2012年2月11日土曜日

前田利家家臣団辞典

------------------------------------------------------

【あ】

青山信昌【あおやまのぶまさ(15??~1547)】

織田家臣。通称与三右衛門。1542年、織田信長が織田信秀から那古野城を与えられ城主になった際、養育係として仕えた「四長(四家老)」のひとり。他に平手政秀、林秀貞、内藤勝介がいた。1547年、織田家の「稲葉山城の戦い」参陣して、長井規秀の奇襲に遭い「加納口の戦い」で織田信康等多くの将兵と共に討死した。

青山吉次【あおやまよしつぐ(1542~1612)】

青山信昌の男。官途は佐渡守。通称与三。織田信長に仕えた後は前田利家に仕えた。寺西九兵衛と前田利家姉妹の子、長寿院の婿となる。1575年「越前府中二十一人衆」のひとりとして戦功を挙げ1,0000石を領した。1583年「賤ヶ岳の戦い」では前田利長方に付き戦功を挙げ3,000石を領した。その後も「末森城の戦い」や「八王子城の戦い」などに参陣した。越中国魚津城の城主になり17,000石を領した。羽柴秀吉の「文禄、慶長の役」では前田利家に従い肥前国名護屋城に在陣した。1600年「関ヶ原の役」の前哨戦である「大聖寺城の戦い」では、金沢城の守備に付いた。

浅井兵部【あさいひょうぶ(15??~1600)】

前田家臣。1600年「大聖寺城の戦い」に参陣しが討死した。

井上勘左衛門【いのうえかんざえもん(15??~15??)】

前田家臣。1600年「小松城の戦い」に参陣した。八代橋付近で丹羽勢と交戦した。

稲葉左近【いなばさこん(15??~15??)】

前田利家家臣。使番衆。1600年「小松城の戦い」に参陣した。前田利長の命令で丹羽勢と交戦している部隊に遣わされ、前田利長到着まで丹羽勢を引きつけるよう伝えた。前田利常の命により 稲葉左近が責任者となり辰巳用水を作事した。小松の街人板屋兵四郎が請け負った この用水工事は一年で仕上がった。

今枝直恒【いまえだなおつね(15??~15??)】

前田家臣。1600年「関ヶ原の役」の前哨戦「大聖寺城の戦い」では城を出て御幸塚に布陣した。木場潟への進軍で五番手を務めた。

岩田伝左衛門【いわたでんざえもん(15??~15??)】

前田家臣。足軽大将。1600年「小松城の戦い」に参陣した。八代橋付近で丹羽勢と交戦した。

宇野宗右衛門【うのそうざえもん(15??~15??)】

佐々成政に仕えた。1586年、前田利家に仕えた。

大井直泰【おおいなおやす(15??~15??)】

前田安勝家臣。通称久兵衛。小丸山城守将。1582年、三輪吉宗と共に能登国統治して1,250石を領した。

岡島一吉【おかじまかずよし(1559~1619)】

前田利家家臣。官途は備中守。通称帯刀左衛門。1575年、100石を領した。1585年、大峪城築城した。「九州征伐」「小田原の役」に参陣した。1598年、呉服山城を守備した。1600年「大聖寺城の戦い」に参陣した。役後加増され11,750石を領した。1614年「大坂冬の陣」で先鋒を務めた。1615年「大坂夏の陣」では高岡城を守備した。

岡田長右衛門【おかだちょうざえもん(15??~1619)】

前田家臣。1575年、前田利家の右筆、御算用奉行となり70石を領した。後に同じ前田家臣新川儀太夫と争い隻眼となった。のちに4,000石を領した。

奥村永福【おくむらながとみ(1541~1624)】

前田家臣。官位は伊予守。通称助右衛門。別名奥村家福。室は安。奥村家は代々前田家に仕えた家系で、永福は前田利家の父前田利春や兄前田利久にも仕えた。1569年、織田信長の命により、前田利家が前田家の家督を相続した際には、荒子城代を務めていた奥村永福は、前田利久の命が無い限り城は明け渡さないと抵抗した。改めて前田利久の明け渡しの命により、前田家を辞し浪人する。1573年、前田利家が柴田勝家の寄騎衆として府中30,000石を領すると帰参した。その後は前田利家の従い各地を転戦して戦功を挙げた。加賀国に前田利家が加賀国に入った際には、要衝末森城主となった。1584年、佐々成政に15,000余りに攻められ末森城に籠城した。「末森城の戦い」では二の丸まで落ちたものの、奥村永福は寡兵で前田利家の援軍到着まで耐えぬき、佐々成政勢を撃退した籠城戦の時、奥村永福の室である安の方は、薙刀をもって城内を巡回し、粥を振る舞って負傷者を介抱し、城兵を見舞った。その後も、前田利家の重臣として、村井長頼と共に加賀前田家の基礎を作った。「九州の役」「小田原の役」にも参陣した。「大坂の両役」では金沢城代を務めた。

奥村栄明【おくむらはるあき(1568~1620)】

奥村永福の男。官位は河内守。通称孫十郎。室は山崎長徳の娘(亀姫)。継室は高畠定吉の娘。父奥村永福が佐々成政への押さえとして末森城を任されると弟奥村易英と共に同城の守備についた。1584年、佐々成政に末森城を攻められた「末森城の戦い」では父奥村永福と共に城を守る。1590年「小田原の役」に参陣した。1599年、父奥村永福の隠居により奥村家の家督を相続して10,650石を領した。1600年「関ヶ原の役」では加賀大聖寺城攻撃し「浅井畷の戦い」で戦功を挙げた。1614年「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」に参陣し戦功を挙げ3,000石の加増を受けた。1615年、弟奥村栄頼が、前田利常と対立して前田家を退身した際には、父奥村永福の制止で同調しなかった。

奥村易英【おくむらやすひで(1571~1644)】

奥村永福の次男。官途は因幡守。通称主殿。室は横山長隆の娘。1584年、佐々成政に末森城を攻められた「末森城の戦い」では父奥村永福や兄奥村栄明と共に城を守った。前田利常に仕え1,000石を領した。1590年「小田原の役」に参陣し「八王子城の戦い」で戦功を挙げた。1600年「大聖寺城の戦い」で戦功を挙げ2,000石を加増された。1614年「大坂冬の陣」に前田利常に従い参陣し「真田丸の戦い」で戦功を挙げ4,500石を加増された。1615年「大坂夏の陣」では父奥村永福と共に金沢城の留守居を務めた。父奥村永福の没後その遺領3,300石を相続した。

奥村栄頼【おくむらはるより(15??~15??)】

奥村永富の三男。奥村栄頼は政敵の横山長知との対立により、奥村栄明、奥村易英や本多政重と共に家臣が一斉に出奔する計画を実行しようとしたところ、重臣達の出奔を理由に前田家を取り潰されては困ると隠居していた奥村永福が説得にあたり、奥村栄頼のみが出奔するに留まった。

奥野讃岐守【おくのさぬきのかみ(15??~1607)】

奥野与兵衛の男。通称弥一郎。はじめは蒲生氏郷に仕える。蒲生氏郷の病没後、前田利家に仕えた。「末森城の戦い」に参陣し戦功を挙げ5,530石を領した。

小瀬甫庵【おぜほあん(1564~1640)】

小瀬家は美濃国守護土岐家の庶家。坂井下総守の養子となった。小瀬甫庵は医学と経史を学んで織田家家臣の池田恒興に医者として仕えた。1584年、池田恒興の死後は羽柴豊臣秀次に仕えた。1595年、羽柴秀次死後は宇喜多秀家に仕えた。1600年「関ヶ原の役」以後には堀尾吉晴にも仕えた。堀尾吉晴没後は浪人となった。1624年、嫡男小瀬素庵が前田利常に仕えた縁で加賀藩で知行を貰い、蟄居して諸書の著述に専念医書などを刊行した。著書に『甫庵太閤記』『信長記』がある。

------------------------------------------------------

【か】

加藤朝重【かとうともしげ(15??~15??)】

前田家臣。1600年、前田利長によって大聖寺城二の丸に配備された。

神尾甚右衛門【かみおじえもん(15??~15??)】

佐々家臣。神尾之直の養父。後に前田利家に仕え2,000石を領した。

神尾之直【かみおゆきなお(1565~1643)】

堀田安休の男。神尾甚右衛門の養子。通称五郎八。前田利長に仕えて9,000石を領した。1586年、佐々家との戦いに参陣した。1600年「大聖寺城の戦い」では城を出て三堂山城に布陣した。前田利長の隠居に従い、高岡城に移った。同じ家老職の横山長知と不和になり、家中は両者の対立のため二分するほどだった。前田利長はこれを解消するため、遺戒として両家に婚姻を命じた。

神谷守孝【かみやもりたか(15??~1623)】

前田家臣。官途は信濃守。室は中川光重の娘。1591年、前田利家の近侍として1,200石を領した。1592年「文禄の役」では肥前名護屋城に在城した。前田利家没後、高野山に墳墓を造営した。1615年「大坂夏の陣」に参陣した。

金岩与次之助【かねいわよじのすけ(15??~15??)】

前田利家家臣。尾張荒子城主時代から仕えた荒子七人衆のひとり。越前国府中で200石を領した。

木崎長左衛門【きざきながざえもん(15??~15??)】

山崎長門守家臣。1600年「関ヶ原の役」の「大聖寺城の戦い」に参陣した。敵将山口修弘を討取った。

木村三蔵【きむらさんぞう(15??~15??)】

前田利家家臣。尾張荒子城主時代から仕えた荒子七人衆のひとり。前田利家の小姓として仕え、越前国府中で180石を領した。1583年、羽柴勢との「賤ヶ岳の戦い」で前田利家が戦線を離脱した際、殿軍となって討死した。嫡子が無く、一代で絶家した。

木村景行【きむらかげゆき(15??~1599)】

前田利家家臣。通称三郎兵衛。8,000石を領した。

小塚藤右衛門【こづかとうえもん(15??~1583)】

前田利家家臣。尾張荒子城主時代から仕えた荒子七人衆のひとり。1573年、朝倉攻めの「刀根山の戦い」戦功を挙げた。能登国で3,700石を領した。1583年、羽柴勢との「賤ヶ岳の戦い」で前田利家が戦線を離脱した際、殿軍となって討死した。

小塚秀正【こづかひでまさ(15??~1618)】

前田安勝家臣。官途は淡路守。通称八右衛門。「加賀国討伐」「能登国討伐」「九州征伐」「小田原の役」に参陣した。1600年「大聖寺城の戦い」で戦功を挙げた。1602年、太田長知が謀殺されると大聖寺城主。前田利長の隠居に従い高岡城へ移る。「大坂の役両陣」では金沢城代。

小塚権太夫【こづかごんだいふ(15??~1603)】

前田家臣。1602年、太田長知が謀殺されると御幸塚城守将となった。

近藤長広【こんどうながひろ(15??~1611)】

前田家臣。官途は大和守。通称善右衛門。1575年、200石を領した。末森城救援に参陣した。横山長秀没後、御幸塚城守将となった。1606年、大聖寺城代に任じられ11,000石を領した。

------------------------------------------------------

【さ】

佐脇良之【さわきよしゆき(15??~1572)】

前田利春の五男。佐脇興世の養子。通称藤八郎。室は浅井長政の娘。織田信長に小姓として仕えた。1558年「浮野の戦い」に参陣した。兄前田利家とともに赤母衣衆となった。1560年「桶狭間の戦い」では、急遽出陣した織田信長に岩室重休、長谷川橋介、山口飛騨守、加藤弥三郎とともに真っ先に従った。その後、長谷川橋介、山口飛騨守、加藤弥三郎とともに織田信長の勘気をこうむったため、勘当されれ、ともに松平元康のもとに身を寄せた。1572年「三方ヶ原の戦い」に参陣し、長谷川ら三人とともに討死した。嫡男佐脇久好は、佐脇良之の室が前田利次の乳母になった関係から前田利次に仕えた。

篠崎清了【しのざきせいりょう(15??~15??)】

前田利秀家臣。通称織部。1586年、城生城代に任じられた。1592年、前田利秀が没すると篠崎清了は代わりにこの地の奉行となった。嫡男の篠崎清政、孫の篠崎清長も同地の奉行職と務めた。

篠原一孝【しのはらかずたか(1561~1616)】

前田家臣。篠原長重の養子。官途は肥前守。通称勘六。室は佐脇良之の娘。若い頃から前田利家に仕え「北陸平定戦」「末森城の戦い」「小田原の役」「大坂の役」などに侍大将として参陣した。大坂で死去した前田利家の棺を加賀に帰すなどよく付き従った。石垣普請の名人でもあり、金沢城の河北門などの普請を行なった。人持組頭となり、横山長知、奥村栄明と共に執政として国政を司り15,650石を領した。嫡男篠原主膳は早世。次男篠原出羽が家督と10,250石を領した。三男篠原重一は1,000石で分家し、兄出羽の死後2000石を加増された。四男篠原虎之助は1,000石で分家するも早世した。

------------------------------------------------------

【た】

高畠定吉【たかばたけさだよし(1536~1603)】

高畠吉光の男。官途は石見守。通称孫十郎。室は前田利家の妹(津世姫)。尾張荒子城主時代から仕えた荒子七人衆のひとり。前田利家に仕え戦績を重ねた。前田利家の妹津世姫を夫人に迎えた。七尾城、加賀劔城、越中宮崎城などの守将を務め、前田利家股肱の臣の一人として「北陸攻略」鎮定で戦功を挙げた。荒子七人衆、越前府中二十一人衆に名を連ねている。前田利家の死後は嫡男前田利長に仕えた。1600年「関ヶ原の役」の際には金沢城の留守を任された。1602年、致仕し、剃髪して京都に隠棲した。

高畠定良【たかばたけさだよし(1537~1601)】

高畠吉光の次男。通称平右衛門。1584年、木舟城5,000石を領した。1590年「八王子城の戦い」に参陣した。1600年「大聖寺城の戦い」に参陣した。

高畠茂助【たかはたもすけ(15??~15??)】

前田利家能登入国後、宇野十兵衛と共に二穴城を守った。

竹田宮内【たけだくない(15??~15??)】

前田利家家臣。佐々成正が肥後に移されると、越中升形山城を守備した。

津田重久【つだしげひさ(1549~1634)】

津田高重の男。官途は遠江守。通称与三郎。足利義昭に仕えたのち明智光秀に仕えた。1582年「本能寺の変」で先鋒を務めた。明智光秀が敗死した後は高野山逃れたが赦されて羽柴秀吉、羽柴秀次に仕えた。1596年、羽柴秀次の自刃後、に前田利長に召し出され6,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」の前哨戦たる「大聖寺城の戦い」で武功を挙げて、役後に大聖寺城代を務めた。

土田作右衛門【つちださくざえもん(15??~15??)】

前田利家家臣。

津田刑部【つだぎょうぶ(15??~15??)】

前田利家家臣。1614年「大坂の役両陣」では、富山城留守居役を務めた。 

寺西秀則【てらにしひでのり(15??~1611)】

前田家臣。官途は通称治兵衛。織田信長に仕え、佐久間信盛に属した。1575年「長篠の戦い」で戦傷を負った。1569年、本願寺との合戦に参陣した。佐久間信盛失脚後、前田利家に属し5,000石を領した。1586年、加賀松任城代官職に任じられた。1599年、松平元康が謀反の気配有りと「前田家征伐」を画策すると、横山長知と共に謀反の噂は事実無根と釈明した。

------------------------------------------------------

【な】

中川清六【なかがわせいろく(15??~15??)】

前田利家家臣。1586年、山崎庄兵衛と共に越中国増山城の守備についた。

中川光重【なかがわみつしげ(1562~1614)】

中川重政の男。織田信長、織田信忠、前田利家に仕えた。夫人は利家の次女簫姫(瑞雲院)。通称清六郎。出家後宗半、巨海斎と号した。
始め織田信長、織田信忠に仕えていたが、両者が「本能寺の変」で横死すると、前田利家の次女を娶り家臣となって近侍した。能登七尾城や越中増山城の守将を務めたが、職務怠慢のかどで咎められ、一時期蟄居を命じられ逼塞したこともある。また豊臣秀吉から直に知行を与えられ、御伽衆となっていた時期もあったが、結局利家の下に帰参している。1600年「関ヶ原の役」では前田利長に随従して「大聖寺城の戦い」に貢献したが、一方で直前まで羽柴秀頼の傍にあって御伽衆を務めた。加賀国に下向する途中大谷吉継の手勢に捕らえられ、前田利長を撹乱するための謀書を認めさせられ、前田利長の南進を阻害した。

長田権右衛門【ながたごんざえもん(15??~15??)】

前田利家家臣。小塚藤十郎と同じく前田家に仕えた足軽大将。

成瀬吉正【なるせよしまさ(1576~1644)】

成瀬正一の男。松平元康の侍女に育てられるが、突如松平家を出奔した。浅野幸長の家臣、次いで小早川秀秋の家臣となった。1600年「関ヶ原の役」に参陣した。1600年「関ヶ原の役」後は加賀藩の前田利常に仕え、大坂の陣で活躍した。後に加賀藩の家老となり11,000石を領した。人持組の成瀬掃部助家の祖となった。

西尾長昌【にしおながまさ(1584~1651)】

前田家臣。官途は隼人。西尾光昌の男。1598年、前田利長に仕えた。1600年「関ヶ原の役」で戦功を挙げた。1615年「大坂夏の陣」で戦功を挙げ5,000石を領した。

------------------------------------------------------

【は】

原田又右衛門【はらだまたざえもん(15??~15??)】

前田利家家臣。尾張荒子城主時代から仕えた荒子七人衆のひとり。

橋爪縫殿助【はしづめぬいどのすけ(15??~15??)】

前田利家家臣。

------------------------------------------------------

【ま】

前田利春【まえだとしはる(15??~1560)】

尾張国海東郡荒子城主。前田利隆の男。官途は縫殿助。別名前田利昌。室は竹野氏の娘(長齢院)。尾張国で林秀貞の寄騎衆として、織田家に仕え4,000石を領した。1560年「桶狭間の戦い」の後に病没した。

前田利久【まえだとしひさ(15??~1587)】

前田利春の男。前田利益(前田慶次郎)の養父。室は滝川益氏の娘。1560年、父前田利春が病没したため前田家の家督を相続した。嫡子がいなかったため弟前田安勝の娘を養女とし、その養女の婿に自身の室の甥前田利益を迎えた。1569年、織田信長の命により前田家の家督を弟前田利家に譲った。前田利家との仲が不和になったため、前田家から退去した。1581年、織田信長の元で能登国一国を領する大名となった前田利家を頼り仕え前田利久、前田利益親子は7,000石を領した。

前田利益【まえだとします(1533~1612)】

滝川益氏の男。前田利久の養子。別名前田慶次。室は前田安勝の娘。前田利久が室の実家である滝川家から娘の婿として前田利益を引き取り養子にした。1567年、織田信長より前田利久は隠居させられ、弟前田利家が荒子城4,000石を領した。このため前田利益は養父前田利久に従って荒子城から退去した。1581年、織田信長の元で能登国一国を領する大名となった前田利家を頼り仕え前田利久、前田利益親子は7,000石を領した。1584年「小牧、長久手の戦い」では佐々成政に攻められた「末森城の戦い」で奥村永福の救援に向い戦功を挙げた。その際に、前田利家より佐々方から寝返った阿尾城の城代に任じられ、同城奪還に向かった神保氏張らの軍勢を打破った。1587年、義父前田利久が没したことにより前田利益の嫡男前田正虎が前田利家に仕えた。1590年「小田原の役」では、前田利家に従って参陣した。1590年、前田家を退去したが、嫡男前田正虎と妻子一同は随行しなかった。その後は京都で浪人生活を送りながら、里村紹巴、昌叱父子や九条稙通、古田織部ら多数の文人と交流した。その後、長尾景勝と直江兼続の知遇を得た。1600年「関ヶ原の役」が起こると長尾家に仕官し、新規召し抱え浪人の集団である組外衆筆頭として1,000石を領した。「長谷堂城の戦い」の撤退戦で戦功を挙げた。西軍敗退により長尾家が30,000石に減封され米沢城に移されると、これに従って長尾家に仕えた。

前田安勝【まえだやすかつ(15??~1594)】

前田利春の三男。父前田利春の死後、織田信長の命で兄前田利久が隠居、弟前田利家が家督を継ぐが、前田安勝が前田利家に仕えるのは前田利家が越前府中に城を構えてからであった。前田利家が能登国を領すると七尾城代に任じられ13,500石を領した。1582年「棚木城の反乱」「石動山の戦い」で戦功を挙げた。1584年「末森城の戦い」では、数々の戦功を挙げた。前田利家が九州へ出陣の際には、物資の補給を担当した。

前田秀継【まえだひでつぐ(15??~1585)】

前田利春の六男。1576年、越前国府中で1,000石を領した。1583年、加賀国津幡城の守将に任ぜられ7,000石を領した。この時期より徐々に前田利家と隣国の越中国を治める佐々成政との関係が緊張し始め、両者は相争って加賀、越中国境周辺に数十箇所の城砦を設置、あるいは改修を施すのだが、その防衛線は国境を越えて加賀領内に入り込んでおり「末森城の戦い」以後には津幡城の至近にまで迫る事態へと推移していく。以降没するまでの数年間、前田秀継は常に対佐々家との戦いに従事した。1584年、能登国末森城を攻撃した佐々成政勢との戦いに参陣した。救援に向かう利家の軍勢を津幡城に迎え入れて軍議にも加わっている。嫡男前田利秀と共に越中国境にある倶利伽羅峠の防衛拠点である龍ヶ峰城を攻略、佐々平左衛門を敗走させる戦功を挙げた。1585年、越中攻略の重要拠点として築城された今石動城へと入城。佐々勢500余りが今石動城へと攻め寄せると前田秀継は寡兵ながら前田利秀と共に今石動城を死守した。援軍が到着するまで持ち堪えて神保氏張、佐々平左衛門らを敗走させる戦功を挙げた。羽柴秀吉の「越中討伐」で佐々成政が降伏して越中平定されると前田利家は新たに越中三郡を与えられ、前田秀継は越中国木舟城主に任ぜられ40,000石を領した。1585年「天正大地震」により木舟城が全壊。前田秀継は室や多数の部下と共に死亡した。

前田利秀【まえだとしひで(1568~1594)】

前田秀継の次男。通称又次郎。1582年「石動山城の戦い」に参陣した。なおこの戦いにおいて麾下の山田勘右衛門が山頂への一番乗りを果たした。1584年、能登国末森城を攻めた佐々成政軍を前田利家軍が破った「末森城の戦い」で第二陣の侍大将として加わった。父前田秀継と共に加賀国龍ヶ峰城を攻め、守将佐々平左衛門を撤退させた。1585年、前田利家が越中国蓮沼城を攻めた時に第四陣として加わった。1585年「天正大地震」によって木舟城が倒壊し、父前田秀継が圧死により前田家の家督を相続した。1586年、木舟城並びに城下の被害は甚大で復旧は困難であると判断して行政機能を今石動城に移し、町割りを行い近隣から寺院を集めるなど城下の整備に努めた。1590年「小田原の役」に参陣し諸城の攻略にあった。1592年「文禄の役」に参陣するがまもなく病没した。

前田利家【まえだとしいえ(1537~1599)】

前田利春の四男。官途は左近衛権少将。通称又左衞門。室は篠原一計の娘(松姫)。はじめ小姓として織田信長に仕え、赤母衣衆として織田信長に従軍、槍の名手だった故「槍の又左」の異名をもって怖れられた。その後柴田勝家の寄騎衆として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦、戦功を挙げ能登国240,000石を領した。1582年、織田信長が「本能寺の変」により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。羽柴家の宿老として羽柴秀吉の天下平定事業に従軍し、羽柴秀吉より加賀国、越中国を与えられた。1598年、羽柴秀吉より羽柴政権五大老に列せら、羽柴秀頼の傳役を任じられる。羽柴秀吉の死後、対立が顕在化する武断派、文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する松平元康の牽制に尽力するが、羽柴秀吉の死の八ヶ月後に病没した。

前田利長【まえだとしなが(1562~1614)】

前田利家の男。官途は肥前守。通称孫四郎。室は織田信長の娘(永姫)。1581年、父前田利家の旧領を与えられ、織田信長の娘永姫を室に迎えた。1582年「本能寺の変」は、永姫とともに上洛中の近江国瀬田で聞き、永姫を前田の尾張国荒子城へ逃がし織田信雄勢に加わった。織田信長没後は前田利家と共に柴田勝家に寄騎した。「賤ヶ岳の戦い」に参陣して戦後は父前田利家と共に越前国府中城へ撤退した。羽柴秀吉は北ノ庄城を攻める際、前田利長はわずか二騎の供回りで北ノ庄城攻めに加わった。1585年、羽柴秀吉により佐々成政が支配していた越中国が制圧されると、射水郡、砺波郡、婦負郡320,000石を領した。羽柴秀吉の麾下として「九州の役」「小田原の役」などに参陣し各地を転戦して戦功を挙げた。1598年、前田利家より前田家の家督と金沢領260,000石を相続した。1599年、前田利家が病没したため、その跡を継ぎ五大老のひとりとなった。松平元康による「加賀国征伐」に対し、前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった前田利長は細川家、宇喜多家を通じて羽柴家に対徳川の救援を求めた。しかし羽柴家がこれを断ったため、横山長知を弁明に三度派遣し、実母の芳春院を人質として江戸城の松平元康に差し出し交戦を回避した。1600年、松平元康は「越後長尾景勝討伐」のために出陣し、前田利長にも出陣が命じられた。松平元康出陣中に石田三成らが毛利輝元を擁立して挙兵すると、前田利長は弟前田利政の軍務放棄といった問題に悩まされながらも北陸で大聖寺城や小松城など西軍に与した諸城を落とした。さらに「浅井畷の戦い」では丹羽長重軍と激戦に及び、勝利した。「関ヶ原の役」後には、西軍に組した弟前田利政の能登七尾城225,000石と西加賀国の小松領120,000石と大聖寺領63,000石が加領され、加賀国、越中国、能登国の三ヶ国合わせて約1,200,000石を領した。嫡男がなかったので、異母弟の前田利常(利家の四男)を養嗣子として迎え、越中国新川郡富山城に隠居した。

前田利政【まえだとしまさ(1578~1633)】

前田利家の次男。官途は能登守。通称孫四郎。室は蒲生氏郷の娘。1593年、能登国七尾城の城主となった。1599年、父前田利家より能登に所領を分与された。1600年、石田三成らが毛利輝元を擁立して松平元康に対して挙兵すると、兄前田利長と共に東軍に属し北陸の西軍方大聖寺城の山口宗永を陥れた。前田利長たちは金沢城へ引き返した。金沢城へ引き返したあと前田利長が再出陣した際に前田利政は動かなかった。「関ヶ原の役」の本戦には参陣しなかった。役後、西軍が敗れたために前田利政は能登国の所領を没収され、京都の嵯峨に隠棲した。1614年「大坂冬の陣」では、両陣営から誘いを受けたが中立を維持した。役後、西軍の誘いに乗らなかった前田利政の行動に松平元康は気に入り、利政を10,000石の大名取り立てる打診をした。前田利政は「自分は大野治長の指揮下に入りたくなかっただけで、関東方への忠節を尽くす行動ではない。」と辞退した。

前田利常【まえだとしつね(1594~1658)】

前田利家の四男。官途は筑前守。室は松平秀忠の娘(珠姫)。側室は家臣鈴木権佐の娘(古和姫)。前田利家が羽柴秀吉の「文禄の役」で肥前名護屋城に在陣していた時、生母の寿福院は下級武士の娘で侍女として特派されたが、その際に前田利家の手がついて生まれたのが前田利常であった。幼少の時は前田長種のもとで育てられた。1600年「関ヶ原の役」の「浅井畷の戦い」の際、西軍についた小松城の丹羽長重の人質となった。跡継ぎのいなかった兄前田利長の養子となり、松平秀忠の娘(珠姫)を室に迎えた。1605年、前田利長は隠居し、前田利常が前田家の家督を相続した。「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」に参陣して、真田信繁隊と激戦を繰り広げた。1631年、松平秀忠の病中に乗じて利常に対する謀反の嫌疑をかけられるも、嫡男前田光高とともに江戸に下り懸命に弁明した。

前田種定【まえだたねさだ(15??~1599)】

下之一色城主。

前田長種【まえだながたね(1550~1631)】

前田種定の男。官途は対馬守。通称は甚七郎。室は前田利家長女(幸姫)。加賀八家のひとり。織田信長の家臣で「本能寺の変」後「小牧、長久手の戦い」で羽柴秀吉につき尾張国蟹江城を守備した。松平元康、織田信雄勢に敗れ父前田種定は討死した。兄前田定利も自刃した。本拠の下之一色城にいた前田長種は降伏し、前田利家を頼り家臣となり七尾城を守備した。その後、越中国守山城代となり前田利常を養育した。1605年、加賀国小松城代となり20,000石を領した。

前田直知【まえだなおとも(1586~1630)】

前田長種の男。官途は美作守。室は前田利長の養女(祖心尼)。継室は前田利長の養女(長連龍の娘)竹姫。前田利長に仕え5,000石を領した。後に父前田長種の禄を合わせて10,000石を領した。小松城代を務めた。「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」に参陣した。病のため、隠居して家督を嫡男直正に譲り、京都で療養した。

松平康定【まつだいらやしさだ(15??~1620)】

三河伊保城主松平紀伊守の次男。官途は伯耆守。通称久兵衛。継室は前田長種の娘。柴田勝家、佐々成政に仕えた。1586年、前田利長に仕えた。「九州征伐」に参陣した。1600年「関ヶ原の役」では、御幸塚に布陣。三堂山城までの行軍に関する軍議の中、戦闘を避けるため山道を進むよう主張。木場潟から向かうよう主張する山崎長鏡と口論になる。太田長知の仲裁で山崎の案が採用された。木場潟への進軍で一番手。八代橋付近で丹羽勢と交戦。「小松浅井畷の戦い」に参陣した。前田利長が隠居すると、その家老となり10,000石を領した。

水越縫殿助【みずこしぬいどのすけ(15??~15??)】

前田家臣。足軽大将。1600年「小松城の戦い」に参陣した。八代橋付近で丹羽勢と交戦した。

三輪吉宗【みわよしむね(15??~1618)】

前田家臣。通称藤兵衛。はじめは朝倉義景に仕える。1590年、前田利家に仕え70石を領した。後に能登七尾街奉行として1,640石を領した。1592年、安宅船建造に必要な材木の調達を命じられた。1594年、渡海に必要な軍船五艘と水夫を用意するよう命じられた。1615年「大坂夏の陣」では七尾城留守居役。

三輪長好【みわながよし(15??~1630)】

前田家臣。通称作蔵。母は前田利長の乳母。1575年、250石を領した。のちに家老職となり7,260石。1615年「大坂冬の陣」に参陣した。

村井長頼【むらいながより(1543~1605)】

前田家臣。官途は豊後守。通称又兵衛。若い頃に前田利久の家臣となり、織田信長の命により前田利家が前田家を継ぐと、それに従って前田利家の家臣となった。一時前田利家が織田家を辞した時にも従い、常に戦場でも前田利家と共にあった。「越前手筒山の戦い」「摂津天満の戦い」「金ヶ森城の戦い」「長篠の戦い」等に参陣して250石を領した。「石動山城の戦い」では先鋒を努めた。1584年、佐々勢が前田領に攻め込むと、朝日山城を築き守備についた。1585年、神保氏張が阿尾城を攻めるとこれを撃退した。この戦功により11,245石を領した。「末森城の戦い」でも戦功を挙げた。前田利家の死後隠居するが「加賀征伐」を行おうとした松平元康に、前田利長が実母の芳春院を人質に差し出した時は芳春院に従って江戸に下り、その地で没した。「髭殿」と利家から呼ばれるほど、立派な髭をたくわえていた。

村井長次【むらいながつぐ(1568~1613)】

前田家臣。室は前田利家の七女。1611年、細川忠隆と離縁した前田千世を正室として村井家に迎え入れた。村井家は16,500石余を領した。

村井長明【むらいながあき(1582~1644)】

村井長頼の次男。通称勘十郎。1594年、前田利家の小姓となる。1600年「大聖寺城の戦い」で戦傷を負ったが役後450石を領した。1602年、前田家の禄を離れるが再び仕官した。1615年「大坂夏の陣」で戦功を挙げ300石を領した。

------------------------------------------------------

【や】

山崎長徳【やまざきながのり(1552~1620)】

前田利家家臣。山崎吉延の男。途は長門守。通称庄兵衛。官はじめ朝倉義景の家臣として仕えた。朝倉義景が織田信長によって滅ぼされると明智光秀に仕えた。1582年「本能寺の変」や「山崎の戦い」にも参陣した。明智光秀が「山崎の戦い」で討死すると、柴田勝家に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」では柴田勝家の家臣佐久間安政のもとで戦った。柴田勝家が討死すると前田利家、次いで前田利長に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では加賀大聖寺城の山口宗永、山口修弘親子を討取る戦功を挙げた。役後に14,000石を領した。1614年「大坂の役両陣」に参陣した。

横山長隆【よこやまながたか(1539~1583)】

前田家臣。横山時隆の男。加賀八家のひとり。室は杉弥左衛門の娘。1539年、美濃国多芸郡の豪族横山時隆の子として生まれる。多芸郡直江郷の杉弥左衛門の婿養子となった。清水城主稲葉良通に仕えるも、同僚と争い、相手を殺害して越前国に逃れる。大野城主金森長近に仕えた後、金森家を退き、越前府中で閑居して半喜と号す。1582年、前田利長に出仕し旗奉行となる。1583年「賤ヶ岳の戦い」に参陣して殿軍を務めて討死した。

横山長知【よこやまながちか(1568~1646)】

前田家臣。通称大膳。横山長隆の次男。室は前田長種の妹。丹波円通寺で修練に励み、後に父横山長隆と共に前田利長に仕えた。父横山長隆が「賤ヶ岳の戦い」で討死すると、200石を拝領して家督を相続した。「末森城の戦い」で戦功を挙げた。1599年、前田家に謀反の噂が流れた時、五大老筆頭の松平元康と謁見し事細かに申し開きし危機を救っている。1600年「関ヶ原の役」での「大聖寺城の戦い」で戦功を挙げた。1602年、太田長知を前田利長の命で謀殺した。しかしその後、、前田利長と折り合いが悪くなり致仕し京都の山科に移り住んだ。1615年、帰参後の「大坂夏の陣」では前田家の先鋒を勤めた。戦功により30,000石を領した。

横山長秀【よこやまながひで(15??~1605)】

前田家臣。官途は因幡守。1602年、御幸塚城守将に任じられた。

吉田孫兵衛【よしだまごべい(15??~15??)】

前田利家家臣。尾張荒子城主時代から仕えた荒子七人衆のひとり。

四井主馬【よついしゅめ(15??~15??)】

前田家臣。はじめ甲斐国の武田家に仕えていた。後に加賀国の前田利家に仕え、加賀忍者を率い前田利家の為に働いた。1600年「大聖寺城の戦い」に参陣っして城中に火を放った。

------------------------------------------------------

【資料Ⅰ】

調査中。

------------------------------------------------------

【資料Ⅱ】

荒子七人衆【あらこななにんしゅう】

村井長頼、高畠定吉、小塚藤右衛門、金岩与次之助、原田又右衛門、木村三蔵、吉田孫兵衛。

------------------------------------------------------

【資料Ⅲ】

荒子七人衆以外の譜代家臣団

高畠平右衛門、高畠木工、篠原弥助、姉崎四郎左衛門、山森伊織、河原兵庫、久田孫右衛門、恒川監物、三輪長好、橋爪縫殿助、大屋助兵衛、富田治部左衛門、富田六左衛門、中山三助、半田半平衛、古沢兵衛など。

越前府中時代の家臣団

横山長隆、横山長知、青山吉次、山崎長徳、木村久三郎、吉田長蔵、岡島一吉、岡田長右衛門、富田与五郎、小塚藤十郎、篠原一孝、篠原長次、片山延高(宗秀)、富田重政など。

越前府中時代以降の家臣団

前田長種、中川光重、三輪吉宗、安見元勝、伴長之、西尾長昌、山崎長徳、生田四郎兵衛、成瀬吉政、今枝重直、長連龍、高山右近、松平康定、津田重久、津田重次など。

------------------------------------------------------

戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には居城の名を入れています。資料Ⅰは国、郡の石高、城郭、街。資料Ⅱは集団についての説明。資料Ⅲは国の詳細説明になっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※徳川家康は松平元康に、豊臣秀吉は羽柴秀吉、斎藤道三は長井規秀、稲葉一鉄、稲葉良通はに名前を統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

------------------------------------------------------

0 件のコメント: