2011年2月18日金曜日

戦国南常陸国人名辞典

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【あ】

麻生常安【あそうつねやす(15??~1584)】

行方郡麻生城主。南方三十三館衆。麻生家は大掾家の庶流行方家の一族で、行方景幹の三男家幹三郎が行方郡麻生郷に住んで麻生家を称した。戦国時代に入り、大掾家の統制力が弱くなってくると、行方、島崎、麻生、玉造の「行方四頭」は勢力を伸ばすため、互いに争うようになってきました。 1584年、麻生常安は東に領地を接する島崎義幹と敵対した。麻生城は落城し、江戸崎城主土岐原治綱を頼って落ち延び再起を図った。

飯塚重政【いいずかしげまさ(15??~15??)】

行方郡飯塚城。大掾清幹家臣。通称多左衛門。南方三十三館衆。1591年、佐竹義宣に謀殺された。

石神幹安【いしがみみきやす(15??~15??)】

玉造家臣。玉造憲幹の次男。

打越光隆【うちこしみつたか(15??~15??)】

新宮城主。常陸武田家臣。

海老原俊之【えびはらとしゆき(15??~1546)】

真壁郡海老ヶ島城主。海老原俊朝の男。大掾家臣。1546年、海老原俊之の守る海老ヶ島城は小田家と結んだ宍戸通綱の攻撃を受け落城した。これにより、海老原俊之は討死した。

岡田貞政【おかださだまさ(15??~15??)】

鳥名木城主。大掾清幹家臣。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

岡見頼忠【おかみよりただ(15??~1586)】

筑波郡谷田部城主。小田家臣。隣郷の下総下妻城主多賀谷政経とは連年抗争した。1570年、多賀谷政経は、父岡見頼忠の谷田部城を攻略した。多賀谷政経は谷田部城に弟の多賀谷淡路守政伯(経伯とも)に守らせて、小田家への押さえとした。1580年、北条氏照、北条氏邦を大将として牛久城の岡見治部少輔、足高城の岡見中務少輔、岩崎城の只越尾張守、板橋城の月岡玄蕃允らの兵3,000余で谷田部城奪還に向かい、多賀谷淡路守は討ち死にし谷田部城は落城、奪還された。しかしそこに多賀谷政経の後詰が到着、淡路守の死を知った多賀谷政経らは谷田部城を急襲し、再び谷田部城は多賀谷家の手に渡った。1586年、多賀谷政経の嫡男多賀谷重経に再び攻められ岡見頼忠は討死した。

岡見宗治【おかみむねはる(15??~1587)】

筑波郡足高城主。岡見頼忠の男。官途は中務大輔。1586年、多賀谷重経は足高城下に侵攻し、まず小張城を陥とし、続いて足高城三ノ丸に攻め寄せた。岡見宗治は牛久城、守谷城、布川城、小金城などに危急を知らせ援軍を要請したが、多賀谷勢は岡見軍の後詰が来る前に撤退した。1587年、多賀谷重経は足高城と牛久城の中間に泊崎城を築いて両城を分断、続いて足高城、板橋城、岩崎城を攻撃した。板橋城は開城し城主の月岡玄蕃は人質として多賀谷領に送られ、岩崎城主の只越尾張守は城兵の助命を条件に切腹した。支城網を陥とした多賀谷重経は足高城を総攻撃、鬼怒川の堰を切って足高城周辺を水浸しにして援軍を遮断しようとしたが、高井城、守谷城などの援軍が多賀谷勢の背後に回り、多賀谷勢は多賀谷信濃守為宗、窪谷能登守ら20名が討ち取られ、谷田部城に敗走した。岡見宗治の義父岡見伝喜は多賀谷に謀られ和睦を主張、岡見宗治は諌めたが伝喜は聞き入れず、城内は混乱した。この混乱に付け入って多賀谷勢が城内に乱入、岡見宗治は牛久城に逃れ、足高城は落城した。

岡見治家【おかみはるいえ(15??~1587)】

岡見頼忠の次男。隣接する下妻城主多賀谷重経と抗争し、1587年、多賀谷重経の攻撃を受けて牛久城は落城、岡見治家も討死した。

小田政治【おだまさはる(1492~1548)】

筑波郡小田城主。足利政知の男。小田成治の養子。継嗣を失った小田成治に入嗣した。官途は左近衛中将。小田家は関東八屋形の一つである名家。古河公方と初め対立するものち和睦し、佐竹義篤とは旧交を復すなど外交政策に尽力。1531年、南進する江戸家と「石岡鹿子原の戦い」で敗走せしめた。1537年、下総結城政勝に対抗するため多賀谷家と結ぼうとして失敗。1546年「河越城の戦い」で足利晴氏方につくが、結局北条家に敗れ去った。

小田氏治【おだうじはる(1534~1601)】

小田政治の男。通称小田天庵。小田政治の死後、家督を相続した。1555年、関東に出兵した長尾景虎に呼応して結城城の結城政勝を攻めるが攻めきれず。その翌年こんどは北条家と結んだ結城政勝、壬生、佐野、茂呂、小山、真壁、多賀谷、水谷、山川連合軍は、元海老名俊之の家臣平塚長信の海老ヶ島城を攻めた。小田、平塚家は連合軍との「山王堂の戦い」に敗れ、小田城も落城した。1557年、海老ヶ島城を多賀谷政経、佐竹義昭連合軍の攻められ、土浦城に敗走。1558年、多賀谷政経、佐竹義昭に大敗した。1562年、小田政治は北条氏康と同盟を結び、1563年、大掾貞国と戦い、1564年、越後長尾景虎、宇都宮家、佐竹家の連合軍と「第二次山王堂の戦い」に敗れた。1569年、手這坂で太田資正、梶原政景、真壁氏幹の軍と合戦を行い大敗。再び小田城を失った。小田城には太田資正が在城した。1573年、藤沢城が落城、由良憲綱、戸崎長俊を失った。1579年、木田余城に移り、佐竹家と和睦。「小田原の役」では北条家につき失領した。

小田守治【おだもりはる(1557~1610)】

小田氏治の男。通称彦太郎。母は江戸忠通の女。北条家との同盟により佐竹家らに抗した。1589年「小田原の役」により所領は没収。その後妹を頼って越前の結城秀康に仕えた。

小鷹(行方)治部少輔【おだかじぶしょうゆ(15??~15??)】

行方郡小高城主。大掾清幹家臣。南方三十三館衆。1591年佐竹義宣に謀殺される。

小幡又兵衛【おばたまたべい(15??~15??)】

南方三十三館衆。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

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【か】

鹿島義幹【かしまよしもと(15??~15??)】

鹿島郡鹿島城主。鹿島神宮大行事職。通称左衛門太夫。1512年、兄鹿島景幹が下総国で討死したため、鹿島家の家督を相続した。幼少のため家臣に人望がないうえに、新規に召し抱えた浪人玉造常陸介(塚原卜伝の門人)が専横を振い重税を課したため領民の恨みをかう。家臣らが合議して不平を四宿老に訴えたの。これを容れた四宿老は江戸家、大掾家、島崎家らと結んで鹿島義幹を廃して鹿島城から放逐した。1524年、鹿島義幹は下総国東庄城に拠って鹿島城奪還の兵を起こした。兵700余りで鹿島城に攻め入ったが、鹿島城からも軍勢を繰り出して両軍激戦となった。松本政信は、その前後の戦いに槍を合わすこと23度、高名の首125、並の首76を取るという人間離れをした奮戦をした。この戦いに塚原卜伝も従軍していて、槍合わせ9度、高名の首21、並の首七つを取ったという。しかし、松本備前守は、この「高天ケ原の戦い」で討死した。

鹿島通幹【かしまみちもと(15??~15??)】

鹿島景幹の娘に、大掾高幹の弟をめあわせて鹿島通幹と称して、鹿島家の家督を相続した。

鹿島治時【かしまうじとき(15??~1591)】

鹿島治時は佐竹家に従い、鹿島城を回復、鹿島家中興の祖となった。1565年、鹿島治時は土浦を領したが、武田通信と烟田忠幹の所領である三ヶ村を取り合い、鹿島治時の不手際で烟田忠幹は三ヶ村を失った。烟田忠幹は鹿島家の庶族であり、戦国時代に至っても鹿島家に従属して、その保護を受ける存在であった。鹿島治時は配下の領主である烟田忠幹の危機を救ってやるべき立場でありながら、烟田忠幹に所領を失わせる結果をもたらした。これをきっかけとして烟田忠幹は鹿島家から自立する動きを見せるようになった鹿島治時は烟田忠幹の所領を二分する位置にある鉾田城を構え、三男鹿島義清を配して烟田忠幹を牽制した。

鹿島氏幹【かしまきよふさ(15??~15??)】

鹿島治時の次男。鹿島治時が死去して、鹿島家は再び内紛を引き起こし、その勢力をいよいよ衰退させていくことになる。1569年、下総国千葉家の支援を受けた次男鹿島氏幹と、江戸家の支援を受けた三男鹿島義清との対立が起こった。まず鹿島氏幹が千葉家の支援を受けて兵を上げ攻勢に立ったが、鹿島義清方も反撃に立った。鹿島氏幹が家中の島前某に謀殺され内紛は収まった。

鹿島義清【かしまよしきよ(15??~15??)】

鹿島治時の三男。1579年、津賀城主津賀大吹介が鹿島宮中で暗殺の企みがあるという噂を聞き、江戸家を頼って遁走したことから第二の内紛が始まる。この内紛により鹿島義清は謀殺された。

鹿島貞信【かしまさだのぶ(15??~15??)】

鹿島治時の四男。江戸重通は、内紛により弱体化した鹿島貞信、鹿島清秀兄弟を鹿島城に攻め、下総国矢作城に追った。1582年、鹿島通晴が江戸家の支援を受けて、惣大行事職となり鹿島家当主となった。1584年、佐竹義重と北条氏直の下野沼尻の対陣に際して、鹿島家は佐竹家として兵200余を率いて参陣した。1586年、後北条家の他国衆で矢作城主国分家の支援を受けた鹿島貞信、鹿島清秀兄弟の反撃。鹿島通晴を倒して鹿島に入り、月鹿島貞信が鹿島家当主となった。江戸家は烟田を攻め、額賀上野守、石崎近江守を調略し、二人をして鉾田城将であった田山市正を襲撃、謀殺させ鉾田城を奪った。対して、鹿島貞信は鉾田城を攻めた。額賀上野守が退散し石崎近江守が鹿島方に寝返った。 1590年「小田原の役」後、佐竹義宣は羽柴秀吉から常陸国本領の安堵を受けた。佐竹義宣は秀吉から公認された常陸支配を実質化するため「小田原の役」に参陣しなかった常陸南方三十三衆の粛清を図った。水戸城主江戸重通を攻撃し結城に追い落とした。大掾家を攻め滅ぼした。そして、平姓大掾家一族が割拠する常南地方の制圧に乗り出したのである。1591年、佐竹義宣は鹿島鹿島城主清秀をはじめとして、烟田、玉造、行方、手賀、島崎らの諸家を太田鶴来城の梅見に誘い謀殺した。鹿島城では、鹿島清秀の室と三家老たちが迎撃を行った。佐竹家は町田備中守を大将とした討伐勢によって鹿島城は落城し鹿島家嫡流は滅亡した。

鹿島家臣団【かしまけかしんだん】

鹿島清秀、塚原高幹、中居秀幹、林時国、立原、沼尾、安房、烟田秦幹、石神、小鹿野幹匠。

烟田秦幹【かまたやすもと(15??~15??)】

鹿島郡烟田城主。鹿島家臣。南方三十三館衆。

烟田忠幹【かまたただもと(15??~15??)】

烟田秦幹の男。1569年、鹿島治時と戦った。

烟田通幹【かまたみちもと(15??~1591)】

烟田忠幹の男。1584年、佐竹義重が下野国に出陣した際、50騎を率いて参陣した。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

神生通朝【かのうみもちとも(1549~1588)】

大部城(神生館)主。江戸家臣。官途は遠江守。1587年「神生の乱」は、神生通朝が、江戸家枝連衆の江戸通澄と徳政令を巡って争いを起こしたのが発端である。神生通朝は小野崎家を頼ったため、江戸家と小野崎、神生、額田、宍戸などとの争いに発展した。1588年、佐竹家が江戸家を支持して参戦、小野崎家側には佐竹家と対立する陸奥の伊達家が支援した。結局、伊達家は派兵できず、江戸、佐竹連合軍が実質勝利を収め、和睦が成立したが主家によって滅ぼされた。

栗林義長【くりばやしよしなが(15??~1587)】

岡見家臣。京の都で柳水軒白雲斎から兵法を学び、常陸国に戻り、牛久の城主岡見家の武将栗林左京亮に仕えた。栗林義長はその後栗林左京亮と養子縁組し栗林義長と称した。1583年、栗林義長は北条氏尭によって総大将を命じられる。栗林義長は、小貝川での多賀谷水軍との戦いで火計を持ちいて大勝利を収める。下総国で勢力を持っていた千葉頼胤との戦いでは、佐竹家と共謀し北条方の小田家、岡見家を挟撃しようとしたが、栗林義長はそれを見抜き、先制攻撃をかけ各個に撃破して勝利を収めた。佐竹勢に竜ヶ崎城を落とされ、江戸崎城も攻められた土岐伊予守は栗林義長に援軍を求める。それに答えて直ちに軍を進め竜ヶ崎城を奪い返し江戸崎城を救った。1587年、栗林義長が病で没すると主家の岡見家も滅亡した。

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【さ】

坂隼人【さかはやと(15??~1589)】

島崎家臣。1589年、小高城の戦いで討死した。

坂源三郎【さかげんざぶろう(15??~1589)】

島崎家臣。坂隼人の弟。1589年、小高城の戦いで討死した。

桜井大隈守【さくらいおおすみのかみ(15??~15??)】

真壁氏幹家臣。「小説真壁氏幹鬼の義」By高妻秀樹。

信太掃部助【しだかもんのすけ(15??~1564)】

小田家臣。1564年、越後長尾・宇都宮・佐竹の連合軍と「山王堂の戦い」で敗北した小田氏治は土浦城へ撤退。掃部助らは小田城に残って連合軍と激闘したが落城、自刃した。

信太範宗【しだのりむね(15??~1554)】

常陸木田余城主。小田家臣。官途は伊勢守。小田氏治に仕えたがのち不和となった。1554年、菅谷政貞により土浦城で謀殺された。

島崎利幹【しまざきとしもと(15??~15??)】

行方郡島崎城主。島崎忠幹の男。南方三十三館衆。1525年、島崎利幹は鹿島家の内訌に乗じて鹿島家を攻め、鹿島郡をほぼ領有する。1542年、玉造郡に玉造宗幹を攻め、行方郡をもほぼ制圧した。古河公方足利晴氏に対抗して佐竹家と結んだ。

島崎氏幹【しまざきうじもと(15??~15??)】

島崎利幹の男。1570年、島崎氏幹は、烟田家を攻めた。1581年、江戸重通とともに鹿島家を攻めた。

島崎儀幹【しまざきよししげ(15??~1591)】

島崎氏幹の男。島崎儀幹は、1583年、麻生城を攻略し、里見義弘の弟井関(里見)義政と改めて城主とした。1589年、小高城を攻めて坂家兄弟を討死させている。1591年、島崎儀幹は「小田原の役」に参陣しなかっため、佐竹義宣によって太田城で誘殺された。島崎城は廃城となり島崎家は滅亡した。

島崎定守【しまざきさだもり(15??~15??)】

島崎利幹の次男。

島並幹家【しまなみしげいえ(15??~1591)】

島並城主。島崎家臣。1591年、島崎佐竹義宣によって島崎儀幹だけでなく、島並幹家も滅ぼされた。佐竹家に仕えていた島並幹国(幹家の子)は生き残りました。

島崎家臣団【しまざきけかしんだん】

大平内膳。

白井幹継【しろいみきつぐ(15??~15??)】

玉造憲幹の三男。

菅谷勝貞【すがやかつさだ1493~1575)】 

筑波郡土浦城主。小田家臣。勇猛知将を兼備えた武将。1516年、土浦城を攻略。利根川系の水運を把握した。1519年、上総国小弓御所の足利義明を支援している。1556年、北条氏康は結城政勝に援軍を派遣、海老ヶ島城を攻撃した。小田氏治は「山王堂の戦い」で優勢な敵に敗走。小田城も落城した。1557年、土浦城まで後退していたが小田城を再奪還した。

菅谷政貞【すがやまささだ(1518~1592)】

菅谷勝貞の男。小田氏家臣。官途は摂津守。1558年、本拠小田城を佐竹家のために攻略された小田氏治を助け、小田城奪還に尽力して成功せしむ。1563年、大掾貞国を「三村の戦い」で撃破した。1564年、山王堂において越後長尾、宇都宮、佐竹連合軍と戦い激闘。1583年、主家が北条家と結ぶとこれに従う。

菅谷範政【すがやのりまさ(1558~1612)】

菅谷政貞の男。官途は左衛門大夫。小田氏治が本拠小田城を追われるたびに土浦城に匿って小田城奪還戦に協力した。1589年「小田原の役」では小田家が後北条家に与したため、菅谷範政も土浦城を退去して真壁郡に蟄居。菅谷範政の小田家に対する忠節を賞され、松平元康に召し出された。

菅谷範貞【すがやのりさだ(1580~1618)】

菅谷範政の男。1600年「関ヶ原の役」では秀忠に属して上田城攻めに加わる。1614年「大坂の役」では二条城に詰め、のち伏見城に在番したが、同地において死去。

菅谷政頼【すがやまさより(1527~1559)】

菅谷政貞の養子。娘が菅谷範政の室になっている。太田資正と戦って討死した。

芹沢秀幹【せりざわひでもと(15??~15??)】

古河公方足利晴氏に仕えた。医術に長じ戦傷者の治療を行った。

芹沢定幹【せりざわさだもと(15??~15??)】

北条家と結び佐竹家と対抗した。

芹沢国幹【せりざわくにもと(15??~15??)】

芹沢城主。官途は土佐守。1590年、佐竹家麾下の武将として数々の戦功があった。芹沢国幹は佐竹家に敵として相手にされなかったため面目を失ったと感じ、秋田実季を頼って落延びた。

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【た】

大掾慶幹【だいじょうじ(15??~1551)】

大掾常幹の男。1546年、小田政治、小鷹直幹と長者原の戦い勝利した。小高城も攻略した。水戸地方を拠点とした江戸家は盛んに勢力を南に拡大してきており、これに対して大掾家は小田、真壁、笠間の諸家ととも江戸家と対立した。1546年、小高直幹の誘いにのった小田政治が大掾慶幹を攻撃してきたが、大掾慶幹は長者原において小田家を撃退し、さらに進んで小高城を奪取した。

大掾貞国【だいじょうじさだくに(15??~1577)】

大掾慶幹の男。1531年、小田家と「鹿子原の戦い」を行った。1563年、三村の合戦で小田氏治に敗れ、佐竹家の南進も本格化した。1551年慶幹が没し、大掾貞国が大掾家を継いだ。この頃には大掾、小田、江戸家の三つ巴の対立が激化し、特に小田氏の勢力が強まった。1563年、大掾貞国は三村合戦で小田氏治に破れ、その後佐竹氏と連携し小田氏攻略に備えたが、大掾家と園部家が確執を起こしたとき江戸、佐竹両家が園部(小川)家を支援したため、小田家への守りとして築城した三村城主大掾常春は小田氏に攻められ落城し討死した。1574年、小田家は佐竹方に攻められ土浦城が陥落した。この時、大掾家は東に薗部、北に江戸、佐竹、南に小田に囲まれてしまった。1577年、大掾貞国は討死した。

大掾清幹【だいじょうじ(15??~1591)】

大掾貞国の男。大掾貞国の死後、幼年の大掾清幹が家督を相続した。後北条家の勢力が北関東にも及んでくると、大掾清幹は越後長尾景虎と結び、佐竹家らと協力して反北条活動をとる。しかし、その間も江戸重通は大掾家を攻め続け、当初中立の立場をとっていた佐竹家も江戸重通に協力する。大掾清幹は府中城の詰め城を殆ど落とされ、大掾惣領家の滅亡は時間の問題となった。これに対抗するため大掾清幹は後北条家と結んだ。1590年、羽柴秀吉による「小田原の役」では、大掾清幹をはじめとする大掾家一族は後北条家側に立ち、参陣をしなかった。結果、常陸は参陣をした佐竹義重に与えられた。佐竹義重は江戸城を攻めて江戸重通を追落し、その勢いで府中城も攻め立てた。激戦の末、府中城は落城し、大掾清幹は自刃した。

行方武田信治【たけだのぶはる(15??~15??)】

行方郡木崎城主。行方武田家は甲斐武田家の庶家で常陸国行方郡を領した。

行方武田通信【たけだつうのぶ(15??~15??)】

武田信治の男。

行方武田信房【たけだのぶふさ(15??~1591)】

武田通信の男。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

竹原義国【たけはらよしくに(15??~1591)】

大掾清幹家臣。南方三十三館衆。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

玉造憲幹【たまづくりのりもと(15??~15??)】

行方郡玉造城主。南方三十三館衆。

玉造宗幹【たまづくりむねもと(15??~15??)】

玉造憲幹の男。

玉造重幹【たまづくりしげもと(15??~1591)】

玉造宗幹の男。1590年、玉造重幹は大掾清幹の攻撃を受けるが和睦した。1591年、この和睦を理由として佐竹義宣に呼び出され、他の国人「南方三十三館」と共に謀殺された。玉造城は佐竹家臣大窪兵蔵久元の攻撃を受けて落城した。

田伏次郎大夫【たぶせじろうたいふ(15??~15??)】

田伏城主。小田家臣。小田氏治に仕えて各地を転戦した。1590年、佐竹家の攻撃を受けて没落した。

塚原安幹【つかはらやすもと(15??~15??)】

鹿島郡塚原城主。鹿島家臣。

塚原高幹【つかはらたかもと(1490~1572)】 

吉川覚賢の次男。塚原安幹の養子。通称塚原ト伝。鹿島家四家老の一人吉川城主吉川覚賢の次男のとして生まれ塚原安幹の養子として、塚原城城主となる。塚原高幹は実父の吉川覚賢から鹿島中古流の剣法を学び、養父の塚原安幹からは香取神道流を学び、鹿島家四家老の一人松本政信から鹿島神陰流を学んだ。弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)と、諸岡一羽や真壁氏幹、斎藤勝秀(伝鬼房)ら一派を編み出した剣豪がいる。また、足利義輝や北畠具教にも剣術を指南した。また、この両者には奥義である「一の太刀」を伝授したとされている。南常陸国(霞ヶ浦周辺)は戦国末期になっても「常陸南方三十三館」とよばれる小大名、城主が乱立していた。

手賀高幹【てがかかみき(15??~15??)】

行方郡手賀城主。玉造家臣。通称与一郎。1559年、小田氏治と戦う。1591年、手賀高幹は佐竹義宣に謀殺される。

土岐原治頼【ときはらはるより(1502~1557)】

信太郡江戸崎城主。美濃国守護土岐政房の三男。土岐原景成の婿養子。美濃国守護土岐政房の三男であったが、土岐原家の要請を受けて土岐原景成の養女を娶って婿養子として土岐原家の家督を相続した。1523年、土岐原治頼は関東管領山内上杉憲房らの支援を受け、土岐原治頼、近藤勝秀、臼田河内守らの山内上杉勢力が結集して、小田政治方の屋代城を攻め落とした。そこへ、屋代城救援の小田政治、麻生淡路守らの軍勢が到着し、屋代城の周辺において激しい戦闘が展開された。この合戦の結果、小田政治は屋代城を失い、重臣の信太家や味方として参陣した多賀谷淡路守をはじめ、広瀬、青木、石崎家等多くの討死者を出し、土岐原家方の勝利であった。1542年、兄である美濃守護土岐頼芸が斎藤道三によって領国を追われると、常陸国にいる弟土岐原治頼にも救援の要請が出された。1543年、土岐頼芸は江戸崎城まで落延び、系図及び家宝を土岐原治頼に譲渡した。土岐原治頼は、小田家との戦いを続けて、一時は小田氏側の岡見家を傘下に置くなど優勢を保った。小田家が関東において急速に台頭する後北条家と手を結ぶと、山内上杉家側にあった土岐原治頼は次第に苦境に立たされていく。更に佐竹家の南下も加わってその対応に苦慮する中で病没した。

土岐原治英【ときはらはるふさ(15??~1585)】

原治頼の男。土岐原治頼の養子。官途は大膳大夫。これまで支援を受けていた関東管領山内上杉憲政が越後に逃れると、北条氏康と結んで北の佐竹家に対抗すると共に、仇敵小田氏治とも結んだ。1561年、越後長尾景虎の関東進出により本拠を追われた小田氏治らとともに反佐竹、多賀谷勢力の中心的存在となった。関東の越後長尾景虎上杉氏対北条氏康という対立の枠組みの中で土岐原治英はは土岐原領を分割して江戸崎城を中心とした地域と、龍ケ崎城を中心とした二つの行政単位を設定し、土岐領の安定的な支配を図った。

土岐原治綱【ときはらはるつな(15??~15??)】

土岐原治英の男。土岐原治綱は後北条家の麾下に属し、北条家臣松田家から諸々の局面で指示を受けるようになった。そして、後北条家を後ろ楯として佐竹、多賀谷家らと対抗した。このような状況下で、土岐治綱と弟龍ヶ崎城主龍ヶ崎(土岐原)胤倫との対立が顕在化した。1590年、土岐原治綱は、この対立の解決への糸口が見い出せないまま、土岐家は羽柴秀吉の「小田原の役」を迎えた。江戸崎、龍ケ崎両城は、羽柴勢によって攻め落とされた。江戸崎城主土岐原治綱の嫡男土岐原頼英で二~三歳の幼子であった。そして、叔父にあたる龍ヶ崎(土岐原)胤倫に養育された。

東条英幹【とうじょうえいかん(15??~15??)】

河内郡東条城主。土岐原家臣。

東条五郎左衛門尉【とうじょうごろうえもん(15??~15??)】

東条英幹の男。

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【な】

中居秀幹【(なかいひでもと15??~1591)】

鹿島郡中居城主。鹿島家臣。鹿島郡内の24ヶ村を領した。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

長山幹綱【ながやまもとつな(15??~15??)】

長山城主、一族の嶋崎安国に攻められて落城し、嫡男長山政幹は佐竹義篤(佐竹義重の祖父)を頼って落延びた。

中原正勝【なかはらまさかつ(15??~15??)】

真壁氏幹家臣。真壁忍び衆の元締め。「小説真壁氏幹鬼の義」By高妻秀樹。

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【は】

八田友治【はったともはる(1548~1604)】

小田氏治の男。官途は左近。通称小太郎。小田氏治の男であったが庶子であったために八田家の家督を相続した。1590年、小田家とともに北条家に属し「小田原の役」の後は羽柴秀吉に仕えた。1594年「朝鮮の役」では舟奉行として渡海し、その功により伊勢国内に所領を得た。京都において没した。

塙政俊【はにわまさとし(15??~15??)】

烟田家臣。

塙政政【はにわまさより(15??~1591)】

塙政俊の男。烟田家臣。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

林時国【はやしときくに(15??~1589)】

行方郡林城主。大掾清幹家臣。南方三十三館衆。1589年、荒原五郎左衛門に討たれた。

礼幹繁【ふだもとしげ(15??~1591)】

鹿島郡礼城主。南方三十三館衆。1591年、佐竹義宣に謀殺れた。

北条氏高【ほうじょううじたか(15??~1574)】

北条城主。小田家臣。永禄期に佐竹家に転仕し、土浦城攻めにも参加して同城を守備。1574年、菅谷政貞の攻撃を受けて討死した。

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【ま】

真壁宗幹【まかべむねもと(1496~1563)】

真壁郡真壁城主。真壁治幹の男。大永年間に古河公方足利高基の末弟足利基頼を擁して足利高基、小田政治と争うが、足利基頼が足利高基のもう一人の弟小弓公方足利義明の元へ奔ると、今度は小田政治と大掾忠幹を和解させて高基の嫡男足利晴氏を擁した。他の大掾家系一族と同様に鹿島神宮への崇敬が厚く、その保護に努めた。また、連歌に優れて連歌師として名高い宗牧とも親交があった。

真壁久幹【まかべひさもと(1522~1589)】

真壁宗幹の男。初め小田家の麾下に属した。1548年、水谷正村と結んで離反する。1560年、大掾慶幹を攻めるも古河公方足利義氏の仲介で和睦した。1561年、佐竹義昭が真壁郡に進出するとこれと手を結び、片野城の太田資正や、その次男で真壁久幹にとっては娘婿である梶原政景とともに小田家に対する尖兵的役割を担った。1569年「手這坂の戦い」では小田氏治の軍勢に大打撃を与えた上、小田城も攻略し、以後小田氏治の本拠地奪還を不可能とした。1573年、小田氏治と佐竹義重の和睦の仲介にあたる。

真壁氏幹【まかべうじもと(1550~1622)】

真壁久幹の男。武勇が優れていることから、近隣の豪族から「鬼真壁」と恐れられ、合戦時には長さ2メートルもの樫木の棍棒を振り回し、戦場を駆け巡った。父真壁久幹から家督を譲られてからは、佐竹家の武将と主要な合戦にはほとんど参加した。文録の役にも従軍した。世継には恵まれず、弟の真壁義幹の子房幹に家督を譲った。佐竹家の羽後国移封の際には、真壁房幹を従わせ、本人は次女の娘婿の水谷正勝の菩提寺の常林寺に隠居した。

真壁義幹【まかべよしもと(1552~1630)】

真壁久幹の次男。官途は式部大輔。父真壁久幹が佐竹義昭に臣従した際に佐竹義昭のもとで元服を行った。1569年、小田氏治との「手這坂の戦い」で戦功を挙げた。常陸国筑波郡に所領を与えられて兄真壁氏幹から分家をした。嫡男真壁房幹が兄真壁氏幹の養子となっていたために、次男の真壁重幹に家督を譲る。真壁氏幹、真壁房幹ともに死去したために真壁重幹が真壁家の当主となった。佐竹家の移封先である出羽国角館城にて病没した。

真壁房幹【まかべふさもと(1569~1612)】

真壁義幹の男。真壁氏幹の養子。

真壁七騎衆【まかべななきしゅう】

真壁氏幹、真壁義幹、酒寄備前守、来栖三河守、成田遠江守、長岡織部、田口弥八郎。1569年「手信坂の戦い」で活躍した七騎衆。

真壁氏幹近習三人衆【まかべきんじゅうさんにんしゅう】

市原政義、鈴木治房、藤田友重。真壁氏幹の近習三人衆。

水谷治持【みずたにはるもち(15??~15??)】

真壁郡下館城主。結城家臣。1537年、多賀谷家重を攻めるため別働隊として出陣。本隊とともに多賀谷勢を打ち破る。しかし、家重は城に籠もって抵抗したため滅ぼすことは出来なかった。1539年、古河公方足利晴氏の援軍要請を政勝が受けたため、武蔵に出陣。上杉宇都宮連合軍により敗退。1548年、真壁氏幹ともに多賀谷重政を攻める。これにより重政は結城政勝に降伏し、再び仕えた。1559年、結城政勝が没したのを機に攻め込んできた小田勢を打ち破る。

水谷正村【みずたにまさむら(1521~1596)】

水谷治持の男。通称下蟠龍斎。幼少の時に父を失い、水谷勝吉の弟の水谷治持の元で成長した。1539年の夏、自家兵力350騎と結城家重臣多賀谷家重300騎は、武蔵国吉見城主大串武成を攻めた。水谷正村は家臣海老原(谷田貝)行政と共に出陣し、大串家400騎と合戦におよび、大串勢300騎を死傷させた。大串武成はその場で自刃。武成の甥大串重元、侍大将田谷右兵衛尉他48人の首を上げた。

水谷勝俊【みずたにかつとし(1542~1606)】

水谷治持の次男。兄水谷正村の養子。室は堀田正吉の娘。官位は伊勢守。1566年、兄水谷正村と共に結城晴朝に従って、越後長尾景虎と戦った。1569年、兄水谷正村が隠居したため、家督を相続した。1585年、兄水谷正村とともに下野国田野城を攻略して下野方面にも勢力を広げた。1590年「小田原の役」後、水谷家は結城家の麾下の大名として独立する。1592年「文禄、慶長の役」においては肥前名護屋城に駐留した。1600年「関ヶ原の役」では、皆川広照の従弟に当たるという経緯から東軍に与した。戦後、下野国において佐竹義宣を牽制した功績を賞されて所領を安堵された。役後、結城秀康が北ノ庄藩に転封されると水谷家は正式な独立大名となった。

水谷勝隆【みずのやかつたか(1597~1664)】

水谷勝俊の男。官位は伊勢守。室は酒井家次の娘、継室は寺沢広高の娘。1606年、父水谷勝俊の死去により家督を相続した。1639年、備中国成羽城50,000石へ移封された。1642年、備中国松山城50,000石へ移封された。内政においては交通路や水路の整備、玉島新田などの新田開発や検
地政策、砂鉄採取による鉄産業の奨励と振興、寺社仏閣の造営などに務めて藩政の基礎を固めた。

松本政信【まつもとまさのぶ(1468~1524)】

鹿島家臣。官途は備前守。室町時代の剣術家。鹿島神宮の祝(はふり)部で、小神野、吉川、額賀と並ぶ鹿島家の四宿老の一人。飯篠長威の門人であったが,鹿島神宮に祈願して源義経が奉納した秘書を手に入れ,鹿島神流を開創したという。鹿島神流は飯篠の兵法を基にしながらも陣鎌、薙刀、十文字(槍)、片鎌などにおける術技は松本の完成したもので,合戦用の総合武術であった。しかし鹿島家は永正期以来、一族、支族間の内訌が表面化し、ついには当主の廃立問題で鹿島義幹勢と「高間ヶ原の戦い」で津賀大膳と相討ちになる。生涯で23回も遣り合せをして、大将首を25級、追首を76級を上げた。

松本政元【まつもとまさもと(15??~15??)】

松元政信の男。

師岡長門守【もろおかながとかみ(15??~15??)】

貝原塚城主。土岐家臣。諸岡長門守が貝塚原城を守っていましたが、不仲になったのか江戸崎城から土岐勢に攻められて落城した。

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【や】

吉川覚賢【よしかわあきかた(15??~15??)】

鹿島郡吉川城主。鹿島家臣。鹿島神宮の祝部。吉川家は鹿島神宮祝部であり、卜部姓を本姓とする。鹿島神宮神官家には鹿島七流と呼ばれる剣技が伝承されており、吉川家には神妙剣が伝えられていた。直心影流の神伝「一の太刀」は鹿島の神官松本、吉川、額賀、小鹿野の四家によって代々伝えられた。

龍ヶ崎(土岐)治英【りゅうがさきはるひで(15??~1584)】

原治頼の男。龍ヶ崎治英の男。官途は美作守。原家庶家。原家は美濃土岐家庶流で、美濃土岐家滅亡の頃から土岐家を名乗ったという。これまで支援を受けていた関東管領山内上杉憲政が越後に逃れると、後北条家と結んで、北の佐竹家に対抗すると共に、仇敵小田氏治とも結んだ。

龍ヶ崎(土岐)治綱【りゅうがさきはるつな(15??~15??)】

龍ヶ崎治英の男。官途は美作守。1584) 土岐治英、麻生之幹の援に応じ、治綱、行方の島崎安定と霞ヶ浦で海戦をする。土岐治英没(治綱、あとを継ぐ)  土岐治綱、徳川家康に江戸崎から馬二頭を献上。

龍ヶ崎(土岐)胤倫【りゅうがさきとき(15??~15??)】

河内郡龍ヶ崎城主。龍ヶ崎土岐治英次男。江戸崎土岐家臣。1583年、佐竹家の攻撃を受けて落城するがまもなく奪還。1590年「小田原の役」で北条方に付いたために滅亡した。

龍ヶ崎家臣団【りゅうがさきけかしんだん】

増塩源太左衛門、森田市左衛門、木村次郎左衛門。

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【資料Ⅰ】

南常陸国(7郡/240,000石)

鹿島郡 鹿島神宮、鹿島城
行方郡 島崎城。
新治郡 府中城、土浦城。
真壁郡 下館城。
筑波郡 谷田部城。
信太郡 岡見城。
河内郡 龍ヶ崎城、牛久城

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【資料Ⅱ】

鹿島家四家老【かしまけよんかろう】

吉川城主:吉川覚賢、松本政信、小神野、安房城主:額賀大炊助之。

真壁七騎衆【まかべななきしゅう】

酒寄備前守、来栖三河守、成田遠江守、長岡織部、田口弥八郎。

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【資料Ⅲ】

鹿島神宮【かしまじんぐう】

鹿島郡にある神社。式内社、常陸国一宮で、旧社格は官幣大社。日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社。常陸国息栖神社、下総国香取郡にある香取神宮と合わせて東国三社と呼ばれる。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国 国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

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2011年2月17日木曜日

戦国磐城国人名辞典

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【あ】

飯野隆至【いいのたかよし(15??~15??)】

岩城家麾下の国人領主。官途は式部大輔。禰宜職の安堵などをされている。伊達家宛書状の奉者を務めている。

石川稙光【いしかわたねみつ(1494~1530)】

石川郡三芦城主。1534年、石川稙光は伊達稙宗、二階堂晴行、芦名盛舜とともに岩城重隆、結城晴綱を攻める。

石川晴光【いしかわはるみつ(1528~1580)】

石川稙光の男。1530年、父石川稙光の死去にともない家督を相続する。1543年「天文の乱」では近隣諸侯の多くと同様に伊達稙宗方として参戦。天文の乱終結以後、田村隆顕、芦名名盛氏らの勢力圏が石川郡内にまで及ぶようになると、この両者の抗争に巻き込まれる形で次第に所領を削り取られ、さらには、常陸国の佐竹義昭が1560年、白河結城家から高野郡を奪取すると、奥州への進出を図り石川領に兵を進めた。1563年、諸勢力の圧迫を受けて窮地に陥った石川晴光は、伊達家の庇護を求めるため、実子石川光専には家督を継がせず、伊達晴宗の四男石川昭光を養子に迎えた。1568年、石川昭光に家督を譲って隠居した。

石川昭光【いしかわあきみつ(1550~1622)】

伊達枝連衆。伊達晴宗の四男。石川晴光の養子。官途は大和守。1568年、石川晴光の養嗣子となる。実父伊達晴宗や兄伊達輝宗に従って田村家や佐竹家のと戦った。1574年、芦名盛氏が佐竹義重と白川郡、石川郡の領有権をめぐって戦い、芦名家が同地を失うと、石川晴光、石川昭光は佐竹義重への服属した。1575年、芦名家は安積郡大槻城を田村勢に攻められが、芦名勢が北部の久保田を攻め返した。1576年、田村清顕は佐竹家とともに芦名方の長沼城を攻めた。1585年「人取橋の戦い」では、南奥諸大名と共に義兄の佐竹義重についた。1589年「摺上原の戦い」以降は再び伊達家に属した。1590年、須賀川城を与えられたが、奥州仕置にて羽柴秀吉に小田原への不参陣を咎められ、三兄留守政景らと共に改易された。

石川家臣団【いしかわけかしんだん】

円谷内記、大寺主殿之助安吉、塩沢備後茂貞、鈴木若狭之介保澄、矢内内蔵之助重房、益子久兵衛金正、大木伊賀之助吉貞、森新左衛門別金。

泉田胤直【いずみだたねなお(15??~15??)】

標葉郡泉田城主。泉田隆家の男。標葉隆成家臣。1492年、行方郡で相馬高胤が陣中で没し、相馬盛胤が相馬家惣領家を相続した。同年、相馬盛胤は標葉郡に泉田隠岐守隆直を攻めた。泉田隆直は、君主に標葉隆成失望して相馬勢に降伏した。

泉田胤清【いずみだたねきよ(15??~15??)】

泉田胤直の男。標葉衆25騎を率いた。

泉田胤雪【いずみだたねゆき(15??~15??)】

泉田胤清の男。官途は隠岐守。泉田胤雪は智将として知られ、嫡男泉田胤清とともに伊達勢の侵攻をよく防いだ。1588年、伊達政宗が小手森城・石沢城などに攻め寄せた。相馬義胤は、大越城の大越顕光に援将として泉田胤雪を入れ、伊達、田村家の来襲に備えた。伊達政宗の猛攻に耐え落城することはなかった。

泉田胤清【いずみだたねきよ(15??~1602)】

泉田胤雪の男。泉田胤清は相馬長門守義胤に従って各地を転戦した。1589年「坂本城の戦い」で相馬義胤の後陣として標葉衆300を率いた。1602年、病死したが、泉田胤清には跡継ぎの男子がなく、娘聟の泉藤右衛門胤政が泉田城主となった。

泉胤定【(15??~1568)】

通称は左衛門太夫。泉村の泉家菩提寺宝月山東泉院を再興し、中興開基となった。東泉院はもともと下総国相馬郡泉村の泉屋敷の東に建てられていた寺院で、泉家が相馬重胤とともに陸奥国行方郡に移り住んだ際、東泉院もともに移り、泉家の菩提寺として続いた。後嗣がなく、三春城主・田村一族の中津川家より中津川大膳が泉家を相続し、泉大膳亮胤秋を称した。

泉胤秋【いずみたねあき(15??~1587)】

通称は大膳。三春城主田村一族で、もとは中津川大膳亮。1585年、最上義光が相馬義胤臣の「伊泉大膳亮」へ宛てた書状が残っているが、この「伊泉大膳亮」が泉胤秋であるとされる。もともと泉胤秋は相馬顕胤の弟堀内近胤の娘を娶り、堀内家を相続していたが、彼女とそりが合わず堀内家を出た。小浜城主畠山伊勢守尚義の娘を娶った。嫡男の泉胤政が泉家を相続したが幼少であったために泉胤秋も相馬家へ属し、泉胤政の後見人として泉大膳と改める。

泉胤政【いずみたねまさ(15??~1633)】

中郷泉館主。泉胤秋の男。通称藤右衛門。泉家に養子として入り、3,000石を領した。しかし幼かったため、父泉胤秋が泉胤政の後見人として相馬家に入った。1597年、相馬義胤は居城を小高城を牛越城に移すにあたり、泉胤政も人夫を差し出したが、相馬義胤と泉胤政の人夫奉行が口論に及んだ。結果、泉胤政が謀反を企てたとして、相馬義胤は泉胤政追討勢を泉館に発した。泉胤政は相馬勢が来る前に館を焼いて相馬を出奔。会津の柳津へ逃れた。

岩城由隆【いわきよしたか(15??~1542)】

磐前郡平城主。岩城常隆の男。官途は民部大輔。岩城常隆に家督を譲られたのは兄の岩城盛隆であったが、まもなく岩城由隆が当主として活動するようになる。祖父の岩城親隆と父岩城常隆と同様、岩城由隆も父と共同統治の形態をとり活動した。

岩城成隆【いわき(15??~15??)】

岩城由隆の男。岩城由隆の跡は岩城成隆が継ぎ、岩城重隆は分家して白土家を起こした。岩城成隆は江戸家と結び佐竹家に軍事的圧力をかけ常陸に勢力を伸ばそうとしたが失敗した。岩城成隆は死去し岩城重隆が家督を相続した。

岩城重隆【いわきしげたか(15??~1569)】

岩城由隆の次男。通称二郎太郎。官途は左京大夫。岩城重隆は白河結城家と同盟関係を固めることにより、伊達稙宗の縁戚となって勢力が盛んとなっていた近隣の相馬家や田村家と対抗した。娘の久保姫の嫁ぎ先をめぐって伊達家や相馬家と対立し、軍事的な争いにまで発展した結果、岩城重隆が敗れ、久保姫を伊達晴宗に輿入れすることになった。伊達晴宗と久保姫との子を岩城家の養子に迎えることを約束させたという。鶴千代丸(岩城親隆)が誕生している。1542年「伊達天文の乱」で岩城重隆は伊達晴宗方となり伊達稙宗方の相馬家や田村家と抗争し、後に伊達晴宗方に寝返った葦名盛氏と共にその勇戦ぶりを伊達晴宗に賞賛された。伊達晴宗と田村家や二本松畠山家の内部抗争を誘発させ、弱体化を図るなど調略も駆使した。「天文の乱」後も田村家や相馬家との抗争を継続した。伊達、芦名、佐竹諸家との間で外交を駆使し生き残りを図った。周辺の石川家や白河結城家が佐竹家への従属度を深めていくと、岩城重隆は継嗣の岩城親隆に家督を譲り、その室に佐竹義昭の娘を迎え友好関係を結んだ。佐竹義昭、佐竹義重父子の南奥への勢力拡大をおさえることはできなかった。

岩城親隆【いわきちかたか(1537~1594)】  

伊達晴宗の男。岩城重隆の養子。官途は左京大夫。1534年、伊達晴宗と岩城重隆との約束により、岩城重隆の養嗣子となって岩城家の家督継承者になった。養父の伊達重隆の隠居後、当主に就任する。田村家や石川家の領土を侵したり、二階堂盛義の援助のため出兵するなどの小規模の軍事活動がみられるが、基本的には養父岩城重隆以来の外交重視路線を世襲した。佐竹義昭は、石川家や白河結城家の従属化を図り、友好的であった岩城家との関係も悪化した。岩城親隆は佐竹義昭の娘を室に迎えていたにも関わらず関係は改善しなかった。1568年、佐竹家と軍事衝突を起こす最中、養父岩城重隆は病死し、岩城親隆も病に倒れ人事不省となるとなる。佐竹家出身の岩城親隆夫人が実権を握り、佐竹義重が岩城家の政治に介入するようになる。1578年、岩城常隆が当主に就任し、岩城親隆夫人がその後見役を務めた。

岩城常隆【いわきつねたか(1567~1590)】

岩城親隆の男。官途は左京大夫。父岩城親隆が病に倒れ人事不省となると、佐竹家出身の岩城親隆夫人が後見人となり、岩城家の実権は佐竹義重に握られることになった。1578年、岩城常隆が当主になるが、佐竹家の家中に対する影響力は変わらなかった。伊達政宗が勢力を広げると、岩城常隆は静観したが、伊達政宗が岩城家と対立する田村家より室を迎えると、岩城家は再び佐竹家よりとなり、石川家などと共に伊達家と対立する。1586年「人取橋の戦い」においては佐竹家側で参戦し、家臣窪田十郎が伊達家の鬼庭良直を討ち取る。1589年「摺上原の戦い」に勝利し芦名家を滅ぼすと岩城家は石川家と共に伊達政宗に臣従する。1590年「小田原の役」に参陣することで所領を安堵されたが、まもなく病に倒れ、鎌倉で死去した。岩城常隆には岩城政隆という実子がいたが、幼少であったため、羽柴秀吉の意向もあり佐竹義重の三男である岩城貞隆が養嗣子として岩城家の家督を相続した。

岩城政隆【いわきまさたか(1590~1615)】  

岩城常隆の男。通称長次郎。1590年「小田原の役」の参陣中に父岩城常隆が病死し、岩城家の家督は羽柴秀吉の介入で、佐竹義重の三男岩城貞隆が相続した。岩城政隆は、岩城家より追放された。1607年、伊達政宗に仕えた。

岩城貞隆【いわきさだたか(1583~1620)】

佐竹義重の三男。岩城常隆の養子。1590年「小田原の役」の参陣中に父岩城常隆が病死し、岩城家の家督は羽柴秀吉の介入で、佐竹義重の三男岩城貞隆が相続した。1600年「関ヶ原の役」では、兄佐竹義宣の命に従って、越後長尾景勝征伐に参加しなかったため、1602年、兄佐竹義宣と共に処分を下された。佐竹家は減封で済んだが、岩城貞隆は全ての所領を没収された。岩城貞隆はこの不当な仕打ちに対して、兄佐竹義宣に挙兵まで促したが拒絶された。岩城貞隆は室の実家の相馬家が再興したことに希望を見出し、自らも岩城家再興を願うべく江戸に登り、浅草で浪人し、再興運動に尽瘁、飯野八幡宮に度々祈願した。土井利勝の内意を受け、松平元康に再興を嘆願した結果、本多正信の組となり300人扶持となる。1616年、信濃国中村に10,000石を与えられ、大名として復帰した。

大越顕光【おおごえあきみつ(15??~15??)】  

田村郡大越館主。田村家の枝連衆。田村家中で第二の大身して文武に渡って田村家を支え続けてきた武将。1586年、田村清顕が病死して家中に伊達派と相馬派の争いが起きると、大越顕光は相馬義胤の従兄弟でもあった関係から相馬派の指導者として主導権争いに敗北、他の相馬派のメンバーともども地理的に近かった岩城家の軍門に下っていた。1589年、伊達政宗は田村家の旧領全域を確保するため、ら三春城への出仕を禁じて追放とした親相馬派メンバーの全面赦免に踏み切り、大越顕光と行動を共にしていた田村梅雪らが応じて田村家に帰参し親相馬派は瓦解した。

大越家臣団【おおごしけかしんだん】

大越八郎左衛門、大越紀伊守、大越孫七郎。

大寺清光【おおでらきよみつ(15??~1589)】

石川郡大寺城主。官途は中務大輔。1582年、大寺清光は所領争いから石川昭光と対立し、母畑油殻平で石川勢と合戦に及びましたが、これに敗退し大寺城に籠城しました。追撃してきた石川勢の攻撃に抗しきれず、大寺清光は降伏を余儀なくされ、大寺毛の勢力は急速に衰退した。その後、大寺清光は勢力回復を企て二階堂、岩城家と結び再び石川昭光に抗した。1589年、大寺清光の籠る須賀川城は伊達政宗の攻撃を受けて落城、大寺家は没落した。

大寺家臣団【おおでらけかしんだん】

塩沢高平、大野行宗、吉村金貞、安部金光。

小川隆勝【おがわたかかつ(15??~15??)】

岩城家臣。

小川上総介【おがわかずさのすけ(15??~15??)】

岩城家臣。1589年、伊達政宗の策謀を受けた芦名義広から出陣を要請された。

小川大蔵丞【おがわおおくらのじょう(15??~15??)】

小川上総介の男。1584年、下野において北条氏直と戦い、戦功を佐竹義重に賞された。

岡田義胤【おかだよしたね(15??~15??)】 

行方郡岡田館主。官途は安房守。相馬家臣。1492年、相馬盛胤は、権現堂城に標葉左京大夫清隆を攻めた。岡田義胤も従軍している。相馬盛胤は泉田村渋井に布陣していた標葉枝連衆筆頭泉田隆直を寝返らせ、隆直は相馬勢の先陣となって権現堂に攻め寄せた。標葉清隆の嫡子標葉隆成の評判は非常に悪かったといい、泉田隆直の内応はこれに反発したことによるものという。泉田隆直の寝返りをみた城内は動揺し、標葉家の中核を占めている標葉六騎七人衆のほとんど、さらに一族標葉小四郎隆豊や家老牛渡九郎兵衛が内通。城門を開いて相馬勢を招き入れると、城内に火を放った。こうして鎌倉以来の標葉郡領主標葉家は滅び、代わって相馬家が支配者となった。権現堂城を岡田義胤に任じた。岡田義胤は嫡男岡田重胤に家督を譲って、次男岡田将監胤連とともに権現堂に移り住んだ。

岡田茂胤【おかだしげたね(15??~15??)】 

岡田義胤の男。相馬岡田家。通称は治部大輔。室は大槻義治(二本松畠山家臣)娘。小高郷筆頭として「岡田館 岡田兵衛太夫直胤 二十五騎」とあり、相馬顕胤、相馬盛胤に仕えた。

岡田直胤【おかだなおたね(1560~1591)】 

岡田茂胤の男。相馬盛胤、相馬義胤に仕えた。小高衆25騎を率いた。相馬勢で20騎以上を率いるのはほかに泉田胤清(標葉郷大将)、泉胤政(中郷大将)の二人のみで、いずれも一門上位の家格である。泉胤政は岡田家と同族であり、泉田家は縁戚にあたる。1563年、伊達家に通じて謀反を起こした草野式部直清が討たれたが、相馬盛胤は彼の16歳になる娘を育て、岡田直胤と娶わせた。また娘は一族の泉藤右衛門胤政に嫁いでいる。

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【か】

上遠野秀永【かどおのひでなが(15??~15??)】

岩城家臣。官途は右衛門大夫。のちに佐竹義昭に服属した。

上遠野秀宗【かどおのひでむね(1561~1637)】

上遠野秀永の男。通称源五郎。官途は隠岐守。永禄期に佐竹義喬に属して陸奥赤館付近に住す。1589年、太平で伊達政宗と戦い、戦後隠岐守の官途を与えられた。

河東田河内守【かとうだかわちのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。1575年、佐竹義重により白河城が攻略されると主家を離れて佐竹家に従い、経営を任された佐竹義久に属して所領を安堵された。

河東田備前守【かとうだびぜんのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。河東田河内守の男。官途は兵部少輔。1575年、父とともに佐竹義久に属した。同年三十貫文を与えられ、陸奥赤館城に在番した。

河東田重清【かとうだしげきよ(15??~15??)】

河東田城主、河東田重治の男。官途は上総介。白河結城家臣。白河結城義親の命で伊達家との交渉に当たった。武勇に優れ、佐竹家との戦いなどで活躍する一方、領内に善政を敷いたので民衆はよく服したという。1576年、佐竹家に奪われていた赤館城を奪回するため、白河勢が最前線の河東田城に集結した。河東田清重も佐藤忠秀に従いこの戦いで奮戦している。1589年、白河結城義親が伊達家に降ると、河東田清重は佐竹家への備えとして関和久城の警護に当たった。1590年、結城白河家が羽柴秀吉により改易される。白河結城義親に従って伊達家に仕えた。

河東田親顕【かとうだしげきよ(15??~15??)】

河東田重清の男。

黒木信房【くろきのぶふさ(15??~15??)】

中村城主。通称弾正。中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ支配していた。1532年「伊達家の天文の乱」で伊達晴宗に組した黒木家は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗した。1543年、伊達稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。

黒木丹波守【くろきたんばのかみ(15??~15??)】

相馬家臣。伊達政宗が初陣したさい、相馬方の大将としえ兵3,700余りを率いて大条城を攻撃した。大条城主小梁川行秀は兵100余りで反撃するが、黒木丹波守の伏兵に会い敗走した。

黒木家臣団【くろきけかしんだん】

黒木大炊介光安、黒木中務、古田主水正。

木幡継清【こばたつぐきよ(15??~1618)】

木幡高清の兄。相馬盛胤、相馬義胤、相馬利胤三代に仕えた老臣。度々合戦で軍功があったという。

木幡高清【こばたたかきよ(1537~1642)】

木幡継清の弟。官途は駿河守。相馬五代に仕えた。検地代官や相馬利胤の傅役も務めた。

木幡清吉【こばたきよよし(1570~1665)】

木幡高清の男。相馬盛胤から相馬忠胤までの相馬五代に仕えた。中村城下街のなわばり奉行を務めた。

桑折久家【こおりひさいえ(15??~15??)】

北郷田中館主。

近藤和泉守【こんどういずみのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。1570年、佐竹家に転仕し、佐竹東家義久の麾下に属した。

近藤対馬守【こんどうつしまのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。南奥山際地方を領した。1570年、枝連衆と共に佐竹家に転仕し、東家義久の麾下に属す。1585年、屋敷山乱入禁止の制札を与えられた。

近藤豊後守【こんどうぶんごのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。通称掃部助。1570年、佐竹家に転仕して東義久の麾下に属す。1574年、東義久から所領安堵を受けた。

草野直清【くさのなおきよ(1514~1563)】

相馬家臣。伊達輝宗に内通、相馬義胤勢の佐藤好信と戦ったい討死した。

小池春憲【こいけはるのり(15??~15??)】

相馬家臣。通称弥七郎。相馬家を辞し、佐々成政に召抱えられた。佐々成政が羽柴秀吉に下ると飛騨高山へ移住した。武功の臣で、剣の達人として飛騨を領した金森家に仕えた。

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【さ】

佐藤好信【さとう よしのぶ(1511~1556)】

伊具郡小斎城主。相馬家臣。楢葉郡富岡城にいた岩城家臣であったが、相馬家の武勇を慕い富岡右京進、富岡美濃守らと共に相馬領へ来て相馬顕胤、相馬盛胤の二代に仕えた。草野直清、青田顕治の反乱鎮圧戦などで活躍し、軍奉行として優れ、数多くの功績を立てたが、桑折左馬之助の讒言に遭い、軍奉行職を解かれたうえ、所領を没収された。

佐藤為信【さとうためのぶ(15??~1591)】

佐藤好信の男。官途は紀伊守。通称左衛門。父佐藤好信が桑折左馬之助(郡左馬助)の讒によって失領し、さらにその領知は桑折に与えられた。1582年、佐藤為信は伊達勢に小斎城を攻められたが、援軍に来た桑折を殺害、息子佐藤勝信を人質とし、亘理元宗を介して伊達政宗に降伏した。その後も相馬戦などに活躍するが、1591年「佐沼城の戦い」で討死した。

佐藤勝信【さとうかつのぶ(15??~15??)】

佐藤為信の男。伊達家への投降に際し、人質として差し出された。

佐藤忠秀【さとうただひで(15??~1579)】

佐藤忠量の男。官途は大隈守。白河結城義綱に仕官して、双石館を居館とした。智勇に優れ,伊達家との交渉に当たったほか、佐竹家との合戦では軍師役を務めた。1576年、佐竹家に奪われていた支城赤館城の奪回戦では軍団の総大将を務めた。佐藤忠秀は夜襲を決行し、一度は城の奪還に成功するが、後に再び佐竹家に大軍をもって奪われてしまう。佐竹家の攻勢で本拠の白河城が危機に陥った際、佐藤忠秀は全軍を撤退させ白河城を空城にし、佐竹勢が入ったところを大挙して押し寄せこれを撃破するという策を進言した。白河結城義親はそれを受け入れ、鶴生まで退いて譜代の将や郎党、土豪を集結させ、芦名家に後詰を求めた。しかし、城下が荒れるのを恐れた神社の神官や仏閣の僧侶が和平を嘆願し、入城した佐竹勢もそれを受け入れたため、策が実行されることはなかった。最後は合戦坂での佐竹勢との戦いで戸村和泉守他5名の首を討ち取ったが、後軍破れ討死した。

志賀武治【しがたけはる(15??~15??)】

白石実綱【しらいしさねたね(15??~15??)】

刈田郡白石城主。伊達家臣。1544年「天文の乱」では伊達晴宗に属して功績を挙げた。

白石宗利【しらいしむねとし(15??~15??)】

白石実綱の男。1570年、中野宗時、牧野久仲親子が謀反を起こした際に自領の白石を通過した中野宗時らを捕らえられなかった事により伊達輝宗の怒りを買い赦免された。

白石宗実【しらいしむねざね(1553~1599)】

白石宗利の男。白石宗実は勇将で、伊達輝宗、伊達政宗父子に従って相馬家との戦いに従軍。1585年「人取橋の戦い」、1589年「摺上原の戦い」、1593年「文禄の役」など多くの合戦に参加して武功を挙げて活躍した。また武功だけでなく、二本松城の畠山家と激しい抗争を繰り広げていた伊達家に対し、相馬義胤から和睦勧告の提示があり、白石宗実はこれを伊達政宗に取り次ぎ和睦成立に貢献した。1586年、大内定綱の旧領・安達郡塩松33邑を加増され、宮森城主となった。1591年「葛西大崎一揆」鎮圧後、伊達家が岩出山城に移封となった際に安達郡を没収されたため、代わりに胆沢郡水沢城主となり15,000石の所領を与えられた。

白石宗直【しらいしむねなお(1577~1629)】

梁川宗清の男。白石宗実の養子。室は白石宗実の娘。1599年、白石宗実の養子となり、白石宗直と名乗った。1600年「関ヶ原の戦い」では越後長尾景勝の領土となっていた「白石城の戦い」「出羽合戦」で最上義光の援軍として活躍した。伊達政宗の命を受け、南部家に反乱を起こした和賀忠親を支援する。伊達政宗から登米を与えられ入部。城下町の発展や河川の整備などに積極的に取り組み、領地を大いに発展させた。1614年「大坂の陣」では宇和島で伊達秀宗を出迎え「道明寺の戦い」などで大いに功をあげた。

白石家臣団【しらいしけかしんだん】

調査中。

志賀武治【しがたけはる(15??~15??)】

岩城家臣。通称甘釣斎玄胡。佐竹、伊達間の調停、岩城、伊達の和睦など、外交的役割を担っていた。

白土隆通【しらとたかみち(15??~15??)】

岩城家臣。官途は摂津守。甘釣斎と共に伊達家との折衝にしばしばあたっている。佐竹家から岩城貞隆を迎える為に尽力、増田長盛を通じて羽柴秀吉の許可を取り付け、岩城家の存続を得た。白土家は岩城枝連衆である。

白土隆良【しらとたかよし(15??~15??)】

白土隆通の男。官途は右馬助。

白土隆顕【しらとたかあき(15??~15??)】

官途は下総守。白土隆通、白土隆良父子との関係は不明。

白土左近【しらとさこん(15??~15??)】

白河結城家臣。天正初期に佐竹家に従い、佐竹東家義久の麾下に属した。1584年、佐竹義久の命で所領を赤館城番の将士に与えた。

白土弾正忠【しらとだんじょうのちゅう(15??~15??)】

白河結城家臣。1575年、佐竹家に転仕して佐竹東家義久に属した。佐竹義久の命を受け、陸奥南郷、赤館方面で足軽衆を指揮した。

相馬顕胤【そうまあきたね(1508~1549)】

相馬郡小高城主。相馬盛胤の男。隣接する岩城重隆と争い、岩城城下にまで攻めこんで和睦。伊達稙宗の女を室に迎えており、「天文の乱」では伊達稙宗方について伊達晴宗と戦った。岩城重隆は相馬家への対抗上伊達晴宗側について田村顕胤を攻めたが敗北。

相馬盛胤【そうまもりたね(1529~1601)】

相馬顕胤の男。室は伊達稙宗の弟伊達義宗の女。また妹は田村清顕の室となり、後伊達政宗の室となる愛姫を産んでいる。このような婚姻関係があるものの、伊達晴宗との直接関係はなく、伊達晴宗、伊達輝宗とは激しい戦いを繰り返した。1564年、名取郡で伊達晴宗と激闘、その後も丸森城奪取するなど伊具郡に積極的に侵攻した。伊達輝宗の代にはこれまで防戦一方であった戦いを侵略にまで推し進めた。1549年、妹を田村清顕の室に入れて縁戚を結び、略取した田村領を返還するなど外交にもしたたかであった。

相馬義胤【そうまよしたね(1548~1635)】

相馬盛胤の男。1564年、伊具郡に侵入して伊達軍と激しく争い、二本松畠山家、大内家らと結ぶなど伊達包囲網の一角をなして大いに伊達勢を苦しめたが、伊達政宗が当主となって以後はその猛攻により次々と同盟者は滅亡し、相馬領にも侵攻してくるなど劣勢は否めず、家臣の離反や弟相馬隆胤の討死など、軍事的にも窮地に立たされていた。1589年「小田原の役」に参陣したことにより、行方郡、宇多郡、標葉郡に48,000石余を安堵された。1598年、小高城より牛越城に移る。1600年「関ヶ原の役」では当初日和見をして形勢確定後越後長尾領である安達郡を攻略しようとして失敗、戦後罪に問われて改易された。その後伊達政宗の斡旋と世子相馬利胤の奔走によって相馬利胤に領地が与えられた。

相馬隆胤【そうまたかたね(1551~1590)】

相馬盛胤の次男。草野直清の討死後には中村城代を務めた。伊達勢と激闘を繰り返したがついに討死した。

相馬利胤【そうまとしたね(1581~1625)】

相馬義胤の三男。1600年「関ヶ原の役」で失領した。1602年、父の隠居による家督相続と所領の獲得に至り、1609年に本領へ復帰を果たし、60,000石を領した。1611年、小高城より中村城に本城を移す。1614年「大坂の役夏の陣」では徳川秀忠の先陣を務めて奮戦した。

相馬郷胤【そうまさとたね(15??~1601)】

相馬盛胤の四男。田中城代。

相馬隆胤【そうまたかたね(1551~1590)】

相馬義胤の五男。1563年、中村城代となる。1590年、伊達家との戦いで討死した。勇猛であったが猪突猛進型の武将であった。

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【た】

竹貫隆光【たけぬきたかみつ(15??~15??)】

岩城家臣。石川家の庶家であったが岩城家臣となり、重臣として重きをなした。

竹貫広光【たけぬきひろみつ(15??~15??)】

竹貫隆光の男。1541年、佐竹、白川結城家との抗争の調停を岩城家が行ったとき折衝に当たった。

田中隆定【たなかたかさだ(15??~15??)】

岩城家臣。官途は越中守。岩城常隆に仕えた。1590年、隠居の佐竹義重に仕えた。1591年、山尾城の門、橋の普請に当たった。

田村義顕【たむらよしあき(15??~1561)】

田村盛顕の男。室は岩城常隆の娘。当初は守山城を本拠としていたが、1504年、三春城を築き居城とした。田村氏発展の基礎を築いた人物とされる。1532年、田村隆顕に家督を譲って隠居した。

田村隆顕【たむらたかあき(15??~1574)】

田村義顕の男。1532年、父田村義顕から家督を相続したとき、田村家は相馬家、岩城家、佐竹家、葦名家などの諸大名に囲まれて苦しい立場にあったが、田村隆顕は伊達稙宗の娘を室として迎え、伊達勢の援助を得ることで田村家の命脈を保った。「天文の乱」においては伊達稙宗派に属す。1547年、伊達稙宗派、芦名盛氏と不和を生じ、芦名盛氏が伊達晴宗派に転じると、乱終結後の1549年には伊達稙宗派であった相馬顕胤の娘(盛胤の妹)を自身の嫡男田村清顕の室として迎え、相馬と和平を結んで後顧の憂いを断った。田村隆顕は外交戦略に優れた人物であった。1560年、佐竹家と手を結んで芦名家を攻めた。1572年、佐竹家が攻めて来ると芦名家と手を結んで撃退するなどしている。まさに小領主ながら優れた武将だった。

田村清顕【たむらきよあき(15??~1586)】

田村隆顕の男。室は相馬顕胤の娘(於北方)。英明な武将として知られ、父田村隆顕の死後、田村家の家督を相続する。佐竹家や葦名家に対抗するため、一人娘の愛姫を伊達政宗の室として嫁がせ、伊達勢の援軍を得ることで独立を保持した。伊達家と室の実家である相馬家との領土問題では、相馬義胤を説得し丸森城を伊達輝宗に返還させ両者の和睦に成功した。田村清顕には愛姫以外に子供ができなかった。1586年、田村清顕が没するとその後釜をめぐって田村家中、及び伊達家と相馬家の間で再び争いが起った。

田村顕頼【たむらあきより(1492~15??)】

田村盛顕の次男。官途は宮内少輔。通称月斎聖休。1559年、田村隆顕とともに出陣、二階堂家から奪った小泉城の城代に任ぜられた。田村清顕死後の家中騒動では伊達方につく。合戦で戦功が多かったた。

田村顕基【たむらあきもと(15??~15??)】

田村郡小野城主。田村盛顕の次男。官途は右馬頭。通称梅雪斎。家中騒動では田村清顕未亡人と共に相馬方につく。娘は田村清康の室。父田村義顕より小野郷を与えられて新町城主となった。

田村顕基家臣団【たむらあきもとけかしんだん】

田村兵部人政顕、郡司豊前守敏良、郡司雅楽頭敏貞、猪狩中務人親満、野内伊予守正兼。

田村清通【たむらきよみち(15??~15??)】

田村顕基の男。官途は右馬頭。

田村顕長【たむらあきなが(15??~15??)】

田村顕基の次男。「三春四老之内」。

田村清康【たむらきよやす(15??~15??)】

田村郡船引城主。官途は右衛門大夫。田村清顕死後の一門談合体制に参加した。

田村重顕【たむらしげあき(15??~1579)】

田村清顕の弟。1579年、二階堂家を攻めたとき討死した。

田村重時【たむらしげとき(1499~1572)】

田村直顕の弟、重顕の孫。父は重為。

田村氏顕【たむらうじあき(15??~1579)】

田村清顕の弟。1579年、岩瀬郡に侵攻し、二階堂家と合戦した結果、田村勢230人が討たれたが、田村氏顕も討死した。

富岡隆時【とみおかたかとき(15??~15??)】

岩城由隆の弟。岩城家臣。

富岡隆宗【とみおかたかむね(15??~15??)】

富岡隆時の男。1547年、伊達家の竹貫城攻めに対して城を守った。

常葉光貞【ときわみつさだ(15??~15??)】

田村家臣。官途は摂津守。

常葉清重【ときわきよしげ(15??~15??)】 

常葉光貞の男。官途は伊賀守。1544年、大越顕光と共に石川家と田村家の和解に努力することを約している。常葉清重は『奥陽仙道表鑑』に、橋本とともに芦名、二階堂両家の田村郡侵入を撃退した武将として記されている。

常葉貞之【ときわさだゆき(15??~15??)】

常盤館主。官途は甲斐守。天正年間に田村清顕に仕えたが、相馬義胤に討滅された。常葉光貞、常葉清重との関係は不明。

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【な】

中津川親宗【なかつがわちかむね(15??~15??)】 

田村家臣。通称兵衛太輔。田村一族であるという。田村氏系図の家臣書き上げに記される「中津川次郎右衛門大夫」や片倉家の記録に「中津川兵衛佐」関係があると思われる。

中畠(畑)晴常【なかはたはるつね(15??~15??)】

官途は上野介。結城晴綱の庶子。母方の中畠家を相続したため、中畠姓を称した。義親が白河城に入ったときに、晴常も晴綱の後継者の資格があったために晴常派家臣も多数存在し、義親派家臣団と深刻な対立を呈したという。

中畠晴辰【なかはたはるたつ(15??~15??)】 

中畠晴常の男。白河結城枝連衆。白河家中において重きをなした。父と義親との対立も中畠晴辰の頃には解決していたようである。

中畠晴時【なかはたはるとき(1570~1590)】

中畠晴辰の養子。官途は大学助。羽柴秀吉が小田原落城後会津に向かった際、「馬尾滝」において狙撃。しかし弾が当たらなかったため逃走した。1589年、蒲生氏郷に従って「九戸一揆」に出陣、討死した。

新田信政【にったのぶまさ(15??~15??)】

田村家臣。官途は美作守。「田村宿老」の一人。

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【は】

芳賀綱勝【はがつなかつ(15??~15??)】

白河結城家臣。官途は左衛門。斑目家より家格が高い重臣。

芳賀因幡守【はがいなばのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。官途は兵部少輔。1575年、佐竹義重に転仕し、白河城攻略を援けた。東(佐竹)義久より白河長坂に知行を得て、佐竹義重から因幡守の官途を与えられた。

芳賀讃岐守【はがさぬきのかみ(15??~15??)】

白河結城家臣。官途は玄蕃允。1575年、佐竹義重に転仕し、白河城攻略に寄与。東(佐竹)義久より増見の地を安堵された。佐竹義重から讃岐守の官途を与えられた。1595年、知行割替では白河玉野などに70石を領した。

橋本顕徳【はしもとあきのり】

田村家臣。官途は刑部少輔。家中騒動の時に伊達方についた。田村清顕の病没後の家中を田村一門とともに運営した。田村家中が相馬方と伊達方に二分しているのをまとめ、伊達家への接近を図った。子の但馬(諱は不明)は伊達政宗の室、北夫人に仕えた。なお、片倉家文書の田村家臣団記録中では「田村宿老」には四人が記され、その中の一人が「橋本伊予守」となっているが、田村顕徳との関係は不明。顕徳はその下の格(大越顕光らと同格)で与力五十騎を任されている。

標葉隆成【はようたかなり(15??~1492)】

標葉郡熊野堂城主。標葉郡惣領職。1492年、相馬盛胤に攻められ熊野堂城に籠城した標葉隆成は、相馬勢の攻撃に頑強に抵抗したが、標葉家一門衆の藤橋小四郎隆豊と家老の牛渡九郎兵衛尉が相馬勢に内応したことで落城、標葉隆成は自刃した。

藤橋紀伊守【ふじはしきいのかみ(15??~15??)】

相馬家臣。1564年、谷地小屋城代。1566年、金山城代となった。1568年、金山城は伊達家に攻略された。

藤橋胤泰【ふじはしたねやす(1507~1579)】

泉田胤重の次男。藤橋胤隆の養子。官途は紀伊守。永禄、元亀年間に金山城代となる。

船尾隆輔【ふなお(15??~15??)】

岩城家枝連衆で、岩城由隆の弟。

船尾隆直【ふなおたかなお(15??~15??)】

船尾隆輔の男。官途は下野守。1558年、佐竹家に通じた。1576年、息子船尾昭直とともに佐竹東家義久と起請文を交換するなど、たびたび佐竹家と起請文を交わした。

船尾昭直【ふなおあきなお(15??~15??)】

船尾隆直の男。通称九郎三郎。官途は山城守。1550年、佐竹家に属し、南奥における佐竹家の先鋒として活動した。1575年、滑津城に在番。1578年、白河結城義広が白河結城家に入嗣すると、これに同道して補佐に当たる。1590年、南郷川上に戻る。1595年、知行割替では常陸茨城郡に1600石を知行した。

船尾義綱【ふなおよしつな(15??~15??)】

佐竹家臣。船尾昭直の男。通称三七。官途は右兵衛尉。滑津城に在城し、父とともに白河結城義広を補佐した。1587年、葦名義広が葦名家に入嗣する際、これまでの忠節を賞された。1592年、佐竹義宣とともに肥前名護屋に在陣。1602年、秋田転封により、父とともに同地へ赴いた。

深谷顕衡【ふかやあきひら(15??~1521)】

常陸獅子城主。白河結城家臣。官途は伊豆守。1506年、佐竹義舜に降るが、のちに白河結城晴綱が侵攻すると再び結城家の幕下に属した。1521年、佐竹義篤の侵攻を受けて落城、討ち死した。

堀内俊胤【ほりうちとしたね(15??~1569)】

相馬上野介近胤の次男。通称は右兵衛尉。1569年、伊達家との戦いで討死を遂げ、堀内家は断絶した。この断絶を惜しんだ相馬弾正大弼盛胤は自分の義弟に当たる掛田兵庫義氏に俊胤の娘を嫁がせて堀内家を再興させた。

堀内義氏【ほりうちよしうじ(15??~15??)】

掛田兵庫頭義宗の三男。通称は兵庫。室は堀内右兵衛尉俊胤娘。惣領の相馬弾正大弼盛胤とは義兄弟にあたる。1569年、堀内右兵衛尉俊胤が討死を遂げたため、娘婿だった堀内義氏が堀内家を相続した。しかし義氏と堀内俊胤娘はいさかいが絶えず、堀内義氏は堀内家を出奔して宇多郡に移り住んだ。

堀内大膳【ほりうちだいぜん(15??~1587)】

田村枝連衆の中津川家の出身。室は堀内右兵衛尉俊胤娘。小浜城主の岩角畠山伊勢守尚義(四本松式部大輔久義)の娘を娶った。泉大膳胤秋。大膳は堀内家の家督を継承したが、室の堀内家とは相性があわず、大膳は堀内家を出てしまった。子の胤政が泉家の後嗣となったため、大膳はその後見人となって泉大膳胤秋を称している。1585年に最上義光が相馬義胤臣の「伊泉大膳亮」へ宛てた書状が残っている。

堀内晴胤【ほりうちはるたね(15??~1633)】

掛田伊達一族の藤田七郎晴近入道齊庵の男。通称は四郎。舅の相馬三郎胤乗は相馬惣領相馬盛胤の叔父に当たり、相馬晴胤の父藤田晴近と盛胤は従兄弟となる。実家の掛田家は伊達家の一族であり、祖母は伊達稙宗娘であった。こうしたことから、次第に伊達家からの調略の手が延びた。宗和と兄の黒木城主、黒木中務宗俊は謀反の計画を立てた。1580年、堀内晴胤の兄黒木宗俊は父で馬場野城主藤田七郎晴近に謀反の計画を告げて、ともに立つことを勧めたが、晴近はこれに激怒。宗俊を捕らえて自害させようとしたが、宗俊は城を脱出して黒木城に引き上げてしまった。晴近は二人の実子、黒木宗俊、堀内晴胤の不届きな計画に厳格に対処すべく、両名が謀反の心を抱いていることを早馬に乗せて小高城の新惣領相馬義胤に報告した。これを聞いた相馬義胤は、隠居の相馬盛胤にも出陣を求め、黒木城を急襲して攻め落とし、両者を捕らえた。このとき、建昌寺という寺院の住職が陣中を訪れ、二人の助命を願い出たことから、堀内義胤は彼らの父藤田晴近の忠義に免じて、相馬領から追放とされた。

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【ま】

斑目広基【まだらめひろもと(15??~1576)】

白河結城家臣。官途は信濃守。兄斑目広綱と共に勇猛な武将として知られ、佐竹家との戦いで活躍した。陸奥と常陸の国境付近にある東館城主。1541年、佐竹家の攻撃により落城し、白河に引き上げた。1576年、佐藤忠秀に従って佐竹家に奪われていた赤館城を奪い返すが、 後に結城義親に謀反を疑われて斑目広綱と共に暗殺された。赤館城を落とした際に捕らえた佐竹家臣渋江氏光の幼い娘を佐竹家に送り返し、その返礼として佐竹氏が斑目領のみ青田刈りを行わなかったのを白河結城義親に疑われたためといわれる。

町田右馬助【まちだうめのすけ(15??~15??)】

白河結城家臣。主家に衰退により佐竹家に属すして、東家義久に仕えた。1590年、佐竹義久が常陸鹿島郡を与えられると、佐竹義久より知行を得た。

三坂隆次【みさかたかつぐ(15??~15??)】

岩城家臣。官途は越前守。伊達家との交渉役を担っていた。

水谷胤重【みずたにたねしげ(1538~1606)】

相馬家臣。水谷胤氏の男。1542年、父が伊達家との合戦に討死し、叔父水谷胤清に養育された。長じて天正年中、度々合戦に従う。1600年、伊達政宗がわずかな手兵で相馬を通り仙台に帰る時、相馬で一泊したいと申し出、この隙に襲撃するべきとの家中の意見に対し、「仇敵でも、このように頼ってきている者を討つのは武士ではない」と発言したという。相馬義胤はこの意見を容れ、伊達政宗は一夜を無事に過ごし仙台に帰った。この出来事のために相馬家は改易されたあと、伊達家のとりなしを得て本領を回復できたのだという。

【や】

亘理宗元 【わたりむねもと(1472~1531)】

亘理郡亘理城主。亘理元胤の男。兄亘理元実が早世していたことから、亘理家の家督を継承した。伊達家との戦いに敗れて麾下に加わっていたが、その後は伊達家から離反し抗争を続けていた。亘理宗元の代にふたたび伊達家の麾下に加わった。

亘理宗隆【わたりぬねたか(1493~1556)】 

亘理宗元の男。亘理宗隆には嫡男がなく、伊達稙宗と一人娘(天窓慶普信女)の間に生まれた彦四郎(綱宗)と乙松丸(元宗)を養子に迎え、伊達稙宗は涌澤弾正、千石大炊助を兄弟につけて送り遣わした。1544年、亘理綱宗が、亘理宗隆の家督を継ぐ前の「天文の大乱」の掛田の役にて討死を遂げたため、その実弟の乙松丸(元宗)が亘理家を継ぐこととなった。

亘理綱宗【わたりつなむね(1526~1544)】

伊達稙宗の男。亘理宗隆養嗣子。母は亘理宗隆娘。1544年、亘理綱宗は、父伊達稙宗と兄伊達晴宗の父子争いである「天文の大乱」の動乱に巻き込まれ「穂原掛田の戦い」で討死を遂げた。

亘理元宗【わたりもとむね(1530~1594)】

伊達稙宗の男。亘理宗隆養嗣子。1544年、兄亘理綱宗に討死したため亘理家の家督を相続した。1565年の名取郡「沙留川の戦い」では、相馬家の侍大将富田丹波守を討取り佩刀「角柄生」を手に入れた。

亘理重元【わたりしげもと(1552~1620)】

亘理元宗の男。

亘理家臣団【わたりけかしんだん】

菱沼時久、坂本俊常、村岡胤信、亘理盛景、山寺蔵人盛純、寺内丹後守、小泉主膳繁、米谷下総延常、大塚蔵人、鷲足主水清久、遠藤半内良知、宍戸刑部方則、星與三左衛門玄親、鈴木七郎左衛門義久、上野善九郎延命、斎源内胤行、粟野右近易意、糠田内膳、大塚甚助、砂金藤四郎、西山源兵衛、安部善四郎、足立刑部、佐藤次郎右衛門、松浦助六郎、遠藤四郎左衛門、猪俣彦右衛門濁清、鈴木九郎左衛門豊住、岡崎彦六郎、大村豊後守、高野本太郎知久、門間助九郎、萱野甚四郎、條又十郎友成。

和知直頼【わちなおより(15??~15??)】

白河結城家臣。官途は美濃守。和知家は白河家の重臣を務めた家柄である。結城義顕を白河城から追放し、小峰義親の入城を手引きした。1535年、白河氏10代結城義綱の近津大明神への寄進状の添状を発給している。この文書の付箋に「白河宿老」と記載されており、上級家臣であることがうかがえる。

白河結城顕頼【ゆうきあきより(1470~1543)】

結城政朝の男。官途は宮内少輔。通称左兵衛佐。室は田村直顕の娘。父結城政朝が葦名家から後室をめとり生まれた子(五郎)を寵愛して、老齢になっても結城顕頼に家督を譲ろうとしなかった。1510年、一族の小峰直常や岩城家の援助を受けて父と五郎を追放し家督を継いだが、この内紛で白河結城家の力は衰退し、所領を多く失った。古河公方の内乱がおこると足利政氏方に味方している。後に那須家の当主として養子になった弟那須(結城)資永が内紛の末自刃した。1520年、報復のため岩城家を誘って挙兵し下野に侵略して那須資房と争ったが、岩城家が那須家と和睦したため果たせなかった。

白河結城義綱【ゆうきよしつな(1500~1559)】

結城顕頼の男。官途は左兵衛佐。白河結城家は、佐竹家の内紛に乗じて勢力を拡大し、佐竹家の本拠近くまで所領を広げたが、結城義綱の代には佐竹家の反攻に遭い、次第に勢力を削られていった。1534年、岩城重隆の娘と嫡男晴綱との婚姻をめぐって伊達家と対立し、伊達家と伊達側についた芦名、石川、二階堂、相馬家らと争う「滑井合戦」が敗北し、岩城家との婚儀は果たせず、所領の一部も失った。そのためか、次代の結城晴綱は「天文の乱」で伊達晴宗から田村隆顕を背後から牽制するように要請を受けたが、結城晴綱はそれに応じず、積極的にこの乱に参加しなかった。

白河結城晴綱【ゆうきはるつな(1520~1573)】

結城義綱の男。官途は左京大夫。近隣の二階堂家や田村家、石川家と和戦を繰り広げた。岩城家とは友好関係を保ち、佐竹家と抗争が起きた際には何度か調停を受けている。1544年、伊達家の「天文の乱」に結城晴綱は積極的に介入しなかった。1545年、伊達晴宗から友好を求められたこと、二階堂輝行(稙宗婿)の領地を侵した。1546年、伊達晴宗から田村義顕、田村隆顕(稙宗婿)父子を背後から牽制するように要請を受けたことなどが知られており、伊達晴宗派であったと思われる。1539年、那須政資、那須高資父子が争った際、下総結城家の結城政勝、小山高朝に協力して高資を支援した。1551年、二本松義国と共同して、対立していた芦名家と田村家を仲介し講和を成立させた。1555年、内訌を克服し領内に侵攻してきた佐竹家に対抗すべく、枝連衆筆頭の小峰義親の室に芦名盛氏の娘を迎え、芦名家と同盟し、また小田原の後北条家とも同盟して佐竹家と争うが、那須家との争いも勃発するなどして、次第に勢力を失っていった。1571年、重病の床に伏した。嫡男の勇気義顕は幼少だったため、白河結城家は小峰義親が家政を執り行うこととなった。

白河結城義顕【ゆうきよしあき(1567~1613)】

結城晴綱の男。官途は治部大輔。1574年、小峰結城義親による白河城攻略により、常陸国に落延びた。

白河結城(小峰)義親【ゆうきよしちか(1541~1626)】

白河結城顕頼の男。室は芦名盛氏の娘。「永正の変」により断絶していた白河結城家の庶流である小峰家の家督を相続した。1573年、宗家の結城晴綱が病死し幼少の結城義顕が家督を継ぐと、その後見人となって白河結城家を取り仕切った。1575年、家老の和知美濃守と図って白河結城義顕を追放し、結城(白河)姓を名乗って自らが白河結城家の当主となる「天正の変」。1579年、佐竹義重の次男佐竹義広を養子に迎え、小峰義親は入道し不説斎と号し佐竹家に恭順の意を示して芦名義広の後見人となった。1587年、佐竹義広が芦名家を継いだため、再び小峰義親が白河結城家の当主となった。佐竹家に従って伊達家としばしば争った。1589年、芦名家が滅ぼされると佐竹家を離れ伊達家に帰順した。1590年「小田原の役」において、伊達政宗に参陣を止められていたため、伊達政宗に託して羽柴秀吉に貢物を贈ったが、参陣しなかったために許されず、所領を没収され改易された。

白河結城家臣団【ゆうきけかしんだん】

調査中。

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【資料Ⅰ】

磐城国(14郡/)

相馬三郡(行方、宇多、標葉郡)
岩城四郡(磐城、磐前、菊多、楢葉郡)

伊具郡:角田城、丸森城。(26,000石)
亘理郡:亘理城、坂元城。(16,000石)
刈田郡 :白石城。(20,000石)
宇多郡:中村城、中館。(22,000石)
行方郡:小高城、牛越城。(24,000石)
標葉郡:真壁城。(18,000石)
楢葉郡:真壁城。(12,000石)
磐城郡:岩城平城。(36,000石)
磐前郡:。(24,000石)
菊多郡:平潟湊。(24,000石) 
田村郡:三春城、。(82,000石)
石川郡:二芦城、大寺城。(32,000石)
白河郡(西白河郡):小峰(白河)城、雲霧城(36,000石)
白川郡(東白川郡):棚倉城(12,000石)

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【資料Ⅱ】

標葉六騎七人衆【はようろっきななにんしゅう】

六騎衆:井戸川将監、山田、小丸主水、熊隆重、下浦常清、上野但馬守。 
七人衆:室原清隆、郡山、樋渡、苅宿、熊川、牛渡、上浦。 

標葉郡四七人衆【はようぐんよんじゅうななにんしゅう】

室原清隆、樋渡重則、酒井将監、羽鳥伊賀守、紺野美濃守、紺野伊賀守、江井胤治、金沢備中守、高平壱岐守、杉盛重、滝迫日向守、杉目掃部、杉目三河守、大井胤重、金場加賀守、飯崎左近、渡辺越前守、百槻右兵衛、飯淵九郎左衛門、日下石美濃守、今田六郎、藤崎摂津守、藤崎久長、高田内膳、小野越前守、大坪勘解由、渋田見遠江、井戸川将監、井戸川大隅守、苅屋戸出雲守、上野但馬守、小丸主水、天神堂法師、寺内式部、草野直清、古賀胤康、桑折久家、桑折清家、掛田俊宗、掛田義宗、栃窪胤光、四本松定義、四本松尚義、岩角伊勢守、熊隆重、東郷胤光、下浦常清。

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【資料Ⅲ】

磐城国【いわしろのくに】


調査中。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

(※)印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

※参考文献:「津軽秋田安東一族」新人物往来社、「東北大名の研究(戦国大名論集2)」吉川弘文館、「会津芦名一族」歴史春秋社、「最上義光(戦国の驍将)」新人物往来社、「奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)」宝文堂、「会津芦名四代」歴史春秋、「伊達政宗(全8巻)」講談社、「天を衝く(全3巻)」講談社文庫、「独眼竜伊達政宗」時代小説文庫、「津軽風雲録」時代小説文庫、「政宗に睨まれた二人の老将」宝文堂、「秋田『安東氏』研究ノート」無明舎、「(史伝)伊達政宗」学研M文庫、「独眼竜政宗」講談社文庫、「奥羽永慶軍記(全2巻)」新人物往来社、「津軽南部の抗争(南部信直)」、「秋田の中世浅利氏」無明舎出版、「独眼龍政宗」文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、「陸奥南部一族」新人物往来社、「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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戦国羽前国人名辞典


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【あ】 

合貝志摩守【あいがいしまのかみ(14??~1565)】

最上郡合海館主。1565年、「本合海の戦い」で武藤義増に属して清水義高勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

秋保治郎作【あきほじろうざ(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡古口館主。官途は飛騨守。1614年、「清水城の戦い」で清水義親が最上家親と戦って討死すると、最上家親に仕えた。

秋保正則【あきほまさのり(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。通称與三左衛門。
 
秋保政光【あきほまさあき(15??~15??)】

秋保正則の男。通称與三左衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処され、楯岡満茂が酒井忠勝に預けられると、佐竹義宣に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

秋保出雲守【あきほいずものかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」で長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。1601年、「酒田城の戦い」に参陣した。1603年、由利郡で一揆が起こると、鑓13余りを率いて参陣した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に仕えた。
 
秋保蔵人【あきほくらうど(15??~15??)】

最上義光家臣。4,000石を領した。
 
秋保義元【あきほよしもと(15??~16??)】

秋保蔵人の男。通称九郎右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、加藤嘉明に仕えた。1643年、加藤明成が改易処分に処されると再び浪人となった。その後、牧野親成に仕え家老職として250石をで領した。

秋保親常【あきほちかつね(15??~15??)】

秋保義元の男。酒井忠勝に仕えた。

阿久津豊前守【あくつぶぜんのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。1569年、大浦為信との取次役を務めた。1569年、大浦為信のもとに赴き槍300本、弓20張、鉄炮30挺を贈った。1572年、大浦為信が家臣16名とともに最上義光のもとを訪れ、羽黒山で戦勝祈願をした。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉からの参陣命令を大浦為信に伝達した。

朝比奈讃岐守【あさひなさぬきのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。北村山郡井出館主。1585年、「井出館の戦い」で最上義光が城主の太田外記を滅ぼすと、井出館主に任じられ2,000石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安喰光信【あじきあきのぶ(15??~1617)】

最上義光家臣。最上郡中里館主。官途は大和守。1589年、「摺上原の戦い」では、伊達政宗勢の援軍として兵100余りを率いて参陣した。『最上義光分限帳』では、5,000石を領した。1608年、山寺立石寺に経巻を寄進した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安喰信重【あじきのぶしげ(1613~1677)】

安食光信の男。通称七兵衛。1617年、父安喰光信が病没すると、安喰家の家督を相続した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、南光坊天海の仲介で水戸松平頼房に仕えた。

安喰重近【あしきしげちか(15??~1667)】

安喰光信の次男。通称治右衛門。別名安恵重近。最上義光に仕え150石を領した。山形城で諜報や火防の任にあたる伊賀衆を率いた。

安喰久右衛門【あじききゅううえもん(15??~1681)】

安食光信の三男。別名安恵久右衛門。兄安喰重近と同じく伊賀衆を率いて最上義光に仕え200石を領した。1622年、最上義俊の改易後も山形城下に留まり、兄安恵重近とともに伊賀衆を率いて鳥居忠政に仕えた。

安喰丹波守【あじきたんばのかみ(15??~1602)】

清水義氏家臣。最上郡片平館主。

安喰平右衛門【あじきへいざえもん(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡安喰館主。清水義氏の領国の内四分の一(5,000石)を領した。

安喰長門守【あじきながとのかみ(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡大館主。

安喰治部【あじきじぶ(15??~15??)】

猿羽根義舜家臣。1589年、猿羽根義舜が最上義光の謀殺されると猿羽根館を領した。

安達昌勝【あだちまさかつ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。

安達昌友【あだちまさとも(15??~16??)】

安達昌勝の男。通称彦右衛門。1622年、最上義俊の改易後、楯岡満茂が酒井忠世に預けられるとこれに従った。

安達昌實【あだちまだかん(15??~16??)】

安達昌友の男。佐竹義宣に仕えた。

左沢満政【あてらざわみつまさ(14??~15??)】

寒河江孝広家臣。左沢政勝の次男。官途は式部少輔。白岩広直、吉川満教らとともに寒河江孝広を補佐した。1504年、最上義定が再三に渡って寒河江家領に侵攻してきたが、左沢満政らは、寒河江孝広を補佐して最上義定勢を撃退した。

左沢氏政【あてらざわ(15??~15??)】

左沢満政の男。1574年、「天正最上の乱」では、寒河江兼広が最上義光勢に属したのに対し、左沢氏政、白岩義広、溝延氏勝らは伊達輝宗、最上義守勢に属した。左沢氏政、白岩義広、溝延氏勝らは、寒河江兼広が籠城する寒河江城を白鳥長久、天童頼貞などとともに攻撃して落城寸前まで追い詰めた。最上義光の勢力が拡大すると、寒河江兼広とともに対抗を続けた。1584年、「中野城の戦い」で寒河江高基が最上義光に大敗すると、最上義光に降伏した。

安孫子俊春【あびことしはる(15??~15??)】

溝延茂信家臣。

安孫子泰時【あびこやすとき(15??~1590)】

安孫子俊春の男。官途は紀伊守。別名溝延長老。慈恩寺に帰依し、城代家老職を弟安孫子春明に譲り医王山南上院で出家した。1584年、「中野原の戦い」で寒河江高基が討死すると溝延城も落城、安孫子泰時は慈恩寺の聞持院に移り住んだ。1590年、最上義光に謀殺された。

安部越中守【あべえっちゅうのかみ(15??~1615)】

最上義光家臣。川北三奉行衆。1614年、「一栗高春の乱」で志村光惟が討死すると、斎藤筑後守、高橋伊賀守とともにとして庄内川北地域を治めた。川北奉行に任じられて間もなく病没した。後任の川北奉行には寺内近江守が選ばれた。

阿部良輝【あべよしてる(15??~15??)】

武藤義氏家臣。飽海郡磐井出館主。伊氏波神社別当職。出羽三山に数えられていた鷹尾山の伊氏波神社別当職を務め鷹尾山衆徒を率いた。1533年、磐井出館を築城した。別当職として鷹尾山衆徒をまとめ上げ、羽黒山別当職武藤義氏に属した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿部貞嗣【あべさだつぐ(15??~1588)】

阿部良輝の男。1588年、「十五里ヶ原の戦い」で阿部貞嗣が最上義光勢と戦い討死すると、鷹尾山衆徒は蕨岡館へ移った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿倍頼保【あべよりやす(15??~15??)】

阿部良輝家臣。1591年、「磐井出館の戦い」で甘粕備後守の家臣志田修理勢の攻撃を受け落延びた。

安保能形【あぼよしかた(15??~1575)】

櫛引郡余目館主。1575年、安保能形が病死すると、武藤義氏が余目城に侵攻した。安保能形の弟で田尻館主安保与次郎が城兵を率いて戦ったが武藤義氏に敗れ討死した。

安保与次郎【あぼよじろう(15??~1575?)】

田川郡田尻館主。余目城の阿保太郎の弟。1575年、武藤義氏との戦い討死にした。

姉崎能登守【あねさきのとのかみ(15??~15??)】

延沢満延家臣。平岡館主。1,000石を領した。1584年、延沢満延が最上義光に内応すると、延沢満延とともに最上義光に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

荒楯十郎【あらだてじゅうろう(15??~15??)】

延沢満延家臣。尾花沢郡荒楯砦主。尾花沢郡代を務めた。天正年間、長瀞城主遠山外記の攻撃を受け討死した。

有路但馬守【ありじたじまのかみ(15??~15??)】

延沢満延家臣。家老職を務め、笹原石見守とともに延沢満延を支えた。1622年、最上義俊の改易後、畑沢にて帰農した。

鮎貝盛宗【あゆかいもりむね(15??~15??)】

置賜郡鮎貝城主。官途は兵庫頭。鮎貝城35,000石を領した。1542年、「天文伊達の乱」では、伊達植宗勢に属し、最上義守の支援を受けて南下した。伊達晴宗勢を一旦は破ったが、伊達晴宗勢は、宮村館主片倉伊賀守を中心に力を盛り返した。伊達晴宗勢は野川を越え鮎貝盛宗を攻め、成田の飯沢館、五十川の諸館を攻落し、鮎貝盛宗勢を蚕桑村まで押し戻した。伊達晴宗は、宮一円、小山一円、火神台一円三ヶ所の安堵状を与えた。乱後は、所領安堵と「守護不入」の特権が認められた。

鮎貝宗重【あゆかいむねしげ(1555~1624)】

鮎貝盛宗の男。官途は安房守。通称日傾斎。別名鮎貝盛次。1574年、「芋川の戦い」で戦功を挙げた。家督を伊達政宗に譲った伊達輝宗を、隠居城の館山城が完成するまで私邸に迎えた。1589年、「小田原の役」後、伊達政宗が岩出山城に転封になると、これに従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

鮎貝茂平【あゆかいもりひら(15??~15??)】

鮎貝盛宗の次男。高玉城主。

鮎貝宗信【あゆかいわむねのぶ(15??~15??)】

鮎貝宗重の男。官途は摂津守。通称藤太郎。別名鮎貝忠旨。室は最上義守の娘。1587年、継嗣の鮎貝宗信が、最上義光に内応して謀反を起こすと、弟の高玉城主高玉茂兵衛のもとに落延びた。「鮎貝城の戦い」では、伊達政宗勢の湯目景康、泉田重光、宮沢元実らの攻撃を受けた。最上義光のもとに落延び延沢光茂に仕えた。鮎貝城に残された家臣100余りは伊達政宗勢に討取られた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

鮎貝宗益【あゆかいむねます(15??~15??)】

鮎貝宗重の次男。官途は兵庫頭。通称長七郎。1587年、兄鮎貝宗信が伊達政宗に謀反を起し没落すると、鮎貝家の家督を相続した。1591年、伊達政宗が岩出山城に転封になるとそれに従い一家の家格の筆頭となった。本吉郡松崎で1,000石を領し、泊浜唐船番所の海防警備を務めた。

鮎貝覚左衛門【あゆかいかくざえもん(15??~1660)】

鮎貝宗信の男。室は中山朝正の娘。最上義光の四男山野辺光茂に仕えた。1622年、最上義俊が改易処分に処された後も山野辺光茂に従った。後に山野辺光茂の仲介により水戸松平頼房に仕えて100石を領した。

飯田讃岐守【いいださぬきのかみ(15??~15??)】

武藤義氏家臣。武藤義氏の病没後一時流浪したがのち復帰した。1588年、本荘繁長の攻撃を受けて降伏したが、所領は安堵された。1589年、長尾景勝の検地にして一揆を起こしたが、敗れ真室に落延びた。1600年、再び庄内に戻って一揆を起こしたが敗北した。のち最上義光家臣志村光安に仕えて100石を領した。

飯田綱親【いいだつなちか(15??~15??)】

村山郡飯田城主。天童八楯。1580年、最上義光は東根頼景を降伏に追い込んだ。さらに楯岡城主楯岡満英を自刃に追い込み、成生伯耆守、飯田綱親、六田定兼らを降伏させた。

飯田信兼【いいだのぶかね(15??~1600)】

最上義光家臣。官途は播磨守。1600年、最上義光の意向により、谷柏相模守、富並忠右衛門、日野伊賀守、江口五兵衛らを率いて畑谷城の救援に向かった。途中、畑谷城が落城したことを知ったが引き返さず、追われて逃げてくる領民の救出にあたり、それを逃がすため、樋口兼続勢と戦い討死した。谷柏相模守は討死覚悟で、樋口兼続勢へ突入して追い散らし、討ち捨てられた飯田信兼の頸を探し出して山形城へ引き上げた。

石垣河内守【いしがきかわちのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。宮田館主。別名板垣河内守。武藤義氏を支持し最上義光とは敵対していた。1600年、「関ヶ原の役」後、庄内地方が最上義光領となるとそれに仕え1,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると帰農した。

石川重久【いしかわしげひさ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は若狭守。

石川重政【いしかわしげまさ(15??~15??)】

石川重久の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると佐竹義宣に仕えた。

池田盛国【いけだもくに(15??~15??)】

武藤氏義家臣。飽海郡朝日山城主。寄騎衆50騎を従え3,000町歩余りを領した。

池田盛周【いけだもりほ(15??~15??)】

池田盛国の男。官途は讃岐守。通称悪次郎。1582年、武藤義氏が家臣の謀反により自刃すると、最上義光に内応して武藤義興に抵抗した。1588年、「十五里ヶ原の戦い」で最上義光勢に属して参陣した。武藤義勝を擁する本荘繁長勢に降伏し所領は安堵された。1590年、羽柴秀吉の検地に対する一揆が起こるとこれに寄騎したが敗れて鮭延秀綱のもとに落延びた。1600年、「朝日山城の戦い」では、継嗣の池田盛邦、弟池田忠内とともに籠城して志駄義秀と戦い敗れた。役後に志村光安に仕えて100石を領した。

池田盛邦【いけだもりくに(1590~1653)】

池田盛周の男。通称刑部左衛門。長尾景勝に仕えたが謀反を起こした。最上義光家に仕え、新田開発を積極的に行った。1600年、「朝日山城の戦い」では、長尾景勝勢の志田義秀と戦った。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、庄内に入部した酒井忠勝に仕え100石を領した。

池田忠内【いけだただない(15??~15??)】

池田盛周の次男。1600年、「朝日山城の戦い」では、兄池田盛邦とともに朝日山城に籠城して長尾景勝勢の志田義秀と戦った。

池田盛屋【いけだもりや(15??~15??)】

池田盛邦の男。1600年、「朝日山城の戦い」では、父池田盛邦とともに朝日山城に籠城して長尾景勝勢の志田義秀と戦った。

石川茂政【いしかわしげまさ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は丹後守。100石を領した。

石川政光【いしかわまさみつ(15??~15??)】

石川茂政の男。通称又兵衛。
 
石川茂利【いしかわしげとし(15??~1651)】

石川政光の男。官途は又兵衛。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕え大番頭を務めた。

石川茂甫【いしかわしげやす(15??~15??)】

石川茂利の男。
 
石川満倫【いしかわみつとし(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。通称刑部左衛門。石川村番代。1592年、楯岡満茂が湯沢城代となるとこれに属した。1601年、楯岡満茂が由利本庄に転封すると、これに従った。

石川満坑【いしかわみつこう(15??~15??)】

石川満倫の男。

石川満富【いしかわみつとみ(15??~15??)】

石川満倫の次男。佐竹義宣の鷹匠を務めた。
 
石川重久【いしかわしげひさ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は若狭守。

石川重政【いしかわしげまさ(15??~15??)】

石川重久の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると佐竹義宣に仕えた。

板垣兼富【いたがきかねとみ(1539~1564)】

武藤氏義家臣。飽海郡菅里城主。伊氏波神社別当職を務めた。1564年、「清水城の戦い」で武藤義増に従って参陣したが、清水義高勢と戦い討死した。

板垣河内守【いたがきかわちのかみ(15??~16??)】 

武藤氏義家臣。飽海郡宮田館主。1581年、「清水城の戦い」では、武藤義氏勢に属して参陣した。武藤義氏が家臣東禅寺義長の裏切りに遭い自刃すると、武藤義興を支援して最上義光勢と戦った。1584年、武藤義興が自刃すると、武藤義勝に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、最上義光勢に属して戦った。1622年、最上義俊が改易処分に処されると帰農した。

井上道朔【いのうえどうさく(15??~1659)】

楯岡満茂家臣。井上道圓から医術を学ぶ。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、陸奥国津軽に移り街医者となった。松前家臣蠣崎蔵人の治療にあたった。

井上玄秀【いのうえげんひで(15??~15??)】

井上道朔の男。医術を学び、家系は代々津軽家に仕えた。

井上綱知【いのうえつなとも(15??~1615)】

鮭延貞綱の次男。官途は将監。最上郡岩鼻館主。1581年、鮭延秀綱が最上義光勢に寝返ると、岩鼻館主に任じられ1,000石を領した。

井上義綱【いのうえよしつな(15??~15??)】

井上綱知の男。父井上綱知の病没により井上家の家督を相続した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、伯父鮭延秀綱に従い、古河城主土井利勝に仕えた。のちに土井利勝の推挙により、松平秀忠に仕えることになったが、直前に病没した。

井上牛之介【いのうえうしのすけ(15??~16??)】

下次右衛門家臣。1601年、「酒田城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。下次次右衛門とともに最上義光に使え1,000石を領した。

伊良子監物【いらごけんもつ(15??~15??)】

大山光隆家臣。通称貞之助。1,000石を領した。

伊良子道牛【いらごみちぎゅう(15??~15??)】

伊良子監物の男。長崎で西洋医学を学び外科医となった。

伊良子宗牛【いらごそうぎゅう(15??~15??)】

最上義光家臣。1578年、「柏木山の戦い」で伊達輝宗が上山満兼と結んで最上義光を攻撃すると、最上義光の意向を受け成沢城を守備した。最上義光は鉄砲隊で侵入した伊達輝宗勢を撃退した。

伊良子弾正【いらごだんじょう(15??~15??)】

最上義光家臣。門伝館主。娘がふたりおり、姉は高野蔵人、妹は長沢頼母に嫁いだ。1600年、「関ヶ原の役」では、門伝館主を務めた。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

伊良子信濃守【いらごしなののかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。1592年、「文禄の役」では、山形城留守居役を務めた。最上義光は滞陣していた肥前名護屋から、「命のうちにいま一度、最上の川地を踏み申したく候、水を一ぱい呑みたく候」と書いた書状を伊良子信濃守宛に出した。

伊良子長門守【いらごながとのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。山形城三の丸の十一口を守備して1,000石を領した。

伊良子大和守【いらごやまとのかみ(15??~1597)】

楯岡満茂家臣。小野寺義道との取次役を務めた。1595年、「湯沢城の戦い」で楯岡満茂が湯沢城を攻落とすと、関口城を守った。1597年、「大島原の戦い」で小野寺義道勢と戦って討死した。参考文献:「最上義光プロジェクト」bymogapro。

入間勝訓【いるまかつのり(15??~1584)】

寒河江高基家臣。村山郡入間館主。1584年、「寒河江城の戦い」で寒河江高基が最上義光勢の攻撃を受け御楯山に落延び寒河江高基とともに自刃した。

氏家定直【うじいえさだなお(1504~1570)】

最上義守家臣。官途は伊予守。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗勢に属した最上義守を補佐して戦功を挙げた。最上義守の意向を受け度々陣代を務めた。1570年、最上義守、最上義光の間に争いが起こると最上義光を支援して家中の調停を行い、和議を成立させ、最上義光への家督譲渡を実現した。

氏家守棟【うじいえもりむね(1534~1591)】

氏家定直の男。官途は尾張守。謀略の才があり、最上義守、最上義光らから厚く信任を受けた。天童頼貞や白鳥長久の討伐や延沢満延の内応工作なども担当した。1574年、最上義守と最上義光が不和になると、伊達輝宗の介入を招いたが、その取次役を務めた。1581年、「真室城の戦い」では、鮭延秀綱の家臣庭月広綱を内応させ、鮭延秀綱の戦意を喪失させた。1586年、「観音寺城の戦い」で戦功を挙げた。

氏家光棟【うじいえみつむね(15??~1588)】

氏家守棟の男。官途は尾張守。室は最上義光の娘(竹姫)。1588年、「十五里ヶ原の戦い」で本庄繁長勢と戦い討死した。

氏家光氏【うじいえみつうじ(15??~15??)】

成沢道忠の男(氏家守棟の養子)。官途は尾張守。通称左近。別名成沢光氏。室は最上義光の三女(竹姫)。勇猛な人物。1588年、「十五里ヶ原の戦い」で継嗣の氏家光棟が討死したため、氏家光棟の未亡人竹姫を内室に迎え家老職を務め、18,000石を領した。1584年、「八沼城の戦い」では、苦戦する最上義光勢の中にあって果敢に貴志美作守勢を撃退する戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では、長谷堂城をめぐって越後長尾景勝勢と戦い撃退した。最上義光の病没も、国内の政務を担当しながら家中の混乱を制御した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、毛利輝元に仕えた。

氏家親定【うじいえちかさだ(1595~1538)】

成沢道忠の三男。官途は隠岐守。室は最上義光の娘(竹姫)。兄氏家尾張守が若くして病没したため、未亡人の竹姫を娶り氏家家の家督を相続した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、萩城主毛利輝元に預けられた。

氏家光房【うじいえあきふさ(15??~15??)】

氏家定直家臣。官途は相模守。平清水の大日堂に諸願成就を感謝して鉄鉢を寄進した。

内海乗政【うつみのりまさ(15??~15??)】

最上義光家臣。通称帯刀。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。

内海乗元【うつみのりもと(15??~15??)】

内海乗政の男。

浦山源左衛門【うらやまげんざえもん(1575~1603)】

最上義康家臣。最上義康が父最上義光から高野山への退去を命ぜられると、高野山に同行した。その道中、何者かに鉄炮で狙撃され浦山源左衛門は討死、最上義康も負傷し、自刃した。

漆山九郎兵衛【うるしやまくろうひょうえ(15??~16??)】

最上義光家臣。剛の者。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝の家臣上泉泰綱に組みかかったが谷川に転げ落ちてしまい、金原七蔵が上泉泰綱を討取った。

浦山筑後守【うらやまちくごのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。最上義光の意向を受け三条河原で処刑される駒姫の最期を見届けるために上洛した。雑兵の手にかかる前に姫君の頸を打落とした。復命後、自刀を図るが最上義光に留めおかれた。

浦野孫右衛門【うらのまごえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。鉄炮衆のひとり。1584年、「寒河江城の戦い」で、寒河江高基の家臣柴橋頼綱を撃取るために、鉄炮衆20余りを率いた。退却した最上義光勢を追撃してきた、柴橋勘十郎を狙撃してこれを討取る戦功を挙げた。柴橋勘十郎の討死により寒河江高基は戦意を喪失した。

江口光清【えぐちみつきよ(15??~1600)】

最上義光家臣。通称五兵衛。連歌に長けた人物。里村派の連歌師たちは春の連歌会に際し、最上義光に発句を依頼した。そのまま連歌会に出席した文禄年間から最上義光の側近として京都での活動した。畑谷城8,000石を領した。1600年、「畑谷城の戦い」では、最上義光は山形城に兵力を集中させるため、畑谷城からの退却を命じたが江口光清は畑谷城に籠城した。直江兼続勢20,000余りの攻撃を受け、城兵300人とともに討死した。

江口時直【えぐちとみなお(15??~1600)】

江口光清の男。通称小吉。1600年、「畑谷城の戦い」では、父江口光清とともに畑谷城に籠城するも樋口兼続勢の攻撃を受け、江口光清や甥松田忠作とともに討死した。
 
江口将監【えぐちしょうげん(15??~16??)】

江口光清の次男。通称長三郎。

江口次郎左衛門【えぐちじろうざえもん(15??~16??)】

江口将監の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に仕えた。

江口源右衛門【えぐちげんえもん(15??~16??)】

江口光清の三男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、継嗣の江口源助とともに酒井忠勝に仕えた。

江口長三郎【えぐちちょうさぶろう(1598~16??)】

江口光清の四男。1600年、「畑谷城の戦い」で父江口光清が討死したため、稲葉因嶽と乳母に守られて畑谷城から落延び、乳母に匿われて養育された。後に酒井忠勝に仕えた。

大風右衛門【おおかぜうえもん(15??~16??)】

最上義光家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」では、援軍として派遣され、樋口兼続勢の包囲を破って入城した。横尾勘解由らとともに、樋口兼続勢に夜襲をかけ、春日元忠の陣を大混乱に陥れる戦功を挙げた。

大久保主馬【おおくぼしゅめい(15??~15??)】

最上義光家臣。宝鏡寺館主。宝鏡寺300石を領した。

太田左仲【おおたさなか(15??~15??)】

村山郡井出館主。1520年、太田左仲は菩提寺を創建した。井出館の城下街、最上川舟運の河湊を整備して善政を敷いた。

太田外記【おおたげき(15??~1585)】

太田左仲の男。1585年、「井出館の戦い」で最上義光勢の攻撃を受け落城、討死した。

大谷元秀【おおたにもとひで(15??~15??)】

寒河江義広家臣。村山郡真木山城主。通称彦次郎。1584年、「寒河江城の戦い」で寒河江高基が最上義光が滅ぼされると最上義光に降伏せず、平塩池之坊に落延びた。

大堀河内守【おおほりかわちのかみ(15??~15??)】

延沢満延家臣。村山郡二藤袋館主。二藤袋館2,000石を領した。

大沼八兵衛【おおぬまやひょうえ(15??~15??)】

最上義光家臣。馬廻衆。1600年、「谷地城の戦い」に参陣した。

大山満因【おおやまみつたね(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は筑前守。室は楯岡満茂の姉(南昌院)。1600年、「長谷堂城の戦い」では、楯岡満茂とともに増田城を守備した。

大山光因【おおやまあきたね(15??~15??)】

大山満因の男。官途は筑前守。室は楯岡満茂の娘(香林院)。最上義光の六男大山光隆を養子に迎えた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、楯岡満茂とともに酒井忠勝に預けられた。

大山光隆【おおやまみつたか(15??~1623)】

最上義光の六男(大山光因の養子)。官途は筑前守。1600年、「関ヶ原の役」後、父最上義光が山形城570,000石を領すると、大山城主に任じられ21,000石を領した。1514年、兄最上家親が最上惣領家の家督を相続すると、27,000石に加増された。1617年、「最上騒動」では、兄山野辺義忠にも甥最上義俊にも属さず中立を維持した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に預けられた。

大山隆房【おおやまたかふさ(15??~15??)】

大山光因の男。通称右京之進。大山光隆に仕えた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に預けられた。

岡野孝以【おかのたかもち(15??~1659)】

鮭延秀綱家臣。官途は主馬。通称九郎左衛門。室は鮭延秀綱の娘。家老職として400石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、鮭延秀綱に従い土井利勝に仕えた。

荻袋甲斐守【おぎぶくろかいのかみ(15??~1588)】

寒河江兼広家臣。村山郡荻袋城主。1588年、「長崎城の戦い」で中山朝正が本庄繁長勢が攻撃を受けると、援軍として派遣されたが討死した。

荻袋広信【おぎぶくろひろのぶ(15??~15??)】

荻袋甲斐守の男。

小国因幡守【おぐにいなばのかみ(15??~15??)】

武藤晴時家臣。小国城主。小国城500石を領した。

小国光忠【おぐにみつただ(15??~1631)】

最上義光家臣。倉津守俊の男。官途は日向守。別名倉増光基。室は最上義守の娘。小国城8,000石を領した。鉄炮に関心を持ち、鉄炮鍛冶を呼び寄せ「日向筒」という鉄炮を製造したほか、三間鑓である「日向鑓」を導入するなど、非常に才能豊かな人物であった。また、領内の産業振興にも努め、優れた民政家でもあった。

小国親元【おぐにちかもと(15??~15??)】

倉津守俊の次男。別名西監物。室は日野薩摩守の娘。500石を領した。兄小国光忠の館の西側に住んでいたことから、西殿と称した。

小国元俊【おぐにもととし(15??~1637)】

小国親元の男。別名西監物。室は高井親重の娘。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、岳父小国親重と弟二人らとともに羽後国仙北郡刈和野村に蟄居した。その後、佐竹義宣に仕えた。

小国親景【おぐにちかかげ(15??~1624)】

小国光忠の男。官途は大膳亮。倉津城主を務めた。1600年、「長谷堂城の戦い」では、谷地森伯耆守、川熊壱岐守らとともに長谷堂城に籠城した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、父小国光忠、継嗣の小国源三郎とともに鍋島勝茂に預けられた。

小国摂津守【おぐにせっつのかみ(15??~15??)】

小国光忠家臣。最上義光に仕えて4,000石を領した。

奥村常陸介【おくむらひたちのすけ(15??~16??)】

最上義光家臣。4,000石を領した。1603年、最上義康を謀殺した土居半左衛門を討取るため、小国日向守ら馬廻衆36騎衆とともに討手として派遣された。

小栗正吉【おぐりまさよし(15??~16??)】

最上義光家臣。通称頼母介。鳥屋ヶ森城2,500石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、府中松平忠長に仕えた。

落合伯耆守【おちあいほうきのかみ(15??~15??)】

延沢満延家臣。置賜郡落合館主。1572年、最上義光に降伏した。山形城北面を守備した。熊野神社を厚く信奉した。

小野丹波守【おのたんばのかみ(15??~15??)】

矢口能登守家臣。最上郡小倉館主。

小野寺道元【おのでらみちもと(1560~1632)】

最上義光家臣。官途は刑部。北条氏康、武田勝頼、真田昌幸、長尾景勝らを渡り歩き、数々の戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、最上義光に仕え鉄炮奉行を務めた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、府中松平忠長に仕えた。

小野又右衛門【おのまたざえもん(1584~16??)】

志村光安家臣。1600年、「酒田城の戦い」に参陣して、頸一級を挙げた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に仕えて260石を領した。

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【か】

糟谷延元【かすやのぶもと(15??~15??)】

延沢満延家臣。官途は出雲守。

加藤清次【かとうきよつぐ(15??~1600)】

最上義光家臣。悪戸楯主。最上義姫の警護役を務めた。1600年、「長谷堂城の戦い」では、江口光清が畑谷城で討死したことに憤激し樋口兼続勢と戦ったが、長谷堂城の北方で討死した。

加藤源右衛門【かとうげんえもん(15??~1601)】

最上義光家臣。1601年、「酒田城の戦い」では、里見義近とともに軍奉行に任じられた。酒田城を攻めた際、守りが堅く攻めあぐねていたため、諸将に先駆けて塀を乗り越えようとしたところを、鉄炮vで眉間を打ち抜かれ戦死した。

金野右馬充【かねのさうまじょう(15??~15??)】

武藤氏義家臣。金野右馬充の男。武勇に優れていた。1588年、最上義光勢に属して本庄繁長と戦うが敗れ浪人となった。1590年、「藤島城の戦い」では、羽柴秀吉勢による検地に反対して一揆を先導した。長尾景勝勢の攻撃を受け佐渡国に落延びた。

上山義房【かみのやまよしふさ(15??~1520)】

最上義定家臣。村山郡上山城主。別名最上義房。1514年、最上義定が、伊達稙宗に敗北し伊達稙宗の傘下となると、山上義房は伊達稙宗に対して叛旗をひるがえした。伊達稙宗勢に上山義房は惨敗し、山上義房はわずかな家臣と落延び天童城に潜伏した。伊達稙宗は最上義定に養子を出して完全な傀儡にしようとした。1520年、山上義房は再び挙兵して、寒河江兼広、天童頼長らとともに伊達稙宗と戦うが討死した。

上山義忠【かみやまよしただ(15??~15??)】

上山義房の男。別名武衛義忠、武永義忠。1528年、「高楯城の戦い」で城主小梁川貞伴を追い落とし高楯城を居城とした。1535年、上山城を築城して本城を移した。

上山満兼【かみのやまみつかね(15??~1580)】

上山義節の男。室は中野義清の娘。伊達晴宗と結び領内の安定化を図った。1574年、「天正最上の乱」では、最上義守勢の伊達晴宗勢が領内通過を黙認したため、最上義光と対立した。1578年、上山満兼は伊達輝宗、天童頼貞と結び最上義光勢を攻撃した。1580年、最上義光の家臣氏家守棟、谷柏直家らの調略を受けた上山満兼の家臣里見義近、里見民部らが最上義光に内応、里見民部は里見内蔵助を謀殺した。上山満兼は最上義光の攻撃を受け里見民部が内部から攻撃して山上満兼は討死した。

上山義直【かみのやまよしなお(1594~1622)】

最上義光の五男。官途は兵部大夫。別名最上光広。上山城主里見民部、里見正光ら里見家枝連衆が最上義康殺害の事件で追放されると、上山城21,000石を領した。最上家枝連衆では兄山野辺義忠を抜き、兄清水義親、弟大山光隆、従兄松根光広に次ぐ石高だった。1622年、最上義俊の改易後、黒田忠之にお預けの身となったが、まもなく自刃した。

木戸周防守【きどすおうのかみ(15??~1614)】

清水義氏家臣。清水義氏は八向館主合海志摩守を討取り、木戸周防守を館主に任じた。清水家筆頭家老職を務め1,000石を領した。

貴志義忠【きしよしただ(15??~15??)】

村山郡鳥屋森城主。官途は美作守。室は出羽吉川政時の娘。別名岸美作守。1565年、和合秋広が八ツ沼城主原忠重と鳥屋ヶ森城主貴志義忠が謀反を企ていると最上義光に讒言した。「五百川の戦い」では、最上義光勢5,000余りと戦い八ツ沼城、鳥屋ヶ森城び両城が落城した。貴志義忠は助命された。

北楯利長【きただてとしなが(1548~1625)】

最上義光家臣。通称大学。1601年、田川郡狩川城3,000石を領した。1612年、庄内三郡(田川郡、櫛引郡、遊佐郡)を支配する最上義光の命で、田川郡の水不足を解消するために新堰の開削に着手した。最上義光の家臣団からは反対意見が出たが、新関久正の賛成により工事を開始、約半年で全長34キロにも及ぶ堰が完成すると30,000石の新田が開かれた。1622年、最上義康の改易により、新たに庄内領主となった酒井忠勝が北楯利長を召抱えようとしたが固辞した。その功績を讃えられ、北楯神社に祀られ、この堰は北楯利長の名を取って北楯大堰と称された。

北楯正久【きただてまさひさ(15??~15??)】

北楯利長の男。通称助次郎。1622年、最上義俊の改易処分に処されると、酒井忠勝に仕えて300石を領した。。

出羽吉川政周【きっかわまさちか(14??~1514)】

村山郡吉川城主。左沢政勝の三男(吉川満教の養子)。官途は兵部少輔。1514年、「長谷堂城の戦い」では、楯岡満英、長瀞左衛門、山辺刑部らとともに伊達稙宗勢を迎え撃ったが最上義定の参陣が遅れたため、大敗を喫し1,000余りとともに討死し長谷堂城も落城した。

出羽吉川広政【きっかわひろまさ(15??~15??)】

吉川政周の男。通称少輔彦太郎。

出羽吉川政時【きっかわまさとき(15??~15??)】

吉川広政の男。官途は民部少輔。

出羽吉川元綱【きっかわもとつな(15??~15??)】

吉川政時の男。

出羽吉川隆広【きっかわたかひろ(15??~1584)】

吉川元綱の次男。1584年、最上氏義光に柴橋頼綱が討取られると寒河江城も落城、吉川隆広は寒河江高基とともに貫見城に落延びるがそこで自刃した。

出羽吉川良光【きっかわよしみつ(15??~15??)】

吉川隆広の男。

来次時秀【きつぎときひで(1543~15??)】

飽海郡観音寺城主。観音寺城2,500石を領した。庄内地方は武藤義氏、来次時秀、土佐林禅棟、砂越義氏が勢力を拡大したが、武藤義氏が勢力を伸ばすとそれに属した。1568年、最上義光や本荘繁長の勢力拡大などに悩まされた武藤義興からの攻撃を受けた。

来次氏秀【きつぎうじひで(15??~16??)】

来次時秀の男。官途は出雲守。由利郡の諸豪族や安東愛季への使者に立った。1579年、武藤義氏に対して謀叛を起したが鎮圧された。1582年、武藤義氏が、最上義光勢の攻撃を受けると、鮭延秀綱からの意向を受け中立を維持した。1583年、東禅寺義長と結んで武藤義氏を自刃に追い込んだ。1587年、最上義光が武藤義氏の跡を継いだ武藤義興を討取った。1588年、「十五里ヶ原の戦い」では、本庄繁長、武藤義勝勢に属して最上義光勢と戦ったが敗れた。1589年、「小田原の役」では、長尾景勝勢に属して参陣した。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢が敗れ、長尾景勝が米沢城300,000石に減封されると、来次氏秀もそれに従った。

木戸周防守【きどすおうのかみ(15??~1614)】

清水義氏家臣。八向館主。筆頭家老職を務め1,000石を領した。

金原七蔵【きんばらしちぞう(1585~15??)】

里見民部家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」で里見民部は、金原七蔵に戦功を挙げさせるため、剛力の足軽衆を従わせた。漆山九郎兵衛が長尾景勝の家臣上泉泰綱と組み戦っているところに飛びかかり上泉泰綱の頸級を上げた。

草刈虎之助【くさかりとらのすけ(15??~1588)】

天童頼貞家臣。中山朝正らとともに庄内地方に派遣された。1588年、「十五里ヶ原の戦い」では、本庄繁長勢を撃破ち、東禅寺義長が討死後も最後まで奮戦した。最上義光勢がことごとく討たれると、自刃した。

草刈虎正【くさかりとらまさ(15??~1600)】

草刈虎之助の男。官途は志摩守。最上義光に仕えた。1600年、「上山城の戦い」では、上山城に援軍に赴き直江兼続勢と戦った。「物見山の戦い」では、上山城将里見民部とともに直江兼続勢の本村親盛を討取る戦功を挙げた。「広河原の戦い」で敗走する直江兼続勢を追撃するが反撃を受け討死した。

草刈将監【くさかりしょうげん(15??~15??)】

天童頼貞家臣。猪ノ沢館主。官途は備前守。天童頼貞に仕えるが最上義光に敗れ、流浪の後に武藤義興に仕えた。最上義光に内応して武藤義興らの情報を伝えた。武藤義興の討死後は、最上義光に仕えた。

草刈重右衛門【くさかりしげえもん(15??~16??)】

楯岡満茂家臣。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。

草刈専右衛門【くさかりせんえもん(15??~15??)】

草刈重右衛門の弟。

草刈忠左衛門【くさかりちゅうざえもん(15??~16??)】

草刈重右衛門の男。

沓沢忠久【くつさわただひさ(15??~15??)】

最上郡差首鍋城主。官途は但馬守。最上義定の支援を受けた。

沓沢忠国【くつさわただくに(15??~15??)】

沓沢忠久の男。官途は掃部介。1581年、鮭延秀綱勢に属して最上義光の攻撃を受けて衰亡した。

沓沢忠家【くつさわただいえ(15??~16??)】

沓沢忠国の男。官途は兵庫介。1581年、「差首鍋城の戦い」では、最上義光が鮭延秀綱を攻撃すると、差首鍋城を攻撃して鮭延秀綱を支援した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、庄内で帰農した。

沓沢玄蕃【くつさわげんば(15??~15??)】

沓沢忠国家臣。最上郡野崎館主。1581年、沓沢忠国が、最上義光勢の攻撃を受け滅亡すると、沓沢忠家が家督を相続しようとするが、幼少のため沓沢玄蕃が差首鍋城主を務めた。

熊沢主税介【くまざわちからのすけ(15??~15??)】

最上義光家臣。1584年、「谷地城の戦い」では、50余りの槍衆を率て参陣した。

蔵増光忠【くらますひつただ(15??~15??)】

天童頼澄家臣。田川郡蔵増城主。官途は安房守。別名倉津守俊。最上義光勢に内応した。1581年、「万騎ヶ原の戦い」では、最上義光に従って参陣して細川直元勢と戦い戦功を挙げ小国城を領した。1584年、「天童城の戦い」で天童城が落城すると天童頼澄は陸奥に落延びた。

蔵増光基【くらますみつもと(15??~1631)】

蔵増光忠の男。官途は日向守。別名小国光基。民政家で、石高8,000石だった小国領を産業を奨励して16,000石まで高めた。また、鉄炮に関心を持ち、鉄炮鍛冶を呼び寄せ「日向筒」という鉄炮を製造した、三間鑓である「日向鑓」を導入するなど、非常に才能豊かな人物であった。1596年、小野寺義道が楯岡満茂が籠城する湯沢城を攻めた際、救援に赴いた。1622年、最上義俊の改易後は鍋島勝茂に預けられた。

蔵増親景【くらますちかかげ(15??~1624)】

蔵増光基の次男。官途は大膳亮。別名小国大膳。1600年「関ヶ原の役」では、谷地森伯耆守、川熊壱岐守らと共に長谷堂城に援軍として入った。1622年、最上義俊の改易により、父蔵増光基、嫡男蔵増源三郎とともに鍋島勝茂に預けられた。

蔵増親元【くらますちかもと(15??~15??)】

蔵増光忠の次男。別名小国親元。室は日野薩摩守。兄蔵増光基の館の西側に住み500石を領した。西殿と呼ばれ、西監物を称した。

蔵増元俊【きらますもととし(15??~1637)】

蔵増親元の男。通称兵右衛門。別名小国元俊。室は高井親重の娘。父蔵増親元と同じく西監物を称した。1622年、最上義俊の改易後、義父高井親重と弟二人らと共に仙北郡刈和野村に蟄居した。その後、佐竹義宣に仕えたが、佐竹家には東西南北の御一門四家があったことから、西野と称した。

小泉讃岐守【こいずみさぬきのかみ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。家老衆を務め3,000石を領した。1601年、「酒田城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。

高坂中務【こうさかなかむ(15??~1586)】

武藤義氏家臣。田川郡高坂館主。武藤義氏と対立し、武藤義氏を自刃に追い込む。その後、高坂玄蕃頭に家督を譲った。

高坂玄蕃頭【こうさかげんばのかみ(15??~15??)】

高坂中務の男。長尾景虎、最上義光と仕え所領を守った。1585年、「高坂城の戦い」で長尾景勝勢の攻撃を受け落城した。

郡山彌五左衛門【こうりやまよござえもん(15??~16??)】

楯岡光直家臣。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に仕え100石を領した。酒井忠勝の江戸屋敷でて狼藉者を討取る戦功を挙げた。

牛房野三七【ごぼうのさんしち(15??~15??)】

村山郡午房野館主。午房野館2,000石を領した。1581年、「小国城の戦い」では、最上義光の先導役を務め、細川直元勢を攻撃した。

小松原盛定【こまつばらもりさだ(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は右馬丞。
 
小松原盛種【こまつばらもりたね(1599~1664)】

小松原盛定の男。通称源四郎。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕え三人扶持銀90目を給された。

小柳重保【こやなぎしげやす(15??~1584)】

最上義光家臣。通称外記。1581年、最上義光の仙北攻めで先手を務め、戦功により薄井村など七ヶ村を領した。1584年、小野寺義道との戦いで討死、四歳のひとり娘が残された。最上義光は、楯岡満茂に娘を養育するよう命じ、後に秋保主馬の弟秋保重治が娘を娶り、小柳家の婿養子になった。
 
小柳重治【こやなぎしげはる(15??~1659)】

秋保主馬の弟(小柳重保の養子)。通称左馬之助。室は小柳重保の娘。小柳家の家督を相続した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、浪人となり本庄に居住した。

小柳治重【こやなぎはるしげ(15??~16??)】

小柳重治の男。佐竹義宣に仕えた。  

近藤壱岐守【こんどういきのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。山形城三の丸小田口を守備して2,500石を領した。小田口には重要とされる煙硝庫があった。

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【さ】

斎藤光則【さいとうみつのり(15??~16??)】

楯岡光直家臣。官途は伊予守。村山郡谷地城代として4,000石を領した。1606年、民政、治水事業において優れた手腕を発揮し、新田開発や最上川の水運開発に優れた功績を残した。1606年、最上川の難所における開削の奉行として大いに手腕を発揮し、最上川の水運を最上家領内における流通を改革した。1611年、里見民部、正光親子、原八右衛門、下吉忠らが最上家親を擁立して実権を握るため、最上義康を謀殺する事件が起きた。斎藤光則は、最上義光に謀殺に関わる陰謀事件の調査を命じられた。最上義光の弟最上光直が楯岡城主になると、その附家老として高櫤城で5,500石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると所領を失った。

斎藤伯耆守【さいとうほうきのかみ(15??~15??)】

白鳥長久の弟。1584年、白鳥長久が最上義光に討取られると、山野辺光茂に仕え、城代家老職を務めた。

斎藤忠頼【さいとうただより(15??~16??)】

白鳥長久の孫(斎藤伯耆守の養子)。養父斎藤伯耆守の家督を相続して城代家老職を務めた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、山野辺光茂に従い、のちに水戸松平頼房に仕えた。

寒河江宗広【さがえむねひろ(15??~15??)】

村山郡寒河江城主。1514年、「長谷堂城の戦い」では、最上義定勢に属して伊達稙宗勢と戦ったが吉川政周ら1,000余が討死する敗北を喫した。

寒河江広種【さがえひろたね(1501~1546)】

寒河江宗広の五男。官途は兵部大輔。室は楯岡義輔の娘。1520年、最上義定に従って伊達稙宗勢と戦うが、伊達稙宗勢の攻撃を受けると降伏した。1524年、継嗣だった弟寒河江孝広の病没により、還俗して寒河江家の家督を相続した。

寒河江孝広【さがえたかひろ(1502~1527)】

寒河江宗広の六男。室は館岡義輔の娘。

寒河江兼広【さがえかねひろ(15??~15??)】

寒河江広種の男。室は吉川政時の娘。1560年、最上義守勢の攻撃を受けたが撃退した。継嗣をもうけることができず、最上義光と最上義康を婿にして寒河江家の家督を継がせる約束があったが、これを反故にして寒河江高基を婿養子に迎えた。

寒河江高基【さがえたかもと(15??~1584)】

吉川基綱の男(寒河江兼広の養子)。室は寒河江兼広の娘。婿養子に迎えられ、寒河江家の家督を相続したが、最上義光や家臣の左沢氏政、溝延氏勝らの反発を招いた。1583年、武藤義氏から援軍を求められたが、支援が間に合わず武藤義氏が討死した。1584年、「中野原の戦い」では、寒河江勘十郎、柴橋頼綱らが最上義光勢と戦ったが敗れ寒河江勘十郎が討死した。貫見に落延びたが最上義光勢の追撃を受け自刀した。

寒河江勘十郎が【さがえあきとし(15??~15??)】

寒河江高基家臣。1584年、「中野原の戦い」では、寒河江高基に従って最上義光勢と戦った敗れて討死した。

寒河江光俊【さがえみつとし(15??~15??)】

寒河江高基家臣。官途は外記。1584年、「中野原の戦い」で寒河江高基が敗北すると、最上義光に降伏して寒河江城主に任じられた。1588年、本庄繁長の侵攻を不当であると羽柴秀吉に訴えたが、訴えは退けられた。1589年、最上義光の意向を受け松平元康に鷹三羽を贈った。1591年、「仙北一揆」が起ると、鮭延秀綱らとともにこれを鎮圧した。

寒河江広俊【さがえひろとし(15??~1614)】

寒河江高基家臣。寒河江広秋の男。官途は肥前守。1584年、「中野原の戦い」で寒河江高基が討死すると、最上義光に降伏して山野辺城27,000石を領した。1614年、最上義光が病没すると殉死した。

寒河江元茂【さがえもとしげ(1560~1614)】

最上義光家臣。通称十兵衛。1584年、父寒河江広俊とともに最上義光に降伏して1,500石を領した。最上義光の近習と争いごとを起こしたが、自刀は免れた。1592年、「文禄の役」に参陣して赦免された。1614年、最上義光が病没すると、寒河江広俊、山家河内守、長岡但馬守らとともに殉死した。

寒河江俊長【さがえとしなが(15??~15??)】

寒河江広俊の次男。通称新次郎。父寒河江広俊と兄寒河江元茂が最上義光に従って殉死したため、寒河江家の家督を相続した。

寒河江俊重【さがえとししげ(15??~16??)】

寒河江俊長の男。通称惣右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、福井松平忠直に仕えた。

寒河江親俊【さがえちかとし(15??~15??)】

寒河江広秋の次男。官途は監物。

寒河江信安【さがえのぶやす(15??~15??)】

寒河江親俊の男。通称甚右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、黒田長政に仕えた。1637年、「島原の乱」で戦功を挙げた。福井松平忠直に仕えて600石を領した。

寒河江親清【さがえちかきよ(1588~1642)】

草苅薩摩守の次男(寒河江元茂の養子)。通称織部。室は寒河江元茂の娘。鶴ヶ岡城の詰番を務めた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、蒲生忠郷、加藤嘉明らに仕えた。

坂光秀【さかあきひで(15??~1616)】

最上義光家臣。官途は紀伊守。室は志村光安の娘。1600年「関ヶ原の役」では長谷堂城をめぐって直江兼続と戦い長谷堂城を守り切った。役後は酒田東禅寺城主となった志村光安に代わって長谷堂城13,000石を領した。最上義光の側近として、松平元康や公家などへの使者をたびたび務めた。1622年、最上義俊の家改易の後、跡を継いだ坂光重はまもなく帰農した。

坂備前守【さかびぜんのかみ(15??~1616)】

坂光秀の弟。狸森楯主。

坂光重【さかあきしげ(1576~1663)】

坂備前守の男(坂光秀の養子)。別名坂重内。1616年、坂光秀が病没すると、坂家の家督と相続して長谷堂城主に任じられた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、帰農した。

坂光吉【さかあきよし(1595~1680)】

坂光重の男。通称九郎右衛門。父坂光重とは別に140石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、長谷堂に居住した。1637年、父坂光重とともに置賜郡荒砥に移住した。

坂茂左衛門【さかしげざえもん(15??~15??)】

志村光安家臣。1600年「関ヶ原の役」では志村光安に属して亀ヶ崎城を攻撃した。1622年、最上義俊の改易後、酒井忠勝に仕えて150石を領した。

坂本忠重【さかもとただしげ(15??~16??)】

楯岡満茂家臣。通称三右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、秋田に移った。

坂本忠郷【さかもとたださと(15??~16??)】

坂本忠重の男。佐竹義宣に仕えた。

鮭延貞綱【さけのべさだつな(1516~1568)】

小野寺景道家臣。最上郡鮭延城主。別名佐々木貞綱。武藤晴時や最上義定と領有を争っていた最上地方全域の領有を図るため、小野寺景道から岩花城主に任じられた。1563年、「岩花城の戦い」で最上義定勢の攻撃を受け落城した。

鮭延秀綱【さけのべさだつな(1562~1646)】

鮭延貞綱の次男。官途は越前守。通称典膳。人質として武藤義増のもとに送られた。1581年、「鮭延城の戦い」では、最上義光の家臣氏家守棟勢の攻撃を受け落城した。敗北後、最上義光に仕え来次氏秀など庄内の豪族に調略を行った。1590年、湯沢城代に任じられた。1600年、「長谷堂城の戦い」では、樋口兼続勢の攻撃を受けると城主志村光安、清水義親、楯岡光直らとともにこれを撃退した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると土井利勝に預けられた。

鮭延左衛門尉【さけのべさえもんのじょう(1586~1612)】

鮭延秀綱の男。通称左右衛門。1600年、「長谷堂城の戦い」で樋口兼続勢と戦い戦功を挙げた。1612年、鮭延家の家督を継ぐことなく病没した。

砂越氏雄【さごしうじたか(15??~1513)】

飽海郡砂越城主。砂越氏益の男。武藤澄氏家臣。官途は信濃守。上洛して足利義尚から信濃守の官途を受け飽海郡内で30,000石を領した。1512年、武藤澄氏と戦い勝利を上げたが1,000余りの損害を受けた。1513年、「大宝寺城の戦い」で武藤澄氏勢を攻撃したが、反撃を受け討死した。

砂越氏維【さごしうじふさ(15??~1513)】

武藤政氏の男。1518年、武藤澄氏の意向を受け砂越家の家督を相続した。1531年、「藤島城の戦い」で土佐林禅棟が滅亡すると、庄内北部を掌握する勢力に成長した。1532年、「鶴ヶ岡城の戦い」では、武藤晴時を尾浦城に追い落とした。武藤晴時と和議を結び臣従した。

砂越二郎【さごしじろう(15??~15??)】

砂越氏維の男。1588年、「十五里ヶ原の戦い」では、最上義光勢の属したが本庄繁長勢に敗れ、砂越宗恂の娘の嫁ぎ先である安東愛季のもとに落延びた。

砂越宗恂【さごしそうじゅん(15??~15??)】

砂越氏維家臣。安東愛季との取次役を務め、娘は安東愛季に嫁いだ。

左近宗倶【さこんむねとも(15??~15??)】

鮎貝盛宗の三男。

佐々木文右衛門【ささきぶんざえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。1622年、最上義俊が改易処分に処されると秋田城下に移り、平元隼人の屋敷にて暮らした。

佐々木正名【ささきまさな(15??~15??)】

佐々木文右衛門の男。佐竹義宣に仕えた。

笹原昌良【ささはらまさよし(15??~15??)】

延沢満延家臣。官途は石見守。別名篠原石見守。有路但馬守とともに延沢満延の家老職を務めた。「能登内に有路笹原なかりせば最上義光にくびを延沢」という狂歌を残した。

佐竹與三左衛門【さたけきょうさんざえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。室は進藤勘解由左衛門の娘。1,000石を領した。隠居料として200石を領した。

佐竹正勝【さたけまさかつ(15??~1636)】

佐竹與三左衛門の次男。通称太郎左衛門。別名進藤正勝。父佐竹與三左衛門の隠居領200石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、津軽信枚に100石で仕えた。

佐竹正吉【さたけまさよし(15??~1653)】

斎藤正行の次男(佐竹正勝の養子)。通称甚右衛門。室は佐竹正勝の娘。

佐藤次郎右衛門【さとうじろうえもん(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。

佐藤茂頼【さとうしげより(15??~16??)】

延沢満延家臣。佐藤次郎右衛門の男。通称勘七郎。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。

佐藤茂貞【さとうしげさだ(15??~16??)】

佐藤茂頼の男。
 
佐藤景正【さとうかげまさ(15??~15??)】

佐藤次郎右衛門の次男。通称勘三郎。1622年、最上義俊が改易処分に処されると佐竹義宣言に仕えた。

佐藤景光【さとうかげみつ(15??~15??)】

佐藤景正の男。

佐藤信基【さとうのぶもと(15??~1581)】

鮭延秀綱家臣。最上郡野崎館主。官途は大和守。1581年、「鮭延城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受けると鮭延秀綱に従って弟佐藤信包、継嗣佐藤信稚、佐藤信秀、佐藤義次、履沢忠国とともに応戦したが敗れて館に火を放ち自刃した。

佐藤信雅【さとうのぶまさ(15??~1581)】

佐藤信基の男。官途は右京。1581年、「鮭延城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受けると父佐藤信基に従って参陣したが討死した。

佐藤信秀【さとうのぶひで(15??~15??)】

佐藤信基の次男。官途は美濃守。

佐藤義次【さとうよしつぐ(15??~15??)】

佐藤信基の三男。官途は備中守。

佐藤信包【さとうのぶかね(15??~1581)】

佐藤信基の弟。官途は下野守。1581年、「鮭延城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受けると兄佐藤信基に従って参陣したが討死した。

佐藤憲茂【さとうのりしげ(15??~1600)】

最上義光家臣。樋幡城主。官途は豊後守。通称理兵衛。1600年、「長谷堂城の戦い」で討死した。

里村理兵衛【さとむらりへい(15??~15??)】

東根頼景家臣。

里村利兵衛【さとむらりへい(15??~15??)】

里村理兵衛の男。

里見義近【さとみよしちか(15??~1614)】

上山満兼家臣。官途は越後守。1574年、「天正最上の乱」では、上山満兼とともに最上義光勢に属した。最上義守勢の伊達輝宗の家臣小梁川盛宗の攻撃を受けた。1578年、最上義光に内応して次男の里見民部とともに上山満兼と継嗣の見内蔵助を謀殺した。この戦功により上山城21,000石を領した。1600年、「長谷堂城の戦い」では、山形城で軍奉行職を務めた。最上義康の廃嫡事件に関わり、最上義光のもとを退去した。

里見内蔵助【さとみくらのすけ(15??~15??)】

里見義近の男。1578年、最上義光に内応した父里見越後守と弟里見民部に上山満兼とともに謀殺された。

里見民部【さとみみんぶ(15??~1614)】

里見義近の次男。官途は民部少輔。1578年、父里見義近とともに最上義光に内応して上山満兼と兄里見内蔵助を謀殺した。1600年、「長谷堂城の戦い」では、上山城を守備し、直江兼続勢の上泉泰綱を討取った。その後、下吉忠らとともに最上家親擁立を画策した。1603年、最上義康を謀殺したため、最上義光から怒りを買い、加賀国に落延びたが盗賊に襲われ継嗣の里見正光とともに討死した。

里見正光【さとみまさみつ(15??~1614)】

里見民部の男。官途は越後守。最上義康謀殺に関わり、最上義光のもとから出奔した。前田利長のもとの落延びたが、最上義光に引き渡される途中、盗賊に襲われ父里見民部とともに討死した。

里見主水【さとみもんど(15??~15??)】

里見越後守の次男。1600年、「長谷堂城の戦い」では、樋口兼続勢を兄里見民部らとともに奇襲し撃退した。

里見市正【さとみいちのかみ(15??~15??)】

里見正光家臣。2,300石を領した。

里見義親【さとみよしちか(15??~15??)】

最上義光家臣。官途は掃部。最上義光、最上家親の二代に仕え1,000石を領した。

里見親宗【さとみちかむね(1594~1678)】

里見義親の男。通称四郎左衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、黒田長政に仕えた。水戸松平頼房に300石で仕えた。

坂弥兵衛【さかやひょうえ(15??~15??)】

里見民部家臣。1,500石を領した。1600年、「物見山の戦い」で長尾景勝の家臣本村親盛を討取る戦功を挙げた。上山城を攻撃していた長尾景勝勢は壊滅した。

猿羽根義舜【さるはねよしきよ(15??~1589)】

最上郡猿羽根館主。猿羽根義舜は最上義光勢の攻撃を受け降伏した。1589年、謀反の嫌疑を受け長瀞で自刃した。

信太市之進【しだいちのしん(15??~15??)】

鮭延秀綱家臣。蔵岡薬師館主。1581年、鮭延秀綱が最上義光勢に寝返ると、それに従い蔵岡薬師館を守備した。

柴橋頼綱【しばはしよりつな(15??~1584)】

寒河江兼広家臣。村山郡柴橋城主。出羽吉川元綱の三男。別名橋間勘十郎。寒河江兼広の執政となり、寒河江兼広病没後男子がなかったことから、兄寒河江高基に寒河江兼広の娘に合わせ、寒河江家の家督を相続させた。寒河江兼広と最上義光の間には、最上義康を婿として寒河江家を継がせる約束があったことから、両家の間には確執が起こった。1584年、「谷地城の戦い」では、白鳥長久を謀殺して最上氏義光が谷地城を攻撃した。寒河江高基も柴橋頼綱勢を援軍として送っが、白鳥長国が守備する谷地城は落城した。最上義光が寒河江城に押し寄せると、柴橋頼綱勢は後方の中野城を攻撃した。最上義光は策を巡らせ、偽りの退却と鉄炮隊の伏兵によって柴橋頼綱は討取られた。

篠田市之進【しのはらいちのしん(15??~1600)】

最上郡薬師館主。鮭延貞綱家臣。1563年、武藤義氏に敗れたさい真室城に移った。1563年、鮭延義光の攻撃を受けて降伏すると、最上義光の属城となり、最上川の水運を監視する城になった。1600年、「長谷堂城の戦い」に参陣して討死した。

清水義高【しみずよしうじ(?~1565)】

最上郡清水城主。最上川舟運の拠点清水を支配し、内陸進出を狙う武藤義増から度々攻められた。1563年、武藤義増が最上郡に侵攻、鮭延貞綱を降すと、清水義高勢の諸城を攻略した。1565年、「本合海の戦い」で、武藤義増勢の攻撃を受け討死した。

清水義氏【しみずよしうじ(1547~1586)】

清水義高の男。通称孫三郎。1565年、父清水義高が武藤義増に敗れ、討死したことにより清水家の家督を相続した。清水義氏には嫡子がなく、娘(清水姫)が婿養子を迎えるはずであったが、最上義光の三男清水義親を養子として迎え入ることとなった。清水義氏の娘(清水姫)は内室と死別していた最上義光の側室として嫁いだ。清水義氏は娘(於辰姫)を最上義光の継室にして最上義光の力を後ろ盾にした。1582年、武藤義氏に攻撃され、これ以降最上義光と武藤義氏の対決になっていった。清水家の家督は最上義光の三男最上義親が継いだ。

清水義親【しみずよしちか(1582~1614)】

最上義光の三男(清水義氏の養子)。官途は大蔵大輔。最上郡清水城23,000石を領した。羽柴秀吉の人質となった経緯から羽柴秀頼派であった。1600年、「長谷堂城の戦い」では、楯岡光直とともに戦った。のち兄最上家親と対立した。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼への内通の嫌疑をかけられ、最上家親勢の延沢光昌、日野将監の攻撃を受けて落城、継嗣の清水義継とともに自刃した。清水義親は羽柴秀吉に人質になったのに対し、最上家親は松平元康に仕えた立場にあり、兄弟仲はあまり良くなかった。

清水義継【しみずよしつぐ(15??~1614)】

清水義親の男。1614年、「大坂冬の陣」で父清水義親が羽柴秀頼への内通の嫌疑を受け、最上家親の家臣延沢光昌、日野将監らの攻撃を受けて落城、清水義親とともに自刃した。

志村光清【しむらみつきよ(15??~15??)】

最上義光家臣。

志村光安【しむらみつやす(15??~1609)】

志村光清の男。官途は伊豆守。1600年、「長谷堂城戦い」では、樋口兼続勢が20,000余りの攻撃を受けると、鮭延秀綱らとともに伏兵などを駆使して樋口兼続勢を撃退した。1601年、「東禅寺城の戦い」では、志駄義秀勢と戦い戦功を挙げた。役後、亀ヶ崎城30,000石を領した。

志村光清【しむらみつきよ(15??~1614)】

志村光安の男。通称九郎兵衛。別名志村光惟。1609年、父志村光安の病没により亀ヶ崎城(東禅寺城)30,000石を領した。1614年、「一栗高春の乱」では、鶴ヶ岡城代新関久正の屋敷で一栗高春勢の攻撃を受け下吉忠とともに討死した。

志村藤右衛門【しむらとうえもん(15??~1600)】

最上義光家臣。1584年、「谷地城の戦い」では、最上義光に従い50挺組の足軽大将として参陣した。1600年、「長谷堂城の戦い」で撤退する樋口兼続勢を追撃するが、鉄炮隊の反撃を受け討死した。

下吉忠【しもよしただ(15??~1614)】

最上義光家臣。官途は対馬守。通称次右衛門。別名下康久。もと北条氏政に仕えた。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、長尾景勝に仕え樋口兼続の寄騎衆を務めた。1600年、「長谷堂城の戦い」では、樋口兼続勢が退却したため、最上義光勢に包囲され谷地城に籠城した。降伏後、最上義光に仕えた。1601年、「酒田城の戦い」では、先陣を務め戦功を挙げ尾浦城主12,000石を領した。

下秀実【しもひでざね(15??~16??)】

下吉忠の男。通称次右衛門。1614年、父下吉忠の病没後に家督を継ぎ、尾浦城主となった。最上義光の逝去後、最上家親の家督相続に反対した一栗兵部高春に、鶴ケ岡城下の新関久正の屋敷で一栗高春勢の攻撃を受け討死した。

下本国【しももとくに(15??~1622)】

伊井忠左衛門の男(下吉忠の養子)。官途は長門守。通称勘七郎。1600年、「長谷堂城の戦い」後、下吉忠とともに最上義光に仕え1,000石を領した。1614年、「一栗高春の乱」で下吉忠が討死すると最上義光のもとを辞した。

下秀政【しもひでまさ(15??~16??)】

江本大膳の男(下吉忠の養子)。官途は美作守。通称源六郎。1600年、「長谷堂城の戦い」後、下吉忠とともに最上義光に仕え1,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、長尾景勝に仕えた。

白岩宗広【しらいわむねひろ(15??~15??)】

寒河江兼広家臣。田川郡白岩城主。寒河江兼広、溝延氏勝らとともに慈恩寺旦那衆を務めた。 

白岩義広【しらいわよしひろ(15??~15??)】

白岩宗広の男。官途は備前守。通称四郎八郎。1574年、「天正最上の乱」では、寒河江兼広が最上義光に属したのに対し、白岩義広、左沢氏政、溝延氏勝は伊達輝宗、最上義守に属した。三家は寒河江兼広が籠城する寒河江城を白鳥長久、天童頼貞などとともに攻め落城寸前まで追い詰めた。1582年、真室川で武藤義氏との争いの際、白岩義広が武藤義氏との婚姻関係を理由に謀反を起こしたため、鮭延秀綱への救援が遅れた。しかし、最上義光に降り甥松根光広を婿養子とした。

白岩光広【しらいわあきひろ)(1589~1672)】

長瀞義保の男(白岩義広の養子)。官途は備前守。別名松根光広。1615年、松根城12,000石を領した。白岩光広は六十里越街道の入口で両要所を支配し、六十里越街道を押え善政を敷いた。1622年、最上家親が病没すると、楯岡光直が毒殺を図ったとして、最上義俊を擁立した。延沢義忠を擁立する鮭延秀綱らと対立した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、立花宗茂に預けられた。

白鳥義久【しらとりひしひさ(15??~15??)】

村山郡白鳥城主。白鳥義春の男。白鳥義久はもともと白鳥城にいたが、中条家を滅ぼして谷地城に進出した。1512年、山形城主最上義守は、砂越城主砂越氏雄を内応させ武藤澄氏を攻撃した。白鳥義久は最上義守に属した。1514年、伊達稙宗の「村山郡侵攻」では、最上義守、天童頼貞、寒河広種江連合軍に属して、長谷堂城の伊達稙宗勢を攻撃した。村山郡が伊達稙宗の支配下になると、白鳥義久は天童頼貞と結んで反最上義守の立場を取った。

白鳥長久【しらとりながひさ(15??~1584)】

白鳥義久の男。室は吉川政時の娘。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗と最上義守との取次役を務めた。1574年、「最上天正の乱」では、最上義守と最上義光との取次役を務め、和議の成立に尽力した。1577年、織田信長に鷹や馬を贈って中央政権との結びつきを図った。内政では、農業はもとより諸工業生産の保護奨励にも力を入れ、城下に鋳物師や刀鍛冶、大工などの職人を集めた。1584年、最上義光が仮病を使い、白鳥長久を山形城に誘き寄せ謀殺した。

白鳥長国【しらとりながくに(15??~15??)】

白鳥義春の次男。長女が寒河江兼広、次女が溝延氏勝に嫁いだ。

白鳥義広【しらとりひしひろ(15??~15??)】

白鳥義春の三男。娘が天童頼貞に嫁いだ。

東海林四郎大夫【しょうじしろうだいふ(15??~15??)】

武藤義氏家臣。田川郡山館主。1588年、「十五里ヶ原の戦い」に参陣した。本庄繁長、武藤義勝率いる越後長尾家勢と東禅寺義長、東禅寺勝正兄弟、池田盛周、草刈虎之助率いる最上義光勢と戦い戦功を挙げた。武藤義興が滅亡すると、最上義光に仕えた。

東海林昌種【しょうじまさたね(15??~15??)】

白鳥長久家臣。村山郡沼ノ平館主。通称隼人佐。別名東海林成盛。1584年、白鳥長久が最上義光に謀殺されると、最上義康に嫁していた白鳥長久の娘日吉姫は、難を逃れて夜通し山道を越えて、沼ノ平館に落延びた。「沼ノ平館の戦い」では、最上義光勢の攻撃を撃退した。日吉姫が、最上義光勢に捕縛されると、降伏して最上義光に仕えた。

東海林昌勝【しょうじまさかつ(15??~15??)】

東海林成盛の男。通称二郎。 
 
東海林光勝【しょうじみつかつ(15??~15??)】

東海林昌勝の男。官途は豊後守。1622年、最上義俊が改易処されると、酒井忠勝に仕えた。

東海林光信【しょうじみつのぶ(15??~15??)】

東海林光勝の男

新関久正【しんかいひさまさ(1568~1624)】

最上義光家臣。村山郡若木館主。官途は因幡守。1574年、「最上天正の乱」では、最上義守勢に属した。1602年、櫛引郡藤島城主に任じられ6,500石を領した。1607年、赤川右岸に因幡堰を開削し、庄内平野の水田を潤した。1611年、北楯利長のもとで立谷沢川の水を田川郡北辺の平野部に用水を引いた。1614年、「一栗高春の乱」で志村光清、下吉忠が謀殺されると、一栗高春を追討した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、土井利勝に預けられ、古河で病没した。

進藤安清【しんどうやすきよ(1554~1614)】

志村光安家臣。進藤館主。官途は但馬守。家老職を務め1,500石を領した。1611年、領内検地で川北地方を担当した。1614年、「一栗高春の乱」では、一栗高春勢の攻撃を受け鶴ヶ岡城下の新関因幡守の屋敷で進藤安清ととものに討死した。

須川三次郎【すがわさんじろう(15??~16??)】

楯岡満茂家臣。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。

鈴木光弘【すずきみつひろ(15??~15??)】

最上義光家臣。官途は備後守。家老職を務め漆山館1,500石を領した。斎藤光則とともに新田開発を指令する文書を発給した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、伊達政宗に仕えた。

鈴木治右衛門【すずきじえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。『最上義光分限帳』では、1,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されたあとも最上義俊に仕えた。

須藤茂矩【すどうしげのり(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は伊予守。通称市兵衛。
 
須藤茂實【すどうしげみ(15??~15??)】

須藤茂矩の男。通称市右衛門。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。

角川与次郎【すみかわよじろう(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡阿部館主。

関三郎兵衛【せきさぶろうひょうえ(15??~1600)】

最上義光家臣。1600年、「鳥屋ヶ森城の戦い」では、樋口兼続勢の攻撃を受け衆寡敵せず討死した。

芦沢織部【せりざわおりべ(15??~15??)】

村山郡芦沢館主。最上義光が尾花沢盆地に勢力を拡大すると最上義光に仕えた。1622年、最上義康が改易処分に処されると、帰農した。

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【た】

高楯正福【たかだてまさとみ(1559~1615)】

村山郡高楯城主。官途は遠江守。高楯城2,500石を領した。1614年「大坂夏の陣」には、最上家親に属して参陣した。

高楯俊福【たかだてとしとみ(15??~15??)】

高楯正福の男。官途は遠江守。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、最上義俊に従って近江国大森に赴いた。高楯俊福の娘は、最上義俊の次男である最上義長に嫁いだ。

高玉茂兵衛【たかたまもへい(15??~15??)】

鮎貝盛宗の次男。1587年、甥の鮎貝宗信が謀反を起こすと、兄鮎貝宗重を匿った。

高橋石見守【たかはしいわみのかみ(15??~15??)】

延沢満重家臣。村山郡上柳渡戸館主。延沢満重が尾花沢盆地に勢力を拡大する過程で、延沢満重に属した。上柳渡戸館は延沢銀山を押さえるとともに、古来より陸奥国と出羽国を結ぶ軽井沢越えの交通要所として重要な役割を果たした。

高橋但馬守【たかはしたじまのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。1,000石を領した。高橋但馬守の娘が最上義光の継嗣最上義康に嫁いだ。1622年、最上義俊が改易処分に処されと、帰農した。

高橋伊賀守【たかはしいがのかみ(15??~1644)】

最上義光家臣。川北三奉行。安部越中守、斎藤筑後守とともに川北三奉行として活躍した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、松平忠長に仕えた。

竹井時友【たけいときとも(15??~15??)】

土佐林禅棟家臣。1571年、「谷地館の戦い」では、謀反を起こし谷地館に籠城したが、武藤義氏勢勢の反撃を受け捕縛された。

出羽武田兵庫介【たけだひょうごのすけ(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡築館主。

出羽武田河内守【たけだかわちのかみ(15??~15??)】

清水義氏家臣。最上郡京塚館主。

楯岡満茂【たておかみつしげ(1547~1639)】

村山郡楯岡城主。官途は豊前守。1586年、「有野峠の戦い」では、小野寺義道の侵攻を最上義康とともに苦戦しながらも撃退した。1595年、「湯沢城の戦い」では、最上義光勢の総大将として小野寺義道勢の湯沢城を奪取し居城とした。1600年、「長谷堂城の戦い」では、小野寺義道に対する押さえとして楯岡城を守備した。役後、雄勝郡は佐竹義宣の所領になり由利郡が最上義光領となった。1603年、赤尾津城45,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠世に預けられた。

楯岡光直【たておかみつなお(1565~15??)】

最上義守の四男(楯岡満茂の養子)。官途は甲斐守。治水、開削、内政などに手腕を発揮した。1600年、「長谷堂城の戦い」では、楯岡光直は700挺の鉄炮隊を含む1000余りを率いて甥清水義親とともに参陣して志村光安を支援した。1618年、楯岡城16,000石を領した。最上家親が鷹狩りの後楯岡城に立ち寄った。最上家親は楯岡光直の饗応を受けたが、その夜最上家親が急死した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、細川忠利に預けられた。

楯岡満広【たておかみつひろ(15??~16??)】

楯岡満茂の弟。官途は長門守。1600年、「長谷堂城の戦い」後、矢島城3,000石を領した。兄楯岡満茂も由利郡40,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、楯岡満茂、楯岡満広兄弟は酒井忠世に仕えた。
 
楯岡信義【たておかのぶよし(15??~16??)】

寺内遠江守の男(楯岡満広の養子)。室は楯岡満広の娘。

楯岡弘盛【たておかひろもに(15??~16??)】

楯岡信義の次男(細井弘盛の養子)。渋江政光の内室に養育された。

谷柏直家【たにやなおいえ(1551~1610)】

最上義守家臣。村山郡谷柏館主。官途は相模守。谷柏館4,000石を領した。1570年、伊達晴宗、伊達輝宗への斡旋の使者として最上義守より派遣され、和解工作を行うなど外交面で活躍した。1574年、最上義光、伊達輝宗の和議の場にも列席した。1600年、「谷柏城の戦い」で樋口兼続勢の攻撃を受けたが城を守り抜いた。

丹政直【たんまさなお(15??~15??)】

最上義光家臣。通称惣左衛門。金山城3,000石を領した。金山城は仙北地域の小野寺家に対する備えとしてを築城された。1600年「関ヶ原の役」では、金山城を守備した。「越後長尾景勝討伐」のため山形城に参集した奥羽諸将が自領に戻ろうとするのを、寡兵にて足留めした。

筑紫喜叶斎【つくしきうんさい(15??~1600)】

最上義光家臣。兵法者として諸国をまわり、その後最上義光に仕えた。1600年、「長谷堂の戦い」に参陣したが、長尾景勝勢が撤退する際、臆病者と罵倒されたため、最上義光の前で討死した。参考文献:『戦国時代人物事典』by学研。

鳥海信道【ちょうかいのぶみち(15??~1600)】

最上義光家臣。通称勘兵衛尉。1594年、湯沢城主小野寺孫七郎の弟小野寺孫作を討取る戦功を挙げた。1598年、鮭延秀綱の仲介により、最上義光の内室(北の方)の女房衆(花輪)を内室に迎えた。1600年、「長谷堂城の戦い」に参陣して鮭延秀綱を守るため樋口兼続勢と戦って討死した。花輪は、鳥海信道の葬儀後、自害した。参考文献:『戦国時代人物事典』by学研。

角沢伊勢守【つのざわいせのかみ(15??~1614)】

最上義光の三男。角沢館主。1603年、清水義親の附家老職を務めた。1614年、父最上義光が病没すると、清水義親は兄最上家親と対立した。「清水城の戦い」で清水義親が討死すると念仏坂で自刃した。

手塚源右衛門【てづかげんえもん(15??~15??)】

鮎貝盛宗家臣。置賜郡平吹館主。1542年、「伊達天文の乱」では、鮎貝盛宗とともに伊達植宗勢に属した。1591年、伊達政宗の岩出山城転封には従わず帰農した。

寺内近江守【てらうちおうみのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。川北三奉行。1616年、川北三奉行の安部越中守が病没すると、その後任を務めた。1622年、最上義俊が改易処分に処されるまで、川北三奉行は、斎藤筑後守、高橋伊賀守、寺内近江守の三名体制となった。

寺津秀清【てらづひできよ(15??~1584)】

村山郡寺津城。官途は甲斐守。1584年、天童頼澄に属して最上義光に討たれた。

天童頼長【てんどうよりなが(1499~1564)】

村山郡舞鶴城主。天童頼道の男。最上八楯。1514年、「長谷堂城の戦い」で伊達稙宗が最上義定を攻撃すると天童頼長は、最上義定勢に従って戦ったが敗れた。1521年、「舞鶴城の戦い」では、伊達稙宗、芦名盛滋勢の攻撃を受け落城した。最上義守が最上家の家督を相続すると、これを支援した。

天童頼貞【てんどうよりさだ(1533~1583)】

天童頼道の次男。官途は和泉守。室は白鳥義広の娘。継室は国分盛氏の娘。天童頼長の病没後、天童家の家督を相続した。1574年、「天正最上の乱」では、最上義守、中野義時勢に属した。最上義守と最上義光が和議を結ぶと、これを不服として反乱を起こした。1574年、「寒河江城の戦い」では、延沢城主延沢満延、村山飯田城主飯田綱親、尾花沢城主尾花沢頼国、楯岡城主楯岡満茂、長瀞城主長瀞義保、六田城主六田定兼、成生城主成生伯耆守、援軍の伊達輝宗勢とともに寒河江城を攻落とした。1577年、最上義光の天童城侵攻を跳ね返し、最上義光は天童頼貞の娘(綾姫)を側室として迎えて和睦した。

天童頼澄【てんどうよりずみ(15??~15??)】

天童頼貞の男。官途は甲斐守。別名天童頼久。室は細川直元の娘。天童頼澄は最上義光と対立を続け、舞鶴城の堅固さを誇って臣従を拒否した。天童家臣で剛勇の武将、延沢満延に嫡男延沢光昌と最上義光の娘の縁組を持ち掛けて内応させた。1584年、最上義光は八楯を切り崩し、天童頼澄は敗北、千代城主国分盛重の元に落延び伊達政宗に仕えた。1585年、天童頼澄は「人取橋の戦い」で戦功を挙げた。天童頼澄の跡は留守政景の次男留守重頼が継いだ。

東禅寺義長【とうぜんじよしなが(1544~1588)】

飽海郡東禅寺(酒田)城主。武藤晴時家臣。官途は筑前守。別名前森蔵人。室は武藤義氏の娘。1541年、武藤晴時の病没後、土佐林禅棟らと共に武藤義氏を擁立した。武藤義氏の度重なる外征や酒田湊の利権を巡って不満を募らせ、ついには反旗を翻し尾浦城の義氏を攻めて自害に追い込んだ。1583年、最上義光に内応して弟東禅寺勝正と共に主武藤義氏を謀殺した。この際、庄内の諸豪族、国人衆のほとんどがこれに同調した。武藤義氏の弟武藤義興と対立した。1587年、最上義光勢の援助を得ることで武藤義興も謀殺し、本庄繁長の子を養子(武藤義勝)に迎えて長尾景勝との結びつきを強めた。その後、最上義光によって庄内支配を任されが、恩賞配分に対する不服などから、庄内の国人衆に反発された。1588年、本荘繁長、武藤義勝による「庄内侵攻」を受け「十五里ヶ原の戦い」で討死した。

東禅寺勝正【とうぜんじかつまさ(1549~1588)】

東禅寺義長の弟。官途は右馬頭。1583年、兄東禅寺義長と共に武藤義興を謀殺した。その後、尾浦城を東禅寺義長から任された。1588年、本荘繁長による「庄内侵攻」を受け「十五里ヶ原の戦い」で敗北した。本庄繁長に一太刀浴びせようと名刀「正宗」と味方の頸を片手に敵陣へ潜入し、頸実検装い、本庄繁長に斬りつけたが「明珍」の甲冑に阻まれ、逆に本庄繁長に討取られた。東禅寺勝正の名刀「正宗」は本庄の手に渡り「本庄正宗」と呼ばれ、のち徳川紀州家に伝えられた。

富樫七右衛門【とがししちろうざえもん(15??~15??)】

北楯利長家臣。富樫道益の弟。1614年、一栗高春が謀反を起こすと「添川城の戦い」に参陣した。一栗高春の家臣二名の頸を取る戦功を挙げた。その後、酒井忠勝に仕え150石を領した。

土佐林禅棟【とさばやしぜんとう(15??~1571)】

田川郡藤島城主。官途は能登守。土佐林家は羽黒山の別当職を務めていた家柄で、武藤家と同等の勢力を誇っていたが、武藤晴時との抗争に敗れて臣従し、その筆頭家老となった。1541年、武藤晴時が帰洛後、病没したとき、武藤義増を家督に相続させるために奔走した。1568年、武藤義増と長尾景虎の和議により春日山城に人質として赴いた。武藤義増が継嗣武藤義氏に家督を譲ったため、その補佐として庄内に留まった。1571年、武藤義氏勢の攻撃を受けて討死した。

土佐林氏頼【とさばやしうじより(15??~1570)】

土佐林禅棟の男。官途は宮内少輔。父土佐林禅棟より先に病没した。

土佐林時助【とさばやしときすけ(15??~15??)】

土佐林禅棟家臣。官途は掃部助。1569年、本庄繁長が謀叛を起こすと、これを討伐するため越後国に赴き戦功を挙げた。

土佐林明三【とさばやしめいさん(15??~15??)】

土佐林禅棟家臣。通称荷雲斎。1572年、武藤義氏の意向を受け使者として小野寺義通のもとに赴いた。

鳥越武種【とりごえたけたね(15??~15??)】

清水義氏家臣。鳥越館主。通称九右衛門。別名小田嶋武種。馬上衆47人衆筆頭として1,300石を領していた。1614年、清水城主清水義親が最上家親によって謀殺された後、最上家親に馬廻衆として5,000石を領した。1622年、最上義俊が改易になり近江国大森に転封となった際もこれに従った。

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【な】

長岡但馬守【ながおかたじまのかみ(15??~1614)】

最上義光家臣。最上義光に仕え200石を領した。1614年、最上義光が病没すると、その墓前で殉死した。

長岡番内【ながおかばんない(15??~15??)】

長岡但馬守の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、酒井忠勝に150石で仕えた。

長沢祐種【ながさわすけたね(15??~15??)】

最上義守家臣。村山郡長沢館主。官途は監物。

長沢常陸守【ながさわひたちのかみ(15??~15??)】

長沢祐種の男。最上義光に仕えた。継嗣のめぐまれず、最上義光の意向を受け羽黒山衆徒の長沢仁兵衛尉を養子に迎えた。

長沢仁兵衛尉【ながさわじんひょうえのじょう(15??~15??)】

長沢常陸守の養子。1622年、最上義俊が改易処分に処されると帰農した。

長澤光勝【ながさわみつかつ(15??~1631)】

楯岡満茂家臣。官途は若狭守。1622年、最上義俊の改易処分の処されると、佐竹義宣に仕えた。

長澤光定【ながさわみつさだ(15??~15??)】

長澤光勝の男。

中条長昌【なかじょうながまさ(15??~15??)】

村山郡谷地城主。中条長昌嫡子が無く、白鳥城主白鳥長久に谷地城を譲った。

長瀞左衛門【ながとろさえもん(15??~1584)】

天童頼貞家臣。村山郡長瀞城主。最上八楯。1584年、「天童城の戦い」で天童頼澄が最上義光勢に敗れ国分盛重のもとに落延びると、長瀞城も攻撃を受け討死した。

長瀞義保【ながとろみつただ(15??~1591)】

最上義守の三男。1584年、「天童城の戦い」で天童頼澄が国分盛重のもとに落延びると、兄最上義光の意向を受け、長瀞家の家督を相続した。

長瀞光忠【ながとろあきただ(15??~15??)】

長瀞義保の男。1596年、「湯沢城の戦い」で楯岡満茂が小野寺義道勢の攻撃を受けると、小国光基とともに救援に赴いてこれを撃退した。

中野義清【なかのよしきよ(15??~15??)】

村山郡中野館主。中野義建の男。1514年、「長谷堂城の戦い」で最上義定が伊達稙宗勢に敗れると、最上義定は中野義清の継嗣、最上義守を養子に迎え、最上惣領家の家督を相続させ隠居した。1534年、焼失した立石寺の再建を行った。

中野義時【なかのよしとき(1550~1575)】

最上義守の次男(中野義清の養子)。父最上義守の実家の中野家の家督を相続した。最上義守が中野義時に家督を譲ろうとしたが、氏家定直の調停により、最上義守が隠居し、最上義光が最上惣領家の家督を相続することになった。1574年、「天正最上の乱」では、最上義守が次男中野義時を擁立されて、最上義光と争ったが、伊達輝宗勢が最上義光を支援したため、天童頼貞、白鳥長久、蔵増頼真、延沢満延らが離反した。1575年、「中野城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受け自刃した。

中村玉五郎【なかむらたまごろう(15??~15??)】

蔵増光忠家臣。要害館主。蔵増光忠の叔父。

中山朝政【なかやままよりまさ(1516~1583)】

寒河江兼広家臣。村山郡長崎城主。官途は玄蕃頭。渋谷懐良に乗っ取られていた長崎城を奪還した。領民からの尊崇厚く「玄蕃様」と慕われていた。

中山朝正【なかやまともまさ(15??~16??)】

中山朝政の男。官途は玄蕃。別名中山播磨守。父中山朝政の跡を継いで長崎城主。1581年、「」最上義光が寒河江高基を攻めた際、寒河江高基に属したが敗北した。1584年、寒河江家滅亡により最上義光に仕えた。1586年、「尾浦城の戦い」では、東禅寺義長らとともに武藤義興を攻め滅ぼし尾浦城主となった。1588年、「十五里ヶ原の戦」では、本荘繁長勢と戦い大敗した。1600年、「長崎城の戦い」では、長崎城を守備したが、樋口兼続勢の攻撃を受けて落城した。

中山光信【なかやまあきのぶ(15??~1641)】

中山朝正の男。官途は主膳。通称七左衛門。父中山朝正とは別に1,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、阿部正次に仕えて家老職を務めた。

鍋倉秀道【なべくらひでみち(15??~1635)】

最上義光家臣。通称治兵衛。室は高倉盛次の娘。200石で仕えた。1622年、最上義俊の改易処分に処されると、佐竹義宣に80石で仕えた。

鍋倉盛成【なべくらもりなり(1606~1682)】

鍋倉秀道の次男(高倉盛次の養子)。別名高倉為盛。室は高倉盛次の娘。後に大浦家家老職を務めた。1622年、母方の祖父高倉盛次の養子となって、大浦信枚に仕えた。高倉盛次が大浦信枚の叱責を受け改易に処された。1640年、大浦信義に300石で仕えた。1649年、家老職に任じられ800石を領した。1656年、大浦信義が病没すると、大浦信英の黒石分地を円満に解決した。

行沢式部【なめさわしきぶ(15??~15??)】

延沢満延家臣。行沢館主。行沢館1,000石を領した。

成生伯耆守【なりせいほうきのかみ(15??~15??)】

天童頼貞家臣。村山郡成生館。1577年、「天童城の戦い」では、天童頼貞らとともに最上義光勢を撃退した。1584年、「天童城の戦い」では、延沢満延、倉津安房守らとともに最上義光勢に内応した。

成沢道忠【なりさわみちただ(1548~1617)】

最上義光家臣。成沢城5,000石を領した。武藤義氏の属将余目城主安保余太郎兄弟と戦いこれを破った。1578年、「山形城の戦い」では、伊達輝宗、上山満兼勢の攻撃を受けると、最上義光、伊良子宗牛らとともに籠城してこれを撃退した。1580年、鮭延秀綱とともに庄内に侵攻して、安保能形勢と戦った。1614年、最上義光の病没後、一栗高春らとともに清水義親を擁立して最上家親と争った。謀反は失敗に終わり一栗高春らとともに落延びた。

新関久正【にいぜきひさまさ(15??~16??)】

最上義光家臣。官途は因幡守。原美濃守とともに最上義光の隠居城である鶴ヶ岡城築城の奉行を務め、鶴ヶ岡城代6,500石を領した。1607年、治水工事も重要性を認識していた北楯利長によって進められた。庄内赤川灌漑を行った新関久正の作った堰は「因幡大堰」と称された。1614年、一栗高春が謀叛を起こすと鎮定に赴いた。

新関成正【にいぜきなりまさ(15??~16??)】

新関久正の男。官途は豊後守。1614年、「添川館の戦い」では、先陣として駆けつけ一栗隆春勢と戦い戦功を挙げた1622年、最上義俊が改易処分に処されると、父新関久正とは別れて庄内に残り、鼠ケ関の郷士となったが、のちに酒井忠勝に仕えて150石を領した。

新田公平【にったきみへい(15??~15??)】

寒河江高基家臣。村山郡新田館主。1584年、「寒河江城の戦い」では、寒河江高基に従って最上義光勢と戦ったが敗れ常陸国に落延びた。

庭月綱任【にわつきつなこれ(15??~15??)】

鮭延貞綱家臣。最上郡庭月城主。官途は和泉守。1565年、鮭延貞綱が侵攻した尾浦城主武藤義増に敗れて、本城を真室城に移し、庭月城主に庭月綱任を任じた。最上義光の支援を受けた清水城主清水義氏が侵入し、庭月館は清水家領との「境目の城」となった。1581年、小国郷を制圧した最上義光は、鮭延郷制圧した。

庭月広綱【にわつきひろつな(15??~1650)】

庭月綱任の男。通称理右衛門。1581年、鮭延秀綱が最上義光に寝返ると、最上義光の誘いを受けたが、断ったために氏家守棟の攻撃を受けた。1622年、最上義俊が改易改易処分に処されると、庭月城1,200石を失った。

庭月道綱【にわつきみちつな(15??~15??)】

庭月綱任の次男。

庭月綱親【にわつきつなちか(15??~15??)】

庭月綱任の三男。

沼沢藤左衛門【ぬまざわとうざえもん(15??~15??)】

延沢満延家臣。1622年、最上義俊の改易により延沢光昌は加藤家にお預けとなり、これに供をして熊本に移ったが、後に羽前国に帰国した。1626年、延沢光昌が熊本にて病死した際、沼沢藤左衛門の弟沼沢助左衛門がその最期を看取り、遺骨を持ち帰った。

沼沢新左衛門【ぬまさわしんざえもん(15??~15??)】

清水義氏家臣。沼沢館主。馬上衆47人衆。1614年、清水城主清水義親が最上家親によって滅ぼされた後、最上家親に仕えた。

根清光【ねきよみつ(15??~15??)】

白鳥長久家臣。1577年、白鳥長久は根清光を上洛させ、織田信長に白雲雀という良馬を献じてそ の機嫌を伺った。織田信長信長は大いに喜び、種々答礼の品々を贈り、更に鶴取り、鴻取りの逸物の鷹を所持 していることを聞いて所望した。

延沢満重【のべさわみつしげ(1503~15??)】

天童頼長家臣。最上郡延沢城主。官途は薩摩守。最上八楯の旗頭。領内には延沢銀山があり石高以上の実力を持っていた。天人清水に現れた天女の羽衣を隠して内室とした。1547年、延沢城を築城した。

延沢満延【のべさわみつのぶ(1544~1591)】

延沢満重の男。官途は能登守。別名野辺沢満延。武勇に優れ、最上義光を天童頼澄らとともに何度も撃退した。1584年、最上義光は、延沢満延を内応させるため娘の松尾姫を延沢光昌に嫁がせた。延沢満延は降伏の条件として天童頼澄の助命を願い出た。延沢満延を失った最上八楯は崩壊し、天童城は陥落し、天童頼澄は国分盛重を頼って落延びた。1590年、最上義光に従って上洛した京都で病没した。

延沢光昌【のべさわあきまさ(1568~16??)】

延沢満延の男。官途は遠江守。通称又五郎。別名野辺沢康満。室は最上義光の娘(松尾姫)。1591年、父延沢満延の病没にともない延沢城20,000石の家督を相続した。1600年、「長谷堂合の戦い」に参陣した。1609年、「清水城の戦い」では、清水義親が籠城する清水城を攻撃して、清水義親を自刃に追い込んだ。1622年、最上義俊の改易処分に処されると、加藤忠広に預けられた。

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【は】

原忠重【はらただしげ(15??~1565)】

村山郡八ッ沼城主。官途は甲斐守。1565年、和合秋広が最上義光に八ツ沼城主原忠重と鳥屋ヶ森城主岸美作守が謀反を企ていると讒言した。最上義光は兵5,000余りを率いて出陣し「五百川の戦い」が起きた。原忠重勢は家臣の小関加衛門、客僧羽黒弁寛とともに戦ったが多勢無勢で、八ツ沼城、鳥屋ヶ森城び両城が落城、原忠重は討死した。

原兼道【はらかねみち(15??~1565)】

原甲斐守の男。通称半兵衛。1565年、鳥屋ヶ森城主貴志美作守の娘(弥生姫)との婚約が成立していたが、和合城主和合秋広が弥生姫を奪おうとしたが失敗。和合秋広が最上義光に八ツ沼城主原忠重と鳥屋ヶ森城主貴志美作守が謀反を企ていると讒言した。最上義光は兵5,000余りを率いて出陣し「五百川の戦い」が起きた。原忠重勢は家老小関加衛門、客僧羽黒弁寛共に戦ったが多勢無勢で、八ツ沼城、鳥屋ヶ森城び両城が落城、原兼道は討死、弥生姫も城の崖から飛び降り自刃した。

半田助左衛門【はんだすけざえもん(15??~15??)】

東根頼景家臣。1600年、「東根城の戦い」では、直江兼続の家臣下吉忠勢の攻撃を受けた。東根景佐は山形城に籠城していたため、半田助左衛門が奇略を用いて下吉忠勢を度々撃退した。新関新五右衛門を一騎打ちで討取る戦功を挙げた。

東根景息【ひがしねかげそく(15??~15??)】

置賜郡東根城主。東根景宗の男。

東根頼景【ひがしねよりかげ(15??~1581)】

天童頼貞の次男(東根景息の養子)。最上八楯。延沢満延が最上義光に内応すると、天童頼澄勢の他の国人衆も次々に最上義光勢に寝返った。東根頼景は、最上義光勢との戦いを継続した。1581年、家臣東根景佐の謀反に遭い謀殺された。

東根景佐【ひがしねかげさ(15??~16??)】

東根景息の男。官途は薩摩守。通称源右衛門。別名里見源右衛門。室は小国日向守の娘。1581年、最上義光に内応して東根頼景を討取り、東根城主となった。

東根親宜【ひがしねちかのり(15??~1663)】

東根景佐の男。通称源右衛門。室は最上義光の四女(禧久姫)。父東根景佐の家督を継いで東根城12,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、蜂須賀家政に預けられた。後に蜂須賀家政に仕え、中老職を務め1,000石を領した。

日野光綱【ひのあきつな(1577~1666)】

村山郡新庄城主。天童頼澄家臣。官途は将監。別名日野定重。最上四十八館のひとり。天童頼澄の滅亡後、最上義光に仕え3,000石を領した。1584年、寒河江高基が討死、枝連衆沼田城主日野左京亮も最上義光に降り最上義光に降った。1614年、延沢光昌と共に清水義親を攻め自刃させ、清水義親の遺領は最上家の蔵入地となったが、日野光綱が管理した。1622年、最上義俊の改易後は藤堂高虎に仕えた。

日野光久【ひのびっちゅうのかみ(15??~15??)】

最上義光家臣。塩ノ沢館主。官途は備中守。室は中山玄蕃の娘。1612年、庄内川南地域と由利郡の検地を担当し、庄内支配の実務を担った。由利郡の検地では54,800石を打ちだし「備中棹」の異名を取ったが、苛酷に過ぎて矢島の百姓らは仙北郡に逃散した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、藤堂高虎に仕えた。

日野栄信【ひのさきのぶ(15??~16??)】

日野光久の男。通称十兵衛。別名休甫入道。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、伊達政宗家臣の片倉重長に仕え家老職を務めた。

日野親直【ひのちかなお(15??~16??)】

日野光久の三男。通称彦市郎。別名富並親直。室は谷柏光直の娘。谷柏相模守光直の娘を娶り富並城3,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、浪人となり伊達郡桑折で病没した。

日野数馬【ひのかずま(15??~15??)】

最上義光家臣。日野光久枝連衆。1,000石を領した。1622年、最上義俊の改易後は、鳥居忠政に150石で仕えた。

日野惣左衛門【ひのそうざえもん(15??~15??)】

日野光綱家臣。3,000石を領した。

日向将監【ひむかいしょうげん(1584~1640)】

日向越中守の男。1622年、最上義俊が改易処分に処されると浪人となった。叔父の北楯利長が酒井忠勝から仕官を断り、日向将監を推挙した。酒井忠勝に仕え御郡奉行として100石を領した。

平山忠方【ひらやまただかた(15??~15??)】

楯岡満茂家臣。官途は将監。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、楯岡満茂が酒井忠世に預けられうとそれに従った。
 
平山忠安【ひらやまただやす(15??~15??)】

平山忠方の男。通称仁兵衛。1622年、最上義俊の改易後、楯岡満茂が酒井忠世に預けられるとそれに従った。楯岡満茂が酒井忠勝に仕えると、再び家臣として庄内に戻った。楯岡満茂の病没後、酒井家を離れて秋田に移り、佐竹義宣に仕えた。

古館女三【ふるやかたにょさん(15??~15??)】

最上義光家臣。法師武者として最上義光に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、最上義光が築いた古館城主で2,000石を領した。

広川喜右衛門【ひろかわきちざえもん(15??~15??)】

志村光安家臣。志村光安の男。通称彦五郎。り数々の戦いに参陣して戦功を挙げた。1622年、最上義俊が改易処分に処されると酒井忠勝に仕えた。

平山忠方【ひらやまただかた(15??~16??)】

楯岡満茂家臣。官途は将監。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、上州厩橋に楯岡満茂がに流されるとそれに従った。

平山忠安【ひらやまただやす(15??~16??)】

平山忠方の男。通称仁兵衛。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、上州厩橋に楯岡満茂が流されるとそれに従った。楯岡満茂が酒井忠勝に仕官すると、再び楯岡満茂に仕えた。楯岡満茂が病没すると佐竹義宣に仕え茶屋免許大番組を務めた。

宝幢寺尊海【ほうどうじそんかい(15??~15??)】

宝幢寺住職。別名宝幢御坊。1574年、最上義光の使者を務め、伊達輝宗のもとに赴いた。1584年、「天童城の戦い」では、最上義光勢が立谷川を増水のため進軍ができないでいたところが、尊海の祈祷により増水が収まった。天童頼澄勢が喜太郎狐の幻術を使って最上義光勢を惑わしたのを、犬を使ってこれを打ち破った。この戦功により、天童愛宕神社の別当に任じられ1,370石の寺領を領した。

小国細川直元【ほそかわなおもと(15??~1581)】

最上郡小国城主。官途は摂津守。天童頼澄ら最上八楯とともに最上義光と対立した。1574年、「天正最上の乱」では、最上義守、中野義時勢を支援したが敗れ、降伏した。1581年、「小国城の戦い」では、最上義光の家臣蔵増光忠に率いられた3,500余りの攻撃を受けた。「万騎ヶ原の戦い」では、弟の細川直茂らとともに350余りで迎撃したが大敗を喫して小国城も落城した。

小国細川直茂【ほそかわなおもり(15??~1581)】

最上郡志茂手館主。官途は帯刀。1581年、「万騎ヶ原の戦い」では、兄小国細川直元とともに最上義光勢と戦うが討死した。

堀喜吽【ほりきうん(15??~1600)】

最上義光家臣。別名筑紫喜吽。御伽衆。兵法家として諸国を巡り、今判官と称した。連歌にも長じており、最上義光とともに京での連歌会に出席した。1600年、「関ヶ原の役」では、撤退する直江兼続勢に対し自ら先頭に立って追撃する最上義光を諌めたが、逆に臆病者と罵倒されたため単騎で突撃したところを、鉄炮隊に撃ち抜かれ、最上義光の前で討死した。

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【ま】

丸岡民部大輔【まるおかみんぶだうふ(15??~15??)】

武藤晴時家臣。田川郡宮内館主。一ノ宮大物忌社司職。

溝延時茂【みぞのべときもり(15??~15??)】

寒河江兼広家臣。村山郡溝延城主。溝延孝政の男。1561年、寒河江城主兼広、白岩城主宗広とともに慈恩寺の檀家衆。1574年、「天正最上の乱」では、寒河江兼広の家臣ながら謀反を起すなど独自性を強かった。

溝延茂信【みぞのべもりのぶ(15??~15??)】

溝延時茂の男。室は白鳥長国の娘。1584年、「寒河江城の戦い」で寒河江高基が討死すると、最上義光が溝延越中守を5,000石で配した。

水戸太郎左衛門【みとたろうざえもん(15??~15??)】

東海林昌種家臣。村山郡水沢館主。1587年、谷地城主白鳥長久の娘(日吉姫)奪還する際、東海林昌種が水戸太郎左衛門に守備を命じた。

宮内内蔵丞【みやうちくらのじょう(15??~15??)】

最上義光家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」後、高櫤城主に任じられ4,000石を領した。馬上八騎、鉄炮二十挺、弓四張、鑓四十八本の軍役を負担した。

向田光之【むこうだあきゆき(15??~1600)】

最上義光家臣。通称八郎左衛門。1600年、「畑谷城の戦い」で最上義光の意向を受け、援軍として派遣された。畑谷城が落城したため、山形城に撤退した。鬼越の地まで戻ってきた時、霞で煙った山形城を見て落城したものと勘違いし、その場で自刃した。

武藤晴時【むとうはるとき(1512~1541)】

田川郡鶴ヶ岡城。大宝寺澄氏の男。官途は左京大夫。別名大宝寺時氏。羽黒山別当職を務め、羽黒山の権威を利用して勢力を拡大した。1518年、砂越家の家督を相続した砂越氏維が、安保能形や来次時秀と結び武藤晴時と戦った。1533年、「大宝寺城の戦い」で砂越氏維勢の攻撃を受け大宝寺城が焼失した。幕府への貢物が功を奏し左京大夫に任官され、後に上洛して将軍に謁見したが、帰国してまもなく早逝した。

武藤義増【むとうよします(15??~1581)】

武藤左京亮の男。1541年、武藤晴時から武藤惣領家督を相続した。1568年、「本庄繁長の乱」では、本庄繁長勢に属して長尾景虎勢と戦ったが、敗れて武藤義氏を人質に出し和議を結んだ。1565年、「本合海の戦い」では、清水城主清水義高を討取
る戦功を挙げた。

武藤義氏【むとうよしうじ(1551~1583)】

武藤義増の男。官途は出羽守。通称四郎次郎。長尾景虎勢の支援を受け最上義光、安東愛季らと戦った。1579年、馬、鷹を中央の織田信長に献上するなど、外交も重視した。領内には重い税負担を強いたため、領民から「悪屋形」と称された。1583年、「尾浦城の戦い」では、最上義光勢に内応した東禅寺義長勢の攻撃を受け自刃した。

武藤義興【むとうよしおき(15??~1587)】

武藤義増の次男。官途は兵庫頭。別名丸岡兵庫。1583年、武藤義氏が討死したため、武藤家の家督を相続した。1587年、本荘繁長の次男本荘義勝を養子に迎え、長尾景勝と結んだ。1587年、「東禅寺城の戦い」で東禅寺氏永を追い詰めるが、最上義光勢の攻撃を受け討死した。

武藤義勝【むとうよしかつ(1573~1623)】

本庄繁長の次男(武藤義興の養子)。1587年、養父武藤義興が最上義光に寝返った東禅寺義長勢に討取られると、小国城に落延びた。1588年、「十五里ヶ原の戦い」では、本庄繁長の支援を受けて東禅寺義長、東禅寺勝正らを討取った。1588年、羽柴秀吉に拝謁し、太刀などを献上した。1591年、一揆を扇動した嫌疑を受け改易処分に処された。1592年、「文禄の役」に参陣して、長尾景勝に仕えた。

最上義定【もがみよしさだ(1492~1520)】

村山郡山形城主。最上義淳の男。室町幕府羽州探題職。室は山野辺直広の娘。継室は伊達尚宗の娘。1504年、寒河江宗広が内紛を起すと、介入してこれを降伏させた。1514年、「長谷堂城の戦い」で伊達稙宗勢の攻撃を受け山野辺直広、吉川政周らが討死した。1515年、伊達尚宗の娘を娶って和議を結ぶが、以後は伊達稙宗の影響力により最上義定の勢力は衰退した。

最上義守【もがみよしもり(1521~1590)】

中野義清の男(最上義定の養子)。官途は右京大夫。室は大崎義兼の娘(蓮心院)。1520年、養父の最上義定が嗣子の無いまま没すると、伊達稙宗勢が最上家に勢力を伸ばした。「上山城の戦い」では、上山義房が寒河江孝広、天童頼長らとともに伊達稙宗から離反した。1522年、最上義守が最上惣領家の家督を相続した。1560年、「寒河江城の戦い」で寒河江兼広を攻撃したが大敗した。1574年、「天正最上の乱」では、次男の中野義時を擁して継嗣の最上義光と戦ったが、敗れて最上義光に家督を譲って隠居した。

最上義光【もがみよしあき(1546~1614)】

最上義守の男。官途は出羽守。通称二郎太郎。室は大崎義直の娘(釈妙英)。1574年、「天正最上の乱」では、父最上義守が弟中野義時を擁して最上義光と戦った。最上義光が最上惣領家の家督相続して、最上義守の隠居により内戦が終結した。1577年、天童頼澄らを滅ぼして強力な権力集中を図った。1583年、庄内に侵攻して武藤義氏、武藤義興と争ったが、本荘繁長勢に大敗した。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉のもとに参陣して本領を安堵される。1594年、羽柴秀次に娘駒を側室として差し出した。1595年、「羽柴秀次事件」で駒姫が処断されて最上義光も謹慎を命ぜられた。最上家親を通じて松平元康に接近した。1596年、小野寺義道と戦った。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康に属した。「長谷堂城の戦い」では、直江兼続勢の攻撃を受けた。1601年、「酒田城の戦い」では、長尾景勝の家臣志駄義秀を追い落した。役後田川郡、飽海郡、由利郡330,000石の加増を受け570,000石を領した。

最上義康【もがみよしやす(1575~1603)】

最上義光の男。1586年、「有屋峠の戦い」では小野寺義道と。1600年、「長谷堂の戦い」では、伊達政宗へ救援依頼に赴き、また越後長尾景勝勢の追撃戦にも参陣した。最上義光の嫡男であったが、最上義光は松平元康に近しい最上家親へ家督を譲ろうと考えた。1603年、父最上義光の意向を受け高野山に向うが、その途次庄内で謀殺された。

最上家親【もがみいえちか(1582~1617)】

最上義光の次男。官途は駿河守。通称太郎四郎。別名最上義親。1594年、松平元康に出仕した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平秀忠勢に属して上田城を攻撃した。1614年、父最上義光の病没したため、最上惣領家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、弟の清水義親が羽柴秀頼と内通したとしてこれを討取った。

最上義俊【もがみよしとし(1606~1632)】

最上家親の男。通称源五郎。1617年、父最上家親が急死したため急遽家督を継ぐが、幼少のこともあって家中は分裂、国政は蔑ろにされた。1622年、家中取締不行届として近江国に減転封された。

望月隼人正【もちづきはやとのしょう(15??~1600)】

最上義光家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、八ッ沼城を守備した。主力が山形城防衛のため不在の中、直江兼続勢の攻撃をよく防いだものの、衆寡敵せず落城、自刃した。

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【や】

谷柏直家【やがしわなおいえ(1551~1610)】

最上義光家臣。谷柏館主。官途は相模守。別名片桐蔵人。最上義光に仕え谷柏館を築いて4,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、飯田信兼らとともに畑谷城救援に向かったが、落城したことを知り、追われて逃げてきた領民を保護した。直江兼続勢の追撃を防ぐために殿として戦っていた飯田信兼が討取られたこと知ると、引き返して飯田信兼の頸を奪い返した。

矢口氏広【やぐちうじひろ(15??~15??)】

砂越氏維家臣。最上郡田沢館主。官途は讃岐守。通称内記。田沢館は、武藤義氏、鮭延秀綱、清水義氏による激しい争奪の場となり、最終的に清水義親から客将として迎えられ鮭延秀綱勢を押えるため、川口館を築いて守備した。

矢口氏忠【やぐちうじただ(15??~1614)】

矢口氏広の男。父矢口氏広の跡を継いで川口館主となった。1614年、「清水城の戦い」で最上義親勢の攻撃を受け清水義親が自刃すると、清水興源院で自刃した。

矢口氏益【やぐちうじます(15??~15??)】

矢口氏忠の男。

矢口権十郎【やぐちぎんじゅうろ(15??~15??)】

清水義氏家臣。

矢口能登守【やぐちのとのかみ(15??~1616)】

清水義氏家臣。升形館主。

矢口長門守【やぐちながとのかみ(15??~15??)】

矢口能登守家臣。家老職を務めた。

山野辺刑部【やまのべぎょうぶ(14??~15??)】

村山郡山野辺城主。1514年、「長谷堂城の戦い」で伊達稙宗勢と戦い討死した。

山野辺直広【やまのべなおひろ(15??~15??)】

山野辺刑部の男。室は寒河江宗広の娘。娘は最上義定に嫁いだが、伊達稙宗と和議を結び伊達稙宗の妹を内室に迎えたため、離縁された。

山野辺義忠【やまのべよしただ(1588~1664)】

最上義光の四男。官途は右衛門大夫。1600年、「関ヶ原の役」では、人質として松平元康のもとに送られた。役後、山野辺家の家督を相続して山野辺城19,300石を領した。山野辺城の拡張改修、城下街の建設と市の開設、釣樋堰に見られるような治水事業、神社仏閣や交通網の整備を行い善政に努めた。1617年、「最上家騒動」では、甥の最上義俊が最上家惣領職を相続したが、人望がなく、鮭延秀綱、楯岡光直らが最上惣領職に山野辺義忠を擁立した。最上義俊の家臣松根光広を追放して事態の収拾を図ったが失敗の終わった。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、松平頼房に仕え10,000石を領して家老職を務めた。

山家師兼【やんべもろかね(15??~1614)】

最上義光家臣。山家城主。官途は河内守。山家城は最上四十八楯のひとつで3,000石を領した。1614年、最上義光が没した際、その墓前にて殉死した四人のうちのひとり。

山家主計【やんべかずえ(15??~15??)】

山家河内守の男。楯岡満茂に仕えた。1622年、最上義俊の改易後は、楯岡満茂に従って酒井忠世に仕え200石を領した。

小山家師時【やんべもろとき(15??~15??)】

小山家城主。山家師兼の弟。室は土肥道近の姉。小山家館700石を領した。1584年、最上義光が天童城を落として天童頼澄を追った後、北部の豪族衆が不穏な動きを示した為、この地に山家師時を配して監視させた。1600年、小山家師時は、夫人の実家増田城主土肥道近を頼って増田へ移住し、後に帰農した。

結城将監【ゆうきしょうげん(15??~15??)】

新城山館主。天童頼澄家臣。1584年、最上義光が天童頼澄を討ち破って天童頼久を滅亡させると最上義光に仕えた。

横尾勘解由【よこおかげゆ(15??~15??)】

志村光安家臣。室は志村光安の娘。1600年、「関ヶ原の役」では、大風右衛門らと共に直江兼続勢に夜襲をかけ、春日元忠の陣を大混乱に陥れた。

吉田藤右衛門【よしだとうざえもん(15??~15??)】

最上義光家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」では、上泉主水と鑓を交えた。1601年、「酒田城の戦い」では、頸一級を挙げる戦功を挙げた。1622年、最上義俊の改易後、酒井忠勝に仕えた。

吉田景長【よしだかげなが(15??~15??)】

最上義守家臣。官途は監物。
 
吉田景定【よしだかげさだ(15??~15??)】

吉田景長の男。太郎左衛門。最上義光に仕えた。
 
吉田定清【よしださだきよ(15??~15??)】

吉田景定の男。通称太右衛門。最上家親に仕えた。1622年、最上義俊の改易後、佐竹義宣に仕えた。

米沢秀久【よねざわひでひさ(15??~15??)】

武藤晴時家臣。1541年、銘の夜燈棹を寄進した。

和田秀友【わだひでとも(15??~1584)】

白鳥長久家臣。通称六郎左衛門。1584年、白鳥長久を守って最上義光勢と戦い討死した。

立石寺円海【りゅうしゃくじえんかい(15??~15??)】

最上郡立石寺住職。1521年、伊達家と最上、寒河江家らと諸族の戦乱がおこり、立石寺が伊達家に味方したことにより天童頼長が立石寺を攻撃し、寺領を侵略し寺中はことごとく破滅した。1543年、立石寺円海(沙門一相坊円海)がその荒廃をなげき、最上義守の実母春還芳公禅尼を大檀那に、比叡山根本中堂の常燈火を立石寺根本中堂に移し、慶長時代に諸堂を修築した。1571年、織田信長の比叡山焼き討ちにより延暦寺の法灯が焼失したさい、逆に分灯した。

出羽留守義氏【るすよしうじ(15??~15??)】

飽海郡新田目城主。武藤晴時家臣。官途は遠江守。1521年、武藤晴時が台頭すると、留守義氏はその麾下に属した。1582年、東禅寺城の東禅寺義長が最上義光に内応してて武藤義氏に謀反を起こした際には、武藤義氏に属した。1586年、武藤義氏が新田目城の北方で戦いに及んだ際には、留守家臣今井兵庫が討死した。1589年、庄内が越後長尾景勝領となると甘粕景継に仕えた。1601年、東禅寺城が最上家に攻められ浪人。以後、帰農した。

六田定兼【ろくたさだかね(15??~15??)】

最上郡六田館主。通称兵衛。天童八楯。1580年、最上義光は東根頼景を降伏に追い込んだ。さらに楯岡城主楯岡満英を自刃に追い込み、成生伯耆守、飯田綱親、六田定兼らを降伏させた。

若木小左衛門【わかきこざえもん(15??~16??)】)

楯岡満茂家臣。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、岩崎村で帰農した。

若木理助【わかきりすけ(15??~16??)】

若木小左衛門の男。佐竹義宣に鷹匠として仕えた。

和合秋広【わごうあきひろ(15??~15??)】

村山郡和合城主。官途は但馬守。1565年、鳥屋ヶ森城主貴志美作守の娘(弥生姫)との婚約が成立していたが、和合城主和合秋広が弥生姫を奪おうとしたが失敗。和合秋広が最上義光に八ツ沼城主原忠重と鳥屋ヶ森城主貴志美作守が謀反を企ていると讒言した。最上義光は兵5,000余りを率いて出陣し「五百川の戦い」が起きた。原忠重勢は家老小関加衛門、客僧羽黒弁寛共に戦ったが多勢無勢で、八ツ沼城、鳥屋ヶ森城び両城が落城、原兼道は討死、弥生姫も城の崖から飛び降り自刃した。

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【資料Ⅰ】

羽前国(6郡/320,000石)

田川郡:鶴ヶ岡(大宝寺)城、丸岡城、小国城、羽黒山。
最上郡:山形城、長谷堂城、天童城、上山城、畑谷城、立石寺。 
北村山郡:鮭延城、清水城、小国城、庭月城。
南村山郡:寒河江城、延沢城、東根城、谷地城、楯岡城、向川寺。
東置賜郡:米沢城、高畠城、館山城、林泉寺、大聖寺、北条街、
西置賜郡:長井城、鮎貝城、萩生城、小国城、遍照寺。

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【資料Ⅱ】

最上八楯【もがみはったて】

延沢城主延沢満延、村山飯田城主飯田綱親、尾花沢城主尾花沢頼国、楯岡城主楯岡満茂、長瀞城主長瀞義保、六田城主六田定兼、成生城主成生伯耆守らの七家と佛向寺の僧兵。

酒田湊三十六人衆【さかたみなとさんじゅうろくにんしゅ】

酒田湊を支配した会合衆。1521年、酒田といわれた袖の浦地区から当酒田へ移転を開始して、砂質の荒蕪地を開拓整備しながら本街を中心とした市街地づくりを行い、屋敷街に居を定めた商人達を酒田三十六人衆と称した。酒田湊から積み出さわる移出品の主なものは、米、大豆、紅花、青苧などであり、移入品には播磨の塩、京都、大阪、堺、伊勢から木綿、出雲の鉄、美濃の茶、南部、津軽、秋田の木材などがあった。

川北三奉行【かわきたさんぶぎょう】

安部越中守、斎藤筑後守、高橋伊賀守。

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【資料Ⅲ】

羽前国【うぜんのこく】

調査中。

酒田湊【さかたみなと】

酒田湊は、羽前国の北部酒田にあり最上川の河口に位置する。藤原秀衡の妹とも後室とも言われる徳尼公が酒田に落ち延びた際に随伴した家臣三十六人により開かれたと言われる。その時の家臣が「酒田三十六人衆」と呼ばれ、その子孫は、後に酒田を代表する大商人になった。西回り航路では、酒田港は西回り航路の起点となった。最上川の舟運より運ばれた紅花や米、各地の特産物が北前船に積まれ、日本海から瀬戸内海を廻って、西国、東国に運ばれた。「西の堺、東の酒田」と呼ばれ、「酒田三十六人衆」でもある鐙屋や本間家は大商人になった。

最上川【むがみがわ】

最上川は、羽前国を流れる最上川水系の本川。1583年、武藤義氏が滅亡すると、庄内地方は長尾景勝が治め、東禅寺城に甘粕景継を守将として置いた。庄内地域の収穫向上を図るため最上川支流の相沢川に井堰を建設し、そこから用水路を引き庄内平野の灌漑を行った。1600年、「関ヶ原の役」後、最上義光が庄内地方を領すると、灌漑整備を更に進めた。1612年、北楯利長が最上義光の意向を受け用水路建設を実施した。北楯大堰用水路によって急速に農地は拡大、次第に集落も形成されて行くようになった。

佛向寺【ぶっこうじ】

最上八楯の役割を担った寺院。天童城の西側を防御した。1287年、一向俊聖によって創建された。広大な寺社領と僧兵を擁して、天童家や最上八楯に協力した。1584年、「天童城の戦い」では、最上義光勢の攻撃を受け堂宇を焼失してた。

成就院【せいしょくいん】

宝憧院、柴野来吽院らとともに最上義光の意向を受け天童頼久を呪詛した。成就院の僧は拒んだために謀殺され、宝憧院、柴野来吽院の僧は最上義光に従った功により、若松観音別当として330石の寺領を領した。

延沢銀山【のべさわぎんざん】

佐渡銀山や石見銀山、生野銀山に匹敵する銀の生産量を誇った。1456年、金沢の人、儀賀市郎左衛門が発見、西山での採掘を開始した。1598年、延沢銀山で産出した銀を羽柴秀吉に上納した。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

出展図書は図書名を示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。

個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康、津軽為信は大浦為信に統一。

参考文献:『津軽秋田安東一族』by新人物往来社、『東北大名の研究(戦国大名論集2)』by吉川弘文館、『会津芦名一族』by歴史春秋社、『最上義光(戦国の驍将)』by新人物往来社、『奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)』by宝文堂、『会津芦名四代』by歴史春秋、『伊達政宗(全8巻)』by講談社、『天を衝く(全3巻)』by講談社文庫、『独眼竜伊達政宗』by時代小説文庫、『津軽風雲録』by時代小説文庫、『政宗に睨まれた二人の老将』by宝文堂、『秋田「安東氏」研究ノート』by無明舎、『(史伝)伊達政宗』by学研M文庫、『独眼竜政宗』by講談社文庫、『奥羽永慶軍記(全2巻)』by新人物往来社、『津軽南部の抗争(南部信直)』by無明舎出版、『秋田の中世浅利氏』by無明舎出版、『独眼龍政宗』by文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、『陸奥南部一族』by新人物往来社、『戦国人名事典』by吉川弘文館、『戦国人名事典』by新人物往来社、『戦国大名家辞典』by東京堂出版、『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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