2011年12月18日日曜日

戦国備後国人名辞典

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【あ】

赤畝加賀守【あかうねかがのかみ(15??~15??)】

村上尚吉家臣。星ヶ浜城主。

秋山伊勢守【あきやまいせのかみ(15??~15??)】

和泉久勝家臣。1526年、毛利元就への帰属を巡って和泉久勝対立、三吉致高の支援を受け原勘兵衛、原但馬守、間鍋五郎左衛門、秋山伊勢守らとともに和泉久勝を謀殺した。人質となっていた和泉信行を擁立して毛利元就勢に属した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

栗飯原政永【あわいはらまさなが(15??~15??)】

神石郡土居城主。栗飯原政保の男。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

栗飯原仁右衛門【あわいはらじんざえもん(15??~15??)】

栗飯原政永の男。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

粟屋隆信【あわやたかのぶ(1531~1591)】

三吉隆亮の次男。高田郡勝山城主。官途は刑部少輔。別名三吉隆信。兄の三吉隆亮より、三吉広高の後見役に任じられた。武術は素より硬骨練直な武人。1591年、三吉広高に謀殺された。

東政幸【あずままさゆき(15??~15??)】

奴可郡蟻腰城主。通称左衛門尉。室は宮高盛の娘。1523年、毛利元就の意向を受け、五品嶽城主宮高盛のもとで附家老職を務めた。1533年、大富山城に拠点を移し宮高盛を補佐した。1536年、備後国に侵攻した尼子経久勢を撃退した。1540年、東政幸は讒言を受け宮景盛に攻撃され自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

有坂長次【ありさかながつぐ(15??~1634)】

杉原盛重家臣。通称仁右衛門。1582年、杉原盛重の病没後、杉原家が断絶となると吉川元春に仕えた。上洛して、羽柴秀吉の砲術師範であった石田玄斎から石田流砲術を学び、吉川家の砲術の師範となった。1600年、「安濃津城の戦い」では、吉川広家の鉄砲隊、大筒隊を指揮して戦功を挙げた。毛利輝元の防長二ヶ国に転封されると、吉川広家に仕えた。

有地正信【ありちまさのぶ(15??~15??)】

芦田郡有地城主。官途は美作守。宮直信の弟。別名有地清元。尼子経久勢に属した兄宮元信と不仲になり、国竹城を築城して毛利元就に属した。兄は宮直信は
1534年、「亀寿山城の戦い」では、毛利元就に従って参陣して宮直信を滅ぼして、宮家惣領職を相続した。

有地隆信【ありちたかのぶ(15??~15??)】

有地正信の男。1555年、「利鎌山城の戦い」で福田勝雅を攻撃してこれを討取る戦功を挙げた。

有地又左衛門【ありちまたざえもん(15??~1592)】

有地正信の次男。1592年、「文禄の役」では、毛利輝元に従って参陣したが釜山浦で討死した。

有地盛信【ありちもりのぶ(15??~1600)】

有地正信の三男。通称九右衛門。神石郡に侵攻して、階見城、高蓋城を攻落として、高蓋城を領した。1600年、「伊勢安野津城の戦い」で討死した。

有地元盛【ありちもとのぶ(15??~15??)】

有地隆信の男。沼隈郡佐方城主。官途は民部少輔。1576年、「第一次木津川口の海戦」では、村上亮康、渡辺元盛とともに参陣して戦功を挙げた。

有福義秀【ありふくよしひで(15??~15??)】

甲奴郡有福城主。1532年、尼子経久勢に属した。後に大内義隆に属した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

有福義国【ありふくよしくに(15??~1600)】

有福義秀の男。通称九郎。1600年、「関ヶ原の役」では、毛利輝元勢に属して参陣して討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

池上丹波守【いけがみたんばのかみ(15??~15??)】

三吉広隆家臣。御調郡雲雀城主。1544年、「比叡尾山城の戦い」では、森光景近、上里通職らとともに尼子晴久勢に属して大内義隆勢の三吉致高を攻撃した。

石田尾張守【いしだおわりのかみ(15??~15??)】

和泉久勝家臣。1526年、原勘兵衛、原但馬守、間鍋五郎左衛門、秋山伊勢守らが三吉致高の支援を受け和泉久勝を謀殺すると、和泉信行を擁立した。毛利元就と結び、人質として継嗣の石田孫三郎を吉田郡山城に送った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石田孫三郎【いしだまごさぶろう(15??~15??)】

石田尾張守の男。1526年、和泉信行が毛利元就と結ぶと人質として吉田郡山城に送られた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石原観氏【いしはらかんし(15??~16??)】

三上郡鈴神城主。山内隆通家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、山内広通が転封になると帰農した。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。

和泉久勝【いずみひさかつ(15??~1526)】

恵蘇郡黒岩城主。室は三吉致高の娘。1521年、尼子経久に降伏して継嗣の和泉信行を人質として月山富田城に送った。義父の三吉致高から毛利元就勢に属するように勧められたが拒否した。1526年、毛利元就への帰属を巡って、家臣団(原勘兵衛、原但馬守、間鍋五郎左衛門、秋山伊勢守ら)と争いて謀殺された。

和泉信行【いずみのぶゆき(15??~15??)】

和泉久勝の男。通称三郎五郎。1526年、父和泉久勝が家臣に謀殺されたため、黒岩城に帰還した。その後は、毛利元就に属した。1553年、「和泉城の戦い」では、尼子晴久勢と戦い戦功を挙げ、三次笠野山城を領した。

和泉久正【いずみひさまさ(15??~15??)】

和泉信行の男。通称三郎。1553年、「和泉城の戦い」では、父和泉信行に従って毛利元就勢に属して戦った。父和泉信行の病没後、黒岩城主となった。のち三次郡に福谷山城を築城した。

井上高重【いのうえたかしげ(1507~15??)】

三吉隆亮家臣。前田秀貫次男(井上新左衛門の養子)。土居館主。官途は佐渡守。室は粟屋隆信の娘。家老職を務めた。

井上高令【いのうえたかれい(15??~15??)】

井上高重の男。官途は日向守。通称新左衛門。室は小滝丹後守の娘。

井上隆房【いのうえたかふさ(15??~15??)】

井上高令の男。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封となると、それに従った。

今田久景【いまだひさかげ(15??~15??)】

山内直通家臣。1542年、「第一次月山富田城の戦い」に敗れ、敗走する毛利元就が甲山城へ立ち寄った際、山内直通の意向で敗走中の毛利元就の警護を務め、そのまま毛利元就に仕えた。

入江正高【いりえまさたか(15??~15??)】

山内直通家臣。芦品郡森定城。官途は大蔵少輔。家老職を務めた。1536年、山内直通が隠居後、杉原盛重の家老職を務めた。

石崎信実【いわさきのぶざね(15??~15??)】

宮元清家臣。品治郡泉山城主。1534年、「備後宮城の戦い」では、毛利元就に内応して、宮元清を討取った。

上原元祐【うえはらもとすけ(15??~1582)】

世羅郡沼城主。室は毛利元就の娘。1582年、「備中日幡城の戦い」では、羽柴秀吉勢に内応して毛利輝元勢から離反した。日幡景親の弟大森蔵人を内応させ、日幡景親を討取った。小早川隆景の家臣楢崎忠正勢の攻撃を受け討死した。

上山広信【うえやまひろのぶ(15??~1544)】

山内隆通家臣。高八山城主。1544年、「布野の戦い」では、毛利元就勢に属して、尼子晴久勢と戦うが討死した。

上山重広【うえやましげひろ(15??~15??)】

上山広信の男。

上山元忠【うえやまもとただ(15??~15??)】

上山重広の男。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が減封になると、それに従って防長へ移った。

江田隆連【えだたかつら(15??~15??)】

三谷郡旗返城主。大内義隆家臣。室は三吉到高の娘(重森の方)。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢に謀殺されると、毛利元就勢に属した。1553年、尼子晴久勢が侵攻すると、それに属したが毛利元就勢の反撃を受け、尼子晴久のもとに落延びた。

馬屋原信春【うまやはらのぶはる(15??~15??)】

神石郡九鬼城主。官途は但馬守。1557年、毛利元就他17名連署の盟約状には、枝連衆を代表して署名した。

馬屋原宮寿【うまやはらいやじ(15??~15??)】

馬屋原信春の男。早世した。

馬屋原少輔五郎【うまやはらしょうぶごろう(15??~15??)】

敷名元範の男(馬屋原宮寿の養子)。官途は兵部大輔。1590年、神石郡で1,600石を領した。

馬屋原元詮【うまやはらもとあき(15??~15??)】

神石郡固屋城主。別名入道休閑。毛利輝元から「黒印」を預るほどの権勢を振るった。1600年、「関ヶ原の戦い」後、毛利輝元に従って防長二ヶ国に転封した。 

馬屋原範政【うまやはらのりまさ(15??~15??)】

毛利元就家臣。
 
馬屋原義政【うまやはらよしまさ(15??~15??)】

馬屋原範政の男。

岡崎頼兼【おかざきよりかね(15??~1549)】

小早川繁平家臣。御調郡頼兼城主。通称十郎左衛門。1549年、「神辺城の戦い」に参陣せず、小早川隆景勢の攻撃を受け討死した。

小奴可定実【おぬかえきさだざね(15??~1534)】

大内義隆家臣。亀山城主。官途は下野守。通称又次郎。1521年、「柏村の戦い」では、尼子経久勢の宮政盛に属して参陣し戦功を挙げた。1534年、毛利元就勢の攻撃を受け籠城中に病没した。

小奴可隆盛【おぬかえきたかもり(15??~1553)】

小奴可定実の男。官途は下野守。1553年、「旗返山城の戦い」で毛利元就勢と戦って討死した。

小奴可盛常【おぬかえきもりつね(1536~1573)】

小奴可隆盛の男。通称民部太夫。別名宮盛常。1553年、「旗返山城の戦い」で父小奴可隆盛が討死すると、久代之地は大内義隆の直轄領とされたが、所領の返還を求めて嘆願を繰り返した。

小奴可盛慶【おぬかえきもりよし(1558~1599)】

小奴可盛常の男。通称中務少輔。別名宮盛慶。1591年、太閤検地が行われると、小奴可盛慶は穂井田元清を通じて小早川隆景に久代之地の返還を願い出たが叶えられず、安国寺恵瓊、堅田元慶を通じて、次に小寺鎮賢、国司就信を通じて小寺鎮賢へ訴えたが返還されることはなかった。

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【か】

片山連総【かたやまつらふさ(15??~15??)】

村上吉充家臣。天秀庵城主。通称数馬。船奉行職を務めた。

上山広信【かみやまひろのぶ(15??~1544 )】 

世羅郡高八山城主。官途は掃部助。別名長井広信。1544年、「布野の戦い」で毛利元就に従って尼子晴久勢と戦い討死した。

上山重広【かみやましげひろ(15??~15??)】

上山広信の男。

上山元忠【かみやまもとただ(15??~15??)】

上山重広の男。通称兵庫介。1562年、平佐藤左衛門、吉川経安、山県左京とともに本城常光を謀殺後、山吹城を接収してそれを守備した。1582年、「備中高松の戦い」では、広繁、生石中務少輔らとともに加茂城を守備して戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封になると、それに従った。

河内隆季【かわちたかよし(15??~15??)】

三吉致高家臣。亀山城主。

河内隆実【かわうちたかざね(15??~15??)】

河内隆季の男。

河内隆孚【かわうちたかふ(15??~15??)】

河内隆実の男。

上里通職【かみざとみちおり(15??~15??)】

三吉広隆家臣。御調郡丸山城主。大内義隆家臣。上里周防守の男。通称善九郎。1544年、「比叡尾山城の戦い」では、尼子晴久勢の森光景近、池上丹波守らの攻撃を受けた。

上里助実【かみざとすけざね(15??~15??)】

上里通職の男。通称民部。

上里元実【かみざともとざね(15??~15??)】

上里助実の男。通称四郎三郎。

上里守光【かみざともりみつ(15??~15??)】

三吉致高家臣。尾関山城主。官途は越後守。

河北俊興【かわきたとしおき(15??~15??)】

山内隆通家臣。1542年、「第一次月山富田城の戦い」に敗れ、毛利元就が甲山城の落延びると、山内直通の意向を受け吉田郡山城まで毛利元就の警護役を務めた。その後、毛利元就に仕えた。

桑原通兼【くわはらみちかね(15??~15??)】

毛利元就家臣。椋山城主。

栗原元胤【くりはらもとたね(15??~15??)】

毛利元就家臣。世羅郡浦壁城主。官途は河内守。

興禅寺竹英【こうぜんじちくえい(15??~1567)】

小奴可定実の弟。興禅寺住職。1537年、毛利元就が継嗣毛利隆元を人質として大内義隆に差し出すと、従者として従った。興禅寺は吉田郡山城内にあった臨済宗の大寺院。

古志為信【こしためのぶ(15??~15??)】

沼隈郡大場山城。古志久信の男。官途は備前守。1512年、「大場山城の戦い」で尼子経久勢の属したため、大内義興の意向を受けた毛利興元勢の攻撃を受けた落城した。尼子経久の支援を受け奪還した。

古志宗信【こしむねのぶ(15??~15??)】

古志為信の男。

古志景信【こしかげのぶ(15??~15??)】

古志久信の次男。1544年、「亀寿山城の戦い」では、毛利元就勢に属して宮元盛勢と戦い戦功を挙げた。1548年、「神辺城の戦い」では、毛利元就勢に属して参陣した。

古志景勝【こしかげかつ(15??~15??)】

古志宗信の男。

古志豊長【こしとよなが(15??~1572)】

古志景勝の男。通称清左衛門。1572年、「鷲尾山城の戦い」で杉原元恒と戦ったが、小早川隆景の仲介により和議を結んだ。後に小早川隆景に謀殺された。

小寺元武【こでらもとたけ(15??~15??)】

毛利元就家臣。世羅郡岩熊城主。官途は佐渡守。通称十郎左衛門尉。卓越した外交能力を持っていた。1555年、毛利元就に意向を受け、小倉元実とともに大友義鎮のもとに赴き、防長への干渉を取り除くことに成功した。また、笠岡村上隆重を毛利元就に臣従させた。1564年、因幡武田高信と結び南条宗勝とともに因幡国に侵攻して尼子晴久、山名豊国勢を駆逐した。

小寺就武【こでらなりたけ(15??~15??)】

小寺元武の男。官途は木工允。1580年、「備前虎倉城の戦い」で宇喜多直家勢の伏兵を受け敗走した。

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【さ】

篠塚貞忠【しのづかさだただ(15??~15??)】

村上吉充家臣。千守城主。

渋川義陸【しぶかわ よしたか(15??~15??)】

御調郡小童山城主。官途は右衛門佐。1507年、尼子経久勢の侵攻を受けたが、小早川扶平勢の支援を受け尼子経久勢を撃退した。

渋川義正【しぶかわよしまさ(15??~15??)】

渋川義陸の男。室は毛利弘元の娘(八幡上姫)。1561年、毛利元就の沼田新高山城訪問に親族として随行した。

渋川頼基【しぶかわよりもと(15??~15??)】

渋川義陸の次男。

渋川義満【しぶかわよしみつ(15??~1573)】

渋川義正の男。官途は宮内大輔。娘は毛利輝元の仲介で冷泉元満の内室となった。

末長景盛【すえながかげもり(15??~15??)】

村上吉充家臣。豊田郡堀ヶ城主。末長盛平の男。官途は常陸介。別名磯兼景盛。1555年、「厳島の戦い」では、村上吉充を説得して毛利元就勢に参陣して戦功を挙げた。1561年、「蓑島沖の戦い」では、村上武吉に従って大友義鎮の家臣若林鎮興勢と戦い戦功を挙げた。

末長景道【すえながかげみち(15??~15??)】

末長景盛の男。官途は左近太夫。通称長又三郎。別名磯兼景道。1555年、「厳島の戦い」では、父末長景盛とともに村上吉充を説得して毛利元就勢に参陣して陶晴賢の家臣伊香賀十郎左衛門尉を討取る戦功を挙げた。新高山城の留守居役を務めた。1597年、小早川隆景が病没すると、毛利輝元に仕えた。

末長景綱【いそかねかげつな(15??~15??)】

乃美宗勝の六男(末長景道の養子)。別名乃美景綱。1597年、小早川隆景が隠居すると付き従い、その病没後は毛利輝元に仕えた。

末永景光【すえながかげみつ(15??~15??)】

村上吉充家臣。馬神城主。通称馬介。1600年、「関ヶ原の役」では、毛利輝元勢に属して伊予国に侵攻した。

杉原理興【すぎはらただおき(15??~1557)】

沼隈郡銀山城主。杉原時興の男。官途は宮内少輔。1538年、「神辺城の戦い」では、大内義隆の支援を受け、備中国守護職山名忠勝を討取る戦功を挙げた。1542年、「第一次出雲討伐」が失敗に終わると、尼子晴久勢に属した。1548年、大内義隆勢の攻撃を受け月山富田城へ落延びた。1551年、大内義隆が討死すると、毛利元就に属した。1557年、杉原理興が病没すると、家老職の杉原盛重が養子となって後を継いだ。

杉原盛重【すぎはらもりしげ(1532~1581)】

杉原理興家臣。杉原匡信の次男。官途は播磨守。室は毛利興元の娘。1557年、杉原理興が継嗣のないまま病没すると、吉川元春の意向を受け杉原家の家督を相続した。また、備後国忍衆の頭目を務め、徳岡久兵衛、佐田彦四郎、佐田五郎、佐田小鼠、別所雅楽允や野武士や山賊、海賊、忍び崩れなどを率いた。藤井皓玄が謀反を起こし神辺城を乗っ取るが、これを鎮圧して藤井皓玄を自刃に追い込んだ。1564年、伯耆国の行松正盛が病没すると、その後家を娶り尾高城主となった。1569年、尼子勝久の家臣山中幸盛勢の攻撃を受け尾高城を奪われた。1580年、南条元続、小鴨元清勢の攻撃を受けるが撃退した。

杉原元盛【すぎはらもともり(15??~1582)】

杉原盛重の男。通称弥八郎。1581年、父杉原盛重の病没により杉原家の家督を相続した。1582年、伯耆国佐陀城主杉原景盛に謀殺された。

杉原景盛【すぎはらかげもり(15??~1582)】

杉原盛重の次男。官途はは左近進。通称又次郎。1582年、伯耆国佐陀城にいた杉原景盛は、兄杉原元盛を謀殺して杉原家の家督を相続したが、吉川元春勢の攻撃を受け自刃した。

杉原春良【すぎはらはるよし(15??~15??)】

山名理興の次男。官途は内蔵允。兄杉原直良に継嗣が無かったため、杉原家の家督を相続した。1562年、杉原春良の母が、伊予国へと嫁いだ宍戸隆家の娘、河野通直の母(春松院)の側に仕えたため、河野通宣に仕え熊野山城6,000石を領した。1585年、「四国討伐」で羽柴秀吉勢の攻撃を受け河野通直が滅亡すると、毛利輝元に仕えた。

杉原景良【すぎはらかげよし(15??~15??)】

杉原春良の男。1600年、「安濃津城の戦い」では、毛利輝元勢に従って参陣して戦功を挙げた。

杉原直盛【すぎはらなおもり(15??~1562)】

杉原直良の男。通称太郎左衛門尉。1562年、「石見福屋城の戦い」で熊谷信直勢に属して参陣したが討死した。

杉原隆盛【すぎはらたかもり(15??~15??)】

御調郡鷲尾山城。杉原光恒の男。官途は越前守。別名木梨高盛。尼子晴久勢の攻撃を受け父杉原光恒を失い、大内義隆のもとに落延びた。大内義隆の支援を受け鷲尾山城を奪還した。後に小早川隆景に属した。その後、石原忠直勢の攻撃を受け討死した。

杉原元恒【すぎはらもとつね(15??~15??)】

杉原隆盛の男。千光寺山城主。官途は民部大輔。通称小次郎。別名木梨元経。1572年、石原忠直の攻撃を受け、父杉原隆盛が討死すると、古志豊長を頼り、新庄大庭山城に落延びた。後に小早川景隆の支援を受け、石原忠直を討取り、鷲尾山城を奪還した。1595年、毛利輝元の意向により、周防国爪止庄に転封した。

救井義親【すくいよしちか(15??~15??)】

村上吉充家臣。通称太郎左衛門尉。村上吉充のにもとで筆頭家老を務め2,196石を領した。

角秀正【すみひでまさ(15??~15??)】

上原元祐家臣。官途は右馬允。

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【た】

多賀山通続【たがのやまみちつぐ(1506~1570)】

比婆郡蔀山城主。多賀山通忠の男。官途は伯耆守。室は山内直通の娘。1526年 尼子経久から離反して大内義興勢に属したため、尼子経久勢の攻撃を受けた。1528年、大内義興が病没すると、再度尼子経久勢に属した。1535年、毛利元就勢の攻撃を受けた。

多賀山通定【たがやまみちさだ(15??~15??)】

多賀山通続の次男。別名多賀山通憲。1549年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢に属して参陣するが、大敗して継嗣の多賀山通安とともに山口に落延びた。「蔀山城の戦い」では、次男の多賀山通則と家臣が籠城したが落城した。1551年 大内義隆が討死すると山内隆通とともに毛利元就勢に属した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」に参陣して、蔀山城を奪還した。

多賀山通安【たがやまみちやす(15??~15??)】

多賀山通定の男。別名多賀山通広。

多賀山通信【たがやまみちのぶ(15??~15??)】

多賀山通安の次男。1591年 高松城後詰などの責任を問われ改易処分に処された。

滝口通英【たきぐちみちえい(15??~15??)】

山内隆通家臣。

田部通政【たべみちまさ(15??~15??)】

山内隆通家臣。官途は隼人正。通称宗左衛門尉。1560年、「瀬戸山城の戦い」では。毛利元就勢に属した山内隆通に従って、赤穴久清の家臣烏田権兵衛、森田左衛門らを討取る戦功を挙げた。

田中河内守【たなかかわちのかみ(15??~15??)】

山内隆通家臣。笹丸城主。1559年、「団司川原の戦い」で宮景盛の家臣奥宮豊後守と戦った。

田辺光吉【たなべみつよし(15??~15??)】

沼隈郡串山城主。官途は越前守。1562年、和光寺を再興して田辺寺と改称した。

鳥居資長【とちいすけなが(15??~15??)】

村上吉充家臣。宮地明光の次男。通称次郎。家老職を務めた。1555年、「厳島の戦い」後、村上吉充が向島城に拠点を移と余崎城を領した。1567年、因島青木城に転封した。

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【な】

長満光綱【ながみつみつつな(15??~15??)】  

世羅郡平井城主。官途は伊予守。

中村慶久【なかむらよしひさ(15??~15??)】

三吉致高家臣。官途は石見守。

楢崎豊景【ならざきとよかげ(15??~15??)】

芦田郡楢崎城主。官途は三河守。毛利元就に属した。1569年、「石見温湯城の戦い」で杉原盛重が神辺城を留守にすると、藤井皓玄が謀反を起こし神辺城を占拠した。「神辺城の戦い」で村上吉充、三吉隆亮とともに藤井皓玄勢と戦い戦功を挙げた。

新見元致【にいみもとまさ(15??~15??)】

甲奴郡小堀城主。官途は能登守。

新見元高【にいみもとたか(15??~15??)】

新見元致の男。通称少輔六郎。 

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【は】

長谷部元政【はせべもとまさ(15??~15??)】

山名隆通家臣。翁山城主。官途は飛騨守。1554年、「折敷畑の戦い」では、毛利元就勢に属して戦功を挙げた。

長谷部元信【はせべもとのぶ(15??~16??)】

長谷部元政の男。通称大蔵左衛門。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封すると、それに従った。

八谷通成【はちやみちなり(15??~15??)】

山内隆通家臣。官途は壱岐守。1542年、「第一次月山富田城の戦い」に敗れ、毛利元就が甲山城の落延びると、山内直通の意向を受け吉田郡山城まで毛利元就の警護役を務めた。その後、毛利元就に仕えた。

原田綱道【はらだつなみち(15??~15??)】

原田館主。官途は備前守。別名越智綱道。1555年、祇園社を勧請した。

原勘兵衛【はらかんべい(15??~15??)】

和泉久勝家臣。1526年、毛利元就への帰属を巡って和泉久勝対立、三吉致高の支援を受け原勘兵衛、原但馬守、間鍋五郎左衛門、秋山伊勢守らとともに和泉久勝を謀殺した。人質となっていた和泉信行を擁立して毛利元就勢に属した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

原但馬守【はらたじまのかみ(15??~15??)】

和泉久勝家臣。1526年、毛利元就への帰属を巡って和泉久勝対立、三吉致高の支援を受け原勘兵衛、原但馬守、間鍋五郎左衛門、秋山伊勢守らとともに和泉久勝を謀殺した。人質となっていた和泉信行を擁立して毛利元就勢に属した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

林武長【はやしたけなが(15??~15??)】

毛利元就家臣。別名菊池武長。菊池能運の家臣だった。1504年、菊池能運が滅亡すると安芸国に落延びた。毛利元就に仕え備後世羅郡松岡城主を務めた。石見銀山で採掘の奉行職を務めた。

林足早【はやしそくはや(15??~15??)】

林武長の男。小早川隆景に仕えた。

林就長【はやしなりなが(1517~1606)】

林武長の次男。官途は山城守。通称木工允。兄林足早が小早川隆景に仕えたため、林家の家督を相続して毛利元就に仕えた。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、毛利元就に従い参陣した。備後国世羅郡松岡城主を務めた。1581年、柳沢元政とともに石見銀山奉行職を務めた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」後、羽柴秀吉との取次役を務めた。惣国検地を担当した。1586年、「豊前香春岳城の戦い」では、継嗣の林元善、渡辺石見守、二保右衛門太夫、井上伯耆守らとともに参陣して戦功を挙げた。1587年、惣国検地では、検地奉行、打渡奉行職を務めた。備後聖神社を再建し、鎧等を奉納した。因幡国、伯耆国の統治を任された井上就重を小倉元悦ととも補佐した。1591年、平佐就之の後任として柳沢元政とともに石見銀山の銀山奉行を務めた。

林元善【はやしもとよし(15??~15??)】

林就長の男。官途は志摩守。1578年、「播磨上月城の戦い」では、毛利輝元に従って参陣して戦功を挙げた。1586年、「豊前香春岳城の戦い」では、父林就長に従って参陣して戦功を挙げた。

福田盛雅【ふくだ もりまさ(15??~15??)】

芦田郡利鎌山城主。福田勝雅の男。官途は遠江守。通称三郎左衛門尉。別名福田盛昌。1508年、備後国衆が大内義興に従い上洛すると、山城石清水八幡宮に書状を送った。毛利元就勢に属して美作国医王山城主となった。

福田勝雅【ふくだかつまさ(15??~1555)】

福田盛雅の男。別名福田久重。毛利元就勢に属して勢力を拡大していた有地隆信と争った。1555年、「利鎌山城の戦い」で有地隆信勢の攻撃を受け討死した。

福田盛雅【ふくだ もりまさ(15??~15??)】

福田勝雅の男。通所助四郎。別名福田盛昌。1580年、「医王山城の戦い」では、湯原春綱、小川元政とともに宇喜多直家勢の攻撃を受けた。1591年、備後国恵蘇郡、周防国吉敷郡で166石を領した。

本庄豊前守【ほんじょうぶぜんのかみ(15??~1557)】 

飛地山城主。1557年、「飛地山城の戦い」で杉原盛頼勢の攻撃を受け討死した。

祝甲斐守【ほうりかいのかみ(15??~1553)】

江田隆連家臣。三谿郡旗返城主。知波夜比古神社社司。1553年、「高杉城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受けると、継嗣の祝長門守、宗徒、久代修理亮のらとともにに高杉城に籠城したが討死した。

祝長門守【ほうりながとのかみ(15??~1553)】

祝甲斐守の男。1553年、「高杉城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け父祝甲斐守とともに討死した。

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【ま】

前田秀貫【まえだひでぬき(15??~15??)】

三吉隆亮家臣。官途は駿河守。

間鍋五郎左衛門【まなべごろうざえもん(15??~15??)】

和泉久勝家臣。1526年、毛利元就への帰属を巡って和泉久勝対立、三吉致高の支援を受け原勘兵衛、原但馬守、間鍋五郎左衛門、秋山伊勢守らとともに和泉久勝を謀殺した。人質となっていた和泉信行を擁立して毛利元就勢に属した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

光成隆正【みつなりたかまさ(15??~15??)】

有地隆信家臣。掛平山城主。

南泰統【みなみやすむね(15??~15??)】

村上吉充家臣。土居城主。通称彦四郎。五番家老職を務めた。美可崎城に城番を置き海運通行税を徴収した。

新市宮直信【みやなおのぶ(15??~1534)】

芦治郡亀寿山城主。官途は下野守。宮家総領職。1534年、「亀寿山城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け討死した。
 
新市宮元盛【みやもともり(15??~15??)】

宮直信の男。1534年、「亀寿山城の戦い」で父宮直信が討死すると、叔父宮光音のもとに身を寄せた。1551年、尼子晴久の支援を受け毛利元就勢と戦った。1552年、「志川滝山城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け滅亡した。

滝山宮光音【みやみつなり(15??~1552)】

尼子経久家臣。深安郡志川滝山城。1552年、「志川滝山の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受け、落延びるが捕縛され継嗣の宮光寄とともに斬頸に処された。

滝山宮光寄【みやみつより(15??~1552)】

宮光音の男。1552年、「志川滝山の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受け、落延びるが捕縛され斬頸に処された。

久代宮高盛【みやたかもり(15??~15??)】

神石郡五品嶽城主。宮景友の男。1533年、「八鳥、二本松の戦い」で尼子経久勢を撃退した。1534年、「亀寿山城の戦い」では、宮直信とともに毛利元就勢と戦った敗れた。1536年、「五品嶽城の戦い」では、尼子経久勢の攻撃を受けたが撃退した。
 
久代宮興盛【みやおきもり(15??~1540)】

宮高盛の男。
 
久代宮景盛【みやかげもり(15??~15??)】

宮高盛の次男。官途は上総介。1540年、兄宮興盛の病没により宮家の家督を相続した。1559年、「段司河原の戦い」で田中河内守勢を撃破した。尼子義久勢からの離反した伯耆国生山城主山名藤幸を匿い、次男の山名景幸をその養子として伯耆国山名家を相続した。1569年、「生山城の戦い」で尼子義久勢に属する蜂塚義光を支援して山名藤幸を討取る戦功を挙げた。

久代宮智盛【みやとももり(15??~15??)】

宮景盛の男。
 
久代宮広尚【みやひろなお(15??~15??)】

宮智盛の男。通称左衛門。毛利輝元に従った。1592年、「文禄の役」の軍役負担を回避するため、知行高を詐称したが露見して、伯耆国日野に転封処分に処された。

小糸宮勝信【みやかつのぶ(15??~1550)】  

沼隈郡郡小糸城主。官途は兵部大輔。1550年、「小糸城の戦い」で大内義隆勢の攻撃を受け討死した。

掛迫宮勝国【みやかつくに(15??~1566)】

沼隈郡掛迫城主。官途は治部大輔。1550年、「小糸城の戦い」で大内義隆勢の攻撃を受け落城した。

甲谷宮信定【みやのぶさだ(15??~15??)】

沼隈郡甲谷城主。

戸山宮正味【みやまさみ(15??~1552)】

沼隈郡戸山城主。1552年、「戸山城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け討死した。

三吉豊高【みよしとよたか(15??~15??)】

比婆郡比叡尾山城主。 山名政豊家臣。比叡尾山城80,000石を領した。

三吉致高【みよしまさたか(15??~15??)】

三吉豊高の男。1507年、足利義稙を擁する大内義興に従って上洛した。1513年、「石見二ツ山城の戦い」で高橋元光を討取る戦功を挙げた。1516年、「志和地長野の戦い」では、宍戸元源と結び毛利興元と戦った。1518年、「赤屋館の戦い」では、尼子経久勢の木梨匡信勢の攻撃を受けた赤屋館を毛利興元とともに支援した。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、祝屋城への尼子晴久勢に従い先導役を務めた。154年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢に属して尼子晴久勢と戦った。1544年、「比叡尾山城の戦い」で尼子晴久勢の攻撃を受けたが、毛利元就の支援を受けて撃退した。

三吉隆亮【みよしたかすけ(15??~16??)】

三吉致高の男。1553年、父三吉致高とともに毛利元就に従った。娘は毛利元就の側室となり、椙杜元秋、出羽元倶、末次元康をもうけた。1573年、継嗣の三吉広高とともに毛利輝元と盟約の起誓文を交換した。

三吉広高【みよしたかひろ(15??~16??)】

三吉隆亮の男。官途は安房守。1591年、比熊山城を築城、比叡尾山城から転封した。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封になると、所領を失った。浅野長晟に仕え200石を領した。

三吉隆勝【みよしたかかつ(15??~1583)】

三吉隆亮の三男。大内山城主。官途は若狭守。

三吉隆俊【みよしたかとし(15??~15??)】

三吉隆亮の四男。

三吉久高【みよしひさたか(15??~15??)】

三吉豊高の次男。

三吉三郎右衛門【みよしさぶろうえもん(15??~1541)】

三吉豊高の三男。

三吉五郎右衛門【みよしごろうえもん(15??~15??)】

三吉豊高の四男。三吉郡原村沼城主。

三吉豊後守【みよしぶんごのかみ(1532~1587)】

三吉三郎右衛門の男。通称新四郎。

因島村上尚吉【むらかみなおよし(15??~15??)】

沼隈郡因島青影城主。村上吉直の男。官途は加賀守。通称新蔵人。因島村上尚吉、能島村上雅房、来島村上通康とともに瀬戸内海を支配した海賊衆。1541年、「安芸桜尾城の戦い」で友田興藤を支援したため、大内義隆の攻撃を受けた。1543年、「神辺城の戦い」では、大内義隆に従って尼子晴久に属した山名理興勢と戦い戦功を挙げ鞆浦の領地18貫を加増された。

因島村上吉充【むらかみよしみつ(1534~1623)】

村上尚吉の男。通称蔵人。室は乃美賢勝の娘。1555年、「厳島の戦い」では、小早川隆景から毛利元就勢への参陣を求められ、末長景道勢を派遣して戦功を挙げた。毛利元就と大内義長の戦いでも関門海峡を封鎖するなどの戦功を挙げた。1561年、「豊前門司城の戦い」では、乃美宗勝に従って大友義鎮の家臣若林 鎮興勢を撃退する戦功を挙げた。1576年、「第一次木津川口の戦い」では、織田信長の家臣九鬼嘉隆勢の海賊衆を壊滅させた。1582年、村上通昌が羽柴秀吉に寝返ると、弟村上亮康、村上隆吉とともに毛利輝元への忠誠を誓い、その恩賞として500貫を加増された。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封になると、1,800石の領地しか与えらなかったため、因島で帰農した。

因島村上隆吉【むらかみたかよし(15??~1582)】

村上尚吉の次男。1582年、村上通昌が羽柴秀吉に寝返ると、兄村上吉充、村上亮康とともに毛利輝元への忠誠を誓い、その恩賞として100貫を加増された。

因島村上亮康【むらかみすけやす(1534~1608)】

村上尚吉の三男。沼隈郡大可島城主。官途は衛門大夫。村上尚吉の意向を受け鞆津代官職を務めた。1569年、「備後神辺城の戦い」で杉原盛重の家臣藤井皓玄が謀反を起こして神辺城を占拠した。「備後神辺城の戦い」で村上吉充、楢崎豊景、三吉隆亮、所原肥後守らとともに藤井皓玄勢と戦い神辺城を奪還する戦功を挙げた。毛利輝元を頼ってきた足利義昭の警護役を務め、毛氈、鞍覆、白傘袋の使用を認められた。1576年、「第一次木津川口の戦い」では、織田信長の家臣九鬼嘉隆勢と戦い戦功を挙げた。1582年、村上通昌(来島通総)が羽柴秀吉に内応すると、村上吉充、村上隆吉とともに毛利輝元に忠誠い、その恩賞として100貫を加増された。

因島村上景康【むらかみかげやす(15??~1587)】

村上亮康の男(村上吉充の養子)。別名村上景隆。1587年、「九州征討」では、羽柴秀吉勢に属して参陣するが、日向国延岡で病没した。

因島村上吉亮【いんのしまよしすけ(15??~1596)】

村上亮康の三男(村上吉充の養子)。通称新左衛門。別名村上吉祐。室は浦宗勝の娘。1575年、「播磨上月城の戦い」では、小早川隆景に従って参陣して織田信長の家臣尼子勝久勢と戦い戦功を挙げた。兄村上景康が病没したため、村上吉充の養子となり因島村上家の家督を相続したがまもなく病没した。

因島村上元充【むらかみもとみつ(15??~16??)】

村上吉亮の男。(村上吉亮の養子)。1600年、「伊予松山城の戦い」では、幼少であったため、村上吉忠が名代として出陣した。役後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封になると、それに従い、周防三田尻にで船手組番頭を務めた。

因島村上元吉【むらかみもとよし(1566~15??)】

村上隆吉の男。通称喜兵衛。1581年、毛利輝元に仕えた。1592年、「文禄の役」では、毛利秀元に従い村上景親とともに戦功を挙げた。

因島村上吉国【むらかみよしくに(15??~16??)】

村上吉忠の男。1600年、「伊予松山城の戦い」で父村上吉忠が討死したため、村上吉充の養子となった。

因島村上吉忠【むらかみよしただ(15??~1600)】

村上亮康の四男。通称八郎右衛門。1600年、「伊予松山城の戦い」では、村上元充の陣代として因島村上海賊衆を率いて参陣した。能島村上元吉に従って加藤嘉明の家臣佃十成と戦い討死した。

因島村上吉国【むらかみよしくに(15??~16??)】

村上吉忠の男(村上吉充の養子)。別名村上義光。1600年、父村上吉忠が討死すると村上吉充の養子となった。慶長十三年、伊予国越智郡大島に転封した。後

百島村上吉房【むらかみよしふさ(15??~15??)】

沼隈郡百島茶臼山城。官途は丹後守。

百島村上吉高【むらかみよしたか(15??~1572)】

村上吉房の男。通称喜兵衛。1572年、「幸崎城の戦い」では、村上範和と結び幸崎城を攻撃するも敗退、逆に因島村上吉充の反撃を受け討死した。

百島村上高吉【むらかみたかよし(1533~1597)】

村上吉高の男。通称喜兵衛。1572年、「茶臼山城の戦い」で村上吉充勢の攻撃を受け落延びた。叔父村上吉卿に呼び戻され、因島海賊衆の海将として活躍した。1555年、「厳島の戦い」では、毛利元就勢に属して戦功を挙げた。1576年、「第一次木津河口の戦い」では、織田信長の家臣九鬼嘉隆勢と戦い戦功を挙げた。1579年、百島萬松山西林寺を建立した。1592年、「文禄の役」では、小早川隆景に従って参陣した。

百島村上吉卿【むらかみよしあき(15??~15??)】

村上吉房の次男。官途は越後守。1572年、「茶臼山城の戦い」で村上吉充勢の攻撃を受け兄村上吉高が討死した。島内に残り抵抗を続け、和議を結んだ。兄の継嗣村上高吉を呼び戻して、百島村上家の再興した。以後、村上高吉の補佐を行い、各地の海戦で活躍した。

因島村上吉之【むらかみよしゆき(15??~15??)】

村上吉充家臣。1557年、村上吉充が余崎城に転封すると、長崎城守将となる。

因島村上吉満【むらかみよしみつ(15??~15??)】

村上吉充家臣。村上治部少輔の男。岡島城主。通称又三郎。永禄年間、鉾八幡神社の社殿を改修した。
 
因島村上義房【むらかみよしふさ(15??~15??)】

村上吉充家臣。寺崎城主。官途は丹後守。別名村上吉房。天正二年、斎島神社に刻銘の入った燈籠を寄進した。

因島村上吉高【むらかみよきたか(15??~1580)】

村上吉充家臣。葛籠屑城主。官途は内蔵大夫。1580年、来島通総に加勢したとして、河野家に攻められ自刃した。

因島村上弘正【むらかみひろまさ(15??~15??)】

村上吉充家臣。明沢城主。官途は信濃守。

森光景近【もりみつかげちか(15??~15??)】

三吉広隆家臣。御調郡牛の皮城主。通称新四郎。1544年、「比叡尾山城の戦い」では、池上丹波守、上里通職らとともに尼子晴久勢に属して大内義隆勢の三吉致高を攻撃した。

森光近宗【もりみつちかむね(15??~15??)】

森光景近の男。官途は下総守。

森光元清【もりみつもときよ(15??~15??)】

森光近宗の男。通称左衛門

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【や】

備後山内直通【やまのうちなおみち(15??~15??)】

比婆郡甲山城主。山内豊成の男。通称新左衛門尉。1542年、「相合元綱の乱」では、相合元綱を支援して毛利元就と敵対した。毛利元就に敵対した渡辺通、塩冶興久らを保護した。1536年、「甲山城の戦い」で尼子晴久勢の攻撃を受け和議の条件として、備後山内家の家督を孫の山内隆通に譲った。

備後山内豊通【やまのうちとよみち(15??~15??)】

山内直通の男。室は毛利興元の娘。毛利興元の娘を嫁に迎えたが、父山内直通より先に病没した。

備後山内隆通【やまのうちたかみち(1530~1586)】

多賀山通続の男(山内直通の養子)。室は山内豊通の娘。別名多賀山隆通。1536年、「甲山城の戦い」で山内直通が隠居すると、備後山内家の家督を相続した。1553年、毛利元就勢に属した。

備後山内元通【やまのうちもとみち(15??~15??)】

山内隆通の男。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封になると、それに従った。

備後山内広通【やまのうちひろみち(15??~15??)】

山内隆通の次男(山内元通の養子)。官途は大隈守。1589年、「小田原の役」では、毛利輝元に従って参陣した。1590年、「伊豆山中城の戦い」では、吉見広頼らとともに戦功を挙げた。

備後山内元資【やまのうち(15??~15??)】 

山内広通の男。

湯浅元宗【ゆあさもとむね(15??~15??)】

山内直通家臣。世羅郡尾首山城主。官途は美濃守。官途は治部大輔。通称五郎二郎。後に毛利元就勢に属した。「神辺城の戦い」「志川瀧山城の戦い」「高杉城の戦い」まどで戦功を挙げた。毛利輝元の元服時に太刀一振、青銅500疋を献上した。

湯浅将宗【ゆあさまさむね(15??~15??)】

湯浅元宗の男。官途は治部大輔。1577年、香川元景、三好長安の救援に派遣された。後に井原元造とともに広島城堀普請奉行に任じられた。

湯川元常【ゆかわもとつね(15??~15??)】

山内隆通家臣。官途は甲斐守。通称三郎左衛門。1542年、「第一次月山富田城の戦い」に敗れ、毛利元就が甲山城の落延びると、山内直通の意向を受け吉田郡山城まで毛利元就を警護役を務めた。その後、毛利元就に仕えた。その後、毛利元就に仕え、井上就正とともに周防四郡(都濃、熊毛、玖珂、大島)の段銭奉行を務めた。

柚谷元家【ゆたにもといえ(15??~15??)】

和智豊郷の次男。通称新三郎。別名湯谷久豊。1569年、毛利隆元を毒殺した疑いで兄和智誠春とともに厳島に幽閉され、誅殺された。

柚谷実義【ゆたにさねよし(15??~1569)】

柚谷元家の男。通称又左衛門。柚谷元家の意向を受け福山城を守備した。1569年、父柚谷元家が叔父の和智誠春とともに毛利隆元を毒殺した疑いで毛利元就に謀殺されると、萩原城に籠城したが、一戦も交えることなく自刃した。

横山盛資【よこやまもりすけ(15??~15??)】

杉原盛重家臣。深安郡小森館主。官途は備前守。1557年、杉原盛重が神辺城主になると勢力を拡大した。1581年、杉原元盛が杉原景盛に謀殺され滅亡した後も、小早川景隆から所領を安堵された。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に減封されると帰農した。

横山盛政【よこやまもりまさ(15??~15??)】

横山盛資の男。継嗣の九郎左衛門を吉川元春に人質として差出した。

吉原元親【よしはらもとちか(15??~15??)】

世羅郡杉城主。官途は豊後守。毛利元就に属した。

吉原元種【よしはらもとたね(15??~15??)】

吉原元親の男。瀬賀山城主。

吉原親俊【よしはらちかとし(15??~15??)】

吉原元親の次男。官途は備前守。1600年、「関ヶ原の役」後に毛利輝元が防長二ヶ国に減封されると、世羅郡で帰農した。

渡辺七郎左衛門尉【わたなべしちろうざえもんのじょう(15??~15??)】

宮高盛家臣。五品嶽城代を務めた。

和智豊郷【わちとよさと(15??~15??)】

三谿郡南天山城主。尼子経久、大内義隆、毛利元就らの狭間にあって苦慮したが、大内義隆に属した。1522年、「南天山城の戦い」では、尼子経久勢の攻撃を受け降伏した。1553年、「旗返山城の戦い」では、毛利元就勢に属して江田隆連と戦った。

和智誠春【わちまさはる(15??~1568)】

和智豊郷の男。官途は左衛門尉。室は福原広俊の娘。1562年、「第二次月山富田城の戦い」に赴く毛利隆元を饗応するも、その直後に毛利隆元が急逝したため、謀殺の嫌疑を受けた。1568年、弟湯谷元豊とともに厳島に監禁された。1568年、番衆の隙を狙い脱出。厳島神社の神殿内に逃げ込み神殿を焼き払おうとしたため、熊谷就政、児玉元村によって謀殺された。

和智元郷【わちもとさと(15??~15??)】

和智誠春の男。1568年、父和智誠春が毛利隆元毒殺の嫌疑で厳島に幽閉されると毛利元就に忠誠を誓う起請文を提出し謀殺を免れた。

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【資料Ⅰ】

備後国(14郡/186,000石)

安那郡:銀山城、光照寺寺。
深津郡:
神石郡:五品嶽。
奴可郡:
沼隈郡:神辺城、鞆城。
品治郡:
芦田郡:有地城、楢崎城、府中城、福田城。
甲奴郡:
三上郡:
恵蘇郡:黒岩城、甲山城、久代城、亀山城、青影城。
御調郡:三原城、木梨城、尾道街、因島城。
世羅郡:茶臼城、龍王山城。
三谿郡:南天山城。
三次郡:比叡尾城、江田城、志和地城、三次街、三良坂寺。

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【資料Ⅱ】

宇賀島衆【うかしま しゅう】

備後国尾道と向島の間の尾道水道に浮かぶ宇賀島を根拠地とした海賊衆。宇賀島衆は宇賀島を中心に周辺海域で航行船舶から礼銭、関料を徴収していた。1540年、朝鮮の日本回礼使宋希璟は尾道で海賊船十八隻の待ち伏せを受けて食料を求められた。1551年、梅林守龍は竹原で海賊衆に囲まれて「過分の礼銭」を支払った。1554年、村上吉充と結んだ小早川隆景によって滅ぼされた。

因島村上海賊衆【いんのしまむらかみかいぞくしゅう】

備後国因島を中心に瀬戸内海を支配した。1554年、小早川隆景から所領を安堵されると、毛利元就勢に属するようになった。その後も毛利元就に従い周防国、長門国の攻略や、大友義鎮、織田信長との戦いなどに参陣した。能島村上★が羽柴秀吉と対立して、瀬戸内海から追放されるが、因島村上吉充は毛利輝元の船手組番頭としてその後も家門を維持した。

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【資料Ⅲ】

備後国【びんごのくに】

瀬戸内海に面した山陽道の国。東は備中国、西は安芸国といずれも山地で結ばれ、北は中国山地を境に伯耆国、出雲国、石見国の三国と接する。南は瀬戸内海の備後灘に面し、海上に横島、田島、走島などの諸島を経て伊予国と向かい合う。七世紀に吉備国が備後、備中、備前の三国分離し、西境の十二郡をもって備後国となり、後に二郡を加え、南七郡が外郡、北七郡が内郡と称された。北部は中国地方を東西に連なる中国山地の南の吉備高原を中心とた山国で平地が乏しい。南部は芦田川がその流域に平野部を作り、河口部では広い福山平野を形成して瀬戸内海に注ぐ。こうした地形のため、南部の方が農業、経済ともに発達、備後灘に面する沿岸部と数多くの島々では、海上交通と漁業も盛んである。特に尾道、柄の湊は瀬戸内海航路の要湊として発展した。また沿岸部では製塩が盛んである。北部の山岳地帯では林業と並んで、鉱業、特に製鉄が重要な産業となっている。

瀬戸田【せとだ】

高根島との水道部に面した生口島の北西部に位置する湊街。周辺海域の水運の中核として栄えた。瀬戸田は小早川家海賊衆の中核を構成する生口海賊衆や直属船の停泊地となり、小早川家の外湊となった。備後塩は生口島産だけではなく、その他の品とともに瀬戸田に集められ集荷された。1535年、瀬戸田の商人瀬戸田彦右衛門が厳島神社の回廊再建費用の寄進した。1555年、檀越生口隆平のもと瀬戸田の街衆が向上寺に梵鐘を寄進した。

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戦国人名辞典は1500~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は文献を表示していますが、架空歴史小説も含まれるため、記載されている人物が史実上の人物とは限りません。

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陶隆房は陶晴賢、尼子詮久は尼子晴久、大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、立花道雪は戸次鑑連、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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