2011年8月25日木曜日

戦国北常陸国人名辞典

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【あ】

赤須常通【あかすつねみち(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。佐都郡赤須館主。赤須家惣領職。官途は信濃守。1517年、佐都神社奉加帳には、赤須家の筆頭として連署した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

赤須勝通【あかすつねみち(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。官途は若狭守。佐都西郡佐都神社神主。1517年、佐都神社の造営で願主となり奉加奉納した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

赤須武通【あかすたけみち(15??~15??)】

赤須勝通の男。通称主殿助。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

赤須通脩【あかすみちなが(15??~15??)】

赤須武通の男。官途は治部少輔。小野崎義昌の附家老職を務めつた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

赤須新三郎【あかずしんざぶろう(15??~15??)】

北義憲家臣。1591年、北義憲に従って磐城国南郷に転封して8貫文の加増を受けた。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

足崎通定【あしさきみちさだ(15??~15??)】

那珂郡多足崎城主。通称又五郎。1590年、「多良崎城の戦い」で佐竹義宣勢の攻撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

芦原出雲守【あしはらいずみのかみ(14??~15??)】

佐竹義舜家臣。1511年、太田馬場八幡宮造営の番匠(大工)の棟梁を務めた。佐竹義舜から出雲守の官途を与えられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安島清広【あじましきよひろ(15??~15??)】

東義久家臣。官途は美濃守。1584年、東義久から美濃守の官途を受けた。1595年、和田昭為、人見藤道の連署により、高野郡赤館城の北、堤の内に25石、城の南、手沢に25石を与えられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安島清正【あじましきよまさ(1585~16??)】

安島清広の男。官途は采女佑。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足立通義【あだちみちよし(15??~15??)】

那珂郡多良崎城主。通称五郎左衛門。1590年、「多良崎城の戦い」で佐竹義宣勢の攻撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

荒巻秀家【あらまきひでいえ(15??~15??)】

南義尚家臣。官途は豊後守。1549年、「喜連川五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱が那須高資を攻撃すると、南義尚に従って継嗣の荒巻為秀とともに那須高資を支援した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

荒巻為秀【あらまきためひで(15??~15??)】

荒巻秀家の男。官途は駿河守。別名荒巻為縄。1549年、「喜連川五月女坂の戦い」では、宇都宮尚綱勢の攻撃を受けた那須高資を支援するため、父荒巻秀家とともに参陣した。1573年、依上保黒沢村の下野宮の造営奉行を務めた。1583年、南義種から所領の加増を受けた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

荒巻秀道【あらまきひでみち(15??~15??)】

小祝式部の男(荒巻為秀の養子)。官途は掃部助。室は荒巻為秀の娘。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に減封になると、南義種に従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安藤将右【あんどうまさすけ(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。安藤右京の男。通称左京亮。1502年、「太田城の戦い」では、佐竹義舜に従い太田城を守る山入氏義勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安藤頼右【あんどうよりすけ(15??~15??)】 

安藤将右の男。官途は備前守。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

安藤飛騨守【あんどうひだのかみ(15??~15??)】

安藤頼右の男。通称太郎左衛門。1564年、佐竹義昭から常陸国内で70貫の加増を受けた。佐竹義重の意向を受けり陸奥羽黒城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安藤肥前守【あんどうひぜんのかみ(15??~15??)】

安藤飛騨守の男。官途は左馬助。通称新二郎。1578年、東義久に従って陸奥南郷方面で戦功を挙げた。1589年、「磐城人取橋の戦い」で伊達政宗勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

石井和泉守【いしいいずみのかみ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。石井和泉守の男。通称修理丞。鋳物師の棟梁を務めた。1522年、佐竹義篤から修理介の官途を受けた。1564年、「常陸府中城の戦い」に参陣して戦功を挙げ佐竹義昭から100貫文を加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井修理亮【いしいしゅりのすけ(15??~15??)】

石井和泉守の男。通称弥七郎。鋳物師の棟梁を務めた。佐竹義宣から200石の加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井清定【いしいきよさだ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。官途は豊前守。通称六郎。1554年、足利晴氏の支援要請を、佐竹義昭に取り次いだ。奥州口の依上保付近の支配機構を司った。1567年、佐竹義昭の冥福を祈願して極楽寺を建立した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井大蔵【いしいおおくら(15??~15??)】

石井清定の男。1595年、佐竹義宣から茨城郡内平須で121石の加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井景治【いしいかげはる(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。通称蔵人佐。1511年、「下野那須口の戦い」で宇都宮忠綱勢と戦い負傷しながらも戦功を挙げた。南義隣に仕えた。依上保河山で12貫文の加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井新蔵人【いしいくらんど(15??~15??)】

石井景治の孫。通称又三郎。小倉左馬助を代官として佐竹義重に仕えた。東義久に従って磐城南郷方面で活躍した。1589年、「磐城太平城の戦い」で伊達政宗勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井監物【いしいけんもつ(15??~15??)】

石井縫殿助の男。1536年、佐竹義篤から依上保内久野瀬で加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井豊後守【いしいぶんごのかみ(15??~15??)】

石井監物の男。通称十郎。赤坂大和守が内応すると、東義久から人質として赤坂大和守のもとに送られた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井三郎兵衛【いしいさぶりょうびょうえ(14??~15??)】

佐竹義舜家臣。1516年、石井縫殿助らとともに依上保内の月居城の在番を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井宮内少輔【いしいくないしょうゆ(15??~16??)】

佐竹義重家臣。1595年、磐城南郷の伊香で45石を加増されれた。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、北義憲に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井縫殿助【いしいぬいどのすけ(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。通称源次郎。1512年、佐竹義舜から依上保高柴の宿場を与えれた。1516年、「下野那須口の戦い」で佐竹義舜に従って参陣して宇都宮忠綱勢勢と戦い戦功を挙げた。1524年、佐竹義篤から依上保高柴の所領を安堵された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石井六郎兵衛【いしいろくろうびょうえ(15??~15??)】

山入氏義家臣。1502年、山入氏義が佐竹義舜に滅ぼされると、佐竹義舜に仕えた。1511年、「依上保の戦い」では、佐竹義舜に従って参陣して戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石沢河内介【いしざわかわちのすけ(14??~15??)】

北義武家臣。四殿衆。1478年、北義武が久米城主に任じられると、附家老職(四殿衆)を務めた。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石塚義胤【いしづかよしたね(14??~1514)】

那珂郡石塚城主。石塚義親の男。官途は大膳亮。室は佐竹義治の娘。1514年、「土塔原のの戦い」で宇都宮忠綱勢との戦いで討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石塚義辰【いしづかよしとき(15??~15??)】

小場義宗の次男(石塚義慶の養子)。官途は大膳亮。通称源一郎。室は石塚義慶の娘。石塚義慶に継嗣がなかったので娘婿となり石塚家の家督を相続した。1575年、大山義則と対立するが、佐竹義重の仲介で和議を結んだ。1595年、佐竹義宣より新治郡に3,800石余りの蔵入地を預けられ、片野城に在番した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石橋大和守【いしばしやまとのかみ(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。1511年、太田馬場八幡宮造営の番匠(大工)の棟梁を務めた。佐竹義舜から大和守の官途を与えられた。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石橋豊後守【いしばしぶんごのかみ(15??~15??)】

石橋大和守の男。番匠(大工の棟梁)を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石橋図書助【いしばずしょのすけ(15??~15??)】

石橋豊後守の男。番匠(大工の棟梁)を務めた。1559年、佐竹義昭から図書助の官途を与えれた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石橋左馬助【いしばしさまのすけ(15??~15??)】

石橋図書助の男。番匠(大工の棟梁を務めた。1577年、八幡宮造営に功を上げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

糸井駿河守【いといするがのか(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1588年、「第二次府中の戦い」で大掾清幹勢との戦い戦功を挙げた。1595年、依上保内で150石を領した。1602年、佐竹義宣の羽後久保田城への転封に従った。

糸井摂津守【いといせっつのかみ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1583年、依上保の十二天社の造営を糸井八衛門、糸井五郎衛門とともに支援した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

糸井能登守【いといのとのかみ(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。1561年、佐竹義昭から磐城寺山城の在番の功を上げた。1595年、知行割替で依上保狐塚に50石を領した。 参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

伊藤新蔵人【いとうくらんど(15??~15??)】

伊藤河内守の男。1587年、佐竹義重から所領を安堵された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

井上信濃守【いのうえしなののかみ(15??~15??)】

東義家家臣。東義家に仕え南奥経営に活躍した。1589年、「上野新田の戦い」に参陣した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

今宮永義【いまみやながよし(15??~15??)】

佐竹義舜の男。佐都西郡今宮白羽社別当職を務め、関東修験者をまとめた。常陸国を中心に、北関東の修験者から信任があった。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

今宮光義【いまみやみつよし(15??~15??)】

今宮永義の男。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

今宮義通【いまみよしみち(15??~16??)】 

今宮光義の男。官途は摂津守。1581年、下野国に参陣していた佐竹義重に茶を送って労い、戦況報告を受けた。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後久保田城への転封に従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。
 
今宮義僚【いまみやよしとも(15??~16??)】

今宮光義の次男。官途は弾正忠。通称源三郎。1589年、「磐城野績の戦い」では、佐竹義重に従いに参陣した。1590年、磐城岡田館を領した。1602年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後久保田城に転封するとそれに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

今宮義堅【いまみやよしかた(15??~16??)】 

今宮義通の男。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、父今宮永義とともに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

宇垣伊賀守【うがきいがのかみ(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。もと宇喜多直家の家臣だたが弓矢に精通していたため、佐竹義昭に使えた。佐竹義宣から鉄砲衆50余りを預けれられた。1595年、知行割替で茨城郡島田内200石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

宇垣弥介【うがきやすけ(15??~16??)】

宇垣伊賀守の男。1589年、「磐城太平城の戦い」で伊達政宗勢と戦い戦功を挙げた。1595年、知行割替で茨城郡島田内100石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

牛丸重勝【うしまるしげかつ(15??~15??)】

佐竹義宣家臣。通称兵左衛門尉。佐竹義宣に仕えた。1595年、下野国芳賀郡小深村の検地帳に石田三成とともに連署した。1602年、佐竹義宣の意向を受け東北地方の銅山開発を手がけた。

牛丸久永【うしまるひさなが(15??~15??)】

佐竹義宣家臣。牛丸重勝の弟。通称市郎右衛門。安島采女の未亡人を内室に迎え、連れ子の安島信次を養育した。

牛丸久吉【うしまるひさよし(15??~15??)】

牛丸久永の男。通称伝次。1603年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。

梅津憲忠【うめづのりただ(1572~1630)】

佐竹義宣家臣。梅津道金の次男。通称半右衛門。別名「佐竹の鬼将軍」。1581年、父梅津道金が宇都宮広綱のもとから出奔して太田城下に移り住んだ。北義憲から扶持を受け学問を続け佐竹義宣の祐筆を務めた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると近習筆頭として300石を領した。弟の梅津政景、渋江政光らとともに林業、鉱業、農業を中心とする領国経営を立案して政策を実行した。1614年、「大坂冬の陣」で継嗣の梅津廉忠とともに参陣して戦功を挙げた。連歌や書道に造詣が深い教養人でもあり、佐竹義宣も鷹狩の帰り道に梅津憲忠の屋敷に立ち寄りともに歌や茶の湯に興じた。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

梅津廉忠【うめづかねただ(15??~16??)】

梅津憲忠の男。1614年、「大坂冬の陣」では、佐竹義宣に従い参陣して戦功を挙げた。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

梅津政景【うめづまさかげ(1581~1633)】

佐竹義宣家臣。梅津道金の三男。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると兄梅津憲忠とともに佐竹義宣に仕え銀山奉行、惣山奉行、勘定奉行、街奉行、家老職などを務めた。銀山奉行として雄勝郡院内銀山の整備を行い銀の増産を行った。1615年、「大坂夏の陣」に参陣した。兄梅津憲忠や小場宣忠とともに家政を担った。1633年、佐竹義宣が病没すると、病を押して佐竹義宣の葬儀の指揮取った。このため病状が悪化し、まもなく病没した。著書に『梅津政景日記』。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇留野義久【うるのよしひさ(14??~1539)】

那珂郡部垂城主。1539年、「第二次部垂城の戦い」では、家臣の大賀外記が内応して佐竹義篤勢を城内に引き込んだため、佐竹義篤勢に追い詰められ自刃した。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇留野義元【うるのよしもと(15??~1539)】

佐竹義舜の三男(宇留野義久の養子)。通称通称源五郎。1529年、「第一次部垂城の戦い」では、佐竹義篤の家臣小貫俊通が守る部垂城を攻落とした。佐竹義篤は、江戸忠通、小田治孝らと戦っていたため、宇留野義元の攻撃に対応することができかかった。1535年、高久義貞が宇留野義元に呼応して挙兵したが、すぐに鎮圧された。1538年、「第二次部垂城の戦い」では、家臣の大賀外記が内応して佐竹義篤勢を領内に引き込んだため、養父の宇留野義久、小場義実らとと自刃した。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇留野竹寿丸【うるのたけじゅまると(15??~1539)】

宇留野義元の男。1538年、「第二次部垂城の戦い」で佐竹義篤勢の攻撃受け、父宇留野義元が討死したため、落延びるが家臣の黒沢大学が裏切り謀殺された。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇留野義長【うるのよしなが(15??~15??)】

宇留野義久の男。1529年、「第一次部垂の乱」では、佐竹義篤勢に属して義兄宇留野義元らと戦った。宇留野義元勢の父宇留野義久、兄佐竹永義、小場義忠らは許され佐竹義篤に従った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇留野義光【うるのよしみつ(15??~1538)】

宇留野義長の男。通称源五郎。1538年、「第二次部垂城の戦い」で宇留野義元勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

江川弥右衛門尉【えがわやうえもんのじょう(15??~15??)】

東義久家臣。江川和泉守の男。1583年、東義久から官途を受けた。1590年、東義久が鹿島郡を領すると、これに従い5貫文を領した。1600年、辺田野で30石を加増された。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、東義賢に従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

江間重氏【えましげうじ(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。官途は対馬守。1569年、「府中城の戦い」で小田氏治勢と戦いで戦功を挙げた。1570年、佐竹義重の取次役を務め、武田晴信や長尾景虎と書面を交わした。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

江間堅清【えまかたきよ(1548~1630)】

江間重氏の男。官途は丹波守。通称藤五郎。1569年、「府中城の戦い」で小田氏治と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大内広重【おおうちひろしげ(15??~15??)】

佐竹義宣家臣。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大賀外記【おおがげき(15??~15??)】

宇留野義久家臣。1539年、「第二次部垂城の戦い」で佐竹義篤勢に内応して佐竹義篤勢を部垂城内に引き入れた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大窪秀光【おおくぼひでみつ(15??~15??)】

東義喬家臣。官途は伊賀守。1569年、東義喬から10貫文の加増受けた。1574年、栃本郷を領した。1571年、東義喬領の桧沢の代官職を務めた。石川昭光、和田昭為との取次役を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大窪種光【おおくぼたねみつ(15??~15??)】

大窪秀光の男。官途は駿河守。1587年、南義種より偏諱を受けた。1589年、「上野国新田の戦い」では、南義種に従って参陣した。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封になるとそれに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大窪久光【おおくぼひさみつ(15??~1602)】

大窪種光の男。通称兵蔵。室は車斯忠の娘。1602年、佐竹義宣の羽後久保田城への転封に従わず、車斯忠、馬場政直とともに水戸城奪還を図るが失敗に終わった。捕縛され斬頸に処された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大窪伊勢守【おおくぼいせのかみ(15??~15??)】

東義喬家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大窪三河守【おおくぼみかわのかみ(15??~15??)】

大窪伊勢守の男。東義久の意向を受け滑津城代の船尾昭直に従った。1590年、伊達政宗家臣の石川昭光勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大高重之【おおたかしげゆき(15??~15??)】

佐竹義重家臣。湯綱城主。通称新左衛門。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大塚行成【おおつかいくなり(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。多賀郡龍子山城主。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大塚政成【おおつかまさなり(15??~15??)】

大塚行成の男。官途は信濃守。1552年、佐竹義昭に転じた。1558年、岩城重隆、佐竹義昭の和議を成立させるなど、両家の狭間にあってその関係改善に尽力した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大塚隆成【おおつかたかなり(15??~15??)】 

大塚成貞の男(大塚政成の養子)。官途は信濃守。通称掃部助。那珂郡菅俣城主だが、惣領家の大塚政成から大塚家の家督を譲られ、龍子山城主となった。佐竹義昭に仕えたが、岩城重隆に転じた。1562年、隠居して家督を大塚隆成に譲った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大塚親成【おおつかちかなり(15??~15??)】

大塚隆成の男。官途は信濃守。1568年、岩城重隆に属して佐竹義重と争うが、岩城重隆と佐竹義重が和議を結ぶと佐竹義重勢に属した。その後、岩城貞隆の附家老職に任じられた。1592年、「文禄の役」では、岩城貞隆、佐竹義宣らに従って参陣して肥前名護屋を守備した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大塚隆通【おおつかたかみち(15??~15??)】

大塚親成の男。官途は掃部助。父大塚親成とともに佐竹義重に仕えた。1585年、「磐城人取橋の戦い」で佐竹義重に従って参陣した。1590年、岩城貞隆勢に属してた。1592年、「文禄の役」では、岩城貞隆に従って肥前名護屋城を守備した。1595年、岩城貞隆の後見役を務める、北義憲の知行割替で磐城国楢葉郡折木に転封した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大塚綱久【おおつかつなひさ(15??~1541)】

佐竹義舜家臣。官途は掃部助。1505年、佐竹義舜から離反して白河結城顕頼に属して羽黒山城代に任じられた。1541年、「東館の戦い」では、斑目広基に従って東館城を守備したが、佐竹義篤勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大塚吉久【おおつかよしひさ(15??~15??)】

大塚綱久の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大塚為久【おおつかためひさ(15??~1578)】

大塚綱久の次男。1564年、「羽黒山城の戦い」で佐竹義重勢の攻撃を受け落城した。1578年、「磐城浅川城の戦い」で石川昭光勢と戦い弓で射られ討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大塚成貞【おおつかなりさだ(14??~15??)】

大塚頼成の男。官途は伊勢守。1485年、「車城の戦い」で岩城常陸勢の攻撃を受け降伏した。参考文献:「松岡の歴史」by根本伊弘。

大塚大膳亮【おおつかだいぜんのすけ(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。1563年、大檀家となり依上保の十二天社の造営を行った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大塚資台【おおつかすけだい(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。官途は出雲守。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大塚弾正忠【おおつかだんじょうちゅう(15??~16??)】

大塚資台の男。1582年、佐竹義重から出雲守の官途を受けた。1600年、佐竹義宣の意向を受け槍衆100余りを率いた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大縄玄策【おおなわげんさく(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1585年、佐竹義重の使者として羽柴秀吉のもとに赴いた。1590年、東義久に従った。1591年、東義久から鹿島郡に10貫文の知行を受けた。1595年、知行割替では茨城郡に50石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大縄源十郎【おおなわげんじゅうろう(15??~15??)】

大縄玄策の男。1592年、「文禄の役」では佐竹義宣に従って肥前名護屋城に在陣した。1595年、知行割替で茨城郡に150石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣の羽後久保田城の転封には従わず、常陸国で帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大縄左京亮【おおなわさきょうのすけ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。大縄家惣領職。奥七郡の支城で在番を務めた。1557年、甲神社奉加帳では、100文を奉加した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大縄義辰【おおなわよしとき(15??~15??)】

大縄左京亮の男。官途は讃岐守。佐竹義重の意向を受け、東義久勢に属して陸奥国南郷の支配役を務めた。1587年、佐竹義重の次男芦名義広の附家老職に任じられた。芦名家譜代衆と家政を巡って競い、芦名家中に分裂を生んだ。1589年、「岩代摺上原の戦い」で伊達政宗勢に、芦名盛重とともに常陸国に落延びた。1593年、「文禄の役」で、佐竹義宣に従って肥前名護屋を守備した。1594年、水戸城の普請奉行職を務め2,056石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大縄与七郎【おおなわよしろう(15??~15??)】

大縄義辰の男。1587年、佐竹義重の次男芦名義広の附家老職に任じられ父大縄義辰とともに従った。1589年、「岩代摺上原の戦い」で伊達政宗勢に、芦名盛重とともに常陸国に落延びた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大縄与一左衛門【おおなわよいちさえもん(15??~15??)】

佐竹義宣家臣。1595年、茨城郡青柳内で100石を領した。茨城郡中河内内で529石を代官職を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山義成【おおやまよしなり(14??~15??)】

那珂郡大山城主。佐竹義治家臣。大山義長の男。官途は因幡守。1490年、「太田城の戦い」で山入義藤、山入氏義に追われた佐竹義舜を孫根城に匿った。1500年、「孫根城の戦い」で山入義藤勢の攻撃を受けた佐竹義舜を支援して金砂山城に脱出させた。1504年、「太田城の戦い」では、岩城常隆とともに佐竹義舜を支援して山入義藤を太田城から追落した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山義保【おおやまよしやす(14??~15??)】

大山義成の男。官途は因幡守。佐竹義舜の病没後、幼年の佐竹義篤を補佐した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山義在【おおやまよしあり(1515~1576)】

大山義保の男。官途は因幡守。通称孫次郎。1529年、「第一次部垂城の乱」では、佐竹義篤勢に属して宇留野義元と戦い戦功を挙げた。佐竹義昭に起請文を提出して所領を安堵された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山義近【おおやまよしちか(15??~15??)】

大山義保の次男。通称十郎。1564年、佐竹義昭に従って、兄大山義在とともに小田氏治と戦い戦功を挙げ小田領(坂田、田中、高岡、磯部)の四郷を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山義景【おおやまよしかげ(1541~1610)】

大山義在の男。官途は因幡守。通称孫次郎。1588年、小場義成と所領を巡って争った。1590年、「奥州討伐」では、太田城の留守居役を務めた。1593年、「文禄の役」では、常陸江戸城留守居役を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山義則【おおやまよしのり(1571~1637)】

大山義景の男。官途は因幡守。通称孫次郎。1576年、「頓化原で戦い」で小場義宗と所領争いを起こしたが、佐竹義重の仲介で和議を結んだ。1589年、「小田原の役」では、馬上44騎、歩卒220人の軍役を務めた。1593年、「文禄の役」では、岩城衆、菅谷衆らとともに大船一艘を充てられて渡海した。1595年、知行割替で本領召上の代わりに行方郡内で4,012石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封になるとそれに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山義種【おおやまよしたね(15??~15??)】

大山義則の男。官途は隠岐守。1578年、小貫頼安、和田昭為らとともに船尾隆直、船尾昭直父子と起請文を取り交わした。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大山重光【おおやましげみつ(15??~15??)】

大山義種の男。官途は釆女正。佐竹義重の側近を務めた。1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って肥前名護屋城を守備した。1595年、茨城郡枝川の蔵入地614石の代官職を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大和田重清【おおわだしげきよ(15??~1619)】

佐竹義重家臣。大和田新左衛門の男。官途は近江守。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に参陣した。1595年、知行割替では茨城郡内で200石を領した。久慈郡の蔵入地214石余を代官職を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、足軽鉄砲衆50余りを率いた。役後、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

大和田新左衛門尉【おおわだしんざえもんおじょう(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。1557年、甲神社に100文を奉加した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

岡本妙誉【おかもとみょうよ(14??~15??)】

佐竹義舜家臣。岡本道活の男。松岡館主。もともと岩城常隆の家臣だったが、佐竹義舜に転じた。佐竹義舜と山入氏義、江戸忠通、小野崎義昌、小山成長、三浦義同らとの取次役を務め、外交調整に尽力した。1509年、「永正の乱」で古河公方足利政氏と足利高基が争うと、佐竹義舜、岩城常隆を足利政氏勢に属させた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

岡本曾端【おかもとそうずい(1528~1583)】

岡本妙誉の男。僧籍にありながら側近として佐竹義篤に仕えた。娘を佐竹義篤に嫁がせ、枝連衆に準じて扱われた。足利義晴、足利義昭、細川藤孝、小田政治、岩城重隆、伊達稙宗、伊達晴宗、那須政資らの取次役を務め、父岡本曾端と同様に佐竹家の外交面で活躍し、佐竹義篤に代わり公的文書を発給した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

岡本禅哲【おかもとぜんてつ(1528~1583)】

岡本曾端の男。室は小山秀綱の娘。僧籍にありながら側近として佐竹義篤に仕えた。足利義晴、足利晴氏、岩城由隆、小山政長、那須高資、簗田晴助、武田晴信、白河結城晴綱らとの取次役を務めた。和歌の達人としても知られるほど教養にも長けていた。陸奥南郷の支配役を務め東義堅、東義喬を補佐した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

岡本顕逸【おかもとけんいつ(1559~1591)】

岡本禅哲の男。別名良哲。室は小野崎従通の娘。1574年、祖父岡本曾端にならって出家した。父岡本禅哲と同様伊達政宗らの取次役を務め外交面で活躍した。1590年、佐竹義重の三男岩城貞隆が岩城家に養嗣子として入ると、附家老として根本里行とともに岩城貞隆の補佐を務め、岩城家の政務を取り仕切った。しかし、間も無く病のために家督を岡本宣綱に譲って京都へ上り隠居まもなく没した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

岡本宣綱【おかもとのぶつな(1583~1649)】

岡本顕逸の男。通称蔵人。別名如哲。僧籍にあったが佐竹義宣の意向を受けて還俗し、その側近を務めた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。1615年、「大坂夏の陣」で佐竹義宣に従って参陣して戦功を挙げた。1631年、再び僧籍に戻った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小川大蔵丞【おがわおおくらのじょう(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1570年、佐竹義重から白河三森、小菅生二ヶ所の加増を約束された。1584年、「沼尻の戦い」で北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小川上総介【おがわかずさのすけ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。南義尚、東義喬、太田資正、芦名義広の取次役を務めた。1595年、知行割替で100石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小川大和守【おがわやまとのかみ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1585年、愛宕社の遠鳥居を寄進した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小瀬義員【おぜよしかず(15??~15??)】

佐竹義重家臣。那珂郡小瀬館主。小瀬義栄の男。参考文献:「風雲戦国史」by播磨屋。

小瀬義春【おぜよしはる(15??~1590)】

小瀬義員の男。官途は中務大輔。通称三郎。1579年、「祗園城の戦い」で北条氏政勢の攻撃を受け佐竹義宣のもととに落延びた小山秀綱、小山政種から書状を送られた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小瀬義行【おぜよしゆき(15??~15??)】

小瀬義春の男。官途は越中守。1589年、「陸奥滑津城の戦い」で石川昭光勢と戦った。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小田部政胤【おだべまさたね(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。官途は式部丞。1507年、「金砂山の戦い」で戦功を挙げ東野内、十郎内で領地を与えられた。

小田部胤家【おだべたねいえ(15??~15??)】

小田部政胤の次男。官途は美作守。参考文献:「千葉氏の一族」byChibaIchizoku。

小田部重胤【おだべしげたね(1568~1590)】

小田部政胤の孫。官途は式部丞。1589年、「小田原の役」では、佐竹義宣に従って参陣したが、北条氏直勢と戦って討死した。参考文献:「千葉氏の一族」byChibaIchizoku。

小田部里胤【おだべたねいえ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。官途は弾正忠。通称五郎左衛門。1571年、佐竹義重の意向を受け白河結城義顕のもとに出奔し和田昭為の子、和田為綱、和田彦十郎、和田為藤を討取る戦功を挙げた。参考文献:「千葉氏の一族」byChibaIchizoku。

小田野義安【おだのよしやす(14??~1478)】

佐竹義治家臣。久慈郡頃藤城主。官途は中務大輔。1478年、「久米城の戦い」では、佐竹義治の意向を受け北義武とともに山入義知勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小田野義村【おだのよしむら(15??~15??)】

小田野義安の男。官途は大和守。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小田野義長【おだのよしなが(15??~15??)】

小瀬郡那珂城主。小田野義安の次男。官途は式部大輔。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小田野義正【おだのよしまさ(15??~15??)】

小田野義長の男。官途は大和守。通称彦三郎。伯父小田野義村から小田野家惣領職を相続した。和田昭為とともに佐竹義昭と宇都宮広綱、芳賀高継、東義堅らとの取次役を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小田野義房【おだのよしふさ(15??~15??)】

小田野義長の次男。官途は大和守。僧籍にあったが、兄小田野義正が病没したため、還俗して小田野家の家督を相続した。1559年、和田昭為とともに後藤七郎四郎への恩賞沙汰状に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小田野義忠【おだのよしただ(15??~16??)】

小田野義房の男。官途は刑部少輔。通称彦三郎。別名小田野義定。佐竹義重に仕え芳賀高継、岩城常陸、白士隆貞との取次役を務めた。1581年、「上野新田の戦い」で北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。1595年、久慈郡深荻の蔵入地1,173石余を預けられた。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に参陣した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小田野宣忠【おだののぶただ(15??~16??)】

小田野義忠の男。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、父小田野義忠
とともに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小貫俊通【おぬきとしみち(15??~1529)】

佐竹義篤家臣。那珂郡部垂城主。小貫頼通の男。1529年、「宇留野義元の乱」で佐竹義篤と宇留野義元が争うと、宇留野義元勢の攻撃を受け討死した。

小貫伊賀守【おぬきいがのかみ(15??~15??)】 

小貫俊通の次男。官途は釆女正。通称彦八郎。1593年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って肥前国名護屋城を守備した。1595年、那珂郡の蔵入地2,700石余を預かった。

小貫右馬允【おぬきうめのじょう(15??~15??)】

小貫越後守の男。北家義斯の仕えた。1551年、「下野千本城の戦い」で那須高資勢に属して参陣して戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って参陣して肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小貫頼久【おぬきよりひさ(1544~1603)】

小貫頼俊の男。官途は佐渡守。通称清三郎。1569年、北条氏政と結んだ長尾景虎との取次役を務めた。1572年、佐竹義重と長尾景虎との和議をまとめた。1593年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って参陣して渡海した。1595年、佐竹義宣から知行割替で和田昭為、人見藤道ととに三奉行職に任じられた。1602年、佐竹義宣が出羽久保田城に転封すると、それに従ったがまもなく病没した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小貫頼重【おぬきうめのじょう(15??~1618)】

和田昭為の四男(小貫頼久の養子)。官途は大蔵。伏見城に登城した佐竹義宣の太刀を預かったが、退城時に太刀を返すことができず、佐竹義宣に捜させるという失態を犯した。1618年、自刃した。

小野岡義高【おのおかよしたか(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。那珂郡小野館主。官途は右衛門佐。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小野岡義雅【おのおかおしまさ(15??~15??)】

小野岡義高の男。官途は右衛門佐。通称与二郎。佐竹義昭に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小野岡義継【おのおかよしつぐ(15??~15??)】

小野岡義雅の男。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小野岡義綱【おのおかよしつな(15??~15??)】

小野岡義継の男。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

山尾小野崎親通【おのざきちかみち(14??~15??)】

那珂郡山尾城主。官途は山城守。小野崎家惣領職。通称三郎。1490年、「太田城の戦い」で佐竹義舜が山入義藤に太田城を追われると、佐竹義舜領内の20ヶ所を押領した。1504年、「太田城の戦い」では、岩城常隆、江戸通雅とともに佐竹義舜の太田城奪還を支援した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

山尾小野崎通載【おのざきみちさい(15??~15??)】 

小野崎親通の男。官途は山城守。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

山尾小野崎成通【おのざきなりみち(15??~15??)】 

小野崎通載の男。官途は山城守。通称三郎。継嗣をもうけることができず、佐竹義篤の三男小野崎義昌を婿養子に迎え、小野崎家惣領職を譲った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

山尾小野崎義昌【おのざきよしまさ(15??~1585)】 

佐竹義篤の次男(小野崎成通の養子)。官途は山城守。通称三郎。室は小野崎成通の娘。1564年、大掾慶幹が病没すると、兄佐竹義昭の意向を受け大掾家の家督を相続した。1566年、大掾家臣団が大掾貞国を擁立したため、府中城を追放された。病没した小野崎成通の娘婿となり小野崎家惣領職の家督を相続した。1585年、「磐城人取橋の戦い」で佐竹義重に従って参陣したが、従者により謀殺された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

山尾小野崎宣政【おのざきのぶまさ(15??~1602)】

東義久の次男(小野崎義昌の養子)。小野崎家惣領職の家督を相続した。1590年、友部山尾城主に任じられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小野崎隆政【おのざきたかまさ(15??~15??)】

小野崎宣政の養子。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

山尾小野崎通景【おのざきみちかげ(15??~15??)】

北義斯家臣。官途は備前守。通称新蔵人。北義憲が岩城貞隆の附家老職に任じられると、それに従い岩城領内で200石を領した。

額田小野崎篤通【おのざきあつみち(15??~15??)】

那珂郡額田城主。別名小野崎盛通。1535年、「石神兵乱」で小野崎通長が謀反を起こすと、佐竹義篤の意向を受けこれを鎮圧した。1546年、小野崎通長と所領争いで江戸忠通の調停を受けたが失敗に終わった。参考文献:「埋もれた古城」by越後ノ丸。

額田小野崎従通【おのざきつぐみち(1559~1630)】

小野崎篤通の男。官途は下野守。通称彦三郎。1588年、「神生通朝の乱」では、神生通朝を支援して佐竹義重の支援を受けた江戸重通勢と戦った。1589年、江戸重通と和議を結ぶと佐竹義重に属した。「小田原の役」では、佐竹義宣に従って羽柴秀吉勢に参陣した。1591年、「額田城の戦い」で佐竹義宣勢の攻撃を受け伊達政宗を頼って落延びた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石神小野崎通綱【おのざきみちつな(14??~1489)】 

佐竹義治家臣。1489年、「太田城の戦い」で佐竹義治が伊達尚宗、芦名盛高、岩城重隆、結城政朝勢の攻撃を受けると、佐竹義治の身代わりとなり討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石神小野崎通老【おのざきみちおみ(14??~15??)】 

小野崎通綱の男。官途は越前守。通称三郎。1489年、「太田城の戦い」で父小野崎通綱が佐竹義治の身代わりとなり討死すると、その戦功により那珂郡河合350貫、石神350貫を領して石神城を築城した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石神小野崎通長【おのざきみちなが(15??~15??)】

小野崎通老の男。官途は大蔵大輔。通称三郎。別名石神通長。佐竹義篤に仕えた。1535年、「石神兵乱」で佐竹義篤に謀反を起こしたが、佐竹義篤の意向を受けた小野崎篤通勢の攻撃を受け降伏した。1546年、小野崎篤通と所領争いで江戸忠通の調停を受けたが失敗に終わった。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

石神小野崎通隆【おのざきみちたか(15??~15??)】

小野崎通長の男。官途は越前守。通称三郎。1563年、太田城留守居役を務めた。

小幡義清【おばたよしきよ(15??~1532)】

那珂郡小幡館主。1532年、「小幡館の戦い」で江戸通泰勢の攻撃を受け討死した。

石神小野崎通実【いしがみみちざね(15??~15??)】

小野崎通隆の男。別名石神通実。1577年、「下野小山の戦い」で佐竹義重に従って参陣して結城晴朝を支援して北条氏政勢と戦った。

石神小野崎通信【いしがみみちのぶ(15??~1584)】

小野崎通実の男。別名石神通信。1584年、「府中城の戦い」で佐竹義重に従って参陣したが討死した。

石神小野崎通広【いしがみみちひろ(15??~16??)】

小野崎通信の男。別名石神通広。1595年、佐竹義宣から石神城900石を安堵された。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。

小場義実【おばよしざね(1483~1540)】

佐竹義篤家臣。小場義実の男(父同名)。官途は式部大輔。通称三郎。1490年、「太田城の戦い」では、佐竹義舜勢に属して小場義忠、前小屋義広らが討死した。1540年、「第二次部垂城の戦い」で佐竹義篤勢の攻撃を受け宇留野義元とともに戦い討死した。

小場義宗【おばよしむね(15??~16??)】

佐竹義昭の三男(小場義忠の養子)。官途は三河守。通称三郎。室は小場義忠の娘。1576年、「頓化原の戦い」で大山義則勢と戦ったが佐竹義重の仲介で和議を結んだ。小場義成が小田城に転封して、小場城には大山義喜の継嗣大山則宗が入った。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。

小場義成【おばよしなり(1569~1634)】

小場義宗の男。室は大塚信濃の娘(東義久の養女)。小田城に転封して50,000石を領した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、小田城50,000石から大館城5,000石に転封した。東義賢とともに檜山城を接収した。1603年、浅利家の残党が一揆を起こすと、その鎮圧で戦功を挙げた。1610年、大館城代に任じられ5,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、佐竹義宣に従って参陣した。1622年、最上義俊が改易処分に処されると、本荘城、滝沢城を接収する任を務めた。1629年、江戸城神田橋の石垣普請の奉行職を務めた。

小場義易【おはよしやす(1601~1658)】 

小場義成の男。通称は六郎。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。新田開発を行い新田8,000石余りを開墾した。父小場義成の家督を相続して大館城代を務めた。1658年、大館八幡神社を城外に移築した。

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【か】

掛札駿河守【かけふだするがのかみ(15??~1588)】

江戸重通家臣。那珂郡掛札館主。1588年、「神生通朝の乱」では、江戸重通に従って神生通朝勢と戦ったが、神生通朝を支援する小野崎従通勢の攻撃を受け討死した。

梶山肥後守【かじやまひごのかみ(15??~16??)】

小野岡義従家臣。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、小野岡義従に従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柏隠岐守【かしわおきのかみ(15??~15??)】

東義久家臣。1560年、東義久の意向を受け使者として高部信濃守とともに赤坂朝光のもとに赴いた。

片岡二郎左衛門【かたおかじろうざえもん(14??~1491)】

佐竹義舜家臣。片岡但馬守の男。官途は監物。1490年、「常陸太田城の戦い」で山入義藤、山入氏義、長倉義久、天神林義益、宇留野義公勢の攻撃を受け孫根城に落延びた佐竹義舜に従った。佐竹義舜の使者を務めたが、凍傷を負い没した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

片岡源七郎【かたおかげんしちろう(15??~15??)】

片岡二郎左衛門の男。1524年、佐竹義舜から天神林の荒地を拝領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

片岡筑前守【かたおかちくぜんのかみ(15??~15??)】

片岡二郎左衛門の次男。1590年、「磐城滑津の戦い」で佐竹義宣に従って参陣して戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

片岡讃岐守【かたおかさぬきのかみ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1570年、佐竹義重から依上保内の知行地を一代の領有を認められた。1572年、依上保内の知行地が大塚大膳亮に与えられたため、代替地の拝領を約束された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

片岡志摩守【かたおかしまのかみ(15??~15??)】

片岡讃岐守の男。官途は民部少輔。佐竹義宣に側近として仕えた。1583年、屋地普請奉行の監視役に任じられた。1595年、知行割替では知行200石を領した。蔵入地616石の管理を任された。1598年、那珂郡内で50石を加増された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

神長光勝【かみながみちかつ(15??~1659)】

佐竹義宣家臣。官途は対馬守。通称弥右衛門。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。1615年、「大坂夏の陣」では、佐竹義宣に従って参陣した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

鴨志田若狭守【かもしだわかさのかみ(15??~15??)】

北義憲家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

鴨志田式部少輔【かもしだしきぶしょうゆう(15??~15??)】

鴨志田若狭守の男。1591年、北義憲から久慈郡藤田内で5貫文の所領を拝領した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従わず久慈郡小島で帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

河井堅忠【かわいかたただ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。官途は備前守。1569年、佐竹義重の意向を受けて小貫頼久とともに使者として長尾景虎のもとに赴いた。1574年、長尾景虎との取次役を梶原政景とともに務め、長尾景虎のもとに赴き同盟を結んだ。1595年、那珂郡の蔵入地680石の代官職を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

河井忠遠【かわいただとお(15??~1603)】

河井堅忠の男。官途は伊勢守。1602年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が出羽国久保田城に転封すると、和田昭為とともに赴き安東実季から羽後湊城を受取った。佐竹義宣が梅津憲忠、梅津政景、渋江政光ら若手官僚を重用したことにより、譜代家臣の間には不満が広がった。小貫頼久が病没後、家老職に任じられた。和田昭為が隠居すると、佐竹義宣は渋江政光を家老職に登用しようとするが、川井忠遠は小泉籐四郎、野上刑部左衛門、小野玄蕃、大窪長介とともに渋江政光の謀殺を図ったが、逆に謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

河井甲斐守【かわいかいのかみ(15??~15??)】

東義久家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

河井右馬助【かわいうまのすけ(15??~15??)】

河井甲斐守の男。通称新九郎。1590年、人見藤通の寄騎衆に任じられた。1592年、佐竹義宣の検地に従わなかったため、所領を没収された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

河井与次郎【かわいじろう(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

川野辺朝行【かわのべともゆき(14??~15??)】

佐竹義治家臣。川野辺朝隆の男。官途は信濃守。1502年、「太田城の戦い」では、佐竹義舜に従い太田城を守る山入氏義勢と戦い戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

川野辺朝尚【かわのべともなお(15??~15??)】

川野辺朝行の男。通称主馬介。1539年、「第二次部垂城の戦い」では、佐竹義篤に従って宇留野義元勢と戦った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

川野辺重行【かわのべしげゆき(15??~15??)】

川野辺朝尚の男。通称内記。娘は小田野義敦に嫁いだ。1590年、「常陸江戸城の戦い」では、佐竹義宣に従って江戸重通勢と戦い戦功を挙げた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それには従わず久慈郡盛金邑で帰農した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

川野辺宣行【かわのべのぶゆき(15??~15??)】

川野辺重行の男。通称主税。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

川野辺四郎左衛門【かわのべしろうざえもん(15??~15??)】

川野辺重行の次男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

神部監物【かんべけんもつ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1570年、「磐城寺山城の戦い」で寺山城に籠城した戦功により佐竹義重から10貫文の加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

菊池忠政【きくちただまさ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

菊池政勝【きくちまさかつ(15??~16??)】

菊池忠政の男。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従い200石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

北義武【きたよしたけ(14??~1478)】

佐竹義治の次男。久慈郡久米城主。別名佐竹義武。1478年、「久米城の戦い」で山入義知勢の攻撃を受け討死した。弟の佐竹義信が養子として北家の家督を相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

北義信【きたよしのぶ(1476~1533)】

佐竹義治の三男(北義武の養子)。官途は左衛門尉。通称又次郎。別名佐竹義信。太田城の北に館を構えた。1478年、「久米城の戦い」で兄佐竹義武が討死後、久米城主を務めた。佐竹義舜の病没後、弟の東政義とともに佐竹義篤を補佐した。1517年、佐竹義舜らとともに佐都神社に奉加した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

北義住【きたよしずみ(15??~1539)】

佐竹義信の男。1533年、父佐竹義信の病没により、北家の家督を相続した。佐竹義篤の補佐を務めた。1534年、佐竹義篤と宇留野義元が家督争いを起こすと佐竹義篤を支持して宇留野義元と戦った。1539年、「部垂城の戦い」で討死した。継嗣が無かったため、弟佐竹義廉が養子として北家の家督を相続した。

北義廉【きたよしかど(1516~1565)】

佐竹義信の次男。官途は左衛門督。通称又七郎。別名佐竹義兼。1539年、「部垂城の戦い」で兄北義住が討死したため、次男であった北義廉が北家の家督を相続した。佐竹義昭を補佐して東義堅、南義里らと国政に携わった。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

北義斯【きたよしこれ(1543~1582)】

北義廉の男。官途は左衛門督。通称又七郎。別名佐竹義斯。大掾慶幹、江戸重通、真壁重幹、茂木治良、松野資通、太田資正との取次役を務めた。1564年、佐竹義昭が小田氏治を小田城から追うと、小田城主に任じられた。1565年、小田氏治に小田城は奪還された。北義斯は太田城へ逃げかえった。1572年、佐竹義重と那須資胤の和議の交渉役を務め、那須資胤の娘と佐竹義宣の婚姻の約束を交わした。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

北義憲【きたよしのり(1570~1602)】

北義斯の男。官途は左衛門督。通称又七郎。別名佐竹義憲。1590年、岩城常隆が病没すると、岩城家に入嗣した岩城貞隆の附家老として植田城に入った。岩城家の家政を担い検地などを行った。1602年、佐竹義宣が羽後国久保田城に減封になるとそれに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

桐原茂左衛門【きりはらもざえもん(15??~15??)】

佐竹義宣家臣。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になるとそれに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

久賀谷通清【くがやみちきよ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。通称右衛門尉。別名「存辰」。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

国安久行【くにやすひさゆき(15??~16??)】

東義久家臣。官途は三河守。別名国安師親。1588年、大窪種光と連署で芹沢国幹に起請文を送った。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になるとそれに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

国安師行【くにやすひさゆき(15??~16??)】

国安久行の男。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると父国安久行とともに従った。

車義憲【くるまよしたけ(15??~15??)】 

佐竹義昭家臣。多珂郡車城主。官途は丹波守。

車義秀【くるまよしひで(15??~15??)】 

車義憲の男。官途は兵部大輔。

車斯忠【くるまつなただ(15??~1602)】

車義秀の男。官途は丹波守。1571年、和田昭為を讒言して白河結城義親のもとに追い、佐竹義重の側近を務めた。1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣とともに肥前名護屋城に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝勢に属して陸奥福島城を守備した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、従わず大窪久光、馬場政直らとともに水戸城奪還を企てるが捕縛され処刑された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

車信濃守【くるましなののかみ(15??~15??)】 

佐竹義重家臣。1569年、佐竹義重の使者として梶原政景のもとに赴いた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

黒沢大学【くろさわだいがく(15??~15??)】

宇留野義久家臣。1540年、「部垂城の戦い」で佐竹義篤勢の攻撃を受け宇留野義元が討死すると、佐竹義篤勢に内応して落延びる宇留野竹寿丸を謀殺した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

黒沢内匠助【くろさわたくみのすけ(15??~15??)】 

佐竹義篤家臣。官途は内匠助。通称満五郎。1530年、佐竹義篤から松木、塩子の5貫文を拝領した。1554年、佐竹義昭から久慈郡辰ノ口、塩原の所領
参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

黒沢早助【くろさわそうすけ(15??~15??)】 

佐竹義重家臣。1589年、佐竹義宣から町田彦五郎抱の地を宛がわれた。1593年、佐竹義重から田代雅楽亮抱の地を宛がわれた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小祝加賀守【こいわいかがのかみ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。久慈郡小祝館主。南奥依上保を巡る白河結城晴綱との交渉に活躍し、佐竹義篤の使者として白河結城晴綱のもとを訪れた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小祝武繁【こいわいたけしげ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。通称兵衛三郎。石井式部の知行ことにを申し送った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小祝元泰【こいわいもとやす(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。通称又三郎。1542年、戦功を挙げた佐藤弥太郎の忠節を石井清定とともに佐竹義篤に伝えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

小磯太郎右衛門【こいそたろうえもん(15??~1502)】

山入氏義家臣。官途は上野守。1502年、「西金砂の戦い」で佐竹義舜勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【さ】

佐川家房【さがわいえふさ(15??~16??)】

佐竹義宣家臣。官途は蔵人。通称惣六。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、雄勝郡湯沢内40石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐川家勝【さがわいえかつ(15??~16??)】

佐川家房の男。通称七郎右衛門。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

酒匂道真【さこうみちざね(15??~16??)】

佐竹義重家臣。南常陸鉾田城を守備した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。

佐竹義舜【さたけよしきよ(1470~1517)】

久慈郡太田城主。佐竹義治の男。官途は右京大夫。室は岩城常隆の娘。1490年、父佐竹義治の病没により佐竹家惣領家の家督を相続した。「常陸太田城の戦い」で山入義藤、山入氏義、長倉義久、天神林義益、宇留野義公勢の攻撃を受け孫根城に落延びた。1502年、「金砂山城の戦い」で山入氏義勢の攻撃により落城寸前まで追い込まれるが、奇襲攻撃をかけ撃退した。1504年、「太田城の戦い」で山入氏義、山入義盛を討取る戦功を挙げた。1514年、「那須口の戦い」では、足利政氏の意向を受け岩城由隆とともに参陣して宇都宮忠綱勢を撃破る戦功を挙げた。「竹林の戦い」で宇都宮成綱、結城政朝勢の反撃を受け敗退した。1516年、「浄法寺縄釣の戦い」で岩城由隆とともに宇都宮成綱勢と戦うが、那須資房が内応したため、敗退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐竹義篤【さたけよしあつ(1507~1545)】

佐竹義舜の男。官途は大膳大夫。1517年、父佐竹義舜の病没により佐竹惣領家の家督を相続した。白河結城晴綱領への侵攻を企図し、拠点となる依上保を中心に家臣団を多く配置した。1529年、「第二次部垂城の乱」では、弟宇留野義元と熾烈な権力闘争を繰り広げ、宇留野義元勢に属した小場義実、高久義久らと争った。1540年、宇留野義元の部垂城を攻略して内乱に終止符を打った。また那須政資、那須高資父子の争いにも加わり、小田政治、宇都宮尚綱らとともに那須政資を支援した。1539年、結城政朝、小山高朝、白河結城晴綱らと結ぶ那須高資勢と戦った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐竹義昭【さたけよしあき(1531~1565)】

佐竹義篤の男。官途は右京大夫。通称次郎。室は岩城重隆の娘。佐竹義昭が若年の間は、北義廉、東義堅、南義里が交代で家政を担った。江戸忠通に対抗すべく小田政治と結んだ。1551年、関東管領山内上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職への就任を打診を受けるが辞退した。1557年、「宇都宮城の戦い」で壬生綱雄を追落し宇都宮広綱を宇都宮城に帰還させ那須資胤と和議を結んだ。1560年、「磐城寺山城の戦い」で白河結城晴綱勢と戦いこれを追落して糸井能登守を城代に任じた。1564年、長尾景虎の支援を受け小田氏治を撃破した。1564年、大掾慶幹の病没後、弟の大掾昌幹を養子に送り込んだが、大掾家中の反対により退去させられた。1562年、「小山祗園城の戦い」では、長尾景虎と結んで小山秀綱勢と戦った。1563年、「白旗城の戦い」で那須資胤勢と戦った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐竹義重【さたけよししげ(1547~1612)】

佐竹義昭の男。官途は常陸介。通称次郎。室は伊達晴宗の娘。別名「鬼義重」。1562年、父佐竹義昭の隠居により、佐竹家惣領職の家督を相続した。1566年、「小田城の戦い」では、長尾景虎と結び再び小田氏治を追い落とし太田資正、梶原政景父子を城代に任じた。1567年、白河結城晴綱に攻勢をかけ南陸奥、下野那須、常陸小田への進出を図った。白河結城義親、岩城常隆、多賀谷重経などに養子として送り込み勢力圏を拡大した。白河結城義親、宇都宮国綱、太田資正、梶原政景と結び北上する北条氏政勢に対抗した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐竹義宣【さたけよしのぶ(1569~1633)】

佐竹義重の男。官途は左近衛中将。通称次郎。室は那須資胤の娘(正洞院)。1586年、「下野壬生の戦い」では、宇都宮国綱を支援して北条氏政勢と戦った。1588年、「磐城人取橋の戦い」では、伊達政宗勢と戦った。1589年、「小田原の役」では、佐竹義重とともに参陣して羽柴秀吉から所領安堵を受けた。南常陸国の国人衆、豪族衆(南方三十三館)、大掾清幹、江戸重通らを掃討して常陸国内の覇権を確立して本拠を水戸城に移した。1596年、検地を行い545,800石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、父佐竹義重が松平元康勢に属したものの、自身は石田三成勢に属して長尾景勝勢を側面から支援したため、減封に処分に処され羽後久保田城180,000石を領した。治政に実力を発揮し、領国経営を意欲的に行い、また家臣らの刷新、粛清をはかった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐竹義直【さたけよしなお(1612~1656)】

佐竹義重の五男(北義兼の養子)。通称彦次郎。1621年、兄佐竹義宣の養子となった。1626年、江戸城における猿楽の見物中に居眠りをしてしまい、佐竹義宣の怒りを買い廃嫡された。1628年、京都仁和寺の塔中尊寿院を再興し、住職を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐竹義隆【さたけよしたか(1609~1672)】

岩城貞隆の男(佐竹義宣の養子)。官途は修理大夫。通称四郎次郎。別名岩城吉隆。室は佐竹義章の娘(光聚院)。1620年、岩城貞隆の病没により岩城家の家督と信濃国中村10,000石を相続した。1622年、羽後由利郡内で10,000石の加増を受けた。1623年、由利郡亀田館に転封した。1626年、叔父佐竹義直が廃嫡されたため、佐竹義宣の養子となり佐竹義隆と称した。1633年、佐竹義宣の病没により佐竹家の家督を相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐藤左京進【さとうさきょうのしん(15??~15??)】

東義久家臣。依上保、南郷方面を守備、物資輸送、伝馬整備などの役目を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

佐藤四郎右衛門【さとうしろううえもん(15??~15??)】

東義久家臣。依上保、南郷方面の守備を務めた。1589年、「陸奥大平城の戦い」で伊達政宗勢の攻撃を受けた。1590年、和田昭為に属した。1601年、鑓衆50人、扶持分250石を領した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

佐藤日向守【さとうひゅうがのかみ(15??~15??)】

東義喬家臣。1572年、東義喬から関之上、下平の所領を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

佐藤若狭守【さとうわかさのかみ(15??~15??)】

東義久家臣。1584年、次男の鈴木新八郎は鈴木助十郎の家督を相続した。東義久から南郷、依上保内などからの軍勢催促を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

猿田忠季【さるたただすえ(15??~16??)】

佐竹義宣家臣。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従い平鹿郡横手で足軽衆を務めた。1614年、「大坂冬の陣」では、佐竹義宣に従い参陣した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

塩谷盛綱【おしやもりつな(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。官途は越前守。1504年、佐竹義舜が太田城に帰還すると、所領を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

塩谷刑部大輔【しおやぎょうぶだゆう(15??~15??)】

塩谷盛綱の男。佐竹義篤に仕え安井太郎右衛門の宛分20貫を与えれた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

渋江氏光【しぶいうふみつ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。通称内膳。1574年、「陸奥赤館の戦い」で佐竹義重が赤館を攻略すると、赤館城代に任ぜられた。1575年、「陸奥赤館の戦い」で白河結城義親勢の反撃を受けるがこれを撃退した。1576年、「陸奥赤館の戦い」で再び白河結城義親勢の攻撃を受け落城した。

渋江政光【しぶえまさみつ(1574~1614)】

荒川秀景の男(渋江氏光の養子)。別名荒川政光。室は馬場政直の娘。人見藤道の推挙で佐竹義宣に仕えた。1594年、渋江氏光の養子となり渋江家の家督を相続した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封されると、渋江政光ら登用して家政改革を行った。1607年、川井忠遠らが、佐竹義宣と渋江政光の謀殺を企てたため、これらを謀殺して家中の不満分子を粛清した。渋江政光は、検地制度の改革などを実施して農業生産と財政の安定に尽力した。1614年、「摂津今福の戦い」で佐竹義宣に従って参陣したが、後藤基次、木村重成勢勢反撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水康賢【しみずやすかた(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。清水綱賢の男。官途は上野守。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水高賢【しみずたかかた(15??~15??)】

清水康賢の次男。通称刑部丞。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水高通【しみずたかみち(15??~16??)】

清水高賢の男。官途は薩摩守。佐竹義重に仕えた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水通愛【しみずみちすえ(15??~15??)】

小野崎篤通家臣。久慈郡清水之館主。官途は肥前守。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水通里【しみずみちさと(15??~15??)】

清水通愛の男。官途は但馬守。通称左馬允。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水通貞【しみずみちさだ(15??~15??)】

清水通里の男。官途は肥前守。通称右馬允。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水通胤【しみずみちたね(15??~16??)】

清水通貞の男。通称左馬允。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

清水通忠【しみずみちただ(15??~16??)】

清水通胤の男。通称藤八左馬允。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

介川通長【すけがわみちなが(15??~16??)】

那珂郡介川館主。介川通兼の男。官途は周防守。通称新太郎。佐竹義重の使者として田村清顕のもとを訪れた。1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って肥前名護屋城を守備した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

介川通央【すけがわみちおう(15??~16??)】

介川通長の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

介川通重【すけがわみちしげ(15??~16??)】

佐竹義宣家臣。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

介河和泉守【すけがわいずみのかみ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

介河隼人【すけがわはやと(15??~15??)】

介河和泉守の男。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従い平鹿郡横手内で45石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

介河十兵衛【すけがわじゅうべい(15??~15??)】

介河隼人の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

助川通繁【すけがわみちしげ(14??~15??)】

久慈郡大門城。通称右衛門。1490年、「太田城の戦い」で佐竹義舜が山入義藤、山入義氏勢の攻撃を受け、落延びた佐竹義舜を匿った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

助川通厚【すけがわみちあつ(15??~15??)】

助川通繁の男。官途は出羽守。佐竹義舜に仕えて戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

鈴木信濃守【すずきしなののかみ(15??~15??)】

東義久家臣。官途は右馬亮。1581年、東義久から五疋五駄の荷駄の通行料を免除された。1591年、鹿島郡内で10貫文を領した。1595年、知行割替では、完倉内で30石を領した。1600年、東義久から17石の加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

瀬尾大膳【せおだいぜん(14??~1478)】

北義武家臣。四殿衆。北義武が久米城主に任じられると、附家老職(四殿衆)を務めた。1478年、「久米城の戦い」では、山入義知、山入義房、山入義顕、那須資持勢の攻撃を受けた。山入義知、山入義房、山入義顕らを討取ったが北義武、小田野義安、立原筑後守らとともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

関彦三郎【せきひこさぶろう(15??~15??)】

北義信家臣。久慈郡花房館主。1523年、佐竹義篤から天神林内で1町5反の所領を与えれた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

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【た】

高柿弾正少弼【たかがきだんじょうしょうひつ(15??~15??)】

山入義藤家臣。官途は弾正少弼。1504年、「太田城の戦い」で佐竹義舜勢の攻撃を受け山入氏義が討死すると、佐竹義舜に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

高久時義【たかひさときよし(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。高久義景の男。1535年、「第二次部垂城の乱」で宇留野義元が謀反を起こすと、宇留野義元に従って佐竹義篤勢と戦った。宇留野義元が討死すると降伏した。1548年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属した佐竹義篤に従って参陣したが、伊達稙宗勢に属した相馬顕胤と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

高久義貞【たかひさよしさだ(15??~15??)】

高久時義の男。1535年、「第二次部垂城の乱」で宇留野義元が謀反を起こすと、宇留野義元に従って父高久時義とともに佐竹義篤勢と戦った。宇留野義元が討死すると降伏した。1548年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属した佐竹義篤に従って参陣したが、伊達稙宗勢に属した相馬顕胤と戦い父高久義時とともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

高久義明【たかひさよしあき(15??~15??)】

高久義貞の次男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

高久義勝【たかひさよしかつ(15??~15??)】

高久義明の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

高久直勝【たかひさなおかつ(15??~16??)】

高久義勝の男。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

高垣吉末【たがかきよしすえ(15??~15??)】

北義憲家臣。高垣吉就の次男。通称清左衛門。1591年、北義憲から16貫文の所領を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

高部孫兵衛【たかべまごべい(15??~15??)】

東義喬家臣。那珂郡高部城主。

高部左馬助【たかべさえもんのすけ(15??~15??)】

高部孫兵衛の男。東義久に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

高部駿河守【たかべするがのかみ(1506~1577)】

高部左馬助の男。1573年、東義久から入江荘の所領を安堵された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

高部信濃守【たかべしなののかみ(1541~1600)】

高部駿河守の男。官途は駿河守。1569年、東義喬から左馬助の官途を与えられた。1560年、東義久の意向を受け使者として柏隠岐守とともに赤坂朝光のもとに赴いた。1595年、知行割替で、常陸新治郡内に50石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

武士孫一郎【たけししまごいちろう(15??~15??)】

人見藤道家臣。1596年、奉行職の人見藤道に従い大石内で5石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

武士新六郎【たけしししんろくろう(15??~16??)】

佐竹義宣家臣。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従い50石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田崎廉親【たざきかどちか(15??~15??)】 

北義廉家臣。官途は遠江守。1549年、陸奥南郷東館の城代を務めた。1573年、東義喬が病没すると、寺山城に在番した。1575年、佐竹義重より6貫文を宛行われた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

田崎相模守【たざきさがみのかみ(15??~15??)】

田崎廉親の男。通称新三郎。1572年、元服で東義久の偏諱を受けた。1589年、佐竹義宣の意向を受け小田川関の代官職を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

田代影綱【たしろかげつな(15??~1611)】

佐竹義重家臣。田代清綱の次男。官途は雅楽亮。1585年、「下野鹿沼城の戦い」で戦功を挙げ、佐竹義宣より感状を受けた。1590年、隠居した佐竹義重に仕えた。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城の在城中に大山重光に書状を送った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

立原筑後守【たてはらちくごのかみ(14??~1478)】

北義武家臣。四殿衆。北義武が久米城主に任じられると、附家老職(四殿衆)を務めた。1478年、「久米城の戦い」では、山入義知、山入義房、山入義顕、那須資持勢の攻撃を受けた。山入義知、山入義房、山入義顕らを討取ったが北義武、小田野義安、瀬尾大膳らとともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

館原大炊助【たてはらおおいのすけ(15??~15??)】

東義久家臣。東義堅に仕え篠の沢17貫文を加増された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

館宗種【たてのむねたね(15??~15??)】

石塚義慶家臣。官途は大和守。1557年、石塚義慶から忠節を賞せられて左京亮の官途を与えられた。1570年、「下野武茂の戦い」で那須資胤勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

田中新九郎【たなかしんくろう(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。官途は式部少輔。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

田中若狭守【たなかわかさのかみ(15??~15??)】

田中新九郎の男。1595年、佐竹義宣から久慈郡東蓮寺に50石を加増された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

天神林義陸【てんじんばやしよしむつ(15??~15??)】

天神林左京亮の男。官途は下総守。別名天神林義種。佐竹義昭に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

天神林義広【てんじんばやしよしひろ(15??~15??)】

天神林義陸の男。官途は越前守。通称五郎。1546年、北義兼から官途を受けた。1595年、知行割替で常陸久慈郡に150石を領した。家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

天神林源六郎【てんじんばやしげんろくろう(15??~15??)】

天神林義広の次男。1591年、佐竹義宣に仕えて20貫文の加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

天神林義益【てんじんばやしよします(14??~1504)】

久慈郡馬坂城主。天神林義成の男。1490年、「太田城の戦い」で山入義藤、山入氏義、北義武、宇留野義公らが佐竹義舜を追落すと、山入義藤が太田城主に転じたため、山入城を守備した。1504年、「山入城の戦い」で佐竹義舜勢の攻撃を受け山入氏義とともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

天神林三郎【てんじんばやしさぶろう(15??~1504)】

天神林義益の男。1504年、「山入城の戦い」で佐竹義舜勢の攻撃を受け父天神林義益とともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

天神林左京亮【てんじんばやしさきょうのすけ(15??~1531)】

天神林義成の三男。1504年、「山入城の戦い」で兄天神林義益が佐竹義舜勢の攻撃を受け討死すると、佐竹義舜に従った。1531年、「石岡鹿子原の戦い」で江戸忠通勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

天神林義兼【てんじんばやしよしたね(15??~1542)】

天神林義益の次男。1542年、「久保田、関山の戦い」で佐竹義篤に従って参陣したが、相馬顕胤勢と戦い高久義貞、長倉義尚らとともに討死した。

天神林義種【てんじんばやしよしたね(15??~15??)】

天神林玄蕃亮の男。官途は玄蕃亮。別名天神林義陸。東義喬に仕え、磐城白河で足軽衆を率いた。白河領内で25貫文を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

富岡通茂【とみおかみちしげ(15??~15??)】

小野崎従通家臣。官途は図書助。通称孫太郎。1591年、「額田城の戦い」で小野崎従通が佐竹義宣勢の攻撃を受け伊達政宗を頼って落延ると、隠居した佐竹義重に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

戸村義広【とむらよしひろ(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。官途は摂津守。通称八郎。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

戸村義和【とむらよしかず(15??~1593)】

戸村義広の男。官途は越後守。通称八郎。1593年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って肥前国名護屋に参陣した。朝鮮に渡海したが熊川城において陣没した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

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【な】

内藤掃部【ないとうかもん(14??~15??)】

北義武家臣。四殿衆。1478年、北義武が久米城主に任じられると、附家老職(四殿衆)を務めた。

長倉義尚【ながくらよしひさ(14??~15??)】

那珂郡長倉城主。官途は遠江守。1490年、「太田城の戦い」では、佐竹義治が病没後、山入義藤、山入氏義、北義武、天神林義益、宇留野義公らとともに佐竹義舜を太田城から追落した。1493年、「長倉城の戦い」で佐竹義舜、那須資実勢の攻撃を受け降伏した。

長倉義忠【ながくらよしただ(15??~1540)】

長倉義尚の男。官途は遠江守。通称三郎。1529年、「第一次部垂城の乱」で宇留野義元が佐竹義篤から離反すると、宇留野義元勢に属して佐竹義篤と戦った。1540年、宇留野義元が討死すると長倉義忠も那珂郡野口で謀殺された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

長倉義重【ながくらよししげ(1491~1552)】

長倉義忠の男。官途は遠江守。1542年、「久保田、関山の戦い」で佐竹義篤に従って参陣したが、相馬顕胤勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

長倉義富【ながくらよしとみ(15??~15??)】

長倉義重の男。別名長倉義当。1567年、「大崖山の戦い」では、南路義郷、戸村義広、小場義忠、武茂守綱、大山田綱胤、烏子泰宗、横田綱久、松野篤通、石川昭光、大金重宣らを率いて那須資胤、那須資晴、本庄盛泰勢と戦ったが敗退した。

長倉義尚【ながくらよしなお(15??~1542)】

長倉義忠の次男。別名大沢義尚。1542年、「久保田、関山の戦い」で佐竹義篤に従って参陣したが、相馬顕胤勢と戦い高久義貞、天神林義兼らとともに討死した。

長倉義興【ながくらよしおき(1573~1600)】

長倉義富の男。官途は遠江守。通称三郎。1588年、家臣小林掃部に那珂郡小瀬沢の地を宛行い、軍役などの義務を申し付けた。1589年、「小田原の役」では、佐竹義宣に従って羽柴秀吉に謁して太刀、金を献上した。1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って参陣して肥前国名護屋城を守備した。1595年、知行割替で柿岡城に転封した。1600年、水戸城の修築を命ぜられたが復命しなかったため、蟄居を命ぜられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

長倉義雅【ながくらよしまさ(15??~16??)】

長倉義興の男。

長倉重綱【ながくらしげつな(15??~16??)】

長倉義興の次男。

長倉言信【ながくらげんしん(15??~16??)】

長倉義重の次男。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。

長倉義益【ながくらよします(15??~16??)】

長倉義重の三男。

中田左馬亮【なかたさまのすけ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。和田昭為から那珂郡長倉で普請奉行を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

中田新兵衛【なかたしんべい(15??~15??)】

中田左馬亮の男。1595年、奉行衆の人見藤通から70石の所領を安堵された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

中田若狭守【なかたわかさのかみ(15??~15??)】

北義斯家臣。北義斯、東義久の使者として佐野房綱のもとを訪ねた。1592年、「文禄の役」では、留守居役を務めた。1595年、知行割替では茨城郡入野に100石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

中田駿河守【なかたするがのかみ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。佐竹義重の使者として厩橋城主北条高広のもとを訪れた。芳賀高継の支援について小田野義忠と談合するなど、対外交渉に当たった。1595年、知行割替で那珂郡下伊勢畑などの蔵入地717石余を預かった。1602年、佐竹義宣の羽後久保田城への転封に従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

中村本常【なかむらもとつね(15??~15??)】

南義尚家臣。官途は大学。通称源太。多賀谷重経、芳賀高武から書状を送られた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

中村本治【なかむらもとはる(15??~15??)】

中村本常の男。官途は因幡守。通称巳太郎。1565年、南義尚より忠節を賞された。1585年、南義種から因幡守の官途を拝領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

長山通兄【ながやまもちけい(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。官途は信濃守。大縄江庵とともに多功房朝に書状を送った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

生田目備前守【なばためびぜんのかみ(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

生田目大蔵丞【なばためおおくらのじょう(15??~15??)】 

東義久家臣。1574年、白河領釜子、入野に12貫文の知行を受けた。

滑川伊賀守【なめかわいがのかみ(15??~15??)】 

東義久家臣。1576年、東義久から20貫文の知行を受けた。東義久が鹿島郡に転封になると、佐竹義宣に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

滑河式部少輔【なめかわしきぶしょうゆう(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。山入義藤から所領を与えられた。1503年、「太田城の戦い」で山入氏義勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

滑河藤四郎【なめかわとうしろう(15??~15??)】

滑河式部少輔の男。1503年、佐竹義舜から久慈郡染村で所領を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

滑河信通【なめかわのぶみち(15??~15??)】

久慈郡滑河館主。滑河対馬守の男。官途は兵庫助。通称新六。1516年、父滑河対馬守とともに那須家との戦いに参陣した。1519年、北家義信から偏諱を受けた。1536年、依上保池田を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

奈良民部少輔【ならみんぶしょうゆ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

南路義郷【なんじよしさと(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1567年、「大崖山の戦い」で長倉義当に従い戸村義広、小場義忠、武茂守綱、大山田綱胤、烏子泰宗、横田綱久、松野篤通、石川昭光、大金重宣らとともに那須資胤、那須資晴、本庄盛泰勢と戦い敗退した。

西丸義翁【にしまるよしおう(15??~15??)】

佐竹義宣家臣。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になるとそれに従わず帰農した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

根岸丹後守【ねぎしたんごのかみ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。官途は丹後守。1572年、「陸奥赤館の戦い」で戦功を挙げた。1580年、病気のため軍役を免除された。1591年、山尾城の普請奉行を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

根本賢行【ねもとかたゆき(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。官途は掃部助。通称源二郎。1553年、鹿島神宮領菖蒲谷において5貫文の年貢未納を責められた。1557年、部垂甲神社の奉加帳に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

根本里行【ねもとさとゆき(15??~15??)】

根本賢行の男。官途は紀伊守。通称彦八。1570年、「下野大山田城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1571年、部垂城代に任じられた。1577年、東河内における佐竹家蔵入地の代官職を務めた。1590年、佐竹義重の三男岩城貞隆の附家老職を務めた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

根本通国【ねもとみちくに(15??~15??)】

小野崎通隆の次男(根本里行の養子)。官途は掃部助。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋に参陣した。1595年、知行割替では、大貫村の蔵入地1071石余を預けられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

根本出雲守【ねもといずものかみ(15??~15??)】

東義久家臣。官途は内蔵助。1573年、佐竹義重が下野宮近野神社に鐘を寄進すると、その本願を務めた。1574年、陸奥白河釜子、野手島、入野に13貫文を宛行われた。1583年、東義久から出雲守の官途を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

根本三郎左衛門【ねもとさぶろうざえもん(15??~15??)】

東義久家臣。1573年、下野宮近野神社への鐘寄進では、鋳物師の棟梁を務めた。

根本平衛門尉【ねもとへいえもんのじょう(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

根本源右衛門【ねもとげんえもん(15??~15??)】

根本平衛門尉の男。1531年、佐竹義篤か依上保内で所領を安堵された。
参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

根本平次衛門【ねもとへいじえもん(15??~15??)】

根本越後守の男。佐竹義重に仕えた。1572年、佐竹義重から大森宮内少輔の領地を安堵された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

野内隼人【のうちはやと(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1567年、依上保袋田内で所領を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

野内大膳亮【のうちだいぜんのすけ(15??~15??)】

野内隼人内の男。1585年、依上保の愛宕白雲寺を造営奉行職を務めた。1595年、奉行衆の人見藤通から依上保金沢で400石を加増された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

野内広忠【のうちひろただ(15??~15??)】

野内大膳亮家臣。官途は肥前守。1586年、依上保の稲荷社の造営奉行職を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

野内孫太郎【のうちまごたろう(15??~15??)】

野内広忠の男。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

野口幹成【のぐちみきなり(15??~15??)】

那珂郡野口城主。1540年、「野口城の戦い」では、長倉義忠とともに佐竹義篤に謀反を起して野口城に籠城したが、佐竹義篤勢の攻撃受け落城した。家臣の野口家四天王は降伏した。

野口直之允【のぐちけなおのじょう(15??~15??)】

野口幹成の男。1540年、「野口城の戦い」では、父野口幹成とともに野口城に籠城して佐竹義篤勢と戦った。

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【は】

橋本実時【はしもとさねとき(15??~15??)】

北義憲家臣。通称助兵衛。参考文献:『大和田重清をめぐる人と地域』by日暮冬樹。

馬場篤親【ばばあつちか(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。官途は和泉守。通称新介。別名佐竹基親。佐竹家の京都留守居役として外交で活躍した。1538年、常陸国に帰国した。北家、東家、南家の佐竹三家に次ぐ地位を与えられた。

東政義【ひがしまさよし(1484~1534)】

佐竹義治の五男。官途は左近大夫将監。通称九郎。別名佐竹政義。出家して僧侶となり、周悦と称した。兄佐竹義舜の意向を受け還俗した。1517年、佐竹義舜らとともに佐都神社に奉加した。佐竹義舜が病没すると、兄北義信とともに、甥の佐竹義篤を補佐した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

東義堅【ひがしよしかた(15??~15??)】

佐竹政義の男。官途は左近大夫将監。通称源六郎。別名佐竹義堅。1545年、佐竹義篤が病没すると、北義廉、南義里とともに佐竹義昭の補佐を務め、国政、国衆の統制などで活躍した。1566年、那須資胤と高瀬で戦って大敗し、治部内山で降伏した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

東義喬【ひがしよしたか(15??~1573)】

佐竹義堅の男。官途は薩摩守。通称九郎。別名佐竹義喬。1569年、大窪秀光へ南伊野地を宛行った。継嗣をもうけることができず、弟の東義久が東家の家督を相続した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

東義久【ひがしよしひさ(1554~1601)】

佐竹義堅の次男。官途は中務大輔。通称源六郎。別名佐竹義久。佐竹義重に従って各地を転戦するほか、佐竹義重に従って各地を転戦し戦功を重ねた。1579年、武田晴信と結ぶため、取次役を務めた。佐竹義宣にも重用され、陸奥方面の軍権を担当した。石田三成を通じて羽柴秀吉と結び、羽柴秀吉の直轄領1,000石の代官職も務めた1592年、「文禄の役」では、佐竹義宣勢を率いて肥前名護屋城に参陣した。鹿島郡、真壁郡内で60,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、松平元康と取次役を務め、本領安堵を取り付けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

人見藤通【ひとみふじみち(15??~15??)】

佐竹義重家臣。官途は主膳正。1585年、依上保愛宕神社の棟札を奉納した。1590年、依上保、赤館を初めとする陸奥南郷の支配を担った。1592年、肥前国名護屋へ参陣した。1595年、和田昭為、小貫頼久とともに三奉行として知行割替を推進した。茨城郡内で蔵入地912石余を預かった。

平塚滝俊【ひらつかたきとし(15??~15??)】

佐竹義重家臣。官途は山城守。1592年、「文禄の役」で佐竹義宣に従って肥前名護屋城を守備した。参考文献:『大和田重清をめぐる人と地域』by日暮冬樹。

深谷顕衡【ふかやあきひら(15??~1521)】

結城晴綱家臣。常陸獅子城主。官途は伊豆守。1506年、「獅子城の戦い」で佐竹義舜に降伏したが、結城晴綱が侵攻すると再び結城晴綱に従った。1521年、「獅子城の戦い」で佐竹義篤の侵攻を受けて討死した。

深谷重安【ふかやしげやす(15??~15??)】

深谷顕衡の男。

深谷治行【ふかやはるゆき(15??~15??)】

深谷重安の男。

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【ま】

前澤守胤【まえざわもりきたね(14??~15??)】

佐竹義舜家臣、官途は筑前守。1500年、「孫根城の戦い」で佐竹義舜が山入氏義勢の攻撃を受け金砂山城に落延びるとこれを支援した。1502年、「金砂城の戦い」で山入氏義勢と戦い戦功を挙げた。

前澤篤胤【まえざわあつたね(15??~15??)】

前澤守胤の男。官途は筑前守。通称彦太郎。佐竹義篤に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

前澤昭胤【まえざわあきたね(15??~15??)】

前澤篤胤の男。通称九郎二郎。別名前沢通胤。佐竹義篤に仕えた。1537年、久慈郡利員内の所領を加増された。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

前澤昭為【まえざわあきため(15??~15??)】

前澤篤胤の次男。官途は筑前守。通称彦太郎。1556年、参陣中に佐竹義昭から指示を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

前沢重胤【まえざわしげたね(15??~15??)】

前沢昭為の男。官途は筑後守。佐竹義重に仕えた。1586年、芦名家の家督を巡り、金上盛備から書状を送られた。1593年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従って参陣して肥前国名護屋城を守備した。1595年、知行割替では、陸奥滑津城代を務め蔵入地799石余を預けられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

真崎義直【まさきよしなお(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。真崎義兼の男。官途は駿河守。通称彦三郎。1519年、佐竹義篤に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

真崎義保【まさきよしやす(15??~1573)】

真崎義直の男。官途は駿河守。通称彦三郎。1559年、佐竹義重の偏諱を受けて真崎義保と称した。1571年、「陸奥寺山野績の戦い」で戦功を挙げ、駿河守の官途を与えられた。1573年、「下野南摩の戦い」で南摩秀村勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

真崎重宗【まさきしげむね(15??~15??)】

真崎義直の次男。通称彦六郎。佐竹義重に仕えた。1573年、「下野南摩の戦い」で兄真崎義保が討死すると、すぐにその仇を討って頸級を取り返えす戦功を挙げた。真崎家惣領職を相続した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

真崎宣広【まさきのぶひろ(15??~15??)】

真崎重宗の男。官途は駿河守。通称彦六郎。1590年、上洛する佐竹義重から水戸城の仕置を任された。1595年、知行割替では那珂郡那珂湊の蔵入地2,113石余を預けられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

松平康信【まつだいらのぶひろ(15??~15??)】

久慈郡松平館主。官途は上総介。別名高柿康信。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

松平信広【まつだいらのぶひろ(15??~15??)】

松平康信の男。官途は尾張守。1566年、佐竹義昭から官途を拝領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

松平信久【まつだいらのぶひさ(15??~15??)】

松平信広の男。官途は弾正少弼。通称新四郎。別名高柿信久。1566年、「下野川崎城の戦い」では、佐竹義重に従い参陣して戦功を挙げた。1591年、佐竹義宣の意向で常陸府中城の修築を行った。1595年、知行割替で茨城郡内で200石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

松平義就【まつだいらよしなり(15??~15??)】

松平信久の男。別名高柿義就。松平元康に憚り高柿家に復した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

南義里【みなみよしさと(1511~1553)】

佐竹義舜の男。通称次郎左衛門。別名佐竹義里。兄の佐竹義篤の病没後、東義堅、北義廉らとともに国政に携わった。1546年、那須政資の法要では佐竹義昭とともに香銭を納めた。1567年、「大崖山の戦い」では、重の意向受け、大関高増を支援するため、那須資胤勢と戦ったが敗退した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

南義尚【みなみよしなお(1550~1572)】

佐竹義昭の次男(南義里の養子)。官途は左衛門尉。通称五郎。別名佐竹義尚。大関高増が那須資胤と対立し、南義尚を那須惣領家に擁立しようと画策した。佐竹義重は大関高増を支援して那須資胤と戦った。1572年、佐竹義重は那須資胤と和議を結び、南義尚入嗣は中止された。後に南家義里の養子となり、府中城主を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

南義種【みなみよしたね(1567~1619)】

南義向の男。官途は淡路守。通称左衛門尉。1572年、父南義向が病没したため、伯父佐竹義重に養育された。1580年、佐竹義宣とともに元服を迎え、以降は佐竹義重、佐竹義宣を補佐して北条氏政勢と戦った。1590年、佐竹義宣に従って羽柴秀吉に謁し、太刀、馬、黄金などを献上した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。1595年、知行割替で常陸新治郡など6,246石の蔵入地を預かった。1602年、佐竹義宣が出羽久保田城に転封になると、羽後国へ赴き佐竹義宣を迎えた。湯沢城主を務め、最上義光、伊達政宗らに備えた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

御代重秀【みだいしげひで(15??~15??)】

佐竹義重家臣。官途は安芸守。参考文献:『大和田重清をめぐる人と地域』by日暮冬樹。

迎隼人佐【むかいはやとのすけ(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。1554年、佐竹義昭から磐城南郷川上内で100貫の所領を与えられた。1573年、石川昭光から内応を促す書状を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

向宣政【むかいのぶまさ(1560~1618)】

佐竹義重家臣。官途は右近太夫。もと飛騨小鷹狩城主姉小路高綱の枝連衆。1577年、牛丸重親の謀反により城を追われ家臣の後藤重元とともに常陸国に落延びた。弟の向俊政とともに佐竹義重に仕えた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、横手城代に任じられ家老職を務め、2,000石を領した。参考文献:『大和田重清をめぐる人と地域』by日暮冬樹。

向政次【むかいまさつぐ(15??~16??)】

向宣政の男。通称清兵衛。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

向重政【むかいしげまさ(15??~16??)】

向宣政の次男。兄向政次が病没したため、向家の家督を相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

向俊政【むかいとしまさ(15??~16??)】

向宣政の弟。佐竹義宣に仕え200石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【や】

八木備前守【やぎびぜんのかみ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1570年、八木清次郎を養子に迎えた。

八木清次郎【やぎせいじろう(15??~15??)】

八木備前守の養子。1577年、佐竹義重の家老職を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

八木里吉【やぎさとよし(15??~15??)】

八木清次郎家臣。官途は豊前守。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

野内隼人【やないはやと(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。月居城主。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

野内広忠【やないひろただ(15??~15??)】

野内隼人の男。官途は肥前守。1576年、依上保下津原村に三友院稲荷神社を建立した。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

野内大膳亮【やだいだいぜんのすけ(15??~15??)】

野内広忠の男。1595年、佐竹義宣から400石の所領を与えられた。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

矢野和泉守【やのいずみのかみ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。矢野家惣領職。

矢野彦四郎【やのひこしろう(15??~15??)】

北義廉家臣。矢野和泉守が失脚すると、矢野家惣領職を継承した。

矢野重里【やのしげさと(15??~15??)】

矢野彦四郎の男。官途は大隅守。通称藤二郎。1549年、北義廉から深荻坂の内で3貫文の加増を受けた。1570年、5貫文の加増を受けた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

矢野重玄【やのしげはる(1548~1631)】

矢野重里の男。1591年、北義憲に属して南郷に転封して15貫文の加増を受けた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

矢野久重【やのひさしげ(15??~16??)】 

矢野重里の次男。官途は大隅守。通称藤二郎。1582年、東義久から偏諱を受けた。1588年、使者として大掾清幹を訪問した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、継嗣の矢野堅重とともに従った。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

矢野堅重【やのかたさと(15??~16??)】

矢野久重の男。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

矢野廉俊【やのかどとし(15??~15??)】

矢野重里の三男。官途は讃岐守。通称惣右衛門。北義斯に仕えた。1575年、磐城南郷で2貫文を領した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になるとそれに従った。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

矢野重清【やのしげきよ(15??~15??)】

北義斯家臣。矢野彦四郎の次男。官途は信濃守。通称藤七。1563年、北義斯から高野前の所領と小深屋敷を拝領した。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

矢野重玄【やのしげはる(1548~1631)】

矢野重清の男。官途は信濃守。通称藤七。1591年、佐竹義憲に従って陸奥南郷に移り15貫文加増を受けた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

矢野斯重【やのつなしげ(1551~1635)】

矢野重清の次男。通称平次右衛門。1567年、北義斯より偏諱を受け、また5貫文の知行を得た。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

山入義知【やまいりよしとも(14??~1478)】

久慈郡山入城主。山入祐義の男。官途は上総介。別名佐竹義知。惣領家の佐竹義治と対立した。1478年、「久米城の戦い」で佐竹義治、北義武、小田野義安勢と戦い北義武、小田野義安を討取る戦功を挙げるも、弟の山入義顕、継嗣の山入義房を失った。岩城親隆の支援を受けた佐竹義治勢の反撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入義顕【やまいりよしあき(14??~1478)】

山入祐義の次男。通称四郎次郎。1478年、「久米城の戦い」では、先陣を務めたが、小田野義安の反撃を受け甥の山入義房とともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入義真【やまいりよしまさ(15??~15??)】

山入祐義の三男。1478年、兄の山入義知が岩城親隆の支援を受けた佐竹義治勢の反撃を受け討死したため、山入家の家督を相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入義房【やまいりよしふさ(14??~1478)】

山入義知の男。1478年、「久米城の戦い」で小田野義安の反撃を受け叔父の山入義顕とともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入義藤【やまいりよしふじ(15??~1492)】

佐竹義真の男。別名佐竹義藤。1490年、「太田城の戦い」では、佐竹義治が病没後、山入義藤、山入氏義、北義武、天神林義益、宇留野義公らとともに佐竹義舜を太田城から追落した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入氏義【やまいりうじよし(15??~1504)】

山入義藤の男。別名佐竹氏義。 1492年、父山入義藤が病没すると、北義武、天神林義益、宇留野義公らが佐竹義舜と和議を結んだ。1493年、「長倉城の戦い」で長倉義久が佐竹義舜、那須資実勢の攻撃を受け降伏すると、江戸通雅、小野崎親通らが離反するなど劣勢に立たされた。1502年、「金砂城の戦い」で佐竹義舜を自害寸前まで追い詰めたが、佐竹義舜勢の奇襲攻撃を受け敗退した。1504年、「太田城の戦い」で佐竹義舜勢の攻撃を受け落延びるが茂木で小田野義正に捕縛され斬頸に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入義盛【やまいりよしもり(15??~1504)】

山入氏義の男。官途は左京大夫。1504年、「太田城の戦い」で佐竹義舜勢の攻撃を受け落延びるが茂木で父山入氏義とともに捕縛され斬頸に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入義遠【やまいりよしとう(15??~15??)】

山入義盛の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山入義嗣【やまいりよしたけ(15??~15??)】

山入義盛の次男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山方定利【やまがたさだとし(15??~15??)】

佐竹義昭家臣。那珂郡山方城主。山方国利の男。官途は能登守。山方家惣領家職。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

山方篤定【やまがたあつさだ(15??~15??)】

山方定利の男。官途は能登守。通称半九郎。1577年、佐竹義重の使者として真壁儀幹を訪ねた。1595年、知行割替では那珂郡東野の蔵入地1,566石余りを預かった。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

山方重泰【やまがたしげやす(15??~1642)】

山方篤定の男。官途は能登守。通称助八郎。鹿島神宮社領と佐竹義重の取次役を務めた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

山県重広【やまがたしげひろ(15??~15??)】 

佐竹義重家臣。官途は信濃守。菅谷憲景、大縄江庵らの取次役を務めた。1593年、「文禄の役」では、佐竹義宣に従い肥前名護屋城を守備した。1595年、知行割替では茨城郡田野ほかの蔵入地を計1,686石余を預かった。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

山県宣澄【やまがたのぶずみ(15??~16??)】 

山県重広の男。通称正左衛門。参考文献:『大和田重清をめぐる人と地域』by日暮冬樹。

横田綱久【よこたつなひさ(15??~15??)】

野口幹成家臣。野口家四天王。1540年、「野口城の戦い」では、佐竹義篤に謀反を起した野口幹成とともに野口城に籠城したが、佐竹義篤勢の攻撃を受け降伏した。1567年、「大崖山の戦い」で長倉義当に従い戸村義広、小場義忠、武茂守綱、大山田綱胤、烏子泰宗、南路義郷、松野篤通、石川昭光、大金重宣らとともに那須資胤、那須資晴、本庄盛泰勢と戦い敗退した。

吉田通貞【よしだみちさだ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。官途は和泉守。研師(大工)の棟梁を務めた。参考文献:『大和田重清をめぐる人と地域』by日暮冬樹。

吉田隼人正【よしだはやとのじょう(15??~15??)】

吉田通貞の男。参考文献:『大和田重清をめぐる人と地域』by日暮冬樹。

吉成織部【よしなりおりべ(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1583年、依上保開田村十二天社の造営に尽力した。1595年、知行割替では349石を領した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それには従わず、依上保で帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

吉成豊後守【よしなりぶんごのかみ(15??~16??)】

東義久家臣。1589年、「磐城大平の戦い」で戦功を挙げ、東義久より豊後守の官途を与えられた。1595年、知行割替では陸奥南郷東館に40石を領した。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

吉成相模守【よしなりさがみのかみ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。1536年、佐竹義篤から依上保鍬柄に所領を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

吉原和泉守【よしわらいずみのかみ(15??~15??)】

佐竹義篤家臣。官途は修理進。通称弥七郎。番匠(大工)の棟梁を務めた。1511年、石橋大和守とともに馬場八幡宮の造営にあたった。1533年、佐竹義篤から天神林内で1町を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

吉原近江守【よしわらおうみのかみ(15??~15??)】

吉原和泉守の男。番匠(大工)の棟梁を務めた。佐竹義昭、佐竹義重に仕えた。1598年、佐竹義宣から石崎内で50石を与えられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

若林与右衛門【わかばやしじょうえもん(15??~15??)】

佐竹義重家臣。1570年、「磐城石川城の戦い」で佐竹義重に従い戦功を挙げた。1571年、「磐城三丁目の戦い」で佐竹義重に従い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

和田大隅守【わだおおすみのかみ(15??~15??)】

佐竹義舜家臣。1528年、佐竹義舜から石井六郎の指南を命じられた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

和田為秀【わだためひで(15??~15??)】

和田大隅守の養子。官途は豊前守。別名石井豊前守。

和田昭為【わだあきため(1532~1618)】

石井為忠の男(和田為秀の養子)。官途は安房守。行政面で手腕を振るった。1571年、車斯忠から讒訴を受け白河結城義顕のもとに出奔した。結城義顕に仕えると里白石城主に任じられた。結城義親が結城義顕を追放した。1575年、「陸奥白河城の戦い」で佐竹義重に内応して結城義親の先陣を務め、佐竹義重勢へ突撃し孤立した結城義親を捕縛する戦功を挙げ帰参した。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に参陣した佐竹義宣の留守居役を務めた。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封すると、それに従った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

和田為綱【わだためつな(15??~1571)】

和田昭為の男。官途は兵部大輔。1571年、父和田昭為が出奔したため、佐竹義重の意向を受けた小田部里胤勢の攻撃を受け和田彦十郎、和田為藤らとともに迎え撃つが討死した。

和田彦十郎【わだひごじゅうろう(15??~1571)】

和田昭為の次男。1571年、父和田昭為が出奔したため、佐竹義重の意向を受けた小田部里胤勢の攻撃を受け兄和田為綱、和田為藤らとともに迎え撃つが討死した。

和田為藤【わだためふじ(15??~1571)】

和田昭為の三男。通称善九郎。1571年、父和田昭為が出奔したため、佐竹義重の意向を受けた小田部里胤勢の攻撃を受け兄和田為綱、和田彦十郎らとともに迎え撃つが討死した。

和田重仲【わだしげなか(15??~15??)】

和田昭為の五男。1558年、「玉里の戦い」で討死した。

和田為宗【わだためむね(15??~1641)】

和田昭為の六男。通称半四郎。別名小貫頼為。番所で博打に耽って改易処分に処され寺で謹慎した。兄小貫頼重の蟄居すると、小貫家の家督を相続した。1641年、咎めを受け改易処分に処され自刃した。

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【資料Ⅰ】

北常陸国(3郡/260,000石)

多賀郡:車城、龍子山城、友部城、助川城、安良川城、多珂街、御岩寺。
久慈郡:太田城、茅根城、依上城、月居城、山入城、久慈街、西金砂寺。
那珂郡:野口城、長倉城、額田城、石神城、那珂湊。

北常陸国という国は存在しません。分類のため常陸国を北常陸国と南常陸国に分割しました。

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【資料Ⅱ】

小野崎三家【おのざきさんけ】

山尾小野崎、額田小野崎、石神小野崎。

小野崎家四天王【おのざきしてんのう】

大森、茅根通景、根本為義、武士。

久米城四殿衆【くめじょうしどのしゅう】

石沢河内介、瀬尾大膳、内藤掃部、立原筑後。北義武に附家老四人衆。

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【資料Ⅲ】

北常陸国【ひたちのくに】

関東の東端に位置する東海道の国。北は阿武隈山地で磐城国、岩代国に接し、南は利根川を境に下総国と国境を隔てる。西は八溝山地が下野国との国境を作り、東は長い海岸線で鹿島灘に臨む。国内は阿武隈山地、八溝山地のある北部の高地と、常陸台地から関東平野に続く南部の低地とに二分される。全般的に気候は温暖っで作物は豊かであるが、国の中心は南部の中心にあり、広い平野部と利根川、霞ヶ浦、北浦などの恵まれた水利によって農業生産が盛んである。この地域では古代から、農地開発が進んでおり、田地の面積は広い。さらに鹿島浦を中心に漁業も盛んで、山海幸に恵まれた良国である。関東地方の上野国、下野国の両国が険峻な山地でしか東北地方と連絡出来ないのに対して、常陸国では鹿島灘に面した海岸の平地沿いに街道が開けている。このため、古代には東北地方の開発の根拠地となった。東北地方との常陸国との国境に勿来関が設けられた。

勿来関【なこそのせき】

常陸国と磐城国の国境に設けられた、奥州三古関のひとつ。古くから東北地方の玄関口としての役割を果たしてきた。

那珂湊【なかのみなと】

下野国那須郡から常陸国を貫流して太平洋に注ぐ那珂川の河口部に位置し、常陸国の内陸部などの同河川流域と海路を結ぶ湊街。1590年、江戸家を降伏させて那珂湊を支配下に置いた佐竹家はこの湊に蔵入地とともに「湊御殿」とよばれる別館を設けている。那珂湊はこの佐竹家の直轄支配のもとで近世都市として発展した。

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戦国人名辞典は1480~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は文献を表示していますが、架空歴史小説も含まれるため、記載されている人物が史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康、黒田如水は黒田孝高、武田晴信、上杉謙信は長尾景虎に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、参考文献:『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『房総戦国土豪の終焉』by崙書房、『戦国房総人名事典』by崙書房出版。『戦国大名里見氏』by崙書房、『里見義堯』byPHP文庫。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2011年8月14日日曜日

戦国下総国人名辞典


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【あ】

会田内蔵助【あいだくらのすけ(15??~15??)】

簗田高助家臣。1574年、「関宿城の戦い」で戦功を挙げた。簗田高助が降伏して関宿城が開城すると、北条氏照に仕えた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

会田掃部助【あいだかもんのすけ(15??~15??)】

会田蔵助の男。官途は大膳。1574年、「関宿城の戦い」後、北条氏政勢に属した。1583年、北条氏政の家臣栗橋城代布施景尊から官途を受けた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

粟飯原右衛門三郎【あいはらうえもんさぶろ(14??~15??)】

千葉勝胤家臣。粟飯原左近将監の男。1509年、輪覚寺に安堵状を発給した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

粟飯原右馬充【あいはらうまのじょう(15??~15??)】

千葉胤富家臣。1562年、森山城代石毛助九郎勢に属した。馬場大膳亮から御神事銭の徴収を命じられた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

粟飯原久四郎【あいはらきゅうしろう(14??~15??)】

千葉勝胤家臣。1505年、千葉妙見宮で行われた千葉昌胤の元服式に列席して神前に御馬と腰刀を奉納した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

粟飯原大学【あいはらだいがく(14??~15??)】

千葉勝胤家臣。1505年、千葉妙見宮で行われた千葉昌胤の元服式に列席して神前に御馬と腰刀を奉納した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

粟飯原信尊【あいはらのぶたか(15??~15??)】

千葉勝胤家臣。官途は民部少輔。歌人。1514年、『雲玉和歌集』に「ふけのぼるみたにの水にすむ月やあるより出づる氷なるらん」という和歌を収めた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

粟飯原文三【あいはらぶんぞう(15??~15??)】

千葉昌胤家臣。1523年、佐倉妙見宮で行われた千葉利胤の元服式では、原孫七とともに御供を務めた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

粟飯原孫太郎【あいはらまごたろう(15??~15??)】

千葉勝胤家臣。1505年、千葉妙見宮で行われた千葉昌胤の元服式に列席して、粟飯原久四郎、粟飯原大学とともに神前に御馬と腰刀を奉納した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

粟飯原胤次【あいはらたねつぐ(15??~15??)】

香取郡森山城主。官途は但馬守。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

粟飯原常次【あいはらつねつぐ(15??~15??)】

粟飯原胤次の男。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

栗飯野俊胤【あいはらとしたね(15??~1589)】

香取郡小見川城主。1565年、「米野井城の戦い」で米野井城が攻落とされると、大須賀政常とともに里見義堯勢と戦った。1580年、里見義弘勢を撃退。1589年、「小田原の役」では、北条氏直勢に属したため、羽柴秀吉勢の攻撃を受けて討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

粟飯原光胤【あいはらみつたね(15??~1588)】

北条氏康の九男(粟飯原胤次の養子)。官途は出雲守。粟飯原胤次の継嗣粟飯原常次の病没後、粟飯原家の家督を相続した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

粟飯原俊胤【あいはらとしたね(15??~15??)】

千葉邦胤の四男(粟飯原光胤の養子)。通称孫平。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

粟飯原保宗【あいはらやすむね(15??~15??)】

粟飯原幹宗の孫。官途は左衛門大夫。1532年、見川金剛寺に所領を寄進した。1577年、足利義氏のもとに他の関東諸士とともに年頭祝儀に参列した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

青柳四郎右衛門尉【あおやぎしろうえもんのじょう(15??~15??)】

千葉胤富家臣。通称与七郎。1568年、千葉胤富のもとで元服した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

赤萩市左衛門【あかはぎいちざえもん(15??~16??)】

結城秀康家臣。結城家十人衆のひとり。1602年、結城秀康が越前国に転封すると、結城郡で結城家菩提を供養するため、帯刀を認められ帰農した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

赤萩長左衛門【あかはぎちょうざえもん(15??~16??)】

結城秀康家臣。結城家十人衆のひとり。1602年、結城秀康が越前国に転封すると、結城郡で結城家菩提を供養するため、帯刀を認められ帰農した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

秋山大学【あきやまだいがく(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康勢と戦った。1589年、「小田原の役」では、高城胤則に従って小田原城に籠城した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

浅野丹波守【あさのたんばのかみ(15??~15??)】

豊島頼継家臣。

古河公方足利政氏【あしかがまさうじ(1466~1531)】

猿島郡古河城主。足利成氏の男。官途は左馬頭。室町幕府古河公方。扇谷上杉定正とともに山内上杉顕定勢と戦った。1494年、上杉定正が病没すると、上杉顕定と結び、扇谷上杉朝良と戦った。1497年、父足利成氏の病没により古河公方足利家を家督を相続した。1505年、扇谷上杉朝良、山内上杉顕定と結び、伊勢盛時勢と敵対するが、両上杉家と結ぶことに反対する継嗣の足利高基と対立した。1506年、小山政長を頼って下野国祇園城に落延びた。1519年、武蔵国久喜城に隠居した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

古河公方足利高基【あしかがたかもと(1485~1535)】

足利政氏の男。官途は左兵衛佐。室は宇都宮成綱の娘。山内上杉憲房、扇谷上杉朝良らの対応をめぐり、父足利政氏と不和になった。1506年、「永正の乱」では、足利高基と足利政氏との戦いのさなか、足利政氏の次男足利義明が独立して、小弓公方を称した。1512年、古河公方職と足利家の家督を相続した。扇谷上杉朝良や山内上杉憲房と対抗するために北条氏綱と結んで、勢力を拡大した。後に、山内上杉憲房と和議を結び次男の上杉憲寛を養子に送り込んだ。継嗣の足利晴氏とも対立した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

古河公方足利基頼【あしかがもとより(15??~1538)】

足利政氏の次男。1515年、兄足利高基勢に属して常陸国にあったが、次兄の足利義明が小弓城を領して独立すると、足利義明勢に属した。1538年、「第一次国府台の戦い」で北条氏綱の家臣山本兵庫助にに討取られた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

古河公方足利晴氏【あしかがはるうじ(1508~1560)】

足利高基の男。官途は左兵衛督。室は簗田高助の娘。継室は北条氏綱の娘(芳春院)。1538年、「第一次国府台の戦い」では、北条氏綱と結び、足利義明を滅ぼした。北条氏綱の病没後、後を継いだ北条氏康と敵対し山内上杉憲政や扇谷上杉朝定と結んだ。1546年、「河越城の戦い」で大敗すると、足利晴氏の支持基盤は急速に低下した。1552年、古河公方家の家督を足利義氏に譲ることを余儀なくされた。1554年、「古河城の戦い」では、北条氏康勢の攻撃受け落城、相模国波多野に幽閉された。1557年、古河城へ復帰を許されたが、北条氏康によって廃嫡された足利藤氏の足利義氏への謀反が発覚して、栗橋城に幽閉された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

古河公方足利藤氏【あしかがふじうじ(15??~1566)】

足利晴氏の男。父足利晴氏の継室である北条氏綱の娘(芳春院)から足利義氏が生まれたため、北条氏康の圧力により廃嫡にされた。長尾景虎の支援を受け足利義氏を追放し古河城に入城したが、長尾景虎が関東から引き上げると、北条氏康の攻勢を受けた。1562年、足利藤氏は古河城から上総国池和田城主多賀信家のもとに落延びた。1566年、北条氏康に捕縛され謀殺された。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

古河公方足利義氏【あしかがよしうじ(1541~1582)】

足利晴氏の次男。室は北条氏康の娘(浄光院)。1555年、北条氏康の支持を受けて、兄足利藤氏を廃嫡して、古河公方足利家の家督を相続した。長尾景虎が関東管領職を継ぐと、足利藤氏を古河公方職に擁立したため、古河城を追われた。1558年、鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣後、古河城に復帰した。1570年、「越相同盟」の締結により、長尾景虎からも古河公方職として補任された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

古河公方足利藤政【あしかが じまさ(15??~1574)】

足利晴氏の三男。別名足利輝氏。1566年、兄足利藤氏が謀殺されると、里見義弘の支援を受けながら、復権運動を行った。1574年、「第三次国府台の戦い」後、北条氏康によって自刃させられた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

古河公方足利家国【あしかがいえくに(15??~15??)】

足利晴氏の四男。別名「雪下殿」。鎌倉鶴岡八幡宮若宮別当職を務めた。還俗して兄足利藤氏勢に属して関東各地を転戦した。1561年、長尾景虎勢に属して、関宿城の足利義氏勢と戦い古河城に入城した。1562年、北条氏康勢の攻撃を受け古河国から里見義堯を頼り落延びた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

小弓公方足利義明【あしかがよしあき(15??~1538)】

千葉郡小弓城主。足利政氏の次男。官途は右兵衛佐。別名「空然」。僧となり鎌倉雪ノ下の八正寺の住職となった。1506年、「永正の乱」で父足利政氏と兄足利高基が対立すると、上総国真里谷城主真里谷信清の支援を受け、還俗して足利義明と称した。1520年、「小弓城の戦い」で千葉昌胤の家臣原胤隆、原虎胤、高城胤吉らを撃破って小弓城主となり足利高基と対立した。その後、対外政策で真里谷信清と対立した。真里谷信清が病没すると、真里谷家の内紛に介入し、真里谷信隆を追放し真里谷信応を擁立した。真里谷信隆は、足利晴氏、北条氏康と結び足利義明と敵対した。1538年、「第一次国府台の戦い」では、足利晴氏、北条氏綱勢対して戦局を優勢にすすめたが、里見義堯が消極的で士気が上がらず、北条氏綱の反撃を受け討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

小弓公方足利義純【あしかがよしずみ(15??~1538)】

足利義明の男。1538年、「第一次国府台の戦い」では、父足利義明とともに参陣したが、北条氏綱勢に敗れ、足利義明とともに討死した。

小弓公方足利頼純【あしかがよりずみ(15??~15??)】

足利義明の次男。別名喜連川頼淳。1538年、「第一次国府台の戦い」で父足利義明が討死すると、里見家を頼って落ち延び、その庇護を受けた。元服後は小田喜城に滞在したとも後に諸国を流浪した。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、里見義康の支援を受け小曾根胤盛、逸見右馬助、佐野為綱らとともに小弓城を奪還した。娘の鳩子(のちの月桂院)が羽柴秀吉の側室となったため、下野国喜連川城を領した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

小弓公方足利国朝【あしかがくにとも(1572~1593)】

足利頼純の男。官途は右兵衛督。父足利頼純とともに正木憲時の支援を受けた。1581年、正木憲時が討死すると、安房国丸郡石堂寺に移った。里見義頼から小弓公方に擁立された。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、羽柴秀吉の意向を受け足利義氏の娘(氏姫)と婚姻、下野国塩谷郡内で3,500石を領して足利家を再興した。1592年、「文禄の役」に参陣したが、まもなく病没した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

小弓公方足利頼氏【あしかがよりうじ(1580~1630)】

足利頼純の次男。1593年、兄足利国朝が病没すると、喜連川家の家督を相続して、兄嫁の氏姫を娶った。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

足利青岳尼【あしかがしょうがくに(15??~15??)】

里見義弘の室。足利義明の娘。もとは鎌倉尼五山筆頭太平寺の住持であった。1538年、「第一次国府台の戦い」で父足利義明が討死したため、安房国に移り里見義堯の保護を受けた。その後、相模国鎌倉の太平寺で出家した。1556年、鎌倉を攻撃した里見義弘は彼女に恋焦がれる余り、太平寺にいた青岳尼を訪れて還俗して内室になるように勧める。彼女もこれに応じて江戸湾を渡り、里見義弘の居城のあった上総国佐貫城に入り内の室となった。

芦屋遠江守【あしやとうとうみのかみ(15??~1538)】

足利義明家臣。1538年、「第一次国府台の戦い」で討死した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

芦屋国重【あしやくにしげ(1523~1589)】

芦屋遠江守の男。官途は遠江守。通称右衛門尉。足利頼純に仕えたが、後に里見義弘勢に属した。1582年、里見義頼から十七ヶ村の所領を安堵された。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

厚木弥三郎【あつぎやさぶろう(15??~15??)】

結城政勝家臣。1556年、『結城氏新法度』に署名した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

厚木若狭守【あつぎわかさのかみ(15??~15??)】

結城晴朝家臣。1560年、結城晴朝勢に属して北関東各地を転戦した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

厚木丹後守【あつぎたんごのかみ(15??~15??)】

厚木若狭守の男。結城秀康に仕えた。1601年、結城秀康の越前国福井城への転封に従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

我孫子但馬守【あびこたじまのかみ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。小金大谷口城主。1582年、高城胤辰が病没すると、継嗣の高城胤則に仕えた。1589年、「小田原の役」では、高城胤則勢に属して高城胤正、高城胤知、田嶋時定、座間遠江守、安蒜兵庫、匝瑳出羽守、梅澤兵庫、海上隼人、林弾正左衛門、布施美作守、花嶋勘解由、藤谷修理、新井郷左衛門、秋山久左衛門、秋山大学、吉田四郎左衛門、鈴木新右衛門、池田雅楽助、戸邉靱負らとともに小田原城に籠城した。北条氏直が滅亡すると、所領を失った。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

我孫子五郎右衛門【あびこごろうざえもん(15??~15??)】

我孫子城主。1579年、「手賀城の戦い」で手賀城主手賀胤親が千葉邦胤の家臣原胤栄勢の攻撃を受けると、手賀胤親を支援するため柴崎城主荒木三河守、芝原城主河村出羽守、布佐城主豊島肥前守らの我孫子の諸将1,600余りは原胤貞勢を背後から攻撃して撃破した。

安蒜日向守【あびるひゅうが(15??~15??)】

高城胤吉家臣。1518年、「小弓城の戦い」では、高城胤吉の意向で原胤清勢に属して足利義明勢と戦った。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

安蒜介次郎【あびるすけじろう(15??~1518)】

安蒜日向守の男。1518年、「小弓城の戦い」では、高城胤吉の意向で原胤清勢に属して足利義明勢と戦い討死した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

安蒜淨意【あびるじょうい(15??~15??)】

安蒜日向守の男。新川深井城主。官途は丹後守。1540年、高城胤吉の意向で大谷口城を築城した。大谷口城が完成すると、高城胤吉は根木内城から移り大谷口城を居城とした。1582年、高城胤辰が病没すると、幼少の高城胤則が高城家の家督を相続した。安蒜丹後守、高城筑前守、安蒜伊予守の三人が後見役を務めた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

安蒜伊予守【あびるいよのかみ(15??~15??)】

安蒜淨意の男。高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」では、高城四郎右衛門、安蒜但馬守、田嶋兵部少輔、安蒜備前守、血矢次郎右衛門、座間遠江守、鈴木新右衛門、田口因幡守、匝瑳牛五郎、吉野縫殿助、日暮又左衛門、秋山大学、新井郷左衛門、藤谷修理、海上隼人、戸邉靱負、池田雅楽助、梅澤兵庫、布施美作守、花嶋勘解由、斎藤大隅守、林弾正左衛門らとともに参陣した。1582年、高城胤辰が病没すると、幼少の高城胤則が高城家の家督を相続した。安蒜丹後守、高城筑前守、安蒜伊予守の三人が後見役を務めた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

安蒜備前守【あびるびぜんのかみ(15??~15??)】

安蒜淨意の次男。深井城主。別名八木原備前。1589年、「小田原の役」では、高城胤則が千葉介重胤勢に属して小田原城に籠城したため、安蒜備前守は小金城に高野縫殿助、平河若狭守、血矢次郎右衛門、日暮又左衛門、高橋次左衛門らとともに大谷口城に籠城した。北条氏直が滅亡すると、改易処分に処された。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

安蒜兵庫【あびるひょうご(15??~15??)】

高城胤則家臣。1589年、「小田原の役」では、高城胤則が千葉重胤勢に属して小田原城に籠城したため、安蒜備前守勢に属して大谷口城に籠城した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

安蒜右京亮【あびるうきょうのじょう(15??~1517)】

高城胤吉家臣。1517年、「馬橋の戦い」で討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安蒜彦五郎【あびるひこごろう(15??~1521)】

高城胤吉家臣。1521年、「名都狩の戦い」で討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

新井兵衛三郎【あらいひょうえさぶろう(15??~15??)】

布川の廻船問屋。1581年、里見義頼から通行許可の朱印状を得た。布川から関宿を得て、利根川経由で江戸湾の諸湊などと交易を行った。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

荒川市右衛門【あらかわいちえもん(15??~16??)】

結城秀康家臣。結城家十人衆のひとり。1602年、結城秀康が越前国に転封すると、結城郡で結城家菩提を供養するため、帯刀を認められ帰農した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

鮎川豊後守【あゆかわぶんごのかみ(15??~15??)】

簗田高助家臣。常陸川、利根川、渡良瀬川水系で水運、軍事、交通に携わった。1527年、足利高基の家臣簗田高助の意向を受け名都借城を攻撃した。1565年、岩槻方面で戦功を挙げた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

鮎川図書介【あゆかわずしょのすけ(15??~15??)】

鮎川豊後守の男。1562年、「貝吹城の戦い」後、北条氏康勢と河舟を使って戦った。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

鮎川美濃守【あゆかわみののかみ(15??~15??)】

鮎川豊後守家臣。1527年、足利高基の家臣簗田高助の意向を受け鮎川豊後守とともに都借城を攻撃した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

鮎川安勝【あゆかわやすかつ(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。官途は筑後守。

新井郷左衛門【あらいごうざえもん(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康勢と戦った。1589年、「小田原の役」では、高城胤則に従って小田原城に籠城した。

荒井治部【あらいじぶ(15??~15??)】

豊島頼継家臣。

荒井治郎【あらいじろう(15??~15??)】

豊島頼継家臣。

荒川助忠【あらかわすけただ(15??~15??)】

足利晴氏家臣。官途は和泉守。足利義氏の奉行衆の松嶺昌寿の従者。1584年、北条氏照勢と戦った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

荒木胤重【あらきみかわのかみ(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。葛飾郡柴崎城主。官途は三河守。柴崎城12,000石を領した。1561年、柴崎神社の社殿を修復した。1573年、柴崎神社に太刀を奉納した。1579年、「手賀城の戦い」では、原胤栄勢の攻撃を受けた。手賀城主原胤親は荒木三河守ら我孫子衆に救援を求め、高城胤辰、我孫子城主我孫子五郎右衛門、芝原城主河村出羽守、布佐城主豊島肥前守らとともに原胤栄勢を撃退した。

粟井原俊胤【あわいはらとしたね(15??~15??)】

香取郡小見川城主。千葉胤富家臣。里見義堯の家臣正木時忠勢の攻撃を度々受けた。1589年、「小田原の役」では、北条氏直勢に属して羽柴秀吉勢の攻撃を受け落城した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

粟野四郎兵衛【あわのしろうえもん(15??~15??)】

千葉胤富家臣。森山衆のひとり。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

安西実胤【あんざいさねたね(15??~15??)】

足利晴氏家臣。官途は蔵人佑。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

安西政胤【あんざいまさたね(15??~15??)】

足利晴氏家臣。官途は近江守。通称右衛門尉。文化人として知られ、歌道を得意とした。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

安西能胤【あんざいよしたね(15??~15??)】

足利義氏家臣。官途は但馬守。通称右京亮。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

安西晴胤【あんざいはるたね(15??~15??)】

足利晴氏家臣。安西能胤の男。奏者役を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

安西摂津守【あんざいせっつのかみ(15??~15??)】

安西晴胤の男。足利国朝に仕えた。

安藤豊前守【あんざいぶぜんのかみ(15??~15??)】

千葉勝胤家臣。1505年、千葉妙見宮で行われた千葉昌胤の元服式で、千葉中諸社への使者を務め、神前へ御馬、腰刀を奉納した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

安藤備中守【あんどうびっちゅうのかみ(15??~15??)】

千葉邦胤家臣。森山衆のひとり。1585年、森山城将原親幹、石毛金右衛門尉とともに千葉邦胤から軍役の徹底を命じられた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

安藤左衛門【あんどうさえもん(15??~15??)】

千葉昌胤家臣。1523年、佐倉妙見宮で行われた千葉利胤の元服式で、千葉中諸社への使者を務めた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

安藤隼人佐【あんどうはやとのすけ(15??~15??)】

千葉胤富家臣。森山衆のひとり。1562年、千葉胤富の奉行衆馬場大膳亮から海上八幡宮の御神事銭の撰銭徴収を命じられた。

飯篠盛信【いいざさもりのぶ(15??~15??)】

飯篠盛近の男。官途は若狭守。天真正伝神道流の刀槍術を父飯篠盛近から継承した。1519年、香取宗仲に所領の一部を売却した。1520年、戸牧の用地を僧教伝から借り受けた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

飯篠盛綱【いいざさもりつな(15??~15??)】

飯篠盛信の男。官途は山城守。天真正伝神道流の刀槍術を父飯篠盛信から継承した。1559年、伊藤四郎衛門の後室と連署で所領を香取新福寺に寄進した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

飯篠盛秀【いいざさもりひで(15??~15??)】

飯篠盛綱の男。官途は左衛門尉。通称善次郎。1580年、曾祖父飯篠盛近の菩提を弔いため、香取新福寺に所領を寄進した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

飯野兵介【いいのひょうすけ(15??~15??)】

千葉胤富家臣。本佐倉城衆のひとり。1562年、千葉胤富の意向で奉行人馬場大膳亮が森山城の城将石毛助九郎らとともに海上八幡宮の御神事銭の撰銭徴収を指示された。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

飯森三郎左衛門尉【いいもりさぶろうざえもんのじょう(15??~15??)】

正木兵部大輔家臣。嶺上衆のひとり。天羽郡嶺上城を守備した。1537年、真里谷信隆と真里谷信応の家督争いでは、足利義明が真里谷信応を支援して、北条氏綱が真里谷信応を支援した。真里谷信応の援軍として派遣された、大藤金谷斎が窮地に陥ると、東慶寺塔頭蔭涼軒の仲介により和議を結んだ。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

伊賀藤三【いがとうぞう(15??~15??)】 

足利藤氏家臣。下幸島内馬立を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

伊賀藤七郎【いがとうしろう(15??~16??)】 

伊賀藤三の男。1574年、下幸嶋を領した。1647年、「喜連川家騒動(尊信狂乱)」で喜連川尊信の家臣二階堂主膳助と高四郎左衛門と派閥争いが起こり、高四郎左衛門と伊賀藤七郎が大島に流罪になり、喜連川尊信は隠居させられた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

渭継尼【いけいに(15??~15??)】

足利義明の妹。別名松岡殿。相模国鎌倉の東慶寺で住職を務めた。1537年、真里谷信隆と真里谷信応の家督争いで、北条氏康が真里谷信隆、足利義明が真里谷信応を支援すると、真里谷信隆勢の援軍として派遣された大藤金谷斎人が窮地に陥った際、北条氏康の意向を受け和議の交渉を成立させた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

池田雅楽助【いけだうらくのすけ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」に参陣して北条氏康勢と戦った。

伊佐岡久右衛門【いさおかじゅうえもん(15??~15??)】

結城秀康家臣。結城家十人衆のひとり。1602年、結城秀康が越前国に転封すると、結城郡で結城家菩提を供養するため、帯刀を認められ帰農した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

石川晴光【いしかわはるみつ15??~15??)】

足利晴氏家臣。官途は修理亮。足利晴氏から官途を受けた返礼として太刀と馬を上進した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

石川主水【いしかわもんど(15??~15??)】

石川式部少輔の男。1601年、結城秀康の越前国の転封には従わず帰農した。

石川彦六【いしかわひころく(15??~15??)】

簗田高助家臣。

石川隠岐守【いしかわおきのかみ(15??~15??)】 

足利晴氏家臣。武蔵国埼玉郡向古河郷を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

石川左近将監【いしかわさこんしょうげん(15??~15??)】 

石川隠岐守の男。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

石川信濃守【いしかわしなののかみ(15??~15??)】 

石川左近将監の男。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

石毛政重【いしげまさしげ(15??~1575)】

岡田郡石毛城主。豊田政親の次男。別名豊田政重。1532年、父豊田政親が下妻城主多賀谷家重の南下に備え石毛城を築城し、石毛政重を石毛城主に任じた。1558年、「長峰原の戦い」では、多賀谷政経勢の侵攻を受けたが、兄豊田治親、援将の小田氏治勢とともに撃退した。1561年、豊田政親とともに兵500余を率いて宍戸入道と謀って加養宿より古沢宿へ侵攻したが負傷して退却した。1563年、多賀谷政経勢が岡田に侵攻すると、古間木城主渡辺周防守ら3,400余を率いて戦い撃退した。結城晴朝の仲裁によって和議を結んだ。

石毛金右衛門尉【いしげきんうえもんのじょう(15??~15??)】

千葉胤富家臣。森山城将として森山衆を指揮した。1585年、原親幹、安藤備中守らとともに千葉邦胤から城砦の防備についての指示を受けた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

石毛小三郎【いしげさぶろう(15??~15??)】

千葉胤富家臣。森山衆のひとり。1562年、千葉胤富の意向で奉行人馬場大膳亮が、森山衆の石毛助九郎に対して、海上八幡宮の御神事銭の撰銭徴収を指示された。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

石毛五郎三郎【いしげごろうさぶろう(15??~15??)】

千葉胤富家臣。森山衆のひとり。1575年、北条氏政から意向を受けた千葉胤富が森山城番の海上胤秀、石毛定幹に対して参陣を命じた。石毛五郎三郎、石毛孫次郎、神保帯刀、岡野惣右衛門らとともに留守居役を任じられた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

石毛新五郎【いしげしんごろう(15??~15??)】

千葉胤富家臣。森山衆のひとり。千葉胤富が森山城の城将石毛大和守に配した七騎衆のひとり。鏑木隼人、粟野四郎兵衛の二人の豪族衆を従えた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

石毛助九郎【いしげすけくろう(15??~15??)】

千葉胤富家臣。森山衆のひとり。1562年、千葉胤富から奉行人の馬場大膳亮を通して海上八幡宮の御神事銭徴収を命じられた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

石毛内記【いしげないき(15??~15??)】

千葉胤富家臣。森山衆のひとり。1567年、森山衆の海上胤秀、石毛定幹に対して諸浦に10艘を準備するように命じた際、円城寺兵庫助とともに船を準備した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

石毛孫次郎【いしげまごじろう(15??~15??)】

千葉胤富家臣。森山衆のひとり。1575年、北条氏政が千葉胤富に参陣を命じた際、森山衆の海上胤秀、石毛定幹を動員したが、石毛孫次郎は乗馬を失ったため、出陣を差し止められた。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

石毛定幹【いしげさだもと(15??~15??)】

千葉胤富家臣。官途は大和守。森山衆の筆頭を務めた。1564年、海上胤秀とともに平野外記、木村大膳亮のふたりを森山城の廓に配した。1575年、海上胤保とともに武蔵国に参陣した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

石毛常行【いしげつねゆき(15??~15??)】

海上胤衡家臣。石毛助朝の次男。

石嶋主水助【いしじまもんどのすけ(15??~15??)】

結城晴朝家臣。1589年、「下野榎本城の戦い」では、羽柴秀吉勢に属した結城晴朝に従って北条氏直勢と戦った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

石田常勝【いしだつねかつ(15??~1586)】

香取郡新里城主。官途は美濃守。1586年、「新里城の戦い」で里見義康勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

石比地弥五郎【いしひびきよごろう(15??~15??)】

香取郡佐原宿の商人。石比地弥三郎の男。1504年、田畑を650文で購入した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

一宮氏朝【いちみやうじとも(15??~15??)】

簗田高助家臣。官途は河内守。

石出将監【いしでしょうげん(15??~15??)】

千葉胤富家臣。香取郡石出城主。1574年、「関宿城の戦い」では、千葉邦胤勢に属して参陣したが、負傷した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

板垣重朝【いたがきしげとも(15??~15??)】

結城晴朝家臣。官途は遠江守。結城秀康のもとで家老職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

幸手一色氏久【いっしきうじひさ(15??~15??)】

足利晴氏家臣。東葛飾郡幸手城主。官途は右衛門佐。通称源三郎。1583年、足利義氏が死没するまで家政を担った。足利義氏が病没すると簗田持助、小笠原氏長らとともに葬儀を取り仕切った。足利氏姫のもとでも御連判衆(芳春院松嶺、一色氏久、町野義俊、小笠原氏長、高氏師、簗田助実、永仙院昌伊ら)の筆頭を務めた。1589年、「小田原の役」後、羽柴秀吉の意向を受け、小弓足利国朝と足利氏姫の婚姻を行ない足利家4,800石を再興した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

幸手一色直朝【いっしきなおとも(15??~1597)】

一色氏久の男。官途は宮内大輔。室は簗田高助の娘。和歌、水墨画に長じていた。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると幸手城を退去した。

幸手一色義直【いっしきよしなお(15??~1643)】

一色直朝の男。官途は宮内大輔。1591年、松平元康に仕え、幸手城5,160石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、隠居料として1,000石を領した。1607年、家督を譲った一色照直が継嗣をもうけず病没したため、再び一色家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、伏見城を守備した。

幸手一色照直【いっしきてるなお(15??~1607)】

一色義直の男。慶長年間、父一色義直の隠居により一色家の家督を相続した。

幸手一色直氏【いっしきなおうじ(15??~15??)】

杉浦直為の男(一色義直の養子)。1614年、「大坂冬の陣」では、伏見城を養父一色義直とともに守備した。

小文間一色政良【いっしきまさよし(15??~15??)】

足利晴氏家臣。小文間城主。通称少輔宮内。1562年、「雁金山の戦い」では、一色政良が大鹿城主大鹿時茂を攻撃すると、大鹿時茂を支援した古渡城主高井直将、稻城主高井直徳らの攻撃を受け敗退した。

逸見忠次【へんみただつぐ(1499~1538)】

足利義明家臣。官途は山城守。別名「祥仙」。武田信虎との取次役を務めた。1538年、「第一次国府台の戦い」で足利義明勢が劣勢に陥ると足利義明に撤退を進言した。足利義明はこれを退け、北条氏綱勢に突撃、討死した。逸見忠次は残存兵力を撤退させたあと、殿として戦場に残り、山中修理亮に討取られた。

逸見右馬助【いつみうまのすけ(15??~15??)】

足利頼純家臣。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、里見義康の支援を受け足利頼純に従い小曾根胤盛、佐野為綱らとともに小弓城を奪還した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

逸見八郎【いつみはちろう(15??~15??)】

足利義明家臣。1538年、「第一次国府台の戦い」では、足利義明に従って参陣した。足利義明が討死すると藤原弘綱、佐々木源四郎、町野十郎らとともに足利頼淳を伴い里見義堯を頼って落延びた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

稲沢朝隆【いなざわともたか(15??~15??)】

結城政朝家臣。通称小五郎。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

稲葉佐之介【いなばさのすけ(15??~15??)】

結城晴朝家臣。1599年、結城晴朝の使者として乗国寺に赴いた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

伊能景信【いのうかげのぶ(15??~1565)】

国分朝胤家臣。1564年、米之井城主木内胤倫の支援を受け里見義弘勢を撃退した。1565年、里見義弘勢の攻撃を受け矢作城は落城、伊能景信は継嗣の伊能景久を国分胤相を落延びさせると討死した。

伊能信月【いのうのぶつき(15??~1586)】

伊能景信の男。官途は因幡守。1586年、矢作国分勝盛に継嗣がなかったため、大須賀政常からから国分竹若丸を養子に迎え、伊能信月が後見役を務めた。里見忠義勢の攻撃を受け、国分竹若丸を落延びさせると、里見忠義勢と戦い討死した。

岩上新二郎【いわかみしんじろう(15??~15??)】

結城政勝家臣。1556年、『結城氏新法度』に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

岩上朝堅【いわがみともかた(15??~15??)】

結城晴朝家臣。官途は隠岐守。別名三浦義堅。佐竹義重、田村清顕らとの取次役を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

岩上朝吉【いわがみともよし(15??~15??)】 

岩上朝堅の男。官途は越中守。通称左京。1601年、結城秀康の越前国転封に従って4,500石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

岩堀弘助【いわほりひろすけ(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。通称主馬首。相馬治胤は、家臣の大木城主大木胤清、筒戸城主筒戸胤房、筒戸胤文、高井城高井胤永、菅生城主菅生胤貞、岩堀弘助らを城砦に派遣して守谷城を守備した。

臼井景胤【うすいかげたね(1496~1557)】

臼井城主。臼井俊胤の男。通称太郎。1514年、父臼井俊胤の隠居に伴って家督を相続した。足利義明が小弓城に入って「小弓公方」を称すると、千葉昌胤から離反して、足利義明勢に属した。臼井景胤の離反は、国内の豪族衆に動揺を与えた。臼井景胤は下総国内における小弓公方側の最大勢力となり、里見義豊、真里谷恕鑑と並んで軍事的な中核になした。1538年、「第一次国府台の戦い」で足利義明が討死にすると、千葉昌胤に降伏して、原胤貞の娘を娶った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

臼井久胤【うすいひさたね(1544~1574)】

臼井景胤の男。官途は左近将監。1557年、父臼井景胤の病没により、臼井家の家督を相続した。小弓城主原胤貞の庇護を受けた。1561年、正木時茂勢の攻撃を受けると結城晴朝の支援を受け水谷正村勢に属した。1566年、長尾景虎勢が臼井城を攻撃すると、結城晴朝勢に属して参陣したが、臼井城主原胤貞、白井胤治の善戦により敗退した。

臼井忠胤【うすいただたね(1569~15??)】

臼井久胤の男。官途は左近将監。1574年、父臼井久胤の病没により臼井家の家督を相続した。1557年、正木信茂勢の攻撃を受け弟臼井良胤、臼井村胤とともに水谷正村のもとに落延びた。

臼井村胤【うすいむらたね(1573~1655)】

臼井久胤の三男。通称左近。父臼井久胤の病没後、長兄臼井忠胤は帰農、次兄臼井良胤も水谷家を辞したため、臼井家の家督は臼井村胤が相続した。水谷勝隆に仕えた。1642年、水野勝隆が備中国松山城50,000石に転封すると、それに従った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

卯木信濃守【うのきしなのかみ(15??~15??)】

結城晴朝家臣。結城晴朝に従い厚木若狭守、長田持重らとともに北関東各地を転戦して戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

梅澤兵庫【うめざわひょうご(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1589年、「小田原の役」では、高城胤則に従って小田原城に籠城した。

海老原三河守【えびはらみかわのかみ(15??~15??)】

豊島頼継家臣。

大木勝家【おおきかついえ(15??~15??)】 

結城政勝家臣。官途は将監。1556年、『結城市新法度』の連署した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

大木胤清【おおきたねきよ(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。官途は駿河守。相馬治胤は、家臣の大木城主大木胤清、筒戸城主筒戸胤房、筒戸胤文、高井城高井胤永、菅生城主菅生胤貞、岩堀弘助らを城砦に派遣して守谷城を守備した。

大須賀朝宗【おおすがよりむね(15??~1576)】

香取郡松子城主。大須賀常康の男。官途は左馬助。

大須賀常正【おおすがつねまさ(15??~1567)】

大須賀朝宗の男。官途は左馬助。

大須賀政常【おおすがまさつね(15??~1570)】

大須賀常正の男。官途は尾張守。1560年、「富田台の戦い」では、千葉胤富の意向を受けて小田喜城主正木信茂を撃退した。1556年、「臼井城の戦い」では、長尾景虎、結城晴朝、水谷勝俊、佐竹義重勢を白井胤治とともに迎撃した。

大須賀政朝【おおすがまさとも(1552~1590)】

大須賀政常の男。官途は尾張守。通称孫次郎。

大須賀常安【おおすがつねやす(15??~15??)】

大須賀政朝の男。官途は尾張守。

大須賀常朝【おおすがつねとも(15??~15??)】

大須賀政朝の次男。

助崎大須賀胤信【おおすがたねのぶ(15??~15??)】

香取郡助崎城主。通称四郎。1589年、「小田原の役」で松平元康勢の攻撃を受け落城した。

太田左京亮【おおたさきょうのすけ(15??~15??)】
 
結城政勝家臣。1556年、『結城氏新法度』に連署した。1584年、結城晴朝の使者として芳賀高継のもとに赴いた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

太田式部少輔【おおたしきぶしょうゆ(15??~15??)】
 
結城晴朝家臣。1586年、多賀谷将監が領する長沼郷鷲ノ巣の内3貫文と屋敷を買い取った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

太田勝英【おおたかつひで(15??~15??)】
 
結城政勝家臣。通称又五郎。1556年、『結城氏新法度』に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

大橋兵庫助【おおはしひょうごのすけ(15??~15??)】
 
結城張朝家臣。福村村の地侍。1602年、結城秀康が越前国に転封になると、それに従わず帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

大橋重家【おおはししげいえ(15??~15??)】 

結城秀康家臣。通称四郎兵衛。家老職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大畑半九郎【おおはたはんくろう(15??~1565)】

原胤貞家臣。1565年、「土気城の戦い」で原胤貞は酒井胤敏とともに長尾景虎勢に内応した酒井胤治を攻撃したが、原弥太郎、渡邊孫八郎、大畑半九郎、大厩藤太郎ら50余りが討死した。

大厩藤太郎【おおばやしとうたおる(15??~15??)】

原胤貞家臣。1565年、「土気城の戦い」で原胤貞は酒井胤敏とともに長尾景虎勢に内応した酒井胤治を攻撃したが、原弥太郎、渡邊孫八郎、大畑半九郎、大厩藤太郎ら50余りが討死した。

小笠原氏長【おがさわらうじなが(15??~15??)】

足利晴氏家臣。官途は兵庫頭。御連判衆のひとり。

小川十郎【おがわじゅうろう(15??~15??)】

原胤貞家臣。

押田吉持【おしだよしもち(15??~1532)】

匝瑳郡八日市場城主。千葉勝胤家臣。押田教友の男。1532年、北条氏康勢と戦って討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

押田昌定【おしだまささだ(15??~15??)】

押田吉持の男。官途は近江守。勇猛果敢な諸将。1532年、父押田吉持が北条氏康勢との戦いで討死すると、押田家の家督を相続した。1538年、「第一次国府台の戦い」では、千葉昌胤勢に属して戦功を挙げた。1547年、佐竹義昭勢との戦いでも戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

押田胤定【おしだたねさだ(15??~15??)】

押田昌定の男。千葉重胤は、北条氏政と姻戚関係を結びによりようやく家運を保っていた状態であった。1589年、北条氏直勢の佐竹宣義との戦に参陣するなど、北条氏直勢に指揮のもと北関東を転戦した。1589年、「小田原の役」では、千葉重胤勢に属して小田原城に籠城した。北条氏直が滅亡すると、改易処分は免れたものの、小田原落城後は自領であった野手村に蟄居し家督を継嗣の押田吉正に譲り井田胤徳の娘を迎えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

押田吉正【おしだよしまさ(15??~15??)】

押田胤定の男。通称与一郎。室は井田胤徳の娘。1589年、「小田原の役」後、松平元康が関東に転封すると、継嗣の押田豊勝とともに松平元康に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」に参陣して戦功を挙げ大番頭を務め500石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織部時茂【おちべときしげ(15??~15??)】
大鹿城主。織部時平の男。通称左衛門尉。別名大鹿左衛門。1562年、「雁金山の戦い」では、小文間城主一色政良勢の攻撃を受けたが、古渡城主高井直将、稻城主高井直徳勢の支援を受け撃退した。

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【か】

海上助秀【かいじょうすけひで(15??~1565)】

海上郡中島城主。海上芳翁の四男。官途は前和泉守。1500年、三崎庄の堀内妙見社の再興を行った。1565年、「米野井城の戦い」で討死した。

海上孝秀【かいじょうたかひで(15??~1565)】

海上助秀の男。通称藤七郎。1565年、「米野井城の戦い」で父海上助秀、弟海上忠秀とともに討死した。

海上忠秀【かいじょうただひで(15??~1565)】

海上助秀の次男。1565年、「米野井城の戦い」で父海上助秀、弟海上忠秀とともに討死した。

海上持秀【かいじょうもちひで(15??~15??)】

海上孝秀の男。官途は筑後守。1565年、「米野井城の戦い」で海上孝秀、祖父海上助秀らが討死したため、海上家の家督を相続した。

海上胤秀【かいじょうたねひで(15??~1584)】

海上持秀の男。官途は筑後守。室は妙孝禅尼。

海上正恒【かいじょうまさつね(15??~1578)】

海上胤秀の男。官途は筑後守。

海上胤保【かいじょうたねやす(15??~15??)】

海上胤秀の男。官途は山城守。通称蔵人。1557年、千葉親胤が謀殺されたため、海上家を相続していた千葉胤富が千葉惣領家を相続したため、海上胤保が海上家の家督を相続した。15897年、森山衆は羽柴秀吉勢から攻撃に備えて、北条氏政の意向を受け小田原城に参陣した。

海上胤衡【かいじょうたねひら(15??~1539)】

千葉邦胤の男(海上胤秀の養子)。通称加曾利権介。家臣の石毛常行とともに海上郡三崎庄に住んだ。

海上胤人【かいじょうたねよし(15??~1619)】

海上胤衡の男。別名石毛工馬胤人。

海上胤兼【かいじょうたねかど(15??~15??)】

海上胤衡の次男。通称神左衛門。

海上信胤【かいじょうのぶたね(15??~15??)】

海上胤衡の三男。通称左金吾。

海上隼人【かいじょうはやと(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康勢と戦った。1589年、「小田原の役」では、高城胤則勢に属して小田原城に籠城した。

賀嶋良右衛門尉【かじまきちえもんのじょう(15??~15??)】

簗田高助家臣。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、簗田高助とともに長尾景虎勢に参陣して北条氏康勢と戦った。

加瀬肥後守【かせひごのかみ(15??~15??)】

大須賀政常家臣。海上郡仲島城主。1560年、里見義堯の家臣正木左近勢の攻撃を受けたがこれを撃退した。1589年、「小田原の役」で松平元康勢の攻撃を受け落城した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

片見伊豆守【かたみいずのかみ(15??~15??)】
 
結城晴朝家臣。官途は伊豆守。岩上朝堅、多賀谷政広とともに結城晴朝を支えた。1582年、田村清顕から書状を受け取った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

片見政行【かたみまさゆき(15??~15??)】
 
結城政勝家臣。通称彦一郎。1556年、『結城氏新法度』に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

桂左京【かつらさきょう(15??~15??)】

豊島頼継家臣。

香取若狭守【かとりわかさのかみ(15??~15??)】

豊島頼継家臣。

鏑木胤義【かぶらぎたねよし(15??~15??)】

香取郡鏑木城主。千葉利胤家臣。鏑木胤元の男。官途は長門守。1547年、千葉利胤の病没後、継嗣の千葉親胤が幼少だったために、陣代を務めた。千葉親胤が病没すると、千葉胤富に仕えた。1553年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、千葉親胤は北条氏康勢に属して長尾景虎勢と戦った。1561年、「村岡河原の戦い」で、原胤栄、椎名数胤、押田昌定らとともに戦うが敗退した。1554年、北条氏康が足利晴氏を攻撃すると、千葉親胤の陣代として北条氏康勢に勢として参陣した。1566年、継嗣の鏑木胤定が病没したため、再び鏑木胤義が鏑木家の家督を相続した。

鏑木胤定【かぶらぎたねさだ(15??~1566)】

鏑木胤義の男。官途は信濃守。1528年、高巌山長泉寺を建立した。1558年、香取郡新里城主池内胤相を攻撃した。1559年、「八日市場台の戦い」で里見義堯の家臣正木時忠勢と戦ったが敗れた。正木時忠は、米ノ井城木内胤倫、矢作城主国分政胤、大須賀政常らと戦うが敗れて撤退した。1565年、「飯岡の戦い」で原胤栄、大須賀政常、木内胤倫らとともに正木時忠勢を撃退した。1566年、鏑木胤定は病死したため、鏑木胤義が鏑木家の家督を相続した。

鏑木胤家【かぶらぎたねいえ(15??~15??)】

鏑木胤定の男。官途は長門守。1566年、父鏑木胤定が病死したため、祖父鏑木胤義が鏑木家の家督を相続した。1573年、鏑木胤義から家督を相続した。1589年、「小田原の役」では、千葉重胤は小田原城に籠城したが、鏑木胤家は継嗣の鏑木成胤とともに鏑木城を守備した。北条氏直が滅亡すると、北条氏直に属した関東諸将の居城は羽柴秀吉勢に接収され、鏑木胤家も改易処分に処された。

河村山城守【かわむらやましろのかみ(15??~15??)】

葛飾郡芝原城主。北条氏堯、北条氏照ら北条氏政勢6,000余りが我孫子に侵攻すると、芝原城主河村山城守、芝崎城主荒木三河守ら2,000余とともに迎撃したが、寡兵により総崩れになった。北条氏堯、北条氏照勢は我孫子勢の頸270余りを取る戦功を挙げた。

木内胤敬【きうちたねよし(15??~15??)】

香取郡米野井城主。木内胤儀の男。

木内胤衡【きうちたねひら(1448~1528)】

木内胤儀の次男。戦功を挙げ千葉寺山城主に任じられた。参考文献:「菜の花ライブラリー」by千葉県立図書館。

木内胤邦【きうちたねくに(15??~1538)】

木内胤敬の男。1538年、「第一次国府台の戦い」では、千葉昌胤とともに北条氏康勢に属して参陣して足利義明、里見義堯、武田信隆勢と戦い討死した。

木内胤実【きうちたねざね(15??~15??)】

木内胤衡の男。

木内胤倫【きうちたねとも(15??~1565)】

木内胤実の男。官途は能登守。通称右馬之助。別名木内信久。1564年、「第二次国府台の戦い」後、里見義弘との抗争を続けた。「矢作城の戦い」で里見義弘勢の攻撃を受け米野井城に撤退した。1565年、「米野井城の戦い」では、里見義弘の家臣正木時忠と府馬時持の攻撃を受け継嗣の木内胤章、次男木内胤憲とともに討死した。

木内胤章【きうちたねあき(15??~1565)】

木内胤倫の男。1565年、「米野井城の戦い」では、正木時茂と府馬時持勢の攻撃を受けた。正木時茂勢の攻撃を受け、城主木内胤倫以下主な諸将36人が討死した。

木内胤憲【きうちたねのり(15??~1565)】

木内胤倫の次男。1565年、「米野井城の戦い」では、里見義弘の家臣正木時忠と府馬時持の攻撃を受け父木内胤倫とともに討死した。

木内胤続【きうちたねつぐ(15??~1556)】

木内胤章の男。1556年、「小弓城の戦い」では、里見義弘勢に属して参陣したが、弟の木内胤光とともに討死した。

木内胤良【きうちたねよし(15??~15??)】

木内胤続の男。官途は勘解由。通称小太郎。1556年、「小弓城の戦い」では、里見義弘勢に属して参陣したが、父木内胤続と多くの枝連衆を失い、外祖父の長沢重致のもとへ落延びた。1565年、里見義弘勢と戦い祖父木内胤章が討死すると、米野井城から乳母に抱かれ、虫幡四郎、田部兄弟らとともに松子城主大須賀政常のもとに落延びた。大須賀政常の支援を受け父木内胤統とともに米野井城を里見義弘勢から奪還した。1589年、「小田原の役」では、北条氏直勢に属して没落した。

木代右京亮【きしろうきょうのすけ(15??~15??)】 

結城政勝家臣。1556年、『結城氏新法度』に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

木屋満吉【きやみつよし(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。官途は長門守。

血矢次郎右衛門【けつやじろうえもん(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康勢と戦った。

源佐晴次【げんざはるつぐ(15??~15??)】

結城晴朝家臣。通称弾正。結城秀康のもとで家老職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高氏師【こうのうじもろ(15??~15??)】

足利晴氏家臣。官途は大和守。御連判衆のひとり。

矢作国分朝胤【こくぶよりたね(15??~1550)】

香取郡矢作城主。国分胤景の男。国分家惣領職。官途は宮内大輔。通称左衛門五郎。矢作城16,000石を領した。

矢作国分勝盛【こくぶかつもり(15??~15??)】

国分朝胤の男。通称左衛門五郎。

矢作国分胤憲【こくぶたねのり(15??~15??)】

国分朝胤の男。官途は大膳大夫。通称左衛門五郎。

矢作国分胤政【こくぶたねたねまさ(15??~15??)】

国分胤憲の男。官途は大膳大夫。通称は五郎。室は鹿島常陸介治時の娘。1562年、正木時忠との戦いの父国分胤憲が病没により、国分胤政が国分家の家督を相続した。1564年、正木時忠の攻撃を受けたが、米之井城主木内胤倫の援軍を受け撃退する事に成功した。1565年、正木時忠が攻めてきたため、防ぎきれずに落城。家臣伊能景信は次男の伊能景久を国分胤政とともに脱出させ討死した。

矢作国分親胤【こくぶちかたね(15??~1582)】
 
国分朝胤家臣。大倉城主。通称大蔵。1564年、清宝院を建立した。1582年、「大倉城の戦い」で栗林義長勢の攻撃を受けて落城した。

矢作国分胤利【こくぶたねたとし(15??~15??)】

国分親胤の男。

小曾根胤盛【こそねたねもり(15??~15??)】

足利頼純家臣。通称右馬充。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、里見義康の支援を受けた足利頼純に従い逸見右馬助、佐野為綱らとともに小弓城を奪還した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

小林朝久【こばやしともひさ(15??~15??)】 

結城秀康家臣。通称丈左衛門。街奉行職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

小塙三河守【こばなみかわのかみ(15??~15??)】
 
結城政勝家臣。結城政勝から参陣中の功を労われた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

小塙小五郎【こばなこごろう(15??~15??)】
 
小塙三河守の男。官途は石見守。1556年、『結城氏新法度』に連署した。1584年、真壁氏幹から書状を受け取った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

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【さ】

斎藤大隅守【さいとうおおすみのかみ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康勢と戦った。

逆井常繁【さかいつねしげ(15??~1536)】

猿島郡逆井城主。1536年、「筑波の戦い」で北条氏綱の家臣大道寺盛昌勢と戦い討死した。

逆井利光【さかいとしみつ(15??~15??)】

逆井常繁の弟。兄逆井常繁を弔うため、常繁寺を建立した。

佐賀整満【さがなりみつ(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。官途は掃部介。

佐賀久次【さがひさつぐ(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。官途は美濃守。

佐賀長弘【さがながひろ(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。官途は筑後守。

坂寄源兵衛【さかよりげんべい(15??~15??)】
 
結城晴朝家臣。1586年、常陸国中郡富谷城を守備した。1602年、結城秀康が越前国に転封に従わず帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

佐々木四郎【ささきしろう(15??~15??)】

足利義明家臣。1538年、「第一次国府台の戦い」では、足利義明に従って参陣した。足利義明が討死すると藤原弘綱、逸見八郎、町野十郎、椎津隼人佐らとともに足利頼淳を伴い里見義堯を頼って落延びた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

佐野為綱【さのためつな(15??~15??)】

足利頼純家臣。通称大炊頭。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、里見義康の支援を受け足利頼純に従い小曾根胤盛、逸見右馬助らとともに小弓城を奪還した。参考文献:『戦国房総人名事典』by崙書房出版。

座間遠江守【ざまとうとうみのかみ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康勢と戦った。1589年、「小田原の役」では、高城胤則に従って小田原城に籠城した。

椎津隼人佐【しいづはやとのしょう(15??~15??)】

足利義明家臣。1538年、「第一次国府台の戦い」では、足利義明に従って参陣したが北条氏綱勢と戦い重傷を負った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

椎名数胤【しいなかずたね(15??~1537)】

野手義通家臣。1537年、野手義通の野手城が押田昌定の攻撃を受け椎名数胤が討死した。

椎名数基【しいなかずもと(15??~15??)】

椎名数胤の男。官途は出羽守。1537年、野手義通の野手城が押田昌定の攻撃を受け椎名数胤が討死した。椎名数基は野手義通とともに下総国を逃れて常陸小田城主小田政治に仕えた。継嗣の椎名胤基は、小田政治が佐竹義重に滅ぼされたのち、龍ヶ崎城主龍ヶ崎治英に仕えた。

椎名右京之助【しいないきょうのすけ(15??~15??)】

椎名内城主。1565年、安房国勝浦城主正木時忠、正木時道勢の攻撃を受け、城下の長禅寺は猛火に包まれて炎上。付近の村々も放火略奪の限りを尽くされた。

椎名胤貞【しいなたねさだ(15??~15??)】

粟飯原俊胤家臣。粟飯原俊胤の後見人に任じられた。1589年、「小田原の役」では、粟飯原俊胤とともに小田原城に籠城した。役後、北条氏直が滅亡すると、没落した。

島田義広【しまだよしひろ(15??~1570)】

海上郡見広城主。官途は三河守。1558年、見広城を築城した。1570年、勝浦城主正木時忠勢の攻撃を受け討死した。

白井胤永【しらいたねなが(15??~15??)】

香取郡白井城主。千葉勝胤家臣。真壁幹成の男。通称三郎太郎。別名真壁胤永。千葉勝胤に仕え、上総国真里谷城主真里谷信興勢と戦った。

白井胤治【しらいたねはる(15??~15??)】

白井胤永の男。官途は下総介。室は千葉胤富の娘。別名「今孔明」。千葉胤富に軍配者として仕えた。1566年、臼井城主原胤貞に従い長尾景虎の意向により臼井城に攻め寄せた長尾顕長、水谷勝俊らと戦い、大打撃を与えた。

白井宗幹【しらいむねもと(15??~15??)】

真壁胤吉の男(白井胤治の養子)。官途は治部少輔。室は千葉胤富の娘。白井胤治は継嗣が無かったため、真壁家から白井宗幹を迎えた。1566年、養父白井胤治が継嗣の白井胤隆をもうけたが、白井胤治は白井宗幹を廃嫡せず、白井家の家督を相続させた。1589年、「小田原の役」では、千葉直重とともに小田原城に籠城した。役後、改易処分に処されたが、まもなく羽柴秀次に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃すると、羽柴秀吉に仕えた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に参陣した。

白井胤隆【しらいたねたか(15??~15??)】

白井胤治の男。

白井胤邑【しらいたねむら(15??~15??)】

白井胤治の次男。1589年、「小田原の役」では、白井宗幹とともに小田原城に籠城した。

白井胤幹【しらいたねもと(15??~15??)】

白井宗幹の男。

白井幹時【しらいもととき(15??~15??)】

白井宗幹の三男。兄白井胤幹が病没したため、白井家の家督を相続した。娘の波留は松平元康の侍女となり、出家の後は芳春院と称した。

白井道高【しらいみちたか(15??~15??)】

結城秀康家臣。通称寅之丞。結城秀康のもとで筆頭家老職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

上代胤正【じょうだいたねまさ(15??~1565)】

香取郡和田城主。官途は掃部助。1565年、里見義堯が府馬城主府馬時持を内応させ、里見義弘、正木時忠勢に上代胤正や木内信重を攻撃させた。「夏方原の戦い」では、上代胤正は、花香勝乗、菅谷清次、野崎重左衛門らを率いて正木時忠勢を迎え撃ったが、里見義弘、正木時忠勢の猛攻により討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

菅生胤貞【すがおたねさだ(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。菅生城主。官途は越前守。相馬治胤の意向を受け、大木城主大木胤清、筒戸城主筒戸胤房、筒戸胤文、高井城高井胤永、菅生城主菅生胤貞、岩堀弘助らを城砦に派遣して守谷城を守備した。

菅谷左衛門【すがやさえもん(15??~15??)】

豊島頼継家臣。

菅谷清次【すがやきよつぐ(15??~15??)】

上代胤正家臣。通称市之進。1565年、里見義堯が府馬城主府馬時持を内応させ、里見義弘、正木時忠勢に上代胤正や木内信重を攻撃させた。「夏方原の戦い」では、上代胤正が花香勝乗、菅谷清次、野崎重左衛門らを率いて正木時忠勢を迎え撃ったが、里見義弘、正木時忠勢の猛攻により上代胤正が討死した。

杉山大隅守【すぎやまおおすみのかみ(15??~15??)】
 
結城晴朝家臣。1602年、結城秀康が越前国に転封に従わず帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

周西藤九郎【すさいとうくろう(15??~15??)】

簗田高助家臣。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、簗田高助とともに長尾景虎勢に参陣して北条氏康勢と戦った。

鈴木新右衛門【すずきしんざえもん(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康勢と戦った。

諏訪頼方【すわよりかた(15??~15??)】

猿島郡小堤城主。官途は三河守。息女の病気平癒を願って両界曼荼羅を円満寺に寄進した。

関将監【せきしょうげん(15??~15??)】 

結城政勝家臣。1556年、『結城氏新法度』に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

関朝高【せきともたか(15??~15??)】

結城秀康家臣。通称左近之助。山川七館の目附を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

泉勝坊光音【せんかつぼうみつお(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。

仙波左京亮【せんばさきょうのじょう(15??~15??)】

簗田高助家臣。

匝瑳牛五郎【そうさうしごろう(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」に参陣して北条氏康勢と戦った。

守谷相馬胤晴【そうまたねはる(15??~1546)】

相馬郡守谷城主。相馬胤貞の男。通称は小次郎。室は簗田高助の娘。相馬郡守谷城32,000石を領した。1546年、「河越城の戦い」では、足利晴氏勢に属して北条氏康勢と戦ったが討死した。

守谷相馬整胤【そうままさたね(1544~1566)】

相馬胤晴の男。通称小次郎。1546年、「河越城の戦い」で父相馬胤晴が討死したため、幼少で守谷相馬家の家督を相続した。1547年、北条氏康勢に降伏した。足利晴氏の後継を巡って、小山高朝らが推す足利藤氏と北条氏康らが推す足利義氏が対立、相馬家を二分する争いになった。足利藤氏勢の簗田晴助の支援を受けた、高井治胤が足利義氏勢を排除して家中の実権を握って相馬整胤に代わって政務を執り、長尾景虎と結んだ。相馬整胤が元服すると、相馬整胤と相馬治胤は相馬家の指導権を巡って争った。1566年、相馬整胤は簗田晴助の支援を受けて相馬治胤を討とうするが、相馬治胤の意向を受けた家臣によって枝連衆とともに謀殺された。

守谷相馬治胤【そうまはるたね(1541~1602)】

高井直将の男(相馬晴胤の養子)。官途は左近大夫。通称は孫三郎。室は相馬胤晴の娘。1566年、相馬整胤が簗田晴助の支援を受けて相馬治胤を討伐を図るが、逆に相馬整胤を一族とともに謀殺して、守谷相馬家の家督を相続した。長尾景虎が関東に侵攻すると、簗田晴助とともに足利義氏を古河公方に擁立して北条氏康勢と争った。長尾景虎が関東から撤退すると簗田晴助と相馬治胤は北条氏康からの攻勢を受け、簗田晴助は北条氏康と和議を結んだ。その後は北条氏康勢に属して関東各地を転戦した。1589年、「小田原の役」では、弟の相馬治胤とともに兵100余りを率いて小田原城へ籠城した。役後、改易処分に処された。

守谷相馬秀胤【そうまひでたね(15??~1597)】

相馬治胤の男。1546年、祖父相馬胤晴が病没すると、父相馬治胤が叔父相馬胤晴の継嗣を相馬整胤を討ち取って守谷相馬家の家督を相続した。1589年、「小田原の役」では、相馬治胤、高井胤永兄弟が小田原城に籠城したが、相馬秀胤は守谷城に籠城した。松平元康勢に内応して、所領を安堵された。1592年、「文禄の役」では、松平元康勢に属して肥前国名護屋城に赴いたが、まもなく病死した。

守谷相馬胤信【そうまたねのぶ(15??~16??)】

相馬治胤の次男。1592年、「文禄の役」に参陣した兄相馬秀胤が名護屋城で病没したため、守谷相馬家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、病のため参陣できず、役後改易処分に処された。

染谷民部【そめやみんぶ(15??~15??)】

手賀胤親家臣。弓田城主。1579年、「手賀城の戦い」で手賀城主手賀胤親が千葉邦胤の家臣原胤栄勢の攻撃を受けると、柳戸城を粟飯原左衛門ら500余り、鷲野谷城には原勘解由、布瀬城には染谷民部、手賀の入江には篠原長門守、名内台城には栗林左衛門を配し、手賀本城は胤親自らが大山佐四郎、湯浅甚七郎ら500余りで守備して、我孫子の諸豪族と小金大谷口の高城胤辰に援軍要請の使者を派遣した。

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【た】

高井直将【たかいなおかど(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。相馬郡高井城主。

高井胤永【たかいたねなが(1558~1640)】

高井胤晴の次男。兄相馬治胤が下総相馬家の家督を相続したため、高井胤永が高井家の家督を相続した。相馬治胤とともに北条氏政勢に属して佐竹義重勢と戦った。1584年、「沼尻の戦い」で戦功を挙げた。1589年、「小田原の役」では、相馬治胤とともに小田原城に籠城した。北条氏直が改易処分に処されると、松平元康に仕えた。1614年、「大久保長安の事件」に連座して叱責を受けた。1614年、「大坂冬の陣」で軍律違反を侵し改易処分に処された。

高井胤将【たかいたね(1578~1652)】

高井胤永の男。別名相馬胤将。1589年、「小田原の役」では、父高井胤永や伯父とともに小田原城に籠城した。北条氏直が滅亡すると、大久保忠常に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後、出奔して黒田孝高に仕えたがまもなく帰参した。1614年、「大久保長安の事件」で、大久保忠隣が改易処分に処されると、大久保忠職に仕え大久保家再興に奔走した。

高城胤吉【たかぎたねよし(1484~1565)】

南葛飾郡小金城主。原胤清家臣。高城胤忠の男。室は千葉勝胤の娘。1517年、原胤清が小弓足利義明に敗れて小弓城を失うと、小金栗ヶ沢城に移って原胤清を迎え入れた。千葉昌胤の信任を受けてその妹を内室に迎え、千葉昌胤や北条氏綱との関係を強め、小弓足利義明や里見義堯と対抗した。1538年、「第一次国府台の戦い」で北条氏綱勢属した。1563年、「第二次国府台の戦い」では、北条氏康勢に属して勝利に貢献した。江戸城代遠山綱景勢に属した。

高城胤辰【たかぎたねとき(1537~1583)】

高城胤吉の男。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、父高城胤吉も千葉胤富に従って北条氏康から離反した。1561年、長尾景虎が越後国に帰還すると、北条氏康勢に帰参したが、小金城は足利義氏の御所として使われた。1564年、「第二次国府台の戦い」では1,000余りを率いて北条氏康勢に参陣した。1566年、本佐倉城主千葉胤富が長尾景虎勢の攻撃を受けると、北条氏康勢の支援を受け長尾景虎勢を撃破した。原胤貞が臼井城に撤退すると、栗原城、船橋城は高城胤辰が領した。1568年、北条氏政から江戸城在番を命じられた。1577年、領内の小金牧や行徳塩田の開発を行った。1582年、「天正壬午の乱」では、北条氏直勢に属して参陣するが、松平元康勢と対陣中に病に倒れた。

高城胤則【たかぎたねのり(1571~1603)】

高城胤辰の男。通称源次郎。室は柴田勝家の養女(中村文荷斎の娘)。1583年、父高城胤辰の病没により高城家の家督を相続した。1585年、千葉邦胤が家臣に謀殺されると、継嗣の千葉重胤が幼かったために千葉邦胤の娘婿となった千葉直重(北条氏政の七男)が千葉家の家督を相続した。1587年、北条氏政の意向により多賀谷重経勢の攻撃を受けた岡見宗治の支援を行った。1589年、「小田原の役」では、小田原城に籠城し、大谷口城は家臣の安蒜備前守、吉野縫殿助、平川若狭守ら300余りが守備した。大谷口城は浅野長政、木村常陸らの攻撃を受け叔父の高城胤政らが討死した。北条氏直が滅亡すると、改易処分に処され蒲生氏郷に預けられた。1600年、「関ヶ原の役」後、叔父の照誉了学や佐久間安政の助力を得て御家再興を図るがまもなく病没した。

高城重胤【たかぎしげたね(1599~1659)】

高城胤則の男。通称清右衛門。別名高城政次。室は織田昌澄の娘。

高城胤正【たかぎたねまさ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。通称源六。1564年、「第二次国府台の戦い」に参陣して北条氏康勢と戦った。

高城四郎右衛門【たかぎしろううえもん(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」に参陣して北条氏康勢と戦った。

高城胤政【たかぎたねまさ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1589年、「小田原の役」では、北条氏直勢に属した高城胤則に従って小田原城に籠城した。

高城胤知【たがぎたねとも(15??~15??)】

高城胤辰家臣。根本城主。通称播磨守。1589年、「小田原の役」では、高城胤則に従って小田原城に籠城した。

高城胤貞【たかぎたねさだ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。吉橋城主。官途は伊勢守。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

高城丹後守【たかぎたんごのかみ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。葛飾郡我孫子城主。

高城筑前守【たかぎちくぜんのかみ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。葛飾郡松戸城主。

高城山城守【たかぎやましろのかみ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。高根城主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
高城右京亮【たかぎうきょうのじょう(15??~15??)】

高城山城守家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
高徳主計【たかとくかずえ(15??~15??)】 

結城晴朝家臣。結城晴朝に従って北関東各地を転戦して戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

高野縫殿助【たかのぬいどのすけ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。

高橋次左衛門【たかはしじろうざえもん(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1589年、「小田原の役」では、高城胤則勢には属さず、兵500余りとともに小金城に籠城した。

多賀谷朝重【たがやともしげ(15??~15??)】 

結城勝政家臣。官途は安芸守。1556年、『結城氏新法度』に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

多賀谷内膳亮【たがやないぜんのすけ(15??~15??)】 

結城晴朝家臣。1580年、「下野小山城の戦い」で北条氏直勢と戦って戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

多賀谷政広【たがやまさひろ(15??~15??)】 

結城政勝家臣。多賀谷為広の男。官途は安芸守。通称新十郎。多賀谷重政が結城政勝に降伏した際、人質として結城政勝に差し出された。1556年、『結城氏新法度』に連署した。1564年、結城晴朝の使者として北条氏康のもとに赴いた。結城政勝に仕え延島、上河原で35貫文を領した。結城晴朝に常陸国小栗城主に任じられ50貫文を加増された。佐竹義重、北条氏政、北条氏繁、田村清顕らの取次役を務めた。1590年、使者として羽柴秀吉のもとに赴き、結城秀康の養子縁組をまとめた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

多賀谷光親【たがやみつちか(15??~15??)】 

結城政勝家臣。官途は紀伊守。1556年、『結城氏新法度』に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

多賀谷民部少輔【たがやみんぶしょうゆう(15??~1563)】 

結城政勝家臣。結城晴朝の使者として皆川広照のもとに赴いた。1563年、「下野小山城の戦い」で結城晴朝に従って、長尾景虎、佐竹義昭勢と戦って小野崎三郎に討取られた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

田口因幡守【たぐちいなばのかみ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」に参陣して北条氏康勢と戦った。

田口勘解由【たぐちかげゆ(15??~15??)】 

結城晴朝家臣。1574年、結城晴朝の意向を受け小薬刑部少輔、田崎美濃守とともに祇園社への勧進を行った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

武石胤親【たけいしたねちか(15??~1537)】

千葉郡武石城主。通称蔵人丞。1537年、「第一次国府台の戦い」で足利義明勢に属して参陣したが討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

武石胤康【たけいたねやす(15??~15??)】 

武石胤親の男。室は布施正基の娘。1537年、「第一次国府台の戦い」で父武石胤康が討死すると、所領を失い稲毛浅間神社神主布施正基の婿養子となり、布施家の家督を相続した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

武石三郎【たけいしさぶろう(15??~15??)】

武石胤康の次男。1564年、「第二次国府台の戦い」で兄布施正光が討死したため、布施家の家督を相続した。1573年、高城胤辰、荒木三河守らの攻撃を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

武井勝伝【たけいかつのり(15??~15??)】 

結城政勝家臣。通称十郎。1556年、『結城氏新法度』に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

田崎美濃守【たざきみののかみ(15??~15??)】 

結城晴朝家臣。1574年、結城晴朝の意向により小薬刑部少輔、田口勘解由とともに祇園社への勧進を行った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

田嶋時定【たじまときさだ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。葛飾郡前ヶ崎城主。官途は刑部少輔。1564年、「第二次国府台の戦い」では、高城胤辰に従い参陣して北条氏康勢と戦った。

田嶋政経【たじままさつね(15??~15??)】 

結城政勝家臣。通称六郎二郎。1556年、『結城氏新法度』に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

館宣重【たてのぶしげ(15??~1558)】

豊田政親家臣。豊田郡向石毛城主。官途は武蔵守。室は渡邉周防守の娘。1558年、多賀谷家重勢に正月の祝宴の隙を突かれて焼き打ちされ討死した。家臣の増田、松崎、大類、斉藤、草間、軽部らは石毛政重もとに落延びた。

館播磨守【たてはりまのかみ(15??~15??)】

館宣重の男。1558年、「向石毛城の戦い」で多賀谷家重勢の攻撃を受け父館宣重が討死すると、古間木城主渡邉周防守を頼って落延びた。

立野玄蕃【たてのげんば(15??~15??)】 

結城政勝家臣。結城晴朝に従い白五輪の物指を差して北関東各地を転戦、長田持長とともに戦功を争った。

玉岡政広【たまおかまさひろ(15??~15??)】 

結城政勝家臣。通称八郎。筆頭家老職を務めた。1556年、『結城氏新法度』に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

玉岡国朝【たまおかくにとも(15??~15??)】 

結城秀康家臣。通称八郎。結城城代を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

丹下信濃守【たんげしなののかみ(15??~15??)】 

結城政勝家臣。通称小二郎。1555年、結城政勝から下野国寒川郡内で10貫文を領した。1580年、常陸国小栗の関所を管理した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

丹下左近将監【たんげさこんのしょうげん(15??~15??)】 

丹下信濃守の男。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

丹下五郎兵衛【たんばごろうべい(15??~15??)】 

丹下左近将監の男。

千葉昌胤【ちばまさたね(1495~1546)】

印旛郡本佐倉城主。千葉勝胤の男。室は金田正信の娘。上総国の真里谷信清が小弓公方足利義明を擁立して古河公方足利高基を擁する千葉昌胤と争うようになった。1520年、足利義明勢は千葉家の筆頭家老原胤隆の小弓城を奪い小弓公方と称した。下総国に足利義明勢の勢力が浸透して、劣勢にたたされたため、千葉昌胤は、北条氏康と結び足利義明勢と対抗した。原胤隆の家臣高城胤吉を登用して妹婿とした。1532年、父千葉勝胤の病没により、実権を完全に掌握した千葉昌胤は、継嗣の千葉利胤の正室に北条氏綱の娘を迎えた。1538年、「第一次国府台の戦い」で足利義明が北条氏康勢と戦い討死すると、小弓城を奪還した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

千葉利胤【ちばとしたね(1515~1547)】

千葉昌胤の男。室は北条氏康の娘。足利義明や里見義堯勢の攻勢により、亥鼻城を失い、元服式も千葉妙見宮で行う事が出来ずに、佐倉城下の佐倉妙見宮で行われた。1546年、父千葉昌胤の病没により千葉惣領家の家督を相続した。1574年、「河越城の戦い」では、関東諸将で唯一北条氏康勢に参陣した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

千葉親胤【ちばちかたね(1541~1557)】

千葉利胤の四男。室は北条氏康の娘。1547年、父千葉利胤の病没を受けて家督を相続した。1555年、元服を行うことになったが、正木時茂が下総国に乱入したため、妙見宮での元服式を行うこことができなかった。幼少のため、実権は家臣原胤清、原胤貞父子に掌握された。千葉親胤は、足利晴氏と結び北条氏康に対抗した。北条氏康の侵攻を受けて捕らえられ、家督を叔父海上胤富に譲渡させられた。1557年、北条氏康の意向を受けた原親幹に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

千葉胤富【ちばたねとみ(1527~1579)】

千葉昌胤の次男。1557年、従兄弟千葉親胤の謀殺後、北条氏康の意向により千葉惣領家を相続した。1566年、「臼井城の戦い」では、長尾景虎、佐竹義重、結城政勝らの攻撃を受けるが、白井胤治らの働きでこれを撃退した。1571年、「小弓城の戦い」では、里見義堯の家臣正木時忠と戦ってこれを撃破した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

千葉清胤【ちばきよたね(15??~1589)】

千葉胤富の男。官途は刑部大輔。1589年、「小田原の役」では、甥千葉重胤に代わって小田原城に籠城したが、湯本口において討死した。

千葉良胤【ちばよしたね(15??~15??)】

千葉胤富の次男。北条氏政勢からの脱却を図るが、これに反対した千葉胤富や家臣団によって佐倉城を追われた。1589年、「小田原の役」後北条氏直が滅亡して千葉重胤が改易処分に処されると、下総国に帰還した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

千葉邦胤【ちばくにたね(1557~1585)】

千葉胤富の三男。官途は中務大輔。室は北条氏直の養女(北条氏政の娘)。継室は岩松守純の娘。兄千葉良胤が反後北条家の姿勢を見せたため、家臣の手によって追放されたため家督を継いだ。1571年、里見義弘の圧迫を避けるために佐倉妙見宮において元服が行われた。1582年、織田信長の家臣滝川一益が関東に進出して千葉邦胤にも織田信長への使者の派遣を促す使者が送られた際には拒絶した。1585年、新年の祝賀の席で家臣の桑田万五郎の放屁を叱責したところ、恨みを持たれ、就寝中に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

千葉重胤【ちばしげたね(1576~1633)】

千葉邦胤の男。通称新介。1585年、父千葉邦胤が家臣によって謀殺された後、千葉惣領家の家督は北条氏政の七男千葉直重が千葉家の家督を相続した。千葉重胤は人質として母とともに小田原城に住んだ。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、千葉重胤も改易処分に処された。その後、千葉重胤は各地を流浪し、松平元康に仕えた。

塚田貞正【つかださだまさ(15??~15??)】 

結城秀康家臣。通称兵内。大目付役を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

筒戸胤房【つついたねふさ(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。筒戸城主。通称小三郎。相馬治胤の意向を受け、大木城主大木胤清、高井城主高井胤永、菅生城主菅生胤貞、岩堀弘助、筒戸胤文らとともに守谷城を守備した。

筒戸胤文【つつどたねふみ(15??~15??)】

筒戸胤房の男。通称小四郎。

綱嶋小三良【つなしまこみよし(15??~15??)】

簗田高助家臣。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、簗田高助とともに長尾景虎勢に参陣して北条氏康勢と戦った。

手賀胤親【てがたねちか(15??~1578)】

原胤貞の次男。手賀城。官途は筑前守。別名原胤親。1579年、「手賀城の戦い」千葉邦胤の意向を受けた原胤栄勢の攻撃を受けると、柳戸城に粟飯原左衛門ら500余り、鷲野谷城には原勘解由、布瀬城には染谷民部、入江砦には篠原長門守、名内台城には栗林左衛門を配し、手賀城は手賀胤親自らが大山佐四郎、湯浅甚七郎ら500余りで籠城して、我孫子の諸豪族と小金城主高城胤辰に援軍を要請した。我孫子の諸将はこの要請に応え、高城胤辰は救援として安蒜安芸守、高柳図書、綿貫大学ら500余りを派遣した。柳戸城主粟飯原左衛門は原胤栄勢の攻撃を何度も撃退したが、原胤栄の家臣神保内蔵助の調略によって内応した。柴崎城主荒木三河守、我孫子城主我孫子五郎右衛門、芝原城主河村出羽守、布佐城主豊島肥前守らの我孫子の諸将1,600余りは原胤貞勢を背後から攻撃した。反撃を受け退却したが、高城胤辰勢500余りの加勢を受け再び攻撃、手賀城の手賀胤親も城から出て攻撃、原胤貞を敗走させた。

手賀久胤【てがひさたね(15??~15??)】

手賀胤親の男。

寺田大膳【てらだだいぜん(15??~15??)】

豊島頼継家臣。

寺田吉次【てらだよしつぐ(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。通称弾正左衛門。

寺田長尚【てらだながなお(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。官途は出雲守。

戸沢基之【とざわもとゆき(15??~15??)】

結城秀康家臣。官途は能登守。惣者役を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

府川豊島頼継【としまよりつぐ(15??~15??)】

北相馬郡府川城主。利根川の水運を監視する役割を務めた。1546年、武蔵国豊島郡紀州神社再興した。

府川豊島頼重【としまよりしげ(15??~1590)】

豊島頼継の男。官途は紀伊守。別名豊島明重。北条氏康勢に属した。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢の浅野長政に降伏した。「忍城の戦い」に参陣し重傷を負いまもなく病没した。

府川豊島宗重【としまむねしげ(15??~15??)】

豊島頼継の次男。

府川豊島重源【としましげもと(15??~15??)】

豊島頼重の男。

府川豊島継高【としまつぐたか(15??~15??)】

豊島頼重の次男。

府川豊島明重【としまかきしげ(1579~16??)】

豊島頼重の三男。官途は刑部少輔。別名豊島信満。松平元康に馬廻衆として仕え富岡館1,700石を領した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。1628年、江戸城西の丸廊下で青木正就を切りつけた。

府川豊島肥前守【としまひぜんのかみ(15??~15??)】

豊島頼継家臣。

豊島七郎【としましちろう(15??~15??)】

豊島頼継家臣。

豊島九郎【としまくろう(15??~15??)】

豊島頼継家臣。

豊島五郎【としまごろう(15??~15??)】

豊島頼継家臣。

豊島半之允【としまはんのじょう(15??~15??)】

布佐城主。北条氏堯、北条氏照ら北条氏政勢6,000余りが我孫子に侵攻すると、芝原城主河村山城守、芝崎城主荒木三河守ら2,000余とともに迎撃したが、寡兵により総崩れになった。北条氏堯、北条氏照勢は我孫子勢の頸270余りを取る戦功を挙げた。

戸邉靱負【とべゆきえ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」では、高城胤辰に従い参陣して北条氏康勢と戦った。

土肥広綱【どひひろつな(15??~15??)】

結城秀康家臣。通称源太郎。大目付役を務めた。参考文献:『美須麻流之珠』by立花利康。

富田対馬守【とみたつしまのかみ(15??~15??)】 

結城政勝家臣。小田林郷の地侍。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

富田玄蕃允【とみたげんばのじょう(15??~15??)】 

富田対馬守の男。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

富田内膳【とみたないぜん(15??~15??)】 

富田玄蕃允の男。通称弥十郎。結城晴朝に仕えた。1582年、本貫地小田林郷で3貫250文の領地を返還された。1602年、結城秀康の越前国への転封には従わず帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

富沢長吉【とみながながよし(15??~15??)】 

結城秀康家臣。通称彦左衛門。寺社奉行職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

豊田政親【とよたまさちか(15??~15??)】

豊田郡豊田城主。室は小田政治の娘。小田城主小田氏治と結び岡見治広、土岐原治頼の三家と連合して下妻城主多賀谷政経に対抗した。武勇に優れた石毛政重を大将として猿島郡、豊田郡の国人衆をまとめ、小田氏治、岡見治広勢の支援を受け多賀谷政経勢を度々撃退した。

豊田治親【とよたはるちか(15??~1575)】

豊田政親の男。1558年、「長峰原の戦い」では、小田氏治の支援を受け弟の石毛政重とともに多賀谷政経勢を撃退した。1569年、「手這坂の戦い」で小田氏治氏勢が大敗して小田城が落城すると、多賀谷政経勢の攻勢を受けた。1575年、軍事力の要であった石毛正重が石毛城にて脳卒中に倒れてそのまま逝去した。多賀谷政経の家臣白井金洞は豊田治親の家臣飯見大膳を内応させた。飯見大膳は城主豊田治親を大膳宅に招いて謀殺した。残った家臣達は、飯見大膳の引渡しと城主の継嗣豊田正家の助命を条件に多賀谷政経に降伏した。飯見大膳の引渡しを 受けた家臣達は、飯見大膳以下一族三十六人は裸で豊田城下を引き回された上、鋸引きの刑に処せられ、嬲り殺しにされた。

豊田正家【とよたまさいえ(15??~15??)】

豊田治親の男。1575年、父豊田治親が家臣の飯見大膳に謀殺されたため、豊田家の家督を相続した。

豊田政重【とよたまさしげ(15??~15??)】

豊田政親の次男。

豊田政忠【とよたまささだ(15??~15??)】

豊田政親の三男。

鳥居筑後守【(とりいちくごのかみ(15??~1589)】

国分勝盛家臣。香取郡岩ヶ崎城主。1589年、「岩ヶ崎城の戦い」では、小田氏治、栗林義長勢の攻撃を受け自刃した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【な】

中里吉重【なかざとよししげ(15??~15??)】 

結城政朝家臣。官途は対馬守。1520年、足利高基勢に属した結城政朝に従って下野国に参陣して戦功を挙げた。1528年、結城政朝から久保田郷で4貫900文の加増を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

中里右京進【なかざとうきょうのしん(15??~15??)】 

結城晴朝家臣。中里右京進【なかざとうきょうのしん(15??~15??)】 

結城晴朝家臣。結城秀康家臣。結城家十人衆のひとり。1602年、結城秀康が越前国に転封すると、結城郡で結城家菩提を供養するため、帯刀を認められ帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

中里藤三郎【なかざととうざぶろう(15??~15??)】 

結城政朝家臣。結城政朝から並木郷で2町4反の所領を宛がわれた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

長田対馬守【ながたつしまのかみ(15??~15??)】 

結城晴朝家臣。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

長田治部【ながたじぶ(15??~15??)】 

結城晴朝家臣。1596年、結城秀康から日光領所野村内で33石の加増を受けた。1602年、結城秀康が越前国に転封すると、それには従わず久保田郷で帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

長田持長【ながたもちしげ(15??~15??)】 

結城晴朝家臣。通称四郎兵衛。結城晴朝に従い白五輪の物指を差して北関東各地を転戦、立野玄蕃とともに戦功を争った。1583年、結城晴朝の不興を買い香之内5貫文の所領を没収された。1602年、結城秀康の越前国転封に従った。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

中沢壱岐守【なかざわいきのかみ(15??~15??)】

葛飾郡中沢城。1573年、「中沢城の戦い」で高城胤辰、荒木三河守らの攻撃を受け降伏した。

那須大角【なすおおかく(15??~15??)】

押田昌定家臣。大堀城主。

那々井兼家【なないかねいえ(15??~15??)】 

結城秀康家臣。通称与五郎。結城城代を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

成毛宗正【なるげむねまさ(15??~15??)】

粟飯原俊胤家臣。官途は対馬守。

二階堂次良【にかいどうつぐよし(15??~15??)】

簗田高助家臣。

野口玄蕃【のぐちげんば(15??~15??)】 

結城晴朝家臣。多賀谷将監、厚木若狭守とともに北関東各地を転戦して戦功を挙げた。考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

野口内膳【のぐちないぜん(15??~15??)】 

結城晴朝家臣。下野国都賀郡の地侍。1588年、常陸国中郡で戦功を挙げた。1602年、結城秀康が越前国に転封すると、それには従わず帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

野崎重左衛門【のざきじゅうざえもん(15??~15??)】

上代胤正家臣。1565年、里見義堯が府馬城主府馬時持を内応させ、里見義弘、正木時忠勢に上代胤正や木内信重を攻撃させた。「夏方原の戦い」では、上代胤正が花香勝乗、菅谷清、野崎重左衛門次らを率いて正木時忠勢を迎え撃ったが、里見義弘、正木時忠勢の猛攻により上代胤正が討死した。

野田成朝【のだばりとも(15??~15??)】

猿島郡栗橋城主。足利政氏家臣。官途は右馬助。簗田高助とともに野田政朝は古河公方の有力な奏者として活躍した。1528年、足利晴氏の元服式に際し、一色氏久、簗田高助らとともに家老衆の最上位のひとりとして名を連ねた。

野田政朝【のだまさとも(15??~15??)】

野田成朝の男。官途は右馬助。1554年、北条氏康勢と戦った。足利藤氏の勢力が衰えると、長尾景虎勢に属した。のちに北条氏政勢に属した。

野田政保【のだまさやす(15??~15??)】

野田政朝の男。官途は右馬助。北条氏康が小田氏治を攻撃した際、北条氏康勢に属して常陸国に参陣した。「古河城の戦い」では、北条氏康の意向により足利藤氏を捕縛した。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、長尾景虎により足利藤氏が古河公方に擁立され、古河城に入城した。野田政保は関宿城にいた足利義氏を守って長尾景虎勢と戦った。

野田弘朝【のだほりより(15??~15??)】

野田政朝の次男。足利義氏から離反して、北条氏康が擁立する足利藤氏に属した。1566年、野田家は50騎余りを率いて長尾景虎のもとに参陣した。野田家が長尾景虎勢に属したのは一時期で、ふたたび北条氏康勢に属した。

野手義長【のてよしなが(15??~1535)】

匝瑳郡野手城主。野手胤義の男。官途は和泉守。足利晴氏と足利義明の対立すると下総国の諸将は両陣営に別れ抗争を続けた。八日市場城主押田昌定は足利義明勢に属して、野手義長は足利晴氏勢に属した。1535年、「野手城の戦い」では、野手城が足利義明の意向を受けた押田昌定勢の攻撃を受けた。野手義長は200余りを率いて防戦したが討死した。

野手義治【のてよしはる(15??~1535)】

野手義長の男。1535年、「野手城の戦い」では、野手城が足利義明の意向を受けた押田昌定勢の攻撃を受けた。父野手義長とともに押田昌定勢と戦ったが討死した。

野手義定【のてよしさだ(15??~1535)】

野手胤義の次男。1535年、「野手城の戦い」では、野手城が足利義明の意向を受けた押田昌定勢の攻撃を受けた。兄野手義長とともに押田昌定勢と戦ったが討死した。

野手義孝【のてよしたか(15??~1535)】

野手胤義の三男。1535年、「野手城の戦い」では、野手城が足利義明の意向を受けた押田昌定勢の攻撃を受けた。兄野手義長とともに押田昌定勢と戦ったが討死した。

野手義通【のてよしみち(15??~15??)】

野手胤義の四男。官途は加賀守。1535年、「野手城の戦い」で野手城が落城すると、常陸国江戸崎城主石橋貞氏のもとへと落ち延びた。その後、小田氏治に客将として仕えた。

野村雅楽助【のむらうたのすけ(15??~15??)】 

結城晴朝家臣。久保田郷の地侍。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

野村左京助【のむらさきょうのすけ(1522~1604)】 

結城勝政家臣。1602年、結城秀康が越前国に転封すると、継嗣の野村左京進はそれに従ったが野村左京助と次男の野村京作助は久保田郷で帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

野村左京進【のむらさきょうのしん(15??~16??)】

野村左京亮の男。1601年、結城秀康の越前国転封に従って福井城へ赴いた。

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【は】

花香勝乗【はなかかつのり(15??~15??)】

上代胤正家臣。1565年、里見義堯が府馬城主府馬時持を内応させ、里見義弘、正木時忠勢に上代胤正や木内信重を攻撃させた。「夏方原の戦い」では、上代胤正が花香勝乗、菅谷清次、野崎重左衛門らを率いて正木時忠勢を迎え撃ったが、里見義弘、正木時忠勢の猛攻により上代胤正が討死した。

花嶋勘解由【はなしまかげゆ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」では、高城胤辰に従い参陣して北条氏康勢と戦った。

花輪淡路守【はなわあわじのかみ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。

林田小太郎【はやしだこたろう(15??~15??)】

原胤貞家臣。

早崎八郎右衛門【はやさきはちろうざえもん(15??~15??)】

原胤貞家臣。

林弾正左衛門【はやしだんじょうざえもん(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」では、高城胤辰に従い参陣して北条氏康勢と戦った。

早見治右衛門【はやみじぶえもん(15??~15??)】

結城秀康家臣。結城家十人衆のひとり。1602年、結城秀康が越前国に転封すると、結城郡で結城家菩提を供養するため、帯刀を認められ帰農した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

原胤隆【はらたねたか(15??~1536)】

千葉郡小弓城主。原胤房の男。1509年、連歌師宗長とともに和歌に興じた。真里谷信保と争い、千葉勝胤の援助を受けてこれに対抗すると、真里谷信保は足利義明を擁して里見実堯と結んだ。1517年、里見実堯、真里谷信保、足利義明らは小弓城を攻めてこれを落とし、原胤隆は小西城に落延びた。

原胤清【はらたねきよ(15??~1556)】 

原胤隆の男。官途は式部大夫少輔。原惣領家の継嗣であったが、叔父の原朝胤が原家の家督を相続した。1518年、足利義明勢の攻撃を受け小弓城が落城した際、城主原基胤が討死したため、原胤清が原家の家督を相続した。足利義明の追及によって高城胤吉の小金城に逃れ、更に北条氏綱を頼った。1538年、「第一次国府台の戦い」で足利義明が討死すると、北条氏綱の支援を受け小弓城を奪回した。

原胤貞【はらたねさだ(1507~1569)】

原胤清の男。1539年、原家の家督をを相続した。1557年、姻戚関係を利用して外孫の臼井久胤の後見役として、臼井城に入城し支配地で善政を行なうことによって臼井家の家臣と領民の支持を集め、臼井久胤を傀儡化し臼井城を事実上支配下に収めた。1561年、里見義堯の家臣正木時茂勢の攻撃により臼井城、小弓城が落城した。1564年、「第二次国府台の戦い」で里見家が北条氏康の奇襲作戦に敗れ、下総国における里見家の影響力が低下すると、千葉胤富らの助力により小弓城、臼井城を奪還している。その後、越後長尾景虎が臼井城を攻撃したが、白井胤治などの助力によりこれを撃退した。

原胤信【はらたねのぶ(1587~1623)】

原胤義の男。通称主水。洗礼名「ジョアン」。松平元康に仕え鉄砲組頭を務め1,500石を領した。1600年、大坂においてキリシタンとして洗礼を受け、ジョアンと称す。1612年、禁教令により松平元康のもとを逐電した。1615年、捕縛され、額に十字の烙印と、さらに両手親指と両足の大腿部の筋を切断されて追放された。1623年、再びジョアンは江戸に出て布教を行ったため捕縛され、ジロラモ・デ・アンデリ神父らとともに江戸芝智福寺で火刑に処せられて殉教した。

原行朝【はらゆきとも(15??~15??)】

原胤貞家臣。通称次郎。

原弥太郎【はらよたろう(15??~15??)】

原胤貞家臣。臼井衆のひとり。1565年、「土気城の戦い」で原胤貞は酒井胤敏とともに長尾景虎勢に内応した酒井胤治を攻撃したが、原弥太郎、渡邊孫八郎、大畑半九郎、大厩藤太郎ら50余りが討死した。

日暮又左衛門【ひぐれまたざえもん(15??~15??)】

高城胤辰家臣。葛飾郡日暮館主。1564年、「第二次国府台の戦い」に参陣して北条氏康勢と戦った。

日暮又左衛門【ひぐれまたざえもん(15??~15??)】

日暮又左衛門の男。父と同名。1589年、「小田原の役」では、高城胤則が小田原城に籠城したため、小金城の留守居役を務めた。

比楽勝広【ひらかつひろ(15??~15??)】 

結城政勝家臣。通称源三郎。1556年、『結城氏新法度』に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

平川若狭守【ひらかわわかさのかみ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。相馬郡増尾城主。1589年、「小田原の役」では、高城胤則が小田原城に籠城したため、小金城の留守居役を務めた。

平本定虎【ひらもとさだとら(15??~15??)】

高城胤辰家臣。花輪城主。室は田島時定の妹。

平本定勝【ひらもとさだかつ(15??~15??)】

平本定虎の男。官途は主膳。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、高城胤則とともに没落した。

平山時常【ひらやまときつね(15??~1566)】

山武郡飯高城主。官途は三河守。別名平山持常。1566年、討死した。

平山常時【ひらやまつねとき(15??~1588)】

平山時常の男。官途は刑部少輔。1566年、父平山時常が討死したため、平山家の家督を相続した。1580年、飯高城内に寺院を建立した。1591年、飯高妙福寺の学室を移し、城地の全てを寄進して日蓮宗の檀林とした。1588年、飯高城で病没した。

広瀬伊勢守【ひろせいせのかみ(15??~15??)】

相馬胤永家臣。家老職を務めた。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、高井城も羽柴秀吉勢の攻撃を受けた。相馬胤永の末子相馬胤正とともに落延びた。相馬胤正は、広瀬伊勢守の婿養子になり、広瀬家の家督を相続した。

福田民部少輔【ふくだみんぶのしょう(15??~15??)】

下総国古河を拠点とした廻船問屋。のちに足利晴氏に仕えて、古河公方御料所の代官も務めた。古河公方足利家より与えられた、領国内での通行に際し一部の諸役を免除された。 

藤崎隼人【ふじざきはやと(15??~15??)】

押田昌定家臣。

藤原弘綱【ふじわらひろつな(15??~15??)】

足利義明家臣。別名佐野藤三。1514年、足利義明の奏者役を務めた。1538年、「第一次国府台の戦い」では、足利義明に従って参陣した。足利義明が討死すると佐々木源四郎、逸見八郎、町野十郎らとともに足利頼淳を伴い里見義堯を頼って落延びた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

藤谷修理【ふじたにしゅり(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康勢と戦った。1589年、「小田原の役」では、高城胤則勢に属して小田原城に籠城した。

布施美作守【ふせみさくのかみ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康勢と戦った。

府馬胤持【ふまたねもち(15??~15??)】

香取郡府馬城主。通称左衛門尉。1558年、香取郡愛宕山正法院地蔵寺を造営して寄進した。

府馬時持【ふまときもち(15??~1565)】

府馬胤持の男。通称左衛門。室は於江の方。里見義堯と結び千葉胤富と対立した。正木時忠、東直胤とともに米野井城を攻落とし木内胤章を討取った。「大崎城の戦い」では、正木時忠勢が国分胤憲を攻撃したが大須賀政朝、香取神宮の大宮司らの増援により撤退した。大須賀政朝勢の攻勢により二条大倉大夫、粟飯原左衛門らが降伏した。「山田台の戦い」で、大須賀政朝勢と戦い討死した。

府馬良暁【ふまよしあき(15??~15??)】

府馬時持の男。来迎寺の住職を務めた。父府馬時持の墓を建てて供養した。

本田越中守【ほんだえちゅうのかみ(15??~1589)】

結城郡筒戸城主。1589年、「筒戸城の戦い」で多賀谷家重、白井全洞勢の攻撃を受け落城した。

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【ま】

町田勘解由【まちだかげゆ(15??~15??)】 

結城晴朝家臣。小塙郷の地侍。1584年、結城晴朝から官途を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

町田豊後守【まちだぶんごのかみ(15??~16??)】 

結城晴朝家臣。小塙郷の地侍。1602年、結城秀康の越前国に転封には従わず、小塙郷で帰農した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

町野十郎【まちのじゅうろう(15??~15??)】

足利義明家臣。1538年、「第一次国府台の戦い」では、足利義明に従って参陣した。足利義明が討死すると藤原弘綱、佐々木源四郎、逸見八郎、らとともに足利頼淳を伴い里見義堯を頼って落延びた。参考文献:『美須麻流之珠』by立花利康。

町野義俊【まちのよしとし(15??~15??)】

足利晴氏家臣。官途は備中守。御連判衆のひとり。1582年、足利義氏が古河城で病没すると、足利家の家督を相続した足利氏姫を芳春院松嶺、一色氏久、町野義俊、小笠原氏長、高氏師、簗田助実、永仙院昌伊らとともに補佐した。

松井広吉【まついひろよし(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。通称主税。

箕匂大炊助【みのわおおいのすけ(15??~15??)】

簗田高助家臣。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、簗田高助とともに長尾景虎勢に参陣して北条氏康勢と戦った。

宮田治左衛門【みやたじぶざえもん(15??~15??)】

結城秀康家臣。結城家十人衆のひとり。1602年、結城秀康が越前国に転封すると、結城郡で結城家菩提を供養するため、帯刀を認められ帰農した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

宮田彦左衛門【みやたひこざえもん(15??~15??)】

結城秀康家臣。結城家十人衆のひとり。1602年、結城秀康が越前国に転封すると、結城郡で結城家菩提を供養するため、帯刀を認められ帰農した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

持田若狭守【もったわかさのかみ(15??~15??)】 

結城勝政家臣。高橋神社の社守。結城勝政から社殿の作事費用を寄進された。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

持田治部少輔【もったじぶしょうゆ(15??~15??)】 

持田若狭守の男。1596年、結城秀康から寺社領として堀入村、萱橋村内で25石の所領を安堵された。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

諸岡長門守【もろおかなかとのかみ(15??~15??)】

豊島頼継家臣。

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【や】

安富朝直【やすとみともなお(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。

安福定則【やすふくさだのり(15??~15??)】 

結城政勝家臣。通称宇右衛門。1515年、結城政勝の意向を受けて、毎年永正寺に5貫文を寄進した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

簗大蔵丞【やなおおくらのじょう(15??~15??)】

結城政勝家臣。1556年、『結城氏新法度』の意向を家中に伝える使者を務めた。1560年、北条氏康から在府料として武蔵国内で所領を宛がう旨の約束状を受けた。参考文献:参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

簗勝重【やなかつしげ(15??~15??)】

結城政勝家臣。官途は周防守。1556年、結城政勝が定めた『結城氏新法度』に重臣十五名の内筆頭で連署した。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

簗貞秀【やなさだひで(15??~15??)】

結城政勝家臣。1556年、結城政勝が定めた『結城氏新法度』に枝連衆筆頭の簗勝重とともに連署した。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

簗宗勝【やなむねかつ(15??~15??)】

結城晴朝家臣。1580年、結城晴朝から改易処分に処せられ、その所領は中里右京進、丹下信濃守に宛がわれた。後に佐竹義宣に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国久保田城に減封になると、刈和野の代官職を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

簗民部少輔【やなみんぶしょうゆう(15??~15??)】

簗勝重家臣。1580年、結城晴朝から改易処分に処された。その後、佐竹義宣に仕えた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

簗田高助【やなだたかすけ(1493~1550)】

東葛飾郡関宿城主。足利高基家臣。簗田政助の男(簗田成助の養子)。官途は河内守。室は簗田成助の娘。1510年、足利高基の家督相続に功を挙げその筆頭家老職に任じられた。父簗田政助からは、勘当処分に処されたため、伯父簗田成助の養子として簗田家の家督を相続した。その後、強力な指導力を発揮して家臣団の再編成を図った。1535年、足利晴氏が古河公方足利家の家督を相続すると、娘を嫁がせ政権基盤を整えた。対外的には、北条氏綱、足利義明、扇谷上杉朝興、山内上杉憲政ら関東諸家と対立した。北条氏綱と結びその娘(芳春院)を足利晴氏の側室に迎えが武蔵国への侵攻は続いた。1546年、「河越城の戦い」で足利晴氏を擁して、山内上杉憲政、扇谷上杉朝定らとともに北条氏康勢と戦うが大敗した。戦後、北条氏康は簗田高助の娘が生んだ足利藤氏を廃嫡にして足利義氏を古河公方に擁立した。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

簗田晴助【やなだはるすけ(1524~1594)】 

簗田高助の男。官途は中務大輔。通称八郎。1546年、「河越城の戦い」で足利晴氏、山内上杉憲政、扇谷上杉朝定勢の大敗後、父簗田高助が隠居したため、簗田家の家督を相続した。1554年、足利晴氏が北条氏康から離反を図るとこれに反対して北条氏康勢に属した。戦後、足利晴氏が小田原城に幽閉され、公方奏者職を解任された。1588年、北条氏康と足利義氏の帰国を条件に古河城と関宿城の交換を行った。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、足利藤氏を古河公方に復帰させる条件で長尾景虎と結んだ。古河城を追われた足利義氏は千葉胤富を頼って関宿城から落延びた。1562年、長尾景虎が帰還すると、古河城は北条氏康勢の攻撃を受け足利藤氏が謀殺された。1567年、隠居して家督を簗田持助に譲った。1574年、「関宿城の戦い」で北条氏照勢の攻撃を受けると、長尾景虎や佐竹義重に支援を求めたが、支援を受けられず降伏した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

簗田持助【やなだ もちすけ(1549~1587)】

簗田晴助の男。官途は中務大輔。通称八郎。1567年、父簗田晴助の隠居により簗田家の家督を相続した。北条氏政が擁立した足利義氏を古河公方とは認めず、長尾景虎、佐竹義重らの支援を受けて、北条氏政勢と徹底抗戦を続けた。1574年、「関宿城の戦い」で敗れ、水海城に減封処分に処された。1582年、足利義氏が病没すると、関宿城が北条氏直勢の攻撃を受け落城した。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

簗田貞助【やなださだすけ(15??~1615)】

簗田持助の男。1582年、足利政義氏が病没すると、大叔父簗田助縄が北条氏政勢を関宿城に引入れ関宿城を奪われた。1587年、簗田持助が病死すると、簗田貞助が幼少を理由に簗田助縄が簗田家の家督を相続した。1589年、「小田原の役」では、北条氏直勢に属したため、役後改易処分に処された。松平元康が関東に転封になると、それに仕え1,000石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

簗田政助【やなだまさすけ(15??~15??)】

簗田持助の次男。官途は右京亮。足利政氏に仕え、町野能悦らとともに奏者役を務めた。継嗣の簗田成助を、兄簗田成助の養子として、簗田惣領家に匹敵する勢力を築いた。足利政氏と足利高基が対立すると、足利政氏勢に属した。簗田高助が擁立した足利高基が古河公方足利惣領家の家督を相続したため、簗田政助は隠居を余儀なくされた。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

簗田基助【やなだもとすけ(15??~15??)】

簗田高助家臣。

簗田助孝【やなだすけたか(15??~15??)】

簗田基助の男。官途は下野守。通称右衛門尉。簗田持助の代理として足利義氏への使者を務めた。1578年、簗田持助とは別に古河公方足利義氏に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

簗田助実【やなだすけざね(15??~15??)】

簗田清助の男。官途は右馬助。足利義氏の病没後、葬儀について北条氏政からの指示を受けた。以後は、足利義氏の奉行衆として松嶺昌寿、一色氏久、町野義俊、小笠原氏長、高氏師、三伯昌伊らとともに北条氏政との外交と担当した。禅僧への公帖発給伝達を行った。1589年、「小田原の役」後は、足利氏姫の処遇を巡り浅野長吉、増田長盛らと交渉を行った。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

簗田助縄【やなだすけつな(15??~15??)】

簗田高助の次男。水海城主。官途は左近将監。通称平四郎。1587年、甥の簗田持助の病没に伴い、簗田家の実権を把握した。1588年、赤岩新宿の発給状を皮切りに家臣にへ感状の発給を行なった。

簗田助利【やなだすけとし(15??~1615)】

簗田助縄の男(簗田持助の養子)。通称平七郎。1587年、簗田持助が病没後、簗田宗家の養子になった。1589年、「小田原の役」では、簗田助孝に小田原城に様子を書状で知らせた。役後、松平元康に仕え1,000石を領した。1615年、「大坂夏の陣」で、真田信繁勢の攻撃により継嗣の簗田権三郎とともに討死した。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

簗田助実【やなだすけざね(15??~15??)】

足利義氏家臣。通称右馬助。

山川政貞【やまかわまささだ(15??~15??)】

結城政朝家臣。結城郡山川城主。山川朝政の男。官途は尾張守。結城家四天王のひとり。父山川朝政とともに結城政朝に従って足利高基勢に属して北関東各地を転戦した。1534年、下妻城主多賀谷家重が常陸小田城主小田政治と結び結城政勝から独立を図ると、その討伐を命じられた。山川政貞勢は多賀谷家重領に侵攻したが、反撃を受け大敗した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山川直貞【やまかわなおさだ(15??~15??)】

山川政貞の男。1537年、多賀谷家重、小田氏治勢の攻撃を受けたが、結城政勝は足利晴氏、小山高朝らの支援を受け反撃、小田政治の本陣を夜襲して多賀谷家重、小田政治勢の頸級300余りを挙げる戦功を挙げた。結城政勝は下妻城に侵攻したが、水谷治持の仲介で多賀谷家重の甥多賀谷朝重を人質取り和議を結んだ。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山川氏重【やまかわうじしげ(15??~15??)】

山川直貞の男。官途は讃岐守。1556年、「海老ヶ島城の戦い」では、結城政勝が山川氏重をはじめ、水谷正村、岩上但馬守、多賀谷政広らとともに援軍の小山高朝の家臣榎本高満、足利晴氏の家臣梁田晴助、北条氏康の家臣太田康資、太田資正、遠山丹波守、富永三郎左衛門ら兵3,000余りを率い、海老ヶ島城を攻撃、城将の平塚長春を討ち取った。「第一次山王堂の戦い」では、小田氏治勢の攻撃を受けたがこれを撃破り、頸級485余りを上げる戦功を挙げた。小田氏治は小田城も攻め落され家臣菅谷勝貞のもとに落延びた。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、山川氏重は結城政勝とともに北条氏康勢に参陣するも、途中から離反して長尾景虎勢に参陣した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山川晴重【やまかわはるしげ(15??~15??)】

山川氏重の男。官途は讃岐守。結城晴朝とともに北条氏政、長尾景虎勢の間を行き来して家名を保った。1565年、山川綾戸城を築城した。1601年、結城秀康が越前国に転封になるとそれに従った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山川朝貞【やまかわよりさだ(15??~15??)】

山川晴重の男。官途は讃岐守。結城秀康のもとで家老職を務め、越前国吉田郡花谷館17,000石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山倉播磨守【やまくらはりまのかみ(15??~1565)】

香取郡小野城主。1565年、「小野城の戦い」で城兵500余りとともに討死した。

山崎出雲守【やまざきいずものかみ(15??~15??)】

豊島頼継家臣。

山田将監【やまだしょうげん(15??~15??)】 

結城政勝家臣。1556年、『結城氏新法度』に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社。

月見里政胤【やまなしまさたね(1532~15??)】

千葉昌胤の三男。千葉親胤家臣。山梨城主。官途は土佐守。通称五郎。1589年、「小田原の役」では、千葉直重に従って小田原城に籠城した。小田原城の落城後、叔母にあたる桂林尼の慶林寺に移り住んだ。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

月見里政家【やまなしまさいえ(15??~1646)】

月見里政胤の男。通称大学。別名綿貫政家。馬術の名手。1589年、「小田原の役」では、父月見里政胤に従って小田原城に籠城した。1614年、松平元康に仕え小金佐倉牧野馬奉行を努め30俵を給した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

結城政朝【ゆうきまさとも(1479~1547)】

結城郡結城城主。結城氏広の男。官途は左衛門督。通称七郎。1514年、古河公方足利政氏、足利高基の争いでは足利高基を支持した。山川朝貞、水谷勝之らを率いて結城政氏方佐竹義舜、岩城由隆らに攻められた宇都宮忠綱を救援し、これを撃破した。所領について宇都宮忠綱と対立し、宇都宮忠綱と不和になった芳賀興綱が保護を求めてくるとこれを支援、猿山で宇都宮忠綱勢を破った。継嗣が無かった小山祗園城主小山政長のもとに次男小山高朝を送りこみ、小山家を臣従させた。1527年、隠居して継嗣結城政勝に家督を譲った。

結城政直【ゆうきまさなお(15??~15??)】

結城政朝の男。通称七郎。1527年、発給文書を遺した。

結城政勝【ゆうきまさかつ(15??~1559)】

結城政朝の次男。官途は左衛門督。通称六郎。1527年、父結城政朝の隠居を受けて結城家の家督を相続した。1539年、那須政資、那須高資父子の争いでは弟小山高朝、白河結城晴綱らとともに那須高資を支援し、那須政資を援助する佐竹義篤、宇都宮尚綱、小田政治らと戦った。1547年、父結城政朝が病没すると宇都宮尚綱が攻めてきたがこれを撃退した。1555年、北条氏康と結ぶ。1556年、「常陸海老島の戦い」では、小山高朝、多賀谷政経らとともに小田氏治勢をで撃破した。1556年、『結城氏新法度』を制定した。1548年、継嗣の結城明朝が病没したため、弟の小山高朝の次男結城晴朝を養子に迎えた。

結城晴朝【ゆうきはるとも(1534~1614)】

小山高朝の次男(結城政勝の養子)。官途は左衛門督。通称七郎。1556年、「常陸海老島の戦い」では、養父の結城政勝とともに参陣して小田氏治勢と戦いこれを撃破った。1559年、結城政勝の病没後、結城家の家督を相続した。1561年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、北条氏康勢に属して、周辺諸侯と対立した。1563年、兄小山秀綱が長尾景虎勢の攻撃を受けるとこれを支援したが敗退し、長尾景虎と和議を結んだ。1564年、長尾景虎が関東から撤退すると、北条氏康勢の攻勢を受け再び北条氏康勢に属した。1578年、長尾景虎が病没すると、那須資晴、佐竹義重、江戸重通らと結んで北条氏政勢に対抗した。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢に属して役後110,000石の本領を安堵された。松平元康の次男結城秀康を養子に迎えた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属した。1601年、結城秀康が越前国転封になるとそれに従った。

結城朝勝【ゆうきともかつ(1569~1628)】

宇都宮広綱の次男(結城晴朝の養子)。通称恵斎。別名宇都宮宗安。1577年、水谷勝俊が北条氏政勢に対抗するため、結城晴朝、佐竹義重、宇都宮広綱を結ばせ、結城朝勝を結城家の養子に送り込んだ。1578年、「小川台の戦い」では、結城晴朝、佐竹義重、宇都宮広綱とともに北条氏政勢を撃退した。1589年、「小田原の役」後、結城秀康が結城家の養子に迎えられると、家督相続権を失い宇都宮国綱にもとに戻った。1592年、「文禄の役」では、兄宇都宮国綱勢に従い参陣した。1597年、宇都宮広綱が改易処分に処されると、佐竹義宣に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝勢に属して白河城で長尾景勝と佐竹義宣の取次役を務めた。役後、佐竹義宣が秋田久保田城に減封になると、それに従った。

結城光綱【ゆうきみつつな(15??~15??)】

真壁重幹の次男(結城朝勝の養子)。別名宇都宮光綱。

結城秀康【ゆうきひでやす(1574~1607)】

松平元康の次男(結城晴朝の養子)。官途は三河守。室は鶴姫(結城晴朝の養女)。鶴姫は江戸重通の娘で、結城晴朝の養女に迎えられ、結城秀康に嫁いだ。

遊座広直【ゆうざひろなお(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。官途は右京亮。

横瀬保広【よこせやすひろ(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。高井胤正の男。官途は伊勢守。

横瀬恒広【よこせつねひろ(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。官途は弾正忠。

横瀬貞広【よこせさだひろ(15??~15??)】

相馬胤晴家臣。通称源太左衛門。

横田藤四郎【よこたとうしろう(15??~15??)】

簗田高助家臣。

吉野縫殿助【よしのぬいどのすけ(15??~15??)】

高城胤辰家臣。1564年、「第二次国府台の戦い」では、高城胤辰勢に従って参陣して北条氏康勢と戦った。

和久井長右衛門【わくいちょうえもん(15??~15??)】

結城秀康家臣。結城家十人衆のひとり。1602年、結城秀康が越前国に転封すると、結城郡で結城家菩提を供養するため、帯刀を認められ帰農した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

渡辺胤頼【わたなべたねより(15??~1535)】

野手胤義家臣。官途は播磨守。家老職を務めた。1535年、「野手城の戦い」では、足利義明の意向を受けた押田昌定勢の攻撃を受け野手義長が討死すると、城兵の助命を願い出て城門前で自刃した。

渡辺孫八郎【わたなべまごはちろう(15??~15??)】

原胤貞家臣。1565年、「土気城の戦い」で原胤貞は酒井胤敏とともに長尾景虎勢に内応した酒井胤治を攻撃したが、原弥太郎、渡邊孫八郎、大畑半九郎、大厩藤太郎ら50余りが討死した。

渡辺越前守【わたなべえちぜんのかみ(15??~15??)】

多賀谷重経家臣。平井手伊賀守らとともに谷田部城を守備した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

和田民部【わだみんぶ(15??~15??)】

豊島頼継家臣。

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【資料Ⅰ】

下総国(14郡/360,000石)

東葛飾郡:関宿城、幸手城。
西葛飾郡:小金城。
北相馬郡:府川城。
南相馬郡:守谷城
千葉郡:小弓城。
印旛郡:本佐倉城、臼井城。
埴生郡:寺台城。
香取郡:米野井城、鏑木城、矢作城。
海上郡:飯沼城、中島城。
匝瑳郡:野手城、八日市場城。
結城郡:結城城。
猿島郡:古河城、野田城。
豊田郡:豊田城。
岡田郡:下総太田城、石毛城。

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【資料Ⅱ】

尾崎郭二十二人衆【おざきかくにじゅうににんしゅう】

吉原玄蕃助。

結城家十人衆【ゆうきけじゅうにんしゅう】

赤萩市右衛門、赤萩長左衛門、宮田治左衛門、宮田彦左衛門、中里作左衛門、和久井長右衛門、早見治右衛門、荒川市右衛門、伊佐岡久右衛門。※1602年、結城秀康が越前国に転封する時、結城家の菩提を供養するため、結城の地に結城家住人衆を残した。

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【資料Ⅲ】

下総国【しもふさのくに】

房総半島の基部を占める東海道の国。西は武蔵国、北は下野国と境を接し、東から北にかけては小貝川などの河川に沿って常陸国との国境を作る。南は下総台地に沿って

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戦国人名辞典は1500~1620年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

出展図書は参考文献として示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

徳川家康は松平元康、豊臣秀吉は羽柴秀吉に統一。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、参考文献:『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国人名事典』by吉川弘文館、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『房総戦国土豪の終焉』by崙書房、『戦国房総人名事典』by崙書房出版、『戦国大名里見氏』by崙書房、『里見義堯』byPHP文庫、『佐竹義重』byPHP文庫、『佐竹義宣』byPHP文庫。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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