2011年7月29日金曜日

戦国志摩国人名辞典

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【あ】

青山豊前守【あおやまぶぜんのかみ(15??~15??)】

英虞郡和具城主。別名和具豊前守。志摩十三地頭のひとり。1568年、織田信長勢に属した九鬼嘉隆が志摩国に侵攻した。小浜城主小浜久太郎、浦城主浦豊後守が討死すると、周囲の豪族衆は戦わずして降伏した。和具城主青山豊前守は、越賀城主越賀隼人、的矢城主的矢治郎左衛門、甲賀城主甲賀雅乗と結んで九鬼嘉隆勢と戦ったが、後に降伏した。1592年、「文禄の役」では、九鬼嘉隆勢に属して参陣した。1600年、「関ヶ原の役」後、豊田五郎右衛門の意向を受け九鬼嘉隆への使者に立った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

雨宮勘八【あまみやかんぱち(15??~15??)】

九鬼泰隆家臣。参考文献:『戦鬼たちの海 織田水軍の将九鬼嘉隆』by白石一郎。

安楽島越中守【あらしまえっちゅうのかみ(15??~15??)】

英虞郡楽島砦主。志摩十三地頭のひとり。

伊藤兵部【いとうひょうぶ(15??~15??)】

英虞郡相差砦主。1568年、織田信長勢に属した九鬼嘉隆が志摩国に侵攻した。「今浦砦の戦い」で浦豊後守が討死すると、安楽島越中守とともに九鬼嘉隆に降伏した。

鵜方縫殿介【うがたぬいどのすけ(15??~15??)】

英虞郡鵜方砦主。別名森縫殿之介。

浦豊後守【うらぶんごのかみ(15??~1569)】

英虞郡今浦砦主。志摩十三地頭のひとり。1569年、織田信長勢に属した九鬼嘉隆が志摩国に侵攻した。九鬼嘉隆勢の攻撃を受け討死した。

浦斧右衛門【うらおのえもん(15??~15??)】

浦豊後守家臣。1569年、九鬼嘉隆との和議を浦豊後守に進言したが退けられた。

小河重隆【おがわしげたか(15??~15??)】

九鬼嘉隆家臣。参考文献:『九鬼嘉隆(信長、秀吉に仕えた水軍大将)』by志津三郎。 

小野田筑後守【おのだちくごのかみ(15??~15??)】

浜島砦主。

小浜真宗【おはまさねむね(15??~15??)】

北畠材親家臣。小浜砦主。官途は将監。通称久太郎。志摩十三地頭のひとり。

小浜景隆【おはまかげたか(1540~1597)】

小浜真宗の男。官途は民部左衛門。通称久太郎。1569年、織田信長勢に属した九鬼嘉隆が志摩国に侵攻すると敗れ、伊勢国から落延び武田晴信の家臣土屋貞綱に仕え安宅船1艘、小舟15艘持の海賊大将となった。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が討死すると、向井正綱、間宮高則とらとともに松平元康の家臣本多重次勢に属して駿河国内で1,500石を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀吉海賊衆と戦った。三崎四人衆の筆頭として向井正綱、間宮高則、千賀重親らを率いた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小浜光隆【おはまみつたか(15??~15??)】

小浜景隆の男。通称久太郎。室は内藤清成の娘。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康に従って石田三成勢に属した九鬼嘉隆ら海賊衆と戦った。1614年、「大坂冬の陣」では九鬼守隆、向井忠勝、千賀信親らとともに、伝法口を攻撃して、羽柴秀頼海賊衆を打破る戦功を挙げた。1620年、大坂船手頭に任じられ、大坂以西の諸侯が保有する船舶の監察業務を担った。1625年、筑前福岡城主黒田忠之を大船建造の禁令抵触の疑いで告発した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小浜嘉隆【おはまよしたか(1600~1664)】

小浜光隆の男。官途は民部丞。通称久太郎。室は牧野信成の娘。1614年、「大坂冬の陣」に父小浜光隆とともに松平元康に従い参陣した。1640年、海賊大将となった。1642年、大坂海賊大将となった。砲術を得意とし、堺に教練場をもうけた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小浜直隆【おはまなおたか(15??~15??)】

小浜光隆の次男。藤堂高虎に海賊衆大将となった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【か】

加茂左衛門【かもさえもん(15??~15??)】

英虞郡的矢湾の網元。

川面権太夫【かわつらごんだいふ(15??~1526)】

英虞郡川面館主。1526年、九鬼隆基を討伐を図る家臣と和議を図るべきという家臣との間で派閥争いが起きた。川面権太夫は、娘(初音姫)を九鬼隆基と婚約させ、和議を図ろうとした。反九鬼隆基の家臣が枝連衆の川面源二郎を担ぎ謀反を起こすが九鬼隆基に鎮圧された。川面権太夫と初音姫は自刃した。川面権太夫の波切の四つ庄は、九鬼隆基の支配下に属した。参考文献:『九鬼嘉隆(信長、秀吉に仕えた水軍大将)』by志津三郎。 

川面源二郎【かわつらげんじろう(15??~1526)】

川面権太夫家臣。1526年、川面権太夫に謀反を起こしたが九鬼隆基の攻撃を受け討死した。参考文献:『九鬼嘉隆(信長、秀吉に仕えた水軍大将)』by志津三郎。 

川面右近【かわつらうこん(15??~15??)】

九鬼嘉隆家臣。参考文献:『九鬼嘉隆(信長、秀吉に仕えた水軍大将)』by志津三郎。 

九鬼泰隆【くきやすたか(15??~15??)】

英虞郡波切城主。官途は山城守。北畠材親勢に属して勢力を拡大した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

九鬼定隆【くきさだたか(15??~1551)】

九鬼泰隆の男。

九鬼浄隆【くききよたか(15??~1560)】

九鬼定隆の男。官途は宮内少輔。1551年、父九鬼定隆が病没したため、家督を相続した。志摩七党と抗争を繰り返した。北畠具教と結んだ志摩七党の攻撃を受け、弟九鬼嘉隆とともに居城の田城を防戦した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

九鬼澄隆【くきすみたか(15??~1584)】

九鬼浄隆の男。通称弥五郎。1560年、父九鬼浄隆が病没したため、九鬼家の家督を相続した。幼少のために叔父九鬼嘉隆の補佐を受けた。志摩七党の攻撃を受け、九鬼嘉隆とともに朝熊岳に落延びた。その後、九鬼嘉隆が織田信長に仕えた。1568年、織田信長に従って北畠具教を撃ち破り、田城を奪還した。九鬼嘉隆が織田信長のもとで頭角を現したため、九鬼家の実権は九鬼嘉隆に握られた。1584年、田城で病没した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

九鬼嘉隆【くきよしたか(1542~1600)】

九鬼定隆の三男。官途は大隅守。室は橘宗忠の娘。1551年、父九鬼定隆が死去すると、九鬼家の家督は長兄の九鬼浄隆が相続した。1560年、北畠具教の援助を受けた志摩七党の攻撃を受け、九鬼浄隆は戦で討死した。九鬼嘉隆は九鬼浄隆の継嗣九鬼澄隆を伴なって朝熊山に落延びた。滝川一益の仲介により、織田信長に仕えた。1569年、「大淀城の戦い」で、北畠具教勢と戦い戦功を挙げた。1574年、「第三次長島一向一揆」では、海上から織田信長勢を支援した。1576年、「第一次木津川口の戦い」では、600艘余りの毛利家海賊衆と戦い大敗した。1578年、、「第二次木津川口の戦い」では、、6艘の鉄甲船を率いて毛利家海賊衆を撃破した。この戦功により、志摩国、摂津国内で35,000石を領した。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕えた。1586年、「九州討伐」に参陣した。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉海賊衆を率いて参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、堀内氏善とともに石田三成勢に属した。役後、自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

九鬼成隆【くきなりたか(15??~15??)】 

九鬼嘉隆の男。幼名海王丸。側室の子だったため九鬼家の家督を相続することができず、九鬼守隆に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、父九鬼嘉隆に属した。

九鬼守隆【くきもりたか(1573~1632)】 

九鬼嘉隆の次男。官途は長門守。通称孫次郎。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属し石田三成勢に属した父九鬼嘉隆と戦った。役後、鳥羽城56,000石を領した。父九鬼嘉隆は自刃の際、遺書に太閤秀吉の遺児羽柴秀頼の将来を憂え心残りだとあり、九鬼守隆は生涯に一度は羽柴秀頼を守護すると覚悟を決めた。松平元康と羽柴秀頼の二条城での対面時に京に潜伏し羽柴秀頼を警護した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

九鬼主殿助【くきとのものすけ(15??~1600)】

九鬼嘉隆の三男。父九鬼嘉隆とともに石田三成勢に属して鳥羽城を攻略した。九鬼守隆勢の攻撃を受け九鬼嘉隆とともに鳥羽城から落延びた。九鬼嘉隆とともに自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

九鬼五郎八【くきいろは(15??~1600)】

九鬼嘉隆の四男。1600年、「関ヶ原の役」では、父九鬼嘉隆とともに石田三成勢に属した。役後、九鬼嘉隆とともに自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

国崎嘉十郎【くにさきかんじゅうろう(15??~15??)】

答志郡国崎城主。

下司源左衛門【げしげんざえもん(15??~15??)】

答志郡下司城主。

甲賀雅乗楽介【こうがうたのすけ(15??~15??)】

英虞郡甲賀城主。別名武田雅乗楽介。志摩十三地頭のひとり。1592年、「文禄の役」では、九鬼嘉隆に仕えた。

御座源四郎【ござげんしろう(15??~15??)】

御座城主。

越賀隆俊【こしがたかとし(15??~15??)】

英虞郡越賀砦主。官途は玄蕃允。志摩十三地頭のひとり。

越賀隆政【こしがたかまさ(15??~15??)】

越賀隆俊の男。通称隼人。別名佐治隼人。1569年、織田信長勢に属した九鬼嘉隆が志摩国に侵攻すると敗れ、九鬼嘉隆に従った。1592年、「文禄の役」では、九鬼海賊衆の大将となって、緒戦の海戦で戦功を挙げた。

越賀隆春【こしがたかはる(15??~15??)】

越賀隆政の男。

金剛九兵衛【こんごうくへい(15??~15??)】

九鬼泰隆家臣。参考文献:『戦鬼たちの海 織田水軍の将九鬼嘉隆』by白石一郎。

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【さ】

菅島能登守【すがしまのとのかみ(15??~15??)】

答志郡菅島砦主。

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【た】

滝川市郎兵衛【たきがわいちべい(15??~15??)】

九鬼泰隆家臣。別名源浄院玄生。僧侶。参考文献:『戦鬼たちの海 織田水軍の将九鬼嘉隆』by白石一郎。

鳥羽成忠【とばしげただ(15??~15??)】 

英虞郡鳥羽城主。官途は監物。別名橘成忠。1568年、北畠具教から離反を起こした。北畠具教勢の野呂将監を打破った。南伊勢国を織田信長が領すると、織田信長勢の九鬼嘉隆に属した。

鳥羽宗忠【とばむねただ(15??~15??)】

鳥羽成忠の男。官途は主水。別名橘宗忠。妹婿に九鬼嘉隆、小浜景忠。織田勢の九鬼嘉隆に攻められ降伏し、娘を人質に出した。

豊田五郎右衛門【とよだごろうざえもん(15??~1600)】

九鬼守隆家臣。室は九鬼嘉隆の娘(長女)。1600年、「関ヶ原の役」では、九鬼守隆の意向を受け鳥羽城留守居役を努めた。九鬼嘉隆勢の攻撃を受け鳥羽城を乗っ取られた。役後、独断で青山豊前守を使者として九鬼嘉隆に自刃を進言した。九鬼嘉隆は、安藤作三右衛門の介錯を受け、自刃した。九鬼守隆により鋸引きの極刑に処された。

千賀為重【ちがためしげ(15??~15??)】

北畠晴具家臣。英虞郡千賀砦主。官途は志摩守。

千賀為親【ちがためちか(15??~15??)】

千賀為重の男。通称八郎兵衛。1558年、九鬼嘉隆に敗れ、知多半島の須佐(豊浜)に落延びて佐治為景に属した。

千賀重親【ちがしげちか(15??~15??)】

佐治為貞の男(千賀為親の養子)。通称孫兵衛。千賀重親は佐治為興の陣代として幡豆崎へ移り住んだ。

千賀信親【ちがのぶちか(15??~15??)】

千賀重親の男。官途は志摩守。通称与八郎。1615年。「大坂夏の陣」では、関船七艘を率いて松平元康勢に属した。尾張松平義直に仕え1,500石を領した。

千賀親久【ちがちかひさ(15??~15??)】

千賀為重の次男。通称与五兵衛。今川義元に仕え、知多郡羽豆ケ崎を警固した。織田信長勢に属した熱田海賊衆の千秋季忠と戦った。1560年、今川義元の討死に後も、今川氏真に仕えた。1564年、「富永城の戦い」で戦功を挙げた。

津田五右衛門【つだごえもん(15??~15??)】、

九鬼嘉隆家臣。参考文献:『九鬼嘉隆(信長、秀吉に仕えた水軍大将)』by志津三郎。 

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【な】

中井頼母【なかいたのも(15??~15??)】

九鬼嘉隆家臣。九鬼家譜代衆のひとり。幼少時の九鬼嘉隆を補佐して数々の戦に参陣した。参考文献:『九鬼嘉隆(信長、秀吉に仕えた水軍大将)』by志津三郎。 

中谷吉兵衛【なかたにきちべい(15??~15??)】

九鬼嘉隆家臣。参考文献:『九鬼嘉隆(信長、秀吉に仕えた水軍大将)』by志津三郎。

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【は】

迫間五郎左衛門【はさまごろうざえもん(15??~15??)】

答志郡迫間砦主。

船越左衛門【ふなこしざえもん(15??~15??)】

船越砦主。

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【ま】

的矢美作守【まとやみさくのかみ(15??~1531)】

英虞郡的矢砦主。伊雑宮(伊勢神宮の別宮)の長官を務め、磯部七郷と的矢三郷を領した地頭。1531年、九鬼隆次、三浦新助の攻撃を受け討死した。

三浦新助【みうらしんすけ(15??~15??)】

答志郡国府砦主。別名国府内膳正。志摩十三地頭のひとり。1531年、三浦新助は九鬼隆次と図り、的矢美作守を討取った。1570年、九鬼嘉隆勢の攻撃を受け飛騨国に落延びた。

向井正重【むかいまさしげ(15??~15??)】 

伊勢国国司北畠家の海賊衆。関船五艘を率いた。今川義元家臣の朝比奈泰能の招きに応じて、駿河国に入り今川家海賊衆の将となった。今川氏真が武田晴信に滅ぼされると、武田晴信の家臣土屋貞綱に属した。

向井政勝【むかいまさかつ(15??~1579)】

向井正重の男。通称伊兵衛。1571年、武田晴信に仕えた。1576年、「駿河持船城の戦い」で松平元康勢の奇襲を受け討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

向井正綱【むかいまさつな(1557~1625)】 

向井正重の次男。官途は兵庫助。1579年、松平元康勢の牧野康成らの攻撃を受け、父向井正重、義兄向井政勝が討死した。向井正綱が向井家の家督を相続した。1582年、「武田家征伐」で武田勝頼が滅亡すると、本多重次の誘いを受けて、小浜景隆、千賀孫兵衛、間宮武兵衛、間宮造酒丞らとともに松平元康に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1589年、「小田原の役」では、北条氏直海賊衆の梶原景宗を撃破った。1600年、「関ヶ原の役」では海路が荒れて遅参するものの、その地位は変わらず江戸湾の警護、発展に貢献した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【や】

渡辺数馬【わたなべかずま(15??~15??)】

答志郡城山城主。

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【資料Ⅰ】

志摩国(2郡/32,000石)

英虞郡:波切城。
答志郡:田城。

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【資料Ⅱ】

志摩十三人衆【しまじゅうさんにんしゅう】

小浜砦:小浜久太郎、楽島砦:安楽島越中守、浦砦:浦豊後守、千賀砦:千賀志摩守、的矢砦:的矢次郎左衛門、安楽砦:三浦新助、甲賀砦:甲賀雅楽介、国府砦:国府内膳正、波切砦:九鬼弥五郎(九鬼浄隆)、越賀砦:越賀隼人(佐治隆俊)、和具砦:青山(和具)豊前守、岩倉砦:田城左馬(九鬼澄隆)、鳥羽砦:鳥羽主水(橘宗忠)。

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【資料Ⅲ】

志摩国【しまのくに】

志摩半島と周辺の諸島からなる東海道の国。西で伊勢国と接する以外は、三方を海洋に囲まれている。北部は紀伊山地の東端部にかかり、南部は海食台地という地形で平地に乏しいが、長いリアス式の海岸線によって天然良港に恵まれている。漁業は発達しているが、一帯は岩礁地帯が多く、小規模漁業が多い。その結果、網元のような漁民を統合する権力は生まれず、他国にない志摩独特の文化を作り上げた。国内は二郡に分かれ、郡数では島国である壱岐国、隠岐国と並ぶ小国である。これは、古代から志摩国が海産物が豊富であり、それを朝廷に献上するために、一国に地位を与えられたためである。

安宅船【あたけせん】

大型の軍用船。船首から船尾まで総矢倉として、厚い板で装甲された船。装甲には、矢や鉄砲を撃つための隙間を持つ。また敵船に乗り移れるように楯板が外側に倒れ、船の橋渡しができる作りになっていて、船底は防水区画を設け船体の一部が破損しても浸水が他に及ばない。大型なものは百人櫓のものもあった。大筒を配置できるようにもなっており、攻撃力、防御力に優れ「海上の城」と称された。

関船【せきせん】

中型の軍用船。大型の安宅船と、小型の小早との間に位置する規模の軍船。性能的には安宅船より攻撃力や防御力に劣るが、小回りが利き、また速力が出るため機動力に優る。安宅船を戦艦に喩えるなら、関船は巡洋艦に相当する艦種。

小早【こばや】

小型の早船(関船)。14挺から30挺の櫓を持つ快速船が小早である。装甲を持っていないため、関船よりも軽量であるが簡易装備となり、斥候用、連絡用に使用した。

荷船【にせん】

兵員や兵糧を運ぶ船。

井楼船【せいろうせん】

関船や荷船などに楼をくみ高い位置から安宅船などを狙う船。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しました。

※参考文献:『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国 国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『武田信玄』by新潮社、『戦鬼たちの海(織田水軍の将九鬼嘉隆)』by白石一郎、『九鬼嘉隆(信長、秀吉に仕えた水軍大将)』by志津三郎。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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