2011年1月27日木曜日

戦国蝦夷国人名辞典

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【あ】

相原政胤【あいはらまさたね(14??~15??)】

大館下国定季家臣。松前郡小館主。官途は周防守。1454年、南部光政によって田名部に抑留されていた安東政季と共に蝦夷地に渡海、のち及部の館に住み、大館主下国定季を補佐した。1457年、「コシャマインの蜂起」では茂別館、花沢館以外の全ての豪族衆の館が陥落、相原政胤も捕縛されるが乱の鎮圧後に助けられた。その後、隠居して嫡男相原季胤に相原家の家督を譲った。

相原季胤【さがらすえたね(14??~1513)】

相原政胤の男。通称彦三郎。父相原政胤が隠居により相原家の家督を相続した。1496年、大館主下国恒季が素行不良を理由に蠣崎光広ら館主連合軍に討たれた後に大館主になった。1512年、相原季胤は矢越岬の海神の怒りを鎮めるために、アイヌ族の娘20人を海に沈め人身御供としたため、アイヌ族は蜂起した。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」ではアイヌ衆に小館主を包囲された相原季胤は、二人の娘を連れて大沼まで落延びるが逃げ切れず娘達は自刃した。相原季胤も弟相原吉胤とともに湖中の小島で自刃した。相原季胤は愛馬に山上に逃げるよう言い聞かせ、これに従った馬は勢い良く山に上った。そのため、この山を駒ヶ岳と称し、相原季胤が外した鞍を掛けた岩が鞍掛岩と称された。

相原吉胤【あいはらよしたね(15??~1513)】

相原政胤の次男。大館主下国家の補佐。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では、大館が攻撃を受け兄相原季胤とともに討死した。

青山宗右衛門【あおやまそうえもん(15??~15??)】

下国由季家臣。室は下国由季の娘。

明石季衡【あかしすえひら(15??~15??)】

蠣崎義広家臣。通称右馬介。室は蠣崎義広の娘。生国は羽後国秋田郡で蝦夷国に渡り蠣崎季広に仕えた。蠣崎季広の次男蠣崎元広が明石季衡の娘と結婚し婿養子となり明石元広と称した。その後、娘を得るが明石元広が実姉(南条広継の室)に謀殺された。明石元広の遺児で明石季衡の孫娘は長じて、岡部季村の室となって岡部広衡と岡部元村を得た。岡部広衡は明石家の養子となって明石家の家督を相続し、岡部元村は岡部家の家督を相続した。

明石元広【あかしもとひろ(1540~1562)】

蠣崎義広家臣。蠣崎季広の次男(明石季衡の養子)。通称万五郎。室は明石季衡の娘。1562年、実の姉であった南条広継の室に自分が女で家督を継げないことを逆恨みされ、毒を盛られ謀殺された。

明石広衡【あかしひろひら(15??~15??)】

岡部季村の男(明石元広の養子)。母方の親である明石元広が病没して明石家が断絶したため、明石広衡が家督を相続した。

厚谷重形【あつやしげかた(14??~15??)】

蠣崎義広家臣。比石館主。通称十郎。1532年、アイヌ衆が徳山館を攻撃した際、蠣崎義広とともに撃退した。

厚谷重政【あつやしげまさ(15??~1590)】

厚谷重形の男。官途は備中守。通称四郎兵衛。室は蠣崎義広の娘。1546年、蠣崎季広が安東舜季の要請により、深浦森山館主森山季定を攻撃するため軍勢84騎余りを率いて参陣した。

厚谷季貞【あつやすえさだ(15??~1570)】

厚谷重政の男。官途は備中守。室は蠣崎季広の娘。蠣崎慶広より「寄合席」とされ「奥用人兼家老職」に任じられた。

厚谷貞政【あつやさだまさ(15??~1637)】

厚谷季貞の男。通称四郎兵衛。蠣崎家三代に仕えた。1637年、福山館の火災で火薬庫に火が燃え移って爆発した際、蠣崎公広を酒井広種と共に救出した。厚谷貞政は重傷の火傷を負いまもなく病没した。

今井季景【いまいすえかげ(14??~1513)】

小林政景の男(今泉季友の養子)。与倉前館主。通称小次郎。1457年、今井季友の病没後、志苔館主小林良定より養子に入り、今井家の家督を相続した。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では与倉前館も攻撃を受け討死した。

今井景宗【いまいかげむね(14??~15??)】

今井季景の男。通称小三郎。1512年、父今井季景の討死後、今井家の家督を相続した。1515年、大館に移ってきた蠣崎義広に属した。

江口義顕【えぐちよしかき(14??~1512)】
 
村上政儀家臣。江口義盛の男。官途は民部丞。1457年、アイヌ衆の蜂起で父江口義盛が上ノ国で討死後、江口家の家督を相続した。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では志苔館に援軍に向かうも夷狄の流矢を受けて討死した。

江口顕輝【えぐちあきてる(14??~1513)】

江口義盛の次男(館頼重の養子)。官途は権頭。1512年、伯父館頼重の養子になっていたが、兄江口義顕が討死すると江口家の家督を相続した。1513年、では、アイヌ勢の攻撃を受け討死した。

岡部季澄【おかべすえずみ(14??~1513)】

戸井館主。通称六郎右衛門。原口館築城、本拠とした。1457年、「コシャマイン蜂起」が起こり原口館は陥落した。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」ではアイヌ勢が大館を攻撃、相原季胤らとともに討死した。

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【か】

蠣崎義広【かきさきよしひろ(1479~1545)】

松前郡徳山城主。檜山安東尋季家臣。蠣崎光広の男。1513年、蝦夷地東部の酋長であったショヤタイン(庶野)、コウジ(訇時)兄弟が率いるアイヌ衆が蜂起し、数ヶ所の館を襲撃した。上国守護職であった父蠣崎光広とともに撃退した。1514年、アイヌ衆に攻落されいた松前大館を奪還した。安東尋季の裁定により蠣崎家の家督相続前であったにもかかわらず、蠣崎義広が上国松前両守護職に任じられ、蝦夷地を訪れる和人の商船から運上を徴収することを認められた。運上は安東尋季に送られたものの、蠣崎義広が他の渡党へ優越する権限を持つことができた。1521年、蠣崎家の家督を相続した。長年交易をめぐってアイヌ衆と対立し落城寸前まで追い込まれた。1529年、蠣崎義広は工藤祐兼、工藤祐致兄弟に命じて西蝦夷のタナサカシの本拠を攻撃したが敗北、工藤祐兼は討死した。逆にタナサカシに大館に隣接する勝山城を包囲され、蠣崎義広は和議を申し出た。そして、賠償品を受け取りに来たタナサカシを謀殺して勝利を収めた。1536年、タナカサシの女婿タリコナが蜂起すると再びタリコナ夫妻を和議と称し宴会に招き謀殺して危機を脱した。

蠣崎季広【かきさきすえひろ(1507~1595)】

蠣崎義広の男。通称彦太郎。官途は若狭守。室は河野季通の娘(伝妙院)。父蠣崎義広の代までアイヌ衆との抗争を繰り返し、これを教訓としてかアイヌ衆との和議を進めた。1551年、和人居住地と交易について「夷狄の商舶往還の法度」を制定、アイヌ衆に対する交易の優位を確立。 蠣崎家は先祖が安東舜季の協力を得たことで、その被官の地位にあった。1546年、安東舜季の要請により蝦夷海賊衆を率いて本土へ渡海した。1550年、瀬田内(道南西部)の酋長ハシタインと知内(道南東部)の酋長チコモタインらと会談、和人地を上ノ国から知内の国境することに合意して和議を結んだ。この和議で確定された和人地は、「コシャマインの蜂起」で道南十二館の占有地の約三分の一に縮小した。アイヌ諸部族連合体は和人勢力を渡島半島の一角に追いやることに成功しており、「コシャマインの蜂起」以来のアイヌ衆の戦いは、軍事的には成功した。父蠣崎義広は多くの子女を道南、羽後国、陸奥国に配したので、蠣崎家としては各勢力との離合集散にも苦慮した。

蠣崎舜広【かきさきとしひろ(1539~1561)】

蠣崎季広の男。妹(南条広継室)に毒殺された。蠣崎季広に後継者に指名され、蠣崎舜広と称した。1561年、父蠣崎季広に将来を嘱望されていたが、南条広継の室(季広の長女、舜広の姉)に毒殺された。

蠣崎元広【かきさきもとひろ(1540~1562)】

蠣崎季広の次男。妹(南条広継室)によって謀殺された。

蠣崎慶広【かきさきよしひろ(1549~1616)】

蠣崎季広の三男。官途は志摩守。通称新三郎。室は村上季儀の娘。別名松前慶広。1590年、「小田原の役」では安東実季に属して参陣した。1591年、「九戸政実の乱」では、アイヌ衆を率いて参陣した。1592年、「文禄の役」では肥前国名護屋に参陣した。1593年、蝦夷国の領有を認められたが、檜山安東実季の家臣という立場であった。1599年、松平元康に蝦夷国地図などを献上した。1600年、「関ヶ原の役」では、安東実季が石田三成勢に属して三春城に減封されると、蠣崎慶広の外交手腕により、正式に蝦夷国の領主権を得た。羽柴秀吉への接近と歓心を買うための献身的行動、羽柴秀吉の病没後に松平元康に通じるなど、その独自外交と先見性は、蝦夷国という遠国にありながら畿内の小大名より高い外交能力を示した。

蠣崎正広【かきさきまさひろ(1547~1586)】

蠣崎季広の四男。通称右衛門大夫。上ノ国城代。1578年、蠣崎慶広の名代として上洛、織田信長に拝謁した。1586年、安東実季の援軍として羽後国に参陣中、病没した。

蠣崎基広【かきさきもとひろ(1506~1548)】

蠣崎高広の男。蠣崎季広と家督をめぐって争い討死した。

蠣崎盛広【かきざきもりひろ(1571~1608)】

蠣崎慶広の男。官途は若狭守。室は下国直季の娘。別名松前盛広。1598年、羽柴秀吉の病没後、父蠣崎慶広と共に松平元康に属した。1600年、松前家の家督を相続した。政務は依然として蠣崎慶広は執り行った。1604年、松平元康から黒印制書を受け蝦夷地の蠣崎家の領有権が確定した。1608年、父蠣崎慶広に先立って病没した。このため、蠣崎盛広の嫡男蠣崎公広が蠣崎慶広の養子になって蠣崎家の家督を相続することになった。

蠣崎忠広【かきざきただひろ(1580~1617)】

松前慶広の次男。官途は隼人正。通称甚五郎。別名松前忠広。幼少期から詩歌や武勇に優れた聡明な人物。1599年、父蠣崎慶広と共に上洛して松平元康に拝謁した。1604年、蠣崎慶広から江戸で分家することを許され、松平秀忠に仕えた。1610年、下総国結城郡内で1,000石を領した。1615年「大坂夏の陣」に参陣した。1615年、この戦功により加増を受け2,000石を領した。1617年、松平秀忠の上洛に従ったが病に倒れ、伊勢国桑名で病没した。

蠣崎利広【かきざきとしひろ(15??~15??)】

松前慶広の三男(南部利直の養子)。別名松前利広。養父の南部利直と不和になって義絶されて松前城に戻り、父蠣崎慶広の補佐に務めた。1616年、蠣崎慶広が病没後に蠣崎公広が松前家の家督を相続すると、蠣崎家の簒奪を図った。蠣崎公広の寵愛を得ていた側近杉山左内(蠣崎定広の娘婿)と結んで事を進めたが、杉山左内と犬猿の仲だった杉山平内が蠣崎公広に密告し密議が発覚、松前城から落延びた。

蠣崎由広【まつまえよしひろ(1594~1614)】

蠣崎慶広の四男(蠣崎盛広の養子)。通称数馬。別名松前由広。嫡男がなかった兄蠣崎盛広の養子となったが、蠣崎盛広に実子蠣崎公広が誕生して嗣子に定められた。このため蠣崎盛広とは不和となった。1614年、「大坂冬の陣」の際、羽柴秀頼勢に内通の嫌疑を受け、蠣崎慶広の命を受けた工藤祐種により謀殺された。

工藤祐兼【くどうすけかね(14??~1529)】

瀬田内館主。工藤祐長の男。通称九郎左衛門。1529年、「タナサカシの蜂起」では、瀬田内館が攻撃された際、工藤祐兼は殿軍を引き受け工藤祐致を落延びさせたが自身はアイヌ衆に包囲され討死した。

工藤祐致【くどうすけとき(15??~15??)】

工藤祐兼の男。通称九兵衛。1529年、「タナサカシの蜂起」では、瀬田内館が襲撃された。蠣崎義広はタナサカシとの和議を提案、その使者となった。タナサカシが和議を結ぶため、瀬田内館にやってくると、宴会の席で謀殺した。

工藤祐種【くどうすけたね(15??~16??)】

工藤祐致の男。通称九兵衛。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢への内通を疑われた松前由広を謀殺した。

コウジ【こうじ(15??~1515)】

蝦夷地東部の酋長。訇時。1513年、兄ショヤタインとともに蜂起し、宇須岸館、志濃里館、与倉前館を攻落した。1514年、大館を攻落した。1515年、蠣崎光広の館を攻撃したが、蠣崎光広との和議の宴会で謀殺された。

河野政通【こうのまさみち(14??~15??)】

箱館主。官途は加賀守。通称右衛門。1454年、南部家によって田名部に抑留されていた安東政季と共に蝦夷地に渡海、下之国に箱館を築城、守備し、茂別館主下国重季を補佐した。1457年、「コシャマインの蜂起」では茂別館、花沢館以外の全ての土豪の館が陥落、河野政通は捕縛されるが、鎮圧後助けられた。1513年、「ショヤタイン、コウジの蜂起」には、孫娘を伴い松前城に落延びた。

河野季通【こうのすえみち(15??~1513)】

河野政通の男。通称弥次郎右衛門。父河野政通とともに蝦夷地開拓を行っていたがそれがアイヌ衆との軋轢を生んだ。1513年、「ショヤタイン、コウジの蜂起」では宇須岸館が攻撃され、父河野政通のと三歳になる娘を落延びさしたあとアイヌ衆と戦い討死した。娘は蠣崎季広の室となり、松前慶広などを生んだ。河野季通の病没、河野家の名跡は断絶していたが、松前慶広の六男が継ぎ河野景広と称した。

河野景広【こうのかげひろ(1600~1558)】

松前慶広の六男(河野季通の養子)。官途は伊勢守。通称右衛門。別名松前景広。室は下国由季の娘。1602年、父松前慶広の命で、松前慶広の母の出自、箱館館主河野家の名跡を再興した。1634年、西町館に居所を移した。1638年、居所に稲荷大明神の社殿を造営した。1643年、松前家の氏神新羅大明神の社を建立、信仰心が高かった。1645年、松前系図伝を書写し、代々の事柄を編纂した「新羅之記録」を著した。

コシャマイン【こしゃまいん(15??~1457)】

蝦夷地東部の酋長。渡島半島南岸には和人が定住し、館主と称される小領主群が形成された。館主は東は志濃里館、西は花沢館を根拠地としてアイヌ衆との交易を行ったがアイヌ衆との軋轢を生んだ。1456年、志濃里の鍛冶屋でアイヌ衆が製作を依頼した小刀の良し悪しと値段をめぐって争いとなり、アイヌ衆が謀殺される事件が起こった。1457年、コシャマインらはアイヌ衆を率いて東は牟川から西は与市に至る間で蜂起し、志苔館主小林良景、箱館主河野政通、中野館主佐藤季則、脇本館主南条季継、穏内館主蒋土季直、覃部館主今泉季友、禰保田館主近藤季常、原口館主岡部季澄、比石館主厚谷重政、小館主相原政胤らの館を攻落した。和人で残ったのは、花沢館主蠣崎季繁、茂別館主下国家政のみだった。蠣崎季繁の家臣武田信広に和議と称して宴会に招かれ謀殺された。

小平季久【こだいらすえひさ(15??~15??)】

蠣崎季広家臣。

小平季遠【こだいらすえとお(15??~15??)】

小平季久の男。通称藤兵衛尉。室は蠣崎季広の娘(四女)。蠣崎家が檜山安東家の蝦夷代官の立場だった、小平季遠は娘婿として軍事面で小平季広を支えた。のちになって檜山安東家に内応したと、小平季広に疑われ謀殺された。嫡男小平季長は寛永期に活躍し、金山奉行を務め、財政を統括した。また次男小平季時は三関家として別家を立てた。

小林良定【こばやしよしさだ(14??~1513)】

志苔館主。小林良景の男。通称弥太郎。1456年、父小林良景が「コシャマインの蜂起」で討死したため小林家の家督を相続した。1513年、、「ショヤタイン、コウジの蜂起」では、アイヌ衆に志苔館を囲まれ籠城するが討死した。

小林良治【こばやしよしはる(14??~15??)】

小林良定の男。通称三郎右衛門。1513年、「ショヤタイン、コウジの蜂起」では志苔館が陥落、父小林良定が討死した。1514年、蠣崎光広、蠣崎義広父子が松前大館に転封してくるとそれに属した。

小林良道【こばやしよしみち(1514~1563)】

小林良治の男。1543年、若狭国の武田信豊に使者として派遣された。蠣崎家は若狭武田家の血を引くといわれるが、このときが初の使者の派遣であった。

蒋土季成【こもつちすえなり(14??~15??)】

穏内館主。兵庫之介。父蒋土季直の病没により蒋土家の家督を相続した。蒋土季成には娘しか生まれず家系は断絶した。

小山興重【こやまおきしげ(15??~15??)】

蠣崎義広家臣。小山隆政の謀反以来、蠣崎義広から追放されていた小山家であるが小山興重の代になり帰参を許された。しかし小山隆政のような重臣待遇ではなく、奉行級の中堅家臣であった。

小山重政【こやましげまさ(15??~15??)】

小山興重の男。通称弥次兵衛。蠣崎盛広、蠣崎公広、蠣崎氏広、蠣崎高広の四代に仕えた。父小山興重と同様に、奉行級の中堅家臣の待遇であった。

小山元政【こやまもとまさ(15??~15??)】

小山興重の次男。通称小次郎。

紺広長【こんひろなが(15??~15??)】

蠣崎盛広家臣。官途は備後守。1514年、蠣崎盛広が大館を本拠としたことは、安東尋季の意を汲むものではく了承を得るKとおができなかったが、三回目の交渉役に抜擢され彼の手腕で承諾を得た。

近藤信武【こんどうのぶたけ(14??~1527)】

禰保田館主。官途は左京亮。1512年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では禰保田館は陥落、蠣崎光広を頼って落延びた。

近藤季武【こんどうすえたけ(14??~1527)】

近藤信武の男。官途は帯刀。

近藤義武【こんどうよしたけ(1568~1638)】

近藤季武の男。通称吉左衛門。近藤義武の代に禰保田館から松前城に移った。1610年、花山院忠長が女官との淫行の咎で蝦夷国に配流の際、饗応役、帰洛の供奉を務めた。1615年、「大坂夏の陣」に松前忠広の傅役として参陣した際、合戦中喉が渇いたため自らの乗馬を殺しその血を啜った。

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【さ】

斎藤実繁【さいとうのりざね(15??~15??)】

出羽由利郡の豪族衆。斎藤実繁の娘が、蠣崎慶広の継室のなった縁で蠣崎慶広に仕えるようになった。

斎藤直政【さいとうなおまさ(1582~1654)】

斎藤実繁の男。1591年、羽柴秀吉の「奥州討伐」により所領を失い、斎藤直政の姉が蠣崎慶広の継室となった縁を頼って父斎藤実繁と共に蠣崎慶広に仕えた。1641年、蠣崎氏広に家老職に抜擢された。

酒井広種【さかいひろたね(15??~1637)】

蠣崎公広家臣。通称伊兵衛。父酒井七助は羽後国仙北郡の豪族であったが没落して蠣崎家に仕えた。1637年、火災により松前城の火薬庫が爆発した際、松前公広を厚谷貞政と共に助け出したが、酒井広種自身も火傷を負いまもなく病没した。

佐藤季則【さとうすえのり(14??~1513)】

中野館主。通称三郎左衛門。父佐藤季行と共に蝦夷地に渡った。1457年、「コシャマイン蜂起」が起こり中野館は陥落した。父佐藤季行の隠居により、佐藤家を家督を相続した。1504年、勝山館主蠣崎光広に属した。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」の際、再び中野館は陥落、その戦いの傷がもとで病没した。

佐藤季連【さとうすえつら(14??~15??)】

佐藤季則の男。通称彦助。室は蠣崎季広の娘。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」の際、中野館は陥落した。中野館は建されることなく、佐藤季連は徳山館に転封してのちに蠣崎季広に属した。

佐藤季平【さとうすえひら(15??~15??)】

佐藤季連の男。通称左衛門。室は河野景広の娘。

下国重季【しもぐにしげすえ(15??~1596)】

下国師季の男。官途は式部。通称孫八郎。室は蠣崎季広の娘。父下国師季が瀬田内に追放されると、下国家の家督を相続した。嗣なく弟下国直季の男下国由季を後継とした。

下国直季【しもぐになおすえ(15??~15??)】

下国重季の男。通称加兵衛。室は蠣崎季広の娘。

下国由季【しもぐによしすえ(15??~1594)】

下国直季の男(下国重季の養子)。官途は主典介。通称久三郎。室は蠣崎守広の娘。伯父で宗家の下国重季に子が無く、下国重季の養子となりるも、下国家の家督を相続したが早世した。

下国盛季【しもぐにもりすえ(15??~15??)】

下国直季の次男。

下国広季【しもぐにひろすえ(15??~15??)】

下国直季の三男。通称内記。室は 松前慶広の娘。兄下国由季が伯父下国重季の養子になったため、下国直季の跡を継いだ。

下国師季【しもぐにもろすえ(1523~1563)】

茂別安東家臣。下国家季の男。官途は下野守。通称安東八郎。松前之守護職を安東尋季より任じられた家柄。父下国家季が早世しているため、祖父下国家政の跡を継ぎ、茂別館を守った。1562年、アイヌ衆の攻撃により茂別館から松前城に逃れ蠣崎光広に仕えた。

シャクシャイン【しゃくしゃいん(15??~1669)】

蝦夷地東部の酋長で五大勢力のひとつ。カモクタイン家臣。通称沙武者。1653年、蝦夷地西部の酋長オニビシによって静内の酋長カモクタインが謀殺されたため酋長になった。寛永年間から商場知行制を推進したため、アイヌ衆間での漁猟をめぐる対立が頻発した。東部を押えるシャクシャインと西部を押えるカモクタインとで対立が強まった。1648年、センタインが病没するとシブチャリ川を中心にアイヌ衆同士の戦いが起こった。1655年、カモクタインが討死すると蠣崎高広が調停に入り和議が結ばれた。1665年、蠣崎高広が交易価格を大幅に上げたためオニビシが蜂起した。1567年、蠣崎高広勢と戦いオニビシ率いるアイヌ衆は大敗した。シャクシャインは蠣崎高広勢との戦いを決意しアイヌ衆に参陣を呼びかけ一斉に蜂起した。商船19隻を破壊,乗り合わせていた者273人を討取った。蜂起のさなかシャクシャインは謀殺された。

ショヤタイン【しょやたいん(15??~1515)】

アイヌ衆の酋長。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では、箱館館、志苔館、与倉前館が攻撃を受け館主小林良定、河野政通が討死した。生き残った豪族衆は蠣崎光広のもとに落延びていった。ショヤタインはコウジとともに大館を攻撃し、相原季胤、村上正儀の両名は討死し大館陥落した。1515年、ショヤタインとコウジ兄弟は再び蜂起したが、蠣崎光広は偽りの和議を結び彼らを徳山館に誘い出し酒宴を設けて彼らを酔わせた後、謀殺した。

隋良【ずいりょう(15??~15??)】

蠣崎季広の四男。蠣崎家の菩提寺を法源寺から法憧寺に移したため、法源寺との関係悪化を懸念した蠣崎季広が出家した随良を法源寺に送り込んだ。晩年、随良は法源寺の住職となり、僧侶として生涯を過ごした。

杉山左内【すぎやまさない(15??~15??)】

松前公広家臣。室は蠣崎定広の娘。1618年、松前利広と結託して藩を乗っ取ろうとしたが、杉山左内と仲の悪かった、杉山平内が松前公広に密告したため失敗に終った。

杉山平内【すぎやまへいない(15??~15??)】

松前公広家臣。1618年、松前利広と杉山左内が結託して松前公広の謀殺を図ったが、杉山左内と犬猿の仲だった杉山平内が松前公広に密告したため失敗に終った

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【た】

建部七郎右衛門【たけべしちろうえもん(1615~1691)】

蝦夷地交易を担った近江商人。近江国柳川に住んで行商し、敦賀湊から松前湊にまで活動を広げ、田付新助とともに両浜組を組織し、松前湊に漁場を開いた。

タリコナ【たりこな(15??~1536)】

蝦夷地西部の酋長。室はタナサカシの娘。1529年、蠣崎義広によって謀殺されたタナサカシの娘婿。タリコナは室に蠣崎義広への復讐戦へ立ちあがるよう度々すすめられた。1536年、蜂起したが蠣崎義広に偽りの和議の酒宴の席で夫婦ともども謀殺された。この復讐戦の真の主役はタリコナの室(タナサカシの娘)でありタリコナやタナサカシのように広域的な地域の長につながる女性の政治的、社会的地位を裏付ける戦いであった。

タナサカシ【たなさかし(15??~1529)】

蝦夷地西部の酋長。多那嶮。1525年、セタナイ(瀬棚)を本拠とするアイヌ衆の圧力が蠣崎義広に対し強まった。1529年、蠣崎義広はタナサカシの南下に対抗し工藤祐兼、工藤祐致兄弟に命じてタナサカシの本拠を攻撃したが失敗し工藤祐兼が討死した。一方タナサカシは長駆して上ノ国勝山館を攻撃し蠣崎義広を包囲した。蠣崎義広はタナサカシに和議を申し入れ、賠償品の宝器を受け取ろうとしたタナサカシを勝山館で謀殺した。

チコモタイン【ちこもたいん(15??~15??)】

蝦夷地東部(志利宇知)の酋長。知古茂多院。東蝦夷奉行。コシャマインの戦以来100年間続いたアイヌ衆と和人との戦いに終止符を打った。1550年、講和体制の東部側の酋長。蠣崎季広は和人地と蝦夷地の境界を東部は知内以西を蠣崎季広の勢力範囲とし、和人商人の唯一の統制者としてアイヌ衆に認めさせチコモタインを「東夷の尹」に位置づけた。蠣崎季広は講和の印として「夷狄商船往還法度」を作り、彼の持ち場である知内沖を通過する商船に帆を降ろさせてチコモタインに敬意を払わせた。蠣崎季広から扶持米を与えられたがこの扶持米は諸国から来る商人に負担させた。

富田広定【とみたひろさだ(15??~15??)】

蠣崎家臣。官途は豊後守。1548年、若狭国の武田信豊に使者として派遣された。武田信豊とよしみを結ぶ事に成功した。外交能力に長けていた。

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【な】

長門広益【ながとひろます(15??~15??)】

蠣崎基広家臣。通称藤六。岩亀館主小山隆政の弟武田信広とともに小山隆政を討取った麓廣政の子孫。1548年、蠣崎基広の謀反を起こした際、蠣崎基広を討取って頸を持ち帰った。

南条広継【なんじょうひとつぐ(1529~1562)】

勝山館主。南条光継の男。蠣崎基広家臣。官途は越中守。室は蠣崎季広の娘(長女)。1548年、蠣崎基広と蠣崎季広の家督争いによって空白となった上ノ国館主に任じられた。しかしこの騒動は南条広継の室となっていた蠣崎季広の娘の企てであった。さらに蠣崎舜広、蠣崎元広の謀殺にも関わったとれ、南条広継の室は謀殺された。

南条宗継【なんじょうむねつぐ(15??~15??)】

南条広継の男。通称五郎。

新井田義成【にいだほしなり(15??~15??)】

蠣崎基広家臣。通称民部。室は村上広任の娘。

新井田広貞【にいだひとさだ(15??~15??)】

新井田義成の男。通称右京之進。室は蠣崎季広の娘(十三女)。文禄年間に新井田と改む新井田三家の祖。

ニシラケアイヌ【にしらけあいぬ(15??~15??)】

メナシの酋長。数十艘を率いて虎皮など数十枚を蠣崎慶広に贈った。蠣崎慶広は特に大きいと評判の獣皮を松平元康に献上した。
 
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【は】

ハウカセ【(はうかせ15??~15??)】

蝦夷地の五大勢力のひとつの酋長。石狩川流域を本拠地とし、その政治的勢力範囲は南はオタルナイ(小樽)、北はマシケ(増毛)にまでおよんでいた。1669年、「シャクシャインの蜂起」では、武装中立を堅持したが蠣崎季広が推し進める商場知行制には反対した。近江八幡出身の金太夫という娘婿に本土から鉄砲50挺を購入させた。

ハシタイン【はしたいん(15??~15??)】

蝦夷地西部(瀬田内)のアイヌ酋長。波志多院。1456年、「コシャマインの蜂起」以来100年以上続いたアイヌ衆と和人の戦いを蠣崎季広と講和を結ぶことにより終止符を打った。1550年、講和体制の西部側の酋長代表者。蠣崎季広は和人地と蝦夷地の境界を西部は天ノ河以南を蠣崎季広の勢力範囲として,また蠣崎季広を和人商人の唯一の統制者としてアイヌ衆に認めさせようとハシタインを「西夷の尹」に位置づけた。蠣崎季広は講和の印として「夷狄商船往還法度」を作り、瀬田内沖を通過する商船に対し、チコモタインに敬意を払わせた。蠣崎季広は、ハシタインを西蝦夷奉行として扶持米を与えた。この扶持は「夷役」と呼ばれた。これにより蠣崎季広はアイヌとの交易による利益を独占することに成功した。

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【ま】

三関為久【みせきためひさ(14??~15??)】

相原季胤家臣。通称孫三郎。松前守護の相原季胤の家臣であったが相原季胤の討死により蠣崎義広に仕えた。

三関広久【みせきひろひさ(15??~15??)】

三関為久の男。官途は右近。室は蠣崎正広の娘。蠣崎季広に仕えた。1587年、蠣崎慶広の嫡男蠣崎盛広とともに徳山湊より商船に乗って敦賀湊に向かうが、河北郡戸賀沖で暴風に遭い、七昼夜洋上を漂った後にようやく敦賀湊に到着することができた。京都で羽柴秀吉に謁見後、熊野参詣に随行した。

三関季時【みせきすえとき(15??~16??)】

小平季遠の次男(三関広久の養子)。官途は内匠。

村上政儀【むらかみまさよし(15??~1513)】

下国恒季家臣。小館主。官途は三河守。信濃国を追われ、羽後国の枝連衆を頼って落延びる途中、暴風で蝦夷地上之国泊に漂着した。相原政胤とともに下国恒季に仕えた。1496年、下国恒季が討死した後、相原季胤が大館主になったためそれに仕えた。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では、アイヌ衆の攻撃を受け大館、小館が落城し討死した。

村上季儀【むらかみすえよし(14??~15??)】

村上政儀の男。官途は三河守。1513年、大館陥落、父村上政儀の討死後に蠣崎慶広に養われ、娘が蠣崎慶広の室となったことにより蠣崎家の重臣となった。

村上直儀【むらかみなおよし(15??~16??)】

松前公広の四男(村上季儀の養子)。官途は三河守。室は蠣崎季広の娘。兄村上忠儀は庶子で別家していたため、村上家の家督を相続した。村上直儀の跡目には嗣子なく、松前家より松前広諶が養子となり、村上広諶と称した。

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【や】

休之【やすゆき(15??~15??)】

松前慶広の六男。専念寺の住職を務めて、権僧都になった。

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【資料Ⅰ】

蝦夷国(渡島国八郡/30,000石)

爾志郡:江刺館。
檜山郡:勝山城、比石館、花沢館。
津軽郡:原口館、禰保田館、大館、覃部館
福島郡:脇本館、穏内館
上磯郡:志苔館、茂別館、中野館。
茅部郡:砂原館。
亀田郡:宇須岸館(箱館)。
奥尻郡:奥尻砦。

※実際には蝦夷国は稲作に適さないため30,000石格。

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【資料Ⅱ】

道南十二館【どうなんじゅうにたて】

蝦夷地(後の渡島国)渡島半島にあった渡党領主の館の総称。東は志苔館から西の上ノ国町の花沢館まで渡島半島南端の海岸線に分布する。安東氏の被官である館主はこれらの館をアイヌ民族や和人商人との交易や領域支配の重要拠点とした。

志苔館主:小林太郎左衛門尉良景、箱館主:河野加賀右衛門尉政通、茂別館主:下国(安東)式部大輔家政、中野館主:佐藤三郎左衛門尉季則、脇本館主:南条治部少輔季継、穏内館主:蒋土甲斐守季直、覃部館主:今泉刑部少輔季友、大館主:下国山城守定季、禰保田館主:近藤四郎右衛門尉季常、原口館主:岡部六郎右衛門尉季澄、比石館主:厚谷左近将監重政、花沢館主:蠣崎修理大夫季繁。

蝦夷国三守護職【えぞこくさんしゅごしょく】

安東政季は、茂別館主:安東家政(下国守護)、大館主:下国定季(松前守護)、花沢館主:蠣崎季繁(上国守護)の三名を「守護」に任じ、他の館主を統率させた。

アイヌ衆【あいぬしゅう】

蝦夷国では、粟、稗、黍などの雑穀が小規模ながら栽培されていたがアイヌ文化の成立とともに、農耕は縮小する傾向にあった。これは寒冷な気候ゆえに耕作を諦めたというより、本州との交易用の毛皮や干魚を確保するため、狩猟や漁労を重視した結果農作は縮小した。農耕民族の和人と狩猟採集民族のアイヌ衆は、それぞれの生活様式によって確保した生産物を交易で交換した。アイヌ衆は魚や毛皮を輸出品目とし、和人の生産する道具(鉄器や漆器)や嗜好品(米、茶、酒)と交換した。樺太アイヌは北方のツングース系などの諸民族とも交流があり、それを介して大陸の中華王朝とも関係を持った。1264年、樺太に侵入したアイヌとニヴフとの間に紛争が勃発した。この戦いにはモンゴル帝国軍が介入し、アイヌからの朝貢を取り付けた。その後もアイヌは大陸との交易を続けていた。この交易は山丹交易と呼ばれ、アイヌが交易によって清朝などから入手した絹織物や官服が「蝦夷錦」と呼ばれて日本国内にも流通した。

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【資料Ⅲ】

蝦夷国【えぞのくに】

日本列島の北端に位置するアイヌ衆の居住地。日本の内地とは津軽海峡越しに津軽方面と海路で結ばれ、北方では千島列島や、樺太など北方民族の居住地と交易げ盛んであり、文化的には北方文化圏と称された。こうした立地条件から、蝦夷地に進出している豪族間の勢力争いはあるものの、内地の戦国大名らの領地争いとは無関係な状態が続いた。また蝦夷地の豪族衆の勢力圏も南部の渡島国に限定されている。国土は広範囲にわたるが、未開発の地域がほとんどで、農業、商業、工業、林業といった産業も未発達であった。主要な戦略物資(食料、衣類、武器等)は本土からの交易で得る必要があった。交易品は、鮭、鰊、昆布が蝦夷三品と呼ばれ重要な産物となっていた。また野生の毛皮、矢羽根の原料となる鷹の羽なども産物となっている。産物のほとんどが、アイヌ衆が収穫したものを和人が交易によって手に入れていたが、交易条件をめぐってアイヌ衆と和人の間で争いが継続的に起った。

松前湊【まつまえみなと】

海峡を隔てて本州の津軽半島と最短距離にある松前半島先端部に位置し、中世、蝦夷地和人拠点の中心的地位にあった湊街。1456年、蝦夷から羽後国小鹿島に渡った安藤政季は道南の勢力圏を三つに編成し、その一つである「松前守護」に大館館主下国定季を配した。1525年、和人集落は上ノ国と松前城周辺を残すのみとなった。1514年、道南の有力者として台頭していた蠣崎義広が本拠を上ノ国から松前大館に移しており、松前は大幅に縮小した道南和人勢力圏の中心都市となった。『新羅之記録』によると、蠣崎義広は「松前守護」の地位の承認を得るため、諸国から松前に来航する「商船旅人」より「年棒」を徴収し、その「過半」を安東舜季へ進上することを約束した。1551年、アイヌ衆との和議が成ると、諸国から来航する商船から年棒を徴収し、これを「夷役」として「西夷」と「東夷」の両酋長に配分することや、アイヌの商船の往還する際の方式など、アイヌ衆と和人との交易方法も定められた。東西各地から来航する蝦夷人らは松前に鮭や鰊、白鳥、猟虎皮、鷹、上質の絹布などをもたらし、本土からもたらされる米や酒、小袖、木綿などと交換していた。アイヌ衆は秋田湊などにも来航していた。

宇須岸湊【うすけしみなと】

函館の旧名。渡島半島東部の物資の積出港の役割を担っていた湊街。宇須岸を交易湊とする現在の函館市地域は、居住環境もよく、蝦夷国における和人居住区の経済的中心地として繁栄した。宇須岸の全盛期には小浜湊、敦賀湊に代表される若狭国からの商船が定期的に来航し、海岸には問屋が軒を連ねていたのである。また随岸寺の開山嘉峯和尚も同じく商船に乗って来航したとしていることから、商人とともに宗教勢力が扶植されていた。

与市湊【よいちみなと】

蝦夷国の積丹半島の東の付け根、余市川河口部に形成され、蝦夷地に進出した和人の最前線を担った湊街。与市湊は陸奥国の十三湊を中心として北方交易の最北端であり、アイヌとの交易の最前線に位置する湊であった。

厚岸湊【あっけしみなと】

東蝦夷地の天然の良湊。厚岸湾の奥に位置し、松前方面と、千島列島方面とを結ぶ交通の要衝を担ったアイヌの集落。

泊湊【たまりみなと】

千島列島最南の国後島の南端に位置する天然の良湊。蝦夷国と国後島は根室海峡を隔てて向かいあう位置にあり、古くからアイヌの寄湊地、交易地であった。

奥尻島【おくしりとう】

蝦夷国奥尻郡奥尻島。南西部の日本海上に浮かぶ島。

函館八幡宮【はこだてはちまんぐう】

亀田郡函館。1445年、亀田郡の領主であった河野政通が函館に城を築く際、城の鎮守として城域東南隅に八幡神を勧請した。1512年、河野家はアイヌに攻められて城を追われ、一族は八幡神を奉じて亀田郡赤川村に逃れた。1649年、河野家一族の巫女伊知女が霊告を受けて元町の河野館跡地に八幡宮を遷した。

松前専念寺【まつまえせんねんじ】

大谷派僧侶真徳が松前専念寺を草創した。以後専念寺は松前藩と何度も婚姻関係を結び、蝦夷地の仏教界で大きな力を持った。

蝦夷浄願寺【えぞじょうがん じ】

戦国期、蝦夷地、北奥地域への教線拡大を進めた本願寺教団の最有力中継ぎ本山として布教の中心を担った寺院。1471年、蓮如の意向を受けて奥羽に派遣された弘賢により蝦夷地松前に浄願寺が建立された。1514年「大谷本願寺親鸞聖人御影」が「蝦夷浄願寺」に下された。蝦夷浄願寺はアイヌの蜂起が深刻化すると「秋田土崎湊」に移転するが、以後も「蝦夷浄願寺」を称しつつ、三代目了専のときに桧山浄明寺をはじめ弘前、浪岡、鯵ヶ沢に新寺を建て、四代了乗のときに塩越浄専寺、大曲安養寺を、五代了賢のときにも能代、船越、角館をはじめ、湯沢や酒田などにも新寺を次々に起立した。蝦夷浄願寺は蝦夷国、北奥地域における本願寺教団布教活動の中核的役割を担っていた。

山丹交易【さんたんこうえき】

山丹人(ウィルタ族、ニブヒ族、オロチョン族など沿海州の民族)と、アイヌ衆との間で、主として樺太を中継地として行われた交易。広義には清朝が黒竜江下流域に設けた役所との朝貢交易から、山丹人、さらにアイヌ衆を介して蝦夷地の松前藩にもたらされた交易。山丹人は、清朝に貂皮を上納する代わりに下賜された官服や布地、鷲の羽、青玉などを持参して樺太に来航し、アイヌ衆は猟で得た毛皮や、和人よりもたらされた鉄製品、米、酒等を、山丹人が持ち込んだ品と交換した。また、アイヌ衆の中には山丹交易をするばかりではなく、清朝に朝貢していたものもいた。

蝦夷鮭【えぞさけ】

蝦夷地でアイヌ衆によって採られ、乾燥加工されたとみられる鮭。「蝦夷鮭」は、南北朝期成立の『庭訓往来』が紹介する各地の特産品の中の一つで「宇賀昆布」とともに蝦夷地を代表する産物。1306年、越前国三国の預所代、刀禰が佐機良泊へ停泊した「関東御免津軽船二十艘之内随一」の大船から「漂倒船」の名目で、その積荷を押領する事件が起き、押領された積荷には鮭が含まれていた。「津軽船」の積荷であることから、この蝦夷鮭とみられ、既に鎌倉期には日本海を運航する廻船によって北陸、畿内方面にもたらされていた。 1618年、蝦夷の松前領に潜入したキリスト教宣教師アンジェリスの報告によれば、毎年東部のほうにあるミナシの国から松前へ百艘の船が、乾燥した蝦夷鮭や蝦夷鰊、猟虎皮をもってきた。く中世においては蝦夷鮭、蝦夷昆布、蝦夷鰊など北海の産物は、アイヌ衆によって宇須岸湊や松前湊といった蝦夷地の和人拠点、十三湊など津軽地方の湊にもたらされ、そこから全国に流通した。

猟虎皮【らっこかわ】

ウルップ島など千島列島が点在するオホーツク海域で捕れたと思われる猟虎の毛皮。1423年、足利義量の将軍職就任祝賀として安東康季が昆布五百把、鷲目銭二万匹(疋)とともに猟虎皮二十枚を贈った。安東康季は十三湊を中心に蝦夷との北方交易で繁栄していた。1593年、蠣崎慶広は羽柴秀吉に猟虎皮三枚を献上した。1618年、蝦夷国東部にあるミナシの国から松前へ、百艘の船が鮭や鰊とともに多量の猟虎皮を運び高価な価格で取引された。1620年、北東方から六十三日間の航海を経て来航した蝦夷人が「ウルップ島」でとれた猟虎皮を生きた鷹や鶴、鷲の羽とともに松前家に献じた。

鷲の羽【わしのはね】

アイヌ衆の人々によってもたらされ、矢を飾る羽などに用いられた鷲の羽。鷲の羽は、近世の山丹交易の交易品として蝦夷錦などとともにみえており、中世、蝦夷地で入手された鷲の羽の中にも大陸からの伝来品もあった。1558年、八幡大菩薩の文字のある鷲の羽が、「奥蝦夷之国(樺太)」から蠣崎季広のところにもたらされた。1620年、松前領に潜入した宣教師カルワーリヤの報告によれば、北東方から松前に来る蝦夷人はラッコ皮や生きた鷹、鶴とともに日本人が箭に付けて飾る鷲の羽をもたらすとしており、中世においても鷲の羽などの商品がアイヌ衆の交易活動により、松前などの蝦夷地の和人拠点にもたらされていた。

蝦夷錦【えぞにしき】

中国東北部(黒竜江下流域、沿海州)から樺太を経由して蝦夷地にもたらされた中国製の絹織物の総称。近世の山丹交易(前述地域間の交易)において最も珍重された商品のひとつ。アイヌ衆が沿海州の民族との交易で入手した、雲竜などを織り出した中国産絹や清朝官服のことである。かつて、アイヌは北方のツングース系民族とも交流があり、彼らと山丹交易と呼ばれる交易を行っていた。ツングース系民族は大陸の中華王朝と交流があったため、中華王朝の物産がツングース民族を介してアイヌ衆に伝わった。アイヌ衆は松前藩の半支配下に置かれ、不平等な交易をさせられた。その交易の中で、中華王朝の清からツングース民族を介してアイヌ衆にもたらされた満州風の錦の衣服が蝦夷地にもたらされた。

蝦夷金【えぞきん】

蝦夷地で採掘された金。1608年、松平元康は佐渡奉行大久保長安に命じて金山を調査する「鉱山師」を松前に派遣したが松平元康の蝦夷地への介入を拒む松前慶広によって、金山開発は拒否された。1616年、松前公広が跡を継ぐと、知内川流域を中心に金山開発に着手した。1620年、松平秀忠に金百両を献上して金山の権利を得た。さらに移住規制を緩和して採掘者を募ったため、一攫千金を狙う和人が松前に押し寄せた。このゴールドラッシュともいえる和人の金山開発、および自然破壊が後の「シャクシャインの蜂起」につながった。

夷狄の商舶往還の法度【いてきのしょうはくおうかんのはっと】

「日の本蝦夷」と称され、半島東部シリウチ(上磯郡)一帯に居住するアイヌの酋長チコモタインと、「唐子蝦夷」と称された半島西部セタナイ(久遠郡)一帯に居住するアイヌの酋長ハシタインが、安東舜季が仲介に立ち、松前大館主蠣崎季広と結んだ和議。この和議によって、他国の商人との交易において蠣崎季広が徴収した関銭の一部をチコモタインとハシタインに支払うこと、シリウチから天河までの地域より北東を蝦夷地とし和人の出入りを制限すること、渡島半島南西部の松前と天河は和人地としアイヌの出入りを自由とすること、シリウチの沖または天河の沖を船が通過する際は帆を下げて一礼することが定められた。

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戦国人名辞典は1527~1637年の期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城か郡の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

※徳川家康は松平元康、豊臣秀吉は羽柴秀吉に統一しました。

※参考文献:「津軽秋田安東一族」新人物往来社、「東北大名の研究(戦国大名論集2)」吉川弘文館、「会津芦名一族」歴史春秋社、「最上義光(戦国の驍将)」新人物往来社、「奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)」宝文堂、「会津芦名四代」歴史春秋、「伊達政宗(全8巻)」講談社、「天を衝く(全3巻)」講談社文庫、「独眼竜伊達政宗」時代小説文庫、「津軽風雲録」時代小説文庫、「政宗に睨まれた二人の老将」宝文堂、「秋田『安東氏』研究ノート」無明舎、「(史伝)伊達政宗」学研M文庫、「独眼竜政宗」講談社文庫、「奥羽永慶軍記(全2巻)」新人物往来社、「津軽南部の抗争(南部信直)」、「秋田の中世浅利氏」無明舎出版、「独眼龍政宗」文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、「陸奥南部一族」新人物往来社、「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2011年1月16日日曜日

戦国若狭国人名辞典

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【あ】

青井右京亮【あおいうきょうのすけ(15??~15??)】

武田元光家臣。三方郡小村城主。1538年、小村城主粟屋元隆が没落すると、青井右京亮が城主に任じられた。1560年、寺井源左衛門、松宮玄蕃勢の攻撃を受け落城した。

青井将監【あおいしょうげん(15??~15??)】

足利義輝家臣。大飯郡青井城主。幕府奉公人衆。

粟屋元隆【あわや もとたか(15??~1542)】

三方郡佐柿国吉城主。笑鴎軒悦岑の男。武田元光家臣。官途は大膳大夫。室は勧修寺尚顕の娘。小浜代官を務め、霞美ヶ城を築いた。1538年、武田元光の次男武田信高を擁して謀反を起こすが、武田信豊勢お攻撃を受け敗れた。1542年、「和泉太平寺の戦い」では、畠山稙長、木沢長政らとともに、細川晴元勢の三好政長、三好長慶、遊佐長教らと戦ったが敗れて討死した。

粟屋勝久【あわやかつひさ(1523~1585)】
 
粟屋元隆の男。官途は越中守。室は丹羽長秀の娘。1542年、父粟屋元隆の病没により粟屋家の家督を相続した。1561年、松永長頼の支援を受けて逸見昌経が武田義統に反乱を起こした。武田義統は単独では戦えず。朝倉義景の支援を受け反乱の鎮圧を図った。粟屋勝久は武田義統の継嗣武田元明を擁して、朝倉義景勢の介入を阻止した。1568年、朝倉義景に武田元明が一乗谷に幽閉されると、若狭国内の反朝倉義景勢は、織田信長の支援を受け対抗した。1570年、「第一次越前侵攻」では、織田信長勢に属して幽閉されていた武田元明を救出した。1575年、武田元明とともに旧領復帰を織田信長に願い出るが許されなかった。1575年、「第二次越前侵攻」では、織田信長勢に属して参陣した。1581年、京都馬揃えでは丹羽長秀勢に属して参列した。1582年、「本能寺の変」後も丹羽長秀勢に寄騎衆として仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

粟屋勝長【あわやかつひさ(15??~16??)】

粟屋勝久の孫。1600年、「関ヶ原の役」後、豊後国臼杵城主稲葉貞通に仕え家老職を務めた。

粟屋光若【あわやみつわか(15??~15??)】

武田信豊家臣。粟屋家長の男。遠敷郡山内城主。侍大将、奉行人を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

粟屋元行【あわやもとゆき(15??~154)】

粟屋元勝の男。官途は左京亮。粟屋元隆らの家が惣領家で、粟屋元行は庶家。代々在京奉行を務め、粟屋元行は遠敷郡幕府御領所の代官を務め、公用銭の収納などを担当した。

粟屋勝春【あわやかつはる(15??~1535】

粟屋親栄の男。武田元光が武田元信の隠居により武田家の家督を相続するとその後見役を務め、近畿を転戦した。三条西実隆から『源氏物語』の講義を受けた。

粟屋弥四郎【あわややしろう(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。粟屋勝久らとともに織田信長に降った。1575年、「越前討伐」では、粟屋勝久ら若狭国海賊衆とともに海上より越前国沿岸を攻撃した。後、羽柴秀吉に仕え馬廻衆を務めた。1592年、肥前名護屋城三の丸の守備役を務めた。

粟屋右衛門大夫【(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。大飯郡白石山城主。

粟屋小次郎【あわやこじろう(15??~15??)】

粟屋右衛門大夫の男。1570年、織田信長勢に属した。

粟屋右馬允【あわやうまのじょう(15??~15??)】

粟屋元隆家臣。1552年、武田家浪人衆らとともに近江国から若狭国に侵攻して吉田村を焼打ちした。武田信孝、熊谷勝直らとともに武田信方勢と戦うが朝倉教景の介して和議を結んだ。

粟屋勝家【あわやかついえ(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。通称五郎右衛門。1566年、「岩出山砦の戦い」では、朝倉義景勢が国吉城に撤退する粟屋勝家勢500余り攻撃を掛けたが、国吉城から火矢を放って小屋を焼き払い、朝倉義景勢を撃退した。

伊崎為堯【いざきよりたか(15??~15??)】

大飯郡稲葉館主。1538年、武藤友賢勢の攻撃を受け、交戦したが降伏した。伊崎為堯は蟄居した。

伊崎光義【いざきみつよし(15??~15??)】

伊崎為堯の男。1538年、父伊崎為堯武藤友賢勢の攻撃を受け降伏したが、武藤友賢につくことをいさぎよしと武田信豊に仕えた。

伊崎義誠【いざきよしのぶ(15??~15??)】

伊崎光義の男。

伊崎義康【いざきよしやす(15??~15??)】

伊崎義誠の男。1540年、武藤友賢から稲葉館の城代に任じられた。1580年、本郷泰茂勢の攻撃を受け稲葉城は落城した。

市川定照【いちかわさだてる(15??~15??)】

武田信豊家臣。三方郡能登野館主。

市川信定【いちかわのぶさだ(15??~15??)】

市川定照の男。官途は山城守。火矢名手。山内一豊に仕えた。1589年、「小田原の役」に参陣して戦功を挙げた。山内一豊が遠江国掛川城主に任じられると1,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢のもとから見性院(千代)を救うため、使者として派遣された。

一宮賢成【いちのみやかたなり(15??~15??)】

三方郡一宮城主。官途は壱岐守。

打它宗貞【うちだむねさだ(1559~1643)】

敦賀の豪商。別名茂住宗貞。飛騨国高山城主金森長近に仕え、鉱山開発で財をなした。1608年、越前国敦賀湊に移った。廻船業をいとなみ、若狭国小浜城主酒井忠勝に仕え敦賀代官職を務めた。参考文献:「デジタル版日本人名大辞典+Plus」。

大草公広【おおくさきみひろ(15??~15??)】

大飯郡難波江城主。官途は三河守。幕府奉公衆。1532年、足利義晴に仕えて戦功を重ねた。1538年、武田元光は足利義晴から大草公広に所領を返却するよう命じられた。.

大塩吉次【おおしよよしつぐ(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。大塩吉信の男。田繩城主。官途は長門守。1562年、湯岡城主南部久方の攻撃を受け落城した。粟屋勝久を頼って落延びた。

大塩吉忠【おおしおよしただ(15??~15??)】

大塩吉次の男。1562年、父大塩吉次が南部久方の攻撃を受けた。粟屋勝久に仕えた。

太田祐安【おおたすけやす(15??~15??)】

遠敷郡三重城主。

小原帯刀【おばらたてわき(15??~15??)】

武田義統家臣。1567年、武田義統が病没すると、朝倉義景勢が武田元明を幽閉するために若狭国に侵攻した。小原帯刀と野田甚太夫は朝倉義景勢に対抗するため、守護館近くの誓願寺前に防御線を敷き戦ったが敗れ、武田元明は越前国に連れ去られた。

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【か】

香川右衛門大夫【かがわうえもんのたいふ(15??~15??)】

武田義統家臣。鳥羽谷麻生野城主。1570年、武田義統や他の国衆とともに織田信長に降った。1575年、「越前一向一揆討伐」では、若狭海賊衆とともに一揆勢を海上から攻撃した。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢に属して、戦後所領を没収された。

梶又左衛門【かじまたざえもん(15??~15??)】

武田義統家臣。1569年、若狭武田家36人衆のひとりとして、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀、中川重政の四奉行に所領安堵された。

月甫清光【がっぽきよみつ(15??~1538)】

武田信繁の五男。武田元光の後見役を務めた。1487年、武田国信や寺井賢仲らと南禅寺仙館院の和漢聯句の会に列座した。京都の三条西実隆と交流して、物を贈り詠草を添えて和歌の指導を受けた。1531年、三条西実隆に「金葉集の内、抜書、1両首」を贈った。

菊池治郎助【きくちじろうすけ(15??~15??)】

武田義統家臣、1569年、若狭武田家36人衆ひとり。丹羽長秀、羽柴秀吉、、明智光秀、中川重政の四奉行に所領安堵された。

木下和泉守【きのしたいずみのかみ(15??~15??)】

遠敷郡小浜湊の交易商人。羽柴秀吉から遠敷郡の所領を安堵された。羽柴秀吉蔵入地の年貢の収納、販売、運送、さらには兵糧米の輸送にあtった。組屋とともに前田利長の蔵宿を務めた。

熊谷勝直【くまがいかつなお(15??~1552)】
  
武田信豊家臣。官途は弾正大夫。幕府料所安賀荘の代官を務めた。1552年、不義を働いたとして武田信豊の意向により自刃した。

熊谷直之【くまがいなおゆき(15??~1595)】

三方郡井崎城主。武田信豊家臣。官途は大膳亮。通称伝左衛門。別名熊谷直澄。1568年、朝倉義景勢が若狭国に侵攻するとこれに抵抗した。1570年、「二次越前侵攻」以降、武田元明が織田信長に属すると、枝連衆の熊谷伝左衛門、熊谷式部丞らとともにこれに従った。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に属した。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して京都嵯峨ニ尊院にて自刃した。辞世の句は「あはれとも問ふひとならでとふべきか 嵯峨野ふみわけておくの古寺」。

熊谷統直【くまがいむねなお(15??~15??)】

武田義統家臣。1566年、謀反を起こしたが、武田義統と起請文を交わして和議を結んだ。

組屋隆行【くみやたかゆき(15??~1556)】

遠敷郡小浜湊の交易商人。室は関戸久興の妹(恵鏡)。組屋隆行は関戸久興とともに小浜本境寺の開基した。

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【さ】

沢村吉重【さわむらよししげ(1554~1660)】

逸見昌経家臣。官途は大学。通称才八。逸見昌経の没落後、若狭国に入部した細川藤孝、細川忠興父子に仕えた。以後、三十数度の戦いに参陣した。細川忠興が肥後国を領すると5,000石を領した。1637年、「島原の乱」にも参陣した。

潤甫周玉【じゅんぽうしゅうぎょく(1504~1549)】

武田元信の次男。臨済宗の僧。若くして出家した。1539年、遠敷郡名田荘雲外寺を開山した。1543年、建仁寺第二八二世に迎えられた。父武田元信や、兄武田元光とともに三条西実隆との交流を持った。

春沢永恩【しゅんたくえいおん(14??~1592)】

武田元信の六男。臨済宗。京都建仁寺の九峰以成の継いだ。のち建仁寺,南禅寺の住持となった。詩文にすぐれ、策彦周良らと親交を持った。著書に『春沢和尚録』、『枯木藁』。

白井光胤【しらいみつたね(15??~15??)】

武田信方家臣。加茂城主。官途は石見守。別名白井清胤。1567年、武田信方が武田義統に謀反を企てると、これに反対して継嗣の白井勝胤とともに武田信方のもとを退去した。

白井勝胤【しらいかつたね(15??~15??)】

白井光胤の男。官途は民部丞。1559年、逸見昌経が謀叛を起こすと、武田信豊勢に属して参陣した。1567年、武田義統の弟武田信賢との対立した、粟屋勝久、内藤勝高、逸見宗全、松宮玄蕃、熊谷直之、寺井源左衛門、白井勝胤、寺川左馬助、香川右衛門大夫ら若狭国人衆は、織田信長勢に属した。

白井政胤【しらいまさたね(15??~15??)】

白井勝胤の男。官途は民部少輔。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、丹羽長秀に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して没落した。

白井長胤【しらいながたね(15??~1639)】

白井勝胤の次男。通称九兵衛。1587年、藤堂高虎に仕えた。1592年、「文禄の役」に参陣した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。

関戸久興【せきどひさおき(15??~15??)】

遠敷郡小浜湊の交易商人。官途は豊前守。1550年、陸奥国戸館の馬(糠部の名馬)を武田信豊に手配した功により、本境寺の寄宿、飛脚役が永代免除の特権を得た。蝦夷国松前湊から筑前国博多湊までの海上交易を担った。

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【た】

若狭武田元信【たけだもとのぶ(14??~1521)】

遠敷郡後瀬山城主。武田国信の次男。官途は大膳大夫。室町幕府若狭国守護職。通称彦次郎。室は畠山義統の娘。1490年、兄武田信親の病没により若狭武田家の家督を相続した。1491年、「六角高頼討伐」では、足利義稙勢に属して参陣した。1502年、段銭徴収に反対して土一揆が蜂起し、弟の武田元度らが討死した。1503年、一揆衆の要求に屈し、段銭を免除した。1505年、細川政元勢の支援を受けて丹後国に侵攻したが失敗に終わった。1517年、一色九郎と延永春信らが若狭国に侵入すると、家臣の逸見河内守も内応して苦境に立たされた。朝倉孝景の支援を受け、一色九郎勢を撃退して丹後国加佐郡倉橋城を攻落とした。三条西実隆、飛鳥井雅康、連歌師宗祇、宗長らと交流を持った。

若狭武田元光【たけだもとみつ(1494~1551)】

武田元信の次男。通称彦二郎。官途は大膳大夫。1521年、父武田元信の病没により若狭武田家の家督を相続した。1517年、安芸武田元繁が毛利元就と戦って討死すると、安芸武田光和の後見役を務めた。1526年、細川高国の意向を受けて上洛した。1527年、「西七条桂川の戦い」で三好勝長、柳本賢治らと戦うが敗北、足利義晴とともに近江国に落延びた。1532年、隠居して家督を継嗣の武田信豊に譲った。1538年、「谷田寺の戦い」では、粟屋元隆が離反したため、これと戦った。

若狭武田信孝【たけだのぶたか(14??~15??)】

武田元信の三男。官途は中務少輔。1538年、粟屋元隆の擁立され、甥の武田信豊と若狭武田家の家督を争った。遠敷郡の戦いで敗北。朝倉孝景を頼り、越前国に落延びた。1552年、粟屋右馬允とともに若狭国に侵攻を図るが、朝倉義景の支援を受けられず失敗に終わった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

若狭武田元度【たけだもとつど(14??~1502)】

武田元信の四男。遠敷郡新保山城主。官途は中務少輔。1502年、段銭徴収に反対して土一揆が蜂起し、一揆勢と戦い討死した。

若狭武田元実【たけだもとざね(14??~1502)】

武田元度の男。通称五郎。1502年、段銭徴収に反対して土一揆が蜂起し、父武田元度とともに一揆勢と戦い討死した。

若狭武田輝信【たけだてるのぶ(14??~1565)】

武田元信の五男。官途は左兵衛佐。1565年、「本国寺の戦い」で、足利義輝を守るため、三好三人衆、松永久秀勢と戦い討死した。

若狭武田信豊【たけだのぶとよ(1514~15??)】

武田元光の男。官途は治部少輔。通称彦二郎。室は六角定頼の娘。故実の筆写や連歌の才能を持っていた。 1532年、父武田元光の隠居により若狭武田家の家督を相続した。丹後国に派兵して、加佐郡を制圧して白井光胤を郡代に任じた。1542年、「河内太平寺の戦い」では、細川晴元勢に属して三好長慶と戦ったが敗退して、粟屋右京亮ら多くの有力諸将を失った。1551年、丹後国加佐郡の牢人衆が蜂起した。1554年、細川晴元の意向を受けて逸見昌経らとともに丹波国に侵攻して内藤長頼勢と戦った。1556年、継嗣の武田義統と若狭武田家の家督を巡って争ったが、敗れて近江国に落延びた。1561年、武田義統が武田信豊に料所を与えて和議が成立し帰国した。

若狭武田信高【たけだのぶたか(15??~1556)】

武田元光の次男。官途は宮内少輔。通称彦五郎。別名宮川信重。室は三淵晴員の娘(宮川尼)。武田信豊が宮川保から粟屋勝久の勢力を一掃すると、新保山城主に任じられた。1556年、武田信豊、武田義統父子による若狭武田家の家督争いが起こると、武田信豊勢に属して参陣したが、まもなく病没した。

若狭武田義統【たけだよしむね(1526~1580)】

武田信豊の男。通称彦二郎。官途は大膳大夫。室は足利義晴の娘。1556年、父武田信豊と対立し、隠居させて家督を相続した。1561年、粟屋勝久、逸見昌経らが謀反を起こすと、朝倉義景の支援を受けてこれを鎮圧した。1566年、足利義昭が若狭国に落延びてきたが、内戦で疲弊していたため、有効な支援を行うことができなった。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、これに属して所領を安堵された。

若狭武田信由【たけだのぶよし(15??~15??)】

武田信豊の次男。官途は上総介。通称三郎。

若狭武田信景【たけだのぶかげ(15??~1586)】

武田信豊の三男。三方郡鈴ヶ岳城主。官途は右衛門佐。通称五郎。別名武田元実。1566年、兄武田義統の意向を受け、足利義昭に仕えた。1576年、備後国鞆に落延びた足利義昭に従った。足利義昭や六角義堯とともに鞆に転封した幕府勢力の中心として活躍した。1586年、「肥後国高森城の戦い」で島津義久勢と戦って城主高森惟直とともに討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 

若狭武田信方【たけだのぶかた(15??~1582)】

武田信豊の四男(武田信高の養子)。別名宮川信方。1552年、粟屋右馬允が若狭国に侵攻すると、武田信方は大将として粟屋右馬允と二度に渡って戦い撃退した。1556年、父武田信豊と兄武田義統が若狭武田家の家督を巡って争った。叔父の武田信高が病没すると、その家督を相続して新保山城主に任じられ、若狭武田家の軍事力を掌握した。1567年、武田義統に謀反を企てるが、武田信方の家臣団が従わなかったため失敗に終わった。1570年、「第一次越前討伐」では、若狭国人衆の多くが織田信長勢に参陣するが、一乗谷に幽閉されてる武田元明の意向を受けて織田信長に対抗した。1571年、朝倉義景勢が若狭国に侵攻すると、若狭国の守護代に任じられた。1582年、丹羽長秀に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

若狭武田元明【たけだもとあき(1552~1582)】

武田義統の男。通称孫八郎。室は京極高次の妹(於龍)。1560年、父武田義統との家督争いに勝利して、若狭武田家惣領家の家督を相続した。1568年、朝倉義景により越前国一乗谷に幽閉された。1575年、旧領復帰を願いでるため、京都相国寺に織田信長を訪問した。1581年、馬揃えにでは、丹羽長秀勢に属して参列した。1581年、逸見昌経が病没すると、遺領の内3,000石を領したが、まもなく神宮寺桜本坊に蟄居させられた。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢に属して、長浜城を攻略した。「山崎の戦い」後、近江国海津で丹羽長秀の謀殺された。

若狭武田義勝【たけだよしかつ(15??~16??)】

武田元明の男。別名津川義勝。1582年、父武田元明が自刃すると、京極高次に仕え津川義勝と称した。1600年、「関ヶ原の役」後、京極高次が若狭国を領すると、大飯郡高浜城5,000石を領した。

田邊半太夫【たなべはんだいふ(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。1563年、三方郡国吉城主粟屋勝は、朝倉義景勢の侵攻を受けると領内の地侍を集め、国吉城城に籠城した。朝倉義景勢の半田又八が若狭国境に迫ると、粟屋勝久は家臣の山本豊後守、田邊半太夫ら300余りを関峠で朝倉義景勢を迎え撃ち撃退した。

寺井賢仲【てらいかたなか(15??~1516)】

武田信賢家臣。谷小屋城主。通称四郎兵衛。

寺井家忠【てらいいえただ(15??~15??)】

寺井賢仲の男。通称左兵衛尉。

寺井源左衛門【てらいげんざえもん(15??~15??)】

寺井家忠の男。1570年、織田信長の家臣丹羽長秀が若狭国を領すると、これに従った。1575年、「越前一向一揆」では、織田信長勢に属して海賊衆を率い、越前国の諸湊を海上から襲撃した。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢に属したため、没落した。

寺川左馬助【てらかわさまのすけ(15??~15??)】

武田義統家臣。1567年、武田義統の弟武田信賢との対立した宿老衆(粟屋勝久、内藤勝高、逸見宗全、松宮玄蕃、熊谷直之、寺井源左衛門、白井勝胤、寺川左馬助、香川右衛門大夫)が若狭武田家を離れ、織田信長勢に仕えた。

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【な】

内藤元是【ないとうもとこれ(15??~15??)】

武田元信の五男。官途は伊豆守。

内藤重純【ないとうしげずみ(15??~15??)】

内藤元是の男。官途は石見守。

内藤元兼【ないとうもとかね(15??~15??)】

遠敷郡西津天ヶ城。武田元光家臣。官途は筑前守。若狭国守護代職を務めた。1538年、若狭彦神社の作事奉行を務めた。

内藤勝高【ないとうかつたか(15??~15??)】

武田元光の男(内藤元兼の養子)。官途は内蔵助。別名内藤政信。家老職を務めた。和歌を好みて宗祇を師とした。

内藤勝行【ないとうかつゆき(15??~15??)】

内藤勝高の男。官途は筑前守。別名内藤重政。1570年、織田信長に降り、丹羽長秀に属して各地を転戦した。1575年、海賊衆を率いて海上から越前国を攻撃した。

内藤政高【ないとうまさたか(15??~15??)】

内藤勝行の男。官途は筑前守。羽柴秀吉が若狭国を領すると、浪人となった。

内藤長縄【ないとうながつな(1552~1596)】

内藤政高の次男。官途は大蔵。別名梶理兵衛。丹羽長秀に仕えた。

内藤長教【ないとうながつな(1589~1659)】

内藤長縄の男。通称伝左衛門。1614年、「大坂冬の陣」で松平元康勢に属して戦功を挙げ、上総国武射郡、下総国香取郡、海上郡、常陸国真壁郡内で800石を領した。

内藤国高【ないとうくにたか(1455~1527)】

武田元光家臣。遠敷郡箱ヶ岳城主。通称五郎左衛門。官途は佐渡守。1526年、細川高国の意向を受けて山城国に参陣した武田元光に従った。1527年、桂川に柳本賢治と戦って討死した。

内藤直兼【ないとうなおかね(15??~15??)】

内藤元兼家臣。官途は兵庫。

内藤下総守【ないとうしもうさのかみ(15??~1571)】

武田元光家臣。湯谷山城主。

南部久方【なんぶひさかた(15??~15??)】

湯岡城主。通称宮斎。1562年、田繩城主大塩長門守の攻撃を受けたが撃退した。

沼田光兼【ぬまたみつかね(1496~1560)】

三方郡熊川城主。沼田光延の男。官途は上野介。通称新左衛門。若狭熊川城主。足利義昭に仕えた。その娘は、細川藤孝に嫁ぎ、細川忠興をもうけた。

沼田光長【ぬまたみつなが(15??~1565)】

沼田光兼の男。通称三郎左衛門。官途は上野介。足利義晴に仕えた。1565年、足利義輝とともに討死した。

沼田清延【ぬまたきよのぶ(15??~1593)】

沼田光兼の四男。通称勘解由左衛門。別名沼田元清。足利義昭に仕え、詰衆を務めた。足利義昭が追放処分に処せられると、細川藤孝に仕え、丹後国中山城主に任じられた。

野田甚太夫【のだじんだいふ(15??~15??)】

武田義統家臣。1567年、武田義統が病没すると、朝倉義景勢が武田元明を幽閉するために若狭国に侵攻した。小原帯刀と野田甚太夫は朝倉義景勢に対抗するため、守護館近くの誓願寺前に防御線を敷き戦ったが敗れ、武田元明は越前国に連れ去られた。

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【は】

畑田加賀守【はただかがのかみ(15??~15??)】

三方郡野登野城主。1573年、織田信長に降伏後、武田元明や他の若狭衆とともに相国寺を訪れた。「越前一向一揆討伐戦」には、海賊衆を率いて海上から一揆勢を攻撃した。

畑田修理亮【はただしゅりのすけ(15??~15??)】

畑田加賀守の男。

畑田泰清【はただやすきよ(15??~15??)】

内藤元兼家臣。

広野孫三郎【ひろのまごさぶろう(15??~15??)】

武田義統家臣。1569年、若狭武田家36人衆の筆頭として、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀、中川重政の四奉行に所領安堵された。

逸見真正【へんみまさ(15??~15??)】 

大飯郡高浜城主。武田信豊家臣。

逸見昌経【へんみまさつね(1522~1581)】

逸見真正の男。官途は駿河守。細川晴元の意向を受け武田信豊に従って丹波国各地を転戦したが、三好長慶の家臣内藤長頼の内応工作により撤退に追い込まれた。1556年、武田信豊が武田義統と対立すると、武田信豊勢に属して戦ったが大敗して近江国に落延びた。丹波国の内藤長頼の支援を受けて武田義統と戦い続けた。1561年、朝倉義景の支援を受けた武田義統勢と戦ったが敗れた。1565年、「高浜城の戦い」で武田義統勢の高浜城を奪還した。1566年、海賊衆を編成して小浜城主武田義統を攻撃したが大敗した。1567年、武田義統が病没して、武田元明が人質とて朝倉義景のもとに送られると、大飯郡西部の勢力下に置いた。1570年、「第一次越前討伐」で織田信長勢に属した。

逸見虎清【へんみとらきよ(15??~15??)】

逸見昌経の男。

逸見河内守【へんみかわちのかみ(15??~1566)】

大飯郡丸山城主。1566年、武田義統勢の海賊衆と船戦を行い討死した。

本郷泰茂【ほんごうやすしげ(15??~15??)】

大飯郡達城主。1524年、本郷泰茂の領地が、幕府料所となり本郷泰茂の勢力が衰えると、佐分利石山城主武藤友益の攻撃を受けた。1570年、「姉川の戦い」後、織田信長勢が若狭国に侵攻すると、矢部家定の介して織田信長勢に属した。

本郷泰栄【ほんごうやすえい(15??~15??)】

本郷泰茂の男。

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【ま】

松宮玄蕃允【まつみやげんばのじょう(15??~15??)】

武田義統家臣。遠敷郡膳部山城主。1570年、「第一次越前侵攻」で織田信長が若狭国に侵攻するとこれに属した。1573年、「第二次越前侵攻」に参陣した。「越前一向一揆」が起こるとと、海賊衆を率いて一揆勢と戦った。

武藤友益【むとうともます(15??~15??)】

武田義統家臣。大飯郡石山城主。官途は上野介。別名武藤景久。武田家四家老のひとりとして石山城3,000石を領した。1538年、「稲葉館の戦い」で伊崎為堯と戦い稲葉館を攻落とした。1570年、「第一次越前侵攻」では、織田信長の家臣丹羽長秀勢に属して参陣したが、朝倉義景勢に属した武田元明に内応した。織田信長から大飯郡石山城から追放された。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢に属して、武田元明とともに佐和山城を攻落とした。戦後、武田元明は自刃したが、武藤友益は丹羽長秀に仕えた。

武藤友賢【むとうともかた(15??~15??)】

武藤友益家臣。1538年、「稲葉館の戦い」で武藤友益とともに伊崎為堯を攻撃した。

武藤友慶【むとうよもあつ(15??~15??)】

武藤友賢の男。

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【や】

安田貞能【やすださだよし(15??~15??)】

武田信豊家臣。官途は大膳。

矢部定政【やべさだまさ(15??~15??)】

本郷泰茂の次男(矢部家定の養子)。官途は豊後守。養父の矢部家定は、菅屋長頼、長谷川秀一、福富秀勝、堀秀政と織田家奉行五人衆として織田信長の近習として仕えていた。1570年、本郷泰茂が矢部家定の仲介して織田信長勢に属した。1582年、「本能寺の変」後は、羽柴秀吉に馬廻衆として仕えた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城二の丸を警護した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したため、役後改易処分に処された。

山県孫三郎【やまがたまごさぶろう(15??~15??)】

三方郡賀羅岳城主。1556年、武田信豊、武田義統父子の対立すると、家臣団を二分にする内乱に発展すると、武田義統を支持した。1566年、逸見昌経が高浜城を拠点にっ海賊衆を編成して武田義統を攻撃した際、山県秀政秀は武田義統勢の海賊衆を指揮して逸見海賊衆を撃破した。1570年、「第一次越前討伐」で織田信長勢が若狭国に侵攻すると、織田信長勢に属した。「賀羅岳城の戦い」では、新保山城主武田信方勢の攻撃を受けた。

山県頼冬【やまがたよりふゆ(15??~15??)】

三方郡藤井城主。官途は石見守。室は佐々木高成の娘。

山県盛信【やまがたもりのぶ(15??~15??)】

武田元信の四男(山県頼冬の養子)。官途は下野守。通称源三郎。別名山県秀政。本境寺の寺役免、妙楽寺への奇進、長源寺の淀書制定、長源寺、谷田寺への安堵状の発給を行った。

山県元盛【やまがたもともり(1533~15??)】

山県盛信の男。官途は式部大夫。室は沼田清延の娘。のちに細川藤孝に属した。

山県元之【やまがたもとゆき(15??~15??)】

山県盛信の次男。通称源七郎。別名山県政信。

山県政親【やまがたまさちか(1555~15??)】

山県元盛の三男。通称源三郎。

山本豊後守【やまもとぶぜんのかみ(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。1563年、三方郡国吉城主粟屋勝は、朝倉義景勢の侵攻を受けると領内の地侍を集め、国吉城城に籠城した。朝倉義景勢の半田又八が若狭国境に迫ると、粟屋勝久は家臣の山本豊後守、田邊半太夫ら300余りを関峠で朝倉義景勢を迎え撃ち撃退した。

雄長老【ゆうちょうろう(1547~1602)】

武田信高の男。別名英甫永雄。狂歌作者、漢詩人。建仁寺十如院住職。1586年、建仁寺292世。1594年、南禅寺の住職にもなった。漢詩文や漢和聯句)などに優れ当時五山の僧侶中五指のひとり。1589年、中院通勝に批評を請うた『詠百首狂歌』は、痛烈な風刺や磊落な笑いを含む作品。「桜にはあらぬ春べをこきまぜて枝をたれたるはこ柳かな」。

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【資料Ⅰ】

若狭国(3郡/86,000石)

三方郡:32,000石 国吉城。
遠敷郡:34,000石 小浜城、後瀬山城、小浜湊。
大飯郡:20,000石 高浜城、石山城。

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【資料Ⅱ】

若狭武田家四家老【わかさたけだけよんかろう】

武藤友益、粟屋勝久、逸見昌経、内藤勝行。

若狭武田家三十六人衆【わかさたけだけさんじゅうろくんしゅう】

広野孫三郎、梶又左衛門、菊池治郎助、他。

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【資料Ⅲ】

若狭国【わかさのくに】

若狭湾に面した北陸道の国。東は野坂山地から立石岬に至る戦で越前国に接し、西は青葉山を中心とした山系を境界に丹後国と接している。南は丹波国、近江国と中国山地に連なる高原性の丹波高地で国境を分け、北は複雑に入り組んだ海岸線で弓なりに若狭湾に臨む。遠敷郡、三方郡、大飯郡からなる小国で、大きな河川や平野に乏しい。農業生産は振るわないが、東西に細長く伸びた海岸線には、小浜湾などに良湊を多く、海産物に恵まれ、製塩業も盛んに行われている。三方を山に囲まれているが高い山はなく交通は容易である。

若狭街道【わかさかいどう】

若狭街道は海を持たない京都の人々が鮮魚を得るために不可欠な道であった。若狭から運ばれた物資の中で特に鯖が有名。小浜から京都まで約1日で到着できるため、軍事、物流の中心として整備された。

小浜湊【おばままみなと】

若狭湾の中央に位置する小浜湾に臨み、日本海沿岸地域と畿内市場との結節点、及び京都北側の国際港として大いに栄えた湊街。日本海に向いた京都の北の外湊の機能を持っていたため、北は蝦夷地、西は九州、対馬、あるいは朝鮮と日本海沿岸全域から来航する船が発着したが、さらに遠く、明や東南アジアとの交易にも利用された。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

徳川家康は松平元康、徳川秀忠は松平秀忠、豊臣秀吉は羽柴秀吉、豊臣秀頼は羽柴秀頼に統一しました。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版、参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2011年1月12日水曜日

戦国陸前国人名辞典

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【あ】

青塚吉春【あおづかよしはる(15??~15??)】

古川持熙の次男。通称左衛門尉。

赤井備中守【あかいびちゅうかみ(15??~15??)】

登米郡水越城主。葛西家四家老の一人。

秋保定重【あきほさだいえ(15??~15??)】

名取郡豊後館主。官途は摂津守。伊達家臣。豊後館は、羽前国との国境を守る重要拠点で伊達家も重視した。1591年、深谷の謀殺を逃れた長江月鑑斎は最上家を頼ろうとするが、これを子の長江重頼と共に捕らえ謀殺した。

秋保頼重【あきほよりしげ(15??~15??)】

秋保定重の男。勇武の士として知られた。1615年「大阪の夏の陣」で奮戦した。

跡部将監【あとべしょうげん(15??~15??)】

黒川郡佐和城主。黒川家臣。

余目伊勢守【あまるめいせのかみ(15??~15??)】

宮城郡東光寺城主。留守家臣。余目家は中世における諸大名の動向を知る資料として有名な余目記録を残しており、一時は宗家を凌ぐ勢いで栄えた。宮城家は初代家景の弟家業を祖とする系統である。主家の留守家は、戦国時代に入って衰退し、伊達家に帰属して命脈を保っていた。1567年、留守顕宗は伊達晴宗の三男政景を養子に迎えて後継者とした。これに対し、利府城主村岡兵衛、余目伊勢守、佐藤六郎左衛門らが強い抵抗を示した。

余目三郎太郎【あまるめさぶろうたろう(15??~15??)】

余目伊勢守の男。官途は土佐守。留守家が水沢城主になっての余目家は留守家の筆頭家老。

姉歯右馬充【あねはうまのじょう(15??~15??)】

栗原郡下館主。葛西家臣。

阿部太郎左衛門【あべたろうざえもん(15??~15??)】

本吉郡猿喰東館主。葛西家海賊衆。岩尻湊を拠点として、本吉郡沿岸から気仙沼まで勢力圏に治めた海賊衆。

阿部家臣【あべけかしんだん】

阿部玄蕃、最知玄蕃、米倉玄蕃、阿部若狭守。

有壁尾張守【ありかべおわりのかみ(15??~15??)】

栗原郡有壁城主。葛西家臣。葛西家没落時に有壁家も失領した。

飯塚出雲守【いいづかいずものかみ(15??~15??)】

胆沢郡広岡城主。柏山家臣。

飯野正秋【いいのまさあき(15??~15??)】

桃生郡飯野館主。山内首藤家臣。官途は但馬守。

飯川大隅守【いいかわおおすみのかみ(15??~15??)】 

飯川城主。大崎家臣。1588年「伊達大崎の戦い」で活躍した。

石川隆重【いしかわたかしげ(15??~15??)】 

小野田城主。大崎家臣。官途は長門守。1588年「伊達大崎の戦い」前には伊達家に属した。1591年「大崎葛西一揆」が起きると鎮圧勢として宮崎城攻めに活躍した。

石川隆尚【いしかわたかなお(15??~15??)】 

栗原郡高清水城主。大崎家臣。官途は越前守。「伊達大崎の戦い」に参陣した。

石川直村【いしかわなおむら(15??~15??)】 

登米郡佐沼城主。大崎家臣。

泉田景時【いずみだけげとき(15??~15??)】

名取郡岩沼城主。留守家の麾下に属していたが、 その後、伊達家の勢力が名取郡に及ぶとその家臣団に組み込まれた。

泉田光時【いずみだみつとき(15??~1582)】

泉田景時の男。1582年、相馬家との合戦で討死した。

泉田重光【いずみだしげみつ(1529~1596)】

泉田景時の次男。官途は安芸守。室は八幡景業の娘。1582年、兄泉田光時が討死したため、泉田家の家督を相続した。伊達政宗に重用され、一家の家格を与えられて諸戦に活躍した。1588年「大崎合戦」では、留守政景らと共に兵10,000を率いて出陣したが、泉田重光は室の実家である八幡家の家督相続問題をめぐって以前から留守政景と対立していたこともあり、軍議の場で戦術方針に関して政景と激しく口論に及んだため、統制を欠いた伊達勢は「中新田城の戦い」で大敗を喫し、潰走の末新沼城へと閉じ込められた。黒川晴氏の斡旋により城の包囲は解かれたが、泉田重光は人質として長江勝景と共に大崎方に提出され、蟻ヶ袋城に抑留された。1591年「葛西大崎一揆」が鎮圧された際には、証拠湮滅のため伊達政宗の命を受けて屋代景頼と共に一揆の主立った者らを謀殺した。伊達政宗が岩出山城へ転封されると、泉田重光も岩沼城から磐井郡薄衣城へと所領替えとなった。

泉田重時【いずみだしげとき(15??~15??)】

亘理重宗の男。泉田重光の養子。

一栗放牛【いちくりほうぎゅう(1500~1591)】

玉造郡一栗城主。氏家家臣。1591年「葛西大崎一揆」では鎮圧軍に抗して籠城したが、落城討死した。

一栗高春【いちくりたかはる(15??~1614)】

一栗放牛の孫。大崎家臣。通称は兵部。1591年「大崎葛西一揆」では最後まで頑強に鎮圧軍と戦った。後に最上義光に仕えて1,000石を給されて鶴岡城代を勤めた。1614年、最上義親が大坂内通の容疑で誅された事件に関わった廉で誅された。

伊藤祐則【いとうさけのり(15??~15??)】

桃生郡深谷館主。熊谷家臣。

一迫隆真【いちはざまたかまさ(15??~15??)】

栗原郡真坂城主。大崎家臣。官途は伊豆守。1588年「伊達大崎の戦い」では氏家弾正隆継に味方した。

逸見遠江守【いつみおうみのかみ(15??~15??)】

宮城郡小鶴城主。留守家臣。逸見家は、留守景宗が伊達家から留守家に入嗣した際にこれに従った家臣。逸見家は留守家の付け宿老として活躍した。

伊庭野外記【いばのげき(15??~1591)】

志田郡伊庭野城主。大崎家臣。1591年「大崎葛西一揆」は伊達家に与したが、一揆方宮崎城を攻めて討死した。

伊庭野惣八郎【いばのそうはちろう(15??~1588)】

伊場野外記の男。大崎義隆の小姓となり、新井田刑部と君寵をめぐって争い、これが昂じて「伊達大崎の戦い」に発展した。このとき混乱で討死した。

芋沢讃岐守【いもざわさぬきのかみ(15??~15??)】 

加美郡芋沢館主。大崎家臣。侍大将として大崎家に仕えたが、芋沢家臣により追放された。

岩崎美久【いわさきよしひさ(15??~15??)】

宮沢城主。大崎氏家臣。官途は讃岐守。1590年「大崎葛西一揆」では宮沢城に籠城したが、和議を結んで開城した。

氏家直益【うじいえなおます(15??~15??)】

玉造郡岩出山城主。玉造郡惣領職。大崎家臣。通称又十郎。1536年、大崎義直に叛いて攻撃を受けたが、後に和議を結んで所領は安堵された。

氏家隆継【うじいえたかつぐ(15??~1591)】

氏家直益の男。通称又十郎。1536年、大崎義直に叛いて攻撃を受けたが、のち和議を結んで所領は安堵された。氏家隆継は主家にあたる大崎家と対立するようになり、その抗争で伊達植宗と戦う事になった。氏家隆継と戦っていた大崎義直、伊達植宗勢は苦戦し、岩出山城を落とすことができずに氏家隆継と和議を結ぶことで抗争に終止符がうたれました。和議が結ばれた後の氏家隆継はそのまま岩出山城を居城とした。

氏家吉継【うじいえ よしつぐ(15??~1591)】

氏家隆継の男。父氏家隆継の隠居で家督を相続した。1587年、大崎家の家臣である新田刑部と対立して伊達政宗と内通した。これが端緒となって1588年、に伊達政宗が大崎領に留守政景を大将に8,000余の兵を侵攻させたが、黒川晴氏の裏切りで敗北した。氏家吉継も大崎家と和睦して帰参することとなった。1590年「小田原の役」の際、大崎家は羽柴秀吉のもとに参陣しなかったために改易され、氏家吉継も没落した。

氏家家臣団【うじいえかしんだん】

湯山基綱、鵙目善十郎、真山杢左衛門。

松山遠藤光定【えんどうみつさだ(15??~15??)】

志田郡松山(千石)城主。松山地域は、西の大崎家、東の葛西家の接点にあり、さらに、南からは伊達家の勢力がせまってくるという微妙な状況に置かれていた。1536年「大崎の内乱」に際して、遠藤光定は伊達稙宗に従って古川城攻撃に参陣した。

松山遠藤定親【えんどうさだちか(15??~15??)】

遠藤光定の男。1542年、遠藤定親は「天文の乱」では伊達晴宗方に付き、松山内の旧領を与えられた。遠藤家の居城の松山城は、伊達最北端の要衝守る城として整備された。大崎義隆の寵童同士の反目を発端として、主流、反主流派の二派に分かれて家臣団が対立した。それに伊達政宗が介入したことで、大崎家と伊達家との一大争乱に発展したのである。伊達政宗は、留守政景と泉田重光を大将に命じて、伊達勢を大崎領に進攻させた。松山城に集結した伊達勢は、大崎方が本城とする中新田城攻略の軍議を催し、泉田率いる先陣と留守率いる後陣とに分かれて中新田城に進軍した。「伊達大崎の戦い」が展開されたが、伊達勢の敗北に終わった。

松山遠藤高康【えんどうたかやす(15??~15??)】

松山遠藤定親の男。

大有康甫【おおありやすほ(1535~1618)】

伊達稙宗の十三男。東昌寺十四世住職。六歳で出家し伊達政宗の大叔父として伊達家の情報、外交官、ブレーンとして活躍した。諸国放浪中の虎哉宗乙と出会い、米沢に留まるよう勧めた。後に伊達輝宗に大有康甫を推挙し、政宗の学問の師とした。東昌寺の十四世住職として中興の功が大であった。

大條宗助【おおえだむねすけ(15??~15??)】

伊達郡大枝城主。伊達稙宗の家臣。

大條宗家【おおえだむねいえ(15??~15??)】

留守景宗の三男。大條宗助の養子。大條宗家の室は小梁川親宗の娘。大條宗家の娘は伊達宗清の室。

大崎高兼【おおさきたかかね(15??~1530)】

加美郡中新田城主。大崎義兼の男。通称彦三郎。1488年、大崎領内で反乱が起こると、一時的に伊達尚宗を頼って落ち延びた。1536年、大崎家内部で反乱が起こると、大崎高兼は伊達家の力を借りて反乱を鎮圧した。この見返りとして伊達稙宗は大崎高兼に自分の次男を養嗣子として送り込み、大崎家の当主とするように強要した。

大崎義直【おおさきよしなお(15??~1577)】

大崎義兼の次男。通称彦三郎。官途は左京大夫、従五位上。1530年、兄大崎高兼が死去したため家督を相続した。1536年、氏家直継・古川持煕・新井田頼遠らに反乱を起こされる。大崎義直にはこれを独力で鎮圧できず、伊達稙宗に援軍を要請した。しかしその代償として、稙宗の子・義宣が兄大崎高兼の娘を娶る形で養子として送り込まれ、大崎家は伊達家に従属した。1542年、「天文の乱」が勃発すると、伊達稙宗方に付いた義宣を討つため、大崎義直は伊達晴宗方に付いた。乱は晴宗方の勝利に終わり、1550年、大崎義宣を討ち取り、伊達家に完全に吸収合併されることは辛うじて免れたが、従属状態から脱却して勢力を回復させることは出来なかった。

大崎義隆【おおさきよしたか(1548~1603)】

大崎義直の男。官途は左衛門督。1588年、家臣同士の紛争に端を発した「伊達大崎の戦い」が勃発、氏家隆継は伊達軍を引きいれたが、大崎方の南条隆信は中新井田城に拠って激闘し、遂に伊達勢を撃退した。しかし小田原不参によって奥州征伐後没領。1593年、蒲生氏郷に属し「文禄の役」に渡海、晋州城の戦いに参陣した。蒲生氏郷の死後は上杉景勝を頼った。

大崎義宣【おおさきよしのぶ(1526~1550)】

小野城主。伊達稙宗の次男。室は大崎高兼の娘(梅香姫)。父伊達稙宗によって大崎高兼の養子に送り込まれた。1542年「天文の乱」では父伊達稙宗方について兄伊達晴宗と敵対した。騒乱終了後、葛西晴胤を頼って逃亡しようとした矢先に、伊達晴宗方についた大崎義直によって追討された。

大崎四家老【おおさきよんかろう】

里見隆成、中目隆政、渋谷隆秀、仁木高家。

大森和泉守【おおもりいずみのかみ(15??~15??)】

柴田郡大森館主。官途は和泉守。

大衡宗氏【おおひらむねうじ(15??~15??)】

黒川郡大衡城主。黒川影氏の次男。官途は治部大輔。1544年、大衡城主は大衡宗氏により築城され、黒川郡北方を守る役割をはたした。

大衡氏胤【おおひらうじたね(15??~15??)】

大衡宗氏の男。官途は治部大輔。1589年、黒川家が羽柴秀吉の「奥羽仕置」において所領を没収され滅亡した。

奥玉胤時【おくたまたねとき(15??~1591)】

葛西家臣。通称九郎。官途は大膳大夫。1590年「神取山の戦い」に従軍。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗に謀殺された。

小沢道重【おざわみちしげ(15??~1591)】

大船渡田茂山城主。葛西氏家臣。官途は右馬允。

小田野隆重【おだのたかしげ(15??~15??)】

加美郡朝日山城主。大崎義隆家臣。通称玄蕃。「葛西大崎一揆」に参加したが、伊達家に降伏した。

小野寺伊賀守【おのでらいがのかみ(15??~1591)】

一関城主。葛西家臣。1591年「糠塚の戦い」で討死した。

小野寺信春【おのでらのぶはる(15??~15??)】

栗原郡藤沢館主。葛西家臣。通称太郎左衛門。葛西家没落後は帰農した。

小野雅楽充【おのうらくいん(15??~15??)】

柴田郡小野館主。砂金家臣。1542年「天文の乱」で伊達晴宗を支持した。

小山田頼定【おやまだちくぜんのかみ(1525~1588)】

柴田郡小山田館主。官途は筑前守。伊達家臣。武勇に優れる。1588年「伊達大崎の戦い」 の「中新田の戦い」には軍奉行として出陣した。南条下総守の守る敵の本拠加美郡中新田城を攻めるが降雪のため敗軍となり、殿軍を務めて奮戦したが馬が深田にはまり討死した。

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【か】

葛西晴重【かさいはるしげ(1469~1533)】 

登米郡寺池城主。官途は陸奥守。戦国初期の葛西家系統は混乱しており、父に擬される者として、葛西宗清(石巻葛西家十三代)葛西朝信、政信(寺池系葛西氏十三代)の三名がいる。これは石巻系・寺池系の二流に分かれて主流を争った結果と思われるが、伊達家の介入を受けて葛西晴重の代に至り統一された。

葛西晴胤【かさいはるたね(1493~1551)】

葛西晴重の男。官途は左京大夫。伊達稙宗の次男。葛西家に入嗣した。伊達稙宗の息子は晴胤の兄守信(稙清)の養子である晴清に擬するのが自然であろう。葛西晴重の男で守信の弟であれば、年齢的にも合致する。継嗣となった葛西晴清の病死を受けて家督を相続した。1536年に石巻城から寺池城に遷った。

葛西親信【かさいちかのぶ(1547~1567)】

葛西晴胤の男。官途は石見守。。父葛西晴胤の死後、家督を相続する。1567年、病のため夭逝した。

葛西晴信【かさいはるのぶ(1534~1597)】

葛西晴胤の次男。官途は左京大夫。1569年、上洛して織田信長に謁す。伊達家と協力して大崎家と争った。1571年、1573年の二度に亙って大崎義隆を破った。1589年「小田原の役」で失領。佐沼城に拠って蒲生氏郷勢と戦って討死した。

葛西稙清【かさいたねきよ(1493~1531)】

葛西晴重の次男。通称三郎左衛門。

葛西俊信【かさいとしのぶ(1579~1635)】

葛西重信の男。通称三郎。葛西家滅亡後は伊達家に仕えた。馬術にすぐれた。

笠原直邦【かさはらなおくに(15??~1591)】

加美郡深沢城主。大崎家臣。通称九郎左衛門。1591年「大崎葛西一揆」では伊達政宗と敵対し宮崎城において討死した。

笠原仲沖【かさはらなかおき(15??~15??)】

加美郡高根城主。大崎家臣。

笠原直康【かさはらなおやす(15??~15??)】

笠原仲沖の男。大崎家臣。笠原仲沖の男。官途は近江守。1590年、大崎主家滅亡の際、出羽国に逃亡した。

笠原隆康【かさはらたかやす(15??~15??)】

笠原直康の男。

門田丹後守【かどたたんごのかみ(15??~15??)】

栗原郡丸森館。葛西家四家老の一人。

川熊隆清【かわくまたかきよ(15??~15??)】

古川川熊城主。大崎家臣。官途は美濃守。葛西家の侍大将を務めた。1588年「伊達大崎の戦い」では師山城に籠城した。

君ヶ袋兼継【きみがぶくろかねつぐ(15??~1590)】

加美郡君ヶ袋城主。大崎家臣。通称九郎左衛門。1590年「大崎葛西一揆」で伊達勢と戦い君ヶ袋城は落城討死した。

亀卦川信秀【きけがわのぶひで(15??~1591)】

葛西家臣。亀卦川重行の男。通称三郎左衛門、兵部。官途は下総守。磐井郡濁沼城主。1550年、亀卦川家中に紛争があり、新山城主亀卦川師兼に攻められて逃亡したが、のち復帰して新山城主となる。1591年、桃生郡深谷において伊達政宗に謀殺された。

黒川景氏【くろかわかげうじ(1484~1552)】

黒川郡鶴楯城主。伊達家庶流飯坂清宗の男。黒川氏矩の養嗣子。室は最上義淳の娘。急速に勢力を拡大していた伊達稙宗によって、黒川家第五代当主として送り込まれる。黒川景氏入嗣の時期は確定出来ないが、1519年に上洛して嫡男黒川稙国に足利義稙より偏諱を賜っている。1529年、黒川氏矩は死去する。当主となった黒川景氏は、新たに鶴楯城を築いて、従来の御所館から移った。1536年「大崎家の内乱」では、伊達稙宗の命を受けて反乱軍の拠点古川城の攻撃に参加し、内乱鎮圧後に救援の代償として伊達稙宗の子大崎義宣を大崎家に入嗣させる際には、大崎家中の鎮撫を任せられた。1542年に発生した「天文の乱」では伊達稙宗方に与して、大崎義宣と共に名取郡、柴田郡に出兵したものの、乱は伊達晴宗方の勝利に終わったが。黒川景氏は大崎義宣、葛西晴清らのように当主の地位を失うことはなかった。子は飯坂氏定、大衡宗氏、細川重定、八森定直。

黒川稙国【くろかわたねくに(1502~1560)】

黒川景氏の男。

黒川稙家【くろかわたねいえ(15??~1568)】

黒川稙国の男。黒川家八代当主。

黒川晴氏【くろかわはるうじ(1523~1599)】

黒川稙国の次男。1568年に兄黒川稙家が死去すると家督を相続した。黒川家は最上家の庶家にあたる。1500年頃、奥州探題大崎家に属していたが、伊達稙宗の勢力伸長に伴って伊達枝連衆の飯坂家から養子を迎えてた。伊達稙宗が大崎家を実質的に従属させたことで、黒川晴氏は、領地の独立性を保ちつつも、大崎、伊達家に両属する状態にあった。黒川晴氏は娘を伊達晴宗の三男留守政景に嫁がせが、また男子がいなかったため、義兄大崎義直の子大崎義康を養嗣子とし、義康の正室に伊達晴宗の弟亘理元宗の娘を迎えた。黒川晴氏は智勇兼備の将として活躍した。1584年に家督を相続した伊達政宗が、父伊達輝宗の外交方針を破棄して上杉景勝と結んだために最上義光と対立を深めたことで、伊達、斯波双方の枝連衆の黒川晴氏の立場は極めて微妙なものとなっていった。1588年、伊達政宗が大崎義隆を攻めるに及んで「大崎の戦い」で留守政景の援軍として桑折城に入っていた黒川晴氏は遂に伊達家からの離反を決め、中新田城攻略に失敗した伊達軍を強襲して撃破した。黒川晴氏はさらに潰走した伊達軍の籠もる新沼城を包囲したが、窮状に陥った政景を救うために和睦を斡旋し、泉田重光、長江勝景を人質として提出させることを条件にして城の囲みを解いた。1590年、黒川家は羽柴秀吉によって「小田原の役」に参陣しなかった罪で改易された。

黒川家臣団【くろかわけかしんだん】

細川弥次郎、入生田右兵衛、入生田右京丞、大童豊後守、鈴木美濃守、成田源兵衛、小谷地備後守、安藤丹後守、成田外記、二ノ関伊予守、赤間但馬守、石原将監、賀沢長門守、石原左京允、福田太郎左衛門、大平孫左衛門、郷右近可斎、児玉安芸守、八谷筑前守氏則。

葛岡隆信【くずおかたかのぶ(15??~15??)】

大崎家臣。新井田刑部と氏家隆継の争いでは新井田家に協力し、下新井田城に籠城して伊達家と戦った。

粟野重次【くりのしげつぐ(15??~15??)】

名取郡北目城主。

粟野重国【くりのしげくに(15??~15??)】

粟野重次の養子。官途は大膳亮。栗野重国は名取郡三十三郷の旗頭となる豪勇の士であった。1591年、伊達政宗と争って敗れ、伊達政宗が岩出山へ入部の際には伊達家の支配下に置かれていた。転封を拒んだで北目城を攻め落とされた。

熊谷直宗【くまがいなおむね(15??~15??)】

本吉郡気仙沼城主。

熊谷直義【くまがいなおよし(15??~15??)】

気仙沼赤岩城主。葛西家臣。1588年、浜田家と対立して騒乱となった「浜田広綱の乱」。熊谷家は主家滅亡とともに没落した。

黒沢義武【くろさわよしたけ(15??~15??)】

大崎家臣。官途は治部少輔。大崎義隆に仕えて侍大将を務めた。妹は大崎義隆の側室となり、大崎義易を産んだとされる。

国分宗政【こくぶんむねまさ(15??~15??)】

宮城郡千代城主。官途は弾正少弼。宮城郡南部に勢力を持った国分家の当主である。周辺の豪族を従えて宮城郡南部から西部を支配する勢力を築いたが、伊達家の威勢に服し、1536年に大崎家への介入で伊達家に従って兵を出し、1542年「天文の乱」では伊達稙宗側についた。1572年に隠居した。

国分盛氏【こくぶんもりうじ(15??~15??)】

国分宗政の男。伊達家に圧迫され、1577年に伊達家から国分(伊達)盛重を養子に迎え、国分家の家督を相続させた。これにより国分盛氏まで続いた世系は絶えることになった。

国分盛重【こくぶんもりしげ(1553~1615)】

伊達晴宗の五男。1577年に国分家の家督を相続。国分盛重は伊達家の武将として活躍し、1585年、伊達政宗の麾下で「人取橋の戦い」に加わった。1587年、家中の反伊達派を抑えきれず伊達政宗に討伐されかかった。国分盛重は伊達政宗に謝罪して許されたが、国分家の家臣は伊達政宗直轄とされた。1590年「葛西大崎一揆」で、伊達政宗と蒲生氏郷が不和になったときに、蒲生氏郷の帰国の安全を保証する人質になった。国分盛重はその後も伊達枝連衆の武将として重きをなした。1596年、出奔して佐竹義宣のもとに走りその家臣になった。1600年、佐竹家の転封に従って秋田に移った。

国分家臣団【こくぶけかしんだん】

作並宮内、馬場筑前守、馬場治部大輔、平賀義信、花坂勘解由、萱場丹後守、須田玄蕃、須藤刑部少輔、朴沢蔵人、古内主膳、八乙女淡路守、古内近江守。

米泉直行【こめいずみなおゆき(15??~1591)】

香美郡米泉城主。大崎家臣。主家滅亡後「大崎葛西一揆」の蜂起に参加して宮崎城に籠城したが、伊達政宗の鎮圧軍を受け、息子米泉長行とともに討死した。

米泉長行【こめいずみながゆき(15??~1591)】

米泉直行の男。通称権右衛門。「大崎葛西一揆」では宮崎城に拠り、伊達政宗と戦って討死した。

小岩信定【こいわいのぶさだ(15??~15??)】

栗原郡釣尾城主。

小岩信定【こいわのぶさだ(1550~1591)】

栗原郡赤児城の主。葛西家臣。通称孫三郎。小岩党の頭領であったが、1591年、桃生郡深谷で伊達政宗により謀殺された。

小岩信実【こいわのぶざね(15??~15??)】

葛西政信家臣。1534年、一関釣尾城主となり大崎家に備えた。

小岩信忠【こいわのぶただ(15??~15??)】

一関達古袋城主。葛西家臣。官途は讃岐守。1579年「富沢家の乱」において鎮定のために赴いた。

小岩信則【こいわのぶのり(15??~15??)】

葛西家臣。1522年、一関上黒沢城主を務めた。

小岩家臣団【こいわいけかしんだん】

赤荻大膳、達古袋信忠、黒沢信則、鬼死骸伊賀守、沼倉友斎、伏牛駿河守、小山民部、千田宗念。

小塚則安【こづかのりやす(15??~15??)】

登米郡小塚館主。葛西家臣。通称織部。主家滅亡により没落した。

後藤寿安【ごとうじゅあん(1578~1523)】

伊達家臣。岩淵秀信の次男とゆう。通称又五郎。洗礼名「ジョバンニ」。主家没落後に流浪、九州長崎でキリシタンに親しみ、宇久島で洗礼を受けた。1612年、京都の商人田中勝介の推薦で伊達政宗に仕え、胆沢郡に1,500石を与えられた。宣教師らの保護、キリスト教の布教に努めたが、幕府による禁教令を受けた。1623年、陸奥南部地方へ追放された。

今野内膳【こんのないぜん(15??~1591)】

葛西家臣。陸奥気仙二日市城主。1591年、息子の今野広綱とともに桃生郡深谷で伊達政宗に謀殺された。

今野広綱【こんのひろつな(15??~1591)】

気仙二日市城主。今野内膳の男。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗のために謀殺された。

郷六盛継【ごうろくもりつぐ(15??~15??)】

宮城郡郷六城主。国分家臣。通称大善。

郷六盛貞【ごうろくもりさだ(15??~15??)】

国分宗政の次男。郷六盛継の養子。愛子と郷六の二ヶ郷を支配した。

郷六盛政【ごうろくもりまさ(15??~15??)】

郷六盛貞の男。

郷六盛元【ごうろくもりもと(15??~15??)】

郷六盛政の男。

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【さ】

桜田備中守【さくらだびっちゅうのかみ(15??~15??)】

栗原郡桜田城主。大崎家臣。1587年「伊達大崎の戦い」が起こると新井田刑部側に味方した。

佐々木安芸守【ささきあきのかみ(15??~1591)】

高田壺城主。葛西家臣。1591年、桃生郡深谷において伊達家と戦って討死した。

佐々木中務【ささきなかつかさ(15??~1591)】

佐々木安芸守の男。1591年、桃生郡深谷において伊達家と戦って討死した。

佐々木信綱【ささきのぶつな(15??~15??)】

胆沢郡水沢城主。葛西家臣。1579年、寺崎良継と富沢直綱の争いが昂じると「富沢直綱の乱」鎮圧のために赴く。1588年、気仙郡で浜田広綱・熊谷直義の抗争が発展して騒乱となると「浜田広綱の乱」やはり鎮圧のために出陣したが、主家滅亡により没落した。

佐々木信義【ささきのぶよし(15??~1523)】

佐々木信綱の男。1523年、葛西胤信と大崎家が争ったとき、桃生郡矢本で討死した。

佐藤信貞【さとうのぶさだ(15??~15??)】

本吉郡信夫館主。葛西家臣。通称又次郎。1588年「浜田広綱の乱」の鎮圧のため出陣した。

佐藤忠冬【さとうただふゆ(15??~15??)】

黒川郡築館主。官途は信濃守。黒川家臣。

佐藤景高【さとうかげたか(15??~15??)】

宮城郡駒犬城主。留守景宗の次男。通称六郎佐衛門。1569年、村岡兵衛がが留守家に対して挙兵・討伐された。1572年、佐藤六郎佐衛門も挙兵したが留守政景に攻められて落城、佐藤景高は逃亡した。

里見隆成【さとみたかなり(15??~15??)】 

加美郡上狼塚城主。大崎家臣。官途は紀伊守。「伊達大崎の戦い」を誘引した新井田刑部の父。

里見隆元【さとみたかもと(15??~15??)】  

里見隆成の男。

三分一所家景【さんぶんのいちかしょいえかげ(15??~15??)】

三分一所城主。長江盛景の三男。長江家は、小野城には長江月鑑、 矢本城には弟の景重が矢本筑前守景重として入った。 そして三分一所城には、三男の家景が三分一所を名乗って入った。長江家は、大崎家の外様衆であったが、のちに伊達家に属した。三分一所家景は、馬術にかけては奥羽の地にかくれのない名人として知られ、武技、錬磨、軍学の究明に出精したという。のちに荒馬乗りの名手として羽柴秀吉に招かれて伏見に上り、妙技を披露して喝采をあびた。三分一所家景は兄晴景と争うことはなかった。長江晴景が伊達政宗に叛逆して滅亡したとき、いち早く伊達政宗に忠誠を誓い許された。

三分一所元景【さんぶんのいちかしょもとかげ(15??~15??)】

三分一所家景の男。官途は典膳。

四釜隆秀【しかまたかひで(1547~1596)】

加美郡四釜城主。大崎家枝連衆。官途は尾張守。1587年「伊達大崎の戦い」では中新井田城をよく守備して伊達勢を撃退。1591年、大崎葛西一揆の鎮圧のため伊達家が出動すると隆秀は伊達家に降り、宮崎城攻めに加わった。智勇兼備の士で、衰退する大崎家をよく盛り立てた。1588年、大崎合戦では中新田城を伊達政宗の攻撃から守りぬいた。1590年「小田原の役」で大崎家が滅亡すると、1591年「大崎、葛西一揆」で旧臣らと一揆を起こしたが、その鎮圧のために伊達政宗が進軍してくると投降して家臣となった。以後、伊達勢の先鋒として一揆の鎮圧を務めたという。

四保定朝【しのうさだとも(15??~15??)】

柴田郡船岡城主。柴田家臣。官途は但馬守。

四保(柴田)宗義【しのうむねよし(15??~15??)】

四保定朝の男。1576年「相馬の戦い」や1589年「須賀川の戦い」に従軍した。

篠本貞永【しのもとさだなが(15??~15??)】

黒川郡古館主。黒川家臣。通称善左衛門。

柴田郡豪族衆【しばたぐんごうぞくしゅう】

入間田伊豆守、入間田伊賀守、入間田修理、蛯穴与左衛門尉、上川名監物、富沢隠岐守、成田十郎左衛門尉、大谷修理亮、薄木日向守、小泉四郎、菅生助八、沼辺玄蕃、星野志摩守。

渋谷重家【しぶやしげいえ(15??~15??)】

栗原郡有賀城主。葛西家臣。官途は備前守。

清水馬場忠胤【しみずのばばただたね(15??~1591)】

東磐井郡清水馬場城主。葛西家臣。大原信茂の男。官途は三河守。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗により謀殺された。

下河原玄蕃【しもがわらげんば(15??~15??)】

水沢下河原館主。葛西家臣。1579年、佐々木貞綱と争う。主家滅亡後、南部家に仕えた。

下間景継【しもまかげつぐ(15??~1578)】

八幡景業の次男。八幡家臣。1578年、留守政景に討たれた。

下間業継【しもまよしつぐ(15??~15??)】

八幡景業の次男。下間景継の養子。1578年、養父下間景継が留守政景に討たれると、岩沼の泉田家を頼った。泉田重光の室は兄弟の姉にあたり、泉田重光は下間業継を庇護した。

新柵種次【しんさくたねつぐ(15??~1591)】

一関狐禅寺城主。葛西家臣。通称太郎左衛門。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗により謀殺された。

末永清継【すえながきよつぐ(15??~1590)】

気仙沼末次館主。葛西家臣。末永宗時の男。通称五郎三郎、修理。主家滅亡の際に討死した。

末永宗時【すえながむねとき(15??~15??)】 

登米郡善王寺城主。葛西家臣。官途は能登守。1511年~15年にかけての、葛西家と山内首藤家との争い「永正の戦い」では山内首藤家に味方し、葛西宗清暗殺を企図したとされる。

砂金常久【すながねつねひさ(15??~15??)】

柴田郡川崎城主。伊達家臣。砂金家は、文明年間に伊達家に仕え、砂金邑の豪族として勢力を張っていた。1543年、柴田郡に侵入した最上勢を押し返した。

砂金貞常【すながねさだつね(15??~15??)】

砂金常久の男。

砂金実常【すながねみつね(15??~15??)】

砂金貞常の男。通称右兵衛。1615年「大坂夏の陣」で戦功を上げ一族に列せられた。

首藤貞通【すどうさだみち(15??~1512)】

桃生郡七尾城主。葛西家臣。官途は刑部大輔。1511年、葛西宗清と戦って敗北し、所領割譲を条件に和睦した。1512年、戦って討死した。

首藤安通【すどうやすみち(15??~1591)】

桃生郡福地館山城主。葛西家臣。通称対馬。1591年、桃生郡深谷で伊達勢と戦い討死した。

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【た】

高清水直堅【たかしみずなおかた(15??~15??)】

栗原郡高清水城主。大崎高兼の次男。高清水家の養子に入り家督を相続。主家滅亡により没落。息子高清水高景は伊達家に仕えた。

高清水高景【たかしみずかたかげ(15??~15??)】

高清水直堅の男。

高城宗綱【たかしろむねつな(15??~15??)】

留守顕宗の男。伊達家からの圧迫を受け、伊達輝宗の命令によって、父留守顕宗は嫡男留守宗綱を高城家に養子に出して、伊達晴宗の男を留守家当主に迎えることになった。

高城宗直【たかしろむねなお(15??~15??)】

高城宗綱の男。

千葉兼義【ちばかねよし(15??~1591)】

磐井郡金鶏城主。葛西家臣。官途は遠江守。1591年桃生郡深谷にて伊達政宗に謀殺された。

千葉重胤【ちばしげたね(15??~1591)】

磐井郡上折壁城主。葛西家臣。官途は右馬丞。1591年桃生郡深谷にて伊達政宗に謀殺された。

千葉重常【ちばしげつね(1562~1591)】

葛西家臣。千葉周防守の男。官途は修理亮。別名矢作大隅守。1588年「浜田の乱」ののち、気仙地方の旗頭となる。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗のために謀殺された。

千葉信濃守【ちばしなののかみ(15??~1588)】

気仙沼忍館城主。葛西家臣。1588年「浜田の乱」においては浜田広綱につき、熊谷党と戦って討死した。

千葉胤成【ちばたねなり(15??~15??)】

栗原郡吉目木城。葛西家臣。官途は式部大夫。1579年「富沢直綱の乱」では鎮定勢として活躍した。

東福寺尾張守【とうふくじおわりのかみ(15??~15??)】

加美郡菜切谷城主。大崎家臣。1588年「伊達大崎の戦い」では新井田城に籠城して抵抗した。

百々隆元【どどたかもと(15??~1591)】

遠田郡百々城主。大崎家臣。官途は左京亮。1588年「伊達大崎の戦い」では師山城に籠城した。1591年「大崎葛西一揆」では一揆側に属して古川城で討死した。

鴇田国種【ときたくにたね(15??~15??)】

黒川郡宇和田手城主。黒川家臣。官途は信濃守。鴇田家の祖先は清和源家。1439年「永享の乱」で信濃村上家の信州太守村上満信に敗れて陸奥国黒川郡に下った。そして黒川氏直の家臣となり、吉田村と宮床村の両村を領し鴇田館の城主となった。

鴇田国近【ときたかねゆき(15??~15??)】

鴇田国種の男。

鴇田周如【ときたかねゆき(1588~1654)】

鴇田国近の男。通称は駿河、次右衛門。1590年、羽柴秀吉の奥州仕置により、仕えていた。黒川郡39,000石領主の黒川晴氏(月舟斎)が改易され、鴇田伊豆国種の後継である二男鴇田国近は浪人となった。1591年、伊達政宗が佐沼城の激戦で「葛西大崎一揆」を制圧し居城を岩出山城に移封されると、国近は政宗に拝謁し先祖伝来の備中青江と号する太刀と馬を献じ、伊達政宗からその忠節ぶりに満足したとして、本領安堵の親書を賜わった。

富沢直綱【とみさわなおつな(15??~15??)】

栗原郡鶴丸館(岩ヶ崎城)主。葛西家臣。富沢直家の男。官途は日向守。1579年、謀反を起こしたが、千葉(深堀)新左衛門らの討伐を受けて降伏した「富沢直綱の乱」。富沢家が明瞭な動きを見せるようになるのは、富沢貞綱、貞運父子が活躍した戦国末期である。そして、富沢家は葛西大守に対する反乱を繰り返すのである。1571年「葛西大崎の戦い」で、葛西大守晴信が富沢家の地盤である三迫まで占領した。これは大崎家寄りの姿勢をみせる富沢家の権威を押えようとしたものと思われ、当然、富沢家はこれに反発したであろう。1579年、富沢直綱は磐井郡流荘に攻め込んだ「富沢兵乱」である。兵乱は富沢直綱の優勢に進んだが、葛西大守晴信みずからが富沢征伐のために出馬してくると、次第に頽勢に追い込まれ、ついには城下まで攻め込まれ降参した。

富沢直景【とみさわなおかげ(15??~1591)】

富沢直綱の男。官途は日向守。1590年、葛西晴信に従って佐沼城に籠城して秀吉勢と戦う。1591年「葛西大崎一揆」において討死した。

鳥島道林【とりしまどうりん(15??~15??)】

加美郡鳥島城主。葛西家臣。

鳥島光清【とりしまみつきよ(15??~1591)】

鳥島道林の男。官途は右馬允。1591年、桃生郡深谷において伊達政宗により謀殺された。

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【な】

深谷長江盛景【ながえもりかげ(15??~15??)】

桃生郡小野城主。長江家は鎌倉以来の地頭として独立した領主であったが、長江家領の深谷保は天文年間まで葛西家が本拠としていた石巻城に近く、両者の間には同盟もしくは主従的な関係があった。長江家は寛正年間に伊達家に属したが、葛西家とも親密な関係を維持していた。伊達稙宗の代になると急速に伊達勢がを拡大し、天文年間には深谷地方にも伊達家の勢力が及び、長江家は伊達家の麾下に属するようになった。1542年「天文の乱」には伊達晴宗に味方した。娘は相馬義胤の継室になった。

深谷長江勝景【ながえかつかげ(15??~1588)】

長江盛景の男。通称月鑑斎。1542年、伊達稙宗と嫡子晴宗の対立から「天文の乱」が起こり、伊達家中はもとより南奥州の諸大名を二分する大乱となった。乱は長江家にも影響をおよぼし、長江盛景は晴宗派に、枝連衆の三分一所家は伊達稙宗派に属して家中は分裂した。長江勝景の二弟景重は矢本家を継ぎ、三弟家景は三分一所家を継いで、深谷保を三分していた。1570年、長江勝景と矢本景重の間に合戦が起こり矢本景重は討たれて滅亡した。長江勝景は戦国時代に身をおいて、伊達軍団の師団長的な立場を担う勇将であった。また、早くから仏門に入るなど信仰に篤い人物でもあった。しかし、その一生は大半を戦場で過ごし、葛西、大崎、伊達家らの強豪に挟まれた小領主としての苦渋を味わい、また弟と争いを起こしてそれを討つなど必ずしも平坦なものではなかった。

長江家臣団【ながえけかしんだん】

調査中。

仁木高家【にきたかいえ(15??~15??)】

加美郡高根城主。大崎家臣。官途は遠江守。通称小六郎。大崎四家老の一人。「伊達大崎の戦い」では氏家隆継の味方となった。

中目長政【なかのめながまさ(15??~15??)】

大崎家臣。「伊達天文の乱」において伊達晴宗方となった。

中目隆政【なかのめたかまさ(15??~15??)】

兵庫館主。大崎家臣。通称兵庫大崎四家老の一人。侍大将を務め、1588年「伊達大崎の戦い」では桑折城救援に当たった。

南条隆信【なんじょうたかのぶ(15??~15??)】 

加美郡中新井田城代。大崎家臣。官途は下総守。1588年、「伊達大崎の戦い」以前の履歴は不明だが、智勇に優れた人物。1588年「伊達大崎の戦い」の時、中新田城を守備し、見事な采配を見せて伊達軍を寡兵をもって撃破し、名将として褒め称えられた。

西郡信明【にしごおりのぶあき(1550~1591)】

登米郡沼ノ城主。葛西家臣。米谷常時の男。西郡信氏の養子。通称新右衛門。1591年「葛西大崎一揆」において伊達政宗により謀殺された。

新井田隆景【にいだたかかげ(15??~15??)】

新井田城主。大崎家臣。里見隆成の男。通称刑部。美童として主君大崎義隆の寵を受けたが、伊場野惣八郎と君寵を争って「伊達大崎の戦い」の誘因となった。伊場野をその手で斬殺した。

新沼甲斐【にいぬまかい(15??~15??)】

志田郡新沼城主。大崎家臣。1588年「伊達大崎の戦い」では伊達家に属した。

新沼薩摩守【にいぬまさつまのかみ(15??~15??)】

気仙郡吉浜城主。葛西家臣。天正期に阿曽沼家と争って討死した。

新沼長門守【にいぬまながとのかみ(15??~1591)】

猪川城主。葛西家臣。1591年。桃生郡深谷において伊達政宗により謀殺した。

沼倉飛騨守【ぬまくらひだのかみ(15??~1591)】

栗原郡白岩城主。葛西家臣。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗により謀殺された。

沼田宗綱【ぬまたむねつな(15??~15??)】

栗原郡日良館主。葛西家臣。通称四郎。主家滅亡により没落した。

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【は】

支倉常正【はせくらつねまさ(15??~15??)】

柴田郡上楯城主。砂金家臣。

支倉時正【はせくらときまさ(15??~15??)】

支倉常正の男。

羽黒堂下野守【はぐろどうしもつけのかみ(15??~15??)】

羽黒堂城主。葛西家臣。1588年「浜田広綱の乱」で鎮圧勢として出動し、功により一万刈の加増を受けた。

古川持熙【ふるかわもちひろ(1506~1536)】 

桃生郡古川城主。大崎家臣。官途は刑部大輔。1536年、新井田家と結んで大崎義直に背いたが、大崎義直の要請により出陣した伊達稙宗の攻撃を受けて落城、自刃した。

古川直種【ふるかわなおたね(15??~1536)】

古川持熙の男。

古川忠隆【ふるかわただたか(15??~15??)】

古川直種の男。大崎家臣。官途は弾正忠。1588年「伊達大崎合戦」では師山城に籠城。伊達勢の大将留守政景を古川城で迎え撃ち、打ち破りました。この時、近くにいた兵庫館主、中目隆政の援軍を自分のところではなく黒川晴氏がこもっている桑折城に向かわせました。古川忠隆がいかに猛将だったかがわかります。

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【ま】

米谷常時【まいやつねつねとき(15??~15??)】

登米郡米谷城主。葛西家臣。

米谷常秀【まいやつねひで(1535~1591)】

米谷常時の男。通称大隅。官途は右馬助。1591年、伊達政宗により謀殺された。

米谷常忠【まいやつねただ(1546~1591)】

登米郡畑沢城主。米谷常時の次男。亀卦川信忠の養子。官途は修理之亮。通称五郎。1591年、桃生郡深谷において伊達政宗に謀殺された。

松坂定頼【まつざかさだより(15??~1591)】

黒川家臣。官途は周防守。主家である黒川家の没落後伊達家に降り、鶴楯城代となる。1591年「葛西大崎一揆」における拠点、「宮崎城攻め」に従軍したが討死した。

宮崎隆治【みやざきたかはる(15??~15??)】

加美郡宮崎城主。大崎家臣。

宮崎隆親【みやざきたかちか(15??~15??)】 

宮崎隆治の男。官途は民部少輔。1591年、「葛西大崎一揆」では総大将として中新田城、宮崎城に拠って伊達勢、蒲生勢と戦う。宮崎城陥落後は仙北に逃れ楯岡満茂に仕えた。

宮野豊後守【みやのぶんごのかみ(15??~15??)】

栗原郡宮野城主。葛西家臣。1588年「伊達大崎の戦い」では伊達勢に与して氏家弾正を支援した。

武鑓重信【むやりしげのぶ(1526~1591)】

栗原郡武鑓城主。葛西家臣。官途は隼人助。通称又三郎。1579年「富沢直綱の乱」、1588年「浜田広綱の乱」に出動して鎮圧に活躍。1591年、桃生郡深谷において伊達政宗に謀殺された。

村岡兵衛【むらおかへいえい(15??~1570)】

宮城郡利府城主。留守家枝連衆。留守家は留守郡宗、留守景宗、留守政景と伊達家から入嗣が行われていたが、留守景の際には、留守家臣団から大きな反発を受けた。村岡兵衛、余目伊勢守、佐藤六郎佐衛門は特に抵抗した。黒川郡鶴館城主である黒川家が調停に立ったが徒労に終わり、1569年、村岡兵衛は挙兵して村岡城に立て籠もった。伊達政景は圧倒的物量を頼みに村岡城に猛攻をかけた。1570年、落城村岡家は滅亡した。

村田近重【むらたちかしげ(15??~15??)】

柴田郡村田城主。天文の乱では伊達晴宗側に付いた。

村田宗殖【むらたむねたね(1542~1604)】

伊達稙宗の九男。村田近重の養子。室は村田近重の娘。村田近重に男がいなかったため伊達家から養子を迎えた。柴田郡七郷30,000石を領した。1591年、所領を没収され桃生郡長井300石に減封された。

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【や】

山口常成【やまぐちつねなり(15??~1600)】

支倉常正の三男。官途は飛騨守。支倉家枝連衆。1568年、米沢城主伊達輝宗の御近習役を命ぜられ、羽州置賜郡長井荘立石邑に移住する。1571年、次男の支倉常長が生まれる。まもなくして、支倉家宗家を相続した兄の時正に子供が授からなかったため、支倉常長を支倉時正の養子に出すことになる。後室に二人の子供が生まれたため、伊達政宗の命によって600石で分家となり、支倉常長と称した。伊達輝宗、伊達政宗に仕え、兄の支倉時正と同じく武勇に優れ、多くの戦陣に参加し軍功を上げた。1579年、兄支倉時正、鍋丸事件(砂金家との領地争い)を発生させる。1591年、羽柴秀吉の「奥州仕置」により、黒川郡大森邑に所替となった。1599年、鍋丸事件の責任を問われ死罪を命ぜられ、自刃した。

山口(支倉)常長【やまぐちつねなが(1571~1622)】

山口常成の男。支倉時正の養子。伯父支倉時正の養子となるが、支倉時正に実子は支倉久成が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1,200石を二分し、600石取りとなる。1591年「文禄、慶長の役」に参陣して朝鮮に渡海、足軽鉄砲組頭として活躍した。「大崎、葛西一揆の鎮圧にあたった武将の一人としてもその名が記録されている。伊達政宗の命を受け、支倉常長はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使に自分は副使となり、遣欧使節として通商交渉を目的にローマに赴くことになった。1613年、石巻で建造したガレオン船サン・フアン・バウティスタ号で月ノ浦を出帆し、ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かった。アカプルコから陸路大西洋岸のベラクルスに、ベラクルスから大西洋を渡りエスパーニャ経由でローマに至った。伊達政宗の期待のもと帰国した支倉常長ではあったが、環境の変化により失意のうちに死去した。

矢作重常【やはぎしげつね(1555~1591)】

外館城主。葛西家臣。矢作周防守の男。官途は大隅守。1588年「浜田広綱の乱」の鎮定に活躍し、乱後気仙地方の支配を担う。1591年、桃生郡深谷において伊達政宗に謀殺された。

矢本景重【やもとかげしげ(15??~15??)】

長江家臣。長江勝景の弟。伊達家の家督相続をめぐる「天文の乱」の時期に、長江家内部では勝景(月鑑斎)兄弟に争いが起きる。長江勝景の二弟景重は矢本家を継ぎ、三弟家景は三分一所家を継いで、深谷保を三分していた。1570年、長江勝景と矢本景重の間に合戦が起こり矢本景重は討たれて矢本家は滅亡した。

山内頼重【やまのうちよりしげ(15??~15??)】

桃生郡釣ノ尾城主。葛西家臣。官途は左馬之介。1511年、山内首藤家と葛西家の争いにより山内首藤家は没落したが、山内頼重は葛西家に仕えた。

八幡景光【やわたかげみつ(15??~15??)】

宮城郡八幡城主。留守家臣。

八幡景業【やわたかげなり(15??~15??)】

八幡景光の男。八幡景業は早世した。幼い八幡景廉に代わって叔父の下間景継が家政にあたったのである。

八幡景廉【やわたかげかね(15??~15??)】

八幡景業の男。父八幡景業が八幡景廉が五歳の時に急死し、下間景継が八幡家の家政を預かった。叔父下間景継が本家乗っ取りを企て、八幡家臣団のなかには、下間景継に同調して八幡景廉を廃嫡し下間業継に家督を継がせようという動きが出たが。八幡景廉は、主君の留守政景に事態の収拾を訴え出た。1578年、留守政景は下間館を攻撃して八幡家の家督争いに終止符を打った。以後、八幡景廉は留守政景に忠節を尽くした。

留守景宗【るすかげむね(1492~1554)】

宮城郡岩切(高森)城主。伊達尚宗の次男。嫡男を失くした留守郡宗(伊達氏出身で景宗の大叔父にあたる)の婿養子となる。1495年、留守郡宗の死去により家督を継いで当主となる。1506年、小鶴で国分勢の軍と戦って破った。伊達家の「天文の乱」では甥の伊達晴宗に協力し、伊達稙宗に与した国分家と戦った。

留守顕宗【るすあきむね(1519~1586)】

留守景宗の男。1554年、父留守景宗の死去により家督を相続する。東光寺城を居城として国分家と抗争し、留守家の勢力を拡大した。しかし伊達家からの圧迫を受け、伊達輝宗の命令によって実子の留守宗綱を高城家の養子として送り込んだ上で、伊達輝宗の弟留守政景を婿養子として迎え、留守姓を名乗らせ、1567年に政景に家督を譲ることを強制された上で隠居することを余儀なくされた。

留守政景【るすまさかげ(1549~1607)】

伊達晴宗の三男。留守顕宗の養子。室は黒川晴氏の娘。官途は従五位下上野介。1567年、留守家の一部家臣の要請と父伊達晴宗の政略によって留守顕宗の養子となり、奥州の名族留守家の家督を相続した。留守政景の継承に反対する留守家枝連衆である村岡家や余目家の反抗を鎮圧すると共に、兄伊達輝宗や甥伊達政宗を補佐し、実家の伊達家の勢力拡大に貢献し各地を転戦する。伊達枝連衆であったため、当主に代わって伊達軍の総大将を務めたこともあったが「大崎の戦い」では岳父黒川晴氏の裏切りに遭い敗戦している。

留守宗利【るすむねとし(1589~1638)】

留守政景の男。留守政景は「小田原の役」に参陣しなかったため留守家は領地没収され伊達家臣となる。その後、黄海城、清水城、一関城と転々と城を変え、1607年、父留守政景が病死すると一関城主を継ぐ。江戸城西丸貝塚普請成就した。1614年「大坂冬の陣」さい伊達政宗より先鋒を命ぜられ初陣を飾る。奮闘により伊達政宗を喜ばせたが、留守宗利の家臣出兵が四十数名であったことがわかり、身分不相応の人数でなかったことに留守政宗の勘気にふれ、領地を金ヶ崎城に移される。1615年「大坂夏の陣」では伊達家鉄砲隊長として出陣した。大坂城落城後、江戸城廻石壁普請の他、日比谷御門枡形石垣、芝口去普請、芝口御門枡形石垣、山の手御堀石垣、四股去普請を完工する。1629年、多くの家臣を抱え手狭だった金ヶ崎城から水沢城へ移り、伊達家一門格に相応しい城下造りと領内整備に取り組んだ。

留守家臣団【るすけかしんだん】

大木戸四郎太夫重信、留ヶ谷内膳、笹神図書介、花淵紀伊守(家臣:吉田伊郷)。

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【資料Ⅰ】

陸前国(14郡/)

大崎五郡:玉造、加美、志田、遠田の各郡と栗原郡の半郡。
葛西七郡:牡鹿、登米、本吉、磐井、胆沢、江刺、気仙の各郡と桃生、栗原郡の半郡。

気仙郡:12,000石
本吉郡:15,000石
登米郡:18,000石
牡鹿郡:6,000石
桃生郡:20,000石
栗原郡:80,000石
玉造郡:18,000石
遠田郡:32,000石
志田郡:30,000石
加美郡:24,000石
黒川郡:30,000石
宮城郡:48,000石
名取郡:45,000石
柴田郡:20,000石

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【資料Ⅱ】

歌津十二人衆【うたつじゅうににしゅう】

本吉郡歌津を根城とした海賊衆。

葛西家四家老【かさいよんかう】

赤井備中守、

大崎四家老【おおさきよんかろう】

里見隆成、中目隆政、渋谷隆秀、仁木高家。

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【資料Ⅲ】

陸前国【りくぜんのくに】

調査中。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

(※)印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

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※参考文献:「津軽秋田安東一族」新人物往来社、「東北大名の研究(戦国大名論集2)」吉川弘文館、「会津芦名一族」歴史春秋社、「最上義光(戦国の驍将)」新人物往来社、「奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)」宝文堂、「会津芦名四代」歴史春秋、「伊達政宗(全8巻)」講談社、「天を衝く(全3巻)」講談社文庫、「独眼竜伊達政宗」時代小説文庫、「津軽風雲録」時代小説文庫、「政宗に睨まれた二人の老将」宝文堂、「秋田『安東氏』研究ノート」無明舎、「(史伝)伊達政宗」学研M文庫、「独眼竜政宗」講談社文庫、「奥羽永慶軍記(全2巻)」新人物往来社、「津軽南部の抗争(南部信直)」、「秋田の中世・浅利氏」無明舎出版、「独眼龍政宗」文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、「陸奥南部一族」新人物往来社、「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2011年1月10日月曜日

戦国陸中国人名辞典


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【あ】

浅沼甲斐守【あさぬまかいのかみ(15??~1588)】

米田世城主。阿曾沼家枝連衆。1588年「米ヶ崎城の戦い」で浅沼中務とともに討死した。

阿曽沼親広【あそぬまちかひろ(15??~15??)】

上閉伊郡横田城主。阿曽沼親広は、遠野十二郷(田瀬、鱒沢、小友、綾織、宮森に大槌、釜石を加える)を領した。

阿曽沼広郷【あそぬまひろさと(1534~1590)】

阿曽沼親広の男。阿曽沼親広から家督を相続した阿曽沼広郷は、支配領域を遠野保の領域を越えて閉伊郡海岸部まで拡大した。1579年、遠野という僻遠の地にありながら天下の形勢を見極めて、織田信長に白鷹を贈り中央政権との遠交外交を行っている。15??年、阿曽沼広郷は、岩谷堂城主の江刺重恒家督争いの混乱に乗じて江刺領に侵攻した。江刺重恒の巧な采配により岩谷堂城を攻略することが出来なかった。その後は、鍋倉城を築城し領内の富国強兵に努めたが、鱒沢、上野、平清水家ら有力家臣たにちの離反に苦しめられた。

阿曾沼広長【あそぬまにろなが(1563~1600)】

阿曾沼広郷の男。通称孫三郎。1600年、横田城は、阿曽沼広長が「越後長尾家討伐」に出陣中、南部家に支援された鱒沢広勝、上野広吉、平清水景頼らの謀反によって落城した。阿曽沼広長は南部家に支援された鱒沢勢と戦を避け、気仙郡世田米城主宇夫方広久を頼って落ち延びた。1601年、遠野領の盟主となった鱒沢広勝は、気仙郡世田米で遠野奪還の準備をしている阿曾沼広長の機先を制すべく、遠野勢を率いて気仙郡内へ攻め込んだ。阿曾沼勢は大将格、浜田喜六が討死するが、寄せ手の総大将、鱒沢広勝を討ち取った。大将を失った遠野勢は撤退する。1602年、阿曾沼広長は伊達政宗の後援を得て遠野に侵攻する。阿曾沼広長は遠野に攻入れば、旧臣達が寝返ると考えていたが、寝返る者はなく気仙勢は撤退を余儀なくされる。阿曾沼広長に従い遠野奪還を図る松崎監物、興光寺負靭の両侍大将は戦い続けたが両将とも討死した。

阿曾沼家臣団【あそぬまけかしんだん】

阿曾沼四郎広縄、阿曾沼主計広重、阿曾沼民部少輔秀範、阿曾沼常陸入道了哲、阿曾沼又五郎、附馬牛中務入道玄浄、附馬年内蔵助、山口金右衛門、西風舘大学廣敏、大槌孫八郎廣紹、大槌久右衛門廣重、大槌久八郎、菊池半太夫、菊池半左衛門武長、細越与三兵衛敏廣、細越与三郎敏継、細越長十郎備材、菊池治部助時成、畠中五郎八、畠中藤七、平原備後吉武、平原助左衛門吉成、菊池与十郎、内城四郎左衛門吉昭、内城治兵衛吉輝、内城治兵衛吉正、宮杜主水祐武、鬼柳十郎兵衛祐光、十二ケ村弾正、十二ケ村帯力益種、平清水刑部入道禅門、平清水出雲、新谷新右衛門、菊池帯刀、新谷庄作、新谷六兵衛、新谷六右衛門、熊谷安右衛門、小友喜左衛門、松崎監物、大沢寺浄玄房、白岩左衛門、興光寺靭負、浅沼忠次郎、浅沼藤次郎、金沢臼太郎、浅沼清左衛門、栃内勾当慶都、栃内小左衛門廣重、栃内善兵衛、栃内善右衛門、高屋左近則政、高屋四郎左衛門恒延、高屋三弥恒宣、高屋才六則之、高屋八右衛門恒方、高屋才四郎則房、下川原玄蕃恒忠相、下川原利左衛門恒長、及川民蔵恒明、月舘右京、新田平作、大原新右衛門、板沢平蔵、菊池成景、石田宗順、平倉新兵衛、細越惣兵衛、山口修理、達曾部光俊、柏館新五左衛門、浜田喜六。

安土日向守【あづちひゅうがのかみ(15??~15??)】

西磐井郡平泉館主。葛西家臣。

猪去(斯波)詮義【いさりあきよし(1505~1569)】

高清水斯波家臣。斯波詮高の三男。家系は清和源家の一流河内源家の流れを汲む足利家枝連衆、高水寺斯波家の出身。斯波詮高が南部家より雫石村を奪取すると、父により次兄雫石(斯波)詮貞が雫石城主に、猪去詮義が猪去城に居館を構えた。足利将軍家と祖を同じくする足利家の枝連衆であることから、猪去御所と尊称された。

猪去義方【いさりよしたか(15??~15??)】

猪去詮義の男。猪去義方は一貫して宗家に忠義を尽くしたが、主家を失い花巻に逃れ身を隠しながら余生を終えた。

猪去久道【いさりひさみち(15??~15??)】

猪去義方の男。斯波家宗家を支え、猪去御所を守護していたが、斯波家は斯波詮直の代になり南部家に攻め滅ぼされた。猪去久道は花巻に隠棲していたところを北信愛に召し出された。1612年、南部政直の家臣となる猪去家は盛岡藩士として続いた。

一戸(千徳)孫三郎【いちのへまごさぶろう(15??~15??)】

下閉伊郡千徳城主。一戸(千徳)家は戦国期に三戸南部家の家臣団に組み込まれた。1592年、城主一戸孫三郎が朝鮮出兵に出陣した留守中に、千徳城は南部家により破却された。以後の千徳家の消息は不明。

一戸家臣団【いちのへけかしんだん】

近内長左衛門為如、近内長右衛門為矩、近内長之丞光抄長。

一方井安正【いっぽういやすまさ(15??~15??)】

岩手郡一方井城主。官途は丹後守。一方井家は岩手郡に勢力を広げた三戸南部家の支配下に組み込まれた。1592年、一方井城が廃城になるまで在城した。三戸南部家の岩手郡支配の重要拠点として機能した。1546年、南部信直は、石川高信と一方井城主一方井安正の娘柴山芳公との間に一方井城で誕生した。一方井安正は三戸南部家のため、米内右近、栗谷川仁佐衛門らと協力し、南北から日戸、玉山、下田、渋民、乙部、大釜らの諸豪族を攻略した。

一方井家臣団【いっぽういけかしんだん】

一方井刑部入道禅門、一方井孫次郎安元、一方井刑部少輔安信、一方井孫次郎安行、一方井刑部安武、一方井九助安忠、一方井甚兵衛安定。

今坂遠江守【いまさかとおとうみ(15??~15??)】

気仙郡槻館城主。葛西家臣。

今坂信濃守【いまさかしなののかみ(15??~15??)】

今坂遠江守の男。今坂信濃守のとき主家は没落し、今坂家も運命をともにした。

藤沢岩淵経文【いわぶちつねふみ(1496~1565)】

東磐井郡藤沢城主。岩淵経定の男。葛西家臣。官途は伊勢守。通称は善二郎。室は千葉忠胤(下油田城主)の娘。勇猛で知られた。

岩淵経房【いわぶちつねふさ(1540~1589)】

岩淵経文の男。官途は駿河守。通称は善三郎。室は永井信敏の娘。

岩淵秀信【いわぶちひでのぶ(15??~15??)】

岩淵経房の男。官途は豊前守。通称は久二郎。室は黒沢信久の娘。勇名を馳せた。1590年、奥州仕置のあと熊野倉館に移住した。

岩淵信時【いわぶちのぶとき(15??~15??)】

磐井郡曽慶城主。岩淵秀信の男。官途は新蔵人。1568年、金鶏城主千葉茂成と争った。主家の滅亡により没落した。

岩淵元秀【いわぶちもとひで(15??~1591)】

岩淵信時の男。葛西家臣。官途は兵庫頭。桃生郡深谷において伊達政宗により謀殺された。

岩崎義彦【いわさきよしひこ(15??~15??)】

和賀郡岩崎城主。和賀家臣。通称は弥右衛門。1590年、羽柴秀吉の「小田原攻め」に和賀義忠は参陣せず改易となり、岩崎義彦も没落した。1600年、一族と共に和賀義忠の弟忠親を擁立。岩崎城に立て籠もり和賀家再興の一揆を起こすが、この時の一揆の首謀者が旧岩崎城主岩崎義彦であった。1601年、一揆軍は伊達家の支援を受けたが、九戸城主南部利直軍の攻撃を受け、岩崎城は落城した。和賀忠親とともに伊達領に落ちるが、最後は和賀忠親と共に伊達家に自刃に追い込まれた。

岩清水義長【いわしみずよしなが(1554~1588)】

高清水斯波家臣。斯波詮直に仕えたが、斯波詮直が遊興にふけって政務を疎かにしたため、何度も諫めたという。だが暗愚な斯波詮直は聞き入れず、これが原因で岩清水義長の弟岩清水義教が石清水城で反乱を起こす結果となる。岩清水義長は弟の反乱に激怒して石清水城を攻めるが、岩清水義教の要請でやって来た南部信直の軍勢に敗れ、高水寺城に逃れる。斯波詮直が高水寺城から逃亡した後も南部軍に対して徹底抗戦を貫き、忠誠を尽くして討死した。

岩清水義教【いわしみずあきやす(1547~1601)】

高清水斯波家臣。斯波家が再び南部家に対して劣勢に立たされるようになると、主家の行く末に不安を覚え、簗田詮泰とともに南部家に内通した。斯波家の没落の原因を作った。

石清水義因【いわしみずよしいん(15??~1601)】

石清水義教の子。官途は蔵人。主家の滅亡後花巻に居住した。1591年、花巻城主北信愛に召し出されるが1601年「岩崎の戦い」で討死した。

石清水義氏【いわしみずよしうじ(15??~1660)】

石清水義因の男。1600年、岩清水家の家督を相続。1627年、南部政直に仕えた。

岩手郡豪族衆【いわてぐんごうぞくしゅう】

上関右衛門光成、上関源兵衛康光、上関右衛門正金、鵜飼宮内秀純、鵜飼治部右衛門秀路、渋民利兵衛秀勝、渋民理兵衛秀吉、渋民六郎兵衛政国、河村小三郎直秀、上田越前貞倚、上田弥兵衛貞方、上田弥七郎貞治、上田九郎助清貞、上田采女貞就、上田傅之丞貞之、上田太兵衛貞友、上田兵部忠武、上田兵部忠重、上田永宅福章、菊池勘解由武照、菊池久助武次、菊池久助武定、矢幅又右衛門定政、矢幅八右衛門愛政、矢幅八右衛門政武、矢幅八兵衛政義、田口善五郎高藤、田口長松藤峯、田口庄左衛門清藤、田口弥左衛門藤好、鵙逸左衛門次郎、鵙逸弥五郎、鵙逸弥五右衛門、鵙逸弥左衛門、帷子豊前吉平、帷次郎五郎吉真、帷多左衛門吉松、帷子惣右衛門吉明、鎌田和泉守、鎌田六右衛門政珍、舘市但馬守、河原掃部、太田将監、南舘右京、元信弥六、浅岸弥五郎、橋場下総、阿部新右衛門、御明神右京、用沢甚右衛門。

宇夫方広本【うおかたひろもと(15??~1557)】

上閉伊郡世田米城主。阿曽沼家麾下の城主。1557年、宇夫方広本は葛西勢の夜襲を受けて、宇夫方広本、嫡男宇夫方広将、次男宇夫方亦次郎が討死した。

宇夫方広久【うおかたひろひさ(15??~1636)】

宇夫方広本の三男。1557年、父と二人の兄は葛西家に敗れ討死。幼少のため母と共に達曾部に逃れる。1600年、上野館にいたところを鱒沢広勝の謀反に遭う。阿曾沼広長の妻子を世田米まで送り届けると、阿曽沼広長の軍に加わり鱒沢らと戦った。宇夫方広久は気仙勢を率いて遠野奪還戦を挑んだ「赤羽根峠の戦い」で、遠野方で板沢館主(上郷町)の板沢平蔵と一騎打ちを演じ、板沢に瀕死の重傷を負わせる。自身も三度目となる奪還戦「小友樺坂峠の戦い」で深傷を負い、安俵に養生と共に隠遁した。

宇夫方広道【うおかたひろみち(15??~15??)】

宇夫方広久の男。通称清左衛門。1607年、南部利直により遠野へ移封となった八戸直義に仕え、綾織村の内を知行、下郷の代官となった。新田の開発に心血を注ぎ、綾織に苦労の末、角鼻堰を造り80町歩の新田を開墾した。

宇夫方家臣団【うおかたけかしんだん(15??~15??)】

栃内兵部、宇夫方掃部、宇夫方八郎右衛門、宇夫方多兵衛。

上野広吉【うえのひろよし(15??~15??)】

上閉伊郡谷地館。阿曽沼家臣。阿曾沼家没落後は南部家に仕え横田城代。1600年に阿曽沼広郷の子阿曽沼広長は南部利直に従い最上に出陣しましたが、留守中に一族の鱒沢館主鱒沢広勝、上野広吉、平清水景頼が叛乱を起こし遠野郷を実質支配しました。阿曽沼広長は住田の世田米修理を頼り世田米に居住し、伊達正宗の支援を受けて遠野郷を奪回わ図ったが、南部家の支援を受けた鱒沢家に敗退を繰り返し、阿曽沼家は次第に没落しました。

薄衣清貞【うすぎぬきよさだ(15??~15??)】

東磐井郡薄衣城主。葛西家臣。東磐井郡惣領職。1510年、薄衣清貞は朝日城主金沢冬胤を攻撃するため北上川を渡り金沢郷に出陣しますが、この戦は金沢勢の勝利で終結したため、以後 薄衣家の勢力は衰退した。しかし戦国中期以降、葛西領内では内乱が続くことになる。

薄衣清正【うすぎぬきよさだ(15??~15??)】

薄衣清貞の男。1561年、薄衣清正は鳥畑城主鳥畑胤堅を攻撃して胤堅を大原に退去させた。1571年、富沢家と結び流荘に派兵しています。1580年、薄衣甲斐守胤次は葛西太守の名代として上洛していることから、この頃、薄衣家は再び葛西家中の有力な勢力になっていた。

薄衣胤勝【うすぎぬたねかつ(15??~1590)】

薄衣清正の男。葛西家旧臣は太閤検地に反対する一揆を起こし、薄衣甲斐守胤勝は、一揆に加担して栗原郡森原山に出陣し奥州仕置軍と対峙しまするが、桃生深谷で伊達家により謀殺された。甲斐守の死去により薄衣家は没落した。

江刺重親【えさししげちか(15??~15??)】

江刺郡岩谷堂城主。江刺郡惣領職。官途は三河守。江刺重親は江刺隆見に替わって江刺家を称し、岩谷堂城で江刺郡総領職として北方ににらみをきかせます。江刺重親には三人の子があり、長男彦太郎重任(重治)は播磨守を称して江刺家を、三男彦三郎晴信は左京大夫称して葛西宗家をそれぞれ継いだ。1538年、気仙郡高田の千葉胤継および矢作重村らを「伊手村の戦い」で討ち取った。江刺重任は父に先立って死去に伴い江刺重胤が江刺家督を相続した。

江刺輝重【えさしてるしげ(15??~15??)】

江刺重親の男。官途は三河守。1542年「伊達天文の乱」に際しては伊達晴宗方として活躍した。1545年、江刺重胤は、北条氏康と絶って関東管領上杉憲政と結び、ともに河越城を攻撃した古河公方足利晴氏から軍勢催促状を受けた。江刺重胤が葛西宗家に比肩する勢力を築いていたことを示している。江刺重胤は、葛西宗家が勢力を得るに従って次第に勢力を伸ばし、葛西家中に強固な地位を占め、従前の江刺家を圧して葛西家の一方の旗頭に据えられるまでに至った。次男如清を人首村に(人首氏の祖)、三男帯刀を口内村に(口内氏の祖)配し郡内を固めた。江刺重胤は能筆家として有名だった。

江刺重胤【えさししげたね(15??~1573)】

江刺輝重の男。1566年、出羽の秋田近季が南部領の鹿角を攻撃したとき、家臣の栗生沢治兵衛と鴬沢藤一郎らに兵300の援軍を派遣した。しかし、戦況は南方に不利で、彼らは途中で秋田近季が敗れたことを知らされ兵をかえした。1571年、伊達輝宗、伊達政宗父子の葛西領の攻撃の際には宗主葛西晴胤とともに迎え撃ち、部下の高屋豊前の奪戦により伊達軍を撃退して武功をあげた。

江刺重恒【えさししげつね(15??~15??)】

江刺重胤の男。官途は兵庫頭。主家没落により失領したが、奥州仕置を行った浅野長政により、稗貫郡新堀城1500石を領した。

江刺隆重【えさしさとしげ(15??~1591)】

江刺重恒の養嗣子。1591年、桃生郡深谷において伊達政宗により謀殺された。

江刺胤虎【えさしたねとら(15??~15??)】

江刺家枝連衆。1590年「神取川の戦い」に従軍。主家滅亡後南部家に仕えた。

江刺家臣団【えさしけかしんだん】

栃内勾当慶都、栃内小左衛門重広、栃内小左衛門重任、松田検校印都吉高、松田清左衛門吉勝、松田清右衛門吉政、松田清左衛門吉智、、高屋四郎左衛門恒延、高屋左近則政男、高屋三郎左衛門恒宣、高屋善右衛門恒之、高屋傅左衛門恒高、高屋才六則久、高屋仁左衛門儀明、高屋六左衛門吉倚、高屋八右衛門恒方、高屋長五郎吉勝、高屋長左衛門吉当、下河原玄蕃恒忠、下河原利左衛門恒長、下河原勘右衛門恒光、下河原文次郎恒算、及川武蔵恒明、下河原玄蕃恒忠長男、下川原武右衛門恒元、下川原武兵衛広恒、羽黒堂彦市茂道、羽黒堂八左衛門正道、松川忠左衛門茂吉、松川藤四郎恒徳、鈴木刑部広重、鈴木弥五右衛門家元、鈴木弥傳治茂愛、鈴木次郎右衛門愛次、長坂備中信胤、長坂刑部胤方、長坂次郎兵衛胤屋、長坂市郎左衛門胤良、百岡藤左衛門廣胤、鴨澤左馬助恒典、鴨繹角兵衛恒充、鴨澤市太夫恒臺、鴨澤角兵衛恒作、鴨澤十兵衛恒篤、澤長兵衛恒中、鶯澤杢恒之、猪川式部知宗、猪川蔵人知清、猪川作兵衛真次、猪川作之丞展真、城彦次郎重能、城半右衛門重恒、城弥三右衛門義繁、城半右衛門義敷、千田茂兵衛元忠、三ノ関讃岐守、安蘇修理(人首如清)、羽黒堂修理(千葉対馬守)、栗生沢内記、抓木田大炉、菊池右馬允、角掛右近、菊池内膳、小沢右馬允、及川弥兵衛、江刺三河守、及川左近、次丸道海入道、菊池掃部(鴨沢)、菊池次郎、菊池敏勝、軽石冶兵衛、菊池左馬之允(歌書左近)、石関左近、及川若峡守。

江釣子吉資【えづりこよしすけ(15??~15??)】

和賀郡江釣子城主。和賀家臣。官途は民部少輔。1590年「小田原の役」に主家和賀義忠は参陣しなかったため和賀家は改易となった。1600年「和賀一揆」には、剛勇を謳われた江釣子吉資が和賀家に従って蜂起している。

江繋正朝【えつなぎまさより(15??~15??)】

下閉伊郡江繋館主。通称彦四郎。

江繋家臣団【えつなぎけかしんだん】

江繋伯耆守正光、江繋喜左衛門正義。

蛯島盛永【えびしまもりなが(15??~15??)】

西磐井郡蛯島城主。葛西家臣。通称蔵人。1590年「神取山の戦い」で活躍している。

及川頼家【おいかわきよひで(1515~1559)】

東磐井郡鳥海城主。葛西家臣。官途は豊後守。1529年、葛西本城寺池城で千葉信近と口論になり、千葉信近を殺害する。及川頼家は改易されるが、及川枝連衆は不当な処罰であると蜂起。鳥海城に籠もり、大原家と三度に渡り戦いったが、1530年に落城した。

及川清貞【おいかわきよさだ(15??~1590)】

気仙郡白鳥城主。葛西家臣。通称左衛門五郎。1590年、主家滅亡の際に討死した。

及川綱重【おいかわつなしげ(15??~15??)】

気仙郡蛇ヶ崎城主。浜田家麾下の城主。官途は掃部頭。1588年「浜田安房守の乱」では、及川重綱が仲介して鎮圧した。

及川直澄【おいかわなおずみ(15??~1590)】

葛西家臣。通称弥兵衛。1590年、高清水にて討死した。

及川家臣団【おいかわけかしんだん】

東磐井郡築館主:及川清栄、東磐井郡猿沢城主:及川信次、東磐井郡川股城主:及川信政、東磐井郡遅沢城主:及川義高、東磐井郡中川城主:及川義照、東磐井郡津谷川城主:及川頼兼。

大萱生(河村、鷲内)秀定【おおがゆへでさだ(15??~15??)】

高清水斯波詮真家臣。官途は飛騨守。河村家庶流の大萱生、栃内、江柄、日戸、渋民、川口、沼宮内等諸家の内の一つ。大萱生秀定は斯波詮愛に仕え、その剛勇さを買われて鷲内の姓を与えられた。

大萱生秀重【おおがゆひでしげ(15??~1641)】

大萱生秀定の男。官途は玄蕃。斯波詮基家臣。梁田、石清水家と同様、南部家に内通する。斯波家滅亡後、南部家より知行を与えられた。1589年、斯波詮直が大萱生の館に来て援助を願ったので匿ったところ、南部信直の怒りを買い、大萱生の館を攻められて敗走する。

大田代伊予守【おおたしろいよのかみ(15??~1587)】

江刺信時家臣。菊池恒邦の男。1584年、主君江刺信時が葛西家に叛いたため、これを諌めようとしたが却って討たれた。江刺重恒は家臣の小田代肥前、大田代伊予守、栗生沢内記と共に和賀郡田瀬に亡命している。息子太田代清也は葛西家滅亡後南部家に仕えた。

大田代家臣団【おおたしろけかしんだん】

大田代宮内清也、大田代弥平次正也、大田代兵右衛門清邑、大田代兵右衛門吉保。

太田民部少輔【おおたみんぶしょうゆ(15??~15??)】

和賀家臣。1558年、太田主膳は和賀薩摩守義勝に背いたため糾弾されたと記されています。「奥州仕置」で和賀氏が没落すると太田民部少輔は南部信直に出仕して800石の所領を安堵され、1591年「九戸実政の乱」では嫡子伊右衛門とともに信直方として参陣した。1600年「和賀、稗貫一揆」でも岩崎城攻略戦に参陣している。。

大槻泰常【おおつきやすつね(15??~1591)】

磐井郡大槻城主。寺崎家臣。官途は但馬守。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗により謀殺された。

大槌右近【おおづつさこん(15??~15??)】

稗貫郡大迫城主。稗貫家枝連衆。南北朝、室町期に宗家稗貫家と行動をともにした大迫家も、戦国期には和賀家・江刺家と婚姻関係を結び、九戸政実と誼を通じるなど、宗家稗貫家から独立した領主として行動するようになり、1558年、稗貫家と軍事衝突を起こすようになった。1590年の羽柴秀吉の「小田原攻め」に鳥谷ケ崎城主稗貫広忠は参陣せず領地没収、改易となり、大槌城主大槌右近も追放になった。1600年の「和賀、稗貫一揆」で大迫右近の子又三郎、又右衛門兄弟は大槌城を襲撃し奪還に成功しましたが、その後南部勢に攻められ大槌城は落城し、又三郎は討ち死に又右衛門は盛岡城で処刑されました。

大槌広信【おおづつひろのぶ(15??~15??)】

上閉伊郡大槌城主。通称は孫八郎。阿曽沼家臣。1591年「九戸の乱」では阿曽沼広長とともに三戸城主南部信直勢に従軍しています。1600年、鱒沢館主鱒沢広勝による遠野制圧で、阿曾沼広長は遠野を追われ世田米に居住しましたが、大槌広信は阿曾沼広長支持の姿勢を崩さず、伊達政宗の支援を受け遠野奪還を目指した阿曾沼広長とともに遠野郷に侵攻しました。三戸南部家の支援を受けた鱒沢家に降伏し伊達領に落ちのびた。

大槌政貞【おおづつまささだ(15??~15??)】

大槌広信の男。1616年、大槌広信の後を継いだ大槌政貞は南部利直の謀略で自刃した。

大槌家臣団【おおづつけかしんだん】

挾田越前守、芳賀刑部。

大槌家臣団【おおつつけかしんだん】 

八木沢備中守、白岩越後守、平綿土佐守、田中隠岐守。

大野弥五朗【おおのよごろう(15??~15??)】

九戸郡大野館主。1591年、「九戸政実の乱」で大野弥五朗は九戸政実に与して九戸城に籠りましたが討死にしたとされ、大野館は九戸城落城後 南部信直方の石塔勢の攻撃を受けて陥落した。

大原信胤【おおはらのぶたね(15??~15??)】

東磐井郡大原城主。1504年、東山折壁郷において、上折壁家と遠藤家が衝突し、気仙郡横田、矢作郷を中心に気仙の浜田家と東山の大原信明が衝突した。葛西領内も確実に戦国の風が吹き荒れるようになったのである。合戦は大原方の勝利に終わったようで、大原信明の麾下として出陣した熊谷直恒は、戦功によって葛西重信から所領を給せられたと伝えられている。「大原、浜田の戦い」の原因は不明だが、大原直恒の一件から、私闘ではなく大守葛西家に公認されたものであったようだ。おそらく、浜田家が大守に反抗を企て、大原信明が葛西家の重臣として追討にあたった。

大原信茂【おおはらのぶしげ(15??~1590)】

葛西晴胤の次男。大原信明の養子。官途は飛騨守。1700騎大将の旗頭衆である大原家の家督を相続した。1542年、伊達家中に「天文の大乱」とよばれる内紛が発生した。伊達稙宗、伊達晴宗の父子が不和となり、ついに、伊達晴宗が父伊達稙宗を幽閉したことが乱の始まりであった。この伊達家の内紛に、奥州の諸大名は、伊達稙宗派と伊達晴宗派とに分かれて互いに抗争する事態となった。葛西家では大原家、富沢家・柏山家らの大身は伊達晴宗派に属したが、葛西晴清は伊達稙宗の子で葛西家に養子として入っていたために、父伊達稙宗に協力した。このため葛西家中は二派に分かれ、葛西領内は騒擾することになった。

大原重光【おおはらしげみつ(15??~1591)】

葛西家臣。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗により謀殺された。

大原家臣団【おおはらけかしんだん】

南小梨定胤、篠崎信直。

大和田掃部【おおわだかもん(15??~1591)】

磐井郡広田城主。浜田家臣。1587年「浜田兵乱」に巻き込まれ、主君葛西晴信を恨むところがあった。1591年桃生郡深谷において伊達政宗によって謀殺された。

奥玉(千葉)胤時【おくたまたねとき(15??~15??)】

東磐井郡立花城主。1591年、桃生郡深谷にて討死した。祖父奥玉輝胤から三代で奥玉家は滅亡した。

小田代氏基【おだようじもと(15??~15??)】

田瀬城主。官途は肥前守。

小田代家臣団【おだいけかしんだん】

小田代蔵人恒真、小田代兵部恒弘、小田代備後恒道、小田代弥兵衛定、小田代久右衛門恒政、小田代又右衛門恒次。

乙部義説【おとべよしとく(15??~15??)】

斯波郡乙部館。斯波家臣。官位は治部。主家である斯波家滅亡後、乙部義説は南部家に仕官した。

鬼柳伊賀守【おにやなぎいがのかみ(15??~15??)】

鹿島館主。和賀家臣。

小野寺宗道【おのでらむねみち(15??~15??)】

胆沢郡金ケ崎城主。葛西家臣。1582年、南部家臣九戸政実の侵入を受け、居城金ヶ崎城にてこれを迎撃した。

小野寺肥後守【おのでらひごのかみ(15??~15??)】

小野寺宗道の男。1582年、南部臣九戸政実の金ヶ崎城攻撃の際、達曽部信濃守を討取った。

小山明長【おやまあきなが(1558~1591)】

胆沢郡小山城主。柏山家臣。柏山明吉の次男。通称は九郎。折居明久とともに柏山家屈指の荒武者。1581年、柏山家の内紛で折居明久とともに柏山家老三田将監を謀殺した。

折居明久【おりいあきひさ(1561~1591)】

胆沢郡折居館主。柏山家臣。柏山明吉の四男。通称は嘉兵衛。小山明長とともに柏山家屈指の荒武者。1581年、柏山家の内紛で兄明長とともに家老三田将監を殺害。葛西大崎一揆では一揆方の総帥として水沢に侵攻した。

折居明忠【おりいあきただ(15??~15??)】

折居明久の男。

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【か】

柏山明吉【かしやまあきよし(1530~1591)】

胆沢郡大林城主。胆沢郡惣領職。葛西家麾下の城主。官途は伊勢守。1565年、胆沢郡西根城主新渡戸頼長を滅ぼす。1580年、柏山明吉の長男柏山明国と次柏山男明宗の間に後継者の地位をめぐって内紛がはっせい、さらに周辺の豪族とも争いを引き起こすことになったため、次第に勢力を衰退させた。勢力は沈滞した。奥州征伐のとき浅野長政の攻撃を受けて没落した。1534年、柏山明吉は南部勢と戦った。戦いに出陣した石川越後守は、南部衆の北七郎、六戸弥太郎をはじめとして馬上十騎、雑兵らを討ち取った。これに対して柏山家は胆沢郡下で八千刈、磐井郡下で七千刈、計一万五千刈を恩賞として給付している。これは抜群の戦功であり、恩賞であった。伊達稙宗と晴宗父子の不和から起った伊達家の内訌である「天文の大乱」では、柏山明吉は伊達晴宗派として参戦した。この乱における伊達稙宗派との戦いの戦功に対して、葛西高信と柏山明吉が、柏山家の家臣団に恩賞を競争するようにして出している。

柏山明国【かしやまあきくに(15??~15??)】

柏山明吉の男。

柏山明宗【かしやまあきむね(15??~15??)】

柏山明吉の次男。息子の柏山明助は、南部家に仕官したが、剛勇すぎ、疑心を抱かれ毒殺された。

柏山常治【かしやまつねはる(15??~15??)】

胆沢郡前沢城主。柏山枝連衆。

柏山家臣団【かしやまけかしんだん】

折居嘉兵衛明宗、折居三九郎明、折居嘉兵衛明次、柏葉甚兵衛常永、柏葉安右衛門常行、柏葉長九郎常房、柏葉安右衛門常令、三田将監義勝、三田玄蕃義則、三田十郎左衛門義正、及川武蔵恒明、千田部豊後守、机地相模守、大内源次郎。

口内帯刀【くちないたてわき(15??~15??)】

江刺郡上口内城主。江刺重胤三男。官途は帯刀。

口内隆朝【くちないたかもと(15??~15??)】

口内帯刀の男。1590年、江刺家が羽柴秀吉の奥羽仕置により所領没収となった。それに伴い、口内家の宗家、江刺家は岩谷堂城を退去し、口内隆朝も口内城を明け渡した。1591年に南部信直に仕官した。

口内重幹【くちないしげもと(15??~15??)】

口内隆朝の男。通称は彦次郎。

苅屋金蔵【かりやきんぞう(15??~15??)】

下閉伊郡苅屋館主。戦国期に宗家田鎖家は南部家の被官に組み込まれ、苅屋家も同様に南部家の傘下に組み込まれたと考えられます。田鎖家は戦国末期に南部家により改易になった。

苅屋家臣団【かりやけかしんだん】

苅屋五兵衛為勝、苅屋長五郎為房、苅屋源吾為正、苅屋左衛門、苅屋越中守、苅屋弥一郎親正。

亀ヶ崎光広【かめざきみつひろ(15??~15??)】

稗貫郡亀ヶ森館主。稗貫家臣。官途は図書。1540年、没落した八十沢家に代わり亀ヶ森館主になった。1557年、稗貫為嗣に背く。槻本光治、矢沢治真に攻められるが、逆に槻本光治を討って稗貫勢を撃退した。

川口秀長【かわぐちながひで】

岩手郡川口城主。官途は左近。

川口家臣団【かわぐちけかしんだん】

川口与十郎秀影、川口与十郎秀寛、川口主水秀信、川口主税秀定。

金沢信胤【かなざわのぶたね(15??~1591)】

西磐井郡金沢城主。寺崎千葉家枝連衆。官途は伊豆守。弟の信継はが寺崎家の養子に入った。1591年、桃生郡深谷で伊達家と戦って負傷、自刃した。

河村秀政【かわむらひでまさ(15??~15??)】

斯波郡大巻館主。斯波家臣。1570年、三戸南部家が岩手郡への侵攻を開始すると斯波家は防戦に終始し、九戸政実の弟中野直康を娘婿とすることで南部家と和睦した。1586年、中野直康が斯波詮直と不和になり三戸へ出奔する事件が勃発すると、南部信直は斯波領との「境目」中野館に中野直康を配置して斯波詮直を挑発します。1588年、斯波詮直は中野館を攻撃しますが、南部家の蝶略で岩清水右京がクーデターを起こすと南部勢は南下を開始し、このため斯波家は敗北を喫して滅亡しました。南部家南下に際して河村一族は内部分裂して斯波勢には参陣せず、大巻河村家は斯波家とともに没落した。

河村家臣団【かわむらけかしんだん】

河村覚右衛門秀徳、河村作内秀満、河村喜助、河村右近秀久。

菊池喜左衛門【きくちぜんざえもん(15??~15??)】

上閉伊郡奥友館主。阿曽沼家臣。鱒沢広勝同様に阿曾沼広長に謀反し、南部家に寝返る。「大坂冬の陣」には15人を率いて参加した。

菊池恒邦【きくちつねくに(15??~15??)】

江刺郡青篠城主。江刺信時家臣。通称右近。1587年主君江刺信時を諌めたが、却って息子大田代伊代守が討たれたため、菊池恒邦は逃亡した。

菊池家臣団【きくちけかしんだん】

菊池半左衛門武長、菊池半之丞長則、菊池金十郎則武。

亀掛川信重【きけかわのぶしげ(15??~15??)】

東磐井郡仏沢城主。仏坂蔵人の養子。

亀掛川堅久【きけかわかたひさ(15??~15??)】

亀掛川信重の男。

亀掛川信秀【きけかわのぶひで(15??~15??)】

東磐井郡濁沼城主。亀掛川信重の男。1550年、亀掛川一族に内乱が起こり、新山城主亀掛川師兼勢に攻められ、大原家を頼り落ちた。

葛巻政祐【くずまきまさすけ(15??~15??)】

岩手郡葛巻城主。厨川工藤家臣。葛巻家は鎌倉初期、「奥州討伐」の軍功により陸奥国岩手郡の地頭職を得た鎌倉御家人厨川工藤家庶流。三戸南部家の支配下に置かれた厨川工藤家枝連衆の葛巻地頭職を得て入封した。1591年に勃発した「九戸の乱」時の葛巻政祐は九戸政実の娘婿でしたが、南部信直方に与して軍功をあげ、乱後加増を受けて岩手郡の一方井城に移封しました。

久慈信義【くじのぶよし(15??~15??)】

久慈郡久慈城主。久慈治義の男。官途は三河守。通称与三郎。室は九戸家の娘。

久慈五郎【くじごろう(15??~15??)】

久慈治義の三男。

久慈直治【くじなおはる(15??~1591)】

久慈信義の男。官途は備前守。南部家嫡流の南部時政の男南部備前守信実が久慈修理助治政の養子となり久慈家の家督を相続した。久慈直治は九戸信仲の三男中務政親(政則)を娘婿とした。久慈政則と共に「九戸政実の乱」に参戦し誅殺された。

久慈政則【くじまさのり(15??~1591)】

久慈直治の男。1591年「九戸政実の乱」では九戸政実方に与して、久慈政則とともに九戸城に籠城しました。しかし乱は九戸方の降伏で終結し、久慈直治、久慈政則父子は捕縛され、栗原郡三迫で処刑されました。

厨川工藤茂道【くどうしげみち(1539~1588)】

岩手郡厨川城主。高清水斯波家麾下の城主。官途は雅楽允。厨川工藤家は、鎌倉以来の地頭として勢力を有したが、三戸南部家に併呑され、岩手郡三十三郷は他氏の手に渡り、わずかに近郊十ケ村を領するだけになった。1588年、斯波詮直が南部家に攻められた時、斯波詮直は高清水城から落ちたが、工藤茂道は城内にとどまり討死した。

厨川工藤光林【くどうみつもり(1539~1588)】

厨川工藤茂道の男。官途は兵部少輔。父厨川工藤茂道の代に三戸南部家に屈するようになった。1573年頃には厨川工藤家厨川工藤光林が南部信直に服従し、800石を安堵された。

厨川工藤家臣団【くどうけかしんだん】

厨川兵部光忠、厨川作兵衛光傅、厨川兵衛光基。

栗谷川義茂【くりたにかわよししげ(15??~15??)】

岩手郡栗谷川城主。通称小次郎。

栗谷川家臣団【くりたにがわけかしんだん】

栗谷川作兵衛満清、栗谷川五兵衛光房、東谷川五郎助光矩、栗谷川右衛門光中、栗谷川吉次光明、栗谷川兵右衛門光高。

小森林治部少輔【こもりばやしじぶしょうゆ(15??~15??)】

稗貫郡小森林館主。稗貫家1590年、「奥州仕置」で稗貫家は領地没収、改易となり小森林家も没落しました。1590年、和賀義忠は旧領回復を目指して一揆をおこした。この一揆は稗貫郡にも拡大し、矢沢・似内・桜田、高橋、瀬川家等の稗貫旧臣とともに小森林治部も参陣した。

今野貞澄【こんのさだずみ(15??~15??)】

磐井郡地千厩城主。葛西家臣。主家滅亡による没落。

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【さ】

茂市勝治【しげいちかつはる(15??~15??)】

下閉伊郡八幡館主。官途は将監。

茂市家臣団【しげいちけかしんだん】

茂市右近光実、茂市三太夫実福、茂市右近光金。

雫石詮貞【しずくいしあきさだ(1503~1567)】

岩手郡雫石城主。高清水斯波家臣。斯波詮高の次男。家系は清和源氏家一流河内源家の流れを汲む足利家の枝連衆、高水寺斯波家の出身。弟に猪去詮義がいる。父斯波詮高が南部家より奪取した雫石村を知行し雫石城主となった。足利将軍家と祖を同じくする足利家の枝連衆であることから、「雫石御所」と尊称された。

雫石詮貴【しずくいしあきたか(15??~15??)】

雫石詮貞の男。

篠崎信直【しのざきのぶなお(15??~15??)】

東磐井郡南小梨城主。葛西家臣。官途は三河守。1588年の浜田家と熊谷家の争い(浜田家の乱)では鎮圧軍として出動した。

高清水斯波経詮【しばつねあき(1500~1559)】

斯波郡高水寺城主。斯波郡惣領職。斯波詮高の男。高水寺斯波家は清和源家の一家系、河内源家の棟梁 鎮守府将軍源義家の子源義国を祖とする足利家枝連衆。父斯波詮高が寺築いた高水斯波家の隆盛の後を受け、斯波郡領国経営の安定化を図った。本拠、高水寺城主は「斯波御所」と呼ばれ、周囲に名家の権威を示した。

高清水斯波詮真【しばあきざね(1524~1573)】

斯波経詮の男。南部家の南下政策に押され、劣勢に立たされた。九戸信仲の四男、高田吉兵衛を養子に迎え、南部家と和睦した。

高清水斯波詮直【しばあきなお(1548~1597)】

斯波詮真の男。高水寺斯波家の最後の当主。南部晴政と戦って敗れ、実質的に高水寺斯波家は南部家の従属下に置かれていた。1582年、南部晴政と南部晴継が相次いで亡くなり、南部家内部で内乱が起こると、すかさず奪われていた岩手郡に侵攻し、そこを奪還した。ところが斯波詮直自身はあまり有能な人物ではなかったようで、遊興に耽って政務を顧みないことも少なくなかった。このため、家臣の石清水義長が諫言したが聞き入れることは無く、これに不満を持った石清水義教(義長の弟)や簗田詮泰らは南部信直と内通して石清水城で挙兵するほどであった。1586年、には有力重臣の高田吉兵衛(後の中野修理)が南部信直のもとに出奔するに至って高水寺斯波家の動揺は抑えきれないものとなり、1588年、南部信直の侵攻を受けて斯波詮直は敗れ、高水寺斯波家は滅亡した。

高清水斯波家臣団【しばけかしんだん】

稲藤大炊、貝志田主馬允、永井八郎延明、貝志田与三、十日市将監光久、伝法寺右衛門、徳田掃部、煙山七郎、日沼隼人、見前監物、松原半十郎、堀切兵庫助、藤沢花五郎、白沢百助、室岡源兵衛、細越五左衛門、鵜飼主膳正、鵜飼又十郎、鱒澤刑部丞、太田主殿助秀広、豊間根内記秀國、曹木田十郎兵衛、江柄兵部少輔、川村豊前秀久、江柄九郎兵衛次昌、中村作右衛門、栃内左近秀綱、星川左馬助、、清水善七郎、大釜薩摩政幸、多田孫右衛門忠綱、達曽部弥兵衛清綱、氏家弥右衛門義方、玉井庄兵衛、宮手彦右衛門英清、飯岡弥六郎祐貫、中島内膳安将、小屋敷権之助義長、大巻隼人、山王海太郎、乙部治部義説、長岡八右衛門詮尹、手代森大夫秀親、矢羽々又左衛門正紹、中村作兵衛秀峰、細川長門守、大川与左衛門基則。

下田秀祐【しもだひですけ(15??~15??)】

岩手郡下田館。通称弥三郎。南部信直から下田弥三郎秀祐が下田館を築いて下田家を名乗った。

下田家臣団【しもだけかしんだん】

下田内記秀邑、下田清之丞秀勝。

清水信精【しみずのぶよし(1567~1591)】

西磐井郡清水城主。葛西家臣。清水信光の男。官途は刑部少輔。1591年、桃生郡深谷にて伊達家により謀殺された。

白石時直【しらいしときなお (15??~15??)】

東磐井郡折戸館主。葛西家臣。官途は豊後守。主家滅亡後は伊達政宗に仕えた。

浄法寺重安【じょうほうじしげやす(15??~15??)】

二戸郡浄法寺城主。官途は修理介。三戸南部家麾下の城主。浄法寺家は6,000石を領した。浄法寺重安は「九戸の乱」では高齢のため出陣しなかった。南部家では、八戸家と九戸家、そしてこの浄法寺家が、他の家臣とは別格の存在だった。浄法寺一族が動けば、南部家は滅亡の危機に曝されるため、その怖れから頻繁に「浄法寺謀反」の噂が流されている。「一戸城の戦い」では、浄法寺重行と浄法寺主膳の企みにより、落城の汚名を着せられた。浄法寺重好は、三戸南部方の姿勢を堅持するようになった。九戸戦では、浄法寺重行は大湯四郎左衛門のいる鹿倉館に助太刀に向かったが、泥濘にはまり動けなくなったところを「浄法寺修理が攻めに来た」と誤解され射殺された。浄法寺枝連衆には松岡家から出た浄法寺家、松岡家から分かれた大森家、浄法寺家から分かれた太田、 駒ケ嶺、中川原、五日市、杉沢、田山、吉田、西舘、寺田の諸家がある。

浄法寺重好【じょうほうじしげよし(15??~15??)】

浄法寺重安の男。1601年「和賀の乱」を南部利直は一時休戦にして、和賀城に浄法寺重好を置き、三戸に帰った。和賀城を任された浄法寺重好は、部下を残したまま密かに浄法寺城へ帰ってしまった。 このことが後に戦陣の規律を破ったとされ、知行家禄屋敷を没収され、その身は蟄居となり、庶家の松岡家に預けられ浄法寺家は断絶した。

浄法寺家臣団【じょうほうじけかしんだん】

松岡尾張守、松岡助四郎、松岡惣左衛門、松岡七右衛門、松岡民部政興、松岡内蔵助政成、松岡武兵衛政体、松岡万三郎政供、太田源四郎忠族、太田源四郎忠能、太田源兵衛忠則、太田源太夫忠継、駒ヶ嶺内膳保忠、駒ヶ嶺四郎太夫忠武、駒ヶ嶺治郎忠則、吉田忠近忠徳、吉田作七忠行、田山八兵衛忠旦、西舘将監忠珍、西舘四郎右衛門忠茂、田山八太夫重防、五日市兵庫忠教、五日市左近忠岩、有居忠兵衛、大森十太夫忠善、大森弥兵衛忠今、大森庄五郎忠安、畠山左馬助、畠山孫七忠保、中川原小兵衛忠有、畠山善蔵正和、駒ヶ嶺喜成正国、駒ヶ嶺善蔵正勝、畠山甚兵衛光元、畠山治右衛門光成、浦田久六光正、杉村六左衛門光寛、杉村六郎右衛門光福、杉村六左衛門光昌、杉村次郎右衛門吉矩、野続甚五郎久業、野続喜膳久徳、野続慶卜一久、野続源内一光、松岡藤右衛門正吉、駒ヶ嶺兵右衛門正家、駒ヶ嶺兵左衛門義利、駒ヶ嶺武兵衛好忠、大森七右衛門盛常、大森五郎右衛門盛定、大森甚右衛門盛秀、大森助十郎盛重、大森利兵衛盛光、大森助之丞忠時、佐藤助左衛門正良、佐藤庄左衛門良正、佐藤庄左衛門近良、佐藤庄兵衛政常、佐藤専右衛門正道、佐藤庄之助正房、安ケ平喜右衛門義重、安ヶ平喜右衛門義範、安ヶ平善右衛門義配、関与平治定政、関与八郎定久、関七之助定。

煤孫治義【すずまごはるよし(15??~15??)】

和賀郡下須々孫城主。和賀家臣。官途は下野守。子の煤孫義甫、煤孫隆義と共に岩崎一揆に参加。煤孫隆義は一揆勢力の中心人物の一人となった。

瀬川隠岐守【せがわおきのかみ(15??~15??)】

稗貫郡大瀬川館主。稗貫家臣。斯波家の抑えとなる。稗貫家とともに没落し、和賀、稗貫一揆に参陣した。後に南部家に仕える。

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【た】

高館吉之【たかやかたよしゆき(15??~15??)】

高館主。和賀家臣。官途は宮内少輔。

高館家臣団【たかやかたけかしんだん】

菊池重長。

田鎖政光【たぐさりまさみつ(15??~15??)】

下閉伊郡田鎖城主。閉伊久朝の男。田鎖家は松山館主白根家、折壁館主の伊藤家、苅屋家、和井内家など幾度となく四隣の土豪たちと戦ったが、常に他領に軍を進めて戦い、田鎖領城が戦火にまみえることはなかった。

田鎖光好【たぐさりみつよし(15??~15??)】

田鎖政光の男。官途は遠江守。1591年「九戸政実の乱」で、九戸、南部どちらの陣営にも着かず千徳家と共に中立していた。1592年、朝鮮出兵で肥前名護屋へ出向いている隙に、南部家に田鎖城を破却され没落した。

田鎖光賢【たぐさりひとかた(15??~15??)】

田鎖政光の次男。官途は右京。

田鎖家臣団【たぐさりけかしんだん】

田鎖次郎左衛門光周、田鎖善九郎義重、田鎖次郎右衛門光明、田鎖次郎兵衛光清、田鎖助太夫政勝、田鎖三郎兵衛高勝、田顔庄右衛門吉網、田鎖庄助吉晴、田鎖庄右衛門吉清、田鎖仁兵衛光親、田鎖五郎光剛、田鎖武右衛門綱茂、田鎖庄三郎義次、田鎖長次郎光尚、田鎖長九郎光世、田鎖茂右衛門正陣、田鎖伝右衛門勝吉、田鎖勘五郎政興。

小国武田忠信【たけだのぶただ(15??~15??)】

下閉伊郡小国城主。通称彦十郎。1502年、武田忠信がこの地に入部し小国館を築いた。閉伊川下流域は田鎖家が支配していて、阿曽沼家領遠野に繋がる小国川沿いの小国は交通の要衝だった。1532年、武田直信が江繋館主江繋正光に敗れ武田家は没落した。

田山久光【たやまひさみつ(15??~15??)】

岩手郡田山館主。浄法寺家臣。鎌倉中期から安比川流域を支配した浄法寺城主浄法寺家の九代重久の三男久光が、この地に入部し田山家を称し築いたとされます。田山館は浄法寺城の西の押さえとして、二戸郡と鹿角郡の国境を守備する軍事拠点として機能した。

千葉茂成【ちばしげなり(15??~15??)】

東磐井郡金鶏城主。葛西家臣。官途は遠江守。1568年、曽慶城主曽慶(岩淵)信時と争った。

千葉冬胤【ちばふゆたね(15??~15??)】

磐井郡金沢城主。葛西家臣。官途は伊豆守。1507年、寺崎時胤と戦ってこれを討取った。1510年、薄衣家も撃破した。千葉信胤のとき桃生郡深谷にて謀殺。

津軽石勝冨【つがるいしかつとみ(15??~15??)】

下閉伊郡払川館主。通称九郎。千徳家の庶流津軽石家。1583年、千徳城の新年祝賀の席で討たれる。家臣の石至八郎は討たれるが、荒川佐助は津軽石館に逃れ籠城する。兵80名で、中津山善達の兵226名相手に善戦。夜に放火され、荒川佐助は突撃をして討たれた。津軽石勝富の子は津軽石佐助によって城から落延びた。

手代森秀親【てしろもりひでちか(15??~15??)】

岩手郡手代森館。大萱生枝連衆。1588年、斯波家が南部家に滅ぼされると、手代森秀親は南部家に仕えた。

寺崎清泰【てらさききよやす(15??~1591)】

葛西家臣。寺崎明清の男。官途は阿波守。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗により謀殺された。

寺崎時胤【てらさきときたね(15??~1507)】

磐井郡峠城主。葛西家臣。官途は下野守。1507年、金沢冬胤が反乱を起こしたとき、寺崎時胤は日形城主千葉秀胤らとともに金沢を攻めたが討死した。宗家にあたる寺崎秀胤も41歳の若さで討死した。

寺崎清時【てらさききよとき(15??~15??)】

寺崎時胤の男。1521年、金沢冬胤を討ち取って仇を討ったが葛西重信に攻められ、寺崎茂継が討死した。

寺崎良次【てらさきよしつぐ(15??~1582)】

金沢良通の男。寺崎時胤の養子。官途は石見守。所領は310町歩、馬上61騎を率いた。1544年、金沢胤正は太守葛西家に反乱を起こし、葛西高信に討伐された。このとき寺崎吉次は葛西軍に従った。この戦で実家の金沢家が滅ぶと、寺崎家は磐井郡二十四郷の旗頭となった。1579年「富沢直綱の乱」のでは鎮圧軍として活躍した。1582年「河崎の戦に」で討死した。

寺崎正次【てらさきまさつぐ(15??~15??)】

寺崎良次の男。1590年、羽柴秀吉による奥州仕置で、奥州に攻めてきた羽柴秀吉勢を迎え撃った葛西家は滅亡した。寺崎正次も総大将として出陣した、奮戦の末に討死した。

寺崎信継【てらさきのぶつぐ(15??~15??)】

金沢胤正の男。寺崎時胤の養子。

寺崎家臣団【てらさきけかしんだん】

日形城主:千葉大学胤弘、下油田城主:千葉越前守道胤、寺崎祐光。

田頭直祐【でんどうなおすけ(15??~15??)】

葛巻信祐の次男。1591年の「九戸の乱」で三戸城主南部信直側についたため、平館城の一戸政包は九戸政実に加担して南部信直方の田頭城を攻めた。田頭勢は必死に防戦したが落城、自刃した。

雫石戸沢政安【とざわまさやす(15??~15??)】

岩手郡雫石城主。戸沢家枝連衆。1540年、三戸の南部晴政が叔父石川高信の献策によって岩手郡に勢力拡大を図り、石川高信を使者として岩手郡内の川村家、工藤家、戸沢家に対し、三戸に参向して南部家に服従することを誓うことを伝えた。河村家(下田、沼宮内、川口、渋民、玉山、日戸の諸家)と厨川工藤家(田頭、平館、葛巻の諸家)はこの申し出に従った。しかしは戸沢政安これを拒否。これにより石川高信、雫石城を攻略。戸沢政安は角館に敗走した。

雫石戸沢臣団【とざわけかしんだん】

手塚左衛門尉、長山惣右衛門、高橋出雲守。

毒沢一忠【どくざわかずただ(15??~15??)】

和賀郡毒沢館主。和賀家枝連衆。官途は伊賀守。1590年、和賀義忠は羽柴秀吉の「小田原の役」に参陣せず、このため和賀家は「奥州仕置」で所領没収、改易となり、毒沢一忠も没落した。1600年「和賀一揆」が勃発すると毒沢一忠は一揆勢に加わった。一揆は南部勢に制圧され仙台で自刃した。娘は伊達政宗の側室となり、伊達宗勝を産む。

毒沢義森【どくざわよしもり(15??~15??)】

毒沢一忠の男。1600年「和賀一揆」が勃発すると父毒沢一忠とともに一揆勢に加わったが討死した。

鳥畑堅長【とりはたかたなが(15??~15??)】

磐井郡鳥畑城主。葛西家臣。通称弥九郎、薩摩。1585年、薄衣家と争って敗北し、大原家を頼る。

鳥畑堅時【とりはたかたとき(15??~15??)】

鳥畑堅長の男。1591年、桃生郡深谷において伊達政宗に謀殺された。

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【な】

長岡詮尹【ながおかあきいん(15??~15??)】

斯波郡長岡館主。斯波詮直の信頼が厚かった。南部家の侵入に際して離反派に館を囲まれて交戦中だったため、斯波詮直救援に向かうことが出来なかった。斯波詮直没落を聞いて南部家に投降した。

中野康実【なかのやすのり(15??~15??)】

斯波郡吉兵衛館主。高清水斯波家臣。九戸信仲の四男。通称弥五郎。別名高田吉兵衛。高水寺斯波家に入婿し、高田村を知行する。高水寺斯波家攻めの先鋒となる。高水寺城主として3,500石を領した。1591年「九戸の乱」では南部信直を支持。後に南部利直と不和になり毒殺された。

新堀義広【にいぼりよしひろ(15??~15??)】

稗貫郡新堀城主。稗貫家臣。作兵衛。新堀家は鎌倉期に稗貫郡地頭職として入部した稗貫家の被官で、『瀬川稗貫系図』では稗貫広秀の三男光家を祖とし代々新堀城を居城とした。1590年の羽柴秀吉の「小田原攻め」に鳥谷ケ崎城主稗貫広忠は参陣せず、稗貫家は改易となり新堀家も没落した。

沼宮内常利【ぬまみやうちつねとし(15??~15??)】

岩手郡沼宮内城主。官途は民部。一方井家麾下の城主。岩手郡に河村家が土着し、次第に勢力を拡大する過程で、工藤家の庶家が沼宮内家が勢力を持った。戦国期、沼宮内家は三戸南部家に呑み込まれ南部家の被官に組み込まれました。1591年に勃発した「九戸の乱」で沼宮内民部常利は南部信直に与したため九戸政実方の平館城主平館政包に沼宮内城は攻撃され落城します。乱後、沼宮内常利は沼宮内城に復帰しました。

沼宮内家臣団【ぬまみやうちけかしんだん(15??~15??)】

沼宮内治郎春秀、沼宮内治部春久、沼宮内治部久幸、沼宮内采女久秀、沼宮内武左衛門秀昌、沼宮内伊兵衛秀喬。

野田義親【のだよしちか(15??~15??)】

久慈郡野田城主。通称源左衛門。南部家麾下の城主。

野田正義【のだまさよし(15??~15??)】

野田義親の男。野田正義は宇部館から三日市場に拠点を移し野田城を築城した。

野田政親【のだまさちか(15??~15??)】

野田正義の男。1591年た「九戸の乱」で野田正義・政親父子は南部信直方に与し、九戸政実に与した久慈城主久慈政則(政実の実弟)と対峙し、このため野田正義の宇部館は久慈領との境目になり久慈勢の攻撃を受けた。

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【は】

浜田広綱【はまだひろつな(1523~1592)】

気仙郡米ヶ崎城主。気仙郡惣領職。葛西家臣。官途は安房守。1586年の歌津合戦で本吉重継を撃破し併合。 1587年、気仙沼の宿敵赤岩城主熊谷直義と決戦に挑むが主君の葛西氏が熊谷氏を支援し、熊谷勢の伏兵に遭うなどして戦線が膠着したため、一度は停戦した。1588年,再び所領減の措置を不服とし、及川氏に奪われていた米ヶ崎城を奪回するが敗北、所領を失った。1588年にはそれが昂じて同じく気仙沼における豪族熊谷直義ら熊谷党と騒乱を起こした。紛争終結後、葛西家の裁定に不服を抱き、及川家の属城米ヶ崎城を略取して防備を固めて叛意を顕すが、気仙沼篠嶺山の戦いで敗北し落城没落した。

浜田家臣団【はまだけかしんだん】

昆野右馬之允、昆野遠江大学、今野助九郎広綱、千葉安房守重綱、千葉信定、新沼玄蕃、只野民部、千田大学、新沼太郎右衛門、関根惣右衛門、及川土佐守、新沼安芸守綱清、新沼綱広、浜田三左衛門喜六、紺野美作守。

花輪朝重【はなわともしげ(15??~15??)】

下閉伊郡花輪館主。通称十郎左衛門。1546年、田鎖(閉伊)久朝の子朝重が花輪館を築いた。

花輪政朝【はなわまさとも(15??~15??)】

花輪朝重の男。

花輪家臣団【はなわけかしんだん】

花輪安房為政、花輪内膳正朝、花輪八兵衛正矩、花輪十郎親朝、花輪七右衛門政方、花輪金蔵政氏。

稗貫義時【ひえぬきよしとき(15??~15??)】

稗貫郡鳥谷ヶ崎城主。稗貫郡惣領職。官途は大和守。戦国期に関しての稗貫家の動向は定かではないが、戦国大名として成長することはできず、稗貫郡を支配するだけの国人領主的存在だった。その名家であるが故に、京都の中央政権である室町幕府とは友好関係を維持していたようであり、時の当主である稗貫輝時は上洛して将軍の足利義輝と謁見している。戦国時代の稗貫家は養子当主が相次いでおり、それが他家の介入を招いて衰退する一因となった。

稗貫広忠【ひえぬきひろただ(1554~1603)】

和賀義忠の兄。稗貫家に入婿した。通称孫次郎。1590年「小田原の役」に参陣しなかったために改易された。1591年、稗貫広忠は和賀義忠と共に反乱を起こして和賀義忠の居城である二子城を奪回するほどに奮戦したが、ほどなくして羽柴秀吉の命令を受けた奥州鎮定軍に攻められて和賀義忠は討死した。稗貫広忠は逃亡したが程なくして死去した。

人首恒輝【ひとかべつねてる(15??~15??)】

江刺郡人首館主。江刺重胤次男。通称は平右衛門。

人首盛恒【ひとかべもりつね(15??~15??)】

人首恒輝の男。通称は平十郎。主家の江刺家が羽柴秀吉の奥羽仕置勢によって所領没収になると、人首盛恒も命運を共にし、人首城を退去した。

人首家臣団【ひとかべけかしんだん】

人首甚太郎恒冨、人首平八郎恒茂。

日戸秀恒【ひどひでつね(15??~15??)】

岩手郡日戸館主。官途は内膳。1588年、日戸秀恒は「高水寺城攻め」で軍功を挙げた。1608年、日戸秀恒の孫日戸直秀が野辺地城代に任ぜられ日戸を離れた。

日戸家臣団【ひどけかしんだん(15??~15??)】

日戸内膳秀武、日戸助三郎秀盛、日戸仁兵衛秀春、日戸勘十郎秀親、日戸三十郎秀和、日戸典膳秀勝。

火渡広家【ひわたりひろいえ(15??~1600)】

上閉伊郡火渡館主。阿曽沼家麾下の城主。阿曽沼家の庶流で、遠野盆地北側の附馬牛を分知され火渡館を築いた。1600年、阿曽沼広長の最上出陣中に鱒沢広勝が起こした叛乱には組みしなかったた火渡広家は、鱒沢広勝に火渡館を攻められた。脱出の際に死体と偽って籠をかぶるが、それを敵兵に鑓で突かれ討たれた。火渡広家と討死した。

平倉(菊池)盛任【ひらくらもりこれ(15??~15??)】

上閉伊郡刀金館主。通称新兵衛。上郷菊池枝連衆。

平倉家臣団【ひらくらけかしんだん】

平倉盛清、平倉刑部、平倉新八。

平館(一戸)政包【ひらだてまさかね(15??~15??)】

岩手郡平館城主。官途は信濃守。三戸南部家の庶流一戸家が平館に入部した。平館(一戸)政包は1581年、一戸城で兄の一戸信連とともに九戸政実に誘殺された。南部信直の命により津軽石重行の子が平舘彦六を名乗り平館家を再興した。

深堀武虎【ふかぼりたけとら(15??~15??)】

磐井郡深堀城主。葛西家臣。通称新左衛門。1579年「富沢直綱の乱」の際、弟深堀武重とともに鎮定に赴いた。1590年、葛西晴信は「小田原の役」に参陣せず、葛西家は「奥州仕置」により所領没収、改易となり葛西領には木村伊勢守吉清、清久父子が入封した。木村家の施政に対して「葛西・大崎一揆」が勃発し、深堀武虎は葛西勢に与して深谷荘和淵に出陣したが討死した。

福士秀治【ふくしひではる(15??~15??)】

岩手郡不来方(盛岡)城主。官途は伊勢守。南部家麾下の城主。

福士家臣団【ふくしけかしんだん】

福士淡路守政秀、福士右衛門、福士因幡守、福士彦三郎。

閉伊郡豪族衆【へいぐんごうぞくしゅう】

蟇目茂右衛門正忠、中村金左衛門信則、高濱弥右衛門光継、高濱三五郎廣安、高濱弥太夫信廣、赤前中務忠光、赤前四郎右衛門義似、赤前四郎右衛門吉保、大沢与右衛門秀久、大沢勘解由久親、大沢甚右衛門義業、大川彦兵衛清茂、大川彦兵衛光清、大川彦十郎清峯、片岸用之助安俊、片岸用之助安春、片岸庄右衛門安秋、重茂与十郎義武、重茂与三左衛門茂国、重茂権十郎義房、重茂掃部光長、重茂又五郎光季、重茂次郎作綱清、、箱石備中義如、箱石嘉右衛門義番、箱石清左衛門義致、田代安重光陽、田代治兵衛光恒、田代治兵衛光貞、田代判左衛門致光、田代甚五右衛門純光、田代首令為光、山崎大内蔵親定、山崎善右衛門親吉、大内蔵子、山崎小五郎親房、江刈内小左衛門久賀、江刈内政右衛門久冨、江刈内左門林久、小山田越前吉範、小山田越前吉前、小山田久左衛門吉行、荒川平次郎正則、荒川平右衛門盛光、荒川菩戒重則、釜石新十郎、釜石新助、釜石庄九郎、長沢九郎兵衛綱則、長沢七兵衛綱教、長沢三内綱忠、長沢善太夫吉督、長沢弥五郎安光、長沢八右衛門保幹、船越伊豫守長行、船越助五郎安国、船越弥兵衛安秀、船越弥兵衛安昌、小本土佐守正長、小本土佐正衡、小本助十郎正親、小本助兵衛正吉、阿部勘助親長、箱石助左衛門慶備、箱石半兵衛長親、仙徳伊豫守行重、一戸東膳助行実、汗石安芸守長重。

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【ま】

鱒沢広勝【ますざわひろかつ(15??~1600)】

上閉伊郡鱒沢館主。阿曽沼家麾下の城主。鱒沢家は、1499年「大崎一族の内訌」、1542年「伊達天文の乱」での葛西晴胤からの出陣要請に名が見える。戦国後期には阿曽沼家から独立した勢力に成長した。1600年、鱒沢広勝は最上出陣中の鍋倉城主阿曽沼広長の留守をついて叛乱を起こし遠野郷を領有しました。このため遠野に戻れず世田米に居住していた阿曾沼広長は、伊達政宗の支援を受けて遠野奪還を目指したが鱒沢軍の堅守に拒まれ、遠野奪回に失敗し没落した。この戦いで鱒沢広勝は討死した。

鱒沢忠右衛門【ますざわちゅうざえもん(15??~1600)】

鱒沢広勝の男。父鱒沢広勝の後を継ぎ遠野郷を領有するが、謀反を企てたとして南部利直から切腹を命じられ鱒沢家は改易となりました。鱒沢家が改易になったことにより、中世遠野を支配した阿曾沼家の家系は完全に消滅した。

松川信胤【まつかわのぶたね(15??~15??)】

松川内館主。薄衣清胤の男。1507年、松川広胤が金沢冬胤との交戦中に討死すると、薄衣清胤ぼ次男薄衣(松川)信胤が松川家の家督を相続した。1590年、葛西晴信が羽柴秀吉の「小田原の陣」に参陣しなかった。

松川胤好【まつかわたねよし(15??~15??)】

松川信胤の男。1591年、葛西家は奥州仕置勢の攻撃を受けた。松川胤好は深谷荘和淵村に出陣するが、木村伊勢守吉清勢に敗れ討死した。

三ヶ尻恒逢【みかじりつねとよ(15??~15??)】

胆沢郡丸子城主。江刺家臣。官途は加賀守。1590年、羽柴秀吉の「奥州征伐」により主家とともに没落した。浅野長政に主家再興を嘆願し、その忠節を賞されたが江刺家の再興は成らなかった。1603年、南部家に仕え和賀倉沢城主となる。

三ヶ尻家臣団【みかじりけかしんだん】

三ヶ尻吉次、三ヶ尻吉道。

三田重明【みたしげあき(15??~15??)】

胆沢郡前沢城主。柏山家臣。1533年に三田家の家督を相続。1542年、伊達稙宗と嫡子の伊達晴宗とが対立したことをきっかけに、伊達家中、南奥の諸大名がそれぞれに加担したことで「伊達天文の乱」が勃発、奥州を二分して大乱となった。この乱に際して柏山家、三田家が属する葛西家も二派に分裂し、葛西晴清は伊達稙宗方に味方し葛西高信は伊達晴宗方に味方した。柏山明吉は伊達晴宗派として行動し、三田重明も葛西高信に属して伊達晴宗派として参戦、軍功をたて感状を受けている。葛西家は柏山家の重臣である三田将監、蜂屋縫殿、大内彦三郎に対して直接謝書状を送っている。

三田義広【みたしげあき(15??~1588)】

三田重明の男。官途は刑部少輔。三田義広は豪勇の武将で、柏山明吉に仕えて戦場を駆け巡り、父三田重明以上の武功を重ねた。1571年、胆沢郡、磐井郡に争乱が発生、その鎮圧に三田義広は比類のない働きをしたということで、大守葛西晴信より二万刈という類のない恩賞を給わっている。柏山家当主の柏山明吉が死去をきっかけに柏山家にも内紛が発生。柏山明吉のあとを継いだ嫡男柏山明国は性暴慢なことから家中が揉めはじめ、家臣は弟の柏山明宗を擁して引退を迫った。これに対し柏山明国は引退を迫った家臣らを惨殺し、さらには隣国の長部家を攻撃して大敗北を喫した。三田義広は柏山明宗派として事態の収拾に奔走し、柏山明宗の家督相続に貢献した。1573年、九戸政実が南下して胆沢の「金ヶ崎の戦い」で、葛西晴信は九戸家の南攻を阻止するため出兵、三田義広の活躍によって九戸勢は兵を引き上げた。1588年、柏山明宗に逆意を抱いていると讒言され、小山明長、折井明久によって謀殺された。

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【や】

八重畑美濃守【やえはたみののかみ(15??~15??)】

稗貫郡八重畑館主。稗貫家臣。八重畑家が同地に居住したのは、鎌倉時代の早い段階と考えられます。1571年、斯波、南部家の境界争いでは、八重畑家が調停役を務めている。1590年、羽柴秀吉の「小田原攻め」では、鳥谷ケ崎城主稗貫広忠は参陣せず、稗貫家は改易になった。その後、「和賀、稗貫一揆」では八重畑館に一揆勢が籠城したが、奥州仕置勢に攻められ落城した。

八木沢光興【やぎさわみつおき(15??~15??)】

下閉伊郡八木沢館主。千徳枝連衆。通称与四郎。

八木沢家臣団【やぎさわけかしんだん】

八木沢久三郎正興、八木沢金九郎正景。  

八ッ森小七郎【やつもりこしちろう(15??~15??)】

八幡館主。和賀家臣。

簗田詮泰【やなだあきやす(1547~1601)】

高清水斯波家臣。斯波家が再び南部家に対して劣勢に立たされるようになると、主家の行く末に不安を覚え、岩清水義教とともに南部家に内通した。斯波家の没落の原因を作った。南部信直時代の志和、岩手郡支配を担った。伊達政宗が南部信直と九戸政実の斡旋を行おうとしたとき、この簗田詮泰が志和郡まで赴いた伊達政宗に対して斡旋は不要である旨を伝えたという。

簗田勝泰【やなだかつやす(15??~1621)】

簗田詮泰の男。官途は大学。南部利直時代に家督相続した。

米内政成【よないまさなり(15??~15??)】

岩手郡上米内館主。米内宗政の男。官途は丹後守。一方井家の寄騎衆。戦国期には三戸南部家の支配下に置かれた。

米内正吉【よないただよし(15??~15??)】

1573年、米内右近は南部信直の命により日戸内膳、福士淡路守とともに不来方城の守備についた。

米内家臣団【よないけかしんだん】

米内右近正邦、米内孫右衛門政忠、米内出雲守政連、米内出雲守政弘、米内孫左衛門正親、米内丹後守政恒、米内孫七正堅、米内孫惣光政、米内孫四郎政唯、米内孫之丞政春。

和井内光積【わいないたてみつせき(15??~15??)】

和井内館主。南部家臣。通称三平。

和井内家臣団【わいないけかしんだん】

和井内覚左衛門光吉、和井内覚太夫光安。

和賀義勝【わがよしかつ(15??~15??)】

和賀郡二子城主。和賀定正の男。和賀郡惣領職。和賀郡周辺は、中小大名が、寸土を巡って戦いを繰り広げていた。北奥の南部家、南奥の伊達家、その中間に大崎家、葛西家らが割拠していた。南部家は南下作戦を展開し、南部家と境を接する和賀家、江刺家、斯波家らは戦々兢々たるものがあった。1531年、和賀義忠は、本堂家の一族で和賀家の別系であった仙北郡の小田嶋党と戦っている。戦いは数年にわたって続いたが、双方から和睦の話が出て戦争を終結させている。、この戦いは和賀家が南部家の動向に危険を感じたための軍事行動であった。1537年、和賀家が小田嶋家と和睦して間もない「志和の戦い」で、和賀家は柏山家と姻戚関係にあったことから、柏山家に協力して和賀義勝が南部晴政と戦った。

和賀義忠【わがよしただ(15??~1591)】

和賀義勝の次男。官途は薩摩守。1590年、羽柴秀吉の「小田原征伐」に不参加の為、奥州仕置によって葛西晴信、大崎義隆、稗貫秀忠等と供に所領没収、城地追放の処分となる。その後の奥州検地の不満が大崎氏らの旧臣と農民を交えて一揆に発展、その際に二子城を奪還するが、蒲生氏郷により一揆は平定、和賀義忠は逃走の後に農民に殺害された。

和賀忠親【わだただちか(1576~1601)】

和賀義忠の男。1590年、父和賀義忠が「小田原の役」に参陣せず羽柴秀吉の怒りを買って改易された後、伊達政宗を頼って伊達領の胆沢郡に隠匿した。1600年「関ヶ原の戦い」で、領地拡大の野望を燃やす伊達政宗の密命を受けて、旧領を回復しようとした。伊達政宗の援助を受けて和賀郡を支配していた南部利直の領地に攻め込み、鳥屋ヶ崎城を急襲したが、北信愛と南部利直の反撃を受けて失敗する。1600年「関ヶ原の役」後、伊達政宗により仙台領国分寺にて謀殺された。

和賀又二郎【わがまたじろう(15??~1592)】

和賀義忠の男。弟和賀又四郎とともに朝鮮役で活躍した。1596年、下野国で和賀又二郎が没したため、和賀又四郎は朝鮮出兵参加を諦めることになった。

和賀(黒岩)義信【わがよしのぶ(15??~15??)】

和賀郡黒岩城主。和賀義勝の男。官途は薩摩守。通称月斎。1558年、和賀義信は盲目のため廃嫡にされ、黒岩義信と称して黒岩城に在城した。

和賀家臣団【わがけかしんだん】

小田島主殿守、小田島隼人正下総守、和賀治部太夫頼斎、和賀主水正忠実、和賀長門守春安、鬼柳伊賀守盛正、鬼柳兵庫頭、八重樫播磨守源蔵、小原左馬介藤次、都鳥平馬玄蕃、川原田源蔵、湯沢隼人正、成田藤内、煤孫惣助、工藤主計頭、上野長人、梅沢近助、昆土佐守、晴山長門守
、筒井縫殿助、根子内蔵助、平沢雅楽助。

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【資料Ⅰ】

陸中国(11郡/322,000石)

九戸郡:九戸城(12,000石) 
岩手郡:(24,000石)
斯波郡:(26,000石)
稗貫郡:鳥谷ヶ崎城(24,000石) 
上閉伊郡:(10,000石)
下閉伊郡:(10,000石)
和賀郡:二子城、黒岩城(30,000石)
江刺郡:(38,000石)
胆沢郡:大林城、(62,000石)
西磐井郡:(42,000石)
東磐井郡:(42,000石)

※鹿角郡:(18,000石)。※鹿角郡の武将は陸奥国に記載。

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【資料Ⅱ】

気仙郡二十七将【けせんぬまにじゅうななしょう】

葛西家に仕えた気仙郡の豪族衆。

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【資料Ⅲ】

陸中国【りくちゅうのくに】

調査中。

国見峠【くにみとうげ】

国見峠は、出羽国と陸中国との国境であり、この峠道は遠く古代から開かれていましたが、険しい山並みと冬季の厳しい気候が人々の交流を妨げる難所でした。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

(※)印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

※参考文献:「津軽秋田安東一族」新人物往来社、「東北大名の研究(戦国大名論集2)」吉川弘文館、「会津芦名一族」歴史春秋社、「最上義光(戦国の驍将)」新人物往来社、「奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)」宝文堂、「会津芦名四代」歴史春秋、「伊達政宗(全8巻)」講談社、「天を衝く(全3巻)」講談社文庫、「独眼竜伊達政宗」時代小説文庫、「津軽風雲録」時代小説文庫、「政宗に睨まれた二人の老将」宝文堂、「秋田『安東氏』研究ノート」無明舎、「(史伝)伊達政宗」学研M文庫、「独眼竜政宗」講談社文庫、「奥羽永慶軍記(全2巻)」新人物往来社、「津軽南部の抗争(南部信直)」、「秋田の中世・浅利氏」無明舎出版、「独眼龍政宗」文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、「陸奥南部一族」新人物往来社、「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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