2011年2月18日金曜日

戦国南常陸国人名辞典

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【あ】

麻生常安【あそうつねやす(15??~1584)】

行方郡麻生城主。南方三十三館衆。麻生家は大掾家の庶流行方家の一族で、行方景幹の三男家幹三郎が行方郡麻生郷に住んで麻生家を称した。戦国時代に入り、大掾家の統制力が弱くなってくると、行方、島崎、麻生、玉造の「行方四頭」は勢力を伸ばすため、互いに争うようになってきました。 1584年、麻生常安は東に領地を接する島崎義幹と敵対した。麻生城は落城し、江戸崎城主土岐原治綱を頼って落ち延び再起を図った。

飯塚重政【いいずかしげまさ(15??~15??)】

行方郡飯塚城。大掾清幹家臣。通称多左衛門。南方三十三館衆。1591年、佐竹義宣に謀殺された。

石神幹安【いしがみみきやす(15??~15??)】

玉造家臣。玉造憲幹の次男。

打越光隆【うちこしみつたか(15??~15??)】

新宮城主。常陸武田家臣。

海老原俊之【えびはらとしゆき(15??~1546)】

真壁郡海老ヶ島城主。海老原俊朝の男。大掾家臣。1546年、海老原俊之の守る海老ヶ島城は小田家と結んだ宍戸通綱の攻撃を受け落城した。これにより、海老原俊之は討死した。

岡田貞政【おかださだまさ(15??~15??)】

鳥名木城主。大掾清幹家臣。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

岡見頼忠【おかみよりただ(15??~1586)】

筑波郡谷田部城主。小田家臣。隣郷の下総下妻城主多賀谷政経とは連年抗争した。1570年、多賀谷政経は、父岡見頼忠の谷田部城を攻略した。多賀谷政経は谷田部城に弟の多賀谷淡路守政伯(経伯とも)に守らせて、小田家への押さえとした。1580年、北条氏照、北条氏邦を大将として牛久城の岡見治部少輔、足高城の岡見中務少輔、岩崎城の只越尾張守、板橋城の月岡玄蕃允らの兵3,000余で谷田部城奪還に向かい、多賀谷淡路守は討ち死にし谷田部城は落城、奪還された。しかしそこに多賀谷政経の後詰が到着、淡路守の死を知った多賀谷政経らは谷田部城を急襲し、再び谷田部城は多賀谷家の手に渡った。1586年、多賀谷政経の嫡男多賀谷重経に再び攻められ岡見頼忠は討死した。

岡見宗治【おかみむねはる(15??~1587)】

筑波郡足高城主。岡見頼忠の男。官途は中務大輔。1586年、多賀谷重経は足高城下に侵攻し、まず小張城を陥とし、続いて足高城三ノ丸に攻め寄せた。岡見宗治は牛久城、守谷城、布川城、小金城などに危急を知らせ援軍を要請したが、多賀谷勢は岡見軍の後詰が来る前に撤退した。1587年、多賀谷重経は足高城と牛久城の中間に泊崎城を築いて両城を分断、続いて足高城、板橋城、岩崎城を攻撃した。板橋城は開城し城主の月岡玄蕃は人質として多賀谷領に送られ、岩崎城主の只越尾張守は城兵の助命を条件に切腹した。支城網を陥とした多賀谷重経は足高城を総攻撃、鬼怒川の堰を切って足高城周辺を水浸しにして援軍を遮断しようとしたが、高井城、守谷城などの援軍が多賀谷勢の背後に回り、多賀谷勢は多賀谷信濃守為宗、窪谷能登守ら20名が討ち取られ、谷田部城に敗走した。岡見宗治の義父岡見伝喜は多賀谷に謀られ和睦を主張、岡見宗治は諌めたが伝喜は聞き入れず、城内は混乱した。この混乱に付け入って多賀谷勢が城内に乱入、岡見宗治は牛久城に逃れ、足高城は落城した。

岡見治家【おかみはるいえ(15??~1587)】

岡見頼忠の次男。隣接する下妻城主多賀谷重経と抗争し、1587年、多賀谷重経の攻撃を受けて牛久城は落城、岡見治家も討死した。

小田政治【おだまさはる(1492~1548)】

筑波郡小田城主。足利政知の男。小田成治の養子。継嗣を失った小田成治に入嗣した。官途は左近衛中将。小田家は関東八屋形の一つである名家。古河公方と初め対立するものち和睦し、佐竹義篤とは旧交を復すなど外交政策に尽力。1531年、南進する江戸家と「石岡鹿子原の戦い」で敗走せしめた。1537年、下総結城政勝に対抗するため多賀谷家と結ぼうとして失敗。1546年「河越城の戦い」で足利晴氏方につくが、結局北条家に敗れ去った。

小田氏治【おだうじはる(1534~1601)】

小田政治の男。通称小田天庵。小田政治の死後、家督を相続した。1555年、関東に出兵した長尾景虎に呼応して結城城の結城政勝を攻めるが攻めきれず。その翌年こんどは北条家と結んだ結城政勝、壬生、佐野、茂呂、小山、真壁、多賀谷、水谷、山川連合軍は、元海老名俊之の家臣平塚長信の海老ヶ島城を攻めた。小田、平塚家は連合軍との「山王堂の戦い」に敗れ、小田城も落城した。1557年、海老ヶ島城を多賀谷政経、佐竹義昭連合軍の攻められ、土浦城に敗走。1558年、多賀谷政経、佐竹義昭に大敗した。1562年、小田政治は北条氏康と同盟を結び、1563年、大掾貞国と戦い、1564年、越後長尾景虎、宇都宮家、佐竹家の連合軍と「第二次山王堂の戦い」に敗れた。1569年、手這坂で太田資正、梶原政景、真壁氏幹の軍と合戦を行い大敗。再び小田城を失った。小田城には太田資正が在城した。1573年、藤沢城が落城、由良憲綱、戸崎長俊を失った。1579年、木田余城に移り、佐竹家と和睦。「小田原の役」では北条家につき失領した。

小田守治【おだもりはる(1557~1610)】

小田氏治の男。通称彦太郎。母は江戸忠通の女。北条家との同盟により佐竹家らに抗した。1589年「小田原の役」により所領は没収。その後妹を頼って越前の結城秀康に仕えた。

小鷹(行方)治部少輔【おだかじぶしょうゆ(15??~15??)】

行方郡小高城主。大掾清幹家臣。南方三十三館衆。1591年佐竹義宣に謀殺される。

小幡又兵衛【おばたまたべい(15??~15??)】

南方三十三館衆。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

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【か】

鹿島義幹【かしまよしもと(15??~15??)】

鹿島郡鹿島城主。鹿島神宮大行事職。通称左衛門太夫。1512年、兄鹿島景幹が下総国で討死したため、鹿島家の家督を相続した。幼少のため家臣に人望がないうえに、新規に召し抱えた浪人玉造常陸介(塚原卜伝の門人)が専横を振い重税を課したため領民の恨みをかう。家臣らが合議して不平を四宿老に訴えたの。これを容れた四宿老は江戸家、大掾家、島崎家らと結んで鹿島義幹を廃して鹿島城から放逐した。1524年、鹿島義幹は下総国東庄城に拠って鹿島城奪還の兵を起こした。兵700余りで鹿島城に攻め入ったが、鹿島城からも軍勢を繰り出して両軍激戦となった。松本政信は、その前後の戦いに槍を合わすこと23度、高名の首125、並の首76を取るという人間離れをした奮戦をした。この戦いに塚原卜伝も従軍していて、槍合わせ9度、高名の首21、並の首七つを取ったという。しかし、松本備前守は、この「高天ケ原の戦い」で討死した。

鹿島通幹【かしまみちもと(15??~15??)】

鹿島景幹の娘に、大掾高幹の弟をめあわせて鹿島通幹と称して、鹿島家の家督を相続した。

鹿島治時【かしまうじとき(15??~1591)】

鹿島治時は佐竹家に従い、鹿島城を回復、鹿島家中興の祖となった。1565年、鹿島治時は土浦を領したが、武田通信と烟田忠幹の所領である三ヶ村を取り合い、鹿島治時の不手際で烟田忠幹は三ヶ村を失った。烟田忠幹は鹿島家の庶族であり、戦国時代に至っても鹿島家に従属して、その保護を受ける存在であった。鹿島治時は配下の領主である烟田忠幹の危機を救ってやるべき立場でありながら、烟田忠幹に所領を失わせる結果をもたらした。これをきっかけとして烟田忠幹は鹿島家から自立する動きを見せるようになった鹿島治時は烟田忠幹の所領を二分する位置にある鉾田城を構え、三男鹿島義清を配して烟田忠幹を牽制した。

鹿島氏幹【かしまきよふさ(15??~15??)】

鹿島治時の次男。鹿島治時が死去して、鹿島家は再び内紛を引き起こし、その勢力をいよいよ衰退させていくことになる。1569年、下総国千葉家の支援を受けた次男鹿島氏幹と、江戸家の支援を受けた三男鹿島義清との対立が起こった。まず鹿島氏幹が千葉家の支援を受けて兵を上げ攻勢に立ったが、鹿島義清方も反撃に立った。鹿島氏幹が家中の島前某に謀殺され内紛は収まった。

鹿島義清【かしまよしきよ(15??~15??)】

鹿島治時の三男。1579年、津賀城主津賀大吹介が鹿島宮中で暗殺の企みがあるという噂を聞き、江戸家を頼って遁走したことから第二の内紛が始まる。この内紛により鹿島義清は謀殺された。

鹿島貞信【かしまさだのぶ(15??~15??)】

鹿島治時の四男。江戸重通は、内紛により弱体化した鹿島貞信、鹿島清秀兄弟を鹿島城に攻め、下総国矢作城に追った。1582年、鹿島通晴が江戸家の支援を受けて、惣大行事職となり鹿島家当主となった。1584年、佐竹義重と北条氏直の下野沼尻の対陣に際して、鹿島家は佐竹家として兵200余を率いて参陣した。1586年、後北条家の他国衆で矢作城主国分家の支援を受けた鹿島貞信、鹿島清秀兄弟の反撃。鹿島通晴を倒して鹿島に入り、月鹿島貞信が鹿島家当主となった。江戸家は烟田を攻め、額賀上野守、石崎近江守を調略し、二人をして鉾田城将であった田山市正を襲撃、謀殺させ鉾田城を奪った。対して、鹿島貞信は鉾田城を攻めた。額賀上野守が退散し石崎近江守が鹿島方に寝返った。 1590年「小田原の役」後、佐竹義宣は羽柴秀吉から常陸国本領の安堵を受けた。佐竹義宣は秀吉から公認された常陸支配を実質化するため「小田原の役」に参陣しなかった常陸南方三十三衆の粛清を図った。水戸城主江戸重通を攻撃し結城に追い落とした。大掾家を攻め滅ぼした。そして、平姓大掾家一族が割拠する常南地方の制圧に乗り出したのである。1591年、佐竹義宣は鹿島鹿島城主清秀をはじめとして、烟田、玉造、行方、手賀、島崎らの諸家を太田鶴来城の梅見に誘い謀殺した。鹿島城では、鹿島清秀の室と三家老たちが迎撃を行った。佐竹家は町田備中守を大将とした討伐勢によって鹿島城は落城し鹿島家嫡流は滅亡した。

鹿島家臣団【かしまけかしんだん】

鹿島清秀、塚原高幹、中居秀幹、林時国、立原、沼尾、安房、烟田秦幹、石神、小鹿野幹匠。

烟田秦幹【かまたやすもと(15??~15??)】

鹿島郡烟田城主。鹿島家臣。南方三十三館衆。

烟田忠幹【かまたただもと(15??~15??)】

烟田秦幹の男。1569年、鹿島治時と戦った。

烟田通幹【かまたみちもと(15??~1591)】

烟田忠幹の男。1584年、佐竹義重が下野国に出陣した際、50騎を率いて参陣した。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

神生通朝【かのうみもちとも(1549~1588)】

大部城(神生館)主。江戸家臣。官途は遠江守。1587年「神生の乱」は、神生通朝が、江戸家枝連衆の江戸通澄と徳政令を巡って争いを起こしたのが発端である。神生通朝は小野崎家を頼ったため、江戸家と小野崎、神生、額田、宍戸などとの争いに発展した。1588年、佐竹家が江戸家を支持して参戦、小野崎家側には佐竹家と対立する陸奥の伊達家が支援した。結局、伊達家は派兵できず、江戸、佐竹連合軍が実質勝利を収め、和睦が成立したが主家によって滅ぼされた。

栗林義長【くりばやしよしなが(15??~1587)】

岡見家臣。京の都で柳水軒白雲斎から兵法を学び、常陸国に戻り、牛久の城主岡見家の武将栗林左京亮に仕えた。栗林義長はその後栗林左京亮と養子縁組し栗林義長と称した。1583年、栗林義長は北条氏尭によって総大将を命じられる。栗林義長は、小貝川での多賀谷水軍との戦いで火計を持ちいて大勝利を収める。下総国で勢力を持っていた千葉頼胤との戦いでは、佐竹家と共謀し北条方の小田家、岡見家を挟撃しようとしたが、栗林義長はそれを見抜き、先制攻撃をかけ各個に撃破して勝利を収めた。佐竹勢に竜ヶ崎城を落とされ、江戸崎城も攻められた土岐伊予守は栗林義長に援軍を求める。それに答えて直ちに軍を進め竜ヶ崎城を奪い返し江戸崎城を救った。1587年、栗林義長が病で没すると主家の岡見家も滅亡した。

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【さ】

坂隼人【さかはやと(15??~1589)】

島崎家臣。1589年、小高城の戦いで討死した。

坂源三郎【さかげんざぶろう(15??~1589)】

島崎家臣。坂隼人の弟。1589年、小高城の戦いで討死した。

桜井大隈守【さくらいおおすみのかみ(15??~15??)】

真壁氏幹家臣。「小説真壁氏幹鬼の義」By高妻秀樹。

信太掃部助【しだかもんのすけ(15??~1564)】

小田家臣。1564年、越後長尾・宇都宮・佐竹の連合軍と「山王堂の戦い」で敗北した小田氏治は土浦城へ撤退。掃部助らは小田城に残って連合軍と激闘したが落城、自刃した。

信太範宗【しだのりむね(15??~1554)】

常陸木田余城主。小田家臣。官途は伊勢守。小田氏治に仕えたがのち不和となった。1554年、菅谷政貞により土浦城で謀殺された。

島崎利幹【しまざきとしもと(15??~15??)】

行方郡島崎城主。島崎忠幹の男。南方三十三館衆。1525年、島崎利幹は鹿島家の内訌に乗じて鹿島家を攻め、鹿島郡をほぼ領有する。1542年、玉造郡に玉造宗幹を攻め、行方郡をもほぼ制圧した。古河公方足利晴氏に対抗して佐竹家と結んだ。

島崎氏幹【しまざきうじもと(15??~15??)】

島崎利幹の男。1570年、島崎氏幹は、烟田家を攻めた。1581年、江戸重通とともに鹿島家を攻めた。

島崎儀幹【しまざきよししげ(15??~1591)】

島崎氏幹の男。島崎儀幹は、1583年、麻生城を攻略し、里見義弘の弟井関(里見)義政と改めて城主とした。1589年、小高城を攻めて坂家兄弟を討死させている。1591年、島崎儀幹は「小田原の役」に参陣しなかっため、佐竹義宣によって太田城で誘殺された。島崎城は廃城となり島崎家は滅亡した。

島崎定守【しまざきさだもり(15??~15??)】

島崎利幹の次男。

島並幹家【しまなみしげいえ(15??~1591)】

島並城主。島崎家臣。1591年、島崎佐竹義宣によって島崎儀幹だけでなく、島並幹家も滅ぼされた。佐竹家に仕えていた島並幹国(幹家の子)は生き残りました。

島崎家臣団【しまざきけかしんだん】

大平内膳。

白井幹継【しろいみきつぐ(15??~15??)】

玉造憲幹の三男。

菅谷勝貞【すがやかつさだ1493~1575)】 

筑波郡土浦城主。小田家臣。勇猛知将を兼備えた武将。1516年、土浦城を攻略。利根川系の水運を把握した。1519年、上総国小弓御所の足利義明を支援している。1556年、北条氏康は結城政勝に援軍を派遣、海老ヶ島城を攻撃した。小田氏治は「山王堂の戦い」で優勢な敵に敗走。小田城も落城した。1557年、土浦城まで後退していたが小田城を再奪還した。

菅谷政貞【すがやまささだ(1518~1592)】

菅谷勝貞の男。小田氏家臣。官途は摂津守。1558年、本拠小田城を佐竹家のために攻略された小田氏治を助け、小田城奪還に尽力して成功せしむ。1563年、大掾貞国を「三村の戦い」で撃破した。1564年、山王堂において越後長尾、宇都宮、佐竹連合軍と戦い激闘。1583年、主家が北条家と結ぶとこれに従う。

菅谷範政【すがやのりまさ(1558~1612)】

菅谷政貞の男。官途は左衛門大夫。小田氏治が本拠小田城を追われるたびに土浦城に匿って小田城奪還戦に協力した。1589年「小田原の役」では小田家が後北条家に与したため、菅谷範政も土浦城を退去して真壁郡に蟄居。菅谷範政の小田家に対する忠節を賞され、松平元康に召し出された。

菅谷範貞【すがやのりさだ(1580~1618)】

菅谷範政の男。1600年「関ヶ原の役」では秀忠に属して上田城攻めに加わる。1614年「大坂の役」では二条城に詰め、のち伏見城に在番したが、同地において死去。

菅谷政頼【すがやまさより(1527~1559)】

菅谷政貞の養子。娘が菅谷範政の室になっている。太田資正と戦って討死した。

芹沢秀幹【せりざわひでもと(15??~15??)】

古河公方足利晴氏に仕えた。医術に長じ戦傷者の治療を行った。

芹沢定幹【せりざわさだもと(15??~15??)】

北条家と結び佐竹家と対抗した。

芹沢国幹【せりざわくにもと(15??~15??)】

芹沢城主。官途は土佐守。1590年、佐竹家麾下の武将として数々の戦功があった。芹沢国幹は佐竹家に敵として相手にされなかったため面目を失ったと感じ、秋田実季を頼って落延びた。

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【た】

大掾慶幹【だいじょうじ(15??~1551)】

大掾常幹の男。1546年、小田政治、小鷹直幹と長者原の戦い勝利した。小高城も攻略した。水戸地方を拠点とした江戸家は盛んに勢力を南に拡大してきており、これに対して大掾家は小田、真壁、笠間の諸家ととも江戸家と対立した。1546年、小高直幹の誘いにのった小田政治が大掾慶幹を攻撃してきたが、大掾慶幹は長者原において小田家を撃退し、さらに進んで小高城を奪取した。

大掾貞国【だいじょうじさだくに(15??~1577)】

大掾慶幹の男。1531年、小田家と「鹿子原の戦い」を行った。1563年、三村の合戦で小田氏治に敗れ、佐竹家の南進も本格化した。1551年慶幹が没し、大掾貞国が大掾家を継いだ。この頃には大掾、小田、江戸家の三つ巴の対立が激化し、特に小田氏の勢力が強まった。1563年、大掾貞国は三村合戦で小田氏治に破れ、その後佐竹氏と連携し小田氏攻略に備えたが、大掾家と園部家が確執を起こしたとき江戸、佐竹両家が園部(小川)家を支援したため、小田家への守りとして築城した三村城主大掾常春は小田氏に攻められ落城し討死した。1574年、小田家は佐竹方に攻められ土浦城が陥落した。この時、大掾家は東に薗部、北に江戸、佐竹、南に小田に囲まれてしまった。1577年、大掾貞国は討死した。

大掾清幹【だいじょうじ(15??~1591)】

大掾貞国の男。大掾貞国の死後、幼年の大掾清幹が家督を相続した。後北条家の勢力が北関東にも及んでくると、大掾清幹は越後長尾景虎と結び、佐竹家らと協力して反北条活動をとる。しかし、その間も江戸重通は大掾家を攻め続け、当初中立の立場をとっていた佐竹家も江戸重通に協力する。大掾清幹は府中城の詰め城を殆ど落とされ、大掾惣領家の滅亡は時間の問題となった。これに対抗するため大掾清幹は後北条家と結んだ。1590年、羽柴秀吉による「小田原の役」では、大掾清幹をはじめとする大掾家一族は後北条家側に立ち、参陣をしなかった。結果、常陸は参陣をした佐竹義重に与えられた。佐竹義重は江戸城を攻めて江戸重通を追落し、その勢いで府中城も攻め立てた。激戦の末、府中城は落城し、大掾清幹は自刃した。

行方武田信治【たけだのぶはる(15??~15??)】

行方郡木崎城主。行方武田家は甲斐武田家の庶家で常陸国行方郡を領した。

行方武田通信【たけだつうのぶ(15??~15??)】

武田信治の男。

行方武田信房【たけだのぶふさ(15??~1591)】

武田通信の男。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

竹原義国【たけはらよしくに(15??~1591)】

大掾清幹家臣。南方三十三館衆。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

玉造憲幹【たまづくりのりもと(15??~15??)】

行方郡玉造城主。南方三十三館衆。

玉造宗幹【たまづくりむねもと(15??~15??)】

玉造憲幹の男。

玉造重幹【たまづくりしげもと(15??~1591)】

玉造宗幹の男。1590年、玉造重幹は大掾清幹の攻撃を受けるが和睦した。1591年、この和睦を理由として佐竹義宣に呼び出され、他の国人「南方三十三館」と共に謀殺された。玉造城は佐竹家臣大窪兵蔵久元の攻撃を受けて落城した。

田伏次郎大夫【たぶせじろうたいふ(15??~15??)】

田伏城主。小田家臣。小田氏治に仕えて各地を転戦した。1590年、佐竹家の攻撃を受けて没落した。

塚原安幹【つかはらやすもと(15??~15??)】

鹿島郡塚原城主。鹿島家臣。

塚原高幹【つかはらたかもと(1490~1572)】 

吉川覚賢の次男。塚原安幹の養子。通称塚原ト伝。鹿島家四家老の一人吉川城主吉川覚賢の次男のとして生まれ塚原安幹の養子として、塚原城城主となる。塚原高幹は実父の吉川覚賢から鹿島中古流の剣法を学び、養父の塚原安幹からは香取神道流を学び、鹿島家四家老の一人松本政信から鹿島神陰流を学んだ。弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)と、諸岡一羽や真壁氏幹、斎藤勝秀(伝鬼房)ら一派を編み出した剣豪がいる。また、足利義輝や北畠具教にも剣術を指南した。また、この両者には奥義である「一の太刀」を伝授したとされている。南常陸国(霞ヶ浦周辺)は戦国末期になっても「常陸南方三十三館」とよばれる小大名、城主が乱立していた。

手賀高幹【てがかかみき(15??~15??)】

行方郡手賀城主。玉造家臣。通称与一郎。1559年、小田氏治と戦う。1591年、手賀高幹は佐竹義宣に謀殺される。

土岐原治頼【ときはらはるより(1502~1557)】

信太郡江戸崎城主。美濃国守護土岐政房の三男。土岐原景成の婿養子。美濃国守護土岐政房の三男であったが、土岐原家の要請を受けて土岐原景成の養女を娶って婿養子として土岐原家の家督を相続した。1523年、土岐原治頼は関東管領山内上杉憲房らの支援を受け、土岐原治頼、近藤勝秀、臼田河内守らの山内上杉勢力が結集して、小田政治方の屋代城を攻め落とした。そこへ、屋代城救援の小田政治、麻生淡路守らの軍勢が到着し、屋代城の周辺において激しい戦闘が展開された。この合戦の結果、小田政治は屋代城を失い、重臣の信太家や味方として参陣した多賀谷淡路守をはじめ、広瀬、青木、石崎家等多くの討死者を出し、土岐原家方の勝利であった。1542年、兄である美濃守護土岐頼芸が斎藤道三によって領国を追われると、常陸国にいる弟土岐原治頼にも救援の要請が出された。1543年、土岐頼芸は江戸崎城まで落延び、系図及び家宝を土岐原治頼に譲渡した。土岐原治頼は、小田家との戦いを続けて、一時は小田氏側の岡見家を傘下に置くなど優勢を保った。小田家が関東において急速に台頭する後北条家と手を結ぶと、山内上杉家側にあった土岐原治頼は次第に苦境に立たされていく。更に佐竹家の南下も加わってその対応に苦慮する中で病没した。

土岐原治英【ときはらはるふさ(15??~1585)】

原治頼の男。土岐原治頼の養子。官途は大膳大夫。これまで支援を受けていた関東管領山内上杉憲政が越後に逃れると、北条氏康と結んで北の佐竹家に対抗すると共に、仇敵小田氏治とも結んだ。1561年、越後長尾景虎の関東進出により本拠を追われた小田氏治らとともに反佐竹、多賀谷勢力の中心的存在となった。関東の越後長尾景虎上杉氏対北条氏康という対立の枠組みの中で土岐原治英はは土岐原領を分割して江戸崎城を中心とした地域と、龍ケ崎城を中心とした二つの行政単位を設定し、土岐領の安定的な支配を図った。

土岐原治綱【ときはらはるつな(15??~15??)】

土岐原治英の男。土岐原治綱は後北条家の麾下に属し、北条家臣松田家から諸々の局面で指示を受けるようになった。そして、後北条家を後ろ楯として佐竹、多賀谷家らと対抗した。このような状況下で、土岐治綱と弟龍ヶ崎城主龍ヶ崎(土岐原)胤倫との対立が顕在化した。1590年、土岐原治綱は、この対立の解決への糸口が見い出せないまま、土岐家は羽柴秀吉の「小田原の役」を迎えた。江戸崎、龍ケ崎両城は、羽柴勢によって攻め落とされた。江戸崎城主土岐原治綱の嫡男土岐原頼英で二~三歳の幼子であった。そして、叔父にあたる龍ヶ崎(土岐原)胤倫に養育された。

東条英幹【とうじょうえいかん(15??~15??)】

河内郡東条城主。土岐原家臣。

東条五郎左衛門尉【とうじょうごろうえもん(15??~15??)】

東条英幹の男。

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【な】

中居秀幹【(なかいひでもと15??~1591)】

鹿島郡中居城主。鹿島家臣。鹿島郡内の24ヶ村を領した。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

長山幹綱【ながやまもとつな(15??~15??)】

長山城主、一族の嶋崎安国に攻められて落城し、嫡男長山政幹は佐竹義篤(佐竹義重の祖父)を頼って落延びた。

中原正勝【なかはらまさかつ(15??~15??)】

真壁氏幹家臣。真壁忍び衆の元締め。「小説真壁氏幹鬼の義」By高妻秀樹。

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【は】

八田友治【はったともはる(1548~1604)】

小田氏治の男。官途は左近。通称小太郎。小田氏治の男であったが庶子であったために八田家の家督を相続した。1590年、小田家とともに北条家に属し「小田原の役」の後は羽柴秀吉に仕えた。1594年「朝鮮の役」では舟奉行として渡海し、その功により伊勢国内に所領を得た。京都において没した。

塙政俊【はにわまさとし(15??~15??)】

烟田家臣。

塙政政【はにわまさより(15??~1591)】

塙政俊の男。烟田家臣。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

林時国【はやしときくに(15??~1589)】

行方郡林城主。大掾清幹家臣。南方三十三館衆。1589年、荒原五郎左衛門に討たれた。

礼幹繁【ふだもとしげ(15??~1591)】

鹿島郡礼城主。南方三十三館衆。1591年、佐竹義宣に謀殺れた。

北条氏高【ほうじょううじたか(15??~1574)】

北条城主。小田家臣。永禄期に佐竹家に転仕し、土浦城攻めにも参加して同城を守備。1574年、菅谷政貞の攻撃を受けて討死した。

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【ま】

真壁宗幹【まかべむねもと(1496~1563)】

真壁郡真壁城主。真壁治幹の男。大永年間に古河公方足利高基の末弟足利基頼を擁して足利高基、小田政治と争うが、足利基頼が足利高基のもう一人の弟小弓公方足利義明の元へ奔ると、今度は小田政治と大掾忠幹を和解させて高基の嫡男足利晴氏を擁した。他の大掾家系一族と同様に鹿島神宮への崇敬が厚く、その保護に努めた。また、連歌に優れて連歌師として名高い宗牧とも親交があった。

真壁久幹【まかべひさもと(1522~1589)】

真壁宗幹の男。初め小田家の麾下に属した。1548年、水谷正村と結んで離反する。1560年、大掾慶幹を攻めるも古河公方足利義氏の仲介で和睦した。1561年、佐竹義昭が真壁郡に進出するとこれと手を結び、片野城の太田資正や、その次男で真壁久幹にとっては娘婿である梶原政景とともに小田家に対する尖兵的役割を担った。1569年「手這坂の戦い」では小田氏治の軍勢に大打撃を与えた上、小田城も攻略し、以後小田氏治の本拠地奪還を不可能とした。1573年、小田氏治と佐竹義重の和睦の仲介にあたる。

真壁氏幹【まかべうじもと(1550~1622)】

真壁久幹の男。武勇が優れていることから、近隣の豪族から「鬼真壁」と恐れられ、合戦時には長さ2メートルもの樫木の棍棒を振り回し、戦場を駆け巡った。父真壁久幹から家督を譲られてからは、佐竹家の武将と主要な合戦にはほとんど参加した。文録の役にも従軍した。世継には恵まれず、弟の真壁義幹の子房幹に家督を譲った。佐竹家の羽後国移封の際には、真壁房幹を従わせ、本人は次女の娘婿の水谷正勝の菩提寺の常林寺に隠居した。

真壁義幹【まかべよしもと(1552~1630)】

真壁久幹の次男。官途は式部大輔。父真壁久幹が佐竹義昭に臣従した際に佐竹義昭のもとで元服を行った。1569年、小田氏治との「手這坂の戦い」で戦功を挙げた。常陸国筑波郡に所領を与えられて兄真壁氏幹から分家をした。嫡男真壁房幹が兄真壁氏幹の養子となっていたために、次男の真壁重幹に家督を譲る。真壁氏幹、真壁房幹ともに死去したために真壁重幹が真壁家の当主となった。佐竹家の移封先である出羽国角館城にて病没した。

真壁房幹【まかべふさもと(1569~1612)】

真壁義幹の男。真壁氏幹の養子。

真壁七騎衆【まかべななきしゅう】

真壁氏幹、真壁義幹、酒寄備前守、来栖三河守、成田遠江守、長岡織部、田口弥八郎。1569年「手信坂の戦い」で活躍した七騎衆。

真壁氏幹近習三人衆【まかべきんじゅうさんにんしゅう】

市原政義、鈴木治房、藤田友重。真壁氏幹の近習三人衆。

水谷治持【みずたにはるもち(15??~15??)】

真壁郡下館城主。結城家臣。1537年、多賀谷家重を攻めるため別働隊として出陣。本隊とともに多賀谷勢を打ち破る。しかし、家重は城に籠もって抵抗したため滅ぼすことは出来なかった。1539年、古河公方足利晴氏の援軍要請を政勝が受けたため、武蔵に出陣。上杉宇都宮連合軍により敗退。1548年、真壁氏幹ともに多賀谷重政を攻める。これにより重政は結城政勝に降伏し、再び仕えた。1559年、結城政勝が没したのを機に攻め込んできた小田勢を打ち破る。

水谷正村【みずたにまさむら(1521~1596)】

水谷治持の男。通称下蟠龍斎。幼少の時に父を失い、水谷勝吉の弟の水谷治持の元で成長した。1539年の夏、自家兵力350騎と結城家重臣多賀谷家重300騎は、武蔵国吉見城主大串武成を攻めた。水谷正村は家臣海老原(谷田貝)行政と共に出陣し、大串家400騎と合戦におよび、大串勢300騎を死傷させた。大串武成はその場で自刃。武成の甥大串重元、侍大将田谷右兵衛尉他48人の首を上げた。

水谷勝俊【みずたにかつとし(1542~1606)】

水谷治持の次男。兄水谷正村の養子。室は堀田正吉の娘。官位は伊勢守。1566年、兄水谷正村と共に結城晴朝に従って、越後長尾景虎と戦った。1569年、兄水谷正村が隠居したため、家督を相続した。1585年、兄水谷正村とともに下野国田野城を攻略して下野方面にも勢力を広げた。1590年「小田原の役」後、水谷家は結城家の麾下の大名として独立する。1592年「文禄、慶長の役」においては肥前名護屋城に駐留した。1600年「関ヶ原の役」では、皆川広照の従弟に当たるという経緯から東軍に与した。戦後、下野国において佐竹義宣を牽制した功績を賞されて所領を安堵された。役後、結城秀康が北ノ庄藩に転封されると水谷家は正式な独立大名となった。

水谷勝隆【みずのやかつたか(1597~1664)】

水谷勝俊の男。官位は伊勢守。室は酒井家次の娘、継室は寺沢広高の娘。1606年、父水谷勝俊の死去により家督を相続した。1639年、備中国成羽城50,000石へ移封された。1642年、備中国松山城50,000石へ移封された。内政においては交通路や水路の整備、玉島新田などの新田開発や検
地政策、砂鉄採取による鉄産業の奨励と振興、寺社仏閣の造営などに務めて藩政の基礎を固めた。

松本政信【まつもとまさのぶ(1468~1524)】

鹿島家臣。官途は備前守。室町時代の剣術家。鹿島神宮の祝(はふり)部で、小神野、吉川、額賀と並ぶ鹿島家の四宿老の一人。飯篠長威の門人であったが,鹿島神宮に祈願して源義経が奉納した秘書を手に入れ,鹿島神流を開創したという。鹿島神流は飯篠の兵法を基にしながらも陣鎌、薙刀、十文字(槍)、片鎌などにおける術技は松本の完成したもので,合戦用の総合武術であった。しかし鹿島家は永正期以来、一族、支族間の内訌が表面化し、ついには当主の廃立問題で鹿島義幹勢と「高間ヶ原の戦い」で津賀大膳と相討ちになる。生涯で23回も遣り合せをして、大将首を25級、追首を76級を上げた。

松本政元【まつもとまさもと(15??~15??)】

松元政信の男。

師岡長門守【もろおかながとかみ(15??~15??)】

貝原塚城主。土岐家臣。諸岡長門守が貝塚原城を守っていましたが、不仲になったのか江戸崎城から土岐勢に攻められて落城した。

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【や】

吉川覚賢【よしかわあきかた(15??~15??)】

鹿島郡吉川城主。鹿島家臣。鹿島神宮の祝部。吉川家は鹿島神宮祝部であり、卜部姓を本姓とする。鹿島神宮神官家には鹿島七流と呼ばれる剣技が伝承されており、吉川家には神妙剣が伝えられていた。直心影流の神伝「一の太刀」は鹿島の神官松本、吉川、額賀、小鹿野の四家によって代々伝えられた。

龍ヶ崎(土岐)治英【りゅうがさきはるひで(15??~1584)】

原治頼の男。龍ヶ崎治英の男。官途は美作守。原家庶家。原家は美濃土岐家庶流で、美濃土岐家滅亡の頃から土岐家を名乗ったという。これまで支援を受けていた関東管領山内上杉憲政が越後に逃れると、後北条家と結んで、北の佐竹家に対抗すると共に、仇敵小田氏治とも結んだ。

龍ヶ崎(土岐)治綱【りゅうがさきはるつな(15??~15??)】

龍ヶ崎治英の男。官途は美作守。1584) 土岐治英、麻生之幹の援に応じ、治綱、行方の島崎安定と霞ヶ浦で海戦をする。土岐治英没(治綱、あとを継ぐ)  土岐治綱、徳川家康に江戸崎から馬二頭を献上。

龍ヶ崎(土岐)胤倫【りゅうがさきとき(15??~15??)】

河内郡龍ヶ崎城主。龍ヶ崎土岐治英次男。江戸崎土岐家臣。1583年、佐竹家の攻撃を受けて落城するがまもなく奪還。1590年「小田原の役」で北条方に付いたために滅亡した。

龍ヶ崎家臣団【りゅうがさきけかしんだん】

増塩源太左衛門、森田市左衛門、木村次郎左衛門。

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【資料Ⅰ】

南常陸国(7郡/240,000石)

鹿島郡 鹿島神宮、鹿島城
行方郡 島崎城。
新治郡 府中城、土浦城。
真壁郡 下館城。
筑波郡 谷田部城。
信太郡 岡見城。
河内郡 龍ヶ崎城、牛久城

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【資料Ⅱ】

鹿島家四家老【かしまけよんかろう】

吉川城主:吉川覚賢、松本政信、小神野、安房城主:額賀大炊助之。

真壁七騎衆【まかべななきしゅう】

酒寄備前守、来栖三河守、成田遠江守、長岡織部、田口弥八郎。

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【資料Ⅲ】

鹿島神宮【かしまじんぐう】

鹿島郡にある神社。式内社、常陸国一宮で、旧社格は官幣大社。日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社。常陸国息栖神社、下総国香取郡にある香取神宮と合わせて東国三社と呼ばれる。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国 国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

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2011年2月17日木曜日

戦国磐城国人名辞典

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【あ】

愛澤清左衛門【あいざわきよざえもん(15??~15??)】

相馬義胤家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で相馬義胤に従い亘理重宗勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

会田遠江守【あいだとうとみのかみ(15??~15??)】   

田村隆顕家臣。田村郡蒲谷館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

青木玄蕃允【あおきげんばのしょう(15??~15??)】

懸田俊宗家臣。1571年、伊達実元に内応した。1576年、「川俣の戦い」で戦功を挙げた。

青木胤綱【あおきたねつな(15??~15??)】

青木玄蕃允の男。官途は弾正忠。伊達実元に仕え田村清顕との取次役を務めた。

青木綱広【あおきつなひろ(15??~15??)】

青木胤綱の男。官途は備前守。1586年、「人取橋の戦い」では、小浜城留守居を務めた。1595年、伊達成実が出奔すると、伊達政宗に仕え200石を領した。

青田常久【あおたつねひさ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。新山館主。通称右衛門尉。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

青田常義【あおたつねよし(1498~1525)】

青田常久の男。通称孫四郎。1525年、「白戸館の戦い」で相馬顕胤に従い岩城重隆勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

青田常高【あおたつねたか(1514~1542)】

青田常義の男。通称左衛門尉。官途は能登守。智勇兼備の将。1540年、「三春城の戦い」では、寡兵をもって岩城由隆勢を壊滅させた。1542年、「掛田城の戦い」で伊達晴宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

青田常清【あおたつねきよ(1540~1589)】

青田常高の男。通称右衛門尉。1589年、「新地館の戦い」で伊達政宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

青田常治【あおたつねはる(15??~16??)】

青田常清の男。山沢館主。通称孫左衛門。1602年、相馬義胤が減封処分に処されると、中村城下に転封した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

青田高治【あおたたかはる(15??~16??)】

青田常治の男。通称孫左衛門。137石を領した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

青田治之【あおたはるゆき(15??~15??)】

青田常義の次男。通称六郎。相馬盛胤に仕えて宇多郡富沢城主に任じられた。伊達輝宗勢との戦いで戦功を挙げた。

青田胤清【あおたたねきよ(15??~15??)】

青田常久の次男。官途は信濃守。通称太郎右衛門。別名青田胤治。1525年、「白戸館の戦い」で兄青田常義が討死したため、青田家の家督を相続した。1543年、相馬顕胤の意向を受け江井胤治とともに黒木信房、中村義房、黒木知房を謀殺した。1543年、木幡盛清と対立したため、草野直清と結んで相馬盛胤に謀反を起こした。1563年、「黒木城の戦い」で宇多郡中村城代草野直清と結んで相馬盛胤に謀反を起こし、伊達晴宗の家臣舟山豊前守、大谷地掃部勢を領内に引き込んだ。「礒部館の戦い」で舟山豊前守、大谷地掃部勢は、礒部館を守る佐藤好信に撃退された。「貝殻坂、石積坂の戦い」で舟山豊前守、大谷地掃部勢とともに高田内膳と戦ったが敗れ中村城に退却した。田村清顕のもとに落延びた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

青田顕治【あおたあきはる(15??~15??)】

青田常義の三男。官途は信濃守。

青田常治【あおたつねはる(15??~15??)】

青田顕治の次男。通称修理亮。

青田石見守【あおたいわみのかみ(15??~15??)】

相馬義胤家臣。1576年、「冥加山の戦い」で湯村備後守を討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

赤坂貞光【あかさかさだみつ(15??~15??)】

東白川郡赤坂館主。官途は宮内大輔。通称左馬助。別名赤坂政光。1560年、東義久に内応して佐竹義重勢に属した。東義久勢に従い北関東、南奥州を転戦した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

赤坂朝光 【あかさかあさみつ(1555~16??)】

赤坂貞光の男。官途は下総守。智勇兼備の将。1588年、「常陸玉里の戦い」では、大塚成貞勢と戦った。1590年、佐竹義宣から所領を安堵された。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤坂光忠【あかさかみつただ(1538~15??)】

赤坂貞光の次男。白河郡渡瀬館主。官途は右馬助。

赤坂光次【あかさかみつつぐ(15??~15??)】

赤坂貞光の三男。白河郡山王山館主。

赤石沢美濃守【あかいしざわみののかみ(15??~15??)】

石沢修理亮家臣。家老職を務めた。1589年、「常盤城の戦い」で相馬盛胤、岩城親隆勢の攻撃を受けると、相馬盛胤に内応して城内に火を放ち、相馬盛胤勢を引き込んだ。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

赤沼弾正忠【あかぬまだんじょうちゅう(15??~15??)】 

田村郡赤沼館主。田村家四十八館。250石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

赤橋元胤【あかはしもとたね(15??~15??)】

相馬顕胤の四男。戦に出れば先陣を務め「槍の赤橋」と恐れられた。初陣で頸級十二をあげる戦功を挙げた。剛の者だが軍略にも通じていた。

阿久津右京【あくつうきょう(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡阿久津館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

浅川義純【あさかわよしずみ(15??~15??)】

石川郡浅川城主。官途は大和守。石川晴光、佐竹義重と結び、白河結城義親、田村隆顕らと戦った。1573年、石川晴光と佐竹義重が争うと、仲裁に奔走して和議を結ばせた。1577年、「浅川城の戦い」で佐竹義重勢の攻撃を受け浅川城を追われた。1582年、継嗣の浅川豊純とともに浅川城に復帰した。1589年、「摺上原の戦い」で芦名盛重が伊達政宗に滅ぼされると、石川昭光とともに伊達政宗に降伏した。1590年、「奥州仕置」で石川昭光とともに改易処分に処され、伊達政宗に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

浅川豊純【あさかわとよずみ(15??~15??)】

浅川 義純の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

芦沢修理太夫【あしざわしゅりだいふ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡芦沢館主。東方衆50騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

足羽太郎兵衛【あしわたろうべい(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡下枝館主。西方衆50騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

足立刑部【あだちぎょうぶ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

穴沢新助【あなさわしんすけ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡三城目館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。  

安部善四郎【あべぜんしろう(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

安倍清任【あべきよさだ(15??~1582)】

大寺清光家臣。官途は備後守。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い副将を務め、油殻平で石川昭光勢の挟み撃ちに遭い討死した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

安倍常任【あべつなこれ(15??~15??)】

大寺清光家臣。官途は但馬守。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

荒井式部【あらいしきぶ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡荒井館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。    

荒藤八郎【あらふじはちろう(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢に包囲された相馬隆胤を支援して討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

荒縫殿助【あらぬいどのすけ(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。1576年、「冥加山の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢の沼部玄蕃を討取り、赤地に白巴の旗を奪い取る戦功を挙げた。1580年、伊達輝宗勢の二騎を討取る戦功を挙げた。1589年、「鳥海の戦い」で亘理重宗の家臣鷲足掃部を討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

荒掃部助【あらかもんのすけ(15??~1568)】

相馬盛胤家臣。1568年、「小野金谷の戦い」で討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

粟野易意【あわのえきい(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称右近。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

飯野隆至【いいのたかよし(1504~1578)】

岩城成隆家臣。官途は式部大輔。禰宜職を安堵された。伊達晴宗との取次役を務めた。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

飯淵九郎左衛門【いいぶちころうざえもん(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で伊達政宗勢の追撃を受け相馬盛胤の馬が橋を踏み抜いて動けなくなったところを馬上に引き上げて救出する功を上げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

石井甚七郎【いしいじんしちろう(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い田村兵部少輔の鉄炮衆を率いて大内定綱勢と戦った。「糠沢の戦い」で大内定綱の家臣大内弥右衛門を討取る戦功を挙げた。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

石川稙光【いしかわたねみつ(1494~1530)】

石川郡三芦城主。室は田村隆顕の娘。1524年、伊達稙宗、二階堂晴行、芦名盛舜らと結び岩城重隆、結城晴綱勢に対抗した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石川晴光【いしかわはるみつ(1528~1580)】

石川稙光の男。官途は修理大夫。通称小太郎。室は石川胤光の娘。1530年、父石川稙光の病没により石川家の家督を相続した。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗勢に属して伊達晴宗勢と戦った。乱以後、田村隆顕、芦名盛氏の勢力争いに巻き込まれ所領を削られた。1560年、「寺山城の戦い」で佐竹義昭が結城晴綱から白川郡を奪取すると、赤坂貞光が佐竹義昭に内応した。1563年、伊達晴宗と結び、伊達晴宗の四男石川昭光を養子に迎え石川家の存続を図った。1568年、石川昭光に家督を譲って隠居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石川昭光【いしかわあきみつ(1550~1622)】

伊達晴宗の四男(石川晴光の養子)。官途は大和守。通称小二郎。室は石川晴光の娘(照子)。1568年、養父の石川晴光が隠居したため、石川家の家督を相続した。実父伊達晴宗や兄伊達輝宗勢に属して、田村清顕、佐竹義重勢と戦った。1574年、芦名盛氏が佐竹義重と白川郡、石川郡を巡って争い、芦名盛氏が石川郡の支配権を失うと、佐竹義重勢に属した。1585年、「人取橋の戦い」では、佐竹義重勢に属して参陣した。1589年、「摺上原の戦い」で芦名義広が滅亡すると、伊達政宗に従った。1590年、「奥州仕置」で改易処分に処され伊達政宗に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石川義宗【いしかわよしむね(1577~1610)】

石川昭光の男。1590年、「奥州仕置」で父石川昭光が改易処分に処されると、石川昭光とともに伊達政宗に仕えた。1595年、伊具郡角田城に任じられ12,000石を領した。1603年、父石川昭光の隠居により石川家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石川宗敬【いしかわむねたか(1607~1668)】

石川義宗の男。官途は駿河守。室は伊達政宗の娘(牟宇姫)。1610年、父石川義宗が病没すると、祖父石川昭光が後見役を務めた。1621年、石川家の家督と角田城12,000石を相続した。1638年、阿武隈川治水工事の惣奉行職を務めた。堤防工事は総延長2,792間に及び、その後の領地内の新田開発のもととなった。1644年、刈田郡湯原館に転封した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石川末光【いしかわすえみつ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。通称松之助。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

石川弾正忠【いしかわだんじょうちゅう(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い負傷した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

石沢修理亮【いしざわしりのじょう(15??~15??)】

田村隆顕家臣。1,800石を領した。常盤城主の常盤貞久が田村清顕から疎まれ、相馬盛胤のもとに落延びると、常盤城代に任じられた。1586年、田村清顕が病没すると、その後継者を巡り家中が対立すると、伊達政宗を支援した。1589年、「常盤城の戦い」で相馬盛胤、岩城親隆勢の攻撃を受け、城兵600余りとともに防戦したが、赤沢美濃守が内応したため落城した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

石沢茂太夫【いしざわしげだいふ(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い負傷した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

石盛因幡守【いしもりいなばのかみ(15??~15??)】

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光が大寺清光を降伏に追い込むと、中野館、塩沢館、山小屋館を割譲させると、山小屋館を領した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

泉田胤直【いずみだたねなお(14??~15??)】

標葉隆成家臣。標葉郡泉田館主。泉田隆家の男。官途は隠岐守。1492年、「泉田城の戦い」で相馬盛胤勢の攻撃を受けが、標葉隆成から援軍を得ることができず降伏に追い込まれた。その後、相馬盛胤に仕えた。

泉田胤清【いずみだたねきよ(1563~1602)】

泉田胤直の男。官途は甲斐守。猛将。標葉衆25騎余りを率いた。1589年、「新地城の戦い」で伊達政宗の家臣亘理重宗勢の攻撃を受け相馬盛胤もとに落延びた。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

泉田胤雪【いずみだたねゆき(1563~15??)】

泉田胤清の男。官途は隠岐守。智勇兼備の将。継嗣の泉田胤清とともに伊達政宗勢の攻撃を何度も防いだ。1588年、「小手森館の戦い」では、相馬義胤の意向を受け大越顕光とともに小手森城を守備した。伊達政宗、田村清顕らの猛攻に耐え抜いた。

泉田胤清【いずみだたねきよ(15??~1602)】

泉田胤雪の男(祖父と同名)。1589年、「坂本館の戦い」で相馬義胤勢の後陣(標葉衆300余り)を率いて参陣した。1602年、病没したが継嗣がなく、娘聟の泉胤政が泉田館主に任じられた。

泉胤定【いずみたねさだ(15??~1569)】

行方郡泉館主。通称は左衛門太夫。泉村3,000石を領した。泉家の菩提寺宝月山東泉院を再興した。1569年、「丸森城の戦い」で伊達輝宗勢との戦い討死を遂げたため、田村清顕の家臣泉胤秋(中津川大膳亮)が堀内近胤の娘を娶り泉家を相続した。

泉胤秋【いずみたねあき(15??~1587)】

中津川兵衛左の男(泉胤定の養子)。通称は大膳。別名中津川大膳亮。室は堀内近胤の娘。継室は畠山尚義の娘。相馬顕胤の弟堀内近胤の娘を娶り、堀内家を相続していたが、内室とそりが合わず堀内家を退去した。小浜城主畠山尚義の娘を娶った。継嗣の泉胤政が泉家を相続したが幼少のため後見役を務めた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

泉胤政【いずみたねまさ(15??~1633)】

泉胤秋の男。通称藤右衛門。1597年、相馬義胤は居城を小高城を牛越城に移すにあたり、泉胤政も人夫を差し出したが相馬義胤と泉胤政の人夫奉行が口論に及んだ。泉胤政が謀反を企てたとして、相馬義胤は泉胤政追討勢を泉館に発した。泉胤政は相馬義胤勢が来る前に館を焼いて出奔した。

泉藤六郎【いずみとうろくろう(15??~1590)】

相馬盛胤家臣。1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢に包囲された相馬隆胤を支援して討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

伊東祐勝【いとうすけかつ(15??~1583)】

白河郡三城目館主。1583年、「三城目館の戦い」で中畠晴辰勢の攻撃を受け討死した。

井戸川清則【いどがわきよのり(15??~1524)】

相馬盛胤家臣。官途は大隅守。標葉六騎衆。1524年、「鎌田川の戦い」で相馬顕胤に従い岩城重隆勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

井戸川正則【いどがわまさのり(15??~1570)】

相馬盛胤家臣。官途は将監。1570年、「丸森城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

猪狩親満【いのかりちまみつ(15??~15??)】

田村顕基家臣。通称中務。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

猪狩下野守【いのかりしもつけのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡牧野館主。350石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

猪俣濁清【いのまただくせい(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称彦右衛門。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

今泉山城守【いまいずみやましろのかみ(15??~15??)】

田村郡高倉館主。1,000石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

今田六郎【いまだろくろう(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

岩城盛隆【いわきもりたか(14??~15??)】

磐前郡平城主。岩城常隆の男。父岩城常隆から岩城家惣領職の家督を譲れたが、弟の岩城由隆とともに共同統治体制で岩城家の家政を動かした。

岩城由隆【いわきよしたか(15??~1542)】

岩城常隆の次男。官途は民部大輔。兄岩城盛隆とともに岩城家の家政を動かした。1514年、「永正の乱」で足利政氏、足利高基親子が争うと、佐竹義舜とともに足利政氏勢に属し足利高基に属した宇都宮忠綱や結城政朝と戦った。結城顕頼と那須政資の争うと、結城顕頼勢に属して那須政資と戦った。足利高基と那須政資の勝利により、南奥州の覇権を握ることは出来なかった。

岩城成隆【いわきなりたか(15??~15??)】

岩城由隆の男。1542年、父岩城由隆が病没すると岩城家の家督は次男の岩城重隆が相続して岩城成隆は分家して白土家を興した。岩城成隆は江戸忠通と結び佐竹義篤と争い常陸国への勢力拡大を図ったが失敗した。

岩城重隆【いわきしげたか(15??~1569)】

岩城由隆の次男。通称二郎太郎。官途は左京大夫。結城晴綱と結び、伊達稙宗と結んで勢力を拡大するの相馬盛胤や田村隆顕と対抗した。娘の久保姫の嫁ぎ先を巡って伊達晴宗と相馬盛種が対立したが、久保姫は伊達晴宗に嫁いだ。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属して伊達稙宗勢に属した相馬盛胤や田村隆顕と争い、後に伊達晴宗勢に内応した芦名盛氏とともに南奥州各地を転戦した。伊達晴宗と田村隆顕や畠山義国の内部抗争を誘発させ、弱体化を図るなど調略も駆使した。伊達輝宗、芦名盛氏、佐竹義昭らの諸家との間で外交を駆使し生き残りを図った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩城親隆【いわきちかたか(1537~1594)】  

伊達晴宗の男(岩城重隆の養子)。官途は左京大夫。室は佐竹義昭の娘。1534年、伊達晴宗と岩城重隆との約束により、岩城重隆の養嗣子となって岩城家の家督を相続した。田村清顕や石川家の領土を侵したり、二階堂盛義の援助のため出兵するなどの小規模の軍事活動がみられるが、養父岩城重隆の外交重視路線を世襲した。1568年、岩城重隆が病没後、岩城親隆も病に倒れた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩城常隆【いわきつねたか(1567~1590)】

岩城親隆の男。官途は左京大夫。1568年、父岩城親隆が病に倒れると、佐竹家出身の岩城親隆夫人が後見役を務めたことにより岩城家の実権は、佐竹義重が握った。1578年、岩城常隆が岩城家の家督を相続するが、佐竹義重の家中に対する影響力は変わらなかった。1586年、「人取橋の戦い」では、佐竹義重勢に属して参陣して、家臣の窪田十郎が伊達政宗の家臣鬼庭良直を討取った。1589年、「摺上原の戦い」で芦名盛重が滅亡すると、岩城常隆、石川昭光らは伊達政宗勢に属した。「小田原の役」に参陣して所領を安堵を受けた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩城政隆【いわきまさたか(1590~1615)】  

岩城常隆の男。通称長次郎。1589年、「小田原の役」の参陣した父岩城常隆が病没すると、岩城家惣領職の家督は佐竹義重の三男岩城貞隆が相続したため、岩城家から追放された。1607年、伊達政宗に仕えた。

岩城貞隆【いわきさだたか(1583~1620)】

佐竹義重の三男(岩城常隆の養子)。1589年、「小田原の役」で岩城常隆が病没し、岩城家惣領職の家督は羽柴秀吉の介入を受け佐竹義重の三男岩城貞隆が相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、兄佐竹義宣勢に従い参陣しなかったため、改易処分に処された。この処分に対して佐竹義宣に挙兵まで促したが拒絶された。松平元康に岩城家再興を嘆願した結果、本多正信に仕えた。1616年、信濃中村城10,000石を領して諸侯に列した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上野但馬守【うえのたじまのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

上野延命【うえのえんめい(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称善九郎。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

鹽田銀之助【えんたぎんのすけ(15??~15??)】

渡邊又左衛門家臣。1576年、「坂本城の戦い」で扇の大地紙の指物で伊達輝宗勢に斬り込み、武勇を振る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

江井胤治【えいたねはる(1504~1589)】

相馬顕胤家臣。標葉郡江井館主。官途は河内守。標葉郡四七人衆。1543年、相馬顕胤の意向を受け青田胤清とともに黒木信房、中村義房、黒木知房を謀殺した。1589年、「三春城の戦い」で相馬義胤に従い田村顕盛勢と戦い討死した。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

遠藤良知【えんどうよしとも(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通所半内。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

遠藤四郎左衛門【えんどうしろうざえもん(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

遠藤右近【えんどうさこん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡手代木館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。   

大井胤重【おおいたねしげ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡大井館主。通称太郎左衛門。標葉郡四七人衆。中郷で107貫文を領した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大井太郎左衛門【おおいたろうざえもん(15??~15??)】

大井胤重の男。通称太郎左衛門。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大井胤元【おおいたねもと(15??~15??)】

大井太郎左衛門の男。通称一学。相馬義胤に召しだされ200石を領した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大内胤通【おおうちたねみち(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。行方郡大内館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大内胤玄【おおうちたねげん(15??~15??)】

行方郡大内南館主。通称三郎。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大内胤正【おおうちたねまさ(15??~15??)】

大内胤玄の男。官途は丹波守。勇将。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大内胤信【おおうちたねのぶ(15??~15??)】

大内胤正の男。官途は越前守。相馬顕胤、相馬盛胤に仕え戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大内信顕【おおうちのぶあき(15??~15??)】

大内胤信の男。通称治兵衛。相馬義胤に仕えて戦功を挙げた。1617年、訴訟に加わり浪人した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大内胤房【おおうちたねふさ(15??~1576)】

相馬盛胤家臣。官途は上野守。1576年、「坂本城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大浦雅楽【おおうらうらく(15??~15??)】

藤崎摂津守家臣。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で亘理重宗勢の攻撃を受け藤崎摂津守とともに相馬盛胤のもとに落延びた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大浦下総介【おおうらしもふさのすけ(15??~1576)】

相馬盛胤家臣。1576年、「坂本城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大浦監物【おおうらけんもつ(15??~1576)】

相馬盛胤家臣。1576年、「坂本城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大河原丹後守【おおかわらたんごのかみ(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡耕田館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

大木吉貞【おおきよしさだ(15??~15??)】

大寺清光家臣。通称伊賀之助。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

大越常光【おおごえつねみつ(15??~1543)】

田村隆顕家臣。官途は山城守。田村郡大越館主。田村家四天王。大越館10,000石を領して東方衆50騎余りを率いた。1543年、「安積の戦い」で田村隆顕に従い伊東佑継勢と戦い討死した。

大越利顕【おおごえとしあき(15??~15??)】  

大越常光の男。官途は摂津守。

大越顕光【おおごえあきみつ(1525~1589)】  

大越利顕の男。官途は紀伊守。室は大越甲斐守の妹。別名大越信貫。1586年、田村清顕が病没すると、相馬義胤勢に属して伊達政宗勢と戦ったが敗れた。1588年、「大越館の戦い」では、伊達政宗の家臣伊達成実勢の攻撃を受け、他の相馬義胤派とともに岩城常隆もとに落延びた。1589年、伊達政宗は、追放とした相馬義胤派諸将の赦免を行った。大越顕光、田村顕盛らとともに帰参を図ったが、岩城常隆に露見して捕縛され自刃に追い込まれた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大越紀伊守【おおごえきいのかみ(15??~15??)】  

大越利顕の次男。田村郡西方館主。別名千葉紀伊守。西方館316石を領した。

大越甲斐守【おおごえかいのかみ(15??~15??)】  

大越顕光家臣。1582年、「守山館の戦い」では、橋本顕徳、常葉讃岐守、浅川右馬介、大越修理亮等らとともに二階堂行親勢を撃退した。1589年、大越顕光が岩城常隆に謀殺されると大越城代に任じられた。

大越孫七郎【おおごえまごしちろう(15??~15??)】  

大越顕光家臣。田村郡広瀬館主。東方衆50騎余りを率いた。

大越新五郎【おおごえかいのかみ(15??~15??)】  

大越顕光家臣。鉄砲大将を務め、鉄砲足軽50余りを率いた。

大越八郎左衛門【おおごえはちろうざえもん(15??~15??)】  

大越顕光家臣。

大多和泉守【おおたいずみのかみ(15??~15??)】

田村郡中山館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 

太田越後守【おおたえちごのかみ(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。1576年、「冥加山の戦い」で杉目将監を槍で突き落とし、頸を上げる戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大竹秀延【おおたけひでのべ(15??~15??)】 

田村隆顕家臣。田村郡阿生田館主。官途は筑後守。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 

太田信濃守【おおたしなのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡春山館主。1,500石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

大塚綱久【おおつかつなひさ(15??~1541)】

佐竹義舜家臣。1505年、結城顕頼に内応して羽黒山城代に任じられた。1541年、佐竹義篤の家臣渋江内膳勢の攻撃を受け斑目広基、河東田大膳らとともに迎撃したが、衆寡敵せず討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大塚国久【おおつかくにひさ(15??~15??)】  

大塚綱久の男。

大塚吉久【おおつかよしひさ(15??~15??)】  

大塚国久の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大塚為久【おおつかためひさ(15??~1578)】  

大塚国久の次男。1564年、「羽黒山城の戦い」で佐竹義昭勢の攻撃を受け落延びた。1578年、「浅川城の戦い」で浅川義純を攻撃して弓で射られ討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大塚政成【おおつかまさなり(1504~1563)】  

岩城重隆家臣。大塚行成の男。官途は信濃守。佐竹義昭に内応した。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

大塚尾張守【おおつかおわりのかみ(15??~15??)】  

田村隆顕家臣。田村郡羽出庭館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

大塚蔵人【おおつかくらうど(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大塚甚助【おおつかじんすけ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大坪勘解由【おおつぼかげゆ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大寺清光【おおでらきよみつ(15??~15??)】

石川郡大寺城主。官途は中務大輔。1582年、「油殻の戦い」で中野館の所領問題か石川昭光と対立して謀反を起こした。家老職の大野行宗を総大将に石川昭光勢と戦ったが、石川昭光勢の挟み撃ちに遭い安倍清任、野口金光らが討死して大敗した。石川昭光勢の追撃を受け、大野宗高、安倍常任らとともに降伏した。千用寺秀芸と長泉寺泰念を仲介に中野、塩沢、山小屋の三ヶ村を石川昭光に割譲して和議を結んだ。1588年、二階堂盛義、岩城常隆らと結んで巻き返しを図ったが、伊達政宗と結んだ石川昭光に対抗できず没落した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大寺安吉【おおでらやすよし(15??~15??)】

大寺清光家臣。通称主殿之助。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

大寺安房守【おおでらあわのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡谷田川館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

大野宗高【おおのむねたか(15??~15??)】

大寺清光家臣。官途は筑前守。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

大野行宗【おおのゆきむね(15??~15??)】  

大寺清光家臣。官途は修理殿介。家老職を務めた。1582年、「油殻の戦い」で総大将として石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

大悲山民部【おおひやまみんぶ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。1543年、小高郷出騎衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大悲山民部丞【おおひやまみんぶのじょう(15??~15??)】

大悲山民部の男。相馬義胤に仕えた。1592年、31貫905文を領した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大悲山杢左衛門【おおひやましょうざえもん(15??~16??)】

大悲山民部丞の男。通称九左衛門。別名大久杢左衛門。1602年、相馬義胤が減封に処されると、北郷内で36石を領した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

大村豊後守【おおむらぶんごのかみ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

岡崎彦六郎【おかざきひこしろう(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

小笠原彦七郎【おがさわらひこしちろう(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡大倉館主。665石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

岡田義胤【おかだよしたね(14??~15??)】 

行方郡岡田館主。官途は安房守。1492年、「権現堂城の戦い」で相馬盛胤に従い標葉清隆の権現堂城を攻撃した。標葉清隆の家臣泉田隆直が内応すると、標葉六騎七人衆、標葉隆豊、牛渡九郎兵衛らも内応した。相馬盛胤が権現堂城を攻落とすと、権現堂城主に任じられた。継嗣の岡田重胤に家督と岡田館を譲り、次男の岡田胤連とともに権現堂城に転封した。

岡田茂胤【おかだしげたね(15??~15??)】 

岡田義胤の男。通称は治部大輔。室は大槻義治の娘。小高衆の筆頭として25騎余りを率いて相馬顕胤、相馬盛胤に仕えた。

岡田直胤【おかだなおたね(1560~1591)】 

岡田茂胤の男。相馬盛胤勢で20騎以上を率いるのは、他に泉田胤清(標葉郷大将)、泉胤政(中郷大将)の二人のみであった。1563年、伊達晴宗に内応じて謀反を起こした草野直清の娘を育て、岡田直胤と娶わせた。また娘は泉胤政に嫁いだ。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

岡田胤景【おかだたねかげ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。岡田茂胤の次男。草野館主。官途は治部太輔。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

岡田胤景【おかだたねかげ(1565~1620)】

岡田胤景の男。官途は兵庫助。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

岡田胤清【おかだたねきよ(1595~1620)】

岡田胤景の男。官途は主膳。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

岡田胤通【おかだたねみち(15??~1543)】

相馬顕胤家臣。大甕館主。1543年、「大森城の戦い」で相馬顕胤に従い伊達晴宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

岡田豊後守【おかだぶんごのかみ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

小川隆勝【おがわたかかつ(15??~15??)】

岩城常隆家臣。岩城常隆の使者として羽柴秀吉に謁見した。返書が増田長盛より小川隆勝に返書が送られた。

小川上総介【おがわかずさのすけ(15??~15??)】

岩城常隆家臣。1589年、芦名盛重から参陣を要請を受けた。

小川大蔵丞【おがわおおくらのじょう(15??~15??)】

小川上総介の男。1584年、下野国で北条氏直勢と戦いで戦功を挙げた。

鬼生田惣右衛門【おにうだそうえもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡鬼生田館主。官途は弾正忠。田村家四十八館。鬼生田館1,500石を領して西方衆25騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

小野備前守【おのびぜんのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

小原宗綱【おばらむねつな(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。刈田郡小原館主。1542年、「伊達天文の乱」で伊達稙宗勢に属して伊達晴宗勢と戦った。伊達稙宗の敗北により家督を継嗣の小原元継に譲って隠居した。

小原元継【おばらむねつぐ(15??~15??)】

小原宗綱の男。1542年、「伊達天文の乱」で父小原宗綱が伊達稙宗に属して戦った。伊達稙宗の敗北により家督を小原元継に譲って隠居した。

小原定綱【おばらさだつな(1555~1592)】

伊達政道家臣。小原宗綱の次男。通称縫殿之助。伊達輝宗の次男である伊達政道の傅役を務めた。1591年、伊達政道が謀反を嫌疑を受け、伊達政宗に謀殺されると、その遺骸の埋葬場所を求めて各地を流浪した。埋葬後、墓前で殉死した。

折笠左近【おりかささこん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡道渡館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 

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【か】

貝山藤兵衛【かいやまとうべい(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡貝山館主。700石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

河東田重治【かとうだしげはる(15??~15??)】

結城晴綱家臣。白河郡河東田館主。

河東田重清【かとうだしげきよ(1542~1606)】

河東田重治の男。官途は上総介。領内に善政を敷き、民衆に支持された。伊達輝宗との取次役を務めた。1576年、「赤館城の戦い」では、結城義親に従い参陣して佐竹義重勢と戦った。1589年、結城義親が伊達政宗に降伏すると、佐竹義重への備えとして関和久城を守備した。1590年、結城義親が改易処分に処されると、伊達政宗に仕えた。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

河東田親顕【かとうだしげきよ(15??~15??)】

河東田重清の男。

河東田河内守【かとうだかわちのかみ(15??~15??)】

結城義親家臣。1575年、「白河城の戦い」で佐竹義重勢の攻撃を受け降伏した。東義久に従い所領を安堵された。

河東田備前守【かとうだびぜんのかみ(15??~15??)】

河東田河内守の男。官途は兵部少輔。1575年、父河東田河内守とともに東義久に従い30貫文の所領を安堵された。赤館城に在番した。

門沢式部【かどさわしきぶ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡門沢館主。600石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

門沢右馬助【かどさわさまのすけ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡栗出館主。360石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

金沢胤重【かなざわたねしげ(15??~1524)】

相馬盛胤家臣。通称右馬助。1524年、「七里ヶ浜の戦い」で相馬顕胤に従い岩城重隆勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

金沢主水【かなざわもんど(15??~1524)】

金沢胤重の男。1524年、「七里ヶ浜の戦い」で父金沢胤重に従い岩城重隆勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

金沢大学【かなざわもんど(15??~1524)】

金沢胤重の男。1524年、「七里ヶ浜の戦い」で父金沢胤重に従い岩城重隆勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

金沢胤清【かなざわたねきよ(15??~1532)】

金沢胤重の弟。官途は石見守。別名「存入」。1524年、「七里ヶ浜の戦い」で兄金沢胤重が岩城重隆勢と戦い討死したため、還俗して金沢家の家督を相続した。1532年、「古小高俊胤の乱」で相馬顕胤に従い先陣を務め討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

金沢備中守【かなざわびっちゅうのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡四七人衆。牛越城番を務めた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

金内八十郎【かねうちはちじゅうろう(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

金田式部少輔【かねだしきぶしょうゆう(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。東方衆50騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

神又久四郎【かみまたしさしろう(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡神又館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

萱野甚四郎【かやのじんしろう(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

苅屋戸出雲守【かりやどいずものかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

川曲宮内太夫【かわまがりくないだいふ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡川曲館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

神主玄蕃頭【かんぬしげんばのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡守山館主。西方衆80騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

菊池兵部太夫【きくちようぶだいふ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡南宇津志館主。523石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

喜多八十右衛門【きたやそえもん(15??~15??)】

黒木丹波守家臣。1581年、「大条館の戦い」で伊達輝宗の家臣富塚近江守勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

木村信常【きむらのぶつね(15??~1579)】

田村清顕家臣。田村郡木村館主。官途は内記。1579年、「木村館の戦い」で畠山義継に内応して新城少弼、遊佐下総守勢を木村館に引き入れが、田村清顕の家臣鬼生田弾正忠勢の反撃を受け滅亡した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

久我主膳【くがしゅぜん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡白岩館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

草野直清【くさのなおきよ(1514~1563)】

相馬顕胤家臣。官途は式部。標葉郡四七人衆。相馬顕胤から信頼され中村城代に任じられた。相馬顕胤が病没すると、相馬盛胤に冷遇された。1563年、「中村城の戦い」で青田顕治らとともに伊達輝宗勢に内応した。「貝殻坂、石積坂の戦い」で青田胤治、舟山豊前守、大谷地掃部勢らとともに相馬盛胤の家臣高田内膳勢と戦い敗れて道明寺掃部勢の追撃を受け討取られた。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

草野晴清【くさのはるきよ(15??~1563)】

草野直清家臣。通称小市郎。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で相馬盛胤に従い草野直清勢と戦った。「坪田八幡の戦い」で草野直清勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

草野伴右衛門【くさのともえもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡小塩庭館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

熊田兼氏【くまがいかねうじ(14??~15??)】

結城政朝家臣。白河郡伊賀館主。官途は若狭守。結城義親が伊賀館を領して小峰家を相続すると、木之内館に転封した。参考文献:「秋田の中世を歩く」by秋田城介。

熊耳太郎左衛門【くまがみたろうざえもん(15??~15??)】  

田村隆顕家臣。田村郡熊耳館主。693石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

熊川隆光【くまがわたかみつ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡熊川館主。標葉郡七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

熊隆重【くまたかしげ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡熊館主。標葉郡四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

黒木信房【くろきのぶふさ(15??~1543)】

宇多郡黒木城主。通称弾正忠。別名黒木正房。1542年、「田中城の戦い」で伊達晴宗勢に属して伊達稙宗勢の田中城を攻撃したが敗退した。1543年、「中村城の戦い」で伊達稙宗勢の相馬顕胤勢の攻撃を受け降伏した。勝善原で相馬顕胤勢に謀殺された。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

黒木宗俊【くろきむねとし(15??~15??)】

相馬義胤家臣。官途は中務。1580年、堀内宗和とともに相馬盛胤に謀反を起こしたが、失敗して伊達政宗にもとに落延びた。1590年、「中村城の戦い」で佐藤藤右衛門、国分右衛門尉らとともに亘理重宗に従い相馬隆胤勢と戦った。

黒木対馬守【くろきつしまのかみ(15??~15??)】

黒木信房の男。1575年、「名取沙留川の戦い」で相馬義胤が鎧袖に熊手をかけられたとき、川に飛び込んで敵の腕を打ち落とし、相馬義胤を救う戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

黒木知房【くろきともふさ(15??~1543)】

黒木信房家臣。通称左馬允。1543年、相馬顕胤の意向を受けた青田胤清、江井胤治らに黒木信房、中村義房らとともに謀殺された。

黒木丹波守【くろきたんばのかみ(15??~15??)】

相馬義胤家臣。1581年、「大条館の戦い」で相馬義胤勢を率いて小梁川盛宗の家臣小梁川行秀勢と戦ったが、伏兵の攻撃を受け撤退した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

黒木光安【くろきみつやす(15??~15??)】

黒木丹波守家臣。通称大炊介。1581年、「大条館の戦い」で吉田主水正とともに小梁川盛宗の家臣小梁川行秀の陣地を急襲したが、小梁川盛宗の家臣大里主馬介、三枝将監勢の攻撃を受け撤退した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

黒木大膳【くろきだいぜん(15??~15??)】   

田村隆顕家臣。田村郡黒木館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。   

郡司敏良【ぐんじとしよし(15??~1589)】

田村清顕家臣。田村郡飯豊館主。官途は豊前守。娘が輿入れする愛姫の侍女として米沢城に付き添った。1586年、田村清顕が病没すると、田村顕盛とともに相馬義胤勢に属して、伊達政宗勢に属した田村顕頼らと対立した。1589年、「下枝城の戦い」で伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。

郡司敏貞【ぐんじとしさだ(15??~1589)】

郡司敏良の男。官途は雅楽頭。1589年、「下枝館の戦い」で伊達政宗勢の攻撃を受け父郡司敏良とともに討死した。

郡司喜右衛門【ぐんじきちえもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡小戸神館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。  

郡司左馬介【ぐんじさまのすけ(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い負傷した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

欅三左衛門【けやきさんざえもん(15??~15??)】

黒木丹波守家臣。1581年、「大条館の戦い」で伊達輝宗の家臣富塚近江守勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

小池春憲【こいけはるのり(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。通称弥七郎。相馬盛胤のもとを辞して、佐々成政に仕えた。佐々成政が肥後国に転封になると飛騨国高山へ移住した。剣の達人として金森長近に仕えた。

小泉繁【こいずみしげる(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称主膳。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

郷石見守【ごういわみのかみ(15??~15??)】

結城晴綱家臣。1575年、結城義顕が結城義親に白河城を追われると、結城義顕を田島館に匿った。

郷土佐守【ごうとさのかみ(15??~15??)】

郷石見守の男。1575年、結城義顕が結城義親に白河城を追われると、父郷石見守とともに結城義顕を支援した。

桑折久家【こおりひさいえ(15??~1543)】

相馬顕胤家臣。1543年、「田中城の戦い」で黒木信房、中村義房、東郷胤光勢の攻撃を受け田中館から出たところを黒木弾正の計略で討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

桑折清家【こおりきよいえ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。1543年、「田中城の戦い」で黒木信房、中村義房、東郷胤光勢の攻撃を受け桑折久家が討死したため、田中城代に任じられた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

桑折直家【こおりなおいえ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。上海老輪蔵館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

桑折太郎右衛門【こおりたろうえもん(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。田中城代。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で草野直清、青田顕治の謀反を田中城に伝え、草野直清、青田顕治勢の撃退する戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

桑折小左衛門【こおりこざえもん(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。1558年、「丸森城の戦い」で伊達晴宗勢を討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

古賀胤康【こがたねやす(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉四七人衆。1542年、「伊達天文の乱」で、相馬顕胤に従い伊達晴宗勢と戦い戦功を挙げた。

古小高俊胤【ここだかとしたね(15??~1532)】

相馬盛胤家臣。小高館主。通称帯刀。1532年、「古小高俊胤の乱」で相馬顕胤を起こした。相馬顕胤の家臣金沢胤清勢の攻撃を受けたが、計略を用いて金沢胤清を討取るが、金沢胤清勢の反撃を受け討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

小綱木因幡守【こつなぎいなばのかみ(15??~15??)】

蓬田法光家臣。

木幡盛清【こばたもりきよ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。通称主水正。黒木城代を務めた。青田顕治から謀反を企ててると讒言され、相馬盛胤に謀殺された。

木幡直清【こばたなおきよ(15??~15??)】

木幡盛清の弟。官途は肥前守。相馬盛胤の意向を受け還俗して木幡家の家督と目々澤村87貫文を相続した。

木幡継清【こばたつぐきよ(1534~1618)】

相馬盛胤家臣。官途は因幡守。相馬盛胤に従い磐城国を転戦して戦功を重ねた。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

木幡高清【こばたたかきよ(1537~1642)】

木幡継清の弟。官途は駿河守。検地奉行職や相馬利胤の傅役を務めた。故事にも詳しく史書の編纂にも貢献した。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

木幡清吉【こばたきよよし(15??~1665)】

木幡高清の男。相馬盛胤に仕え中村城下街の普請奉行職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

木幡清定【こばたきよさだ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡渋川館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡光清【こばたみつきよ(15??~1575)】

木幡継清家臣。通称藤重郎。1575年、「名取沙留川の戦い」で相馬盛胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡常兼【こばたつねかね(15??~1575)】

木幡継清家臣。通称藤十郎。1575年、「名取沙留川の戦い」で相馬盛胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡四郎左衛門【こばたしろうざえもん(15??~1575)】

木幡継清家臣。木幡武清の男。1575年、「冥加山の戦い」で相馬盛胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡友清【こばたともきよ(15??~1575)】

木幡継清家臣。通称十郎兵衛。1575年、「名取沙留川の戦い」で相馬盛胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡武清【こばたたけきよ(15??~1575)】

木幡継清家臣。通称彦市。1575年、「名取沙留川の戦い」で相馬盛胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡尚清【こばたなおきよ(15??~1576)】

木幡継清家臣。通称雅楽。赤井館代を務めた。1576年、「雉尾川の戦い」で討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡因幡守【こばたいなばのかみ(15??~1589)】

木幡継清家臣。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で相馬隆胤に従い敗走する相馬隆胤の殿を務め、伊達政宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡與惣兵衛【こばたおきそうえもん(15??~1563)】

相馬盛胤家臣。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で相馬盛胤に従い
参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木幡作助【こばたさくすけ(15??~1589)】

木幡継清家臣。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で相馬隆胤に従い伊達政宗勢との戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

小林筑後守【こばやしちくごのかみ(15??~15??)】

中畠晴辰家臣。富久保館主。1588年、「泉崎館の戦い」で中畠晴辰が辺見主膳正を追落とすと、泉崎館の城将に任じられた。

小針頼広【こばりよりひろ(15??~1588)】

結城晴綱の男。白河郡滑津館主。官途は山城守。

小針政頼【こばりまさより(15??~15??)】

小針頼広の男。1590年、「奥州仕置」で結城義親が改易処分に処されると没落した。

小丸主水【こまるもんど(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

小峰義名【こみねよしな(15??~1589)】

結城顕頼の次男。通称善七郎。官途は左近大夫。小峰家を継いでいた兄結城義親が白河結城家の家督を相続したため、小峰家の家督を相続した。1575年、結城義親が佐竹義重勢に捕縛されると、佐竹義重により白川結城家の惣領職に擁立された。1589年、「須賀川城の戦い」で結城義親の陣代として伊達政宗に従い参陣した。

小峰朝景【こみねともかげ(15??~15??)】

結城義綱の男(小峰義名の養子)。

小山左馬之助【こやまさまのすけ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡御祭館主。550石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

近藤和泉守【こんどういずみのかみ(15??~15??)】

結城義親家臣。1570年、佐竹義重の家臣東義久勢に属した。

近藤対馬守【こんどうつしまのかみ(15??~15??)】

結城義親家臣。1570年、佐竹義重の家臣東義久勢に属した。1585年、屋敷山乱入禁止の制札を与えられた。

近藤豊後守【こんどうぶんごのかみ(15??~15??)】

結城義親家臣。通称掃部助。1570年、佐竹義重の家臣東義久勢に属した。1574年、東義久から所領安堵を受けた。

金堂右衛門【こんどうさえもん(15??~15??)】  

田村隆顕家臣。田村郡石森館主。760石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

紺野伊賀守【こんのいがのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡北屋形館主。標葉六騎七人衆参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

紺野美濃守【こんのみののかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡津嶋館主。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

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【さ】

斎胤行【さいたねゆき(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称源内。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

斎藤大膳【さいとうだいぜん(15??~15??)】

田村郡斎藤館主。350石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

斎藤源蔵【さいとうげんぞう(15??~15??)】

亘理元宗家臣。官途は越中守。通称作兵衛。騎馬衆。大鼓の名手。伊達成実が亘理元宗からもらい受け仕えた。参考文献:『蕨宍戸家文書』by亘理郷土史研究会。

斎藤修理【さいとうしゅり(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い負傷した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

酒井忠興【さかいただおき(15??~1570)】

相馬盛胤家臣。通称将監。標葉四七人衆。1525年、「白土城の戦い」で岩城重隆勢と戦い青田常義が討死したため、新山西館代に任じられた。1570年、「羽生川の戦い」で相馬義胤に従い伊達晴宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

坂元俊常【さかもととしつね(15??~15??)】

亘理元宗家臣。通称木工助。1565年、「名取沙留川の戦い」で亘理元宗に従い相馬盛胤の家臣富田丹波守を討取り佩刀の角柄生を奪ったが討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

坂元伊予守【さかもといよのかみ(15??~15??)】

亘理重宗家臣。1577年、信夫郡杉目城主伊達晴宗のもとに亘理重宗の名代として病気見舞いに遣わされた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

坂元大膳【さかもとだいぜん(15??~1571)】

亘理元宗家臣。官途は三河守。1571年、「愛宕山城の戦い」で相馬盛胤勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

坂元俊久【さかもととしひさ(15??~1589)】

坂元大膳の男。。官途は三河守。1571年、「愛宕山城の戦い」で相馬盛胤勢の攻撃を受け亘理城に落延びた。1589年、「駒峰城の戦い」で相馬義胤勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

笹山五郎兵衛【ささやまごろうべい(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡笹山館主。693石を領した。

佐藤好信【さとうよしのぶ(1511~1563)】

相馬顕胤家臣。伊具郡小斎城主。富岡右京進、富岡美濃守らとともに軍奉行職を務めた。1563年、「中村城の戦い」では、草野直清、青田顕治らと戦い戦功を挙げた。桑折左馬之助の讒言を受け、軍奉行職を解任され改易処分に処された。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

佐藤清信【さとうきよのぶ(15??~15??)】

佐藤好信の男。官途は勘解由。室は岡田茂胤の娘。1563年、父佐藤好信が桑折左馬之助の讒言を受け改易処分に処された。1582年、「小斎城の戦い」で弟の佐藤為信が伊達政宗勢に内応して、援将の桑折左馬之助、金沢美濃守を謀殺するが、佐藤清信は相馬盛胤に従った。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

佐藤為信【さとうためのぶ(1543~1591)】

佐藤好信の次男。官途は紀伊守。通称左衛門。1563年、父佐藤好信が桑折左馬之助の讒言を受け改易処分に処された。1582年、「小斎城の戦い」で伊達政宗勢に内応して、援将の桑折左馬之助、金沢美濃守を謀殺した。伊達政宗に仕え南奥州各地を転戦して戦功を挙げた。1591年、「佐沼城の戦い」で伊達政宗に従い葛西晴信勢と戦い討死した。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

佐藤勝信【さとうかつのぶ(15??~15??)】

佐藤為信の男。1582年、「小斎城の戦い」で父佐藤為信が伊達政宗に内応すると、人質として伊達政宗のもとに送られた。

佐藤忠秀【さとうただひで(15??~1579)】

結城義綱家臣。白河郡双石館主。佐藤忠量の男。官途は大隈守。別名佐藤忠胤。諸国遍歴中に軍配者として結城義綱に仕え双石館を領した。1555年、芦名盛氏の娘と小峰義親との婚儀をまとめた。1560年、「新城館の戦い」で二階堂盛義に内応した新城備後守、須田源次郎らと戦ったが援軍の保土原行藤勢の反撃を受け白石刑部大輔、新小萱篤綱が討死した。1576年、「赤館城の戦い」では、佐竹義重勢から赤館城を奪還した。佐竹義重勢の反撃を受けると、鶴生まで退却して芦名盛氏の後詰を待ったが、援軍を得ることができなっかった。1579年、佐竹義重の家臣戸村和泉守を討取る戦功を挙げたが、後詰が敗退したため討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐藤忠経【さとうただつね(15??~15??)】

佐藤忠秀の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐藤忠泰【さとうただやす(15??~15??)】

佐藤忠秀の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐藤忠直【さとうただなお(15??~15??)】

佐藤忠秀の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐藤忠久【さとうただひさ(15??~15??)】

佐藤忠秀の四男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐藤万七【さとうまんしち(15??~1590)】

相馬盛胤家臣。1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢に包囲された相馬隆胤を支援して討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

佐藤文七郎【さとうぶんしちろう(15??~1590)】

相馬盛胤家臣。1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢に包囲された相馬隆胤を支援して討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

佐藤孫兵衛【さとうまごべい(15??~1590)】

相馬盛胤家臣。1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢に包囲された相馬隆胤を支援して討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

佐藤隠岐守【さとうおきのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡菅谷館主。2,000石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

佐藤次郎右衛門【さとうじろうえもん(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

佐藤繁信【さとうしげのぶ(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。官途は河内守。金山城代。1576年、「冥加山の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

佐原内蔵之助【さわらくらのすけ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡金屋館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

三本木十郎右衛門【さんぼんぎじゅうろうえもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡海老根館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

塩沢高平【しおざわたかひら(15??~15??)】

大寺清光家臣。石川郡中野館主。官途は丹後守。1582年、石川昭光の家臣曲木信光が中野館を奪うため、石川昭光に年貢を納めさせようとした。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光が大寺清光を降伏に追い込むと、中野館、塩沢館、山小屋館を割譲させると、石川昭光に従った。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

塩沢茂貞【しおざわしげさだ(15??~15??)】

塩沢高平の男。官途は備後守。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

塩田伊勢守【しおだいせのかみ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

塩田堅物【しおたけんもつ(15??~15??)】  

田村隆顕家臣。田村郡赤沼館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

志賀隆義【しがたかよし(15??~15??)】

岩城重隆家臣。通称四郎右衛門。1541年、岩城重隆の娘(久保姫)を巡って、相馬顕胤と伊達晴宗が争うと、岩城重隆に愛想を尽かし、伊達実元に仕えた。参考文献:『蕨宍戸家文書』by亘理郷土史研究会。

志賀隆正【しがたかまさ(15??~15??)】

志賀隆義の男。官途は備後守。1574年、「八丁目館の戦い」で畠山義国勢から伊達実元が八丁目館を奪還すると、伊達輝宗のもとに使者として赴いた。参考文献:『蕨宍戸家文書』by亘理郷土史研究会。

志賀備後守【しがびんごのかみ(15??~15??)】

志賀隆正の男。通称大炊左衛門。別名加藤大炊左衛門。騎馬衆。1586年、「渋川っ館の戦い」で伊達成実に従い鹿子田和泉守勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」に伊達成実に従って参陣した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、伊達政宗の意向を受けた伊達成実に従って山形城を接収した。参考文献:『蕨宍戸家文書』by亘理郷土史研究会。

志賀武治【しがたけはる(15??~15??)】

岩城貞隆家臣。別名「甘釣斎玄胡」。佐竹義重と伊達政宗や岩城貞隆と伊達政宗との和議の取次役を務めた。

鹿又太蔵【しかまたおおくら(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡長外路館主。409石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

鹿又備前守【しかまたびぜんのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡新舘館主。790石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

宍戸方則【ししどかたのり(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称刑部。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

條又友成【しのまたともなり(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称十郎。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

柴原助左衛門【しばはらすけざえもん(15??~15??)】

田村郡柴原館主。350石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

渋田見遠江守【しぶたみとうとみおみのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉四七人衆。

下浦泰清【しもうらやすきよ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡下浦館主。官途は常陸介。標葉六騎衆。1524年、「木戸館の戦い」で相馬顕胤に従い先陣を務め、岩城重隆勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

下浦常清【しもうらつねきよ(15??~15??)】

下浦泰清の男。

白土隆通【しらとたかみち(1551~1600)】

岩城常隆家臣。官途は摂津守。志賀武治とともに伊達輝宗との取次役を務めた。1590年、岩城常隆が病没すると、佐竹義重の三男岩城貞隆を養子に迎え増田長盛を通じて羽柴秀吉からの朱印状を取り付け、岩城家を存続させた。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

白土隆良【しらとたかよし(15??~15??)】

白土隆通の男。官途は右馬助。

白土隆顕【しらとたかあき(15??~15??)】

岩城常隆家臣。官途は下総守。

白土左近【しらとさこん(15??~15??)】

結城義親家臣。佐竹義重の家臣東義久に従った。1584年、佐竹義久の意向を受け赤館城番を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

白土弾正忠【しらとだんじょうのちゅう(15??~15??)】

結城義親家臣。1575年、佐竹義重の家臣東義久に従った。東義久の意向を受け、天神林玄蕃允、鹿子玄蕃とともに南郷、赤館城方面で足軽衆を指揮した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

白石実綱【しろいしさねたね(15??~15??)】

刈田郡白石城主。伊達晴宗家臣。官途は大和守。通称藤四郎。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗に属して戦功を挙げた。1546年、伊達晴宗を白石城に迎え入れた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

白石宗利【しろいしむねとし(15??~15??)】

白石実綱の男。官途は大和守。通称藤四郎。1570年、「伊達元亀の乱」で謀反を起こした中野宗時、牧野久仲らの捕縛に失敗して、伊達輝宗から怒りを買い罷免されたが、その後赦免された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

白石宗実【しろいしむねざね(1553~1599)】

白石宗利の男。官途は若狭守。通称右衛門大輔。1584年、「金山城の戦い」で伊達輝宗に従い相馬義胤との戦い戦功を挙げた。1585年、「人取橋の戦い」では、伊達政宗に従い佐竹義重勢と戦った。畠山義継、相馬義胤との取次役を務めた。1586年、安達郡宮森城主に任じられた。1589年、「摺上原の戦い」で伊達政宗に従い芦名盛重勢と戦い戦功を挙げた。1591年、伊達政宗が岩出山城に転封すると、胆沢郡水沢城15,000石を領した。1593年、「文禄の役」で伊達政宗に従い渡海した。1599年、朝鮮からの帰国直後、山城国伏見で病没した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

白石宗直【しろいしむねなお(1577~1629)】

梁川宗清の男(白石宗実の養子)。室は白石宗実の娘(心月院)。1600年、「白石城の戦い」では、長尾景勝勢が守る白石城を攻撃した。「長谷堂城の戦い」では、留守政景に従い最上義光の援軍として参陣した。南部信直領に侵攻した和賀忠親を後方から支援した。役後、登寺池城15,000石を領した。城下街の発展や北上川の整備などに積極的に取り組み、20,000石余り増加した。1614年、「道明寺の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白石宗貞【しろいしむねさだ(15??~15??)】

白石宗直の男。別名伊達宗貞。伊達政宗から隠居を命じられ、西野館に家臣60余りとともに移り住んだ。

白岩主膳正【しろいわしゅぜんのしょう(15??~15??)】    

田村清顕家臣。田村郡白岩館主。西方寄騎衆50騎余りを率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

新飯肥前守【しんいいづかひぜんのかみ(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡新殿館主。北方衆50騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

新城宮内【しんじょうくない(15??~15??)】

田村隆顕家臣。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

杉目掃部【すぎのめかもん(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡杉野目館主。標葉郡四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

杉目三河守【すぎめみかわのかみ(15??~1589)】

相馬顕胤家臣。標葉郡杉野目西館主。官途は甲斐守。標葉郡四七人衆。1589年、「新地城の戦い」で伊達政宗の家臣亘理重宗勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

杉盛重【すぎもりしげ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡杉館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

鈴木保澄【すずきやすずみ(15??~15??)】

大寺清光家臣。通称若狭之介。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

鈴木豊住【すずきとよずみ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称九郎左衛門。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

鈴木義久【すずきよしひさ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称七郎左衛門。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

鈴木杢之助【すずきじょうのすけ(15??~1575)】

鈴木忠治家臣。1575年、「名取沙留川の戦い」で相馬盛胤に従い先陣を務め、二騎を討取るも伊達輝宗勢の反撃を受け討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

鈴木源右衛門【すずきげんえもん(15??~15??)】

佐藤宮内家臣。1576年、「坂本城の戦い」で佐藤宮内に従い伊達輝宗勢と戦い坂本城代後藤三河守を討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

砂金藤四郎【すながねとうしろう(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

関本太郎右衛門【せきもとたろうえもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡関本館主。300石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

瀬谷宗太夫【せやにむねだいふ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

瀬谷丹波守【せやたんごのかみ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

相馬盛胤【そうまもりたね(1476~1521)】

行方郡小高城主。相馬高胤の男。官途は大膳大夫。通称孫次郎。別名相馬定胤。室は芦名盛舜の娘。1492年、「第一次権現堂城の戦い」で父相馬高胤が標葉隆成との戦いで陣没したため、相馬家惣領職を相続した。家督を相続すると家中を態勢を立て直して標葉隆成の戦いを再開した。「第二次権現堂城の戦い」で標葉隆成を討取って標葉郡を掌握した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

相馬顕胤【そうまあきたね(1508~1549)】

相馬盛胤の男。通称孫次郎。室は伊達稙宗の娘。1542年、「伊達天文の乱」では、懸田俊宗、懸田義宗らとともに伊達稙宗を支援して伊達晴宗勢と戦った。1543年、「大森城の戦い」では、伊達晴宗勢を多数討取る戦功を挙げた。1547年、芦名盛舜、芦名盛氏、二階堂照行、田村義顕、田村隆顕らとともに伊達晴宗勢に属した、黒木正房、中村義房らを討取る戦功を挙げた。宇多郡、行方郡、標葉郡の三郡を掌握した。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

相馬盛胤【そうまもりたね(1529~1601)】

相馬顕胤の男。官途は弾正大弼。通称孫次郎。室は懸田義宗の娘。1549年、田村清顕と和議を結び、妹を田村清顕の内室とした。1560年、伊達稙宗の娘(越河御前)を継嗣の相馬義胤の内室に迎えた。1563年、「貝殻坂、石積坂の戦い」で青田顕治、青田胤治、草野直清らが謀反を起こしたが、相馬義胤、佐藤好信らの活躍によりこれを鎮圧した。1564年、「陸前北目城の戦い」亘理元宗を支援して粟野宗国勢と戦った。1565年、「丸森城の戦い」で伊達晴宗勢から丸森城を奪い伊具郡まで勢力を拡大した。1566年、「金津城の戦い」では、亘理元宗と結び伊達晴宗勢と戦った。1578年、相馬家惣領職を継嗣の相馬義胤に譲り隠居した。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

相馬義胤【そうまよしたね(1548~1635)】

相馬盛胤の男。官途は長門守。通称孫次郎。室は伊達稙宗の娘(越河御前)。継室は長江盛景の娘。1564年、畠山義継、大内定綱らと結び伊達輝宗勢と戦った。1585年、「小手森城の戦い」で畠山義継、大内定綱らが伊達政宗勢に敗れると、家臣の離反や弟の相馬隆胤が討死するなど、軍事的に窮地にたたされた。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢に参陣して行方郡、宇多郡、標葉郡の三郡(48,000石)の所領を安堵された。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したため、改易処分に処された。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

相馬隆胤【そうまたかたね(1551~1589)】

相馬盛胤の次男。官途は兵部大輔。武勇に優れた猛将だったが、血気盛んで慎重さを欠く性格だった。1563年、「中村城の戦い」で草野直清が謀反を起こし、これを討取ると、中村城代に任じられた。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で伊達政宗勢との戦いで劣勢を顧みず突撃して討死した。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

相馬利胤【そうまとしたね(1581~1625)】

相馬義胤の男。官途は大膳亮。室は芦名盛隆の娘(江戸崎御前)。1600年、「関ヶ原の役」では、父相馬義胤が佐竹義宣とともに石田三成勢に属したため、改易処分に処された。1601年、内室の江戸崎御前が病没すると、松平秀忠の仲介により、馬廻衆の岡田元次の娘を継室に迎えた。1602年、伊達政宗の奔走によって相馬利胤が旧領に復帰した。1615年、「大坂夏の陣」で松平秀忠勢の先陣を務め戦功を挙げた。中村の城下街を京のような碁盤の目のような街並みを作った。家臣に陶芸を学ばせ相馬駒焼の基礎を作り出すなど、政治的に優れた政策を行った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

相馬郷胤【そうまさとたね(15??~1601)】

相馬盛胤の四男。通称忠次郎。別名田中郷胤。父相馬盛胤の隠居地、田中館を守備した。相馬盛胤が中村城に転封すると、田中館代を務め、1,300石を領した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

相馬胤乗【そうまたねのり(15??~15??)】

相馬盛胤の次男。黒木館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

添田吉村【そえだよしむら(15??~15??)】  

石川昭光家臣。通称兵庫之佐。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

添田弥右衛門【そえだよへい(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

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【た】

高田六郎【たかだろうくろう(15??~1576)】

相馬盛胤家臣。1576年、「冥加山の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

高田内膳【たかだないぜん(15??~15??)】

草野直清家臣。標葉郡四七人衆。1563年、「中村城の戦い」で草野直清が青田胤治と結んで相馬盛胤に謀反を起こしたが、従わず相馬盛胤勢に属した。「貝殻坂、石積坂の戦い」で青田胤治、舟山豊前守、大谷地掃部勢の攻撃を撃退する戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

高野知久【たかのともひさ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称本太郎。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

高橋文右衛門【たかはしぶねもん(15??~15??)】

飯崎安元家臣。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で飯崎安元に従い伊達晴宗勢と戦い大谷地掃部を討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

高平壱岐守【たかひらいきのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

滝迫胤治【たきさこたねはる(15??~15??)】

木幡胤清の次男。標葉郡滝迫館主。官途は日向守。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

滝迫清詮【たきさこきよあき(15??~15??)】

滝迫清詮の男。官途は日向守。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で相馬盛胤に従い草野直清勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

竹貫隆光【たけぬきたかみつ(15??~15??)】

石川晴光家臣。石川郡竹貫館主。官途は三河守。1534年、「三芦城の戦い」で石川晴光が田村隆顕、二階堂晴行、結城晴綱らの攻撃を受けると、石川晴光からの離反して岩城重隆勢に属した。1541年、「東館城の戦い」で佐竹義昭と結城義綱が争うと、岩城重隆の意向を受け和議の仲介役を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

竹貫広光【たけぬきひろみつ(1508~1557)】

竹貫隆光の男。1541年、「東館城の戦い」で佐竹義昭と結城義綱が争うと、父竹貫隆光とともに、和議の仲介役を務めた。1574年、「竹貫城の戦い」では、伊達輝宗の家臣長尾越前守らの攻撃を受けたが、富岡隆宗、大塚親成、車義秀、白土長門守、大高新左衛門らとともに伊達輝宗勢を撃退した。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

竹貫重光【たけぬきしげみつ(15??~1601)】

竹貫広光の男。官途は三河守。1589年、「須賀川城の戦い」で須田盛秀に従い須賀川城に籠城して伊達政宗勢と戦った。須賀川城が落城すると、牛ヶ城に籠城して戦い続けた。「小田原の役」では、岩城常隆に従い参陣した。1600年、岩城貞隆が改易処分に処されると所領を失った。1601年、「富岡城の戦い」で富岡城に籠城するが、松平秀忠から派遣された千本義定勢の攻撃を受け自刃した。

田島信濃守【たじましなののかみ(15??~1575)】

結城義顕家臣。白河郡田島館主。1575年、結城義顕が結城義親に白河城を追われると、郷石見守とともに結城義顕を匿った。「田島館の戦い」で結城義親勢の攻撃を受け、結城義顕を落延びさせるため、田島館に籠城して討死した。

立谷越前守【たちたにえちぜんのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

田中隆定【たなかたかさだ(15??~15??)】

岩城常隆家臣。官途は越中守。1590年、隠居した佐竹義重に仕えた。1591年、山尾城の門、橋の普請奉行を務めた。

谷沢兵庫之頭【たにさわひょうごのかみ(15??~15??)】  

石川晴光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

田村義顕【たむらよしあき(1472~1561)】

田村郡三春城主。田村盛顕の男。官途は大膳大夫。室は岩城常隆の娘。1487年、父田村盛顕の病没後、田村家惣領職の家督を相続した。1504年、三春城を築き居城とした。1532年、田村隆顕に家督を譲って隠居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田村隆顕【たむらたかあき(1489~1574)】

田村義顕の男。官途は安芸守。室は伊達稙宗の娘。猛将。1532年、父田村義顕の隠居により田村家惣領職の家督を相続した。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗勢に属して伊達晴宗勢と戦った。1547年、伊達稙宗勢に属していた芦名盛氏が伊達晴宗勢に寝返ると劣勢に立たされた。1549年、相馬顕胤と和議を結び、相馬顕胤の娘を田村清顕の内室として迎えた。1560年、佐竹義昭と結んで芦名盛興と戦った。1572年、佐竹義重勢から攻撃を受けると、芦名盛隆と結んで対抗した。参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。

田村清顕【たむらきよあき(1526~1586)】

田村隆顕の男。室は相馬顕胤の娘(於北方)。1574年、父田村隆顕の病没後、田村家の家督を相続した。愛姫を伊達政宗の内室として嫁がせ、伊達輝宗勢の支援を受けた。伊達輝宗と相馬義胤が争うと、和議の仲介役を務めた。1584年、「千石森の戦い」で大内定綱勢と戦い大敗した。1586年、田村清顕が病没すると、継嗣がおらず家督相続問題で家中が混乱した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田村宗顕【たむらむねあき(1574~1648)】

田村氏顕の男(田村清顕の養子)。田村郡牛縊館主。通称五郎兵衛門。別名牛縊定顕。350石を領した。1586年、田村清顕が病没すると、田村家中が伊達政宗勢と相馬盛胤勢に分かれて勢力争いを繰り広げた。伊達政宗に擁立され、田村家惣領家の家督を相続した。1590年、「奥州仕置」で改易処分に処され、白石城下で隠棲した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田村定広【たむらさだひろ(15??~15??)】

田村宗顕の男。別名片倉定広。

田村宗良【たむらむねよし(16??~16??)】

伊達忠宗の三男(田村宗顕の養子)。1648年、田村宗顕が病没すると、田村家の家督は一時断絶した。1652年、田村家惣領職の家督を相続した。

田村顕頼【たむらあきより(1492~15??)】

田村盛顕の次男。田村郡鹿又館主。官途は宮内少輔。別名「月斎聖休」。鹿又館1,460石を領した。1559年、「今泉城の戦い」で田村隆顕に従い参陣して二階堂盛義勢を追落とす戦功を挙げ今泉城代に任じられた。1586年、田村清顕が病没すると、伊達政宗勢に属して相馬義胤勢の大越顕光と対立して大越顕光勢を三春城から追落とした。1589年、「須賀川城の戦い」でば、伊達政宗に従い参陣した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田村顕基【たむらあきもと(15??~15??)】

田村郡小野館主。田村盛顕の次男。官途は右馬頭。通称「梅雪斎」。別名田村顕盛。田村家四宿老職。1586年、田村清顕が病没すると、田村清顕の未亡人とともに相馬義胤勢に属した。

田村清通【たむらきよみち(15??~15??)】

田村顕基の男。官途は右馬頭。

田村顕長【たむらあきなが(15??~15??)】

田村顕基の次男。

田村憲顕【たむらのりあき(15??~15??)】

田村郡船引館主。田村義顕の次男。船引館7,300石を領した。

田村清康【たむらきよやす(15??~15??)】

田村憲顕の男。官途は右衛門大夫。1586年、田村清顕が病没すると、田村顕基、田村顕頼、橋本顕憲らと田村家の指導権を争った。1588年、敗れて相馬義胤のもとに落延びた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田村秀明【たむらひであき(15??~15??)】

田村清康の男。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田村重顕【たむらしげあき(15??~1579)】

田村隆顕の次男。1579年、「木村館の戦い」で田村清顕に従い二階堂盛義勢と戦い討死した。

田村氏顕【たむらうじあき(15??~1584)】

田村隆顕の四男。通称善九郎。別名田村友顕。1584年、「千石森の戦い」で田村清顕に従い大内定綱勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田村重時【たむらしげとき(1499~1572)】

田村重為の次男。官途は下野守。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

田村政顕【たむらまさあき(15??~15??)】

田村顕基家臣。通称兵部。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田村相模守【たむらさがみのかみ(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡守山山中館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田村兵部少輔【たむらひょうぶしょうほ(15??~15??)】

田村清顕家臣。鉄炮衆。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦った。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

田村宮内太夫【たむらくないだいふ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡上宇津志館主。700石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田村左馬之助【たむらさまのすけ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡小野新町城。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。  

田村右衛門【たむらさえもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡石沢館主。730石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田村民部【たむらみんぶ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田母神玄蕃頭【たのがみげんばのかみ(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡田母神館主。南方衆50騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

田村彦七郎【たむらひこしちろう(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い橋本刑部少輔ととも、敗走する大越紀伊守勢の殿を務めた。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

為源次【ためもとつぐ(15??~15??)】

田村郡浮金館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

俵口光貞【たわらぐちみつさだ(15??~15??)】

相馬義胤家臣。通称吉左衛門。相馬義胤の近習を務めた。参考文献:『慶長・元和の大津波 奥州相馬戦記』by近衛龍春。

丹伊田玄蕃【たんいだげんば(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡丹伊田館主。1,300石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 

円谷内記【つぶらやないき(15??~15??)】  

大寺清光家臣。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

寺内式部【てらうちしきぶ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

寺内丹後守【てらうちたんごのかみ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

天神堂法師【てんしんどうほうし(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

東郷胤光【とうごうたねみつ(15??~1543)】

相馬顕胤家臣。通称治部。室は木幡胤清の娘。標葉六騎七人衆。1543年、「田中城の戦い」で伊達晴宗と結び中村義房、黒木信房らとともに相馬顕胤に謀反を起こした。1543年、「田中城の戦い」で相馬顕胤の家臣桑折久家勢を攻撃してこれを討取る戦功を挙げた。「広野原の戦い」で相馬顕胤、岡田直胤、堀内近胤勢と戦い敗退した。木幡胤清の屋敷の招かれ謀殺された。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

百槻胤正【どうづきたねまさ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。通称右兵衛。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

常盤勝定【ときわかつさだ(15??~15??)】

田村清顕家臣。官途は伊賀守。1586年、田村清顕が病没すると、伊達政宗に従った。

常盤与惣兵衛【ときわよそうえもん(15??~15??)】

常盤勝定の男。官途は伊賀守。

常盤実定【ときわさねさだ(1580~15??)】

常盤与惣兵衛の男。官途は信濃守。通称隼人。1592年、伊達成実に仕えた。1598年、伊達成実が出奔すると、それに従った。伊達成実が亘理郡を領すると、宇佐美長光とともに伊達政宗に太刀を献上した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、伊達政宗の意向を受けた伊達成実に従い山形城を接収した。

常盤吉定【ときはよしさだ(15??~16??)】

常盤実定の男。官途は但馬守。通称内蔵助。1606年、伊達成実に従い江戸屋敷に赴き愛姫から小袖を賜った。

常盤元定【ときはもとさだ(1609~1646)】

常盤実定の次男。通称権六。別名常盤元安。1646年、伊達成実に従い殉死した。辞世の句は「月の入るあとをしたいてやがて身は 同じ道にと行くすえの空」。

常盤景定【ときわかげさだ(16??~16??)】

常盤実定の三男。官途は縫殿丞。伊達成実の側近を務めた。

栃窪胤光【とちくぼたねみつ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。通称蔵人。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

栃窪胤清【とちくぼたねきよ(15??~15??)】

門馬貞経の次男(栃窪胤光の養子)。通称勘兵衛。別名門馬胤清。室は栃窪胤光の娘。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

富岡隆時【とみおかたかとき(15??~15??)】

岩城常時の五男。日向館主。官途は大和守。1534年、「日向館の戦い」で相馬顕胤勢の攻撃を受け落城した。

富岡隆宗【とみおかたかむね(1554~1610)】

富岡隆時の男。石川郡竹貫館主に任じられた。1574年、「竹貫館の戦い」で伊達輝宗勢の攻撃を撃退する戦功を挙げた。1600年、岩城親隆が改易処分に処されると、松平元康に仕え3,000石を領した。

富田右近【とみたうこん(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦った。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

常盤貞之【ときわさだゆき(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡常盤館主。官途は甲斐守。常盤館5,000石を領して東方衆50騎の寄騎衆を率いた。

常盤貞久【ときはさだひさ(15??~15??)】

常盤貞之の男。官途は甲斐守。田村清顕から疎まれ、相馬盛胤のもとに落延びた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

常盤彦右衛門【ときはきこえもん(15??~15??)】    

常盤貞久家臣。北方衆4騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

常盤久四郎【ときはひさしろう(15??~15??)】

常盤貞久の弟。田村郡神股館主。神股館880石を領して小野城下衆を率いた。

常盤光貞【ときわみつさだ(15??~15??)】

田村清顕家臣。官途は摂津守。1544年、大越顕光とともに石川稙光と田村隆顕の和議の取次役を務めた。

常盤清重【ときわきよしげ(15??~15??)】 

常葉光貞の男。官途は伊賀守。1560年、橋本顕光とともに田村清顕に従い芦名盛興と戦った。

富沢玄蕃【とみざわげんば(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡富沢館主。1,200石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

富沢丹波守【とみざわたんばのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡下広瀬館主。850石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

富沢伊賀守【とみざわいがのかみ(15??~15??)】    
 
田村隆顕家臣。田村郡富沢館主。北方衆50騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

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【な】

永井五郎【ながいごろう(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡駒枝館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

永窪越後守【ながくぼえちごのかみ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

永谷豊前守【ながたにぶぜんのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡水谷館主。276石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

中津川親宗【なかつがわちかむね(15??~15??)】 

田村清顕家臣。通称兵衛太輔。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

中津川右衛門【なかつがわうえもん(15??~15??)】 

田村郡細田館主。600石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

中津川兵衛左【なかつがわさへいさ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡中津川館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

中津川兵部【なかつがわひょうぶ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡中津川館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

中野道満【なかのみちみつ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡波籠石館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。    

長野一露斎【ながのいちろさい(15??~15??)】

相馬義胤家臣。軍配者。1576年、「冥加山の戦い」で相馬義胤勢を指揮して城主六人、騎馬400、兵1,731余りを討取る戦功を挙げた。長者岡で頸実検を行い、勝鬨を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

中畠晴常【なかはたはるつね(15??~15??)】

結城晴綱の男。白河郡国神館主。官途は上野介。1575年、「白河城の戦い」では、結城義顕勢に属して結城義親勢と戦ったが、結城義親を支援する佐竹義重勢の攻撃を受け降伏した。1579年、佐竹義重の次男芦名盛重を結城家の養子に迎えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中畠晴辰【なかはたはるたつ(15??~1590)】 

中畠晴常の男。官途は上野守。1583年、「三城目城の戦い」で伊東祐勝を追落とした。1588年、「泉崎館の戦い」で辺見主膳正を攻撃してこれを討取った。1590年、「奥州仕置」で結城義親が改易処分に処されると、中畠晴辰も所領を失った。相馬義胤を頼って落延びる途中、落武者狩りに襲われ討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中畠晴時【なかはたはるとき(1570~1591)】

中畠晴常の次男。官途は大学助。1590年、兄中畠晴辰が討死したため、中畠家の家督を相続した。馬尾滝で羽柴秀吉を狙撃したが失敗し逃走した。1591年、「九戸政実の乱」で蒲生氏郷に従い九戸政実勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中畠晴倶【なかはたはるとも(15??~16??)】

中畠晴時の男。別名相楽晴倶。1591年、「九戸政実の乱」で父中畠晴時が討死したため、家臣の相楽総三に養育された。1627年、岩代黒川城を領した加藤嘉明に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中村壱岐守【なかむらいきのかみ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

中村義房【なかむらよしふさ(15??~1543)】

宇多郡中村館主。黒木信房の弟。別名黒木大膳。1542年、「田中城の戦い」で兄黒木信房とともに田中城の相馬顕胤の家臣桑折久家勢を攻撃するが敗退した。1543年、「中村館の戦い」で相馬顕胤勢の攻撃を受け降伏した。勝善原で相馬顕胤勢に黒木信房とともに謀殺された。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

中村胤高【なかむらたねたか(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。上浦館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

中村隆政【なかむらたかまさ(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。通称助右衛門。猩々緋の鉄砲頭として高名。天正年中には合戦ごとに武功抜群。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

中山太郎右衛門尉【なかやまたろううえもんのじょう(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡上石館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 

七草木新助【ななくさきしんすけ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡七草木館主。500石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

新小萱篤綱【にこがやあつつな(15??~1560)】

結城義綱家臣。白河郡新小萱館主。官途は雅楽頭。1544年、鹿王山最勝寺に銅鐘を結城義綱、結城晴綱、和知直頼、斑目広基、南恵綱らとともに奉納した。1560年、「新城館の戦い」では、二階堂照行に寝返った新城備後守と須田源次郎と戦った。保土原行藤勢の攻撃が受け白石刑部大輔が討死し、新小萱篤綱も負傷した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

西山源兵衛【にしやまげんべい(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

西山新兵衛【にしやましんべい(15??~15??)】

相馬義胤家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で相馬義胤に従い亘理重宗勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

西山蔵人【にしやまくらうど(15??~15??)】

相馬義胤家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で相馬義胤に従い亘理重宗勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

西胤次【にしたねつぐ(15??~1525)】

相馬盛胤家臣。通称右衛門尉。1525年、「仁井田館の戦い」で相馬顕胤勢に従い岩城重隆勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

日下石隆忠【にっけしたかただ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。官途は美濃守。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

新田信政【にったのぶまさ(15??~15??)】

田村清顕家臣。官途は美作守。田村家四宿老職。

新田蔵助【にったくらのすけ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡蛇澤館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。   

二瓶主膳正【にへいしゅぜんのしょう(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡小野館主。東方衆15騎の寄騎衆を率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

二本松国綱【にほんまつくにつな(15??~15??)】

相馬義胤家臣。官途は右馬頭。相馬義胤の近習を務めた。参考文献:『慶長・元和の大津波 奥州相馬戦記』by近衛龍春。

糠田内膳【ぬかたないぜん(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

額田悪七衛門【ぬかたあくしちべい(15??~15??)】

黒木丹波守家臣。1581年、「大条館の戦い」で伊達輝宗の家臣富塚近江守勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

實澤山城守【ぬきさわやましろのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡實澤館主。1,300石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

沼澤孫兵衛【ぬまさわまごべい(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡沼澤館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。   

根本豊次【ねもととよつぐ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡和名田館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

野内光房【のうちみつふさ(15??~15??)】

矢吹行重の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

野内正兼【のうちまさかね(15??~15??)】

田村顕基家臣。官途は伊予守。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

 野口金光【のぐちかねみつ(15??~1582)】

大寺清光家臣。官途は丹波守。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い石川昭光勢と戦い討死した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

野崎筑前守【のざきえちぜんのかみ(15??~15??)】

中畠晴辰家臣。白河郡根岸館主。1588年、「泉崎館の戦い」で中畠晴辰が辺見主膳正を追落とすと、泉崎館の城将に任じられた。

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【は】

芳賀綱勝【はがつなかつ(15??~15??)】

結城晴綱家臣。通称左衛門。

芳賀因幡守【はがいなばのかみ(15??~15??)】

結城晴綱家臣。官途は兵部少輔。1575年、「白河城の戦い」で佐竹義重に内応して戦功を挙げた。東義久から所領を安堵された。

芳賀讃岐守【はがさぬきのかみ(15??~15??)】

結城晴綱家臣。官途は玄蕃允。1575年、「白河城の戦い」で佐竹義重に内応して戦功を挙げた。東義久から所領を安堵された。1595年、知行割替では白河玉野などで70石を領した。

橋本顕徳【はしもとあきのり(15??~15??)】

田村清顕家臣。田村郡下枝館主。官途は刑部少輔。筆頭家老職を務め、西方衆の旗頭として1,100石を領した。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い田村彦七郎ととも、敗走する大越紀伊守勢の殿を務めた。1586年、田村清顕が病没すると、田村顕頼、田村顕基、田村清康とともに伊達政宗勢に属して田村家を家政を司った。1588年、「三春城の戦い」で田村顕盛が三春城に相馬義胤勢を引き入れると、橋本顕徳勢がこれを撃退した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

橋本但馬守【はしもとたじまのかみ(15??~15??)】

橋本顕徳の男。1579年、愛姫が伊達政宗に輿入れすると、附家老職として伊達輝宗に仕えた。

橋本修理【はしもとしゅり(15??~15??)】

橋本顕徳家臣。田村郡芦沢館主。1,700石を領した。

橋本和泉守【はしもといずみのかみ(15??~15??)】

橋本顕徳家臣。田村郡柴原館主。

長谷胤重【はせたねしげ(15??~15??)】

亘理元胤の三男。

長谷重景【はせしげかげ(15??~15??)】

亘理宗隆の次男(長谷胤重の養子)。室は桑折宗季の娘。

畑右衛門正【はたうえもんのじょう(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡堀田館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

羽鳥伊賀守【はとりいがのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡羽鳥館主。標葉四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

羽根田主膳【はねだしゅぜん(15??~15??)】

相馬義胤家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で相馬義胤に従い亘理重宗勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

羽根田源左衛門【はねだげんざえもん(15??~15??)】

相馬義胤家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で相馬義胤に従い亘理重宗勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

馬場掃部【ばばかもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡小川館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。    

標葉隆成【はようたかなり(14??~1492)】

標葉郡熊野堂館主。標葉郡惣領職。1492年、「熊野堂館の戦い」で相馬盛胤勢の攻撃を受けた。相馬盛胤勢の攻撃に頑強に抵抗した。家臣藤橋隆豊と牛渡九郎兵衛尉が相馬盛胤に内応したため滅亡した。

原味弥平左衛門【はらみよへいざえもん(15??~15??)】

田村清顕家臣。1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い負傷した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

燧内大学【ひきりうちだいがく(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡湯沢館主。560石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

菱沼時久【ひしぬまときひさ(15??~1544)】

亘理綱宗家臣。官途は弾正忠。1544年、「穂原掛田の戦い」で亘理綱宗とともに討死した。

広瀬今泉守【ひろせいずみのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡上広瀬館主。2,000石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

樋渡隆則【ひわたりたかのり(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。官途は摂津守。標葉郡四七人衆。1525年、「白土城の戦い」で岩城重隆勢と戦い青田常義が討死したため、標葉郡新山館主に任じられた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

樋渡重則【ひわたりしげのり(15??~15??)】

樋渡隆則の男。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

樋渡藤八郎【ひわたりとうざえもん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡樋渡館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

藤崎摂津守【ふじざきせっつのかみ(15??~1589)】

相馬盛胤家臣。駒ヶ嶺館主。藤崎胤寿の男。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で伊達政宗の家臣亘理重宗勢の攻撃を受け相馬盛胤もとに落延びた。「坂元城の戦い」で伊達政宗勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

藤崎久長【ふじざきひさなが(15??~15??)】

藤崎摂津守の男。通称治部丞。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で伊達政宗の家臣亘理重宗勢の攻撃を受け父藤崎摂津守とともに相馬盛胤もとに落延びた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

藤田晴近【ふじたはるちか(1537~1592)】

懸田俊宗の次男。1553年、「懸田館の戦い」で中島宗忠、桜田右兵衛、桜田玄蕃が内応、父懸田俊宗、兄懸田義宗が討死しため、相馬盛胤を頼り落延びた。相馬盛胤に忠節を尽くした。

藤田胤近【ふじたたねちか(15??~15??)】

藤田晴近の男。

藤橋隆豊【ふじはしたかとよ(14??~15??)】

標葉隆成家臣。標葉郡藤橋館主。1492年、「熊野堂館の戦い」で藤橋隆豊に従い熊野堂館に籠城したが、相馬盛胤勢の攻撃を受けると牛渡九郎兵衛尉とともに相馬盛胤に内応した。

藤橋胤隆【ふじはしたねたか(15??~15??)】

藤橋隆豊の男。官途は紀伊守。1564年、谷地小屋城代を務めた。1566年、金山城代に任じられた。1568年、「金山城の戦い」で伊達晴宗勢の攻撃を受け落城した参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

藤橋胤泰【ふじはしたねやす(1507~1579)】

泉田胤重の次男(藤橋胤隆の養子)。官途は紀伊守。1566年、「小斎城の戦い」では、伊達晴宗勢に内応して城代の八替七郎兵衛を討取った。

船尾隆輔【ふなおたかのり(15??~15??)】

岩城常隆の次男。

船尾隆直【ふなおたかなお(15??~15??)】

船尾隆輔の男。官途は下野守。1550年、佐竹義昭勢に属して、磐城国内を転戦して戦功を挙げた。1576年、東義久と起請文を交換した。

船尾昭直【ふなおあきなお(15??~16??)】

船尾隆直の男。官途は山城守。通称九郎三郎。1550年、父船尾隆直とともに佐竹義昭勢に属して、磐城国内を転戦して戦功を挙げた。1575年、滑津城に任じられた。1578年、芦名盛重が白河結城義親に入嗣すると、附家老職に任じられた。1590年、「摺上原の戦い」で芦名盛重が伊達政宗に敗れると、南郷川上に戻った。1595年、常陸茨城郡内で1,600石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

船尾義綱【ふなおよしつな(15??~16??)】

船尾昭直の男。官途は右兵衛尉。通称三七。父船尾昭直とともに芦名盛重を補佐した。1587年、芦名盛重が芦名家に入嗣すると、その附家老職を務めた。1589年、「摺上原の戦い」で芦名盛重が伊達政宗に敗れると、南郷川上に戻った。1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従い肥前名護屋城を守備した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

辺見主膳正【へんみしぜんのしょう(15??~15??)】

白河郡泉崎館主。1588年、「泉崎館の戦い」では、中畠晴辰の次男中畠右馬頭を養子に迎えようとしたが、那須資晴の反対を受け否決されると、中畠晴辰勢の攻撃を受け落城した。

星與玄親【ほしよげんちか(15??~1590)】

亘理元宗家臣。通称三左衛門。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

堀内近胤【ほりうちちかたね(15??~15??)】

相馬盛胤の次男。別名相馬近胤。官途は上野介。通称次郎太夫。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

堀内俊胤【ほりうちとしたね(15??~1569)】

相馬近胤の次男。通称右兵衛尉。1569年、「小島の戦い」で伊達晴宗勢と戦い討死したため、堀内家は断絶した。この断絶を惜しんだ相馬盛胤は自身の義弟堀内義氏に堀内俊胤の娘を嫁がせて堀内家を再興させた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

堀内義氏【ほりうちよしうじ(15??~15??)】

掛田義宗の三男(堀内俊胤の養子)。通称兵庫。別名掛田義氏。室は堀内俊胤の娘。1569年、「小島の戦い」で義父堀内俊胤が討死したため、堀内義氏が娘婿となり堀内家の家督を相続した。堀内俊胤の娘と諍いが絶えず、堀内家を出奔した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

堀内晴胤【ほりうちはるたね(1556~1633)】

藤田晴近の次男。通称四郎。別名堀内宗和。1580年、「黒木城の戦い」で黒木宗俊とともに謀反を企て父藤田晴近に支援を求めたが、反対を受けため黒木城に落延びた。「黒木城の戦い」で相馬義胤勢の攻撃を受け黒木宗俊とともに捕縛され、改易処分に処された。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

堀内胤政【ほりうちたねまさ(15??~15??)】

泉田胤清の男。官途は播磨守。室は藤田晴近の娘(相馬義胤の養女)。1580年、堀内晴胤が謀反して改易処分に処されたため、堀内家は断絶した。相馬義胤の意向を受け藤田晴近の娘を娶り堀内家の家督を相続して宇多郡丸森城主に任じられた。1581年、「丸森城、金丸城の戦い」で伊達輝宗に内応した佐藤為信勢の攻撃を受け、佐藤清信とともに伊達輝宗勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

堀内胤泰【ほりうちたねやう(15??~1633)】

堀内胤政の男。通称十兵衛。1602年、他の家臣とともに所領を収公された。1617年、改めて557石を領した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

堀越尾張守【ほりこしおわりのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡七郷堀越館主。650石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

本田孫兵衛【ほんだまごべい(15??~15??)】  

大越顕光家臣。

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【ま】

舞木出雲守【まいきいずものかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡舞木館主。

曲木信光【まがりぎのぶみつ(15??~15??)】

石川晴光家臣。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

牧備中守【まきびっちゅうのかみ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。石川郡御藪館主。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

益子金正【ますこかねまさ(15??~15??)】

大寺清光家臣。通称久兵衛。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

斑目広綱【まだらひろつな(15??~15??)】

結城顕頼家臣。猛将。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

斑目広基【まだらめひろもと(15??~1576)】

結城義綱家臣。官途は信濃守。斑目広綱の弟。1541年、「赤館城の戦い」で佐竹義昭勢の攻撃を受け、白河城に撤退した。1544年、鹿王山最勝寺に銅鐘を結城義綱、結城晴綱、和知直頼、新小萱篤綱、南恵綱らとともに奉納した。1576年、佐藤忠秀に従って赤館城を奪還するが、結城義親から謀反の疑いを受け兄斑目広綱とともに謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

斑目基庸【まだらもとつね(15??~15??)】

斑目広基の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

町田右馬助【まちださまのすけ(15??~15??)】

結城晴綱家臣。結城晴綱が衰退すると、佐竹義重勢に属して東家義久に仕えた。1590年、東義久が鹿島郡に転封すると、それに従い常陸国鹿島郡鉾田内で150石を領した。東義久の蔵入地680石を預けられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

松浦助六郎【まつうらすけろくろう(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

松崎主膳【まつざきしゅぜん(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡行合館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。   

三浦修理頭【みうらしゅりのかみ(15??~15??)】

蓬田法光家臣。

三浦修理大夫【みうらしゅりだいふ(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

三坂隆次【みさかたかつぐ(15??~15??)】

岩城由隆家臣。官途は越前守。伊達輝宗との取次役を務めた。

水谷胤氏【みずたにたねうじ(15??~1542)】

相馬義胤家臣。1542年、「伊達天文の乱」で相馬義胤に従い参陣して伊達晴宗勢と戦い討死した。

水谷胤重【みずたにたねしげ(1538~1606)】

水谷胤氏の男。官途は式部丞。1542年、「伊達天文の乱」で父水谷胤氏が伊達稙宗勢と戦い討死すると、叔父水谷胤清に養育された。1600年、伊達政宗が少数の手勢で相馬家領内を通過すると、、多くの家臣が相馬義胤に伊達政宗を討取るべきと進言する中、これに反対した。参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。

三善常光【みぜんつねみつ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡西向館主。官途は中納言。1,200石を領した。常光寺を建立した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

溝井義信【みぞいのぶよし(1532~1590)】

石川晴光家臣。通称六郎右衛門。家老職を務めた。1589年、「小田原の役」で羽柴秀吉から参陣を求められると、使者を送ることを石川昭光に勧めるが否決された。1590年、「溝井館の戦い」で伊達政宗勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

南恵綱【みなみよしつな(15??~15??)】

結城義綱家臣。通称左馬頭。1544年、結城義綱、結城晴綱、和知直頼、斑目広基、新小萱篤綱らとともに鹿王山最勝寺に銅鐘を奉納した。

三村若狭守【みむらわかさのかみ(15??~15??)】

中畠晴辰家臣。中の内館主。1588年、「泉崎館の戦い」で中畠晴辰が辺見主膳正を追落とすと、泉崎館の城将に任じられた。

三森十郎右衛門【みもりじゅうろうえもん(15??~15??)】  

石川昭光家臣。1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

宮田惣兵衛【みやたそうべい(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡宮田館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

村岡胤信【むらおかたねのぶ(15??~15??)】

亘理宗隆の三男。

村松薩摩守【むらまつさつまのかみ(15??~15??)】

藤崎摂津守家臣。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で亘理重宗勢の攻撃を受け藤崎摂津守とともに相馬盛胤のもとに落延びた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

室原清隆【むろはらきよたか(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡行津館主。標葉郡四七人衆。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

木目沢式部【もくめざわしきぶ(15??~15??)】

田村郡木目沢館主。500石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

森別金【もりべつかね(15??~15??)】

大寺清光家臣。通称新左衛門。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

門馬貞経【もんまさだつね(15??~1590)】

相馬盛胤家臣。通称上総介。1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢の矢田但馬の鉄砲に狙撃されて負傷したため、門馬貞経勢は敗走した。

門馬定経【もんまさだつね(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。標葉郡佐山館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

門馬甚左衛門【もんまじんざえもん(15??~1563)】

相馬盛胤家臣。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で相馬盛胤に従い草野直清勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

門馬治右衛門【もんまちえもん(15??~1563)】

相馬盛胤家臣。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で相馬盛胤に従い草野直清勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

門馬助九郎【もんますけくろう(15??~1590)】

亘理元宗家臣。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

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【や】

矢内重房【やうちしげふさ(15??~15??)】

大寺清光家臣。通称内蔵之助。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

矢崎加左右衛門【やざきかさえもん(15??~15??)】      

田村隆顕家臣。東方足軽衆150余りを率いた。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

先崎周防守【やざきすぼうのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡小野山神館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

先崎徳近【やざきとくちか(15??~15??)】    

田村隆顕家臣。田村郡大倉館主。通称主水介。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

安原下野守【やすはらしもつけのかみ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡安原館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

矢吹行重【やぶきいくしげ(15??~15??)】

石川晴光家臣。石川郡袖ヶ館主。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

矢吹光頼【やぶきみつより(15??~15??)】

矢吹行重の男。官途は薩摩守。別名矢吹光信。1577年、「浅川城の戦い」で浅川義純が佐竹義重に浅川城を追われると、浅川城代に任じられた。1589年、「須賀川城の戦い」で石川昭光が伊達政宗勢とともに須賀川城を攻落とすと、須賀川城代に任じられた。1590年、「奥州仕置」で石川昭光が改易処分に処されると、伊達政宗に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

柳沼門主【やなぎぬまもんしゅ(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡大善寺館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

山田源兵衛【やまだげんべい(15??~15??)】

相馬義胤家臣。別名石上源兵衛。1576年、「冥加山の戦い」で泉田景時、亘理盛景を鉄砲で撃取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

山寺盛純【やまでらもりずみ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。亘理郡山寺館主。通称蔵人。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

蓬田法光【よもぎだほうみつ(15??~15??)】

石川晴光家臣。石川郡蓬田館主。官途は隠岐守。別名蓬田有信。1570年、石川昭光から離反、伊達輝宗、田村隆顕勢に属した。1581年、伊達政宗、田村隆顕と芦名盛氏、佐竹義重、石川昭光らが争うと、石川昭光に帰参した。1589年、石川昭光が伊達政宗に降伏すると、それに従った。参考文献:「秋田の中世を歩く」by秋田城介。

蓬田利光【よもぎだとしみつ(15??~15??)】

蓬田法光の男。官途は下野守。1589年、石川昭光が伊達政宗に降伏すると、父の蓬田法光とともに降伏した。1590年、石川昭光が陸前国に転封になるとそれに従った。参考文献:「秋田の中世を歩く」by秋田城介。

白河結城顕頼【ゆうきあきより(1470~1543)】

白河郡白河城主。結城政朝の男。官途は宮内少輔。通称左兵衛佐。室は田村直顕の娘。1490年、「山入一揆」では、山入義藤を支援して北常陸まで勢力を拡大した。1510年、父結城政朝が次男の結城五郎を寵愛して、結城顕頼に家督を譲らなかったため、小峰直常、岩城常隆らの支援を受けて父結城政朝と結城五郎を追放し結城家の家督を相続した。1514年、那須資親が実子の那須資久に那須家惣領職を相続させようとしたため、養子に迎えられていた弟の那須資永が那須資久を謀殺した。那須資房、大田原資清らの攻撃を受け自刃した。1521年、岩城常隆と結んで那須資房と争ったが、岩城常隆と那須資房が和議を結んだため、撤退した。1531年、長雲山智徳院を再興した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城義綱【ゆうきよしつな(1500~1559)】

結城顕頼の男。官途は左兵衛佐。1506年、「太田城の戦い」で山入氏義が討死すると、佐竹義舜勢の反撃を受け、勢力を後退させた。1534年、「滑井の戦い」では、伊達晴宗勢に属した芦名盛氏、石川晴光、二階堂輝行、相馬顕胤らと戦い敗れた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城晴綱【ゆうきはるつな(1520~1573)】

結城義綱の男。官途は左京大夫。1545年、伊達晴宗の意向を受け二階堂輝行勢と戦った。1539年、那須政資と那須高資が争うと、結城政勝、小山高朝とともに那須高資を支援した。1551年、畠山義国とともに芦名盛氏と田村義顕を仲介し和議を成立させた。1555年、結城義親の内室に芦名盛氏の娘を迎え、佐竹義昭に対抗した。那須高資とも争い勢力を失った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城義顕【ゆうきよしあき(1567~1613)】

結城晴綱の男。官途は治部大輔。1573年、父結城晴綱が病没すると、結城義親の後見を受けた。1574年、「白河城の戦い」で結城義親勢の攻撃を受け、常陸国に落延びた。1582年、芦名盛隆の支援を受け、結城義親から切岸城を返還されたが、白河結城家惣領職の家督を相続することはできなかった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城朝綱【ゆうき ともつな(15??~1656)】

結城義顕の男。通称治部左衛門。1614年、「大坂冬の陣」では、白河結城家の再興のため、参陣を望んだが病のため参陣できなかった。1616年、羽後久保田城主佐竹義宣に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城義親【ゆうきよしちか(1541~1626)】

結城顕頼の男。官途は上野介。通称左衛門佐。室は芦名盛氏の娘。別名小峰義親。1573年、結城晴綱が病没すると、結城義顕の後見役を務めた。1575年、和知美濃守と図って結城義顕を追放して白河結城家の家督を継承した。1579年、佐竹義重の次男芦名盛重を養子に迎えその後見役を務めた。1587年、芦名盛重が芦名家の家督を相続したため、再び結城義親が白河結城家の家督を相続した。佐竹義重勢に属して伊達政宗勢と戦った。1589年、「摺上原の戦い」で芦名盛重が滅亡すると、伊達政宗勢に降伏した。「奥州仕置」で改易処分に処され所領を失った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城義里【ゆうきよしさと(15??~1635)】

結城義親の男。別名藤巻正成。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城義名【ゆうきよしみょう(15??~1589)】

結城顕頼の男。別名小峰義名。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城義綱【ゆうきよしつな(1587~1634)】

結城義名の男(結城義親の養子)。別名白河義総。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城義実【ゆうきよしざね(1619~1653)】

結城義綱の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

白河結城朝綱【ゆうきともつな(1590~1656)】

結城義顕の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柚木多左衛門【ゆずきたざえもん(15??~1565)】

相馬盛胤家臣。1565年、「北目の戦い」で相馬義胤に従い粟野宗国勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

吉田主水正【よしだもんどのしょう(15??~15??)】

黒木丹波守家臣。1581年、「大条館の戦い」で吉田主水正とともに伊達輝宗の家臣小梁川行秀の陣地を急襲したが、小梁川盛宗の家臣大里主馬介、三枝将監勢の攻撃を受け撤退した。参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。

吉田宮内【よしだくない(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡雁股田館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

吉野辺外記【よしのべげき(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡吉野辺館主。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。  

吉村金貞【よしむらかねさだ(15??~15??)】

大寺清光家臣。通称民部之介。1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い副将を務め、石川昭光勢と戦い敗退した。参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。

米谷延常【よねたねのぶつね(15??~1590)】

亘理元宗家臣。官途は下総介。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

彌平次【よへいじ(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。1576年、「冥加山の戦い」で入間田近江、入間田孫三郎の二人を長刀で討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

鷲足清久【わしあしきよひさ(15??~1590)】

亘理元宗家臣。亘理郡鷲足館主。通称主水。1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

早稲川修理亮【わせがわしりのじょう(15??~15??)】

田村隆顕家臣。田村郡早稲川館主。463石を領した。参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。

渡邊越前守【わたなべえちぜんのかみ(15??~15??)】

相馬顕胤家臣。栃久保館主。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

渡邊豊後守【わたなべぶんごのかみ(15??~15??)】

相馬盛胤家臣。1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で相馬盛胤に従い草野直清勢と戦った。「百槻川の戦い」で伊達晴宗の家臣船山豊前守を討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

亘理宗元【わたりむねもと(1472~1531)】

亘理郡亘理城主。亘理元胤の次男。兄亘理元実が早世したため、亘理家惣領職の家督を継承した。伊達稙宗に敗れたが、その後も帰順と離反を繰り返した。

亘理宗隆【わたりぬねたか(1493~1556)】 

亘理宗元の男。官途は右近将監。亘理宗隆には継嗣がなく、伊達稙宗と娘(天窓慶普信女)の間に生まれた亘理綱宗を養子に迎えた。1536年、「大崎天文の乱」では、伊達稙宗の意向を受け、大崎義直のもとに派遣された。1544年、「穂原掛田の戦い」で亘理綱宗が討死したため、その弟亘理元宗を養子に迎えた。

亘理綱宗【わたりつなむね(1526~1544)】

伊達稙宗の十三男(亘理宗隆の養子)。別名伊達綱宗。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗に従い伊達晴宗勢と戦った。1544年、「穂原掛田の戦い」で伊達晴宗勢と戦い討死した。

亘理元宗【わたりもとむね(1530~1594)】

伊達稙宗の十四男(亘理宗隆の養子)。官途は兵庫頭。別名伊達元宗。室は国分盛氏の娘(月光院)。1544年、「穂原掛田の戦い」で兄亘理綱宗が討死したため、亘理家惣領職の家督を相続した。1552年、伊達晴宗の意向を受けて上洛したすると、武田信虎から佩刀「綱広」を拝領した。1565年、「沙留川の戦い」で相馬盛胤の家臣富田丹波守を討取り、佩刀の「角柄生」を手に入れた。1570年、相馬盛胤のもとに落延びる中野宗時らを討取る戦功を挙げた。1574年、「天正最上の乱」では、最上義守勢の援軍として参陣した。1578年、「御館の乱」で伊達輝宗が越後国方面に参陣したため、伊具郡方面の陣代を務め、相馬義胤勢と戦った。1591年、伊達政宗が岩出山城に転封すると、遠田郡涌谷城8,850石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

亘理重元【わたりしげもと(1552~1620)】

亘理元宗の男。官途は美濃守。室は相馬盛胤の娘(真如院)。1583年、「丸森城の戦い」で明護山砦を築いて相馬義胤勢の分断する功を挙げた。1586年、「人取橋の戦い」で父亘理元宗に従って参陣して佐竹義重勢と戦った。1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で相馬義胤勢の反撃を撃退する戦功を挙げた。「童生淵の戦い」では、相馬隆胤を討る戦功を挙げた。1591年、「陸中佐沼城の戦い」では、亘理元宗とともに先陣を務めたが負傷した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

亘理定宗【わたりさだむね(1578~1652)】

亘理重宗の男。伊達安芸守の娘。1600年、「関ヶ原の役」では、父亘理重元の陣代として伊達政宗に従って参陣した。1604年、亘理重宗の隠居により亘理家惣領職を相続した。1614年、「大坂冬の陣」で伊達政宗に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。

亘理盛景【わたりもりかげ(15??~15??)】

亘理元宗家臣。通称又七郎。1571年、「大仏浅川の戦い」で亘理元宗に従い相馬盛胤勢と戦い討死した。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

亘理盛景【わたりもりかげ(15??~15??)】

亘理元宗家臣。参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。

和知直頼【わちなおより(1496~1562)】

結城義綱家臣。官途は右馬助。家老職を務めた。1535年、結城義綱の近津大明神への寄進状の添状を発給した。1544年、結城義綱が鹿王山最勝寺に銅鐘を奉納した際、奉行職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

和知美濃守【わちもののかみ(15??~15??)】

結城義綱家臣。官途は美濃守。結城義顕を白河城から追放し、結城義親を白河城に引き入れた。1535年、結城義綱の近津大明神への寄進状の添状を発給した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【資料Ⅰ】

磐城国(13郡/)

伊具郡:角田城、丸森城、小斎館、金山館。(26,000石)
亘理郡:亘理城、坂元城。(16,000石)
刈田郡:白石城。(20,000石)
宇多郡:中村城、駒ヶ嶺城、中館。(22,000石)
行方郡:小高城、牛越城。(24,000石)
標葉郡:磐城真壁城。(18,000石)
楢葉郡:城。(12,000石)
磐城郡:岩城平城。(50,000石)
菊多郡:平潟湊。(24,000石) 
田村郡:三春城。(62,000石)
石川郡:二芦城、大寺城。(32,000石)
白河郡(西白河郡):小峰(白河)城、雲霧城(36,000石)
白川郡(東白川郡/高野郡):棚倉城(12,000石)

相馬三郡(行方、宇多、標葉郡)66,000石
岩城三郡(磐城、菊多、楢葉郡)120,000石

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【資料Ⅱ】

標葉六騎七人衆【はようろっきななにんしゅう】

六騎衆:井戸川正則、山田、小丸主水、熊隆重、下浦常清、上野但馬守。
七人衆:室原清隆、郡山、樋渡隆則、苅宿戸出雲守、熊川隆光、牛渡九郎兵衛、上浦。

標葉郡四七人衆【はようぐんよんじゅうななにんしゅう】

室原清隆、樋渡重則、酒井忠興、羽鳥伊賀守、紺野美濃守、紺野伊賀守、江井胤治、金沢備中守、高平壱岐守、杉盛重、滝迫胤治、杉目掃部、杉目三河守、大井胤重、金場加賀守、飯崎左近、渡辺越前守、百槻胤正、飯淵九郎左衛門、日下石美濃守、今田六郎、藤崎摂津守、藤崎久長、高田内膳、小野越前守、大坪勘解由、渋田見遠江、井戸川清則、井戸川正則、井戸川大隅守、苅屋戸出雲守、上野但馬守、小丸主水、天神堂法師、寺内式部、草野直清、古賀胤康、桑折久家、桑折清家、掛田俊宗、掛田義宗、栃窪胤光、四本松定義、四本松尚義、岩角伊勢守、熊隆重、東郷胤光、下浦常清。

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【資料Ⅲ】

磐城国【いわしろのくに】

東北地方の南に位置する東山道の国。北は陸前、南は常陸、西は岩代、東は長い海岸線で太平洋に面する国。

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戦国人名辞典は、1467年、「応仁の乱」から1637年、「島原の乱」までの期間に活躍した武将をサイト管理人(takatoshi24)の独断と偏見に基づいて編集した国別の戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいますが、親子は年代順、本家と分家がある場合、分家をしたにして居住地域をを苗字の頭に入れています。資料Ⅰは国、郡別の石高、城郭、寺院、街、湊などを記載。資料Ⅱは国で有名な集団(三好三人衆など)についての説明をしています。資料Ⅲは国の詳細(各国の特性、景勝の地、特産品など)を説明しています。また、武将の名前が変わる場合(松平元康→徳川家康)など、松平元康で統一しています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、徳川家康は松平元康、木下藤吉郎は羽柴秀吉、豊臣秀頼は羽柴秀頼、津軽為信は大浦為信に名前を統一しました。

城と館の違いは、城は10,000石以上の領主の居城。館、砦は9,999石以下の領主の居城としました。館と砦の違いは平地にある場合は館、山岳地帯、諸島にある場合は砦としてました。

参考文献:『津軽秋田安東一族』by新人物往来社、『東北大名の研究(戦国大名論集2)』by吉川弘文館、『会津芦名一族』by歴史春秋社、『最上義光(戦国の驍将)』by新人物往来社、『奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)』by宝文堂、『会津芦名四代』by歴史春秋、『伊達政宗(全8巻)』by講談社、『天を衝く(全3巻)』by講談社文庫、『独眼竜伊達政宗』by時代小説文庫、『津軽風雲録』by時代小説文庫、『政宗に睨まれた二人の老将』by宝文堂、『秋田「安東氏」研究ノート』by無明舎、『(史伝)伊達政宗』by学研M文庫、『独眼竜政宗』by講談社文庫、『奥羽永慶軍記(全2巻)』by新人物往来社、『津軽南部の抗争(南部信直)』by無明舎出版、『秋田の中世浅利氏』by無明舎出版、『独眼龍政宗』by文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、『陸奥南部一族』by新人物往来社、『戦国人名事典』by吉川弘文館、『戦国人名事典』by新人物往来社、『戦国大名家辞典』by東京堂出版、『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『慶長・元和の大津波 奥州相馬戦記』by近衛龍春、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」、「三春昭進堂」byryuichi、「千葉一族」bychiba-ichizoku、「野木沢風土記 中野編」by矢吹広実。

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戦国羽前国人名辞典


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【あ】 

合貝志摩守【あいがいしまのかみ(14??~1565)】

最上郡合海館主。1565年、「本合海の戦い」で武藤義増に属して清水義高勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

秋保治郎作【あきほじろうざ(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡古口館主。官途は飛騨守。1614年、「清水城の戦い」で清水義親が最上家親と戦って討死すると、最上家親に仕えた。

秋保正則【あきほまさのり(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。通称與三左衛門。
 
秋保政光【あきほまさあき(15??~15??)】

秋保正則の男。通称與三左衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処され、楯岡満茂が酒井忠勝に預けられると、佐竹義宣に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

秋保出雲守【あきほいずものかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」で長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。1601年、「酒田城の戦い」に参陣した。1603年、由利郡で一揆が起こると、鑓13余りを率いて参陣した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に仕えた。
 
秋保蔵人【あきほくらうど(15??~15??)】

最上義光家臣。4,000石を領した。
 
秋保義元【あきほよしもと(15??~16??)】

秋保蔵人の男。通称九郎右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、加藤嘉明に仕えた。1643年、加藤明成が改易処分に処されると再び浪人となった。その後、牧野親成に仕え家老職として250石をで領した。

秋保親常【あきほちかつね(15??~15??)】

秋保義元の男。酒井忠勝に仕えた。

阿久津豊前守【あくつぶぜんのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。1569年、大浦為信との取次役を務めた。1569年、大浦為信のもとに赴き槍300本、弓20張、鉄炮30挺を贈った。1572年、大浦為信が家臣16名とともに最上義光のもとを訪れ、羽黒山で戦勝祈願をした。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉からの参陣命令を大浦為信に伝達した。

朝比奈讃岐守【あさひなさぬきのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。北村山郡井出館主。1585年、「井出館の戦い」で最上義光が城主の太田外記を滅ぼすと、井出館主に任じられ2,000石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安喰光信【あじきあきのぶ(15??~1617)】

最上義光家臣。最上郡中里館主。官途は大和守。1589年、「摺上原の戦い」では、伊達政宗勢の援軍として兵100余りを率いて参陣した。『最上義光分限帳』では、5,000石を領した。1608年、山寺立石寺に経巻を寄進した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安喰信重【あじきのぶしげ(1613~1677)】

安食光信の男。通称七兵衛。1617年、父安喰光信が病没すると、安喰家の家督を相続した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、南光坊天海の仲介で水戸松平頼房に仕えた。

安喰重近【あしきしげちか(15??~1667)】

安喰光信の次男。通称治右衛門。別名安恵重近。最上義光に仕え150石を領した。山形城で諜報や火防の任にあたる伊賀衆を率いた。

安喰久右衛門【あじききゅううえもん(15??~1681)】

安食光信の三男。別名安恵久右衛門。兄安喰重近と同じく伊賀衆を率いて最上義光に仕え200石を領した。1622年、最上義俊の改易後も山形城下に留まり、兄安恵重近とともに伊賀衆を率いて鳥居忠政に仕えた。

安喰丹波守【あじきたんばのかみ(15??~1602)】

清水義氏家臣。最上郡片平館主。

安喰平右衛門【あじきへいざえもん(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡安喰館主。清水義氏の領国の内四分の一(5,000石)を領した。

安喰長門守【あじきながとのかみ(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡大館主。

安喰治部【あじきじぶ(15??~15??)】

猿羽根義舜家臣。1589年、猿羽根義舜が最上義光の謀殺されると猿羽根館を領した。

安達昌勝【あだちまさかつ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。

安達昌友【あだちまさとも(15??~16??)】

安達昌勝の男。通称彦右衛門。1622年、最上義俊の改易後、楯岡満茂が酒井忠世に預けられるとこれに従った。

安達昌實【あだちまだかん(15??~16??)】

安達昌友の男。佐竹義宣に仕えた。

左沢満政【あてらざわみつまさ(14??~15??)】

寒河江孝広家臣。左沢政勝の次男。官途は式部少輔。白岩広直、吉川満教らとともに寒河江孝広を補佐した。1504年、最上義定が再三に渡って寒河江家領に侵攻してきたが、左沢満政らは、寒河江孝広を補佐して最上義定勢を撃退した。

左沢氏政【あてらざわ(15??~15??)】

左沢満政の男。1574年、「天正最上の乱」では、寒河江兼広が最上義光勢に属したのに対し、左沢氏政、白岩義広、溝延氏勝らは伊達輝宗、最上義守勢に属した。左沢氏政、白岩義広、溝延氏勝らは、寒河江兼広が籠城する寒河江城を白鳥長久、天童頼貞などとともに攻撃して落城寸前まで追い詰めた。最上義光の勢力が拡大すると、寒河江兼広とともに対抗を続けた。1584年、「中野城の戦い」で寒河江高基が最上義光に大敗すると、最上義光に降伏した。

安孫子俊春【あびことしはる(15??~15??)】

溝延茂信家臣。

安孫子泰時【あびこやすとき(15??~1590)】

安孫子俊春の男。官途は紀伊守。別名溝延長老。慈恩寺に帰依し、城代家老職を弟安孫子春明に譲り医王山南上院で出家した。1584年、「中野原の戦い」で寒河江高基が討死すると溝延城も落城、安孫子泰時は慈恩寺の聞持院に移り住んだ。1590年、最上義光に謀殺された。

安部越中守【あべえっちゅうのかみ(15??~1615)】

最上義光家臣。川北三奉行衆。1614年、「一栗高春の乱」で志村光惟が討死すると、斎藤筑後守、高橋伊賀守とともにとして庄内川北地域を治めた。川北奉行に任じられて間もなく病没した。後任の川北奉行には寺内近江守が選ばれた。

阿部良輝【あべよしてる(15??~15??)】

武藤義氏家臣。飽海郡磐井出館主。伊氏波神社別当職。出羽三山に数えられていた鷹尾山の伊氏波神社別当職を務め鷹尾山衆徒を率いた。1533年、磐井出館を築城した。別当職として鷹尾山衆徒をまとめ上げ、羽黒山別当職武藤義氏に属した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿部貞嗣【あべさだつぐ(15??~1588)】

阿部良輝の男。1588年、「十五里ヶ原の戦い」で阿部貞嗣が最上義光勢と戦い討死すると、鷹尾山衆徒は蕨岡館へ移った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿倍頼保【あべよりやす(15??~15??)】

阿部良輝家臣。1591年、「磐井出館の戦い」で甘粕備後守の家臣志田修理勢の攻撃を受け落延びた。

安保能形【あぼよしかた(15??~1575)】

櫛引郡余目館主。1575年、安保能形が病死すると、武藤義氏が余目城に侵攻した。安保能形の弟で田尻館主安保与次郎が城兵を率いて戦ったが武藤義氏に敗れ討死した。

安保与次郎【あぼよじろう(15??~1575?)】

田川郡田尻館主。余目城の阿保太郎の弟。1575年、武藤義氏との戦い討死にした。

姉崎能登守【あねさきのとのかみ(15??~15??)】

延沢満延家臣。平岡館主。1,000石を領した。1584年、延沢満延が最上義光に内応すると、延沢満延とともに最上義光に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

荒楯十郎【あらだてじゅうろう(15??~15??)】

延沢満延家臣。尾花沢郡荒楯砦主。尾花沢郡代を務めた。天正年間、長瀞城主遠山外記の攻撃を受け討死した。

有路但馬守【ありじたじまのかみ(15??~15??)】

延沢満延家臣。家老職を務め、笹原石見守とともに延沢満延を支えた。1622年、最上義俊の改易後、畑沢にて帰農した。

鮎貝盛宗【あゆかいもりむね(15??~15??)】

置賜郡鮎貝城主。官途は兵庫頭。鮎貝城35,000石を領した。1542年、「天文伊達の乱」では、伊達植宗勢に属し、最上義守の支援を受けて南下した。伊達晴宗勢を一旦は破ったが、伊達晴宗勢は、宮村館主片倉伊賀守を中心に力を盛り返した。伊達晴宗勢は野川を越え鮎貝盛宗を攻め、成田の飯沢館、五十川の諸館を攻落し、鮎貝盛宗勢を蚕桑村まで押し戻した。伊達晴宗は、宮一円、小山一円、火神台一円三ヶ所の安堵状を与えた。乱後は、所領安堵と「守護不入」の特権が認められた。

鮎貝宗重【あゆかいむねしげ(1555~1624)】

鮎貝盛宗の男。官途は安房守。通称日傾斎。別名鮎貝盛次。1574年、「芋川の戦い」で戦功を挙げた。家督を伊達政宗に譲った伊達輝宗を、隠居城の館山城が完成するまで私邸に迎えた。1589年、「小田原の役」後、伊達政宗が岩出山城に転封になると、これに従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

鮎貝茂平【あゆかいもりひら(15??~15??)】

鮎貝盛宗の次男。高玉城主。

鮎貝宗信【あゆかいわむねのぶ(15??~15??)】

鮎貝宗重の男。官途は摂津守。通称藤太郎。別名鮎貝忠旨。室は最上義守の娘。1587年、継嗣の鮎貝宗信が、最上義光に内応して謀反を起こすと、弟の高玉城主高玉茂兵衛のもとに落延びた。「鮎貝城の戦い」では、伊達政宗勢の湯目景康、泉田重光、宮沢元実らの攻撃を受けた。最上義光のもとに落延び延沢光茂に仕えた。鮎貝城に残された家臣100余りは伊達政宗勢に討取られた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

鮎貝宗益【あゆかいむねます(15??~15??)】

鮎貝宗重の次男。官途は兵庫頭。通称長七郎。1587年、兄鮎貝宗信が伊達政宗に謀反を起し没落すると、鮎貝家の家督を相続した。1591年、伊達政宗が岩出山城に転封になるとそれに従い一家の家格の筆頭となった。本吉郡松崎で1,000石を領し、泊浜唐船番所の海防警備を務めた。

鮎貝覚左衛門【あゆかいかくざえもん(15??~1660)】

鮎貝宗信の男。室は中山朝正の娘。最上義光の四男山野辺光茂に仕えた。1622年、最上義俊が改易処分に処された後も山野辺光茂に従った。後に山野辺光茂の仲介により水戸松平頼房に仕えて100石を領した。

飯田讃岐守【いいださぬきのかみ(15??~15??)】

武藤義氏家臣。武藤義氏の病没後一時流浪したがのち復帰した。1588年、本荘繁長の攻撃を受けて降伏したが、所領は安堵された。1589年、長尾景勝の検地にして一揆を起こしたが、敗れ真室に落延びた。1600年、再び庄内に戻って一揆を起こしたが敗北した。のち最上義光家臣志村光安に仕えて100石を領した。

飯田綱親【いいだつなちか(15??~15??)】

村山郡飯田城主。天童八楯。1580年、最上義光は東根頼景を降伏に追い込んだ。さらに楯岡城主楯岡満英を自刃に追い込み、成生伯耆守、飯田綱親、六田定兼らを降伏させた。

飯田信兼【いいだのぶかね(15??~1600)】

最上義光家臣。官途は播磨守。1600年、最上義光の意向により、谷柏相模守、富並忠右衛門、日野伊賀守、江口五兵衛らを率いて畑谷城の救援に向かった。途中、畑谷城が落城したことを知ったが引き返さず、追われて逃げてくる領民の救出にあたり、それを逃がすため、樋口兼続勢と戦い討死した。谷柏相模守は討死覚悟で、樋口兼続勢へ突入して追い散らし、討ち捨てられた飯田信兼の頸を探し出して山形城へ引き上げた。

石垣河内守【いしがきかわちのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。宮田館主。別名板垣河内守。武藤義氏を支持し最上義光とは敵対していた。1600年、「関ヶ原の役」後、庄内地方が最上義光領となるとそれに仕え1,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると帰農した。

石川重久【いしかわしげひさ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は若狭守。

石川重政【いしかわしげまさ(15??~15??)】

石川重久の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると佐竹義宣に仕えた。

池田盛国【いけだもくに(15??~15??)】

武藤氏義家臣。飽海郡朝日山城主。寄騎衆50騎を従え3,000町歩余りを領した。

池田盛周【いけだもりほ(15??~15??)】

池田盛国の男。官途は讃岐守。通称悪次郎。1582年、武藤義氏が家臣の謀反により自刃すると、最上義光に内応して武藤義興に抵抗した。1588年、「十五里ヶ原の戦い」で最上義光勢に属して参陣した。武藤義勝を擁する本荘繁長勢に降伏し所領は安堵された。1590年、羽柴秀吉の検地に対する一揆が起こるとこれに寄騎したが敗れて鮭延秀綱のもとに落延びた。1600年、「朝日山城の戦い」では、継嗣の池田盛邦、弟池田忠内とともに籠城して志駄義秀と戦い敗れた。役後に志村光安に仕えて100石を領した。

池田盛邦【いけだもりくに(1590~1653)】

池田盛周の男。通称刑部左衛門。長尾景勝に仕えたが謀反を起こした。最上義光家に仕え、新田開発を積極的に行った。1600年、「朝日山城の戦い」では、長尾景勝勢の志田義秀と戦った。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、庄内に入部した酒井忠勝に仕え100石を領した。

池田忠内【いけだただない(15??~15??)】

池田盛周の次男。1600年、「朝日山城の戦い」では、兄池田盛邦とともに朝日山城に籠城して長尾景勝勢の志田義秀と戦った。

池田盛屋【いけだもりや(15??~15??)】

池田盛邦の男。1600年、「朝日山城の戦い」では、父池田盛邦とともに朝日山城に籠城して長尾景勝勢の志田義秀と戦った。

石川茂政【いしかわしげまさ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は丹後守。100石を領した。

石川政光【いしかわまさみつ(15??~15??)】

石川茂政の男。通称又兵衛。
 
石川茂利【いしかわしげとし(15??~1651)】

石川政光の男。官途は又兵衛。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕え大番頭を務めた。

石川茂甫【いしかわしげやす(15??~15??)】

石川茂利の男。
 
石川満倫【いしかわみつとし(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。通称刑部左衛門。石川村番代。1592年、楯岡満茂が湯沢城代となるとこれに属した。1601年、楯岡満茂が由利本庄に転封すると、これに従った。

石川満坑【いしかわみつこう(15??~15??)】

石川満倫の男。

石川満富【いしかわみつとみ(15??~15??)】

石川満倫の次男。佐竹義宣の鷹匠を務めた。
 
石川重久【いしかわしげひさ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は若狭守。

石川重政【いしかわしげまさ(15??~15??)】

石川重久の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると佐竹義宣に仕えた。

板垣兼富【いたがきかねとみ(1539~1564)】

武藤氏義家臣。飽海郡菅里城主。伊氏波神社別当職を務めた。1564年、「清水城の戦い」で武藤義増に従って参陣したが、清水義高勢と戦い討死した。

板垣河内守【いたがきかわちのかみ(15??~16??)】 

武藤氏義家臣。飽海郡宮田館主。1581年、「清水城の戦い」では、武藤義氏勢に属して参陣した。武藤義氏が家臣東禅寺義長の裏切りに遭い自刃すると、武藤義興を支援して最上義光勢と戦った。1584年、武藤義興が自刃すると、武藤義勝に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、最上義光勢に属して戦った。1622年、最上義俊が改易処分に処されると帰農した。

井上道朔【いのうえどうさく(15??~1659)】

楯岡満茂家臣。井上道圓から医術を学ぶ。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、陸奥国津軽に移り街医者となった。松前家臣蠣崎蔵人の治療にあたった。

井上玄秀【いのうえげんひで(15??~15??)】

井上道朔の男。医術を学び、家系は代々津軽家に仕えた。

井上綱知【いのうえつなとも(15??~1615)】

鮭延貞綱の次男。官途は将監。最上郡岩鼻館主。1581年、鮭延秀綱が最上義光勢に寝返ると、岩鼻館主に任じられ1,000石を領した。

井上義綱【いのうえよしつな(15??~15??)】

井上綱知の男。父井上綱知の病没により井上家の家督を相続した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、伯父鮭延秀綱に従い、古河城主土井利勝に仕えた。のちに土井利勝の推挙により、松平秀忠に仕えることになったが、直前に病没した。

井上牛之介【いのうえうしのすけ(15??~16??)】

下次右衛門家臣。1601年、「酒田城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。下次次右衛門とともに最上義光に使え1,000石を領した。

伊良子監物【いらごけんもつ(15??~15??)】

大山光隆家臣。通称貞之助。1,000石を領した。

伊良子道牛【いらごみちぎゅう(15??~15??)】

伊良子監物の男。長崎で西洋医学を学び外科医となった。

伊良子宗牛【いらごそうぎゅう(15??~15??)】

最上義光家臣。1578年、「柏木山の戦い」で伊達輝宗が上山満兼と結んで最上義光を攻撃すると、最上義光の意向を受け成沢城を守備した。最上義光は鉄砲隊で侵入した伊達輝宗勢を撃退した。

伊良子弾正【いらごだんじょう(15??~15??)】

最上義光家臣。門伝館主。娘がふたりおり、姉は高野蔵人、妹は長沢頼母に嫁いだ。1600年、「関ヶ原の役」では、門伝館主を務めた。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

伊良子信濃守【いらごしなののかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。1592年、「文禄の役」では、山形城留守居役を務めた。最上義光は滞陣していた肥前名護屋から、「命のうちにいま一度、最上の川地を踏み申したく候、水を一ぱい呑みたく候」と書いた書状を伊良子信濃守宛に出した。

伊良子長門守【いらごながとのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。山形城三の丸の十一口を守備して1,000石を領した。

伊良子大和守【いらごやまとのかみ(15??~1597)】

楯岡満茂家臣。小野寺義道との取次役を務めた。1595年、「湯沢城の戦い」で楯岡満茂が湯沢城を攻落とすと、関口城を守った。1597年、「大島原の戦い」で小野寺義道勢と戦って討死した。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

入間勝訓【いるまかつのり(15??~1584)】

寒河江高基家臣。村山郡入間館主。1584年、「寒河江城の戦い」で寒河江高基が最上義光勢の攻撃を受け御楯山に落延び寒河江高基とともに自刃した。

氏家定直【うじいえさだなお(1504~1570)】

最上義守家臣。官途は伊予守。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗勢に属した最上義守を補佐して戦功を挙げた。最上義守の意向を受け度々陣代を務めた。1570年、最上義守、最上義光の間に争いが起こると最上義光を支援して家中の調停を行い、和議を成立させ、最上義光への家督譲渡を実現した。

氏家守棟【うじいえもりむね(1534~1591)】

氏家定直の男。官途は尾張守。謀略の才があり、最上義守、最上義光らから厚く信任を受けた。天童頼貞や白鳥長久の討伐や延沢満延の内応工作なども担当した。1574年、最上義守と最上義光が不和になると、伊達輝宗の介入を招いたが、その取次役を務めた。1581年、「真室城の戦い」では、鮭延秀綱の家臣庭月広綱を内応させ、鮭延秀綱の戦意を喪失させた。1586年、「観音寺城の戦い」で戦功を挙げた。

氏家光棟【うじいえみつむね(15??~1588)】

氏家守棟の男。官途は尾張守。室は最上義光の娘(竹姫)。1588年、「十五里ヶ原の戦い」で本庄繁長勢と戦い討死した。

氏家光氏【うじいえみつうじ(15??~15??)】

成沢道忠の男(氏家守棟の養子)。官途は尾張守。通称左近。別名成沢光氏。室は最上義光の三女(竹姫)。勇猛な人物。1588年、「十五里ヶ原の戦い」で継嗣の氏家光棟が討死したため、氏家光棟の未亡人竹姫を内室に迎え家老職を務め、18,000石を領した。1584年、「八沼城の戦い」では、苦戦する最上義光勢の中にあって果敢に貴志美作守勢を撃退する戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では、長谷堂城をめぐって越後長尾景勝勢と戦い撃退した。最上義光の病没も、国内の政務を担当しながら家中の混乱を制御した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、毛利輝元に仕えた。

氏家親定【うじいえちかさだ(1595~1538)】

成沢道忠の三男。官途は隠岐守。室は最上義光の娘(竹姫)。兄氏家尾張守が若くして病没したため、未亡人の竹姫を娶り氏家家の家督を相続した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、萩城主毛利輝元に預けられた。

氏家光房【うじいえあきふさ(15??~15??)】

氏家定直家臣。官途は相模守。平清水の大日堂に諸願成就を感謝して鉄鉢を寄進した。

内海乗政【うつみのりまさ(15??~15??)】

最上義光家臣。通称帯刀。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。

内海乗元【うつみのりもと(15??~15??)】

内海乗政の男。

浦山源左衛門【うらやまげんざえもん(1575~1603)】

最上義康家臣。最上義康が父最上義光から高野山への退去を命ぜられると、高野山に同行した。その道中、何者かに鉄炮で狙撃され浦山源左衛門は討死、最上義康も負傷し、自刃した。

漆山九郎兵衛【うるしやまくろうひょうえ(15??~16??)】

最上義光家臣。剛の者。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝の家臣上泉泰綱に組みかかったが谷川に転げ落ちてしまい、金原七蔵が上泉泰綱を討取った。

浦山筑後守【うらやまちくごのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。最上義光の意向を受け三条河原で処刑される駒姫の最期を見届けるために上洛した。雑兵の手にかかる前に姫君の頸を打落とした。復命後、自刀を図るが最上義光に留めおかれた。

浦野孫右衛門【うらのまごえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。鉄炮衆のひとり。1584年、「寒河江城の戦い」で、寒河江高基の家臣柴橋頼綱を撃取るために、鉄炮衆20余りを率いた。退却した最上義光勢を追撃してきた、柴橋勘十郎を狙撃してこれを討取る戦功を挙げた。柴橋勘十郎の討死により寒河江高基は戦意を喪失した。

江口光清【えぐちみつきよ(15??~1600)】

最上義光家臣。通称五兵衛。連歌に長けた人物。里村派の連歌師たちは春の連歌会に際し、最上義光に発句を依頼した。そのまま連歌会に出席した文禄年間から最上義光の側近として京都での活動した。畑谷城8,000石を領した。1600年、「畑谷城の戦い」では、最上義光は山形城に兵力を集中させるため、畑谷城からの退却を命じたが江口光清は畑谷城に籠城した。直江兼続勢20,000余りの攻撃を受け、城兵300人とともに討死した。

江口時直【えぐちとみなお(15??~1600)】

江口光清の男。通称小吉。1600年、「畑谷城の戦い」では、父江口光清とともに畑谷城に籠城するも樋口兼続勢の攻撃を受け、江口光清や甥松田忠作とともに討死した。
 
江口将監【えぐちしょうげん(15??~16??)】

江口光清の次男。通称長三郎。

江口次郎左衛門【えぐちじろうざえもん(15??~16??)】

江口将監の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に仕えた。

江口源右衛門【えぐちげんえもん(15??~16??)】

江口光清の三男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、継嗣の江口源助とともに酒井忠勝に仕えた。

江口長三郎【えぐちちょうさぶろう(1598~16??)】

江口光清の四男。1600年、「畑谷城の戦い」で父江口光清が討死したため、稲葉因嶽と乳母に守られて畑谷城から落延び、乳母に匿われて養育された。後に酒井忠勝に仕えた。

大風右衛門【おおかぜうえもん(15??~16??)】

最上義光家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」では、援軍として派遣され、樋口兼続勢の包囲を破って入城した。横尾勘解由らとともに、樋口兼続勢に夜襲をかけ、春日元忠の陣を大混乱に陥れる戦功を挙げた。

大久保主馬【おおくぼしゅめい(15??~15??)】

最上義光家臣。宝鏡寺館主。宝鏡寺300石を領した。

太田左仲【おおたさなか(15??~15??)】

村山郡井出館主。1520年、太田左仲は菩提寺を創建した。井出館の城下街、最上川舟運の河湊を整備して善政を敷いた。

太田外記【おおたげき(15??~1585)】

太田左仲の男。1585年、「井出館の戦い」で最上義光勢の攻撃を受け落城、討死した。

大谷元秀【おおたにもとひで(15??~15??)】

寒河江義広家臣。村山郡真木山城主。通称彦次郎。1584年、「寒河江城の戦い」で寒河江高基が最上義光が滅ぼされると最上義光に降伏せず、平塩池之坊に落延びた。

大堀河内守【おおほりかわちのかみ(15??~15??)】

延沢満延家臣。村山郡二藤袋館主。二藤袋館2,000石を領した。

大沼八兵衛【おおぬまやひょうえ(15??~15??)】

最上義光家臣。馬廻衆。1600年、「谷地城の戦い」に参陣した。

大山満因【おおやまみつたね(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は筑前守。室は楯岡満茂の姉(南昌院)。1600年、「長谷堂城の戦い」では、楯岡満茂とともに増田城を守備した。

大山光因【おおやまあきたね(15??~15??)】

大山満因の男。官途は筑前守。室は楯岡満茂の娘(香林院)。最上義光の六男大山光隆を養子に迎えた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、楯岡満茂とともに酒井忠勝に預けられた。

大山光隆【おおやまみつたか(15??~1623)】

最上義光の六男(大山光因の養子)。官途は筑前守。1600年、「関ヶ原の役」後、父最上義光が山形城570,000石を領すると、大山城主に任じられ21,000石を領した。1514年、兄最上家親が最上惣領家の家督を相続すると、27,000石に加増された。1617年、「最上騒動」では、兄山野辺義忠にも甥最上義俊にも属さず中立を維持した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に預けられた。

大山隆房【おおやまたかふさ(15??~15??)】

大山光因の男。通称右京之進。大山光隆に仕えた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に預けられた。

岡野孝以【おかのたかもち(15??~1659)】

鮭延秀綱家臣。官途は主馬。通称九郎左衛門。室は鮭延秀綱の娘。家老職として400石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、鮭延秀綱に従い土井利勝に仕えた。

荻袋甲斐守【おぎぶくろかいのかみ(15??~1588)】

寒河江兼広家臣。村山郡荻袋城主。1588年、「長崎城の戦い」で中山朝正が本庄繁長勢が攻撃を受けると、援軍として派遣されたが討死した。

荻袋広信【おぎぶくろひろのぶ(15??~15??)】

荻袋甲斐守の男。

小国因幡守【おぐにいなばのかみ(15??~15??)】

武藤晴時家臣。小国城主。小国城500石を領した。

小国光忠【おぐにみつただ(15??~1631)】

最上義光家臣。倉津守俊の男。官途は日向守。別名倉増光基。室は最上義守の娘。小国城8,000石を領した。鉄炮に関心を持ち、鉄炮鍛冶を呼び寄せ「日向筒」という鉄炮を製造したほか、三間鑓である「日向鑓」を導入するなど、非常に才能豊かな人物であった。また、領内の産業振興にも努め、優れた民政家でもあった。

小国親元【おぐにちかもと(15??~15??)】

倉津守俊の次男。別名西監物。室は日野薩摩守の娘。500石を領した。兄小国光忠の館の西側に住んでいたことから、西殿と称した。

小国元俊【おぐにもととし(15??~1637)】

小国親元の男。別名西監物。室は高井親重の娘。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、岳父小国親重と弟二人らとともに羽後国仙北郡刈和野村に蟄居した。その後、佐竹義宣に仕えた。

小国親景【おぐにちかかげ(15??~1624)】

小国光忠の男。官途は大膳亮。倉津城主を務めた。1600年、「長谷堂城の戦い」では、谷地森伯耆守、川熊壱岐守らとともに長谷堂城に籠城した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、父小国光忠、継嗣の小国源三郎とともに鍋島勝茂に預けられた。

小国摂津守【おぐにせっつのかみ(15??~15??)】

小国光忠家臣。最上義光に仕えて4,000石を領した。

奥村常陸介【おくむらひたちのすけ(15??~16??)】

最上義光家臣。4,000石を領した。1603年、最上義康を謀殺した土居半左衛門を討取るため、小国日向守ら馬廻衆36騎衆とともに討手として派遣された。

小栗正吉【おぐりまさよし(15??~16??)】

最上義光家臣。通称頼母介。鳥屋ヶ森城2,500石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、府中松平忠長に仕えた。

落合伯耆守【おちあいほうきのかみ(15??~15??)】

延沢満延家臣。置賜郡落合館主。1572年、最上義光に降伏した。山形城北面を守備した。熊野神社を厚く信奉した。

小野丹波守【おのたんばのかみ(15??~15??)】

矢口能登守家臣。最上郡小倉館主。

小野寺道元【おのでらみちもと(1560~1632)】

最上義光家臣。官途は刑部。北条氏康、武田勝頼、真田昌幸、長尾景勝らを渡り歩き、数々の戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、最上義光に仕え鉄炮奉行を務めた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、府中松平忠長に仕えた。

小野又右衛門【おのまたざえもん(1584~16??)】

志村光安家臣。1600年、「酒田城の戦い」に参陣して、頸一級を挙げた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に仕えて260石を領した。

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【か】

糟谷延元【かすやのぶもと(15??~15??)】

延沢満延家臣。官途は出雲守。

加藤清次【かとうきよつぐ(15??~1600)】

最上義光家臣。悪戸楯主。最上義姫の警護役を務めた。1600年、「長谷堂城の戦い」では、江口光清が畑谷城で討死したことに憤激し樋口兼続勢と戦ったが、長谷堂城の北方で討死した。

加藤源右衛門【かとうげんえもん(15??~1601)】

最上義光家臣。1601年、「酒田城の戦い」では、里見義近とともに軍奉行に任じられた。酒田城を攻めた際、守りが堅く攻めあぐねていたため、諸将に先駆けて塀を乗り越えようとしたところを、鉄炮vで眉間を打ち抜かれ戦死した。

金野右馬充【かねのさうまじょう(15??~15??)】

武藤氏義家臣。金野右馬充の男。武勇に優れていた。1588年、最上義光勢に属して本庄繁長と戦うが敗れ浪人となった。1590年、「藤島城の戦い」では、羽柴秀吉勢による検地に反対して一揆を先導した。長尾景勝勢の攻撃を受け佐渡国に落延びた。

上山義房【かみのやまよしふさ(15??~1520)】

最上義定家臣。村山郡上山城主。別名最上義房。1514年、最上義定が、伊達稙宗に敗北し伊達稙宗の傘下となると、山上義房は伊達稙宗に対して叛旗をひるがえした。伊達稙宗勢に上山義房は惨敗し、山上義房はわずかな家臣と落延び天童城に潜伏した。伊達稙宗は最上義定に養子を出して完全な傀儡にしようとした。1520年、山上義房は再び挙兵して、寒河江兼広、天童頼長らとともに伊達稙宗と戦うが討死した。

上山義忠【かみやまよしただ(15??~15??)】

上山義房の男。別名武衛義忠、武永義忠。1528年、「高楯城の戦い」で城主小梁川貞伴を追い落とし高楯城を居城とした。1535年、上山城を築城して本城を移した。

上山満兼【かみのやまみつかね(15??~1580)】

上山義節の男。室は中野義清の娘。伊達晴宗と結び領内の安定化を図った。1574年、「天正最上の乱」では、最上義守勢の伊達晴宗勢が領内通過を黙認したため、最上義光と対立した。1578年、上山満兼は伊達輝宗、天童頼貞と結び最上義光勢を攻撃した。1580年、最上義光の家臣氏家守棟、谷柏直家らの調略を受けた上山満兼の家臣里見義近、里見民部らが最上義光に内応、里見民部は里見内蔵助を謀殺した。上山満兼は最上義光の攻撃を受け里見民部が内部から攻撃して山上満兼は討死した。

上山義直【かみのやまよしなお(1594~1622)】

最上義光の五男。官途は兵部大夫。別名最上光広。上山城主里見民部、里見正光ら里見家枝連衆が最上義康殺害の事件で追放されると、上山城21,000石を領した。最上家枝連衆では兄山野辺義忠を抜き、兄清水義親、弟大山光隆、従兄松根光広に次ぐ石高だった。1622年、最上義俊の改易後、黒田忠之にお預けの身となったが、まもなく自刃した。

木戸周防守【きどすおうのかみ(15??~1614)】

清水義氏家臣。清水義氏は八向館主合海志摩守を討取り、木戸周防守を館主に任じた。清水家筆頭家老職を務め1,000石を領した。

貴志義忠【きしよしただ(15??~15??)】

村山郡鳥屋森城主。官途は美作守。室は出羽吉川政時の娘。別名岸美作守。1565年、和合秋広が八ツ沼城主原忠重と鳥屋ヶ森城主貴志義忠が謀反を企ていると最上義光に讒言した。「五百川の戦い」では、最上義光勢5,000余りと戦い八ツ沼城、鳥屋ヶ森城び両城が落城した。貴志義忠は助命された。

北楯利長【きただてとしなが(1548~1625)】

最上義光家臣。通称大学。1601年、田川郡狩川城3,000石を領した。1612年、庄内三郡(田川郡、櫛引郡、遊佐郡)を支配する最上義光の命で、田川郡の水不足を解消するために新堰の開削に着手した。最上義光の家臣団からは反対意見が出たが、新関久正の賛成により工事を開始、約半年で全長34キロにも及ぶ堰が完成すると30,000石の新田が開かれた。1622年、最上義康の改易により、新たに庄内領主となった酒井忠勝が北楯利長を召抱えようとしたが固辞した。その功績を讃えられ、北楯神社に祀られ、この堰は北楯利長の名を取って北楯大堰と称された。

北楯正久【きただてまさひさ(15??~15??)】

北楯利長の男。通称助次郎。1622年、最上義俊の改易処分に処されると、酒井忠勝に仕えて300石を領した。。

出羽吉川政周【きっかわまさちか(14??~1514)】

村山郡吉川城主。左沢政勝の三男(吉川満教の養子)。官途は兵部少輔。1514年、「長谷堂城の戦い」では、楯岡満英、長瀞左衛門、山辺刑部らとともに伊達稙宗勢を迎え撃ったが最上義定の参陣が遅れたため、大敗を喫し1,000余りとともに討死し長谷堂城も落城した。

出羽吉川広政【きっかわひろまさ(15??~15??)】

吉川政周の男。通称少輔彦太郎。

出羽吉川政時【きっかわまさとき(15??~15??)】

吉川広政の男。官途は民部少輔。

出羽吉川元綱【きっかわもとつな(15??~15??)】

吉川政時の男。

出羽吉川隆広【きっかわたかひろ(15??~1584)】

吉川元綱の次男。1584年、最上氏義光に柴橋頼綱が討取られると寒河江城も落城、吉川隆広は寒河江高基とともに貫見城に落延びるがそこで自刃した。

出羽吉川良光【きっかわよしみつ(15??~15??)】

吉川隆広の男。

来次時秀【きつぎときひで(1543~15??)】

飽海郡観音寺城主。観音寺城2,500石を領した。庄内地方は武藤義氏、来次時秀、土佐林禅棟、砂越義氏が勢力を拡大したが、武藤義氏が勢力を伸ばすとそれに属した。1568年、最上義光や本荘繁長の勢力拡大などに悩まされた武藤義興からの攻撃を受けた。

来次氏秀【きつぎうじひで(15??~16??)】

来次時秀の男。官途は出雲守。由利郡の諸豪族や安東愛季への使者に立った。1579年、武藤義氏に対して謀叛を起したが鎮圧された。1582年、武藤義氏が、最上義光勢の攻撃を受けると、鮭延秀綱からの意向を受け中立を維持した。1583年、東禅寺義長と結んで武藤義氏を自刃に追い込んだ。1587年、最上義光が武藤義氏の跡を継いだ武藤義興を討取った。1588年、「十五里ヶ原の戦い」では、本庄繁長、武藤義勝勢に属して最上義光勢と戦ったが敗れた。1589年、「小田原の役」では、長尾景勝勢に属して参陣した。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢が敗れ、長尾景勝が米沢城300,000石に減封されると、来次氏秀もそれに従った。

木戸周防守【きどすおうのかみ(15??~1614)】

清水義氏家臣。八向館主。筆頭家老職を務め1,000石を領した。

金原七蔵【きんばらしちぞう(1585~15??)】

里見民部家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」で里見民部は、金原七蔵に戦功を挙げさせるため、剛力の足軽衆を従わせた。漆山九郎兵衛が長尾景勝の家臣上泉泰綱と組み戦っているところに飛びかかり上泉泰綱の頸級を上げた。

草刈虎之助【くさかりとらのすけ(15??~1588)】

天童頼貞家臣。中山朝正らとともに庄内地方に派遣された。1588年、「十五里ヶ原の戦い」では、本庄繁長勢を撃破ち、東禅寺義長が討死後も最後まで奮戦した。最上義光勢がことごとく討たれると、自刃した。

草刈虎正【くさかりとらまさ(15??~1600)】

草刈虎之助の男。官途は志摩守。最上義光に仕えた。1600年、「上山城の戦い」では、上山城に援軍に赴き直江兼続勢と戦った。「物見山の戦い」では、上山城将里見民部とともに直江兼続勢の本村親盛を討取る戦功を挙げた。「広河原の戦い」で敗走する直江兼続勢を追撃するが反撃を受け討死した。

草刈将監【くさかりしょうげん(15??~15??)】

天童頼貞家臣。猪ノ沢館主。官途は備前守。天童頼貞に仕えるが最上義光に敗れ、流浪の後に武藤義興に仕えた。最上義光に内応して武藤義興らの情報を伝えた。武藤義興の討死後は、最上義光に仕えた。

草刈重右衛門【くさかりしげえもん(15??~16??)】

楯岡満茂家臣。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。

草刈専右衛門【くさかりせんえもん(15??~15??)】

草刈重右衛門の弟。

草刈忠左衛門【くさかりちゅうざえもん(15??~16??)】

草刈重右衛門の男。

沓沢忠久【くつさわただひさ(15??~15??)】

最上郡差首鍋城主。官途は但馬守。最上義定の支援を受けた。

沓沢忠国【くつさわただくに(15??~15??)】

沓沢忠久の男。官途は掃部介。1581年、鮭延秀綱勢に属して最上義光の攻撃を受けて衰亡した。

沓沢忠家【くつさわただいえ(15??~16??)】

沓沢忠国の男。官途は兵庫介。1581年、「差首鍋城の戦い」では、最上義光が鮭延秀綱を攻撃すると、差首鍋城を攻撃して鮭延秀綱を支援した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、庄内で帰農した。

沓沢玄蕃【くつさわげんば(15??~15??)】

沓沢忠国家臣。最上郡野崎館主。1581年、沓沢忠国が、最上義光勢の攻撃を受け滅亡すると、沓沢忠家が家督を相続しようとするが、幼少のため沓沢玄蕃が差首鍋城主を務めた。

熊沢主税介【くまざわちからのすけ(15??~15??)】

最上義光家臣。1584年、「谷地城の戦い」では、50余りの槍衆を率て参陣した。

蔵増光忠【くらますひつただ(15??~15??)】

天童頼澄家臣。田川郡蔵増城主。官途は安房守。別名倉津守俊。最上義光勢に内応した。1581年、「万騎ヶ原の戦い」では、最上義光に従って参陣して細川直元勢と戦い戦功を挙げ小国城を領した。1584年、「天童城の戦い」で天童城が落城すると天童頼澄は陸奥に落延びた。

蔵増光基【くらますみつもと(15??~1631)】

蔵増光忠の男。官途は日向守。別名小国光基。民政家で、石高8,000石だった小国領を産業を奨励して16,000石まで高めた。また、鉄炮に関心を持ち、鉄炮鍛冶を呼び寄せ「日向筒」という鉄炮を製造した、三間鑓である「日向鑓」を導入するなど、非常に才能豊かな人物であった。1596年、小野寺義道が楯岡満茂が籠城する湯沢城を攻めた際、救援に赴いた。1622年、最上義俊の改易後は鍋島勝茂に預けられた。

蔵増親景【くらますちかかげ(15??~1624)】

蔵増光基の次男。官途は大膳亮。別名小国大膳。1600年「関ヶ原の役」では、谷地森伯耆守、川熊壱岐守らと共に長谷堂城に援軍として入った。1622年、最上義俊の改易により、父蔵増光基、嫡男蔵増源三郎とともに鍋島勝茂に預けられた。

蔵増親元【くらますちかもと(15??~15??)】

蔵増光忠の次男。別名小国親元。室は日野薩摩守。兄蔵増光基の館の西側に住み500石を領した。西殿と呼ばれ、西監物を称した。

蔵増元俊【きらますもととし(15??~1637)】

蔵増親元の男。通称兵右衛門。別名小国元俊。室は高井親重の娘。父蔵増親元と同じく西監物を称した。1622年、最上義俊の改易後、義父高井親重と弟二人らと共に仙北郡刈和野村に蟄居した。その後、佐竹義宣に仕えたが、佐竹家には東西南北の御一門四家があったことから、西野と称した。

小泉讃岐守【こいずみさぬきのかみ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。家老衆を務め3,000石を領した。1601年、「酒田城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。

高坂中務【こうさかなかむ(15??~1586)】

武藤義氏家臣。田川郡高坂館主。武藤義氏と対立し、武藤義氏を自刃に追い込む。その後、高坂玄蕃頭に家督を譲った。

高坂玄蕃頭【こうさかげんばのかみ(15??~15??)】

高坂中務の男。長尾景虎、最上義光と仕え所領を守った。1585年、「高坂城の戦い」で長尾景勝勢の攻撃を受け落城した。

郡山彌五左衛門【こうりやまよござえもん(15??~16??)】

楯岡光直家臣。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に仕え100石を領した。酒井忠勝の江戸屋敷でて狼藉者を討取る戦功を挙げた。

牛房野三七【ごぼうのさんしち(15??~15??)】

村山郡午房野館主。午房野館2,000石を領した。1581年、「小国城の戦い」では、最上義光の先導役を務め、細川直元勢を攻撃した。

小松原盛定【こまつばらもりさだ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は右馬丞。
 
小松原盛種【こまつばらもりたね(1599~1664)】

小松原盛定の男。通称源四郎。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕え三人扶持銀90目を給された。

小柳重保【こやなぎしげやす(15??~1584)】

最上義光家臣。通称外記。1581年、最上義光の仙北攻めで先手を務め、戦功により薄井村など七ヶ村を領した。1584年、小野寺義道との戦いで討死、四歳のひとり娘が残された。最上義光は、楯岡満茂に娘を養育するよう命じ、後に秋保主馬の弟秋保重治が娘を娶り、小柳家の婿養子になった。
 
小柳重治【こやなぎしげはる(15??~1659)】

秋保主馬の弟(小柳重保の養子)。通称左馬之助。室は小柳重保の娘。小柳家の家督を相続した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、浪人となり本庄に居住した。

小柳治重【こやなぎはるしげ(15??~16??)】

小柳重治の男。佐竹義宣に仕えた。  

近藤壱岐守【こんどういきのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。山形城三の丸小田口を守備して2,500石を領した。小田口には重要とされる煙硝庫があった。

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【さ】

斎藤光則【さいとうみつのり(15??~16??)】

楯岡光直家臣。官途は伊予守。村山郡谷地城代として4,000石を領した。1606年、民政、治水事業において優れた手腕を発揮し、新田開発や最上川の水運開発に優れた功績を残した。1606年、最上川の難所における開削の奉行として大いに手腕を発揮し、最上川の水運を最上家領内における流通を改革した。1611年、里見民部、正光親子、原八右衛門、下吉忠らが最上家親を擁立して実権を握るため、最上義康を謀殺する事件が起きた。斎藤光則は、最上義光に謀殺に関わる陰謀事件の調査を命じられた。最上義光の弟最上光直が楯岡城主になると、その附家老として高櫤城で5,500石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると所領を失った。

斎藤伯耆守【さいとうほうきのかみ(15??~15??)】

白鳥長久の弟。1584年、白鳥長久が最上義光に討取られると、山野辺光茂に仕え、城代家老職を務めた。

斎藤忠頼【さいとうただより(15??~16??)】

白鳥長久の孫(斎藤伯耆守の養子)。養父斎藤伯耆守の家督を相続して城代家老職を務めた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、山野辺光茂に従い、のちに水戸松平頼房に仕えた。

寒河江宗広【さがえむねひろ(15??~15??)】

村山郡寒河江城主。1514年、「長谷堂城の戦い」では、最上義定勢に属して伊達稙宗勢と戦ったが吉川政周ら1,000余が討死する敗北を喫した。

寒河江広種【さがえひろたね(1501~1546)】

寒河江宗広の五男。官途は兵部大輔。室は楯岡義輔の娘。1520年、最上義定に従って伊達稙宗勢と戦うが、伊達稙宗勢の攻撃を受けると降伏した。1524年、継嗣だった弟寒河江孝広の病没により、還俗して寒河江家の家督を相続した。

寒河江孝広【さがえたかひろ(1502~1527)】

寒河江宗広の六男。室は館岡義輔の娘。

寒河江兼広【さがえかねひろ(15??~15??)】

寒河江広種の男。室は吉川政時の娘。1560年、最上義守勢の攻撃を受けたが撃退した。継嗣をもうけることができず、最上義光と最上義康を婿にして寒河江家の家督を継がせる約束があったが、これを反故にして寒河江高基を婿養子に迎えた。

寒河江高基【さがえたかもと(15??~1584)】

吉川基綱の男(寒河江兼広の養子)。室は寒河江兼広の娘。婿養子に迎えられ、寒河江家の家督を相続したが、最上義光や家臣の左沢氏政、溝延氏勝らの反発を招いた。1583年、武藤義氏から援軍を求められたが、支援が間に合わず武藤義氏が討死した。1584年、「中野原の戦い」では、寒河江勘十郎、柴橋頼綱らが最上義光勢と戦ったが敗れ寒河江勘十郎が討死した。貫見に落延びたが最上義光勢の追撃を受け自刀した。

寒河江勘十郎が【さがえあきとし(15??~15??)】

寒河江高基家臣。1584年、「中野原の戦い」では、寒河江高基に従って最上義光勢と戦った敗れて討死した。

寒河江光俊【さがえみつとし(15??~15??)】

寒河江高基家臣。官途は外記。1584年、「中野原の戦い」で寒河江高基が敗北すると、最上義光に降伏して寒河江城主に任じられた。1588年、本庄繁長の侵攻を不当であると羽柴秀吉に訴えたが、訴えは退けられた。1589年、最上義光の意向を受け松平元康に鷹三羽を贈った。1591年、「仙北一揆」が起ると、鮭延秀綱らとともにこれを鎮圧した。

寒河江広俊【さがえひろとし(15??~1614)】

寒河江高基家臣。寒河江広秋の男。官途は肥前守。1584年、「中野原の戦い」で寒河江高基が討死すると、最上義光に降伏して山野辺城27,000石を領した。1614年、最上義光が病没すると殉死した。

寒河江元茂【さがえもとしげ(1560~1614)】

最上義光家臣。通称十兵衛。1584年、父寒河江広俊とともに最上義光に降伏して1,500石を領した。最上義光の近習と争いごとを起こしたが、自刀は免れた。1592年、「文禄の役」に参陣して赦免された。1614年、最上義光が病没すると、寒河江広俊、山家河内守、長岡但馬守らとともに殉死した。

寒河江俊長【さがえとしなが(15??~15??)】

寒河江広俊の次男。通称新次郎。父寒河江広俊と兄寒河江元茂が最上義光に従って殉死したため、寒河江家の家督を相続した。

寒河江俊重【さがえとししげ(15??~16??)】

寒河江俊長の男。通称惣右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、福井松平忠直に仕えた。

寒河江親俊【さがえちかとし(15??~15??)】

寒河江広秋の次男。官途は監物。

寒河江信安【さがえのぶやす(15??~15??)】

寒河江親俊の男。通称甚右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、黒田長政に仕えた。1637年、「島原の乱」で戦功を挙げた。福井松平忠直に仕えて600石を領した。

寒河江親清【さがえちかきよ(1588~1642)】

草苅薩摩守の次男(寒河江元茂の養子)。通称織部。室は寒河江元茂の娘。鶴ヶ岡城の詰番を務めた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、蒲生忠郷、加藤嘉明らに仕えた。

坂光秀【さかあきひで(15??~1616)】

最上義光家臣。官途は紀伊守。室は志村光安の娘。1600年「関ヶ原の役」では長谷堂城をめぐって直江兼続と戦い長谷堂城を守り切った。役後は酒田東禅寺城主となった志村光安に代わって長谷堂城13,000石を領した。最上義光の側近として、松平元康や公家などへの使者をたびたび務めた。1622年、最上義俊の家改易の後、跡を継いだ坂光重はまもなく帰農した。

坂備前守【さかびぜんのかみ(15??~1616)】

坂光秀の弟。狸森楯主。

坂光重【さかあきしげ(1576~1663)】

坂備前守の男(坂光秀の養子)。別名坂重内。1616年、坂光秀が病没すると、坂家の家督と相続して長谷堂城主に任じられた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、帰農した。

坂光吉【さかあきよし(1595~1680)】

坂光重の男。通称九郎右衛門。父坂光重とは別に140石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、長谷堂に居住した。1637年、父坂光重とともに置賜郡荒砥に移住した。

坂茂左衛門【さかしげざえもん(15??~15??)】

志村光安家臣。1600年「関ヶ原の役」では志村光安に属して亀ヶ崎城を攻撃した。1622年、最上義俊の改易後、酒井忠勝に仕えて150石を領した。

坂本忠重【さかもとただしげ(15??~16??)】

楯岡満茂家臣。通称三右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、秋田に移った。

坂本忠郷【さかもとたださと(15??~16??)】

坂本忠重の男。佐竹義宣に仕えた。

鮭延貞綱【さけのべさだつな(1516~1568)】

小野寺景道家臣。最上郡鮭延城主。別名佐々木貞綱。武藤晴時や最上義定と領有を争っていた最上地方全域の領有を図るため、小野寺景道から岩花城主に任じられた。1563年、「岩花城の戦い」で最上義定勢の攻撃を受け落城した。

鮭延秀綱【さけのべさだつな(1562~1646)】

鮭延貞綱の次男。官途は越前守。通称典膳。人質として武藤義増のもとに送られた。1581年、「鮭延城の戦い」では、最上義光の家臣氏家守棟勢の攻撃を受け落城した。敗北後、最上義光に仕え来次氏秀など庄内の豪族に調略を行った。1590年、湯沢城代に任じられた。1600年、「長谷堂城の戦い」では、樋口兼続勢の攻撃を受けると城主志村光安、清水義親、楯岡光直らとともにこれを撃退した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると土井利勝に預けられた。

鮭延左衛門尉【さけのべさえもんのじょう(1586~1612)】

鮭延秀綱の男。通称左右衛門。1600年、「長谷堂城の戦い」で樋口兼続勢と戦い戦功を挙げた。1612年、鮭延家の家督を継ぐことなく病没した。

砂越氏雄【さごしうじたか(15??~1513)】

飽海郡砂越城主。砂越氏益の男。武藤澄氏家臣。官途は信濃守。上洛して足利義尚から信濃守の官途を受け飽海郡内で30,000石を領した。1512年、武藤澄氏と戦い勝利を上げたが1,000余りの損害を受けた。1513年、「大宝寺城の戦い」で武藤澄氏勢を攻撃したが、反撃を受け討死した。

砂越氏維【さごしうじふさ(15??~1513)】

武藤政氏の男。1518年、武藤澄氏の意向を受け砂越家の家督を相続した。1531年、「藤島城の戦い」で土佐林禅棟が滅亡すると、庄内北部を掌握する勢力に成長した。1532年、「鶴ヶ岡城の戦い」では、武藤晴時を尾浦城に追い落とした。武藤晴時と和議を結び臣従した。

砂越二郎【さごしじろう(15??~15??)】

砂越氏維の男。1588年、「十五里ヶ原の戦い」では、最上義光勢の属したが本庄繁長勢に敗れ、砂越宗恂の娘の嫁ぎ先である安東愛季のもとに落延びた。

砂越宗恂【さごしそうじゅん(15??~15??)】

砂越氏維家臣。安東愛季との取次役を務め、娘は安東愛季に嫁いだ。

左近宗倶【さこんむねとも(15??~15??)】

鮎貝盛宗の三男。

佐々木文右衛門【ささきぶんざえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。1622年、最上義俊が改易処分に処されると秋田城下に移り、平元隼人の屋敷にて暮らした。

佐々木正名【ささきまさな(15??~15??)】

佐々木文右衛門の男。佐竹義宣に仕えた。

笹原昌良【ささはらまさよし(15??~15??)】

延沢満延家臣。官途は石見守。別名篠原石見守。有路但馬守とともに延沢満延の家老職を務めた。「能登内に有路笹原なかりせば最上義光にくびを延沢」という狂歌を残した。

佐竹與三左衛門【さたけきょうさんざえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。室は進藤勘解由左衛門の娘。1,000石を領した。隠居料として200石を領した。

佐竹正勝【さたけまさかつ(15??~1636)】

佐竹與三左衛門の次男。通称太郎左衛門。別名進藤正勝。父佐竹與三左衛門の隠居領200石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、津軽信枚に100石で仕えた。

佐竹正吉【さたけまさよし(15??~1653)】

斎藤正行の次男(佐竹正勝の養子)。通称甚右衛門。室は佐竹正勝の娘。

佐藤次郎右衛門【さとうじろうえもん(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。

佐藤茂頼【さとうしげより(15??~16??)】

延沢満延家臣。佐藤次郎右衛門の男。通称勘七郎。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。

佐藤茂貞【さとうしげさだ(15??~16??)】

佐藤茂頼の男。
 
佐藤景正【さとうかげまさ(15??~15??)】

佐藤次郎右衛門の次男。通称勘三郎。1622年、最上義俊が改易処分に処されると佐竹義宣言に仕えた。

佐藤景光【さとうかげみつ(15??~15??)】

佐藤景正の男。

佐藤信基【さとうのぶもと(15??~1581)】

鮭延秀綱家臣。最上郡野崎館主。官途は大和守。1581年、「鮭延城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受けると鮭延秀綱に従って弟佐藤信包、継嗣佐藤信稚、佐藤信秀、佐藤義次、履沢忠国とともに応戦したが敗れて館に火を放ち自刃した。

佐藤信雅【さとうのぶまさ(15??~1581)】

佐藤信基の男。官途は右京。1581年、「鮭延城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受けると父佐藤信基に従って参陣したが討死した。

佐藤信秀【さとうのぶひで(15??~15??)】

佐藤信基の次男。官途は美濃守。

佐藤義次【さとうよしつぐ(15??~15??)】

佐藤信基の三男。官途は備中守。

佐藤信包【さとうのぶかね(15??~1581)】

佐藤信基の弟。官途は下野守。1581年、「鮭延城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受けると兄佐藤信基に従って参陣したが討死した。

佐藤憲茂【さとうのりしげ(15??~1600)】

最上義光家臣。樋幡城主。官途は豊後守。通称理兵衛。1600年、「長谷堂城の戦い」で討死した。

里村理兵衛【さとむらりへい(15??~15??)】

東根頼景家臣。

里村利兵衛【さとむらりへい(15??~15??)】

里村理兵衛の男。

里見義近【さとみよしちか(15??~1614)】

上山満兼家臣。官途は越後守。1574年、「天正最上の乱」では、上山満兼とともに最上義光勢に属した。最上義守勢の伊達輝宗の家臣小梁川盛宗の攻撃を受けた。1578年、最上義光に内応して次男の里見民部とともに上山満兼と継嗣の見内蔵助を謀殺した。この戦功により上山城21,000石を領した。1600年、「長谷堂城の戦い」では、山形城で軍奉行職を務めた。最上義康の廃嫡事件に関わり、最上義光のもとを退去した。

里見内蔵助【さとみくらのすけ(15??~15??)】

里見義近の男。1578年、最上義光に内応した父里見越後守と弟里見民部に上山満兼とともに謀殺された。

里見民部【さとみみんぶ(15??~1614)】

里見義近の次男。官途は民部少輔。1578年、父里見義近とともに最上義光に内応して上山満兼と兄里見内蔵助を謀殺した。1600年、「長谷堂城の戦い」では、上山城を守備し、直江兼続勢の上泉泰綱を討取った。その後、下吉忠らとともに最上家親擁立を画策した。1603年、最上義康を謀殺したため、最上義光から怒りを買い、加賀国に落延びたが盗賊に襲われ継嗣の里見正光とともに討死した。

里見正光【さとみまさみつ(15??~1614)】

里見民部の男。官途は越後守。最上義康謀殺に関わり、最上義光のもとから出奔した。前田利長のもとの落延びたが、最上義光に引き渡される途中、盗賊に襲われ父里見民部とともに討死した。

里見主水【さとみもんど(15??~15??)】

里見越後守の次男。1600年、「長谷堂城の戦い」では、樋口兼続勢を兄里見民部らとともに奇襲し撃退した。

里見市正【さとみいちのかみ(15??~15??)】

里見正光家臣。2,300石を領した。

里見義親【さとみよしちか(15??~15??)】

最上義光家臣。官途は掃部。最上義光、最上家親の二代に仕え1,000石を領した。

里見親宗【さとみちかむね(1594~1678)】

里見義親の男。通称四郎左衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、黒田長政に仕えた。水戸松平頼房に300石で仕えた。

坂弥兵衛【さかやひょうえ(15??~15??)】

里見民部家臣。1,500石を領した。1600年、「物見山の戦い」で長尾景勝の家臣本村親盛を討取る戦功を挙げた。上山城を攻撃していた長尾景勝勢は壊滅した。

猿羽根義舜【さるはねよしきよ(15??~1589)】

最上郡猿羽根館主。猿羽根義舜は最上義光勢の攻撃を受け降伏した。1589年、謀反の嫌疑を受け長瀞で自刃した。

信太市之進【しだいちのしん(15??~15??)】

鮭延秀綱家臣。蔵岡薬師館主。1581年、鮭延秀綱が最上義光勢に寝返ると、それに従い蔵岡薬師館を守備した。

柴橋頼綱【しばはしよりつな(15??~1584)】

寒河江兼広家臣。村山郡柴橋城主。出羽吉川元綱の三男。別名橋間勘十郎。寒河江兼広の執政となり、寒河江兼広病没後男子がなかったことから、兄寒河江高基に寒河江兼広の娘に合わせ、寒河江家の家督を相続させた。寒河江兼広と最上義光の間には、最上義康を婿として寒河江家を継がせる約束があったことから、両家の間には確執が起こった。1584年、「谷地城の戦い」では、白鳥長久を謀殺して最上氏義光が谷地城を攻撃した。寒河江高基も柴橋頼綱勢を援軍として送っが、白鳥長国が守備する谷地城は落城した。最上義光が寒河江城に押し寄せると、柴橋頼綱勢は後方の中野城を攻撃した。最上義光は策を巡らせ、偽りの退却と鉄炮隊の伏兵によって柴橋頼綱は討取られた。

篠田市之進【しのはらいちのしん(15??~1600)】

最上郡薬師館主。鮭延貞綱家臣。1563年、武藤義氏に敗れたさい真室城に移った。1563年、鮭延義光の攻撃を受けて降伏すると、最上義光の属城となり、最上川の水運を監視する城になった。1600年、「長谷堂城の戦い」に参陣して討死した。

清水義高【しみずよしうじ(?~1565)】

最上郡清水城主。最上川舟運の拠点清水を支配し、内陸進出を狙う武藤義増から度々攻められた。1563年、武藤義増が最上郡に侵攻、鮭延貞綱を降すと、清水義高勢の諸城を攻略した。1565年、「本合海の戦い」で、武藤義増勢の攻撃を受け討死した。

清水義氏【しみずよしうじ(1547~1586)】

清水義高の男。通称孫三郎。1565年、父清水義高が武藤義増に敗れ、討死したことにより清水家の家督を相続した。清水義氏には嫡子がなく、娘(清水姫)が婿養子を迎えるはずであったが、最上義光の三男清水義親を養子として迎え入ることとなった。清水義氏の娘(清水姫)は内室と死別していた最上義光の側室として嫁いだ。清水義氏は娘(於辰姫)を最上義光の継室にして最上義光の力を後ろ盾にした。1582年、武藤義氏に攻撃され、これ以降最上義光と武藤義氏の対決になっていった。清水家の家督は最上義光の三男最上義親が継いだ。

清水義親【しみずよしちか(1582~1614)】

最上義光の三男(清水義氏の養子)。官途は大蔵大輔。最上郡清水城23,000石を領した。羽柴秀吉の人質となった経緯から羽柴秀頼派であった。1600年、「長谷堂城の戦い」では、楯岡光直とともに戦った。のち兄最上家親と対立した。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼への内通の嫌疑をかけられ、最上家親勢の延沢光昌、日野将監の攻撃を受けて落城、継嗣の清水義継とともに自刃した。清水義親は羽柴秀吉に人質になったのに対し、最上家親は松平元康に仕えた立場にあり、兄弟仲はあまり良くなかった。

清水義継【しみずよしつぐ(15??~1614)】

清水義親の男。1614年、「大坂冬の陣」で父清水義親が羽柴秀頼への内通の嫌疑を受け、最上家親の家臣延沢光昌、日野将監らの攻撃を受けて落城、清水義親とともに自刃した。

志村光清【しむらみつきよ(15??~15??)】

最上義光家臣。

志村光安【しむらみつやす(15??~1609)】

志村光清の男。官途は伊豆守。1600年、「長谷堂城戦い」では、樋口兼続勢が20,000余りの攻撃を受けると、鮭延秀綱らとともに伏兵などを駆使して樋口兼続勢を撃退した。1601年、「東禅寺城の戦い」では、志駄義秀勢と戦い戦功を挙げた。役後、亀ヶ崎城30,000石を領した。

志村光清【しむらみつきよ(15??~1614)】

志村光安の男。通称九郎兵衛。別名志村光惟。1609年、父志村光安の病没により亀ヶ崎城(東禅寺城)30,000石を領した。1614年、「一栗高春の乱」では、鶴ヶ岡城代新関久正の屋敷で一栗高春勢の攻撃を受け下吉忠とともに討死した。

志村藤右衛門【しむらとうえもん(15??~1600)】

最上義光家臣。1584年、「谷地城の戦い」では、最上義光に従い50挺組の足軽大将として参陣した。1600年、「長谷堂城の戦い」で撤退する樋口兼続勢を追撃するが、鉄炮隊の反撃を受け討死した。

下吉忠【しもよしただ(15??~1614)】

最上義光家臣。官途は対馬守。通称次右衛門。別名下康久。もと北条氏政に仕えた。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、長尾景勝に仕え樋口兼続の寄騎衆を務めた。1600年、「長谷堂城の戦い」では、樋口兼続勢が退却したため、最上義光勢に包囲され谷地城に籠城した。降伏後、最上義光に仕えた。1601年、「酒田城の戦い」では、先陣を務め戦功を挙げ尾浦城主12,000石を領した。

下秀実【しもひでざね(15??~16??)】

下吉忠の男。通称次右衛門。1614年、父下吉忠の病没後に家督を継ぎ、尾浦城主となった。最上義光の逝去後、最上家親の家督相続に反対した一栗兵部高春に、鶴ケ岡城下の新関久正の屋敷で一栗高春勢の攻撃を受け討死した。

下本国【しももとくに(15??~1622)】

伊井忠左衛門の男(下吉忠の養子)。官途は長門守。通称勘七郎。1600年、「長谷堂城の戦い」後、下吉忠とともに最上義光に仕え1,000石を領した。1614年、「一栗高春の乱」で下吉忠が討死すると最上義光のもとを辞した。

下秀政【しもひでまさ(15??~16??)】

江本大膳の男(下吉忠の養子)。官途は美作守。通称源六郎。1600年、「長谷堂城の戦い」後、下吉忠とともに最上義光に仕え1,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、長尾景勝に仕えた。

白岩宗広【しらいわむねひろ(15??~15??)】

寒河江兼広家臣。田川郡白岩城主。寒河江兼広、溝延氏勝らとともに慈恩寺旦那衆を務めた。 

白岩義広【しらいわよしひろ(15??~15??)】

白岩宗広の男。官途は備前守。通称四郎八郎。1574年、「天正最上の乱」では、寒河江兼広が最上義光に属したのに対し、白岩義広、左沢氏政、溝延氏勝は伊達輝宗、最上義守に属した。三家は寒河江兼広が籠城する寒河江城を白鳥長久、天童頼貞などとともに攻め落城寸前まで追い詰めた。1582年、真室川で武藤義氏との争いの際、白岩義広が武藤義氏との婚姻関係を理由に謀反を起こしたため、鮭延秀綱への救援が遅れた。しかし、最上義光に降り甥松根光広を婿養子とした。

白岩光広【しらいわあきひろ)(1589~1672)】

長瀞義保の男(白岩義広の養子)。官途は備前守。別名松根光広。1615年、松根城12,000石を領した。白岩光広は六十里越街道の入口で両要所を支配し、六十里越街道を押え善政を敷いた。1622年、最上家親が病没すると、楯岡光直が毒殺を図ったとして、最上義俊を擁立した。延沢義忠を擁立する鮭延秀綱らと対立した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、立花宗茂に預けられた。

白鳥義久【しらとりひしひさ(15??~15??)】

村山郡白鳥城主。白鳥義春の男。白鳥義久はもともと白鳥城にいたが、中条家を滅ぼして谷地城に進出した。1512年、山形城主最上義守は、砂越城主砂越氏雄を内応させ武藤澄氏を攻撃した。白鳥義久は最上義守に属した。1514年、伊達稙宗の「村山郡侵攻」では、最上義守、天童頼貞、寒河広種江連合軍に属して、長谷堂城の伊達稙宗勢を攻撃した。村山郡が伊達稙宗の支配下になると、白鳥義久は天童頼貞と結んで反最上義守の立場を取った。

白鳥長久【しらとりながひさ(15??~1584)】

白鳥義久の男。室は吉川政時の娘。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗と最上義守との取次役を務めた。1574年、「最上天正の乱」では、最上義守と最上義光との取次役を務め、和議の成立に尽力した。1577年、織田信長に鷹や馬を贈って中央政権との結びつきを図った。内政では、農業はもとより諸工業生産の保護奨励にも力を入れ、城下に鋳物師や刀鍛冶、大工などの職人を集めた。1584年、最上義光が仮病を使い、白鳥長久を山形城に誘き寄せ謀殺した。

白鳥長国【しらとりながくに(15??~15??)】

白鳥義春の次男。長女が寒河江兼広、次女が溝延氏勝に嫁いだ。

白鳥義広【しらとりひしひろ(15??~15??)】

白鳥義春の三男。娘が天童頼貞に嫁いだ。

東海林四郎大夫【しょうじしろうだいふ(15??~15??)】

武藤義氏家臣。田川郡山館主。1588年、「十五里ヶ原の戦い」に参陣した。本庄繁長、武藤義勝率いる越後長尾家勢と東禅寺義長、東禅寺勝正兄弟、池田盛周、草刈虎之助率いる最上義光勢と戦い戦功を挙げた。武藤義興が滅亡すると、最上義光に仕えた。

東海林昌種【しょうじまさたね(15??~15??)】

白鳥長久家臣。村山郡沼ノ平館主。通称隼人佐。別名東海林成盛。1584年、白鳥長久が最上義光に謀殺されると、最上義康に嫁していた白鳥長久の娘日吉姫は、難を逃れて夜通し山道を越えて、沼ノ平館に落延びた。「沼ノ平館の戦い」では、最上義光勢の攻撃を撃退した。日吉姫が、最上義光勢に捕縛されると、降伏して最上義光に仕えた。

東海林昌勝【しょうじまさかつ(15??~15??)】

東海林成盛の男。通称二郎。 
 
東海林光勝【しょうじみつかつ(15??~15??)】

東海林昌勝の男。官途は豊後守。1622年、最上義俊が改易処されると、酒井忠勝に仕えた。

東海林光信【しょうじみつのぶ(15??~15??)】

東海林光勝の男

新関久正【しんかいひさまさ(1568~1624)】

最上義光家臣。村山郡若木館主。官途は因幡守。1574年、「最上天正の乱」では、最上義守勢に属した。1602年、櫛引郡藤島城主に任じられ6,500石を領した。1607年、赤川右岸に因幡堰を開削し、庄内平野の水田を潤した。1611年、北楯利長のもとで立谷沢川の水を田川郡北辺の平野部に用水を引いた。1614年、「一栗高春の乱」で志村光清、下吉忠が謀殺されると、一栗高春を追討した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、土井利勝に預けられ、古河で病没した。

進藤安清【しんどうやすきよ(1554~1614)】

志村光安家臣。進藤館主。官途は但馬守。家老職を務め1,500石を領した。1611年、領内検地で川北地方を担当した。1614年、「一栗高春の乱」では、一栗高春勢の攻撃を受け鶴ヶ岡城下の新関因幡守の屋敷で進藤安清ととものに討死した。

須川三次郎【すがわさんじろう(15??~16??)】

楯岡満茂家臣。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。

鈴木光弘【すずきみつひろ(15??~15??)】

最上義光家臣。官途は備後守。家老職を務め漆山館1,500石を領した。斎藤光則とともに新田開発を指令する文書を発給した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、伊達政宗に仕えた。

鈴木治右衛門【すずきじえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。『最上義光分限帳』では、1,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されたあとも最上義俊に仕えた。

須藤茂矩【すどうしげのり(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は伊予守。通称市兵衛。
 
須藤茂實【すどうしげみ(15??~15??)】

須藤茂矩の男。通称市右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。

角川与次郎【すみかわよじろう(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡阿部館主。

関三郎兵衛【せきさぶろうひょうえ(15??~1600)】

最上義光家臣。1600年、「鳥屋ヶ森城の戦い」では、樋口兼続勢の攻撃を受け衆寡敵せず討死した。

芦沢織部【せりざわおりべ(15??~15??)】

村山郡芦沢館主。最上義光が尾花沢盆地に勢力を拡大すると最上義光に仕えた。1622年、最上義康が改易処分に処されると、帰農した。

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【た】

高楯正福【たかだてまさとみ(1559~1615)】

村山郡高楯城主。官途は遠江守。高楯城2,500石を領した。1614年「大坂夏の陣」には、最上家親に属して参陣した。

高楯俊福【たかだてとしとみ(15??~15??)】

高楯正福の男。官途は遠江守。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、最上義俊に従って近江国大森に赴いた。高楯俊福の娘は、最上義俊の次男である最上義長に嫁いだ。

高玉茂兵衛【たかたまもへい(15??~15??)】

鮎貝盛宗の次男。1587年、甥の鮎貝宗信が謀反を起こすと、兄鮎貝宗重を匿った。

高橋石見守【たかはしいわみのかみ(15??~15??)】

延沢満重家臣。村山郡上柳渡戸館主。延沢満重が尾花沢盆地に勢力を拡大する過程で、延沢満重に属した。上柳渡戸館は延沢銀山を押さえるとともに、古来より陸奥国と出羽国を結ぶ軽井沢越えの交通要所として重要な役割を果たした。

高橋但馬守【たかはしたじまのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。1,000石を領した。高橋但馬守の娘が最上義光の継嗣最上義康に嫁いだ。1622年、最上義俊が改易処分に処されと、帰農した。

高橋伊賀守【たかはしいがのかみ(15??~1644)】

最上義光家臣。川北三奉行。安部越中守、斎藤筑後守とともに川北三奉行として活躍した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、松平忠長に仕えた。

竹井時友【たけいときとも(15??~15??)】

土佐林禅棟家臣。1571年、「谷地館の戦い」では、謀反を起こし谷地館に籠城したが、武藤義氏勢勢の反撃を受け捕縛された。

出羽武田兵庫介【たけだひょうごのすけ(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡築館主。

出羽武田河内守【たけだかわちのかみ(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡京塚館主。

楯岡満茂【たておかみつしげ(1547~1639)】

村山郡楯岡城主。官途は豊前守。1586年、「有野峠の戦い」では、小野寺義道の侵攻を最上義康とともに苦戦しながらも撃退した。1595年、「湯沢城の戦い」では、最上義光勢の総大将として小野寺義道勢の湯沢城を奪取し居城とした。1600年、「長谷堂城の戦い」では、小野寺義道に対する押さえとして楯岡城を守備した。役後、雄勝郡は佐竹義宣の所領になり由利郡が最上義光領となった。1603年、赤尾津城45,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠世に預けられた。

楯岡光直【たておかみつなお(1565~15??)】

最上義守の四男(楯岡満茂の養子)。官途は甲斐守。治水、開削、内政などに手腕を発揮した。1600年、「長谷堂城の戦い」では、楯岡光直は700挺の鉄炮隊を含む1000余りを率いて甥清水義親とともに参陣して志村光安を支援した。1618年、楯岡城16,000石を領した。最上家親が鷹狩りの後楯岡城に立ち寄った。最上家親は楯岡光直の饗応を受けたが、その夜最上家親が急死した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、細川忠利に預けられた。

楯岡満広【たておかみつひろ(15??~16??)】

楯岡満茂の弟。官途は長門守。1600年、「長谷堂城の戦い」後、矢島城3,000石を領した。兄楯岡満茂も由利郡40,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、楯岡満茂、楯岡満広兄弟は酒井忠世に仕えた。
 
楯岡信義【たておかのぶよし(15??~16??)】

寺内遠江守の男(楯岡満広の養子)。室は楯岡満広の娘。

楯岡弘盛【たておかひろもに(15??~16??)】

楯岡信義の次男(細井弘盛の養子)。渋江政光の内室に養育された。

谷柏直家【たにやなおいえ(1551~1610)】

最上義守家臣。村山郡谷柏館主。官途は相模守。谷柏館4,000石を領した。1570年、伊達晴宗、伊達輝宗への斡旋の使者として最上義守より派遣され、和解工作を行うなど外交面で活躍した。1574年、最上義光、伊達輝宗の和議の場にも列席した。1600年、「谷柏城の戦い」で樋口兼続勢の攻撃を受けたが城を守り抜いた。

丹政直【たんまさなお(15??~15??)】

最上義光家臣。通称惣左衛門。金山城3,000石を領した。金山城は仙北地域の小野寺家に対する備えとしてを築城された。1600年「関ヶ原の役」では、金山城を守備した。「越後長尾景勝討伐」のため山形城に参集した奥羽諸将が自領に戻ろうとするのを、寡兵にて足留めした。

筑紫喜叶斎【つくしきうんさい(15??~1600)】

最上義光家臣。兵法者として諸国をまわり、その後最上義光に仕えた。1600年、「長谷堂の戦い」に参陣したが、長尾景勝勢が撤退する際、臆病者と罵倒されたため、最上義光の前で討死した。参考文献:『戦国時代人物事典』by学研。

鳥海信道【ちょうかいのぶみち(15??~1600)】

最上義光家臣。通称勘兵衛尉。1594年、湯沢城主小野寺孫七郎の弟小野寺孫作を討取る戦功を挙げた。1598年、鮭延秀綱の仲介により、最上義光の内室(北の方)の女房衆(花輪)を内室に迎えた。1600年、「長谷堂城の戦い」に参陣して鮭延秀綱を守るため樋口兼続勢と戦って討死した。花輪は、鳥海信道の葬儀後、自害した。参考文献:『戦国時代人物事典』by学研。

角沢伊勢守【つのざわいせのかみ(15??~1614)】

最上義光の三男。角沢館主。1603年、清水義親の附家老職を務めた。1614年、父最上義光が病没すると、清水義親は兄最上家親と対立した。「清水城の戦い」で清水義親が討死すると念仏坂で自刃した。

手塚源右衛門【てづかげんえもん(15??~15??)】

鮎貝盛宗家臣。置賜郡平吹館主。1542年、「伊達天文の乱」では、鮎貝盛宗とともに伊達植宗勢に属した。1591年、伊達政宗の岩出山城転封には従わず帰農した。

寺内近江守【てらうちおうみのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。川北三奉行。1616年、川北三奉行の安部越中守が病没すると、その後任を務めた。1622年、最上義俊が改易処分に処されるまで、川北三奉行は、斎藤筑後守、高橋伊賀守、寺内近江守の三名体制となった。

寺津秀清【てらづひできよ(15??~1584)】

村山郡寺津城。官途は甲斐守。1584年、天童頼澄に属して最上義光に討たれた。

天童頼長【てんどうよりなが(1499~1564)】

村山郡舞鶴城主。天童頼道の男。最上八楯。1514年、「長谷堂城の戦い」で伊達稙宗が最上義定を攻撃すると天童頼長は、最上義定勢に従って戦ったが敗れた。1521年、「舞鶴城の戦い」では、伊達稙宗、芦名盛滋勢の攻撃を受け落城した。最上義守が最上家の家督を相続すると、これを支援した。

天童頼貞【てんどうよりさだ(1533~1583)】

天童頼道の次男。官途は和泉守。室は白鳥義広の娘。継室は国分盛氏の娘。天童頼長の病没後、天童家の家督を相続した。1574年、「天正最上の乱」では、最上義守、中野義時勢に属した。最上義守と最上義光が和議を結ぶと、これを不服として反乱を起こした。1574年、「寒河江城の戦い」では、延沢城主延沢満延、村山飯田城主飯田綱親、尾花沢城主尾花沢頼国、楯岡城主楯岡満茂、長瀞城主長瀞義保、六田城主六田定兼、成生城主成生伯耆守、援軍の伊達輝宗勢とともに寒河江城を攻落とした。1577年、最上義光の天童城侵攻を跳ね返し、最上義光は天童頼貞の娘(綾姫)を側室として迎えて和睦した。

天童頼澄【てんどうよりずみ(15??~15??)】

天童頼貞の男。官途は甲斐守。別名天童頼久。室は細川直元の娘。天童頼澄は最上義光と対立を続け、舞鶴城の堅固さを誇って臣従を拒否した。天童家臣で剛勇の武将、延沢満延に嫡男延沢光昌と最上義光の娘の縁組を持ち掛けて内応させた。1584年、最上義光は八楯を切り崩し、天童頼澄は敗北、千代城主国分盛重の元に落延び伊達政宗に仕えた。1585年、天童頼澄は「人取橋の戦い」で戦功を挙げた。天童頼澄の跡は留守政景の次男留守重頼が継いだ。

東禅寺義長【とうぜんじよしなが(1544~1588)】

飽海郡東禅寺(酒田)城主。武藤晴時家臣。官途は筑前守。別名前森蔵人。室は武藤義氏の娘。1541年、武藤晴時の病没後、土佐林禅棟らと共に武藤義氏を擁立した。武藤義氏の度重なる外征や酒田湊の利権を巡って不満を募らせ、ついには反旗を翻し尾浦城の義氏を攻めて自害に追い込んだ。1583年、最上義光に内応して弟東禅寺勝正と共に主武藤義氏を謀殺した。この際、庄内の諸豪族、国人衆のほとんどがこれに同調した。武藤義氏の弟武藤義興と対立した。1587年、最上義光勢の援助を得ることで武藤義興も謀殺し、本庄繁長の子を養子(武藤義勝)に迎えて長尾景勝との結びつきを強めた。その後、最上義光によって庄内支配を任されが、恩賞配分に対する不服などから、庄内の国人衆に反発された。1588年、本荘繁長、武藤義勝による「庄内侵攻」を受け「十五里ヶ原の戦い」で討死した。

東禅寺勝正【とうぜんじかつまさ(1549~1588)】

東禅寺義長の弟。官途は右馬頭。1583年、兄東禅寺義長と共に武藤義興を謀殺した。その後、尾浦城を東禅寺義長から任された。1588年、本荘繁長による「庄内侵攻」を受け「十五里ヶ原の戦い」で敗北した。本庄繁長に一太刀浴びせようと名刀「正宗」と味方の頸を片手に敵陣へ潜入し、頸実検装い、本庄繁長に斬りつけたが「明珍」の甲冑に阻まれ、逆に本庄繁長に討取られた。東禅寺勝正の名刀「正宗」は本庄の手に渡り「本庄正宗」と呼ばれ、のち徳川紀州家に伝えられた。

富樫七右衛門【とがししちろうざえもん(15??~15??)】

北楯利長家臣。富樫道益の弟。1614年、一栗高春が謀反を起こすと「添川城の戦い」に参陣した。一栗高春の家臣二名の頸を取る戦功を挙げた。その後、酒井忠勝に仕え150石を領した。

土佐林禅棟【とさばやしぜんとう(15??~1571)】

田川郡藤島城主。官途は能登守。土佐林家は羽黒山の別当職を務めていた家柄で、武藤家と同等の勢力を誇っていたが、武藤晴時との抗争に敗れて臣従し、その筆頭家老となった。1541年、武藤晴時が帰洛後、病没したとき、武藤義増を家督に相続させるために奔走した。1568年、武藤義増と長尾景虎の和議により春日山城に人質として赴いた。武藤義増が継嗣武藤義氏に家督を譲ったため、その補佐として庄内に留まった。1571年、武藤義氏勢の攻撃を受けて討死した。

土佐林氏頼【とさばやしうじより(15??~1570)】

土佐林禅棟の男。官途は宮内少輔。父土佐林禅棟より先に病没した。

土佐林時助【とさばやしときすけ(15??~15??)】

土佐林禅棟家臣。官途は掃部助。1569年、本庄繁長が謀叛を起こすと、これを討伐するため越後国に赴き戦功を挙げた。

土佐林明三【とさばやしめいさん(15??~15??)】

土佐林禅棟家臣。通称荷雲斎。1572年、武藤義氏の意向を受け使者として小野寺義通のもとに赴いた。

鳥越武種【とりごえたけたね(15??~15??)】

清水義氏家臣。鳥越館主。通称九右衛門。別名小田嶋武種。馬上衆47人衆筆頭として1,300石を領していた。1614年、清水城主清水義親が最上家親によって謀殺された後、最上家親に馬廻衆として5,000石を領した。1622年、最上義俊が改易になり近江国大森に転封となった際もこれに従った。

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【な】

長岡但馬守【ながおかたじまのかみ(15??~1614)】

最上義光家臣。最上義光に仕え200石を領した。1614年、最上義光が病没すると、その墓前で殉死した。

長岡番内【ながおかばんない(15??~15??)】

長岡但馬守の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に150石で仕えた。

長沢祐種【ながさわすけたね(15??~15??)】

最上義守家臣。村山郡長沢館主。官途は監物。

長沢常陸守【ながさわひたちのかみ(15??~15??)】

長沢祐種の男。最上義光に仕えた。継嗣のめぐまれず、最上義光の意向を受け羽黒山衆徒の長沢仁兵衛尉を養子に迎えた。

長沢仁兵衛尉【ながさわじんひょうえのじょう(15??~15??)】

長沢常陸守の養子。1622年、最上義俊が改易処分に処されると帰農した。

長澤光勝【ながさわみつかつ(15??~1631)】

楯岡満茂家臣。官途は若狭守。1622年、最上義俊の改易処分の処されると、佐竹義宣に仕えた。

長澤光定【ながさわみつさだ(15??~15??)】

長澤光勝の男。

中条長昌【なかじょうながまさ(15??~15??)】

村山郡谷地城主。中条長昌嫡子が無く、白鳥城主白鳥長久に谷地城を譲った。

長瀞左衛門【ながとろさえもん(15??~1584)】

天童頼貞家臣。村山郡長瀞城主。最上八楯。1584年、「天童城の戦い」で天童頼澄が最上義光勢に敗れ国分盛重のもとに落延びると、長瀞城も攻撃を受け討死した。

長瀞義保【ながとろみつただ(15??~1591)】

最上義守の三男。1584年、「天童城の戦い」で天童頼澄が国分盛重のもとに落延びると、兄最上義光の意向を受け、長瀞家の家督を相続した。

長瀞光忠【ながとろあきただ(15??~15??)】

長瀞義保の男。1596年、「湯沢城の戦い」で楯岡満茂が小野寺義道勢の攻撃を受けると、小国光基とともに救援に赴いてこれを撃退した。

中野義清【なかのよしきよ(15??~15??)】

村山郡中野館主。中野義建の男。1514年、「長谷堂城の戦い」で最上義定が伊達稙宗勢に敗れると、最上義定は中野義清の継嗣、最上義守を養子に迎え、最上惣領家の家督を相続させ隠居した。1534年、焼失した立石寺の再建を行った。

中野義時【なかのよしとき(1550~1575)】

最上義守の次男(中野義清の養子)。父最上義守の実家の中野家の家督を相続した。最上義守が中野義時に家督を譲ろうとしたが、氏家定直の調停により、最上義守が隠居し、最上義光が最上惣領家の家督を相続することになった。1574年、「天正最上の乱」では、最上義守が次男中野義時を擁立されて、最上義光と争ったが、伊達輝宗勢が最上義光を支援したため、天童頼貞、白鳥長久、蔵増頼真、延沢満延らが離反した。1575年、「中野城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受け自刃した。

中村玉五郎【なかむらたまごろう(15??~15??)】

蔵増光忠家臣。要害館主。蔵増光忠の叔父。

中山朝政【なかやままよりまさ(1516~1583)】

寒河江兼広家臣。村山郡長崎城主。官途は玄蕃頭。渋谷懐良に乗っ取られていた長崎城を奪還した。領民からの尊崇厚く「玄蕃様」と慕われていた。

中山朝正【なかやまともまさ(15??~16??)】

中山朝政の男。官途は玄蕃。別名中山播磨守。父中山朝政の跡を継いで長崎城主。1581年、「」最上義光が寒河江高基を攻めた際、寒河江高基に属したが敗北した。1584年、寒河江家滅亡により最上義光に仕えた。1586年、「尾浦城の戦い」では、東禅寺義長らとともに武藤義興を攻め滅ぼし尾浦城主となった。1588年、「十五里ヶ原の戦」では、本荘繁長勢と戦い大敗した。1600年、「長崎城の戦い」では、長崎城を守備したが、樋口兼続勢の攻撃を受けて落城した。

中山光信【なかやまあきのぶ(15??~1641)】

中山朝正の男。官途は主膳。通称七左衛門。父中山朝正とは別に1,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、阿部正次に仕えて家老職を務めた。

鍋倉秀道【なべくらひでみち(15??~1635)】

最上義光家臣。通称治兵衛。室は高倉盛次の娘。200石で仕えた。1622年、最上義俊の改易処分に処されると、佐竹義宣に80石で仕えた。

鍋倉盛成【なべくらもりなり(1606~1682)】

鍋倉秀道の次男(高倉盛次の養子)。別名高倉為盛。室は高倉盛次の娘。後に大浦家家老職を務めた。1622年、母方の祖父高倉盛次の養子となって、大浦信枚に仕えた。高倉盛次が大浦信枚の叱責を受け改易に処された。1640年、大浦信義に300石で仕えた。1649年、家老職に任じられ800石を領した。1656年、大浦信義が病没すると、大浦信英の黒石分地を円満に解決した。

行沢式部【なめさわしきぶ(15??~15??)】

延沢満延家臣。行沢館主。行沢館1,000石を領した。

成生伯耆守【なりせいほうきのかみ(15??~15??)】

天童頼貞家臣。村山郡成生館。1577年、「天童城の戦い」では、天童頼貞らとともに最上義光勢を撃退した。1584年、「天童城の戦い」では、延沢満延、倉津安房守らとともに最上義光勢に内応した。

成沢道忠【なりさわみちただ(1548~1617)】

最上義光家臣。成沢城5,000石を領した。武藤義氏の属将余目城主安保余太郎兄弟と戦いこれを破った。1578年、「山形城の戦い」では、伊達輝宗、上山満兼勢の攻撃を受けると、最上義光、伊良子宗牛らとともに籠城してこれを撃退した。1580年、鮭延秀綱とともに庄内に侵攻して、安保能形勢と戦った。1614年、最上義光の病没後、一栗高春らとともに清水義親を擁立して最上家親と争った。謀反は失敗に終わり一栗高春らとともに落延びた。

新関久正【にいぜきひさまさ(15??~16??)】

最上義光家臣。官途は因幡守。原美濃守とともに最上義光の隠居城である鶴ヶ岡城築城の奉行を務め、鶴ヶ岡城代6,500石を領した。1607年、治水工事も重要性を認識していた北楯利長によって進められた。庄内赤川灌漑を行った新関久正の作った堰は「因幡大堰」と称された。1614年、一栗高春が謀叛を起こすと鎮定に赴いた。

新関成正【にいぜきなりまさ(15??~16??)】

新関久正の男。官途は豊後守。1614年、「添川館の戦い」では、先陣として駆けつけ一栗隆春勢と戦い戦功を挙げた1622年、最上義俊が改易処分に処されると、父新関久正とは別れて庄内に残り、鼠ケ関の郷士となったが、のちに酒井忠勝に仕えて150石を領した。

新田公平【にったきみへい(15??~15??)】

寒河江高基家臣。村山郡新田館主。1584年、「寒河江城の戦い」では、寒河江高基に従って最上義光勢と戦ったが敗れ常陸国に落延びた。

庭月綱任【にわつきつなこれ(15??~15??)】

鮭延貞綱家臣。最上郡庭月城主。官途は和泉守。1565年、鮭延貞綱が侵攻した尾浦城主武藤義増に敗れて、本城を真室城に移し、庭月城主に庭月綱任を任じた。最上義光の支援を受けた清水城主清水義氏が侵入し、庭月館は清水家領との「境目の城」となった。1581年、小国郷を制圧した最上義光は、鮭延郷制圧した。

庭月広綱【にわつきひろつな(15??~1650)】

庭月綱任の男。通称理右衛門。1581年、鮭延秀綱が最上義光に寝返ると、最上義光の誘いを受けたが、断ったために氏家守棟の攻撃を受けた。1622年、最上義俊が改易改易処分に処されると、庭月城1,200石を失った。

庭月道綱【にわつきみちつな(15??~15??)】

庭月綱任の次男。

庭月綱親【にわつきつなちか(15??~15??)】

庭月綱任の三男。

沼沢藤左衛門【ぬまざわとうざえもん(15??~15??)】

延沢満延家臣。1622年、最上義俊の改易により延沢光昌は加藤家にお預けとなり、これに供をして熊本に移ったが、後に羽前国に帰国した。1626年、延沢光昌が熊本にて病死した際、沼沢藤左衛門の弟沼沢助左衛門がその最期を看取り、遺骨を持ち帰った。

沼沢新左衛門【ぬまさわしんざえもん(15??~15??)】

清水義氏家臣。沼沢館主。馬上衆47人衆。1614年、清水城主清水義親が最上家親によって滅ぼされた後、最上家親に仕えた。

根清光【ねきよみつ(15??~15??)】

白鳥長久家臣。1577年、白鳥長久は根清光を上洛させ、織田信長に白雲雀という良馬を献じてそ の機嫌を伺った。織田信長信長は大いに喜び、種々答礼の品々を贈り、更に鶴取り、鴻取りの逸物の鷹を所持 していることを聞いて所望した。

延沢満重【のべさわみつしげ(1503~15??)】

天童頼長家臣。最上郡延沢城主。官途は薩摩守。最上八楯の旗頭。領内には延沢銀山があり石高以上の実力を持っていた。天人清水に現れた天女の羽衣を隠して内室とした。1547年、延沢城を築城した。

延沢満延【のべさわみつのぶ(1544~1591)】

延沢満重の男。官途は能登守。別名野辺沢満延。武勇に優れ、最上義光を天童頼澄らとともに何度も撃退した。1584年、最上義光は、延沢満延を内応させるため娘の松尾姫を延沢光昌に嫁がせた。延沢満延は降伏の条件として天童頼澄の助命を願い出た。延沢満延を失った最上八楯は崩壊し、天童城は陥落し、天童頼澄は国分盛重を頼って落延びた。1590年、最上義光に従って上洛した京都で病没した。

延沢光昌【のべさわあきまさ(1568~16??)】

延沢満延の男。官途は遠江守。通称又五郎。別名野辺沢康満。室は最上義光の娘(松尾姫)。1591年、父延沢満延の病没にともない延沢城20,000石の家督を相続した。1600年、「長谷堂合の戦い」に参陣した。1609年、「清水城の戦い」では、清水義親が籠城する清水城を攻撃して、清水義親を自刃に追い込んだ。1622年、最上義俊の改易処分に処されると、加藤忠広に預けられた。

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【は】

原忠重【はらただしげ(15??~1565)】

村山郡八ッ沼城主。官途は甲斐守。1565年、和合秋広が最上義光に八ツ沼城主原忠重と鳥屋ヶ森城主岸美作守が謀反を企ていると讒言した。最上義光は兵5,000余りを率いて出陣し「五百川の戦い」が起きた。原忠重勢は家臣の小関加衛門、客僧羽黒弁寛とともに戦ったが多勢無勢で、八ツ沼城、鳥屋ヶ森城び両城が落城、原忠重は討死した。

原兼道【はらかねみち(15??~1565)】

原甲斐守の男。通称半兵衛。1565年、鳥屋ヶ森城主貴志美作守の娘(弥生姫)との婚約が成立していたが、和合城主和合秋広が弥生姫を奪おうとしたが失敗。和合秋広が最上義光に八ツ沼城主原忠重と鳥屋ヶ森城主貴志美作守が謀反を企ていると讒言した。最上義光は兵5,000余りを率いて出陣し「五百川の戦い」が起きた。原忠重勢は家老小関加衛門、客僧羽黒弁寛共に戦ったが多勢無勢で、八ツ沼城、鳥屋ヶ森城び両城が落城、原兼道は討死、弥生姫も城の崖から飛び降り自刃した。

半田助左衛門【はんだすけざえもん(15??~15??)】

東根頼景家臣。1600年、「東根城の戦い」では、直江兼続の家臣下吉忠勢の攻撃を受けた。東根景佐は山形城に籠城していたため、半田助左衛門が奇略を用いて下吉忠勢を度々撃退した。新関新五右衛門を一騎打ちで討取る戦功を挙げた。

東根景息【ひがしねかげそく(15??~15??)】

置賜郡東根城主。東根景宗の男。

東根頼景【ひがしねよりかげ(15??~1581)】

天童頼貞の次男(東根景息の養子)。最上八楯。延沢満延が最上義光に内応すると、天童頼澄勢の他の国人衆も次々に最上義光勢に寝返った。東根頼景は、最上義光勢との戦いを継続した。1581年、家臣東根景佐の謀反に遭い謀殺された。

東根景佐【ひがしねかげさ(15??~16??)】

東根景息の男。官途は薩摩守。通称源右衛門。別名里見源右衛門。室は小国日向守の娘。1581年、最上義光に内応して東根頼景を討取り、東根城主となった。

東根親宜【ひがしねちかのり(15??~1663)】

東根景佐の男。通称源右衛門。室は最上義光の四女(禧久姫)。父東根景佐の家督を継いで東根城12,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、蜂須賀家政に預けられた。後に蜂須賀家政に仕え、中老職を務め1,000石を領した。

日野光綱【ひのあきつな(1577~1666)】

村山郡新庄城主。天童頼澄家臣。官途は将監。別名日野定重。最上四十八館のひとり。天童頼澄の滅亡後、最上義光に仕え3,000石を領した。1584年、寒河江高基が討死、枝連衆沼田城主日野左京亮も最上義光に降り最上義光に降った。1614年、延沢光昌と共に清水義親を攻め自刃させ、清水義親の遺領は最上家の蔵入地となったが、日野光綱が管理した。1622年、最上義俊の改易後は藤堂高虎に仕えた。

日野光久【ひのびっちゅうのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。塩ノ沢館主。官途は備中守。室は中山玄蕃の娘。1612年、庄内川南地域と由利郡の検地を担当し、庄内支配の実務を担った。由利郡の検地では54,800石を打ちだし「備中棹」の異名を取ったが、苛酷に過ぎて矢島の百姓らは仙北郡に逃散した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、藤堂高虎に仕えた。

日野栄信【ひのさきのぶ(15??~16??)】

日野光久の男。通称十兵衛。別名休甫入道。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、伊達政宗家臣の片倉重長に仕え家老職を務めた。

日野親直【ひのちかなお(15??~16??)】

日野光久の三男。通称彦市郎。別名富並親直。室は谷柏光直の娘。谷柏相模守光直の娘を娶り富並城3,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、浪人となり伊達郡桑折で病没した。

日野数馬【ひのかずま(15??~15??)】

最上義光家臣。日野光久枝連衆。1,000石を領した。1622年、最上義俊の改易後は、鳥居忠政に150石で仕えた。

日野惣左衛門【ひのそうざえもん(15??~15??)】

日野光綱家臣。3,000石を領した。

日向将監【ひむかいしょうげん(1584~1640)】

日向越中守の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると浪人となった。叔父の北楯利長が酒井忠勝から仕官を断り、日向将監を推挙した。酒井忠勝に仕え御郡奉行として100石を領した。

平山忠方【ひらやまただかた(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は将監。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、楯岡満茂が酒井忠世に預けられうとそれに従った。
 
平山忠安【ひらやまただやす(15??~15??)】

平山忠方の男。通称仁兵衛。1622年、最上義俊の改易後、楯岡満茂が酒井忠世に預けられるとそれに従った。楯岡満茂が酒井忠勝に仕えると、再び家臣として庄内に戻った。楯岡満茂の病没後、酒井家を離れて秋田に移り、佐竹義宣に仕えた。

古館女三【ふるやかたにょさん(15??~15??)】

最上義光家臣。法師武者として最上義光に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、最上義光が築いた古館城主で2,000石を領した。

広川喜右衛門【ひろかわきちざえもん(15??~15??)】

志村光安家臣。志村光安の男。通称彦五郎。り数々の戦いに参陣して戦功を挙げた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると酒井忠勝に仕えた。

平山忠方【ひらやまただかた(15??~16??)】

楯岡満茂家臣。官途は将監。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、上州厩橋に楯岡満茂がに流されるとそれに従った。

平山忠安【ひらやまただやす(15??~16??)】

平山忠方の男。通称仁兵衛。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、上州厩橋に楯岡満茂が流されるとそれに従った。楯岡満茂が酒井忠勝に仕官すると、再び楯岡満茂に仕えた。楯岡満茂が病没すると佐竹義宣に仕え茶屋免許大番組を務めた。

宝幢寺尊海【ほうどうじそんかい(15??~15??)】

宝幢寺住職。別名宝幢御坊。1574年、最上義光の使者を務め、伊達輝宗のもとに赴いた。1584年、「天童城の戦い」では、最上義光勢が立谷川を増水のため進軍ができないでいたところが、尊海の祈祷により増水が収まった。天童頼澄勢が喜太郎狐の幻術を使って最上義光勢を惑わしたのを、犬を使ってこれを打ち破った。この戦功により、天童愛宕神社の別当に任じられ1,370石の寺領を領した。

小国細川直元【ほそかわなおもと(15??~1581)】

最上郡小国城主。官途は摂津守。天童頼澄ら最上八楯とともに最上義光と対立した。1574年、「天正最上の乱」では、最上義守、中野義時勢を支援したが敗れ、降伏した。1581年、「小国城の戦い」では、最上義光の家臣蔵増光忠に率いられた3,500余りの攻撃を受けた。「万騎ヶ原の戦い」では、弟の細川直茂らとともに350余りで迎撃したが大敗を喫して小国城も落城した。

小国細川直茂【ほそかわなおもり(15??~1581)】

最上郡志茂手館主。官途は帯刀。1581年、「万騎ヶ原の戦い」では、兄小国細川直元とともに最上義光勢と戦うが討死した。

堀喜吽【ほりきうん(15??~1600)】

最上義光家臣。別名筑紫喜吽。御伽衆。兵法家として諸国を巡り、今判官と称した。連歌にも長じており、最上義光とともに京での連歌会に出席した。1600年、「関ヶ原の役」では、撤退する直江兼続勢に対し自ら先頭に立って追撃する最上義光を諌めたが、逆に臆病者と罵倒されたため単騎で突撃したところを、鉄炮隊に撃ち抜かれ、最上義光の前で討死した。

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【ま】

丸岡民部大輔【まるおかみんぶだうふ(15??~15??)】

武藤晴時家臣。田川郡宮内館主。一ノ宮大物忌社司職。

溝延時茂【みぞのべときもり(15??~15??)】

寒河江兼広家臣。村山郡溝延城主。溝延孝政の男。1561年、寒河江城主兼広、白岩城主宗広とともに慈恩寺の檀家衆。1574年、「天正最上の乱」では、寒河江兼広の家臣ながら謀反を起すなど独自性を強かった。

溝延茂信【みぞのべもりのぶ(15??~15??)】

溝延時茂の男。室は白鳥長国の娘。1584年、「寒河江城の戦い」で寒河江高基が討死すると、最上義光が溝延越中守を5,000石で配した。

水戸太郎左衛門【みとたろうざえもん(15??~15??)】

東海林昌種家臣。村山郡水沢館主。1587年、谷地城主白鳥長久の娘(日吉姫)奪還する際、東海林昌種が水戸太郎左衛門に守備を命じた。

宮内内蔵丞【みやうちくらのじょう(15??~15??)】

最上義光家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」後、高櫤城主に任じられ4,000石を領した。馬上八騎、鉄炮二十挺、弓四張、鑓四十八本の軍役を負担した。

向田光之【むこうだあきゆき(15??~1600)】

最上義光家臣。通称八郎左衛門。1600年、「畑谷城の戦い」で最上義光の意向を受け、援軍として派遣された。畑谷城が落城したため、山形城に撤退した。鬼越の地まで戻ってきた時、霞で煙った山形城を見て落城したものと勘違いし、その場で自刃した。

武藤晴時【むとうはるとき(1512~1541)】

田川郡鶴ヶ岡城。大宝寺澄氏の男。官途は左京大夫。別名大宝寺時氏。羽黒山別当職を務め、羽黒山の権威を利用して勢力を拡大した。1518年、砂越家の家督を相続した砂越氏維が、安保能形や来次時秀と結び武藤晴時と戦った。1533年、「大宝寺城の戦い」で砂越氏維勢の攻撃を受け大宝寺城が焼失した。幕府への貢物が功を奏し左京大夫に任官され、後に上洛して将軍に謁見したが、帰国してまもなく早逝した。

武藤義増【むとうよします(15??~1581)】

武藤左京亮の男。1541年、武藤晴時から武藤惣領家督を相続した。1568年、「本庄繁長の乱」では、本庄繁長勢に属して長尾景虎勢と戦ったが、敗れて武藤義氏を人質に出し和議を結んだ。1565年、「本合海の戦い」では、清水城主清水義高を討取
る戦功を挙げた。

武藤義氏【むとうよしうじ(1551~1583)】

武藤義増の男。官途は出羽守。通称四郎次郎。長尾景虎勢の支援を受け最上義光、安東愛季らと戦った。1579年、馬、鷹を中央の織田信長に献上するなど、外交も重視した。領内には重い税負担を強いたため、領民から「悪屋形」と称された。1583年、「尾浦城の戦い」では、最上義光勢に内応した東禅寺義長勢の攻撃を受け自刃した。

武藤義興【むとうよしおき(15??~1587)】

武藤義増の次男。官途は兵庫頭。別名丸岡兵庫。1583年、武藤義氏が討死したため、武藤家の家督を相続した。1587年、本荘繁長の次男本荘義勝を養子に迎え、長尾景勝と結んだ。1587年、「東禅寺城の戦い」で東禅寺氏永を追い詰めるが、最上義光勢の攻撃を受け討死した。

武藤義勝【むとうよしかつ(1573~1623)】

本庄繁長の次男(武藤義興の養子)。1587年、養父武藤義興が最上義光に寝返った東禅寺義長勢に討取られると、小国城に落延びた。1588年、「十五里ヶ原の戦い」では、本庄繁長の支援を受けて東禅寺義長、東禅寺勝正らを討取った。1588年、羽柴秀吉に拝謁し、太刀などを献上した。1591年、一揆を扇動した嫌疑を受け改易処分に処された。1592年、「文禄の役」に参陣して、長尾景勝に仕えた。

最上義定【もがみよしさだ(1492~1520)】

村山郡山形城主。最上義淳の男。室町幕府羽州探題職。室は山野辺直広の娘。継室は伊達尚宗の娘。1504年、寒河江宗広が内紛を起すと、介入してこれを降伏させた。1514年、「長谷堂城の戦い」で伊達稙宗勢の攻撃を受け山野辺直広、吉川政周らが討死した。1515年、伊達尚宗の娘を娶って和議を結ぶが、以後は伊達稙宗の影響力により最上義定の勢力は衰退した。

最上義守【もがみよしもり(1521~1590)】

中野義清の男(最上義定の養子)。官途は右京大夫。室は大崎義兼の娘(蓮心院)。1520年、養父の最上義定が嗣子の無いまま没すると、伊達稙宗勢が最上家に勢力を伸ばした。「上山城の戦い」では、上山義房が寒河江孝広、天童頼長らとともに伊達稙宗から離反した。1522年、最上義守が最上惣領家の家督を相続した。1560年、「寒河江城の戦い」で寒河江兼広を攻撃したが大敗した。1574年、「天正最上の乱」では、次男の中野義時を擁して継嗣の最上義光と戦ったが、敗れて最上義光に家督を譲って隠居した。

最上義光【もがみよしあき(1546~1614)】

最上義守の男。官途は出羽守。通称二郎太郎。室は大崎義直の娘(釈妙英)。1574年、「天正最上の乱」では、父最上義守が弟中野義時を擁して最上義光と戦った。最上義光が最上惣領家の家督相続して、最上義守の隠居により内戦が終結した。1577年、天童頼澄らを滅ぼして強力な権力集中を図った。1583年、庄内に侵攻して武藤義氏、武藤義興と争ったが、本荘繁長勢に大敗した。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉のもとに参陣して本領を安堵される。1594年、羽柴秀次に娘駒を側室として差し出した。1595年、「羽柴秀次事件」で駒姫が処断されて最上義光も謹慎を命ぜられた。最上家親を通じて松平元康に接近した。1596年、小野寺義道と戦った。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康に属した。「長谷堂城の戦い」では、直江兼続勢の攻撃を受けた。1601年、「酒田城の戦い」では、長尾景勝の家臣志駄義秀を追い落した。役後田川郡、飽海郡、由利郡330,000石の加増を受け570,000石を領した。

最上義康【もがみよしやす(1575~1603)】

最上義光の男。1586年、「有屋峠の戦い」では小野寺義道と。1600年、「長谷堂の戦い」では、伊達政宗へ救援依頼に赴き、また越後長尾景勝勢の追撃戦にも参陣した。最上義光の嫡男であったが、最上義光は松平元康に近しい最上家親へ家督を譲ろうと考えた。1603年、父最上義光の意向を受け高野山に向うが、その途次庄内で謀殺された。

最上家親【もがみいえちか(1582~1617)】

最上義光の次男。官途は駿河守。通称太郎四郎。別名最上義親。1594年、松平元康に出仕した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平秀忠勢に属して上田城を攻撃した。1614年、父最上義光の病没したため、最上惣領家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、弟の清水義親が羽柴秀頼と内通したとしてこれを討取った。

最上義俊【もがみよしとし(1606~1632)】

最上家親の男。通称源五郎。1617年、父最上家親が急死したため急遽家督を継ぐが、幼少のこともあって家中は分裂、国政は蔑ろにされた。1622年、家中取締不行届として近江国に減転封された。

望月隼人正【もちづきはやとのしょう(15??~1600)】

最上義光家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、八ッ沼城を守備した。主力が山形城防衛のため不在の中、直江兼続勢の攻撃をよく防いだものの、衆寡敵せず落城、自刃した。

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【や】

谷柏直家【やがしわなおいえ(1551~1610)】

最上義光家臣。谷柏館主。官途は相模守。別名片桐蔵人。最上義光に仕え谷柏館を築いて4,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、飯田信兼らとともに畑谷城救援に向かったが、落城したことを知り、追われて逃げてきた領民を保護した。直江兼続勢の追撃を防ぐために殿として戦っていた飯田信兼が討取られたこと知ると、引き返して飯田信兼の頸を奪い返した。

矢口氏広【やぐちうじひろ(15??~15??)】

砂越氏維家臣。最上郡田沢館主。官途は讃岐守。通称内記。田沢館は、武藤義氏、鮭延秀綱、清水義氏による激しい争奪の場となり、最終的に清水義親から客将として迎えられ鮭延秀綱勢を押えるため、川口館を築いて守備した。

矢口氏忠【やぐちうじただ(15??~1614)】

矢口氏広の男。父矢口氏広の跡を継いで川口館主となった。1614年、「清水城の戦い」で最上義親勢の攻撃を受け清水義親が自刃すると、清水興源院で自刃した。

矢口氏益【やぐちうじます(15??~15??)】

矢口氏忠の男。

矢口権十郎【やぐちぎんじゅうろ(15??~15??)】

清水義氏家臣。

矢口能登守【やぐちのとのかみ(15??~1616)】

清水義氏家臣。升形館主。

矢口長門守【やぐちながとのかみ(15??~15??)】

矢口能登守家臣。家老職を務めた。

山野辺刑部【やまのべぎょうぶ(14??~15??)】

村山郡山野辺城主。1514年、「長谷堂城の戦い」で伊達稙宗勢と戦い討死した。

山野辺直広【やまのべなおひろ(15??~15??)】

山野辺刑部の男。室は寒河江宗広の娘。娘は最上義定に嫁いだが、伊達稙宗と和議を結び伊達稙宗の妹を内室に迎えたため、離縁された。

山野辺義忠【やまのべよしただ(1588~1664)】

最上義光の四男。官途は右衛門大夫。1600年、「関ヶ原の役」では、人質として松平元康のもとに送られた。役後、山野辺家の家督を相続して山野辺城19,300石を領した。山野辺城の拡張改修、城下街の建設と市の開設、釣樋堰に見られるような治水事業、神社仏閣や交通網の整備を行い善政に努めた。1617年、「最上家騒動」では、甥の最上義俊が最上家惣領職を相続したが、人望がなく、鮭延秀綱、楯岡光直らが最上惣領職に山野辺義忠を擁立した。最上義俊の家臣松根光広を追放して事態の収拾を図ったが失敗の終わった。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、松平頼房に仕え10,000石を領して家老職を務めた。

山家師兼【やんべもろかね(15??~1614)】

最上義光家臣。山家城主。官途は河内守。山家城は最上四十八楯のひとつで3,000石を領した。1614年、最上義光が没した際、その墓前にて殉死した四人のうちのひとり。

山家主計【やんべかずえ(15??~15??)】

山家河内守の男。楯岡満茂に仕えた。1622年、最上義俊の改易後は、楯岡満茂に従って酒井忠世に仕え200石を領した。

小山家師時【やんべもろとき(15??~15??)】

小山家城主。山家師兼の弟。室は土肥道近の姉。小山家館700石を領した。1584年、最上義光が天童城を落として天童頼澄を追った後、北部の豪族衆が不穏な動きを示した為、この地に山家師時を配して監視させた。1600年、小山家師時は、夫人の実家増田城主土肥道近を頼って増田へ移住し、後に帰農した。

結城将監【ゆうきしょうげん(15??~15??)】

新城山館主。天童頼澄家臣。1584年、最上義光が天童頼澄を討ち破って天童頼久を滅亡させると最上義光に仕えた。

横尾勘解由【よこおかげゆ(15??~15??)】

志村光安家臣。室は志村光安の娘。1600年、「関ヶ原の役」では、大風右衛門らと共に直江兼続勢に夜襲をかけ、春日元忠の陣を大混乱に陥れた。

吉田藤右衛門【よしだとうざえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」では、上泉主水と鑓を交えた。1601年、「酒田城の戦い」では、頸一級を挙げる戦功を挙げた。1622年、最上義俊の改易後、酒井忠勝に仕えた。

吉田景長【よしだかげなが(15??~15??)】

最上義守家臣。官途は監物。
 
吉田景定【よしだかげさだ(15??~15??)】

吉田景長の男。太郎左衛門。最上義光に仕えた。
 
吉田定清【よしださだきよ(15??~15??)】

吉田景定の男。通称太右衛門。最上家親に仕えた。1622年、最上義俊の改易後、佐竹義宣に仕えた。

米沢秀久【よねざわひでひさ(15??~15??)】

武藤晴時家臣。1541年、銘の夜燈棹を寄進した。

和田秀友【わだひでとも(15??~1584)】

白鳥長久家臣。通称六郎左衛門。1584年、白鳥長久を守って最上義光勢と戦い討死した。

立石寺円海【りゅうしゃくじえんかい(15??~15??)】

最上郡立石寺住職。1521年、伊達家と最上、寒河江家らと諸族の戦乱がおこり、立石寺が伊達家に味方したことにより天童頼長が立石寺を攻撃し、寺領を侵略し寺中はことごとく破滅した。1543年、立石寺円海(沙門一相坊円海)がその荒廃をなげき、最上義守の実母春還芳公禅尼を大檀那に、比叡山根本中堂の常燈火を立石寺根本中堂に移し、慶長時代に諸堂を修築した。1571年、織田信長の比叡山焼き討ちにより延暦寺の法灯が焼失したさい、逆に分灯した。

出羽留守義氏【るすよしうじ(15??~15??)】

飽海郡新田目城主。武藤晴時家臣。官途は遠江守。1521年、武藤晴時が台頭すると、留守義氏はその麾下に属した。1582年、東禅寺城の東禅寺義長が最上義光に内応してて武藤義氏に謀反を起こした際には、武藤義氏に属した。1586年、武藤義氏が新田目城の北方で戦いに及んだ際には、留守家臣今井兵庫が討死した。1589年、庄内が越後長尾景勝領となると甘粕景継に仕えた。1601年、東禅寺城が最上家に攻められ浪人。以後、帰農した。

六田定兼【ろくたさだかね(15??~15??)】

最上郡六田館主。通称兵衛。天童八楯。1580年、最上義光は東根頼景を降伏に追い込んだ。さらに楯岡城主楯岡満英を自刃に追い込み、成生伯耆守、飯田綱親、六田定兼らを降伏させた。

若木小左衛門【わかきこざえもん(15??~16??)】)

楯岡満茂家臣。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、岩崎村で帰農した。

若木理助【わかきりすけ(15??~16??)】

若木小左衛門の男。佐竹義宣に鷹匠として仕えた。

和合秋広【わごうあきひろ(15??~15??)】

村山郡和合城主。官途は但馬守。1565年、鳥屋ヶ森城主貴志美作守の娘(弥生姫)との婚約が成立していたが、和合城主和合秋広が弥生姫を奪おうとしたが失敗。和合秋広が最上義光に八ツ沼城主原忠重と鳥屋ヶ森城主貴志美作守が謀反を企ていると讒言した。最上義光は兵5,000余りを率いて出陣し「五百川の戦い」が起きた。原忠重勢は家老小関加衛門、客僧羽黒弁寛共に戦ったが多勢無勢で、八ツ沼城、鳥屋ヶ森城び両城が落城、原兼道は討死、弥生姫も城の崖から飛び降り自刃した。

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【資料Ⅰ】

羽前国(6郡/320,000石)

田川郡:鶴ヶ岡(大宝寺)城、丸岡城、小国城、羽黒山。
最上郡:山形城、長谷堂城、天童城、上山城、畑谷城、立石寺。 
北村山郡:鮭延城、清水城、小国城、庭月城。
南村山郡:寒河江城、延沢城、東根城、谷地城、楯岡城、向川寺。
東置賜郡:米沢城、高畠城、館山城、林泉寺、大聖寺、北条街、
西置賜郡:長井城、鮎貝城、萩生城、小国城、遍照寺。

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【資料Ⅱ】

最上八楯【もがみはったて】

延沢城主延沢満延、村山飯田城主飯田綱親、尾花沢城主尾花沢頼国、楯岡城主楯岡満茂、長瀞城主長瀞義保、六田城主六田定兼、成生城主成生伯耆守らの七家と佛向寺の僧兵。

酒田湊三十六人衆【さかたみなとさんじゅうろくにんしゅ】

酒田湊を支配した会合衆。1521年、酒田といわれた袖の浦地区から当酒田へ移転を開始して、砂質の荒蕪地を開拓整備しながら本街を中心とした市街地づくりを行い、屋敷街に居を定めた商人達を酒田三十六人衆と称した。酒田湊から積み出さわる移出品の主なものは、米、大豆、紅花、青苧などであり、移入品には播磨の塩、京都、大阪、堺、伊勢から木綿、出雲の鉄、美濃の茶、南部、津軽、秋田の木材などがあった。

川北三奉行【かわきたさんぶぎょう】

安部越中守、斎藤筑後守、高橋伊賀守。

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【資料Ⅲ】

羽前国【うぜんのこく】

調査中。

酒田湊【さかたみなと】

酒田湊は、羽前国の北部酒田にあり最上川の河口に位置する。藤原秀衡の妹とも後室とも言われる徳尼公が酒田に落ち延びた際に随伴した家臣三十六人により開かれたと言われる。その時の家臣が「酒田三十六人衆」と呼ばれ、その子孫は、後に酒田を代表する大商人になった。西回り航路では、酒田港は西回り航路の起点となった。最上川の舟運より運ばれた紅花や米、各地の特産物が北前船に積まれ、日本海から瀬戸内海を廻って、西国、東国に運ばれた。「西の堺、東の酒田」と呼ばれ、「酒田三十六人衆」でもある鐙屋や本間家は大商人になった。

最上川【むがみがわ】

最上川は、羽前国を流れる最上川水系の本川。1583年、武藤義氏が滅亡すると、庄内地方は長尾景勝が治め、東禅寺城に甘粕景継を守将として置いた。庄内地域の収穫向上を図るため最上川支流の相沢川に井堰を建設し、そこから用水路を引き庄内平野の灌漑を行った。1600年、「関ヶ原の役」後、最上義光が庄内地方を領すると、灌漑整備を更に進めた。1612年、北楯利長が最上義光の意向を受け用水路建設を実施した。北楯大堰用水路によって急速に農地は拡大、次第に集落も形成されて行くようになった。

佛向寺【ぶっこうじ】

最上八楯の役割を担った寺院。天童城の西側を防御した。1287年、一向俊聖によって創建された。広大な寺社領と僧兵を擁して、天童家や最上八楯に協力した。1584年、「天童城の戦い」では、最上義光勢の攻撃を受け堂宇を焼失してた。

成就院【せいしょくいん】

宝憧院、柴野来吽院らとともに最上義光の意向を受け天童頼久を呪詛した。成就院の僧は拒んだために謀殺され、宝憧院、柴野来吽院の僧は最上義光に従った功により、若松観音別当として330石の寺領を領した。

延沢銀山【のべさわぎんざん】

佐渡銀山や石見銀山、生野銀山に匹敵する銀の生産量を誇った。1456年、金沢の人、儀賀市郎左衛門が発見、西山での採掘を開始した。1598年、延沢銀山で産出した銀を羽柴秀吉に上納した。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

出展図書は図書名を示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。

個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康、津軽為信は大浦為信に統一。

参考文献:『津軽秋田安東一族』by新人物往来社、『東北大名の研究(戦国大名論集2)』by吉川弘文館、『会津芦名一族』by歴史春秋社、『最上義光(戦国の驍将)』by新人物往来社、『奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)』by宝文堂、『会津芦名四代』by歴史春秋、『伊達政宗(全8巻)』by講談社、『天を衝く(全3巻)』by講談社文庫、『独眼竜伊達政宗』by時代小説文庫、『津軽風雲録』by時代小説文庫、『政宗に睨まれた二人の老将』by宝文堂、『秋田「安東氏」研究ノート』by無明舎、『(史伝)伊達政宗』by学研M文庫、『独眼竜政宗』by講談社文庫、『奥羽永慶軍記(全2巻)』by新人物往来社、『津軽南部の抗争(南部信直)』by無明舎出版、『秋田の中世浅利氏』by無明舎出版、『独眼龍政宗』by文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、『陸奥南部一族』by新人物往来社、『戦国人名事典』by吉川弘文館、『戦国人名事典』by新人物往来社、『戦国大名家辞典』by東京堂出版、『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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