2012年4月21日土曜日

長宗我部元親家臣団辞典


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【あ】

五百蔵清光【いおろいきよみつ(15??~1583)】

五百蔵城主。長宗我部家臣。官途は筑後守。五百蔵家は平家の出自を持ち先祖は平忠正。長宗我部家に屈服して家臣となり各地を転戦した。

五百蔵佐渡守【いおろいさどのかみ(15??~15??)】

五百蔵清光の男。通称門次郎。1582年「中富川の戦い」で討死した。

五百蔵盛光【いおろいもりみつ(15??~15??)】

五百蔵清光の次男。通称左馬進。

五百蔵光廣【いおろいみつひろ(15??~15??)】

五百蔵清光の三男。通称六之進。1585年「戸次川の戦い」で討死した。

五百蔵左馬進【いおろいうまのしん(15??~1615)】

桑名親光の次男。五百蔵盛光の養子。別名桑名藤次郎。五百蔵盛光の娘を娶り家督を相続した。1600年「関ヶ原の役」では甥の亦五郎重光と共に出陣し、敗戦後兵500余りと共に大阪へ退却した。長宗我部家が改易後浅野家に仕えた。1614年「大坂冬の陣」が始まると長宗我部盛親を慕い大阪に入城した。1615年「八尾の戦い」で長宗我部盛親の馬前で討死した。

一円右京【いちえんうきょう(15??~15??)】

長宗我部家臣。一円家は滋賀県犬上郡多賀町一円よりおこる佐々木源家の庶家。一条家の土佐国入部と共に土佐国へ下向した。初代は一円山城守氏直で後長宗我部家臣となる。一円右京は「勝瑞城の戦い」に参陣し戦功を挙げた。敵陣地深くに侵入し負傷している一円掃部を助けて帰還する。その戦いぶりを賞され、長宗我部元親が烏帽子親となり一円右京と称した。

一円但馬守【いちえんたじまのかみ(15??~15??)】

一円隼人民部の男。1571年の長宗我部元親による一宮興人夫割張にも名があり、このころ土佐中央部に九町あまりの領地を持っている。長宗我部家の安芸家攻略後、安芸東部の羽根城主に任命され、八町あまりを領有している。長宗我部検地張に出てくる一円氏の中では最高の給地を得ている事から一円家の頭領的な立場の人物。

一円掃部【いちえんかもん(15??~15??)】

一円隼人民部の次男。通称五郎兵衛。室は国沢越中守の娘。一円掃部は長宗我部家の元で86石を領した。長宗我部家の改易後、五郎兵衛と名乗り浪人した。一円掃部は「大阪の陣」では一円勘助と名乗り入城した。落城後は一時阿波黒石に住むが安芸に帰り橋本小兵衛に100石仕えた。

入交蔵人【いりまじりくらうど(15??~1586)】

長宗我部検地張によると、蔵人は田村庄の細川城館内に屋敷を与えられており、長宗我部家中でかなり重んぜられていたようである。検地役人としても活躍。一族は山田、岩村、田村の各地に所領を持ち、忠勤に励んだ。1586年「戸次川の戦い」では入交蔵人以下主従十六名が討死した。

入交信【いりまじりしん(15??~15??)】

入交助右衛門の男。官途は豊後守。土佐入交家は摂津渡辺郷の出で、始め渡辺姓を名乗る。熊野山別当となり、その後、神主として土佐に下った。その地名より入交を称した。長宗我部家改易後の伊予宇和島にて藤堂高虎に仕えた。

岩崎安行【いわさきあんぎょう(15??~15??)】

長宗我部家臣。通称兵庫助。岩崎家は甲斐源家の後裔。岩崎安行は検地奉行として手腕を発揮。高岡郡波介、戸波に所領を有した。一族二十数家は安芸、香美、長岡、土佐、高岡、幡多の諸郡で繁栄した。

江村親家【えむらちかいえ(15??~15??)】

吉田重俊の次男。江村親政の養子。官途は備後守。室は利岡辰巳の娘。吉田重俊の次男で江村親政の養子となり江村家を相続した。父と同じ官命を名乗った事から小備後と呼ばれる。1551年、山田元義との「雪ヶ峰城の戦い」では、敵将山田長秀と一騎撃ちをして見事に討取った。1568年、一条兼定の「西園寺家討伐」では長宗我部勢200余りを率いて参陣した。一条兼定より鎧と太刀を拝領した。長宗我部元親の「四国平定」で活躍し3,500石を領した。

江村親俊【えむらちかとし(15??~15??)】

江村親家の男。通称孫左衛門。1582年「本能寺の変」後、紀州鷲森にあった本願寺顕如と元親の外交折衡では奏者を務めた。1585年「四国征伐」では谷忠澄とともに阿波一宮城に籠城した。羽柴秀長側との交渉を行った。敗戦により長宗我部元親が差し出した人質三男津野親忠と共に京へ行く。1592年「文禄の役」「晋州城の戦い」でも戦功を挙げた。若年寄で1,500石を領した。

岡村元重【おかむらもとしげ(15??~15??)】

上韮生村。通称与三郎。1586年「戸次川の戦い」に参陣した。領地が二町程度の一領具足は、単身合戦に挑むのが通例とされていた。

岡村与七郎【おかむらよしちろう(15??~15??)】

岡村元重の男。

奥宮扶盛【おくみやよしもり(15??~15??)】

長宗我部家臣。官途は主膳守。

奥宮盛治【おくみやもりはる(15??~15??)】

奥宮扶盛の男。官途は若狭守。通称太郎左衛門。検地張によると幡多郡式地に給地がある。1575年、式地城主、敷地藤康の遺臣が謀反を起こし、織部正之と盛治が入城したようである。1583年、伊予北川の陣にて活躍し、幡多郡塩塚城詰五人組の宰配をまかせられるが数年後に病死した。

奥宮盛之【おくみやもりゆき(15??~1614)】

奥宮正之の男。奥宮若狭守の養子。通称治部。父の兄、若狭盛治の跡目を相続する。1578年「讃岐藤の目の戦い」に若狭と共に出陣し、城攻め一番乗り十二人の一人として活躍。長宗我部元親より感状と知行一町一反、治部の名前を拝領した。また伊予北の川の陣でも桑名親光の先手にはいり活躍し、感状と塩塚城在番を命じられる。1600年「関ヶ原の役」おりには久武親直の与力となり、津野姫野々城詰めとなっていたが長宗我部家は改易。その後お家再興を密かに願う旧家臣達と気脈を通じ、「大阪の陣」の時には盛親から一通、中内宗左衛門から四、五通の密書を受け取り、中村城主山内康豊の大阪出陣の留守中に城を急襲するいわゆる中村企図を企てる。しかし計画は事前に露見し、山内家臣、祖父江一秀の奇計により同志二十人と共に捕らえられ渡川で自刃した。

奥宮定盛【おくみやさだもり(15??~15??)】

奥宮正之の次男。奥宮盛之の養子。通称太郎左衛門。兄の子が病死したのちに本家を継ぐ。関ヶ原には出陣しなかったようであるが、大阪の陣では盛親の元に参陣した。吉田弥右衛門の先手、三宮十助、喜多川助之丞、国吉五郎左衛門等と中備えとして武名を揚げている。1615年、藤堂家より仕官の誘いがあり、藤堂和泉守に謁見しているが、結局堀田盛家に仕え「佐倉崩れ」の後には松平和泉守に召しだされて佐倉で没した。

奥宮正家【おくみやまさいえ(1554~1586)】

奥宮正之の三男。通称蔵人。奥宮家は元山田家に従えたが山田家滅亡後に長宗我部家臣となった。香美郡山田郷楠目を本拠とした。天正年間には阿波との国境警備を命ぜられ、安芸郡甲浦の城柵を監した。1586年「戸次川の戦い」で討死した。

小谷与十郎【こたによじゅうろう(15??~15??)】

入野郷上川口村の一領具足。「朝鮮出兵」に出陣して、朝鮮の若い機織の女性を連行し、その技術を広く土地の人々につたえた。与十郎から数えて四代目の小谷安次により、同村の桂蔵寺に墓碑が建立されている。

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【か】

加藤良久【かとうよしひさ(15??~1675)】

加藤良正の男。官途は治部。通称勘四郎。加藤家は長宗我部家の大工として有名を馳せた。祖父良次は滝本村の毘沙門堂、父良正は廿代町の神明宮を建てる。良正も大工となり山内家に仕えた。京都の内裏修造の工匠補助の命を受け上京、治部の官位を請け、後に朝散大夫の称を許されるが帰国後に返上し、山内家より士格に遇された。

国吉甚左衛門【くによしじんざえもん(15??~1588)】

長宗我部家臣。官途は備前守。別名上村備前守親綱。国吉家は岡豊周辺の国人領主ではやくから長宗我部家に仕えた。三家老に次ぐ重臣で重用され、家老に列して3,700石を領した。香美郡王子城を築いて城主となり、山北、山南、東川を支配した。讃岐中原征圧後、西長尾に新城を築き城主となって讃岐の軍代となり讃岐攻略に活躍した。内政面では長宗我部元親に検地を健言し、太閤検地前に土佐の検地を実施、この検地より土佐国内は248,000石の石高が確定した。

国吉幸親【くによしよしちか(15??~1616)】

国吉甚左衛門の次男。官途は備後守。通称五左衛門。別名上村幸親。室は大黒主計の娘。土佐国、讃岐国での戦いで戦功を挙げた。長宗我部家が滅亡すると堀田家に500石で仕えた。潜伏中の長宗我部盛親に宛てて俸禄の一部を送り続けた。1614年「大阪冬の陣」が始まると大坂城に入城して長宗我部盛親隊に属した。1615年「八尾の戦い」で戦功を挙げた。落城に至って、長宗我部盛親と共に八幡まで随行の後、帰国とお家再興を約して同士二十三人と共に土佐に帰国した。

久礼田孝之【くらだたかゆき(15??~1578)】

長宗我部家臣。官途は豊前守。久礼田家は土佐久礼田の土豪で長宗我部氏より派生した家。豊前守秦孝之と名乗り秦姓を用いた事より長宗我部家との関係が解る、のち定祐と名乗った。文化人で蜷川道標より連歌を学び、長宗我部元親が毎年二月に行った連歌の会に出席し名声を得ていた。

久礼田道祐【くらだみちすけ(15??~15??)】

久礼田孝之の男。久礼田定祐の病没、久礼田家は一条親政とその室(長宗我部元親の娘)を引取り守備し、その屋敷は久礼田御所と呼ばれた。。

桑名重定【くわなしげさだ(15??~15??)】

長宗我部家臣。官途は丹後守。室は吉田重俊の娘。長宗我部三家老のひとりとして仕え8,500石を領した。桑名家は長宗我部家の土佐国下向時に伊勢国桑名より従えたと言われる譜代の家柄。安芸家討伐後、奈半利城主。

桑名藤蔵人【くわなとうくらうど(15??~15??)】

桑名重定の弟。通称藤太郎。桑名丹後守の弟で桑名弥次兵衛の養父。兄とともに家老職を務めて1,350石を領した。吉良親貞死後には中村城代となった。

桑名親光【くわなちかみつ(1551~1586)】

桑名重定の男。通称太郎左衛門。若年寄衆で8,700石を領した。中嶋与市兵衛と共に京都に三年間留学し、小笠原流弓術を極め家中の弓術師範となった。長宗我部元親の小姓組みとして「藤ノ目城の戦い」「北之川親安討伐」等に参陣した。讃岐引田では羽柴秀吉の派遣した仙石秀久勢と戦い大勝した。1586年「戸次川の戦い」ではその仙石秀久と共に参陣し兵1,000余りを指揮し奮戦するも討死した。

桑名親勝【くわなちかかつ(15??~1592)】

桑名重定の三男。通称将監。若年寄衆に列し甲浦城1,200石を領した。1586年「戸次川の戦い」で兄桑名親光が討死すると桑名家の家督を相続した。長宗我部元親より敗戦報告のため羽柴秀吉の下へ使わされた。1592年「文禄の役」で朝鮮熊川で討死した。

桑名吉成【くわなよしなり(1551~1615)】

中内和泉守の男。桑名藤蔵人の養子。通称弥次兵衛。長宗我部元親の四男長宗我部盛親の榑人子として育つ。後に養父の跡を継いで中村城代となり、若年寄に列して1,550石を領した。家中一、二を争う強力の持ち主で「戸次川の戦い」など各地を転戦して戦功を挙げた。「戸次川の戦い」では長宗我部元親退却時にあらわれた野党を一刀両断し無事長宗我部元親を土佐国に退却させた。吉良親実の切腹では使者として切腹に立ち会っている。長宗我部改易時に起こった土佐浦戸一揆では計略をもってこれを鎮圧した。長宗我部家の改易後は藤堂高虎に仕えた。1615年「八尾の戦い」でかつての長宗我部盛親と戦って壮絶な討死を遂げた。

下司忠重【げしただしげ(15??~15??)】

長宗我部家臣。通称九郎左衛門。

下司安左衛門【げしやすざえもん(15??~15??)】

下司忠重の男。物部川河口、久枝の土豪。祖先より庄司刀弥の任を勤め、その役職を姓として下司家を称した。1595年、久枝八幡宮の造営を行いった。1597年「サンフェリペ号漂着事件」ではその処理の任にあった。長宗我部家の改易後は山内家に仕えた。

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【さ】

三宮左兵衛門【さんのみやさえもん(1565~1586)】

長宗我部家臣。通称平衛門。高岡郡日下葛掛城1,800石を領した。1582年「勝瑞城の戦い」で初陣を飾った。1584年「深田城の戦い」で戦功を挙げた。1586年「戸次川の戦い」で討死した。

三宮親俊【さんのみやちかとし(15??~15??)】

三宮左兵衛の男。通称平右衛門。

島崎利明【しまざきとしあき(15??~15??)】

長宗我部家臣。通称与左衛門。別名立花林慶。長宗我部家の改易後、山内家に仕官し茶坊主として余生を送った。長宗我部時代には立花流の剣術を修め、師より立花姓を賜った達人。

島親益【しまちかます(15??~1571)】

長宗我部国親の四男。長宗我部国親が家臣の室に手を出して生ませた庶男で、母方の島家を称した。兄達に劣らぬ武将で武術に秀でており「本山家討伐」「安芸家討伐」では戦功を挙げた。病に犯され、療養の為に有馬の湯へ向かうが、悪天候の為阿波国那佐に停泊した際、安芸家残党が阿波国の海部家と共謀して襲撃してきた。病の体を奮い立たせて抗戦するが兵三十余りで応戦するが、たちまち追い詰められ、最期は三島にて切腹した。この報を聞いた長宗我部元親は烈火の如く怒り狂い、すぐさま阿波国海部家を攻撃、容赦なく砦や城を制圧した。

宿毛甚左衛門【すくもじんざえもん(15??~15??)】

長宗我部家臣。別名長宗右衛門大夫。室は本山茂辰の娘。はじめ長宗右衛門大夫と名乗り、その後野田家を称した。野田家は長宗我部七代兼光の弟俊吉を祖とし、代々長岡郡野田に住した。宿毛城主となり宿毛姓を名乗って南予の諸将と対峙する。「伊勢安濃津城の戦い」に参陣した。長宗我部元親の信頼の厚い人物でその遺言に「戦陣にあっては、先陣を桑名弥次兵衛、中陣は久武内蔵助、後陣は宿毛甚左衛門とする、後にこの布陣を変更する事を禁ずる」とした。長宗我部家では若年寄として1,200石を領した。長宗我部家の改易後は藤堂家に1,500石で仕えた。

専当秀家【せんとうひでいえ(15??~15??)】 

長宗我部家信。通称左京亮。香美郡物部村槙山郷専当の名主で父専当四郎左衛門章貞から長宗我部家と関係を持ち、以後長宗我部家に仕えた。専当秀家は国親の韮生侵攻に協力した。

専当安家【せんとうやすいえ(15??~15??)】

専当秀家の男。通称左衛門大夫。専当安家は香美郡韮生郷久保の久保家が熊山城に籠って降らなかったとき、弟の岡内左京、中谷川新助と協力して戦功をたて長宗我部国親より恩賞を与えられた。その後「四国平定」に参陣し阿波讃岐を転戦し戦功を挙げた。「四国征伐」後土佐国に帰還し再び専当の地を領した。

専当乗家【せんとうのりえい(15??~15??)】

専当安家の男。長宗我部家の改易後、山内家に仕えた。

宗円八郎左衛門【そうえんはちぜえもん(15??~1569)】

宗円家は神官の家系で、京都より宗円左近太夫が孝徳天皇の勅命によって、荒神神社の神官として土佐国に派遣された。左近太夫から数えて八代目が八郎左衛門で、大忍庄夜須川村宗円の領主、神官として長宗我部家に属し63石を領した。「安芸国虎征伐」で討死した。

宗円平左衛門【そうえんへいざえもん(15??~15??)】

宗円八郎左衛門の男。

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【た】

高石左馬助【たかいしさまのすけ(15??~15??)】

長宗我部家臣で一領具足衆。長岡郡下津野の居住し77石を領した。また本山郷内500石の地に勢力をのばす。長宗我部遺臣の土佐国内における最後の武力抵抗「滝山一揆」の首謀者。1603年、一領具足衆や百姓を束ね反抗した。鉄砲で武装し、滝山の洞窟に籠もった高石左馬介らは五日間もの間もちこたえるが、大砲で攻撃されると戦意喪失となり讃岐国に落延びた。

高橋又左衛門【たかはしまたざえもん(15??~1582)】

長宗我部家臣で一領具足衆。安芸郡奈半利村中里に居住した。1582年「勝瑞城の戦い」で討死した。

竹内惣右衛門【たけうちそうえもん(15??~1601)】

長宗我部家臣で一領具足衆。一領具足は正規の武士ではなかったが、長宗我部元親から信頼され、軍議に参加する事もあった。1600年「関ヶ原の役」後に長宗我部家が改易されると、徹底抗戦の構えを見せ、長宗我部盛親に土佐半国を与えるように主張し浦戸城に籠城した。この「浦戸一揆」の首謀者が惣右衛門であった。しかし、浦戸側の大将となっていた桑名吉成は、この抵抗によって長宗我部盛親に危険が及ぶと察知し、逆に謀略によって浦戸城の要所を押さえると開城した。竹内惣右衛門ら一領具足衆は浦戸城を奪回すべく奮闘するが、各地で討取られて鎮圧させられた。

竹内虎之助【たけうちとらのすけ(15??~15??)】

久武家臣。忍び衆。久武親信に従い各地で戦功を挙げた。流派は不明だが、忍者としての腕前は達人であった。

竹内弥藤次【たけうちやとうじ(15??~15??)】

竹内虎之助の養子。別称玄蕃。室は竹内虎之助の娘。その年、父と共に久武親信に付き従って「岡本城の戦い」に参陣した。城を守る土居清良の奇略の前に大敗、久武勢は壊滅した。その敗戦の報に触れた竹内弥藤次の室は一度に父と夫を失った事に失望し「待て暫し、先立ちぬとも死出の旅、険しき路を共に越えなん」と辞世の句を読んで自害した。ところが竹内父子は共に深手を負っていたが土佐国に生還する。室の死を知った竹内弥藤次は自刃しようとしたが、父に止められる。

竹内八右衛門【たけうちはちざえもん(15??~1675)】

長宗我部家臣。弓術家としてその名を知られる。長宗我部家の改易後は浪人した。

田所猪助【たどころいのすけ(15??~1599)】

長宗我部家臣。別名堀内善左衛門。始め堀内家を称して横浜、長浜に50石を領した。讃岐の陣にて敵将田所猪助を討った際に猪助より田所姓の継承を懇願され姓を田所に改めた。長宗我部元親が京で死去したおりに自ら剃髪し岡豊山で自刃した。

田所善兵衛【たどころぜんべい(15??~15??)】

田所猪助の男。

谷神右衛門【たにがみうざえもんn(1588~1660)】

谷神右衛門の男。別名神七郎。室は中井家の娘。土佐谷家の本家。室は福留隼人の娘。才幹あふれる人物であった。山内家政権下において、その家老である野中兼山が長宗我部家の感状がなくても、この神右衛門の証言があれば遺臣を郷士に取り立てた。

谷忠澄【たにただずみ(1544~1600)】

長宗我部家臣。通称忠兵衛。元土佐郡一宮の神主で滝本寺非有の兄。長宗我部元親に見出されて家臣となり、主に外交方面で活躍した。1585年「四国征伐」では阿波一宮城に籠城して羽柴秀長勢と戦った。羽柴秀長の勧告を聞き入れ長宗我部元親元親に羽柴秀吉に降伏するように勧めた。1586年「戸次川の戦い」では退却中に長宗我部元親に頼まれ、使僧恵日寺と共に島津陣に長宗我部信親の遺骸を受け取りに行く。土佐国に帰還後は中村城代となり西辺の防衛に任じ、在任中は囚人を使役して入野浜に松を捕植させるなど善政を尽くした。

谷彦十郎【たにひごじゅうろう(15??~15??)】

谷忠澄の男。1586年「戸次川の戦い」で討死した。

田村忠重【たむらただしげ(15??~15??)】

長宗我部家臣。通称平兵衛。室は江口藤兵衛の娘。田村氏は土佐田村庄の豪族で遠祖はこの荘園を所有していた九州の大族大友氏であるという。はじめ幡多郡下ノ加江に住み、三原郷大狼内村に転居したあとまた下ノ加江に戻り、同村江口藤兵衛の娘を娶った。

近沢越後守【ちかざわえちごのかみ(15??~15??)】

長宗我部家臣。近沢太郎兵衛尉兼親の孫か。尾川近沢家の摘流で長宗我部家臣具同城主として家中で弓鉄砲の師範となり活躍。1562年、一宮土佐神社再建時には給地七町歩ほどの江村衆となった。近沢家は代々弓術師範の家として名高かったが、鉄砲の伝来以後砲術の練磨に励んだ。岡豊城下において子弟に教授したが、毎月一日に行われる鉄砲揃を視察した長宗我部元親に「合戦に勝利を得ること三度に二度は鉄砲にて打ち崩し、槍の柄の取れぬ事多しと、越後守の功大なる想ふし」といって賞詞をえた。「本能寺の変」の時、勝瑞城奪取を企て海部に進軍した長宗我部信親の説得に使わされた。

近沢祐清【ちかざわすけきよ(1541~1615)】

高岡郡尾川城主。近沢親春の男。通称将監。別名尾川兵部入道。祖父は右近大夫廣正。近沢氏の遠祖は藤原秀郷流近藤氏で、南北長期に尾川地頭、近藤智國が敗戦し、子の重太郎が長じて尾川代官に任じられたとき、近藤姓を名乗ることを許されず、近の一字を冠して近澤弥左衛門と称した。初め細川家の大平家に属し、後一条、長宗我部の侵攻にあうが本領は安堵された。近沢祐清は強弓でしられ、また文筆の才があり長宗我部家で祐筆役となった。尾川近沢家一族の給地は百町にものぼるという。長宗我部家の改易後、松平安芸守に200石で仕えた。

近沢嘉兵衛【ちかざわかへい(15??~15??)】

近沢祐清の男。1586年「戸次川の戦い」で討死した。

長宗我部国親【ちょうそかべくにちか(1504~1560)】

長宗我部兼序の男。室は細川国隆の娘。1508年、父長宗我部兼序が本山家などに攻められ岡豊城で自刃した際に、国親は落ち延びて一条房家に養育された。1544年、父長宗我部兼序の仇である本山茂宗と和睦し、その嫡男本山茂辰と自分の娘を婚姻させることで岡豊城に復帰し、長宗我部家を再興した。1547年、一条家の支城である大津城を攻めた。1556年、三男長宗我部親泰を香宗我部家に養子として従属化し池頼和に娘を嫁がせるなど、土佐国人の従属化を進めた。1555年、本山茂宗が病死し、女婿の本山茂辰が後を継ぐと本山家を討つべく兵を挙げた。「長浜の戦い」で本山茂辰を破り、長浜城を攻略すると、続いて浦戸城も攻め落とした。直後に病を得て急死した。

長宗我部元親【ちょうそかべもとちか(1539~1599)】

長宗我部国親の男。室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。側室に明智光秀の妹の娘がいる。幼少の頃は「姫若子」と噂されるほど、無口でおとなしい性格だった。1560年、土佐郡朝倉城主の本山家を攻めた「長浜の戦い」において鬼神のような働きを見せ「鬼若子」と呼ばれ賞賛された。1560年、父長宗我部国親が急死により家督を相続した。父長宗我部国親の意思を継ぎ、長宗我部元親は剽悍な一領具足を動員して勢力拡大を行い、本山家を滅亡させると安芸家、一条家を次々と滅亡させ土佐を統一する。その後も弟達と協力して阿波、讃岐、伊予に侵攻した。1585年、四国を統一した。しかし、羽柴秀吉の「四国征伐」が開始され、わずか数ヶ月で降伏。1568年「戸次川の戦い」で大敗し、嫡男長宗我部信親を失った。失意の長宗我部元親はこれまでの性格が一変し、自我を通して邪魔な家臣を排除し一般的な習いを無視して四男長宗我部盛親に長宗我部信親の娘を嫁がせ世継とした。1599年、京都伏見屋敷にて死去。

長宗我部信親【ちょうそがべのぶちか(1565~1587)】

長宗我部元親の男。室は石谷頼辰の娘。若い頃より時期当主として期待され、長宗我部信親自身も十分な才能があった。家臣からの信頼も厚く、美男子で長身であった。1585年、羽柴秀吉に降伏した長宗我部家は土佐一国を安堵された。1586年「九州征伐」の先鋒を受けた。長宗我部信親も父らと共に九州に出陣し、島津勢と抗戦するが、総大将の仙石秀久の無謀な作戦の犠牲となり「戸次川の戦い」で島津勢の猛攻に合って最期は二十名余りとなり、ついに長宗我部信親も鈴木内膳によって討取られた。その遺体は島津家より丁重に返還された。

長宗我部盛親【ちょうそがべもりちか(1575~1615)】

長宗我部元親の四男。1586年「戸次川の戦い」で兄長宗我部信親が討死すると、長宗我部家中で家督相続問題が浮上した。長宗我部元親に溺愛されていた長宗我部盛親が長宗我部家の家督を相続した。その後は父長宗我部元親と共に各地の戦に赴き、羽柴家に忠誠を尽くした。1600年「関ヶ原の役」の合戦では東軍の松平元康に味方する予定だったが、西軍の増田長盛によって西から東への連絡を遮断され、西軍の石田三成に味方した。「関ヶ原の戦い」では栗原山に陣取るが、東軍に内通していた吉川広家の妨害に合い、戦もせずに土佐国へ退却した。松平元康に謝罪をするが、領地没収の上謹慎処分となった。1614年、羽柴家、松平家が険悪となると、羽柴秀頼より誘いがあり、大坂城に入城した。「大坂冬の陣」では、大坂城門を守るが、あまり戦働きもないまま停戦。1615年「大坂夏の陣」では、堀を埋められた大坂城はもはや城としての防御力も無く、やむなく野戦となった。長宗我部盛親は「八尾戦い」で藤堂勢を敗走寸前にまで追い詰めるが、井伊勢の加勢により形勢は逆転し敗走した。大坂城から落延びるが蜂須賀勢に捕らえられた。長宗我部盛親は二条城門外にさらされ、京都市中引き回しの末斬首された。

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【な】

中内藤左衛門【なかうちとうざえもん(15??~1581)】

長宗我部家臣。官途は石見守。中内家は近江の中原家の庶家。中世後期に土佐国に入り長岡郡江村郷に居住した。森城主で「四国征伐」に参陣した。讃岐国侵攻後は財田城在番した。

中内源兵衛尉【なかうちげんべいのじょう(15??~1615)】

中内藤左衛門の男。通称藤吉郎。別名桑名源兵衛一友。長宗我部元親の股肱の若手武将として重んぜられ1,000石を領した。父中内藤左衛門と共に「四国征伐」に参陣した。父中内藤左衛門の病没後は財田城番となり「中富川の戦い」でも戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」後浪人した。1601年、兄桑名一孝と共に藤堂高虎に200石で仕えた。1614年「大阪冬の陣」では兄桑名一孝の麾下に属して参陣した。1615年「八尾の戦い」で討死した。

中内左近衛門尉【なかうちさこんざえもんのじょう(15??~15??)】

長宗我部家臣。半山姫野に屋敷を持ち、津野庄内、及び高岡、蓮池等に給地を持つ。長宗我部信親の命で浦戸衆の国真左馬亮、三宮重平衛尉と共に津野庄に派遣され、津野家側の役人と共に津野庄の奉行として活躍した。

中内三由【なかうちさんゆ(1505~1582)】

長宗我部家臣。官途は兵庫亮。室は香宗我部山城守の娘。中内家枝連衆。勇将としてしられ、阿波白地城主に任じされた。

中内重由【なかうちしげゆ(15??~15??)】

中内三由の男。通称与三右衛門。

中内三安【なかうちさんざい(15??~15??)】

中内三由の次男。通称惣右衛門。室は久武内蔵助の娘。1562年「吉良城の戦い」で戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」に参陣したが敗走した。大阪に引き上げたときに中内惣右衛門を含めて長宗我部勢はわずか七名となっていた。長宗我部家の改易後、浪人した。1614年「大阪冬の陣」では、長宗我部盛親とともに大坂城に入城した。大阪城が落城に至って長宗我部盛親と共にに落延びようとするが、八幡近くで蜂須賀家の長坂三郎左衛門に捕縛された。

中内弥五左衛門【なかうちよござえもん(15??~15??)】

中内三安の男。

中島可之助【なかじまべくのすけ(15??~15??)】

長宗我部家臣。長宗我部元親の使者として、織田信長に面会した。中島可之助は身分が低かったため、「席に臨むごとに終に座上に着く事なし」と気にしていた。そこで漢文では必ず一番上に来る「可」という字を使った。。「四国統一」を目指していた長宗我部元親は、嫡男長宗我部信親の烏帽子親を天下統一を目指していた織田信長に依頼し、織田家と同盟しようと考えていた。家臣は家老を遣わすべきだと主張したが、長宗我部元親の鶴の一声で可之助に決まった。早速可之助は尾州へ赴いた。織田信長は可之助に向かい、「元親は無鳥島の蝙蝠だな」と言ったところ、可之助はあわてず「蓬莱宮の寛典に候」と答えた。織田信長はこの答えを賞賛し、烏帽子親を引き受け、長宗我部元親の四国の切り取り自由も認めた。

中島親吉【なかじまちかよし(15??~15??)】

長宗我部家臣。官途は大和守。長宗我部国親、長宗我部元親の二代に渡って仕え4,400石を領した。長宗我部国親に進言し計をもって池家を降した。「本山家討伐」でも戦功を挙げた。1561年に、本山家支城神森城を福留隼人と攻略した。1562年「朝倉城の戦い」にも勝利し、泰泉寺城を抜いて城監を勤めた。1582年「中冨川の戦い」で戦功を挙げた。

中島重勝【なかじましげかつ(15??~1583)】

中島親吉の男。通称与市兵衛。「羽根城の戦い」に参陣した。1579年、香川信景の岡豊城出仕のときに奏者を務めた。1581年、一条内政追放の使者にもなった。1583年「引田城の戦い」で討死した。

中島重房【なかじましげふさ(15??~16??)】

中島重勝の男。通称与市兵衛。1586年「戸次川の戦い」敗戦後、土豪の抵抗を撃退して帰国した。検地奉行を勤める一方、書の才にすぐれ、書家としても名をなした。1592年「文禄の役」に参陣し「普州城の戦い」で戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」にも参陣した。改易後は藤堂家に仕官するも、「大坂冬の陣」に参じた長宗我部盛親をしたって大坂入城を果たした。1615年「八尾の戦い」で奮戦したが敗戦、浪人した。

中村信義【なかむらよしのぶ(15??~15??)】

佐川中村城主。長宗我部家臣。官途は越前守。

中村兵庫【なかむらひょうご(15??~15??)】

中村信義の男。1592年「文禄の役」に参陣し戦功を挙げた。使者として羽柴秀吉の元へ使わされた。1600年「関ヶ原の役」では長宗我部盛親の室を警護して伏見に送った。晩年は他家には仕官せず、京都鳴滝の般若寺で嫡男中村秀憲とともに住んだ。

中村秀憲【なかむらひでのり(15??~15??)】

中村兵庫の男。

忍性【にんしょう(15??~15??)】

長岡郡忍蔵主。長岡郡五台山吸江庵の禅僧であったが、明敏な人で儒学を南村梅軒に学んで経書に精通し、如淵と交わり内省につとめ切磋琢磨した。のちに如淵と共に元親に招かれ、岡豊城下で程朱子学を講じ、大きな影響を与えた。1588年、長宗我部家の跡継問題がおこると、如淵は誅され、忍性も退けれられ失意のうちに没した。

野田正永【のだまさえい(15??~1649)】

長宗我部家臣。通称太兵衛。野田家は長宗我部氏第七代の兼光の弟俊吉が南国市野田を領して野田姓を称したことに始まる。分家には上村家などがあり、古くから長宗我部家の家臣として仕えた。1600年、長宗我部家の改易後、山内忠義の家老、深尾出羽守に330石で仕えた。

野田正元【のだまだもと(15??~15??)】

野田正永の男。通称太兵衛。

野中貞吉【のなかさだよし(15??~15??)】

香美郡吉野城主。長宗我部家臣。

野中親孝【のなかさだよし(15??~15??)】

野中貞吉の男。通称三郎左衛門。父野中貞吉の代から長宗我部家の麾下に属した。「本山家討伐」で数々の戦功を挙げた。長宗我部家の若年寄衆として1,000石を領した。国政奉行となり美良布神社を造営した。長宗我部家滅亡後も遺臣の長的な存在であり、連判状を預かって他の遺臣と共に大阪に入城した。落城後播磨の本多美濃守に仕えた。

野中貞俊【(15??~15??)】

野中貞吉の次男。通称源助。野中三郎左衛門親孝の弟。長宗我部元親の小姓組となり37石を領した。長宗我部家の滅亡後は阿波に落ちるが、のち韮生郷民の要請で帰国し芳野の庄屋になった。

野中源兵衛【のなかげんべい(15??~15??)】

野中貞俊の次男。吉良家臣の勝賀野次郎兵衛の成敗に土居治部らと向かい、手傷を負いながらもなんとか任務を遂行した。

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【は】

浜口直乗【はまぐちなおのり(15??~1586)】

長宗我部家臣。通称興三右衛門。浜口家は香美郡手結浦より起った家。興三右衛門は長宗我部家に仕えて重臣とな「戸次川の戦い」で討死した。その薙刀は無銘であるがかなりの品で、鰐丸と名づけられ、岩井王洲之が詩を作り家宝とした。

浜田善左衛門【はまだぜんぜんざえもん(15??~15??)】

長宗我部家臣。浜田家は香美郡田村庄下田村の豪族で地検帳によると一族は二十九軒に及び繁栄していた。本山家との「長浜城の戦い」で兄浜田久左衛門が敵将宇賀平兵衛と戦い討死にしたが、浜田善左衛門はただちに平兵衛を討ち取り、兄の仇を取った。

浜田善右衛門【はまだぜんえもん(15??~1578)】

長宗我部家臣。長宗我部元親は江村孫左衛門、中内藤左衛門、桑名太郎左衛門ひきいる土佐勢兵10,000余りで讃岐藤ノ目城を奪取した。その後守将として桑名太郎左衛門、浜田善右衛門以下1,000余りを守備に置いた。しかし、香川信景、長尾大隈守、羽床伊豆守率いる兵3,000余りが押し寄せやむなく開城。再度藤ノ目城攻略の勢を起こし、敵主将新目弾正を攻め、城を攻め落とす。浜田善右衛門は恨みを晴らすべく血気にはやり長宗我部元親の命を聞かずに突撃、討死した。

播磨屋宗徳【はりまやそうとく(15??~1648)】

土佐国浦戸の商人。屋号は播磨屋。通称九郎右衛門。播磨国の豪商であったが、長宗我部元親の讃岐国出兵の際、兵糧の調達を行った功績によって土佐に招かれた。浦戸城下に移った宗徳は、長宗我部家に商人として仕えていたが、主家滅亡後山内一豊が入場し、大高坂の地に新城を築き、居城を移すと、一豊は宗徳らを特権商人として重用し、大高坂城近くに住居を移した。その後も町づくりに貢献し、町年寄役を務めた。1606年、町役人に専任させる為に商人としての振る舞いを禁止された。

比江山親興【ひえやまちかおき(1557~1588)】

長宗我部国親の弟国康の次男であり、長宗我部元親の従兄弟であった親興は、一門衆の中でも発言力があり、若年寄衆の筆頭であった。長宗我部姓も名乗っている。秀吉の四国征伐では阿波国岩倉城の守備に就いた。長宗我部家が降伏すると人質として大坂に送られる津野親忠に付き添っている。戸次川の合戦後に勃発した家督相続問題では、津野親忠を後継者に推薦して、長宗我部盛親を推す久武信直や元親と対立した。長宗我部元親に対しても世間の習いに従うべきとの主張を緩めなかった為、長宗我部元親から邪険にされ、切腹を命ぜられた。妻や子供らも殺された。

久武親信【ひさたけちかのぶ(15??~1579)】

久武昌源の男。官位は内蔵助。久武家は長宗我部三家老とよばれ、長宗我部家の土佐国入部時の家臣久武源三から仕える譜代の家臣。長宗我部元親に仕え、その誠実な性格から長宗我部元親に重用され、高岡郡佐川城40,000石を領した。1577年、南伊予方面の軍を担当する総指揮権(伊予軍代)を与えられ、川原崎家を討つ。1579年、宇和郡岡本城を攻撃中に、城を守る土居清良の奇略に遭って討死した。長宗我部親信は、有馬温泉で羽柴秀吉と会見したことがあり、そのとき、秀吉の器量のほどを知ったと言われている。また、弟久武親直については常々危惧を抱いていたとされ、岡本城攻防戦で討死する直前、長宗我部元親に向けて「弟の彦七(親直)は腹黒き男ゆえ、お取立て召されるな」と言い残した。娘は長宗我部元親の養女となり東条関兵衛に嫁いだ。

久武親直【ひさたけちかなお(15??~15??)】

久武昌源の次男。通称内蔵助。兄久武親信は長宗我部元親に対し、「自分が戦死しても、御家の害になるので弟に後を継がせないように」と伝えていた。1579年、兄久武親信の死後、家督を相続する。1584年、伊予陣代に任命されるれ、伊予深田城を攻略した。1586年、長宗我部信親の討死で家督相続問題が起こると、長宗我部元親の四男長宗我部盛親を支持し、反対派の吉良親実、比江山親興に対しては長宗我部元親に讒言して粛清した。1600年「関ヶ原の役」後は、主戦論を抑えて盛親に松平元康への恭順を勧めた。長宗我部盛親の兄津野親忠を殺すように進言したため、長宗我部盛親は兄殺しを松平元康にとがめられて改易された。

櫃屋道清【ひつやどうせい(15??~1662)】

土佐国浦戸の商人。松本重則の男。別名松本太郎左衛門。松本家は天正年間に父勘解由重則(根来衆)が紀州松江より来国し長宗我部家に仕える。後に商家となり繁栄する。山内入国後も活躍し播磨屋らと共に長崎と土佐を行き来する。店自体も播磨屋の向かいにあり、その間に播磨屋橋が架かっていた。

平野正直【ひらのまさなお(15??~15??)】

長宗我部家臣。官途は加賀守。

平野親政【ひらのちかまさ(15??~15??)】

平野正直の男。通称弥惣兵衛。別名北添弥惣兵衛。平野家は橘姓を名乗り、京都平野城主であった。平野親政の代に北添姓に改姓した。平野親政は「大阪夏の陣」のおり、京都に在住して活躍した。

平野五郎左衛門【ひらのごろうざえもん(15??~15??)】

平野親政の男。別名北添五郎左衛門。

福留親政【ふくどめちかまさ(1511~1577)】

長岡郡田辺島城主。福留房吉の男。官途は飛騨守。長宗我部元親に「親」の一字を与えられるなど信頼され、感状を受けた数は21回に及び、1563年、元親が本山攻めに向かい岡豊城の防備が手薄になった際に安芸国虎が攻めてくるも撃退した。働きぶりは福留の荒切りと呼ばれた。元親の嫡男の長宗我部信親の守役を務めるなど重用されていたが、1577年「伊予の戦い」で討死した。

福留儀重【ふくとめよししげ(1549~1586)】

福留親政の男。官途は隼人佐。長宗我部元親に仕え活躍したが、長宗我部氏が豊臣秀吉の四国征伐に敗れ降伏し、九州征伐の先陣として出陣し大敗した豊後戸次川の戦いにおいて元親の嫡子の長宗我部信親らと共に戦死した。「福留の荒切り」と称された父親政に劣らず、土佐の童謡にも「蛇もハミもそちよれ、隼人様のお通りじゃ」と歌われる程、武勇に優れる一方、禁酒令を破った主君元親を諌めるなど忠義にも篤い人物であった。

福留政親【ふくとめまさちか(15??~15??)】

福留儀重の男。通称半右衛門。長宗我部元親、盛親に仕える。文禄の役で初陣。関ヶ原の戦いで長宗我部家改易後は、加藤嘉明を経て井伊直孝に仕え、るが大坂の役では盛親の陣に参陣したという。

戸波親武【へわちかたけ(15??~15??)】

戸波城主。長宗我部国康の男。別名長宗我部親武。長宗我部家の枝連衆。1569年、長宗我部元親は、一条軍の戸波城を攻城し落城させた。親武は元親から戸波城の城主に任ぜられる。その際、戸波の名字を名乗る。1584年、長宗我部軍の四国平定で武功をあげ十河城の城主となった。羽柴秀吉軍の四国攻めでは、植田城で羽柴秀吉軍を防戦した。

戸波親清【へちわちかきお(15??~15??)】

戸波親武の男。通称十兵衛。別名宿毛右衛門太夫。「四国平定戦」で活躍した。長宗我部家の改易時には浦戸城で籠城を主張した家中屈指の武断派。1615年「八尾の戦い」で藤堂家との戦にて活躍し、他家の記録にもその名が出てくる。その後藤堂家に仕えた。柳生新陰流を修め、あだ討ちで勇名な荒木又右衛門の指南役となった。

別役義重【べつやくよししげ(15??~15??)】

別役城主。通称三吉郎。別役土居を中心に東別役城、中西川上城、中西川南城等の支城を支配した。長宗我部家に仕えて東川、西川に520石を領した。領地の聖神社の境内に「戸次川の戦い」への出陣のさいに武運を祈って植えられたと伝えられる杉尾の巨木が残る。

別役重勝【べつやくしげかつ(15??~15??)】

別役義重の男。通称道遊。

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【ま】

前田正征【まえだまさのり(15??~15??)】

長宗我部家臣。通称平左衛門。1572年、一領具足として長宗我部家に仕えた。後に戦功により120石を領した。

前田正義【まえだまさよし(15??~15??)】

前田正征の男。長宗我部家中で物頭となり600石を領した。

前田正光【まえだまさみつ(15??~15??)】

前田正義の男。通称忠右衛門。松平家の馬廻衆となり3,000石を領した。

森弥五郎【もりよごろう(15??~15??)】

本能寺の僧。囲碁の打ち手で本能寺の僧、利玄坊の弟子となり京都の長宗我部元親の膝元に置かれた。その囲碁の実力は本物で松平元康や本因坊、他の諸大名らとも面識があった。長宗我部元親に寵愛されて大名同士の接待で活躍した。長宗我部盛親が家督相続後はその扱いはまったく変わり、あまり重用されなくなった。

森下忠左衛門【もりしたちゅうざえもん(15??~1578)】

長宗我部家臣。木能津真川名に居住し真川姓を称した。領地三町十七代を知行した一領具足。讃岐藤ノ目城の戦にて討死した。

森下彦兵衛【もりしたひこべい(15??~15??)】

森下忠左衛門の男。

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【や】

安田弥次郎【やすだやじろう(15??~1635)】

長宗我部家臣。通称権太夫。本姓は惟宗姓で地名より安田家を称した。1600年「関ヶ原の役」に参陣した。1614年「大阪冬の陣」に参陣した。泉州堺に潜居した後に土佐国に帰国した。

安田彦左衛門【やすだひこざえもん(15??~15??)】

安田弥次郎の男。

山川親徳【やまかわちかとく(15??~15??)】

香美郡王子城主。国吉甚左衛門の男。通称五郎左衛門。香美郡大忍庄山川城に居住し、山川家を称した。山川家は長宗我部家の庶家で早くから麾下に属した。山川親徳は羽柴秀吉の指示を受けた長宗我部元親の命により、安芸郡和食村に蟄居していた根来の残党、専式坊法印の討伐に向かい、吉田孫左衛門、黒岩治部左衛門と協力して討取った。1600年「関ヶ原の役」後、小出大和守に仕え500石を領した。

山川親政【やまかわちかまさ(15??~15??)】

山川親徳の男。通称助之進。

山川親方【やまかわちかかた(15??~15??)】

山川親徳の次男。通称清右衛門。

山内祐経【やまのうちすけつね(15??~15??)】

香美郡梶ヶ谷城主。山内家臣。通称次郎兵衛。

山内三郎左衛門【やまのうちまぶろうびょいえ(15??~15??)】

山内祐経の男。長宗我部元親、長宗我部盛親二代に渡って仕えた。奉行衆となり、家中一切の政務を担当し久万次郎、豊永藤五郎と共に九町三反を領した。

山崎山重【やまざきやましげ(15??~15??)】

物部村山崎城主。山崎盛高の男。通称勘解由左衛門。長宗我部元親に従い「四国平定」に活躍した。讃岐の陣にて討死した。

山崎盛高【やまざきもりたか(15??~15??)】

山崎山重の男。1586年「戸次川の戦い」で討死した。

吉田孝頼【よしだたかより(1494~1563)】

長宗我部家臣。吉田則弘の男。官途は備中守。室は長宗我部元秀の娘。家老衆筆頭で10,000石を領した。1518年、長宗我部国親が岡豊城に復帰すると、吉田孝頼は長宗我部国親の妹を室として迎えた。参謀として仕え、謀略を以って長宗我部国親の勢力拡大の貢献した。1526年、長宗我部家は同盟者がおらず、近隣の山田、本山、香宗我部家は互いに同盟関係にあった。吉田孝頼はすでに香宗我部秀義に嫁ぐ事が決まっている長宗我部国親の娘を本山茂辰に室にと勧めた。長宗我部国親の違約に香宗我部秀義は激怒し、長宗我部国親討伐の兵を挙げた。吉田孝頼は出家して詫びたため、香宗我部秀義は本山家にその軍を向けた。これは、香宗我部家と本山家を争わせ、弱体化を謀る謀略であった。

吉田貞重【よしださだしげ(15??~15??)】

吉田孝頼の男。通称次郎左衛門。家老衆として3,500石を領した。岡豊城に安芸勢が来襲したさいも、福留親政らとともに奮戦した。1569年、安芸国虎を追討すべく出陣したが、敵との交戦の際に、槍で目を突かれて重傷を負ったが、その敵を突き伏せて討取った。吉田貞重は囲碁が上手であったので、碁の先手は一目であるためにこの名がついたという。また能書家で博学の才を持って知られ、天文にも長じていた。長宗我部元親の四国制覇に貢献した。1588年、長宗我部元親が岡豊城より大高坂山城に拠点を移した際、その立地を高く評価した。この地は水害が多く、まだ治水が不十分な当時では使い物にならない城だった。そのため、長宗我部元親は浦戸城に拠点を移した。1600年「関ヶ原の役」で長宗我部家が改易となり、山内一豊が入り、新たな土佐の領主となった。しかし長宗我部家再興を願う遺臣は浦戸城を占拠して立て籠もる「浦戸一揆」が発生した。吉田貞重はこの一揆には加わらず、浦戸一揆を批判して浦戸城の開城を勧めた。浦戸一揆は鎮圧され、城内の273人の遺臣は謀殺された。

吉田重親【よしだしげちか(15??~1615)】

吉田貞重の男。通称内匠頭。長宗我部家の重臣として仕えた。1600年「関ヶ原の役」で、長宗我部盛親が改易されると浪人となった。1614年「大坂冬の陣」では、再起した長宗我部盛親に従い大坂城に入城した。1615年「八尾、若江の戦い」で、増田盛次らとともに先鋒として出撃するも、兵数や装備の不足により劣勢を強いられ討死した。

吉田重俊【よしだしげとし(1498~1570)】

吉田則弘の次男。官途は備後守。通称大備後。長宗我部国親、長宗我部元親父子の二代に渡って仕えた。智勇に優れた人物。長宗我部国親の「大津城の戦い」では長宗我部勢の先手として活躍した。1558年、上夜須城主に任ぜられた。1569年「安芸国虎討伐戦」においては、吉田孝俊と共に奇計によって安芸勢を敗走させ、籠城した安芸勢を計略を以って内部崩壊に導いた。

吉田重康【よしだしげやす(15??~1615)】

吉田重俊の男。官途は伊賀守。家老職として3,800石を領した。武勇の士で長宗我部元親の初陣を助け戦功を挙げた。1563年、安芸国虎が兵5,000余りを率いて岡豊城を攻めるが撃退に成功した。「本山討伐」に参陣中、馬之上城の留守を安芸勢に突かれるが、室が城内の動揺を抑えて撃退した。安芸勢が上夜須城攻めの時は、城内より出撃してこれを撃退し、そのまま岡豊に向かった本隊おって岡豊に進撃し攻撃を加えて敗走させた。

吉田孝俊【よしだたかとし(15??~15??)】

吉田重康の男。

吉田康政【よしだやすまさ(1565~1634)】

吉田孝俊の男。通称孫左衛門。安芸軍の惣軍代。1579年、阿波に出征し、阿波小松島では敵に腕を切られながらも桑名親勝の危急を救った。1582年「中富川の戦い」で戦功を挙げた。「四国征伐」では阿波渭山城を守備した。1582年「戸次川の戦い」では元親を警護し土佐に帰還。文禄の役に出征して功をたて、関ヶ原にも出陣し敗戦後も盛親とともに上坂。長宗我部家改易後、一時山内家に従えるが、大和に隠遁して大阪入城、旧主盛親に従い戦った。

吉田政重【よしだまさしげ(1568~1628)】

吉田俊政の男。通称市左衛門。室は秦泉寺掃部の娘。継室は梶原外記の養女。身の丈六尺二寸の偉丈夫で、武勇に優れていた。1582年の中富川の戦いを初陣に、各地を転戦して武功を挙げた。長宗我部元親は天下人の羽柴秀吉に屈しその麾下に属した。 1592年「文禄、慶長の役」では、敵将を捕らえるという戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、長宗我部盛親は不戦敗を喫し所領を没収された。1614年「大坂冬の役」では、長宗我部盛親に従って大坂城に入城した。大坂城落城後も生き延び、土佐国に帰国した。

吉田平左衛門【よしだへいざえもん(1591~15??)】

吉田政重の男。大阪に入城し長宗我部隊で戦う。敗戦後は一時紀州に住み剃髪して三悦と号した。阿波に移り撫養にて没。桑島光徳寺に葬られる。

吉田猪兵衛【よしだいのべい(1592~1660)】

吉田政重の次男。兄と同じく母は秦泉寺掃部の娘。改易後安芸福島正則に仕えるが、大阪に入城する。敗戦後流浪した。

滝本寺非有【ろうほんじひゆう(15??~15??)】

長岡郡岡豊城下の滝本寺の住職。国書、経書、仏典に通じ、その学識と才覚から長宗我部元親の帰依を受けて召し出され、長岡郡池之村の代官として庄屋の竹内左衛門とともに活動した。1593年、長宗我部家が羽柴大名となり権力集中が必要かつ当主不在が多くなるころ、非有の活動は活発となっている。長宗我部元親の留守中には事後承認を受ける形で、家老の久武親直や山内三郎右衛門、豊永藤五郎、久万二郎兵衛らとともに家臣の職務後継を決めたり、公役を努めない家臣への切米支給を停止するなどの広範な権力を振るった。軍議には参加したが直接軍事指揮を担当することはなかった。また同じ滝本寺の栄音が金子元宅等への外交使を多く勤めたのと違い、内政に手腕を振るった。長宗我部盛親の代になり、関ヶ原の戦いの折りには伊予調略に乗り出した毛利輝元の家臣毛利元康と堅田元慶が非有宛てに出兵要請の書状を送っている。特に文筆巧みで、「長宗我部元親百箇条」に代表される長宗我部氏の法令や文書の多くを起草した。長宗我部元親から何度となく還俗を促されたが肯んぜず生涯僧として通した。1600年「関ヶ原の役」後の領国没収の際には、一領具足たちに浦戸城下へ集住して徹底抗戦を呼びかけるなど、硬骨漢であった。

和田義清【わだよしきよ(15??~15??)】

長宗我部家臣。官途は越前守。和田家は和田義盛の子孫で土佐郡森郷和田に来住し、和田義清の代に長宗我部家に仕えた。  

和田勝右衛門【わだかつざえもん(15??~1636)】

和田義清の男。通称彦之丞。別名高野義光。勝右衛門はこの義清の子で同郷本川郷高野に居住したため、一時地名を取って高野義光(義充)と名乗った。「四国征伐」では手勢200余りを率いて伊予金子城主、金子備後守元宅と共に毛利勢に抵抗したが敗れ、義充は非常な苦難ののちに土佐に帰還し、元親より篭城の苦労をねぎらわれた。1600年「関ヶ原の役」後、多くの領地を失ったが、土佐郡高野村の道番をつとめた。

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【資料Ⅰ】

調査中。

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【資料Ⅱ】

長宗我部三家老【ちょうそかべさんかろう】

久武親直、中内、桑名。

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【資料Ⅲ】

汗葦毛【あせあしげ】

幡多郡伊与木村より献上された馬。軍陣にて一大事の時に汗を流すくせを持っており、汗葦毛と命名された。「戸次川の戦い」で、内記黒と共に長宗我部元親を退却させた。

鉄砲黒【てっぽうぐろ】

幡多郡の家臣那須外記が献上した馬。鉄砲の音を聞いても驚かない所から鉄砲黒と命名された。

内記黒【ないきぐろ】

羽柴秀吉から元親が拝領した馬。土佐では、土佐駒と呼ばれる馬が使用されていた。この土佐駒は力が強く、持久力があり農作業には適していたが戦には適さない馬である。内記黒は大切に扱われ「戸次川の戦い」では長宗我部元親を乗せて出陣した。戦中一度は逸れてしまうが、汗葦毛と共に長宗我部元親の前に再びあらわれ、長宗我部元親を無事に戦線離脱せしめた。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2012年4月13日金曜日

戦国武蔵国人名辞典


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【あ】

会田幸久【あいだゆきひさ(15??~15??)】

太田資正家臣。通称将監。もとは小笠原長時の家臣であったが、小笠原長時が武田晴信勢に敗れ越後国に落延びると、関東に下り太田資正に仕えた。後に北条氏康に仕えた。江戸衆として下平川、葛西小岩、飯塚、奥戸で276貫を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

会田信清【あいだのぶきよ(15??~15??)】

会田幸久の男。官途は中務丞。江戸衆として遠山綱景に従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

会田資清【あいだすけきよ(15??~1589)】

会田幸久の次男。官途は出羽守。

会田資久【あいだすけひさ(15??~1619)】

会田資清の男。官途は出羽守。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、越谷で隠棲した。1604年、松平元康の意向を受け、所有地の一部を割いて越谷御殿設営地に提供した。

会田資勝【あいだすけかつ(15??~15??)】

会田資久の男。通称庄七郎。松平秀忠に仕え小姓を務めた。1607年、罪を受け駿河国掛川城に預けられた。1610年、赦免された。

会田政重【あいだまさしげ(1581~1624)】

会田資久の養子。通称七左衛門。1616年、会田政重が新田開発工事の安全を祈願して観照院を建立した。関東郡代伊奈忠次のもとで代官職を務め、新田開発に貢献した。

青木治部【あおきじぶ(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。

赤沢千寿【あかざわちひろ(15??~15??)】

太田康資家臣。高田内で15貫文を領した。

秋元政朝【あきもとまさとも(15??~15??)】

深谷上杉憲盛家臣。

秋元景朝【あきもとかげとも(1525~1587)】

秋元政朝の男。官途は越中守。北条氏康勢との戦いでは、主力として戦うが、上杉憲盛が北条氏康に降るとそれに従った。熊野大神社を造営した。

秋元長朝【あきもとながとも(1546~1628)】

秋元景朝の男。官途は越中守。通称孫三郎。1589年、「小田原の役」では、上杉氏憲が小田原城に籠城したため、秋元長朝は深谷城を守備した。深谷城を小田原城が開城するまで守り通し、役後松平元康に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝への使者として会津に赴いた。役後も松平元康の要請で再び会津に赴いて長尾景勝に降伏を勧め、この功により10,000石を領した。1604年、利根川の治水工事に大きな成功を収め、所領の収穫を倍増させた。1614年、「大坂冬の陣」にも参陣して戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

秋元泰朝【あきもとやすとも(1580~1642)】

秋元長朝の男。官途は但馬守。室は大河内秀綱の娘。1614年、「大坂冬の陣」後、大坂城の堀の埋立に功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」後、羽柴秀頼勢の残党狩りを行った。1628年、父秋元長朝の病没により家督を相続した。1633年、甲斐国東部の郡内地方を治める谷村城代として18,000石を領した。1642年、「寛永の大飢饉」では、奉行職を務めその対策にあたった。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅羽下総守【あさばしもふさのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。児玉郡浅羽城主。1561年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、長尾景虎勢に参陣した。1584年、「上野館林城の戦い」では、浅羽甚内、浅羽成友が北条氏照勢の先導役を務めた。

浅羽左近【あさばさこん(15??~15??)】

浅羽下総守の男。

浅羽今巴【あさばともえ(15??~1590)】

浅羽下総守の娘。別名「今巴御前」。片眼の姫で心立ては雄々しく、武芸に長けていた。1589年、「小田原の役」で父浅羽下総守と兄浅羽左近が小田原城に籠城したため、家老の森田将監とともに浅羽城に籠城した。1590年、「浅羽城の戦い」では、前田利家、長尾景勝、真田昌幸勢の攻撃を受け森田将監が討死、浅羽今巴も奮戦するも負傷して、侍女達とともに「弁天池」に身を投げ自害した。

朝見玄光【あさみげんこう(15??~15??)】

北条氏邦家臣。秩父郡根古屋城主。官途は伊勢守。別名阿佐見玄光。1569年、武田晴信勢を早朝に発見した戦功により朝見家に改姓した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

朝見慶延【あさみよしのぶ(15??~15??)】

朝見玄光の男。官途は伊賀守。

阿諏訪巳之助【あすわみのすけ(15??~15??)】

入間郡龍谷山城主。1524年、「龍谷山城の戦い」で北条氏綱勢に属したため、山内上杉憲房勢の攻撃を受けた。

安宅七郎次郎【あたぎしちろうじろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。松山衆。吉見郡山下で1貫500文を領した。

安保泰広【あぼやすひろ(15??~15??)】

児玉郡御嶽城主。官途は信濃守。別名安保全隆。1543年、「上戸の戦い」で伯父の安保氏繁のを陣代として山内上杉憲政勢に属して参陣させた。1552年、「御嶽城の戦い」で北条氏康勢の攻撃を受け降伏した。

安保泰忠【あぼやすただ(15??~15??)】

安保泰広の男。官途は中務大輔。1552年、「御嶽城の戦い」では、父安保泰広とともに北条氏康勢戦ったが敗れて降伏した。

安保泰倫【あぼやすみち(15??~15??)】

安保泰忠の男。通称左衛門尉。1569年、「御嶽城の戦い」で武田晴信勢に奪われた御嶽城を奪還する戦功を挙げた。

安保晴泰【あぼはるやす(15??~15??)】

北条氏邦家臣。官途は中務大輔。

新井日向守【あらいひゅうがのかみ(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。

荒木長善【あらきながよし(15??~1590)】

成田長親家臣。通称四郎兵衛。埼玉郡荒木80貫を領した。1589年、「小田原の役」では、成田長親に従って小田原城に籠城した。1590年、羽柴秀吉勢と戦い討死した。

行方康親【いくほうやすちか(15??~15??)】

扇谷上杉興朝家臣。荏原郡行方館主。通称与次郎。

行方義安【いくほうよしやす(15??~1570)】

行方康親の男。官途は修理亮。行方義安の内室で斎藤政賢の妹にあたる妙安尼が兄斎藤政賢、妹尾三河守とともに館跡に妙安寺を建立した。

行方直清【いくほうなおきよ(15??~1590)】

行方義安の男。官途は弾正忠。別名行方明連。1589年、「小田原の役」で羽柴秀吉勢の前田利家、長尾景勝、真田昌幸らとの戦い討死した。 

池谷肥前守【いけやひぜんのかみ(15??~15??)】

上田憲定家臣。岩崎対馬守、大畠備後守とともに、新宿の市での問屋経営を任された。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

石山大学【いしやまだいがく(15??~1582)】

北条氏邦家臣。1582年、「神流川の戦い」で北条氏邦に従い参陣したが、滝川一益勢と戦い保坂大炊助ら300騎余りとともに討死した。

新曾部卓斎【いそべたくさい(15??~15??)】

成田親泰家臣。1490年、成田親泰とともに水路、新田開発、そして忍の沼湿地の地形などを吟味後、忍城を築城した。

板橋民部丞【いたばしみんぶのじょう(15??~15??)】

北条氏康家臣。玉縄衆。古河公方足利晴氏の家臣野田政保との取次役を務めた。

井田政能【いだまさたか(15??~15??)】

北条氏照家臣。多摩郡通称太郎左衛門。1538年、「河越城の戦い」で討死した。

井田是政【いだこれまさ(15??~15??)】

井田政能の男。通称次郎。官途は摂津守。1589年、「小田原の役」後、北条氏照が自刃すると、府中に落延びて是政村を開墾した。

市田長兼【いちだながかね(15??~15??)】

成田長泰家臣。通称太郎。熊谷久下城主。室は成田長泰の娘。1590年、「忍城の戦い」では、佐間口を守備した。

井上将監【いのうえしょうかん(15??~15??)】

太田氏房家臣。埼玉郡井上館50貫を領した。1589年、「小田原の役」後、太田氏房が改易処分に処されると、隠棲した。

井上三郎左衛門【いのうえさぶろうざえもん(15??~15??)】

井上将監の男。

井上三河守【いのうえみかわのかみ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。永田城代を務めた。1590年、「鉢形城の戦い」では、鉢形城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。

猪俣邦憲【いのまたくにのり(15??~1590)】

北条氏邦家臣。那珂郡猪俣館主。官途は能登守。別名富永助盛。奉行衆として仕え、後に北条氏邦から箕輪城代、次いで沼田城代に任じられた。1589年、「上野名胡桃城の戦い」では、真田昌幸の家臣鈴木重則が守備する名胡桃城に対し、鈴木重則の枝連衆中山九郎兵衛を内応させ、鈴木重則を城外へと誘き出し、中山九郎兵衛に城を乗っ取らせた。1590年、「箕輪城の戦い」では、前田利家、長尾景虎、真田昌幸勢の攻撃を受け、落延びたが、厳しい探索によって捕縛され磔の刑に処された。

猪俣範宗【いのまたのりむね(15??~15??)】

猪俣邦憲の弟。児玉郡虎ヶ岡城主。通称勘解由左衛門。別名富永助重。

猪俣肥前守【いのまたひぜんのかみ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。侍大将を務め900貫を領した。

今村佐渡守【いまむらさどのかみ(15??~15??)】

成田氏長家臣。1590年、「忍城の戦い」では、島田出羽守ととともに行田口を守備した。浅野長政、長束正家勢の攻撃を受けたがこれを撃退した。

岩崎対馬守【いわさきつしまのかみ(15??~15??)】

上田憲定家臣。大畠備後守、池谷肥前守とともに、新宿の市での問屋経営を任された。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

岩崎源三郎【いわさきげんざぶろう(15??~15??)】

木戸忠朝家臣。

岩田義幸【いわたよしゆき(15??~15??)】

藤田康邦家臣。官途を対馬守。北条氏邦に仕え天神山城代を務めた。

員野半四郎【いんのはんしろう(15??~15??)】

北条氏照家臣。1563年、「辛垣城の戦い」では、北条氏照勢の先導役を務めたが、三田綱秀勢の鉄砲に討取られた。

扇谷上杉朝興【うえすぎともおき(1488~1537)】

入間郡河越城主。扇谷上杉朝寧の男(上杉朝良の養子)。官途は修理大夫。通称五郎。1504年、叔父扇谷上杉朝良が山内上杉顕定との戦いに敗れ、敗戦の責任を取って上杉朝興に家督を譲った。1513年、太田資康を援将して三浦義同の救援に赴かせるが討死した。1516年、扇谷上杉朝興も三浦義同への支援に乗り出すが、新井城は落城三浦義同、三浦義意父子は討死した。1518年、扇谷上杉朝良が病没すると、その遺児扇谷上杉藤王丸が幼少であったため、陣代として家政を取り仕切った。1524年、「高輪原の戦い」で北条氏綱勢と戦うも敗れて河越城へ後退した。山内上杉憲房とともに毛呂城を攻撃するが、山内上杉憲房の家臣藤田泰邦を仲介にして和議を結び毛呂城は山内上杉家領となった。1525年、「第一次岩槻城の戦い」で北条氏綱勢の攻撃を受け落城すると、扇谷上杉朝興も北条氏綱勢の蕨城を攻め落した。扇谷上杉朝興は太田資頼、三戸義宣らを通じ、山内上杉顕定の家臣白井長尾景誠や長尾為景への支援を依頼した。1530年、「小沢原の戦い」で北条氏康勢と戦うも敗れた。1532年、上杉朝興は、幼主藤王丸を謀殺して扇谷上杉家の家督を名実ともに手中に入れるが、北条氏綱勢の攻勢を受け続け終始苦戦を強いられた。

扇谷上杉朝定【うえすぎともさだ(1525~1546)】

上杉朝興の男。官途は修理大夫。通称五郎。1537年、父上杉朝興の病死により扇谷上杉家の家督を相続した。幼少のため叔父上杉朝成と曽我丹波守の後見を受けた。1538年、「三木原の戦い」で北条氏綱と戦い、叔父上杉朝成が捕縛されるなど大敗を喫し、さらに河越城を失陥し、松山城に後退した。松山城主難波田善銀の支援を受け北条氏綱勢と対抗した。1541年、上杉憲政と結び北条氏康勢に対抗した。1545年、上杉朝定は山内上杉憲政、足利晴氏らと結んだ。1546年、「河越城の戦」では、北条氏康の奇襲を受け討死した。

扇谷上杉朝成【うえすぎともなり】

上杉朝良の次男。上杉朝興が病没すると、上杉朝定を曾我丹波守とともに後見役を務めた。1537年、「河越城の戦い」で北条氏綱勢の攻撃を受けると、上杉朝定の陣代として参陣した。北条氏綱勢に敗れ、上杉朝成は捕縛された。

深谷上杉憲賢【うえすぎのりかた(15??~1560)】

山内上杉顕定家臣。幡羅郡深谷城主。上杉憲清の男。通称次郎。室は高泰姫。1541年、「上野金山城の戦い」では、横瀬泰繁を攻撃した。1546年、「河越城の戦」で扇谷上杉朝定が討死すると、北条氏康に内応した。1552年、山内上杉憲政が越後国に落延びた後も家臣の岡谷清英、秋元景朝らの活躍によって深谷城を守り続けるが、やがて上杉憲賢も北条氏康に降伏した。

深谷上杉憲盛【うえすぎのりもり(1530~1575)】

上杉憲賢の男。官途は左兵衛佐。通称三郎。室は太田資時の娘。父上杉憲賢が成田長泰と結ぶと、太田資時の娘を内室に迎えた。1560年、父上杉憲賢の病没により深谷上杉家の家督を相続したが、その混乱に乗じて由良成繁勢300騎余りの攻撃を受けたが、上杉憲盛は120騎しか集められず敗退、北部の領土を失った。1561年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、それに属して小田原城を攻撃shた。1563年、再度北条氏康に降ると長尾景虎勢の成田氏長の攻撃を受けた。1569年、長尾景虎と北条氏康が結ぶと長尾景虎勢に属した。上杉憲盛が病没すると、継嗣の上杉氏憲が深谷上杉家の家督を相続した。

深谷上杉氏憲【うえすぎうじのり(15??~1637)】
 
上杉憲盛の男。通称三郎。別名上杉氏盛。室は北条氏繁の娘。1582年、「上野神流川の戦い」では、北条氏邦勢に属して戦功を挙げた。1589年、「小田原の役」では、小田原城に籠城するが、深谷城は家臣の秋元長朝が開城、降伏した。

深谷上杉憲俊【うえすぎのりとし(1579~1648)】

上杉憲盛の男。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、父上杉氏憲とともに所領を失った。1617年、播磨国平福城主池田池田輝興に仕えた。

深谷上杉吉次【うえすぎよしつぐ(15??~15??)】

上杉憲盛の次男。松平元康に馬廻衆を務めた。

松山上杉憲勝【うえすぎのりかつ(15??~15??)】

上杉定正の三男。官途は新蔵人。通称七沢三郎。1559年、「第一次松山城の戦い」で太田資正が松山城を攻落とすと、その城将として招かれた。その後、長尾景虎勢に属した。1562年、「第二次松山城の戦い」では、武田晴信、北条氏康勢の攻撃を受け降伏した。1563年、北条氏康に仕え300貫を領した。

上田政広【うえだまさひろ(15??~1561)】
 
扇谷上杉興朝家臣。秩父郡安戸館主。通称又次郎。別名「案独斎」。1537年、「河越城の戦い」で北条氏綱に敗れ扇谷上杉朝定が松山城に落延びると、難波田弾正とともに松山城を守り抜いた。1546年、「第二次岩槻城の戦い」で太田資正とともに夜襲で岩槻城を奪回した。太田資正との同盟が崩れると、北条氏康に降伏して本領を安堵された。1547年、上田家の家督を継嗣の上田朝直に家督を譲って隠居した。1561年、長尾景虎勢の攻撃を受け討死した。

上田朝直【うえだともなお(1494~1582)】

上田政広の男。官途は能登守。通称又次郎。別名「安独斎」。娘(蓮覚院)は北条氏勝に嫁いだ。北条氏康勢に属して関東各地を転戦した。行政手腕に優れており、北条氏康から信任を受けて独自の領国経営を許された。1559年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、北条氏康から離反して、長尾景虎勢に属した。1561年、長尾景虎が関東から撤兵すると、再び後北条氏康勢に帰参したが、責任を問われて減封処分に処された松山城を失った。1569年、「三増峠の戦い」では、武田晴信勢と戦い戦功を挙げ松山城主に復帰した。

上田長則【うえだながのり(1534~1583)】

上田朝直の男。官途は能登守。定書を発行して城下街の発展の基礎を築くなど、優れた行政手腕を示した。1573年、父上田朝直の隠居により上田家の家督を相続した。

上田憲直【うえだのりなお(15??~15??)】

上田朝直の次男。1583年、兄上田長則の病没により、上田家の家督を相続した。十二年、上田家の家督を上田長則の継嗣、上田憲定に譲った。

上田憲定【うえだのりさだ(1546~1597)】

上田長則の男。官途は上野介。1583年、叔父の上田憲直から上田家の家督を譲られた。1589年、「小田原の役」では、松山城の守備は家老衆に任せ、自身は小田原城に籠城した。1590年、「松山城の戦い」では、羽柴秀吉勢の攻撃を受け落城した。北条氏直が滅亡すると、上田憲定も改易処分に処された。

上田豹徳軒【うえだひょうとくけん(15??~15??)】

北条氏康家臣。比企郡古郡館主。江戸衆。

上田左近【うえださこん(15??~15??)】

上田朝直家臣。官途は周防守。入東郡鶴間、水子、難波田で477貫962文を領した。

埴谷図書助【うえたにずしょのすけ(15??~15??)】

太田資正家臣。

潮田資忠【うしおだすけただ(15??~1590)】

足立郡寿能城主。太田資正の五男。官途は出羽守。潮田家の家督を相続した。父太田資正に従ったが、兄太田氏資が太田資正を追放後は太田氏資に従った。1564年、太田氏資が北条氏康勢に属すると、潮田資忠も北条氏康勢に降った。1589年、「小田原の役」では、継嗣の潮田資勝とともに小田原城に籠城したが、田口輪曲で討死した。

潮田資勝【うしおだすけかつ(15??~1590)】

潮田資忠の男。1589年、「小田原の役」では、父潮田資忠とともに小田原城に籠城したが、田口輪曲で討死した。

潮田資政【うしおすけまさ(15??~16??)】

潮田資忠の次男。1590年、父潮田資忠は石田三成勢と戦い小田原城四ッ門蓮沼で、兄潮田資勝とともに討死した。潮田資政は家老職の北沢直信、加藤大学とともに寿能城に篭城した。「寿能城の戦い」では、浅野長政勢の攻撃を受け伯父の太田資武とともに常陸国に落延びた。後に土井利勝に仕え、家老職を務めた。

潮田沙代姫【うしおさよひめ(15??~15??)】

潮田常陸介の娘。潮田資忠の室。美女ではないが、気のつく優しい娘で潮田資忠に愛された。参考文献:『ほたる舞う城』by越路遼介。

潮田紅花姫【うしおべぶはなひめ(15??~15??)】

太田資正の室。潮田常陸介の妹。の側室で資忠生母。大変な笛の名手で太田資正に見初められたきっかけも笛であった。参考文献:『ほたる舞う城』by越路遼介。

潮田能姫【うしおのうひめ(15??~15??)】

潮田資忠の娘。龍神の花嫁と呼ばれる絶世の美女。祖母から習った笛を吹く。1590年、「寿能城の戦い」で浅野長政勢の攻撃を受け侍女の於漣とともに見沼に身を投げ自害した。参考文献:『ほたる舞う城』by越路遼介。

牛込重行【うしごめしげゆき(15??~15??)】

豊島郡牛込城主。別名大胡重行。

牛込勝行【うしごめかつゆき(15??~15??)】

牛込重行の男。赤坂、桜田、日比谷を領した。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、松平元康に仕え牛込城は取り壊された。

牛村助十郎【うしむらすけじゅうろう(15??~15??)】

太田資正家臣。1563年、太田資正の意向を受け恒岡資宗、佐枝信宗らとともに井草郷の堤防工事の作事奉行を務めた。

宇田川杢頭【うだがわもくのかみ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。

宇田川弾正忠【うだがわだんじょうちゅう(15??~15??)】

太田資正家臣。足立郡辻館主。

内海掃部【うちうみかもん(15??~1535)】

吉良頼康家臣。1535年、常盤姫との密通の嫌疑を受け吉良頼康に謀殺された。

内田兵部丞【うちだひょうぶのじょう(15??~15??)】

太田資正家臣。

内田孫四郎【うちだまごしろう(15??~15??)】

内田兵部丞の男。1562年、「赤浜原の戦い」では、山田直定を討取る戦功を挙げた。

宇野定治【うのさだはる(15??~15??)】

伊勢盛時家臣。通称藤右衛門尉。伊勢盛時に小田原に招かれ、丸薬「透頂香」を製造販売権を認められた。川越今成の代官職に任じられた。

宇野家治【うのいえはる(15??~15??)】

宇野定治の男。通称源十郎。馬廻衆。川越今成200貫465文を領した。

宇野吉治【うのよしはる(15??~15??)】

宇野家治の男。通称藤五郎。馬廻衆。松山筋野本京方26貫463文を領した。

梅沢兵庫【うめさわひょうご(15??~15??)】

北条氏邦家臣。深谷衆。1582年、「神流川の戦い」で北条氏邦に従い参陣した。

雲岡舜徳【うんこうしゅんとく(1438~1516)】

上野国補陀寺の月江正文、武蔵国大泉寺の天庵玄彭にまなび、玄彭の法を次いだ。1476年、太田資長にまねかれ武蔵国芝に青松寺を創建した。のち武蔵越生の龍穏寺、小田原の最乗寺の住持。伊勢国出身。

武蔵江戸重久【えどしげひさ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。官途は周防守。1549年、吉良頼康は、江戸重久と大吉寺の在誉和尚の勧めにより、吉良家菩提寺の泉沢寺再興を行った。

武蔵江戸浄仙【えどじょうせん(15??~15??)】

吉良頼康家臣。官途は摂津守。1542年、景福軒呂胤と連署で宝生寺の諸公事免除の書状を発給した。1546年、世田谷八幡宮の造営奉行を務めた。

武蔵江戸頼忠【えどただより(15??~15??)】

吉良氏朝家臣。官途は刑部少輔。通称彦五郎。1561年、吉良氏朝から所領安堵状を受けた。1570年、吉良氏朝は北条氏政から駿河国興国寺城への在番を命じられ、家臣の大平右衛門尉と江戸頼忠らを派遣した。

武蔵江戸頼年【えどよりとし(15??~15??)】

吉良氏朝家臣。官途は近江守。1570年、吉良氏朝は北条氏政から駿河国興国寺城への在番を命じられ、家臣の大平右衛門尉と江戸頼忠らを派遣した。

武蔵江戸朝忠【えどよりただ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。官途は摂津守。

円城寺頼長【えんじょうじよりなが(15??~15??)】

吉良頼康家臣。官途は大膳亮。1548年、泉沢寺の再興を吉良頼康、江戸頼忠とともに支援した。

遠藤清吉【えんどうきよよし(15??~15??)】

幸手一色直朝家臣。官途は石見守。1574年、葛飾郡内国府間を開墾した。

大石定重【おおいしさだしげ(1467~1527)】

多摩郡滝山城主。大石顕重の男。扇谷上杉朝興家臣。武蔵国守護代。大石家は代々扇谷上杉家の重臣として武蔵守護代を任されていた。1510年、「権現山城の戦い」では、上田政盛が権現山城に籠城すると、山内上杉憲房、上杉朝良勢に従って成田顕泰、長尾とともに援軍の伊勢盛時勢を撃退した。

大石定久【おおいしさだひさ(15??~15??)】

大石定重の男。通称源左衛門尉。1546年、「河越城の戦い」で扇谷上杉朝定が討死すると、北条氏康勢に属した。1559年、北条氏康の三男北条氏照を娘(比佐姫)の婿養子として迎え、滝山城と武蔵国守護代職を座を譲り隠居した。隠居後、長尾景虎や勝沼城主三田綱秀らと誼を通じていた。

大石定仲【おおいしさだなか(1534~1590)】

大石定久の男。官途は播磨守。室は松田康定の娘。1559年、父大石定久は、扇谷上杉朝興が討死したため、北条氏康の三男北条氏照を娘(比佐姫)の婿養子として迎え入れて滝山城と武蔵守護代の座を譲った。大石定仲は、父大石定久の没後に北条氏照が北条家に復すると大石家の家督を継ぎ、北条氏照勢に属した。

大石直久【おおいしなおひさ(15??~15??)】

大石定仲の男。官途は越後守。通称源太郎。1581年、北条氏政の意向を受け、駿河国獅子浜城の城代職を務めた。

大石石見守【おおいしいわみのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。下総国葛飾郡葛西城主。太田資正の筆頭家老職を務めた。1538年、「葛西城の戦い」では、北条氏綱勢の攻撃を受け太田資正を頼って落延びた。1561年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、それに従った。

大石縄周【おおいしつなかね(15??~15??)】

大石定久家臣。柏の城主。大石領を北条氏照に引渡した。1553年、下長房村白山社造営した。

大石直久【おおいしなおひさ(15??~15??)】

大石縄周の男。官途は越後守。通称源太郎。北条氏政の意向を受け、駿河獅子浜城を守備した。

大石信吉【おおいしのぶよし(15??~15??)】

大石直久の男。官途は信濃守。

大草加賀守【おおぐさかがのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。小田原衆。比企郡中山で391貫420文を領した。

大草丹後守【おおくさたんごのかみ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。

大越彦次郎【おおこしひこじろう(15??~15??)】

成田長泰家臣。館山館主。51貫文を領した。

大島大炊助【おおしまおおいのすけ(15??~15??)】

太田資正家臣。1559年、太田資正の意向を受け大島大炊助と深井好秀とともに鴻巣の開墾を行った。

大島大膳亮【おおしまだいぜんのじょう(15??~15??)】

太田資正家臣。1567年、「三船山の戦い」で太田氏資とその家臣53騎が討死すると、北条氏政から春日摂津守とともに岩槻城代に任じられた。1564年、河目資為とともに刷村10貫文を与えられた。

岩槻太田資家【おおたすけいえ(15??~1522)】

埼玉郡岩槻城主。太田資清の次男(太田資長の養子)。官途は信濃守。兄太田資長の養子となった。養父太田資長が扇谷上杉定正に謀殺された後も扇谷上杉定正に仕えた。1512年、「永正の乱」で敗れた成田顕泰に替わって岩槻城主に任じられた。比企郡三保谷に養竹院を建立した。

岩槻太田資頼【おおたすけより(1484~1536)】

太田資家の男。官途は美濃守。通称彦六。1522年、父太田資家の病没により岩槻太田の家督を相続した。1525年、「第一次岩槻城の戦い」では、家臣の渋江右衛門大夫が北条氏綱に内応したため、多くの討死を出して岩槻城は落城、太田資頼は足立郡石戸城に落延びた。1530年、太田資頼は渋江右衛門大夫を破って岩槻城を奪還した。1533年、太田家の家督を太田資時に譲って隠居した。

岩槻太田資時【おおたすけとき(15??~1546)】

太田資頼の男。官途は信濃守。室は成田親泰の娘。娘は上杉憲盛に嫁いだ。1533年、父太田資頼の隠居により家督を相続した。1546年、「河越城の戦い」で扇谷上杉朝定が北条氏康勢に敗れて討死したため、北条氏康に降伏した。

岩槻太田資正【おおたすけまさ(1522~1591)】

太田資頼の次男。官途は美濃守。別名「三楽斎」。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して侵攻すると、長尾景虎勢に属して、その先陣を務めた。「松山城の戦い」では、長尾景虎勢の支援を受け松山城を攻め落とし、上杉憲勝を城主に迎えた。松山城は、北条氏康、武田晴信勢の攻撃を受け落城した。1563年、北条氏康は太田資正と和議を図るが太田資正は拒絶、里見義堯勢と結び北条氏康勢に対抗した。1564年、「第二次国府台の戦い」では、里見義堯、太田康資らとともに北条氏康勢と戦うが大敗した。継嗣の岩槻太田氏資が北条氏康に内応、太田氏資に次男梶原政景とともに岩槻城から追放された。太田資正、梶原政景父子は、佐竹義重を頼って常陸国に落延びた。1565年、「第三次岩槻城の戦い」では、北条氏康勢の援軍により岩槻城を奪還することができなかった。1569年、「越相同盟」が成立すると、長尾景虎勢から離脱して、織田信長と親交を図った。1589年、「小田原の役」では、佐竹義宣とともに羽柴秀吉勢に参陣した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩槻太田氏資【おおたうじすけ(1542~1567)】

太田資正の男。官途は大膳大夫。室は北条氏康の娘(長林院)。父太田資正は北条氏康勢と争ったが、和議の条件で北条氏康の娘を内室に迎えたことから、北条氏康勢に属した。1564年、「第二次国府台の戦い」で里見義堯、太田康資らが大敗すると、太田資正、弟の梶原政景を岩槻城から追放して岩槻太田家の家督を相続した。1567年、「三船山の戦い」で北条氏康勢が里見義弘勢に大敗した際、殿をを務め討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩槻太田源五郎【おおたげんごろう(15??~1582)】

北条氏政の次男。通称国増丸。1567年、「三船山の戦い」で太田氏資が里見義弘勢と戦い討死すると、北条氏康の娘との間に生まれた女児だけがのこされた。1575年、太田源五郎が太田氏資の娘を内室に迎え、父北条氏政の後見を受け太田家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩槻太田氏房【おおたうじふさ(1565~1592)】

北条氏政の三男。別名北条氏房。1582年、太田源五郎が病没するとその未亡人である太田氏資の娘を室として太田家の相続した。1589年、「小田原の役」では、居城の岩槻城は家臣に守らせ、自身は小田原城に籠城した。包囲中、太田氏房は蒲生氏郷勢に夜襲をかけた。1590年、兄北条氏直とともに高野山で蟄居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩槻太田資武【おおたすけたけ(1570~1643)】

太田資正の三男。官途は安房守。通称源三郎。1589年、「小田城の戦い」では、小田氏治勢の攻撃を受けるが、次兄梶原政景とともにこれを撃退した。1591年、「九戸政実の乱」にも参陣した。その後、結城秀康に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」にも次兄梶原政景とともに参陣した。著書に『太田資武書状』。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩槻太田景資【おおたかげすけ(15??~15??)】

太田資正の四男。通称源七。父太田資正とともに佐竹義重に仕えた。1585年、下野国那須郡武茂城に在番した。宇都宮国綱から北条氏直による攻撃の報告を受けた。1589年、「小田原の役」では、佐竹義宣、太田資正らとともに羽柴秀吉に謁した。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国秋田に転封になると、これに従った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩槻太田下野守【おおたしもつけのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。足立郡与野館主。1562年、「松山城の戦い」では、上杉憲勝を支援して三田五郎左衛門とともに松山城に籠城、北条氏康、武田晴信勢と戦った。1564年、太田資正が岩槻城を追放されると、太田氏資に仕えた。1565年、太田資正の岩槻城の奪還に協力したが失敗した。以降、太田資正に従った。

岩槻太田としやう【おおたとしやう(15??~15??)】

三戸興義の室。太田資頼の娘。別名「笑室守胎尼」。1563年、太田資正から代山、寺山、たい野の所領を安堵された。1570年、長尾景虎の家臣山吉豊守から長尾景虎と太田資正の和解を図るように依頼された。

江戸太田資高【おおたすけたか(1498~1547)】

扇谷上杉朝興家臣。豊島郡岩淵砦主。太田資康の次男。官途は大和守。通称六郎左衛門。室は北条氏綱の娘(浄心院)。扇谷上杉朝興に不満を持ち、北条氏綱と結んだ。1524年、「高輪原の戦い」で北条氏綱とともに扇谷上杉朝興勢と戦いこれを撃ち破り江戸城を攻略した。江戸城の本丸には、北条氏綱の家臣富永政辰、二の丸には遠藤直景が入り、太田資高は香月郭に配置された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

江戸太田景資【おおたかげすけ(15??~1563)】

太田資高の男。官途は左衛門尉。通称源七郎。異母弟太田康資が江戸太田家の家督を相続した。荏原郡目黒で75貫文を領した。1563年、「松山城の戦い」で太田資正勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

江戸太田康資【おおたやすすけ(1531~1581)】

太田資高の次男。通称新六郎。室は遠山綱景の娘(法性院)。1547年、父太田資高が病没すると家督を相続した。江戸太田康資は所領は約2,000貫、これは家中の席次第六位。1554年、北条氏康と武田晴信が駿河国で戦った際には、原虎胤勢を撃退する戦功を挙げた。1562年、長尾景虎に内応するが失敗して太田資正のもとに落延びた。1564年、「第二次国府台の戦い」では、里見義堯、太田資正らとともに北条氏康勢と戦うが大敗して安房国に落延びた。戦い」は、里見義弘、太田康資連合軍が大敗して安房国へ落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

江戸太田駒千代【おおたこまちよ(1553~1564)】

太田康資の男。1564年、「伊豆醫王寺の戦い」で北条氏康勢の攻撃を受け自刃した。
 
江戸太田重正【おおたしげまさ(1561~1610)】

太田康資の次男。通称新六郎。別名太田助綱。1562年、父太田康資が長尾景虎勢に内応して、江戸城を追われると、太田康資とともに常陸国に落延びた。兄の太田駒千代は伊豆国で北条氏康勢の攻撃を受け自刃した。1564年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康勢と戦い敗れると太田康資とともに安房国に落延びた。1581年、太田康資が病没すると、太田資正を頼った。1591年、松平元康が関東に転封になると、松平元康に仕えて豊島郡蓮沼内で500石を領した。1600年、「関ヶ原の役」にも参陣した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

江戸太田資宗【おおたすけむね(1600~1680)】

太田重正の次男(於梶の方の養子)。官途は摂津守。1610年、父太田重正が病没すると、太田家の家督を相続して書院番頭、小姓組番頭などを務めた。寛永十年、若年寄六人衆に任じられた。1637年、「島原の乱」では、松平信綱とともに九州諸侯を指揮した。1638年、三河国西尾城35,000石を領した。1641年、『寛永諸家譜図伝』の編纂奉行職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

江戸太田輝資【おおたてるすけ(15??~1603)】

太田資高の次男。官途は備中守。1562年、兄太田康資が長尾景虎勢に内応すると、これに従わず岩槻城主太田資正の継嗣太田氏資と結んで太田康資を追放しし、太田氏資に仕えた。1567年、「三船山の戦い」で太田氏資が北条氏康勢に属して里見義堯勢と戦い討死すると、太田源五郎、太田氏房兄弟に仕えた。1582年、「武田家討伐」では、北条氏政の意向で上野国方面から信濃国への侵攻を図るが、逆に滝川一益勢の上野国侵攻を許してしまい北条氏政の叱責を受けた。1589年、「小田原の役」では、北条氏直勢に属さず河越城に退去した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

太田十郎兵衛【おおたじゅうろうべえ(15??~15??)】

北条氏康家臣。松山衆。入西郡堀籠で27貫779文を領した。

太田新次郎【おおたしんじろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。江戸衆。江戸原宿、川越鴨田で22貫500文を領した。

太田豊後守【おおたぶんごのかみ(15??~15??)】

北条氏政家臣。作事奉行。松山衆。吉見郡大串、比企郡戸森、上野国高嶋郷で502貫922文を領した。1561年、「児玉生山の戦い」で北条氏政に従い参陣して戦功を挙げた。

大嶌善久【おおとりよしひさ(15??~15??)】

太田資正家臣。官途は土佐守。鴻巣七騎衆。

大島久家【おおしまひさいえ(15??~15??)】

北条氏康家臣。官途は大膳亮。伊豆国大島出身。

大島重富【おおとりよしひさ(15??~15??)】

大嶌善久の三男(大島久家の養子)。通称小四郎。

大嶌隆次【おおとりよしひさ(15??~15??)】

大島善久の次男(大島久家の養子)。通称與四郎。

大場景茂【おおばかげしげ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。官途は対馬守。

大場越後守【おおばえちごのかみ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。

大畠備後守【おおはたびんごのかみ(15??~15??)】

上田憲定家臣。岩崎対馬守、池谷肥前守とともに、新宿の市での問屋経営を任された。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

大野弾正【おおのだんじょう(15??~15??)】

北条氏邦家臣。比企郡大野城主。

大平師氏【おおひらもろうじ(15??~15??)】

吉良成高家臣。荏原郡奥沢城主。官途は出羽守。

大平師直【おおひらもろなお(15??~15??)】

大平師氏の男。官途は出羽守。通称清九郎。1551年、吉良頼康から等々力の所領を安堵された。1556年、吉良頼康、大蔵村年貢40貫その他の年貢皆済状を大平師直に与えた。

大平常盤姫【おおひらときわひめ(15??~15??)】

吉良頼康の側室。大平師直の娘。近隣に聞こえた美女だった。吉良頼康の側室として輿入れ。吉良頼康の寵愛を受け懐妊したが、それをねたむ他の側室達が、あらぬ噂を流した。常盤姫は見の危険を感じ世田谷城から落延びるが、追っ手に追われ、石橋(常盤橋)で謀殺された。

大森明昇【おおもりめいしょう(15??~15??)】

扇谷上杉朝定家臣。官途は式部大輔。室は難波田憲重の娘。継嗣の難波田憲次が難波田憲重の養子になり、難波田家の家督を相続した。

岡部広定【おかべひろさだ(15??~15??)】

三田綱秀家臣。官途は出雲守。1553年、駒形大権現の御神体を奉納した。

岡上主水助【おかがみもんどのすけ(15??~15??)】
 
北条氏康家臣。小田原衆。大高麗郷の代官職を務めた。入西郡沢木で11貫238文を領した。

岡谷香丹【おかやこうたん(15??~1537)】

深谷上杉房憲家臣。榛沢郡皿沼城主。官途は伊賀守。1491年、皿沼城をを築城した。1535年、岡谷家の家督を継嗣の岡谷清英に譲って曲田城に隠居した。城内に寺を創建した。

岡谷清英【おかやきよひで(15??~1584)】

岡谷香丹の男。官途は加賀守。室は矢井重次の娘。深谷上杉家三家老。深谷上杉氏の重臣として活躍、上杉謙信からの信任も厚く、謙信が後奈良天皇より賜った箱根権現の像を与えられたと伝えられる。

岡谷泰春【おかややすはる(15??~1577)】

岡谷清英の男。官途は左京亮。1577年、「上野猿ヶ京の戦い」で武田勝頼勢と戦って討死した。

岡谷泰繁【おかややすしげ(1555~1616)】

岡谷泰春の男。官途は左馬助。1570年、「深谷城の戦い」では、岡谷宗雲とともに北条氏康勢と戦い戦功を挙げた。1577年、「上野猿ヶ京の戦い」で父岡谷泰春が討死したため、岡谷家の家督を相続した。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、前田利常に仕えた。

岡谷康勝【おかややすかつ(15??~16??)】

岡谷泰繁の男。室は秋元盛朝の娘。秋元盛朝に仕え、家老職を務めた。

小川九郎兵衛【おがわくろうべい(15??~15??)】

北条氏照家臣。1590年、「八王子城の戦い」後、父とともに岸村に落延びた。小川村を開墾して帰農した。

於漣【おさき(15??~15??)】

潮田能姫の侍女。1590年、「寿能城の戦い」で浅野長政勢の攻撃を受け潮田能姫とともに見沼に身を投げ自害した。参考文献:『ほたる舞う城』by越路遼介

騎西小田顕家【おだあきいえ(15??~1539)】

埼玉郡騎西城主。官途は大炊頭。通称助五郎。別名小田宗長。成田親泰の次男小田家時を娘婿とし種垂城に隠居した。

騎西小田家時【おだいえとき(15??~15??)】

成田親泰の次男(小田顕家の養子)。官途は伊賀守。通称助三郎。室は小田顕家の娘。成田親泰と行動をともにし、北条氏康に仕えた。1563年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、騎西城も攻撃を受けれ落城した。

小田野定久【おだのさだひさ(15??~1616)】

北条氏照家臣。官途は肥後守。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、八王子で帰農した。

大谷舎人【おおたにとねり(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。1567年、上杉憲勝は長尾景虎の侵攻に備えるため、丹良塚対馬守、竹井右近、中村拾左衛門、松村飛騨守、三ヶ尻丹後守、大谷舎人、田中豊前守らとともに上野国中山城に派遣した。

荻谷加賀守【おぎわらかがのかみ(15??~15??)】

扇谷上杉興朝家臣。通称与左衛門。

小田野周定【おだのちかさだ(15??~16??)】

小田野定久の男。通称源太左衛門。北条氏照の陣代を務め、下野国方面の指揮を執った。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、松平忠吉に仕えた。

乙幡態忠【おつはたたかただ(15??~15??)】

大石定久家臣。官途は勘解由。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、昭島に帰農した。

鬼窪繁政【おにくぼしげまさ(15??~1591)】

埼玉郡鬼窪館主。官途は尾張守。

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【か】

加賀爪政豊【かがつめまさとよ(15??~15??)】

扇谷上杉興朝家臣。高坂館主。

加賀爪政尚【かがつめまさなお(1562~1596)】

加賀爪政豊の男。官途は備後守。通称甚十郎。松平元康に仕えた。1584年、「長久手の戦い」で敵を討取る戦功を挙げた。武蔵国比企郡で3,000石を領した。1596年、「慶長伏見地震」で伏見城の城門の下敷きとなり没した。

加賀爪忠澄【かがつめただすみ(1586~1641)】

加賀爪政尚の男。官途は民部少輔。通称甚十郎。室は安藤直次の娘。松平秀忠に仕えて「関ヶ原の役」や「大坂の両陣」で戦功を挙げ5,500石を領した。1612年、長崎にて来航禁止の澳門船が着航したのを目撃、船を焼いた。1641年、京橋の大火災の消火中に焼死した。

加賀爪政増【かがつめまさます(15??~15??)】

加賀爪政豊の次男。通称新三郎。

加治弥六郎【かじよろく(15??~15??)】

三田綱秀家臣。1563年、「幸垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕えた。

加治秀成【かじへでなり(15??~15??)】

加治弥六郎の男。通称兵庫介。

梶原政景【かじわらまさかげは(1548~1615)】

太田資正の次男。官途は美濃守。別名梶原景国。室は真壁久幹の娘。1564年、父太田資正が兄太田氏資に追放されると、梶原政景は太田資正ととも佐竹義重のもとに落延びた。1573年、「小田城の戦い」では、佐竹義重に従い小田氏治勢と戦い戦功を挙げ小田城を領した。1577年、「小田城の戦い」では、北条氏直勢を撃退する戦功を挙げた。1584年、「沼尻の戦い」で北条氏直に内応したが、太田資正の仲介により帰参した。1589年、「小田原の役」後、佐竹義宣の意向を受け植田城に転封した。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封すると、結城秀康に仕え2,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、松平忠直に従って参陣した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

春日摂津守【かすがせっつのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。1561年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、太田資正に従って参陣した。1560年、太田氏資に恒岡越後守とともに太田資正の追放を進言した。1562年、太田氏資の代理で奉行人朱印状を発行し、内山弥右衛門尉の足立郡柴郷の棟別五間分を免除した。1567年、「三船山の戦い」で太田氏資とその家臣53騎が討死すると、北条氏政から太田大膳亮とともに岩槻城代に任じられた。

春日弥八郎【かすがよはちろう(15??~15??)】

太田資正家臣。1561年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、太田資正に従って参陣した。

春日景定【かすがかげさだ(15??~15??)】

太田資正家臣。中丸城主。通称兵庫助。

片岡源太左衛門【かたおかげんたざえもん(15??~15??)】

太田氏房家臣。1590年、「第四次岩槻城の戦い」では、岩槻城に籠城した。

勝瀬孫六 【かつせまごろく(15??~15??)】

北条氏康家臣。河越衆。入間郡勝瀬で62貫文を領した。

加藤大学【かとうだいがく(15??~15??)】

潮田資忠家臣。太田資正の意向を受け四男潮田資忠の家老職を務めた。内政巧者で潮田資忠のもとで民政に携った。1589年、「小田原の役」では、潮田資忠が小田原城に籠城したため、北沢直信とともに寿能城を守備した。1590年、「寿能城の戦い」では、浅野長政勢の攻撃を受け降伏し氷川大門に蟄居した。

加藤太郎左衛門【かとうたろうざえもん

北条氏康家臣。河越衆。川越仙波内日影分で248貫文を領した。

賀藤兵部少輔【かとうひょうぶしょうゆ(15??~15??)】

太田資正家臣。

金田定綱【かねださだつな(15??~15??)】

足利晴氏家臣。埼玉郡菖蒲城。金田顕綱の男。

金田頼綱【かねだよりつな(15??~15??)】

金田定綱の男。

金田秀綱【かねだひでつな(15??~15??)】

金田頼綱の男。1589年、「小田原の役」では、成田氏長勢に属して羽柴秀吉勢と戦った。役後帰農した。

金井政綱【かないまさつな(15??~1625)】

児玉郡七本木館主。官途は筑前守。仏門に帰依し、多くの寺を建立した。1573年、長楽寺を創建した。

金子家長【かねこいえなが(15??~15??)】

入間郡金子館主。1548年、「河越城の戦い」で扇谷上杉興朝が北条氏康に敗れ没落すると、北条氏康に属した。以後は八王子城の北条氏照に従い下野国侵攻などで戦功を挙げた。

金子家基【かねこいえもと(15??~15??)】

金子家長の男。1590年、「松山城の戦い」で前田利家、長尾景勝、真田昌幸勢の攻撃を受けると、松山城留守役の金子家基は城代の山田直安、難波田憲次らとともに前田利家に降伏した。金子家基は直江兼続勢の先陣を務め、八王子城を攻撃した。

金子政熙【かねこまさひろ(15??~15??)】

金子家基の男。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、長尾景勝に属した。1600年、「関ヶ原の役」後、長尾景勝が減封処分に処されると、浪人の身となった。その後、京都所司代の板倉勝重に仕えた。

金子家重【かねこいえしげ(15??~1590)】

金子政熙の男。八王子城金子曲輪守将。1590年、「八王子城の戦い」で前田利家の家臣山崎長鏡によって討取られた。
金子紀伊守【かねこきいのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。1590年、「松山城の戦い」では、軍監として松山城に籠城した。

狩野左近【かのうさこん(15??~15??)】

北条氏康家臣。松山衆。吉見郡岩殿で9貫500文を領した。

川口将監【かわぐちしょうげん(15??~15??)】

太田資正家臣。

河内越前守【かわちえちぜんのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。

川崎又次郎【かわさきまたじろう(15??~15??)】

太田資正家臣。1563年、「第二次国府台の戦い」で黒川権右衛門、浜野修理亮とともに戦功を挙げた。

河連国久【かわつらくにひさ(15??~15??)】

足利政氏家臣。官途は主計助。足立郡箕田郷河連を領した。

川俣貞次【かわまたさだつぐ(15??~15??)】

埼玉郡川俣城主。足利晴氏家臣。通称主膳正。1583年、家臣の裏切りによって川俣城は落城した。川俣貞次は家臣20余人を引き連れて、庄内地方に赴き最上義光に仕えた。

川村菊千代【かわむらきくちよ(15??~15??)】

北条氏康家臣。江戸衆のひとり。江戸新倉で178貫文を領した。

河目資為【かわめすけため(15??~1567)】

太田資正家臣。官途は越前守。1561年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、太田資正に従って厩橋城に参陣した。太田資正が岩槻城を追放されると、太田氏資のもとで大島大炊助に証状を発給した。1567年、「三船山の戦い」で太田氏資とともに討死した。

河目資好【かわめすけよし(15??~1567)】

河目資為の男。1567年、「三船山の戦い」で里見義堯勢と戦い太田氏資とともに討死した。

木崎又兵衛【きさきまたべい(15??~15??)】

三田綱秀家臣。1563年、「幸垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕えた。1564年、北条氏照の意向を受け清戸館に在番した。

木住野十郎兵衛門【きしのじゅうろうべいもん(15??~15??)】

平山氏重家臣。1581年、平山氏重に従って郡内に参陣した。

北沢直信【きたざわなおのぶ(15??~15??)】

潮田資忠家臣。官途は宮内。通称甚之丞。太田資正の意向を受け四男潮田資忠の家老職を務めた古強者。1589年、「小田原の役」では、潮田資忠が小田原城に籠城したため、加藤大学とともに寿能城を守備した。1590年、「寿能城の戦い」では、浅野長政勢の攻撃を受け降伏し氷川大門に蟄居した。関東郡代伊奈忠次に仕え、新田開発を行った。

喜多見勝忠【きたみかつただ(1568~1628)】

吉良頼康家臣。江戸頼忠の男。官途は若狭守。通称五郎左衛門。別名江戸勝忠。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、松平元康に仕え喜多見村500石を安堵された。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。1615年、近江国郡代に任じられた。1616年、堺奉行となり、後陽成院の葬礼を務めるなどの功を挙げ2,000石を領した。

喜多見正忠【きたみまさただ(15??~15??)】

喜多見勝忠の男。

喜多見重恒【きたみしげつね(15??~15??)】

喜多見勝忠の次男。

喜多見重勝【きたみしげかつ(1604~1685)】

喜多見勝忠の三男。通称久太夫。室は堀田正吉の妹(勝境院)。1628年、父喜多見勝忠の病没後、喜多見家の家督と1,000石は次兄喜多見重恒が継ぎ、喜多見重勝は1,000石を相続した。喜多見流茶道の創始者で、目付、大坂目代などの要職を歴任した。

木戸範実【きどのりざね(15??~15??)】

足利晴氏家臣。入間郡羽生城主。官途は大膳大夫。

木戸忠朝【きどただとも(15??~1574)】

木戸範実の男。官途は伊豆守。1552年、「羽生城の戦い」で北条氏康勢の攻撃を受け居城を喪った。1566年、長尾景虎により羽生城は奪還され再び木戸忠朝が領した。1574年、長尾景虎に従い羽生城には兄広田直繁が入り、木戸忠朝は皿尾城を守備した。長尾景虎は羽生城が越後国から遠いことを懸念して城主木戸忠朝を上野膳城に転封させた。長尾景虎が病没すると北条氏政勢の攻撃を受け越後国に落延びた。

木戸重則【きどしげのり(15??~15??)】

木戸忠朝の男。1574年、父木戸忠朝とともに上野国膳城に転封した。

吉良成高【きらなりたか(15??~15??)】

荏原郡世田谷城主。

吉良頼康【きらよりやす(15??~1561)】

吉良成高の男。別名蒔田頼康。室は北条氏綱の娘(崎姫)。のち蒔田城に転封した。その崎姫は一度堀越貞基に嫁いだが、堀越貞基が病没したため、吉良頼康と再婚した。1539年、吉良頼康は男子平産祈祷をした。1561年、崎姫が堀越貞基との間でもうけた吉良氏朝を養子に迎えた。

吉良氏朝【きらうじとも(1543~1603)】

堀越貞基の男(吉良頼康の養子)。別名蒔田殿。室は北条氏康の娘。1560年、吉良家の家督を相続した。1569年、「第二次小田原城の戦い」では、大橋山城守、関加賀守らを率いて小田原城を守備した。1590年、「伊豆下田城の戦い」では、下田城に籠城したが、小田原城の落城後上総国の落延びた。1591年、松平元康が関東に転封すると世田谷城1,120石を領した。

木呂子友則【きろことものり(15??~15??)】

上田朝直家臣。官途は丹波守。上田朝直、難波田憲次らと姻戚関係を結び上田家の家老職を務めた。1590年、「松山城の戦い」では、金子紀伊守、若林和泉守、原藤右衛門、比企藤九郎らとともに籠城した。役後、北条氏直が滅亡すると、上杉憲盛の家臣秋元景朝に仕えた。

木呂子元忠【きろこもとただ(15??~15??)】

木呂子友則の男。官途は丹波守。

黒沢民部【くろさわみんぶ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。宮崎城主。宮崎城30貫を領した。

黒沢義政【くろさわよしまさ(15??~15??)】

大里郡三ヶ尻城主。官途は武蔵守。

久米玄蕃【くめげんば(15??~15??)】

北条氏康家臣。御馬廻衆。相模東郡、河越筋森戸で101貫67文を領した。

三ヶ尻城主。官途は武蔵守。

黒川権右衛門【くろかわごんうえもん(15??~15??)】

太田資正家臣。1563年、「第二次国府台の戦い」で浜野修理亮、川崎又二郎とともに戦功を挙げた。

黒須平内五郎【くろすへいないごろう(15??~15??)】

埼玉郡黒須館主。

黒須八邦左衛門【くろすやくにざえもん(15??~15??)】

佐々木氏綱家臣。埼玉郡黒須館主。

桑原弥七郎【くわばらやしちろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。馬廻衆。川越伊豆丸で230貫を領した。

小池久宗【こいけひさむね(15??~15??)】

太田資正家臣。官途は長門守。鴻巣七騎衆の筆頭。1551年、北条氏康の意向を受け、岩槻城下の市宿より移住し市宿新田の開発、鴻巣宿の発展の基礎をつくっ

小泉掃部助【こいずみかもんのすけ(15??~15??)】

北条氏康家臣。比企郡菅谷城代を務めた。

河野和泉守【こうのいずみのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。鴻巣七騎衆。

小岸内匠【こぎしたくみ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。深谷衆。1582年、「神流川の戦い」で北条氏邦に従い参陣した。

小久保縫殿助【こくぼぬいどのすけ(15??~15??)】

太田資正家臣。代山城主。1590年、「第四次岩槻城の戦い」後、太田氏房とともに滅亡した。

小熊総七郎【こぐまそうしちろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。岩淵下郷領家で18貫500文を領した。

小坂新兵衛【こさかしんべい(15??~15??)】

北条氏照家臣。1582年、北条氏照の意向を受け立川領村山に転封した。

小指将監【こさししょうげん(15??~15??)】

久長但馬守家臣。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、久長但馬守は長尾景勝に仕えたが、小指将監は帰農した。

小菅大炊助【こすげおおいのすけ(15??~15??)】

北条氏康家臣。河越衆。比企郡石坂で3貫文を領した。

児玉重行【こだましげゆき(15??~1489)】

忍城主。1489年、「忍城の戦い」で成田親泰勢の攻撃を受け討死した。

後藤備前守【ごとうびぜんのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。河越衆。河越三十三郷東明寺浄楽寺、鎌倉で194貫829文を領した。鎌倉代官大道寺盛昌のもとで代官職を務めた。仏師としても活躍した。

高麗豊後守【こまぶんごのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。1564年、岩槻城を追放された太田資正から、加村の領地安堵状を受けた。

小峰頼定【こみねよりさだ(15??~15??)】

多摩郡氷川館主。官途は肥後守。1506年、甲斐国内忍野村より氷川村に転封した。

小宮山忠孝【こみやまただたか(15??~15??)】

成田親泰家臣。戸塚城主。官途は弾正忠。戸塚城200貫を領した。

小宮山内膳【こみやまないぜん(15??~15??)】

足立郡小谷城主。

小宮右衛門尉【こみやまうえもんのじょう(15??~15??)】

太田資正家臣。

小宮山弾正左衛門【こみやまだんじょうざえもん(15??~15??)】

太田資頼家臣。1517年、小宮山左衛門尉が足利政氏領の足立郡淵江郷を横領した。1556年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、太田資正に従って厩橋城に参陣した。1565年、太田下野守とともに太田資正の岩槻城奪還を支援したが失敗、太田資正とともに成田氏長を頼って落延た。

近藤綱秀【こんどうつなひで(15??~1590)】

北条氏照家臣。官途は出羽守。室は朝倉政景の娘。北条氏照が下野国榎本城を攻略すると、榎本城主に任じられ下野国内の北条氏政領の代官職を務めた。1583年、所領宛行や寺領寄進などを行った。伊達政宗の家臣片倉景綱との交渉にあたるなど外交面でも活動した。1589年、「小田原の役」では、榎本城に守備兵を残し八王子城に籠城した。1590年、「八王子城の戦い」では、前田利家、長尾景勝、真田昌幸らの攻撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
 
近藤助実【こんどうすけざね(15??~1590)】

近藤綱秀の男。1589年、「小田原の役」では、父近藤綱に従って八王子城に籠城した。「八王子城の戦い」では、八王子城の中の丸を守備したが前田利家、長尾景勝、真田昌幸らの攻撃を受け討死した。

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【さ】

西郷右京亮【さいごううきょうのすけ】

北条氏康家臣。御馬廻衆。松山正直で81貫を領した。

斎藤右衛門尉【さいとううえもんのじょう(15??~15??)】

北条氏邦家臣。通称五郎。1569年、「三山谷の戦い」では、山口総五郎、出浦左馬助、多比良将監、朝見伊勢守らととも北条氏邦に従い武田晴信勢と戦った。

斎藤定盛【さいとうさだもり(15??~15??)】

児玉郡金窪城主。官途は摂津守。もとは山内上杉憲政に属していたが、
1560年、山内上杉憲政が越後国に落延びると、北条氏邦に従った。

斎藤光透【さいとうみつすけ(15??~1582)】

斎藤定盛の男。1582年、「金窪城の戦い」では、弟の斎藤光透、斎藤光房、甥斎藤光吉らは金窪城にせまる滝川一益に兵300余りで切り込み全滅した。

斎藤光透【さいとうもつもり(15??~1582)】

斎藤定盛の次男。1582年、「金窪城の戦い」で兄斎藤定盛とともに滝川一益勢の切込みをかけ討死した。

斎藤光房【さいとうみつふさ(15??~1582)】

斎藤定盛の三男。1582年、「金窪城の戦い」で兄斎藤定盛とともに滝川一益勢の切込みをかけ討死した。

斎藤基盛【さいとうもともり(15??~1582)】

斎藤定盛の四男。1582年、「金窪城の戦い」で兄斎藤定盛らが滝川一益勢と戦って討死すると、が守る川井城も滝川一益勢の猛攻を受け壊滅した。

佐枝信宗【さえだのぶむね(15??~15??)】

太田資正家臣。太田氏資のもとで岩槻領の内政を担当した。1563年、太田資正の意向を受け恒岡資宗、牛村助十郎とともに、入間川の堤防修築した。岩槻太田家の家督を相続した太田氏房に仕えた。1590年、「第四次岩槻城の戦い」では、小田原城に籠城した太田氏房の陣代として岩槻城を守備した。

道祖土康兼【さえどやすかね(15??~15??)】

太田資正家臣。比企郡八林館主。官途は土佐守。通称図書助。1561年、「松山城の戦い」では、石戸城を拠点とした太田資正を支援した。1562年、「赤浜原の戦い」で北条氏康勢の上田朝直の家臣山田伊賀守を討取る戦功を挙げた。1567年、三尾谷郷の代官職を北条氏康に安堵された。1589年、「小田原の役」では、上田憲定勢に属して松山城に籠城した。役後、北条氏直が滅亡すると帰農した。

境野越前守【さかいやえちぜんのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。他国衆。高麗郡女影で30貫を領した。

酒巻詮稠【さかまきあきちか(15??~15??)】

成田氏長家臣。官途は靱負。別名「毘沙門天の化身」。1590年、「忍城の戦い」では、下忍口を手島采女以下600余りで守備した。石田三成勢の攻撃を受けたが大損害を与え撃退した。参考文献:『のぼうの城』by和田竜。

酒巻右衛門次郎【さかまきうえもんじろう(15??~15??)】

酒巻詮稠の弟。1590年、「忍城の戦い」では、兄酒巻詮稠に従い下忍口を守備した。

坂本四郎右衛門【さかもとしろうえもん(15??~15??)】

平山氏重家臣。1580年、武田勝頼勢の才藤六を討取った。

坂本繫国【さかもとしげくに(15??~15??)】

坂本四郎右衛門の男。武田下総守との戦いで敵将を捕縛する戦功を挙げた。

坂本兵衛【さかもとひょうえ(15??~15??)】

本庄泰展家臣。1590年、「忍城の戦い」では、本庄泰展の意向を受け、脇本利助とともに石田三成勢の築いた堤防を破壊する功を挙げた。

佐々木氏綱【ささきうじつな(15??~15??)】

埼玉郡菖蒲城主。1574年、「第三次関宿城の戦い」では、簗田持助を支援するため、北関東に侵攻した長尾景勝勢に菖蒲城の城下を焼討ちされた。

佐藤内蔵助【さとうくらのすけ(15??~15??)】

佐々木氏綱家臣。

三山綱定【さんやまつなさだ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。通称五郎兵衛。

三山氏郷【さんやまうじさと(15??~15??)】

北条氏邦家臣。

滋野刑部【しげのぎょうぶ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。根岸館主。1582年、「鉢形城の戦い」では、前田利家勢に内応して。

滋野帯刀【しげのたれわき(15??~15??)】

滋野刑部の男。

設楽能久【したらよしひさ(15??~1591)】

北条氏照家臣。官途は肥前守。別名設楽清政。三河国広岩城主設楽清広の男。設楽貞通と抗争を起こし出奔した。北条氏直に仕え、八王子城を守備した。
1591年、「八王子城の戦い」で前田利家勢と戦い討死した。

設楽能重【したらよししげ(15??~15??)】

設楽能久の男。北条氏照に仕えたが、病没した。

紫藤新六【しとうしんろく(15??~15??)】

北条氏康家臣。入間郡大類館主。御馬廻衆。

柴崎敦英【しばさきあつとし(15??~15??)】

成田氏長家臣。官途は和泉守。筋骨隆々とした巨漢。丹波守の持つ朱槍を欲しており、常に丹波守と張り合っている。1590年、「忍城の戦い」では、三田加賀守、吉田和泉守ら200余りを率いて長野口を守備した。浅野長政勢の攻撃を受け危機的状況に陥るが、甲斐姫が手勢を率いて反撃を行ない浅野長政勢を撃退した。参考文献:『のぼうの城』by和田竜。

柴山重吉【しばやましげよし(15??~1617)】

木戸忠朝の男。官途は縫殿介。通称新次郎。

渋江三郎【しぶえさぶろう(15??~1530)】

太田資頼家臣。渋江館主。1525年、「第一次岩槻城の戦い」で北条氏綱が岩槻城を攻撃すると、渋江三郎が内応したため、城兵3,000余りが討死して落城した。太田資頼は足立郡石戸城に落延びた。北条氏綱から岩槻城代に任じられた。1530年、「小沢原の戦い」で扇谷上杉朝興が北条氏綱勢に大敗すると、古河公方足利高基の支援を受けた太田資頼に岩槻城を奪還され、渋江三郎も討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

渋江平六良【しぶえへいろくりょう(15??~15??)】

木戸忠朝家臣。

渋川義堯【しぶかわよしたか(15??~15??)】

足立郡蕨城主。渋川義鏡の男。1524年、「第一次蕨城の戦い」で北条氏綱勢の攻撃を受け落城した。1526年、「第二次蕨城の戦い」では、真里谷信清と里見義豊の支援を受けた扇谷上杉朝興が北条氏綱から蕨城を奪還した。1546年、「河越城の戦い」で扇谷上杉朝定が討死すると、北条氏康に降伏した。

渋川義基【しぶかわよしもと(15??~1567)】

渋川義堯の男。1567年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康勢に属して参陣した。「三船山に戦い」で里見義堯勢の攻撃を受け討死した。渋川義基には継嗣がなく、一族郎党は散り散りとなり、多くが帰農した。渋川義基の夫人(龍体院殿)はその死を嘆き榛名湖に入水して自害した。

島崎二郎【しまざきじろう(15??~1590)】

北条氏照家臣。1591年、「八王子城の戦い」で前田利家勢と戦い討死した。

島村家吉【しまむらいえよし(15??~15??)】

扇谷上杉朝興家臣。1538年、越生町報恩寺に宛てた寄進状に難波田憲重とともに連署した。

島田出羽守【しまだでわのかみ(15??~15??)】

成田氏長家臣。1590年、「忍城の戦い」では、今村佐渡守ととともに行田口を守備した。浅野長政、長束正家勢の攻撃を受けたがこれを撃退した。

庄式部少輔【しょうしきぶのしょうゆ(15??~15??)】

上田朝直家臣。33貫500文を領した。1563年、上田朝直の意向を受け松山上杉憲勝への使者を務めた。

宿谷重近【しゅくやしげちか(15??~15??)】

北条氏康家臣。田波目城主。1546年、城下に永源寺を建立した。

宿谷重吉【しゅくやしげよし(15??~15??)】

宿谷重近の男。1546年、「河越城の戦い」では、父宿谷重近の陣代として北条氏康に従って参陣した。

宿谷本吉【しゅくやもとよし(15??~15??)】

宿谷重吉の男。1589年、「小田原の役」では、小田原城に籠城した。

宿谷重利【しゅくやしげとし(15??~1590)】

北条氏政家臣。1590年、「八王子城の戦い」では、八王子城に籠城して前田利家、長尾景勝、真田昌幸らの攻撃を受け討死した。

白石宗清【しらいしはりまのかみ(15??~1583)】

児玉郡白石城主。猪俣定平の次男。官途は播磨守。

白石宗綱【しらいしむねつな(15??~15??)】

白石播磨守の男。

白井但馬守【しらいたじまのかみ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。

神宮武兵衛【じんぐうぶへい(15??~15??)】

北条氏邦家臣。鉄炮衆。1585年、北条氏邦の意向を受け上野国吾妻郡大戸に参陣した。

新藤下総守【しんどうしもうさのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。河越衆。江戸雪ヶ谷、河越三十三郷大袋で63貫229文を領した。

須賀修理亮【すがしゅりのじょう(15??~15??)】

成田長泰家臣。須賀城主。100貫文を領した。

菅原直則【すがわらなおのり(15??~15??)】

木戸忠朝家臣。

杉田重長【すぎたしげなが(15??~15??)】

三田綱定家臣。小河内衆の旗頭。1580年、小菅信景を討取る戦功を挙げた。

杉田富久【すぎたとみひさ(15??~15??)】

北条氏照家臣。通称清兵衛。1587年、北条氏照の意向を受け、人質を八王子城に送った。

勝呂豊後守【すぐろぶんごのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。入間郡勝呂城主。

鈴木長敏【すずきんがとし(15??~15??)】

品川湊の廻船問屋。別名鈴木道胤。品川馬場地を中心に品川湊を支配し、廻船業や土倉などの貸金業を営む商人として活動した。連歌の名手としても知られて、妙国寺に梵鐘を寄進したほか、伽藍の再建に尽くした。1470年、太田資長が『河越千句(連歌の会)』を主催した際には、連歌師の心敬、宗祇を招いた。

諏訪七右衛門【すわしちえもん(15??~15??)】

秩父郡永田城主。豪族衆の永田林四郎、諏訪七右衛門、寺尾彦三郎らが治めた地域。北条氏邦の家臣井上三河守が永田城代として派遣されるとそれに従った。

諏訪三河守【すわみかわのかみ(15??~15??)】

久良岐郡寺尾城主。官途は三河守。相模衆十四家。寺尾城200貫を領して寄騎衆20騎余りを率いた。参考文献:『横浜の戦国武士たち』by下山治久

諏訪部定久【すわべさだひさ(15??~15??)】

秩父郡日尾城主。諏訪部定邦の男。官途は出羽守。通称惣右衛門。相模西郡正安寺、伊豆多田で40貫文を領した。

諏訪部定勝【すわべさだかつ(1536~1588)】

諏訪部定久の男。北条氏邦家臣。官途は遠江守。通称主水。室は妙喜尼。1568年、武田晴信の家臣山県昌景、小幡景純らの攻撃を受けたが、諏訪部定勝はその前日から客人を向かえて酒を飲み交わし泥酔状態で寝込んでしまい起き上がる事ができなかった。諏訪部定勝の内室(妙喜尼)が指揮を取って武田晴信勢を撃退した。1569年、「第二次小田原城の戦い」では、小田原城を攻撃する武田晴信勢の補給線を野伏せりを集めて攪乱した。

諏訪部定吉【すわべさだよし(15??~15??)】

諏訪部定勝の男。通称宗右衛門。1590年、「日尾城の戦い」では、出浦左馬助らと日尾城に籠城したが、羽柴秀吉勢の侵入はなかった。

関加賀守【せきかがのかみ(15??~15??)】

吉良頼康家臣。

関根勝直【せきねかつなお(15??~15??)】

広沢信秀の次男。官途は織部。別名広沢勝直。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、兄広沢重信のとともに結城秀康に仕えた。

妹尾兼延【せのおかねのぶ(15??~15??)】

太田資正家臣。

妹尾下総守【せのおしもうさのかみ(15??~1589)】

妹尾兼延の男。太田氏房に仕えた。1589年、「小田原の役」では、岩槻城に籠城した。妹尾下総守は本多忠勝と戦うが討死した。

善照寺向用斎【ぜんしょうじこうようさい(15??~15??)】

成田親泰の次男。成田氏長の意向を受け羽生城を守備した。1589年、「小田原の役」では、石田三成勢が忍城にせまると、羽生城を放棄して忍城に籠城した。

匝瑳信利【そうさのぶとし(15??~15??)】

北条氏康家臣。通称蔵人佑。江戸衆。戸ヶ崎で47貫文を領した。

曾我祐重【そがすけしげ(15??~15??)】

扇谷上杉朝興家臣。官途は豊後守。1586年、江戸城代を務めた。

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【た】

泰翁宗安【たいおうそうあん(15??~1591)】

足立郡平林寺住職。1544年、平林寺住職を務めた泰翁宗安は足立郡原宿、野本鎌倉方、加倉の代官職を務め、僧侶の立場で兵を率いた。また戦乱に備え平林寺の敷地を土塁、空堀で囲み僧侶、在家の人々に武装させた。1564年、「三舟山の戦い」で太田氏資とともに恒岡越後守が討死すると、北条氏政は恒岡越後守の家督を僧籍にあった弟泰翁宗安に家督を相続させた。1590年、「第四次岩槻城の戦い」では、籠城して戦ったが平林寺は焼失した。

大福御前【だいふくごぜん(1541~1593)】

北条氏邦の室。藤田康邦の娘。1589年、「小田原の役」後、北条氏直、北条氏邦らが滅亡すると、自害した。

高坂刑部【たかさかぎょうぶ(15??~15??)】

北条氏政家臣。吉見郡高坂館主。

高崎利春【たかさきとしはる(15??~15??)】

太田資正家臣。官途は刑部左衛門。1561年、「松山城の戦い」では、太田資正の意向を受け松山城に籠城した。

多賀谷家政【たがやいえまさ(15??~15??)】

埼玉郡多賀谷館主。金子家忠の次男。通称左衛門尉。

田草川新左衛門尉【たぐさがわしんざえもんのじょう(15??~15??)】

多摩郡栃窪館主。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が討死すると、北条氏直に仕えた。1590年、「八王子城の戦い」後、負傷した横地景信の介錯を行った。

竹井右近【たけいさこん(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。1567年、上杉憲勝は長尾景虎の侵攻に備えるため、丹良塚対馬守、竹井右近、中村拾左衛門、松村飛騨守、三ヶ尻丹後守、大谷舎人、田中豊前守らとともに上野国中山城に派遣した。

立川石見守【たちかわいわみのかみ(15??~15??)】

太田資正家臣。鴻巣七騎衆。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、岩槻太田氏房も改易処分に処され没落した。

立川照重【たちかわてるしげ(15??~15??)】

北条氏照家臣。多摩郡柴崎館主。官途は宮内少輔。

武蔵伊達房実【だてふさざね【(15??~1626)】

太田氏資家臣。伊達宗春の男。通称与兵衛。室は相馬藤右衛門の娘。筆頭家老職を務めた。1589年、「小田原の役」では、岩槻城に兵2,000余りとともに籠城した。開城後松平元康に仕え、足立郡で250石を領した。

田中豊前守【たなかぶぜんのかみ(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。1567年、上杉憲勝は長尾景虎の侵攻に備えるため、丹良塚対馬守、竹井右近、中村拾左衛門、松村飛騨守、三ヶ尻丹後守、大谷舎人、田中豊前守らとともに上野国中山城に派遣した。

谷合久信【たにあいひさのぶ(15??~15??)】

三田綱秀家臣。1563年、「辛垣城の戦い」では、北条氏照勢の攻撃を受け塚田又八が内応して城に火を放ったため落城、三田綱秀の次男三田綱行とともに太田資正のもとに落延びた。

多比良将監【たひらしょうげん(15??~15??)】

北条氏邦家臣。1569年、「三山谷の戦い」では、山口総五郎、出浦左馬助、斎藤右衛門尉、朝見伊勢守らととも北条氏邦に従い武田晴信勢と戦った。

武蔵千葉憲胤【ちばのりたね(15??~15??)】

北条氏康家臣。江戸衆のひとり。江戸新倉で475貫を領した。

武蔵千葉胤利【ちばたねとし(15??~15??)】

豊島郡石浜城主。

武蔵千葉胤宗【ちばたねむね(15??~1574)】

千葉胤利の男。1574年、「関宿城の戦い」では、足利義氏の家臣簗田持助が北条氏政に謀反を起こしたため、北条氏政に属して参陣した。簗田持助勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

武蔵千葉直胤【ちばなおたね(15??~15??)】

北条氏繁の男(千葉胤宗の養子)。通称善九郎。別名北条氏常。室は千葉胤宗の娘。1574年、「下総関宿城の戦い」で養父千葉胤宗が討死したため、千葉直胤が婿養子となり武蔵千葉家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中条出羽守【ちゅうじょうでわのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。江戸衆。多摩郡府田で282貫文を領した。

塚田又八【つかはらまたはち(15??~15??)】

三田綱秀家臣。1563年、「辛垣城の戦い」では、北条氏照勢の攻撃を受けると、内応して城に火を放った。

土屋五郎左衛門【つちやごろうざえもん(15??~15??)】

平山氏重家臣。

恒岡資宗【つねおかすけむね(15??~15??)】

太田資正家臣。官途は越後守。別名恒岡信家。1563年、太田資正の意向を受け佐枝信宗、牛村助十郎とともに、井草郷の堤防修築した。1564年、春日摂津守とともに、太田資正の追放を太田氏資に進言した。1567年、「三舟山の戦い」で太田氏資とともに恒岡越後守が討死した。

出浦左馬助【でうらさまのすけ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。1569年、「三山谷の戦い」では、山口総五郎、多比良将監、斎藤右衛門尉、朝見伊勢守らととも北条氏邦に従い武田晴信勢と戦った。武田晴信の家臣松田肥前守を討取る戦功を挙げた。

寺尾彦三郎【てらおひこさぶろう(15??~15??)】

北条氏邦家臣。永田城主。

当麻豊後守【とうまぶんごのかみ(15??~15??)】

成田長泰家臣。1589年、「小田原の役」では、成田氏長とともに小田原城に籠城した。

遠山正輔【とおやままさすけ(15??~15??)】

北条氏政家臣。1590年、「松山城の戦い」で軍配者として松山城に籠城した。

遠山光景【とおやまみつかげ(15??~1587)】
 
北条氏康家臣。比企郡小倉城主。通称右衛門大夫。

富島彦左衛門【とみしまひこざえもん(15??~15??)】

北条氏康家臣。諸足軽衆。川越小堤で29貫525文を領した。

富永善左衛門【とみながぜんざえもん(15??~15??)】

北条氏康家臣。江戸衆。入東郡福岡で48貫623文を領した。

舎人経忠【とねりつねただ(15??~1564)】

足立郡舎人城主。通称源太左衛門。室は遠山綱景の娘。1564年、「第二次国府台の戦い」では、遠山綱景とともに討死した。舎人経忠の内室は、その後大道寺政繁に再嫁し、舎人経忠の男は大道寺政繁の養子となっ大道寺直英と称した。

舎人孫四郎【とねりまごしろう(15??~15??)】

太田資正家臣。1563年、「第二次国府台の戦い」では、太田資正に従って里見義弘らとともに、北条氏康勢と戦った。太田資正が北条氏康の家臣清水又太郎に組み伏せられていたところを野本与次郎ともに救った。

呑龍上人【どんりゅうしょうにん(1542~1623)】

井上将監の男。平方村林西寺の住職を務めた。

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【な】

長井政実【ながいまさざね(15??~15??)】

児玉郡御獄城主。官途は豊前守。1552年、北条氏康から足利長尾景長の家臣安保全隆に代わって御獄城主に任じられた。後に武田晴信勢に属して武蔵先方衆を務めた。「甲相同盟」により御獄城が武田晴信から北条氏康に譲渡されたため、御獄城から三ッ山城に転封した。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると没落した。

長井実久【ながいさねひさ(15??~15??)】

長井政実の男。1591年、松平元康が関東に転封になると、松平元康に仕えた。

長崎重光【ながさきしげみつ(15??~1552)】

荏原郡瀬田城主。官途は伊予守。別名長崎行善。小田原にあった行善寺を居城に移した。

長崎重高【ながさきしげたか(15??~15??)】

長崎重光の男。

長崎重次【ながさきしげつぐ(15??~15??)】

長崎重高の男。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、帰農した。

中条出羽守【なかじょうでわのかみ(15??~15??)】

北条氏照家臣。1554年、調布、上布田に領地を領した。

永田外記【ながたげき(15??~15??)】

扇谷上杉朝興家臣。横瀬根小屋城主。

長野対馬守【ながのつしまのかみ(15??~15??)】

成田親泰家臣。1563年、「騎西城の戦い」では、小田家時とともに騎西城に籠城して長尾景虎勢と戦った。

中村捨左衛門【なかむらすてざえもん(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。1567年、上杉憲勝は長尾景虎の侵攻に備えるため、丹良塚対馬守、竹井右近、中村拾左衛門、松村飛騨守、三ヶ尻丹後守、大谷舎人、田中豊前守らとともに上野国中山城に派遣した。

中村幸松【なかむらゆきまつ(15??~15??)】

北条氏康家臣。御馬廻衆。川越仙波、江戸筋前野で21貫500文を領した。

中山家勝【なかやまいえかつ(15??~15??)】

扇谷上杉朝定家臣。高麗郡飯能館主。1546年、「河越城の戦い」では、上杉朝定に従って参陣した。扇谷上杉朝定家が滅亡すると、北条氏康に従った。

中山家範【なかやまいえのり(1548~1590)】

中山家勝の男。官途は勘解由左衛門。通称助六助。北条氏照に従い北関東各地を転戦して戦功を挙げた。その武名は関東一円に轟いた。1573年、亡父中山家勝を弔うため、能仁寺を菩提寺として建立した。1590年、「八王子城の戦い」では、八王子城に籠城したが、前田利家からの降伏勧告を拒み討死した。

中山照守【なかやまてるもり(1570~1634)】

中山家範の男。通称助六郎。別名「上田の七本槍」。1589年、「八王子城の戦い」で父中山家範が討死にしたため、中山照守は武蔵国加治に潜伏した。後に弟中山信吉とともに松平元康に仕え300石を領した。1600年、「第二次上田城の戦い」では、松平秀忠に従い戦功を挙げたが、軍律違反を犯し上野国吾妻郡に閑居した。中山照守は高麗八条流馬術の使い手であったため、松平秀忠に馬術を教授し、のちに松平家光にも手ほどきした。1614年、「大坂の冬の陣」では、継嗣の中山直定とともに参陣し戦功を挙げて500石の加増を受けた。

中山信吉【なかやまのぶよし(1577~1642)】

中山家範の次男。官途は備前守。通称雅楽助。1589年、「八王子城の戦い」で、父中山家範は討死するが役後、兄中山照守とともに松平元康に召し抱えられ1,500石を領した。1607年、松平頼房が下妻城100,000石を領すると家老職に任じられ6,500石を領した。1609年、松平頼房の水戸城に転封により15,000石に加増された。

奈倉加賀守【なくらかがのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。入間郡下河原館主。御馬廻衆。入西郡下河原で16貫886文を領した。

奈倉重則【なくらしげのり(15??~1569)】

秩父郡奈倉館主。官途は下野守。秩父郡奈倉を領した。

夏目実基【なつめさねもと(15??~15??)】
 
山内上杉顕定家臣。児玉郡八幡山城主。官途は豊後守。別名有田定基。上野藤岡城主だったが八幡山城主に任じられた。1558年、山内上杉憲政が越後国に落延びると北条氏康に降った。

成田長泰【なりたながやす(1495~1574)】

埼玉郡忍城主。成田親泰の男。山内上杉憲政家臣。官途は下総介。室は長尾景英の娘。1546年、「河越城の戦い」後、山内上杉憲政の勢力を衰えると、北条氏康勢に属した。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、長尾景虎勢に属した。鶴岡八幡宮で行われた長尾景虎の関東管領就任式で、長尾景虎から叱責を受けたため、兵を率いて忍城に戻り再び北条氏康に属した。1563年、「忍城の戦い」では、長尾景虎勢の猛攻を受け降伏、隠居を命じられて継嗣の成田氏長に家督を譲った。1566年、成田氏長を廃して家督を次男の成田長忠に成田家の家督を継がせようとしたため、成田氏長と対立した。弟成田泰季や家老の豊嶋美濃守らの反対を受け、これを断念して出家した。

成田氏長【なりたうじなが(1542~1596)】

成田長泰の男。室は太田資正の娘。1563年、「忍城の戦い」後、父成田長泰に代わって成田家の家督を相続した。1566年、父成田長泰が弟の成田長忠に成田家の家督を相続させようとしたため、成田長泰と対立した。家臣の豊嶋美濃守らの説得により成田長忠が身を引いたため、成田長泰が出家した。1569年、長尾景虎と北条氏康が和議を結びと、北条氏康に従った。1563年、「騎西城の戦い」で叔父小田朝興を追い落とし、成田長忠を城主に任じた。1589年、「小田原の役」では、小田原城に籠城したため、忍城は城代成田泰季が守備した。忍城は石田三成勢の攻撃を受けたが、病没した成田泰季に代わり成田長親が指揮を執り、小田原城が開城するまで忍城を守り通した。役後、弟の成田長忠とともに蒲生氏郷に仕え、のち娘の甲斐姫が羽柴秀吉の寵愛を受けたこともあって下野国烏山城20,000石を領した。1592年、「文禄の役」では肥前国名護屋城に参陣した。

成田長忠【なりたながただ(1550~1617)】

成田長泰の次男。室は上杉憲盛の娘。父成田長泰が嫡男の成田氏長を嫌って次男の成田長忠に家督を譲ろうとしたこともあるが、兄と争うことを嫌った成田長忠が身を引いたため家督は成田氏長が継承した。また、叔父である小田朝興の養子となって騎西城を継いた。1588年、養母(朝興未亡人)と兄成田氏長の嫡男が相次いで没したために、忍城に呼び戻されて兄の養子となった。1589年、「小田原の役」のとき、兄と共に小田原城に籠もった。北条氏滅亡後、兄とともに蒲生氏郷の家臣となった。1595年、兄成田氏長が病没したため、成田家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して会津の長尾景勝の侵攻に備えた。戦功により戦後、17,000石を加増され、下野国烏山城37,000石を領した。1614年、「大坂冬の役」では、松平元康勢に属して参陣した。

成田泰季【なりたやすすえ(15??~1590)】

成田親泰の三男。1590年、「忍城の戦い」では、城主成田氏長が北条氏直勢に属して小田原城に籠城したため、城代として忍城を守備した。籠城中に病没した。

成田長親【なりたながちか(1545~1613)】

成田泰季の男。室は遠山藤九郎(遠山綱景の男)の娘。1589年、「小田原の役」では、成田氏長が北条氏直勢に属して小田原城に籠城したため、忍城は成田氏長の叔父成田泰季が城代として指揮を執ったが、籠城中に病没したため、成田長親が城代となり指揮を執った。「忍城の戦い」では、石田三成勢23,000余りの攻撃を受けが何度も撃退した。石田三成は忍城を水攻めにするが、北条氏直が降伏するまで、忍城を攻落すことができなかった。役後、北条氏長とともに蒲生氏郷に仕えるが、成田氏長と不和になり出奔した。

難波田憲重【なんばだのりしげ(15??~1546)】

多摩郡深大寺城主。難波田正直の男。官途は弾正忠。別名難波田善銀。河越城を奪われた上杉朝定を松山城に迎え北条氏康勢と戦った。1546年、「河越城の戦い」では、扇谷上杉朝定、継嗣の難波田広儀とともに討死した。

難波田広儀【なんばひろよし(15??~1546)】

難波田憲重の男。通称隼人正。1546年、「河越城の戦い」で、父難波田憲重とともに討死した。難波田家は一時断絶し一族も離散したが、難波田広儀の甥難波田憲次が難波田家を再興した。

難波田憲次【なんばたのりつぐ(15??~15??)】

大森明昇の男。官途は因幡守。室は三条右大臣の娘。母が難波田憲重の娘であったため、難波田家を相続した。1590年、「松山城の戦い」では、上田朝直とともに北条氏直勢に属して前田利家、長尾景勝、真田昌幸らと戦った。羽柴秀吉勢の猛攻を受け山田直安、金子家基らとともに降伏した。前田利家勢に属して八王子城を攻撃した。

難波田憲利【なんばたのりとし(15??~1635)】

難波田憲次の男。通称は善右衛門。室は山上忠宗の娘。1589年、「小田原の役」後、松平元康が関東に転封になると、大番組に任じられた。

難波田因幡守【なんばだいなばのかみ(15??~15??)】

上田憲定家臣。1590年、「松山城の戦い」では、根岸藤兵衛、小岩井雅楽助、田中伝右衛門、羽生平八郎らとともに北条氏直勢に属して松山城に籠城した。

難波田与太郎【なんばたよたろう(15??~15??)】

上田朝直家臣。入東郡棟岡で30貫を領した。

難波田南畑姫【なんばだなんばたひめ(15??~15??)】

太田資正の室。難波田憲重の娘。参考文献:『ほたる舞う城』by越路遼介。

新方頼希【にいがたよりのり(15??~15??)】

埼玉郡向畑館主。1504年、「向畑館の戦い」で八条惟茂勢の攻撃を受け落城した。

新田又七郎【にったまたしちろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。上戸館主。馬廻衆。川越三十三郷上戸で20貫300文を領した。

二宮播磨守【にのみやはりまのかみ(15??~15??)】

北条氏康家臣。入間郡青柳館主。小机衆。入東郡青柳で17貫を領した。

丹良塚対馬守【にらつかつしまのかみ(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。1567年、上杉憲勝は長尾景虎の侵攻に備えるため、丹良塚対馬守、竹井右近、中村拾左衛門、松村飛騨守、三ヶ尻丹後守、大谷舎人、田中豊前守らとともに上野国中山城に派遣した。

根岸備後守【ねぎしびんごのかみ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。

野口多門【のぐちたもん(15??~15??)】
 
太田資正家臣。1563年、太田資正が追放されると竹内伊織とともに帰農した。

野口秀房【のぐちひでふさ(15??~15??)】

北条氏照家臣。御岳神社が一族の神社。1590年、「八王子城の戦い」後、関東に転封した松平元康に仕えた。松平元康から御岳神社造営奉行職に任じられた。

野沢民部【のざわみんぶ(15??~15??)】

成田氏長家臣。成田氏長の意向を受け羽生城を守備した。

野本与次郎【のもとよじろう(15??~15??)】

太田資正家臣。1563年、「第二次国府台の戦い」では、太田資正に従って里見義弘らとともに、北条氏康勢と戦った。太田資正が北条氏康の家臣清水又太郎に組み伏せられていたところを舎人孫四郎とともに救った。

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【は】

畑彦十郎【はたひこじゅうろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。1546年、「河越城の戦い」では、河越城に籠城して戦功を挙げた。

浜野修理亮【はまのしゅりのじょう(15??~15??)】

太田資正家臣。1563年、「第二次国府台の戦い」で北条氏康勢と戦い戦功を挙げた。支援を求めるため、宇都宮国綱のもとに赴いた太田資正に従った。 

原島善六郎【はらしまぜんろく(15??~1563)】

三田綱秀家臣。1563年、北条氏照勢の攻撃を受け討死した。

原嶋友安【はらじまともやす(15??~1569)】

多摩郡日原館主。官途は右京亮。1563年、「辛垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕えた。1569年、「滝山城の戦い」で武田晴信勢と戦い原島友長とともに討死した。

原島七郎右衛門尉【はらしましちろうえもんのじょう(15??~15??)】

三田綱定家臣。1563年、「辛垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕えた。杉田入道、杉田右近丞らとともに北条氏照に人質を差し出した。

原島孫二郎【はらしままごじろう(15??~15??)】

三田綱定家臣。1563年、「辛垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕え、原島孫二郎、原島善六郎ととももに三田冶部少輔の寄騎衆を務めた。

原島善六郎【はらしまぜんろくろう(15??~1563)】

三田綱定家臣。1563年、「辛垣城の戦い」で北条氏照勢と戦い討死した。三田綱秀が滅亡すると、陣代が北条氏照に仕え、原島孫二郎、原島孫二郎ととももに三田冶部少輔の寄騎衆を務めた。

原島新三郎【はらしましんざぶろう(15??~15??)】

北条氏照家臣。武蔵国丹三郎で400文の所領を安堵され、平山定衡の寄騎衆を務めた。

原島新右衛門【はらしましんえもん(15??~15??)】

三田綱定家臣。1563年、「辛垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕えた。北条氏照の家臣師岡秀光の寄騎衆を務めた。参考文献:『後北条氏家臣団人名事典』by下山冶久。

比企則員【ひきのりかず(15??~15??)】

太田資正家臣。比企郡中山館主。通称左馬助。1561年、北条氏康勢との戦いで戦功を挙げ太田資正から比企郡代に任じれた。1587年、上田憲定に属した。1590年、「松山城の戦い」では、上田憲定に従って松山城に籠城した。

久長但馬守【ひさながたじまのかみ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。秩父郡龍ヶ谷城主。1572年、「石間谷の戦い」では、武田晴信勢の攻撃を受けるが撃退した。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、長尾景勝に仕えた。

広田直繁【ひろたなおしげ(15??~15??)】

埼玉郡羽生城主。木戸範実の次男。官途は式部大輔。1536年、足利高基勢に属した。1546年、「河越城の戦い」で山内上杉憲政、扇谷上杉朝興、古河公方足利晴氏らが大敗すると、武蔵国北部も諸将は北条氏康勢に降伏した。1554年、「羽生城の戦い」で北条氏康勢の攻撃を受け落城、兄木戸忠朝のもとに落延びた。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、その支援を受け羽生城を奪還した。1570年、広田直繁が上野国館林城に転封して、羽生城は木戸忠朝が治めた。1572年、「相越同盟」が破棄されると、再び北条氏政勢の攻勢を受けた。下総国栗橋城主北条氏照勢の攻撃を受け大敗、木戸忠朝は上野国金山城に落延びた。1574年、「第三次関宿城の戦い」では、簗田持助が佐竹義重、長尾景虎に支援を求めたが、金山城主由良成繁の離反により積極的な支援ができず関宿城を陥落した。木戸忠朝も羽生城から上野国膳城に転封した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

広田為繁【ひろたためしげ(15??~15??)】

広田直繁の男。官途は左衛門佐。別名菅原為繁。室は木戸忠朝の娘。叔父木戸忠朝や従兄弟の広田重朝らとともに羽生城に拠って北条氏康勢後北条家と戦った。1574年、長尾景虎の判断によって城を自落させた後、上野国膳城に転封した。長尾景虎が春日山城で病没すると武田勝頼勢に属した。1580年、羽生城回復を赤城山神社に祈願している。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢に属した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

平山政重【ひらやままさしげ(15??~15??)】

多摩郡檜原城主。大石定久家臣。1538年、大石定久が北条氏綱に降伏すると、それまで南一揆を構成していた小宮顕宗、二宮播磨守、立川照重、由井源三らもとともに北条氏綱に降った。

平山氏重【ひらやまうじしげ(15??~15??)】

平山政重の男。官途は伊賀守。1569年、甲相同盟が破綻し武田晴信が後北条攻めの軍を起こすと、北条氏照は塩山から青梅街道を通に防衛線を張ったが、武田晴信は檜原へは向かわず小仏峠と碓氷峠から侵入した。不意を突かれた北条氏照勢は、居城滝山城への肉薄を許すことになった。1589年、「八王子城の戦い」
では、横地監物、平山氏久らととに八王子城に籠城したが落城した。平山氏重と横地監物は自刃したが、平山氏久は落延びた。

平山新左衛門【ひらやましんざえもん(15??~1590)】

平山氏重の男。1590年、「檜原城の戦い」では、父平山氏重とともに檜原城に籠城するが、羽柴秀吉勢の攻撃を受け落城自刃した。

平山長寿【ひらやまながとし(15??~15??)】

北条氏康家臣。入間郡小山館主。他国衆。

平山豊後守【ひらやまぶんごのかみ(15??~15??)】

深谷上杉憲盛家臣。男衾郡平山館主。

平柳蔵人佑【ひらやなぎくらんどのすけ(15??~1564)】

太田資正家臣。足立郡平柳館主。氷川神社を創建した。1547年、山内上杉憲政が家臣の三戸四郎に平柳蔵人佑の指南を認める書状を出した。1563年、「第二次国府台の戦い」で太田資正に従って参陣したが北条氏康勢と戦い討死した。

平山政重【ひらやままさしげ(15??~1565)】

多摩郡檜原城主。平山季徳の四男。1546年、「河越城の戦い」で扇谷上杉興朝に従って参陣したが、北条氏康勢と戦った。北条氏康勢の勢力が多摩郡におよぶと、北条氏康勢に属した。1565年、「第三次岩槻城の戦い」で討死した。

平山氏重【ひらやまうじしげ(15??~1590)】

平山政重の男。官途は伊賀守。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、三田綱秀、成田氏長らは長尾景虎勢に属したが、平山氏重は北条氏康勢に属した。1590年、「八王子城の戦い」では、城代の横地吉信らとともに八王子城に籠城したが、前田利家勢の攻撃を受け落城した。継嗣の平山氏久、横地吉信らとともに檜原城に落延びたが、檜原城も攻撃を受け自刃した。

平山氏久【ひらやまうじひさ(15??~1590)】

平山氏重の男。1590年、「八王子城の戦い」では、城代の横地吉信らとともに八王子城に籠城したが、前田利家勢の攻撃を受け落城した。

平山綱景【ひらやまつなかげ(15??~1590)】

平山政重の次男。通称左衛門尉。1590年、「八王子城の戦い」では、太鼓曲輪を守備したが、前田利家勢の攻撃を受け討死した。

平山光義【ひらやまみつよし(15??~15??)】

多摩郡藤橋城主。室は平山政重の娘(鶴寿)。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、三田綱秀、成田氏長らとともに長尾景虎勢に属したが、惣領家の平山氏重は北条氏康勢に属した。1562年、「藤橋城の戦い」で北条氏康勢の攻撃を受け落城した。

平山光高【ひらやまみつたか(15??~15??)】

平山光義の男。

平井無辺【ひらいぶへん(15??~15??)】

北条氏照家臣。多摩郡平井館主。八王子城の普請奉行を務めた。1590年、「八王子城の戦い」では、前田利家勢の長尾景勝に内応してその先導役を務めた。

広沢元家【ひろさわもといえ(15??~1546)】

太田資頼家臣。広沢重家の男。官途は兵庫頭。1546年、「河越城の戦い」で討死した。

広沢忠信【ひろさわただのぶ(15??~1547)】

広沢元家の男。官途は尾張守。1547年、「松山城の戦い」で太田資正から松山城の城代に任じられるが、上田朝直が内応したため討取られた。上田朝直は、松山城主難波田善銀の婿養子の座を狙っていたが、広沢忠信が婿にするなら太田資正を薦めたことで、広沢忠信を恨んだ。

広沢信秀【ひろさわのぶひで(15??~15??)】

広沢忠信の男。官途は尾張守。北条氏康に仕えた。

広沢重信【ひろさわしげのぶ(15??~15??)】

広沢信秀の男。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、弟の関根勝直とともに結城秀康に仕えた。

深井景孝【ふかいかげたか(1512~1533)】

太田資正家臣。鴻巣七騎のひとり。1533年、「鴻巣下谷の戦い」で討死した。

深井景吉【ふかいかげよし(15??~1611)】

深井景孝の男。官途は対馬守。

深井好秀【ふかいよしひで(15??~1605)】

深井景吉の男。官途は対馬守。通称藤右衛門。別名深井資正。室は小宮山弾正の娘。1567年、「三船山の戦い」で太田氏資が討死すると養子の太田源五郎の後見役を務めた。太田源五郎が病没すると、太田氏房に仕えた。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると没落した。

深井資元【ふかいすけもと(15??~16??)】

深井景吉の次男。

深井資勝【ふかいすけかつ(15??~16??)】

深井景吉の三男。通称源左衛門。松平忠吉に仕え300石を領した。

深井淳海【ふかいじゅんかい(15??~16??)】

深井景吉の四男。

深井正家【ふかいまさいえ(15??~16??)】

深井景吉の五男。1605年、兄深井好秀が病没すると、父深井景吉が深井家の家督を相続した。1611年、深井景吉が病没後、深井正家が相続した。

福岡藤三郎【ふくおかとうざぶろう(15??~15??)】

三田綱秀家臣。1563年、「幸垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕えた。1564年、北条氏照の意向を受け清戸館に在番した。

福島房重【ふくしまふさしげ(15??~15??)】

太田資正家臣。

藤井大助【ふじいだいすけ(15??~15??)】

成田氏長家臣。埼玉郡藤井で10貫を領した。

藤田康邦【ふじたやすくに(1513~1555)】

秩父郡天神山城主。山内上杉憲政家臣。官途は右衛門佐。別名土用康邦。1549年、「天神山城の戦い」で北条氏康の攻撃を受けて降伏した。北条氏康の四男北条氏邦を娘(大福御前)の婿養子に迎え、藤田家の家督を譲り用土城に転封した。藤田康邦には実子に藤田重連、藤田信吉がいたが、藤田重連は沼田城代に任じられたが北条氏邦に謀殺された。弟藤田信吉は武田勝頼に寝返った。

藤田重連【ふじたしげつら(15??~1578)】

藤田康邦の男。通称新左衛門。別名用土重連。1546年、「河越城の戦い」で山内上杉憲政が大敗すると、父藤田康邦は北条氏康勢から攻撃を受け降伏した。和議の条件として北条氏康の四男北条氏邦を養子に迎え用土城に転封した。1555年、父藤田康邦の病没後、藤田家の家督を相続した。北条氏邦勢に属して戦功を重ねたが潜在的な敵対勢力とみなされた。1578年、金子泰清とともに沼田城の城将に任じられたが、北条氏邦に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

藤田信吉【ふじたのぶよし(1555~1616)】

藤田康邦の次男。官途は能登守。室は海野信親の娘。1578年、兄藤田重連が北条氏邦によって謀殺さたため、藤田家の家督を相続した。1580年、北条氏政から離反して、武田勝頼勢に属して5,700貫を領した。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると、滝川一益勢に属した。「沼田城の戦い」では、長尾景勝勢に内応して、兵5,000余りで滝川益重が守備する沼田城を攻撃したが、滝川一益勢の反撃を受け越後国に落延びた。1598年、長尾景勝が会津若松城に転封されると越後国津川城15,000石を領した。長尾景勝に松平元康への恭順を説くも家中で孤立して、栗田国時とともに長尾景勝のもとから出奔した。1600年、「関ヶ原の役」後、松平元康に仕え下野国西方城15,000石を領した。1615年、「大坂夏の陣」後に改易処分に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

布施出羽守【ふせでわのかみ(15??~15??)】

北条氏照家臣。1569年、「十々里原の戦い」では、小仏峠を越えて侵入した武田晴信の家臣小山田信茂勢1,200余りの攻撃を受け横地吉信、中山家範らととに兵2,300余りでこれを迎え撃った。小山田信茂勢の攻撃により野村源兵衛、金指平左衛門らが討死した。

布施蔵人佐【ふせくろうどのさ(15??~15??)】

北条氏康家臣。武蔵小机麻生で80貫500文を領した。

本庄実忠【ほんじょうさねただ(1497~1580)】

児玉郡本庄城主。官途は宮内少輔。1546年、「河越城の戦い」では、北条氏康勢と戦い負傷しながらも戦功を挙げた。1551年、「神川、上里の戦い」で山内上杉憲政勢が敗退すると、山内上杉憲政は越後国に落延びた。以後、本庄実忠は北条氏康勢に属した。1556年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、本庄実忠は長尾景虎勢に属した。1561年、「第一次小田原城の戦い」では、長尾景虎勢に属して参陣するが小田原城を攻め落すことができなかった。1567年、長尾景虎勢が関東から撤退すると、本庄城は北条氏康勢の攻撃を受け落城、再び北条氏康勢に属した。

本庄近朝【ほんじょう(15??~1590)】

本庄実忠の男。通称隼人正。1580年、父本庄実忠の病没により本庄家の家督を相続した。東上野国に侵攻した武田勝頼勢の攻撃を受けた。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると、上野国に侵攻した織田信長の家臣滝川一益に属した。「神流川の戦い」では、滝川一益勢に属して北条氏直勢と戦うが破れ、北条氏直勢に降った。1589年、「小田原の役」では、北条氏直勢に属して小田原城に籠城したが、落城により自刃した。

本田正勝【ほんだまさかつ(15??~15??)】

北条氏康家臣。1562年、「武蔵葛西城の戦い」では、本田正勝が手勢と忍衆を率いて葛西城を攻略した。この戦功により葛西城主に任じられた。

別府長清【べっぷながきよ(15??~15??)】

成田氏長家臣。別府城主。官途は尾張守。1589年、「小田原の役」では、成田氏長とともに小田原城に籠城した。

別府顕清【べっぷあききよ(15??~15??)】

別府長清の男。通称三郎左衛門。1589年、「小田原の役」では、忍城に籠城した。役後は所領を没収された。

逸見若狭守【へんみわかさのかみ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。秩父郡高松城主。高松城1150貫を領した。1546年、「河越城の戦い」後、北条氏康は四男の北条氏邦を鉢形城主藤田康邦の婿養子に送り込んだ。1590年、「鉢形城の戦い」では、前田利家、長尾景勝、真田昌幸らの攻撃を受け、籠城戦の末に開城したが、高松城もそれに先立って落城した。北条氏直が滅亡すると、孫逸見義貞に逸見家の家督を譲り隠居した。
 
逸見義忠【へんみよしただ(15??~15??)】

逸見若狭守の男。官途は上総介。官途は源太郎。

逸見義久【へんみよしひさ(15??~15??)】

逸見義忠の男。通称四郎左衛門。1554年、「広木の戦い」で武田晴信勢と戦い討死した。
 
逸見義次【へんみよしつぐ(1547~1594)】

逸見義久の男。通称小四郎左衛門。1591年、松平元康が関東に転封すると、それに仕えた。1594年、松平元康の意向を受け相模中原に転封した。

逸見義助【へんみよしすけ(1572~1624)】

逸見義次の男。官途は左馬助。通称弥吉。松平元康のもとで大番を務め、相模国大住郡内330石余りを領した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に在番した。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。1615年、「大坂夏の陣」に参陣した。

逸見忠助【へんみただすけ(15??~1657?)】

逸見義久の次男。通称四郎左衛門。1604年、大番となり相模国内で500石を領した。1613年、伏見城の在番を務めた。1615年、「大坂夏の陣」に参陣した。

逸見義記【へんみよしのり(1594~1658)】

逸見義久の三男。通称市之丞。別名逸見義幹。1610年、大番を務め、蔵米200俵を給された。1615年、「大坂夏の陣」に参陣して戦功を挙げ、甲斐国八代郡内で200石を領した。

逸見義助【へんみよしすけ(15??~15??)】

逸見義久の四男。

逸見義重【へんみよししげ(1589~1639)】

逸見義助の男。通称勘右衛門。1607年、甲斐国八代郡内で200石を領した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。後に松平忠長に仕えた。

逸見義持【へんみよしもち(1591~1663)】

逸見義助の次男。通称八左衛門。1624年、大番を務めた。1633年、上総国山邊郡内で530石を領した。1640年、組頭を務めた。

逸見蔵人佐【へんみくらんどのすけ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。

保坂大炊助【ほさかおおいのすけ(15??~1582)】

北条氏邦家臣。1582年、「神流川の戦い」で北条氏邦に従い参陣したが、滝川一益勢と戦い石山大学ら300騎余りとともに討死した。

星名小隼人【ほしなこはやと(15??~15??)】

北条氏照家臣。箕輪衆。1587年、「金山城の戦い」で由良国繁が佐竹義重に内応して北条氏直に謀反を越すと、松田大隅守とともに金山城を攻撃した。

細萱光仲【ほそがやみつなか(15??~15??)】

北条氏康家臣。官途は民部少輔。葛飾郡栗原城主。1561年、「栗原城の戦い」で長尾景虎勢の攻撃を受けたが、細萱光仲は城兵70騎余りとともに小田原城に籠城していたため、城は焼き払われた。

細萱泰秀【ほそがややすひで(1551~15??)】

細萱光仲の男。埼玉郡花崎城主。1561年、「花崎城の戦い」で長尾景虎勢の攻撃を受け落城した。

細谷資道【ほそやすけみち(15??~15??)】

太田氏房家臣。官途は三河守。三家老衆。

本庄実忠【ほんじょうさねただ(1497~1580)】

児玉郡本庄城主。山内上杉憲政家臣。本庄実明の男。官途は宮内少輔。1546年、「河越城の戦い」で手傷を負いながらも戦功を挙げ西本庄を領した。1551年、「神川、上里の戦い」で山内上杉憲政勢が大敗して越後国に落延びると、北条氏康に従った。1561年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻するとそれに従った。1567年、「本庄城の戦い」で北条氏康勢の攻撃を受け再び北条氏康に属した。

本庄近朝【ほんじょうちかとも(15??~1590)】

本庄実忠の男。官途は隼人正。1580年、父本庄実忠が病没したため、本庄家の家督を相続した。1581年、武田勝頼勢の侵攻を受けた。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると、織田信長の家臣滝川一益が厩橋城に入るとそれに従った。「神流川の戦い」では、滝川一益勢に属して参陣したが、敗れて再び北条氏直勢に属した。1589年、「小田原の役」では、小田原城に籠城したが羽柴秀吉勢の攻撃を受け落城、本庄近朝も自刃した。

本庄泰展【ほんじょうやすのり(15??~15??)】

成田氏長家臣。1590年、「忍城の戦い」では、下忍口守備を脇本利助、坂本兵衛らとともに守備した。石田三成勢が水攻めの堤防を築くと、これを破壊するため夜半に石田三成勢の陣地に潜入して堤防二箇所破壊した。

本田長繁【ほんだながしげ(15??~15??)】

北条氏康家臣。男衾郡本田館主。

本田長親【ほんだながちか(15??~15??)】

本田長繁の男。1589年、「小田原の役」では、北条氏直勢に属して小田原城に籠城した。役後、没落した。

本間小五郎【ほんまこごろう(15??~15??)】

太田資正家臣。

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【ま】

巻島主水助【まきしまもんどのすけ(15??~15??)】

足利晴氏家臣。埼玉郡間釜館主。

正木利英【まさきとしひで(15??~15??)】

成田長泰家臣。官途は丹波守。別名「漆黒の魔人」。成田長泰の筆頭家老職を務めた。長尾景虎の武勇に憧れ、武芸の鍛錬に勤しんだ。1574年、「羽生城の戦い」で戦功を挙げ郷地と笠原を領した。1586年、「下野国壬生城の戦い」では、壬生義雄を支援するため、鉄砲衆を引き連れ参陣した。1590年、「忍城の戦い」では、石田三成勢の攻撃を受けると、佐間口を守備し、長束正家勢と戦った。成田氏長が改易処分に処されると、武士の身分を捨て討死した諸将を弔うため高源寺を建立し、守天和尚を招いた。参考文献:『のぼうの城』by和田竜。

町田右衛門佐【まちだうえもんのすけ(15??~1597)】

北条氏邦家臣。1597年、加賀国金沢で病没した北条氏邦の遺髪を鉢形城下で埋葬し、自らも殉死した。

松田大隅守【まつだおおすものかみ(15??~15??)】

北条氏照家臣。箕輪衆。1587年、「金山城の戦い」で由良国繁が佐竹義重に内応して北条氏直に謀反を越すと、星名小隼人とともに金山城を攻撃した。

松村飛騨守【まつむらひだのかみ(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。1567年、上杉憲勝は長尾景虎の侵攻に備えるため、丹良塚対馬守、竹井右近、中村拾左衛門、松村飛騨守、三ヶ尻丹後守、大谷舎人、田中豊前守らとともに上野国中山城に派遣した。

松野助信【まつのすけのぶ(15??~15??)】

太田資正家臣。足立郡松野館主。

松野助正【まつのすけまさ(15??~15??)】

松野助信の男。松平元康に仕え足立郡御倉で200貫を領した。

間宮信元【まみやのぶもと(15??~15??)】

久良岐郡笹本城主。扇谷上杉朝良家臣。間宮信盛の男。官途は豊前守。相模衆十四家の筆頭。1510年、「権現山の戦い」で扇谷上杉朝良から離反して伊勢盛時勢に属した。上田政盛とともに権現山城に籠城して戦功を挙げた。笹下城、杉田館、森館、氷取沢館、松本城、青砥山城などを構え里見義堯の海賊衆から鎌倉や蒔田城を守備した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮信常【まみやのぶつね(15??~1546)】

北条氏綱家臣。別名間宮信次。1546年、里見義豊と戦い、植松筑前守を討ち船十四艘を奪うが討死した。

間宮康俊【まみややすとし(1518~1590)】

間宮信元の男。官途は豊前守。玉縄北条綱成に仕え相模国小雀91貫213文を領した。1532年、鶴岡八幡宮の造営奉行衆を務めた。伊豆衆海賊衆を統括し江戸湾の監視警備も担当して698貫を領した。1590年、「山中城の戦い」では、松田康長を支援するため援軍として赴き、一柳直末を討取るなど奮戦した。衆寡敵せず、「白髪頸を敵に供するのは恥」と墨汁で髪を染め、敵中に突撃して討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮康次【まみややすつぐ(15??~15??)】

間宮康俊の男。官途は武兵衛。武田晴信は海賊衆の必要性を感じ、志摩海賊衆の小浜景隆(安宅船一艘、小舟十五艘)、向井正綱(船五艘)、今川家海賊衆の伊丹康直(船五艘)、伊豆海賊衆から間宮康次(船十艘)、間宮信高(船五艘)兄弟らを招聘して、土屋貞綱(船十二艘、寄騎衆五十騎)を武田家海賊衆の大将に据え武田家海賊衆を編成した。1580年、武田勝頼が駿河国浮島ヶ原に参陣すると、北条氏政も三島に兵を進めた。武田家海賊衆と北条家海賊衆は、伊豆国重須沖に戦ったが、両軍とも大した戦果の挙げられずに終わった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮康信【まみややすのぶ(1519~1582)】

間宮康俊の次男。官途は式部少輔。武蔵国、相模国内で698貫を領した。1582年、北条氏勝とともに武田勝頼に属した笠原政堯と戦った。「天正壬午の乱」では、甲斐国が松平元康と北条直の間で争奪戦となった。新府城に本陣を置いた松平元康に対し、北条氏直は若神子城に本陣を置き、備えとして御坂峠に御坂城を築いた。北条氏直は、松平元康勢を若神子の本隊と御坂城の北条氏光らの別働隊で挟撃しようとしたが、別働隊は鳥居元忠勢との戦いで敗退し、間宮康信、田中吉利、中野友宗、内藤大和守らが討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮信高【まみややすたか(15??~15??)】

間宮康俊の四男。官途は造酒丞。武田晴信は海賊衆の必要性を感じ、志摩海賊衆の小浜景隆(安宅船一艘、小舟十五艘)、向井正綱(船五艘)、今川家海賊衆の伊丹康直(船五艘)、伊豆海賊衆から間宮康次(船十艘)、間宮信高(船五艘)兄弟らを招聘して、土屋貞綱(船十二艘、寄騎衆五十騎)を武田家海賊衆の大将に据え武田家海賊衆を編成した。1580年、武田勝頼は駿河浮島ヶ原に出陣すると、北条氏政も三島に兵を進めた。武田家海賊衆と北条家海賊衆は、伊豆国重須沖に戦ったが、両軍とも大した戦果のあげずに終わった。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると、武田家海賊衆は松平家海賊衆に吸収され、城も松平元康の持城となった。間宮信高、小浜景隆、向井正綱らは、武田家海賊衆の編成のまま、土屋貞綱(岡部貞綱)勢に属した。間宮信高(1,200石)、向井正綱(6,000石)、小浜景隆(5,000石)、千賀重親らとともに松平家海賊四人衆に任じられた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮元重【まみやもとしげ(15??~15??)】

間宮康俊の五男。
 
間宮信忠【まみやのぶただ(15??~15??)】

間宮信常の男。通称藤太郎。官途は左衛門尉。北条氏康に仕えた。

間宮信繁【まみやのぶしげ(15??~15??)】

間宮信忠の男。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、松平元康に仕え、鷹匠頭を務め鷹狩に幾度も随行した。1600年、「関ヶ原の役」では、鷹匠衆を率いて毛利秀元の陣所南宮山を偵察する功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮綱信【まみやつなのぶ(1536~1609)】

北条氏照家臣。間宮信元の次男。室は宅間上杉富朝の娘。天正年間、織田信長への使者を務めた。1589年、「小田原の役」後、北条氏直が滅亡すると、松平元康に仕えた。家督を継嗣の間宮重信に譲り、隠居領として500石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮重信【まみやしげのぶ(15??~15??)】

間宮綱信の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮信冬【まみやのぶふゆ(15??~1590)】

間宮信重家臣。1590年、「山中城の戦い」では、間宮信重らとともに籠城するが、羽柴秀吉勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

間宮政光【まみやまさみつ(15??~15??)】

間宮信盛家臣。別名間宮宗甫。参考文献:『横浜の戦国武士たち』by下山治久。

三ヶ尻丹後守【みかじりたんごのかみ(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。1567年、上杉憲勝は長尾景虎の侵攻に備えるため、丹良塚対馬守、竹井右近、中村拾左衛門、松村飛騨守、三ヶ尻丹後守、大谷舎人、田中豊前守らとともに上野国中山城に派遣した。

三戸義宣【みとよしのぶ(15??~15??)】

扇谷上杉朝興家臣。1525年、扇谷上杉朝興の意向を受け越後国の長尾為景に北条氏綱との戦いへの参陣をもとめる使者を務めた。

三戸景道【みとかげみち(1538~1617)】

三戸義宣の男。官途は駿河守。室は太田資頼の娘。1546年、「河越城の戦い」で扇谷上杉朝定が滅亡すると、山内上杉憲政に仕えた。1557年、山内上杉憲政が越後国に落延びると、太田資正を頼った。1563年、「第二次国府台の戦い」後、太田資正が太田氏資に岩槻城を追われると、それに従い佐竹義重のもとに落延びた。太田資正の病没後も佐竹義宣に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後、佐竹義宣が羽後国久保田城に転封になると、土浦城主松平信一に仕えた。

御宿隼人佑【みしゅくはやとのすけ(15??~15??)】

北条氏康家臣。入間郡勝呂館主。小田原衆。入西郡勝呂郷広野で26貫536文を領した。

三田五郎左衛門【みたごろうざえもん(15??~15??)】

太田資正家臣。1562年、「松山城の戦い」で太田下野守とともに精鋭200騎余りを率いて松山城本丸に籠城して武田晴信、北条氏康勢と戦った。

三田政定【みたまささだ(15??~15??)】

多摩郡勝沼城主。三田氏宗の男。官途は弾正少弼。1531年、小田原に滞在して柴屋宗長と交友した。1533年、平山伊賀守、大石定久とともに北条氏綱が求める、鶴岡八幡宮造営の協力を拒否した。

三田綱秀【みたつなひで(1491~1563)】

三田政定の男。官途は弾正少弼。別名三田綱定。1546年、「河越城の戦い」で山内上杉憲政が敗退すると、北条氏康勢に属した。1560年、長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、これに従った。1561年、「小田原城の戦い」後、長尾景虎が帰国すると、関東諸将の多くが再び北条氏康勢に属したが、三田綱秀は北条氏康勢に抵抗し続けた。1563年、「幸垣城の戦い」では、北条氏照勢の攻撃によって落城、太田資正のもとに落延び自刃した。辞世の句は『からかいの南の山の玉手箱、あけてくやしきわが身なりけり』。

三田綱重【みたつなしげ(1525~1563)】

三田綱秀の男。通称十五郎。

三田綱行【みたつないき(1532~1564)】

三田綱秀の次男。通称喜蔵。

三田五郎太郎【みたごろうたろう(1537~1572)】

三田綱秀の三男。伊豆で自刃した。

三戸興義【みともとおきよし(15??~15??)】

扇谷上杉興朝家臣。官途は駿河守。通称四郎。1547年、平柳蔵人祐とともに山内上杉憲政の指南役を務めた。

宮城政業【みやぎまさなり(1495~1589)】

太田資頼家臣。足立郡宮城城主。通称中務。室は宇多重広の娘。1564年、「第二次国府台の戦い」で太田資正が敗れて岩槻城を追われると、北条氏康勢に属した。

宮城為業【みやぎためなり(1533~1588)】

宮城政業の男。官途は美作守。通称四郎兵衛。1565年、太田氏資から武蔵舎人郷、北条氏政から武蔵菅生郷を与えられた。

宮城泰業【みやぎやすなり(1556~1591)】

宮城為業の男。官途は美作守。通称四郎兵衛。大間木、川口などに284貫領した。1590年、「第四次岩槻城の戦い」では、伊達房実とともに籠城したが、羽柴秀吉勢の攻撃を受け降伏した。北条氏康、太田氏房に従って高野山へ入るがまもなく病没した。

宮城正重【みやぎまさしげ(15??~15??)】

宮城泰業の男。1587年、太田氏房の奏者を務めた。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅亡すると、肥前唐津に移るが太田氏房の病没後は浪人した。

向井新左衛門【むかいしんざえもん(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。

毛利丹後守【もうりたんごのかみ(15??~15??)】

入間郡石戸城主。1562年、「石戸城の戦い」では、北条氏邦勢の攻撃を受けたが毛利丹後守の守りにより攻略することができなかった。北条氏邦は夜陰に紛れて石戸城を囲む低湿地に一夜のうちに堤を築いて落城させた。

森田将監【もりたしょうげん(15??~1590)】

浅羽下総守家臣。1590年、「浅羽城の戦い」では、浅羽下総守が小田原城に籠城したため、森田将監が赤羽城を守備した。前田利家、長尾景勝、真田昌幸勢の攻撃を受け討死した。

毛呂顕繁【もろあきしげ(15??~15??)】

入間郡毛呂城。1504年、「立河原の戦い」では、山内上杉顕定勢に属して扇谷上杉朝定勢と戦った。戦後、毛呂顕繁は戦いの戦没者の供養のために念仏鉦をつくった。1520年、北条氏綱が扇谷上杉朝定を逐って江戸城を奪うと、毛呂顕繁は北条氏綱勢に属した。山内上杉憲政は、扇谷上杉朝興とともに毛呂顕繁を攻撃するが、北条氏綱はただちに救援の兵を送り和議を成立させた。

毛呂顕季【もろあきよし(15??~15??)】

毛呂顕繁の男。官途は土佐守。越生の報恩寺、安楽寺、医王寺に保護を加え、毛呂館の近くに長栄寺を開基するなど、在地領主としての立場を強化した。1560年、山内上杉憲政を擁した長尾景虎が関東に侵攻すると、長尾景虎勢に参陣して小田原城を包囲した。

毛呂秋重【もろあきしげ(15??~1590)】

毛呂顕季の男。官途は土佐守。1589年、「小田原の役」では、北条氏直勢に属して
横地監物が守備する八王子城に籠城した。1590年、「八王子城の戦い」では、鉢形城、武州松山城、岩槻城、川越城を落城させた長尾景勝、前田利家、真田昌幸勢の攻撃を受けた。八王子城は2,000余りで抵抗したが、毛呂顕綱、毛呂義可、毛呂義忠ら一族とともに討死した。

毛呂秋綱【もろあきつな(15??~15??)】

毛呂顕季の次男。

師岡将景【もろおかまさかげ(15??~15??)】

北条氏照家臣。多摩郡師岡城主。官途は山城守。1569年、「滝山城の戦い」では、二の曲輪を守備した。武田勝頼と一騎打ちになったが、武田勝頼が優勢のうちに引き分けに終わった。

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【や】

八木橋大膳【やぎはしだいぜん(15??~15??)】

太田資正家臣。足立郡深作館主。

柳備後守【やなぎびんごのかみ(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。

矢野右馬充【やのうまのじょう(15??~15??)】

深谷上杉憲勝家臣。

山口平之進【やまぐちへいのしん(15??~1655)】

医師で切支丹。別名「寿庵」。慶長年間渡瀬村に来住し児玉郡に善明寺を建立した。1655年、切支丹であることが発覚して二人の息子ととも処刑され、善明寺も取り壊された。

山口平六【やまぐちへいろく(15??~15??)】

北条氏康家臣。他国衆。入間郡山口で40貫を領した。

山口総五郎【やまぐちそうごろう(15??~15??)】

北条氏邦家臣。1569年、「三山谷の戦い」では、多比良将監、出浦左馬助、斎藤右衛門尉、朝見伊勢守らととも北条氏邦に従い武田晴信勢と戦った。

山崎弥三郎【やまざきやさぶろう(15??~15??)】

北条氏政家臣。1582年、「神流川の戦い」で戦功を挙げ、秩父郡野上で21貫350文を領した。

山崎若狭守【やまざきわかさのかみ(15??~15??)】

上田朝直家臣。1572年、普請奉行を務め羽尾城を築城した。1575年、羽尾城主に任じられた。1590年、「羽尾城の戦い」では、前田利家勢の攻撃を受け落城した。

山下治部少輔【やましたじぶしょうゆ(15??~15??)】

北条氏康家臣。江戸衆。高麗郡大谷沢で19貫400文を領した。

山田直義【やまだなおよし(15??~15??)】

上田朝直家臣。青島城主。官途は伊賀守。

山田直定【やまだなおさだ(15??~1562)】

山田直義の男。1562年、「赤浜原の戦い」では、上田朝直に従い参陣したが、太田資正勢と戦い討死した。

山田直安【やまだなおやす(15??~1600)】

山田直義の次男。官途は伊賀守。兄山田直定の討死後、山田家の家督を相続した。1590年、「松山城の戦い」では、松山城代を務め、前田利家、長尾景勝、真田昌幸勢と戦うが落城した。上田家が没落すると、松平元康に仕えて300石を領した。

山中右馬允【やまなかうまのすけ(15??~15??)】
 
武田晴信家臣。秩父郡栃本の関所を守備した。

山中孫七郎【やまなかまごしちろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。河越衆。川越三十三郷伊佐沼で434貫537文を領した。

山中頼元【やまなかよりもと(15??~15??)】

北条氏照家臣。官途は大炊助。室は北条氏照の娘。北条氏照は娘に化粧田として下溝村、上溝村を与えた。この婚儀により、北条氏照の家臣井上図書、井上三郎左衛門が下溝村に転封した。

山中頼次【やまなかよりつぐ(15??~15??)】

北条氏康家臣。官途は内匠助。川越衆。川越寺井、的場で315貫740文を領した。

矢那瀬大学【やなせだいがく(15??~1589)】

北条氏邦家臣。1589年、「虎ヶ岡城の戦い」で100余りの寡兵で虎ヶ岡城を守備したが、真田昌幸勢の攻撃を受け落城した。

山内豊前守【やまうちぶぜんのかみ(15??~15??)】

足立郡中釘館主。

矢部新右衛門【やべしんざえもん(15??~15??)】

太田資正家臣。鴻巣七騎衆。

横瀬時親【よこせときちか(15??~15??)】

秩父郡横瀬館主。

横地忠春【よこちただはる(15??~15??)】

北条氏邦家臣。児玉郡雉ヶ丘城代。通称左近将監。別名横井景信。1580年、北条氏邦は武蔵国栗崎、五十子、仁手、今井、宮古鳥、金窪などへの塩輸出を禁じた。1590年、「雉ヶ丘城の戦い」では、前田利家勢が武蔵国に侵攻すると、横地忠春と城兵たちは、恐れをなして雉岡城を放棄し鉢形城に撤退した。

吉岡将監【よしおかしょうげん(15??~15??)】

足立郡殿山城主。

吉田勘解由【よしだかげゆ(15??~15??)】

北条氏康家臣。玉縄衆。松山本郷で500貫を領した。

吉田真重【よしだまさしげ(15??~15??)】

猪俣邦憲家臣。吉田政重の男。児玉郡小島郷100貫を領した。

吉村助五郎【よしむらすけごろう(15??~15??)】

北条氏康家臣。松山衆。吉見郡久米田で53貫を領した。

依田大膳亮【よだだいぜんのすけ(15??~15??)】

北条氏邦家臣。1562年、「石戸城の戦い」で戦功を挙げ北条氏邦から石戸城代に任じられた。

霊照院【れいしょういん(15??~1588)】

山中頼元の室。北条氏照の娘。

脇本利助【わきもととしすけ(15??~15??)】

本庄泰展家臣。1590年、「忍城の戦い」では、本庄泰展の意向を受け、坂本兵衛とともに石田三成勢の築いた堤防を破壊する功を挙げた。

和田左京亮【わださきょうのじょう(15??~15??)】

三田綱秀家臣。1563年、「幸垣城の戦い」で三田綱秀が滅亡すると、北条氏照に仕えた。1564年、北条氏照の意向を受け清戸館に在番した。
 
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【資料Ⅰ】

武蔵国(22郡/690,000石)

久良岐郡:獅子ヶ谷城。 
橘樹郡:小机城。
都筑郡:茅ヶ崎城。
荏原郡:世田谷城。
豊嶋郡:江戸城。
葛飾郡:葛西城。  
多摩郡:八王子城、滝山城、片倉城、三田城。
足立郡:宮城城、石戸城、蕨城。
新座郡:岡の城、吹上城。
埼玉郡:忍城、岩槻城、騎西城、羽生城。
横見郡:武蔵松山城。
大里郡:別府城。  
入間郡:河越城、難波田城、滝の城。
高麗郡:阿須城。  
比企郡:杉山城、小倉城、腰越城、青鳥城。
秩父郡:天神山城、千馬山城。
男衾郡:鉢形城、菅谷城。
榛沢郡:花園城。  
幡羅郡:深谷城。
加美郡:上里城。  
児玉郡:雉岡城、本庄城。
那珂郡:猪俣城。  

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【資料Ⅱ】

扇谷上杉家四天王【おおぎやうえすぎけしてんのう】

太田資正、三戸景道、荻谷加賀、上田朝直。

深谷上杉家四天王【ふかやうえすぎけしてんのう】

岡谷清英、秋元景朝、井草左衛門尉、上原出羽守。

吉良家四天王【きらけしてんのう】

関加賀守、大場越後守、宇田川杢頭、白井但馬守。

鴻巣七騎衆【こうのすしちきしゅう】

小池久宗、立川石見守、河野和泉守、矢部新右衛門、深井景吉、大島亮久、加藤宗安、本木某。太田資正に仕えた鴻巣周辺の家臣団。

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【資料Ⅲ】

武蔵国【むさしのくに】

関東平野の大部分を占める大国。東は江戸川が下総国との境を作り、東北では狭い範囲で下野国と境を接する。北は上野国と利根川を境として接し、西北では甲武信岳が信濃国との境を作る。西は秩父山地と関東山地の山岳地帯が甲斐国との境界となり、西南では多摩丘陵で相模国と接する。東部の平野部と西部の山岳地帯からなるが、広い関東平野を持つだけに古代から農耕、牧畜が盛んであり、平安時代には多くの荘園が権門勢家の私有となった。それにともない、在地武士団勢力も伸張し、平安末期から室町時代にかけては、横山党、猪俣党、児玉党、丹党、西党、私市党、村山党ら武蔵七党と呼ばれる同族的武士団が割拠した。平安末期には、平家の知行国として坂東平平氏のひとつ秩父家が大きな勢力を持ったが、鎌倉幕府成立後は源頼朝の支配下にはった。

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戦国人名辞典は1500~1630年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

出展図書は参考文献とて示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、歴史誤認、ミス等は許してください。

武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、北条早雲は伊勢盛時、太田道灌は太田資長、北条秀氏は長尾三郎景虎で統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』新人物往来社、『戦国房総人名事典』by崙書房出版、『戦国人名事典』by吉川弘文館、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『武田信玄、上杉謙信、北条氏康(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、『横浜の戦国武士たち』by下山治久、『武田信玄(全4巻)』by(新田次郎)文春文庫、『武田勝頼(全3巻)』by(新田次郎)文春文庫、「武田信玄(全3巻)」by(津田陽)講談社、『甲州武田家臣団』by新人物往来社、『中世武蔵人物列伝』byさいたま出版会、『戦国最強上杉武将伝』byPHP文庫、『上杉三郎景虎』光文社、『天と地と(全3巻)』by文春文庫、『謀将直江兼継(全2巻)』角川文庫、『上杉謙信』byPHP文庫、『北条氏照』byPHP文庫。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2012年4月3日火曜日

戦国讃岐国人名辞典


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【あ】

秋山主水【あきやまもんど(15??~1578)】

財田常久家臣。1578年、長宗我部家臣横山源兵衛に財田常久が討たれると、横山源兵衛を討ち取り、財田常久の首を取り戻した。直後に横山源兵衛の嫡男横山源三郎に討ち取られた。

秋山重正【あきやましげまさ(15??~15??)】

小野城主。通称文左衛門。

朝比奈弥太郎【あさひなやたろう(15??~1558)】

甲山城主。香川家臣。家中きっての勇士。1558年、三好義賢が香川家を攻めた際、甲山南麓において寄せ手の三好勢を190余りを討取った後に討死した。

朝日奈五郎【あさひなごろう(15??~15??)】

甲斐股城主。1575年、武田家の長篠敗北後、讃岐国に落ちてきた武田家臣。内場城主藤沢新太夫重弘に保護され、この地に住まった。藤沢重弘は自分の娘を朝日信能に嫁がせ、甲斐股の地を与えて厚遇した。藤沢重弘の嫡男が幼少で家督を継いだため、補佐のためにここを出て内場城に移った。

朝日信能【あさひのぶよし(15??~15??)】

朝日奈五郎の男。官途は伊豆守。通称八郎。

安達常清【あだちつねきよ(15??~15??)】

七郎岡城主。通称七郎。

新居河内守【あらいかわちのかみ(15??~15??)】

宮尾城主。香西家臣。

新居権守【あらいごんのかみ(15??~1582)】

香西家臣。通称杢郎左衛門。1582年「伊勢馬場の戦い」で先鋒を務め討死した。

新目弾正【あらめだんじょう(15??~15??)】

多度郡新目城主。1578年、藤目城で長宗我部勢と戦い討死にした。

安西忠澄【あんざいただずみ(15??~15??)】

三条城主。官途は左近。

安西忠喜【あんざいただよし(15??~15??)】

安西忠澄の男。通称与八郎。生駒親正に仕え200石を領した。

医王寺玄徳【いおうじげんとく(15??~1583)】

医王寺の住職。1583年、長宗我部勢が小田方面に侵攻してくると、住民は豪勇で知られていた玄徳を頼って医王寺に避難した。荒らし回る長宗我部兵を見かねた玄徳は鉄棒を振り回し阻止しようとしたが討死にした。その後、長宗我部兵は医王寺に火を放ち全焼させた。

飯尾国盛【いいおくにもり(15??~15??)】

多度郡丸山城主。三好家臣。通称太六兵衛。1578年、長宗我部元親の侵攻により讃岐に来て城に拠った。1585年、羽柴秀吉の「四国征伐」の時に廃城となった。

飯田右衛門督【いいださえもんのじょう(15??~15??)】

飯田城主。飯田備前守の男。香西家臣。1508年、飯田右衛門督が香西家に従い「三谷城の戦い」に参陣した。1582年「伊勢馬場の戦い」で先鋒を務めた。「四国征伐」で香西勢が西長尾城に撤退するかどうかの軍議に参加し、撤退後は香西佳清の家族らの世話をしている。

飯田伝右衛門【いいだせんざえもん(15??~15??)】

飯田右衛門督の男。1582年、長宗我部勢の香西城攻めに抵抗した。1587年、生駒親正に200石で仕えた。

飯沼近直【いいまちかなお(15??~15??)】

飯沼城主。香西家臣。通称惣太夫。

飯沼常政【いいぬまつねまさ(15??~15??)】

飯沼近直の男。通称五郎兵衛。1578年、十河存保に従って阿波重清城の救援に向かった際、長宗我部勢相手に戦功を挙げ十河存保から感状を賜う。1582年「伊勢馬場の戦い」で足を被弾し不具となったため武士を辞めて出家した。

池田景光【いけだかげみつ(15??~15??)】

池田城主。官途は遠江守。植田家枝連衆。

池内孝晴【いけうちたかはる(15??~15??)】

池内城主。十河家臣。通称主殿助。1582年、長宗我部元親が十河城を攻撃すると、十河存保に味方して奮闘した。

尾池光永【いけおみつなが(15??~15??)】

横井城主。通称玄蕃。1565年、足利義輝が謀殺されるとその室は讃岐国へ落延び、尾池光永を頼った。彼女は足利義輝の子を妊娠しており、男児を出産した。子は尾池光永の養子として迎えられ尾池保衡と称し、横井城主を継いだ。

尾池保衡【いけおやすのり(15??~15??)】

足利義輝の男。尾池光永の養子。1587年、生駒親正が讃岐国を領するとこれに仕えた。

尾池義長【いけおよしなが(15??~15??)】

尾池保衡の三男。通称玄蕃。鵜足郡土器村に所領を与えられ、この城を築城した。その後所領を失うが、池尾義高の代に高松城主松平頼重に仕官した。

尾池家臣団【おいけかしんだん】

吉光城主:尾越常陸介俊光。

石井弾正忠【いしいだんじょうちゅう(15??~15??)】

多度郡愛宕山城主。

石井将監【いしいじょうげん(15??~15??)】

多度郡榎井城主。

泉房五郎左衛門【いずみふさごろうざえもん(15??~1582)】

香西家臣。1582年「西光寺表の戦い」で天神郭を守備した。敵兵を多数討ち取った後、討死した。

井戸信親【いどのぶちか(15??~15??)】

井戸城主。官途は紀伊守。通称八郎。

今滝五郎左衛門【いまたきごろうざえもん(15??~15??)】

上村城主。羽床家臣。

犬養六郎【いぬかいろくろう(15??~15??)】

太田城主。香西家臣。1508年、香西元定が三谷景久の三谷城を攻撃した際に参陣した。

入江四郎左衛門【いりえしろざえもん(15??~15??)】

塩飽海賊衆。1600年、宮本道意と共に小浜景隆に出仕した。

岩崎修理介【いわさきしゅりのすけ(15??~15??)】

大麻城主。

岩部祐信【いわべすけのぶ(15??~1579)】

東谷城主。官途は対馬守。1579年、長宗我部元親勢に襲われ敗死した。

植田安信【うえだやすのぶ(15??~15??)】

山田郡戸田城主。官途は美濃守。東西両植田、菅沢、朝倉を領した。長宗我部勢が讃岐国へ侵攻すると落城した。

植田景保【うえだかげやす(15??~15??)】

植田安信の男。通称三郎。

植松資正【うえまつすけまさ(15??~1578)】

香西家臣。香西家中の家督問題で、香西佳清を支持した。1578年、香西清長に謀殺された。一族郎党は報復のため香西清長の作山城を攻め、香西清長は備前国中島に追放された。

植松往正【うえまつひさゆき(15??~15??)】

植松資正の男。通称加藤兵衛。別名香西往正。香西佳清の信頼厚く、香西佳清の陣代として讃岐国、阿波国、備前国を転戦した。香西佳清が香川親和に降伏した後は「十河城の戦い」に参陣した。「四国征伐」では香西佳清の継室を警護した。香西佳清の下野に従い、終身他家へ仕官しなかった。

植松資久【うえまつすけひさ(15??~1584)】

植松資正の三男。官途は帯刀。通称久助。「成就院事件」の際、十河存保への使いとして阿波国にいたが、植松資正が斬られたとの報を聞くと直ちに戻り、香西清長の籠もる作山城を囲んだ。1582年「伊勢馬場の戦い」で戦功を挙げた。香西佳清が香川親和に降伏した後は「十河城の戦い」に参陣した。

植松往由【うえまつひさゆき(15??~15??)】

植松資正の五男。通称彦太夫。1582年「伊勢馬場の戦い」で股に被弾するが無事に帰陣している。「四国征伐」で香西佳清が西長尾城に撤退するかどうかの軍議に参加した。撤退時には香西佳清一行を警護した。香西佳清の下野に従い、植松往正と共に世話をしている。

植松資安【うえまつすけやす(1567~15??)】

植松資久の男。通称左衛門。長宗我部勢の「十河城の戦い」に参陣し戦功を挙げた。「引田の戦い」でも戦功を挙げた。「四国征伐」で香西佳清一行が西長尾城に撤退する際、増水した瀧宮川に渡り綱を通し、香西佳清の供回りを全員無事に渡河させた。「四国征伐」後は出家し他家に仕えなかった。

植松緑之助【うえまつろくのすけ(15??~1582)】

壇紙城主。通称緑之助。植松往正の従兄弟。1582年「伊勢馬場の戦い」で討死した。

遠藤直光【えんどうなおみつ(15??~15??)】

遠藤城主。通称喜太郎。

大熊丹後守【おおくまたんごのかみ(15??~15??)】

大熊城主。十河家臣。

大熊備前守【おおくまびぜのかみ(15??~15??)】

大熊丹後守の男。

大河内吉隆【おおこうちよしたか(15??~15??)】

大河内城主。通称十郎左衛門。

大谷川元国【おおたにがわもとくに(15??~15??)】

多度郡大谷川城主。通称左近兵衛。1573年、大谷川元国は、長宗我部元親に降った。

大平国祐【おおひらくにすけ(1538~1603)】

獅子の鼻城主。大平国雅の男。官途は伊賀守。室は香川元景の娘(妙通姫)。1562年、土佐国吾川郡弘岡城主であった、大平国祐は長宗我部元親に破れ、天霧城主香川家を頼り落延びた。武勇に優れた人物であったため国境を任された。1578年、長宗我部元親の兵が攻め入り、り籠城し奮戦するも落城した。大平国祐は敵中を突破し落延びた。1585年、羽柴秀吉の「四国討伐」後、仙石秀久に仕えた。1586年「九州討伐」で、仙石秀久に従うも大敗し嫡男大平国常が討死にした。

大平主膳【おおひらじゅぜん(1561~15??)】

大平国祐の男。1578年「阿波重清城の戦い」で討死した。

大平国常【おおひらくにつね(1569~1586)】

大平国祐の次男。15864年「戸次川の戦い」で、大平国祐家臣 加地又五郎、合田助十郎とともに討死した。

大西長頼【おおにしながより(15??~15??)】

多度郡麻口城主。官途は左馬守。

大見景則【おおみかげのり(15??~15??)】

多度郡大見城主。香西家資の次男。通称六郎。大見景則は香西家の内紛により、詫間家の元へ身を寄せて、成長してから城主となった。

岡田清高【おかだきよたか(15??~15??)】

笑原城主。香西家臣。官途は丹後守。

岡大安国【おかだいやすくに(15??~15??)】

若狭城主。通称内蔵尉。

岡野伊賀守【おかのいがのかみ(15??~15??)】

中林城主。三谷家臣。

岡宗詮【おかむねあき(15??~15??)】

行業城主。1585年、羽柴秀吉に所領を没収された。1588年、生駒親正に仕えた。

小川布伯【おがわすおう(15??~15??)】

多度郡佐文城主。

小野景光【おのかげみつ(15??~15??)】

河辺城主。通称権左衛門。

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【か】

香川元景【かがわもとかげ(15??~15??)】

多度郡天霧城主。細川京兆家臣。西讃岐守護代。香川家は東讃の安富家と並び、代々讃岐国守護代を務めつつ在国、在京の二家に分れ畿内の抗争にも奔走。京兆家の政務執行を補佐する役目にあった在京香川家は京兆内衆として年寄衆、管領伴衆、管領内意見人などを歴任。「応仁の乱」で香川元明が戦死したことにより香川惣領家が断絶。その後在国香川家が宗家となった。「明応の政変」によって細川政元が幕府の実権を掌握するも京兆家の家督争い、家臣団の分裂により内乱が激化した。1507年、細川政元の近侍であった父香川満景が畿内で討死し、香川元景が香川家惣領家を継ぐことになる。

香川之景【かがわゆきかげ(1527~1578)】

香川元景の男。官途は刑部大輔。通称五郎次郎。別名香川信景。西讃岐を支配した有力国人衆。織田信長と毛利輝元の支援を受けて三好長治と戦い讃岐西部の支配を固めた。後に長宗我部元親と同盟して、長宗我部元親の「讃岐国侵攻」「伊予国侵攻」で重要な役割を果たした。1563年、香川之景は本拠の天霧城を阿波三好家に攻められて敗走。西讃岐は三好長治の支配地域になった。1573年、讃岐国を統治していた篠原長房が三好長治に滅ぼされ三好家の支配権が大きく揺らいだ。三好家は讃岐国での勢力回復を図って香川之景や香西元載ら讃岐の反三好方国人衆を攻撃したが撃退した。香川之景は長宗我部元親の次男長宗我部親和を娘の婿として迎え入れることで長宗我部家と同盟した。香川之景は三野菊右衛門ら家老を人質として土佐国へ送るとともに自身も岡豊城に赴いて長宗我部元親の盛大な饗応を受けた。香川之景は西衆(東伊予と西讃岐の軍勢)を率いる香川親和を後見する立場となった。1585年、羽柴秀吉の「四国征伐」を受けて長宗我部元親が降伏した。香川信景は香川親和とともに天霧城を退去して、土佐国に転封した。

香川景全【かがわかげはる(15??~15??)】

香川元景の次男。高丸城主。別名観音寺又五郎。「善通寺の戦い」に参陣した。長宗我部元親の讃岐侵攻の際に家老である香川備前守の言を容れ、香川之景に和議を進言した。1585年、羽柴秀吉の「四国征伐」の後は消息不明。

香川山城守【かがわやましろのかみ(15??~15??)】

香川家臣。1573年、香川之景は香川山城守、河田七郎兵衛を陣代とする香川勢1,000余りに香西元載勢500余を加え、長宗我部元親に奪われた大西を奪回するため出陣させたが敗北した。1579年、香川之景は長宗我部元親から養子を迎えた代わりに香川山城守、河田七郎兵衛、河田弥太郎、三野菊右衛門ら四人の家老の内二人づつ交代で、岡豊城に人質を送った。

香川民部少輔【かがわみんぶしょうゆ(15??~15??)】

西庄城主。1578年、羽床資載に攻撃されるが、小早川隆景の援軍により撃退した。1579年、長宗我部元親の降伏勧告を拒否した香川民部少輔は備後国三原へ落延びた。

香川右馬之助【かがわうまのすけ(15??~15??)】

三豊郡高野城主。

香川伊賀守【かがわいがのかみ(15??~15??)】

磨臼山城主。

香川家臣団【かがわけかしんだん】

香川山城守、三野菊右衛門、河田七郎兵衛、河田弥太郎。

片山俊秀【かたやまとしひで(15??~1585)】

片山城主。香西家臣。官途は志摩守。通称玄蕃。紀伊熊野の住人首藤玄蕃の男。香西元定に従って讃岐国に渡り片山城主となる。片山俊秀は香西家に仕え幾度も戦功があった。1582年、香川親和が香西領内に攻め込んできた際、中須賀、平賀などを守備した。「十河城の戦い」に参陣した。1585年「四国征伐」で喜岡城救援に向かい討死した。

片山勝永【かたやまかつなが(15??~15??)】

片山俊秀の男。通称九朗右衛門。生駒家に仕えた。

片山武俊【かたやまたけとし(15??~15??)】

片山俊秀次男。通称六右衛門。

片山勝秀【かたやまかつひで(15??~15??)】

片山俊秀の三男。通称興三兵衛。長兄片山勝永の跡を受け生駒家に仕官した。のち、奥州白河で本多能登守に仕官した。

勝浦権右衛門【かつうらごんざえもん(15??~15??)】

多度郡勝浦城主。

金倉顕忠【かねくらあきただ(15??~1575)】

金倉城主。奈良家臣。三好義賢と交流があり、彼の仲介を受けて奈良家に仕えていた。横暴な振る舞いがあり、香川信景に敵対した。1575年、香川勢の攻撃を受ける。香西家、羽床家らも香川信景に味方し、金倉顕忠は敗北して討死した。

鎌野武恒【かまのたけつね(15??~15??)】

鎌野城主。三谷家臣。通称源太夫。

神内景之【かみうちかげゆき(15??~15??)】

神内城主。通称右京進。植田家枝連衆。十河家、三谷家と並び「三家」と称された。神内景之は香西家の領地と近いため度々争った。

神内清定【かみうちきよさだ(15??~1597)】

神内景之の男。官途は越前守。神内清定は十河存保に属し長宗我部元親に抵抗したが、十河落城により領地を失った。

神内源次【かみうちげんじ(15??~15??)】

鴨部城主。1532年、兄神内左衛門は寒川家、弟神内源次は十河家に仕えた。十河一存は弟を兄の元に「兄弟争うは軍律に凶」として帰した。最後、この兄弟は寒川勢に属して十河家勢と戦い討死した。

鴨部源次【かもべがんじ(15??~1532)】

十河一存家臣。兄鴨部神内左衛門は寒川家に仕えた。1521年、十河家と寒川家が争うと、十河一存は兄弟が敵味方に別れることはないとして、源次を兄の下へ送った。この戦いで兄弟は討死した。

唐渡宗正【からわたりむねまさ(15??~1585)】

上ノ村城主。香西家臣。官途は弾正忠。唐渡家は上香西元継が讃岐国に戻り、唐渡姓を称して下香西家に仕えた。1582年、香川親和が香西領内に攻め込んできた際、中須賀、平賀などを守備した。香川親和に従って「十河城の戦い」に参陣した。「四国征伐」で片山俊秀と共に喜岡城を守るが討死した。

河田弥太郎【かわだよたろう(15??~15??)】

香川家臣。1579年、香川之景は長宗我部元親から養子を迎えた代わりに香川山城守、河田七郎兵衛、河田弥太郎、三野菊右衛門ら四人の家老の内二人づつ交代で、岡豊城に人質を送った。

河田七郎兵衛【かわだしちろうえもん(15??~15??)】

香川家臣。1573年、香川之景は香川山城守、河田七郎兵衛を陣代とする香川勢1,000余りに香西勢500余を加え、長宗我部元親に奪われた大西を奪回するため出陣させたが敗北した。1579年、香川之景は長宗我部元親から養子を迎えた代わりに香川山城守、河田七郎兵衛、河田弥太郎、三野菊右衛門ら四人の家老の内二人づつ交代で、岡豊城に人質を送った。1596年、河田七郎兵衛は生駒親正に仕え3,000石を領した。

河辺民部【かわべみんぶ(15??~15??)】

中田井城。香西家臣。通称民部。先祖は平清盛に仕え、福原京建設の際、一族の青年が人柱となったおかげで領地を与えられた。1582年「西光寺の戦い」で先鋒を務めた。「四国征伐」後、領地安堵を訴えたが認められなかった。

行司貞房【ぎょうじさだふさ(15??~15??)】

仲村城主。

川田景信【かわだかげのぶ(15??~15??)】

内場城主。官途は信濃守。長宗我部元親の攻撃を受けると、川田景信はこの城で防戦に努めたが落城した。

串田秀直【くしだひでなお(15??~15??)】

串田城主。官途は山城守。串田家は木曾義仲の子孫。

串田義直【くしだよしなお(15??~15??)】

串田秀直の男

串田直実【くしだなおざね(15??~15??)】

串田義直の男官途は紀伊守。1583年、長宗我部元親の攻撃により落城した。

久利長門守【くりながとのかみ(15??~1579)】

北岡城主。香西家臣。久利家は菅原道真に仕えた秦久利の後裔。長宗我部勢の「十河城の戦い」に参陣した。1579年、長宗我部元親が西長尾城を攻めた際に討死した。

久利三郎四郎【くりさぶろうしろう(15??~1582)】

久利長門守の男。通称三郎四郎。1582年、長宗我部元親が香西家を攻撃した際には、久利三郎四郎は香西勢の先鋒を努め「伊勢馬場の戦い」で奮戦したが討死した。

香西元定【こうざえいもとさだ(15??~15??)】

勝賀城主。官途は豊前守。1508年、兵2,500余り率いて山田郡に攻め込む。しかし、三谷城主三谷景久の応戦により撤退した。1519年「大友家征伐」に参陣した。1531年、朝鮮に商船三艘を派遣した。こうした対外貿易で経済基盤を固めた。
 
香西元成【こうざいもとなり(1518~1560)】

香西元定の男。官途は越後守。細川家の忠実な家臣で、内藤家や摂津三宅家と共に軍勢を率い戦功を挙げた。阿波三好家の讃岐攻めに際し、外交手腕を持って所領を維持した。「江口の戦い」においては三好政長を救援して三好長慶と戦ったが、三好政長は敗死し、細川晴元も三好長慶に追われた。その後も三好長慶に徹底して対立した。1560年、三好長慶との戦いで討死した。

香西元載【こうざいもととし(15??~15??)】

香西元成の男。細川家内衆。細川家四天王のひとり。1562年、三好義興に従い「河内教興寺の戦い」に出陣した。畠山高政との合戦に軍功。

香西長信【こうざいながのぶ(15??~1575)】

香西元成の次男。官途は越後守。織田軍と「勝軍山城の攻防戦」。「野田、福島の合戦」に三好政勝とともに織田方に転じる。のち織田家から離反し高屋城主三好康長と結ぶ。和泉国新堀城籠城。捕虜となり斬首された。

香西佳清【こうざいよしきよ(1553~1588)】

藤尾城主。香西元載の男。官途は伊賀守。室は羽床資載の娘。若くして失明した。1578年、室と離縁、これにより、羽床家に攻められる。十河家に仕えていたが、十河存保が織田信長に従属したため織田信長の麾下に属した。長宗我部元親による四国平定戦が始まると、長宗我部元親に対抗するために居城をたびたび移すなどしているが、同族の羽床家の内紛などもあって次第に没落の度を強めた。1582年、長宗我部元親の本格的な攻撃を受けて勝賀城が落城寸前に追い込まれたため、臣従するに等しい条件で和睦した。1585年、羽柴秀吉による「四国征伐」が始まると、長宗我部方として戦い、攻め手の小西行長隊に大砲による砲撃で応戦するなど、奮闘したものの敗れた。

香西千虎丸【こうざいちよとらまる(15??~15??)】

香西元載の次男。
 
香西民部少輔【こうざいみんぶしょうゆ(15??~1586)】

西庄城主。1548年、羽床資載に攻められ、小早川隆景に救援を求めた。小早川勢の協力により、羽床勢を撃退。1579年、長宗我部勢に攻められ、備後三原に逃れる。四国征伐により長宗我部氏が撤退すると、再び西庄城主となる。1586年「戸次川の戦い」で討死した。
 
香西清長【こうざいきよなが(15??~15??)】

作山城主。香西家臣。香西清長、香西清正父子は、香西本家の当主に香西佳清ではなくその弟香西千熊丸を据えようとして、香西佳清派の植松資正、新居資教を成就院で謀殺した。1578年、植松一族の報復攻撃に耐え切れず備前国へ退去した。

香西清正【こうざいきよまさ(15??~15??)】

香西清長の男。

香西兵庫守【こうざいひょうごのかみ(15??~15??)】

鬼無城主。

香西資村【こうざいすけむら(15??~15??)】

新居城主。別名新居資村。

香西家臣団【こうざいけかしんだん】

香西大隈守、佐藤志摩守。

後藤資盛【ごとうすけもり(15??~15??)】

後藤城主。羽床家臣。官途は石見守。羽床家七人衆のひとり。

後藤左衛門佐【ごとうさえもんさ(15??~15??)】

奈良家臣。奈良元政を補佐した。1578年、藤目城の奪回の際、城に籠もる長宗我部勢を計略により孤立させ降伏させた。1580年、長宗我部元親が西長尾城から中讃を窺うと、奈良元政は栗熊村に砦を築き後藤左衛門佐に守備させた。

近藤国久【こんどうくにひさ(15??~15??)】

多度郡麻城主。香川家臣。官途は出羽守。獅子の鼻城主大平国祐の弟。1577年、阿波国白地城主大西覚養は長宗我部元親に居城を落とされ、麻城へ落延びた。1578年、長宗我部勢の攻撃を受け、近藤国久は討死にした。 

近藤但馬守【こんどうたじまのかみ(15??~15??)】

神田城主。財田常久家臣。

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【さ】

斎藤頼政【さいとうよりまさ(15??~15??)】

藤ノ目城主。香川家臣。官途は下総守。阿波国池田城と丸亀城を結ぶ要地、藤ノ目城を守備した。長宗我部元親の「讃岐侵攻」により縁者の大西上野介の執成しで孫を人質として降伏した。その後香川家の反撃で城を奪われ藤ノ目城には新目弾正が入城するが、長宗我部元親が再度侵攻し斎藤頼政は城主に復帰した。その後大西上野介と共に香川家攻略に活躍した。1578年、斎藤頼政は長宗我部元親に降伏した。十河存保はこれを聞き、香川信景、奈良勝政、長尾大隅守、羽床伊豆守らに命じて藤目城を討せた。香川信景は従いませんでしたが、他の諸将は多数の兵を率いて藤目城を包囲します。その為城主らは夜に紛れて城を捨て、阿波国白地大西城に落延びた。

斎藤行長【さいとうゆきなが(15??~15??)】

斎藤城主。通称荘兵衛。

財田常久【ざいたつねひさ(15??~15??)】

三野郡本篠城主。香川家臣。官途は和泉守。香川家勇将。1579年、長宗我部元親勢が讃岐国へ侵攻、香川信景の属城である藤目城が落とされた。斉藤頼政は長宗我部勢の軍門に降り、本篠城の財田常久は長宗我部家臣横山源兵衛によって討たれた。

酒部成善【さかべなりよし(15??~15??)】

多度郡大堀館主。

佐藤孫七郎【さとうまごしちろう(15??~1582)】

佐藤道益の男。香西家臣通称孫七郎。勇将として知られていた。1582年「西光寺表の戦い」で討死した。

佐藤佐基【さとうさもと(15??~15??)】

佐藤孫七郎の男。官途は志摩允。生駒親正に仕えた。

佐藤基広【さとうもとひろ(15??~15??)】

佐藤佐基の男。通称彦左衛門。鉄砲組頭として高松藩で1,500石を領した。

佐藤道益【さとうみちます(15??~15??)】

鹿紋胴城(伏石城)主。香西佳清家臣。官途は志摩守。通称彦左衛門。1576年、香西佳清が織田信長と誼を通じた際、使者として上洛した。1582年、香川親和が香西家の領内に攻め込んで来た際に参陣した。香西家の改易後は仙石秀久に仕え「戸次川の戦い」に参陣した。その後、生駒親正に仕えた。

佐藤掃部助【さとうかもんのすけ(15??~15??)】

佐藤道益の次男。通称掃部助。香西家のため各地を転戦した。「四国征伐」で香西軍が西長尾城に撤退するかどうかの会議に参加した。香西家の改易後は仙石秀久に仕え「戸次川の戦い」に参陣した。その後、生駒親正のもとで2,000石を領した。父と共に領内の安定に尽力している。公明正大で民に慕われていたという。

佐野三直【さのさんじき(15??~15??)】

二条城主。安富家臣。通称久兵衛。

寒川元家【さんがわもといえ(15??~15??)】

寒川郡昼寝城主。通称左馬充。寒川家は細川家の被官として寒川郡を領した事から始まる。1512年、寒川元家は中国、朝鮮、琉球と交易を開始し、勘合貿易に参加し利益を得た。引田海賊衆を率いて大内家に味方した。1519年、大友家を討つため、九州に出陣した。1520年、朝鮮攻めに参陣した。

寒川元政【さんがわもとまさ(15??~15??)】

寒川元家の男。官途は丹後守。寒川元政の頃は戦国時代で十河景滋や安富盛方と争った。1523年、安富盛方に攻められるがこれを破った。1526年、十河景滋との戦いで香川家や香西家等の援軍を得て伏兵と挟撃で打ち破り、十河景滋の援軍として駆けつけた三好元長を讃岐国境で撃破した。1532年、十河景滋の養子十河一存に池内城を攻められるが家臣鴨部源次が敵陣を急襲し、十河一存を負傷させた。十河一存は何事もなかったかのように悠々と引き上げたため「鬼十河」の異名を得た。この後、管領細川晴元の仲介で和睦が成立した。1540年、安富盛方との戦いが激化し、寒川元政は居城を池内城から昼寝城に移した。「塩木の戦い」を行うが勝敗がつかず、一進一退を繰り広げた。1562年「教興寺の戦い」において十河一存や安富盛方等と共に三好長慶に属して戦って勝利した。

寒川元隣【さんがわもとちか(15??~1582)】

寒川元政の男。官途は丹後守。父の死後家督を継ぎ、居城を昼寝城から虎丸城に移し、昼寝城には弟光永を入れた。1572年、敵対する安富盛定の策略により、主筋の三好長治に虎丸城を譲渡して昼寝城へ退いた。この後、虎丸城には安富盛定、十河存保が城主となり、1585年(天正13年)に廃城。1582年、十河存保に属して長宗我部元親と戦うが「中富川の戦い」で討死した。

寒川光永【さんがわみつなが(15??~15??)】

池内城主。寒川家臣。通称七郎。

寒川常隣【さんがわつなちか(15??~15??)】

常隣城主。1521年「塩ノ木の戦い」で安富勢を敗った。

寒川光俊【さんがわみつとし(15??~15??)】

昼寝城主。織田信長に臣従。天文年間、長宗我部氏に攻められ、子の俊元と共に討死。

四宮光武【しのみやみつたけ(15??~15??)】

大川郡引田城主。寒川家臣。1504年、四宮右近は信濃より来訪して寒川家に仕えた。阿波国の三好家を牽制した。寒川家はここの引田浦を利用して勘合貿易を行なった。1570年、四宮光武は阿波の三好長治に敗北し、引田城を失陥した。その弟四宮太郎左衛門光利は羽柴家臣仙石秀久に仕え戦功を挙げた。

白鳥玄蕃【しらとりげんば(15??~15??)】

大川郡白鳥城主。1521年、引田城に籠城して三好勢と戦った。

進士隼人佐【しんじはやとのじょう(15??~1582)】

奈良家臣。奈良元政を補佐した。1582年、香川親和が聖通寺城に迫ると、奈良元政と共に阿波勝瑞城に落ち延びた。1582年「中富川の戦い」に参陣し討死した。

新名内膳亮【しんみょうないぜんすけ(15??~15??)】

鷲山城主。羽床家臣。香川家の「西庄城の戦い」に参陣した。1579年、羽床資載が長宗我部元親に降ると、本領安堵を条件に長宗我部家に降伏した。1582年、奈良、香西家攻撃に参陣した。

新名源左衛門【しんみょうげんざえもん(15??~15??)】

柏原城主。

陶茂清【すえもりきよ(15??~15??)】

指月所城主。官途は丹後守。

須佐美太郎左衛門【すさびたろうざえもん(15??~1583)】

小豆郡城山城。1583年、羽柴秀吉に謀殺された。

諏訪又右衛門【すわまたざえもん(15??~15??)】

香西家臣。1582年「西光寺表の戦い」では、長宗我部勢の横合いから鉄砲を撃ちかけ撃退した。

十河景滋【そごうかげしげ(1510~1559)】

山田郡十河城主。十河家は山田郡を支配していた。植田家の庶家。1526年、三好長慶と共に寒川元政攻略を計画するが事前に発覚し、寒川氏に急襲されて敗走する。1530年、嫡子十河金光が早世。三好長慶の台頭と地盤強化のため、三好長慶の末弟一存を養子に迎える。鬼十河と詠われた十河一存の活躍により、十河家の勢力は拡大し、讃岐国の大半を支配した。

十河一存【そごうかずまさ(1532~1561)】

三好元長の四男。十河景滋の養子。官途は左衛門尉。通称又四郎。室は九条稙通の娘。讃岐国十河城主の十河景滋の世子の金光が早世したため、兄三好長慶の命により十河景滋の養子となって十河家の家督を相続した。1549年、父三好元長の仇である三好政長と「摂津江口の戦い」で勝利に貢献した。これにより細川晴元の政権は崩壊し、三好長慶の政権が確立する。1560年、畠山高政との戦いで大勝し、三好長慶から岸和田城主に任じられた。その後も畿内各地を転戦して功を挙げ、兄を軍事的によく補佐した。1561年、有馬温泉にて松永久秀と湯治中に突然死した。実子は三好長慶に引き取られて後にその家督を継いだため、次兄の三好義賢の次男存保が養子となって家督を相続した。

十河存保【そごうまさやす(1554~1587)】

三好義賢の次男。十河一存の養子。官途は河内守。1561年、叔父十河一存が讃岐国十河城主で急死したため、養子となって家督を相続した。三好義賢が織田信長と敵対したとき、十河存保は織田信長と戦ったが、長宗我部元親の勢力圏が阿波、讃岐国に及ぶと、対抗するため織田信長と同盟を図った。1577年、阿波国で実兄の三好長治が長宗我部元親や異父兄の細川真之によって殺された。1578年、勝端城に入城、三好家の勢力挽回に務めた。1582年、織田信長の援助を受けていたこともあって次第に戦況は十河存保の有利となり、細川真之を自刃に追い込んだ。1582年、織田信長が「四国征伐」を計画すると、十河存保はその先鋒として讃岐国や阿波国で奮戦したが「本能寺の変」で織田信長が横死すると、十河存保は後ろ盾を失って勢力が大きく後退し、長宗我部元親との「中富川の戦い」に敗北して阿波国を放棄し、讃岐に撤退した。1584年、十河城や虎丸城なども長宗我部元親によって落城、十河存保は大坂の羽柴秀吉を頼って落ち延びている。1585年、羽柴秀吉の「四国征伐(天正の陣)」に協力し、旧領である十河城30,000石を羽柴秀吉より与えられた。1586年、羽柴秀吉の「九州征伐」で、島津家久との「戸次川の戦い」において討死した。

十河存英【そごうまさひで(15??~1515)】

十河存保の男。通称孫二郎。十河存保が討死すると、十河家は改易されため浪人となった。1515年「大坂の役」では羽柴秀頼方として大坂に入城し「大阪夏の陣」の際に摂津国尼崎で討死した。

十河長康【そごうながやす(15??~15??)】

十河存保の次男。兄千松は早世。官途は豊前守。

十河存純【そごうまさずみ(15??~15??)】

十河存保の男。官途は雅楽頭。弟は村田九兵衛存継で、その子半兵衛重以は太田備中守資宗に仕えた。

十河存之【そごうまさゆき(15??~1586)】

十河一存の庶男。官途は隼人助。十河存保の家老としてこれに仕え、長宗我部元親に抵抗した。1586年「戸次川の戦い」で討死した。

十河孝晴【そごうたかはる(15??~15??)】

池西城主。十河家臣。通称主殿助。香川親和が十河城を攻めた際、十河存之を助け活躍した。

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【た】

高井信昌【たかいのぶまさ(15??~15??)】

高井城主。官途は下総守。

高岡正継【たかおかまさつぐ(15??~15??)】

高岡城主。通称上野介。

高岡宗弼【たかおかむねすけ(15??~15??)】

木田郡長嶺城主。通称左衛門。1587年、尾藤氏に仕え、その後生駒親正に属した。1592年、羽柴秀吉の「朝鮮征伐」の時、讃岐国の生駒親正の配下として従軍して合戦した。このとき若く美しい朝鮮国の官女で大添、小添という名の姉妹を召取り、帰国して羽柴秀吉に献じた。羽柴秀吉はいたく喜んだが、言葉が通じないため色々不便があり、羽柴秀吉より生駒親正へ賜り、生駒親正から宗弼へ預けられた。歳月が流れ姉妹も年老いて亡くなったため、異郷の地で生涯を終えた宿命を哀れみ、高岡一族は姉妹らを手厚く葬った。讃岐の大庄屋山崎四郎左衛門は、高岡氏の後裔であり彼女らの遺品も伝世した。

高木右馬頭【たかぎうまのかみ(15??~15??)】

飯野山城主。

高原左衛門尉【たかはらさえもんのじょう(15??~15??)】

直島城主。1586年「九州征伐」に参陣した。主に船を使っての輸送を担当した。「戸次川の戦い」の敗北後、仙石勢らを乗せて撤退した。島津勢の追撃を防ぎきった。

高原次利【たかはらつぐとし(15??~15??)】

高原左衛門の男。通称久右衛門。羽柴家の「四国征伐」に協力し、讃岐国直島などに計545貫を領した。「九州征伐」には、塩飽海賊衆を率いて参陣した。戦後、讃岐国に300石の加増を約束されていたが「戸次川の戦い」敗北の余波を受けて加増の話は取り消しとなった。「文禄、慶長の役」の折には軍兵輸送の船の調達を行い直島を繁栄させた。

高松頼邑【たかまつよりむら(15??~1585)】

喜岡(高松)城主。香西家臣。通称左馬助。1582年、香西佳清が長宗我部元親に降伏すると高松頼邑も長宗我部元親に属した。1583年、仙石秀久が屋島から喜岡城を攻め際に撃退した。1585年「四国征伐」では宇喜多秀家、仙石秀久ら兵23,000余りに攻められ、城兵200余りと共に玉砕した。

滝宮弥十郎【たきのみや(15??~15??)】

滝宮城主。香西家と羽床資載の間に争乱が起こると、柾木城主滝宮安資が香西家に味方したのに対し、滝宮城主滝宮弥十郎は羽床資載に味方した。1579年、羽床資載が長宗我部元親に降ると、滝宮弥十郎も長宗我部元親に降った。

滝宮安資【たきのみや(15??~1582)】

柾木城主。香西家臣。官途は豊後守。室は羽床資載の娘。滝宮安資は羽床資載の娘を娶るが、羽床家と対立していた香西家と結んでいた。1578年、香西佳清が羽床資載の娘である室を離縁したことから一気に両家が対立、羽床資載の嫡男羽床資治がここを攻めてきたが返り討ちにした。羽床資載に攻められ滝宮家の柾木城は落城した。香西家を頼り落ち延びる。1582年、香川親和が香西領内に攻め込んできた際、守りが手薄となっていた作山城に旗を立てて大軍がいるように見せか撃退した。「伊勢馬場の戦い」で陣代として長宗我部勢を相手に奮戦するも討死した。

多田和泉守【ただいずみのかみ(15??~15??)】

志度城主。安富家臣。1582年、長宗我部元親の攻撃を受けて落城した。

田中道源【たなかどうげん(15??~15??)】

田中城主。

田村親光【たむらちかみつ(15??~15??)】

栗隈城主。長尾大隅守の四男。官途は上野介。1582年、長宗我部元親の侵攻を受けて、本拠の西長尾城が陥落するとこの城も落ちた。

田村時定【たむらときさだ(15??~15??)】

中坪城主。通称左衛門。

造田佐渡守【つくりださどのかみ(15??~15??)】

多度郡造田城主。羽床家臣。羽床家七人衆のひとり。

造田宗俊【つくりだむねとし(15??~15??)】

造田佐渡守の男。官途は備中守。羽床家七人衆のひとり。1579年、造田宗俊の守る造田城が長宗我部元親に攻められ、造田勢は軍勢の差が大きく守りきれず、ほとんどの家来は討死した。造田宗俊は城に火をかけ自刃した。

筑城三郎衛門【つづきまぶろうびょうえ(15??~15??)】

筑城城主。香西家臣。1582年、長宗我部軍が侵攻してくると、これを迎撃した。1585年、香西家が西長尾城へ移る時に謀議に参加した。その後、讃岐の新領主となった生駒親規に200石を領した。

富田光輝【とみたみつてる(15??~15??)】

大井城主。安富家臣。通称左近太夫。

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【な】

中飯田備中守【なかいいだびっちゅうのかみ(15??~1582)】

香西佳清家臣。通称備中守。1582年「伊勢馬場の戦い」で先鋒を務め、流れ弾に当たって討死した。

長尾高勝【ながおたかかつ(15??~1579)】

鵜足郡西長尾城主。官途は大隈守。長尾家は、代々大隅守を称し九代長尾高親まで鵜足郡、那珂郡、阿野郡の南部三郡に勢力を誇った。

長尾高親【ながおたかちか(15??~15??)】

長尾高勝の男。1578年、長宗我部元親は讃岐へ侵攻し、天霧城主香川家を降し、長尾家の西長尾城に迫った。長尾高親は、香川家を通じて降伏勧告を受け入れ長宗我部家に降り、その後の「藤尾城の戦い」「十河城の戦い」の先鋒を勤めた。1585年、羽柴秀吉の「四国侵攻」に敗れた長宗我部元親は土佐国に減じられ、長尾家は下野して居城西長尾城も廃城となった。

長尾左衛門督【ながおさえもんのじょう(15??~15??)】

岡田城主。長尾高勝の三男。

長尾家臣団【ながおけかしんだん】

常兼城主:常兼三郎左衛門、炭所城主:長尾伊勢守。

永塩氏継【ながしおうじつぐ(15??~15??)】

大川郡黒羽城主。官途は因幡守。

中島与兵衛【なかじまよへい(15??~15??)】

与北城主。

中田井民部【なかたいみんぶ(15??~15??)】

中田井城主。

中村氏宗【なかむらうじむね(15??~1557)】

岐田井城主。官途は加賀守。天文年間、美濃国から讃岐国に移住した。1557年、幡羅城主原采女と戦い討死した。
 
中村恒頼【なかむらつねより(15??~15??)】

中村氏宗の男。1580年、火災で居城を失い、新たに八栗城を築城した。1582年、長宗我部勢に攻められる。不利を悟り、中村恒頼は備前国に落延びた。

中村宗貞【なかむらむねさだ(15??~15??)】

中村氏宗の次男。

中村光重【なかむらみつしげ(15??~15??)】

中間城主。通称市正。

奈良元信【ならもとのぶ(15??~15??)】

鵜足郡聖通寺城主。官途は備前守。通称兵衛尉。奈良家は香川、安富、香西家とともに細川家四天王のひとり。宇多津で塩飽海賊衆を有していた。1562年「教興寺の戦い」で、三好方の讃岐国人衆として、寒川元政、安富盛方、六車宗堪、羽床資載、香西元載、由佐長盛らとともに参陣した。

奈良元政【ならもとまさ(15??~1582)】

奈良元信の男。通称孫太郎兵衛。1578年、十河存保に仕えた。長宗我部方となっていた藤目城を長尾大隈守、香川民部少輔、羽床伊豆守らとともに奪還した。1578年、長宗我部元親に奪還され阿波国勝瑞城へと敗走した。1582年「中富川の戦い」に参陣して討死した。

奈良元政【ならもとまさ(15??~1582)】

奈良元信の男。通称孫太郎兵衛。1582年、長宗我部勢12,000余りに攻められ、十河存保を頼り、勝瑞城に落延びた。「中富川の戦い」で討死した。

奈良常右衛門【ならつねざえもん(15??~15??)】

多度郡生間城主。長尾大隈守家臣。

成相信安【なりあいのぶやす(15??~15??)】

信安城主。通称右衛門。

二鬼島道智【にきとうみちとも(1565~15??)】

十河家臣。「昔阿波物語」を記す。

乃生元忠【のぶもとただ(15??~15??)】

高木城主。香西家臣。通称孫兵衛。元忠の祖父神谷兵庫忠資は細川家に仕えて戦功を挙げた。

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【は】

長谷権ノ正【はせがわごんのじょう(15??~15??)】

大畠城主。植田家臣。

羽床資載【はゆかすけとし(15??~1582)】

羽床城主。官途は伊豆守。1578年、香西家と不和になり、香西佳清に嫁いでいた娘も離縁された。嫡男羽床資治を総大将に香西家攻めを行うも、羽床資治は討死にした。羽床資載は兵800余りを率い、弔い合戦に出陣。香西側の柾木城を落とした。1579年、長宗我部勢12,000余りに攻められ、兵750余りを率いて籠城した。城攻めは八度にも渡った。長宗我部元親は羽床勢の精強ぶりを褒め称え、城兵の無事を保証し、羽床資載に開城を勧めた。使者は香川信景が務め、羽床資載も開城に応じた。羽床資載は所領を安堵され、長宗我部勢に加った。1582年「十河城の戦い」の陣中で病没した。
 
羽床資治【はゆかすけはる(15??~1578)】

羽床資載の男。通称忠兵衛。1578年、香西家を攻めるため兵600余りを率いて出陣した。羽床資治は討死した。
 
羽床資吉【はゆかすけよし(15??~1586)】

羽床資載の次男。通称弥三郎。1579年、羽床城開城時に長宗我部家への人質となった。1582年、父羽床資載の没後、羽床家当主となった。「四国征伐後」仙石秀久は仕えた。1582年「戸次川の戦い」で討死した。

原采女【はらうねめ(15??~15??)】

幡羅城主。

福家資顕【ふくいえすけあき(15??~15??)】

福家城主。香西家枝連衆。1583年、長宗我部勢に降伏し、羽床資載に預けられた。

福家資頼【ふくいえすけより(15??~15??)】

福家城主。羽床家臣。通称七郎。羽床家、香西家の争いを仲介しようとして羽床資載に疑心を買い謀殺された。

福田又次郎【ふくはらまたじろう(15??~15??)】

笠島城主。

藤原安右衛門【ふじわらやすざえもん(15??~15??)】

庄屋原城主。

藤田大隅守【ふじたおおすみのかみ(15??~15??)】

垂水城主。

逸見源左衛門【へんみげんざえもん(15??~15??)】

庵治城主。

細川頼弘【ほそかわよりひろ(15??~1579)】

三豊郡仁保城主。官途は土佐守。1579年、長宗我部元親勢が讃岐国へ侵攻、香川家の属城である藤目城が落とされた。斉藤師郷は土佐の軍門に降り、本篠城の財田常久は討死した。次いで九十九山城を攻め細川氏政を駆逐し、仁尾城主細川頼弘、天神山城主吉田兼久らも各地で討死し、香川家の諸城は落城した。

細川氏信【ほそかわうじのぶ(15??~15??)】

三豊郡九十九山城主。官途は伊予守。1525年、神恵院観音寺金堂を再興した。
 
細川氏頼【ほそかわうじより(15??~15??)】

細川氏信の男。官途は伊予守。
 
細川氏政【ほそかわうじまさ(15??~1579)】

細川氏頼の男。官途は伊予守。1578年、神恵院観音寺琴弾宮に鐘を納めた。1579年、長宗我部元親勢が讃岐国へ侵攻、香川家の属城である藤目城が落とされた。斉藤師郷は土佐の軍門に降り、本篠城の財田常久は討死した。次いで九十九山城を攻め細川氏政を駆逐し、仁尾城主細川頼弘、天神山城主吉田兼久らも各地で討死し、香川家の諸城は落城した。

細川伊予守【ほそかわいよのかみ(15??~1622)】

細川氏政の男。

細川矩弘【ほそかわのりひろ(15??~15??)】

国弘城主。通称左兵衛。織田信長に仕えた。

細川国弘【ほそかわくにひろ(15??~15??)】

細川矩弘の男。豪勇で鳴り響き、羽柴秀吉に仕えた。

本津右近【ほんうこんこん(15??~15??)】

本津城主。香西家臣。

本津六郎兵衛【ほんつろくろうえもん(15??~1582)】

香西家臣。本津城主本津右近の弟。1582年、香川親和が香西領内に攻め込んできた際、物見として新居まで赴き、撤退時に敵の首を獲った。「西光寺表の戦い」で討死した。

本目正利【ほんもくまさちし(15??~15??)】

多度郡本目城主。通称左衛門尉。

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【ま】

前田宗存【まえだむねまさ(15??~15??)】

前田城主。通称頼母頭。十河家枝連衆。別名前田成光。

前田宗清【まえだむねきよ(15??~15??)】

前田宗存の孫。通称甚之丞。六尺の堀を越える身軽な男で、弓に優れた剛の者。十河城に籠もって長宗我部勢と戦った。1582年、長宗我部勢の香川親和の攻撃により落城、十河城に撤退した。十河城が包囲されると盗賊衆を指揮して香川親和の陣に潜り込み、兵糧、旗指物、鉄砲を奪い取って敵を悩ませた。その後、香川親和の謀殺を企てるが失敗した。十河勢が食糧難に陥ると今度は周辺の民家や城を襲い食料などを奪い取った。

増田光政【ますだひつひさ(15??~15??)】

椎尾城主。奈良家臣。通称右衛門。

松本茂頼【まつもとしげより(15??~1579)】

西庄城主。通称助之進。1579年「阿波重清城の戦い」で討死した。

真鍋祐重【まなべすけしげ(15??~15??)】

向城主。真鍋守政の男。香西佳清家臣。通称五郎弥助。「成就院事件」では父真鍋守政と共に香西清長に味方し、香西佳清派と戦った。1581年、長宗我部勢との「伊勢馬場の戦い」では敵将三名を討取った。長宗我部家臣楫取彦左衛門を討取った。1587年、生駒家に仕え250石を領した。「朝鮮の役」にも参陣した。

三河実氏【みかわさねうじ(15??~15??)】

上林城主。三谷家臣。

三木景美【みきかげよし(15??~15??)】

田井城主。十河家臣。通称半太夫。

溝口飛騨守【みぞぐちひだのかみ(15??~15??)】

池田山城主。植田家枝連衆。1582年、長宗我部元親の「讃岐侵攻」で、池田城は落城した。

三谷景久【みたにかげひさ(15??~15??)】

王佐山城主。官途は兵庫頭。植田枝連衆。神内家、十河家と並び「三家」と称された。1508年、三谷景久が香西元定の侵攻を受け、この城に籠もって撃退した。

三谷光広【みたにみつひろ(15??~15??)】

三谷景久の男。

三谷景広【みたにかげひろ(15??~15??)】

三谷光広の男。通称掃部。長宗我部元親に降った由佐左京進秀武に攻められ屈服した。

三谷掃部左衛門【みたにかもんざえもん(15??~15??)】

三谷城主。香西元成、香西元載、香西佳清の三代に仕えた老臣。常に戦場に付き従った。1582年「西光寺表の戦い」で軍使を務めた。香西家がの改易されると浪人となった。

三谷出羽入道【みたにでわじゅうどう(15??~15??)】

出羽城主。三谷家枝連衆。

三谷伊豆守【みたにいずのかみ(15??~15??)】

本山城主。

道久久友【みちひさひさとも(15??~15??)】

多度郡山脇城主。官途は左馬亮。

道久図書助【みちひさとしょのすけ(15??~15??)】

道久久友の男。

三野栄久【みのえく(15??~15??)】

多度郡勝間城主。通称菊右衛門。香川家四家老のひとり。1579年、香川家が長宗我部元親に降ると香川山城守、河田七良兵衛、河田弥太郎らと共に、二人ずつ交代で長宗我部元親の元へ人質として赴いた。嫡男四良左衛門は生駒家に仕えた。

宮本道意【みやもとみちおき(15??~15??)】

塩飽海賊衆。通称傳太夫。1577年、織田信長はに堺へと入港する塩飽船に対し他国船は航路を譲る事を命じた。ら朱印状を与えられて塩飽海賊衆を統括した。1582年「本能寺の変」後は塩飽海賊衆は四名の年寄衆のうち、二名が塩飽に残り、宮本道意と入江四郎左衛門が小浜景隆に出仕した。塩飽海賊衆は大坂の小浜海賊衆の警護と、西軍の軍船の動向、積荷などを偵察した。1588年、羽柴秀吉は「九州討伐」に際して兵を運ぶ船を出させた。1590年、船方650人を御用船方とし、本島、広島、与島、櫃石島、手島、高見島、牛島の塩飽七島1,250石を与えた。1600年、草津にて松平元康に拝謁して。「関ヶ原の役」戦勝の祝辞を述べ、羽柴秀吉の人名制度維持の朱印の効果継続を訴えた。松平元康は宮本道意が小身ながら諸大名より先に祝辞を述べたことを喜び、朱印状を交付して人名制度を維持することを伝え、大坂城西の丸で船方に塩飽七島を安堵した。

宮脇元長【みやわきもとなが(15??~15??)】

松縄城主。香西家臣。官途は兵庫頭。1468年、宮脇越中守長定は紀伊国の熊野海賊衆を率いた別当湛増の末裔で紀伊国から移住し野原荘、太田荘を領して代々松縄城に居城した。1573年、宮脇元長の娘が、香西家の片腕といわれた植松備後守に嫁ぎ、より一層関係が深くなった。

宮脇弾正忠【みやわきだんじょうちゅう(15??~1582)】

宮脇元長の男。長宗我部勢が香西領内に攻め込んできた際、香川信景の兵と交戦した。1582年、佐藤家らと共に「西光寺表の戦い」で先鋒を勤めた。「四国征伐」時、香西佳清一行が西長尾城に撤退する際に尽力した。

宮脇長治【みやわきながはる(15??~15??)】

宮脇元長の次男。通称兵庫。宮脇長治も香川信景との戦い「西光寺表の戦い」で兄と行動を共にした。

宮武六右衛門【みわたけろうろうざえもん(15??~1582)】

香西家臣。1582年「西光寺表の戦い」で天神郭を守備した。長宗我部の大軍に対して僅か兵300余りを率いて奮戦するが衆寡敵せず討死した。

六車宗湛【むぐるまそうたん(15??~15??)】

六車城主。安富盛方家臣。1572年、安富盛方が居城を雨滝城から虎丸城へ移すと、雨滝城主となった。1583年、長宗我部元親の侵攻により、安富盛方は仙石秀久を頼って小豆島へと逃れたため、六車宗湛も長宗我部元親に降った。

牟礼光茂【むれみつしげ(15??~15??)】

牟礼城主。通称孫兵衛。羽柴秀頼に仕えて700石を領した。1615年、羽柴勢の一員として大坂城に籠城した。長宗我部盛親と共に討死した。

村上信継【むらかみのぶつぐ(15??~15??)】

鳥坂城主。香川家臣。官途は河内守。

物集大蔵太夫【もずめおおくらだいふ(15??~1582)】

奈良家臣。奈良元政を補佐した。1582年、香川親和が聖通寺城に迫ると、奈良元政と共に阿波勝瑞城に落ち延びた。1582年「中富川の戦い」に参陣し討死した。

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【や】

八倉弾正忠【やえくらだんじょうちゅう(15??~15??)】

粟島城主。香川家臣。

安富盛方【やすとももりかた(15??~15??)】

三木郡雨滝城主。安富家は細川家四天王のひとつ。長禄年間、三木郡地頭三木高長の没後、細川家から三木郡を賜る。1523年、昼寝城主寒川家と所領の境界線をめぐり合戦となる。「塩ノ木の戦い」がそれであるが、安富盛方は合戦に敗れた。1526年、三好家と共に「寒川家征伐」を計画するも、寒川元政に察知され、逆に強襲を受け撤退した。細川晴元は安富盛方、寒川家に和解を命じるも、安富盛方はこれを拒み、再び寒川領を攻める。寒川勢を長尾表で破り、池内城を奪取。さらに昼寝城を攻め、兵糧攻めを行った。
 
安富盛定【やすとみもりさだ(15??~15??)】

讃岐雨滝城主。室は篠原弾正の娘。1572年、三好家臣篠原弾正入道の娘を娶る。三好家との関係を深めることで寒川家を圧迫し、遂に寒川家を昼寝城まで撤退させた。寒川家の領していた虎丸城に入城し、雨滝城には家臣六車宗旦を入れた。1583年、羽柴秀吉に臣従。長宗我部元親に攻められ、仙石秀久を頼り、小豆郡に落ち延びた。六車宗旦は長宗我部家に降伏した。
 
安富元綱【やすとみもとつな(15??~15??)】

石田城主。通称民部。1582年、長宗我部家に攻められ落城した。

安富時氏【やすとみときうじ(15??~15??)】

時氏城主。通称右衛門太夫。

山内源吾【やまのうちげんご(15??~15??)】

羽床家臣。1579年、長宗我部元親は西庄城を落とし、山内源吾を守将とした。

山地右京進【やまじさきょうのしん(15??~15??)】

三木郡詫間城主。香川家臣。山地家は讃岐国白方の海賊衆であったが詫間城主となった。香川家は細川家の讃岐西方の守護代であり、山地家の本拠の白方に隣接する多度津に居館をおいていた。香川家は多度津を拠点に西讃岐一帯に支配力を強化し、海賊衆山地右京進の掌握を図った。
山地右京進は詫間城主となり、三野郡、多度郡、豊田三郡之旗頭となった。詫間城は西讃岐の重要な湊街のひとつ。

山地九郎左衛門【やまじくろうざえもん(15??~15??)】

山地右京進の男。1583年、香川信景は「大内郡入野の戦い」で戦功を挙げた山地九郎左衛門に感状を与えた。この合戦は、長宗我部元親の軍勢が引田浦にいた羽柴秀吉の部将仙石久秀を攻めた際のもので、長宗我部勢の一将であった香川家に率いられた山地家が、敵方の田村志摩守の首を討ち取った。

山田弥七【やまだよしち(15??~15??)】

牛川城主。羽床家臣。

山脇図書助【やまわきとしょのすけ(15??~1582)】

香西家臣。1582年「西光寺表の戦い」で天神郭を守備した。敵兵を多数討ち取った後討死した。

矢野駿河守【やのするがのかみ(15??~1579)】

三好長治家臣。1570年、三好長治は、四宮光武が守る引田城を攻め落とすと矢野駿河守を城主にした。1579年、岩倉城主三好式部少輔に攻められ謀殺された。
 
由良兼光【ゆらかねみつ(15??~15??)】

香西家臣。官途は遠江守。1508年、香西元定が三谷城に攻撃を仕掛けた際、この城も攻撃を受けたが、三谷伊豆守の弟である掃部左衛門が香西家に属していたため、戦をせず和した。1582年、長宗我部元親が香西家の佐料城を攻撃した際「西光寺表の戦い」で奮闘した。

由良秀盛【ゆらひでもり(15??~15??)】

由良山城主。通称左京進。讃岐守護となった細川頼春に従って井原庄に移り住み、東に香東川、西に沼地が広がる要害の地に居館由佐城を築いて代々の本拠とし名字を由佐と改めた。三好長慶の麾下に属して、畿内に出陣して諸所を転戦した。

由良秀武【ゆらひでたけ(15??~15??)】

由良秀盛の男。通称平右衛門。三好義賢に従って戦功を挙げた。1562年、三好義賢が「和泉久米田の戦い」で討死した。1564年、三好長慶も病死したことで三好家の勢力も後退を余儀なくされた。1575年、長宗我部元親が、四国の統一に乗り出し、阿波国、讃岐国への進攻を開始した。1582年、讃岐国に兵を進めた長宗我部元親は井原城を攻撃、由良秀武は固く守って長宗我部勢の猛攻をよく防戦した。攻めあぐねた長宗我部元親は、一旦兵を退こうとした。それを察した由良秀武は伏兵を冠纓山に置き、みずからは城兵を率いて打って出た。由良秀武の勇戦に鼓舞された伏兵らは大いに働き、敵将稲吉新八郎を捕虜とする勝利をえた。これをみた長宗我部元親はただちに兵を返し、由良秀武に猛攻を加えたため、さすがの由良秀武も元親の軍門に下った。以後、由良秀武は長宗我部勢の先陣となり、三谷景久を攻めこれを滅した。羽柴秀吉が「四国征伐」の軍を起すと、長宗我部元親はたちまち征圧された。由良秀武は仙石秀久に仕えた。

由良秀景【ゆらひでかげ(15??~1586)】

由良秀武の男。1586四年、九州平定の軍を起した羽柴秀吉は、長宗我部元親、十河存保ら四国の諸将に出陣を命じた。四国勢の軍監には仙石秀久が任じられ、豊後に渡海した四国勢は「戸次川の戦い」で島津勢と戦い壊滅的敗北を喫した。この戦いで、十河存保、長宗我部信親らが討死した。由良秀景も討死した。

由良久右衛門【ゆらきゅうざえもん(15??~15??)】

由良秀景の男。由良久右衛門、讃岐国の新領主となった生駒家に仕えたが、生駒家も改易されたのち、井原城跡に居館を築いて郷士となり近世に至った。

吉田兼近【よしだかねちか(15??~1579)】

三豊郡天神山城主。香川家臣。通称佐兵衛。吉田兼近は香川家麾下として勇名を馳せた武将。1579年、長宗我部元親勢が讃岐国へ侵攻、香川家の属城である藤目城が落とされた。斉藤師郷は土佐の軍門に降り、本篠城の財田常久は討死した。次いで九十九山城を攻め細川氏政、仁尾城主細川頼弘の落城後、嫡男吉田弾正宗久の奮闘も虚しく吉田兼近も討死した。

吉田宗久【よしだむねひさ(15??~1579)】

吉田兼近の男。通称弾正。1579年、長宗我部元親勢が讃岐国へ侵攻。吉田宗久の奮闘も父吉田兼久とともに討死した。

吉田玄蕃【よしだげんば(15??~15??)】

中ノ村城主。

脇糸目【わきいとめ(15??~15??)】

脇城主。羽床政長七人衆のひとり。

渡辺市之丞【わたなべいちのじょう(15??~15??)】

芝山城主。香西家臣。香西海賊衆。1583年、羽柴秀吉の家臣小西行長らが使者として来た所「今、四国は長宗我部を大将としている」と継げて、交渉を拒否。大砲を撃ち掛けて追い払った。

渡辺三之丞【わたなべさんのじょう(15??~15??)】

渡辺市之丞の男。

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【資料Ⅰ】

讃岐国(郡/0,000石)

小豆郡:
大内郡:
寒川郡:
三木郡:
山田郡:
香川郡:
阿野郡:
鵜足郡:
那珂郡:
多度郡:
三野郡:
豊田郡:



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【資料Ⅱ】

香川家四家老【かがわけじゃしんだん】

高谷城主:香川元春、勝間城主:三野栄久、河田七郎兵衛、河田弥太郎、。

細川家四天王【ほそかわけしてんのう】

奈良元信、香川元景、安富盛方、香西元成。

羽床家七人衆【はゆかけしちにんしゅう】

秋山三郎、有岡牡丹、大林丹後守、後藤是兵衛、造田宗俊、羽床源内、脇絲目。

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【資料Ⅲ】

讃岐国【さぬきのくに】

調査中。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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