2011年1月12日水曜日

戦国陸前国人名辞典

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【あ】

青塚吉春【あおづかよしはる(15??~15??)】

古川持熙の次男。通称左衛門尉。

赤井備中守【あかいびちゅうかみ(15??~15??)】

登米郡水越城主。葛西家四家老の一人。

秋保定重【あきほさだいえ(15??~15??)】

名取郡豊後館主。官途は摂津守。伊達家臣。豊後館は、羽前国との国境を守る重要拠点で伊達家も重視した。1591年、深谷の謀殺を逃れた長江月鑑斎は最上家を頼ろうとするが、これを子の長江重頼と共に捕らえ謀殺した。

秋保頼重【あきほよりしげ(15??~15??)】

秋保定重の男。勇武の士として知られた。1615年「大阪の夏の陣」で奮戦した。

跡部将監【あとべしょうげん(15??~15??)】

黒川郡佐和城主。黒川家臣。

余目伊勢守【あまるめいせのかみ(15??~15??)】

宮城郡東光寺城主。留守家臣。余目家は中世における諸大名の動向を知る資料として有名な余目記録を残しており、一時は宗家を凌ぐ勢いで栄えた。宮城家は初代家景の弟家業を祖とする系統である。主家の留守家は、戦国時代に入って衰退し、伊達家に帰属して命脈を保っていた。1567年、留守顕宗は伊達晴宗の三男政景を養子に迎えて後継者とした。これに対し、利府城主村岡兵衛、余目伊勢守、佐藤六郎左衛門らが強い抵抗を示した。

余目三郎太郎【あまるめさぶろうたろう(15??~15??)】

余目伊勢守の男。官途は土佐守。留守家が水沢城主になっての余目家は留守家の筆頭家老。

姉歯右馬充【あねはうまのじょう(15??~15??)】

栗原郡下館主。葛西家臣。

阿部太郎左衛門【あべたろうざえもん(15??~15??)】

本吉郡猿喰東館主。葛西家海賊衆。岩尻湊を拠点として、本吉郡沿岸から気仙沼まで勢力圏に治めた海賊衆。

阿部家臣【あべけかしんだん】

阿部玄蕃、最知玄蕃、米倉玄蕃、阿部若狭守。

有壁尾張守【ありかべおわりのかみ(15??~15??)】

栗原郡有壁城主。葛西家臣。葛西家没落時に有壁家も失領した。

飯塚出雲守【いいづかいずものかみ(15??~15??)】

胆沢郡広岡城主。柏山家臣。

飯野正秋【いいのまさあき(15??~15??)】

桃生郡飯野館主。山内首藤家臣。官途は但馬守。

飯川大隅守【いいかわおおすみのかみ(15??~15??)】 

飯川城主。大崎家臣。1588年「伊達大崎の戦い」で活躍した。

石川隆重【いしかわたかしげ(15??~15??)】 

小野田城主。大崎家臣。官途は長門守。1588年「伊達大崎の戦い」前には伊達家に属した。1591年「大崎葛西一揆」が起きると鎮圧勢として宮崎城攻めに活躍した。

石川隆尚【いしかわたかなお(15??~15??)】 

栗原郡高清水城主。大崎家臣。官途は越前守。「伊達大崎の戦い」に参陣した。

石川直村【いしかわなおむら(15??~15??)】 

登米郡佐沼城主。大崎家臣。

泉田景時【いずみだけげとき(15??~15??)】

名取郡岩沼城主。留守家の麾下に属していたが、 その後、伊達家の勢力が名取郡に及ぶとその家臣団に組み込まれた。

泉田光時【いずみだみつとき(15??~1582)】

泉田景時の男。1582年、相馬家との合戦で討死した。

泉田重光【いずみだしげみつ(1529~1596)】

泉田景時の次男。官途は安芸守。室は八幡景業の娘。1582年、兄泉田光時が討死したため、泉田家の家督を相続した。伊達政宗に重用され、一家の家格を与えられて諸戦に活躍した。1588年「大崎合戦」では、留守政景らと共に兵10,000を率いて出陣したが、泉田重光は室の実家である八幡家の家督相続問題をめぐって以前から留守政景と対立していたこともあり、軍議の場で戦術方針に関して政景と激しく口論に及んだため、統制を欠いた伊達勢は「中新田城の戦い」で大敗を喫し、潰走の末新沼城へと閉じ込められた。黒川晴氏の斡旋により城の包囲は解かれたが、泉田重光は人質として長江勝景と共に大崎方に提出され、蟻ヶ袋城に抑留された。1591年「葛西大崎一揆」が鎮圧された際には、証拠湮滅のため伊達政宗の命を受けて屋代景頼と共に一揆の主立った者らを謀殺した。伊達政宗が岩出山城へ転封されると、泉田重光も岩沼城から磐井郡薄衣城へと所領替えとなった。

泉田重時【いずみだしげとき(15??~15??)】

亘理重宗の男。泉田重光の養子。

一栗放牛【いちくりほうぎゅう(1500~1591)】

玉造郡一栗城主。氏家家臣。1591年「葛西大崎一揆」では鎮圧軍に抗して籠城したが、落城討死した。

一栗高春【いちくりたかはる(15??~1614)】

一栗放牛の孫。大崎家臣。通称は兵部。1591年「大崎葛西一揆」では最後まで頑強に鎮圧軍と戦った。後に最上義光に仕えて1,000石を給されて鶴岡城代を勤めた。1614年、最上義親が大坂内通の容疑で誅された事件に関わった廉で誅された。

伊藤祐則【いとうさけのり(15??~15??)】

桃生郡深谷館主。熊谷家臣。

一迫隆真【いちはざまたかまさ(15??~15??)】

栗原郡真坂城主。大崎家臣。官途は伊豆守。1588年「伊達大崎の戦い」では氏家弾正隆継に味方した。

逸見遠江守【いつみおうみのかみ(15??~15??)】

宮城郡小鶴城主。留守家臣。逸見家は、留守景宗が伊達家から留守家に入嗣した際にこれに従った家臣。逸見家は留守家の付け宿老として活躍した。

伊庭野外記【いばのげき(15??~1591)】

志田郡伊庭野城主。大崎家臣。1591年「大崎葛西一揆」は伊達家に与したが、一揆方宮崎城を攻めて討死した。

伊庭野惣八郎【いばのそうはちろう(15??~1588)】

伊場野外記の男。大崎義隆の小姓となり、新井田刑部と君寵をめぐって争い、これが昂じて「伊達大崎の戦い」に発展した。このとき混乱で討死した。

芋沢讃岐守【いもざわさぬきのかみ(15??~15??)】 

加美郡芋沢館主。大崎家臣。侍大将として大崎家に仕えたが、芋沢家臣により追放された。

岩崎美久【いわさきよしひさ(15??~15??)】

宮沢城主。大崎氏家臣。官途は讃岐守。1590年「大崎葛西一揆」では宮沢城に籠城したが、和議を結んで開城した。

氏家直益【うじいえなおます(15??~15??)】

玉造郡岩出山城主。玉造郡惣領職。大崎家臣。通称又十郎。1536年、大崎義直に叛いて攻撃を受けたが、後に和議を結んで所領は安堵された。

氏家隆継【うじいえたかつぐ(15??~1591)】

氏家直益の男。通称又十郎。1536年、大崎義直に叛いて攻撃を受けたが、のち和議を結んで所領は安堵された。氏家隆継は主家にあたる大崎家と対立するようになり、その抗争で伊達植宗と戦う事になった。氏家隆継と戦っていた大崎義直、伊達植宗勢は苦戦し、岩出山城を落とすことができずに氏家隆継と和議を結ぶことで抗争に終止符がうたれました。和議が結ばれた後の氏家隆継はそのまま岩出山城を居城とした。

氏家吉継【うじいえ よしつぐ(15??~1591)】

氏家隆継の男。父氏家隆継の隠居で家督を相続した。1587年、大崎家の家臣である新田刑部と対立して伊達政宗と内通した。これが端緒となって1588年、に伊達政宗が大崎領に留守政景を大将に8,000余の兵を侵攻させたが、黒川晴氏の裏切りで敗北した。氏家吉継も大崎家と和睦して帰参することとなった。1590年「小田原の役」の際、大崎家は羽柴秀吉のもとに参陣しなかったために改易され、氏家吉継も没落した。

氏家家臣団【うじいえかしんだん】

湯山基綱、鵙目善十郎、真山杢左衛門。

松山遠藤光定【えんどうみつさだ(15??~15??)】

志田郡松山(千石)城主。松山地域は、西の大崎家、東の葛西家の接点にあり、さらに、南からは伊達家の勢力がせまってくるという微妙な状況に置かれていた。1536年「大崎の内乱」に際して、遠藤光定は伊達稙宗に従って古川城攻撃に参陣した。

松山遠藤定親【えんどうさだちか(15??~15??)】

遠藤光定の男。1542年、遠藤定親は「天文の乱」では伊達晴宗方に付き、松山内の旧領を与えられた。遠藤家の居城の松山城は、伊達最北端の要衝守る城として整備された。大崎義隆の寵童同士の反目を発端として、主流、反主流派の二派に分かれて家臣団が対立した。それに伊達政宗が介入したことで、大崎家と伊達家との一大争乱に発展したのである。伊達政宗は、留守政景と泉田重光を大将に命じて、伊達勢を大崎領に進攻させた。松山城に集結した伊達勢は、大崎方が本城とする中新田城攻略の軍議を催し、泉田率いる先陣と留守率いる後陣とに分かれて中新田城に進軍した。「伊達大崎の戦い」が展開されたが、伊達勢の敗北に終わった。

松山遠藤高康【えんどうたかやす(15??~15??)】

松山遠藤定親の男。

大有康甫【おおありやすほ(1535~1618)】

伊達稙宗の十三男。東昌寺十四世住職。六歳で出家し伊達政宗の大叔父として伊達家の情報、外交官、ブレーンとして活躍した。諸国放浪中の虎哉宗乙と出会い、米沢に留まるよう勧めた。後に伊達輝宗に大有康甫を推挙し、政宗の学問の師とした。東昌寺の十四世住職として中興の功が大であった。

大條宗助【おおえだむねすけ(15??~15??)】

伊達郡大枝城主。伊達稙宗の家臣。

大條宗家【おおえだむねいえ(15??~15??)】

留守景宗の三男。大條宗助の養子。大條宗家の室は小梁川親宗の娘。大條宗家の娘は伊達宗清の室。

大崎高兼【おおさきたかかね(15??~1530)】

加美郡中新田城主。大崎義兼の男。通称彦三郎。1488年、大崎領内で反乱が起こると、一時的に伊達尚宗を頼って落ち延びた。1536年、大崎家内部で反乱が起こると、大崎高兼は伊達家の力を借りて反乱を鎮圧した。この見返りとして伊達稙宗は大崎高兼に自分の次男を養嗣子として送り込み、大崎家の当主とするように強要した。

大崎義直【おおさきよしなお(15??~1577)】

大崎義兼の次男。通称彦三郎。官途は左京大夫、従五位上。1530年、兄大崎高兼が死去したため家督を相続した。1536年、氏家直継・古川持煕・新井田頼遠らに反乱を起こされる。大崎義直にはこれを独力で鎮圧できず、伊達稙宗に援軍を要請した。しかしその代償として、稙宗の子・義宣が兄大崎高兼の娘を娶る形で養子として送り込まれ、大崎家は伊達家に従属した。1542年、「天文の乱」が勃発すると、伊達稙宗方に付いた義宣を討つため、大崎義直は伊達晴宗方に付いた。乱は晴宗方の勝利に終わり、1550年、大崎義宣を討ち取り、伊達家に完全に吸収合併されることは辛うじて免れたが、従属状態から脱却して勢力を回復させることは出来なかった。

大崎義隆【おおさきよしたか(1548~1603)】

大崎義直の男。官途は左衛門督。1588年、家臣同士の紛争に端を発した「伊達大崎の戦い」が勃発、氏家隆継は伊達軍を引きいれたが、大崎方の南条隆信は中新井田城に拠って激闘し、遂に伊達勢を撃退した。しかし小田原不参によって奥州征伐後没領。1593年、蒲生氏郷に属し「文禄の役」に渡海、晋州城の戦いに参陣した。蒲生氏郷の死後は上杉景勝を頼った。

大崎義宣【おおさきよしのぶ(1526~1550)】

小野城主。伊達稙宗の次男。室は大崎高兼の娘(梅香姫)。父伊達稙宗によって大崎高兼の養子に送り込まれた。1542年「天文の乱」では父伊達稙宗方について兄伊達晴宗と敵対した。騒乱終了後、葛西晴胤を頼って逃亡しようとした矢先に、伊達晴宗方についた大崎義直によって追討された。

大崎四家老【おおさきよんかろう】

里見隆成、中目隆政、渋谷隆秀、仁木高家。

大森和泉守【おおもりいずみのかみ(15??~15??)】

柴田郡大森館主。官途は和泉守。

大衡宗氏【おおひらむねうじ(15??~15??)】

黒川郡大衡城主。黒川影氏の次男。官途は治部大輔。1544年、大衡城主は大衡宗氏により築城され、黒川郡北方を守る役割をはたした。

大衡氏胤【おおひらうじたね(15??~15??)】

大衡宗氏の男。官途は治部大輔。1589年、黒川家が羽柴秀吉の「奥羽仕置」において所領を没収され滅亡した。

奥玉胤時【おくたまたねとき(15??~1591)】

葛西家臣。通称九郎。官途は大膳大夫。1590年「神取山の戦い」に従軍。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗に謀殺された。

小沢道重【おざわみちしげ(15??~1591)】

大船渡田茂山城主。葛西氏家臣。官途は右馬允。

小田野隆重【おだのたかしげ(15??~15??)】

加美郡朝日山城主。大崎義隆家臣。通称玄蕃。「葛西大崎一揆」に参加したが、伊達家に降伏した。

小野寺伊賀守【おのでらいがのかみ(15??~1591)】

一関城主。葛西家臣。1591年「糠塚の戦い」で討死した。

小野寺信春【おのでらのぶはる(15??~15??)】

栗原郡藤沢館主。葛西家臣。通称太郎左衛門。葛西家没落後は帰農した。

小野雅楽充【おのうらくいん(15??~15??)】

柴田郡小野館主。砂金家臣。1542年「天文の乱」で伊達晴宗を支持した。

小山田頼定【おやまだちくぜんのかみ(1525~1588)】

柴田郡小山田館主。官途は筑前守。伊達家臣。武勇に優れる。1588年「伊達大崎の戦い」 の「中新田の戦い」には軍奉行として出陣した。南条下総守の守る敵の本拠加美郡中新田城を攻めるが降雪のため敗軍となり、殿軍を務めて奮戦したが馬が深田にはまり討死した。

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【か】

葛西晴重【かさいはるしげ(1469~1533)】 

登米郡寺池城主。官途は陸奥守。戦国初期の葛西家系統は混乱しており、父に擬される者として、葛西宗清(石巻葛西家十三代)葛西朝信、政信(寺池系葛西氏十三代)の三名がいる。これは石巻系・寺池系の二流に分かれて主流を争った結果と思われるが、伊達家の介入を受けて葛西晴重の代に至り統一された。

葛西晴胤【かさいはるたね(1493~1551)】

葛西晴重の男。官途は左京大夫。伊達稙宗の次男。葛西家に入嗣した。伊達稙宗の息子は晴胤の兄守信(稙清)の養子である晴清に擬するのが自然であろう。葛西晴重の男で守信の弟であれば、年齢的にも合致する。継嗣となった葛西晴清の病死を受けて家督を相続した。1536年に石巻城から寺池城に遷った。

葛西親信【かさいちかのぶ(1547~1567)】

葛西晴胤の男。官途は石見守。。父葛西晴胤の死後、家督を相続する。1567年、病のため夭逝した。

葛西晴信【かさいはるのぶ(1534~1597)】

葛西晴胤の次男。官途は左京大夫。1569年、上洛して織田信長に謁す。伊達家と協力して大崎家と争った。1571年、1573年の二度に亙って大崎義隆を破った。1589年「小田原の役」で失領。佐沼城に拠って蒲生氏郷勢と戦って討死した。

葛西稙清【かさいたねきよ(1493~1531)】

葛西晴重の次男。通称三郎左衛門。

葛西俊信【かさいとしのぶ(1579~1635)】

葛西重信の男。通称三郎。葛西家滅亡後は伊達家に仕えた。馬術にすぐれた。

笠原直邦【かさはらなおくに(15??~1591)】

加美郡深沢城主。大崎家臣。通称九郎左衛門。1591年「大崎葛西一揆」では伊達政宗と敵対し宮崎城において討死した。

笠原仲沖【かさはらなかおき(15??~15??)】

加美郡高根城主。大崎家臣。

笠原直康【かさはらなおやす(15??~15??)】

笠原仲沖の男。大崎家臣。笠原仲沖の男。官途は近江守。1590年、大崎主家滅亡の際、出羽国に逃亡した。

笠原隆康【かさはらたかやす(15??~15??)】

笠原直康の男。

門田丹後守【かどたたんごのかみ(15??~15??)】

栗原郡丸森館。葛西家四家老の一人。

川熊隆清【かわくまたかきよ(15??~15??)】

古川川熊城主。大崎家臣。官途は美濃守。葛西家の侍大将を務めた。1588年「伊達大崎の戦い」では師山城に籠城した。

君ヶ袋兼継【きみがぶくろかねつぐ(15??~1590)】

加美郡君ヶ袋城主。大崎家臣。通称九郎左衛門。1590年「大崎葛西一揆」で伊達勢と戦い君ヶ袋城は落城討死した。

亀卦川信秀【きけがわのぶひで(15??~1591)】

葛西家臣。亀卦川重行の男。通称三郎左衛門、兵部。官途は下総守。磐井郡濁沼城主。1550年、亀卦川家中に紛争があり、新山城主亀卦川師兼に攻められて逃亡したが、のち復帰して新山城主となる。1591年、桃生郡深谷において伊達政宗に謀殺された。

黒川景氏【くろかわかげうじ(1484~1552)】

黒川郡鶴楯城主。伊達家庶流飯坂清宗の男。黒川氏矩の養嗣子。室は最上義淳の娘。急速に勢力を拡大していた伊達稙宗によって、黒川家第五代当主として送り込まれる。黒川景氏入嗣の時期は確定出来ないが、1519年に上洛して嫡男黒川稙国に足利義稙より偏諱を賜っている。1529年、黒川氏矩は死去する。当主となった黒川景氏は、新たに鶴楯城を築いて、従来の御所館から移った。1536年「大崎家の内乱」では、伊達稙宗の命を受けて反乱軍の拠点古川城の攻撃に参加し、内乱鎮圧後に救援の代償として伊達稙宗の子大崎義宣を大崎家に入嗣させる際には、大崎家中の鎮撫を任せられた。1542年に発生した「天文の乱」では伊達稙宗方に与して、大崎義宣と共に名取郡、柴田郡に出兵したものの、乱は伊達晴宗方の勝利に終わったが。黒川景氏は大崎義宣、葛西晴清らのように当主の地位を失うことはなかった。子は飯坂氏定、大衡宗氏、細川重定、八森定直。

黒川稙国【くろかわたねくに(1502~1560)】

黒川景氏の男。

黒川稙家【くろかわたねいえ(15??~1568)】

黒川稙国の男。黒川家八代当主。

黒川晴氏【くろかわはるうじ(1523~1599)】

黒川稙国の次男。1568年に兄黒川稙家が死去すると家督を相続した。黒川家は最上家の庶家にあたる。1500年頃、奥州探題大崎家に属していたが、伊達稙宗の勢力伸長に伴って伊達枝連衆の飯坂家から養子を迎えてた。伊達稙宗が大崎家を実質的に従属させたことで、黒川晴氏は、領地の独立性を保ちつつも、大崎、伊達家に両属する状態にあった。黒川晴氏は娘を伊達晴宗の三男留守政景に嫁がせが、また男子がいなかったため、義兄大崎義直の子大崎義康を養嗣子とし、義康の正室に伊達晴宗の弟亘理元宗の娘を迎えた。黒川晴氏は智勇兼備の将として活躍した。1584年に家督を相続した伊達政宗が、父伊達輝宗の外交方針を破棄して上杉景勝と結んだために最上義光と対立を深めたことで、伊達、斯波双方の枝連衆の黒川晴氏の立場は極めて微妙なものとなっていった。1588年、伊達政宗が大崎義隆を攻めるに及んで「大崎の戦い」で留守政景の援軍として桑折城に入っていた黒川晴氏は遂に伊達家からの離反を決め、中新田城攻略に失敗した伊達軍を強襲して撃破した。黒川晴氏はさらに潰走した伊達軍の籠もる新沼城を包囲したが、窮状に陥った政景を救うために和睦を斡旋し、泉田重光、長江勝景を人質として提出させることを条件にして城の囲みを解いた。1590年、黒川家は羽柴秀吉によって「小田原の役」に参陣しなかった罪で改易された。

黒川家臣団【くろかわけかしんだん】

細川弥次郎、入生田右兵衛、入生田右京丞、大童豊後守、鈴木美濃守、成田源兵衛、小谷地備後守、安藤丹後守、成田外記、二ノ関伊予守、赤間但馬守、石原将監、賀沢長門守、石原左京允、福田太郎左衛門、大平孫左衛門、郷右近可斎、児玉安芸守、八谷筑前守氏則。

葛岡隆信【くずおかたかのぶ(15??~15??)】

大崎家臣。新井田刑部と氏家隆継の争いでは新井田家に協力し、下新井田城に籠城して伊達家と戦った。

粟野重次【くりのしげつぐ(15??~15??)】

名取郡北目城主。

粟野重国【くりのしげくに(15??~15??)】

粟野重次の養子。官途は大膳亮。栗野重国は名取郡三十三郷の旗頭となる豪勇の士であった。1591年、伊達政宗と争って敗れ、伊達政宗が岩出山へ入部の際には伊達家の支配下に置かれていた。転封を拒んだで北目城を攻め落とされた。

熊谷直宗【くまがいなおむね(15??~15??)】

本吉郡気仙沼城主。

熊谷直義【くまがいなおよし(15??~15??)】

気仙沼赤岩城主。葛西家臣。1588年、浜田家と対立して騒乱となった「浜田広綱の乱」。熊谷家は主家滅亡とともに没落した。

黒沢義武【くろさわよしたけ(15??~15??)】

大崎家臣。官途は治部少輔。大崎義隆に仕えて侍大将を務めた。妹は大崎義隆の側室となり、大崎義易を産んだとされる。

国分宗政【こくぶんむねまさ(15??~15??)】

宮城郡千代城主。官途は弾正少弼。宮城郡南部に勢力を持った国分家の当主である。周辺の豪族を従えて宮城郡南部から西部を支配する勢力を築いたが、伊達家の威勢に服し、1536年に大崎家への介入で伊達家に従って兵を出し、1542年「天文の乱」では伊達稙宗側についた。1572年に隠居した。

国分盛氏【こくぶんもりうじ(15??~15??)】

国分宗政の男。伊達家に圧迫され、1577年に伊達家から国分(伊達)盛重を養子に迎え、国分家の家督を相続させた。これにより国分盛氏まで続いた世系は絶えることになった。

国分盛重【こくぶんもりしげ(1553~1615)】

伊達晴宗の五男。1577年に国分家の家督を相続。国分盛重は伊達家の武将として活躍し、1585年、伊達政宗の麾下で「人取橋の戦い」に加わった。1587年、家中の反伊達派を抑えきれず伊達政宗に討伐されかかった。国分盛重は伊達政宗に謝罪して許されたが、国分家の家臣は伊達政宗直轄とされた。1590年「葛西大崎一揆」で、伊達政宗と蒲生氏郷が不和になったときに、蒲生氏郷の帰国の安全を保証する人質になった。国分盛重はその後も伊達枝連衆の武将として重きをなした。1596年、出奔して佐竹義宣のもとに走りその家臣になった。1600年、佐竹家の転封に従って秋田に移った。

国分家臣団【こくぶけかしんだん】

作並宮内、馬場筑前守、馬場治部大輔、平賀義信、花坂勘解由、萱場丹後守、須田玄蕃、須藤刑部少輔、朴沢蔵人、古内主膳、八乙女淡路守、古内近江守。

米泉直行【こめいずみなおゆき(15??~1591)】

香美郡米泉城主。大崎家臣。主家滅亡後「大崎葛西一揆」の蜂起に参加して宮崎城に籠城したが、伊達政宗の鎮圧軍を受け、息子米泉長行とともに討死した。

米泉長行【こめいずみながゆき(15??~1591)】

米泉直行の男。通称権右衛門。「大崎葛西一揆」では宮崎城に拠り、伊達政宗と戦って討死した。

小岩信定【こいわいのぶさだ(15??~15??)】

栗原郡釣尾城主。

小岩信定【こいわのぶさだ(1550~1591)】

栗原郡赤児城の主。葛西家臣。通称孫三郎。小岩党の頭領であったが、1591年、桃生郡深谷で伊達政宗により謀殺された。

小岩信実【こいわのぶざね(15??~15??)】

葛西政信家臣。1534年、一関釣尾城主となり大崎家に備えた。

小岩信忠【こいわのぶただ(15??~15??)】

一関達古袋城主。葛西家臣。官途は讃岐守。1579年「富沢家の乱」において鎮定のために赴いた。

小岩信則【こいわのぶのり(15??~15??)】

葛西家臣。1522年、一関上黒沢城主を務めた。

小岩家臣団【こいわいけかしんだん】

赤荻大膳、達古袋信忠、黒沢信則、鬼死骸伊賀守、沼倉友斎、伏牛駿河守、小山民部、千田宗念。

小塚則安【こづかのりやす(15??~15??)】

登米郡小塚館主。葛西家臣。通称織部。主家滅亡により没落した。

後藤寿安【ごとうじゅあん(1578~1523)】

伊達家臣。岩淵秀信の次男とゆう。通称又五郎。洗礼名「ジョバンニ」。主家没落後に流浪、九州長崎でキリシタンに親しみ、宇久島で洗礼を受けた。1612年、京都の商人田中勝介の推薦で伊達政宗に仕え、胆沢郡に1,500石を与えられた。宣教師らの保護、キリスト教の布教に努めたが、幕府による禁教令を受けた。1623年、陸奥南部地方へ追放された。

今野内膳【こんのないぜん(15??~1591)】

葛西家臣。陸奥気仙二日市城主。1591年、息子の今野広綱とともに桃生郡深谷で伊達政宗に謀殺された。

今野広綱【こんのひろつな(15??~1591)】

気仙二日市城主。今野内膳の男。1591年、桃生郡深谷で伊達政宗のために謀殺された。

郷六盛継【ごうろくもりつぐ(15??~15??)】

宮城郡郷六城主。国分家臣。通称大善。

郷六盛貞【ごうろくもりさだ(15??~15??)】

国分宗政の次男。郷六盛継の養子。愛子と郷六の二ヶ郷を支配した。

郷六盛政【ごうろくもりまさ(15??~15??)】

郷六盛貞の男。

郷六盛元【ごうろくもりもと(15??~15??)】

郷六盛政の男。

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【さ】

桜田備中守【さくらだびっちゅうのかみ(15??~15??)】

栗原郡桜田城主。大崎家臣。1587年「伊達大崎の戦い」が起こると新井田刑部側に味方した。

佐々木安芸守【ささきあきのかみ(15??~1591)】

高田壺城主。葛西家臣。1591年、桃生郡深谷において伊達家と戦って討死した。

佐々木中務【ささきなかつかさ(15??~1591)】

佐々木安芸守の男。1591年、桃生郡深谷において伊達家と戦って討死した。

佐々木信綱【ささきのぶつな(15??~15??)】

胆沢郡水沢城主。葛西家臣。1579年、寺崎良継と富沢直綱の争いが昂じると「富沢直綱の乱」鎮圧のために赴く。1588年、気仙郡で浜田広綱・熊谷直義の抗争が発展して騒乱となると「浜田広綱の乱」やはり鎮圧のために出陣したが、主家滅亡により没落した。

佐々木信義【ささきのぶよし(15??~1523)】

佐々木信綱の男。1523年、葛西胤信と大崎家が争ったとき、桃生郡矢本で討死した。

佐藤信貞【さとうのぶさだ(15??~15??)】

本吉郡信夫館主。葛西家臣。通称又次郎。1588年「浜田広綱の乱」の鎮圧のため出陣した。

佐藤忠冬【さとうただふゆ(15??~15??)】

黒川郡築館主。官途は信濃守。黒川家臣。

佐藤景高【さとうかげたか(15??~15??)】

宮城郡駒犬城主。留守景宗の次男。通称六郎佐衛門。1569年、村岡兵衛がが留守家に対して挙兵・討伐された。1572年、佐藤六郎佐衛門も挙兵したが留守政景に攻められて落城、佐藤景高は逃亡した。

里見隆成【さとみたかなり(15??~15??)】 

加美郡上狼塚城主。大崎家臣。官途は紀伊守。「伊達大崎の戦い」を誘引した新井田刑部の父。

里見隆元【さとみたかもと(15??~15??)】  

里見隆成の男。

三分一所家景【さんぶんのいちかしょいえかげ(15??~15??)】

三分一所城主。長江盛景の三男。長江家は、小野城には長江月鑑、 矢本城には弟の景重が矢本筑前守景重として入った。 そして三分一所城には、三男の家景が三分一所を名乗って入った。長江家は、大崎家の外様衆であったが、のちに伊達家に属した。三分一所家景は、馬術にかけては奥羽の地にかくれのない名人として知られ、武技、錬磨、軍学の究明に出精したという。のちに荒馬乗りの名手として羽柴秀吉に招かれて伏見に上り、妙技を披露して喝采をあびた。三分一所家景は兄晴景と争うことはなかった。長江晴景が伊達政宗に叛逆して滅亡したとき、いち早く伊達政宗に忠誠を誓い許された。

三分一所元景【さんぶんのいちかしょもとかげ(15??~15??)】

三分一所家景の男。官途は典膳。

四釜隆秀【しかまたかひで(1547~1596)】

加美郡四釜城主。大崎家枝連衆。官途は尾張守。1587年「伊達大崎の戦い」では中新井田城をよく守備して伊達勢を撃退。1591年、大崎葛西一揆の鎮圧のため伊達家が出動すると隆秀は伊達家に降り、宮崎城攻めに加わった。智勇兼備の士で、衰退する大崎家をよく盛り立てた。1588年、大崎合戦では中新田城を伊達政宗の攻撃から守りぬいた。1590年「小田原の役」で大崎家が滅亡すると、1591年「大崎、葛西一揆」で旧臣らと一揆を起こしたが、その鎮圧のために伊達政宗が進軍してくると投降して家臣となった。以後、伊達勢の先鋒として一揆の鎮圧を務めたという。

四保定朝【しのうさだとも(15??~15??)】

柴田郡船岡城主。柴田家臣。官途は但馬守。

四保(柴田)宗義【しのうむねよし(15??~15??)】

四保定朝の男。1576年「相馬の戦い」や1589年「須賀川の戦い」に従軍した。

篠本貞永【しのもとさだなが(15??~15??)】

黒川郡古館主。黒川家臣。通称善左衛門。

柴田郡豪族衆【しばたぐんごうぞくしゅう】

入間田伊豆守、入間田伊賀守、入間田修理、蛯穴与左衛門尉、上川名監物、富沢隠岐守、成田十郎左衛門尉、大谷修理亮、薄木日向守、小泉四郎、菅生助八、沼辺玄蕃、星野志摩守。

渋谷重家【しぶやしげいえ(15??~15??)】

栗原郡有賀城主。葛西家臣。官途は備前守。

清水馬場忠胤【しみずのばばただたね(15??~1591)】

東磐井郡清水馬場城主。葛西家臣。大原信茂の男。官途は三河守。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗により謀殺された。

下河原玄蕃【しもがわらげんば(15??~15??)】

水沢下河原館主。葛西家臣。1579年、佐々木貞綱と争う。主家滅亡後、南部家に仕えた。

下間景継【しもまかげつぐ(15??~1578)】

八幡景業の次男。八幡家臣。1578年、留守政景に討たれた。

下間業継【しもまよしつぐ(15??~15??)】

八幡景業の次男。下間景継の養子。1578年、養父下間景継が留守政景に討たれると、岩沼の泉田家を頼った。泉田重光の室は兄弟の姉にあたり、泉田重光は下間業継を庇護した。

新柵種次【しんさくたねつぐ(15??~1591)】

一関狐禅寺城主。葛西家臣。通称太郎左衛門。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗により謀殺された。

末永清継【すえながきよつぐ(15??~1590)】

気仙沼末次館主。葛西家臣。末永宗時の男。通称五郎三郎、修理。主家滅亡の際に討死した。

末永宗時【すえながむねとき(15??~15??)】 

登米郡善王寺城主。葛西家臣。官途は能登守。1511年~15年にかけての、葛西家と山内首藤家との争い「永正の戦い」では山内首藤家に味方し、葛西宗清暗殺を企図したとされる。

砂金常久【すながねつねひさ(15??~15??)】

柴田郡川崎城主。伊達家臣。砂金家は、文明年間に伊達家に仕え、砂金邑の豪族として勢力を張っていた。1543年、柴田郡に侵入した最上勢を押し返した。

砂金貞常【すながねさだつね(15??~15??)】

砂金常久の男。

砂金実常【すながねみつね(15??~15??)】

砂金貞常の男。通称右兵衛。1615年「大坂夏の陣」で戦功を上げ一族に列せられた。

首藤貞通【すどうさだみち(15??~1512)】

桃生郡七尾城主。葛西家臣。官途は刑部大輔。1511年、葛西宗清と戦って敗北し、所領割譲を条件に和睦した。1512年、戦って討死した。

首藤安通【すどうやすみち(15??~1591)】

桃生郡福地館山城主。葛西家臣。通称対馬。1591年、桃生郡深谷で伊達勢と戦い討死した。

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【た】

高清水直堅【たかしみずなおかた(15??~15??)】

栗原郡高清水城主。大崎高兼の次男。高清水家の養子に入り家督を相続。主家滅亡により没落。息子高清水高景は伊達家に仕えた。

高清水高景【たかしみずかたかげ(15??~15??)】

高清水直堅の男。

高城宗綱【たかしろむねつな(15??~15??)】

留守顕宗の男。伊達家からの圧迫を受け、伊達輝宗の命令によって、父留守顕宗は嫡男留守宗綱を高城家に養子に出して、伊達晴宗の男を留守家当主に迎えることになった。

高城宗直【たかしろむねなお(15??~15??)】

高城宗綱の男。

千葉兼義【ちばかねよし(15??~1591)】

磐井郡金鶏城主。葛西家臣。官途は遠江守。1591年桃生郡深谷にて伊達政宗に謀殺された。

千葉重胤【ちばしげたね(15??~1591)】

磐井郡上折壁城主。葛西家臣。官途は右馬丞。1591年桃生郡深谷にて伊達政宗に謀殺された。

千葉重常【ちばしげつね(1562~1591)】

葛西家臣。千葉周防守の男。官途は修理亮。別名矢作大隅守。1588年「浜田の乱」ののち、気仙地方の旗頭となる。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗のために謀殺された。

千葉信濃守【ちばしなののかみ(15??~1588)】

気仙沼忍館城主。葛西家臣。1588年「浜田の乱」においては浜田広綱につき、熊谷党と戦って討死した。

千葉胤成【ちばたねなり(15??~15??)】

栗原郡吉目木城。葛西家臣。官途は式部大夫。1579年「富沢直綱の乱」では鎮定勢として活躍した。

東福寺尾張守【とうふくじおわりのかみ(15??~15??)】

加美郡菜切谷城主。大崎家臣。1588年「伊達大崎の戦い」では新井田城に籠城して抵抗した。

百々隆元【どどたかもと(15??~1591)】

遠田郡百々城主。大崎家臣。官途は左京亮。1588年「伊達大崎の戦い」では師山城に籠城した。1591年「大崎葛西一揆」では一揆側に属して古川城で討死した。

鴇田国種【ときたくにたね(15??~15??)】

黒川郡宇和田手城主。黒川家臣。官途は信濃守。鴇田家の祖先は清和源家。1439年「永享の乱」で信濃村上家の信州太守村上満信に敗れて陸奥国黒川郡に下った。そして黒川氏直の家臣となり、吉田村と宮床村の両村を領し鴇田館の城主となった。

鴇田国近【ときたかねゆき(15??~15??)】

鴇田国種の男。

鴇田周如【ときたかねゆき(1588~1654)】

鴇田国近の男。通称は駿河、次右衛門。1590年、羽柴秀吉の奥州仕置により、仕えていた。黒川郡39,000石領主の黒川晴氏(月舟斎)が改易され、鴇田伊豆国種の後継である二男鴇田国近は浪人となった。1591年、伊達政宗が佐沼城の激戦で「葛西大崎一揆」を制圧し居城を岩出山城に移封されると、国近は政宗に拝謁し先祖伝来の備中青江と号する太刀と馬を献じ、伊達政宗からその忠節ぶりに満足したとして、本領安堵の親書を賜わった。

富沢直綱【とみさわなおつな(15??~15??)】

栗原郡鶴丸館(岩ヶ崎城)主。葛西家臣。富沢直家の男。官途は日向守。1579年、謀反を起こしたが、千葉(深堀)新左衛門らの討伐を受けて降伏した「富沢直綱の乱」。富沢家が明瞭な動きを見せるようになるのは、富沢貞綱、貞運父子が活躍した戦国末期である。そして、富沢家は葛西大守に対する反乱を繰り返すのである。1571年「葛西大崎の戦い」で、葛西大守晴信が富沢家の地盤である三迫まで占領した。これは大崎家寄りの姿勢をみせる富沢家の権威を押えようとしたものと思われ、当然、富沢家はこれに反発したであろう。1579年、富沢直綱は磐井郡流荘に攻め込んだ「富沢兵乱」である。兵乱は富沢直綱の優勢に進んだが、葛西大守晴信みずからが富沢征伐のために出馬してくると、次第に頽勢に追い込まれ、ついには城下まで攻め込まれ降参した。

富沢直景【とみさわなおかげ(15??~1591)】

富沢直綱の男。官途は日向守。1590年、葛西晴信に従って佐沼城に籠城して秀吉勢と戦う。1591年「葛西大崎一揆」において討死した。

鳥島道林【とりしまどうりん(15??~15??)】

加美郡鳥島城主。葛西家臣。

鳥島光清【とりしまみつきよ(15??~1591)】

鳥島道林の男。官途は右馬允。1591年、桃生郡深谷において伊達政宗により謀殺された。

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【な】

深谷長江盛景【ながえもりかげ(15??~15??)】

桃生郡小野城主。長江家は鎌倉以来の地頭として独立した領主であったが、長江家領の深谷保は天文年間まで葛西家が本拠としていた石巻城に近く、両者の間には同盟もしくは主従的な関係があった。長江家は寛正年間に伊達家に属したが、葛西家とも親密な関係を維持していた。伊達稙宗の代になると急速に伊達勢がを拡大し、天文年間には深谷地方にも伊達家の勢力が及び、長江家は伊達家の麾下に属するようになった。1542年「天文の乱」には伊達晴宗に味方した。娘は相馬義胤の継室になった。

深谷長江勝景【ながえかつかげ(15??~1588)】

長江盛景の男。通称月鑑斎。1542年、伊達稙宗と嫡子晴宗の対立から「天文の乱」が起こり、伊達家中はもとより南奥州の諸大名を二分する大乱となった。乱は長江家にも影響をおよぼし、長江盛景は晴宗派に、枝連衆の三分一所家は伊達稙宗派に属して家中は分裂した。長江勝景の二弟景重は矢本家を継ぎ、三弟家景は三分一所家を継いで、深谷保を三分していた。1570年、長江勝景と矢本景重の間に合戦が起こり矢本景重は討たれて滅亡した。長江勝景は戦国時代に身をおいて、伊達軍団の師団長的な立場を担う勇将であった。また、早くから仏門に入るなど信仰に篤い人物でもあった。しかし、その一生は大半を戦場で過ごし、葛西、大崎、伊達家らの強豪に挟まれた小領主としての苦渋を味わい、また弟と争いを起こしてそれを討つなど必ずしも平坦なものではなかった。

長江家臣団【ながえけかしんだん】

調査中。

仁木高家【にきたかいえ(15??~15??)】

加美郡高根城主。大崎家臣。官途は遠江守。通称小六郎。大崎四家老の一人。「伊達大崎の戦い」では氏家隆継の味方となった。

中目長政【なかのめながまさ(15??~15??)】

大崎家臣。「伊達天文の乱」において伊達晴宗方となった。

中目隆政【なかのめたかまさ(15??~15??)】

兵庫館主。大崎家臣。通称兵庫大崎四家老の一人。侍大将を務め、1588年「伊達大崎の戦い」では桑折城救援に当たった。

南条隆信【なんじょうたかのぶ(15??~15??)】 

加美郡中新井田城代。大崎家臣。官途は下総守。1588年、「伊達大崎の戦い」以前の履歴は不明だが、智勇に優れた人物。1588年「伊達大崎の戦い」の時、中新田城を守備し、見事な采配を見せて伊達軍を寡兵をもって撃破し、名将として褒め称えられた。

西郡信明【にしごおりのぶあき(1550~1591)】

登米郡沼ノ城主。葛西家臣。米谷常時の男。西郡信氏の養子。通称新右衛門。1591年「葛西大崎一揆」において伊達政宗により謀殺された。

新井田隆景【にいだたかかげ(15??~15??)】

新井田城主。大崎家臣。里見隆成の男。通称刑部。美童として主君大崎義隆の寵を受けたが、伊場野惣八郎と君寵を争って「伊達大崎の戦い」の誘因となった。伊場野をその手で斬殺した。

新沼甲斐【にいぬまかい(15??~15??)】

志田郡新沼城主。大崎家臣。1588年「伊達大崎の戦い」では伊達家に属した。

新沼薩摩守【にいぬまさつまのかみ(15??~15??)】

気仙郡吉浜城主。葛西家臣。天正期に阿曽沼家と争って討死した。

新沼長門守【にいぬまながとのかみ(15??~1591)】

猪川城主。葛西家臣。1591年。桃生郡深谷において伊達政宗により謀殺した。

沼倉飛騨守【ぬまくらひだのかみ(15??~1591)】

栗原郡白岩城主。葛西家臣。1591年、桃生郡深谷にて伊達政宗により謀殺された。

沼田宗綱【ぬまたむねつな(15??~15??)】

栗原郡日良館主。葛西家臣。通称四郎。主家滅亡により没落した。

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【は】

支倉常正【はせくらつねまさ(15??~15??)】

柴田郡上楯城主。砂金家臣。

支倉時正【はせくらときまさ(15??~15??)】

支倉常正の男。

羽黒堂下野守【はぐろどうしもつけのかみ(15??~15??)】

羽黒堂城主。葛西家臣。1588年「浜田広綱の乱」で鎮圧勢として出動し、功により一万刈の加増を受けた。

古川持熙【ふるかわもちひろ(1506~1536)】 

桃生郡古川城主。大崎家臣。官途は刑部大輔。1536年、新井田家と結んで大崎義直に背いたが、大崎義直の要請により出陣した伊達稙宗の攻撃を受けて落城、自刃した。

古川直種【ふるかわなおたね(15??~1536)】

古川持熙の男。

古川忠隆【ふるかわただたか(15??~15??)】

古川直種の男。大崎家臣。官途は弾正忠。1588年「伊達大崎合戦」では師山城に籠城。伊達勢の大将留守政景を古川城で迎え撃ち、打ち破りました。この時、近くにいた兵庫館主、中目隆政の援軍を自分のところではなく黒川晴氏がこもっている桑折城に向かわせました。古川忠隆がいかに猛将だったかがわかります。

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【ま】

米谷常時【まいやつねつねとき(15??~15??)】

登米郡米谷城主。葛西家臣。

米谷常秀【まいやつねひで(1535~1591)】

米谷常時の男。通称大隅。官途は右馬助。1591年、伊達政宗により謀殺された。

米谷常忠【まいやつねただ(1546~1591)】

登米郡畑沢城主。米谷常時の次男。亀卦川信忠の養子。官途は修理之亮。通称五郎。1591年、桃生郡深谷において伊達政宗に謀殺された。

松坂定頼【まつざかさだより(15??~1591)】

黒川家臣。官途は周防守。主家である黒川家の没落後伊達家に降り、鶴楯城代となる。1591年「葛西大崎一揆」における拠点、「宮崎城攻め」に従軍したが討死した。

宮崎隆治【みやざきたかはる(15??~15??)】

加美郡宮崎城主。大崎家臣。

宮崎隆親【みやざきたかちか(15??~15??)】 

宮崎隆治の男。官途は民部少輔。1591年、「葛西大崎一揆」では総大将として中新田城、宮崎城に拠って伊達勢、蒲生勢と戦う。宮崎城陥落後は仙北に逃れ楯岡満茂に仕えた。

宮野豊後守【みやのぶんごのかみ(15??~15??)】

栗原郡宮野城主。葛西家臣。1588年「伊達大崎の戦い」では伊達勢に与して氏家弾正を支援した。

武鑓重信【むやりしげのぶ(1526~1591)】

栗原郡武鑓城主。葛西家臣。官途は隼人助。通称又三郎。1579年「富沢直綱の乱」、1588年「浜田広綱の乱」に出動して鎮圧に活躍。1591年、桃生郡深谷において伊達政宗に謀殺された。

村岡兵衛【むらおかへいえい(15??~1570)】

宮城郡利府城主。留守家枝連衆。留守家は留守郡宗、留守景宗、留守政景と伊達家から入嗣が行われていたが、留守景の際には、留守家臣団から大きな反発を受けた。村岡兵衛、余目伊勢守、佐藤六郎佐衛門は特に抵抗した。黒川郡鶴館城主である黒川家が調停に立ったが徒労に終わり、1569年、村岡兵衛は挙兵して村岡城に立て籠もった。伊達政景は圧倒的物量を頼みに村岡城に猛攻をかけた。1570年、落城村岡家は滅亡した。

村田近重【むらたちかしげ(15??~15??)】

柴田郡村田城主。天文の乱では伊達晴宗側に付いた。

村田宗殖【むらたむねたね(1542~1604)】

伊達稙宗の九男。村田近重の養子。室は村田近重の娘。村田近重に男がいなかったため伊達家から養子を迎えた。柴田郡七郷30,000石を領した。1591年、所領を没収され桃生郡長井300石に減封された。

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【や】

山口常成【やまぐちつねなり(15??~1600)】

支倉常正の三男。官途は飛騨守。支倉家枝連衆。1568年、米沢城主伊達輝宗の御近習役を命ぜられ、羽州置賜郡長井荘立石邑に移住する。1571年、次男の支倉常長が生まれる。まもなくして、支倉家宗家を相続した兄の時正に子供が授からなかったため、支倉常長を支倉時正の養子に出すことになる。後室に二人の子供が生まれたため、伊達政宗の命によって600石で分家となり、支倉常長と称した。伊達輝宗、伊達政宗に仕え、兄の支倉時正と同じく武勇に優れ、多くの戦陣に参加し軍功を上げた。1579年、兄支倉時正、鍋丸事件(砂金家との領地争い)を発生させる。1591年、羽柴秀吉の「奥州仕置」により、黒川郡大森邑に所替となった。1599年、鍋丸事件の責任を問われ死罪を命ぜられ、自刃した。

山口(支倉)常長【やまぐちつねなが(1571~1622)】

山口常成の男。支倉時正の養子。伯父支倉時正の養子となるが、支倉時正に実子は支倉久成が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1,200石を二分し、600石取りとなる。1591年「文禄、慶長の役」に参陣して朝鮮に渡海、足軽鉄砲組頭として活躍した。「大崎、葛西一揆の鎮圧にあたった武将の一人としてもその名が記録されている。伊達政宗の命を受け、支倉常長はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使に自分は副使となり、遣欧使節として通商交渉を目的にローマに赴くことになった。1613年、石巻で建造したガレオン船サン・フアン・バウティスタ号で月ノ浦を出帆し、ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かった。アカプルコから陸路大西洋岸のベラクルスに、ベラクルスから大西洋を渡りエスパーニャ経由でローマに至った。伊達政宗の期待のもと帰国した支倉常長ではあったが、環境の変化により失意のうちに死去した。

矢作重常【やはぎしげつね(1555~1591)】

外館城主。葛西家臣。矢作周防守の男。官途は大隅守。1588年「浜田広綱の乱」の鎮定に活躍し、乱後気仙地方の支配を担う。1591年、桃生郡深谷において伊達政宗に謀殺された。

矢本景重【やもとかげしげ(15??~15??)】

長江家臣。長江勝景の弟。伊達家の家督相続をめぐる「天文の乱」の時期に、長江家内部では勝景(月鑑斎)兄弟に争いが起きる。長江勝景の二弟景重は矢本家を継ぎ、三弟家景は三分一所家を継いで、深谷保を三分していた。1570年、長江勝景と矢本景重の間に合戦が起こり矢本景重は討たれて矢本家は滅亡した。

山内頼重【やまのうちよりしげ(15??~15??)】

桃生郡釣ノ尾城主。葛西家臣。官途は左馬之介。1511年、山内首藤家と葛西家の争いにより山内首藤家は没落したが、山内頼重は葛西家に仕えた。

八幡景光【やわたかげみつ(15??~15??)】

宮城郡八幡城主。留守家臣。

八幡景業【やわたかげなり(15??~15??)】

八幡景光の男。八幡景業は早世した。幼い八幡景廉に代わって叔父の下間景継が家政にあたったのである。

八幡景廉【やわたかげかね(15??~15??)】

八幡景業の男。父八幡景業が八幡景廉が五歳の時に急死し、下間景継が八幡家の家政を預かった。叔父下間景継が本家乗っ取りを企て、八幡家臣団のなかには、下間景継に同調して八幡景廉を廃嫡し下間業継に家督を継がせようという動きが出たが。八幡景廉は、主君の留守政景に事態の収拾を訴え出た。1578年、留守政景は下間館を攻撃して八幡家の家督争いに終止符を打った。以後、八幡景廉は留守政景に忠節を尽くした。

留守景宗【るすかげむね(1492~1554)】

宮城郡岩切(高森)城主。伊達尚宗の次男。嫡男を失くした留守郡宗(伊達氏出身で景宗の大叔父にあたる)の婿養子となる。1495年、留守郡宗の死去により家督を継いで当主となる。1506年、小鶴で国分勢の軍と戦って破った。伊達家の「天文の乱」では甥の伊達晴宗に協力し、伊達稙宗に与した国分家と戦った。

留守顕宗【るすあきむね(1519~1586)】

留守景宗の男。1554年、父留守景宗の死去により家督を相続する。東光寺城を居城として国分家と抗争し、留守家の勢力を拡大した。しかし伊達家からの圧迫を受け、伊達輝宗の命令によって実子の留守宗綱を高城家の養子として送り込んだ上で、伊達輝宗の弟留守政景を婿養子として迎え、留守姓を名乗らせ、1567年に政景に家督を譲ることを強制された上で隠居することを余儀なくされた。

留守政景【るすまさかげ(1549~1607)】

伊達晴宗の三男。留守顕宗の養子。室は黒川晴氏の娘。官途は従五位下上野介。1567年、留守家の一部家臣の要請と父伊達晴宗の政略によって留守顕宗の養子となり、奥州の名族留守家の家督を相続した。留守政景の継承に反対する留守家枝連衆である村岡家や余目家の反抗を鎮圧すると共に、兄伊達輝宗や甥伊達政宗を補佐し、実家の伊達家の勢力拡大に貢献し各地を転戦する。伊達枝連衆であったため、当主に代わって伊達軍の総大将を務めたこともあったが「大崎の戦い」では岳父黒川晴氏の裏切りに遭い敗戦している。

留守宗利【るすむねとし(1589~1638)】

留守政景の男。留守政景は「小田原の役」に参陣しなかったため留守家は領地没収され伊達家臣となる。その後、黄海城、清水城、一関城と転々と城を変え、1607年、父留守政景が病死すると一関城主を継ぐ。江戸城西丸貝塚普請成就した。1614年「大坂冬の陣」さい伊達政宗より先鋒を命ぜられ初陣を飾る。奮闘により伊達政宗を喜ばせたが、留守宗利の家臣出兵が四十数名であったことがわかり、身分不相応の人数でなかったことに留守政宗の勘気にふれ、領地を金ヶ崎城に移される。1615年「大坂夏の陣」では伊達家鉄砲隊長として出陣した。大坂城落城後、江戸城廻石壁普請の他、日比谷御門枡形石垣、芝口去普請、芝口御門枡形石垣、山の手御堀石垣、四股去普請を完工する。1629年、多くの家臣を抱え手狭だった金ヶ崎城から水沢城へ移り、伊達家一門格に相応しい城下造りと領内整備に取り組んだ。

留守家臣団【るすけかしんだん】

大木戸四郎太夫重信、留ヶ谷内膳、笹神図書介、花淵紀伊守(家臣:吉田伊郷)。

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【資料Ⅰ】

陸前国(14郡/)

大崎五郡:玉造、加美、志田、遠田の各郡と栗原郡の半郡。
葛西七郡:牡鹿、登米、本吉、磐井、胆沢、江刺、気仙の各郡と桃生、栗原郡の半郡。

気仙郡:12,000石
本吉郡:15,000石
登米郡:18,000石
牡鹿郡:6,000石
桃生郡:20,000石
栗原郡:80,000石
玉造郡:18,000石
遠田郡:32,000石
志田郡:30,000石
加美郡:24,000石
黒川郡:30,000石
宮城郡:48,000石
名取郡:45,000石
柴田郡:20,000石

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【資料Ⅱ】

歌津十二人衆【うたつじゅうににしゅう】

本吉郡歌津を根城とした海賊衆。

葛西家四家老【かさいよんかう】

赤井備中守、

大崎四家老【おおさきよんかろう】

里見隆成、中目隆政、渋谷隆秀、仁木高家。

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【資料Ⅲ】

陸前国【りくぜんのくに】

調査中。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

(※)印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

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※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

※参考文献:「津軽秋田安東一族」新人物往来社、「東北大名の研究(戦国大名論集2)」吉川弘文館、「会津芦名一族」歴史春秋社、「最上義光(戦国の驍将)」新人物往来社、「奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)」宝文堂、「会津芦名四代」歴史春秋、「伊達政宗(全8巻)」講談社、「天を衝く(全3巻)」講談社文庫、「独眼竜伊達政宗」時代小説文庫、「津軽風雲録」時代小説文庫、「政宗に睨まれた二人の老将」宝文堂、「秋田『安東氏』研究ノート」無明舎、「(史伝)伊達政宗」学研M文庫、「独眼竜政宗」講談社文庫、「奥羽永慶軍記(全2巻)」新人物往来社、「津軽南部の抗争(南部信直)」、「秋田の中世・浅利氏」無明舎出版、「独眼龍政宗」文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、「陸奥南部一族」新人物往来社、「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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