2011年10月19日水曜日

戦国北伊勢国人名辞典

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【あ】

赤堀忠綱【あかぼりただつな(15??~15??)】

三重郡赤堀城主。神戸具盛の次男。羽津宗武、浜田与五郎らと一揆を結んだ。1567年、「北伊勢国侵攻」で織田信長の家臣滝川一益勢に降伏した。1573年、「長島城の戦い」では、織田信長に人質を送った。

赤堀藤左衛門【あかぼりとうざえもん(15??~1568)】

朝明郡中野城主。1568年、「北伊勢国侵攻」で織田信長の家臣滝川一益勢の攻撃を受け保々西城などの諸城とともに落城した。

赤堀国虎【あかぼりくにとら(15??~15??)】

鈴鹿郡羽津城主。別名原田国虎。1559年、「茂福城の戦い」では、関盛信の家臣白子左衛門亮が500余りを率いて茂福城を攻撃すると家臣の森景宗、長松長右衛門、岩田縫右衛らとともにこれを支援した。

飯田左衛門尉【いいださえもんおじょう(15??~1568)】

員部郡上笠田城主。1568年、「北伊勢国侵攻」で織田信長の家臣滝川一益勢の攻撃を受け討死した。

家所祐藤【いえどこすけとう(15??~15??)】

長野藤定家臣。安芸郡家所城主。官途は三河守。

家所藤實【いえどことうかん(15??~15??)】

家所祐藤の男。官途は隼人正。

家所藤安【いえどことうあん(15??~1572)】

家所藤實の男。官途は三河守。1572年、織田信長勢との戦いで討死した。

稲生兼顕【いくいなかねあき(15??~1570)】

奄芸郡稲生城主。通称勘解由左衛門。1568年、「北伊勢国侵攻」では、滝川一益勢に従った。1570年、「曾原の戦い」では、織田信長勢に属して参陣したが討死した。

伊藤武右衛門【いとうぼうえもん(15??~15??)】

桑名郡桑名城主。通称四郎。北勢四十八家。1570年、「長島城の戦い」で願証寺証意勢の攻撃を受け討死した。

雲林院稙清【うじいたねきよ(15??~15??)】

安芸郡雲林院城主。長野稙藤の次男。長野藤定家臣。1550年、「垂水鷺山の戦い」では、長野藤定に従って参陣して北畠具教勢と戦い戦功を挙げた。1558年、長野藤定は北畠具教と和議を結び、北畠具教の次男長野具藤を養子に迎えたため、雲林院稙清も北畠具教に従った。以後は北畠具教勢に属して関盛信勢と戦った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

雲林院祐基【うじいすけもと(15??~15??)】

雲林院稙清の男。官途は出羽守。1567年、「細野城の戦い」では、織田信長の家臣滝川一益勢の攻撃を受けた。長野具藤が織田信長の弟織田信包を養子に迎えると、雲林院祐基、草生与市左衛門、家所藤實、細野藤敦、乙部政直、中尾権頭らも織田信長に降伏した。1580年、織田信包は謀略で雲林院祐基の家臣野呂長門守を滅ぼし、雲林院祐基、雲林院祐光親子を追放した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀吉勢に属して参陣した。

雲林院祐光【うじいすけみつ(15??~15??)】

雲林院祐基の男。室は滝川一益の娘。

梅戸高実【うめどたかざね(1502~1561)】

三重郡田光城主。六角高頼の四男(梅戸家の養子)。通称左衛門尉。別名梅戸高貫。田光城が伊勢国八風街道を要所にあったため、度々攻撃を受けた。

梅戸高宗【うめどたかむね(15??~1554)】

梅戸高実の男。

梅戸実秀【うめどさねひで(15??~1568)】

梅戸高実の次男。通称左衛門尉。1561年、梅戸高実が病没すると、次男の梅戸実秀が梅戸家の家督を相続した。1568年、「田光城の戦い」で滝川一益勢の攻撃を受け討死した。

大木安芸守【おおあきのかみ(15??~15??)】

員弁郡大木城主。官途は駿河守。通称舎人助。北伊勢四十八家。1567年、「北伊勢侵攻」では、滝川一益勢に降伏した。1576年、滝川一益から長島城に招かれるが、金井城主種付秀信が謀殺されたため、西国に落延びた。

大矢知遠江守【おおやちおおみのかみ(15??~15??)】

朝明郡大矢知館主。北勢四十八家。1563年、織田信長勢に降伏して柴田勝家の寄騎衆を務めた。

小川宗晴【おがわむねはる(15??~15??)】

朝倉盈盛家臣。通称勘右衛門。

小串常政【おぐしつねまさ(15??~1577)】

員弁郡猪飼城主。通称次郎右衛門。1577年、「縄生城の戦い」で討死した。

乙部政直【おとべまさなお(15??~15??)】

長野藤定家臣。三重郡渋見城主。官途は勘解由。別名乙部藤政。乙部衆十人の筆頭役を務めた。1557年、伊勢参宮に向かう山科言継の警護役を務めた。

乙部源次郎【おとべげんじろう(15??~15??)】

乙部政直の男。別名進藤源次郎。室は織田信長の叔母。

乙部正次【おとべまさつぐ(15??~1612)】

乙部源次郎の男。通称三左衛門尉。別名進藤正次。宇喜多秀家のもとで本丸御番を務め600石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、敗走する宇喜多秀家の警護役を本多左兵衛、黒田勘十郎、森田小伝次、芦田作内らとともに務めた。

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【か】

春日部俊家【かすかべとしいえ(15??~1573)】

朝明郡萱生城主。官途は大膳亮。通称太郎左衛門。北伊勢三家六人衆。千種忠治に仕え近郷十ヶ村を領した。1567年、「萱生城の戦い」では、滝川一益勢の攻撃を受けたが、北勢三家衆(神戸具盛、千種忠治)とともに五年間に渡り戦いを継続した。1573年、織田信長勢の攻撃を受け討死した。

春日部若狭守【かすかべわかさのかみ(15??~15??)】

春日部俊家家臣。員弁郡星川城主。1563年、「萱生城の戦い」で滝川一益勢の攻撃を受けた。

春日部太郎左衛門尉【かすかべたろうざえもんのじょう(15??~15??)】

春日部俊家家臣。員弁郡伊坂城主。1563年、「萱生城の戦い」で滝川一益勢の攻撃を受けた。

片岡掃部助【かたおかかもんのすけ(15??~15??)】

桑名郡上深谷城主。

片山主計【かたやましゅけい(15??~1577)】

上木城主。1577年、「縄生城の戦い」で討死した。

鹿伏兎定長【かぶとさだなが(15??~15??)】

関盛信家臣。鈴鹿郡加太城主。官途は左京佐。1536年、「林城の戦い」では、関盛信に従い先陣を務め、奄芸郡林城主林重越を安濃郡に逐った。1538年、三男の鹿伏兎定保を伴って林村に入り、奄芸郡東部を平定した。1542年、足利義晴に白鷹を献上した。1544年、北畠具教の意向を受け六角義賢勢に属して、京極高延勢と戦った。1567年、「北伊勢国侵攻」では、関盛信、関盛重、弟鹿伏兎坂定住らと織田信長勢に抵抗した。その後、神戸友盛が織田信長の三男織田信孝を養子に迎えて和議を結んだ。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

鹿伏兎宗心【かぶとむねしん(15??~1570)】

鹿伏兎定長の男。官途は豊前守。1570年、浅井長政が朝倉義景と結んで織田信長と戦うと、浅井長政勢に属した。鹿伏兎宗心は鹿伏兎城を弟鹿伏兎定義と叔父坂定住に任せ、自身は小谷城に入城した。「姉川の戦い」で織田信長勢の佐々成政、酒井忠次、小笠原長忠勢らと戦って討死した。

鹿伏兎定義【かぶとさだよし(15??~15??)】

鹿伏兎定長の次男。1582年、「本能寺の変」後、織田信孝勢に属した。1584年、「小牧、長久手の戦い」で織田信雄、羽柴秀吉勢の攻撃を受け落延びた。

川北藤元【かわきたふじもと(15??~15??)】

細野藤光の三男。通称内匠助。1567年、「北伊勢国侵攻」では、織田信長の家臣滝川一益勢の降伏した。分部光嘉とともに北畠具教の次男長野具藤を追放して、織田信長の弟織田信包を養子に迎えた。

神戸具盛【かんべとももり(15??~1551)】

河曲郡神戸城主。北畠材親の次男(神戸為盛の養子)。官途は下総介。通称は四郎。養父神戸為盛は継嗣に恵まれず、京都相国寺で仏門の修行していたが還俗して神戸家の家督を相続した。後に神戸城を築城して居城を移した。兄北畠具教の勢力を背景に楠木正具や赤堀忠綱に娘を嫁がせ、北伊勢国を中心に神戸家の勢力を拡大した。

神戸長盛【かんべながもり(15??~1552)】

神戸具盛の男。赤堀忠綱と結んで、関盛雄勢と戦った。

神戸具氏【かんべともうじ(15??~15??)】

神戸具盛の次男。

神戸利盛【かんべとしもり(1537~1559)】

神戸長盛の男。1552年、父神戸長盛の病没により神戸家の家督を相続した。1557年、六角義賢の家臣小倉三河守勢が千種忠基とともに柿城主佐脇長隆を攻撃すると、これを支援するため参陣した。家臣の岸岡城主佐藤中務丞、佐藤又三郎父子が六角義賢勢に内応して神戸城を奪われた。岸岡城を守る佐藤中務丞の家臣古市与助を内応させ岸岡城を攻落とした。長野具藤の支援を受け神戸城を奪還、佐藤中務丞、佐藤又三郎を謀殺した。

神戸具盛【かんべとももり(15??~1600)】

神戸長盛の次男。官途は下総守。通称蔵人大夫。別名神戸友盛。室は蒲生定秀の娘。もと福善寺の住職。1559年、兄神戸利盛の病没により、還俗して神戸家の家督を相続した。神戸具盛は、敵対していた関盛信との関係を修復し、関盛信とともに日野城主蒲生定秀の娘を娶って、勢力の回復に努めた。1567年、「北伊勢国侵攻」が開始されると家臣の山路弾正忠らとともに織田信長勢と戦い撤退に追い込んだ。1568年、織田信長に降り、織田信長の三男織田信孝を養子に迎え和議を結んだ。1571年、織田信孝を冷遇したため織田信長の怒りを買い、近江国日野城に幽閉された。織田信孝が神戸家の家督を相続したが、それに反対する家臣団の多くが謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

木全忠澄【きまたただすみ(1534~1610)】

木全征詮の男。通称又左衛門。智謀に優れるとともに「木全の槍」といわれた槍の名人。苅安賀城主浅井政貞に仕えた。のちに滝川一益に仕えた。滝川一益が没落すると羽柴秀吉に仕えて小姓組にはいる。羽柴秀吉には謀略担当の近侍として仕えた。

木全忠征【きまたただゆき(1559~1635)】

木全忠澄の男通称彦五郎。官途は出雲守。別名滝川忠征。室は南部兼綱の娘。滝川一益に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後、松平元康に仕え、名古屋城築城の奉行衆を務めた。1615年、松平義直に仕えて6,000石を領した。

草薙出雲守【くさなぎいずものかみ(15??~15??)】

春日部俊家家臣。桑名郡御衣野城主。1567年、「北伊勢国侵攻」で織田信長の家臣滝川一益勢に多度城主小串伊豆守、猪飼城主小串詮通、小山城主高井民部少輔らとともに降伏した。

草生民部少輔【くさわみんぶしょうゆ(15??~15??)】

安芸郡草生城主。

草生越前守【くさわえちぜんのかみ(15??~15??)】

草生民部少輔の男。長野家が織田信長のに属した時、草生越前守も織田信長に属した。

楠木正充【くすのきまさみつ(1477~1532)】

三重郡楠木城主。神戸具盛家臣。

楠木正忠【くすのきまさただ(15??~15??)】

楠木正充の男。通称十郎左衛門。1567年、「北伊勢国侵攻」では、神戸具盛勢に属して織田信長勢と戦った。

楠木正具【くすまさまさとも(1516~1576)】

楠木正忠の男。通称七郎左衛門。1567年、「北伊勢国侵攻」で、北伊勢国諸勢力の手強い反撃に手を焼いた織田信長は、体制を整えるとふたたび北伊勢国に侵攻した。織田信長勢の攻撃により関盛信や神戸具盛らは織田信長と和議を結んだが八田城に拠る楠正具は降伏の勧めにも応ぜず抵抗を続けた。南伊勢国の北畠具教までが織田信長と和議を結んだため、八田城を支えきれず、大坂石山本願寺に落延びた。織田信長は楠正具の引渡しを本願寺顕如に迫ったが、本願寺顕如は楠正具を匿った。1576年、「木津川の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。 参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
 
楠正盛【くすのきまさもり(15??~1584)】

楠木貞孝の男。通称十郎。1568年、楠木正具が石山本願寺に落延びると、楠木正具の娘婿楠木正盛が織田信長の意向により城主となった。楠木正盛は北畠家を相続した織田信雄に仕えた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死した後も織田信雄に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、織田信雄勢に属した。「美濃加賀野井城の戦い」で羽柴秀吉勢との戦いで討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。  

栗田季重【くりたよししげ(15??~1577)】

員弁郡縄生城主。官途は監物。北勢四十八家。1577年、滝川一益勢の攻撃を受け討死した。

国府盛邑【こくふもりむら(15??~15??)】

鈴鹿郡国府城主。亀山城の関家を本家に、国府城、沢城、 鹿伏兎城、峯城を分家とし「関一党」を構成した。

国府盛種【こくふもりたね(1540~1589)】

国府盛邑の男。通称次郎四郎。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、織田信雄勢に属して、羽柴秀吉勢と戦った。羽柴秀吉勢の蒲生氏郷の攻撃を受け落城した。 

小阪政吉【こさかまさよし(15??~15??)】

桑名郡梅戸城主。通称源九郎。

後藤実重【ごとうさなしげ(15??~15??)】

三重郡宇野部城主。通称民部。

後藤弥五郎【ごとうよごろう(15??~15??)】

桑名郡別所城主。

後藤太郎左衛門【ごとうたろうざえもん(15??~15??)】

桑名郡糠田城主。

後藤藤勝【ごとうふじかつ(15??~1568)】

三重郡采女城主。官途は淡路守。通称采女正。1568年、「采女城の戦い」では、織田信長勢の攻撃を受け討死した。娘の千奈美姫も深井戸に身を投げて父の後を追った。

駒沢藤綱【こまざわふじつな(15??~15??)】

雲林院祐基家臣。前山城主。

近藤吉綱【こんどうよしつな(15??~15??)】

員弁郡白瀬城主。通称弾正左衛門尉。

近藤左京進【こんどうさきょうのしん(15??~15??)】

桑名郡深谷部北狭間城主。

近藤教恵【こんどうよしけい(15??~15??)】

近藤左京進の男。官途は右京亮。

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【さ】

坂定住【さかさだずみ(15??~15??)】

鹿伏兎定長家臣。1567年、「北伊勢国侵攻」では、鹿伏兎定長は関盛信、関盛重、坂定住らと織田信長勢に抵抗した。

佐藤中務【さとうなかむ(15??~15??)】

鈴鹿郡岸岡城。神戸家六奉行。1557年、六角義賢が神戸具盛勢の柿城を攻撃した際、神戸利盛が救援に赴いた隙に佐藤中務、佐藤又三郎父子は謀叛を企て、六角義賢の家臣小倉三河守勢を神戸城に迎え入れた。佐藤中務家臣古市与介が謀反を起こして神戸利盛を岸岡城に迎えため、神戸利盛勢の反撃を受け、継嗣佐藤又三郎とともに謀殺された。

杉谷善住坊【すぎや(15??~1570)】

杉谷館主。別名萩原善住坊。1570年、「第一次越前討伐」で浅井長政が朝倉義景に内応すると、織田信長は京都に撤退した。六角義賢に依頼され、岐阜城に帰還する織田信長の謀殺を図るが失敗した。失敗した善住坊は逃亡したが潜伏先の近江国高島郡で捕縛され、鋸挽きの刑に処せられた。

関盛信【せきもりのぶ(15??~1593)】

鈴鹿郡亀山城主。伊勢下野守の男。官途は中務大輔。室は蒲生定秀の娘。別名関万鉄斎。蒲生定秀の娘を娶り、六角義賢勢に属した。1568年、織田信長が伊勢国に侵攻すると、織田信長勢に降伏した。織田信孝に寄騎衆に任じられた。1573年、織田信長の怒りを買い神戸具盛とともに近江国日野城に幽閉された。
1582年、「四国征伐」で織田信孝が総大将に任じられると、関盛信も許されて亀山城に戻った。「本能寺の変」で織田信長が討死すると、織田信孝のもとを離れ、蒲生氏郷に属した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀吉勢に属してたため、滝川一益勢の攻撃を受け落城した。

関盛忠【せきもりただ(15??~1574)】

関盛信の男。通称四郎。1568年、「北伊勢国侵攻」で滝川一益勢に降伏した。1574年、羽柴秀吉のもとを出奔した樋口直房を討取る戦功を挙げた。1574年、「伊勢長島城の戦い」に参陣して一向一揆勢と戦い討死した。

関一政【せきかずまさ(1564~1625)】

関盛信の次男。官途は長門守。通称四郎。室は蒲生賢秀の娘。父関盛信とともに織田信長、羽柴秀吉に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀吉勢に属して参陣した。父関盛信から家督を譲られ、蒲生氏郷の寄騎衆を務めた。1591年、蒲生氏郷が会津若松城に転封になると、白河城を領した。1598年、信濃国飯山城30,000石へ転封された。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して尾張国犬山城を守備したが、後に松平元康勢に寝返り、井伊直政勢に属して戦功を挙げた。役後、伊勢国亀山城に転封した。1611年、伯耆国黒坂城50,000石に転封された。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康勢に属して京橋口攻めを担当した。1615年、「大坂夏の陣」でも京橋口を攻めて頸級50余りを取る戦功を挙げた。1618年、家中内紛のため、改易処分に処された。

関氏盛【せきうじもり(15??~16??)】

関盛吉の男。(関一政の養子)。1618年、養父関一政は改易処分に処されたが、近江国蒲生郡内で5,000石を領して関家を再興した。

関盛吉【せきもりよし(15??~16??)】

関盛信の男。官途は主馬。通称十兵衛。父関盛信が織田信長に属したのでこれに従った。のち柴田勝豊に仕え1,000石を領した。1579年、越前丸岡城に一揆衆の攻撃を受けたが、これを迎撃する戦功を挙げた。のち蒲生氏郷に仕えた。蒲生氏郷の会津若松城を領すると、猪苗代城代に任ぜられ7,000石を領した。1609年、主家内紛のため蒲生家を辞し、兄関一政に仕えた。1618年、関家が改易処分に処されると土井利勝に寄食した。

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【た】

高井民部少輔【たかいみんぶしょうゆ(15??~15??)】

員弁郡小山城主。

多湖実元【たこしげもと(15??~1589)】

員弁郡笠田城主。官途は大蔵介。1568年、「北伊勢国侵攻」で織田信長勢に降伏した。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢に従って参陣して討死した。

館薩摩守【たてさつまのかみ(15??~15??)】

三重郡阿倉川城主。

種村高盛【たねむらたかもり(15??~1572)】

員弁郡大泉金井城主。官途は大蔵太夫。1522年、「第一次金井城の戦い」では、土岐道誉勢の攻撃を受けたが、周辺の諸豪族とともにこれを撃退して土岐道誉を討取る戦功を挙げた。1532年、「第二次金井城の戦い」では、土岐掃部助勢の攻撃を受けたが、この時も周辺の諸豪族が連合して戦い伏兵をもってこれを撃退、土岐掃部助を討取った。

種村秀政【たねむらひでまさ(15??~15??)】

種村高盛の四男。通称弾正左衛門尉。1542年、父種村高盛が病で倒れたため、種村家の家督を相続した。1568年、「北伊勢国侵攻」では、滝川一益勢の攻撃を受け降伏した。

種村秀信【たねむらひでのぶ(15??~1569)】

種村秀政の男。滝川一益勢に従って、畿内各地を転戦した。1569年、滝川一益に謀反の疑いをかけられ伊勢長島城内で自刃した。

千種忠治【ちぐさただはる(15??~1563)】

三重郡千種城主。官途は常陸介。北伊勢三家六人衆。別名千種忠房。1555年、「第一次千種城の戦い」では、六角義賢勢の攻撃を受け和議を結ぶが、六角義賢の家臣後藤賢豊の次男千種忠基を養子に迎え、隠居を余儀なくされた。後に、千種忠治は継嗣の千種又三郎に、千種家の家督を譲ろうと画策するが千種忠基に発覚、千種又三郎とともに追放処分に処された。1558年、「第二次千種城の戦い」では、萱生城主春日部大膳、星川城主春日部若狭守らと結び千種城の奪還を図るが失敗した。1563年、観音寺城内で六角義賢に謀殺された。

千種忠基【ちぐさただもと(15??~15??)】

後藤賢豊の男(千種忠治の養子)。通称三郎左衛門尉。室は千種忠治の娘。千種忠基は北畠具房の養嗣子となった織田信雄から千種城を安堵された。この際、千種忠基は富田知信の甥千種顕理を養子とした。

千種顕理【ちぐさあきよし(15??~1615)】

富田知理の甥(千種忠基の養子)。1615年、「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼に従って参陣したが討死した。

富永筑後守【とみながちくごのかみ(15??~15??)】

員弁郡長深城主。

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【な】

中尾駿河守【なかおするがのかみ(15??~15??)】

長野具藤家臣。

中尾新左衛門【なかおしんざえもん(15??~15??)】

中尾駿河守の男。1568年、長野具藤を追放して、織田信長から織田信包を長野家の養子に迎えた。1576年、織田信長から忠勤を賞された。後に、羽柴秀吉に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したため、役後に改易処分に処された。

中野藤太郎【なかのふじたろう(15??~15??)】

朝明郡中野城主。1567年、「北伊勢国侵攻」では、持福城主朝倉盈盛、保々西城主朝倉詮真、富田城主南部兼綱らと結んで、織田信長勢に対抗した。

長野通藤【ながのみちひさ(1478~1530)】

鈴鹿郡長野城主。長野藤直の男。官途は尾張守。安濃郡、奄芸郡地頭職を務めた。1514年、父長野藤直の病没により、長野家の家督を相続した。

長野稙藤【ながのたねふじ(1504~1562)】

長野通藤の男。官途は宮内大輔。1530年、父長野通藤が病没により、長野家の家督を相続した。中伊勢の支配権をめぐって北畠晴具や北畠具教と争った。継嗣の長野藤定に家督を譲り隠居した後も、長野藤定とともに政務を執った。1547年、北畠晴具との抗争はその後も続いたが、次第に劣勢に立たされた。

長野藤定【ながのふじさだ(1526~15??)】

長野稙藤の男。官途は大和守。1543年、中伊勢の支配権をめぐって北畠晴具、北畠具教らと争った。後に北畠晴具と和議を結び、六角定頼とともに浅井久政を攻撃した。1547年、北畠晴具勢の攻撃を受けた。1558年、北畠具教と和議を結び、北畠具教の次男長野具藤を養子に迎えて家督を譲った。

長野具藤【ながのともふじ(1552~15??)】

北畠具教の次男(長野藤定の養子)。1558年、父北畠具教と長野藤定が和議を結ぶと、養子として長野家の家督を相続した。父北畠具教に従って伊勢国を転戦した。1559年、赤堀城主赤堀忠綱や亀山城主関盛信と戦ったが、いずれも敗北した。1568年、織田信長勢が伊勢国に侵攻すると、徹底抗戦をしようとしたが、同じく抗戦を主張した細野藤敦と対立して内紛を起こした。長野具藤は細野藤敦との戦いに敗れ多芸城に落延びた。1569年、織田信長に降伏し、織田信長の弟織田信包を養子に迎え家督を相続させた。

長野左京進【ながのさきょうのしん(15??~1584)】

長野具藤家臣。1569年、「大河内城の戦い」では、大河内城に籠城して織田信長勢と戦った。のちに織田信雄に仕えた。織田信長の意向により藤方朝成の家臣加留左京とともに三瀬館に行って北畠具教を謀殺した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、織田信雄勢の木造具政に属したが、羽柴秀吉勢に寝返った。家所修理亮と争って謀殺された。

成田隼人正【なりたはやとのじょう(15??~15??)】

神戸具盛家臣。須賀城主。

南部兼綱【なんぶかねつら(15??~15??)】

朝明郡富田城主。官途は治部少輔。1567年、「北伊勢国侵攻」では、持福城主朝倉盈盛、保々西城主朝倉詮真、中野城主中野藤太郎らと結んで、織田信長勢に対抗した。

西野左馬助【にしのさうまのすけ(15??~1577)】

員弁郡野尻城主。北勢四十八家。1577年、「縄生城の戦い」で小串常政とともに滝川一益勢と戦い討死した。

西松要人【にしまつようじん(15??~1571)】

桑名郡柚井村城主。北勢四十八家。1571年、「柚井村城の戦い」で柴田勝家、氏家卜全勢の攻撃を受け討死した。

沼木宗治【ぬまきむねはる(15??~1557)】

神戸具盛家臣。朝明郡柿城主。1557年、「柿城の戦い」では、六角義治の家臣
小倉実隆の攻撃を受け討死した。

野村兵庫助【のむらひょうごのすけ(15??~1568)】

員弁郡島田城主。1568年、「島田城の戦い」で滝川一益に勢の攻撃を受け討死した。

野呂長門守【のろながとのかみ(15??~1580)】

雲林院祐基家臣。家老職を務めた。1580年、織田信包に謀殺された。

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【は】

畑与九郎【はたよくろう(15??~15??)】

三重郡切畑城主。

畑定政【はたさだまさ(15??~1577)】

畑与九郎の男。1577年、「切畑城の戦い」で織田信長勢の攻撃を受け討死した。

浜田与五郎【はまだよごろう(15??~15??)】

三重郡浜田城主。

羽津宗武【はねつむねたけ(15??~15??)】

赤堀忠綱家臣。三重郡羽津城主。羽津宗昌の男。官途は遠江守。赤堀三家のひとつ。1572年、滝川一益の意向を受けた山口家によって茂福城へ呼び出され謀殺された。

田原元綱【はらだもとつな(15??~1576)】 

三重郡浜田城主。官途は肥前守。1576年、滝川一益の攻撃を受け討死した。

田原重綱【はらだしげつな(15??~1589)】

田原元綱の男。1576年、「浜田城の戦い」で織田信長の家臣滝川一益勢の攻撃を受けて落城、父原田元網は討死したため、美濃国に落延びた。その後、織田信雄に仕えた。1589年、「美濃加賀野井城の戦い」で織田信雄に従って参陣して討死した。

治田山城守【はるたやましろのかみ(15??~15??)】

員弁郡治田城主。

平田賢元【ひらたかたもと(15??~15??)】

鈴鹿郡平田城主。官途は将監。織田信長の「北伊勢侵攻」でも屈せず最後まで抵抗した。

古市与介【ふるいちよすけ(15??~15??)】

佐藤中務家臣。1557年、神戸利盛が柿城の救援に向かった際、佐藤中務が六角義賢に内応して、神戸城を奪い取った。古市与介は神戸利盛に内応して、岸岡城に神戸利盛を迎い入れた。

細野藤光【ほそのふじみつ(1511~1560)】

安濃郡津城主。長野通藤の次男。室は峰道正の娘。兄長野稙藤の意向を受けて、細野家の家督を相続した。

細野藤敦【ほそのふじあつ(1541~1603)】

細野藤光の男。官途は壱岐守。剛勇を以て知られるが、長野具藤とは仲が悪かった。1568年、織田信長が北伊勢国に侵攻すると、和議を主張する分部光嘉らの反対を押し切って、織田信長勢と戦った。分部光嘉、川北藤元らが織田信長勢に内応したため降伏した。1577年、「津城の戦い」では、織田信包勢の攻撃を受け分部光嘉、川北藤元らが討死した。自身は蒲生氏郷を頼って落延びた。その後、羽柴秀吉に仕えて、松丸殿や大政所の家司を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して失領した。

保々越前守【ほほえちぜんのかみ(15??~15??)】

員弁郡保々城主。

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【ま】

金井松岡家勝【まつおかいえかつ(15??~15??)】

員弁郡金井城主。松岡家政の次男。春日部俊家家臣。通称彦之進。北勢四十八家のひとつ。

水谷與三兵衛【みずこしさひょうへ(15??~15??)】

桑名郡大鳥井城主。

峯安政【みねやすまさ(15??~1550)】

鈴鹿郡峯城主。神戸具盛家臣。

峯広政【みねひろまさ(15??~1573)】

峯安政の弟。官途は筑前守。1550年、兄峯安政の討死により、峯家の家督を相続した。1567年、「北伊勢国侵攻」により、神戸具盛が織田信長に降ると、峰広政も織田信長勢に属した。

峯盛祐【みねもりすけ(15??~1574)】

峰広政の男。通称八郎四郎。織田信長の「北伊勢侵攻」により神戸信孝に属した。1574年、「長島城の戦い」で峯盛祐が討死した。

峯盛治【みねもりはる(15??~1584)】

峯広政の次男。通称与八郎。1574年、「長島城の戦い」で兄峯盛祐が討死後、岡本下野守が峯城主となった。1583年、関盛信の家臣若藤左衛門が滝川一益に内応すると、滝川儀太夫勢の攻撃を受け落城した。1584年、「小牧、長久手の役」では、織田信雄勢に属して加賀井城に籠城したが、羽柴秀吉勢の攻撃を受け討死した。

毛利次郎左衛門【もうりじろうざえもん(15??~15??)】

員弁郡桑部城主。

森小一郎【もりこいちろう(15??~15??)】

桑名郡中江城主。

森清十郎【もりきよじゅうろう(15??~15??)】

森小一郎の男。

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【や】

矢田市郎右衛門尉【やだいちろううえもんのじょう(15??~15??)】

桑名郡走井城主。北勢四十八家。

矢田市郎左衛門【やだいちろうざえもん(15??~1567)】

桑名郡愛宕山城主。1567年、「北伊勢侵攻」で滝川一益勢の攻撃を受け討死した。

矢田俊元【やだとしもと(15??~15??)】

桑名郡矢田城主。1567年、「北伊勢侵攻」で滝川一益勢の攻撃を受け討死した。

山路正幽【やまじまさゆう(15??~15??)】

神戸具盛家臣。河曲郡高岡城主。官途は紀伊守。室は神戸具盛の娘。神戸四百八十人衆。

山路弾正少弼【やまじだんじょうしょうひつ(15??~1571)】

山路正幽の男。1567年、「高岡城の戦い」で織田信長の攻撃を受たが、山路種常らとともに、織田信長勢を撃退した。神戸具盛、長野具藤が相次いで織田信長に属するとこれに従った。1571年、織田信孝に謀殺された。

山路種常【やまじたねつね(1550~1619)】

山路正幽の次男。官途は久之丞。通称は勘兵衛。別名長尾一勝。神戸信孝家臣小島兵部の家臣。後に福島正則に仕え福島家三家老と称された。1589年、「小田原の役」では、福島正則に従って参陣し、北条氏規が籠城する韮山城を攻撃した。城壁に三度よじ登り、城内から三度突き落とされて負傷した。1600年、「関ヶ原の役」後、福島正則が安芸国に入ると、備後国東城五品嶽城主に任じられた。1614年、「大坂冬の陣」でも戦功を挙げた。

山路正国【やまじまさくに(1546~1583)】

山路正幽の三男。通称に将監。柴田勝家に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、近江国長浜城主となった柴田勝豊の附家老職を務めた。羽柴秀吉の攻撃を受けて、柴田勝豊とともに羽柴秀吉勢に降伏した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、柴田勝豊の陣代を務めた。佐久間盛政の調略を受けて柴田勝家勢に寝返った。その後、佐久間盛政勢に属して羽柴秀吉勢に奇襲をかけて一時は成功したものの、羽柴秀吉の反撃を受けて佐久間盛政勢は壊滅し、加藤清正に討取られた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

横瀬勝五郎【よこせかつごろう(15??~15??)】

朝明郡広永城主。北勢四十八家。

分部光定【わけべみつさだ(1489~1564)】

安濃郡分部城主。長野藤定家臣。分部光直の男。官途は若狭守。通称四郎次郎。室は峯道正の娘。1514年、「五百野口の戦い」で戦功を挙げた。

分部光恒【わけべみつつね(1508~1549)】

分部光直の次男。官途は左京亮。通称与三左衛門尉。室は豊島言溥の娘。1549年、「長野家の乱」で戦功を挙げた。

分部光高【わけべみつたか(1527~1569)】

分部光恒の男。官途は若狭守。通称四郎次郎。室は豊島大和守の娘。1558年、「国府の戦い」で戦功を挙げた。1569年、「羽野の戦い」で北畠晴具の家臣山崎左馬介に討取られた。この際、山崎左馬介は栗毛の馬に騎乗していたので、これ以降、分部家では栗毛の馬を倦厭し騎乗しなくなった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

分部光嘉【わけべみつよし(1552~1601)】

細野藤光の次男(分部光高の養子)。官途は右京亮。通称四郎次郎。室は分部光恒の娘(分部光高の養女)。1568年、織田信長が伊勢国に侵攻すると、兄細野藤敦と違って和議を主張し、織田信長の弟織田信包の長野家養子入りを進めるなど、織田信長に従属した。1570年、織田信包の意向により、伊勢上野城を築城した。1582年、「本能寺の変」後も織田信包に属した。羽柴秀吉から10,000石の加増を受け、織田信包ら独立して諸侯に列した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して安濃津城を石田三成勢の攻撃から上野城を守った。1600年、「関ヶ原の役」後、戦傷がもとで病没した。

分部光勝【わけべみつかつ(1571~1599)】

分部光嘉の男。通称忠兵衛。伊勢国に侵攻してきた織田信長に降伏した父分部光嘉に従い、織田信包に仕えた。織田信長没後には馬廻衆として羽柴秀吉に仕えた。

分部光信【わけべみつのぶ(1591~1643)】

長野正勝の男(分部光嘉の養子)。官途は左京亮。室は渡辺久勝の娘。継室は酒井重忠の娘。1600年、「関ヶ原の役」では、分部光嘉が松平元康勢に属したため、人質として富田信高のもとに送られた。1601年、分部光嘉が病没後、分部家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、本多忠政に属して戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」でも戦功を挙げ、近江国大溝城に転封された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

渡辺掃部助【わたなべかもんのすけ(15??~15??)】

桑名郡東方城主。

渡辺八右衛門督【わたなべはちえもんのじょう(15??~1567)】

員弁郡御薗城主。1567年、「北伊勢国侵攻」で織田信長勢の攻撃を受け討死した。

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【資料Ⅰ】

北伊勢国(8郡/240,000石)

員弁郡:
桑名郡:桑名城、長島城。
朝明郡:持福城。
三重郡:赤堀城、浜田城。
鈴鹿郡:峯城。
河曲郡:高岡城。
庵芸郡:
安濃郡:長野城、分部城、安濃津城。

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【資料Ⅱ】

三家六人衆【さんけろくにんしゅう】

南伊勢は北畠家が領し、安濃郡長野を拠点とする長野家、鈴鹿郡関、亀山に拠った関家がそれぞれ勢力を振るい、合せて「伊勢の三家」と称された。これに加えて、三重郡千種城主の千種家、河芸郡神戸城主の神戸家、朝明郡萱生城主である春日部家の三家を合せて「六人衆」と呼ばれて、それぞれ勢力は強大であった。さらに、北伊勢には四十八家と称される諸領主が割拠していた。

桑名衆【くわなしゅう】

自由都市「十楽の津」。十楽(じゅうらく)の津とは、十楽とは、仏教用語で、極楽のようなという意味で、武家の支配下での「座」に属さない、誰でも自由に商売が出来きた。美濃、尾張を貫流する木曽川、揖斐川、長良川の三河川が伊勢海に注ぐ河口部に位置した港町。鈴鹿山脈を横断する伊勢山越えルートの起点でもあり、そのため美濃、尾張の内陸部と伊勢海、そして畿内中央部の三地域を結節する流通の要衝として栄えた。1527年、桑名を訪れた連歌師宗長は「みなとのひろさ五六町。寺々家々数千軒」とし、さらに数千艘の船が停泊していたことを記しており、大きく繁栄していた。 この繁栄を支えたのが、「宿」(宿屋兼取引場)における各地からの商品の取引であった。1558年、木曽川流域からは米のほか美濃の紙、信濃の芋、越後と越中の布などが運ばれいた。尾張、三河からは瀬戸焼や木綿などが運び込まれたと思われ、先述の紙や布などとともに保内商人らによって陸路で京都方面に運ばれた。

北方一揆衆【きたかたいっきしゅう】

南北朝期以降成長してきた中小の在地領主が主体となった員弁郡を中心とした豪族衆。幕府は、畿内近国という幕府の本拠地に近い国々の中小領主である一般御家人を一揆として組織した奉公衆。

十ヶ所人数【じゅっかしょにんずう】

朝明郡の朝倉家を中心とした豪族衆。

四本商人【しほんしょうにん】

中世後期、鈴鹿山脈を超え伊勢、美濃方面との隔地間取引に従事した南近江国の商人衆。得珍保(保内)商人(八日市)、石塔商人(蒲生郡)、小幡商人(神崎郡)、沓掛商人(愛知郡)。

長島一向一揆【ながしまいっこいっき】
 
戦国時代には各地に群雄が割拠し、桑名郡には40余りの砦が築かれ、北勢地方には、四十八家と呼ばれるほど多くの豪族がいた。全地域を治めるほどの大勢力はなく、宗教上ほとんどの豪族を門徒とする長島願証寺門徒衆があった。長島願証寺は格式が高い寺で、門徒衆100,000人を擁し、本願寺派の東海地方に本拠地でした。石山本願寺に呼応して、願証寺を中心に長島一向一揆が起きたとき、桑名、多度、員弁の豪族達も門徒衆に加勢した。

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【資料Ⅲ】

北伊勢国【きたいせのくに】

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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