2011年5月23日月曜日

山内一豊家臣団辞典

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【あ】

市川信定【いちかわのぶさだ(15??~15??)】

若狭国能登野の豪族衆。若狭武田家臣市川定照の男。官途は山城守。山内一豊が長浜城主であった時に仕えた。火矢の名手で「小田原の役」では活躍した。山内一豊が遠江国掛川城に封じられた際、1,000石を領した。1600年「 関ヶ原の役」では、山内一豊は松平元康に従い「会津征伐」に参加していたが、会津攻めに出陣した大名の家族を人質に取ろうとした石田三成の手から見性院(千代)を救うため、山内一豊の使者として市川信定が派遣されている。

乾和信【いぬいかずのぶ(1544~1586)】

織田信長の家臣乾和宣の男。室は山内一豊の養女(安東郷家の娘)。通称山内彦作。1578年、山内一豊が播磨国三木城主別所長治攻めの際に初めて正式に召抱えられた。この合戦で軍功を立てたが負傷したため、気遣った山内一豊が着ていた紙製の陣羽織を脱いで和信に与えた。1585年、山内一豊が近江国長浜城に転封となると1300石を領する。1586年「長浜の大地震」の時、山内一豊の娘与祢(よね)を助けようとして、夫婦ともに死亡した。

乾和三【いぬいかずみ(15??~1633)】

織田信長の家臣乾和宣の三男。通称山内備後守。1578年、山内一豊の播磨国三木城出陣の際に、兄乾和信とともに山内一豊に仕える。1586年、「天正大地震」によって兄乾和信が死亡したあと、兄の遺児乾勝益、勝次が幼少のため、一時的に家督を相続する。家督継承は、乾勝益・乾勝次が成年するまでの予定であったが乾和三の働きが抜群だったため、乾和三の家系が乾家本流を継承することになった。1600年「関ヶ原の役」に参陣する。1601年、山内一豊の土佐国の転封で4500石。1622年、山内忠義の元で、野中直継、寺村淡路守、深尾重忠らと共に土佐領内の仕置を行う。

遠藤千代【えんどうちよ(1557~1619)】

山内一豊の室。美濃八幡城主遠藤盛数の娘で遠藤慶隆の妹。母は東常慶の娘で兄は遠藤慶隆である。見性院の幼時は戦に明け暮れる日々で母とともにあちらこちらの家を転々としていたらしい。山内家には「東常縁筆古今集」はじめ、東家から伝わる貴重な古今集がいくつかあった。これらは見性院が京都にも携えてきて愛用した和歌集だったが死去に当たり養子の山内忠義に形見として渡すよう、育て子の湘南宗化を通じて遺言したものである。嫁入りの持参金で山内一豊の欲しがった名馬(鏡栗毛)を購入し、織田信長の馬揃えの際に織田信長の目につき加増された話やまな板代わりに枡を裏返して使い倹約した話など、「内助の功」で夫を支えたエピソードで有名。1600年「関ヶ原の役」の前哨戦において石田三成挙兵を伝えた「笠の緒の密書」も有名である。山内一豊との間には娘(与祢)が1人生まれたが「天正大地震」により幼くして失い、それ以降は子供には恵まれていない。なお育て子として、「拾」のちの妙心寺住職の湘南宗化がいる。この拾は、与祢姫の供養のための妙心寺参りの門前あるいは山内家の京都屋敷で見性院に拾われたとの言い伝えがある。山内一豊は弟康豊の子忠義を土佐山内家跡目養子にしていた。1605年、夫山内一豊が病没すると見性院は、山内康豊に忠義を後見させて土佐を引き払って、湘南宗化のいる京都の妙心寺近くに移り住んでそこで余生を過ごした。2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」では仲間由紀恵が演じた。

遠藤とも【えんどうとも(15??~15??)】

千代(見性院)の母。戦で一家の住む集落が夜盗に襲われ、その際千代を庇って命を落した。※「功名が辻」by司馬遼太郎。

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【か】

柏原新之丞【かしわらしんのじょう(15??~1612)】

柏原家は播磨国は赤松庶家。1582年、播州高原にて山内一豊に召し抱えられる。山内一豊は土佐入国後、領内安堵を図るために巡視を行った。その際、須崎で「津野親忠切腹の始末を知る者はないか。」と尋ねたところ、新之丞が「中平清兵衛が津野一族なので、この者を召されれば事実が明らかになりましょう。」と答え、中平清兵衛が召しだされて津野家断絶の一部始終が一豊に伝えられた。柏原新之丞の子の二代目柏原半右衛門は、山内一豊参加の聚楽第行幸時の太刀持や同装束六人衆(野中玄蕃、市川大炊、柏原半右衛門、乾七郎右衛門、乾伊助)の一人で、主に側近として仕えた。

五藤為浄【ごとう ためきよ(1553~1583)】

尾張国葉栗郡黒田の豪族衆。五藤浄基の男。通称は吉兵衛。五藤家は五藤浄基が山内盛豊の代から山内家に仕え、五藤為浄もまた当主山内一豊に従い浅井、朝倉攻略戦の「刀禰坂の戦い」などに転戦した。1583年「賤ヶ岳の戦い」の前哨戦である伊勢国亀山城攻撃の際、主君一豊の城内一番乗りを助けるが討死した。五藤家の家督は前野泰道の男、五藤浄清が継ぐ事になった。弟の五藤為重は山内家の家老となり、山内一豊が土佐入国をした際には、安芸土居を与えられて周辺を支配した。五藤家は幕末まで代々山内家の家老を勤めた。

五藤為重【ごとうためしげ(1558~1629)】

五藤浄基の次男。通称吉蔵。兄五藤為浄と共に山内一豊に仕え各地を転戦した。1583年、五藤為重が病気のため出陣できなかった「伊勢国亀山城の戦い」で五藤為浄が討死した。五藤家の家督は前野泰道の男牛右衛門浄清が相続、自身は家老職となった。1585年「天正大地震」には、近江国長浜城にいた山内一豊室を救い出した。1590年「小田原の役」で「伊豆国山中城の戦い」に従軍し、首級二つを挙げる功をたて加増された。山内家が土佐国転封になると安芸郡安芸城代1,100石。1615年「一国一城令」により安芸城が廃城になっても代官として安芸に陣屋を置いた。

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【さ】

湘南宗化【しょうなんそうけ(1586~1637)】

臨済宗妙心寺の僧侶。養父は山内一豊。養母は見性院。通称捨(ひろい)。実の両親については不明。1586年、近江国長浜城で長女与祢を地震で失い、気落ちしていた山内一豊と千代(見性院)に、よね供養の門前で拾われて息子同様に育てられた。1595年、養父山内一豊の命令で家を離れて出家する。血筋でない彼に継がせるのは山内家にとって問題になると考えたのであろう。拾は京都で修行を積み、湘南宗化和尚となり、同時に養父母から土佐国の吸江寺を与えられて住職となる。京都妙心寺に大通院があるが、湘南宗化はその妙心寺大通院の第二代住持であり、朝廷から紫衣の勅許を受けるほどの高僧となった。湘南和尚の妙心寺時代の弟子に、後に還俗した山崎闇斎がいる。 この妙心寺大通院は以後、山内家菩提寺となり、ここに山内一豊夫婦の京都墓所もある。1605年、見性院は夫一豊が亡くなると、山内康豊に忠義を後見させて土佐を引き払い、拾のいる妙心寺近くに移り住んで余生をずっと京都で過ごした。見性院にとっては、拾はよねの生れかわりであった。

祖父江勘左衛門【そふえかんざえもん(15??~15??)】

尾張国津島神社の神職を務めていた家系の出身。祖父江家は「応仁の乱」以降土着した織田家、山内家に仕えた。1559年、祖父江村に隠退していたが、山内一豊が流浪の身になると、それを出迎えて、五藤浄基と共に家老となった。羽柴秀次家臣であった筧源右衛門の未亡人を室に迎え、その子祖父江一秀に祖父江家の家督を譲った。

祖父江一秀【そふえかつひで(15??~15??)】

筧源右衛門の男。祖父江勘左衛門の養子。通称新太郎。浅井家旧臣で羽柴秀次の家臣だった父筧源右衛門が没すると、母の再婚先である祖父江家の家督を相続した。山内一豊が土佐藩主となると1000石を知行、幡多郡中村に居る。1618年「大坂冬の陣」では大坂には従わずに土佐にとどまり、呼応して中村を攻めようとした、長宗我部遺臣の反乱を奇計を持って鎮圧し、首領奥宮伝兵衛を捕え渡川河原にこれを磔とした。

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【た】

百々綱家【どどつないえ(1548~1609)】

織田秀信の家臣。浅井家に属する佐和山城の城代百々盛実の枝連衆で京極秀綱の弟。官途は越前守。野戦、築城術に通じていた。1570年「姉川の戦い」で浅井長政が織田信長に敗れた後、織田家に仕えた。1582年「本能寺の変」で織田信長が倒れると、羽柴秀吉の陣に属し「山崎の戦い」で軍功を上げる。その後、羽柴秀吉によって岐阜城主織田秀信の後見役を命じられ、岐阜城に入り家老となり11,000石を領す。1592年「文禄の役」の際には、百々綱家は織田秀信の名代として兵6,000を引き連れて朝鮮に渡る。1600年「関ヶ原の役」では、西軍に与した織田秀信に対して東軍に与するように諫言したが、聞き入れられることはなかった。「米野の戦い」においては飯沼長資、津田藤左衛門らとともに2,500の兵を率いて米野に布陣、奮戦し東軍を苦戦させる働きをするも5倍近い兵力の差から劣勢に陥り後退を余儀なくされる。このとき殿軍を務め見事にやり遂げている。その後、岐阜城での籠城を決め込むが、福島正則の言に従い、降伏、開城する。この罪で織田秀信は高野山に流され、百々綱家は京都で蟄居を命じられる。「関ヶ原の役」後、しばらくは浪人となったが、山内一豊から70,000石の築城奉行として迎えられた。近江国坂本の「穴太衆」の技術力を駆使し、低湿地だった場所に「高知城」を築いた。1601年、江戸城の石垣の修復などを行った。

寺村重友【てらむらしげとも(1540~1615)】

通称は太郎左衛門。近江国の寺村家の枝連衆。羽柴秀吉の家臣であったが寄騎衆として山内一豊に仕える。天正年間に近江長浜城主となった山内一豊に召し抱えられて臣となった。山内一豊の遠江国掛川入城のとき家老職につき400石。1600年、「関ヶ原の役」では林一吉共に留守居役となった。山内家が土佐国転封になると中老職につき4400石を領した。

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【な】

永原一照【ながはらかつあき(15??~1520)】

近江佐々木家の支流山崎家の庶流永原家。通称山内刑部。1585年、近江国長浜城主となった山内一豊に仕える。1590年、山内家の遠江国掛川移封に伴って500石。1601年、土佐国長岡郡本山1,300石。本山土居の城と代官領の支配を任される。本山の地は、長宗我部家が「北山500石」と称せらる本山家旧臣の一領具足の在地支配を認めていた地域であったため、郷士らは領有を主張して、新領主山内家に対抗して年貢の納入を拒んでいた。1603年、高石左馬助が首領となり「北山一揆」が発生したが、永原一照が鎮圧した。「北山一揆」は、山内家土佐支配に対する最後の抵抗であり、これ以降、一領具足は弱体化していった。

永原家臣団【ながはらけかしんだん】

西川半右衛門、千頭甚右衛門。

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【は】

法秀尼【ほうしゅうに(15??~1586)】

山内盛豊に嫁ぎ、盛豊との間に一豊らをもうける。1559年、山内盛豊が討死すると出家し、近江宇賀野の長野家のもとに身を寄せ、そこで知った千代を山内一豊の室に推した。1586年、宇賀野で病没した。千代のよき理解者で山内一豊、康豊兄弟の仲を案じている。※「功名が辻」by司馬遼太郎。

【ま】

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望月六平太【もちづきろうへいた(15??~15??)】

千代の幼馴染。千代の父喜助に仕えていたが、千代への恋心を抑えることができず行方不明となる。再び千代の前に現れたときは「甲賀の忍衆」となっており、影から千代や山内家を守ると約束する。後に織田信長を見限り毛利家の間者となる。千代や山内一豊に対する姿勢は変わらなかった。1600年「関ヶ原の役」後は山内家の傘下に入り、土佐国平定のため豪族衆の粛清に手を貸すが罪の意識に苛まれ自害した。※「功名が辻」by司馬遼太郎。

望月お里【もちづきおさと(15??~15??)】

甲賀の忍衆。織田家の動向を探るため山内一豊に接近。誘惑に負けた一豊は肉体関係を結んだ上、機密を漏らしてしまう。お里は山内一豊の正直さに惚れ、度々戦場に現れては一豊を救ったりした。また六平太の妻であると偽って一豊の家にもぐりこみ、一豊を誘惑しようとしたこともある。またこの時は千代の公認の下、一豊の子どもを産もうと画策していた。が、一豊にはねつけられた上、千代が懐妊したこともあり、山内家を去る。荒木村重の謀反の際、一豊のために別所長治の城に忍び込むが兵糧攻めに遭い失明。戦の後に一豊と再会するも、真っ直ぐな性格だった一豊が秀吉の命とはいえ、正攻法ではない兵糧攻めを実行したことに幻滅し、姿を消した。※「功名が辻」by司馬遼太郎。

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【や】

山内盛豊【やまうち もりとよ(1510~1559)】

尾張国葉栗郡黒田城主。岩倉織田家の家老。山内久豊の男。官途は但馬守。通称猪之助。山内一豊、山内康豊らの父。室は法秀尼(梶原氏の娘)。尾張黒田城代。父山内久豊は尾張羽栗郡黒田の郷侍で、尾張上四郡を支配した守護代の「織田伊勢守家」に仕えた。主君の岩倉城主織田信安により、尾張黒田城代を命じられた。1559年、織田信長からの攻撃で岩倉城が落城したさい討死した。

山内一豊【やまのうちかずとよ(1545~1605)】

岩倉織田家の重臣山内盛豊の三男。官途は対馬守。1557年、兄山内十郎が盗賊に黒田城を襲撃された際に討死した。1559年、岩倉城が落城した際、父盛豊が討死ないし自刃する。こうして主家と当主を失った山内一族は離散し、諸国を流浪する。山内一豊は苅安賀城主浅井政貞、松倉城主前野長康、牧村城主牧村政倫、勢多城主山岡景隆らに仕える。1568年、織田信長に仕え、木下秀吉の寄騎衆となる。1573年「刀禰坂の戦い」では顔に重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取った。近江国浅井郡で400石与えられ、羽柴秀吉の直臣となった。1577年、播磨国に2000石を領している。その後も秀吉の中国地方経略に加わり、播磨の「三木城の戦い」や因幡の鳥取城包囲などに参加した。1583年「賤ヶ岳の戦い」では、その前哨である「伊勢国亀山城の戦い」で一番乗りの手柄をあげている。1585年、羽柴秀次の宿老となり、近江国長浜城主20,000石を領した。羽柴秀次の宿老には田中吉政、堀尾吉晴、中村一氏、一柳直末らがいる。1585年「天正の大地震」によって一人娘の与祢姫を失っている。1590年「小田原の役」にも参戦し、山中城攻めに参加している。遠江国掛川城51,000石を領した。掛川城では城の修築と城下町づくりを行い、更に洪水の多かった大井川の堤防の建設や流路の変更を川向いを領する駿府城主中村一氏とともに行っている。1600年「関ヶ原の役」東軍に与し「小山評定」で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を松平元康に提供する旨を発言した。本戦では毛利・長宗我部勢の押さえを担当し、さしたる手柄はなかったがこの功績を高く評価され土佐国202,600石を与えられた。

山内康豊【やまうちやすとよ(15??~15??)】

尾張国岩倉城主織田信安家臣山内盛豊の四男。一豊のもとに身を寄せるまでの間は、浪々の生活を過ごしたと言われている。1572年、織田信長の嫡男織田信忠に仕えたが、「本能寺の変」では織田信忠が明智光秀の襲撃によって自害したとき、山内康豊は早々に逃げてしまったという。その後は溝口秀勝に仕えたものの、兄山内一豊の招聘に応じて山内家に帰参。1600年「関ヶ原の役」の後、山内一豊が土佐藩主となると、山内康豊は土佐国中村城20,000石に封ぜられた。幕府は山内康豊の所領を土佐藩の支藩として公認したわけではなかったので、山内康豊時代の中村藩は正式に認められていなかった。1605年、山内一豊が死去すると、その養嗣子となっていた康豊の長男山内忠義が土佐藩第二代藩主に就任する。しかし若年だった山内忠義のため、山内康豊が二年間ほど後見人を務めた。1625年、山内康豊の家督は次男の山内政豊が継いだ。

山内忠義【やまうちただよし(1592~1656)】

山内康豊の男。伯父の山内一豊の養嗣子。1592年、山内康豊の男として遠江国掛川城に産まれた。1603年、叔父山内一豊の養嗣子となり、松平元康、松平秀忠に拝謁し、松平姓を下賜され、山内家の家督相続したが、年少のため、実父康豊の補佐を受けた。1610年、居城の河内山城の名を高知城と改めた。1614年「大坂冬の陣」に参戦した。この時、預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走するという珍事が起きている。1615年「大坂夏の陣で」は、暴風雨のために渡海できず、参戦はしていない。1612年、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった。1631年、野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。

山内於美【やまのうちおみ(15??~15??)】

山内康豊の室。別名「妙玖院」。山内康豊の妾として山内忠義(国松)を産みながら、生母として扱われることはなかった。

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【資料Ⅰ】

鏡栗毛【かがみくりげ】

山内一豊の愛馬。織田信長の馬揃えの際、山内一豊の室千代(見性院)は貯えていた持参金を夫に渡し、名馬鏡栗毛を購入させた。馬を買った経緯は、ある商人が東国一の馬を売ろうと連れて来たが、あまりの高さに誰も買う者が無く、仕方なく帰ろうとしたところを山内一豊が買った。それを聞いた織田信長が「高い馬だから、信長の家の者でなければ買えないだろうと持って来た馬を、浪人の身でありながら良く買ってくれた。信長の家も恥をかかなくてすんだ」と喜んだ。

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【資料Ⅱ】

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