2011年12月24日土曜日

戦国備中国人名辞典

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【あ】

赤木忠国【あかぎただくに(15??~15??)】

川上郡穴田瀧谷城主。1537年、尼子経久勢に属して瀧谷城主となった。1540年、大内義隆の意向を受け、毛利元就の郡山吉田城を包囲した尼子晴久の後方陣地を鶴首城主三村家親らとともに攻撃して、その糧道を断ち、尼子晴久勢を撤退に追い込んだ。以後毛利元就勢に属した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

赤木忠房【あかぎただふさ(15??~15??)】

赤木忠国の男。官途は蔵人。1574年、松山城主三村元親が織田信長と結び毛利輝元勢と戦うと、成羽城主三村親成とともに毛利輝元勢に属して、備中国の先導役を務めた。1575年、「松山城の戦い」に参陣した。その後も父赤木忠国とともに毛利輝元勢に属して中国各地に転戦して戦功を挙げた。1577年、「播磨佐用城の戦い」でも戦功を挙げた。1582年、「備中高松城の戦い」では、妙見山に陣取って羽柴秀吉勢と対峙した。1585年、「四国討伐(天正の陣)」では、小早川景隆勢に属して、高尾城主金子元宅を討取る戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元のもとを離れ塩田村に帰農した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

赤木忠直【あかぎただなお(1573~1603)】

赤木忠房の男。官途は丹後守。通称与四郎。三村元親勢に属した。三村元親が毛利輝元から離反すると父赤木忠房とともに毛利輝元勢に属した。1582年、「備中高松城の戦い」に参陣して羽柴秀吉勢の陣に夜襲を掛けた。その戦功により丸山城1,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長に減封になると塩田村に帰農した。1614年、「大坂冬の陣」では、中島昌行らととも松平元康勢に属して参陣した。参考文献:『高梁歴史人物辞典』by佐藤享。

赤木景忠【あかぎかげたか(15??~15??)】

赤木忠国家臣。長池城主。官途は弾正忠。

赤木久忠【あかぎひさただ(15??~15??)】

赤木景忠の男。官途は丹波守。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢に属して参陣して戦功を挙げた。

赤木忠興【あかぎただおき(15??~15??)】

志良計城主。通称左衛門尉。

明石俊重【あかしとししげ(15??~15??)】

三村元親家臣。官途は兵部大輔。。1575年、「備中兵乱」では、援軍として鬼身山城に派遣されていたが、上田家実とともに毛利輝元勢に内応した。

明石兵部少輔【あかしへいぶしょうゆ(15??~15??)】

明石俊重家臣。伊与部山城主。嗣子無く、中島大炊助の四男彦四郎を養子とした。
 
明石余次【あかしよつぎ(15??~15??)】

中島大炊助の四男(明石兵部少輔の養子)。通称彦四郎。

阿部市介【あべいちのすけ(15??~15??)】

三村元親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

荒木兵庫頭【あらきひょうごのかみ(15??~15??)】

上田家実家臣。馬首城主。猛将として知られ備中各地を転戦して戦功を挙げた。1575年、「備中高松城の戦い」では、毛利輝元勢に属して高松城に籠城した。

有岡右京【ありおかうきょう(15??~15??)】

小田政清家臣。政所山城主。1564年、「龍の口の戦い」で討死した小田小太郎の亡骸を馬鞍山城まで運んだ。

有岡新之丞【ありおかしんのじょう(15??~15??)】

走出城主。1566年、東南の馬鞍山城主小田政清と西北の高越城主伊勢盛勝、伊勢高晴父子の両勢力狭間で苦境に立たされ、城を棄てて落延びた。小田政清が折敷山城を治めた。

有木平内【ありきひらない(15??~15??)】

三村親宣家臣。

家近十郎【いえちかじゅうろう(15??~1575)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け討死した。

池田勘解由【いけだかげゆ(15??~15??)】

赤坂城主。1570年、三村元範勢の攻撃を受け伯耆国に落延びた。

石蟹守元【いしがもりもと(15??~15??)】 

哲多郡石蟹城主。官途は山城守。通称与兵衛。室は庄氏敬の娘。尼子晴久勢の攻撃を受け捕縛され13年間月山富田城で幽閉された。1553年、三村家親、毛利元就勢が尼子晴久勢に属する猿掛城主庄為資を攻撃すると、庄為資を支援した。1570年、宇喜多直家勢の攻撃を受け降伏、佐井田城主植木秀長への攻撃の先導役を務めた。

石蟹元宣【いしがもとのぶ(1555~1571)】

石蟹守元の男。官途は山城守。通称孫兵衛。庄為資と結び三村家親と対抗したため幽閉された。1575年、「備中兵乱」では、毛利元就勢に属して旧領を安堵された。美作国久米郡一ノ瀬城主竹内久盛が毛利元就勢に属するとその支援に赴いた。

石川家久【いしかわいえひさ(15??~15??)】 

窪屋郡高山城主。

石川久智【いしかわひさとも(15??~1567)】

石川家久の男。三村家親と結んで宇喜多直家勢と戦った。1567年、「明禅寺の戦い」で三村元親とともに宇喜多直家勢と戦って敗北、石川久智は負傷し、その傷がもとで没した。

石川久式【いしかわひさのり(1557~1575)】

石川久智の男。通称源左衛門。室は三村家親の娘。1567年、父石川久智の病没により石川家の家督を相続した。1571年、毛利元就に従って九州に参陣中に尼子勝久勢に高山城を奪われた。毛利元就勢の支援を受けてこれを奪回した。1574年、三村元親が織田信長勢に属して毛利輝元勢から離反すると、それに従った。「松山城の戦い」では、三村元親の副将格として入城したが敗れ、落延びるが家臣の裏切りにより自刃した。

石川久孝【いしかわひさたか(15??~15??)】 

石川久智家臣。高松城主。通称左衛門佐。

石田与市左衛門【いしだよいちざえもん(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

石田備前守【いしだびぜんのかみ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

伊勢盛勝【いせもりかつ(15??~15??)】

高越山城主。室は小田政清の娘。1566年、「萌黄ヶ原の戦い」では、小田政清勢を支援して村上隆重勢と戦った。

伊勢高晴【いせたかはる(15??~15??)】

伊勢盛勝の男。

伊勢国寛【いせくにひろ(15??~1575)】

三村元範家臣。粒根城主。官途は掃部亮。三村元範の剣術指南役を務めた。1575年、「備中兵乱」では、楪城に三村元範らとともに籠城したが小早川隆景勢の攻撃を受け討死した。

井上春忠【いのうえはるただ(15??~15??)】

小早川景隆家臣。浅口郡鳶山城主。井上資明の男(井上秀俊の養子)。官途は伯耆守。通称又右衛門尉。1550年、井上元兼ら枝連衆の多くが毛利元就に粛清されたが、井上春忠は連座を免れた。竹原小早川隆景が沼田小早川家を相続した際、附家老職を務めた。1597年、小早川隆景の病没後は、毛利輝元に仕えたが冷遇されたため、継嗣の井上景貞とともに出奔した。

井上景貞【いのうえかげさだ(15??~15??)】

井上春忠の男。通称五郎兵衛。小早川隆景に仕えた。1592年、「文禄の役」では、粟屋景雄とともに小早川隆景勢の先陣を務めた。「碧蹄館の戦い」では、李有曻を討取る戦功を挙げた。1597年、小早川隆景の病没後は、毛利輝元に仕えた。1601年、毛利輝元のもとで冷遇されたため、父井上春忠とともに出奔した。

井上有景【いのうえありかげ(15??~15??)】

毛利輝元家臣。賀陽郡庭瀬城主。1575年、毛利輝元から庭瀬城主に任じられた。1582年、「備中高松城の戦い」では、境目七城(冠山城、高松城、宮地山城、鴨庄城、日幡城、松島城、撫川城)のひとつとなり、井上有景が800余りを率い守備した。吉川元春、小早川隆景から撤退命令を受けたが、羽柴秀吉勢と戦い敗れた。

植木秀長【うえきひでなが(15??~15??)】

庄為資家臣。小田郡佐井田城主。植木藤資の男。1533年、「松山城の戦い」で上野頼久を滅ぼした。1567年、「明禅寺の戦い」では、三村元親勢に属して参陣した。1568年、宇喜多直家勢の攻撃を受け降伏した。1569年、穂井田元清勢の攻撃を受けたがこれを撃退した。

上田家実【うえだいえざね(15??~15??)】

下道郡鬼身城主。別名上田阿西。1575年、「備中兵乱」では、小早川隆景は、川上郡国吉城を降すと、哲多郡楪城主三村元範を攻め落し、鬼実山城主上田家実を攻撃した。上田家実は援将の明石俊重とともに養子上田家親の自刃を条件に毛利輝元勢に降伏した。

上田家親【うえださねちか(1556~1575)】

三村家親の四男(上田家実の養子)。別名三村実親。1575年、「備中兵乱」では、毛利輝元勢の攻撃を受け鬼身城は包囲された。上田実親と城兵は苦戦を強いられ、城兵の命と引き替えに自刃し、鬼身城は落城した。

上田勝親【うえだかつちか(15??~15??)】

上田家親の男。

上田吉親【うえだいしちか(15??~15??)】

上田家親の次男。

上田加介【うえだかすけ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

上野頼久【うえのよりひさ(15??~1521)】

上房郡松山城主。足利義稙家臣。官途は兵部大輔。1509年、足利義稙の意向を受け鬼邑山城に任じられた。上野信孝は、上野高直に鬼邑山城、上野頼久に松山城を預けて帰洛した。上野頼久は備中国内で勢力拡大、継嗣の上野頼氏に松山城を譲り、次男上野右衛門尉を小松山城入れた。参考文献:『高梁歴史人物辞典』by佐藤享。

上野頼氏【うえのよりうじ(15??~1533)】

上野頼久の男。官途は伊豆守。1521年、父上野頼久の病没により上野家の家督を相続した。1533年、「松山城の戦い」で尼子晴久勢の支援を受けた庄為資勢の攻撃を受け叔父上野右衛門尉とともに討死した。庄為資勢に属した植木秀長に討取られた。参考文献:『高梁歴史人物辞典』by佐藤享。

上野右衛門尉【うえのうえもんのじょう(15??~1533)】

上野頼久の次男。小松山城主。1533年、「松山城の戦い」で尼子晴久勢の支援を受けた庄為資勢に属した植木秀長の家臣若林次郎右衛門に討取られた。参考文献:『高梁歴史人物辞典』by佐藤享。

宇治頼宜【うじよりのぶ(15??~15??)】

赤木忠国家臣。白毛ヶ城主。通称左衛門尉。室は赤木忠国の娘。「白毛城の戦い」では、籠城戦を続け、糧食も底をつき落城寸前に追い込まれた。苦肉の策として、米の半分を島木川に流し、残り半分を握り飯にして、兵に城壁の上で食べさせた。これを見た寄せ手は兵糧攻めをあきらめ、引き上げた。参考文献:『高梁歴史人物辞典』by佐藤享。

生石中務少輔【おいしなかつかさしょうゆう(15??~15??)】

石川久智家臣。通称惣左衛門。1574年、「松山城の戦い」で石川久式が滅亡すると、小早川隆景に属した。1582年、「備中高松城の戦い」では、加茂城を守備した。羽柴秀吉に内応して宇喜多秀家勢を城内に引き入れたが、城主桂広繁の反撃を受け落延びた。その後宇喜多秀家の家臣岡家利の寄騎衆を務め1,500石を領した。1599年、「宇喜多家騒動」で岡家利とともに宇喜多秀家のもとを退去した。

大槻源内【おおつきげんない(15??~15??)】

竹井直定家臣。

小田政清【おだまさいえ(15??~15??)】

小田郡岩屋山城主。小田勝清の男。官途は治部少輔。1555年、「神戸山城の戦い」では、荘実近勢の攻撃を受け三光寺に落延びた。1565年、毛利元就勢の支援を受け神戸山城に帰還した。1566年、「萌黄ヶ原の戦い」では、村上隆重勢の攻撃を受けたが伊勢盛勝、穂井田元祐の支援により撃退した。

小田勝清【おだかつきよ(15??~1564)】

小田政清の男。通称小太郎。1564年、「龍の口の戦い」で討死した。

小田隆清【おだたかきよ(15??~1575)】

小田政清の次男。官途は民部少輔。1568年、神護寺本堂を建立した。 

小田元家【おだもといえ(15??~15??)】

小田高清の男。通称孫兵衛。1592年、「文禄の役」に参陣した。1595年、毛利輝元の意向を受け安芸国に転封した。「長雨に照日の本のてらされば 小田にみのらぬ いねといふなり」という一首を詠んで本貫の地を離れた。

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【か】

上山元忠【かみやまもとただ(15??~15??)】

毛利元就家臣。下道郡加茂城主。通称兵庫介。1562年、平佐藤左衛門、吉川経安、山県左京とともに本城常光を謀殺後、山吹城を接収してそれを守備した。1582年、「備中高松城の戦い」では、桂広繁、生石中務少輔らとともに加茂城を守備した。

神原与三左衛門尉【かみはらよさざえもん(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

神原六郎左衛門尉【かみはらろくろうさえもんのじょう(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け討死した。

軽部治部【かるべじぶ(15??~1575)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け討死した。

河上孫九郎【かわかみまごくろう(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

川西之秀【かわにしゆきひで(15??~15??)】

三村元親家臣。荒平城主。通称三郎左右衛門。1575年、「備中兵乱」では、小早川隆景勢の攻撃を受け、城兵の助命と引き替えに児島に退去した。

河原直久【かわはらなおひさ(15??~15??)】

三村家親家臣。通称六郎左衛門尉。1575年、河原直久と竹井直定は、毛利輝元勢に内応して、都窪郡幸山城主石川久式の備中松山城天神の丸を乗っ取り、石川久式の妻子を人質にした。これにより兵の結束は乱れ、備中松山城の落城を早めた。

梶尾織部【かじおおりべ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」では、小早川隆景勢の攻撃を受け石川久式、三村右京亮、井山雄西堂、日名助左衛門、吉良常陸介ら50余りとともに城内本丸に最後まで踏み留まった。

神崎豊後守【かんざきぶんごのかみ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

神崎兵衛左衛門【かんざきへいざえもん(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

国弘高実【くにひろたかざね(15??~15??)】

小早川隆景家臣。官途は隠岐守。1575年、「備中兵乱」で石川久孝が家臣友野石見守に謀殺されると、小早川隆景の意向を受け幸山城を守備した。

吉良常陸介【きらひたちのすけ(15??~15??)】

三村元親家臣。藤木城主。1575年、「備中兵乱」では、松山城に籠城して毛利輝元勢と戦ったが敗れて自刃した。

吉良七郎左衛門尉【きらしちろうざえもんのじょう(15??~15??)】

吉良常陸介の男。1575年、「備中兵乱」では、父吉良常陸介とともに松山城に籠城して毛利輝元勢と戦ったが敗れて自刃した。

吉良丹後守【きらたんごのかみ(15??~15??)】

三村元親家臣。豆木城主。1575年、「備中松山城の戦い」では、松山城に籠城して毛利輝元勢と戦った。

国府市正【こういちまさ(15??~1582)】

石川智家家臣。1582年、「備中高松城の戦い」では、清水宗治ととのに羽柴秀吉勢と戦った。清水宗治の介錯を務めた後、自身も自刃した。

小林亦三郎【こばやしあかざぶろう(15??~15??)】

竹井直定家臣。

小原主計【こはらしゅけい(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

近藤掃部頭【こんどうかもんのかしら(15??~1575)】

三村家親家臣。笹尾城主。1575年、「備中兵乱」では、毛利元就勢に属した赤木忠直の攻撃を受け、松山城に落延びて籠城したが、討死した。

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【さ】

佐藤右京亮【さとううきょうのじょう(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

佐藤右京進【さとううきょうのしん(15??~15??)】

佐藤右京亮の男。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

佐藤庄三郎【さとうしょうざぶろう(15??~15??)】

藤井皓玄家臣。1569年、「神辺城の戦い」では、藤井皓玄に従って、藤井六郎左衛門、寺地又兵衛、藤代五郎入道ら500余りとともに神辺城を攻撃した。

佐野忠職【さのただおり(15??~1559)】

石川久智家臣。浅口郡亀山城主。官途は和泉守。1559年、毛利元就勢の攻撃を受け討死した。

清水宗綱【しみずむねつな(15??~15??)】

石川家久家臣。賀陽郡清水城主。

清水宗則【しみずむねのり(15??~15??)】

清水宗綱の男。官途は備後守。1567年、「明禅寺城の戦い」で石川久智家勢に属して参陣した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、三村元親、細川通薫、中島輝行、上野頼氏らとともに毛利元就勢に従って参陣した。

清水宗知【しみずむねとも(15??~1582)】

清水宗則の男。官途は備後守。通称左近。別名月清入道。庶子であったため、清水家の家督は弟の清水宗治が相続した。1568年、「立花鑑載の乱」では、大友義鑑と戦い戦功を挙げた。1582年、「備中高松城の戦い」では、清水宗治とともに備中高松城に籠城した。しかし羽柴秀吉の水攻めという奇策に遭い、最終的には兵士の助命を条件に、清水宗治ともに自刃した。辞世は句は「世の中の惜しまるるとき散りてこそ 花も花なれ 色も有りけれ」。

清水行宗【しみずゆきむね(15??~1597)】

清水宗知の男。官途は右衛門尉。1582年、「備中高松城の戦い」では、父清水宗知とともに高松城に籠城した。清水宗知は自刃したが、自身は生き残り小早川隆景に仕えた。1592年、「文禄の役」に参陣して戦功を挙げた。

清水宗治【しみずむねはる(1537~1582)】

清水宗則の男。通称長左衛門尉。室は石川久孝の娘。兄清水宗知に代わって清水家の家督を相続した。1565年、石川久孝とその継嗣が相次いで病没すると、高松城主の座を長谷川掃部と争った。1575年、「備中兵乱」では、毛利輝元勢に属して戦功を挙げた。1582年、「備中高松城の戦い」では、羽柴秀吉勢の攻撃を受けた。水攻めにより落城寸前に追い込まれたが、清水宗治の自刃を条件に毛利輝元と羽柴秀吉の間で和議が成立、兄清水宗知とともに自刃した。辞世の句「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して」。

清水宗之【しみずむねゆき(15??~1600)】

清水宗治の男。1600年、「伊勢安濃津城の戦い」で討死した。

清水景治【しみずかげはる(1571~1649)】

清水宗治の次男。官途は美作守。通称は源三郎。1582年、「備中高松城の戦い」で父清水宗治が自刃すると、小早川隆景に仕えた。1592年、「文禄の役」でも小早川隆景勢に属して戦功を挙げた。1597年、小早川隆景の病没後は小早川秀秋に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。小早川秀秋が改易処分に処されると毛利輝元に仕えた。父清水宗治の功により、家老職に次ぐ寄組士の席に列し2,500石余りを領した。

庄為資【しょうためすけ(15??~1558)】

小田郡猿掛城主。官途は備中守。1507年、足利義尹の要請を受け安芸国に侵攻した。1533年、「松山城の戦い」では、植木秀長と結び松山城主上野頼久を討取った。1540年、尼子晴久勢に属して備後国に侵攻したが敗退した。1553年、「猿掛城の戦い」では、毛利元就の支援を受けた三村家親勢の攻撃を受け、継嗣庄元祐を穂田実近の養子にする条件で和議を結んだ。

庄高資【しょうたかすけ(15??~1570)】

庄為資の男。1561年、「備中松山城の戦い」では、毛利元就勢と結ぶ三村家親勢の攻撃を受け落城、宇喜多直家のもとに落延びた。宇喜多直家勢の支援を受けて松山城を奪還した。1570年、毛利元就勢の支援を受けた三村元親勢の攻撃を受け討死した。

庄元資【しょうもとすけ(15??~1568)】

三村家親の男(庄高資の養子)。官途は式部少輔。1561年、三村家親が庄高資を撃破った際、和議の条件として庄高資の養子に迎え入れられた。1568年、「斉田城の戦い」で宇喜多直家勢の攻撃を受け討死した。

庄勝資【しょうかつすけ(15??~1580)】

庄高資の男。宇喜多直家が備前国に帰還すると、毛利元就勢の攻勢を受け植木秀資、庄勝資らは出雲国に落延びた。1571年、「松山城の戦い」では、三村元親、毛利元清勢の攻撃を受け庄高資が討死、佐井田城も攻撃を受けたが、植木秀資の支援を受け撃退した。

庄右京進【しょううきょうのしん(15??~15??)】

庄勝資の次男。円通山城主。1575年、「麦飯山の戦い」で宇喜多直家勢と戦い戦功を挙げた。

庄実近【しょうさねちか(15??~1571)】
 
庄高資家臣。松山城代を務めた。1571年、三村元親勢の攻撃を受けて討死した。

進藤掃部【しんどうかもん(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

杉三郎兵衛尉【すぎさぶりょうびょうえ(15??~15??)】

三村家親家臣。寺山城主。1575年、「備中兵乱」では、毛利輝元勢の攻撃を受け落城、松山城に落延びた。「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

杉重国【すぎしげくに(15??~1568)】

伊達重興家臣。通称左衛門尉。継室は赤木忠国の娘。1568年、「鬼山城の戦い」では、三村元親の攻撃を受けて落城し討死した。

杉重春【すぎしげはる(15??~15??)】

杉重国の男。通称太郎左衛門。1575年、「備中兵乱」では、伊達信衡とともに鞆に滞在中の足利義昭を護衛した。三村元親勢と戦いになり、阿部七党の渡辺与惣太郎、田中左京進を討取る戦功を挙げた。1600年、「大津城の戦い」では、毛利元就勢に従って参陣して戦功を挙げた。

諏訪藤介【すわとうすけ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

曽祢内蔵【そねくらぞう(15??~15??)】

三村元範家臣。1575年、「楪城の戦い」では、富屋大炊助、八田主馬らとともに小早川隆景勢に内応して毛利輝元勢を城内に引き入れた。

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【た】

田井又十郎【たいまたじゅうろう(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

田井長門守【たいながとのかみ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

田井左近丞【たいさこんのじょう(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

高橋英光【たかはしひでみつ(15??~15??)】

毛利元就家臣。窪屋郡流山城主。1570年、尼子勝久勢の攻撃を受け降伏した。

竹井将監【たけいしょうげん(15??~1582)】

石川久式家臣。都窪郡早島城主。官途は将監。1582年、「備中高松城の戦い」では、冠山城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。攻城戦の最中、内応者が冠山城に火を放ち落城した。加藤清正と壮絶な一騎打ちの末、討死した。

竹井直定【たけいなおさだ(15??~15??)】

三村家親家臣。通称宗左衛門。1574年、桂元盛、赤川元之、岡元良らとともに備前国勝山城を守備した。1575年、「備中兵乱」では、三村親成とともに毛利輝元勢からの離反に反対した。1582年、「備中高松の戦い」では、毛利輝元勢に内応した。

多治部景忠【たじべかげただ(15??~15??)】

阿賀郡潮城主。1515年、備中国守護職細川政春に仕えた。1515年、徳光兵庫守、伊達宗衡とともに新見庄へ侵攻、新見国経と激しく争った。1546年、三村宗親の攻撃の前に降伏した。1552年、「笠岡の戦い」では、猿掛城を攻撃する毛利元就、三村宗親勢と尼子晴久勢に属する石蟹守元、伊達信衡とともに戦った。

多治部景治【たじべかげはる(15??~1595)】

多治部景忠の男。官途は雅楽頭。新見庄を領していた新見国経や楢崎豊景と争った。庄為資と結び三村家親に対抗した。1546年、三村家親勢の攻撃を受け落城した。1575年、「備中兵乱」では、毛利輝元の家臣福頼元秀勢に属して戦功を挙げ、旧領に帰還した。1577年、「播州上月城の戦い」に参陣して羽柴秀吉勢と戦った。

多治部景勝【たじべかげかつ(15??~15??)】

多治部景治の男。官途は治部大輔。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。

楽々尾豊後守【たたらおぶんごのかみ(15??~15??)】

三村元親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

田中直重【たなかなおしげ(15??~15??)】

三村家親家臣。国矢倉城主。1575年、「備中兵乱」で毛利輝元勢の攻撃を受け、松山城に落延びた。

田中藤兵衛【たなかとうべい(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

田中左京進【たなかさきょうのしん(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

甲籠伊達宗衡【だてむねひら(15??~15??)】

阿哲郡甲籠城主。伊達重興の男。官途は常陸介。1517年、伊達宗衡は父伊達重興、楪城主新見国経とともに三村宗親、多治部景忠勢と戦うも捕縛された。

伊達信衡【だてのぶひら(15??~15??)】

甲籠伊達宗衡の男。通称三左衛門。1541年、尼子晴久勢に属する穂井田実近と毛利元就勢に属する三村家親が争うと、毛利元就勢に属して穂井田実近勢と戦った。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で尼子義久が滅亡すると、毛利元就勢に属した。1575年、「備中兵乱」では、毛利元就勢に属して三村元親勢と戦い戦功を挙げた。1570年、宇喜多直家、秋上綱平勢の攻撃を受け落城した。

丹下与兵衛【たんげよへい(15??~1574)】

三村政親家臣。1574年、「国吉城の戦い」では、三村政親、宮野蔵大夫らとともに宍戸元続の陣を襲撃したが、宍戸元続の家臣山角阿弥と一騎打ちとなり、相打ちとなった。丹下与兵衛の頸級は宍戸元続の家臣三上平内が上げた。

津々範宗【つつのりむね(15??~1571)】

川上郡加葉山城主。官途は加賀守。庄高資勢に属していたが、後に毛利元就勢に降伏した。1571年、尼子勝久勢が備中国に侵攻すると、これに属した。「杉山城の戦い」では、細川通菫を攻撃するも、福井資重とともに討死した。

津々範宗【つつのりむね(15??~15??)】

津々範宗の男。官途は加賀守。別名津々範家。1575年、「麦飯山城の戦い」で先陣を務め戦功を挙げた。「備中兵乱」後、毛利元就勢に降伏した。1582年、「八浜合の戦い」で戦功を挙げた。

綱島道久【つなしまみちひさ(15??~15??)】

粧田山城主。通称兵部。1571年、三村元親勢に属した。1575年、「備中兵乱」で毛利輝元勢の攻撃を受け落城した。

寺地又兵衛【てらちまたべい(15??~15??)】

藤井皓玄家臣。1569年、「神辺城の戦い」では、藤井皓玄に従って、藤井六郎左衛門、佐藤庄三郎、藤代五郎入道ら500余りとともに神辺城を攻撃した。

富屋大炊介【とみやおおやのすけ(15??~1575)】

三村元範家臣。朝倉城主。1575年、「備中兵乱」で小早川隆景勢の攻撃を受け落城した。

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【な】

長尾景利【ながおかげとし(15??~15??)】

尼子経久家臣。岩木山城主。通称四郎左衛門。

中島輝行【なかじまてるゆき(15??~15??)】

賀陽郡経山城主。中島氏行の男。石川家久、高橋、清水宗綱、祢屋七郎兵衛、日幡景教らと結び大内義隆勢に属した。154?年、「第一次月山富田城の戦い」に父中島氏行が参陣するうと、経山城が浦上宗景勢の攻撃を受けたが撃退した。

中嶋元行【なかじまもとゆき(1552~1614)】

中島輝行の男。通称大炊助。室は清水宗治の娘。1571年、「経山城の戦い」では、尼子勝久勢の攻撃を受けた。1582年、「備中高松城の戦い」では、清水宗治の副将として高松城に籠城した。高松城が落城すると、清水宗治の継嗣清水景治の後見役を務めた。小早川隆景が病没すると、清水景治は毛利輝元に仕えたが、中島元行は継嗣の中島義行とともに小寺村で帰農した。著書に『備中兵乱記』。

中島九右衛門【なかじまくえもん(15??~15??)】

中島輝行の次男。

中島義行【なかじまよしゆき(15??~15??)】

中嶋元行の男。15??年、小早川隆景が筑前国名島城を領すると、清水景治とともに小早川隆景に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後、結城秀康に仕えた。

中島昌行【なかじままさゆき(15??~15??)】

中島義行の男。

中村家好【なかむらいえよし(15??~15??)】

三村家親家臣。通称吉右衛門尉。忍び衆のひとり。三村家親の意向を受け乱舞の芸者として猿掛城の動きを探った。

名越修理【なごししゅり(15??~15??)】

小田政清家臣。1564年、「龍の口の戦い」で討死した小田小太郎の亡骸を馬鞍山城まで運んだ。

梨羽景連【なしわかげつら(15??~15??)】

小早川景隆家臣。賀夜郡松島城。官途は中務丞。1582年、「備中高松城の戦い」では、松島城を守備して羽柴秀吉勢と戦った。

南江備前守【なんこうびぜんのかみ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

南江馬右衛門【なんこううまのすけ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

難波宗忠【なんばむねただ(15??~1582)】

清水宗則の男。通称伝兵衛。1582年、「備中高松城の戦い」では、兄清水宗治、清水行宗らとともに高松城に籠城するも、降伏開城の際、兄達とともに湖上で自刃した。

新見国経【にいみくにつね(15??~1542)】

阿哲郡郡楪城主。新見賢直の男。1512年、尼子経久勢の支援を受け備中国に侵攻して阿賀郡潮城主多治部景忠と戦った。三村元親の侵入に対し尼子晴久勢と結んで対抗した。

新見貞経【にいみさだつね(15??~15??)】

新見国経の男。尼子晴久勢に属した。1566年、三村元親の攻撃を受け落城した。

新見左京【にいみさきょう(15??~15??)】

石蟹守元家臣。

禰屋七郎兵衛【ねやしちろうざえもん(15??~15??)】

賀陽郡長良山城主。1564年、「龍の口の戦い」では、備中国の諸将とともに龍の口城に籠城して戦功を挙げた。1582年、「備中高松城の戦い」では、冠山城に籠城して、羽柴秀吉勢と戦った。

禰屋与七郎【ねやよしちろろう(15??~15??)】

禰屋七郎兵衛の男。

乃美元信【のびもとのぶ(15??~15??)】

賀夜郡宮地山城。浦賢勝の次男。小早川隆景家臣。通称少輔七郎。1582年、「備中高松城の戦い」では、城兵400余りを率いて宮地山城に籠城したが、宇喜多秀家の家臣信原内蔵充の降伏勧告を受け開城に応じた。

野山益朝【のやまますとも(15??~15??)】

上房郡野山城主。官途は宮内少輔。毛利元就勢に属した三村元親に従って備前国、美作国を転戦して浦上宗景、宇喜多直家らと戦った。1575年、「備中兵乱」では、三村元親勢に属して毛利輝元勢と戦ったが乱後は毛利輝元勢に属した。

野山朝経【のやまともつね(15??~15??)】

野山益朝の男。1575年、「備中兵乱」では、父野山益朝とともに三村元親勢に属して野山城に籠城した。

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【は】

橋本正秀【はしもとまさひで(15??~15??)】

伊達信衡家臣。通称賀茂丞。

橋本正光【はしもとまさみつ(15??~15??)】

伊達信衡家臣。通称孫右衛門。

八田主馬【はったしゅめい(15??~15??)】

三村元範家臣。1574年、「楪城の戦い」では、富屋大炊介、曾禰大蔵らとともに小早川隆景の家臣中島大炊介に内応して小早川隆景勢を城内に引き入れた。

林重真【はやししげさね(1531~1582)】

賀陽郡冠山城主。通称三郎左衛門。1582年、「備中高松城の戦い」では、冠山城に籠城するが、羽柴秀吉勢の攻撃を受け落城した。林重真の頸は織田信長のもとへと送られた。

林宗重【はやしむねしげ(15??~1586)】

林重真の男。1852年、「備中高松城の戦い」では、父林重真ととも冠山城に籠城するも落城した。禰屋久秀、松田盛明、三村親宣らとともに高松城に退却した。備中高松城が落城すると小早川隆景に仕えた。1586年、「九州討伐」で小早川隆景に従って参陣したが筑前国で討死した。

日幡景教【ひばたかげのり(15??~15??)】

都宇郡日幡城主。三村家次家臣。毛利元就勢が備中国に侵攻すると、それに仕えた。

日幡景親【ひばたかげちか(15??~1582)】

日幡景教の男。通称六郎兵衛。1551年、「第一次龍ノ口城の戦い」では、浦上宗景勢を撃退した。1554年、「第二次龍ノ口城の戦い」でも備中国の諸将とともに戦功を挙げた。1580年、「日畑城の戦い」では、毛利輝元勢の上原元祐、来島通房らの支援を受け宇喜多直家勢を撃退した。1582年、「備中高松城の戦い」では、日幡城に籠城するが、援将の上原元祐と弟の大森蔵人が羽柴秀吉に内応、上原元祐に討取られた。小早川隆景は家臣の楢崎忠正に上原元祐の内室(毛利元就の娘)を救出させた。



平川忠親【ひらかわただちか(15??~15??)】

平川元忠の弟。川上郡菖蒲城主。官途は伊豆守。1514年、平川忠親は分家して菖蒲城を築城した。

平川経貞【ひらかわつねさだ(15??~15??)】

平川忠親の男。官途は長門守。尼子経久勢に属した。後に毛利元就勢に属した。1600年、「関ヶ原の役」後は帰農して庄屋を務めた。

平川正親【ひらかまさちか(15??~15??)】

馬屋原信春の男(平川久親の養子)。官途は弾正忠。室は平川久親の娘。

平川親貞【ひらかわちかさだ(15??~15??)】

平川経貞の次男。

福井高資【ふくいたかすけ(15??~15??)】

庄高資家臣。大山城主。通称孫六左衛門尉。1569年、「佐井田城の戦い」では、城主植木秀長とともに毛利元就勢と戦った。1570年、尼子勝久が山中幸盛とともに備中国に侵攻すると、それに従った。1571年、毛利元就、三村元親勢の攻撃を受け出雲国に落延びた。1575年、「麦飯山の戦い」では、毛利輝元勢に属して宇喜多直家勢と戦い戦功を上げ大山城主に復帰した。

福井勝資【ふくいかつすけ(15??~15??)】

福井高資の男。1571年、毛利元就、三村元親勢の攻撃を受け父福井高資とともに出雲国に落延びた。1575年、「麦飯山の戦い」では、毛利輝元勢に属して父福井高資とともに宇喜多直家勢と戦い戦功を上げ大山城主に復帰した。

福田武倫【ふくだたけとし(15??~15??)】

福田城主。官途は対馬守。1582年、「備中高松城の戦い」では、毛利輝元勢に属して高松城に籠城した。

藤井皓玄【ふじいこうげん(15??~1569)】

後月郡正霊山城主。山名氏勝家臣。官途は能登守。別名藤井好元。山名氏政が大内義隆に追われると、次席家老職を務めた。1557年、杉原理興が継嗣をもうけず病没すると、杉原盛重が杉原家の家督と神辺城主を相続したため、継嗣の藤井広告、大江田隼人祐らとともに杉原盛重のもとから出奔した。1568年、毛利元就勢に従って杉原盛重が北九州に参陣すると、尼子勝久勢とともに備中国に侵攻した。1569年、「神辺城の戦い」では、藤井六郎左衛門、佐藤庄三郎、寺地又兵衛、藤代五郎入道ら500余りを率いて神辺城を攻撃した。神辺城には、杉原元盛、杉原景盛、所原肥後守、鱠江備前守、馬屋原中務入道、高橋大三郎ら留守居役が居たが寡兵により落城した。毛利元就勢の楢崎豊景、村上祐康、三吉隆亮らの反撃を受け、神辺城は落城、藤井皓玄は落延びる途中、細川道薫勢の攻撃を受け自刃した。

藤井広告【ふじいひろとも(15??~15??)】

藤井皓玄の男。高屋城主。通称新介。1557年、杉原盛重が杉原家の家督と神辺城主を相続したため、父藤井皓玄とともに杉原盛重のもとから出奔した。

藤井六郎左衛門【ふじいろくろうざえもん(15??~15??)】

藤井皓玄家臣。1569年、「神辺城の戦い」では、藤井皓玄に従って、佐藤庄三郎、寺地又兵衛、藤代五郎入道ら500余りとともに神辺城を攻撃した。

藤代五郎【ふじしろごろう(15??~15??)】

藤井皓玄家臣。1569年、「神辺城の戦い」では、藤井皓玄に従って、藤井六郎左衛門、佐藤庄三郎、寺地又兵衛ら500余りとともに神辺城を攻撃した。

布施左衛門大夫【ふせさえもんだいふ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け討死した。

布施内蔵助【ふせくらのすけ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け討死した。

穂井田元資【ほいもとすけ(15??~1571)】

小田郡猿掛城主。三村家親の男(荘為資の養子)。官途は民部大輔。通称を四郎。別名荘元祐。1559年、「猿掛城の戦い」では、三村家親勢の攻撃を受けたが、毛利元就の仲介により和議を結び、荘為資の養嗣子として荘家に迎えられ。穂井田元資は毛利元就勢に属した三村家親に従って山陽地方を転戦した。1567年、「明禅寺の戦い」では、宇喜多直家に謀殺された三村家親の弔い合戦として三村元親勢の右翼を任されたが、総軍苦戦の中で惨敗を余儀なくされた。1571年、「佐井田城の戦い」で浦上宗景、宇喜多直家勢と戦い討死した。

穂井田元清【ほいだもときよ(1551~1597)】

毛利元就の四男(穂井田元資の養子)。官途は伊予守。室は来島通康の娘。1582年、「備中高松城の戦い」では、加茂城の支援して戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、羽柴秀吉の意向を受けて虎を生け捕りにした。

野州細川通政【ほそかわみちまさ(1504~1553)】

浅口郡鴨山城主。細川政春の男。備中国守護職。官途は安房守。室は赤松卜安の娘。1536年、「摂津天王寺の戦い」で兄細川晴国が討死したため、野州細川家の家督と備中国と伊予国2郡(宇摩郡、温泉郡)の守護職を相続した。

野州細川通薫【ほそかわみちただ(1535~1587)】

細川晴国の男(細川通政の養子)。官途は下野守。備中国を追われ、伊予国川之江城に落延びたが、毛利元就勢の支援を受け鴨山城に帰還した。1571年、「杉山城の戦い」では、備中国に侵攻した尼子勝久勢と戦い津々加賀守、福井孫左衛門らを討取ったが、敗れ幸山城に落延びた。

野州細川元通【ほそかわもとみち(15??~1589)】

細川通薫の男。官途は下野守。別名浅口少輔九郎。室は穂井田元清の娘。毛利輝元勢に属して山陽地方を転戦して戦功を挙げ、浅口郡鴨山城6,071石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長に減封になると、長門国長府城主毛利秀元の家老職を務めた。

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【ま】

真壁行信【まかべゆきのぶ(15??~15??)】

三村元親家臣。土井城主。通称大炊頭左内。

升原内蔵助【ますはらくらのすけ(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

宮野蔵大夫【みやのくらだいふ(15??~15??)】

三村政親家臣。1574年、「国吉城の戦い」では、三村政親、宮野蔵大夫、丹下与兵衛ら300余りは、宍戸元続の陣を襲撃したが撃退された。

笠岡村上隆重【むらかみたかしげ(15??~15??)】

小田郡笠岡城主。村上隆勝の三男。官途は左近大夫。別名笠岡掃部。能島村上家の家督騒動では村上武吉を擁立して、村上義益勢を撃破った。1540年、「萌黄原の戦い」では、陶山民部少輔を支援して小田政清勢と戦ったが敗北した。

笠岡村上景広【むらかみかげひろ(15??~15??)】

村上隆重の男。通称八郎左衛門尉。官途は弾正忠。1576年、「第一次木津川口海戦」で負傷しながらも戦功を挙げた。1581年、織田信長勢に内応した宇喜多秀家勢の海上交通路を切断し、八浜二子山城を攻略した。1600年、「関ヶ原の役」では、浦景継、九鬼嘉隆らとともに海賊衆を率い、松平元康勢の海賊衆を撃破して尾張知多半島の西岸の六浦を制圧した。役後は、細川忠興に仕え10,000石を領した。

三上重信【みかみしげのぶ(15??~1562)】

三村家親家臣。柏山城主。官途は淡路守。

三上重吉【みかみしげよし(15??~15??)】

三上重信の男。室は石川久智の娘。1562年、父三上重信が病没したため、十三歳で三上家の家督を相続した。

三村宗親【みむら むねちか(1479~1533)】

川上郡成羽鶴首城主。通称新左京亮。1508年、大内義興が足利義尹を擁して
上洛すると、石川家久、荘為資とともに従った。1517年、多治部景忠とともに新見庄に侵攻して新見国経、伊達重興、伊達宗衡らと戦い伊達宗衡を捕縛する戦功を挙げた。

三村家親【みむらいえちか(1517~1566)】

三村宗親の男。官途は修理亮。庄為資と結んで勢力を拡大した。1561年、「松山城の戦い」で毛利元就の支援を受け尼子義久勢に属する庄高資を攻略した。その後も毛利元就勢に属して伯耆国に侵攻して入江正高、行松正盛、杉原盛重、南条宗勝らとともに伯耆国内の尼子勢の諸城を攻略する戦功を挙げた。1565年、美作国三星城主後藤勝元を攻略した。1566年、「美作興善寺の戦い」で宇喜多直家の家臣遠藤秀清、遠藤俊通兄弟に謀殺された。

三村親成【みむらちかなり(15??~15??)】

三村宗親の次男。通称孫兵衛。別名成羽親成。兄三村家親の死後、甥の三村元親を補佐した。1570年、毛利元就勢の支援を受け松山城を奪還した。毛利輝元が宇喜多直家と和議を結ぶと、三村元親は毛利輝元勢から離反して織田信長勢に属した。三村親成は竹井直定らとともに毛利輝元勢に残ることを主張したが鬼身城主上田実親、常山城主上野隆徳も毛利輝元勢からの離反を支持したため、継嗣の三村親宣とともに小早川隆景のもとに落延びた。1575年、「備中兵乱」では、小早川隆景に従って先陣として三村元親勢と戦った。乱後、川上郡鶴首城3,451石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、福山城主水野勝成に仕え家老職として1,500石を領した。

三村政親【みむらまさちか(15??~1575)】

三村宗親の三男。国吉城主。官途は左京亮。1575年、「松山城の戦い」では、松山城に籠城して宇喜多直家勢と戦うが三村元親ととも討死した。

三村忠秀【みむらただひで(15??~15??)】

三村宗親の四男。通称大蔵。美袋山城主。1575年、兄三村政親、弟三村七郎左衛門とともに国吉城に籠城した。

三村親頼【みむらちかより(15??~15??)】

三村宗親の五男。通称七郎左衛門。兄三村政親、三村忠秀とともに国吉城に籠城した。

三村親宣【みむらちかのぶ(15??~15??)】

三村親成の男。官途は紀伊守。通称孫太郎。別名成羽親宣。1575年、父三村親成が毛利輝元勢から離反する三村元親と対立したため、三村親成とともに毛利輝元のもとに落延びた。小早川隆景勢の備中侵攻の先導役を務めた。1582年、「備中高松城の戦い」では、冠山城に援軍を率いて入城した。落城に伴い、高松城に転戦した。

三村親良【みむらちかよし(15??~15??)】

三村親成の次男。

三村元親【みむらもとちか(1554~1575)】

三村家親の次男。官途は修理進。兄三村元資が荘為資の家督を相続したため、三村元親が三村家の家督を相続した1567年、「明禅寺の戦い」で宇喜多直家勢と戦ったが石川久智、中島加賀守らを失い、継嗣も庄元資も負傷してして大敗した。1568年、毛利元就が北九州に参陣すると、宇喜多直家勢の攻撃を受け斉田城主植木秀長が降伏した。1570年、松山城、佐井田城を奪還して勢力の回復に努めた。1574年、毛利輝元が宇喜多直家と結ぶと、毛利輝元勢から離反して織田信長勢に属した。1575年、「備中兵乱」で毛利輝元勢の攻勢を受け支城も次々陥落した。「備中松山城の戦い」でも小早川隆景勢の攻撃を受け自刃した。

三村元範【みむらもとのり(1548~1575)】

三村家親の三男。官途は宮内少輔。室は三輪半左衛門の娘。1575年、「備中兵乱」では、楪城に朝倉城主富谷大炊介、粒根城主伊勢国寛、竹野城主三村元威、角尾城主三村元高、鳶ヶ巣城主三村親重らとともに籠城したが、小早川隆景勢の攻撃を受け落城、落延びる途中討死した。

三村元成【みむらもとなり(15??~15??)】
 
三村家親の五男。竹野城主。別名三村元威。1575年、「楪城の戦い」では、三村元範を支援して伊勢国寛らとともに小早川隆景、多治部景治勢と戦うが、敗れて三村元範が討死した。

三村元高【みむらもとたか(15??~15??)】

三村家親の六男。角尾城主。通称六郎。

三村親重【みむらちょかしげ(15??~15??)】

三村元親家臣。鳶ヶ巣城主。通称左馬亮。別名三村親当。1561年、「鳶ヶ巣城の戦い」で三村家親勢が毛利元就勢の支援を受け尼子晴久の家臣徳光兵庫守を討取り、三村親当が城主に任じられた。1575年、「備中兵乱」で毛利輝元勢の攻撃を受け落城した。

三村親富【みむらちかとみ(15??~15??)】

三村親重の男。通称太兵衛尉。

三村勝親【みむらかつちか(15??~15??)】

三村実親の男。

三村吉親【みむらよしちか(15??~15??)】

三村実親の次男。

三村五郎兵衛【みむらごろべえ(15??~1566)】

三村家親家臣。1566年、三村家親が宇喜多直家の家臣遠藤秀清、遠藤俊通らに謀殺されると、仇討ちのために宇喜多直家領に侵攻しするが、宇喜多忠家勢3,000余りと戦い討死した。

三村兵部【みむらひょうぶ(15??~1575)】

三村家親家臣。猿掛城主。1575年、「猿掛城の戦い」では、小早川隆景勢の宍戸隆家、三村親成、中島大炊助らの攻撃を受け、松山城に落延びた。

三村与七郎【みむらよしろう(15??~15??)】

三村家親家臣。1575年、「猿掛城の戦い」では、小早川隆景勢の宍戸隆家、三村親成、中島大炊助らの攻撃を受け、松山城に落延びた。

三村勝法師丸【みむらかつほうしまる(15??~15??)】

三村元親の男。

宮崎三郎兵衛【みやざきさぶろうびょうえ(15??~15??)】

楢崎元兼家臣。割亀山城主。

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【や】

薬師寺弥五郎【やくしじよごろう(15??~15??)】

細川通薫家臣。真壁城主。1564年、「備前龍ノ口城の戦い」で戦功を挙げた。

薬師寺久持【やくじしひさもち(15??~15??)】

薬師寺弥五郎の孫。通称五郎。

安原元吉【やすはらもとよし(15??~15??)】

三村元範家臣。通称彦左衛門。巨漢の猛将。1574年、「楪城の戦い」で毛利輝元勢に属した三村元範に従って、敵将の伊勢国寛を討取る戦功を挙げた。

山県国吉【やまがたくによし(15??~1580)】

毛利元就家臣。有漢飯山城主。通称三郎兵衛。1575年、「備中兵乱」で三村元親が滅亡した後、飯山城代に任じられた。1580年、「備前虎倉の戦い」で討死した。

山本左馬助【やまもとさまのすけ(15??~15??)】

三村元親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

吉田義辰【よしだよしたつ(15??~15??)】

尼子経久家臣。通称左京亮。1524年、尼子経久の支援を受けて八橋城を領した。三村家親勢と戦い討死した。

吉田源四郎【よしだげんしろう(15??~15??)】

吉田義辰の男。1565年、「大江城の戦い」で三村家親勢の攻撃を受けて出雲国に落延びた。

吉田兼久【よしだかねひさ(15??~15??)】

尼子経久家臣。小金山城主。通称六郎。小金山城主に任じられ、吉岡銅山を守備した。

渡辺市郎兵尉【わたなべいちろうへいじょう(15??~15??)】

三村元親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

渡辺左京進【わたなべさきょのしん(15??~15??)】

三村元親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

渡辺平三【わたなべへいぞう(15??~15??)】

三村元親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

渡辺藤内【わたなべふじいち(15??~15??)】

三村元親家臣。1575年、「松山城の戦い」で小早川隆景勢の攻撃を受け降伏した。

渡辺杢之允正【わたなべもくのじょうただし(15??~15??)】

小平井城主。1532年、備後国沼隈郡山田館主の渡辺杢之允正が小平井村の領主となった。1535年、春日明神を再建した。

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【資料Ⅰ】

備中国(11郡/182,000石)

都宇郡:日幡城。
窪屋郡:幸山城。
賀陽郡:高松城。
上房郡:松山城。
下道郡:鬼邑山城。
川上郡:成羽鶴首城。
浅口郡:鴨山城。
小田郡:猿掛城、笠岡山城。
後月郡:正霊山城(5,800石)
哲多郡:
阿賀郡(英賀郡):

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【資料Ⅱ】

備中境目七城【びっちゅうさかいめななじょう】

備中高松城主清水宗治、宮地山城主乃美元信、冠山城主林重真、鴨庄城主上山兵庫、日幡城主日幡景親、庭瀬城主井上有景、松島城主梨羽中務丞。

野州細川家【ほそかわけ】

細川京兆家の分家のひとつ。備中国浅口郡と伊予国宇摩郡の分郡守護を務めた。細川持春の子細川政国が典厩家の細川持賢の養子に入り、その細川政国が典厩家の当主となるなど、京兆家との一体性が強い典厩家との間にも緊密な関係を保った。

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【資料Ⅲ】

備中国【びっちゅうのくに】

中国地方の中央に位置する山陽道の国。東は備前国、美作国、西は備後国と境を接し、北は中国山地で伯耆国との国境を作る。南は瀬戸内海に面し、水島灘の向こうに讃岐国を臨む。古くは吉備国の一部であったが、天武朝の時に備前国、備中国、備後国の各国に分離された。南北に長い地形を持ち、北部は中国山地の高峰、中央部は吉備高原の高原地帯、南部は岡山平野西部の低平地と、国内は三分されている。国内には中国山地に源を発する高梁川の水系と、吉備高原から流れる足守川、小田川水系が縦横に流れ、東南部の沖積平野を形成している。この平野部は弥生時代以来農業が盛んな先進地帯である。産業としては、農業の他にも沿岸部で製塩業、山間部で鉱業が盛んである。特に銅は日本有数の生産量を誇る銅山があり、また古代から続く備中鉄の生産も盛んである。この鉄を使った刀剣類は備中の名産のひとつであり、中でも青江荘を中心にした青江鍛冶の手によるものは、古来名刀として評価が高い。

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戦国人名辞典は1520~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は示していますが、歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

尼子詮久は尼子晴久、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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