2011年3月1日火曜日

戦国北近江国人名辞典

----------------------------

【あ】

赤尾清綱【あかおきよつな(1514~1573)】

浅井久政家臣。伊香郡赤尾城主。官途は美作守。通称孫二郎。海赤雨三将のひとり。小谷城に赤尾曲輪を設け屋敷を構えた。1560年、浅井久政の隠居に関わる。1561年、「美濃攻め」では、殿を務めた。1561年、「太尾城の戦い」では、事態収拾に功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1573年、「小谷城の戦い」では、浅井長政とともに織田信長勢と戦った。戦後、捕縛され斬頸に処された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤尾清冬【あかおきよふゆ(15??~15??)】

赤尾清綱の男。通称新兵衛尉。1561年、「太尾城の戦い」では、浅井長政に属して六角義賢勢と戦った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤尾伊豆守【あかおいずのかみ(1559~15??)】

赤尾清綱の次男。1573年、「小谷城の戦い」で父赤尾清綱が斬頸に処されるが、助命され、多賀法印の弟子とされた。後に京極高次に仕えた。1600年、「大津城の戦い」では、京極高次に従い黒田伊予守、山田大炊良利とともに石田光成勢と戦い戦功を挙げた。役後、京極高次が若狭国小浜城に転封になると、小浜城の改修に功を挙げた。

浅井直種【あざいなおたね(15??~15??)】

浅井直政家臣。通称は備後守。1496年、石丸利光が美濃国守護職の土岐頼芸に謀反を起こすと、美濃守護代職の斎藤利国が京極高清に援軍を求めた。浅井直種は京極高清に従って石丸利光を討取る戦功を挙げた。1523年、京極政経と京極高清が近江国守護職を巡って争うと、京極材宗とともに京極政経勢に属して京極高清、上坂家信らと戦った。

浅井亮政【あざいすけまさ(1491~1542)】

浅井郡小谷城主。上坂家信家臣。浅井直種の男(浅井直政の養子)。官途は備前守。通称新三郎。1523年、京極高延と京極高吉の京極家の家督争いでは、京極高延を支援して、京極高吉を支援した主家の上坂信光を北近江国から追った。1543年、京極高延から独立すると、六角定頼勢の攻撃を受け越前国に落延びた。朝倉孝景の支援を受けて小谷城を奪還した。六角定頼勢の攻撃を受けると、劣勢に立たされたが、国人衆、豪族衆に対しては優位に進めた。美濃国の土岐頼芸と土岐頼純の争いでは、朝倉孝景とともに土岐政頼を支援して、土岐頼芸を支援する六角定頼と争った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅井久政【あざいひさまさ(15??~1573)】

浅井亮政の男。官途は下野守。通称新九郎。室は井口経元の娘(阿古御料人)。1542年、浅井亮政は内室との間に生まれた海津殿の娘婿田屋明政に家督を譲ることを望んだが、浅井亮政の病没により浅井家の家督を相続した。義兄田屋明政が京極高広の支援を受け謀反を起こしたが、これを撃退した。六角義賢勢に押され、継嗣の浅井長政の内室に六角義賢の家臣平井定武の娘を迎え従属的姿勢をとった。1560年、「野良田の戦い」で浅井長政が六角義賢勢に大勝すると、家臣団から強制的に隠居に追い込まれ、家督を浅井長政に譲った。浅井久政は隠居しても、朝倉義景との友好関係に固執し、織田信長との同盟には反対し続けた。1573年、「小谷城の戦い」で織田信長勢の攻撃を受け自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅井長政【あざいながまさ(1545~1573)】

浅井久政の男。官途は備前守。通称新九郎。室は織田信秀の娘(於市)。1560年、「野良田の戦い」で、六角義賢勢に大勝後、家臣団の意向を受け浅井家の家督を相続した。1568年、織田信秀の娘を娶り、織田信長の上洛戦を支援した。1570年、「第一次越前討伐」で織田信長勢が朝倉義景を攻撃すると、父浅井久政の意向を受け織田信長勢を背後から攻撃して撤退に追い込んだ。「姉川の戦い」では、寡兵を持って織田信長勢に対して優位に戦いを進めるが、朝倉義景勢の敗退により、側面から松平元康勢の攻撃を受け敗退した。「志賀の陣」では。森可成、織田信治、青地茂綱らを討取る戦功を挙げるが劣勢を挽回することはできなかった。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢が朝倉義景勢を越前国まで追撃して朝倉義景を討取ると小谷城も織田信長勢の攻撃を受けた。内室(於市)と娘(浅井三姉妹)を織田信長の本陣に送り届けた、後自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅井秀信【あざいひでのぶ(15??~1545)】 

浅井亮政家臣。通称五郎兵衛。浅井亮政の祐筆を務めた。書に優れ、本願寺家からもしばしば贈答を受けた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅井亮親【あざいすけちか(15??~1573)】

浅井秀信の男。官途は石見守。通称与次。父浅井秀信とともに祐筆を務めた。1570年、朝倉義景勢を支援することに反対した。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が滅亡すると、捕縛され斬頸に処された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅井吉政【あざいよしまさ(15??~1583)】

浅井亮親の男。通称吉兵衛。1572年、浅井長政が滅亡すると、羽柴秀吉に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」に参陣した。羽柴秀吉の家臣平野長泰、渡辺了、浅井井頼らにより山路正国ともども討たれた。1594年、淀君が父浅井長政の二十一回忌の際、羽柴秀吉に願って京都養源院を建立したのち、養源院の一世となった。

浅井政信【あざいまさのぶ(15??~1543)】

浅井亮政家臣。官途は大和守。浅井亮政、浅井久政に奏者として仕えた。

浅井政澄【あざいまさずみ(15??~15??)】 

浅井政信の男。官途は玄蕃允。1570年、「姉川の戦い」では、浅井長政勢の第二陣を務めて織田信長勢と戦った。その後、織田信長に仕えた。

浅井政重【あざいまさしげ(15??~15??)】

浅井政澄の男。通称新太郎。羽柴秀保に仕えた。羽柴秀保の病没後、松平元康に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅井井伴【あざいいとも(15??~15??)】

浅井亮政家臣。浅井井演の男。官途は木工助。通称弥太郎。1542年、菅浦代官職を務めた。

浅井井規【あざいいのり(15??~1573)】

浅井井伴の男。1571年、「鎌刃城の戦い」では、織田信長勢に寝返った堀秀村を攻撃した。堀秀村の救援に赴いた羽柴秀吉勢の攻撃を受け敗退した。1573年、「小谷城の戦い」では、織田信長勢に内応するが、戦後斬頸された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅井井演【あざいいひろ(15??~15??)】

浅井亮政家臣。官途は越中神。1532年、横山城代を務めた。

浅井井頼【あざいいより(15??~1615)】

浅井長政の男。官途は周防守。羽柴秀長、羽柴秀保に仕え600石を領した。1594年、増田長盛に仕え3,000石を領した。1615年、「大坂夏の陣」で討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅井雅楽助【あざいうたのすけ(15??~1570)】

浅井長政家臣。1570年、「姉川の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅井大和守【あさいやまとのこあみ(15??~15??)】

浅井亮政家臣。1546年、「海津城の戦い」では、浅井亮政に従って先陣を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅見貞則【あさみさだのり(15??~15??)】

京極高清家臣。浅井郡尾上城主。官途は対馬守。1517年、京極高清と浅井亮政が不和となり、京極高清が浅井亮政に幽閉されると、山本山城に籠城して浅井亮政勢他と戦った。1523年、「今浜城の戦い」では、六角定頼勢の支援を受け上坂貞、上坂信光、京極高清、京極高慶らと戦った。北近江国ぜ勢力を拡大するが、上坂貞則勢に属した豪族衆から領地を奪った。浅井亮政、京極高清、上坂貞信らの攻撃を受けた。

浅見紀伊守【あさみきいのかみ(15??~15??)】

浅見貞則の男。1546年、「海津城の戦い」に参陣した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅見対馬守【あさみつしまのかみ(15??~15??)】

浅見貞則の次男。通称次郎。1538年、六角定頼勢の支援を受け上坂貞信とともに京極高吉を擁立して、京極高広を擁立した浅井亮政勢と戦った。1573年、「小谷城の戦い」では、焼尾丸を築いて城の背面を守備した。織田信長に寝返ったが、所領は没収された。後に柴田勝家に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅見大学助【あさみだいがくのすけ(15??~15??)】

浅見対馬守の男。1573年、浅井長政が滅亡すると、柴田勝家に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」に参陣した。柴田勝家が滅亡すると、蒲生氏郷に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅見新右衛門【あさみしんえもんのじょう(15??~15??)】

京極高広家臣。浅井亮政に仕え奏者役を務めた。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が滅亡すると、宮部継潤に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅見藤右衛門【あさみとうえもん(15??~15??)】

京極高次家臣。羽柴秀次に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」後、再び京極高次に仕えた。1600年、「大津城の戦い」では、石田三成勢と戦うが城外に取り残され寄手の増田長盛の陣に逃げ込んだ。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿閉貞征【あつじさだゆき(15??~1582)】

浅井郡山本山城主。浅井久政家臣。官途は淡路守。通称万五郎。1570年、「姉川の戦い」では、浅井長政勢の第三陣を務めた。1573年、羽柴秀吉の調略を受けて内応、所領安堵を受けた。1581年、「第一次伊賀攻め」に参陣した。1582年、「武田家討伐」では、織田信長に随伴した。1582年、「本能寺の変」では、阿閉貞征、阿閉貞大父子は明智光秀勢に属して長浜城を攻略した。「山崎の戦い」で羽柴秀吉勢と戦うが敗戦、山本山城に逃げ帰るが攻められ、捕縛されて処刑された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿閉貞大【あつじさだひろ(15??~1582)】

阿閉貞征の男。通称孫五郎。1573年、浅井長政の滅亡直前、織田信長勢に寝返ったため、所領安堵された。1575年、「第一次越前攻め」に参陣した。1576年、安土城普請に人足を徴発した。1581年、「第一次伊賀侵攻」では、織田信雄に属して参陣した。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢に属して、羽柴秀吉の長浜城を攻撃した。「山崎の戦い」にも参陣した。敗戦後、羽柴秀吉勢の宮部継潤、中村一氏らに山本山城を攻められ、捕縛され処刑された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

雨森清貞【あめのもりきよさだ(1514~1573)】

浅井久政家臣。伊香郡雨森主。通称弥兵衛尉。海赤雨三将のひとり。浅井久政に仕え、奏者として国政に参与した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

雨森清良【あめもりきよよし(15??~1570)】

雨森清貞の男。1570年、「姉川の戦い」に参陣して討死した。

雨森清広【あめもりきよひろ(15??~15??)】

雨森清貞の次男。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が討死すると、織田信長勢に降り、阿閉貞征勢に属した。1582年、「山崎の戦い」で阿閉貞征が滅びると雨森清次は渡岸寺村に蟄居した。

安養寺氏久【あんようじうじひさ(15??~15??)】

京極高清家臣。通称三郎左衛門。官途は三河守。1560年、竹生島寺に領知を寄進した。

安養寺氏秀【あんようじうじひで(15??~15??)】

安養寺氏久の男。通称三郎左衛門。

安養寺氏種【あんようじうじたね(15??~1606)】

安養寺氏秀の男。通称三郎左衛門。別名安養寺経世。浅井長政と織田信秀の娘(於市)の縁組の仲介役を務めた。1570年、「姉川の戦い」で織田信長勢に捕縛されたが、小谷城へ帰還することを許された。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が討死すると、京極高次に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安養寺甚八郎【あんようじじんぱちろう(15??~15??)】

安養寺氏秀の次男。

安養寺彦六郎【あんようじひころくろう(15??~15??)】

安養寺氏秀の三男。

安養寺猪之助【あんようじいのすけ(15??~15??)】

浅井久政家臣。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が討死すると、織田信長勢に属した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、湖北海賊衆を率いて羽柴秀吉勢に属した。柴田勝家勢の攻撃を受けて敗走する桑山重晴勢を立て直した。

岩脇秀次【いおぎひでつぐ(15??~15??)】 

浅井久政家臣。坂田郡の土豪衆。

岩脇定政【いおぎさだまさ(15??~1572)】 

岩脇秀次の男。官途は筑前守。通称市介。1572年、浅井長政から離反して、織田信長に内応した鎌刃城主堀秀村を攻撃した際に討死した。

井口経元【いのくちつねもと(15??~1531)】

京極高清家臣。井口城主。官途は越前守。湖北四家のひとつ。内紛により京極高清の勢力が衰えると、湖北で勢力を拡大した浅井亮政に属して成道寺城主に任じられた。娘の阿古は浅井久政に嫁いだ。1531年、「箕浦城の戦い」で六角定頼勢と戦い、浅井亮政の身代わりとなって討死した。

井口経親【いのくちつねちか(1524~15??)】

井口経元の男。1531年、父井口経元の討死により井口家の家督を相続した。1553年、三田村忠政の間で用水論争が起こり、赤尾清世に支援を依頼した。

磯野員栓【いそのかじあき(15??~15??)】 

京極高清家臣。伊香郡郡磯野山城主。通称右衛門大夫。1517年、浅井亮政が京極高清を小谷城に幽閉すると、磯野山城に籠城して浅井亮政勢と戦った。

磯野忠吉【いそのただよし(15??~1517)】

磯野忠員の男。官途は肥後守。別名磯野為員。1517年、で父磯野員栓とともに浅井亮政と戦っていた山本山城主浅見貞則の支援に赴く途中、浅井亮政の家臣宮沢員宗に討取られた。

磯野員宗【いそのかずむね(15??~15??)】

宮沢員村の男(磯野員吉の養子)。1571年、磯野忠吉が討死すると、その養子となり磯野家の家督を相続した。

磯野員清【いそのかずきよ(15??~15??)】

磯野員吉の弟。

磯野員昌【いそのかずまさ(15??~15??)】

磯野員宗の男。官途は丹波守。父磯野員宗の死後、叔父の磯野員清が磯野家の家督を相続後したが、後に磯野員昌が相続した。浅井長政勢の先陣を務め、数々の戦功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」では、織田信長の本陣まで攻め込むが、稲葉良通、氏家直元、安藤守就らの横槍を受け進撃が止まった。その後、朝倉義景勢を撃破した松平元康勢の攻撃も加わり、浅井長政勢は総崩れとなり、佐和山城は再び織田信長勢に包囲された。磯野員昌に翻意ありという流言を信じた浅井長政が佐和山城への兵糧や兵士の輸送を取りやめたため、織田信長に降伏した。その後、高島郡新庄城を領して、津田信澄を養子に迎えた。1578年、織田信長の勘気を蒙り所領を没収され、高野山に追放された。

磯野行尚【いそのゆきなお(15??~16??)】

磯野行信の男。通称平三郎。石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成家が討死すると、藤堂高虎に仕えた。1614年、「大坂夏の陣」では、増田盛次と戦いこれを討取る戦功を挙げた。

磯野行信【いそのゆきのぶ(15??~1619)】 

磯野員昌の次男。通称右近。石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢が討死すると、、藤堂高虎に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」では、旗奉行を務めた。

井戸村清光【いどむらきよみつ(15??~15??)】

今井定清家臣。

井戸村光慶【いどむらみつよし(15??~15??)】

井戸村清光の男。官途は左京亮。通称小次郎。猛将で家老職を務めた。1561年、今井定清が討死すると、磯野員昌に仕えた。

伊吹三左衛門【いぶきさんざえもん(15??~15??)】

宮部長煕家臣。家老職を務めた。1600年、「鳥取城の戦い」では、宮部長煕が本戦に敗れた後も、亀井茲矩の開城要求を拒否して鳥取城に籠城を続けた。鳥取城下では激しい戦闘が行われ、城下は焼き払われた。

今井秀信【いまいひでのぶ(1492~1533)】

坂田郡箕浦城主。京極高清家臣。今井秀俊の男。官途は越前守。1523年、浅見貞則、浅井亮政、三田村忠政らとともに京極高延を擁立し、京極高清、京極高吉、上坂信光、下坂秀隆らを追放した。1533年、六角定頼にに内応して浅井亮政に誘殺された。

今井定清【いまいさだきよ(15??~1561)】

今井秀俊の次男。官途は備中守。1531年、父今井秀俊が六角定頼勢と戦って自刃すると、六角定頼勢に属した。京極高延、浅井亮政の戦いに参陣した。1533年、六角定頼の意向を受けて鎌刃城を攻撃した。1538年、今井定清は島秀安を鎌刃城代に任じた。1561年、「太尾城の戦い」で六角定頼勢と戦いで、味方の磯野員昌勢に誤殺された。

入江小次郎【いりえこじろう(15??~15??)】

浅井久政家臣。安養寺猪之助とともに湖北海賊衆を率いた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、羽柴秀吉勢に属して参陣した。

榎津右衛門【えなつうえもん(15??~15??)】

田中吉政家臣。官途は加賀守。1600年、「関ヶ原の役」後、田中吉政が筑後国柳河城320,000石を領すると、津村城代に任じられ3,000石を領した。

遠藤主膳【えんどうしゅぜん(15??~15??)】

浅井亮政家臣。

遠藤直経【えんどうなおつね(15??~1570)】 

遠藤主膳の男。通称喜右衛門。伊賀衆を用いて諜報活動を統括した。1561年、六角義賢勢に対抗するため、横山城を修築した。1568年、小谷城を訪れた織田信長の接待役を務めたが、その際、織田信長の謀殺を浅井長政に進言した。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政勢が壊滅すると、織田信長を討取るため、にせの頸を持って織田信長の本陣に近づいたが、竹中重矩に見破られて討取られた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小川正秀【おがわまさひで(15??~1570)】

高島高賢家臣。高島郡小川城主。官途は主膳。1570年、織田信長勢の攻撃を受け討死した。

大野木秀俊【おおのぎひでとし(15??~1573)】 

浅井久政家臣。官途は土佐守。1569年、野村直隆、三田村国貞らとともに横山城の在番を務めた。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政勢が壊滅すると、横山城を放棄して小谷城に落延びた。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が討死すると、織田信長勢に降伏したが許されず、謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

----------------------------

【か】

海津政元【かうづまさもと(15??~15??)】

京極高清家臣。高島郡海津城主。官途は長門守。浅井亮政勢に属した。1570年、織田信長の侵攻を受けて落城した。

海北綱親【かいほつなちか(1510~1535)】

浅井亮政家臣。通称善右衛門。浅井家三将(赤尾清綱、雨森清貞)のひとり。軍奉行を務めた。1535年、浅井亮政が京極高清の家臣多賀貞隆勢と戦った際に討死した。

海北綱親【かいほうつなちか(1530~1573)】

海北綱親の男。智勇兼備の諸将。1573年、「小谷城の戦い」で織田信長勢の攻撃を受け討死した。

海北友松【かいほゆうしょう(1533~1615)】

海北綱親の五男。海北派の始祖。1535年、京の東福寺で禅門に入り修行。狩野元信の教えを受けた。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政とともに海北綱親が討死したため、還俗し海北家の再興をめざしたが、羽柴秀吉に画才を認められたことから武門を去り晩年は画業に専念した。

片桐直貞【かたぎりなおさだ(1522~1591)】 

伊香郡高月館主。通称孫右衛門。官途は肥後守。1570年、「姉川の戦い」では、須賀谷を守備した。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が滅亡すると、織田信長に仕えた。

片桐且元【かたぎりかつもと(1556~1615)】

片桐直貞の男。官途は東市正。通称助作。「賤ヶ岳七本鑓」のひとり。1589年、「小田原の役」に参陣した。1585年、検地奉行、方広寺作事奉行を務めた。1598年、羽柴秀吉が病没すると、羽柴秀頼の後見役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」後も茨木城を領した。1608年、羽柴秀頼の意向により和泉国狭山池を大改修し、耕地の灌漑を行った。1614年、「方広寺鐘銘事件」で羽柴秀頼と松平元康が対立すると、開戦回避に尽力した。強硬派から松平元康への内応の嫌疑を受け、大坂城から退城し、茨木城へ蟄居した。1615年、大坂城落城後、自刃した。

片桐貞隆【かたぎりさだたか(1560~1627)】 

片桐直貞の次男。官途は主膳正。通称加兵衛。父片桐直貞が織田信長に仕えると、兄片桐且元とともに羽柴秀吉に仕えた。1589年、「小田原の役」に参陣して戦功を挙げ播磨国内で10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、片桐且元とともに羽柴秀頼を補佐した。1614年、「大坂冬の陣」では、強硬派の嫌疑を受け片桐且元とともに大坂城を退去した。1615年、「大坂夏の陣」後、大和国小泉館16,000石を領した。

川角三郎右衛門【かわすみさぶろうえもん(15??~15??)】

田中吉政家臣。1621年、自己に経験や見聞をもとに『川角太閤記』を表した。

河瀬高秀【かわせたかひで(15??~15??)】

河瀬城主。官途は大和守。別名大宇高秀。1552年、三好長慶勢の攻撃を受け八木城から敗走してきた香西元盛、波多野稙通らを匿ったが周囲を包囲されたため、降伏した。

河瀬秀則【かわせひでのり(15??~15??)】

河瀬高秀の男。別名大宇秀則。仏教に深く帰依していた。1574年、佐目にあった法蔵寺を河瀬城内に移築して寺院と城郭を一体化した。

河原林弾正【かわらばやしだんじょう(15??~1573)】

高島郡今津城主。1573年、「今津城の戦い」で織田信長勢の攻撃を受け落城した。

久徳義時【きゅうとくよしとき(15??~15??)】

京極高清家臣。内紛により京極高清の勢力が衰えると、湖北の国人衆は浅井亮政勢に属したが、久徳義時は湖南の六角定頼勢に属した。浅井長政勢の攻撃を受け降伏した。1570年、「姉川の戦い」では、織田信長勢に降伏した。高宮右京亮らが反乱を起こすと、丹羽長秀勢とともにその鎮圧を行った。

京極高清【きょうごくたかきよ(1460~1538)】

坂田郡上平寺城主。京極持清の男。近江国、飛騨国守護職。官途は中務少輔。室は斎藤妙純の娘。京極家惣領職の家督を巡って兄京極政経(出雲国、隠岐国守護職)と争った。1480年、京極家惣領職の家督を相続した。1486年、「多賀宗直の乱」を討伐した。1490年、京極政経勢の反撃を受け京極家惣領職の座を奪われ、越前国敦賀に落延びた。1492年、京極高清が京極家惣領職を相続した。1499年、上坂家信の支援を受け京極政経を近江国から追った。1505年、上坂家信の仲介で京極政経の継嗣京極材宗と和議を結んだ。1523年、継嗣の京極高延を廃嫡を画策するも、浅井亮政らの攻撃を受け次男の京極高吉、上坂信光らとともに追放処分に処された。

京極高延【きょうごくたかのぶ(15??~15??)】

京極高清の男。官途は武蔵守。通称六郎。1523年、父京極高清が弟の京極高吉に京極家惣領職を譲ろうとしたため、浅井亮政らと結び京極高清と京極高吉を追放した。1541年、浅井亮政が湖北で戦力を拡大すると、それと争った。浅井亮政の勢力が拡大すると対立が激しくなる。1544年、「加田口の戦い」では、上坂定信、浅見新左衛門らとともに浅井亮政勢と戦うが敗れた。1549年、浅井亮政と和議を結んだ

京極高吉【きょうごくたかよし(1508~1581)】

京極高清の次男。官途は長門守。室は浅井亮政の娘(マリア)。1523年、政変で父京極高清とともに近江を追われ、尾張国に落延びた。1528年、六角定頼の支援を受け上坂信光らとともに浅井亮政と戦うが敗退した。1538年、「小谷城の戦い」では
、六角高頼勢に属して鳥羽上城を攻落としたが、京極家の再興はならず足利義輝に仕えた。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、足利義昭に仕えた。1570年、織田信長が不和となると織田信長の嫌疑を受け、京極高次を人質に出して上平寺城に蟄居した。

京極高次【きょうごくたかつぐ(1563~1609)】

京極高吉の男。通称小兵衛。官途は若狭守。室は浅井長政の次女(お初)。1570年、足利義昭と織田信長の対立では、父が足利義昭方だったため織田信長により蟄居させられ、京極高次が家督を相続した。1573年、「槙島城の戦い」では、織田信長勢に属して参陣した。1581年、「第一次伊賀攻め」では、丹羽長秀の寄騎衆として参陣した。1582年、「本能寺の変」で明智光秀勢に属したため、明智光秀勢が敗れると、若狭国へ落延びた。京極高次の妹(松丸殿)を羽柴秀吉に差し出して許された。1600年、「大津城の戦い」では、松平元康勢に属して籠城したが、立花宗茂らの猛攻を受け落城した。役後、若狭小浜城に85,000石を領した。

京極高知【きょうごくたかとも(1572~1622)】

京極高吉の次男。官途は丹後守。1581年、「本能寺の変」で兄京極高次とともに明智光秀勢に属したが、許され羽柴秀吉に仕えた。1591年、蒲生郡内で5,000石を領した。1593年、岳父毛利秀頼が病没すると、信濃国伊奈郡飯田城60,000石を相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して戦功を挙げた。役後に丹後国田辺城123,000石を領した。

京極高広【きょうごくたかひろ(1599~1677)】

京極高知の男。官途は丹後守。室は池田輝政の娘。1622年、父京極高知が病没すると、遺領のうち丹後国宮津城78,000石を相続(弟高三が丹後国田辺城35,000石、義弟高通が丹後国峰山城13,000石)した。1654年、眼病を理由として長男京極高国に家督を譲った。

京極忠高【きょうごくただたか(1593~1637)】  

京極高次の男。官途は若狭守。室は松平秀忠の娘(初姫)。1609年、父京極高次の死を受けて京極家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、和平に尽力した。1615年「大坂夏の陣」では、頸級300余り上げる戦功を挙げた。1634年、出雲国、隠岐国で264,000石を領した。

熊谷平治郎【くながいへいじろう(15??~15??)】

伊香郡塩津城主。通称兵庫。1555年、「疋檀城の戦い」では、疋田景継が疋檀城を留守の間に、兵3,000余りを率いて疋檀城を攻撃した。攻落とすことができず、疋田景継と和議を結んで撤退した。

国友興左衛門【くにともこうざえもん(15??~15??)】

宮部継潤家臣。宮部家七人衆のひとり。1600年、「関ヶ原の役」では、去就を決めかねる宮部長房に石田三成勢に属するように進言した。

高坂清兵衛【こうさかせいべい(15??~15??)】

宮部継潤家臣。宮部家七人衆のひとり。1600年、「関ヶ原の役」では、去就を決めかねる宮部長房に石田三成勢に属するように三田村太郎右衛門とともに進言した。役後、松平元康から自刃を命じられた。

上坂家信【こうさかのぶみつ(15??~15??)】

坂田郡今浜城主。京極高清家臣。1499年、上坂家信は京極高清を支援して京極政経勢を北近江国から追い落とした。京極政経は出雲国守護代尼子経久を頼り落延びた。1505年、京極政経の継嗣京極材宗と和議を結び、京極家の内乱を終結させた。上坂家信は、京極高清の執権として北近江国の実権を握った。

上坂信光【こうさかのぶみつ(15??~15??)】

上坂家信の男。1523年、下坂秀隆らとともに京極高清の次男京極高吉への家督相続を進めたが、浅井亮政、浅見貞則、三田村忠政、堀元積らの反発を招いた。「今浜城の戦い」では、浅井亮政らの攻撃を受け、京極高清のもとに落延びた。京極高清、京極高吉らとともに尾張国へ追放された。

上坂意信【こうざかおきのぶ(15??~15??)】

京極高清家臣。上坂景信の男。官途は伊賀守。京極高清の筆頭家老(執権)職を務めたが、その勢力が衰えると、浅井亮政に仕え、小谷城在番を務めた。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が滅亡すると、所領を失った。

上坂正信【こうさかまさのぶ(15??~15??)】

上坂意信の男。通称八右衛門。羽柴秀長に仕えた。羽柴秀長継嗣秀保の没後は羽柴秀吉に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後は故郷に戻って帰農した。。

小林家正【こばやしいえまさ(15??~15??)】

坂田郡茂賀山城主。通称左馬頭。1570年、「姉川の戦い」では、浅井長政勢に属して参陣した。

朽木稙綱【くつきたねつな(1498~1546)】

高島郡朽木谷城主。朽木貞清の男。湖西地域では京極高清、浅井亮政、六角定頼ら各勢力の支配を受けながらも、主戦場が湖東だったため、独立勢力として勢力を維持した。1525年、「小谷城の戦い」では、六角定頼勢の先陣を務め、浅井亮政勢と戦った。

朽木成綱【くつきしげつな(15??~15??)】

朽木稙綱の男。官途は左兵衛尉。足利義輝に仕えた。将軍の命を諸家に伝達する役目も勤め、他に惣領家と将軍家の利害調整にも活動していた事も窺える。

朽木藤綱【くつきふじつな(15??~15??)】

朽木稙綱の次男。官途は長門守。父とともに在京し、足利義輝の御部屋衆となる。義輝暗殺に際して若狭国に落ち延び、その後足利義昭の御部屋衆に復帰。

朽木輝孝【くつきてるたか(15??~15??)】

朽木稙綱の三男。足利義輝に仕え、御内書の副状発給、取次役を務めた。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、足利義昭に仕えた。1573年、足利義昭が織田信長に追放されると、朽木藤綱、朽木成綱とともに朽木谷へ戻り朽木元綱に仕えた。

朽木晴綱【くつきはるつな(1518~1550)】

朽木稙綱の四男。官途は宮内少輔。通称弥五郎。室は飛鳥井雅綱の娘。父朽木稙綱と同じく各将軍を庇護した。足利義晴勢として畿内各地転戦して戦功を挙げた。1550年、「俵山の戦い」で高島越中守勢と戦い討死した。

朽木元綱【くつきもとつな(1549~1632)】

朽木晴綱の男。官途は信濃守。通称弥五郎。室は無量寿寺尭慧の娘。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、これに従い所領を安堵された。1568年、浅井久政、浅井長政と結んだがやがて対立した。1570年、「第一次越前討伐」では、金ヶ崎から撤退する織田信長を支援した。1582年、「本能寺の戦い」で織田信長が討死すると羽柴秀吉に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、大谷吉継に属して北陸各地を転戦した。「関ヶ原の戦い」では、小早川秀秋が松平元康勢に寝返ると、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保らとともに松平元康勢にぞ内応して、大谷吉継、平塚為広、戸田勝成勢を壊滅させた。役後、減封処分に処され9,590石を領した。

朽木宣綱【くつきのぶつな(1582~1662)】

朽木元綱の男。官途は兵部少輔。室は京極高吉の娘。1600年、「関ヶ原の役」後、松平元康に馬廻衆として仕え6,470石を領した。1606年、内室の京極マグダレナが、京都八瀬の館で病没すると、京極マリアにより切支丹式の葬儀が行われた。1616年、松平元康の太政大臣任官に際し、配膳役を務めた。1662年、朽木谷において琵琶湖西岸地震で屋敷が崩壊して圧死した。

小堀正房【こぼりまさふさ(15??~15??)】

磯野員宗家臣。坂田郡小堀館主。

小堀正次【こぼりまさつぐ(1540~1604)】

小堀正房の男。通称新助。室は磯野員昌の娘。出家したが還俗して磯野員昌の娘を娶った。磯野員昌が浅井長政から離反したため、再び出家するが、再び還俗して羽柴秀長に仕え1,000石を領した。紀伊国や大和国の検地代官を務めた。羽柴秀長の没後は羽柴秀吉に仕えて大和国、和泉国、紀伊国の郡代職に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属した。役後、備中国松山城14,000石を領して、備中国内の蔵入地を管理した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小堀政一【こぼりまさかず(1579~1647)】

小堀正次の男。官途は遠江守。通称作助。別名小堀遠州。室は藤堂嘉晴の娘(藤堂高虎の養女)。茶人、建築家、作庭家。羽柴秀長に仕え、山上宗二、千利休、春屋宗園らと交遊を結んだ。1595年、羽柴秀吉に仕え、古田織部に茶道を学んだ。1598年、羽柴秀吉が病没すると、父小堀正次とともに松平元康に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後、小堀正次が備中国松山城14,000石を領した。1604年、小堀正次の病没により、小堀家の家督と、松山城12,460石を相続した。1608年、駿府城の普請奉行を務めた。1617年、河内国奉行を兼任となり、大坂天満南木幡町に役宅を与えられた。1622年、近江国奉行に任ぜられた。1624年、伏見奉行に任ぜられ豊後橋北詰に新たに奉行屋敷を設けた。晩年、公金10,000両を流用したとする嫌疑をかけられたが酒井忠勝、井伊直孝、細川忠興らの口添えにより不問とされた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小堀正行【こぼりまさゆき(1583~1615)】

小堀正次の次男。1600年、「関ヶ原の役」後、父小堀正次が備中国松山城14,000石を領すると1,000石を領した。1604年、小堀正次が病没すると、遺領の内2,000石を分知されて3,000石で馬廻衆寄合席となった。1615年、兄小堀政一の京都役宅にて病没した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

----------------------------

【さ】

坂本和泉守【さかもといずみのかみ(15??~15??)】

田中吉政家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、田中吉政が筑後国柳河城320,000石を領すると、久留米城主に次男に田中則政を、福島城主に三男の田中康政を任じた。田中則政が病没すると、久留米城主に任じられた。

嶋秀安【しまひでやす(1503~1580)】

今井定清家臣。官途は若狭守。通称四郎左衛門。1538年、鎌刃城代を務めた。今井定清が討死すると、浅井久政に仕えた。

嶋秀宣【しまひでのぶ(15??~15??)】

嶋秀安の男。

嶋秀淳【しまひでじゅん(15??~15??)】

嶋秀安の次男。

新庄直昌【しんじょうなおまさ(1513~1549)】

坂田郡新庄城主。新庄直寛の男。通称は蔵人。室は久我家の娘。1538年、父新庄直寛の病没により新庄家の家督を相続した。坂田郡に朝妻城を築城して本城を移した。1549年、畿内で細川晴元と三好長慶が対立すると細川晴元勢の救援に赴いた。「江口の戦い」で討死した。朝妻城は継嗣の新庄直頼、新庄城は次男の新庄直忠が相続した。

新庄直頼【しんじょうなおより(1538~1612)】

新庄直昌の男。官途は駿河守。通称新三郎。室は前田利太の娘。1570年、「姉川の戦い」では、第四陣を務めて織田信長勢と戦った。1571年、丹羽長秀勢の攻撃を受けて降伏した。1582年、「本能寺の変」後は、羽柴秀吉に仕えた。1591年、大津城12,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して筒井定次が守備する伊賀上野城を攻落とした。役後、改易処分に処された。1604年、常陸行方郡麻生城27,000石を領した。

新庄直忠【しんじょうなおただ(1542~1620)】

新庄直昌の次男。通称刑部左衛門。羽柴秀吉に仕えた。1591年、枯死した唐崎の松を植え替えて景勝保存に尽力した。1597年、「文禄の役」では、目付として渡海した。1598年、羽柴秀吉が病没すると京都に閑居した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、大津城に籠城する京極高次との取次役を務めた。役後、改易処分に処された。

新庄直定【しんじょうなおさだ(1562~1618)】

新庄直頼の男。官途は越前守。通称新三郎。1600年、「関ヶ原の役」では、父新庄直頼とともに筒井定次が守備する伊賀上野城を攻落とした。役後、新庄直頼とともに改易処分に処された。1604年、赦免されて松平元康に仕えた。1612年、新庄直頼の病没後、新庄家の家督を相続した。

新庄俊長【しんじょうとしなが(15??~1573)】

饗庭弥太郎の三男。高島郡伊黒城主。比叡山衆徒で僧兵。饗庭三坊のひとり。1573年、織田信長に降伏したが、浅井長政勢の攻撃を受け滅亡した。

新庄実秀【しんじょう(15??~15??)】

高島郡新庄城主。官途は伊賀守。高島七頭のひとり。1542年、「蟹ヶ坂の戦い」で戦功を挙げた。

----------------------------

【た】

高島高賢【たかしまたかし(15??~15??)】

高島郡清水山城主。官途は越中守。室は三淵晴員の娘。高島高賢、田中重政、朽木が一族の中でも力をもつようになり、の天文年間になると高島家と田中家は六角家に、朽木家は足利将軍に味方するようになります。1563年、「観音寺騒動」によって六角家が勢力を弱める。1568年、浅井家と同盟を結び。1570年、織田信長の近江侵攻をむかえた。

多賀貞隆【たかしまさだたか(15??~15??)】

京極高清家臣。高島郡下之郷城。1534年、浅井亮政に対抗して六角定頼勢に属した。

多賀貞能【たがさだよし(15??~1587)】

多賀貞隆の男。通称新左衛門。官途は信濃守。主家滅亡後は織田信長に従った。1582年、明智光秀に応じて「山崎の戦い」に参加したが、敗れて所領没収された。

多賀秀種【たがひでたね(1565~1616)】

堀秀重の次男(多賀貞能の養子)。官途は出雲守。室は多賀貞能の娘。1582年、「本能寺の変」で明智光秀勢に属したため、改易処分に処された。兄堀秀政に仕え8,000石を領した。羽柴秀吉に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1589年、「小田原の役」に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢に属して改易処分に処された。1614年、「大坂冬の陣」では、前田利常勢に属して戦功を挙げ6,000石を領した。

田中彦左衛門【たなかひこざえもん(15??~15??)】

宮部継潤家臣。代官職を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、亀井茲矩の意向で鳥取城に籠城する宮部継潤の家臣に対し、開城を促す使者となった。

田中重政【たなかしげまさ(15??~15??)】 

高島郡田中城主。高島七頭のひとつ。

田中吉政【たなかよしまさ(1548~1609)】

田中重政の男。官途は兵部大輔。通称久兵衛。1573年、浅井長政が滅亡すると、宮部継潤に仕えた。1585年、羽柴秀次の家老職を務めて5,000石を領した。1589年、「小田原の役」後、三河国岡崎城57,400石を領した。城下街の整備、矢作川の架橋、田中堀の掘削など岡崎城領内の内政を進めた。また寺社領没収、強制移転も行い、松平元康の影響力を払拭することに務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して石田三成勢と戦った。

田中清政【たなかきよまさ(15??~1619)】

田中重政の次男。官途は左馬允。1601年、兄田中吉政が柳川領主になると、筑後国赤司城17,000石を領した。

田中吉次【たなかよしつぐ(15??~1617)】

田中吉政の男。官途は民部大輔。通称小十郎。1584年、「小牧、長久手の役」では、羽柴秀吉の馬廻衆としてに参陣した。1595年、三河国岡崎城60,000石を領した。1600年、「岐阜城の戦い」では、父田中吉政とともに戦功を挙げた。のち田中吉政と不和になり、京都において病没した。

田中吉信【たなかよしのぶ(15??~1606)】

田中吉政の次男。官途は主膳正。父田中吉政が柳川城主となった際、久留米城30,000石の城主となった。1603年、柳川城から久留米城に至る道路を整備するほか、城下街の形成も行った。

田中吉興【たなかよしおき(15??~1629)】

田中吉政の三男。兄田中吉次は父田中吉政と不和のため廃嫡された。次兄田中康政もすでに分家していたことから、田中吉興が後継者となるところであったが、病弱を理由として弟の田中忠政が継嗣とされた。田中吉興は、田中忠政から30,000石を分知された。

田中忠政【たなかただまさ(1585~1620)】

田中吉政の四男。室は松平元家の養女(久松定勝の娘)。官途は筑後守。1609年、田中家の家督を相続した。1614年、家臣の宮川大炊と対立し、謀殺したことから城島城に宮川家枝連衆が籠城して抵抗、田中忠政の鎮圧は遅れ、「大坂冬の陣」に遅参した。1617年、兄田中吉興に30,000石を分知。1620年、無嗣のまま病没したため、田中家は断絶した。

田辺式部丞【たなべしきぶのじょう(15??~15??)】  

今井定清家臣。坂田郡長沢城主。室は遠藤主膳の娘。1561年、「太尾城の戦い」で今井定清が討死すると、作戦失敗の責任を問われ長沢城を追われ、遠藤直経を頼った。

織田信長の近江侵攻に降伏し、のち堀秀政に仕えた。

田屋明政【たやあきまさ(15??~15??)】

浅井亮政家臣。(浅井亮政の養子)。別名浅井新三郎。室は浅井亮政の娘(千代鶴)。浅井久政の生まれると、実家に戻った。1542年、浅井亮政が病没すると、六角定頼に内応して浅井久政と対立した。京極高広の支援を受け謀反を起こしたが、浅井久政勢の攻撃を受け敗れた。

月ヶ瀬播磨守【つきがせただきよ(15??~15??)】

京極家臣。月ヶ瀬城主。

月ヶ瀬忠清【つきがせただきよ(15??~15??)】

月ヶ瀬播磨守の男。官途は若狭守。

京極家 の衰退後に浅井家に仕えた。浅井長政が南近江の六角家 と戦い、浅井家 の独立を勝ち取った 1560年、「野良田の戦い」 では、浅井長政勢の後陣を務めた。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が滅亡するまで、浅井家のために戦い続けた。

辻重勝【つじしげかつ(15??~15??)】

田中吉政家臣。通称勘兵衛。1600年、「岐阜城の戦い」では、松平元康勢に属した田中吉政に従って西脇五右衛門、松原善左衛門らとともに石田三成勢に殿を務めた杉江勘兵衛を討取る戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、田中吉政が筑後国柳河城320,000石を領すると、猫尾城代を務めた。1620年、田中忠政が病没して田中家が改易処分に処されると、浅野幸長に仕え6,000石を領した。

----------------------------

【な】

中島貞清【なかじまさだきよ(15??~15??)】

浅井久政家臣。浅井郡島城主。官途は備中守。通称八郎右衛門。1553年、浅井久政の徳政令施行の奉行職を務めた。

中島直頼【(なかじまなおより15??~15??)】

中島貞清の男。官途は日向守。通称宗左衛門。横山城を守備した。1570年、浅井長政が坂本城を攻撃した際、小谷城の留守居役を務めた。

中島直親【なかじまなおちか(15??~15??)】 

中島直頼の男。通称宗左衛門。1573年、「丁野城の戦い」では、籠城して織田信長勢に抵抗したが落城した。

永田秀宗【ながたひでむね(15??~1573)】

高島郡永田城主。官途は左馬助。高島七頭のひとつ。1570年、「志賀の陣」では、浅井長政、朝倉義景勢に属した。1573年、浅井長政が討死すると、織田信長勢の攻撃を受け討死した。

西脇五右衛門【にしわきごえもん(15??~15??)】

田中吉政家臣。通称勘兵衛。1600年、「岐阜城の戦い」では、松平元康勢に属した田中吉政に従って辻重勝、松原善左衛門らとともに石田三成勢に殿を務めた杉江勘兵衛を討取る戦功を挙げた。1620年、田中忠政が病没して田中家が改易処分に処されると、松平忠昌に仕え3,080石を領した。

沼波俊盛【のなみとしもり(15??~15??)】

坂田郡沼波館主。通称三左衛門。

沼波秀信【のなみひでのぶ(15??~15??)】

沼波俊盛の男。通称又次郎。

野村直隆【のむらなおたか(15??~15??)】

浅井久政家臣。官途は肥後守。通称藤左衛門。1570年、三田村国定らとともに横山城を守備した。1571年、国友城に籠城した際は、織田信長の家臣宮部継潤勢の攻撃を受けたが撃退した。1573年、浅井長政が討死すると、羽柴秀吉に仕えた。1589年、「小田原の役」では、鉄砲隊を率いて参陣した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。1600年、「関ヶ原の役」では、継嗣の野村直俊とともに石田三成勢に属した。「伏見城の戦い」では、軍監を務めた。石田三成勢が壊滅すると、改易処分に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

野村直俊【のむらなおとし(15??~15??)】

野村直隆の男。官途は兵庫頭。

----------------------------

【は】

林員清【はやしかずきよ(15??~1575)】

高島郡大溝城主。通称與与次左衛門。1573年、織田信長勢の攻撃を受け降伏した。以後、明智光秀勢に属した。1572年、琵琶湖海賊衆を率いて竹生島を攻撃した。1575年、謀反の嫌疑を受け謀殺された。

速水實政【はやみずひろまさ(15??~15??)】

浅井郡速水城主。通称兵右衛門。

速水時久【はやみずときひさ(15??~15??)】

速水實政の男。

速水守久【はやみもりひさ(15??~1615)】

速水時久の男。官途は甲斐守。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が滅亡すると、於茶々に従い、後に羽柴秀吉に仕えた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城本丸広間番衆六番組頭を務め40,000石を領した。1597年、羽柴秀吉が病没すると、七手組の筆頭を務めた。1614年、「鴫野の戦い」で長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「天王寺の戦い」で真田信繁勢とともに藤堂高虎勢を撃破したが、衆寡敵せず大坂城に退却した。千姫を松平元康にもとに送り届けた後、羽柴秀頼の介錯を務め殉死した。

速水守治【はやみずもりはる(15??~15??)】

速水守久の男。

速水宗久【はやみずむねひさ(15??~15??)】

速水守久の次男。

速水保久【はやみずやすひさ(15??~15??)】

速水守久の三男。

速水貞久【はやみずさだひさ(15??~15??)】

速水守久の四男。

日置貞忠【ひおきさだただ(15??~15??)】

朽木晴綱家臣。1547年、朽木晴綱の代理として宮川貞頼、宮川頼忠とともに田地売券に連署した。

樋口直房【ひぐちなおふさ(15??~1574)】

堀秀元家臣。通称三郎兵衛。堀秀元が病没すると堀秀村の後見役を務め、陣代として家中を取り仕切るなど経営手腕を発揮した。兵法、軍略に通じ、優れた民政家でもあったため、人望も厚く近江国一の智謀の将と称された。1570年、堀秀元とともに織田信長勢に内応した。浅井長政勢の攻撃を受け堀秀元とともに鎌刃城を追われた。「姉川の戦い」で浅井長政勢の勢力が弱まると、鎌刃城を奪還して羽柴秀吉の寄騎衆を務めた。1573年、「小谷城の戦い」では、丁野砦を攻め落とす戦功を挙げた。1574年、「越前木目峠の戦い」で一揆勢と単独で和議を結び陣を放棄した。織田信長の逆鱗に触れた樋口直房は内室、一族郎党とともに羽柴秀吉から討伐を受け討死した。樋口直房が討たれたことにより、堀秀村も改易処分に処された。

平井頼氏【ひらいよりうじ(15??~15??)】

高島郡平井城主。高島七頭のひとつ。

福永弥五右衛門【ふくながよごえもん(15??~15??)】

宮部継潤家臣。宮部家七人衆のひとり。1600年、「関ヶ原の役」では、去就を決めかねる宮部長房に石田三成勢に属するように進言した。

堀秀元【ほりひでむら(15??~15??)】

浅井政亮家臣。坂田郡鎌刃城主。通称次郎左衛門。別名堀元積。1523年、京極家惣領職を巡り、京極高延を擁立した浅見貞則、浅井亮政、三田村忠政らに属して、次男京極高吉を擁立した京極高清と上坂信光らと争った。1524年、京極高吉、京極高清、上坂信光らは、京極高広、浅見貞則、浅井亮政、三田村忠政らに敗れ尾張国に落延びた。

堀秀村【ほりひでむら(1557~1599)】

堀秀元の男。官途は遠江守。通称二郎。別名堀元積。父堀秀元が病没したため、堀家の家督を相続して、家臣樋口直房の後見を受けた。1570年、織田信長勢に内応したが、浅井長政勢の攻撃を受け落城した。「姉川の戦い」で浅井長政勢の勢力が弱まると、鎌刃城を奪還して羽柴秀吉の寄騎衆を務めた。1571年、「鎌刃城の戦い」では、浅井長政勢に属する一揆衆の攻撃を受けたが、羽柴秀吉からの援軍を受け撃退した。1574年、樋口直房が一揆勢と和議を結び逐電したため、織田信長の怒りを買い改易処分に処された。参考文献:『信長と消えた家臣たち―失脚・粛清・謀反』by谷口克広。

堀秀信【ほりひでのぶ(1587~1627)】

新庄直頼の男(堀存村の養子)。官途は因幡守。1594年、伏見城の新庄直頼邸に松平元康、松平秀忠父子の訪問を受け、松平元康から左文字の脇差、松平秀忠からは一文字の太刀を与えられた。1606年、御書院番となり、下総国匝瑳郡、下総国香取郡内で所領を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、水野忠清勢に属して戦功を挙げた。

----------------------------

【ま】

松原善左衛門【まつばらぜんざえもん(15??~15??)】

田中吉政家臣。通称勘兵衛。1600年、「岐阜城の戦い」では、松平元康勢に属した田中吉政に従って辻重勝 、西脇五右衛門らとともに石田三成勢に殿を務めた杉江勘兵衛を討取る戦功を挙げた。

三田村定頼【みたむらさだより(15??~15??)】

京極高清家臣。浅井郡三田村館主。通称平兵衛。室は浅井亮政の娘。京極高清の勢力が衰えると浅井亮政勢に属した。公事奉行を務め、用水争論の裁定などに功を挙げた。

三田村国定【みたむらくにさだ(15??~1573)】

大野木秀俊の男(三田村定頼の養子)。官途は左衛門大夫。通称左衛門尉。室は今井定清の娘。1570年、大野木秀国、野村直隆らとともに横山城を守備した。1570年、「姉川の戦い」で織田信長勢と戦った。戦後は、小谷城中ノ丸を守備した。1573年、「小谷城の戦い」では、羽柴秀吉に内応したが、許されず討取られた。

三田村忠政【みたむらただまさ(15??~15??)】

三田村定頼家臣。通称又四郎。1525年、「小谷城の戦い」で六角高頼が北近江国に侵攻すると、三田村伊賀守、三田村与次郎、三田村彦八、三田村帯刀左衛門、三田村五郎兵衛、三田村八郎兵衛、三田村七郎左衛門らが参陣したが、三田村忠政は浅井亮政勢に属した三田村定頼の補佐役を務め戦功を挙げた。

三田村直政【みたむらなおまさ(15??~15??)】

三田村忠政の男。通称又四郎。1525年、「小谷城の戦い」で戦功を挙げ、六角高頼勢に属した三田村帯刀左衛門の旧領地を領した。1531年、「箕浦城の戦い」では、六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。

三田村太郎右衛門【みたむらたろううえもん(15??~15??)】

宮部継潤家臣。宮部家七人衆のひとり。1600年、「関ヶ原の役」では、去就を決めかねる宮部長房に石田三成勢に属するように高坂清兵衛とともに進言した。役後、松平元康から自刃を命じられた。

宮川右衛門尉【みやかわうえもんのじょう(15??~15??)】

朽木晴綱家臣。家老職を務めた。

宮川頼忠【みやかわよりだた(15??~15??)】

朽木晴綱家臣。1547年、朽木晴綱の代理として田地売券に宮川貞頼、日置貞忠らとともに署書した。

宮川貞頼【みやかわさだより(15??~15??)】

朽木晴綱家臣。1547年、朽木晴綱の代理として宮川頼忠、日置貞忠らとともに田地売券に連署した。

宮川讃岐守【みやがわさぬきのかみ(15??~15??)】

田中吉政家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、田中吉政が筑後国柳河城320,000石を領すると、城島城代に任じられた。

宮川土佐守【みやがわとさのかみ(15??~15??)】

田中吉政家臣。1600年、「長良川の戦い」で田中吉政勢が長良川を渡河する際、斥候を出して敵の様子を見てから渡るべきと主張したが、坂本和泉守に退けられた。

宮部継潤【みやべけいじゅん(1528~1599)】

浅井長政家臣。土肥真舜の男(宮部清潤の養子)。官途は中務卿。通称善祥坊。もとは比叡山の僧であったが、浅井長政に仕えた。1571年、羽柴秀吉に内応して、以後羽柴秀吉に仕えた。「三木城の戦い」では、別所長治勢の補給線を断ち切るため、法界寺山に砦を築いて守備した。1580年、但馬豊岡城20,000石を領した。「第二次幡鳥取城の戦い」では、羽柴秀吉が留守の間も包囲を続けた。1582年、鳥取城主50,000石を領した。1586年、「日向高城の戦い」では、高城に籠城して島津家久勢を撃退した。1589年、「小田原の役」に参陣した。

宮部長房【みやべがふさ(1581~1635)】

宮部継潤の男。官途は兵部少輔。別名宮部長煕。1592年、「文禄の役」に参陣した。1596年、父宮部継潤の隠居により宮部家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、500余りを率いて尾張国熱田を行軍中に石田三成が挙兵した。寄騎衆の木下重堅、垣屋恒総らが石田三成勢に属したため、七人衆の三田村太郎右衛門と高坂清兵衛は石田三成勢、宮部市兵衛、宮部采女、福永弥五右衛門、国友興左衛門らは松平元康勢に属するようにそれぞれ進言した。熱田で去就を決せずにいるうちに松平元康勢によって捕縛された。石田三成勢が敗退すると、居城の鳥取城は亀井茲矩、斎村政広の攻撃を受け落城、宮部長房は田中吉政に預けられ、七人衆の三田村太郎右衛門と高坂清兵衛は自刃を命じられた。

宮部宗治【みやべむねはる(15??~15??)】

土肥刑部少輔の男(宮部継潤の養子)。官途は肥前守。1571年、義父宮部継潤とともに織田信長勢に寝返った。1573年、「刀禰坂の戦い」では、三段崎勘右衛門の頸実検役を務めた。

宮部市兵衛【みやべいちべい(15??~15??)】

宮部継潤家臣。宮部家七人衆のひとり。1600年、「関ヶ原の役」では、去就を決めかねる宮部長房に石田三成勢に属するように進言した。

宮部采女【みやべうねめ(15??~15??)】

宮部継潤家臣。宮部家七人衆のひとり。1600年、「関ヶ原の役」では、去就を決めかねる宮部長房に石田三成勢に属するように進言した。

----------------------------

【や】

八木元経【やぎもとつね(15??~15??)】

京極高延家臣。浅井郡八木館主。

山崎兵庫頭【やまざきひょうごかしら(15??~15??)】

高島郡船木城主。高島七頭のひとつ。1573年、織田信長勢の攻撃を受け降伏した。浅井長政が討死すると、帰農した。

山田清氏【やまだきようじ 15??~15??)】

京極高清家臣。官途は越中守。京極高清が内乱により衰退すると、浅井亮政勢に属した。

山中秀国【やまなかひでくに(15??~15??)】

高島郡伊井城主。官途は丹後守。1570年、織田信長勢の攻撃を受け降伏した。

弓削家澄【ゆげいえずみ(15??~1570)】

京極高延家臣。通称六郎左衛門。京極高延が没落した後は浅井亮政に仕えた。1570年、「姉川の戦い」で討死した。

横山高長【よこやまたかなが(15??~1572)】

高島郡横山城主。官途は下野守。高島七頭のひとり。浅井長政勢の攻撃を受け降伏した。1572年、「横山城の戦い」で織田信長勢の攻撃を受け討死した。

吉武壱岐守【よしたけいきのかみ(15??~15??)】

饗庭弥太郎の三男。高島郡吉武城主。饗庭三坊(西林坊、定林坊、宝光坊)のひとり。延暦寺山門領の代官職を務めた。1572年、「高島城の戦い」で織田信長勢の攻撃を受け高島三坊は没落した。1582年、「加賀一向一揆の戦い」では、一揆勢に属して鳥越城主を務めた。1593年、村上頼勝に仕え筆頭家老職を務めた。

吉武法泉坊【よしたけほうぜんぼう(15??~15??)】

饗庭弥太郎の次男。高島郡五十川城主。

若宮友興【わかみやともおき(15??~1566)】

浅井久政家臣。通称は喜助。室は石川小四郎の娘。1566年、「野良田の戦い」で討死した。

脇坂秀勝【わきさかひでかつ(15??~1573)】

浅井久政家臣。浅井郡脇坂館主。通称左介。外交の書状などを発行する「奏者」という役職にあった。1573年、「小谷落の戦い」では、織田信長勢に敗れ浅井長政に殉じた。

脇坂安明【わきざかやすあきら(15??~1568)】 

脇坂秀勝の男。1568年、「観音寺城の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。

渡辺任【わたなべのたもつ(15??~1573)】

阿閉貞征家臣。渡辺孝の男。官途は周防守。通称は甚兵衛。1570年、「姉川の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1573年、「小谷城の戦い」に参陣して織田信長勢と戦い討死した。

渡辺統【わたなべのすぶる(1519~1599)】

渡辺孝の次男。通称甚助。1564年、浅井長政に仕えた。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が討死すると、羽柴秀吉に仕えた。

渡辺了【わたなべのさとる(1562~1640)】

渡辺任の男。通称の勘兵衛。室は阿閉貞征の娘。1582年、「本能寺の変」後、明智光秀勢に属した阿閉貞大が滅亡すると、羽柴秀勝に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」に参陣した。1586年、羽柴秀勝が病没すると水口城主中村一氏に仕えた。1589年、「山中城の戦い」で戦功を挙げたが、中村一氏と相違があって致仕した。増田長盛に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で増田長盛が石田三成勢に属して改易処分に処されると、大和郡山城の開城は、増田長盛の意向がなければできぬと拒否した。1601年、継嗣の渡辺守とともに藤堂高虎に仕えた。藤堂高虎のもとで、今治城の縄張りを行った。1615年、「大坂夏の陣」では、長宗我部盛親勢の攻撃を受け藤堂高虎は壊滅、渡辺了はこの不手際を叱責されて藤堂高虎もとを致仕した。

渡辺守【わたなべのまもる(15??~1618)】

渡辺了の男。通称長兵衛。室は藤堂虎高の娘。父渡辺了とともに増田長盛に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で増田長盛が滅亡すると、藤堂高虎に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」では、藤堂高虎勢の先陣を務めた。1615年、「八尾の戦い」では、長宗我部盛親勢を撃退する戦功を挙げた。父渡辺了は藤堂高虎のもとから退去したが、渡辺守はそのまま藤堂高虎に仕えた。

渡辺半左衛門【わたなべはんざえもん(15??~15??)】

浅井長政家臣。安養寺猪之助とともに湖北を海賊衆を率いた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、入江小二郎、安用寺猪之助とともに丹羽長秀勢に属して参陣した。

----------------------------

【資料Ⅰ】

北近江国(4郡/238,000石)

高島郡:大溝城、朽木城、今津城。

伊香郡:磯野山城、本山城、雨森城、塩津湊。

浅井郡:小谷城、国友村。

坂田郡:横山城、佐和山、今浜城、上平寺城。

----------------------------

【資料Ⅱ】

浅井家の四翼【あざいけのよんよく】

磯野員昌、大野木国重、野村定元、三田村秀俊。

海赤雨の三将【かいせきうさんしょう】

海北綱親、赤尾清綱、雨森清貞。

高島七頭【たかしましちかしら】

高島高賢、朽木元綱、永田秀宗、平井頼氏、横山高長、田中重政、山崎兵庫頭。

----------------------------

【資料Ⅲ】

北近江国【きたおうみのくに】

琵琶湖を望む東山道の国。東は伊吹山地で美濃国、琵琶湖を挟んで南近江国、

浅井郡国友村【くにともむら】

堺と並び称される鉄砲の生産地。国友村では、鉄砲を生産するため、銃身などを作る鍛冶のほかに、銃床を作る「台師」、「からくり」と称される機関部や各種の金属部品それに銃身や地板等に施す装飾の象嵌等に専門職人が分業制が取られた。

伊香郡塩津湊【しおつみなと】

塩津は琵琶湖の最北端の湊で、古来より今津、海津とともに湖北の三津と並び称せられた。敦賀と大津その他琵琶湖の湊を結ぶ要湊として栄えた。

浅井郡徳勝寺【とくかつじ】

浅井郡徳勝寺。曹洞宗の寺院。1518年、浅井亮政が小谷城を築城すると、龍山株源を中興として山麓に移し、浅井家の菩提寺とした。

湖北十ヶ寺【こほくじゅけじ】

長沢福田寺、箕浦誓願寺、戌亥福勝寺、十里金光寺、榎本浄願寺、上坂順慶寺、上坂授法寺、内保誓願寺、尊勝寺称名寺、益田真宗寺。

----------------------------

戦国人名辞典は1520~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は示していますが、歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、『武田信玄(全4巻)』by新田次郎、『武田信玄(全2巻)』by津本陽、『武田勝頼(全3巻)』by、『国盗り物語(全4巻)』by新潮文庫、『兵は詭道なり 斎藤道三』by学研M文庫、『ふたり道三(全3巻)』by徳間文庫、『斎藤道三(戦国史記)』by光文社文庫、『浅井長政の決断―賢愚の岐路』by笹沢左保、『浅井長政―信長に反旗を翻した勇将』by星亮一、『浅井長政』by江宮隆之、『甲州武田家臣団』by新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

----------------------------

0 件のコメント: