2012年2月11日土曜日

戦国駿河国人名辞典

------------------------------------------------------

【あ】

朝倉在重【あさくらありしげ(1545~1615)】

朝倉景高の男。官途は河内守。通称は六兵衛。父朝倉景高が朝倉孝景との争いに敗れて越前から逃れた際、父と別れて駿河国に逃れ今川義元を頼り、今川氏真滅亡後は中村一氏、次いで松平元康に仕えた。今川時代は駿河国安倍郡柿島周辺を領し、安倍七騎と呼ばれた勢力団の筆頭にも挙げられていたが、今川家の衰退と共に駿河に侵攻してきた武田晴信、次いで松平元康の支配下に入った。その過程で安倍七騎は分裂内紛し、朝倉在重は同じ安倍七騎で義弟の大石五郎右衛門を暗器(細工をした矢)で謀殺した。以降は松平元康の家臣となった。松平元康の関東移封には従わず、朝倉在重は旧領を支配していることから羽柴政権下では在地勢力として中村家に仕えた。

朝比奈俊永【あさひなとしなが(15??~15??)】

駿河朝比奈家惣領。駿河東部の旗頭。官途は丹波守。今川家枝連衆。

朝比奈元長【あさひなもとなが(15??~1566)】

朝比奈俊永の男。官途は丹波守。室は今川義元の娘。1546年、太原雪斎とともに奉行職。1548年「小豆坂の戦い」では一族の朝比奈泰能、子の朝比奈信置らと共に参戦している。1559年、関口親永とともに前年に初陣を飾った松平広忠亡き後空位となっていた松平元康の後見人も務めていた。
1560年「桶狭間の戦い」においては窮地に陥った今川本陣で奮戦、鉄砲により負傷した。

朝比奈信置【あさひなのぶおき(1528~1582)】

朝比奈元長の男。官途は駿河守。室は飯尾乗連の娘。1548年「小豆坂の合戦」では先陣を務めている。1566年、家督相続。1569年武田家に降伏、臣従。駿河持舟城主。朝比奈信置は武田晴信から庵原領を与えられ、「信」の文字を一字拝領し駿河先方衆筆頭として重用された。庵原城領の信興は遠江高天神城領の小笠原信興とともに武田勝頼期に追認された在地城主。1582年、織田信長の「武田征伐」により持船城は落城し朝比奈信置は自刃した。

朝比奈時茂【あさひなときしげ(15??~15??)】

掛川朝比奈家庶流。官途は下野守。

朝比奈親孝【あさひなちかたか(15??~15??)】

朝比奈時茂の男。

朝比奈氏泰【あさひなうじやす(15??~1562)】

朝比奈時茂の次男。官途は紀伊守。浜名湖西岸に位置する遠州宇津山城主]として、三河・遠江国境付近を守備した。1561年、松平元康が今川家から独立の動きを見せ、東三河国人領主を調略して蜂起させる動きを見せると、すぐに出陣し三遠国境を越えて、三河国八名郡国人領主の西郷正勝の五本松城を急襲し、嫡子で月ヶ谷城主の西郷元正の父子をともに討取った。1562年、西郷正勝次子の清員率いる松平勢と八名郡勝山で戦ったが敗れて西郷清員に五本松城を奪還される。

朝比奈泰充【あさひなやす(15??~1562)】

朝比奈氏泰の男。1562年、父朝比奈氏泰が病死すると朝比奈泰充が家督を相続した。1563年、朝比奈泰充は朝比奈真次に殺害され、その朝比奈真次が城主となり紀伊守を称したとされる。朝比奈真次は三河国宝飯郡伊奈城主本多忠俊(助太夫)の長女を室とした。。

朝比奈元智【あさひな もととも(15??~1581)】

朝比奈時茂の三男。官途は肥後守。天野景連に代り三河国に派遣される。今川義元から篤い信頼を寄せられ、偏諱を受けて朝比奈元智と名乗る。1547年、駿河国へ護送中の松平竹千代を尾張国の織田信秀に売り渡した戸田康光を討伐すべく三河国渥美郡の田原城を攻め落とし、朝比奈元智はそのまま田原城代を任せられた。1560年「桶狭間の戦い」にも参陣した。

安部信貞【あんべのぶさだ(15??~1564)】

持舟城主。通称刑部大夫。

安倍元真【あんべもとざね(1513~1587)】

安部信真の男。通称大蔵尉。今川義元の死後弱体化した今川家の領土に甲斐の武田晴信が侵攻してくると、安倍元真は駿府で迎え撃つが敗れ自領に退散した。今川家滅亡後は流浪した後に松平元康に仕え、遠江伯耆塚城を任され、仇敵武田家と戦い諸戦で戦功をあげた。

安部信勝【あんべのぶかつ(1552~1600)】 

安倍元真の男。通称彌一郎。室は水野忠重の娘。今川義元の死後弱体化した今川家の領土に甲斐の武田晴信が侵攻してくると、安倍元真は駿府で迎え撃つが敗れ自領に退散した。今川家滅亡後は流浪した後に松平元康に仕え。1583年、後北条家の甲斐国本巣の砦を攻め落とした。1584年「小牧長久手の戦い」の「蟹江城の戦い」で、石川数正とともに前田長種が守る前田城(蟹江城の支城)を攻め、前田長種を破った。1590年、松平元康が関東に転封された際、武蔵国榛沢郡下野国梁田郡内の5250石の領した。

安部信盛【あんべのぶもり(1584~1674)】 

安部信勝の男。官途は摂津守。官位は従五位下。室は徳川家康の養女(保科正直の娘)。1600年、父安部信勝が死去より、安部信盛が家督を相続した。1600年「関ヶ原の役」では本多正信隊に属して下野国小山にまで参陣した。1605年。松平秀忠の将軍宣下のための上洛に従っている。1614年「大坂の役」には冬、夏とも参陣した。1620年、松平秀忠の娘・和子の入内に参列した。

今川氏親【いまがわうじちか(1470~1526)】

安部郡駿府城主。今川家惣領職。駿河・遠江国守護職。今川義忠の男。官途は駿河守。室は中御門宣胤の娘(寿桂尼)。父今川義忠が戦没したため、山西の小川法栄に養育される。1487年家督を簒奪した範満を叔父の伊勢長氏の後見で討伐する。早雲に協力して扇谷上杉を援助。早雲が両上杉と断行し関東に進出すると、氏親は西方の遠江の計略に専念する。1517年、遠江国曳馬城の斯波義達を討ち、遠江国を統一する。1524年、両国で検地を実施、1526年「分国法」を定め、戦国的領内経営を進める。駿府国府中に海道一の城下町を作り、友野、松木という有力商人を育てた。

今川氏輝【いまがわうじてる(1513~1536)】

官途は上総介。今川氏親の男。1526年幼少にて家督継承したため政務は母の寿桂尼が後見する。親北条、反武田路線。1536年3月弟・彦五郎とともに屋敷で生害される。1526年、父今川氏親が死去し今川家の家督を相続した。若年のため母の寿桂尼が後見人として補佐した。1532年、今川氏輝は親政を開始する。1532年、遠江国において検地を行ない、さらに朝廷に献上物を送るなどして、中央との関係強化に務めた。父今川氏親の時代からの相模国後北条家との駿相同盟は維持された。1535年、北条氏綱と連携して甲斐国守護武田信虎と対立する国人勢力を後援して武田信虎と争い、甲斐国都留郡山中において武田信虎勢と戦っている。1536年、冷泉為和とともに歌会のため小田原へ赴いているが、同年死去している。

今川良真【いまがわよしざね(1517~1536)】

通称玄広恵探。今川氏親の次男。遍照光寺の住職。1536年、今川家当主氏輝と弟の彦五郎が相次いで急死したため、今川氏親の室であった寿桂尼の子の栴岳承芳が還俗して、今川義元を名乗り家督を継ごうとした。これに反対して「花倉の乱」を起こす。今川良真は福島彦太郎・弥四郎、斎藤四郎衛門、篠原刑部少輔、井出左兵衛、安西三郎兵衛、朝比奈又二郎に擁されて挙兵し花倉城に拠るが、承芳派に攻められて自害する。

今川義元【いまがわよしもと(1519~1560)】

通称梅岳承芳。今川氏親の三男(五男とも)。室は母は武田信虎の娘(定恵院殿)。もと富士郡善徳寺の僧侶。太原雪斎の弟子。1536年、兄今川氏輝が死去により「花倉の乱」で異母兄・良真(玄広恵探)を擁立する福島家と抗争。瀬名氏貞、朝比奈泰以、由比光規、岡部親綱、三浦元辰、平野、孕石氏に援助される。1537年、武田信虎の娘婿となり同盟。親武田、反北条路線。1540年、織田信秀に三河国安祥城を奪取される。1541年、武田晴信の下克上に加担。1542年尾張の織田信秀と第一次「小豆坂の合戦」。1545年。北条と講和。1548年「第二次小豆坂の合戦」。1549年、松平広忠死去、三河支配。1554年三国軍事同盟。1560年「桶狭間の合戦」に討死した。

今川氏真【いまがわうじざね(1538~1614)】

今川義元の男。官途は治部大輔。室は北条氏康の娘(早川殿)。側室は庵原忠康の娘。1558年、家督を譲られる。1560年、今川義元の討死により今川家惣領職。1568年、武田晴信、松平元康の同盟により遠江国、駿河国、今川館を失う。掛川城に入城し籠城するが降伏した。松平元康から捨扶持を武蔵国品川に屋敷を与えられた。蹴鞠の名手。

今川氏豊【いまがわうじとよ(15??~1540)】

今川氏親の六男。尾張那古屋城主。1515年、今川家に降伏した斯波義達の娘婿。斯波義統の義兄弟。1534~1540年間に親交のあった織田信秀に居城を奪取される。京都に落ち延びる。

一宮宗是【いちのみやむねこれ(15??~1560)】

用宗城主。官途は出羽守。1554年、甲相駿三国同盟により武田家と同盟を結んでいた今川家は、甲斐国の戦国大名武田信玄が信濃国へ進出し侵攻を開始。その際に一宮宗是を援軍として信濃国に派遣した。武田晴信が信濃国へ侵攻した結果、諏訪家などの小豪族の多くは、滅亡したり、追放させられた。1560年「桶狭間の戦い」で討死した。

一宮元実【いちのみやもとざね(15??~15??)】

一宮宗是の男。通称左兵衛尉。今川氏真に仕えた。

江尻親良【えじりちかよし(15??~1560)】

朝比奈の家臣。1560年「桶狭間の戦い」で討死した。

岡部親綱【おかべちかつな(15??~1562)】

今川家臣。通称左京進。岡部仲綱の男。今川氏輝の側近であった。1536年、今川氏輝没後の「花倉の乱」に際しては栴岳承芳方に味方し、方上城を攻撃、落城せしめるなど大いに戦功を挙げた。

岡部久綱【おかべひさつな(15??~1547)】

岡部親綱の男。官途は美濃守。1541年、今川義元の命により太原雪斎、岡部久綱の両名が甲府へ派遣され武田信虎隠居の件について交渉を行った。1548年、先陣として尾張侵攻「第二次小豆坂の戦い」に戦功を挙げ、敗色を覆す横槍を入れた。

岡部正綱【おかべまさつな(1541~1583)】

岡部久綱の男。次郎右衛門。官途は美濃守。室は三浦範時の娘。1569年、武田家に臣従。駿河先方衆。武田勝頼の命で高天神城攻略に戦功を挙げた。1582年「本能寺の変」後、大須賀康高に協力し曽根昌世とともに甲州平定に活躍した。後北条家との「若神子の合戦」で戦功を挙げた。

岡部長秋【おかべながあき(15??~15??)】

岡部久綱の次男。通称治部右衛門。

岡部元信【おかべもとのぶ(15??~1581)】

岡部久綱の三男。官途は丹波守。通称五郎兵衛。今川氏が衰退してからは武田氏に仕えた。今川義元の家督相続に重要な役割を果たした。岡部元信自身も遠江および三河の平定に大きく貢献した武将のひとり。尾張国の鳴海城在番となる。1560年「桶狭間の戦い」では鳴海城を拠点に織田勢と戦いを繰り広げた。今川義元が織田信長に討たれた後も抵抗し続けるが、今川義元の首と引き換えに開城した。駿府へ帰還する途次、戦功の無いまま帰るを良しとせず刈谷城を攻撃、水野信近を討ち取り城を焼き払った。1568年、武田晴信の「駿河国侵攻」によって今川氏真が駿府を追われると降伏して武田家に仕えた。高天神城の守将に任じられる。1581年、松平勢は横須賀城を拠点に本多忠勝らの攻撃を受け「第二次高天神城の戦い」開城した。この際に今川元信は敵勢に斬り込み、大久保忠教の家臣に討たれた。

岡部貞綱【おかべさだつな(15??~1575)】

岡部親綱の次男。官途は豊前守。通称は忠兵衛。別名土屋貞綱。当初は伊丹康直と共に駿河国の海賊衆を率いて今川家に仕えた。武田晴信の「駿河国侵攻」により今川真氏が逃亡すると武田晴信に降伏した。この時、武田晴信は北条方の伊豆国海賊衆から間宮武兵衛、造酒丞兄弟を引き抜き、岡部貞綱を武田の海賊大将に据えた。1570年、土屋姓に改姓し、土屋豊前守と称した。武田家海賊衆編成に当たって岡部貞綱は伊勢から向井正綱と小浜景隆を招聘した。1575年「長篠の戦い」で討死した。

岡部長盛【おかべながもり(1568~1623)】

岡部正綱の男。官途は内膳正。室は松平清宗の娘。継室は松平元康の養女(松平康元の娘)。1583年、父岡部正綱の病没により岡部家の家督を相続した。1584年「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1585年、鳥居元忠を大将とする信濃国上田城攻めでの真田昌幸との対戦で活躍した。1590年、松平元康が関東に移封されたとき、それまでの戦功を賞されて下総山崎城12,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、下野国黒羽城の守備につき越後長尾家の南下に備えた。1609年、丹波国亀山城32,000石に加増移封された。1615年「大坂夏の陣」で戦功を挙げ、同国福知山城50,000石に加増移封された。

岡部家臣団【おかべけかしんだん】

調査中。

------------------------------------------------------

【か】

葛山氏広【かつらやまうじひろ(15??~1539)】

駿東郡葛山城主。伊勢長氏の三男。葛山氏堯の養子。官途は備中守。葛山家は駿河国の東部に広域にわたって在地領主制を展開した国人衆。その支配地域が今川家の駿河、武田家の甲斐、北条家の相模の三国の国境沿いに位置していたため、形の上では今川家に従属していたが、武田家や北条家とも関係が深かった。1516年、葛山家の家督を相続した。葛山氏広は今川義元に従属しており、葛山氏広も駿府に屋敷を構え今川家に出仕していた。1537年、北条氏綱と今川義元が争った「河東一乱」の際には北条氏綱側で参陣した。

葛山氏元【かつらやまうじもと(15??~1573)】

葛山氏広の男。官途は備中守。室は北条氏綱の娘。葛山氏元も当初は今川家に帰属していたが、同盟関係にあった武田家、今川家の関係が悪化した。1568年、武田晴信は今川領国への「駿河国侵攻」を行なった。葛山氏元は朝比奈信置や瀬名家らと武田家方に内応した。1569年、穴山信君とともに今川家と同盟関係にある相模後北条氏の後援を受けた富士郡の富士信忠の守る大宮城をと共に攻めた。娘婿に武田晴信の六男を迎えた。1573年、武田晴信の命により誅殺された。

葛山信貞【かつらやまのぶさだ(15??~1582)】

武田晴信の六男。葛山氏元の養子。室は葛山氏元娘。武田勢が「駿河国侵攻」を行なうと駿東郡領主の葛山氏元をはじめとした今川家臣も武田方に内応し、後北条家が駿相同盟に基づいて今川領国に出兵したため葛山領は北条勢により接収された。葛山氏元は富士郡へ落延びた。1571年、武田方による駿東郡の深沢城が奪還されると旧葛山領は回復し「甲相同盟」の復活で支配も安定化した。葛山信貞は葛山城には在城せず甲府在府で、現地での政務は葛山家臣であった御宿友綱は後見役として現地で政務を代行していた。1582年、織田信長の「武田家征伐」により、兄武田勝頼は甲斐国内において自刃し、葛山信貞も甲府の甲斐善光寺において自刃した。

葛山家臣団【かつらやまけかしんだん】

葛山備中守、御宿勘兵衛正倫。

蒲原満氏【かんばらみつうじ(15??~1536)】

蒲原城主。蒲原貞氏の男。今川範国の三男、今川氏兼の次男である蒲原頼春を祖とする。1489年「足利茶々丸の乱」には、伊勢新九郎らと兵1,000余りと共に伊豆国堀越御所を攻めて茶々丸を討った。1527年、将軍足利義晴が、管領細川晴元やその家臣三好元長らに京を追われて近江国朽木谷の朽木稙綱を頼るとこれに従った。

蒲原氏徳【かんばらうじのり(15??~1560)】

蒲原満氏の男。官途は宮内少輔。1536年、父蒲原満氏の病没により蒲原家の家督を相続した。1549年「安城の戦い」で大将を務め戦功を挙げた。1560年「桶狭間の戦い」で討死した。

蒲原徳兼【かんばらとくかね(15??~15??)】

蒲原氏徳の男。1560年、父蒲原氏徳が「桶狭間の戦い」で討死後、蒲原家の家督を相続した。1560年、高林源兵衛が謀叛を起こすとと今川氏真は蒲原徳兼に鎮圧を命じた。蒲原徳兼は高林一族を滅ぼし、謀叛平定の功により感状を賜った。

------------------------------------------------------

【さ】

関口親永【せきぐちちかなが(1518~1562)】

花沢城主。瀬名氏貞の次男。官途は伊予守。別名瀬名親永。関口家の養子となって家督を相続した。室は今川氏親の娘。1555年、松平元康元服に立会。松平元康を娘(築山殿)婿に迎える。1560年、今川義元が織田信長によって「桶狭間の戦い」で討たれた後も衰退する今川家を支えた。松平元康が今川う氏真から独立したため、今川氏真からその去就を疑われた結果、1562年、駿府尾形町の屋敷にて自刃を命じられた。

関口氏経【せきぐちうじつね(15??~1560)】

官途は越中守。遠江の井伊家の目付け。1560年「桶狭間の合戦」に討死した。

瀬名氏貞【せなうじさだ(1497~1538)】

庵原郡瀬名城主。通称源五郎。今川氏輝の死後の家督争いに朝比奈泰以、由比助四郎とともに今川義元を擁立した。

瀬名氏俊【せなうじとし(15??~15??)】

瀬名氏貞の男。官途は左衛門佐。室は今川氏親の娘。1560年「桶狭間の戦い」では、今川本隊の先発隊として偵察、桶狭間にて本隊の陣所の設営などを行い大高城へ向かっていた為、難を逃れた。

瀬名信輝【せなのぶてる(1544~15??)】

瀬名氏俊の男。今川義元、今川氏真の二代に仕えた。1568年、甲斐武田家による今川領国への侵攻が行われると、瀬名家は朝比奈信置や葛山氏元らとともに武田方に内応した。

------------------------------------------------------

【た】

太原雪斎【たいげんすうふ(1496~1555)】

今川家臣。通称崇孚。庵原政盛の男。駿河国の清見寺、善徳寺、長慶寺の住職。今川氏親が建立した大竜山臨済寺開祖。母は興津正信の娘。1536年「花倉の乱」に今川義元を家督に擁立。1547年「田原城の戦い」。1548年、大将として尾張侵攻「第二次小豆坂の戦い」に参陣した。1549年、織田信広を捕虜した。1554年「三国同盟」の成立に尽力した。

高橋修理進【たかはししゅりのしん(15??~15??)】

今川家臣。興国寺城代を務めた。伊勢宗瑞に従った高橋将監や後の北条家臣高橋平左衛門の枝連衆。

伊達忠宗【だてただむね(15??~15??)】

今川家臣。通称蔵人祐。今川氏親の側近。

------------------------------------------------------

【な】

中川通秀【なかがわみちひで(15??~15??)】

今川家臣。通称吉右衛門。1568年「薩垂山の戦い」で侍大将を務めた。

長瀬長行【ながせながゆき(15??~1560)】

今川家臣。通称瀬兵衛。1560年「桶狭間の戦い」で討死した。

新野式部少輔【にいのしきぶしょうゆう(15??~15??)】

今川家臣。1568年「薩垂山の戦い」に侍大将として庵原安房守とともに参陣した。

------------------------------------------------------

【は】

長谷川正長【はせがわまさなが(15??~15??)】

一色城主。官途は紀伊守。1570年、武田晴信に降伏した。

長谷川元長【はせがわもとなが(15??~15??)】

小川城主。長谷川正宣の男。今川家臣。官途は伊賀守。

福島正成【ふくしままさなり(1492~1536)】

今川家臣。福島基正の男。通称兵庫。1521年、甲斐で武田信虎勢との戦いに敗れたのち、今川氏親の後継者の今川氏輝の代まで生き延びたが、今川氏輝とその弟今川彦五郎の死後に発生した家督争い「花倉の乱」で、今川氏親の側室である福島家を母とする玄広恵探を同族の誼で支持した。1536年、今川義元によって福島家が滅亡させられた際に国を追われた。逃亡先の甲斐にて武田信虎に討たれた。

福島綱成【ふくしままさなり(1515~1587)】

福島正成の男。北条為昌の養子。官途は上総介。別名北条綱成。室は北条氏綱の娘(大頂院殿)。1536年、父福島正成が今川家内紛の「花倉の乱」で今川義元の異母兄玄広恵探を支持したために討たれ、北条氏綱の元へ落延びた。北条氏綱は福島綱成に娘を娶わせて後北条家枝連衆に迎えるとともに、北条姓を与えた。1542年、北条為昌の養子となり玉縄城主となった。1537年、扇谷上杉家との戦いをはじめ関東各地を転戦した。1541年、北条氏綱が死去して北条氏康が家督を継いでも、その信頼が変わることはなかった。1546年「河越城の戦い」では、籠城戦で耐え抜いた上に本軍と呼応して出撃し敵を突き崩すなど、北条勢の大逆転勝利に戦功を挙げた。その後も北条家中随一の猛将として活躍し、里見義弘との「第一次国府台の戦い」では、奇襲部隊を率いて里見勢を撃砕し、武田晴信との「駿河深沢城の戦い」では寡勢でありながら大健闘した。1571年、北条氏康が病没すると、福島綱成も家督を嫡男福島氏繁に譲って隠居した。

福島綱房【ふくしまつなふさ(15??~1549)】

福島正成の次男。北条為昌の養子。別名北条綱房。父福島正成の没落後に兄福島綱成や妹とともに北条家に身を寄せた。福島綱房は北条氏康の小姓となり、また兄妹とともに玉縄城主北条為昌の養子に入った。1546年「河越城の戦い」で、兄福島綱成が城将を勤める河越城が上杉憲政、上杉朝定、古河公方足利晴氏らの連合軍に包囲されると、自ら北条氏康の使者を名乗り出た。福島綱房は堂々と敵中を突破し小田原城にへの使者としての責務を全うした。

藤枝氏秋【ふじたうじあき(15??~1560)】

今川家臣。官途は伊賀守。1560年「桶狭間の戦い」で討死した。前備侍大将。

富士信盛【ふじもりのぶ(15??~15??)】

大宮城主。富士大宮司家。富士郡の国人領主。富士山本宮浅間大社の大宮司を司った家柄でもある。

富士信忠【ふじのぶただ(15??~1583)】

富士信盛の男。官途は兵部少輔。1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が討死すると今川領国では動揺が起こり、駿河国の国人衆は今川氏真の出陣要請に従わなくなった。1568年、武田晴信は、同盟を破棄して、駿河国への侵攻を開始した。武田勢は大宮城攻めを行い、富士信忠は、後北条家の支援を受けながら今川氏真を庇護した。1569年、穴山信君、葛山氏元が大宮城攻めを行っている。武田晴信が大宮城攻めを行うと富士信忠は穴山信君を通じて降伏した。武田晴信に降伏、後北条家から武田攻めの際に旧領復帰や領地加増を条件に味方につくように催促された。駿河の武田領国化に伴い大宮城は接収され、富士信忠は甲府へ出仕している。大宮城代には武田家臣の原昌胤が任じられ、富士郡支配は原昌胤や市川昌房が務めた。大宮城失領以後は、国人としてではなく大宮司としての活動が主となった。

富士信通【ふじのぶみち(15??~15??)】

富士信忠の息。通称蔵人。父富士信忠とともに今川氏真に仕えたが、今川家滅亡後は武田勝頼に属した。1573年、武田勝頼から駿河竜泉寺等を与えられた。1578年、駿河国府中浅間社神職に任ぜられている。

------------------------------------------------------

【ま】

三浦範高【みうらのりたか(15??~15??)】

横山城主。今川義忠家臣。通称次郎左衛門。今川氏親の筆頭家老。

三浦氏員【みうらうじかず(15??~15??)】

三浦範高の男。官途は上野介。室は伊勢長時の娘。1545年、冷泉為和を招き自邸にて歌会開催した。

三浦正勝【みうらまさかつ(15??~15??)】

三浦氏員の男。通称二郎左衛門。

三浦貞勝【みうらさだかつ(15??~15??)】

三浦氏員の次男。官途は上野介。

三浦氏満【みうらうじみつ(15??~1630)】

三浦氏員の三男。通称次郎左衛門尉。今川氏真の側近。武田家、北条家、松平家に出仕した。

御宿信貞【みくりやのぶさだ(15??~15??)】 

駿東郡御宿城主。葛山家臣。室は跡部泰忠の妹。

御宿友綱【みしゅくともつな(1546~1606)】

御宿信貞の次男。通称は左衛門次郎。室は長坂光堅の娘。医師でもあり、武田晴信の侍医を務めた。1537年、武田家に臣従した。1567年、葛山信貞を補佐して駿東支配した。葛山家の枝連衆だったことから武田晴信の六男で葛山氏元の養子になった葛山信貞の陣代(後見人)を務めた。武田晴信が病に倒れたときには、板坂法印と共に医師として武田晴信の治療に当たった。

御宿政友【みしゅく まさとも (15??~1615)】

御宿信名の男。官途は越前守。別名は御宿勘兵衛。1580年、父御宿友綱の隠居により御宿家の家督を相続した。後北条家臣松田憲秀に仕えた。武田晴信、武田勝頼父子、北条氏直と転々と変え、北条家滅亡後は、結城秀康に10,000石で召抱えられた。結城秀康の死後、跡を継いだ松平忠直と不和となり浪人して大坂城に入り「大坂夏の陣」で討死にした。

------------------------------------------------------

【や】

吉田氏好【よしだうじよし(15??~1560)】

今川家臣。官途は武蔵守。1560年「桶狭間の戦い」では軍奉行として参陣した。織田勢の突撃を受け今川義元と共に討死した。

由比光教【ゆいみつのり(15??~1560)】

由比城主。

由比寧広【ゆいかねひろ(15??~15??)】

由比光教の男。通称郷右衛門。別名岩辺門寧広。1560年、父由比光教の討死により、由比城は分家して志太に居を構えていた岩辺寧広が治めることとなった。

由比正信【ゆいまさのぶ(15??~1560)】

川入城主。由比安忠の男。今川家臣。官途は美作守。由比家は早くから今川義元の麾下に属して「花倉の乱」では由比城主、由比光教と共に今川義元側に付いた。1560年「桶狭間の戦い」では今川本陣を織田信長に襲われ今川義元や由比光教と共に討死した。

由比正純【ゆいまさずみ(15??~15??)】

由比正信の男。1560年、父由比正信の討死により家督を相続した。今川氏真に従ったが「掛川城の戦い」で討死した。

由比光広【ゆいみつひろ(15??~15??)】

由比正信の次男。

由比景国【ゆいかげくに(15??~15??)】

由比正信の三男。

弓気多昌利【ゆげたまさとし(15??~15??)】

今川家臣。通称七郎次郎。1549年「安祥城の戦い」「上野端城の戦い」で戦功を挙げ、今川義元から感状を与えられた。

------------------------------------------------------

【資料Ⅰ】

駿河国(7郡/280,000石)

駿東郡:
富士郡:
庵原郡:
安倍郡:
有渡郡:
志太郡:
益津郡:

------------------------------------------------------

【資料Ⅱ】

安倍七騎衆【あべななきしゅう】

戦国時代、安倍川とその支流に住んだ七騎の武将たち、後世の諸本に「安倍七騎」の名で記されている。その七騎には諸説あるらしいが、この小説では、安倍川本流沿いの村岡村の末高石見、俵峰村の杉山小兵衛、望月四郎右衛門、安倍川支流の中河内川沿いの上落合の大石五郎右衛門、西河内川沿いの腰越村の長嶋甚太右衛門、中河内川と西河内川の合流点の落合村の狩野弥次郎、足窪川沿いの足窪村の石貝重郎左衛門の七名を「安倍七騎」としている。

------------------------------------------------------

【資料Ⅲ】

駿河国【するがのくに】

東国との境に位置する東海道の国。東は箱根山西麓で相模国、清水の東方で伊豆国と接し、西は大井川沿いに遠江国と境を隔てている。北は野辺山地、天子山地、富士山などの山地越しに甲斐国、赤石山脈に沿って信濃国と通じている。南には駿河湾が広がり、沿岸沿いに東は伊豆国、西は遠江国とも行き来が可能である。全般に山がちの地形であるが、狩野川、富士川、安倍川、大井川の河口付近には平地も存在する。狩野川と富士川に挟まれた田子ノ浦をはじめ、港湾に適した土地が多く、漁業、海運業ともに盛んである。戦国期の駿河国は今川家の地盤となり、今川義元の時代には、駿府には、戦乱を逃れた京の都の公家や文化人が転入し「東国の都」、或いは「東国の京」と呼ばれる繁盛を見せた。1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が討死すると、武田晴信や松平元康の統治下に置かれた。

富士山本宮浅間大社【ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ】

源頼朝が行った富士の巻狩りの際、武将を率いて浅間大社に詣き、流鏑馬を行った。公家や武家からの崇敬を受け、後醍醐天皇の土地の寄進や後奈良天皇の奉納の他、武家からは社領の寄進や修復が重ねて行われた。鎌倉時代には源頼朝の社領の寄進や北条義時の社殿の造営、南北朝時代には足利尊氏や足利直義による社領の寄進、今川範氏や今川泰範らの土地の安堵や寄進などが行われた。その後武田晴信、武田勝頼親子が社殿の修造を行い、羽柴秀吉も社領を寄進している。松平元康は867石の朱印地を安堵したほか「関ヶ原の役」の戦勝を祝して社殿を造営した。

安倍金山【あべきんざん】

今川家の金山として知られる駿河国の安倍金山だ。これは井川、梅ヶ島、大河内、玉川の各金山の総称で、それまでは「追掘おっぽり」といって安倍川、大井川の河岸段丘に堆積した砂金を採取する方法が主だった。今川氏親の時代から、坑道によって金鉱石を採取する「問掘といぼり」へと進歩した。金山経営の大規模化によって今川氏親は財源を確保し、領国経営を軌道に乗せることに成功した。

------------------------------------------------------

戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

------------------------------------------------------

0 件のコメント: