2012年12月30日日曜日

戦国南肥後国人名辞典

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【あ】

赤池長任【あかいけながとう(1529~1568)】

相良晴広家臣。球磨郡赤池城主。官途は伊豆守。薩摩国との境を守備して、島津義久勢を撃退し続けた猛将。大口城の在番は赤池長任、東長兄、丸目頼美の三人で半年毎の輪番で行なわれた。1556年、「大口城の戦い」では、人吉衆を率いて島津貴久勢を撃退した。1564年、「大隅大口城の戦い」では、相良義陽が伊東義祐と結ぶと、島津貴久勢の攻撃を受けた。桑幡新六、岩崎六郎兵衛らを率いて島津義弘勢と戦ったが敗れて大口城に退却した。殿を務めた赤池長任、岡本頼氏らは手傷を負い、桑幡新六、岩崎岩崎六郎兵衛などは討死にした。1568年、「堂ヶ崎の戦い」では、上村弥九郎、的場五藤左衛門らを率いて島津義弘勢を撃破し川上久朗を討取る戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤坂弥次兵衛【あかさかよじろべい(15??~15??)】

相良晴広家臣。小俣川の普請奉行職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

阿蘇惟豊【あそこれとよ(1493~1559)】

上益城郡岩尾城主。阿蘇惟憲の次男。阿蘇神社大宮司職。1505年、兄阿蘇惟長が肥後国守護職と菊池家惣領職を相続したため、甲斐親宣、甲斐親宣らの後見を受け、阿蘇惣領家の家督を相続した。1513年、「第一次岩尾城の戦い」で菊池家を追われた阿蘇惟長勢の攻撃を受け日向国に落延びた。1517年、「第二次岩尾城の戦い」では、甲斐親宣の支援を受け、再び阿蘇大宮司職を奪還した。1540年、禁裏修理料に万疋を送り、奈良天皇宸筆の般若心経を送られた。その後も、阿蘇惟長、阿蘇惟前と抗争を繰り広げた。1543年、「堅志田城の戦い」で阿蘇惟前を追い落し阿蘇家の分裂に終止符を打った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿蘇惟将【あそこれまさ(15??~1583)】

阿蘇惟豊の男。1541年、「木倉原の戦い」で島津貴久勢に内応した御船房行を討取った。1559年、父阿蘇惟豊の病没後、阿蘇家の家督と阿蘇大宮司職を相続した。1560年、阿蘇惟前が島津貴久を支援を受け再び肥後国に侵攻すると、大友義鎮と結びこれに抵抗した。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮が大敗すると、劣勢にたたされるが、甲斐宗運の活躍により龍造寺隆信、島津義久勢に対抗し領国を維持した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿蘇惟種【あそこれたね(15??~1584)】

阿蘇惟豊の次男。1583年、兄阿蘇惟将が病没したため、阿蘇家の家督を相続したが、まもなく病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

阿蘇惟光【あそこれみつ(1582~1593)】

阿蘇惟種の男。1584年、父阿蘇惟種が病没したため、阿蘇家の家督を相続した。1585年、「岩尾城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け落延びた。1587年、「九州征伐」後、羽柴秀吉の家臣佐々成政に従い、その改易後は加藤清正に従った。1593年、「梅北一揆」では、梅北国兼に連座させられて花岡山にて自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿蘇惟善【あそこれよし(1583~1654)】

阿蘇惟種の次男。通称又次郎。1593年、兄阿蘇惟光が自刃したため、阿蘇神社大宮司職を相続した。1600年、「関ヶ原の役」後、加藤清正に仕え宮路、坂梨、竹原の三ヶ村(358石)を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

矢部阿蘇惟長【あそこれなが(1480~1537)】

上益城郡矢部城主。阿蘇惟憲の男。別名菊池武経。1505年、菊池家老衆と謀って菊池政隆を追放し、菊池惣領職を相続した。1511年、肥後国人衆や菊池家老衆と不和になると隈府城を追われた。1513年、「第一次岩尾城の戦い」では、弟の阿蘇惟豊を追い落し、阿蘇神社大宮司職を継嗣の阿蘇惟前に相続させた。1517年、「第二次岩尾城の戦い」で阿蘇惟豊の反撃を受けて八代郡に落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

矢部阿蘇惟前【あそこれさき(15??~15??)】

阿蘇惟長の男。1513年、「第一次岩尾城の戦い」で父阿蘇惟長とともに阿蘇惟豊を追い落し、阿蘇惟長の後見を受け阿蘇神社大宮司職を相続した。1517年、「第二次岩尾城の戦い」で阿蘇惟豊勢の反撃を受けて八代に落延びた。1523年、「第一次堅志田城の戦い」で、阿蘇惟豊勢の堅志田城を攻落として甲佐、砥用、中山を領した。1543年、「第二次堅志田城の戦い」で阿蘇惟豊勢の攻撃を受け、再び八代郡へ落延びた。1560年、島津貴久を支援を受け再び肥後国に侵攻したが敗れた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

矢部阿蘇惟賢【あそこれかた(15??~15??)】

阿蘇惟前の男。通称内記。父阿蘇惟前ともに薩摩国にあった。1585年、島津義久勢とともに肥後国に侵入して、阿蘇神宮大宮司職を称した。1587年、「九州征伐」後、阿蘇惟光が阿蘇家惣領職として認められたため、阿蘇神宮大宮司職の奪還をすることが出来なかった。1590年、阿蘇惟光に起請文を差し出して臣下の礼を取った。勅勘を得て薩摩国に流罪されていた近衛信尹が赦免されて上洛したときこれと同道した。京での生活を記した『言與日記』を著した。和歌、俳諧に堪能で、古典にも造詣の深い知識人であった。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

矢部阿蘇惟興【あそうこれおき(15??~15??)】

阿蘇惟賢の養子。島津義久家臣。

天草尚種【あまくさなおたね(15??~1589)】

天草郡河内浦城主。官途は尾張守。洗礼名「ドン・ミゲル」。別名天草鎮尚。室は天草尚種の娘。天草五人衆の筆頭(志岐重弘、大矢野種光、上津浦種直、栖本鎮通)。1572年、島津義久勢の攻勢を受け和議を結んだ。1575年、「河内浦城の戦い」では、天草久武勢の攻撃を受けた。1587年、「九州征伐」後、肥後国を領した羽柴秀吉の家臣佐々成政に従った。「肥後国人一揆」では、小西行長に従って一揆勢と戦い本領安堵を受けた。1589年、「天正天草の乱」では、小西行長と対立して小西行長、加藤清正勢の攻撃を受けた。志岐鎮経、大矢野種基、上津浦種貞、栖本親高らとともに籠城して戦うが討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

天草久種【あまくさひさたね(15??~1601)】

天草鎮尚の男。官途は伊豆守。通称太郎左衛門。洗礼名「ドン・ジョアン」。別名天草鎮種。室は栖本鎮通娘。1581年、父天草尚種の隠居により家督を相続した。1587年、「豊後鳥尾城の戦い」では、島津義久に従って大友義鎮勢と戦ったが敗れた。1587年、「九州征伐」後、羽柴秀吉から本領を安堵された。1589年、「天正天草の乱」では、志岐鎮経、大矢野種基、上津浦種直、栖本親高らとともに謀反を起こしたが敗退した。河内浦に切支丹修練院(天草学林)を建設した。1592年、「文禄の役」では、小西行長に従って参陣して戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では、小西行長に従って参陣したが敗退した。役後は、小早川秀秋に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

天草種倫【あまくさたねつね(15??~15??)】

天草鎮尚の次男。

天草種真【あまくさたねざね(15??~15??)】

天草鎮尚の三男。洗礼名「バルトロメウ」。

天草種方【あまくさたねかた(15??~15??)】

天草久種の男。通称弥十郎。

天草種長【あまくさたねねが(15??~15??)】

天草久種の次男。通称新介。

天草種方【あまくさたねかた(15??~15??)】

天草種元家臣。通称主水之助。1589年、「天正天草の乱」では、天草種元に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

本渡天草久武【あまくさひさたけ(15??~15??)】

天草尚種家臣。天草郡本渡城主。

本渡天草種元【あまくさたねもと(15??~1589)】

天草久武の男。官途は伊豆守。洗礼名「ドン・アンデレ」。別名「瀬戸種元」。室は天草尚種の娘。1582年、本渡天草家の家督を相続した。1587年、「九州征伐」では、羽柴秀吉勢に参陣して本領を安堵された。1589年、「天正天草の乱」では、本渡城に籠城して戦うが小西行長、加藤清正勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

有瀬蔵人【ありせくらうど(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡年行衆職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

伊賀野三郎【いがのさぶろう(15??~1575)】

伊賀野次郎の男。1575年、「草場城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け討死した。

井口右衛門【いぐちうえもん(15??~15??)】

相良義陽家臣。人吉城普請奉行衆。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

伊豆野山城守【いずのやましろのかみ(15??~15??)】

上益城郡豊内城主。1581年、「響ヶ原の戦い」では、甲斐親直に従って島津義久勢の相良義陽の家臣東掃部助と戦った。相良義陽が討死したため、島津義久勢は撤退した。1583年、甲斐親直が病没すると島津義久勢の攻勢を受け降伏した。伊豆野山城守は囲碁の名手で、降伏後上井覚兼らと碁を打った。

伊豆野四郎衛門【いずのしろうえいへい(15??~15??)】

伊豆野山城守家臣。1581年、「響ヶ原の戦い」では、伊豆野山城守に従って参陣して戦功を挙げた。

井芹加賀守【いせりかがのかみ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。1580年、島津義久に内応したが、甲斐親直勢の攻撃を受け討死した。

市下大和守【いちしたやまとのかみ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡市下城主。1586年、「市下城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け落城した。

稲留長蔵【いなどめながくら(1522~1567)】

上村頼興の四男。官途は左近大夫。別名上村長蔵。1550年、岡本頼春が父上村頼興に謀殺されると、その領地を受け継ぎ岡本城主に任じられた。1557年、「久木野城の戦い」では、兄上村頼孝、上村頼堅とともに相良義陽に謀反を起こした。「岡本城の戦い」で相良義陽勢の攻撃を受け日向国飯野に落延びた。1567年、相良義陽に許され帰還したが、家臣の東源兵衛、東主馬らが謀殺され、稲留長蔵も高橋駿河守、東尾張守らにより謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩崎加賀守【いわさきかがのかみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。多良木庄地頭職を務めた。1582年、相良頼貞の家督相続に賛同し、球麿郡帰郷に貢献した。

岩崎忠久【いわさきただひさ(15??~15??)】

相良伊勢守家臣。上土城主。通称主馬。1505年、熊本畳表の原料であるい草を植えて育てることを、村人に教えた。1516年、作物が実らず大飢饉になると、畳表の生産により餓死者を出すことはなかった。

岩屋高正【いわやたかまさ(15??~15??)】

大矢野種光家臣。通称五郎。1589年、「天正島原の乱」では、大矢野種基に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

犬童長広【いんどうながひろ(15??~1530)】

相良長定家臣。通称刑部左衛門。人吉奉行職を務めた。1524年、相良長定を支持して相良長祗勢と戦った。1525年、犬童匡政とともに相良長祗を謀殺して相良長定を擁立した。1526年、「相良瑞堅の乱」では、相良長隆是勢の攻撃を受け相良長定とともに八代城に落延びた。1530年、「津奈木城の戦い」では、上村長種勢勢の攻撃を受け相良長定、犬童重良らとともに戦ったが敗れ犬童忠匡、犬童左近らとともに捕縛され斬頸に処された

犬童重安【いんどうしげやす(15??~1530?)】

球磨郡岩城主。官途は美作守。1530年、相良長定が相良長祗を人吉から追放し、相良長祗の庶兄である相良義滋に討たれる事件の際、相良長定に協力した犬童家枝連衆はほとんど謀殺され、犬童重安も自刃した。

犬童頼安【いんどうよりやす(1521~1606)】

犬童重安の男。官途は美作守。通称軍七。1530年、「相良長定の乱」では、犬童長広が相良長定勢に属したため、枝連衆とともに謀殺された。犬童頼安は幼少であったため、助命され出家した。1545年、「相良治頼の乱」では、相良治頼勢に属して相良義滋勢と戦った。1559年、「獺野原の戦い」では、相良義陽に従って参陣して戦功を挙げた。1581年、「水俣城の戦い」では、島津義久の家臣新納忠元と連歌を交わした。相良義陽が島津義久に降伏後も相良家に忠誠を尽くした。相良義陽の病没後は相良忠房、相良長毎を補佐した。1587年、「九州征伐」では、相良忠房が改易の危機に瀕したが、深水宗芳とともに相良家の存続に尽力した。人望篤く、病没後七人が殉死した。

犬童頼兄【いんどうよりもり(1568~1655)】

犬童頼安の男。通称清兵衛。1581年、「水俣城の戦い」に参陣して島津義久勢と戦った。父犬童頼安の隠居により家督を継ぎ、相良長毎の家老職を務めた。深水宗芳が筆頭家老職の職席を犬童頼兄に譲ろうとしたが家中の反発を受けた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属した相良長毎を松平元康勢に内応させ、大垣城に籠城していた垣見一直、木村由信、熊谷直陳らを謀殺した。役後、岡本城の修築、城下街の整備などを行いながら、高利貸しなどで財を築いた。文芸も好み、書物収集にも励んだ。1640年、相良頼寛から専横を理由に罷免され津軽国に配流となった。肥後国に残された犬童家枝連衆は相良頼寛に謀殺された。

犬童丹波守【いんどうたんばのかみ(15??~1581)】

相良義陽家臣。葦北郡野角城主。1581年、「野角城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け討死した。
 
犬童源兵衛【いんどうげんべい(15??~15??)】

相良義陽家臣。1600年、相良城の普請場で刃傷沙汰が起こると、その責を負い勝又新兵衛とともに自刃した。窪田徳之助は永国寺山で自刃した。
 
犬童重照【いんどうしげてる(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡老者職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
犬童帯刀充【いんどうたてわきいん(15??~15??)】

相良陽家家臣。球磨郡老者職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

上田杢之丞【うえだじょのじょう(15??~15??)】

岡本頼春家臣。1550年、岡本頼春が上村頼興に招かれると、行かないように諌めた。岡本頼春は上村頼興のもとに赴き謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上村長国【うえむらながくに(1468~1546)】

相良為続家臣。上村高頼の次男。官途は修理亮。岡本庄地頭職。兄相良直頼は相良為続の継嗣相良頼廉を養子に迎えた。1538年、上村頼興の懇請を受けて外孫相良晴広のために『洞然居士状』を著し、相良家正統史や主君の心構えなどを説いた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上村頼興【うえむらよりおき(1490~1557)】

球磨郡上村城主。上村頼廉の男。官途は上総介。室は上村長国の娘。稀代の謀略家。1526年、「相良瑞堅の乱」で相良義滋と相良長隆が争うと、相良義滋勢に属して継嗣の相良晴広を相良義滋の養子に送り込んだ。1535年、弟の上村長種を謀殺した。1546年、相良義滋が病没すると相良晴広を擁立して後見役を務めた。1552年、義兄相良頼春を謀殺した。その領地を四男の稲留長蔵に相続させた。1555年、相良晴広が病没すると、孫相良義陽を擁立して後見役を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上村長種【うえむらながたね(1495~1535)】

上村頼廉の四男。通称兵庫允。兄上村頼興の補佐役を務めた。1529年、「湯浦城の戦い」では、犬童重良が守る湯浦城を攻落とした。犬童重良は津奈木城に落延びた。1530年、「津奈木城の戦い」では、相良長定、犬童長広、犬童重良勢と戦いこれを攻落とし、犬童忠匡、犬童左近を捕縛するとこれを斬頸に処した。1535年、上村頼興、相良長兄、丸目頼美、東直政らに謀反に疑いを受け謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上村頼孝【うえむらよりたか(15??~1567)】

上村頼興の次男。官途は右衛門大夫。父上村頼興の計略で兄上村晴広が相良義滋の継嗣となったため、次男であったが上村家の家督を相続した。1557年、兄相良晴広の病没後はその男相良義陽が相良家の家督を相続することとなったが、これに不満を持って上村頼堅、上村頼定の両弟らを語らって叛乱を起こすも失敗、敗れて薩摩飯野へ逃れた。1567年、水俣城主への復帰を条件に相良義陽と和議を結んだ。「水俣城の戦い」で相良義陽の家臣深水長則勢の攻撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上村頼堅【うえむらよりかた(15??~1557)】

上村頼興の三男。官途は右馬守。1557年、「上村頼堅の乱」では、上村頼孝、稲留長蔵と結び相良義陽に謀反を起こした。相良義陽の意向を受けた東山城守勢の攻撃を受け薩摩国に落延びた。上村頼堅は八代鏡の内田という処に潜んでいたところを捕えられ、福善寺にて謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上村長陸【うえむらながみち(15??~15??)】

上村頼孝の次男。通称新左衛門。室は相良晴広の娘(亀徳姫)。1567年、父上村頼孝は相良義陽に対して謀反を起こし後に謀殺されたが、上村長陸は幼少であったため許された。島津義弘と離縁していた相良義陽の別腹の妹(亀徳姫)を貰い受けた。1581年、相良義陽の病没後、相良頼貞が謀反を企むとそれに従った。1592年、「文禄の役」に相良頼房が参陣すると謀反を企てたが、原城の柳江院門の前で討取られた。内室の亀徳は出家しが、犬童頼兄に粗略に扱われ、貧しい生活を送った挙句に餓死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇土為光【うとためみつ(15??~1503)】

宇土郡宇土城主。菊池持朝の四男(宇土忠豊の養子)。官途は弾正大弼。1484年、「古麓城の戦い」では、相良為続と結んで菊池重朝と菊池家惣領家の家督を巡り戦ったが、まもなく和議を結んだ。1499年、「豊福城の戦い」では、菊池能運、有馬晴純勢の攻撃受け降伏した。1501年、「玉祥寺原の戦い」では、菊池能運勢と戦い菊池重安、千田重英、西牟田重家、東重棟、溝口資清らを討取る戦功を挙げ菊池惣領家の家督を相続した。1503年、「高瀬の戦い」では、有馬晴純、相良長毎らの支援を受けた菊池能運勢の反撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇土重光【うとしげみつ(15??~1503)】

宇土為光の男。1503年、有馬家の援兵や相良家の協力を得て菊池能運が肥後国へ戻り、その報に接した父宇土為光は「高瀬の戦い」にて迎撃するも敗北して筑後国へと逃亡した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇土宮満丸【うとみやみつまる(15??~15??)】

宇土重光の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

内河忠真【うちかわただざね(15??~15??)】

名和行興家臣。官途は備後守。1562年、名和行興が病没すると、名和家の家督は名和行憲が継ぐが、七歳であったため、豊福城主名和行興の弟名和行直が名和家の実権をにぎろうとした。名和行憲の後見役には内河忠真がいて、名和行直の望みは達せられなかった。内河忠真は名和行憲後見は名和行興の遺言であると主張した。1564年、「宇土城の戦い」では、名和行憲が病没すると名和行直勢の攻撃を受け宇土城を落延びた。

内田甚五左衛門【うちだじんござえもん(15??~1600)】

相良義陽家臣。人吉城普請奉行衆。亀山瀬兵衛らも普請奉行を務めた。1600年、亀山瀬兵衛と口論となり討取られた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大浦重常【おおうらしげつね(15??~15??)】

上津浦種直家臣。通称彦太郎。1589年、「天正天草の乱」では、上津浦種直に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

大矢野種光【おおやのたねみつ(15??~15??)】

天草郡大矢野城主。天草五人衆。別名大矢野鎮通。1532年、「上津浦城の戦い」で、天草国衆とともに上津浦城を攻撃するが、相良義滋の支援を受けた上津浦鎮貞勢に撃退された。1551年、「栖本城の戦い」では、上津浦鎮貞と結び栖本鎮通を攻撃した。1553年、「大矢野城の戦い」では、天草国人衆から攻撃を受けた。1556年、名和顕孝、志岐重弘の攻撃を受けた。

大矢野種基【おおやのたねもと(15??~1598)】

大矢野種光の男。官途は民部少輔。室は名和顕孝の娘。丸目長恵から剣術の指南を受けた。1582年、島津義久に降伏した。1587年、「九州征伐」では、羽柴秀吉に従って本領を安堵された。1589年、「天正天草の乱」では、天草種元、上津浦種直、栖本親高、志岐鎮経らとともに小西行長、加藤清正勢と戦って降伏した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大矢野種量【おおやの(15??~1598)】

大矢野種基の男。通称弥太郎。洗礼名「ドン・ジョアン」。1596年、「慶長の役」では、父大矢野種基にに従って参陣した。1598年、「順天倭城の戦い」で李氏朝鮮勢と戦って討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大矢野直重【おおやのなおしげ(15??~15??)】

大矢野種基の次男。通称喜兵衛。1598年、「順天倭城の戦い」で兄大矢野種量が討死したため、大矢野惣領家の家督を相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大矢作左衛門【おおやさくざえもん(15??~1615)】

大矢野種基家臣。1598年、「天正天草の乱」で大矢野種基が所領を失なうと、本多忠勝に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」では、本多忠朝に従って参陣したが羽柴秀頼の家臣御宿政友と戦い討死した。

大矢作左衛門【おおやのさくざえもん(15??~1638)】

大矢作左衛門の男。1615年、「大坂夏の役」で父大矢作左衛門が討死すると、本多忠朝のもとを退去して天草で帰農した。1638年、「島原の乱」では、一揆勢の指揮を取った。「原城の戦い」で長尾帯刀と戦い討死した。

岡本頼春【おかもとよりはる(15??~1550)】

球磨郡岡本城。上村長国の男。官途は相模守。1550年、上村頼興から上村城へ招かれ峯山讃岐守、栗幡六郎左衛門らに謀殺された。1556年、相良義陽は、岡本頼春の霊を弔うため岡本大炊神山に正八幡を創建した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岡本頼氏【おかもとよりうじ(1537~1606)】

相良義陽家臣。岩本隆吉の男。官途は主馬允。通称源次兵衛。別名深水主馬。槍の名手で教養も高かった。1559年、「獺野原の戦い」では、相良義陽に従って参陣して戦功を挙げた。1567年、「薩摩大口城の戦い」では、島津義弘の家臣川上久朗を討取る戦功を挙げた。1581年、相良義陽が島津義久に降伏すると、菱刈源兵衛、内田伝右衛門らとともに島津義弘勢に属して参陣した。1587年、「九州征伐」では、羽柴秀吉勢に追撃を受ける島津義久勢の殿を務め戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

男成家継【おなりいえつぐ(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。官途は通称右衛門兵衛尉。1517年、甲斐親宣、村山惟民、西惟宗、北里義重、室原鑑知、小陣惟住らとともに阿蘇惟豊の矢部城への復帰に尽力した。

男成友竹【おなりともたけ(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。小野城主。通称監物。1536年、「木倉原の戦い」で御船房行、天野雲仙を討取る戦功を挙げた。

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【か】

甲斐敦昌【かいあつまさ(15??~1538)】

益城郡隈庄城主。官途は上総介。1523年、「筒ヶ嶽城の戦い」では、大友義鑑、菊地重治勢に属して、託麻武包勢と戦った。1534年、「隈本城の戦い」で菊池義武が大友義鑑に謀反を起こすと、大友義鑑勢が肥後国に侵攻した。「隈庄城の戦い」では、菊池義武勢に属して名和武顕勢と戦った。菊池義宗は大友義鑑勢を支えきれず、肥前国高来城に落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

甲斐親昌【かいちかまさ(1507~15??)】

甲斐敦昌の次男。官途は上総介。1539年、「隈庄城の戦い」では、目方能登守勢の攻撃を受け落城した。1540年、「隈庄城の戦い」では、阿蘇惟豊勢の攻撃を受けたが撃退した。1542年、「隈庄城の戦い」では、名和武顕の家臣内河忠真の支援を受けた阿蘇惟豊勢の攻撃を受けた。1543年、「堅志田城の戦い」で阿蘇惟前を八代に追落とした。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

甲斐守昌【かいもりまさ(15??~15??)】

甲斐敦昌の次男。官途は織部佐。室は甲斐宗運の娘。1562年、「隈庄城の戦い」で甲斐宗運勢の攻撃を受け、甲斐下野守とともに甲斐親直勢と戦ったが、内応して甲斐下野守を追落として隈圧城主となった。1580年、「隈圧城の戦い」では、甲斐宗運勢の攻撃を受けたが撃退した。阿蘇惟将は、早川吉秀、渡辺吉久、伊津野正俊らを援軍として派遣したが、甲斐守昌を支援する名和顕孝勢の攻撃を受け早川吉秀、渡辺吉久勢が壊滅した。阿蘇惟将は、さらに甲斐正運を派遣して隈圧城を攻めとした。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

甲斐親宣【かいちかのぶ(14??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。甲斐重綱の男。筆頭家老職を務めた。1514年、阿蘇惟豊が菊池武経との争いに敗れ落延びてくると、これを支援して復権させた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

甲斐親直【かいちかなお(1508~1583)】

甲斐親宣の男。官途は民部太輔。別名甲斐宗運。1523年、「筒ヶ嶽城の戦い」で菊池武包が筒ヶ嶽城に籠城すると、阿蘇惟豊の意向を受けた甲斐親宣に従って参陣した。1541年、「木倉原の戦い」では、阿蘇惟将を補佐して島津貴久に内応した御船房行勢と戦い御船房行を討取る戦功を挙げた。1546年、「隈之庄の戦い」で島津貴久に内応した隈庄守昌勢と戦いこれを撃破った。1549年、「隈庄城の戦い」では、阿蘇惟将の意向を受け隈庄守昌を討取る戦功を挙げた。1551年、大友義鎮の家臣佐伯惟教勢が肥後国に侵攻すると先導役を務めた。「竹迫城の戦い」では、菊池義武の家臣合志隆重が籠城する竹迫城を攻撃したが撃退された。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗した後も大友義鎮を支援した。1580年、「且過瀬の戦い」では、龍造寺隆信勢の隈部親永、合志親為、鹿子木鎮有、島津義久勢の名和顕孝、城親賢らと戦いこれを撃破した。1581年、人質を送り龍造寺隆信勢に属した。「響野原の戦い」では、島津義久勢に属した相良義陽勢の攻撃を受けたが相良義陽を討取る戦功を挙げた。1582年、島津義久との和議を模索するが交渉中に病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

甲斐親英【かいちかひで(15??~1587)】

甲斐親直の男。官途は相模守。別名甲斐宗立。室は木山惟久室の娘。弟の甲斐親正、甲斐宣成、甲斐直武とともに伊東義祐に内応した疑いを受け甲斐親正、甲斐宣成、甲斐直武らは謀殺されたが、合志伊勢守の助命嘆願により助命された。1583年、父甲斐親直が病没すると、筆頭家老職を務めた。1585年、「堅志田城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け、御船城、隈庄城を開城して降伏、阿蘇惟光は落延びた。1586年、「九州討伐」では、羽柴秀吉勢に従い旧領の御船城を回復した。1587年、「肥後国衆一揆」では、隈部親永、隈部親泰、和仁親実、和仁親範、和仁親宗、菊池武国、辺春親行、有働兼元、名和顕輝らとともに一揆勢を率いて羽柴秀吉勢と戦ったが敗れて自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

甲斐親正【かいちかまさ(15??~15??)】

甲斐親直の次男。通称蔵人。

甲斐宣成【かいのぶなり(15??~15??)】

甲斐親直の三男。通称三郎四郎。

甲斐直武【かいなおたけ(15??~15??)】

甲斐親直の四男。通称四郎兵衛。
 
甲斐重当【かいしげあき(15??~15??)】

阿蘇惟前家臣。1582年、阿蘇惟光が島津義久と結びと大友義鎮勢の支援を受け島津義久勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

甲斐親房【かいちかふさ(15??~15??)】

阿蘇惟前家臣。上益城郡南田代城主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

加悦素心【かえつそしん(15??~15??)】

名和武顕家臣。田平城主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

加悦三浦【かえつみうら(15??~15??)】

加悦素心の男。1580年、「矢崎城の戦い」で島津義久の家臣新納忠之、鎌田行幸勢の攻撃を受け城主の中村惟冬が討死すると、城主に任じられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

亀井光総【かめいみつふさ(15??~1550)】

亀井城主。官途は若狭守。1550年、「隈本城の戦い」で菊池義武と大友義鎮が争うと、大友義鎮勢に属した。菊池義武勢の攻撃を受け討死した。

北里永義【きたざとながよし(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。阿蘇郡岩櫃城主。通称大蔵太夫。

北里政義【きたざとまさよし(1553~1592)】

北里永義の男。官途は三河守。1583年、大友義鎮勢に従って豊前国に参陣した。1585年、島津義久勢の攻撃を受けると、島津義久に従ったが継嗣の北里重義は大友義鎮勢に属した。1588年、「肥後国人一揆」では、加藤清正に従い、継嗣の北里重義とともに肥後国人一揆勢と戦った。

北里重義【きたざとしげよし(15??~15??)】

北里政義の男。通称左馬。1585年、島津義久勢の攻撃を受けると父北里政義は島津義久勢に内応したが、北里重義は大友義鎮勢に属した。

北里惟政【きたざとこれまさ(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。上益城郡津志田城主。通称左衛門尉。別名北里惟昌。

木山惟貞【きやまこれさだ(15??~15??)】

上益城郡木山城主。

木山惟久【きやまこれひさ(15??~1593)】

木山惟貞の男。官途は弾正忠。室は甲斐親英の娘。別名木山紹宅。どもり癖があったので「どもり弾正」と比喩されたが剛勇無双で三十人力。1538年、木山家の家督を継嗣の木山信連に譲り、赤井城に隠居した。1584年、「木山城の戦い」では、島津義久勢の奇襲攻撃を受け天草種元のもとに落延びた。1583年、「仏木坂の戦い」では、天草種元に従って参陣したが加藤清正に討取られた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

木山信連【きやまのぶつら(15??~1587)】

木山惟久の男。別名木山紹印。1585年、「木山城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け落城した。1587年、「九州討伐」後、黒田孝高に仕えた。1597年、「慶長の役」でで、黒田熊之助に従って渡海するが暴風雨に遭い遭難した。

木山信正【きやまのぶまさ(15??~15??)】

木山信連の男。

草壁文右衛門【くさかべぶんえもん(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。田川内城主に任じられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

久保田越後守【くぼたえちごのかみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。1559年、「獺野原の戦い」で東長兄と丸目頼実が争うと、東長兄を支援して丸目頼実勢を撃退する戦功を挙げた。

桑原常陸介【くわばらひたちのすけ(15??~15??)】

相良義陽家臣。矢黒城主。八代郡四奉行衆。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

久留又八郎【くるまたはちろう(15??~15??)】

相良頼房家臣。豊後国の石工職人。1607年、人吉城普請のため招かれた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

黒仁田豊後守【くろにだぶんごのかみ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。1580年、伊東義祐に内応したが、甲斐親直勢の攻撃を受け討死した。

上津浦鎮貞【こうつうらかねさだ(15??~15??)】

天草郡上津浦城主。天草五人衆。1532年、「上津浦城の戦い」で、天草国衆の攻撃を受けるが、相良義滋の支援を受け撃退した。

上津浦種貞【こうつうらたねさだ(15??~15??)】

上津浦鎮貞の男。1582年、上津浦種貞は島津家が肥後に侵攻するとこれに従属した。1585年、熊庄城攻撃戦では自ら一軍を率いて島津家に協力した。羽柴秀吉の「九州征伐」後は、佐々成政の支配下に入り、その後小西行長の管理下に収まった。

上津浦種直【こうつうらたねなお(15??~15??)】

上津浦種貞の男。通称上総介。洗礼名「ドンホクロン」。室は栖本鎮通の娘。1589年、「天正天草の乱」では、志岐鎮経、天草種元らとともに小西行長、加藤清正勢と戦ったが敗れた。

上津浦六左衛門【こううらろくざえもん(15??~15??)】

上津浦種直の男。

上津浦種貞【こううらたねさだ(15??~15??)】

上津浦種直家臣。通称四郎。1589年、「天正天草の乱」では、上津浦種直に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

小浦太郎【こうらたろう(15??~15??)】

天草郡大島城主。

合津山城守【ごうつやましろうのかみ(15??~15??)】

大矢野種光家臣。洗礼名「ペイトロ」。家老衆を務めた。

小島遠江守【こじまおうみのかみ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。1586年、「湯浦城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け討死した。

小陣惟住【こじんこれずみ(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。1517年、甲斐親宣、村山惟民、西惟宗、北里義重、室原鑑知、男成家継らとともに阿蘇惟豊の矢部城への復帰に尽力した。

小陣惟富【こじんこれとみ(15??~15??)】

小陣惟住の男。官途は治部太輔。1560年、文書に署名した。

後醍院良任【ごだいいよしさだ(1524~1597)】 

相良義陽家臣。後醍院宗能の男。1581年、継嗣の後醍院宗重が大友義鎮の使者を射殺してしまったため、相良義陽のもとから出奔して島津義弘に仕えた。1582年、「八代城の戦い」では、島津義弘に従って参陣した。

後醍院宗重【ごだいいんむねしげ(1551~1624)】

後醍院良任の男。通称喜兵衛。官途は淡路守。1556年、「佐敷量石の戦い」で島津義久の家臣大磯平内左衛門を討取る戦功を挙げた。1581年、大友義鎮の使者を射殺してしまったため、父後醍院良任とともに相良義陽のもとから出奔して島津義弘に仕えた。1584年、「肥後沖田畷の戦い」では、島津義久の家臣平田光宗に従って参陣して戦功を挙げた。1587年、「九州征伐」では、島津義弘勢の殿を務め、長束正家勢に捕縛された。その後、佐々成政、小西行長、島津忠恒らに仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、木脇祐秀とともに殿を務めて戦功を挙げた。参考資料:フ
リー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

後醍院義信【ごだいいんよしのぶ(15??~16??)】

後醍院宗重の次男。

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【さ】

税所継恵【さいしょつぐよし(14??~15??)】

相良長毎家臣。税所好継の男。通称新兵衛尉。1487年、「相良頼泰の乱」で相良頼泰が継嗣の相良長泰の擁立して謀反を起こすと、相良長毎とともにこれを討伐した。書著に『洞然居士状』。

相良長定【さがらながさだ(15??~1531)】

相良頼金の男。官途は民部大輔。1524年、犬童長広と謀って相良長祗を人吉城から水俣城に追い落とした。1525年、「水俣城の戦い」で相良長祇を自刃に追い込み相良惣領家の家督を相続した。1526年、「人吉城の戦い」で相良長隆が率いる僧兵に攻められて人吉城から落延びた。八代、津奈木を経て筑前国へ逃れた。のち相良義滋に謀られ帰国後に謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

相良治頼【さがらはるより(1548~1546)】

八代郡岡城主。相良長弘の男。官途は治部少輔。兵法、武道に優れて衆望厚く、相良義滋と不仲となって謀反を疑いを受けた。1545年、「多良木城の戦い」では、犬童頼安、宮原玄蕃らとともに籠城した。「耳取原の戦い」で相良義滋勢の攻撃を受け豊後国に落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

相良長隆【さがらながたか(1492~1526)】

相良長毎の次男。別名相良瑞堅。京都の東福寺で学び帰国後、観音寺の住職を務めた。1525年、相良長祗が相良長定に謀殺されると、兄相良義滋とともに相良長定に対抗した。1526年、「相良瑞堅の乱」では、僧兵や門徒衆らとともに人吉城の相良長定を追落した。相良家臣団は従わず、僧兵や門徒衆も離反したため、上村に落延びた。「永里城の戦い」では、相良長唯勢の攻撃を受け討死した。

相良義滋【さがらよししげ(1491~1546)】

相良長毎の三男。官途は近江守。通称六郎。別名相良長為。1524年、父相良長定によって相良長祗が自刃に追いやられた。1526年、相良長隆が相良長定を追放して相良家の家督を相続した。上村頼興は、継嗣相良晴広(上村頼重)を養子に入れる条件で相良長唯と結び、その擁立に尽力した。北九州の勢力を持つ大内義隆と結んで対明貿易に参加した。1534年、古麓鷹ヶ峰城を築城した。1535年、菊池義武の肥後国復帰を支援、また堅志田城にある阿蘇惟前を援助するなど勢力を拡大させた。天草五人衆にも影響を持つようになった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

相良長祗【さがらながまさ(1501~1525)】

相良長毎の三男。官途は左兵衛尉。通称太郎。1512年、父相良長毎の隠居により、相良家の家督を相続した。1524年、相良長定、犬童長広のために人吉城を追われ、水俣城に落延びたが追い詰められ自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

相良晴広【さがらはるひろ(1513~1555)】

上村頼興の男。官途は右兵衛佐。通称藤五郎。別名上村頼重。室は名和武顕の娘。継室は上田織部允の娘。父上村頼興の政略によって相良義滋に入嗣し、その死後家督を相続した。1536年、上村長国より「洞然居士状」を授けられた。菊池義武の復帰戦を援助し豊後大友家と対抗した。南隣の薩摩島津家とは謀叛人が逃亡したこともあって険悪であった。1554年、大内家と結び、市木丸を造って対明貿易を進めた。1555年「相良氏法度二十箇条」の制定など、法令を多く発しているので領内統制に腐心した。

相良義陽【さがらよしひ(1544~1581)】

相良晴広の男。官途は遠江守。通称四郎太郎。別名相良頼房。室は相良義滋の娘(千代菊)。1555年、祖父上村頼興の後見を受け相良家の家督を相続した。1556年、「大隅大口城の戦い」では、菱刈重任とともに大口城を攻落とした。1557年、「上村頼孝の乱」では、謀反を起こした上村頼孝、上村頼堅、稲留長蔵らを鎮圧した。1559年、「獺野原の戦い」で相良頼房勢を撃破り球磨郡、八代郡、芦北郡の支配権を確立した。1562年、「日向真幸院の戦い」では、伊東義祐と結んで島津貴久勢と戦った。1567年。「初栗の戦い」で島津義久勢を撃退した。1569年、「砥上の戦い」で島津義久勢と戦い大口城を失った。1579年、「水俣城の戦い」後、芦北郡を割譲して島津義久と和議を結んだ。1581年、「響原の戦い」で甲斐宗運勢と戦って討死した。

相良頼貞【さがらよりさだ(1544~15??)】

相良晴広の次男。1556年、父相良晴広の意向を受け永国寺の泰雲和尚のもとで出家した。1581年、「水俣城の戦い」後、相良義陽と対立して出奔した。「響野原の戦い」で相良義陽が討死すると、相良惣領家の家督を狙って岩崎加賀守らとともに常秀寺で兵を上げた。「人吉城の戦い」では、岡本頼氏が負傷した。深水長智の調停により岩崎加賀守とともに日向国に落延びた。

相良長毎【さがらながつね(1574~1636)】

相良義陽の男。官途は宮内大輔。通称四郎次郎。室は秋月種長の妹(龍子)。1585年、兄相良忠房が病没したため、相良惣領家の家督を相続した。1587年、「九州征伐」では、島津義久に従って参陣して羽柴秀吉勢と戦った。役後、深水宗芳の働きにより球磨郡の所領を安堵された。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して美濃大垣城に籠城したが石田三成勢が壊滅すると、松平元康勢に内応した。秋月種長、高橋元種らとともに城内の熊谷直盛、垣見一直、木村由信、木村豊統を謀殺した功により所領を安堵した。1619年、「椎葉山騒動」では、反御朱印派を鎮圧した。
 
相良長皓【さがらながあきら(15??~15??)】

相良為続の五男。興善寺関城主。官途は伊勢守。
 
相良尾張守【さがらおわりのかみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡四奉行。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
相良長城【さがらながしろ(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡老者。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
相良長住【さがらながずみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡老者。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
相良長観【さがらちょうかん(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡老者。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
相良長通【さがらながみち(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡老者。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
相良民部大輔【さがらみんぶだいふ(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡老者。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

相良伊勢守【さがらいせのかみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡上土城。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

佐々木吉広【ささきよしひろ(15??~15??)】

名和顕孝家臣。岡城主。

佐々木吉重【ささきよししげ(15??~15??)】

佐々木吉広の男。

佐牟田頼秀【さむたよりひで(15??~15??)】

相良晴広家臣。大畑城主。

佐牟田長堅【さむたながかた(1546~1579)】

佐牟田頼秀の男。通称城之助。勇将。常に犬を連れて狩りに出掛けたが論語や六韜三略を携えた。島津義弘は佐牟田長堅の調略を図ったが失敗に終わった。1579年、「日向耳川の戦い」では、相良義陽勢が大口城を攻撃するために兵を集めると、島津義弘の刺客により謀殺された。

佐牟田長治【さむたながはる(15??~15??)】

佐牟田長堅の男。

佐牟田忠興【さむたただおき(15??~15??)】

佐牟田頼秀の次男。

塩山浅之助【しおやまあさのすけ(15??~15??)】

吉尾大学の男。

志岐重弘【しきしげひろ(14??~15??)】

天草郡志岐城主。志岐重遠の男。官途は弾正少弼。通称又次郎。別名志岐武遠。1501年、菊池能運勢に従って宇土為光勢と戦い戦功を挙げた。1525年、菊池重治から「藤原重経」の名字と刀一振を与えられた。1532年、「上津浦城の戦い」では、天草国衆とともに上津浦治種を攻撃した。1559年、「栖本城の戦い」では、天草尚種、上津浦種教らとともに栖本鎮通を攻撃した。

志岐鎮経【しきしげつね(15??~1589)】

志岐重弘の男。官途は豊前守。通称又次郎。洗礼名「ドンジョアン」。別名志岐麟泉。1566年、イエズス会士ルイス・デ・アルメイダを招き布教を許した。1578年、「日向耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると、龍造寺信隆勢に従った。有馬晴信が島津義久勢に寝返ると、それに従って島津義久勢に属した。1587年、「九州征伐」では、島津義久が羽柴秀吉に降伏すると、志岐鎮経もそれに従った。1589年、「天正天草の乱」では、小西行長の賦役に反発して天草五人衆とともに反乱を起こした。「志岐城の戦い」では、小西行長勢3,000余りを夜襲で撃退したが、再び小西行長、加藤清正、有馬晴信、大村喜前ら10,000余りの攻撃を受け薩摩国に落延びた。

志岐親重【しきちかしげ(15??~1607)】

有馬晴純の五男(志岐鎮経の養子)。通称藤右衛門尉。室は島津義虎の娘。

志岐親昌【しきちかまさ(15??~1647)】

志岐親重の男。通称小左衛門。

志岐経弘【しきつねひろ(15??~15??)】

志岐重弘の次男。

下田能続【しもだよしつぐ(15??~1586)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡下田城主。通称左衛エ門尉。1586年、「下田城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受けう討死した。

下津浦景春【しもつうらかげはる(15??~15??)】

上津浦種直家臣。通称六兵衛。1589年、「天正天草の乱」では、上津浦種直に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

栖本鎮通【すもとしずみち(15??~15??)】

天草郡栖本城主。官途は民部少輔。洗礼名「ドン・バウトロメウ」。天草五人衆。相良晴広と結び他の天草五人衆(志岐鎮経、天草種元、大矢野種基、上津浦種直、栖本親高)と争った。

栖本親高【すもとちかたか(1566~1592)】

栖本鎮通の男。官途は上野守。洗礼名「ジョアン」。別名栖本八郎。室は上津浦鎮貞の娘。1589年、「天正天草の乱」では、志岐鎮経勢に属して小西行長、加藤清正勢と戦い降伏した。1592年、「文禄の役」では、小西行長に従って参陣した。「梅北一揆」で梅北国兼勢と戦い討死した。

栖本通隆【すもともちたか(15??~1592)】

栖本鎮通の次男。1592年、「文禄の役」では、栖本親高に従って参陣したが、李氏朝鮮勢と戦い討死した。

栖本武経【すもとたけつね(15??~15??)】

栖本親高家臣。通称六之助。1589年、「天正天草の乱」では、栖本親高に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

千束善右衛門【せんぞくぜんえもん(15??~1638)】

小西行長家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、小西行長が斬頸に処されると天草で帰農した。1638年、「島原の乱」では、徒士大将、評定衆として原城三の丸を守った。「原城の戦い」では、大矢野作左衛門、田崎刑部らとともに戦うが細川忠興の家臣佐藤十兵衛に討取られた。

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【た】

高塚上野介【たかつかうえののすけ(15??~15??)】

相良義陽家臣。1581年、「響野原の戦い」では、相良義陽の響野原へ布陣に箕田三浦介とともに反対した。甲斐親直勢の攻撃を受け相良義陽が討死した。

高塚掃部助【たかつかかもんのすけ(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡年行職を務めた。

高橋駿河守【たかはしするがのかみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代十三人衆。1567年、相良義陽の意向を受け高橋駿河守、東尾張守らとともに稲留長蔵を謀殺した。

高橋頼演【たかはしよりひろ(15??~1584)】

後醍院良任の次男。1584年、「沖田畷の戦い」では、兄後醍院宗重に従って参陣したが、龍造寺隆信勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

高森惟直【たかもりこれなお(15??~1586)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡高森城主。官途は伊予守。南郷七家の筆頭。1585年、阿蘇惟光が島津義久に降伏すると、大友義鎮と結び島津義久勢との戦いを継続した。1586年、仁田水左衛門大夫を謀殺して、村上丹波守を捕縛した。「高森城の戦い」では、島津義久勢の攻撃を受け討死した。高森惟直の娘(柏姫)が島津義久勢に斬られた。

田口弾正【たぐちだんじょう(15??~1550)】

大友義鑑家臣。上益城郡飯田城主。肥後国内で大友義鑑勢の目付役を務めた。1550年、豊後国で謀殺された。

竹崎惟満【たけさきこれみつ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。官途は筑前守。村山惟貞とともに阿蘇家の筆頭家老職を務めた。

竹崎筑後守【たけさきちくごのかみ(15??~15??)】

木山惟貞家臣。家老職を務めた。1547年、木山惟貞から赤井城代に任じられた。

竹下内匠充【たけしたくないのすけ(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡年行衆を務めた。

竹下監物【たけしたけんもつ(15??~1593)】

深水長智家臣。1590年、犬童頼兄の筆頭家老職就任に反対して深水頼蔵を擁立した。1592年、「文禄の役」では、山田城に引きこもった深水頼蔵を説得して渡海させた。1593年、「湯前城の戦い」で知行地を召し上がれたことをきっかけに湯前城に籠城するが深水頼蔵の支持を得られず自刃した。

武田元実【たけだもとざね(15??~1586)】

高森惟直家臣。官途は大和守。1586年、「高森城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け討死した。

田代乗珍【たしろじょうちん(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。上益城郡戸上城主。

田代快尊【たしろかいそん(15??~15??)】

甲斐親直家臣。上益城郡南田代城主。家老職を務めた。1581年、「響野原の戦い」では、相良義陽勢が響野原へ布陣すると、甲斐親直の意向を受け継嗣の田代宗伝とともに響野原の背後に兵を進め、東左京進勢と戦った。甲斐親直の攻撃により、相良義陽の家臣高塚上野介、箕田三浦介、淵上刑部、相良籐八郎、園田教音、東刑部、高橋内膳、桑原紀伊守、柏木壱岐守、東越後守、高橋志摩、豊永備前守、緒方藤左衛門、犬童喜兵衛、犬童五兵衛、原口佐左衛門、桑原喜兵衛らを討取った。相良義陽も野本太郎右衛門に討取られた。

田代宗伝【たしろそうでん(15??~15??)】

田代快尊の男。

玉目秀左衛門【たまめゆうざえもん(15??~16??)】

阿蘇惟将家臣。上益城郡高畠城主。通称秀左衛門。1600年、「関ヶ原の役」後、加藤清正が南肥後国を領すると、これに仕えた。娘が加藤清正の側室(正應院)となり、娘の生んだ三男加藤忠広が加藤家の家督を相続すると、外戚として権力を振るった。

湛渕甚吉【たんふじじんきち(15??~15??)】

村山丹後守家臣。1581年、「豊田城の戦い」で相良義陽勢の攻撃を受けたが、城主村山丹後守が不在のなか城兵をまとめ相良義陽勢と戦った。参考文献:「宇城市」by教育部文化課。

鈞野民部少輔【つりのみんぶしょうゆ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。益城郡曲野城主。弓術に長けたという辻姫が城主になった。

田崎出羽守【たざきでわのかみ(15??~15??)】

宗市正家家臣。家老職を務めた。1584年、「曲野城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け討死した。

恒松貞棟【つねまつさだむね(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡年行。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

伝林坊頼慶【でんりんぼうよりのぶ(15??~1535)】

丸目長恵家臣。明国の出身。丸目長恵に師事し、タイ捨流と大陸の武術を組み合わせや兵法を創始した。1635年、丸目蔵人の墓前で自刃した。

東藤左衛門【とうどうさえもん(15??~15??)】

相良義陽家臣。芦北郡佐敷東城主。

富永土佐守【とみながとさのかみ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。下益城郡萱野城主。

砥用丹後守【ともちたんごのかみ(1551~1582)】

阿蘇惟将家臣。下益城郡馬入城主。別名佐々原惟義。阿蘇惟将のもとで篠原後藤兵衛、佐々原後藤兵衛、笹原後藤兵衛らとともに剛の武者と称された。1571年、馬入城に城を移し300町を領した。1581年、「響野原の戦い」で相良義陽勢勢の先陣を撃退する戦功を挙げた。

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【な】

永池筑後守【ながいけちくごのかみ(15??~15??)】

相良治頼家臣。永池筑後守(父子同通称)の男。官途は刑部少輔。別名永池刑部。1545年、「相良治頼の乱」では、父永池筑後守とともに加担したが敗北して日向国に落延び伊東義祐に仕えた。1551年、「目井城の戦い」で上別府宮内少輔等とともに戦功を挙げたた。

長島鎮真【ながしまかねまさ(15??~15??)】

天草郡堂崎城主。天草八家。官途は但馬守。1554年、相良晴広勢の圧力に耐えかねた長島鎮真は当城を放棄、島津忠兼を頼って落延びた。

長野惟久【ながのこれひさ(15??~1584)】

阿蘇郡長野城主。1584年、「南郷城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受けると、援軍として南郷城して島津義久勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中村惟冬【なかむらこれふゆ(15??~1580)】

阿蘇惟将家臣。官途は伯耆守。1580年、「矢崎城の戦い」で島津義久の家臣新納忠之、鎌田行幸勢の攻撃を受け討死した。

名和顕忠【なわあきただ(1452~15??)】

球磨郡古麓城主。名和教長の次男。室は相良為続の娘。1459年、兄名和義興が謀殺されたると、内河式部少輔とともに相良長続のもとに落延びた。相良長続の支援を受け古麓城に復帰した。1465年、名和惣領家の家督を相続したが、支援を受けた見返りに球磨郡高田郷を割譲した。1484年、「古麓城の戦い」で相良為続勢の攻撃を受け八代郡に落延びた。1499年、「豊福の戦い」で相良為続が大敗すると、古麓城を奪還した。1504年、「古麓城の戦い」で菊池能運、相良長毎勢の攻撃を受け、木原城に落延びた。菊池能運が病没すると、宇土城に入城した。1511年、「豊福城の戦い」で相良長毎勢の豊福城を攻落とした。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

名和重年【なわしげとし(14??~1517)】

名和顕忠の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

名和武顕【なわたけあき(15??~1546)】

名和顕忠の次男。官途は伯耆守。1517年、兄名和重年の病没により名和家の家督を相続した。1517年、相良長毎と和議を結んだが豊福城を巡って対立と和議を繰り返した。1537年。相良晴広に娘を嫁がせ、相良晴広とともに菊池義武の復帰に尽力した。1542年、豊福城、小田城を巡って相良晴広と抗争を続けた。1545年、小田城を譲り相良晴広と和議を結んだ。

名和行興【なわゆきおき(15??~1562)】

名和武顕の次男。官途は伯耆守。別名宇土行興。1546年、父名和武顕の病没後、名和家の家督を相続した。1550年、菊池義武に協力して隈庄城を攻めたが、皆吉武真に宇土城を奪われた。後に奪回したが、菊池義武は滅亡した。1553年、修理大夫に任官した。

名和行憲【なわゆきのり(15??~1564)】

名和行興の男。1562年、父名和行興が病没すると幼少で、名和家の家督を相続した。1564年、家督を相続したがまもなく病没した。

名和行直【なわゆきなお(15??~1571)】

名和武顕の三男。官途は伯耆守。1562年、兄名和行興が病没すると、甥和名行憲が幼少であったため、内河忠真とともにこれを後見した。1564年、名和行憲が病没すると内河忠真を追落として、名和家の家督を相続した。1566年、家臣の加悦素心と対立した。

名和顕孝【なわあきたか(1560~1608)】

名和行直の男。官途は左兵衛尉。1571年、父名和行直の病没により名和家の家督を相続した。1579年、「日向耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると、島津義久勢に降伏した。1581年、「水俣城の戦い」では、島津義久と相良義陽が和議を結ぶ仲介を行った。龍造寺隆信勢の攻撃を受け降伏した。1587年、「九州征伐」では、島津義久に従って 羽柴秀吉勢と戦ったが降伏した。小代親泰、城久基らとともに佐々成政勢に属した。1592年、「文禄の役」では、羽柴秀次や福島正則などに従った。
 
名和顕輝【なわあきてる(15??~1587)】

名和行直の次男。別名名和行良。1587年、「肥後一揆」に参陣して討死した。

名和長興【なわながおき(15??~15??)】

名和顕孝の男。

名和顕武【なわあきたけ(15??~15??)】

名和顕孝の次男。

名和顕貞【なわあきさだ(15??~15??)】

名和顕孝の三男。

西長皓【にしながあきら(15??~15??)】

相良長毎家臣。八代郡関城主。通称伊勢守。1510年、「関城の戦い」では、名和顕忠勢の攻撃を受けると、相良長毎は援軍を派兵して名和顕忠勢を撃退した。

西惟充【にしだだみち(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。官途は弾正忠。1544年、書状に署名した。

西惟玄【にしありとら(15??~15??)】

西惟充の男。官途は弾正忠。1560年、書状に連署した。

西惟延【にしこれのべ(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。官途は越前守。

西惟栄【にしこれえい(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。官途は三河守。通称主計允。取次役を務めた。

西惟宗【にしこれむね(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。1517年、甲斐親宣、村山惟民、北里義重、室原鑑知、小陣惟住、男成家継らとともに阿蘇惟豊の矢部城への復帰に尽力した。

西惟安【にしこれやす(15??~15??)】

上益城郡市の原城主。官途は金吾。通称左衛門尉。

西村金吾【にしむらきんご(15??~1581)】

阿蘇惟将家臣。1581年、「堅志田城の戦い」で相良義陽の家臣東左京進勢の攻撃を受け討死した。

仁田水惟久【にたみずこれひさ (15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。官途は出雲守。1544年、文章に連署した。

仁田水惟栄【にたみず(15??~1586)】

仁田水惟久の男。官途は左衛門大夫。奉行衆を務めた。1582年、連署状に署名した。1586年、島津義久と結ぶことに反対する高森惟直を説得しようとするが、逆に討たれた。

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【は】

沛下直貞【はいがなおさだ(15??~15??)】

大矢野種光家臣。通称源八郎。1589年、「天正天草の乱」では、大矢野種基に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

橋本九郎左衛門【はしもとくろうざえもん(15??~15??)】

阿蘇惟種家臣。上益城郡葛羅原城主。

馬塲重友【ばばしげとも(15??~15??)】

栖本親高家臣。通称藤九郎。1589年、「天正天草の乱」では、栖本親高に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

早川秀吉【はやかわひでよし(15??~1580)】

渡辺邦秀の男(渡辺吉盛の養子)。官途は越前守。別名秀吉。室は甲斐宗運の娘。叔父渡辺吉盛から渡辺家の家督を相続して南早川城を領した。1580年、「隈圧城の戦い」では、甲斐守昌勢と戦い渡辺吉久とともに討死した。

原田種清【はらだたねきよ(15??~15??)】

大矢野種光家臣。通称六郎。1589年、「天正天草の乱」では、大矢野種基に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

東長兄【ひがしながとし(15??~15??)】

相良義滋家臣。通称弾正。丸目頼美とともに人吉奉行衆を務めた。1535年、上村頼興の意向を受けて上村長種を謀殺した。1559年、丸目頼美は対立すると、相良義陽の支持を取り付け丸目頼美を追落とした。「獺野原の戦い」では、犬童頼安とともに那須祐貞の支援を受けた丸目頼美勢を撃破った。

東直政【ひがしなおまさ(15??~1559)】

相良晴広家臣。球磨郡湯前城主。官途は三河守。1559年、相良義陽の意向を受け丸目頼美と東長兄の仲裁を行った。相良義陽と東長兄が結び丸目頼美を攻撃したため、丸目頼美は湯前城に落延びた。「湯前城の戦い」では、上田兵部とともに湯前城に籠城した。「獺野原の戦い」では、犬童頼安とともに那須祐貞の支援を受けた丸目頼美勢と戦ったが討死した。

東頼兼【ひがしよりかね(1536~15??)】

相良晴広家臣。宝河内城主。岡本頼春の男。官途は駿河守。1552年、父岡本頼春が上村頼興に謀殺されたが、幼年のため助命された。1579年、「宝河内城の戦い」では、島津義久の家臣新納忠元勢の攻撃を受けると、城兵を残したまま東頼乙とともに湯浦まで落ち延びた。八代衆の援軍により宝河内城は落城を免れた。1580年、「宝河内城の戦い」で新納忠元勢の奇襲攻撃を受け落城した。

東頼乙【ひがしよりいつ(15??~1627)】

東頼兼の男。通称喜兵衛。室は上村頼孝の娘。別名東頼一。父東頼兼とともに宝河内城の城番を務めた。1579年、「宝河内城の戦い」では、島津義久の家臣新納忠元勢の攻撃を受けると、城兵を残したまま父東頼兼とともに湯浦まで落ち延びた。1592年、「文禄の役」では、法寿寺の前住亮哲とともに祐筆役として朝鮮へ渡海した。出家すると、女犯肉食を断って常楽寺山に庵を開いた。

東源兵衛【ひがしげんべい(15??~1567)】

稲留長蔵家臣。家老職を務めた。1557年、「岡本城の戦い」で相良義陽勢の攻撃を受け稲留長蔵ともに飯野に落延びた。1567年、相良義陽に許され稲留長蔵ともに帰還したが東主馬とともに謀殺された。

東主馬【ひがししゅめい(15??~1567)】

稲留長蔵家臣。家老職を務めた。1557年、「岡本城の戦い」で相良義陽勢の攻撃を受け稲留長蔵ともに飯野に落延びた。1567年、相良義陽に許され稲留長蔵ともに帰還したが東源兵衛とともに謀殺された。

東加賀守【ひがしかがのかみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。久米城主。久米庄地頭職。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

東左京進【ひがしさきょのしん(15??~15??)】

相良義陽家臣。1581年、「堅志田城の戦い」では、相良義陽勢の先陣を務め、城主の西村金吾を討取る戦功を挙げた。

東大蔵【ひがしおおくら(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡年行。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
東源兵衛尉【ひがしげんへいえいのじょう(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡年行。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

東弾正忠【ひがしだんじょうちゅう(15??~15??)】

相良義陽家臣。人吉三奉行衆。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

久木野備前守【ひきのびぜんのかみ(15??~15??)】

阿蘇惟種家臣。駒返城主。1573年、「駒返城の戦い」では、島津義久勢の攻撃を受け落城した。

菱苅平駄【ひしかりへいた(15??~15??)】

相良義陽家臣。中尾城主。通称左兵衛。人吉城普請総奉行職を務めた。

深水頼金【ふかみよりかね(15??~15??)】

相良晴広家臣。

深水長智【ふかみながとも(1532~1590)】

深水頼金の男。官途は三河守。別名深水頼方。犬童頼安とともに相良家の両輪として主家のために尽力した。外交に長じていた。1581年、相良義陽の討死後、相良忠房の後継を島津家に認めさせた。1587年、「九州征伐」では、羽柴秀吉に従って島津義久勢攻撃への先導役を務めた。1587年、「肥後国衆一揆」では、佐々成政の意向を受け相良頼房が、島津義弘、伊集院忠棟勢の入国を阻む失態を犯したが、深水長智の弁明により事なきを得た。

深水宗満【ふかみむねみつ(15??~15??)】

深水長智の男。官途は摂津守。
 
深水織部【ふかみおりべ(15??~15??)】

深水頼金の次男。兄深水長智の継嗣深水宗満が討死したため、深水織部の継嗣深水頼蔵が深水惣領家の家督を相続した。

深水頼蔵【ふかみよりくら(15??~1598)】

 深水織部の男(深水長智の養子)。通称左馬介。別名相良頼蔵。深水長智の養子に迎えられ、犬童頼兄とともに相良頼房の家老職を務めた。1592年、「文禄の役」では、犬童頼兄の不仲を理由に相良頼房の意向に従わず山田城に引きこもった。竹下監物の説得を受け渡海した。1593年、「湯前城の戦い」で竹下監物が謀反を起こすが、失敗に終わり自刃した。1596年、相良頼房のもとから出奔して加藤清正のもとに落延びた。1598年、「蔚山の戦い」で加藤清正に従い参陣したが討死した。

深水玄蕃【ふかみげんば(15??~15??)】

相良義陽家臣。人吉城普請手木奉行。豊永右衛門、窪田佐平次も普請手木奉行として普請を指揮した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
深水長命【ふかみちょうめい(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡老者。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

普門寺盛誉【ふもんじせいよ(15??~1582)】

球磨郡普門寺の住職。湯山宗豊の次男。別名「奝然坊盛誉」。普門寺の阿闍梨真盛に教えを受けた。その後、願成寺真誉に教えを受け、日向国佐土原の黒貫寺で修学後、普門寺朝弁に教えを受けた後、院主に任じられた。1581年、相良頼貞が相良義陽の病没後、謀反を起したが深水長智の説得を受け日向国に退去した。1582年、「相良頼貞の乱」では、普門寺盛誉と宗昌が相良頼貞勢に加担したとして相良忠房に討取られた。宗昌は日向国に落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

古江安守【ふるえやすもり(15??~15??)】

栖本親高家臣。通称四郎右衛門。1589年、「天正天草の乱」では、栖本親高に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

辺春盛道【へばるもりみち(15??~1584)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡内牧城主。官途は丹波守。1584年、「内牧城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け自刀した。

本郷能登守【ほんごうのとのかみ(15??~15??)】

島津義久家臣。八代郡比丘尼ヶ城主。1600年、「宇土城の戦い」で加藤清正勢の攻撃を受けた宇土城を支援するため、小西貞長勢に属して参陣した。加藤清正勢の反撃を受け討死した。本郷能登守の母(妙珍比丘尼)が比丘尼ヶ城を守備した。

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【ま】

松岡丹後守【まつおかたんごのかみ(15??~15??)】

阿蘇郡守護神城主。

松浦筑後守【まつうらちくごのきみ(15??~15??)】

宇土郡紫尾城主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI。

松岡長平【まつおかながひら(15??~15??)】

八代郡平山城主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI。

松平内蔵助【まつだいらくらのすけ(15??~15??)】

天草郡上野原城主。

的場自休【まとばじきゅう(15??~15??)】

相良義陽家臣。1584年、「肥前森岳の戦い」では、島津家久勢に従って龍造寺信隆勢と戦い戦功を挙げた。連歌師や女歌舞伎を批判して奢侈を諌めたが、自身も文に通じた教養人だった。

丸目長恵【まるめながよし(1540~1629)】

相良晴広家臣。丸目与三右衛門の男。官途は石見守。文武両道の武将。天草伊豆守から中条流の剣術を学び、上泉信綱から新陰流の印可を得た。上泉信綱が足利義輝に招かれてその技を披露したとき、打太刀を務めた。1569年、「大口城の戦い」後、相良義陽の意向を受け敗戦の責を負いに蟄居した。1581年、「響ヶ原の戦い」で相良義陽が討死すると、赦免され相良頼房の兵法師範を務めた。後に「タイ捨流」を編み出した。武芸に長じるほか、和歌、笛などにも優れ、また肥後球磨郡一武霧の原の開拓に功を上げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

万江兵太夫【まんえへいだいふ(15??~15??)】

相良義陽家臣。人吉城普請の横目付役を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

三浦義国【みうらよしくに(15??~15??)】

下益城郡岩尾野城主。1584年、「御船城の戦い」で甲斐親直勢の攻撃を受け討死した。

三谷刑部左衛門【みたにぎょうぶざえもん(15??~15??)】

名和武顕家臣。阿高城主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI。

光永惟宗【みつながこれむね(15??~1551)】

阿蘇惟豊家臣。上益城郡津森城主。1551年、「津森城の戦い」で大友義鎮勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI。

光永惟純【みつながこれずみ(15??~1551)】 

光永惟宗の弟。1551年、「津森城の戦い」では、兄光永惟宗とともに津森城に籠城したが、大友義鎮勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

南下野守【みなみしもつけのか(15??~15??)】

八代郡二見南城主。

皆吉武真【みなよしたけざね(15??~1550)】

名和武顕家臣。八代郡豊福城主。官途は伊予守。1527年、「第一次豊福城の戦い」で名和武顕が相良晴広勢から豊福城を奪い城代に任じられた。1535年、「第二次豊福城の戦」では、相良晴広勢の攻撃を受け落城した。1550年、「隈庄城の戦い」で名和行興、菊池義武らの攻撃を受け隈庄城が落城すると、宇土城を攻落とした。「宇土城の戦い」で名和行興、菊池義武勢の反撃を受け相良義陽を頼って落延びた。その後、相良義陽の支援を受け宇土城を攻撃したが討死した。

蓑田長親【みのだながちか(15??~15??)】

上村頼興家臣。1535年、上村頼興の意向を受け上村長種を謀殺した。

蓑田善兵衛【みのだぜんべん(15??~15??)】

相良義陽家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

蓑田筑後守【みのだちくごのかみ(15??~15??)】

蓑田善兵衛の弟。八代郡四奉行衆。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

箕田三浦介【みのだみうらのすけ(15??~15??)】

相良義陽家臣。1581年、「響野原の戦い」では、相良義陽の響野原へ布陣に高塚上野介とともに反対した。甲斐親直勢の攻撃を受け相良義陽が討死した。

御船房行【みふねふさゆき(15??~1541)】

阿蘇惟豊家臣。益城郡御船城主。1541年、「御船城の戦い」では、阿蘇惟豊に謀反を起こしたが、阿蘇惟豊、阿蘇千寿丸、甲斐親直勢の攻撃を受け討死した。

三森能因【みもりのういん(15??~1586)】

高森惟直家臣。通称兵庫。1586年、「高森城の戦い」では、島津義久勢の攻撃を受け高森惟直とともに討死した。

宮原公忠【みやはらきみただ(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡宮原城主。官途は筑前守。通称左衛門尉。八代郡四奉行衆。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

村山惟忠【むらやまたんごのかみ(15??~1591)】

阿蘇惟種家臣。下益城郡豊田城主。官途は丹後守。1581年、「豊田城の戦い」で相良義陽勢の攻撃を受けたが浜の館に月番に赴いていたため、城代の湛渕甚吉が籠城した。1586年、高森惟直の説得に赴いたが捕縛された。

村山惟民【むらやまこれたみ(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。阿蘇郡村山城主。官途は宮内少輔。

村山惟広【むらやまこれひろ(15??~15??)】

村山惟民の男。官途は能登守。

村山家久【むらやまいえひさ(15??~15??)】

村山惟広の男。

村山惟貞【みらやまこれさだ(15??~15??)】

村山家久の男。官途は美濃守。別名村山惟尚。竹崎惟満とともに阿蘇惟長、阿蘇惟豊に仕え外交、政務を担当した。1571年、男成家継との取次役を務めた。北里和泉守との取次役を務めた。

村山飛騨守【むらやまひだのかみ(15??~1581)】

相良義陽家臣。1543年、球磨郡上土城代を務めた。1581年、「響ヶ原の戦い」では、相良義陽に従って島津義久勢とともに甲斐宗運勢と戦ったが敗れて相良義陽とともに討死した。

室原鑑知【むろはらちかとも(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。1517年、甲斐親宣、村山惟民、西惟宗、北里義重、小陣惟住、男成家継らとともに阿蘇惟豊の矢部城への復帰に尽力した。

米良三左衛門【めらさんざえもん(15??~15??)】

相良義陽家臣。人吉城普請総奉行。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【や】

簗瀬源左衛門【やなせげんざえもんn(15??~15??)】

相良義陽家臣。人吉三奉行衆を務めた。

簗瀬忠将【やなせただまさ(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡年行衆を務めた。

矢野信濃守【やのしなののかみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。芦北郡伏木氏城主。

山井五郎【やまいごろう(15??~15??)】

深水頼蔵家臣。1596年、犬童頼兄の意向を受け、深水頼蔵の謀殺を図った刺客を討取る功を挙げた。

山善左衛門【やまぜんざえもん(15??~1638)】

小西行長家臣。1600年、「関ヶ原の役」で小西行長が敗れ改易処分に処されると帰農した。1638年、「島原の乱」では、天草五人衆のひとりとして一揆勢を指導した。「原城の戦い」では、浮武者頭として大矢野松右衛門とともに2,000余りを率いて二ノ丸を守備したが松平家光勢の攻撃を受け討死した。

湯山宗豊【ゆやまむねとよ(15??~15??)】

相良晴広家臣。室は玖月善女。

湯山宗昌【ゆやまむねまさ(1542~1594)】

湯山宗豊の男。官途は佐渡守。1581年、「相良頼貞の乱」後、相良頼貞に盛誉法院が謀反を企てたとして讒言された。相良忠房から謀反の疑いで受け盛誉法院は謀殺されたため、日向国に落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

吉尾大学【よしおだいがく(15??~15??)】

相良晴広家臣。吉尾城主。

吉田主水頭【よしだもんどのかしら(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。阿蘇郡吉田城主。

吉牟田重宗【よしむろたしげむね(15??~15??)】

相良晴広家臣。球磨郡老者。

亮海【りょうかい(15??~15??)】

相良長隆家臣。僧兵。1526年、「相良瑞堅の乱」では、相良長隆から相良長定への使者に任じられたが辞退した。

渡辺吉盛【わたなべよしもり(14??~1523)】

阿蘇惟長家臣。渡辺正秀の男。上益城郡南早川城主。官途は石見守。1523年、「筒ヶ嶽城の戦い」で菊池武包勢との夜戦に敗れ、責めを負い自刃した。

渡辺吉久【わたなべよしひさ(15??~15??)】

渡辺吉盛の男。通称右衛門太輔。室は渡辺邦秀の娘。1580年、「隈庄城の戦い」で甲斐親直、早川吉秀とともに、甲斐守昌勢を攻撃した。

渡辺吉行【わたなべよしゆき(15??~15??)】

渡辺吉久の男。官途は石見守。通称又太郎。

渡辺孫四郎【わたなべまごしろう(15??~15??)】

渡辺吉久の次男。

渡辺邦秀【わたなべくにひで(15??~15??)】

渡辺吉貞の次男。

渡辺伝兵衛【わたなべでんべえ(1586~1638)】

大矢野種基家臣。通称伝右衛門。洗礼名「ロレンソ」。1538年、「島原の乱」では、評定衆を務め天草時貞の軍配者を務めた。「原城の戦い」で松平家光勢の攻撃を受け討死した。

渡辺小左衛門【わたなべこざえもん(15??~1638)】

渡辺伝兵衛の男。1538年、「島原の乱」では、松平家光勢に捕縛され斬頸に処された。

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【資料Ⅰ】

南肥後国(7郡/240,000石)

阿蘇郡:矢部城、高森城、小国(寺社)、野尻城、波野城、錦野城、馬見原城。
上益城郡:御船城、甲佐城、松橋寺社、小川城、御岳城、杉上城、砥用城。
下益城郡:那須城。
宇土郡:宇土城。
八代郡:古麓城。
天草郡:本渡城、牛深城、富岡城、姫戸城、深海城、栖本城、登立城、志岐城。
芦北郡:八代城、水俣城、津奈木城、日奈久城、佐敷城、二見城、湯浦城。
球磨郡人吉城、多良木城、水上(寺社)、湯前城、久米城、免田城、五木城、岡原城

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【資料Ⅱ】

天草五人衆【あまくさごにんしゅう】

天草諸島の国人衆。天草種元、大矢野種基、上津浦種直、栖本親高、志岐鎮経。1587年、「九州征伐」で羽柴秀吉勢の降伏して小西行長に従った。小西行長の宇土城の城普請の負担を拒否した。1589年、「天草国人一揆」では、天草種元、大矢野種基、上津浦種直、栖本親高らが謀反を起こしたが、小西行長、加藤清正勢の攻撃を受け滅亡、降伏した。

阿蘇家七家老【あそけななかろう】

甲斐親宣、村山惟民、西惟宗、北里義重、室原鑑知、小陣惟住、男成家継。

八代十三人衆【やつしろじゅうさんにんしゅう】

奥野越前守、高橋駿河守、東織部、東主馬、東四郎左衛門尉、東縫殿助、松木左馬頭、蓑田出雲守、蓑田紀伊助、蓑田信濃入道、宮原内記、宮原縫殿助、村山越前守。八代郡の有力在地領主(地頭)。

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【資料Ⅲ】

南肥後国【みなみひごのくに】

九州中央部に位置する西海道の国。北は筑肥山地を境に筑後国に接し、東北は阿蘇山の外輪山の山系で豊後国、東南は九州山地で日向国との国境を作る。南は国見山地の山々が薩摩国、大隅国と境を隔て、西は南北に有明海、島原湾、不知火海が続き、島原湾と不知火海を分ける宇土半島の先には、大矢野島、天草諸島など数多くの島々が浮かぶ。三方が山に囲まれ、一方が海に面した地形で、豊後国、日向国との境界の山岳地帯から流れる球磨川、菊池川、緑川などの河川は、中流域の小国、阿蘇、矢部、甲佐などの盆地地帯を通って、下流域の八代、菊池、熊本などの平野部を潤し、有明海、不知火海に注ぐ。古代から中国大陸との関係が深く、海外との交易も盛んに行われ、水運や港湾の整備が進み、文化、経済が発達した。

八代【やつしろ】

南肥後国南部の球磨川の最下流部に位置し南肥後国の中心。1533年、相良義滋により八代本城が改修が開始され、八代城下街として発展した。八代が河口の外港徳淵と水路で結ばれ、かつ惣構に囲まれていた。惣構内には公の施設である陣内(御内)を中心に武家屋敷が計画的に配置されていた。他に杭瀬三街や宮地街などの街家があった。

徳淵【とくぶち】

徳淵は、八代城の外湊として栄えた湊街。名和武顕は十八度もの朝鮮への使節派遣を行い対外貿易の拠点としても繁栄した。1542年、相良義滋は自ら徳淵で新造した「市来丸」で商人の「かさ屋」や「森」らを介して渡唐船を仕立てた。1555年、「八代船(16船)」が渡唐船として出帆するなど、琉球国を中継地とする対中国貿易も活発に行われた。

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戦国人名辞典は1500~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は文献を表示していますが、架空歴史小説も含まれるため、記載されている人物が史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

陶隆房は陶晴賢、尼子詮久は尼子晴久、大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、立花道雪は戸次鑑連、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2012年9月14日金曜日

戦国摂津国人名辞典


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【あ】

藍房清【あいふさきよ(15??~1579)】

藍岡山城主。官途は出雲守。1579年、藍房清は荒木村重に攻められ落城した。

安威弥四郎【あいよしろう(15??~15??)】

安威城主。1526年、管領細川高国と細川晴元との「桂川の戦い」では、細川高国方に属した。この戦いで安威城は、芥川城、茨木城、福井城、三宅城ともに落城した。その後、安威弥四郎は三好長慶の麾下に属した。

安威勝宗【あいかつむね(15??~15??)】

安威弥四郎の男。官途は三河守。通称五左衛門尉。別名安威了佐。入江春景に所領を奪われた。1570年、池田家内訌の時、荒木村重に属して摂津国守護職池田勝正方と戦った。1571年、「白井河原の戦い」に参陣して、和田惟政勢との戦いで戦功を挙げた。安威勝宗は、池田知正と同じ三好三人衆方に属した。後に、羽柴秀吉に仕えた。

明石長行l【あかしながゆき(15??~15??)】 

枝吉城主。赤松家臣。明石則行の男。1531年「武庫河原の戦い」に参陣して浦上村宗を討取った。1538年、御着城主小寺則職と結んで赤松政村に謀反を起こした。1539年、赤松政村、細川持隆と戦って和睦した。

明石祐行【あかしすけゆき(15??~15??)】

明石長行の男。1538年、父長行が主家に叛いた際、これに属して赤松家と戦った。1555年、赤松義祐、三好長慶、三好実休と「太山寺の戦い」で戦った。その後は三好長慶に属して「河内高屋城の戦い」に参陣した。1566年、三好三人衆に属して滝山城を攻めた。

安部良成【あべよしなり(15??~15??)】

大和田城主。荒木村重家臣。通称二右衛門。1578年、芝山宗綱とともに荒木村重から離反しして織田信長に降伏した。

荒木義村【あらきよしら(15??~15??)】

池田勝正家臣。官途は信濃守。摂津池田家六人衆のひとり。

荒木村重【あらきむらしげ(1535~1586)】

荒木義村の男。官途は摂津守。通称十二郎。室は荒木ダシ。池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となった。三好三人衆の調略に乗り池田知正と共に三好家に寝返り池田知正に池田勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握した。1573年、織田信長に降り茨木城主となった。織田信長と足利義昭が戦った「若江城の戦い」で戦功を挙げた。1574年、伊丹城主となり、摂津一国を任された。その後も織田信長に属して「高屋城の戦い」「天王寺の戦い」「紀州征伐」など各地を転戦し、戦功を挙げた。1578年「三木城の戦い」で羽柴秀吉勢に加わっていた荒木村重は有岡城にて突如、織田信長に対して反旗を翻した。一度は糾問の使者(明智光秀、松井友閑、万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、中川清秀の進言を受け伊丹城に戻った。羽柴秀吉は黒田孝高を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、荒木村重は孝黒田高を拘束し監禁した。荒木村重は有岡城に籠城し、織田信長勢に対して一年の間徹底抗戦したが、中川清秀と高山右近が織田信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。1579年、荒木村重は、単身で有岡城を脱出して尼崎城へ落延びた。織田信長は「尼崎城と華熊城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を荒木久左衛門ら荒木の家臣たちと取り交わした。荒木久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、荒木村重は受け入れず、窮した荒木久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまった。

荒木村次【あらきむらつぐ(1559~1596)】

荒木村重の男。室は明智光秀の養女(倫子)。1578年、父荒木村重が織田信長に反逆した際、協力して有岡城を守った。しかし入れ替わる形で茨木城を守備していた中川清秀が織田信長に寝返ったため、荒木村重勢は不利となって荒木村重、荒木村次父子は毛利輝元を頼って落延びた。荒木村次は明智光秀の倫子を室に迎えていたが離別した。織田信長の死後、羽柴秀吉が台頭すると、羽柴秀吉に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」に羽柴秀吉方として参戦したが、足を負傷して以後は戦場に出ることは無く、代わりに弟荒木村基が仕えた。

荒木村基【あらきむらもと(15??~15??)】

荒木村重の次男。通称弥四郎。羽柴秀吉に仕えた。

荒木元清【あらきもときよ(1536~1610)】

荒木重元の男。官途は志摩守。馬術に長け、荒木流を興す。荒木村重の謀反に応じ、花隈城に籠城した。1580年、池田恒興に攻められ落城した。荒木元清は花隈城を脱出し、備後鞆に落延びた。後に羽柴秀吉に仕えた。「羽柴秀次事件」に連座して追放処分を受けた。 
 
荒木元満【あらきもとみつ(1556~1595)】

荒木元清の男。通称十左衛門。後に羽柴秀次に仕えた。
 
有馬重則【ありましげのり(15??~15??)】

有馬郡三田城主。有馬則景の男。官途は筑後守。室は細川澄元の娘。播磨赤松家の庶家。有馬郡惣領職。父有馬則景の代は摂津国三田城に在住していたが、有馬重則の代に播磨三木に所領を移したがこの地を領する別所就治とたびたび争った。1554年、有馬重則は三好長慶の「別所家征伐」に属して、別所方の淡河城を奪って居城とした。別所就治の三木城を落とすことはできなかった。1558年、淡河城を奪回されれた。

有馬則頼【ありまのりより(1533~1602)】

有馬重則の男。官途は刑部卿法印。通称九郎三郎。室は別所忠治の娘。羽柴秀吉が織田信長の命を受けて中国攻めを開始すると、羽柴秀吉の家臣として仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」では嫡男有馬則氏が討死した。その後も「九州討伐」「朝鮮の役」などに参陣し、摂津国三田城20,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では松平元康方に属した。

有馬則氏【ありまのりうじ(15??~1584)】

有馬則頼の男。通称四郎次郎。羽柴秀次に仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」で松平元康勢の迎撃にあって討死した。

有馬豊氏【ありまとようじ(1569~1642)】

有馬則頼の次男。官途は玄蕃頭。室は松平康直の娘(蓮姫)。1595年、渡瀬繁詮の家老を務めていたが「羽柴秀次の事件」に連座して改易されたうえに自刃したため、その所領と家臣を全て引き継ぎ、羽柴秀吉に仕えた。羽柴秀吉の病没後は松平元康に属した。1600年「関ヶ原の役」では松平元康に属して「岐阜城の戦い」や「関ヶ原の役」での戦功により、遠江国横須賀城30,000石から丹波国福知山城60,000石に加増移封された。父有馬則頼の遺領摂津国三田城20,000石を得て計80,000石を領した。1614年「大坂冬の陣」では松平元康として参陣して戦功を挙げ、筑後国久留米城210,000石を領した。1637年「島原の乱」にも参陣し戦功を挙げた。

粟生氏晴【あわおうじはる(15??~15??)】

池田勝正家臣。1571年、「白井河原の戦い」に参陣して、和田惟政勢との戦いで戦功を挙げた。

池田信正【いけだのぶまさ(15??~1548)】

豊島郡池田城主。池田貞正の男。官途は筑後守。通称三郎五郎。室は三好政長の娘。1508年、畿内の細川家の家督争いで細川澄元に属した父池田貞正が細川高国に池田城を攻められ自刃したが、池田信正は落延びた。1519年、細川澄元の挙兵に呼応、摂津下田中城を奪って恩賞に豊島郡を与えられた。1531年、池田高国と連合を組んだ浦上村宗に池田城を攻め落とされた。1533年「享禄、天文の乱」で一向一揆に敗れて淡路国に逃れた細川晴元が池田城に入城。細川晴元方の部将として活動した。1540年、木沢長政が細川晴元に反旗を翻した時は細川晴元の部将三好長慶に参陣し「太平寺の戦い」で戦功を挙げた。1546年、細川氏綱と遊佐長教が挙兵すると細川氏綱に帰参したが、三好長慶に攻められ降伏。1548年、細川晴元に許されず自刃した。

池田長正【いけだながまさ(15??~1563)】

池田信正の男。通称弥太郎。官途は筑後守。1548年、父池田信正は細川晴元に背いて敗れ自刃しため、池田長正が池田家の家督を相続した。北摂地域を支配するまで勢力を拡大したが、三好長慶と戦って敗れ、その麾下に属した。その後は三好家に属して安見宗房らと戦った。1563年、病没すると、後を枝連衆の池田勝正が継承したが、池田家臣団は内部分裂を起こし二派に分かれ抗争することになった。

池田知正【いけだともまさ(1555~1604)】

池田長正の男。官途は備後守。通称九右衛門。別名池田勝重。父池田長正の病没後、池田家の家督は枝連衆の池田勝正が継いだ。1570年、池田知正は三好三人衆と通じて織田信長を裏切り、荒木村重と共に内紛を起こした池田勝正を追放し、家督を相続し池田城主となった。1571年、和田惟政を「白井河原の戦い」敗死させた。1573年、足利義昭と織田信長の仲が険悪となると、池田知正は細川藤孝の説得を振り切って足利義昭方に属したために没落した。池田家は織田信長に寝返った荒木村重に乗っ取られ池田知正は摂津国を追放された。後に織田信長に降伏し荒木村重に2,780石で仕えた。1579年、荒木村重が織田信長に反逆して没落し、その際に池田知正の妻子も尼崎七松で処刑された。その後は羽柴秀吉に仕えて豊島郡2,700石を領した。「小牧、長久手の戦い」や「九州征伐」に参陣した。1600年「関ヶ原の役」では小山評定より松平元康に属して、役後に5,000石を加増された。

池田光重【いけだみつしげ(15??~1628)】

池田長正の次男。官途は備後守。通称弥右衛門。別名池田重信。1592年「文禄の役」にて名護屋城に兵50名で休戦まで在陣した。1600年「関ヶ原の役」では、兄池田知正と共に松平元康に属した。1604年、嫡男池田三九郎は兄池田知正の養子となって池田家の家督を相続した。1605年、早世してしまい、池田光重自身が池田家の家督を相続した。1613年、家臣関弥八郎が貸金を横領の罪をおこし、池田光重は連座する形で改易となり、駿河法命寺に蟄居した。

池田正久【いけだまさひさ(15??~15??)】

池田信正の次男。

池田勝正【いけだかつまさ(1539~1578)】

池田正久の男。官途は筑後守。通称八郎三郎。1563年、池田長正の病没によって池田家惣領として家督を相続した。池田家は三好家と同盟関係であったが、三好長慶の病没によって三好家が弱体化すると、池田勝正は三好三人衆と組み「東大寺大仏殿の戦い」で松永久秀と戦った。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛してくると、摂津国の他の豪族が降伏していく中で抵抗したが、織田信長の圧倒的な軍事力の前に降服を余儀なくされた。織田信長は池田勝正、伊丹親興、和田惟政の三名に摂津国支配を任せたため、池田勝正らは「摂津三守護」と称された。さらに、池田勝正は室町幕府から摂津国守護職に任じられ、伊丹親興、和田惟政を麾下とし摂津国を治めた。1569年、三好三人衆による「本圀寺の戦い」では手勢を率い救援に駆けつけ、桂川にて細川藤孝や三好義継とともに三好三人衆と戦い、敵陣に一騎駆けにて切り込み戦功を挙げた。その後、織田信長の但馬国、播磨国の平定と浦上宗景征討でに活躍した。1570年「金ヶ崎の戦い」では明智光秀や羽柴秀吉らを率いて殿軍をつとめ、織田信長を落延びさせる戦功を挙げた。家臣荒木村重と池田知正が三好三人衆の調略を受け三好家に寝返り、池田勝正は池田城から追放された。

池田知正【いけだもとまさ(15??~1603)】

池田正久の次男。官途は備後守。通称久左衛門。池田家二十一人衆の筆頭。池田家の内紛ののちに荒木村重に属した。1568年「六条の戦い」で三好勢を退ける。織田信長に属して「越前侵攻」に参陣した。羽柴秀吉とともに「金ヶ崎退き口」に戦功を挙げた。1573年、足利義昭が織田信長に反すると織田方の和田惟政を討取った。荒木村重の謀叛では有岡城を守備した。1579年、荒木村重が尼崎城に逃れた後も伊丹城に籠城を続けた。織田信長勢の攻撃に屈して開城した。尼崎城に籠もる荒木村重を説得開城させることを条件に、伊丹城城兵の助命を願い出た。一族、老臣、妻子を人質として残し、荒木久左衛門は尼崎城で村重を説得したが、荒木村重はこれを拒否して尼崎城の守りを固めた。有岡城へも帰れなくなり淡路国岩屋へ落延びた。

池田和泉守【いけだいずみのかみ(15??~1580)】

荒木村重家臣。1580年、荒木村重が織田信長に謀反するも、荒木勢の首脳が伊丹城から脱出してしまったことで、自壊の様相を呈した。伊丹城で城内を警護していた池田和泉守は、絶望のあまり自刃した。辞世の句は「露の身も 消えても心 残り行く なにとかならむ みどり子の末」。

石田伊予守【いしだいよのかみ(15??~15??)】

荒木村重家臣。渡辺勘太夫、山脇勘左衛門とともに茨木城城代。1578年、中川清秀に茨木を追われた。

伊丹元扶【いたみもとすけ(15??~1529)】

河辺郡伊丹城主。京兆細川家臣。官途は兵庫助。1507年、細川政元が謀殺され「永正の錯乱」が勃発すると細川政元の養子の内のひとりである細川澄元に属した。1508年、三好之長との反目から細川政元のもうひとりの養子細川高国に属して、丹波守護代内藤貞正と共に細川澄元、三好之長らを近江に駆逐した。1519年、細川澄元と三好之長から伊丹城を攻撃され落とされるが、後に奪還した。1527年、細川澄元の遺児細川六郎を擁する三好勝長、三好政長とこれに呼応した波多野稙通、柳本賢治が摂津国の諸城を相次いで攻撃した。伊丹元扶は伊丹城に拠ってこれに耐え「桂川原の戦い」で細川高国が三好勢に敗れた後も籠城を続けたがまもなく降伏し、以後は三好元長に属した。1529年、柳本賢治との対立により三好元長が阿波国に退くと畿内で孤立し、柳本賢治に伊丹城を攻められて討死した。

伊丹国扶【いたみくにすけ(15??~1531)】

伊丹元扶の男。通称は兵庫助。伊丹国扶は父伊丹元扶と同じく細川高国の武将として仕えた。1520年、細川澄元や三好之長らが摂津越水城を攻めると、その後詰を行った。父伊丹元扶の討死後も細川高国方の有力武将として仕えた。1531年、細川高国が細川晴元や三好元長と「大物崩れ」に敗れた際に討死した。

伊丹親興【いたみちかおき(15??~1574)】

伊丹親永の男。官途は兵庫頭。はじめ細川晴元に属した。1548年「榎並城の戦い」でも細川晴元に属したが、細川晴元が失脚して三好長慶が畿内の実権を握ると三好長慶に従属した。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、織田信長、足利義昭に呼応して三好三人衆と戦った。以後は幕臣として織田信長に属した。和田惟政、池田勝正と共に摂津国守護職に取り立てられ、伊丹城30,000石を領した。1569年「本圀寺の戦い」においては負傷しながらも三好勢を打ち崩して敗走させ、勝利を収めた。その後、織田信長に属して但馬国の山名祐豊や播磨国の浦上宗景と戦った。1570年、大坂天王寺で三好三人衆と戦った。1573年、足利義昭と織田信長が不和になると伊丹親興も織田信長と対立した。1574年、織田信長の命を受けた荒木村重の軍勢に伊丹城を攻められて城は落城自刃した。

伊丹忠親【いたみただちか(1552~1600)】

伊丹親興の男。官途は兵庫頭。1568年、足利義昭を擁して織田信長が上洛すると、伊丹忠親は足利義昭に降り、伊丹城30,000石を安堵された。1569年「本圀寺の戦い」には織田信長勢として参加し、三好三人衆と戦った。1570年、織田信長に属して中島、天満森に参陣した、1572年、佐久間信盛、柴田勝家らと共に河内国へ参陣し、引き続き織田信長勢に属して、三好義継、松永久秀らと戦った。織田信長と足利義昭が対立するようになると、足利義昭に属して、仇敵であった三好義継、松永久秀らとも結んだ。1573年、織田信長勢に攻められて賀島城を開城した。1574年、伊丹城に籠城するが荒木村重に攻められて再び開城した。1582年「本能寺の変」後、馬廻衆として羽柴秀吉に仕えた。1592年、肥前名護屋城に在陣。羽柴秀吉の病没後は、黒田長政に属した。1600年「関ヶ原の役」で討死した。

伊丹家臣団【いたむけかしんだん】

北川原長勝、野間勘大夫。

茨木長隆【いばらぎながたか(15??~1548)】

島下郡茨木城主。官途は伊賀守。茨木家は「応仁の乱」後に細川政元に討伐されたが、帰順した一族茨木弥三郎のもとで勢力を回復し、春日社や興福寺の社領の代官として年貢の代納や質地入手を行い、典型的な畿内の小領主に成長した。1527年、茨木長隆は細川高国に属していたが「桂川の戦」で、細川晴元が細川高国を破ると細川晴元に属した。1531年、細川晴元は三好元長や木沢長政らを動員して「天王寺の戦い」で細川高国を討取り政権を確立した。1532年、、木沢長政と対立した三好元長を一向一揆衆の助力を得て「顕本寺の戦い」で討取った。一向一揆衆の勢力が拡大すると法華一揆の力を借りて鎮圧に成功した。1536年、法華一揆衆を、六角定頼や比叡山延暦寺の兵力を利用してこれを討滅した。1548年、三好長慶と三好政長が対立すると、細川晴元は三好長慶と「榎並城の戦い」で戦い敗れると、細川晴元政権が崩壊、茨木長隆も没落した。

茨木重朝【いばらぎしげより(15??~1571)】

茨木長隆の男。官途は佐渡守。1548年、三好長慶に属した。1566年、池田勝正と戦った。1570年「野田、福島城の戦い」に参陣した。和田惟政は、三好三人衆に通じている池田城主荒木村重の討伐を図った。1571年「白井河原の戦い」で、和田惟政は茨木城主茨木重朝と郡宗弘などが加わり、芥川城主高山友照が前衛をつとめた。荒木村重勢では中川清秀が先鋒を勤めた。この戦いで、和田惟政は鉄砲の射撃を浴びて、中川清秀によって討取られ、茨木重朝、郡宗弘も討死した。荒木村重は直ちに茨木城を攻撃した。高山父子は高槻城に逃げ帰り、和田惟政の嫡男和田惟長らと共に高槻城に籠城したが落城した。

茨木家臣団【いばらぎけかしんだん】

水尾図書助、倉垣宮内少輔、森田彦市郎。

今井兵部【いまいひょうぶ(15??~15??)】

我孫子城主。本願寺家臣。1575年、今井兵部は織田信長に降った。その後織田信長、羽柴秀吉に仕えた。

入江政重【いりえまさしげ(15??~1541)】

島上郡高槻城主。1513年、入江政重は池田、三宅、茨木、安威らとともに細川高国方として堺に参陣した。細川澄元方との「和泉深井の戦い」で、敗北した。

入江春正【いりえはるまさ(15??~15??)】

入江政重の男。官途は駿河守。1549年、三好長慶に擁立された細川氏綱と細川晴元が激突した戦いに細川氏綱方として参陣した。戦いは細川氏綱方の勝利となり、細川晴元は近江国に落延びた。細川氏綱が管領職になると入江春正は在京して細川氏綱に属した。

入江春景【いりえはるかげ(15??~1569)】

入江春正の男。官途は左近将監。別名入江元秀。1568年、織田信長は摂津国に出陣して対抗する三好三人衆を掃討、和田惟政、伊丹親興、池田勝正らが摂津国守護職に任じられ、摂津国の支配にあたった。1569年、三好三人衆は足利義昭の住む京都六条の本圀寺を襲撃した。、伊丹親興、池田勝正は兵3,000余りを率いて足利義昭を守るために京都向った。入江春景は三好三人衆方に参陣して、伊丹親興、池田勝正勢を防ぐため兵500余りを率いて追撃したが逆襲を受け敗走した。足利義昭に降服したが許されず高槻城を攻撃され落城した。

入江景秀【いりけかげひで(15??~15??)】

入江春景の男。入江景秀は高槻落城後しばらく流浪していたが、勝龍寺城主細川藤孝に召し出されて丹後に供して細川家に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では、細川 藤孝が田辺城に籠城すると、入江景秀は大手口を守備した。

入江景光【いりえかげみつ(15??~15??)】

入江春景の次男。入江景光も細川忠興の近習を勤めた、1582年、細川忠興が一色義定を手討ちしたとき細川忠興の側近くにあった。

入江家臣団【いりえけかしんだん】

調査中。

太田平八【おおたへいはち(15??~15??)】

池田勝正家臣。1571年、「白井河原の戦い」に参陣して、和田惟政勢との戦いで戦功を挙げた。

大町宗清【おおまちむねきよ(15??~15??)】

山辺城主。多田家臣。山辺城と西郷衆の拠る城砦群は、摂津国と丹波国の境目に位置することから、戦国時代には丹波、摂津を舞台とした戦乱に翻弄された。とくに細川二流の乱に際して、能勢は池田信正らと共に細川氏綱方となり、細川晴元方の丹波波多野、南方山下城に割拠する塩川国満らと敵対関係となった。1580年、織田信澄、山下城主塩川国満が能勢に侵攻し、山辺城は攻められ、城主大町宗清は弟大町宗治と共に戦ったが栗栖にて討死し城も落城した。

隠岐土佐守【おきとさのかみ(15??~15??)】

荒木村重家臣。中西新八郎麾下の足軽大将。1578年、荒木村重が織田信長から離反すると、中西新八の属して上臈塚砦を守備した。中西新八郎が滝川一益から調略を受けると他の足軽大将の星野左衛門、山脇勘左衛門、宮脇平四郎と共に織田信長勢を上臈塚砦に引き入れた。

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【か】

瓦林正頼【かわらばやしまさより(15??~1520)】

武庫郡瓦林城主。細川家臣。1508年、細川澄元に属する派と細川高国に属する派とに分れて戦うようになると、瓦林正頼は摂津国守護職となった細川高国に属した。1511年、細川高国の命令により、鷹尾城を築いた。1511年、細川澄元派の細川尚春に攻められ「芦屋河原の戦い」に敗れ落延びた。1516年、自らの拠点として越水城を築いた。その後鷹尾城を奪還し、城は家臣に守らせた。その後も、細川高国と細川澄元との戦いにおいて、細川高国方として戦功を挙げた。1520年、細川高国から謀反の疑いを受け自刃した。

熊田孫七【くまだまごしち(15??~15??)】

池田勝正家臣。1571年、「白井河原の戦い」に参陣して、和田惟政勢との戦いで戦功を挙げた。

桑原清正【くわはらきよまさ(15??~1565)】

桑原城主。通称左衛門。1555年、有岡城主荒木村重が摂津国を平定した。1564年、岡本城主山崎左馬之助恒政等と有馬郡を平定すると、家臣の畑某、 矢田某が金心寺の本陣にいた山崎方の車瀬政右衛門に降した。

倉垣宮内少輔【くらがきくないしょうゆ(15??~15??)】

茨木家臣。1571年「茨木城攻防戦」に中川清秀勢を迎え撃ち討死した。

郡宗弘【こうりぬねひろ(15??~1570)】

郡山城主。通称平太夫。別名伊丹平大夫。近郷七ヶ村を支配していた。1570年、和田惟政と池田勝正を退出した荒木村重、中川清秀ら池田二十一人衆との対立となり「白井河原の戦い」で郡平太夫は、和田惟政に属したが山脇源大夫に討たれた。

郡宗保【こうりむねやす(1546~1615)】

伊丹親保の男。通称兵大夫。別名伊丹甚七郎。荒木村重に仕えた。神田伊賀守との戦いで敵兵九十八名を討ち、首供養を三度行った。

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【さ】

塩川政年【しおかわまさとし(15??~15??)】

河辺郡一庫城主。官途は伯耆守。室は細川政春の娘。1541年、飯盛城主木沢長政は、河内国南半国守護代遊佐長教と結んで前河内守護の畠山長経を謀殺し、畠山家中に勢力を拡大すると細川晴元と対立した。塩川政年も三好長慶も対立するよになると、塩川政年は木沢長政と結び幕府側と対立した。細川晴元は三好長慶、三好政長、波多野秀忠らに命じて一庫城を攻撃したが攻めきれず、木沢長政に後方を撹乱したため撤退を余儀なくされた。1542年、木沢長政の麾下に属していた遊佐長教が離反して畠山稙長を擁立すると高屋城主畠山政国は大和国に落延びた。この畠山家の内紛に細川晴元は、畠山稙長を支援して、塩川政年、木沢長政の討伐を図った。畠山稙長は紀州国の豪族、高野山、粉河寺、根来寺の僧兵らの軍勢が河内国に集結すると、木沢長政は塩川政年、伊丹親興らの軍勢5,000余りを集結、対する細川晴元は三好長慶、三好政長らを中心に8,000余りの軍勢を集結させた。木沢長政が遊佐長教に討たれると、木沢長政勢は敗走した。

塩川国満【しおかわくにみつ(15??~15??)】

塩川政年の男。1553年、三好長慶は丹波八上城波多野秀忠を攻めていたが、その包囲陣から芥川孫十郎が離脱して芥川城に籠って反旗を翻した。三好長慶はただちに芥川城を包囲攻撃、反三好長慶派の塩川国満は芥川孫十郎を救援したが芥川城は落城した。三好長慶は芥川城を居城として摂津国人衆を勢力下に置いた。1563年、三好長慶が飯盛城で病没すると三好家の勢力は急激に低下した。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、摂津国人衆も織田信長の麾下に属した。伊丹城主伊丹親興は摂津国の三好方諸城を攻略して、伊丹城30,000石を安堵され、塩川国満も一庫城20,000石の安堵された。畿内を制圧した織田信長は、伊丹親興、池田勝正、和田惟政を摂津国守護職に任じ、摂津は三守護体制になった。1570年、塩川国満は三好方の野田、福島砦の攻撃に参陣した。その後、摂津国三守護の伊丹親興、池田勝正、和田惟政の体制が崩壊すると、有岡城主荒木村重が摂津国を領するようになった。塩川国満は荒木村重の娘婿となり、荒木村重の麾下に属した。1577年、本願寺家との対立が深まると、塩川国満に属する多田御家人衆のなかから本願寺家に内応する者があらわれ、津田信澄の応援を得てそれら多田御家人衆との戦いを繰り返した。

塩川長満【しおかわながみつ(15??~15??)】

塩川国満の男。1562年、三好義興に属して「河内教興寺の戦い」に参陣した。畠山高政との戦いに戦功を挙げた。1578年、荒木村重の麾下である塩川長満は、明智光秀に属して丹波国攻略に参陣した。荒木村重が織田信長に反旗を翻したとき塩川国満もそれに属したが、荒木村重麾下の高山重友、中川清秀らが織田信長に降服すると塩川国満も織田信長に降伏した。以後、塩川国満は「有岡城の戦い」「丹波国討伐」「三木城の戦い」に参陣した。塩川長満の娘は織田信忠の側室になり、織田秀信を生んだ。塩川長満は領を接する能勢城主能勢頼道とは代々折り合いが悪く、能勢頼道は荒木村重の謀叛に同調したこともあって勢力を失墜していた。1580年、塩川長満は能勢頼道を謀略をもって謀殺した。能勢家は次弟能勢頼次が家督を継いで塩川長満と対立し戦いを繰り返した。1582年、羽柴秀吉と明智光秀との「山崎の戦い」が起り、塩川長満は羽柴秀吉勢に参陣した。その後も羽柴秀吉に属した。1586年、羽柴秀吉の「九州征伐」では、塩川長満は麾下である多田院御家人衆にも軍役の督促を行ったがそれに従わないものいた。能勢頼次が多田院御家人衆を支援すると大規模な戦いが起こったが羽柴秀吉の命で停戦に至った。

芝山宗綱【しばやまむねつな(15??~15??)】

小部城主。通称源内。別名芝山監物。「利休七哲」のひとり。はじめ石山本願寺家の麾下に属していたが、織田信長に接近した荒木村重らと行動を共にした。1578年、荒木村重が反旗を翻した際に、摂津国大和田城に安部良成らと駐屯しており、揃って荒木村重の麾下を離れ織田信長に帰順した。のち羽柴秀吉の馬廻となり、軍目付などとして「小田原征伐」にも参陣した。1588年、後陽成天皇が聚楽第を行幸した際に先導役を務めた。のち、御咄衆として10,000石を領した。1581年、津田宗及や山上宗二らを招いて茶会を行なっていることから、既に茶人として名が知られていた。利休とは懇意で、長次郎作の名物黒楽茶碗「雁取」を贈られた。芝山型の手水鉢、芝山緞子(どんす)などに名を残した。

下村勝重【しもむらかつしげ(15??~15??)】

池田勝正家臣。1571年、「白井河原の戦い」に参陣して、和田惟政勢との戦いで戦功を挙げた。

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【た】

高山友照【たかやまともてる(15??~1596)】

島下郡高山城主。官途は飛騨守。受洗名はダリヨ。はじめ松永久秀に属した。1563年、畿内で布教中のキリスト教宣教師ヴィレラやロレンソらと論じ、キリスト教に傾倒して受洗した。1568年、織田信長が足利義昭を伴って上洛を果たし、松永久秀の支配力が落ちると和田惟政に属し、摂津国島上郡芥川城主となった。1570年、高槻城主となり、和田惟政の討死後は荒木村重に属した。1578年、荒木村重が織田信長に叛いたとき、高山友照は荒木村重に属して織田信長勢に抗戦した。嫡男高山重友が織田信長に降って高槻城を開城したため、高山友照は荒木村重のいる有岡城に移った。1579年、荒木村重が有岡城を捨てて逐電したのちは越前国の柴田勝家に預けられた。1582年、織田信長の横死後、高槻城に戻った。1585年、高山重友が播磨国明石城に転封されるとこれに従った。1587年、高山重友が改易されると父子で小西行長を頼った。1588年、高山重友が前田利家に招かれると同行し金沢に移住した。

高山重友【たかやましげとも(1552~1615)】

高山友照の男。官途は右近大夫。通称彦五郎。受洗名はジュスト。1573年、和田惟政の死後に家督を継いだ和田惟長と争ってこれを高槻城から逐い、高槻城城主となった。1578年、荒木村重が織田信長から離反すると、荒木村重に属した。織田信長の使者宣教師オルガンチノからの説得を受け、織田信長に降った。島上郡芥川城を、荒木村重が敗走したのちには高槻城を安堵された。以降は織田信長に属して、高槻城領内における布教活動にも更に力を尽くした。1582年、明智光秀討伐のために備中国高松城から兵を返してきた羽柴秀吉に属し「山崎の戦」では先鋒として戦功を挙げた。役後、羽柴秀吉から高槻城40,000石を安堵された。「賤ヶ岳の戦い」「小牧、長久手の戦い」「阿波国一宮城の戦い」「九州征伐」などの諸戦を転戦した。1585年、播磨国明石郡明石城60,000石に転封させられた。1587年、伴天連追放令により高山重友は領地を没収され、小西行長を頼って小豆島や天草に隠棲した。前田利家、前田利長に仕えて15,000石を領した。松平元康によるキリスト教禁止令発令後の、妻子や内藤如安らと共に京都へ送られたのち、長崎から多数の信徒と呂宋へ放逐された。

多田春正【ただはるまさ(15??~1573)】

上津城主。1573年、伊丹親興に攻められ落城し自刃した。

鳥養四郎大夫【とりかいしろうだいふ(15??~15??)】

池田勝正家臣。1571年、「白井河原の戦い」に参陣して、和田惟政勢との戦いで戦功を挙げた。

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【な】

中川重清【なかがわしげきよ(15??~15??)】

有馬郡稲田城主。官途は佐渡守。1564年、山崎右馬之助に攻められて降伏した。1570年、荒木村重の属して茨木城に在城した。その後、荒木村重の離反に際しては、嫡男中川清秀が織田信長に降伏した。

中川 清秀【なかがわきよひで(1542~1583)】

中川重清の男。通称瀬兵衛。室は熊田宗白の娘。はじめ池田勝正に仕えた。織田信長が上洛するとそれに属した。後に池田家で内紛がおこり、池田勝正が追放され池田知正が家督を相続すると織田信長と敵対した。1572年、荒木村重と共に織田信長に属する和田惟政を「白井河原の戦い」で討取った。戦後は茨木城主となった。摂津国で有力勢力であった和田惟政や茨木氏、伊丹親興、池田知正が相次いで衰退、没落すると荒木村重や高山重友と共に摂津国内で独立勢力となった。後に織田信長が荒木村重を摂津国の旗頭に任じられると中川清秀もそれに属した。1578年、荒木村重が織田信長に対して反旗を翻すと共に織田信長に敵対したがまもなく降伏した。その後丹羽長秀や池田恒興の麾下で畿内各地を転戦した。1582年「本能寺の変」で織田信長が横死した後は羽柴秀吉に属して「山崎の戦い」で戦功を挙げた。1583年「賤ヶ岳の戦い」にも参陣したが、大岩山砦を高山重友、三好秀次らと守っている時、柴田勝家勢の佐久間盛政の猛攻に遭って奮戦したが討死した。

中川秀政【なかがわひでまさ(1568~1592)】

中川清秀の男。官途は右衛門尉。室は織田信長の娘(鶴姫)。はじめ父と共に織田信長に仕えた。織田信長没後は羽柴秀吉に仕えた。1583年、父中川清秀が「賤ヶ岳の戦い」で討死すると、中川家の家督を相続して茨木城50,000石を領した。1584年「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1585年「四国征伐」で戦功を挙げ播磨国三木城130,000石に加増移封された。1587年「九州討伐」では兵3,000余りを率いて細川忠興、堀秀政らと共に筑前方面へ展開した。1590年「小田原の役」でも兵2,000余りを動員して「韮山城の戦い」に参陣した。1592年「文禄の役」では先発から外れたが京畿道陽智の守備についていた。水原の近くで鷹狩りをしていた時に敵兵に包囲されて討死した。

中川秀成【なかがわひでしげ(1570~1612)】

中川清秀の次男。室は佐久間盛政の次女(新庄直頼の養女)虎姫。1583年、父中川清秀が「賤ヶ岳の戦い」で討死した後、家督は兄中川秀政が相続した。1592年「文禄の役」で兄中川秀政が討死したため、中川家の家督と遺領の半分、播磨国三木城66,000石を相続して羽柴秀吉に仕えた。1593年「晋州城の戦い」では兵1,000余りを動員した。1594年、羽柴秀吉から豊後国岡城74,000石の所領を与えられた。1597年「慶長の役」では兵15,000余りを動員して右軍に属した。「黄石山城の戦い」に参陣し、忠清道から全羅道へかけて転戦した。1600年「関ヶ原の役」では、家臣を石田三成方の丹後田辺城攻めに派遣したがのちに松平元康方に属した。石田三成方の臼杵城主太田一吉を攻撃し「佐賀関の戦い」では太田家方に多くの家臣を討取られたものの、その戦功によって役後松平元康から所領を安堵された。

中川家臣団【なかがわけかしんだん】

調査中。

中西新八郎【なかにししんぱちろう(15??~15??)】

荒木村重家臣。1578年、滝川一益は佐治新介を使者に立てて上臈塚砦の中西新八郎に寝返りを打診した。荒木村重が戻る可能性が低いことを悟った中西新八は足軽大将の星野左衛門、山脇勘左衛門、隠岐土佐守、宮脇平四郎と相談、滝川一益の提案を受け入れた。有岡城では裏切り者が出ないように夜は城兵の妻子を本丸に人質として留め置いていたが妻子は各々の砦に戻されていた。中西新八郎らは上臈塚砦を開城、織田信長勢を城内に引き入れた。織田信長勢は城下を制圧し本丸の西にある侍屋敷に火を放ち、たちまち城下を制圧した。

山中又三郎【なかやままたさぶろう(15??~15??)】

大塚城主。細川晴元家臣。1546年「舎利寺の戦い」で細川氏綱、遊佐長教勢に攻め込まれ落城した。

能勢頼幸【のせよりゆき(15??~15??)】

能勢郡能勢城主。1541年一蔵城主塩川政年が反細川晴元の兵を挙げると、細川晴元は三好政長、三好長慶、波多野秀忠らを派遣した。1542年、細川氏綱が挙兵、反細川晴元勢力が形成されると能勢頼幸は、細川氏綱方に属した。1544年、細川氏綱方の内藤備前守が丹波国関城に兵を挙げると能勢頼幸も加勢に加わったが、関城は三好長慶らに攻め落とされた。1545年、三好長慶は細川氏綱方の遊佐長教に敗れ、池田久宗ら摂津国衆はことごとく遊佐方に味方した。

能勢頼道【のせよりみち(15??~1580)】

能勢頼幸の男。通称十郎兵衛。1574年、伊丹忠親が追放され、荒木村重が有岡城に入って摂津国一職支配者となる。能勢頼道はそのまま能勢城に在城して荒木村重の麾下に属した。荒木村重の謀反に従い、能勢城に籠城した。塩河長満にそかれ、多田荘にて謀殺された。

能勢頼郡【のせよりひろ(15??~1578)】

能勢頼幸の次男。通称兵右衛門。明智光秀に属した。1578年「神吉城の戦い」で、討死した。

能勢頼次【のせよりつぐ(15??~15??)】

能勢頼幸の三男。

能勢家臣団【のせけかしんだん】

調査中。

野村丹後守【のむらたんごのかみ(15??~15??)】

荒木村重家臣。室は荒木義村の娘。鵯塚砦を守備した。のち織田家に降伏するが誅殺された。

野間資持【のますけもち(15??~15??)】

能勢郡野間城主。丸山城主能勢頼次、余野城主余野高綱ともに能勢三惣領のひとり。能勢頼次の麾下に属した。

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【は】

星野左衛門【ほしのさえもん(15??~15??)】

荒木村重家臣。中西新八郎麾下の足軽大将。1578年、荒木村重が織田信長から離反すると、中西新八の属して上臈塚砦を守備した。中西新八郎が滝川一益から調略を受けると他の足軽大将の山脇勘左衛門、隠岐土佐守、宮脇平四郎と共に織田信長勢を上臈塚砦に引き入れた。

典厩細川尹賢【ほそかわただかた(15??~1531)】

欠郡中嶋城主。野州細川春倶の男。典厩細川政賢の養子。足利家管領職、摂津国守護職。1511年、細川政賢が細川高国との「船岡山の戦い」で討死すると、細川高国から典厩家の家督を相続することを許され、細川高国に仕えた。1526年、細川高国の家臣香西元盛を讒訴して細川高国に謀殺させた。このため、香西元盛の兄弟であった波多野稙通や柳本賢治らが丹波国で細川高国、細川尹賢らに対して挙兵し、阿波国から細川晴元、三好元長らも挙兵した。細川尹賢は細川高国の命を受けて波多野稙通と戦ったが敗北した。1527年、三好政長と柳本賢治の連合軍と戦った「桂川原の戦い」でも敗北、細川高国や足利義晴と共に近江国へ落延びた。1528年、細川高国と京都奪回を試みるが、細川晴元の前に敗れたため、細川尹賢は細川高国を寝返り、細川晴元に属した。1531年、三好元長と共に細川高国を討取ったが、細川晴元と不和になり木沢長政によって摂津国で謀殺された。

典厩細川氏綱【ほそかわうじつな(15??~15??)】

細川尹賢の男。1531年、細川晴元の反撃を阻めず敗死した養父と、その細川晴元方に転じて生き残りを模索しながら謀殺された実父、二人の仇を討つべく細川晴元打倒の機を窺い続けた。1543年、復権をめざして、細川晴元を討つための兵を和泉国で挙げた。畠山政国や遊佐長教等、畿内の有力者や、足利義晴の支持を得たものの、当初は細川晴元の強大な力の前に圧倒的に不利な状況にあったであった。三好政長の処遇を巡って矛川晴元と仲違いした三好長慶が細川氏綱方属すると形勢は逆転した。1549年、細川晴元は近江国に落延びた。1552年、三好長慶と共に上洛し、管領に任じられた。管領職に就いた細川氏綱であったが実権は全く無かった。

典厩細川藤賢【ほそかわふじかた(1517~1590)】

細川尹賢の次男。官途は右馬頭。足利義輝に仕えた。足利義輝が松永久秀、三好三人衆に謀殺されると、松永久秀に降伏した。その後足利義昭が織田信長に擁立されて京都に戻りると足利義昭に仕えた。京都に足利義昭の居城二条城を築城する際は細川藤賢の屋敷の庭にあった「藤戸石」という名石が使われた。1573年、足利義昭が織田信長への挙兵しようとした際にはこれを諌めた。足利義昭が挙兵すると細川藤賢も参陣した。その後は織田信長勢に城を包囲され降伏した。足利義昭は京都より追放されたが、細川藤賢は織田信長に許されて、近江の坂本城を任された。1581年、京都御馬揃えにも旧公方衆として参陣した。

典厩細川元賢【ほそかわもとかた(15??~15??)】

細川藤賢の男。

典厩細川家臣団【ほそかわけかしんだん】

調査中。

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【ま】

松原家長【まつばらいえなが(15??~15??)】

道場城主。1538年、尼子氏が播磨に侵攻してきたのである。長水山城主宇野氏らが尼子氏に通じたため、赤松晴政は置塩城から脱出する事態となった。松原家長は赤松晴政に味方して尼子方と戦い戦功を挙げた。1549年、細川晴元は三好長慶方に属する三宅城を攻撃した。この戦いに、松原家長は細川晴元方として参陣し戦功を挙げた。  
 
松原貞利【まつばらさだとし(15??~15??)】

松原家長の男。官途は山城守。通称左近大夫。1560年、松原貞利が松原城主となった。1577年、羽柴秀吉が「中国討伐」のため、山陽道に兵を進めた。1578年、三木城主別所長治が羽柴秀吉に反した。松原貞利は別所長治に属した。「野口城の戦い」では別所方の大将のひとりとして活躍した。その後、松原城に嫡男松原貞富とともに籠城、羽柴秀吉勢を迎え撃った。これに対して、羽柴秀吉は中川清秀、塩川国満、山崎家盛、池田輝政に松原城を包囲させた。羽柴秀吉勢の一斉攻撃によって、松原城は落城、松原貞利落延びる途中で、自刃した。

水尾図書助【みずおずしょのすけ(15??~1571)】

茨木家臣。1571年「茨木城攻防戦」に中川清秀勢を迎え撃ち討死した。

三宅国政【みやけくにまさ(15??~15??)】

島下郡三宅城主。三宅村綱の男。

三宅国村【みやけくにむら(15??~15??)】

三宅国政の男。三宅国村は、細川晴国を奉じて挙兵するが敗れ、細川晴国を謀殺して細川晴元側に寝返り、細川高国の残党の伊丹国扶と戦った。1547年、細川氏綱と細川晴元の戦いで、三宅国村は細川氏綱方に属したが、細川晴元方の三好長慶率いる淡路、四国勢30,000余りに三宅城を取り囲まれ降伏した。その後、細川晴元と三好長慶は反目し、三宅国村は両者の間で寝返りを繰り返した。摂津国の国人衆で三好長慶方は、三宅国村、芥川、茨木、安威、池田、原田、河原林、有馬、吹田などで、細川晴元、三好政長方は、伊丹、塩川であった。1562年。六角義賢が、細川晴元の子息、細川六郎を擁して三好長慶と対立した時は、三好長慶を裏切り、六角義賢に応じました。高屋城が三好長慶勢によって落城し、六角義賢勢が不利になると、三宅国村は三宅城を捨てて、堺に落延びた。

三宅村良【みやけむらよし(15??~1553)】

三宅国政家臣。1552年、三好長慶は足利義輝を京都に迎え、細川氏綱を管領とした。1553年、足利義輝は細川晴元を召し返そうとしたため、三好長慶の怒りにふれて追落とされた。三好長慶は芥川城を攻め、丹波攻めの軍を仕立てるが、三宅国村もその中にあり、三宅城で留守を守った一族の三宅村良は香西元成、三好政勝の大軍に攻められて討死した。

宮脇平四郎【みわわきへいしろう(15??~15??)】

荒木村重家臣。中西新八郎麾下の足軽大将。1578年、荒木村重が織田信長から離反すると、中西新八の属して上臈塚砦を守備した。中西新八郎が滝川一益から調略を受けると他の足軽大将の星野左衛門、山脇勘左衛門、隠岐土佐守と共に織田信長勢を上臈塚砦に引き入れた。

榎並三好政長【みよしまさなが(1508~1549)】

東成郡榎並城主。三好勝時の次男。細川晴元家臣。官途は越後守。通称神五郎。三好惣領家の三好元長とは折り合いが悪く、細川晴元に讒言して一向一揆を起こさせて三好元長を討取った。以後は木沢長政、茨木長隆らと共に細川晴元政権の中枢を担った。榎並城主として室町幕府料所河内十七箇所を三好元長に代わって代官として統治した。1549年、三好元長の嫡男三好長慶と河内十七箇所の代官職をめぐって対立した。細川晴元に属して、六角義賢の援軍を待ったが、三好長慶が先制攻撃を受け「江口の戦い」で討死した。これにより足利幕政を支えていた細川政権は崩壊し消滅した。

榎並三好政康【みよしまさやす(15??~15??)】

三好政長の男。官途は下野守。三好家三人衆のひとり。1549年、父三好政長は細川晴元と共に三好長慶と「江口の戦い」で戦ったが敗れ討戦死した。三好政康は細川晴元に属して三好長慶と争うが、後に和睦して三好長慶に属した。1555年、「丹波八上城の戦い」で戦功を挙げた。1562年、畠山高政との「久米田の戦い」「教興寺の戦い」にも参陣して戦功を挙げた。三好長慶の病没後は三好義継の後見役のひとりとして、三好長逸、岩成友通と共に三好家三人衆と称され、松永久秀を含め三好家中で重きをなした。1565年、三好三人衆と松永久秀と対立する足利義輝の御所を襲撃して謀殺した。畿内の主導権をめぐり松永久秀と三好三人衆と対立するようになった。三好三人衆は、三好義継を擁して、松永久秀を排除させ、足利義栄を将軍に擁立し、阿波国の篠原長房の協力を得ることにも成功した。1566年、足利義栄を越水城に迎えたが、こんどは三好義継と対立した。1567年、三好義継は、松永久秀を頼って三好三人衆と敵対するようになり、三好康長らも三人衆から離反したため、三好家は分裂状態に陥った。1568年、織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくると、三好義継と松永久秀は織田信長の麾下に属した。三好政康ら三人衆は織田信長との敵対したが、勝龍寺城と淀城が敗れるとほぼ総崩れとなり、三好政康も城主であった山城国の木津城から落延びた。

榎並三好政勝【みよしまさかつ(15??~15??)】

三好政長の次男。官途は因幡守。1549年、父三好政長が三好長慶に「江口の戦い」の戦いで討取られると、香西元成や波多野晴通と通じ、三好長慶に対して徹底して戦った。三好長慶の病没後は、三好家枝連衆として三好長慶の後を継いだ三好義継を補佐した。織田信長が上洛してくると、三好三人衆や三好康長らと共に、和泉の織田方の城を攻撃したり、足利義昭を本圀寺に攻めたりと反織田信長陣営の一員として畿内各地を転戦した。1570年「野田、福島城の戦い」に参陣したが降伏した。「比叡山の戦い」では織田信長勢に加わって戦った。1572年、松永久秀、三好義継と細川信良の抗争の中で、松永久秀方に属して織田信長が庇護していた細川信良を攻撃した。

椋橋三好長直【みよしながなお(15??~15??)】

椋橋城主。官途は伊賀守。1534年、管領細川晴元と三好長慶との間で争いとなり、三好長慶は一向宗徒とともに椋橋城に籠もった。これに対して攻撃をしかけた細川晴元であったが逆に敗退。やがて三好長慶と和睦し、三好長慶は再び細川晴元に属することとなった。三好長慶の態度に納得がいかない一向宗徒は椋橋城を攻撃し、三好長慶を信貴山城へ追い払った。

椋橋三好長房【みよしながふさ(15??~15??)】

三好長直の男。官途は備中守。1562年、三好義興に属して「河内教興寺の戦い」で戦功を挙げた。1566年、三好義継に属して堺攻撃した。1568年、足利義昭、織田信長が上洛すると、三好義継の麾下から離れ三好家三人衆方に属した。阿波国に落延びた。1570年、阿波国より渡海し摂津国野田、福島城に籠城した。

椋橋三好房一【みよしふさかず(1554~1614)】

三好長房の男。官途は丹後守。通称新右衛門尉。三好康長、織田信長に属し、羽柴秀吉に仕えてからは馬廻衆となり、赤母衣衆を務めた。羽柴秀次に仕えたが、羽柴秀次が自害すると再び羽柴秀吉に仕えた。1592年「文禄、慶長の役」では肥前名護屋に参陣した。羽柴秀吉の病没後は松平元康に属した。1600年「関ヶ原の戦い」で松平元康に属した。役後、戦功により河内国に2,300石を加増され、御相伴衆となった。1605年、松平秀忠が参内した際には、これに供奉した。

森本景久【もりもとかげひさ(15??~15??)】

能勢郡今西城主。通称左衛門。丸山城主能勢頼次は、山下城主塩川国満との勢力争いを繰り返した。1549年、塩川国満は塩川主膳、塩川修理兄弟を大将として能勢郡に乱入した。これに対して能勢勢は能勢小重郎を大将に、山辺城主大町右衛門、栗栖城主水原右衛門尉、山田城主山田帯刀、そして、今西城主森本景久らの西郷衆が森上城、今西城に拠って塩川家勢を迎え撃った。戦いは能勢方の勝利に終わり、塩川主膳、塩川修理兄弟ら討死した。

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【や】

薬師寺国長【やくしじくになが(15??~1533)】

武庫郡富松城主。薬師寺元一の男。細川京兆家臣。摂津国守護代。官途は備後守。1504年、父薬師寺元一が謀反の罪で誅殺された際は、幼少だったことから罪を許された。1507年、細川政元が謀殺されると、その養子である細川高国の家臣となり、父薬師寺政元を謀殺した叔父薬師寺長忠討伐で戦功を挙げた。1508年、摂津国守護代に任じられた。その後は細川高国に属して各地を転戦した。1527年、山城山崎城主に任じられた。しかし細川晴元の部将波多野稙通に敗れて摂津高槻城に落延び、細川晴元に降伏した。以後は細川晴元に仕えた。1533年、法華宗の援助を得て一向一揆と戦った。細川晴元の命令でかつての細川晴国と戦い「山城高雄の戦い」で討死した。

薬師寺国盛【やくしじくにもり(15??~1531)】

薬師寺長忠の男。細川京兆家臣。通称三郎左衛門尉。薬師寺国盛は細川晴元に仕えて細川高国と戦った。1530年、富松城で細川高国勢と戦うが、敗れて大物城に落延びた。大物城も細川高国に攻められて降伏した。その後、細川高国に仕えた。1531年、細川高国と共に京都に侵攻したが、山城国山崎において細川晴元麾下の三好元長に敗れた討死した。

山田景村【やまだかげむら(15??~15??)】

能勢郡山田城主。山田景村を含む西郷衆が盟主と仰ぐ能勢頼幸を中心に四家八人衆と称される地侍衆の大将がいて、四家は「栗栖城主水原右衛門尉、今西城主森本左衛門、山辺城主大町宗清、山田城主山田景村」、八人衆は「井内、森下、村井、小塩、得平、塩山、吉村、長谷」らの地侍たちであった。西郷衆は早くから枳根庄の開発治世につとめ、城砦を構え、一帯の領主である能勢氏に属して領地の保全につとめた。丹波国の波多野氏、南方の塩川氏らの侵攻に際しては一致団結して防戦に努めた。

山田景明【やまだかげあき(15??~1579)】

山田景村の男。通称清左衛門。1579年、織田信長を後ろ盾とした塩川国満が織田信澄と共に能勢に侵攻、西郷衆は能勢頼道に属してこれに抵抗したが敗れ、山田景明ら西郷衆の多くが討死、山辺一帯の諸城も落城した。

山脇源大夫【やまわあきげんだいふ(15??~15??)】

池田勝正家臣。1571年、「白井河原の戦い」に参陣して、和田惟政勢との戦いで郡平大夫を討取る戦功を挙げた。

山脇勘左衛門【やまわきかんざえもん(15??~15??)】

荒木村重家臣。中西新八郎麾下の足軽大将。1578年、荒木村重が織田信長から離反すると、中西新八の属して上臈塚砦を守備した。中西新八郎が滝川一益から調略を受けると他の足軽大将の星野左衛門、隠岐土佐守、宮脇平四郎と共に織田信長勢を上臈塚砦に引き入れた。

余野高綱【よのたかつな(15??~15??)】

能勢郡余野城主。丸山城主能勢頼次、野間城主野間資持ともに能勢三惣領のひとり。能勢頼次の麾下に属した。

渡辺勘太夫【わたなべかんだいふ(15??~15??)】

荒木村重家臣。石田伊予守、山脇勘左衛門とともに茨木城城代。1578年、中川清秀に茨木城を追われた。北ノ砦を守備した。多田に落ちるが誅殺された。

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【資料Ⅰ】

摂津国(12郡/380,000石)

島上郡:高槻城。
島下郡:茨木城。
豊島郡:池田城。
能勢郡:丸山城、芥川城。
河辺郡:伊丹城。
有馬郡:淡河城。
武庫郡:尼崎城、越水城。
菟原郡:芦屋城。
八部郡:花隈城。
西成郡:野田城、福島城。
東成郡:石山本願寺城、榎並城。
住吉郡:栴壇城。

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【資料Ⅱ】

池田家四人衆【いけだけよにんしゅう】

池田正泰、池田正詮、池田正朝、荒木村重。

池田家二十一人衆【いけだけにじゅういちにんしゅう】

池田正秀、池田正詮、池田正泰、池田因幡守、池田久左衛門、池田和泉守、池田正朝、池田正秀、野々村丹後守、荒木村重、荒木志摩守、荒木同越中守、中川清秀、那部田市助、高野肥前守。

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【資料Ⅲ】

摂津国【せっつのくに】

畿内西端に位置する国。北は丹波国と北摂山地の山岳地帯で接し、西は中国山地東端から連なる高地と六甲山地で播磨国で結ばれる。東北では山城国と京都盆地の南端で接し、東南は淀川の中流とその南の平野部で河内国との境を作る。南は堺の北で和泉国と接し、大坂湾を経て海路、淡路国とも結ぶ。国土は北部の山地と南部の平地に二分され、南部では瀬戸内海東端の大坂湾を包むような形にその北岸と東岸を形成している。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2012年9月4日火曜日

戦国播磨国人名辞典

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【あ】

明石長行【あかしながゆき(15??~15??)】

明石郡枝吉城主。明石則行の男。赤松晴政家臣。官途は備前守。別名明石正風、明石宗和。歌道に通じ、近衛家などと親交を持った。1531年「武庫河原の戦い」で浦上村宗を討取った。1538年、尼子晴久勢の播磨国侵攻では、御着城主小寺則職と共に尼子晴久勢に属して赤松政村と戦った。赤松政村とは敗れて、淡路国岩屋城に落延びた。赤松政村は、阿波細川持隆の援軍を得て船で明石に上陸した。赤松政村、細川持隆連合軍は、人丸塚付近に布陣し明石長行がいる枝吉城を攻囲した。明石長行は、大軍を見て戦意を失い和睦した。

明石祐行【あかしすけゆき(15??~15??)】

明石長行の男。1538年、父明石長行が赤松晴政に叛いた際、これに属して赤松晴政と戦った。1555年、赤松義祐、三好長慶、三好義賢と戦った。
その後、三好長慶に属して「河内高屋城の戦い」に参陣した。1566年、三好三人衆に属して「滝山城の戦い」に参陣した。

明石安正【あかしやすまさ(15??~15??)】

明石長行の次男。宇喜多秀家に仕えた。

明石安行【あかしやすゆき(15??~15??)】

明石安正の男。室は久野重誠の娘。黒田長政に仕えた。

明石貞行【あかしさだゆき(15??~15??)】

明石祐行の男。官途は越前守。「第一次枝吉城の戦い」では、祖父明石長行が赤松晴政に降伏した為、明石貞行も細川晴元に属していた。三好長慶は「江口の戦い」で、細川晴元に属する三好政長を討取り、細川晴元勢を畿内から追放した。阿波国に弟三好義賢、讃岐国十河一存、淡路国安宅冬康、摂津国と京都は、三好長慶が治めたが、阿波国から京都への補給路を確保するため、枝吉城が細川晴元方に属している枝吉城を攻撃した。1554年、三好義賢と篠原長房勢が枝吉城を攻撃すると、明石貞行は籠城した。1555年、三好長慶勢が援軍に現れると、軍勢の多さに明石貞行は降伏したその後三好長慶軍は依藤城主三木次郎を降した。播磨東国ニ郡を手に入れた三好長慶勢は芥川山城に帰城した。

明石則実【あかしのりざね(15??~1595)】

明石貞行の男。官途は左近将監。通称与四郎。1577年、羽柴秀吉が播磨国に侵攻すると播磨国人衆は毛利輝元か織田信長かの二者択一を迫られた。播磨国人衆は別所長治の拠る三木城に入り、反織田信長の旗色を鮮明にした。明石則実は三木入城には入らず、黒田孝高と共に、羽柴秀吉勢に属した。1583年「賤ヶ岳の戦い」に参陣した。1585年「紀州征伐」では、戦功を挙げ但馬国豊岡城22,000石を領した。1587年「九州征伐」では兵800余り率いて参陣した。1588年「聚楽第行幸」では、関白となった羽柴秀吉の牛車に供奉した。1589年「小田原征伐」では、羽柴秀吉の馬廻衆として参陣した。1592年「文禄の役」にも、兵800余り率いて朝鮮半島へ渡海し、大邱など釜山から漢城に向かう慶尚道内の要路の防衛を担当した。1595年「羽柴秀次事件」に連座して自刃した。

飾磨赤松晴政【あかまつはるまさ(1513~1565)】

飾磨郡置塩城。赤松義村の男。官途は左京大夫。播磨国、備前国、美作国守護職。通称次郎。置塩城30,000石を領した。1520年、父赤松義村は備前国守護代浦上村宗との対立し敗れ隠居を余儀なくされ、赤松晴政は八歳で飾磨赤松家の家督を相続した。1521年、父赤松義村は備前国守護代浦上村宗に謀殺された。赤松晴政は浦上村宗と再び争い、置塩城を追われ美作国新庄山城へ落延びた。1531年、浦上村宗は細川高国を擁して細川晴元と対立し、摂津国に侵攻した。赤松晴政は細川高国、浦上村宗の後詰めとして参陣していたが、堺公方足利義維へ密かに人質を送って裏切りを確約していた。赤松晴政は、細川晴元勢に内応して細川高国、浦上村宗勢を背後から攻撃した。細川高国、浦上村宗勢は細川晴元勢の前に大惨敗を喫し浦上村宗は討死、細川高国も自刃した。赤松晴政は、浦上村宗の男浦上政宗や浦上宗景との抗争を続けた。1538年、尼子晴久勢が播磨国に侵攻すると、赤松晴政は、三木城主別所就治を頼って落延びたが、別所就治も尼子晴久に内通した為、堺に落延びた。1540年「安芸吉田郡山城の戦い」で、尼子晴久、尼子久幸勢が毛利元就、大内義隆勢の連合軍に敗北し、尼子久幸が討死した。それにより、播磨国での尼子晴久の勢力は減退した。1552年、尼子晴久が備前国、美作守護職に任ぜられ、赤松晴政は守護としての二ヶ国の権限を失い、赤松家中の主導権も浦上政宗に握られた。1558年、浦上政宗が擁立する嫡男赤松義祐と対立し、娘婿の赤松政秀の居城龍野城に落延びた。赤松政秀の庇護の元で赤松義祐、浦上政宗と争った。

飾磨赤松義祐【あかまつよしすけ(1537~1576)】

赤松晴政の男。官途は左京大夫。通称次郎。室は細川晴元の娘。1554年、三好長慶に内応して安宅冬康と共に明石城の細川晴元を攻めた。1558年、浦上政宗に擁立され父赤松晴政を追い落として、赤松家の家督を相続した。赤松晴政は娘婿の赤松政秀を頼り龍野城に拠り、赤松義祐に対抗した。1564年、浦上政宗の嫡男浦上清宗と黒田職隆の娘との婚姻の義を赤松政秀が奇襲し、浦上政宗、浦上清宗親子が討取られるなど対立状態が続いた。1565年、赤松晴政が病没すると、赤松義祐は赤松政秀と和睦したが、赤松政秀の勢力は赤松義祐の勢力を凌いでいた。1568年、足利義昭が室町幕府第十五5代将軍に就任すると、赤松政秀は自分の娘を足利義昭の侍女として仕えさせようとした。赤松義祐は、赤松政秀の行動を抑制させるため、御着城主小寺政職に命じて京へと向かう政秀の娘を拉致させた。赤松義祐は、浦上宗景と結んで赤松政秀と戦った。劣勢に立たされた赤松政秀は足利義昭に救援を求めた。池田勝正を大将とする摂津衆に別所安治が加わった軍勢が赤松義祐領に侵攻した。浦上宗景も宇喜多直家の謀反によって備前国に撤退した。浦上宗景勢を失った赤松義祐は小寺政職と結んで池田勝正、別所安治に対抗したが庄山城、高砂城などを次々と攻略され窮地に立たされた。しかし、摂津衆は途中で織田信長によって呼び戻され畿内へと撤退し、別所安治も兵を退いた。赤松義祐は織田信長に接近し関係修復を行い、織田信長に臣従し龍野城を攻める浦上家勢と戦ったが、まもなく浦上宗景が降伏した。1570年、嫡男赤松則房に家督を譲り隠居した。

飾磨赤松則房【あかまつのりふさ(1559~1598)】

赤松義祐の男。衰退した赤松家であったが、赤松則房は旧守護としての権威を利用し、播磨国内において一定の影響力を保持していた。織田信長の命を受けた羽柴秀吉率いる中国方面軍が侵攻して来ると降伏し、羽柴秀吉の麾下に属した。1580年、宇野政頼の拠る長水城攻めに参陣した。1583年「賤ヶ岳の戦い」に参陣した。以後も「小牧、長久手の戦い」や「四国征伐」「文禄の役」に参陣した。1585年、阿波板野郡住吉城に転封になった。

飾磨赤松則英【あかまつのりひで(15??~1600)】

赤松則房の次男。官途は上総介。阿波国住吉城(板野郡23ヶ村)10,000石を領した。1598年、父赤松則房の病没により赤松家の家督を相続した。1600年「関ヶ原の役」では石田三成方に属して、大坂天王寺より平野口の警備を受け持った。決戦前に石田三成の居城である佐和山城本丸に籠城したが、東軍に寝返った小早川秀秋らの攻撃を受けて佐和山城は落城し、赤松則英は落城直前に佐和山城から落延びたが、赦されず京都の戒光寺で自刃した。

飾磨赤松則家【あかまつのりいえ(15??~15??)】

赤松晴政の次男。

上月赤松政元【あかまつまさもと(1500~15??)】

佐用郡上月城主。赤松義村の男(佐用則答の養子)。官途は右京大夫。1557年、武勇に優れていたと伝えられ上月城に入城し「西播磨殿」と称された。大内義隆、陶晴賢、毛利元就らの度重なる侵攻を撃退し、八年間にわたって上月城を死守した。その後浦上宗景を追放して備前国主となった宇喜多直家の攻撃に遭い、上月城を攻め落とされ、赤松政元は山中に落延びた。宇喜多直家は「三顧の礼」を持って、赤松政元を迎えた。

上月赤松正満【あかまつまさみつ(15??~15??)】

赤松政元の男。播磨鞍掛山城主。嫡男であったが、赤松家の家督は弟赤松政範に譲られていた。1577年、羽柴秀吉勢が上月城に攻め寄せた際、弟赤松政範に属した。 上月城が落城すると、赤松政範ら一族と共に自刃した。

上月赤松政範【あかまつまさのり(15??~1578)】

赤松政元の次男。官途は蔵人大輔。通称十郎。室は櫛橋伊定の娘。赤松政範は、佐用郡、赤穂郡、揖東郡、揖西郡、宍粟郡の五郡を領し「西播磨殿」と称された。1577年、羽柴秀吉勢が兵30,000余りで上月城を攻めた際、宇喜多直家の弟宇喜多広維勢3,000と赤松家本隊7,000余りの計10,000余りで迎え撃った。織田信長勢の猛攻凄まじく敗色濃厚となった。室が自刃した後し、家臣の赤松政直、赤松正満、高島正澄、早瀬正義、国府寺入道、中村伊勢入道と援将の宇喜多広維と共に自刀した。

上月赤松政直【あかまつまさなお(15??~1578)】

佐用郡早瀬城主。赤松政元の三男。通称次郎。1577年、羽柴秀吉勢が上月城に攻め寄せた際、兄赤松政範に属した。 評定の際「上月城で籠城し、たとえ勝利しても兵力の損害が大きく、不利になり我が家は滅亡してしまうのが明白である。姫路まで進軍し、羽柴秀吉勢と決戦を臨むべきであると思う。そうすれば、東播磨の諸友たちも加勢して局面は新たな方向に向かうだろう」と述べた。上月城が落城すると、赤松政範ら一族と共に自刃した。

上月赤松政茂【あかまつまさしげ(15??~1578)】

赤松政元の四男。通称三郎。別名佐用三郎。1577年、羽柴秀吉勢が上月城に攻め寄せた際、兄赤松政範に属した。上月城が落城すると、赤松政範ら一族と共に自刃した。

上月赤松政之【あかまつまさゆき(15??~1582)】

赤松政元の五男。1577年、羽柴秀吉勢が上月城に攻め寄せた際、兄赤松政範に属した。 落城寸前の時、密かに兄たちの遺児を引き連れて落延びた。隠棲し山下影五郎と称して宇喜多直家に仕えた。 1582年、羽柴秀吉勢に属して「山崎の戦い」に参陣したがまもなく病没した。

上月赤松政宗【あかまつまさむね(15??~15??)】

赤松政範の男。1577年「上月城の戦い」では、赤松政之と共に毛利輝元を頼って落延びた。1600年「関ヶ原の役」に参陣した。

上月赤松頼兼【あかまつよりかね(15??~15??)】

赤松政宗の男。

上月赤松頼尚【あかまつよりなお(15??~15??)】

赤松政宗の次男。

丸山赤松正澄【あかまつまさずみ(15??~1578)】

佐用郡丸山城主。赤松正満の男。通称右馬助。鞍掛山城の家督を受けず、丸山城主となった。1577年「上月城の戦い」では、叔父赤松政範、赤松政直らと共に織田信長勢と戦い討死した。

龍野赤松村秀【あかまつむらひで(1493~1540)】

揖保郡龍野城主。赤松政則の男。西播磨半国守護代。官途は下野守。赤松村秀は、赤松政則の庶子であったために、家臣団、枝連衆の支持を得られず家督相続することができなかった。赤松宗家の家督は娘婿赤松義村が相続した。赤松村秀は、塩屋城主宇野政秀の養子となり、龍野城を築城すると、その城主となった。赤松本家の補佐に努め、小寺則職や宇野村秀と協力し浦上村宗との抗争に貢献した。

龍野赤松政秀【あかまつまさひで(1510~1570)】

赤松村秀の男。官途は下野守。別名宇野下野守。室は赤松晴政の娘。1540年、父赤松村秀の病没により龍野赤松家の家督を相続した。1558年、赤松晴政が置塩城を赤松義祐に奪われると、赤松政秀は赤松晴政を庇護し、以後は赤松晴政の復権を目指して赤松義祐と争った。1562年、赤松義祐勢と戦いで毛利元就に援軍を要請した。1564年、赤松義祐勢の浦上政宗が備前国の浦上宗景と和睦して、小寺政職と同盟を結ぶなどして地盤を固め、勢力を伸長する動きに危機感を募らせた赤松政秀は、浦上清宗と黒田職隆の娘との婚礼当日に室津城に夜襲を仕掛け浦上親子を討取った。1565年、赤松晴政が病没すると、赤松義祐と和睦し赤松宗家と龍野赤松家の対立は一旦は収まった。1566年、赤松政秀は赤松義祐方の利神城主別所中務を攻撃するなど、赤松宗家の属した訳ではなかった。1568年、足利義昭が将軍となると、赤松政秀は足利義昭の元に娘を仕えさせる為に京へ上らせようとしたが、赤松義祐の指示により、赤松政秀の娘は小寺政職の兵に捕らわれてしまった。1569年、浦上宗景が率いる備作衆の攻撃を受け赤松政秀は織田信長に助けを求めた。織田信長は池田勝正ら摂津国衆を派遣し、これに別所安治、別所重棟、明石祐行らが加わり赤松義祐家領に攻め込んだ。宇喜多直家が浦上宗景に対抗する姿勢を見せた為、浦上宗景も備前国へと撤退した。1569年、赤松政秀は姫路城攻めの為に兵3,000余りを率いて姫路主黒田職隆勢は兵300余りという寡兵であった。黒田孝高は姫路城の西の青山に兵を伏せて赤松政秀を待ち伏せて突撃し、赤松政秀勢は敗走した。赤松政秀は兵3,000余りを率いて小丸山に布陣し、黒田職隆勢は土器山に陣を張った。赤松政秀は先手を取って土器山に夜襲を仕掛け、井出友氏を討取るなど黒田孝高勢を追い詰めたが、英賀城主三木通秋が救援に現れ、南から赤松政秀勢を攻撃すると姫路城の小寺職隆も参陣して赤松政秀勢を攻撃した。、黒田職隆勢が小丸山の赤松政秀本陣を奇襲、赤松政秀勢は龍野城まで撤退した。浦上宗景が再度備作衆を率いて赤松政秀領に侵攻してくると、軍事的な抵抗力を失った赤松政秀は浦上宗景に降伏した。1570年、赤松政秀は何者かに毒を盛られて失意のうちに世を去った。2014年、NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」では団時朗が演じた。

龍野赤松広貞【あかまつひろさだ(15??~1570)】

赤松政秀の男。1570年、父赤松政秀が謀殺後、赤松広貞が龍野赤松家の家督を相続するが、まもなく病没した。

龍野赤松政広【あかまつまさひろ(1562~1600)】

龍野赤松政秀の次男。別名斎村政広。官途は左兵衛佐。通称弥三郎。室は宇喜多直家の娘。1570年、父赤松政秀が謀殺され、兄赤松広貞も早逝したため龍野赤松家の家督を継承した。赤松政広の家系の龍野赤松家は、血統上は、本家とされた赤松義祐の家系(七条流)よりも、むしろ嫡流の家柄であった。織田信長の命を受けた羽柴秀吉による「中国討伐」では抵抗した。1577年、羽柴秀吉に降伏し、羽柴秀吉勢の麾下に属した。羽柴秀吉勢では蜂須賀正勝の麾下となった。「小牧、長久手の戦い」などに参陣して戦功を挙げ但馬国竹田城22,000石を領した。「九州討伐」や「小田原の役」「文禄の役」などにも参陣した。儒学者藤原惺窩に教えを受けるなど、文化人としての一面もあった。姜沆とも交友を持ち、彼の帰国も支援した。1600年「関ヶ原の役」では石田三成方に属して、田辺城主細川 藤孝を攻めた。石田三成が敗れると松平元康方に属して、石田三成方の宮部長房の因幡国鳥取城を攻めた。このときの城下焼き討ちが後に問題となり、役後、松平元康から自刃を命じられた。

龍野赤松祐高【あかまつすけたか(1559~1615)】

赤松政秀の三男。官途は伊豆守。通称太郎左衛門。1577年、中国地方に侵攻してきた羽柴秀吉に兄赤松政広と共に降伏した。後に半田山家鼻城10,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では兄赤松政広と共に石田三成方に参陣した。松平元康方に寝返った兄赤松政広の自刃後に流浪した。1614年「大坂冬の陣」では浪人衆として、羽柴秀頼に仕え大坂城に籠城した。「大坂夏の陣」の後、播磨国に落延び干大覚寺に入るが、池田利隆の兵に囲まれ、衆兵を救わんとして自刃した。

石野赤松氏貞【あかましうじさだ(15??~15??)】

別所長治家臣。石野城主。室は藤田新右衛門の妹。

石野赤松氏満【あかまつうじみつ(1553~1606)】

赤松氏貞の男。官途は和泉守。通称小六郎。室は有馬則頼の娘。1579年「三木城の戦い」で羽柴秀吉勢の古田重則を討取った。1580年、別所長治が自刃すると羽柴秀吉に仕えた。のち前田利家に仕えて3,000石を領した。1590年「小田原の役」では、戦功を挙げた。

石野赤松氏置【あかまつうじおき(1574~1612)】

赤松氏満の男。通称八兵衛。室は内藤家長の娘。幼少の頃は外祖父有馬則頼に養育された。松平元康の近習として仕えた。その後は名門の血筋と見識を買われて御伽衆となった。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して諜報活動を行った。役後、伊豆国で1,000石を領した。

在田村長【ありたむらなが(15??~15??)】

多可郡野間城主。在田忠長の男。赤松勝範家臣。官途は筑前守。丹波街道、但馬街道の交差する通る野間城は戦略上の拠点とされ度々他国から攻撃を受けた。1521年、浦上村宗は赤松義村を謀殺したが、在田村長は赤松晴政を推し、浦上村宗に対抗した。そのため、赤松勝範を推した浦上村宗と対立、野間城は攻撃を受けた。撃退したが、赤松勝範は討死した。それでも浦上村宗は攻城を諦めず、野間城を攻撃、在田村長は撤退した。1531年、浦上村宗が「天王寺に戦い」で討死すると、再び在田村長が野間城を奪還した。

在田元長【ありたもとなが(15??~15??)】

在田村長の男。1566年、嫡男在田国泰と共に連署して掟状を出し、多可荘内の普光寺の寺域を確定し、守護不入権を安堵した。1575年、別所重棟の攻撃を受け野間城は落城した。

在田国泰【ありたくにやす(15??~1575)】

在田元長の男。通称源八郎。1566年、父在田元長と共に連署して掟状を出し、多可荘内の普光寺の寺域を確定し、守護不入権を安堵した。1575年、別所重棟の攻撃を受け野間城は落城した。

伊王野土佐守【いおのとさのかみ(15??~15??)】

福原助就家臣。1577年、羽柴秀吉勢の黒田孝高の攻撃を受け、黒田孝高勢に討取られた。

井口時重【いぐちときしげ(15??~1555)】

古川城主。官途は備前守。1555年、脇田城主脇田小二郎と荒川城主藤田広興に宴会に招かれ、その帰途に謀殺された。

石川源吾【いしかわげんご(15??~15??)】

小寺政職家臣。龍野赤松政秀に内通した石川源吾は、小寺政職の家老小河良利と江田善兵衛に黒田職隆に謀反の噂を流した。小寺政職は、黒田職隆の謀反は、信じなかったが小河良利と江田善兵衛は信じようとしなかった。黒田孝高が、石川源吾の家臣吉田平蔵が野武士の頭目との密議とを行っているところを見つけられ、吉田平蔵が黒田職隆に謀殺されると、龍野赤松政秀の元に落延びた。

岩崎源兵衛【いわさきげんべい(15??~1580)】

野上館主。1577年、別所長治が織田信長から離反すると、別所長治に属して三木城に籠城したが討死した。

魚住吉長【うおずみよしなが(15??~15??)】
 
明石郡魚住城主。官途は右近大夫。室は小寺政職の娘。魚主城は播磨国五泊の一つ魚住泊の元に発展した地に魚住長範が築いた城。浦上則宗の台頭によりこれに属した。1565年、弟魚住治吉と共に小寺則職に属して戦功を挙げた。

魚住治吉【うおずみはるよし(15??~15??)】

明石郡天神山城主。1565年、兄魚住吉長と共に小寺則職に属して戦功を挙げた。

魚住頼治【うおずみよりはる(15??~15??)】

魚住吉長の男。官途は左近亮。1578年、別所長治、小寺政職らが織田信長離反すると呼応し、城下に毛利警固衆、雑賀衆を迎い入れた。魚住城は三木城への兵糧補給基地となり、湊には毛利警固衆の小船が多数停泊していた。1580年、三木城が落城すると、魚住頼治も没落した。

内海綱範【うつみつなのり(15??~15??)】

光明山城主。龍野赤松村秀家臣。通称弥四郎。龍野赤松家の年寄衆として揖東郡、揖西両郡の郡代も務めた。

内海範秀【うつみのりひで(15??~15??)】

内海弥四郎の男。通称勘解由。1566年、赤松政秀が室山城主浦上政宗を攻撃した時、内海範秀は先陣を務め戦功を挙げた。羽柴秀吉の攻撃を受けて光明山城は落城した。

宇野村頼【うのむらより(15??~15??)】

宍栗郡長水城主。西播磨守護代。通称蔵人。1548年、宇野村頼は宇野家の家督を嫡男宇野政頼に譲った後も、陣代として活躍した。1542年「広岡城の戦い」では、赤松晴政に属して家臣の安積平次郎が戦功を挙げた。

宇野政頼【うのまさより(15??~1580)】

宇野村頼の男。赤松家臣。西播磨守護代。官途は下総介。別名宇野祐重。1551年、尼子晴久の「播磨侵攻」が開始されると、備前国、美作国の国人衆が激しく動揺した。1552年、備前国、美作国の守護職が赤松晴政から取り上げられると尼子晴久に属した。宇野政頼は広瀬衆を率いて赤松晴政、赤松政祐と戦った。1556年、赤松晴政が美作国吉野郡で、尼子晴久、宇野政頼連合軍と戦った。1558年、赤松義祐が父赤松晴政を追放する内訌が発生すると西播磨が混乱した。但馬守護山名祐豊がこ播磨国に侵攻したが、宇野政頼家臣田路秀吉が奮戦し、これを阻止した。1562年、宇野政頼は家老職小林三河守と下村丹後守を作事奉行に任じて播磨国一宮伊和神社を造営した。1573年、宇野政頼は織田信長と手を結ぼうとしたが、毛利輝元の家臣安国寺恵瓊に阻まれ、毛利輝元勢の宇喜多直家から攻撃を受けた。1574年、宇野政頼は嫡男宇野満景を謀殺した。その後、隠居して宇野家の家督を次男宇野祐清に譲った。

宇野祐政【うのすけまさ(15??~15??)】

宇野村頼の次男。

宇野満景【うのみつかげ(15??~1574)】

宇野政頼の男。通称蔵人。1574年、父宇野政頼は、織田信長と結ぶ事に失敗した、宇野満景を疎んじ次男宇野祐清に宇野家の家督を相続させようと考えた。宇野満景を長水城に呼び出して謀殺した。

宇野祐清【うのすけきよ(15??~1580)】

宇野政頼の次男。通称民部大輔。1574年、兄宇野満景が父宇野政頼に謀殺されると宇野家の家督を相続した。1577年、織田信長勢の「中国討伐」が開始されると、織田信長に属した。1578年、宇野祐清は広瀬衆をを率いて大河内に参陣して、赤松則房勢と戦った。この戦では宇野祐清の家臣田路与介、赤松則房家臣の高屋正左衛門、高橋四郎大夫らが死傷した。毛利輝元勢が西播磨に侵攻して佐用郡上月城を陥落させると、毛利輝元に寝返った。1580年、毛利輝元に属して織田信長勢に抗した宇野祐清だったが、羽柴秀吉勢の攻撃により長水城は陥落した。宇野祐清は、美作国に落延びたが、羽柴秀吉勢の追撃を受けて宇野政頼、宇野祐清父子は播磨国宍粟郡千草自刃した。

赤鵜野弥太郎【うのよたろう(15??~15??)】

上月赤松政元家臣。侍大将を勤めた。

江田善兵衛【えだぜんべい(15??~15??)】

小寺政職家臣。通称善兵衛。西から延びる毛利輝元勢と畿内から播磨国に勢力を拡大する織田信長勢の狭間にある小寺政職は、毛利輝元に属するか、織田信長勢に属するか議論がなされた際、小河良利と共に毛利輝元勢に属することを主張し、織田信長勢に属するべきとする黒田孝高と対立した。2014年NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」では、上杉祥三が演じた。

淡河元範【おうごもとのり(15??~15??)】

美嚢郡淡河城主。赤松範行の次男(淡河則盛の養子)。室は淡河則盛の娘。1521年、浦上村宗が赤松義村を謀殺し、赤松家を傀儡化して播磨国、備前国、美作国の三ヶ国を収めた。1531年、浦上村宗は、細川晴元を擁する三好長慶勢と天王寺で戦い討死した。浦上村宗の討死後、守護赤松家は置塩城、龍野城とに分かれ、東播磨は別所安治の支配下となった。

淡河範之【おうごうのりゆき(15??~15??)】

淡河元範の男。1554年、三好長慶勢の有馬重則が摂津国衆を率いて播磨国に侵入すると、別所安治勢の城を次々と攻撃し、淡河元範の淡河城も攻撃され落城した。1558年、有馬重則が討死したため、淡河元範は別所家の支援を得て淡河城を奪還した。その後別所村治の支援を得て淡河城を回復、別所村治の麾下として淡河家に勢力を維持した。淡河範行は子をなさないまま病死した。

淡河範政【おうごのりまさ(15??~15??)】

淡河元範の次男。淡河範政は、丹波攻めで討死した為、兄淡河元範の養子淡河定範が淡河家の家督を相続した。

淡河定範【おうごさだのり(1539~1579)】

備前国江見城主江見祐春の次男(淡河範行の養子)。官途は弾正忠。室は別所村治の娘。家老職として、若年の別所長治を、別所安治の弟別所吉親、別所重棟と共に支えた。1578年、三木城主別所長治が織田信長から離反すると別所長治勢に属した。淡河城は毛利輝元勢からの補給基地として機能した。これに対し、羽柴秀吉は長松寺などに付城を築いて補給線の分断を図った。1579年、淡河定範は、近隣より牝馬を集め、淡河の城は守りが手薄であると噂を流し羽柴秀長勢をを引き寄せると、集めていた牝馬を羽柴秀長勢の中に解き放ち、混乱したところに攻め込んで多くの頸を挙げた。羽柴秀長勢の攻撃を撃退したが、羽柴秀吉勢に対抗する為に淡河城に火をかけ、三木城に退き別所長治勢に合流した。
毛利輝元勢が三木城に兵糧を運び込む作戦が行われた際、羽柴秀吉勢と木村坂で戦ったが、敗走途中で淡河定範は自刃した。

大谷正義【おおたによしまさ(15??~1569)】

上月赤松政元家臣。丸山城主。

大谷義房【おおたによしふさ(15??~1577)】

大谷正義の男。通称新左衛門。1569年、父大谷正義の病没後に丸山城主となった。1577年、上月城主赤松政範に属して「上月城の戦い」に参陣したが敗れて自刃した。

大谷義時【おおたによしとき(15??~15??)】

大谷義房の男。1577年、父大谷義房が上月城主赤松政範に属して「上月城の戦い」で自刃すると、羽柴秀吉勢に属したが間もなく帰農した。

太田則近【おおたのりちか(15??~15??)】

上月赤松政元家臣。通称新兵衛。七条赤松家三家老衆のひとり。

岡本光慶【おかもとこうけい(15??~15??)】

赤松家臣。別名祝融軒光慶。天文中頃までは難波泰興と共に書状に署名した。

岡本周登【おかもとしゅうとう(15??~15??)】

岡本光慶の男。別名祝融軒周登。赤松家老職。

小河秀春【おがわひではる(1567~1571)】

赤穂郡小鷹山城主。赤松秀光の三男。官途は丹後守。通称小太郎。1571年、三宅与三右衛門に攻撃を受けて敗北し自刃した。

小河良利【おごうよしとし(15??~15??)】

小寺政職家臣。赤穂郡小河城主。官途は三河守。西から延びる毛利輝元勢と畿内から播磨国に勢力を拡大する織田信長勢の狭間にある小寺政職は、毛利輝元に属するか、織田信長勢に属するか議論がなされた際、江田善兵衛と共に毛利輝元勢に属することを主張し、織田信長勢に属するべきとする黒田孝高と対立した。2014年NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」では、磯部勉が演じた。

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【か】

梶原景則【かじわらかげのり(15??~15??)】

加古郡高砂城主。官途は駿河守。通称平三兵衛。1538年、尼子晴久が播磨へ侵攻した際、赤松晴政は高砂城主梶原景則に落延びた。

梶原景行【かじわらかげゆき(15??~15??)】

梶原景則の男。通称平三郎衛。1578年、別所長治が織田信長から離反すると、播磨国海賊衆を率いて別所長治勢に属した。羽柴秀吉は高砂城から三木城への兵糧の補給を絶とうと高砂城を攻撃した。羽柴秀吉勢は1,000余りで攻撃したが、梶原景行は兵300余りを率いて、羽柴秀吉勢を撃退した。その後の羽柴秀吉勢の大軍の前にはなす術もなく落城し淡路国へ落延びた。

梶原景次【かじわらかげつぐ(15??~1578)】

加古郡中津城主。通称重右衛門。別名梶原冬庵。高砂城主梶原景秀の枝連衆。常楽寺の僧侶である千門院高理と親しく交際し、米や金を借りたが、長年の交誼に免じて病没後その借金を帳消しにするよう置文を残されてた。剛勇で知られ、別所長治が織田信長勢から離反して、羽柴秀吉勢の攻撃を受けると、梶原景次は神吉城に応援として赴き織田信忠勢と戦った。神吉頼定の討死後、梶原景次も織田信忠勢に突撃して討死した。

糟谷友政【かすやともまさ(15??~15??)】

加古郡加古川城主。1577年、羽柴秀吉は「中国討伐」の軍議を加古川城で開いた。1578年、別所長治が謀叛すると、嫡男糟谷朝正は別所長治への義理を守ってこれに三木城の籠城に参陣したが「平山の戦い」で討死した。

糟谷武則【かすやたけのり(15??~15??)】

糟谷友政の男。官途は内膳正。通称正之助。1577年、羽柴秀吉に小姓して仕えた。1582年「本能寺の変」後は羽柴秀吉に属し「賤ヶ岳の戦い」では「賤ヶ岳の七本槍」のひとりとして戦功を挙げ、加古郡で3,000石を領した。その後も「小牧、長久手の役」「九州征伐」「小田原の役」に参陣した。1586年、方広寺大仏の作事奉行を務めた。1592年「文禄の役」では、新庄直忠らと共に朝鮮人逃亡流民の帰郷を促す訓令を発布した。1593年「晋州城の戦い」に参陣し、加古郡12,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して「伏見城の戦い」及び「関ヶ原の戦い」に参陣した。役後改易処分を受けた。1602年、松平元康仕えて500石を領した。

川島頼村【かわしまよりむら(15??~1578)】

上月赤松家臣。赤松村秀の男。通称杢太夫。1578年、赤松政範に属して「上月城の戦い」で討死した。

川島義行【かわしまよしゆき(15??~15??)】

上月赤松家臣。赤松村秀の男。通称三郎四郎。1578年、赤松政範に属して「上月城の戦い」で討死した。

神吉頼氏【かんきよりうじ(15??~15??)】

印南郡神吉城主。官途は下野守。別所家枝連衆として10,000石を領した。

神吉頼定【かんきよりさだ(15??~1578)】

神吉頼氏の男。通称民部少輔。1578年、織田信長の「播磨征討」に際、端谷城主衣笠範景、淡河城主淡河定範、福中城主間島氏勝、野口城長井長重、志方城櫛橋伊定、高砂城主梶原景行らと共に三木城主別所長治に属した。神吉頼定は、別所長治が援軍として梶原景治、柏原治郎右衛門、黒田若狭守、中村壹岐守らと共に兵1,800余りで籠城した。織田信忠は、織田信孝、織田信包、明智光秀、荒木村重、筒井順慶ら30,000余りの軍勢で神吉城を包囲し対峙し善戦して半月近くをよく防戦に努めた。佐久間盛隆が神吉頼定の叔父神吉貞光を内応させ、神吉貞光の守る西の丸の城門を開かせた。羽柴秀長、蜂屋頼隆、佐久間信盛らの軍勢が侵入すると神吉頼定は神吉貞光によって謀殺された。

神吉貞光【かんきさだみつ(15??~15??)】

神吉頼定家臣。通称藤太夫。1578年、甥神吉頼定と共に神吉城に籠城するが、織田信長勢の佐久間盛隆に内応して、織田信長勢を城内に引き入れ甥神吉頼定を謀殺した。

神吉長右衛門【かんきよりさだ(15??~15??)】

神吉頼定の男。1578年、父神吉頼定の討死後、黒田孝高に仕えた。

喜多野柏阿【きたのはくあ(15??~15??)】

赤松晴政家臣。元亀年間頃に活躍した。

衣笠範弘【きぬがさのりひろ(15??~15??)】

明石郡端谷城主。赤松義村家臣。通称五郎左衛門。1520年、浦上村宗からの攻撃を受け置塩城主赤松義村は、衣笠範弘の元に落延びた。1521年、赤松義村勢の先鋒赤松村秀、弘岡左京らが室津まで侵攻し浦上村宗勢と対峙したが、弘岡左京が突然浦上村宗に寝返り赤松義村勢は崩壊した。

衣笠範景【きぬがさのりかげ(1517~1585)】

衣笠範弘の男。官途は豊前守。1554年、三好長慶と戦って敗れ、以後三好長慶勢に属して畿内各地を転戦したが、三好長慶が病没すると三木城主別所安治に属した。1578年、別所長治が織田信長に離反すると衣笠範景は淡河城主淡河定範、福中城主間島氏勝、野口城主長井長重、志方城主櫛橋伊定、高砂城主梶原景行らと共に別所長治に属した。1580年、羽柴秀吉勢の織田信澄、明石則実らの攻撃を受け衣笠範景、津村市助らが勇戦したが、再度にわたる猛攻に落城した。

衣笠景延【きぬがさかげのぶ(1552~1631)】

衣笠範景の男。官途は因幡守。通称久右衛門。黒田孝高に仕え「黒田家二十五騎」のひとり。小寺政職に仕えていたが寄騎衆として黒田孝高に属した。智謀、歌道に秀で、包囲された栗山利安を救い、旧主小寺家への使者を務めた。1587年「豊前国人衆一揆」では、姫隈城主日熊直次を降した。1592年「文禄の役」「慶長の役」では、後藤基次と先鋒についた。1600年「関ヶ原の役」では、松山城を守備した。黒田長政が筑前国に転封になると中老並みの3,000石を領した。

櫛橋伊家【くしはしきれいえ(15??~1542)】

印南郡志方城主。櫛橋則伊の男。別名櫛橋秀則。

櫛橋伊定【くしはしこれさだ(1527~1578)】

櫛橋伊家の男。官途は豊後守。通称左京亮。別名櫛橋伊則。室は小寺政職の娘。1542年、父櫛橋伊家の病没により櫛橋家の家督を相続した。1578年、別所長治が織田信長より離反すると別所長治に属して志方城に籠城した。別所長治も羽柴秀吉勢に三木城を包囲され、櫛橋伊定に援軍を送ることが出来なかった。櫛橋伊定は自身の命を城兵に引き換えることで自刃した。娘三人は、長女(力姫)は赤松正範の室。次女(光姫)は黒田孝高の室。三女は井上之房の室。2014年NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」では、益岡徹が演じた。

櫛橋政伊【くしはしまさこれ(15??~1578)】

櫛橋伊定の男。1578年、父櫛橋伊定が織田信長勢から離反すると、櫛橋伊定と共に志方城に籠城した。1587年、宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守る為に城の本丸跡に観音寺を建立した。

櫛橋弥五三【くちはしよごみ(15??~1579)】

櫛橋伊定家臣。1579年、別所吉親に属して、羽柴秀吉勢に突撃して討死した。

櫛田頼久【くしだよりひさ(15??~1577)】

佐用郡櫛田城主。上月赤松政範家臣。官途は左馬助。別名櫛田景則。1577年、羽柴秀吉勢の「中国討伐」で、柏原城主間島景綱を攻撃した際、救援のために柏原城に赴く途中、羽柴秀吉勢と戦い討死した。

上月恒織【こうづきつねおり(15??~1577)】

佐用郡浅瀬山城主。上月赤松政範家臣。1577年「上月城の戦い」後、羽柴秀吉勢が毛利輝元勢を追撃した際、側面より羽柴秀吉勢を攻撃したが討死した。

国府寺良義【こくふじよしまさ(15??~1578)】

上月赤松政範家臣。通称左近太郎。侍大将。

小寺則職【こでらのりもと(1495~1576)】

飾東郡御着城主。官途は加賀守。通称藤兵衛。1523年、小寺則職は浦上村国と共に浦上村宗打倒の兵を挙げたが、逆に浦上村宗の攻撃を受けて惨敗した。1530年、父小寺政隆は浦上村宗から攻撃を受け討死した。1531年「天王寺の戦い」で浦上村宗を討取り御着城へ戻り、庄山城は家臣長浜長秋をして守らせた。

小寺政職【こでらまさもと(1517~1582)】

小寺則職の男。通称藤兵衛。1521年、赤松義村が浦上村宗に謀殺されると、赤松義村の嫡男赤松晴政と共に細川晴元を頼って落延びた。1531年、浦上村宗と細川高国を討って赤松義村の再興に尽力した。小寺政職は、黒田重隆、黒田職隆など多くの家臣を登用した。1545年、黒田職隆を家老職に引き上げ、姫路城代を任した。1576年、播磨国は東からの織田信長、西からの毛利輝元と大勢力の衝突が迫っていた。黒田孝高の進言を聞き入れ小寺政職は織田信長に属した。1578年、荒木村重が摂津有岡城で織田信長に離反すると、織田信長を裏切り毛利輝元勢に属した。1580年、織田信忠によって討伐されて御着城は落城、小寺政職は毛利輝元の元へ落延びた。2014年NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」では、片岡鶴太郎が演じた。

小寺氏職【こでらうじもと(15??~15??)】

小寺政職の男。官途は加賀守。御着城落城後、小寺政職は毛利輝元の元に落延びた。黒田孝高は、羽柴秀吉に「小寺氏職には罪はありません。私にとっては、旧主の嫡男です」と訴え、客将として預かることを許された。黒田長政が筑前国に転封されると200石を領した。

小寺正則【こでらまさのり(15??~15??)】

小寺政職の次男。

小林満末【こばやしみつすえ(15??~15??)】

大日山城主。通称宇右衛門。上月赤松家三家老のひとり。

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【さ】

笹倉則賢【ささくらのりかた(15??~15??)】

笹倉城主。1578年、別所長治が織田信長から離反して三木城に籠城した。1580年、三木城が落城すると別所長治と共に自刃した。

笹倉則知【ささくらのりとも(15??~15??)】

笹倉則賢の男。1580年、父笹倉則賢が三木城で自刃すると、近江国長浜へ逃れて隠棲し没した。嫡男笹倉平左衛門が帰郷して笹倉城跡に屋敷を構え、長浜と姓を改めた。

播磨島津忠長【しまづただなが(1501~1534)】

赤松晴政家臣。島津忠持の男。官途は左近将監。1534年「朝日山の戦い」で、赤松晴政に属して浦上村宗と戦い討死した。

播磨島津忠之【しまづただゆき(15??~1569)】

島津忠長の男。室は山本村岡の妹。1534年、父島津忠長の討死後、播磨島津家の本領である播磨国布施郷、下揖保庄は、欠所となっていた。1554年、島津忠之は赤松晴政の奉行衆難波泰興から、布施郷、下揖保の地頭職を返付された。1569年、赤松政秀と小寺政職とが戦った「青山の戦い」に参陣して討死した。

播磨島津義弘【しまづよしひろ(1576~1636)】

島津忠之の男。通称彦兵衛尉。室は宇野政頼の娘。1569年、父島津忠之が「青山の戦い」で討死すると、母は二歳の島津義弘を連れて落延びた。元服して宇野家の娘を娶った。弟島津佐渡守忠之、嫡男島津忠遠、次男長井大膳太夫忠頼と共に羽柴秀頼に仕えた。1614年「大坂冬の陣」では、大坂城に籠城した。1615年「大坂夏の陣」で、大坂城が落城すると落延びて赤松祐高らと共に網干大覚寺に籠城した。池田輝政勢に包囲され、赤松祐高は衆兵を救わんとして自刃したが、島津義弘は再び下揖保に落延びたが池田輝政勢に包囲され、嫡男島津忠遠と次男島津忠頼は自刃した。

島村貴則【しまむらたかのり(15??~15??)】

島村城主。官途は弾正左衛門。島村貴則は、備前国三石城主浦上村宗に属して龍野赤松政秀と戦い戦功を挙げた。「播磨野里の戦い」では敗れ、淡路国へ落延びる途中に自刃した。

世良田則康【せたらのりやす(15??~15??)】

芥田城主。官途は肥前守。1575年、在田元長との「芥田表の戦い」では、在田元長勢の内藤藤次が戦功を挙げた。

曾根宗太郎【そねむねたろう(15??~15??)】

阿弥陀宿城主。1578年、羽柴秀吉勢の攻撃を受けて落城した。

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【た】

高島正澄【たかしままさずみ(15??~1577)】

佐用郡高野須城主。赤松義村の三男。官途は右馬介。上月赤松家の三家老のひとり。上月城主赤松政範と共に毛利輝元勢に属して籠城した。1577年、羽柴秀吉勢の攻撃を受け赤松政範が討死すると、枝連衆の早瀬正義らと共に殉死した。

高島政友【たかしままさとも(15??~15??)】

高島正澄の男。

高島正建【たかしままさたて(15??~15??)】

上月赤松家臣。通称七郎兵衛。

高田政光【(15??~15??)】

田原城主。官途は丹後守。

孝橋秀光【たかはしひでみつ(15??~1549)】

中道子山城主。孝橋政頼の男。1531年「天王寺の戦い」で浦上村宗を撃破した。1537年、尼子晴久の「播磨侵攻」では、赤松晴政に属して抵抗した。1549年、細川晴元に属して「三宅城の戦い」に参陣したが討死した。

孝橋秀時【たかはしひでとき(15??~15??)】

孝橋秀光の男。通称新五郎。1555年、三好長慶勢の攻撃を受け、佐用郡浅瀬山城に退去した。

高橋平左衛門【たかはしへいざえもん(15??~15??)】

神木館主。櫛橋伊定家臣。1577年、別所長治が織田信長から離反すると、櫛橋伊定に属して志方城に籠城した。1578年、櫛橋伊定は羽柴秀吉勢に降伏した。

田尻忠行【たじりただゆき(15??~1578)】

加東郡念仏寺城主。別所家臣。1578年、羽柴秀吉勢の攻撃を受けて討死した。

垂井雅治【たるいまさはる(15??~15??)】

垂井城主。官途は武蔵守。1578年、垂井雅治が三木城主別所長治に属して、三木城に籠城し戦功を挙げた。

津田家職【つだいえもと(15??~15??)】

室津城主。赤松家臣。官途は若狭守。

得平祐清【とくひらすけきよ(15??~15??)】

佐用郡米田城主。赤松家臣。官途は能登守。1538年、尼子晴久の攻撃を受けて降伏した。1567年「上月城の戦い」では、上月城落城間際に落延びた。

富田釆女【とみたうねめ(15??~15??)】

赤穂郡尼子山城主。1578年、羽柴秀吉の攻撃を受けて落城し、富田釆女は自刃した。

鳥居職種【とりいもとたね(15??~1579)】

赤松晴政家臣。岡本周登や難波泰興と共に連署状に署名した。

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【な】

内藤藤次【ないとうふじつぐ(15??~15??)】

多可郡満久城主。在田元長家臣。1575年、三木城主別所長治が野間城を襲撃した際、在田国泰から離反して別所長治に属した。また、別所長治が織田信長に離反した際、織田信長勢に属した。

長井長重【ながいながしげ(15??~15??)】

加古郡野口城主。通称四郎左衛門。別名長井政重。鉄砲の名手。1578年、羽柴秀吉の「三木城の戦い」では、別所長治に属して野口城に籠城した。野口城は、三木城の搦め手にあたり、最初の激しい戦いが行われた。野口城には長井長重の一族郎党380人余りの他、近くの教信寺の僧兵や農民も城方に加わり勇戦し、 怪力の僧兵不動坊や十輪坊等が奮戦した。羽柴秀吉勢3,000余りの猛攻を受けたが、三木城からの援軍も無く、多勢に無勢で孤立し遂に長井政重は降伏した。野口城を支援した教信寺も火を掛けられ全焼した。

長浜長秋【ながはまながあき(15??~15??)】

小寺則職家臣。庄山城主。官途は河内守。1530年、小寺政隆は浦上村宗に攻められ討死すると、小寺政隆の男小寺則職は浦上村宗を討取り御着城へ戻ると、長浜長秋は庄山城主となった。

中西正常【なかにしまさつね(15??~15??)】

西畑城主。通称兵助。1563年、三木城主別所長勝が箱木家氏を攻撃した際、箱木方に味方して別所長勝勢を撃退した。和睦の際、別所長勝に謀られて中西正常は居館を焼失。以後、中西正常は別所長勝に従属した。所領問題でもめて再び西畑城に戻った。

中村景利【なかむらかげとし(1551~1581)】

別所家臣。通称孫之進。主家滅亡後は羽柴秀吉に仕えた。1581年「鳥取城の戦い」で討死した。

中村重房【なかむらしげふさ(15??~15??)】

中村景利の男。官途は修理大夫。主家滅亡後父中村景利とともに秀吉に仕えた。

中村忠滋【なかむらただしげ(15??~15??)】

別所家臣。羽柴秀吉勢に娘を人質にして内応を約束するが実は計略で、羽柴秀吉勢を敗退させたため娘は殺された。落城後綾部に潜んでいるところを発見されて捕らえられたが、娘を犠牲にして主家に尽くしたことを認められて中村一氏の寄騎衆になった。

難波泰興【なんばやすおき(15??~15??)】

赤松晴政家臣。官途は備前守。飾磨赤松家三奉行衆のひとり。祝融軒光慶、野村職久と共に奉書に署名した。

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【は】

早瀬正義【はやせまさよし(15??~1578)】

佐用郡柏原城主。官途は帯刀。上月城主赤松政範と共に毛利輝元勢に属して籠城した。1577年、羽柴秀吉勢の攻撃を受け赤松政範が討死すると、高島正澄らと共に殉死した。

広峰長職【ひろみねながもと(1512~1577)】

小寺政隆の次男。広峰神社の神職。1538年、赤松晴政が堺に逃亡した際、これに同道した。

平井祐利【ひらいすけとし(15??~1564)】

赤松村秀の三男。通称次郎八。官途は備中守。1564年、赤松政秀の属して浦上政宗と戦った際に討死した。

平井貞利【ひらいさだとし(15??~15??)】

平井祐利の男。官途は備中守。1564年、父平井祐利が、赤松政秀の属して、浦上政宗と戦った際に討死した為、平井家の家督を相続した。1577年、羽柴秀吉の「中国討伐」では、龍野城を明け渡した赤松政広を領地の佐江村に匿った。後に赤松政広が但馬国竹田城を領すると赤松政広に仕えた。1600年「関ヶ原の役」で敗れて、赤松政広が自刃すると再び龍野に戻った。

平井利政【ひらいとしまさ(15??~1582)】 

平井祐利の次男。通称助之進。1564年、父平井祐利が討死すると、備前国に逃れ宇喜多直家に属して上道郡赤土山城主となった。1569年、妙実寺を再建した。1579年、美作国苫田郡西屋城主となった。1582年、小早川隆景勢の攻撃を受けて落城、自刃した。

福原則高【ふくはらのりたか(15??~1577)】

佐用郡福原城主。通称左京進。1577年、羽柴秀吉勢と戦って討死した。

福原則尚【ふくはらのりなお(15??~1577)】

福原則高の男。通称藤馬允。室は赤松政元の娘。1577年、羽柴秀吉勢の竹中重治と黒田孝高の攻撃を受けた。福原則高勢は野戦を行い多くの討死を出した。乱戦の中、福原則高は平塚為広に討取られた。助太刀に現れた福原助就も討死hした。敵の大将を討ち取った羽柴秀吉秀勢、城を攻め崩し城兵をことごとく討取った。

福原助就【ふくはらすけなり(15??~1577)】

佐用郡高倉山城主。通称主膳。室は福原則高の娘。1577年、羽柴秀吉勢の黒田孝高の攻撃を受け、黒田孝高勢に討取られた。

藤田広興【ふじたひろおき(15??~1578)】

美嚢郡毘沙門城主。官途は河内守。別名藤田幸綱。1578年、別所長治と羽柴秀吉勢との戦いが始まると、藤田広興は嫡男藤田右近と共に別所長治に属して三木城に籠城して、羽柴秀吉勢と戦った。1580年、三木城が落城すると、別所長治は領民や残る将兵の為、自刃した。藤田広興と藤田右近は自城に戻り自刃した。

藤田右近【ふじたうこん(15??~1578)】

藤田広興の男。1578年、別所長治と羽柴秀吉との戦いが始まると、藤田右近は父藤田広興と共に別所長治に属して羽柴秀吉勢と戦った。三木落城後に毘沙門城に戻り自刃した。

藤田家臣団【うじたけかしんだん】

鍛冶屋城主:藤田右馬大夫、奥谷城主:藤田山城守。

別所村治【べっしょむらはる(1502~1563)】

美嚢郡三木城主。別所則定の男。官途は加賀守。別名別所就治。東播磨200,000石余りを領した。1520年、赤松義村、浦上村宗が対立すると浦上村宗を支援した。1530年、柳本賢治と共に東播磨に勢力を持つ豊地城主依藤秀長を攻撃したが、攻城中に柳本賢治が謀殺された。別所村治は、依藤秀長勢の反撃を受け三木城に敗走するが、三木城も細川高国と浦上村宗からの攻撃を受け落城した。別所村治は、

摂津国に落延びた。1531年、三木城を奪還した。1539年、赤松義祐を三木城に保護した。1553年、尼子晴久の「播磨討伐」では籠城して戦った。続いて有馬重則に攻められるが、これは撃退した。1554年、有馬重則、赤松晴政、三好長慶の連合軍による攻撃を受けたが撃退した。細川晴元と結んで東播磨に勢威を広げ、三好長慶に属して畿内各地を転戦した。1556年、隠居して家督を別所長勝に譲った。

別所長勝【べっしょながかつ(1532~1570)】

別所村治の男。官途は大蔵大輔。通称小三郎。1556年、父別所村治より別所家の家督を相続した。はじめ細川晴元、三好長慶に属したがやがてこれと対立した。父別所村治に劣らず武勇に優れ、播磨東部に勢力を張り、三好長慶勢の侵攻を度々撃退した。1568年、織田信長に擁立された、足利義昭の上洛に際して弟別所重宗を京都に派遣した。1569年「本圀寺の戦い」では、弟別所重宗が白井河原で三好三人衆と戦いで、足利義昭より感状を得る戦功を挙げた。

別所重宗【べっしょしげむね(15??~1591)】

加東郡阿閉城主。別所村治の次男。官途は主水正。通称孫右衛門。1575年、加東郡豊地城主依藤太郎左衛門を討取り居城とした。1568年、足利義昭が織田信長に擁立されて上洛すると、別所重宗は別所家の使者として派遣された。織田信長が近畿地方まで勢力を伸ばすとこれに属した。1570年、兄別所長勝が病没すると、弟別所吉親と共に甥別所長治を補佐した。1575年、別所長治と共に上洛して織田信長に謁見した。1577年「紀州討伐」では、援将としてり別所長治と共に参陣した。別所重宗は織田信長勢に属して畿内を転戦したが、弟別所吉親は国元にあり政務、内政を取り仕切り、家臣団を掌握した。1578年、別所長治が織田信長から離反して毛利輝元に属すると、別所長治と袂を分かち、羽柴秀吉勢に属した。15
80年、三木城は落城別所長治は自刃した。

別所吉親【べっしょよしちか(15??~1580)】

別所村治の三男。官途は山城守。別名別所賀相。室は畠山昭高の娘(波姫)。若年の別所長治を後見した。毛利輝元勢に属するべきとする別所吉親に対し、兄別所重宗は織田信長勢に属するべきと説いた。家中を二分する争いになったが、別所重宗を失脚させ、別所長治と共に三木城に籠城した。1579年、羽柴秀吉の本陣を急襲したが失敗、甥の別所治定が討死するなど多くの犠牲者を出した。1580年、籠城は二十ヶ月に及び、城主の別所長治は降伏の道を選ぶが、別所吉親は最後まで抵抗した降伏を選ぶ家臣によって謀殺された。

別所長治【べっしょながはる(1556~1580)】

別所長勝の男。通称小三郎。室は波多野晴通の娘(照子)。西から毛利輝元、東から織田信長とゆう二大強国に挟まれた。1575年、小寺政職や赤松政広と共に上洛して、織田信長に属した1578年、織田信長勢から離反して毛利輝元勢に属すと、羽柴秀吉勢の攻撃を受けた。別所長治は三木城に籠城して戦ったが、麾下の城主である、野口城主長井政重、神吉城主神吉頼定、志方城主櫛橋伊定、高砂城主梶原景行が次々に降伏した。1579年「平井山の戦い」で弟別所治定が討死するなど苦境に立たされた。二十ヶ月の及ぶ籠城で兵糧は尽き、羽柴秀吉から出された別所長治と別所賀相の自刃による城兵救命を受け容れた。毛利輝元勢はこの間、荒木村重の内応、上月城の戦い、石山本願寺への支援など織田信長勢の侵攻を遅らせることはできたが、三木城救援など効果的な作戦を行うこたができなかった。辞世の句である「いまはただうらみもなしや諸人の命にかはる我が身と思へば」。

別所友之【べっしょともゆき(1560~1580)】

別所長勝の次男。通称彦之進。室は山名豊恒の娘(綾姫)。若年だったが、勇猛で近隣に勇名を轟かせた。1579年、兄別所長治に属して「三木城の戦い」に参陣した。鷹ノ尾城に拠って羽柴秀吉勢に抵抗したがまもなく落城。三木城に入って兄別所長治と共に籠城を続けた。1580年、兄別所長治と共に降伏したが、城兵の命を救う為、枝連衆のひとりとして、綾姫と共に別所長治の脇差で自刃した。辞世の句は「命をもおしまざりけり梓弓すゑの世までも名の残れとて」。綾姫の辞世の句は「たのめこし後の世までに翅をもらぶる鳥のちぎりなりけり」。

別所治定【べっしょはるさだ(1561~1578)】

美嚢郡正入寺城主。別所長勝の三男。通称小八郎。1578年、兄別所長治が織田信長から離反すると、別所長治と共に三木城に籠城した。1579年、別所賀相らと共に兵800余りの奇襲部隊を率いて、羽柴秀吉の本陣がある平井山襲撃したが失敗、羽柴秀吉の家臣樋口雅兼に討取られた。

別所吉治【べっしょよしはる(15??~1652)】

別所重宗の男。官途は豊後守。室は山崎家盛の妹。1591年、父別所重宗の病没により別所家の家督を相続した。1592年「文禄の役」に参陣した。1592年、渡海して京城に進出した。1594年、伏見城普請に参加した。1597年、丹波国園部城15,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成方に属して丹後国田辺城を攻撃したが、役後所領は安堵された。役後、丹波国由良城に転封となった。1615年「大坂夏の陣」では、戦功を挙げ、丹波国何鹿郡波綾城20,000石を領した。1628年、遊猟に耽り参勤交代を怠ったとして改易処分とされた。

利神別所清治【べっしょきよはる(15??~15??)】

佐用郡利神城主。赤松政元家臣。別所家の庶家。赤松政元に属して、播磨国内の転戦した。

利神別所定道【べっしょさだみち(15??~1577)】

別所清治の男。通称太郎左衛門。1577年、赤松政範、福原則尚らと共に、羽柴秀吉勢と戦った。釜須坂において人質を差し出して羽柴秀吉に降伏した。利神城は引き続き甥の別所林治が領した。

利神別所林治【べっしょしげはる(15??~1580)】

別所清治の次男。官途は日向守。通称左衛門。兄別所定道が病弱の為、利神別所家の家督を相続した。1578年、織田信長から離反すると、羽柴秀吉勢の尼子勝久らにより利神城は攻略された。別所林治は長水城主宇野政頼を頼って落延びた。1580年、長水城も落城、討死した。

本郷祐之【ほんごうすけゆき(15??~1580)】

赤松政広家臣。宇野政頼の四男(本郷信濃守の養子)。通称二郎兵衛。年貢を巡って京都祗園神社と連絡を取った。1575年、置塩城が敵の襲撃を受けた際、上月右衛門佐に見舞状を送った。1580年。羽柴秀吉勢の攻撃を受け滅亡した。

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【ま】

間島景綱【ましまかげつな(15??~15??)】

柏原城城主。

真嶋元治【ましまもとはる(15??~15??)】

飯山城主。通称新左衛門尉。上月赤松家で侍大将を勤めた。

三木通明【みちみちあき(15??~15??)】

飾磨郡英賀城主。

三木通秋【みちみちあき(15??~15??)】

三木通明の男。「石山本願寺城の戦い」では、本願寺方に属して織田信長に抵抗した。三木通明が治める英賀湊は毛利家海賊衆の前線基地の一つともなった。三木城主別所長治が織田信長に反抗すると別所長治に属して兵糧、武器、情報の中継点として重要な位置を占めた。1580年、三木城と共に英賀城も落城した。三木通秋は嫡男三木安明と共に毛利輝元に元に落延びた。

三宅治忠【みやけはるただ(1538~1580)】

別所安治家臣。官途は肥前守。通称祐五郎。幼少時に寺坊に入っていたが、別所安治に気に入れられ、三宅家の家督を相続した。1578年、別所賀相と共に羽柴秀吉に招かれて播磨国糟谷における軍議に参加したが、そのときの羽柴秀吉の態度が横柄であったため立腹し、別所長治に織田信長勢からの離反を勧めた。三木城が落城する際、別所長治、別所友之兄弟の介錯を行ったのち自刃した。辞世の句は「君なくばうき身の命何かせん残りて甲斐のある世なりとも」。

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【や】

八代道慶【やしろどうけい(15??~15??)】

八代山城主。小寺則職家臣。小寺則職は御着城を本城として、姫路城を支城し家老の八代道慶を城代に任じた。

八代長利【やしろながとし(1547~1627)】

八代道慶の男。黒田孝高家臣。「黒田家二十四騎衆」のひとり。数多くの戦いで戦功を挙げ1,500石を領した。生涯通じて挙げた頸級は母里友信 、栗山利安に次ぐ。

山脇六郎左衛門【やまわきろくろうざえもん(15??~1568)】

飾東郡山脇城主。小寺則職家臣。黒田孝高より先に親織田信長派を打ち出し、小寺政職に疎まれた。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛しすると、諸侯に上洛要請を行った。東播磨で勢力を持つ三木城主別所長治は、三好三人衆の三好長逸、三好政康、岩成友通に対抗するため、織田信長と友好関係を結んでいた。西播磨で勢力を誇る龍野城主赤松政秀は、織田信長が擁する足利義昭と友好関係を結び、播磨国守護職を狙っていた。別所長治と赤松政秀の二人が織田信長と親交を深めたため、赤松政秀と対立関係にあった小寺政職は、黒田孝高に命じて、山脇六郎左衛門を謀殺して、足利義昭の上洛要請を無視した。

横山義祐【よこやまよしすけ(15??~1577)】

佐用郡室山城主。赤松政元の三男。通称藤左衛門。「亀甲の中に、右文字を付けたる茜の旗」を旗指物にした。1577年「上月城の戦い」により、室山城も落城、美作国英田郡に落延びた。

吉田伊賀守【よしだかがのかみ(15??~15??)】

屋口城主。別所重宗家臣。1578年、別所長治が羽柴秀吉によって滅ぼされると、帰農した。

吉田平蔵【よしだへいぞう(15??~15??)】

石川源吾家臣。密かに龍野赤松政秀に寝返った石川源吾の命を受けて、小寺政職領の村々を野武士に襲わせた。石川源吾は、黒田職隆の謀反の噂を流し、黒田職隆の離反を誘うが、企みが露見し吉田平蔵は黒田職隆の闇討ちに遭い討死、石川源吾は赤松政秀の元に落延びた。2014年NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」では、山本芳郎が演じた。

依藤秀長【よりふじひでなが(15??~15??)】

加東郡豊地城主。播磨国守護赤松家の勢力が衰えると、細川高国方の浦上村宗の援助を得て別所就治と東播の覇権を争った。1530年、柳本賢治との戦いである。別所則治以降三木城を拠点に東播磨支配をすすめてきた別所家との対立が顕在化した。依藤秀長は柳本賢治勢を相手に一ヵ月半にわたって戦い、柳本賢治が謀殺されると、柳本賢治勢の混乱に乗じて撃ち破って敗走させた。細川高国に属する党浦上村宗が三木城別所村治を攻めたため、別所村治は東条谷進出の好機を逸しただけでなく、しばらく三木城を没落して逃亡生活を余儀なくされた。

依藤太郎左衛門【よりふじたろうざえもん(15??~1578)】

依藤秀長の男。1578年、別所長治が細川荘の冷泉為純、冷泉為勝を攻めた際、冷泉家救援に駆けつけたが敗れ、依藤太郎左衛門は自刃した。

冷泉為純【れいぜいためずみ(1530~1578)】

美嚢郡嬉野城主。下冷泉為豊の男。1578年、羽柴秀吉勢に協力して嬉野城に籠城したが、羽柴秀吉から援軍が送られなかった為、別所長治勢の攻撃を受けて自刃した。

冷泉為勝【れいぜんためかつ(15??~1578)】

冷泉為純の男。1578年、別所長治の攻撃を受け父冷泉為純と共に戦ったが討死した。

冷泉為将【れいせん(15??~15??)】

冷泉為純の三男。

藤原惺窩【ふじわらせいか(1561~1619)】

冷泉為純の次男。別名。山城国相国寺に入って禅僧となり朱子学を学んだ。中国で儒学を学ぼうと明に渡ろうとするが失敗に終わった。その後朝鮮儒者姜沆との交流を経て、それまで五山僧の間での教養の一部であった儒学を体系化して京学派として独立させた。朱子学を基調とするが、陽明学にも共感を得た。近世儒学の祖として門弟に林羅山、那波活所、松永尺五、堀杏庵の四人が惺門四天王と称された。和歌や日本の古典にも通じていた。羽柴秀吉、松平元康にも儒学を講じた。松平元康には仕官することを要請されたが辞退し、門弟の林羅山を推挙した。

藤原為景【ふじわらためかげ(1612~1654)】

藤原惺窩の男。別名冷泉為景。後水尾天皇の勅命で,叔父冷泉為将の跡をつぎ下冷泉家の歌学を継承した。木下勝俊と深く交際し、父没後、その遺産を編集するに当たり、漢文は林羅山に、和文は長嘯子に編纂を依頼した。後光明天皇の侍講となるが、その崩御すると冷泉為景は殉死した。

渡瀬好光【わたせよしみつ(15??~15??)】

美嚢郡渡瀬城主。別名佐々木好光。1576年、羽柴秀吉が「加古川の評定」後、別所長治が毛利輝元に通じて籠城を決したため、渡瀬好光もそれに属して渡瀬城の防護を固めた。佐々木好光はめに羽柴秀吉の攻撃を受けたが守りきれず城に火をかけ、伊丹城主荒木村重を頼り落延びた。

脇田小二郎【わきたこじろう(15??~15??)】

美嚢郡脇田城主。1555年、古川城主井口時重を荒川城主藤田広興と共に宴会に招きその帰路に謀殺した。そのため井口時重の遺臣たちによる報復を受け、脇田小二郎の枝連衆は謀殺され、脇田小二郎は丹波国へ落延びた。

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【資料Ⅰ】

播磨国(12郡/546,000石)

明石郡:明石城、加古川城、高砂城、魚住城、端谷城、船上城、太山寺。
美嚢郡:三木城、淡河城、豊地城、河合城。
多可郡:野間城、比延城、黒田城、野中城。
加古郡:
印南郡:
賀茂郡:
飾磨郡:英賀城、姫路城、御着城、志方城、神吉城、中道子城。
神崎郡:置塩城、広峯神社、書写山城、坂本城、垣屋城、山田城。
揖保郡:龍野城、城山城、林田城、塩谷城、香山城。
宍粟郡:
佐用郡:上月城、広瀬城、佐用城。
赤穂郡:赤穂城、赤松城、室山城、白旗城。

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【資料Ⅱ】

上月赤松家三家老衆【あかまつけさんかろうしゅう】

高島正澄、太田則近、小林満末。

飾磨赤松家三奉行衆【あかまつけさんぶぎょうしゅう】

難波泰興、祝融軒光慶、野村職久。

惺門四天王【せいかしてんのう(15??~15??)】

林羅山、那波活所、松永尺五、堀杏庵。

播磨国五泊【はりまこくごはく】

船泊、住泊、室津泊、飾磨泊、高砂泊。

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【資料Ⅲ】

播磨国【はりまのくに】

山陽道の東端に位置する国。東は摂津、丹波、国、西は備前、美作国、北は但馬、因幡国に接し、各方面とも山地を国境とし、三方を山に囲まれた国。南側は播磨灘に接し、淡路、讃岐、阿波国を臨む。東西に伸びる中国山地を北に控え、西播磨の山地、東播磨の低平な丘陵地が国土の多くを占めるが、播磨灘沿岸に播磨平野が広がる。加古川、市川、揖保川の流域に形成された平野は肥沃であり、農耕に適している。このため古くから開発が進み生産性が高い地域になっている。また播磨灘での漁業も盛んで、山海の産物に恵まれている。地勢的には播磨平野東部の明石の南方に明石海峡があって淡路国に近く、また摂津国とも平野伝いに交通が盛んである。陸路では中国地方を結ぶ要所であり、海路では瀬戸内海をはさんで淡路、四国地方と結ぶ重要な拠点である。

那波【なば】

相生湾最奥の矢野川の河口部に位置した湊街。中世、東寺領となった矢野荘の倉敷地として物資の集散地を担った。鎌倉期、地頭として矢野荘に入部した海老名家の拠点でもあり、南北朝期から室町期にかけて那波浦の支配をめぐり、東寺と海老名家との間で激しい争論が展開された。湊街として荘園の内外から物資が集まる那波には那波市と呼ばれる市場があり、矢野荘における東寺の年貢も、那波市での相場に基づいて銭に換貨されて納められた。矢野荘では、市場で農作物を換貨し、安い時期の和市で年貢を納めてその差額を得ようとする農民側と、高い時期の和市で年貢を納めさせようとする東寺側が度々対立した。那波に市場が立つ背景には、水運による物資や銭の流通があった。1375年、東寺は関料のかさむ「海道」ではなく、陸路で京都に運ばせようとしているが、その途上で群盗に遭い、結局海路で輸送させており、那波市で換貨された年貢が那波から海路で京都に送られていた。那波には水運に携わる業者も多くいた。『兵庫北関入舩納帳』によれば、那波船籍の船は九回、兵庫北関に入港しており、米、豆、雑穀類をはじめ、英賀や小豆島の塩、山崎胡麻などを運んだ。

兵庫【ひょうご】

畿内外縁における水陸交通の要所にあり、中世、京都への物資陸揚港として瀬戸内海屈指の重要湊として栄えた湊街。平清盛のもとで経ヶ島が築かれるなど日宋貿易、瀬戸内海航路の基点として大規模な整備事業が展開された。この兵庫の国際湊としての性格は、15世紀も変わることはなかった。遣明船派遣の基地港として大型船が発着し、幕府による湊湾整備事業が行われるなどしており、兵庫が「応仁、文明の乱」で衰退し、堺にその地位を譲るまで、畿内最大の国際湊として重要な機能を果たした。兵庫は瀬戸内海流通において、一大消費地、京都への物資陸揚港として機能していた。兵庫には東大寺管轄の北関、興福寺管轄の南関が置かれていた。「兵庫北関入舩納帳」には、瀬戸内海全域、四国各地から計二千余艘にものぼる船が、兵庫に多くの物資を運び込んでいたことが記載されている。その中でも兵庫船籍の「地下」船は最も多く記録され、米や塩など周辺、淡路、阿波などの産品を積載して入湊した。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「播磨戦国史 群雄たちの興亡」神戸新聞総合出版センター、「播磨灘物語(1)~(4)」講談社文庫、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2012年8月19日日曜日

黒田孝高家臣団辞典

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【あ】

明石岩姫【あかしいわひめ(1531~1559)】

黒田職隆の室。播磨国明石郡枝吉城主明石宗和の娘(御着城主小寺政職の養女)。京都に産まれ、和歌に長じていた。黒田孝高を産んだ日「姫路山の山頂に雲がかかって雲が降り、英勇誕生の証」と人々が噂した。1546年、黒田孝高を産んだ。1554年、次男の黒田利高を産んだ。1555年、長女香山妙春(英賀の地侍三木清閑室)を産んだ。1556年、虎姫(次女/秋山妙円)は尾上武則に嫁いだ。尾上武則が病没すると、兄黒田孝高から毛利家臣との縁談を薦められたが拒否した。2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では戸田菜穂が演じた。

麻田甚内【あさだじんない(15??~1600)】

久野重勝家臣。久野家の六神のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い討死した。

生田重勝【いくたしげかつ(15??~1615)】

黒田孝高家臣。父は隅田式部。通称木屋之助。別名隅田小助。父は大友義鎮の隅田式部家臣であったが、生田重勝が同輩と口論となり大友義鎮の元を出奔して、井上之房の仲介で黒田孝高に仕えた。黒田孝高が荒木村重の説得で摂津国有岡城へ向かう途次、生田を経て外郭の木屋野で敵の兜武者二人を討取る戦功を挙げた。黒田孝高は、この活躍を称賛し「生田の森」に因んで生田重勝と称させた。1592年、黒田長政勢の先鋒を務め「第二次晋州城の戦い」では、負傷しながらも敵将を討取る戦功を挙げた。1600年、黒田長政が筑前国に転封になると600石を領した。

井口吉次【いぐちよしつぐ(1565~1621)】

黒田孝高家臣。栄城主井口与次右衛門の男。官途は出羽守。通称兵助。別名村田出羽守。「黒田家二十四騎」のひとり。父井口与次右衛門は、龍野城主赤松政秀との戦いに敗れ御着で帰農した。井口猪之助、井口六太夫、井口甚十郎、井口吉次の四兄弟が姫路城主黒田孝高に仕えた。1580年、兄達は全員討死した。井口吉次は織田信長への人質として長浜城に送られていた黒田長政の近侍をした。1584年「岸和田の戦い」では敵の武具や馬を奪い戦いに臨んだ。豊前入国後、井口家が途絶えてしまうと考えた黒田孝高は宇佐神宮に養子入りさせようとしたが井口吉次はそれを拒み「文禄の役」に参陣した。加藤清正、浅井幸長を救う「蔚山城の戦い」では、頸七つを取り、朱具足を許された。1600年、黒田長政が筑前国に転封なると2,000石を領した。

井出友氏【いでともうじ(1538~1569)】

黒田重隆の三男。井手左近将監の養子。通称勘右衛門。1569年、龍野赤松政秀は兵3,000余りを率いて龍野城を出陣すると、置塩赤松義祐と小寺政職は、置塩城に籠城した。黒田孝高は兵300余りを率いて、青山に布陣する赤松政秀勢に奇襲攻撃をかけ撃退するも、赤松政秀は再び兵3,000余りを率いて来襲、土器山に布陣する黒田孝高勢150余りに夜襲を行った。兄黒田職隆が反撃しようとするのを制止。母里小兵衛らと共に出撃して身代わりに討死した。

井上之房【いのうえゆきふさ(1554~1634)】

黒田職隆家臣。井上之正の男。官途は周防守。通称九郎右衛門。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」「黒田家三家老」「石垣原の五本槍」のひとり。勇猛で文武に秀でて人望に厚く、黒田職隆、黒田孝高、黒田長政、黒田忠之の四代に仕えたが、黒田職隆が黒田家の家督を黒田孝高に譲った後も、引き続き黒田職隆に仕えた。黒田職隆は、黒田孝高に井上之房を用いるようにに命じたが、黒田孝高は井上之房を用いることはなかった。黒田孝高が有岡城荒木村重に捕らわれ幽閉された際は、有岡城に侵入し黒田孝高を助け出した。この戦功により、井上之房を黒田家弐番家老として6,000石を領した。「小田原の役」「文禄の役」に参陣して戦功を挙げた。1600年「石垣原の戦い」では、大友義統勢の吉弘統幸と一騎打ちとなりこれを討取った。黒田長政が筑前国に転封になると黒崎城16,000石を領した。1632年「黒田家騒動」が起こると、井上之房は栗山利章と対立して、倉八正俊を排斥し黒田家を守るため尽力したが、黒田忠之は栗山利章と姻戚関係にあった井上之房も追放処分とした。嫡男井上庸名は、松平秀忠に仕え6,000石の馬廻衆となった。

井上家臣団【いのうえけかしんだん】

富田仁左衛門、波賀新兵衛、原田市蔵、堀尾久左衛門、吉村孫七郎、清田何右衛門。

浦野勝宗【うらのむねかつ(15??~15??)】

黒田孝高家臣。官途は若狭守。浦野勝宗は始め長井規秀に仕え、後に浅井長政に仕えた。黒田長政が愛用した水牛の兜はを名物兜として献上した。

大塩喜平次【おおしおきちえいじ(15??~15??)】

野村祐勝家臣。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢の武田作之進を討取る戦功を挙げた。

大野勘右衛門【おおのかんざえもん(15??~15??)】

井上之房家臣。「石垣原の五本槍」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い戦功を挙げた。

大野久弥【おおのひさよし(15??~15??)】

井上之房家臣。通称久太夫。「石垣原の五本槍」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い戦功を挙げた。

大村六太夫【おおむらろうだいふ(15??~15??)】

井上之房家臣。「石垣原の五本槍」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦いで吉良伝右衛門を討取る戦功を挙げた。

尾上武則【おがみたけのり(15??~1588)】

黒田職隆家臣。通称安右衛門。室は黒田職隆の娘。尾上家は代々加古郡尾上城を領した豪族衆。次男尾上武則は黒田職隆の娘を娶り黒田姓を称して、播磨国、北九州各地を転戦して多くの戦功を挙げた。1588年「豊前一揆」で討死した。紀伊国岸和田出身の岸則虎の嫡男尾上可親を養子にした。尾上可親は黒田長政に従い筑前入国後には1,700石を領した。

小河伸章【おがわのぶあき(1554~1593)】

黒田孝高家臣。通称伝右衛門。「黒田家二十四騎」のひとり。小河伸章は、御着城主小寺政職の宿老職を務めた。小寺政職の没落後に黒田孝高に仕えた。1589年「九州討伐」に参陣した。1592年「文禄の役」では、明国勢に敗れた敗走する小西行長勢を援護して助けた。羽柴秀吉は10,000石の加増を約束したが、帰国途中の対馬国で病没した。

小栗次右衛門【おぐりつぐざえもん(15??~15??)】

後藤基次家臣。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦いで吉弘加兵衛を討取る戦功を挙げた。

鬼木秋姫【おにきあきひめ(15??~15??)】

毛屋武久の室。豊前国上毛郡鬼木城主鬼木宗正の長女。1586年、黒田孝高が豊前国六郡を領すると鬼木秋姫は妹鬼木於長と共に人質として中津城に送られた。1587年、父鬼木宗正は一旦黒田孝高に属したが、長岩城主野中鎮兼、上毛郡日隈城主日熊直次、宇佐郡高家城主中島房直らと共に黒田孝高に謀反を起こした。黒田長政は馬ヶ岳城を出陣して、広津城主広津鎮種と共に南下すると、山内城主如法寺孫治郎輝則、川底城主城井弥七朗信次、鬼木城主鬼木宗正、山田城主山田大膳、八屋城主八屋刑部、東友枝叶松城主内尾主水、西友枝雁股城主友枝大膳らの国人衆も手勢を率いて出陣した。黒田長政勢は「観音原の戦い」で、豊前国人一揆衆は敗れ鬼木宗正は討死した。国人衆はそれぞれの居城に逃げ帰った。人質になっていた鬼木秋姫は処刑されることなく、毛屋武久に嫁いだ。

鬼木於長【おにきおなが(15??~15??)】

豊前国上毛郡鬼木城主鬼木宗正の次女。1586年、黒田孝高が豊前国六郡を領すると鬼木於長は姉鬼木秋姫と共に人質として中津城に送られた。1587年、父鬼木宗正は一旦黒田孝高に属したが、長岩城主野中鎮兼、上毛郡日隈城主日熊直次、宇佐郡高家城主中島房直らと共に黒田孝高に謀反を起こした。黒田長政は馬ヶ岳城を出陣して、広津城主広津鎮種と共に南下すると、鬼木城主鬼木宗正、山内城主如法寺孫治郎輝則、川底城主城井弥七朗信次、山田城主山田大膳、八屋城主八屋刑部、東友枝叶松城主内尾主水、西友枝雁股城主友枝大膳らの国人衆も手勢を率いて出陣した。黒田長政勢は「観音原の戦い」で、豊前国人一揆衆は敗れ鬼木宗正は討死した。国人衆はそれぞれの居城に逃げ帰った。人質になっていた鬼木秋姫は処刑されることなく、黒田孝高の室光姫の腰元となった。

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【か】

貝原信盛【かいばらのぶもり(1550~1626)】

備前国吉備津宮神主の身出。通称市兵衛。武田晴信に仕えた後、織田信長、毛利輝元に仕えようとしたが叶わず、黒田孝高に仕えた。「豊前国人一揆」「文禄の役」で戦功を挙げた。孫が有名な農学者の貝原益軒。

岸本五郎兵衛【きしもとごろびょうえ(15??~15??)】

井上之房家臣。「石垣原の五本槍」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い戦功を挙げた。

衣笠景延【きぬがさかげのぶ(1552~1631)】

播磨国明石郡端谷城主。小寺政職家臣。官途は因幡守。通称久右衛門。黒田家二十四騎のひとり。小寺家から寄騎衆として黒田家に移った。智謀、歌道に秀で、包囲された栗山利安を救い、旧主小寺家への使者を務めた。1587年「豊前国人衆一揆」では、姫隈城の日熊直次を降した。「文禄、慶長の役」では後藤基次と共に先鋒を務めた。1600年「関ヶ原の役」では松山城を守備した。役後3,000石を領した。

桐山信行【きりやまのぶゆき(1554~1623)】

黒田孝高家臣。官途は丹波守。通称孫兵衛。「黒田家二十四騎」のひとり。井上之房と同じく黒田職隆に仕えた。1592年「文禄の役」小河信章が殿を勤め小西行長の撤退をさせた。羽柴秀吉は小河信章の代わりに報告をした桐山信行に兜と具足を与えた。母里友信とは仲が悪く「文楽の役」のさいに母里友信隊が敗色と誤報した。1600年、黒田長政が筑前国に転封になると、冷水峠の開拓を行った。

櫛橋光姫【くしはしてるひめ(1553~1627)】

黒田孝高の室。櫛橋伊定の娘。別名「照福院」。1567年、黒田孝高は、父黒田職隆から家督を相続すると小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光姫を室に迎えた。政略結婚ではあるが、黒田孝高は側室はもたず生涯両者は生涯互いを慕い続けた。1578年、別所長治が播磨国の豪族衆を引き込んで織田信長に反旗を翻すと、父櫛橋伊則も追随して志方城に籠城した。志方城は織田信雄の兵で包囲され、出撃を数度繰り返すが撃退された。隣接する神吉城が織田信忠に落とされると、櫛橋伊定は城兵の命と引き換えに自刃した。1600年「関ヶ原の役」では、大坂屋敷で石田三成勢に人質として軟禁されるが、栗山利安、母里友信、宮崎重昌らが光姫を黒田長政の室(栄姫)と共に豊前国に落延びさせた。2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では中谷美紀が演じた。

久保庄助【くぼしょうすけ(15??~1600)】

久野重勝家臣。「久野家の六神」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い討死した。

栗山利安【くりやまとしやす(1550~1631)】

黒田孝高家臣。官途は備後守。通称四郎右衛門。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」のひとりとして数えられた。1569年「青山、土器山の戦い」では、初陣で頸級を二つ挙げる戦功を立てた。1578年、黒田孝高が織田信長に反逆した荒木村重の説得に当たるために有岡城に向かってそのまま捕らえられたとき、黒田孝高を救出した。1591年、豊前国白米城60,000石を領した。1593年、黒田孝高が隠居すると、黒田長政に仕えて「文禄の役」にも参陣し「晋州城の戦い」で戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、母里友信と協力し、大坂の屋敷から黒田孝高婦人と黒田長政婦人を救出し共に豊後中津城に戻った。その後黒田孝高と共に豊後国に出陣し、石田三成方の大友義統との「石垣原の戦い」で戦功を挙げた。役後、黒田長政が筑前国に転封されると左右良城15,000石を領した。1617年、嫡男栗山利章に家督を譲って隠居した。

栗山利章【くりやまとしあきら(1591~1652)】

栗山利安の男。通称大膳。黒田忠之は倉八正俊や大音重成らを取り立てたが、黒田孝高や黒田長政に仕えた家臣はこれに強い不満を抱いた。黒田忠之と対立し、幕府に「黒田忠之に謀反の疑いがある」と訴えた。幕府による裁決の結果「栗山利章は乱心した」ということで栗山利章を陸奥国盛岡南部家にお預けとし、黒田家は改易を免れた。この一連のお家騒動は「黒田家騒動」と称された。実質流罪ではあったが、百五十人扶持であり、盛岡南部家も手厚く待遇した。

黒田重隆【くろだしげたか(1508~1564)】

飾磨郡姫路城主。黒田高政の男。小寺則職家臣。官途は下野守。山陽地方随一の商業都市として繁栄していた備前の福岡に在住した。その後姫路城下の広峯神社の神官と目薬を売ることで財を成し、播磨国の国人領主になった。はじめ龍野城主赤松政秀に仕えたが、ほどなく御着城主小寺政職に主を替え、重用され、姫路城の城代となった。2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、竜雷太が演じた。

黒田職隆【くろだ もとたか(1524~1585)】

黒田重隆の男。室は明石宗和の娘(小寺政職の養女)。1543年、小寺政職の敵であった香山重道を討取った。1545年、小寺政職の養女を娶って家老に列せられると共に、小寺の姓を与えられ、播磨国姫路城の城代になった。1564年、浦上政宗の嫡男浦上清宗と自身の娘の婚姻を実現させるが、その宴席中に赤松政秀の奇襲で浦上親子ともども娘を謀殺され、黒田職隆は赤松政秀と対立した。1567年、黒田孝高に家督を譲った。1569年、赤松政秀が、池田勝正と別所安治の支援を受け、姫路城に3,000余りを率いて攻め込んで来た際、迎撃に出ていたが危機に陥っていた、黒田孝高救援の為に出馬して勝利に貢献した。1578年、黒田孝高が摂津有岡城主荒木村重に捕縛され幽閉されと、黒田職隆が黒田家を統率した。1580年、有岡城の謀反に呼応して織田信長に謀反を起こした小寺政職が毛利輝元の元に落延びた後は小寺政職の嫡男小寺氏職を引き取って養育した。2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、柴田恭平が演じた。

黒田高友【くろだたかとも(1525~1592)】

黒田重隆の次男。通称千太夫。別名小寺休夢斎。黒田高友は僧になり、増位山の地蔵院に住んだ。黒田孝高の母(明石宗和の娘)と共に、黒田孝高に影響を与えた。増位山は、別所長治との間で度々戦場になった。小寺則職は、弟広峰長職が広峰神社別当職を務める広峰神社を守るため、播磨国有明山主恒屋光氏を滅ぼし、黒田高友に恒屋家を継承させた。1573年、別所長治勢は、黒田高友が守備する有明城を落城させ、地蔵院を焼き払った。1584年、羽柴秀吉秀吉の茶会に招かれ御伽衆となった。1587年「九州討伐」に参陣した。

黒田孝高【くろだよしたか(1546~1604)】

黒田職隆の男。官途は勘解由次官。通称官兵衛。別名如水軒円清。洗礼名「ドンシメオン」。室は櫛橋伊定の娘(光姫)。1562年、父黒田職隆と共に周辺豪族衆の討伐を行った。1564年、浦上清宗に嫁いだ妹が、婚礼当日に赤松政秀に攻められ夫らと共に討取られた。1567年、父黒田職隆の隠居により黒田家の家督と相続し、櫛橋伊定の娘を室に迎え、姫路城代となった。1569年、赤松政秀が、足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正、別所安治、宇喜多直家らの支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、奇襲攻撃を仕掛けるなど兵300余りで二度にわたり撃退する戦功を挙げた。赤松政秀は浦上宗景に攻められ降伏した。小寺政職を織田信長に属させ、播磨国内の調略活動に奔走した。黒田孝高は竹中重治と共に「二兵衛」と称されるほどの智才を発揮した。1578年、三木城主別所長治が毛利輝元勢に寝返ると、小寺政職を含めて播磨国豪族衆は毛利輝元に属した。摂津国有岡城主荒木村重が毛利輝元勢に転じると、黒田孝高は荒木村重を説得するため有岡城に向かうが、逆に捕われて城内に監禁された。1579年「有岡城の戦い」後、救出されるが監禁により脚の病を患った。以後、羽柴秀吉に属して中国地方各地を転戦した。1580年、三木城主別所長治が降伏すると、黒田孝高は姫路城を羽柴秀吉に譲り、飾東郡国府山城10,000石を領した。1582年「備中国高松城の戦い」では清水宗治が守る高松城を巨大な堤防を築いて水攻めにした。1582年、「山崎の戦い」でも戦功を挙げた。1587年「九州討伐」後には、豊前国中津城六郡120,000石(京都郡、築城郡、仲津郡、上毛郡、下毛郡、宇佐郡)を領した。国人領主城井鎮房らが叛乱を起こしたが、謀略をもって謀殺した。1589年、黒田家の家督を黒田長政に譲った。1600年「関ヶ原の役」では豊前国にあったが、旧領回復を目論む大友義統に対して、百姓や浪人を集めた傭兵集団を組織、これを率いて大友義統勢と戦った。その後も九州の西軍諸将の城を次々と陥落させる領地を拡大したが石田三成勢の敗北により、黒田孝高の天下取りの夢は終わった。2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、岡田准一が演じた。

黒田利高【くろだとしたか(1554~1596)】

黒田職隆の次男。通称兵庫助。別名黒田利隆。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」の筆頭。黒田長政の後見役を務め黒田孝高に従って播磨国各地を転戦して戦功を挙げた。織田信長による「中国討伐」が開始されると、兄黒田孝高と共に羽柴秀吉に属して参陣した。織田信長没後は羽柴秀吉に仕えた。1586年「九州討伐」に参陣した。その後、兄黒田孝高が豊前国中津城六郡180,000石を領すると高森城10,000石を領した。1592年「文禄の役」に参陣したが帰国後、和泉国堺で療養中に没した。

黒田利則【くろだとしのり(1561~1612)】

黒田職隆の三男。官途は修理亮。通称甚吉。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」のひとり。羽柴秀吉に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」に参陣して戦功を挙げた。その後は羽柴秀長に仕えた。1587年、黒田孝高が豊前国を領すると、黒田家臣に帰参し2,000石を領した。1593年「文禄の役」が休戦になると出家して養心と称した。1600年「関ヶ原の役」では、豊前国中津城を守備した。役後に黒田長政が筑前国を領すると12,000石を領した。

黒田直之【くろだなおゆき(1564~1609)】

黒田職隆の四男。官途は図書助。通称惣右衛門。洗礼名は「ミゲル」。室は北条家臣由良新六郎の娘。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」のひとり。兄黒田孝高が有岡城に囚われると、黒田職隆、黒田高友、黒田利高を指導者とすることを誓った。羽柴秀吉に馬廻衆として仕えたが、その後羽柴秀長に仕えた。黒田孝高が豊前国を領すると、中津城下の教会で夫婦で受洗を受けミゲルマリアと称し4,556石を領した。1592年「文禄の役」では渡海して戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では黒田孝高に属して九州を転戦した。役後、筑後久留米城の城受け取り役を務めた。黒田長政が筑前国に転封になると秋月城12,000石を領した。

黒田長政【くろだながまさ(1568~1623)】

黒田孝高の男。官途は甲斐守。通称吉兵衛。室は蜂須賀正勝の娘。継室は保科正直の娘(栄姫)。1577年、父黒田孝高が織田信長に属したため、人質として近江国長浜の羽柴秀吉に預けられた。1588年、黒田孝高が荒木村重に監禁されると、織田信長によって殺されれるところを竹中重治に匿われた。1583年「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げた。1584年「小牧、長久手の戦い」では「根来、雑賀の一揆」を鎮定する戦功を挙げ2,000石を領した。
1587年「九州征伐」の「日向国財部城の戦い」の戦功により豊前国中津城120,000石を父黒田長政と共に領した。その後、黒田家の入部に反抗する城井鎮房らを討取った。1589年、父黒田孝高の隠居により黒田家の家督を相続した。1592年「文禄の役」では先鋒として渡海、金原、昌原を抜いて南海道を進み、小西行長の危機を救った。小早川隆景らと共に臨んだ「碧蹄館の戦い」において、苦戦の末に明国勢を撃破した。1597年「慶長の役」においても渡海し、戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では松平元康に属して戦った。その戦功により筑前国名島城523,000石を領した。1614年「大坂冬の陣」では江戸城の留守を務めた。1615年「大坂夏の陣」では、松平秀忠勢に属した。蜂須賀正勝の息女と離婚して松平元康の養女との再婚、度々の普請、鎖国令の順守など、外様大名として松平元康へ徹底した恭順の姿勢を崩さなかった。

黒田一成【くろだかずなり(1571~1656)】

加藤重徳の次男。黒田孝高の養子。官途は美作守。通称三左衛門。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」のひとり。父加藤重徳は有岡城主荒木村重に仕える番兵であった。黒田孝高が捕らえられた際、それを手厚く遇した。「有岡城の戦い」後、加藤重徳の嫡男加藤一成に黒田孝高は黒田姓を授けて黒田長政の弟のように育てた。1584年「根来衆、雑賀衆の一揆の戦い」が初陣。「四国討伐」「九州討伐」にも参陣し「耳川の戦い」では頸を二つ討取る戦功を挙げた。黒田孝高が豊前国を領すると5,000石を領した。「城井城の戦い」では城井鎮房を討取る戦功を挙げた。1592年「文禄、慶長の役」では黒田長政の先鋒隊を務め、金海城に一番乗りをし「晋州城の戦い」「白川、西生浦城の戦い」「稷山の戦い」などでも戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成の家臣蒲生将監の頸を挙げた。筑前国三奈木館16,205石を領した。1637年「島原の乱」にも参陣した。

黒田一成家臣団【くろだかずなりけかしんだん】

粕屋茂平衛、近藤加衛門、関勘六、江見彦右衛門。

黒田忠之【くろだただゆき(15??~15??)】

黒田長政の男。1614年「大坂冬の陣」に出陣した。1615年「大坂夏の陣」では、上洛途中で羽柴家滅亡の報を受けて帰国した。1623年、父黒田長政の病没により黒田家の家督を相続した。新たに倉八正俊や大音重成らを取り立てたが、祖父黒田孝高や父黒田長政に仕えた家臣はこれに強い不満を抱いた。耐えかねた栗山利章は幕府に対し、黒田忠之が謀反を企んでいると訴えた「黒田家騒動」が勃発した。井上之房と黒田一成は幕府に対して必死の弁明を行っている。幕府は黒田忠之をお咎め無しとして、栗山利章を南部藩に預けさせた。また、倉八正俊は黒田家から追放された。

黒田政冬【くろだまさふゆ(1606~15??)】

黒田長政の次男。
 
黒田孝政【くろだたかなさ(15??~15??)】

黒田長政の三男。室は佐竹義隆の娘。
 
黒田高政【くろだたかまさ(15??~15??)】

黒田長政の四男。室は本多政勝の養妹。

毛屋武久【けやたけひさ(1554~1628)】

黒田孝高家臣。通称主水。「黒田家二十四騎」のひとり。近江国の出自で、はじめ六角義賢に属し、後に柴田勝家家臣となり、柴田勝家の討死後は前田利家、佐々成政に仕えた。佐々成政が改易されると、蒲生氏郷から高禄での誘いがあったが、これを断り黒田孝高に300石で仕えた。黒田家仕官後は、黒田長政に仕え旗奉行を務めた。1600年「関ヶ原の役」の際には、物見として正確に敵情を探り、過大に宣伝されていた敵兵の数が、実際には少ないことを報告し味方の士気をあげたため、松平元康よりその機知を褒められ饅頭を褒美として受け取った。

後藤新左衛門【ごとうしんざえもん(15??~15??)】

別所家臣。後に小寺政職に属した。

後藤基次【ごとうもとつぐ(1560~1615)】

後藤新左衛門の次男。官途は隠岐守。通称又兵衞。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」「大坂城五人衆」「大坂城七将星」のひとり。父後藤新左衛門の仕える播磨国神崎郡春日山城主○○は、羽柴秀吉と戦い討死した。枝連衆の後藤新左衛門は伯父藤岡九兵衛と共に黒田孝高に仕えた。1586年「九州征伐」の「宇留津城の戦い」で初陣した。「戸次川の戦い」では島津家久に大敗し、領国の讃岐国に逃げ帰った後、黒田家臣栗山利安の元に100石で仕えた。領地替えを巡って徹底抗戦を行った城井鎮房と戦った。1592年「第二次晋州城の戦い」で亀甲車なる装甲車を作って城壁を突き崩し、加藤清正配下の森本一久らと一番乗りを競った。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成家臣の剛槍使い、大橋掃部を一騎討ちで討取る戦功を挙げた。筑前国益富城16,000石の所領を領した。1606年、後藤基次は一族揃って黒田長政の元を出奔した。智勇を惜しんで細川忠興、福島正則、前田利長、池田輝政、結城秀康、池田忠継らが召抱えようとするが黒田長政の干渉により仕えることが出来なかった。1614年「大坂冬の役」では、大野治長、大野治房らを補佐した。1615年「大坂冬の陣」では6,000余りを率いて、木村重成と協力して守備し、長尾及び佐竹義宣勢と対峙た。「道明寺の戦い」では兵2,800余りを率いて、水野勝成が率いる部隊の奥田忠次らを討取るなど、孤軍でおよそ八時間も奮戦し賞賛されたが、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁勢が霧より到着が遅れ、伊達政宗家臣片倉重長が率いる鉄砲隊の攻撃を受け討死した。

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【さ】

下田作右衛門【しもださくざえもん(15??~1600)】

久野重勝家臣。「久野家の六神」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い討死した。

篠倉喜兵衛【しのくらきちべい(15??~15??)】

野村祐勝家臣。1600年「石垣原の戦い」では、大友義統勢と戦いで岐部山城守を討取る戦功を挙げた。

菅忠利【すがただとし(1567~1625)】

黒田孝高家臣。菅七郎兵衛の男。官途は和泉守。通称六之介。別名松隠宗泉。「黒田家二十四騎」のひとり。黒田長政の鉄炮頭。剣の達人で新免無二流と疋田新陰流を極めた。菅忠利は一度の戦いで七つ以上の頸級を挙げ、赤具足を許された。「黒田家二十四騎」でも赤具足を許されたのは、菅忠利と井口吉次だけであった。1583年、柴秀吉と柴田勝家が争った「賤ヶ岳の戦い」では、敵将二人を討取る戦功を挙げた。1584年「岸和田の戦い」では、黒田長政に属して戦功を挙げた。1597年「日向国の耳川の戦い」では、黒田一成と共に島津義久勢と戦い戦功を挙げた。1592年「文禄の役」では、虎を斬り殺した。1598年「慶長の役」では、負傷するも無事豊後に帰還した。1600年「関ヶ原の役」では、黒田長政は、小早川秀秋を寝返らせるため菅忠利を使者として派遣した。「関ヶ原の戦い」では、鉄砲足軽隊50余りを率いて、島清興勢を側面から射撃して島清興勢が敗走するきっかけを作った。役後、黒田長政が筑前国に転封になると父菅七郎兵衛1,300石とは別に怡土郡で6,000石を領した。

元和元年3月2日、父菅七郎兵衛が病没すると、菅七郎兵衛の家督は次男菅孫市右衛門正周が相続した。元和7年10月24日、菅忠利は菅家の家督を嫡男菅主水重俊に譲って隠居した。

曽我一信【そがかずのぶ(1516~1577)】

黒田職隆家臣。曽我祐道の男。官途は大隅守。室は佐々木久連の娘。黒田職隆の元で宿老職を務めた。別所安治に領地を追われて小寺政職に仕え、黒田職隆の寄騎衆として活躍した。姫路城の西城戸に屋敷を構え、黒田重隆弟佐々木久連の娘を娶った。嫡男が母里友信、次男が野村祐勝。

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【た】

竹森次貞【たけもりつぐさだ(1550~1621)】

黒田孝高家臣。清原俊久の男。官途は石見守。通称新右衛門。別名竹森次真。「黒田家二十四騎」のひとり。1576年、父清原俊久の病没による竹森家の家督を相続した。1577年「佐用城の戦い」では、羽柴秀吉の勘気に触れ、浪人となっていた平塚為広と共に佐用城主福原則尚、弟福原伊王野と、家老祖父江左衛門の三人の頸を挙げる戦功を挙げた。これにより平塚為広は、再び羽柴秀吉に仕えることができた。1579年「別府城の戦い」では、毛利輝元勢の攻撃を受け負傷するも、一番槍の戦功を挙げた。1580年、竹森次貞は甲冑付きの頸を十八も討取る豪傑だったが、負傷して槍働きができなくなったため旗奉行に任じられた。1582年「山崎の戦い」では、旗奉行を務め、以降は敵将を討つようなことな無くなった。黒田長政が城井谷城主城井鎮房を攻めた際、敗走する黒田長政勢をまとめ全滅の危機を救った。

竹森貞幸【たけもりさだよし(15??~15??)】

竹森次貞の男。1592年「文禄の役」で、初陣を果たし、頸五つを討取る戦功を挙げた。同僚と口論に成り、刀を抜いたため、黒田孝高によって追放された、1600年「関ヶ原の役」では、黒田長政の元に駆けつけ、参陣を許され、黒田家に復帰した。父竹森次貞の隠居により竹森家の家督を相続したがその際、旗奉行職も引き継いだ。

手塚光重【てづかみつしげ(15??~15??)】

黒田孝高家臣。通称孫大夫。1606年、豊後国鷹取山城主。

戸波次郎左衛門【となみじろうざえもん(15??~15??)】

黒田孝高家臣。穴太衆。黒田家に300石で仕えた。

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【な】

中間統種【なかまむねたね(15??~15??)】

黒田孝高家臣。豊前国下毛郡一戸城主中間山城守の男。通称六郎右衛門。別名黒田六郎右衛門。中間統種は豊前国の豪族衆で、黒田孝高が豊前国六郡を領するとそれに仕えた。1587年、羽柴秀吉の「九州討伐」後、黒田孝高は豊前国六郡120,000石を領した。豊前国には城井谷城主城井鎮房のほか地、豊前国人衆が黒田孝高に抵抗して一揆を起した。城井谷城主:城井鎮房、上毛郡山田城主:山田隆朝、下毛郡長岩城主:野仲鎮兼、下毛郡田丸城主:福島佐渡守鎮充、障子ヶ岳城主:添田雅楽介、光明寺城主:友枝忠兵衛、角田砦主:八屋隠岐守、岩石城主:佐々木雅楽頭、広田城主:爪田右衛門尉、海老名城主:末松加賀守、篠瀬城主渡辺右京進、九十九谷城主:九十九玄蕃、西郷城主西郷刑部、日吉城主:原田伊予守、求菩提城主:塩田内記、日隅城主:日隅直次、池永城主:池永重則、長岩城主:野中重兼、宇佐郡大畑城主:加来統直らが一揆に参陣した。その際、豊前国人衆で黒田孝高勢に属したのは下毛郡一ツ戸城主:中間統種、宇佐郡時枝城主:時枝鎮継、宮成吉右衛門、広津鎮種の四名だけだった。城井鎮房からは再三、国人衆一揆に参陣を求められるが中間統種は、黒田孝高への忠義を貫き、誘いを断った。中間統種、頑強に籠城を続ける山田城主山田隆朝を討取る戦功を挙げ500石を領し、黒田六郎右衛門と称した。1592年「文禄の役」では、黒田長政に属して戦功を挙げた。1600年、黒田長政が筑前国に転封になると上座郡内で3,700石を領した。

二宮右馬助【にのみやうまのすけ(15??~15??)】

後藤基次家臣。1600年「石垣原の戦い」に参陣した。

野口一成【のぐちかずなり(1559~1643)】

黒田孝高家臣。通称佐助。「黒田家二十四騎」のひとり。母里友信の義弟。野口左助は播磨国野口の生まれ。豊前国中津城で黒田長政が城井鎮房を謀殺した際、、家来七人を討取った。1600年、黒田長政が筑前国に転封になると2,500石を領した。石垣普請に長けていた。大坂城普請、福岡城普請に活躍した。

野村祐勝【のむらすけかつ(1560~1597)】

黒田孝高家臣。曽我一信の次男。通称太郎兵衛。室は野村伊予守の娘。「黒田家二十四騎」のひとり。野村祐勝は母里友信の異母弟で、室の実家である野村家の家督を相続した。1573年、異母兄母里友信と共に初陣を果たして以降、播磨国での戦いで度々の戦功を挙げた。1584年、紀伊国根来衆が岸和田城に攻入ると羽柴秀吉は、黒田長政、黒田利高、蜂須賀正勝、明石則実、生駒親正らを援将に差向けた。野村祐勝は明石則実の家臣明石与太郎と共に根来衆の将を討取った。1586年「日向耳川の戦い」では、野村祐勝は足軽20余りを率いて戦功を挙げた。1587年、黒田孝高が豊前国六郡に転封になると2,900石を領した。1587年「豊前国人一揆」が起こると、黒田長政に属して豊前国内を転戦して戦功を挙げた。豊前国人衆の大将、城井谷城主城井鎮房は黒田孝高に降伏するも所領は安堵された。1592年「文禄の役」に参陣し、野村祐勝勢だけで平壌攻めで百七十五級、晋州城攻めで五十七級の頸を挙げたが、、帰国後に病没した。

野村祐直【のむらすけなお(1581~1531)】

野村祐勝の男。通称市右衛門。別名野村大学。1597年、父野村祐勝が病没すると、野村家の家督を相続した。1597年「慶長の役」で、負傷して歩行出来なくなった。1600年「関ヶ原の役」では、黒田孝高に属して、豊後国に侵攻した。「石垣原の戦い」では、井上之房勢は吉広統幸勢と戦ったが兵力に劣る広統幸勢も崩れず互角の戦いを繰り広げた。野村祐直は輿に乗り、手勢を率いて、左側から吉広統幸勢に突撃し、吉広統幸勢を崩壊させた。総崩れとなった吉広統幸は、井上之房に討取られた。野村祐直勢はこの戦いで、百八十八の頸級を挙げ、そのうち冑頸が五十八だった。野村祐直家臣、大塩喜平次、篠倉喜兵衛、志戸地喜右衛門、酒井弥次郎、爪田清右衛門、林四郎兵衛なども戦功を挙げた。黒田長政が筑前国に転封になると、野村祐直は鯰田城6,000石を領した。

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【は】

秦桐若丸【はたのきりわかまる(1542~1583)】

黒田孝高家臣。播磨国の人で十人力。神がかり的な強さで戦に出る度に敵を退けること、塵を筆で払うが如くで、播磨国の人は秦桐若の旗指物である唐団扇を見ると避けて通るほどの武勇を誇った。黒田孝高に仕えて戦功を挙げ、黒田孝高家臣団の中で初めて頸三十三個を取ったので八宗の僧を呼び、頸供養を行った。1583年「山崎の戦い」で負傷して、有馬温泉で湯治を行ったがまもなく病没した。秦桐若には四人の子が居が、長女は竹森若松と結婚し、嫡男は早死にしており、次男秦孫右衛門と三男秦喜右衛門が居たが、黒田孝高には仕えず、次男秦孫右衛門は漆職人に、三男秦喜右衛門に筆職人になった。

原種良【はらたねよし(1557~1639)】

黒田孝高家臣。宝珠山隆信の男。官途は伊予守。通称弥左衛門。「黒田家二十四騎」のひとり。「豊前国人一揆」の際、黒田長政が城井鎮房を攻めたが、地利を持つ城井鎮房に敗北した。黒田長政は、城井谷城の近くに付け城の神楽城を築城、兵糧を押えるため城井谷城を封鎖した。黒田長政は神楽城に兵350余りをいれ、原種良、桐山信行、黒田忠兵衛の三人を守備に付かせた。神楽城兵は350余りであったが、原種良は攻めてきた城井鎮房勢を撃退する戦功を挙げた。1592年「文禄の役」でも、黒田長政に属して参陣し、多くの戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、黒田孝高勢に属して「安岐城の戦い」で、一番槍の戦功を挙げた。黒田長政が筑前国に転封になると2,000石を領した。「黒田騒動」の後、栗山善助の後任として左右良城の城主を務めた。

原種盛【はらたねもり(15??~1600)】

原種良の男。通称良蔵。1600年「関ヶ原の役」では、父原種良と共に黒田孝高勢に属して「安岐城の戦い」で、戦功を挙げたがまもなく病没した。

原吉三郎【はらよしさぶろう(15??~1637)】

原種良の次男。1637年「島原の乱」がおこったとき、原原種良は左右良城留守居役を命じられたため「島原の乱」には参陣できず、次男原吉三郎を陣代として島原へ派遣した。「島原の乱」の鎮圧に加わった嫡男原吉三郎は、夜討ちに出て強く戦ったが討死した。

林直利【はやしなおとし(1569~1629)】

黒田孝高家臣。官途は掃部亮。通称太郎右衛門。「黒田家二十四騎」のひとり。林直利は信濃国佐久郡の産まれ。伊勢国船商角屋と親類で播磨国姫路を通過した際、黒田孝高の小姓として仕えた「賤ヶ岳の戦い」「関ヶ原の役」「大坂夏の陣」で戦功を挙げた。築城技術にも優れ、名古屋城、福岡城などの造営にたずさわった。1592年「文禄の役」の際は、黒田長政に属して朝鮮に渡った際、猛虎を退治した。1600年、黒田長政が筑前国に転封になると嘉穂郡で3,000石を領した。

卑田九蔵【ひえだきゅうぞう(15??~1600)】

久野重勝家臣。「久野家の六神」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い討死した。

久野重勝【ひさのしげかつ(1545~1592)】

黒田孝高家臣。通称四郎兵衛。「黒田家二十四騎」のひとり。播磨国加東郡の地侍。黒田孝高に仕えて宿老職となった。毛利元就と大友義鎮との戦いで荒廃した博多などの街割り行い以前のような大都市を復興させた。名護屋の諸軍陣小屋も久野重勝が地割りを担当した。1592年「文禄の役」で、平壌攻めで物見に出て討死した。

堀正勝【ほりまさかつ(1557~1636)】

黒田孝高家臣。通称平右衛門。「黒田家二十四騎」のひとり。身分の低い陪臣であったが、黒田孝高によって士分に取立てられ100石を領した。1592年「普州城の戦い」では一番槍の戦功を挙げた。1600年、黒田長政の筑前国への転封後は、秋月城主黒田長興50,000石に仕えた。秋月黒田家では筆頭家老職なり5,000石を領した。

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【ま】

益田宗清【ますだむねきよ(1542~1611)】

黒田孝高家臣。通称与助。別名益田正親。「黒田家二十四騎」のひとり。台所の水汲役みだったが、黒田孝高が83石の士分に取りたてた。1592年「文禄の役」では足軽大将を務め戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では益田宗清ひとりで敵三人を討取った。 

松井重孝【まついしげたか(1548~1600)】

黒田重隆の四男。松井宗元の養子。通称惣八郎。母は近江国長浜の住人渡辺玄番一綱の娘。母方の伯父松井宗元の養子となった。しかし、妻子が先に病没したため姫路に戻った。黒田孝高の豊前国入封後に病没した。

光留立右衛門【みつとめたつざえもん(15??~1600)】

久野重勝家臣。「久野家の六神」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い討死した。

三宅家義【みやけいえよし(1552~1623)】

黒田孝高家臣。官途は若狭守。通称山太夫。「黒田家二十四騎」のひとり。1562年、三宅城主三宅国政は、六角義賢勢に属して三好長慶勢の攻撃を受け落城、枝連衆は四散した。枝連衆の三宅家義は黒田孝高に仕えた。城井鎮房の降伏まで四回も使者を務めた。豊前国帆柱山城1,500石を領した。船手衆の筆頭で黒田家警固衆を統括した。

宮崎重利【みやざきしげとし(15??~1580)】

黒田孝高家臣。通称与三兵衛。黒田孝高が織田信長に会うために岐阜城へ向かった際、小寺政職が同行するように遣した付人。黒田長政の傳役も勤めた。

宮崎安尚【みやざきやすなお(15??~15??)】

宮崎重利の男。1600年「関ヶ原の役」では、大坂留守居を務めていたが、母里友信らと共に黒田孝高の室の大坂脱出に貢献した。

毛利武久【もうりたけひさ(1554~1628)】

黒田孝高家臣。官途は武蔵守。「黒田家二十四騎」のひとり。 

母里友信【もりとものぶ(1556~1615)】

黒田孝高家臣。曽我一信の男。官途は但馬守。通称太兵衛。室は大友義鎮の娘。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」のひとり。黒田長政の命で伏見城下の福島正則邸へ使者に赴いた際、福島正則に大盃に注がれた酒を勧められ、飲む条件として黒田節」に謡われる名槍「日本号」を所望した。結果、見事に一献飲み干して、その槍を持ち帰った。槍術に優れた剛力の勇将で、栗山利安と共に黒田職隆勢の先手両翼の大将を務めた。1573年「印南野の戦い」に初陣して以来、常に先鋒を務めて活躍した。1578年、織田信長に叛旗を翻した荒木村重によって黒田孝高が捕らえられた際に忠誠を誓った留守中連著起請文にも名を連ねた。中国地方、四国地方を転戦した。1587年「九州征伐」では、豊前国宇留津城攻めで一番乗りの戦功を挙げ6,000石を領して黒田家三家老衆のひとり。中津城下で頸供養を行なった。もっとも、生涯で取った頸数は七十六級に及んだ。「文禄、慶長の役」に参陣した。1600年「関ヶ原の役」では、黒田孝高に属して大友義統と戦った。筑前国鷹取城18,000石を領した。

母里左近【もりさこん(15??~15??)】

母里友信の男。1638年、黒田忠之から追放処分を受けた。

母里義時【もりよしとき(1550~1626)】

黒田職隆家臣。通称雅楽助。1569年「青山の戦い」で、母里義時は力戦して母里家枝連衆二十四騎を失った。黒田孝高の再三の参陣依頼に応えた結果であり、勇猛な母里義時も怒って武士をやめて京都へ移住した。

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【や】

八代道慶【やしろみちよし(15??~1564)】

黒田職隆家臣。柴崎山城主。通称六郎左衛門。飾東郡八代で400貫を領した。小寺則職に属して娘を側室にした。1564年「室津城の戦い」で龍野赤松勢に左目を射られたが、矢を抜き捨てて敵を倒して人々を驚嘆させた。

山本勝蔵【やまもとかつぞう(15??~1600)】

久野重勝家臣。「久野家の六神」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い討死した。

吉田重生【よしだしげお(15??~15??)】

黒田孝高家臣。通称喜三右衛門。吉田家は代々播磨守護赤松家に仕えた。赤松義村が没落すると、黒田孝高に仕えた。1600年、嫡男吉田生季は「関ヶ原の役」合戦裏切り工作で小早川秀秋の人質を務めた。

吉田長利【よしだながとし(1547~1623)】

八代道慶の男。官途は壱岐守。通称六郎太夫。「黒田家二十四騎」のひとり。父八代道慶、譲りの豪傑で二間半の槍を常に持ち歩き、一度の戦いで頸二~三を討取った。姫路において頸供養を行った。取った頸数は生涯で五十級。豊前国城攻めの時、左頬に受けた鉄砲傷一ヶ所のみという剛勇の士であった。1600年「関ヶ原の役」では、黒田高孝に属して九州各地を転戦した。

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【資料Ⅰ】

広峯神社【ひろみねじんじゃ】

広峯神社は、全国にある牛頭天王の総本宮。広峯神社の周辺には大勢の御師が居住しており、その屋敷を御師屋敷と称した。備前国福岡城から姫路城に流浪してきた黒田重隆は、御師屋敷に寄宿し広峯神社の御師が配る神符と共に黒田家秘伝の目薬を売って財を蓄え、黒田家発展の基礎を築いた。

峰相山鶏足寺【みねあいざんけいそくじ】

鶏足寺は、金堂、講堂、法華堂、常行堂、鐘楼、五重塔など、僧坊300余を誇る堂宇は、播磨国第一の名刹を誇った。1578年、羽柴秀吉が尼子勝久、山中幸盛ら尼子衆に守らせていた上月城が落城すると、峰相山鶏足寺の衆徒が蜂起した。羽柴秀吉の命を受けた黒田孝高が寺を焼き討ちにした。鶏足寺の僧兵300余人は、太市館主桐野勝条に加勢を頼み、防戦したが黒田孝高勢の攻撃を受け降参した。

松原八幡神社【まつばらはちまんじんじゃ】

松原八幡神社は、妻鹿の漁師が「八幡大菩薩」と書かれた霊木を拾い上げ、その霊木を祀ったことに始まる。原荘は、石清水八幡宮の社領となり、その別宮となった。羽柴秀吉が播磨国を平定したとき、この神社を城南の芝原に遷すように命じた。黒田孝高、羽柴秀吉に松原は由緒ある地だと諭し、この地での存続を懇願した。その際、1,000石の寺社領を60石に減封された。1584年、黒田孝高は松原八幡宮を復興する際に、拝殿を寄進した。

播磨国総社【はりまこくそうじゃ】

播磨国総社(射楯兵主神社)は、総社伊和大明神とも称された。播磨国守護職赤松家からの信仰を集めた。本殿後ろに播磨国内の神様がすべて祭ってあるため、総社と称され、釣鐘は室町時代に赤松家から寄進された。1567年、黒田職隆は、総社の拝殿や表門を再建した。

播磨国三名城【はりまこくさんめいじょう】

御着城、三木城、英賀城。

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【資料Ⅱ】

黒田八虎衆【くろだはっこしゅう】

井上之房、栗山利安、黒田一成、黒田利高、黒田利則、黒田直之、後藤基次、母里友信。

黒田二十四騎衆【くろたにじゅうよんきしゅう】

井上之房、小河伸章、菅忠利、衣笠景延、桐山信行、久野重勝、黒田一成、栗山利安、黒田利高、黒田利則、黒田直之、毛屋武久、後藤基次、竹森次真、野口一成、野村祐勝、林直利、原種良、堀正勝、益田宗清、三宅家儔、村田吉次、母里友信、吉田長利。

久野家六神【ひさのけろくしん】

久保庄助、麻田甚内、下田作右衛門、山本勝蔵、光留立右衛門、卑田九蔵。

両兵衛【りょうべえ】

羽柴秀吉に仕えた二人の軍師竹中重治(半兵衛)と黒田孝高(官兵衛)を両兵衛と称した。竹中重治と黒田孝高が同一期に羽柴秀吉に仕えたのは「播磨討伐」の短い期間でしかなかった。竹中重治は美濃国豪族衆の出身で、羽柴秀吉の「美濃攻め」「浅井家討伐」で活躍した。黒田孝高は播磨国豪族衆の出身で、地元の有力豪族小寺政職の家臣で羽柴秀吉の「播磨討伐」「九州討伐」等で活躍した。竹中重治は「播磨討伐」の陣中で病没するも、黒田孝高はその後も羽柴秀吉に仕え、豊前国六郡120,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、九州地方をひとりで平定する勢いを示した。1578年、荒木村重が謀反を起こした際には、説得を試みるが捕縛され監禁された。その際、織田信長に寝返りを疑われ人質の黒田長政(松寿丸)が処刑される寸前に匿ったのが竹中重治だった。

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【資料Ⅲ】

軍師【ぐんし】

軍師は、軍中において、軍を指揮する大名は武将の戦略指揮を助ける職務を務める者。このような職務を務める者は東アジアにおいては古代から軍中にみられたが、近代的な軍制において参謀制度が確立するまで制度としては存在しなかった。

御師【おし】

御師とは、御祈師とか御祈祷師とか呼ばれた人々の総称。神社の神符を持って播磨国を初め周辺諸国の村々に頒布して歩き、広峯信仰の普及に努めた一種の布教者。鎌倉時代から室町時代にかけての最盛期には、神社を取り巻くように広峯三十四坊と呼ばれる御師屋敷があり、神社に参拝に訪れる客たちの宿坊という役目も担っていた。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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