2011年4月20日水曜日

本多忠勝家臣団辞典

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【あ】

荒川甚太郎【あらかわじんたろう(15??~1573)】

本多忠勝の家臣。1573年「三方ヶ原の戦い」で討死。

植村氏義【うえむらうじよし(15??~15??)】

本多忠勝の外祖父。通称新五郎。娘の小夜は本多忠高に嫁ぎ、本多忠勝を産んだ。

植村氏明【うえむらうじあき(1520~1552)】

植村氏義の男。通称新六郎。松平家三代(清康・広忠・家康)に仕えた家臣で、不毛の豪傑であり槍・刀の名手で、剣術は鞍馬流の奥義を極めていた。1535年、主君・松平清康が森山崩れで阿部正豊に斬られた時も、阿部正豊をその場で斬っている。1549年、松平広忠が刺客の岩松八弥に斬られた時も、逃げてきた八弥と組み合った末堀に落ち、松平信孝が鑓で突こうとしたが、結局植村氏明が首を斬り、感状を与えられた。1552年、尾張国沓掛城で織田勢と戦い討死した。

植村家存【うえむらいえさだ(1541~1577)】

植村氏明の男。官位は出羽守。通称新六郎。1549年から松平元康に仕える。1552年、父植村氏明が死去したため家督を相続した。1562年「清洲同盟」を結ぶため清洲城に赴いた松平元康の護衛を務めた。織田信長についてゆき、一行が書院に入ろうとしたが、植村家存が松平元康の刀を持ったまま入室しようとした為、警固の者に何者かと咎められた。これに対して植村家存の方は、「我は植村出羽守なり。主君の刀を持って参ったのを、そのように大袈裟に咎めてくれるな」と荒々しく言い放った。会見後、織田信長は護衛役の植村家存に二振りの行光の太刀を与えた。その後、酒井忠次、石川家成、石川数正らと共に家老職となる。1572年、織田信長と越後長尾景虎の同盟の仲介を行い、長尾景虎から長光の刀と山伏出立の具足を贈られた。

植村家次【うえむらいえつぐ(1567~1599)】

植村家存の男。室は依田信蕃の娘。通称新六郎。1577年、父植村家存を亡くし、松平信康の小姓となるが、罪を受けて松平信康が切腹すると、流浪の身となる。榊原康政の推挙により、再び松平元康に仕え、上野国邑楽郡500石を給される。息の植村家政は松平秀忠の小姓から、大名に出世している。

植村安重【うえむらやすしげ(15??~15??)】

植村氏義の次男。本多忠勝の叔父。

植村安政【うえむらやすまさ(15??~15??)】

植村安重の男。本多忠勝の従兄弟。永禄九年、本多忠勝に附けられる。

植村小夜【うえむらさよ(15??~15??)】

植村氏義の娘。 本多忠高の室。 「本多の後家」として城主、松平元康の不在の苦しい時代の岡崎城下でも有名だったと伝えられる。後家を貫いたわけではなく、後年再婚し、本多忠勝の妹を生んでいる。


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【か】

梶勝忠【かじかつただ(1549~15??)】

本多忠勝の家臣。通称金平。都築家と共に家老として代々本多家を支えてきた梶家。その祖は松平家一族である能見松平光親の次男・親友とされ、本多勝忠はその親友の曾孫にあたる。松平元康に使い番として仕えていたが、1566年、本多忠勝が旗本先手役に任命されると寄騎衆として本多隊に組み込まれる。本多忠勝隊の中心として多くの合戦に従軍。1600年「関ヶ原の戦い」では、敵兵の放った矢によって愛馬「三国黒」を失いながらも徒立ちで奮戦する本多忠勝に自分の馬を差し出し、本多忠勝の窮地を救った。1601年、本多忠勝の桑名移封の際には先発隊として桑名城に入城した。

河合政光【かわいまさみち(15??~1573)】

本多忠勝の家臣。通称又五郎。1573年、「三方ヶ原の戦い」で討死した。旗本先手役に抜擢された本多忠勝の寄騎衆50騎の1人。知行5000石(内、与力給2500石を含む)。実弟・河合政一が又五郎の通称と家督を継いでいる。


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【さ】

桜井勝次【さくらいかつつぐ(15??~1581)】 

通称庄之助。遠江国浜松城に居住。本多忠勝の寄騎衆。「姉川の戦い」「三方原の戦い」などで軍功をたてた。遠江国豊田郡に知行地をあたえられた。

桜井勝成【さくらいかつなり(1575~1659)】

桜井勝次の男。本多忠勝・忠政親子、ついで田中吉政に仕える。松平元康のもとで活躍した父桜井勝次の軍功により,幕府の書院番、使番をつとめた。


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【た】

都築秀綱【つくしひでつな(15??~15??)】

遠江国引佐郡都築城主。都築秀景の男。通称惣左衛門。子に弥左衛門為政。浜名湖北岸に所領を有する国人衆として今川家に仕えた。1560年「桶狭間の戦い」の敗戦で今川領内が動揺しても変わらずに仕えていた。1566年、今川氏真から所領安堵の判物を拝領している。1568年、松平元康が遠江国に侵攻。松平元康が浜名湖北岸へ派遣した本多忠勝、戸田忠次らに降伏。500貫の所領は、改めて安堵されている。松平元康の直属軍強化のために新設した旗本先手役の一員に加えられ寄騎衆として本多忠勝に属した。本多忠勝が大喜多城に転封されると、本多家の付け家老として配される。3500石に寄子給2500石を合わせた6000石を領した。

【な】

長坂信宅【ながさかのぶたく(15??~15??)】

通称彦五郎。松平清康の頃から松平家に仕え、本多忠勝と出会うまでに既に首級93を挙げていたといわれる本多隊きっての猛将「血鎗九郎」。叔父の本多忠真から武士道の教育を受け、長坂彦五郎から武道の教育を受けた。1590年、松平元康の関東移封に際し、本多忠勝が大多喜城を拝領するに当たって、長坂彦五郎は中根平右衛門信元と共に本多家の家老の職に就く。

長坂忠尚【ながさかただなお(15??~15??)】

長坂信宅の次男。通称源吉郎。父長坂信宅の後を継ぎ本多忠勝~四代本多政勝に仕えた。

中根正照【なかね まさてる(15??~15??)】

三河国の豪族衆中根正昭の男。松平家の譜代家臣で松平信康の付け家老。二俣城主を務めた。1568年、松平元康が遠江国に侵攻して二俣城を奪い、中根正照を城主、青木貞治・松平康安らを寄騎衆として入城させた。1572年、武田晴信に攻められ降伏・開城した。二俣城には武田方の芦田信守・信蕃父子が入城する。中根正照は開城後浜松城に帰城した。松平元康は、開城を知らず二俣城に向かい武田勢と激突し惨敗して浜松城に敗走した。中根正照は二俣城開城の恥辱を雪がんとして「三方ヶ原の戦い」で奮戦するも討死を遂げた。

中根忠実【なかねただざね(15??~1610)】

官位は越中守。別名織田信照(平右衛門)。織田信秀の九男。母の実家(熱田の商家)の中根忠貞の養子となった。1582年、織田信長が死去した後は織田信雄の家臣となった。1584年「小牧・長久手の戦い」にも参戦したが、羽柴勢の攻勢に敗れて捕虜となった。しかし、織田信長の弟であるということから一命は助けられた。織田信照は、本多忠勝に仕え家老となった。養父である中根忠貞の実弟・中根正照のが「三方ヶ原の戦い」で討死したため、中根家の家督を相続した。1600年「関ヶ原の戦い」では大多喜城の留守居を嫡子・源次郎忠晴と務めた。伊勢国桑名城への転封後は、縄張り・町割りなど城下の再整備に活躍した。1610年、本多忠勝に殉じて追い腹を切った。

中根忠晴【なかねただはる(15??~15??)】 

中根忠実の男。

中根重定【なかねしげさだ(15??~15??)】

中根忠実の枝連衆。1566年、本多忠勝に付けられた。


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【は】

浜名三郎兵衛【はまなさぶろうびょうえ(15??~15??)】

浜名頼広の男。本多忠政に仕えた。1615年「大坂の冬陣」に出陣「道明寺口の戦い」で功があった。

久貝正好【ひさかいまさよし(15??~1587)】

久貝政勝の男。1577年、今川家に仕官。後に松平家に仕えた。1573年、本多忠勝隊に属して「三方ヶ原の戦い」で首二つを挙げる。子は正俊。

本多忠豊【ほんだただとよ(15??~1544)】

額田郡蔵前城主。本多助時の男。松平清康の家臣。1544年、織田勢に占領された安祥城を奪還すべく、松平広忠は軍勢を起こす。1545年「安祥畷の戦い」で、松平広忠を助けるため、身代わりとなって敵陣へ踊り込む。仁王の如く奮戦するも、松平広忠の兜をかぶったまま針鼠のように無数の矢を身体に受けたまま絶命した。

本多忠高【ほんだただたか(1526~1549)】

本多忠豊の男。室は植村氏義の娘。1547年、松平一族で、家督を狙う松平信孝が反乱に出陣した。1548年、織田信秀勢が三河国に侵攻すると、今川家の太原雪斎とともに松平広忠が出陣し「小豆坂の戦い」で、織田勢と戦い、勝利を収めた。1549年、松平広忠が岡崎城内で岩松八弥に暗殺され、松平家や三河国人衆は大きく動揺した。今川義元は三河国人衆が織田家に寝返ることを恐れ、太原雪斎を送って織田家の三河国の拠点であった安祥城を攻めた「第三次安城の戦い」。守将の織田信広は城をよく守ったため、本多忠高は大久保忠俊らとともに夜襲に及び、戦果を収めたが、翌日の戦いにて敵の矢に当たって討死した。

本多忠真【ほんだただまさ(1530~1572)】

本多忠豊の次男。本多忠高の男。本多忠勝が四歳の時から、叔父本多忠真の許に預けられ、武士としての教育を受けた。本多忠真は、読み書きや武士としての作法、松平家臣としての心得等、本多宗家の後継ぎとして必要な知識を、討死した兄本多忠高に成り代わって本多忠勝に教育した。
本多忠勝が駿府で人質となっている家康の許へ小姓として近習する1557年までの間、約六年続いた。1560年「桶狭間の戦い」後、松平元康が岡崎城主に返り咲いてから、再び本多忠勝は叔父の許で修行を積むことになった。本多忠勝は松平元康の馬廻衆を勤め、本多隊は、本多忠勝が旗本先手衆と叔父の指揮する二隊に分かれていた。1572年「三方ヶ原の戦い」から、本多忠真隊も本多忠勝隊に組み込まれ、一隊を編成したが、本多忠真は、殿軍を買って出た本多忠勝隊にあって、本多忠真は道の左右に旗指物を突き刺し「ここから後ろへは一歩も引かぬ」と言って追走する武田勢を迎撃するも討死した。

本多忠勝【ほんだ ただかつ(1548~1610)】

本多忠高の男。安祥松平家(徳川本家)の最古参の安祥譜代家臣。1549年、二歳の時に父本多忠高が討死し、叔父本多忠真に養育される。年少の頃から松平元康に仕えた。1560年「桶狭間の戦い」の前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。1563年「三河国一向一揆」では、多くの本多一族が一向宗(浄土真宗)側に参戦するなか、浄土宗に改宗して松平元康側に残り武功を挙げた。1566年、榊原康政や本多正重、都築秀綱らとともに旗本先手役に抜擢されて、寄騎衆50騎を率いた。本多忠勝は常に松平元康の元にあり、旗本部隊の将として活躍した。1570年「姉川の戦い」にも参加し、松平本陣に迫る朝倉勢10,000に対して本多隊を引きいて、朝倉勢を食い止めた。1572年「二俣城の戦い」の前哨戦の「一言坂の戦い」で殿軍を努め、馬場信春の部隊を相手に奮戦し、松平元康率いる本隊を撤退を援護した。1572年「三方ヶ原の戦い」にも参戦した。1575年「長篠の戦い」にも参加する。1582年「本能寺の変」が起きたとき、松平元康は本多忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在していたが、元康が京都に行って信長の後を追おうと取り乱したのを本多忠勝が諌めて、「伊賀越え」を行わせた。1584年「小牧・長久手の戦い」での活躍などにより、羽柴秀吉からも東国一の勇士と賞賛された。1590年、家康が関東に移封されると上総国夷隅郡大多喜城100,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では松平元康本軍に従軍し、諸大名に書状を送って東軍方につける工作にも活躍した 。1601年、伊勢国桑名城100,000石に移されると、旧領・大多喜城は50,000石の減封のうえ次男本多忠朝に与えられた。晩年は、戦乱の収束により本多正純などの吏僚派が松平家の家政を取り仕切り、本多忠勝のような武功派は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられた。

本多忠政【ほんだただまさ(1575~15??)】

本多忠勝の男。1590年「小田原の役」に初陣する。1600年、松平秀忠勢に属して「第二次上田城の戦い」に従軍するも、真田勢の足止めに合い本戦の「関ヶ原の戦い」には参加できなかった。1609年、父本多忠勝が隠居したため、本多家の家督を相続して桑名藩の第二代藩主となる。1614年「大坂の陣」にも参加し、数々の武功を挙げている。冬の陣の休戦和議締結で大坂城の堀を埋め立てた際、埋め立て奉行を松平忠明達と担当している。1617年、姫路城150,000石を領した。本多忠政の室は松平信康の次女・熊姫。本多忠政の男、本多忠刻の室は豊臣秀頼の室だった千姫。

本多忠朝【ほんだ ただとも(1582~1615)】

本多忠勝の次男。父本多忠勝に劣らぬ勇将。1600年「関ヶ原の役」に父本多忠勝と共に従軍して活躍した。父本多忠勝が伊勢桑名藩に移封されると、旧領・上総大多喜50,000石を領した。1610年、父本多忠勝が亡くなると、遺領は兄本多忠政が領したが、本多忠朝、異議を唱えなかった。1614年「大坂冬の陣」でも活躍したが、酒を飲んでいたために不覚をとり、敵の猛攻に遭って敗退した。1615年「大坂夏の陣」のとき、汚名を返上しようと「天王寺・岡山の戦い」で先鋒を務め、毛利勝永勢に正面から突入し、奮戦したが討死した。死の間際、「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と無念の言葉を残した。

本多忠刻【ほんだただこく(1596~1626)】

本多忠政の男。官途は中務大輔。通称平八郎。1614年「大坂冬の陣」で初陣を果たす。1616年、千姫を娶る。1617年、播磨国100,000石。遺領のうち50,000石は弟本多政朝が相続。弟本多忠義に40,000石、小笠原長次に60,000石に分割された。

本多政朝【ほんだまさより(1599~1638)】

本多忠政の次男。官途は甲斐守。通称鍋之助。1614年「大坂冬の陣」で初陣を果たす。叔父本多忠朝が討死すると、その娘を娶り遺領を相続。上総大多喜城50,000石。1617年、播磨国龍野城に転封。1626年、兄本多忠刻が没すると遺領のうち50,000を相続した。旧領龍野城は小笠原長次が知行することになった。父本多忠政の姫路城150,000石に転封。旧領50,000石のうち10,000石は弟本多忠義に分与。40,000石は養子の本多政勝に分与した。

本多忠義【ほんだただよし(1602~1676)】

本多忠政の三男。1626年、兄本多忠刻の遺領のうち40,000石を相続。1649年、20,000石を加増されて奥州白河城主。

本多政勝【ほんだまさかつ(1614~1671)】

本多忠朝の次男。入道丸、内記。従四位下侍従。剛力のため鬼内記と呼ばれた。1615年、父本多忠朝は「大坂冬の陣」で討死したが、本多政勝は幼少のため家督を継ぐことが出来ず、本多政朝の養子となった。1631年、本多政朝から姫路城40,000石を与えられた。1539年、本多政朝が没すると遺領を相続。大和国郡山城に転封された。

本多家臣団【ほんだけかしんだん】

阿佐美清兵衛、新屋清左衛門、依田内蔵介、伊奈伊左衛門忠安、植村土佐泰忠、江原市内、大鐘彦市政広、大原作右衛門、大原惣右衛門、大原与五左衛門、小野田与市、影山弥三郎、勝屋甚五兵衛利政、河原与右衛門、小泉孫八郎、向坂与五右衛門、小坂助六、近藤八左衛門、柴田五郎左衛門、下里藤八郎、多門伝十郎重信、土屋甚介重俊、内藤平十郎、内藤源太左衛門、永坂甚平勝重、長坂太郎左衛門重信、永田覚右衛門、中根五助重定、中村与惣富重、蜂須賀彦助政刻、原田九郎兵衛種道、日置小左衛門正光、福尾淡路守、二橋藤大夫、本多三左衛門正重、本多甚六、本多平三郎、松下源五郎、松下久左衛門景綱、松下三十郎元綱、松下七兵衛、三浦竹蔵、水野弥三郎、山口嘉平治、山本唯右衛門、渡辺半兵衛真綱、渡部墨右衛門吉綱。

本多小松【ほんだこまつ(1573~1620)】

通称稲姫。本多忠勝の長女。松平元康の養女として真田信之に嫁いだ。大蓮院。


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【ま】

松下乙女【まつしたおとめ(15??~15??)】

松下弥一の娘。本多忠勝の側室。正室の阿知和於久より先に嫁いだ。幼くして父松下弥一を亡くし妙源寺に預けられた。1566年、本多忠勝が騎馬隊長として36,000石と岡崎城内に侍屋敷を拝領すると、母松下小夜と共に転入し、実質的な夫婦となる。本多忠勝との間には、真田真之の室となる小松の他に三人の娘をもうけた。



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【や】

阿知和於久【わちわおひさ(15??~15??)】

阿知和右衛門玄銕の娘。本多忠勝の室。1569年、松平元康の媒酌により婚姻。本多忠政、忠朝の他に娘一人をもうける。本多忠勝が大多喜城から桑名城に転封になったとき、大多喜城に留まった。見星院。

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本多信重【ほんだのぶしげ(15??~1529)】 

三河国碧海郡土居城主。豊後守系本多家嫡統。安城松平家の松平長親に臣従し三河譜代衆となる。1529年、本多信重は松平清康の東三河遠征に従軍し「御油縄手の戦い」で討死した。

本多広孝【ほんだひろたか(1528~1598)】 

本多信重の男。官途は豊後守。通称彦三郎。室は東条松平義春の娘。本多広孝は、1535年「森山崩れ」の松平清康横死以後の混乱・危機の時期も忠節を続けた。今川義元に駿府で人質として留め置かれている松平竹千代の岡崎帰城を頻りに嘆願したが、結局は今川義元の在世中にその望みは受け入れられなかった。1561年、東条吉良家との「藤波畷の戦い」には、劣勢となった松平勢を支えて奮戦し、吉良義昭勢の勇将富永忠元を討ち取り形勢を逆転、吉良家を降伏に追い込み一躍勇名を馳せた。1563年「一向一揆の戦い」では、本多広孝は嫡子康重を忠節の証として元康に差し出し、自らは土居の城館を拠点一向宗と戦った。1572年、武田晴信との「三方ヶ原の戦い」では浜松城より取って返し、武田勢の追撃を防いで味方の敗走を助た。1575年「長篠の戦い」では別働隊として鳶の巣山砦を酒井忠次たちと攻め守将の武田信実を討取った。1577年、家督を本多康重に家督を譲る。1590年、松平元康の関東入部にともない、本多康重とともに上野国白井城20,000石に封ぜられた。

本多康重【ほんだやすしげ(1554~1611)】 

本多広孝の男。室は石川家成の娘。官途は豊後守。通称は彦次郎。1572年、武田晴信との「三方ヶ原の戦い」で戦功を挙げた。1590年「小田原の役」後に松平元康が関東に移されると、上野国白井城20,000石を与えられた。1600年「関ヶ原の戦い」後の三河国岡崎城50,000石を与えられた。

本多左馬之介【(15??~15??)】 

本多広孝の家臣。1569年、掛川城攻めで戦功を挙げた。

吉見孫八郎【(15??~15??)】 

本多広孝の家臣。1569年、掛川城攻めで戦功を挙げた。

山下庄左衛門【(15??~15??)】 

本多広孝の家臣。1575年「長篠の戦い」で、本多康重と共に姥ヶ懐で三枝守友を討ち取る。

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本多重次【ほんだしげつぐ(1529~1596)】 

本多重正の男。通称本多作左衛門。室は鳥居元忠の妹。松平元康に従って各地を転戦し、その勇猛ぶりから鬼作左の異名をとる。1563年「三河一向一揆」の際、自ら宗門を改め松平元康に誓詞を差し出した。諸合戦でも一軍の将として戦功を重ねた。1565年、三河統一後は、高力清長・天野康景と三河三奉行に任ぜられた。剛直・果敢をもって民政を司った。本多重次は厳格な人でもあったが、公平な判断を下せる人であった。本多重次が長篠の戦いの陣中から室に宛てた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は有名。1585年、三河国岡崎城代となるが、岡崎に人質として下向していた羽柴秀吉の母なかの処遇に不手際があったことを咎められた。1590年の松平元康の関東入りの後、上総国古井戸にて蟄居させられ、晩年を不遇のうちに過ごした。1596年、古井戸より下総井野に移された。

本多成重【ほんだ なりしげ(1572~1674)】

本多重次の男。官途は飛騨守従五位下。室は土岐定政の娘。幼名は仙千代(「一筆啓上。お仙泣かすな」のお仙)。1613年、松平忠直の付家老となり、丸岡城40,000石を領して若年の松平忠直を本多富正と共に補佐した。1615年「大坂の夏陣」では武功を挙げた。松平忠直が改易されると独立した大名に昇格した。1624年、6300石の加増され藩政の基礎を固めるために城下街の建設や治水工事などに手腕を発揮した。

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本多忠俊【ほんだただとし(15??~1564)】

三河国宝飯郡伊奈城主。1556年、今川義元から離反した奥平貞勝を鎮圧する「雨山の戦い」に参戦した。1560年、今川義元の尾張侵攻では、自らは参戦せずに嫡男の本多光忠を代将として派遣した。松平元康が独立すると、今川家を離反し松平元康方に転じた。1563年「一向一揆の戦い」では、自らは、豊川の東岸で三河支配権回復の機を窺う今川家の吉田城に備え、岡崎城へは本多光忠を支援に向かわせた。

本多忠次【ほんだただつぐ(1547~1613)】

本多忠俊の三男。通称は隼人佑。室は菅沼定村の娘。1564年「吉田城の戦い」に父本多忠俊と共に参陣した。1565年、父本多忠俊が病死するが、兄本多光忠は家督を継がず、本多忠次が代わって家督を相続した。1565年、本多忠次は家臣・戸田小栗を派遣して今川方の小原鎮実が守る吉田城主を攻略した。これにより松平元康は東三河を勢力下に置くことに成功した。これに対する本多忠次の功績は大きいとして忠次と兄光忠の所領加増ならびに弟の本多光典・家臣戸田小栗にそれぞれ50貫文の地の恩賞を与えた。1570年「姉川の戦い」に酒井忠次の寄騎衆として参陣した。1575年、松平信康の初陣に随い「足助城の戦い」で戦功を挙げる。1575年「長篠の戦い」では別働隊として鳶の巣山砦を酒井忠次たちと攻め守将の武田信実を討取った。1579年「高天神城の戦い」では、落城に際して武田方の首級21を討ち獲った。1579年、酒井忠次の次男康俊を迎え養子とした。1581年、松平元康の娘が北条氏直に嫁ぐ際、その御輿添えとして相模国に随従した。

本多康俊【ほんだやすとし(1569~1612)】 

酒井忠次の次男。本多忠次の養子。室は菅沼定盈の娘。1575年、織田信長の人質として織田家のもとへ赴いた。1580年、本多忠次の養子となった。1600年「関ヶ原の役」の戦功により三河国西尾城に20,000石を与えられた。1614年「大坂冬の陣」では近江国膳所城を守備した。1615年「大坂夏の陣」では天王寺・岡山の戦いに参加して首級を105個も挙げた。その戦功により、膳所城30,000石が与えられた。

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本多正信【ほんだまさのぶ(1538~1616)】 

本多俊正の次男。官途は佐渡守。鷹匠として松平元康に仕えた。1563年「三河一向一揆」が起こると、一揆方の武将として松平家に敵対した。一揆衆が鎮圧されると、諸国を放浪したが1575年、前後に大久保忠世を通じて松平家に帰参した。1582年「本能寺の変」に際しては、松平元康とともに堺にあり「伊賀越え」に同行した。織田信長の横死によって、空白地となった甲斐・信濃国を併合すると、奉行に任じられて両国の統治を担当した。1590年「小田原の役」の後、松平元康が関東に転封になると、相模国玉縄城10,000石が与えらた。松平元康の諜略面を担当するようになった。1600年「関ヶ原の役」では、第二軍の松平秀忠勢30,000に従い中山道平定戦にあたるが「上田城の戦い」で真田昌幸の知略に嵌まり「関ヶ原の戦い」の本戦に参戦することができなかった。1601年、京都の朝廷と松平元康の将軍職就任の政治工作を担当した。1603年、松平元康が将軍職に就任して江戸幕府を開設すると側近として幕政を実際に主導するようになった。しかし権勢を得たことは本多忠勝、大久保忠隣ら武功派の不満を買うことにもつながり、幕府内は正信の吏僚派と忠隣の武功派に分かれて権力抗争を繰り返すようになる。1613年「大久保長安事件」で大久保長安一党らを失脚させ、政敵・大久保忠隣らを失脚させた。1614年「大坂冬の陣」では、羽柴家を滅亡に追いやるために数々の諜略を行った。

本多正重【ほんだまさしげ(1545~1617)】 

本多俊正の四男。本多正信の弟。1563年「三河一向一揆」が起こると、兄本多正信と共に一揆方の武将として松平家に敵対した。一揆衆が鎮圧されると、一時放浪したがまもなく松平家に帰参した。「掛川城の戦い」「姉川の戦い」「一言坂の戦い」「三方ヶ原の戦い」「長篠の戦い」などで活躍した。再び松平家を去り、滝川一益に属し「神吉城の戦い」、前田利家に属して佐々成政と戦うなどした後に、蒲生氏郷に仕える。1596年、蒲生氏郷と喧嘩をし再び徳川家に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では検使を務め、その功で近江坂田郡内に1,000石を与えられる。1614年「大坂冬の陣」では松平秀忠の参謀として活躍した。

本多正純【ほんだまさずみ(1565~1637)】

本多正信の男。父本多正信が諸国を放浪している期間、本多正純は大久保忠世の元で養育された。父本多正信が松平家に帰参すると、父と共に松平元康の諜略面を担当するようになった。1600年「関ヶ原の役」では本戦にも参加した。1603年、松平元康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、さらに重用されるようになる。1605年、松平元康が将軍職を三男の松平秀忠に譲って大御所となり、二元政治が始まると、江戸城には大久保忠隣が、駿府城には正純が、そして正純の父本多正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになった。本多正純は松平元康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。1614年、政敵であった大久保忠隣を失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでになった(大久保長安事件)。1614年「大坂冬の陣」では、羽柴家を滅亡に追いやるために数々の諜略を行った。

本多政重【ほんだまさしげ(1580~1647)】

本多正信の次男。倉橋長右衛門の養子。1597年、松平秀忠の乳母大姥局の息子岡部荘八を斬り殺して出奔し、大谷吉継の家臣となった。その後宇喜多秀家の家臣となり、20,000石を与えられ。1600年「関ヶ原の戦い」では宇喜多勢の武将として奮戦したが敗走した。その後福島正則に仕えたがすぐに辞去し、前田利長に30,000石で召し抱えられたがまもなく前田家を離れた。1604年、越後長尾景勝の家臣・直江兼続は本多政重を娘・於松の婿養子に迎えた。1605年、於松が病死したが養子縁組は継続された。1609年、直江兼続は弟大国実頼の娘・阿虎を養女にして嫁がせた。1611年、越後長尾家から離れ、藤堂高虎の取りなしで前田家に帰参した。本多政重は前田利常の補佐し、松平将軍家との交渉に当たった。1614年「大坂冬の役」では、真田信繁に真田丸に誘い込まれた末に敗れ、真田信繁に名を成さしめた。

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【資料】

鹿角脇立兜【かづのわきだてかぶと】

本多忠勝愛用の兜。鉄黒漆塗十二間の筋鉢兜で、四段の錣は鉄板札黒塗皺韋包みの黒糸素懸威。木彫黒漆塗の獅噛前立。最大の特徴である鹿の角をあしらった脇立は、何枚もの和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固めたもの。

黒糸威胴丸具足【くろいとおどしどうまるぐそく】

本多忠勝愛用の具足。肩から袈裟懸けされた大数珠が特徴的で、これは木製金箔押しである。胴は鉄製黒漆塗の切板札黒糸素懸威。草摺は皮製黒漆塗の切付。板札は七間五段下がり。籠手等の金具部分は青漆。動き易さを重視して軽く造られている。

蜻蛉切【とんぼきり】

本多忠勝愛用の槍。柄の長さ一丈三尺(約390cm)、刃の長さ一尺四寸二分(約43cm)。全長4mを越す長槍で藤原正真の作と言われている。鋭い切れ味で止まったトンボが真っ二つに切れてしまった事からこの名前が付いた。

三国黒【みくにぐろ】

本多忠勝の愛馬。戦国時代の馬としては、前田慶次郎の「松風」と並んで有名。1600年「関ヶ原の戦い」にて西軍の放った矢によって倒れた。

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2011年4月18日月曜日

真田昌幸家臣団辞典

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【あ】

青木半左衛門【あおきはんざえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。

青山弥七郎【あおやまよしちろう(1558~1615)】

真田昌幸家臣。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸勢に属して参陣した。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

青山弥十郎【あおやまよじゅうろう(1578~1615)】

青山弥七郎の男。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸勢に属して参陣した。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁勢に従って参陣した。

相木荒次郎【あいきあらじろう(15??~15??)】

真田幸隆家臣。鉄砲の名手。1569年、「小田原城の戦い」で北条氏邦の家臣御湯見城主御湯見薩摩守を討取る戦功を挙げた。

赤井もよ【あかいもよ(15??~15??)】

向井佐平次の室。赤井喜六の娘。両親はもよが幼いときなくなっており、真田の庄の草屋敷を束ねる叔父の横沢与七に養育された。向井佐平次に嫁ぎ、向井佐助と向井はるをもうけた。1614年、「大坂冬の陣」では、向井佐平次が真田信繁のもとに赴く準備を行った。1615年、夫向井佐平次が討死した後も真田信之と小松殿に仕えた。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、音無真喜子が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

赤坂式部【あかさきかしきぶ(15??~16??)】

真田昌幸家臣。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸勢に属して参陣した。役後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。

赤沢常陸介【あかざあわひたちのすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸の馬廻衆を務めた。

赤坂式部【あかさかしきぶ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸勢に属した。真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山へ従った。
 
明石月部【あかしつきべ(1541~1611)】

真田昌幸家臣。別名月部入道。1600年、「 関ヶ原の役」では、真田昌幸勢に属した。役後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。

明石又七郎【あかしまたしちろう(1571~1615)】

明石月部の男。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸勢に従い参陣した。役後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。真田昌幸が病没すると、北信濃国に戻り帰農した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣して真田信繁勢に属した。1615年、「大坂夏の陣」で松平元康勢と戦い討死した。
 
浅香郷右衛門【あさかごうざえもん(15??~16??)】

真田昌幸家臣。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸に従って参陣した。役後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。

畔柳九蔵【あぜやなぎくぞう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると、真田昌幸が武田勝頼の次男武田勝親を擁して砥石城に籠城した。小規模な遊撃隊を指揮した。畔柳九蔵らは北条氏照勢や松平元康勢を荷駄隊を攻撃した。真田昌幸は武田勝親の助命を条件に織田信長に降伏した。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

畔柳九八郎【あぜやなぎくはちろう(15??~15??)】

畔柳九蔵の男。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸に従って参陣した。役後に真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山へ従った。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

畔柳兵助【あぜやなぎへいすけ(15??~15??)】

畔柳九蔵の次男。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、援軍として羽柴秀吉のもとに派遣された。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

穴山源覚【あなやまげんかく(15??~15??)】

真田幸隆家臣。1529年、加賀美四郎の家臣相木森之助を捕縛した。1561年、「信濃刈屋原城の戦い」では、真田幸隆勢に従って武田晴信勢に参陣した。 

穴山信光【あなやまのぶみつ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。通称玄蕃。
 
穴山安治【あなやまやすはる(15??~15??)】

穴山信光の男。通称小助。別名「雲洞軒」。真田十勇士のひとり。真田信繁に容姿が酷似していたので影武者を務めた。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸に従って参陣した。役後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。1615年、「大坂夏の陣」では、真田信繁の影武者を務め討死した。
 
穴山新兵衛【あなやましんべい(15??~15??)】

穴山安治の男。1582年、武田勝頼を支援するために参陣して砥石城に撤退する際、北条氏邦勢を攻撃した。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸に従って参陣した。役後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山へ従った。

姉山甚八【あねやまじんぱち(1553~1615)】

真田昌幸家臣。於江や奥村弥五兵衛とともに、甲賀の山中忍びの里に潜入した。山中忍びの牛原の茂兵衛と戦うことになり、甲賀の飛苦無を肩に受け、大怪我を負った。甲賀からの撤退では、奥村弥五兵衛と連携し、なんとか山中忍びを振り切った。1600年、「関ヶ原の役」では、奥村弥五兵衛に従い松平元康を奇襲した。1615年、「大坂夏の陣」では、松平元康の本陣に真田信繁とともに突撃したが銃弾に倒れた。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、渋谷天笑が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

荒川 内匠【あらかわたくみ(1549~1593)】

真田昌幸家臣。1582年、武田勝頼が討死して織田信長、松平元康、北条氏直、長尾景勝勢に囲まれ真田昌幸が四面楚歌になった際、北条氏邦との小競り合いでは、松田尾張守の謀反の噂を利用して北条氏邦勢を混乱させた。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

荒川勝蔵【あらかわかつぞう(1569~1615)】

荒川内匠の男。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると、 真田昌幸が武田勝頼の次男武田勝千代を擁して砥石城に籠城した際、小規模な遊撃隊を指揮した。荒川勝蔵、畔柳九蔵らは北条氏照勢や松平元康勢の荷駄隊を攻撃した。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。
 
荒牧宮内少輔右衛門【あらまきみやうちしょうゆ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。通称左衛門。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸の使番及び足軽組頭を務めた。

蟻川入道【ありかわにゅうどう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。西中城主。1582年、松平元康、北条氏直勢との戦いに参陣した。1589年、「小田原の役」では、岩櫃城留守居役を務めた。 
          
飯島市之丞【いいじまいちのじょう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。別名「宗心」。代官職をつ務めた。1585年、真田昌幸の意向を受け御料所の年貢が減少しないよう善処をした。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁らが紀州九度山に流罪になると、池田綱重、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、青柳清庵らとともに従った。

鵤幸甚九郎【いかるがじんくろう(1539~1589)】

矢沢頼康家臣。別名斑鳩甚九郎。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

鵤幸祐貞【いかるがすけさだ(1559~1615)】

鵤幸甚九郎の男。通称右衛門。別名鳩幸右衛門。乗馬の達人。

池田綱重【いけだつなしげ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。官途は長門守。真田家随一の奇襲の名人。1585年、「第一次上田城の戦い」では、鉄砲隊を率い松平元康勢の先陣に打撃を与えた。伏見の真田屋敷の留守居役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」後、伏見屋敷を脱出し真田昌幸のもとに戻り、高野山配流へのともを真田信之に願い出て許された。

石井舎人【いしいとねり(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。真田昌幸が病没すると、池田綱重とともに上田城に戻り真田信之に仕えた。

石黒又八【いしぐろまたはち(1551~1615)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、沼田城留守居役を務めた。
          
石野大膳【いしのだいぜん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の殿を務めた。

伊勢崎五郎兵衛【いせざきごろうざえもん(15??~15??)】

真田幸隆家臣。穴山源覚と並ぶ最古の家臣。加賀美四郎の家臣相木森之助を捕縛する戦功を挙げた。1561年、武田晴信の北信濃、刈屋原城攻めに参陣し、真田昌幸を補佐した。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

一場太郎左衛門尉【いちばたろうざえもんのじょう(1542~1620)】

真田幸隆家臣。別名一場太郎左衛。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。1580年、「上州攻略」では、小荷駄奉行及び足軽大将を務めた。「沼田城の戦い」では、中城小城を北条氏直勢から奪還する戦功を挙げた。1582年、「大戸城の戦い」に参陣した。1589年、「小田原の役」に参陣して北条氏直勢と戦った。

一場茂左衛門【いちばしげざえもん(1562~1620)】

一場太郎左衛門の男。1580年、「上州攻略」では、北条氏直勢の城塞を攻略する戦功を挙げた。

一場右京進【いちばうきょうのしん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。通称源七郎。別名市場右京進。上田領では原郷、海野郷、前山、保野、馬腰の各地に、商業活動の中心となった六斎市が開かれていた。1583年、真田昌幸から3貫100文の安堵した。1584年、真田昌幸の問屋役安堵状を受けた。

伊藤半之丞【いとうはんのじょう(15??~15??)】

矢沢頼綱家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

伊藤藤二郎【いとうとうじろう(15??~15??)】

矢沢頼綱家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

伊藤継基【いとうつぐもと(1565~1615)】

真田信繁家臣。通称団右衛門。剣と乗馬の達人。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って大坂城に入城した。1615年、「大坂夏の陣」では、真田信繁の影武者として活躍した。

猪口半兵衛【いのくちはんべい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繫とともに紀州九度山に従った。

今出川典子【いまでがわのりこ(15??~1613)】

真田昌幸の室。菊亭晴季の娘。別名山の手殿。長身で夫真田昌幸より背が高く、細身で、切れ長の両眼、高い鼻梁の美女。真田信之とともに岩櫃城で暮らし、真田昌幸とは離れ離れの生活を送っていたが、稲姫が真田信之に嫁ぐと、上田城に移り住んだ。真田昌幸との諍いが絶えなかったが、於徳の遺児於菊を養育した。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。1611年、真田昌幸が病没すると、真田信之のもとに引き取られた。2016年、NHK大河ドラマ『真田丸』では、が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

今出川久野【いまでがわひさの(15??~16??)】

樋口鑑久の室。今出川晴季の娘。別名久乃。今出川典子の実の妹。樋口鑑久との間に、樋口角兵衛をもうけた。1582年、「武田家討伐」で樋口鑑久が討死したため、真田昌幸のもとで暮らした。真田昌幸には、樋口角兵衛が真田昌幸の子だと偽りを述り樋口角兵衛の将来を図った。16??年、尾張松平家で刃傷沙汰を起こして出奔しした樋口角兵衛に実の父親は若侍の小畑亀之助であることを告げた。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、香野百合子が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

岩野左京【いわのさきょう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸に従い参陣した。

岩野宇兵衛【いわのうべい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「第二次上田城の戦い」後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。

植島東馬【うえしまとうま(15??~16??)】

真田昌幸家臣。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸に従い参陣した。

植田久右衛門【うえだきゅうざえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸に従って参陣した。

植田又左衛門【うえだまたざえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繫とともに紀州九度山に従った。

上原浅右衛門【うえはらあさえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。官途は兵庫。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の小荷駄奉行及び足軽大将を務めた。

上原藤介【うえはらとうすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。通称藤助。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の殿を務めた。

上原勘衛門尉【うえはらかんざえもんのじょう(15??~15??)】

矢沢頼綱家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

智荘院応政【うそういんおうせい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1590年、真田昌幸が上洛する際、供廻りとして従った。

馬淵六郎太夫【うまぶちろくろうだいふ(15??~16??)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属して参陣して松平元康勢と戦った。

海瀬文之丞【うみせぶんのじょう(15??~15??)】

矢沢頼綱家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

梅沢孫右衛門【うめざわまごえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の殿を務めた。

浦野五郎三郎【うらのごろうさぶろう(15??~15??)】

真田幸隆家臣。 

浦野七左衛門尉【うらのしちざえもんのじょう(15??~15??)】

根小屋城主。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の脇備を務めた。1582年、「大戸城の戦い」に参陣した。1589年、「小田原の役」にも参陣した。
 
漆戸虎光【うるしどとらみつ(1512~1575)】

真田昌幸家臣。

海野利一【うんのとしかず(15??~16??)】

真田幸隆家臣。通称六郎兵衛。山本晴幸を村上義清勢の忍び衆と思い捕縛したが、真田幸隆の意向を受け解き放った。1600年、「 関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

海野小平太【うんのこへいた(15??~16??)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属して参陣して松平元康勢と戦った。

江原左平太【えばらさへいた(15??~1615)】

真田昌幸家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って参陣した。1615年、「大坂夏の陣」で松平元康勢と戦い討死した。

笈川八内【おいかわはちぞう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸に従って参陣した。 役後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。

大瀬義人【おおせよしひと(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繫とともに紀州九度山に従った。

大塚清兵衛【おおつかせいべい(1507~1590)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属して参陣して松平元康勢と戦った。

大淵勘介【おおふちかんすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。通称勘助。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の殿を務めた。

岡野谷加賀守【おかやかがのかみ(15??~15??)】

矢沢頼綱家臣。矢沢頼綱に従い北条氏直勢と戦った。

岡本右京【おかもとうきょう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。通称勘助。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の殿を務めた。

奥出羽守【おくでわのかみ(15??~15??)】

真田信繁家臣。1587年、人質として大坂城に赴く真田信繁に従った。

小熊左兵衛尉【おぐまさへえもんのじょう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸の馬廻衆を務めた。 

奥村光親【おくむらもみつちか(1552~1610)】

真田昌幸家臣。通称弥五兵衛。真田家忍び衆のひとり。於江、姉山甚八とともに甲賀に潜入したが、山中忍びと戦いづつ脱出することに成功した。佐和山の城下はずれの長曽根村に、峰蔵の従兄の百姓として入り込み、新たに設けた忍び宿を守った。1600年、「関ヶ原の戦い」では、姉山甚八ら十四名とともに、重傷を負いながらも松平元康を討取ったが、それは松平元康の影武者であった。壺谷又五郎の没後の真田家忍び衆を、於江とともにまとめあげた。1610年、上洛する松平元康を謀殺を企て、山中忍び衆の迫小四郎の追撃を受け討死した。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

奥弥兵衛【おくよざえもん(15??~15??)】

真田信繁家臣。1587年、人質として大坂城に赴く真田信繁に従った。
      
於徳【おとく(15??~1589)】

真田昌幸の側室。前夫の岡内喜六が討死したため、沼田城に奉公にあがり、真田昌幸の側室となった。真田昌幸が長尾景勝に備え、砥石城に移った際、真田庄に移った。於菊を身ごもったが、樋口角兵衛から謀殺されそうになったため、鈴木主水の名胡桃城に移された。1589年、「名胡桃城の戦い」で北条氏邦勢の攻撃を知らせるために城を抜け出すが、北条氏邦勢に射られ亡くなった。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、坂口良子が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

小野大膳【おのだいぜん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の殿を務めた。 

小山田平三【おやまだへいぞう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1590年、真田昌幸から村松郷300文の所領を安堵された。

小山田治左衛門【おやまだじざえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。

折田軍兵衛【おりたぐんべい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1582年、真田昌幸から横尾17貫、桃井100貫の所領を安堵された。1588年、真田昌幸の意向を受け、吾妻衆の富沢豊後守、狩野志摩守、狩野右馬之助らとともに八幡山城の番役と普請役を務めた。

恩田能定【おんださだよし(15??~15??)】

真田昌幸家臣。通称越前守。沼田七人衆。森下城代を務めた。1580年、下沼田豊前守とともに長井坂城を守備した。1582年、「長井坂城の戦い」で北条氏邦勢の攻勢を受け落延びた。「沼田城の戦い」では、矢沢頼綱、矢沢頼康、根津幸直、北能登守、金子綱重らとともに奮戦して北条氏邦勢を撃退した。

恩田伊賀守【おんだいがのかみ(15??~15??)】

真田信之家臣。通称右近助。沼田七人衆ひとり。真田昌幸から上条30貫、向発知15貫、向発知5貫、下南雲15貫、阿波1貫500文の所領を安堵された。1582年、「沼田城の戦い」で矢沢頼綱が大将に沼田の七人衆下沼田豊前守、恩田伊賀守、発智三河守、恩田能定、和田主殿助、久屋勝五郎、岡野加賀守、金子美濃守、木曽甚右衛門らで守備した。

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【か】

角輪佐吉【かくりんさきち(15??~15??)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属して参陣して松平元康勢と戦った。

筧虎秀【かけいとらひで(15??~15??)】

真田幸隆家臣。通称十兵衛。敵の包囲を潜り抜け城門を丸太で突き破る戦功を挙げ足軽から足軽大将に抜擢された。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

筧十蔵【かけいじゅうぞう(1573~1615)】

筧虎秀の男。通称政右衛門。別名掛飛十蔵。 1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸に従って参陣した。役後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。

柏田玄仲【かしわだげんちゅう(15??~15??)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属して参陣して松平元康勢と戦った。

片岡助兵衛【かたおかすけへいべい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1583年、真田昌幸から諏訪10貫、上条5貫、南方20貫の所領を安堵された。

金井高勝【かねいたかかつ(15??~1606)】

真田幸隆の五男。通称宮内介。1571年、「甲相同盟」を画策した。

加茂大膳【かもだいぜん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の脇備を務めた。

狩野志摩守【かりのしまのかみ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1588年、真田昌幸の意向を受け吾妻衆の富沢豊後守、狩野右馬之助、折田軍兵衛らとともに八幡山城の番役と普請役を務めた。

狩野右馬之助【かりのうまのすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1588年、真田昌幸の意向を受け吾妻衆の富沢豊後守、狩野志摩守、折田軍兵衛らとともに八幡山城の番役と普請役を務めた。

川合杢十郎【かわいもくじゅうろう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の後備を務めた。

河原隆正【かわはらたかまさ(1509~1578)】
 
海野棟綱家臣。河原隆久の男。官途は丹波守。1541年、「海野平の戦い」で海野棟綱が武田信虎、村上義清勢に敗れると海野棟綱に従って山内上杉憲政のもとに落延びた。その後、武田晴信勢に属した真田幸隆に仕えた。

河原正良【かわはらまさよし(15??~1575)】

河原隆正の男。通称宮内助。1575年、「長篠の戦い」で織田信長、松平元康勢と戦い真田信綱らとともに討死した。

河原新十郎【かわはらしんじゅうろう(15??~1575)】

河原隆正の次男。1575年、「長篠の戦い」で織田信長、松平元康勢と戦い兄真田信綱らとともに討死した。

河原綱家【かわはらつないえ(15??~1634)】

河原隆正の三男。官途は右京亮。父河原隆正の妹が真田幸隆に嫁ぎ、真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信尹らをもうけた。1575年、「長篠の戦い」で兄河原宮内助が討死したため、河原家の家督を相続した。のちに真田昌幸の家老職を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成のもとにあった真田昌幸の内室を大坂城から救出した。

木内甚五左衛門【きうちじんござえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の殿を務めた。

北沢勘解由【きたざわかげゆ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1584年、真田昌幸から、吉原五兵衛分30貫、上田七兵衛分15貫、鍋蓋右近分5貫の所領安堵を受けた。

北沢清兵衛【きたざわせいべい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。真田昌幸から海野の所領を安堵された。1594年、戸隠山代官職に任じられ、戸隠神社の建立した。

木村綱茂【きむらつなしげ(1554~1631)】

真田昌幸家臣。官途は土佐守。通称戸右衛門。上田衆として17騎を率いた。1569年、今川氏真が滅亡すると真田信綱に仕えた。1575年、「長篠の戦い」で真田信綱が討死すると、真田昌幸に仕えた。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸の馬廻衆を務めた。真田信之の沼田城主に任じられると、真田信之に仕えた。1585年、「第一次上田城の戦い」では、敗走する松平元康勢への追撃を禰津長右衛門とともに進言した。1614年、「大坂冬の陣」後、江戸家老職を務めた。真田家取り潰しを図る松平秀忠の意向を受けた土井利勝から真田信之と真田信繁の会見について詰問を受けた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

窪田善三郎【くぼたぜんざぶろう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、真田昌幸から長瀬20貫、上条10貫の所領を安堵された。

窪田角右衛門【くぼたかくえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。1611年、真田昌幸が病没すると、真田信之に仕えた。

鞍掛八郎【くらかけはちろう(15??~1600)】

真田昌幸家臣。忍び衆のひとり。1600年、「関ヶ原の戦い」では、壺谷又五郎指揮のもと、松平元康本陣の襲撃に参陣した。壺谷又五郎を援護し討死した。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

高月備中守【こうづきびっちゅうのかみ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。家老職を務めた。1600年、「第二次上田城の戦い」で真田昌幸は中山道を進撃する松平秀忠勢を上田城に誘い込んでこれを撃破した。この戦いで戦功を挙げた。

河野清右衛門【こうのせいえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。

五瀬の太郎次【ごぜのたろうじ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。忍び衆のひとり。於江の父馬杉市蔵に仕え、忍び宿を守りや取次役を務めた。旅僧、商人、絵師など、変装が巧みで、10種類以上の声を使いわけられた。尾行を得意とし、体つきから雰囲気からまったく違う人物になりおおせてしまう。戦忍びには出ないし、その力もない。市蔵に心酔しており、市蔵が甲賀の引き上げ命令に背いて武田晴信のもとに残る決意をしたときに、すぐに同意し、ともに武田晴信に属した。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

権左【ごんざ(15??~15??)】

壷谷又五郎家臣。忍び衆のひとり。壷谷又五郎の意向を受け、京の都から二里ほど離れた下久我の百姓として住みつき、下久我の忍び宿を守った。上方の情報を壷谷又五郎に取次ぐ役目を果した。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

小助【こすけ(1549~15??)】

壷谷又五郎家臣。忍び衆のひとり。地蔵峠の忍び小屋を守った。草の者の中では、足は遅い。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

小竹万蔵【こたけまんぞう(15??~1600)】

壷谷又五郎家臣。忍び衆のひとり。1600年、「関ヶ原の役」では、壷谷又五郎から真田昌幸のもとに遣わされ、大谷吉継が石田三成勢に属したことを伝えた。真田昌幸とともに犬伏から上田城に戻った。「関ヶ原の戦い」では、奥村弥五兵衛に属して松平元康を奇襲を行ったが討死した。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

近藤無手之助【こんどうむてのすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、真田昌幸に従い石田三成勢に属した。役後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。

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【さ】

坂本与三左衛門尉【さかもとよさんざえもんのじょう(15??~15??)】

矢沢頼綱家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

佐藤豊後守【さとうぶんごのかみ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸の馬廻衆を務めた。

佐藤備後守【さとうびんごのかみ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、矢野半左衛門尉、赤沢常陸助、佐藤豊後守、佐藤備後守、三橋甚太郎らととも真田昌幸の馬廻衆を務めた。 
            
佐藤備中守【さとうびっちゅうのかみ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸の武者奉行及び足軽大将を務めた。

佐藤軍兵衛【さとうぐんべい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1589年、「小田原の役」では、真田昌幸に従って北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。

真田幸隆【さなだゆきたか(1513~1574)】

小県郡真田館主。海野棟綱の男。官途は弾正忠。室は河原隆正の妹(恭雲院)。1541年、父海野棟綱は、村上義清、諏訪頼重、武田信虎らの攻撃を受けて箕輪城主長野業正を頼って落延びた。1543年、武田晴信に仕えた。1548年、「第一次上田原の戦い」では、武田晴信勢に属したが村上義清勢に大敗した。1550年、「戸石城の戦い」でも大敗した。武田晴信は戸石城攻略を含む北信計略を真田幸隆に委ねた。1551年、真田幸隆は戸石城を調略によって攻略した。1561年、「第四次川中島戦い」に参陣した。上野国、信濃国で数多くの戦功を挙げ、武田晴信勢力の拡大に貢献した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

真田信綱【さなだのぶつな(1537~1575)】

真田幸隆の男。通称源太左衛門。室は高梨政頼の女(於北)。武田二十四将にも数えられる勇将。1561年、「第四次川中島の戦い」では、武田晴信の本陣を離れなかったのは土屋昌次と真田信綱だけだった。1573年、「三方ヶ原の戦い」でHじゃ、武田晴信勢の先陣を務め、松平元康勢を撃破する戦功を挙げた。1574年、父真田幸隆の病没により真田家の家督を相続した。1575年、「長篠の戦い」では、織田信長、松平元康勢に突撃したが討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

真田昌輝【さなだまさてる(1543~1575)】

真田幸隆の次男。官途は兵部少輔。通称徳次郎。室は相木昌朝の娘。上野国沼田城の守備に当たった。1568年、「駿河国侵攻」で戦功を挙げた。1569年、「三増峠の戦い」でも戦功を挙げた。兄真田信綱とともに武田勝頼勢の一翼を担った。1575年、「長篠の戦い」では、織田信長勢の佐久間信盛隊を強襲したが馬防柵に阻まれて苦戦し、銃撃を受け討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

真田昌幸【さなだまさゆき(1547~1611)】

真田幸隆の三男。官途は安房守。別名武藤喜兵衛。室は菊亭晴季の娘(山手殿)。1561年、「第四次川中島の戦い」に参陣した。1575年、「長篠の戦い」で兄真田信綱、真田昌輝が討死したため、真田家の家督を相続した。1580年、「上州攻略」の先陣を務め、名胡桃城、小川城などを諸城を攻略した。1580年、利根郡沼田城を攻落として信濃国小県郡と上野国吾妻郡を領した。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると、滝川一益に属した。1582年、「神流川の戦い」で滝川一益勢が北条氏直勢に大敗すると、北条氏直勢に属した。松平元康が信濃国を領すると、松平元康勢に属した。松平元康と北条氏直が和議を結ぶと、真田家領の沼田城が北条氏直に引き渡す取決めがなされ、それを不服とし松平元康勢から離脱、次男真田信繁を長尾景勝に人質に出して和議を結び松平元康、北条氏直に対抗した。1585年、「第一次上田城の戦い」では、松平元康勢8,000余りを撃退した。松平元康と羽柴秀吉が和議を結ぶと、真田昌幸は再び松平元康に属した。1589年、「小田原の役」では、前田利家勢に属して戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では、継嗣の真田信之が松平元康に属して、真田昌幸と真田信繁は石田三成勢に属した。「第二次上田城の戦い」では、松平秀忠勢38,000余りを釘付けにしたが、本戦に石田三成勢が大敗したため、高野九度山への配流となった。2016年、NHK大河ドラマ「真田丸」では草刈正雄が演じた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

真田信之【さなだのぶゆき(1566~1558)】

真田昌幸の男。官途は伊豆守。通称源三郎。室は本多忠勝の娘(於稲)。真田昌幸が長尾景勝に備えて砥石城に移った後は矢沢頼康とともに岩櫃城を守備した。「中棚砦の戦い」では、長尾景勝勢の支援を受けた羽尾源六郎を撃破した。1585年、「第一次上田城の戦い」では、砥石城を守り上田城に攻め寄せた松平元康勢を側面から攻撃する戦功を挙げた。真田昌幸が羽柴秀吉に属すること、弟真田信繁は羽柴秀吉のもとにゆき、真田信之は松平元康のもとに送られた。松平元康の養女として本多忠勝の娘を娶った。1589年、「小田原の役」にも参陣した。1593年、上野沼田城主に任じられた。1600年、「第二次上田城の戦い」では、松平秀忠に属してに参陣して、父真田昌幸勢と戦った。役後、本多忠勝らともに、真田昌幸、真田信繁の助命を嘆願を行った。信濃国上田城、上野国沼田城など95,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康の意向を受けて真田信繁の投降を促した。2016年、NHK大河ドラマ『真田丸』ではl大泉洋が演じた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

真田信繁【さなだのぶしげ(1567~1615)】

真田昌幸の次男。官途は左衛門佐。通称源次郎。別名真田幸村。室は大谷吉継の娘。1585年、「第一次上田城の戦い」では、松平元康勢に対抗するため、人質として長尾景勝のもとに送られた。1587年、真田昌幸が羽柴秀吉に属すると、人質として大坂城に送られた。1600年、「関ヶ原の役」では、父真田昌幸とともに松平秀忠勢30,000余りを上田城に誘い込み、これを撃破した。役後、真田昌幸とともに助命され、紀伊九度山に配流となった。1614年、「大坂冬の陣」では、真田丸を築き、松平元康勢の前田利常、井伊直孝らを誘い込み撃破する戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」では、野戦における勝利を目指したが、後藤基次が討死すると敗色が濃厚になり、松平元康の頸を狙って猛進撃を行なった。松平元康の馬廻衆も敗走させるほどであったが、追撃及ばず西尾仁左衛門に討取られた。2016年、NHK大河ドラマ『真田丸』では、堺雅人が演じた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

真田昌親【さなだまさちか(1583~1632)】

真田昌幸の三男。通称内匠。別名真田信親。1600年、「関ヶ原の役」の際、兄真田信之に属した。

真田信勝【さなだのぶかつ(15??~1609)】

真田昌幸の四男。官途は左馬助。室は牧野康成の娘。馬廻衆として松平元康に仕えた。1609年、戸田勝興と忍傷沙汰を起こして逐電した。

真田信吉【さなだのぶよし(1597~1634)】

真田信之の男。官途は河内守。通称孫六郎。室は酒井忠世の娘。1614年、「大坂冬の陣」では、弟真田信政とともに父真田信之の陣代として参陣した。1622年、父真田信之が松代城に入ると沼田城30,000石を領した。1634年、病没すると、継嗣の真田熊千代が幼少であったので家政は真田信政が預かった。1638年、真田熊千代が早世すると真田信政が沼田城の家督を相続した。

真田信政【さなだのぶまさ(1597~1658)】

真田信之の次男。官途は内記。室は稲垣重綱の娘。人質として松平元康のもとにあった。1603年、松代城10,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、父真田信之の陣代として兄真田信吉とともに参陣した。1638年、甥の真田熊之助が病没したため、真田熊之助の跡を継いで沼田城主となった。検地を実行し、新田開墾を行った。1656年、父真田信之から真田家の家督と松代城を相続した。

真田信重【さなだのぶしげ(1599~1648)】

真田信之の三男。官途は隼人正。室は鳥居忠政の娘。1622年、父真田信之が松代城100,000石に転封になると7,000石を領した。1638年、真田熊千代が病没したため、次兄真田信政が沼田城を相続した。その領地10,000石は真田信重が相続した。

真田信興【さなだのぶおき(15??~15??)】

真田信綱の男。

真田信光【さなだのぶみつ(15??~15??)】

真田信綱の次男。

真田信正【さなだのぶまさ(1571~1632)】

真田昌輝の男。別名真田幸明。1582年、「武田家征伐」で武田勝頼が滅亡すると、松平忠輝、松平忠昌、本多忠国に仕えた。

真田幸昌【さなだゆきまさ(1602~1615)】

真田信繁の男。通称大介。1614年、「大坂冬の陣」では、父真田信繁とともに参陣して敵将を討取る戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」では、真田信繁の意向を受け、羽柴秀頼を護衛役を務めた。大坂城が落城すると、速水守久から落延びることを勧められるが、羽柴秀頼に殉じて自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

真田守信【さなだもりのぶ(1612~1670)】

真田信繁の次男。通称四郎兵衛。別名片倉守信。1615年、「大坂夏の陣」で父真田信繁と兄真田幸昌が討死すると西村孫之進と我妻佐渡守に守られて、片倉重長のもとに落延びた。伊達忠宗に仕え江戸御番組馬上役を務め1,000石を領した。

真田幸信【さなだゆきのぶ(1615~1667)】

真田信繁の三男。別名三好幸信。1615年、「大坂夏の陣」で父真田信繁が討死後、うまれた。羽後国亀田城主岩城宣隆に仕え380石を領した。
 
真田之親【さなだゆきちか(16??~16??)】

真田信繁の四男。通称権左衛門。別名石田之親。1615年、「大坂夏の陣」で父真田信繁が討死後、細川国弘に養育された。娘は細川国弘の孫義国の嫁ぎ、婿養子として細川家の家督を相続した。

真田宥清【さなだゆうせい(16??~16??)】

真田信繁の五男。通称源次郎。羽黒山に落延びた。伯父真田清鏡の家督を相続した。

真田信尹【さなだのぶただ(1547~1632)】

真田幸隆の四男(加津野昌世の養子)。官途は隠岐守。通称市右衛門。別名加津野昌春。室は馬場信春の娘(馬場殿)。真田昌幸とともに人質として武田晴信のもとにあった。加津野昌から家督を相続して槍奉行職を務め、騎馬15、足軽10余りを率いた。1569年、武田晴信が北条氏政勢を攻撃した際、深沢城の北条綱成の「地黄八幡」の旗を奪う戦功を挙げた。1571年、「駿河深沢城の戦い」では、武田晴信に従い北条綱成勢と戦い戦功を挙げた。1581年、謀反の疑いがあった海野幸光を討取り海野輝幸を自刃に追い込んだ。った。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると北条氏直勢に属した。1584年、松平元康に仕え5,000石を領した。一旦松平元康のもとを離れるが再び仕えた。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。1614年、「大坂冬の陣」で戦功を挙げ5,200石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

真田幸政【さなだゆきまさ(15??~1653)】

真田信尹の男。通称長兵衛。室は真田昌幸の娘(次女)。父真田信尹とともに松平元康に仕えた。1631年、使番に任じられた。1632年、父真田信尹が病没すると、真田家の家督と3,000石を相続した。岡山城から鳥取城に転封された池田光仲のもとに赴き、目付役を務めた。1652年、鉄砲頭に任じられた。

真田信勝【さなだのぶかつ(15??~16??)】

真田信尹の次男。1632年、父真田信尹が病没すると、兄真田幸政から1,000石の分与された。

真田幸信【さなだゆきのぶ(15??~1656)】

真田幸政の男。通称左兵衛。室は保々貞広の娘。1633年、小姓組の番士を務めた。1653年、父真田幸政が病没したため、真田家の家督と2,500石を領した。

真田幸吉【さなだゆきよし(15??~16??)】

真田幸政の次男。1653年、父真田幸政が病没したため、兄真田幸信から500石を分与された。

真田信春【さなだのぶはる(15??~15??)】

真田幸隆の五男。官途は宮内介。別名金井高勝。信濃小県郡丸子村の御嶽堂に居住した。

真田清鏡【さなだきよあき(1541~1599)】

真田幸隆の六男。官途は式部大輔。1541年、武田信虎に追われた真田幸隆は、海野幸全のもとに落延びた。海野幸全の娘とのあいだに真田清鏡をもうけた。羽黒山の修験者となり、醍醐坊を開いた。1589年、「九戸実政の乱」では、南部利直に属して戦功を挙げた。その恩賞として、南部利直から霞廻りの際に名主の家に宿泊出来る特権を得た。後に南部利直と諍いを起こして自刃した。

真田村松殿【さなだむらまつどの(15??~156?)】

小山田茂誠の室。真田昌幸の娘(長女)。1582年、「武田家討伐」で小山田信茂が滅亡すると、小山田茂誠は真田昌幸に仕えた。2016年、NHK大河ドラマ『真田丸』では、木村★が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

真田まん【さなだまん(15??~15??)】

真田信幸の娘。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、土方優美が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

真田於菊【さなだおきく(15??~15??)】

石合重定の室。真田信繁の娘(長女)。祖父堀田興重によって養育された。1614年、「大坂夏の陣」で父堀田興重が討死した。

真田於市【さなだおいち(15??~15??)】

真田信繁の娘(次女)。紀州九度山で病没した。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、濱村砂里が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

真田於梅【さなだおうめ(15??~15??)】

片倉重綱の後室。真田信繁の娘(三女)。母は高梨内記の娘。別名「泰陽院」。1614年、「大坂冬の陣」で父真田信繁に従って大坂城に入城した。1615年、「道明寺口の戦い」では、伊達政宗の家臣片倉重綱は父真田信繁勢と戦い戦功を挙げた。大坂城落城の際、城中から白綾の鉢巻に白柄の長刀を杖にした真田於梅を捕縛して侍女とした。後に片倉重綱の後室として、片倉景長の養母として片倉家を盛り立てた。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、糸日谷朗子が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

真田あぐり【さなだあぐり(15??~15??)】

蒲生郷喜の室。真田信繁の娘(四女)。1615年、「大坂夏の陣」で大坂城の落城後、滝川一積の養女となった。その後、蒲生忠郷の家臣蒲生郷喜の内室となった。後年、この婚姻が敵の娘をかってに嫁がせたという理由で、蒲生忠知家の内紛の一因となり、滝川一積は改易の処分を受けた。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、川島光代が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

真田御田姫【さなだおたひめ(15??~16??)】

岩城宜隆の室。真田信繁の娘(五女)。母は三好秀次の娘。1615年、「大坂夏の陣」では、落城前に京都に住む羽柴秀吉の姉瑞龍院日秀尼(羽柴秀次の母)の許へ落延びた。日秀尼は三好法印一露の室で。真田御田姫は成人して岩城宜隆に嫁いだ。御田姫は岩城重隆をもうけた。

真田於菖蒲【さなだおしょうぶ(15??~15??)】

伊達政宗の家臣田村定広の室。真田信繁の娘(六女)。九度山で生まれた。姉で片倉重綱の後室の於梅に引き取られ、伊達政宗の家臣田村定広に嫁いだ。

真田おかね【さなだあかね(15??~15??)】

石川貞清の室。真田信繁の娘(七女)。紀州九度山でうまれた。1600年、「関ヶ原の役」で所領を失った。石川貞清に嫁いだ。石川宗休は京都大珠院に真田信繁の墓を建てた。

真田於菊【さなだおきく(15??~16??)】

滝川一積の室。真田昌幸の娘。別名於妙。名胡桃城で生まれた。1589年、「名胡桃城の戦い」で母の於徳を失った。上田城に引き取られ、山手殿に養育された。於徳ゆずりの豊かな体つきで、ふっくりと愛らしい面立ち。石田三成の義弟宇多頼重と婚約した。1600年、「関ヶ原の役」で宇多頼重は討死した。松平元康勢の包囲する上田城から滝川一積とともに落延びその内室となった。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、岡田有希子が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

真田勘解由【さなだかげゆ(15??~15??)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属して参陣して松平元康勢と戦った。
 
真田権太夫【さなだごんだいふ(15??~15??)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属して参陣して松平元康勢と戦った。

塩入弥兵衛【しおりよへい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1585年、真田昌幸から松本7貫、境8貫の所領を安堵された。

塩入甚三【しおいりじんぞう(15??~15??)】

矢沢頼綱家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

塩田信兵衛【しおだにんべい(15??~15??)】

真田幸隆家臣。

塩野井善八【しおのいぜんぱち(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の馬廻衆を務めた。

塩野井又市郎【しおのいまたいちろう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の後備を務めた。

塩原源太左衛門【(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の後備を務めた。1581年、上州諏訪の木城を守備した。
 
志賀清吉【しがきよよし(15??~15??)】

真田昌幸家臣。通称又兵衛。別名志賀清義。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の馬廻衆を務めた。

芝生田石見守【しばたいわみのかみ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。

清水三郎兵衛【しみずさぶろうびょうえ(15??~15??)】

真田幸隆家臣。

下沼田道虎【しもぬまたみちとら(1530~1590)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、羽尾輝幸とともに沼田城留守居役を務めた。

下沼田泰則【しもぬまたやすのり(1550~1620)】

真田昌幸家臣。官途は豊前守。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の前備を務めた。

白河十左衛門尉【しらかわじゅうざえもんのじょう(15??~15??)】

矢沢頼綱家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

白倉武兵衛【しろくらたけべい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の馬廻衆を務めた。 

神保佐左衛門【じんぼさざえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の使番及び足軽大将を務めた。 
 
関口角左衛門【せきぐちすみざえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。代官職を務めた。1585年、真田昌幸の意向を受け、農民からの年貢減免の処置を行った。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。

関口忠右衛門【せきぐちちゅうえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。

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【た】

高石孫助【たかいしまごすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。

高槻備中守【たかつきびっちゅのかみ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1586年、真田昌幸の意向を受け願行寺の住職を招聘した。

高梨内記【たかなしないき(1550~1615)】

真田昌幸家臣。官途は主膳。別名高階主膳。真田信繁の内室(妻きり)の父。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。1611年、真田昌幸が病没すると、多くの家臣は真田信之のもとに戻ったが柳生清安、三井豊前守、高梨内記は引き続き真田信繁に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」で真田信繁に従って参陣したが討死した。2016年、NHK大河ドラマ「真田丸」では中原丈雄が演じた。

高梨きり【たかなしきり(15??~15??)】

真田信繁の室。高梨内記の娘。2016年、NHK大河ドラマ「真田丸」では長澤まさみが演じた。

高梨兵庫助【たかなしひょうごうのすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸の馬廻衆を務めた。 

高野但馬守【たかのたじまのかみ(15??~15??)】  

真田昌幸家臣。通称九太郎。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸の馬廻衆を務めた。 
        
高野九太夫【たかのくろうだいふ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。通称九太郎。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸の馬廻衆を務めた。

高野彦三郎【たかのひこさぶろう(15??~15??)】

真田信之家臣。1590年、真田信之から秋塚23貫の所領を安堵された。

高橋右馬允【たかはしうまのじょう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1584年、「白井城の戦い」では、北条氏邦勢の攻撃を受けたが戦功を挙げ恩賞として戸鹿野で5貫文の加増を受けた。「南雲の戦い」で討死したため、後家が1貫500文の加増を受けた。

高橋右近【たかはしさこん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の後備を務めた。

高橋右馬允【たかはしさまのじょう(15??~1584)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の後備を務めた。1584年、「白井城の戦い」で北条氏邦勢の攻撃を撃退する戦功を挙げ5貫文の加増を受けた。「南雲の戦い」で討死したため、1貫500文を高橋右馬允の後家に与えた。

高橋圭介【たかはしけいすけ(15??~15??)】
            
真田昌幸家臣。

高森藤兵衛【たかもりとうべい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1582年、「中棚砦の戦い」では、長尾景勝の支援を受けた羽尾幸全が中棚砦を攻撃すると、真田信之は高森藤兵衛に200余りを率いさせ丸岩城を攻撃させ羽尾幸全勢を混乱させ中棚砦救出に成功し、岩櫃城に戻った。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、竹田寿郎が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

滝川茂兵衛【たきがわもへい(15??~15??)】

真田信之家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、真田信之に従って沼田城を守備した。

滝川平太夫【たきがわへいだいふ(15??~15??)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属して参陣して松平元康勢と戦った。

拓殖内蔵之介【たくしょくくらのすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。

田口久左衛門【たぐちきゅうざえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。1611年、真田昌幸が病没すると、真田信之に仕えた。

武石民部亮【たけいしみんぶのじょう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。

竹鼻六右衛門尉【たけはなろくえもん(15??~1585)】

矢沢頼綱家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

田所庄右衛門【たどころじょうえもん(15??~15??)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って大坂城に入城した。

種子島丹後守【たねがしまたんごのかみ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。通称丹三郎。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸に従って参陣した。
 
田村左次右衛門【たむらさじうえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。

田村平介【たむらへいすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。通称角内。猿ヶ京在城衆のひとり。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の殿を務めた。

田村三輪【たむらみわ(15??~15??)】

田村元治の娘。樋口角兵衛の許婚。何度か樋口角兵衛と逢引を重ねたが、帰参後樋口角兵衛から冷たい態度を取られた。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、堀江しのぶが演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

塚本舎人助【つかもととねりすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。官途は肥前守。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の馬廻衆を務めた。1586年、知行宛行いで、武石10貫、岩村田40貫を領した。

津久井刑部左衛門【つくいぎょうぶざえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の脇備を務めた。

辻太郎作【つじたろうさく(15??~15??)】

真田昌幸家臣。馬廻衆で使番物見を努めた。

壺谷又五郎【つぼやまたごろう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。伊那忍び衆。1580年、「上州攻略」で真田昌幸が武田勝頼から借り受けた忍衆の目頭。真田昌幸が沼田城を攻略した際に、褒美として武田勝頼から「甲斐国のどの領地が欲しいか」と問われ、領地ではなく人をひとり欲しいと願い出て譲り受けた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康の頸を狙い、真田家忍び衆を率い松平元康の本陣に突入したが、甲賀忍びの山中長俊に看破され相討ちとなった。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

土居右近【どいうこん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。

塔原幸貞【とうばらゆきさだ(15??~1583)】

海野輝幸の四男。室は矢沢頼綱の娘。真田昌幸の意向を受け塔原家の家督を相続した。1583年、小笠原貞慶と戦い討死した。

東坂式部【とうばんしきぶ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。

常田隆永【ときたたかなが(15??~1570)】

海野棟綱の三男。箱岩城代として兄真田幸隆を助けて上野国各地を転戦した。1563年、「長野原城の戦い」で斎藤憲広勢の攻撃を受けて、継嗣の常田俊綱が討死するなど苦戦したが無事城を守り切った。

常田俊綱【ときたとしつな(15??~1563)】

常田隆永の男。1562年、上野長野原城を守備した。1563年、「長野原城の戦い」で斎藤憲広勢の攻撃を受け討死した。

徳島藤馬【とくしまとうま(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。

徳蔵院【とくくらいん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸の馬廻衆を務めた。 

徳島藤馬【とくしまとうま(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。 

利光久兵衛【としみつひさへえい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。

戸田半平【とだはんぺい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。馬廻衆で使番物見を努めた。真田家七本槍のひとり。

戸田左馬允【とだうまのじょう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の殿を務めた。 

戸田大膳【とだだいぜん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。

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【な】

長井主税【ながいしゅぜん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。別名長井権助。1583年、真田昌幸から武石15貫、本間右衛門分20貫の所領を安堵された。1584年、「白井城の戦い」では、北条氏邦勢の攻撃を受けたが戦功を挙げ恩賞として20貫文の加増を受けた。

中勝之助【なかかつのすけ(15??~15??)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って参陣した。

中沢越後守【なかざわえちごのかみ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。通称半右衛門。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の後備を務めた。

長野舎人【ながのとねり(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸の馬廻衆を務めた。 

中村式部【なかむらしきぶ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の殿を務めた。 

長沼又右衛門尉【ながぬままたえもんのじょう(15??~15??)】

矢沢頼綱家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

半井源之丞【なからいげんのじょう(15??~15??)】

矢沢頼綱家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

夏目兵庫守【なつめひょうごのかみ(15??~15??)】

真田幸隆家臣。 

生島紋太夫【なましまもんだいふ(15??~15??)】

真田幸隆家臣。真田幸隆のもとで寺社奉行衆を務めた。真田郷の白山神社、菩提所である長谷寺や信綱寺などに安堵状を発行した。真田幸隆の領国の拡大とともに所領化した地域でも安堵と諸役免除などの保護を与えた。

南条弥左衛門尉【なんじょうよざえもんのじょう(15??~15??)】

矢沢頼綱家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

新木肥前守【にいきひごのかみ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1586年、真田昌幸の意向を受け、願行寺移転後の住職招聘を行った。

西丸市之丞【にしのまるいちのじょう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の先陣を務めた。 

二宮勘解由【にのみやかげゆ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸の使番及び足軽大将を務めた。 

丹生弥二郎【にゅうよじろう(15??~15??)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属して参陣して松平元康勢と戦った。

布下弥四郎【ぬのしたよしろう(15??~15??)】

真田幸隆家臣。1553年、「苅屋原城の戦い」では、真田昌幸に従って参陣した。1585年、北条氏邦勢の攻撃を受けると、荒川内匠らとともに北条氏邦勢を混乱に陥れた。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。 

沼田小新【ぬまたこしん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

沼田久助【ぬまたひさすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。

沼田清次郎【ぬまたせいじろう(15??~15??)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属して参陣して松平元康勢と戦った。

禰津長右衛門【ねづちょうえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、上田城本丸で真田昌幸の碁の相手を務めた。敗走する松平元康勢の追撃を木村土佐守とともに進言した。

野口二郎左衛門【のぐちじろうざえもん(1553~1612)】

真田幸隆家臣。

野呂兵庫【のろひょうご(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、真田信之に従って羽柴秀吉勢に属して参陣した。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。参考文献 :『真田三代記』by柳水亭種清。

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【は】

箱山国正【はこやまくにまさ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。

馬場惣市【ばばそういち(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、真田昌幸に従い参陣した。

馬場主水【ばばもんど(15??~15??)】

真田信之家臣。父親の代から真田昌幸に仕える譜代の家臣であったが、実は山中の隠れ忍びであった。1614年、「大坂冬の陣」後、検分中に事故で負傷した。その後に領民の娘を辱めようとして於江の捕縛された領民に突き出された。罪を受けで牢に入れられが脱走を図り、「真田信之は反逆の意志があり真田信繁と内通していた」と幕府に訴え出た。評定場で木村綱茂と対決するが論破され、最後は真田昌之の家臣小川好安に討取られた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

早川平左衛門【はやかわへいざえもん(15??~1615)】

真田昌幸家臣。1615年、「大坂夏の陣」では、真田信繁に従って参陣したが討死した。

林太郎左衛門【はやしたろうざえもん(1543~1582)】

真田幸隆家臣。足軽頭を務めた。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の後備を務めた。

林寛高【はやしひろたか(1563~1615)】

林太郎左衛門の男。官途は弾左衛門。通称源次郎。

林勘左衛門尉【はやしかんざえもんのじょう(1548~1605)】

矢沢頼綱家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

原沢大蔵【はらさわおおくら(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の後備を務めた。

原田清種【はらだきよたね(1489~1547)】

真田幸隆家臣。通称十郎左衛門。1547年、「第一次上田原の戦い」で村上義清勢と戦い討死した。

原田氏清【はらだうじきよ(15??~15??)】

原田清種の男。通称雄左衛門。

原出羽【はらでわ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。

春田伝助【はるたでんすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。
             
春田専之助【はるたせんのすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸と真田信繁が紀州九度山に従った。

樋口角兵衛【ひぐちかくべい(15??~15??)】

樋口鑑久の男。母は久野(真田昌幸の室山手殿の妹)。甲斐国府中に滞在していた時、向かってくる暴れ馬にのしかかって押さえつけたという逸話を持つ。武勇すぐれ、怪力無双の巨漢。1582年、「武田家討伐」で父樋口鑑久が武田勝頼とともに自刃したため、母久野とともに真田昌幸のもとで暮らした。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

久屋藤五郎【ひさやとうごろう(15??~15??)】

矢沢頼綱家臣。1582年、「沼田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って北条氏直勢と戦った。

久屋左馬允【ひさやさまのじょう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1582年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の後備を務めた。

久屋三河守【ひさやみかわのかみ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の先陣を務めた。

平賀右衛門【ひらがうえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸の馬廻衆を務めた。 

平野八郎右衛門尉【ひらのはちろううえもん(15??~15??)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁勢に従って参陣した。

広田岡右衛門【ひろたおかうざえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。
               
広田大夫【ひろただいふ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。

深井棟広【ふかいよりひろ(15??~15??)】

真田幸隆家臣。 

深井三弥【ふかいさんよ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸の馬廻衆を務めた。

深江庄兵衛【ふかえしょうざえもん(15??~15??)】

真田信之家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、真田信之に従って滝川茂兵衛らとともに沼田城留守居役を務めた。

深津二郎兵衛【ふかつじろうべい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。川田城代を務めた。

福島肥後守【ふくしまひごのかみ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。
          
福岡平三郎【ふくおかへいざぶろう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。譜代衆。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って真田丸に籠城した。1615年、「大坂夏の陣」で討死した。

福田美作守【ふくだみさくのかみ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。
           
藤井喜右衛門【ふじいきちえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。
               
藤井甚左衛門【ふじいじんざえもん(15??~15??)】

真田信之家臣。1590年、真田信之から沼須54石の所領を安堵された。

伏屋太平【ふせやたへい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。真田昌幸に仕えた忍衆のひとり。1599年、備前島の中洲でともに暮らし、情報収集に携わった。佐和山城の島左近へ、大谷吉継の書状を届けに走ったり、向井佐助と組んで、尾行者をまく一芝居をうったことも。1600年、「関ヶ原の役」では、奥村弥五兵衛に属して松平元康を襲ったが失敗に終わった。この戦い、多くは討死したが伏屋太平は無事に落延びた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

別木勝蔵【べつぎかつぞう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1582年、「沼田城の戦い」で北条氏邦勢と戦い戦功を挙げた。

別所八郎太【べっしょたろうた(15??~15??)】

真田幸隆家臣。
           
別府若狭守【べっしょわかさのかみ(15??~15??)】

真田昌幸の家臣。1582年、「天正壬午の乱」では、加沢与七郎とともに室賀正武勢を内応させる功を上げた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、羽柴秀吉に属した真田昌幸勢の加勢として参陣した。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸と真田信繁とともに紀州九度山に従った。

別府虎之助【べっしょとらのすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸と真田信繁とともに紀州九度山に従った。

穂入登之助【ほいりとのすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、真田昌幸に従って参陣した。

穂入愛之助【ほいりあいのすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸と真田信繁とともに紀州九度山に従った。

星田勘平【ほしだかんぺい(15??~15??)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属して参陣して松平元康勢と戦った。

堀田興重【ほったおきしげ(15??~1615)】

堀田作兵衛の男。通称五兵衛。1584年、娘が真田信繁の側室となり、阿菊姫を生んだ。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属した。1615年、「大坂夏の陣」で討死した。

堀田作兵衛【ほったさくべい(1560~1615)】

堀田五兵衛の男。
 
堀田源内【ほったげんない(15??~15??)】

堀田興重の次男。通称又兵衛。1614年、「大坂冬の陣」の前に信濃国小県郡内村に送られた。

発知三河守【ほっちみかわのかみ(15??~15??)】

矢沢頼綱家臣。1585年、「沼田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って北条氏邦勢と戦った。

本郷左近【ほんごうさこん(15??~1615)】

真田昌幸家臣。1615年、「大坂夏の陣」では、真田信繁に従って参陣したが、討死した。

本多於稲【ほんだおいね(15??~15??)】

真田信之の室。本多忠勝の娘(松平元康の養女)。別名小松殿。松平元康の意向を受けて真田信之に嫁ぎ、賢夫人として真田信之を支え、松平元康と真田信之の橋渡し役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」で夫真田信之と義父真田昌幸が敵味方に分かれると、「孫の顔が見たい」と沼田城を訪れた真田昌幸の入城を拒んだ。役後、紀州九度山に赴いた真田昌幸には向井佐平次の名で衣類などを届けた。その後は、人質として江戸に留め置かれた。16??年、病のため上田城に戻る途中武州鴻之巣で病没した。真田信之には家臣と領民を忘れぬようにと語り亡くなった。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、紺野美沙子が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

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【ま】

前島作左衛門【まえじまさくざえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸と真田信繁とともに紀州九度山に従った。

間嶋杢【ましまもく(15??~15??)】

真田昌幸家臣。             

増尾新蔵【ますおしんぞう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。15??年、「苅屋原城の戦い」で太田弥助家臣の中根宇右衛門を討取る戦功を挙げた。

馬杉市蔵【ますぎいちぞう(15??~15??)】

山中俊房家臣。山中忍びのひとり。山中俊房の意向を受け武田晴信のもとに派遣されていたが、山中俊房の引き上げ命令に従わず武田晴信のために忍び働きを続けた。そのため、甲賀の裏切り者として、山中忍びから命を狙われ続けた。武田忍びの壺谷又五郎の縁者である娘と夫婦になり、於江をもうけた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

馬杉於江【ますぎおこう(15??~15??)】

馬杉市蔵の娘。真田家の草の者。稀有の体力と腕力、智謀を有する女忍び。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡から、真田信之がの上田城から松代城に転封まで長きに渡って真田家に仕えた。真田昌幸に忠節を誓い、その後は、真田信繁のもとで忍び働きを行った。1582年、「信濃高遠城の戦い」では、壺谷又五郎の意向を受け織田信忠勢に包囲された高遠城から向井佐平次を助け出した。1584年、虚空蔵山中で樋口角兵衛に襲われた真田信繁を救い、別所の湯で治療を行った。1589年、「名胡桃城の戦い」では、住吉慶春から羽柴秀吉の陰謀を知り、真田昌幸に伝えた。山中大和守屋敷へ向かう山中内匠をつけて甲賀に潜入するが負傷し窮地に陥ったところを田子庄左衛門に助けられ壺谷又五郎の助けを受け難を逃れた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康の輿を長良川で襲撃するが失敗した。馬場彦四郎に別所の湯で襲われるが反撃し、村娘を犯そうとした馬場彦四郎を捕縛した。その後、真田信之にために忍び働きを行った。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、遥くららが演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

増田九郎【ますだくろう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、真田昌幸の援軍として羽柴秀吉勢に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

増田荒次郎【ますだあらじろう(15??~15??)】

増田九郎の弟。1583年、「賤ヶ岳の戦い」には、兄増田九郎とともに真田昌幸の援軍として羽柴秀吉勢に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

増田虎之助【ますだとらのすけ(15??~15??)】

増田九郎の男。1600年、「関ヶ原の役」では、父増田九郎とともに真田昌幸に従って参陣した。役後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

益田六太夫【ますだろくだいふ(15??~15??)】

真田大助家臣。

町田外記【まちだげき(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1582年、真田昌幸から海津10貫、東条50貫、間島20貫、福島100貫の所領安堵を受けた。
 
松浦七郎【まつうらしちろう(15??~15??)】

真田信繁家臣。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

松尾豊前守【まつおぶぜんのかみ(15??~15??)】

真田幸隆家臣。通称権之助。

松崎藤兵衛【まつざきとうべい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「第一次上田城の戦い」では、真田昌幸に従って参陣した。役後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。 

松沢彦次郎【まつざわひこじろう(15??~15??)】
 
矢沢頼綱家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

松沢平之丞【まつざわへいのじょう(15??~15??)】

矢沢頼綱家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

間鍋日向守【まなべ ひゅうがのかみ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸に従い参陣した。役後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。   

馬淵六郎太夫【まぶちろくろうだいふ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。足軽大将を努めた。

三井景国【みついかげくに(15??~16??)】

真田昌幸家臣。1600年、「第二次上田城の戦い」に参陣した。1600年、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。1611年、真田昌幸が病没後は真田信繁に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属した。1615年、「道明寺の戦い」で鉄砲足軽を率いて松平元康勢と戦い負傷した。

三井仁左衛門【みついじんざえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸と真田信繁とともに紀州九度山に従った。

三井豊前守【みついぶぜん(15??~15??)】
 
真田昌幸家臣。1615年、「大坂夏の陣」では、真田信繁に従って参陣した。高梨内記、青木半左衛門らとともに真田信繁の影武者となり、松平元康勢の本陣を目がけて突撃した。

三橋甚太郎【みはしじんたろう(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では真田昌幸の馬廻衆を務めた。

宮沢七郎兵衛【みやざわしちろうびょうえ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。
               
宮下喜内【みやしたぜんない(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸の旗奉行職を務めた。

宮下孫兵衛【みやしたまごべい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1582年、真田昌幸から後藤35貫、海野3貫、国分寺2貫の所領を安堵された。

宮下藤左衛門【みやしたとうざえもん(15??~15??)】

宮下孫兵衛の男。別名宮下藤右衛門。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の足軽組頭を務めた。後に真田信之の家老職を務めた。

宮下太兵衛【みやしたへい(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1585年、真田昌幸から松本7貫、境6貫の所領を安堵された。

宮塚才蔵【みやのつかさいぞう(1560~15??)】

真田昌幸家臣。於くにの兄。1585年、「第一次上田城の戦い」で戦忍びに出て重傷を負った。以後は角間の谷の草屋敷で、薬草の栽培や火薬の製造を担当した。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

宮塚くに【みやづかおくに(15??~15??)】

真田昌幸家臣。宮塚才蔵の妹。関東諸国を回りながら、情報を壺谷又五郎に届けた。白い肌に、濡れたような黒い瞳、すらりと背が高く、しなやかな体つきの、あかぬけた女性。向井佐助に女の体の手ほどきをした。1600年、「関ヶ原の役」では、草の者同士の繋ぎ役を務めた。以後、兄宮塚才蔵とともに、京の夜泣峠の忍び小屋を守った。1615年、「大坂夏の陣」で松平元康勢の忍び衆に捕縛された。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

三好清海【みよしせいかい(1569~1615)】

真田昌幸家臣。別名深谷新左衛門。真田十勇士のひとり。破戒僧で身長2m近い巨漢。猿飛佐助、霧隠才蔵に活躍した。1600年、「 関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。 

三好伊三【みよしいさ(1570~1615)】

真田昌幸家臣。三好清海の弟。通称総兵衛。別名深谷総兵衛。真田十勇士のひとり。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。1615年、「大坂夏の陣」では、落城時、兄と狂歌を詠じながら自刃した。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

三輪琴之助【みわことのすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、真田昌幸に従って参陣した。役後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。 

向井佐平次【むかいさへいじ(15??~1615)】

壺谷又五郎の男(向井の養子)。室は赤井喜六の娘。1582年、「高遠城の戦い」で壺谷又五郎の意向を受けた於江に助け出された。別所の湯で真田信繁に仕えた。立身も望まず、真田信繁の初陣してからその死まで従者として生涯を過ごした。継嗣の向井佐助は、草の者として修行することになった。1600年、「関ヶ原の役」後、真田信繁には従わず真田信之に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信
繁のもとに駆けつけた。1615年、「四天王寺の戦い」では、松平忠直勢を突破して真田信繁とともに安居天神で息絶えた。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、木之元亮が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

向井佐助【むかいさすけ(15??~1615)】

向井佐平次の男。真田信繁に仕えた忍び衆。真田昌幸から来国次が鍛えた銘刀を賜った。1600年、「関ヶ原の役」後、於江の意向を受け壺谷又五郎の最後の様子を真田昌幸に伝えた。九度山蟄居後は京、大坂、江戸の様子を真田昌幸、真田信繁に伝えた。1615年、「大坂夏の陣」では、後藤基次に真田信繁の密書を運ぶ途中、山中忍びの迫小四郎の追撃を受け迫小四郎を討取るが、後藤基次の出撃した後だった。真田信繁勢とともに戦うが、重症を負い百姓の徳之助にもよがかつて縫ってくれた小袖を届けてくれるよう頼み息絶えた。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、中村橋之助が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

向井はる【むかいはる(15??~15??)】

向井佐平次の娘。もよとともに小松殿に仕えた。1614年、向井佐平次の大坂への旅立ちの際には佐平次ともよのやりとりを聞き、涙を流した。1985年、NHK大河ドラマ『真田太平記』では、蝦名由紀子が演じた。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

目方兵馬【めかたへいま(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸に従い参陣した。役後、真田昌幸、真田信繁とともに紀州九度山に従った。 

望月幸忠【もちづきゆきただ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。通称六郎。別名望月卯左衛門。真田十勇士のひとり。1600年、「 関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁父子とともに紀州九度山に従った。1615年、「神崎川の戦い」では、真田大助を守り、松平元康勢を尼ヶ崎まで敗走させた。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

望月善太夫【もちづきぜんだいふ(15??~15??)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属して参陣して松平元康勢と戦った。

望月玄蕃【もちづきげんば(15??~15??)】

真田幸隆家臣。通称三郎兵衛。海野利一が捕縛した山本晴幸を岩尾城から国境まで送った。

望月太郎左衛門【もちづきたろうざえもん(15??~15??)】

真田信繁家臣。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

森川隼人【もりかわはやと(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属して参陣して松平元康勢と戦った。

森下又左衛門【もりしたまさざえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。箱崎城代。1541年、布施の地侍原沢大蔵が守将となり、森下又左衛門が城代を務めた。1580年、真田昌幸配下の沼田城代海野輝幸が宮野城を攻めた際に、攻城側に参戦していた。1585年、「第一次上田城の戦い」では、海野能登守、下沼田道虎入道、小草野新三郎、岡野平内左衛門、石黒又八らとともに沼田城留守居役を努めた。

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【や】

矢沢頼綱【やざわよりつな(1518~1594)】

真田幸隆家臣。海野棟綱の次男。官途は薩摩守。室は根井清雲の娘。若年の頃は京都鞍馬寺にあったが、武芸を好んだので追われた。武田晴信に従って北信濃国各地を転戦する兄真田幸隆を助けて活躍した。真田幸隆や後を継いだ甥の真田信綱に従った。1575年、「長篠の戦い」で真田信綱が討死すると、真田家を相続した真田昌幸に従って上野国岩櫃城代に任じられた。小那淵城、名胡桃城、小川城の諸城を攻略した。さらに沼田城代に任じれた。1586年、北条氏邦の侵攻を受けるが、長尾景勝勢の支援を得てこれを撃退した。1587年、真田信之が沼田城主になると上田城に戻った。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

矢沢頼康【やざわよりやす(1553~1620)】

矢沢頼綱の男。官途は但馬守。通称三十郎。父矢沢頼綱に従い各地を転戦した。1585年、真田信繁とともに長尾景勝のもとに人質として赴いた。1585年、「第一次上田城の戦い」では、長尾景勝からの支援を受け矢沢城から松平元康勢1,500余りを撃退した。追撃戦では大久保忠世らを壊滅させる戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、真田信之に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」では、真田信之の陣代として真田信政、真田信吉らを補佐した。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

矢沢頼邦【やざわよりくに(1557~1612)】

矢沢頼綱の次男。別名山田与惣兵衛。1575年、「長篠の戦い」に従軍した。 1580年、「上州攻略」に参陣して使番役及び足軽大将を務めた。1589年、「小田原の役」では、岩櫃城留守役を務めた。 1620年、兄矢沢頼康が病没したため、矢沢家の家督を相続した。

矢沢頼貞【やざわよりさだ(15??~15??)】

矢沢頼邦の男。通称八左衛門。家老衆を務め200石を領した。

矢島主殿助【やじましゅでんのすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1586年、岩村田で100貫を領した。

柳沢与兵衛【やなぎさわよへい(15??~16??)】
          
真田昌幸家臣。1605年、真田信之の意向を受け原街の町割を行った。

梁田新八【やなだしんぱち(15??~16??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」で、真田昌幸に従い参陣した。

矢野孫右衛門【やのまごえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」で真田昌幸に従い戦功を挙げた、

矢野半左衛門尉【やのはんざえもん(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の馬廻衆を務めた。

山岡軍平【やまおかぐんぺい(15??~16??)】

真田昌幸家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従って羽柴秀頼勢に属して参陣して松平元康勢と戦った。

山口式部【やまぐちしきぶ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の後備を務めた。 

山口掃部助【やまぐちかもんのすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1582年、玉泉寺で2貫を領した。

山越左内【やまごしさない(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、小荷駄奉行衆及び足軽大将を務めた。

山本角左衛門【やまもとかくざえもん(15??~15??)】

真田信繁家臣。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。

由利基幸【ゆりもとゆき(1573~1615)】

真田信繁家臣。通称鎌之助。別名由利春房。真田十勇士のひとり。鎖鎌の名手。真田昌幸の謀殺を図ったが真田信繁に捕縛されそれに仕えた。真田信繁のもとで戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」で松平元康勢と戦い討死した。参考文献:『真田三代記』by柳水亭種清。

横尾孫右衛門尉【よこおまござえもんのじょう(15??~16??)】

真田昌幸家臣。在所で内室を殺害したとして詮議を受けていたが、真田昌幸を頼って九度山に落延びた。

横谷惣左衛門【よこたにそうざえもん(15??~15??)】

真田幸隆家臣。

横谷幸重【よこやゆきしげ(15??~15??)】

横谷惣左衛門の男。通称左近。出浦盛清とともに吾妻忍び衆の棟梁を務め、雁ヶ沢城を守備した。真田昌幸が参加した戦のほぼ全てに従軍し、昌幸を補佐した。1580年、「上州攻略」では、馬廻衆を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、真田信之に従って松平元康勢に属した。1614年、「大坂冬の陣」に真田信之に従って松平元康勢に属して参陣した。

横谷幸秀【よこやゆきひで(15??~15??)】

横谷惣左衛門の次男。通称惣左衛門。1600年、「関ヶ原の役」では、真田昌幸に従い参陣した。

横谷重氏【よこやしげうじ(15??~1615)】

横谷惣左衛門の三男。通称庄八郎。別名横谷幸氏。1600年、「関ヶ原の役」では、真田昌幸に従って参陣した。 1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁に従い参陣したが討死した。

横谷掃部介【よこやかもんのすけ(15??~15??)】

横谷幸重家臣。1585年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の脇備を務めた。

横沢与七【よこざわよしち(15??~15??)】

真田昌幸家臣。真田庄の草屋敷を束ねた。向井佐助を忍衆として精魂こめて育てあげた。「危難に遭遇したときは、まず、笑うてみよ」と向井佐助に教えた。向井佐助に男女のてほどきをする女性として、於国を選んだ。忍衆として旅立つ向井佐助に無名の短刀を贈った。参考文献:『真田太平記』by池波正太郎。

吉池源兵衛【よしいけげんべい(15??~15??)】

矢沢頼綱家臣。1585年、「第一次上田城の戦い」では、矢沢頼綱に従って矢沢城を守備した。

吉田惣助【よしだそうすけ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1580年、「上州攻略」では、真田昌幸勢の殿を務めた。

依田兵部【よりだひょうぶ(15??~15??)】

真田昌幸家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、真田昌幸、真田信繁父子に伴い紀州へ従った。

渡常陸守【わたりひたちのかみ(15??~15??)】

真田信之家臣。1608年、真田信之の意向により上野国大柏木百姓衆を帰還を促した。参考文献:『長野県立歴史館/信濃史料』by信濃史料。

和田勝之助【わだかつのすけ(15??~15??)】

真田幸隆家臣。

和田将盛【わだまさもり(15??~15??)】
   
真田昌幸家臣。通称兵衛尉。
     
和田主水【わだもんど(15??~15??)】

真田昌幸家臣。別名和田主殿。1580年、「上州攻略」では、前備を務めた。

渡辺綱秀【わたなべつなひで(15??~15??)】

真田昌幸家臣。官途は左近允。1580年、「上州攻略」では、先陣を務めた。 

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【資料Ⅰ】

小県郡:砥石城、上田城、真田館、矢沢館、浦野城、禰津城、長窪城、滋野城。
吾妻郡:岩櫃城、草津城、中之条城、原城、長野原城、沢渡城、三原城。
利根郡: 沼田城、名胡桃城、水上城、片品城、小川城、長井坂城、石倉城。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には居城の名を入れています。資料Ⅰは国、郡の石高、城郭、街。資料Ⅱは集団についての説明。資料Ⅲは国の詳細説明になっています。

参考文献は出展図書を示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

豊臣秀吉は羽柴秀吉、武田信玄は武田晴信、徳川家康は松平元康、真田幸村は真田信繁の名前を統一しました。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、国りガイド」by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル」by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『真田戦記』by学習研究社、『真田太平記(全13巻)』by新潮文庫。フリー百科事典by「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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