2011年10月1日土曜日

戦国能登国人名辞典

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【あ】

明日輪七郎右衛門【あすわしちょろうえもん(15??~15??)】

松波義智家臣。1474年、畠山義統の意向を受け松波義智が松波城を領するとそれに従った。参考文献:『能登畠山史要』by三宅邦吉。f

天野彦次郎【あまのひこじろう(15??~15??)】

畠山義統家臣。天野慶景の男。通称彦次郎。1480年、天野家の家督を相続した。

天野俊景【あまのとしかげ(15??~15??)】

畠山義統家臣。天野章慶の男。通称次郎右衛門。1480年、父天野章慶の隠居により天野家の家督を相続した。1513年、「永正の乱」では、畠山義元勢に属して、戦功を挙げ、本領安堵に加え、鹿島郡の守護料所の代官職を得た。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

天野加賀守【あまのかがのかみ(15??~15??)】

天野俊景の男。1576年、「田鶴濱館の戦い」では、長尾景虎勢の攻撃を受け落城した。

安国寺留雲斎【あんこくじりゅううんさい(15??~15??)】

能登国安国寺の僧。細川高国の男。畠山義続の政僧や七人衆の使僧として功を上げた。1551年、本願寺顕如との取次役を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

飯田与三右衛門【いいだよざうえもん(15??~15??)】

遊佐続光家臣。珠洲郡飯田館主。1577年、「七尾城の戦い」では、長尾景虎勢に降伏して、所領を安堵され、貫高に応じて鑓、馬上、鉄砲等の軍役を賦課した。

飯川越後守【いがわえちごのかみ(15??~15??)】

畠山義続家臣。官途は越後守。1553年、本願寺顕如との取次役を務めた。

飯川国弘【いがわくにひろ(15??~15??)】

畠山義総家臣。1524年、三条西実隆のもとに『百番歌合』を届ける使者を務めた。

飯川宗春【いがわそうしゅん(14??~15??)】

飯川光助の男。通称半隠斎。歌道愛好の禅僧として畠山義総に仕えた。1517年、能登国を訪れていた冷泉為広の門弟になった。1518年、飯川宗春の継嗣が早世すると、その供養に冷泉為広が列席した。1525年、三条西実隆のもとに訪れ、和歌を交換した。1523年、七尾城で行われた「賦何路連歌」「賦何人連歌」に列席した。

飯川光範【いがわみつのり(15??~15??)】

飯川宗春の男。官途は若狭守。通称新七郎。連歌に精通していた。1517年、能登国を来訪していた冷泉為広の門弟となった。1523年、七尾城で行われた「賦何路連歌」「賦何人連歌」に父飯川宗春ととも列席した。

飯川光誠【いがわみつのぶ(15??~15??)】

畠山義綱家臣。飯川光範の男。官途は大炊助。能登七人衆のひとり。1566年、「永禄九年の政変」で畠山義慶が擁立され畠山義綱が近江国に落延びると、それに従った。1568年、「七尾城奪還戦」を支援したが失敗に終わった。

飯川義実【いがわよしざね(15??~1574)】

長続連の四男(飯川義宗の養子)。1566年、「永禄九年の政変」で畠山義慶が擁立され畠山義綱が近江国に落延びると、養父飯川光誠とともに越後国に落延びた。畠山義慶の意向で能登国に帰還したが、畠山義慶が謀殺されると、飯川義実も謀殺された。

飯川義清【いがわよしきよ(15??~1577)】

飯川義実の男。祖父飯川光誠とともに越後国に落延びたが、畠山義綱の意向により復帰した。1577年、「七尾城の戦い」で長尾景虎勢と戦い討死した。

飯川義宗【いがわよしむね(15??~15??)】

豊田光広の次男(飯川義明の養子)。官途は肥前守。畠山義綱に仕えるが、謀反の疑いを受け飯川義実、飯川義清とともに越後国に落延びた。その後、畠山義綱の意向を受け帰参した。

飯川正誠【いがわまさのぶ(15??~15??)】

畠山義綱家臣。奉行人を務めた。1561年、畠山義綱が珠洲群三崎高勝寺に臨時課税をした際、長連理、佐脇長隆、今井綱秀、井上英教らとともに連署した。

池田大炊助【いけだおおいのすけ(15??~15??)】

遊佐続光家臣。通称大炊助。1575年、『東福寺栗棘庵文書』に署名した。

池森長右衛門【いけもりちょうえもん(15??~15??)】

松波義智家臣。1474年、畠山義統の意向を受け松波義智が松波城を領するとそれに従った。参考文献:『能登畠山史要』by三宅邦吉。

伊丹総堅【いたみふさかた(15??~1553)】

畠山義続家臣。通称宗右衛門。1551年、畠山義続のもとで七人衆のひとりとして活躍した。1553年、「大槻一宮の戦い」で畠山義綱、温井総貞と遊佐続光が争うと、遊佐続光勢に属して参陣したが討死した。

伊藤貞信【いとうさだのぶ(15??~15??)】

温井総貞家臣。通称新右衛門尉。1569年、『東福寺栗棘庵文書』に連署した。

伊藤延家【いとうのぶいえ(15??~15??)】

温井総貞家臣。通称孫左衛門尉。1569年、『東福寺栗棘庵文書』に連署した。

井上英教【いのうえひでのり(15??~15??)】

畠山義綱家臣。官途は下野守。通称弥九郎。1558年、畠山義綱の奉行人を務めた。

井上英安【いのうえひでやす(15??~15??)】

畠山義続家臣。官途は美濃守。1566年、「永禄九年の政変」で畠山義続、畠山義綱父子が能登国を追放されて近江国坂本に落延びると、これに従った。

井上総英【いのうえふさひで(15??~15??)】

井上統英の男。通称蔵人。畠山義総に仕え、書に優れていた。また和歌にも長じ、家中随一の文人と称された。1534年、三條西実隆に和歌の教えを受けた。1541年、鹿島郡府中において和歌会を行った。

今井綱秀【いまいつなひで(15??~15??)】

畠山義綱家臣。官途は出羽守。畠山義綱の奉行人を務めた。1562年、畠山義綱が正親町天皇の勅許を得て能登一宮気多大社の造営をした際、寺岡紹経とともに社務奉行を務めた。1556年、「諸橋文書」に奉行人として連署した。1563年、「諸橋文書」に奉行人として連署した。

内田駒太郎【うちだこまたろう(15??~15??)】

松波義智家臣。1474年、畠山義統の意向を受け松波義智が松波城を領するとそれに従った。参考文献:『能登畠山史要』by三宅邦吉。

宇野石見守【うのいわみのかみ(15??~15??)】

温井孝宗家臣。珠洲郡正院館主。官途は石見守。1559年、正院本住寺を建立した際、長谷川等伯に仏画の制作を依頼した。

大塚連家【おおつかつらいえ(15??~15??)】

畠山義慶家臣。通称孫兵衛尉。1570年、岩倉寺へ燈明銭を寄進した。

隠岐統朝【おきむねとも(15??~15??)】

畠山義統家臣。官途は豊前守。通称藤四郎。1487年、畠山義元が家督を相続した後も信任を受けた。1500年、遊佐統秀らに擁立された畠山慶致が家督を相続すると、畠山義元が越後国の落延びると失脚した。1508年、畠山慶致と畠山義元が和議を結ぶと、隠岐統朝も復帰した。

隠岐賢広【おきかたひろ(15??~15??)】

畠山義綱家臣。官途は右近大夫。1566年、畠山義綱が病に倒れると、山城国祇園社宝寿院から祈祷御守、牛王と御壇供を送られた礼状を返信した。

隠岐続朝【おきつぐとも(15??~15??)】

畠山義綱家臣。奉行人を務めた。

荻野宗忠【おぎのむねただ(15??~15??)】

温井総貞家臣。通称四郎左衛門。

奥村宗道【おくむらむねみち(15??~15??)】

長続連家臣。奥村元道の男。通称文之丞。長谷川等伯の父。

奥田光宗【おくだみつむね(15??~1581)】

奥村宗道の男。通称帯刀左衛門。1577年、七尾城が落城すると、遊佐続光勢に属した。長連龍が捕縛された際、一緒に処刑された。

織田隆長【おだたかなが(15??~15??)】

温井総貞家臣。通称三左衛門尉。1569年、『東福寺栗棘庵文書』に連署した。

尾館喜兵衛【おだてきちべい(15??~15??)】

松波義智家臣。1474年、畠山義統の意向を受け松波義智が松波城を領するとそれに従った。参考文献:『能登畠山史要』by三宅邦吉。

小幡宗硯【おばたすずり(15??~15??)】

畠山義総家臣。

小幡永閑【おばたえいかん(15??~15??)】

畠山義総家臣。別名「能登永閑」。兄小幡宗硯とともに畠山義総に仕えた。京都と能登を往復し、畠山義総と三条実隆との取次役を務めた。著書に『万水一露』。

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【か】

甲斐庄家繁【かいじょういえしげ(15??~15??)】

畠山義綱家臣。官途は駿河守。1555年、「弘治の乱」では、畠山義綱勢に属して戦功を挙げた。1557年、温井続宗勢の山庄直秋と戦った。

加治直誠【かじなおのぶ(15??~15??)】

畠山義元家臣。通称又五郎。1510年、『東福寺栗棘庵文書』に連署した。

笠松新介【かさまつしんすけ(15??~1531)】

畠山義元家臣。1531年、「加賀大小一揆」で加賀国に派遣され討死した。

笠松但馬守【かさまつたじまのかみ(15??~15??)】

笠松新介の男。通称平四郎。1531年、「加賀大小一揆」では、父笠松新介が加賀国に派遣されたが討死した。1555年、「温井党の乱」では、畠山義綱勢に属して戦功を挙げた。1566年、「永禄九年の政変」で畠山義綱が追放された後も畠山義綱を支援した。1568年、畠山義綱から離れて、畠山義慶から知行安堵を得た。

吉良中務入道【きらなかつかさにゅうどう(15??~15??)】

温井総貞家臣。別名持徳齊。1551年、温井総貞の使者として本願寺証如のもとに赴いた。

玉蔵坊英性【ぎょくぞうぼうえいしょう(15??~15??)】

輪島湊の商人。1524年、温井孝宗が重蔵宮の本殿造営を行った際、奉行職を務めた。輪島湊の実質的な担い手である。1555年、「弘治の内乱」では、畠山義綱勢を支援した。

熊木続兼【くまきつぐかね(15??~15??)】

畠山義続家臣。通称金右衛門。1566年、「永禄九年の政変」で畠山義続、畠山義綱が近江国に落延びた際、これに従った。のち畠山義綱の能登奪還に協力した。

熊木兵部【くまきひょうぶ(15??~1577)】

松波義親家臣。熊木続兼の男。1577年、長尾景虎の攻撃を受け、討死した。

孝恩寺存貞【こうおんじぞんてい(15??~15??)】

畠山義綱家臣。永光寺の住職。畠山義綱に仕え政治的助言を行った。

河野続秀【こうのぐひで(15??~1554)】

畠山義続家臣。羽咋郡堀松城主。通称藤兵衛尉。畠山義続政権の奉行人。1552年、『東福寺栗棘庵文書』に連署した。1553年、「大槻一宮の戦い」で畠山義綱、温井総貞と遊佐続光が争うと、遊佐続光勢に属したが討死した。

河野肥前守【こうのひぜんのかみ(15??~1577)】

河野続秀の男。官途は肥前守。1577年、「柳ヶ瀬の戦い」で長尾景虎勢と戦い討死した。

河野土佐守【こうのとさのかみ(15??~1577)】

河野肥前守の男。官途は土佐守。1577年、「柳ヶ瀬の戦い」で父河野肥前守とともに長尾景虎勢と戦い討死した。

河野藤兵衛【こうのとうべい(15??~15??)】

河野土佐守の男。長連龍に従った。

国分慶胤【こくぶのりたね(15??~15??)】

西谷内畠山家俊家臣。官途は備前守。1566年、「永禄九年の政変」では、畠山義続と畠山義綱が追放されると、遊佐続光、長続連、八代俊盛らとともに北畠義慶を擁立した。

後藤総員【ごとうふさかず(15??~15??)】

畠山義元家臣。官途は兵部丞。1542年、半隠斎宗春とともに室町幕府との取次役を務めた。1541年、能州に下向した冷泉為和の門人となった。

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【さ】

佐脇綱盛【さわきつなもり(15??~15??)】

畠山長隆家臣。官途は美濃守。通称四郎右衛門尉。別名佐脇長隆。1561年、「須々神社文書」「諸橋文書」に他の奉行人らとともに連署した。1566年、「永禄九年の政変」では、畠山義続と畠山義綱が追放されると、近江国に従った。畠山義綱のもとを離れ畠山義慶勢に属した。1571年、畠山義慶の筆頭奉行衆となった。

佐脇秀隆【さわきひでたか(15??~15??)】

畠山義元家臣。通称与次郎。珠洲郡下町野荘行遠を領した。1510年、岩蔵寺観音堂造営料として寄進した。

成身院宗歓【じょうしんいんそうかん(15??~15??)】

畠山義総家臣。鳳至郡の真言宗明千寺の僧。畠山義総と三条西実隆との文芸交流の交渉や、室町幕府、石山本願寺との取次役を務めた。1517年、能登国に下向した冷泉為広の門弟となった。

神保長秀【じんぼながひで(15??~15??)】

神保長頼の男。1577年、「七尾城の戦い」後、松波城に落延びた。「松波城の戦い」で松波城が落城すると長連龍に仕えた。

神保慶明【じんぼのりあき(15??~15??)】

神保長誠の次男。官途は出雲守。1520年、「越中永正の乱」では、能登畠山義総、河内畠山尚順、長尾為景との取次役を務めた。

神保総誠【じんぼふさのぶ(15??~15??)】

畠山義総家臣。通称宗左衛門尉。別名神保綱誠。1517年、能洲に下向した冷泉為広の門弟となった。1528年、畠山義総の使者として三条西実隆のもとに赴いた。

神保元康【じんぼもとやす(15??~15??)】

畠山義元家臣。通称与一。代官職を務めた。

神保綱親【じんぼつなちか(15??~15??)】

畠山義慶家臣。官途は伯耆守。1573年、珠洲の永光寺の末寺、峰寺に田地と屋敷を寄進し、諸役を免除した。

鈴木因幡守【すずきいなばのかみ(15??~15??)】

長連龍家臣。1578年、長尾景虎が春日山城で病没すると、温井景隆、三宅長盛勢と織田信長の支援を受けた長連龍勢に属して、能登国内を転戦して戦功を重ねた。1580年、八伏山の堡塁を焼き払った。1582年、「本能寺の変」後、前田利家勢に属した。1584年、佐々成政、神保氏張の来襲に備え、窪田館を守備した。

杉山則直【すぎやまのりなお(15??~15??)】

長続連の次男(杉山家の養子)。畠山義隆に仕えた。

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【た】

高田中務少輔【たかだちゅうむのしょう(15??~15??)】

畠山義慶家臣。1576年、「七尾城の戦い」で長尾景虎勢と戦った。

鷹合兵衛【たかごうひょうい(15??~15??)】

畠山義総家臣。鹿島郡国分村を領した。

瀧波興左三衛門【たきなみこうざえもん(15??~15??)】

松波義智家臣。1474年、畠山義統の意向を受け松波義智が松波城を領するとそれに従った。参考文献:『能登畠山史要』by三宅邦吉。

長英連【ちょうひでつら(15??~15??)】

鳳至郡穴水城主。畠山義元家臣。長教連の男。1488年、「第一次穴水城の戦い」では、加賀一向一揆勢の攻撃を受け、父長教連が討死した。長英連は落ち延びた。1531年、「第二次穴水城の戦い」で穴水城を奪還した。

長続連【ちょうつぐつら(1515~1577)】

平盛信の次男(長英連の養子)。室は長英連の娘。畠山義続に仕えた。1543年、「石塚の戦い」で遊佐続光勢と戦った。1550年、遊佐続光は州崎兵庫(加賀一向一揆衆徒)の支援を受け能登国に侵攻した。1565年、長家の家督を長綱連に譲った。1576年、長尾景虎、織田信長の両家から圧迫を受け、織田信長勢に属して長尾景虎勢と戦った。1577年、「七尾城の戦い」では、長尾景虎勢と戦ったが、長尾景虎勢に内応した遊佐続光に謀殺された。

長綱連【ちょうつなつら(1539~1577)】

長続連の男。1565年、長家の家督を相続した。1574年、畠山義慶が病没すると、畠山義隆の後見役を務めた。1577年、「七尾城の戦い」では、織田信長勢に属して長尾景虎勢と戦ったが、長尾景虎勢に内応した遊佐続光に父長続連とともに謀殺された。

長連龍【ちょうつらたつ(1546~1619)】

長続連の次男。1577年、「七尾城の戦い」では、織田信長勢に属して長尾景虎勢と戦った。長連龍は援軍を求める使者として織田信長のもとに派遣されたが、七尾城に籠城する父長続連、兄長綱連は、長尾景虎勢に内応した遊佐続光に謀殺された。1578年、能登国に帰還して穴水城を奪還したが、温井景隆勢の攻撃を受け越中国の神保氏張のもとに落延びた。1579年、温井景隆は長尾景虎の家臣鯵坂長実を追放して能登七尾城を奪った。1580年、「飯山の戦い」では、温井景隆勢を撃破った。

長景連【ちょうかげつら(15??~1582)】

長続連家臣。主家没落後は長尾家に通じて珠洲郡正院川尻城主となる。1579年、織田信長方温井景隆らに攻められて越後国へ落延びた。織田勢の魚津城攻略中に能登鳳至郡棚木城に拠って織田信長に抗したが、長連龍に攻めこまれて落城した。

長連理【ちょうつらまさ(15??~1577)】

畠山義綱家臣。官途は三河守。奉行人筆頭を務めた。1566年、「永禄九年の政変」では、畠山義慶勢に属した。1577年、「七尾城の戦い」では、長尾景虎勢と戦い能登国各地を転戦した。「穴水城の戦い」の撤退戦で殿を務め討死した。

筒井孫次郎【つついまごじろう(15??~15??)】

温井孝宗家臣。1531年、鹿島郡重蔵宮の神輿を再興する際、温井孝宗の奉行職を務めた。

寺岡紹経【てらおかしょうけい(15??~15??)】

畠山義綱家臣。四郎左衛門尉。奉行人を務めた。1562年、寺岡紹経は畠山義綱が正親町天皇の勅許を得て能登一宮気多大社の造営をした際、今井綱秀とともに社務奉行を務めた。1573年、畠山義慶が気多社の造営を行った。「永禄九年の政変」で畠山義綱が追放された後は、畠山義慶に仕えた。

富来綱盛【とぎつなもり(15??~15??)】

畠山義綱家臣。通称小次郎。奉行人を務めた。1565年、奉行人として富山湾の鰤漁に規制をかけ、諸役を課した。1566年、「永禄九年の政変」で畠山義綱が追放されると、畠山義綱に従って北近江国に落延びた。曲直瀬道三との取次役を務めた。飯川光誠とともに畠山義綱に最後まで従った。

得田秀章【とくだしゅうしょう(15??~1577)】

畠山義綱家臣。羽咋郡得田館主。官途は佐渡守。別名「秀章」。1567年、安養寺に七間四方の講堂を建立、社領も寄進して熊野社の再興をはかった。1577年、「鹿島荒山の戦い」で長尾景虎勢と戦い討死した。参考資料:『半島国の中世史』by東四柳史明。

得田章種【とくだあきたね(15??~1577)】

得田秀章の男。1577年、「鹿島荒山の戦い」で父得田秀章とともに、長尾景虎勢と戦い討死した。

富田九郎兵衛【とみたくろうべい(15??~15??)】

松波義智家臣。1474年、畠山義統の意向を受け松波義智が松波城を領するとそれに従った。参考文献:『能登畠山史要』by三宅邦吉。

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【な】

中西図書【なかにしとしょ(15??~15??)】

畠山義綱家臣。1577年、「七尾城の戦い」で畠山春王丸が滅ぶと長連龍に仕えた。

中西定親【なかにしさだちか(15??~15??)】

誉田康俊家臣。官途は大炊助。1558年、誉田康俊が岩倉寺に寄進を行った際、その使者を務めた。

奈志見光連【なじみみつつら(15??~15??)】 

畠山義慶家臣。鳳至郡南志見城主。官途は中務大輔。1570年、畠山義慶の奉行人を務めた。1571年、奥能登外浦の代官職を務めた。

新保兼家【にいほかねいえ(15??~15??)】

国分慶胤家臣。通称左介。1559年、熊野権現の奉加札を奉納した。

仁岸宗心【にぎしそうしん(15??~1550)】

長英連家臣。馬場城主。官途は石見守。室は長英連の妹。1550年、「能登天文の乱」では、温井総貞勢に属した。「天神河原の戦い」で遊佐続光勢と戦い討死した。

仁岸右衛門尉【にぎしうえもんのじょう(15??~15??)】

仁岸宗心の男。

温井総貞【ぬくいふささだ(1494~1555)】

畠山義総家臣。温井孝宗の男。官途は備中守。畠山義総時代文芸に深く畠山家臣団の筆頭となった。畠山義続の家督相続に尽力した。1553年、「大槻一宮の戦い」で畠山義綱を擁して遊佐続光と戦い、これを撃破った。筆頭家老職を務め、畠山家を専横を極めた。1555年、権力の回復を図る畠山義綱に討取られた。

温井続宗【ぬくいつぎむね(1513~15??)】

温井総貞の男。官途は兵庫助。1551年、温井家の家督を相続した。1555年、権力回復を目指す畠山義綱により父温井総貞が討たれると温井続宗の力は没落した。継嗣の温井景隆とともに加賀国に落延びた。

温井景隆【ぬくいけげたか(1532~1582)】

温井続宗の男。官途は備中守。1555年、祖父温井総貞が、畠山義綱によって謀殺されると加賀国に落延びた。1566年、「永禄九年の政変」で畠山義綱が追放されると、畠山義慶に仕えた。1577年、「七尾城の戦い」では、長尾景虎勢に内応して、長尾景虎勢を七尾城に引き入れた。1578年、長尾景虎が病没すると七尾城代の鰺坂長実を追放して織田信長勢に属した。長連龍と対立したため、長尾景勝を頼って落延びた。1582年、「本能寺の変」後、能登国に侵攻して前田利家勢と戦ったが、佐久間盛政勢の猛攻を受けて討死した。

温井続基【ぬくいつぐもと(15??~15??)】

温井総貞家臣。1555年、温井総貞が畠山義綱によって討たれると阿岸本誓寺ら一向一揆と結んでこれに対抗した。1555年、敗北、加賀国に落延びた。

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【は】

能登畠山義総【はたけやまよしふさ(1491~1545)】

能登郡七尾城主。畠山慶致の男(畠山義元の養子)。能登国守護職。1515年、畠山義元が病没したため、能登畠山家の家督を相続した。七尾城を築城して領国支配を進め、また文人、公卿らを招いて城下街の形成、文化移入に多大な功績を残した。古典、和歌、文学に造詣深く、大いにこれを保護して30年に亙る安定期を築いた。

能登畠山義繁【たはけやまよししげ(15??~1542)】

畠山義総の男。

能登畠山義続【はたけやまよしつぐ(1517~1590)】

畠山義総の次男。1542年、兄畠山義繁が早世したため、能登畠山家の家督を相続した。1545年、畠山宗家の河内畠山稙長が病没した際、その後継者にも目されたが、父畠山義総が病没したため、相続することが出来なかった。家臣団の力が強く、畠山義続は象徴の地位しか保てずに、実質上領国は能登畠山七人衆による合議制のもとに運営された。1551年、継嗣の畠山義綱に能登畠山家の家督を譲り、出家した。

能登畠山義綱【はたけやまよしつな(1535~1593)】

畠山義続の男。1551年、父畠山義続の隠居により能登畠山家の家督を相続した。1555年、畠山義綱は復権を図って七人衆筆頭の温井総貞を謀殺したため、家中の反感を買った。た。1558年、謀反を起こした畠山晴俊を討取ると、七人衆は長尾景虎に内応して、畠山義綱の追放を策謀した。1566年、「永禄九年の政変」で父畠山義続とともに七人衆に能登国から追放された。

能登畠山義慶【はたけやまよしのり(1554~1574)】

畠山義綱の男。1566年、「永禄九年の政変」で祖父畠山義続と父畠山義綱が重臣たちによって追放されると、遊佐続光、長続連、八代俊盛らに擁立され能登畠山家の家督を相続した。1574年、病没した。

能登畠山義隆【はたけやまよしたか(1556~1576)】

畠山義綱の次男。1566年、「永禄九年の政変」で父畠山義綱が七人衆によって追放され、兄能登畠山義慶が擁立されるとこれを補佐した。1574年、畠山義慶が病没すると能登畠山家の家督を相続した。1576年、病没したため、能登畠山家は滅亡した。

能登畠山春王丸【はたけやまはるおうまる(1572~1577)】

畠山義隆の男。1576年、父能登畠山義隆が七尾城内で病没した、能登畠山家の家督を相続した。幼年のため、実権は長続連が握った。

勝山畠山晴俊【はたけやまはるとし(15??~1558)】

鹿島郡勝山城主。畠山義元家臣。別名畠山晴俊。1555年、畠山義綱と争い内乱を引き起こした。武田晴信、加賀一向一揆、能登阿岸本願寺らと結んで畠山義綱を七尾城に追い詰めるなど優勢であったが、長尾景虎、椎名康胤らが畠山義綱勢に属したため劣勢となった。1558年、「勝山城の戦い」で破れ討死した。

西谷山内畠山家俊【はたけやまいえとし(1465~1531)】

鹿島郡西谷山内城主。畠山政栄の男。官途は大隅守。別名畠山家俊。領国と京都を往復して有力公家と婚姻を結んだり、冷泉為広らと和歌を通じて親交を持った。1531年、「享禄の錯乱(加賀大小一揆)」では、若松本泉寺を支援して畠山義総、朝倉教景、富樫稙泰、富樫泰俊らとともに加賀国に参陣した。「加賀太田の戦い」で下間頼秀、下間頼盛勢と戦い討死した。畠山義総勢が壊滅したため、朝倉教景、富樫稙泰、富樫泰俊らは撤退した。姉は本願寺蓮如蓮如の後室。娘は万里小路惟房に嫁いだ。

西谷山内畠山将監【はたけやましょうげん(15??~15??)】

西谷山内畠山家俊の男。1550年、「能登天文の乱」に、兵100余りを率いて参陣した。1577年、「七尾城の戦い」では、長尾景虎勢に属して参陣した。

平治勘左衛門【ひらはるかんざえもん(15??~15??)】

松波義智家臣。1474年、畠山義統の意向を受け松波義智が松波城を領するとそれに従った。参考文献:『能登畠山史要』by三宅邦吉。

平総知【ひらふさとも(15??~15??)】

畠山義続家臣。平光知の男。官途は加賀守。七人衆のひとり。

平堯知【ひらたかとも(15??~15??)】

平総知の男。官途は加賀守。通称新左衛門。畠山義綱のもとで年寄衆をを務めた。1577年、「七尾城の戦い」では、長尾景虎勢に降伏した。1579年、温井景隆らとともに七尾城代で長尾景虎の家臣鰺坂長実を追放して織田信長勢に属した。1581年、織田信長勢が能登国に侵攻すると七尾城から逃亡した。

平光知【ひらみつとも(15??~15??)】

畠山義続家臣。通称新左衛門。近江国余呉荘に邸宅を持ち、能登国と京都の取次役を務めた。北野社領能登羽咋郡菅原荘、上賀茂社領土田賀茂荘の代官職を務めた。

広瀬貞成【ひろせさだなり(15??~15??)】

温井総貞家臣。官途は隼人佐。1569年、『東福寺栗棘庵文書』に連署した。

誉田弾正【ほんだだんじょう(15??~15??)】

畠山義綱家臣。1577年、「七尾城の戦い」では、七尾城を守備した。「富木城の戦い」では、藍浦長門を攻撃してこれを討取った。

誉田康俊【ほんだやすとし(15??~15??)】

畠山義綱家臣。通称勘解由左衛門尉。1558年、岩蔵寺に田を寄進して武運長久、子孫繁昌、安穏息災、諸願成就を祈願した。1561年、岩蔵寺に田を永代寄進した。

誉田頼重【ほんだよりしげ(15??~15??)】

畠山義総家臣。官途は出雲守。家老職を務めた。

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【ま】

真舘氏矩【まだちうじのり(15??~1550)】

畠山義続家臣。真舘氏寧の男。1550年、「天神河原の戦い」で長続連勢に属して参陣するが討死した。

松百越後守【まつどえちご(15??~15??)】

畠山義綱家臣。鹿島郡松百館主。1557年、「弘治の内乱」では、平続重、甲斐庄家繁とともに参陣した。温井総貞勢の山庄直秋と戦った。

松波常重【まつなみつねしげ(15??~1570)】

珠洲郡松波城主。畠山義遠の男。能登畠山家の庶流に過ぎなかったが、能登珠洲郡の土豪松波家を吸収し、有力国人領主の長英連と縁戚関係を結び勢力を拡大した。1569年、「鶏塚の戦い」では、畠山義慶勢に属して参陣、八代俊盛勢と戦い戦功を挙げた。

松波義龍【まつなみよしたつ(15??~1572)】

松浪常重の男。妹は長英連に嫁いだ。菩堤所万福寺の末寺として涌金、宝光のニ寺を建立した。

松波義親【まつなみよしちか(1527~1577)】

畠山義綱の次男(松波義龍の養子)。官途は常陸介。別名松浪義季。室は公家烏丸家の娘。松波義龍が早世したため、松波家の家督を相続した。1569年、「鶏塚の戦い」では、養父松波常重とともに畠山義慶勢に属して参陣、八代俊盛勢と戦い戦功を挙げた。1577年、「七尾城の戦い」では、家臣の生森長右衛門を松波城代に任じ長尾景虎勢と戦った。敗れて松波城に落延びたが、長尾景虎の家臣長沢光国勢の攻撃を受け自刃した。松浪義親の内室は前田まつの侍女となった。

松波義行【まつなみよしゆき(15??~15??)】

松波義龍の次男。1577年、「七尾城の戦い」では、畠山義慶勢に従って奮戦したが落城した。「松波城の戦い」では、義兄松浪義親とともに長尾景虎勢と戦ったが敗れて松浪義親は自刃した。松波義行は堀松城に落延び抵抗を続けた。後、松平元康に仕え1,000石を領した。

松波連親【まつなみつらちか(15??~15??)】

松波義親の男。人質として長尾景虎のもとに送られた。1580年、長連龍に仕えた。

松波義直【まつなみよしなお(15??~15??)】

松波義親の次男。1580年、兄松波連親とともに長連龍に仕えた。

松波重左衛門【まつなみしげざえもん(15??~15??)】

松波義智家臣。1474年、畠山義統の意向を受け松波義智が松波城を領するとそれに従った。参考文献:『能登畠山史要』by三宅邦吉。

松波六郎大夫【まつなみろうろうだいふ(15??~15??)】

松波義智家臣。1474年、畠山義統の意向を受け松波義智が松波城を領するとそれに従った。参考文献:『能登畠山史要』by三宅邦吉。

松波重兵衛【まつなみしげべい(15??~15??)】

松波義智家臣。1474年、畠山義統の意向を受け松波義智が松波城を領するとそれに従った。参考文献:『能登畠山史要』by三宅邦吉。

三宅俊長【みやけとしなが(15??~1531)】

鳳至郡崎山城主。畠山義元家臣。三宅忠俊の男。官途は伊賀守。七人衆のひとり。1513年、騒乱の間、年寄衆として政務を沙汰した。1531年、「加賀太田の戦い」で加賀一向一揆勢と戦い討死した。

三宅総広【みやけふさひろ(15??~15??)】 

三宅俊長の男。官途は筑前守。温井総貞と結んで権勢を振った。1550年、「能登天文の乱」では、温井総貞と遊佐続光が争うと、温井総貞勢に属して遊佐続光勢を撃破った。

三宅長盛【みやけながもり(15??~1582)】

温井続宗の男(三宅総広の養子)。官途は備後守。通称彦次郎。別名三宅総賢。1553年、「大槻一宮の戦い」では、温井総貞と遊佐続光が争うと、父三宅総広とともに温井総貞勢に属して遊佐続光勢を撃破った。1555年、「弘治の内乱」で温井総貞が畠山義綱に謀殺されと、加賀一向一揆衆を扇動し、温井景隆勢を支援するが敗北、温井景隆とともに加賀国に落延びた。1566年、「永禄九年の政変」では、遊佐続光、長続連、八代俊盛らが畠山義慶を擁立して畠山義続、畠山義綱を追放すると能登国に帰還した。1577年、「七尾城の戦い」では、長尾景虎勢に降伏した。1579年、長尾景虎が病没すると、織田信長勢に内応したがまもなく長連龍と対立して能登国を追われた。1582年、「本能寺の変」後、温井景隆とともに石動山衆徒と結んで能登国への侵攻を図るが、佐久間盛政勢の攻撃を受けて討死した。

三宅続長【みやけつぐなが(15??~15??)】

三宅総広家臣。鳳至郡鵜川城主。

三宅綱久【みやけつなひさ(15??~15??)】

畠山義綱家臣。通称次郎右衛門。1555年、畠山義綱が温井総貞を討取ると、これに抵抗して謀反を起こした。その後一向一揆と結んで義綱に対抗したが、鎮圧された。

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【や】

山庄直秋【やまじょうなおあき(15??~15??)】

温井総貞家臣。通称藤兵衛。1558年、「弘治の内乱」では、兵500余りを率いて敷波で苅田を行った。畠山義綱勢の攻撃を受けたが温井総貞勢の支援を受け撃退した。

山田左近助【やまださこんのすけ(15??~15??)】

長英連家臣。山田城主。1558年、「弘治の内乱」では、畠山義綱勢に属したが、後に温井総貞に内応した。

遊佐統秀【ゆさむねひで(14??~15??)】

畠山義統家臣。遊佐忠光の男。官途は美作守。別名「宗円」。能登国(珠洲郡)、越中国(砺波郡、蓮沼城)の守護代を務めた。1477年、五井兵庫頭が高座宮社領を押領して訴えられると、在京中の畠山義統に代わってこれを審理し、畠山義統に裁許を求めた。1500年、畠山義元が守護職を罷免されると、畠山義統の次男畠山慶致を擁立した。その守護代として実権を握った。畠山慶致と畠山義元が和議を結ぶと、畠山慶統派の家臣筆頭家老として実力を保った。連歌を好み、守護館や自邸での連歌会に列席した。

遊佐秀盛【ゆさひでもり(15??~1531)】

遊佐統秀の男。官途は信濃守。通称孫右衛門。1517年、能州に下向した冷泉為広の門人となった。1521年、「越中永正の乱」では、加賀一向一揆とともに越中国に侵攻して神保慶宗、越中一向一揆らと戦った。1531年、「加賀津幡の戦い」で討死した。

遊佐秀頼【ゆさひでより(15??~15??)】

遊佐秀盛の男。官途は豊後守。畠山義総のもとで足利義晴に対し尾州畠山稙長の家督相続問題では、畠山義総との取次役を務めた。1553年、「大槻一宮の戦い」では、遊佐続光勢に属して温井総貞と戦い敗れて加賀国に落延びた。1554年、温井総貞、神保総誠、長続連らとともに本願寺に「太刀、馬代」として500疋を献上した。

遊佐続光【ゆさつぐみつ(15??~1581)】

遊佐秀頼の三男。官途は美作守。室は平信光の娘。畠山七人衆のひとり。1553年、「大槻一宮の戦い」で温井総貞と戦い敗れて加賀国に落延びた。1555年、温井総貞が畠山義綱に謀殺されたため、帰還して畠山義慶に仕えた。1566年、「永禄九年の政変」では、長続連、八代俊盛らとともに畠山義慶を擁立して畠山義続、畠山義綱を追放した。1574年、畠山義慶が病没すると、筆頭家老職として権力を握った。長続連が織田信長勢と結ぶと、長尾景虎勢と結でいた遊佐続光は家中の主導権を失った。1577年、「七尾城の戦い」では、長尾景虎勢に内応、長続連と枝連衆を謀殺して、家中の実権を把握した。1579年、長尾景虎が病没すると、織田信長勢に降伏したが菅屋長頼に捕縛され斬頸に処された。

遊佐盛光【ゆさもりみつ(15??~1581)】

遊佐続光の男。通称四郎右衛門。1554年、「永禄九年の政変」で父遊佐続光が温井総貞との政争に敗れて加賀国に落延びると、これに従った。1570年、畠山義慶から長綱連、温井景隆、平尭知らとともに家老職に任じられ、長尾景虎との取次役を務めた。1577年、「七尾城の戦い」では、父遊佐続光とともに長尾景虎勢に属した。1579年、長尾景虎が病没すると、父遊佐続光とともに織田信長勢に降伏したが菅屋長頼に捕縛され斬頸に処された。

吉見統範【よしみむねのり(14??~15??)】

畠山義統家臣。通称孫太郎。1478年、総持寺に櫛比庄を寄進した。

吉見統頼【よしみむねより(15??~15??)】

畠山義統家臣。官途は兵部大輔。1470年、総持寺に富来院を寄進した。

遊佐右衛門尉【ゆさうえもんのじょう(15??~15??)】

畠山義綱家臣。1568年、畠山義綱が能登国に侵攻すると、馬廻衆としてそれに従った。

遊佐熊石丸【ゆさくまいしまる(15??~15??)】

畠山義綱家臣。1558年、町野庄の岩蔵寺に所領を寄進して武運長久、子孫繁昌を祈願した。

遊佐秀倫【ゆさひでみち(15??~15??)】

畠山義総家臣。官途は左馬允。長尾景虎との取次役を務めた。

和田光章【わだみつあき(14??~15??)】

畠山義統家臣。羽咋郡志雄館主。和田信章の男。

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【資料Ⅰ】

能登国(4郡/210,000石)

羽咋郡:末森城、末吉城(石高60,000石)。
鹿島郡:七尾城、勝山城、石動山城(石高60,000石)。
鳳至郡:穴水城(石高40,000石)。
珠洲郡:松浪城(石高20,000石)。

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【資料Ⅱ】

畠山家七人衆【はたけやまけしちにんしゅう】

遊佐続光、温井総貞、長続連、遊佐宗円、平総知、三宅総広、伊丹総堅。能登畠山家を事実上支配した政治組織及び、それを務めた七人の畠山家の重臣を指す。筆頭の温井総貞と守護代の遊佐続光によって主導された。

畠山家政僧三人衆【はたけやまけせいそうさんにんしゅう】

畠山義総に仕えた成身院宗歓(真言宗明千寺)、畠山義続に仕えた安国寺留雲斎、畠山義綱に仕えた孝恩寺存貞。

畠山八臣【はたけやまはっしん】

遊佐続光、神保総誠、平総知、誉田、温井総貞、三宅総広、甲斐庄家繁、伊丹総堅。

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【資料Ⅲ】

能登国【のとのくに】

能登半島の大部分を占める北陸道の国。東は越中国と宝達丘陵の稜線沿いに国境を作り、南は加賀国と能登半島基部の狭い平地で接する。三方を日本海に囲まれた小国で、低平な丘陵性地形が国土の大部分を占める。丘陵地帯には小河川が流れ、谷あいに小さな平野を作っている他、海岸部にも小規模な平地を持つ。半島の突端部では、奥能登丘陵が北東から南西に走り、半島基部の口能登には最大の平野部がある。半島の東側は内浦でリアス式海岸となり、能登島を抱く七尾湾には良港が存在する。西と北の外浦は断崖や岩場が多いという対象性を見せる。この日本海に突出した立地条件から、産業としては漁業や製塩業が盛んである。古くは日本と渤海の交渉の拠点として水運や貿易も活発に行なわれ、早くから大陸文化が流入した。陸続きで隣接するのは越中、加賀の二国だが、水路対馬海流に乗れば越後から東北地方の沿岸部に移動するのは容易い。従って、この方面への進出は容易であるが、国土が狭いだけに越中国、加賀国方面からの侵入は防ぎにくい。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

徳川家康は松平元康、豊臣秀吉は羽柴秀吉に統一しました。

※参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、参考文献:『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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