2011年1月27日木曜日

戦国蝦夷国人名辞典

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【あ】

相原政胤【あいはらまさたね(14??~15??)】

大館下国定季家臣。松前郡小館主。官途は周防守。1454年、南部光政によって田名部に抑留されていた安東政季と共に蝦夷地に渡海、のち及部の館に住み、大館主下国定季を補佐した。1457年、「コシャマインの蜂起」では茂別館、花沢館以外の全ての豪族衆の館が陥落、相原政胤も捕縛されるが乱の鎮圧後に助けられた。その後、隠居して嫡男相原季胤に相原家の家督を譲った。

相原季胤【さがらすえたね(14??~1513)】

相原政胤の男。通称彦三郎。父相原政胤が隠居により相原家の家督を相続した。1496年、大館主下国恒季が素行不良を理由に蠣崎光広ら館主連合軍に討たれた後に大館主になった。1512年、相原季胤は矢越岬の海神の怒りを鎮めるために、アイヌ族の娘20人を海に沈め人身御供としたため、アイヌ族は蜂起した。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」ではアイヌ衆に小館主を包囲された相原季胤は、二人の娘を連れて大沼まで落延びるが逃げ切れず娘達は自刃した。相原季胤も弟相原吉胤とともに湖中の小島で自刃した。相原季胤は愛馬に山上に逃げるよう言い聞かせ、これに従った馬は勢い良く山に上った。そのため、この山を駒ヶ岳と称し、相原季胤が外した鞍を掛けた岩が鞍掛岩と称された。

相原吉胤【あいはらよしたね(15??~1513)】

相原政胤の次男。大館主下国家の補佐。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では、大館が攻撃を受け兄相原季胤とともに討死した。

青山宗右衛門【あおやまそうえもん(15??~15??)】

下国由季家臣。室は下国由季の娘。

明石季衡【あかしすえひら(15??~15??)】

蠣崎義広家臣。通称右馬介。室は蠣崎義広の娘。生国は羽後国秋田郡で蝦夷国に渡り蠣崎季広に仕えた。蠣崎季広の次男蠣崎元広が明石季衡の娘と結婚し婿養子となり明石元広と称した。その後、娘を得るが明石元広が実姉(南条広継の室)に謀殺された。明石元広の遺児で明石季衡の孫娘は長じて、岡部季村の室となって岡部広衡と岡部元村を得た。岡部広衡は明石家の養子となって明石家の家督を相続し、岡部元村は岡部家の家督を相続した。

明石元広【あかしもとひろ(1540~1562)】

蠣崎義広家臣。蠣崎季広の次男(明石季衡の養子)。通称万五郎。室は明石季衡の娘。1562年、実の姉であった南条広継の室に自分が女で家督を継げないことを逆恨みされ、毒を盛られ謀殺された。

明石広衡【あかしひろひら(15??~15??)】

岡部季村の男(明石元広の養子)。母方の親である明石元広が病没して明石家が断絶したため、明石広衡が家督を相続した。

厚谷重形【あつやしげかた(14??~15??)】

蠣崎義広家臣。比石館主。通称十郎。1532年、アイヌ衆が徳山館を攻撃した際、蠣崎義広とともに撃退した。

厚谷重政【あつやしげまさ(15??~1590)】

厚谷重形の男。官途は備中守。通称四郎兵衛。室は蠣崎義広の娘。1546年、蠣崎季広が安東舜季の要請により、深浦森山館主森山季定を攻撃するため軍勢84騎余りを率いて参陣した。

厚谷季貞【あつやすえさだ(15??~1570)】

厚谷重政の男。官途は備中守。室は蠣崎季広の娘。蠣崎慶広より「寄合席」とされ「奥用人兼家老職」に任じられた。

厚谷貞政【あつやさだまさ(15??~1637)】

厚谷季貞の男。通称四郎兵衛。蠣崎家三代に仕えた。1637年、福山館の火災で火薬庫に火が燃え移って爆発した際、蠣崎公広を酒井広種と共に救出した。厚谷貞政は重傷の火傷を負いまもなく病没した。

今井季景【いまいすえかげ(14??~1513)】

小林政景の男(今泉季友の養子)。与倉前館主。通称小次郎。1457年、今井季友の病没後、志苔館主小林良定より養子に入り、今井家の家督を相続した。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では与倉前館も攻撃を受け討死した。

今井景宗【いまいかげむね(14??~15??)】

今井季景の男。通称小三郎。1512年、父今井季景の討死後、今井家の家督を相続した。1515年、大館に移ってきた蠣崎義広に属した。

江口義顕【えぐちよしかき(14??~1512)】
 
村上政儀家臣。江口義盛の男。官途は民部丞。1457年、アイヌ衆の蜂起で父江口義盛が上ノ国で討死後、江口家の家督を相続した。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では志苔館に援軍に向かうも夷狄の流矢を受けて討死した。

江口顕輝【えぐちあきてる(14??~1513)】

江口義盛の次男(館頼重の養子)。官途は権頭。1512年、伯父館頼重の養子になっていたが、兄江口義顕が討死すると江口家の家督を相続した。1513年、では、アイヌ勢の攻撃を受け討死した。

岡部季澄【おかべすえずみ(14??~1513)】

戸井館主。通称六郎右衛門。原口館築城、本拠とした。1457年、「コシャマイン蜂起」が起こり原口館は陥落した。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」ではアイヌ勢が大館を攻撃、相原季胤らとともに討死した。

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【か】

蠣崎義広【かきさきよしひろ(1479~1545)】

松前郡徳山城主。檜山安東尋季家臣。蠣崎光広の男。1513年、蝦夷地東部の酋長であったショヤタイン(庶野)、コウジ(訇時)兄弟が率いるアイヌ衆が蜂起し、数ヶ所の館を襲撃した。上国守護職であった父蠣崎光広とともに撃退した。1514年、アイヌ衆に攻落されいた松前大館を奪還した。安東尋季の裁定により蠣崎家の家督相続前であったにもかかわらず、蠣崎義広が上国松前両守護職に任じられ、蝦夷地を訪れる和人の商船から運上を徴収することを認められた。運上は安東尋季に送られたものの、蠣崎義広が他の渡党へ優越する権限を持つことができた。1521年、蠣崎家の家督を相続した。長年交易をめぐってアイヌ衆と対立し落城寸前まで追い込まれた。1529年、蠣崎義広は工藤祐兼、工藤祐致兄弟に命じて西蝦夷のタナサカシの本拠を攻撃したが敗北、工藤祐兼は討死した。逆にタナサカシに大館に隣接する勝山城を包囲され、蠣崎義広は和議を申し出た。そして、賠償品を受け取りに来たタナサカシを謀殺して勝利を収めた。1536年、タナカサシの女婿タリコナが蜂起すると再びタリコナ夫妻を和議と称し宴会に招き謀殺して危機を脱した。

蠣崎季広【かきさきすえひろ(1507~1595)】

蠣崎義広の男。通称彦太郎。官途は若狭守。室は河野季通の娘(伝妙院)。父蠣崎義広の代までアイヌ衆との抗争を繰り返し、これを教訓としてかアイヌ衆との和議を進めた。1551年、和人居住地と交易について「夷狄の商舶往還の法度」を制定、アイヌ衆に対する交易の優位を確立。 蠣崎家は先祖が安東舜季の協力を得たことで、その被官の地位にあった。1546年、安東舜季の要請により蝦夷海賊衆を率いて本土へ渡海した。1550年、瀬田内(道南西部)の酋長ハシタインと知内(道南東部)の酋長チコモタインらと会談、和人地を上ノ国から知内の国境することに合意して和議を結んだ。この和議で確定された和人地は、「コシャマインの蜂起」で道南十二館の占有地の約三分の一に縮小した。アイヌ諸部族連合体は和人勢力を渡島半島の一角に追いやることに成功しており、「コシャマインの蜂起」以来のアイヌ衆の戦いは、軍事的には成功した。父蠣崎義広は多くの子女を道南、羽後国、陸奥国に配したので、蠣崎家としては各勢力との離合集散にも苦慮した。

蠣崎舜広【かきさきとしひろ(1539~1561)】

蠣崎季広の男。妹(南条広継室)に毒殺された。蠣崎季広に後継者に指名され、蠣崎舜広と称した。1561年、父蠣崎季広に将来を嘱望されていたが、南条広継の室(季広の長女、舜広の姉)に毒殺された。

蠣崎元広【かきさきもとひろ(1540~1562)】

蠣崎季広の次男。妹(南条広継室)によって謀殺された。

蠣崎慶広【かきさきよしひろ(1549~1616)】

蠣崎季広の三男。官途は志摩守。通称新三郎。室は村上季儀の娘。別名松前慶広。1590年、「小田原の役」では安東実季に属して参陣した。1591年、「九戸政実の乱」では、アイヌ衆を率いて参陣した。1592年、「文禄の役」では肥前国名護屋に参陣した。1593年、蝦夷国の領有を認められたが、檜山安東実季の家臣という立場であった。1599年、松平元康に蝦夷国地図などを献上した。1600年、「関ヶ原の役」では、安東実季が石田三成勢に属して三春城に減封されると、蠣崎慶広の外交手腕により、正式に蝦夷国の領主権を得た。羽柴秀吉への接近と歓心を買うための献身的行動、羽柴秀吉の病没後に松平元康に通じるなど、その独自外交と先見性は、蝦夷国という遠国にありながら畿内の小大名より高い外交能力を示した。

蠣崎正広【かきさきまさひろ(1547~1586)】

蠣崎季広の四男。通称右衛門大夫。上ノ国城代。1578年、蠣崎慶広の名代として上洛、織田信長に拝謁した。1586年、安東実季の援軍として羽後国に参陣中、病没した。

蠣崎基広【かきさきもとひろ(1506~1548)】

蠣崎高広の男。蠣崎季広と家督をめぐって争い討死した。

蠣崎盛広【かきざきもりひろ(1571~1608)】

蠣崎慶広の男。官途は若狭守。室は下国直季の娘。別名松前盛広。1598年、羽柴秀吉の病没後、父蠣崎慶広と共に松平元康に属した。1600年、松前家の家督を相続した。政務は依然として蠣崎慶広は執り行った。1604年、松平元康から黒印制書を受け蝦夷地の蠣崎家の領有権が確定した。1608年、父蠣崎慶広に先立って病没した。このため、蠣崎盛広の嫡男蠣崎公広が蠣崎慶広の養子になって蠣崎家の家督を相続することになった。

蠣崎忠広【かきざきただひろ(1580~1617)】

松前慶広の次男。官途は隼人正。通称甚五郎。別名松前忠広。幼少期から詩歌や武勇に優れた聡明な人物。1599年、父蠣崎慶広と共に上洛して松平元康に拝謁した。1604年、蠣崎慶広から江戸で分家することを許され、松平秀忠に仕えた。1610年、下総国結城郡内で1,000石を領した。1615年「大坂夏の陣」に参陣した。1615年、この戦功により加増を受け2,000石を領した。1617年、松平秀忠の上洛に従ったが病に倒れ、伊勢国桑名で病没した。

蠣崎利広【かきざきとしひろ(15??~15??)】

松前慶広の三男(南部利直の養子)。別名松前利広。養父の南部利直と不和になって義絶されて松前城に戻り、父蠣崎慶広の補佐に務めた。1616年、蠣崎慶広が病没後に蠣崎公広が松前家の家督を相続すると、蠣崎家の簒奪を図った。蠣崎公広の寵愛を得ていた側近杉山左内(蠣崎定広の娘婿)と結んで事を進めたが、杉山左内と犬猿の仲だった杉山平内が蠣崎公広に密告し密議が発覚、松前城から落延びた。

蠣崎由広【まつまえよしひろ(1594~1614)】

蠣崎慶広の四男(蠣崎盛広の養子)。通称数馬。別名松前由広。嫡男がなかった兄蠣崎盛広の養子となったが、蠣崎盛広に実子蠣崎公広が誕生して嗣子に定められた。このため蠣崎盛広とは不和となった。1614年、「大坂冬の陣」の際、羽柴秀頼勢に内通の嫌疑を受け、蠣崎慶広の命を受けた工藤祐種により謀殺された。

工藤祐兼【くどうすけかね(14??~1529)】

瀬田内館主。工藤祐長の男。通称九郎左衛門。1529年、「タナサカシの蜂起」では、瀬田内館が攻撃された際、工藤祐兼は殿軍を引き受け工藤祐致を落延びさせたが自身はアイヌ衆に包囲され討死した。

工藤祐致【くどうすけとき(15??~15??)】

工藤祐兼の男。通称九兵衛。1529年、「タナサカシの蜂起」では、瀬田内館が襲撃された。蠣崎義広はタナサカシとの和議を提案、その使者となった。タナサカシが和議を結ぶため、瀬田内館にやってくると、宴会の席で謀殺した。

工藤祐種【くどうすけたね(15??~16??)】

工藤祐致の男。通称九兵衛。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢への内通を疑われた松前由広を謀殺した。

コウジ【こうじ(15??~1515)】

蝦夷地東部の酋長。訇時。1513年、兄ショヤタインとともに蜂起し、宇須岸館、志濃里館、与倉前館を攻落した。1514年、大館を攻落した。1515年、蠣崎光広の館を攻撃したが、蠣崎光広との和議の宴会で謀殺された。

河野政通【こうのまさみち(14??~15??)】

箱館主。官途は加賀守。通称右衛門。1454年、南部家によって田名部に抑留されていた安東政季と共に蝦夷地に渡海、下之国に箱館を築城、守備し、茂別館主下国重季を補佐した。1457年、「コシャマインの蜂起」では茂別館、花沢館以外の全ての土豪の館が陥落、河野政通は捕縛されるが、鎮圧後助けられた。1513年、「ショヤタイン、コウジの蜂起」には、孫娘を伴い松前城に落延びた。

河野季通【こうのすえみち(15??~1513)】

河野政通の男。通称弥次郎右衛門。父河野政通とともに蝦夷地開拓を行っていたがそれがアイヌ衆との軋轢を生んだ。1513年、「ショヤタイン、コウジの蜂起」では宇須岸館が攻撃され、父河野政通のと三歳になる娘を落延びさしたあとアイヌ衆と戦い討死した。娘は蠣崎季広の室となり、松前慶広などを生んだ。河野季通の病没、河野家の名跡は断絶していたが、松前慶広の六男が継ぎ河野景広と称した。

河野景広【こうのかげひろ(1600~1558)】

松前慶広の六男(河野季通の養子)。官途は伊勢守。通称右衛門。別名松前景広。室は下国由季の娘。1602年、父松前慶広の命で、松前慶広の母の出自、箱館館主河野家の名跡を再興した。1634年、西町館に居所を移した。1638年、居所に稲荷大明神の社殿を造営した。1643年、松前家の氏神新羅大明神の社を建立、信仰心が高かった。1645年、松前系図伝を書写し、代々の事柄を編纂した「新羅之記録」を著した。

コシャマイン【こしゃまいん(15??~1457)】

蝦夷地東部の酋長。渡島半島南岸には和人が定住し、館主と称される小領主群が形成された。館主は東は志濃里館、西は花沢館を根拠地としてアイヌ衆との交易を行ったがアイヌ衆との軋轢を生んだ。1456年、志濃里の鍛冶屋でアイヌ衆が製作を依頼した小刀の良し悪しと値段をめぐって争いとなり、アイヌ衆が謀殺される事件が起こった。1457年、コシャマインらはアイヌ衆を率いて東は牟川から西は与市に至る間で蜂起し、志苔館主小林良景、箱館主河野政通、中野館主佐藤季則、脇本館主南条季継、穏内館主蒋土季直、覃部館主今泉季友、禰保田館主近藤季常、原口館主岡部季澄、比石館主厚谷重政、小館主相原政胤らの館を攻落した。和人で残ったのは、花沢館主蠣崎季繁、茂別館主下国家政のみだった。蠣崎季繁の家臣武田信広に和議と称して宴会に招かれ謀殺された。

小平季久【こだいらすえひさ(15??~15??)】

蠣崎季広家臣。

小平季遠【こだいらすえとお(15??~15??)】

小平季久の男。通称藤兵衛尉。室は蠣崎季広の娘(四女)。蠣崎家が檜山安東家の蝦夷代官の立場だった、小平季遠は娘婿として軍事面で小平季広を支えた。のちになって檜山安東家に内応したと、小平季広に疑われ謀殺された。嫡男小平季長は寛永期に活躍し、金山奉行を務め、財政を統括した。また次男小平季時は三関家として別家を立てた。

小林良定【こばやしよしさだ(14??~1513)】

志苔館主。小林良景の男。通称弥太郎。1456年、父小林良景が「コシャマインの蜂起」で討死したため小林家の家督を相続した。1513年、、「ショヤタイン、コウジの蜂起」では、アイヌ衆に志苔館を囲まれ籠城するが討死した。

小林良治【こばやしよしはる(14??~15??)】

小林良定の男。通称三郎右衛門。1513年、「ショヤタイン、コウジの蜂起」では志苔館が陥落、父小林良定が討死した。1514年、蠣崎光広、蠣崎義広父子が松前大館に転封してくるとそれに属した。

小林良道【こばやしよしみち(1514~1563)】

小林良治の男。1543年、若狭国の武田信豊に使者として派遣された。蠣崎家は若狭武田家の血を引くといわれるが、このときが初の使者の派遣であった。

蒋土季成【こもつちすえなり(14??~15??)】

穏内館主。兵庫之介。父蒋土季直の病没により蒋土家の家督を相続した。蒋土季成には娘しか生まれず家系は断絶した。

小山興重【こやまおきしげ(15??~15??)】

蠣崎義広家臣。小山隆政の謀反以来、蠣崎義広から追放されていた小山家であるが小山興重の代になり帰参を許された。しかし小山隆政のような重臣待遇ではなく、奉行級の中堅家臣であった。

小山重政【こやましげまさ(15??~15??)】

小山興重の男。通称弥次兵衛。蠣崎盛広、蠣崎公広、蠣崎氏広、蠣崎高広の四代に仕えた。父小山興重と同様に、奉行級の中堅家臣の待遇であった。

小山元政【こやまもとまさ(15??~15??)】

小山興重の次男。通称小次郎。

紺広長【こんひろなが(15??~15??)】

蠣崎盛広家臣。官途は備後守。1514年、蠣崎盛広が大館を本拠としたことは、安東尋季の意を汲むものではく了承を得るKとおができなかったが、三回目の交渉役に抜擢され彼の手腕で承諾を得た。

近藤信武【こんどうのぶたけ(14??~1527)】

禰保田館主。官途は左京亮。1512年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では禰保田館は陥落、蠣崎光広を頼って落延びた。

近藤季武【こんどうすえたけ(14??~1527)】

近藤信武の男。官途は帯刀。

近藤義武【こんどうよしたけ(1568~1638)】

近藤季武の男。通称吉左衛門。近藤義武の代に禰保田館から松前城に移った。1610年、花山院忠長が女官との淫行の咎で蝦夷国に配流の際、饗応役、帰洛の供奉を務めた。1615年、「大坂夏の陣」に松前忠広の傅役として参陣した際、合戦中喉が渇いたため自らの乗馬を殺しその血を啜った。

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【さ】

斎藤実繁【さいとうのりざね(15??~15??)】

出羽由利郡の豪族衆。斎藤実繁の娘が、蠣崎慶広の継室のなった縁で蠣崎慶広に仕えるようになった。

斎藤直政【さいとうなおまさ(1582~1654)】

斎藤実繁の男。1591年、羽柴秀吉の「奥州討伐」により所領を失い、斎藤直政の姉が蠣崎慶広の継室となった縁を頼って父斎藤実繁と共に蠣崎慶広に仕えた。1641年、蠣崎氏広に家老職に抜擢された。

酒井広種【さかいひろたね(15??~1637)】

蠣崎公広家臣。通称伊兵衛。父酒井七助は羽後国仙北郡の豪族であったが没落して蠣崎家に仕えた。1637年、火災により松前城の火薬庫が爆発した際、松前公広を厚谷貞政と共に助け出したが、酒井広種自身も火傷を負いまもなく病没した。

佐藤季則【さとうすえのり(14??~1513)】

中野館主。通称三郎左衛門。父佐藤季行と共に蝦夷地に渡った。1457年、「コシャマイン蜂起」が起こり中野館は陥落した。父佐藤季行の隠居により、佐藤家を家督を相続した。1504年、勝山館主蠣崎光広に属した。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」の際、再び中野館は陥落、その戦いの傷がもとで病没した。

佐藤季連【さとうすえつら(14??~15??)】

佐藤季則の男。通称彦助。室は蠣崎季広の娘。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」の際、中野館は陥落した。中野館は建されることなく、佐藤季連は徳山館に転封してのちに蠣崎季広に属した。

佐藤季平【さとうすえひら(15??~15??)】

佐藤季連の男。通称左衛門。室は河野景広の娘。

下国重季【しもぐにしげすえ(15??~1596)】

下国師季の男。官途は式部。通称孫八郎。室は蠣崎季広の娘。父下国師季が瀬田内に追放されると、下国家の家督を相続した。嗣なく弟下国直季の男下国由季を後継とした。

下国直季【しもぐになおすえ(15??~15??)】

下国重季の男。通称加兵衛。室は蠣崎季広の娘。

下国由季【しもぐによしすえ(15??~1594)】

下国直季の男(下国重季の養子)。官途は主典介。通称久三郎。室は蠣崎守広の娘。伯父で宗家の下国重季に子が無く、下国重季の養子となりるも、下国家の家督を相続したが早世した。

下国盛季【しもぐにもりすえ(15??~15??)】

下国直季の次男。

下国広季【しもぐにひろすえ(15??~15??)】

下国直季の三男。通称内記。室は 松前慶広の娘。兄下国由季が伯父下国重季の養子になったため、下国直季の跡を継いだ。

下国師季【しもぐにもろすえ(1523~1563)】

茂別安東家臣。下国家季の男。官途は下野守。通称安東八郎。松前之守護職を安東尋季より任じられた家柄。父下国家季が早世しているため、祖父下国家政の跡を継ぎ、茂別館を守った。1562年、アイヌ衆の攻撃により茂別館から松前城に逃れ蠣崎光広に仕えた。

シャクシャイン【しゃくしゃいん(15??~1669)】

蝦夷地東部の酋長で五大勢力のひとつ。カモクタイン家臣。通称沙武者。1653年、蝦夷地西部の酋長オニビシによって静内の酋長カモクタインが謀殺されたため酋長になった。寛永年間から商場知行制を推進したため、アイヌ衆間での漁猟をめぐる対立が頻発した。東部を押えるシャクシャインと西部を押えるカモクタインとで対立が強まった。1648年、センタインが病没するとシブチャリ川を中心にアイヌ衆同士の戦いが起こった。1655年、カモクタインが討死すると蠣崎高広が調停に入り和議が結ばれた。1665年、蠣崎高広が交易価格を大幅に上げたためオニビシが蜂起した。1567年、蠣崎高広勢と戦いオニビシ率いるアイヌ衆は大敗した。シャクシャインは蠣崎高広勢との戦いを決意しアイヌ衆に参陣を呼びかけ一斉に蜂起した。商船19隻を破壊,乗り合わせていた者273人を討取った。蜂起のさなかシャクシャインは謀殺された。

ショヤタイン【しょやたいん(15??~1515)】

アイヌ衆の酋長。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では、箱館館、志苔館、与倉前館が攻撃を受け館主小林良定、河野政通が討死した。生き残った豪族衆は蠣崎光広のもとに落延びていった。ショヤタインはコウジとともに大館を攻撃し、相原季胤、村上正儀の両名は討死し大館陥落した。1515年、ショヤタインとコウジ兄弟は再び蜂起したが、蠣崎光広は偽りの和議を結び彼らを徳山館に誘い出し酒宴を設けて彼らを酔わせた後、謀殺した。

隋良【ずいりょう(15??~15??)】

蠣崎季広の四男。蠣崎家の菩提寺を法源寺から法憧寺に移したため、法源寺との関係悪化を懸念した蠣崎季広が出家した随良を法源寺に送り込んだ。晩年、随良は法源寺の住職となり、僧侶として生涯を過ごした。

杉山左内【すぎやまさない(15??~15??)】

松前公広家臣。室は蠣崎定広の娘。1618年、松前利広と結託して藩を乗っ取ろうとしたが、杉山左内と仲の悪かった、杉山平内が松前公広に密告したため失敗に終った。

杉山平内【すぎやまへいない(15??~15??)】

松前公広家臣。1618年、松前利広と杉山左内が結託して松前公広の謀殺を図ったが、杉山左内と犬猿の仲だった杉山平内が松前公広に密告したため失敗に終った

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【た】

建部七郎右衛門【たけべしちろうえもん(1615~1691)】

蝦夷地交易を担った近江商人。近江国柳川に住んで行商し、敦賀湊から松前湊にまで活動を広げ、田付新助とともに両浜組を組織し、松前湊に漁場を開いた。

タリコナ【たりこな(15??~1536)】

蝦夷地西部の酋長。室はタナサカシの娘。1529年、蠣崎義広によって謀殺されたタナサカシの娘婿。タリコナは室に蠣崎義広への復讐戦へ立ちあがるよう度々すすめられた。1536年、蜂起したが蠣崎義広に偽りの和議の酒宴の席で夫婦ともども謀殺された。この復讐戦の真の主役はタリコナの室(タナサカシの娘)でありタリコナやタナサカシのように広域的な地域の長につながる女性の政治的、社会的地位を裏付ける戦いであった。

タナサカシ【たなさかし(15??~1529)】

蝦夷地西部の酋長。多那嶮。1525年、セタナイ(瀬棚)を本拠とするアイヌ衆の圧力が蠣崎義広に対し強まった。1529年、蠣崎義広はタナサカシの南下に対抗し工藤祐兼、工藤祐致兄弟に命じてタナサカシの本拠を攻撃したが失敗し工藤祐兼が討死した。一方タナサカシは長駆して上ノ国勝山館を攻撃し蠣崎義広を包囲した。蠣崎義広はタナサカシに和議を申し入れ、賠償品の宝器を受け取ろうとしたタナサカシを勝山館で謀殺した。

チコモタイン【ちこもたいん(15??~15??)】

蝦夷地東部(志利宇知)の酋長。知古茂多院。東蝦夷奉行。コシャマインの戦以来100年間続いたアイヌ衆と和人との戦いに終止符を打った。1550年、講和体制の東部側の酋長。蠣崎季広は和人地と蝦夷地の境界を東部は知内以西を蠣崎季広の勢力範囲とし、和人商人の唯一の統制者としてアイヌ衆に認めさせチコモタインを「東夷の尹」に位置づけた。蠣崎季広は講和の印として「夷狄商船往還法度」を作り、彼の持ち場である知内沖を通過する商船に帆を降ろさせてチコモタインに敬意を払わせた。蠣崎季広から扶持米を与えられたがこの扶持米は諸国から来る商人に負担させた。

富田広定【とみたひろさだ(15??~15??)】

蠣崎家臣。官途は豊後守。1548年、若狭国の武田信豊に使者として派遣された。武田信豊とよしみを結ぶ事に成功した。外交能力に長けていた。

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【な】

長門広益【ながとひろます(15??~15??)】

蠣崎基広家臣。通称藤六。岩亀館主小山隆政の弟武田信広とともに小山隆政を討取った麓廣政の子孫。1548年、蠣崎基広の謀反を起こした際、蠣崎基広を討取って頸を持ち帰った。

南条広継【なんじょうひとつぐ(1529~1562)】

勝山館主。南条光継の男。蠣崎基広家臣。官途は越中守。室は蠣崎季広の娘(長女)。1548年、蠣崎基広と蠣崎季広の家督争いによって空白となった上ノ国館主に任じられた。しかしこの騒動は南条広継の室となっていた蠣崎季広の娘の企てであった。さらに蠣崎舜広、蠣崎元広の謀殺にも関わったとれ、南条広継の室は謀殺された。

南条宗継【なんじょうむねつぐ(15??~15??)】

南条広継の男。通称五郎。

新井田義成【にいだほしなり(15??~15??)】

蠣崎基広家臣。通称民部。室は村上広任の娘。

新井田広貞【にいだひとさだ(15??~15??)】

新井田義成の男。通称右京之進。室は蠣崎季広の娘(十三女)。文禄年間に新井田と改む新井田三家の祖。

ニシラケアイヌ【にしらけあいぬ(15??~15??)】

メナシの酋長。数十艘を率いて虎皮など数十枚を蠣崎慶広に贈った。蠣崎慶広は特に大きいと評判の獣皮を松平元康に献上した。
 
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【は】

ハウカセ【(はうかせ15??~15??)】

蝦夷地の五大勢力のひとつの酋長。石狩川流域を本拠地とし、その政治的勢力範囲は南はオタルナイ(小樽)、北はマシケ(増毛)にまでおよんでいた。1669年、「シャクシャインの蜂起」では、武装中立を堅持したが蠣崎季広が推し進める商場知行制には反対した。近江八幡出身の金太夫という娘婿に本土から鉄砲50挺を購入させた。

ハシタイン【はしたいん(15??~15??)】

蝦夷地西部(瀬田内)のアイヌ酋長。波志多院。1456年、「コシャマインの蜂起」以来100年以上続いたアイヌ衆と和人の戦いを蠣崎季広と講和を結ぶことにより終止符を打った。1550年、講和体制の西部側の酋長代表者。蠣崎季広は和人地と蝦夷地の境界を西部は天ノ河以南を蠣崎季広の勢力範囲として,また蠣崎季広を和人商人の唯一の統制者としてアイヌ衆に認めさせようとハシタインを「西夷の尹」に位置づけた。蠣崎季広は講和の印として「夷狄商船往還法度」を作り、瀬田内沖を通過する商船に対し、チコモタインに敬意を払わせた。蠣崎季広は、ハシタインを西蝦夷奉行として扶持米を与えた。この扶持は「夷役」と呼ばれた。これにより蠣崎季広はアイヌとの交易による利益を独占することに成功した。

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【ま】

三関為久【みせきためひさ(14??~15??)】

相原季胤家臣。通称孫三郎。松前守護の相原季胤の家臣であったが相原季胤の討死により蠣崎義広に仕えた。

三関広久【みせきひろひさ(15??~15??)】

三関為久の男。官途は右近。室は蠣崎正広の娘。蠣崎季広に仕えた。1587年、蠣崎慶広の嫡男蠣崎盛広とともに徳山湊より商船に乗って敦賀湊に向かうが、河北郡戸賀沖で暴風に遭い、七昼夜洋上を漂った後にようやく敦賀湊に到着することができた。京都で羽柴秀吉に謁見後、熊野参詣に随行した。

三関季時【みせきすえとき(15??~16??)】

小平季遠の次男(三関広久の養子)。官途は内匠。

村上政儀【むらかみまさよし(15??~1513)】

下国恒季家臣。小館主。官途は三河守。信濃国を追われ、羽後国の枝連衆を頼って落延びる途中、暴風で蝦夷地上之国泊に漂着した。相原政胤とともに下国恒季に仕えた。1496年、下国恒季が討死した後、相原季胤が大館主になったためそれに仕えた。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」では、アイヌ衆の攻撃を受け大館、小館が落城し討死した。

村上季儀【むらかみすえよし(14??~15??)】

村上政儀の男。官途は三河守。1513年、大館陥落、父村上政儀の討死後に蠣崎慶広に養われ、娘が蠣崎慶広の室となったことにより蠣崎家の重臣となった。

村上直儀【むらかみなおよし(15??~16??)】

松前公広の四男(村上季儀の養子)。官途は三河守。室は蠣崎季広の娘。兄村上忠儀は庶子で別家していたため、村上家の家督を相続した。村上直儀の跡目には嗣子なく、松前家より松前広諶が養子となり、村上広諶と称した。

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【や】

休之【やすゆき(15??~15??)】

松前慶広の六男。専念寺の住職を務めて、権僧都になった。

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【資料Ⅰ】

蝦夷国(渡島国八郡/30,000石)

爾志郡:江刺館。
檜山郡:勝山城、比石館、花沢館。
津軽郡:原口館、禰保田館、大館、覃部館
福島郡:脇本館、穏内館
上磯郡:志苔館、茂別館、中野館。
茅部郡:砂原館。
亀田郡:宇須岸館(箱館)。
奥尻郡:奥尻砦。

※実際には蝦夷国は稲作に適さないため30,000石格。

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【資料Ⅱ】

道南十二館【どうなんじゅうにたて】

蝦夷地(後の渡島国)渡島半島にあった渡党領主の館の総称。東は志苔館から西の上ノ国町の花沢館まで渡島半島南端の海岸線に分布する。安東氏の被官である館主はこれらの館をアイヌ民族や和人商人との交易や領域支配の重要拠点とした。

志苔館主:小林太郎左衛門尉良景、箱館主:河野加賀右衛門尉政通、茂別館主:下国(安東)式部大輔家政、中野館主:佐藤三郎左衛門尉季則、脇本館主:南条治部少輔季継、穏内館主:蒋土甲斐守季直、覃部館主:今泉刑部少輔季友、大館主:下国山城守定季、禰保田館主:近藤四郎右衛門尉季常、原口館主:岡部六郎右衛門尉季澄、比石館主:厚谷左近将監重政、花沢館主:蠣崎修理大夫季繁。

蝦夷国三守護職【えぞこくさんしゅごしょく】

安東政季は、茂別館主:安東家政(下国守護)、大館主:下国定季(松前守護)、花沢館主:蠣崎季繁(上国守護)の三名を「守護」に任じ、他の館主を統率させた。

アイヌ衆【あいぬしゅう】

蝦夷国では、粟、稗、黍などの雑穀が小規模ながら栽培されていたがアイヌ文化の成立とともに、農耕は縮小する傾向にあった。これは寒冷な気候ゆえに耕作を諦めたというより、本州との交易用の毛皮や干魚を確保するため、狩猟や漁労を重視した結果農作は縮小した。農耕民族の和人と狩猟採集民族のアイヌ衆は、それぞれの生活様式によって確保した生産物を交易で交換した。アイヌ衆は魚や毛皮を輸出品目とし、和人の生産する道具(鉄器や漆器)や嗜好品(米、茶、酒)と交換した。樺太アイヌは北方のツングース系などの諸民族とも交流があり、それを介して大陸の中華王朝とも関係を持った。1264年、樺太に侵入したアイヌとニヴフとの間に紛争が勃発した。この戦いにはモンゴル帝国軍が介入し、アイヌからの朝貢を取り付けた。その後もアイヌは大陸との交易を続けていた。この交易は山丹交易と呼ばれ、アイヌが交易によって清朝などから入手した絹織物や官服が「蝦夷錦」と呼ばれて日本国内にも流通した。

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【資料Ⅲ】

蝦夷国【えぞのくに】

日本列島の北端に位置するアイヌ衆の居住地。日本の内地とは津軽海峡越しに津軽方面と海路で結ばれ、北方では千島列島や、樺太など北方民族の居住地と交易げ盛んであり、文化的には北方文化圏と称された。こうした立地条件から、蝦夷地に進出している豪族間の勢力争いはあるものの、内地の戦国大名らの領地争いとは無関係な状態が続いた。また蝦夷地の豪族衆の勢力圏も南部の渡島国に限定されている。国土は広範囲にわたるが、未開発の地域がほとんどで、農業、商業、工業、林業といった産業も未発達であった。主要な戦略物資(食料、衣類、武器等)は本土からの交易で得る必要があった。交易品は、鮭、鰊、昆布が蝦夷三品と呼ばれ重要な産物となっていた。また野生の毛皮、矢羽根の原料となる鷹の羽なども産物となっている。産物のほとんどが、アイヌ衆が収穫したものを和人が交易によって手に入れていたが、交易条件をめぐってアイヌ衆と和人の間で争いが継続的に起った。

松前湊【まつまえみなと】

海峡を隔てて本州の津軽半島と最短距離にある松前半島先端部に位置し、中世、蝦夷地和人拠点の中心的地位にあった湊街。1456年、蝦夷から羽後国小鹿島に渡った安藤政季は道南の勢力圏を三つに編成し、その一つである「松前守護」に大館館主下国定季を配した。1525年、和人集落は上ノ国と松前城周辺を残すのみとなった。1514年、道南の有力者として台頭していた蠣崎義広が本拠を上ノ国から松前大館に移しており、松前は大幅に縮小した道南和人勢力圏の中心都市となった。『新羅之記録』によると、蠣崎義広は「松前守護」の地位の承認を得るため、諸国から松前に来航する「商船旅人」より「年棒」を徴収し、その「過半」を安東舜季へ進上することを約束した。1551年、アイヌ衆との和議が成ると、諸国から来航する商船から年棒を徴収し、これを「夷役」として「西夷」と「東夷」の両酋長に配分することや、アイヌの商船の往還する際の方式など、アイヌ衆と和人との交易方法も定められた。東西各地から来航する蝦夷人らは松前に鮭や鰊、白鳥、猟虎皮、鷹、上質の絹布などをもたらし、本土からもたらされる米や酒、小袖、木綿などと交換していた。アイヌ衆は秋田湊などにも来航していた。

宇須岸湊【うすけしみなと】

函館の旧名。渡島半島東部の物資の積出港の役割を担っていた湊街。宇須岸を交易湊とする現在の函館市地域は、居住環境もよく、蝦夷国における和人居住区の経済的中心地として繁栄した。宇須岸の全盛期には小浜湊、敦賀湊に代表される若狭国からの商船が定期的に来航し、海岸には問屋が軒を連ねていたのである。また随岸寺の開山嘉峯和尚も同じく商船に乗って来航したとしていることから、商人とともに宗教勢力が扶植されていた。

与市湊【よいちみなと】

蝦夷国の積丹半島の東の付け根、余市川河口部に形成され、蝦夷地に進出した和人の最前線を担った湊街。与市湊は陸奥国の十三湊を中心として北方交易の最北端であり、アイヌとの交易の最前線に位置する湊であった。

厚岸湊【あっけしみなと】

東蝦夷地の天然の良湊。厚岸湾の奥に位置し、松前方面と、千島列島方面とを結ぶ交通の要衝を担ったアイヌの集落。

泊湊【たまりみなと】

千島列島最南の国後島の南端に位置する天然の良湊。蝦夷国と国後島は根室海峡を隔てて向かいあう位置にあり、古くからアイヌの寄湊地、交易地であった。

奥尻島【おくしりとう】

蝦夷国奥尻郡奥尻島。南西部の日本海上に浮かぶ島。

函館八幡宮【はこだてはちまんぐう】

亀田郡函館。1445年、亀田郡の領主であった河野政通が函館に城を築く際、城の鎮守として城域東南隅に八幡神を勧請した。1512年、河野家はアイヌに攻められて城を追われ、一族は八幡神を奉じて亀田郡赤川村に逃れた。1649年、河野家一族の巫女伊知女が霊告を受けて元町の河野館跡地に八幡宮を遷した。

松前専念寺【まつまえせんねんじ】

大谷派僧侶真徳が松前専念寺を草創した。以後専念寺は松前藩と何度も婚姻関係を結び、蝦夷地の仏教界で大きな力を持った。

蝦夷浄願寺【えぞじょうがん じ】

戦国期、蝦夷地、北奥地域への教線拡大を進めた本願寺教団の最有力中継ぎ本山として布教の中心を担った寺院。1471年、蓮如の意向を受けて奥羽に派遣された弘賢により蝦夷地松前に浄願寺が建立された。1514年「大谷本願寺親鸞聖人御影」が「蝦夷浄願寺」に下された。蝦夷浄願寺はアイヌの蜂起が深刻化すると「秋田土崎湊」に移転するが、以後も「蝦夷浄願寺」を称しつつ、三代目了専のときに桧山浄明寺をはじめ弘前、浪岡、鯵ヶ沢に新寺を建て、四代了乗のときに塩越浄専寺、大曲安養寺を、五代了賢のときにも能代、船越、角館をはじめ、湯沢や酒田などにも新寺を次々に起立した。蝦夷浄願寺は蝦夷国、北奥地域における本願寺教団布教活動の中核的役割を担っていた。

山丹交易【さんたんこうえき】

山丹人(ウィルタ族、ニブヒ族、オロチョン族など沿海州の民族)と、アイヌ衆との間で、主として樺太を中継地として行われた交易。広義には清朝が黒竜江下流域に設けた役所との朝貢交易から、山丹人、さらにアイヌ衆を介して蝦夷地の松前藩にもたらされた交易。山丹人は、清朝に貂皮を上納する代わりに下賜された官服や布地、鷲の羽、青玉などを持参して樺太に来航し、アイヌ衆は猟で得た毛皮や、和人よりもたらされた鉄製品、米、酒等を、山丹人が持ち込んだ品と交換した。また、アイヌ衆の中には山丹交易をするばかりではなく、清朝に朝貢していたものもいた。

蝦夷鮭【えぞさけ】

蝦夷地でアイヌ衆によって採られ、乾燥加工されたとみられる鮭。「蝦夷鮭」は、南北朝期成立の『庭訓往来』が紹介する各地の特産品の中の一つで「宇賀昆布」とともに蝦夷地を代表する産物。1306年、越前国三国の預所代、刀禰が佐機良泊へ停泊した「関東御免津軽船二十艘之内随一」の大船から「漂倒船」の名目で、その積荷を押領する事件が起き、押領された積荷には鮭が含まれていた。「津軽船」の積荷であることから、この蝦夷鮭とみられ、既に鎌倉期には日本海を運航する廻船によって北陸、畿内方面にもたらされていた。 1618年、蝦夷の松前領に潜入したキリスト教宣教師アンジェリスの報告によれば、毎年東部のほうにあるミナシの国から松前へ百艘の船が、乾燥した蝦夷鮭や蝦夷鰊、猟虎皮をもってきた。く中世においては蝦夷鮭、蝦夷昆布、蝦夷鰊など北海の産物は、アイヌ衆によって宇須岸湊や松前湊といった蝦夷地の和人拠点、十三湊など津軽地方の湊にもたらされ、そこから全国に流通した。

猟虎皮【らっこかわ】

ウルップ島など千島列島が点在するオホーツク海域で捕れたと思われる猟虎の毛皮。1423年、足利義量の将軍職就任祝賀として安東康季が昆布五百把、鷲目銭二万匹(疋)とともに猟虎皮二十枚を贈った。安東康季は十三湊を中心に蝦夷との北方交易で繁栄していた。1593年、蠣崎慶広は羽柴秀吉に猟虎皮三枚を献上した。1618年、蝦夷国東部にあるミナシの国から松前へ、百艘の船が鮭や鰊とともに多量の猟虎皮を運び高価な価格で取引された。1620年、北東方から六十三日間の航海を経て来航した蝦夷人が「ウルップ島」でとれた猟虎皮を生きた鷹や鶴、鷲の羽とともに松前家に献じた。

鷲の羽【わしのはね】

アイヌ衆の人々によってもたらされ、矢を飾る羽などに用いられた鷲の羽。鷲の羽は、近世の山丹交易の交易品として蝦夷錦などとともにみえており、中世、蝦夷地で入手された鷲の羽の中にも大陸からの伝来品もあった。1558年、八幡大菩薩の文字のある鷲の羽が、「奥蝦夷之国(樺太)」から蠣崎季広のところにもたらされた。1620年、松前領に潜入した宣教師カルワーリヤの報告によれば、北東方から松前に来る蝦夷人はラッコ皮や生きた鷹、鶴とともに日本人が箭に付けて飾る鷲の羽をもたらすとしており、中世においても鷲の羽などの商品がアイヌ衆の交易活動により、松前などの蝦夷地の和人拠点にもたらされていた。

蝦夷錦【えぞにしき】

中国東北部(黒竜江下流域、沿海州)から樺太を経由して蝦夷地にもたらされた中国製の絹織物の総称。近世の山丹交易(前述地域間の交易)において最も珍重された商品のひとつ。アイヌ衆が沿海州の民族との交易で入手した、雲竜などを織り出した中国産絹や清朝官服のことである。かつて、アイヌは北方のツングース系民族とも交流があり、彼らと山丹交易と呼ばれる交易を行っていた。ツングース系民族は大陸の中華王朝と交流があったため、中華王朝の物産がツングース民族を介してアイヌ衆に伝わった。アイヌ衆は松前藩の半支配下に置かれ、不平等な交易をさせられた。その交易の中で、中華王朝の清からツングース民族を介してアイヌ衆にもたらされた満州風の錦の衣服が蝦夷地にもたらされた。

蝦夷金【えぞきん】

蝦夷地で採掘された金。1608年、松平元康は佐渡奉行大久保長安に命じて金山を調査する「鉱山師」を松前に派遣したが松平元康の蝦夷地への介入を拒む松前慶広によって、金山開発は拒否された。1616年、松前公広が跡を継ぐと、知内川流域を中心に金山開発に着手した。1620年、松平秀忠に金百両を献上して金山の権利を得た。さらに移住規制を緩和して採掘者を募ったため、一攫千金を狙う和人が松前に押し寄せた。このゴールドラッシュともいえる和人の金山開発、および自然破壊が後の「シャクシャインの蜂起」につながった。

夷狄の商舶往還の法度【いてきのしょうはくおうかんのはっと】

「日の本蝦夷」と称され、半島東部シリウチ(上磯郡)一帯に居住するアイヌの酋長チコモタインと、「唐子蝦夷」と称された半島西部セタナイ(久遠郡)一帯に居住するアイヌの酋長ハシタインが、安東舜季が仲介に立ち、松前大館主蠣崎季広と結んだ和議。この和議によって、他国の商人との交易において蠣崎季広が徴収した関銭の一部をチコモタインとハシタインに支払うこと、シリウチから天河までの地域より北東を蝦夷地とし和人の出入りを制限すること、渡島半島南西部の松前と天河は和人地としアイヌの出入りを自由とすること、シリウチの沖または天河の沖を船が通過する際は帆を下げて一礼することが定められた。

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戦国人名辞典は1527~1637年の期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城か郡の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

※徳川家康は松平元康、豊臣秀吉は羽柴秀吉に統一しました。

※参考文献:「津軽秋田安東一族」新人物往来社、「東北大名の研究(戦国大名論集2)」吉川弘文館、「会津芦名一族」歴史春秋社、「最上義光(戦国の驍将)」新人物往来社、「奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)」宝文堂、「会津芦名四代」歴史春秋、「伊達政宗(全8巻)」講談社、「天を衝く(全3巻)」講談社文庫、「独眼竜伊達政宗」時代小説文庫、「津軽風雲録」時代小説文庫、「政宗に睨まれた二人の老将」宝文堂、「秋田『安東氏』研究ノート」無明舎、「(史伝)伊達政宗」学研M文庫、「独眼竜政宗」講談社文庫、「奥羽永慶軍記(全2巻)」新人物往来社、「津軽南部の抗争(南部信直)」、「秋田の中世浅利氏」無明舎出版、「独眼龍政宗」文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、「陸奥南部一族」新人物往来社、「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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