2011年11月23日水曜日

戦国越前国人名辞典

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【あ】

青木景康【あおきかげやす(15??~15??)】 

朝倉孝景家臣。青木康延の男。官途は上野介。府中奉行職を務め、南条郡、今立郡、丹生郡の段銭や棟別銭、夫役や臨時の諸役を徴収した。1529年、今立郡日尾郷の用水争いの訴えを裁決した。1553年、坂井郡内に棟別銭を課した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

青木康忠【あおきやすただ(15??~1573)】

青木景康の男。官途は上野介。1568年、朝倉義景のもとに落延びた足利義昭の警護役を務めた。1570年、「第一次越前討伐」では、朝倉義景に従って参陣して織田信長勢と戦った。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

青木康延【あおきやすのぶ(15??~15??)】

朝倉氏景家臣。官途は隼人佐。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

阿波賀景賢【あばがかげかた(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。朝倉高景の男。通称小三郎。1575年、「鉢伏城の戦い」で織田信長勢の攻撃を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

阿波賀藤四郎【あばがとうしろう(15??~15??)】 
 
朝倉孝景家臣。御能役者。参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

阿波賀大膳【あばがだいぜん(15??~15??)】 

朝倉孝景家臣。「吉田神道伝授」を吉田兼右に申し出た。

阿波賀権少副【あばがごんしょうふく(15??~15??)】 

阿波賀大膳の男。
 
阿波賀四郎左衛門尉【あばがしろうざえもんのじょう(15??~15??)】 

朝倉孝景家臣。

赤座直則【あかざなおのり(15??~15??)】 

朝倉孝景家臣。

赤座直保【あかざなおやす(15??~1606)】

赤座直則の男。官途は備後守。通称久兵衛。1573年、織田信長に従った前波吉継勢に属した。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に従って本領を安堵された。1590年、「忍城の戦い」では、石田三成勢に属して戦功を挙げ越前今庄城20,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢に属して大谷吉継とともに北陸地方を転戦した。小早川秀秋が松平元康勢に寝返ると、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠らとともに内応して大谷吉継勢を壊滅させた。役後、改易処分に処された。前田利長に仕えて松任城7,000石を領した。1606年、越中大門川の氾濫の検分中濁流に呑まれて溺死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤座孝治【あかざたかはる(15??~1660)】

赤座直保の男(永原重治の養子)。通称右京。別名永原孝治。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に三ノ丸御番衆御馬廻組で長束直吉の率いる三番組に属した。1600年、「関ヶ原の役」後、父赤座直保が前田利長に仕えるとこれに従い加賀国に赴いた。1606年、赤座直保が越中大門川の氾濫の検分中に溺死すると松任城代職と7,000石を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、前田利常に従って参陣したが、真田信繁勢の攻撃を受け撤退した。

朝倉貞景【あさくらさだかげ(1473~1512)】

足羽郡一乗谷城主。朝倉氏景の男。越前国守護職。官途は弾正左衛門尉。通称孫次郎。室は斎藤利国の娘。1486年、父朝倉氏景の病没したため、朝倉惣領家の家督を相続した。1487年、「長享の乱」では、足利義尚の意向を受け陣代の朝倉景冬を派遣して六角高頼勢と戦った。1493年、「明応の政変」では、細川政元を支援して足利義材を捕縛する戦功を挙げた。1503年、「朝倉景豊の乱」では、朝倉景豊が謀反を起こしたが朝倉教景とともにこれを鎮圧した。1506年、「九頭竜川の戦い」では、越前国に侵攻した加賀、越中、能登国の一向一揆勢と戦いこれを撃退した。

朝倉孝景【あさくらたかかげ(1493~1548)】

朝倉貞景の男。官途は弾正左衛門尉。通称孫次郎。室は武田元信の娘(光徳院)。1512年、父朝倉貞景の病没したため、朝倉惣領家の家督を相続した。朝倉教景の補佐を受け、加賀国の一向一揆と戦い勢力の拡大を図った。武田元光、浅井亮政、土岐政頼らを支援して各国の守護家や諸勢力に軍事的優位性、政治的影響力を確保した。1517年、丹後国の守護代延永春信が武田元光から離反して若狭国を攻撃すると、朝倉教景を派遣してこれを撃退した。1526年、「山城七条の戦い」で足利義晴、細川高国、武田元光らが三好元長勢に敗退すると、朝倉教景を派遣して足利義晴勢を支援した。1529年、細川晴元に逐われた細川高国を支援した。1535年、後奈良天皇の践祚の大礼に一万疋を献上した。1537年、大覚寺義俊の仲介で五ヶ条の条件を提示して本願寺証如との和議を図った失敗に終わった。1537年、「美濃篠脇城の戦い」で東常慶を攻撃したが撃退された。参考文献:『戦国時代人物辞典(歴史群像編集部編)』by学研。

朝倉義景【あさくらよしかげ(1533~1573)】

朝倉孝景の男。官途は左衛門督。通称孫次郎。別名朝倉延景。室は細川晴元の娘。継室は近衛稙家の娘。1548年、父朝倉孝景の病没により朝倉惣領家の家督を相続した。叔父朝倉教景を陣代に加賀国、越前国の一向一揆勢と戦った。1564年、朝倉景鏡を加賀国に派遣して一向一揆勢と戦ったが平定することはできなかった。1566年、三好三人衆、松永久秀に追われた足利義昭を保護した。1570年、「第一次越前討伐」では、浅井長政が織田信長から離反して織田信長勢の背後から攻撃するが、織田信長を討取ることはできなかった。「姉川の戦い」では、浅井長政を支援するために朝倉景健を派遣したが、織田信長、松平元康勢と戦い敗退した。1573年、「刀禰坂の戦い」で壊滅的損害を受け、大野郡へ落延びたが朝倉景鏡が離反したため、賢松寺で自刃した。参考文献:『戦国時代人物辞典(歴史群像編集部編)』by学研。

朝倉阿君【あさくらくまぎみ(1562~1568)】

朝倉義景の男。1562年、朝倉義景と鞍谷嗣知の娘小宰相の長男として生まれた。1568年、阿君が病没すると、朝倉義景はこれを機に失意に陥り、政務を放棄して鬱々とした生活を送った。
 
朝倉愛王丸【あさくらあいおうまる(1570~1573)】

朝倉義景の次男。異母兄の阿君丸が早世していたため、朝倉義景から溺愛された。1573年、朝倉義景とともに大野郡賢松寺に落延びたが、朝倉景鏡の謀反に遭い捕らえられ織田信長に引き渡された。京へ送られる途中の今庄で謀殺された。

大野朝倉景高【あさくらかげたか(1495~1543)】 

大野郡戌山城主。朝倉貞景の次男。大野郡惣領職。官途は右兵衛尉。通称次郎左衛門。室は烏丸冬光の娘。1518年、美濃国の土岐政頼が朝倉孝景を頼って越前国に落延びてくるとこれを保護した。1519年、朝倉景高は土岐政頼を擁して兵3,000余り率いて美濃国に侵攻するも敗北した。後に朝倉孝景と対立して武田元光を頼り落延びた。1541年、朝倉孝景と対立関係にあった本願寺証如の支援を得ようとして「門徒になる、越前のうち三郡を寄進する、誓紙を差し出す」とゆう三つの提案を示したが、本願寺証如に拒否され、西国に落延びた。公家の娘を室とし、公家や将軍家との文化交流盛んな風流人でもあった。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大野朝倉景鏡【あさくらかげあきら(1525~1574)】

朝倉景高の男。官途は式部大輔。通称孫八郎。別名土橋信鏡。1541年、父朝倉景高が越前国を追われた後も枝連衆筆頭の地位を維持した。1568年、朝倉義景が足利義昭、二条晴良を招いて宴席の席次は朝倉景鏡、朝倉景健、朝倉景尚、朝倉景盛の順だった。1564年、加賀国に参陣中に内紛が起きて朝倉景光が謀殺されると、朝倉景紀と朝倉景鏡の家中の勢力争いが拡大した。1570年、「第一次越前侵攻」では、浅井長政勢の退路を遮断により孤立した織田信長勢をを追撃した。「姉川の戦い」では、朝倉景健に従って参陣したが織田信長、松平元康勢と戦い大敗した。「坂本の戦い」では、森可成、織田信治、青地茂綱、坂井政尚らを討取る戦功を挙げた。1573年、「刀禰坂の戦い」では、織田信長勢の追撃を受け壊滅的打撃を被った。朝倉義景を自刃に追い込み織田信長に降伏した。1574年、一向一揆勢の攻撃を受け平泉寺で主従三騎になるまで戦い、多数の敵中に突撃して討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

大野朝倉景次【あさくらかげつぐ(15??~15??)】

朝倉景高の次男。

大野朝倉存重【あさくらありしげ(1545~1615)】

朝倉景高の三男。父朝倉景高が叔父の朝倉孝景との抗争に敗れて没落すると、西国に落延びた朝倉景高に対して朝倉存重は駿河国に落延びた。その後中村一氏に仕え、さらに松平元康に仕えた。

大野朝倉宣正【あさくらのぶまさ(1573~1637)】

朝倉存重の男。官途は筑後守。通称藤十郎。別名「上田七本槍の一人」。1589年、「小田原の役」では、松平元康に従って参陣して北条氏直勢と戦った。1600年、「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸勢と戦い戦功を挙げたが、軍律違反の罪に問われた。1614年、「大坂冬の陣」では、江戸城留守居役を務めた。1625年、松平忠長の駿河附家老職に任じられ駿河掛川城26,000石を領した。1631年、松平忠長が蟄居となると、松平忠行に預かりとなった。

敦賀朝倉景冬【あさくらかげふゆ(15??~1495)】

朝倉家景の四男。官途は遠江守。別名「小天狗」。1458年、「長禄の戦い」では、兄朝倉孝景とともに甲斐常治勢に属して斯波義敏勢と戦った。朝倉孝景が病没すると、甥の朝倉氏景を補佐した。1487年、「長享、延徳の乱」では、足利義尚に従って参陣して六角高頼勢と戦い戦功を挙げた。1490年、足利義政の東山山荘に仙洞御所の松を移植する奉行を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

敦賀朝倉景豊【あさくらかげとよ(15??~1503)】

朝倉景冬の男。敦賀郡司職。通称孫四郎。室は朝倉景総の娘。1495年、父朝倉景が病没したため鶴賀朝倉家の家督を相続した。1503年、「敦賀城の戦い」では、父の朝倉景総が結んで朝倉貞景に謀反を企てたが、露見して朝倉貞景勢の攻撃を受け自刃した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

敦賀朝倉教景【あさくらのりかげ(1477~1555)】

敦賀郡敦賀城主。朝倉孝景の男。敦賀郡惣領職。通称太郎左衛門。別名朝倉宗滴。1503年、兄朝倉景総が朝倉景豊と結んで朝倉貞景に謀反を起こすと、朝倉景豊を討取り、朝倉景総を加賀国に追落した。1504年、朝倉景総の攻撃を受けるが撃退した。1506年、「九頭竜川の戦い」で本泉寺蓮悟の率いる加賀一向一揆勢を撃破った。1517年、若狭武田元光を支援して丹後国の守護代延長春信勢を撃破った。1525年、浅井亮政を支援して六角定頼勢を撃破った。1523年、加賀国へ侵攻して一向一揆勢と戦ったが敗退した。1527年、「山城泉乗寺の戦い」で細川晴元勢を支援して三好元長を撃破した。1531年、加賀国へ侵攻して一向一揆勢を撃破った。1544年、美濃国へ参陣した織田信秀とともに長井規秀を攻撃するが敗退した。1548年、朝倉孝景が病没して朝倉義景が家督を相続するとこれを補佐した。1555年、「加賀小松城の戦い」で、加賀一向一揆勢を破ったが陣中で病没した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

敦賀朝倉景紀【あさくらかげとし(15??~1572)】

朝倉貞景の四男(朝倉教景の養子)。通称九郎左衛門。1527年、「山城泉乗寺の戦い」で養父朝倉教景とともに足利義晴、細川晴元を支援して三好元長勢を撃破した。「東寺の戦い」では、三好元長勢らを撃退する戦功を挙げた。1531年、「湊川の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。1555年、「加賀小松城の戦い」で朝倉教景が病没すると敦賀朝倉家の家督を相続した。1561年、若狭国で武田義統に謀反を起こした栗屋勝久、逸見昌経を撃破った。1570年、「姉川の戦い」では、朝倉景健に従い松平元康勢と戦うが本多忠勝、榊原康政勢の猛攻により敗走した。文芸面では連歌を好み、京都滞陣中に三条西実隆らと交流を持った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

敦賀朝倉景光【あさくらかげみつ(15??~1564)】

朝倉景紀の男。通称太郎左衛門。1558年、父朝倉景紀から敦賀朝倉家の家督を相続した。1561年、武田義統に謀反を起こした逸見昌経、栗屋勝久らを鎮圧した。1564年、「加賀侵攻」で朝倉景隆、朝倉景鏡らと意見の対立があり陣中で自刃した。

敦賀朝倉景恒【あさくら かげつね(15??~1571)】

朝倉景紀の次男。官途は中務大輔。別名「松林院鷹瑳」。1564年、兄朝倉景光が陣中での口論の末に自刃した後に、還俗して敦賀郡惣領職を務めた。1566年、足利義昭が越前国に落延びると敦賀城に迎え歓待した。足利義昭が一乗谷に移ると、父朝倉景紀とともに朝倉景鏡と席次を争った。1568年、足利義昭が織田信長を頼りに岐阜に向かうと、前波景当とともに近江国まで足利義昭の警固役を務めた。1570年、「金ヶ崎城の戦い」では、金ヶ崎城に籠城するが織田信長勢の降伏勧告を受け入れ開城した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

敦賀朝倉貞紀【あさくらさだのり(15??~15??)】

朝倉景紀の三男。

敦賀朝倉道景【あさくらみちかげ(1558~1573)】

朝倉景恒の男。通称彦四郎。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。

足羽朝倉経景【あさくらさつねかが(1538~1591)】

足羽郡安居城主。足羽郡惣領職。官途は下野守。通称与三右衛門尉。1458年、「長禄の戦い」では、兄朝倉孝景を補佐して戦った。1468年、京都に甥朝倉氏景を残して、朝倉孝景、朝倉光玖、朝倉景冬らとともに越前国に帰還した。1471年、朝倉孝景が東軍に寝返り、越前国の国内平定に乗り出すとこれに従った。朝倉孝景の病没後は朝倉氏景を補佐した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

足羽朝倉景職【あさくらかげもと(1484~1535)】

朝倉経景の男。通称与三右衛門尉。室は朝倉貞景の長女(北殿)。北殿を室に迎えたことで、朝倉枝連衆の中でも高い地位を得た。1506年、「九頭竜川の戦い」では、朝倉教景に属して兵3,800余りを率いて一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。 1513年、笛の名人であった彦兵衛より秘伝書「遊舞集」を授かった。1517年、若狭国逸見家の叛乱の際、朝倉教景とともに参陣し、大飯郡高浜城の番代を務めた。1525年、美濃内乱時に土岐頼武救援のため総大将として参陣し稲葉山城へ兵を進め内乱を鎮圧した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

足羽郡朝倉景隆【あさくらかげたか(1508~1570)】

朝倉景職の男。通称右兵衛尉。猛将。1555年、「加賀小松城の戦い」で朝倉教景が病没すると、その陣代を務めた。1564年、朝倉景鏡とともに総大将となって加賀国に参陣した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

足羽朝倉景健【あさくらかげたけ(15??~1575)】

朝倉景隆の四男。通称孫三郎。別名安居景高。室は朝倉義景の娘。1570年、「第一次越前侵攻」では、朝倉景鏡とともに織田信長勢と戦った。「姉川の戦い」では、朝倉義景勢を率いて織田信長勢と戦うが敗退した。「志賀の陣」で森可成、青地茂綱、織田信治らを討取る戦功を挙げた。1573年、「刀禰坂の戦い」では、朝倉義景を落延びさせるため殿を務めたが、織田信長勢の追撃を受け降伏した。1574年、富田長繁が一向一揆勢と結んで織田信長に謀反を起こすと、北ノ庄に派遣されていた織田信長家臣木下祐久、津田元嘉らの京都退去させた。1574年、富田長繁が一向一揆勢と対立すると、一向一揆勢と結び富田長繁を討取った。1575年、織田信長勢の反撃を受け一向一揆勢が敗退すると、下間頼照、下間頼俊らの頸級を持って降伏するが許されず、斬頸に処された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

丹生朝倉景延【あさくらかげのぶ(14??~15??)】

丹生郡織田城主。朝倉貞景の六男。官途は兵庫助。通称孫十郎。1504年、南条郡今泉浦での道普請につて進言を行った。

丹生朝倉景綱【あさくらかげつな(15??~15??)】

朝倉景延の男。官途は兵庫助。別名織田景綱。1570年、「第一次越前侵攻」では、河野口を守備して織田信長勢と戦った。1573年、「刀禰坂の戦い」では、朝倉義景の意向を無視して織田城に退却した。「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長に降伏した。1574年、「長泉寺城の戦い」では、一向一揆勢に属して富田長秀を攻滅ぼした。「織田城の戦い」では、織田信長勢に属したため、七里頼周勢の攻撃を受け落延びた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

三留朝倉景儀【あさくらかげのり(15??~15??)】

丹生郡三留館主。朝倉孝景の次男。通称九郎左衛門。兄朝倉時景の没落後、丹生郡三留館主を務めた。雷沢宝俊を開山として霊泉寺を開いた。

三留朝倉景冬【あさくらかげふゆ(15??~1555)】

朝倉景儀の男。通称孫六郎。1555年、「加賀小松城の戦い」で朝倉教景に従って参陣したが討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

三留朝倉景信【あさくらかげのぶ(15??~1574)】

朝倉景冬の男。通称孫六郎。1555年、「加賀小松城の戦い」で父朝倉景冬が討死したため、三留朝倉家の家督を相続した。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると織田信長勢に属した。1574年、「三留館の戦い」で一向一揆勢の攻撃を受けて討死した。

三富朝倉景近【あさくらかげちか(15??~15??)】

朝倉景純の男。朝倉孝景家臣。別名月浦宗市。朝倉景尚が朝倉家の家督を相続した。

三富朝倉景尚【あさくらかげなお(15??~15??)】

朝倉景純の次男。官途は次郎左衛門尉。通称又三郎。兄朝倉景近の跡を受けて家督を相続した。足利義昭が一の谷城を訪ねた際、席次の三番目に位置した。

三富朝倉景盛【あさくらかげもり(15??~1574)】

朝倉景尚の男。官途は出雲守。通称孫六郎。朝倉左近助の男。官途は出雲守。通称孫六郎。1568年、朝倉義景が足利義昭、二条晴良を招いて宴席の列席した。1568年、越前国に落延びた足利義昭に謁見した。 1572年、織田信長勢への夜襲を成功させたが、戦局的な勝利に終わった。1573年、「一乗谷の戦い」で朝倉義景が討死すると、織田信長勢に属した。朝倉景鏡、朝倉景健とともに上洛して、織田信長に謁見した。1574年、富田長繁が一向一揆と結び織田信長に謀反を起こすと、これと戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

三富朝倉景茂【あさくらかげもり(15??~15??)】

朝倉景盛の男。

坂井朝倉氏景【あさくらうじかげ(15??~15??)】

坂井郡朝倉山城主。

坂井朝倉貞景【あさくらさだかげ(15??~15??)】

朝倉氏景の男。

坂井朝倉景宗【あさくらかげむね(15??~15??)】

朝倉氏景の次男。官途は玄蕃助。朝倉貞景に仕え、一乗谷奉行職を務め、北陸各地を転戦した。

坂井朝倉景連【あさくらかげつら(15??~1566)】

朝倉景宗の男。官途は玄蕃充。前波景定、小泉長利、河合吉統らとともに朝倉義景の奉行職を務めた。1555年、「加賀津葉城の戦い」で朝倉教景に従って参陣して戦功を挙げた。1561年、朝倉義景が大窪浜で催した犬追物に参加した。1562年、大覚寺義俊を慰問する曲水宴に参列した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

坂井朝倉景胤【あさくらかげたね(15??~1575)】

朝倉景連の男。景泰の兄。通称三郎。1573年、「一乗谷の戦い」で朝倉義景が討死すると、織田信長勢に属した。1574年、富田長繁が一向一揆と結び織田信長に謀反を起こすと、朝倉景健とともにこれに属した。1575年、織田信長勢の反撃を受けると、一揆の頭目の頸を持って降伏するが、許されず斬頸に処された。

坂井朝倉景泰【あさくらかげやす(15??~15??)】

朝倉景連の次男。通称七郎。1573年、「一乗谷の戦い」で朝倉義景が討死すると、織田信長勢に属した。朝倉景鏡、朝倉景健らとともに、上洛して織田信長に謁見した。1574年、越前国の一向一揆には参陣しなかった。

土佐朝倉景範【あさくらかげのり (15??~15??)】

朝倉景光の男。官途は土佐守。1506年、「九頭竜川の戦い」で、朝倉教景の戦いに敗れた一向一揆勢だったが、再び越前国に侵攻してきた。朝倉景範は豊原口で一揆勢と戦い、これを撃破した。

土佐朝倉景行【あさくらかげゆき(15??~1573)】

朝倉景範の男。官途は土佐守。北ノ庄城主。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉教景勢に大敗した一向一揆勢が再度侵攻すると、朝倉景行が撃退した。1568年、織田信長の上洛要請に反対した。1570年、織田信長勢が越前国に侵攻すると兵2,000余りを率いて参陣した。1573年、「刀禰坂の戦い」で羽柴秀吉勢の追撃を受け討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

朝倉景総【あさくらかげふさ(14??~1505)】

朝倉孝景の四男。官途は弾正忠。通称孫五郎。別名朝倉元景。1484年、朝倉教景を謀殺したため、叔父の朝倉光玖勢の攻撃を受けた。1496年、「美濃船田の戦い」では、朝倉貞景勢を率いて参陣した。越前国を離れ京都の細川政元に仕えた。1503年、朝倉景豊、朝倉教景らとともに朝倉貞景に謀反を企てたが失敗に終り加賀国に落延びた。1504年、加賀一向一揆勢の支援を受け、朝倉貞景勢と戦ったが敗れて能登国に落延びた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

朝倉光玖【あさくらこうきゅう(1440~1494)】

朝倉家景の五男。別名慈視院光玖。京都の臨済宗建仁寺の僧。1461年、兄朝倉孝景の代官として坪江、河口庄で段銭徴収を行った。1489年、洞雲寺に大野郡鍬懸、弘名の所領を安堵した。大野郡司に任じられ越前国内平定勢に尽力、朝倉孝景が病没すると、甥の朝倉氏景の補佐した。養子に迎えていた甥の朝倉教景が、朝倉景総に謀殺されると、朝倉景総と戦ったが後に和議を結んだ。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

朝倉時景【あさくらときかげ(15??~15??)】

丹生郡織田城主。朝倉孝景の六男。通称孫七郎。父朝倉孝景と対立して没落した。

朝倉之景【あさくらゆきかげ(15??~15??)】

朝倉時景の男。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、北条氏政に仕えた。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると備前国に移住した。

朝倉政景【あさくらまさかげ(15??~15??)】

朝倉秀景の男。

朝倉政元【あさくらまさもと(1546~1629)】

朝倉政景の男。官途は右京進。通称彦四郎。1573年、「一乗谷の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、北条氏政に仕えた。伊豆衆として鎌田館を領していた。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、羽柴秀次に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して改易処分に処された。1603年、松平元康に仕えた。紀州松平頼宣に仕え、後に水戸松平頼房に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝倉政明【あさくらまさあき(15??~16??)】

朝倉政元の男。松平秀忠の馬廻衆となり500石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝倉信景【あさくらのぶかげ(1571~1652)】

朝倉義景の三男。1573年、「一乗谷城の戦い」で父朝倉義景が滅亡すると、本願寺教如のもとに落延びた。1628年、武蔵国遍立寺を建立して、本願寺宣如より本尊を譲り受けて住職となった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

敦賀朝倉景嘉【あさくら かげよし(1534~15??)】

朝倉義景家臣。官途は修理亮。1568年、足利義昭の警固役を務めた。1570年、伊勢神宮に参拝して田地を寄進した。1573年、「一乗谷城の戦い」で浅倉義景が滅亡すると、長尾景虎に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝倉与三【あさくらよぞう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称与三郎。1574年、朝倉景健とともに一向一揆勢に属した。1575年、織田信長勢の柴田勝家、丹羽長秀の攻撃を受けた。

朝倉駿河守【あさくらするがのかみ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷の戦い」で朝倉義景が討死すると、織田信長勢に属した。

朝倉大炊助【あさくらおおいのすけ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。官途は近江守。1573年、「一乗谷の戦い」で朝倉義景が討死すると、織田信長勢に属した。

朝倉近江守【あさくらおうみのかみ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従って参陣したが織田信長勢の攻撃を受けると降伏した。

朝倉景梁【あさくらかげむね(15??~15??)】

朝倉義景家臣。官途は掃部助。別名「紹空」。奉行人を務めた。

朝倉掃部助【あさくらかもんおすけ(15??~1573)】

朝倉景梁の男。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従って参陣したが織田信長勢と戦い討死した。

朝倉景郡【あさくらかげ(15??~15??)】

朝倉貞景の三男。通称小太郎。
 
朝倉道郷【あさくらみちさと(15??~15??)】

朝倉貞景の五男。通称彦四郎。波多野庄を領した。
 
朝倉景均【あさくらかげさと(15??~15??)】

久嶽紹良の男。左近将監。
 
朝倉左近助【あさくらさこんのすけ(15??~15??)】

朝倉景均の男。
 
朝倉九郎兵衛【あさくらきゅうべい(15??~15??)】

朝倉景豊の男。
 
朝倉春蘭軒【あさくらしゅんらんけん(15??~15??)】

朝倉景豊の次男。
 
朝倉景純【あさくらかげずみ(15??~15??)】

朝倉景明の男。通称小次郎。
 
朝倉景近【あさくらかげちか(15??~15??)】

朝倉景純の男。
 
朝倉景尚【あさくらかげなお(15??~15??)】

朝倉景純の次男。官途は次郎左衛門尉。通称又三郎。
 
朝倉余六【あさくらよろく(15??~15??)】

朝倉景総の男。弟地蔵院が跡を継いだ。
 
朝倉地蔵院【あさくらじどういん(15??~15??)】

朝倉景総の次男。
 
朝倉貞紀【あさくらさだのり(15??~15??)】

朝倉景紀の末子。1573年、「一乗谷城の戦い」で浅倉義景が滅亡すると、前田利家の家臣青木信照に仕えた。

朝倉景善【あさくらかげよし(15??~15??)】

朝倉貞紀の男。
 
朝倉小七郎【あさくらこちちろう(15??~15??)】

朝倉孫九郎の男。

朝倉景伝【あさくらあげでん(15??~15??)】

朝倉景理の男。官途は越中守。通称玄番助。奉行職。
 
朝倉景亮【あさくらかげすけ(15??~15??)】

朝倉景儀家臣。
 
朝倉景良【あさくらかげよし(15??~15??)】

朝倉景亮の男。官途は兵庫介。

朝倉景澄【あさくらかげずみ(15??~15??)】

弘治元年、加賀敷地城の守将を務めた。

朝倉景亮【あさくらかげりょう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。官途は出雲守。
 
朝倉景満【あさくらかげみつ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。官途は左近充。奏者役を務めた。
 
朝倉治部丞【あさくらじぶのじょう(15??~1573)】

朝倉義景家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従って参陣したが織田信長勢と戦い討死した。

阿波賀小四郎【あばがしこしろう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1568年、朝倉義景が足利義昭、二条晴良を招いて宴席で1568年、朝倉義景が足利義昭、二条晴良を招いて宴席の席次は朝倉景鏡、朝倉景健、朝倉景尚、朝倉景盛の順だった笛を担当した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿波賀三郎【あばがさぶろう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1570年、朝倉義景が比叡山に在陣した際、織田信長勢と戦い、織田甲斐守ら1,500余りを討取った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

池田隼人助【いけだはやとのすけ(15??~1572)】

朝倉義景家臣。1572年、北近江国の浅井長政を支援するために朝倉景鏡に従って参陣した。織田信長勢に内通しようとしたことが発覚し陣中で斬頸され、遺児二人も越前国で斬頸にされた。

石来民部丞【いしきみんぶのじょう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が討死すると、広徳院を警護した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

石黒吉富【いしぐろよしとみ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称弥左衛門尉。朝倉家三奉行職を務めた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

石黒冬信【いしぐろふゆのぶ(15??~15??)】

朝倉義冬家臣。通称又三郎。1487年、朝倉義冬に書状を送った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

伊勢左衛門尉【いせさえもんのじょう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。坂井郡帯刀館主。官途は帯刀。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

伊勢帯刀【いせたてわき(15??~15??)】

堀江景忠家臣。坂井郡清永館主。河北ノ衆。1506年、「九頭竜川の戦い」では、朝倉教景に従って参陣して加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。

一色治部大輔【いっしきじぶだいゆう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢の追撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

石徹白胤清【いとしろたねきよ(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。大野郡石徹白館主。

石徹白胤弘【いとしろたねひろ(15??~15??)】

石徹白胤清の男。官途は紀伊守。室は東常慶の娘。朝倉義景から美濃郡上八幡城への参陣を命じられたが、これに反発して朝倉義景から離反した。朝倉義景は石徹白胤弘を誘き寄せ謀殺した。

石徹白胤正【いとしろたねまさ(15??~15??)】

石徹白胤清の次男。

井上弥五郎【いのうえよごろう(15??~15??)】

朝倉氏景家臣。1479年、「金津の戦い」では、朝倉氏景に従って参陣したが佐々布光林坊らとともに討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

上田則種【うえだのりたね(15??~15??)】

朝倉教景家臣。通称三郎左衛門。敦賀奉行職を務めた。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。

上田紀勝【うえだとしかつ(15??~1570)】

上田則種の男。官途は兵部丞。三段崎紀存とともに敦賀奉行衆を務めた。1570年、「天筒山の砦」で織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『戦国時代人物辞典(歴史群像編集部編)』by学研。

上村内蔵助【うえむらくらのすけ(15??~15??)】

朝倉景盛家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」で竹内三助とともにの織田信長勢の陣営にて火を放ち、軍勢を混乱させた。朝倉義景勢は織田信長勢の陽動と誤認し、この好機を活かすことはできなかった。

魚住景宗【うおずみかげむね(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。魚住景貞の男。官途は備後守。一乗谷四奉行職を務めた。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。1517年、武田元光を支援する朝倉教景に従って丹波国に参陣した。1525年、浅井亮政を支援するために近江国へ参陣した。

魚住景栄【うおずみかげひで(15??~15??)】

魚住景宗の男。官途は左衛門尉。通称は帯刀。

魚住景固【うおずみかげかた(1528~1574)】

魚住景栄の男。官途は備後守。通称彦四郎。1567年、堀江景忠の謀反が噂されると、山崎吉家とともに鎮圧に赴いた。1570年、「姉川の戦い」では、朝倉景健に従って参陣したが、軍令に従わず静観した。1573年、近江丁野城に在番した。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、継嗣の魚住彦三郎を人質に差し出して織田信長に降伏した。1574年、富田長繁に龍門寺城へと招かれ、次男魚住彦四郎とともに謀殺された。

魚住彦三郎【うおずみひこさぶろう(1528~15??)】

魚住景固の男。1573年、父魚住景固が織田信長に降伏すると、人質として織田信長のもとに赴いた。

魚住彦四郎【うおずみひこしろう(1528~1574)】

魚住景固の次男。1573年、父魚住景固とともに富田長繁に謀殺された。

宇野景久【うのかげひさ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。

宇野景重【うのかげしげ(15??~15??)】

宇野景久の男。通称新左衛門。三国湊で舟奉行職を務めた。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。1507年、堀江景実とともに越前国沖の警固役を務めた。

大月景秀【おおつきかげひで(15??~1573)】

朝倉義景家臣。官途は備中守。通称三郎左衛門。室は朝倉景梁の妹。医師として朝倉義景に仕えた。1562年、大覚寺義俊を慰問する曲水宴に参列した。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると出家した。北庄で妙薬「万金丹」を創製した。

小河六郎左衛門【おがわろくろうざえもん(15??~15??)】

朝倉教景家臣。

小河三郎左衛門【おがわさぶろうざえもん(15??~15??)】

朝倉義景家臣。小河六郎左衛門の男。1573年、「一乗谷城の戦い」に敗れ朝倉義景が野郡に落延びると父小河六郎左衛門とともにこれに供奉した。賢松寺で朝倉義景が自刃すると、朝倉義景妻子を守るため自刃を思いとどまり、織田信長勢と和議の交渉を行った。

小河吉持【おがわよしもち(15??~15??)】

朝倉教景家臣。官途は式部丞。1533年、敦賀奉行職を務めた。1540年、連歌師宗牧は一乗谷の吉持邸で和歌を詠んだ

小川左衛門二郎【おがわさえもんじろう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「毛詩」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【か】

甲斐敏光【かいとしみつ(14??~1481)】

斯波義敏家臣。甲斐常治の男。越前守護代職。通称は八郎。1458年、「長禄の戦い」では、父甲斐常治、朝倉孝景とともに斯波義敏の支援を受けた堀江利真、朝倉将景、朝倉景正勢と戦いこれを鎮圧した。1459年、「金ヶ崎城の戦い」で斯波義敏勢を追落として斯波義良を斯波家惣領職に擁立した。「今川範将の乱」では、朝倉孝景とともに遠江国に出兵してこれを鎮圧した。1461年、渋川義鏡の男斯波義廉を越前守護職に擁立して、越前守護代職に復帰した。1467年、「応仁の乱」では、斯波義敏が斯波義良を擁して細川勝元勢に属すと、斯波義廉、朝倉孝景とともに山名宗全に属した。1471年、朝倉孝景が足利義政から越前守護職に任じられると、東軍に内応して越前国内の西軍勢力と戦った。1472年、「長崎の戦い」で朝倉孝景勢に敗れ加賀国に落延びた。1474年、富樫幸千代の支援を受け朝倉孝景勢と戦うが敗れて和議を結んだ。1475年、足利義政から遠江国守護代に任じられて、駿河国守護職の今川義忠と戦い、これ討取った。1479年、斯波義良とともに朝倉孝景、朝倉氏景勢と戦い敗れて加賀国に落延び没落した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

甲斐信久【かいのぶひさ(14??~1472)】

甲斐敏光の男。1459年、在京する父甲斐敏光に代わり、越前守護代、遠江守護職を継承した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

斯波義廉を擁立し、斯波義敏と対立した。「応仁の乱」では、渋川義廉に従い

西軍。今川義忠と抗争。1472年越前表にて戦死か。

片岡与三郎【かたおかよさぶろう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「六韜」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
金津正直【かなつまさなお(15??~1600)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、明智光秀に仕えた。のち細川藤孝に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、大坂細川屋敷でガラシャとともに自刃した。

印牧美次【かねまきよしつぐ(15??~1540)】

朝倉孝景家臣。印牧広次の男。通称新右衛門。府中奉行を務めた。1518年、上洛する伊達稙宗の使者に利便を図った。1528年、大谷寺と小河村が越知山の所属を巡って争うと、同僚の青木景康とともに朝倉孝景に報告して裁断を仰いだ。北国街道の管理及び東条郡、今立郡、丹生郡の訴訟を管轄した。

印牧美満【かねまきよしみつ(1500~15??)】

印牧広次の次男。官途は丹後守。1540年、兄印牧美が父印牧広次に続いて病没したため、印牧家の家督を相続した。1555年、「加賀小松城の戦い」で朝倉教景が病に倒れて朝倉景隆が代代を務めるとそれを補佐した。朝倉景連の意向を受け敦賀郡河野浦、今泉浦の百姓の通行警備を要請するなど府中奉行職を務めた。

印牧吉広【かねまきよしひろ(15??~15??)】

印牧広次の三男。通称弥二郎。富田慈源に剣術を学び、門弟に達人を多く輩出した。

印牧能信【かねまきよしのぶ(15??~1573)】

南条郡鉢伏城主。朝倉義景家臣。通称弥六左衛門。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢に捕縛された。織田信長はその名を惜しんで一命を援けようとしたがこれを拒否、面前にて自刃した。

河合吉統【かわいよしむね(1521~1573)】

朝倉義景家臣。官途は安芸守。通称五郎兵衛。内政手腕に優れ、朝倉義景の奏者として活動した。1550年、奉行衆に任命され、朝倉家臣団最高位の行政全般に関与した。1570年、「姉川の戦い」では、2,000余りを率いて参陣した。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。

北ノ庄景頼【きたのしょうかげより(15??~1520)】

北庄景種の男。官途は土佐守。1491年、越前国に下向した細川政元を歓待した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
北ノ庄景継【きたのしょうかげつぐ(15??~15??)】

北ノ庄景頼の男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北ノ庄景種【きたのしょうかげたね(15??~1573)】

北ノ庄景継の男。次郎右衛門尉。坂井郡荒居、細呂の代官職を務めた。1572年、「近江堅田の戦い」では、朝倉義景勢を率いて織田信長勢と戦った。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢の追撃を受け討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北ノ庄景隆【きたのしょうかげたか(15??~15??)】

北ノ庄景種の次男。官途は掃部助。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北ノ庄景契【きたのしょうあkげけい(15??~15??)】

北ノ庄景隆の男。官途は掃部助。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北ノ庄景頼【きたのしょうかげより(15??~1573)】

北ノ庄景契の男。寺島館主。通称与七。官途は掃部介。1561年、朝倉義景が大窪浜で催した犬追物に参加した。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢の追撃を受け討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

北村次郎五郎【きたむらじろうごろう(15??~15??)】

朝倉教景家臣。1528年、京都在陣中に三条西実隆に扇面詩歌を所望した。

久津見清右衛門【くつみせいうえもん(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」に敗北を喫した朝倉義景が一族の朝倉景鏡を頼って越前大野庄へ逃れる際に供奉した。その後東雲寺から賢松寺に移ったときもこれと同道した。朝倉義景の自刃後は自身も殉じようとしたが、小河三郎左衛門とともに朝倉義景の女房衆の世話をした。

窪田竹松【くぼたたけまつ(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「論語」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

桑原石松【くわはらいしまつ(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「六韜」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

桑原貞久【くわばらさだひさ(14??~15??)】

坂井郡桑原館主。通称次郎右衛門尉。1479年、京都清水寺を再興する勧進奉加帳した。

黒坂景久【くろさかかげひさ(15??~1570)】

朝倉義景家臣。官途は備中守。1570年、「姉川の戦い」で黒坂景久、小林瑞周軒、魚住左衛門尉らとともに松平元康勢と戦い討死した。

毛屋猪介【けやいのすけ(15??~1574)】

富田長繁家臣。大野郡毛屋館主。1573年、「刀禰坂の戦い」では、富田長繁、戸田与次郎らととに織田信長勢に降伏した。1573年、「第二次長島城の戦い」では、織田信長に属した富田長繁に従って参陣し戦功を挙げた。大垣城に帰陣途中の織田信長が一揆勢に襲われたが、毛屋猪介は一揆を何度も撃退した。1574年、「一乗谷城の戦い」では、富田長繁に従って前波吉継を討取った。七里頼周勢の攻撃を受け討死した。

小泉長利【こいずみながとし(15??~1574)】 

朝倉義景家臣。通称藤左衛門。1550年、朝倉景連、河合吉統、前波景定らとともに一乗谷奉行職を務めた。1574年、一向一揆勢の攻撃を受け溝江長逸らとともに自刃した。

小泉長治【こいずみながはる(15??~1574)】

小泉長利の男。通称藤左衛門。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長に降伏した。1574年、「溝江館の戦い」で一向一揆勢の攻撃を受け溝江長逸とともに討死した。参考文献:『戦国時代人物辞典(歴史群像編集部編)』by学研。

小林吉隆【こばやしよしたか(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称三郎二郎。1568年、足利義昭が朝倉館を訪れた際、斎藤屋敷の警護役に任じられた。1570年、「第一次越前侵攻」では、500騎余りを率いて朝倉義景勢の脇備を務めた。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長勢に降伏して富田長繁に属した。1574年、富田長繁が朝倉景健と戦うと、富田長繁を裏切って謀殺した。

小布施修理大夫【こふせしゅりだいふ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。坂井郡御簾尾館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【さ】

斎藤刑部丞【さいとうぎょうぶのじょう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。官途は刑部少輔。1573年、「近江大岳砦の戦い」では、浅井長政の支援を受け織田信長勢と戦ったが羽柴秀吉に降伏した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、羽柴秀吉の意向を受け越中国内の瑞泉寺、安養寺に一揆を起こさせ柴田勝家勢の後方を撹乱した。

斎藤兵部少輔【さいとうひょうぶしょうゆう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。朝倉義景の愛妾小少将の父。1570年、「第一次越前侵攻」では、て一乗谷城留守居役を務めた。1573年、「一乗谷城の戦い」では、賢松寺に落延びる朝倉義景に供奉し続けた。

斎藤吉用【さいとうよしもち(14??~1520)】

朝倉孝景家臣。通称民部丞。1506年、「九頭竜川の戦い」で朝倉教景に従って参陣して加賀一向一揆勢と戦った。

桜井景道【さくらいかげみち(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称新左衛門。1568年、朝倉義景が足利義昭、二条晴良を招いて宴席に列席した。1570年、「第一次越前侵攻」では、朝倉義景に従って杉津口の守備した。1573年、「一乗谷城の戦い」では、賢松寺に落延びる朝倉義景に供奉し続けた。

桜井正次【さくらいまさつぐ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称平右衛門。越前白山神社の御師を出自とし、白山権現の社人石徹白長澄とも交流を持った。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長に仕えた朝倉景鏡に従った。

桜井平四郎【さくらいへいしろう(15??~15??)】

桜井正次の男。1575年、織田信長の意向を受け京都に赴く途中謀殺された。織田信長から下手人の追及指示が出された。

桜井十郎【さくらいじゅうろう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「論語」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

諏訪神九郎左衛門【すわがみきゅうざえもん(15??~15??)】

朝倉教景家臣。1506年、「九頭竜川の戦い」で朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。

諏訪三郎兵衛【すわさぶろべえ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長に仕えた。1575年、織田信長から本領を安堵状を受けた。

勝蓮華景継【しょうれんげかげつぐ(15??~15??)】

朝倉景冬家臣。坂井郡勝蓮華館主。通称右京進。通称又太郎。別名朝倉景継。室は朝倉景冬の娘。1506年、「九頭竜川の戦い」で朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。

勝蓮華景基【しょうれんげかげもと(15??~15??)】

勝蓮華景継の男。官途は近江守。

勝蓮花義海【しょうれんげよしうみ(15??~15??)】

勝蓮花景純の男。通称又太郎。
 
勝蓮花景保【しょうれんげかげやす(15??~1573)】

勝蓮花義海の男。官途は右京進。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景に従って参陣してが織田信長勢と戦い討死した。

新開一右衛門【しんびらきいちえもん(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1572年、奉行職の魚住景固から河和田の所領を安堵状を受けた。
1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長の家臣柴田勝家に従い200石を所領を安堵された。

杉若無心【すぎわかみしん(15??~15??)】

朝倉義景家臣。娘が丹羽長秀の側室として嫁ぎ、その継嗣が丹羽秀長の養子となった。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して改易処分に処された。

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【た】

高橋景業【たかはしかげなり(15??~1573)】

朝倉義景家臣。通称甚三郎。鳥居景近とともに朝倉義景に近侍として仕えた。1573年、「一乗谷城の戦い」で織田信長勢に敗れた朝倉義景に従って鳥居景近とともに賢松寺に落延びた。朝倉景鏡が謀反を起こすと朝倉義景の介錯を務め、自らも自刃した。

託美景統【たくみかげむね(15??~1531)】

朝倉教景家臣。1531年、「加賀手取川の戦い」では、朝倉教景に従って参陣したが、加賀三ヶ寺(松岡寺蓮綱、光教寺蓮誓、本泉寺蓮悟)勢と戦い討死した。

竹内三助【たけうちさんすけ(15??~15??)】

朝倉景盛家臣。1570年、「虎御前山の戦い」で織田信長勢に陣地に火を放ち混乱させた。朝倉義景勢は織田信長勢の陽動と誤認し、この好機を活かすことはできなかった。

築山清左衛門【つきやませいざえもん(15??~1573)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が落延びると、城兵が逃亡したのを恥じ妻子を刺し殺して自刃した。参考文献:『戦国時代人物辞典(歴史群像編集部編)』by学研。

堤権右衛門尉【つつみごんえもんのじょう(15??~15??)】

朝倉義景家臣。姉は丹羽長秀の側室となった。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

掘平右衛門【つぼひらうえもん(15??~1570)】

朝倉義景家臣。1570年、「近江堅田の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

寺田采女正【てらだうねめのしょう(15??~1570)】

朝倉景恒家臣。敦賀郡天筒山城主。1570年、「天筒山砦の戦い」では、疋壇城を守る朝倉景恒に従って天筒山砦を守備した。織田信長勢の攻撃を受け討死した。

栂野吉仍【とがのよしあつ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称三郎右衛門。1561年、朝倉義景が大窪浜で催した犬追物に参加した。1562年、大覚寺義俊を慰問する曲水宴に参列した。1570年、「第一次越前侵攻」では、朝倉義景に従って参陣した。織田信長の撤退後は疋壇城の守備した。

豊島源左衛門【とよしまげんざえもん(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長に仕え本領の16石を安堵された。

戸田与次郎【とだよじろう(15??~15??)】

富田長繁家臣。1572年、「刀禰坂の戦い」で富田長繁、毛屋猪介らとともに織田信長に内応した。1575年、「越前一向一揆の戦い」で織田信長勢に従って参陣した。

冨田勢源【とだせいげん(1523~15??)】

朝倉義景家臣。富田景家の男。通称五郎左衛門。大橋高能から中条流を学んだ。弟子に一刀流の鐘捲自斎、東軍流の流祖川崎鑰之助らを持った。眼病を患ったため剃髪し、家督を弟の冨田景政に譲り美濃の朝倉成就坊のもとに寄寓した。

富田景政【とだかげまさ(15??~1593)】

富田景家の次男。通称治部左衛門。眼病を患ったため剃髪した兄富田勢源から富田家の家督を譲られた。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると前田利家に仕えた。1582年、「賤ヶ岳の戦い」で継嗣の富田景勝が討死すると、山崎景邦から養子を迎えた。「越中魚津城の戦い」で戦功を挙げ4,000石を領した。越中国阿尾城主菊地武勝を内応させた。羽柴秀次の剣術指南役を務めた。

富田重政【とだげまさ(1554~1625)】

山崎景邦の男(富田景政の養子)。官途は下野守。通称六左衛門。別名「名人越後」。室は富田景政の娘。富田流剣術を継ぎ、前田利家に仕えた。1583年、「末森の戦い」では一番槍の戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」で戦功を挙げ13,680石を領した。1615年、「大坂夏の陣」で前田利常に従って参陣して頸級十九頸を取る戦功を挙げた。

富田吉順【とだよしじゅん(15??~15??)】

朝倉義景家臣。

富田長繁【とだながしげ(1551~1575)】

富田吉順の男。別名弥六郎。1570年、「第一次越前侵攻」では、織田信長勢と戦った。1573年、「刀禰坂の戦い」では、前波吉継、毛屋猪介、戸田与次郎らとともに織田信長勢に内応して朝倉義景を自刃に追い込んだ。「長島一向一揆戦い」では、織田信長に従って参陣して戦功を挙げた。1574年、「一乗谷城の戦い」では、一向一揆衆と結び前波吉継を討取り、織田信長の家臣木下祐久、津田元嘉、三沢秀次らを追放した。「鳥羽城の戦い」では、魚住景固、魚住彦三郎、魚住彦四郎らを討取った。1575年、「帆山河原の戦い」では、寡兵を率いて一向一揆勢を撃破る戦功を挙げた。一向一揆勢に内応した小林吉隆に謀殺された。

富田弥六【とみたよろく(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長勢に寝返った。織田信長から府中の所領を安堵されてた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

鳥羽景忠【とばかげただ(15??~15??)】

鳥羽城主。

鳥羽景春【とばかげはる(15??~15??)】

鳥羽景忠の男。官途は出羽守。別名朝倉景春。室は朝倉景冬の娘。
 
鳥羽景富【とばかげとみ(15??~15??)】

鳥羽景忠の男。官途は右馬助。別名朝倉景富。1568年、足利義昭が朝倉義景を頼り落延びてくると、朝倉屋敷で足利義昭に謁見した。伺候した朝倉家同名衆十九名中七番目の席次。
 
鳥羽景忠【とばかげたか(15??~15??)】

鳥羽景富の男。官途は右馬助。通称与三。別名朝倉景忠。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、一向一揆勢に属して越前国各地を転戦した。1575年、「鳥羽城の戦い」で織田信長の家臣柴田勝家、丹羽長秀勢の猛攻を受け、越後国に落延びた。1578年、足利義昭、毛利輝元の支援を受けた朝倉宮増丸に擁立され、朝倉惣領家の家督を相続を図るが失敗した。

鳥居景近【とりいかげちか(15??~1573)】

朝倉義景家臣。官途は兵庫助。朝倉義景の奏者番を務めた。1570年、織田信長の「第一次越前侵攻」では朝倉義景の脇備として500騎余を率いて参陣した。1573年、「刀禰坂の戦い」に敗れた朝倉義景に従って大野庄まで落延びた。朝倉義景が自刃に追い込まれると、朝倉景鏡勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

鳥居与一左衛門【とりいよいちざえもん(15??~1567)】

朝倉孝景家臣。1527年、「山城桂川原の戦い」で三好長之勢と戦い戦功を挙げた。1555年、「加賀小松城の戦い」でも戦功を挙げた。1567年、「熊坂口の戦い」で加賀一向一揆勢と戦い討死した。

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【な】

中村新兵衛【なかむらしんべえ(15??~1573)】

朝倉義景家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」では、朝倉義景に従って参陣したが、羽柴秀吉勢の兼松正吉に討取られた。

中村宗直【なかむらむねなお(15??~15??)】

朝倉教景家臣。通称七郎左衛門。1519年、敦賀郡の奉行職を務めた。

中村五郎右衛門【なかむらごろざえもん(15??~15??)】

朝倉教景家臣。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。

中村平五郎【なかむらへいごろう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「六韜」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【は】

萩原宗俊【はぎわらむねとし(15??~1570 )】

朝倉教景家臣。通称八郎右衛門尉。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。1555年、「加賀小松城の戦い」で朝倉教景の加賀一向一揆攻めに参陣した。1570年、「第一次越前侵攻」で織田信長勢と戦い討死した。著書に『朝倉宗滴話記』。

八杉喜兵衛【はちすぎぜんべい(15??~15??)】

福岡石見守家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、福岡石見守とともに朝倉義景の息女二人を守って落延びた。福岡石見守が討死すると、本願寺顕如の継嗣本願寺教如の内室となるべく石山本願寺城に届けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

半田吉就【はんだよしなり(15??~15??)】

朝倉教景家臣。通称源左衛門。1555年、「津葉城の戦い」では、朝倉教景に従って加賀一向一揆勢と戦った。1568年、足利義昭が朝倉義景を頼り落延びてくると、朝倉義景との奏者役を務めた。

疋壇久保【ひきたひさやす(1469~1573)】

朝倉孝景家臣。敦賀郡疋壇城主。官途は対馬守。通称六郎三郎。1525年、丹後国に参陣した。1570年、「第一次疋壇城の戦い」では、織田信長勢の攻撃を受けると敗走した。1573年、「第二次疋壇城の戦い」では、栂野吉仍らとともにに籠城して織田信長勢と戦うが討死した。

深町式部少輔【ふかまちしきぶしょうゆ(15??~15??)】

朝倉教景家臣。坂井郡坪江館主。1561年、河口、坪江荘の年貢を大乗院に納入した。

深町左京丞【ふかまちさきょうのじょう(15??~15??)】

朝倉教景家臣。

福岡吉清【ふくおかよしきよ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称三郎右衛門。朝倉義景の奏者役を務めた。1555年、「菅生口の戦い」で朝倉教景に従って参陣して加賀一向一揆勢と戦った。1561年、朝倉義景が大窪浜で催した犬追物に参加した。

福岡石見守【ふくおかいわみのかみ(15??~1573)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」に敗れた朝倉義景から二人の息女を預けられた。息女の一人は本願寺教如に嫁ぐことが決まっており、豊原寺に息女を届ける途中、落ち武者狩りに遭い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

福岡吉家【ふくおかよしいえ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1572年、「近江堅田の戦い」で朝倉義景に従って参陣して織田信長勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

堀江景用【ほりえかげもち(14??~15??)】

坂井郡堀江館主。朝倉貞景家臣。堀江景経の男。官途は石見守。通称七郎。1458年、「長禄の戦い」では、惣領家の堀江利真が斯波義敏勢に属して甲斐常治勢と戦った。1459年、堀江利真が甲斐常治勢の朝倉孝景に討取られたため、堀江景用が惣領職を相続した。1474年、「杣山の戦い」で戦功を挙げた。

堀江景実【ほりえかげざね(15??~15??)】

堀江景用の男。官途は石見守。通称左衛門三郎。1506年、「九頭龍川の戦い」では、朝倉貞景に従って加賀一向一揆勢を迎撃した。1507年、宇野景重とともに三国湊の警護を行なった。坂井郡三国湊の舟奉行職を務めた。1531年、加賀一揆一揆では、黒瀬覚道らを支援するため、朝倉孝景の意向を受け300余りを率いて加賀国に参陣した。

堀江景忠【ほりえかげただ(15??~1576)】

堀江景実の男。官途は中務丞。通称左衛門三郎。室は武田元度の娘。1555年、「加賀大聖寺城の戦い」では、朝倉教景に従い1,000余りを率いて大聖寺城を攻落とす戦功を挙げた。1567年、「河口館の戦い」では、謀反の嫌疑を受け魚住景固、山崎吉家らの攻撃を受けた。大和田真孝の仲介で和議を結び能登国隈木に隠居した。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が討死すると、越前一揆一揆衆と結んで溝江景逸らを討取った。織田信長勢に内応通して越前一向一揆討伐に協力した。1576年、三国瀧谷寺で織田信長勢に謀殺された。

堀江利茂【ほりえとししげ(15??~15??)】

堀江景忠の男。通称左衛門三郎。1567年、「河口館の戦い」では、謀反の嫌疑を受け魚住景固、山崎吉家らの攻撃を受けた。1575年、「第二次越前侵攻」で織田信長に内応して戦功を挙げ津葉城主に任じられた。

堀江景利【ほりえかげとし(15??~15??)】

堀江景経の次男。

堀江景道【ほりえかげみち(15??~15??)】

堀江景経の三男。

堀江景好【ほりえかげよし(15??~15??)】

堀江景経の四男。

堀吉重【ほりよししげ(15??~1570)】

朝倉義景家臣。通称平右衛門。1561年、朝倉義景が大窪浜で催した犬追物に参加した。1562年、大覚寺義俊を慰問する曲水宴に参列した。1568年、足利義昭が朝倉義景を頼って落延びると警固役を務めた。朝倉阿君丸が病没すると、これを悲しんで出家した。1570年、「近江堅田の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。

堀江兵庫【ほりえひょうご(15??~15??)】

堀江景忠家臣。坂井郡下関館主。1552年、加賀国に侵攻した朝倉教景に従った堀江景忠とともに参陣した。

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【ま】

前波吉熙【まえばよしさと(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。官途は豊前守。通称藤右衛門尉。一乗谷四奉行職を務めた。1506年、「九頭竜川の戦いの戦い」で朝倉教景に従って参陣して加賀一向一揆勢と戦った。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

前波景定【まえばかげさだ(15??~1563)】

朝倉孝景家臣。通称藤右衛門尉。朝倉景連、小泉長利、河合吉統らとともに一乗谷四奉行職を務めた。1539年、足利義晴への奏者役を務めるなど、評定衆として家中で重きを成した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

前波景当【まえばかげまさ(15??~1570)】

前波景定の男。通称左衛門五郎。1561年、朝倉義景が大窪浜で催した犬追物に参加した。1567年、足利義昭が朝倉義景を頼り落延びてくると、朝倉義景とともにこれを迎えた。1568年、足利義昭が織田信長を頼ることになると、近江国境まで足利義昭を警固した。1570年、「近江堅田の戦い」で織田信長の家臣森可成、織田信治、青地茂綱、坂井政尚らを討取るなどの戦功を挙げたが討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

前波吉継【まえばよしつぐ(15??~1574)】

前波景定の次男。官途は播磨守。通称九郎兵衛。別名桂田長俊。1562年、大覚寺義俊を慰問する曲水宴に参列した。1570年、「姉川の戦い」では、朝倉景健に従って参陣して織田信長勢と戦った。1570年、「近江堅田の戦い」で、兄前波景当が討死したため、前波家の家督を相続した。1573年、「刀禰坂の戦い」で織田信長に内応してその先陣を務めた。「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると織田信長から越前国守護代職に任じられた。1574年、「一乗谷城の戦い」で富田長繁、一向一揆勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

前波勝秀【まえばかつひで(15??~16??)】

前波景当の男。通称吉右衛門。1574年、父前波景当の討死より前波家の家督を相続した。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、羽柴秀吉の御伽衆を務めた。1598年、羽柴秀吉の遺物として黄金三枚の拝領された。その後、松平元康に仕えた。

前波吉勝【まえばよしかつ(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。通称弥四郎。一乗谷四奉行職を務めた。1555年、「加賀小松城の戦い」で朝倉教景に従って参陣して加賀一向一揆勢と戦った。

前波吉連【まえばよしかつ(15??~15??)】

朝倉教景家臣。通称七郎右衛門。上田則種とともに敦賀郡奉行職を務めた。1506年、「九頭竜川の戦いの戦い」で朝倉教景に従って参陣して加賀一向一揆勢と戦った。

前波吉長【まえばよしなが(15??~15??)】

前波吉連の男。通称弥七郎。1515年、敦賀郡の奉行職を務めた。1544年、多気神宮の造営にあたって奉行職を務めた。

前波弥五郎【なえばよごろう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「論語」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

前波虎千代【まえばとらちよ(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「論語」、「六韜」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

真柄直隆【まがらなおたか(1536~1570)】

朝倉義景家臣。今立郡真柄館主。通称十郎左衛門。武勇に優れた人物。黒鹿毛の馬に跨り、越前の刀匠千代鶴の作による五尺三寸もの太刀「太郎太刀」を振り回して戦いでは常に暴れまくった。1570年、「姉川の戦い」では、撤退する朝倉義景勢の殿を務め、織田信長勢に包囲され討死した。

真柄隆基【まがらたかもと(15??~1570)】

真柄直隆の男。1570年、「姉川の戦い」では、織田信長勢と戦い奮闘するが、殿を務め父真柄直隆とともに討死した。

真柄直澄【まがらなおすみ(15??~1570)】

真柄直隆の弟。通称は十郎左衛門。兄真柄直隆同じく五尺三寸の巨大な太刀を振るう猛将。足利義昭に、九尺五寸の化け物刀を披露した。1570年、「姉川の戦い」では奮戦するも兄真柄直隆とともに討死した。

増井甚内【ますいじんない(15??~15??)】

富田長繁家臣。丹生郡新光寺城。1573年、「刀禰坂の戦い」で富田長繁に従い参陣するが、富田長繁とともに虎御前山で織田信長に降伏した。「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長から旧領を安堵された。1574年、「新光寺城の戦い」で一向一揆勢の攻撃を受け討死した。

松尾彦三郎【まつおひこさぶろう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。坂井郡河口庄関郷の政所御供米銭を負担した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
松尾五郎兵衛尉【まつおごろうひょうえのじょう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

松尾新介【まつおしんすけ(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

溝江景逸【みぞえかげやす(15??~1574)】

坂井郡溝江館主。朝倉義景家臣。官途は河内守。1555年、「加賀小松城の戦い」では、朝倉教景に従って参陣して一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。1573年、「一乗谷の戦い」では、織田信長勢に降伏した。1574年、「溝江館の戦い」では、加賀一向一揆勢の攻撃を受け討死した。

溝江長逸【みぞえながやす(15??~1574)】

溝江景逸の男。官途は大炊助。1567年、堀江景忠が謀反を起こすと溝江館を本陣とした。1573年、「一乗谷城の戦い」では、父溝江景逸とともに織田信長勢に降伏した。1574年、「溝江館の戦い」では、父溝江景逸、富樫泰俊らとともに加賀一向一揆勢と戦うが敗れて討死した。

溝江長氏【みぞえながうじ(15??~1600)】

溝江長逸の男。官途は大炊助。別名溝江長澄。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が討死すると、羽柴秀吉に仕え坂井郡溝江館3,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、名護屋城東二の丸を守備した。1598年、小早川秀秋の附家老職に任じられ10,000石を領した。

溝江長晴【みぞえながはる(15??~1646)】

溝江長氏の男。通称彦三郎。1600年、父溝江長氏の病没により溝江家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属し北国口を守備したが、丹羽長重勢の攻撃を受け降伏した。役後、井伊直孝に仕え500石を領した。

溝江彦次郎【みぞえひこじろう(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
溝江虎市【みぞえとらいち(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

溝江彦九郎【みぞえひこくろう(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

溝江左馬助【みずえさまのすけ(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

溝江紀伊守【みぞえきいのかみ(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

溝江三郎右衛門尉【みぞえさぶろうえおんもんのじょう(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
溝江景家【みぞえかげいえ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称大炊充。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
溝江景嘉【みぞえかげかな(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称藤三。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
溝江景満【みぞえかげみつ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。通称左近充。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

三段崎紀存【みたざきとしまさ(15??~15??)】

朝倉教景家臣。官途は勘解由左衛門。1547年、敦賀郡の奉行を務めた。1570年、「金ヶ崎城の戦い」では、織田信長勢に捕縛されたが若狭国で釈放された。

三段崎為之【みたざきためゆき(15??~1573)】

朝倉義景家臣。通称勘右衛門。弓の名手で猛将。1555年、「加賀小松城の戦い」では、朝倉教景に従って参陣して一番槍の戦功を挙げ、さらには敵陣三段目まで攻め込んだ。1573年、「刀禰坂の戦い」では、山内一豊の家臣大塩正貞に討ち取られた。

三段崎新右衛門【みたざきしんえもん(15??~15??)】

三段崎勘右衛門の男。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が討死すると、長尾景虎に仕えた。その後北条氏政、結城秀康らに仕え300石余りを領した。

三段崎六郎【みたざきろくろう(15??~1573)】

三段崎為之の弟。1573年、「刃禰坂の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。

三段崎虎松【みたざきとらまつ(15??~1573)】

朝倉高景の男。

三段崎景敬【みたざきかげたか(15??~1573)】

朝倉義景家臣。通称三郎右衛門尉。

三段崎景佳【みたざきかげよし(15??~15??)】

朝倉義景家臣。

三段崎三郎兵衛【みたざきさぶろうべえ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。

三段崎権頭【みたざきごんどう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1568年、足利義昭の警固役を務めた。

三富景盛【みとみかげもり(15??~1555)】

朝倉左近助の男。通称孫六。丹生郡三富村を領した。1555年、「加賀小松城の戦い」で加賀一向一揆勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
三富景茂【みとみかげしげ(15??~15??)】

三富景盛の男。通称孫六。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

三田村三助【みたむらさんすけ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が滅亡すると、織田信長に仕え本領の20石を安堵された。坂井早治から朱印銭の提出を催促された。

三輪三郎【みわさぶろう(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。1543年、清原宣賢から「論語」の講義を受けた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

向久家【むかいひさいえ(15??~15??)】

坂井郡向館主。官途は駿河守。別名向景乙。向館主として10,000石を領した。1568年、足利義昭が朝倉義景のもとに落延びると、朝倉屋敷で義昭に謁見した。1573年、「一乗谷城の戦い」では、織田信長勢に寝返った。1574年、一向一揆勢に属して織田信長勢と戦った。1575年、織田信長が越前一向一揆勢を攻撃すると、再び織田信長勢に寝返った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

向景友【むかいかげとも(15??~15??)】

向久家の男。

武曾左馬助【むそうさまのすけ(14??~15??)】

朝倉孝景家臣。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

武曾摂津守【むそうせっつのかみ(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。龍沢寺に田畑を寄進した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

武曾勝融【むそうかつゆう(14??~1564)】

朝倉義景家臣。坂井郡瓜生館主。官途は信濃守。2400貫を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

武曾刑部【むそうぎょうぶ(15??~15??)】

朝倉義景家臣。坂井郡矢地館主。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

武曾義連【むそうよしつら(15??~15??)】

朝倉孝景家臣。通称三郎。龍沢寺に田畑を寄進した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

村野景政【むらのかげまさ(15??~1575)】

朝倉景健家臣。足羽郡鑓噛館主。1573年、「一乗谷城の戦い」で朝倉義景が討死すると、朝倉景健とともに織田信長に降伏して旧領を安堵された。1574年、一向一揆勢の越前国内で蜂起すると、朝倉景健とともに一向一揆勢に属した。1575年、「鑓噛城の戦い」で織田信長勢の攻撃を受け朝倉景健とともに討死した。

村野景宗【むらのかげむね(15??~15??)】

村野景政の男。1573年、朝倉義景が討死すると父村野景政とともに織田信長に降伏した。1574年、越前一向一揆勢が国内で蜂起すると、父村野景政は一向一揆勢に属したが、村野景宗は織田信長に従った。

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【や】

山崎長吉【やまさきながよし(15??~1573)】

朝倉孝景家臣。官途は肥前守。通称小次郎。1506年、「九頭竜川の戦い」に参陣して加賀一向一揆勢と戦い戦功を挙げた。1573年、「刀禰坂の戦い」では、撤退する朝倉義景勢の殿を務めて討死した。

山崎吉家【やまさきよしいえ(14??~1573)】

山崎長吉の男。官途は長門守。通称新左衛門。1531年、「加賀今湊川の戦い」に参陣した。1555年、「加賀小松城の戦い」に朝倉教景に従って参陣した。1567年、「堀江景実の乱」では、加賀一向一揆と結んだ堀江景実勢との戦いで戦功を挙げた。1568年、足利義昭が朝倉義景を頼って落延びてくると朝倉義景とともにこれを迎えた。1570年、「金ヶ崎城の戦い」では、先陣を務め織田信長勢と戦った。「坂本城の戦い」では、森可成、青地茂綱、織田信治らを討取る戦功を挙げた。1573年、「刀禰坂の戦い」では、朝倉義景を落延びさせるため、殿を務め討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

山崎吉延【やまさきよしのぶ(15??~1573)】

山崎長吉の次男。通称七郎左衛門。1573年、「刀禰坂の戦い」では、兄山崎吉家とともに殿を務めたが、織田信長勢の追撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

山崎長徳【やまさきながのり(1552~1620)】

山崎吉延の男。官途は長門守。通称小七郎。1573年、朝倉義景が討死すると、織田信長に降伏した。明智光秀に従って700石を領した。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀に従って羽柴秀吉勢と戦ったが敗れて越前国で逼塞した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、柴田勝家の家臣佐久間安次に従って参陣したが羽柴秀吉勢に敗れた。1590年、「武蔵八王子城の戦い」では、前田利家に従って参陣して戦功を挙げた。1600年、「加賀大聖寺城の戦い」では、前田利長に従って山口正弘勢と戦い戦功を挙げた。「浅井畷の戦い」でも、丹羽長重勢と戦い戦功を挙げ役後14,000石を領した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

山内弥六左衛門尉【やまのうちやろくざえもんのじょう(15??~1573)】

朝倉義景家臣。足羽郡角原館主。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従って参陣したが討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

吉川吉登【よしかわよしとう(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。通称与四郎。1479年、清水寺再興奉加帳に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

吉川吉明【よしかわよしあき(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。通称主計尉。1479年、清水寺再興奉加帳に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

和田満重【わだしげみつ(15??~15??)】

朝倉貞景家臣。足羽郡和田館主。通称三郎左衛門尉。1479年、清水寺再興奉加帳に連署した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

和田三郎左衛門【わださぶろうざえもん(15??~1573)】

朝倉義景家臣。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従って参陣したが討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

和田吉次【わだよしつぐ(15??~1573)】

朝倉義景家臣。通称清左衛門。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従って参陣したが討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

鰐淵吉広【わにぶちよしひろ(15??~1573)】

朝倉義景家臣。官途は将監。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景に従って参陣したが討死した。参考文献:『戦国大名家臣団事典(西国編)』by新人物往来社。

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【資料Ⅰ】

越前国(8郡/652,000石)

敦賀郡:敦賀城、手筒山城、疋田城、敦賀湊、気比寺(20,000石)。
丹生郡:宮崎城、安居城、国見城、今泉街、織田神社(84,000石)。
今立郡:河和田城、真柄城、池田城、鯖江街、大虫寺(84,000石)。
足羽郡:一乗谷城、北ノ庄城、三峰城、清水寺、浅生街(90,000石)。
大野郡:大野城、土橋城、犬山城、羽生城、平泉寺(94,000石)。
坂井郡:丸岡城、堀江城、溝江城、藤島城、三国街(180,000石)。
吉田郡:村岡城、志比城、河合城、勝山城、永平寺(80,000石)。
南条郡:脇本城、杣山城、木芽城、今庄街、武生寺(38,000石)。

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【資料Ⅱ】

敦賀郡司家三家老衆【つるがぐんつかさけさんかろうしゅう】

三段崎紀存、真柄直隆、印牧能信。

敦賀両奉行衆【つるがりょうぶぎょうしゅう】

上田紀勝、三段崎紀存。

一乗谷四奉行衆【いちのたによんぶぎょうしゅう】

前波景定、朝倉景連、小泉長利、河合吉統。

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【資料Ⅲ】

越前国【えちぜんのくに】

若狭湾に東岸に面した北陸道の国。北は白山火山脈の山系から大日山、福井平野の北を結ぶ線で加賀国に接し、東から南にかけては両白山地と屏風山地が飛騨、美濃両国と境を形成する。南は伊吹山地の西で近江国、野坂山地の中央で若狭国と境を隔てる。国の東部は山地が続くが、西部には平地が広がる。特に九頭竜川、日野川、足羽川の三大河川は三国付近で合流して日本海に注ぎ、その流域に広がる平野部は豊富な水量により灌漑農業が行なわれ生産性も高い。越前国には敦賀、三国等の良湊も多く、日本海沿岸諸国、渤海国との交易も盛んである。

三国湊【みくにみなと】

越前国の平野部を貫流する大河川、九頭竜川の河岸に位置した湊街。越前国の海の玄関口として日本海沿岸部はもとより、海外との交易でも栄えた。三国湊は渤海などの海外使節が入港する国際交流の場であった。1574年、織田信長は北庄の薬種商、橘屋に、「三ヶ庄」と一乗、端郷、そして三国湊に「唐人之座」と「軽物(生糸、絹織物)座」を認めた。唐人座、軽物座はともに輸入品を扱う座であったとみられ、三国湊はこのような唐物の輸入を担う国際湊であった。

敦賀湊【つるが】

敦賀湾の奥に位置し、古代以来、日本海航路における京都への玄関口としての地位を占め、大いに繁栄した湊街。日本海沿岸部各地から廻送された多くの物資は敦賀で陸揚げされ、運送を請け負う問を仲介して、海津や塩津など琵琶湖北岸の港町へ運ばれ、さらにそこから水運で近江南部、京都へと運ばれた。川舟座や河野屋座といった船道座が形成され、敦賀郡司のもとで敦賀と敦賀湾周辺の商業、運送業を独占した。

吉崎【よしざき】

越前国の最北部、大聖寺川と北潟湖の河口部に位置する港町。加賀の安宅と越前の三国湊を結ぶ海路の中継港として、また陸路でも街道によって北陸道と結ばれる交通の要衝として栄えた。中世、港湾部の竹の浦や春日社を中心とする原集落などが形成され、白山信仰とも結びついて、都市的な発展を遂げていた。

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戦国人名辞典は、1467年の「応仁の乱」から1637年の「島原の乱」までの期間に活躍した武将をサイト管理人(takatoshi24)の独断と偏見に基づいて編集した国別の戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいますが、親子は年代順、本家と分家がある場合、分家をしたにして居住地域をを苗字の頭に入れています。資料Ⅰは国、郡別の石高、城郭、寺院、街、湊などを記載。資料Ⅱは国で有名な集団(三好三人衆など)についての説明をしています。資料Ⅲは国の詳細(各国の特性、景勝の地、特産品など)を説明しています。また、武将の名前が変わる場合(松平元康→徳川家康)など、松平元康で統一しています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

山名宗全は山名持豊、徳川家康は松平元康、木下藤吉郎は羽柴秀吉。朝倉宗滴は朝倉教景に名前を統一しました。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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