2011年5月29日日曜日

戦国土佐国人名辞典


------------------------------------------------------

【あ】

赤松飛騨守【あかまつひだのかみ(15??~1563)】

吉良家臣。赤松左京大夫正則の男。官途は飛騨守。京都二条に居を構えていたが、一条氏に従って土佐に赴いたと言われる。家系は悪党赤松円心の流れと言われ、父は左京大夫正則。香美郡下田に来住して神母山城付きとなり、弘岡城主吉良親貞に仕えて80石を領した。

安芸元親【あきもとちか(1482~15??)】

安芸郡安芸城主。官途は備後守。安芸家の祖先は蘇我赤兄とされ、安芸郡を拠点として「土佐七雄」の一角に数えられた。幼少にして家督を相続する。安芸元親は香宗我部親秀と抗争を繰りしていた。1526年、香宗我部親秀に大勝し嫡子香宗我部秀義を討取る。香宗我部家は生き残りのために長宗我部家との関係を深めていった。

安芸元泰【あきもとやす(15??~1544)】

安芸元親の男。官途は山城守。嫡男安芸泰親が早世したため、安芸国虎元服までの期間、安芸家は安芸元泰の室の父与松元盛が政務を担った。

安芸泰親【あきやすちか(15??~15??)】

安芸元泰の男。安芸元泰が病没前に早世した。
 
安芸国虎【あきくにとら(1530~1569)】

安芸元泰の次男。官途は備後守。室は一条房基の娘。1563年、安芸国虎は岡豊城へ攻め込むなど長宗我部元親と対立していた。1569年、義兄の一条兼定とともに長宗我部元親を討伐しようと試みた「八流の戦い」に敗れ、長宗我部元親の軍勢に居城の安芸城を攻められた。城内の井戸に毒を入れられるなどの攻撃により落城寸前になったため、家臣と領民の命と引き替えに自刃することを長宗我部元親に申し入れ、菩提寺の浄貞寺に入り自刃した。

安芸千寿丸【あきせんじゅまる(15??~15??)】

安芸国虎の男。1569年、父安芸国虎は浄貞寺にて自刃。安芸千寿丸は畑山元氏と共に阿波国の矢野家を頼り落延びた。安芸千寿丸は矢野備後守の養子となり、安芸又六と称した。1582年「中富川の戦い」で討死した。
 
安芸家友【あきいえとも(15??~15??)】

安芸国虎の次男。通称三郎左衛門。土佐七色紙の祖成山三郎左衛門と同一人物。

安芸左京【あきさきょう(15??~15??)】

安芸家臣。1565年、兵300余りを率いて長宗我部家の岡豊城を攻める。一条家から援軍兵3,000余りが派遣されたが、長宗我部家臣吉田重俊らに敗れた。一条兼定は両家の仲介役となり和議を斡旋した。

安芸郡豪族衆【あきぐんごうぞくしゅう】

佐喜浜城主:大野家源内貞義、馬ノ上城主:井原源七郎、甲浦城主:惟宗出羽守。

秋山刑部丞【あきやまぎょうぶのじょう(15??~15??)】

秋山城主。本山家臣。1540年、一条房冬に降伏した。1557年、本山茂辰に降伏した。1560年、長宗我部元親に降伏した。

芦田主馬太夫【あしどしゅめいだいふ(15??~15??)】

香宗我部家臣。赤岡に居を構えた。土佐における陰陽師の元祖と言える人物で、長宗我部家滅亡後も代々算所頭、博士頭として活躍。算所、博士を監督しながら高知では現在も「いざなぎ流」を元にする民間信仰が根強く残っており「太夫」と呼ばれる神職がいる。

飛鳥井雅量【あすかいまさかず(15??~15??)】

公家衆で歌人、蹴鞠家。通称曽衣。飛鳥井家は藤原北家難波家の流れをくむ羽林家の一つで代々和歌、蹴鞠を家技にした。1530年、従四位下左近衛少将権中納言。家伝の和歌、蹴鞠をよくおこなった。のちに入道し曽衣と号した。「京都の戦乱」をさけ土佐国に下り親族の一条家の賓客となって家門五家のひとりに。1563年、津野定勝に鞠道八足の図を与え蹴鞠の秘儀を教えた。一条家の滅亡後は岡豊城で長曽我部元親やその子弟に鞠道を教えた。

安並直敏【あなみなおとし(15??~15??)】

一条家臣。安並直敏の男。官途は和泉守。通称忠兵衛。室は飛鳥井家の娘。四家老のひとり。遊興に耽る一条兼定を他の家臣と共に豊後国へ追放し、長宗我部元親の協力のもと一条兼定の息子一条内政を擁立する。その後専横な振る舞いが目立ち、これに反発した国人衆の攻撃をうけて奮戦するも討取られた。

安並有次【あなみありつぐ(15??~1621)】

安並和泉守の男。通称久左衛門。1561年、一条兼定の命で伊予国の土居清良を訪問した。のちに長宗我部家に仕えた。長曽我部家の改易後は藤堂高虎に仕えた。1613年「大坂の役両陣」に参陣した。

有井玄蕃【ありいげんば(15??~15??)】

安芸家臣。安芸郡十二人衆のひとり。

有沢重貞【ありさわしげさだ(15??~1569)】

安芸国虎家臣。官途は石見守。1569年、浄貞寺にて安芸国虎の介錯を務め殉死した。

池内真武【いけうちまさたけ(15??~15??)】

香宗我部家臣。官途は肥前守。香宗我部家の筆頭重臣で、香宗我部秀通の家督相続問題では同族の池内玄蕃が長宗我部の養子を迎える事を主張すると、池内真武は安芸家にくみする事を主張し対立した。後に長宗我部元親に池内玄蕃を讒言して罪を被らせて切自刃腹させた。自らは香宗我部家重臣として仕えた。香宗我部親秦をよく補佐し、安芸討伐後、安芸姓を名乗ろうとした香宗我部親秦を諌め、安芸守を名乗ることで香宗我部の名を守った。また、香宗我部家中の侍を記した「香宗我部安芸守親秦公従臣覚」を中山田左衛門佐に提出している。それによると香宗我部家の家来は二百六十四名いた。後に長宗我部家直臣となり阿波一ノ宮城主。香宗郷内に十三町の給地を得て池内一族を統率していた。

池内神左衛門【いけうちかみざえもん(15??~15??)】

池内真武の男。

池頼定【いけよりさだ(15??~15??)】

長岡郡池城主。細川宗桃の男。官途は豊前守。池頼定は始め家臣岩松経重を要して国親に敵対したが、中嶋大和守の計略により池万五郎が内応、岩松経重が討たれ豊前守は子の四郎左衛門に国親の女をめあわすことで和議を結んで降伏。以後長宗我部家臣となった。

池頼和【いけよりかず(15??~1593)】

細川正頼の次男。通称四郎左衛門。室は長宗我部国親の娘。浦戸種崎を領し、長曽我部国親の次女を娶る。池頼和は室との間が不仲となり、謀反の疑いで長宗我部元親に自刃させられた。池家は長宗我部家の海賊衆の中核となり、その水運力をいかして大阪堺との交易も活発に行っていたようである。一族には、浦戸政所で、代官船大将として「小田原の役」に参陣し下田城を戦艦大黒丸にて攻略した池六右衛門や、一向宗浦戸道場を開業した池慶乗などがいた。

石谷重信【いしがいしげのぶ(15??~15??)】

土佐郡金山城主。蚊井田重芳の男。天竺家臣。官途は民部少輔。通称右衛門亮。室は本山茂辰の娘。継室は吉田右近の娘。後に入道して執行宗卜。蚊井田家の出だが、石谷家を継いだ。1547年、天竺家が長曽我部国親により滅ぼされると以後これに従う。土佐神社の神職を任された。

一条房家【いちじょうふさいえ(1475~1539)】

一条教房の男。官途は左近衛少将。長曽我部兼序が本山養明らに襲撃されたとき、その遺児千熊丸を保護して養育した。本家の摂関家一条家に男の一条房通を入れるなど、京都公家衆とも関係が深かった。土佐国七雄らが割拠するなか、公家勢力でありながら独自勢力を築いた。飛騨国姉小路家、伊勢国北畠家と並んで三国司家と呼ばれる。

一条房冬【いちじょうふさふゆ(1498~1541)】

一条房家の男。室は伏見宮玉姫。側室は大内義興の娘。異母弟一条房通の一条宗家襲封の際父が上洛していた約二年は、幡多城にあって留守居役を務めた。京都だけでなく近隣諸国との婚姻外交も重視した。大内義隆の養子大内晴持は一条房冬の男。

一条房基【いちじょうふさもと(1522~1549)】

一条房冬の男。官途は左近衛中将。室は大友義鑑の娘。1546年、土佐国七雄の津野家を破って高岡郡を入手するなど、武将らしい行動をとるが、夭折した。1541年、父一条房冬の死去により家督を相続する。智勇に優れた人物で、1542年、謀反した津野基高と蓮池城の大平家を討ち高岡郡の支配権を手に入れた。伊予国南部への進出を図るなど一条家の勢力圏を拡大した。1549年、突如として自殺したが詳細は不明である。

一条兼定【いちじょうかねさだ(1543~1585)】

一条房基の男。官途は左近衛少将。大友宗麟と姻戚を結んで南予の西園寺家を攻めるなど、その初期においては積極的な政治を行ったが、次第に放蕩に耽るようになった。1574年、安並和泉守を中心とする家臣団に追放され、大友宗麟を頼って豊後国に落ち延びた。1575年、長曽我部領となった旧領を回復せんと伊予国の豪族衆法華津播磨守や御荘越前守と結んで「四万十川の戦い」で長曽我部元親と戦うも敗北した。その後は伊予国宇和島の小嶼戸島で暮らした。

一条内政【いちじょうただまさ(1557~1580)】

一条兼定の男。官途は左近衛中将。長岡郡大津城に在城して大津御所と呼ばれた。1574年、父一条兼定の追放劇により家督を相続するして、長宗我部元親によって土佐国司となる。一条家中は長曽我部元親に蚕食されており、傀儡となっていらがある程度の領国経営を行ない、弱体化した一条領の立て直しを図った。するだけであった。室は長曽我部元親の娘である。その後波川玄蕃の謀叛に与した廉で伊予国に追放された。

一条政親【いちじょうまさちか(15??~15??)】

一条内政の男。官位は摂津守。久礼田御所と尊称された。父一条内政の追放後は長曽我部家臣久礼田道佑に養育された。長曽我部元親に抗うことなぞできず、長曽我部家と運命を共にした。1600年「関ヶ原の役」で長曽我部家が改易されると宗家を頼って京都に上った。

一円但馬守【いちえんたじまのかめ(15??~15??)】

安芸家臣。1569年、安芸家滅亡後は、長宗我部元親に降伏臣従した。

井原源七郎【いのはらげんしちろう(15??~15??)】

馬ノ上城主。安芸家臣。1569年、安芸国虎から籠城に参加することへの感状を受けた。

井口勘解由【いのくちかげゆ(15??~1560)】

井口城主。本山家麾下の城主。長宗我部家重臣吉田周孝から臣従を求められるも拒否した。吉田周孝に攻められるも、兵300余りで撃退した。追撃の最中、中野新八に左脇腹を射られ討死した。

井町権頭【いのまちごんのかみ(15??~15??)】

和食家臣。和食親忠没後、勢力を拡大した。和食家に匹敵する勢力を持った。

井町源七郎【いのまちげんしちろう(15??~15??)】

井町権頭の男。父井町権頭の病没、長崎内蔵助が後見役となった。1569年、安芸国虎から長宗我部元親との決戦に際し、籠城に参陣するよう求められた。

猪野長義【いのながよし(15??~15??)】

猪野城主。山田家臣。通称兵部丞。京から土佐国に移り住み山田家の家老となった。

猪野正義【いのまさよし(15??~15??)】

猪野長義の男。通称民部。山田家滅亡後、阿波国美馬郡に逃れ、その後常陸国に落ち延び、新治郡笠間の領主笠間時友に仕えた。

猪野長親【いのまさちか(15??~15??)】

山田家臣。通称兵内。

今井左馬助【いまいうまのうけ(15??~15??)】

今井貞邦の男。本山家臣。後に降伏。長宗我部家の土佐郡南部の高知平野平定では、忠勤に励み新知行地を得た。永禄六年には本山氏の朝倉撤退軍が一宮を襲撃した際、今井一族で奮戦して長宗我部元親より感状を与えられた。

伊与木高康【いよぎたかやす(15??~1574)】

幡多郡伊与木城主。官途は淡路守。1574年、一条兼定が追放されてもなお一条兼定に忠誠を尽くした。これを忌まれて長宗我部元親に通じた小島政章によって攻められて討死した。

伊与木国安【いよぎくにやす(15??~15??)】

伊与木高康の男。通称弥平次。伊与木国安は長宗我部元親に従い「朝鮮征伐」に参陣するが、疱瘡となり十七歳で没した。

入野五兵衛【いりまじりごへい(15??~15??)】

一条家臣。後に長宗我部家に仕える。1614年「大阪の陣」に参陣するが落城した。大阪で山内一豊が長宗我部家の遺臣を探索した時に出頭し謁見した。山内一豊が土佐の国について尋ねたところ、地図を書いてそれに答え山内一豊はたいへん喜んだ。

入交信【いりまじりまこと(15??~1613)】

一条家臣。入交助六左衛門の男。1574年、一条兼定が追放されると、長宗我部元親に従い各地に転戦する。 長曽我部家が没落すると藤堂高虎に招かれたが、息子四人を仕官させて自らは辞退した。

入交重俊【いりまじりしげとし(15??~15??)】

入交信の男。通称助左衛門。長宗我部家改易後、500石で藤堂高虎に仕えた。1613年「大坂の役両陣」では桑名一孝隊に所属した。

上野平太夫【うえのへいだいふ(15??~15??)】

土佐細川家臣。室は長宗我部盛親の娘。上野家は土佐守護細川家より出るといわれる。のちに立花家に仕えた。

上村親行【うえらちかゆき(15??~1575)】

山田家臣。官途は越前守。後に長宗我部家に仕えた。1575年「幡多郡栗本城の戦い」で討死した。

上村親貞【うえむらちかさだ(15??~15??)】

上村親行の男。通称兵庫助。上村親貞は「四国平定」「戸次川の戦い」「朝鮮の役」に参陣して戦功を挙げた。

宇賀平兵衛【うがひらへいべい(15??~1560)】

本山家臣。1560年、長宗我部家との合戦で浜田久左衛門を討取るが、浜田久左衛門の弟浜田善左衛門に討たれた。

大黒範宗【おおぐろのりむね(15??~15??)】

土佐郡杓田城主。通称太郎左衛門。大黒家は長宗我部家の枝連衆で、七代長宗我部兼光の弟からわかれた。杓田城を中心に尾立、梅木、行川の鏡川流域にも勢力を伸ばした。

大黒親周【おおぐろちかす(15??~15??)】

大黒範宗の男。官途は備前守。通称主計。室は吉良親貞の娘。始め本山家に属していたが後に一族の長宗我部家の麾下に属した。大黒親周は一門として信頼を回復し、大黒殿の敬称で称された。1598年、長宗我部家の系図を記した「大黒備前守親周記」をした。

大黒親寛【おおぐろちかひろ(15??~1565)】

大黒親周の男。1565年、大黒親寛は「朝倉城の戦い」で討死した。

大黒親慶【おおぐろちかのり(15??~15??)】

大黒親寛の男。官途は美作守。1565年、大黒親寛が「朝倉城の戦い」で討死しると家督を相続した。

大高坂経昌【おおたかさかつねまさ(15??~15??)】

大高坂城主。官途は修理。本山家麾下の豪族衆。大高坂家は大高坂山に城を築き代々居城とした。南北朝の時代には大高坂松王丸が出て南朝方の中心人物となり活躍した。戦国時代、大高坂経昌は本山家に属した。

大高坂経之【おおたかさかつねゆき(15??~1586)】

大高坂経昌の男。通称権頭。長宗我部元親に降伏臣従。長宗我部信親とともに「戸次川の戦い」で討死した。

大塚八木右衛門【おおつかやぎえもん(15??~15??)】

下長谷城主。一条家臣。一条家国侍三十六人衆のひとり。1574年、豊後国臼杵へ一条兼定を追放した羽生、為松、安並の一条家三家老に憤慨し、平素から反感を抱いていた加久見左衛門、大岐左京進、江口玄蕃、橋本和泉守ら国侍と共に急遽兵を挙げて中村城へ討ち入りをかけ、家老達を滅ぼした。この混乱に乗じ、長宗我部元親が叛乱鎮定に名を借りて一条領を占領したため、結果的にこの行為は一条家臣の衰亡を早めることになった。1575年、一条兼定は中村に復帰を試み、大塚家も馳せ参じて長宗我部勢と戦ったが敗れた。長宗我部家に降伏して一命と領地を安堵されたが、数年にして滅んだ。

大谷道直【おおたにみちなお(15??~15??)】

山田家臣。官途は出雲守。元は谷家で山田家同様大中臣姓を名乗った事から山田家と同属と考えられる。山田治部少輔に従えて香美郡佐古郷大谷城主、地名から姓を大谷とした。山田家滅亡後は土佐で浪人、後山内家老後藤家に門客として従え、高知に移り医を業とした。

大窪美作守【おおふちみさくのかみ(15??~15??)】

土佐郡長浜城主。本山茂宗の次男。1560年、長宗我部国親は長浜城を奇襲してこれを落とし、それまで婚姻関係にあり小康状態を保っていた長宗我部氏と本山氏との争いに発展することとなる。この長浜城の奇襲には伝承があり、対岸にある長宗我部家の種崎城にいた福富右馬允というものが種崎城で火を発した咎によって放逐された。右馬允は長浜へ逃れて大窪美作守に仕えることとなり、築城技術に長けていた右馬允は長浜城の工事を手掛けていた。 ある時、長宗我部氏が大津から種崎へ兵糧を積んだ船を出した所、本山氏がこれを襲って兵糧を奪う事件があった。国親はこれを口実として長浜城攻略の奇策を巡らせる。 国親は種崎城代に長浜城にいる福富右馬允を呼び出して城内より手引きさせるよう命じた。罪を許して帰参を許そうと持ちかけられると、右馬允は喜んで引き受けた。1560年、種崎にいた長宗我部勢は密かに渡海し長浜城に攻め込んだ。長浜城主大窪美作守はこの奇襲に驚き城を脱して朝倉城の本山茂辰に援軍を要請した。本山茂辰は兵2500余りを率いて長浜城に向かい、長宗我部国親は兵1,000余りで迎え撃った。この戦いが初陣であった長宗我部元親は目覚しい働きを見せ本山家は浦戸城へ逃れた。長宗我部勢もこれを追って浦戸城へ押し寄せたが、長宗我部国親が病に倒れ岡豊城に引き上げた。

大平元国【おおひらもとくに(15??~15??)】

高岡郡蓮池城主。官途は隠岐守。大平元国は「土佐の七雄(七守護)」と呼ばれる有力国人衆の一人。土佐国は細川家が守護をつとめ、岡豊城主の長宗我部家が細川家を後楯として勢力を伸張していた。長宗我部兼序に対して、土佐国人衆らは不満を強め、京都の政変で細川家が混乱に陥ると、大平元国は本山梅渓の呼び掛けに応じて、吉良、山田の諸家とともに反長宗我部連合を結成した。1508年、長宗我部兼序を攻め討死させた。1508年、大平元国は本山、吉良、山田家などと岡豊城の長宗我部兼序を攻め敗死させた。1543年、一条家房基は津野基高を戦った。大平家は本山家とともに津野家に援軍を送ったが敗れた。1519年、枝連衆の河間家と縁の深い庄田の鯨坂八幡宮や吾川郡芳原村の若一王子社を修造した。
 
大平国興【おおひらくにおき(15??~15??)】

大平元国の男。1525年、越知の横倉社を修造するなど、敬神の誠を尽くした。一条、本山、津野、長曾我部家らの強豪との複雑な角逐のなかにあって、大平家の地位を守り抜くことが困難な時代に遭遇した。1543年、津野家への援軍として一条家と争うも敗れる。1546年、大平家は一条家に降った。1557年、南土佐に進出してきた本山茂辰は森山城、秋山城を攻略して蓮池城をも奪った。1560年、本山茂辰は長宗我部元親と争うとその隙を付いて一条家が蓮池城を取り戻した。1569年、吉良城主吉良親貞が計略をもって蓮池城を奪い、戸波城へ逃れた城兵を追って戸波城をも落とした。

大平権頭【おおひらごんどう(15??~15??)】

大平国興の男。官途は山城守。1566年、津野家が一条家と争ったとき、津野家は援助を本山家に乞うた。本山実茂は軍を率いて津野を助けて戦ったが、合戦に利なくして軍を還した。津野家は一条家に降り、一条家は大平家に兵を向け敗れた大平権頭は戸波村積善寺で自刃した。

大藪紀伊守【おおやぶきいのかみ(15??~15??)】

本山家臣。官途は紀伊守。土佐郡本川之郷大藪名の土豪で本山五党の一つ、この地区の太刀踊りの初代とされる。長宗我部盛親より「紀伊守」の官位を授与された。長宗我部家検地時点では自らは隠居帰農して子の祐茂が家督を継いでいる。

大藪祐茂【おおやぶすけしげ(15??~15??)】

大藪紀伊守の男。別名伊藤祐茂。長宗我部改易後、山内一豊に親子で謁見し、大藪祐茂は山内刑部一照に封ざれた。

岡源次郎【おかげんじろう(15??~15??)】

一条家臣。岡家は細川勝益、一条康政などに仕えた船匠の家。保元年中、後白河院様からの「船霊祭文」の巻物一貫を拝領し、代々飛騨流の木割術(造船のための設計方法)を家伝とした。

岡三郎左衛門【おかさぶろうざえもん(15??~15??)】

岡源次郎の男。父岡源次郎の代より長宗我部家に従い、高岡郡宇佐浦から種崎浦へ移った。1594年、松平元康に招かれて関東へ上り、御座船一艘を建造した。

岡三郎左衛門【おかさぶろうざえもん(15??~15??)】

岡三郎左衛門(同名)の男。長宗我部家改易後は山内一豊に従えて、船大工頭を務めた。飛騨流の造船技術を伝えた。子孫は後に、瀬戸流、伊勢流、川上流などの造船作りを習得し代々活躍した。

岡崎与左衛門【おかざきよえもん(15??~15??)】 

本山家臣。1563年、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。

岡林将監【おかばやししょうげん(15??~15??)】

安芸家臣。1569年、長宗我部元親に降伏。安芸城への先導役を務める。横山紀伊、岡林将監、専光寺右馬允、小川新左衛門、小谷左近右衛門が呼応した。

小川新左衛門【おがわしんざえもん(15??~15??)】

安芸家臣。1569年、長宗我部元親に降伏。安芸城への先導役を務める。横山紀伊、岡林将監、専光寺右馬允、小川新左衛門、小谷左近右衛門が呼応した。

沖長門守【おきながとのかみ(15??~15??)】

幡多郡入野地域に広大な領地を持つ有力家臣。1586年「戸次川の戦い」に参陣した。長宗我部勢の鉄砲隊を指揮して本体と別行動をとり、臼杵に陣取った。その後本隊は壊滅、沖の部隊は臼杵に留まった。1587年、羽柴秀長と共に渡海した長宗我部元親に収容された。

押川内蔵助【おしのかわくらのすけ(15??~15??)】

一条家臣。押之川城主。

押川正重【おしのかわまさしげ(15??~15??)】 

押川内蔵助の男。通称権左衛門。1574年、一条兼定が追放されると、長曽我部元親に従い各地に転戦する。長曽我部家没落後は藤堂高虎に招かれ、その家臣藤堂玄蕃良重の配下に加えられた。1614年「大坂の役夏の陣」で負傷した藤堂良重を背負って窮地を救い、藤堂高虎に激賞された。知行を分知して親兄弟に分けたとゆう。

小島政春【おじままさはる(15??~15??)】

幡多郡小島城主。一条家臣。通称右近。一条家臣で中村の四家老のひとり。小島家は「応仁の乱」の後、一条教房の土佐入国時からの家臣として一条家に従った。 

小島政章【おじままさあき(1539~1591)】

小島政春の男。官途は出雲守。1569年、一条兼定の命で和井舎人佑の和井城を攻略し、同城を居城とした。1574年、一条兼定が土居宗珊を殺したこともあって重臣たちから豊後国に追放されると憤慨し、為松若狭守、安並和泉守らを攻めた。長宗我部元親の侵攻に降り一条方の伊予田城、奈良城、竹葉城、安宗城などを攻めて戦功を挙げた。長宗我部元親の幡多平定に寄与し四国各地を転戦した。

小島政倶【おじままさよし(15??~15??)】

小島政章の男。通称民部佑。1574年、一条兼定が追放されると、長曽我部元親に従い各地に転戦した。

小谷左近右衛門【おだにさこんざえもん(15??~15??)】

安芸家臣。1569年、長宗我部元親に降伏した。安芸城への先導役を務める。横山紀伊、岡林将監、専光寺右馬允、小川新左衛門、小谷左近右衛門が呼応した。

------------------------------------------------------

【か】

蚊井田重隆【かいたしげたか(1543~1598)】

蚊井田重宗の男。官位は修理亮。通称彦助。室は細川内膳の娘。蚊居田家は森、国沢、千屋家と並び、土佐七守護に継ぐ地位にあった。幼くして家督を相続し、叔父である蚊井田重貞の後見によって領地を統治するが、蚊井田家は近隣の長宗我部国親の侵攻に会って次第に弱体化し、ついにその軍門に降った。長宗我部元親に属して「矢流れの戦い」で戦功を挙げ忠義を示した。長宗我部元親に反逆の企みありと疑われ蚊井田城明け渡しをせまられる。譜代家老衆の評議の末、蚊井田重隆は叔父の石谷重信を通じて蚊井田城を明け渡し、長宗我部元親の家臣となり、長男は人質として石谷重信に預けられた。

蚊井田重胤【かいたしげたね(1559~1637)】

蚊井田重隆の次男。通称久助。父蚊井田重隆から領地を相続した。1588年、中沢重胤にその領地を譲り、新たに吾川郡大野郷引田村に給地を得た。「朝鮮出兵」に参陣し、同郡の円ノ谷、森山にて加増され合計四町五反を知行した。この戦で左の肩を打ち折られ、これ以後戦場へは出なくなったと。

加久見宗孝【かくみむねたか(15??~15??)】

加久見城城主。加久見宗孝(同名)の男。官途は土佐守。加久美家は古くから幡多郡を根拠としていた国人領主で、一条家の祖である一条教房が幡多荘に下った時に加久美宗孝はこれを迎え入れた。加久見宗孝はその功労によって一条家家司がしばしば任じられていた土佐守に補任され、近侍していた娘が一条教房に愛されて一条房家を生むなど、一条家麾下の国人領主の中でも特別な地位を占めた。

加久見宗頼【かくみむねより(15??~15??)】

加久見宗孝の男。一条家臣。通称左衛門尉。加久見宗孝と共に勧進に署名した。一条兼定追放後、内政を立てて専横につのっていた家老衆を討伐した。結果的にこれが一条家の衰亡を早める結果となった。

梶佐古道尋【かじさこどうしん(15??~1592)】

柳瀬五郎兵衛の三男。通称源左衛門。香美郡韮生郷梶佐古に土地を分与されて梶佐古家を称した。忠勤にはげみ「戸次川の戦い」にも参陣した。1592年「朝鮮出兵」で討死した。

片岡直光【かたおかなおみつ(15??~15??)】

高岡郡黒岩城主。室は長宗我部兼序の娘(理春尼)。南北朝時代は北朝方として活動し、その後も守護代の元で本拠地上八川、下八川から勢力を拡大。1546年、守護代大平家が一条家に滅ぼされると一条毛配下となり、その後本山家と結んだ。1560年にそれぞれ佐川横倉神社、高岡郡北地十二所権神社に棟札をあげている。1562年、本山茂辰の本山撤退を助けた後、長宗我部家に降伏した。

片岡光綱【かたおかみつつな(15??~1585)】

片岡直光の男。官途は下総守。片岡家は長宗我部とは親類の間柄で、国侍の筆頭となった。一族は仁淀川の水系を利用して、阪神方面と交易して利益を上げ、繁栄した。天正の陣において、伊予国東予の陣営の人員不足により、長宗我部家より援軍が来るが、これには純然たる応援と監視、牽制の両意味を持った。金子備後守と小早川隆景はお互いに親交のあった仲であったといわれ、寝返りの心配もあったと考えられる。従って儀礼的にも相当な人物を金子備後守の許に出す必要があった。長宗我部元親は弟の香宗我部親泰を派遣する心積であったが、負け戦と分かっていて行く事を拒んだため、花房新兵衛、片岡光綱に決定した。片岡光綱は兵350余りを率い金子城へ発した。「北谷口の戦い」で討死した。その首は従臣、竹内又左衛門、上村孫左衛門、安並玄蕃等に護られ土佐国に帰った。

片岡家臣団【かたおかけかしんだん】

竹内又左衛門、上村孫左衛門、安並玄蕃。

勝賀野実信【(かつがのさねのぶ15??~1588)】

吉良親実家臣。通称次郎兵衛。領内700町をわずかな期間に完璧に検地し、その手腕を認められた。また武勇の士でもありその名は家中でも有名であった。1588年、家督問題で主の吉良親実が切腹すると勝賀野実信自身にも追っ手が差し向けられる。土居肥前勝行、塩見野弥惣、野中源兵衛、北台市左衛門、北台四郎左衛門らは長宗我部 元親の命として勝賀野宅を訪れるが、勝賀野実信が進士太郎国光の太刀を抜き応戦、大立回りの末ようやく勝賀野実信を討った。五人もみな無事な姿の物はなかった。勝賀野実信は北代四郎右衛門、塩見惣兵衛、野中源三兵衛を返り討ちにした。

神森出雲守【かみもりいずみのかみ(15??~1561)】

神森城主。本山家麾下の城主。1561年、長宗我部家臣福留隼人、中島大和守に攻められる。水を断たれるも、白米で馬を洗い、水の豊富さを演出した。これを見た福留らは撤退するも、五名ほどが残り城の北側から火を放つ。これにより城兵は錯乱し、神森出雲守も自刃した。室は脱出の際に谷に落討死した。

上山十兵衛【かみやまじゅうべい(15??~15??)】

幡多郡上山村の豪族衆。1615年「大阪夏の陣」では藤堂勢との戦い、藤堂高虎に迫りく討取る寸前まで肉薄した。役後、遺臣である事を隠して山内家に24石で使えた。その後江戸藩邸にて門番をしていた所、藤堂高虎が土佐藩主山内忠義を尋ねてきて偶然再会。藤堂高虎は上山十兵衛の顔を見るなり山内忠義に「大阪夏の陣」の話をし、家来の優秀さを誉めた。山内忠義はすぐに上山十兵衛をその座に召し出し問い詰めた所、遺臣である事を白状し、加えて「高虎殿を打ちもらした原因は、高虎殿の南部駒の俊足なるに比べし、拙者の馬は短脚の土佐駒であった故である」と臆せず言い放った。のちに上山十兵衛は馬廻衆200石を領した。

川窪定氏【かわくぼさだうじ(15??~15??)】

安芸家臣。官途は左衛門尉。川窪家は大和国より土佐国に移り、香美郡山田に居住し山田家に仕えた。後に長宗我部国親に仕え「潮江の戦い」で戦功を挙げた。長宗我部国親は戦功を賞しようとしたが川窪定氏は辞退し、本願寺との約束で真宗に帰依したい旨を申し出たので、長宗我部国親はこれを許し判物を与えた。天正年間には、織田家が石山本願寺をせめるにあたり、一向宗の主だった物を殺そうとした時、長宗我部元親より自刃を命ぜられるが、川窪定氏は長宗我部国親からもらった判物を首にかけ長宗我部元親に見せたので許された。

北代佐渡守【きたよさどのかみ(15??~15??)】

吾川郡の豪族衆。通称常喜。北代家は元々大平家と共に細川家に仕え、後に大平家に仕えた。後に長宗我部家に仕えて、幡多に出向、直臣として使えて検地役人として活躍した。

北川玄蕃【きたがわげんば(15??~15??)】

北川城主。安芸家臣。

北村関斎【きたむらかんさい(15??~15??)】

香宗我部家臣。主家と共に長宗我部親元に降った。同じく同僚であった池内真武と共に、阿波平定の最中に長宗我部直臣となりった。1576年、阿波吉田城主に任命された。香宗我部親秦を補佐して池内真武と共に阿波統一に貢献した。また、阿波国内に落ちていた阿波公方足利義助に駿馬を送る任にもついた。

北村三郎左衛門【きたむら(15??~15??)】

北村関斎の男。別名浅木三郎左衛門。藤堂家に仕え200石を領した。

北村宗長【きたむらむねなが(15??~15??)】

山田家臣。官途は遠江守。

北村宗淑【きたむらむねとも(15??~15??)】

北村宗長の男。官途は肥後守。北村家は傍士、川窪、甲藤にならぶ譜代の家柄。家紋は丸にカタバミで山田主家と同じものの使用を認められた。宗淑は若年より重臣として仕えていたが、山田基道の室の伊勢参りに同行した隙に、山田基道は長宗我部家臣吉田周孝の策略にかかる。北村宗淑は帰国後、山田基道に切腹を申し付けられ、自刃した。

北村宗親【きたむらむねちか(15??~15??)】

北村宗淑の男。通称宗左衛門。北村家一族は香宗我部家と長宗我部家にも仕え、元はみな同族であった。父は吉田孝頼の計略で自刃させられ、一時北村家は流浪の身となった。北村宗親は山田元義に招かれて再び山田家臣となる。長宗我部家との決戦「山田の戦い」では山田丹後守の先鋒として活躍した。敗戦後、山田元義と共に韮生に落ちるが、後長宗我部家臣となる。

吉良宣経【きらのぶつね(15??~1540)】

吾川郡吉良城主。吉良宣忠の男。本山、大平、山田などの諸族とともに長宗我部兼序を攻め滅ぼし、勢力を拡大する。守護細川家が力を失った後の土佐国においては一条家を旗頭に勢力を拡大した。吉良宣経の時に一条家から伊予守に任ぜられ最盛期を迎えた。周防国から南村梅軒を招き、土佐南学の基礎を築く。1540年、仁淀川で鮎漁に興じているときに、本山茂辰に攻められ、如来堂で討死し吉良城も落城した。

吉良宣義【きらのぶよし(15??~15??)】

吉良宣経(のぶつね)の従弟。通称は右近。吉良宣経の世継ぎ吉良宣直が治政をおこなった。

吉良親貞【きらちかさだ(1546~1576)】

長宗我部国親の次男。長宗我部元親とともに「長浜の戦い」で初陣を行った。1563年、兄の命で吉良家を継ぎ、その後は「一条家討伐」で多数の戦功を挙げ、長宗我部元親に代わって総大将を務めることもあった。一条兼定の追放も、この吉良親貞の策略であった。1575年、一条兼定が再起を図って土佐国に攻め込んできたとき、長宗我部元親は窮地に陥った。1575年「四万十川の戦い」で一条勢を大いに破りその窮地を救った。

吉良親実【きらちかざね(1563~1588)】

吉良親貞の男。智勇に優れていたために重用され、長宗我部元親の娘を室に迎えた。気性が激しいところが後に自身の破滅を招くことになる。父吉良親貞の死後、吉良家督を相続する。長宗我部の枝連衆として活躍するが、長宗我部元親の側近久武親直とは仲が悪く、いつも対立していた。1586年、長宗我部元親の嫡男である長宗我部信親が討死し、後継ぎ騒動が起こると、吉良親実は長幼の序から元親の次男香川親和を推し、四男である長宗我部盛親を推す久武親直と対立する。このとき、吉良親実は生来の気性の激しさから、長宗我部元親に対してたびたび諫言して、長幼の序を守って香川親和を跡継ぎとすることを進言したが、その諫言がかえって長宗我部元親の逆鱗に触れることになった。1588年、吉良親実は自刃を命じられた。

魚梁瀬修理亮【ぎょやなせしりのすけ(15??~15??)】

魚梁瀬城主。安芸国虎の嫡男安芸千寿丸を匿った。

楠目隼人【くすのめはやと(15??~15??)】

山田家臣。通称右京。楠目氏は橘姓を名乗り、山田氏の重臣の家柄。隼人は後に右京と改名。山田氏滅亡後、親族の下田駿河守の後見となり従えるが、長宗我部家の攻撃で下田駿河守は討たれ、自らは長宗我部家に下る。楠目隼人は降伏後も長宗我部家に気を使うことなく、下田家の家紋を使用した。また、楠目家の別家は安芸家に従えて、こちらも後に長宗我部家に降伏した。

楠目右兵衛門【くすのめさえもん(15??~15??)】

楠目隼人の男。

楠目新之丞【くすのめしんのじょう(15??~15??)】

楠目隼人の次男。

窪川(山内)宣澄【くぼかわますみ(15??~15??)】

高岡郡窪川城。官途は備後守。窪川城2,600貫を領してた。仁井田五人衆のひとり。津野家に属した後に一条家に仕えた。

窪川(山内)俊光【くぼかわとしみつ(15??~1579)】

山内宣澄の男。官途は外記。長宗我部家に仕えた。1579年、久武親信とともに伊予岡本城を攻めたが、一連の戦いで長宗我部親信ともども討死した。外記の甥窪川七郎兵衛と窪川七郎左衛門は「朝鮮の役」に参陣し討死した。

窪川七郎左衛門【くぼかわしちろうざえもん(15??~15??)】

長宗我部家臣。1592年「文禄の役」には兄窪川七郎兵衛と共に参陣した。兄窪川七郎兵衛は十九の若さで程なく討死した。窪川七郎左衛門は難波権之丞、福良助兵衛の部隊に預けられその後も従軍するが兄と同じく戦死してしまう。窪川七郎左衛門の室は嫁いで二日と一緒に過ごす事なく夫をなくしてしまい、病によって程なく後追うように死んでしまった。

窪内芳威【くぼうちよしい(15??~15??)】

香宗我部家臣。通称孫左衛門。窪内芳威の父の代より長宗我部家に仕えた。長宗我部国親の夫人が香宗我部家から出ており、その付き人として窪内家が長宗我部家にやってきた。

窪内庄衛門【くぼうちしょうざえもん(15??~15??)】

窪内芳威の男。1586年「戸次川の戦い」で討死した。家督は弟窪内庄衛門次郎が継いだ。

久保貞弘【くぼさだひろ(15??~15??)】

香美郡久保城主。山田家臣。官途は越中守。平教盛を遠祖とする名門で、山田氏と争い打ち破った事もあったが、後に姻戚を結んでその麾下に属した。長宗我部家と山田家が戦闘状態に入ると、久保貞弘は山田元道をかくまって抵抗していたが後に降伏した。

久保宗安【くぼむねやす(15??~15??)】

久保貞弘の男。官途は肥前守。久保宗安は長宗我部元親に従って阿波に出陣し戦功をた。1578年、検地奉行に任ぜられた。1585年、嫡男久保貞吉が「戸次川の戦い」で討死したため、その子の久保新助宗吉が後を継いだ。1592年「朝鮮の役」にも参陣した。

久保貞吉【くぼさだよし(15??~1585)】

久保宗安の男。官途は駿河守。1585年「戸次川の戦い」で討死した。

久保宗吉【くぼむねよし(15??~15??)】

久保貞吉の男。通称新助。父久保貞吉が「戸次川の戦い」で討死したため、久保家の家督を相続した。

久保重光【くぼしげみつ(15??~15??)】

久保宗吉の男。久保重光は長宗我部家の改易すると土佐国から出奔した。山内一豊が土佐国を領すると、久保宗吉と次男久保家盛が山内一豊に謁見し616石を領した。

久万俊宗【くまとしむね(15??~15??)】

久万城主。本山家臣。官途は豊後守。1560年、長宗我部勢に攻められ降伏。以降、長宗我部家に仕えた。

久万俊政【くまとしまさ(15??~15??)】

久万俊宗の男。通称兵庫。長宗我部家中屈指の力士。上方の怪力力士小島源蔵が岡豊城下に訪れ、仕切りにその怪力を自慢しているという話が長宗我部元親の耳に入った。もとより相撲好きの長宗我部元親は家中の久万兵庫と勝負をさせた。1573年、上覧相撲を開催した。行司は長宗我部にこの人有りと言われる福留隼人が担当して勝負が行われた。結果は久万兵庫が小島源蔵を手玉にとり圧勝。六尺五寸(197cm)の小島源蔵を五尺七寸(157cm)の久万兵庫が投げ飛ばす様を見て、長宗我部元親はおおいに喜んだ。

久万俊朝【くまとしより(1598~1615)】

久万俊政の男。官途は豊後守。久万家は土佐吉良家より派生した源家の血筋。長宗我部家改易後、藤堂高虎に仕えた。1614年「大阪冬の陣」では長宗我部元親を慕って入城した。しかし、病にかかり出陣できず、大阪落城に至って城内にて自刃した。

公文正信【くもんまさのぶ(15??~15??)】

香美郡徳善城主。天竺家臣。武勇で聞こえた公文将監重忠が有名である。公文重忠は、石谷重信の子であったが、公文正信の養子となって家督を継いだといわれる。1547年、介良城主横山九郎兵衛と下田城主下田駿河守が長宗我部国親と対峙したとき、公文重忠は横山、下田両家に味方して出陣した。しかし、物部川の渡河にてこずっているうちに戦闘が終了したため、公文重忠は徳善城へ退却した。その後、まもなく下田、横山両家が国親の軍門に降り、公文重忠もこれに続いて降伏した。 

公文重忠【くもんしげただ(15??~15??)】

石谷重信の男。公文正信の養子。通称深三郎。長宗我部家により天竺家が滅ぼされると、実父や弟横山友隆らと共にこれに抵抗した。1547年、降伏し家臣となった。勇猛な武士で多くの戦功があった。後に「大坂の役」で長宗我部家が没落すると、公文家は帰農して土着した。

国沢将監【くにさわしょうげん(15??~15??)】

国沢城主。本山家麾下の豪族衆。1560年、長宗我部元親が潮江城を攻略すると、城主国沢将監はこれに降り旧領を安堵された。1600年「関ヶ原の役」により長宗我部家が滅亡すると城主国沢能明は香美郡山田村に隠棲した。国人国沢氏の居城である。国沢家は、森家・千屋家・蚊居田家と並び、土佐七守護に継ぐ地位にあった。戦国期、城主国沢将監は本山家に属していた。1556年、本山家に従っていた秦泉寺家の秦泉寺城が長宗我部国親に攻められると、国沢将監は大高坂家とともに秦泉寺家を援けた。秦泉寺家は長宗我部国親に降伏したが、このときは国沢家はまだ本山家側に留まっていた。1560年「長浜戸の本の戦い」で本山家が長宗我部家に大敗すると、国沢将監も抗しきれず長宗我部国親に降った。

国沢能明【くにさわよしあき(15??~15??)】

大平家臣。通称蔵人。土佐国四家のひとつ。1504年、長宗我部兼序とともに鴨部神社復興。本山家に従い大高坂家とともに秦泉寺家を後詰するが敗北する。のち長宗我部の台頭により従った。

国沢能春【くにさわよしはる(15??~1627)】

国沢能明の男。室は豊永藤兵衛の娘。通称右近。長宗我部家没落後は香美郡山田に居住した。

国沢能直【くにさわよしなお(15??~15??)】

国沢能春の男。通称猪之助。

国沢能正【くにさわよしまさ(15??~15??)】

国沢能春の次男。通称四郎兵衛。

国沢能則【くにさわよしのり(15??~15??)】

国沢能春の三男。通称藤次郎。

桑川久助【くわがわくすけ(15??~15??)】 

本山家臣。1565年、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。

黒岩越前守【くろいわえちぜんかみ(15??~1569)】

安芸国虎家臣。1569年、長宗我部元親は安芸国虎に使者を派遣。和議のため岡豊城に向かうよう促した。黒岩越前守は安芸国虎に和議に応じるよう進言したが、安芸国虎は降伏に等しい行為だと拒否。使者を追い返し、兵5,300余りを率いて長宗我部元親との決戦に向かった。長宗我部元親は7,000余名を率いて出陣。黒岩越前守は500余名を率いて金岡城に籠もるが、長宗我部親吉と比江山親興の兵2,000余りに攻められた。三日三晩の応戦の後に金岡城を落ち延び、八流の砦に籠もった。その後、安芸国虎の夫人を実家である一条家に送り届けた。安芸国虎自刃後、長宗我部元親から家臣になるよう勧められた。黒岩越前守は安芸国虎の墓参りを済ませ殉死した。

黒岩種直【くろいわたねなお(15??~1582)】

黒岩越前守の男。通称掃部。父は安芸家中屈指の家臣黒岩越前守。黒岩種直は安芸家の滅亡後に長宗我部元親に仕えた。1582年「中富川の戦い」で討死した。

黒岩治部左衛門【くろいわじぶざえもん(1564~15??)】

黒岩種直の男。「勝瑞城の戦い」では十八歳で参陣して戦功を挙げた。「引田の戦い」では井上太郎左衛門を捕獲し、ついで志度城主を捕縛する戦功を挙げた。羽柴秀吉降伏後、土佐国の根来の残党、専式坊を謀殺した。長宗我部家の改易後に山内家に仕官するが「大坂冬の陣」では国を抜け出し、大坂城に入城した。

黒岩玄蕃【くろいわげんば(15??~15??)】

黒岩種直の次男。父黒岩種直や兄黒岩治部左衛門と同じく武勇の士で、父と共に出陣した。1586年「中富川の戦い」では、討死した父黒岩種直の仇を取った。また志和勘助の討伐を命ぜられ謀殺した。後の山内入国後には山内康豊に仕えるも「大坂冬の陣」では出奔して長宗我部盛親隊に属した。

香宗我部親秀【こうそかべちかひで(15??~15??)】

香美郡香宗城主。香宗我部親秀は土佐東部の安芸家と抗争を繰り返しており、徐々に国力は疲弊していた。1526年、嫡男香宗我部秀義が討死すると香宗我部親秀は弟の香宗我部秀通を後嗣と定めた。香宗我部親秀は長宗我部国親との同盟を計画するが香宗我部秀通は猛烈に反対する。1556年、一度は家督を継がせた実弟香宗我部秀通を謀殺する。1558年、香宗我部親秀は長宗我部国親の三男親泰を養嗣子として迎え入れた。
 
香宗我部秀通【こうそかべひでみち(15??~1556)】

香宗我部親秀の弟。1526年、甥香宗我部秀義が討死すると、兄香宗我部親秀の跡継ぎとなる。衰退した香宗我部家は独力で生き延びることが出来ず、長宗我部国親に従属した。長宗我部国親の三男親泰に家督を譲るよう、兄香宗我部秀通に命じられる。1556年、兄香宗我部親秀から狩りに誘われ、その場で謀殺された。長宗我部親泰は香宗我部秀通の娘を娶り、香宗我部家を相続した。

香宗我部秀義【こうそかべひでよし(15??~1526)】

香宗我部親秀の男。1526年、安芸備前守との戦に敗れ、香宗城で自刃した。

香宗我部親泰【こうそかべちかやす(1543~1593)】

長宗我部国親の三男。香宗我部親秀の養子。1558年、父長宗我部国親の命によって香宗我部親秀の養子となる。1569年、安芸城主となる。その後は兄長宗我部元親に従って各地を転戦する。1582年「中富川の戦い」で十河存保を撃破。1583年、木津城を攻略するなど、兄長宗我部元親の四国統一に尽力した。1575年、長宗我部信親の烏帽子親を織田信長が務め、以後織田家と同盟を結んだこと、織田信長の死後も柴田勝家や松平元康と通じて四国平定を有利に進めたことは、香宗我部親泰の外交手腕による。
 
香宗我部親氏【こうそかべちかうじ(15??~1592)】

香宗我部親泰の男。1592年「文禄の役」で陣没した。
 
香宗我部貞親【こうそかべさだちか(1591~1660)】

香宗我部親泰の次男。官途は左近大夫。1592年「文禄の役」に赴く途上にあった兄香宗我部親氏が病没。1593年、長門国で父香宗我部親泰が急死した。香宗我部貞親が継いだ。中山田泰吉、秀政が枝連衆として後見人となった。1600年「関ヶ原の役」後、中山田政氏と共に堺に移った。

惟宗国長【これむねくになが(15??~15??)】

安芸郡野根城主。安芸家臣。通称右衛門左。惟宗氏は安田氏とも称した。1575年、盆踊り見物に出た隙を狙われ、長宗我部元親に攻められ甲浦城に逃れた。甲浦城が長宗我部勢に囲まれると阿波国に逃れた。

惟宗出羽守【これむねでわのかみ(15??~15??)】

土佐甲浦城主。安芸家臣。惟宗国長と共に没落した。 

------------------------------------------------------

【さ】

斎藤河内守【さいとうかわちのかみ(15??~15??)】

安芸家臣。1579年、長宗我部元親の大忍庄攻めに敗れ、降伏した。

坂本重久【さかもとしげひさ(15??~15??)】

天竺家臣。通称新左衛門。天竺四家老のひとつ。天竺家滅亡後は長宗我部家臣の光富権介の家来となり幡多郡佐賀を領した。

坂本重次【さかもとしげつぐ(15??~15??)】

坂本重久の男。通称太郎兵衛。「伊予宇和郡攻略戦」「戸次川の戦い」「小田原の役」等で戦功を挙げた。「朝鮮の役」では光富次郎兵衛の討死によりその部隊を引き継いで戦った。1600年「関ヶ原の役」では大阪に留守居部隊の指揮を取った。長宗我部家の改易後は領地に退去し帰農、伊予での戦傷が悪化して病没した。

坂本弥太郎【さかもとよたろう(15??~15??)】

坂本重次の男。

佐竹右兵衛【さたけうへい(15??~15??)】

安芸家臣。1579年、長宗我部元親の大忍庄攻めに敗れ、降伏した。

佐竹義之【さたけよしゆき(15??~15??)】

高岡郡久礼城主。一条家臣。通称掃部少輔。土佐佐竹家は鎌倉末期に土佐国に移り、高岡郡久礼に在住して久礼城主になった。次第に勢力をのばして東の安和から南の上ノ加江を支配下におさめた。

佐竹義直【さたけよしなお(15??~1581)】

佐竹義之の男。官途は信濃守。1571年、長宗我部家が蓮池城を攻撃する前に義直は元親に内応する。その頃「秋はてば一でう冬にかかるべし、又こむはるをなにと信州」と高札に書いた歌が久礼城下に立てられた。1572年、佐竹義直は長宗我部の部将としてその地位を保証された。

佐竹親辰【(1563~15??)】)

佐竹義直の男。通称兵部少輔。佐竹親辰は才学があり、こと書に秀でていて長宗我部元親時代の書家六人に数えられる人物。長宗我部家滅亡後、堺にて「店だな」を開き、旧領久礼の遺臣、中城平次郎、天野屋清左衛門らと書簡を交わし佐竹家再興を願った。

佐竹義秀【さたけよしひで(15??~1581)】

佐竹義之の次男。高岡郡上ノ加江城主。通称太郎兵衛尉。室は長宗我部元親の娘(阿古姫)。1581年「伊予深田の戦い」で討死した。

佐竹親直【さたけちかなお(1566~1615)】

佐竹義秀の男。官途は蔵人佐。室は長宗我部元親の娘。1581年「伊予深田の戦い」で父佐竹義秀が討死したため家督を相続した。1614年「大坂の役冬の陣」では長宗我部元親盛親に従って入城した。1614年「大阪の役夏の陣」の「八尾の戦い」で討死した。

佐竹忠次郎【さたけじゅうじろう(1603~1671)】

佐竹親直の男。別名柴田外記朝意。1614年「大阪冬の陣」に十三歳で父と共に入城した。落城後母と共に天王寺口を脱出するが、伊達の部隊に捕らえられてしまった。その後、伊達政宗に使えた。後に仙台藩国家老の柴田家の養子となり3,000石を領して柴田外記朝意と称した。「伊達騒動」では原田甲斐を斬りすてた後にその場に集まった者に謀殺された。

佐竹家臣団【さたけかしんだん】

平尾新十郎、中城平次郎、天野屋清左衛門。

敷地藤安【しきちふじやす(15??~1549)】

塩塚城主。本山家臣。官途は民部少輔。豪族衆の入野家重から申し込まれた娘の縁談を断ったことで入野に一条房冬へ讒言され、追討令を受けて討死した。剛の者だったという。

下田頼隆【しもだよりたか(15??~15??)】

公文家臣。石谷重信の次男。

白川兼親【しらかわかねちか(15??~15??)】

高岡郡豪族衆。一条家麾下の豪族衆。1544年、国人衆であった大平国興の領地である高岡郡東部の蓮池城を与えられた。

下元正直【しももとまさなお(15??~15??)】

津野家臣。通称孫九郎。後主家と共に長宗我部家に降った。

下元直良【しももとなおよし(15??~1624)】

岡良辰の男。下元孫九郎正直の養子。通称九郎兵衛。別名岡平右衛門。1592年「文禄の役」に出兵し、唐島で冬営中に兄岡勘助、吉田政重と共に虎退治をして勇名をはせた。兄岡勘助が虎を銃弾にて仕留めると、下元直良も続いて銃弾を発し虎に命中、吉田政重がその虎を切った。長宗我部滅亡後は土佐山内家に仕えた。

下元正良【しももとまさよし(15??~15??)】

下元直良の男。通称九郎兵衛。

志和孫次郎【しわまごじろう(15??~15??)】

高岡郡志和館主。志和館主3,600石を領した。仁井田五人衆のひとり。志和家はかなり古くからある名家で土佐日記にもその名が出てくる。五人衆の間で姻戚関係を結び領地を保持した。

志和宗茂【しわむねしげ(15??~1595)】

志和孫次郎の男。通称権之助。別称難波権之助。勘助の兄。四国勝瑞の陣などで活躍し、弟と共に勇名を馳せた。「朝鮮の役」にも一族で参陣し戦功を挙げた。志和家はその勇名と、高い知行、および志和港を領地に持ち、かなり有力な武士であった。そのためか、志和宗茂も弟と同様に他国)へ使者として使わされたあと、帰途梼原にて長宗我部の家臣船渡三郎左衛門、松原蔵人によって謀殺された。

志和宗禎【しわむねさだ(15??~1595)】

志和孫次郎の次男。通称勘助。別名難波孫次郎。長宗我部家に降伏して本領を安堵される。志和勘助は腕力が強く健脚で、笛の名手であった。1592年「文禄の役」では強弓をひいて敵を脅かし、加藤清正が関心した。長宗我部家が土佐一国に封じられ、阿波の蜂須賀家に使者として赴いた所、蜂須賀家政にその剛勇を称され仕官の話を持ちかけられる。その場は差し障りの無い返事をして土佐に帰国したが長宗我部元親はこの話を漏れ聞き実否を糾明せずに黒岩玄蕃に命じて勘助を謀殺した。その後志和城を攻めて一族を討伐した。

志和甚右衛門【しわじんざえもん(15??~15??)】

志和勘助の男。1613年「大坂の両陣」では長宗我部隊には属さず毛利豊前守吉政に従い奮戦した。役後に山内忠義に300石で仕えた。

真西堂如渕【しんざいどうじょえん(15??~1588)】

吉良親貞の庶男。土佐宗安寺の僧。東福寺、妙心寺で修行した後、長宗我部元親に招かれ、岡豊城で儒学を講じる。同じく儒学を学んだ忍性と共に重用される。1588年、吉良親実に属する者として長宗我部元親に誅殺された。

秦泉寺茂景【じんぜんじしげかげ(15??~15??)】

土佐郡秦泉寺城主。秦泉寺大和守の男。官途は掃部頭。秦泉寺茂景は本山家麾下に属していたが東から長宗我部国親が勢力を拡大すると、秦泉寺茂景は近隣の大高坂家や国沢家の援助を受け、長宗我部国親に抵抗した。1556年、長宗我部国親は秦泉寺城攻略の軍を起こし、秦泉寺茂景は降伏した。本山方の侵入勢、中島新介らを今井、大黒家と共に撃退するなど高名をなした。のちに秦泉寺家の農民と土佐一宮の郷民との間に争いがおこり、一宮郷民が殺されたので一宮の神職は農民の引渡しを要求したが掃部がこれを拒否したために長宗我部元親の怒りに触れ中島大和に討たれる。

秦泉寺秦惟【じんぜんじやすこれ(15??~15??)】

秦泉寺茂景の男。官途は豊後守。父秦泉寺茂景と共々長宗我部家に仕えた。1560年「長浜戸の戦い」において、初陣の長宗我部元親に槍の使い方を指南した。長宗我部元親に対し謀反を企てたとして長宗我部元親の命令を受けた中島親吉に謀殺された。

専光寺右馬允【せんこうじうまのじょう(15??~15??)】

安芸家臣。1569年、長宗我部元親に降伏。安芸城への先導役を務める。横山紀伊、岡林将監、専光寺右馬允、小川新左衛門、小谷左近右衛門が呼応した。

専当左馬丞【せんとうさうまのじょう(15??~15??)】

安芸家臣。1563年、兵300余名を率いて長宗我部家の岡豊城を攻める。一条家から援軍3,000名が派遣されたが、長宗我部家臣吉田重俊らに敗れた。一条兼定は両家の仲介役となり和議を斡旋した。

------------------------------------------------------

【た】

高石与七【たかいしよしち(15??~15??)】 

本山家臣。1565年、岡豊城周辺に攻め込むが撃退された。

高島正重【たかしままさしげ(15??~15??)】

長岡郡の豪族衆。通称新三郎。一条兼定に仕えてたが、文筆や書の才能に定評があった事から長宗我部元親の家臣となり、近習として仕えた。長宗我部盛親が改易されると、土佐国の大名となった山内一豊に仕え、長宗我部元親の三十三回忌に際して、自慢の文筆能力を用いて「元親記」を書き上げた。

高嶋孫右衛門【たかしままござえもん(15??~15??)】

高島正重の男。

高橋壱岐守【たかはしいきのかみ(15??~15??)】 

雀ヶ森城主。本山家臣。

高野六郎兵衛【たかのろくろうびょうえ(15??~1615)】

高野助兵衛の男。津野家臣。長岡郡大津郷鹿児を本拠とした豪族衆。1592年「文禄の役」に参陣した。「熊川の戦い」で敵船二艘を乗っ取り、三艘を焼くという戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」後、山内入国にあたり須江村の庄屋として召し出された。

高野嘉義之助【たかのかぎのすけ(15??~15??)】

高野六郎兵衛の男。1598年、津野親忠家臣として知行を拝領。しかし、津野親忠失脚後は長宗我部盛親より知行を拝領した。その後、長宗我部家改易後、山内家によって庄屋を申し付けられた。

高野道也【たかのみちや(15??~15??)】

高野六郎兵衛の次男。通称源右衛門。

竹中弥右衛門【たけなかやえもん(15??~15??)】 

本山家臣。

立川五郎右衛門【たちかわごろうざえもん(15??~15??)】

本山家臣。立川に居住したが、本山家の降伏後は永田村に転居。姓を立川と改めて長宗我部家臣となる。長宗我部家の改易後、再び立川に居住した。

立石右京進【たていしうきょうのしん(15??~15??)】

幡多郡下ノ加江を領した。

立石正賀【たていしまさよし(1565~1659)】

立石右京進の男。通称助兵衛。1580年、久武親信の伊予三滝城攻めに参陣した。1582年、久武親信に従い「伊予高森、深田城の戦い」では敵将深田太兵衛を討取った。重臣となり、中内兵庫、町又五郎、豊永藤五郎、長宗我部盛親らと共に長宗我部元親より後事の遺言を受けた。1600年「関ヶ原の役」後、横山新兵衛と共に京に残り、井伊直正を通じて松平元康に謝罪したが、結局長曽我部家は改易された。その後細川忠興に仕えて1,500石を領した。

立石摂津守【たていしつのかみ(15??~1574)】

一条兼定追放後の家老衆討伐に加久見左衛門らとともに加わった。一条内政の後見役も務めたという。1574年、長宗我部家の庇護の下にある一条家を悲しみ、「自身の後見の至らなさが土佐一条家を滅亡に追いやった」と自刃した。

谷村六郎【たにむらろくろう(15??~15??)】

安芸家臣。

田上善衛門【たのうえぜんざえもん(15??~15??)】 

本山家臣。1565年、加田城番。

為松若狭守【たんまつわかさのかみ(15??~15??)】

一条家臣。一条家四家老のひとり。遊興に耽り国政を蔑ろにする一条兼定を憂い追放するが、それをよしとせぬ同僚らに攻めこまれて討たれた。

千屋貞尭【ちやさだあき(15??~15??)】

千屋城主。通称文大夫。土佐国四家のひとつ。千屋家は森、国沢、蚊居田の諸家と並び、土佐七守護に継ぐ地位にあった。土佐守護代細川家が田村荘に赴任してからは、千屋家は細川家に従った。1507年、細川政益、国益父子が、本宗細川政元暗殺後に京都へ戻ると、千屋家は再び独立領主化した。長宗我部国親が南進すると、当主千屋文大夫貞尭はこれに従った。

長安総【ちょうやすふさ(15??~15??)】

立川上名村城主。山本家臣。官途は越前守。嫡男長左近左衛門とともに馬廻衆を務めた。「長浜の戦い」「朝倉の戦い」で奮闘した。弓に長じ、朝倉合戦では十六人を射殺した。主家没落後は逃亡した。のち一族は長宗我部家に仕えた。

津島勘助【つしまかんすけ(15??~15??)】

栗本城主。1575年、一条兼定は中村城奪還のために、伊予の法華津播磨守らの助勢を得て栗本城に要害を構えて拠点とした。一条兼定と長宗我部元親の軍勢は「四万十川の戦い」で決戦を行い、一条兼定勢は敗れ敗走した。

津野基高【つのもとたか(1503~1553)】

高岡郡姫野々城主。藤原北家藤原基経の孫である藤原経高を祖とする一族で、津野経高が土佐国津野山を開拓して津野家を称した事が源流とされるが、諸説あり確証はない。高岡郡の有力国人として成長し、室町時代の津野之高の時に全盛期を迎えて土佐七雄の一人にも数えられた。1517年、津野元実が一条家との戦いで討死した後は一条家の勢力に押されてた。1546年、一条家に従属した。その後の津野勝興の代に長宗我部家に降伏し、津野勝興の跡は長宗我部元親の三男である長宗我部親忠が継いだ。

津野定勝【つのさだかつ(15??~15??)】

津野基高の男。長宗我部家の一条家攻めの協力を要請したが、拒否したため長宗我部家恭順に一決した家老衆に伊予国に追放された。

津野勝興【つのかつおき(15??~1578)】

津野定勝の男。父津野定勝が長宗我部家からの一条家討伐協力を拒否したことで、長宗我部家を恐れた家臣から伊予に追放されると、家督を強制的に家督を相続した。長宗我部元親の三男、長宗我部親忠を養子に迎えた。1600年、津野親忠が弟の長宗我部盛親の命で殺害された事により津野家は滅亡した。

津野親忠【つのちかただ(1572~1600)】

長宗我部元親の三男。長宗我部元親が津野家を攻めたとき、津野勝興を降してその養子として津野親忠を送り込んだことにより、津野家の当主となった。1585年「四国の役」で、父長宗我部元親が羽柴秀吉に敗れると、人質として大坂城に送られる。1586年、兄長宗我部信親が「戸次川の戦い」で討死すると、長宗我部氏の家督相続争いに巻き込まれる。家臣の久武親直の讒言と、人質時代に藤堂高虎と親しかったこともあって父長宗我部元親に嫌われ、家督は弟の長宗我部盛親が家督を相続することになった。1599年、長宗我部元親によって幽閉される。1600年「関ヶ原の役」で、長宗我部盛親が西軍に与して敗れた後、井伊直政を通じて松平元康に謝罪し、本領安堵をしてもらうように取り付けようとしたが、久武親直が「津野親忠が藤堂高虎と謀って土佐の半国を支配しようとしている」と讒言したために、長宗我部盛親によって謀殺された。

土居宗珊【どいそうさん(1512~1571)】

一条家臣。筆頭家老で、智勇兼備の名将であった。長宗我部元親の侵攻に遭って弱体化してゆく主家を必死に支えた。内政を省みぬ一条兼定を何度も諌めて正道に戻そうとするが、逆に疎んじられ、遂には刺客を送り込まれて謀殺された。

土居家通【どいいえみち「(15??~15??)】

土居宗珊の男。官途は伊豆守。別名今城伊豆守。中村上谷城主で父は一条四家老筆頭土居宗珊。1583年に予州の押さえとして、北ノ川石ヶ城へ在番。四国征伐の後に下城し、藤野川村に蟄居した。次男土居通豊が山内家に仕え、岩門、芽生、藤川を領した。

土居通治【どいみちはる(15??~15??)】

土居家通の男。通称藤大夫。

土居通豊【どいみちとよ(15??~15??)】

土居家通の次男。通称彦右衛門。

土居勝行【どいかつゆき(1552~15??)】

一条家臣。官途は肥前守。通称孫太郎。吉良左京進の呼びかけに応じ、起請して長宗我部家に属す。勝行は高岡郡津賀地の代官となり、塚地城主、重臣として活躍した。後継ぎ問題では吉良家の勝賀野次郎兵衛征伐を元親に命ぜられ見事に討取った。老後は朝倉綱代谷に居斎を構えて隠士となり、1645年、中屋万六に勝賀野次郎兵衛討伐の話を伝えた。

十市備前守【といちびぜんのかみ(15??~15??)】

幡多吉名城主。

十市親隆【といちちかたか(15??~15??)】

十市備前守の男。通称新右衛門。室は香宗我部親秦の娘。長宗我部家の若年寄衆として1,100石を領した。1586年「戸次川の戦い」に参陣し長宗我部元親と共に戦線を離脱した。自刃しようとした長宗我部元親を諌めて土佐国に帰還した。1600年「関ヶ原の役」では東軍加担の使者として松平元康の元へ向かうが近江国の関所を突破する事ができずに帰還した。

徳久亀之助【とくひさかめのすけ(15??~1601)】

本山家臣。のちに長曽我部家に仕えた。1600年「関ヶ原の役」のち失領となった長曽我部家の旧臣らを率いて浦戸一揆を起こしたが、鎮圧されて討たれた。

利岡辰巳【としおかたつみ(15??~15??)】

利岡氏は一条氏と共に土佐に下向し、幡多郡中村郷利岡を領して利岡を名乗った。辰巳は長宗我部に仕え、四国征伐では敵に股間を射抜かれ、福留隼人に助けられる。娘は江村備後守の妻、息子の彦兵衛は浦戸一揆の八人の大将の一人として戦死。

利岡彦兵衛【としおかひこべい(15??~15??)】

利岡辰巳の男。

戸田采女助【とだうねめのすけ(15??~15??)】

津野家臣。1511年、戸田采女助が津野元実の招きにより来国して当地を開発し、津野家臣として活躍した。1543年「大野見の戦い」で一族の戸田長衛門尉が戦功を挙げた。

戸田大炊助【とだおおいりのすけ(15??~15??)】

戸田家は船戸の有力土豪衆。長宗我部家では戸田家筆頭で、自ら十五町五反を領した。その他船戸、桑ヶ市、鳥出力、力石の数町を一族六名で押さえていた。一族には戸田掃部、戸田蔵介、戸田孫左衛門らがいた。

戸田弥平次【とだよへいじ(15??~15??)】

戸田大炊助の男。

鳥屋源兵衛【とりやげんべい(15??~15??)】

一条家臣。栗本城主。1575年、土佐帰還を目論む一条兼定は、栗本城に拠って「四万十川の戦い」で長宗我部勢と戦ったが敗北し、一条兼定は伊予国まで撤退した。

富家刑部【とみいえぎょうぶ(15??~15??)】

本山家臣。1557年、森山城に入り長宗我部元親勢の攻撃に備えた。1560年、長宗我部元親に降伏した。以後も森山城を守備した。

------------------------------------------------------

【な】

長崎内蔵助【ながさきくらのすけ(15??~15??)】

和食家臣。和食親忠没後、勢力を拡大した。永禄年間初期、安芸国虎の麾下に属した。井町源七郎の後見役となった。1569年、安芸国虎から長宗我部元親との決戦に際し、安芸城の籠城に参陣するよう求められた。

中島新介【なかじましんすけ(15??~15??)】

本山家臣。1565年、岡豊城攻めのため一宮に攻め込む。高石与七、岡崎与左衛門、桑川久助らもこれに加わった。泰泉寺方面も攻めるが、泰泉寺大和守らに迎撃され撤退。

中平之房【なかだいらゆきふさ(1518~1605)】

高岡郡半山城主。官途は駿河守。津野家の庶家。代々津野家に従え勇名を馳せた。津野家が長宗我部家に臣従すると中平之房も長宗我部家に降った。津野親忠が自刃した時には中平左近兵衛近房を使いに立て、藤堂高虎にその事実を伝え、津野親忠の遺物を贈った。

中平忠清【なかだいらただきよ(15??~15??)】

中平之房の男。通称清兵衛。山内一豊が須崎巡視のさい、代官柏原新之丞にたいして津野親忠切腹の詳細を知る者はいないかという要望があったため召しだされた。山内一豊に仕官の意向があるかと問われるが、津野家の菩提をとむらう事を理由にそれを断った。再度の仕官をも断り、武士への取立ては固辞したが、神田村都崎の町づくりに専念したい旨を申し入れ庄屋として任命され、山内家の手厚い保護を受けて街の発展に尽力した。

中山田泰吉【なかやまだやすよし(1541~1613)】

香宗我部秀通の男。通称左衛門佐。別名香宗我部左衛門佐。室は一条兼定の養女。長宗我部国親の男長宗我部親泰が香宗我部家の家督を相続したため、所領である香美郡中山田に居住し、中山田家を称した。香宗我部親泰、香宗我部貞親の家老職。香宗我部貞親の後見人。知勇兼備の名将。礼法に詳しく、儒学を学び、長身色白の容姿のため人望を集めた。また、家臣に対して信賞必罰の精神で接したため、家臣からも慕われた。1600年「関ヶ原の役」では松平元康と気脈を通じ、井伊直正を通じて「香宗我部家は長宗我部盛親と別心である」とつたえ、松平元康も香宗我部家の後時存続を約束した。中山田の家督は自分の弟の中山田秀政を養子として家督を相続させた。長宗我部滅亡後は山内家に仕えた。
 
中山田秀長【なかやまだひでなが(15??~15??)】

中山田泰吉の男。
 
中山田秀政【なかやまだひでまさ(1544~1619)】

香宗我部秀通の次男。香宗我部親泰、香宗我部貞親の家老。香宗我部貞親の後見人。後に兄中山田泰吉から家督を譲られた。孫の中山秀治の時、香宗我部重親から香宗我部秀治の三男久秀に三女を娶らせ、香宗我部家の分家を興したいという申し出があった。中山田秀治はこれを承諾した。香宗我部重親が堀田家の遠戚であることから、香宗我部家は堀田家譜代の家柄として扱われた。
 
中山田政氏【なかやまだまさうじ(15??~15??)】

中山田秀政の男。1600年「関ヶ原の役」後、香宗我部貞親と共に堺に移る。香宗我部貞親が寺沢広高に仕官するまで付き添い、後に土佐国に戻った。

那須外記【なすげき(15??~15??)】

幡多郡の豪族衆。後に長宗我部家に仕えた。弓の達人で名馬鉄砲黒にまたがり四国各地を転戦して戦功を挙げた。後に長宗我部元親へ鉄砲黒を献上し、感状と100石の加増をうけ計600石を領した。

南部太郎左衛門【なんぶたろうざえもん(15??~1615)】

津野家臣。南部家は高岡郡大野見郷を領した。始め津野家に属して後に長宗我部元親に降伏した。南部太郎左衛門は米川を領した。1600年、山内入封に伴い山内家に仕え200石を領した。家老山内備後守の家臣となった。1614年「大阪冬の陣」が起こると大阪城に入城した。「八尾の戦い」で討死した。

南部源左衛門【なんぶげんざえもん(15??~15??)】

南部太郎左衛門の男。

西原清延【にしはらきよのぶ(15??~15??)】

高岡郡中江城主。西原家は仁井田五人衆のひとり。西原家は本姓菅原家で吉村左衛門清延の時に紀伊国日高郡から一条家に従って土佐国にやってきた。仁井田郷窪川西原城を領し、藤原西原姓を一条家より賜った。

西原清澄【にしはらきよずみ(15??~15??)】

西原清延の孫。西原清澄は西原清延の孫にあたり「浦戸一揆」に参陣した。

西十兵衛【にしじゅうべい(15??~15??)】

西宗勝の三男。1614年「大阪の陣」に出陣し長宗我部盛親に従った。1615年「八尾の戦い」で藤堂新七と勇戦した。落城後は伊予宇和島に隠れ住んだ。

西内道昭【にしうちみちあき(15??~15??)】

山田家臣。官途は越前守。西内家は細川詮春の庶家。「応仁の乱」の頃細川源右衛門尉財英が土佐国にくだり山田家に仕えた。

西内常陸介【にちうちひたちのすけ(15??~1557)】

西内道昭の男。吉田重俊にして「勇気あり智慧深く、礼譲厚くして人を尊げ、軍士を使う事手足の如し」と言わしめた名将。主家の公家化を諌め蟄居中に長宗我部家によって討たれる。弟西内源左衛門と曾孫西内佐渡守は長宗我部家に仕えた。

西内周防守【にしうちすぼうのかみ(15??~15??)】

西内常陸介の男。

西内喜兵衛門【にしうちきざえもん(15??~15??)】

香宗我部家臣。西内左近の男。1570年、香宗我部親泰の領する安芸城の守将となる。1574年「野根城の戦い」に際し、惟宗国長の隙を衝いて野根城を奪う。長宗我部元親はその戦功を賞賛した。後に本山城城番となった。

西宗勝【にしむねかつ(15??~15??)】 

高岡郡影山城主。官途は和泉守。西家は仁井田五人衆のひとつで東家の庶家。

西和田茂直【にしわだしげなお(1552~1623)】

本山茂辰の三男。西和田越後守の養子。通称勝兵衛。別名本山治部少輔。兄の本山将監、本山内記と共に長宗我部家に降った。西和田越後守の養子になり西和田姓を称した。長宗我部家改易後石見国に居を移した。

仁谷岡源左衛門尉【にたにおかげんざえもん(15??~15??)】

安芸家臣。1563年、安芸国虎から長宗我部家の岡豊城攻撃で戦功を挙げた。

二宮房資【にのみやふさしげ(15??~15??)】

二宮城主。一条家臣。

二宮惟宗【にのみやこれむね(15??~1575)】

二宮房資の男。官途は治部少輔。1575年、二宮惟宗は長宗我部勢との「四万十川の戦い」で討死した。

布玄蕃【ぬのげんば(15??~1575)】

布城主。一条家臣。1575年、長宗我部元親の攻撃を受け、蔵橋城へ敗走し討死した。

能勢宗兵衛【のせそうべい(15??~15??)】

香宗我部親泰家臣。香宗我部親貞の補佐役となる。1615年「八尾の戦い」に敗れ長宗我部盛親を守って落延びた。途中、長宗我部盛親と離れ離れになった。その後、土佐に帰郷。仕官の誘いを断り、隠居した。

野口寄長【のぐちよりなが(15??~15??)】

山田家臣。通称総左衛門。公家化の進む山田家は領内に八王子宮建設を決める。野口寄長は近江国坂本の八王子宮よりわかれのみたまを運び山田の八王子宮に迎えた。

延清四郎左衛門【のべきよしろうざえもん(15??~15??)】

延清家は大忍庄西川筋の豪族衆。長宗我部家に降伏し、旧所領のうち中西川から口西川にかけた四町五反を給地として安堵された。

延清惣左衛門【のべきよそうざえもん(15??~1617)】

延清四郎左衛門の男。1600年、長宗我部家が改易されると山内家に仕えた。山内家では山田郷大庄屋を任された。灌漑用水の事で山内家臣と争いを起こし、磔刑に処され、相手の武士も切腹する。延清惣左衛門の娘(伊曽)は山内忠義に仕えて寵愛されていたが、父の事件により山内家臣後藤内蔵介に預けられ自刃した。

野村孫右衛門【のむらまごうえもん(15??~1600)】

香宗我部家臣。野村家は近江源氏佐々木家の一族で近江国浅井郡野村庄に発祥。香宗我部家と共に中世初頭に香美郡宗我部郷に下向し土着した。代々香宗我部家に仕えたが、香宗我部親秦が香宗我部家を相続したので、長宗我部、香宗我部両家に仕えた。一族は土佐国内に繁栄し、約五十家が長宗我部地検帳に確認できる。野村孫右衛門はこの野村家の首領格であった。1600「関ヶ原の役」後、長宗我部家改易にあたり、吉川善介ら八人の首謀者の一人として浦戸一揆をおこし討死した。

------------------------------------------------------

【は】

波川清宗【はかわきよむね(15??~1581)】

土佐郡波川玄蕃城主。室は長宗我部国親の娘。長宗我部国親に側近として仕え、長宗我部家枝連衆として活躍した。その後も長宗我部元親の四国統一に大きく貢献して、幡多郡山路城主となった。伊予国で河野家から長宗我部軍に寝返った大野直之を援護する為に派兵されたが、河野家の援軍に訪れた小早川隆景軍と単独で和睦を結んで大野直之を見捨てて退却するなど、失政が多く蟄居させられた。1580年、謀反を企んだが露見し阿波国へ逃れたがまもなく自刃した。

萩野織部【はぎのおりべ(15??~15??)】

韮生の豪族衆。山田家の麾下に属した。山田家滅亡後も長宗我部家に反抗し、本山茂辰の元に参陣した。しかし、他の諸家らと共に長宗我部家に降伏した。五百蔵藤五郎と共に豊永郷の寺石家、竹崎家の両家を討伐した。

畑山元明【はたけやまもとあき(15??~15??)】)

安芸家臣。官途は大和守。
 
畑山元氏【はたけやまもとうじ(15??~1582)】

畑山元明の男。官途は越後守。1567年、長宗我部元親の大忍庄攻めに敗れる。1569年、次男右京太夫と共に安芸千寿丸を連れ、阿波矢野家の下へ逃れた。1582年「中富川の戦い」で討死した。

畑山実忠さねただ【はたけやま(15??~1589)】

畑山元氏の男。通称内蔵尉。父畑山元氏の後を追い、阿波国に落延びた。後に長宗我部家臣野中三郎左衛門の仲介によって長宗我部元親に仕えた。1588年、長宗我部元親への不満を漏らしたことから忠誠を誓う起請文の提出を命じられたがその後も態度は改まらなかった。1589年、嫡男畑山実春と共に安芸城北木戸にて自刃を命じられた。

畑山実春【はたけやまさねはる(1571~1589)】

畑山内蔵尉の男。官途は右京介。1589年、父と共に自刃を命じられる。家臣36名は激怒し、一矢報いようと安芸城に攻め込む。全員討死したが、長宗我部元親はその忠節を褒め、36基の卒塔婆を建てた。あるいは怨霊を恐れたのだろうか。畑山実春の子内蔵次丸は家臣に連れられ、畑山の竹林に身を隠す。しかし、長宗我部家臣竹崎木工左衛門に見つかり謀殺された。
 
畑山右京太夫【はたけやまうきょうだいふ(15??~1582)】

畑山元氏の次男。1569年、安芸千寿丸を連れて阿波国の矢野家へ落延びた。1582年「中富川の戦い」で討死した。
 
畑山元康【はたけやまもとやす(1557~1642)】

畑山元氏の三男。通称左近尉。父の後を追い、阿波に移る。兄畑山実春らが誅殺されると、阿波に逃れる。後に畑山に帰郷。山内家から畑山家の相続を許され、庄屋となる。長宗我部家から追われた時に、鉄炮疵を負った。鉄炮玉は左脇下に残り、後に鉄炮玉の位置は左膝上に下がった。また、追撃を受けた時に家臣某が身代わりとして自刃した。
 
畑山重房【はたけやましげふさ(15??~15??)】

畑山元康の長男。通称忠左衛門。1610年、父から家督を譲られた。
 
畑山元利【はたけやまもととし(15??~15??)】

畑山元康の次男。通称孫之丞。
 
畑山元経【はたけやまもとつね(15??~15??)】

畑山重房の男。通称次左衛門。

幡多郡豪族衆【はたのぐんごうぞくしゅう】

奈良城主:奈良長門入道、竹葉城主:竹葉権頭、安宗城主:安宗因播守実刻、和井城主:和井掃部祐、山田桐島城主:桐島仁兵衛、柴岡城主:柴岡尾張守、鶴が城(吉奈城)主:十市備後守、岡宗城(岡城)主、岡(宗)和泉守輝之、引地城主:広井新兵衛俊国、松岡城主:松岡四郎左衛門、立田九郎左衛門、平能実、増田丹波守、柴岡尾張守、山本兵庫頭、蔵橋伯耆守、大脇越後守、福井兵庫守、大岐左京進、横山隼人、布加賀入道、岡林左衛門、今城伊豆守、下山丹後守、篠田宗円、中平壱岐守、竹葉権頭、本井藤八郎、森沢兵庫、有岡阿波守、入江左近、敷地相模守、上山田良兵衛、近沢掃部、野並亀千代、久礼掃部、長崎磯之進。

羽生道成【はぶみちなり(15??~15??)】

羽生城主。一条家臣。官途は丹波守。祖父道将も家老を務めたとゆうから譜代家臣か。一条兼定追放に参加した。

羽生監物【はぶみちなり(15??~1574)】

一条家臣。一条家四家老のひとり。1574年、一条兼定を豊後へ追放する。これに反発した加久見左衛門は中村城を攻め、この合戦で監物らは討死した。

葉山甚左衛門【はやまじんざえもん(15??~15??)】

吉良親実家臣。通称安之丞。吉良親実の介錯を務め殉死した。

葉山五郎右衛門【はやまごろうざえもん(15??~15??)】

葉山甚左衛門の男。1592年「朝鮮征伐」に際して戦功があった。吉良親実が自刃を命じられた事に遺恨を抱き、長宗我部盛親と不和になった。1600年「関ヶ原の役」後、山内一豊に仕えた。

東小路教行【ひがしこうじのりゆき(15??~15??)】

一条房家の次男。一条家臣。別名一条教行。一条家の「御一門」と称された一条家一家衆。1549年、従五位下に叙任された。

東小路教忠【ひがしこうじのりただ(15??~15??)】

東小路教行の男。河原渕家の養子。官途は式部少輔。河原渕家は西園寺家の勢力圏の国人衆であったが、一条家から養子に入ったので一条家と緊密な関係を持った。1570年、一条家と河野家との合戦で河野家の軍勢がが争った。

姫倉右京【ひめくらうきょう(15??~15??)】

姫倉城主。安芸家臣。1569年、長宗我部家に攻められ、安芸郡に逃れた。
 
姫倉豊前守【ひめくらぶぜんのかみ(15??~1569)】

姫倉右京枝連衆。姫倉豊前守は長宗我部家の家老職にとなり4,300石を領した。

姫倉親幸【ひめくらちかゆき(15??~15??)】

姫倉豊前守の男。通称太郎左衛門。若年寄として1,070石を領した。長宗我部家滅亡後には姓を岸と改めて他藩に仕えた。

弘田伊賀守【ひろたいがのかみ(15??~15??)】

吾川郡芳原城主。1540年、一条房冬に降伏した。1557年、本山茂辰に降伏した。1561年、長宗我部元親に降伏した。

弘田伸経【ひろたのぶつね(15??~15??)】

細川家臣。官途は筑後守。弘田家は香美郡田村庄の守護代細川家臣。

弘田伸秦【ひろたのぶひろ(15??~1600)】

弘田伸経の男。通称四郎兵衛。弘田伸秦は長宗我部元親に仕えた。土佐郡南部の本山家の支城討伐戦に参陣して戦功を挙げた。1561年、吉田三郎左衛門と共に石立城の守将になった。1600年「関ヶ原の役」後、長宗我部家の改易の際し起こった「浦戸一揆」に属して討死にした。

福良宗澄【ふくよしむねずみ(15??~15??)】

高岡郡本在家城主。官途は丹後守。別名越智宗澄。仁井田五人衆のひとり。官途は丹後守。元は河野十八家の一つだったがが仁井田の庄司職を代々勤めたことから仁井田庄司と呼ばれ、東と西に分かれてそれぞれ東家、西家と称した。福良宗澄は、青木番頭という職についた。長宗我部家に吸収されれ、加江坂本に隠居した。

福良宗隆【ふくよしむねたか(15??~1588)】

福良宗澄の男。通称助兵衛尉。別名越智宗隆。窪川宣秋の討死後、志和宗茂と共にに茂串城を任される。天目山に城を築城しようとして城からおろされ、城には中島吉右衛門がはいった。吉良親実自刃事件のとき兵を出すが、すでに吉良家臣が討たれた事を聞いて退却中に日下にて長宗我部元親勢に討たれた。.

福良助兵衛【ふくよしむねたか(15??~1600)】

福良宗隆の男。長宗我部家の改易後「浦戸一揆」の首謀者八人の大将のうちのひとり。浦戸を抜け出すが潜居先での水浴中に樹陰よりあらわれた伏兵に討たれた。

藤岡源助【ふじおかげんすけ(15??~15??)】

吾川郡南部の豪族衆。1580年、藤岡源助は波川玄蕃が謀反の疑いで註せられた後に波川城番となった。吾川郡伊野村加田で給田を与えられた。

藤岡次郎左衛門【ふじおかじろうざえもん(15??~15??)】

藤岡源助の男。長宗我部家の改易後、浪人した。

藤田政平【ふじたまさひら(15??~15??)】

片岡光綱家重臣。1585年、城主片岡光綱の討死を聞き、西条で亡骸を迎え、桑瀬峠を越え寺川を経て黒岩城に帰城した。

別所新助【べっしょしんすけ(15??~15??)】

安芸家臣。1568年、長宗我部元親の大忍庄攻めに敗れ、降伏した。

傍士内蔵介【ほうしくらのすけ(15??~15??)】

山田家臣。官途は内蔵介。山田家滅亡後には山田元義を世話し、山田家重代の宝刀を伝える。夢野方面と佐岡に給地があり、自らは夢野に居住したが大谷道直同様、長宗我部家臣というわけではなかったようである。山内入国に至って山内一豊を甲浦に出迎えて知行300石の馬廻衆として召抱えられた。後に城の門番の任についた時、喧嘩に巻き込まれて免職となった。

土佐細川政益【ほそかわまさます(15??~15??)】

田村城主。細川勝益の男。土佐国守護代。父細川勝益の時代から土佐国内での勢力が低下しはじめた。1502年、父細川勝益が病没すると兄細川政益が土佐細川家の家督を相続したが、土佐国豪族衆の台頭を抑える力はなくなっていた。1507年、土佐国守護職細川政元が病没すると、土佐国内でも乱世が訪れ、守護代勢力も減衰した。

土佐細川益氏【ほそかわますうじ(15??~15??)】

細川勝益の次男。

土佐細川氏実【ほさかわうじざね(1546~1586)】

細川益氏の男。1586年「戸次川の戦い」で討死した。

十市細川国隆【ほそかわくにたか(15??~15??)】

長岡郡十市栗山城主。長宗我部国親に十市栗山城を攻略され軍門に降った。以後細川家は長宗我部家の家臣として活躍した。

十市細川定輔【ほそかわさだゆき(15??~15??)】

細川国隆の男。官途は備後守。別名細川宗桃。細川定輔は娘を香宗我部親通に嫁して香宗我部家と姻戚関係を結んだ。一条家滅亡後に幡多の吉奈城主に任命され伊予南部の勢力に対峙する。細川定輔が吉奈城主となってからは嫡男細川正頼が十市城主となり、また次男池頼定が池城主となった。蜷川道標より連歌を学びんだ。

十市細川正頼【ほそかわまさより(15??~15??)】

細川定輔の男。官途は備前守。別名十市新右衛門。1600年、細川正頼は「関ヶ原の役」に参陣して行方不明になった。

十市細川正久【ほそかわまさひさ(15??~15??)】

細川正頼の男。通称喜兵衛。別名十市縫殿助。細川正久は「朝鮮の戦い」に参陣した。長宗我部家改易後は高岡郡用石村にて浪人していたが、山内一豊の入国前に土佐に入国した山内康豊を自宅に泊め、用石村に一町八反の給地を得て庄屋に任じられた。

堀内九郎兵衛【ほりうちくろびょうえ(15??~15??)】

一条家臣。一条家に従って各地を転戦して戦功を挙げた。その功を認められて一条康政より感状を受けた。一条兼定追放後は長宗我部家に降る。吾川郡中村郷喜津賀に居住し、本山家との戦いで活躍した。

------------------------------------------------------

【ま】

間崎越後守【まざきえちごのかみ(15??~15??)】

一条家臣。幡多郡間崎村の地侍で、一条家臣として蓮池勤番を命ぜられ、戸波にて二町の給地を得た。

間崎孫次郎【まざきまごしろう(1548~15??)】

間崎越後守の男。間崎孫次郎が十一の時、一条兼定を追い、一条兼定の伯父と言われる一条清学を当主とする動きが現れる。一条兼定方はこの騒動の中心人物であった家老六名と一条清学を間崎宅で討ち果たした。間崎孫次郎が二十一歳の時、伊予国高島での河野家との戦で戦功を挙げた。一条家滅亡後は間崎村田にて五町の給地を得た。

間崎太郎兵衛【まざきたろうびょうへ(15??~15??)】

間崎孫次郎の男。

町顕古【まちあきふる(15??~15??)】

一条家司の家柄。母は一条房家の娘。1548年、従五位下に叙任した。西園寺家の流れを組む御荘の御荘家を名乗る。戦国期になって実質的に継承した御荘(町)顕冬の嫡男。一条家臣の町顕量の養子となった。御荘家の家督は町定顕が相続した。

松田神左衛門【まつだかみざえもん(15??~15??)】

香宗我部家臣。

松田与左衛門【まつだよざえもん(15??~15??)】

松田神左衛門の男。1615年「大阪夏の陣」の「八尾の戦い」で藤堂仁右衛門を討取り、その薙刀を奪った。

松田彦太夫【まつだひこだいふ(15??~15??)】

松田与左衛門の男。藤堂仁右衛門の薙刀は山内家臣安田四郎左衛門の手に渡っており、松田彦太夫が「藤堂家に仕官するので返却して欲しい」と安田に申し出るが断られる。四郎左衛門没後に遺族の手で伊勢の彦太夫に薙刀は献ぜられた。

松田九郎右衛門【まつだくろうえもん(15??~15??)】

松田与左衛門の次男。

松田島主殿頭【まつだしましでん(15??~15??)】

安芸家臣。

溝淵九郎兵衛【みぞぐちくろうべい(1521~1605)】

山田家臣。別名小笠原貞隆。1569年、阿波国で小笠原貞隆を名乗っていたが、弟の小笠原貞慶と共に土佐国に入り、山田家に仕えた。このとき姓を溝淵と改め、名を九郎兵衛とした。弟も改姓して四郎左衛門と名乗った。山田家滅亡後に長宗我部家臣となった。

光富権之助【みつとみごんのすけ(15??~1593)】

幡多郡佐賀城主。一条家臣。のち長曽我部家に仕える。幡多郡中村の山路城を監していた。1575年、幡多郡の諸将が長宗我部家に降ったとき、権助は長宗我部元親から佐賀城を与えられこの地を支配した。「四国平定戦」に活躍するほか「戸次川の戦い」「小田原の役」にも参陣した。1592年「文禄の役」に渡海して戦うが重傷を負い、帰国途次に没した。

源康任【みなもとやすこれ(15??~15??)】

幡多郡秋利城主。源康俊の男。室は伏見宮邦高親王(専信尼)の娘。

源康政【みなもとのやすまさ(15??~15??)】

源康任の男。一条兼定の幼少の頃これを後見した。一条家の家司として仕えていた家柄。娘峰子は安芸国虎の室。1557年、一条兼定は京都の一条家宗家に預けられていた代わりに、源康政率いる土佐一条家の政所組織が奉書形式の書状で政務を行った。源康政は一条房基没後の一条家の在地定着、勢力拡大政策を主導し、自らも安芸氏と婚姻を結んだ。一条兼定が家臣団の離反によって追放された後も行動を伴にし、源康政が伊予の御荘家臣尾崎藤兵衛に発給した。1575年「四万十川の戦い」の戦功に対する感状を発給した。

源(秋利)康次【みなもとやすつぐ(15??~15??)】

源康任の次男。通称市正。一条兼定の側近。1564年、秋利康次署名の文書がある。

宮崎貞樹【みやざきさだき(15??~15??)】 

通称勘解由。室は加久見因幡守の娘。

宮崎貞久【みやざきさだひさ(1573~1613)】

宮崎貞樹の男。通称勘兵衛。室は国沢能直の娘。永禄年中に幡多郡山路城主、山崎三河守の出亡の後山路城主。天正年中に深木、実崎に所領を有していた。

宮崎直品【みやざきなおしな(15??~15??)】

宮崎貞久の男。通称仁右衛門。

宮地吉久【みやじよしひさ(15??~15??)】

天竺家枝連衆。通称五郎左衛門。長岡郡大津に領地を得た。政務に精通した家臣。検地役人として活躍し、戸波郷内にも加増を受けた。また、老齢ながら「文禄の役」にも参陣した。その戦功により吾川郡木塚、吉原、仁野などにも給地を得た。四町衆となり、浦戸へ出仕するようになる。長宗我部盛親の改易に伴い、山内康豊の求めに応じて国内鎮撫役を拝命、無事に任務を全うしたが、その領地は著しく小さくなった。

村田新六左衛門【むらたしんろくざえもん(15??~1526)】

香宗我部家臣。1526年、安芸家に攻められ、香宗城で自刃した。

本山養明【もよやまとうめい(15??~15??)】

長岡郡本山城主。1508年、豊かな長宗我部領を手に入れるため、山田家、吉良家と共に岡豊城を攻め、長宗我部兼序を討取った。1508年、長宗我部兼序討滅に参与した。本山城は山間部にあったため浦戸湾に進出して土佐を南北に縦断する形で領土を拡大した。

本山茂宗【もとやましげむね(1507~1555)】

本山養明の男。官途は左近大夫。武勇に優れた人物。「土佐七雄」で最も勢力が大きかった。山深い土佐北部から出て、経済的に豊かな土佐中央部へ侵攻し勢力を拡大した。本城だった本山城を山本茂辰にゆずり、朝倉城に本拠を移して領国経営を行った。1540年、荒倉山を超えて吾川郡弘崎に兵を進め、その地の豪族吉良家を滅亡に追い込む。1544年、一条家の軍勢と戦うなど、本山家の最盛期を築き上げた。本山城を本山茂辰に譲り、自らは浦戸湾に面する朝倉城を拠点として勢威を張った。山本茂宗の死後、本山家は長宗我部家の攻勢を受けるようになる。

本山茂辰【もとやましげとき(1525~1564)】

本山茂宗の男。官途は式部少輔。室は長宗我部国親の娘。父山本茂宗の死後家督を相続。長岡郡中央平野部の朝倉城に拠る。舅の長宗我部国親が反旗を翻したため、長宗我部国親及びその子長宗我部元親と抗争を続ける。1560年「長浜の戦い」で長宗我部勢に敗退。長宗我部側の調略により次第に傘下の豪族を切り崩され、浦戸城、朝倉城を相次いで失い山間部の本山城に退く。その後も失地回復はならず、本山城で没した。

本山貞茂【もとやまさだしげ(1545~1586)】

本山茂辰の男。官途は将監。通称太郎左衛門。本室は長宗我部国親の娘。山家と長宗我部家を和睦させるため、一条家の取り成しで行われた両家の婚姻により、本山家の男として生を受ける。長宗我部家当主、長宗我部国親の政略逞しく、その後も争いは小康期間を置いて収まらなかった。1560年「長浜の戦い」で敗北し、朝倉城と長岡郡平野部の失墜後、父本山茂辰が病没した。後を継いで徹底抗戦を続けるが、長宗我部元親は本山城近くの森城に、かつて本山家に追い落とされた森家を帰城させ本山家を圧迫した。本山親茂は本山城も捨て、叔父本山茂定が守る瓜生野城に撤退し、なおも抗戦し何度も寄せ手を撃退するが、耐え切れず遂に軍門に降った。枝連衆に加えられ、長宗我部家の嫡男長宗我部信親の家老として仕える。1586年、羽柴秀吉の「九州征伐」に長宗我部元親、長宗我部信親父子とともに本山貞茂も参陣した。「戸次川の戦い」で軍監仙石秀久の作戦失敗により、島津勢に囲まれ、本山親茂は長宗我部信親と共に奮戦するも討取られた。

本山茂定【もとやましげさだ(15??~15??)】

本山養明の次男。朝倉城主。

本山茂慶【もとやましげよし(15??~15??)】

本山茂辰の次男。通称内記。長宗我部元親の甥であることから助命され、吉良親貞の家臣として蓮池を領した。
 
本山茂直【もとやましげなお(15??~15??)】

本山茂辰の三男。通称又四郎。長宗我部元親の甥であることから助命され、長宗我部家臣西和田越後の入り婿となった。西和田勝兵衛と称して、馬廻衆となった。岡豊城下西和田に居住した。

本山采女【もとやまうねめ(15??~15??)】

本山因幡守の男。長越前守の縁者で本山梅慶の孫と言われる。本山家降伏後、長宗我部家に仕え八町七反を領した。長宗我部家の改易後は伊予国に退転した。

本山茂治【もとやましげはる(15??~15??)】

本山采女の男。通称与右衛門。本山与右衛門茂治は立川上名で庄屋として山内家に仕えた。

本山家臣団【もとやまけかしんだん】

高石与七、岡崎与左衛門、桑川久助、竹中弥右衛門、田上善衛門、高橋壱岐守。

森孝頼【もりたかより(15??~15??)】

土佐郡潮江城主。森頼実の男。官途は近江守。室は吉田重俊の娘。土佐国四家のひとつ。森孝頼は本山梅慶の攻撃をうけ、所領を追われて長宗我部国親をたよって岡豊城に落ち延びた。森孝頼は旧領回復のために本山家支配下の森郷に潜入し、諜略に努め、森城に見事復帰を果した。この事が本山家側に大きな打撃を与え、瓜生野撤退の直接の要因となった。讃岐藤ノ目城戦に参陣を求められるが、病気のため代将を送った。

森弾正左衛門【もりだんじょうざえもん(15??~15??)】

森孝頼の男。

森山越後守【もりやまえちごのかみ(15??~15??)】

森山城主。吉良親実家臣。1540年、一条家の麾下に属した。1560年、本山勢に攻められ落城した。

------------------------------------------------------

【や】

八木実茂【やぎのりしげ(15??~15??)】

本山枝連衆。1527年、朝倉池内天神社に棟札を与えた。長宗我部家の滅亡により、本山家の所領が鏡川を越えて朝倉城にまで達したいた。

安岡虎頼【やすおかとらより(15??~15??)】

安芸郡奈半利城主。安芸家臣。

山田元義【やまだもとよし(15??~1551)】

香美郡楠目城主。山田元秀の男。官途は治部少輔。別名山田基道。土佐七守護に数えられる有力国人衆。長年安定した基盤を維持していた山田家は戦国期一条家入部をきっかけに山田家も京の文化を取り入れ公家化が進行した。天文年間、山田元義は猿楽を好んで武道を好まず、政治を疎かにしていた。家臣烏ヶ森城主西内常陸介、雪ヶ峰城主山田長秀はこれを諌めたが、山田元義はかえってこれを遠ざけた。岡豊城主長宗我部国親の家臣吉田重俊は謀略を持ってまず西内常陸を討ち、大軍をもって山田城に攻め寄せた。山田長秀が江村小備後によって討ち取られると、山田元義は韮生へ逃れ山田家は滅亡した。
 
山田長秀【やまだながひで(15??~1551)】

雪ヶ峰城主。山田枝連衆。官位は監物。老齢にして勇猛な武将であった。宗家の公家化を愁い、西内常陸と共に蟄居するがその隙に長宗我部の侵攻に会う。1542年、「雪ヶ峰城の戦い」で手勢100騎を率い、長宗我部200騎と丸二日の激闘を演じる。最後には江村備後守に討たれた。
 
山田修理亮【やまだしゅりのじょう(15??~15??)】

山田頼秀の男。山田家滅亡後、五百蔵村にとどまり大仲臣姓を名乗り同地に土着した。

柳瀬貞重【やなせさだしげ(15??~15??)】

香美郡韮生郷の小領主。山田家臣。通称五郎兵衛。安芸郡和食の金岡城主和食親忠と同盟して安芸国虎と敵対した。和食、山田家の滅亡後に太西、川窪の両家を通じて長宗我部国親の麾下に属した。同郷の梶尾佐古名を給された。隣郷の豊永家に娘が嫁いでおり、地方小領主として必死の外交がうかがえる。韮生に退避した山田家の討伐で活躍した。

柳瀬孝重【やなだたかしげ(15??~15??)】

柳瀬貞重の男。通称吉右兵衛。五郎兵衛の子で元親、盛親に仕える。地検帳によると六町余りの領地を有する中堅の一領具足であった。慶長六年の山内氏の土佐入封に際し、浦戸に出頭、韮生郷笹口加番役、柳瀬組老役、柳瀬村の名主を命ぜられた。

柳瀬兵部左衛門【やなせひょうぶさえもん(15??~15??)】

安芸家臣。安芸郡十二人衆のひとり。

山崎祐明【やまざきすけあき(15??~1536)】

山田家臣。通称藤大夫。山崎家はもと攝津山崎の住人であったが乱を避け土佐に入り山田家に仕えた。のちに長宗我部家に仕え岡豊八幡宮の下司となった

山崎祐節【やまざきすけせつ(15??~15??)】

山崎祐明の男。通称藤大夫。父の後を継ぎ、八幡宮神主の谷家のあと神主となった。のちに韮生郷白石に移り轡城主となった。山崎祐品の代に長宗我部家が滅亡して所領を失った。

山崎祐品【やまざきすけしな(15??~15??)】

山崎祐節の男。通称九郎右衛門。山内家に仕え、白石村の名主を命ぜられた。

山本頼重【やまもとよりしげ(15??~15??)】

高岡郡黒岩城主。片岡家臣。通称伝次郎。片岡家に属して長宗我部家と敵対したが後に降伏した。

山本広重【やまもとひろしげ(15??~15??)】

山本頼重の男。通称主馬助。山本広重は光綱と共に「戸次川の戦い」で戦功を挙げた。長宗我部家で140石を領した。1600年「関ヶ原の役」後に長宗我部家が改易すると領地を失った。

横山紀伊守【よこやまきいのかみ(15??~15??)】

安芸家臣。安芸郡長正寺の住職で安芸郡の僧禄司を勤めていた。安芸国虎にその才能を認められ、国虎の要請で還俗した。1569年、長宗我部元親に降伏した。安芸城への先導役を務める。横山紀伊、岡林将監、専光寺右馬允、小川新左衛門、小谷左近右衛門が呼応した。

横山民部【よこやまみんぶ(15??~15??)】

横山紀伊守の男。1569年、長宗我部元親が安芸郡に侵攻すると、安芸城内で内応し井戸に毒を投下した。

横山友隆【よこやまともたか(15??~1615)】

安芸家臣。通称九郎兵衛。安芸家に仕えて、長宗我部勢に頑固に抵抗し戦功を挙げたが後に降伏した。「八流の戦い」で戦功を挙げ、若年寄として1200石を領した。長宗我部元親の「四国征伐」後に重く用いられた武将で介良庄を本貫地とするが、旧本山家の家臣達と共に浦戸城に詰めた。1592年「文禄の役」では浦戸城番大将となった。羽柴秀吉の命による大船建造を長宗我部元親より任された。1593年、領内の弾薬収集の任に当たった。軍事の面で長宗我部元親を支えた。また内政面でも若宮八幡宮の造営にも携わった。1615年「大阪夏の陣」で討死した。

横山友隆【よこやまともたか(15??~15??)】

公文家臣。石谷重信の三男。

横山道範【よこやまみちのり(15??~15??)】

天竺家臣。通称左京亮。1546年「大津の戦い」で下田駿河守らと共に長宗我部国親と戦った。大津城は落城するも、下田、横山両勢が奮戦し、長宗我部国親勢を敗走させるが、再び陣を立て直した長宗我部国親勢に坂折山で休憩していたところを急襲され敗北した。

吉松光久【よしまつみつひさ(15??~15??)】

秦泉寺枝連衆。吉松光義の男。官途は備後守。通称十右衛門。室は長曽我部元親の娘。土佐郡に影響力を持つ泰泉寺家の枝連衆で、清和源家の後裔にもあたる。はじめ土佐長岡郡を支配する本山家に仕えて土佐郡万々城主であったが、長宗我部元親の攻撃を受けて降伏した。後に元長宗我部親より娘を与えられて姻戚関係となり活躍した。

吉松光勝【よしまつみつかつ(15??~15??)】  

吉松光久の男。1563年、土佐郡大河内城主に任じられた。

依岡左京進【よりおかさきょうのしん(15??~1586)】

一条家臣。1574年、一条兼定の暴政により家中が乱れたため長宗我部元親に降る。1581年「伊予北之川城の戦い」で活躍した。1582年「本能寺の変」のときには京畿にあって情勢を元親に報せたとゆう。羽柴秀吉の「九州征伐」の「戸次川の戦い」で長宗我部信親を守って討死した。

依岡伯耆守【よりおかほうきのかみ(15??~15??)】

宿毛城主。1575年、依岡伯耆守の宿毛城は長宗我部元親に攻撃され落城した。

依光越中守【よりみつえっちゅうのかみ(15??~1586)】

川窪定氏の男。官途は越中守。父から所領四十八町を相続して山田に居住した。一向宗徒であった父の難に連座したが助けられて姓を依光に改めた。1582年「中富川の戦い」「勝瑞城の戦い」で戦功を挙げた。1586年「戸次川の戦い」で討死した。

依光蔵進【よりみつくらのしん(15??~15??)】

依光越中守の男。家督相続につき父と同じ蔵進を名乗る。父は川窪定氏(空念)の三男で十三町五反を給され、十六歳にて渡川の戦い出陣して敵の首を取り、讃岐引田で討死した勇将であったが、依光蔵進は、書の才能があり、十八歳にて禁裏より華道の免許を得る文化人であった。なお、この時長宗我部家中において、佐竹古閑、松田宗四郎が同じく華道の免許を得ている。1592年「文禄、慶長の役」に出陣し、敵の鼻を本国に送る土佐一国鼻奉行を務めた

和井舎人佑【わいとねりのじょう(15??~1559)】

一条家臣。1569年、和井舎人佑の放蕩な性格を一条兼定は怒り、その命を受けた小島出雲政章勢の攻撃を受け滅んだ。以後は小島政章の弟小島伊賀守が居城した。

和食親忠【わじきちかただ(15??~15??)】

和食城主。通称左衛門太夫。1547年、安芸家との合戦に備えるため、柳瀬五郎兵衛尉に加勢を求めた。
 
和食次郎太郎【わじきじろうたろう(15??~15??)】

和食親忠の男。文年間末期、和食家は衰退し、家臣の井上権頭、長崎内蔵助らが台頭しを許すこととなった。後に長宗我部家に仕えた。
 
和食家臣団【わじきけかしんだん】
 
和食了喜入道、和食左介、和食彦兵衛。

------------------------------------------------------

【資料Ⅰ】

土佐国(七郡/240,000石)

幡多郡:中村城、宿毛城。
高岡郡:蓮池城、姫野々城、黒岩砦。
吾川郡:吉良城、押ノ川城。
長岡郡:岡豊城、本山城。
土佐郡:秦泉寺城、浦戸砦、波川玄蕃砦。
香美郡:香宗城、山田城。
安芸郡:安芸城、金剛砦、室津砦。

------------------------------------------------------

【資料Ⅱ】

一条家枝連衆【いちじょうけきつれんしゅう】

東小路教行、西小路、入江左近、飛鳥井雅量、白河兼親の五家。

一条家四家老【いちじょうけよんかろう】

土居宗珊、羽生道成、為松若狭守、安並和泉守の四家。

土佐国七雄【とさこくしちゆう】

幡多郡中村城主:一条兼定(32,000石)、高岡郡蓮池城主:大平元国(8,000石)、高岡郡姫野々城主:津野親忠(10,000石)、吾川郡吉良城主:吉良親貞(10,000石)、長岡郡岡豊城主:長宗我部国親(6,000石)、長岡郡本山城主:本山茂宗(10,000石)、香美郡香宗城主:香宗我部親泰(8,000石)、安芸郡安芸城主:安芸国虎(10,000石)。※土佐国七雄とはかつて土佐国に存在した土佐一条家を除く豪族衆。

土佐国四家【とさこくよんけ】

土佐郡潮江城主森孝頼、国沢城主国沢将監、千屋城主千屋貞尭、長岡郡蚊井田城主蚊居田修理の四家。※土佐国で七守護に次ぎ4,000石程度の領地を持つ豪族衆。

仁井田五人衆【にいだごにんしゅう】

本在家城主福良(東)宗澄、影山城主西宗勝、中江城主西原清延、茂串(川窪)城主窪川俊光、志和城主志和孫次郎。

------------------------------------------------------

【資料Ⅲ】

土佐国【とさのくに】

四国の南端に位置する海南道の国。東は紀伊水道方面から海路紀伊国に通じ、西は豊後水道を経て豊後国を望む。北は東西に伸びる四国山地を境に伊予国と長い国境を持ち、北東は中国山地の東隅から南に阿波国に境を接する。南は長い海岸線で土佐湾に面する。三方を海に囲まれ、国土の八割は山地という山がちの国であるが、北に流れる吉野川と、南に流れる四万十川、安芸川、物部川などの大河が国内を流れ、その流域の平野部には古来から豊かな穀倉地帯が広がる。四万十川流域の中村平野、安芸川流域の安芸平野、物部川流域の香長平野、仁淀川流域の弘岡、高岡平野などがある。平野部の農業、沿岸部の水産業、山間部の林業と各産業が発達した。

土佐中村【とさなかむら】

土佐国幡多郡の四万十川の下流域に位置し、戦国期、土佐西部の大名土佐一条家の本拠として栄えた城下街。中村には他にも多くの河川が集中しており、同郡の交通、経済の中心地であった。中村は古くから一条家の家領幡多荘の中心にあり、前関白一条教房が下向して中村御所を構えて以降、土着した土佐一条家の本拠地となった。16世紀、一条家は朝廷や本願寺などの権門に何度も献金や贈与を行った。その献金額は平均千疋にものぼり、さらに贈り物には南蛮水指や緞子など舶来品も含まれており、一条家と本拠土佐中村の経済発展がうかがえる。1479年、四万十川上流から運ばれた材木が「土佐御所」から堺に輸送されており、中村が同河川の物資集積地であり、堺への木材資源の供給地であった。1536年、幡多郡で材木が切り出され、その後、本願寺の要請で派遣されてきた堺の技術者によって渡唐船が建造され、堺に回航された。

土佐浦戸【とさうらど】

土佐湾中央部の内海浦戸湾の入口に位置し、土佐中央部の内陸地域と外洋の結節点として古くから栄えた港町。10世紀前半、土佐守の任を終えた紀貫之は、浦戸から甲浦などを経て海路で京都に帰還した。戦国期頃から広まった海の慣習法である『回船式目』には、兵庫の辻村新兵衛尉、坊津の飯田備前守と並んで浦戸の篠原孫左衛門尉が記されている。1588年、浦戸に堺の納屋衆千家の一族や紀州雑賀門徒でのちに商人頭になる櫃屋の一族、さらに尼崎の一向宗門徒の商人たちが住んでいたことがわかり、畿内出身者が浦戸に多く移住してる。この背景には、畿内から土佐を経由して琉球、中国を結ぶ南海路の利用活発化があったと思われ、戦国期の土佐には堺商人の往来も確認できる。また一向宗も浦戸を拠点に進出しており、長宗我部家による情勢の安定化もあって、畿内の商人、職人が浦戸へと集まり、発展を支えた。

一領具足【いちりょうぐそく】

一領具足は、平時には田畑を耕し、農民として生活をしているが、領主からの動員がかかると、一領(ひとそろい)の具足(武器、鎧)を携えて、直ちに召集に応じることを期待されていた。突然の召集に素早く応じられるように、農作業をしている時も、常に槍と鎧を田畑の傍らに置いていたため、一領具足と呼称された。また正規の武士であれば予備を含めて二領の具足を持っているが、半農半兵の彼らは予備が無く一領しか具足を持っていないので、こう呼ばれていたとも言う。このような半農半兵の兵士であるから、一領具足は通常の武士が行うべき仕事は免除されていた。農作業に従事しているために、身体壮健なものが多く、また集団行動の適性も高かったため、兵士として高い水準にあったと考えられる。ただし、その半農半兵という性質上、農繁期の動員は困難であり、長期にわたる戦役には耐えられなかった。兵農分離によって農繁期でも大規模な軍事行動を起こせるようになった織田信長の農兵分離とは、全く逆の方向に進化した軍事制度。

土佐一条家【とさいちじょうけ】

摂家のひとつ一条家の分家で、土佐国に土着した家。いわゆる戦国三国司のひとつに数えられる。1468年、関白の一条教房が「応仁の乱」の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多郡に下向したことに起源を有する。一条教房は幡多郡を中心とした国人領主たちの支持を得た。一条教房とともに公家や武士、職人なども幡多荘に下向するなど、中村繁栄の基礎を築いた。一条教房の次男一条房家は京都に戻らず幡多荘の在地領主となり、中村御所を拠点に土佐の中村に京都さながらの街を築き上げ、官位も正二位まで昇進した。一条房家は土佐守護細川家と土佐を二分する勢力となり、公家としての権威を維持したまま同国に勢力をもつ大名として存在感を高めた。土佐一条家はその地理的条件を生かして、海上交通や対外貿易にも関与した。1537年、本願寺証如が一条房冬の「唐船」造営に協力し、琉球王国や李氏朝鮮との貿易が行われていた。勘合貿易以外のルートを用いた明との貿易や東南アジア方面との貿易を行い、対外貿易に積極的であった大内家や大友家、伊東家との婚姻も内外との貿易ルートの確保としての側面があった。一条家は直接的な軍事力こそ恵まれなかったものの、領内の在地領主層の利益を擁護して国人衆、豪族衆の支持を得ることによって勢力を維持、拡大するための軍事力を確保した。

土佐安芸家【とさあきけ】

安芸郡に君臨した安芸家は「壬申の乱」で土佐国へ流された蘇我赤兄の後裔と伝えられる。初代は安芸行兼とされ、安芸郡の豪族として、郡の西部から香美郡東部の大忍庄にいたる地域を領した。1185年、大領広康の子実元、実俊は長門国壇ノ浦で平教経と組んで入海した。1288年、畑山分知が行われ、知信が安芸本家を継ぎ、康信は分家して畑山家の祖となった。以後、安芸家は畑山家とともに銭貨を中心とする貨幣経済の波にのって富強を誇り、中世を通じて土佐国に重きをなした。

------------------------------------------------------

戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

------------------------------------------------------

2011年5月23日月曜日

山内一豊家臣団辞典

------------------------------------------------------

【あ】

市川信定【いちかわのぶさだ(15??~15??)】

若狭国能登野の豪族衆。若狭武田家臣市川定照の男。官途は山城守。山内一豊が長浜城主であった時に仕えた。火矢の名手で「小田原の役」では活躍した。山内一豊が遠江国掛川城に封じられた際、1,000石を領した。1600年「 関ヶ原の役」では、山内一豊は松平元康に従い「会津征伐」に参加していたが、会津攻めに出陣した大名の家族を人質に取ろうとした石田三成の手から見性院(千代)を救うため、山内一豊の使者として市川信定が派遣されている。

乾和信【いぬいかずのぶ(1544~1586)】

織田信長の家臣乾和宣の男。室は山内一豊の養女(安東郷家の娘)。通称山内彦作。1578年、山内一豊が播磨国三木城主別所長治攻めの際に初めて正式に召抱えられた。この合戦で軍功を立てたが負傷したため、気遣った山内一豊が着ていた紙製の陣羽織を脱いで和信に与えた。1585年、山内一豊が近江国長浜城に転封となると1300石を領する。1586年「長浜の大地震」の時、山内一豊の娘与祢(よね)を助けようとして、夫婦ともに死亡した。

乾和三【いぬいかずみ(15??~1633)】

織田信長の家臣乾和宣の三男。通称山内備後守。1578年、山内一豊の播磨国三木城出陣の際に、兄乾和信とともに山内一豊に仕える。1586年、「天正大地震」によって兄乾和信が死亡したあと、兄の遺児乾勝益、勝次が幼少のため、一時的に家督を相続する。家督継承は、乾勝益・乾勝次が成年するまでの予定であったが乾和三の働きが抜群だったため、乾和三の家系が乾家本流を継承することになった。1600年「関ヶ原の役」に参陣する。1601年、山内一豊の土佐国の転封で4500石。1622年、山内忠義の元で、野中直継、寺村淡路守、深尾重忠らと共に土佐領内の仕置を行う。

遠藤千代【えんどうちよ(1557~1619)】

山内一豊の室。美濃八幡城主遠藤盛数の娘で遠藤慶隆の妹。母は東常慶の娘で兄は遠藤慶隆である。見性院の幼時は戦に明け暮れる日々で母とともにあちらこちらの家を転々としていたらしい。山内家には「東常縁筆古今集」はじめ、東家から伝わる貴重な古今集がいくつかあった。これらは見性院が京都にも携えてきて愛用した和歌集だったが死去に当たり養子の山内忠義に形見として渡すよう、育て子の湘南宗化を通じて遺言したものである。嫁入りの持参金で山内一豊の欲しがった名馬(鏡栗毛)を購入し、織田信長の馬揃えの際に織田信長の目につき加増された話やまな板代わりに枡を裏返して使い倹約した話など、「内助の功」で夫を支えたエピソードで有名。1600年「関ヶ原の役」の前哨戦において石田三成挙兵を伝えた「笠の緒の密書」も有名である。山内一豊との間には娘(与祢)が1人生まれたが「天正大地震」により幼くして失い、それ以降は子供には恵まれていない。なお育て子として、「拾」のちの妙心寺住職の湘南宗化がいる。この拾は、与祢姫の供養のための妙心寺参りの門前あるいは山内家の京都屋敷で見性院に拾われたとの言い伝えがある。山内一豊は弟康豊の子忠義を土佐山内家跡目養子にしていた。1605年、夫山内一豊が病没すると見性院は、山内康豊に忠義を後見させて土佐を引き払って、湘南宗化のいる京都の妙心寺近くに移り住んでそこで余生を過ごした。2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」では仲間由紀恵が演じた。

遠藤とも【えんどうとも(15??~15??)】

千代(見性院)の母。戦で一家の住む集落が夜盗に襲われ、その際千代を庇って命を落した。※「功名が辻」by司馬遼太郎。

------------------------------------------------------

【か】

柏原新之丞【かしわらしんのじょう(15??~1612)】

柏原家は播磨国は赤松庶家。1582年、播州高原にて山内一豊に召し抱えられる。山内一豊は土佐入国後、領内安堵を図るために巡視を行った。その際、須崎で「津野親忠切腹の始末を知る者はないか。」と尋ねたところ、新之丞が「中平清兵衛が津野一族なので、この者を召されれば事実が明らかになりましょう。」と答え、中平清兵衛が召しだされて津野家断絶の一部始終が一豊に伝えられた。柏原新之丞の子の二代目柏原半右衛門は、山内一豊参加の聚楽第行幸時の太刀持や同装束六人衆(野中玄蕃、市川大炊、柏原半右衛門、乾七郎右衛門、乾伊助)の一人で、主に側近として仕えた。

五藤為浄【ごとう ためきよ(1553~1583)】

尾張国葉栗郡黒田の豪族衆。五藤浄基の男。通称は吉兵衛。五藤家は五藤浄基が山内盛豊の代から山内家に仕え、五藤為浄もまた当主山内一豊に従い浅井、朝倉攻略戦の「刀禰坂の戦い」などに転戦した。1583年「賤ヶ岳の戦い」の前哨戦である伊勢国亀山城攻撃の際、主君一豊の城内一番乗りを助けるが討死した。五藤家の家督は前野泰道の男、五藤浄清が継ぐ事になった。弟の五藤為重は山内家の家老となり、山内一豊が土佐入国をした際には、安芸土居を与えられて周辺を支配した。五藤家は幕末まで代々山内家の家老を勤めた。

五藤為重【ごとうためしげ(1558~1629)】

五藤浄基の次男。通称吉蔵。兄五藤為浄と共に山内一豊に仕え各地を転戦した。1583年、五藤為重が病気のため出陣できなかった「伊勢国亀山城の戦い」で五藤為浄が討死した。五藤家の家督は前野泰道の男牛右衛門浄清が相続、自身は家老職となった。1585年「天正大地震」には、近江国長浜城にいた山内一豊室を救い出した。1590年「小田原の役」で「伊豆国山中城の戦い」に従軍し、首級二つを挙げる功をたて加増された。山内家が土佐国転封になると安芸郡安芸城代1,100石。1615年「一国一城令」により安芸城が廃城になっても代官として安芸に陣屋を置いた。

------------------------------------------------------

【さ】

湘南宗化【しょうなんそうけ(1586~1637)】

臨済宗妙心寺の僧侶。養父は山内一豊。養母は見性院。通称捨(ひろい)。実の両親については不明。1586年、近江国長浜城で長女与祢を地震で失い、気落ちしていた山内一豊と千代(見性院)に、よね供養の門前で拾われて息子同様に育てられた。1595年、養父山内一豊の命令で家を離れて出家する。血筋でない彼に継がせるのは山内家にとって問題になると考えたのであろう。拾は京都で修行を積み、湘南宗化和尚となり、同時に養父母から土佐国の吸江寺を与えられて住職となる。京都妙心寺に大通院があるが、湘南宗化はその妙心寺大通院の第二代住持であり、朝廷から紫衣の勅許を受けるほどの高僧となった。湘南和尚の妙心寺時代の弟子に、後に還俗した山崎闇斎がいる。 この妙心寺大通院は以後、山内家菩提寺となり、ここに山内一豊夫婦の京都墓所もある。1605年、見性院は夫一豊が亡くなると、山内康豊に忠義を後見させて土佐を引き払い、拾のいる妙心寺近くに移り住んで余生をずっと京都で過ごした。見性院にとっては、拾はよねの生れかわりであった。

祖父江勘左衛門【そふえかんざえもん(15??~15??)】

尾張国津島神社の神職を務めていた家系の出身。祖父江家は「応仁の乱」以降土着した織田家、山内家に仕えた。1559年、祖父江村に隠退していたが、山内一豊が流浪の身になると、それを出迎えて、五藤浄基と共に家老となった。羽柴秀次家臣であった筧源右衛門の未亡人を室に迎え、その子祖父江一秀に祖父江家の家督を譲った。

祖父江一秀【そふえかつひで(15??~15??)】

筧源右衛門の男。祖父江勘左衛門の養子。通称新太郎。浅井家旧臣で羽柴秀次の家臣だった父筧源右衛門が没すると、母の再婚先である祖父江家の家督を相続した。山内一豊が土佐藩主となると1000石を知行、幡多郡中村に居る。1618年「大坂冬の陣」では大坂には従わずに土佐にとどまり、呼応して中村を攻めようとした、長宗我部遺臣の反乱を奇計を持って鎮圧し、首領奥宮伝兵衛を捕え渡川河原にこれを磔とした。

------------------------------------------------------

【た】

百々綱家【どどつないえ(1548~1609)】

織田秀信の家臣。浅井家に属する佐和山城の城代百々盛実の枝連衆で京極秀綱の弟。官途は越前守。野戦、築城術に通じていた。1570年「姉川の戦い」で浅井長政が織田信長に敗れた後、織田家に仕えた。1582年「本能寺の変」で織田信長が倒れると、羽柴秀吉の陣に属し「山崎の戦い」で軍功を上げる。その後、羽柴秀吉によって岐阜城主織田秀信の後見役を命じられ、岐阜城に入り家老となり11,000石を領す。1592年「文禄の役」の際には、百々綱家は織田秀信の名代として兵6,000を引き連れて朝鮮に渡る。1600年「関ヶ原の役」では、西軍に与した織田秀信に対して東軍に与するように諫言したが、聞き入れられることはなかった。「米野の戦い」においては飯沼長資、津田藤左衛門らとともに2,500の兵を率いて米野に布陣、奮戦し東軍を苦戦させる働きをするも5倍近い兵力の差から劣勢に陥り後退を余儀なくされる。このとき殿軍を務め見事にやり遂げている。その後、岐阜城での籠城を決め込むが、福島正則の言に従い、降伏、開城する。この罪で織田秀信は高野山に流され、百々綱家は京都で蟄居を命じられる。「関ヶ原の役」後、しばらくは浪人となったが、山内一豊から70,000石の築城奉行として迎えられた。近江国坂本の「穴太衆」の技術力を駆使し、低湿地だった場所に「高知城」を築いた。1601年、江戸城の石垣の修復などを行った。

寺村重友【てらむらしげとも(1540~1615)】

通称は太郎左衛門。近江国の寺村家の枝連衆。羽柴秀吉の家臣であったが寄騎衆として山内一豊に仕える。天正年間に近江長浜城主となった山内一豊に召し抱えられて臣となった。山内一豊の遠江国掛川入城のとき家老職につき400石。1600年、「関ヶ原の役」では林一吉共に留守居役となった。山内家が土佐国転封になると中老職につき4400石を領した。

------------------------------------------------------

【な】

永原一照【ながはらかつあき(15??~1520)】

近江佐々木家の支流山崎家の庶流永原家。通称山内刑部。1585年、近江国長浜城主となった山内一豊に仕える。1590年、山内家の遠江国掛川移封に伴って500石。1601年、土佐国長岡郡本山1,300石。本山土居の城と代官領の支配を任される。本山の地は、長宗我部家が「北山500石」と称せらる本山家旧臣の一領具足の在地支配を認めていた地域であったため、郷士らは領有を主張して、新領主山内家に対抗して年貢の納入を拒んでいた。1603年、高石左馬助が首領となり「北山一揆」が発生したが、永原一照が鎮圧した。「北山一揆」は、山内家土佐支配に対する最後の抵抗であり、これ以降、一領具足は弱体化していった。

永原家臣団【ながはらけかしんだん】

西川半右衛門、千頭甚右衛門。

------------------------------------------------------

【は】

法秀尼【ほうしゅうに(15??~1586)】

山内盛豊に嫁ぎ、盛豊との間に一豊らをもうける。1559年、山内盛豊が討死すると出家し、近江宇賀野の長野家のもとに身を寄せ、そこで知った千代を山内一豊の室に推した。1586年、宇賀野で病没した。千代のよき理解者で山内一豊、康豊兄弟の仲を案じている。※「功名が辻」by司馬遼太郎。

【ま】

------------------------------------------------------

望月六平太【もちづきろうへいた(15??~15??)】

千代の幼馴染。千代の父喜助に仕えていたが、千代への恋心を抑えることができず行方不明となる。再び千代の前に現れたときは「甲賀の忍衆」となっており、影から千代や山内家を守ると約束する。後に織田信長を見限り毛利家の間者となる。千代や山内一豊に対する姿勢は変わらなかった。1600年「関ヶ原の役」後は山内家の傘下に入り、土佐国平定のため豪族衆の粛清に手を貸すが罪の意識に苛まれ自害した。※「功名が辻」by司馬遼太郎。

望月お里【もちづきおさと(15??~15??)】

甲賀の忍衆。織田家の動向を探るため山内一豊に接近。誘惑に負けた一豊は肉体関係を結んだ上、機密を漏らしてしまう。お里は山内一豊の正直さに惚れ、度々戦場に現れては一豊を救ったりした。また六平太の妻であると偽って一豊の家にもぐりこみ、一豊を誘惑しようとしたこともある。またこの時は千代の公認の下、一豊の子どもを産もうと画策していた。が、一豊にはねつけられた上、千代が懐妊したこともあり、山内家を去る。荒木村重の謀反の際、一豊のために別所長治の城に忍び込むが兵糧攻めに遭い失明。戦の後に一豊と再会するも、真っ直ぐな性格だった一豊が秀吉の命とはいえ、正攻法ではない兵糧攻めを実行したことに幻滅し、姿を消した。※「功名が辻」by司馬遼太郎。

------------------------------------------------------

【や】

山内盛豊【やまうち もりとよ(1510~1559)】

尾張国葉栗郡黒田城主。岩倉織田家の家老。山内久豊の男。官途は但馬守。通称猪之助。山内一豊、山内康豊らの父。室は法秀尼(梶原氏の娘)。尾張黒田城代。父山内久豊は尾張羽栗郡黒田の郷侍で、尾張上四郡を支配した守護代の「織田伊勢守家」に仕えた。主君の岩倉城主織田信安により、尾張黒田城代を命じられた。1559年、織田信長からの攻撃で岩倉城が落城したさい討死した。

山内一豊【やまのうちかずとよ(1545~1605)】

岩倉織田家の重臣山内盛豊の三男。官途は対馬守。1557年、兄山内十郎が盗賊に黒田城を襲撃された際に討死した。1559年、岩倉城が落城した際、父盛豊が討死ないし自刃する。こうして主家と当主を失った山内一族は離散し、諸国を流浪する。山内一豊は苅安賀城主浅井政貞、松倉城主前野長康、牧村城主牧村政倫、勢多城主山岡景隆らに仕える。1568年、織田信長に仕え、木下秀吉の寄騎衆となる。1573年「刀禰坂の戦い」では顔に重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取った。近江国浅井郡で400石与えられ、羽柴秀吉の直臣となった。1577年、播磨国に2000石を領している。その後も秀吉の中国地方経略に加わり、播磨の「三木城の戦い」や因幡の鳥取城包囲などに参加した。1583年「賤ヶ岳の戦い」では、その前哨である「伊勢国亀山城の戦い」で一番乗りの手柄をあげている。1585年、羽柴秀次の宿老となり、近江国長浜城主20,000石を領した。羽柴秀次の宿老には田中吉政、堀尾吉晴、中村一氏、一柳直末らがいる。1585年「天正の大地震」によって一人娘の与祢姫を失っている。1590年「小田原の役」にも参戦し、山中城攻めに参加している。遠江国掛川城51,000石を領した。掛川城では城の修築と城下町づくりを行い、更に洪水の多かった大井川の堤防の建設や流路の変更を川向いを領する駿府城主中村一氏とともに行っている。1600年「関ヶ原の役」東軍に与し「小山評定」で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を松平元康に提供する旨を発言した。本戦では毛利・長宗我部勢の押さえを担当し、さしたる手柄はなかったがこの功績を高く評価され土佐国202,600石を与えられた。

山内康豊【やまうちやすとよ(15??~15??)】

尾張国岩倉城主織田信安家臣山内盛豊の四男。一豊のもとに身を寄せるまでの間は、浪々の生活を過ごしたと言われている。1572年、織田信長の嫡男織田信忠に仕えたが、「本能寺の変」では織田信忠が明智光秀の襲撃によって自害したとき、山内康豊は早々に逃げてしまったという。その後は溝口秀勝に仕えたものの、兄山内一豊の招聘に応じて山内家に帰参。1600年「関ヶ原の役」の後、山内一豊が土佐藩主となると、山内康豊は土佐国中村城20,000石に封ぜられた。幕府は山内康豊の所領を土佐藩の支藩として公認したわけではなかったので、山内康豊時代の中村藩は正式に認められていなかった。1605年、山内一豊が死去すると、その養嗣子となっていた康豊の長男山内忠義が土佐藩第二代藩主に就任する。しかし若年だった山内忠義のため、山内康豊が二年間ほど後見人を務めた。1625年、山内康豊の家督は次男の山内政豊が継いだ。

山内忠義【やまうちただよし(1592~1656)】

山内康豊の男。伯父の山内一豊の養嗣子。1592年、山内康豊の男として遠江国掛川城に産まれた。1603年、叔父山内一豊の養嗣子となり、松平元康、松平秀忠に拝謁し、松平姓を下賜され、山内家の家督相続したが、年少のため、実父康豊の補佐を受けた。1610年、居城の河内山城の名を高知城と改めた。1614年「大坂冬の陣」に参戦した。この時、預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走するという珍事が起きている。1615年「大坂夏の陣で」は、暴風雨のために渡海できず、参戦はしていない。1612年、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった。1631年、野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。

山内於美【やまのうちおみ(15??~15??)】

山内康豊の室。別名「妙玖院」。山内康豊の妾として山内忠義(国松)を産みながら、生母として扱われることはなかった。

------------------------------------------------------

【資料Ⅰ】

鏡栗毛【かがみくりげ】

山内一豊の愛馬。織田信長の馬揃えの際、山内一豊の室千代(見性院)は貯えていた持参金を夫に渡し、名馬鏡栗毛を購入させた。馬を買った経緯は、ある商人が東国一の馬を売ろうと連れて来たが、あまりの高さに誰も買う者が無く、仕方なく帰ろうとしたところを山内一豊が買った。それを聞いた織田信長が「高い馬だから、信長の家の者でなければ買えないだろうと持って来た馬を、浪人の身でありながら良く買ってくれた。信長の家も恥をかかなくてすんだ」と喜んだ。

------------------------------------------------------

【資料Ⅱ】

------------------------------------------------------