2011年12月3日土曜日

織田信長家臣団辞典(四天王編)

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【あ】

青山宗勝【あおやまむねかつ(1561~15??)】

丹羽長秀家臣。官途は修理亮。通称助兵衛。はじめ丹羽長秀に仕えた。1585年、丹羽長秀が病没すると、羽柴秀吉の家臣となり、黄母衣衆に列せられ、越前国で20,000石を領した。1587年「九州征伐」に参陣した。伏見城普請でも功績を挙げた。1598年、越前国丸岡城で46,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では西軍に属し、東軍に属した前田利長と戦ったが、そのために役後、改易された。

明智光継【あけちみつつぐ(1468~1538)】

可児郡長山明智城主。明智頼弘の男。官途は民部少輔。室は若狭守護武田信豊の娘。小勢力ながら素早い情勢判断、情報力、さらには政治力を繰り出し、外交感覚を頼りに生き延びた。長井規秀が台頭すると、すかさずこれに属し、まだ幼い娘であった小見の方を人質に差し出した。この姫はのちに長井規秀の室となって、織田信長の室である濃姫を産んだ。長井規秀から「東美濃の梟雄」と称された。

明智光綱【あけちみつつな(1497~1535)】

明智光継の男。室は進士信連の娘。はじめ、父明智光継とともに長井規秀に仕えた。のち長井規秀による「明智城の戦い」で討死した。明智光綱が討死したときは明智光秀はまだ若年で、その成人まで明智光安が明智城主として後見した。

明智光秀【あけちみつひで(1528~1582)】

明智光綱の男。官途は日向守。通称十兵衛。室は山岸光信の娘(千草)、継室は妻木範煕の娘(煕子)。

明智光安【あけちみつやす(1500~1556)】

美濃国明智城主。明智光継の三男。室は斎藤利胤の娘。官途は兵庫頭。明智家の家督は父明智光継が隠居し、長兄明智光綱が相続した。1535年、明智光綱が病没すると、明智光秀がまだ幼かったため、明智光継に明智光秀の後見を命じられ、後に明智光秀が元服した後も明智家の家政を担った。1547年、将軍足利義晴に謁見し、また従五位下兵庫頭となった。た長井規秀が美濃を奪取すると長井規秀に接近し、妹(小見の方)をその継室とした。1556年、長井規秀は子の斎藤義龍と対立を深め。1556年、斎藤義龍とそれに加担する稲葉良通ら諸将に敗れて討死した。明智光安は長井規秀の外戚という立場であったために斎藤義龍と対立し、弟の明智光久や三宅藤兵衛、藤田藤次郎、溝尾庄左衛門、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由、妻木城主の妻木広忠ら諸将とともに明智城籠城する。しかし斎藤義龍方の揖斐光就、長井道利らに攻められ、く明智光久とともに自刃した。

明智光忠【あけちみつただ(1540~1582)】

明智光秀家臣。明智光安の男。丹波国八上城主。通称次右衛門。室は明智光秀の娘。明智家五宿老のひとり。1575年、丹波国過部城攻めの戦功で、織田信長より感状を下された。1582年「本能寺の変」では、織田信長の嫡男織田信忠らが籠城二条城を攻撃した。その際に鉄砲で撃たれ重傷を負い知恩院で療養していたが「山崎の戦い」で、明智光秀が羽柴秀吉に敗れ討死すると自刃した。

明智光近【あけちけみつちけ(15??~1582)】

明智光忠の男。通称十郎左衛門。1582年「山崎の戦い」に参陣して片桐且元に討たれた。

明智光慶【あけちみつよし(1569~1582)】

明智光秀の男。1582年「本能寺の変」では、亀山城に在城していた。坂本城に移り西国防備にあたった。「山崎の戦い」で父明智光秀が敗走中討たれると、中川清秀、高山右近らの攻撃を受け坂本城は落城、討死した。

明智秀満【あけちひでみつ(1536~1582)】

明智光秀家臣。三宅藤兵衛(綱朝)の男。官途は左馬助。別名三宅弥平次。室は明智光秀の次女(倫子)。明智五宿老のひとり。1578年、明智秀満は明智光秀の次女室に迎える。明智光秀の次女は荒木村重の嫡男荒木村次に嫁いでいたが、荒木村重が織田信長に謀反を起こしたため離縁されていた。その後、明智秀満は明智姓を称した。1581年、丹波国福知山城代となる。1582年、明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き、羽柴秀吉との「山崎の戦い」では明智光秀の後詰めとして打ち出浜で堀秀政と戦うが敗れ、坂本城に入った。堀秀政勢に城を囲まれた秀満は、財宝を包囲軍に渡した後、明智光秀の妻子を刺し殺し、城に火を放って自刃した。

明智巳蔵【あけちみくら(15??~1582)】

明智光秀家臣。1582年「山崎の戦い」に参陣して討死した。

浅見忠実【あさみただざね(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。官途は宮内少輔。もとは浅井長政家臣、浅井家滅亡後丹羽長秀に仕えた。丹羽長秀の妹婿。

池田輝家【いけだてるいえ(15??~1582)】

可児郡池田城主。明智光秀家臣。官途は織部正。美濃時代からの家臣。1556年「明智城の戦い」で籠城した。「本能寺の変」のさいには伏見の警護を務める。「山崎のの戦い」後、坂本城で討死した。

石森九郎左衛門【いのもりくろうざえもん(15??~15??)】

明智光秀家臣。織田家臣従後、織田信長より美濃可児郡の旧長山領を与えられた明智光秀に代官として長山城に在城した。

一ノ瀬新左衛門【いちのせしんざえもん(15??~15??)】

柴田勝家家臣。足軽大将。1575年「越前侵攻」に参陣した。

井上久八郎【いのうえひさはちろう(15??~15??)】

柴田勝家家臣。侍大将。通称清八。1575年「越前侵攻」に参陣した。

上田重安【うえだしげやす(1563~1650)】

丹羽長秀家臣。官途は主水助。通称は佐太郎。別名上田宗箇。茶道の上田宗箇流の流祖。茶人、造園家として現在も残る業績を残した。上田重元の男。1573年、父上田重元が亡くなり、祖父上田重氏に養育された。元服後は丹羽長秀の家臣として各地を転戦した。1582年「本能寺の変」後の一連の騒乱では明智光秀への関与を疑われた津田信澄を討取った。1583年「賤ヶ岳の戦い」の後、越前国で10,000石を領した。羽柴秀吉により丹羽長重が減封された後は羽柴秀吉の直臣となった。1587年「九州の役」「小田原の役」「文禄の役」参陣し、戦功を重ねる傍ら古田重然に茶道を学ぶ。
1600年「関ヶ原の役」では西軍に属して敗戦し、領地を没収されて摂津国に隠居して剃髪した。その後蜂須賀家政に請われ、その客将となり、徳島に住んだ。この間に蜂須賀家政の依頼で徳島城表御殿庭園を作庭した。その後、姻戚の浅野幸長に仕え10,000石を領した。浅野家に仕えている間に和歌山城西の丸庭園、粉河寺庭園を作庭している。1615年「大坂夏の役」では松平方として出陣し、敵方の塙直之を討取る戦功を挙げた。1619年、浅野家が和歌山城から広島城に転封されると上田重安は佐伯郡で12,000石を領した。その後は、茶道と造園を趣味として生活を送り、浅野家の別邸縮景園、請われて名古屋城二の丸庭園の作庭を担当した。数々の戦功により西軍に就いた罪を許された上田重安は松平家より出仕を促されたが、自身の出仕は断り、代わりに嫡男上田重秀を松平家に仕えさせた。

江口正吉【えぐちまさよし(15??~1603)】

丹羽長秀家臣。別名江口三郎右衛門。1582年「清須会議」後の四宿老の合議体制の下に、丹羽長秀の京都奉行となった。1583年「賤ヶ岳の戦い」で、丹羽長秀に従って舟で出陣した。戦後、丹羽長秀が越前国に転封されると7,600石を領した。丹羽長秀死後はその子丹羽長重に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では、丹羽長重に従い西軍。東軍の前田利家を「加賀浅井の戦い」で打破った。役後、丹羽家没落に伴って結城秀康に仕え10,000石を領した。

大鐘貞綱【おおがねさだつな(15??~15??)】

柴田勝豊家臣。通称藤八郎。越前国の豪族衆。丸岡城城代。1583年「賤ヶ岳合戦」に羽柴方。1597年、遠江国に隠居した。

大屋兵衛門【おおやひょうえもん(15??~1583)】

柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳の戦い」後の北ノ庄城の守備に付いたが落城討死した。

奥田景綱【おくだかげつな(15??~15??)】

明智光秀家臣。官途は宮内少輔。1556年「明智城の戦い」で籠城した。「山崎の戦い」に参陣して討死した。

奥山重定【おくやましげさだ(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。佐久間盛重の男。官途は佐渡守。別名奥山盛昭。佐久間氏の一族だが、先祖のゆかりの地である越後国奥山荘の地名を取って奥山姓を称した。1585年、丹羽長重の国替えの際に羽柴秀吉の直臣になり越前国で11,000石を領した。その後、羽柴秀吉に従って「九州征伐」や「小田原の役」に参陣した。「小田原の役」の後、後北条家に仕えていた同族の佐久間安政、佐久間勝之兄弟が野に潜伏していたが、奥山盛昭は羽柴秀吉の命によって兄弟を仕官させる説得にあたった。これは奥山盛昭の姉が兄弟の長兄佐久間盛政の室であり、また父佐久間盛重が兄弟の父盛次の従兄であった縁による。1592年「文禄の役」の参陣後に病没した。

織田順元【おだのぶもと(15??~15??)】

織田順俊の男。官途は対馬守。通称金左衛門。別名津田順元。若年より織田信長に仕え、のちに柴田勝家に仕えた。1583年、斯波t勝家死後、溝口秀勝に仕えた。

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【か】

加藤景利【かとうかげとし(15??~15??)】

柴田勝家家臣。通称次左衛門。1570年、柴田勝家の奉行として諸政にあたる。

蒲生郷成【がもうさとなり(15??~1614)】

柴田勝家家臣。坂勝則の男。通称源左衛門。初め坂源次郎と名乗り、父坂勝則とともに関成政、次いで柴田勝家に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家が滅ぶと、蒲生氏郷に仕えた。「九州征伐」での「岩石城の戦い」で戦功を挙げ、羽柴秀吉にも称賛されたため、のちに蒲生姓を許され、蒲生郷成と名乗った。1590年、蒲生家の会津に転封に従って白石城代を務め、次いで二本松城主となり、40,000石を領した。朝鮮出兵中の蒲生騒動では蒲生郷可と蒲生郷安との間を仲裁した。1598年、蒲生秀行が下野国宇都宮城へ転封されると、常陸国笠間城30,000石を領した。その後、同僚の岡重政と対立したことにより、蒲生家を出奔し、嫡男蒲生郷舎とともに藤堂高虎に仕えた。

蒲生郷可【がもうさとよし(15??~1598)】

柴田勝家家臣。はじめ近江国の土豪上坂兵庫助の養子となって上坂左文と名乗り浅井長政に仕えた。浅井家の滅亡後、柴田勝家に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家が自刃すると、蒲生氏郷に武勇を買われて蒲生家に仕えた。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」の「岩石城の戦い」で先鋒を務め戦功を立てたため、のちに蒲生姓を許され、蒲生郷可と名乗った。1590年、蒲生家が会津に移封されると、中山城主となり13,000石を領した。「蒲生騒動」で仕置奉行(家老)筆頭であった蒲生郷安と対立して、後に蒲生郷安を追放した。蒲生秀行の代に蒲生家が下野宇都宮へ転封されると、河原城主となり6,000石を領した。

亀田高綱【かめだたかつな(1558~1633)】

柴田勝豊家臣。溝口半左衛門の男。官途は大隅守。通称半之丞。はじめ柴田勝豊に仕えた。のち柴田家を追われ,姓を亀田と改め、浅野長政に仕えた。「小田原の役」「文禄、慶長の役」「関ケ原の役」に参陣して戦功を挙げた。1601年、浅野家の紀州に転封では7,000石を領した。1615年「大坂夏の陣」に戦功を挙げる。1624年、論功のことで上田重安と争い浅野家を去った。武功に誇る戦国武将の一徹さに由来するとされる。和泉堺、のち高野山下に隠棲した。著書に『亀田大隅一代働覚』『泉州樫井表合戦次第覚書』がある。

可児吉長【かによしなが(1554~1613)】

福島正則家臣。通称可児才蔵。宝蔵院流槍術の開祖、覚禅房胤栄に槍術を学んだ。討取った首に笹を噛ませ目印にしたことから「笹の才蔵」と呼ばれた。はじめは斎藤龍興に仕えたが斎藤家が滅亡したため、柴田勝家、明智光秀、前田利家、森可成らに仕えた。1583年、織田信孝に仕えるも織田信孝が羽柴秀吉の攻撃を受けて自刃したため羽柴秀次に仕えた。「小牧、長久手の戦い」で羽柴秀次が松平元康に大敗を喫すると、羽柴秀次と対立して浪人になった。その後は佐々成政に仕えたが長続きしなかった。その後、伊予国110,000石の領主となった福島正則に仕え750石の知行を与えられた。1590年「小田原の役」では北条氏規が守備する韮山城攻撃に参加し、このとき先頭に自ら立って攻撃した。1600年「関ヶ原の役」では福島勢の先鋒隊長として参加し、この戦いでも敵兵の首を十七も取り松平元康からも大いに賞賛された。この武功により1,250石を領した。福島正則が関ヶ原の功績により安芸国広島藩に加増移封されると、それに従って広島に赴いた。

神戸伯耆守【かんべほうきのかみ(15??~1569)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

木下一元【きのしたかつもと(15??~15??)】

柴田勝豊家臣。官途は美作守。通称半右衛門。柴田勝家の養子柴田勝豊に仕えた。1583年、柴田勝豊が病死後は、羽柴秀吉に仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」に参陣し、武功を挙げた。その後、羽柴秀次に属した。1592年「文禄の役」は、羽柴秀次ともに在京した。1600年「関ヶ原の役」では、西軍に属し大坂城留守居守備隊として大坂城周辺を守備した。この為役後に改易された。

河野三吉【こうのさんきち(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

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【さ】

斎藤五八【さいとうごはち(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

斎藤利三【さいとうとしみつ(1534~1582)】

明智光秀家臣。官途は内蔵助。室は長井規秀の娘。継室は稲葉一鉄の娘(安姫)。明智家五宿老のひとり。妹は土佐の長宗我部元親の室。春日局の父。はじめ松山新介に仕え、次いで斎藤義龍に仕え、後に、西美濃三人衆の一人稲葉良通が織田信長へ寝返ると、稲葉良通家臣となり、美濃国曽根城主となった。稲葉良通のもとから出奔して、明智光秀秀に仕えるようになった。明智光秀には、明智秀満と並ぶ明智家筆頭家老として用いられた。丹波国氷上郡代として黒井城10,000石を領した。1582年「本能寺の変」では斎藤利三、藤田行政、溝尾茂朝、明智秀満などの重臣に計画を諮ったが、明智秀満は賛成したが斎藤利三はその無謀さから反対した。しかし明智光秀の本意を覆すことができず「本能寺の変」に参陣した。中国から引き返してきた羽柴秀吉との「山崎の戦い」では先鋒として活躍するが、敗れて逃走した。羽柴秀吉の執拗な捜索により近江国堅田で捕縛され、六条河原で斬首となった。

斎藤利光【さいとうとしみつ(1567~1647)】

斎藤利三の男。別名明智平三郎。1582年「本能寺の変」では父斎藤利三とともに本能寺攻撃軍に加わった。「山崎の戦い」では織田信孝の家臣野々懸彦之進を討取った。乱戦の最中父とはぐれ敗戦後、落延びた。,剃髪して立本と称した。1592年「文禄の役」には加藤清正に従い朝鮮に渡った。妹春日局の縁で松平家光につかえた。

斎藤三存【さいとうみつなか(1580~1625)】

斎藤利三の三男。通称与三兵衛。義兄稲葉正成との縁で小早川秀秋に仕えた。1600年「関ヶ原の役」後、小早川家を離れる。1615年、松平秀忠に召し出されて2,0000石を領した。

佐久間十蔵【さくまじゅうぞう(1568~1583)】

柴田勝家家臣。前田利家の娘(摩阿姫)と婚約した。1583年「賤ヶ岳の戦い」に敗戦後の北ノ庄城の守備につくも落城討死した。

佐治益氏【さじますうじ(1527~1636)】

滝川一益家臣。通称新助。滝川一益の家老格として数々の戦功を挙げた。1582年、先鋒として越後国人衆を三国峰に撃退した。「本能寺の変」で織田信長が横死すると、織田家中は羽柴秀吉派と反秀吉派に分かれて反目した。反秀吉派の柴田勝家は羽柴秀吉に「賤ヶ岳の戦い」で敗れ越前北之庄城にて自刃。滝川一益も伊勢長島で反旗を揚げ、佐治新助が任された亀山城は籠城半年にして落城したが、その奮闘を賞されて助命された。

柴田勝義【しばたかつよし(15??~15??)】

愛知郡上社城主。官途は土佐守。尾張国守護斯波家の庶流。

柴田勝家【しばたかついえ(1522~1583)】

柴田義勝の男。官途は修理亮。通称権六。室は織田信秀の娘(於市)。若年の頃から織田信秀に仕えた。1551年、織田信秀が病没すると、次男織田信行に家老として仕えた。1552年、尾張国下四郡を支配する守護代で清洲城主織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老坂井甚介を討取った。1553年、清洲城攻めで大将格で参陣し「萱津の戦い」で30騎を討ち取る武功を挙げた。1557年、織田信勝が謀反の計画を企んだときには織田信長に事前に密告したとされており、織田信勝は自刃した。織田信勝の死後、罪を許され、織田信長の家臣となった。以後は織田信長の忠実な家臣として「上洛作戦」「畿内平定戦」などでは織田軍の先鋒として多くの戦功を挙げた。六角承禎との戦で、長光寺城に篭城したとき、糧米、飲料水が尽きてくると、甕を割って残りの水をことごとく流し捨てたため、返って味方が決死の覚悟となって敵を破った。1572年、越前の朝倉義景攻めは、信長軍総動員となり朝倉氏を滅ぼした。北近江の浅井長政攻めなどにも参加したが、羽柴秀吉が先鋒を務めた。1575年、織田信長が越前を平定したのち、北ノ庄城にあって越前国を治める。織田信長麾下の佐々成政、不破光治、佐久間盛政、前田利家らを率いて、加賀一向一揆も平定。能登、越中に進出し、長尾景勝と対峙した。1582年「本能寺の変」では長尾家方の越中国の魚津城、松倉城を攻囲中のため動けず、羽柴秀吉の明智光秀討伐に遅れを取った。織田信長の後継者に三男神戸信孝を擁立しようとしたが「清洲会議」において羽柴秀吉に主導権を握られ、織田信長の第一の宿老として、織田信長の妹於市の方(浅井長政未亡人)を娶り、羽柴秀吉との対立姿勢を深めた。柴田勝家は、越前、加賀、能登、越中に加え北近江地方の約1,800,000石を領し、美濃の織田信孝、伊勢の滝川一益らと反羽柴秀吉派を形成。1583年、神戸信孝、滝川一益らと羽柴秀吉を討つべく越前に兵を挙げたが、岐阜から急遽引き返した羽柴秀吉と「賤ヶ岳の戦い」において決戦し、大敗。北ノ庄城に逃れたが、羽柴秀吉勢に追撃され、於市の方とともに自刃した。辞世の句は「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」。

柴田勝豊【しばたかつとよ(1556~1583)】

柴田勝家の姉婿吉田次兵衛の男。柴田勝家の養子。官途は伊賀守。室は稲葉貞通の娘。生母は柴田勝家の姉であり、柴田勝家の甥にあたることから養子となった。1576年、北ノ庄城の支城丸岡城を築き、その城主となって45,000石を領した。「加賀平定戦」に佐久間盛政、佐々成政との先鋒争いに敗れ遺恨を残す。1581年、織田信長の京都馬揃えでは柴田勝家とともに上洛し参加した。1582年、織田信長没後の「清洲会議」で柴田勝家の所領となった近江長浜城の守備を任された。しかし、柴田勝家が同じ養子の柴田勝政を優遇して自分を冷遇することと、従兄にあたる佐久間盛政と仲が悪いことなどもあって、に羽柴秀吉家臣大谷吉継の調略を受けて、長浜城ごと羽柴方に寝返った。1583年「賤ヶ岳の戦い」では家臣を代理として参陣させた。「賤ヶ岳の戦い」の直前、京都東福寺にて病没した。

柴田勝久【しばたかつひさ(1568~1583)】

柴田勝家枝連衆。柴田勝家の妹の子。通称権六。1583年「賤ヶ岳の戦い」で敵地に深入りした佐久間盛政をさとすために柴田勝家に派遣された。羽柴秀吉勢の反撃にあって捕らえられ斬首にされた。

柴田勝政【しばたかつまさ(1557~1583)】

佐久間盛次の三男。通称は三左衛門。別名佐久間勝政。室は日根野高吉の妹。母は柴田勝家の妹。兄佐久間盛政と共に織田信長に仕え、柴田勝家の北陸平定軍に属した。1580年「加賀一向一揆平定」で先陣を努め戦功を挙げた。柴田勝家に気に入られてその養子となった。同じく柴田勝家の養子であった柴田勝豊とは仲が悪く、常に対立していた。柴田勝家も柴田勝政を重用して柴田勝豊を軽視するようになった。1583年「賤ヶ岳の戦い」での柴田勝豊の裏切りにつながった。「賤ヶ岳の戦い」で撤退中、羽柴勢の追撃を受け、脇坂安治に討たれた。

柴田勝政家臣団【しばたかつまさかしんだん】

山本猪右衛門。

柴田勝重【しばたかつしげ(1579~1632)】

通称三左衛門。柴田勝政の男。室は織田長政の娘、佐久間勝之の娘、日根野吉時の娘。1583年、北ノ庄城落城の折、祖父柴田勝家により愛用の兜を与えられ、郎党とともに母方の祖父である上野国の日根野高吉のもとに落延びた。1599年、松平元康に仕え上野国で2,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」で初陣を飾る。1614年「大坂の役」の戦功により500石の加増を受けた。

柴田勝之【しばたかつゆき(1568~1634)】

佐久間盛次の四男。官途は大膳亮。通称は源六郎。別名佐久間勝之。室は佐々成政の娘。継室は庄野式部の娘。1582年「武田討伐」の「高遠城の戦い」で初陣し戦功を挙げた。柴田勝家の養子となったが、後に佐々成政の娘を室に迎え養子となった。1584年「末森城の戦い」などに活躍するが、佐々成政が羽柴秀吉に降伏すると、室を離縁し、兄佐久間安政と共に関東の後北条家に仕えた。後北条家の滅亡後、兄とともに蒲生氏郷に仕えた。蒲生氏郷が病没すると羽柴秀吉に仕え近江国山路城3,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では東軍に属した。役後常陸国北条城10,000石を領した。1615年「大坂夏の陣」では羽柴方の将竹田永翁を討取る戦功を挙げた。

柴田勝敏【しばたかつとし(1568~1583)】

柴田勝家枝連衆。柴田勝家の養子。通称権六郎。1575年「越前侵攻」に参陣した。1577年、菅屋長頼から織田剣神社の宛がいを指示される。1583年「賤ヶ岳の戦い」に敗れて柴田勝家が北ノ庄城で自刃した後、柴田勝敏は家臣の手引きで落延びたが、羽柴秀吉の執拗な探索によって捕縛され、近江佐和山で斬首された。。

柴田義宣【しばたよしのぶ(15??~1577)】

柴田勝成の次男。官途は土佐守。官途は監物。柴田勝家の北ノ庄城入りで北袋城を与えられた。一向一揆の残党七山家の勝山城を攻めたが、一揆勢の反撃にあい討死した。

柴田勝安【しばたかつやす(15??~1583)】

柴田義宣の養子。佐久間盛政の弟。柴田義宣戦死の翌年、谷城を攻略した。織田信長が「本能寺の変」で倒れると、柴田勝家と羽柴秀吉とが後継を争い「賤ヶ岳の戦い」に柴田勝安も参陣し、羽柴勢の七本槍と激戦となり奮戦するも、混乱の中で討死した。

柴田勝全【しばたかつまた(15??~15??)】

柴田勝家枝連衆。通称次左衛門尉。1575年「越前侵攻」に参陣した。のちに堀秀政に仕えた。

柴田勝定【しばたかつさだ(15??~15??)】

柴田勝家枝連衆。官途は佐渡守。通称源左衛門尉。1575年「越前侵攻」に従軍。越前領内の寺社奉行。1578年、北ノ庄城城代、丸岡城救援。

柴田弥右衛門【しばたよざえもん(15??~1583)】

柴田勝家枝連衆。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の留守居役。

進士貞連【しんしさだつら(15??~15??)】

明智光秀家臣。通称作左衛門。1582年「山崎の戦い」後は明智光秀と共に勝竜寺城を出る。先行して落ち武者狩を警戒していたが後方で明智光秀が自刃すると落延びた。後細川家に仕え細川忠隆付きになる。1600年「関ヶ原の役」後の細川忠隆廃嫡時にも忠隆に従い加賀まで行くが、後前田家預かりの身となった。

杉江彦四郎【すぎえほこしろう(15??~15??)】

柴田勝家家臣。侍大将。1575年「越前侵攻」に参陣した。

鈴村主馬【すずむらしゅめい(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

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【た】

建部寿徳【たけべ じゅとく(1537~1607)】

建部秀清の次男。丹羽長秀家臣。官途は内匠頭。通称与八郎。室は山村甚右衛門の娘。継室は有馬則氏の娘。近江国神崎郡建部の豪族衆。六角家臣であった建部秀清の次男。若年の頃から僧形となり寿徳を称した。父建部秀清は六角家と織田信長の戦で討死に、兄建部秀直は六角義治に仕えていたが駒井某に謀殺された。織田家仕官後の建部寿徳は戦に出ることはほぼ無く、吏僚として織田信長に仕えた。のちに、丹羽長秀の配下に転じ若狭国の小浜郡代として小浜城に入った。北陸の陸路、海路の物資集散の中継地点の代官職をこなした建部寿徳はやがて羽柴秀吉にその才を認められ「本能寺の変」の後頃から羽柴秀吉配下に転じた。羽柴秀吉は物資の荷扱いや兵糧、弾薬などの管理に長ける、建部寿徳を羽柴秀吉の蔵入地となっていた摂津国尼崎30,000石の代官に任命し、大坂の西の備えとして尼崎城と尼崎湊の管理を行なった。1587年「九州討伐」では小西隆佐らと共に羽柴勢の補給の任にあたり、西征の中継基地である尼崎には一時的に人員が集まり兵糧、馬糧、軍船、武器、弾薬など莫大な物資が集められたが建部寿徳は混乱無くそれらを管理m運搬して補給の任を無事果たした。1600年「関ヶ原の役」には嫡男建部光重が西軍として参陣したが、役後池田輝政の取り成しで改易を免れ所領、尼崎郡代職ともども安堵されている。

建部光重【たけべみつしげ(1578~1610)】

建部寿徳の男。官途は内匠頭。通称弥作。室は下間頼龍の娘(池田輝政養女)。父建部寿徳の摂津尼崎郡代を継ぎ、羽柴秀吉、羽柴秀頼父子に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では西軍に属し、長宗我部盛親、毛利秀元らと富田信高の守る伊勢安濃津城攻めに加わり、所領を一時没収されたが、義父池田輝政の取り成しで赦された。1604年、羽柴秀頼の命により奉行として吉野水分神社を完成させた。

滝川一益【たきがわかずます(1525~1568)】

織田信長家臣。滝川資清の男。官途は左近将監。近江国用賀郡の出身で、浪人中を尾張の織田信長に登用され「先駆けは一益、殿(しんがり)も一益」とうたわれるほどの勇将であった。織田家においては伊勢方面の攻略を担当、豪族衆の懐柔や小規模な合戦で戦功を挙げた。1569年、尾張国蟹江城主となる。織田信雄とともに「北畠家討伐」「伊勢長島の一向一揆を討伐」「伊賀討伐」に戦功を挙げ、北伊勢五郡を支配した。1582年「武田討伐」では先鋒として参陣した。武田勝頼を「天目山の戦い」で討取る戦功で、上野国と及び小県郡と佐久郡の信濃の二郡を与えられ、厩橋城に移り関東管領を称した。1582年「本能寺の変」の際には、滝川一益は関東諸将の人質を変換の上で事実を打ち明け、ともに力をあわせて反勢力である後北条家と戦った。しかし、関東管領となってから、まだ3ヶ月も経っておらず、その上織田信長の死による部下の動揺も去り難く「神流川の戦い」で北条氏直に敗北。伊勢長島城に帰城した時は「清洲会議」は終了していた。1583年、柴田勝家、織田信孝らと組み、羽柴秀吉と戦ったが、滝川一益自身は長島城に籠城し孤軍奮闘したものの、北陸戦線の柴田勝家が敗北したため降伏すした。1584年「小牧、長久手の戦い」で羽柴秀吉につき、伊勢と尾張に兵を挙げ、松平元康勢と戦った。しかし蟹江城を包囲され、降伏した。

滝川一忠【たきがわかずただ(1553~1615)】

滝川一益の男。1582年「本能寺の変」後、父滝川一益や弟滝川一時と共に柴田勝家と組んで羽柴秀吉と敵対するが「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家が敗死すると羽柴秀吉に降伏する。1584年「小牧、長久手の戦い」にも父滝川一益に従い参戦したが「蟹江城の戦い」で松平元康、織田信雄の連合軍に敗れ、羽柴秀吉に責任を取らされて追放処分となった。 

滝川一時【たきがわかずとき(1568~1603)】

滝川一益の次男。通称八郎。1582年「本能寺の変」の後、関東から帰城した父滝川一益を迎え、羽柴秀吉と対立。1583年、柴田勝家が「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に攻め滅ぼされた為に、父滝川一益と共に羽柴秀吉に降伏した。所領を没収された。1584年「小牧、長久手の戦い」で羽柴秀吉側として参陣した。「蟹江城の戦い」で松平元康、織田信雄連合軍に敗れたが、羽柴秀吉から12,000石を与えられた。兄滝川一忠は敗戦の責任を取らされて追放された。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康本隊の一員として戦った。1603年、滝川一時が病没すると、滝川家の家督は嫡男滝川一乗が継いだが、幼少の為に甥滝川一積が名代を務めた。また、羽柴秀吉から与えられた12,000石は没収された。

滝川一積【たきがわかずあつ(1583~1660)】

滝川一忠の男。通称三九郎。室は真田昌幸の五女(於菊)。父滝川一忠は羽柴秀吉により追放されて浪人となった。1600年「関ヶ原の役」では、真田昌幸から五女の於菊を託された。その後、織田長益の推挙によって中村一忠に仕えたが「横田騒動」で再び浪人した。叔父滝川一時が若くして没し、子の滝川一乗がまだ幼少ということもあって、滝川一乗が元服するまでの名代に任じられて松平元康に仕えた。その後「大坂の役」では松平方使番として参陣し戦功を挙げた。1616年、滝川一乗が元服後になっても所領を譲ろうとしなかったため滝川一乗に訴えられ、その結果滝川一乗に750石を分与し、滝川一積は1,000石の馬廻衆となった。また於菊を室にしていた縁から、討死にした真田信繁の娘を養女に迎え、伊予松山藩家老蒲生郷喜に嫁がせるなどたびたび真田家のために働いた。1632年、真田信繁の娘を養女として他家に嫁がせたことなどを罪状にされ、幕府使番の職を解かれて除封された。

滝川益重【たきがわますしげ(1523~1592)】

滝川一益家臣。別名滝川儀太夫。滝川一益に従い「伊勢討伐」「武田征伐」などで戦功を挙げた。滝川一益が信濃国二郡と上野国一国を与えられ、厩橋城に入城すると、滝川益重は城代として真田昌幸が明け渡した沼田城に入城した。1582年「本能寺の変」により上野国を失い伊勢国に戻った滝川一益が「賤ヶ岳の戦い」において関盛信の留守に乗じ亀山城を奪い、峯城にいた羽柴秀吉派の岡本宗憲を駆逐すると、亀山城に佐治新介、峯城に益重が入れられ、両城は羽柴勢の猛攻を受ける事となる。峯城は兵糧攻めにより落城するが、滝川益重はその奮戦振りを羽柴秀吉に称えられ、戦後は羽柴秀吉に仕えた。「小牧、長久手の戦い」や「九州征伐」などに参陣した。

滝川益氏【たきがわますうじ(1527~1635)】

滝川一益家臣。1582年滝川一益に従って「武田征伐」や「本能寺の変」の後に起こった後北条家との「神流川の戦い」に参陣した。「本能寺の変」により上野国を失い伊勢国に戻った滝川一益が「賤ヶ岳の戦い」において関盛信の留守に乗じ亀山城を奪い、峯城にいた羽柴秀吉派の岡本宗憲を駆逐すると、亀山城に佐治新介益氏、峯城に滝川益重が入れられ、両城は羽柴勢の猛攻を受ける事となる。亀山城は包囲され攻撃を受け、よく防戦したが落城の危機をむかえた。滝川一益が使者を亀山城に派遣し開城を薦めた為、滝川益氏は開城し長島城に入った。

滝川忠征【たきがわただゆき(1559~1635)】

滝川一益家臣。木全忠澄の男。通称彦五郎。官途は出雲守。室は南部兼綱の娘。滝川一益に仕えて滝川姓を許される。名古屋城築城の奉行のひとりに名を連ねている。1616年、松平義直に属して6,000石を領した。

多治見国清【たじみくにきよ(15??~1582)】

土岐郡多治見城主。明智光秀家臣。官途は修理。美濃時代からの家臣。1582年「山崎の戦い」で討死した。

近松豊前守【ちかまつぶぜんのかみ(15??~1569)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

妻木範熈【つまきひろただ(1514~1582)】

美濃国土岐郡妻木城主。明智光秀家臣。室は水野信元の姪。明智光秀の室である妻木煕子の父。尾張国の戦国大名織田信長に仕えて、明智光秀の寄騎衆となり戦功を挙げた。1582年「本能寺の変」の後「山崎の戦い」で明智光秀が敗れ、近江国坂本城が陥落すると、西教寺で関係者一族の墓を作った後に、墓の前で自刃した。

妻木範賢【つまきひろかた(15??~15??)】

妻木範熈の男。官途は主計頭。1582年「本能寺の変」後は明智秀満の「近江討伐」に従った。長浜城に入城した妻木範賢は、荒木行重、荒木重仲、三宅業朝、今峰泰正と言った明智諸将の他に佐和山城に居る若狭の武田元明、近江の京極高次ら誘降に成功した旧守護勢力の裔、居城山本山城に戻っていた阿閉貞征、阿閉貞大父子や多賀一族などの誘降した近江国衆に招集をかけた。諸将はとりあえず留守中の仕置をして安土城に向かう事になった。

妻木範武【つまきひろたけ(15??~15??)】

妻木範熈の次男。通称忠左衛門。1582年「山崎の戦い」に参陣して討死した。

妻木範之【つまきひろゆき(15??~15??)】

妻木範熈の三男。通称七右衛門。1582年「本能寺の変」に際しては亀山留守居を務める。

妻木貞徳【つまきさだのり(1544~1618)】

妻木範熈の四男。通称源二郎。室は延友信光の娘。斎藤家臣だったが織田信長による美濃侵行にあたって織田家臣に転じた。織田信長の馬廻衆を務めた。1582年「本能寺の変」のさい、明智勢に同調する姿勢は見せなかったが「山崎の戦い」で父妻木範熈が自刃すると、妻木範熈が謀反人に与した責任を取ってか隠居し嫡男妻木頼忠に家督を譲り隠居した。1600年「関ヶ原の役」を前にして妻木頼忠が松平元康を支持した事で、羽柴方の美濃諸勢力との小競り合いを広げた。妻木頼忠と共に出馬して、妻木領から人質を取ろうとしていた田丸直昌家臣田丸具安の軍勢を奇襲し、人質を奪い返すと共に田丸軍の大将2人の首を取る勝利を収めた。役後、妻木頼忠は土岐郡内に7,500石を領した。

寺沢弥九郎【てらさわよくろう(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

寺西正勝【てらにしまさかつ(15??~1600)】

丹羽長秀家臣。官途は筑後守。通称次郎介。はじめは丹羽長秀に仕えた。丹羽長秀が病没すると、羽柴秀吉の直臣となった。「九州討伐」「文禄の役」に参陣した。名護屋城の本丸、山里丸の一部分を造営した。のちに越前国10,000石を領した。1595年、京都伏見向島の羽柴秀吉の茶亭の留守居となる。千利休の門人。

寺西是成【てらにしこれなり(1557~1619)】

寺西正勝の男。別名寺西清行。羽柴秀吉に仕え伊勢国で10,000石を領した。1600年、父寺西正勝の遺領のうち700石を加増される。「関ヶ原の役」では西軍に属し、北国口の防備にあたりる。東軍の前田利長に備える為に兵500余りを率いて、丹羽長重の守る加賀国小松城に入る。西軍の敗戦を知り逃亡た。剃髪して吸庵と号した。

道家正栄【どうけまさひで(15??~15??)】

滝川一益家臣。通称彦八郎。滝川一益の関東進軍に従って小諸城代となった。1582年「本能寺の変」後に炊く側一益とともに伊勢へ撤退した。

徳永寿昌【とくながながまさ(1549~1612)】

柴田勝豊家臣。徳永昌利の男。通称権之助。官途は下総守。越前国の豪族衆。1583年「賤ヶ岳の戦い」では羽柴方。その直後、柴田勝豊が病没したため、羽柴秀吉の家臣となり、美濃国松ノ木城30,000石を領した。羽柴秀吉の病没後、朝鮮に在陣していた日本勢へ撤兵を伝える使者を務めた。1600年「関ヶ原の役」では東軍に与し、西軍に属した隣城高須城10,000石の城主高木盛兼を攻めこれを落とし、また駒野城に篭城した池田秀氏を降伏させた。戦後、戦功により高須城20,000石を加増された。そして、本多正信や大久保忠隣らとともに、関ヶ原の戦いで奮戦した諸大名の戦功を調べる役目を務めた。

徳永昌重【とくながまさしげ(1581~1642)】

徳永寿昌の男。官途は左馬助。通称左太郎。室は下間頼龍の娘。父徳永寿昌と共に羽柴秀吉に仕えていた。1600年「関ヶ原の役」では父徳永寿昌と共に東軍に与して高須城を攻略居城とした。1611年、禁裏の普請助役を務めている。1612年、父徳永寿昌の病没により徳永家の家督を相続した。「大坂の役」などでも戦功を挙げて50,700石を領した。1628年、大坂城石垣普請助役工事の遅延を理由に除封され、庄内藩酒井家にお預けとなった。

徳山秀現【とくやまひであき(1545~1606)】

柴田勝家家臣。通称吉右衛門。1575年「越前侵攻」に参陣した。1583年「賤ヶ岳の戦い」では佐久間盛政の先鋒をつとめた。柴田家滅亡後、丹羽長秀の配下となり、ついで前田利家、松平元康に仕えた。1600年、美濃徳山城に5,000石を領した。

戸田勝成【とだかつしげ(1557~1600)】

丹羽長秀家臣。戸田勝隆の弟。官途は武蔵守。はじめは丹羽長秀、丹羽長重父子に仕えていた。丹羽家に内紛があり、それを機に羽柴秀吉の家臣となって、越前国足羽郡安居城で10,000石を領した。羽柴秀吉の「九州征伐」「小田原の役」に参陣した。1592年「文禄の役」において肥前国名護屋城に駐屯した。伏見城の普請を命ぜられ、その功で10,000石の加増を受けた。1600年「関ヶ原の役」では西軍につき北国口を守備していた。東軍が迫るとともに美濃方面へと陣を移した。本戦においては、大谷吉継の麾下に属して奮戦したが、松尾山に陣を張る小早川秀秋に続く脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠ら四隊の寝返りにあい壊滅、戸田勝成も織田有楽斎長男の織田長孝の部隊に捕捉され、応戦するも織田長孝の槍を頭部に受けて討死した。この時、嫡男戸田内記も討死した。

戸波隼人【となみはやと(15??~1583)】

拝郷久盈家臣。鉄炮頭。1583年「賤ヶ岳の戦い」で加藤清正に討たれた。

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【な】

長崎元家【ながさきもといえ(1538~1610)】

滝川一益家臣。通称弥左衛門尉。はじめ滝川一益に仕える。1582年「本能寺の変」後、滝川一益より松平元康の元へ援軍要請に本多正重と共に遣わされたが、なし得なかった。滝川一益没落後、織田信雄に仕える。のち羽柴秀吉に仕えた。羽柴秀吉の命により小早川秀秋の家臣となり「文禄、慶長の役」で戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では松平元康への使者となり、小早川秀秋が東軍へ味方したい旨を伝えた。1602年、小早川秀秋が病没すると松平元康に仕えて1,600石を領した。

中村宗教【なかむらむねのり(15??~1583)】

柴田勝家家臣。通称文荷斎。娘は柴田勝家の養女となり下総の高城胤則と婚姻した。1583年「賤ヶ岳の戦い」に敗戦後の北庄城の留守居役。柴田勝家と於市の方を介錯し、自らも自刃した。

中村与左衛門【なかむらよざえもん(15??~15??)】

柴田勝家の侍大将。1575年「越前侵攻」に参陣した。

長束正家【なつかまさいえ(1562~1600)】

丹羽長秀家臣。水口盛里の男。通称利兵衛。室は本多忠勝の妹(栄子)。はじめ丹羽長秀に仕えた。1585年、丹羽長秀が病没すると羽柴秀吉の奉公衆に抜擢された。高い算術能力を買われて財政を一手に担い、羽柴家の蔵入地の管理や「太閤検地」の実施に当たった。「九州討伐」「小田原の役」では兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍し「小田原の役」では200,000石の兵糧を滞りなく輸送したほか、小田原周辺において30,000石を買占め小田原城を兵糧攻めにした。支城の戦いでは家臣家所帯刀、臼杵平四郎、一宮善兵衛、有坂宮内、増田新次郎らが忍城攻めにおいて戦功を挙げた。「文禄、慶長の役」では肥前名護屋に在陣し兵糧奉行も務めた。1595年、近江水口城50,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する。開戦当初には山崎家盛に欺かれ、池田輝政の妻子を大坂城に人質として抑留することに失敗している。初め陣代家所帯刀、武者奉行伴五兵衛らを将として伏見城攻めに兵を送り、家臣甲賀衆鵜飼藤助の働きによって城内の甲賀衆を寝返らせることに成功、城を落城に導く戦功を挙げた。「関ヶ原の戦い」では毛利秀元、吉川広家とともに南宮山に布陣し合戦前には浅野隊と南宮神社付近で交戦、池田輝政隊と銃撃戦を展開したが、広家の妨害のため、毛利秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると撤退した。水口城を目前に山岡道阿弥率いる軍勢の攻撃を受けて敗走、弟玄春が捕らえられ、処刑されている。正家は松田秀宣の活躍で入城に成功するも、寄せ手の亀井茲矩、池田長吉に本領の安堵を約束されるが城から出たところ欺かれ捕縛された。このとき重臣嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞以下6人も入城した池田軍に捕縛されている。捕えられた長束正家は弟長束直吉と共に家臣奥村左馬助の介錯で自刃した。

長束助信【なつかすけのぶ(1589~16??)】

長束正家の男。通称半右衛門。水口城在城時、細川藤孝の外孫徳雲院を娶った。1600年「関ヶ原の戦い」の折には、正室の実家(藤孝の娘・伊也の婿である京都の吉田兼治の屋敷)に難を避け、さらに細川藤孝の居城である田辺城へ匿われた。

長束直吉【なつかなおよし(1567~1600)】

水口盛里の次男。通称次郎兵衛。官途は伊賀守。「九州の役」「小田原の役」には兄長束正家と共に兵糧奉行を担当した。1592年「文禄の役」では肥前国名護屋城に在陣し、三の丸御番衆馬廻組三番組頭を務め木下小次郎、津田新八、赤座三右衛門尉、坂井平三郎、川副式部丞(孝蔵主の甥の縁者か)、一柳大六、安見甚七、岡村数馬助、山名市十郎、日比野小十郎、矢野源六郎、岸久七、広瀬加兵衛尉、大谷次郎右衛門尉、山羽虎蔵、長谷藤十郎、山口三十郎、薄田源太郎、田中藤七郎、拓殖吹郎吉、五十表小平次、安西左傳次、山田半三郎、堺猪左衛門尉、田中三十郎を率いた。近江国で10,000石を領した。広瀬加兵衛が寄騎衆として附属した。平野新八と羽柴秀次の領地、日野輝資の領地の検地を行う。1598年、長束正家の下で越前国検地の奉行の一人として働いた。奉行には伊東長次、井上新介、吉田益庵、小堀正次、木村由信、朽木元綱、駒井重勝、杉若藤次郎、建部寿徳、新庄直忠、長谷川以真、服部正栄、林伝右衛門、速水守久、溝江長氏、御牧景則、山口正弘の18人が確認されている。1600年「関ヶ原の役」では、兄長束正家の近江国水口岡山城を守備した。本戦で戦わずして敗走した正家が水口に入り城を固めたが、池田長吉に欺かれて城を出て、桜井谷で長束正家とともに自刃した。

成田道徳【なりたみちのり(1526~1588)】

丹羽長秀家臣。通称弥左衛門。「賤ヶ岳の戦い」後に丹羽長秀が越前、若狭を領した際に勝山城27,000を領した。1585年、丹羽長秀の死後、嫡男丹羽長重が家中不穏などのかどで減封となった時、羽柴秀吉打倒の言を弄したことが露見したため出奔。伊勢山田に逃れた。1588年、討たれた。

丹羽長秀【にわながひで(1535~1585)】

丹羽長政の次男。官途は越前守。通称五郎左衛門尉。室は織田信広娘(深光院)、側室は杉若無心の娘。丹羽家はもともと斯波家の家臣であったが、丹羽長秀からは織田信長に仕えた。1553年「梅津表の戦い」で初陣した。1556年「稲生の戦い」では織田信長方に付いた。1560年「桶狭間の戦い」にも今川義元の攻撃部隊には入っていないものの参陣した。1568年、足利義昭を奉じて織田信長が上洛した際「観音寺城の戦い」で戦功を挙げた。その後も「高屋城の戦い」「長篠の戦い」や「越前一向一揆征伐」など、各地を転戦して戦功を挙げた。丹羽長秀は軍事だけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮し、安土城の普請奉行を務めるなど多大な功績を挙げた。1571年、「姉川の戦い」後近江佐和山城の磯野員昌が降伏すると、丹羽長秀が佐和山城主と若狭国を領した。1581年「京都御馬揃え」においても、一番に入場するという厚遇を与えられた。軍事的な面では、独立した軍団を持つ柴田勝家、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉などの一段下とみなされた。若狭国の知行宛行は遠敷郡が丹羽長秀、三方郡が粟屋勝久、大飯郡が逸見昌経であり各領主は所領内に独立した支配権を持っていた。丹羽長秀の家臣として溝口秀勝、長束正家、建部寿徳、山田吉蔵、沼田吉延などがおり、また与力としては信長直臣となった若狭衆(武田元明、粟屋勝久、逸見昌経、山県秀政、内藤、熊谷等の若狭武田氏及び旧臣)が他国への出兵時に丹羽長秀の寄騎衆として参陣した。1582年、三好康長、蜂屋頼隆とともに神戸(織田)信孝の四国派遣軍の副将を命じられた。「本能寺の変」が起こると、丹羽長秀は神戸信孝を補佐し、ともに羽柴秀吉勢に参陣して「山崎の戦い」で明智光秀を討った。1583年、羽柴秀吉と柴田勝家とが天下を争った「賤ヶ岳の戦い」では羽柴秀吉を支援し、若狭国に加え越前国(敦賀郡、南条郡の一部、大野郡の一部を除く)及び加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝が領する)約1230,000石を領した。

丹羽長重【にわながしげ(1571~1637)】

丹羽長秀の男。官途は加賀守。通称小松侍従。1583年、父丹羽長秀と共に「賤ヶ岳の戦い」に参陣した。1584年「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1585年、父丹羽長秀が没すると越前国、若狭国、加賀国二郡1230,000万石を領した。佐々成政の「越中征伐」では家臣の不手際により羽柴秀吉によって越前国、加賀国を召し上げられ、若狭一国150,000石と減封になった。さらに重臣の長束正家、溝口秀勝、村上義明らの武将が独立した。1587年「九州討伐」の際にも家臣の不手際で若狭国を取り上げられ、加賀国松任城40,000石を領した。1589年「小田原の役」に参陣して、加賀国小松城120,000石に加増移封された。1600年「関ヶ原の役」では西軍に与して「浅井畷の戦い」で東軍の前田利長と争ったが役後に改易となった。1603年、常陸国古渡城10,000石を領した。1622年、陸奥国棚倉50,000石に加増移封された。

丹羽長正【にわながまさ(1576~1620)】

丹羽長秀の次男。官途は備中守。1585年、父丹羽長秀が病没すると、家督は兄丹羽長重が継ぎ、丹羽長正はそのもとで500石を領した。1587年、羽柴秀吉のもとで越前国藤枝城50,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、西軍に属して東軍の前田利長と敵対したため、役後に松平元康によって改易された。その後、大坂城の羽柴秀頼に仕えた。1614年「大坂冬の陣」の前に大坂から脱出した。

野村勝次郎【のむらかつじろう(15??~15??)】

柴田勝豊家臣。1583年「賤ヶ岳の戦い」に羽柴方。のちに堀尾吉晴に仕えた。

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【は】

拝郷家嘉【はいごういえよし(1549~1583)】

柴田勝家家臣。通称五左衛門。勇猛さで知られ、北陸戦線で戦功を挙げ、加賀国大聖寺城主に任じられるなど重用された。1582年、柴田勝家と羽柴秀吉が天下の覇権を争った「賤ヶ岳の戦い」に参陣し、柴田勝家方の将として佐久間盛政の攻撃隊に属した。一時優勢になったものの、羽柴秀吉の機敏な動きに対応できず劣勢となり、佐久間盛政、柴田勝政、山路正国らとともに退却する際に福島正則に近江柳ヶ瀬で討取られた。

拝郷治太夫【はいごうじぶだいふ(15??~15??)】

拝郷家嘉の男。。1582年、柴田勝家と羽柴秀吉が天下の覇権を争った「賤ヶ岳の戦い」に参陣し、柴田勝家方の将として佐久間盛政の攻撃隊に属した。一時優勢になったものの、羽柴秀吉の機敏な動きに対応できず劣勢となり、北ノ庄城に籠城するも落城、拝郷治太夫は落ち延びて丹羽長重に仕えた。1600年「浅井畷の戦い」で参陣した。次男の孫十郎は尾張国津島に落ち、後に織田長益に仕えた。

肥田家澄【ひだいえずみ(15??~15??)】

土岐郡肥田城主。官途は玄蕃頭。1556年、斎藤義龍は斎藤方に加担しない東美濃の明智家を討つべく長井隼人正道利を大将として、井上忠右衛門道勝、国枝大和守正則、二階堂出雲守行俊、大沢次郎左衛門為泰、遠山主殿助友行、船木大学頭義久、山田次郎兵衛、岩田茂太夫等、兵3,700余りで長山明智城を攻めさせたのである。土田甚助、土田弥平次などが織田信長へこの危急を報告し援軍を要請するが、織田弾正忠家自体が危険な状態であった為、織田信長は援軍を出す余裕がなく、犬山城主織田信清の手勢を救援に向かわせた。土田甚助、土田弥平次も前野党50騎、生駒党40騎等を従えて明智城救援に出陣した。斎藤勢に包囲された明智城で籠城する明智勢は明智兵庫頭光安、明智次左衛門光久、溝尾庄左衛門、三宅式部大輔秀朝、藤田藤次郎、肥田玄蕃頭家澄、池田織部正輝家、奥田宮内少輔景綱、可児才右衛門、森勘解由等一族郎党合わせて兵870余りであった。明智光安勢は果敢に戦ったが兵力に劣る明智勢は追い詰められ、明智光安は斎藤勢に突撃を敢行するが明智勢は壊滅した。肥田玄蕃家澄、池田織部正輝家、奥田宮内少輔景綱、三宅式部大輔秀朝などは、明智光秀に付き従い後年の「山崎の戦い」に参陣した。「本能寺の変」以後は東濃をめぐり兼山城主森長可と対立する。

藤田行政【ふじたゆきまさ(15??~1582)】

明智光秀家臣。通称伝五郎。明智家五宿老のひとり。明智光秀とともに畿内各地を転戦。1582年「本能寺の変」に先立って、明智光秀から織田信長弑逆の決意を披瀝された。山城国静原城攻め後、同城を預かる。「山崎の戦い」では筒井順慶の説得に向かうも不首尾に終わる。「山崎の戦い」では本陣右備を務め六ヶ所の傷を負い淀まで退却するも自刃した。

藤田行久【ふじたゆきひさ(15??~1582)】

明智光秀家臣。通称藤三。藤田行政の弟。1582年「山崎の戦い」には兄藤田行政と共に参陣するが討死した。

藤田秀行【ふじたひでゆき(15??~1582)】

藤田行政の男。通称伝兵衛。1582年「山崎の戦い」には父藤田行政と共に参陣するが討死した。

古川久介【ふるかわひさすけ(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

古川九兵衛【ふるかわきゅうべい(15??~15??)】

明智光秀家臣。明智(足軽大将)三羽鴉のひとり。

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【ま】

牧野成里【まきのしげさと(1556~1614)】

滝川一益家臣。牧野成継の男。官途は伊予守。通称伝蔵。羽柴秀次に仕えた若江八人衆のひとり。はじめ滝川一益に仕え、滝川一益が没落した後は織田信雄に仕えたが、織田信雄も没落したため、長谷川秀一の家臣となる。しかし長谷川秀一も「文禄の役」で陣没したため、羽柴秀吉の命令で長谷川秀一代理として長谷川勢を指揮を取った。その功績を羽柴秀吉から評価され、日本に帰国した後は羽柴秀吉の甥羽柴秀次の家臣となった。1595年「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃すると、石田三成家臣となった。1600年「関ヶ原の役」では石田隊の武将として参陣したが、石田三成が敗北すると池田輝政のもとに落延びた。1603年、松平元康より罪を許され馬廻衆として松平家に仕え下野国簗田に3,000石を領した。

松浦九兵衛門【まつうらきゅうえもん(15??~15??)】

柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳の戦い」後の北ノ庄城の守備に付いたが落城討死した。

松原直元【まつばらなおもと (15??~15??)】

丹羽長秀家臣。通称五郎兵衛尉。丹羽長秀の家臣で5,000石を領した。丹羽家減封後、佐々成政に仕えた。佐々成政の長女随星院を娶る。肥後国人一揆平定の戦いで奮戦し「鬼松原」の異名をとり、肥後侍から恐れられた。佐々家改易後、室とその妹、岳星院を伴い浪人。京都所司代前田玄以を便り、羽柴秀吉に仕官。黄母衣衆に加えら600石を領した。1592年「文禄の役」では肥前名護屋城に在番した。男子がなく、岳星院の子佐々重勝を婿養子に迎えた。

松原伊賀守【まつばらいがのかみ(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。越前の豪族。丹羽長秀の妹婿(丹羽長政の娘)。

溝尾茂朝【みぞおしげとも(1538~1582)】

明智光秀家臣。通称庄兵衛。別名明智茂朝。明智家五宿老のひとり。明智光秀が織田信長に仕える以前から、明智光秀に仕えた。明智光秀の側近として常に補佐役を務めた。1582年、明智光秀に従って松平元康の接待役を務めた。「本能寺の変」でも織田信長を討つことを賛成した。「山崎の戦い」にも参陣し、一番の中備を務めたが、敗れて明智光秀と落延びた。明智光秀が百姓によって重傷を負わされると、明智光秀の介錯を務めた。そして明智光秀の首を近江の坂本城にまで持ち帰った後、自刃した。

溝口秀勝【みぞぐちひでかつ(1548~1610)】

丹羽長秀家臣。溝口勝政の男。官途は伯耆守。別名金右衛門尉定勝。室は長井源七郎の娘(瑞雲院)。若年より丹羽長秀に仕えた。1581年、織田信長からその才能を見出され、直臣として若狭国大飯郡高浜城5,000石を与えられた。1582年「本能寺の変」で織田信長が横死した後は、羽柴秀吉の麾下に属した。1583年「賤ヶ岳の戦い」後、越前国北ノ庄城に入封した丹羽長秀の寄騎衆として、加賀国江沼郡大聖寺城44,000石を領した。1585年、丹羽長秀が病没し、丹羽長重が家督を継いで北ノ庄城となるが若狭国に転封となり、代わって北ノ庄城に入封した堀秀政麾下の寄騎衆とし引き続き配属された。1592年「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。1598年、越後国蒲原郡新発田城60,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では東軍に与し、越後国において長尾景勝が煽動する一揆の鎮圧に努めた。戦後、松平元康から所領を安堵された。

溝口宣勝【みぞぐちのぶかつ(1582~1628)】

溝口秀勝の男。はじめ父溝口秀勝と共に羽柴秀吉に仕えた。1600年「関ヶ原の役」に際しては、長尾景勝に扇動された越後一揆を父溝口秀勝とともに制圧した。1610年、父溝口秀勝の病没により溝口家の家督を相続した。溝口家は60,000石の大名であったが、溝口宣勝は相続にあたって弟溝口善勝に12,000石を分与して別家を建てさせた(2,000石分は新田開発によるもの)。その後も溝口宣勝は積極的な新田開発を行ない15,500石の新田を開いた。1615年「大坂夏の陣」では松平忠輝の麾下に属した。

溝口善勝【みぞぐちよしかつ(1584~1634)】

溝口秀勝の次男。はじめ父溝口秀勝と共に羽柴家に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では東軍に与し、役後は松平秀忠の家臣となった。1610年、父溝口秀勝が病没して溝口家の家督は兄溝口宣勝が相続した。兄溝口宣勝から12,000石を分与され、それまで領していた2000石と合わせて14,000石を領した。1614年「大坂冬の陣」においては松平方に与し、土井利勝の寄騎衆として戦功を挙げた。1627年、大坂城の守備を務めた。

溝口糸姫【みぞぐちいとひめ(15??~1636)】

溝口秀勝の五女。別名秋香院。家臣の溝口盛政(700石)に嫁ぎ五人の子をもうけた。糸姫の死後、溝口盛政は柿本正方の娘を継室に迎えた。

溝口富介【みぞぐちとみすけ(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

箕浦新左衛門【みのうらしんざえもん(15??~15??)】

明智光秀家臣。通称大内蔵。明智(足軽大将)三羽鴉のひとり。のち羽柴秀長、浅野長政に仕えた。

三宅秀朝【みやけひでとも(15??~15??)】

明智光秀家臣。官途は式部大輔。美濃時代からの家臣。1556年「明智城の戦い」で明智城に籠城した。「本能寺の変」の際には京都の仮所司を務めた。

三宅業朝【みやけよりとも(15??~15??)】

明智光秀家臣。官途は周防守。1582年「本能寺の変」後は明智秀満の寄騎衆として「近江討伐」に従った。

三宅重利【みやけしげとし(1580~1637)】

明智秀満の男。通称は藤兵衛。1582年「本能寺の変」の時は勝竜寺城の留守居役だったが「山崎の戦い」後に細川家に保護される。のちに細川家を辞去し、寺沢堅高に仕えた。キリシタンだったが棄教し「島原の乱」では富岡城代として天草四郎率いる一揆勢と幕府方として戦い討死した。

村上義明【むらかみよしあき(15??~1604)】

丹羽長秀家臣。官途は周防守。通称次郎右衛門尉。別名村上頼勝。はじめ丹羽長秀に仕えた。1585年、丹羽長秀が死去すると、丹羽家のもとから去って羽柴秀吉の直臣となり、加賀国能美郡で65,000石を領した。その後、羽柴秀吉の命で堀秀政、堀秀治の寄騎大名となり「九州征伐」「小田原の役」に参陣した。1598年、越後国本庄城90,000石に転封された。1600年「関ヶ原の役」では東軍に与して越後国に在国し、国内で起こった長尾景勝の旧臣による一揆鎮定に務めた。その戦功により役後、松平元康から所領を安堵された。村上義明には男子がなく、はじめ堀秀政の男掘(村上)義忠を養子として貰い受けたが早世したため、娘婿戸田内記の子戸田(村上)忠勝を養子にした。内記室は後に織田忠辰に嫁したという。

村上忠勝【むらかみただかつ(15??~1623)】

丹羽長秀家臣。戸田内記の男。村上義明の養子。官途は周防守。室は花井吉成の娘。1616年、村上家の家督を相続した。1618年、家臣の魚住角兵衛が暗殺され、その黒幕が家老高野権兵衛ではとの風評が立ち論争となる。幕府に報告して裁決されたが、騒動が収まらず家中の論争が多いとの理由で改易された。捨扶持300石を与えられて丹波国篠山に流罪とされ、松平康重に預けられた。林八郎右衛門ら家臣20数名が同地に従った。

村本甚五兵衛【むらもとじんごへい(15??~1583)】

明智光秀家臣。1583年「賤ヶ岳の戦い」に敗戦後の北庄城の守備した。

毛受免受【めんじょうめんじょう(15??~1583)】

柴田勝家家臣。毛受照昌の男。通称茂左衛門。毛受勝照の兄。1583年「賤ヶ岳の戦い」に弟毛受勝照とともに討死した。

毛受勝照【めんじょうかつてる(15??~1583)】

柴田勝家家臣。毛受照昌の次男。柴田勝家の小姓として取り立てられ、後に小姓頭となり10,000石を領した。1571年「伊勢長島城の戦い」で、柴田勝家勢の馬印が一揆勢に奪われるという事態に陥った。馬印を奪われたままでは武門の恥と、死を覚悟して羽柴勝家は突入を試みたが、家臣に諌められた。その間に毛受勝照は敵陣に突入し、見事馬印の奪還に成功した。1575年「越前侵攻」に参陣した。1580年、加賀平定報告の使者を勤める。1583年「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家勢が敗れ、柴田勝家が討死を覚悟すると、退却を進言する。自らは時間稼ぎの為に兵200を率いて柴田勝家の馬印「金の御弊」を掲げ、柴田勝家の身代わりとなる。羽柴秀吉勢の大軍を惹きつけ果敢に応戦、勝家の逃走時間を十分に稼いだとみて兄毛受免受とともに討死した。

森勘解由【もりかげゆ(15??~1582)】

明智光秀家臣。美濃時代の家臣。明智光秀家臣。官途は修理。美濃時代からの家臣。1582年「山崎の戦い」で討死した。

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【や】

安田国継【やすだくにつぐ(1556~1597)】

明智光秀家臣。通称源右衛門。別名安田作兵衛。明智(足軽大将)三羽鴉のひとり。明智光秀配下の斎藤利三の家臣。「本能寺の変」では、先鋒として京都に進出。織田信長を槍で攻撃し、行く手を阻んだ森成利(蘭丸)に十文字槍で下腹部を突かれるも討ち取る功を挙げた。「山崎の戦い」で敗走し、天野源右衛門と改名して浪人する。羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷と仕えたがいずれも長続きせず浪人した後、かつて討った森成利の兄である森長可に仕えた。「小牧、長久手の戦い」には同行せず、森長可が討死すると森家を出奔し再び浪人した。その後、立花宗茂に仕え「九州征伐」では立花勢に属して戦功を挙げた。1592年「文禄、慶長の役」では朝鮮に出陣し、羽柴家へ使者として立った。最後は寺沢広高に仕え、8,000石を領した。著書に『立花朝鮮記』がある。

山路正国【やまじまさくに(1546~1583)】

山路正幽の三男。柴田勝家家臣。通称に将監。織田信長の重臣である柴田勝家の家臣として仕え、織田信長没後の清洲会議で近江長浜城主となった柴田勝家の養子柴田勝豊の家老として仕えた。1582年、羽柴秀吉の攻撃を受けて、柴田勝豊と共に羽柴秀吉に降伏した。1583年「賤ヶ岳の戦い」では、病気のために出陣できない柴田勝豊に代わって軍を率いて羽柴方として参戦した。佐久間盛政の調略を受けて柴田方に寝返った。その後、佐久間盛政の部隊の一員として共に羽柴勢に奇襲をかけて一時は成功したものの、羽柴秀吉の反撃を受けて佐久間勢は壊滅し、山路正国は羽柴秀吉家臣加藤清正に討取られた。

山田高定【やまだとかさだ(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。官途は修理介。斯波家旧臣。丹羽長秀の娘婿。溝口秀勝とともに家老職を務めた。

山田大兵衛【やまだだいべい(15??~15??)】

丹羽長秀家臣。1569年、伊勢北畠家の大河内城夜襲で丹羽長秀麾下に属し討死した。

山中長俊【やまなかながとし(1547~1607)】

丹羽長秀家臣。山中為俊の男。官途は山城守。甲賀二十一家の山中家の庶流。はじめ六角家に仕えた。1568年、織田信長によって六角義賢が居城を追われた際は甲賀郡に保護して織田信長と抗戦した。1573年、石部城に籠城、包囲軍の佐久間信盛家臣林寺熊之介を討ち、六角義賢から感状を受けた。1574年、石部城が開城すると、六角家を去って織田家臣となり、柴田勝家に属し3,000石を領した。北陸方面での攻略においては柴田勝家の発給文書に副状を添えたり、河田長親の誘降工作を担当した。1583年、柴田勝家が「賤ヶ岳の戦い」によって滅びたのちは丹羽長秀に仕えた。丹羽長秀の没後、丹羽家中が乱れた為、堀秀政に寄食した。1585年、羽柴秀吉に召し出され右筆となる。1590年「小田原の役」「奥州仕置」に参陣し、外交折衝などで活躍した。1592年「文禄の役」では肥前国名護屋城に在陣した。1593年、羽柴家蔵入地の越前国北袋銀山代官、筑前国蔵入地代官職に任じられた。1595年、摂津国西三郡等で10,000石を領した。その後、畿内の羽柴家の蔵入地30,000石の代官となった。1600年「関ヶ原の役」の際は西軍に属し大坂城留守居。守備隊として大坂城周辺を守備した。この為、戦後に改易となった。著書に『中古日本治乱記』がある。

吉田次兵衛【よしだじへい(15??~15??)】

柴田勝家枝連衆。柴田勝豊の実父。柴田勝家の姉を娶った。草履取りから越前丸国城45,000石まで出世した。柴田勝豊に家督を譲り隠居した。

吉田弥左衛門【よしだよざえもん(15??~15??)】

吉田次兵衛枝連衆。通称八左衛門。

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【資料Ⅰ】

調査中。

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【資料Ⅱ】


明智家五家老【あけちけごかろう】

斎藤利三、溝尾茂朝、明智秀満。

明智家三羽鴉【あけちけさんばからす】

安田作兵衛、古川九兵衛、箕浦大蔵丞。

織田家四家老【おだけよんかろう】

柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には居城の名を入れています。資料Ⅰは国、郡の石高、城郭、街。資料Ⅱは集団についての説明。資料Ⅲは国の詳細説明になっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※徳川家康は松平元康に、豊臣秀吉は羽柴秀吉、斎藤道三は長井規秀、稲葉一鉄、稲葉良通はに名前を統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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