豊に手配した功により、本境寺の寄宿、飛脚役が永代免除の特権を得た。蝦夷国松前湊から筑前国博多湊までの海上交易を担った。

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【た】

若狭武田元信【たけだもとのぶ(14??~1521)】

遠敷郡後瀬山城主。武田国信の次男。官途は大膳大夫。室町幕府若狭国守護職。通称彦次郎。室は畠山義統の娘。1490年、兄武田信親の病没により若狭武田家の家督を相続した。1491年、「六角高頼討伐」では、足利義稙勢に属して参陣した。1502年、段銭徴収に反対して土一揆が蜂起し、弟の武田元度らが討死した。1503年、一揆衆の要求に屈し、段銭を免除した。1505年、細川政元勢の支援を受けて丹後国に侵攻したが失敗に終わった。1517年、一色九郎と延永春信らが若狭国に侵入すると、家臣の逸見河内守も内応して苦境に立たされた。朝倉孝景の支援を受け、一色九郎勢を撃退して丹後国加佐郡倉橋城を攻落とした。三条西実隆、飛鳥井雅康、連歌師宗祇、宗長らと交流を持った。

若狭武田元光【たけだもとみつ(1494~1551)】

武田元信の次男。通称彦二郎。官途は大膳大夫。1521年、父武田元信の病没により若狭武田家の家督を相続した。1517年、安芸武田元繁が毛利元就と戦って討死すると、安芸武田光和の後見役を務めた。1526年、細川高国の意向を受けて上洛した。1527年、「西七条桂川の戦い」で三好勝長、柳本賢治らと戦うが敗北、足利義晴とともに近江国に落延びた。1532年、隠居して家督を継嗣の武田信豊に譲った。1538年、「谷田寺の戦い」では、粟屋元隆が離反したため、これと戦った。

若狭武田信孝【たけだのぶたか(14??~15??)】

武田元信の三男。官途は中務少輔。1538年、粟屋元隆の擁立され、甥の武田信豊と若狭武田家の家督を争った。遠敷郡の戦いで敗北。朝倉孝景を頼り、越前国に落延びた。1552年、粟屋右馬允とともに若狭国に侵攻を図るが、朝倉義景の支援を受けられず失敗に終わった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

若狭武田元度【たけだもとつど(14??~1502)】

武田元信の四男。遠敷郡新保山城主。官途は中務少輔。1502年、段銭徴収に反対して土一揆が蜂起し、一揆勢と戦い討死した。

若狭武田元実【たけだもとざね(14??~1502)】

武田元度の男。通称五郎。1502年、段銭徴収に反対して土一揆が蜂起し、父武田元度とともに一揆勢と戦い討死した。

若狭武田輝信【たけだてるのぶ(14??~1565)】

武田元信の五男。官途は左兵衛佐。1565年、「本国寺の戦い」で、足利義輝を守るため、三好三人衆、松永久秀勢と戦い討死した。

若狭武田信豊【たけだのぶとよ(1514~15??)】

武田元光の男。官途は治部少輔。通称彦二郎。室は六角定頼の娘。故実の筆写や連歌の才能を持っていた。 1532年、父武田元光の隠居により若狭武田家の家督を相続した。丹後国に派兵して、加佐郡を制圧して白井光胤を郡代に任じた。1542年、「河内太平寺の戦い」では、細川晴元勢に属して三好長慶と戦ったが敗退して、粟屋右京亮ら多くの有力諸将を失った。1551年、丹後国加佐郡の牢人衆が蜂起した。1554年、細川晴元の意向を受けて逸見昌経らとともに丹波国に侵攻して内藤長頼勢と戦った。1556年、継嗣の武田義統と若狭武田家の家督を巡って争ったが、敗れて近江国に落延びた。1561年、武田義統が武田信豊に料所を与えて和議が成立し帰国した。

若狭武田信高【たけだのぶたか(15??~1556)】

武田元光の次男。官途は宮内少輔。通称彦五郎。別名宮川信重。室は三淵晴員の娘(宮川尼)。武田信豊が宮川保から粟屋勝久の勢力を一掃すると、新保山城主に任じられた。1556年、武田信豊、武田義統父子による若狭武田家の家督争いが起こると、武田信豊勢に属して参陣したが、まもなく病没した。

若狭武田義統【たけだよしむね(1526~1580)】

武田信豊の男。通称彦二郎。官途は大膳大夫。室は足利義晴の娘。1556年、父武田信豊と対立し、隠居させて家督を相続した。1561年、粟屋勝久、逸見昌経らが謀反を起こすと、朝倉義景の支援を受けてこれを鎮圧した。1566年、足利義昭が若狭国に落延びてきたが、内戦で疲弊していたため、有効な支援を行うことができなった。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、これに属して所領を安堵された。

若狭武田信由【たけだのぶよし(15??~15??)】

武田信豊の次男。官途は上総介。通称三郎。

若狭武田信景【たけだのぶかげ(15??~1586)】

武田信豊の三男。三方郡鈴ヶ岳城主。官途は右衛門佐。通称五郎。別名武田元実。1566年、兄武田義統の意向を受け、足利義昭に仕えた。1576年、備後国鞆に落延びた足利義昭に従った。足利義昭や六角義堯とともに鞆に転封した幕府勢力の中心として活躍した。1586年、「肥後国高森城の戦い」で島津義久勢と戦って城主高森惟直とともに討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 

若狭武田信方【たけだのぶかた(15??~1582)】

武田信豊の四男(武田信高の養子)。別名宮川信方。1552年、粟屋右馬允が若狭国に侵攻すると、武田信方は大将として粟屋右馬允と二度に渡って戦い撃退した。1556年、父武田信豊と兄武田義統が若狭武田家の家督を巡って争った。叔父の武田信高が病没すると、その家督を相続して新保山城主に任じられ、若狭武田家の軍事力を掌握した。1567年、武田義統に謀反を企てるが、武田信方の家臣団が従わなかったため失敗に終わった。1570年、「第一次越前討伐」では、若狭国人衆の多くが織田信長勢に参陣するが、一乗谷に幽閉されてる武田元明の意向を受けて織田信長に対抗した。1571年、朝倉義景勢が若狭国に侵攻すると、若狭国の守護代に任じられた。1582年、丹羽長秀に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

若狭武田元明【たけだもとあき(1552~1582)】

武田義統の男。通称孫八郎。室は京極高次の妹(於龍)。1560年、父武田義統との家督争いに勝利して、若狭武田家惣領家の家督を相続した。1568年、朝倉義景により越前国一乗谷に幽閉された。1575年、旧領復帰を願いでるため、京都相国寺に織田信長を訪問した。1581年、馬揃えにでは、丹羽長秀勢に属して参列した。1581年、逸見昌経が病没すると、遺領の内3,000石を領したが、まもなく神宮寺桜本坊に蟄居させられた。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢に属して、長浜城を攻略した。「山崎の戦い」後、近江国海津で丹羽長秀の謀殺された。

若狭武田義勝【たけだよしかつ(15??~16??)】

武田元明の男。別名津川義勝。1582年、父武田元明が自刃すると、京極高次に仕え津川義勝と称した。1600年、「関ヶ原の役」後、京極高次が若狭国を領すると、大飯郡高浜城5,000石を領した。

田邊半太夫【たなべはんだいふ(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。1563年、三方郡国吉城主粟屋勝は、朝倉義景勢の侵攻を受けると領内の地侍を集め、国吉城城に籠城した。朝倉義景勢の半田又八が若狭国境に迫ると、粟屋勝久は家臣の山本豊後守、田邊半太夫ら300余りを関峠で朝倉義景勢を迎え撃ち撃退した。

寺井賢仲【てらいかたなか(15??~1516)】

武田信賢家臣。谷小屋城主。通称四郎兵衛。

寺井家忠【てらいいえただ(15??~15??)】

寺井賢仲の男。通称左兵衛尉。

寺井源左衛門【てらいげんざえもん(15??~15??)】

寺井家忠の男。1570年、織田信長の家臣丹羽長秀が若狭国を領すると、これに従った。1575年、「越前一向一揆」では、織田信長勢に属して海賊衆を率い、越前国の諸湊を海上から襲撃した。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢に属したため、没落した。

寺川左馬助【てらかわさまのすけ(15??~15??)】

武田義統家臣。1567年、武田義統の弟武田信賢との対立した宿老衆(粟屋勝久、内藤勝高、逸見宗全、松宮玄蕃、熊谷直之、寺井源左衛門、白井勝胤、寺川左馬助、香川右衛門大夫)が若狭武田家を離れ、織田信長勢に仕えた。

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【な】

内藤元是【ないとうもとこれ(15??~15??)】

武田元信の五男。官途は伊豆守。

内藤重純【ないとうしげずみ(15??~15??)】

内藤元是の男。官途は石見守。

内藤元兼【ないとうもとかね(15??~15??)】

遠敷郡西津天ヶ城。武田元光家臣。官途は筑前守。若狭国守護代職を務めた。1538年、若狭彦神社の作事奉行を務めた。

内藤勝高【ないとうかつたか(15??~15??)】

武田元光の男(内藤元兼の養子)。官途は内蔵助。別名内藤政信。家老職を務めた。和歌を好みて宗祇を師とした。

内藤勝行【ないとうかつゆき(15??~15??)】

内藤勝高の男。官途は筑前守。別名内藤重政。1570年、織田信長に降り、丹羽長秀に属して各地を転戦した。1575年、海賊衆を率いて海上から越前国を攻撃した。

内藤政高【ないとうまさたか(15??~15??)】

内藤勝行の男。官途は筑前守。羽柴秀吉が若狭国を領すると、浪人となった。

内藤長縄【ないとうながつな(1552~1596)】

内藤政高の次男。官途は大蔵。別名梶理兵衛。丹羽長秀に仕えた。

内藤長教【ないとうながつな(1589~1659)】

内藤長縄の男。通称伝左衛門。1614年、「大坂冬の陣」で松平元康勢に属して戦功を挙げ、上総国武射郡、下総国香取郡、海上郡、常陸国真壁郡内で800石を領した。

内藤国高【ないとうくにたか(1455~1527)】

武田元光家臣。遠敷郡箱ヶ岳城主。通称五郎左衛門。官途は佐渡守。1526年、細川高国の意向を受けて山城国に参陣した武田元光に従った。1527年、桂川に柳本賢治と戦って討死した。

内藤直兼【ないとうなおかね(15??~15??)】

内藤元兼家臣。官途は兵庫。

内藤下総守【ないとうしもうさのかみ(15??~1571)】

武田元光家臣。湯谷山城主。

南部久方【なんぶひさかた(15??~15??)】

湯岡城主。通称宮斎。1562年、田繩城主大塩長門守の攻撃を受けたが撃退した。

沼田光兼【ぬまたみつかね(1496~1560)】

三方郡熊川城主。沼田光延の男。官途は上野介。通称新左衛門。若狭熊川城主。足利義昭に仕えた。その娘は、細川藤孝に嫁ぎ、細川忠興をもうけた。

沼田光長【ぬまたみつなが(15??~1565)】

沼田光兼の男。通称三郎左衛門。官途は上野介。足利義晴に仕えた。1565年、足利義輝とともに討死した。

沼田清延【ぬまたきよのぶ(15??~1593)】

沼田光兼の四男。通称勘解由左衛門。別名沼田元清。足利義昭に仕え、詰衆を務めた。足利義昭が追放処分に処せられると、細川藤孝に仕え、丹後国中山城主に任じられた。

野田甚太夫【のだじんだいふ(15??~15??)】

武田義統家臣。1567年、武田義統が病没すると、朝倉義景勢が武田元明を幽閉するために若狭国に侵攻した。小原帯刀と野田甚太夫は朝倉義景勢に対抗するため、守護館近くの誓願寺前に防御線を敷き戦ったが敗れ、武田元明は越前国に連れ去られた。

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【は】

畑田加賀守【はただかがのかみ(15??~15??)】

三方郡野登野城主。1573年、織田信長に降伏後、武田元明や他の若狭衆とともに相国寺を訪れた。「越前一向一揆討伐戦」には、海賊衆を率いて海上から一揆勢を攻撃した。

畑田修理亮【はただしゅりのすけ(15??~15??)】

畑田加賀守の男。

畑田泰清【はただやすきよ(15??~15??)】

内藤元兼家臣。

広野孫三郎【ひろのまごさぶろう(15??~15??)】

武田義統家臣。1569年、若狭武田家36人衆の筆頭として、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀、中川重政の四奉行に所領安堵された。

逸見真正【へんみまさ(15??~15??)】 

大飯郡高浜城主。武田信豊家臣。

逸見昌経【へんみまさつね(1522~1581)】

逸見真正の男。官途は駿河守。細川晴元の意向を受け武田信豊に従って丹波国各地を転戦したが、三好長慶の家臣内藤長頼の内応工作により撤退に追い込まれた。1556年、武田信豊が武田義統と対立すると、武田信豊勢に属して戦ったが大敗して近江国に落延びた。丹波国の内藤長頼の支援を受けて武田義統と戦い続けた。1561年、朝倉義景の支援を受けた武田義統勢と戦ったが敗れた。1565年、「高浜城の戦い」で武田義統勢の高浜城を奪還した。1566年、海賊衆を編成して小浜城主武田義統を攻撃したが大敗した。1567年、武田義統が病没して、武田元明が人質とて朝倉義景のもとに送られると、大飯郡西部の勢力下に置いた。1570年、「第一次越前討伐」で織田信長勢に属した。

逸見虎清【へんみとらきよ(15??~15??)】

逸見昌経の男。

逸見河内守【へんみかわちのかみ(15??~1566)】

大飯郡丸山城主。1566年、武田義統勢の海賊衆と船戦を行い討死した。

本郷泰茂【ほんごうやすしげ(15??~15??)】

大飯郡達城主。1524年、本郷泰茂の領地が、幕府料所となり本郷泰茂の勢力が衰えると、佐分利石山城主武藤友益の攻撃を受けた。1570年、「姉川の戦い」後、織田信長勢が若狭国に侵攻すると、矢部家定の介して織田信長勢に属した。

本郷泰栄【ほんごうやすえい(15??~15??)】

本郷泰茂の男。

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【ま】

松宮玄蕃允【まつみやげんばのじょう(15??~15??)】

武田義統家臣。遠敷郡膳部山城主。1570年、「第一次越前侵攻」で織田信長が若狭国に侵攻するとこれに属した。1573年、「第二次越前侵攻」に参陣した。「越前一向一揆」が起こるとと、海賊衆を率いて一揆勢と戦った。

武藤友益【むとうともます(15??~15??)】

武田義統家臣。大飯郡石山城主。官途は上野介。別名武藤景久。武田家四家老のひとりとして石山城3,000石を領した。1538年、「稲葉館の戦い」で伊崎為堯と戦い稲葉館を攻落とした。1570年、「第一次越前侵攻」では、織田信長の家臣丹羽長秀勢に属して参陣したが、朝倉義景勢に属した武田元明に内応した。織田信長から大飯郡石山城から追放された。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢に属して、武田元明とともに佐和山城を攻落とした。戦後、武田元明は自刃したが、武藤友益は丹羽長秀に仕えた。

武藤友賢【むとうともかた(15??~15??)】

武藤友益家臣。1538年、「稲葉館の戦い」で武藤友益とともに伊崎為堯を攻撃した。

武藤友慶【むとうよもあつ(15??~15??)】

武藤友賢の男。

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【や】

安田貞能【やすださだよし(15??~15??)】

武田信豊家臣。官途は大膳。

矢部定政【やべさだまさ(15??~15??)】

本郷泰茂の次男(矢部家定の養子)。官途は豊後守。養父の矢部家定は、菅屋長頼、長谷川秀一、福富秀勝、堀秀政と織田家奉行五人衆として織田信長の近習として仕えていた。1570年、本郷泰茂が矢部家定の仲介して織田信長勢に属した。1582年、「本能寺の変」後は、羽柴秀吉に馬廻衆として仕えた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城二の丸を警護した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したため、役後改易処分に処された。

山県孫三郎【やまがたまごさぶろう(15??~15??)】

三方郡賀羅岳城主。1556年、武田信豊、武田義統父子の対立すると、家臣団を二分にする内乱に発展すると、武田義統を支持した。1566年、逸見昌経が高浜城を拠点にっ海賊衆を編成して武田義統を攻撃した際、山県秀政秀は武田義統勢の海賊衆を指揮して逸見海賊衆を撃破した。1570年、「第一次越前討伐」で織田信長勢が若狭国に侵攻すると、織田信長勢に属した。「賀羅岳城の戦い」では、新保山城主武田信方勢の攻撃を受けた。

山県頼冬【やまがたよりふゆ(15??~15??)】

三方郡藤井城主。官途は石見守。室は佐々木高成の娘。

山県盛信【やまがたもりのぶ(15??~15??)】

武田元信の四男(山県頼冬の養子)。官途は下野守。通称源三郎。別名山県秀政。本境寺の寺役免、妙楽寺への奇進、長源寺の淀書制定、長源寺、谷田寺への安堵状の発給を行った。

山県元盛【やまがたもともり(1533~15??)】

山県盛信の男。官途は式部大夫。室は沼田清延の娘。のちに細川藤孝に属した。

山県元之【やまがたもとゆき(15??~15??)】

山県盛信の次男。通称源七郎。別名山県政信。

山県政親【やまがたまさちか(1555~15??)】

山県元盛の三男。通称源三郎。

山本豊後守【やまもとぶぜんのかみ(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。1563年、三方郡国吉城主粟屋勝は、朝倉義景勢の侵攻を受けると領内の地侍を集め、国吉城城に籠城した。朝倉義景勢の半田又八が若狭国境に迫ると、粟屋勝久は家臣の山本豊後守、田邊半太夫ら300余りを関峠で朝倉義景勢を迎え撃ち撃退した。

雄長老【ゆうちょうろう(1547~1602)】

武田信高の男。別名英甫永雄。狂歌作者、漢詩人。建仁寺十如院住職。1586年、建仁寺292世。1594年、南禅寺の住職にもなった。漢詩文や漢和聯句)などに優れ当時五山の僧侶中五指のひとり。1589年、中院通勝に批評を請うた『詠百首狂歌』は、痛烈な風刺や磊落な笑いを含む作品。「桜にはあらぬ春べをこきまぜて枝をたれたるはこ柳かな」。

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【資料Ⅰ】

若狭国(3郡/86,000石)

三方郡:32,000石 国吉城。
遠敷郡:34,000石 小浜城、後瀬山城、小浜湊。
大飯郡:20,000石 高浜城、石山城。

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【資料Ⅱ】

若狭武田家四家老【わかさたけだけよんかろう】

武藤友益、粟屋勝久、逸見昌経、内藤勝行。

若狭武田家三十六人衆【わかさたけだけさんじゅうろくんしゅう】

広野孫三郎、梶又左衛門、菊池治郎助、他。

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【資料Ⅲ】

若狭国【わかさのくに】

若狭湾に面した北陸道の国。東は野坂山地から立石岬に至る戦で越前国に接し、西は青葉山を中心とした山系を境界に丹後国と接している。南は丹波国、近江国と中国山地に連なる高原性の丹波高地で国境を分け、北は複雑に入り組んだ海岸線で弓なりに若狭湾に臨む。遠敷郡、三方郡、大飯郡からなる小国で、大きな河川や平野に乏しい。農業生産は振るわないが、東西に細長く伸びた海岸線には、小浜湾などに良湊を多く、海産物に恵まれ、製塩業も盛んに行われている。三方を山に囲まれているが高い山はなく交通は容易である。

若狭街道【わかさかいどう】

若狭街道は海を持たない京都の人々が鮮魚を得るために不可欠な道であった。若狭から運ばれた物資の中で特に鯖が有名。小浜から京都まで約1日で到着できるため、軍事、物流の中心として整備された。

小浜湊【おばままみなと】

若狭湾の中央に位置する小浜湾に臨み、日本海沿岸地域と畿内市場との結節点、及び京都北側の国際港として大いに栄えた湊街。日本海に向いた京都の北の外湊の機能を持っていたため、北は蝦夷地、西は九州、対馬、あるいは朝鮮と日本海沿岸全域から来航する船が発着したが、さらに遠く、明や東南アジアとの交易にも利用された。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

徳川家康は松平元康、徳川秀忠は松平秀忠、豊臣秀吉は羽柴秀吉、豊臣秀頼は羽柴秀頼に統一しました。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版、参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2011年1月12日水曜日

戦国陸前国人名辞典

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【あ】

相沢慶之【あいざわよしゆき(15??~1607)】

留守政景家臣。1607年、留守政景が病没すると、留守政景が病没すると、留守政景に殉じて自刃した。

相原越後守【あいはらえちごのかみ(15??~15??)】

粟野長国家臣。1569年、高野山に登り粟野長国の菩提を弔った。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

相原助左衛門【あいはらすけざえもん(15??~1655)】

粟野長国家臣。官途は和泉守。名取七騎衆。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

相原友久【あいはらともひさ(15??~1664)】

相原助左衛門の男。1623年、粟野重国の病没後、伊達政宗に仕えた。伊達政宗の意向を受け吉岡城主伊達宗清に仕えた。1634年、伊達宗清が病没すると、伊達宗勝の家老職を務め300石を領した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

相原善兵衛【あいはらぜんべい(15??~15??)】

相原助左衛門の次男。伊達宗勝に仕え、一関内で100石を領した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

青塚吉春【あおずかよしはる(15??~1583)】

古川持熙の次男。加美郡青塚城主。官途は左衛門尉。1583年、「青塚城の戦い」で兄古川忠隆の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

赤井景綱【あかいかげつな(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡水越城主。官途は備中守。葛西家四家老衆。1582年、「金ヶ崎城の戦い」で小野寺宗道が九戸政実勢の攻撃を受け苦境に陥ると、葛西晴信の意向を受け寺崎良次とともに九戸政実勢と戦った。寺崎良次が討死したため、九戸政実と和議を結び撤退した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤井沢掃部丞【あかいさわかもんのじょう(15??~15??)】

粟野重国家臣。家老職を務めた。1591年、「北目城の戦い」で粟野重国が伊達政宗の転封を拒否して攻撃を受けると、粟野重国とともに北目城に籠城した。敗れて所領を失った。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

赤井沢掃部【あかいさわかもん(15??~15??)】

赤井掃部丞の男。家老職を務めた。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

赤萩信義【あかはぎよしのぶ(15??~15??)】

小岩信忠の次男。通称大膳。別名達古袋信義。

赤間但馬守【あかまたじまのかみ(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。黒川郡赤間古館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

秋保盛房【あきほもりふさ(15??~1551)】

名取郡楯山城主。秋保義光の男。官途は讃岐守。剛勇の将。1500年、「楯山城の戦い」で長井晴信勢の攻撃を受け羽前国の最上義守のもとへ落延びた。1512年、秋保の農民が一揆を起こし秋保盛房を帰還させ、長井晴信が守る楯山城を攻落とした。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

秋保則盛【あきほのりもり(15??~15??)】

秋保盛房の男。官途は伊勢守。室は最上義守の娘。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗に属した。楯山城は羽前国との国境を守る重要拠点で伊達晴宗も重視した。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗勢に属して伊達晴宗勢と戦った。1543年、伊達稙宗の意向を受け大崎義宣を支援した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

秋保勝盛【あきほかつもり(15??~15??)】

秋保則盛の男。官途は大善亮。室は国分盛氏の娘。1576年、「磐城駒峰城の戦い」では、伊達輝宗に従い相馬義胤勢と戦った。1579年、「楯山城の戦い」で最上義光のもとに落延びた。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

秋保頼重【あきほよりしげ(15??~16??)】

秋保定重の男。官途は長門守。通称刑部。勇武の将。1603年、刈田郡円田村に転封した。サン・ファン・バウティスタ号の建造では、船奉行職を務めた。1615年、「大坂夏の陣」では、伊達政宗に従い参陣して戦功を挙げた。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

秋保資盛【あきほすけもり(15??~15??)】

秋保勝盛の男。早世したため、秋保家惣領職の家督は三男の秋保直盛が相続した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

秋保直盛【あきうなおもり(1568~1637)】

秋保勝盛の三男。官途は弾正忠。通称平五郎。室は天童頼貞の娘。後室は成生慶悦の娘。1579年、父秋保勝盛とともに最上義光のもとに落延びた。天童頼貞の娘婿となるが、兄秋保資盛の病没により秋保家の家督を相続した。1584年、「天童城の戦い」で最上義光勢に敗れた天童頼澄を匿った。1586年、「二本松城の戦い」では、伊達政宗に従い畠山義継勢と戦った。1587年、最上義光勢が二口峠を越えて侵入すると、援軍の山路主水とともにこれを撃退した。1591年、「葛西大崎一揆」では、伊達政宗勢に従い参陣して秋保四郷(湯元邑、境野邑、長袋邑、馬場邑、新川邑)の所領を安堵された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

秋保定盛【あきほさだもり(15??~15??)】

秋保直盛の男。官途は播磨守。1603年、伊達政宗の意向を受け刈田郡小村崎村300石に転封した。1624年、長袋、湯元、境野、馬場の各村で25町を加増された。1615年、「大坂夏の陣」では、伊達政宗に従い参陣した。1652年、伊達忠宗から楯山原の在郷屋敷を賜り、小村崎村から秋保に転封した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

秋保若狭守【あきほわかさのかみ(15??~15??)】

秋保則盛家臣。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

秋保惣右衛門【あきほそうざえもん(15??~15??)】

秋保則盛家臣。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

秋保外記【あきほげき(15??~15??)】

秋保則盛家臣。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

秋保出雲守【あきほいずものかみ(15??~15??)】

秋保則盛家臣。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

秋保五郎右衛門【あきほごろうざえもん(15??~15??)】

秋保則盛家臣。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

浅野時重【あさのときしげ(1522~1586)】

葛西晴信家臣。本吉郡三島館主。通称三郎左衛門。1564年、山田館から歌津三島館に転封した。1574年、「第一次本吉重継の乱」で馬籠重胤と結び本吉重継勢を迎撃した。1586年、「稲渕館、三島館の戦い」で本吉重継の家臣黒崎兵部を討取る戦功を挙げた。「三島館の戦い」で金田左馬允と戦い戦傷を負い病没した。

浅沼甲斐守【あさぬまかいのかみ(15??~1588)】

阿曾沼広郷家臣。気仙郡米田世城主。1588年、「米ヶ崎城の戦い」で浅沼中務とともに討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅沼中務【あさぬかがみ(15??~1588)】

浅沼甲斐守家臣。1588年、「米ヶ崎城の戦い」で浅沼甲斐守とともに討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

赤沼左京【あさぬまさきょう(15??~15??)】

気仙郡坪城主。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

阿蘇常春【あそうつねはる(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡阿佐布城主。通称左馬之助。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

芦立宗右衛【あだちそうえもん(15??~15??)】

柴田郡星野城主。

跡部将監【あとべしょうげん(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。黒川郡佐和城主。参考文献:『戦国武将家典』by新人物往来社。

姉歯右馬允【あねはさまのじょう(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡姉歯館主。1590年、「姉歯館の戦い」で敗れ伊達政宗に従った。参考文献:『戦国大名家辞典(森岡浩)』by東京堂出版。

阿部壱岐守【あべいきのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡小下沢城主。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

阿部頼為【あべよりため(15??~1580)】

葛西晴信家臣。本吉郡唐桑館主。通称四郎左衛門。1573年、「朝日館の戦い」で星忠信を討取る戦功を挙げた。1580年、星忠元の反撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

阿部重時【あべしげとき(15??~15??)】

葛西晴信家臣。通称四郎左衛門。1590年、「奥州仕置」で葛西晴信が改易処分に処されると、所領を失った。

阿部太郎左衛門【あべたろうざえもん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡堀合城主。官途は対馬守。別名最知玄蕃。岩尻湊を拠点に海賊衆を率い本吉郡沿岸から気仙沼まで勢力圏に治めた。1590年、「奥州仕置」で葛西晴信が改易処分に処されると、所領を失った。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

阿部若狭守【あべわかさのかみ(15??~15??)】

本吉胤正家臣。本吉郡浜井場城主。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

天野長教【あまのながのり(15??~15??)】

葛西晴信家臣。桃生郡月迫山城主。官途は因幡守。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

余目伊勢守【あまるめいせのかみ(15??~15??)】

留守顕宗家臣。宮城郡東光寺館主。1567年、留守顕宗が伊達晴宗の三男留守政景を養子に迎えると、これに強く反対した。村岡兵衛、佐藤六郎左衛門らとともに留守政景の留守家家督相続にも反対した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

余目三郎太郎【あまるめさぶろうたろう(15??~16??)】

余目伊勢守の男。官途は土佐守。室は国分盛重の娘(三女)。1600年、「関ヶ原の役」後、留守政景が水沢城に転封すると、その筆頭家老職を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

雨生沢将監【あめうざわしょげん(15??~15??)】

栗原郡雨生沢館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

有壁尾張守【ありかべおわりのかみ(15??~1591)】

葛西晴信家臣。栗原郡有壁城主。1591年、「葛西大崎一揆」では、葛西晴信に従い参陣したが蒲生氏郷勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

有壁安芸守【ありかべあきのかみ(15??~15??)】

有壁尾張守の男。

有壁摂津守【ありかべおわりのかみ(15??~15??)】

有壁安芸守の男。遠田郡不動堂城主。1571年、藤渡戸館から転封した。1588年、「不動堂城の戦い」で遠藤高康勢の攻撃を受けた。1590年、「奥州仕置」で葛西晴信が改易処分に処されると、所領を失った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

粟野国定【あわのくにさだ(14??~15??)】

名取郡北目城主。伊達稙宗家臣。名取郡三十三郷の旗頭を務めた。1505年、家督を継嗣の栗野高国に譲り沖野城に隠居した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

粟野高国【あわのたかくに(15??~1528)】

粟野国定の男。1505年、父粟野国定の隠居により粟野家の家督を相続した。1528年、「小手森の戦い」で伊達稙宗に従い参陣したが討死した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

粟野長国【あわのながくに(15??~1566)】

粟野高国の男。官途は遠江守。通称新三郎。別名粟野重次。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗勢に属して、伊達晴宗勢に属した留守景宗と戦った。1544年、伊達稙宗の意向を受け所領の兵糧米を亘理宗隆に送った。二人の娘は国分宗政の家臣堀江長門守、朴沢政時に嫁いだ。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

粟野国勝【あわのくにかつ(15??~1528)】

粟野高国の次男。通称刑部。1528年、「小手森の戦い」では、父粟野高国とともに伊達稙宗に従い参陣したが討死した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

粟野重国【あわのしげくに(15??~1623)】

粟野長国の男(粟野重次の養子)。官途は大膳亮。別名粟野宗国。1564年、「北目城の戦い」で相馬義胤勢の攻撃を受けた。1566年、父粟野長国が病没すると、伊達晴宗の後見を受けた。1588年、「伊達大崎の戦い」では、松森城を守備した。1589年、「摺上原の戦い」では、伊達政宗に従い参陣した。1591年、「北目城の戦い」では、伊達政宗の転封を拒否して攻撃を受け敗れて所領を失った。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

粟野国治【あわのくにはる(15??~15??)】

粟野国勝の次男。名取郡沖野城主。官途は左衛門尉。通称助太郎。1588年、「伊達大崎の戦い」では、兄粟野重国とともに松森城を守備した。粟野重国と所領争いを起こしたが、伊達政宗の裁定により敗訴したため、粟野重国のもとから出奔した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

粟野重清【あわのしげきよ(15??~1659)】

亘理重宗の男(粟野重国の養子)。通称清蔵。別名粟野重次。1614年、伊達政宗の意向を受け伊達秀宗の附家老に任じられたが、宇和島への転封を拒否して改易処分に処された。伊達政宗の病没後、伊達忠宗から帰参を許された。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

粟野与五右衛門【あわのよござえもん(15??~15??)】

粟野重国の養子。

粟野左右衛門【あわのさざえもん(15??~15??)】

粟野宗国の男。

安藤丹後守【あんどうたんごのかみ(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。

飯川大隅守【いいかわおおすみのかみ(15??~15??)】 

大崎義隆家臣。加美郡飯川城主。1588年、「桑折城の戦い」では、大崎義隆に従い留守政景勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

飯川定康【いいかわさだやす(15??~15??)】

大崎義隆家臣。官途は美濃守。1588年、「桑折城の戦い」では、大崎義隆勢に従い参陣した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

飯坂氏定【いいざかうじさだ(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。

飯塚次郎右衛門【いいづかじろうえもん(15??~15??)】

岩崎義久家臣。1591年、「宮沢城の戦い」では、岩崎義久に従い岩崎伯耆守、鎌田彦右衛門、飯塚次郎右衛門、芳賀蔵人らとともに宮崎城に籠城した。伊達政宗勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

飯野正秋【いいのまさあき(15??~15??)】

山内首藤貞通家臣。桃生郡飯野館主。官途は但馬守。1522年、「大森館の戦い」で首藤貞通が滅亡すると、葛西晴信に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

伊具時近【いぐときちか(15??~15??)】

大崎義隆家臣。通称大学。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆勢の第二陣を務めた。

砂金常久【いさごつねひさ(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。柴田郡川崎城主。1543年、「川崎城の戦い」で最上義守勢の攻撃を受けたがこれを撃退した。1544年、伊達晴宗の意向を受け留守景宗の指示を受けた。1575年、砂金城から前川本城に転封した。

砂金貞常【いさごさだつね(15??~15??)】

砂金常久の男。1543年、「川崎城の戦い」で最上義守勢の攻撃を受けたが父砂金常久とともにこれを撃退した。

砂金実常【いさごみつね(15??~16??)】

砂金貞常の男。通称右兵衛。1615年、「大坂夏の陣」で伊達政宗に従い参陣して戦功を挙げた。

石川隆重【いしかわたかしげ(15??~15??)】 

大崎義隆家臣。加美郡小野田城主。官途は長門守。別名石川頼重。1588年、「伊達大崎の戦い」では、伊達政宗に属して戦功を挙げた。1590年、「奥州仕置」で大崎義隆が改易処分に処されると伊達政宗に仕えた。1591年、「宮崎城の戦い」では、伊達政宗勢に従い参陣して戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

石川直村【いしかわなおむら(15??~15??)】 

大崎義直家臣。登米郡佐沼城主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

石川義誠【いしかわよしのぶ(15??~15??)】

石川直村の男。官途は豊後守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

石川義広【いしかわよしひろ(15??~15??)】

石川義広の男。官途は丹後守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

石川彦九郎【いしかわほこくろう(15??~15??)】

石川義広の男。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

石川隆尚【いしかわたかなお(15??~15??)】 

大崎義隆家臣。栗原郡高清水城主。官途は越前守。1588年、「伊達大崎の戦い」では、大崎義隆に属して戦功を挙げた。1590年、「奥州仕置」で大崎義隆が改易処分に処されると、伊達政宗に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

石沢藤十郎【いしざわとうじゅうろう(15??~15??)】

粟野重国家臣。1591年、「北目城の戦い」で粟野重国が伊達政宗の転封を拒否して攻撃を受けると、粟野重国とともに北目城に籠城した。敗れて所領を失った。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

石橋八郎左衛門【いしばしはちろうざえもん(15??~15??)】

粟野重国家臣。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

石原左馬丞【いしはらさまのじょう(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。黒川郡小屋場館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

石原左京允【いしはらさきょうのじょう(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。

石原将監【いしはらしょうげん(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。黒川郡石原南館主。

石森兵部【いしもりひょうぶ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡石森城主。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

泉田景時【いずみだけげとき(15??~15??)】

名取郡岩沼城主。留守顕宗に属していたが、伊達晴宗勢の勢力が名取郡に及ぶと伊達晴宗に従った。1576年、「磐城駒峰城の戦い」では、伊達輝宗に従い相馬義胤勢と戦った。1584年、「磐城伊具城の戦い」では、継嗣泉田光時、次男泉田重光とともに伊達輝宗に従い参陣した。相馬義胤勢との戦いで泉田光時が討死した。 参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

泉田光時【いずみだみつとき(15??~1582)】

泉田景時の男。1582年、「磐城伊具城の戦い」で父泉田景時とともに参陣したが、相馬義胤勢との戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

泉田重光【いずみだしげみつ(1529~1596)】

泉田景時の次男。官途は安芸守。室は八幡景業の娘。1582年、「磐城伊具城の戦い」で兄泉田光時が討死したため、泉田家の家督を相続した。伊達政宗に重用され奥州各地を転戦した。1588年、「伊達大崎の戦い」では、留守政景らとともに参陣したが、軍議の場で留守政景と戦術方針に関して激しく口論に及んだ。「中新田城の戦い」では、伊達政宗勢が大敗を喫し新沼城に閉じ込められた。黒川晴氏の仲介で和議を結んだが人質として長江勝景とともに大崎義隆勢に捕縛された。1591年、「葛西大崎一揆」では、伊達政宗の意向を受け屋代景頼とともに一揆勢を殲滅した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

泉田重時【いずみだしげとき(15??~16??)】

亘理重宗の男(泉田重光の養子)。室は泉田重光の娘。1591年、伊達政宗が岩出山城へ転封すると、岩沼城から磐井郡薄衣城へ転封となった。1615年、「大坂夏の陣」では、伊達政宗に従い参陣して戦功を挙げた。

磯田駿河守【いそだするがのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。玉造郡磯田館主。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

磯田兼継【いそだかねつぐ(15??~15??)】

氏家隆継家臣。通称典正。氏家義継の後見役を務めた。1588年、「伊達大崎の戦い」で敗退した伊達政宗から引き続き伊達政宗勢への支援を求められた。

板橋隼人【いたばしはやと(15??~15??)】

粟野重国家臣。猛将。

板橋定近【いたばしさだちか(15??~1658)】

板橋隼人の男。官途は丹後守。伊達政宗に仕えた。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

一栗放牛【いちくりほうぎゅう(1500~1591)】

氏家隆継家臣。玉造郡一栗城主。1591年、「佐沼城の戦い」で一揆勢に属して蒲生氏郷勢と戦ったが討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一栗高春【いちくりたかはる(15??~1614)】

一栗放牛の孫。官途は豊後守。通称は兵部。氏家家随一の猛将。1588年、「伊達大崎の戦い」では、氏家吉継が動けない中、手勢を率いて南条隆信勢に突撃を行った。1591年、「葛西大崎一揆」では、頑強に蒲生氏郷勢と戦った。後に最上義光に仕え鶴岡城代を務め1,000石を領した。1614年、最上義光の病没後、清水義親を擁して謀反を起こしたが新関久正に謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一ノ関張国【いちのせきはりくに(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡色麻館主。官途は尾張守。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

一迫隆真【いちはざまたかまさ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡真坂館主。官途は伊豆守。1588年、「伊達大崎の戦い」では、氏家吉継勢に属した。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

逸見光則【いつみみつのり(15??~15??)】

留守景宗家臣。宮城郡小鶴城主。官途は遠江守。留守景宗が伊達晴宗のもとから留守家に入嗣すると、附家老職に任じられ5貫900文を領した。

逸見藤兵衛【いつみとうべい(15??~15??)】

逸見光則の男。1592年、「文禄の役」では、伊達政宗勢に従い参陣した。

伊藤祐則【いとうすけのり(15??~15??)】

葛西清重家臣。桃生郡深谷館主。150貫を領した。通称二郎。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

伊藤清長【いとうきよなが(15??~15??)】

熊谷直光家臣。気仙沼広田館主。家老職を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

伊藤豊後守【いとうぶんごのかみ(15??~1513)】

葛西晴信家臣。登米郡楼台館主。1513年、登米太郎勢の攻撃を受けて滅亡した。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

伊庭野外記【いばのげき(15??~1591)】

大崎義隆家臣。志田郡伊庭野館主。1591年、「葛西大崎一揆」では、伊達政宗勢に属した。「宮崎城の戦い」で一揆勢が籠城する宮崎城を攻撃して討死した。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

伊庭野惣八郎【いばのそうはちろう(15??~1588)】

伊場野外記の男。大崎義隆に小姓として仕え新井田隆景と君寵を巡って争った。1588年、新井田隆景に謀殺された。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

今坂遠江守【いまさかとおとうみ(15??~15??)】

葛西晴胤家臣。気仙郡槻館城主。気仙郡二十七将。

今泉右門【いまいずみうえもん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

今野与惣左衛門【いまのよそうざえもん(15??~15??)】

笠原隆親家臣。家老職を務めた。鉄砲名手。1591年、「宮崎城の戦い」では、伊達政宗の家臣浜田景隆を討取る戦功を挙げたが、宮崎城が落城したため落延びた。崎に戻り帰農した。

芋沢讃岐守【いもざわさぬきのかみ(15??~15??)】 

大崎義隆家臣。加美郡芋沢館主。侍大将を務めた。1589年、改易処分に処された。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

岩崎義久【いわさきよしひさ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡宮沢城主。官途は讃岐守。1591年、「葛西大崎一揆」では、宮沢城に岩崎伯耆守、鎌田彦右衛門、飯塚次郎右衛門、芳賀蔵人らとともに籠城したが、伊達政宗と和議を結んで降伏した。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

岩崎伯耆守【いわさきほうきのかみ(15??~15??)】

岩崎義久家臣。1591年、「宮沢城の戦い」では、岩崎義久に従い岩崎伯耆守、鎌田彦右衛門、飯塚次郎右衛門、芳賀蔵人らとともに宮崎城に籠城した。伊達政宗勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

岩崎遠江守【いわさきとおとうみのかみ(15??~15??)】

岩崎義久家臣。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

入生田成定【いりうだなりさだ(15??~15??)】

山岸成宗の三男。別名富沢清康。戦い負傷してため、所領を召し上げられた。所領の名取郡富沢館は屋代景頼に与えられた。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

入生田元康【いりうだもとやす(15??~1636)】

入生田成定の男。通称三右衛門。1592年、戦功を挙げ旧領である富沢館を返還された。1636年、伊達政宗が病没すると殉死した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

入生田右兵衛【いりうださえもん(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。

入生田右京丞【いりうだうきょうのじょう(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。1588年、「伊達大崎の戦い」では、黒川晴氏に従い伊達政宗勢と戦った。1590年、「越路館の戦い」で伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。

宇夫方広本【うおかたひろもと(15??~1557)】

気仙郡世田米城主。別名西風広本。1557年、「西風館の戦い」で阿曾沼広郷勢の奇襲攻撃を受け討死した。

宇夫方広将【うおかたひろかど(15??~1557)】

宇夫方広本の男。1557年、「西風館の戦い」で阿曾沼広郷勢の奇襲攻撃を受け父宇夫方広本とともに討死した。

宇夫方亦次郎【うおかたあかじろう(15??~1557)】

宇夫方広本の次男。1557年、「西風館の戦い」で阿曾沼広郷勢の奇襲攻撃を受け父宇夫方広本、兄宇夫方広将らとともに討死した。

宇夫方広久【うおかたひろひさ(15??~1636)】

宇夫方広本の三男。通称孫四郎。別名世田米広久。1557年、「西風館の戦い」で父宇夫方広本と二人の兄宇夫方広将、宇夫方亦次郎が討死したため、宇夫方家の家督を相続した。1600年、「上野館の戦い」では、南部直信の支援を受けた鱒沢広勝勢の攻撃を受けた。阿曾沼広長の妻子を世田米城まで送り届けると、阿曽沼広長勢に加わり鱒沢広勝と戦った。「赤羽根峠の戦い」では、鱒沢広勝の家臣板沢平蔵と一騎打で重傷を負わせた。1601年、「小友樺坂峠の戦い」で、上野広吉勢と戦い深傷を負い隠遁した。

宇夫方広道【うおかたひろみち(15??~16??)】

宇夫方広久の男。通称清左衛門。別名西風広道。1607年、南部利直の意向を受け遠野城へ転封となった八戸直義に仕えた。綾織村の代官職を務め、新田の開発に心血を注ぎ、角鼻堰を造り80町歩の新田を開墾した。

上野兼光【うえのかねみつ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。通称蔵人。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆勢の右陣を務めた。

氏家直益【うじいえなおます(15??~15??)】

玉造郡岩出山城主。氏家直俊の男。玉造郡惣領職。通称又十郎。別名氏家直継。大崎義直に仕えた。1536年、「新田頼遠の乱」で大崎義直に謀反を起こした新田頼遠を支援して岩出山城に籠城した。大崎義直と伊達植宗勢の攻撃を受けたが、和議を結んで所領は安堵された。

氏家清継【うじいえきよつぐ(15??~15??)】

氏家直益の男。官途は三河守。通称太郎左衛門。1536年、「大崎天文の乱」で氏家直継、古川持煕、新井田頼遠らが謀反を起こすと、伊達稙宗勢に属して古川城攻撃した。

氏家隆継【うじいえたかつぐ(15??~1591)】

氏家直益の次男。官途は三河守。通称又十郎。隠居して氏家家惣領職の家督を継嗣の氏家吉継に譲った。

氏家吉継【うじいえよしつぐ(1507~1591)】

氏家隆継の男。官途は弾正忠。別名氏家直継。1587年、新井田隆景と対立すると、家臣の片倉河内守と真山式部を派遣して伊達政宗と結び大崎義隆の内室、園野の方、東の方と荘三郎を中新田城に移した。1588年、「伊達大崎の戦い」で留守政景、泉田重光らが大崎義隆領に侵攻したが、留守政景と泉田重光の対立や黒川晴氏の内応で大敗北を喫したため、大崎義隆と和議を結び帰参した。1590年、「奥州仕置」で大崎義隆が改易処分に処されると、所領を失った。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

氏家広継【うじいえひろつぐ(15??~15??)】

氏家直俊の次男。

氏家景継【うじいえかげつぐ(15??~15??)】

氏家直俊の三男。

氏家直明【うじいえなおあき(15??~15??)】

氏家直益の次男。

氏家時継【うじいえときつぐ(15??~15??)】

氏家直益の三男。

氏家景継【うじいえかねつぐ(15??~15??)】

氏家直益の四男。

氏家常継【うじいえつねつぐ(15??~15??)】

氏家直益の五男。

氏家直時【うじいえなおとき(15??~15??)】

氏家直明の男。

氏家隆澄【うじいえたかずみ(15??~15??)】

氏家広継の男。

氏家義成【うじいえよしなり(15??~15??)】

氏家隆澄の男。

氏家修理之助【うじいえしゅりのすけ(15??~15??)】

氏家直益家臣。玉造郡大坪館主。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

氏家兵部【うじいえひょうぶ(15??~15??)】

氏家直益家臣。玉造郡白山館主。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

氏家土佐守【うじいえとさのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡土佐館主。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

氏家日向守【うじいえひゅうがのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。玉造郡上宮古館主。別名上宮日向守。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

薄木日向守【うすぎひゅうがのかみ(15??~15??)】

柴田郡田町館主。

宇田道国【うだみちくに(15??~15??)】

大崎義隆家臣。通称少輔。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆勢の右陣を務めた。

内崎家忠【うちざきいえただ(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。柴田郡内崎館主。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗に従い参陣して伊達晴宗勢と戦った。

内出道満【うちでみちみつ(15??~1588)】

大崎義隆家臣。1588年、「中新田城の戦い」で伊達政宗勢が宇岐須神社に放火すると、伊達政宗勢に突入して壮絶な討死を遂げた。

内馬場弥太郎【うちのばばやたろう(15??~15??)】

大崎義隆家臣。八幡古館主。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

上沼備中守【うわぬまびっちゅうのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡上沼館主。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

江田清通【えだきよみち(14??~15??)】

山内首藤義通の三男。桃生郡中島館主。通称七郎。別名山内首藤清通。
1511年、「七尾城の戦い」では、葛西宗清、江刺重親、薄衣常盛、黄海高国らの攻撃を受けたが、兄首藤貞通に従い参陣して葛西宗清勢を撃退する戦功を挙げた。葛西宗清に敗れると、甥の首藤知貞を補佐した。

海老名重時【えびなしげとき(14??~1512)】

山内首藤貞通家臣。本吉郡鴻巣館主。官途は左馬助。1512年、「三郡県足一揆」で葛西宗清勢の攻撃を受け討死した。

海老名信昌【えびなのぶまさ(15??~1588)】

海老名重時の男。官途は左近将監。

松山遠藤光定【えんどうみつさだ(15??~15??)】

志田郡松山城主。遠藤行定の男。志田郡惣領職。通称左衛門。志田郡は西に大崎義直、東に葛西晴胤、南に伊達稙宗に囲まれたため、伊達稙宗勢に従い勢力維持した。1536年、「新井田頼遠の乱」では、大崎義直を支援した伊達稙宗勢に従い氏家直継、古川持煕、新井田頼遠らと戦った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松山遠藤定親【えんどうさだちか(15??~15??)】

遠藤光定の男。官途は出羽守。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属して伊達稙宗勢と戦った。1588年、「伊達大崎の戦い」では、留守政景と泉田重光らに従い参陣したが、黒川晴氏の内応により大敗した。1589年、「鶴頭城の戦い」では、伊達政宗の支援を受け大崎義隆勢の鶴頭城を攻撃したが攻略できず和議を結んだ。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松山遠藤高康【えんどうたかやす(15??~15??)】

遠藤定親の男。官途は出羽守。1588年、「中新田城の戦い」では、父遠藤定親に従い参陣したが、大崎義隆勢の反撃を受け敗退した。1590年、「奥州仕置」で伊達政宗が岩出山城に転封すると、登米郡石森館を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松山遠藤定良【えんどうさだよし(15??~15??)】

遠藤高康の男。

松山遠藤宗綱【えんどうむねつな(15??~15??)】

遠藤光定の次男。

松山遠藤光実【えんどうみつざね(15??~15??)】

遠藤光定の三男。

遠藤和泉守【えんどういずみのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。玉造郡泉沢館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

遠藤三河守【えんどうみかわのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。志田郡三木本館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

遠藤備後守【えんどうびんごのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

生出正頼【おいでまさより(15??~15??)】

山内首藤知貞家臣。桃生郡生出山館主。官途は土佐守。首藤知貞に仕え450石を領した。

大有康甫【おおありやすほ(1535~1618)】

伊達稙宗の十三男。東昌寺住職。伊達政宗の大叔父として伊達家の情報、外交官として活躍した。諸国放浪中の虎哉宗乙を米沢城に留まるよう勧め、伊達輝宗に挙して伊達政宗の学問の師とした。

大瓜玄蕃【おおうりげんば(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡金沢館主。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大木戸重信【おおきどしげのぶ(15??~15??)】

留守顕宗家臣。通称四郎太夫。

大崎高兼【おおさきたかかね(15??~1530)】

加美郡中新田城主。大崎義兼の男。奥州探題職。通称彦三郎。1488年、伊達尚宗を頼って落延びた。1529年、父大崎義兼の病没により大崎家惣領職の家督を相続したが、家督相続後まもなく病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大崎義直【おおさきよしなお(1514~1577)】

大崎義兼の次男。通称彦三郎。官途は左京大夫。室は黒川晴氏の娘。1530年、兄大崎高兼が病没したため大崎家の家督を相続した。1536年、「新田頼遠の乱」で新田頼遠、氏家直継、古川持煕らが謀反を起こしたが、鎮圧できず伊達稙宗に援軍を要請した。内乱の結果、伊達稙宗の次男大崎義宣が婿養子として兄大崎高兼の娘(梅香姫)を娶り大崎家の家督を相続することになった。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗勢に属した大崎義宣と対立した。1550年、伊達晴宗が勝利を収めると大崎義宣を討取った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大崎義隆【おおさきよしたか(1548~1603)】

大崎義直の男。官途は左衛門督。1577年、父大崎義直の病没により大崎惣領家の家督を相続した。最上義光の支援を受けて伊達輝宗勢と戦った。1588年、「伊達大崎の戦い」では、氏家隆継が内応して領内に伊達政宗勢を引きいれた。「中新井田城の戦い」では、南条隆信の活躍により伊達政宗勢を撃退した。1589年、「摺上原の戦い」で芦名盛重が伊達政宗に敗れると、再び伊達政宗勢に帰属した。1590年、「奥州仕置」により、葛西晴信らとともに改易処分に処された。松平元康、前田利家の仲介により大崎家再興を図った。1591年、「葛西大崎一揆」では、一揆勢として参陣したが、旧領を回復することはできなかった。1592年、「文禄の役」では、蒲生氏郷勢に属して参陣した。蒲生氏郷の病没後は長尾景勝を頼った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大崎義興【おおさきよしおき(15??~15??)】

大崎義隆の男。通称右京進。別名大崎義満。1591年、「葛西大崎一揆」では、父大崎義隆に従い参陣した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大崎義成【おおさきよしなり(15??~15??)】

大崎義隆の次男。官途は左京亮。通称次郎。別名大崎義道。1591年、「葛西大崎一揆」では、父大崎義隆に従い参陣した。1592年、最上義光に仕え1.000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大崎義正【おおさきまさよし(15??~1651)】

大崎義成の男。通称源三郎。別名大崎義久。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、南部利直に仕えた。

大崎満隆【おおさきもつたか(15??~15??)】

大崎義隆の三男。通称三郎。1591年、「葛西大崎一揆」では、父大崎義隆に従い参陣した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大崎義名【おおさきよしみょう(15??~16??)】

大崎義隆の四男。通称七兵衛。1592年、最上義光に仕え350石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、南部利直に仕えた。

大崎義光【おおさきよしみつ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。通称右京大夫。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆に従い参陣した。

大崎光時【おおさきみつとき(15??~15??)】

大崎義隆家臣。通称左京大夫。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆に従い参陣した。

大崎義時【おおさきよしとき(15??~15??)】

大崎義隆家臣。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆に従い参陣した。

大崎義仲【おおさきよしなか(15??~15??)】

大崎義隆家臣。通称左馬助。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆に従い参陣した。

大崎義政【おおさきよしまさ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。通称右兵衛尉。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆に従い参陣した。

大崎義繩【おおさきよしつな(15??~15??)】

大崎義隆家臣。通称左兵衛佐。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆に従い参陣した。

大崎義為【おおさきよしため(15??~15??)】

大崎義隆家臣。通称右衛門尉。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆に従い参陣した。

大崎家成【おおさきいえなり(15??~15??)】

大崎義隆家臣。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆に従い参陣した。

大崎義宗【おおさきよしむね(15??~15??)】

大崎義隆家臣。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆に従い参陣した。

大崎義宣【おおさきよしのぶ(1526~1550)】

伊達稙宗の次男(大崎義直の養子)。加美郡小野城主。室は大崎高兼の娘(梅香姫)。1536年、大崎義直が伊達稙宗の支援を受け内乱を鎮圧すると、伊達稙宗はこの見返りとして次男大崎義宣を大崎義直の養子に送り込んだ。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗勢に属して伊達晴宗勢に属した大崎義直と争った。1550年、騒乱終結後、葛西晴胤を頼って落延びる途中、大崎義直勢に討取られた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大谷修理亮【おおたにしゅりのじょう(15??~15??)】

柴田郡見城ヶ館主。

大鳥刑部【おおとりぎょうぶ(15??~15??)】

富沢直綱家臣。栗原郡大鳥館主。1579年、「富沢直綱の乱」では、富沢直綱に従い参陣した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大場修理之助【おおばしゅりのすけ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡留場館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

大原掃部介【おおはらかもんのすけ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。牡鹿郡石森館主。別名石森掃部左衛門。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大庭宮内【おおばくない(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡築館主。1591年、「佐沼城の戦い」では、葛西晴信に従い佐沼城に籠城した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大庭彦七郎【おおばひこしろう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡西館主。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大庭万次郎【おおばまんじろう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡狐崎館主。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大衡宗氏【おおひらむねうじ(15??~1590)】

黒川影氏の次男。黒川郡大衡館主。官途は治部大輔。1544年、大衡城を築城き、黒川郡北方を守備した。1588年、「伊達大崎の戦い」では、黒川晴氏に従い伊達政宗勢と戦った。1590年、「越路館の戦い」で伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家辞典(森岡浩)』by東京堂出版。

大衡氏胤【おおひらうじたね(15??~15??)】

大衡宗氏の男。官途は治部大輔。1590年、「奥州仕置」で、黒川晴氏が改易処分に処されると所領を失った。後に留守政景に仕えた。参考文献:『戦国大名家辞典(森岡浩)』by東京堂出版。

大平孫左衛門【おおひらまござえもん(15??~1590)】

黒川晴氏家臣。黒川郡越路館主。1588年、「伊達大崎の戦い」では、黒川晴氏に従い伊達政宗勢と戦った。1590年、「越路館の戦い」で伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

大森和泉守【おおもりいずみのかみ(15??~15??)】

柴田郡大森館主。官途は和泉守。

大童豊後守【おおわらわぶんごのかみ(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。黒川郡大童館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

青梅尾張守【おうめおわりのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡大泉館主。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小笠原宗綱【おがさわらむねつな(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。刈田郡小原館主。官途は掃部丞。1536年、伊達稙宗の使者として石川稙光のもとに遣わされた。

尾形河内守【おがたかわちのかみ(15??~15??)】

笠原仲沖家臣。加美郡北川館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

尾形長国【おがたながくに(15??~1588)】

葛西晴信家臣。通称掃部。1571年、「葛西大崎の戦い」で葛西晴信に従い参陣したが大崎義隆勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

岡部長満【おかべながみつ(14??~15??)】

山内首藤貞通家臣。桃生郡神取館主。官途は伊勢守。1512年、「第一次永正の戦い」で山内首藤貞通に従い葛西宗清勢と戦った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

岡山城守【おかやましろのかみ(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。黒川郡月館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

小沢道重【おざわみちしげ(15??~1591)】

葛西晴信家臣。気仙郡田茂山館主。官途は右馬允。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗勢に謀殺された。

小沢兵部【おざわひょうぶ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。兵部館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

小谷地備後守【おじちびんごのかみ(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。

小田野隆重【おだのたかしげ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡朝日山館主。通称玄蕃。朝日山館1,200貫を領した。1591年、「葛西大崎一揆」では、一揆勢に属して参陣したが、伊達政宗勢に攻撃を受けると降伏した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

男沢蔵人【おとこざわくらうど(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡鴻ノ巣館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

男沢筑後守【おとこざわちくごのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡大森館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

男沢内膳【おとこざわないぜん(15??~15??)】

山内首藤貞通家臣。桃生郡樫崎館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

鬼死骸伊賀守【おにしがいがのかみ(15??~15??)】

小岩信定家臣。

小野寺信春【おのでらのぶはる(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡藤沢館主。通称太郎左衛門。1590年、「奥州仕置」で葛西晴信が改易処分に処されると所領を失い帰農した。

小野寺道戒入道【おのでらどうかいにゅうどう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡松倉館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

小野寺道茂【おのでらみちしげ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡砂子田館主。官途は美濃守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

小野寺弥四郎【おのでらよしろう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡普賢堂館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

小野雅楽充【おのうらくいん(15??~15??)】

砂金実常家臣。柴田郡小野館主。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属して伊達稙宗勢と戦った。

小幡雅楽介【おばたうたのすけ(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。柴田七騎衆。留守景宗の附家老職を務めた。

小幡丹後守【おばたたんごのかみ(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。柴田七騎衆。留守景宗の附家老職を務めた。

小山田頼定【おやまだちくぜんのかみ(1525~1588)】

伊達晴宗家臣。柴田郡小山田館主。官途は筑前守。猛将。1588年、「伊達大崎の戦い」では、伊達政宗の意向を受け留守政景、泉田重光、浜田景隆らとともに大崎家領に侵攻した。「中新田城の戦い」では、南条隆信が守備する中新田城を攻撃したが、大敗して殿を務め馬が深田に足を取られ討死した。 参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小山又五郎【おやままたごろう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡水戸部館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

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【か】

境野盛久【かがみのもりひさ(15??~15??)】

秋保則盛の次男。豊後館主。弟の竹内盛頼とともに豊後館を守備した。

柿沼五郎兵衛【かきぬまごろうべい(15??~15??)】

名取郡前沢館主。1588年、留守政景から所領の安堵状を受けた。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

葛西宗清【かさいむねきよ(14??~15??)】

登米郡石巻城主。伊達成宗の次男。(葛西満重の養子)。官途は武蔵守。通称七郎。葛西家惣領職を巡って葛西政信と抗争を続けた。1511年、「首藤貞通の乱」では、山内首藤貞通勢と戦った。次男の稗貫晴家は稗貫家の家督を相続した。参考文献:『戦国時代人物辞典(歴史群像編集部編)』by学研。

葛西政信【かさいまさのぶ(1433~1506)】

登米郡寺池城。葛西持信の男。官途は壱岐守。別名葛西信勝。室は千葉師胤の娘。1483年、葛西尚信が病没したため、葛西家惣領職を相続したが、惣領職を巡って葛西宗清と抗争を続けた。参考文献:『戦国時代人物辞典(歴史群像編集部編)』by学研。

葛西晴重【かさいはるしげ(1469~1533)】 

葛西政信の三男。官途は陸奥守。1506年、父葛西政信の病没により葛西家の家督を相続した。継嗣の葛西守信や養子葛西晴清が相次いで病没したため、次男葛西晴胤が葛西家惣領職の家督を相続した。

葛西晴胤【かさいはるたね(1497~1555)】

葛西晴重の次男。官途は左京大夫。室は江刺隆見の娘。継室は黒川景氏の娘。1533年、父葛西晴清が病没したため、葛西家惣領職の家督を相続した。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗に属して伊達稙宗に属した葛西晴清(伊達稙宗の七男)を討取った。1536年、石巻城から寺池城に転封した。

葛西親信【かさいちかのぶ(1513~1560)】

葛西晴胤の男。官途は石見守。1555年、父葛西晴胤の病没を受けて葛西家の家督を相続し大崎義直と争った。1560年、家督相続後、5年で病没した。

葛西晴信【かさいはるのぶ(1534~1591)】

葛西晴胤の次男。官途は左京大夫。伊達晴宗と結んで大崎義隆と陸前国の覇権をめぐって争った。1569年、上洛して織田信長に謁見して所領を安堵された。300,000石余りの領国を築いたが、枝連衆の内紛や家臣の反乱にも悩まされ続けた。1573年、「岩ヶ崎城の戦い」で大崎義隆勢を破って栗原郡を制圧した。1590年、「奥州仕置」で改易処分に処され所領を失った。1591年、「佐沼城の戦い」で一揆勢とともに籠城して蒲生氏郷勢と戦って討死した。

葛西俊信【かさいとしのぶ(1579~1635)】

葛西重信の男。通称三郎。馬術に優れていた。1590年、「奥羽仕置」によって葛西晴信が所領を没収されると伊達政宗に仕えた。

葛西信政【かさいのぶまさ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。官途は式部少輔。1591年、「葛西大崎一揆」では、一揆勢に属して参陣した。

葛西信国【かさいのぶくに(15??~15??)】

葛西晴信家臣。官途は民部少輔。1591年、「葛西大崎一揆」では、一揆勢に属して参陣した。

葛西新左衛門【かさいしんざえもん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡新井田館主。別名千葉掃部。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

葛西伝益入道【かさいでんえきにゅうどう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。桃生郡女来山館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

笠原仲沖【かさはらなかおき(15??~15??)】

加美郡宮崎城主。笠原兼時の男。別名笠原直時。1536年、「新田頼遠の乱」では、氏家直継、古川持煕、新田頼遠らとともに大崎義直、伊達稙宗勢と戦った。

笠原隆治【かさはらたかはる(15??~15??)】

笠原仲沖の男。官途は美濃守。

笠原隆親【かさはらたかちか(15??~15??)】

笠原隆治の男。加美郡宮崎城主。官途は民部少輔。別名宮崎隆親。1588年、「中新田城の戦い」では、伊達政宗の家臣留守政景、泉田重光勢の攻撃を受ると、南条隆信、笠原隆親、笠原隆綱、笠原直景、笠原直行、笠原直広らとともに反撃を行ない伊達政宗勢を撤退に追込んだ。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義興を擁立して宮崎城に籠城したが、伊達政宗勢の攻撃を受け落城した。笠原隆元、道城蔵人、上ノ沢讃岐守、今野与惣右衛門らとともに仙北郡に落延びて楯岡満茂に仕えた。

笠原隆元【かさはらたかもと(15??~15??)】

笠原隆親の男。別名宮崎隆元。

笠原直次【かさはらなおつぐ(15??~1591)】

笠原仲沖の三男。加美郡大楯城主。通称七郎。1591年、「宮崎城の戦い」では、笠原隆親に従い宮崎城に籠城したが、伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

笠原直邦【かさはらなおくに(15??~1591)】

笠原仲沖の六男。加美郡深沢城主。通称九郎左衛門。1591年、「宮崎城の戦い」では、笠原隆親に従い宮崎城に籠城したが、伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

賀沢長門守【かさわながとのかみ(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。黒川郡大楯館主。黒川晴氏の家臣であったが、伊達晴宗に従った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

片倉河内守【かたくらかわちのかみ(15??~15??)】

氏家吉継家臣。1587年、氏家吉継に意向を受け使者として伊達政宗のもとに派遣された。

葛岡太郎左衛門【かつらおかたろうざえもん(15??~15??)】

大崎義隆家臣。葛岡城主。石川隆尚の弟。1588年、大崎義隆拉致後の新井田隆景による反氏家派挙兵に参集。「師山城の戦い」では、古川弾正、百々左京、室田小斎、休塚若狭、石川隆尚、川熊美濃守、百々左京、室田小斎らとともに伊達政宗勢と戦った。

加藤清左衛門【かとうせいざえもん(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡味ヶ袋館主。侍大将を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

門田丹後守【かどたたんごのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡丸森館主。葛西家四家老職。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

金田九郎治【かねだくろうじ(15??~1586)】

本吉重継家臣。本吉郡平磯館主。別名掃部九郎治。1586年、「平磯館の戦い」では、浅野時重勢の攻撃を受け討死した。

金内掃部【かないかもん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡荒砥館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

金成重直【かねなりしげなお(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡金成館主。通称内膳。1573年、「金成館の戦い」で葛西晴信勢の攻撃を受け降伏した。1590年、「奥州仕置」で葛西晴信が所領を失うと最上義光に仕えた。参考文献:『戦国大名家辞典(森岡浩)』by東京堂出版。

鎌田彦右衛門【かまたひこえもん(15??~15??)】

岩崎義久家臣。1591年、「宮沢城の戦い」では、岩崎義久に従い岩崎伯耆守、鎌田彦右衛門、飯塚次郎右衛門、芳賀蔵人らとともに宮崎城に籠城した。伊達政宗勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

狩野和泉守【かりのいずみのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡清水館主。別名清水玄蕃。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

狩野修理【かりのしゅり(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡川口館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

川熊隆清【かわくまたかきよ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。川熊城主。官途は美濃守。1588年、「師山城の戦い」では、大崎義隆に従い師山城に籠城する伊達政宗勢と戦った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

萱場重久【かやばしげひさ(15??~15??)】

国分盛氏家臣。宮城郡南館主。官途は丹後守。

黄河田右衛門【きかわだうえもん(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡照越館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

菊池喜九郎【きくちきくろう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡西戸館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

北山播磨守【きたやまはりまのかみ(15??~15??)】

本吉大膳家臣。本吉郡清水浜館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

木船与惣右衛門【きふねよそうえもん(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡弥八館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

木名瀬直定【きなせなおさだ(15??~1658)】

古内重広家臣。1658年、古内重広が伊達忠宗に従い殉死すると、古内重広に殉じて中山師範、鈴木兼行とともに殉死した。

木村加賀守【きむらかがのかみ(15??~15??)】

本吉重継家臣。本吉重継家臣。1586年、「稲渕館、三島館の戦い」で本吉重継に従い浅野時重勢と戦った。

君ヶ袋常継【きみがくろつねつぐ(15??~15??)】

大崎義兼家臣。加美郡君ヶ袋城主。別名千葉常継。1543年、君ヶ袋常継が宮崎城から君ヶ袋城に転封した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

君ヶ袋兼継【きみがぶくろかねつぐ(15??~1590)】

千葉常継の男。通称九郎左衛門。1590年、「君ヶ袋城の戦い」では、一揆勢とともに君ヶ袋城に籠城したが伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

君ヶ袋胤継【きみがくろたねつぐ(15??~15??)】

君ヶ袋常継の次男。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

葛岡隆信【くずおかたかのぶ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。玉造郡葛岡館主。通称監物。1588年、「伊達大崎の戦い」では、新井田隆景勢に属して、下新井田城に籠城して伊達政宗勢と戦った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

葛岡隆衡【くずおかたかひら(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡下新田館主。通称主計。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

葛岡太郎左衛門【くずおかたろうざえもん(15??~15??)】

石川越後守の弟。宮沢館主。1588年、「師山城の戦い」で石川越後守に従い籠城した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

久保安親【くぼやすちか(15??~1607)】

留守政景家臣。1607年、留守政景が病没すると、留守政景が病没すると、留守政景に殉じて自刃した。

栗原讃岐守【くりはらさぬきのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡栗原館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

黒川氏矩【くろかわうじのり(1466~1529)】

黒川郡鶴楯城主。黒川氏房の男。黒川郡惣領職。官途は宮内大輔。鶴楯城30,000石を領した。

黒川景氏【くろかわかげうじ(1484~1552)】

飯坂清宗の男(黒川氏矩の養子)。官途は下総守。通称左衛門尉。室は最上義淳の娘。1529年、養父黒川氏矩の病没により黒川家の家督を相続した。1536年、「古川城の戦い」では、伊達稙宗の意向を受けて古川城を攻撃した。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗勢の属して、大崎義宣とともに伊達晴宗勢と戦った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

黒川稙国【くろかわたねくに(1502~1560)】

黒川景氏の男。1552年、父黒川景氏の病没により黒川家惣領職を相続した。

黒川稙家【くろかわたねいえ(15??~1568)】

黒川稙国の男。

黒川晴氏【くろかわはるうじ(1523~1599)】

黒川稙国の次男(黒川稙家の養子)。官途は安芸守。通称彦五郎。別名黒川月舟斎。室は大崎義兼の娘。智勇兼備の将。1560年、兄黒川稙家の病没により黒川家惣領職の家督を相続した。大崎義直の三男黒川義康を養子に迎えた。1588年、「伊達大崎の戦い」では、伊達政宗勢に属して参陣したが、留守政景が中新田城の攻略に失敗すると伊達政宗勢から離反した。1590年、「奥州仕置」で改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

黒川義康【くろかわよしやす(15??~1626)】

大崎義直の三男(黒川晴氏の養子)。室は亘理元宗の娘。別名大崎義康。1590年、「奥州仕置」で父黒川晴氏が改易処分に処されると、伊達政宗に仕えて1,000石を領した。継嗣をもうけず病没したため、黒川家は断絶となった。

黒川季氏【くろかわよしうじ(15??~16??)】

黒川義康の甥。

黒崎兵部【くろさきひょうぶ(15??~1586)】

本吉重継家臣。本吉郡戸倉館主。1586年、「稲渕館、三島館の戦い」で本吉重継に従って浅野時重勢と戦い討死した。

黒沢広継【くろさわひろつぐ(15??~15??)】

氏家直隆の男。加美郡上黒沢館主。通称治部少輔。別名黒沢義武。娘の澄姫は大崎義隆に嫁ぎ、継嗣の大崎義興(義易)をもうけた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

黒沢隆澄【くろさわたかずみ(15??~15??)】

黒沢広継の男。1588年、「伊達大崎の戦い」では、大崎義隆勢に属して伊達政宗勢と戦った。

黒沢信則【くろさわのぶのり(15??~15??)】

小岩信定家臣。

五井伊豆守【ごいいずのかみ(15??~1536)】

古川持煕家臣。1536年、「古川城の戦い」で古川持煕に従い古川城に籠城して伊達稙宗勢と戦い討死した。

小岩信実【こいわのぶざね(15??~15??)】

葛西政信家臣。小岩行友の男。小岩家惣領職。1518年、将軍家の咎を受け出羽国の所領没収され、胆沢郡の柏山兵部を頼って寄寓の身となった。1521年、柏山兵部の推挙を受けて葛西政信に仕えた。1534年、栗原郡釣尾城主に任じられた。

小岩信茂【こいわのぶしげ15??~15??)】

小岩信実の男。

小岩信定【こいわのぶさだ(1550~1591)】

小岩信茂の男。通称孫三郎。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗勢に謀殺された。

小岩信隣【こいわのぶちか(15??~15??)】

小岩信定の男。

小岩信時【こいわのぶちか(15??~15??)】

小岩信茂の次男。

小岩茂安【こいわしげやす(15??~15??)】

小岩信実の三男。別名沼倉茂安。

小岩信行【こいわのぶゆき(15??~15??)】

小岩行友の次男。

小岩信則【こいわのぶのり(15??~15??)】

小岩信行の男。官途は越中守。1522年、黒沢城主を務めた。

小岩茂氏【こいわしげうじ(15??~15??)】

小岩信行の次男。

小岩信明【こいわのぶあき(15??~15??)】

小岩信則の男。1574年、「本吉信胤の乱」では、葛西晴信に従い参陣して戦功を挙げた。1581年、黒沢信明を支援して長部孫八郎を討取る戦功を挙げた。1587年、「浜田広綱の乱」では、小岩信定、小岩信隣とともに参陣して戦功を挙げた。

郷右近【ごううこんかさい(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。黒川郡郷右近館主。

郷六盛継【ごうろくもりつぐ(15??~15??)】

国分宗政家臣。官途は大膳。通称大善。1577年、伊達晴宗の五男国分盛重が国分家の養子に入ると、郷六城を没収され、郷六、愛子の2ヶ郷を領した。

郷六盛貞【ごうろくもりさだ(15??~15??)】

国分宗政の次男(郷六盛継の養子)。官途は大膳。1595年、郷六盛継の養子となった。

郷六盛政【ごうろくもりまさ(15??~15??)】

国分盛氏の男(郷六盛貞の養子)。1596年、国分盛重が出奔したため、伊達政宗に仕えた。

郷六盛元【ごうろくもりもと(15??~15??)】

郷六盛政の男。官途は相模守。通称大膳。霞目城を築城して移ったため、郷六城は廃城となった。

郷六政治【ごうろくまさはる(15??~15??)】

郷六盛元の男。

郷六政友【ごうろくまさとも(15??~15??)】

郷六政治の男。

郷六重元【ごうろくしげもと(15??~1600)】

六郷政友の男。別名森田重元。1596年、国分盛重が出奔すると伊達政宗に仕えた。1600年、「長谷堂城の戦い」では、留守政景に従い叔父の馬場右衛門、弟の堀江源蔵らを率いて参陣した樋口兼続勢と戦い討死した。

郷六元猶【ごうろくもとなお(15??~16??)】

郷六重元の男。通称杢右衛門。別名森田元猶。1600年、「長谷堂城の戦い」で父森田重元が討死したため、森田家の家督を相続した。は、留守政景に従い参陣した。1615年、「大坂夏の陣」で伊達政宗に従って参陣して戦功を挙げ360石を領した。

小金沢将監【こがねざわしょうげん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡華要害館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

国分宗政【こくぶんむねまさ(15??~15??)】

宮城郡千代城主。国分胤実の男。官途は弾正少弼。別名国分宗綱。宮城郡南部から西部に勢力圏を築いた。伊達稙宗が宮城郡まで侵攻すると、伊達稙宗勢に属した。1536年、大崎高兼の家督争いに伊達稙宗が介入すると、伊達稙宗勢に従い参陣した。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗勢に属して伊達晴宗勢に属する留守景宗勢と戦った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

国分盛氏【こくぶんもりうじ(15??~15??)】

国分宗政の男。官途は能登守。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

国分盛顕【こくぶんもりあき(1532~1578)】

国分盛氏の男。官途は弾正忠。病弱のため、国分家の家督を弟の国分盛兼に譲って松森館に隠居した。1570年、「宮河原の戦い」で国分盛兼が中野宗時勢と戦い討死したため、惣領職を再び引き継いだ。1575年、相馬盛胤が名取郡に侵攻すると、相馬盛胤勢に属したが伊達輝宗が反撃に転じ相馬盛胤が撤退すると、伊達輝宗に従った。1577年、伊達輝宗の意向を受け、伊達晴宗の五男国分盛重を養子に迎えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

国分盛廉【こくぶんもりやす(1536~1570)】

国分盛氏の次男。通称右兵衛。1567年、病弱な兄国分盛顕に代わり国分家の家督を相続した。1570年、「宮河原の戦い」で伊達輝宗に謀反を起こした中野宗時勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

国分盛重【こくぶんもりしげ(1553~1615)】

伊達晴宗の五男(国分盛顕の養子)。官途は三河守。通称彦九郎。別名伊達政重。室は国分盛廉の娘。1577年、養父国分盛顕の隠居により国分家の家督を相続した。1585年、「人取橋の戦い」に伊達政宗勢に属して参陣した。1587年、反伊達政宗派の家臣との対立が続き、伊達政宗によって家臣団が再編された。1591年、「葛西大崎一揆」で、伊達政宗と蒲生氏郷が対立すると、人質として蒲生氏郷のもとに送られた。1596年、伊達政宗のもとを出奔して佐竹義宣に仕えた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になるとそれに従った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

国分宣宗【こくぶのぶむね(1594~1632)】

佐竹義久の三男(国分盛重の養嗣子)。通称五郎。別名伊達宣宗。室は南義尚の娘。1615年、「大坂夏の陣」では、病身の養父国分盛重の陣代として参陣した。帰国後、国分盛重が病没すると国分家の家督を相続し横手城代となった。1622年、邪宗門とされた大眼宗の指導者の厳中の捕縛に失敗して改易処分に処された。1629年、久保田に戻り横手西方坂井田の水沢に内室とともに幽居された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

児玉安芸守【こだまあきのかみ(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。

小塚則安【こづかのりやす(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡小塚館主。通称織部。1590年、「奥州仕置」で葛西晴信が改易処分に処されると、所領を失い没落した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

小谷路備前守【こやじびぜんのかみ(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。黒川郡小谷館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

小山民部【こやまみんぶ(15??~15??)】

小岩信定家臣。

近藤良成【こんどうよしなり(15??~1607)】

留守政景家臣。1607年、留守政景が病没すると、留守政景が病没すると、留守政景に殉じて自刃した。

今藤左馬丞【こんどうさまのじょう(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡一ノ城館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

今野内膳【こんのないぜん(15??~1591)】

葛西晴信家臣。気仙郡二日市城主。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗勢に謀殺された。

今野広綱【こんのひろつな(15??~1591)】

今野内膳の男。通称助九郎。1591年、父今野広綱とともに桃生郡深谷で伊達政宗に謀殺された。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

今野遠江守【こんのとおとうみのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。気仙郡槻館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

今野信濃守【こんのしなのかみ(15??~15??)】

今野遠江守の男。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

今野筑前守【こんのちくぜんのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡沢口館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

今野兵部【こんのひょうぶ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡駒辺館主。伊達政宗勢の攻撃を受け滅亡した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

今野伯耆守【こんのほうきのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡加味館主。1588年、「伊達大崎の戦い」では、大崎義隆勢に属して参陣した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

今野左京【こんのさきょう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。気仙郡外館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

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【さ】

斎尾張守【さいおわりのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。桃生郡山ノ神館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

西条壱岐守【さいじょういきのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡松崎館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

西条栄加入道【さいじょうえいかいにゅうどう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。桃生郡沢山館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

西条四郎左衛門【さいじょうしろうざえもん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡東館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

西条遠江守【さいじょうとうとみのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡小森館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

西条豊前守【さいじょうぶぶぜんのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡水口沢館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

境野盛久【さかいのもりひさ(15??~15??)】

秋保則盛の次男。官途は信濃守。通称玄蕃。別名秋保盛久。1587年、「国分騒動」では、伊達政宗の意向を受け秋保直盛に従った。1603年、伊達政宗の意向を受け境野邑、新川邑から加美郡大村100石に転封した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

境野盛元【さかいのもりもと(15??~15??)】

境野盛久の男。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

境野盛忠【さかいのもりただ(15??~15??)】

境野盛元の男。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

坂周防守【さかすおうのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡江坂館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

嵯峨立信輔【さがだちしんすけ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡嵯峨立館主。通称右近。1572年、「嵯峨立館の戦い」で黄海高衡勢の攻撃を受けたが熊谷直秋を討取る戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

嵯峨立信継【さがだちのぶつぐ(15??~15??)】

嵯峨立信輔の男。通称平次郎。 

坂元土佐守【さかもととさのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。志田郡坂元館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

作並宮内【さくなみくない(15??~15??)】

国分宗綱家臣。宮城郡大原館主。

作並新左衛門尉【さくなみしんざえもん(15??~15??)】

作並宮内の男。1588年、「伊達大崎の戦い」では、大崎義隆勢と戦い戦功を挙げ腰物を拝領した。

桜田備中守【さくらだびっちゅうのかみ(15??~15??)】

大崎義直家臣。栗原郡桜田館主。1588年、「伊達大崎の戦い」では、新井田隆景勢に属して参陣した。

桜場市右衛門【さくらばいちえもん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡桜場館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

笹神図書介【ささがみずしょのすけ(15??~15??)】

留守顕宗家臣。

佐藤信貞【さとうのぶさだ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡信夫館主。通称又次郎。1588年、「浜田広綱の乱」の鎮圧のため参陣した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

佐藤信夏【さとうのぶなつ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。官途は越中守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

佐藤忠冬【さとうただふゆ(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。黒川郡築館主。官途は信濃守。

佐藤景高【さとうかげたか(15??~15??)】

留守景宗の次男。宮城郡駒犬城主。通称六郎佐衛門。別名留守景高。1569年、村岡兵衛が謀反を起こすと、余目伊勢とともにそれに加勢するが、留守景宗に討伐された。1572年、再び挙兵したが留守政景勢の攻撃を受け落延びた。

里見義成【さともよしなり(15??~1590)】

大崎義直家臣。加美郡上狼塚城主。官途は紀伊守。大崎四家老職。

里見隆成【さとみたかなり(15??~15??)】 

里見義成の男。官途は紀伊守。新井田隆景の父。1588年、「伊達大崎の戦い」では、大崎義隆を拉致して新井田隆景を支援した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

里見隆元【さとみたかもと(15??~15??)】

里見隆成の男。通称大膳。1590年、「奥州仕置」で大崎義隆が改易処分に処されると、最上義光に仕えた。

沢辺重光【さわのべしげみつ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。官途は肥前守。1576年、「二迫の戦い」で葛西晴信が大崎義隆から二迫を奪還すると、沢辺館主に任じられた。

沢辺修理亮【さわのべしりのじょう(15??~15??)】

沢辺重光の男。

沢辺新左衛門【さわのべしんざえもん(15??~15??)】

沢辺修理亮の男。1590年、「奥州仕置」で葛西晴信、大崎義隆が滅亡すると伊達政宗に仕えた。

沢辺藤兵衛【さわのべとうべい(15??~15??)】

沢辺修理亮の次男。1590年、「奥州仕置」で葛西晴信、大崎義隆が滅亡すると帰農した。

三条近春【さんじょうちかはる(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡小泉城主。通称小太夫。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

三分一所景清【さんぶんのいちかしょかげきよ(15??~15??)】

長江盛景家臣。桃生郡三分一所城主。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

三分一所家景【さんぶんのいちかしょいえかげ(15??~15??)】

長江盛景の三男(三分一所景清の養子)。通称左衛門。武技、錬磨、軍学、馬術に長けていた。父長江盛景の意向を受け三分一所景清の養子となり三分一所家の家督を相続した。1587年、「伊達大崎の戦い」で兄長江晴景が伊達政宗から離反すると、伊達政宗に従い所領を安堵された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

三分一所元景【さんぶんのいちかしょもとかげ(15??~15??)】

奥山常良の四男(三分一所家景の養子)。官途は典膳。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

四釜隆秀【しかまたかひで(1547~1596)】

大崎義直家臣。加美郡四釜城主。官途は尾張守。智勇兼備の将。1587年、「伊達大崎の戦い」では、中新井田城を守備して伊達政宗勢を撃退した。1590年、「奥州仕置」で大崎義隆が改易処分に処されると、所領を失った。1591年、「葛西大崎一揆」では、一揆勢として先陣したが、伊達政宗勢の攻撃を受けると投降して家臣となった。以後、伊達政宗勢の先陣として一揆の鎮圧を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

四釜惣次郎【しかまそうじろう(15??~15??)】

大崎義直家臣。1588年、「中新田城の戦い」では、城代の南条隆信に従って中新田城に籠城した。撤退する伊達政宗の家臣小山田定頼を討取る戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

志田義時【しだよしとき(15??~15??)】

大崎義隆家臣。通称数馬。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆勢の先陣を務めた。

四保定朝【しのうさだとも(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。柴田郡船岡城主。官途は但馬守。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

四保宗義【しのうむねよし(15??~15??)】

四保定朝の男。別名柴田宗義。1576年、「相馬表の戦い」では、伊達輝宗に従って参陣した。1589年、「須賀川城の戦い」では、伊達政宗に従って先陣を務めた。1593年、志田郡桑折城に転封した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

四保宗朝【しのうさだとも(1587~16??)】

四保宗義の男。通称源四郎。1600年、「長谷堂城の戦い」では、四保宗義の陣代として留守政景に従って参陣した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

篠本貞永【しのもとさだなが(15??~15??)】

黒川景氏家臣。黒川郡古館主。通称善左衛門。

渋谷重家【しぶやしげいえ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡有賀館主。官途は備前守。1571年、「葛西大崎の戦い」で大崎義隆が敗北すると、有賀館主に任じられた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

渋谷隆秀【しぶやたかひで(15??~15??)】

大崎義直家臣。志田郡桑折城主。官途は備前守。大崎四家老職。

渋谷隆時【しぶやたかとき(15??~15??)】

渋谷備前守の男。官途は備前守。別名八ッ森定直。1588年、「伊達大崎の戦い」では、大崎義隆勢に内応した黒川晴氏が桑折城に入り指揮を執った。新沼城に籠城した留守政景勢の開放に反対した。1591年、伊達政宗勢に謀殺されれた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

渋谷新左衛門【しぶやしんざえもん(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡弥八館主。通称平兵衛。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

下間景継【しもまかげつぐ(15??~1578)】

八幡景光の次男。兄八幡景業が病没すると、八幡景廉の陣代を務めた。1578年、「下間館の戦い」では、家臣団に擁立され、継嗣の下間業継に八幡家の家督を相続させようとさせるが、留守政景勢の攻撃を受け討死した。

下間業継【しもまよしつぐ(15??~15??)】

八幡景業の次男(下間景継の養子)。1578年、養父下間景継が留守政景に討たれると、岩沼の泉田重光を頼って落延びた。

山内首藤貞通【しゅとうさだみち(14??~15??)】

桃生郡七尾城主。山内首藤義通の男。官途は刑部大輔。室は寺崎常清の娘。製鉄産業を手厚く保護して、交易により莫大な富を蓄えた。1511年、「七尾城の戦い」では、葛西宗清、江刺重親、薄衣常盛、黄海高国らの攻撃を受けたが、江田清通の活躍によりこれを撃退した。葛西宗清勢から再度の攻撃を受け降伏に追込まれ、桃生郡10郷の割譲と隠居を余儀なくされた。

山内首藤知貞【しゅとうともさだ(1499~15??)】

山内首藤貞通の男。官途は伊勢守。1511年、「第二次七尾城の戦い」で父首藤貞通が葛西宗清勢の攻撃を受け降伏すると、江田清通、福地頼重の補佐を受けて山内首藤家の家督を相続した。

山内首藤義利 【しゅとうよしとし(15??~15??)】

山内首藤義通の次男。

山内首藤頼嗣【しゅとうよりたけ(15??~15??)】

山内首藤知貞の男。伊達晴宗に仕えた。

山内首藤頼貞【しゅとうよりさだ(15??~15??)】

山内首藤知貞の次男。

山内首藤知常【しゅとうともつな(15??~15??)】

山内首藤頼嗣の男。

山内首藤貞信【しゅとうさだのぶ(15??~15??)】

山内首藤頼貞の男。

城生信方【じょうののぶかた(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡城生館主。通称之弥左衛門。1588年、「伊達大崎の戦い」では、中新田城に籠城した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

城生志摩守【じょうのしまのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。1590年、「奥州仕置」で大崎義隆が改易処分に処されると、最上義光に仕えた。

白石三河守【しらいしみかわのかみ(15??~15??)】

国分盛重家臣。宮城郡白石館主。

白石伊勢守【しらいしいせのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。黒川郡南楯館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

白坂八郎右衛門【しらさかはちろうえもん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡白坂館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

末永宗時【すえながむねとき(14??~15??)】 

葛西宗清家臣。登米郡善王寺城主。官途は能登守。四家老職を務めた。1511年、「永正の戦い」では、山内首藤貞通勢に属して葛西宗清の謀殺を図ったが失敗した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

末永清継【すえながきよつぐ(15??~1590)】

末永宗時の男。官途は修理。通称五郎三郎。1590年、「奥州仕置」で葛西晴信が改易処分に処されると末永清継も所領を失った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

末永筑後守【すえながちくごのかみ(15??~15??)】

末永宗時の弟。1511年、「永正の戦い」では、兄末永宗時とともに葛西宗清の謀殺を図ったが失敗に終わった。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

菅井景国【すがいかげくに(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。官途は内膳。1532年、「四郎丸の戦い」で名取四朗を討取る戦功を挙げ四郎丸(42町)を領した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

菅井常国【すがいつねくに(15??~15??)】

菅井景国の男。官途は大炊祐。通称藤右衛門。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

菅井直国【すがいなおくに(15??~15??)】

菅井常国の男。通称内記。四郎丸領を相続。伊達政宗から粟野重国の後見役に任じられた。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

菅井実国【すがいさねくに(15??~15??)】

菅井直国の男。官途は和泉守。通称藤兵衛。菅井常国とともに伊達政宗から粟野重国の後見役に任じられた。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

菅井泰国【すがいやすくに(15??~15??)】

菅井実国の男。官途は和泉守。四郎丸領を相続。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

菅生資八郎【すがおしはちろう(15??~15??)】

村田近重家臣。柴田郡菅生館主。

菅原重国【すがわらしげくに(15??~15??)】

本吉郡山田城主。官途は左近将監。

菅原兼長【すがわらかねなが(15??~15??)】

大崎義兼家臣。栗原郡有賀館主。通称右馬之助。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

菅原明長【すがわらあきなが(15??~15??)】

菅原兼長の男。通称太郎。1533年、有賀城から田子谷館に転封した。1549年、御田鳥城に転封した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

菅原友長【すがわらともなが(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡軽石館主。官途は刑部。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

菅原長国【すがわらながくに(15??~1571)】

菅原長国の孫。通称掃部。1571年、「葛西大崎の戦い」で葛西晴信勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

菅原大膳【すがわらだいぜん(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡手柄館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

菅原直方【すがわらなおかた(15??~15??)】

葛西晴胤家臣。菅原朝房の三男。通称小四郎。室は馬籠政次の娘。

菅原長成【すがわらながなり(15??~15??)】

菅原直方の男。通称孫四郎。

菅原長時【すがわらながとき(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡八幡館主。官途は対馬守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

鈴木伊賀守【すずきいがのかみ(15??~15??)】

百々直孝家臣。1588年、「新沼城の戦い」で古川弾正の家臣北郷右馬之允とともに伊達政宗勢の留守政景、泉田重光、長江勝景と開城交渉を行った。

鈴木美濃守【すずきみののかみ(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。黒川郡小野目館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社

鈴木兼行【すずきかねゆき(15??~1658)】

古内重広家臣。1658年、古内重広が伊達忠宗に従って殉死すると、古内重広に殉じて木名瀬直定、中山師範とともに殉死した。

鈴木藤内【すずきふじない(15??~15??)】

松坂定頼家臣。1591年、「宮崎城の戦い」で松坂定頼が討死すると、松坂定頼の頸を取り返した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

鈴木正斎入道【すずきしょうさいにゅうどう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡弥勒寺館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

須田玄蕃【すだげんば(15??~15??)】

国分盛氏家臣。名取郡今泉館主。

須藤刑部少輔【すだぎょうぶのしょうゆ(15??~15??)】

国分盛氏家臣。

関場日向守【せきばひゅうがのかみ(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。柴田郡関場館主。1542年、「伊達天文の乱」では、田村近重、沼辺玄蕃らとともに伊達晴宗勢に属して戦功を挙げた。

須藤但馬守【すどうたじまのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡長清水館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

駿河次郎【するがじろう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡猿飛来館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

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【た】

大条宗安【だいじょうむねやす(15??~15??)】

留守景宗の三男。別名留守宗安。

平義盛【たいらのよしもり(15??~15??)】

大崎義隆家臣。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆勢の左陣を務めた。

高木四郎右衛門【たがぎしろうえもん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡高木館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

高城義久【たかぎよしひさ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡高城館主。通称孫市。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

高清水直堅【たかしみずなおかた(15??~15??)】

大崎高兼の次男。栗原郡高清水城主。官途は長門守。通称杢権頭。高清水家の養子に入り家督を相続した。1590年、「奥州仕置」で大崎義隆が改易処分に処されると、所領を失い没落した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

高清水高景【たかしみずかたかげ(15??~15??)】

高清水直堅の男。官途は長門守。1590年、「奥州仕置」で父高清水直堅が改易処分に処されると、伊達政宗に仕えた。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

高城周防守【たかしろすぼうのかみ(15??~15??)】

留守顕宗家臣。宮城郡神楯城主。留守宗綱を養子に迎えた。

高城宗綱【たかしろむねつな(15??~15??)】

留守顕宗の男(高城周防守の養子)。留守顕宗の継嗣であったが、伊達晴宗の意向を受けた父留守顕宗から高城家の養子とされた。1588年、「伊達大崎の戦い」では、留守政景、泉田重光に従って長江勝景、田手宗実、遠藤高康らとともに中新田城、桑折城、師山城、下新田城を攻撃した。黒川晴氏の内応により伊達政宗勢は泉田重光が捕縛されるほどの大敗を喫した。

高城宗直【たかしろむねなお(15??~15??)】

高城宗綱の男。

高玉茂兵衛【たかたまもへい(15??~15??)】

栗原郡福岡館主。1556年、有賀館から福岡館に転封した。1588年、「浜田広綱の乱」では、葛西晴信勢に属して参陣した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

高橋政胤【たかはしまさたね(15??~1591)】

葛西晴信家臣。桃生郡日影館主。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗勢に謀殺された。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

竹内盛頼【たけうちもりより(15??~15??)】

秋保則盛の三男。別名秋保盛頼。竹内盛頼の館は交通の要地にあり兄の境野盛久の館と連係して豊後館を守備した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

竹内盛行【たけうちもりゆき(15??~15??)】

竹内盛頼の男。

竹内盛元【たけうちもりもと(15??~15??)】

竹内盛行の男。

竹内助盛【たけうちすけもり(15??~15??)】

竹内盛行の次男。

武山親信【たけやまちかのぶ(15??~15??)】

山内首藤貞通家臣。桃生郡瀧浜間主。通称三右衛門。陸中国の水上交易を支配して首藤貞通を財政面で支えた。1511年、「七尾城の戦い」では、首藤貞通に従って葛西宗清勢と戦った。

武山十郎右衛門【たけやまじゅうろうざえもん(15??~15??)】

武山親信の男。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

太宰治部少輔【だだいじぶしょうゆ(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。柴田七騎衆。留守景宗の附家老職を務めた。

多田川大膳【ただがわだいぜん(15??~15??)】

氏家吉継家臣。加美郡多田川館主。通称孫八郎。別名大谷義清。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

只見民部【ただみみんぶ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。気仙郡平田館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

橘遠江守【たちばなとうとうみのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡秋法館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

達古袋信忠【たっこたいのぶただ(15??~15??)】

小岩信実の次男。栗原郡達古袋館主。官途は讃岐守。別名達古袋信忠。1579年、「富沢直綱の乱」では、葛西晴信勢に属して参陣した。

達古袋信清【たっこたいのぶきよ(15??~15??)】

小岩信忠の男。別名小岩信清。

玉造義晴【たまづくりよしはる(15??~15??)】

大崎義隆家臣。官途は石見守。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆勢の先陣を務めた。

玉ノ井半内【たまのいはんあい(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡玉野井館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

千田雅楽之丞【ちだうたのじょう(15??~15??)】

大崎義隆家臣。玉造郡一栗東館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

千田九兵郎【ちだくへえ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。桃生郡根館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

千田甲運【ちだううん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡高小屋館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

千田大学【ちだだいがく(15??~15??)】

葛西晴信家臣。気仙郡高館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

千葉但馬守【ちばたじまのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡片子沢館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

千葉信濃守【ちばしなののかみ(15??~1588)】

葛西晴信家臣。気仙郡忍館主。1588年、「浜田広綱の乱」では、浜田広綱に属して、熊谷党と戦って討死した。

千葉胤繁【ちばたねしげ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。官途は兵庫助。別名中野目兵庫助。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

千葉繁勝【ちばしげかつ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡長丸木館主。官途は但馬守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

千葉胤像【ちばたね(15??~15??)】

大崎義隆家臣。官途は越後守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

千葉繁長【ちばしげなが(15??~15??)】

大崎義隆家臣。官途は和泉守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

千葉胤正【ちばたねまさ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡吉目木館主。官途は式部大夫。通称太郎。1579年、「富沢直綱の乱」では、葛西晴信勢に属して戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

千葉盛経【ちばもりつね(15??~15??)】

大崎義隆家臣。玉造郡南沢館主。別名国分右馬頭。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

千葉胤則【ちばたねのり(15??~15??)】

登米郡狼河原館主。官途は修理亮。

千葉胤永【ちばたねなが(15??~15??)】

桃生郡女川城主。官途は十郎五郎。

千葉胤元【ちばたねもと(15??~15??)】

登米郡西郡城主。官途は左馬助。

千葉家胤【ちばいえたね(15??~15??)】

清水馬場城主。官途は修理亮。1591年、「葛西大崎一揆」では、大原胤重に従って参陣したが蒲生氏郷勢と戦い壊滅した。

千葉胤連【ちばたねつら(15??~15??)】

葛西晴信家臣。日形館主。通称左門。1591年、「森原山の戦い」では、薄衣胤勝に従って参陣したが蒲生氏郷勢と戦い敗走した。

千葉久胤【ちばひさたね(15??~15??)】

葛西晴信家臣。富沢城主。通称彦九郎。1591年、「森原山の戦い」では、薄衣胤勝に従って参陣したが蒲生氏郷勢と戦い敗走した。

千葉胤村【ちばたねむら(15??~15??)】

長坂城主。官途は大膳亮。1591年、「森原山の戦い」では、薄衣胤勝に従って参陣したが蒲生氏郷勢と戦い敗走した。

千葉出雲守【ちばいずものかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。桃生郡出雲館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

千葉右衛門【ちばうえもん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。気仙郡松館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

千葉雅楽之助【ちばうたのすけ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

月輪六郎【つくわろくろう(15??~1551)】

藤原師門家臣。1551年、「追城の戦い」で八条秋長勢と戦い討死した。参考文献:「みちのく悠々漂雲の記」byみちのく壁新聞。

月輪七郎【つきわしちろう(15??~1551)】

登米郡月輪館主。藤原師門家臣。1551年、「追城の戦い」で八条秋長勢と戦い、落延びる藤原師門の楯となり討死した。参考文献:「みちのく悠々漂雲の記」byみちのく壁新聞。

堤根肥前守【つつみねひぜんのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。志田郡斎田館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

寺崎祐光【てらさきすけみつ(15??~15??)】

桃生郡寺崎城主。官途は伊予守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

遠田時春【とうだときはる(15??~15??)】

大崎義隆家臣。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆勢の第二陣を務めた。

東福寺尾張守【とうふくじおわりのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡菜切谷館主。1588年、「伊達大崎の戦い」では新井田城に籠城して抵抗した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

鴇田国種【ときたくにたね(14??~15??)】

黒川氏直家臣。黒川郡鴇田館主。官途は信濃守。1439年、「永享の乱」で信濃村上満信に敗れて陸奥国黒川郡に落延び、黒川氏直に仕え鴇田館主に任じられ吉田村と宮床村の両村を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

鴇田国近【ときたかねゆき(15??~15??)】

鴇田国種の次男。1590年、「奥州仕置」で黒川晴氏が改易処分に処されると、所領を失った。

鴇田周如【ときたかねゆき(1588~1654)】

鴇田国近の男。官途は駿河守。通称次右衛門。1591年、「葛西大崎一揆」では、伊達政宗勢に属して戦功を挙げた。伊達政宗が岩出山城に転封になると、伊達政宗に拝謁し先祖伝来の太刀(備中青江)と駿馬を献じ、本領を安堵された。

豊島持胤【としまもちたね(15??~1536)】

古川持煕家臣。通称宮内。1536年、「古川城の戦い」で古川持煕に従って古川城に籠城して伊達稙宗勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

百々直孝【とどなおかた(15??~15??)】

遠田郡百々城主。大崎義兼の四男。官途は弾正少弼。別名百々直隆。

百々隆元【どどたかもと(15??~1591)】

百々直孝の男。官途は左京亮。別名百々隆基。室は古川忠隆の娘(隆姫)。1588年、「師山城の戦い」では、大崎義隆勢に属して師山城に籠城した。1591年、「古川城の戦い」で一揆勢とともに古川城に籠城したが、伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

富沢直家【とみざわなおいえ(15??~15??)】

栗原郡岩ヶ崎城主。葛西晴胤家臣。

富沢直綱【とみさわなおつな(15??~15??)】

富沢直家の男。官途は日向守。1571年、「葛西大崎の戦い」で、葛西晴信に富沢直綱の地盤である三迫を奪われた。1579年、「富沢直綱の乱」では、葛西晴信に謀反を起こしたが、深堀新左衛門勢の攻撃を受けて降伏した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

富沢直景【とみさわなおかげ(15??~1591)】

富沢直綱の男。官途は日向守。別名富沢貞運。1591年、「佐沼城の戦い」で一揆勢に属して佐沼城に籠城したが、伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。

富田左馬之丞【とみたうまのじょう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡富館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

留ヶ谷内膳【とめがやないぜん(15??~15??)】

留守顕宗家臣。留ヶ谷館主。

鳥島道林【とりしまどうりん(15??~15??)】

葛西晴胤家臣。加美郡鳥島城主。

鳥島光清【とりしまみつきよ(15??~1591)】

鳥島道林の男。官途は駿河守。別名北郷右馬之充。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗勢に謀殺された。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

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【な】

長江尚景【ながえなおかげ(14??~15??)】

桃生郡小野城主。山内首藤貞通、登米行賢らとともに三郡一揆結び葛西政信勢に対抗した。1506年、「中津山の戦い」で葛西宗清勢に属して葛西政信勢と戦った。1507年、「矢本の戦い」で葛西宗清勢に属して葛西政信勢と戦った。

長江宗武【ながえむねたけ(15??~15??)】

長江尚景の男。官途は播磨守。1536年、「古川城の戦い」では、大崎義直、黒川景氏、留守景宗、亘理宗隆、国分宗綱、遠藤光定らとともに伊達稙宗に従い古川持熙勢と戦った。

長江盛景【ながえもりかげ(15??~15??)】

長江宗武の男。官途は紀伊守。別名長江盛武。伊達稙宗勢に属したが、葛西晴胤とも親密な関係を維持した。継嗣の長江勝景が長江惣領家、次男矢本景重が矢本家、三男三分一所家景が三分一所家を継いで、深谷郷を三分して領有させた。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属して伊達稙宗勢と戦ったが。三分一所家景は伊達稙宗勢に属して長江家中は分裂した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

長江勝景【ながえかつかげ(15??~1588)】

長江盛景の男。通称「月鑑斎」。室は葛西晴胤の娘。1570年、「矢本館の戦い」で謀反を起こした矢本景重を討取った。葛西晴信、大崎義隆、伊達輝宗らの強豪に挟まれ対応に苦慮した。1588年、「伊達大崎の戦い」では、留守政景、泉田重光、高城宗綱、田手宗実、遠藤高康らとともに中新田城、桑折城、師山城、下新田城を攻撃した。黒川晴氏が内応したため、伊達政宗勢は泉田重光が捕縛されるほどの大敗を喫した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

長井晴信【ながいなるのぶ(14??~15??)】

名取郡大曲館主。1500年、「楯山城の戦い」で秋保盛房を追い落とした。

長尾隼人【ながおはやと(15??~15??)】

葛西晴信家臣。桃生郡館ヶ森館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

長崎隆実【ながさきたかざね(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡長崎館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

中館信常【なかだてのぶつね(15??~15??)】

本吉信胤の次男。官途は右近。

中館信家【なかだてのぶいえ(15??~15??)】

中館信常の男。官途は豊後守。

中館信隆【なかだてんぶたか(15??~15??)】

中館信家の男。

中館信良【なかだてのぶよし(15??~15??)】

中館信隆の男。

中館隆次【なかだてのぶつぐ(15??~15??)】

中館信隆の次男。

中館勝次【なかだてかつつぐ(15??~15??)】

中館隆次の男。

中津山長四郎【なかつやまちょうしろう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。桃生郡中津山館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

中目長政【なかのめながまさ(15??~15??)】

大崎義直家臣。志田郡兵庫館主。官途は丹波守。別名中目重定。大崎家四家老職。1548年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属して伊達稙宗勢と戦った。

中目隆政【なかのめたかまさ(15??~15??)】

中目長政の男。通称兵庫。1588年、「伊達大崎の戦い」では、大崎義隆勢に属して桑折城を支援した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

中目大学【なかのめだいがく(15??~15??)】

大崎義隆家臣。志田郡伊場野館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

中山師範【なかやましはん(15??~1658)】

古内重広家臣。1658年、古内重広が伊達忠宗に従って殉死すると、古内重広に殉じて木名瀬直定、鈴木兼行とともに殉死した。

梨崎近江守【なしざきおうみのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡梨崎館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

名取時光【なとりときみつ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆勢の三陣を務めた。

成田源兵衛【なりたげんべい(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。黒川郡熊野館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

成田外記【なりたげき(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。黒川郡堂谷館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

成田十郎左衛門尉【なりたじゅうざえもんのじょう(15??~15??)】

柴田郡成田館主。

南条隆信【なんじょうたかのぶ(1559~1593)】 

大崎義隆家臣。官途は下総守。智勇武将で中新井田城代を務めた。1588年、「伊達大崎の戦い」では、大崎義隆の意向を受け中新田城を守備した。巧みな戦術で伊達政宗勢を寡兵をもって撃打ち破り名将として褒め称えられた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

新井田隆景【にいだたかかげ(15??~15??)】

里見隆成の次男。通称刑部。里見隆成の次男。大崎義隆の小姓となるも、伊場野惣八郎の台頭により主君の寵愛を失った。伊達政宗に救援を要請するも大崎義隆から詰問をうけ、そのまま大崎義隆を新井田城に拉致して挙兵した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

新沼甲斐守【にいぬまかいのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。志田郡新沼城主。室は遠藤出羽守。1588年、「伊達大崎の戦い」では、伊達政宗勢に属して新沼城に籠城して大崎義隆勢と戦った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

新沼薩摩守【にいぬまさつまのかみ(15??~1586)】

葛西晴信家臣。気仙郡吉浜館主。1586年、「横田館の戦い」では、浜田広綱に属して参陣したが、阿曾沼広郷勢の反撃を受け及川土佐守、新沼内膳、只野民部らとともに討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

新沼玄蕃【にいぬまげんば(15??~1586)】

新沼薩摩守の男。1586年、「横田城の戦い」では、父新沼薩摩守に従い参陣したが、阿曾沼広郷勢の反撃を受け新沼薩摩守とともに討死した。

新沼内膳【にいぬまないぜん(15??~1586)】

葛西晴信家臣。気仙郡猪川城主。1586年、「横田城の戦い」では、浜田広綱に属して参陣したが、阿曾沼広郷勢の反撃を受け及川土佐守、新沼薩摩守、新沼玄蕃、只野民部らとともに討死した。

新沼長門守【にいぬまながとのかみ(15??~1591)】

新沼内膳の男。気仙郡猪川館主。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗勢に謀殺された。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

新沼綱清【にいぬまつなきよ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。気仙郡松館主。官途は安芸守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

新沼美作守【にいぬまみさくのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。気仙郡赤崎館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

二階堂維清【にかいどうこれきよ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡大林城主。官途は治部少輔。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

二階堂維昭【にかいどうこれあき(15??~15??)】

二階堂維清の孫。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗勢に謀殺された。

二階堂平内【にかいどうへいない(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡高橋館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

仁木高家【にきたかいえ(15??~15??)】

大崎義兼家臣。加美郡高根城主。官途は遠江守。通称小六郎。大崎四家老職。1588年、「伊達大崎の戦い」では、氏家隆継勢に属して大崎義隆勢と戦った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

仁木隆家【にきたかいえ(15??~15??)】

仁木高家の男。官途は遠江守。父仁木高家の隠居により仁木家の家督と家老職を相続して大崎義隆に仕えた。

二木帯刀【にきたてわき(15??~15??)】

宮城郡二木館主。

西郡信氏【にしごおりのぶうじ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡沼ノ城主。官途は淡路守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

西郡信明【にしごおりのぶあき(1550~1591)】

米谷常時の七男(西郡信氏の養子)。通称新右衛門。別名亀掛川信明。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗勢に謀殺された。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

西野秀隆【にしのひでたか(15??~15??)】

大崎義兼の五男。登米郡西野館主。官途は民部少輔。1571年、「西野城の戦い」で奪還した登米郡西野城主に任じられた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

西野右近【にしのうこん(15??~15??)】

大崎義隆家臣。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

西野大学【にしのだいがく(15??~15??)】

大崎義隆家臣。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

西野休世【にしのやすよ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

新田頼遠【にったあきよりとう(15??~15??)】

登米郡泉沢城主。官途は安芸守。1534年、「新田頼遠の乱」では、黒沢義武らとともに大崎義直に謀反を起こした。1535年、「泉沢城の戦い」で氏家直継、古川持煕、高清水直堅、一迫隆真らとともに大崎義直勢と戦ったが敗れ古川持煕のもとに落延びた。

新田宮内【にったくない(15??~1536)】

古川持煕家臣。1536年、「古川城の戦い」で古川持煕に従って古川城に籠城して伊達稙宗勢と戦い討死した。

新田義時【にったよしとき(15??~15??)】

大崎義隆家臣。通称刑部少輔。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆に従い参陣した。

新田義清【にったよしきよ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆に従い参陣した。

二ノ関伊予守【にのせきいよのかみ(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。黒川郡門前館主。1588年、「伊達大崎の戦い」では、黒川晴氏に従い伊達政宗勢と戦った。1590年、「越路館の戦い」で伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。

二迫定重【にのはさまさだしげ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡計須見館主。官途は加賀守。1588年、「伊達大崎の戦い」では、新井田景隆勢に属した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

沼倉飛騨守【ぬまくらひだのかみ(15??~1591)】

葛西晴信家臣。栗原郡白岩城主。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗勢に謀殺された。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

沼田宗綱【ぬまたむねつな(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡日良館主。通称四郎。1590年、「奥州仕置」で葛西晴信が改易処分に処されと、沼田宗綱も所領を失い没落した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

沼辺玄蕃【ぬまべげんばのかみ(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。遠田郡新沼館主。1542年、「伊達天文の乱」では、田村近重、関場日向守らとともに伊達晴宗勢に属して戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

沼辺重仲【ぬまべしげなか(15??~15??)】

沼辺玄蕃の男。通称玄蕃。1591年、伊達政宗が岩出山城に転封すると、江刺郡人首館を守備して1,000石を領した。

沼辺甚左衛門【ぬまべじんざえもん(15??~15??)】

沼辺玄蕃家臣。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

沼倉友斎【ぬまくらともさい(15??~15??)】

小岩信定家臣。

登米義賢【のぼりごめよしかた(1443~1526)】

登米郡保呂羽城主。官途は三河守。登米郡惣領職。

登米行賢【のぼりごめいくかた(14??~15??)】

登米義賢の男。官途は越前守。通称太郎。室は山内首藤義通の娘。山内首藤貞通、長江尚景らとともに三郡一揆結び葛西政信勢に対抗した。1511年、「第二次七男城の戦い」では、山内首藤貞通とともに葛西宗清と戦ったが、内応して葛西宗清勢に属した。1515年、「第三次七尾城の戦い」では、葛西宗清勢の先陣を務めた。

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【は】

芳賀蔵人【はがくらうど(15??~15??)】

岩崎義久家臣。1591年、「宮沢城の戦い」では、岩崎義久に従い岩崎伯耆守、鎌田彦右衛門、飯塚次郎右衛門、芳賀蔵人らとともに宮崎城に籠城した。伊達政宗勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:『戦国大名家臣団家典(東国編)』by新人物往来社。

芳賀左京之進【はがさきょうのしん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡要害館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

芳賀尚常【はがなおつな(15??~15??)】

芳賀左京之進家臣。官途は薩摩守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

芳賀常尚【はがつななお(15??~15??)】

芳賀左京之進家臣。官途は伊勢守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

芳賀朝光【はがともみつ(15??~15??)】

芳賀左京之進家臣。官途は伊予守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

萩沢讃岐守【はぎさわさぬきのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡萩沢館主。別名三塚豊後守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

羽黒堂下野守【はぐろどうしもつけのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。羽黒堂城主。1588年、「浜田広綱の乱」では、葛西晴信に従い参陣して戦功を挙げ一万刈の加増を受けた。

畠山左馬允【はたけやまさものじょう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡新井山館主。1588年、「浜田広綱の乱」では、葛西晴信に従い参陣した。

支倉常正【はせくらつねまさ(15??~15??)】

砂金実常家臣。柴田郡上楯城主。

支倉時正【はせくらときまさ(15??~15??)】

支倉常正の男。

畑対馬守【はたつしまのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡畠館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

畑崎内匠【はたさざきたくみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。桃生郡永井館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

八条秋長【はちじょうあきなが(15??~15??)】

岩ヶ崎鶴ヶ城主。別名八条顕長。1551年、「追城の戦い」で藤原師門勢の攻撃を受けたが、撃退した。参考文献:「みちのく悠々漂雲の記」byみちのく壁新聞。

八谷氏則【やつうじのり(15??~1590)】

黒川稙国の次男。黒川郡八谷館主。官途は筑前守。1588年、「伊達大崎の戦い」では、黒川晴氏に従って伊達政宗勢と戦った。1590年、「越路館の戦い」で伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

蜂谷筑前守【はちやちくぜんのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。蜂谷森館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

花坂勘解由【はなさかがげゆ(15??~15??)】

国分盛氏家臣。

馬場盛義【ばばもりよし(15??~15??)】

秋保義光の次男。名取郡上館城主。通称助太郎。別名秋保盛義。1603年、伊達政宗の意向を受け刈田郡馬場邑から刈田郡円田邑200石に転封した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

馬場直重【ばばなおしげ(15??~15??)】

馬場盛義の男。別名秋保直重。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

馬場定重【ばばさだしげ(15??~15??)】

馬場直重の男。小屋館主。官途は摂津守。別名秋保定重。1589年、伊達政宗に年賀の進物した。1591年、「葛西大崎一揆」後、最上義光のもとに落延びる長江勝景、長江重頼を捕縛、身柄を預った。伊達政宗の意向を受け長江勝景、長江重頼を謀殺した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

馬場清説【ばばきよせつ(15??~15??)】

国分盛氏家臣。官途は筑前守。別名馬場清設。

馬場右衛門【ばばさえもん(15??~15??)】

馬場清説の男。1600年、「長谷堂城の戦い」では、留守政景勢に従い参陣した。

馬場治部大輔【ばばじぶだいふ(15??~15??)】

国分盛氏家臣。

馬場七九郎【ばばしちくろう(15??~15??)】

大崎義隆家臣。遠田郡七九郎館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

馬場六郎【ばばろくろう(15??~15??)】

大崎義隆家臣。遠田郡六郎館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

花淵紀伊守【はなぶちきいのかみ(15??~15??)】

留守顕宗家臣。

浜田基継【はまだもつつぐ(14??~15??)】

気仙郡高田城主。西館重信の次男(浜田信継の養子)。気仙郡惣領職。官途は安芸守。室は浜田信継の娘。1504年、「矢作城の戦い」では、矢作重時を支援する大原信明勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

浜田胤時【はまだたねとき(15??~15??)】

浜田基継の男。1538年、「伊手村の戦い」では、南部晴政と結んで江刺郡に侵攻した矢作重村を江刺重親とともに討取る戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

浜田宗綱【はまだむねつな(15??~15??)】

浜田基継の次男。1559年、父浜田宗綱や大和田安芸守の母、金丹波守の母の法要を営むため、檀那として曹洞宗の寺院普門寺を再興した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

浜田広綱【はまだひろつな(1523~1592)】

浜田胤時の次男。官途は安房守。別名千葉広綱。猛将。1560年、「浜田広綱の乱」で葛西晴信に謀反を起こしたが、葛西晴信勢の本吉重継、熊谷直賢らの攻撃を受け敗退した。1586年、「篠嶺山の戦い」で本吉重継が志津川湾の海上利権を巡って歌津十二人衆と戦うと、本吉重継を支援する熊谷直義勢と戦った。熊谷直義勢の攻勢に劣勢に立たされ、葛西晴信の仲介により和議を結び本吉郡から後退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

浜田信雄【はまだのぶかつ(15??~15??)】

浜田広綱の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

浜田信綱【はまだのぶつな(15??~1591)】

浜田広綱の三男。兄江刺重俊が江刺家惣領職を相続したため、三男の浜田信綱が浜田家惣領職を相続した。1590年、「奥州仕置」で葛西晴信が改易処分に処されると、所領を失った。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆勢に属して参陣して伊達政宗勢と戦った。桃生郡深谷で伊達政宗勢に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

早川民部【はやかわみんぶ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。志田郡伊賀館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

半田土佐守【はんだとさのかみ(15??~15??)】

一栗放牛家臣。玉造郡一栗小館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

常陸海存権守【ひたちかいぞんごんのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡常陸館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

平賀義信【ひらがよしのぶ(15??~15??)】

国分盛氏家臣。

平沢藤左衛門【ひらさわとうざえもん(15??~15??)】

大崎義隆家臣。加美郡平沢館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

平渡五郎【ひらさわごろう(15??~15??)】

大崎義隆家臣。志田郡平渡館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

平塚将監【ひらつかしょうげん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。桃生郡針岡山館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

樋渡典膳【ひわたてんぜん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡樋渡館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

深谷能登守【ふかやのとのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡深谷館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

福田駿河守【ふくだするがのかみ(15??~15??)】 

伊達稙宗家臣。名取郡高館城主。

福田広重【ふくだひろしげ(15??~15??)】

黒川景氏家臣。官途は若狭守。1541年、伊達稙宗から大崎義宣の警固を黒川景氏に依頼する書状を受け取った。

福田右近【ふくだうこん(15??~15??)】

福田広重の男。

福田太郎左衛門【ふくだたろうざえもん(15??~15??)】

黒川晴氏家臣。黒川郡大瓜古館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

福地頼重【ふくちよりしげよりしげ(14??~15??)】

山内首藤頼通の次男。桃生郡福地館主。官途は左馬助。別名山内首藤頼重。桃生海賊衆を率いた。

福地安通【ふくちやすみち(15??~1591)】

福地頼重の男。官途は対馬守。別名山内首藤安通。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

二ッ木三五郎【ふたつきさんごろう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。登米郡二ッ木館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

藤原師門【ふじわらまさかど(15??~15??)】

迫城主。官途は三位中将。参考文献:「みちのく悠々漂雲の記」byみちのく壁新聞。

伏牛駿河守【ふせうしするがのかみ(15??~15??)】

小岩信定家臣。

仏坂孫右衛門【ぶつさかまごえもん(15??~1536)】

古川持煕家臣。豊島持胤の弟。1536年、「古川城の戦い」で古川持煕に従って古川城に籠城して伊達稙宗勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

船迫大和守【ふなさこやまとのかみ(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。柴田郡船迫城主。柴田七騎衆。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗に従って所領を安堵された。

船迫彦八郎【ふなさこひこはちろう(15??~15??)】

船迫大和守の男。

船迫右衛門【ふなさこうえもん(15??~15??)】

船迫彦八郎の男。1590年、伊達政宗に従って相馬領に参陣した。

古内長時【ふるうちながとき(15??~15??)】

国分胤実の男。宮城郡小角館主。官途は近江守。

古内主膳【ふるうちしゅぜん(15??~15??)】

国分胤実の次男。福沢館主。

古内実綱【ふるうちさねつな(15??~15??)】

国分盛顕家臣。通称主善。

古内重広【ふるうちしげひろ(1588~1658)】

国分盛重の次男(古内実綱の養子)。官途は主膳。通称平蔵。1596年、父国分盛重が伊達政宗のもとを出奔して佐竹義宣に仕えると、古内実綱のもとに落延びた。1608年、伊達忠宗に側近として500石を領した。1615年、「道明寺の戦い」で伊達政宗に従い参陣して戦功を挙げた。1636年、伊達忠宗が伊達家惣領職を相続すると、名取郡岩沼城主、奉行職に任じられ4,000石を領した。栗原郡野谷地を川村元吉が開墾する功を上げ14,987石を領した。1658年、伊達忠宗が病没すると殉死した。

古川持熙【ふるかわもちひろ(1506~1536)】 

桃生郡古川城主。新田頼遠の弟。官途は刑部大輔。1534年、「新井田頼遠の乱」では、氏家直継、高清水直堅らとともに新井田頼遠を支援した。筆頭家老職の米谷煕正、米谷越前守らが大崎義直に内応したため、古川城に籠城した。1536年、「古川城の戦い」では、新井田頼遠、氏家直継、高清水直堅らと結んで新田宮内、豊島持胤、仏坂孫右衛門、五井伊豆守らとともに古川城に籠城したが、大崎義直の要請を受け参陣した伊達稙宗勢の攻撃を受け自刃した。

古川直稙【ふるかわなおたね(15??~1536)】

古川持熈の男。通称又三郎。

古川忠隆【ふるかわただたか(15??~15??)】

古川直種の男。官途は弾正忠。通称九郎。大崎義直に仕え家老職を務めた。娘の隆姫は百々隆基に嫁いだ。1583年、「青塚城の戦い」で弟の青塚隆持を討取る戦功を挙げた1588年、「伊達大崎の戦い」では、大崎義隆勢に従って師山城に籠城した。中目隆政を桑折城に籠城する黒川晴氏の支援に向かわせ、単独で伊達政宗の家臣留守政景勢の攻撃を撃退した。1591年、「古川城の戦い」では、物頭として一揆勢を率いて籠城するが、伊達政宗勢の攻撃を受け雑兵に紛れて落延びた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

古川孫三郎【ふるかわまごさぶろう(15??~1536)】

古川持熈の弟。1536年、「古川城の戦い」で古川持煕に従って古川城に籠城して伊達稙宗勢と戦い討死した。

古川四朗三郎【ふるかわしろさぶろう(15??~1536)】

古川持熈の弟。1536年、「古川城の戦い」で古川持煕に従って古川城に籠城して伊達稙宗勢と戦い討死した。

逸目伊顕【へんみいあき(14??~15??)】

山内首藤貞通家臣。桃生郡館山館主。官途は摂津守。1511年、「七尾城の戦い」では、首藤貞通に従って葛西宗清勢と戦った。

辺見清信【へんみきよのぶ(15??~1607)】

留守政景家臣。1607年、留守政景が病没すると、留守政景に殉じて自刃した。

朴沢政永【ほうざわまさなが(15??~15??)】

国分盛氏家臣。宮城郡古館主。朴沢政時の男。官途は長門守。別名大河戸政永。

朴沢勘清【ほうざわかんせい(15??~15??)】

朴沢政時の次男。通称五郎左衛門。

朴沢泰重【ほうざわ(15??~15??)】

朴沢政時の三男。別名栗野丹後守。

朴沢行綱【ほうざわゆきつな(15??~15??)】

朴沢家永の男。通称蔵人。別名大河戸行綱。

朴沢重永【ほうざわしげなが(15??~15??)】

朴沢家永の次男。

朴沢重行【ほうざわしげゆき(15??~15??)】

朴沢行綱の男。別名大河戸重行。

朴沢行定【ほうざわゆきさだ(15??~15??)】

朴沢行綱の次男。

保柳主計【ほうやなぎかずえ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。寺前館主。1586年、「伊達大崎の戦い」では、新井田隆景勢に属して留守政景勢と戦った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

星忠国【ほしただくに(15??~15??)】

気仙郡朝日館主。通称右京大夫。

星忠信【ほしただのぶ(15??~1573)】

星忠国の男。官途は弾正忠。通称小治郎。1573年、「朝日館の戦い」で阿部頼為勢の攻撃を受け討死した。

星忠元【ほしただもと(15??~15??)】

星忠信の男。通称右京進。1573年、「朝日館の戦い」で父星忠信が阿部頼為勢の攻撃を受け討死したため、母とともに折壁盛次のもとに落延びた。1580年、浜田綱盛の支援を受け阿部頼為を討取った。

星野志摩守【ほしのしまのかみ(15??~15??)】

柴田郡星野館主。

細川重定【ほそかわしげさだ(15??~1590)】

黒川景氏の五男。通称弥次郎。黒川郡中楯館主。1588年、「伊達大崎の戦い」では、黒川晴氏に従って伊達政宗勢と戦った。1590年、「越路館の戦い」で伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

細川壱岐守【ほそかわいきのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡清水ノ目館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

堀江掃部允【ほりえかもんのじょう(15??~15??)】

国分宗政家臣。1577年、伊達晴宗の五男国分盛重を国分家の当主に擁立した。

堀江長門守【ほりえながとのかみ(15??~15??)】

堀江掃部允の男。別名堀江伊勢。1587年、国分家で内乱が起こると、伊達政宗の支援を受け国分盛重を追落とした。

堀江伊勢守【ほりえいせのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡磯館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

本郷善四郎【ほんごうぜんしろう(15??~15??)】

粟野重国家臣。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

本郷定実【ほんごうさだざね(15??~15??)】

本郷善四郎の男。伊達政宗に小姓として仕え177石を領した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

北郷右馬之允【ほんごううまのじょう(15??~1591)】

加美郡鳥島城主。1588年、「新沼城の戦い」では、伊達政宗勢の大谷修理亮、賀沢長門守と開城交渉を行った。1591年、「葛西大崎一揆」では、一揆勢とともに佐沼城に籠城して伊達政宗勢と戦った。後、須江山で謀殺された。

北郷元治【ほんごうもとはる(15??~15??)】

大崎義隆家臣。官途は大隅守。1590年、「奥州仕置」で大崎義隆が改易処分に処されると、最上義光に仕えた。

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【ま】

米谷常時【まいやつねつねとき(15??~15??)】

葛西晴胤家臣。登米郡米谷城主。

米谷常秀【まいやつねひで(1535~1591)】

米谷常時の男。官途は右馬助。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗勢に謀殺された。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

米谷常忠【まいやつねただ(1546~1591)】

米谷常時の次男(亀卦川信忠の養子)。登米郡畑沢館主。官途は修理之亮。通称五郎。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗勢に謀殺された。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

米谷熙正【まいやつひろまさ(15??~15??)】

古川持熙家臣。

米谷越前守【まいやつかちぜんのかみ(15??~15??)】

古川持熙家臣。李埣館主。家老職を務めた。

米谷治部【まいやつじぶ(15??~15??)】

米谷越前守の男。

松倉右馬之助【まつくらうまのじょう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡松倉館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

松田義秀【まつだよしひで(15??~15??)】

大崎義興家臣。通称左平治。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義興に従って参陣した。

真山式部【まやましきぶ(15??~15??)】

氏家吉継家臣。1587年、氏家吉継の意向を受け使者として伊達政宗のもとに派遣された。

真山杢左衛門【まやまもくざえもん(15??~15??)】

氏家吉継家臣。玉造郡真山館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

松坂定頼【まつざかさだより(15??~1591)】

黒川晴氏家臣。官途は周防守。1590年、「奥州仕置」で黒川晴氏が改易処分に処されると、伊達政宗に仕えて鶴楯城代に任じられた。1591年、「宮崎城の戦い」で伊達政宗に従って参陣したが笠原隆親勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

三浦隆元【みうらたかもと(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡柳ノ目館主。通称右馬丞。1588年、「伊達大崎の戦い」では、新井田義景勢に属して参陣した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

三浦信隆【みうらのぶたか(15??~1591)】

大崎義隆家臣。西館主。官途は修理亮。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆に従って参陣して伊達政宗勢と戦った。桃生郡深谷で伊達政宗に謀殺された。

三塚平左衛門【みつづかへいざえもん(15??~15??)】

大崎義隆家臣。玉造郡田子谷館主。通称。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

水戸五左衛門【みとござえもん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡東館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

水戸部九郎【みとべくろう(15??~15??)】

葛西晴信家臣。1591年、「葛西大崎一揆」では、千葉胤元に従って参陣したが蒲生氏郷勢と戦い壊滅した。

峯岸有盛【みねぎしありもり(15??~1591)】

本吉郡津谷館主。通称数馬。1591年、「葛西大崎一揆」では、千葉胤元に従って参陣したが蒲生氏郷勢と戦い壊滅した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

箕輪田弥右衛門【みのわだやえもん(15??~15??)】

葛西晴信家臣。桃生郡箕輪田館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

宮崎時光【みやざきときみつ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆勢の左陣を務めた。

宮野豊後守【みやのぶんごのかみ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。栗原郡宮野城主。1588年、「伊達大崎の戦い」では、伊達政宗勢に属して氏家吉継を支援して大崎義隆勢と戦った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

宮城義国【みやぎよしくに(15??~15??)】

大崎義隆家臣。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義隆勢の三陣を務めた。

宮沢祐実【みやざわすけざね(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。黒川郡大窪館主。宮沢時実の男。官途は掃部。通称左衛門。伊達稙宗に仕え大窪館800貫文を領した。

宮沢実家【みやざわさねいえ(15??~15??)】

宮沢祐実の男。通称左衛門。

宮沢景実【みやざわかげざね(15??~15??)】

宮沢実家の男。通称左衛門。

宮沢元実【みやざわもとざね(15??~16??)】

宮沢景実の男。通称左衛門。別名大松沢元実。1585年、「人取り橋の戦い」では、大崎義隆勢に備えて大窪館を守備した。1588年、「伊達大崎の戦い」では、留守政景に従って参陣したが、黒川晴氏の内応により大敗を喫した。1589年、「摺上原の戦い」では、伊達政宗に従って参陣した。1591年、「宮崎城の戦い」では、伊達政宗に従って笠原隆親勢と戦ったい負傷した。

宮沢定実【みやざわさだざね(15??~16??)】

宮沢元実の男。通称左衛門。別名大松沢定実。

宮城中部【みやびながべ(15??~15??)】

氏家吉継家臣。

室田右衛門【むろたうえもん(15??~15??)】

大崎義隆家臣。遠田郡通木館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

室田隆視【むろたたかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。遠田郡不動堂館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

武鑓重信【むやりしげのぶ(1526~1591)】

葛西晴重家臣。栗原郡武鑓城主。官途は隼人助。別名奈良坂又三郎。1579年、「富沢直綱の乱」では、葛西晴信勢に属して戦功を挙げた。1588年、「浜田広綱の乱」でも、葛西晴信勢に属して参陣して戦功を挙げた。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗勢に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

武鑓儀信【むやりよしのぶ(15??~1591)】

武鑓重信の弟。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗勢に武鑓重信、米谷常秀、矢作重常らとともに謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

武鎗左衛門【むやりさえもん(15??~1579)】

武鑓重信家臣。1579年、「富沢直綱の乱」では、富沢直綱勢に属して討死した。

村岡兵衛【むらおかへいえい(15??~1570)】

留守郡宗家臣。宮城郡利府城主。1567年、伊達晴宗の意向を受け留守政景が留守家惣領職を相続すると、村岡兵衛、余目伊勢守、佐藤六郎佐衛門らが強く反発した。1569年、「村岡城の戦い」では、村岡城に籠城して留守政景勢と戦った。1570年、留守政景勢の攻撃を受け討死した。

村岡宮内【むらおかくない(15??~15??)】

葛西晴信家臣。通称六郎左衛門。1590年、「奥州仕置」で葛西晴信が改易処分に処されると小野寺義道、最上義光に仕えた。1622年、最上義俊の改易後、酒井忠勝に仕えた。

村岡長吉【むらおかながよし(15??~15??)】

村岡宮内の男。

村田近重【むらたちかしげ(15??~15??)】

柴田郡村田城主。官途は紀伊守。柴田郡七郷30,000石を領した。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属した。伊達稙宗の九男村田宗殖を養子を迎えた。

村田宗殖【むらたむねふゆ(1536~1596)】

伊達稙宗の九男(村田近重の養子)。官途は民部大輔。別名万好斎。室は村田近重の娘。1584年、伊達輝宗の次男伊達政道の擁立を図るが失敗に終わった。1591年、減封処分に処され、桃生郡長井300石を領した。

村田宗友【むらたむねとも(1581~1658)】

梁川宗清の男(村田宗殖の養子)。官途は民部少輔。別名梁川宗友。

室田隆親【むろたたかちか(15??~15??)】

遠藤高康家臣。通称小斎。遠藤高康が有壁摂津守を滅ぼすと、不動堂城主に任じられた。1588年、「伊達大崎の戦い」では、遠藤高康に従い師山城に籠城した。

鵙目善十郎【もずめぜんじゅうろう(15??~15??)】

氏家吉継家臣。玉造郡鵙目館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

本吉信胤【もとよしのぶたね(15??~15??)】

本吉郡志津川城主。本吉信輔の男。本吉郡惣領職。官途は大膳大夫。

本吉隆輔【もとよしたかすけ(15??~15??)】

本吉信輔の次男。

本吉重胤【もとよししげたね(15??~15??)】

本吉信胤の男。官途は大膳亮。別名本吉春継。

本吉重隆【もとよししげたか(15??~15??)】

本吉重胤の男。官途は大膳亮。1560年、「浜田広継の乱」では、浜田広継勢に属して葛西晴信勢と戦ったが敗れた。

本吉重輔【もとよししげすけ(15??~15??)】

本吉重胤の次男。

本吉重継【もとよししげつぐ(1535~1591)】

本吉重隆の男。官途は大膳大夫。室は柏山明吉の娘。別名本吉胤政。1572年、「横山北沢の戦い」で葛西晴信勢と戦い大敗した。1586年、「歌津の戦い」で浜田広綱勢と戦い敗れた。1591年、「葛西大崎一揆」では、葛西晴信勢に従い伊達政宗勢と戦った。「佐沼城の戦い」では、葛西晴信に従って佐沼城に籠城したが蒲生氏郷勢の攻撃を受け壊滅した。桃生郡深谷で伊達政宗勢に謀殺された。

本吉信次【もとよしのぶつぐ(15??~15??)】

本吉重隆の次男。官途は常陸介。別名本吉胤遠。

元良重継【もとよししげつな(15??~15??)】

葛西親信家臣。官途は大膳大夫。1586年、「矢作城の戦い」では、矢作重久勢の反撃を受け黒崎兵部が討死する大敗を喫した。

師山伊予守【もろやまいよのかみ(15??~15??)】

大崎義隆家臣。師山館主。1570年、廣禅寺で帰依して開祖となった。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

門目善右衛門【もんめぜんえもん(15??~1591)】

鵙目善十郎家臣。1591年、「宮崎城の戦い」で伊達政宗勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

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【や】

八乙女盛昌【やおとめもりまさ(15??~1578)】

国分盛氏家臣。宮城郡八乙女館主。官途は淡路守。1578年、「八乙女館の戦い」で伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。

矢口親秀【やぐちちかひで(15??~16??)】

大崎義隆家臣。通称作之丞。1590年、「奥州仕置」で大崎義隆が改易処分に処されると、長尾景勝、最上義光に仕えた。1614年、「一栗高春の乱」では、一栗高春勢と戦い戦功を挙げた。1622年、最上義俊の改易後、酒井忠勝に150石で仕えた。

矢口儀右衛門【やぐちよしえもん(15??~16??)】

矢口親秀の男。

矢作重村【やさくしげむら(15??~15??)】

葛西重信家臣。気仙郡外館城主。矢作重時の男。官途は和泉守。1504年、葛西重信の意向を受け大原信明勢と戦い浜田基継勢を撃破った。

矢作重親【やさくしげちか(15??~15??)】

矢作重村の男。

矢作重久【やさくしげひさ(15??~15??)】

矢作重親の男。官途は周防守。1586年、「歌津の戦い」で元良重継勢と戦い、元良重継勢の黒崎兵部を討取る戦功を挙げた。

矢作重常【やさくぎしげつね(1555~1591)】

矢作重久の男。官途は大隅守。別名千葉重常。1588年、「浜田広綱の乱」では、葛西晴信勢に属して戦功を挙げ気仙郡旗頭に任じられた。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗勢に謀殺された。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

矢作重胤【やさくしげたね(15??~15??)】

矢作重常の男。

柳沢直康【やなぎさわなおひろ(15??~1591)】

笠原仲沖の次男。加美郡高根城主。官途は近江守。通称内記。別名笠原直広。1588年、「中新田城の戦い」では、伊達政宗の家臣留守政景、泉田重光勢の攻撃を受ると、南条隆信、笠原隆親、笠原隆綱、笠原直景、笠原直行、笠原直広らとともに反撃を行ない伊達政宗勢を撤退に追込んだ。1591年、「葛西大崎一揆」では、笠原隆親に従い宮崎城に籠城、伊達政宗勢と戦い浜田景隆を討取るなどしたが敗れて仙北郡に落延びた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

柳沢隆綱【やなぎさわたかつな(15??~1591)】

柳沢直康の男。官途は備前守。別名笠原隆綱。1588年、「中新田城の戦い」では、伊達政宗の家臣留守政景、泉田重光勢の攻撃を受ると、南条隆信、笠原隆親、笠原隆綱、笠原直景、笠原直行、笠原直広らとともに反撃を行ない伊達政宗勢を撤退に追込んだ。1591年、「葛西大崎一揆」では、笠原隆親に従い宮崎城に籠城したが、伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

谷地森直景【やちもりなおかげ(15??~15??)】

笠原仲沖の五男。加美郡谷地森城主。官途は民部太夫。別名笠原直景。娘が大崎義隆の側室に迎えられた。1591年、「宮崎城の戦い」では、大崎義隆に従い参陣した。

谷地森隆景【やちもりたかかげ(15??~15??)】

谷地森直景の男。別名笠原隆景。1588年、「伊達大崎の戦い」では、下新田城に籠城して伊達政宗勢と戦った。1591年、「宮崎城の戦い」では、笠原隆治に従い伊達政宗勢と戦った。

谷地森貞元【やちもりさだもと(15??~15??)】

谷地森隆景の男。官途は伯耆守。1590年、「奥州仕置」で大崎義隆が改易処分に処されると、最上義光に仕えた。1600年、「長谷堂城の戦い」では、小国大膳、川熊壱岐守らとともに長谷堂城に籠城して樋口兼続勢と戦った。

谷地森長元【やちもりながもと(15??~16??)】

谷地森貞元の男。通称藤右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、加藤嘉明に仕えた。

谷地森重一【やちもりながもと(16??~16??)】

谷地森長元の男。1643年、加藤明成が改易処分に処されると伊達光宗に仕えた。

柳津通継【やないづみちつぐ(15??~15??)】

本吉郡高森館主。官途は三河守。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

山岸成宗【やまぎしなりむね(15??~15??)】

名取郡富沢館主。官途は三河守。1537年、名取郡富沢館を領した。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

山田忠隆【やまだただたか(15??~15??)】

桃生郡山田館主。通称弥右衛門。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

矢本景重【やもとかげしげ(15??~1570)】

長江盛景の次男。桃生郡矢本館主。官途は筑前守。矢元景重が矢本家の家督を継ぎ、三男三分一所家景は三分一所家を継いで、長兄長江勝景のとともに深谷保領を三分して領有した。1542年、「伊達天文の乱」では、兄長江勝景と戦った。1570年、「矢本館の戦い」で長江勝景勢の攻撃を受け討取られた。

八森定直【やもりさだなお(15??~15??)】

黒川景氏の五男。黒川郡桑折城主。官途は相模守。別名渋谷相模守。1588年、「中新田城の戦い」では、甥の黒川晴氏が伊達政宗勢から離反すると、留守政景、泉田重光、長江勝景勢と戦い壊滅に追込んだ。

八幡景光【やわたかげみつ(15??~15??)】

留守顕宗家臣。宮城郡八幡城主。

八幡景業【やわたかげなり(15??~15??)】

八幡景光の男。

八幡景廉【やわたかげかね(15??~15??)】
 
八幡景業の男。父八幡景業が病没すると叔父下間景継が八幡家の陣代を務めた。下間景継が八幡家惣領職の家督を狙って謀反を起こすと、留守政景に支援を求めた。1578年、「下間館の戦い」で留守政景が下間景継を討取り、お家騒動に終止符を打った。以後、留守政景に忠節を尽くした。

湯山基綱【ゆやまもとつな(15??~15??)】

大崎義隆家臣。玉造郡湯山館主。1588年、「伊達大崎の戦い」では、新井田隆景勢に属して伊達政宗勢と戦った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

湯山雅楽之允【ゆやまうたのじょう(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡姫松館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

横田常冬【よこたつねふゆ(15??~15??)】

気仙郡横田城主。官途は佐渡守。

横山高継【よこやまたかつぐ(15??~15??)】

葛西晴信家臣。本吉郡窪館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

吉田伊郷【よしだいごう(15??~15??)】

花淵紀伊守家臣。

米泉直行【よねいずみなおゆき(15??~1591)】

笠原仲沖の四男。加美郡米泉城主。官途は伊勢守。通称権右衛門。別名笠原直行。1591年、「葛西大崎一揆」では、宮崎城に籠城したが伊達政宗勢の攻撃を受け継嗣の米泉長行とともに討死した。

米泉長行【よねいずみながゆき(15??~1591)】

米泉直行の男。通称権右衛門。別名笠原長行。1591年、「葛西大崎一揆」では、宮崎城に籠城したが伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

米倉行友【よねくらゆきとも(15??~15??)】

本吉郡津谷館主。官途は右近。1590年、「奥州仕置」で葛西晴信が改易処分に処されると、所領を失った。1591年、「葛西大崎一揆」では、葛西晴信に従い参陣したが蒲生氏郷勢と戦い敗れ帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

渡辺周防守【わたなべすぼうのかみ(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。留守景宗の附家老職を務めた。

亘理国満【わたりくにみつ(15??~15??)】

大崎義成家臣。1591年、「葛西大崎一揆」では、大崎義成に従い参陣した。

留守景宗【るすかげむね(1492~1554)】

宮城郡岩切城主。伊達尚宗の次男(留守郡宗の養子)。官途は相模守。通称四郎。室は留守郡宗の娘。1495年、留守郡宗の病没により留守家惣領職を相続した。1506年、「小鶴戦い」で国分宗政勢と戦ってこれを撃破った。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗に属して、伊達稙宗に属した国分宗政と戦った。

留守顕宗【るすあきむね(1519~1586)】

留守景宗の男。官途は相模守。室は黒川氏直の娘。側室は村岡常継の妹。1542年、「伊達天文の乱」では、父留守景宗とともに伊達晴宗に従い東北各地を転戦した。1554年、父留守景宗の病没により留守家惣領職を相続した。1556年、伊達晴宗と対立し、伊達晴宗の支援を受けた村岡常継の攻撃を受けたが、村岡常継の妹を側室に迎えて和議を成立させた。隣国の国分宗政と抗争し、勢力を拡大した。1567年、伊達晴宗の三男留守政景に家督を譲ることを強いられ、継嗣の留守宗綱は、神楯城主高城周防守の養子とした。

留守政景【るすまさかげ(1549~1607)】

伊達晴宗の三男(留守顕宗の養子)。官途は上野守。室は黒川晴氏の娘。側室は村岡常春の娘。1567年、留守顕宗と伊達晴宗の政略によって留守顕宗の養子となり、留守家惣領職を相続した。これに反対する村岡兵衛、余目伊勢守らの反抗を鎮圧した。兄伊達輝宗や甥伊達政宗を補佐し、伊達家の勢力拡大に貢献した。1588年、「伊達大崎の戦い」では、伊達政宗の陣代を務めたが、黒川晴氏の内応により大敗を喫した。1590年、「奥州仕置」で改易処分に処されると、伊達政宗に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝の攻撃を受けた最上義光の支援に赴いたが、直江兼続勢とは戦わず、長谷堂から離れた小白川で傍観した。1604年、一関城主に任じられ20,000石を領した。

留守宗利【るすむねとし(1589~1638)】

留守政景の男。官途は左近太夫。通称小源太。室は狩野市庵の娘。継室は小野勝久の娘(多与姫)。1590年、「奥州仕置」で父留守政景が改易処分に処されると、伊達政宗に仕えた。その後、黄海城、清水城、一関城など転封を繰り返した。1607年、父留守政景が病没すると留守家惣領職の家督と一関城を相続した。1614年、「大坂冬の陣」で伊達政宗勢の先陣を務め戦功を挙げた。動員兵力の不足を咎められ、減封処分に処された。1615年、「大坂夏の陣」では、伊達政宗に従い鉄砲隊を率いて参陣した。その後、江戸城廻石壁普請、日比谷御門枡形石垣、芝口去普請、芝口御門枡形石垣、山の手御堀石垣、四股去普請などの奉行職を務めた。1629年、水沢城に転封して城下造りと領内整備に取り組んだ。

涌谷繁直【わくやしげなお(1507~15??)】

大崎義兼の三男。通称又三郎。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

涌谷隆連【わくやたまつら(15??~15??)】

百々直隆の男(涌谷繁直の養子)。官途は伊豆守。参考文献:「みちのくトリッパー」byAtom。

涌谷正右衛門【わくやしょうえもん(15??~15??)】

大崎義隆家臣。遠田郡涌谷館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

渡丸宮内少輔【わたまるくないじょうゆう(15??~15??)】

大崎義隆家臣。栗原郡渡丸館主。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

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【資料Ⅰ】

陸前国(14郡/435,000石)

大崎五郡:玉造、加美、志田、遠田の各郡と栗原郡の半郡。
葛西七郡:牡鹿、登米、本吉、磐井、胆沢、江刺、気仙の各郡と桃生、栗原郡の半郡。

気仙郡:12,000石。
本吉郡:15,000石。
登米郡:寺池城、佐沼城(18,000石)。
牡鹿郡:小野城、石巻城(6,000石)。
桃生郡:20,000石。
栗原郡:宮沢城、高清水城、真坂城、岩ヶ崎城(80,000石)。
玉造郡:岩出山城(18,000石)。
遠田郡:32,000石。
志田郡:松山城(30,000石)。
加美郡:24,000石。
黒川郡:黒川城(18,000石)、(12,000石)。
宮城郡:高森城(26,000石)、千代城(22,000石)。
名取郡:45,000石。
柴田郡:20,000石。

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【資料Ⅱ】

歌津十二人衆【うたつじゅうににしゅう】

本吉郡歌津を根城とした海賊衆。

葛西家四家老【かさいよんかう】

赤井備中守、門田丹後守、福地下総守、末永筑後守。

大崎家四家老【おおさきよんかろう】

里見隆成、中目隆政、渋谷隆秀、仁木高家。

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【資料Ⅲ】

陸前国【りくぜんのくに】

調査中。

石巻【いしのまき】

東北地方を縦断する北上川の河口部に位置し、古代から同河川流域と海の道の結節点を担った湊街。1555年、もと尾張国姓海寺の住職の天以乾斎は、龍源寺を建立した。

塩竃【しおがま】

陸奥国一宮塩竃社の門前街であると同時に陸奥南部の中心多賀国府の外湊として栄えた湊街。製塩業も盛んであった。陸奥国留守職となって多賀国府を守った留守家は、塩竃社の神主も兼ねた。塩竃には留守氏家臣団が町在家八十一軒、蔵二十以上を有しており、伊豆房、上総房などの公名を持つ僧体の人物とみられ、商人、高利貸しといった下層の商人も多く居住した。

多賀国府【たかのこう】

高森城の城下街。冠屋市場や河原宿五日市場があり和泉入道や西国弥次郎などの西国出身の商人が街自治を担った。1548年、多賀国府に半在家を含めて四十軒分の町在家を有していた。多賀国府に在家がある者の中には「土器藤兵衛」や「とうや(烱屋)大覚」、「はんちやう(番匠)大蔵」といった名があり、留守家の土器製作や製鉄、建築などの職人だった。

湊浜【みなとはま】

多賀国府と千代湾を結ぶ冠川の河口部の湊街。冠川の水運を利用して多賀国府と連絡できる流通上重要拠点であった。多賀国府の冠屋市場には、塩竃五郎が商家を構え冠川と外湊の流通を担う役割を果たした。

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戦国人名辞典は、1467年、「応仁の乱」から1637年、「島原の乱」までの期間に活躍した武将をサイト管理人(takatoshi24)の独断と偏見に基づいて編集した国別の戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいますが、親子は年代順、本家と分家がある場合、分家をしたにして居住地域をを苗字の頭に入れています。資料Ⅰは国、郡別の石高、城郭、寺院、街、湊などを記載。資料Ⅱは国で有名な集団(三好三人衆など)についての説明をしています。資料Ⅲは国の詳細(各国の特性、景勝の地、特産品など)を説明しています。また、武将の名前が変わる場合(松平元康→徳川家康)など、松平元康で統一しています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

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名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、徳川家康は松平元康、木下藤吉郎は羽柴秀吉、豊臣秀頼は羽柴秀頼に名前を統一しました。

城と館の違いは、城は10,000石以上の領主の居城。館、砦は9,999石以下の領主の居城としました。館と砦の違いは平地にある場合は館、山岳地帯、諸島にある場合は砦としてました。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。『津軽秋田安東一族』by新人物往来社、『東北大名の研究(戦国大名論集Ⅱ)』by吉川弘文館、『会津芦名一族』by歴史春秋社、『最上義光(戦国の驍将)』by新人物往来社、『奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)』by宝文堂、『会津芦名四代』by歴史春秋、『伊達政宗(全8巻)』by講談社、『天を衝く(全3巻)』by講談社文庫、『独眼竜伊達政宗』by時代小説文庫、『津軽風雲録』by時代小説文庫、『政宗に睨まれた二人の老将』by宝文堂、『秋田「安東氏」研究ノート』by無明舎、『(史伝)伊達政宗』by学研M文庫、『独眼竜政宗』by講談社文庫、『奥羽永慶軍記(全2巻)』by新人物往来社、『津軽南部の抗争(南部信直)』、『秋田の中世・浅利氏』無明舎出版、『独眼龍政宗』by文藝春秋、『みやぎの戦国時代』by宝文堂、『陸奥南部一族』by新人物往来社、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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