2011年1月10日月曜日

戦国陸中国人名辞典


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【あ】

浅沼甲斐守【あさぬまかいのかみ(15??~1588)】

米田世城主。阿曾沼家枝連衆。1588年「米ヶ崎城の戦い」で浅沼中務とともに討死した。

阿曽沼親広【あそぬまちかひろ(15??~15??)】

上閉伊郡横田城主。阿曽沼親広は、遠野十二郷(田瀬、鱒沢、小友、綾織、宮森に大槌、釜石を加える)を領した。

阿曽沼広郷【あそぬまひろさと(1534~1590)】

阿曽沼親広の男。阿曽沼親広から家督を相続した阿曽沼広郷は、支配領域を遠野保の領域を越えて閉伊郡海岸部まで拡大した。1579年、遠野という僻遠の地にありながら天下の形勢を見極めて、織田信長に白鷹を贈り中央政権との遠交外交を行っている。15??年、阿曽沼広郷は、岩谷堂城主の江刺重恒家督争いの混乱に乗じて江刺領に侵攻した。江刺重恒の巧な采配により岩谷堂城を攻略することが出来なかった。その後は、鍋倉城を築城し領内の富国強兵に努めたが、鱒沢、上野、平清水家ら有力家臣たにちの離反に苦しめられた。

阿曾沼広長【あそぬまにろなが(1563~1600)】

阿曾沼広郷の男。通称孫三郎。1600年、横田城は、阿曽沼広長が「越後長尾家討伐」に出陣中、南部家に支援された鱒沢広勝、上野広吉、平清水景頼らの謀反によって落城した。阿曽沼広長は南部家に支援された鱒沢勢と戦を避け、気仙郡世田米城主宇夫方広久を頼って落ち延びた。1601年、遠野領の盟主となった鱒沢広勝は、気仙郡世田米で遠野奪還の準備をしている阿曾沼広長の機先を制すべく、遠野勢を率いて気仙郡内へ攻め込んだ。阿曾沼勢は大将格、浜田喜六が討死するが、寄せ手の総大将、鱒沢広勝を討ち取った。大将を失った遠野勢は撤退する。1602年、阿曾沼広長は伊達政宗の後援を得て遠野に侵攻する。阿曾沼広長は遠野に攻入れば、旧臣達が寝返ると考えていたが、寝返る者はなく気仙勢は撤退を余儀なくされる。阿曾沼広長に従い遠野奪還を図る松崎監物、興光寺負靭の両侍大将は戦い続けたが両将とも討死した。

阿曾沼家臣団【あそぬまけかしんだん】

阿曾沼四郎広縄、阿曾沼主計広重、阿曾沼民部少輔秀範、阿曾沼常陸入道了哲、阿曾沼又五郎、附馬牛中務入道玄浄、附馬年内蔵助、山口金右衛門、西風舘大学廣敏、大槌孫八郎廣紹、大槌久右衛門廣重、大槌久八郎、菊池半太夫、菊池半左衛門武長、細越与三兵衛敏廣、細越与三郎敏継、細越長十郎備材、菊池治部助時成、畠中五郎八、畠中藤七、平原備後吉武、平原助左衛門吉成、菊池与十郎、内城四郎左衛門吉昭、内城治兵衛吉輝、内城治兵衛吉正、宮杜主水祐武、鬼柳十郎兵衛祐光、十二ケ村弾正、十二ケ村帯力益種、平清水刑部入道禅門、平清水出雲、新谷新右衛門、菊池帯刀、新谷庄作、新谷六兵衛、新谷六右衛門、熊谷安右衛門、小友喜左衛門、松崎監物、大沢寺浄玄房、白岩左衛門、興光寺靭負、浅沼忠次郎、浅沼藤次郎、金沢臼太郎、浅沼清左衛門、栃内勾当慶都、栃内小左衛門廣重、栃内善兵衛、栃内善右衛門、高屋左近則政、高屋四郎左衛門恒延、高屋三弥恒宣、高屋才六則之、高屋八右衛門恒方、高屋才四郎則房、下川原玄蕃恒忠相、下川原利左衛門恒長、及川民蔵恒明、月舘右京、新田平作、大原新右衛門、板沢平蔵、菊池成景、石田宗順、平倉新兵衛、細越惣兵衛、山口修理、達曾部光俊、柏館新五左衛門、浜田喜六。

安土日向守【あづちひゅうがのかみ(15??~15??)】

西磐井郡平泉館主。葛西家臣。

猪去(斯波)詮義【いさりあきよし(1505~1569)】

高清水斯波家臣。斯波詮高の三男。家系は清和源家の一流河内源家の流れを汲む足利家枝連衆、高水寺斯波家の出身。斯波詮高が南部家より雫石村を奪取すると、父により次兄雫石(斯波)詮貞が雫石城主に、猪去詮義が猪去城に居館を構えた。足利将軍家と祖を同じくする足利家の枝連衆であることから、猪去御所と尊称された。

猪去義方【いさりよしたか(15??~15??)】

猪去詮義の男。猪去義方は一貫して宗家に忠義を尽くしたが、主家を失い花巻に逃れ身を隠しながら余生を終えた。

猪去久道【いさりひさみち(15??~15??)】

猪去義方の男。斯波家宗家を支え、猪去御所を守護していたが、斯波家は斯波詮直の代になり南部家に攻め滅ぼされた。猪去久道は花巻に隠棲していたところを北信愛に召し出された。1612年、南部政直の家臣となる猪去家は盛岡藩士として続いた。

一戸(千徳)孫三郎【いちのへまごさぶろう(15??~15??)】

下閉伊郡千徳城主。一戸(千徳)家は戦国期に三戸南部家の家臣団に組み込まれた。1592年、城主一戸孫三郎が朝鮮出兵に出陣した留守中に、千徳城は南部家により破却された。以後の千徳家の消息は不明。

一戸家臣団【いちのへけかしんだん】

近内長左衛門為如、近内長右衛門為矩、近内長之丞光抄長。

一方井安正【いっぽういやすまさ(15??~15??)】

岩手郡一方井城主。官途は丹後守。一方井家は岩手郡に勢力を広げた三戸南部家の支配下に組み込まれた。1592年、一方井城が廃城になるまで在城した。三戸南部家の岩手郡支配の重要拠点として機能した。1546年、南部信直は、石川高信と一方井城主一方井安正の娘柴山芳公との間に一方井城で誕生した。一方井安正は三戸南部家のため、米内右近、栗谷川仁佐衛門らと協力し、南北から日戸、玉山、下田、渋民、乙部、大釜らの諸豪族を攻略した。

一方井家臣団【いっぽういけかしんだん】

一方井刑部入道禅門、一方井孫次郎安元、一方井刑部少輔安信、一方井孫次郎安行、一方井刑部安武、一方井九助安忠、一方井甚兵衛安定。

今坂遠江守【いまさかとおとうみ(15??~15??)】

気仙郡槻館城主。葛西家臣。

今坂信濃守【いまさかしなののかみ(15??~15??)】

今坂遠江守の男。今坂信濃守のとき主家は没落し、今坂家も運命をともにした。

藤沢岩淵経文【いわぶちつねふみ(1496~1565)】

東磐井郡藤沢城主。岩淵経定の男。葛西家臣。官途は伊勢守。通称は善二郎。室は千葉忠胤(下油田城主)の娘。勇猛で知られた。

岩淵経房【いわぶちつねふさ(1540~1589)】

岩淵経文の男。官途は駿河守。通称は善三郎。室は永井信敏の娘。

岩淵秀信【いわぶちひでのぶ(15??~15??)】

岩淵経房の男。官途は豊前守。通称は久二郎。室は黒沢信久の娘。勇名を馳せた。1590年、奥州仕置のあと熊野倉館に移住した。

岩淵信時【いわぶちのぶとき(15??~15??)】

磐井郡曽慶城主。岩淵秀信の男。官途は新蔵人。1568年、金鶏城主千葉茂成と争った。主家の滅亡により没落した。

岩淵元秀【いわぶちもとひで(15??~1591)】

岩淵信時の男。葛西家臣。官途は兵庫頭。桃生郡深谷において伊達政宗により謀殺された。

岩崎義彦【いわさきよしひこ(15??~15??)】

和賀郡岩崎城主。和賀家臣。通称は弥右衛門。1590年、羽柴秀吉の「小田原攻め」に和賀義忠は参陣せず改易となり、岩崎義彦も没落した。1600年、一族と共に和賀義忠の弟忠親を擁立。岩崎城に立て籠もり和賀家再興の一揆を起こすが、この時の一揆の首謀者が旧岩崎城主岩崎義彦であった。1601年、一揆軍は伊達家の支援を受けたが、九戸城主南部利直軍の攻撃を受け、岩崎城は落城した。和賀忠親とともに伊達領に落ちるが、最後は和賀忠親と共に伊達家に自刃に追い込まれた。

岩清水義長【いわしみずよしなが(1554~1588)】

高清水斯波家臣。斯波詮直に仕えたが、斯波詮直が遊興にふけって政務を疎かにしたため、何度も諫めたという。だが暗愚な斯波詮直は聞き入れず、これが原因で岩清水義長の弟岩清水義教が石清水城で反乱を起こす結果となる。岩清水義長は弟の反乱に激怒して石清水城を攻めるが、岩清水義教の要請でやって来た南部信直の軍勢に敗れ、高水寺城に逃れる。斯波詮直が高水寺城から逃亡した後も南部軍に対して徹底抗戦を貫き、忠誠を尽くして討死した。

岩清水義教【いわしみずあきやす(1547~1601)】

高清水斯波家臣。斯波家が再び南部家に対して劣勢に立たされるようになると、主家の行く末に不安を覚え、簗田詮泰とともに南部家に内通した。斯波家の没落の原因を作った。

石清水義因【いわしみずよしいん(15??~1601)】

石清水義教の子。官途は蔵人。主家の滅亡後花巻に居住した。1591年、花巻城主北信愛に召し出されるが1601年「岩崎の戦い」で討死した。

石清水義氏【いわしみずよしうじ(15??~1660)】

石清水義因の男。1600年、岩清水家の家督を相続。1627年、南部政直に仕えた。

岩手郡豪族衆【いわてぐんごうぞくしゅう】

上関右衛門光成、上関源兵衛康光、上関右衛門正金、鵜飼宮内秀純、鵜飼治部右衛門秀路、渋民利兵衛秀勝、渋民理兵衛秀吉、渋民六郎兵衛政国、河村小三郎直秀、上田越前貞倚、上田弥兵衛貞方、上田弥七郎貞治、上田九郎助清貞、上田采女貞就、上田傅之丞貞之、上田太兵衛貞友、上田兵部忠武、上田兵部忠重、上田永宅福章、菊池勘解由武照、菊池久助武次、菊池久助武定、矢幅又右衛門定政、矢幅八右衛門愛政、矢幅八右衛門政武、矢幅八兵衛政義、田口善五郎高藤、田口長松藤峯、田口庄左衛門清藤、田口弥左衛門藤好、鵙逸左衛門次郎、鵙逸弥五郎、鵙逸弥五右衛門、鵙逸弥左衛門、帷子豊前吉平、帷次郎五郎吉真、帷多左衛門吉松、帷子惣右衛門吉明、鎌田和泉守、鎌田六右衛門政珍、舘市但馬守、河原掃部、太田将監、南舘右京、元信弥六、浅岸弥五郎、橋場下総、阿部新右衛門、御明神右京、用沢甚右衛門。

宇夫方広本【うおかたひろもと(15??~1557)】

上閉伊郡世田米城主。阿曽沼家麾下の城主。1557年、宇夫方広本は葛西勢の夜襲を受けて、宇夫方広本、嫡男宇夫方広将、次男宇夫方亦次郎が討死した。

宇夫方広久【うおかたひろひさ(15??~1636)】

宇夫方広本の三男。1557年、父と二人の兄は葛西家に敗れ討死。幼少のため母と共に達曾部に逃れる。1600年、上野館にいたところを鱒沢広勝の謀反に遭う。阿曾沼広長の妻子を世田米まで送り届けると、阿曽沼広長の軍に加わり鱒沢らと戦った。宇夫方広久は気仙勢を率いて遠野奪還戦を挑んだ「赤羽根峠の戦い」で、遠野方で板沢館主(上郷町)の板沢平蔵と一騎打ちを演じ、板沢に瀕死の重傷を負わせる。自身も三度目となる奪還戦「小友樺坂峠の戦い」で深傷を負い、安俵に養生と共に隠遁した。

宇夫方広道【うおかたひろみち(15??~15??)】

宇夫方広久の男。通称清左衛門。1607年、南部利直により遠野へ移封となった八戸直義に仕え、綾織村の内を知行、下郷の代官となった。新田の開発に心血を注ぎ、綾織に苦労の末、角鼻堰を造り80町歩の新田を開墾した。

宇夫方家臣団【うおかたけかしんだん(15??~15??)】

栃内兵部、宇夫方掃部、宇夫方八郎右衛門、宇夫方多兵衛。

上野広吉【うえのひろよし(15??~15??)】

上閉伊郡谷地館。阿曽沼家臣。阿曾沼家没落後は南部家に仕え横田城代。1600年に阿曽沼広郷の子阿曽沼広長は南部利直に従い最上に出陣しましたが、留守中に一族の鱒沢館主鱒沢広勝、上野広吉、平清水景頼が叛乱を起こし遠野郷を実質支配しました。阿曽沼広長は住田の世田米修理を頼り世田米に居住し、伊達正宗の支援を受けて遠野郷を奪回わ図ったが、南部家の支援を受けた鱒沢家に敗退を繰り返し、阿曽沼家は次第に没落しました。

薄衣清貞【うすぎぬきよさだ(15??~15??)】

東磐井郡薄衣城主。葛西家臣。東磐井郡惣領職。1510年、薄衣清貞は朝日城主金沢冬胤を攻撃するため北上川を渡り金沢郷に出陣しますが、この戦は金沢勢の勝利で終結したため、以後 薄衣家の勢力は衰退した。しかし戦国中期以降、葛西領内では内乱が続くことになる。

薄衣清正【うすぎぬきよさだ(15??~15??)】

薄衣清貞の男。1561年、薄衣清正は鳥畑城主鳥畑胤堅を攻撃して胤堅を大原に退去させた。1571年、富沢家と結び流荘に派兵しています。1580年、薄衣甲斐守胤次は葛西太守の名代として上洛していることから、この頃、薄衣家は再び葛西家中の有力な勢力になっていた。

薄衣胤勝【うすぎぬたねかつ(15??~1590)】

薄衣清正の男。葛西家旧臣は太閤検地に反対する一揆を起こし、薄衣甲斐守胤勝は、一揆に加担して栗原郡森原山に出陣し奥州仕置軍と対峙しまするが、桃生深谷で伊達家により謀殺された。甲斐守の死去により薄衣家は没落した。

江刺重親【えさししげちか(15??~15??)】

江刺郡岩谷堂城主。江刺郡惣領職。官途は三河守。江刺重親は江刺隆見に替わって江刺家を称し、岩谷堂城で江刺郡総領職として北方ににらみをきかせます。江刺重親には三人の子があり、長男彦太郎重任(重治)は播磨守を称して江刺家を、三男彦三郎晴信は左京大夫称して葛西宗家をそれぞれ継いだ。1538年、気仙郡高田の千葉胤継および矢作重村らを「伊手村の戦い」で討ち取った。江刺重任は父に先立って死去に伴い江刺重胤が江刺家督を相続した。

江刺輝重【えさしてるしげ(15??~15??)】

江刺重親の男。官途は三河守。1542年「伊達天文の乱」に際しては伊達晴宗方として活躍した。1545年、江刺重胤は、北条氏康と絶って関東管領上杉憲政と結び、ともに河越城を攻撃した古河公方足利晴氏から軍勢催促状を受けた。江刺重胤が葛西宗家に比肩する勢力を築いていたことを示している。江刺重胤は、葛西宗家が勢力を得るに従って次第に勢力を伸ばし、葛西家中に強固な地位を占め、従前の江刺家を圧して葛西家の一方の旗頭に据えられるまでに至った。次男如清を人首村に(人首氏の祖)、三男帯刀を口内村に(口内氏の祖)配し郡内を固めた。江刺重胤は能筆家として有名だった。

江刺重胤【えさししげたね(15??~1573)】

江刺輝重の男。1566年、出羽の秋田近季が南部領の鹿角を攻撃したとき、家臣の栗生沢治兵衛と鴬沢藤一郎らに兵300の援軍を派遣した。しかし、戦況は南方に不利で、彼らは途中で秋田近季が敗れたことを知らされ兵をかえした。1571年、伊達輝宗、伊達政宗父子の葛西領の攻撃の際には宗主葛西晴胤とともに迎え撃ち、部下の高屋豊前の奪戦により伊達軍を撃退して武功をあげた。

江刺重恒【えさししげつね(15??~15??)】

江刺重胤の男。官途は兵庫頭。主家没落により失領したが、奥州仕置を行った浅野長政により、稗貫郡新堀城1500石を領した。

江刺隆重【えさしさとしげ(15??~1591)】

江刺重恒の養嗣子。1591年、桃生郡深谷において伊達政宗により謀殺された。

江刺胤虎【えさしたねとら(15??~15??)】

江刺家枝連衆。1590年「神取川の戦い」に従軍。主家滅亡後南部家に仕えた。

江刺家臣団【えさしけかしんだん】

栃内勾当慶都、栃内小左衛門重広、栃内小左衛門重任、松田検校印都吉高、松田清左衛門吉勝、松田清右衛門吉政、松田清左衛門吉智、、高屋四郎左衛門恒延、高屋左近則政男、高屋三郎左衛門恒宣、高屋善右衛門恒之、高屋傅左衛門恒高、高屋才六則久、高屋仁左衛門儀明、高屋六左衛門吉倚、高屋八右衛門恒方、高屋長五郎吉勝、高屋長左衛門吉当、下河原玄蕃恒忠、下河原利左衛門恒長、下河原勘右衛門恒光、下河原文次郎恒算、及川武蔵恒明、下河原玄蕃恒忠長男、下川原武右衛門恒元、下川原武兵衛広恒、羽黒堂彦市茂道、羽黒堂八左衛門正道、松川忠左衛門茂吉、松川藤四郎恒徳、鈴木刑部広重、鈴木弥五右衛門家元、鈴木弥傳治茂愛、鈴木次郎右衛門愛次、長坂備中信胤、長坂刑部胤方、長坂次郎兵衛胤屋、長坂市郎左衛門胤良、百岡藤左衛門廣胤、鴨澤左馬助恒典、鴨繹角兵衛恒充、鴨澤市太夫恒臺、鴨澤角兵衛恒作、鴨澤十兵衛恒篤、澤長兵衛恒中、鶯澤杢恒之、猪川式部知宗、猪川蔵人知清、猪川作兵衛真次、猪川作之丞展真、城彦次郎重能、城半右衛門重恒、城弥三右衛門義繁、城半右衛門義敷、千田茂兵衛元忠、三ノ関讃岐守、安蘇修理(人首如清)、羽黒堂修理(千葉対馬守)、栗生沢内記、抓木田大炉、菊池右馬允、角掛右近、菊池内膳、小沢右馬允、及川弥兵衛、江刺三河守、及川左近、次丸道海入道、菊池掃部(鴨沢)、菊池次郎、菊池敏勝、軽石冶兵衛、菊池左馬之允(歌書左近)、石関左近、及川若峡守。

江釣子吉資【えづりこよしすけ(15??~15??)】

和賀郡江釣子城主。和賀家臣。官途は民部少輔。1590年「小田原の役」に主家和賀義忠は参陣しなかったため和賀家は改易となった。1600年「和賀一揆」には、剛勇を謳われた江釣子吉資が和賀家に従って蜂起している。

江繋正朝【えつなぎまさより(15??~15??)】

下閉伊郡江繋館主。通称彦四郎。

江繋家臣団【えつなぎけかしんだん】

江繋伯耆守正光、江繋喜左衛門正義。

蛯島盛永【えびしまもりなが(15??~15??)】

西磐井郡蛯島城主。葛西家臣。通称蔵人。1590年「神取山の戦い」で活躍している。

及川頼家【おいかわきよひで(1515~1559)】

東磐井郡鳥海城主。葛西家臣。官途は豊後守。1529年、葛西本城寺池城で千葉信近と口論になり、千葉信近を殺害する。及川頼家は改易されるが、及川枝連衆は不当な処罰であると蜂起。鳥海城に籠もり、大原家と三度に渡り戦いったが、1530年に落城した。

及川清貞【おいかわきよさだ(15??~1590)】

気仙郡白鳥城主。葛西家臣。通称左衛門五郎。1590年、主家滅亡の際に討死した。

及川綱重【おいかわつなしげ(15??~15??)】

気仙郡蛇ヶ崎城主。浜田家麾下の城主。官途は掃部頭。1588年「浜田安房守の乱」では、及川重綱が仲介して鎮圧した。

及川直澄【おいかわなおずみ(15??~1590)】

葛西家臣。通称弥兵衛。1590年、高清水にて討死した。

及川家臣団【おいかわけかしんだん】

東磐井郡築館主:及川清栄、東磐井郡猿沢城主:及川信次、東磐井郡川股城主:及川信政、東磐井郡遅沢城主:及川義高、東磐井郡中川城主:及川義照、東磐井郡津谷川城主:及川頼兼。

大萱生(河村、鷲内)秀定【おおがゆへでさだ(15??~15??)】

高清水斯波詮真家臣。官途は飛騨守。河村家庶流の大萱生、栃内、江柄、日戸、渋民、川口、沼宮内等諸家の内の一つ。大萱生秀定は斯波詮愛に仕え、その剛勇さを買われて鷲内の姓を与えられた。

大萱生秀重【おおがゆひでしげ(15??~1641)】

大萱生秀定の男。官途は玄蕃。斯波詮基家臣。梁田、石清水家と同様、南部家に内通する。斯波家滅亡後、南部家より知行を与えられた。1589年、斯波詮直が大萱生の館に来て援助を願ったので匿ったところ、南部信直の怒りを買い、大萱生の館を攻められて敗走する。

大田代伊予守【おおたしろいよのかみ(15??~1587)】

江刺信時家臣。菊池恒邦の男。1584年、主君江刺信時が葛西家に叛いたため、これを諌めようとしたが却って討たれた。江刺重恒は家臣の小田代肥前、大田代伊予守、栗生沢内記と共に和賀郡田瀬に亡命している。息子太田代清也は葛西家滅亡後南部家に仕えた。

大田代家臣団【おおたしろけかしんだん】

大田代宮内清也、大田代弥平次正也、大田代兵右衛門清邑、大田代兵右衛門吉保。

太田民部少輔【おおたみんぶしょうゆ(15??~15??)】

和賀家臣。1558年、太田主膳は和賀薩摩守義勝に背いたため糾弾されたと記されています。「奥州仕置」で和賀氏が没落すると太田民部少輔は南部信直に出仕して800石の所領を安堵され、1591年「九戸実政の乱」では嫡子伊右衛門とともに信直方として参陣した。1600年「和賀、稗貫一揆」でも岩崎城攻略戦に参陣している。。

大槻泰常【おおつきやすつね(15??~1591)】

磐井郡大槻城主。寺崎家臣。官途は但馬守。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗により謀殺された。

大槌右近【おおづつさこん(15??~15??)】

稗貫郡大迫城主。稗貫家枝連衆。南北朝、室町期に宗家稗貫家と行動をともにした大迫家も、戦国期には和賀家・江刺家と婚姻関係を結び、九戸政実と誼を通じるなど、宗家稗貫家から独立した領主として行動するようになり、1558年、稗貫家と軍事衝突を起こすようになった。1590年の羽柴秀吉の「小田原攻め」に鳥谷ケ崎城主稗貫広忠は参陣せず領地没収、改易となり、大槌城主大槌右近も追放になった。1600年の「和賀、稗貫一揆」で大迫右近の子又三郎、又右衛門兄弟は大槌城を襲撃し奪還に成功しましたが、その後南部勢に攻められ大槌城は落城し、又三郎は討ち死に又右衛門は盛岡城で処刑されました。

大槌広信【おおづつひろのぶ(15??~15??)】

上閉伊郡大槌城主。通称は孫八郎。阿曽沼家臣。1591年「九戸の乱」では阿曽沼広長とともに三戸城主南部信直勢に従軍しています。1600年、鱒沢館主鱒沢広勝による遠野制圧で、阿曾沼広長は遠野を追われ世田米に居住しましたが、大槌広信は阿曾沼広長支持の姿勢を崩さず、伊達政宗の支援を受け遠野奪還を目指した阿曾沼広長とともに遠野郷に侵攻しました。三戸南部家の支援を受けた鱒沢家に降伏し伊達領に落ちのびた。

大槌政貞【おおづつまささだ(15??~15??)】

大槌広信の男。1616年、大槌広信の後を継いだ大槌政貞は南部利直の謀略で自刃した。

大槌家臣団【おおづつけかしんだん】

挾田越前守、芳賀刑部。

大槌家臣団【おおつつけかしんだん】 

八木沢備中守、白岩越後守、平綿土佐守、田中隠岐守。

大野弥五朗【おおのよごろう(15??~15??)】

九戸郡大野館主。1591年、「九戸政実の乱」で大野弥五朗は九戸政実に与して九戸城に籠りましたが討死にしたとされ、大野館は九戸城落城後 南部信直方の石塔勢の攻撃を受けて陥落した。

大原信胤【おおはらのぶたね(15??~15??)】

東磐井郡大原城主。1504年、東山折壁郷において、上折壁家と遠藤家が衝突し、気仙郡横田、矢作郷を中心に気仙の浜田家と東山の大原信明が衝突した。葛西領内も確実に戦国の風が吹き荒れるようになったのである。合戦は大原方の勝利に終わったようで、大原信明の麾下として出陣した熊谷直恒は、戦功によって葛西重信から所領を給せられたと伝えられている。「大原、浜田の戦い」の原因は不明だが、大原直恒の一件から、私闘ではなく大守葛西家に公認されたものであったようだ。おそらく、浜田家が大守に反抗を企て、大原信明が葛西家の重臣として追討にあたった。

大原信茂【おおはらのぶしげ(15??~1590)】

葛西晴胤の次男。大原信明の養子。官途は飛騨守。1700騎大将の旗頭衆である大原家の家督を相続した。1542年、伊達家中に「天文の大乱」とよばれる内紛が発生した。伊達稙宗、伊達晴宗の父子が不和となり、ついに、伊達晴宗が父伊達稙宗を幽閉したことが乱の始まりであった。この伊達家の内紛に、奥州の諸大名は、伊達稙宗派と伊達晴宗派とに分かれて互いに抗争する事態となった。葛西家では大原家、富沢家・柏山家らの大身は伊達晴宗派に属したが、葛西晴清は伊達稙宗の子で葛西家に養子として入っていたために、父伊達稙宗に協力した。このため葛西家中は二派に分かれ、葛西領内は騒擾することになった。

大原重光【おおはらしげみつ(15??~1591)】

葛西家臣。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗により謀殺された。

大原家臣団【おおはらけかしんだん】

南小梨定胤、篠崎信直。

大和田掃部【おおわだかもん(15??~1591)】

磐井郡広田城主。浜田家臣。1587年「浜田兵乱」に巻き込まれ、主君葛西晴信を恨むところがあった。1591年桃生郡深谷において伊達政宗によって謀殺された。

奥玉(千葉)胤時【おくたまたねとき(15??~15??)】

東磐井郡立花城主。1591年、桃生郡深谷にて討死した。祖父奥玉輝胤から三代で奥玉家は滅亡した。

小田代氏基【おだようじもと(15??~15??)】

田瀬城主。官途は肥前守。

小田代家臣団【おだいけかしんだん】

小田代蔵人恒真、小田代兵部恒弘、小田代備後恒道、小田代弥兵衛定、小田代久右衛門恒政、小田代又右衛門恒次。

乙部義説【おとべよしとく(15??~15??)】

斯波郡乙部館。斯波家臣。官位は治部。主家である斯波家滅亡後、乙部義説は南部家に仕官した。

鬼柳伊賀守【おにやなぎいがのかみ(15??~15??)】

鹿島館主。和賀家臣。

小野寺宗道【おのでらむねみち(15??~15??)】

胆沢郡金ケ崎城主。葛西家臣。1582年、南部家臣九戸政実の侵入を受け、居城金ヶ崎城にてこれを迎撃した。

小野寺肥後守【おのでらひごのかみ(15??~15??)】

小野寺宗道の男。1582年、南部臣九戸政実の金ヶ崎城攻撃の際、達曽部信濃守を討取った。

小山明長【おやまあきなが(1558~1591)】

胆沢郡小山城主。柏山家臣。柏山明吉の次男。通称は九郎。折居明久とともに柏山家屈指の荒武者。1581年、柏山家の内紛で折居明久とともに柏山家老三田将監を謀殺した。

折居明久【おりいあきひさ(1561~1591)】

胆沢郡折居館主。柏山家臣。柏山明吉の四男。通称は嘉兵衛。小山明長とともに柏山家屈指の荒武者。1581年、柏山家の内紛で兄明長とともに家老三田将監を殺害。葛西大崎一揆では一揆方の総帥として水沢に侵攻した。

折居明忠【おりいあきただ(15??~15??)】

折居明久の男。

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【か】

柏山明吉【かしやまあきよし(1530~1591)】

胆沢郡大林城主。胆沢郡惣領職。葛西家麾下の城主。官途は伊勢守。1565年、胆沢郡西根城主新渡戸頼長を滅ぼす。1580年、柏山明吉の長男柏山明国と次柏山男明宗の間に後継者の地位をめぐって内紛がはっせい、さらに周辺の豪族とも争いを引き起こすことになったため、次第に勢力を衰退させた。勢力は沈滞した。奥州征伐のとき浅野長政の攻撃を受けて没落した。1534年、柏山明吉は南部勢と戦った。戦いに出陣した石川越後守は、南部衆の北七郎、六戸弥太郎をはじめとして馬上十騎、雑兵らを討ち取った。これに対して柏山家は胆沢郡下で八千刈、磐井郡下で七千刈、計一万五千刈を恩賞として給付している。これは抜群の戦功であり、恩賞であった。伊達稙宗と晴宗父子の不和から起った伊達家の内訌である「天文の大乱」では、柏山明吉は伊達晴宗派として参戦した。この乱における伊達稙宗派との戦いの戦功に対して、葛西高信と柏山明吉が、柏山家の家臣団に恩賞を競争するようにして出している。

柏山明国【かしやまあきくに(15??~15??)】

柏山明吉の男。

柏山明宗【かしやまあきむね(15??~15??)】

柏山明吉の次男。息子の柏山明助は、南部家に仕官したが、剛勇すぎ、疑心を抱かれ毒殺された。

柏山常治【かしやまつねはる(15??~15??)】

胆沢郡前沢城主。柏山枝連衆。

柏山家臣団【かしやまけかしんだん】

折居嘉兵衛明宗、折居三九郎明、折居嘉兵衛明次、柏葉甚兵衛常永、柏葉安右衛門常行、柏葉長九郎常房、柏葉安右衛門常令、三田将監義勝、三田玄蕃義則、三田十郎左衛門義正、及川武蔵恒明、千田部豊後守、机地相模守、大内源次郎。

口内帯刀【くちないたてわき(15??~15??)】

江刺郡上口内城主。江刺重胤三男。官途は帯刀。

口内隆朝【くちないたかもと(15??~15??)】

口内帯刀の男。1590年、江刺家が羽柴秀吉の奥羽仕置により所領没収となった。それに伴い、口内家の宗家、江刺家は岩谷堂城を退去し、口内隆朝も口内城を明け渡した。1591年に南部信直に仕官した。

口内重幹【くちないしげもと(15??~15??)】

口内隆朝の男。通称は彦次郎。

苅屋金蔵【かりやきんぞう(15??~15??)】

下閉伊郡苅屋館主。戦国期に宗家田鎖家は南部家の被官に組み込まれ、苅屋家も同様に南部家の傘下に組み込まれたと考えられます。田鎖家は戦国末期に南部家により改易になった。

苅屋家臣団【かりやけかしんだん】

苅屋五兵衛為勝、苅屋長五郎為房、苅屋源吾為正、苅屋左衛門、苅屋越中守、苅屋弥一郎親正。

亀ヶ崎光広【かめざきみつひろ(15??~15??)】

稗貫郡亀ヶ森館主。稗貫家臣。官途は図書。1540年、没落した八十沢家に代わり亀ヶ森館主になった。1557年、稗貫為嗣に背く。槻本光治、矢沢治真に攻められるが、逆に槻本光治を討って稗貫勢を撃退した。

川口秀長【かわぐちながひで】

岩手郡川口城主。官途は左近。

川口家臣団【かわぐちけかしんだん】

川口与十郎秀影、川口与十郎秀寛、川口主水秀信、川口主税秀定。

金沢信胤【かなざわのぶたね(15??~1591)】

西磐井郡金沢城主。寺崎千葉家枝連衆。官途は伊豆守。弟の信継はが寺崎家の養子に入った。1591年、桃生郡深谷で伊達家と戦って負傷、自刃した。

河村秀政【かわむらひでまさ(15??~15??)】

斯波郡大巻館主。斯波家臣。1570年、三戸南部家が岩手郡への侵攻を開始すると斯波家は防戦に終始し、九戸政実の弟中野直康を娘婿とすることで南部家と和睦した。1586年、中野直康が斯波詮直と不和になり三戸へ出奔する事件が勃発すると、南部信直は斯波領との「境目」中野館に中野直康を配置して斯波詮直を挑発します。1588年、斯波詮直は中野館を攻撃しますが、南部家の蝶略で岩清水右京がクーデターを起こすと南部勢は南下を開始し、このため斯波家は敗北を喫して滅亡しました。南部家南下に際して河村一族は内部分裂して斯波勢には参陣せず、大巻河村家は斯波家とともに没落した。

河村家臣団【かわむらけかしんだん】

河村覚右衛門秀徳、河村作内秀満、河村喜助、河村右近秀久。

菊池喜左衛門【きくちぜんざえもん(15??~15??)】

上閉伊郡奥友館主。阿曽沼家臣。鱒沢広勝同様に阿曾沼広長に謀反し、南部家に寝返る。「大坂冬の陣」には15人を率いて参加した。

菊池恒邦【きくちつねくに(15??~15??)】

江刺郡青篠城主。江刺信時家臣。通称右近。1587年主君江刺信時を諌めたが、却って息子大田代伊代守が討たれたため、菊池恒邦は逃亡した。

菊池家臣団【きくちけかしんだん】

菊池半左衛門武長、菊池半之丞長則、菊池金十郎則武。

亀掛川信重【きけかわのぶしげ(15??~15??)】

東磐井郡仏沢城主。仏坂蔵人の養子。

亀掛川堅久【きけかわかたひさ(15??~15??)】

亀掛川信重の男。

亀掛川信秀【きけかわのぶひで(15??~15??)】

東磐井郡濁沼城主。亀掛川信重の男。1550年、亀掛川一族に内乱が起こり、新山城主亀掛川師兼勢に攻められ、大原家を頼り落ちた。

葛巻政祐【くずまきまさすけ(15??~15??)】

岩手郡葛巻城主。厨川工藤家臣。葛巻家は鎌倉初期、「奥州討伐」の軍功により陸奥国岩手郡の地頭職を得た鎌倉御家人厨川工藤家庶流。三戸南部家の支配下に置かれた厨川工藤家枝連衆の葛巻地頭職を得て入封した。1591年に勃発した「九戸の乱」時の葛巻政祐は九戸政実の娘婿でしたが、南部信直方に与して軍功をあげ、乱後加増を受けて岩手郡の一方井城に移封しました。

久慈信義【くじのぶよし(15??~15??)】

久慈郡久慈城主。久慈治義の男。官途は三河守。通称与三郎。室は九戸家の娘。

久慈五郎【くじごろう(15??~15??)】

久慈治義の三男。

久慈直治【くじなおはる(15??~1591)】

久慈信義の男。官途は備前守。南部家嫡流の南部時政の男南部備前守信実が久慈修理助治政の養子となり久慈家の家督を相続した。久慈直治は九戸信仲の三男中務政親(政則)を娘婿とした。久慈政則と共に「九戸政実の乱」に参戦し誅殺された。

久慈政則【くじまさのり(15??~1591)】

久慈直治の男。1591年「九戸政実の乱」では九戸政実方に与して、久慈政則とともに九戸城に籠城しました。しかし乱は九戸方の降伏で終結し、久慈直治、久慈政則父子は捕縛され、栗原郡三迫で処刑されました。

厨川工藤茂道【くどうしげみち(1539~1588)】

岩手郡厨川城主。高清水斯波家麾下の城主。官途は雅楽允。厨川工藤家は、鎌倉以来の地頭として勢力を有したが、三戸南部家に併呑され、岩手郡三十三郷は他氏の手に渡り、わずかに近郊十ケ村を領するだけになった。1588年、斯波詮直が南部家に攻められた時、斯波詮直は高清水城から落ちたが、工藤茂道は城内にとどまり討死した。

厨川工藤光林【くどうみつもり(1539~1588)】

厨川工藤茂道の男。官途は兵部少輔。父厨川工藤茂道の代に三戸南部家に屈するようになった。1573年頃には厨川工藤家厨川工藤光林が南部信直に服従し、800石を安堵された。

厨川工藤家臣団【くどうけかしんだん】

厨川兵部光忠、厨川作兵衛光傅、厨川兵衛光基。

栗谷川義茂【くりたにかわよししげ(15??~15??)】

岩手郡栗谷川城主。通称小次郎。

栗谷川家臣団【くりたにがわけかしんだん】

栗谷川作兵衛満清、栗谷川五兵衛光房、東谷川五郎助光矩、栗谷川右衛門光中、栗谷川吉次光明、栗谷川兵右衛門光高。

小森林治部少輔【こもりばやしじぶしょうゆ(15??~15??)】

稗貫郡小森林館主。稗貫家1590年、「奥州仕置」で稗貫家は領地没収、改易となり小森林家も没落しました。1590年、和賀義忠は旧領回復を目指して一揆をおこした。この一揆は稗貫郡にも拡大し、矢沢・似内・桜田、高橋、瀬川家等の稗貫旧臣とともに小森林治部も参陣した。

今野貞澄【こんのさだずみ(15??~15??)】

磐井郡地千厩城主。葛西家臣。主家滅亡による没落。

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【さ】

茂市勝治【しげいちかつはる(15??~15??)】

下閉伊郡八幡館主。官途は将監。

茂市家臣団【しげいちけかしんだん】

茂市右近光実、茂市三太夫実福、茂市右近光金。

雫石詮貞【しずくいしあきさだ(1503~1567)】

岩手郡雫石城主。高清水斯波家臣。斯波詮高の次男。家系は清和源氏家一流河内源家の流れを汲む足利家の枝連衆、高水寺斯波家の出身。弟に猪去詮義がいる。父斯波詮高が南部家より奪取した雫石村を知行し雫石城主となった。足利将軍家と祖を同じくする足利家の枝連衆であることから、「雫石御所」と尊称された。

雫石詮貴【しずくいしあきたか(15??~15??)】

雫石詮貞の男。

篠崎信直【しのざきのぶなお(15??~15??)】

東磐井郡南小梨城主。葛西家臣。官途は三河守。1588年の浜田家と熊谷家の争い(浜田家の乱)では鎮圧軍として出動した。

高清水斯波経詮【しばつねあき(1500~1559)】

斯波郡高水寺城主。斯波郡惣領職。斯波詮高の男。高水寺斯波家は清和源家の一家系、河内源家の棟梁 鎮守府将軍源義家の子源義国を祖とする足利家枝連衆。父斯波詮高が寺築いた高水斯波家の隆盛の後を受け、斯波郡領国経営の安定化を図った。本拠、高水寺城主は「斯波御所」と呼ばれ、周囲に名家の権威を示した。

高清水斯波詮真【しばあきざね(1524~1573)】

斯波経詮の男。南部家の南下政策に押され、劣勢に立たされた。九戸信仲の四男、高田吉兵衛を養子に迎え、南部家と和睦した。

高清水斯波詮直【しばあきなお(1548~1597)】

斯波詮真の男。高水寺斯波家の最後の当主。南部晴政と戦って敗れ、実質的に高水寺斯波家は南部家の従属下に置かれていた。1582年、南部晴政と南部晴継が相次いで亡くなり、南部家内部で内乱が起こると、すかさず奪われていた岩手郡に侵攻し、そこを奪還した。ところが斯波詮直自身はあまり有能な人物ではなかったようで、遊興に耽って政務を顧みないことも少なくなかった。このため、家臣の石清水義長が諫言したが聞き入れることは無く、これに不満を持った石清水義教(義長の弟)や簗田詮泰らは南部信直と内通して石清水城で挙兵するほどであった。1586年、には有力重臣の高田吉兵衛(後の中野修理)が南部信直のもとに出奔するに至って高水寺斯波家の動揺は抑えきれないものとなり、1588年、南部信直の侵攻を受けて斯波詮直は敗れ、高水寺斯波家は滅亡した。

高清水斯波家臣団【しばけかしんだん】

稲藤大炊、貝志田主馬允、永井八郎延明、貝志田与三、十日市将監光久、伝法寺右衛門、徳田掃部、煙山七郎、日沼隼人、見前監物、松原半十郎、堀切兵庫助、藤沢花五郎、白沢百助、室岡源兵衛、細越五左衛門、鵜飼主膳正、鵜飼又十郎、鱒澤刑部丞、太田主殿助秀広、豊間根内記秀國、曹木田十郎兵衛、江柄兵部少輔、川村豊前秀久、江柄九郎兵衛次昌、中村作右衛門、栃内左近秀綱、星川左馬助、、清水善七郎、大釜薩摩政幸、多田孫右衛門忠綱、達曽部弥兵衛清綱、氏家弥右衛門義方、玉井庄兵衛、宮手彦右衛門英清、飯岡弥六郎祐貫、中島内膳安将、小屋敷権之助義長、大巻隼人、山王海太郎、乙部治部義説、長岡八右衛門詮尹、手代森大夫秀親、矢羽々又左衛門正紹、中村作兵衛秀峰、細川長門守、大川与左衛門基則。

下田秀祐【しもだひですけ(15??~15??)】

岩手郡下田館。通称弥三郎。南部信直から下田弥三郎秀祐が下田館を築いて下田家を名乗った。

下田家臣団【しもだけかしんだん】

下田内記秀邑、下田清之丞秀勝。

清水信精【しみずのぶよし(1567~1591)】

西磐井郡清水城主。葛西家臣。清水信光の男。官途は刑部少輔。1591年、桃生郡深谷にて伊達家により謀殺された。

白石時直【しらいしときなお (15??~15??)】

東磐井郡折戸館主。葛西家臣。官途は豊後守。主家滅亡後は伊達政宗に仕えた。

浄法寺重安【じょうほうじしげやす(15??~15??)】

二戸郡浄法寺城主。官途は修理介。三戸南部家麾下の城主。浄法寺家は6,000石を領した。浄法寺重安は「九戸の乱」では高齢のため出陣しなかった。南部家では、八戸家と九戸家、そしてこの浄法寺家が、他の家臣とは別格の存在だった。浄法寺一族が動けば、南部家は滅亡の危機に曝されるため、その怖れから頻繁に「浄法寺謀反」の噂が流されている。「一戸城の戦い」では、浄法寺重行と浄法寺主膳の企みにより、落城の汚名を着せられた。浄法寺重好は、三戸南部方の姿勢を堅持するようになった。九戸戦では、浄法寺重行は大湯四郎左衛門のいる鹿倉館に助太刀に向かったが、泥濘にはまり動けなくなったところを「浄法寺修理が攻めに来た」と誤解され射殺された。浄法寺枝連衆には松岡家から出た浄法寺家、松岡家から分かれた大森家、浄法寺家から分かれた太田、 駒ケ嶺、中川原、五日市、杉沢、田山、吉田、西舘、寺田の諸家がある。

浄法寺重好【じょうほうじしげよし(15??~15??)】

浄法寺重安の男。1601年「和賀の乱」を南部利直は一時休戦にして、和賀城に浄法寺重好を置き、三戸に帰った。和賀城を任された浄法寺重好は、部下を残したまま密かに浄法寺城へ帰ってしまった。 このことが後に戦陣の規律を破ったとされ、知行家禄屋敷を没収され、その身は蟄居となり、庶家の松岡家に預けられ浄法寺家は断絶した。

浄法寺家臣団【じょうほうじけかしんだん】

松岡尾張守、松岡助四郎、松岡惣左衛門、松岡七右衛門、松岡民部政興、松岡内蔵助政成、松岡武兵衛政体、松岡万三郎政供、太田源四郎忠族、太田源四郎忠能、太田源兵衛忠則、太田源太夫忠継、駒ヶ嶺内膳保忠、駒ヶ嶺四郎太夫忠武、駒ヶ嶺治郎忠則、吉田忠近忠徳、吉田作七忠行、田山八兵衛忠旦、西舘将監忠珍、西舘四郎右衛門忠茂、田山八太夫重防、五日市兵庫忠教、五日市左近忠岩、有居忠兵衛、大森十太夫忠善、大森弥兵衛忠今、大森庄五郎忠安、畠山左馬助、畠山孫七忠保、中川原小兵衛忠有、畠山善蔵正和、駒ヶ嶺喜成正国、駒ヶ嶺善蔵正勝、畠山甚兵衛光元、畠山治右衛門光成、浦田久六光正、杉村六左衛門光寛、杉村六郎右衛門光福、杉村六左衛門光昌、杉村次郎右衛門吉矩、野続甚五郎久業、野続喜膳久徳、野続慶卜一久、野続源内一光、松岡藤右衛門正吉、駒ヶ嶺兵右衛門正家、駒ヶ嶺兵左衛門義利、駒ヶ嶺武兵衛好忠、大森七右衛門盛常、大森五郎右衛門盛定、大森甚右衛門盛秀、大森助十郎盛重、大森利兵衛盛光、大森助之丞忠時、佐藤助左衛門正良、佐藤庄左衛門良正、佐藤庄左衛門近良、佐藤庄兵衛政常、佐藤専右衛門正道、佐藤庄之助正房、安ケ平喜右衛門義重、安ヶ平喜右衛門義範、安ヶ平善右衛門義配、関与平治定政、関与八郎定久、関七之助定。

煤孫治義【すずまごはるよし(15??~15??)】

和賀郡下須々孫城主。和賀家臣。官途は下野守。子の煤孫義甫、煤孫隆義と共に岩崎一揆に参加。煤孫隆義は一揆勢力の中心人物の一人となった。

瀬川隠岐守【せがわおきのかみ(15??~15??)】

稗貫郡大瀬川館主。稗貫家臣。斯波家の抑えとなる。稗貫家とともに没落し、和賀、稗貫一揆に参陣した。後に南部家に仕える。

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【た】

高館吉之【たかやかたよしゆき(15??~15??)】

高館主。和賀家臣。官途は宮内少輔。

高館家臣団【たかやかたけかしんだん】

菊池重長。

田鎖政光【たぐさりまさみつ(15??~15??)】

下閉伊郡田鎖城主。閉伊久朝の男。田鎖家は松山館主白根家、折壁館主の伊藤家、苅屋家、和井内家など幾度となく四隣の土豪たちと戦ったが、常に他領に軍を進めて戦い、田鎖領城が戦火にまみえることはなかった。

田鎖光好【たぐさりみつよし(15??~15??)】

田鎖政光の男。官途は遠江守。1591年「九戸政実の乱」で、九戸、南部どちらの陣営にも着かず千徳家と共に中立していた。1592年、朝鮮出兵で肥前名護屋へ出向いている隙に、南部家に田鎖城を破却され没落した。

田鎖光賢【たぐさりひとかた(15??~15??)】

田鎖政光の次男。官途は右京。

田鎖家臣団【たぐさりけかしんだん】

田鎖次郎左衛門光周、田鎖善九郎義重、田鎖次郎右衛門光明、田鎖次郎兵衛光清、田鎖助太夫政勝、田鎖三郎兵衛高勝、田顔庄右衛門吉網、田鎖庄助吉晴、田鎖庄右衛門吉清、田鎖仁兵衛光親、田鎖五郎光剛、田鎖武右衛門綱茂、田鎖庄三郎義次、田鎖長次郎光尚、田鎖長九郎光世、田鎖茂右衛門正陣、田鎖伝右衛門勝吉、田鎖勘五郎政興。

小国武田忠信【たけだのぶただ(15??~15??)】

下閉伊郡小国城主。通称彦十郎。1502年、武田忠信がこの地に入部し小国館を築いた。閉伊川下流域は田鎖家が支配していて、阿曽沼家領遠野に繋がる小国川沿いの小国は交通の要衝だった。1532年、武田直信が江繋館主江繋正光に敗れ武田家は没落した。

田山久光【たやまひさみつ(15??~15??)】

岩手郡田山館主。浄法寺家臣。鎌倉中期から安比川流域を支配した浄法寺城主浄法寺家の九代重久の三男久光が、この地に入部し田山家を称し築いたとされます。田山館は浄法寺城の西の押さえとして、二戸郡と鹿角郡の国境を守備する軍事拠点として機能した。

千葉茂成【ちばしげなり(15??~15??)】

東磐井郡金鶏城主。葛西家臣。官途は遠江守。1568年、曽慶城主曽慶(岩淵)信時と争った。

千葉冬胤【ちばふゆたね(15??~15??)】

磐井郡金沢城主。葛西家臣。官途は伊豆守。1507年、寺崎時胤と戦ってこれを討取った。1510年、薄衣家も撃破した。千葉信胤のとき桃生郡深谷にて謀殺。

津軽石勝冨【つがるいしかつとみ(15??~15??)】

下閉伊郡払川館主。通称九郎。千徳家の庶流津軽石家。1583年、千徳城の新年祝賀の席で討たれる。家臣の石至八郎は討たれるが、荒川佐助は津軽石館に逃れ籠城する。兵80名で、中津山善達の兵226名相手に善戦。夜に放火され、荒川佐助は突撃をして討たれた。津軽石勝富の子は津軽石佐助によって城から落延びた。

手代森秀親【てしろもりひでちか(15??~15??)】

岩手郡手代森館。大萱生枝連衆。1588年、斯波家が南部家に滅ぼされると、手代森秀親は南部家に仕えた。

寺崎清泰【てらさききよやす(15??~1591)】

葛西家臣。寺崎明清の男。官途は阿波守。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗により謀殺された。

寺崎時胤【てらさきときたね(15??~1507)】

磐井郡峠城主。葛西家臣。官途は下野守。1507年、金沢冬胤が反乱を起こしたとき、寺崎時胤は日形城主千葉秀胤らとともに金沢を攻めたが討死した。宗家にあたる寺崎秀胤も41歳の若さで討死した。

寺崎清時【てらさききよとき(15??~15??)】

寺崎時胤の男。1521年、金沢冬胤を討ち取って仇を討ったが葛西重信に攻められ、寺崎茂継が討死した。

寺崎良次【てらさきよしつぐ(15??~1582)】

金沢良通の男。寺崎時胤の養子。官途は石見守。所領は310町歩、馬上61騎を率いた。1544年、金沢胤正は太守葛西家に反乱を起こし、葛西高信に討伐された。このとき寺崎吉次は葛西軍に従った。この戦で実家の金沢家が滅ぶと、寺崎家は磐井郡二十四郷の旗頭となった。1579年「富沢直綱の乱」のでは鎮圧軍として活躍した。1582年「河崎の戦に」で討死した。

寺崎正次【てらさきまさつぐ(15??~15??)】

寺崎良次の男。1590年、羽柴秀吉による奥州仕置で、奥州に攻めてきた羽柴秀吉勢を迎え撃った葛西家は滅亡した。寺崎正次も総大将として出陣した、奮戦の末に討死した。

寺崎信継【てらさきのぶつぐ(15??~15??)】

金沢胤正の男。寺崎時胤の養子。

寺崎家臣団【てらさきけかしんだん】

日形城主:千葉大学胤弘、下油田城主:千葉越前守道胤、寺崎祐光。

田頭直祐【でんどうなおすけ(15??~15??)】

葛巻信祐の次男。1591年の「九戸の乱」で三戸城主南部信直側についたため、平館城の一戸政包は九戸政実に加担して南部信直方の田頭城を攻めた。田頭勢は必死に防戦したが落城、自刃した。

雫石戸沢政安【とざわまさやす(15??~15??)】

岩手郡雫石城主。戸沢家枝連衆。1540年、三戸の南部晴政が叔父石川高信の献策によって岩手郡に勢力拡大を図り、石川高信を使者として岩手郡内の川村家、工藤家、戸沢家に対し、三戸に参向して南部家に服従することを誓うことを伝えた。河村家(下田、沼宮内、川口、渋民、玉山、日戸の諸家)と厨川工藤家(田頭、平館、葛巻の諸家)はこの申し出に従った。しかしは戸沢政安これを拒否。これにより石川高信、雫石城を攻略。戸沢政安は角館に敗走した。

雫石戸沢臣団【とざわけかしんだん】

手塚左衛門尉、長山惣右衛門、高橋出雲守。

毒沢一忠【どくざわかずただ(15??~15??)】

和賀郡毒沢館主。和賀家枝連衆。官途は伊賀守。1590年、和賀義忠は羽柴秀吉の「小田原の役」に参陣せず、このため和賀家は「奥州仕置」で所領没収、改易となり、毒沢一忠も没落した。1600年「和賀一揆」が勃発すると毒沢一忠は一揆勢に加わった。一揆は南部勢に制圧され仙台で自刃した。娘は伊達政宗の側室となり、伊達宗勝を産む。

毒沢義森【どくざわよしもり(15??~15??)】

毒沢一忠の男。1600年「和賀一揆」が勃発すると父毒沢一忠とともに一揆勢に加わったが討死した。

鳥畑堅長【とりはたかたなが(15??~15??)】

磐井郡鳥畑城主。葛西家臣。通称弥九郎、薩摩。1585年、薄衣家と争って敗北し、大原家を頼る。

鳥畑堅時【とりはたかたとき(15??~15??)】

鳥畑堅長の男。1591年、桃生郡深谷において伊達政宗に謀殺された。

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【な】

長岡詮尹【ながおかあきいん(15??~15??)】

斯波郡長岡館主。斯波詮直の信頼が厚かった。南部家の侵入に際して離反派に館を囲まれて交戦中だったため、斯波詮直救援に向かうことが出来なかった。斯波詮直没落を聞いて南部家に投降した。

中野康実【なかのやすのり(15??~15??)】

斯波郡吉兵衛館主。高清水斯波家臣。九戸信仲の四男。通称弥五郎。別名高田吉兵衛。高水寺斯波家に入婿し、高田村を知行する。高水寺斯波家攻めの先鋒となる。高水寺城主として3,500石を領した。1591年「九戸の乱」では南部信直を支持。後に南部利直と不和になり毒殺された。

新堀義広【にいぼりよしひろ(15??~15??)】

稗貫郡新堀城主。稗貫家臣。作兵衛。新堀家は鎌倉期に稗貫郡地頭職として入部した稗貫家の被官で、『瀬川稗貫系図』では稗貫広秀の三男光家を祖とし代々新堀城を居城とした。1590年の羽柴秀吉の「小田原攻め」に鳥谷ケ崎城主稗貫広忠は参陣せず、稗貫家は改易となり新堀家も没落した。

沼宮内常利【ぬまみやうちつねとし(15??~15??)】

岩手郡沼宮内城主。官途は民部。一方井家麾下の城主。岩手郡に河村家が土着し、次第に勢力を拡大する過程で、工藤家の庶家が沼宮内家が勢力を持った。戦国期、沼宮内家は三戸南部家に呑み込まれ南部家の被官に組み込まれました。1591年に勃発した「九戸の乱」で沼宮内民部常利は南部信直に与したため九戸政実方の平館城主平館政包に沼宮内城は攻撃され落城します。乱後、沼宮内常利は沼宮内城に復帰しました。

沼宮内家臣団【ぬまみやうちけかしんだん(15??~15??)】

沼宮内治郎春秀、沼宮内治部春久、沼宮内治部久幸、沼宮内采女久秀、沼宮内武左衛門秀昌、沼宮内伊兵衛秀喬。

野田義親【のだよしちか(15??~15??)】

久慈郡野田城主。通称源左衛門。南部家麾下の城主。

野田正義【のだまさよし(15??~15??)】

野田義親の男。野田正義は宇部館から三日市場に拠点を移し野田城を築城した。

野田政親【のだまさちか(15??~15??)】

野田正義の男。1591年た「九戸の乱」で野田正義・政親父子は南部信直方に与し、九戸政実に与した久慈城主久慈政則(政実の実弟)と対峙し、このため野田正義の宇部館は久慈領との境目になり久慈勢の攻撃を受けた。

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【は】

浜田広綱【はまだひろつな(1523~1592)】

気仙郡米ヶ崎城主。気仙郡惣領職。葛西家臣。官途は安房守。1586年の歌津合戦で本吉重継を撃破し併合。 1587年、気仙沼の宿敵赤岩城主熊谷直義と決戦に挑むが主君の葛西氏が熊谷氏を支援し、熊谷勢の伏兵に遭うなどして戦線が膠着したため、一度は停戦した。1588年,再び所領減の措置を不服とし、及川氏に奪われていた米ヶ崎城を奪回するが敗北、所領を失った。1588年にはそれが昂じて同じく気仙沼における豪族熊谷直義ら熊谷党と騒乱を起こした。紛争終結後、葛西家の裁定に不服を抱き、及川家の属城米ヶ崎城を略取して防備を固めて叛意を顕すが、気仙沼篠嶺山の戦いで敗北し落城没落した。

浜田家臣団【はまだけかしんだん】

昆野右馬之允、昆野遠江大学、今野助九郎広綱、千葉安房守重綱、千葉信定、新沼玄蕃、只野民部、千田大学、新沼太郎右衛門、関根惣右衛門、及川土佐守、新沼安芸守綱清、新沼綱広、浜田三左衛門喜六、紺野美作守。

花輪朝重【はなわともしげ(15??~15??)】

下閉伊郡花輪館主。通称十郎左衛門。1546年、田鎖(閉伊)久朝の子朝重が花輪館を築いた。

花輪政朝【はなわまさとも(15??~15??)】

花輪朝重の男。

花輪家臣団【はなわけかしんだん】

花輪安房為政、花輪内膳正朝、花輪八兵衛正矩、花輪十郎親朝、花輪七右衛門政方、花輪金蔵政氏。

稗貫義時【ひえぬきよしとき(15??~15??)】

稗貫郡鳥谷ヶ崎城主。稗貫郡惣領職。官途は大和守。戦国期に関しての稗貫家の動向は定かではないが、戦国大名として成長することはできず、稗貫郡を支配するだけの国人領主的存在だった。その名家であるが故に、京都の中央政権である室町幕府とは友好関係を維持していたようであり、時の当主である稗貫輝時は上洛して将軍の足利義輝と謁見している。戦国時代の稗貫家は養子当主が相次いでおり、それが他家の介入を招いて衰退する一因となった。

稗貫広忠【ひえぬきひろただ(1554~1603)】

和賀義忠の兄。稗貫家に入婿した。通称孫次郎。1590年「小田原の役」に参陣しなかったために改易された。1591年、稗貫広忠は和賀義忠と共に反乱を起こして和賀義忠の居城である二子城を奪回するほどに奮戦したが、ほどなくして羽柴秀吉の命令を受けた奥州鎮定軍に攻められて和賀義忠は討死した。稗貫広忠は逃亡したが程なくして死去した。

人首恒輝【ひとかべつねてる(15??~15??)】

江刺郡人首館主。江刺重胤次男。通称は平右衛門。

人首盛恒【ひとかべもりつね(15??~15??)】

人首恒輝の男。通称は平十郎。主家の江刺家が羽柴秀吉の奥羽仕置勢によって所領没収になると、人首盛恒も命運を共にし、人首城を退去した。

人首家臣団【ひとかべけかしんだん】

人首甚太郎恒冨、人首平八郎恒茂。

日戸秀恒【ひどひでつね(15??~15??)】

岩手郡日戸館主。官途は内膳。1588年、日戸秀恒は「高水寺城攻め」で軍功を挙げた。1608年、日戸秀恒の孫日戸直秀が野辺地城代に任ぜられ日戸を離れた。

日戸家臣団【ひどけかしんだん(15??~15??)】

日戸内膳秀武、日戸助三郎秀盛、日戸仁兵衛秀春、日戸勘十郎秀親、日戸三十郎秀和、日戸典膳秀勝。

火渡広家【ひわたりひろいえ(15??~1600)】

上閉伊郡火渡館主。阿曽沼家麾下の城主。阿曽沼家の庶流で、遠野盆地北側の附馬牛を分知され火渡館を築いた。1600年、阿曽沼広長の最上出陣中に鱒沢広勝が起こした叛乱には組みしなかったた火渡広家は、鱒沢広勝に火渡館を攻められた。脱出の際に死体と偽って籠をかぶるが、それを敵兵に鑓で突かれ討たれた。火渡広家と討死した。

平倉(菊池)盛任【ひらくらもりこれ(15??~15??)】

上閉伊郡刀金館主。通称新兵衛。上郷菊池枝連衆。

平倉家臣団【ひらくらけかしんだん】

平倉盛清、平倉刑部、平倉新八。

平館(一戸)政包【ひらだてまさかね(15??~15??)】

岩手郡平館城主。官途は信濃守。三戸南部家の庶流一戸家が平館に入部した。平館(一戸)政包は1581年、一戸城で兄の一戸信連とともに九戸政実に誘殺された。南部信直の命により津軽石重行の子が平舘彦六を名乗り平館家を再興した。

深堀武虎【ふかぼりたけとら(15??~15??)】

磐井郡深堀城主。葛西家臣。通称新左衛門。1579年「富沢直綱の乱」の際、弟深堀武重とともに鎮定に赴いた。1590年、葛西晴信は「小田原の役」に参陣せず、葛西家は「奥州仕置」により所領没収、改易となり葛西領には木村伊勢守吉清、清久父子が入封した。木村家の施政に対して「葛西・大崎一揆」が勃発し、深堀武虎は葛西勢に与して深谷荘和淵に出陣したが討死した。

福士秀治【ふくしひではる(15??~15??)】

岩手郡不来方(盛岡)城主。官途は伊勢守。南部家麾下の城主。

福士家臣団【ふくしけかしんだん】

福士淡路守政秀、福士右衛門、福士因幡守、福士彦三郎。

閉伊郡豪族衆【へいぐんごうぞくしゅう】

蟇目茂右衛門正忠、中村金左衛門信則、高濱弥右衛門光継、高濱三五郎廣安、高濱弥太夫信廣、赤前中務忠光、赤前四郎右衛門義似、赤前四郎右衛門吉保、大沢与右衛門秀久、大沢勘解由久親、大沢甚右衛門義業、大川彦兵衛清茂、大川彦兵衛光清、大川彦十郎清峯、片岸用之助安俊、片岸用之助安春、片岸庄右衛門安秋、重茂与十郎義武、重茂与三左衛門茂国、重茂権十郎義房、重茂掃部光長、重茂又五郎光季、重茂次郎作綱清、、箱石備中義如、箱石嘉右衛門義番、箱石清左衛門義致、田代安重光陽、田代治兵衛光恒、田代治兵衛光貞、田代判左衛門致光、田代甚五右衛門純光、田代首令為光、山崎大内蔵親定、山崎善右衛門親吉、大内蔵子、山崎小五郎親房、江刈内小左衛門久賀、江刈内政右衛門久冨、江刈内左門林久、小山田越前吉範、小山田越前吉前、小山田久左衛門吉行、荒川平次郎正則、荒川平右衛門盛光、荒川菩戒重則、釜石新十郎、釜石新助、釜石庄九郎、長沢九郎兵衛綱則、長沢七兵衛綱教、長沢三内綱忠、長沢善太夫吉督、長沢弥五郎安光、長沢八右衛門保幹、船越伊豫守長行、船越助五郎安国、船越弥兵衛安秀、船越弥兵衛安昌、小本土佐守正長、小本土佐正衡、小本助十郎正親、小本助兵衛正吉、阿部勘助親長、箱石助左衛門慶備、箱石半兵衛長親、仙徳伊豫守行重、一戸東膳助行実、汗石安芸守長重。

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【ま】

鱒沢広勝【ますざわひろかつ(15??~1600)】

上閉伊郡鱒沢館主。阿曽沼家麾下の城主。鱒沢家は、1499年「大崎一族の内訌」、1542年「伊達天文の乱」での葛西晴胤からの出陣要請に名が見える。戦国後期には阿曽沼家から独立した勢力に成長した。1600年、鱒沢広勝は最上出陣中の鍋倉城主阿曽沼広長の留守をついて叛乱を起こし遠野郷を領有しました。このため遠野に戻れず世田米に居住していた阿曾沼広長は、伊達政宗の支援を受けて遠野奪還を目指したが鱒沢軍の堅守に拒まれ、遠野奪回に失敗し没落した。この戦いで鱒沢広勝は討死した。

鱒沢忠右衛門【ますざわちゅうざえもん(15??~1600)】

鱒沢広勝の男。父鱒沢広勝の後を継ぎ遠野郷を領有するが、謀反を企てたとして南部利直から切腹を命じられ鱒沢家は改易となりました。鱒沢家が改易になったことにより、中世遠野を支配した阿曾沼家の家系は完全に消滅した。

松川信胤【まつかわのぶたね(15??~15??)】

松川内館主。薄衣清胤の男。1507年、松川広胤が金沢冬胤との交戦中に討死すると、薄衣清胤ぼ次男薄衣(松川)信胤が松川家の家督を相続した。1590年、葛西晴信が羽柴秀吉の「小田原の陣」に参陣しなかった。

松川胤好【まつかわたねよし(15??~15??)】

松川信胤の男。1591年、葛西家は奥州仕置勢の攻撃を受けた。松川胤好は深谷荘和淵村に出陣するが、木村伊勢守吉清勢に敗れ討死した。

三ヶ尻恒逢【みかじりつねとよ(15??~15??)】

胆沢郡丸子城主。江刺家臣。官途は加賀守。1590年、羽柴秀吉の「奥州征伐」により主家とともに没落した。浅野長政に主家再興を嘆願し、その忠節を賞されたが江刺家の再興は成らなかった。1603年、南部家に仕え和賀倉沢城主となる。

三ヶ尻家臣団【みかじりけかしんだん】

三ヶ尻吉次、三ヶ尻吉道。

三田重明【みたしげあき(15??~15??)】

胆沢郡前沢城主。柏山家臣。1533年に三田家の家督を相続。1542年、伊達稙宗と嫡子の伊達晴宗とが対立したことをきっかけに、伊達家中、南奥の諸大名がそれぞれに加担したことで「伊達天文の乱」が勃発、奥州を二分して大乱となった。この乱に際して柏山家、三田家が属する葛西家も二派に分裂し、葛西晴清は伊達稙宗方に味方し葛西高信は伊達晴宗方に味方した。柏山明吉は伊達晴宗派として行動し、三田重明も葛西高信に属して伊達晴宗派として参戦、軍功をたて感状を受けている。葛西家は柏山家の重臣である三田将監、蜂屋縫殿、大内彦三郎に対して直接謝書状を送っている。

三田義広【みたしげあき(15??~1588)】

三田重明の男。官途は刑部少輔。三田義広は豪勇の武将で、柏山明吉に仕えて戦場を駆け巡り、父三田重明以上の武功を重ねた。1571年、胆沢郡、磐井郡に争乱が発生、その鎮圧に三田義広は比類のない働きをしたということで、大守葛西晴信より二万刈という類のない恩賞を給わっている。柏山家当主の柏山明吉が死去をきっかけに柏山家にも内紛が発生。柏山明吉のあとを継いだ嫡男柏山明国は性暴慢なことから家中が揉めはじめ、家臣は弟の柏山明宗を擁して引退を迫った。これに対し柏山明国は引退を迫った家臣らを惨殺し、さらには隣国の長部家を攻撃して大敗北を喫した。三田義広は柏山明宗派として事態の収拾に奔走し、柏山明宗の家督相続に貢献した。1573年、九戸政実が南下して胆沢の「金ヶ崎の戦い」で、葛西晴信は九戸家の南攻を阻止するため出兵、三田義広の活躍によって九戸勢は兵を引き上げた。1588年、柏山明宗に逆意を抱いていると讒言され、小山明長、折井明久によって謀殺された。

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【や】

八重畑美濃守【やえはたみののかみ(15??~15??)】

稗貫郡八重畑館主。稗貫家臣。八重畑家が同地に居住したのは、鎌倉時代の早い段階と考えられます。1571年、斯波、南部家の境界争いでは、八重畑家が調停役を務めている。1590年、羽柴秀吉の「小田原攻め」では、鳥谷ケ崎城主稗貫広忠は参陣せず、稗貫家は改易になった。その後、「和賀、稗貫一揆」では八重畑館に一揆勢が籠城したが、奥州仕置勢に攻められ落城した。

八木沢光興【やぎさわみつおき(15??~15??)】

下閉伊郡八木沢館主。千徳枝連衆。通称与四郎。

八木沢家臣団【やぎさわけかしんだん】

八木沢久三郎正興、八木沢金九郎正景。  

八ッ森小七郎【やつもりこしちろう(15??~15??)】

八幡館主。和賀家臣。

簗田詮泰【やなだあきやす(1547~1601)】

高清水斯波家臣。斯波家が再び南部家に対して劣勢に立たされるようになると、主家の行く末に不安を覚え、岩清水義教とともに南部家に内通した。斯波家の没落の原因を作った。南部信直時代の志和、岩手郡支配を担った。伊達政宗が南部信直と九戸政実の斡旋を行おうとしたとき、この簗田詮泰が志和郡まで赴いた伊達政宗に対して斡旋は不要である旨を伝えたという。

簗田勝泰【やなだかつやす(15??~1621)】

簗田詮泰の男。官途は大学。南部利直時代に家督相続した。

米内政成【よないまさなり(15??~15??)】

岩手郡上米内館主。米内宗政の男。官途は丹後守。一方井家の寄騎衆。戦国期には三戸南部家の支配下に置かれた。

米内正吉【よないただよし(15??~15??)】

1573年、米内右近は南部信直の命により日戸内膳、福士淡路守とともに不来方城の守備についた。

米内家臣団【よないけかしんだん】

米内右近正邦、米内孫右衛門政忠、米内出雲守政連、米内出雲守政弘、米内孫左衛門正親、米内丹後守政恒、米内孫七正堅、米内孫惣光政、米内孫四郎政唯、米内孫之丞政春。

和井内光積【わいないたてみつせき(15??~15??)】

和井内館主。南部家臣。通称三平。

和井内家臣団【わいないけかしんだん】

和井内覚左衛門光吉、和井内覚太夫光安。

和賀義勝【わがよしかつ(15??~15??)】

和賀郡二子城主。和賀定正の男。和賀郡惣領職。和賀郡周辺は、中小大名が、寸土を巡って戦いを繰り広げていた。北奥の南部家、南奥の伊達家、その中間に大崎家、葛西家らが割拠していた。南部家は南下作戦を展開し、南部家と境を接する和賀家、江刺家、斯波家らは戦々兢々たるものがあった。1531年、和賀義忠は、本堂家の一族で和賀家の別系であった仙北郡の小田嶋党と戦っている。戦いは数年にわたって続いたが、双方から和睦の話が出て戦争を終結させている。、この戦いは和賀家が南部家の動向に危険を感じたための軍事行動であった。1537年、和賀家が小田嶋家と和睦して間もない「志和の戦い」で、和賀家は柏山家と姻戚関係にあったことから、柏山家に協力して和賀義勝が南部晴政と戦った。

和賀義忠【わがよしただ(15??~1591)】

和賀義勝の次男。官途は薩摩守。1590年、羽柴秀吉の「小田原征伐」に不参加の為、奥州仕置によって葛西晴信、大崎義隆、稗貫秀忠等と供に所領没収、城地追放の処分となる。その後の奥州検地の不満が大崎氏らの旧臣と農民を交えて一揆に発展、その際に二子城を奪還するが、蒲生氏郷により一揆は平定、和賀義忠は逃走の後に農民に殺害された。

和賀忠親【わだただちか(1576~1601)】

和賀義忠の男。1590年、父和賀義忠が「小田原の役」に参陣せず羽柴秀吉の怒りを買って改易された後、伊達政宗を頼って伊達領の胆沢郡に隠匿した。1600年「関ヶ原の戦い」で、領地拡大の野望を燃やす伊達政宗の密命を受けて、旧領を回復しようとした。伊達政宗の援助を受けて和賀郡を支配していた南部利直の領地に攻め込み、鳥屋ヶ崎城を急襲したが、北信愛と南部利直の反撃を受けて失敗する。1600年「関ヶ原の役」後、伊達政宗により仙台領国分寺にて謀殺された。

和賀又二郎【わがまたじろう(15??~1592)】

和賀義忠の男。弟和賀又四郎とともに朝鮮役で活躍した。1596年、下野国で和賀又二郎が没したため、和賀又四郎は朝鮮出兵参加を諦めることになった。

和賀(黒岩)義信【わがよしのぶ(15??~15??)】

和賀郡黒岩城主。和賀義勝の男。官途は薩摩守。通称月斎。1558年、和賀義信は盲目のため廃嫡にされ、黒岩義信と称して黒岩城に在城した。

和賀家臣団【わがけかしんだん】

小田島主殿守、小田島隼人正下総守、和賀治部太夫頼斎、和賀主水正忠実、和賀長門守春安、鬼柳伊賀守盛正、鬼柳兵庫頭、八重樫播磨守源蔵、小原左馬介藤次、都鳥平馬玄蕃、川原田源蔵、湯沢隼人正、成田藤内、煤孫惣助、工藤主計頭、上野長人、梅沢近助、昆土佐守、晴山長門守
、筒井縫殿助、根子内蔵助、平沢雅楽助。

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【資料Ⅰ】

陸中国(11郡/322,000石)

九戸郡:九戸城(12,000石) 
岩手郡:(24,000石)
斯波郡:(26,000石)
稗貫郡:鳥谷ヶ崎城(24,000石) 
上閉伊郡:(10,000石)
下閉伊郡:(10,000石)
和賀郡:二子城、黒岩城(30,000石)
江刺郡:(38,000石)
胆沢郡:大林城、(62,000石)
西磐井郡:(42,000石)
東磐井郡:(42,000石)

※鹿角郡:(18,000石)。※鹿角郡の武将は陸奥国に記載。

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【資料Ⅱ】

気仙郡二十七将【けせんぬまにじゅうななしょう】

葛西家に仕えた気仙郡の豪族衆。

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【資料Ⅲ】

陸中国【りくちゅうのくに】

調査中。

国見峠【くにみとうげ】

国見峠は、出羽国と陸中国との国境であり、この峠道は遠く古代から開かれていましたが、険しい山並みと冬季の厳しい気候が人々の交流を妨げる難所でした。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

(※)印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

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※参考文献:「津軽秋田安東一族」新人物往来社、「東北大名の研究(戦国大名論集2)」吉川弘文館、「会津芦名一族」歴史春秋社、「最上義光(戦国の驍将)」新人物往来社、「奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)」宝文堂、「会津芦名四代」歴史春秋、「伊達政宗(全8巻)」講談社、「天を衝く(全3巻)」講談社文庫、「独眼竜伊達政宗」時代小説文庫、「津軽風雲録」時代小説文庫、「政宗に睨まれた二人の老将」宝文堂、「秋田『安東氏』研究ノート」無明舎、「(史伝)伊達政宗」学研M文庫、「独眼竜政宗」講談社文庫、「奥羽永慶軍記(全2巻)」新人物往来社、「津軽南部の抗争(南部信直)」、「秋田の中世・浅利氏」無明舎出版、「独眼龍政宗」文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、「陸奥南部一族」新人物往来社、「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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