2011年2月18日金曜日

戦国南常陸国人名辞典

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【あ】

麻生常安【あそうつねやす(15??~1584)】

行方郡麻生城主。南方三十三館衆。麻生家は大掾家の庶流行方家の一族で、行方景幹の三男家幹三郎が行方郡麻生郷に住んで麻生家を称した。戦国時代に入り、大掾家の統制力が弱くなってくると、行方、島崎、麻生、玉造の「行方四頭」は勢力を伸ばすため、互いに争うようになってきました。 1584年、麻生常安は東に領地を接する島崎義幹と敵対した。麻生城は落城し、江戸崎城主土岐原治綱を頼って落ち延び再起を図った。

飯塚重政【いいずかしげまさ(15??~15??)】

行方郡飯塚城。大掾清幹家臣。通称多左衛門。南方三十三館衆。1591年、佐竹義宣に謀殺された。

石神幹安【いしがみみきやす(15??~15??)】

玉造家臣。玉造憲幹の次男。

打越光隆【うちこしみつたか(15??~15??)】

新宮城主。常陸武田家臣。

海老原俊之【えびはらとしゆき(15??~1546)】

真壁郡海老ヶ島城主。海老原俊朝の男。大掾家臣。1546年、海老原俊之の守る海老ヶ島城は小田家と結んだ宍戸通綱の攻撃を受け落城した。これにより、海老原俊之は討死した。

岡田貞政【おかださだまさ(15??~15??)】

鳥名木城主。大掾清幹家臣。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

岡見頼忠【おかみよりただ(15??~1586)】

筑波郡谷田部城主。小田家臣。隣郷の下総下妻城主多賀谷政経とは連年抗争した。1570年、多賀谷政経は、父岡見頼忠の谷田部城を攻略した。多賀谷政経は谷田部城に弟の多賀谷淡路守政伯(経伯とも)に守らせて、小田家への押さえとした。1580年、北条氏照、北条氏邦を大将として牛久城の岡見治部少輔、足高城の岡見中務少輔、岩崎城の只越尾張守、板橋城の月岡玄蕃允らの兵3,000余で谷田部城奪還に向かい、多賀谷淡路守は討ち死にし谷田部城は落城、奪還された。しかしそこに多賀谷政経の後詰が到着、淡路守の死を知った多賀谷政経らは谷田部城を急襲し、再び谷田部城は多賀谷家の手に渡った。1586年、多賀谷政経の嫡男多賀谷重経に再び攻められ岡見頼忠は討死した。

岡見宗治【おかみむねはる(15??~1587)】

筑波郡足高城主。岡見頼忠の男。官途は中務大輔。1586年、多賀谷重経は足高城下に侵攻し、まず小張城を陥とし、続いて足高城三ノ丸に攻め寄せた。岡見宗治は牛久城、守谷城、布川城、小金城などに危急を知らせ援軍を要請したが、多賀谷勢は岡見軍の後詰が来る前に撤退した。1587年、多賀谷重経は足高城と牛久城の中間に泊崎城を築いて両城を分断、続いて足高城、板橋城、岩崎城を攻撃した。板橋城は開城し城主の月岡玄蕃は人質として多賀谷領に送られ、岩崎城主の只越尾張守は城兵の助命を条件に切腹した。支城網を陥とした多賀谷重経は足高城を総攻撃、鬼怒川の堰を切って足高城周辺を水浸しにして援軍を遮断しようとしたが、高井城、守谷城などの援軍が多賀谷勢の背後に回り、多賀谷勢は多賀谷信濃守為宗、窪谷能登守ら20名が討ち取られ、谷田部城に敗走した。岡見宗治の義父岡見伝喜は多賀谷に謀られ和睦を主張、岡見宗治は諌めたが伝喜は聞き入れず、城内は混乱した。この混乱に付け入って多賀谷勢が城内に乱入、岡見宗治は牛久城に逃れ、足高城は落城した。

岡見治家【おかみはるいえ(15??~1587)】

岡見頼忠の次男。隣接する下妻城主多賀谷重経と抗争し、1587年、多賀谷重経の攻撃を受けて牛久城は落城、岡見治家も討死した。

小田政治【おだまさはる(1492~1548)】

筑波郡小田城主。足利政知の男。小田成治の養子。継嗣を失った小田成治に入嗣した。官途は左近衛中将。小田家は関東八屋形の一つである名家。古河公方と初め対立するものち和睦し、佐竹義篤とは旧交を復すなど外交政策に尽力。1531年、南進する江戸家と「石岡鹿子原の戦い」で敗走せしめた。1537年、下総結城政勝に対抗するため多賀谷家と結ぼうとして失敗。1546年「河越城の戦い」で足利晴氏方につくが、結局北条家に敗れ去った。

小田氏治【おだうじはる(1534~1601)】

小田政治の男。通称小田天庵。小田政治の死後、家督を相続した。1555年、関東に出兵した長尾景虎に呼応して結城城の結城政勝を攻めるが攻めきれず。その翌年こんどは北条家と結んだ結城政勝、壬生、佐野、茂呂、小山、真壁、多賀谷、水谷、山川連合軍は、元海老名俊之の家臣平塚長信の海老ヶ島城を攻めた。小田、平塚家は連合軍との「山王堂の戦い」に敗れ、小田城も落城した。1557年、海老ヶ島城を多賀谷政経、佐竹義昭連合軍の攻められ、土浦城に敗走。1558年、多賀谷政経、佐竹義昭に大敗した。1562年、小田政治は北条氏康と同盟を結び、1563年、大掾貞国と戦い、1564年、越後長尾景虎、宇都宮家、佐竹家の連合軍と「第二次山王堂の戦い」に敗れた。1569年、手這坂で太田資正、梶原政景、真壁氏幹の軍と合戦を行い大敗。再び小田城を失った。小田城には太田資正が在城した。1573年、藤沢城が落城、由良憲綱、戸崎長俊を失った。1579年、木田余城に移り、佐竹家と和睦。「小田原の役」では北条家につき失領した。

小田守治【おだもりはる(1557~1610)】

小田氏治の男。通称彦太郎。母は江戸忠通の女。北条家との同盟により佐竹家らに抗した。1589年「小田原の役」により所領は没収。その後妹を頼って越前の結城秀康に仕えた。

小鷹(行方)治部少輔【おだかじぶしょうゆ(15??~15??)】

行方郡小高城主。大掾清幹家臣。南方三十三館衆。1591年佐竹義宣に謀殺される。

小幡又兵衛【おばたまたべい(15??~15??)】

南方三十三館衆。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

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【か】

鹿島義幹【かしまよしもと(15??~15??)】

鹿島郡鹿島城主。鹿島神宮大行事職。通称左衛門太夫。1512年、兄鹿島景幹が下総国で討死したため、鹿島家の家督を相続した。幼少のため家臣に人望がないうえに、新規に召し抱えた浪人玉造常陸介(塚原卜伝の門人)が専横を振い重税を課したため領民の恨みをかう。家臣らが合議して不平を四宿老に訴えたの。これを容れた四宿老は江戸家、大掾家、島崎家らと結んで鹿島義幹を廃して鹿島城から放逐した。1524年、鹿島義幹は下総国東庄城に拠って鹿島城奪還の兵を起こした。兵700余りで鹿島城に攻め入ったが、鹿島城からも軍勢を繰り出して両軍激戦となった。松本政信は、その前後の戦いに槍を合わすこと23度、高名の首125、並の首76を取るという人間離れをした奮戦をした。この戦いに塚原卜伝も従軍していて、槍合わせ9度、高名の首21、並の首七つを取ったという。しかし、松本備前守は、この「高天ケ原の戦い」で討死した。

鹿島通幹【かしまみちもと(15??~15??)】

鹿島景幹の娘に、大掾高幹の弟をめあわせて鹿島通幹と称して、鹿島家の家督を相続した。

鹿島治時【かしまうじとき(15??~1591)】

鹿島治時は佐竹家に従い、鹿島城を回復、鹿島家中興の祖となった。1565年、鹿島治時は土浦を領したが、武田通信と烟田忠幹の所領である三ヶ村を取り合い、鹿島治時の不手際で烟田忠幹は三ヶ村を失った。烟田忠幹は鹿島家の庶族であり、戦国時代に至っても鹿島家に従属して、その保護を受ける存在であった。鹿島治時は配下の領主である烟田忠幹の危機を救ってやるべき立場でありながら、烟田忠幹に所領を失わせる結果をもたらした。これをきっかけとして烟田忠幹は鹿島家から自立する動きを見せるようになった鹿島治時は烟田忠幹の所領を二分する位置にある鉾田城を構え、三男鹿島義清を配して烟田忠幹を牽制した。

鹿島氏幹【かしまきよふさ(15??~15??)】

鹿島治時の次男。鹿島治時が死去して、鹿島家は再び内紛を引き起こし、その勢力をいよいよ衰退させていくことになる。1569年、下総国千葉家の支援を受けた次男鹿島氏幹と、江戸家の支援を受けた三男鹿島義清との対立が起こった。まず鹿島氏幹が千葉家の支援を受けて兵を上げ攻勢に立ったが、鹿島義清方も反撃に立った。鹿島氏幹が家中の島前某に謀殺され内紛は収まった。

鹿島義清【かしまよしきよ(15??~15??)】

鹿島治時の三男。1579年、津賀城主津賀大吹介が鹿島宮中で暗殺の企みがあるという噂を聞き、江戸家を頼って遁走したことから第二の内紛が始まる。この内紛により鹿島義清は謀殺された。

鹿島貞信【かしまさだのぶ(15??~15??)】

鹿島治時の四男。江戸重通は、内紛により弱体化した鹿島貞信、鹿島清秀兄弟を鹿島城に攻め、下総国矢作城に追った。1582年、鹿島通晴が江戸家の支援を受けて、惣大行事職となり鹿島家当主となった。1584年、佐竹義重と北条氏直の下野沼尻の対陣に際して、鹿島家は佐竹家として兵200余を率いて参陣した。1586年、後北条家の他国衆で矢作城主国分家の支援を受けた鹿島貞信、鹿島清秀兄弟の反撃。鹿島通晴を倒して鹿島に入り、月鹿島貞信が鹿島家当主となった。江戸家は烟田を攻め、額賀上野守、石崎近江守を調略し、二人をして鉾田城将であった田山市正を襲撃、謀殺させ鉾田城を奪った。対して、鹿島貞信は鉾田城を攻めた。額賀上野守が退散し石崎近江守が鹿島方に寝返った。 1590年「小田原の役」後、佐竹義宣は羽柴秀吉から常陸国本領の安堵を受けた。佐竹義宣は秀吉から公認された常陸支配を実質化するため「小田原の役」に参陣しなかった常陸南方三十三衆の粛清を図った。水戸城主江戸重通を攻撃し結城に追い落とした。大掾家を攻め滅ぼした。そして、平姓大掾家一族が割拠する常南地方の制圧に乗り出したのである。1591年、佐竹義宣は鹿島鹿島城主清秀をはじめとして、烟田、玉造、行方、手賀、島崎らの諸家を太田鶴来城の梅見に誘い謀殺した。鹿島城では、鹿島清秀の室と三家老たちが迎撃を行った。佐竹家は町田備中守を大将とした討伐勢によって鹿島城は落城し鹿島家嫡流は滅亡した。

鹿島家臣団【かしまけかしんだん】

鹿島清秀、塚原高幹、中居秀幹、林時国、立原、沼尾、安房、烟田秦幹、石神、小鹿野幹匠。

烟田秦幹【かまたやすもと(15??~15??)】

鹿島郡烟田城主。鹿島家臣。南方三十三館衆。

烟田忠幹【かまたただもと(15??~15??)】

烟田秦幹の男。1569年、鹿島治時と戦った。

烟田通幹【かまたみちもと(15??~1591)】

烟田忠幹の男。1584年、佐竹義重が下野国に出陣した際、50騎を率いて参陣した。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

神生通朝【かのうみもちとも(1549~1588)】

大部城(神生館)主。江戸家臣。官途は遠江守。1587年「神生の乱」は、神生通朝が、江戸家枝連衆の江戸通澄と徳政令を巡って争いを起こしたのが発端である。神生通朝は小野崎家を頼ったため、江戸家と小野崎、神生、額田、宍戸などとの争いに発展した。1588年、佐竹家が江戸家を支持して参戦、小野崎家側には佐竹家と対立する陸奥の伊達家が支援した。結局、伊達家は派兵できず、江戸、佐竹連合軍が実質勝利を収め、和睦が成立したが主家によって滅ぼされた。

栗林義長【くりばやしよしなが(15??~1587)】

岡見家臣。京の都で柳水軒白雲斎から兵法を学び、常陸国に戻り、牛久の城主岡見家の武将栗林左京亮に仕えた。栗林義長はその後栗林左京亮と養子縁組し栗林義長と称した。1583年、栗林義長は北条氏尭によって総大将を命じられる。栗林義長は、小貝川での多賀谷水軍との戦いで火計を持ちいて大勝利を収める。下総国で勢力を持っていた千葉頼胤との戦いでは、佐竹家と共謀し北条方の小田家、岡見家を挟撃しようとしたが、栗林義長はそれを見抜き、先制攻撃をかけ各個に撃破して勝利を収めた。佐竹勢に竜ヶ崎城を落とされ、江戸崎城も攻められた土岐伊予守は栗林義長に援軍を求める。それに答えて直ちに軍を進め竜ヶ崎城を奪い返し江戸崎城を救った。1587年、栗林義長が病で没すると主家の岡見家も滅亡した。

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【さ】

坂隼人【さかはやと(15??~1589)】

島崎家臣。1589年、小高城の戦いで討死した。

坂源三郎【さかげんざぶろう(15??~1589)】

島崎家臣。坂隼人の弟。1589年、小高城の戦いで討死した。

桜井大隈守【さくらいおおすみのかみ(15??~15??)】

真壁氏幹家臣。「小説真壁氏幹鬼の義」By高妻秀樹。

信太掃部助【しだかもんのすけ(15??~1564)】

小田家臣。1564年、越後長尾・宇都宮・佐竹の連合軍と「山王堂の戦い」で敗北した小田氏治は土浦城へ撤退。掃部助らは小田城に残って連合軍と激闘したが落城、自刃した。

信太範宗【しだのりむね(15??~1554)】

常陸木田余城主。小田家臣。官途は伊勢守。小田氏治に仕えたがのち不和となった。1554年、菅谷政貞により土浦城で謀殺された。

島崎利幹【しまざきとしもと(15??~15??)】

行方郡島崎城主。島崎忠幹の男。南方三十三館衆。1525年、島崎利幹は鹿島家の内訌に乗じて鹿島家を攻め、鹿島郡をほぼ領有する。1542年、玉造郡に玉造宗幹を攻め、行方郡をもほぼ制圧した。古河公方足利晴氏に対抗して佐竹家と結んだ。

島崎氏幹【しまざきうじもと(15??~15??)】

島崎利幹の男。1570年、島崎氏幹は、烟田家を攻めた。1581年、江戸重通とともに鹿島家を攻めた。

島崎儀幹【しまざきよししげ(15??~1591)】

島崎氏幹の男。島崎儀幹は、1583年、麻生城を攻略し、里見義弘の弟井関(里見)義政と改めて城主とした。1589年、小高城を攻めて坂家兄弟を討死させている。1591年、島崎儀幹は「小田原の役」に参陣しなかっため、佐竹義宣によって太田城で誘殺された。島崎城は廃城となり島崎家は滅亡した。

島崎定守【しまざきさだもり(15??~15??)】

島崎利幹の次男。

島並幹家【しまなみしげいえ(15??~1591)】

島並城主。島崎家臣。1591年、島崎佐竹義宣によって島崎儀幹だけでなく、島並幹家も滅ぼされた。佐竹家に仕えていた島並幹国(幹家の子)は生き残りました。

島崎家臣団【しまざきけかしんだん】

大平内膳。

白井幹継【しろいみきつぐ(15??~15??)】

玉造憲幹の三男。

菅谷勝貞【すがやかつさだ1493~1575)】 

筑波郡土浦城主。小田家臣。勇猛知将を兼備えた武将。1516年、土浦城を攻略。利根川系の水運を把握した。1519年、上総国小弓御所の足利義明を支援している。1556年、北条氏康は結城政勝に援軍を派遣、海老ヶ島城を攻撃した。小田氏治は「山王堂の戦い」で優勢な敵に敗走。小田城も落城した。1557年、土浦城まで後退していたが小田城を再奪還した。

菅谷政貞【すがやまささだ(1518~1592)】

菅谷勝貞の男。小田氏家臣。官途は摂津守。1558年、本拠小田城を佐竹家のために攻略された小田氏治を助け、小田城奪還に尽力して成功せしむ。1563年、大掾貞国を「三村の戦い」で撃破した。1564年、山王堂において越後長尾、宇都宮、佐竹連合軍と戦い激闘。1583年、主家が北条家と結ぶとこれに従う。

菅谷範政【すがやのりまさ(1558~1612)】

菅谷政貞の男。官途は左衛門大夫。小田氏治が本拠小田城を追われるたびに土浦城に匿って小田城奪還戦に協力した。1589年「小田原の役」では小田家が後北条家に与したため、菅谷範政も土浦城を退去して真壁郡に蟄居。菅谷範政の小田家に対する忠節を賞され、松平元康に召し出された。

菅谷範貞【すがやのりさだ(1580~1618)】

菅谷範政の男。1600年「関ヶ原の役」では秀忠に属して上田城攻めに加わる。1614年「大坂の役」では二条城に詰め、のち伏見城に在番したが、同地において死去。

菅谷政頼【すがやまさより(1527~1559)】

菅谷政貞の養子。娘が菅谷範政の室になっている。太田資正と戦って討死した。

芹沢秀幹【せりざわひでもと(15??~15??)】

古河公方足利晴氏に仕えた。医術に長じ戦傷者の治療を行った。

芹沢定幹【せりざわさだもと(15??~15??)】

北条家と結び佐竹家と対抗した。

芹沢国幹【せりざわくにもと(15??~15??)】

芹沢城主。官途は土佐守。1590年、佐竹家麾下の武将として数々の戦功があった。芹沢国幹は佐竹家に敵として相手にされなかったため面目を失ったと感じ、秋田実季を頼って落延びた。

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【た】

大掾慶幹【だいじょうじ(15??~1551)】

大掾常幹の男。1546年、小田政治、小鷹直幹と長者原の戦い勝利した。小高城も攻略した。水戸地方を拠点とした江戸家は盛んに勢力を南に拡大してきており、これに対して大掾家は小田、真壁、笠間の諸家ととも江戸家と対立した。1546年、小高直幹の誘いにのった小田政治が大掾慶幹を攻撃してきたが、大掾慶幹は長者原において小田家を撃退し、さらに進んで小高城を奪取した。

大掾貞国【だいじょうじさだくに(15??~1577)】

大掾慶幹の男。1531年、小田家と「鹿子原の戦い」を行った。1563年、三村の合戦で小田氏治に敗れ、佐竹家の南進も本格化した。1551年慶幹が没し、大掾貞国が大掾家を継いだ。この頃には大掾、小田、江戸家の三つ巴の対立が激化し、特に小田氏の勢力が強まった。1563年、大掾貞国は三村合戦で小田氏治に破れ、その後佐竹氏と連携し小田氏攻略に備えたが、大掾家と園部家が確執を起こしたとき江戸、佐竹両家が園部(小川)家を支援したため、小田家への守りとして築城した三村城主大掾常春は小田氏に攻められ落城し討死した。1574年、小田家は佐竹方に攻められ土浦城が陥落した。この時、大掾家は東に薗部、北に江戸、佐竹、南に小田に囲まれてしまった。1577年、大掾貞国は討死した。

大掾清幹【だいじょうじ(15??~1591)】

大掾貞国の男。大掾貞国の死後、幼年の大掾清幹が家督を相続した。後北条家の勢力が北関東にも及んでくると、大掾清幹は越後長尾景虎と結び、佐竹家らと協力して反北条活動をとる。しかし、その間も江戸重通は大掾家を攻め続け、当初中立の立場をとっていた佐竹家も江戸重通に協力する。大掾清幹は府中城の詰め城を殆ど落とされ、大掾惣領家の滅亡は時間の問題となった。これに対抗するため大掾清幹は後北条家と結んだ。1590年、羽柴秀吉による「小田原の役」では、大掾清幹をはじめとする大掾家一族は後北条家側に立ち、参陣をしなかった。結果、常陸は参陣をした佐竹義重に与えられた。佐竹義重は江戸城を攻めて江戸重通を追落し、その勢いで府中城も攻め立てた。激戦の末、府中城は落城し、大掾清幹は自刃した。

行方武田信治【たけだのぶはる(15??~15??)】

行方郡木崎城主。行方武田家は甲斐武田家の庶家で常陸国行方郡を領した。

行方武田通信【たけだつうのぶ(15??~15??)】

武田信治の男。

行方武田信房【たけだのぶふさ(15??~1591)】

武田通信の男。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

竹原義国【たけはらよしくに(15??~1591)】

大掾清幹家臣。南方三十三館衆。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

玉造憲幹【たまづくりのりもと(15??~15??)】

行方郡玉造城主。南方三十三館衆。

玉造宗幹【たまづくりむねもと(15??~15??)】

玉造憲幹の男。

玉造重幹【たまづくりしげもと(15??~1591)】

玉造宗幹の男。1590年、玉造重幹は大掾清幹の攻撃を受けるが和睦した。1591年、この和睦を理由として佐竹義宣に呼び出され、他の国人「南方三十三館」と共に謀殺された。玉造城は佐竹家臣大窪兵蔵久元の攻撃を受けて落城した。

田伏次郎大夫【たぶせじろうたいふ(15??~15??)】

田伏城主。小田家臣。小田氏治に仕えて各地を転戦した。1590年、佐竹家の攻撃を受けて没落した。

塚原安幹【つかはらやすもと(15??~15??)】

鹿島郡塚原城主。鹿島家臣。

塚原高幹【つかはらたかもと(1490~1572)】 

吉川覚賢の次男。塚原安幹の養子。通称塚原ト伝。鹿島家四家老の一人吉川城主吉川覚賢の次男のとして生まれ塚原安幹の養子として、塚原城城主となる。塚原高幹は実父の吉川覚賢から鹿島中古流の剣法を学び、養父の塚原安幹からは香取神道流を学び、鹿島家四家老の一人松本政信から鹿島神陰流を学んだ。弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)と、諸岡一羽や真壁氏幹、斎藤勝秀(伝鬼房)ら一派を編み出した剣豪がいる。また、足利義輝や北畠具教にも剣術を指南した。また、この両者には奥義である「一の太刀」を伝授したとされている。南常陸国(霞ヶ浦周辺)は戦国末期になっても「常陸南方三十三館」とよばれる小大名、城主が乱立していた。

手賀高幹【てがかかみき(15??~15??)】

行方郡手賀城主。玉造家臣。通称与一郎。1559年、小田氏治と戦う。1591年、手賀高幹は佐竹義宣に謀殺される。

土岐原治頼【ときはらはるより(1502~1557)】

信太郡江戸崎城主。美濃国守護土岐政房の三男。土岐原景成の婿養子。美濃国守護土岐政房の三男であったが、土岐原家の要請を受けて土岐原景成の養女を娶って婿養子として土岐原家の家督を相続した。1523年、土岐原治頼は関東管領山内上杉憲房らの支援を受け、土岐原治頼、近藤勝秀、臼田河内守らの山内上杉勢力が結集して、小田政治方の屋代城を攻め落とした。そこへ、屋代城救援の小田政治、麻生淡路守らの軍勢が到着し、屋代城の周辺において激しい戦闘が展開された。この合戦の結果、小田政治は屋代城を失い、重臣の信太家や味方として参陣した多賀谷淡路守をはじめ、広瀬、青木、石崎家等多くの討死者を出し、土岐原家方の勝利であった。1542年、兄である美濃守護土岐頼芸が斎藤道三によって領国を追われると、常陸国にいる弟土岐原治頼にも救援の要請が出された。1543年、土岐頼芸は江戸崎城まで落延び、系図及び家宝を土岐原治頼に譲渡した。土岐原治頼は、小田家との戦いを続けて、一時は小田氏側の岡見家を傘下に置くなど優勢を保った。小田家が関東において急速に台頭する後北条家と手を結ぶと、山内上杉家側にあった土岐原治頼は次第に苦境に立たされていく。更に佐竹家の南下も加わってその対応に苦慮する中で病没した。

土岐原治英【ときはらはるふさ(15??~1585)】

原治頼の男。土岐原治頼の養子。官途は大膳大夫。これまで支援を受けていた関東管領山内上杉憲政が越後に逃れると、北条氏康と結んで北の佐竹家に対抗すると共に、仇敵小田氏治とも結んだ。1561年、越後長尾景虎の関東進出により本拠を追われた小田氏治らとともに反佐竹、多賀谷勢力の中心的存在となった。関東の越後長尾景虎上杉氏対北条氏康という対立の枠組みの中で土岐原治英はは土岐原領を分割して江戸崎城を中心とした地域と、龍ケ崎城を中心とした二つの行政単位を設定し、土岐領の安定的な支配を図った。

土岐原治綱【ときはらはるつな(15??~15??)】

土岐原治英の男。土岐原治綱は後北条家の麾下に属し、北条家臣松田家から諸々の局面で指示を受けるようになった。そして、後北条家を後ろ楯として佐竹、多賀谷家らと対抗した。このような状況下で、土岐治綱と弟龍ヶ崎城主龍ヶ崎(土岐原)胤倫との対立が顕在化した。1590年、土岐原治綱は、この対立の解決への糸口が見い出せないまま、土岐家は羽柴秀吉の「小田原の役」を迎えた。江戸崎、龍ケ崎両城は、羽柴勢によって攻め落とされた。江戸崎城主土岐原治綱の嫡男土岐原頼英で二~三歳の幼子であった。そして、叔父にあたる龍ヶ崎(土岐原)胤倫に養育された。

東条英幹【とうじょうえいかん(15??~15??)】

河内郡東条城主。土岐原家臣。

東条五郎左衛門尉【とうじょうごろうえもん(15??~15??)】

東条英幹の男。

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【な】

中居秀幹【(なかいひでもと15??~1591)】

鹿島郡中居城主。鹿島家臣。鹿島郡内の24ヶ村を領した。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

長山幹綱【ながやまもとつな(15??~15??)】

長山城主、一族の嶋崎安国に攻められて落城し、嫡男長山政幹は佐竹義篤(佐竹義重の祖父)を頼って落延びた。

中原正勝【なかはらまさかつ(15??~15??)】

真壁氏幹家臣。真壁忍び衆の元締め。「小説真壁氏幹鬼の義」By高妻秀樹。

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【は】

八田友治【はったともはる(1548~1604)】

小田氏治の男。官途は左近。通称小太郎。小田氏治の男であったが庶子であったために八田家の家督を相続した。1590年、小田家とともに北条家に属し「小田原の役」の後は羽柴秀吉に仕えた。1594年「朝鮮の役」では舟奉行として渡海し、その功により伊勢国内に所領を得た。京都において没した。

塙政俊【はにわまさとし(15??~15??)】

烟田家臣。

塙政政【はにわまさより(15??~1591)】

塙政俊の男。烟田家臣。1591年、佐竹義宣に謀殺される。

林時国【はやしときくに(15??~1589)】

行方郡林城主。大掾清幹家臣。南方三十三館衆。1589年、荒原五郎左衛門に討たれた。

礼幹繁【ふだもとしげ(15??~1591)】

鹿島郡礼城主。南方三十三館衆。1591年、佐竹義宣に謀殺れた。

北条氏高【ほうじょううじたか(15??~1574)】

北条城主。小田家臣。永禄期に佐竹家に転仕し、土浦城攻めにも参加して同城を守備。1574年、菅谷政貞の攻撃を受けて討死した。

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【ま】

真壁宗幹【まかべむねもと(1496~1563)】

真壁郡真壁城主。真壁治幹の男。大永年間に古河公方足利高基の末弟足利基頼を擁して足利高基、小田政治と争うが、足利基頼が足利高基のもう一人の弟小弓公方足利義明の元へ奔ると、今度は小田政治と大掾忠幹を和解させて高基の嫡男足利晴氏を擁した。他の大掾家系一族と同様に鹿島神宮への崇敬が厚く、その保護に努めた。また、連歌に優れて連歌師として名高い宗牧とも親交があった。

真壁久幹【まかべひさもと(1522~1589)】

真壁宗幹の男。初め小田家の麾下に属した。1548年、水谷正村と結んで離反する。1560年、大掾慶幹を攻めるも古河公方足利義氏の仲介で和睦した。1561年、佐竹義昭が真壁郡に進出するとこれと手を結び、片野城の太田資正や、その次男で真壁久幹にとっては娘婿である梶原政景とともに小田家に対する尖兵的役割を担った。1569年「手這坂の戦い」では小田氏治の軍勢に大打撃を与えた上、小田城も攻略し、以後小田氏治の本拠地奪還を不可能とした。1573年、小田氏治と佐竹義重の和睦の仲介にあたる。

真壁氏幹【まかべうじもと(1550~1622)】

真壁久幹の男。武勇が優れていることから、近隣の豪族から「鬼真壁」と恐れられ、合戦時には長さ2メートルもの樫木の棍棒を振り回し、戦場を駆け巡った。父真壁久幹から家督を譲られてからは、佐竹家の武将と主要な合戦にはほとんど参加した。文録の役にも従軍した。世継には恵まれず、弟の真壁義幹の子房幹に家督を譲った。佐竹家の羽後国移封の際には、真壁房幹を従わせ、本人は次女の娘婿の水谷正勝の菩提寺の常林寺に隠居した。

真壁義幹【まかべよしもと(1552~1630)】

真壁久幹の次男。官途は式部大輔。父真壁久幹が佐竹義昭に臣従した際に佐竹義昭のもとで元服を行った。1569年、小田氏治との「手這坂の戦い」で戦功を挙げた。常陸国筑波郡に所領を与えられて兄真壁氏幹から分家をした。嫡男真壁房幹が兄真壁氏幹の養子となっていたために、次男の真壁重幹に家督を譲る。真壁氏幹、真壁房幹ともに死去したために真壁重幹が真壁家の当主となった。佐竹家の移封先である出羽国角館城にて病没した。

真壁房幹【まかべふさもと(1569~1612)】

真壁義幹の男。真壁氏幹の養子。

真壁七騎衆【まかべななきしゅう】

真壁氏幹、真壁義幹、酒寄備前守、来栖三河守、成田遠江守、長岡織部、田口弥八郎。1569年「手信坂の戦い」で活躍した七騎衆。

真壁氏幹近習三人衆【まかべきんじゅうさんにんしゅう】

市原政義、鈴木治房、藤田友重。真壁氏幹の近習三人衆。

水谷治持【みずたにはるもち(15??~15??)】

真壁郡下館城主。結城家臣。1537年、多賀谷家重を攻めるため別働隊として出陣。本隊とともに多賀谷勢を打ち破る。しかし、家重は城に籠もって抵抗したため滅ぼすことは出来なかった。1539年、古河公方足利晴氏の援軍要請を政勝が受けたため、武蔵に出陣。上杉宇都宮連合軍により敗退。1548年、真壁氏幹ともに多賀谷重政を攻める。これにより重政は結城政勝に降伏し、再び仕えた。1559年、結城政勝が没したのを機に攻め込んできた小田勢を打ち破る。

水谷正村【みずたにまさむら(1521~1596)】

水谷治持の男。通称下蟠龍斎。幼少の時に父を失い、水谷勝吉の弟の水谷治持の元で成長した。1539年の夏、自家兵力350騎と結城家重臣多賀谷家重300騎は、武蔵国吉見城主大串武成を攻めた。水谷正村は家臣海老原(谷田貝)行政と共に出陣し、大串家400騎と合戦におよび、大串勢300騎を死傷させた。大串武成はその場で自刃。武成の甥大串重元、侍大将田谷右兵衛尉他48人の首を上げた。

水谷勝俊【みずたにかつとし(1542~1606)】

水谷治持の次男。兄水谷正村の養子。室は堀田正吉の娘。官位は伊勢守。1566年、兄水谷正村と共に結城晴朝に従って、越後長尾景虎と戦った。1569年、兄水谷正村が隠居したため、家督を相続した。1585年、兄水谷正村とともに下野国田野城を攻略して下野方面にも勢力を広げた。1590年「小田原の役」後、水谷家は結城家の麾下の大名として独立する。1592年「文禄、慶長の役」においては肥前名護屋城に駐留した。1600年「関ヶ原の役」では、皆川広照の従弟に当たるという経緯から東軍に与した。戦後、下野国において佐竹義宣を牽制した功績を賞されて所領を安堵された。役後、結城秀康が北ノ庄藩に転封されると水谷家は正式な独立大名となった。

水谷勝隆【みずのやかつたか(1597~1664)】

水谷勝俊の男。官位は伊勢守。室は酒井家次の娘、継室は寺沢広高の娘。1606年、父水谷勝俊の死去により家督を相続した。1639年、備中国成羽城50,000石へ移封された。1642年、備中国松山城50,000石へ移封された。内政においては交通路や水路の整備、玉島新田などの新田開発や検
地政策、砂鉄採取による鉄産業の奨励と振興、寺社仏閣の造営などに務めて藩政の基礎を固めた。

松本政信【まつもとまさのぶ(1468~1524)】

鹿島家臣。官途は備前守。室町時代の剣術家。鹿島神宮の祝(はふり)部で、小神野、吉川、額賀と並ぶ鹿島家の四宿老の一人。飯篠長威の門人であったが,鹿島神宮に祈願して源義経が奉納した秘書を手に入れ,鹿島神流を開創したという。鹿島神流は飯篠の兵法を基にしながらも陣鎌、薙刀、十文字(槍)、片鎌などにおける術技は松本の完成したもので,合戦用の総合武術であった。しかし鹿島家は永正期以来、一族、支族間の内訌が表面化し、ついには当主の廃立問題で鹿島義幹勢と「高間ヶ原の戦い」で津賀大膳と相討ちになる。生涯で23回も遣り合せをして、大将首を25級、追首を76級を上げた。

松本政元【まつもとまさもと(15??~15??)】

松元政信の男。

師岡長門守【もろおかながとかみ(15??~15??)】

貝原塚城主。土岐家臣。諸岡長門守が貝塚原城を守っていましたが、不仲になったのか江戸崎城から土岐勢に攻められて落城した。

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【や】

吉川覚賢【よしかわあきかた(15??~15??)】

鹿島郡吉川城主。鹿島家臣。鹿島神宮の祝部。吉川家は鹿島神宮祝部であり、卜部姓を本姓とする。鹿島神宮神官家には鹿島七流と呼ばれる剣技が伝承されており、吉川家には神妙剣が伝えられていた。直心影流の神伝「一の太刀」は鹿島の神官松本、吉川、額賀、小鹿野の四家によって代々伝えられた。

龍ヶ崎(土岐)治英【りゅうがさきはるひで(15??~1584)】

原治頼の男。龍ヶ崎治英の男。官途は美作守。原家庶家。原家は美濃土岐家庶流で、美濃土岐家滅亡の頃から土岐家を名乗ったという。これまで支援を受けていた関東管領山内上杉憲政が越後に逃れると、後北条家と結んで、北の佐竹家に対抗すると共に、仇敵小田氏治とも結んだ。

龍ヶ崎(土岐)治綱【りゅうがさきはるつな(15??~15??)】

龍ヶ崎治英の男。官途は美作守。1584) 土岐治英、麻生之幹の援に応じ、治綱、行方の島崎安定と霞ヶ浦で海戦をする。土岐治英没(治綱、あとを継ぐ)  土岐治綱、徳川家康に江戸崎から馬二頭を献上。

龍ヶ崎(土岐)胤倫【りゅうがさきとき(15??~15??)】

河内郡龍ヶ崎城主。龍ヶ崎土岐治英次男。江戸崎土岐家臣。1583年、佐竹家の攻撃を受けて落城するがまもなく奪還。1590年「小田原の役」で北条方に付いたために滅亡した。

龍ヶ崎家臣団【りゅうがさきけかしんだん】

増塩源太左衛門、森田市左衛門、木村次郎左衛門。

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【資料Ⅰ】

南常陸国(7郡/240,000石)

鹿島郡 鹿島神宮、鹿島城
行方郡 島崎城。
新治郡 府中城、土浦城。
真壁郡 下館城。
筑波郡 谷田部城。
信太郡 岡見城。
河内郡 龍ヶ崎城、牛久城

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【資料Ⅱ】

鹿島家四家老【かしまけよんかろう】

吉川城主:吉川覚賢、松本政信、小神野、安房城主:額賀大炊助之。

真壁七騎衆【まかべななきしゅう】

酒寄備前守、来栖三河守、成田遠江守、長岡織部、田口弥八郎。

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【資料Ⅲ】

鹿島神宮【かしまじんぐう】

鹿島郡にある神社。式内社、常陸国一宮で、旧社格は官幣大社。日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社。常陸国息栖神社、下総国香取郡にある香取神宮と合わせて東国三社と呼ばれる。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国 国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

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