2011年6月23日木曜日

戦国岩代国人名辞典

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【あ】

安子ヶ島祐高【あこがしますけたか(15??~15??)】

安積郡安子ヶ島城主。安積伊東家臣。官途は治部大輔。1586年、二本松畠山家を滅ぼした。1589年、伊達政宗は、芦名家中の乱れに乗じて、芦名攻めを開始した。安子ヶ島城主は会津攻めの要衝にあたり、伊達勢に包囲された。安子ヶ島祐高は、多勢の伊達勢に押され、芦名家を頼って落延びた。1589年「摺上原の戦い」で、芦名家は敗北、安積郡は伊達家が領することになった。

芦名盛舜【あしなもりきよ(1490~1553)】

会津郡黒川城主。芦名盛高の男。官途は遠江守。兄芦名盛滋の死により家督を相続。猪苗代家の叛乱を鎮めた。1528年、伊達稙宗の葛西攻めに協力して派兵した。1534年、伊達家と組んで仙道の岩城家、白河結城家らと交戦するなど、版図の拡大に努めた。1538年、後奈良天皇宸筆の般若心経が遣わされており、中央からも芦名家の存在は知られていた証左とされる。1540年、将軍足利義晴は、芦名盛舜に馬を献上された礼状をしたためている。

芦名氏方【あしなうじかた(1515~1568)】

芦名盛舜の次男。官途は山城守。母は川野御前。芦名盛氏の庶兄で、富田義実に養育された。1568年、謀反を起こすが鎮圧されて自刃した。

芦名盛氏【あしなもりうじ(1521~1580)】

芦名盛舜の男。官途は大膳大夫。通称平四郎。室は伊達稙宗の娘。陸奥南部で最大の版図を誇った芦名家最大の英主。北は伊達家と盟約し、西は越後長尾、南は佐竹と争い、越後、奥南、下野、常陸が最大領域範囲。遠交近攻政策を取り、越後長尾家に対抗して甲斐武田家、佐竹家に対抗して北条家と誼を通ず。猪苗代家らの叛乱を抑えて集権に成功すると外征を行い、二本松畠山、岩城、白河結城、二階堂緒家を降して傘下に組み入れた。1546年「天文の乱」では初め伊達稙宗、のち伊達晴宗方に転じて勢力を伸ばす。米沢の伊達家とは多年にわたって交流を深めており、芦名盛氏の代も良好な関係で、芦名盛氏の室は伊達稙宗の娘。息子芦名盛興の室には伊達晴宗の娘を迎えている。文武両道の名君と言われるが、1560年~1576年に亙って徳政令を六回も公布するなど、領内統制には苦心した。商業政策においては豪商簗田藤左衛門を御用商人に取り立てて徴収権などを賦与して商人を統制した。1561年、岩崎城を築いて隠居地とし、家督を芦名盛興に譲る。1574年、芦名盛興は病死するおt、再び政務を執る。人質にとっていた二階堂盛隆に芦名盛興の室を娶わせて後継となして後見した。

芦名盛興【あしなもりおき(1547~1574)】

芦名盛氏の男。通称平四郎。室は伊達輝宗の妹(彦姫)。1561年、父芦名盛氏の隠居により家督を相続した。1565年、二階堂家の支城であった岩瀬郡長沼城を攻撃したが苦戦。1566年、二階堂盛義の降伏により同城に新国貞通を入れて守らせた。1566年には横田城を攻略した。1573年、高玉金山(芦名四金山の一つ)を開鉱。佐竹家と抗争し、その陣で病死した。後嗣なく、やむなく芦名家は二階堂から養子を迎えるが家臣団の不満がたかまった。のちに佐竹義広の入嗣において譜代家臣の離反を招く一因になった。彦姫との間に三女あり、長女岩姫は芦名盛重に嫁して芦名盛泰を産み、次女江戸崎御前は芦名盛重養女として相馬三胤に嫁ぎ、三女岩瀬御台は佐竹義宣に嫁いでいる。

芦名亀王丸【あしなかめおうまる(1584~1586)】

芦名盛興の男。芦名の家督は生後1ヶ月の息子亀王丸が継ぎ、亀王丸の母彦姫が隠居した兄伊達輝宗の後見を受けて芦名家をまとめることになった。伊達輝宗の後を継いだ伊達政宗は同盟関係を破棄して芦名家を攻め(関柴合戦)、遺児亀王丸も1586年、疱瘡を患って夭逝するなどの不幸が重なり、芦名家中は混迷した。若年ながら優れた武将であった芦名盛隆の早すぎる死が、芦名家滅亡を早めた。

芦名家四天王【あしなけしてんのう】

松本氏輔、平田輔範、佐瀬常昌、富田氏実。

安積郡豪族衆【あずみぐんごうぞくしゅう】

篠川満祐、伊東祐持、窪田祐守、大豆生田通綱、多田野遅久、河内祐春、河田祐義、名倉祐清、社谷田勝慶、中地性久、神山祐金、八俣長源、早水祐藤、富田祐昌、守屋祐国、前田河祐菊。

穴沢俊家【あなざわとしいえ(15??~15??)】

芦名家臣。官途は越中守。1486年、主君盛高の命を受け、耶麻郡檜木谷に蟠居した山賊一党を撃滅した。会津と米沢を結ぶ街道の要衝として芦名家も檜原を重要視した。1605年、金山が発見されて檜原は大いに栄えた。

穴沢信徳【あなざわのぶのり(15??~15??)】

芦名家臣。耶麻郡檜原館主。穴沢俊家の男。官途は加賀守。1564~66年の伊達輝宗の会津侵攻に抗して防戦、芦名盛氏によりその功を賞され、大荒井村を与えられた。1573年、穴沢家の家督を息子穴沢信堅に譲って隠居した。

穴沢信堅【あなざわのぶかた(15??~1584)】

穴沢信徳の男。通称新右衛門。1582年領内の収税から小荒井阿波と争い、勝利するものの芦名盛隆よりその私闘を咎められて所領の一部を没収された。伊達政宗はこれに乗じて穴沢信堅に内応を迫ったが拒否した。1584年、伊達政宗に通じた枝連衆の穴沢四郎兵衛により殺害された。

穴沢広次【あなざわひろつぐ(15??~15??)】

穴沢信堅の男。通称は助十郎。父穴沢信堅を討った伊達政宗を仇とし1585年、伊達政宗の狙撃を図った。1586年、伊達方小谷山城を攻撃。芦名家滅亡後は隠匿したが、蒲生家が会津領主になると復帰。息子穴沢光茂は保科正之に仕えた。

新城直継【あらきなおつぐ(15??~15??)】

二本松畠山家臣。一門衆。

新城盛継【あらきもりつぐ(15??~15??)】

新城直継の男。祖父の村尚は二本松畠山家から一門衆の新城家を継ぎ、畠山義国とは従兄弟の関係。伊達政宗が攻めてきたとき、二本松城で籠城の指揮をし、二本松城を死守した。

五十嵐和泉守【いがらしいずみのかみ(15??~15??)】

伊北郡河原崎館主。川原田盛次家臣。1589年、田島長沼盛秀と和泉田にて戦った。

石川有信【いしかわみつまさ(15??~15??)】

安達郡百目木城主。百目木石川家は塩松石橋家臣で、三芦城主石川家の庶流。1568年、石川有信は大内義綱らと共に田村家に内通して石橋尚義を追放し、田村家の配下となった。

石川光昌【いしかわみつまさ(1564~1605)】

石川有信の男。官途は弾正忠。室は郡山藤致の養女。大内定綱が田村家からの独立を目論むと石川光昌はこれに同調せず、1585年、田村清顕とその婿伊達政宗に従って大内定綱を攻めた。その功により伊達政宗から小手森城を与えられて移ったが、宮森城主白石宗実の与力にされたことに不満を持ち、1588年「郡山の戦い」で相馬義胤に内応したため、小手森城は伊達政宗の攻撃を受けて落城し、500人余が討ち取られが石川光昌は相馬義胤のもとへ落延びた。

石川家臣団【いしかわけかしんだん】

石川昌弘、石川光明。

石橋尚義【いしばしひさよし(15??~1577)】

安達郡塩松城主。塩松石橋家最後の当主。1542年の「天文の乱」において、伊達稙宗方に立って参戦したが、後に伊達晴宗方に転じた。この間、重臣大内義綱が家中での力を強め、石橋尚義を圧倒するようになり、1550年、石橋尚義は大内義綱によって塩松城二の丸に幽閉され、重臣の石橋四天王(大内、大河内、石川、寺坂)に実権を奪われた。1568年、隣国の田村家に通じた大内義綱・石川有信らによって石橋尚義が塩松城から追放され、塩松石橋家は滅亡した。

石橋四天王【いしばししてんのう】

大河内備中守、大内義綱、石川有信、寺坂信濃守。

石母田光頼【いしもだみつより(15??~15??)】

伊達郡石母田城主。伊達稙宗家臣。石母田家は甲斐源家を出自とした伊達家の譜代衆。「天文の乱」以前の石母田光頼の事績は不明。1542年、伊達時宗丸の越後守護職上杉家への入嗣問題を発端に伊達稙宗、伊達晴宗父子は対立し、伊達晴宗は伊達稙宗を桑折西山城に幽閉します。伊達稙宗は小梁川宗明等に救出され石母田城に入り、石母田城を伊達稙宗派の拠点としました。1543年、伊達稙宗は懸田城に拠点を移しましたが、1544年、懸田家中の伊達晴宗派が武力蜂起したため、ふたたび石母田城に移りました。石母田城は伊達晴宗派の総攻撃を受けて落城し、伊達稙宗は八丁目城に落ち延びた。乱は伊達晴宗派の勝利で終結しましたが、伊達稙宗派に与した惣領の石母田宮内少輔が失脚し、伊達晴宗派に与した石母田光頼・氏頼兄弟に加増され、石母田家の惣領は石母田光頼に移った。

石母田景頼【いしもだかげより(1563~1608)】

石母田光頼の男。石母田景頼も伊達政宗に従い各地で軍功を挙げました。1591年、伊達政宗の岩出山移封にともない伊具郡荒山城に移りました。石母田景頼は1593年、義兄桑折政長の名跡を継ぎ桑折家を称し、1615年、伊達政宗の庶長子伊達秀宗の伊予宇和島立藩に筆頭家老として同道した。

伊東高行【いとうたかゆき(15??~15??)】

安積郡大槻館主。三郎左衛門尉。

伊東盛祐【いとうもりつね(15??~15??)】

安積郡小倉城。

伊東盛恒【いとうもりつね(1534~1590)】

伊東盛祐の男。官途は薩摩守。1590年、大崎郡名生において討死した。

猪苗代盛頼【いなわしろもりくに(15??~1541)】

麻耶郡猪苗代城主。芦名盛詮の次男で、国人領主猪苗代盛清養子になった。1541年、芦名家に対して謀反を起こすも、松本、佐瀬家らの討伐にあい、1542年には降伏した。

猪苗代盛国【いなわしろもりくに(1536~15??)】

猪苗代盛頼の男。芦名家臣。通称平太郎。官途は弾正忠。猪苗代家は葦名家の有力国人衆であるが、自立傾向が強く度々反乱を起こした。1588年、後妻の息子である猪苗代宗国を溺愛し、後妻の讒言に乗って猪苗代盛胤を廃嫡しようと画策。猪苗代盛胤に譲ったはずの猪苗代城ごと伊達軍に寝返り、その軍勢を招き入れ、後妻の息子を伊達方に人質として差し出している。1589年「摺上原の戦い」では葦名方に残る猪苗代盛胤とは逆に、羽根田直景を通じて伊達家へ随身、先鋒を任じられた。後伊達家で準一家に列せられた。

猪苗代盛胤【いなわしろもりたね(1565~1641)】

猪苗代盛国の男。官途は左馬介。1585年に父猪苗代盛国より家督と猪苗代城を譲られたが、1588年に猪苗代城を奪われ、横沢村に拠って父に対抗した。1589年「摺上原の戦い」では葦名勢の先鋒として父の手勢などの伊達勢と戦い奮戦するも負傷した。芦名義広に従って常陸国へ落ち延びたが戦後流亡。のち会津に戻り、耶麻郡内野村に隠棲して同地に没した。

猪苗代盛親【いなわしろもりちか(15??~15??)】

猪苗代盛胤の男。通称作左衛門。別名中野盛親。父猪苗代盛胤は芦名盛重に従って常陸に赴くものの、のち会津に戻って隠棲した。

猪苗代家臣団【いなわしろけかしんだん】

三浦盛勝、三浦成信、石田讃岐守、関三河守、関加賀守、石部丹後守、小檜山次郎右衛門、秋山右近、堀切内匠。

伊南政秀【いなまさひで(15??~15??)】

伊南郡伊南館主。河原田家枝連衆。官途は左衛門尉。

伊南政盛【いなまさもり(15??~15??)】

伊南政秀の男。伊南河原田五郎左衛門を称す。

伊南源助【(いなげんすけ15??~15??)】

伊南郡只石館主。河原田盛次家臣。芦名家が「摺上原の戦い」で敗退後、河原田盛次が伊達勢と一戦を挑むため、伊達政宗に口上を伝える。

氏家新兵衛【うじいえしんざえもん(15??~1586)】

二本松畠山家臣。1586年、伊達政宗に内通。他に箕輪玄蕃、遊佐源左衛門、堀江式部も同日に内通した。しかし、彼らは新城弾正に誅殺されている。

遠藤勝高【えんどうかつたか(15??~15??)】

岩瀬郡山寺館主。二階堂家臣。官途は壱岐守。二階堂家四天王のひとり。

遠藤勝重【えんどうかつしげ(15??~1589)】

遠藤勝高の男。官途は雅楽頭。1589年、須賀川城に籠城して奮戦後南ノ原口に於いて嫡男彦一郎と共に討死した。遠藤勝重の室は落城後二人の討ち死にを知り、阿武隈川に身を投げて自害したという。

大内義綱【おおうちよしつな(15??~15??)】

安達郡小浜城主。石橋尚義家臣。塩松石橋家の重臣であったが1550年、大内義綱は主君の石橋尚義を塩松城二の丸に幽閉して石橋家の実権を掌握。1568年、田村家の内応工作に応じて石橋尚義を追放し、塩松地方を手中に収めた。1569年には石橋家の重臣だった宮森城主大河内備中を攻め滅ぼした。その後は田村家の旗下に属した。1576年、安積郡に侵攻し安積郡片平城を攻略、次男の片平親綱を婿入りさせた。

大内定綱【おおうちさだつな(1545~1610)】

大内義綱の男。大内家の家督を継いだ大内定綱は、田村、大内両家の家臣同士の争いの裁決に対する不満から、次第に田村家からの独立を目論むようになる。1582年、伊達輝宗が小斎城を攻略した際に、伊達輝宗の陣に参上して伊達傘下に入り、以降は対相馬戦に度々従軍する。1583年、娘を安達郡二本松主畠山義継の男畠山国王丸に嫁がせて足場を固めた。1583年、田村領の百目木城主石川光昌を攻撃、田村家と対立していた蘆名盛隆の支援を受けて田村清顕を破り独立を果たす。1584年、伊達政宗が伊達家の家督を継ぐと、大内定綱は引き続き伊達家への奉公を表明したものの、1585年、伊達政宗は田村家に加担して大内定綱を攻撃し、小手森城で撫で斬りを行うなどしたため、大内定綱は小浜城を放棄して二本松へ逃れ、ついで会津の蘆名家を頼った。1588年「郡山の戦い」の際には蘆名家の部将として活躍するが、伊達成実の誘いに応じて弟の片平親綱と共に伊達家に帰参した。「摺上原の戦い」「葛西大崎一揆鎮圧」「文禄、慶長の役」にも従軍して功績を立てた。「関ヶ原の戦い」の折には京都伊達屋敷の留守居役を務めた。子の大内重綱の代にはこれらの功績により、一族の家格を与えられた。

大河内備中守【おおこうちびっちゅうのかみ(15??~15??)】

安達郡宮森城主。石橋家四天王の筆頭。1569年、大内備前守、石川弾正忠、寺坂信濃守に攻められ滅亡する。その折、大河内備中守の甥、大河内宗四郎は、太刀を振るって敵中を切り抜けて城に入ろうとしたが、追手に敵が満ちて入ることができず、取って返して搦手に向かったが、追いすがる敵に進退極まり、この石の上に登り腹をかき切って討死した。大河内備中守の側室は、城内から母親が子を抱いて逃れたが、敵将大内長門守に発見され、大内肥前守の側室になることを強いられたが、死を決して応じなかったため、大内備前守はその節操の堅さに感銘し、遂にこれを釈放した。

大槻政通【おおつきまさみち(15??~1578)】

芦名家臣。初め大庭姓だったが、大槻館に住居してこれを改めた。1578年「山内重勝の乱」に加担、越後長尾景虎に通じて芦名盛氏に離反したが逆に攻められて自刃した。

大槻中務【おおつきなかつかさ(15??~1585)】

畠山義継家臣。伊達輝宗刺殺の現場にいたため、伊達家臣に殺される。他に高橋内膳、米沢源内、遊佐孫九郎らも殺された。

小田切盛昭【おだぎりもりあき(15??~1587)】

越後国蒲原郡赤谷城主。芦名家臣。官途は三河守。1581年「御館の乱」の恩賞に不満を持っていた新発田城主新発田重家は芦名盛隆の支援を受けて越後長尾景勝に謀反を起こす。芦名家臣小田切盛昭は会津から新発田への物資輸送路を確保し、また越後長尾勢に対する防衛拠点として赤谷城を築城した。越後長尾景勝は織田勢に攻め立てられ、新発田重家勢に兵を向けることが出来なかった。1582年、織田信長が「本能寺の変」で横死すると、越中国と北信濃国から撤退した。1583年、越後長尾景勝は新発田攻めの兵を起こす。1584年、芦名盛隆が家臣に殺害され、芦名家への伊達政宗の攻勢が始まると、新発田重家を北から支援していた芦名家が勢力を弱まる。1587年、越後長尾景勝は新発田鎮圧に出陣し、赤谷城には芦名家から津川城主金上盛備が派遣されますが、金上勢は上杉方の藤田信吉に救援を阻止され撤退を余儀なくされます。このため孤立無援となった赤谷城は、越後長尾勢の猛攻を受けて落城し、小田切盛昭以下城兵は全滅した。

小田切政清【おだぎりまさきよ(15??~15??)】

小田切祐治の男。官途は弾正忠。1564年、越後長尾領に侵攻した。1578年、越後長尾景虎が没すると、金上盛備とともに長尾景虎方として越後に乱入し、安田城を攻略した。のち長尾景勝による新発田重家討伐の際、主君芦名盛隆の命で長尾景勝加勢に赴くが戦意は高くなかった。

小田切貞満【おだぎりさだみつ(15??~1578)】

小田切家臣。官途は玄蕃允。越後長尾景虎の死後交誼を持とうとする越後長尾景勝に対し、芦名盛氏は長尾景虎支援を打ち出して小田切貞満は越後に出陣するが討死した。一族の小田切治部少輔貞義もやはり越後に侵攻したが敗退している。

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【か】

片平(伊東)大和守【かたひらやまとのかみ(15??~15??)】

安積郡片平城主。戦国末期、安積伊東家当主の伊東大和守に実子がなく塩松城主大内定綱の弟片平(大内)親綱を養子に迎えた。

片平親綱【かたひらちかつな(15??~15??)】

大内義綱の次男。片平(伊東)大和守の養子。通称助右衛門。兄大内定綱と行動を共にし、伊達政宗が大崎攻めに失敗した隙に二本松領を攻める。伊達政宗は片倉景綱に攻撃させる一方で、逆に知行を与え兄弟を懐柔しようとした。こうした誘いに乗り、芦名家から伊達家に乗り換える。そのため会津勢に攻められ、生母を磔にされた。片平重綱ら関係者も伊達家に降っている。

金沢宗朝【かなざわむねもと(15??~1542)】

伊達稙宗家臣。伊達稙宗の宿老を務めた。伊達稙宗が制定した『蔵方の掟』や『塵介集』に他の重臣と共に連署した。1542年「天文の乱」では伊達稙宗側に付いたが討死した。

金上盛備【かながみもりはる(1527~1589)】

越後国蒲原郡津川城主。芦名家臣。官途は遠江守。芦名家臣の筆頭で、四天王のさらに上に置かれた。卓越した政治手腕から「芦名の執権」と呼ばれた。1578年「御館の乱」には越後長尾景虎方についた芦名盛氏の命で越後に侵入し、蒲原郡安田城を攻略した。1581年、芦名盛隆の使者として上洛して織田信長に謁見、主君の三浦介拝領に尽力した。この功により従五位下遠江守の官途を拝領した。1582年、織田信長により武田家が滅亡し、関東管領として滝川一益が進出した際、金上盛備は滝川一益に織田、芦名の合力に違背しないよう求めた。芦名亀王丸死後は伊達小次郎を迎えようとする平田、富田らを抑えて佐竹義広の入嗣に成功した。しかしこれは家臣間の対立を生むことになり、伊達家の侵攻に対して芦名家臣団は崩壊してしまう。1589年「摺上原の戦い」では息子金上盛実とともに奮戦するが討死した。

金上盛実【かながみもりざね(1551~1590)】

金上盛備の男。1589年、父金上盛備が「摺上原の戦い」での討死した後も、越後長尾家の支援を受け伊達家に対抗する。1590年、降伏後居城である津川城代とされたが、翌年罷免された。

鹿子田国胤【かのこだくにたね(15??~1585)】

二本松畠山家臣。官途は和泉守。鹿子田家は畠山国詮の二男、満詮を祖とする。畠山義継が伊達輝宗を殺害したとき従っていた。

鹿子田継胤【かのこだつぐたね】

鹿子田国胤の男。官途は日向守。

河口左衛門佐【かわぐちさえもんのすけ(15??~15??)】

大沼郡玉綱城主。山ノ内家枝連衆。1578年、芦名盛氏に謀反した大槻左衛門を討ち取る。1589年、伊達政宗に従い横田城主山内氏勝と戦う。

河原田盛頼【かわらだもりつぐ(15??~1591)】

伊南郡駒寄城主。1543年、芦名盛氏は横田城主山内俊清と奥会津の伊北、伊南郡に侵攻した。河原田盛頼は駒寄城に籠城して抵抗するが、同じ奥会津衆の山内家と違い背後地に味方を持たない河原田盛頼は降伏するが国人領主として独自性をもったまま伊南郡を支配した。1580年、葦名盛氏が死去すると芦名家の家督は芦名(二階堂)盛隆が継ぎますが、1584年、葦名盛隆は家臣に謀殺され、さらに子の葦名亀若丸も早世して葦名家臣団は混乱をきたします。家臣団は佐竹義重の次男義広派と米沢城主伊達政宗の弟竺丸派に分裂して対立しますが、1587年、芦名(佐竹)義広が葦名家の家督を継承することで内訌は終結します。伊達政宗は執拗に会津侵攻を繰り返し、1589年の「摺上原の戦い」で葦名勢を撃破、葦名義広を常陸に追い落として会津制圧に成功しました。1590年「摺上原の戦い」時に河原田盛次は檜原口を守備するため大塩に出陣していましたが、葦名勢の敗報と葦名義広の敗走を聞き伊南郷に帰陣しました。会津盆地を制圧した伊達政宗は奥会津への勢力拡大を図り、降伏した南山鴫山城主長沼盛秀を仲介に河原田盛次の帰順を求めますが、河原田盛次は横田中丸城主山ノ内氏勝と結びこれを拒否し駒寄城主の籠城するが、劣勢を覆すことが出来なかった。長沼盛秀は山内方の布沢城を攻略、さらに梁取城、泉田城を落城させ河原田盛次を孤立させましたが、駒寄城を陥落させるまでには至らなかった。1590年、河原田盛次にもたらされると、盛次は雪解けとともに長沼領に侵入しましたが、劣勢を挽回するにはいたりませんでした。1591年、小田原北条家が羽柴秀吉に降伏すると、羽柴秀吉は黒川城で「奥州仕置」を実行し河原田家は所領を没収されました。

河原田盛次【かわらだもりつぐ(15??~1591)】

河原田盛頼の男。官途は治部少輔。1543年、芦名盛氏に降伏。1589年「摺上原の戦い」でも芦名方として片倉景綱隊と戦う。敗戦により本領へ戻るも、久川城を築いて伊達政宗に抵抗、越後長尾景勝に属す。1590年、伊達政宗方についた長沼盛秀と戦っている。その後、佐竹盛重を頼って常陸へ遁れ、子孫は佐竹家臣となる。

河原田家臣団【かわらだけかしんだん】

馬場美濃守、伊南源助、芳賀入道浄円、馬場伯耆守、五十嵐和泉守、中丸新九郎、須田伊豆守、小沼越中守、濱野帯刀、白沢大隅守。

菅家善高【かんけよしたか(15??~15??)】

大塩中山城代。山ノ内家臣。通称太郎左衛門。山ノ内四天王の一人。菅家は、越後国の押えとして大塩中山城代として在城した。「松坂峠の戦い」にて奮戦する。

慶徳舜範【けいとくきよのり(15??~15??)】 

慶徳館主。芦名家臣。

慶徳範重【けいとくのりしげ(15??~15??)】 

平田舜輔の男。慶徳舜範の養子。通称善五郎。1584年、謀叛を起こした松本太郎、松本勝次郎を討つ。1584年、原田左馬助宗時が侵攻してきた際はこれを撃退し、追撃したが片倉景綱の迎撃を受けた。平田氏範の養父。

懸田俊宗【けんだとしむね(15??~1533)】

伊達郡懸田城主。伊達稙宗家臣。伊達稙宗の娘婿。相馬家と婚姻関係で強く結ばれる。1541年、伊達晴宗に幽閉された伊達稙宗を相馬家臣草野直清の親類である草野肥前と共に盗み出して「懸田城」に匿った。伊達晴宗、相馬顕胤いずれも軍勢を出すが、伊達晴宗は相馬顕胤の軍勢を見ると懸田城に攻め込んだため籠城戦となる。1542年、伊達晴宗が再び稙宗を西山城に幽閉したため、相馬に使者を送る。相馬顕胤は懸田城南東の山に小屋掛けし、和解の交渉に努めた。相馬家の老臣と伊達家の老臣とが何度も対談したが、伊達晴宗は承諾しなかった。結局、伊達稙宗は側近、小梁川宗朝によって救出されている。1543年、懸田、相馬は懸田城を中心に布陣。奥羽諸大名を巻き込む「天文の乱」において伊達稙宗派として戦った。1548年「天文の乱」が将軍・足利義輝によって仲裁されると、その折に伊達晴宗が出した和睦の条件、「懸田城撤廃」を不服として再び俊宗と共に晴宗と争った。1553年、家臣の中島宗忠、桜田右兵衛、玄蕃父子らの寝返りが原因で敗れ、懸田俊宗と共に晴宗に切られて懸田家はここに滅亡したとなっている。岩城重隆、伊達晴宗の攻撃を受けるが凌ぐ。乱の収束に懸田城を廃城にする講和条件があり不満を持つ。1552年、伊達晴宗に対して、息懸田義宗とともに謀反した。娘は相馬義胤室。

懸田義宗【けんだよしむね(15??~1553)】 

懸田俊宗の男。1541年、伊達晴宗に幽閉された稙宗を相馬家臣草野直清の親類である草野肥前と共に盗み出して「懸田城」に匿った。伊達晴宗、相馬顕胤いずれも軍勢を出すが、晴宗は相馬顕胤の軍勢を見ると懸田城に攻め込んだため籠城戦となる。顕胤は近くの山に布陣し、状況を見ながら懸田城と晴宗の両者に使者を送り、何度も晴宗の非行を諭そうと試みた。稙宗を伊達郡越河の屋形に移すことで事態は収まったが、このとき伊達稙宗の提案で稙宗次女を懸田俊宗の後室(先年に奥を亡くしている)に、懸田義宗の提案で義宗娘を孫次郎(相馬盛胤)の正室にと約束し三者は杯を交わした。

菊池顕綱【きくちあきつな(15??~1585)】

安達郡小手森城主。小手森菊池家は肥後国の名門菊池家の枝連衆で、南北朝時代に南朝・後亀山天皇の命で奥州に入り、小手森一帯に領地を得た。 1579年、三春城主田村清顕の一人娘愛姫が出羽国米沢城主伊達輝宗の嫡男伊達政宗に嫁ぐため三春から米沢へ向かう途中、小手森周辺の田向舘で宿泊し、菊池顕綱は愛姫一行を大いに歓待し、伊達家、田村両家から感謝の意をこめて太刀馬などを贈られたという。1585年、家督を継いだばかりの伊達政宗が、大内定綱討伐のため小手森城へ来襲。菊池顕綱は縁組関係のあった大内定綱に組し、小手森城に籠もった。菊池顕綱は城の明け渡しと城からの退去を政宗に申し出るが、伊達政宗は拒否し、総攻撃を開始、菊池顕綱をはじめとする城兵だけでなく城に籠もった女・子供など約800人を討ち取った。菊池顕綱の長男菊池武憲は津島の母方の実家へ落ち延びた。

栗村盛種【くりむらもりたね(15??~15??)】

葦名家臣。官途は下総守。1533年、松本良輔とともに諏訪社の総論を裁許。1540年、諏訪社再建の棟札にも名が載る。謀反を起こして討たれた栗村盛胤の養父。

栗村盛胤【くりむらもりたね(1557~1584)】 

葦名家臣。新国貞通の男。栗村盛種の養子。官途は下総守。1584年、松本行輔とともに謀反を起こして黒川城に籠るが、赤塚藤内により討たれた。

郡山頼祐【こうりやまよりすけ(15??~15??)】

安積郡郡山城主。通称太郎右衛門尉。1588年、佐竹、芦名、岩城、二階堂、白河結城、石川各諸家の反伊達連合軍は伊達方の郡山頼祐が守る郡山城攻めのため安積郡に侵攻した。連合軍が郡山城に押し寄せたとの急報を宮森城で聞いた伊達政宗は、宮森城から杉田に部隊を前進させたが、最上、大崎、相馬勢にも備えねばならず、わずか兵8,000の少勢であった。伊達勢から郡山城に援将として、大町宮内少輔、中村主馬助宗経、塩森六左衛門尉、小島右衛門尉を鉄砲200挺とともに送った。

小桧山盛季【こひやまもりよし(15??~15??)】

芦名家臣。

小桧山盛長【こひやまもりなが(15??~1555)】

小桧山盛季の男。通称藤八郎。1555年、松本輔敦とともに謀反を起こしたが鎮定された。

小梁川宗朝【こやながわむねとも(1469~1565)】

伊達稙宗家臣。小梁川盛宗の男。小梁川家は伊達家枝連衆。若い頃は京に出て、兵法、剣術の修行をしていたが、将軍足利義晴に召しだされる。伊達稙宗も奥州より黄金を贈って扶持したという。帰国してのちは伊達稙宗に仕えた。1542年、伊達稙宗が嫡子伊達晴宗に幽閉されると、これを救い出した。「天文の乱」では伊達稙宗方として戦い、伊達稙宗が隠居して丸森城に退くとこれに従った。伊達稙宗の死後は墓前で殉死した。

小梁川宗秀【こやながわむねひで(1510~1570)】

小梁川宗朝の男。1570年、中野宗時の反乱を鎮圧。新田景綱とともに先陣を勤め討死する。

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【さ】

斎藤伊豆守【さいとういずのかみ(15??~15??)】

山ノ内家臣。鎌倉よりの譜代で、山ノ内家四天王の一人。

佐瀬常昌【させつねまさ(15??~15??)】

芦名家臣。

佐瀬常教【させつねのり(15??~15??)】

佐瀬常昌の男。官途は大和守。1536年、黒川実成寺に諸役免除の書状を発給している。1578年「大槻政通、山内重通の乱」では鎮圧に赴いた。

佐瀬常和【させつねかず(15??~15??)】

佐瀬常昌の次男。官途は信濃守。主君芦名盛氏の息子盛興と伊達晴宗の娘との婚姻の際に使者を務める。甲斐武田家との外交交渉も担当した。

佐瀬種常【させたねつね(15??~1589)】

佐瀬常教の男。官途は大和守。不及斎と号す。1538年、大火で芦名盛氏の居館も焼失した際、再建されるまで芦名盛氏も種常邸に住んだ。「猪苗代盛頼の乱」では鎮圧軍として活躍。陸奥耶麻郡中田村の六斎市を管理した。1589年「摺上原の戦い」で討死した。

佐瀬常秀【させつねひで(15??~1560)】

佐瀬常教の次男。通称伝七郎。1560年、那須家、佐竹家と白河結城晴綱が戦った際、白河結城晴綱の救援に派遣されて武者奉行を務めたが、家臣の岡孫左衛門により暗殺された。

佐瀬常雄【させつねお(1572~1589)】

富田氏実の次男。佐瀬種常の養子。通称平八郎。1589年、養父佐瀬種常とともに「摺上原の戦い」に出陣したが大敗、敗走中に討死した。

佐瀬常成【させつねなり(15??~15??)】 

佐瀬常和の次男。中ノ目式部大輔の弟。官途は河内守。通称伝兵衛。1584年、関柴備中守攻め中の兄中ノ目式部大輔を応援するため300騎を率いて出陣した。1584年「松本太郎行輔の乱」では黒川城に急行してこれを鎮圧。

沢神但馬守【さわがみたじまのかみ(15??~15??)】

石橋尚義家臣。

塩田重政【しおたしげまさ(15??~15??)】

岩瀬郡細桙城主。二階堂家臣。官途は因幡守。

塩田政繁【しおたまさしげ(1554~1589)】

塩田重政の男。官途は右近大夫。1589年、落城後は石川郡に隠れ住んだが、塩田一族を伊達政宗は石川昭光に命じて謀殺した。

新城村尚【しんじょうむらなお(1485~1554)】

安達郡椚山城主。畠山政国の次男。畠山義国の実父。二本松義綱の後見役。1586年、伊達家の侵攻に耐えきれず会津に敗走した。

新城国常【しんじょうくにつね(15??~15??)】

新城村尚の男。心安斎淨閑と号す。

新城信常【しんじょうのぶつね【(15??~1586)】

新城国常の男。官途は弾正忠。畠山義継の従兄弟にあたる。1571年、田村清顕の書状に既に見えている。畠山義継が伊達輝宗を殺害し、伊達政宗に殺されてから畠山義継嫡子の国王丸と重臣が籠城したときに中心的人物として活躍した。武功の者という。

須江光頼【すえみつより(15??~15??)】

芦名家臣。越後長尾家、伊達家との外交交渉に活躍した。

須佐信清【すさのぶきよ(15??~15??)】

大沼郡横田の須佐信宗の子、山内四家老の一人で大善と称す。1589年、伊達勢奥会津侵攻のとき奮戦した。諏訪因幡守子豊後佐信昌、文明年中始め信濃より移る。須佐信昌の孫信が山之内家臣となり、諏訪を須佐と改める。

須佐信重【すさのぶしげ(15??~15??)】

須佐大善信清の男。官途は下総介。伊達政宗政が奥会津に侵攻した時、山内氏勝を助けて奮戦する。父子で戦うも、松坂峠にて敗れる。

須佐門之丞【すさもんのじょう(15??~15??)】

須佐大善信清の次男。山ノ内氏勝の足軽大将を務める。1589年「松坂峠の戦い」では、須佐門之丞と、その子須佐孫六と親子で奮戦する。

杉岸伯耆守【すぎぎしほうきのかみ(15??~15??)】

伊南郡宮沢館主。河原田家臣。1584年、芦名盛氏が河原田家を攻めた時、芦名盛氏勢の将種橋藤十郎を討取る。

杉目直宗【すぎめなおむね(15??~1584)】

信夫郡杉目城主。伊達晴宗の六男。1578年、父伊達晴宗死後、信夫郡杉目城に入り杉目家を称したが、嗣子なく杉目家は断絶した。

須田秀行【すだひでゆき(15??~15??)】

岩瀬郡和田城主。二階堂家臣。

須田盛秀【すだもりひで(1530~1625)】 

二階堂盛義家臣。官途は美濃守。二階堂盛義が亡くなりその後を継いだ二階堂行親も早世すると、二階堂盛義の後室大乗院(伊達晴宗娘)を助け須賀川城の実質的な城代となる。須田盛秀は佐竹義重と手を結んで伊達政宗と対立するが、1589年「摺上原の戦い」で葦名義広が大敗して葦名家が滅亡すると、伊達政宗に須賀川城を攻められた。須田盛秀は須賀川城に籠城して伊達軍に徹底抗戦したが落城した。須田盛秀は落城後、自らの居城和田城を自焼して常陸に落ち、佐竹義宣に仕え、茂木城主として須賀川衆と呼ばれた二階堂旧臣などおよそ百騎(茂木百騎)を預けられた。

須田秀広【すだひでひろ(1572~1589)】

須田盛秀の男。1589年、須賀川落城時に討死した。

須田源蔵【すだげんぞう(15??~15??)】

岩瀬郡川中宿古館主。二階堂家臣。須田秀信の男。弘治、永禄期に白河結城家と戦う。

関柴輔充【せきしばすけのり(15??~15??)】

松本家枝連衆族。

関柴輔弘【せきしばすけひろ(15??~15??)】⇔松本備中守。

関柴輔充の男。官途は備中守。1585年、伊達家に内応し、伊達政宗は原田宗時らを派遣。これに対して葦名家は中目式部大輔らを迎撃に出して伊達勢を撃退、関柴輔弘も沼沢出雲により討たれ、一族郎党は伊達家を頼って落ち延びた。

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【た】

高玉村継【たかたまむらつぐ(15??~15??)】

安積郡高玉城主。二本松畠山家枝連衆。

高玉頼継【たかたまよりつぐ(15??~15??)】

高玉村継の男。官途は紀伊守。1551年、高玉頼継の代には高玉、石筵、横川を治めていた。

高玉常頼【たかたまつねより(15??~1589)】

高玉頼継の男。1589年、芦名家の混乱に乗じて芦名領を狙う伊達政宗に攻撃され、高玉常頼と女婿の荒井新兵衛政頼は奮戦したが、大激戦を演じ奮戦するが、城主以下60名全員が討死し落城したといわれる。伊達政宗は残された全ての将士を撫切りにせよと命じ、民百姓、女子供300人から牛馬に至るまで惨殺した。高玉山常円寺にある高玉常頼夫妻の碑は、高玉常頼の妹婿で義兄と運命を共にした荒井新兵衛政頼の一族荒井定高が建立したもの。

伊達稙宗【だてたねむね(1488~1565)】

伊達郡桑折西山城主。伊達尚宗の男。1514年、父伊達尚宗の死去にともない家督を相続した。最上家、葛西家、岩城家などと抗争を繰り返して勢力を急激に拡大した。1517年、将軍足利義稙の上洛祝賀の為として多額の進物を送り、管領細川高国を通じて左京大夫任官と一字拝領とを願い出て許され、偏諱を受けて名を伊達稙宗に改めた。1532年、居城を梁川城から西山城に移し、1536年、169条に及ぶ分国法『塵芥集』を制定するなど、体制の強化に努めた。三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣や婿の相馬顕胤への伊達領割譲などの問題をめぐって長男伊達晴宗や桑折景長、中野宗時ら家臣団と対立を深めた。1542年、伊達晴宗に捕縛されて西山城に幽閉された。しかし、伊達稙宗は小梁川宗朝によって救出されると奥州諸侯を糾合して晴宗と争う構えを見せたため、奥州全体を巻き込む形で「天文の乱」が勃発する。この争いは当初稙宗方が優勢だったが、1547年に味方であった蘆名盛氏が伊達晴宗に寝返ったことで、一転して戦況が不利に傾いた。1548年、伊達晴宗に降伏する形で和睦し、家督を伊達晴宗に譲って亘理郡丸森城に隠居することを余儀なくされた。

伊達実元【だてさねもと(1527~1587)】

信夫郡大森城主。伊達稙宗の三男。縁戚である越後守護上杉定実の養子に入ることになり、上杉定実から一字を拝領して実元と名乗るなど準備が進められた。現在伊達家の家紋として有名な「竹に雀」はこの時に名刀「宇佐美貞光」と共に実元に贈られた引出物である。ところが、伊達稙宗が越後に向かう実元に家中の精鋭100騎を随行させようとしていることを知った実元の兄伊達晴宗が、伊達家の弱体化を恐れてこれに反発し、1542年、伊達晴宗が伊達稙宗を幽閉したことで「天文の乱」が勃発した。伊達実元は伊達稙宗に従って信夫郡で奮戦したが、乱に勝利した伊達晴宗が家督を継ぐと伊達晴宗の次女を娶って大森城主となり、米沢城に居城を遷した伊達晴宗に代わって信達地方の統治を担い、甥伊達輝宗の代には田村家、相馬家と戦って隣接する畠山家、大内家ら近隣の小大名を支配下へと組み込んでいった。1584年、嫡男伊達成実に家督を譲り、八丁目城に隠居し棲安斎と号したが、引き続き一族の長老として外交、調略に従事し、伊達成実と共にたびたび伊達政宗の苦境を救った。

伊達成実【だてしげざね(1568~1646)】

伊達実元の男。幼少の頃には、時宗の僧了山和尚(伊達郡粟野村の専念寺住職)を師として学問を修めた。1579年、大森城にて元服(烏帽子親は伊達輝宗)。1584年、家督を継いで大森城主となり、伊達領南方の抑えを担う。1585年「人取橋の戦い」では、伊達勢が潰走する中にあって奮戦して伊達政宗を逃がす。1586年、二本松城主となり、安達郡38,000石の所領を与えられた。1588年「郡山の戦い」では、寡兵で蘆名義広の攻勢をしのぐ一方で大内定綱を調略して帰参させ、1589年「摺上原の戦い」では、突出した敵の側面を強襲して合戦序盤の劣勢を覆すなど、伊達勢の中核として活躍し数々の軍功を挙げた。1590年、伊達政宗が羽柴秀吉の「小田原攻め」に参陣した際には、黒川城に残って留守居役を務めた。1590年「葛西大崎一揆鎮圧」にも従軍したが、一揆煽動が露見して伊達政宗が羽柴秀吉に上洛を命じられると、国分盛重と共に蒲生氏郷への人質として名生城に入った。1591年、伊達政宗の岩出山城への転封に伴い、伊達成実は、亘理郡角田城へ転封になった。1595年、伏見に居た伊達成実は突如として伊達家を出奔し、角田城は伊達政宗の命を受けた岩出山城留守居役の屋代景頼によって接収され、この際に抵抗した成実の家臣・羽田実景ら30人余が討死し、伊達成実の家臣団は解体された。

田手宗光【だてむねみつ(15??~15??)】

伊達郡伊達崎城主。田手家は、伊達郡の地頭職に任ぜられた伊達朝宗の六男六郎実綱が朝宗から伊達崎郷を分知され伊達家の庶流から始まる。伊達実綱の家系は伊達崎家を称しますが、惣領伊達家と名字が似通っていたため田手家を名乗った。1542年「天文の乱」では一族の田手治部丞、田手石見守、田手隼人が稙宗方に与して没落し、嫡流とされる田手助三郎は晴宗方に与して、乱後 伊具郡西根の総成敗職や郡内に新領を与えられました。実烈の嫡子式部宗光は伊達輝宗の代に相馬家に対する抑えとして角田城の城将に任ぜられましたが、相馬家に内通したため後に隠居を申し渡され、その後 宗光の嫡子式部宗時が角田城の城代に任ぜられました。

田手宗時【だてむねとき(15??~15??)】

田手宗光の男児。1581年、田手宗時は相馬家との合戦で討死にしました。田手家は天正末期まで本貫地伊達崎を保持していた。1591年、伊達政宗が岩出山に転封になると、柴田郡小泉城に移った。

太郎丸掃部【たろうまるかもん(15??~1589)】

耶麻郡太郎丸村豪族衆。芦名家臣。1584年、伊達政宗の侵攻に降る。1589年「摺上原の戦い」に鉄砲隊を率いて従軍したが、富田隆実により討たれた。

寺坂信濃守【てらさかしなののかみ(15??~15??)】

安達郡寺坂城主。石橋尚義家臣。

富田滋実【とみたしげざね(1520~15??)】

官途は左近将監。葦名家四天王の一人。1538年「黒川城下大火」のときから確認できる。1541年、猪苗代盛頼の乱では鎮圧軍を率いた。1566年、伊達家と和議を結んだ際起請文にも署名。富田家は松本家と同様、会津地方土着の在地豪族衆である。

富田氏実【とみたうじざね(15??~15??)】

富田滋実の男。官途は美作守。1572年、領内の境界争いの調停に当たる。1578年「大槻政通、山内重勝の乱」では鎮圧に赴く。1583年、会津に寄寓していた小笠原長時が暗殺されたが、場所は富田氏実邸であった。1586年の葦名亀王丸死後の継嗣問題では伊達小次郎を推すが、結局佐竹義広の入嗣となった。しかし葦名義広に随身してきた佐竹家臣の大縄、刎石家らと領内仕置をめぐって対立した。1587年越後における葦名家の拠点赤谷城が長尾景勝に攻められた際、城主小田切三河守救援に派遣されたが失敗に終わる。直江兼続に葦名家、長尾家の融和を求める書状を出した。1589年「郡山の戦い」の際、石田三成から書状を受けたとゆう。1589年「摺上原の戦い」では左備を担当して息子隆実を先陣させたが大敗を喫す。結局平田左京らと謀って葦名盛重を黒川城から追い出し、伊達政宗に服属した。その後なおも抵抗を続ける山内氏勝討伐にも従軍。

富田隆実【とみたたかざね(1569~15??)】

富田氏実の男。官途は左近将監。伊達政宗の策謀によって芦名家臣は崩壊の危機にあったが、隆実は最後まで主家への忠誠を掲げた。1589年「摺上原の戦い」では500騎を率いて先鋒を務め、父富田氏実が内通しても、自身は葦名盛重を擁護すべく奮戦した。猪苗代盛国、原田宗時、片倉景綱隊を撃破したが、太郎丸掃部隊の鉄砲攻撃を受け、掃部を討つも苦戦した。その後は葦名盛重を追って常陸へ遁れたが、1590年、葦名盛重が二本松畠山義綱を討ったためそのもとを離れたといわれる。芦名家滅亡後は、相馬家に仕えた。

富塚仲綱【とみづかなかつな(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。伊達稙宗の下で評定衆として『塵介集』や『蔵方の掟』に連署した。1542年「天文の乱」では伊達稙宗側について戦ったが討死した。

富塚宗綱【とみづかむねつな(1540~1613)】

富塚仲綱の男。富塚仲綱が天文の乱の際に稙宗に与して戦死した為、伊達晴宗により所領を没収されたが、懸田俊宗のとりなしにより一部が復した。伊達輝宗、伊達政宗の時代には宿老の一人として重用された。1592年「文禄の役」で政宗が肥前名護屋城に向かった後は岩出山城の留守役を務めた。

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【な】

中島宗忠【なかじまむねただ(15??~15??)】

伊達郡保原城主。懸田俊宗家臣。官途は伊勢守。

中島宗求【なかじまむねもと(15??~15??)】

中島宗忠の男。1542年「天文の乱」に伊達晴宗派。父中島宗忠の代から伊達家に仕えた。中島宗求は次男で、兄中島信利の討死により家督を継いだ。相馬家の駒ヶ峰城攻略などで戦功を挙げた。1595年、主君の伊達政宗が関白羽柴秀次の謀反に関わりを持ったと、羽柴秀吉から疑いを掛けられた時は湯目景康と共に秀吉に愁訴し疑いを解くのに尽力した。

中ノ目式部大輔【なかのめしきぶたいゆう(15??~15??)】

佐瀬常和の男。佐瀬常成の兄。他家に入っているので庶兄。1584年、慶徳善五郎とともに伊達勢を迎撃し、離反した関柴備中守を討ち獲る。

長沼実国【ながぬままさくに(15??~1553)】

奥会津南山(鴨山城)城主。1521年、長沼実国は会津に侵攻、芦名盛舜はつかさず南山城に反撃を加えるが、芦名家中の内訌が発生。長沼実国はことなきを得た。芦名盛舜は伊達家と結んで、北方を固め、会津守護の立場を確立しようとした死去した。その跡を継い 長沼盛氏は南会津統一のため山内氏についで、実国の鴨山城を攻めた。伊達輝宗との対立が表面化し、結城白川家が佐竹家と結ぶに至って、葦名盛氏の眼は東に向けられた。1568年、芦名盛氏は向羽黒岩崎城に入り、南会津を押さえる山城とした。長沼実国は、戦国大名に成長した芦名盛氏と同盟を結んだ。

長沼盛秀【ながぬまもりひで(1544~1590)】

長沼実国の男。通称弥七郎。官途は兵庫。下野小山家枝連衆。下野、陸奥国境に勢力を張る。父長沼実国の代までは、芦名盛舜、芦名盛氏と激しく争った。1589年「摺上原戦い」には派兵せず、伊達政宗に降伏した。1590年、河原田盛次攻めに従軍し、河原田盛次家臣河原田盛勝と戦って負傷し、これがもとで死去した。息子長沼盛重は伊達家に仕えた。

中丸三郎左衛門【なかまるさぶろうさえもん(15??~15??)】

伊北郡小林館主。山ノ内家臣。1589年、長沼盛秀、布沢上野助に攻め落される。

二階堂輝行【にかいどうてるゆき(1508~1557)】 

岩瀬郡須賀川城主。二階堂晴行の男。官途は駿河守。伊達、芦名、田村家ら隣接勢力と度々抗戦したが、今泉城を田村家に奪われるなど苦戦した。

二階堂盛義【にかいどうもりよし(1532~1581)】 

二階堂輝行の男。官途は遠江守。室は伊達晴宗の女(大乗院)。1563年、横田松山城をめぐって芦名盛氏と激しい攻防を繰り返したが、息子二階堂盛隆を人質に出してこれと和した。その後父二階堂輝行の代に田村家に奪われていた今泉城を芦名家の協力のもと奪還した。1575年、二階堂盛義が葦名家を継ぐこととなると、二階堂家は芦名家と一体となり、二階堂盛義死後は芦名宗家に吸収されることとなる。

二階堂盛隆【にかいどうもりたか(1561~1584)】⇔葦名盛隆【あしなもりたか】 

二階堂盛義の男。1565年、父二階堂盛義が芦名盛氏に敗れて降伏したとき、人質として会津の葦名盛氏のもとに送られた。1575年、芦名盛興が継嗣を残さずに早世すると、二階堂盛興未亡人彦姫を室に迎えた上で、芦名盛氏の養子となって芦名の家督を相続した。1580年、芦名盛氏が死去すると芦名家の実権を掌握する。1581年、家臣の金上盛備を上洛させて織田信長に名馬三頭、蝋燭1000挺を献上して誼を通じ、会津守護職を認めさせることに成功した。1581年、越後国で新発田重家が越後長尾景勝に反旗を翻すと、伊達輝宗と共に介入して新発田重家を支援した。南奥の諸大名とも誼を通じて北進する佐竹義重に対抗している。芦名家の当主となった芦名盛隆は、父二階堂盛義と共に葦名家の力を用いて衰退していた実家の二階堂家の勢力回復に務めた。二階堂家からの人質であった芦名盛隆に反感を抱く家臣による反乱がたびたび起こった。1584年、葦名盛隆が出羽三山の東光寺に参詣した隙を突かれて栗村盛胤、松本行輔らに黒川城を占拠されたが、芦名盛隆はこれを素早く鎮圧し、岩瀬郡長沼城主新国貞通を攻めて降伏させた。1584年、黒川城内で寵臣であった大庭三左衛門に襲われて死亡した。

二階堂行親【にかいどうゆきちか(1570~1585)】

二階堂盛義の次男。父二階堂盛義の死後、葦名家の養子になった兄に代わって二階堂家当主となるが16歳で没した。二階堂行親死後は二階堂盛義の未亡人阿南(おなみ)の方(大乗院)が須賀川城主となり、家老の須田盛秀が実質的な城代となった。1589年、伊達政宗に攻め滅ぼされるまで領内を統治した。

二階堂家四天王【にけいどうけしてんのう】

遠藤勝重、須田盛秀、矢部義政、守屋俊重。

新国貞通【にっくにさだみち(15??~15??)】

岩瀬郡長沼城代。芦名家臣。官途は上総介。1566年、長沼城代。1576年、長沼城が佐竹義重、田村清顕らに攻められたときこれと激闘して守り抜いた。1588年、宇都宮家臣君島高胤かより主君宇都宮国綱への祝儀に対する礼状が新国貞通に送られている。芦名家滅亡後は伊達家に服属したが、蒲生氏郷の会津入部後はこれに仕えた。

沼沢政重【ぬまざわまさしげ(15??~15??)】

沼沢城主。 

沼沢実通【ぬまざわさねみち(15??~15??)】

大沼郡丸山城主。山内家枝連衆。官途は出雲守。1558年、山内俊政、横田俊範が松本舜輔の岩谷城を攻略した際、彼らの助命を訴えて許された。1575年、前年に戦死した松本氏輔の所領を与えられた。1585年、伊達家に内応した関柴備中を討取る。1589年「摺上原の戦い」後は葦名盛重とともに、常陸の佐竹家へ落ち延びた。

沼沢忠通【ぬまざわただみち(1575~1647)】

沼沢実通の男。1589年、芦名家滅亡により父沼沢実通とともに芦名義広に従って常陸佐竹家の元に逃れた。1590年、芦名義広に反逆した二本松左馬之介を討った。

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【は】

畠山村国【はたけやまむらくに(1475~1542)】

安達郡二本松城主。畠山政国の男。官途は右馬頭。足利枝連衆で奥州探題を務めた名門だが、畠山村国の時代には安達郡二本松城周辺に所領を持つ、国人領主となった。

畠山家泰【はたけやまいえやす(1512~1564)】

畠山晴国の男。通称は二本松七郎。伊達家、葦名家の南奥州の強国に挟まれ、家中がまとまらず若くして没する。

畠山義氏【はたけやまよしうじ(1530~1547)】

畠山晴国の次男。官途は信濃守。通称二本松七郎。次男であったが兄早世を受けて家督を継ぐ。1547年「天文の乱」では伊達稙宗方に味方した。畠山家泰、義氏共に早世したので父畠山村国の弟で新城村尚の嫡子、畠山義国が後継となった。

畠山義国【はたけやまよしくに(15??~1521)】

新城村尚の男。官途は右京亮。宗家の畠山義氏の死後継嗣がなかったため、1547年、家督を継ぎ宗家を相続。安達郡二本松城主となる。嫡流であった畠山満国の裔、本宮宗頼が一門から当主を迎えたことに不満をもち、謀叛を企てたが露見して畠山義国が討伐した。1551年、蘆名家と田村家の抗争に関して、畠山義国は白河結城晴綱とともに和議を斡旋した。

畠山義継【はたけやまよしつぐ(1552~1585)】

畠山義国の男。官途は右京亮。通称二本松七郎。1574年、伊達家との交渉に当たる。1580年、父畠山義国の死を受けて畠山家督を後継した。南奥に覇を競う芦名家、伊達の両家に挟まれて苦慮し、芦名家について伊達家と対立した大内定綱を擁護したため伊達政宗の攻撃を受けた。畠山義継は和議を申しこむが決裂し、さらに伊達政宗の父伊達輝宗を仲介することとなったが、このとき伊達輝宗を人質にして本城を目指すも伊達勢に包囲され、阿武隈河畔において伊達輝宗もろとも銃撃を受けて討死した。

畠山義綱【はたけやまよしつな(1574~1589)】

畠山義継の男。幼名は国王丸。1585年、畠山家督を継ぐが、伊達政宗の怒りのさなかであり、1586年、相馬家の斡旋もあって会津黒川へ逃れた。1589年「摺上原の戦い」に敗れて芦名盛重を頼る。その後常陸国に戻った芦名盛重の家臣沼沢出雲守によって殺害された。

畠山国次【にほんまつくにつぐ(15??~15??)】

畠山義継の次男。父畠山義継の横死後は会津へ逃れ、芦名家臣富田氏実の庇護を受けた。芦名家滅亡後は芦名盛重を頼って兄畠山義綱とともに常陸へ赴くが、1590年、兄芦名盛重に殺害されると会津へ戻り、のち越後長尾景勝に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では最上家と戦う。のち加藤嘉明に仕えたが、1643年、加藤家が改易されると水野忠善に仕えた。

畠山晴国【はたけやまはるくに(15??~15??)】

畠山村国の男。通称弥太郎。官途は右馬頭。

畠山家臣団【はたけやまけかしんだん】

浜尾儀泰【はまおよしやす(15??~15??)】

二階堂家臣。官途は駿河守。

浜尾行泰【はまおゆきやす(1543~1623)】

浜尾儀泰の男。官途は駿河守。1589年、伊達政宗の須賀川城攻めに際して、嫡男浜尾盛泰、次男浜尾宗泰とともに伊達政宗に内応「須賀川城攻め」の先陣をつとめた。以後伊達政宗に仕えた。1600年、伊達政宗による「白石城攻め」にも従軍した

浜尾盛泰【はまおもりやす(15??~15??)】

浜尾行泰の男。官途は駿河守。

浜尾宗泰【はまおむねやす(15??~15??)】

浜尾行泰の次男。官途は豊前守。

針生盛幸【はりゅうもりさち(1515~1553)】

芦名盛滋の次男。芦名家枝連衆。官途は民部大助。黒川城西丸に居住、西丸殿と呼ばれた。耶麻郡針生を領していた為、姓を「針生」と改め別家を興し、芦名枝連衆として四宿老を上回る家中最上の家格となった。父芦名盛滋が隠居した際、男子がなかったために、芦名盛滋は弟の芦名盛舜へ家督を譲ったが、芦名盛滋の隠居中に芦名盛幸が生まれた。芦名家の家督は、芦名盛舜の系統が代々受け継いだため、芦名盛幸が家督を受け継ぐ事はなかった。

針生盛秋【はりゅうもりあき(1538~1562)】

針生盛幸の男。

針生盛貞【はりゅうもりさだ(15??~15??)】

針生盛幸の次男。

針生盛信【はりゅうもりのぶ(1553~1625)】

針生盛秋の男。官途は民部大輔。通称小太郎。1576年、金上盛備の子、金上盛実と席次を争っている。針生盛信は芦名盛氏の時代に台頭してきた金上盛備と家中の権勢をめぐって対立し、芦名家の分裂を招いた。芦名家では、外交を担当、越後長尾家と芦名家の盟約について交渉している。1589年、芦名家が滅亡すると、伊達政宗に仕えた。

平田宗範【ひらたむねのり(15??~15??)】

芦名家臣。1544年、渋河源左衛門尉宛の土地売買の書状に登場。1566年、血判起請文に宗範の子実範が署名している。1550年「黒川城下」の火災で焼失した諏訪社が再建されたときの棟札に、左衛門尉輔範(尾張守)が名を連ね、落成時には輔範の弟石見守盛範、長男左京亮舜範らが連署している。

平田輔範【ひらたすけのり(15??~15??)】

平田宗範の男。官途は尾張守。芦名亀王丸没後の継嗣問題では富田美作とともに伊達小次郎を推す。1589年「摺上原の戦い」では後陣を担当、息子周防守は右備を担当したが敗れた。その後他の家臣らと謀って黒川城から芦名盛重を追放、平田範政とともに伊達政宗に降伏した。山内氏勝攻めにも従軍。。

平田盛範【ひらたもりのり(15??~15??)】

平田範政の次男。官途は石見守。1538年「黒川大火」の際、平田盛範邸は無事だったので、芦名盛舜を屋敷に迎えた。

平田舜範【ひらたきよのり(15??~15??)】

蘆名家臣。平田輔範の男。官途は周防守。1568年、河田長親と連絡して越後長尾、芦名家の友好を依頼している。1578年、大槻政通、山ノ内重勝らが越後長尾景虎と結んで謀反を起こすと鎮圧に赴いた。

藤田晴親【ふじたはるちか(15??~15??)】

伊達郡藤田城主。1546年「天文の乱」では、藤田晴親は伊達稙宗方に与し没落した。1547年、藤田晴親の嫡子藤田宗和は伊達家に帰参した。

星右近【ほしうこん(15??~15??)】

山内氏勝家臣。1589年年、伊達政宗の侍大将大波玄蕃が横田の城を攻めた際、防戦し玄蕃勢を打ち破る。

堀金左京【ほりかねさきょう(15??~15??)】

伊北郡小林館主。山内俊光家臣。

保土原行有【ほどわらいくあり(15??~15??)】

岩瀬郡保土原城主。二階堂家臣。

保土原行藤【ほどわらゆきふじ(1538~1620)】

保土原行有の男。入道して江南斎と号した。保土原家は二階堂家の庶流で、岩瀬郡保土原に住してこれを名字とした。1589年、伊達政宗の須賀川攻めに際して、政宗に内応し、須賀川城攻めの先陣を務めた。矢田野義正の篭る「大里城攻め」にも参加した。和歌に優れ、政宗に和歌を詠んで贈ったほか、茶道にも嗜みの深い風雅数寄の人物で、政宗と書状のやり取りを盛んに行うなど政宗にその才能を敬われたという。

保土原重行【ほどわらしげゆき(15??~15??)】

保土原行藤の男。

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【ま】

松本宗輔【まつもとむねすけ(15??~1555)】

大沼郡船岡城主。芦名家臣。松本輔忠の男。通称与右衛門。1495年、父松本輔忠は謀反を起こした。1555年小桧山盛長とともに謀反を起こしたが失敗討死した。

松本舜輔【まつもときよすけ(15??~15??)】

松本宗輔の男。官途は図書助。休意と号す。1538年「黒川大火」では松本舜輔邸の不始末(彼が書庫内で暖をとるために火を焚いたのが火災の原因であった)から「図書助」の称号を剥奪された。1558年、山内俊政・横田俊範兄弟により居城岩谷城を落とされた。

松本氏輔【まつもとうじすけ(1535~1574)】

松本舜輔の男。官途は図書助。1566年、伊達家との起請文に署名。このときの芦名四天王の順序は松本氏輔、平田実輔、佐瀬種常、富田滋実。1574年、田村清顕を攻めた際、安積郡福原において討死した。大沼郡曹洞宗寺院松沢寺は松本氏輔が再興した。

松本行輔【まつもとゆきすけ(1569~1584)】

松本氏輔の男。通称太郎。主君葦名盛隆が羽黒山東光寺に参詣中、栗村盛胤と結んで謀叛を起こしたが、帰還した芦名盛隆によって討たれた。家督相続時に幼少であったため、領知の一部を召し上げられたのが理由。松本家は芦名家の重臣ではあるが叛臣も数多く出している。1492年、葦名盛高に背いた松本藤右衛門。1495年、芦名盛高を離反した松本備前守。1498年、芦名盛高に討たれた松本右馬允。1500年、芦名盛高に討たれた対馬守。1521年、芦名盛舜に討たれた松本大学がいる。

松本輔次【まつもとすけつぐ(15??~15??)】

松本家枝連衆。

松本輔光【まつもとすけみつ(15??~15??)】

松本輔次の男。通称左衛門。官途は伊豆守。1578年「山内重勝の乱」では鎮圧軍を率いた。

宮下大善【みやしただいぜん(15??~15??)】⇔中丸俊重【なかまるとししげ】

大沼郡宮下館主。山内家枝連衆。通称新蔵人。1589年、伊達政宗の会津侵攻により葦名家滅亡の後、次男宮下二男八郎左衛門と越後に落のびる。

宮下(中丸)俊朝【(みやしたとしとも(15??~15??)】

宮下俊重の男。名は新左衛門。中丸家の養子となる。1589年、伊達勢との戦に、猪苗代海賊衆の将として伊達勢を敗走させた。

宮下忠常【みたしたただつね(15??~15??)】

宮下俊久の男。通称宮左衛門。山内家枝連衆。

宮下俊長【みやしたとしなが(15??~15??)】

山内家枝連衆。宮下忠常の男。通称太郎右衛門。

宮崎善兵衛【みやざきぜんのひょうえ(15??~15??)】

大沼郡宮崎館主。山ノ内枝連衆。山ノ内氏勝家臣。1589年、伊達勢と「松坂峠の戦い」で、一族郎党六十余騎討死、宮崎善兵衛等奮戦した。

守屋秀重【もりやひでしげ(15??~15??)】

岩瀬郡守谷館主。二階堂家臣。

守谷俊重【もりやとししげ(15??~1589)】

守屋秀重の男。官途は筑後守。二階堂家四天王のひとり。1589年、伊達政宗が須賀川城を攻めた際、伊達政宗に内応して本丸の西方にある菩提所長禄寺に放火した。折りからの西風に煽られ炎は四方に飛び火して城と町は焼け落ち、二階堂家の敗北が決定的となった。

守谷重清【もりやしげきよ(15??~15??)】

守屋秀重の次男。官途は釆女。

守屋重国【もりやしげくに(15??~15??)】

守谷俊重の男。

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【や】

矢澤藤綱【やざわふじつな(15??~15??)】

山ノ内家臣。大塩塩沢に住む、1590年「松坂峠の戦い」で討死した。

梁川宗清【やながわむねきよ(15??~1605)】

梁川城主。伊達稙宗の八男。1543年、梁川城に居して梁川家を称した。1591年、羽柴秀吉による奥州仕置で伊達政宗が岩出山へ移された時に梁川宗清も梁川城を去り隠居して梁川鉄斎と称した。長男の梁川宗直は白石宗実の養子となり、次男の梁川宗友は村田宗殖の養子となり、梁川宗清没後、一時梁川家は断絶したが、梁川宗直の子宗元が梁川を称して再興し、準一家に列した。

箭田野行義【やだのゆきよし(1524~1583)】

岩瀬郡大里城主。二階堂家臣。官途は但馬守。二階堂家枝連衆。

箭田野義正【やだのよしまさ(1565~1623)】

箭田野行義の男。官途は安房守。1588年「郡山の戦い」では伊達方の伊東重信を討ち取る活躍をした。1589年、伊達政宗により二階堂家の須賀川城が落城すると、箭田野義正は居城の大里城に篭城し伊達軍に徹底抗戦した。箭田野義正勢の士気は高く、伊達政宗の激しい力攻めにも関わらずついに大里城は落ちなかった。後に佐竹家を頼り、佐竹家の転封に従って秋田に移った。

箭田野行正【やだのゆきまさ(1592~1643)】

箭田野義正の嫡男。

矢部豊前守【やべぶぜんのかみ(15??~15??)】

岩瀬郡越久館主。二階堂家臣。1589年、伊達家に通じて須賀川城攻略に協力し、越久350貫の所領を安堵された。

山崎彦七【やまざきひこしち(15??~15??)】

伊達郡山崎城主。伊達家臣。1542年「天文の乱」では、山崎彦七が同族山崎彦兵衛とともに伊達晴宗方に与し、乱後 伊達晴宗から所領の加増を受けた。1576年年、伊達輝宗が相馬領に侵攻した際には山崎丹後守がこれに従い参陣している。1588年、米沢城に参候した諸将の接待役として山崎丹後守が活躍している。

山ノ内俊清【やまのうちとしきよ(15??~15??)】

南会津郡(伊北郡)横川城主。官途は治部少輔。1542年、葦名盛氏と戦っており、長沼、河原田、山内家など奥会津衆は芦名家に従属するものの独立国人的な存在であった。

山ノ内舜通【(15??~15??)】

山内俊清の男。葦名家臣。 

山ノ内氏勝【やまのうちうじかつ(1540~1608)】

山内舜通の男。官途は刑部大輔。1589年「摺上原の戦い」で主家が滅んでもなお伊達政宗に抵抗したが、1590年の「奥州征伐」により所領は没収された。

山ノ内(瀧谷)俊政【やまのうちとしまさ(15??~15??)】

大沼郡瀧谷城主。山内俊清の次男。官途は摂津守。1558年、弟山ノ内俊範とともに松本舜輔の岩谷城を攻略したが、のち芦名家に臣従した。

山ノ内(瀧谷)俊基【やまのうちとしもと(15??~15??)】

山ノ内俊政の男。官途は内匠頭。1589年「摺上原の戦い」で討死した。

山ノ内(檜原)俊範【やまのうちとしのり(15??~15??)】

山ノ内俊清の三男。檜原俊景の養子。松本図書助の居城大沼郡瀧谷の巖谷城を攻め落す。

山ノ内(檜原)俊重【やまのうちとししげ(15??~15??)】

山ノ内(檜原)俊範の男。

山ノ内(野尻)氏基【やまのうちうじもと(15??~15??)】

山ノ内俊清の四男。

山ノ内(川口)俊甫【やまのうちとしほ(15??~15??)】

山ノ内俊清の五男。

山ノ内(沼沢)俊安【やまのうちとしやす(15??~15??)】

山ノ内俊清の六男。

山ノ内(沼沢)重治【やまのうちしげはる(15??~15??)】

山ノ内(沼沢)俊安の男。

山ノ内(西方)氏信【たまのうちうじのぶ(15??~15??)】

大沼郡西方城主。山内俊清の七男。官途は左馬丞。

山ノ内(西方)重勝【やまのうちしげかつ(15??~15??)】

山ノ内(西方)氏信の男。官途は右近。1578年、野沢大槻城主大庭左衛門と長尾景虎に内応、芦名盛氏に謀叛して「小巻の戦い」に敗れ自刃。

遊佐重定【ゆさしげさだ(15??~15??)】

二本松畠山家臣。官途は遠江守。遊佐重定が河内畠山家に仕え、その後二本松に来て畠山家に仕えたとあるが、伊達家の「天文の乱」にすでに重臣として遊佐美作守がいるので、その流れを組むと考えられる。

遊佐重勝【ゆさしげかつ(1560~1644)】

遊佐重定の男。官途は下総守。伊達家の調略を受けて兄遊佐丹波守らとともに内通し、主家二本松畠山家滅亡させた。

横田大学【よこただいがく(15??~15??)】

山ノ内氏勝の弟。松平元康に仕える。山ノ内氏勝は伊達政宗と合戦し難儀に及び、松平元康より冑甲、鉄炮多数賜り、山ノ内氏勝を応援する。後に越後長尾景勝に仕える。

横田出羽【よこたでは(15??~15??)】

山ノ内氏勝猶子。1589年「松坂峠の戦い」で、出羽衆に先して戦い討死した。

横田土佐守【よこたとさのかみ(15??~15??)】

大沼郡本名の地頭。山ノ内氏勝の枝連衆。山ノ内氏勝に従って戦い、戦功も多かった。1590年「松坂峠の戦い」で奮戦した。

横山道信【よこやまみちのぶ(15??~15??)】

山ノ内家臣、横山帯刀道吉次男。山ノ内氏勝の時六十里越、八十里越両口を固める。

渡部綱孝【わたべつなたか(15??~15??)】

大沼郡大登館主。山ノ内家臣。官途は長門守。1589年、伊達勢大波玄蕃が横田山内気を攻めたさい奮戦した。

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【資料Ⅰ】

岩代国(12郡/500,000石)

会津地方 266,000石

稲沼郡: 40,000石
伊北、伊南郡: 10,000石
南山郡: 18,000石
大沼郡: 74,000石
河沼郡: 20,000石
耶麻郡: 80,000石
猪苗代郡: 20,000石
安達郡: 36,000石
安積郡: 36,000石
岩瀬郡: 52,000石
信夫郡: 54,000石
伊達郡: 66,000石

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【資料Ⅱ】

芦名家四天王【あしなけしてんのう】

松本氏輔、平田輔範、佐瀬常昌、富田氏実。

石橋家四天王【いしばししてんのう】

宮森城主:大河内備中守、小浜城主:大内義綱、百目木城主:石川有信、寺坂城主:寺坂信濃守。

二階堂家四天王【にかいどうけしてんのう】

山寺館主:遠藤雅楽頭勝重、和田城主:須田美濃守盛秀、木船城主:矢部下野守義政、守屋館主:守屋筑後守俊重。

山ノ内家四天王【やまのうちけしてんのう】

斎藤伊豆守。

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【資料Ⅲ】

岩代国【いわしろのくに】

会津郡(稲沼、伊北、伊南、南山郡)
会津四郡(会津郡、大沼郡、河沼郡、耶麻郡)+猪苗代郡
仙道七郡(石川郡、信夫郡、白河郡、岩瀬郡、安達郡、田村郡、安積郡)

寺社

会津郡:伊佐須美神社
安積郡:宇奈己呂和気神社
信夫郡:東屋沼神社

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

(※)印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

※参考文献:「津軽秋田安東一族」新人物往来社、「東北大名の研究(戦国大名論集2)」吉川弘文館、「会津芦名一族」歴史春秋社、「最上義光(戦国の驍将)」新人物往来社、「奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)」宝文堂、「会津芦名四代」歴史春秋、「伊達政宗(全8巻)」講談社、「天を衝く(全3巻)」講談社文庫、「独眼竜伊達政宗」時代小説文庫、「津軽風雲録」時代小説文庫、「政宗に睨まれた二人の老将」宝文堂、「秋田『安東氏』研究ノート」無明舎、「(史伝)伊達政宗」学研M文庫、「独眼竜政宗」講談社文庫、「奥羽永慶軍記(全2巻)」新人物往来社、「津軽南部の抗争(南部信直)」、「秋田の中世・浅利氏」無明舎出版、「独眼龍政宗」文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、「陸奥南部一族」新人物往来社、「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2011年6月19日日曜日

戦国羽後国人名辞典

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【あ】

相場又四郎【あいばまたしろう(15??~1600)】

矢島満安家臣。1600年、「赤館の戦い」では、安部太郎とともに鶴姫を擁して兵を挙げたが、仁賀保挙誠勢の攻撃を受け討死した。

赤石与兵衛【あかいしょへい(15??~15??)】

仁賀保挙誠家臣。由利郡赤石館主。1587年、仁賀保挙誠と矢島満安が和議を結ぶ際、使者として矢島城に赴いた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤尾津家保【あかおついえやす(1507~1567)】

由利郡赤尾津館主。通称左衛門尉。由利郡十二頭衆。赤尾津は天然の良湊で帆段銭だけで年間4,500石以上の収入があり、石高以上の実力を持っていた。1537年、仙北郡大曲城主前田道信が由利郡に侵攻した際、これを迎え撃ち前田道信を討取る戦功を挙げた。飛嶋城を攻略し、赤尾津長保を郡代に任じた。1567年、前田利宗との戦いで討死した。

赤尾津光政【あかおつみつまさ (15??~1597)】

赤尾津家保の男。官途は治部少輔。1582年、武藤義氏勢が由利郡に侵攻して滝沢館主滝沢政家と打越館主打越光重を降した。その後、軍勢を二つに分け、一隊を折渡峠方面に、もう一隊を荒沢に侵攻させた。赤尾津光政は、安東愛季に援軍を要請して荒沢で武藤義氏を迎撃した。「由利荒沢の戦い」で安東愛季からの援軍により武藤義氏勢は壊滅した。

赤尾津道俊【あかおつみちとし(15??~1600)】

赤尾津光政の男。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢に参陣して由利衆筆頭として4,500石の所領を安堵された。由利衆は個々の所領は小さく、軍役を負担することができなかったため、由利衆は五人衆(赤尾津道俊4,500石、仁賀保挙誠4,000石、岩屋朝盛3,000石、滝沢政忠2,800石、打越光重1,600石)のもとに再編された。1591年、「九戸政実の乱」では、継嗣の赤尾津長保が参陣して櫛引河内守を討取る戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、大谷吉継勢に属して参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、最上義光勢に属して参陣した。役後、最上義光に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤尾津長保【あかおつながやす(15??~15??)】

赤尾津道俊の男。1591年、「九戸政実の乱」では、父赤尾津道俊とともに参陣して櫛引河内守を討取る戦功を挙げた。

赤石氏実【あかしうじざね(1533~15??)】

浅利則頼家臣。通称左近。1595年、浅利則頼が安東実季との軍役金未納問題で解決求める書状に松尾久成とともに連署した。

浅利則頼【あさりのりより(1504~1550)】

比内郡独鈷城主。浅利朝頼の男。通称与市。智勇文武音曲に優れた人物で琵琶を愛した。南部晴政、安東堯季の二大勢力に挟まれながらも、独鈷城、笹館城、花岡城、扇田長岡城、八木橋城の支城網を整備して所領を拡大した。1527年、鳳凰山玉林寺の建立や大葛金山を開発など内政にも力を尽くした。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅利定頼【あさりさだより(15??~1575)】 

浅利朝頼の次男。比内郡花岡城主。1575年、「山田の戦い」では、浅利勝頼に従って参陣したが安東愛季勢と戦い討死した。

浅利頼重【あさりよりしげ(15??~15??)】

浅利朝頼の三男。比内郡笹館城主。通称勘兵衛。浅利頼重が継嗣をもうけなかったため、浅利勝頼の次男浅利頼広が笹館浅利家の家督を相続した。

浅利則祐【あさりのりすけ(15??~1562)】

浅利則頼の男。父浅利則頼は、安東愛季、南部晴政勢と領地を巡って抗争を繰り返した。1562年、「浅利家騒動」では、弟の浅利勝頼と浅利家の家督を巡って争った。「長岡城の戦い」で安東愛季と結んだ浅利勝頼勢の攻撃を受け討死した。

浅利勝頼【あさりかつより(15??~1582)】

浅利則頼の次男。1562年、「浅利家騒動」では、安東愛季と結んで、兄浅利則祐を討取り、浅利家の家督を相続した。大館城を築き、北の守りとして城下に独鈷衆を配置した。1582年、安東愛季と和議を結んだが、安東愛季に内通した家臣池内権助に謀殺された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅利頼平【あさりよりひら(15??~1598)】

浅利勝頼の男。1582年、父浅利勝頼が池内権助により謀殺されると、大浦為信のもとに落延びた。1589年、大浦為信の支援を受けて比内郡に侵攻し十狐城、長岡城を奪還して再び比内郡を領した。1590年、「奥州仕置」で比内郡は安東実季領に編入され、寄騎衆として安東実季勢に属した。1595年、羽柴秀吉の蔵入地の物成を巡って安東実季と争いに発展した。1597年、裁定を受けるため上洛したが大坂城内において謀殺された。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国久保田城を領すると、旧浅利家臣団が浅利伝兵衛を中心に蜂起したが鎮圧された。

浅利頼広【あさりよりひろ(15??~1598)】

浅利勝頼の次男(浅利頼重の養子)。通称権十郎。1582年、「餌釣館の戦い」父浅利勝頼を謀殺した池内権助を討取った。1598年、「笹館城の戦い」で安東実季勢の攻撃を受け討死した。

浅利重氏【あさりしげうじ(15??~15??)】

浅利頼重の男。通称勘兵衛。1598年、浅利頼平が上洛すると、赤石氏実、松尾久成らとともに留守居役を務めた。

浅利政吉【あさりまさよし(1541~1613)】

門脇典膳の男。官途は兵庫助。通称長兵衛。別名浅利牛欄。室は浅利則頼の娘(松姫)。1551年、浅利則頼の娘を娶り、八木橋城500石を領した。1562年、浅利則祐が自刃すると、越前国敦賀で日本画を学び鷹絵工房を創り、敦賀城主蜂屋頼隆に仕えた。織田信高に鷹匠として仕え4,000石を領した。1582年、「本能寺の変」では、安土城の織田信長の妻子を蒲生賢秀、蒲生氏郷とともに日野城へ避難させた。1592年、蒲生氏郷の鷹匠頭として仕えた。1598年、浅利頼平が上洛中謀殺されると、浅利頼平の妻子を保護し、羽後国に連れ帰った。1602年、佐竹義宣が転封すると須田盛秀の推挙で鷹匠として給地を得た。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅利盛吉【あさりもりよし(15??~15??)】

浅利政吉の養子。通称長兵衛。別名高屋五左衛門。1614年、「大坂冬の陣」で戦功を挙げた。

浅利伝兵衛【あさりでんべい(15??~1602)】

浅利勝頼家臣。比内郡八木橋館主。官途は内膳。1595年、中野城主片山弥伝彦四郎、十二所城主浅利七兵衛、八木橋城主浅利伝兵衛らとともに安東実季勢に内応した。1602年、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封になると、浅利家の旧家臣団が浅利伝兵衛を中心に蜂起したが鎮圧された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

芦田拳実【あしだきよざね(15??~15??)】

仁賀保挙誠家臣。芦田家の家督を相続した。

安孫子喜兵治【あびこきへいじ(15??~15??)】

涌本脩季家臣。秋田郡坂本館主。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、涌本脩季に従って参陣した。参考文献:「北出羽物語」bybugyo。

姉崎隆資【あねざきたかすけ(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。雄勝郡小野城主。通称四郎左衛門。家老職を務めた。小野寺輝道が、日夜酒色に耽り、近崔の美女を集めて淫行をほしいままにし、諌言する者あれば、即座にその所領を没収していた。姉崎隆資がこれを諌めるためたが、小野寺輝道の刺客に襲われ、家臣の三春玄蕃とともに謀殺された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安孫子喜平次【あびこきへいじ(15??~15??)】

安東通季家臣。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、安東通季勢に属して安東実季勢と戦った。乱後、坂本村で帰農した。

安倍千寿丸【あべせんじゅまる(15??~15??)】

北秋田郡双六館主。1587年、「双六館の戦い」で涌本脩季の攻撃を受け自刃、内室は双六館の断崖から身を投げ自害した。

安倍基季【あべもとすえ(15??~15??)】

山本郡女川館主。男鹿半島一帯を治めた。1577年、密教寺院であった大龍寺を、台巌俊鏡を開山として曹洞宗寺院として改めた。1582年、「女川館の戦い」では、安東愛季勢の攻撃を受け滅亡した。

新田目内膳【あらためないざん(15??~1582)】

小野寺義道家臣。平鹿郡荒田目城主。1582年、「大沢山の戦い」で由利十二党と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

鮎川小平太【あゆかわこへいた(15??~15??)】

由利郡鮎川館主。由利郡十二頭衆。

檜山安東尋季【あんどうよろすえ(15??~15??)】

秋田郡檜山城主。

檜山安東舜季【あんどうきよすえ(15??~1554)】

安東尋季の次男。通称安東太郎。室は湊安東堯季の娘。1550年、国情視察及び蠣崎季広の功をねぎらうために蝦夷地に渡った。父安東尋季の菩提を弔うため楞厳院を建立した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

檜山安東愛季【あんどうちかすえ(1539~1587)】

安東舜季の男。通称安東太郎。別名「北天の斗星」。室は砂越宗順の娘。側室は畠山清信の娘。1551年、湊安東堯季が継嗣をもうけぬまま病没すると、湊安東家の家督も相続して両安東家を一統した。1562年、長尾景虎や最上義光に使者を派遣した。南部晴政勢と鹿角郡を巡って抗争を繰り返した。1562年、「長岡城の戦い」では、浅利勝頼と結んで浅利則祐を討取った。1566年、「陸奥長牛城の戦い」では、城主一戸友義の抵抗により攻落すことができず撤退した。1567年、再び鹿角郡へ侵攻、谷内城、長牛城を攻略し南部晴政勢を鹿角郡から追い落とした。1568年、南部信直、九戸政実らの反撃を受け鹿角郡から撤退した。1578年、織田信長に使者を派遣した。1587年、唐松野において戸沢盛安と戦って敗退するなど苦境中で病没した。

檜山安東実季【あんどうさねすえ(1576~1659)】

安東愛季の次男。通称安東太郎。官途は左兵衛尉。室は細川昭元の娘。1587年、父安東愛季の病没により安東家の家督を相続したが、安東通季が、戸沢盛安勢の支援を受けて謀反を起こした。劣勢に立たされた安東実季は檜山城に五ヶ月余り籠城後、由利衆の支援を受けて反撃に転じ、安東高季の湊城を落としてこれを撃破した。由利郡を巡って小野寺義道と、比内地方をめぐっては南部信直と連年抗争した。1589年、「小田原の役」に参陣して、羽柴秀吉から湊城180,000石の所領を安堵された。1591年、「九戸政実の乱」に参陣した。1592年、「文禄の役」に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、病と称して中立を維持したため、石田三成勢と見なされた。1602年、常陸国宍戸城50,000石へ減封処分に処された。1614年、「大坂冬の役」に参陣した。1630年、苛斂誅求の罪に問われて伊勢国朝熊に蟄居を命ぜられた。歌道や茶道に長じた教養人でもあった。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

檜山安東英季【あんどうひですえ(1580~1635)】

安東愛季の次男。官途は玄蕃頭。父安東愛季が病没したため、兄安東実季の養子なり4,200石を領した。1594年、重臣連署の起請文にも署名した。1614年、「大坂冬の陣」にも参陣した。

檜山安東実泰【あんどうさねやす(15??~15??)】

安東愛季の三男。通称忠次郎。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」後、兄檜山安東実季が湊城に本拠を移転すると檜山城を守備した。1590年、南部信直の家臣北信愛が守っていた大館城を奪還した。1593年、津軽為信の支援で浅利頼平が大館城に復帰すると安東実泰は大館城から退去した。1598年、浅利頼平が病没して浅利家の勢力が弱まると、再び安東実泰が大館城代なった。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

湊安東堯季【あんどうたかす(15??~1551)】

安東宣季の男。通称二郎。別名安東定季。安東堯季は、惣領家の安東舜季と和議を結び、娘を安東舜季の室とした。1546年、本願寺証如とも書状を交わすなど、中央の権門と交流を深め領国の安定を図った。継嗣に恵まれず、弟湊安東友親の次男湊安東友季を養子とするが早世、次いで安東舜季の外孫安東春季を安東友季と称させ養子に迎え自らは出家するものの夭折したため再び還俗し政務を行った。1551年、安東堯季の没後、安東舜季三男で外孫の安東茂季が湊安東家の家督を相続した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

湊安東茂季【あんどうしげすえ(1540~1579)】

檜山安東舜季の三男(湊安東堯季の養子)。湊安東家の家督を相続したが、兄安東愛季の臣下として扱われた。1570年、「第二次湊の戦い」では、安東高季が戸沢盛安、豊島重村らと結んで謀反を起こすが安東愛季勢の支援を受け鎮圧した。この乱後に、安東愛季が秋田郡を支配した。

湊安東通季【あんどうみちすえ(1564~16??)】

安東茂季の男。通称九郎。別名湊高季。1579年、父安東茂季の病没により豊島城主となった。1587年、安東愛季が病没すると、従兄弟安東実季が宗家を相続したことに不満を持ち湊安東家の復興を目指して謀反を企てた。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、安東高季、戸沢家盛安、小野寺輝道らの支援を受けて安東実季勢と戦った。由利党の支援を受けた安東実季は反撃に転じて土崎湊城は陥落し、安東道季は南部信直を頼って落延びた。1590年、羽柴秀吉に湊安東家の再興を願いでたが失敗に終わった。1603年、南部利信に仕えた。

湊安東季隆【あんどうすえたか(15??~15??)】

安東道季の男。別名湊市郎右衛門。

湊安東氏季【あんどううじすえ(1511~1603)】

湊安東舜季家臣。官途は摂津守。安東尋季の弟。

湊安東種季【あんどうたねすえ(1565~1635)】

安東氏季の男。官途は左馬允。1570年、安東愛季の側近として活躍した。1600年、「関ヶ原の役」後、安東実季の常陸国転封には従わず、佐竹義宣に仕えた。

石塚家次【いいづかいえつぐ(15??~15??)】

豊巻季林家臣。河辺郡椿川館主。官途は美濃守。

五十目秀盛【いがらめひでもり(15??~15??)】

安東実季家臣。秋田郡五城目城主。官途は内記。通称四郎右衛門。別名藤原秀兼。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、安東実季に従って東通季勢と戦った。乱後、砂沢城856石を領した。1588年、市を馬場目から砂沢城麓に転居させた。

池内権助【いけうちごんすけ(15??~1582)】

浅利則頼家臣。比内郡餌釣館主。1582年、安東愛季に内応して、杉沢喜助とともに浅利勝頼を謀殺したが、浅利頼広に南部門野で討取られた。

石沢孫四郎【いしざわまごしろう(15??~16??)】

由利郡石沢館主。官途は左衛門。由利郡十二頭衆で石沢館398石を領した。1582年、「大沢山城の戦い」で武藤義氏勢の由利郡侵攻を阻止した由利十二衆は、これを支援した安東愛季と結び、小野寺輝道と対立した。小野寺輝道のもとに人質として送られていた石沢孫四郎の母は後顧の憂いを絶つため自害した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して参陣した。

泉玄蕃【いずみげんば(15??~15??)】

安東愛季家臣。秋田郡泉館主。別名「源斎」。1582年、「大沢山城の戦い」では、安東愛季の援軍として由利十二衆とともに武藤義氏勢と戦った。1587年、「唐松野の戦い」では、戸沢盛安勢と戦ったが手勢50人余が討取られ、泉玄蕃も瀕死の重傷を負った。1588年、「峰ノ山の戦い」に参陣して戦功を挙げた。

一部勝景【いちぶかつかげ(1516~1588)】

湊安東通季家臣。秋田郡舞鶴館主。官途は式部少輔。太平郷を惣領家の永井広治とともに二分して領有した。1582年、「大沢山城の戦い」で安東愛季の援軍として由利十二衆とともに武藤義氏勢と戦い戦功を挙げた。1587年、安東愛季の病没後、安東道季勢に属した。1588年、「船越水道の戦い」で永井広治とともに安東実季勢と戦ったが討死した。

一部景家【いちぶかげいえ(15??~16??)】

一部勝景の男。1588年、「船越水道の戦い」で父一部勝景が討死すると、中津川駿河守に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後、安東実季の転封に従わず角館城に入封した佐竹義宣の家臣梅津政景に仕えた。

一部景国【いちぶかげくに(15??~16??)】

一部勝景の次男。1596年、安東実季に仕え100石を領した。

岩屋右兵衛【いわやうえもの(15??~15??)】

由利郡岩屋館主。由利郡十二頭衆。

岩屋朝盛【いわやとももり(15??~1615)】

岩屋右兵衛の男。官途は能登守。剛勇の将。「大曲城の戦い」、「大沢山の戦い」、「由利荒沢の戦い」、「唐松野の戦い」などで数々の戦功を挙げた。1583年、武藤義氏が自刃すると、東禅寺筑前守と結んだ。1589年、「小田原の役」に参陣して羽柴秀吉から3,000石の所領を安堵を受けた。1600年、「関ヶ原の役」では、他の由利十二衆とともに最上義光勢に属して参陣して長尾景勝勢と戦った。石田三成勢の流言により戦場を離脱したため、役後改易処分を受けた。

岩屋朝繁【いわやともしげ(15??~1646)】

岩屋朝盛の男。官途は能登守。通称右兵衛尉。別名岩屋光繁。1600年、「関ヶ原の役」では、父岩屋朝盛とともに最上義光勢に属して長尾景勝勢と戦ったが、戦場を離脱したため、役後改易処分に処された。後に岩屋館に復帰して最上義光に従った。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、所領を失い常陸国宍戸城主安東実季に仕えた。

植田与九郎【うえだよくろう(15??~1595)】

小野寺輝通家臣。平鹿郡植田城主。別名大石定景。1586年、「有屋峠の戦い」では、第八陣を率いて最上義光勢と戦った。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉のもとに参陣して1,250石の所領を安堵された。1595年、「大島原の戦い」で最上義光勢と戦い討死した。

打越光重【うていちみつしげ(1561~1591)】

由利郡打越館。官途は宮内少輔。由利郡十二頭衆。最上義光に属して由利郡打越城を領した。1592年、「文禄の役」に参陣して肥前国名護屋城で病没した。

打越光隆【うていちみつたか(1581~16??)】

打越光重の男。官途は飛騨守。1600年、「関ヶ原の役」では、最上義光勢に属して参陣した。この戦功により常陸国新宮館2,000石に転封した。1615年、「大坂夏の陣」に参陣して戦功を挙げ、旧矢島領3,000石を領して交代寄合馬廻衆となった。

大高光忠【おおたかみつただ(15??~15??)】

安東愛季家臣。官途は筑前守。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、赤尾津道俊を内応させる功を上げた。樋口兼続、武藤義氏、土佐林禅棟、浅利政吉らの取次役を務めるなど安東愛季を外交面から支えた。

大高胡斎【おおたかこさい(15??~15??)】

大高光忠の男。官途は筑前守。

大高安時【おおたかやすとき(15??~15??)】

安東愛季家臣。山本郡能代城代。通称伝右衛門。安東愛季の直轄地の代官職を務めた400石を領した。

大浦智忠【おおうらともただ(15??~16??)】

安東愛季家臣。通称伝内。1601年、直轄地の代官職を務め700石を領した。敦賀屋敷で物資売却の奉行職を務めた。

太田秀頼【おおたひでより(15??~1580)】

戸沢盛安家臣。太田城主。1580年、「太田城の戦い」で戸沢盛安勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「くらのすけ屋敷」by蔵屑斎。

大築地稙通【おおついぢたねみち(15??~15??)】

小野寺雅道家臣。平鹿郡沼館城主。

大築地秀通【おおついぢひでみち(15??~16??)】

小野寺稙道の男(大築地稙通の養子)。通称織部。1577年、小野寺稙通の意向を受け大築地家の家督を相続した。1586年、「有屋峠の戦い」では、横手城の留守居を務めた。1587年、「阿気野の戦い」で戸沢盛安勢3,000余りと戦ったが、先陣を務めた小清水蔵人が討死したため大敗した。1600年、「大森の戦い」では、最上義光勢と戦った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大築地又二郎【おおついぢひでみち(15??~16??)】

大築地秀通の男。1600年、「大森の戦い」では沼館城の留守居役を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大野関盛定【おおのせきもりさだ(15??~15??)】

山本郡大野関城主。官途は周防守。

大和田光盛【おおわだみつもり(1507~1549)】

小野寺雅道家臣。平鹿郡横手城主。官途は佐渡守。別名横手光盛。1546年、「平城の乱」では、金沢金乗坊とともに謀叛を起こし、小野寺惟道を討取る戦功を挙げた。1549年、「横手城の戦い」で小野寺輝道勢の反撃を受け討死した。

小立塙兵部【おだてばんべい(15??~15??)】

浅利則頼家臣。比内郡小館花館主。

女川景盛【おながわかげもり(15??~15??)】

安倍千寿丸家臣。1587年、「双六館の戦い」で涌本脩季の攻撃を受け安倍千寿丸は自刃した。

小野筑後守【おのちくごのかみ(15??~15??)】

安東愛季家臣。秋田郡雲崎城。雲崎城8,000石を領した。1570年、「第二次湊の戦い」で下刈右京、豊島村重らが謀反を起こして安東愛季に敗れると、下刈館を領した。参考文献:「北出羽物語」bybugyo。

小野寺稙道【おのでらたねみち(1487~1546)】

雄勝郡湯沢城主。小野寺泰道の男。官途は伊豆守。通称中宮亮。別名小野寺輝光。1517年、上洛して足利義稙に仕えたが父小野寺泰道が病没した。弟小野寺惟道を本領の代官職に任じた。小野寺惟道が小野寺家の家督を簒奪した。八柏道為の支援を受け横手城に戻り逆臣姉崎四郎左衛門を討取って家督を取り戻した。
ため、帰国して小野寺家の家督を相続した。湯沢城を拠点に雄勝郡内の各郷に一族を配置した。平鹿郡沼館城を拠点に仙北三郡、由利郡、南は村山郡鮭延城、北は雄物川下流の河辺郡まで影響力を拡大した。1546年、「平城の乱」で金乗坊、大和田光盛らの謀反により討死した。

小野寺惟道【おのでらこれみち(1496~1546)】

小野寺泰道の次男。官途は上野守。通称善次郎。別名小野寺輝宗。1517年、兄小野寺稙道が上洛すると、その留守居役を務めた。その後、姉崎四郎左衛門に擁立されて実権を握った。1521年、父小野寺景道が病没したため、小野寺家の家督を相続した。八柏道為が小野寺雅道を擁立して姉崎四郎左衛門を討取ると、小野寺雅道に小野寺家の家督を譲り渡して稲庭城に移った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

小野寺輝道【おのでらてるみち(1534~1597)】

小野寺稙道の次男。官途は遠江守。通称孫四郎。室は大宝寺義増の娘。別名小野寺景道。1546年、「平城の乱」で父小野寺稙道が金乗坊、大和田光盛らに討取られると、羽黒山に落延びた。鮭延貞綱の支援を受けて金乗坊と大和田光盛を討取り、小野寺惣領家の家督を相続した。1554年、織田信長に使者を派遣した。1583年、小野寺惣領家の家督を小野寺義道に譲り、五男小野寺陳道を連れて吉田城で隠居した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

小野寺光道【おのでらみつみち(15??~1590)】

小野寺輝道の男。平鹿郡浅舞城主。通称左京。1586年、「有屋峠の戦い」では、小野寺義道に従って第四陣を率いて参陣した。1590年、「山北検地」に反対する一揆勢の攻撃を受け自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

小野寺義道【おのでらよしみち(1566~1645)】

小野寺輝道の次男。官途は遠江守。通称孫十郎。室は大宝寺義氏の娘。1594年、家臣の八柏道為を謀殺するなど、家臣統制に苦慮した。安東愛季、戸沢盛安、最上義光らの攻撃を受け雄勝郡、平鹿郡で勢力を後退させた。1585年、最上義光が大宝寺義氏と戦うの侵攻を受けると、最上郡に侵攻した。1586年、最上義光、戸沢盛安らの反撃を受けた。1587年、戸沢盛安と和議を結び、仙北七人衆とともに安東実季勢と戦った。1589年、「小田原の役」で羽柴秀吉勢に参陣して45,000石の所領を安堵された。1590年、検地に反対して領内に一揆が発生した。一揆勢を鎮圧したが所領の内15,000石が代官領とされた。鮭延秀綱が最上義光に内応した。1591年、「九戸政実の乱」では、羽柴秀吉勢に属して参陣した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。1596年、最上義光勢の侵攻を受けたが撃退した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢の長尾景勝を支援した。役後改易処分に処された。

小野寺康道【おのでらやすみち(15??~1541)】

小野寺輝道の三男。通称孫五郎。別名大森五郎。1586年、「有屋峠の戦い」に参陣した。1588年、「峰の山の戦い」に参陣した。1600年、「大森城の戦い」では、兄小野寺義道が石田三成勢の属したため、最上義光勢の攻撃を受けた。大森城を守り抜き和議を結んだ。その後小野寺義道が改易処分に処されると石見国津和野城に配流された。

小野寺陳道【おのでらのぶみち(15??~15??)】

小野寺輝道の五男。通称孫市。別名吉田金兵衛。1586年、父小野寺輝道が吉田城に隠居するとこれに同行した。1601年、小野寺義道が改易処分を受けると南部利直に仕えた。

小野寺道時【おのでらみちとき(15??~15??)】

雄勝郡稲庭城主。小野寺惟道の男。官途は上野守。1586年、「有屋峠の戦い」で最上義光勢と戦った。

小野寺道勝【おのでらみちかつ(15??~15??)】

小野寺道時の男。1596年、「稲庭城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受け落城した。

小野寺八之丞【おのでらはちのじょう(15??~1663)】

西馬音内茂道の三男。1600年、「関ヶ原の役」後、小野寺義道が改易処分に処されると、父西馬音内茂道とともに西馬音内城を退去した。土肥半左衛門を頼って最上義光に仕えるが、土肥半左衛門が罪を受け自刃すると、連座で改易処分に処された。

小山内長門守【おやまうちながとのかみ(15??~15??)】

山本郡布沢城主。通称久左衛門。1582年、「布沢城の戦い」で大高相模守勢の攻撃を受け落城した。

小山田小平太【おやまうちこへいた(15??~15??)】

戸沢兼盛家臣。北浦郡小山田城主。

小和田甲斐守【おわだかいのかみ(15??~16??)】

三浦盛永家臣。1599年、逆心を抱き、安東実季に三浦盛季の讒言を訴えた。1600年、三浦盛季が安東実季に謀殺されると、押切城主に任じられた。

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【か】

片山弥伝彦四郎【かたやまやでんじひこしろう(15??~15??)】

浅利勝頼家臣。比内郡中野館主。1595年、浅利伝兵衛、浅利七兵衛らとともに安東実季勢に内応した。乱後に安東実季に比内の所領を安堵状された。

潟保重実【かたほしげざね(15??~15??)】

由利郡潟保館主。由利郡十二頭衆。

潟保重光【かたほしげみつ(15??~1571)】

潟保重実の男。由利郡十二頭衆。

潟保重春【かたほしげはる(15??~1600)】

潟保重光の男。官途は紀伊守。1582年、「大沢山の戦い」では、小野寺輝道勢と戦い戦功を挙げた。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢に参陣して所領の安堵を受けた。1595年、最上義光に仕えた。

潟保重直【かたほしげなお(15??~1671)】

潟保重春の男。

門脇政吉【かどわきまさよし(1529~1613)】

浅利則祐家臣。門脇典膳の男。官途は兵庫助。安東友季に嫁いでいた浅利則祐の妹が安東友季の病没後に、門脇政吉に再嫁したため、八木橋城を与えられ浅利家を称することを許された。1586年、浅利頼平は、門脇政吉と津軽為信の援助を得て大館城を攻撃した。

門屋宗盛【かどやむねもり(15??~1600)】

戸沢秀盛家臣。仙北郡小館主。1600年、「小田原の役」で戸沢盛安が羽柴秀吉のもとに参陣すると、謀反を企てた門屋盛重に謀殺された。

門屋盛重【かどやもりしげ(15??~16??)】

戸沢道盛の男(門屋宗盛の養子)。病弱のため戸沢家の家督を弟の戸沢盛安に譲り、門屋政盛の養子となった。1589年、「小田原の役」に戸沢盛安が参陣すると、謀反を起こし養父の門屋宗盛を謀殺した。

片山大膳【かたやまだいぜん(15??~15??)】

浅利則祐家臣。比内郡中野城主。通称弥伝彦四郎。浅利則祐と安東愛季の係争中、安東愛季に属して参陣した。浅利則祐を謀殺して安東愛季から比内郡内での所領安堵状を受けた。

金沢金乗坊【かなざわかねのり(15??~1555)】

平鹿郡金沢城主。金沢八幡別当職。六郷道行に属したが、小野寺雅道が勢力を拡大すると、小野寺雅道に従った。1552年、「湯沢城の戦い」で大和田光盛と結び小野寺雅道を自刃に追い込んだ。1555年、小野寺雅道の嫡男小野寺輝道は大和田光盛と金乗坊を攻撃、この戦闘で金沢城は落城し金沢金乗坊は討死した。

金沢道秀【かなざわみちひで(15??~15??)】

小野寺雅道の次男。通称孫十郎。小野寺輝道の意向により、金沢家の家督を相続して金沢城主となった。

金沢孝行【かなざわたかゆき(15??~15??)】

六郷道行の次男(金沢道秀の養子)。通称権太郎。300石を領した。

金沢勝治【かなざわかつはる(15??~15??)】

金沢孝行の男。

嘉成康清【かなりやすきよ(15??~1590)】

秋田郡米内沢城主。官途は常陸介。1591年、阿仁風張城を攻落した。

嘉成重盛【かなりしげもり(15??~1590)】

嘉成康清の男。官途は右馬頭。1565年、「鹿角の戦い」で戦功を挙げ阿仁郡代となった。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、南部信直勢の攻撃を撃退した。1590年、「大館城の戦い」で大館城の奪還には成功したが討死した。

嘉成季俊【かなりすえとし(15??~15??)】

秋田郡木戸石城主。官途は播磨守。安東実季との戦いに参陣して多くの戦功を挙げた。

金子安部太郎【かねこあべたろう(15??~1600)】

矢島満安家臣。1588年、矢島満安が西馬音内城で自刃すると、その娘の鶴姫を擁して矢島家の復興を図った。1600年、「関ヶ原の役」では、安部太郎らは赤館に籠城するも、仁賀保挙誠らの攻撃を受けた。攻め手は5,000余りに対し、籠城勢は40名余りの寡兵であった。鈴木与五郎、相場又四郎らが次々討死する中、安部太郎は鑓を持って単騎で大軍の突入して討死した。

神尾尾張守【かみおおわりのかみ(15??~15??)】

六郷政乗家臣。六郷衆。

神尾豊前守【かみおぶぜんのかみ(15??~15??)】

神尾尾張守の男。

神尾雅楽【かみおうらく(15??~15??)】

神尾豊前守の男。

川尻中務【かわじりなかつかさ(15??~15??)】

安東堯季家臣。河辺郡川尻城主。1570年、「第二次湊の戦い」では、安東愛季と対立する下刈右京、豊島重村らと結び、土崎湊城主安東茂季を包囲して監禁した。安東愛季は安東茂季を支援するため土崎湊城に援軍を差向けた。豊島重村、下刈右京、川尻中務らと安東愛季勢は推古山に陣を張り二年にも及ぶ長期戦を戦ったが、豊島重村勢は敗れ仁賀保挙誠を頼り落延びた。

菊地長右衛門【きくちちょうえもん(15??~15??)】

矢島満安家臣。1588年、矢島満安が仁賀保挙誠に敗れて滅亡すると、仁賀保挙誠に仕え八森城の城代を務めた。

北畠慶好【きたばたけのりよし(15??~15??)】

安東愛季家臣。浪岡北畠顕村の次男。通称右近。別名岩倉季慶。脇本城下の岩倉に屋敷をかまえた。大浦為信らの取次役を務め、外交交渉に活躍した。

履沢忠国【くつざわただくに(15??~15??)】

矢島満安家臣。通称左兵衛尉。由利十二衆。1558年、根井正重の仲介により矢島満安に仕えた。滝沢政家と結んで矢島満安を討取る企てたが、露見して矢島満安に謀殺された。

工藤信久【くどうのぶひさ(15??~16??)】

安東実季家臣。比内郡松木高館。1602年、安東実季が常陸国宍戸に転封になると、これに従った。

久米行長【くめゆきなが(15??~15??)】

仙北郡飯詰館城主。官途は阿波守。通称理佐衛門。別名飯詰三郎。仙北七人衆。1552年、小野寺輝道が横手城を奪還すべく、金沢城の金乗坊と戦った際、久米行長は金乗坊勢に属した。1586年、「有屋峠の戦い」では、久米行長の次男久米行固が小野寺輝道勢に属して最上義光勢と戦い戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、小野寺義道が改易処分に処されると、六郷政乗に従って本荘城に移った。

久米行固【くめゆきみつ(15??~15??)】

久米行長の次男。1586年、「有屋峠の戦い」で小野寺義道に従って参陣して最上義光勢と戦った。

黒川縫殿助【くろかわぬいのすけ(15??~15??)】

戸沢盛安家臣。仙北郡黒川館主。1587年、「阿気野の戦い」で最上義光勢と戦い戦功を挙げた。1587年、「唐松野の戦い」で戸沢盛安に従って参陣した。

黒川憲道【くろかわのりみち(15??~15??)】

黒川縫殿助の男。

黒沢道家【くろさわみちいえ(15??~15??)】

小野寺義道家臣。通称甚兵衛。1586年、「有屋峠の戦い」で最上義光勢と戦いで戦功を挙げた。1595年、小野寺義道の意向を受け八柏道為を謀殺した。1600年、「関ヶ原の役」後、小野寺義道が改易処分に処されると佐竹義宣に仕えた。

黒沢島之助【くろさわしまのすけ(15??~1585)】

小野寺義道家臣。仙北郡黒沢城主。1585年、「有屋峠の戦い」で最上義光勢と戦い討死した。

子吉重旨【こよししげむね(15??~1600)】

由利郡子吉館主。官途は兵部少輔。由利郡十二頭衆。1600年、「大森の戦い」では、仁賀保挙誠勢に属して最上義光勢と戦い討死した。

子吉重利【こよししげとし(15??~16??)】

子吉重旨の男。1600年、父子吉重旨が討死すると、西馬音内城に落延びた。後に佐竹義宣に仕えた。

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【さ】

八乙女讃岐守【さおとめさぬみのかみ(15??~1593)】

小野寺義道家臣。仙北郡八乙女城主。1586年、「有屋峠の戦い」の戦いの参陣した。1593年、討死した。

嵯峨尾張守【さがおわりのかみ(15??~15??)】

永井広治家臣。河辺郡館越館主。

嵯峨九郎五郎【さがむろうごろう(15??~15??)】

嵯峨尾張守家臣。鉄砲衆。

嵯峨金介【さがきんすけ(15??~15??)】

嵯峨尾張守家臣。鉄砲衆。

嵯峨源介【さがげんすけ(15??~15??)】

嵯峨尾張守家臣。鉄砲衆。

境田三右衛門【さかたさんざえもん(15??~15??)】

戸沢忠盛家臣。平鹿郡境田城主。

佐々木繁広【ささきしげひろ(15??~15??)】

岩屋朝盛家臣。

佐々木春道【ささきはるみち(15??~15??)】

小野寺義道家臣。通称嘉助。1586年、「有屋峠の戦い」で小野寺義道に従って参陣して最上義光勢と戦った。

佐藤大学【さとうだいがく(15??~15??)】

前田利信家臣。前田家の鎮護の神の八幡神社を守った。

佐藤信基【さとうのぶもと(15??~15??)】

鮭延秀綱家臣。最上郡野崎館主。官途は大和守。1581年、「鮭延城の戦い」で最上義光勢の攻撃を受けると鮭延秀綱に従って弟佐藤信包、継嗣佐藤信稚、佐藤信秀、佐藤義次、履沢忠国とともに応戦したが敗れて館に火を放ち自刃した。

佐藤綱吉【さとうつなよし(15??~15??)】

岩城館主。官途は出羽守。1557年、「岩城館の戦い」で安東愛季勢の攻撃を受け落城した。

下刈右京【しもかりうきょう(15??~15??)】

安東堯季家臣。河辺郡下刈館主。1570年、「土崎湊城の戦い」では、

下刈右京は安東愛季と対立する川尻中務、豊島重村らと結び、土崎湊城主安東茂季を包囲して監禁した。安東愛季は安東茂季を支援するため土崎湊城に援軍を差向けた。豊島重村、下刈右京、川尻中務らと安東愛季勢は推古山に陣を張り二年にも及ぶ長期戦を戦ったが、豊島重村勢は敗れ仁賀保挙誠を頼り落延びた。安東愛季はこの戦いの勝利により両安東を完全に統一して、居城を湊城に移して磐石な体制を築くことになった。

下村宗長【しもむらむねなが(15??~1593)】

由利郡下村館主。通称蔵人。別名下村奥長。由利十二頭。1572年、「大琴の戦い」では、石沢信濃守と戦った。1582年、「大沢山の戦い」では、小野寺輝道勢と戦った。1589年、「小田原の役」に参陣して、羽柴秀吉から所領を安堵された。1591年、「九戸政実の乱」に参陣した。1593年、仁賀保挙誠らの攻撃を受け根城館で討死した。

下村長秀【しもむらながひで(1582~1653)】

下村宗長の男。通称蔵人。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封となり由利郡を領すると、佐竹義宣の家臣梅津憲忠に仕えた。

白岩盛重【しらいわもりしげ(15??~15??)】

戸沢盛安家臣。白岩城主。官途は兵庫頭。家老職を務めた。1586年、「沼館の戦い」に参陣した。1587年、「唐松の戦い」に参陣した。

白岩盛直【しらいわもりなお(15??~15??)】

白岩盛重の男。官途は兵庫頭。

白根昌吉【しらねまさよし(15??~1567)】

豊巻季林家臣。河辺郡筋脇館主。通称七郎。1567年、「白華城の戦い」で豊島重村勢の攻撃を受け討死した。

菅六郎【すがろくろう(15??~1593)】

小野寺義道家臣。館堀城主。1586年、「有屋峠の戦い」では、小野寺義道勢に属して最上義光勢と戦い戦功を挙げた。1593年、最上義光勢が小野寺義道領に侵攻すると、菅六郎は弟の菅勘四郎、菅勘助らとともにに一族郎党を率いて有屋峠で最上義光勢を迎え撃った。しかし形勢は不利でありやむなく撤退し、草井崎にて再度迎撃したが衆寡敵せず龍神河原で討死した。

 鈴木与五郎【すずきよごろう(15??~15??)】

矢島満安家臣。1600年、「赤館の戦い」では、安部太郎とともに鶴姫を擁して兵を挙げたが、仁賀保挙誠勢の攻撃を受け討死した。

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【た】

高岡但馬守【たかおかたじまかみ(15??~15??)】

豊島重村家臣。河辺郡高岡城主。1570年、「土崎湊城の戦い」で川尻中務が安東愛季と対立する下刈右京、豊島重村らと結び、土崎湊城主安東茂季を包囲した。安東愛季は安東茂季を支援するため土崎湊城に援軍を差向けた。安東愛季勢は推古山に陣を張り陣を張り二年にも及ぶ長期戦を戦った。豊島重村、下刈右京、川尻中務らは敗れ、仁賀保挙誠を頼り落延びた。

滝沢政安【たきざわまさいえ(15??~15??)】

由利郡滝沢城主。由利郡十二人衆。1560年、「釜ヶ渕の戦い」では、滝沢政安と結んでいた履沢左兵衛を矢島義満が討取ったため、仁賀保挙久のもとに落延びた。

滝沢政家【たきざわまさいえ(15??~1575)】

滝沢政安の男。官途は兵庫頭。1575年、「滝沢館の戦い」で矢島満安勢の攻撃を受け討死した。

滝沢貞春【たきざわさだはる(15??~15??)】

滝沢政安の次男。官途は刑部。

滝沢春永【たきざわはるなが(15??~1594)】

滝沢政安の三男。官途は刑部少輔。通称又五郎。1589年、「小田原の役」に参陣して所領を安堵された。1591年、「九戸政実の乱」に参陣した。1592年、「文禄の役」に参陣した。伏見城の作事用木材の提供を行った。

滝沢政忠【たきざわまさただ(15??~1575)】

滝沢政家の男。1575年、矢島満安勢と戦って敗れ、西館に籠城したが落城して自刃した。

滝沢政道【たきざわまさみち(15??~1609)】

滝沢政忠の男。官途は兵部少輔。1575年、父滝沢政忠とともに矢島満安勢と戦い、滝沢政忠が討死すると最上義光のもとに落延びた。1600年、「関ヶ原の役」では、最上義光勢に属して戦功を挙げ旧領の由利郡滝沢城10,000石を領した。1609年、黒沢城で年頭御礼に際、家臣に謀殺された。

滝沢政範【たきざわまさのり(15??~1627)】

滝沢政忠の次男。官途は兵庫頭。1609年、兄滝沢政道が家臣に謀殺されると、滝沢家の家督を相続して滝沢城10,000石を領した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、仁賀保に仕え50石の扶助を受けた。1627年、前途を悲観して自刃した。

田□又三郎【たぐちまたさぶろう(15??~15??)】

本堂忠親家臣。

竹鼻広季【たけがはなひろすえ(15??~15??)】

安東舜季家臣。官途は伊予守。

種沢太郎【たねさわたろう(15??~1558)】

河辺郡水沢館主。1558年、「水沢城の戦い」で豊島重村勢の攻撃を受け討死した。

東福寺道継【とうふくじみちつぐ(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。別名杉沢。東福寺とともに署名した。

東福寺道定【とうふくじみちさだ(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。通称兵庫。伏見作事用板を安東愛季から受け取るに際して受取状を発給した。

玉米儀満【とうまいよしみつ(15??~1560)】

由利郡米本館主。官途は信濃守。由利郡十二頭衆。玉米儀満は継嗣に恵まれず、西馬音茂道の家臣山田五郎より婿養子を迎え須郷田館に隠居した。1554年、実子の玉米儀次が生まれたため、養子の玉米小介と不仲となった。1560年、「須郷田館の戦い」では、西馬音茂道、山田五郎勢の攻撃を受け、内応した杉山宗右衛門に討取られた。

玉米小介【とうまいこすけ(15??~15??)】

山田五郎の男(玉米儀満の養子)。室は玉米儀満の娘。継嗣のなかった玉米儀満から望まれて婿養子となったが、玉米儀満に実子の玉米儀次が生まれたため、疎まれるようになり、山田上の宿館に落延びた。

玉米儀次【とうまいよしつぐ(1554~1615)】

玉米儀満の男。官途は式部少輔。通称弥三郎。別名玉米光国。1560年、「須郷田館の戦い」で父玉米儀満が自刃すると、山田五郎勢に捕縛された。1563年、玉米光重、玉米茂光、滝沢政家、石沢孫四郎らの支援を受け、山田五郎のもとから養田館に落延びた。「養田館の戦い」では、山田五郎勢の攻撃を受けたが、和議を結んだ。1570年、「米本館の戦い」では、矢島満安勢の攻撃を受けた。仁賀保挙長と矢島満安勢が戦うと仁賀保挙長勢に属した。

玉米光重【とうまいみつしげ(15??~15??)】

玉米儀満の弟。官途は山城守。1563年、玉米光重と玉米茂光は、滝沢政家、石沢孫四郎の支援を受けて山田五郎から玉米義次の奪還した。「養田館の戦い」では、山田五郎勢の攻撃を受けたが、和議を結んだ。

玉米茂光【とうまいしげみつ(15??~15??)】

玉米儀満の弟。官途は伊予守。1563年、玉米光重と玉米茂光は、滝沢政家、石沢孫四郎の支援を受けて山田五郎から玉米義次の奪還した。「養田館の戦い」では、山田五郎勢の攻撃を受けたが、和議を結んだ。

玉米式部【とうまいしきぶ(15??~1598)】

玉米儀満家臣。1598年、大谷吉継の検地に反抗したため、赤尾津道俊、潟保重光、鮎川小平太らの攻撃を受け下村館主下村彦次郎とともに滅ぼされた。

富樫忠之【とがしただゆき(15??~15??)】

戸沢道盛家臣。富樫館主。1508年、加賀国から落延び富樫館を築いた。1536年、戸沢道盛に仕えた。

富樫勝家【とがしかついえ(15??~15??)】

富樫忠之の男。通称左衛門太郎。1570年、戸沢盛安の意向を受け土屋館から孔雀館に転封した。1590年、戸沢盛安が病没したため、弟の戸沢光盛が戸沢家の家督を相続した。1592年、「文禄の役」で戸沢光盛が病没すると、遺領を戸沢政盛に相続させるため尽力した。1602年、高齢のため、戸光政盛が転封には従わず、弟の戸沢長兵衛を従わせた。

戸沢秀盛【とざわひでもり(1466~1529)】

仙北郡角舘城主。戸沢征盛の男。官途は飛騨守。通称平九郎。室は小笠原長祐の娘。

戸沢忠盛【とざわただもり(15??~1545)】

仙北郡淀川城主。戸沢征盛の次男。通称平五郎。別名淀川上総介。1527年、安東堯季勢に寝返ったとの風聞を受け兄戸沢秀盛のもとを訪れ弁解に務めた。1529年、戸沢秀盛が病没して、戸沢道盛が戸沢惣領家の家督を相続すると、その後見役を務めた。1532年、謀反を起こして戸沢道盛を角舘城から追放したが、家臣団や周辺豪族の支持を得られず淀川城に退去した。1545年、「淀川城の戦い」で安東友季勢の攻撃を受け落城した。

戸沢盛門【とざわもりかね(15??~15??)】

戸沢忠盛の男。

戸沢盛行【とざわもりゆき(15??~15??)】

戸沢忠盛の次男。

戸沢政重【とざわまさしげ(1493~1578)】

戸沢征盛の三男。官途は安房守。仙北郡小館主。戸沢盛重を養子に迎えた。

戸沢宗盛【とざわむねもり(15??~15??)】

戸沢征盛の四男。

戸沢盛綱【とざわただもり(15??~15??)】

戸沢忠盛の男。

戸沢盛吉【とざわもりよし(1541~15??)】

戸沢忠盛の次男。官途は相模守。兄戸沢盛綱が多病のため家督を相続した。戸沢盛安、戸沢光盛、戸沢政盛三代に仕えた。1589年、「小田原の役」に戸沢盛安が参陣の際、状況によっては兵を国元から出す手はずになっており、それを率いるのが戸沢盛吉の手はずだったが結局出兵することは無かった。

戸沢道盛【とざわみちもり(1524~1604)】

戸沢秀盛の男。官途は飛騨守。通称平九郎。室は本堂親条の娘。1529年、戸沢家の家督を相続した。南部晴政や檜山安東尋季の攻勢を受けたが、仙北郡の領国を守りきった。晩年は、戸沢政盛の転封先である常陸国小河城にあり、同地で没した。

戸沢盛重【とざわもりしげ(1551~1592)】

戸沢道盛の男(戸沢政重の養子)。病に臥せることが多かったため、戸沢家の家督を弟戸沢盛安に譲って仏門に入った。その後、還俗して小館城主戸沢政重の継嗣となった。1589年、「小田原の役」に参陣した弟戸沢盛安の留守をついて謀反を起こし門屋宗盛を討取った。

戸沢主水【とざわもんど(15??~15??)】

戸沢盛重の男。「小野寺一揆」で一揆勢に属して討死した。

戸沢盛安【とざわもりやす(1566~1590)】

戸沢道盛の三男。官途は治部少輔。通称九郎。別名「夜叉九郎」。病がちな兄戸沢盛重に戸沢家の家督を譲られた。1582年、楢岡城主小笠原右衛門とともに安東実季勢を撃破した。大曲平野に侵入して小野寺義道勢と争いった。小野寺輝道と対抗する最上義光と結んだ。1588年、「湊安東道季の乱」では、安東道季を支援して勢力を拡大した。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢として参陣したが陣中で病没した。

戸沢光盛【とざわみつもり(1576~1592)】

戸沢道盛の四男。官途は能登守。通称平九郎。1590年、兄戸沢盛安が病没したため、戸沢家の家督を相続した。1591年、「九戸政実の乱」に参陣した。1592年、「文禄の役」に参陣するため、肥前国名護屋城に赴く途中、播磨国姫路城で病没した。

戸沢秀盛【とざわまさもり(1585~1648)】

戸沢盛安の男。官途は右京亮。通称九郎五郎。室は鳥居元忠の娘。1592年、叔父戸沢光盛が病死したため、戸沢家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝勢の酒田城を攻略した。1602年、角館城から常陸国小河城40,000石に転封した。1614年、「大坂冬の陣」では、相模国小田原城を守備した。1615年、「大坂夏の陣」では、江戸城を守備した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、転封となり出前国真室城60,000石を領した。

戸沢政房【とざわまさふさ(1560~1633)】

戸沢盛安家臣。官途は伊豆守。別名杉山勘左衛門。1591年、「九戸政実の乱」では、戸沢光盛勢に属して戦功を挙げた。羽柴秀次の目に留まり、仕えることになるが羽柴秀次が自刃したため、召抱えられることは無かった。

戸蒔信安【とまきのぶやす(15??~15??)】

仙北郡戸蒔城主。

戸蒔義広【とまきよしひろ(1556~1600)】

戸蒔信安の男。1600年、「角間川の戦い」では、戸沢政盛に属して参陣して小野寺義道勢と戦い討死した。

戸蒔義昌【とまきよしまさ(15??~1586)】

六郷政乗家臣。戸蒔信安の次男。官途は兵部。家老職を務めた。1586年、「天正大地震」が起きた際、大坂城に在城中で倒壊した家屋の下敷きとなり圧死した。

戸蒔乗安【とまきのりやす(15??~15??)】

戸蒔信安の三男。1600年、「角間川の戦い」で兄戸蒔義昌が討死したため、戸蒔家の家督を相続した。1615年、「大坂夏の陣」では、松平元康勢に属して参陣したが負傷した。この戦功により名刀「牛切丸」を拝領した。

戸波平右衛門【となみへいうえもん(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。平鹿郡戸波城主。1586年、「有屋峠の戦い」に参陣した。1600年、「吉田城の戦い」に参陣した。

土肥道親【どいみちちか(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。

土肥道家【どひやぎみちえい(1564~1645)】

松岡常吉の三男(土肥親家の養子)。1575年、土肥親家が病没すると、小野寺輝道の意向を受け土肥家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」後、小野寺輝道が改易処分に処され石見国配流されると京都まで従った。

豊島玄蕃頭【としまげんばのかみ(14??~15??)】

河辺郡豊島城主。1506年、「桑木城の戦い」で城主黒川肥後守を滅ぼし自らの居城とした。継嗣の豊島重村とともに、周辺の城を攻略して勢力を拡大した。1558年、「平尾鳥城の戦い」城主で平尾鳥式部太夫を討取る戦功を挙げた。

豊島重村【としましげむら(1536~15??)】

豊島玄蕃頭の男。官途は形部少輔。通称次郎。別名豊島休心。室は仁賀保挙久の娘。1558年、「種沢城の戦い」で城主種沢太郎を討取る戦功を挙げた。1567年、「白華城の戦い」では、城主の豊巻季林を討取り安東茂季を窮地に追い込んだが、反撃を受け敗退した。1570年、「第二次湊の戦い」では、下刈右京、川尻中務、小野寺輝道、戸沢盛安らと結び、安東愛季勢と戦った。

豊島重氏【としましげうじ(1564~1579)】

豊島重村の男。1570年、湊安東茂季を攻撃したが、二年余りの対陣の後、安東愛季勢に敗北して室の実家に逃走した。1579年、安東愛季に許されて帰参したが、羽川義稙によって討取られた。

豊島清信【としまきよのぶ(15??~15??)】

豊島重村家臣。別名畠山清信。娘は安東愛季に側室として嫁いだ。

豊巻季林【とよまきすえしげ(15??~1567)】

河辺郡白樺城主。官途は備中守。1567年、「白樺城の戦い」では、豊島重村勢の奇襲攻撃を受け自刃した。

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【な】

永井広治【ながいひろはる(15??~1589)】

安東愛季家臣。秋田郡舞鶴館主。別名大江広治。1587年、安東愛季の病没後、一部勝景とともに安東道季勢に属した。1588年、「船越水道の戦い」で安東実季勢と戦い討死した。

鍋倉道能【なべくらみち(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。平鹿郡鍋倉城主。官途は石見守。

鍋倉道長【なべくらさこん(15??~1582)】

鍋倉道能の男。通称左近。1582年、「大沢山城の戦い」で討死した。

鍋倉四郎【なべくらしろう(15??~15??)】

鍋倉左近家臣。

鍋倉相模守【なべくらさがみのかみ(15??~15??)】

鍋倉左近家臣。

南部季賢【なんぶすえかた(15??~15??)】

安東愛季家臣。官途は宮内少輔。1578年、安東愛季の意向を受け上洛、織田信長に拝謁した。以後、安東愛季から京都に派遣され、中央における安東愛季の外交政策を担った。

仁賀保挙政【にかほきよまさ(15??~1541)】

由利郡山根館主。大井友拳の男。

仁賀保挙久【にかほきよひさ(1523~1576)】

仁賀保挙政の男。官途は大和守。1541年、父仁賀保挙政の病没により仁賀保家の家督を相続した。兵を出羽庄内に進め、日本海に浮かぶ飛島を切り取るなど活躍した。1560年、矢島満安と滝沢政家が争うと滝沢政家勢に属して参陣した。1576年、「矢島城の戦い」では、滝沢政家の支援が遅れ矢島満安に敗れ討死した。

仁賀保挙長【にかほきよなが(15??~1577)】

仁賀保挙久の男。1576年、父仁賀保挙久の討死したため、仁賀保家の家督を相続した。1577年、矢島満安家領に侵攻するが、大敗し討死した。

仁賀保重挙【にかほしげきよ(1562~1583)】

仁賀保挙長の従兄弟。仁賀保重挙の娘。1581年、「三ノ木戸の戦い」では、矢島満安勢の攻撃を受けたが赤尾津光政と子吉重旨の支援を受けて撃退した。1583年、矢島満安に調略された家臣により謀殺された。

仁賀保挙晴【にかほきよはる(1568~1591)】

子吉重旨の次男(仁賀保重挙の養子)。通称八郎。室は仁賀保重挙の娘。1586年、子吉家から仁賀保家に入婿した。1591年、で矢島満安勢と戦い討死した。

仁賀保挙誠【にかほきよしげ(1560~1624)】

赤尾津道俊の次男(仁賀保挙晴の養子)。官途は兵庫頭。別名仁賀保光誠。室は矢島満安の娘(鶴姫)。1589年、「小田原の役」に参陣して、羽柴秀吉から3,700石の所領を安堵された。1591年、「九戸政実の乱」に参陣した。1592年、矢島満安が最上義光に山形城に招かれた隙に、矢島満安家臣が謀反を起こしたが、矢島満安がすぐに帰国してこれを鎮圧した。仁賀保挙誠は由利十二頭連合軍と矢島満安領に侵攻し、矢島満安を西馬音内城に追い落とし自刃に追い込み、滅亡させた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して庄内の押さえとして活躍した。1614年、加増を受け仁賀保で10,000石を領した。1625年、仁賀保挙誠が病没すると、所領は継嗣の仁賀保良俊が7,000石、次男の仁賀保誠政2,000石、三男の仁賀保誠次1,000石と分封されてそれぞれ馬廻衆を務めた。

西野道房【にしのみちふさ(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。西野館主。官途は飛騨守。1555年、小野寺輝道の意向で上洛して将軍偏諱と官途受領の申請を行った。

西野道俊【にしのみちとし(15??~15??)】

西野道房の男。官途は修理亮。1586年、「有屋峠の戦い」に参陣した。「唐松山の戦い」に参陣した。

額田甲斐守【ぬかたかいのかみ(15??~15??)】

浅利則頼家臣。比内郡飯平城主。多数の僧兵を擁する天台宗高岩山密乗寺と対立し同寺院に謀殺された。家臣らは密乗寺を焼き討ちした(高岩山四十八ヶ寺焼亡)。

野呂左馬亮【のろさまのすけ(15??~15??)】

浅利則頼家臣。家老職を務めた。

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【は】

幡江道良【はたえみちよし(15??~15??)】

六郷道行家臣。仙北郡幡江館主。

幡江藤次郎【はたえとうじろう(15??~15??)】

六郷道行の三男(幡江道良の養子)。六郷政乗に従って数々の戦功を挙げた。

馬場目正勝【ばばのめまさかつ(15??~1589)】

秋田郡馬場目城主。通称玄蕃。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、湊安東高季勢に属した。「馬場目城の戦い」では、安東実季勢の攻撃を受け討死した。

羽川義稙【はねかわよしたね(15??~15??)】

由利郡羽川新館主。通称小太郎。由利郡十二衆。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、赤尾津道俊、岩屋朝盛、打越光重らとともに安東実季勢に属して、豊島重氏を討取る戦功を挙げ豊島城主となった。1582年、「大曲城の戦い」では、前田利信を討取る戦功を挙げたが、赤尾津道俊の裏切りにより羽川新館を奪われ、羽川義稙は残った郎党とともに仙北郡に落延びた。

平尾鳥式部太夫【ひらおどり(15??~1558)】

河辺郡平尾鳥城主。1558年、「平尾鳥城の戦い」では、豊島玄蕃が継嗣の豊島重村の嫁に平尾式部太夫の娘(鳥姫)を所望したが、これを断ったため、豊島玄蕃勢の攻撃を受けた。平尾鳥式部太夫が討死すると、鳥姫も戦火の中で自害した。

藤倉将監【ふじくらしょうげん(15??~15??)】

安東愛季家臣。秋田郡郷士館主。1570年、「湊の戦い」で湊安東道季勢に属して失脚した。参考文献:「北出羽物語」bybugyo。

船川右近【ふなかわうこん(15??~15??)】

安倍千寿丸家臣。1587年、「双六館の戦い」で涌本脩季の攻撃を受け安倍千寿丸は自刃した。

本堂朝親【ほんどうよりちか(15??~15??)】

山本郡本堂城主。本堂頼親の男。官途は伊勢守。

角館城を本拠とする戸沢家と姻戚関係を結んだものの、安東家や小野寺家、戸沢家の諸勢力に組み入れられることなく、本堂城を本拠とした。本堂頼親は、金沢城主との戦で討死した。

本堂忠親【ほんどうただちか(15??~15??)】

本堂朝親の男。1535年、本堂城を築いて居城を移した。1589年、「小田原の役」に参陣して羽柴秀吉から8,983石の所領を安堵された。1592年、「文禄の役」では、前田利長勢に属して肥前名護屋城に在城した。

本堂茂親【ほんどうしげちか(1585~1645)】

本堂忠親の男。官途は伊勢守。1589年、「小田原の役」では、父本堂忠親とともに参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して、最上義光勢のもとで長尾景勝や小野寺義道と戦った。1601年、伏見城の在番を務めた。常陸国新治郡8,500石に転封となった。1604年、江戸城の堀普請役を務めた。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康勢に属して参陣した。1615年、「大坂夏の陣」では、二条城留守居役を務めた。その後は伏見城御番、駿河久野城御番、陸奥岩城城勤番、大坂城御番、甲斐谷村城、甲府城勤番などを歴任した。1645年、甲府城勤番に赴く途中に落馬その傷がもとで病没した。

本堂栄親【ほんどうひでちか(1610~1668)】

本堂茂親の男。

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【ま】

前田道信【まえだみちのぶ(15??~1532)】

仙北郡大曲城主。官途は薩摩守。通称又左衛門。1532年、「大曲城の戦い」で赤尾津家保勢の攻撃を受け討死した。

前田利信【まえだとしのぶ(15??~1582)】

前田道信の男。官途は薩摩守。通称五郎。足利義輝に仕えるため上洛した。1582年、「大曲城の戦い」で赤尾津家保、羽川義稙勢の攻撃を受け討死した。

前田利宗【まえだとしむね(15??~15??)】

前田道信の次男。官途は薩摩守。通称又次郎。兄前田利信が足利義輝に仕えるため上洛しため、大曲城代を務めた。1579年、戸沢道盛の意向を受けて織田信長に鷹を献上するため上洛した。

真壁道泉【まかべどうせん(15??~1585)】

小野寺輝道家臣。平鹿郡真壁館主。官途は対馬守。1585年、「有馬峠の戦い」で小野寺輝道に従い参陣したが、最上義光勢と戦い討死した。

増田道近【ますだみちちか(15??~15??)】

小野寺義道家臣。通称次郎。1586年、「有屋峠の戦い」で小野寺義道に従って参陣して最上義光勢と戦った。

松岡常吉【まつおかつねよし(15??~15??)】

小野寺輝道家臣。1566年、小野寺義道が生まれると、内室が小野寺義道の乳母となり、小野寺義道を松岡常吉宅で養育した。

松岡道景【まつおかみちかげ(15??~15??)】

松岡常吉の男。小野寺義道に仕え京都留守役を務めた。

松岡秀用【まつおかひでもち(15??~15??)】

松岡常吉の次男。別名高田右馬助。雄勝郡川連城代に任じられた。

松岡道常【まつおかみちつね(15??~16??)】

松岡道景の男。敦賀蔵屋敷の留守居を務めた。1600年、「関ヶ原の役」後、小野寺義道が改易処分を受けると、鮭延秀綱に仕えた。

松岡越前守【まつおかえちぜんのかみ(15??~15??)】

小野寺義道家臣。1586年、「有屋峠の戦い」で小野寺義道に従って参陣して最上義光勢と戦った。

松尾久成【まつおひさなり(15??~15??)】

浅利則頼家臣。通称七蔵。1595年、浅利則頼が安東実季との軍役金未納問題で解決求める書状に赤石氏実とともに連署した。

松橋盛光【まつはしもりみつ(15??~1591)】

秋田郡風張砦主。官途は美濃守。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、阿仁地方に侵攻した南部信直勢を嘉成資清とともに撃退した。1591年、「風張砦の戦い」で嘉成資清勢の奇襲を受けて自刃した。

三浦政重【みうらまさしげ(15??~15??)】

小野寺義道家臣。仙北郡三浦館主。官途は治部少輔。文武知略。190石を領した。1587年、「有屋峠の戦い」では、小野寺義道に従って参陣して 最上義光勢の頸級を上げる戦功を挙げた。

三浦盛永【みうらもりなが(15??~1587)】

秋田郡浦城主。官途は兵庫守。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、安東通季勢に属して、安東実季の家臣石岡主膳の攻撃を受け自刃した。

三浦盛季【みうらもりよし(15??~1600)】

三浦盛永の男。通称五郎。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」で安東実季勢の攻撃を受け父三浦盛永が自刃すると、家臣の三浦左衛門ともに神林常勘のもとに落延びた。1599年、父三浦盛永の旧領を安堵され押切城300町歩を領した。1600年、家臣の小和田甲斐守の密告により安東実季に謀殺された。内室(小柳姫)と三浦識調とその妹は古井兼次とともに落延びた。

三浦左衛門【みうらさえもん(15??~15??)】

三浦盛永家臣。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」で安東実季勢の攻撃を受け三浦盛永が自刃すると、三浦盛季を守って神林常勘のもとに落延びた。

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【や】

八柏道為【やがしわみちため(15??~1595)】

小野寺稙道家臣。官途は大和守。湯沢城代を務めた。1546年、「平城の乱」で小野寺稙道が横手光盛、金乗坊に謀殺されると、小野寺輝道の復帰を支援した。1552年、「横手城の戦い」では、小野寺輝道とともに最上義光勢と戦った。1586年、「有屋峠の戦い」で小野寺義道に従って参陣して最上義光勢と戦った。1595年、最上義光の謀略で小野寺義道に疑惑の疑念を受け謀殺された。

八木親家【やぎちかいえ(15??~1575)】

土肥道親の次男(八木盛平の養子)。雄勝郡八木城主。

八木道家【やぎみちいえ(1564~1645)】

松岡常吉の三男(八木親家の養子)。官途は丹後守。1582年、「大沢山の戦い」では、土肥道近に従って小野寺義道勢に参陣した。1586年、「有屋峠の戦い」に参陣した。1594年、「岩崎城の戦い」で最上義光の家臣楯岡満茂勢の攻撃を受けると、楯岡満茂に内応して小野寺義道勢に属した。1600年、「関ヶ原の役」では、小野寺義道が石田三成勢に属したため、改易処分に処された。後に佐竹義宣の家臣渋江政光に仕えた。

八木道長【やぎみちなが(15??~16??)】

八木道家の男。

八木藤兵衛慰【やぎとうべいじょう(15??~15??)】

小野寺義道家臣。1586年、「有屋峠の戦い」で小野寺義道に従って参陣して最上義光勢と戦った。

八口内貞冬【やくないさだふゆ(15??~1585)】

小野寺義道家臣。雄勝郡八口内館主。官途は尾張守。別名八口内定冬。1585年、「有屋峠の戦い」で最上義光の家臣鮭延秀綱が侵攻すると、小野寺義道の援軍が間に合わず、手勢を率いて最上義光勢に討ち入って討死した。

矢島義満【やじまよしみつ(15??~15??)】

由利郡矢島城主。別名大井義満。1560年、「釜ヶ渕の戦い」では、滝沢政安と結んでいた履沢左兵衛を討取る戦功を挙げた。

矢島満安【やじまみつやす(15??~1588)】

矢島義満の男。別名大井満安。室は西馬音内茂道の娘。1560年、矢島家の家督を相続した。1575年、「滝沢館の戦い」では、城主の滝沢政忠を討取る戦功を挙げた。1576年、「矢島城の戦い」では、仁賀保拳長勢の奇襲を受けたが、反撃してこれを討取った。1577年、仁賀保拳長の弔合戦を挑んできた仁賀保安重も討取った。1587年、最上義光と結びに羽柴秀吉に拝謁するため上洛したが、仁賀保挙誠を中心とした由利衆に矢島城を奪われた。1588年、内室の実家である西馬音内茂道のもとに落延びたが、小野寺輝道の追及を受け自刃した。

柳田治兵衛尉【やなぎだじぶびょうえい(15??~15??)】

西馬音内茂道家臣。

山館刑部【やまがたぎょうぶ(15??~15??)】

浅利則頼家臣。比内郡山館主。

山田喜六【やまだきろく(15??~1589)】

北秋田郡山田館主。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、三浦盛永勢に属した。1589年、「浦城の戦い」で敗れ山田館に落延びたが力尽き自刃した。

山田高道【やまだたかみち(15??~15??)】

西馬音茂道家臣。官途は民部少輔。

山田清道【やまだせいどう(15??~15??)】

西馬音茂道家臣。雄勝郡山田城主。通称孫兵衛慰。1586年、「有屋峠の戦い」で小
野寺義道に従って参陣して最上義光勢と戦った。

山内右衛門尉【やまのうちうざえもんのじょう(15??~15??)】

三浦盛永家臣。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」で三浦盛永が安東通季勢に属したため、山内右衛門尉もそれに従った。「山内城の戦い」で安東実季税の攻撃を受け落城した。

六郷道行【ろくごうみちゆき(15??~15??)】

仙北郡六郷城主。官途は弾正少弼。仙北七人衆。戸沢道盛と小野寺稙通の勢力に挟まれた境目の領主でもあったが巧みな外交術で所領を維持した。1559年、稲荷岡の東に六郷城を築いて居城とした。

六郷政乗【ろくごう まさのり(1567~1634)】

六郷道行の男。官途は兵庫頭。通称長五郎。室は西田吉久の娘。1587年、「阿気野の戦い」では、小野寺義道勢に属して安東実季と戦った。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢に参陣して六郷城4,500石の所領を安堵された。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して石田三成勢に属した小野寺義道勢と戦った。1602年、役後、常陸国新治郡府中城10,000石に転封した。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康勢に従って参陣して戦功を挙げた。1623年、最上義俊が改易処分に処されると、羽前国本荘城20,000石の転封した。六郷惣領家の家督は継嗣の六郷政勝が相続し、三男の六郷政直は馬廻衆を務め200俵、四男の六郷政秀も馬廻衆を務め600石を領した。

六郷政勝【ろくごうまさかつ(1609~1677)】

六郷政乗の男。官途は伊賀守。室は京極高知の娘(京極高三の養女)。1615年、松平秀忠に拝謁した。1634年、父六郷政乗の病没により六郷家の家督を相続した。1643年、山形城主保科正之が会津若松城に転封になると、山形城留守居役を務めた。弟の六郷政徳、六郷政直、六郷政秀らと協力して内政の基礎の充実を図ったが、冷害などの天災に悩まされた。

涌本脩季【わきもとながすえ(15??~15??)】

安東愛季家臣。北秋田郡脇本城主。1587年、「第三次湊の戦い(湊安東通季の乱)」では、安東通季勢に属して安東実季勢と戦った。「脇本城の戦い」で安東実季勢の攻撃を受け自刃、内室は双六館までえ落延びたが、追い詰められ双六館の断崖から身を投げ自害した。

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【資料Ⅰ】

羽後国(9郡/240,000石)

比内郡:独鈷城。
北秋田郡:大館城(12,000石)、風張砦(8,000石)。
南秋田郡:湊城(50,000石)。
山本郡:能代城(18,000石)、脇本城(18,000石)
河辺郡(24,000石):豊島城、赤尾津館、岩屋館。
仙北郡(105,000石):角館城、六郷館(6,000石)、本堂館(6,000石)、大曲城主。
平鹿郡(70,000石):横手城。
雄勝郡(58,000石):湯沢城、岩崎城、院内鉱山。
由利郡:(24,000石):亀田城、仁賀保城。

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【資料Ⅱ】

仙北七人衆【せんぼくななにんしゅう】

六郷城主六郷道行、金沢城主金沢道秀、飯詰城主久米行長、戸蒔城主戸蒔義広、堀田平七、金子尾張守、神尾雅楽。

由利郡十二人衆【ゆりぐんじゅうににんしゅう】

矢島義満、仁賀保挙久、赤尾津家保、根井親光、潟保重光、打越光重、子吉重旨、下村宗長、玉米儀満、鮎川小平太、石沢孫四郎、滝沢政家、岩屋朝盛、羽川義稙、芦田拳実、履沢左兵衛の諸家。

由利郡五人衆【ゆりぐんごにんしゅう】

赤尾津治部少輔、仁賀保挙久、滝沢又五郎、岩屋朝盛、打越光重。

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【資料Ⅲ】

羽後国【うごのくに】

北東部の鹿角地方は陸奥国。日本海沿いは北から能代平野、秋田平野、本荘平野が続きます。内陸部は陸中国との間の脊梁山脈奥羽山脈が南北に連なり西部には鳥海山から北に延びる出羽山地がある。奥羽山脈と出羽山地の間には横手盆地が広がり、羽後国では最大の平野を形成します。横手盆地は雄物川とその支流が潤し有数の稲作地帯となっている。北東部には米代川中流域の大館盆地があり、その下流に能代平野が形成されている。

能代湊【のしろみなと】

南秋田郡の湊街。1556年、安東愛季は能代湊の整備を行い、同時に街作りを行った。檜山城の外湊として米代川の河口に湊街を作り、北国船による物資の交易を図った。家臣の清水治郎兵衛を能代の奉行職に任じ、諸材木支配を行わせた。1564年、清水治郎兵衛は、長慶寺、山王権現社を造営するなど人心の安定のも意を注いだ。

赤尾津【あかおつ】

赤尾津は天然の良湊。帆段銭が年間4,500石以上あった。

大葛金山【おおくぞきんざん】

北秋田郡の鉱山。大葛金山は和銅年間の発見と言われ古くから金が採掘されていた、天文年間には多量の金が採掘され浅利家の軍資金として活用された。

院内鉱山【いんないこうざん】

雄勝郡院内の鉱山。1606年、村山宗兵衛らに発見され、開山した。金、銀を産出し国内最大級の銀山。鉱脈の枯渇により一時衰退の兆しを見せたが、新鉱脈の発見により持ち直し、鉱山の最盛期には、戸数4,000、人口15,000を擁し、城下街久保田を凌駕する規模の街となり「出羽の都」と称されるほどの繁栄を誇った。

金沢八幡神社【かなざわはちまんじんじゃ】

金沢八幡神社は「後三年の役」の後、金沢柵の二の丸に源義家の意向で藤原清が創建し、石清水八幡宮の神霊を勧請した。

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戦国人名辞典は1500~1630年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康、津軽為信は大浦為信に統一。

参考文献:『津軽秋田安東一族』by新人物往来社、『東北大名の研究(戦国大名論集2)』by吉川弘文館、『会津芦名一族』by歴史春秋社、『最上義光(戦国の驍将)』by新人物往来社、『奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)』by宝文堂、『会津芦名四代』by歴史春秋、『伊達政宗(全8巻)』by講談社、『天を衝く(全3巻)』by講談社文庫、『独眼竜伊達政宗』by時代小説文庫、『津軽風雲録』by時代小説文庫、『政宗に睨まれた二人の老将』by宝文堂、『秋田「安東氏」研究ノート』by無明舎、『(史伝)伊達政宗』by学研M文庫、『独眼竜政宗』by講談社文庫、『奥羽永慶軍記(全2巻)』by新人物往来社、『津軽南部の抗争(南部信直)』by無明舎出版、『秋田の中世浅利氏』by無明舎出版、『独眼龍政宗』by文藝春秋、『みやぎの戦国時代』by宝文堂、『陸奥南部一族』by新人物往来社、『戦国人名事典』by吉川弘文館、『戦国人名事典』by新人物往来社、『戦国大名家辞典』by東京堂出版、『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2011年6月4日土曜日

戦国伊予国人名辞典

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【あ】

赤畝加賀守【あかうねかがのかみ(15??~15??)】

因島(村上)家臣。星ヶ浜城主。

東右近助【あずまさこんのすけ(15??~15??)】

能島(村上)家臣。家老職で100石を領した。1601年「関ヶ原の役」の敗戦により、能島(村上)武吉は減封の処分を受けたため、家臣団に対して従来の知行を維持することができなくなった。能島(村上)家臣の多くは、海賊衆として他家へ仕官したが、東右近助は出奔した。

東筑前守【あずまちくぜんのかみ(15??~15??)】

藤森城主。大除城主大野山城守直昌の弟。

明日丹後守【(あけひたんごのかみ15??~1585)】 

浮穴郡大平城主。官途は丹後守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて討死した。  

家藤信種【いえふじのぶたね(15??~15??)】

西園寺家臣。通称監物。1580年、板島丸串(宇和島)城主。後に道免城主。

池原(河野)通吉【いけはら(こうの)みちよし(15??~15??)】

野間郡池原館主。河野家枝連衆。官途は近江守。1575年、三好長慶勢を撃退した。息子の牛福丸(河野通直)が河野通宣の養子として河野家の家督を相続した。河野通直が幼少のため国事に介入した。

池原通成【いけはらみちなり(15??~15??)】

高仙山城主。河野家臣。1572年、河野家と共に安芸国で毛利元就と戦った。1579年、村上通総に攻められるが撃退した。1581年、二神豊前守と来島通総の謀略によって殺されかかったが、逃げおおした。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて落城し、池原通成は自刃した。

伊予石川道清【いしかわみちきよ(15??~15??)】 

新居郡高峠城主。官途は伊予守。河野家臣。近隣の黒川通堯への備えとして、高尾城を築城した。1558年、讃岐と伊予の「境目城」の城主である石川道清は、河野家臣であったが三好長慶の娘を娶った。1572年、三好長慶は石川道清を先陣に伊予国へ侵攻した。河野通吉はこれを察知して高峠城に攻め寄せ、三好勢を讃岐国に撃退した。

伊予石川通清【いしかわみちきよ(15??~1584)】 

石川道清の男。官途は備後守。金子元宅の後見を受ける。1582年、長宗我部元親に攻められ降伏し、金子家、妻鳥家らと共に長宗我部家の伊予七人衆の一人として河野家と対抗した。

伊予石川虎竹丸【いしかわかつしげ(1578~1585)】

石川通清の男。父石川通清の死後、枝連衆の近藤尚盛の支持を受け、石川家の家督を相続した。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、石川虎竹丸はまだ幼く、重臣の金子元宅の意見が通り高尾城に籠って小早川隆景と対することとなった。金子元宅は金子城を弟金子元春に守らせ自身は総大将として高尾城に入り、宇高城主高橋政輝を麓の里城に籠らせた。小早川隆景率いる30,000余りともいわれる軍勢が怒涛の攻撃を仕掛け、金子元宅らは良く防戦したが多勢に無勢で城に火を放って自刃した。高尾城に籠城した石川勢800余名もほとんどが討死した。石川虎竹丸を土佐国へ落ち延びた。

石川源太夫【いしかわげんだいふ(15??~15??)】

新居郡高尾城主。石川家臣。石川源太夫は新居郡高峠城主石川道清の枝連衆だったが、己の剛勇を鼻にかけ宗家の石川伊予守を侮ることが少なくなかった。石川道清の重臣からは疎まれ、中でも船形城主の近藤但馬守は憤懣やるかたなく、ついには石川源太夫を討ち取ることにした。近藤但馬守は源太夫を船形城まで呼び出し、西条郊外の木曳野で待ち伏せさせた200の兵で石川源太夫と近習六人を討取った。

伊予石川越後守【いしかわえちごのかみ(15??~1572)】

石川源太夫の男。1572年、三好長慶の「河野家征伐」により、高尾城を攻められ自刃した。

伊予石川通清家臣団【いしかわけかしんだん】

佐吹上ノ城主:塩出左衛門、木曳原城主:石川源太夫、福武山城主 :石川越後守、轆城主:大西道誉、黒岩城主:越智信濃守、早川城主:泰備前守、里ノ城主:高橋美濃守。野津子城主:工藤兵部祐重。

今岡伯耆守【いまおかほうきのかみ(15??~15??)】

甘崎城主。村上武吉家臣。官途は民部太夫。1552年、陶晴賢は大内義隆が村上隆重に認めていた厳島における駄別料徴収権の停止を村上武吉ととともに命じられた。1541年、白井房胤ら大内方警固衆が甘崎城に攻め寄せたが撃退した。能島村上家は反大内の惣領家村上義益と、大内方で村上武吉を当主に推す村上隆重ら庶子家が分裂状態にあり、今岡伯耆守は惣領家に属して大内方水軍と戦った。1563年、今岡伯耆守は没落した。

今岡家臣団【いまおかけかしんだん】

今岡治郎之亟、東左近太夫、東条籐兵衛尉、小笠原主馬、白石隼人頭、岩城左衛門太夫。

今城(有馬)能親【いましろよしちか(15??~15??)】

宇和郡戸雁金山城主。官途は肥前守。西園寺十五将の一人で、成妙郷の九ヵ村4,700石を領した。1537年、今城能親は風流武将として知られ、京にて連歌の会を行う。この会には、関白近衛稙家が出席した。今城能親は、連歌に秀で後奈良院の叡覧にそなえたこともあった。土佐一条家の東小路法行勢800余りの攻撃を受けるが、背後から伏兵を仕掛け撃退した。

今城能信【いましろよしのぶ(15??~15??)】

今城能親の男。1546年、南伊予国に侵攻してきた大友宗麟勢を土居清員、竹林院(深田)真清、河野(中野)通宗らと共に撃退した。

井上重秀【いのうえしげひで(15??~15??)】 

宇都宮(萩森)房綱の家臣。中尾城主。通称善兵衛。井上重房は、海賊が出没していた中尾城領を良く治め年々繁盛し小城下街を形成した。
1579年、長宗我部元親は大軍を率いて宇和、喜多二郡に侵入しために、宇都宮豊房と宇都宮(萩森)房綱は敗走した。1582年、再び長宗我部元親が侵入、このとき西園寺公廣も降る。中尾城は長宗我部勢の攻撃を受け落城、井上重房は豊前国に落ち延びた。

井上経盛【いのうつねもり(15??~15??)】

温泉郡飯野山城主。官途は備後守。1576年、井上経盛は長宗我部元親の攻撃を受けて落城した。息子は井上治部大夫。

伊予郡豪族衆【いよぐんごうぞくしゅう】

高市図書允、石川蔵人、岡田五郎兵衛尉、高市治部之亟、武智弥五郎、中之子右京允、土居大和守、中根修理允、山崎六郎兵衛尉、大竹九郎太夫、黒田無心、寺町兵庫介、寺町豊前守、大政右衛門尉、中渕彦三郎、松崎次郎。

因島(村上)尚吉【いんのしまなおよし(15??~15??)】

瀬戸内海賊衆。官途は加賀守。1541年、因島(村上)尚吉は、大内義隆と敵対する厳島神主友田興藤をを支援した。これにより、大内警固衆が因島(村上)家の拠点に攻撃を受け足。1544年、因島(村上)尚吉は大内義隆から備後国鞆浦の領地を与えられた。これは、尼子方の備後国神辺城主山名理興を討伐するため、海上輸送、海上警固について因島(村上)尚吉の合力を必要とし、瀬戸内海賊衆を自陣営へ引き入れる目的もあった。大内義隆の奉行人陶隆満と小早川隆景が因島(村上)尚吉から贈られた刀一腰について礼を述べている。

因島(村上)吉充【いんのしまよしみつ(15??~15??)】

村上尚吉の男。室は乃美宗勝の妹。通称又三郎。因島村上家は能島村上家・来島村上家と並ぶ瀬戸内海を支配した海賊衆で、父因島(村上)尚吉の頃より毛利家寄りの政策を取った。1555年「厳島の戦い」で、毛利元就から加勢を求められ、末長景道率いる因島村上海賊衆を派遣し、小早川家警固衆の乃美宗勝の指揮下で毛利方の勝利に大きく貢献した。その後も毛利家に属し、防長経略では関門海峡を封鎖するなどの活躍をした。1561年「門司城の戦い」で乃美宗勝の指揮下、大友勢を撃退した。1576年「第一次木津川口の戦い」では、織田水軍を壊滅させ兵糧米を石山本願寺に運びこんだ。因島(村上)吉充には子がなかったため、因島(村上)亮康の子、因島(村上景隆)を養子に迎えたが早世したため、その弟の因島(村上)吉亮を後嗣に迎えている。1600年「関ヶ原の役」後、毛利家の減封に伴って長門国へ転封になり1800石を領した。

因島(村上)亮康【いんのしますけやす(15??~1608)】

因島(村上)尚吉の三男。瀬戸内の要衝鞆城主。因島村上家の枝連衆として活躍した武将。「第一次木津川口の海戦」にも参陣した。1569年、藤井皓玄が備後国神辺城を占拠した際には、三吉隆亮と共に神辺城を奪回した。後に毛利家を頼ってきた足利将軍義昭を三好家の干渉を跳ね除け関船で出迎えた。鞆では警護役として足利義昭の直臣扱いとなった。毛利家と足利家の両方から知行を得ている。1582年、来島通総が織田信長に寝返ると、村上吉充、村上隆吉と共に毛利輝元に改めて忠誠を誓い、恩賞として100貫の知行を加増されている。

因島(村上)景康【いんのしまかげやす(15??~1587)】

因島(村上)亮康の男。伯父因島(村上)吉充の養子。1587年「九州征伐」の陣中で病没した。

因島(村上)吉亮【いんのしまよしすけ(15??~1596)】

因島(村上)亮康の三男。通称。新左衛門。室は浦宗勝の娘。兄因島(村上)景康が病没したため、因島村上吉充の養子となり因島(村上)家の家督を相続したがまもなく病没した。

因島(村上)元充【いんのしまもとみつ(15??~15??)】

因島(村上)吉亮の嗣子。1600年「関ヶ原の役」の「伊予松山城の戦い」では幼少であったため、因島(村上)吉忠が名代として出陣した。戦後、因島(村上)吉充とともに備後国を去り、周防三田尻に居住。毛利家船手組番頭。

因島(村上)吉忠【いんのしまよしただ(15??~1600)】

因島(村上)亮康四男。1600年「関ヶ原の役」の「伊予松山城の戦い」では、因島(村上)元充の名代として因島村上海賊衆を率いた。能島(村上)元吉の麾下に入るが、加藤嘉明家臣の佃十成の夜襲により討死した。

因島(村上)吉国【いんのしまよしくに(15??~15??)】

因島(村上)吉忠の男。1600年、父因島(村上)吉忠が討死すると因島(村上)吉充の養子となる。

因島(村上)吉之【いんのしまよしゆき(15??~15??)】

因島(村上)家臣。1557年、村上吉充が余崎城に移ると、長崎城守将となる。

因島(村上)吉満【いんのしまよしみつ(15??~15??)】

因島(村上)家臣。因島(村上)治部少輔の男。岡島城主。通称又三郎。

因島(村上)義房【いんのしまよしふさ(15??~15??)】

因島(村上)家臣。寺崎城主。官途は丹後守。

因島(村上)吉高【いんのしまよきたか(15??~1580)】

因島(村上)枝連衆。葛籠屑城主。官途は内蔵大夫。1580年、来島通総に加勢したとして、河野家に攻められ自刃した。

因島(村上)弘正【いんのしまひろまさ(15??~15??)】

因島村上家臣。明沢城主。官途は信濃守。

魚成通親【うおなしみちちか(15??~15??)】

宇和郡龍ヶ森城主。魚成玄親の男。官途は豊後守。西園寺十五将の一人で1,000石を領した。

魚成親能【うおなしちかよし(15??~15??)】

魚成通親の男。官途は上総守。1573年、長宗我部元親による攻撃で龍ヶ森城は落城した。

臼坂弾正【うすさかだんじょう(15??~15??)】 

黒川通博家臣。文台城守将。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川景隆に攻められ落城した。

浮穴郡豪族衆【うきあなぐんごうぞくしゅう】

浅井新左衛門尉、寺町弥六左衛門尉、浮穴新左衛門尉、高野宮内之允、白石新太夫、大熊刑部之亟、白石左衛門尉、牛渕美作守、田窪八郎、石崎与一、定力左衛門尉、奴田新太夫、東籐内蔵、高井小太郎。    

宇都宮清綱【うつのみきよつな(1500~1540)】

喜多郡大洲城主。宇都宮清綱が嫡男の宇都宮豊綱に大洲城を譲った際、次男の宇都宮房綱らを連れて萩森城に隠居して7,800石を知行した。

宇都宮豊綱【うつのみやとよつな(1519~1585)】

宇都宮清綱の男。室は大野直之の娘。喜多郡大洲城は、道後方面を支配する守護家河野家と宇和郡を支配下に置く西園寺家に挟まれる位置にあり、また土佐国から土佐の一条家、豊後国から大友家、中国地方の大内家、後に毛利家といった諸勢力が伊予国に侵攻するごとに戦場となり、難しい領国経営を強いられた。西園寺家との戦いでは、西園寺実充の子公高を討ち取る武勇を見せた。1560年、以降姻戚関係にあった土佐一条家と結んで勢力の拡大を図るが、河野家との対立が目立つようになった。1568年、毛利家の援軍を受けた河野家との「鳥坂峠の戦い」で大敗を喫し、毛利方に捕らえられ備後国で病没した。

宇都宮房綱【うつのみやふさつな(15??~15??)】

宇都宮清綱の次男。通称彦右衛門尉。1540年、父宇都宮清綱と共に地蔵獄城を築城。1549年、天神山城主摂津親宣と争う。

宇都宮(野村)乗綱【うつのみやのりつな(15??~15??)】

喜多郡野村白木城主。官途は左近尉。西園寺十五将の一人で2,000石を領した。白木城を緒方蔵人に任せ、自らは鎌田城に居住した。1540年、枝連衆の宇都宮直綱が長宗我部家に内通したため、西園寺家から蟄居を命じられる。

宇都宮直綱【うつのみやなおつな(15??~15??)】

宇都宮乗綱の枝連衆。鎌田城主。1581年、長宗我部家に内通したため、西園寺家に攻められた。

宇都宮道信【うつのみやみちのぶ(15??~15??)】  

朝立城主。官途は備前守。1582年、長宗我部元親に攻められ、朝立城は落城した。

宇都宮春信【うつのみやはるのぶ(15??~15??)】  

宇都宮道信の孫。慶長年間に宇都宮家を再建した。

宇都宮家臣団【うつのみやけかしんだん】  

梶谷景則、大塚助兵衛、二宮新助、二神権之介、得能主税、大久主馬、梶谷修理、兵頭喜右衛門、大塚嵐之助、梶谷久米之助、二宮市右衛門、谷喜兵衛、堀江右馬之介、城戸源右衛門、村上与三兵衛、続谷覚之介、北村甚五郎、向井源蔵、窪田作兵衛、久保田平助、木瀬半右衛門、滝下六左衛門、滝下小作、菊池平兵衛、豊田勘左衛門、戸田六助、菊池喜右衛門、大塚新兵衛、小出平右衛門、小出新兵衛、加藤治部之介、安藤甚三郎、野田与七、矢野源左衛門 木村杢之介 寺井市之丞、門田仁介、岡孫右衛門、水野太兵衛、豊間作右衛門、玉津半太夫、松原与右衛門、吉見新三郎、桜山馬之介、若山八右衛門、林田善右衛門、武田九兵衛、信村助蔵、松本市右衛門 森田平助、佐良喜作、阿部半助、脇谷伊右衛門、一色与三右衛門、桜井八蔵、宇多津九兵衛、矢部兵介、金田杢右衛門、熊尾喜左衛門、結城与一郎、田村徳右衛門、駒山仁右衛門、土居新右衛門、秋山三右衛門、河原与兵衛、伊藤助三郎、鹿田助七、長谷林右衛門、村尾茂兵衛、遠藤三右衛門、宮川市蔵、清家次兵衛、大角隈源助、津田久兵衛、大谷八郎兵衛、下村与七郎、岸村覚之助、沢辺新七、三宅善三郎、野村助之進、斉藤勘右衛門、石山九郎介、本東谷伊右衛門、山本小右衛門。 

宇野又八郎【うのまたはちろう(15??~15??)】

河野家臣。1600年「関ヶ原の役」では、加藤嘉明に加勢した。

大内信泰【おおうちのぶやす(15??~15??)】

和気郡塩森城主。官途は伊賀守。

大内家臣団【おおうちけかしんだん】

松浦籐右衛門尉、高松美濃守、栗田右衛門尉、福角隼人、井上三与右衛門尉、沢田惣次郎、北左衛門尉。                  

大塚助兵衛【おおつかすけのひょうえ(15??~15??)】 

高森城主。

大久範足【おおひさのりあし(15??~15??)】

土居城主。通称主馬。

大野利直【おおのとしなお(1493~1580)】

浮穴郡大除城主。河野家臣。官途は紀伊守。嫡男大野友直に家督を譲って隠居したが、大野友直が早世したため再び政務を執る。1553年、平岡家と対立してこれを攻撃した。1553年、四男の大野直昌に家督を譲って隠居した。

大野友直【おおのなおしげ(15??~15??)】

大野利直の男。大野家の家督を相続したあと早世した。

大野直之【おおのなおゆき(15??~15??)】

大野利直の次男。官途は上総介。菅田城主。1573年、長曽我部家に通じて河野家に叛いたが敗退。1574年、再び長曽我部家と謀って兄大野直昌の殺害を目論むが失敗。その後河野家に帰参した。1585年「四国征伐(天正の陣)」では河野通直の降伏後も頑強に抵抗した。

大野隆直【おおのたかなお(15??~15??)】

大野利直の三男。兄庶だったため、大野家の家督を相続することができず、能島家に仕えた。

大野直昌【おおのなおしげ(15??~15??)】

大野利直の四男。官途は山城守。長兄大野友直が早世し、兄の大野隆直と大野直秀が庶子であった為、大野利直の嫡子であった四男の大野直昌が家督を相続した。河野家の政務は「御一門三十二将」と呼ばれる、譜代国人衆と国人衆の同族的結合によって執行されていた。河野通直に重用され家老となった。足利将軍家から「毛氈鞍覆白傘袋」を許されるほどの地位を持ち、河野家とは一線を画す国人衆であった。武勇に優れ、一条家が手勢500で攻めてきた際に200の兵で撃退し、毛利家との戦いでも奮戦した事から、河野通直の家臣として家老衆の筆頭にまでなった。大野直昌が、宇都宮家に仕えた弟大野直之が長宗我部元親勢と侵攻したきたさい、配下の将兵の多くを失った。1585年「四国征伐(天正の陣)」の際に河野通直とともに降伏し、河野通直の安芸国竹原城の転封に従う。「雲龍閣事件(秀吉暗殺未遂事件)」にも関与した。

大野直之【おおのなおゆき(15??~1579)】

宇和郡大除城主大野利直の六男。伊予宇都宮家臣。官途は上総介。長宗我部家と通じ宇都宮豊綱を討つ。1579年、河野家に討たれた。

大祝安用【おおほうりやすもち(15??~1531)】

河野家臣。大三島大山祇神社第三十一代大祝職。大祝家は代々神職として戦場に立つことはなかったが、戦が起きた場合は一族の者を陣代として派遣していた。

大祝安舎【おおほうり(15??~15??)】

大祝安用の男。大三島大山祇神社第三十二代大祝。父の陣代として大内家に備える。1534年、大内家が侵攻してきた際には、陣代として出陣し、大内勢を撃退した。山陰地方の尼子勢が安芸国に侵攻すると、大三島もその戦火に巻き込まれたが、村上通康らの加勢によって尼子勢を撃退した。

大祝安房【おおほうり(15??~1541)】

大祝安用の次男。父大祝安舎の死後、三島城陣代となる。1540年、大内勢の白井膳胤、小原中務丞が大三島を攻める。その際、防戦して討死した。 

大祝鶴姫【おおほうりつるひめ(1524~1541)】

大祝安用の娘。1540年、大内家臣白井膳胤らの大三島攻めに抵抗。小原中務丞を討つ。1541年、大内家の攻撃を退けた後に自害した。辞世の句は「わが恋は 三島の浦のうつ うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」。越智安成と恋仲だった。今も大山祇神社には鶴の着用したと云う紺絲裾素懸威銅丸が残されている。

岡田経孝【おかだつねたか(15??~15??)】 

花見城主。河野家臣。

岡田通孝【おかだみちたか(15??~15??)】 

河野通宣の男。岡田経孝の養嗣子。未開拓地の堀江村を開拓し「新須賀」と名付け、城を築いて居城とした。

岡田通郷【おかだみちさと(15??~15??)】 

岡田通孝の男。通称九郎兵衛。

岡田通政【おかだみちまさ(15??~15??)】 

岡田通郷の男。農政面に優れた才能をもち重用された。

緒方惟定【おがたこれさだ(15??~15??)】

宇都宮乗綱家臣。白木城代。通称蔵人。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景に降伏した。後に宇和島城へ藤堂高虎の仕えた。1614年「大坂夏の陣」で活躍した。

小野頼元【おのよりもと(15??~1585)】 

新居郡田所城主。官途は上野守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて落城し、小野頼元は自刃した。

越智通繁【おちみちしげ(15??~15??)】

宇和郡天ヶ森城主。西園寺家臣。官途は安芸守。1575年、一条兼定に加勢し「四万十川の戦い」で長宗我部家と争う。1580年、長宗我部家に攻められ自刃した。

越智左近大夫【おちさこんだいふ(15??~15??)】

河野家臣。好味城代。

越智安成【おちやすなり(1522~1543)】

越智左近大夫の男。1543年、大内家との合戦で討死した。大祝鶴姫と恋仲だった。

越智道能【おちみちよし(15??~1585)】

浮穴郡鷹森城主。官途は美濃守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて討死した。 

温泉郡豪族衆【おんせんぐんごうぞくしゅう】

持田左京之允進、逸見源太夫、高田山雅楽介、白石五郎、大野因幡守、鈴木治部之亟、鈴木掃部頭、鈴木神三郎、佐川玄蕃、大篭道三、進藤帯刀、崎山四郎左衛門尉、一色佐イ左衛門尉、関谷縫殿助。

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【か】

戒能通運【かいのうみちゆき(1482~1546)】

浮穴郡小手ヶ滝城主。河野家五家老。河野十八将のひとり。官途は伊賀守。1552年、大野利直に敗れ、大熊城に逃れる。大野家とは何度も争っており、撤退する大野勢に追撃をかけて大打撃を与えたり、平岡房実や和田通興の助力を得て撃退したこともあった。

戒能通森【かいのうみちもり(1517~1587)】

戒能通運の男。官途は備前守。家老を務めた主家没落後、河野家の社参には必ず供奉した。

戒能家臣団【かいのうけかしんだん】

宇和川伝右衛門尉、北山備中守、小山兵庫正、大平新右衛門尉、上野兵庫介、江戸平太、野口左衛門尉、樫尾四郎兵衛尉、森平内左衛門尉、南新蔵人、吉井主水介、山前勘解由、大野右近、戒能伊織。

梶尾伊豆守【かじおいずのかみ(15??~15??)】

高森城主。宇都宮房綱家臣。1576年、宇都宮家臣大野直之に攻められ落城、河野家のもとを頼る。臨終の際、三人の子に高森城奪回が最良の供養であり、他の必要がないと言い残した。

梶尾中務丞【かじなかむのじょう(15??~15??)】

梶尾伊豆守の男。1578年、弟の左衛門尉、修理と共に高森城奪回に成功した。

観修寺基詮【かじゅうじもとあき(15??~15??)】

常盤城主。官途は兵庫介。西園寺十五将のひとり。御庄殿。1558年、大友宗麟の攻撃を受けた。1575年、長宗我部元親の攻撃を受けた。土佐一条家を援護して逆に土佐国に侵入した。1583年、長宗我部勢10,000余りに支城の猿越城と緑城を落とされ降伏した。1587年、新領主の戸田勝隆から下城を余儀なくされた勧修寺基栓は京に上った。

勧修寺基詮家臣団【かじゅうじもとあきけかしんだん】

上岡玄蕃允和光、満蔵加賀守、尾崎籐兵衛尉。  

加藤民部正【かとうみんぶのしょう(15??~15??)】 

新居郡御代島城主。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「野々市の戦い」で、小早川隆景と戦い討死した。   

兼頭修理【かねがしらしゅり(15??~15??)】 

黒川通博家臣。文台城守将。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川景隆に攻められ落城した。

金子元成【かねこもとなり(15??~15??)】 

新居郡金子山城主。通称十郎。高尾城主石川家の内乱を鎮圧。知に優れた将で、一時は河野家をもしのぐ勢力を誇った。

金子元宅【かねこもといえ(15??~1585)】 

金子元成の男。官途は備後守。1585年「四国討伐(天正の陣)」で宇摩、新居二郡の将兵率いて出陣。長宗我部勢の援軍とともに小早川隆景と戦ったが、「氷見原の戦い」で奮戦の末するも三村紀伊守に討たれた。金子元宅は残存兵力まとめ高尾城に籠城した。籠城した武将は、弟金子元春と家老の伊藤嘉右衛門家定、金子の枝連衆の鷲津、桜井、野々山、安蘇、小幡と薦田枝連衆の下山九郎。長宗我部家からの援将片岡下総守光綱率がいる500余と花房親兵衛が率いる50余りでした。片岡光綱は、北谷口で討死し、亡骸は家臣達によって土佐国に運ばれてた。また、花房親兵衛は、馬淵口で小早川秀包に討取られた。

金子元春【かねこもとはる(15??~16??)】 

金子元成の次男。官途は対馬守。1585年、「四国討伐(天正の陣)」において兄金子元宅の討死後、金子家の家督を相続する。小早川隆景が再び侵攻すると丸山城主黒河広隆の手引きによって、金子山城は奇襲を受け落城した。落城後は金子元春は出家して慈眼寺の関掩本徹和尚となった。関掩本徹和尚は名僧として明正天皇より御輪旨と三世安禅思長和尚を賜り、本堂の屋根の棟に16弁菊の紋章を付ける事も許可された。 

金子家綱【かねこいえつな(15??~1585)】

金子元成の三男。通称孫八郎。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川景隆勢との戦いで兄金子元宅が討死すると、残された郎党と共に金子山城に籠城するも落城した。

金子専太郎【かねこせんたろう(15??~15??)】

金子元宅の男。人質として土佐国におもむいた。

金子家臣団【かねこけかしんだん】

岡崎城主:藤田大隈守、林下ノ城主:松木三河守、大保木城主:寺川丹後守、垣上ノ城主:徳永修理之允、横山城主:近藤四郎五郎、河ノ江城主:妻鳥采女正、長田城主:川上但馬守安勝、周布郡獅子鼻城主:宇野隼人、大頭鹿花城主:今井三郎左衛門、:松尾城主:越智式部、笹ヶ頭城主:出渕筑後守、桑村郡菊ヶ森城主:山内若狭守、桑村郡藤森城主:櫛部伊賀守入道。。

河上安勝【かわかみやすかつ(15??~1585)】

河野家臣。1574年、仏殿城主妻鳥光家が長宗我部元親に通じたため、河野通直から討伐を命じられる。討伐を果たすと、恩賞として仏殿城を賜る。1585年、長宗我部元親に滅ぼされた。

河内吉行【かわちよしゆき(15??~15??)】

曽根宣高家臣。官途は駿河守。竜王城周辺を治めた。

河原渕(渡辺)政忠【かわらぶちのりさだ(15??~15??)】

松丸川後森城主。官途は越後守。嗣子無く、土佐一条一門東小路法行の次男を養子とする。

河原渕(渡辺)教忠【かわらぶちのりさだ(15??~15??)】

宇和郡河後森城主。一条房家の甥。家系としては大内晴持の甥でもある。土居清良と共に幼少期を送った。一条兼定の伊予進出の布石として、西園寺氏の重臣である渡辺政忠の養嗣子となる。西園寺十五将筆頭の16,500石を領した。一条家が南伊予に侵攻した際に戦意をみせなかった。1567年、西園寺公広に攻められ、入質して許された。一条家の土佐追放後は長宗我部家に敢闘する。河後森の若城主と呼ばれ評判になるが、度重なる戦乱により家臣の分裂を生み、長宗我部家に寝返った芝一覚によって月見の夜に城を追われた。

管善兵衛【かんぜんべえ(15??~1585)】

石川家臣。徳永甚九郎とともに虎竹丸に仕えた。1585年「四国討伐(天正の陣)」で、小早川隆景に高尾城を攻められ討死した。

梶屋修理【かじやしゅり(15??~15??)】 

飯森城主。

北之川(紀)経安【きたのかわつねやす(15??~1581)】

宇和郡窪野三滝城主。官途は式部卿。北之川家は紀貫之の庶家。西園寺十五将のひとり。1581年、長宗我部家臣久武親直、桑名太郎左衛門に攻められる。合戦の最中、依岡左京に討たれた。

北之川(紀)親安【きたのかわちかやす(15??~1583)】

北之川(紀)経安の男。通称左衛門大夫。父北之川(紀)経安の後を継いで式部卿を称した。長宗我部元親の娘婿波川玄蕃の息女を側室に迎えるが、波川玄蕃が長宗我部元親に対して謀反を起こしてしまい、北之川親安自身は謀反に加担していない旨の起請文を長宗我部元親に提出するが「謀反加担は明白なのに起請文を寄越したからには起請の罰が与えられる」と言う無茶苦茶な論理から長宗我部元親に攻められて三滝城は落城、北之川親安は討死した。嫡男北之川正親は岡豊城で謀殺された。

木塔三郎兵衛【きとうさぶろうべえ(15??~15??)】 

里之城主。

城戸直盛【きどなおもり(15??~1574)】 

龍王城主。大野家の枝連衆。河野家臣。領民に慕われる名君だった。1574年、長宗我部家の加勢を受けた曾根城主曾根宣高と戦い龍王城は落城し討死した。 

城戸直宗【きどなおむね(15??~15??)】 

城戸直盛の男。1574年、父城戸直盛が討死すると、若い城戸直宗を家臣の床崎綱実が後見して、河野家の支援のもと龍王城を奪還した。
1577年、曾根宣高によって再び落城し、床崎綱実は討死、城戸直宗は没落して帰農したという。

櫛部兼氏【くしべかねうじ(15??~15??)】

桑村郡象ヶ森城主。道前平野一帯に勢力を持つ。

櫛部兼久【くしべかねひさ(15??~1580)】

櫛部兼氏の男。1579年、長宗我部元親に属した金子元宅に攻められ、甲賀原に出陣。劣勢になったため象ヶ森城に籠城するも落城。近田ヶ原城主近田経治を頼る。1580年、金子元宅勢の近田ヶ原城攻めにより、近田経治と共に討死した。

櫛部家臣団【くしべけかしんだん】

越智兵庫介、竹田右京進、藤原五郎、渡辺四郎兵衛、牧野備前守、宇佐美主水正、長井三四郎、近藤永寿、杉原衛士助、藤原五郎、大沢新太郎、鎌田将監、渡部四郎兵衛尉、高瀬{左衛門尉、芥川源兵衛尉。  

忽那通乗【くつなみちのり(15??~1585)】

温泉郡忽那山城主。河野家臣。1544年、忽那通乗は大内海賊衆を引いた白井家が忽那島に来襲すると一族を率いて防戦。これを撃退することに成功している。1560年、伊予厳島神社に忽那通乗が股肱の勇卒数十名を引率しこの地にきて兵を練ったとき、神主藤原喜春をして安芸国佐伯郡より厳島神社を勧請し、武運の長久を祈った。1556年、大友義鎮家臣若林鎮興が忽那山に来襲。忽那通乗、忽那通著や忽那通恭と共に若林鎮興を撃破した。

忽那通著【くつなみちあき(15??~1579)】

忽那通乗の男。官途は式部少輔。1565年、大友義鎮が再び伊予国に侵攻すると、河野家の指示を受け、来島通康、村上武吉らとともに大友勢を撃退した。1573年、大野家が長宗我部元親に降ると、その討伐に出陣した。1580年、畿内を制圧した織田信長の軍勢が中国地方にも進出し、各地で毛利家と衝突を繰り返すようになった。忽那通著は村上海賊衆らとともに毛利家の支援を行い、大友家の牽制のために豊後国周辺にも出陣している。1579年、大野直之が長宗我部元親に通じて河野家に謀反を起こすと、その鎮圧に出陣したが「花瀬城の戦い」で討死した。

忽那通恭【くつなみちのり(15??~1585)】

忽那通乗の次男。忽那通著の嫡男が幼かったため、弟の忽那通恭が家督を相続した。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「高峠城の戦い」で小早川隆景の勢と激戦の末、忽那通恭は討死した。弟の忽那通実も金子城にて討死を遂げ、一族のほとんどは滅亡した。

忽那家臣団【くつなけかしんだん】

忽那新右衛門尉、忽那豊前守、忽那四郎兵衛、西久左衛門尉、矢野兵庫介、法花津四郎左衛門尉。                      

久保照信【くぼてるのぶ(15??~15??)】

黒山城主。通称左兵衛。

久保好武【くぼよしたけ(15??~15??)】

久保照信の男。通称縫殿助。1580年、長宗我部元親に攻められるも撃退した。1585年「四国討伐(天正の陣)」由並本尊城救援に向かうも落城。本城の黒山城に60余名でに籠城した。

久米郡豪族衆【くめぐんごうぞくしゅう】

佐伯強右衛門尉、玉井武蔵守、玉井将監、志津川修理之允、堀江雅楽助、平井左衛門尉、海垣太郎、姫池善太、山内九郎三郎、得久源三郎、高須賀左京右兵衛、中村兵衛四郎、根川六郎太夫、野口又四郎、大篭蔵神兵衛尉、中村九郎左衛門尉。

桑原泰国【くわはらやすくに(15??~1585)】

鷺ノ森城主。金子家臣。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景に攻められ討死した。

黒瀬道之【くろせみちゆき(15??~1585)】 

浮穴郡由流城主。官途は飛騨守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて討死した。   

黒川通堯【くろかわみちあき(15??~15??)】

周布郡剣山城主。長宗我部兼序の男。室は黒川通冬の娘。官途は民部少輔。黒川家は河野家庶流。長宗我部通尭は、兄長曽我部国親と不仲で、家を飛び出し黒川家の下に身を寄せ、時の黒川家当主山城守通矩に見込まれ妹婿となった。伊予国剣山城主として周辺の城主を攻略版図を広げた。1574年、長男黒川通長を壬生川通国攻めで失った。1544年、嫡男黒川通俊を戎能通運攻めにて失った。正岡通純二男、黒川(正岡)通博が跡を継いだ。

黒川通長【くろかわみちなが(15??~15??)】 

黒川通堯の男。通称宗太郎。1574年、黒川通長が壬生川通国の招きで壬生川の万福寺で猿楽の宴に呼ばれた、宴会も終わり宗太郎を送る為、通国は見送りに出口まで出た時にいきなり宗太郎が抜刀し通国を斬った。宗太郎は外に待たせておいた家臣と駿馬に乗り、榎城に逃げ帰った。壬生川通国の家臣、稲井等はその日の内に軍勢を整えて、約500騎で榎城を夜襲し、黒川通長以下全員が討死した。

黒川通博【くろかわみちひろ(15??~15??)】

幸門城主正岡通純の次男。黒川通堯の養子。官途は山城守。河野晴通の娘を娶ったため、河野一門に列せられた。正岡家は河野一族であり、黒川元春は黒川(正岡)通博の養子入りなどで河野家との関係を深めた。1572年、黒川通博は石川家の高尾城を攻め落とす。1574年、黒川通博は壬生川通国を攻め長期戦になり、大曲砦と鷺森城とで睨み合いになった。河野本家より調停の使者が入り水入りと成った。1575年、金子元宅と黒川通博が鷺ノ森城を攻撃、 壬生川通国は討死した。1576年、黒川通博は毛利の援軍要請を受けた河野家の配下として家臣団(櫛部、宇野家)を率いて福山へ従軍する。 1585年、小早川勢に攻められ敗走した。

黒川通俊【くろかわみちひろ(15??~1544)】

黒川通堯の男。官途は対馬守。1544年、戎能通運を攻めるも逆に討死した。

黒川通博家臣団【くろかわみちひろけかしんかん】

佐伯伊賀守雄之、桑島四郎佐衛門尉、曽我部左近、戸田{采女正、曽我部修理之允、久米五郎右衛門尉、兼頭日向守、桑村又左衛門尉、臼坂三郎兵衛尉、今井玄蕃、野口四郎太夫、垂水彦三郎、玉井又十郎。 

来島(村上)通康【くるしまみちやす(1519~1567)】

来島城主。河野家臣。官途は出雲守。室は河野通直の娘。来島村上家で能島村上武吉、因島村上吉充と同世代。河野家では、有力家臣の正岡家、重見家の反乱が続き、これらの鎮圧の任にあたった来島(村上)通康は、河野家の家中で大きな勢力を持つようになる。1541年、大山祇神社がある大三島が大内家の警固衆によって襲撃を受けた。河野通直の命を受け来島(村上)通康は得居、平岡、今岡らの海賊衆とともに出陣した。能島村上武吉の援軍も得て、神官大祝家らとともに大内家の警固衆を撃退した。河野通直に厚く信任され娘婿の一人となった。河野通直が子の河野晴通と対立した際には河野通直の側につき、河野家の家督継承者として選ばれたが、河野家臣団の多くは河野晴通を支持したため河野通直と共に湯築城を逃れた。居城の来島城を攻撃されたが守り抜き、河野家臣と和睦。後継者にはなれなかったが、河野枝連衆として内政、外交、軍事の各方面での中心的役割を果た。1555年「厳島の戦い」では、海賊衆を率いて毛利元就の援軍として参陣した。その後も毛利元就に積極的に協力し、対大内、大友家戦で海賊衆を率いて活躍した。1567年、宇都宮家との対陣中に病没した。

来島(得居)通幸【くるしま(とくい)みちゆき(1557~1594)】 

来島(村上)通康の男。嫡男として生まれたが得居家の家督を相続した。1582年、織田信長の配下として中国攻略にあたっていた羽柴秀吉の調略を受け、来島通総と共に河野家から離反した。来島家老であった村上吉継、村上吉郷らは河野家に残留した。河野家も毛利家の協力を得て来島家への攻撃を開始した。能島(村上)武吉、村上元吉親子を尖兵にして来島勢力に向けて攻撃を続けた。1583年、来島通総は京へ落ち延びたが、来島(得居)通幸の鹿島城へ攻撃は続いたが、籠城して守り抜いた。1584年、来島通総の再進出がは図られ、忽那島周辺で海戦が行われた。1586年、毛利輝元との和睦が行われ、羽柴秀吉の「四国討伐」が開始されると、小早川隆景、吉川元長などの軍勢とともに伊予国人衆と戦った。戦役後、来島(得居)通幸は3,000石を領した。「九州討伐」「小田原の役」「文禄の役」にいずれも羽柴家配下の船手衆として参陣した。1594年「文禄の役」で朝鮮水軍と戦って討死した。後嗣がないため所領は来島通総に加えられた。

来島(村上)通清【くるしまみちきよ(1563~1638)】

来島(村上)通康の次男。羽柴秀吉の諜略によって来島(村上)宗家が織田信長方に寝返ると、来島(村上)通清は来島家の名代として、羽柴秀吉と誓紙を取り交わした。この結果、来島(村上)宗家は毛利勢に攻められる事となり、兄来島通総らは京へ落ち延びたが、来島(村上)通清は日高城に籠城し頑強に抵抗した。毛利家との和睦後、羽柴秀吉によって海賊禁止令が出ると来島家を辞し、黒田家に仕えたが、まもなく辞しした。1600年「関ヶ原の役」では西軍に属して、淡路国人領主の菅達長と共に伊勢国鳥羽で戦ったが役後に失領した。福島正則に仕え2500石を領した。備後国三原城城代を務め、大堤防を築くなど治世に貢献した。

来島(村上)通総【くるしまみちふさ(1561~1597)】

来島(村上)通康の四男。官途は出雲守。通称助兵衛。室は平賀広相の娘。1567年、父来島通康の病死により家督を相続する。毛利家が大友家を攻めた際援軍として派遣されたが、能島村上武吉は赴かず、来島通総は苦戦して以後武吉と疎遠になった。来島通総の時代に至り、それらが噴出したとゆう見方もできる。1582年、来島通総は毛利陣営より離反し、織田信長に加勢したため、能島、因島両村上海賊衆と毛利警固衆の攻撃を受け、来島通総は織田信長の元へ逃れた。1582年「本能寺の変」後は、羽柴秀吉に仕えたえ風早郡鹿島城14,000石を領した。「九州征伐」「小田原の役」にも従軍した。1592年「文禄の役」では兄得居通之とともに渡海。1597年、弟得居通年とともに再び渡海したが、全羅道鳴梁で討死した。

来島(村上)長親【くるしまながちか(1582~1612)】

来島(村上)通総の男。通称右衛門。1579年、父来島通総が朝鮮全羅道鳴梁で討死したため、家督を相続して風早郡14,000石の領主となる。1600年「関ヶ原の役」では西軍から東軍に寝返ったが、戦役中、東海道沿岸の東軍諸将の所領に対して略奪行為を行ったことを咎められ戦役後失領した。
のち福島正則の執り成しで、豊後国玖珠郡で14,000石を与えられた。所領に海はなく、海賊衆としての力は絶えた。最後の来島村上海賊衆の頭領。

粟上左衛門尉【くりうえさえもんのじょう(15??~15??)】

宅並城主。1582年、粟井川の利権を巡り、南通方を謀殺する。

栗上通宗【くりうえみちむね(15??~15??)】 

松山城主。河野家臣。官途は因幡守。

栗上通閑【くりうえつうかん(15??~15??)】 

河野家臣。但馬守。

鴻上山城守【こうかみやましろのかみ(15??~15??)】 

新居郡船木伊保城主。

厚朴定信【こうぼくさだのぶ(15??~1575)】

宇和郡朝立城主。西園寺家臣。1575年、西園寺家臣松内景連に討たれた。

厚朴春信【こうぼくはるのぶ(15??~15??)】

厚朴定信の男。1557年、松内景連を討ち、朝立城を奪回。長宗我部家に攻め滅ぼされた。

河野(刑部大輔)通宣【こうのみちのぶ(15??~1519)】

湯築城主。河野教通の男。官位は刑部大輔。分家である予州家との対立は継続しており、一時河野通篤に居城を追われたがまもなく奪回した。

河野(弾正少弼)通直【こうのみちなお(1500~1572)】

河野(刑部大輔)通宣の男。官途は弾正少弼。1519年、父河野(刑部大輔)通宣が死去したため家督を相続した。1540年には室町幕府御相伴衆に加えられる。自身に嗣子がなかったため、娘婿で水軍の頭領として有能であった村上通康を後継ぎに迎えようとしたが、家臣団の反発と、予州家の当主河野通存が家督をめぐって争ってきたため、来島(村上)通康とともに湯築城から来島城へと退去することになる。その後、家督を河野通存の子河野通政に譲って権力を失うが、河野通政の早世後には河野家の実質的な当主の座に復帰した。

河野通政【こうのみちまさ(1522~1543)】

河野通存の男。河野(弾正少弼)通直の養子。 河野通存の子で、河野氏の分家である予州河野氏の当主であった。しかし本家の当主であった河野通直が、娘婿で水軍の頭領として有能であった来島村上氏の村上通康に家督を譲ろうとしたことに反発し、通直と対立する。この争いは来島騒動ともよばれる軍事抗争にも発展するが、通政は河野氏の家臣団の支持を集め、また豊後の大友義鑑の仲介もあって、通直を隠居させ、河野氏本家の当主となった。しかし1543年、突如として急死した。嗣子が無かったため、後を弟の河野通宣が継いだ。

河野(左京大夫)通宣【こうのみちのぶ(1522~1581)】

河野通存の次男。官位は左京大夫。1543年、河野通政が早世したため、家督を相続した。しかし若年であったため、河野通直の後見を受けることとなる。通宣が家督を継いだ頃の河野氏は、家臣の謀反や豊後国の大友氏、土佐国の一条兼定の侵攻を受け、国内では宇都宮豊綱とも対立し、領内はまさに危機的状態にあった。重臣の村上通康や平岡房実が遠征を繰り返し、鎮圧に及んだが、もはや国内を独力でまとめる力もなかった通宣は、以前より姻戚関係であった毛利元就と従属的同盟を結び、小早川隆景を中心とする毛利軍の支援によって、土佐一条氏や伊予宇都宮氏を撃退している(毛利氏の伊予出兵)。しかし、伊予国内への相次ぐ侵略や家臣団の離反など、内憂外患が続き心労がたたったのか、通宣は病に倒れる。嗣子が無かったため、1568年、家督を一族の河野通直(伊予守)に譲って隠居した。

河野(伊予守)通直【こうのみちなお(1564~1587)】

池原(河野)通吉の男。官途は伊予守。1568年、河野(左京大夫)通宣に嗣子が無かったため、養嗣子となり家督を相続したが、幼少だったため、成人するまでは実父河野通吉が政治を取り仕切った。河野(伊予守)通直が家督を相続した時期には河野家は衰退しきっており、隣国からの浸入や長宗我部元親に内通した大野直之らの内乱に苦しんでいた。毛利輝元からの支援で、命脈を保っている常態であった。河野通直は、若年の武将ではあったが、人徳厚く、多くの美談を持つ。反乱を繰り返した大野直之は、河野通直に降伏後、その人柄に心従したという。1585年「四国討伐(天正の陣)」が始まると、河野家は進退意見がまとまらず「小田原評定」の如く湯築城に籠城する。小早川隆景の勧めもあって湯築城は開城した。河野通直は、城兵の助命嘆願のため自ら先頭に立って、小早川隆景に謁見したという。河野通直は命こそ助けられたが、所領は没収された。河野家の家督は、小早川家臣宍戸元秀の次男を後継者とし養子に迎え、河野通軌と称した。

河野家臣団【こうのけかしんだん】

枝松太郎光栄、由並壱岐守通賢、栗上左衛門尉通妙、栗上因幡守通宗、栗上但馬入道通閑、別府宮少輔通興、大祝日向守安勝、垣生加賀守盛周、大野山城守直昌、村上掃部頭武蔵、村上備前守吉光、村上出雲守通康、忽那式部少輔通著、得居半右エ門尉通久、大内伊賀守信泰、平岡遠江守通倚、南美作守通師、土居兵庫守通建、松末美濃守通為、久枝肥前守宣盛、桑原三郎兵衛泰国、戒能備前守通森、今岡民部大輔、中川常陸守通任、重見弥孫七郎通俊、正岡右近太夫経政、黒川美濃守通博、和田山城守通勝  河野左門通冬  
土居左馬介通利、櫛部肥後守宣武、得能遠江守通能。

薦田義清【こもたよしきよ(15??~1585)】

宇摩郡渋柿城主。河野家臣。官途は冶部少輔。1577年「野々市の戦い」では松尾城主真鍋通近と共に、大西元武を打ち破る。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、金子元宅と共に「野々市の戦い」で討死した。

薦田成道【こもたなりみち(15??~15??)】

宇摩郡畑野城主。通称四郎兵。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて高尾城で討死した。

近藤尚盛【こんどうひさもり(15??~1585)】 

船形横山城主。石川家臣。官途は長門守。石川勝重の死後、石川虎竹丸を後見する。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、羽柴秀吉に降ろうとしたが、金子元宅らに阻まれた。弁舌にすぐれた。横山城は高峠城の支城の一つで「四国討伐(天正の陣)」の当時の城主は近藤尚盛であった。高峠城主石川虎竹丸は幼少のため、近藤尚盛は1,000余騎を率い、十倍以上の軍勢をよく迎撃したが、城は陥落、横山城も共に焼失した。

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【さ】

西園寺実充【さいおんじさねみつ(1510~1565)】

宇和郡黒瀬城主。西園寺公家の男。官途は従五位下左近衛少将。伊予国南部で最大勢力を誇った。1556年、宇都宮豊綱と領土をめぐって争い、その中で息子の西園寺公高が討死するという敗北を喫した。河野通宣の仲介を受けて宇都宮豊綱と和睦する。1560年、従五位下左近衛少将に叙任された。1565年、上洛し西園寺公朝の屋敷における和歌の会に列席した。

西園寺公高【さいおんじきんたか(1538~1556)】

西園寺実充の男。1556年、宇都宮豊綱が飛鳥城に来襲した。城代上甲光康は狩り出ていた西園寺公高に知らせると、西園寺公高は狩のいでたちのまま、宇都宮豊綱勢と得意の槍を持って奮戦するも、敵の矢を受け討死した。

西園寺公宣【さいおんじのぶきみ(15??~15??)】

西園寺公家の次男。

西園寺公広【さいおんじきんひろ(1537~15??)】

西園寺公宣の男。1556年、伊予国来住寺で僧籍にあったが、西園寺実充の実子西園寺公高が討死したため、西園寺実充の養嗣子として迎えられて還俗し、実充の娘の西姫の婿になり、家督を継承した。1568年、土佐国の一条兼定を攻める。1568年、毛利家、河野家と手を結んで一条兼定、宇都宮豊綱、津野家を攻めて勝利した。1572年、一条家を攻めたが、逆に一条家と縁戚関係にあった大友宗麟の攻撃を受けて大敗した。1584年、長宗我部元親の猛攻を受けて降伏した。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、小早川隆景に降伏した。その後は居城の黒瀬城のみを残され、新領主の小早川隆景に属し「九州討伐」に参陣した。1587年、宇和の領主となった羽柴秀吉家臣戸田勝隆に謀殺された。

西園寺宣久【さいおんじのぶひさ(15??~1580)】

宇和郡丸串(宇和島)城主。西園寺公宣の次男。 西園寺十五将。官途は志摩守。板島殿。1575年、それまで居城としていた家藤信種(監物)が道免城へ帰城し、板島丸串城(宇和島城の前身)の城主となり板島殿と称され、宇和島周辺を領した。文才があり、和歌紀行文「伊勢参宮海陸の記」を著した。辞世の句は、「朝な夕な何に心を尽くしてやいたづら事にけふとこそなれ」。

西園寺信久【さいおんじのぶひさ(15??~15??)】

西園寺宣久の男。

西園寺公家【さいおんじきんいえ(15??~15??)】

西園寺公季の男。伊予松葉城主。

西園寺家臣団【さいおんじけかしんだん】

中村播磨守永時、上村修理進利信、梅本無心宗信、三善治部右衛門尉、宇都宮越前守、宇都宮左近之亟、山崎助太良通国、薬師寺五郎三郎、松浦四郎左衛門尉、薬師寺伝左衛門尉、渡部兵右衛門尉、鎌居弥籐次郎、宇都宮善右衛門尉、松浦右衛門尉、大富海次良、公文太郎兵衛尉、松本弥五郎、岡崎太郎右衛門尉、関大介、松田宇右衛門尉、小島又五郎、土橋弥五郎、猪袴五郎右衛門尉、井上兵吉郎、清家郷右衛門尉、田原徳右衛門尉、三浦五郎八、川胯兵之助、松浦善助、真田兵八郎、太田市良兵衛尉、小関織部、有馬十介、日野根五助。

西園寺家馬廻七人衆【さいおんじけうままわりななにんしゅう】

岡田越中守、赤松肥前守、大森日向守、宇都宮越後守、市川右衛門尉、板島志摩守、勧修寺左馬頭。   

桜井武蔵【さくらいたけぞう(15??~15??)】 

土居家臣。土居清良の軍師。

重見通種【しげみみちたね(15??~1555)】

風早郡近見山城主。官途は因幡守。1522年、大内義隆勢が大三島に攻め込むと、今岡治部丞、高山将監らと共に撃退。1523年、河野家に叛いた鷹取山城主正岡経貞を攻める。1530年、叛意有りとして河野家に攻められ大内義隆の元に落ち延びた。1555年「厳島の戦い」では、陶方の右翼一手として塔ヶ岡本陣右に陣を張ったが、毛利元就に打ち破られ、重見通種は捕縛され自害した。重見通種の子である、木原通繁、小原通兼、栗原通員は毛利家に仕えた。

重見通遠【しげみみちちか(15??~15??)】

近見山城主。重見通種の弟。1530年、重見通種が大内義隆の元に落ち延びると重見家の家督を相続した。1572年、三好長慶との戦いに参陣。1573年、大野直之討伐軍にも参陣した。

重見通晴【しげみみちはる(15??~1585)】

重見通遠の男。1573年、父重見通遠とともに大野直之討伐軍にも参陣した。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景に降った来島通総、得居通久らの攻撃を受け、近見山城は落城し、一族の多くは自害した。

芝政輔【しばまさすけ(15??~15??)】

前身は河上村の百姓四郎右衛門。河原渕(渡辺)教忠が開いた川狩りで、見事な鵜飼を見せたことから召し抱えられる。後に鳥屋ヶ森城を預けられる。

芝源四郎【しばげんしろう(15??~15??)】

芝政輔の四男。河原渕(渡辺)教忠の重臣。1580頃、河原渕(渡辺)教忠を追放し、河後森城主となる。長宗我部家への内通を疑われ、土居家らに攻められる。逆心無しの起請文を記し許された。1585年「四国征伐(天正の陣)」後に改易された。

島吉利【しまよしとし(15??~15??)】

能島(村上)家臣。家老職。官途は越前守。1568年、備前国本太城を守り、三好長慶の攻撃を退けた。

島吉知【しまよしとも(15??~15??)】

島吉利の男。通称又兵衛。1600年「関ヶ原の役」後、次男の島吉方が村上家に仕えが、島吉知は三男の島吉氏は、来島(村上)家から知行400石の家老として迎えられた。能島(村上)家から退去するさい、能島(村上)武吉に挨拶をすることもなく去ったため、父島吉利は激怒し二人の息子と断交した。

白石元綱【しらいしもとつな(15??~1585)】

金子家臣。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、老齢ながらも奮戦し討死した。

菅家道広【すがわらみちひろ(15??~15??)】

都合城主。官途は河内守。

摂津(南方)実親【せっつさねちか(15??~15??)】

宇和郡天神山城主。官途は豊後守。西園寺十五将の一人で4800石を領した。家系は公家の家柄。1540年、宇都宮房綱と争い「萩ノ森の戦い」で討死にした。京都の公家衆で「摂津譲状」を残した。

摂津(南方)親安【せっつちかやす(15??~15??)】

摂津(南方)実親の次男。1572年、以降長宗我部勢の侵攻をうけて居城を失なった。

摂津親宗【せっつちかむね(15??~15??)】  

摂津(南方)家臣。周木館主。通称久五郎。

摂津(南方)大和守【せっつやまとのかみ(15??~15??)】  

摂津(南方)家臣。今城城主。南方殿。

摂津(南方)親綱【せっつちかつな(15??~15??)】  

摂津(南方)大和守家老。周治ヶ城主。官途は伊豆守。

摂津親家【せっつちかいえ(15??~15??)】  

摂津(南方)親綱の男。通称主水。

曾根高昌【そねたかまさ(15??~1556)】

曾根城主。官途は左衛門尉。1543年、大内義隆を頼り近江国愛知郡から周防に移住。1544年、河野家の招きにより伊予に移住。曾根城主。1556年、西園寺家と宇都宮家が争うと、宇都宮家に加勢して討死した。

曾根宣高【そねのぶたか(15??~15??)】

曾根高昌の子。丹後守。1577年、龍王城主城戸直宗と争う。大除城主大野氏が城戸直宗を加勢すると、立山境付近で僧に念仏を唱えさせ、高昌はすでに討死したと大野勢に虚報を伝える。気を緩めた大野勢を強襲し撃退に成功している。龍王城を攻め取り、家臣の河内吉行を入城させる。これにより、二十三ヶ村16,000石を領する。1585年「四国討伐(天正の陣)」では小早川隆景に降伏。小早川隆景が筑前国に転封後、戸田勝隆に改易される。

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【た】

高橋光圀【たかはしみつくに(15??~1585)】

新居郡不富土居城主。官途は丹後守。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、金子元宅に合力したが討死した。

高橋種茂【たかはしたねしげ(15??~1585)】

高橋光圀の弟。官途は美濃守。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、兄とともに金子元宅に合力したが討死した。

高橋伊賀守【たかはしいがのかみ(15??~1585)】

新居郡大生院城主。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて討死した。  

宇高種光【うだかたねみつ(15??~1585)】

高橋光圀、種茂の弟。官途は左馬之助。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、兄とともに金子元宅に合力したが討死した。

宇高種明【うだかたねあき(15??~15??)】

高橋光圀兄弟の末弟。左京佐。1585年「四国征伐(天正の陣)」後も生き延び、出家して「玄亮」と名乗り、西正寺を開基した。

高橋左右衛門太夫【たかはしそうえもんのたゆう(15??~15??)】 

高橋光圀の男。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、生き延びて後南条一統、鳥羽一統を生み出した。

高橋政輝【たかはしまさてる(15??~1585)】

浮穴郡高尾城主。官途は美濃守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて高尾城で討死した。

武井宗意【たけいむねい(15??~15??)】

河野家臣。1585年「四国討伐(天正の陣)」で河野家滅亡すると、戸田勝隆に仕えた。喜多郡で新田開発を行った。1600年「関ヶ原の役」では、村上武吉から毛利家に加勢するよう求められた。

伊予武田信勝【たけだのぶかつ(15??~1585)】

龍門山城主。河野家臣。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、小早川隆景によって竜門山城は落城自刃した。

伊予武田信吉【(たけだのぶよし15??~15??)】

武田信勝の男。1585年「四国征伐(天正の陣)」では、小早川隆景によって竜門山城は落城、菩提寺の無量寺に逃れた。

伊予武田備後守【たけだびんごのかみ(15??~15??)】 

黒川通博家臣。文台城守将。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川景隆に攻められ落城した。

丹下平兵衛【たんげへいぞう(15??~1585)】

櫛部家臣。櫛部兼久の討死後も、象ヶ森城一帯を拠点に金子元宅と対抗した。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川景隆に攻められ落城した。

竹林院(深田)真清【ちくりんいんまさきよ(15??~15??)】

宇和郡是延一ノ森城主。右衛門佐。西園寺十五将の一人、深田の地頭として2106石を領した。1558年、深田郷の地頭となって京より下向した竹林院家は真清、公義、実親と続いた。

竹林院(深田)公義【ちくりんいんきみよし(15??~15??)】

竹林院真清の男。土佐一条家や長宗我部家から侵攻を受けるようになった。1583年、長宗我部元親の部将久武親直が是延一ノ森城主に兵糧を行なった。

竹林院(深田)実親【ちくりんいんさねちか(15??~15??)】

竹林院公義の男。1570年、土佐一条氏に攻められ、西園寺公広に援軍を要請したが援軍を得られず、一条家に降伏した。抵抗せず降伏した竹林院家に怒った西園寺公広は竹林院実親を土佐国へ追放して大森城主土居清良を一ノ森城の城代とした。

津島通顕【つしまみちあき(15??~15??)】

宇和郡高田釈ヶ森城主。官途は越前守。西園寺十五将の一人、10,000石を領した。のちに天ヶ森城を築いて移った。

津島通孝【つしまみちたか(15??~15??)】

津島通顕の男。通称弥三郎。

津島通顕家臣団【つしまみちあきけかしんだん】 

岩藤与右衛門尉繁昌、西新蔵人入道、曽根近江入道通之、上高田善介通宗。     

寺川祐家【てらかわすけいえ(15??~1585)】

浮穴郡大保木山城主。官途は丹後守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて討死した。  

土居清宗【どいきよむね(1483~1560)】

宇和郡大森城主。成妙郷五ヶ村2600石を領していた土居清良の居城。西園寺十五将の一人。通称宗雲。伊予国の土居家には越智家、河野家の庶家と穂積家、紀伊鈴木家の庶家があるが、土居清宗は穂積家、紀伊鈴木家系の属する。1546年、土居清宗は、西園寺実充の命で大森城から石城に移り、海賊衆を擁して大内、大友家らと戦った勇将。土居清宗は大友家や土佐の国司である土佐一条家との戦いで功績を挙げたため、西園寺実充から厚い信任を受け、土居清宗の男土居清晴に西園寺実充の娘を与えられている。1560年、大友宗麟の攻撃を受けて石城は落城し、土居清宗は土居清晴と共に討死した。

土居清晴【どいきよはる(15??~1560)】

土居清宗の男。室は西園寺実充の娘。1560年、大友家の攻撃を受けて石城は落城し、土居清晴は父土居清宗と共に討死した。

土居清良【どいきよよし(1546~1629)】

土居清晴の男。農政書「親民鑑月集」を記すなど、知勇兼備と評される。1560年、大友家の侵攻によって祖父の土居清宗や父は討死して一家は没落した。土佐一条家への人質となり河後森城主となる渡辺教忠とともに過ごした。1563年、元服後、伊予帰国を認められ、伊予大森城主として2,000石の領主となる。1569年、大友勢を撃退。1570年、土佐一条家に攻められた竹林院家は、西園寺家に救援を依頼。しかし、援軍が派遣されなかったため降伏。西園寺家は激怒し、竹林院家を改易。土居清良を一ノ森城に配した。毛利家への援将として、中国地方各地を転戦し、名を上げた。四国勢としては珍しく、配下の者全員に鉄砲を装備させており、総勢300名程度の小軍でありながら、圧倒的な戦力であったとされる。1579年、長宗我部家の進撃によって岡本城が寝返ると、河野通賢と共に岡本城攻めを行う。知略をもって長宗我部元親の家老久武親信を討ち取る戦功を上げている。後に岡本城を領地に加えた。1585年「四国征伐」の際に小早川隆景に所領を安堵されたが、小早川隆景の九州転封に伴い失領する。藤堂高虎からも仕官の誘いがあったが断った。

土居似水【どいいすい(15??~15??)】

土居家枝連衆。

土居通周【どいみちちか(15??~15??)】

河野家の枝連衆で奉行衆。官途は宮内大輔。土居清良は鈴木系土居家で異なる。

土居方玄【どいかたげん(1512~1574)】

太田城主。1574年、長宗我部元親との「笹ヶ峠の戦い」で討死した。

土居方貞【どいかたさだ(15??~15??)】

土居方玄の男。通称孫九郎。幼少のため大除城主大野直昌が後見役となる。1585年「四国征伐(天正の陣)」によって落城した。

土居通武【だいみちたけ(15??~15??)】

久米郡土居城主。官途は兵庫頭。河野家十八将のひとり。          

土居建通【だいたけみつ(15??~15??)】

土居通武の男。官途は兵庫頭。1585年、「四国征伐(天正の陣)」にで落城した。

土居通武家臣団【だいみちたけけかしんだん】

合郷田高阿弥、熊式部之亟、玉井肥前守、岸宗右衛門尉、久保田修理之助、原大蔵少輔、久保源左衛門尉盛恒、堀内民{式}部之亟。       

篤農家【とくよしいえ(15??~15??)】 

土居家臣。

得居通年【とくいみちとし(15??~1597)】

風早郡恵良城主。河野家臣。来島(村上)通康の男。通称太郎左衛門。先祖は土居、得能両家に通じるとして得居家と称す。伊予久米島に拠点を置き、水軍を擁して主家に仕えた。1585年「四国征伐(天正の陣)」で小早川隆景に降る。「小田原の役」「朝鮮の役の両役」に海賊衆を率いて参陣したが、鳴梁において討死した。嗣なく没領となった。兄来島通総も朝鮮で討死しており、来島家凋落の兆しとなった。

得居通幸【とくいみちゆき】⇔来島通幸【くるしまみちゆき】

得居家臣団【とくいけかしんだん】

高田若狭守、高田三河守、尾越助右衛門尉、尾越四郎右衛門尉、得居兵庫介、浅海和泉守、久畿田四郎兵衛尉、目見田修理允、玉井備後守、宇佐美籐三、二神隼人佐、二神孫右衛門尉、二神新左衛門尉、二神修理之進允、二神和泉守、二神越後守。            

徳永甚九郎【とくながじんくろう(15??~1585)】

石川家臣。石川虎竹丸の側近くに仕える。1585年「四国討伐(天正の陣)」でも石川方として戦い討死した。

得能彦右衛門【とくのうひこえもん(15??~15??)】 

兵頭越前守家臣。飯野森城代。長宗我部元親に攻められ奮戦したが、水の手を絶たれて落城した。

得能道明【とくのうみちあき(15??~15??)】 

長崎城主。通称主膳。

鳥居資長【とちいすけなが(15??~15??)】

因島(村上)家臣。宮地明光の次男。1555年、因島(村上)吉充は「厳島の戦い」後、向島城に拠点を移す。1567年、因島青木城に移った。鳥居資長は因島(村上)吉充移住後、向島余崎城主となった。鳥居資長が海での安全を祈願した観音像は「波切観音」と呼ばれ、重要文化財に指定された。

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【な】

中川親武【なかがわちかたけ(1523~1577)】

越智郡霊仙山城主。官途は常陸守。河野家十八家のひとり。1582年、羽柴秀吉に通じた来島城主来島通総が霊仙山城を攻め中川親武は討死した。

中川通任【なかがわみちたけ(15??~15??)】   

中川親武の弟。官途は山城守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて落城した。

中川親武家臣団【なかがわちかたけけかしんだん】

高大寺左馬之介、武田真新三郎、治部新左衛門尉、目見田左馬介、高山左近将監、宮山三郎左衛門尉、高山和泉守、高橋次郎三郎、伊崎又次郎、久万出雲守、町田彦九郎、高山籐蔵人。

中野(河野)通宗【なかのみちむね(15??~15??)】

宇和郡岡本城主。。河野家枝連衆。1546年、大友勢を撃退した。

中野(河野)通賢【なかのみちかた(15??~15??)】

中野(河野)通宗の男。通称新蔵人。西園寺十五将の一人、5300石を領していた。中野通賢は高森城の城主も兼ねていた。1579年、長宗我部勢7000騎に攻められ、内通もあり一度は落城するものの、高森城主中野通賢と大森城主土居清良がすぐに反撃し、これに西園寺十五将の津島通顕、法華津前延、今城能完、竹林院実親らが加勢した為に長宗我部勢は敗走した。

中野(河野)兼通【なかのこうのかねみち(15??~15??)】

岡本城代。1579年、長宗我部家臣久武親信らに攻められると、長宗我部方に寝返った。

中野(河野)通正【なかのみちまさ(15??~15??)】

高森城主。1560年、大友勢を撃退した。

二宮新助【にのみやしんすけ(15??~1571)】 

山崎城主。西園寺公広は、大友宗麟に対する守りのため、二宮新助を山崎城主として任用した。

能島(村上)義雅【のしまよしまさ(15??~15??)】

能島隆勝の長男。若くして没す。

能島(村上)義益【(15??~15??)】

能島義雅の男。官途は宮内少輔。父能島(村上)義雅は能島(村上)隆勝の嫡男であったが早世。能島(村上)義忠の嫡男、武吉は叔父隆重に擁立され家督を能島(村上)義益と争った。

能島(村上)義忠【のしまよしただ(15??~15??)】

能島(村上)隆勝の次男。官途は掃部頭。室は平岡房実の娘。能島海賊衆は瀬戸内海の制海権を掌握し、独自の交易活動などを行なって利益を上げていた。1527年、父能島(村上)隆勝の病没の家督を相続した。能島(村上)義忠自身の事績は不明な点が多い。兄能島(村上)義雅が早世し、その子の能島(村上)義益が幼かったため、能島(村上)義忠が能島村上家の家督を継承した。能島(村上)義忠の後継を巡り、能島(村上)義益と能島(村上)武吉は争い、能島(村上)隆重の後援を得た能島(村上)武吉が勝利した。

能島(村上)隆重【のしまたかしげ(15??~15??)】

能島(村上)隆勝の三男。能島(村上)武吉の叔父にあたる。能島(村上)武吉とその従兄弟能島(村上)義益との家督争いで能島(村上)武吉を支援し、激戦の末、能島(村上)武吉の勝利に貢献した。備中国笠岡城を改修、本土側の前線根拠地として能島(村上)武吉に代わって居城した。

能島(村上)武吉【のしまたけよし(1533~1604)】)

能島(村上)義忠の男。室は村上通康の娘。1508年、大内義興が京に上洛したとき、曽祖父能島雅房も上洛した。在京の間、数人の子供を作ったため、能島で作った子供達との間で家督相続争いが起こった。能島(村上)武吉は、祖父能島(村上) 隆勝が謀殺され、能島(村上)武吉の身も危うくなったために難を避けて島を離れ肥後国の菊池家を頼った。能島に戻ると従兄能島(村上)義益とそれを支援する来島勢を叔父能島(村上)隆重の支援も受けて破り、能島当主となった。能島(村上)義益が病死すると来島の村上通康と和を結びその娘を娶り、村上三島の頭領格となった。1555年「厳島の戦い」では毛利元就に 加担して、毛利方の勝利に貢献した。その後は、毛利元就の「防長経略戦」に協力し瀬戸内海最大の海賊衆となった。塩飽諸島など瀬戸内の他の海賊衆とも手を結んだ他、枝連衆の能島(村上)隆重を備中笠岡城、嶋吉利を備前児島本太城、村上武満を周防上関と瀬戸内の要衝を抑える位置に置き、通行する船から帆別銭を取り立て、瀬戸内海の制海権を完全に掌握した。1571年、毛利元就が死去すると、反毛利の姿勢を取ったが、小早川隆景が素早く能島攻めの軍を起こすと来島、因島もこれに従ったため、孤立した能島(村上)武吉は小早川隆景に降り、毛利輝元への忠誠を誓わされた。毛利輝元が織田信長と戦うと、村上海賊衆は小早川、児島、乃美警固衆とと共に毛利方水軍として活躍した。1576年「第一次木津川口の戦い」では完勝を収めた。1578年「第二次木津川口の戦い」では、織田信長の鉄船六隻を使った戦術の前に惨敗した。1582年「本能寺の変」の後、羽柴秀吉と毛利輝元が和睦し、来島の返還を要求してくるとこれを拒否し「四国討伐(天正の陣)」に加わらなかったため、再び小早川隆景に攻められ能島を明け渡し、小早川隆景の所領竹原城に転封させられた。1588年、羽柴秀吉の海賊禁止令に背いたとして羽柴秀吉から詰問を受け、嫡男の能島(村上)元吉が上洛して弁明にあたった。1600年「関ヶ原の役」では西軍として、伊勢湾沿岸、紀州沿岸、阿波を攻め、加藤嘉明の伊予松山城を攻めたが、佃十成の「三津浜の戦い(夜襲)」により能島(村上)元吉は討死した。役後は、江戸幕府の制海権掌握にともない能島(村上)海賊衆は壊滅した。

能島(村上)元吉【のしまもとよし(1553~1600)】

村上武吉の男。官途は掃部頭。通称少輔太郎。室は小早川隆景の養女。1576年「第一次木津川口の戦い」では村上海賊衆を率いて織田水軍を壊滅に導いた。1578年「第二次木津川口の戦い」には参戦しなかった。1582年、来島(村上)通総、得居通幸兄弟が羽柴秀吉に諜略により、織田側に寝返った際には、その追討に加わっている。1582年、能島(村上)の家督を相続した。1586年、「四国征伐(天正の陣)」において村上元吉も、羽柴秀吉に協力しなかった。1588年、羽柴秀吉は「海賊禁止令」を出し、瀬戸内海の海賊行為も禁止された。海賊禁止令に違反したとして、村上元吉も筑前国加布里へと追いやられた。1592年「文禄、慶長の役」では、朝鮮に出兵する将兵の輸送に活躍した。1598年、羽柴秀吉が没すると、毛利輝元は村上元吉を安芸国竹原に移して、4700石を与えた。1600年「関ヶ原の役」の前哨戦では、阿波国蜂須賀家の猪山城を落城させた。伊予国三津浜に上陸して、加藤嘉明の松山城を攻撃したが、佃十成の計略により曽根兵庫らと共に討死した。

能島(村上)元武【のしまもとたけ(15??~15??)】 

村上元吉の男。1600年「関ヶ原の役」後、毛利家の防長転封に伴い周防国三田尻に移る。毛利家の船手方として海賊衆の伝統を残した。

能島(村上)景親【のしまかげちか(1558~1610)】

能島(村上)武吉の二男。室は平岡房実の娘。側室は「文禄、慶長の役」で捕虜にした朝鮮貴族の娘。通称三郎兵衛尉。1578年「上月城の戦い」に出陣した。1592年「文禄、慶長の役」では吉川広家に従って、朝鮮に渡海した。1597年、小早川隆景が死去すると毛利輝元に帰参して安芸国竹原に所領を得た。1600年「関ヶ原の戦い」では、海賊衆を率いて、蜂須賀家の所領であった阿波国の猪山城を攻撃し落城させた。防長移封後は、毛利家御船手組の組頭となった。

能島(村上)景広【のしまかげひろ(1555~1627)】

備中国笠岡城主。能島(村上)隆重の男。1576年「第一次木津川口の戦い」で負傷しながらも織田方の大船を奪取し、毛利方勝利の貢献した。その後も警固活動や兵糧輸送に活躍した。のちに、細川忠興に招かれ10,000石を領した。 

能島(村上)元信【のしまもとのぶ(15??~15??)】

能島景親の男。能島景親が、平岡通頼の娘との間の嫡男八助が夭折しため、朝鮮貴族の娘が生んだ次男の能島元信が、能島家の家督を相続した。

能島義久【のしまよしひさ(15??~15??)】

能島(村上)家臣。伯方城代。官途は内巧頭。

能島内匠【のじまたくみ(15??~1600)】

能島(村上)家臣。1600年「関ヶ原の役」の前哨戦では、阿波国蜂須賀家の猪山城を落城させた。伊予国三津浜に上陸して、加藤嘉明の松山城を攻撃したが、佃十成の計略により能島(村上)元吉らと共に討死した。

能島(村上)三郎右衛門尉【(15??~15??)】

能島(村上)家臣。1588年、羽柴秀吉が宣布した「海賊禁止令」に違反して、能島清右衛門が海賊行為を行った。羽柴秀吉は、この行為を詰問したため、能島(村上)三郎右衛門尉が弁明のため上洛した。

能島(村上)四兵衛【のしましろうえもん(15??~15??)】

能島(村上)家臣。80石を領した。1600年「関ヶ原の戦い」後、安宅船に武具などを積み、関船二艘、小早船三艘に、枝連衆(30人余)を乗せにて出奔した。加藤嘉明に仕官し、1,000石を領した。枝連衆も優遇されたが、松前城での酒盛りの帰りに船が転覆し家臣らと共に溺死した。

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【は】

垣生盛周【はぶもりちか(15??~15??)】

河野家臣。官途は加賀守。1570年、平岡房実とともに、河野家の意を伝える書状に署名した。

垣生盛国【はぶもりくに(15??~15??)】

垣生盛周の男。河野通直の安芸国移住に従った。

東多田(宇都宮)宣綱【ひがしただのぶつな(15??~15??)】

宇和郡東多田下木城主。官途は石見守。別名東多田殿。西園寺十五将のひとり。西園寺家の居城黒瀬城が長宗我部家に落された頃に降伏し、羽柴秀吉の四国討伐で長宗我部家が降伏すると下城を命ぜられた。

久枝又左衛門【ひさえまたざえもん(15??~15??)】

西園寺家臣。1560年、長宗我部元親から書状を受ける。長宗我部元親はその書状のなかで、長宗我部家が一条家の伊予侵攻に加勢するのは義理によるものと説明した。

久枝宣盛【ひさまつのぶもり(15??~15??)】

和気郡花見山城主。官途は肥前守。

久枝宣盛家臣団【ひさまつのぶもりけかしんだん】

東但馬入道、久保、西畑、小渕、前川、北川和助。   

平岡房実【ひらおかふさざね(15??~15??)】

越智郡荏原城主。河野家臣。官途は大和守。大友宗麟、三好長慶、長曽我部元親らの外敵を迎え、内にあって宗家と予州家の対立など内憂外患で河野家も滅亡の淵に瀕したが、最後まで忠節を曲げなかった勇将。1554年、和田通興が河野家を軽じたため、久米岩伽羅城主和田通興を討伐した。恩賞として和田通興の所領の三分の一、さらに吉山城を領する。久万大除城主大野利直、豊後国大友宗麟、大洲地蔵獄城主宇都宮豊綱などと争らそった。

平岡通資【ひらおかみちすけ(15??~15??)】

平岡房実の男。官途は宮内大輔。平岡房実とともに奉行人であろう。二人で署名している文書が存在する。平岡房実の長男であるが、他家に養子に入り、弟である通倚が嫡流を継承した。のちに平岡家に復姓した。

平岡通房(通倚)【ひらおかみちふさ(15??~15??)】 

平岡房実の次男。官途は遠江守。1585年「四国討伐(天正の陣)」の時、湯築城二の丸を守るが、小早川隆景に攻められ落城した。

平岡通資【ひらおかみちつけ(15??~15??)】 

平岡通房(通倚)の男。三好家撃退に功があった。

平岡直房【ひらおかなおふさ(15??~15??)】

平岡通房(通倚)の次男。1600年「関ヶ原の役」で他の河野家旧臣と共に蜂起。松山城主加藤嘉明の留守を突いて、河野家旧臣らは毛利輝元の援助を得て松山城に迫ったが敗退した。

平岡通房家臣団【ひらおかみちふさけかしんだん】

平岡上野介、水口大炊介、錦織勘解由左衛門尉、武畠修理之允、白潟弥左衛門尉、大熊刑部之允。                    

兵頭越前守【ひょうどうえちぜんのかみ(15??~15??)】 

飯野森城主。1572年、大友宗麟家臣、鶴原掃部、佐伯紀伊介が攻め寄せるが、磯崎城主矢野家盛の兵と共に籠城して大友勢の舟を奪うなどして撃退した。1575年、長宗我部元親勢によって水の手を絶たれ落城した。

兵頭家臣団【ひょうどうけかしんだん】

兵頭右京(15??~15??)、兵頭修理之進(15??~15??)。 

福田氏即【ふくだうじのり(15??~15??)】

新居郡中萩上原高尾城主。官途は安芸守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では小早川隆景と戦い討死した。

藤田孫次郎【ふじたまごじろう(15??~15??)】

郷山岡崎城主。石川家臣。3,000石を領した。

藤田芳雄【ふじたよしかつ(15??~1585)】

藤田孫次郎の男。官途は山城守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では岡崎城の落城後、金子元宅ととに「野々市の戦い」で討死した。

藤田俊忠【ふじたとしただ(15??~15??)】 

原田芳雄の男。官途は大隅守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では郷山岡崎城に籠城、小早川景隆勢と戦うが落城した。備後国三原城主大崎玄蕃のもとへ落ち延び、帰農した。

二神豊前守【ふたがみぶぜん(15??~15??)】

伊予風早郡鹿島城代。河野家臣。1581年、村上通総と共に高仙山城主池原通成を攻めるが、戦に敗れて来島に落延びた。

法華津範延【ほけつあきのぶ(15??~15??)】

宇和郡法華津本城主。官途は播磨守。西園寺十五将の一人。法華津殿。1560年、大友宗麟に攻められる。籠城が長期化したため、西園寺家の仲介により開城。1566年、豊後国に攻め込み、宇和郡の諸将から出された人質を取り戻す。

法華津前延【ほけつあきのぶ(15??~15??)】

法華津範延の男。通称弥八郎。1560年、大友宗麟の西園寺侵攻に際しては頑強に抵抗した。1570年、侵攻では海賊衆を率いて大友家の海賊衆を攻め立てた。所領が海に面していたため、法華津家は西園寺家中随一の水軍勢力を持っていた。1585年「四国討伐(天正の陣)」後、伊予国に入国した小早川隆景により法華津城在城が許された。1588年、宇和郡に入部した戸田勝隆からは下城を命ぜられ法華津家は没落した。

法華津則延【ほけつのりのぶ(15??~1575)】

 西園寺家臣。官途は播磨守。一条兼定の土佐復帰戦に参陣するが、長宗我部元親勢と戦って討死した。

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【ま】

正岡経貞【まさおかつねさだ(15??~15??)】

越智郡鷹取山城主。河野家臣。1527年、正岡経貞は兵備を整え、謀叛を企てた。河野通直は重見通種、来島(村上)通康を派遣して討伐に当らせた。正岡経貞は抵抗できず降伏した。のちに赦免されて再び河野家に仕えた。

正岡経長【まさおかつねなが(15??~15??)】

正岡経貞の男。官途は紀伊守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けが、天険の要害で守られた鷹取山城だけは頑なに、抵抗しつづけた。攻めあぐんだ小早川隆景は、正岡経長に和議を申し込む。蓄えていた兵糧も底を尽きかけていたので小早川側の和議申し出に応じたがそのれは小早川隆景の計略だった。難攻不落を誇った鷹取城も小早川隆景の計略により落城、正岡経長は、室と幼い子を枝連衆の清水通俊に託し自刃した。

正岡経長家臣団【まさおかつねながけかしんだん】      

正岡備中守、中川三郎右衛門尉、得重石見守、清水通俊、向井筑前守、門真三郎兵衛尉、正岡左衛門尉、北美濃守、正岡九郎三良、中川籐左衛門尉、中西佐衛門佐尉、正岡弥九郎、門真六郎兵衛尉、長野越中守。    

松木安俊【まつきやすとし(15??~15??)】 

生子山城主。石川家臣。官途は修理亮。

松木安村【まつきやすむら(15??~1585)】

松木安俊の男。官途は三河守。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景に攻められ金子元宅と共に高尾城に籠もるも落城討死した。生子山城には、鈴木四郎大夫重保らわずかの部下しか残されておらず、この城も小早川隆景に攻められ落とされ廃城となった。

町田経堯【まちだつねあき(15??~15??)】

河野家臣。南通忠と同時期に活躍していた河野家の奉行人。南通忠と連署した書状の他、久枝通倫、枝松盛和らとの連署も見られる。 

松末通為【まつすけみちため(15??~15??)】

温泉郡桑原城主。官途は美濃守。家臣井出若狭守は九ヶ年の歳月をかけて湯山から三町まで約四kmの市乃井出水路を建設した。

松末通為家臣団【まつすけみちためけかしんだん】

得居右馬之介、井手若狭守。

松本左京佐【まつもとさきょうのすけ(15??~15??)】 

弘見城主。官途は和泉守。

真鍋孝綱【まなべたかつな(15??~15??)】

新居郡中村真鍋城主。官途は近江守。

真鍋家綱【まなべいえつな(15??~1585)】

真鍋孝綱の男。官途は佐渡守。真鍋六人衆の一人。室は三好実休の娘。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「高尾城の戦い」で討死した。

真鍋兼孝【まなべかねたか(15??~1585)】

真鍋孝綱の次男。官途は右京亮。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「高尾城の戦い」で討死した真鍋六人衆の一人。真鍋兼孝の婿養子、真鍋助右衛門兼昌とその子真鍋宗兵衛兼之は落城後土佐国へ落ち延びた。

真鍋行綱【まなべゆきつな(15??~1585)】

真鍋孝綱の三男。官途は勘解由。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「高尾城の戦い」で討死した真鍋六人衆の一人。

真鍋政綱【まなべまさつな(15??~1585)】

真鍋行綱の男。官途は越後守。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「高尾城の戦い」で討死した。

真鍋亮綱【まなべ(15??~1585)】

真鍋政綱の男。通称孫九郎。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「高尾城の戦い」で討死した。

真鍋安政【まなべやすまさ(15??~1585)】

真鍋家綱の男。官途は佐渡守。1585年「四国討伐(天正の陣)」の「高尾城の戦い」で討死した。

真鍋兼綱【まなべかねつな(15??~15??)】

真鍋家綱の次男。通称孫太郎。真鍋六人衆の一人。真鍋流弓術の祖で弓の名人で五町隔ても飛ぶ鳥又は提針を射落す腕前であった。

真鍋吉綱【まなべよしつな(15??~15??)】

真鍋家綱の三男。官途は長門守。

真鍋六人衆【まなべろくにんしゅう】

真鍋家綱(六人衆筆頭)、真鍋兼綱(弓の名手)、真鍋行綱、真鍋兼孝、真鍋政綱、真鍋亮綱、真鍋兼信。

壬生川通国【みぶかわみちくに(15??~1575)】 

新居郡鷺ノ森城主。1550年以降、金子山城主金子元宅と剣山城主黒川通堯の攻撃を数度にわたり撃退した。1571年、金子元宅と黒川通堯連合軍の攻撃により落城寸前となり、壬生川通国は毛利元就と来島城主来島家に救援を求めた。 毛利家から援軍として派遣された高橋右京進と共に撃退し落城は免れた。1572年、阿波の三好家が伊予国に侵入を始めると、河野通直は鷺ノ森城に入た。鷺ノ森城城主の壬生川通国は剣山城主の黒川道博と共に西条氷見の高尾城を攻め、高尾城主石川越前守は討死した。河野家は、三好勢と戦い三好勢を敗走させた。1575年、金子元宅と黒川通博が再び攻撃して来たさいに壬生川通国は討死した。

壬生川(桑原)泰国【みぶかわやすくに(15??~15??)】

壬生川通国の男。別名桑原泰国。河野家の十八将のひとり。1585年「四国討伐(天正の陣)」で小早川隆景に攻められ討死した。           

桑原泰国家臣団【みぶかわやすくにけかしんだん】

福角内蔵之助、桑村左京之允。

南通方【みなみみちかた(15??~1582)】

風早郡横山城主。官途は美作守。河野家十八将の一人。1575年「石川通清征伐」に参陣した。「士は戦場に臨めば死を軽んずるをもって栄となり、生を重んずるをもって恥となす。汝ら慎んでここを去ることなかれ」と味方を鼓舞し、自らも敵兵数名を斬ったと云う。1582年、ら粟井川の利権を争ってきた粟上左衛門尉にに謀殺された。

南通具【みなみみちつぐ(1570~15??)】

南通方の男。通称彦四郎。1582年、粟上左衛門尉に父南通方が謀殺される。南通具は100余名を率いて宅並城を攻め、栗上衛門尉を自刃させた。1585年「四国討伐(天正の陣)」で、小早川隆景に攻められ横山城は落城した。

南通忠【みなみみちただ(15??~15??)】

河野家枝連衆。町田経堯との連名署名が多いが単独で奉者となり文書を発給しているのも確認される。

南通方家臣団【みなみみちかたけかしんだん】           

国弘源左衛門尉、末房惣五郎、宮脇新左衛門尉、出羽出雲守、吉原新右衛門尉、吉原{住}式部少輔、武任備前守、武任修理之進、井門九郎左衛門尉、井門大和守、行元亦四郎、苞木将監、大森孫次郎、鴨池新左衛門、野元式部之允、富岡相模房。             

宮内休意【みやうちきゅうい(15??~15??)】

河野家臣。1600年「関ヶ原の役」では、能島(村上)武吉から毛利家に加勢するよう求められた。

三瀬若山【みつせわかやま(15??~15??)】

若山城主。

三瀬左衛門【みつせさえもん(15??~15??)】

三瀬若山の男。

三瀬六兵衛【みつせろくべい(15??~15??)】

三瀬左衛門の男。

三善三河守【みよしまかわのかみ(15??~15??)】

西園寺家臣。

三善春純【みよしはるずみ(15??~15??)】

三瓶安土城主。

三善春義【みよしはるよし(15??~1579)】 

三善春純の男。1579年「岡本城の戦い」で討死した。

三善正親【みよしまさちか(15??~1573)】 

津富里城主。通称藤蔵人。1573年、大友宗麟に居城を攻められ討死した。

村上吉継【むらかみよしつぐ(15??~15??)】

河野家臣。官途は河内守。村上家の枝連衆。河野家奉行人の地位にあった。

妻鳥助兵衛門【めんどりすけのひょうえもん(15??~15??)】 

宇摩郡川之江城主。妻鳥友春が長宗我部家に降った際、人質として土佐国におもむいた。

妻鳥友春【めんどりともはる(15??~1585)】

妻鳥助兵衛門の男。官途は釆女正。鉄砲の名手「…伊予の国の住人、目高(妻鳥)采女亮(正)友春と云う武者、翔鳥をも射る鉄砲の上手なれば…」とある。長宗我部元親に内通し、河野家に反旗を翻す。その後、河野家の直命を受けた河上安勝が手薄だった川之江城を攻め落城、枝連衆の約50名が殺される。1585年、長宗我部元親勢が川之江城を攻め河上安勝をうち破り、妻鳥友春が帰城する。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、吉川元長勢に攻められ川之江城は落城した。

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【や】

矢野家成【やのいえなり(15??~15??)】  

摂津(南方)家臣。摂津(南方)実親の娘婿。

矢野家業【やのいえなり(15??~15??)】  

摂津(南方)親家の男。官途は民部少輔。

矢野家森【やのいえもり(15??~15??)】  

摂津(南方)家臣。城之森城主。通称主馬。

由並通資【ゆなみみちすけ(15??~15??)】

由並城主。河野家臣。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて開城した。 

要害伊賀守【ようがいいがのかみ(15??~15??)】 

新居郡泉川要害城主。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて落城した。

横尾国信【よこおくにのぶ(15??~1585)】

宇摩郡横尾城主。官途は山城守。1583年、渋柿城主の薦田義清、畑野城主薦田成道とともに長宗我部元親に降る。1585年「四国討伐(天正の陣)」では、小早川隆景の攻撃を受けて落城した。

和気郡豪族衆【わきぐんごうぞくしゅう】

光宗彦左衛門、安田八郎右衛門尉、光宗三郎兵衛尉、森弥六左衛門尉、森六郎二左衛門尉、伊代左衛門尉、光宗平七郎、池内孫右イ左衛門尉、遠藤小太郎、高尾又四郎、志津川彦六二郎、福角七郎兵衛尉、松岡五郎、田所源内、矢野久兵衛尉、中西左京之允、高橋新兵衛。

和田通興【わだみちおき(15??~1554)】

久米郡岩伽羅(いわがら)城主。官途は三河守。1554年「武威を募り、屋形(河野家)を蔑如し、恣に兵権を震った」ため、平岡房実の鎮定軍の攻撃を受けて落城、山之内まで逃れ自刃した。

和田吉盛【わだよしもり(15??~1554)】

和田通興の男。1554年、平岡房実に攻撃された和田通興は嫡男吉山城主和田吉盛と共に重信川で激突したが、平岡房実の策にかかり退路を絶たれ背後から攻められ父和田通興は山之内村で自刃する。1559年、和田吉盛の吉山城主は平岡勢の攻撃を受けたが撃退した。しかし不治の病にかかり吉山城で切腹した。和田吉盛は死に臨んで「われを神に祀れば疫病に病み苦しむ者を救わん」と遺言した。

和田通勝【わだみちかつ(15??~15??)】 

和田通興の枝連衆。1554年、和田通興は河野家臣平岡房実に討たれる。それまでの和田一族の忠勤から、取り潰しを免れ、和田通勝が岩伽羅城主に任ぜられた。

和田通繁【わだみちしげ(15??~15??)】 

和田通勝の男。1585年「四国討伐(天正の陣)」で小早川景隆に攻められ落城した。

和田家臣団【わだみちかつかしんだん】                

渡部丹後守、大西杢之亟、日吉六郎左衛門尉、有岡左京進、堀池右馬太夫、木原源左衛門、中太郎次郎、和田兵庫介、中村兵衛次郎、堀池九郎三郎。 

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【資料Ⅰ】

伊予国14郡/420,000石。

宇摩郡:川之江城。
新居郡:高峠城。
周布郡:剣山城。
桑村郡:鷺ノ森城。
越智郡:能島城、鷹取城。
野間郡:来島城。
風早郡:恵良城、近見山城。
和気郡:塩森城、花見山城。
温泉郡:湯築城、忽那城。
久米郡:土居城、岩伽羅城。
浮穴郡:大熊城、小手ヶ滝城。
伊予郡:松山城。
喜多郡:大洲城。
宇和郡:黒瀬城、宇和島(丸串)城。

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【資料Ⅱ】

河野家十八将【こうのけじゅうはっしょう】

越智郡能島城主:能島(村上)隆勝、備後国因島城主:因島(村上)吉光、野間郡来島城主:来島(村上)通康、温泉郡忽那城主:忽那通乗、風早郡恵良城主:得居通久、和気郡塩森城主:大内信泰、浮穴郡棚居城主:平岡通倚、風早郡横山城主:南通師、久米郡土居城主:土居建通、温泉郡松末城主:松末通為、和気郡花見山城:久枝宣盛、桑村郡鷺森城主:桑原泰国、浮穴郡大熊城主:戒能通森、上島甘埼城主:今岡民部大輔、越智郡霊山城主:中川通任、越智郡鷹取城主:正岡経貞、周布郡剣山城主:黒川通博、久米郡岩伽羅城:和田通勝、風早郡近見山城主:重見通種、越智郡荏原城主:平岡房実、浮穴郡小手ヶ滝城主:戒能通運。

西園寺家十五将【さいおんじじゅうごしょう】

黒瀬城主:西園寺公広、丸串城主:西園寺宣久、常盤城主:観修寺基栓 、天ヶ森城主:津島弥三郎通顕、法華津本城主:法華津弥八郎前延、宇和郡金山城主:今城左衛門尉能定、大森城主:土居清良、高森城主:河野通賢、一之森城主:竹林院実親 、河後森城主:河原渕教忠、三滝城主:北之川通安、宇和郡龍ヶ森城主:魚成親能、白木城主:宇都宮乗綱、萩之森城主:宇都宮房綱 、元城主:南方摂津守親安。

真鍋六人衆【まなべろくにんしゅう】

真鍋家綱(六人衆筆頭)、真鍋兼綱(弓の名手)、真鍋行綱、真鍋兼孝、真鍋政綱、真鍋亮綱、真鍋兼信。

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【資料Ⅲ】

伊予国【いよのくに】

四国の北西に位置する南海道の国。東は讃岐国、阿波国、南は土佐国と境を接し、北は瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島の島々を挟んで山陽道の備後国、安芸国、周防国と望み、西は豊後水道を隔てて九州の豊後国と向かい合う。国の中央部を四国山地が東西に走っているために国土は山がちだが、北の新居平野から西の松山平野にかけて海岸線には平地部が続く。瀬戸内海から豊後水道に続く長い海岸線は、早くから海上交通の発達を促し、それに伴って海上交通から段別銭を徴収する海賊衆が発達した。特に能島、来島、因島に拠る村上海賊衆は、瀬戸内海一帯を活動の場として関所を設けた。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※大友宗麟は大友義鎮、豊臣秀吉は羽柴秀吉に統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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