2012年1月16日月曜日

戦国遠江国人名辞典

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【あ】

掛川朝比奈泰能【あさひなやすよし(1497~1557)】

佐野郡掛川城主。朝比奈泰煕の男。1512年、父朝比奈泰煕の死去により家督を相続するが、若年のため叔父朝比奈泰以の後見を受ける。朝比奈泰能は今川家に氏親、今川氏輝、今川義元の三代に渡って仕えた。1526年、制定された『今川仮名目録』には、三浦二郎左衛門尉氏満と並ぶ重臣として記され、今川家における外交文書などでは、太原雪斎とともに名を連れた。また寿桂尼の兄中御門宣秀の娘を娶ることで今川氏親の姻戚となった。掛川城を居城として今川義元の西方への戦略を常に助ける働きを示すが、その一環として分家の掛川紀伊守、掛川肥後守元智の兄弟などにを浜名湖西岸の宇津山城主とした。1548年「小豆坂の戦い」では、総大将の太原雪斎を補佐する副将として出陣した。1549年、岡崎城主松平広忠が謀殺されると、岡崎城接収の任に当たった。

掛川朝比奈泰朝【あさひなやすとも(1538~15??)】

朝比奈泰能の男。官途は備中守。1556年、山科言継から『梶井宮之御筆百人一首』を与えられている。1557年、父朝比奈泰能の病没後に朝比奈家の家督を相続した。1558年、駿東郡の霊山寺を再興した。1560年、今川義元の「尾張侵攻」で井伊直盛とともに織田家の鷲津砦を攻略した。窮地にあった大高城を救ったが、後続本隊の今川義元が「桶狭間の戦い」で討死したことにより撤退した。今川義元の討死後、三河国、遠江国の今川領内では動揺が拡大、離反する諸将もある中で、今川氏真を支える姿勢を貫いた。1562年、謀反の疑いのある井伊直親を今川氏真の命により成敗している。永禄期には三浦氏満とともに越後長尾家との交渉に当たった。1568年、武田晴信が同盟を一方的に破棄して駿河国に侵攻。それによって 今川氏真が駿河国を追われると、朝比奈泰朝は今川氏真を掛川城に迎えて抵抗した。松平元康が遠江国に攻め寄せ、曳馬城を陥落させるなど順調に遠州を制圧し、掛川城を攻囲した。今川家譜代の家臣達は今川氏真を見限って武田晴信や松平元康に寝返ったが、朝比奈泰朝は最後まで今川氏真に忠義を尽くした。

掛川朝比奈泰以【あさひなやすもち(15??~15??)】

朝比奈吉俊の次男。伊勢盛時とともに今川氏親の後見人となり、国政を補佐した。1506年、三河国の松平長親を攻撃。1512年、兄朝比奈泰煕の死により甥朝比奈泰能を補佐。井伊直平や曳馬城主大河内貞綱らの斯波軍との戦いでは、これに勝利した。1514年、斯波家との合戦に先陣。1517年、遠江守護斯波義達に勝利。1536年、今川氏輝死後の家督争いに、瀬名氏貞、由比助四郎とともに今川義元を擁立した。

掛川朝比奈家臣団【あさひなけかしんだん】

調査中。

宇津山朝比奈泰長【あさひなやすなが(15??~1562)】

浜名郡宇津山城主。朝比奈時茂の男。官途は紀伊守。今川義元、今川氏真の二代に仕えた。三河、遠江国境付近を守備し、特に三河国東部八名郡に睨みを効かせていた。1561年、松平元康が今川氏真から独立の動きを見せ、東三河国人領主を調略して蜂起させる動きを見せると、すぐに出陣し三遠国境を越え、三河国八名郡の国人領主西郷正勝の五本松城を急襲し、城主西郷正勝および救援に戻った嫡子で月ヶ谷城主の西郷元正の父子をともに討取った。1562年、西郷正勝次男の西郷清員率いる松平勢と豊川沿岸の八名郡勝山周辺で戦ったが敗れて西郷清員に西郷領を奪還された。

天方通季【あまがたみちすえ(15??~1545)】

周智郡天方城主。今川家臣。官途は山城守。1501年、遠江国守護の斯波義寛と今川氏親の間で戦が始まると、天方城主天方通季もその渦中に巻き込まれた。

天方通興【あまがたみちおき(15??~15??)】

天方通季の男。官途は三河守。1568年、遠江に侵攻した松平元康は、今川方の属将を次々に攻め、その攻撃は天方通興と飯田城主山内通泰にも及びます。両城主とも松平元康に従属しなかったことで、天方本城と支城の白山城が攻略されます。このため天方通興は降状しますが、山内通泰は最後まで抵抗したため全員討死にした。1573年「三方ヶ原の戦い」で大敗した松平元康は、遠江地方での勢力奪還を図ろうと奔走する。その頃は武田方に付いていた天方通興は、久野宗政と共に天方本城と白山城で交戦するも敗北し降伏した。1574年、犬居城主天野景貫を攻撃するため出陣した松平勢は、豪雨と兵糧の欠乏により撤退を余儀なくされます。三倉の田能、大久保で武田方の樽山、光明の城兵の待ち伏せに遭い惨敗した。

天野景貫【あまのかげつら(15??~1584)】

周智郡犬居城主。天野秀藤の男。官途は宮内右衛門尉。1547年、戸田康光成敗を目的とした「田原本宿の戦い」などで戦功を挙げた。今川義元から感状を賜り、遠江奥山郷を領した。 1563年、天野家の宗家である天野景泰、天野元景親子が今川氏真から離反したため、天野家の惣領職を継承した。1569年、今川氏真の勢力が衰退すると、代わって勢力を強めてきた松平元康の麾下に属して「遠江侵攻」に協力した。1570年、武田晴信が遠江に侵攻すると武田家に降伏した。1571年、三河国設楽郡への力攻めが菅沼定盈などによる思わぬ抵抗を受けて兵を収めたという秋山信友に代わり、遠江方面から参戦。長篠城の攻略を担当した。この長篠攻めでは多大な犠牲を払い、城方へも出血を強要させるも陥落には至らなかった。それでも、山家三方衆に代表される設楽郡の小領主たちの従属に結びついた以上、働きは少なくなかった。1573年、武田晴信の死後、武田家が衰退すると松平家康の反撃を受け、天野景貫は奮戦したものの敗れ犬居城から退去した。武田家滅亡後は北条氏政に仕え、対佐竹家との戦いなどで活躍した。

天野景直【あまのかげなお(15??~15??)】

天野景貫の男。

天野虎景【(15??~15??)】

笹峰城主。官途は安芸守。

天野藤秀【(15??~15??)】

天野虎景の男。官途は宮内右衛門。

安倍信真【あべのぶまさ(15??~15??)】

伯耆塚城主。

飯尾乗連【いいおのりつら(15??~1560)】

敷知郡曳馬(浜松)城主。飯尾賢連の男。官途は豊前守。通称善四郎。飯尾氏は渡来人三善家の後裔、京都出身で室町幕府の相伴衆の家柄。祖父長連の代に駿河守護今川義忠へ仕え駿河国へ下り、父飯尾賢連は今川氏親へ仕え、今川氏譜代の重臣となった。今川義元へ仕え、永正年間に、今川家の支城、曳馬城の築城をし、城主となり同地に10,000石を領した。1560年「桶狭間の戦い」で織田勢の猛攻をうけ、討死した。

飯尾連竜【いいおつらたつ(15??~1566)】

飯尾乗連の男。官位は豊前守。通称は善四郎。室はお田鶴の方(椿姫)。父飯尾乗連は「桶狭間の戦い」で討死した。「桶狭間の戦い」において、今川方の遠江国人領主など数多の戦死者を出した今川家は、支配力を低下させたため、遠江は混乱状態になった。連竜は、妻の機略により井伊直平を毒殺するなど、遠江の混乱を加速させたといわれる「遠州錯乱」。1564年、三河国を制した松平元康に内通するも、これを察知した今川氏真の攻撃を受けることになる。曳馬城の防御力を頼みとしつつ、連竜は一時は三浦正俊、新野親矩、中野直由ら今川軍の名だたる将を討ってこれを撃退したものの、結局は持ちこたえられずに今川氏真からの和睦勧告を受諾する。しかし、今川氏再属のために赴くも、駿河の駿府で今川氏真に謀殺された。なお、駿河での伝承によれば、お田鶴の方は連竜ともども駿府で成敗された。連竜夫妻亡き後、遺臣の協議で曳馬城が運営されていたが、武田勢に属するか徳川勢に属するかで分裂した。まもなく遠江に侵攻した松平勢の包囲を受け、曳馬城は接収された。一方、遠江での伝承では、連竜亡き後はお田鶴の方が曳馬城を率いた。松平勢の侵攻を受け、籠城の末に於田鶴の方は討死した。

飯尾家臣団【いいおけかしんだん】

調査中。

井伊直盛【いいなおもり(1506~1560)】

引佐郡井伊谷城主。井伊直宗の男。次郎。官途は信濃守。室は友椿尼(氏不詳)。1494年、今川氏親が遠江国へ進出すると、井伊氏は遠江国守護職斯波家や大河内家と結託して対抗した。1513年、井伊直盛は三岳城(御獄城)の陥落によって降伏、以後今川家に仕えた。1517年、遠江国をめぐる覇権争いは、曳馬城の陥落にともなう大河内家の滅亡と斯波家の没落によって収束し、遠江国守護職を取り戻した今川氏が名実共に駿河、遠江の二ヵ国を支配下に治めることとなった。1560年、今川義元は大軍を率いて尾張国へ出陣を開始し、井伊直盛は先鋒の大将に任じられた。織田信長の各拠点を奪取するなど、緒戦は有利に進められた。桶狭間にて休息中、豪雨の影響と織田信長率いる本隊の強襲によって総大将の今川義元を筆頭に多くの将兵が討ち取られるという大敗に終わり、前線で戦っていた井伊直盛も討死した。

井伊直満【いいなおみつ(15??~1545)】

井伊直平の次男。通称は彦次郎。父の直平とともに今川義元に仕えた。兄の直宗の子の井伊直盛に子がいなかったため、自身の子の直親を養嗣子にする約束をしたが、直親が家督相続することを嫌う家臣の反感をかったため、1544年、弟井伊直義と共に、小野道高の讒言を聞いた今川義元によって自害させられた。

井伊直親【いいなおちか(1535~1563)】

井伊直満の男。官途は肥前守。井伊直盛の娘(次郎法師)と婚約。室は奥山親朝の娘。1544年、父が讒言により今川義元に殺害されたために、幼少の直親は信濃へ落ち延びた。1555年、井伊谷へ復帰した。1560年、先代当主で養父の井伊直盛が「桶狭間の戦い」で討死したため、井伊家の家督を相続した。遠江は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態にあり、井伊直親も家臣小野道好の讒言により松平元康との内通を今川氏真に疑われた。1563年1、今川家臣朝比奈泰朝に攻められて討死した。これにより井伊家は一時的に衰退した。家督は養父井伊直盛の娘井伊直虎が継いだ。嫡男の虎松は流浪した末に井伊直虎に代わって当主となり、松平家に仕え、のちの徳川四名臣の井伊直政となった。また、遠江が家康の支配下になった後、井伊直親の無実が証明され、讒言した小野道好は獄門になった。

井伊直政【いいなおまさ(15??~15??)】

⇒松平家臣団参照。

江馬時茂【えまときしげ(15??~15??)】

飯尾家臣。官途は加賀守。1566年、飯尾連竜が駿府で謀殺されたあと、江馬時茂は江馬泰顕とともに曳馬(浜松)城に籠城、今川氏真と戦った。1567年、松平元康から所領を与えられた。

江馬泰顕【えまやすあき(15??~15??)】

飯尾家臣。官途は安芸守。1566年、飯尾連竜が駿府で謀殺されたあと、江馬泰顕は江馬時茂とともに曳馬(浜松)城に籠城、今川氏真と戦った。1567年、松平元康から所領を与えられた。

大沢基相【おおさわもとそう(15??~15??)】

敷知郡堀江城主。大沢基房の男。通称治部。先代大沢基房の時に、今川家のために岡崎城や二俣城へ出陣して戦功を挙げた。1533年、今川氏輝から浜名湖往来の船を取り締まる権限を与えられた。15443年、今川義元より上田村の加増を受けた。1549年、大沢基相は「上野端城の戦い」に兵を出したが、この戦いで大沢基相の家臣紅林甚二郎は大いに奮戦して抜群の功を立てた。

大沢基胤【おおさわもとたね(1526~1605)】

大沢基相の男。官位は左衛門佐。1568年、松平元康による「遠江侵攻」を受けるが、居城堀江城への攻撃は後回しにされていたようである。1569年、曳馬城を落城させ、掛川城を攻めたてる松平元康は軍の一部を割いて、大沢基胤の属将が守る堀川城を一日で攻め落とした。井伊谷衆(近藤石見守康用と登之助秀用親子、鈴木三郎大夫重時と、その婿菅沼次郎右衛門忠久)に命じて引き続き、大沢基胤の堀江城を攻撃させた。渡辺図書高綱、菅沼定盈の堀江城攻撃勢に対し、大沢基胤は中安兵部、権太織部泰長らを率いて、数度に渡り松平勢に逆襲をかけるなど頑強な抵抗を示し続けた。そのため、攻城軍は鈴木重時を始めとする多大な犠牲を払いながら、陥落させられずにいた。今川氏真が逃れて来ていた掛川城への攻撃に専念したい松平元康は、渡辺成忠を使者として遣わし、松平方への帰順を条件として大沢家の本領安堵を約束する誓書を与えた。大沢基胤もその勧告を受け入れた。1569年、堀江城の北に在った堀川城に於いて松平方の石川数正、酒井忠次、大沢方の中安兵部、権田織部泰長の四名によって和議が成立した。

大沢基宿【おおさわもといえ(1567~1642)】

大沢基胤の男。官位は兵部大輔。1569年、父大沢基胤が松平元康による「遠江侵攻」の一端で居城堀江城を攻められた。頑強な抵抗を示し続けた末に、勧告を受け入れて服属した。1600年「関ヶ原の役」後、遠江国敷知郡堀江村など六ヵ村で1,550石を領した。1603年、松平元康の将軍宣下に際し、その式典のことを公家二条康道と相談する。これは、高家として働いたものと考えられ、職務としての「高家」の始まりといえる。その後も朝鮮や琉球からの使者の謁見に際し、披露の役割を担当した。1632年、隠居し嫡男大沢基重に家督を譲った。

大沢家臣団【おおさわけかしんだん】

中安兵部、権田織部泰長、尾藤主膳、山村修理、竹田高正、新田四郎。

大村綱次【おおむらつなつぐ(15??~15??)】

今川家臣。通称弥三郎。1548年「今橋城の戦い」で戦功を挙げた。のちに松平元康に仕えた。

高天神小笠原春茂【おがさわらはるしげ(15??~15??)】

城東郡高天神城主。小笠原長高の男。信濃深志小笠原家の庶流。小笠原長棟と家督争いに敗れ、今川家に仕えた。

高天神小笠原氏興【おがさわらうじおき(15??~1569)】

小笠原春茂の男。信濃国小笠原家の庶流である遠江国高天神小笠原家の出身。高天神小笠原家は小笠原春儀の代に、当時の高天神城主であった福島家が「花倉の乱」で没落したのと入れ替わりに駿河国今川家臣として台頭した一族。今川家では一門衆に準じて遇され、今川義元に仕えた。1560年、今川義元が「桶狭間の戦い」で織田信長と戦い討死したため、今川氏真が家督を嗣ぐ。今川氏真は凡庸な当主だったために武田晴信に「甲相駿三国同盟」を破棄されて駿河に攻められ、さらに西から松平元康までもが遠江に侵攻して来ると、小河原氏興は松平元康に内応して今川氏真が籠城する掛川城を攻撃した。今川氏真はかなわず掛川城を撤退し、北条氏康の元に落延びた。その後は松平元康に仕えたが、後に馬伏塚城にて病没した。

高天神小笠原信興【おがさわらのぶおき(15??~15??)】

小笠原氏興の男。別名小笠原長忠。1568年、武田晴信による「駿河侵攻」により今川氏真が没落すると、遠江国の支配を今川家から奪った、松平っ元家康に属した。武田家の領国となった駿河国との最前線にあたる高天神城主となる。1569年、父小笠原氏興の病没より小笠原家の家督を相続した。1570年「金ヶ崎の戦い」「姉川の戦い」などに参陣て戦功を挙げた。1571年、武田晴信の「遠江、三河侵攻」では武田方が大軍を率いて高天神城に攻めて来るが、小笠原信興はわずかな兵力で籠城し、武田勢を撃退した。1572年「三方ヶ原の戦い」にも参陣した。1574年、武田勝頼が大軍を率いて高天神城に攻めて来る。このとき、小笠原信興は松平元康に援軍を要請したが、松平元康は武田勢を恐れて援軍を出さなかったため、やむなく小笠原信興は武田勝頼に降伏した。戦後、国替となり小笠原信興は駿河庵原郡において100,000石を領した。1582年、武田家滅亡後、北条氏政を頼って小田原城に落延びたが、織田信長の命令を受けた北条氏政によって謀殺された。

高天神小笠原長治【おがさわらながはる(1570~15??)】

小笠原信興の甥。真新陰流剣術の開祖。直心影流剣術においては道統四代目に位置づけられ、「韜の形」は彼の考案によるものと伝わる。奥山公重より神影流を学び、真新陰流を開く。羽柴秀吉に仕え「小田原の役」「大坂の役」では西軍に参陣した。落城後に明に渡り、矛を習得して「八寸の延金」術を編み出したとされる。 帰国後は剣客と多く立合い、敵う者は無かった。「八寸の延金」は不敗の技といわれたが失伝し、後世の白井亨は自力でこれを復元した。門下に針ヶ谷夕雲、神谷伝心斎がいる。

高天神小笠原家臣【おがさわらけかしん】

小笠原雲波斎氏朝、小笠原与左衛門、小笠原新九郎安元、小笠原惣兵衛清広、小笠原玄蕃義時、小笠原作右衛門興康、小笠原久兵衛良忠、本間八郎三郎、丸尾修理亮、斎藤宗林、鮫島加賀守、渥美源五郎。

岡本信久【おかもとのぶひさ(15??~15??)】

浜名家臣。浜名郡岡本郷の豪族。通称源左衛門尉。

奥山定之【おくやまさだゆき(15??~15??)】

中日向城主。官途は兵部丞。

奥山貞益【おくやまさだます(15??~15??)】

奥山定之の男。1569年、信濃国遠山家に攻められ落城し討死した。次男の奥山定茂は水巻城主、三男奥山定吉は大洞若子城主、四男奥山定友は小川城主であった。しかし、兄弟仲が悪く、互いに功防戦を繰り返した。

1572年、武田晴信の大軍は、信濃と遠江の国境を越し、越えたすぐのところが奥山家の勢力圏であった。武田家は犬居城の天野家を道案内として遠江に侵攻してきたが、奥山家はこの天野家と密接な関係にあったことから、定吉の子吉兼と弟の有定兄弟は武田氏に属するようになった。
そして、信玄より感状をもらい、奥山一党の本領を安堵され、吉兼には新領地として、現在の袋井市域と浜北市域を宛行われた。もっとも、元亀三年の時点では、まだ遠江が武田領に組み込まれていたわけではなく、ある意味では約束手形のようなものであった。

この結果奥山氏がかなり広大な土地を支配するようになったことはうかがえる。そして、奥山吉兼は遠江における有力な在地領主であったことも間違いない。もっとも、奥山吉兼の勢力は長くは続かなかった。信玄が死に、今川氏の勢力が衰え、それに代わって次第に力を伸ばしてきた家康の勢力が拡大するにつれ、武田氏の支援を得ていた奥山氏の領国支配は貫徹するのが困難になってきたのであった。

その後、奥山氏は徳川氏に仕えるようになり、有定の孫重定は、相月村に住み大阪の陣に参加し、のちに奥山代官となった宮崎氏の後見人となり、子孫は代々名主を務めた。小川城主定友の子友久は小川城主を継ぎ、永禄十二年(1569)、徳川家康より本領安堵され、子孫は井伊氏に仕えた。

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【か】

久貝正勝【くがいまさかつ(15??~1587)】

富部城主。通称市右衛門。久貝正勝の父久貝正好は美濃国にて討死した。1557年、久貝正勝は遠江国に移り住んで今川義元に仕え富部に所領を得た。今川氏真が没落後は松平元康に属した。1575年、本多忠勝に「三方ヶ原の戦い」では、武田勢に単騎で突入し、戦功を挙げた。

久貝正俊【くがいまさとし(15??~15??)】

久貝正勝の男。松平元康の関東移封にしたがった。

久野宗隆【くのむねたか(15??~15??)】

久野城主。今川家臣。官途は佐渡守。曳馬城主で家老三好為連とともに遠江守護職斯波義達と抗争を続けた。久野宗隆は今川氏親に従い、座王城にあって信濃国の小笠原家の攻撃を受け苦戦したが、福島助春、 本間宗季らの援助を得て勝利を収めた。さらに小笠原家が天方城に立て篭った際は、本間宗季らとともに攻撃をしている。さらに、久野宗憲は、可睡斎を造営したと伝えられ、禅僧円通松堂の檀越に久野家の一族香心院明智公がいた。

久野忠宗【くのもとむね(15??~1560)】

久野宗隆の男。通称三郎四郎。1560年、今川義元の「尾張侵攻」の「桶狭間の戦い」で討死した。その後、今川氏真が駿河府中を遂われて掛川城に立て籠った際、久野家は今川方、松平川方の二つに分裂し、結局惣領宗能は松平元康に従い、久野城などの所領の安堵を受けた。

久野元宗【くのもとむね(15??~1560)】

久野忠宗の男。通称三郎四郎。1560年、今川義元の「尾張侵攻」に参陣し「桶狭間の戦い」で討死した。

久野宗能【くのむねよし(1527~1609)】

久野忠宗の次男。兄の討死後遠江久城主として城を守備していた。1568年、松平元康の「遠江侵攻」を受け、松平家臣高力清長の仲介もありこれに降った。その後、今川氏真方にあった叔父久野宗益により翻意を促されたが拒絶、合戦に及ぶも松平元康の救援もあって今川勢を撃退した。1590年、関東入部では下総国佐倉城130,000石を領した。

久野宗成【くのうむねなり(15??~15??)】

1600年「関ヶ原の役」に参陣し、役後の8,500石を領した。1619年、松平元康の十男松平頼宣が紀伊国555,000石を領した。久野宗成は松平頼宣の付家老となり10,000石を領し、田丸領60,000石の代官職に任じだれた。以後、久野氏代々は田丸城主として紀州藩支え、明治維新に至ったのである。

久能氏忠【くのううじただ(15??~1560)】

久能宗衡の男。通称半内。1560年「桶狭間」に参陣したが討死した。

久能宗政【くのうむねまさ(15??~15??)】

久能宗能家臣。官途は弾正忠。の従兄弟。久能宗能を追放と松平元康への謀反を企むが、松平元康の依頼を受けた三宅家の介入により久能宗政は掛川城に蟄居させられた。

黒田義則【くろだよしのり(15??~1598)】

小笠郡の国人領主。今川家臣。通称九郎大輔。1569年、今川氏真が掛川城に退去すると松平元康に属し、小笠原長忠に属して高天神城を守備した。1571年、武田晴信の侵攻を受けた時は、高天神城主斎藤宗林に属して戦った。1574年、武田勝頼の猛攻を受け、再び斎藤宗林のもとで抵抗するが、遂に開城して黒田義則は故郷へと隠棲した。

小長谷長門守【こはせながとのかみ(15??~15??)】

榛原郡小長井城主。戦国期には小長谷長門守が武田家に従った。

近藤康用【こんどうやすもち(1517~1588)】

近藤忠用の男。通称平右衛門。室は黒田久綱の娘。父近藤忠用と共に今川家に従った。今川家の領国支配力に不安が見え始めた桶狭間の戦い以降も、同僚の鈴木重勝とともに、今川氏真の麾下に属した。松平元康が遠江国を窺うようになると、その懐柔工作によって今川家を離反した。1568年、松平元康による「遠州侵攻」では、嫡男近藤秀用を参陣せた。

近藤秀用【こんどうひでもち(1547~1631)】

近藤康用の男。通称平右衛門。官位は石見守。1568年、父近藤康用は、松平元康の「遠州侵攻」で今川家方を離反した井伊谷三人衆の一人。老齢や戦傷を負い歩行困難であった父近藤康用に代わって近藤秀用が軍役を担っていた。近藤秀用は「姉川の戦い」「三方ヶ原の戦い」「小田原の役」などでいずれも戦功を挙げた。やがて、徳川四天王で知られる井伊直政が台頭してくると、松平元康の下命で寄騎として井伊直政の片腕となった。しかし、井伊直政の冷酷な性格に嫌気がさした近藤秀用は、それまでの功績から松平元康に直臣として取り立ててくれるように嘆願したが、井伊直政に徹底してそれを妨害された。近藤秀用は出奔して伊勢国に落延びた。1602年、井伊直政が病没すると、池田輝政の仲介により松平元康に召しだされて、上野国青柳城5,000石を領した。1614年「大坂冬の役」にも参陣して戦功を挙げた。

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【さ】

斎藤宗林【さいとうそうりん(15??~15??)】

今川家臣。官途は修理大夫。今川家滅亡後は松平元康に仕えた。1574年、武田勝頼の高天神城攻めのとき籠城してこれと戦うも落城した。

都田菅沼元景【すがぬまもとかげ(15??~1568)】

菅沼俊弘の男。長篠菅沼家に仕えた。

都田菅沼忠久【すがぬまただひさ(15??~1582)】

菅沼元景の男。通称次郎右衛門尉。室は鈴木重時の長女。奥三河に版図を拡げる菅沼一族の中で唯一、遠江引佐郡都田に地盤を持っていた。当初は、菅沼氏との連携を大事にしていたようだが、より身近な井伊谷に居を構える井伊氏の被官になったと見られている。1568年、遠江への侵攻を画策する徳川家康に加担する同族の野田菅沼定盈から今川離反の誘いを受けると、承諾。菅沼忠久が、さらに鈴木重時や近藤康用も誘った。後に、この三人が井伊谷三人衆と呼ばれるのである。松平元康による「遠江侵攻」では堀江城攻撃に参陣した。

都田菅沼忠道【すがぬまただみち(15??~15??)】

菅沼忠久の男。通称次郎右衛門尉。1600年、井伊直政の麾下として「関ヶ原の役」などで戦功を挙げた。菅沼忠久の弟の子菅沼作左衛門重吉は、菅沼定盈の嫡男菅沼定仍に仕えた。

都田菅沼勝利【すがぬまかつとし(1593~1630)】

菅沼忠道の男。1614年「大坂の両陣」に参陣した。

鈴木重勝【すずきしげかつ(1503~1595)】

井伊谷三人衆の一人。通称平左衛門尉。1563年、今川氏真から山中、大野郷の戦功を挙げた。1568年、宇利荘吉田郷に侵出した。

鈴木重時【すずきしげとき(1528~1569)】

鈴木重勝の男。通称三郎大夫。室は奥山因幡守の娘。1568年、遠州への侵攻を画策する松平元康に加担した娘婿菅沼忠久から今川離反の誘いを受け、承諾。これに近藤康用も加わった三人が井伊谷三人衆と呼ばれる事となる。松平元康による「遠州侵攻」は、曳馬城攻略を最優先としていたため、浜名湖沿岸の諸城攻略が後回しとなっていた。1569年、松平元康の下命を受けて堀江城を攻めた。守将大沢基胤率いる城兵は意気盛んで、なかなか抜けない。そればかりか、城方による反撃を許し、手痛い損害を少なからず受けた。この時、近藤康用の嫡男近藤秀用と競うかの如く城門にたどり着いたが、城方の攻撃を受けて討死した。

鈴木重好【すずきしげよし(15??~1635)】

鈴木重時の男。鈴木重辰の父。通称平三郎。官途は石見守。室は鳥居元忠の養女。1572年、武田晴信による「遠州侵攻」では別働隊の山県昌景が信州から南下。三河八名郡に在った居城柿本城を攻められると譲り渡して、叔父鈴木出雲守が守備する遠州井伊谷の小屋山城へ退く。だが、ここも山県勢の進路であった為に陥落させられると、浜松城に退いた。やがて、井伊直政が旧領を回復すると近藤秀用、菅沼次郎右衛門忠久と同様に、井伊勢に付けられる。1584年「小牧、長久手の戦い」では、1番槍を入れた井伊直政の眼前で槍下の高名を挙げた。1602年、彦根城普請に勤しんだ。1605年、嫡男鈴木重辰に譲って隠居した。

鈴木重辰【すずきしげたつ(1585~1634)】

鈴木重好の男。通称平三郎。1600年、井伊直政に付けられた父の麾下として「関ヶ原の役」に参陣した。1605年、父鈴木重好の隠居により鈴木家の家督を相続した。彦根藩において5,500石を領して、70騎を従えた。1614年「大坂冬の陣」では井伊勢の先陣を務めた。1615年、井伊直勝が上州安中藩に封ぜられるとこれに付けられ、家政を取り仕切る。

鈴木家臣団【すずきけかしんだん】

調査中。

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【た】

高橋左近将監【たかはしさこんしょうげん15??~15??)】

榛原郡堀野地頭。今川家臣。

富樫氏賢【とがしうじかた(15??~15??)】

今川家臣。官途は伊予守。

鶴見栄寿【つるみみえいじゅ15??~15??)】

横岡城主。今川家臣。官途は因幡守。遠州三十六人衆の一人。1496年、鶴見栄寿と勝間田城主勝間田播磨守は今川氏親麾下の松葉城主河井宗忠を襲ってこれを討取った。今川の兵は、駿河の相賀 村に偽旗を押し立て、一方の兵を横岡城の背後の長者原に潜ませ一挙に 城を襲い因幡守を討ち取りました。鶴見栄寿の嫡男鶴見大蔵は、落城の時家臣に連れられて逃れ 駿河の天徳寺に入門し僧になりました。後に横岡村へ帰り城の壇の観勝寺第三世仙太存大和尚となり、福泉寺を建立した。

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【な】

勾坂政久【におさかまさひさ(15??~15??)】

勾坂城主。今川氏親家臣。1514年、斯波義達、井伊直平の「三獄城攻略」に、朝比奈泰以に従い先駆け。

勾坂長能【におさかながよし(15??~15??)】

勾坂政久の男。通称六右衛門。1514年、斯波義達、井伊直平の「三獄城攻略」に、朝比奈泰以に従い先駆け。

匂坂牛之助【におさかうしのすけ】

高天神小笠原家の忍び衆の目頭。武田勝頼が高天神城に攻め寄せると、小笠原信興は匂坂牛之助を使者として、幾度となく浜松城へ走らせ、松平元康の出馬を懇願した。

新野親矩【にいのちかのり(15??~1564)】

新野新(舟ケ谷城)城主。今川家臣。通称は左馬助。新野氏は今川氏一族。1560年「桶狭間の戦い」の後、急速に衰えており、今川家枝連衆であった三河国の松平元康などの離反が相次ぐ中、新野親矩は今川氏真に忠節を尽くした。1562年、井伊直親が小野道好の讒言により、謀叛の嫌疑を掛けられて今川氏真に謀殺された。新野親矩は井伊家の縁戚であったこともあり、井伊直親の室で井伊家の家督を継いだ井伊直虎や、井伊直親の遺児である井伊直政を保護した。1563年、遠江国衆の引馬城主飯尾連竜が犬居城主天野景泰、元景父子、二俣城主松井宗恒らとともに今川家に謀叛を起こした。これは「遠州錯乱」と呼ばれる遠江一国を巻き込んだ謀叛であるが、新野親矩はこの時も今川方として戦い、三浦正俊、中野直由らとともに討死にした。

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【は】

浜名政明【はまなまさあき(15??~15??)】

佐久城主。今川家臣。官途は備中守。通称三郎。1522年、連歌師柴屋宗長の訪問を受け、佐久城において連歌の会を催した。他方、大福寺に田地等を寄進し、鵺代の八王子社に神田を寄進、さらに金剛寺へな末代まで浜名氏一門の寺院たることを確約する書状を入れるなど、領内の社寺にもあつい保護を加えた。浜名政明は室町幕府の権勢が衰退していくとともに、遠江守護今川家との関係を深めていった。

浜名正国【はまなまさくに(15??~15??)】

浜名政明の男。通称三郎。1560年、浜名正国は今川義元に属して「尾張侵攻」の「桶狭間の戦い」で、今川義元が織田信長の奇襲によって討死すると、軍勢を徹して帰国した。 今川義元のあとを継いだ今川氏真は、領国を治める器量に乏しく、次第に家臣団から信頼を失っていった。松平元康は三河国において自立し、甲斐の武田晴信は駿河国に食指を伸ばしてくるなか浜名正国は病没した。

浜名重政【はまなしげまさ(15??~15??)】

浜名正国の男。官途は肥前守。通称三郎。室は朝比奈泰能の娘。1568年、松平元康は「遠江侵攻」を開始、今川家麾下の佐久城にも徳川勢が押寄せた。今川氏真のために佐久城で抵抗姿勢をしめた。1569年、松平元康は、井伊谷を通過して浜松に侵攻し、浜松を拠点として「遠江攻略」を進めていった。松平元康が迂回して浜松城に侵入したことを知った浜名重政は、身の危険を感じ、家臣数人を連れて武田勝頼を頼って落延びた。佐久城に松平勢が押し寄せたが、主将を失った佐久城では、長老大矢政頼が大将となって松平勢を迎え撃とうとした。松平勢からの降伏勧告を受け入れて、佐久城を開城した。

浜名家臣団【はまなけかしんだん】

大矢政頼。

堀越貞基【ほりこしさだもと(15??~1537)】

見付城主。今川家枝連衆。通称六郎。「花倉の乱」では玄広恵探側に与したため今川義元の命を受けた天野虎景に攻められて討死した。
1536年、今川家の家督相続争い「花倉の乱」が起きると、堀越貞基、堀越氏延親子は玄広恵探を擁立する勢力に加担し、栴岳承芳(今川義元)と対立した。1537年、玄広恵探側が敗れたため、天野虎景の攻撃を受け、堀越貞基は討死した。。

堀越氏延【ほりこしうじのぶ(15??~1594)】 

堀越貞基の男。通称六郎。堀越貞基は「河東の乱」で同じ遠江の井伊家、堀越貞基の舅である北条氏綱らと組んで駿河挟み撃ちで巻き返しを図るも、駿河国今川家と北条家の間に武田家が介入し、停戦となったため、今川家に所領を大きく奪われてその力を減らした。1560年「桶狭間の戦い」を契機に駿河今川家が混乱すると、再度駿河今川家に対し反発を強め、その後の今川氏真の没落と松平元康の「遠江侵攻」により、松平元康の麾下に属した。

堀越家臣団【ほりこしけかしんだん】

調査中。

本間義季【ほんだよしあき(15??~15??)】

久能宗能家臣。通称十右衛門。久能弾正忠、久能宗政のの謀反を久能宗能に通報した。

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【ま】

松井貞宗【まついさだむね(15??~15??)】

豊田郡二俣城主。今川家臣。遠江の国人衆。

松井信薫【まついのぶしげ(15??~1528)】

松井貞宗の男。官途は山城守。通称左衛門尉。1514年、松井家として初めて遠州二俣城主となるが病没した。

松井宗信【まついむねのぶ(1515~1560)】

松井貞宗の次男。通称五郎八郎。1529年、兄松井信薫が病没により松井家の家督を相続した。今川氏輝、今川義元、今川氏真の三代にわたり仕え、駿府在番衆を務めたほか、今川家に従い各地を転戦しした。1549年、天野安芸守とともに三河国の田原城攻めの最前で「粉骨無比類」の働きをして今川義元から感状を受けた。1559年、父松井貞宗の知行、代官職を生前譲与される事について、今川氏真から領掌の旨の判物を与えられた。1560年、今川義元の「尾張遠征」に参陣し「桶狭間の戦い」では、松井宗信率いる一党は本陣の前備えに配置されていた。織田勢が強襲した際には本陣を守るため、松井宗信は手勢200名を率いて馳せ戻り懸命に奮戦したが、松井宗信以下ほとんどが討取られた。

松井宗親【まついぬねちか(15??~15??)】

松井信薫の男。叔父松井宗信の討死後、今井宗親が二俣城主となった。曳馬城主飯尾連竜の姉婿であった事が災いした。叛意を疑われた上に、駿府で誘殺された。

松井宗恒【まついむねつね(15??~15??)】

松井宗信の男。官途は山城守。通称八郎。今川氏真の支配力が衰え、三河国で独立した松平元康が遠江国へ、武田晴信が駿河へ侵攻を始める。この情勢を受け松井家はどちらの支持勢力となるかで家中の対立が生まれ、分裂することになった。1568年、松井宗信の嫡子松井宗恒と同族松井宗保(惣左衛門尉)の嫡男松井宗直は、二俣城にて松平元康に降伏して城を退去した。1572年、武田晴信に降り、その将依田信蕃に属して二俣城守備に再度ついた。武田家の衰亡と共に依田信蕃も松平元康に味方し、松井宗直系の遠江松井家は再び松平家に帰参した。

松井家臣団【まついけかしんだん】

松井和泉守、松井八郎三郎。

松下之綱【まつしたゆきつな(1537~1598)】

山名郡頭陀寺城主。官途は石見守。通称加兵衛。兵法者で槍術の達人松下長則の男。松下家は、曳馬城主飯尾家を寄親とする寄子で、飯尾連龍の家臣。1563年、飯尾連龍が今川家を見限り、周辺の親今川家と反今川家の豪族同士で抗争が起きた際、今川方の軍に頭陀寺城が攻落とされ炎上した。今川氏真が滅亡すると、松平元康の家臣として仕えた。1574年「第一次高天神城の戦い」では松下之綱は籠城して、のち武田家に降伏した。に長浜城主羽柴秀吉は、松下之綱を家臣として召し出した。1575年「長篠の戦い」の際には羽柴秀吉の前備として兵100余りを預けられる。1590年「小田原の役」後、松平元康が関東に移封されると、遠江国久野城16,000石を領した。

松下暁綱【まつしたあきつな(15??~15??)】

松下之綱の男。

松下重綱【まつしたしげつな(1579~1627)】

松下之綱の次男。1579年、羽柴秀吉に仕えのち羽柴秀次に属した。1598年、父松下之綱が病没により、松下家の家督を相続した。1600年「関ヶ原の役」では東軍に与して本戦に参戦し、石田三成勢と戦うなど活躍した。1603年、無断で城の石垣を築いた罪科により常陸国小張城に移封させられた。1614年「大坂の冬の陣」でも活躍した。1616年、陸奥国二本松城50,000石を領した。

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【や】

由比正信【ゆいまさのぶ(15??~1560)】

川入城主。今川家臣。1560年「駿河侵攻」に参陣するが「桶狭間の戦い」で討死した。

由比正純【ゆいまさずみ(15??~1569)】

由比正信の男。官途は出羽守。父の戦死により家督を継ぎ駿河川入城主となる。今川氏真によく仕え、武田晴信の侵攻にも抵抗した。1568年「掛川城の戦い」で奮戦するも、翌年討死した。

横地元国【よこちもとくに(1505~1554)】

横地城主。通称太郎。武田信虎を頼って甲斐国落延びたが、再興はならなかった。

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【資料Ⅰ】

遠江国(13郡/284,000石)

北榛原郡:諏訪原城。
南榛原郡:小山城。
佐野郡:掛川城。
城東郡:高天神城。
周智郡:天方城。
豊田郡:二俣城、只来城。
山名郡:頭蛇寺城。
磐田郡:久能城。
長上郡:太平寺城。
敷知郡:引馬(浜松)城。
引佐郡:千頭峰城。
麁玉郡:奥山城。
浜名郡:宇津山城。

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【資料Ⅱ】

井伊谷三人衆【いいのやさんにんしゅう】

近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時。遠州浜名湖の沿岸部を有する領主たちは、今川氏への忠誠心が比較的強かったため、家康は遠江侵攻の障害となることを危惧していた。そこで事前に、東三河の菅沼定盈を使って懐柔工作に動いた。菅沼定盈は、同族のよしみで菅沼忠久に接触。菅沼忠久が縁戚の鈴木重時を抱き込み、近藤康用まで取り込んだ。これにより松平元康は、強固な浜名湖西岸部よりも防備の弱まった井伊谷から三河主力軍を進めて、曳馬城の年内陥落という早期制圧にこぎつけたのである。この三人は松平元康の命を受けて、後に「徳川四天王」の一人である井伊直政の配下に付けられた。

遠州三十六人衆【えんしゅうさんじゅろくにんしゅう】

調査中。

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【資料Ⅲ】

遠江国【とうとうみのくに】

遠州灘に面する東海道の国。東は大井川を境として駿河国に接し、西は浜名湖の西側で三河国と接する。北は赤石山脈と伊那山地の南端の山地が信濃国との国境を作る。国名の由来は古代に淡海(琵琶湖)のある近江国が「近つ淡海」から近江国と呼ばれたのに対し「遠つ淡海」と呼ばれた浜名湖があることから遠江国と呼ばれた。北部から中部にかけては山岳地帯が続くが、南部は遠州灘に面した長い海岸線の続く平地が広がる。その中央を南北に流れる天竜川は、しばしば氾濫して大きな災害をもたらすが、それによって土壌は肥沃なものとなり、農業の発達が促された。浜名湖を中心とした漁業も盛である。

大井川【おおいがわ】

大井川は南アルプスの険しい山岳地帯を流下する。古くから水量の豊富な河川であった。加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にあるため土砂流出量も多く、広大な河原を形成してきた。特に中流部は大蛇行地帯であり、『鵜山の七曲り』と呼ばれる蛇行地帯も形成されている。また、大井川は国境としても利用され、古くは駿河国と遠江国の境界線とされていた。

天竜川【てんりゅうがわ】

諏訪湖の唯一の出口である釜口水門を源流とする。信濃国上伊那郡から始まる伊那谷を形成し、遠江国へ抜ける。平野部に出て遠州灘に注ぐ。 流域は急峻な地形のため、古くから「暴れ川」「暴れ天竜」として知られた。建築用木材が流域の山林で伐採され、天竜川を筏で下って届けられた。

浜名湖【はまなこ】

遠江国西部に位置しており、南部は遠州灘に通じている。湖の面積としては日本で10番目の大きさである。形は複雑で、細江湖(引佐細江)、猪鼻湖、松見ヶ浦、庄内湖と4つの枝湾(水域)を持ち、これらの面積は湖全体の面積の4割に達する。このため、湖の周囲長は日本では3番目の長さとなる。また、汽水湖としては日本一長い。湖の北側と南側で水深は大きく異なり、北側は深く、南側は比較的浅い。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「新陰流小笠原長治」新潮文庫、「(新今川記)戦国幻野」講談社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2012年1月10日火曜日

戦国南紀伊国人名辞典

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【あ】

愛洲久忠【あいすひさただ(1452~1538)】

愛洲忠行の男。官途は日向守。通称太郎左衛門尉。別名愛洲移香斎。熊野海賊衆の将。「剣聖」上泉信綱の師匠。日向国鵜戸神宮に参籠したところ、霊夢を得て奥義を悟り剣法愛州陰流を創始した。嫡男愛洲宗通とともに、剣聖上泉信綱の師として知られる。諸国を武者修行し、晩年は再び日向を訪れ鵜戸明神の神職となった。

愛州宗通【あいすみねみち(1519~1590)】

愛洲久忠の男。官途は美作守。通称小七郎。別名愛洲元香斎。1564年、佐竹義重に陰流の奥義を伝授、これより父愛洲移香斎とともに常陸久慈郡太田城にあった佐竹義重のもとへ、剣術師範として出仕した。晩年は常陸那珂郡平沢村に所領を賜り平沢と称した。

愛洲綱俊【あいすとなとし(15??~15??)】

畠山高政家臣。熊野衆のひとり。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻した。三好勢との「教興寺の戦い」に参陣した。

紀伊安宅実俊【あたけさねとし(15??~1526)】

牟婁郡安宅本城。安宅直俊の男。官途は大炊頭。1507年、龍松山城に籠る山本康忠を再び攻めた。1508年、山本康忠の領地であった生馬の地頭職に任じられた。宗教的に絶大な権力を握っていた那智山実方院主の娘を室に迎えて安宅家の勢いは一層強大なものとなった。1526年、安宅実俊が病没し嫡男安宅安定が幼少だったことから、安宅家の家督はその弟安宅定俊が陣代となった。

紀伊安宅安定【あたけやすさだ(15??~15??)】

安宅実俊の男。1526年、父安宅実俊が病没し、嫡男の安宅安定が幼少だったことから、安宅家の家督は安宅安定が十六歳になったら譲るという条件で叔父安宅定俊が陣代となった。安宅安定が十六歳になったにもかかわらず、安宅定俊は家督を譲らず、叔父と甥との家督争いに発展し「安宅の乱」が勃発した。安宅安定を擁立する三木大八、三木新八、小笠原右近太夫、矢田千次郎、三好平左衛門、木下七九郎、小山石見守幸惶ら兵600余りは安宅本城に籠城、安宅定俊を擁立する一派と対立した。乱は、結局叔父安宅定俊が敗れ安宅安定が安宅家の家督を継いだが、この乱における兵力の消耗によって没落した。

紀伊安宅光定【あたけみつさだ(15??~1562)】

安宅実俊の次男。1562年、畠山高政は六角義賢と結んで河内国に進出して三好長慶と戦った。1562年「久米田の戦い」に勝利した畠山勢は、三好長慶の立て籠る飯盛城に攻め寄せた。三好勢の反撃によって畠山高政は河内高屋城に退き、三好方の謀略で畠山高政は兵を撤収した。畠山高政に従って河内国教興寺にあった紀伊勢は退陣が遅れ、三好軍の追撃を受けた。紀伊勢は教興寺あたりで三好勢と激戦を展開したものの、安宅光定、湯川直光、龍神正房、貴志光宗、目良高湛らの諸将、根来衆らが討死をとげた。

紀伊安宅定俊【あたけさだとし(15??~15??)】

牟婁郡勝山城主。官途は次部太夫。1526年、兄安宅実俊の病没すると、安宅安定が十六歳に成るまで安宅家の陣代になった。しかし甥の安宅安定
が十六歳になっても家督を譲らず「安宅の乱」が勃発した。乱は安宅定俊の敗北に終わった。

紀伊安宅家臣団【あたけけかしんだん】

大野城主:大野五兵衛、吉田春秀、要害山城:北金右衛門、福田良左衛門、安居城主:並木下野守、三木大八、三木新八、小笠原右近太夫、矢田千次郎、三好平左衛門、木下七九郎、小山石見守幸惶。

熊野有馬忠親【ありまただちか(15??~15??)】

牟婁郡鬼ヶ城主。有馬忠親は嫡男を得られなかったため、甥有馬忠吉に有馬家の家督を相続させた。1523年、城本城を築き隠居した。隠居後に実子が生まれたため、有馬忠親は有馬忠吉を久生屋で自刃させた。有馬忠吉の親族は有馬忠親を鬼ヶ城本城に攻め敗れた有馬忠親は自刃した。

熊野有馬忠吉【ありまただよし(15??~15??)】

有馬忠親の養子。官途は河内守。有馬家の家督を相続したが、養父有馬忠親に嫡男有馬孫三郎が誕生したため、養父有馬忠親と争い自刃した。

熊野有馬孫三郎【ありままごさぶろう(15??~1550)】

有馬忠親の男。有馬孫三郎が有馬家の家督を相続したが、有馬家の勢力は大きく後退させた。堀内氏虎の次男。新宮を本拠とする堀内氏虎が勢力を拡大しつつあり、有馬家も堀内氏虎の攻勢を受けていた。堀内氏虎は有馬孫三郎の死後の有馬家の内紛に付け込んで、を堀内(有馬)氏善を養子に送り込んだ。以後、有馬家は堀内家と行動をともにした。堀内氏虎が病没すると堀内氏善が新宮城に復帰して堀内家の家督を相続したため、有馬家は断絶となった。

熊野有馬家臣団【ありまけかしんだん】

賀田城主:榎本具行、岩本城主:有馬和泉守忠重、丹倉城主:近藤兵衛門。

色川盛明【いろかわもりあき(15??~15??)】

牟婁郡鎌ヶ峯城主。色川家は桓武平家の流れを汲み、紀伊国色川郷を領した清水盛氏を祖とする。

色川盛直【いろかわもりなお(15??~15??)】

色川盛明の男。通称兵部。1562年「教興寺の戦い」において堀内氏虎や玉置直和らと共に畠山高政に属して戦うが敗れた。熊野地方では堀内氏虎が最大の勢力を誇っており、色川盛直は周辺土豪や熊野三山の僧兵たちと同盟を結んで堀内氏善に対抗した。1574年、堀内氏善が鎌ヶ峯城を攻めるがこれを撃退した。1578年、色川郷出身で勝山城の汐崎重盛と結び、高河原貞盛の援軍を得て堀内氏善の軍勢を退けた。1579年、再度攻められて勝山城は落城、汐崎重盛は討死した。色川盛直は鳴滝城で一進一退の攻防を続けた。堀内氏善が羽柴秀吉の「紀州征伐」で降るまで屈することはなかった。1588年、羽柴秀吉が天下統一を果たすと色川盛直は堀内氏善と和睦して、堀内家の麾下に属した。1592年「文禄の役」では色川盛直は老齢という理由から参陣せず、枝連衆の色川三九郎が参陣した。

色川盛正【いろかわもりまさ(15??~15??)】

色川盛直の男。1600年、西軍に属した堀内氏善が改易されると、色川盛正は紀州藩付家老の新宮城主水野重央に仕えた。

色川家臣団【いろかわけかしんだん】

調査中。

内ノ川平兵衛【うちのかわへいべい(15??~15??)】

牟婁郡鴻巣城主。山本家臣。1534年、鴻巣城は畠山稙長の攻撃を受けたが、山本主膳守の援軍を得て畠山勢の撃退に成功した。

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【か】

加藤甚五郎【かとうじんごろう(15??~15??)】

北牟婁郡長島城主。加藤甚左衛門の男。

加藤甚之丞【かとうじんのじょう(1522~1576)】

加藤甚五郎の男。1575年、織田信雄に仕えた。1576年、北紀伊国に及んでいた新宮の堀内氏善の勢力を駆逐しようと、織田信雄は加藤甚五郎、奥村家に命じ、一時は堀内方の三木城を攻め落としたが奥村家が堀内家に寝返った為に敗れ加藤甚五郎は長島城に戻った。奥村家は長島城の風上より火を放ちそれが城に及んで加藤甚五郎は城腰山麓で自刃し落城した。

貴志光宗【きしむねみつ(15??~1562)】

保田城主。湯川衆のひとり。1562年、畠山高政は六角義賢と結んで河内国に進出して三好長慶と戦った。1562年「久米田の戦い」に勝利した畠山勢は、三好長慶の立て籠る飯盛城に攻め寄せた。三好勢の反撃によって畠山高政は河内高屋城に退き、三好方の謀略で畠山高政は兵を撤収した。畠山高政に従って河内国教興寺にあった紀伊勢は退陣が遅れ、三好軍の追撃を受けた。紀伊勢は教興寺あたりで三好勢と激戦を展開したものの、貴志光宗、湯川直光、龍神正房、安宅光定、目良高湛らの諸将、根来衆らが討死をとげた。その後も貴志光宗は保田城に拠って勢力を維持したが、羽柴秀吉の「紀州征伐」に抵抗して没落した。

小山隆光【こやましげみつ(15??~15??)】

湯川衆。官途は石見守。1520年、野辺六郎左衛門が畠山尚順に背いたときの「切目坂の戦い」。1530年、安宅家の家督相続に端を発した「安宅の戦い」などに参陣した。

小山実隆【こやましげたか(15??~15??)】

小山隆光の男。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻した。三好勢との「教興寺の戦い」に参陣した。

小山隆重【こやまたかしげ(15??~1615)】

小山実隆の男。官途は式部大輔。通称助之丞。織田信長に仕え、羽柴秀長の家臣となり「小田原の役」「慶長の役」に参陣した。1600年「関ヶ原の役」で西軍についたため改易となった。1614年「大坂の陣」が起こると大坂に入城し討死した。

小山家臣団【こやまけかしんだん】

小山新十郎、小山四郎左衛門。

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【さ】

崎山家正【さきやまいえまさ(15??~15??)】

日高郡鞍賀多和城主。官途は飛騨守。1522年、阿波国の三好義長が紀伊国守護職畠山高国の留守を狙い侵攻した。鞍賀多和城は落城、崎山家正は敗走するが、翌月紀伊国に帰還した畠山高国が湯川政春と共に攻撃し、三好勢は阿波国へ退却した。

汐崎重盛【しおざきしげもり(15??~1581)】

牟婁郡勝山城主。別名廊ノ坊重盛。熊野詣は「熊野三山」の神社を巡礼者から得られる経済力によって汐崎家は周辺に大きな勢力を持っていた。その権利を巡って熊野三山の神社のひとつである熊野新宮司の堀内家と汐崎家が対立した。 1578年、堀内氏善が侵攻、汐崎重盛は虎城山城主高川原摂津守などの援軍を得て撃退した。堀内氏善は那智山の東座、実法院と姻戚関係を結び、加勢を得た。1581年、汐崎重盛は新宮の堀内氏善、実報院道勢の連合軍と戦って敗れたれ、清水浄春坊等の追撃を受け討死した。

椎橋権左衛門【しいはしごんざえもん(15??~15??)】

堀内家臣。1582年「佐部城の戦い」で新宮の堀内安房守氏が口熊野を侵略しようとしましたが、高川原摂津守貞盛、小山新左衛門は、安宅家、目良家と連合して佐部城を攻めました。芳養善五郎等が奮戦したが苦戦を強いられた。浅利平八が鉄砲六匁玉を使って、城将の椎橋権左衛門を討取り勝利した。

新宮行栄【しんぐうゆきえい(15??~1591)】

新宮家は源為義の娘、丹鶴姫の弟の義盛が後に行家を名乗り、新宮に来て屋敷を構え新宮を称した。新宮家は始め下熊野に行家屋敷を構えていたが、新宮行栄の時口山際に移した。 新宮行栄は後に堀内氏善との戦いに破れ衰退した。

新宮行朝【しんぐうゆきとも(15??~15??)】

堀内氏善の六男。官途は若狭守。別名堀内氏弘。「紀州討伐」後羽柴秀吉の麾下に属した。1600年「関ヶ原の役」では西軍に属して改易、没落した。浅野幸長が紀伊国和歌山城主に封ぜられると、新宮行朝は500石で召し抱えられたが、待遇に不満をおぼえて出奔した。1614年「大坂冬の陣」では、旧領回復のため兵300余り率いて大野治房の寄騎衆となり、さらに伊東長次の部隊に属した。1615年「大坂夏の陣」の「天王寺、岡山の戦い」などで大いに活躍し、紀州一揆を煽動することによって旧主浅野家を混乱させた。大坂城が落城すると一旦逃れたものの、大和国で松倉重政勢に捕縛された。

周参見氏長【すさみうじなが(15??~15??)】

牟婁郡周参見城主。熊野衆のひとり。1562年「教興寺の戦い」で周参見氏長は畠山高政に属して三好長慶と戦うが敗れた。のちに羽柴秀長に仕えて牟婁郡1,700石を領した。1600年「関ヶ原の役」では西軍に加担、没落した。

曽根弾正【そねだんじょう(15??~15??)】

牟婁郡曽根館主。曽根家は近江国六角家の庶家で、曽根、賀田、古江、梶賀の四郷の村民は盗賊や海賊から村を守って欲しいとの願いを六角家に嘆願し枝連衆である佐々木宇右衛門正吉が一族郎党を率いて曽根に住み、曽根、賀田、古江、梶賀、須野、甫母、二木島浦、二木島里の八村を領して曽根家を称した。曽根弾正はじめ伊勢国司北畠家に属していたが、北畠家が織田信長によって滅ぼされると、曽根弾正と嫡男曽根孫太郎は新宮を拠点に勢力を拡げていた堀内氏善に従って三木城を攻めた。1502年「慶長の役」では堀内氏善に従って、曽根孫太郎の嫡男曽根新吉が曽根弾正と称して参陣したが討死した。家督は次男の曽根久三郎が継いだ。1600年「関ヶ原の役」では主家堀内氏善は西軍に属して改易となり、曽根家も没落した。

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【た】

高河原元盛【たかがはらもともり(15??~15??)】

牟婁郡虎城山城主。

高河原貞盛【たかがはらさだもり(15??~15??)】

高河原元盛の男。官途は摂津守。父高河原元盛の病没により家督を相続した。北畠具教の麾下の属し紀伊熊野地方で勢力があった堀内氏虎と争った1571年、堀内氏虎に攻められ、小山隆友ら近隣領主に援軍を頼んでこれを破り、堀内方の要衝であった佐部城を奪取した。1576年、北畠具教が織田信長によって滅ぼされると織田家に仕えた。滝川一益の麾下で「有岡城の戦い」で戦功を挙げた。1579年、摂津国武庫郡守部村を拝領、よって次男高河原庄兵衛有盛、高河原助右衛門右京を摂津に派遣した。堀内氏善が勝山城に侵攻し、色川盛直の援軍として駆けつけて撃退に成功した。

高河原家盛【たかがはらいえもり(15??~15??)】

高河原貞盛の男。官途は帯刀。1571年、堀内氏虎に攻められ、父高河原貞盛に従って参陣した。小山隆友ら近隣領主に援軍もあり、これを討ち破って堀内方の要衝であった佐部城を攻略した。1585年、紀伊、大和国を治めた羽柴秀長に仕えた。1592年「文禄の役」に堀内氏善の麾下として参陣して戦功を挙げた。1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に属して改易となった。浅野家が紀伊国に転封されて来ると嫡子高河原喬盛と共に仕えた。

高河原有盛【たかがはらありもり(15??~15??)】

高河原貞盛の次男。通称庄兵衛。

高河原喬盛【たかがはらたかもり(15??~15??)】

高河原家盛の男。通称甚右衛門。1600年「関ヶ原の役」に父高河原家盛に従って西軍に属して戦い家は改易となって浪人となる。役後、紀伊国に浅野幸長が封じられると父高河原家盛と共に仕えた。1615年「大坂夏の陣」では亀田高綱配下で参陣し泉州樫井村にて高河原喬盛の家臣上野金右衛門が大坂方の将淡輪六郎兵衛重政を討取った。1619年、福島正則の改易に伴い、浅野長晟が広島城に移封されるとこれに同行し1,500石を領した。のちに弟の高河原定盛を残して、摂津国守部庄にて土着した。高河原定盛の家はこの後、高瓦を称して塩田奉行を務めた。高河原喬盛の病没後、家督は嫡子高河原唯盛が継いだ。

玉置直和【たまきなおかず(15??~15??)】

日高郡手取城主。玉置盛辰の男。官位は兵部大輔。室は湯川直春の娘。玉置家は紀伊国日高地方に勢力を持ち手取城を居城した。玉置直和は紀南において勢力があった湯川直春の娘を室に迎え勢力を拡大した。1562年「教興寺の戦い」では湯川直光、鈴木重意らと共に畠山高政に属して戦うが敗北した。織田信長に属して10,000石を領した。1585年、羽柴秀吉の「紀州征伐」で恭順の姿勢を示したが叛意と判断した湯川直春に攻められて居城を失った。羽柴秀長に仕えるが減封を不満を持ち、家督を玉置永直に譲って高野山に出家した。

玉置永直【たまきながなお(15??~15??)】

玉置直和の男。通称小平太。1585年、羽柴秀吉の「紀州征伐」において恭順の姿勢を取ったが近隣の土豪に居城を奪われて所領を削られる。その後、紀伊、大和国を領した羽柴秀長に仕えて3,500石を領した。1600年「関ヶ原の役」では西軍に属したため改易、没落した。1615年「大坂の役」において羽柴方として大坂城に入るが敗北。後に松平家に仕えた。

玉置直俊【たまきなおとし(15??~15??)】

玉置直和の次男。官途は図書頭。

玉置家四天王【たまきけしてんのう(15??~15??)】

平ヶ城主:小川与市、久保、松本館主:松本、鏡ヶ城主:古久保。

津村信秀【つむらのぶひで(15??~1585)】

日高郡八千貫城主。官途は式部大輔。湯川家四天王のひとり。1585年、津村信秀は湯川直春に従って大和郡山城へ赴き病没した。

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【な】

野長瀬盛秀【のながせもりひで(15??~15??)】

熊野衆のひとり。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻。三好勢との「教興寺の戦い」に参陣した。

野辺光快【のべみつよし(15??~15??)】

日高郡平須賀城主。湯川衆のひとり。亀山城主湯川家に臣従した。紀伊国の諸豪は畠山家のお家騒動に巻き込まれ、畠山尚順方と畠山義英方に分かれて抗争を繰り返していた。1513年、西小山氏と山本権之丞による「蛇喰城の戦い」。1517年「鳶之巣城の戦い」「塩屋田中の戦い」などに参陣した。1520年、野辺光快は湯川政春とともに守護畠山家に反目して高田城に籠城した。

野辺光房【のべみつふさ(15??~1562)】

野辺光快の男。官途は弾正忠。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻した。三好勢との「教興寺の戦い」に参陣した。野辺光房は湯浅直春に従って河内国に出陣して若江城で討死した。

野辺春弘【のべはるひろ(15??~1582)】

野辺光房の男。1562年、父野辺光房の討死により野辺家の家督を相続した。平須賀城を廃し要害城を築いて居城を移した。野辺春弘は、湯川直春の猶子となった。1582年「天正の兵乱」において野辺春弘は討死した。

野辺春和【のべはるかず(15??~15??)】

野辺光房の次男。1582年、兄野辺春弘の討死により野辺家の家督を相続した。1582年、南部庄の領民らが野辺春和に反逆の企てがあると湯川直春に讒訴、これを信じた湯川直春は激怒して芳養泊城の軍勢で平主城を取り囲んだ。野辺春和は枝連衆の大野八郎右衛門らが防戦に力めたが、湯川勢の大軍にかなわず開城した。野辺春和は嫡子野辺弥一郎、大野八郎右衛門らとともに越中に落延びた。以後、失地回復に努めたが、それもならず野辺春和は病没した。

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【は】

堀内氏虎【ほりのうちうじとら(15??~15??)】

牟婁郡新宮城主。熊野三山は別当職が全山を統轄したが、戦国時代には新屋、芝、宮崎、滝本、矢倉、中曽、蓑島の七家が、七人上綱として三山を治めていた。なかでも新宮十郎の後裔新屋家は、およそ10,000石を領して最も勢力があった。熊野の支配を目論む堀内氏虎は、七人上綱との平和維持を保ちながら、着々と地歩を固めていった。熊野別当職に任じられた堀内氏虎は三山の統轄権を掌握し、七人上綱の上に立つようになった。堀内氏虎は紀伊国守護職畠山家の衰退に乗じてさらに勢力を拡大した。熊野海賊衆を擁する軍事力と熊野新宮や熊野詣などからくる宗教的な権威と経済力を利用して勢力を拡大した。熊野を領し堀内氏虎と対立していた熊野有馬忠親は、内紛により衰退し有馬孫三郎が嫡男なく病没したため、堀内氏善を養子に送り込んだが、堀内氏善が本家を相続したため熊野有馬家は断絶した。新宮城を中心に30,000石を領国を形成した。

堀内氏高【ほりのうちうじたか(15??~15??)】

堀内氏虎の男。堀内家の家督を相続するが若くして病没した。

堀内氏善【ほりのうちうじよし(1549~1615)】

堀内氏虎の次男。官途は安房守。室は九鬼嘉隆の養女。1574年、兄堀内氏高の病没後、堀内家の家督を相続した。1576年、北畠信雄と当時志摩国であった三鬼城、紀伊長島城を巡って戦った。1581年、織田信長から知行として熊野社領分を与えられ、織田信長に仕えた。1582年「山崎の戦い」では、羽柴秀吉に属して7,000石を加増された。紀伊国の北部に侵攻し中村山城などの城を攻略した。1585年、羽柴秀吉の「紀州征伐」では降伏して本領を安堵された。紀州平定後の検地に反対する地侍や農民の一揆には、羽柴秀吉方として一揆の討伐に参陣した。「四国討伐」や「小田原の役」に参陣した。1592年「慶長の役」の「晋州の戦い」では蘇州古城守備に574人の熊野海賊衆を率いて戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成の勧めで牟婁郡80,000石と引き換えに義父九鬼嘉隆と共に西軍に属し約350を率いて伊勢国へ侵攻するが「関ヶ原の戦い」の敗報を聞き敗走した。その後、西軍への加担は消極的であったとの理由で許され加藤清正に仕え2,000石を領した。

堀内家臣団【ほりうちけかしんだん】

大谷志摩守、椎橋権座衛門。

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【ま】

松葉左衛門【まつばさえもん(15??~15??)】

北牟婁郡上里城主。1575年、織田信雄の家臣日置大膳が侵攻した時、松場左衛門が上里城に籠城した。

三鬼新八郎【みきしんぱちろう(15??~15??)】

北牟婁郡三鬼城主。官途は伊賀守。1575年、堀内氏善は勢力の拡大を計って三木城を攻めた。三木荘の九木浦には九鬼光隆がおり、またその弟の九鬼嘉隆が海賊衆を率いて鳥羽から援軍として来援し海陸の激戦となり、掘内方の木本荘司や井土村の河ノ上など名のある武将を討ちとったため、掘内勢は新宮城へ退却した。堀内氏善は九鬼嘉隆の娘を室に迎え三鬼新八郎は孤立する。長島城主加藤甚五郎と赤羽城主奥村新之丞と共に三鬼城を落とした。三鬼新八郎は大和国へ落延びたが掘内氏善の追求はきびしく小瀬勘七郎を誘って三鬼新八郎父子を謀殺させた。

湊上野介【みなとこうずのすけ(15??~15??)】

高城山城主。湯川家臣。湯川家四天王のひとり。

目良高湛【めらこうたん(15??~15??)】

田辺城主。守護畠山家臣。官途は左京亮。湯川衆。熊野別当湛増の後裔で、那智実方院より出た。以後、代々田辺に住して、新熊野社の別当を務めた。1561年、畠山高政は六角義賢と結んで兵をあげた。戦いは畠山高政の優勢に展開した。1562年「久米田の戦い」で三好長慶の弟三好義賢 を討取った。勢いにのった畠山勢は三好長慶の立て籠る飯盛城に攻め寄せたが、落とすことはでき畠山高政は屋城に退いた。そこへ信貴山城より三好勢の援軍が攻め寄せた。「教興寺の戦い」において激戦が展開され、畠山勢の敗北となり、湯川直光をはじめ龍神正房、貴志光宗、安宅光定、根来衆ら多くの武将が討死した。目良高湛の男目良湛清、目良湛経、目良重国の兄弟が討死し畠山勢は壊滅的打撃を被った。

目良湛氏【めらたんじん(15??~15??)】

目良高湛の男。羽柴秀吉の「紀州征伐」では、湯川直春のもとに目良湛氏、山本康忠、真砂庄司、野長瀬盛秀、玉置永直らが集結した。そして、軍議のすえに抗戦の道を選んだのであった。湯川衆はゲリラ戦を展開して羽柴秀吉勢を悩まし、ついに本領安堵を条件に和議が成立した。湯川直春、山本康忠らは羽柴方に謀殺され、目良湛氏っも別当職を失い所領没収の処分となった。

目良家臣団【めらたけかしんだん】

芳養善五郎。

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【や】

保田長宗【やすだながむね(15??~15??)】

有田郡八幡山城主。保田宗弘の男。官途は山城守。保田家は湯浅家の庶家で湯浅衆のひとり。父保田宗弘の代から河内畠山家に属して戦功を挙げた。

保田知宗【やすだともむね(15??~1583)】

保田長宗の男。通称佐介。1562年「教興寺の戦い」では湯川直光、津田算正らと共に畠山高政に属して戦うが三好長慶に敗れた。1568年、畠山高政が追放されると畠山昭高に仕えた。佐久間盛次の男佐久間安政を婿養子に迎えた。畠山昭高が没落すると織田信長に仕えた。佐久間安政の枝連衆の佐久間信盛の寄騎衆として活躍した。1583年「賤ヶ岳の戦い」で佐久間盛政に属し討死した 。

保田繁宗【やすだしげむね(15??~15??)】

保田長宗の次男。もとは高野山華王院住職であったが「賤ケ岳の戦い」で討死した兄保田知宗の遺領を継承、紀伊国保田庄を知行して、羽柴秀長に仕えた。のち大和竹田などで加増されて3,500石を領した。甥の保田安政は紀伊国を離れたので、保田家の家督を相続した。

保田安政【やすだやすまさ(15??~15??)】

佐久間盛次の男。保田知宗の養子。官途は若狭守。室は保田知宗の娘。養父保田知宗の討死後は室を離縁して紀伊国を離れ後北条家を頼った。家督は叔父の安田繁宗が継ぎ松平家の馬廻衆となった。
山本忠朝【やまもとただとも(15??~1566)】

牟婁郡龍松山城主。官途は治部少輔。1542年「木沢長政の乱」が起ると、畠山稙長は河内国へ侵攻、山本忠朝、湯川政春、玉置直和らもこれに従って出陣した。畠山稙長は高屋城を回復し河内守護職に復帰したがまもなく病没した。そのあとをめぐって畠山家は内紛が起り、いよいよ斜陽の度合いを強めた。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻した。三好勢との「教興寺の戦い」に参陣した。1566年、山本忠朝が病死すると、山本忠朝の嫡男山本康忠が幼少のため山本康忠の庶兄山本弘元との間で家督をめぐっての抗争が起った。

山本康忠【やまもとやすただ(15??~15??)】

山本忠朝の男。官途は主膳正。1566年、山本忠朝が病死すると、山本忠朝の嫡男山本康忠が幼少のため山本康忠の庶兄山本弘元との間で家督をめぐっての抗争が起った。叔父山本弘元は小山隆重や安宅安定の支援を受け一時は優勢になるが、山本家重臣田京之助の活躍で山本康忠が山本家の家督を相続した。1584年「小牧、長久手の戦い」が起ると、根来衆をはじめ湯川家、山本家らの紀州勢は松平家に通じ、羽柴秀吉の背後を突こうとして泉州に出陣した。羽柴秀吉と松平元康の和睦により紀州の諸豪族の立場は微妙なものとなった。 1585年「紀州征伐」では羽柴勢によって根来寺、雑賀衆は降伏、南紀伊国は、亀山城主湯川直春を盟主に、一ノ瀬の山本康忠、田辺の目良湛氏、近露の横矢氏ら南紀勢は仙石秀久、中村一氏らを大将とする羽柴勢と戦った。山本康忠は杉若越後守を大将とする羽柴勢3,000余りを迎え撃ち、約三ヶ月に渡って羽柴勢を悩ました。南紀勢の思わぬ善戦に手を焼いた羽柴秀吉は、本領安堵を条件に和議を提案、山本康忠らもこれを入れて羽柴勢と和睦した。1586年、山本康忠は湯川直春とともに大和郡山城に参候して羽柴秀長と謁見するが、湯川直春は城内で謀殺され、山本康忠も藤堂高虎邸で謀殺された。山本家は没落した。

山本弘元【やまもとひろもと(15??~15??)】

山本忠朝の庶兄。官途は兵衛佐。1566年、山本忠朝が病死すると、山本忠朝の嫡男山本康忠が幼少のため山本康忠の庶兄山本弘元との間で家督をめぐっての抗争が起った。山本弘元は小山隆重や安宅安定の支援を受け一時は優勢になるが、山本家重臣田京之助の活躍で山本康忠が山本家の家督を相続した。

山本兵部【やまもとひょうぶ(15??~15??)】

牟婁郡蛇喰城主。山本忠朝の次男。通称権之丞。蛇喰城は安宅家に奪われていた。1534年、山本兵部は安宅、小山連合軍を破り蛇喰城を奪還した。

山本家臣団【やまもとけかしんだん】

要害屋敷主:田上京之助、熊代館主:熊代内匠之介、楠本六郎、北郡砦主:稗田三郎兵衛、玉置館主:玉置図書介。

湯川政春【ゆかわまさはる(15??~15??)】

日高郡亀山城主。河内守護代。畠山高政家臣。1517年、畠山尚順は家督を畠山稙長に譲って河内国高屋城に入れると、みずからは紀伊国の領国支配強化を意図して広城に隠居した。畠山尚順は抵抗をやめない湯川政春を討伐し敗れた湯川政春は没落状態になった。1520年、畠山尚順は家臣の反乱によって紀伊国から追放された。湯川尚順は湯川政春を追放したあと、湯川衆の野辺六郎左衛門を改易しようとしたところ、野辺六郎左衛門は一揆を語らって自らの城に立て籠った。畠山尚順は、河内守護代遊佐長教らを動員して野辺六郎左衛門を攻撃した。湯川政春が夜襲をかけ畠山勢は敗退した。この戦いによって、紀伊国守護職家畠山尚順の守護権力は弱体化した。守護権力を排除した湯川正春は独自な戦国領主として基盤を固めたが自立するには至らず畠山尚順との関係は維持していた。1534年、河内守護代の遊佐長教が畠山稙長の弟畠山長経を擁立し、畠山稙長は高屋城から紀伊国に落延びた。畠山家の実権を掌握した遊佐長教は軍略にすぐれ、細川家を擁して勢力を伸ばす三好長慶と度々戦った。1548年、遊佐長教は三好長慶と和睦して娘を長慶の室として姻戚関係を結んだ。1551年、遊佐長教は反三好長慶派の刺客によって謀殺され、畠山高政は安見直政を守護代に任じた。

湯川直光【ゆかわなおみつ(15??~1562)】

湯川政春の男。1528年「摂津国江口の戦い」で三好長慶の軍勢に敗れたが、山科本願寺の証如の助力もあり小松原館に帰還。天文年間に感謝の意を込めて一堂を建立し、次男湯川信春を出家させて住職とした。1558年、河内国から畠山高政が紀伊に下向してきたため直光は迎え入れた。湯川直光の尽力により河内国に返り咲いた畠山高政は、この戦功を高く評価し湯川直光を河内守護代に任じた。1562年、河内守護畠山高政の命で紀伊国湯川衆の大軍を率いて参陣した。河内国で三好長慶の弟三好義賢が率いる三好勢を撃破した「久米田の戦い」。同年の「教興寺の戦い」では三好長逸らの軍勢を雑賀衆と共に迎撃していたが、三好長慶の嫡男三好義興の軍勢が参陣し形勢が逆転、湯川直光、玉置直和らの紀州衆と根来衆は後陣にあったため退陣が遅れ、三好勢の追撃を受けた。湯川直光ら紀州衆と根来衆は教興寺あたりで三好軍と激戦を展開し、湯川直光をはじめとした湯川一族、龍神正房、貴志光宗、安宅光定、目良高湛らの諸将、根来衆らが討死をとげた。「教興寺の戦い」の敗戦で畠山高政も三好勢の攻撃によって紀州に逃れ、畠山勢は壊滅的打撃を被った。

湯川直春【ゆかわなおはる(15??~15??)】

湯川直光の男。

湯川家臣団【ゆかわけかしんだん】

角田山城主:脇田俊継、曽和城主:林源右衛門春当、土井城主:平井掃部頭。

由良庄左衛門【ゆらしょうざえもん(15??~15??)】

日高郡由良城主。1585年「紀州討伐」で羽柴勢の攻撃を受け落城した。

龍神正房【りゅうじんまさふさ(15??~1562】

日高郡島之瀬城主。湯川衆のひとり。1562年、畠山高政は六角義賢と結んで河内国に進出して三好長慶と戦った。1562年「久米田の戦い」に勝利した畠山勢は、三好長慶の立て籠る飯盛城に攻め寄せた。三好勢の反撃によって畠山高政は河内高屋城に退き、三好方の謀略で畠山高政は兵を撤収した。畠山高政に従って河内国教興寺にあった紀伊勢は退陣が遅れ、三好軍の追撃を受けた。紀伊勢は教興寺あたりで三好勢と激戦を展開したものの、龍神正房、安宅光定、湯川直光、貴志光宗、安宅光定、目良高湛らの諸将、根来衆らが討死をとげた。

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【資料Ⅰ】

南紀伊国(3郡/200,000石)

有田郡:湯浅城。
日高郡:亀山城。
牟婁郡:新宮城。

※南紀伊国という国は存在しません。個人的趣味として紀伊国を北紀伊国と南紀伊国に分割しました。

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【資料Ⅱ】

湯川衆【ゆかわしゅう】

湯川衆は、日高郡一帯以南を領し日高郡亀山城を本拠した。

熊野海賊衆【くまのかいぞくしゅう】

紀伊半島南東部、熊野灘、枯木灘に面した地域を拠点とした海賊衆。豊富な船材と良湊に恵まれながらも、耕作地に乏しい熊野には海を舞台に活躍する海賊衆が早くから発達した。紀淡海峡など四国と紀伊半島の間に出没した南海海賊の多くは熊野の浦々を拠点とする海の領主で、彼らを熊野別当が統括していた。熊野別当には源家とつながりを持つ新宮別当家と、平家とつながりをもつ田辺別当家という二つの有力な家があった。

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【資料Ⅲ】

紀伊国【きいのくに】

紀伊半島の先端部を占める南海道の国。北は和泉国、河内国と接し、東端の北部で伊勢国と国境を分ける。東部から西部にかけての広い範囲で大和国の南部を取り囲み、西端は紀淡海峡を挟んで淡路国、紀伊水道を隔てて阿波国、土佐国と向い合う。南部は太平洋の黒潮が長い海岸線を洗い、三方を海に囲まれた地形になる。平城京、平安京といった古代の都に近く、古くから栄えた地域である。国土の大部分は和泉山脈、長峰山脈、白馬山脈、大塔山脈といった山地で占められ、山がちで平地は乏しいが、山間部では雨量が多く気候も温暖なため山林が豊富であり、古来から良質な木材を産した。牟婁郡の熊野三山は密教系の修験者の道場として独自的な文化を持っていた。平地は紀ノ川、熊野川など河川の流域に点在しているが、その中でも紀ノ川流域の雑賀地域では、古くから大規模な灌漑が行なわれて農業の水準も高く、雑賀衆と呼ばれる豪族衆が勢力を持った。良質な木材と長い海岸線の至るところに存在する良湊によって発達した熊野海賊衆や高野山から分派した真言宗根来寺の信徒勢力も大きな力を持っていた。

熊野三山【くまのさんざん】

熊野三山は熊野詣と呼ばれる巡礼の旅の目的地となる参つの神社で、自然崇拝を元とする非常に古い神社である。熊野新宮は速玉大神という神様を奉っており、これは日本の古き神 「イザナギ」 のことで、後に仏教が伝来するとこれと融合し「薬師如来」 として奉られるようになった。他の二つの神社は 「熊野本宮」 と 「熊野那智」 と言う大社で「本宮」 が 「家都美御子」+「阿弥陀如来」。那智大社が 「夫須美大神」+「観音菩薩」 を奉っている。「熊野信仰」 はこのような古代日本の神々を祭っているもので、雑賀衆の家紋になっている鳥の絵も 「八咫烏」 と呼ばれる霊鳥であり、太陽黒点を表し「神武天皇」 の道案内を努めたと言う三本足のカラスで、熊野信仰から来ている。

熊野川【くまのがわ】

熊野川は大和国吉野郡の大峰山脈山上ヶ岳、大普賢岳の辺りに水源を発する。天ノ川、十津川が合流して南下、紀伊国に入る。大台ケ原を源流とする北山川を併せ、熊野灘に注ぐ。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

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2012年1月5日木曜日

戦国和泉国人名辞典

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【あ】

磯上無仁入道【いそがみむじんにゅうどう(15??~15??)】

二田城主。和泉三十六郷士のひとり。

稲葉元春【いなばもとはる(15??~15??)】

稲葉城主。1580年、織田信長の軍勢と戦い稲葉城も落城した。

今木肥後守【いまきひごのかみ(15??~15??)】

今木館主。和泉三十六郷士のひとり。

今北十平次【いまくたじゅうへいじ(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

大路新左衛門【おおじしんざえもん(15??~15??)】

大路城主。和泉三十六郷士のひとり。大路新左衛門尉は熊取庄の興蔵寺城を横領し古井秀充に討たれた。

大路信濃守【おおじしなののかみ(15??~15??)】

大路新左衛門の男。1576年、織田信長の大坂本願寺攻めに加わり「第一次木津川口の戦い」で毛利家海賊衆と戦い討死した。

岡彦市郎【おかひこいちろう(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

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【か】

樫井又左衛門【かしいまたざえもん(15??~15??)】

日根郡樫井館主。和泉三十六郷士のひとり。

門村左近【かどむらさこん(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

神前宗行【かみまえむねゆき(15??~15??)】

畠中城主。和泉国在庁官人日向権守清実の後裔神前家と称した。源頼朝の叔父行家が清実の拠る畠中城で源頼朝の追手に捕えられ謀殺された。 神前家の居城畠中城は、天正年間、根来、雑賀衆が拠点としたが織田信長に攻められ開城した。

神前是光【かみまえこれみつ(15??~15??)】

神前宗行の養子。1585年、羽柴秀吉の「根来、雑賀征伐」の時には積善寺城の支城として神前宗行の妹婿神前是光を城将とし和泉日根郡の土豪層と雑賀衆が3,500人余りが籠城した。千石堀城が落城するにおよび畠中城の兵は逃亡した。

神前氏政【かみまえうじまさ(15??~15??)】

神前是光の男。

甲田孫左衛門【こうだまござえもん(15??~15??)】

降井家臣。和泉三十六郷士のひとり。降井家の被官であったが、降井家が没落したとき自立した。

小谷政種【こたにまさたね(15??~15??)】

小谷城主。通称甚八郎。1571年、三好家と争い三好家臣一宮長門守麾下の木村肥前守の攻撃を受け討死した。

小谷種氾【こたにたねはん(15??~15??)】

小谷政種の男。1575年、織田信長の「根来征伐」で根来党であった小谷城は落城した。

小松里心西入道【こまつざとこさいにゅうどう(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

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【さ】

斎藤主膳【さいとうしゅぜん(15??~15??)】

和泉郡下条大津館主。和泉三十六郷士のひとり。

斎藤勝実【さいとうかつざね(15??~15??)】     

和泉国下守護家臣。守護代に任じられた。

坂本順喜【さかもとおうみのかみ(15??~15??)】

和泉郡坂本館主。官途は近江守。和泉三十六郷士のひとり。

坂本長徳【さかもとながのり(15??~15??)】

坂本順喜の男。

坂本元永【さかもともとなが(15??~15??)】

坂本長徳の男。1576年、織田信長の大坂本願寺攻めに加わり「第一次木津川口の戦い」で毛利家海賊衆と戦い討死した。

晶源助【しょうげんすけ(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

積川四郎左衛門【せきかわしろうざえもん(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

惣官美濃守【そうかんみののかみ(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

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【た】

多賀井宮内太夫【たがいくないだいふ(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

降井隆家【たかいたかいえ(15??~15??)】

泉南郡。官途は太夫。和泉三十六郷士のひとり。降井隆家は、佐野の日根野七郎に攻められ没落した。門野(中)左近盛勝の次男隆井盛豊がその遺跡を相続し再興した。門野盛豊には実子はなく、門野(中)左近盛吉の次男隆井(門野)盛永を養子とした。降井盛永は、羽柴秀吉の「根来討伐」において、根来方の畠中城に籠城した。

田代道徳【たしろどうとく(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

田治米十左衛門【たじめじゅうざえもん(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

田所大和守【たどころやまとのかみ(15??~15??)】

府中館主。和泉三十六郷士のひとり。上ノ大和殿と呼ばれ、府中、和気、井口、黒取、板原、肥子村、八木郷にて五ヶ村の領主、大鳥明神の神主を兼ねる。和泉三十六士でもっとも所領が多かったという。

田中重景【たなかしげかげ(15??~15??)】

田中館主。官途は遠江守。1576年、織田信長による石山本願寺攻めに参陣した。

玉井行家【たまいゆきいえ(15??~1588)】

千原城主。細川氏綱家臣。官途は壱岐守。別名玉井源秀。和泉三十六郷士のひとり。玉井遠江守が我孫子村を領し、玉井行家が森村、千原村を領した。上和泉郷内に領地を持つ豪族。1543年、玉井源秀は細川元常と戦い敗退した。

玉井遠江守【たまいとうとううみのかみ(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

玉井駿河守【たまいするがのかみ(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

淡輪隆重【たんのわたかしげ(15??~15??)】

淡輪城主。別名淡輪徹斎。1576年、織田信長より荒木村重に宛てた書状で、毛利家海賊衆への対処を命じられている。1576年、織田家海賊衆は「第一次木津川口の戦い」で毛利家海賊衆に敗北した。佐久間信栄に九鬼嘉隆の軍船到着について報告したとき、織田信長は佐久間信盛に、大坂近辺の通行の自由については淡輪隆重に伝えるよう命じた。淡輪隆重は大坂の石山本願寺との戦いの主将佐久間信盛の寄騎衆。在地で摂津国の石山本願寺と紀伊国の雑賀衆を監視を行なった。

淡輪重利【たんのわしげとし(15??~15??)】

淡輪隆重の男。通称新兵衛。浅野家に仕えた。

淡輪隆政【たんのわたかしげまさ(15??~15??)】

淡輪隆重の次男。通称六郎兵衛。1615年「大阪夏の陣」の前哨戦「樫井川の戦い」で塙団右衛門とともに討死した。

寺田知正【てらだともまさ(15??~15??)】

和泉郡寺田館主。松浦家臣。和泉三十六郷士のひとり。

寺田正家【てらだまたざえもん(15??~15??)】

寺田知正の男。通称又右衛門。寺田正家、弟寺田宗清は共に岸和田城主松浦肥前守に仕えた。のち織田信長、羽柴秀吉のもとで戦功を挙げた。寺田宗清は、岸和田城主松浦肥前守を謀殺し松浦姓を称した。

寺田宗清【てらだむねきよ(15??~1628)】

寺田知正の次男。通称安大夫。寺田宗清、兄寺田正家は共に和泉国守護代岸和田城主松浦肥前守に仕えた。岸和田城主松浦信輝を謀殺すると兄寺田正家とともに岸和田城主となり、織田信長に仕えた。のちに羽柴秀吉に仕え馬廻から岸和田の代官となる。1584年「小牧、長久手の戦い」に戦功を挙げ伊勢国井生に転封され10,000石を領した。1590年「小田原の役」では、石田三成の麾下として「忍城の戦い」に参陣した。1600年「関ヶ原の役」では西軍に属し、伊勢国安濃津城攻めに参陣し改易された。

寺町左近将監【てらまちさこんしょうげん(15??~15??)】

家原城主。松永久秀家臣。松永久秀は、三好義継を擁する三好三人衆と対立し、家原城には松永方の和泉衆が在城していた。1569年、家原城は軍勢が少ないため三好勢に攻められ、寺町左近将監、雀部次兵衛尉、澤田備後守等が討死した。

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【な】

中村十太夫【なかむらじゅうだいふ(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

成田伊豆守【なりたいずのかみ(15??~15??)】

和泉郡信太館主。和泉三十六郷士のひとり。

沼間清成【ぬまきよなり(15??~15??)】

大鳥郡綾井城主。別名沼間任世入道。和泉三十六郷士のひとり。沼間清成が大鳥郡綾井7,000石を領した。枝連衆の沼間伊賀守正盛が木積馬場村、沼間大隅守が鳥取箱作村に居住していた。沼間家は和泉国の豪族衆の旗頭。

沼間義清【ぬまとしきよ(15??~15??)】

沼間清成の男。官途は越後守。1576年、織田信長の大坂本願寺攻めに加わり「第一次木津川口の戦い」で毛利家海賊衆と戦い討死した。

沼間興清【ぬまおききよ(15??~15??)】

沼間義清の男。官途は主膳。1576年、沼間義清が討死すると沼間家の家督を相続した。中村式部少輔一氏の寄騎衆となった後に松平元康に仕えた。

沼間家臣団【ぬまけかしんだん】

谷山平左衛門、西村清右衛門、早水茂左衛門。

沼間正盛【ぬままさもり(15??~15??)】

大鳥郡木積馬場館主。官途は伊賀守。1576年、織田信長の大坂本願寺攻めに加わり「第一次木津川口の戦い」で毛利家海賊衆と戦い討死した。

和泉三十六郷士のひとり。

沼間大隈守【ぬまおおすのかみ(15??~15??)】

大鳥郡鳥取箱作館主。和泉三十六郷士のひとり。

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【は】

土師新左衛門【はじししんざえもん(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

土生十左衛門【はぶじゅうざえもん(15??~15??)】

和泉郡土生館主。和泉三十六郷士のひとり。

林伝内【はやしでんない(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

久枝久盛【ひさえだひさもり(15??~15??)】

和泉国下守護家臣。斎藤勝実に代わり守護代に任じられた。

菱木五助【ひしきごすけ(15??~15??)】

大鳥郡菱木館主。和泉三十六郷士のひとり。

日根野若狭守【ひねのわかさのかみ(15??~15??)】

日根郡日根野城主。日根野大井関明神の神職を兼ねていた。和泉三十六郷士のひとり。

平松宗時【ひらまつむねとき(15??~15??)】

土居城主。通称源左衛門尉。和泉三十六郷士のひとり。

平松宗賢【ひらまつむねかた(15??~15??)】

平松宗時の男。1585年、根来寺攻撃の際に羽柴秀長が岸和田に来た際は、病に伏せる平松宗時の代わりに嫡男平松宗賢が供応した。

福井源助【ふくいげんすけ(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

福田九郎左衛門尉【ふくだくろうざえもんのじょう(15??~15??)】

福田城主。十河一存家臣。

藤林作右衛門【ふじばやしさくざえもん(15??~15??)】

大津宇田城主。和泉三十六郷士のひとり。1576年、織田信長の大坂本願寺攻めに加わり「第一次木津川口の戦い」で毛利家海賊衆と戦い討死した。

藤林与左衛門【ふじばやしよざえもん(15??~1600?)】

藤林作右衛門の男。石田三成に仕えた。1600年「関ヶ原の役」で討死した。

和泉細川政久【ほそかわまさひさ(15??~15??)】

和泉国下守護家。1495年、和泉国上守護家の細川 元有と共に畠山尚順と手を結び、細川政元と敵対したが、細川政元に敗れて降伏し、その麾下に属した。

和泉国下守護家臣団【ほそかわけかしんだん(15??~15??)】
        
若林勝延、松阪景量、西村新右衛門尉、広瀬三河守。

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【ま】

松浦守【まつうらまもる(15??~1557)】

泉南郡岸和田城主。細川元有家臣。和泉国守護代。官途は肥前守。通称左衛門尉守。1541年、高屋城主畠山稙長と遊佐信教が和泉国に侵攻すると松浦守は、三好長慶の勢力が拡大すると、細川晴元の麾下から離れ三好長慶方として行動していた。

松浦信輝【まつうらのぶてる(15??~15??)】

松浦守の男。官途は肥前守。1558年、松浦信輝は、三好方の十河一存により岸和田城主の座を追われた。山間部の蛇谷城に入って三好勢に抵抗した。十河一存率いる三好勢の攻撃を受けたが撃退した。1562年、畠山高政、安見宗房らの軍勢と援軍の根来衆、湯川家、玉置家の連合軍は「久米田の戦い」で三好勢を打ち破り、高屋城や岸和田城から三好勢は堺に撤退した。松浦信輝も一隊を率いて参陣した。畠山勢は三好家から高屋城を取り返し、勢いに乗り、三好長慶の飯盛山城を包囲するが、畠山勢は「河内教興寺の戦い」で大敗を喫した。松浦信輝も敗残兵をまとめて蛇谷城に帰還した。再び岸和田城に復帰したがまもなく家臣寺田宗清に謀殺された。

松浦孫太夫【まつうらまごだいふ(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

真鍋貞友【まなべさだとも(15??~1576)】

和泉郡大津城主。通称主馬兵衛。和泉三十六郷士のひとり。真鍋家は淡輪家と争い大津城に居城を移す。1576年、織田信長の大坂本願寺攻めに加わり「第一次木津川口の戦い」で毛利家海賊衆と戦い討死した。

真鍋貞成【まなべさだなり(15??~15??)】

真鍋貞友の男。通称五郎右衛門。織田信長に仕え、その後羽柴秀吉に仕え「小田原の役」「朝鮮征伐」に参陣した。1600年「関ヶ原の役」後には、福島正成に仕えるが、福島家断絶後は紀州徳川家に仕官した。

森村源左衛門【もりむらげんざえもん(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

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【や】

山之内宮内【やまのうちくない(15??~15??)】

和泉三十六郷士のひとり。

吉井五郎九郎【よしいごろうくろう(15??~15??)】

和泉国和泉郡吉井館主。和泉三十六郷士のひとり。吉井五郎九郎は織田信長に仕え大鳥郡綾井城主となった。

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【資料Ⅰ】

和泉国(4郡/128,000石)

大鳥郡:堺街
和泉郡:
南郡:岸和田城
日野根郡:

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【資料Ⅱ】

和泉三十六郷士【いずみさんじゅうろくごうし】

和泉国の豪族衆。磯上無仁入道、今木肥後守、今北十平次、大路新左衛門、岡彦市郎、樫井又左衛門、門村左近、甲田孫左衛門、小松里心西入道、斎藤主膳、坂本近江守、惣官美濃守、玉井壱岐守、玉井遠江守、玉井駿河守、多賀井宮内太夫、田代道徳、田治米十左衛門、田所大和守、積川四郎左衛門、寺田又右衛門、松浦安太夫、中村十太夫、成田伊豆守、沼間任世、沼伊賀守、沼大隈守、土師新左衛門、林伝内、土生十左衛門、菱木五助、日根野若狭守、平松源左衛門、福井源助、藤林作右衛門、藤林与左衛門、降井太夫、松浦孫太夫、真鍋主馬大輔、森村源左衛門、山之内宮内、吉井五郎九郎、晶源助。

会合衆【えごうしゅう】

室町時代から安土桃山時代の都市で自治の指導的役割を果たした評定組織またはその組織。同じ時期に山田(伊勢)、大湊(伊勢)、博多、酒田などの都市にも類似した組織が見られた。会合衆は、堺の有力商人で構成され、能登屋や臙脂屋などの有力商人がその任にあたった。三十六人の会合衆の中でもとりわけ有力な者が十人の納屋衆であった。

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【資料Ⅲ】

和泉国【いずみのくに】

灘波の海に面した五畿内の国。北は摂津国、南は和泉山脈を隔ててそれぞれ河内国と紀伊国に境を接している。灘波の海は明石海峡を経て瀬戸内海、紀淡海峡を経て紀伊水道へ抜ける位置にあり、和泉国の北端にある堺は、室町時代には国内のみならず日明貿易の中心地として栄えた日本最大の貿易湊になった。このため、莫大な富を築くた堺の豪商たちは三十六の会合衆の合議による自治都市を運営し、独自文化を形成した。商業都市としての性質上から、畿内国の中では比較的平穏が保たれている。

堺街【さかいのまち】

「応仁の乱」以後、それまでの兵庫湊に代わり堺は日明貿易の中継地として更なる賑わいを始め、琉球貿易、南蛮貿易の拠点として国内外より多くの商人が集まる国際貿易都市としての発展した。布教のため来日していたイエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラは「堺の街は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と書いた。安土桃山時代には貿易港としての地位を揺るぎないものとし、戦乱から町を守るため周囲に堀を巡らせた環濠都市を形成。会合衆と呼ばれる商人たちが自治的な都市運営を行い中世の自治都市となる。織田信長の前に屈服。自治機能が解体され、直轄地に置かれる。その後、羽柴秀吉が大坂城を築き、城下街が形成されると堺商人の多くが大坂へ強制移住させられたため、堺の都市機能は著しく低下した。同様に全国各地の城下街にも堺商人が移り住むようになる。産業面では戦国期より鉄砲生産が盛んに行われ、また文化面では今井宗久や千利休、津田宗及に代表される茶の湯などが特記される。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

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