2012年4月21日土曜日

長宗我部元親家臣団辞典


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【あ】

五百蔵清光【いおろいきよみつ(15??~1583)】

五百蔵城主。長宗我部家臣。官途は筑後守。五百蔵家は平家の出自を持ち先祖は平忠正。長宗我部家に屈服して家臣となり各地を転戦した。

五百蔵佐渡守【いおろいさどのかみ(15??~15??)】

五百蔵清光の男。通称門次郎。1582年「中富川の戦い」で討死した。

五百蔵盛光【いおろいもりみつ(15??~15??)】

五百蔵清光の次男。通称左馬進。

五百蔵光廣【いおろいみつひろ(15??~15??)】

五百蔵清光の三男。通称六之進。1585年「戸次川の戦い」で討死した。

五百蔵左馬進【いおろいうまのしん(15??~1615)】

桑名親光の次男。五百蔵盛光の養子。別名桑名藤次郎。五百蔵盛光の娘を娶り家督を相続した。1600年「関ヶ原の役」では甥の亦五郎重光と共に出陣し、敗戦後兵500余りと共に大阪へ退却した。長宗我部家が改易後浅野家に仕えた。1614年「大坂冬の陣」が始まると長宗我部盛親を慕い大阪に入城した。1615年「八尾の戦い」で長宗我部盛親の馬前で討死した。

一円右京【いちえんうきょう(15??~15??)】

長宗我部家臣。一円家は滋賀県犬上郡多賀町一円よりおこる佐々木源家の庶家。一条家の土佐国入部と共に土佐国へ下向した。初代は一円山城守氏直で後長宗我部家臣となる。一円右京は「勝瑞城の戦い」に参陣し戦功を挙げた。敵陣地深くに侵入し負傷している一円掃部を助けて帰還する。その戦いぶりを賞され、長宗我部元親が烏帽子親となり一円右京と称した。

一円但馬守【いちえんたじまのかみ(15??~15??)】

一円隼人民部の男。1571年の長宗我部元親による一宮興人夫割張にも名があり、このころ土佐中央部に九町あまりの領地を持っている。長宗我部家の安芸家攻略後、安芸東部の羽根城主に任命され、八町あまりを領有している。長宗我部検地張に出てくる一円氏の中では最高の給地を得ている事から一円家の頭領的な立場の人物。

一円掃部【いちえんかもん(15??~15??)】

一円隼人民部の次男。通称五郎兵衛。室は国沢越中守の娘。一円掃部は長宗我部家の元で86石を領した。長宗我部家の改易後、五郎兵衛と名乗り浪人した。一円掃部は「大阪の陣」では一円勘助と名乗り入城した。落城後は一時阿波黒石に住むが安芸に帰り橋本小兵衛に100石仕えた。

入交蔵人【いりまじりくらうど(15??~1586)】

長宗我部検地張によると、蔵人は田村庄の細川城館内に屋敷を与えられており、長宗我部家中でかなり重んぜられていたようである。検地役人としても活躍。一族は山田、岩村、田村の各地に所領を持ち、忠勤に励んだ。1586年「戸次川の戦い」では入交蔵人以下主従十六名が討死した。

入交信【いりまじりしん(15??~15??)】

入交助右衛門の男。官途は豊後守。土佐入交家は摂津渡辺郷の出で、始め渡辺姓を名乗る。熊野山別当となり、その後、神主として土佐に下った。その地名より入交を称した。長宗我部家改易後の伊予宇和島にて藤堂高虎に仕えた。

岩崎安行【いわさきあんぎょう(15??~15??)】

長宗我部家臣。通称兵庫助。岩崎家は甲斐源家の後裔。岩崎安行は検地奉行として手腕を発揮。高岡郡波介、戸波に所領を有した。一族二十数家は安芸、香美、長岡、土佐、高岡、幡多の諸郡で繁栄した。

江村親家【えむらちかいえ(15??~15??)】

吉田重俊の次男。江村親政の養子。官途は備後守。室は利岡辰巳の娘。吉田重俊の次男で江村親政の養子となり江村家を相続した。父と同じ官命を名乗った事から小備後と呼ばれる。1551年、山田元義との「雪ヶ峰城の戦い」では、敵将山田長秀と一騎撃ちをして見事に討取った。1568年、一条兼定の「西園寺家討伐」では長宗我部勢200余りを率いて参陣した。一条兼定より鎧と太刀を拝領した。長宗我部元親の「四国平定」で活躍し3,500石を領した。

江村親俊【えむらちかとし(15??~15??)】

江村親家の男。通称孫左衛門。1582年「本能寺の変」後、紀州鷲森にあった本願寺顕如と元親の外交折衡では奏者を務めた。1585年「四国征伐」では谷忠澄とともに阿波一宮城に籠城した。羽柴秀長側との交渉を行った。敗戦により長宗我部元親が差し出した人質三男津野親忠と共に京へ行く。1592年「文禄の役」「晋州城の戦い」でも戦功を挙げた。若年寄で1,500石を領した。

岡村元重【おかむらもとしげ(15??~15??)】

上韮生村。通称与三郎。1586年「戸次川の戦い」に参陣した。領地が二町程度の一領具足は、単身合戦に挑むのが通例とされていた。

岡村与七郎【おかむらよしちろう(15??~15??)】

岡村元重の男。

奥宮扶盛【おくみやよしもり(15??~15??)】

長宗我部家臣。官途は主膳守。

奥宮盛治【おくみやもりはる(15??~15??)】

奥宮扶盛の男。官途は若狭守。通称太郎左衛門。検地張によると幡多郡式地に給地がある。1575年、式地城主、敷地藤康の遺臣が謀反を起こし、織部正之と盛治が入城したようである。1583年、伊予北川の陣にて活躍し、幡多郡塩塚城詰五人組の宰配をまかせられるが数年後に病死した。

奥宮盛之【おくみやもりゆき(15??~1614)】

奥宮正之の男。奥宮若狭守の養子。通称治部。父の兄、若狭盛治の跡目を相続する。1578年「讃岐藤の目の戦い」に若狭と共に出陣し、城攻め一番乗り十二人の一人として活躍。長宗我部元親より感状と知行一町一反、治部の名前を拝領した。また伊予北の川の陣でも桑名親光の先手にはいり活躍し、感状と塩塚城在番を命じられる。1600年「関ヶ原の役」おりには久武親直の与力となり、津野姫野々城詰めとなっていたが長宗我部家は改易。その後お家再興を密かに願う旧家臣達と気脈を通じ、「大阪の陣」の時には盛親から一通、中内宗左衛門から四、五通の密書を受け取り、中村城主山内康豊の大阪出陣の留守中に城を急襲するいわゆる中村企図を企てる。しかし計画は事前に露見し、山内家臣、祖父江一秀の奇計により同志二十人と共に捕らえられ渡川で自刃した。

奥宮定盛【おくみやさだもり(15??~15??)】

奥宮正之の次男。奥宮盛之の養子。通称太郎左衛門。兄の子が病死したのちに本家を継ぐ。関ヶ原には出陣しなかったようであるが、大阪の陣では盛親の元に参陣した。吉田弥右衛門の先手、三宮十助、喜多川助之丞、国吉五郎左衛門等と中備えとして武名を揚げている。1615年、藤堂家より仕官の誘いがあり、藤堂和泉守に謁見しているが、結局堀田盛家に仕え「佐倉崩れ」の後には松平和泉守に召しだされて佐倉で没した。

奥宮正家【おくみやまさいえ(1554~1586)】

奥宮正之の三男。通称蔵人。奥宮家は元山田家に従えたが山田家滅亡後に長宗我部家臣となった。香美郡山田郷楠目を本拠とした。天正年間には阿波との国境警備を命ぜられ、安芸郡甲浦の城柵を監した。1586年「戸次川の戦い」で討死した。

小谷与十郎【こたによじゅうろう(15??~15??)】

入野郷上川口村の一領具足。「朝鮮出兵」に出陣して、朝鮮の若い機織の女性を連行し、その技術を広く土地の人々につたえた。与十郎から数えて四代目の小谷安次により、同村の桂蔵寺に墓碑が建立されている。

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【か】

加藤良久【かとうよしひさ(15??~1675)】

加藤良正の男。官途は治部。通称勘四郎。加藤家は長宗我部家の大工として有名を馳せた。祖父良次は滝本村の毘沙門堂、父良正は廿代町の神明宮を建てる。良正も大工となり山内家に仕えた。京都の内裏修造の工匠補助の命を受け上京、治部の官位を請け、後に朝散大夫の称を許されるが帰国後に返上し、山内家より士格に遇された。

国吉甚左衛門【くによしじんざえもん(15??~1588)】

長宗我部家臣。官途は備前守。別名上村備前守親綱。国吉家は岡豊周辺の国人領主ではやくから長宗我部家に仕えた。三家老に次ぐ重臣で重用され、家老に列して3,700石を領した。香美郡王子城を築いて城主となり、山北、山南、東川を支配した。讃岐中原征圧後、西長尾に新城を築き城主となって讃岐の軍代となり讃岐攻略に活躍した。内政面では長宗我部元親に検地を健言し、太閤検地前に土佐の検地を実施、この検地より土佐国内は248,000石の石高が確定した。

国吉幸親【くによしよしちか(15??~1616)】

国吉甚左衛門の次男。官途は備後守。通称五左衛門。別名上村幸親。室は大黒主計の娘。土佐国、讃岐国での戦いで戦功を挙げた。長宗我部家が滅亡すると堀田家に500石で仕えた。潜伏中の長宗我部盛親に宛てて俸禄の一部を送り続けた。1614年「大阪冬の陣」が始まると大坂城に入城して長宗我部盛親隊に属した。1615年「八尾の戦い」で戦功を挙げた。落城に至って、長宗我部盛親と共に八幡まで随行の後、帰国とお家再興を約して同士二十三人と共に土佐に帰国した。

久礼田孝之【くらだたかゆき(15??~1578)】

長宗我部家臣。官途は豊前守。久礼田家は土佐久礼田の土豪で長宗我部氏より派生した家。豊前守秦孝之と名乗り秦姓を用いた事より長宗我部家との関係が解る、のち定祐と名乗った。文化人で蜷川道標より連歌を学び、長宗我部元親が毎年二月に行った連歌の会に出席し名声を得ていた。

久礼田道祐【くらだみちすけ(15??~15??)】

久礼田孝之の男。久礼田定祐の病没、久礼田家は一条親政とその室(長宗我部元親の娘)を引取り守備し、その屋敷は久礼田御所と呼ばれた。。

桑名重定【くわなしげさだ(15??~15??)】

長宗我部家臣。官途は丹後守。室は吉田重俊の娘。長宗我部三家老のひとりとして仕え8,500石を領した。桑名家は長宗我部家の土佐国下向時に伊勢国桑名より従えたと言われる譜代の家柄。安芸家討伐後、奈半利城主。

桑名藤蔵人【くわなとうくらうど(15??~15??)】

桑名重定の弟。通称藤太郎。桑名丹後守の弟で桑名弥次兵衛の養父。兄とともに家老職を務めて1,350石を領した。吉良親貞死後には中村城代となった。

桑名親光【くわなちかみつ(1551~1586)】

桑名重定の男。通称太郎左衛門。若年寄衆で8,700石を領した。中嶋与市兵衛と共に京都に三年間留学し、小笠原流弓術を極め家中の弓術師範となった。長宗我部元親の小姓組みとして「藤ノ目城の戦い」「北之川親安討伐」等に参陣した。讃岐引田では羽柴秀吉の派遣した仙石秀久勢と戦い大勝した。1586年「戸次川の戦い」ではその仙石秀久と共に参陣し兵1,000余りを指揮し奮戦するも討死した。

桑名親勝【くわなちかかつ(15??~1592)】

桑名重定の三男。通称将監。若年寄衆に列し甲浦城1,200石を領した。1586年「戸次川の戦い」で兄桑名親光が討死すると桑名家の家督を相続した。長宗我部元親より敗戦報告のため羽柴秀吉の下へ使わされた。1592年「文禄の役」で朝鮮熊川で討死した。

桑名吉成【くわなよしなり(1551~1615)】

中内和泉守の男。桑名藤蔵人の養子。通称弥次兵衛。長宗我部元親の四男長宗我部盛親の榑人子として育つ。後に養父の跡を継いで中村城代となり、若年寄に列して1,550石を領した。家中一、二を争う強力の持ち主で「戸次川の戦い」など各地を転戦して戦功を挙げた。「戸次川の戦い」では長宗我部元親退却時にあらわれた野党を一刀両断し無事長宗我部元親を土佐国に退却させた。吉良親実の切腹では使者として切腹に立ち会っている。長宗我部改易時に起こった土佐浦戸一揆では計略をもってこれを鎮圧した。長宗我部家の改易後は藤堂高虎に仕えた。1615年「八尾の戦い」でかつての長宗我部盛親と戦って壮絶な討死を遂げた。

下司忠重【げしただしげ(15??~15??)】

長宗我部家臣。通称九郎左衛門。

下司安左衛門【げしやすざえもん(15??~15??)】

下司忠重の男。物部川河口、久枝の土豪。祖先より庄司刀弥の任を勤め、その役職を姓として下司家を称した。1595年、久枝八幡宮の造営を行いった。1597年「サンフェリペ号漂着事件」ではその処理の任にあった。長宗我部家の改易後は山内家に仕えた。

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【さ】

三宮左兵衛門【さんのみやさえもん(1565~1586)】

長宗我部家臣。通称平衛門。高岡郡日下葛掛城1,800石を領した。1582年「勝瑞城の戦い」で初陣を飾った。1584年「深田城の戦い」で戦功を挙げた。1586年「戸次川の戦い」で討死した。

三宮親俊【さんのみやちかとし(15??~15??)】

三宮左兵衛の男。通称平右衛門。

島崎利明【しまざきとしあき(15??~15??)】

長宗我部家臣。通称与左衛門。別名立花林慶。長宗我部家の改易後、山内家に仕官し茶坊主として余生を送った。長宗我部時代には立花流の剣術を修め、師より立花姓を賜った達人。

島親益【しまちかます(15??~1571)】

長宗我部国親の四男。長宗我部国親が家臣の室に手を出して生ませた庶男で、母方の島家を称した。兄達に劣らぬ武将で武術に秀でており「本山家討伐」「安芸家討伐」では戦功を挙げた。病に犯され、療養の為に有馬の湯へ向かうが、悪天候の為阿波国那佐に停泊した際、安芸家残党が阿波国の海部家と共謀して襲撃してきた。病の体を奮い立たせて抗戦するが兵三十余りで応戦するが、たちまち追い詰められ、最期は三島にて切腹した。この報を聞いた長宗我部元親は烈火の如く怒り狂い、すぐさま阿波国海部家を攻撃、容赦なく砦や城を制圧した。

宿毛甚左衛門【すくもじんざえもん(15??~15??)】

長宗我部家臣。別名長宗右衛門大夫。室は本山茂辰の娘。はじめ長宗右衛門大夫と名乗り、その後野田家を称した。野田家は長宗我部七代兼光の弟俊吉を祖とし、代々長岡郡野田に住した。宿毛城主となり宿毛姓を名乗って南予の諸将と対峙する。「伊勢安濃津城の戦い」に参陣した。長宗我部元親の信頼の厚い人物でその遺言に「戦陣にあっては、先陣を桑名弥次兵衛、中陣は久武内蔵助、後陣は宿毛甚左衛門とする、後にこの布陣を変更する事を禁ずる」とした。長宗我部家では若年寄として1,200石を領した。長宗我部家の改易後は藤堂家に1,500石で仕えた。

専当秀家【せんとうひでいえ(15??~15??)】 

長宗我部家信。通称左京亮。香美郡物部村槙山郷専当の名主で父専当四郎左衛門章貞から長宗我部家と関係を持ち、以後長宗我部家に仕えた。専当秀家は国親の韮生侵攻に協力した。

専当安家【せんとうやすいえ(15??~15??)】

専当秀家の男。通称左衛門大夫。専当安家は香美郡韮生郷久保の久保家が熊山城に籠って降らなかったとき、弟の岡内左京、中谷川新助と協力して戦功をたて長宗我部国親より恩賞を与えられた。その後「四国平定」に参陣し阿波讃岐を転戦し戦功を挙げた。「四国征伐」後土佐国に帰還し再び専当の地を領した。

専当乗家【せんとうのりえい(15??~15??)】

専当安家の男。長宗我部家の改易後、山内家に仕えた。

宗円八郎左衛門【そうえんはちぜえもん(15??~1569)】

宗円家は神官の家系で、京都より宗円左近太夫が孝徳天皇の勅命によって、荒神神社の神官として土佐国に派遣された。左近太夫から数えて八代目が八郎左衛門で、大忍庄夜須川村宗円の領主、神官として長宗我部家に属し63石を領した。「安芸国虎征伐」で討死した。

宗円平左衛門【そうえんへいざえもん(15??~15??)】

宗円八郎左衛門の男。

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【た】

高石左馬助【たかいしさまのすけ(15??~15??)】

長宗我部家臣で一領具足衆。長岡郡下津野の居住し77石を領した。また本山郷内500石の地に勢力をのばす。長宗我部遺臣の土佐国内における最後の武力抵抗「滝山一揆」の首謀者。1603年、一領具足衆や百姓を束ね反抗した。鉄砲で武装し、滝山の洞窟に籠もった高石左馬介らは五日間もの間もちこたえるが、大砲で攻撃されると戦意喪失となり讃岐国に落延びた。

高橋又左衛門【たかはしまたざえもん(15??~1582)】

長宗我部家臣で一領具足衆。安芸郡奈半利村中里に居住した。1582年「勝瑞城の戦い」で討死した。

竹内惣右衛門【たけうちそうえもん(15??~1601)】

長宗我部家臣で一領具足衆。一領具足は正規の武士ではなかったが、長宗我部元親から信頼され、軍議に参加する事もあった。1600年「関ヶ原の役」後に長宗我部家が改易されると、徹底抗戦の構えを見せ、長宗我部盛親に土佐半国を与えるように主張し浦戸城に籠城した。この「浦戸一揆」の首謀者が惣右衛門であった。しかし、浦戸側の大将となっていた桑名吉成は、この抵抗によって長宗我部盛親に危険が及ぶと察知し、逆に謀略によって浦戸城の要所を押さえると開城した。竹内惣右衛門ら一領具足衆は浦戸城を奪回すべく奮闘するが、各地で討取られて鎮圧させられた。

竹内虎之助【たけうちとらのすけ(15??~15??)】

久武家臣。忍び衆。久武親信に従い各地で戦功を挙げた。流派は不明だが、忍者としての腕前は達人であった。

竹内弥藤次【たけうちやとうじ(15??~15??)】

竹内虎之助の養子。別称玄蕃。室は竹内虎之助の娘。その年、父と共に久武親信に付き従って「岡本城の戦い」に参陣した。城を守る土居清良の奇略の前に大敗、久武勢は壊滅した。その敗戦の報に触れた竹内弥藤次の室は一度に父と夫を失った事に失望し「待て暫し、先立ちぬとも死出の旅、険しき路を共に越えなん」と辞世の句を読んで自害した。ところが竹内父子は共に深手を負っていたが土佐国に生還する。室の死を知った竹内弥藤次は自刃しようとしたが、父に止められる。

竹内八右衛門【たけうちはちざえもん(15??~1675)】

長宗我部家臣。弓術家としてその名を知られる。長宗我部家の改易後は浪人した。

田所猪助【たどころいのすけ(15??~1599)】

長宗我部家臣。別名堀内善左衛門。始め堀内家を称して横浜、長浜に50石を領した。讃岐の陣にて敵将田所猪助を討った際に猪助より田所姓の継承を懇願され姓を田所に改めた。長宗我部元親が京で死去したおりに自ら剃髪し岡豊山で自刃した。

田所善兵衛【たどころぜんべい(15??~15??)】

田所猪助の男。

谷神右衛門【たにがみうざえもんn(1588~1660)】

谷神右衛門の男。別名神七郎。室は中井家の娘。土佐谷家の本家。室は福留隼人の娘。才幹あふれる人物であった。山内家政権下において、その家老である野中兼山が長宗我部家の感状がなくても、この神右衛門の証言があれば遺臣を郷士に取り立てた。

谷忠澄【たにただずみ(1544~1600)】

長宗我部家臣。通称忠兵衛。元土佐郡一宮の神主で滝本寺非有の兄。長宗我部元親に見出されて家臣となり、主に外交方面で活躍した。1585年「四国征伐」では阿波一宮城に籠城して羽柴秀長勢と戦った。羽柴秀長の勧告を聞き入れ長宗我部元親元親に羽柴秀吉に降伏するように勧めた。1586年「戸次川の戦い」では退却中に長宗我部元親に頼まれ、使僧恵日寺と共に島津陣に長宗我部信親の遺骸を受け取りに行く。土佐国に帰還後は中村城代となり西辺の防衛に任じ、在任中は囚人を使役して入野浜に松を捕植させるなど善政を尽くした。

谷彦十郎【たにひごじゅうろう(15??~15??)】

谷忠澄の男。1586年「戸次川の戦い」で討死した。

田村忠重【たむらただしげ(15??~15??)】

長宗我部家臣。通称平兵衛。室は江口藤兵衛の娘。田村氏は土佐田村庄の豪族で遠祖はこの荘園を所有していた九州の大族大友氏であるという。はじめ幡多郡下ノ加江に住み、三原郷大狼内村に転居したあとまた下ノ加江に戻り、同村江口藤兵衛の娘を娶った。

近沢越後守【ちかざわえちごのかみ(15??~15??)】

長宗我部家臣。近沢太郎兵衛尉兼親の孫か。尾川近沢家の摘流で長宗我部家臣具同城主として家中で弓鉄砲の師範となり活躍。1562年、一宮土佐神社再建時には給地七町歩ほどの江村衆となった。近沢家は代々弓術師範の家として名高かったが、鉄砲の伝来以後砲術の練磨に励んだ。岡豊城下において子弟に教授したが、毎月一日に行われる鉄砲揃を視察した長宗我部元親に「合戦に勝利を得ること三度に二度は鉄砲にて打ち崩し、槍の柄の取れぬ事多しと、越後守の功大なる想ふし」といって賞詞をえた。「本能寺の変」の時、勝瑞城奪取を企て海部に進軍した長宗我部信親の説得に使わされた。

近沢祐清【ちかざわすけきよ(1541~1615)】

高岡郡尾川城主。近沢親春の男。通称将監。別名尾川兵部入道。祖父は右近大夫廣正。近沢氏の遠祖は藤原秀郷流近藤氏で、南北長期に尾川地頭、近藤智國が敗戦し、子の重太郎が長じて尾川代官に任じられたとき、近藤姓を名乗ることを許されず、近の一字を冠して近澤弥左衛門と称した。初め細川家の大平家に属し、後一条、長宗我部の侵攻にあうが本領は安堵された。近沢祐清は強弓でしられ、また文筆の才があり長宗我部家で祐筆役となった。尾川近沢家一族の給地は百町にものぼるという。長宗我部家の改易後、松平安芸守に200石で仕えた。

近沢嘉兵衛【ちかざわかへい(15??~15??)】

近沢祐清の男。1586年「戸次川の戦い」で討死した。

長宗我部国親【ちょうそかべくにちか(1504~1560)】

長宗我部兼序の男。室は細川国隆の娘。1508年、父長宗我部兼序が本山家などに攻められ岡豊城で自刃した際に、国親は落ち延びて一条房家に養育された。1544年、父長宗我部兼序の仇である本山茂宗と和睦し、その嫡男本山茂辰と自分の娘を婚姻させることで岡豊城に復帰し、長宗我部家を再興した。1547年、一条家の支城である大津城を攻めた。1556年、三男長宗我部親泰を香宗我部家に養子として従属化し池頼和に娘を嫁がせるなど、土佐国人の従属化を進めた。1555年、本山茂宗が病死し、女婿の本山茂辰が後を継ぐと本山家を討つべく兵を挙げた。「長浜の戦い」で本山茂辰を破り、長浜城を攻略すると、続いて浦戸城も攻め落とした。直後に病を得て急死した。

長宗我部元親【ちょうそかべもとちか(1539~1599)】

長宗我部国親の男。室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。側室に明智光秀の妹の娘がいる。幼少の頃は「姫若子」と噂されるほど、無口でおとなしい性格だった。1560年、土佐郡朝倉城主の本山家を攻めた「長浜の戦い」において鬼神のような働きを見せ「鬼若子」と呼ばれ賞賛された。1560年、父長宗我部国親が急死により家督を相続した。父長宗我部国親の意思を継ぎ、長宗我部元親は剽悍な一領具足を動員して勢力拡大を行い、本山家を滅亡させると安芸家、一条家を次々と滅亡させ土佐を統一する。その後も弟達と協力して阿波、讃岐、伊予に侵攻した。1585年、四国を統一した。しかし、羽柴秀吉の「四国征伐」が開始され、わずか数ヶ月で降伏。1568年「戸次川の戦い」で大敗し、嫡男長宗我部信親を失った。失意の長宗我部元親はこれまでの性格が一変し、自我を通して邪魔な家臣を排除し一般的な習いを無視して四男長宗我部盛親に長宗我部信親の娘を嫁がせ世継とした。1599年、京都伏見屋敷にて死去。

長宗我部信親【ちょうそがべのぶちか(1565~1587)】

長宗我部元親の男。室は石谷頼辰の娘。若い頃より時期当主として期待され、長宗我部信親自身も十分な才能があった。家臣からの信頼も厚く、美男子で長身であった。1585年、羽柴秀吉に降伏した長宗我部家は土佐一国を安堵された。1586年「九州征伐」の先鋒を受けた。長宗我部信親も父らと共に九州に出陣し、島津勢と抗戦するが、総大将の仙石秀久の無謀な作戦の犠牲となり「戸次川の戦い」で島津勢の猛攻に合って最期は二十名余りとなり、ついに長宗我部信親も鈴木内膳によって討取られた。その遺体は島津家より丁重に返還された。

長宗我部盛親【ちょうそがべもりちか(1575~1615)】

長宗我部元親の四男。1586年「戸次川の戦い」で兄長宗我部信親が討死すると、長宗我部家中で家督相続問題が浮上した。長宗我部元親に溺愛されていた長宗我部盛親が長宗我部家の家督を相続した。その後は父長宗我部元親と共に各地の戦に赴き、羽柴家に忠誠を尽くした。1600年「関ヶ原の役」の合戦では東軍の松平元康に味方する予定だったが、西軍の増田長盛によって西から東への連絡を遮断され、西軍の石田三成に味方した。「関ヶ原の戦い」では栗原山に陣取るが、東軍に内通していた吉川広家の妨害に合い、戦もせずに土佐国へ退却した。松平元康に謝罪をするが、領地没収の上謹慎処分となった。1614年、羽柴家、松平家が険悪となると、羽柴秀頼より誘いがあり、大坂城に入城した。「大坂冬の陣」では、大坂城門を守るが、あまり戦働きもないまま停戦。1615年「大坂夏の陣」では、堀を埋められた大坂城はもはや城としての防御力も無く、やむなく野戦となった。長宗我部盛親は「八尾戦い」で藤堂勢を敗走寸前にまで追い詰めるが、井伊勢の加勢により形勢は逆転し敗走した。大坂城から落延びるが蜂須賀勢に捕らえられた。長宗我部盛親は二条城門外にさらされ、京都市中引き回しの末斬首された。

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【な】

中内藤左衛門【なかうちとうざえもん(15??~1581)】

長宗我部家臣。官途は石見守。中内家は近江の中原家の庶家。中世後期に土佐国に入り長岡郡江村郷に居住した。森城主で「四国征伐」に参陣した。讃岐国侵攻後は財田城在番した。

中内源兵衛尉【なかうちげんべいのじょう(15??~1615)】

中内藤左衛門の男。通称藤吉郎。別名桑名源兵衛一友。長宗我部元親の股肱の若手武将として重んぜられ1,000石を領した。父中内藤左衛門と共に「四国征伐」に参陣した。父中内藤左衛門の病没後は財田城番となり「中富川の戦い」でも戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」後浪人した。1601年、兄桑名一孝と共に藤堂高虎に200石で仕えた。1614年「大阪冬の陣」では兄桑名一孝の麾下に属して参陣した。1615年「八尾の戦い」で討死した。

中内左近衛門尉【なかうちさこんざえもんのじょう(15??~15??)】

長宗我部家臣。半山姫野に屋敷を持ち、津野庄内、及び高岡、蓮池等に給地を持つ。長宗我部信親の命で浦戸衆の国真左馬亮、三宮重平衛尉と共に津野庄に派遣され、津野家側の役人と共に津野庄の奉行として活躍した。

中内三由【なかうちさんゆ(1505~1582)】

長宗我部家臣。官途は兵庫亮。室は香宗我部山城守の娘。中内家枝連衆。勇将としてしられ、阿波白地城主に任じされた。

中内重由【なかうちしげゆ(15??~15??)】

中内三由の男。通称与三右衛門。

中内三安【なかうちさんざい(15??~15??)】

中内三由の次男。通称惣右衛門。室は久武内蔵助の娘。1562年「吉良城の戦い」で戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」に参陣したが敗走した。大阪に引き上げたときに中内惣右衛門を含めて長宗我部勢はわずか七名となっていた。長宗我部家の改易後、浪人した。1614年「大阪冬の陣」では、長宗我部盛親とともに大坂城に入城した。大阪城が落城に至って長宗我部盛親と共にに落延びようとするが、八幡近くで蜂須賀家の長坂三郎左衛門に捕縛された。

中内弥五左衛門【なかうちよござえもん(15??~15??)】

中内三安の男。

中島可之助【なかじまべくのすけ(15??~15??)】

長宗我部家臣。長宗我部元親の使者として、織田信長に面会した。中島可之助は身分が低かったため、「席に臨むごとに終に座上に着く事なし」と気にしていた。そこで漢文では必ず一番上に来る「可」という字を使った。。「四国統一」を目指していた長宗我部元親は、嫡男長宗我部信親の烏帽子親を天下統一を目指していた織田信長に依頼し、織田家と同盟しようと考えていた。家臣は家老を遣わすべきだと主張したが、長宗我部元親の鶴の一声で可之助に決まった。早速可之助は尾州へ赴いた。織田信長は可之助に向かい、「元親は無鳥島の蝙蝠だな」と言ったところ、可之助はあわてず「蓬莱宮の寛典に候」と答えた。織田信長はこの答えを賞賛し、烏帽子親を引き受け、長宗我部元親の四国の切り取り自由も認めた。

中島親吉【なかじまちかよし(15??~15??)】

長宗我部家臣。官途は大和守。長宗我部国親、長宗我部元親の二代に渡って仕え4,400石を領した。長宗我部国親に進言し計をもって池家を降した。「本山家討伐」でも戦功を挙げた。1561年に、本山家支城神森城を福留隼人と攻略した。1562年「朝倉城の戦い」にも勝利し、泰泉寺城を抜いて城監を勤めた。1582年「中冨川の戦い」で戦功を挙げた。

中島重勝【なかじましげかつ(15??~1583)】

中島親吉の男。通称与市兵衛。「羽根城の戦い」に参陣した。1579年、香川信景の岡豊城出仕のときに奏者を務めた。1581年、一条内政追放の使者にもなった。1583年「引田城の戦い」で討死した。

中島重房【なかじましげふさ(15??~16??)】

中島重勝の男。通称与市兵衛。1586年「戸次川の戦い」敗戦後、土豪の抵抗を撃退して帰国した。検地奉行を勤める一方、書の才にすぐれ、書家としても名をなした。1592年「文禄の役」に参陣し「普州城の戦い」で戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」にも参陣した。改易後は藤堂家に仕官するも、「大坂冬の陣」に参じた長宗我部盛親をしたって大坂入城を果たした。1615年「八尾の戦い」で奮戦したが敗戦、浪人した。

中村信義【なかむらよしのぶ(15??~15??)】

佐川中村城主。長宗我部家臣。官途は越前守。

中村兵庫【なかむらひょうご(15??~15??)】

中村信義の男。1592年「文禄の役」に参陣し戦功を挙げた。使者として羽柴秀吉の元へ使わされた。1600年「関ヶ原の役」では長宗我部盛親の室を警護して伏見に送った。晩年は他家には仕官せず、京都鳴滝の般若寺で嫡男中村秀憲とともに住んだ。

中村秀憲【なかむらひでのり(15??~15??)】

中村兵庫の男。

忍性【にんしょう(15??~15??)】

長岡郡忍蔵主。長岡郡五台山吸江庵の禅僧であったが、明敏な人で儒学を南村梅軒に学んで経書に精通し、如淵と交わり内省につとめ切磋琢磨した。のちに如淵と共に元親に招かれ、岡豊城下で程朱子学を講じ、大きな影響を与えた。1588年、長宗我部家の跡継問題がおこると、如淵は誅され、忍性も退けれられ失意のうちに没した。

野田正永【のだまさえい(15??~1649)】

長宗我部家臣。通称太兵衛。野田家は長宗我部氏第七代の兼光の弟俊吉が南国市野田を領して野田姓を称したことに始まる。分家には上村家などがあり、古くから長宗我部家の家臣として仕えた。1600年、長宗我部家の改易後、山内忠義の家老、深尾出羽守に330石で仕えた。

野田正元【のだまだもと(15??~15??)】

野田正永の男。通称太兵衛。

野中貞吉【のなかさだよし(15??~15??)】

香美郡吉野城主。長宗我部家臣。

野中親孝【のなかさだよし(15??~15??)】

野中貞吉の男。通称三郎左衛門。父野中貞吉の代から長宗我部家の麾下に属した。「本山家討伐」で数々の戦功を挙げた。長宗我部家の若年寄衆として1,000石を領した。国政奉行となり美良布神社を造営した。長宗我部家滅亡後も遺臣の長的な存在であり、連判状を預かって他の遺臣と共に大阪に入城した。落城後播磨の本多美濃守に仕えた。

野中貞俊【(15??~15??)】

野中貞吉の次男。通称源助。野中三郎左衛門親孝の弟。長宗我部元親の小姓組となり37石を領した。長宗我部家の滅亡後は阿波に落ちるが、のち韮生郷民の要請で帰国し芳野の庄屋になった。

野中源兵衛【のなかげんべい(15??~15??)】

野中貞俊の次男。吉良家臣の勝賀野次郎兵衛の成敗に土居治部らと向かい、手傷を負いながらもなんとか任務を遂行した。

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【は】

浜口直乗【はまぐちなおのり(15??~1586)】

長宗我部家臣。通称興三右衛門。浜口家は香美郡手結浦より起った家。興三右衛門は長宗我部家に仕えて重臣とな「戸次川の戦い」で討死した。その薙刀は無銘であるがかなりの品で、鰐丸と名づけられ、岩井王洲之が詩を作り家宝とした。

浜田善左衛門【はまだぜんぜんざえもん(15??~15??)】

長宗我部家臣。浜田家は香美郡田村庄下田村の豪族で地検帳によると一族は二十九軒に及び繁栄していた。本山家との「長浜城の戦い」で兄浜田久左衛門が敵将宇賀平兵衛と戦い討死にしたが、浜田善左衛門はただちに平兵衛を討ち取り、兄の仇を取った。

浜田善右衛門【はまだぜんえもん(15??~1578)】

長宗我部家臣。長宗我部元親は江村孫左衛門、中内藤左衛門、桑名太郎左衛門ひきいる土佐勢兵10,000余りで讃岐藤ノ目城を奪取した。その後守将として桑名太郎左衛門、浜田善右衛門以下1,000余りを守備に置いた。しかし、香川信景、長尾大隈守、羽床伊豆守率いる兵3,000余りが押し寄せやむなく開城。再度藤ノ目城攻略の勢を起こし、敵主将新目弾正を攻め、城を攻め落とす。浜田善右衛門は恨みを晴らすべく血気にはやり長宗我部元親の命を聞かずに突撃、討死した。

播磨屋宗徳【はりまやそうとく(15??~1648)】

土佐国浦戸の商人。屋号は播磨屋。通称九郎右衛門。播磨国の豪商であったが、長宗我部元親の讃岐国出兵の際、兵糧の調達を行った功績によって土佐に招かれた。浦戸城下に移った宗徳は、長宗我部家に商人として仕えていたが、主家滅亡後山内一豊が入場し、大高坂の地に新城を築き、居城を移すと、一豊は宗徳らを特権商人として重用し、大高坂城近くに住居を移した。その後も町づくりに貢献し、町年寄役を務めた。1606年、町役人に専任させる為に商人としての振る舞いを禁止された。

比江山親興【ひえやまちかおき(1557~1588)】

長宗我部国親の弟国康の次男であり、長宗我部元親の従兄弟であった親興は、一門衆の中でも発言力があり、若年寄衆の筆頭であった。長宗我部姓も名乗っている。秀吉の四国征伐では阿波国岩倉城の守備に就いた。長宗我部家が降伏すると人質として大坂に送られる津野親忠に付き添っている。戸次川の合戦後に勃発した家督相続問題では、津野親忠を後継者に推薦して、長宗我部盛親を推す久武信直や元親と対立した。長宗我部元親に対しても世間の習いに従うべきとの主張を緩めなかった為、長宗我部元親から邪険にされ、切腹を命ぜられた。妻や子供らも殺された。

久武親信【ひさたけちかのぶ(15??~1579)】

久武昌源の男。官位は内蔵助。久武家は長宗我部三家老とよばれ、長宗我部家の土佐国入部時の家臣久武源三から仕える譜代の家臣。長宗我部元親に仕え、その誠実な性格から長宗我部元親に重用され、高岡郡佐川城40,000石を領した。1577年、南伊予方面の軍を担当する総指揮権(伊予軍代)を与えられ、川原崎家を討つ。1579年、宇和郡岡本城を攻撃中に、城を守る土居清良の奇略に遭って討死した。長宗我部親信は、有馬温泉で羽柴秀吉と会見したことがあり、そのとき、秀吉の器量のほどを知ったと言われている。また、弟久武親直については常々危惧を抱いていたとされ、岡本城攻防戦で討死する直前、長宗我部元親に向けて「弟の彦七(親直)は腹黒き男ゆえ、お取立て召されるな」と言い残した。娘は長宗我部元親の養女となり東条関兵衛に嫁いだ。

久武親直【ひさたけちかなお(15??~15??)】

久武昌源の次男。通称内蔵助。兄久武親信は長宗我部元親に対し、「自分が戦死しても、御家の害になるので弟に後を継がせないように」と伝えていた。1579年、兄久武親信の死後、家督を相続する。1584年、伊予陣代に任命されるれ、伊予深田城を攻略した。1586年、長宗我部信親の討死で家督相続問題が起こると、長宗我部元親の四男長宗我部盛親を支持し、反対派の吉良親実、比江山親興に対しては長宗我部元親に讒言して粛清した。1600年「関ヶ原の役」後は、主戦論を抑えて盛親に松平元康への恭順を勧めた。長宗我部盛親の兄津野親忠を殺すように進言したため、長宗我部盛親は兄殺しを松平元康にとがめられて改易された。

櫃屋道清【ひつやどうせい(15??~1662)】

土佐国浦戸の商人。松本重則の男。別名松本太郎左衛門。松本家は天正年間に父勘解由重則(根来衆)が紀州松江より来国し長宗我部家に仕える。後に商家となり繁栄する。山内入国後も活躍し播磨屋らと共に長崎と土佐を行き来する。店自体も播磨屋の向かいにあり、その間に播磨屋橋が架かっていた。

平野正直【ひらのまさなお(15??~15??)】

長宗我部家臣。官途は加賀守。

平野親政【ひらのちかまさ(15??~15??)】

平野正直の男。通称弥惣兵衛。別名北添弥惣兵衛。平野家は橘姓を名乗り、京都平野城主であった。平野親政の代に北添姓に改姓した。平野親政は「大阪夏の陣」のおり、京都に在住して活躍した。

平野五郎左衛門【ひらのごろうざえもん(15??~15??)】

平野親政の男。別名北添五郎左衛門。

福留親政【ふくどめちかまさ(1511~1577)】

長岡郡田辺島城主。福留房吉の男。官途は飛騨守。長宗我部元親に「親」の一字を与えられるなど信頼され、感状を受けた数は21回に及び、1563年、元親が本山攻めに向かい岡豊城の防備が手薄になった際に安芸国虎が攻めてくるも撃退した。働きぶりは福留の荒切りと呼ばれた。元親の嫡男の長宗我部信親の守役を務めるなど重用されていたが、1577年「伊予の戦い」で討死した。

福留儀重【ふくとめよししげ(1549~1586)】

福留親政の男。官途は隼人佐。長宗我部元親に仕え活躍したが、長宗我部氏が豊臣秀吉の四国征伐に敗れ降伏し、九州征伐の先陣として出陣し大敗した豊後戸次川の戦いにおいて元親の嫡子の長宗我部信親らと共に戦死した。「福留の荒切り」と称された父親政に劣らず、土佐の童謡にも「蛇もハミもそちよれ、隼人様のお通りじゃ」と歌われる程、武勇に優れる一方、禁酒令を破った主君元親を諌めるなど忠義にも篤い人物であった。

福留政親【ふくとめまさちか(15??~15??)】

福留儀重の男。通称半右衛門。長宗我部元親、盛親に仕える。文禄の役で初陣。関ヶ原の戦いで長宗我部家改易後は、加藤嘉明を経て井伊直孝に仕え、るが大坂の役では盛親の陣に参陣したという。

戸波親武【へわちかたけ(15??~15??)】

戸波城主。長宗我部国康の男。別名長宗我部親武。長宗我部家の枝連衆。1569年、長宗我部元親は、一条軍の戸波城を攻城し落城させた。親武は元親から戸波城の城主に任ぜられる。その際、戸波の名字を名乗る。1584年、長宗我部軍の四国平定で武功をあげ十河城の城主となった。羽柴秀吉軍の四国攻めでは、植田城で羽柴秀吉軍を防戦した。

戸波親清【へちわちかきお(15??~15??)】

戸波親武の男。通称十兵衛。別名宿毛右衛門太夫。「四国平定戦」で活躍した。長宗我部家の改易時には浦戸城で籠城を主張した家中屈指の武断派。1615年「八尾の戦い」で藤堂家との戦にて活躍し、他家の記録にもその名が出てくる。その後藤堂家に仕えた。柳生新陰流を修め、あだ討ちで勇名な荒木又右衛門の指南役となった。

別役義重【べつやくよししげ(15??~15??)】

別役城主。通称三吉郎。別役土居を中心に東別役城、中西川上城、中西川南城等の支城を支配した。長宗我部家に仕えて東川、西川に520石を領した。領地の聖神社の境内に「戸次川の戦い」への出陣のさいに武運を祈って植えられたと伝えられる杉尾の巨木が残る。

別役重勝【べつやくしげかつ(15??~15??)】

別役義重の男。通称道遊。

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【ま】

前田正征【まえだまさのり(15??~15??)】

長宗我部家臣。通称平左衛門。1572年、一領具足として長宗我部家に仕えた。後に戦功により120石を領した。

前田正義【まえだまさよし(15??~15??)】

前田正征の男。長宗我部家中で物頭となり600石を領した。

前田正光【まえだまさみつ(15??~15??)】

前田正義の男。通称忠右衛門。松平家の馬廻衆となり3,000石を領した。

森弥五郎【もりよごろう(15??~15??)】

本能寺の僧。囲碁の打ち手で本能寺の僧、利玄坊の弟子となり京都の長宗我部元親の膝元に置かれた。その囲碁の実力は本物で松平元康や本因坊、他の諸大名らとも面識があった。長宗我部元親に寵愛されて大名同士の接待で活躍した。長宗我部盛親が家督相続後はその扱いはまったく変わり、あまり重用されなくなった。

森下忠左衛門【もりしたちゅうざえもん(15??~1578)】

長宗我部家臣。木能津真川名に居住し真川姓を称した。領地三町十七代を知行した一領具足。讃岐藤ノ目城の戦にて討死した。

森下彦兵衛【もりしたひこべい(15??~15??)】

森下忠左衛門の男。

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【や】

安田弥次郎【やすだやじろう(15??~1635)】

長宗我部家臣。通称権太夫。本姓は惟宗姓で地名より安田家を称した。1600年「関ヶ原の役」に参陣した。1614年「大阪冬の陣」に参陣した。泉州堺に潜居した後に土佐国に帰国した。

安田彦左衛門【やすだひこざえもん(15??~15??)】

安田弥次郎の男。

山川親徳【やまかわちかとく(15??~15??)】

香美郡王子城主。国吉甚左衛門の男。通称五郎左衛門。香美郡大忍庄山川城に居住し、山川家を称した。山川家は長宗我部家の庶家で早くから麾下に属した。山川親徳は羽柴秀吉の指示を受けた長宗我部元親の命により、安芸郡和食村に蟄居していた根来の残党、専式坊法印の討伐に向かい、吉田孫左衛門、黒岩治部左衛門と協力して討取った。1600年「関ヶ原の役」後、小出大和守に仕え500石を領した。

山川親政【やまかわちかまさ(15??~15??)】

山川親徳の男。通称助之進。

山川親方【やまかわちかかた(15??~15??)】

山川親徳の次男。通称清右衛門。

山内祐経【やまのうちすけつね(15??~15??)】

香美郡梶ヶ谷城主。山内家臣。通称次郎兵衛。

山内三郎左衛門【やまのうちまぶろうびょいえ(15??~15??)】

山内祐経の男。長宗我部元親、長宗我部盛親二代に渡って仕えた。奉行衆となり、家中一切の政務を担当し久万次郎、豊永藤五郎と共に九町三反を領した。

山崎山重【やまざきやましげ(15??~15??)】

物部村山崎城主。山崎盛高の男。通称勘解由左衛門。長宗我部元親に従い「四国平定」に活躍した。讃岐の陣にて討死した。

山崎盛高【やまざきもりたか(15??~15??)】

山崎山重の男。1586年「戸次川の戦い」で討死した。

吉田孝頼【よしだたかより(1494~1563)】

長宗我部家臣。吉田則弘の男。官途は備中守。室は長宗我部元秀の娘。家老衆筆頭で10,000石を領した。1518年、長宗我部国親が岡豊城に復帰すると、吉田孝頼は長宗我部国親の妹を室として迎えた。参謀として仕え、謀略を以って長宗我部国親の勢力拡大の貢献した。1526年、長宗我部家は同盟者がおらず、近隣の山田、本山、香宗我部家は互いに同盟関係にあった。吉田孝頼はすでに香宗我部秀義に嫁ぐ事が決まっている長宗我部国親の娘を本山茂辰に室にと勧めた。長宗我部国親の違約に香宗我部秀義は激怒し、長宗我部国親討伐の兵を挙げた。吉田孝頼は出家して詫びたため、香宗我部秀義は本山家にその軍を向けた。これは、香宗我部家と本山家を争わせ、弱体化を謀る謀略であった。

吉田貞重【よしださだしげ(15??~15??)】

吉田孝頼の男。通称次郎左衛門。家老衆として3,500石を領した。岡豊城に安芸勢が来襲したさいも、福留親政らとともに奮戦した。1569年、安芸国虎を追討すべく出陣したが、敵との交戦の際に、槍で目を突かれて重傷を負ったが、その敵を突き伏せて討取った。吉田貞重は囲碁が上手であったので、碁の先手は一目であるためにこの名がついたという。また能書家で博学の才を持って知られ、天文にも長じていた。長宗我部元親の四国制覇に貢献した。1588年、長宗我部元親が岡豊城より大高坂山城に拠点を移した際、その立地を高く評価した。この地は水害が多く、まだ治水が不十分な当時では使い物にならない城だった。そのため、長宗我部元親は浦戸城に拠点を移した。1600年「関ヶ原の役」で長宗我部家が改易となり、山内一豊が入り、新たな土佐の領主となった。しかし長宗我部家再興を願う遺臣は浦戸城を占拠して立て籠もる「浦戸一揆」が発生した。吉田貞重はこの一揆には加わらず、浦戸一揆を批判して浦戸城の開城を勧めた。浦戸一揆は鎮圧され、城内の273人の遺臣は謀殺された。

吉田重親【よしだしげちか(15??~1615)】

吉田貞重の男。通称内匠頭。長宗我部家の重臣として仕えた。1600年「関ヶ原の役」で、長宗我部盛親が改易されると浪人となった。1614年「大坂冬の陣」では、再起した長宗我部盛親に従い大坂城に入城した。1615年「八尾、若江の戦い」で、増田盛次らとともに先鋒として出撃するも、兵数や装備の不足により劣勢を強いられ討死した。

吉田重俊【よしだしげとし(1498~1570)】

吉田則弘の次男。官途は備後守。通称大備後。長宗我部国親、長宗我部元親父子の二代に渡って仕えた。智勇に優れた人物。長宗我部国親の「大津城の戦い」では長宗我部勢の先手として活躍した。1558年、上夜須城主に任ぜられた。1569年「安芸国虎討伐戦」においては、吉田孝俊と共に奇計によって安芸勢を敗走させ、籠城した安芸勢を計略を以って内部崩壊に導いた。

吉田重康【よしだしげやす(15??~1615)】

吉田重俊の男。官途は伊賀守。家老職として3,800石を領した。武勇の士で長宗我部元親の初陣を助け戦功を挙げた。1563年、安芸国虎が兵5,000余りを率いて岡豊城を攻めるが撃退に成功した。「本山討伐」に参陣中、馬之上城の留守を安芸勢に突かれるが、室が城内の動揺を抑えて撃退した。安芸勢が上夜須城攻めの時は、城内より出撃してこれを撃退し、そのまま岡豊に向かった本隊おって岡豊に進撃し攻撃を加えて敗走させた。

吉田孝俊【よしだたかとし(15??~15??)】

吉田重康の男。

吉田康政【よしだやすまさ(1565~1634)】

吉田孝俊の男。通称孫左衛門。安芸軍の惣軍代。1579年、阿波に出征し、阿波小松島では敵に腕を切られながらも桑名親勝の危急を救った。1582年「中富川の戦い」で戦功を挙げた。「四国征伐」では阿波渭山城を守備した。1582年「戸次川の戦い」では元親を警護し土佐に帰還。文禄の役に出征して功をたて、関ヶ原にも出陣し敗戦後も盛親とともに上坂。長宗我部家改易後、一時山内家に従えるが、大和に隠遁して大阪入城、旧主盛親に従い戦った。

吉田政重【よしだまさしげ(1568~1628)】

吉田俊政の男。通称市左衛門。室は秦泉寺掃部の娘。継室は梶原外記の養女。身の丈六尺二寸の偉丈夫で、武勇に優れていた。1582年の中富川の戦いを初陣に、各地を転戦して武功を挙げた。長宗我部元親は天下人の羽柴秀吉に屈しその麾下に属した。 1592年「文禄、慶長の役」では、敵将を捕らえるという戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、長宗我部盛親は不戦敗を喫し所領を没収された。1614年「大坂冬の役」では、長宗我部盛親に従って大坂城に入城した。大坂城落城後も生き延び、土佐国に帰国した。

吉田平左衛門【よしだへいざえもん(1591~15??)】

吉田政重の男。大阪に入城し長宗我部隊で戦う。敗戦後は一時紀州に住み剃髪して三悦と号した。阿波に移り撫養にて没。桑島光徳寺に葬られる。

吉田猪兵衛【よしだいのべい(1592~1660)】

吉田政重の次男。兄と同じく母は秦泉寺掃部の娘。改易後安芸福島正則に仕えるが、大阪に入城する。敗戦後流浪した。

滝本寺非有【ろうほんじひゆう(15??~15??)】

長岡郡岡豊城下の滝本寺の住職。国書、経書、仏典に通じ、その学識と才覚から長宗我部元親の帰依を受けて召し出され、長岡郡池之村の代官として庄屋の竹内左衛門とともに活動した。1593年、長宗我部家が羽柴大名となり権力集中が必要かつ当主不在が多くなるころ、非有の活動は活発となっている。長宗我部元親の留守中には事後承認を受ける形で、家老の久武親直や山内三郎右衛門、豊永藤五郎、久万二郎兵衛らとともに家臣の職務後継を決めたり、公役を努めない家臣への切米支給を停止するなどの広範な権力を振るった。軍議には参加したが直接軍事指揮を担当することはなかった。また同じ滝本寺の栄音が金子元宅等への外交使を多く勤めたのと違い、内政に手腕を振るった。長宗我部盛親の代になり、関ヶ原の戦いの折りには伊予調略に乗り出した毛利輝元の家臣毛利元康と堅田元慶が非有宛てに出兵要請の書状を送っている。特に文筆巧みで、「長宗我部元親百箇条」に代表される長宗我部氏の法令や文書の多くを起草した。長宗我部元親から何度となく還俗を促されたが肯んぜず生涯僧として通した。1600年「関ヶ原の役」後の領国没収の際には、一領具足たちに浦戸城下へ集住して徹底抗戦を呼びかけるなど、硬骨漢であった。

和田義清【わだよしきよ(15??~15??)】

長宗我部家臣。官途は越前守。和田家は和田義盛の子孫で土佐郡森郷和田に来住し、和田義清の代に長宗我部家に仕えた。  

和田勝右衛門【わだかつざえもん(15??~1636)】

和田義清の男。通称彦之丞。別名高野義光。勝右衛門はこの義清の子で同郷本川郷高野に居住したため、一時地名を取って高野義光(義充)と名乗った。「四国征伐」では手勢200余りを率いて伊予金子城主、金子備後守元宅と共に毛利勢に抵抗したが敗れ、義充は非常な苦難ののちに土佐に帰還し、元親より篭城の苦労をねぎらわれた。1600年「関ヶ原の役」後、多くの領地を失ったが、土佐郡高野村の道番をつとめた。

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【資料Ⅰ】

調査中。

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【資料Ⅱ】

長宗我部三家老【ちょうそかべさんかろう】

久武親直、中内、桑名。

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【資料Ⅲ】

汗葦毛【あせあしげ】

幡多郡伊与木村より献上された馬。軍陣にて一大事の時に汗を流すくせを持っており、汗葦毛と命名された。「戸次川の戦い」で、内記黒と共に長宗我部元親を退却させた。

鉄砲黒【てっぽうぐろ】

幡多郡の家臣那須外記が献上した馬。鉄砲の音を聞いても驚かない所から鉄砲黒と命名された。

内記黒【ないきぐろ】

羽柴秀吉から元親が拝領した馬。土佐では、土佐駒と呼ばれる馬が使用されていた。この土佐駒は力が強く、持久力があり農作業には適していたが戦には適さない馬である。内記黒は大切に扱われ「戸次川の戦い」では長宗我部元親を乗せて出陣した。戦中一度は逸れてしまうが、汗葦毛と共に長宗我部元親の前に再びあらわれ、長宗我部元親を無事に戦線離脱せしめた。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

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※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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