2012年3月26日月曜日

戦国阿波国人名辞典

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【あ】

赤沢宗伝【あかざわそうでん(15??~1582)】

坂西城主。三好家臣。官途は信濃守。室は三好義賢の姪。断絶していた赤沢家の家督を相続した。一族犬伏左近、阿部采女、板東紀伊守、新開右近、大寺松太輔、七条孫四郎らを近隣に配し、権勢を誇示した。これら一族に坂西三人衆を加え「赤沢家十二人衆」とした。1582年「中富川の戦い」に兵2,000余名を率いて参陣したが討死した。

赤沢鹿之丞【あかざわしかのじょう(15??~15??)】

板野郡新居城主。坂西城主赤沢宗伝家老職。赤沢家十二人衆筆頭で110貫を領した。 

赤沢出羽守【あかざわでわのかみ(15??~15??)】

赤沢家臣。赤沢家枝連衆。坂西三人衆のひとり。

秋月光秋【あきづきみつあき(15??~15??)】

秋月城主。通称五郎左衛門。

秋元掃部頭【あきもとかもんのかみ(15??~15??)】

宮内城主。通称宮内。

安芸飛騨守【あきひだのかみ(15??~15??)】

佐那河内城主。安芸備中守の男。赤沢家臣。坂西三人衆のひとり。

安芸宗長【あきむねなが(15??~15??)】

安芸備中守の次男。官途は左京亮。

芥川兵庫介【あくたがわひょうごのすけ(15??~15??)】

芥川城主。1582年「中富川の戦い」で討死した。

安佐紀伊守【あさきいのかみ(15??~15??)】

三好郡金丸城主。

浅川有辰【あさかわゆうたつ(15??~15??)】

海部郡加島城主。通称兵庫頭。海部家枝連衆。

浅野但馬守【あさのたじまのかみ(15??~15??)】

中鳥城主。

阿波足利義維【あしかがよしつな(1509~1573)】

平島館主。足利義澄の次男。足利義稙の養子。官途は左馬頭。室は大内義興の娘。1534年、細川持隆に招かれた足利義維が居城。義維は足利義澄の次男で、持隆の内室が義維婦人の姉であったためにこの地に招かれたという。「平島公方」と称された。1553年、細川持隆が三好義賢に滅ぼされると、1555年、周防の大内義長を頼った。1527年「桂川の戦い」で三好元長、細川晴元らと共に、足利義晴を擁する細川高国を打ち破って近江国に放逐し、堺に居ながら京都および山城国、摂津国を実効支配した。足利義維は将軍には正式にならなかったが朝廷から従五位下左馬頭に叙任さた。1532年、後見人の三好元長が細川晴元により自刃に追い込まれ、自身も自刃を図ったが、細川晴元に制止され、その後、阿波国へ渡り、阿波守護細川之持に庇護された。阿波国では3,000貫を領した。1553年、三好義賢が細川之持の嫡男細川持隆を謀殺されたことにより阿波国を去って周防国大内家の移った。1563年、三好長逸らの手引きにより帰国する。1565年、松永久秀らによる「永禄の変」で甥の足利義輝が謀殺された。1566年、三好三人衆に「松永対治の御教書」を出した。松永久秀に擁立されて将軍となった足利義栄を後見したが、織田信長に擁された足利義昭との決戦を摂津国にて用意するも、その最中に足利義栄が病没し、再度阿波に引き上げた。

阿波足利義栄【あしかがよしひで(1538~1568)】

足利義維の男。征夷大将軍。官途は左馬頭。1565年「永禄の変」で足利義輝が三好三人衆、松永久秀に謀殺されると、三好三人衆や松永久秀らによって、病床にあった父足利義維の代わりに、将軍候補として擁立された。三人衆と松永久秀が権力抗争を開始すると、足利義栄は三人衆に強要されて松永久秀討伐令を出すことを余儀なくされた。1566年、三人衆方の篠原長房、三好康長らに擁されて摂津国越水城に入城した。朝廷に対して将軍宣下を申請したが、朝廷の要求した献金に応じられなかったために拒絶された。1568年、三人衆の推挙により朝廷から将軍宣下がなされ、将軍に就任した。しかし、三人衆と松永久秀の抗争が止まず、足利義栄が病床に臥せり将軍に就任しても入京することは無かった。1568年、足利義昭を織田信長が擁立して上洛してきたため、三人衆は畿内で織田信長に抗戦したが、敗れて畿内の勢力を失ったため阿波国に逃れた。松永久秀は織田信長に臣従、障害がなくなった足利義昭は将軍に就任した。足利義栄はまもなく病没した。

阿波足利義助【あしかがよしすけ(1541~1592)】

足利義維の次男。室は大内家臣柳沢主膳正の娘。兄足利義栄が将軍になるために上洛した際も、平島館に留まった。長宗我部元親の四国統一もあり、後ろ盾であった三好家も力を失っていった。1582年「中富川の戦い」では、長宗我部元親を積極支援したため、長宗我部元親により3000貫の領地安堵された。その後、足利義栄の病没後に上洛しようとしたが小笠原成助に妨害され、織田信長によって足利義昭が放逐された際にも上洛しようとしたが既にその力も世の支持もなかった。1585年、蜂須賀家政の阿波国入りに至っては、権威を取り除くためもあってか、100石扶持まで落とされた。

阿部和泉守【あべいずみのかみ(15??~15??)】

海部郡阿部城主。

天羽久利【あもうひさとし(1540~15??)】

名西郡天羽城。三好長治家臣。官途は出羽守。三好長治の命を受けて和泉から阿波へ移り、天羽城を築いて長曽我部元親に備えた。1574年、黒田原で長曽我部勢と戦いこれを撃退して三好長治から感状を受く。1582年、再び攻めこまれて敗北逃亡した。

飯尾常重【いいおつねしげ(15??~1582)】

通称善之丞。1582年「中富川の戦い」で討死した。

飯尾常利【いいおつねとし(15??~1579)】

飯尾常重の弟。通称久左衛門。1579年、討死した。

飯尾利隆【いいおとしたか(15??~15??)】

飯尾常重の弟。別名羽知左衛門。のちに藍の売買を生業とした。

池内孝晴【いけうちたかはる(15??~15??)】

池内城主。十河家枝連衆。官途は主縫殿。1582年、十河城が長宗我部勢に攻められると、救援のため入城した。

伊沢頼俊【いざわよりとし(15??~1577)】

伊沢城主。1577年、細川真之の挙兵に応じ、小笠原成助と共に三好長治を討取った。三好家臣矢野城主矢野国村に攻められ、坂西城で討死した。「明智の三日天下、伊沢の二十日天下」と称された。

伊沢綱俊【いざわつなとし(15??~15??)】

伊沢頼俊の男。蜂須賀家に仕えた。

市原兼隆【いちはらかねたか(15??~1579)】

青木城主。通称造酒正。1579年「岩倉城の戦い」に参加。長宗我部勢に攻められ、逃走の途中で自刃した。

乾忠清【いぬいただきよ(1531~1610)】

三好康長家臣。乾信忠の男。通称長大夫。のち羽柴秀吉に仕えて朝鮮の役にも参陣した。羽柴秀吉没後は秀頼に仕えた。

宇奈瀬兼久【うなせかねひさ(15??~1582)】

今市城主。清原乗真家臣。官途は対馬守。通称亀之進。1564年、岩脇城主尾蘇山城守(三枝紀伊守)と領地争いを起こした。1582年、長宗我部元親の攻撃を受けて落城した。1582年「中富川の戦い」で討死した。

馬詰駿河守【うまづめするがのかみ(15??~15??)】

保崎城主。小笠原家枝連衆。

馬詰三四郎【うまづめさんしろう(15??~15??)】

馬詰駿河守の男。1582年「中富川の戦い」で討死した。 

梅津左馬亮【うめづささこんのじょう(15??~15??)】

梅津館主。

宇山丹後守【うやまたんごのかみ(15??~15??)】

西山城主。細川家臣。

宇山重近【うやましげちか(15??~15??)】

宇山丹後守の男。通称孫市郎。長宗我部元親に通じた。

麻植遠江守【おえおおえのかみ(15??~15??)】

宮井城主。

大粟右近【おおぐりさこん(15??~15??)】

細川真之家臣。細川真之の仁宇谷茨ヶ岡落ちに随行した。

大代掃部介【おおしろかもんのすけ(15??~15??)】

大代城主。室は篠原自遁の娘。1578年、十河存保勢に攻められ、弟大代三四郎と共に降った。

大代内匠【おおしろたくみ(15??~15??)】

大代掃部介の男。1582年「中富川の戦い」で討死した。

大代三四郎【おおしろさんしろう(15??~15??)】

大代掃部の弟。1578年、十河存保と戦うも敗れ、降伏した。

大西備中守【おおにしびっちゅうのかみ(15??~1577)】

三好郡東山城主。大西頼武の三男。1577年、長宗我部元親の攻撃を受けて落城し、大西備中守は妻島村で謀殺された。

大寺光治【おおでらみつはる(15??~15??)】

板野郡大寺城主。三好家臣。

大寺松太輔【おおでらまつだゆう(15??~1582)】

大寺光治の男。1582年「中富川の戦い」に参陣したが敗北、大寺城も落城し、大寺松太輔も討死した。

大倭屋彦兵衛門【おおやまとひこざえもん(15??~15??)】

谷口城主。通称宗善。1577年、大倭屋彦兵衛は小笠原長定に謀殺され、谷口城は落城した。

大倭屋重愛【おおやまとやしげあき(15??~15??)】

岩倉城主三好康俊に仕えて谷口城を回復した。長宗我部元親が侵攻してくると所領を差し出して恭順した。1585年、脇城、岩倉城を守備していた長宗我部親吉が、羽柴勢の侵攻に押されて土佐国へ撤退する途中、大倭屋重愛、大倭屋重定らは長宗我部親吉を襲撃し、殲滅した。

大倭屋重定【おおやまとしげさだ(15??~15??)】

岩倉城主三好康俊に仕えて谷口城を回復した。長宗我部元親が侵攻してくると所領を差し出して恭順した。1585年、脇城、岩倉城を守備していた長宗我部親吉が、羽柴勢の侵攻に押されて土佐国へ撤退する途中、大倭屋重愛、大倭屋重定らは長宗我部親吉を襲撃し、殲滅した。

大西頼武【おおにしよりたけ(1519~1578)】

三好郡白地城主。官途は出雲守。室は三好元長の娘。大西家は鎌倉時代に中央より荘官として派遣されてきた近藤家が大西郷に依り大西姓を称した。大西頼武は阿波細川家に属し、後に三好元長の娘を娶って阿波西部から讃岐南部、伊予東部、土佐北部で最大勢力を誇った。長宗我部元親の四国統一の気運が高まると、四国の中央に位置する白地城はその標的されたが大西頼武はこの頃すでに家督を大西重元に譲っていた。

大西重元【おおにししげもと(15??~1578)】

大西頼武の男。官途は出雲守。別名大西覚養。阿波国における三好家の勢力が後退し、長宗我部家が台頭すると、四国の中央に位置する白地城は四国統一を目指す長宗我部元親の攻勢にあった。大西重元は、弟の大西頼包を人質として一旦は和議を結んだ。三好家が織田家に援軍を頼み長宗我部家に対し対決姿勢を鮮明にすると、大西重元は三好笑岩の求めに応じ、和議の条件を破り戦闘準備に取り掛かった。それを知った長宗我部元親は阿波国の三好勢を駆逐した。1577年、白地城の支城田尾城をわずか二日で攻め落とすと、大西重元は讃岐国麻城へ落延びた。1578年、麻城も落城し、大西重元は元親に厚遇されていた大西頼包の勧めに応じて降伏した。阿波国に戻った大西重元は、三好方に服属している重清城主で娘婿の重清長政を頼り、長宗我部家への降伏を勧めるも拒否されたのでこれを謀殺した。大西重元は長宗我部元親より重清城の守備を任せられるが、程なくして三好方の十河存保の反撃を受けて討死した。

大西頼包【おおにしよりかね(15??~15??)】

大西頼武の次男。官途は上野介。阿波国における三好家の勢力が後退し、長宗我部家が台頭すると、四国の中央に位置する白地城は四国統一を目指す長宗我部元親の攻勢にあった。大西重元は大西頼包を人質に出して一旦は和議を結んだが、背いて再び三好家に通じたため、長宗我部元親は白地城を攻め、大西重元は讃岐国へと落延びた。長宗我部元親に人質に出された大西頼包は長宗我部元親より厚遇されてその家臣となり、大西重元を説得して長宗我部側に投降させた。その後は讃岐の香川之景へ投降を呼びかける使者を務めたり「引田の戦い」で羽柴秀吉方の仙石秀久を破るなど活躍した。

大西元武【おおにしもとたけ(15??~15??)】

三好郡馬路城主。大西頼武の弟。官途は備中守。甥の大西重元と共に勢力を拡大。宇摩郡平野一帯に勢力を持った。三好家と結び、長宗我部元親と争う。宇摩郡平野一帯の諸将が長宗我部元親に属すようになり、馬路城を追われた。1574年、伊予国轟城、讃岐国高文殊城、杉谷城、高城を築城した。1576年、仏殿城主河上安勝を討取った。

大西志摩守【おおにししまのかみ(15??~15??)】

大西元武の弟。

大西備中守【おおにしびちゅうのかみ(15??~1577)】

三好郡東山城主。大西頼武の三男。1577年、長宗我部家に攻められ落城。落延びる途中、落ち武者狩りによって討死した。

大西頼信【おおにしよりのぶ(15??~15??)】

三好郡田尾城主。大西覚養の弟。通称右京進。老臣寺野源左衛門が補佐した。1577年、長宗我部勢に攻められ落城した。

大西石見守【おおにしいわみのかみ(15??~15??)】

三好郡大利城主。1558年、大西石見守が修築。長宗我部元親が阿波へ侵攻すると、その攻撃を受けて落城したという。

大西家臣団【おおにしけかしんだん】

佐野城主:佐野丹波守、中西城主:東条隠岐守。

麻植持光【おえもちみつ(15??~1553)】

美馬郡内山城主。官途は因幡守。阿波忌部家の流れを汲み、忌部神社大宮司でもあった。1553年、細川持隆が重臣の三好義賢に殺害された為、麻植持光が三好義賢の攻略を企図するも敗退した。再起を図り阿波郡の豪族の川人備前守を頼るも断られ、逆に攻撃を受け讃岐国に逃れ丹生で討死した。

小笠原成助【おがさわらしげすけ(15??~1582)】

名東郡一宮城主。官途は長門守。別名一宮成助。室は三好義賢の娘。一宮城3,000貫を領した。三好長慶に属して近畿各地を転戦した。1527年、今市の清野左京、宇奈瀬対馬守が領地問題で争うと、久米義広と共に仲介に入った。1562年「久米田の戦い」にも参陣した。大将である三好義賢が討死する敗戦となったが、撤退戦では配下を見事に指揮して無事に撤退に成功した1577年、長宗我部勢が阿波国へ侵攻するとこれに呼応し小笠原成助は伊沢頼俊とともに三好長治を討った。しかしその後、伊沢頼俊が三好家臣矢野駿河守国村によって滅ぼされたために孤立。土佐の長宗我部元親を頼った。三好家臣篠原自遁に一宮城を攻撃され、所領内の焼山寺に退避していた。1579年、三好軍が脇城で大打撃を受けると小笠原成助は一宮城へ帰還。1580年、勝瑞城を攻撃してこれを攻略した。十河存保の攻撃を受けて勝瑞城を奪還され、さらに一宮城も攻撃を受けたがここは守りきった。1582年、織田信長の援助を受けた三好康長が一宮城を攻撃したが、織田信長が「本能寺の変」で横死したために三好軍は退却。1582年、三好康長に内応したとして、長宗我部元親に夷山城で謀殺された。

小笠原成孝【おがさわらなりたか(15??~15??)】

小笠原成助の次弟。兄小笠原成助が謀殺された際に讃岐国へ逃亡した。嫡男小笠原光信は、蜂須賀家に仕え、一宮神社の神職として血脈を残した。

小笠原主計頭【おがさわらしゅけいのかみ(15??~1582)】

小笠原成助の三弟。1582年、長宗我部元親は小笠原成助が一時、三好康長に通じたと知り、夷山城にて畑弥助らに誅殺を命じた。小笠原主計頭、星合六之進も誅殺された。

小笠原家臣団【おがさわらけかしんだん】

伊島城主:小笠原美濃守。

小笠原長行【おがさわらながゆき(15??~1562)】

美馬郡重清城主。三好家臣。1562年、三好義賢に従って「久米田の戦い」で討死した。

小笠原長政【おがさわらながまさ(15??~1578)】

小笠原長行の男。別名海原豊後守。阿波、讃岐、和泉国内で計3,000貫を領した。1578年、長宗我部元親に通じた白地城主大西覚養から重清城に受け落城、討死した。

小笠原長定【おがさわらながさだ(15??~1579)】

小笠原長政の男。官途は豊後守。別名重清長定。1578年、谷口城を襲撃して陥落させ、勢力を拡大させた。勝瑞城にいた小笠原長政の嫡男小笠原長定は父の敵を討ち、城を取り返そうとして十河存保と共に重清城を包囲した。大西覚養に和睦開城を勧告し、これを受け入れた大西覚養が城を出ると謀殺した。

小笠原尾張守【おがさわらおわるのかみ(15??~15??)】

小笠原長定の男。1579年、長宗我部元親の攻撃を受けて討死した。

小笠原左京大夫【おがさわらさきょうだいゆ(15??~15??)】

中村城主。小笠原成助家臣。

岡甚之丞【おかじんのじょう(15??~15??)】

岡砦主。湯浅家枝連衆。1582年「中富川の戦い」で、長宗我部勢に属して討死した。

岡本清宗【おかもときよむね(15??~15??)】

西条西城主。官途は美作守。娘は細川持隆の側室(小少将)。

岡本小少将【おかもとしょうしょう(15??~15??)】

阿波細川持隆の室。岡本牧西の娘。阿波細川持隆の室は、小少将と呼ばれた美女であった。この小少将は、細川持隆の死後には持隆を滅ぼした三好義賢の室となり子を成し(三好長治、十河存保)、三好義賢の死後は三好家重臣である篠原自遁の室となり、さらにその死後は長宗我部元親の側室(子:長宗我部右近大夫)となったという。それも政略結婚ではなく、自身の判断で世を渡り歩いた烈女であった。

奥野新左衛門【おくのしんざえもん(15??~15??)】

奥野城主。1553年「鑓場の戦い」で久米家臣野田内蔵助を討取った。

小倉重信【おぐらしげのぶ(15??~1553)】

蔵本城主。官途は美濃守。1552年、三好義賢が阿波守護細川持隆を謀殺したため、芝原城主久米義広は三好義賢を討つために兵を挙げた。この時、小倉重信も久米義広勢に参陣した。1553年「槍場の戦い」で久米義広らとともに討死した。

小野寺備中守【おのでらびっちゅうのかみ(15??~1582)】

朽田城主。1582年、長宗我部勢に敗れ討死した。

小野寺源吉【おのでらげんきち(15??~15??)】

小野寺備中守の男。1585年、栂橋で長宗我部勢と戦い功があった。

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【か】

海部之親【かいふゆきちか(15??~15??)】

海部郡吉野城主。海部川流域を中心として阿波国南部の実力者に成長した海部家は、さらにその勢力を確固たるものにするため、阿波国の実権を掌握する勝端城の三好家と姻戚関係を結び、隣国土佐国の豪族安芸国虎とも関係を結んだ。さらに、一族を領内の要所に封じて、領国体制を整備したのである。吉野城は海部川河口からみてかなり山側に位置しており、土佐国からの侵入に対する防衛という点から、海部川河口にある靹浦を見下ろす岡に海部城を築いた。

海部友光【かいふともみつ(15??~15??)】

海部之親の男。官途は左近将監。別名海部宗寿。1571年、長宗我部元親の弟島弥九郎親益が有馬温泉へ湯治に行く途中に那佐湾靹浦に寄港した。海部友光は、ただちに島弥九郎を討取った。これが引鉄となって、長宗我部元親の阿波侵攻が開始された。1575年、長宗我部元親は大軍を率いて海部城を包囲、攻撃した。このとき、海部吉清は三好家の要請を受けて讃岐に出陣し、寒川家の昼寝城を攻撃していた。そこへ、長宗我部勢が阿波に侵攻したとの知らせがあり、海部勢は取るもの取りあえず兵を引き上げた。一方、長宗我部勢の攻撃を受けた海部城では、友光が鉄砲の名手である栗原伊賀右衛門らを指揮して防戦につとめたが、衆寡敵せず海部城は落城し海部家は没落した。城を逃れた海部友光は、紀州の縁者を頼って落ち延びた。

海部吉清【かいふよしきよ(15??~15??)】

海部友光の男。室は源元長の娘。1575年、長宗我部元親は大軍を率いて海部城を包囲したとき、海部吉清は三好家の要請を受けて讃岐国に出陣であった。海部吉清は、海部城も落ちたため、帰るところを失い阿波国の西方美馬三好に落ちていった。三好家が阿波国南部の押えとしてもっとも頼りにしていた海部城が落ちたことで、牟岐城、日和佐城、由岐城、桑野白などの諸城も次々に落城していった。

柿原源吾【かきはらげんご(15??~1572)】

柿原城主。篠原長房家臣。1572年、篠原長房の讒言により三好長治に攻められた篠原長房にしたがい上桜城に籠城し討死した。枝連衆の柿原新五、柿原藤五も討死した。

柿原義長【かきはらよしなが(15??~1582)】

柿原源吾の男。1582年「中富川の戦い」で討死した。

加藤主水正【かとうもんどのじょう(15??~15??)】

久米義弘家臣。阿波鴨城守将。他に真木山肥後守、青野道意、三木道恩も守将となった。

河南吉清【かなんよしきよ(15??~1582)】

鬼神ヶ岳城主。小笠原成助家臣。官途は駿河守。1582年、小笠原成助と共に長宗我部元親に誘い出され、夷山城で謀殺された。

鎌田光久【かまたみつひさ(15??~1562)】

名東郡名東城主。三好家臣。通称兵衛尉。名東城50貫を領した。1562年、三好実休に従い「久米田の戦い」で畠山方と戦い、三好実休ともども討死した。

鎌田光康【かまたみつやす(15??~1579)】

鎌田光久の男。通称修理輔。1562年、父鎌田光久が「久米田の戦い」での討死により家督を相続した。加封されて280貫を領した。1579年、長宗我部方の小笠原成助と戦い討死した。

鎌田光義【かまたみつよし(15??~1582)】

鎌田光康の男。通称久馬右衛門。1582年「中富川の戦い」で長宗我部勢と戦い討死した。

鎌田家臣【かまたけかしん】

日開城主:鎌田采女正安正、鎌田右近安次。

川島惟忠【かわしまこれただ(15??~1580)】

川島城主。三好家臣。通称兵衛進。1572年、上桜城に居城していた篠原長房の討伐で功績を挙げ、川島一帯200貫を領した。1579年「脇城の戦い」で討死した。

河村恒基【かわむらつねもと(15??~1579)】

陰城主。三好長治家臣。官途は左馬亮。1577年、三好長治が自刃すると十河存保を勝瑞城主に迎え入れた。侵攻する長曽我部元親に抵抗したが、脇城外の戦いで長宗我部家臣宇山孫一郎に討れた。

木岐正持【ききまさもち(15??~15??)】

海部郡木岐城主。通称大膳大夫。1577年、落城した。

北原義行【きたはらよしゆき(15??~1582)】

北原城主。通称右近。三好家臣。1582年「中富川の戦い」で討死した。

北島権頭【きたじまごんのかみ(15??~1582)】

中村城主。1582年、長宗我部勢に敗れ討死した。

清原高国【きよはらたかくに(1505~1578)】

本庄城主。官途は安芸守。別名清原乗真。1506年、清原家は備中国足守から阿波本庄城に移った。長宗我部元親が阿波へ侵攻してくると降った。1582年「中富川の戦い」では長宗我部軍に属した。晩年には入道して乗真と称した。嫡男がいなかったために家臣も宇奈瀬乗慶を養子に迎え、備後守を名乗らせて跡を継がせた。

清原乗慶【きよはらのりよし(15??~15??)】

清原乗真の養子。

清原長吉【きよはらながよし(15??~15??)】

清原乗慶の男。

櫛淵左近【くしぶちさこん(15??~1582)】

櫛淵盛之の男。阿波櫛淵城主。1582年「中富川の戦い」で討死した。

櫛淵紀伊守【くしぶちきいのかみ(1566~1584)】

櫛淵左近の男。弟次郎五郎は蜂須賀家に仕えた。

久米義広【くめよしひろ(15??~1553)】

芝原城主。細川持隆家臣。官途は安芸守。室は細川之持の娘。1552年、三好義賢が阿波守護細川持隆を謀殺したことにより三好義賢と対立した。1553年、野田山城主野田内蔵助、英城主仁木日向守高将、佐野須賀城主佐野丹後守、蔵本城主小倉重信らとともに軍事行動を起こした。小笠原成助に嫁いでいた三好義賢の妹を拉致し、人質に取った。三好義賢の妹婿の小笠原成祐を攻撃するなどしたが、やがて三好義賢が兵3,000余りを率いて進撃してきた「槍場の戦い」で、野田内蔵助が討たれるなど乱戦になり、久米義広らも討死した。

久米義広家臣団【くめよしひろけかしんだん】

加藤主水正、真木山肥後守、青野道意、三木道恩。

栗原右衛門【くりはらうざえもん(15??~1577)】

海部友光家臣。官途は伊賀守。鉄炮の名人。1577年、長宗我部家に海部城が攻められると、鉄炮を使い、敵兵を次々に撃つ。長宗我部家の槍の名手黒岩治左衛門が城内に入ろうとすると、これに射撃。しかし、弾は治左衛門をかすめただけであった。逆に伊賀右衛門は治左衛門の槍に討たれている。

桑村隼人亮【くわむらはやとのじょう(15??~15??)】

津田城主。三好好義賢家臣。別名田村隼人亮。堺で武器を調達していたが、淡路生石崎沖で海賊に攻撃され討戦した。

桑野義明【くわのよしあき(15??~15??)】

那賀郡桑野城主。三好家臣。官途は河内守。桑野城主東条関之兵衛の伯父である東条出羽掾光秀の枝連衆。1573年、長宗我部勢によって落城した。1582年、桑野康明は、牛岐城主新開実綱が長宗我部元親に謀殺された後、新開実綱の嫡男新開式部大輔らと共に謀殺された。

小命藤政【こみこふじまさ(15??~15??)】

芝山城主。三好家臣。

近藤正興【こんどうまさおき(15??~15??)】

名西郡轟城主。三好家臣。

近藤正次【こんどうまさつぐ(15??~15??)】

近藤正興の男。通称勘右衛門。1582年、長宗我部家臣北村閑斎、野中三郎左衛門、池田肥後守ら兵3,000余りが轟城を攻める。近藤正次は援軍2,000余の側面攻撃と同時に城を出て、50余騎で突撃。長宗我部勢は正面、側面からの攻撃により兵300余名を討たれ撤退した。1583年、長宗我部家に攻められ落城した。

近藤正行【こんどうまさゆき(15??~1582)】

近藤正興の次男。通称孫太郎。1582年、長宗我部勢に攻められ討死した。

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【さ】

西条壱岐守【さいじょういきのかみ(15??~1582)】

板野郡西条西城主。西条長綱の男。三好家臣。1582年「中富川の戦い」で敗北した。長曽我部元親に居城を攻められ、嫡男西条益太夫とともに討死した。

西条益大夫【さいじょうますだいふ(15??~1582)】

西条壱岐守の男。1582年「中富川の戦い」で敗北、長曽我部元親に居城を攻められ、父西条壱岐守とともに討死した。

斎田利之【さいだとしゆき(15??~15??)】

財田城主。小笠原家臣。官途は右馬之。

斎藤若狭守【さいとうわかさのかみ(15??~15??)】

中山城主。

坂下備前守【さかしたびぜんのかみ(15??~15??)】

赤沢家臣。坂西三人衆のひとり。

雀部重政【ささべげまさ(1559~1595)】

雀部伊豆守の男。官途は玄蕃充。室は佐野綱正の娘。はじめ三好康長に仕え、のちに豊臣秀次仕え、馬廻組頭となり尾張国内に2,000石を領した。1594年、高野山で羽柴秀次の介錯をしたのちに殉死した。

雀部重良【ささべしげよし(15??~15??)】

雀部重政の男。外祖父佐野綱正に養育され、松平元康に小姓として召し出され馬廻衆となり、近江国で800石を領した。

佐田九郎左衛門【さったくろうざえもん(15??~15??)】

佐田館主。細川家臣。森元村の父。因幡国の住人。のちに三好家に属し、松永久秀に軍師として仕えたが、意見が対立し阿波国へ帰国した。

佐野平明【さのひらあき(15??~15??)】

佐野須賀城主。阿波細川家臣。官途は丹波守。1553年、細川持隆が三好義賢によって討たれると、久米義広らと共に挙兵して三好義賢と対立し、三好義賢と「鑓場の戦い」で討死した。

塩田政幸【しおだまさゆき(15??~15??)】

三谷城主。三好康俊家臣。通称左馬助。通称一閑斎。1582年、長宗我部元親の攻撃を受けて嫡男塩田晴幸と共に抵抗したが敗北し、この城も落城した。

塩田晴幸【しおだはるゆき(15??~15??)】

塩田晴幸の男。官途は若狭守。1582年、長宗我部元親の攻撃を受けて父塩田政幸と共に抵抗したが敗北した。

七条敏仲【しちじょうとしなか(15??~1552)】

板野郡七条城主。

七条兼仲【しちじょうかねなか(15??~1582)】

七条敏仲の男。通称孫次郎。怪力無双の勇将として知られ、数々の合戦で武勇を馳せた。1582年、長宗我部元親と十河存保が戦った「中富川の戦い」で十河家勢に属して討死した。

篠原長政【しのはらながまさ(15??~15??)】

麻植郡上桜城主。篠原宗半の男。官途は大和守。三好家の家老職。篠原長房の父篠原宗半が近江国野洲郡篠原郷より下って三好家に仕えた。三好義賢の重臣であり、三好義賢の討死の後は、三好長治を補佐し阿波国において三好家中をまとめた。三好家の分国法である新加制式の編纂にあたるなど、能吏として知られる一方で、阿波国、讃岐両国の軍勢を率いてしばしば畿内へ出兵した。三好長慶の傅役を務めていた。主君からの信頼厚く、木津城の城主を任せられていた。

篠原長房【しのはらながふさ(15??~1573)】

篠原長政の男。官途は右京進。通称孫四郎。継室は教行寺兼詮の娘。1553年、三好義賢が阿波守護細川持隆を謀殺し下剋上するとこれに従い、三好義賢の指揮下にあって播磨国、讃岐国、畿内各地を転戦した。1559年、摂津国富田の教行寺兼詮(蓮如の孫)の娘を室とした。1561年、畠山高政、根来寺戦では三好義賢に従って和泉に出陣し「久米田の戦い」において先陣を任され勇戦するが、手薄となった本陣を襲われ三好義賢を失った。篠原長房は兵をまとめ戦場から退却し、三好義賢の兄三好長慶の指揮のもと「教興寺の戦い」で畠山高政を破った。「久米田の戦い」の後は三好義賢の嫡男三好長治を阿波勝瑞城で補佐した。1564年、三好長慶の喪を知って阿波国から上洛し、三好長逸、松永久秀らと後事を計って帰国する。1566年、畿内の三好宗家に内訌が起こると、足利義栄を擁立し三好長治、細川真之を奉じて四国勢を動員し畿内へ進出するなど、三好家枝連衆の有力者三好三人衆と協調路線をとり、松永久秀と敵対した。松永方の瓦林三河守より摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦した。阿波、讃岐両国をよくまとめて三好長慶の死後退勢に向かう三好家を支えたといえた。1568年、織田信長が足利義昭を擁し上洛すると、いったん越水城を放棄して阿波へ撤退したが、三好三人衆を支援して織田信長に対抗した。1570年、三好三人衆、三好康長らが野田・福島に兵を挙げると、再び三好長治、細川真之を奉じ阿波、讃岐の兵を動員して兵庫に上陸、摂津の沿岸部を制圧したが、松永久秀の仲介により織田信長との和議により阿波国へ退いた。四国においては縁戚の安富家と計り寒川家から大内郡四郷を割譲させて讃岐東部での地盤を強化した。1571年、織田信長と結ぶ毛利家の圧迫を受けていた浦上宗景の求めに応じ備前児島に出兵するなど、その権力は引き続き強大であった。1573年、篠原長房は三好長治、細川真之により居城の上桜城を攻撃され、抗戦ののち自刃した。一族で、同じく重臣であった篠原実長の讒言のためという。

篠原佐吉兵衛【しのはらさきちべえ(15??~15??)】

篠原長政の次男。夷山城主。1562年「久米田の戦い」で三好義賢と共に出陣し畠山高政に敗れ自刃した。死後は嫡男篠原右京が兄篠原長房の養育を受けた。

篠原実長【しのはらさねなが(15??~15??)】

名東郡木津城主。篠原長政の三男。官途は肥前守。別名篠原自遁。木津城300貫を領した。三好義賢の室と密通した。1578年、十河存保の三好家相続に反対した為、合戦となったが破れた。十河存保の勝瑞城入城の先導役となった。1582年「中富川の戦い」では十河家側についた。長宗我部元親に服さず抵抗していたが、唯一の頼みであった織田信長が「本能寺の変」で討たれた為、木津城を開けて淡路国へ落延びた。

篠原右京【しのはらうきょう(1562~15??)】

篠原佐吉兵衛の男。1562年、父篠原佐吉兵衛が畠山高政に敗れ自刃した為、叔父篠原長房に養育された。1573年、篠原長房が自刃した為、外伯父伊沢頼俊に養育された。1576年、父篠原佐吉兵衛が居城していた夷山城主となり、それに伴い家臣庄野兼時が補佐役となった。1577年、一宮城主小笠原成助が長宗我部元親に従うと、庄野兼時もこれに倣い、篠原右京を奉じて長宗我部元親に降伏した。1580年、成長した篠原右京は三好家に従い讃岐国へ去り、その後討死した。

篠原右近【しのはらうこん(15??~1624)】

篠原実長の三男。父篠原実長は淡路国に逃れるなど、相次ぐ戦乱に一族は霧散。石山本願寺へ加勢した縁を頼りに、顕如上人のもとを訪れ得度を受け、当地に帰り圓勝寺を開基した。

篠原長秀【しのはらながひで(15??~1577)】

名東郡今切城主。篠原実長の男。三好長治家臣。官途は玄蕃頭。1576年、三好長治に従って細川真之を攻めるが敗退した。小笠原成助に敗れた三好長治が今切城への退却を進言した。1577年、今切城は攻められ落ちた。城から逃れた三好長秀は、家臣郡勘助を頼ったが、郡勘助はすでに小笠原成助と通じており、篠原長秀は誅殺された。

篠原大和守【しのはらやまとのかみ(1555~1572)】

篠原長房の男。1572年「上桜城の戦い」で討死した。

篠原好長【しのはらよしなが(15??~15??)】

山口城主。官途は三河守。1582年、長宗我部家に攻められ落城した。

四宮加賀守【しのみやかがのかみ(15??~15??)】

林崎城主。東条家臣。四宮家は本姓諏訪家で大潟を本拠としていた。塩窯神社の由来から四宮加賀守は橘近くに進出していた。椿には四宮肥後守、福井には四宮石見守がいた。橘湾、椿泊湾を支配し、土佐国から近畿まで海上輸送にあたっていた。四宮家は海賊衆であり、農耕地である所領安堵を通じての堅い主従関係をもたなかった。南北朝の時代から阿波細川家に仕え、三好氏にも仕え、阿波の軍勢を輸送している。鳴門、岡崎に城を築く一方、土佐では池海賊衆を通じて長宗我部家の配下にもなっていた。

四宮左近太夫【しのみやさこんだいう(15??~15??)】

四宮加賀守の弟。

四宮和泉守【しのみやいずみのかみ(15??~15??)】

北泊城主。

四宮外記【しのみや(15??~15??)】

大潟館主。1582年「中富川の戦い」で討死した。

島田次正【しまだつぐまさ(15??~15??)】

島田城主。阿波小笠原家臣。通称左近。

島田山城守【しまだやましろのかみ(15??~15??)】

廿枝砦主。1573年、落城した。

庄野兼時【しょうのかねとき(15??~15??)】

篠原右京家臣。官途は和泉守。通称久右衛門。篠原右京の補佐役となる。1578年、三好長治の弔い合戦を行い井沢頼俊を討つ。1578年、篠原右京の留守居として夷山城主。1580年、長宗我部家に通じた東条家に従った。 

白鳥左近【しらとりさこん(15??~1582)】

徳里城主。1582年「中富川の戦い」で討死した。

新開元実【しんがいもとざね(15??~15??)】

牛岐城主。阿波細川家臣。

新開実綱【しんがいさねつな(15??~1582)】

新開元実の男官途は遠江守。別名新開道善。室は三好義賢の娘。阿波国守護職細川持隆が家臣の三好義賢によって謀殺されると、三好義賢の娘を室とし、以後は三好家に属した。1562年、三好義賢に従い「久米田の戦い」に参陣したが敗走した。その後も三好家の有力な配下として勢力を拡大した。南部の桑野方面を地盤とし土佐国の長宗我部元親の勢力下となった東条家と対立した。阿波国南方の要として、長宗我部元親の侵攻を頑強に防いだ。1579年、東条関之兵衛の要請により出陣した香宗我部親泰の軍勢に敗退し、居城である牛岐城を明渡し、長宗我部元親に降った。1582年「中富川の戦い」では小笠原成助と共に土佐勢に参戦し勝利に貢献した。1582年、三好家への内通を疑った長宗我部元親は、丈六寺に論功恩賞の相談のためと称して新開実綱を呼び出した。酒宴を開き酔ったところに、新開実綱は配下の者達諸共に謀殺された。新開実綱は横山源兵衛に討たれた。新開実綱の家老松田新兵衛は主君の仇として、横山源兵衛を討った。

新開実成【しんがいさねなり(15??~1582)】

新開実綱の男。官途は式部少輔。1582年、父新開実綱とともに長宗我部元親に謀殺された。

新開右近【しんがいうこん(15??~1582)】

新開実綱の甥。1582年、長宗我部元親に謀殺された。

新開兼安【しんかいかねやす(15??~15??)】

渋野城主。新開家臣。通称右京進。

菅藤康政【すがわらやすまさ(15??~15??)】

芝原西城主。官途は豊後守。通称(左衛門尉。

鈴江道広【すずえみちひろ(15??~1562)】

沖島城主。1521年、足利義稙に従い鈴江道広は阿波へ入国した。1525年、足利義稙が病没すると、細川持隆に仕えた。1562年、三好義賢に従って「和泉久米田の戦い」に出陣し討死した。

鈴江友規【すずえとものり(15??~1582)】

鈴江城主。通称新兵衛。1582年「中富川の戦い」で討死した。

瀬部嘉右衛門【せべかざえもん(15??~1582)】

瀬部城主。1582年「中富川の戦い」で討死した。

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【た】

平信吉【たいらのぶよし(15??~1582)】

音坊砦主。細川真之家臣。官途は和泉守。1582年、茨ヶ岡城で細川真之が三好軍に攻められ自刃した際、重傷を負い退却中に戦傷死した。

高志清之【たかしきよゆき(15??~15??)】

板野郡五条城主。官途は下野守。

高志清久【たかしきよひさ(15??~1582)】

高志清之の男。官途は右近。1582年「中富川の戦い」で討死した。

高田綱清【たかだつなきよ(15??~15??)】

片志城主。官途は左馬頭。

高輪幸内【たかなわよしうち(15??~15??)】

板野郡高輪城主。赤沢宗伝家臣。官途は出羽守。留守を同族である粟飯原平之丞、石川六之丞、高輪出雲守一存らが守備していた。

阿波武田信顕【たけだのぶあき(15??~1582)】

脇城主。武田信虎の庶男。1556年、三好長慶の計らいにより大和国から招かれて脇城主となり、三好長慶の病没後も三好長治に引き続き仕えた。脇城の城主は三好兼則であったが、阿波国北方の守備の任に当りながら三好兼則は在城20年余りの間に脇町の民政に尽くして城下の発展に尽くしたが、年老いて重責を果たすのが困難になってきたため、武田信顕と交代することとなった。1578年、隣城の三好康俊と共に長宗我部元親の侵攻の前に降伏する。後に織田信長の「四国侵攻」がはじまると、三好康長の説得により、再び三好側に寝返る。 1582年「本能寺の変」で織田信長の支援が絶たれると、長曽我部勢は兵3,000余りで脇城を攻撃し、城兵はわずか500程度であったが、長宗我部勢の猛攻の前に5日間耐え続けた。父武田信顕は城を脱出し、阿讃山脈を越えて讃岐国へ落延びるが、長宗我部勢の追撃により讃岐国大川郡で討死した。

阿波武田信定【たけだのぶさだ(15??~15??)】

武田信顕の男。1582年、長曽我部勢は兵3,000余りで脇城を攻撃し、城兵はわずか500程度であったが、長宗我部勢の猛攻の前に5日間耐え続けた。父武田信顕は城を脱出し、阿讃山脈を越えて讃岐国へ落延びるが、長宗我部勢の追撃により讃岐国大川郡で討死した。武田信定は、城に残り城で自刃した。

竹田三河守【たけだみかわのかみ(15??~1572)】

篠原自遁家臣。1572年、上桜城に籠もり討死した。一族竹田株之丞も討死した。

忠津則清【ただつのりきよ(15??~15??)】

忠津館主。官途は修理亮。三好長治家臣。北原城主北原右近義行と同盟を結んだ。三好長治が病没すると阿波海賊衆の森村春に仕えた。

多田元次【ただもとつぐ(15??~15??)】

細川持隆家臣。官途は筑後守。通称弥八郎。多田家は摂津国河度郡多田庄より出た家で細川家に従った。阿波国の反三好長治勢力に付き、小笠原家、日和佐家、新開家らと共に結託、反抗した。

多田元平【ただもとひら(15??~15??)】

多田元次の男。通称与四郎。別名吉成五郎右衛門。父多田元次と共に長宗我部家に属した。一時、和泉国にいたが土佐国に来て母方の姓吉成氏に改める。長宗我部家海賊衆の実力者となり戸次川への出兵に際し、軍隊や兵糧の輸送を命ぜられ、船舶や船頭、水夫の徴用に尽力した。その代償として公示免除の恩典を与えられている。のちに安芸郡津呂に領地を与えられ、山内の土佐入封に伴い、湊の案内を担当そのまま仕えた。

多田民部【ただみんぶ(15??~15??)】

宍喰城主。海部家臣。1575年、長宗我部元親の攻撃を受けて城主多田民部は自刃した。

田村吉利【たむらよしとし(15??~15??)】

佐古城主。三好家臣。官途は大和守。長宗我部勢と戦いで討死した。

田村半右衛門【たむらはんざえもん(15??~15??)】

田村館主。日奉家の枝連衆。

寺野源左衛門【てらのげんざえもん(15??~15??)】

大西覚養家臣。大西頼信の補佐役となる。

土井備後守【どいびんごのかみ(15??~15??)】

土井館主。新開家臣。

東条信綱【とうじょうのぶつな(15??~15??)】

那賀郡桑野城主。官途は甲斐守。別名武田信綱。甲斐源氏武田信義の孫一条信長の末裔。

東条関兵衛【とうじょうかんべえ(15??~1585)】

東条信綱の男。別名関之兵衛。別名武田実光。室は久武内蔵助の娘(長宗我部元親の養女)。1575年、計略により長宗我部元親に帰順し、以後香宗我部親泰の下で阿波攻略戦の先方を務めた。大身の将であり「武道つよき者」といわれていたことから長宗我部元親の期待を受けたらしく、を娶り、譜代の家臣と同等の扱いを受けた。1582年、織田信長の死により後ろ盾を失った三好勢との最終決戦となった「中富川の戦い」に参陣した。四国統一後は羽柴秀吉の「四国征伐」の危険が迫ったため、阿波における戦闘の最前線のであった木津城の守備を任された。1585年、阿波土佐泊に上陸した羽柴秀長、羽柴秀次の軍勢は東条関兵衛の守る木津城を攻略するため砦をつくり対峙した。途中には入海や川があって通行が難しく、城方も砦を築いて守りを固めていたので攻略は容易ではなかったため関兵衛は特に対策を講じなかった。羽柴秀長勢が押し寄せてきたので、東条関兵衛は奮戦し損害を与えたが、水源を断たれて水が無くなると城方は苦戦し次々と防衛線を破られた。東条関兵衛は羽柴秀長勢に属していた叔父東条紀伊守の説得にしたがって城を明け渡し土佐国へ引き上げた。その後、長宗我部元親の怒りを買い東条関兵衛は自刃した。

東条光豊【とうじょうみつとよ(15??~15??)】

西方城主。官途は紀伊守。武田信綱の弟で武田実光の叔父。「四国征伐」では羽柴秀長勢に属し、甥の東条関兵衛を説得した。のちに羽柴秀吉に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では西軍に属して没落した。

土肥房長【どひふさなが(15??~15??)】

川田城主。

土肥秀実【どひひでざね(15??~1579)】

土肥房長の男。通称新左衛門。1579年「岩倉城の戦い」に参陣した。「脇城の戦い」で討死した。

土肥庄五郎【(15??~15??)】

土肥房長の次男。のちに羽柴家に仕えた。

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【な】

仁木高将【にきこうしょう(15??~1553)】

英城主。官途は日向守。1553年、久米義広に同調し、三好義賢に敵対した。1553年「鑓場の戦い」で討死した。

仁木伊賀守【にきいがのかみ(15??~15??)】

上大野城主。官途は伊賀守。1565年、上大野城は京都から来た仁木高長により築かれた。1577年、長宗我部元親の軍勢に攻められ落城した。

新田義高【にったよしたか(15??~15??)】

三好郡野津後城主。別名(脇屋義治。1577年、長宗我部家が侵攻すると新田義高は戦わず降った。

野田采女正【のだうねめのしょう(15??~1582)】

上八万城主。野田山城主野田内蔵助の兄。1582年、小笠原成助らと共に夷山城で長宗我部元親に謀殺された。

野田内蔵助【のだくらのすけ(15??~1553)】

野田山城主。久米義広家臣。七十人力と謳われた剛勇の士。1553年「鑓場の戦い」で三好勢の野口肥前守則守と刺し違えて討死した。

延野平則【のべのひらのり(15??~15??)】

那珂郡延野城主。細川家臣。通称兵衛。1582年、落城した。

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【は】

蓮池清助【はすいけきよすけ(15??~1552)】

内原城主。細川持隆家臣。1552年、細川持隆に殉死した。

畠山之照【はたけやまゆきてる(15??~1582)】

細川真之の男。畠山高政の養子。官途は石見守。別名仁木六郎。母は仁木伊賀守の娘。懐妊七ヶ月のとき、細川真之は室の叔父である仁木左衛門のもとへ落ち延びさせた。生まれた子は仁木六郎名乗り、成人して畠山高政の養子となり、畠山石見守之照と改名した。畠山之照は祖父細川持隆、父細川真之の仇である三好家を滅ぼすため、長宗我部元親に合力して「中富川の戦い」に参陣した。のちに長宗我部元親の悪逆に愛想をつかして離反。1582年、長宗我部勢に襲われ上大野城で討死した。

原田秀兼【はらだひでかね(1532~1560)】

山野上城主。三好家臣。もともとは阿波国主であった細川氏に属していたと考えられる。おそらく、主家を乗っ取った三好義賢に降ったとも。1560年、板野郡住吉村小島で討死した。

原田久左衛門【はらだひさざえもん(15??~1582)】

原田秀兼の男。1582年「中富川の戦い」で討死した。

原田内膳【はらだないぜん(15??~15??)】

原田久左衛門の男。

榛谷越後守【はるたにえちごのかみ(15??~1582)】

西分城主。細川家枝連衆。三好家に仕えた。1582年「中富川の戦い」で討死した。

早淵頼母亮【はやみぞたのものじょう(15??~1562)】

早淵城主。三好家臣。1562年、和泉久米田で畠山高政勢と戦い、三好義賢と共に討死した。早淵頼母亮の後は小笠原成助の甥である早淵主馬亮が継いだ。

早淵主馬亮【はたみぞしゅめいのじょう(15??~15??)】

小笠原成助の甥。早淵頼母亮が討死すると、早淵城主となった。

服部隆元【はっとりたかもと(15??~15??)】

大井砦主。細川真之家臣。官途は因幡守。1576年、十河存保の攻撃で勝瑞城を脱出した細川真之を、福浦出羽守と共に匿った。茨ヶ岡城で細川真之と共に自刃した。

板東市正【ばんどういちまさ(15??~15??)】

観音寺城主。1582年、小笠原成助らが長宗我部元親に謀殺された際、坂東市正も誘われたが病と偽り、謀殺を免れた。

板東紀伊守【ばんどうきいのかみ(15??~1582)】

椎本城主。1582年「中富川の戦い」で討死した。

板東肥前守【ばんどうひぜんのかみ(15??~15??)】

板東城主。1582年「中富川の戦い」で討死した。

坂東五郎右衛門【ばんどうごろうざえもん(15??~15??)】

板東肥前守の弟。1582年「中富川の戦い」で討死した。

日和佐肥前守【ひわさひぜんのかみ(15??~15??)】

海部郡渭津城主。官途は肥前守。阿波国の反三好長治勢力に属し、小笠原長門守らと共に守護細川真之を立て阿波国に長宗我部元親を呼び入れた。1575年、海部郡に侵入し、宍喰城、海部城を陥した長宗我部元親は、海部城に弟の香宗我部親秦を置いて阿波攻略の拠点として残る諸地域への進攻を展開した。1577年、日和佐城主日和佐肥前守は、長宗我部勢の主将香宗我部親秦の起請文を受けてその軍門に降った。

日和佐権頭【ひさわごのかみ(15??~15??)】

日和佐肥前守の男。通称新次郎。別名浜五郎兵衛。後に出家して安信。日和佐肥前守の弟で兄と共に長宗我部家に臣従する。四国征伐後浪人し大阪へ向かうが土佐一国に封じられていた長宗我部元親に仕える。長宗我部家滅亡後は浜五郎兵衛と名乗り山内家より赤岡の庄屋を仰せつかった。

姫田藤家【ひめだふじいえ(15??~1577)】

板野郡姫田城主。三好長治家臣。官途は佐渡守。1577年、三好長治が討たれると、その後を追い自刃した。

姫田甚左衛門【ひめだじんざえもん(15??~1582)】

姫田藤家枝連衆。1582年「中富川の戦い」で討死した。姫田城も長宗我部勢の攻撃で落城した。

平井対馬守【ひらいつしまのかみ(15??~15??)】

今津城主。細川家臣。1582年、落城した。

福良長政【ふくよしながまさ(15??~1544)】

山分城主。細川持隆家臣。官途は出羽守。室は細川持隆の妹。1544年、三好勢と戦って討死した。

福良連経【ふくよしつらつね(15??~15??)】

福良長政の男。官途は出羽守。1576年、細川真之は福良連経を頼り落延びた。福良連経は細川真之を茅ヶ岡城に迎え、共に三好家と戦った。

福良家臣団【ふくよしけかしんだん】

寺島城主:福良佐渡守吉武。

藤原友清【ふじわらもときよ(15??~15??)】

三好康俊家臣。通称平右衛門。1553年、内山城を攻め落城した。戦後、内山城主に任じられた。

福島左近【ふくしまさこん(15??~15??)】

福島城主。細川家臣。

古川友則【ふるかわとものり(15??~15??)】

古川館主。細川家臣。通称亀右衛門。

北条越前守【ほうじょうえちぜんのかみ(15??~15??)】

美馬郡上野城主。1582年、落城した。

阿波細川持隆【ほそかわもちたか(1597~1553)】

細川之持の男。阿波国守護職。官途は讃岐守。室は大内義興の娘。側室は岡本牧西の娘(小少将)。1512年、父細川之持の病没により細川家の家督を相続して阿波国守護職となった。細川高国と細川惣領家の家督を奪い合っていた細川晴元をよく補佐した。1531年、細川持隆は軍勢を率いて和泉に渡海し、細川高国の討伐戦「大物崩れ」で戦功を挙げた。1539年、赤松晴政の要請を受けて備中に出陣し、出雲の尼子晴久と戦ったが敗北した。1549年、細川晴元が三好長慶に敗れて没落した後、三好長慶に対抗するため足利将軍家の連枝である足利義栄を擁して上洛を謀った。1553年、計画が長慶の弟三好義賢に漏れ、見性寺において謀殺された。

阿波細川真之【ほそかわさねゆき(1538~1582)】

細川持隆の男。官途は掃部頭。通称六郎。1553年、父細川持隆が三好義賢によって謀殺されると、その傀儡として擁立された。この時に母は三好義賢の室となった。三好義賢の病没後も嫡男三好長治に傀儡として利用された。1578年、細川真之は、三好長治に対して不満を持つ小笠原成助らと手を結び、土佐国の長宗我部元親と盟約を結び三好長治を討った。三好越後守、矢野国村、河村左馬亮ら三好方は十河存保を勝瑞城に迎え反攻を図った。1579年、細川方の有力国人だった伊沢頼俊が滅ぼされるなど細川真之にとって戦況は不利であった。長宗我部元親は、明智光秀を通じて、阿波三好家と敵対関係にある織田信長と同盟を結びその抗争を優位にすすめた。羽柴秀吉に支援された三好康長の斡旋により阿波三好家と織田家との関係が修復すると、長く同盟関係にあった織田信長との関係も決裂し、四国侵攻の脅威におびやかされるようになっていた。1582年、十河存保の後ろ盾となっていた織田信長が「本能寺の変」で横死すると、内紛が続く阿波国の征服を決意する。1582年「中富川の戦い」である。十河存保は敗れ、阿波統治の本拠である勝瑞城を失い、讃岐虎丸城に撤退を余儀なくされた。十河存保は再び阿波国に侵攻し江村次郎大夫、本木新左衛門、露口兵庫、江邑兵衛進ら数百名の軍勢を遣わして細川真之の茅ヶ岡城を攻めさせ、敗れた細川真之は八幡原にて自刃に追い込まれ阿波細川家は滅亡した。

堀江国正【ほりえくにまさ(15??~1582)】

板野郡南新居城主。赤沢宗伝家臣。通称藤太夫。坂西十二人衆のひとり。南新居城50貫を領した。1582年「中富川の戦い」で討死した。

本庄国兼【ほんじょうくにかね(15??~15??)】

熊山城主。通称太郎兵衛。

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【ま】

真鍋通近【まなべみちちか(15??~15??)】

松尾城主。大西家臣。通称大炊介。長宗我部元親の勢力拡大により大西家から離反した。1577年、大西志摩守に居城を攻められ、近隣諸将と共に応戦「野々首の戦い」で大西勢を撃ち破った。

三橋宗忠【みはしむねただ(15??~15??)】

三橋城主。三好康俊家臣。官途は常陸介。

三好康長【みよしやすなが(15??~1585)】

美馬郡岩倉城主。官途は山城守。三好長慶や三好三人衆を補佐した。1562年「久米田の戦い」「教興寺の戦い」などで活躍した。三好長慶の病没後、三好三人衆と松永久秀が敵対し、家中が割れると三好康長は三好三人衆に同調した。1568年、松永方の細川藤賢が守る信貴山城を落すなど、一時は松永勢を追い込んだが、織田信長が上洛し、松永久秀を支援するようになると立場は逆転し、織田信長に仕えた。松永久秀が織田信長に対して反旗を翻し、足利義昭も加わった織田信長包囲網が結成されると、三好康長もこれに同調した。松永久秀が降伏、三好義継が滅ぼされ、足利義昭も追放された後も、三好一族の中では最後まで抵抗を続けた。1575年、松井友閑を通じて降伏した。所持していた名物三日月葉茶壷を織田信長に献上した。以後は織田信長から重用されたようで、石山本願寺との和睦交渉の担当や、河内半国の支配を命じられた。以降、四国に強い地盤を持つ三好一族として四国攻略の担当とされ、主な活動の場を四国に移し、安宅信康の勧誘工作、当時長宗我部家に属して岩倉城主三好康俊を寝返らせるなど戦功を挙げた。1581年「四国征伐」の先鋒として阿波国に再び渡っていた。1582年「本能寺の変」で織田信長が明智光秀の手勢に攻撃され横死した為、三好康長は四国から逃亡し河内国に帰国した。

三好康俊【みよしやすとし(15??~1582)】

三好康長の男。官途は式部少輔。通称徳太郎。室は三好長房の娘。後に岩倉城主となり、従兄弟の横田内膳宗昭や、三谷城主塩田左馬允一閑ら側近の補佐を受けた。父三好康長が畿内へと移動した後は勝瑞城主となった。1575年、長宗我部元親が土佐国内を統一すると、四国制覇を目指して阿波国への侵攻を開始した。三好康俊は長宗我部元親に対抗した。1579年、三好康俊は、三好越後守、矢野国村、川島惟忠らを脇城外で謀殺し、大島丹波守の嫡男大島利忠を人質として長宗我部元親に降伏した。阿波国奪回を狙う、三好康長が織田信長の支援を受けて神戸信孝や丹羽長秀らを中心とした四国方面軍の先陣として阿波国に侵入すると、これに三好康俊は呼応した。岩倉城にて長宗我部元親に反旗を翻した。1582年「本能寺の変」で織田信長が横死を遂げると、逆に長宗我部勢に攻められ討死した。

三好俊長【みよしとしなが(15??~15??)】

三好康俊の男。1579年、三好康俊がは、長宗我部元親に降伏すると長宗我部家に人質に出された。1582年、父三好康俊が三好康長に呼応して、長宗我部元親から離反した。三好俊長は殺されることなく長宗我部元親に仕えた。1600年、長宗我部家が改易されると新しく土佐国主となった山内一豊に仕えた。

牟岐大膳允【むろだいぜんおじょう(15??~15??)】

海部郡牟岐城主。1575年、長宗我部勢に降伏した。

森因幡守【もりいなばのかみ(15??~15??)】

切幡城主。

森高次【もりたかつぐ(15??~15??)】

森因幡守の男。細川真之家臣。官途は飛騨守。1579年、岩倉城主三好康俊にに敗れ脇城で謀殺された。美馬直次に討たれた。

森九兵衛【もりくへえ(15??~15??)】

三好康長家臣。のち羽柴秀次に仕えた。若江七人衆のひとり。その後蒲生家、さらに石田三成に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では岐阜城の援軍に派遣されたが撃退された。「関ヶ原の戦い」にも参陣したが討死にした。

森元村【もりもとむら(15??~1594)】

板野郡土佐泊城主。佐田九郎左衛門の男。三好家臣。阿波国海賊衆。官途は筑後守。森家は初め阿波鳴門土佐泊を本拠とした。1532年、讃岐国から攻められるも撃退。逆に讃岐国引田に攻め込み、武名を高めた。1539年、細川晴元が河野氏と戦い、海賊衆を率いてこれに参戦した。1594年、病のため没した。

森村春【もりむらはる(15??~1592)】

森元村の男。官途は志摩守。森村春は十河存保に従いった。1578年、十河存保に従わなかった木津城主篠原自遁を攻撃した。1582年、長宗我部元親の侵攻には、最後まで抵抗し屈しなかった。1585年、羽柴秀長らが阿波木津城を攻撃した際、これに協力した。蜂須賀家政の阿波入部後に阿波福井庄など3,026石を領した。1588年、椿泊に移る。1592年「文禄の役」に渡海し、唐島において討死した。

森忠村【もりただむら(15??~15??)】

森元村の次男。

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【や】

矢上伯耆守【やがみほうきのかみ(15??~1582)】

矢上城主。三好家臣。1582年「中富川の戦い」で討死した。

矢上備前守【やがみびぜんのかみ(15??~15??)】

矢上伯耆守の男。1582年「中富川の戦い」で討死した。

矢野国村【やのくにむら(15??~1579)】

矢野城主。官途は駿河守。三好義賢の重臣として仕え、勝瑞城の三好長治の弔い合戦にて細川家臣井沢頼俊を討った。矢野城を築き、また讃岐国大川郡虎丸城主も兼ねた。1577年、三好長治が細川真之らによって討死すると、十河存保の勝瑞入城に尽力した。また小笠原成助ら細川真之方と抗争した。1579年「脇城の戦い」で三好徳太郎に謀殺された。

矢野虎村【やのとらむら(15??~15??)】

矢野国村の男。1579年、父矢野国村が謀殺されたため、矢野家の家督を相続した。1582年「中富川の戦い」で討死した。

湯浅対馬守【ゆわさつしまのかみ(15??~15??)】

那珂郡仁宇城主。別名藤原兼時。長宗我部家に降り、その縁者となったが蜂須賀家に反乱し滅んだ。

湯浅国貞【ゆわさくにさだ(15??~15??)】

中荘城主。官途は豊後守。1582年「中富川の戦い」で長宗我部勢と戦い討死した。

吉井行康【よしいゆきやす(15??~1577)】

吉井城主。官途は左衛門太夫。通称左平衛。吉井家は多田家と姻戚関係にあり、共に細川持隆を謀殺した。その室大形殿を奪った。1577年、細川真之を奉じて長宗我部元親とも連携して三好長治、十河存保と争うがその途中で死去した。

吉井康爲【よしいゆうい(15??~15??)】

吉井行康の男。

横田政宗【よこたまさむね(15??~15??)】

横田館主。

横田宗昭【よこたむねあき(1552~1603)】

三好家臣。通称内膳。別名横田村詮。三好家枝連衆。岩倉城主三好康長に仕え、その嫡男三好康俊の補佐役をつとめた。1583年、羽柴秀吉から岸和田城主に任じられた中村一氏に仕えた。中村一氏は横田宗昭に妹を嫁し枝連衆とした。駿府城主となった中村一氏のもと検地、交通路整備、土木施策などに功績を挙げた。羽柴秀吉の死後に東軍と西軍の争いのなかで、重い病になっていた中村一氏は、嫡子中村一忠の将来と中村家の存続を願う横田宗昭の意見を聞き入れ、駿府城下の横田宗昭屋敷で松平元康との会談を行い、東軍松平方に加わることを決めた。1600年「関ヶ原の役」後、松平元康は中村一忠に米子城175,000石に任じた。横田宗昭は中村一忠の後見役、執政家老として6,000石を領した。横田宗昭は、五重の天守をもつ米子城を築城、米子感応寺を建立、伯耆国領国内の検地のほか、城下街建設のため藩内各地から民衆を集落ごと移住させ、米子十八街と云われる職業別、集落別の居住地を構築し、加茂川を米子城の外堀にする一方で運河として造成し、職人商人町と中海に繋げ物資の大量輸送を実現するなど内政に力を発揮した。1603年、安井清一郎、天野宗杷らは、中村一忠に甘言をして横田宗昭を謀殺した。嫡男中村主馬助は、柳生宗章とともに飯山に立て籠もったが、中村一忠は堀尾吉晴、堀尾忠氏父子に助勢を求め、これを鎮圧した。

和田株太夫【わだかぶだいふ(15??~15??)】

和田城主。小笠原成助家臣。小笠原成助が長宗我部元親に通じると、これに従った。1582年「黒田原の戦い」で三好勢の紀伊鉄炮衆15名を討取った。

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【資料Ⅰ】

阿波国(10郡/320,000石)

板野郡:勝瑞城、撫養城、土佐泊城。
阿波郡:
美馬郡:岩倉城。
三好郡:
麻殖郡:上桜城。
名西郡:
名東郡:徳島城。
勝浦郡:牛岐城。
那賀郡:
海部郡:

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【資料Ⅱ】

坂西三人衆【さかにしさんにんしゅう】

赤沢出羽守、坂下備前守、安芸飛騨守。

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【資料Ⅲ】

南海道に属する四国東部の国。北は讃岐国、北西は伊予国、南西は土佐国に境を接し、東は紀伊水道を隔てて紀伊国、東北は鳴門海峡を隔てて淡路国とも海路で結ばれている。中央を四国山地が貫き、その北に阿讃山脈が平行して走っているため、山がちの地形だが、北の吉野川、南の那賀川の二つの大河が沖積平野を形成し、耕作面積は確保されている、その反面、二つの大河に対する洪水対策など、その治水が重要な課題である、文化的には平安時代の弘法大師空海の巡教によって真言宗が広く浸透しており、応仁の乱後の細川家とそれに続く三好家の時代に京から貴族や文化人がしばしば訪れ、文化水準は高い。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2012年3月14日水曜日

戦国佐渡国人名辞典

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【あ】

藍原秀氏【あいはらひでうじ(15??~1589)】

河原田高統家臣。賀茂郡吉井館主。官途は大和守。別名藍原泰理。吉井本郷、青木、舟津、三瀬川、下横山、安養寺、横谷、上横山、潟端、立野、籠米、青龍寺、中島、畑屋、馬場、水渡田などで1,250石を領した。1589年、「河原田城の戦い」で本間高統を支援するため、本間信濃守、渋谷真住らとともに支援したが、樋口兼続勢の奇襲を受け討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

藍原宮内【あいはらくない(15??~15??)】

藍原秀氏家臣。水渡田館主。

赤塚直宗【あかつかなおむね(1512~1602)】

河原田高統家臣。出雲大社の神官から婿に入った。

秋田権右衛門【あきたごんうえもん(1599~1665)】

五十里山の山師。別名秋元権右衛門。羽後久保田城主佐竹義宣のもとで山師を務めた。1624年、佐渡国に渡り古口権兵衛に仕え、その病没後、その名跡を相続した。1644年、多聞寺を西野村に移し、吉祥寺と改称した。河内山屏風沢にあった小社を、金北山神社として吉祥寺境内に移祀した。1652年、仕出喜間歩で豊鉱脈を掘り当てた。

足立義任【あだちよしこれ(15??~15??)】

吉岡秀躰家臣。羽茂郡渋手城主。官途は兵庫。別名阿部兵庫。渋手城(渋手、滝脇、背合)200石余りを領した。1589年、「渋手城の戦い」で直江兼続勢の攻撃を受け落城した。

池田蔵人【いけだくらうど(15??~15??)】

石花将監家臣。雑太郡千本城主。

石花将監【いしはらごろうざえもん(15??~15??)】

雑太郡北片辺城主。通称五郎左衛門。別名本間五郎左衛門。藍原秀氏の家老職を務め北片辺城(小川、達者、北狄、戸地、戸中、片辺、後尾、石花、河内、立島、入川、千本、高下、田野浦、小野見、石名、小田、大倉、矢柄、五十里、岩谷口)を領した。1589年、「河原田城の戦い」では、河原田高統を支援したが到着前に落城した。後に出家した。

和泉豊季【いずみとよすえ(15??~15??)】

雑太郡和泉館主。通称左京亮。別名本間豊季。和泉館(和泉、下矢馳、上矢馳、牛込、長木)510石を領した。

磯田徳兵衛【いそだとくべい(15??~15??)】

河原田高統家臣。1589年、「河原田城の戦い」で河原田高統が討死すると、河原田高応を守って会津の芦名盛重のもとに落延びた。

井田尋直【いだひろなお(15??~15??)】

羽茂高貞家臣。通称治部左衛門。羽茂高貞の家老職を務めた。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

永野監物【えいのけんもつ(15??~15??)】

河原田高統家臣。賀茂郡永野城主。別名本間監物。

海老名弾正忠【えびなだんじょうちゅう(15??~15??)】

羽茂高貞家臣。西方城主。1589年、樋口兼続勢の攻撃を受けると、鉄炮衆20余りを含む50余りで、樋口兼続勢を待ち伏せた。樋口兼続勢14名を討ち取るも、羽茂高貞勢側も20名余りが討たれ、海老名弾正忠も負傷したため撤退した。

榎掃部介【えのきかもんのすえけ(15??~15??)】

河原田高統家臣。平清水城主。

榎坂将監【えのいたしょうげん(15??~15??)】

石花将監家臣。雑太郡北田野浦城主。

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【か】

笠井藤右衛門【かさいとうざえもん(15??~15??)】

羽茂高貞家臣。1589年、「河原田城の戦い」では、河原田高統を支援するが、樋口兼続勢の反撃を受け討死した。

潟上秀岑【かたがみひでれい(15??~1546)】

加茂郡潟上城主。官途は対馬守。別名本間高康。潟上、正明寺、田野沢、長畝、野浦、月布施、住吉、谷塚で800石余りを領した。1537年、「久知城の戦い」で本間有泰、河原田貞兼の支援を受け久知正泰を久知城から追い落とした。

潟上秀敏【かたかみひでとし(15??~1572)】

潟上秀岑の男。1552年、「久知城の戦い」で久知正泰勢の攻撃を受け久知城を奪われた。 
  
潟上秀高【かたがみひでたか(15??~1593)】

潟上秀敏の男。通称帰本斎。別名本間秀興。1578年、「御館の乱」では、長尾景勝と結んだ。1589年、「羽茂城の戦い」では、沢根高秀とともに長尾景勝勢の属して、その先導役を務めた。戦後、所領を越後国に転封された。

潟上秀光【かたがみひでみつ(15??~1618)】

潟上秀高の男。通称弥太郎。別名本間秀光。

河原田貞兼【かわはらださだかね(15??~15??)】

雑太郡河原田城主。官途は佐渡守。通称左馬允。別名本間貞兼。羽茂城主羽茂高季と対立、佐渡国を二分して佐渡南部(中原、石田、片貝、二宮、一谷、青野、窪田、山田、真光寺、沢崎、神田、永野)を支配下に置き1,600石を領した。長尾景虎が越後国を平定すると、佐渡国内の豪族衆と結び、長尾景虎と和議と対立を繰り返し独立を維持した。

河原田高統【かわはらだたかつぐ(1551~1589)】

河原田貞兼の男。官途は佐渡守。別名本間高統。1584年、「河原田城の戦い」で長尾景勝の家臣藤田信吉勢を撃退した。羽茂高季と争うが、長尾景勝の家臣後藤勝元の仲介で一旦は和議を結ぶが再び争った。1589年、「河原田城の戦い」では、樋口兼続、沢根高秀、潟上秀高勢らの攻撃を受け落城して自刃した。

河原田統之【かわはらだむねゆき(15??~1589)】

河原田高統の男。1589年、「河原田城の戦い」では、長尾景勝勢の攻撃を受け父河原田高統とともに抵抗するも城は落城し、河原田高統とともに自刃した。

河原田高応【かわはらだたかおう(15??~15??)】

河原田高統の次男。1589年、「河原田城の戦い」で父河原田高統と兄河原田統之が討死すると、家臣の磯田徳兵衛とともに会津の芦名盛重のもとに落延びた。

神田照山【かんだてるざん(15??~15??)】

河原田高統家臣。神田城主。官途は越中守。

北方満繁【きたかたみつしげ(15??~15??)】

加茂郡北方館主。通称十郎。別名本間満繁。北方館(北方、福島、岩首)を領した。1589年、「河原田城の戦い」後、北方城は廃城となり、越後国に転封になった。

久知正泰【くじじょうまさやす(15??~15??)】

加茂郡久知城主。官途は加賀守。別名本間正泰。高島、椎泊、両尾、城腰、下久知、久知河内、蚫、川崎、羽二生、大川、水津、片野尾、立間、強清水、多田、河内、丸山、松ヶ崎、赤玉を領した。1537年、「久知城の戦い」では、本間有泰、河原田貞兼らの支援を受けた潟上秀岑勢の攻撃を受け片野尾まで落延びた。1552年、「久知城の戦い」で潟上秀敏から久知城を奪回した。 

久知泰時【くじじょうやすとき(15??~1632)】

久知正泰の男。別名本間泰時。1589年、「河原田城の戦い」後、久知城は廃城となり、越後国に転封になった。

久知季泰【くじじょう(15??~15??)】

久知泰時の男。別名本間季泰。

熊谷将監【くまがいしょうげん(15??~15??)】

本間泰高家臣。畑野城主。

計良弾正忠【けいらだんじょうちゅう(15??~15??)】

本間泰高家臣。金丸城主。

五十里新左衛門【ごじゅうりしんざえもん(15??~15??)】

吉住秀躰家臣。北五十里城主。別名本間新左衛門。

小泊元道【ことばもとみち(15??~15??)】

羽茂高茂家臣。通称新七。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

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【さ】

沢根賢密【さわねはるみつ(15??~15??)】

雑太郡沢根城主。河原田宣家の次男。官途は摂津守。別名本間賢密。二見半島を領地として鶴子銀山、積出湊を領有して豊かな経済力を有して沢根城(二見、米郷、稲鯨、橘、高瀬、大浦、鹿伏、五十里、同本郷、田中、西五十里、東五十里)1,850石を領した。

沢根永州【さわねえいしゅう(15??~15??)】

沢根賢密の男。官途は摂津守。別名本間左馬助。1589年、「羽茂城の戦い」では、長尾景勝勢して羽茂高統勢と戦った。羽茂高統と羽茂高頼は捕縛され斬頸に処された。長尾景勝勢に属した本間左馬助、潟上城主潟上秀高、雑太城主本間憲泰、久和城主久和泰時らととも所領を没収され、越後国に転封させられた。

羽黒渋谷真経【しぶやまさつね(15??~15??)】

加茂郡羽黒城主。通称三郎左衛門。羽黒、五十里、鷲崎、願、鵜島、真更川、椿、小松、目黒、玉川を領して渋谷四家の中では最大勢力を誇った。
 
羽黒渋谷真住【しぶやまさずみ(15??~1589)】

渋谷真経の男。通称三郎左衛門。1589年、「箕山城の戦い」で長尾景勝勢の攻撃を受け自刃した。

加茂渋谷真清【しぶやさねきよ(15??~1589)】

加茂郡加茂城主。通称十郎左衛門。夷、湊、加茂を領した。1589年、「加茂城の戦い」で長尾景勝勢の攻撃を受け滅亡した。

歌代渋谷真正【しぶやさねまさ(15??~1589)】

加茂郡歌代城主。通称四郎左衛門。歌代を領した。1589年、「歌代城の戦い」で長尾景勝勢と戦い滅亡した。

梅津渋谷真茂【しぶやまさもり(15??~1561)】

加茂郡梅津城主。通称半右衛門。梅津、玉川、和木、小松、歌見、平松を領した。1561年、「梅津城の戦い」で久知泰時勢の攻撃を受け自刃した。

白井義延【しらいよしのぶ(15??~15??)】

羽茂高信家臣。通称勘兵衛。羽茂高信の家老職を務めた。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

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【た】

蓼沼右京亮【たでぬまうきょうのすけ(15??~1573)】

長尾景虎家臣。佐渡国の代官職と務めた。1573年、「佐渡一向一揆」では、北陸の一向一揆に呼応して、銀山や砂金山で働く浄土真宗の門徒衆が中心となり一揆を起こした。長尾景虎に一揆発生を知らせると、少ない手勢で一揆衆と戦い討死した。長尾景虎は家臣の甘糟景継を派遣して一揆勢を鎮圧した。

田中勘七【たなかかんしち(15??~15??)】

羽茂高茂家臣。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

谷塚高納【たにづかたかなお(15??~15??)】

加茂郡谷塚城主。通称十郎。別名本間高納。

多田但馬守【ただたじまかみ(15??~15??)】

羽茂高信家臣。多田城主。別名本間但馬守。

土屋照邦【つちやてるくに(15??~15??)】

加茂郡二方潟館主。官途は下総守。210石を領した。

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【な】

名古屋重令【なごやしげれい(15??~15??)】

藍原秀氏家臣。加茂郡長江館主。通称佐太郎。長江館(瓜生屋、長江、釜屋)を領した。1589年、「河原田城の戦い」で藍原秀氏とともに長尾景勝勢と戦ったが、直江兼続勢の攻撃を受け敗走した。

南条隆景【なんじょうたかかげ(15??~15??)】

羽茂高茂家臣。通称民部。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

新穂和泉守【にいぼいずみのかみ(15??~15??)】

加茂郡新穂館主。別名本間和泉守。新穂館(新穂、井内、善光寺、尾戸、北浦)を領した。

野沢藤右衛門【のざわとうざえもん(15??~15??)】

羽茂高信家臣。大崎館主。

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【は】

馬場政家【ばばまさいえ(15??~15??)】

本間有泰家臣。馬場館主。官途は越中守。別名本間政家。

羽生帯刀【はにゅうたてわき(15??~15??)】

羽茂高茂家臣。羽生館主。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

羽茂高季【はもちたかすえ(15??~15??)】

羽茂郡羽茂城主。官途は対馬守。別名本間高季。羽茂城(小木、強清水、深浦、大泊、西方、清士岡、村山、大石、野崎、赤岩、大杉、杉ノ浦、新保、柳沢、真浦、木浦、大崎、飯岡、瀧平、宿根木、草刈、上山田、羽茂本郷)1,920石を領した。1524年、藍原秀氏と結び本間有泰と争った。1527年、「宮浦城の戦い」では、情趣久知本間家との間で争いが起こった。

羽茂本間家は越後長尾為景の支援を受け、河原田本間家と対立した

羽茂高信【はもちたかのぶ(14??~15??)】

羽茂高季の男。室は長尾為景の姪。1509年、「永正の乱」後、長尾為景が越後上杉顕定に敗れて佐渡国に落延びるとこれを匿った。

羽茂高貞【はもちたかさだ(15??~1589)】

羽茂高信の男。官途は対馬守。別名本間高貞。1573年、河原田高統と争った。1589年、「羽茂城の戦い」では、長尾景勝勢の攻撃を受け出羽国に落延びようとしたが、長尾景勝勢に捕縛され弟の羽茂高頼とともに謀殺された。

羽茂高頼【はもちたかより(15??~1589)】

羽茂高信の次男。羽茂郡赤泊城主。官途は三河守。別名本間高頼。赤泊城(小立、大立、赤泊、徳和、腰細、山田、筵場、小泊、上川茂、下川茂、下黒山、亀脇、椿尾、高崎、大須、西三川、田切須、倉谷、木流、大浦、江積、井坪、堂釜)700石を領した。1589年、「羽茂城の戦い」では、兄羽茂高貞とともに籠城して長尾景勝勢と戦ったが、捕縛され謀殺された。

林勝憲【はやしかつのり(15??~15??)】

羽茂高茂家臣。通称主計。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

藤井勘解由【ふじいかげゆ(15??~15??)】

羽茂高茂家臣。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

舟代源助【ふなしろげんすけ(15??~15??)】

河原田高統家臣。舟代城主。別名本間源助。

坊ヶ浦主膳【ぼうがうらしゅぜん(15??~15??)】

本間有泰家臣。坊ヶ浦城主。別名本間主膳。

本間有泰【ほんまありやす(15??~1552)】

雑太郡雑太城主。佐渡国守護職。本間家惣領職。通称孫四郎。雑太城(竹田、八幡、長江、金丸、長石、杉崎、目黒、安国寺、大久保、河内、四日、畑方、鞭ヶ廻、大川、皆川、小倉、寺田、新保、貝塚、西方、上中興、藤津、八分一、大和田、下中興、本屋敷、坊ヶ浦)4,600石余りを領した。

本間泰高【ほんまやすたか(15??~1587)】

本間有泰の男。

本間憲泰【ほんまのりやす(15??~1623)】

本間泰高の男。官途は信濃守。別名本間高滋。1589年、「河原田城の戦い」後、長尾景勝が佐渡国を平定すると、越後国に転封された。

本間大炊介【ほんまおおいのすけ(15??~1589)】

本間憲泰の男。別名雑太大炊介。1589年、「河原田城の戦い」で河原田高統を支援したが、樋口兼続勢の反撃を受け討死した。

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【ま】

味方家重【みかたいえしげ(1563~1623)】

鉱山師。官途は但馬守。通称孫太夫。別名村井貞重。もと福島正則の家臣。浪人して佐渡国に渡り、金銀山の山師として活躍した。1619年、寸方樋などの排水設備を工夫し、金産出量を飛躍的に増大させた。

宮浦宗四郎【みやうらそうしろう(15??~15??)】

両尾城主。

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【や】

柳生則連【やぎゅうのりつら(15??~15??)】

羽茂高茂家臣。通称与右衛門。羽茂家六人衆。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

矢馳季暁【やばせとしあき(15??~1589)】

河原田高統家臣。矢馳城主。1575年、日蓮宗実相寺に寺領を寄進した。1589年、「河原田城の戦い」で河原田高統の支援したが、直江兼続勢の攻撃を受け討死した。

山口光行【やまぐちみつゆき(15??~15??)】

羽茂高茂家臣。通称式部。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。

吉住維秀【よしずみこれひで(15??~15??)】

加茂郡吉住城主。潟上秀盛の次男。通称新六郎。1519年、吉住維秀が住吉城を築城(白瀬、北五十里、坊ヶ浦、馬首、松ヶ崎、小浦、見立、黒姫、舟代、虫崎)を領した。父潟上秀盛とともに、久知正泰と抗争を繰り返した。

吉住秀躰【よしずみひでもと(15??~15??)】

吉住維秀の男。通称源三郎。別名本間季躰。1573年、「吉住城の戦い」で久知泰時勢の攻撃を受け降伏した。

吉岡正方【ようしおかまさかた(15??~15??)】

羽茂高茂家臣。羽茂郡吉岡館主。官途は遠江守。別名本間正方。吉岡(外三宮、名古屋、馬場、北村、後山、宮浦)1,400石を領した。1589年、「羽茂城の戦い」では、若林帯刀、笠井藤右衛門らとともに兵150余りを率い、羽茂高茂を支援したが樋口兼続勢の攻撃を受け撃退された。

若林帯刀【わかばやしたてわき(15??~1589)】

羽茂高茂家臣。1589年、「河原田城の戦い」で河原田高統を支援したが、樋口兼続勢の反撃を受け討死した。

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【資料Ⅰ】

佐渡国(3郡/63,000石)

羽茂郡:羽茂城、度津神社。
雑太郡:雑太城。
賀茂郡:吉住城、吉井館。

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【資料Ⅱ】

本間家四天王【ほんまけしてんのう】

雑太本間有泰(本間惣領職)、河原田本間高統、久知本間正泰、羽茂本間高茂。

羽茂高茂六人衆【はもちたかしげろくにんしゅう】

白井義延、井田尋直、南条隆景、山口光行、小泊元道、柳生則連。

佐渡渋谷四家【さどしぶやよんけ】

羽黒渋谷真経、加茂渋谷真清、歌代渋谷真正、梅津渋谷真茂。

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【資料Ⅲ】

佐渡国【さどのくに】

佐渡国は古来、佐渡は伊豆や壱岐とともに遠流の島と定められ、都から政治犯が流された(順徳上皇、日蓮聖人、世阿弥など)。佐渡国を支配した佐渡本間家は、武蔵七党横山党海老名庶流であり、本間の名は相模国愛甲郡依知郷本間に由来。鎌倉時代初期、佐渡国守護となった大佛家(執権北条家の庶流)の守護代として佐渡国に入った本間能久より始まり、雑太城を本拠として勢力を伸ばした。戦国期、佐渡国には多くの本間一族が割拠して勢力を競い合っていたが、雑太の佐渡本間家、河原田本間家、久知本間家、羽茂本間家の四家で、これらは四天王として位置付けられる。その後、羽茂本間家、河原田本間家の勢力が惣領家(雑太城)をしのぐようになり、佐渡本間家は没落する。佐渡国には加茂郡、雑太郡、羽茂郡の三つの郡が存在していた。 羽茂地域は小佐渡の山中に開けた盆地で古くから開けた豊かな土地で、「羽茂太郎」と呼ばれる穀倉地帯であった。

度津神社【わたつじんじゃ】

佐渡国羽茂郡一宮。式内社佐渡一ノ宮は、五十猛命を祭神に陸上海上の守護神として信仰を集めています。『延喜式』神名帳(927年)に記載されている神社を式内社と言います。佐渡国には九社あり、その第一の宮として古来より一ノ宮と称し格式の高い神社でした。1470年、羽茂川の大洪水により社地、古文書等がことごとく流出したため、その由緒や縁起などは明らかではありません。

相川金山【あいかわきんざん】

佐渡国最大の金山。1601年、山師三人により開山された。1603年、松平元康の直轄領として佐渡奉行所が置かれ、小判の製造も行われた。

鶴子銀山【つるしぎんざん】

佐渡国最大の銀山。1542年、越後国の商人によって発見され、露頭から銀を採掘開始した。1595年、石見銀山の山師を招いて本格的な坑道を使った採掘が始まった。その後、採掘技術は山の反対側で見つかった相川金山の採掘に応用された。

佐渡海苔【さどのり】

佐渡国で採取、加工された甘海苔。佐渡国の物産として珍重された。海苔は特に精進料理の具材や茶の子などに需要が高かった。甘海苔は公家の食事の品目にもよくあがった。茶の湯や喫茶の流行とともにその需要を増した。佐渡と敦賀や小浜などの日本海沿岸諸港との間には多くの廻船が運航しており、佐渡海苔などの佐渡物産も海運を通じて運ばれた。

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戦国人名辞典は1500~1630年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

佐渡国はほとんど本間家になってしまうため、便宜上城砦の名を性としました。

上杉謙信は長尾景虎、上杉景勝は長尾景勝、上杉景虎は長尾三郎景虎、雑太有泰は本間有泰、雑太憲泰は本間憲泰、本間高統は河原田高統、本間高茂は羽茂高茂、本間高季は羽茂高季に統一。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、参考文献:『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国人名事典』by吉川弘文館、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2012年3月1日木曜日

戦国淡路国人名辞典

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【あ】

安宅秀興【あたぎひでおき(15??~15??)】

津名郡洲本城。安宅直俊の男。通称大炊。淡路国十人衆のひとり。淡路国の安宅家は阿波守護細川家に従属していた。三好家が細川家を討ち畿内に進出すると、安宅治興は三好家を援けて淡路の支配権を確立した。

安宅冬康【あたぎふゆやす(1528~1568)】

三好元長の男。安宅秀興の養子。官途は摂津守。細川家などによって畿内を追われ淡路国にいた兄三好長慶を支援した。三好長慶は弟三好冬康を安宅治興の養子にして安宅家の家督を相続させた。三好長慶が摂津、河内、和泉国の兵を、次兄三好義賢が阿波衆を、三男安宅冬康が淡路衆を、四男十河一存が讃岐衆を率いるという体制で、各地を転戦した。1562年、大阪湾の制圧や畠山高政との戦い「久米田の戦い」に参陣した。畠山高政との戦いでは敗れて次兄三好義賢が討死した。安宅冬康は、阿波国に撤退して再起を図り、再び畠山高政との「教興寺の戦い」での勝利に貢献した。1561年、弟十河一存。1562年、兄の三好義賢。1563年、三好長慶の嫡男三好義興が死去すると、三好一族の生き残りとして長兄三好長慶を補佐した。1564年、兄三好長慶に飯盛山城に呼び出されて自刃させられた。和歌を嗜み、書を能した教養人でもあった。

安宅信康【あたぎのぶやす(1549~1578)】

安宅冬康の男。1564年、父安宅冬康が三好長慶に殺されたため、家督を継いで淡路海賊衆の総指揮官となった。織田信長上洛後「織田信長包囲網」が敷かれると石山本願寺と結んで織田信長と敵対した。1572年、足利義昭および織田信長に降伏して麾下に属した。足利義昭と織田信長の手切れ後は織田家海賊衆に属した。石山本願寺を支援する毛利輝元の誘いを拒否した。1577年「木津川口の戦い」では毛利家海賊衆と戦った。

安宅清康【あたぎきよやす(15??~1581)】

安宅冬康の次男。官途は河内守。1578年、兄安宅信康が病没したために安宅家の家督を相続した。安宅信康は織田信長に従属していたが、安宅清康は、毛利輝元に内応し、織田家に敵対する動きを見せた。1581年、織田信長の命によって羽柴秀吉、池田元助らの軍勢に攻撃を受けた。羽柴秀吉勢の黒田孝高は志知城を攻め 阿波三好方の野口長宗を降すと、由良城安宅清康落城 仁井城川上将監、柳沢柳沢直盛と次々降した。この後、池田元助に同道して安土へ行き、織田信長に所領を安堵された。程なくして所領を没収されて紀伊国に追放され、病死したため淡路安宅家は滅亡した。

安宅重俊【あたぎしげとし(15??~15??)】

安宅清康の男。

湊里安宅吉安【あたぎよしやす(15??~15??)】

安宅秀興の男。官途は駿河守。

湊里安宅秀益【あたぎひでます(15??~15??)】

安宅秀興の次男。通称次郎三郎。1528年、安宅秀益は三好元長に対して謀叛を起こしたが、く蟇浦常利、島田時儀らに攻められ鎮圧された。1581年、羽柴秀吉の「淡路国討伐」の際、由良城を攻められ、安宅清康は開城した。この時、炬口城も落城した。

安宅冬俊【あたぎふゆとし(15??~15??)】

猪鼻城主。官途は志摩守。1558年、猪鼻城の落城後、家老の大河内左衛門道春は出家した。

安宅冬秀【あたぎふゆひで(15??~15??)】

白巣城主。通称九郎左衛門。1581年、安宅冬秀が守る白巣城は、織田信長の命により侵攻した羽柴秀吉らの軍勢により攻められた。淡路国の各城主は皆降参したが、安宅冬秀公只一人が従なかった。「白巣城の戦い」では羽柴秀吉勢が攻め登らぬよう城の登り坂に、竹の皮を敷きつめ勇敢に戦ったが、羽柴秀吉勢は城に火を放ち、安宅冬秀は自刃した。

安宅家臣団【あたけけかしんだん】

調査中。

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【か】

賀集安親【かしゅうやすちか(15??~1558)】

鍛冶屋城主。官途は美濃守。淡路国十人衆のひとり。

賀集盛政【かしゅうもりまさ(15??~15??)】

賀集安親の男。

梶原景節【かじわらかげせつ(15??~15??)】

沼島城主。1533年、沼島八幡神社と西光寺を再興した。

梶原秀景【かじわらひでかげ(15??~15??)】

梶原景節の男。官途は越前守。淡路国十人衆のひとり。阿波三好勢に敗れ沼島浦岩礁で自刃した。  

片山頼忠【かたやまよりただ(15??~1575)】

広石城主。官途は駿河守。1575年、広石城は落城した。

加藤主殿助【かとうしゅでんのすけ(15??~15??)】

山添城主。淡路国十人衆のひとり。

河合藤内【かわいとうない(15??~15??)】

河合城主。畔田家臣。1532年、三好元長に従い、畔田重照とともに討死した。

菅達長【かんみちなが(15??~1615)】

三原郡志知城主。通称平右衛門。淡路国十人衆のひとり。菅達長は淡路島で海賊衆を率いて活躍した。1576年、足利義昭を擁する毛利輝元の軍勢が、淡路島の岩屋城を攻撃した。守備についていたのは織田信長麾下の安宅信康だったが、敗れ城は毛利家方の手に落ちた。1581年、織田方の「淡路国討伐」で、淡路国に羽柴秀吉と池田元助が攻め入ってきた。岩屋城は落城、淡路島は掃討され、国衆はほとんど滅ぼされた。1582年「本能寺の変」で織田信長が横死ぬと、菅達長は手勢を率い仙石秀久が在城していた洲本城を奪取したがが、すぐに洲本城の広田蔵之丞らに奪還された。菅達長は四国へ渡り香宗我部親泰の寄騎衆となった。1584年「小牧、長久手の戦い」では雑賀衆と結び、岸和田へ攻め入ったが敗退した。1585年、羽柴秀吉の「四国討伐」により、菅達長は長宗我部元親とともに降伏した。羽柴秀吉の麾下に属して「九州征伐」「小田原の役」「朝鮮の役」などに淡路国海賊衆を率いて参陣した。「朝鮮の役」では舟奉行として250人を率いて輸送船団の護衛衆を務めた。1600年「関ヶ原の役」では九鬼嘉隆ととも西軍に属して戦ったため、役後に所領を没収された。この後、藤堂高虎に5,000石の侍大将として仕えたが藤堂高虎と口論になり自刃した。著書に「菅流水軍要略」がある。

郷従朝【ごうつぐより(15??~15??)】 

阿万城主。官途は丹後守。1580年、郷従朝は阿波細川方の沼島城主梶原景へ攻撃を仕掛けるが、逆に阿万城を夜襲された。郷従朝と一族の大半がすでに討死したという知らせを受け、嫡男郷備前守は福良に逃れるが発見され自刃した。

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【さ】

島田時儀【しまだときよし(15??~15??)】

栗原城主。官途は遠江守。淡路国十人衆のひとり。1528年、安宅秀益は三好元長に対して謀叛を起こしたが、島田時儀と蟇浦常利によって鎮圧された。

島田兵庫介【しまだひょうごのすけ(15??~15??)】

島田時儀の男。1581年、島田兵庫介は「淡路国討伐」で織田信長に降伏した。

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【た】

田村経春【たむらつねはる(15??~15??)】

津名郡郡家城主。淡路国十人衆のひとり。三好臣篠原家の枝連衆。 篠原長房との「上桜城の戦い」で淡路勢として参陣した。その後、武田勝頼との戦いに際し、織田信長は、作戦の上手い田村経春に先陣を任せようと考え使いを出したが田村経春は固辞したやめ織田信長は、田村経春に切腹を命じた。田村経春は妙京寺の庭で自刃した。

田村村春【たむらむらはる(15??~15??)】

田村経春の男。1585年、羽柴秀吉の「淡路国討伐」の際、羽柴秀吉に従わず落城して 田村家は滅亡した。

田村康広【たむらやすひろ(15??~15??)】

田村経春の次男。

淡路武田久忠【たけだひさただ(15??~15??)】

阿那賀城主。官途は山城守。淡路国十人衆のひとり。1534年、武田久忠は伊加利金山城主橋本永貞入道興斎を討取った。158)年、羽柴秀吉の「淡路討伐」の際、討死した。

都志九郎兵衛【つしくろうべい(15??~1532)】

都志城主。都志対馬守の男。1532年、都志九郎兵衛は討死、都志家は没落した。

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【な】

野口則守【のぐちのりもり(15??~15??)】

志知城主。官途は肥前守。淡路国十人衆のひとり。三好家に従って阿波国へ向かい、阿波細川家勢と戦った。

野口弘宗【のぐちひろむね(15??~15??)】

野口則守の男。官途は若狭守。通称万五郎。別名菅若狭守弘宗。

野口長宗【のぐちながむね(15??~15??)】

野口弘宗の男。通称孫五郎。別名菅長宗。1581年、長曾我部元親が阿波国へ侵攻すると、野口長宗は田村康広と共に十河存保方に加担して長曾我部勢と戦った。羽柴秀吉の攻撃を受けて志知城は開城した。野口長宗は阿波国へと転封にされた。

野崎内蔵介【のざきくらのすけ(15??~15??)】

岩屋城の城主。淡路島一帯の海賊衆。長宗我部元親麾下に属してり羽柴秀吉と対立した。長宗我部元親が羽柴秀吉に敗北した後に菅達長の家老職となった。「九州征伐」「小田原の役」「朝鮮の役」に参陣した。1600年「関ヶ原の役」では菅家が西軍についたのに対し東軍に参陣した。役後、藤堂高虎の船手頭として5,000石を領した。

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【は】

畔田重道【はんだしげみち(15??~15??)】

畔田城主。通称五郎。

畔田重照【はんだしげてる(15??~15??)】

畔田重道の男。官途は若狭守。別名塩田左馬介。1532年、畔田重照は三好元長に従い畿内を転戦した。三好元長が堺で討死した際、畔田重照も討死した。

畔田胤光【はんだたねみつ(15??~15??)】

畔田重照の男。官途は若狭守。別名塩田若狭守。1570年、三好家、石山本願寺に味方し、塩田若狭守は摂津福島城、野田城に入って織田信長と戦った。1585年、淡路国が仙石秀久の支配下となると、畔田胤光は仙石秀久に従った。

蟇浦常利【ひきのうらつねとし(15??~15??)】

蟇浦城主。三好元長家臣。通称藤次。淡路国十人衆のひとり。別名蟇浦経利。1528年、三好元長が京畿から四国へ帰還した際、炬口城主安宅秀益が離反したので、蟇浦経利は栗原城主島田時儀と共に三好元長の麾下の武将として安宅秀益を攻め、安宅秀益を討取った。

広田藤吾【ひろたとうご(15??~15??)】

広田城主。羽柴秀吉の「淡路攻め」の際は、仙石秀久の家臣団に加わり「洲本城の戦い」で戦功を挙げた。その後、脇坂安治、蜂須賀家など淡路国を治めた領主に仕えた。

福良長政【ふくよしながまさ(1487~1544)】 

鶴島城主。官途は出羽守。室は細川時隆の妹。1544年、福良長政は三好勢に鶴島城を攻められ討死した。

福良連経【ふくよしみちつね(15??~15??)】

福良長政の男。官途は出羽守。1544年、父福良長政の討死により福良家の家督を相続し棚野五ヶ村を支配した。1558年 山上渭山城を森高次、寺島城を福良出羽守吉武城代に任じた。1582年、阿波細川真之は、福良連経を頼り落延びが福良連経は細川真之を茅ヶ岡城に迎え共に三好家に備えるが、三好家臣江村次郎大夫 本木新左衛門 露口兵庫 江邑兵衛進らに茅ヶ岡城を攻められ細川真之は自刃した。

福良寛治【ふくよしひろはる(15??~1571)】

岡之城主。官途は式部。

船越景綸【ふなこしかげと(15??~15??)】

三原郡庄田城主。淡路細川家臣。淡路国十人衆のひとり。船越家は鎌倉時代より戦国時代まで三原郡倭文の庄田を中心に支配し、室町時代には阿波細川家の被官となって活動した。

船越景直【ふなこしけげなお(1540~1611)】

船越景綸の男。官途は左衛門尉。通称は五郎右衛門。船越景直は安宅冬康の海賊衆の麾下に属して戦った。三好家が滅ぶと織田信長の麾下に属した。1573年、毛利家より調略をうけるが、船越景直はこれを拒否した。1581年、羽柴秀吉の「淡路討伐」では本領安堵を受けた。1582年「本能寺の変」後も、羽柴秀吉に従って「賤ヶ岳の戦い」や「小牧、長久手の戦い」に参陣した。後に淡路国から播磨国明石郡へと転封され4,000石を領した。「小田原の役」や「文禄の役」にも参陣した。1595年「羽柴秀次事件」では、羽柴秀吉から勘気を蒙り、陸奥の南部信直に預けられた。羽柴秀吉の没後、松平元康から摂津国に所領をあてがわれて復し「関ヶ原の役」では東軍に加わった。その戦功から大和国宇智郡1,500石を加増された。船越景直の嫡男船越伊予守永景は茶人船越宗舟となった。

淡路細川尚春【ほそかわひさはる(14??~1519)】

津名郡養宜館主。細川成春の男。淡路守護職。1485年、父の死去により家督を継いで淡路守護となる。幕府管領の細川政元は幕政を主導し京兆家の全盛期を築くが、三人の養子を迎えたことで後に家督争いを引き起こすことになった。1505年、淡路細川尚春は政元の命に従い讃岐に侵攻して細川成之や三好之長らと戦うが敗れた。1507年「永正の錯乱」では、細川政元が養子の細川澄之を推す香西元長、薬師寺長忠らによって謀殺されると、他の細川政元の養子である細川高国や細川澄元らに味方して、細川澄之を敗死に追い込んだ。その後、京兆家の実権を握った高国とは対立する。1511年、三好之長が高国に対して和泉で挙兵「深井城の戦い」すると、それに呼応して淡路で挙兵し、摂津国に侵攻「芦屋河原の戦い」したが敗れて淡路に撤退する。情勢不利となった細川尚春は細川高国に降伏した。1517年、三好之長の淡路侵攻の際には敗れて和泉国堺に落延びた。1519年、淡路細川尚春は阿波国において三好之長によって謀殺された。

淡路細川勝忠【ほそかわかつただ(15??~1521)】

淡路細川尚春の男。1520年、三好之長は細川高国との合戦で敗れ、細川尚春の子細川勝忠が、細川高国に従い京都通玄寺曇華院で三好之長を討つ。1521年、阿波讃岐守護代の三好勢は「淡路細川家討伐」のため淡路国に攻め入る淡路細川勢、福良に集結待機したが三好勢は夜間阿那賀に渡り山越えで進攻した、養宜舘を攻め落した。細川勝忠は室とともに自刃した。

淡路細川忠若丸【ほそかわただわかまる(15??~1521)】

細川勝忠の男。細川忠若丸は養宜舘から落延びたが三好勢に追われ「鮎屋五之瀬の戦い」で討死した。

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【ま】

三木善兵衛【みきぜんべい(15??~15??)】

中島館主。詳細不明。

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【や】

柳沢直孝【やなぎさわなおたか(15??~15??)】

柳沢城主。通称隼人佐。淡路国十人衆のひとり。1532年、に柳沢直孝が柳沢と草香を領して三好長慶に麾下に属した。

柳沢直勝【やなぎさわなおかつ(15??~15??)】

柳沢直孝の男。

柳沢直盛【やなぎさわなおもり(15??~15??)】

柳沢直勝の男。官途は越前守。1581年、柳沢直盛のとき織田信長の命により淡路国に侵攻した羽柴秀吉らの軍勢に降伏した。

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【資料Ⅰ】

淡路国(2郡/62,000石)

津名郡:洲本城、岩屋城、由良城。

三原郡:志智城。

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【資料Ⅱ】

安宅八家衆【あたけはっけしゅう】

炬口城主:安宅秀興、湊里城主:安宅秀益、洲本城主:安宅冬康、白巣城主:安宅冬秀、猪鼻城主:安宅冬俊、由良城主:安宅清康、安乎城主:安宅隼人、岩屋城主:安宅宗景。

淡路国十人衆【あわじこくじゅうにんしゅう】

庄田城主:船越景直、湊里城主:安宅秀益、志知城主:野口則守、郡家城主:田村経春、蟇浦城主:蟇浦常利、柳沢城主:柳沢直孝、猪熊城主:菅達長、栗原城主:島田時儀、山添城主:加藤主殿、沼島城主:梶原秀景、鍛冶屋城主:賀集盛政、阿那賀城主:武田久忠。

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【資料Ⅲ】

淡路国【あわじのくに】

瀬戸内海東部に浮かぶ、南海道の国。北は明石海峡、東は紀淡海峡、西南は鳴門海峡によって本州と四国から隔てれているが、畿内、紀伊半島、中国、四国とは狭い海峡によって結ばれている。陸路より遥かに早くまた大量の物資を輸送できる海上交通の要所である。古代は天皇家に食料を献上する御食都(みつけ)国であったため、島国ではあるが、早くから開墾され、中世には多くの荘園が作られた。この海域を通る、商船を狙う、海賊衆や、それを警護する警固衆などの水軍も発達し、戦国期には安宅家海賊衆や淡路国十人衆などの淡路国海賊衆が大きな勢力を持つようになった。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

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※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「戦国関東名将列伝」隋想社、「(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧」秋田書院。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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