2011年1月16日日曜日

戦国若狭国人名辞典

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【あ】

青井右京亮【あおいうきょうのすけ(15??~15??)】

武田元光家臣。三方郡小村城主。1538年、小村城主粟屋元隆が没落すると、青井右京亮が城主に任じられた。1560年、寺井源左衛門、松宮玄蕃勢の攻撃を受け落城した。

青井将監【あおいしょうげん(15??~15??)】

足利義輝家臣。大飯郡青井城主。幕府奉公人衆。

粟屋元隆【あわや もとたか(15??~1542)】

三方郡佐柿国吉城主。笑鴎軒悦岑の男。武田元光家臣。官途は大膳大夫。室は勧修寺尚顕の娘。小浜代官を務め、霞美ヶ城を築いた。1538年、武田元光の次男武田信高を擁して謀反を起こすが、武田信豊勢お攻撃を受け敗れた。1542年、「和泉太平寺の戦い」では、畠山稙長、木沢長政らとともに、細川晴元勢の三好政長、三好長慶、遊佐長教らと戦ったが敗れて討死した。

粟屋勝久【あわやかつひさ(1523~1585)】
 
粟屋元隆の男。官途は越中守。室は丹羽長秀の娘。1542年、父粟屋元隆の病没により粟屋家の家督を相続した。1561年、松永長頼の支援を受けて逸見昌経が武田義統に反乱を起こした。武田義統は単独では戦えず。朝倉義景の支援を受け反乱の鎮圧を図った。粟屋勝久は武田義統の継嗣武田元明を擁して、朝倉義景勢の介入を阻止した。1568年、朝倉義景に武田元明が一乗谷に幽閉されると、若狭国内の反朝倉義景勢は、織田信長の支援を受け対抗した。1570年、「第一次越前侵攻」では、織田信長勢に属して幽閉されていた武田元明を救出した。1575年、武田元明とともに旧領復帰を織田信長に願い出るが許されなかった。1575年、「第二次越前侵攻」では、織田信長勢に属して参陣した。1581年、京都馬揃えでは丹羽長秀勢に属して参列した。1582年、「本能寺の変」後も丹羽長秀勢に寄騎衆として仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

粟屋勝長【あわやかつひさ(15??~16??)】

粟屋勝久の孫。1600年、「関ヶ原の役」後、豊後国臼杵城主稲葉貞通に仕え家老職を務めた。

粟屋光若【あわやみつわか(15??~15??)】

武田信豊家臣。粟屋家長の男。遠敷郡山内城主。侍大将、奉行人を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

粟屋元行【あわやもとゆき(15??~154)】

粟屋元勝の男。官途は左京亮。粟屋元隆らの家が惣領家で、粟屋元行は庶家。代々在京奉行を務め、粟屋元行は遠敷郡幕府御領所の代官を務め、公用銭の収納などを担当した。

粟屋勝春【あわやかつはる(15??~1535】

粟屋親栄の男。武田元光が武田元信の隠居により武田家の家督を相続するとその後見役を務め、近畿を転戦した。三条西実隆から『源氏物語』の講義を受けた。

粟屋弥四郎【あわややしろう(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。粟屋勝久らとともに織田信長に降った。1575年、「越前討伐」では、粟屋勝久ら若狭国海賊衆とともに海上より越前国沿岸を攻撃した。後、羽柴秀吉に仕え馬廻衆を務めた。1592年、肥前名護屋城三の丸の守備役を務めた。

粟屋右衛門大夫【(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。大飯郡白石山城主。

粟屋小次郎【あわやこじろう(15??~15??)】

粟屋右衛門大夫の男。1570年、織田信長勢に属した。

粟屋右馬允【あわやうまのじょう(15??~15??)】

粟屋元隆家臣。1552年、武田家浪人衆らとともに近江国から若狭国に侵攻して吉田村を焼打ちした。武田信孝、熊谷勝直らとともに武田信方勢と戦うが朝倉教景の介して和議を結んだ。

粟屋勝家【あわやかついえ(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。通称五郎右衛門。1566年、「岩出山砦の戦い」では、朝倉義景勢が国吉城に撤退する粟屋勝家勢500余り攻撃を掛けたが、国吉城から火矢を放って小屋を焼き払い、朝倉義景勢を撃退した。

伊崎為堯【いざきよりたか(15??~15??)】

大飯郡稲葉館主。1538年、武藤友賢勢の攻撃を受け、交戦したが降伏した。伊崎為堯は蟄居した。

伊崎光義【いざきみつよし(15??~15??)】

伊崎為堯の男。1538年、父伊崎為堯武藤友賢勢の攻撃を受け降伏したが、武藤友賢につくことをいさぎよしと武田信豊に仕えた。

伊崎義誠【いざきよしのぶ(15??~15??)】

伊崎光義の男。

伊崎義康【いざきよしやす(15??~15??)】

伊崎義誠の男。1540年、武藤友賢から稲葉館の城代に任じられた。1580年、本郷泰茂勢の攻撃を受け稲葉城は落城した。

市川定照【いちかわさだてる(15??~15??)】

武田信豊家臣。三方郡能登野館主。

市川信定【いちかわのぶさだ(15??~15??)】

市川定照の男。官途は山城守。火矢名手。山内一豊に仕えた。1589年、「小田原の役」に参陣して戦功を挙げた。山内一豊が遠江国掛川城主に任じられると1,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢のもとから見性院(千代)を救うため、使者として派遣された。

一宮賢成【いちのみやかたなり(15??~15??)】

三方郡一宮城主。官途は壱岐守。

打它宗貞【うちだむねさだ(1559~1643)】

敦賀の豪商。別名茂住宗貞。飛騨国高山城主金森長近に仕え、鉱山開発で財をなした。1608年、越前国敦賀湊に移った。廻船業をいとなみ、若狭国小浜城主酒井忠勝に仕え敦賀代官職を務めた。参考文献:「デジタル版日本人名大辞典+Plus」。

大草公広【おおくさきみひろ(15??~15??)】

大飯郡難波江城主。官途は三河守。幕府奉公衆。1532年、足利義晴に仕えて戦功を重ねた。1538年、武田元光は足利義晴から大草公広に所領を返却するよう命じられた。.

大塩吉次【おおしよよしつぐ(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。大塩吉信の男。田繩城主。官途は長門守。1562年、湯岡城主南部久方の攻撃を受け落城した。粟屋勝久を頼って落延びた。

大塩吉忠【おおしおよしただ(15??~15??)】

大塩吉次の男。1562年、父大塩吉次が南部久方の攻撃を受けた。粟屋勝久に仕えた。

太田祐安【おおたすけやす(15??~15??)】

遠敷郡三重城主。

小原帯刀【おばらたてわき(15??~15??)】

武田義統家臣。1567年、武田義統が病没すると、朝倉義景勢が武田元明を幽閉するために若狭国に侵攻した。小原帯刀と野田甚太夫は朝倉義景勢に対抗するため、守護館近くの誓願寺前に防御線を敷き戦ったが敗れ、武田元明は越前国に連れ去られた。

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【か】

香川右衛門大夫【かがわうえもんのたいふ(15??~15??)】

武田義統家臣。鳥羽谷麻生野城主。1570年、武田義統や他の国衆とともに織田信長に降った。1575年、「越前一向一揆討伐」では、若狭海賊衆とともに一揆勢を海上から攻撃した。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢に属して、戦後所領を没収された。

梶又左衛門【かじまたざえもん(15??~15??)】

武田義統家臣。1569年、若狭武田家36人衆のひとりとして、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀、中川重政の四奉行に所領安堵された。

月甫清光【がっぽきよみつ(15??~1538)】

武田信繁の五男。武田元光の後見役を務めた。1487年、武田国信や寺井賢仲らと南禅寺仙館院の和漢聯句の会に列座した。京都の三条西実隆と交流して、物を贈り詠草を添えて和歌の指導を受けた。1531年、三条西実隆に「金葉集の内、抜書、1両首」を贈った。

菊池治郎助【きくちじろうすけ(15??~15??)】

武田義統家臣、1569年、若狭武田家36人衆ひとり。丹羽長秀、羽柴秀吉、、明智光秀、中川重政の四奉行に所領安堵された。

木下和泉守【きのしたいずみのかみ(15??~15??)】

遠敷郡小浜湊の交易商人。羽柴秀吉から遠敷郡の所領を安堵された。羽柴秀吉蔵入地の年貢の収納、販売、運送、さらには兵糧米の輸送にあtった。組屋とともに前田利長の蔵宿を務めた。

熊谷勝直【くまがいかつなお(15??~1552)】
  
武田信豊家臣。官途は弾正大夫。幕府料所安賀荘の代官を務めた。1552年、不義を働いたとして武田信豊の意向により自刃した。

熊谷直之【くまがいなおゆき(15??~1595)】

三方郡井崎城主。武田信豊家臣。官途は大膳亮。通称伝左衛門。別名熊谷直澄。1568年、朝倉義景勢が若狭国に侵攻するとこれに抵抗した。1570年、「二次越前侵攻」以降、武田元明が織田信長に属すると、枝連衆の熊谷伝左衛門、熊谷式部丞らとともにこれに従った。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に属した。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して京都嵯峨ニ尊院にて自刃した。辞世の句は「あはれとも問ふひとならでとふべきか 嵯峨野ふみわけておくの古寺」。

熊谷統直【くまがいむねなお(15??~15??)】

武田義統家臣。1566年、謀反を起こしたが、武田義統と起請文を交わして和議を結んだ。

組屋隆行【くみやたかゆき(15??~1556)】

遠敷郡小浜湊の交易商人。室は関戸久興の妹(恵鏡)。組屋隆行は関戸久興とともに小浜本境寺の開基した。

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【さ】

沢村吉重【さわむらよししげ(1554~1660)】

逸見昌経家臣。官途は大学。通称才八。逸見昌経の没落後、若狭国に入部した細川藤孝、細川忠興父子に仕えた。以後、三十数度の戦いに参陣した。細川忠興が肥後国を領すると5,000石を領した。1637年、「島原の乱」にも参陣した。

潤甫周玉【じゅんぽうしゅうぎょく(1504~1549)】

武田元信の次男。臨済宗の僧。若くして出家した。1539年、遠敷郡名田荘雲外寺を開山した。1543年、建仁寺第二八二世に迎えられた。父武田元信や、兄武田元光とともに三条西実隆との交流を持った。

春沢永恩【しゅんたくえいおん(14??~1592)】

武田元信の六男。臨済宗。京都建仁寺の九峰以成の継いだ。のち建仁寺,南禅寺の住持となった。詩文にすぐれ、策彦周良らと親交を持った。著書に『春沢和尚録』、『枯木藁』。

白井光胤【しらいみつたね(15??~15??)】

武田信方家臣。加茂城主。官途は石見守。別名白井清胤。1567年、武田信方が武田義統に謀反を企てると、これに反対して継嗣の白井勝胤とともに武田信方のもとを退去した。

白井勝胤【しらいかつたね(15??~15??)】

白井光胤の男。官途は民部丞。1559年、逸見昌経が謀叛を起こすと、武田信豊勢に属して参陣した。1567年、武田義統の弟武田信賢との対立した、粟屋勝久、内藤勝高、逸見宗全、松宮玄蕃、熊谷直之、寺井源左衛門、白井勝胤、寺川左馬助、香川右衛門大夫ら若狭国人衆は、織田信長勢に属した。

白井政胤【しらいまさたね(15??~15??)】

白井勝胤の男。官途は民部少輔。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、丹羽長秀に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して没落した。

白井長胤【しらいながたね(15??~1639)】

白井勝胤の次男。通称九兵衛。1587年、藤堂高虎に仕えた。1592年、「文禄の役」に参陣した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。

関戸久興【せきどひさおき(15??~15??)】

遠敷郡小浜湊の交易商人。官途は豊前守。1550年、陸奥国戸館の馬(糠部の名馬)を武田信豊に手配した功により、本境寺の寄宿、飛脚役が永代免除の特権を得た。蝦夷国松前湊から筑前国博多湊までの海上交易を担った。

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【た】

若狭武田元信【たけだもとのぶ(14??~1521)】

遠敷郡後瀬山城主。武田国信の次男。官途は大膳大夫。室町幕府若狭国守護職。通称彦次郎。室は畠山義統の娘。1490年、兄武田信親の病没により若狭武田家の家督を相続した。1491年、「六角高頼討伐」では、足利義稙勢に属して参陣した。1502年、段銭徴収に反対して土一揆が蜂起し、弟の武田元度らが討死した。1503年、一揆衆の要求に屈し、段銭を免除した。1505年、細川政元勢の支援を受けて丹後国に侵攻したが失敗に終わった。1517年、一色九郎と延永春信らが若狭国に侵入すると、家臣の逸見河内守も内応して苦境に立たされた。朝倉孝景の支援を受け、一色九郎勢を撃退して丹後国加佐郡倉橋城を攻落とした。三条西実隆、飛鳥井雅康、連歌師宗祇、宗長らと交流を持った。

若狭武田元光【たけだもとみつ(1494~1551)】

武田元信の次男。通称彦二郎。官途は大膳大夫。1521年、父武田元信の病没により若狭武田家の家督を相続した。1517年、安芸武田元繁が毛利元就と戦って討死すると、安芸武田光和の後見役を務めた。1526年、細川高国の意向を受けて上洛した。1527年、「西七条桂川の戦い」で三好勝長、柳本賢治らと戦うが敗北、足利義晴とともに近江国に落延びた。1532年、隠居して家督を継嗣の武田信豊に譲った。1538年、「谷田寺の戦い」では、粟屋元隆が離反したため、これと戦った。

若狭武田信孝【たけだのぶたか(14??~15??)】

武田元信の三男。官途は中務少輔。1538年、粟屋元隆の擁立され、甥の武田信豊と若狭武田家の家督を争った。遠敷郡の戦いで敗北。朝倉孝景を頼り、越前国に落延びた。1552年、粟屋右馬允とともに若狭国に侵攻を図るが、朝倉義景の支援を受けられず失敗に終わった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

若狭武田元度【たけだもとつど(14??~1502)】

武田元信の四男。遠敷郡新保山城主。官途は中務少輔。1502年、段銭徴収に反対して土一揆が蜂起し、一揆勢と戦い討死した。

若狭武田元実【たけだもとざね(14??~1502)】

武田元度の男。通称五郎。1502年、段銭徴収に反対して土一揆が蜂起し、父武田元度とともに一揆勢と戦い討死した。

若狭武田輝信【たけだてるのぶ(14??~1565)】

武田元信の五男。官途は左兵衛佐。1565年、「本国寺の戦い」で、足利義輝を守るため、三好三人衆、松永久秀勢と戦い討死した。

若狭武田信豊【たけだのぶとよ(1514~15??)】

武田元光の男。官途は治部少輔。通称彦二郎。室は六角定頼の娘。故実の筆写や連歌の才能を持っていた。 1532年、父武田元光の隠居により若狭武田家の家督を相続した。丹後国に派兵して、加佐郡を制圧して白井光胤を郡代に任じた。1542年、「河内太平寺の戦い」では、細川晴元勢に属して三好長慶と戦ったが敗退して、粟屋右京亮ら多くの有力諸将を失った。1551年、丹後国加佐郡の牢人衆が蜂起した。1554年、細川晴元の意向を受けて逸見昌経らとともに丹波国に侵攻して内藤長頼勢と戦った。1556年、継嗣の武田義統と若狭武田家の家督を巡って争ったが、敗れて近江国に落延びた。1561年、武田義統が武田信豊に料所を与えて和議が成立し帰国した。

若狭武田信高【たけだのぶたか(15??~1556)】

武田元光の次男。官途は宮内少輔。通称彦五郎。別名宮川信重。室は三淵晴員の娘(宮川尼)。武田信豊が宮川保から粟屋勝久の勢力を一掃すると、新保山城主に任じられた。1556年、武田信豊、武田義統父子による若狭武田家の家督争いが起こると、武田信豊勢に属して参陣したが、まもなく病没した。

若狭武田義統【たけだよしむね(1526~1580)】

武田信豊の男。通称彦二郎。官途は大膳大夫。室は足利義晴の娘。1556年、父武田信豊と対立し、隠居させて家督を相続した。1561年、粟屋勝久、逸見昌経らが謀反を起こすと、朝倉義景の支援を受けてこれを鎮圧した。1566年、足利義昭が若狭国に落延びてきたが、内戦で疲弊していたため、有効な支援を行うことができなった。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、これに属して所領を安堵された。

若狭武田信由【たけだのぶよし(15??~15??)】

武田信豊の次男。官途は上総介。通称三郎。

若狭武田信景【たけだのぶかげ(15??~1586)】

武田信豊の三男。三方郡鈴ヶ岳城主。官途は右衛門佐。通称五郎。別名武田元実。1566年、兄武田義統の意向を受け、足利義昭に仕えた。1576年、備後国鞆に落延びた足利義昭に従った。足利義昭や六角義堯とともに鞆に転封した幕府勢力の中心として活躍した。1586年、「肥後国高森城の戦い」で島津義久勢と戦って城主高森惟直とともに討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 

若狭武田信方【たけだのぶかた(15??~1582)】

武田信豊の四男(武田信高の養子)。別名宮川信方。1552年、粟屋右馬允が若狭国に侵攻すると、武田信方は大将として粟屋右馬允と二度に渡って戦い撃退した。1556年、父武田信豊と兄武田義統が若狭武田家の家督を巡って争った。叔父の武田信高が病没すると、その家督を相続して新保山城主に任じられ、若狭武田家の軍事力を掌握した。1567年、武田義統に謀反を企てるが、武田信方の家臣団が従わなかったため失敗に終わった。1570年、「第一次越前討伐」では、若狭国人衆の多くが織田信長勢に参陣するが、一乗谷に幽閉されてる武田元明の意向を受けて織田信長に対抗した。1571年、朝倉義景勢が若狭国に侵攻すると、若狭国の守護代に任じられた。1582年、丹羽長秀に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

若狭武田元明【たけだもとあき(1552~1582)】

武田義統の男。通称孫八郎。室は京極高次の妹(於龍)。1560年、父武田義統との家督争いに勝利して、若狭武田家惣領家の家督を相続した。1568年、朝倉義景により越前国一乗谷に幽閉された。1575年、旧領復帰を願いでるため、京都相国寺に織田信長を訪問した。1581年、馬揃えにでは、丹羽長秀勢に属して参列した。1581年、逸見昌経が病没すると、遺領の内3,000石を領したが、まもなく神宮寺桜本坊に蟄居させられた。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢に属して、長浜城を攻略した。「山崎の戦い」後、近江国海津で丹羽長秀の謀殺された。

若狭武田義勝【たけだよしかつ(15??~16??)】

武田元明の男。別名津川義勝。1582年、父武田元明が自刃すると、京極高次に仕え津川義勝と称した。1600年、「関ヶ原の役」後、京極高次が若狭国を領すると、大飯郡高浜城5,000石を領した。

田邊半太夫【たなべはんだいふ(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。1563年、三方郡国吉城主粟屋勝は、朝倉義景勢の侵攻を受けると領内の地侍を集め、国吉城城に籠城した。朝倉義景勢の半田又八が若狭国境に迫ると、粟屋勝久は家臣の山本豊後守、田邊半太夫ら300余りを関峠で朝倉義景勢を迎え撃ち撃退した。

寺井賢仲【てらいかたなか(15??~1516)】

武田信賢家臣。谷小屋城主。通称四郎兵衛。

寺井家忠【てらいいえただ(15??~15??)】

寺井賢仲の男。通称左兵衛尉。

寺井源左衛門【てらいげんざえもん(15??~15??)】

寺井家忠の男。1570年、織田信長の家臣丹羽長秀が若狭国を領すると、これに従った。1575年、「越前一向一揆」では、織田信長勢に属して海賊衆を率い、越前国の諸湊を海上から襲撃した。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢に属したため、没落した。

寺川左馬助【てらかわさまのすけ(15??~15??)】

武田義統家臣。1567年、武田義統の弟武田信賢との対立した宿老衆(粟屋勝久、内藤勝高、逸見宗全、松宮玄蕃、熊谷直之、寺井源左衛門、白井勝胤、寺川左馬助、香川右衛門大夫)が若狭武田家を離れ、織田信長勢に仕えた。

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【な】

内藤元是【ないとうもとこれ(15??~15??)】

武田元信の五男。官途は伊豆守。

内藤重純【ないとうしげずみ(15??~15??)】

内藤元是の男。官途は石見守。

内藤元兼【ないとうもとかね(15??~15??)】

遠敷郡西津天ヶ城。武田元光家臣。官途は筑前守。若狭国守護代職を務めた。1538年、若狭彦神社の作事奉行を務めた。

内藤勝高【ないとうかつたか(15??~15??)】

武田元光の男(内藤元兼の養子)。官途は内蔵助。別名内藤政信。家老職を務めた。和歌を好みて宗祇を師とした。

内藤勝行【ないとうかつゆき(15??~15??)】

内藤勝高の男。官途は筑前守。別名内藤重政。1570年、織田信長に降り、丹羽長秀に属して各地を転戦した。1575年、海賊衆を率いて海上から越前国を攻撃した。

内藤政高【ないとうまさたか(15??~15??)】

内藤勝行の男。官途は筑前守。羽柴秀吉が若狭国を領すると、浪人となった。

内藤長縄【ないとうながつな(1552~1596)】

内藤政高の次男。官途は大蔵。別名梶理兵衛。丹羽長秀に仕えた。

内藤長教【ないとうながつな(1589~1659)】

内藤長縄の男。通称伝左衛門。1614年、「大坂冬の陣」で松平元康勢に属して戦功を挙げ、上総国武射郡、下総国香取郡、海上郡、常陸国真壁郡内で800石を領した。

内藤国高【ないとうくにたか(1455~1527)】

武田元光家臣。遠敷郡箱ヶ岳城主。通称五郎左衛門。官途は佐渡守。1526年、細川高国の意向を受けて山城国に参陣した武田元光に従った。1527年、桂川に柳本賢治と戦って討死した。

内藤直兼【ないとうなおかね(15??~15??)】

内藤元兼家臣。官途は兵庫。

内藤下総守【ないとうしもうさのかみ(15??~1571)】

武田元光家臣。湯谷山城主。

南部久方【なんぶひさかた(15??~15??)】

湯岡城主。通称宮斎。1562年、田繩城主大塩長門守の攻撃を受けたが撃退した。

沼田光兼【ぬまたみつかね(1496~1560)】

三方郡熊川城主。沼田光延の男。官途は上野介。通称新左衛門。若狭熊川城主。足利義昭に仕えた。その娘は、細川藤孝に嫁ぎ、細川忠興をもうけた。

沼田光長【ぬまたみつなが(15??~1565)】

沼田光兼の男。通称三郎左衛門。官途は上野介。足利義晴に仕えた。1565年、足利義輝とともに討死した。

沼田清延【ぬまたきよのぶ(15??~1593)】

沼田光兼の四男。通称勘解由左衛門。別名沼田元清。足利義昭に仕え、詰衆を務めた。足利義昭が追放処分に処せられると、細川藤孝に仕え、丹後国中山城主に任じられた。

野田甚太夫【のだじんだいふ(15??~15??)】

武田義統家臣。1567年、武田義統が病没すると、朝倉義景勢が武田元明を幽閉するために若狭国に侵攻した。小原帯刀と野田甚太夫は朝倉義景勢に対抗するため、守護館近くの誓願寺前に防御線を敷き戦ったが敗れ、武田元明は越前国に連れ去られた。

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【は】

畑田加賀守【はただかがのかみ(15??~15??)】

三方郡野登野城主。1573年、織田信長に降伏後、武田元明や他の若狭衆とともに相国寺を訪れた。「越前一向一揆討伐戦」には、海賊衆を率いて海上から一揆勢を攻撃した。

畑田修理亮【はただしゅりのすけ(15??~15??)】

畑田加賀守の男。

畑田泰清【はただやすきよ(15??~15??)】

内藤元兼家臣。

広野孫三郎【ひろのまごさぶろう(15??~15??)】

武田義統家臣。1569年、若狭武田家36人衆の筆頭として、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀、中川重政の四奉行に所領安堵された。

逸見真正【へんみまさ(15??~15??)】 

大飯郡高浜城主。武田信豊家臣。

逸見昌経【へんみまさつね(1522~1581)】

逸見真正の男。官途は駿河守。細川晴元の意向を受け武田信豊に従って丹波国各地を転戦したが、三好長慶の家臣内藤長頼の内応工作により撤退に追い込まれた。1556年、武田信豊が武田義統と対立すると、武田信豊勢に属して戦ったが大敗して近江国に落延びた。丹波国の内藤長頼の支援を受けて武田義統と戦い続けた。1561年、朝倉義景の支援を受けた武田義統勢と戦ったが敗れた。1565年、「高浜城の戦い」で武田義統勢の高浜城を奪還した。1566年、海賊衆を編成して小浜城主武田義統を攻撃したが大敗した。1567年、武田義統が病没して、武田元明が人質とて朝倉義景のもとに送られると、大飯郡西部の勢力下に置いた。1570年、「第一次越前討伐」で織田信長勢に属した。

逸見虎清【へんみとらきよ(15??~15??)】

逸見昌経の男。

逸見河内守【へんみかわちのかみ(15??~1566)】

大飯郡丸山城主。1566年、武田義統勢の海賊衆と船戦を行い討死した。

本郷泰茂【ほんごうやすしげ(15??~15??)】

大飯郡達城主。1524年、本郷泰茂の領地が、幕府料所となり本郷泰茂の勢力が衰えると、佐分利石山城主武藤友益の攻撃を受けた。1570年、「姉川の戦い」後、織田信長勢が若狭国に侵攻すると、矢部家定の介して織田信長勢に属した。

本郷泰栄【ほんごうやすえい(15??~15??)】

本郷泰茂の男。

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【ま】

松宮玄蕃允【まつみやげんばのじょう(15??~15??)】

武田義統家臣。遠敷郡膳部山城主。1570年、「第一次越前侵攻」で織田信長が若狭国に侵攻するとこれに属した。1573年、「第二次越前侵攻」に参陣した。「越前一向一揆」が起こるとと、海賊衆を率いて一揆勢と戦った。

武藤友益【むとうともます(15??~15??)】

武田義統家臣。大飯郡石山城主。官途は上野介。別名武藤景久。武田家四家老のひとりとして石山城3,000石を領した。1538年、「稲葉館の戦い」で伊崎為堯と戦い稲葉館を攻落とした。1570年、「第一次越前侵攻」では、織田信長の家臣丹羽長秀勢に属して参陣したが、朝倉義景勢に属した武田元明に内応した。織田信長から大飯郡石山城から追放された。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢に属して、武田元明とともに佐和山城を攻落とした。戦後、武田元明は自刃したが、武藤友益は丹羽長秀に仕えた。

武藤友賢【むとうともかた(15??~15??)】

武藤友益家臣。1538年、「稲葉館の戦い」で武藤友益とともに伊崎為堯を攻撃した。

武藤友慶【むとうよもあつ(15??~15??)】

武藤友賢の男。

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【や】

安田貞能【やすださだよし(15??~15??)】

武田信豊家臣。官途は大膳。

矢部定政【やべさだまさ(15??~15??)】

本郷泰茂の次男(矢部家定の養子)。官途は豊後守。養父の矢部家定は、菅屋長頼、長谷川秀一、福富秀勝、堀秀政と織田家奉行五人衆として織田信長の近習として仕えていた。1570年、本郷泰茂が矢部家定の仲介して織田信長勢に属した。1582年、「本能寺の変」後は、羽柴秀吉に馬廻衆として仕えた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城二の丸を警護した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したため、役後改易処分に処された。

山県孫三郎【やまがたまごさぶろう(15??~15??)】

三方郡賀羅岳城主。1556年、武田信豊、武田義統父子の対立すると、家臣団を二分にする内乱に発展すると、武田義統を支持した。1566年、逸見昌経が高浜城を拠点にっ海賊衆を編成して武田義統を攻撃した際、山県秀政秀は武田義統勢の海賊衆を指揮して逸見海賊衆を撃破した。1570年、「第一次越前討伐」で織田信長勢が若狭国に侵攻すると、織田信長勢に属した。「賀羅岳城の戦い」では、新保山城主武田信方勢の攻撃を受けた。

山県頼冬【やまがたよりふゆ(15??~15??)】

三方郡藤井城主。官途は石見守。室は佐々木高成の娘。

山県盛信【やまがたもりのぶ(15??~15??)】

武田元信の四男(山県頼冬の養子)。官途は下野守。通称源三郎。別名山県秀政。本境寺の寺役免、妙楽寺への奇進、長源寺の淀書制定、長源寺、谷田寺への安堵状の発給を行った。

山県元盛【やまがたもともり(1533~15??)】

山県盛信の男。官途は式部大夫。室は沼田清延の娘。のちに細川藤孝に属した。

山県元之【やまがたもとゆき(15??~15??)】

山県盛信の次男。通称源七郎。別名山県政信。

山県政親【やまがたまさちか(1555~15??)】

山県元盛の三男。通称源三郎。

山本豊後守【やまもとぶぜんのかみ(15??~15??)】

粟屋勝久家臣。1563年、三方郡国吉城主粟屋勝は、朝倉義景勢の侵攻を受けると領内の地侍を集め、国吉城城に籠城した。朝倉義景勢の半田又八が若狭国境に迫ると、粟屋勝久は家臣の山本豊後守、田邊半太夫ら300余りを関峠で朝倉義景勢を迎え撃ち撃退した。

雄長老【ゆうちょうろう(1547~1602)】

武田信高の男。別名英甫永雄。狂歌作者、漢詩人。建仁寺十如院住職。1586年、建仁寺292世。1594年、南禅寺の住職にもなった。漢詩文や漢和聯句)などに優れ当時五山の僧侶中五指のひとり。1589年、中院通勝に批評を請うた『詠百首狂歌』は、痛烈な風刺や磊落な笑いを含む作品。「桜にはあらぬ春べをこきまぜて枝をたれたるはこ柳かな」。

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【資料Ⅰ】

若狭国(3郡/86,000石)

三方郡:32,000石 国吉城。
遠敷郡:34,000石 小浜城、後瀬山城、小浜湊。
大飯郡:20,000石 高浜城、石山城。

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【資料Ⅱ】

若狭武田家四家老【わかさたけだけよんかろう】

武藤友益、粟屋勝久、逸見昌経、内藤勝行。

若狭武田家三十六人衆【わかさたけだけさんじゅうろくんしゅう】

広野孫三郎、梶又左衛門、菊池治郎助、他。

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【資料Ⅲ】

若狭国【わかさのくに】

若狭湾に面した北陸道の国。東は野坂山地から立石岬に至る戦で越前国に接し、西は青葉山を中心とした山系を境界に丹後国と接している。南は丹波国、近江国と中国山地に連なる高原性の丹波高地で国境を分け、北は複雑に入り組んだ海岸線で弓なりに若狭湾に臨む。遠敷郡、三方郡、大飯郡からなる小国で、大きな河川や平野に乏しい。農業生産は振るわないが、東西に細長く伸びた海岸線には、小浜湾などに良湊を多く、海産物に恵まれ、製塩業も盛んに行われている。三方を山に囲まれているが高い山はなく交通は容易である。

若狭街道【わかさかいどう】

若狭街道は海を持たない京都の人々が鮮魚を得るために不可欠な道であった。若狭から運ばれた物資の中で特に鯖が有名。小浜から京都まで約1日で到着できるため、軍事、物流の中心として整備された。

小浜湊【おばままみなと】

若狭湾の中央に位置する小浜湾に臨み、日本海沿岸地域と畿内市場との結節点、及び京都北側の国際港として大いに栄えた湊街。日本海に向いた京都の北の外湊の機能を持っていたため、北は蝦夷地、西は九州、対馬、あるいは朝鮮と日本海沿岸全域から来航する船が発着したが、さらに遠く、明や東南アジアとの交易にも利用された。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

徳川家康は松平元康、徳川秀忠は松平秀忠、豊臣秀吉は羽柴秀吉、豊臣秀頼は羽柴秀頼に統一しました。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版、参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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