2011年3月6日日曜日

戦国山城国人名辞典

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【あ】

赤沢景盛【あかざわかげもり(15??~1533)】

細川晴元家臣。1533年、丹波国氷上郡母坪城主赤井時家への援軍に赴き、細川晴国勢に属した波多野晴通と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤沢朝経【あかざわともつね(15??~1507)】

細川政元家臣。官途は信濃守。通称源次郎。別名沢蔵軒宗益。1491年、細川政元に鷹狩の技能を認められてその被官となった。1496年、遊佐弥六左衛門を山城国に攻撃した。幕府料所河内国17ヵ所の給人や山城国上三郡(久世郡、綴喜郡、相楽郡)の守護代職を務めた。1507年、丹後国で一色義有と戦った。細川政元が謀殺されたため、京都に戻る途中、宮津で一色義有勢の国人一揆衆に包囲され自刃した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

赤沢長経【あかざわながつね(15??~15??)】

赤沢朝経の養子。通称新兵衛尉。養父赤沢朝経とともに細川政元に仕えた。1506年、赤沢朝経とともに大和国を平定した。1507年、「永正の錯乱」で細川政元が、細川澄之、薬師寺長忠、香西元長、竹田孫七らに謀殺されると、赤沢朝経が一色義有、石川直経ら丹後国人衆の反撃を受けて自刃した。赤沢長経は落延びて、細川澄元に仕えた。細川澄元の意向で大和国に侵攻して、筒井順賢、十市遠治、越智家教ら大和国人衆を撃破った。1508年、足利義稙、大内義興らは、足利義澄と細川澄元を追放して、軍職に復帰し、細川高国が管領職に任じられた。赤沢長経は足利義澄勢として赤沢澄元、畠山義英、古市澄胤とともに足利義稙勢の細川高国、畠山尚順と河内国で戦ったが、敗れて逃走、大和初瀬で捕縛され斬頸となった。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

赤塚新右衛門尉【あかつかしんざえもんのじょう(15??~15??)】

寺本直勝家臣。

足利義晴【あしかがよしはる(1511~1550)】

愛宕郡二条城主。足利義澄の男。官途は征夷大将軍。室は近衛尚通の娘(慶寿院)。側室は大舘常興の娘。父足利義澄が大内義興らの攻撃を受け京都から落延びた後、近江国岡山城主九里信賢のもとで誕生した。1521年、細川高国によって将軍職に擁立された。1528年、足利義維を擁する三好元長らに追われて朽木稙綱を頼った。1534年、京都に復帰した。1541年、木沢長政の攻撃を受け再び近江国に落延びた。1542年、木沢長政の討死すると京都に復帰した。1546年、細川晴元と対立して将軍位を継嗣の足利義輝に譲った。1546年、勝軍山城を築城、細川家綱に内応して細川晴元に対抗した。六角定頼や池田長正らが足利義晴勢から離反したため、近江国坂本へ落延びた。その後、細川晴元と和議を結び京都に戻った。1549年、三好長慶に擁された細川家綱に、京都を追われ細川晴元、足利義輝とともに近江国に落延びた。1550年、細川義晴は京都に還往して勝軍山城を整備して三好長慶に備えたがまもなく病没した。

足利義維【あしかがよしつな(1509~1573)】

足利義澄の次男(足利義稙の猶子)。官途は左馬頭。1527年、三好元長と結び足利義晴を追放したが将軍位宣下を受けることができなかった。六角定頼との対立により京都に入ることができず、堺で奉書などを発給した。1531年、細川晴元は細川高国を滅ぼすが、三好元長と対立したため、細川晴元は三好元長を謀殺した。三好元長の後ろ盾を失った足利義維は、堺から淡路国に落延びた。1534年、阿波守護職細川持隆が阿波平島の西光寺に足利義維を迎えた。足利義維は嫡男足利義栄の将軍位任官や自己勢力の扶植を目指し、足利義晴勢である本願寺との協力関係も持続させた。

足利義輝【あしかがよしてる(1536~1565)】

足利義晴の男(近衛尚通の猶子)。別名「剣豪将軍」。室は近衛稙家の娘。1546年、将軍職に擁立された。1549年、三好長慶勢の攻撃を受け、細川晴元とともに近江国に再び落延びた。1550年、「中尾城の戦い」では、細川晴元、六角定頼らと結んで三好長慶と戦うが敗退して、再び近江国に落延びた。1552年、三好長慶と和議を結び京都に帰還した。1553年、細川晴元勢に属すると再び京都を追われ近江国の朽木元綱を頼った。1558年、細川晴元とともに京都に侵攻、如意岳城に拠って三好長慶勢と戦った。三好政康、香西元成らは劣勢となり勝軍山城に籠城した。足利義輝は三好長慶と和議を結び京都に復帰した。各地で起こる争乱の調停を幕府、朝廷の権威を利用して停止させようと何度も使者を送りこ調停を試みた。三好長慶が病没すると将軍家の権力強化を図って三好家三人衆や松永久秀らと対立した。1565年、「永禄の変」で松永久秀、三好家三人衆らの攻撃を受け討死した。

足利義昭【あしかがよしあき(1537~1597)】

足利義晴の次男。別名乗院覚慶。側室はさこの方。1565年、「永禄の変」で兄足利義輝が松永久秀と三好家三人衆らに謀殺されると、僧籍にあった足利義昭も幽閉された。細川藤孝、和田惟政らによって京都から救出された越前国に落延びた。足利義昭は、細川藤孝、明智光秀らの推す織田信長に上洛の支援を要請した。織田信長の支援を受け上洛を果たすと、京都から足利義栄追い落とし、征夷大将軍に任じられた。1569年、織田信長が「殿中御掟」「五ヶ条書」「異見十七ヶ条」を出して足利将軍家の権力の統制を図った。1570年、足利義昭は各地の諸大名に「御内書」を送り、反織田信長勢力の結集を図った。1573年、武田晴信が信濃国駒ヶ場で病没すると、畿内の反織田信長勢力の中心であった浅井長政、朝倉義景勢も苦境に陥り包囲網は崩壊した。「槙島城の戦い」で織田信長勢と戦いが敗れて落延びた。室町幕府は幕を閉じるが足利義昭が病没するまで征夷大将軍の座にあった。

足利周暠【あしかがしゅうこう(15??~1565)】

足利義晴の三男。相国寺の塔頭鹿苑院の院主。1565年、「永禄の変」で兄足利義輝が松永久秀、松永久通、三好義継、三好家三人衆らによって討取られると、足利周暠も平田和泉守に誘い出され、小姓とともに京都に赴く途中で謀殺された。

足利義高【あしかがよしたか(1563~1624)】

足利義輝の男。1565年、「永禄の変」で、父足利義輝が松永久秀、松永久通、三好義継、三好家三人衆らによって討取られると、誓願寺に逃れて僧侶となった。その後波多野秀治の保護を受け京都で修行を積み、のち丹波国篠山に戻って同地に誓願寺を建立した。晩年になり宮田浄福寺に入って隠棲した。

足利義尋【あしかがぎじん(1572~1605)】

足利義昭の男。別名大乗院義尋。室は古市胤栄の娘(胤子)。1573年、「槇島城の戦い」で、父足利義昭が織田信長に敗れると、足利義尋は人質として織田信長に預けられ僧籍に入れられた。大乗院門跡となり、興福寺の大僧正になった。古市胤子を内室に迎え、二人の子をもうけ、実相院門跡と円満院門跡の大僧正となった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利義栄【あしかがよしひで(1540~1568)】

足利義維の男。父足利義維が三好元長に擁せられていた関係で、三好家のもとに寓居していた。1565年、「永禄の変」後、三好義継、三好三人衆、松永久秀らに擁され将軍職をについた。1566年、三好義継、三好三人衆、松永久秀が、畿内の権力を把握したが、足利義栄の将軍職就任は二の次にされた。三好義継、三人衆の優位が確定すると、従五位下左馬頭に叙位任官した。1567年、三好義継が松永久秀勢に属して、三好三人衆に対抗したため、足利義栄の将軍宣下が遅れた。1567年、伊勢貞助を介して天皇家に将軍宣下を要請したが却下された。1568年、将軍宣下を受けるが、織田信長に擁された足利義昭が入京したため、阿波国に落延び失意のうちに病没した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利義助【あしかがよしすけ(1541~1592)】

足利義維の次男。室は柳沢主膳正の娘。兄足利義栄が早世したため、足利家の家督を相続した。長い間三好義継の保護下にあった。長曽我部元親が阿波国に侵攻した際は3,000石の所領は安堵され、駿馬「小鋸」を贈られるなど庇護を受けた。1585年、「四国征伐」で、長曾我部元親が没落すると、阿波国に入部した蜂須賀家政から減封に処され100石を領した。

足利義種【あしかがよしたね(1574~1630)】 

足利義助の男。室は水無瀬氏成の娘。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼から参陣を要請されたが、平島に留まった。1608年、蜂須賀家政から、七浦山を所領として与えられた。ここで切り出した木材や加工した炭など産物は平嶋公方家の重要な資金源となった。著書に『平嶋記』。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利義次【あしかがよしつぐ(1596~1680)】

足利義種の男。通称又八郎。別名平島義次。蜂須賀家政の意向により足利姓から平島姓への改姓を強要された。

荒川晴宣【あらかわはるのぶ(15??~1565)】

荒川澄宣の男。官途は治部少輔。

有吉立言【ありよしたつのぶ(15??~1583)】

細川元常家臣。。官途は将監。1578年、細川藤孝勢の攻撃を受け降伏後、それに仕えた。1580年、細川藤孝が丹後国を領すると、有吉立言は加悦奥川と野田川に囲まれた与謝郡加悦城を整備し城下街を建設した。

有吉英貴【ありよしひでたか(15??~16??)】

有吉立行の男。通称玄蕃頭。1583年、父有吉将監が加悦城で病没しすると与謝郡比丘尼城から加悦城に移った。1637年、「島原の乱」では、細川忠利の家老職を務めた。

有吉立行【ありよしたつゆき(1558~1607)】

有吉立言の次男。官途は武蔵守。通称四郎右衛門。有吉家の家督を相続後、安良城、中山城代を務め5,000石を領した。1573年、「淀城の戦い」で戦功を挙げた。1600年、細川忠興が豊後国杵築城を領すると、城代を務めた。「関ヶ原の役」では、松井康之とともに石田三成勢の大友義統の攻撃を受けた。「石垣原の戦い」では、黒田孝高の援軍を得て大友義統勢を撃破した。細川忠興が豊前国に転封になると7,000石を加増され15,500石を領して家老職を務めた。

有吉興道【ありよしおきみち(1582~1618)】

有吉立行の男。1618年、有吉興道が病没すると、継嗣の有吉貞之が幼少のため、弟有吉英貴が相続した。

有吉英貴【ありよしひでたか(15??~15??)】

有吉立行の次男。年寄衆を務た。1638年、「島原の乱」では、細川忠利勢は討死290人、負傷者2,128人の損害を受けた。

飯尾貞遥【いいおさだはる(15??~15??)】

足利義昭家臣。官途は右馬助。別名飯尾昭連。幕府奉行衆のひとり。1573年、足利義昭が都落ちすると、備後国鞆津浦まで従った。

飯尾為忠【いいおためただ(15??~15??)】

足利義昭家臣。幕府奉行衆のひとり。1573年、足利義昭が都落ちすると、備後国鞆津浦まで従った。

飯河信堅【いいかわのぶかた(15??~1565)】

足利義輝家臣。官途は肥後守。室は沼田光兼の娘(次女)。1565年、「永禄の変」で足利義輝が謀殺されると足利義昭に尽くした。細川藤孝、一色藤長とともに京都清水寺に禁制を発した。1572年、「摂津中島城の戦い」「河内高屋城の戦い」に参陣した。1573年、織田信長、足利義昭が和議を結ぶと、誓紙に連署した。

伊勢貞忠【いせさだただ(1483~1535)】

足利義澄家臣。伊勢貞陸の男。官途は伊勢守。通称七郎。1498年、幕府政所執事職を務めた。1508年、足利義澄が出奔すると、足利義稙の御供衆を務めた。1521年、足利義晴に仕え、亡くなるまで幕府の財政管理と訴訟を担った。書著『伊勢守貞忠亭御成記』。

伊勢貞孝【いせさだたか(15??~1562)】

伊勢貞辰の男(伊勢貞忠の養子)。通称又三郎。1535年、幕府政所執事職を務めた。1546年、足利義輝が将軍職に擁立されると、これを補佐した。1549年、三好長慶勢の攻撃を受け、足利義輝、細川晴元らが近江国に落延びると、三好長慶に内応して近江国より京都に帰還して、松永久秀とともに洛中を掌握した。1558年、足利義輝、細川晴元らが京都に侵攻すると、三好長逸、松永久秀、松永長頼らとともに洛中を守備した。足利義輝が三好長慶と和議を結びと、足利義輝、三好長慶の敵対勢力である六角義賢、畠山高政に内応した。1562年、六角義賢勢が京都に侵攻すると、足利義輝、三好長慶から離反した。1562年、「教興寺の戦い」で畠山高政勢に属して松永久秀、三好義興らと戦い討死した。

伊勢貞良【いせさだよし(15??~1562)】

伊勢貞孝の男。1562年、「長坂表の戦い」で松永久秀、三好義興らの攻撃を受けて父伊勢貞孝ととに討死した。

伊勢貞為【いせさだため(1559~1609)】

伊勢貞良の男。官途は兵庫頭。1562年、「長坂表の戦い」で祖父伊勢貞孝、父伊勢貞良が三好長慶勢と戦って討死したため、若狭小浜城において家臣に養育された。元服して足利義昭に仕えた。足利義昭と織田信長が対立すると、足利義昭に従って二条城に籠城した。足利義昭が京都を追われると織田信長に仕えた。

伊勢貞興【いせさだおき(1561~1582)】

伊勢貞良の次男。官途は伊勢守。通称与三郎。室は明智光秀の娘。織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、足利義昭に仕えた。足利義昭と織田信長が対立すると、足利義昭の意向で三淵藤英とともに二条城を守備した。足利義昭が京都から追放されると、織田信長に仕えた。1582年、「本能寺の変」では、幕府衆として明智光秀に属した。「山崎の戦い」で討死した。著書に『伊勢貞興返答書』。

一色晴具【いっしきはるとも(15??~1549)】

一色政具の男。官途は播磨守。1533年、式部少輔に叙任された。

一色藤長【いっしきふじなが(15??~1596)】

一色晴具の男。官途は式部少輔。通称七郎。室は彦部晴直の姉。足利義輝に仕えた。1565年、「永禄の変」で足利義輝が松永久秀、三好三人衆に謀殺されると、細川藤孝らとともに足利義昭に仕えた。足利義昭が京都から追放されるとこれに従い、各地を流浪した。

一色範勝【いっしきのりかつ(15??~16??)】

一色藤長の男。官途は式部少輔。通称左兵衛。1611年、細川藤孝に寄食していたが、後に松平元康に仕えた。1616年、天皇の勅使が駿河国の駿府城を訪ねた際、これを出迎えた。

一色秀勝【いっしきひでかつ(15??~15??)】

一色晴具の次男。

上野信孝【うえののぶたか(15??~1563)】

足利義稙家臣。上野尚長の男。官途は民部大輔。足利義稙が足利義澄に京都を追われ、西国に落延びるとそれに従い備中国鬼邑山城主に任じられた。二階堂政行、伊勢貞信らも近隣の諸城に封じて西国における足利義稙勢を形成した。上野信孝は枝連衆の上野高直に鬼邑山城を守らせた。継嗣の上野頼久を備中松山城主に任じ、帰洛し再び足利義稙に仕えた。

上野清信【うえのきよのぶ(15??~15??)】

上野信孝の男。官途は中務少輔。足利義昭に仕え、その追放後は織田信長に仕えて織田信長、武田晴信の和平交渉に赴いた。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕えた。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に在陣した。

大館尚氏【おおだてひさうじ(1454~1546)】

大館教氏の男。官途は伊予守。通称は十郎。室は山名豊之の娘。1463年、父大館教氏が病死すると大館家の家督を相続した。祖父大舘持房の後見を受け足利義政に仕えた。1469年、足利義尚の将軍就任後は二階堂政行、結城政胤らとともに御供衆、申次衆を務めた。1487年、「六角家征伐」に参陣した。1489年、足利義尚が陣中で病没すると、即時撤退を唱えて六角定頼勢の反撃を食い止めた。二階堂政行、結城政胤らとともに連座して失脚して番頭も解任された。

大館晴光【おおだてはるみつ(15??~1565)】

大館尚氏の男。官途は陸奥守。1540年、大友義鎮の足利義晴の偏諱拝領について書状を大友義鎮にに送付した。足利義輝が長尾景虎、武田晴信、北条氏康の停戦を斡旋した際に、長尾景虎の許に赴いた。1550年、足利義晴が病没すると、悲嘆に暮れて髷を切り、そのまま出家した。

小笠原種盛【おがさわらたねもり(15??~1565)】

足利義輝家臣。官途は備前守。1565年、「永禄の変」で三好三人衆、松永久秀勢の攻撃を受け足利義輝とともに討死した。

小笠原秀清【おがさわらひできよ(15??~1600)】

小笠原種盛の男。官途は備前守。別名小笠原少斎。室は北野天満宮宮寺松梅院祠官の娘。1565年、「永禄の変」で父小笠原種盛が足利義輝とともに討死したため、細川藤孝に仕え500石を領した。1600年、「会津征伐」に細川忠興が参陣すると、小笠原秀清は、河北一成、稲富祐直らとともに大坂屋敷留守居に任じられた。細川忠興の内室(珠子)を人質とするため訪れた、石田三成勢の使者を追い返した。石田三成勢に屋敷を囲まれ、珠子が自刃すると屋敷に火をかけ河北一成とともに自刃した。稲富祐直だけが屋敷から落延びた。

御牧益景【おまきますかげ(15??~15??)】

久世郡御牧館主。

御牧景重【おまきかげしげ(15??~1582)】

御牧益景の男。通称三左衛門。別名御牧兼重。1577年、「片岡城の戦い」では、松永久秀勢と戦い、城主森勘右衛門を討取る戦功を挙げた。1582年、「山崎の戦い」では、明智光秀勢に属した。明智光秀勢が壊滅すると、明智光秀に勝龍寺城への退却を進言し自らは敵に向かい討死した。

御牧景則【おまきかげのり(15??~15??)】

御牧益景の次男。通称勘兵衛。1582年、「山崎の戦い」では、兄御牧景重に従って明智光秀勢に属した。後に羽柴秀吉に仕えて検地奉行を務めた。

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【か】

鶏冠井政益【かいでまさます(15??~15??)】 

乙訓郡鶏冠井城主。西岡十六衆のひとり。1527年、細川晴元勢の攻撃を受け鶏冠井城は落城した。1565年、「革島城の戦い」で岩成友通が革島一宣を丹波国に追い落とすと、鶏冠井政益を革島城主に任じた。

鶏冠井孫六【かいでまごろく(15??~15??)】 

鶏冠井政益の男。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、織田信長勢に属した革島一宣が革島城を回復し、鶏冠井は所領を失った。

神足春治【かみあしはるじ(15??~15??)】 

神足友善の男。通称孫左衛門尉。西岡十六衆のひとり。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、細川藤孝が勝龍寺城主に任じられた。西岡衆は細川藤孝の寄騎衆として従った。1571年、織田信長の意向により勝龍寺城の大改修が行われると、神足城は勝龍寺城の北西の曲輪として組み込まれた。

革島就宣【かわしまなりのぶ(14??~1534)】

乙訓郡革島城主。西岡十六衆のひとり。

革島一宣【かわしまかずのぶ(1509~1581)】

革島就宣の男。官途は越前守。通称新五郎。1534年、革島就宣の病没により家督を相続した。1565年、岩成友通勢の攻撃を受け、丹波国に落延びた。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛するとこれに従った。1570年、越前国で兵船集結の功を織田信長に認められ、西岡革島城を返還された。1572年、細川藤孝の寄騎衆に任じられた。1573年、「淀城の戦い」に参陣して岩成友通勢と戦った。

革島秀存【かわしまひでまさ(1528~1582)】

革島一宣の男。通称市介。室は滝川一益の娘。1574年、父革島一宣の隠居により革島家の家督を相続した。足利義昭、織田信長の対立では暫く静観していたが、織田信長勢に属して所領を安堵された。

革島忠宣【かわしまただのぶ(15??~1618)】

革島一宣の次男。官途は刑部丞。1570年、「第一次越前討伐」では、織田信長勢に属して参陣した。1573年、「木戸表の戦い」に参陣したが、左足に銃撃を受けて負傷した。1582年、兄革島秀存の病没後、革島家の家督を相続した。

楠木正虎【くすのきまさとら(1520~1596)】

足利義輝家臣。官途は河内守。別名大饗長左衛門。足利義輝の右筆を務めた。1559年、正親町天皇の勅免を受けて、楠木正虎と称した。1575年、式部卿法印に叙せられ、松井友閑らとともに佐久間信盛の監督官の立場に任じられた。楠木正虎は、書を飯尾常房に学び、世尊寺流の当代一流の書家であった。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城で石田正継とともに羽柴秀吉の右筆を務めた。

小泉秀清【こいずみひできよ(15??~15??)】 

葛野郡西院小泉城主。通称三郎兵衛。西岡十六衆のひとり。1550年、細川晴元勢の攻撃を受けた。1549年、細川晴元が三好長慶と対立すると、三好長慶勢に属した。1553年、三好長慶と足利義輝が対立すると、三好長慶勢に属した。1553年、小泉城が足利義輝勢から攻撃を受けたが、三好長慶勢の支援を受け、これを撃退した。1564年、三好長慶が病没すると、松永久秀勢に属した。1566年、「小泉城の戦い」は三好三人衆の攻撃を受けた。小泉秀清は兵200余りとともに籠城したが、大津へ落延びた。

小泉島介【こいずみしますけ(15??~15??)】 

小泉秀清の男。1578年、小泉城を自焼して三好三人衆勢に属した。

香西元長【こうざいもとなが(15??~15??)】

細川政元家臣。通称又六。1507年、薬師寺長忠とともに細川澄之を擁して細川政元を謀殺した。細川澄元は、細川高国、細川政賢とともに細川澄之勢を攻撃して薬師寺長忠、細川澄之を討取った。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

香西元盛【こうざいもともり(15??~1526)】

細川高国家臣。嵐山城主。波多野秀長の三男(香西元長の養子)。室町幕府山城半国守護代。通称四郎左衛門尉。丹波国人衆である波多野秀長の次男で、兄波多野稙通の勢力拡大に従って、その意向により香西家の家督を相続した。1524年、柳本賢治とともに細川高国と対立する細川晴元の残党を和泉国で撃破る戦功を挙げた。1526年、細川尹賢の讒言を信じた細川高国によって上意討ちにされた。1527年、「桂川原の戦い」では、兄波多野稙通や柳本賢治らが細川高国勢を撃破り、細川高国政権崩壊の契機となった。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

小林家孝【こばやしいえたか(15??~15??)】

足利義昭家臣。1576年、足利義昭の意向を受け、摂津国花熊城に在城して荒木村重の内応工作を続けた。

狛綱吉【こまつなよし(15??~15??)】

相楽郡狛城主。官途は左京亮。別名狛秀綱。1572年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、織田信長勢に属して狛郷の所領を安堵された。1574年、塙直政が山城半国の守護職に任じられると、塙直政勢に属した。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢に属した。

金地院崇伝【こんちいんすうでん(1569~1633)】

一色秀勝の男。通称以心崇伝。別名「黒衣の宰相」。1605年、鎌倉建長寺、京都南禅寺の住持となった。1608年、松平元康に招かれて駿府に赴き、本多正純の許で外交文書作成に携わったが、宗教政策にも関与した。1613年、「伴天連追放令」「禁中並公家諸法度」「武家諸法度」「寺院法度」などの法制起草に功を挙げた。1614年、「方広寺鐘銘事件」にも関与した。1616年、「権現、明神の神号争い」では、明神を推したが、権現を推す天海に敗れた。1627年、「紫衣事件」では、後水尾天皇の勅許を「禁中並公家諸法度」に違反するとして無効としたため、後水尾天皇の激怒を買った。

近藤半助【こんどうはんすけ(15??~1582)】

伊勢貞興家臣。鉄炮大将を務めた。1582年、「山崎の戦い」では、伊勢貞興に従い明智光秀勢に属したが、加藤清正に討取られた。

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【さ】

佐竹宗実【さたけむねざね(15??~1590)】

愛宕郡高野館主。官途は出羽守。室は吉田兼見夫人の姉妹。明智光秀に仕えた。1579年、「丹波八上城の戦い」に参陣したが負傷した。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢に属したが、蜂須賀正勝の助力によって助命され、丹羽長秀に仕えて300石を領した。1587年、「九州征伐」に参陣した。
 
佐竹近充【さたけちかとし(15??~15??)】

佐竹宗実の弟。1579年、「丹波八上城の戦い」に参戦したが負傷した。

佐竹称吉【さたけむねよし(15??~15??)】

佐竹宗実の弟。1582年、新年の挨拶のため坂本城を訪れた吉田兼見を歓待し、明智光秀への取次役を務めた。

四手井家保【していいえやす(15??~15??)】

三好長慶家臣。う宇治郡四手井城主。1558年、足利義輝勢の攻撃を受けた。

下津一通【しもづかずみち(15??~1580)】

西岡十六衆の筆頭。通称権内。西岡を領した細川藤孝に仕えた。1573年、「淀城の戦い」では、岩成友通を討取る戦功を挙げた。1577年、「淡輪の戦い」では、一番槍の戦功を挙げた。1580年、「大和片岡城の戦い」で討死した。

白神果春【しらがかしゅん(15??~1576)】

白神友芳の男。官途は右京亮。北面武士として天皇家を守護した。1509年、足利義稙の意向により上野信孝とともに備中国に遣わされ、上野信孝は鬼邑山城主、白神果春は馬入堂山城主に任じられた。1540年、石清水八幡宮をこの地へ勧請し、西園八幡宮と称した。

白神帯刀【しらがみたてわき(15??~1609)】

白神果春の男。官途は右京進。1583年、羽柴秀吉の家臣伊東長実がこの地を治めるとそれに従った。1607年、伊東長実の家臣千石定盛が領主に代わって総ての政を行うようになるまで、名代として領地を治めた。

白神盛吉【しらがみもりよし(15??~15??)】

白神帯刀の男。

荘村安芸守【しょうむらあきのかみ(15??~15??)】

足利義昭家臣。木津城主。幕府山城衆ひとり。1575年、「第二次越前討伐」に参陣した。織田信長勢の攻撃を受け滅亡した。

進藤元広【しんどうもとひろ(15??~15??)】

細川澄元家臣。1508年、「福徳貴寺の戦い」で波多野稙通勢と戦い討死した中沢元綱の跡職を継承した。多紀郡支配を巡り波多野稙通と戦った。

杉原長盛【すぎはらながもり(15??~1569)】

足利義輝家臣。1556年、「永禄の変」で足利義輝が、三好三人衆、松永久秀勢に二条城が襲われ謀殺されると、足利義昭の逃避行に尽力した。1569年、自刃した。

諏訪盛直【すわもりなお(15??~1582)】

足利義昭家臣。官途は飛騨守。1573年、「淀城の戦い」では、足利義昭に属した石成友通の拠る淀城に籠城した。織田信長勢の細川藤孝らと戦うが、羽柴秀吉の調略を容れて降伏した。1582年、「山崎の戦い」では、明智光秀勢に属して参陣したが討死した。

諏訪俊秀【すわとしひで(15??~15??)】

足利義昭家臣。

摂津晴門【せっつはるかど(15??~15??)】

摂津義晴の男。官途は中務大輔。1564年、敵対していた政所執事伊勢貞孝に代わって、新たな政所執事として起用された。1565年、「永禄の変」で三好三人衆、松永久秀勢に二条城が襲われ足利義輝らとともに継嗣摂津糸千代丸が討死した。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、政所執事として足利義昭に使えた。

摂津糸千代丸【せっついとちよまる(1540~1556)】

摂津晴門の男。1556年、「永禄の変」で三好三人衆、松永久秀勢に二条城が襲われ足利義輝らとともに討死した。

曾我助乗【そがすけのり(15??~15??)】

足利義昭家臣。官途は兵庫頭。

曾我晴助【そがはるすけ(15??~15??)】

足利義昭家臣。

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【た】

高橋俊長【たかはしとしなが(15??~15??)】 

西岡十六衆のひとり。通称勘解由左衛門。

高畠長信【たかはたながのぶ(15??~1549)】 

細川晴元家臣。官途は伊豆守。通称与十郎。1527年、細川高国と細川晴元が管領職を巡って争うと細川晴元勢に属して戦功を挙げ、山城国郡代職に任じられた。

高畠長信【たかばたながのぶ(15??~15??)】

細川晴元家臣。通称与十郎。1530年、細川高国が浦上村宗の支援を受けて畿内に侵攻すると、細川晴元勢は伊丹城、池田城、富松城に籠城した。細川高国勢は富松城を攻め落とし、さらに伊丹城から出撃した細川晴元の家臣高畠長信勢を撃破った。1534年、鞆呂岐荘の代官職に任じられた。

高畠長直【たかばたけながなお(15??~1549)】

細川晴元家臣。高畠長信の弟。官途は伊豆守。通称甚九郎。1527年、細川高国と細川晴元が管領職を巡って争うと兄高畠長信とともに細川晴元勢に属して参陣した。公家や寺社勢力との取次役を務めた。1538年、三好元長、内藤国貞勢との戦い戦功を挙げた。高畠長信が病没すると、山城郡代職に任じられた。1546年、細川氏綱、畠山政国らとの戦った。細川晴元の家臣三好長慶が細川氏綱勢へ離反すると、細川晴元勢に属した。1549年、「江口の戦い」では、細川晴元勢の三好政長に属して参陣したが、三好長慶勢と戦い討死した。

武田信景【たけだのぶかげ(15??~1582)】

足利義昭家臣。武田信豊の次男。通称右衛門佐。1566年、兄武田義統の意向で足利義昭に仕えた。1576年、備後国鞆に落延びた足利義昭に従った。1582年、「武田家討伐」で織田信長、松平元康勢の攻撃を受け六角義定らとともに恵林寺で討死した。

竹田仲広【たけたなかひろ(15??~15??)】

西岡十六党のひとり。

竹内為信【たけうちためのぶ(15??~15??)】 

西岡十六党のひとり。

築山俊方【つきやまとしかた(15??~15??)】

西岡十六党のひとり。通称弥十郎。1573年、「淀城の戦い」では、細川藤孝勢に属して参陣して、下津一通とともに岩成友通を討取る戦功を挙げ、蔵米30石を与えられた。

津田重久【つだしげひさ(1549~1634)】

細川晴元家臣。官途は遠江守。通称与三郎。別名津田信春。槍の名手。三好長慶、足利義昭、織田信澄、明智光秀、前田利家などに仕え、槍で乱世を渡り歩いた。

津田平蔵【つだへいぞう(15??~16??)】

津田重久の男。

椿井定房【つばいさだふさ(1529~1615)】

相楽郡椿井城主。椿井政勝の男。官途は三河守。通称一郎。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、足利義昭に仕えて近江国内で所領を与えられた。その後、織田信長に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、織田信雄勢に属して戦功を挙げ、尾張国中島郡に所領を与えられた。

椿井政長【つばいまさなが(1548~1631)】

椿井定房の男。1567年、織田信長に仕えた。1584年、「小牧、長久手の役」では、織田信雄勢に属して椿井城を守備した。役後、羽柴秀吉に椿井城を追われた。

寺本直勝【てらもとなおかつ(15??~15??)】

足利義輝家臣。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、足利義昭勢に属した。1569年、「本圀寺の戦い」で、三好三人衆と戦って六条河原で討死した。

寺本忠時【てらもとただとき(15??~15??)】

寺本直勝の男。通称内蔵助。別名寺本忠吉。後に浅野長吉に仕えた。

寺本政久【てらもと(15??~15??)】

寺本直勝の次男。1569年、「本圀寺の戦い」で父寺本直勝が討死すると、浅野長政に仕えた。

寺元直寿【てらもとなおひさ(15??~15??)】

寺本直勝の弟。1569年、「本圀寺の戦い」で兄寺本直勝が討死すると、浅野長政に仕えた。

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【な】

中沢光俊【ながざわみつとし(15??~15??)】

足利義昭家臣。官途は備前守。

中沢元綱【ながざわもとつな(15??~1508)】

足利義稙家臣。1508年、「福徳貴寺の戦い」で波多野稙通勢に属した波々伯部大和守、波々伯部民部丞らに討取られた。

長洲兵庫【ながすひょうご(15??~15??)】

西岡十六衆のひとり。1573年、「淀城の戦い」に、細川藤孝の寄騎衆として参陣した。

沼田清延【ぬまたきよのぶ(15??~15??)】

足利義昭家臣。熊川城主。沼田光兼の男。妹の麝香は細川藤孝に嫁いだ。

沼田延元【ぬまたのぶもと(15??~15??)】

沼田清延の男。官途は勘解由。通称小兵衛。細川忠興に仕えた。1600年、「岐阜城の戦い」で戦功を挙げ豊前国門司城代を務め5,000石を領した。

野村定常【のむらさだつね(15??~1570)】

足利義輝家臣。官途は越中守。武者奉行を務めた。1569年、「本圀寺の戦い」に参陣した。その後織田信長に仕え、石山本願寺攻撃中に摂津春日井堤で討死した。本願寺顕如は野村定常の頸に銀100枚の懸賞を懸けた。

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【は】

比叡山覚恕【ひえいざんえいかく(1521~1574)】

後奈良天皇の第一皇子。母は伊予局(小槻雅久女)。正親町天皇の異母兄に当たる。曼殊院で得度し、山科言継、朝山日乗、村井貞勝らと親交を持った。1570年、比叡山天台座主となった。六角義賢、六角義治父子が柴田勝家に捕縛されると、助命嘆願を行った。1571年、比叡山延暦寺は織田信長の焼討に遭うが覚恕は山上に居らず難を逃れた。後に責任を追及され天台座主の座を退任した。

彦部晴直【ひこべはるなお(15??~15??)】

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で三好義継、松永久秀らの攻撃を受け、足利義輝とともに室町御所で討死した。

京兆細川澄元【ほそかわすみもと(1489~1520)】

細川義春の男(細川政元の養子)。官途は右京大夫。室町幕府丹波国、摂津国、讃岐国、土佐国守護職。通称六郎。室は清泰院。1488年、父細川義春が病没したため、祖父細川成之に養育された。1503年、細川高国、細川澄之たとともに細川政元の養子となった。1507年、「永正の錯乱」では、薬師寺長忠、香西元長らが細川澄之を擁して、細川政元を謀殺した。1508年、細川高国が、伊丹元扶や丹波の内藤貞正、河内の畠山尚順らと結んで京都に侵攻したため、細川澄元は足利義澄、三好之長らとともに近江国の山中為俊もとに落延びた。細川高国らが細川澄之を滅ぼすと、足利義澄のもとに実権を握り,丹波国、讃岐国、土佐国守護を兼任した。1509年、「如意ヶ嶽の戦い」で細川澄元と三好之長は、細川高国と大内義興の反撃を受けて大敗して阿波国に落延びた。細川高国が大内義興らとともに足利義稙を擁して上洛すると、権力の座を追われた。1511年、「深井城の戦い」では、細川政賢と結んで戦った敗れ阿波国に落延びた。

京兆細川晴元【ほそかわはるもと(1514~1563)】

細川澄元の男。官途は右京大夫。通称六郎。室は三条公頼の娘。継室は六角定頼の娘。1520年、父細川澄元が病没したため、京兆細川家の家督を相続したが、三好元長の後見を受けた。1526年、三好元長とともに波多野稙通、柳本賢治らと結び、和泉国堺に侵攻した。細川高国が足利義晴を擁してこれを迎え撃つと、細川晴元も足利義維を擁して対抗した。1527年、「桂川原の戦い」で細川高国勢を撃破した。1531年、「天王寺の戦い」では、三好元長と結び細川高国、浦上村宗らを尼崎で討取った。1532年、本願寺証如、木沢長政、茨木長隆らとともに三好元長、畠山義堯らを討取り足利義維を阿波国に追い落とした。「山科本願寺の戦い」では、六角定頼、法華門徒衆とともに本願寺証如を山科本願寺から追い落とした。1536年、「天文法華の乱」では、比叡山延暦寺、六角定頼と結んで法華門徒衆、細川晴国勢を壊滅させた。1539年、三好長慶が三好政長と争うと三好政長を支援して三好長慶と対立した。1542年、「太平寺の戦い」では、木沢長政が謀反を起こしたが、三好長慶、三好政長、遊佐長教らとともにこれを討取った。1546年、細川氏綱が畠山政国、遊佐長教、上野元治らの支援を受け再挙兵したため、足利義晴とともに近江国に落延びた。1547年、「舎利寺の戦い」で細川氏綱勢を撃破した。1548年、「江口の戦い」で三好長慶勢と戦い大敗した。1550年、「中尾城の戦い」で足利義輝、香西元成、三好政勝らとともに三好長慶勢と戦ったが敗れた。1558年、「北白川の戦い」で、三好長慶勢と戦うが、六角義賢の仲介で和議を結んだが、まもなく病没した。

京兆細川昭元【ほそかわあきもと(1548~1592)】

細川晴元の男。官途は右京大夫。通称六郎。室は織田信秀の娘(於犬姫)。1552年、父細川晴が三好長慶と和議を結ぶと、人質として三好長慶のもとに赴いた。細川晴元が三好長慶と対立すると、細川氏綱とともに山城国淀城に軟禁された。1563年、細川晴元が摂津国富田普門寺で病没して、京兆細川家の家督を相続したが、管領職に任じられることはなかった。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると三好三人衆の三好長逸とともに摂津濃く芥川山城に籠城するも敗れ、阿波国に落延びた。1570年、「野田城、福島城の戦い」で三好三人衆勢に属して織田信長勢と戦ったが、敗れて降伏した。1572年、下間頼龍、下間頼純と戦い敗れた。1573年、「摂津堀城の戦い」では、三好義継、松永久秀勢の攻撃を受け落城した。1582年、「本能寺の変」後、斯波義銀、山名豊国らとともに羽柴秀吉の御伽衆を務めた。

京兆細川晴之【ほそかわはるゆき(15??~1561)】

細川晴元の次男。1552年、父細川晴元が三好長慶と和議を結びと、人質として兄細川昭元とともに三好長慶のもとに赴いた。1561年、「地蔵山の戦い」では、足利義輝の意向を受け、六角義賢、畠山高政らとともに三好長慶勢と戦い討死した。

細川元勝【ほそかわもとかつ(1561~1628)】

細川昭元の男。官途は讃岐守。通称六郎。別名細川頼範。羽柴秀頼に仕え、小姓頭を務め5,000石を領した。1615年、「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼勢に属して戦った。戦後、京都竜安寺に蟄居した。その後、姉妹の円光院が安東実季に嫁いでいた縁で、安東実季に仕えた。

京兆細川義元【ほそかわよしもと(15??~16??)】)

細川元勝の男。安東実季に仕え家老職を務めた。

桜谷細川元明【ほそかわもとあき(15??~16??)】

細川元勝の次男。

和泉細川元常【ほそかわもとつね(1482~1554)】 

乙訓郡勝龍寺城主。細川元有の男。和泉上半国守護職。1500年、父細川元有が討死したため、和泉細川家の家督と和泉半国守護職を相続した。1507年、「永正の錯乱」で細川政元が謀殺されると、後継者をめぐって京兆細川家は分裂した。細川元常は細川政元の養子細川澄元を擁してもうひとりの養子細川高国と戦うが敗れて和泉半国守護職を失った。細川澄元の病没後はその継嗣細川晴元を支援した。1531年、細川高国が討死すると、細川晴元から和泉半国守護職に任じられた。1543年、細川高国の養子細川氏綱が細川晴元と争うと、細川晴元とともに細川氏綱勢と戦った。1549年、「江口の戦い」では、細川晴元の家臣三好長慶が離反して細川氏綱勢に属したため大敗した。三好長慶に奪われ、足利義輝とともに近江国に落延びた。

和泉細川藤孝【ほそかわふじたか(1534~1610)】

三淵晴員の男(細川元常の養子)。官途は兵部大輔。通称与一郎。室は沼田光兼の娘。1554年、養父細川元常の病没により和泉細川家の家督を相続した。1565年、「永禄の変」で足利義輝が三好三人衆と松永久秀勢に謀殺されると、足利義昭の救出に尽力した。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛するとこれに従った。足利義昭と織田信長が決裂すると、織田信長に仕えた。1573年、淀城に籠城する岩成友通を討取る戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、剃髪して和泉細川家の家督を継嗣の細川忠興に譲った。1589年、丹後国宮津城40,000石を領した。詩歌、有職故実、遊泳などの文芸に長じ、羽柴秀吉、松平元康からも師事を受けた。1600年、「田辺城の戦い」では、寡兵で田辺城に籠城して石田三成勢30,000余りと戦った。細川藤孝が持つ「古今伝授」の断絶を恐れた天皇から勅使が遣わされ降伏した。

和泉細川忠興【ほそかわただおき(1563~1645)】

細川藤孝の男。官途は越中守。通称与一郎。室は明智光秀の娘(玉子)。1577年、「大和片岡城の戦い」で戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」後に父細川藤孝が織田信長に弔意を顕して隠居したため、細川忠興が和泉細川家の家督を相続した。1583年、「小牧、長久手の役」では、羽柴秀吉勢に属して織田信雄勢と戦った。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属し戦功を挙げたが、大坂屋敷にいた内室の玉子は石田三成勢の人質となるのを拒否して自害した。細川忠興は、家臣の稲富祐直がひとり落延びたのを責め執拗に奉公搆えした。役後、豊前国中津城396,000石を領した。1620年、細川忠利に家督を譲った。

和泉細川興元【ほそかわおきもと(1564~1619)】

細川藤孝の次男。室は沼田清延の娘。継室は高橋鎮種の娘。別名細川昌興。
1577年、「河内片岡城の戦い」に父細川藤孝に従って参陣した。1582年、「丹後吉原城の戦い」に参陣して戦功を挙げ、吉原城主に任じられた。城下街(寺谷)を整備した。1600年、「関ヶ原の役」後、豊前国中津城主に任じられたが、細川忠興と対立したため、松平元康に仕え下野国茂木城10,000石を領した。1615年、「大坂夏の陣」では、酒井忠世勢に属して戦功を挙げ16,200石を領した。

和泉細川幸隆【ほそかわゆきたか(1571~1607)】

細川藤孝の三男。官途は刑部少輔。1585年、愛宕郡下坊福寿院で出家した。★慶長二年頃、還俗した。1600年、「丹後田辺城の戦い」では、父細川藤孝とともに籠城した。戦後、豊前国龍王城代に任じられた。

和泉細川孝之【ほそかわたかゆき(1585~1647)】

細川藤孝の四男。官途は中務少輔。通称与十郎。1600年、「関ヶ原の役」後、豊前国香春城代を務めた。

和泉細川忠隆【ほそかわただたか(1580~1646)】

細川忠興の男。通称与一郎。室は前田利家の娘(千世)。1599年、烏丸光広が丹後に細川藤孝を訪問し、天橋立を見物した際に連歌を歌ったが、細川忠隆もこれに加わった。1600年、「岐阜城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。大坂屋敷から落延びた内室(千世)の捜索を細川忠興から命ぜられたが、、「自分の内室(玉子)が殺されたからといって、逃亡した嫁(千世)を捕まえろとは無茶である」として、拒否したため、勘当処分に処された。

和泉細川興秋【ほそかわおきあき(1583~1615)】

細川忠興の次男(細川興元の養子)。通称与五郎。1600年、「岐阜城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1603年、養父細川興元が下野国茂木城主になると、細川興秋が豊前国中津城主に任じられた。1604年、松平元康の人質となっていた細川忠利が帰国したため、細川興秋が人質として送られた。和泉細川家の家督を相続できなかったため、京都建仁寺十如院に入って剃髪した。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢に属して参陣した。1615年、「道明寺の戦い」では、後藤基次勢の先陣を務め戦功を挙げた。「天王寺の戦い」にも参陣したが、大坂城が落城すると、山城国伏見東林院に匿われたが捕縛され、自刃した。

和泉細川忠利【ほそかわただとし(1586~1614)】

細川忠興の三男。官途は越中守。通称内記。室は小笠原秀政の娘(千代姫)。1619年、父細川忠興の隠居により和泉細川家の家督を相続した。1632年、加藤忠が改易処分に処されると、肥後国に転封して熊本城540,000石を領した。1637年、「島原の乱」に参陣したが多大な損害を受けた。1640年、松井興長の斡旋により客将として宮本武蔵を召抱えた。柳生宗矩に新陰流を学んび、文武両道に優れまた家臣の忠孝篤った。

高雄細川国慶【ほそかわこくえい(15??~15??)】

細川氏綱家臣。官途は玄蕃頭。1547年、細川氏綱勢に属して細川晴元勢と戦った。細川国慶は高雄城を築城して、細川晴元に対抗したが攻撃を受け落城した。

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【ま】

槇島昭光【まきしまあきみつ(15??~15??)】

宇治郡槇島城主。一色輝元の男。官途は玄蕃頭。通称孫六郎。室町幕府滅亡後も足利義昭に従い、備後国鞆の浦まで同行した。毛利輝元、武田勝頼らの取次役を務めた。1615年、「大坂夏の陣」後、細川忠興、加藤嘉明らの嘆願により赦免され、その後、細川忠利に仕え1,000石を領した。

松井長之【まついながゆき(15??~1563)】

足利義政家臣。松井城主。松井宗富の男。

松井正之【まついまさゆき(15??~1563)】

松井長之の男。官途は山城守。室は荒川澄宣の娘。足利義晴に仕えたが、若くして病没した。

松井友閑【まついゆうかん(15??~15??)】

松井長之の次男。官途は宮内卿法印。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、京畿の政務にあたり、織田氏の右筆に任じられ京都や堺の豪商らに接触して名物の茶器などを供出させた。1574年、相国寺の茶会では織田信長の茶頭を務めた。東大寺正倉院の名香蘭奢待を拝受した際には奉行職を務めた。1575年、堺の代官職に任じられ、堺の豪商津田宗及とも親交を深めた。この頃、村井貞勝、武井夕庵と並んで、織田信長の吏僚の中でも最高の地位にいた。主に財務などを担当したが、外交能力にも長け長尾景虎、三好康長、荒木村重、松永久秀、伊達輝宗、大友義鑑らの取次役を務めた。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕え堺奉行を務めた。1586年、不正を理由に罷免された。

松井新三郎【まつい しんさぶろう(15??~15??)】

松井長之の三男。1565年、「永禄の変」では、松永久秀、三好三人衆らの攻撃を受けた。足利義輝は、兄松井勝之、荒川治部少輔、細川宮内少輔、武田信景らととも討死した。松井家の家督を次男松井康之が相続した。松井康之は細川藤孝に仕えた。足利義昭が京都を追放されると、織田信長に仕えた。1581年、「第二次鳥取城の戦い」では、丹後国海賊衆を率いて羽柴秀吉勢に兵糧を運搬した。毛利家海賊衆の鹿足元忠を討取る戦功を挙げた。

松井勝之【まついかつゆき(15??~1565)】

松井正之の男。足利義輝に仕えた。1565年、「永禄の変」では、松井新三郎とともに足利義輝を守って、三好義継、松永久秀、三好三人衆勢と戦い討死した。

松井康之【まついやすゆき(1550~1612)】

松井正之の男。官途は佐渡守。通称新助。1565年、「永禄の変」後、細川藤孝と行動をともにした。1579年、「丹後平定戦」では、細川藤孝勢に属して戦功を挙げ、丹波国内で13,000石を領した。1581年、「第二次鳥取城の戦い」では、細川藤孝に従って毛利家海賊衆と戦った。1595年、「羽柴秀次事件」では、連座の処分を受けた細川忠興の処分取り消しに奔走した。1599年、細川藤孝が豊後国杵築城を領すると城代に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して杵築城を守備した。「石垣原の戦い」では、黒田孝高とともに大友義統勢と戦い戦功を挙げ役後26,000石を領した。

松井興長【まついおきなが(1582~1661)】

松井康之の次男。官途は佐渡守。通称与五郎。別名長岡佐渡守。室は細川忠興の娘。兄に与八郎がいたが、早世したため、松井家の家督を相続した。1632年、肥後国熊本城主加藤忠広が改易処分に処されると、細川忠利が肥後国を領した。1638年、「島原の乱」では、陣代として細川忠利勢を率いて参陣した。1640年、宮本武蔵の仕官を細川忠利に斡旋した。1646年、八代城主に任じられ、球磨川口の干拓事業を進め、新田開発にも尽力した。

松田頼隆【まつだゆおりたか(15??~15??)】

足利義昭家臣。官途は豊前守。1573年、織田信長と足利義昭との間に交わされた起請文に署名した。

松田監物【まつだけんもつ(15??~1552)】

足利義輝家臣。1552年、「霊山城の戦い」では、磯谷豊後守、醍醐三宝院門徒衆らとともに三好長慶勢25,000余りの攻撃を受け討死した。

松室重頼【まつむろしげより(15??~15??)】

足利義昭家臣。通称左衛門佐。1568年、足利義昭より松室領を安堵されている。1573年、新しく山城西岡の地の一職支配を委ねられた細川藤孝より、社領を安堵されている。織田信長が松室重頼の知行地を革島秀存に給与したところ、松室重頼が謀反を起こした。織田信長は革島秀存に松室重頼成敗の意を伝え、松室重頼より預かり物があれば直ちに提出するよう命じている。

三淵晴員【みつぶちはるかず(1500~1570)】

細川元有の男(三淵晴恒の養子)。足利義晴に仕え、和泉国松崎城主、山城国大法寺城主となった。1547年、足利義晴、足利義輝親らが細川晴元勢と戦って敗北し、近江国坂本に落延びるとこれに従った。1565年、「永禄の変」で足利義輝が討死すると、足利義昭に仕えた。

三淵藤英【みつぶちふじひで(15??~1574)】

三淵晴員の男。官途は弾正左衛門。1565年、「永禄の変」で足利義輝が松永久秀、三好三人衆に謀殺されると、細川藤孝とともに足利義昭を還俗させ、越前国の朝倉義景のもとに落延びた。1567年、「普賢谷の戦い」では、松永久秀と結び三好三人衆勢と戦った。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、伏見城周辺の守備した。和田惟政、伊丹親興らとともに三好三人衆と戦った。1569年、「本圀寺の戦い」では、足利義昭を守って三好三人衆勢と戦った。1573年、「槇島城の戦い」で足利義昭が織田信長に反旗を翻すと、三淵藤英は二条城を守備した。足利義昭が大敗すると、細川藤孝と柴田勝家の説得を受けて降伏した。1575年、改易処分に処され、継嗣の三淵秋豪とともに自刃した。

三淵秋豪【みつぶちあきひで(15??~1574)】

三淵晴員の男。1573年、足利義昭が織田信長に反旗を翻すと、父三淵晴員とともに二条城を守備した。「槇島城の戦い」で足利義昭が大敗すると、三淵晴員とともに降伏した。1575年、改易処分に処され、三淵晴員とともに自刃した。

三淵光行【みつぶちみつゆき(1571~1623)】

三淵藤英の次男。官途は伯耆守。室は郡宗保の四女(慶寿院)。1574年、父三淵藤英と兄三淵秋豪が坂本城で自刃すると、叔父の細川藤孝に養育された。1600年、「田辺城の戦い」で、細川藤孝とともに石田三成勢と戦った。1609年、松平元康に仕え近江国神崎郡内1,000石を領した。

三淵昭貞【みつぶちあきさだ(15??~15??)】

三淵藤英の三男。 

三淵昭知【みつぶちあきとも(15??~15??)】 

三淵藤英の四男。

三淵昭長【みつぶちあきなが(15??~15??)】 

三淵藤英の五男。

物集女光重【もずめみつしげ(14??~15??)】 

乙訓郡物集女城主。西岡十六衆のひとり。1487年、「長享、延徳の乱」では、乙訓郡の一揆勢の中心となった。

物集女忠重【もずめただしげ(15??~1575)】 

物集女光重の孫。通称四郎右衛門尉。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、西岡は細川藤孝が領した。細川藤孝は、元西岡衆ら国人の所領を安堵する方針を採ったが、これに反抗的な態度をとった。1575年、細川藤孝に誘殺された。

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【や】

薬師寺元一【やくしじもとかず(15??~1504)】

細川政元家臣。薬師寺元長の男。通称与一。1500年、細川政元の意向を受け、河内国の畠山義英を支援して畠山尚順を撃破る戦功を挙げた。1501年、父薬師寺元長の病没により、薬師寺家の家督と摂津国守護代職を相続した。1503年、細川政元の意向を受け、細川澄元を養子に迎える交渉役を務めた。1504年、赤沢朝経とともに細川政元を廃して細川澄元を擁して摂津で挙兵したが、弟の薬師寺長忠らの攻撃を受け捕縛され自刀した。辞世の句「地獄にはよき我が主(若衆)のあるやとて今日おもひたつ旅衣かな」。

薬師寺長忠【やくしじながただ(15??~1508)】

薬師寺元長の次男。1504年、薬師寺元一が細川澄元を擁して謀反を起こすと、これを鎮定した戦功により、摂津国守護代職と薬師寺家の家督を相続した。1507年、「永正の錯乱」では、対立する三好之長を排除するため、香西元長、竹田孫七らとともに細川政元を謀殺して、細川澄之を擁立した。1508年、「摂津茨木城の戦い」で、細川高国勢の薬師寺国長と戦い、細川澄之や香西元長らとともに討死した。

薬師寺国長【やくしじくになが(15??~1533)】

薬師寺元一の男。官途は備後守。通称与次。1507年、細川政元が謀殺されると、細川高国に仕えた。1508年、「摂津茨木城の戦い」で、細川澄之、薬師寺長忠、香西元長を攻撃してこれを討取る戦功を挙げ、摂津国守護代職に任じられた。1527年、山城国山崎城主に任じられた。細川晴元の家臣波多野稙通の攻撃を受け、降伏して細川晴元に仕えた。1533年、「高雄城の戦い」で細川晴国と戦い討死した。

柳沢元政【やなぎさわもとまさ(1536~1613)】

足利義晴家臣。柳原新右衛門の男。官途は讃岐守。通称新右衛門。足利義輝が謀殺されると足利義昭を擁護した。1569年、「本圀寺の戦い」では、足利義昭を警護した。その後、足利義昭が織田信長に追放されると、上野秀政、真木島昭光、武田信景、六角藤堯らとともにこれにらとともに足利義昭に従って備後国鞆まで赴いた。のち毛利元就に仕え、龍造寺隆信、島津義久などの取次役を務めた。1592年、1592年、「文禄の役」で羽柴秀吉に仕え備後国や出雲国内で10,000石を領した。1598年、毛利輝元に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元の防長移封に従った。

柳本賢治【やなぎもとかたはる(15??~1530)】

波多野秀長の次男。官途は弾正忠。1526年、弟の香西元盛が摂津国分郡守護の細川尹賢に謀殺されると、柳本賢治や波多野稙通は細川高国に不満を持ち、細川晴元、三好元長らとともに謀反を起こした。「神尾山城の戦い」では、神尾山城に籠城して細川高国勢を撃退した。1527年、「桂川原の戦い」では、細川晴元、三好元長らとともに細川高国を撃破り、細川高国や足利義晴を京都から追い落した。足利義維を堺に迎え、堺公方として擁立した。1528年、三好元長と対立し、細川晴元に讒言し三好元長を阿波国に追い落し、三好元長勢の赤沢幸純や伊丹元扶を攻めるため大和国や摂津国に参陣した。細川高国が備前国の浦上村宗を頼り畿内を脅かすと、足利義晴との和議を提案するが、足利義維と細川晴元に拒絶された。1530年、「播磨依藤城の戦い」で、別所就治の要請に応じ、浦上村宗の家臣依藤太郎左衛門を攻撃したが、東条谷の玉蓮寺の陣中で病没した。

柳本甚次郎【やなぎもとじんじろう(15??~1532)】

柳本賢治の男。1532年、「京都三条城の戦い」で三好元長勢の攻撃を受け討死した。

柳沢景祐【やなぎさわかげすけ(15??~15??)】

柳本賢治の男。

柳沢元吉【やなぎさわもとよし15??~15??)】

柳本賢治の次男。

山口秀景【やまぐちひでかげ(15??~1583)】

足利義昭家臣。官途は玄蕃。もと葉室家の公家侍。足利義昭の馬廻衆、公家衆との取次役などを務めた。1569年、美濃国へ派遣された。1571年、北近江国に対陣している織田信長のもとへ派遣された。1573年、足利義昭が追放されると、織田信長に仕えた。

山村正次【やまむらまさつぐ(15??~15??)】

柳本賢治家臣。1532年、「京都三条城の戦い」で柳本甚次郎が討死すると、細川晴元に仕えた。1533年、「享禄、天文の乱」に参陣した。

山本秀勝【やまもとひでかつ(15??~1573)】

足利義輝家臣。愛宕郡静原城主。官途は対馬守。別名山本対馬守。1573年、磯貝久次、渡辺昌らとともに足利義昭に属したため、明智光秀に討取られた。

山本勝則【やまもとかつのり(15??~16??)】

山本秀勝の男。松井康之に仕えた。

山本実尚【やまもとさねひさ(15??~1573)】

山本対馬守の男。官途は佐渡守。山科言継らと交友を持った。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、三好長逸勢に属して三淵藤英勢と戦った。足利義昭が将軍職に叙されると、それに従った。1559年、「本圀寺の戦い」では、再び三好三人衆に属して、勝軍城を焼打ちにした。その後、再び足利義昭に従った。1570年、「比叡山の戦い」では、明智光秀勢の先導役を務めた。1573年、足利義昭が挙兵すると、渡辺宮内少輔、磯谷久次とともに足利義昭に属したが、明智光秀勢に討取られた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山本尚利【やまもとなおとし(15??~15??)】

岩倉山本館主。山本資幹の男。別名山本尚貞。西岡十六党のひとり。1527年、「桂川原の戦い」で細川高国と三好元長、波多野稙通、柳本賢治らが戦うと、三好元長勢に属して戦い戦功を挙げ、丹波国内に所領を与えられた。1530年、細川高国が浦上村宗の支援を受けて京都に侵攻したが細川晴元と三好元長は京都法華門徒宗と結び細川高国勢に撃退した。山本尚利ら西岡十六党は法華衆に属して戦った。細川晴元と三好元長の関係が険悪となり、細川晴元は一向一揆と結び三好元長を滅ぼした。一向一揆が勢力を拡大すると、法華門徒衆をもって一向一揆衆を制圧した。法華門徒衆が勢力を拡大すると比叡山門徒衆と結び法華門徒衆をと戦った。1536年、「天文法華の乱」では、西岡十六党は比叡山門徒衆に属して法華門徒衆と戦った。

山本則尚【やまもとのりなお(15??~1570)】

山本尚利の男。細川晴元が足利義晴と対立すると、細川晴元は三好長慶と結び、足利義晴に対抗した。1545年、「上薗城の戦い」では、細川晴元勢に属して、足利義晴勢の細川玄蕃允と戦った。1551年、三好長慶勢の攻撃を受け降伏、佐竹宗実らとともに三好長慶勢に属して細川晴元勢と戦った。1564年、松永久秀と三好三人衆が争うと、三好三人衆勢に属して三淵藤英と戦った。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、足利義昭に属して所領の安堵された。1569年、三好三人衆が京都に侵攻すると、三好三人衆に属した。1570年、織田信長と足利義昭が不和になると、継嗣の山本俊尚が足利義昭勢に属したため、近江国高島で自刃に追い込まれた。

山本俊尚【やまもととしなお(15??~15??)】

山本則尚の男。官途は対馬守。1573年、足利義昭が織田信長に反旗を翻すと、継嗣の山本俊尚が足利義昭勢に属したため、岩倉山本城を追われた。

山本尚治【やまもとなおはる(15??~15??)】

山本俊尚の男。1570年、「志賀の陣」で浅井長政、朝倉義景が南近江国に侵攻すると、佐竹宗実、渡辺昌らとともに織田信長勢に属して戦った。1573年、足利義昭が織田信長に反旗を翻すと、足利義昭勢に属したが敗れ宇治田原に落延びた。「淀城の戦い」では、細川藤孝勢に属して参陣した。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

山本昌尚【やまもとまさなお(15??~15??)】

山本尚利の次男。官途は監物。1570年、兄山本則尚が自刃すると、山本家の家督を相続した。

弓削牛之助【ゆげうしのすけ(15??~15??)】

田中城主。西岡十六党のひとり。1573年、「淀城の戦い」では、細川藤孝勢に属して参陣した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

弓削守親【ゆげもりちか(15??~15??)】

弓削牛之助の男。官途は越前守。明智光秀勢に属した。

弓削吉長【ゆげよしなが(15??~15??)】

弓削守親の男。通称太郎左衛門。

弓削伝左衛門【ゆげでんざえもん(15??~15??)】

弓削吉長の男。

米田求政【よねだもとまさ(1526~1590)】

足利義晴家臣。官途は壱岐守。通称源三郎。別名米田貞能。御相伴衆を務めた。1565年、「永禄の変」で足利義輝が謀殺されると、細川藤孝とともに足利義昭の救出に尽力した。1569年、足利義昭の勘気を蒙って京都東山に蟄居した。細川藤孝が長岡城を領するとに仕えた。1571年、青龍寺城の普請奉行を務めた。1577年、「紀州討伐」で戦功を挙げた。

米田興季【よねだ(15??~15??)】

米田是政の男。官途は監物。1600年、父米田是政の討死後、米田家の家督を相続した。1607年、細川忠興のもとから出奔した。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢に属して大坂城に籠城した。元和八年、帰参して2,000石を領した。寛永二年、4,500石を加増され家老職を務めた。寛永十一年、3,500石を加増され計10,000石を領した。

米田是政【よねだこれまさ(1558~1600)】

米田求政の男。通称助右衛門。1565年、「永禄の変」で足利義輝が謀殺されると、細川藤孝に仕えた。1582年、「本能寺の変」では、珠子(明智光秀の娘)離別を建言した。宮津城内で一色義定を謀殺した。1600年、「岐阜城の戦い」に参陣したが討死した。

米田是季【よねだこれすえ(1586~1658)】

細川藤孝家臣。官途は監物。通称与七郎。弓の名手。後に勘気を蒙り浪人となった。1614年、「大坂冬の陣」直前に羽柴秀頼に仕え、大坂城に入城した。大野治房の侍大将となり、三の丸西側を守備した。1638年、「島原の乱」では、松井興長、有吉英貴らとともに触状を出した。

渡辺昌【わたなべまさ(15??~15??)】

愛宕郡一乗寺城主。渡辺出雲守の男。官途は宮内少輔。1573年、山本尚治、近江国志賀郡山中の磯谷久次らとともに足利義昭勢に属して討伐された。のちに羽柴秀吉の馬廻衆を務めた。

渡辺糺【わたなべ ただす(15??~1615)】

渡辺昌の男。通称は内蔵助。母は淀殿の側近の正栄尼。槍の名手であり、羽柴秀頼の槍の指南役として仕える。1614年、「大坂冬の陣」で、長尾景勝勢の鉄砲が鳴り響く轟音を聞いただけで兵を退いた。1615年、「大坂夏の陣」では、真田信繁の寄騎衆として戦功を挙げた。最後は大坂城千畳敷で自刃した。

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【資料Ⅰ】

山城国(8郡/240,000石)

乙訓郡:勝龍寺城、山崎城。
葛野郡:二条城。
愛宕郡:
紀伊郡:
宇治郡:淀城、伏見城、槇島城。
久世郡:
綴喜郡:
相楽郡:笠置城。

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【資料Ⅱ】

公家侍【くげざむらい】

公家侍(青侍)。貴族、公家の家政機関に務める武士。公家の家政機関に奉仕する役目を担うが、諸大夫より下位に置かれて、基本的には六位に置かれていた。六位層は位袍の色が青系の縹であったことから、「青侍」と称された。中世後期に入ると、公家の家臣層も諸大夫と青侍を中心とする家僕に再編成されることになるが、諸大夫を持てない中下層公家では青侍のみで家僕が構成されて公家家政を運営するようになった。

西面武士【さいめんのぶし】

西面武士。院御所の西面で上皇の身辺の警衛、奉仕などにあたった武士集団。1200年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の軍事力に対抗して結成された。関東や在京の御家人を中心に構成されており、西日本の有力御家人、武勇に優れた武士が多く所属していた。北面武士とともに院の軍事力の中枢を担った。1221年、「承久の乱」では、上皇勢に属して参陣したが短期間で鎮圧された。乱後、上皇の配流に伴い廃止された。

滝口武士【たきぐちのぶし】

滝口武士。蔵人所の下で内裏の警護にあたった武士集団。内裏の警護にあたっていたのは近衛府だったが、平城天皇と嵯峨天皇兄弟の対立にり、新たに設置された。摂関家や公家らが家人の中から射芸に長じた者を滝口武士に任じた。蔵人所は律令制では定められていなかった役職のため、滝口武士それ自体も官職ではない。

藤原五摂家【ふじわらごせっけ】

藤原五摂家。藤原北家の藤原良房が摂政に任官して以後、その子孫の諸流の間で摂政職、関白職の地位が継承されたが、のちに藤原道長の嫡流子孫である御堂流がその地位を独占した。平安時代末期、藤原忠通の継嗣藤原基実が病没すると、その子藤原基通がまだ幼少であったことから、弟藤原基房が摂関職の地位を継いだために、摂関家は近衛流と松殿流に分立した。平安末期の戦乱によって藤原基房、藤原基通ともに失脚し、その弟である藤原兼実が関白となったことで、九条流摂関家が成立した。この三流のうち、松殿流の松殿家は松殿師家が摂政になって以降は摂政、関白を出すことなく何度も断絶を繰り返して没落し、摂家には数えられなくなった。その結果、摂関家として近衛家、九条家の両家が残ったた。のち、近衛家から近衛家並びに、藤原兼平により鷹司家が成立した。さらに九条家からは、藤原道家の継嗣藤原子実経および藤原教実、藤原良実により、それぞれ一条家および九条家、二条家が成立した。

北面武士【ほくめんぶし】

北面武士。藤原摂関家が御所を警固する目的で創設した。初期は、天皇家の近習や寵童など、院と個人的に関係の深い者で構成されていたが、院の権勢が高まると摂関家に伺候していた軍事貴族も包摂するようになり、その規模は急激に膨張した。新たに北面に加わった軍事貴族は、それぞれがある程度の武士団を従えた将校クラスであった。1118年、延暦寺の強訴を防ぐため賀茂河原に派遣された部隊だけで1,000余りに達した。

西岡十六衆【にしおかじゅうろくにんしゅう】

山城国西岡は桂川の西部に位置して桂川の水を用水として利用し、農業用水路も発達し、経済力も豊かで、全国でも有数の小領主がひしめく土地であった。長洲兵庫、小泉秀清、築山俊方、竹田仲広、竹内為信、高橋俊長、革島就宣、山本主殿、弓削牛之助、鶏冠井政益、神足春治、物集女忠重らが西岡被官衆と称され、室町幕府に仕えた。諸家はそれぞれの支配地に居城を築き、個々の勢力は大きくなかったが、相互連帯を保ち近隣諸侯でさえ侮りがたい勢力を有していた。山城国中西部(乙訓郡、葛野郡の桂、川島付近)は、西岡(上六ヶ郷に属する徳大寺、上桂、下桂、川島、下津林、寺戸、下五ケ郷に属する牛ケ瀬、上久世、下久世、大薮、築山の上下十一ヶ郷)。

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【資料Ⅲ】

西岡十六衆【にしおかじゅうろくにんしゅう】

長洲兵庫、小泉秀清、築山俊方、竹田仲広、竹内為信、高橋俊長、革島就宣、山本主殿、弓削牛之助、鶏冠井政益、神足春治、物集女忠重。

細川家四天王【ほそかわけしてんのう】

香川景明、香西元資、奈良元安、安富盛長。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

徳川家康は松平元康、徳川秀忠は松平秀忠、豊臣秀吉は羽柴秀吉、豊臣秀頼は羽柴秀頼に統一しました。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版、参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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