2012年5月1日火曜日

戦国因幡国人名辞典


----------------------------

【あ】

青木実俊【あおきさねとし(15??~15??)】

八頭郡青木館主。通称六郎左衛門。

赤池助左衛門【あかいけすけざえもん(15??~15??)】

山名豊国家臣。1581年、「第二次鳥取城の戦い」では、吉川経家とともに鳥取城に籠城した。吉川経家の意向を受け穴俵を被り川を下って敵の包囲網を切り抜け、救援を求める書状を毛利輝元に届けた。参考文献:『鳥取県郷土人物文献データベース』by鳥取図書館。

秋里玄蕃允【あきざとげんばのじょう(15??~15??)】

山名豊国家臣。秋里城主。1581年、秋里玄蕃允は毛利輝元に属した。吉川経家とともに鳥取城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。落城後は吉川春元に仕えた。参考資料:「城めぐドットコム」by本岡。

勝山尼子正久【あまこまさひさ(15??~15??)】

勝山城主。官途は豊前守。1579年、羽柴秀吉の意向を受けた、鹿野城主亀井茲矩が勝山城を攻撃、尼子正久が守備していた勝山城は陥落した。

荒神谷七郎左衛門【あらがみしちろうざえもん(15??~15??)】

蛇山城主。

安藤信濃守【あんどうしなの(15??~15??)】

尼子勝久家臣。白地城主。1577年、羽柴秀吉が播磨国上月城を攻撃した際、安藤信濃守は兵800余りを率いて参陣した。

安藤義光【あんどうよしみつ(15??~15??)】

毛利豊元家臣。八頭郡津黒城主。別名安藤義躬。城主坂川平左衛門とともに山中幸盛勢と戦い敗れ但馬に敗走中、広留野で土民に謀殺された。参考文献:『鳥取県郷土人物文献データベース』by鳥取図書館。

安藤釆女正【あんどううねめのしょう(15??~15??)】

岩美郡半滝城主。1580年、「第二次鳥取城の戦い」では、羽柴秀吉勢の攻撃を受け落城した。

石井常成【いしいむつねなり(1582~1649)】

鳥取の商人。町年寄筆頭役。通称彦右衛門。別名石井宗徳。参考文献:『鳥取県郷土人物文献データベース』by鳥取県図書館。

磯部康氏【いそべやすいじ(15??~16??)】

智頭郡景石城主。通称兵部大輔。別名山名豊直。1580年、羽柴秀吉は景石城を攻略後、但馬国朝来郡夜久野城主磯部康氏を城主とした。鳥取城主山名豊国は、磯部康氏が若桜城に出かけている隙に陥落させた。1581年、「第二次鳥取城に戦い」で磯辺康氏は戦功を挙げた。景石城失陥の罪を許され、景石城3,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」の際、磯部康氏は石田三成勢に属したため、所領を没収された。

伊田下野守【いだしもつけのかみ(15??~15??)】

八頭郡半柵城主。1572年、武田高信は、嫡男武田又太郎、次男武田与重郎、鴨尾城主武田又三郎の三人を大将とし、家臣の西郷因幡守の継嗣西郷与五郎を参謀として、但馬国芦屋城主塩冶肥前守を攻撃した。半柵城主伊田下野守、小畑城主小畑出羽守、秋里一族塩見村高山、高野、吉見範仲など三家、岩常城主三上三郎右衛門などを旗頭とし兵800余りで海陸の二手に分かれ侵攻した。しかし芦屋城方栃谷城主塩冶左衛門尉、七釜城主田公筑前守、指杭城主屋谷伯耆守、井戸城主河越大和守、黒阪城主黒阪因幡守の反撃を受け武田田又太郎勢は総崩れとなった。この戦いで武田又太郎はじめ、鴨尾城主武田又三郎らはことごとく討死した。武田与重郎は落延びる途中、土民に発見されて竹槍で謀殺された。

岩崎弾正忠【いわさきだんじょう(15??~15??)】

岩崎城主。武田高信に滅ぼされた。




海老名七郎【えびなしちろう(15??~15??)】

山名豊国家臣。釜谷城主。1563年、武田高信が山名豊国に謀反した際、武田高信勢に属した。

逢坂與十郎【おうさかよじゅうろう(15??~15??)】

気高郡会下城主。弓術の達人。天正年間、敵襲を受け陥落、青谷に落延びた。参考文献:『鳥取県郷土人物文献データベース』by鳥取県立図書館。

大坪甚兵衛【おおうぼじんべい(15??~15??)】

山名豊国家臣。八頭郡大坪城主。元亀年間、尼子勝久の家臣山中幸盛の攻撃により落城した。

大江忠真【おおえただざね(15??~15??)】

毛利豊元家臣。官途筑後守。別名毛利苓原。1533年、出家して、法名を恕休と称した。参考文献:『鳥取県郷土人物文献データベース』by鳥取県立図書館。

大坪一之【おおつぼいちの(15??~15??)】

大坪甚兵衛の男。1574年、「小松原の戦い」で武田助信、亀井茲矩らの攻撃を受けたが撃退した。参考文献:『鳥取県郷土人物文献データベース』by鳥取県立図書館。

岡六郎左衛門【おかろくろうざえもん(15??~15??)】

八頭郡。別名北村六郎左衛門。羽柴秀吉に通じ禁制などを受けた。参考文献:『鳥取県郷土人物文献データベース』by鳥取図書館。

隠岐土佐守【おきとさのかみ(15??~15??)】

八頭郡富貴谷城主。羽柴秀吉勢に属した。草刈重継の退去後、後淀山城を守備した。草刈重継の家臣進之市兵衛、塚原一伝らの反撃を受け討死した。参考文献:『鳥取県郷土人物文献データベース』by鳥取図書館。

落岩玄蕃頭【おちいわげんばのかみ(15??~15??)】

毛利豊元家臣。八頭郡落岩城主。

小畑出羽守【おばたでわのがみ(15??~1575)】

八頭郡小畑城主。1575年、弟久世兵庫とともに小畑城を守っていたが、尼子勝久の家臣山中幸盛の攻撃により討死した。

上原小兵衛【おばらこひょうえ(15??~15??)】

八頭郡杉ヶ尾城主。戦を好まぬ性であったが戦いえば必ず勝った。1581年、羽柴秀吉勢に降伏した。

----------------------------

【か】

木原元信【きはらもとのぶ(15??~15??)】

八頭郡唐櫃城主。毛利元就勢に属した矢筈城主草刈重継の攻撃を受け、数年持ちこたえるが最後は討取られた。

草苅衡継【くさかりかねつぐ(15??~15??)】

八頭郡淀山城主。官途は加賀守。1532年、浦上宗景勢と戦い美作国苫東郡と苫西郡を切り取り、矢筈城を築いて居城を移した。1542年、毛利元就が出雲国の尼子晴久を攻撃すると、それに従って毛利元就勢に属した。

草苅重継【くさかりしげつぐ(15??~15??)】

草苅衡継の男。1582年、「備中高松城の戦い」で和議条件として美作国は宇喜多秀家へ割譲することとなると、他の美作の諸豪族と同じく草苅重継もこれに対抗した。1582年、佐良山城を攻撃するなど、なかなか城を明け渡さなかった。1584年、草苅重継は開城後、小早川隆景家臣となり、筑前国福岡へ移って福岡家と称した。

草苅加賀守【くさかりかがのかみ(15??~15??)】

茶臼山城主。草苅加賀守は、草苅三郎左衛門とともに茶臼山城を守備した。

首藤豊後守【くびきぶんごのかみ(15??~15??)】

勝山城。尼子正久勢の攻撃を受け落城した。

小松勝豊【こまつかつとよ(15??~1575)】

八頭郡婆ヶ城主。別名小松勝吉。1575年、尼子勝久家臣の山中幸盛勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『鳥取県郷土人物文献データベース』by鳥取県立図書館。

小宮山宗珠【こみやまそうしゅ(15??~15??)】

八頭郡右近城主。官途は備前守。1544年、尼子晴久勢の襲撃を受け降伏した。1578年、羽柴秀吉の攻撃を受け降伏した。

------------------------------------------------------

【さ】

西郷因幡守【さいごういなばのかみ(15??~15??)】

武田高信家臣。八上郡弓河内館主。武田高信に仕え家老職として重用された。1576年、武田高信が山名豊国によって謀殺されると、弓河内村で帰農した。

西郷与五郎【さいごうよごろう(15??~15??)】

西郷因幡守の男。1572年、武田高信は鳥取城に残り、継嗣武田又太郎、次男武田与重郎、鴨尾城主武田又三郎の三人を大将とし、家臣西郷因幡守の継嗣西郷与五郎を参謀として、但馬国芦屋城主塩冶肥前守を攻撃した。半柵城主伊田下野守、小畑城主小畑出羽守、吉見範仲、岩常城主三上三郎右衛門などを旗頭とし兵800余りで海陸の二手に分かれ侵攻した。しかし芦屋城方栃谷城主塩冶左衛門尉、七釜城主田公筑前守、指杭城主屋谷伯耆守、井戸城主河越大和守、黒阪城主黒阪因幡守の反撃を受け武田高信勢は総崩れとなった。この戦いで武田又太郎はじめ、鴨尾城主武田又三郎らはことごとく討死した。

坂川平左衛門【さかがわへいざえもん(15??~15??)】

毛利豊元家臣。八頭郡白磯城主。津黒城主安藤義光とともに尼子勝久の家臣山中幸盛勢に破れ但馬国の落延る途中、広留野で土民に謀殺された。

佐々木駿河守【ささきするがのかみ(15??~15??)】

八頭郡香音寺城主。1581年、羽柴秀吉勢による攻撃を受け落城した。

坂上定六【さかがみさだろく(15??~15??)】

岩美郡猪尾山城主。槍の名手。1579年、羽柴秀吉勢に属して、播磨国姫路に参陣した。

志加奴入道【しかのにゅうどう(15??~15??)】

山名誠通家臣。気多郡鹿野城主。1543年、尼子晴久の侵攻を受け、志加奴入道は手勢300余りで抗戦したが討死した。

篠部周防守【しのべすぼうのかみ(15??~15??)】

岩美郡二ッ山城主。1579年、羽柴秀吉勢が因幡国に侵攻すると、羽柴秀吉勢に降った。1581年、「第二次鳥取城の戦い」で銃弾を受け討死した。

助右衛門【すけえもん(15??~15??)】

気多郡鹿野城主。もと漁師。亀井茲矩に仕えて夏泊村を領した。1592年、「文禄の役」の際、水先案内人を務めた。

------------------------------------------------------

【た】

因幡武田国信【たけだくにのぶ(15??~1545)】

山名誠通家臣。邑美郡鳥取城主。官途は山城守。別名武田高義。1545年、鳥取城を改築した。1546年、「橋津川の戦い」では、南条宗勝を支援してで尼子晴久と戦った。山名誠通より謀叛の疑念を受け謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

因幡武田高信【たけだたかのぶ(1529~1578)】

武田国信の男。官途は三河守。1545年、父武田国信が山名誠通に謀殺されたため、因幡武田家の家督を相続した。山名誠通に謀反を起こし鳥取城を奪還した。1563年、二上山城主三上豊範と同盟を結んだ。毛利元就と結び、鹿野城主山名豊成を謀殺した。「湯所口の戦い」で中村豊重を敗死させた。「勢天神山城の戦い」で因幡守護職山名豊数を鹿野城に追い落とし、自刃に追い込んだ。鹿野城主山名豊敏を毒殺し、その弟の山名郎豊次も立見峠で謀殺し因幡山名家を滅ぼした。山名豊弘を擁立して因幡国での支配権を確立したが、有力国人層の掌握に苦しみ、さらに因幡国への進出を図る美作国の草苅衡継や尼子勝久、山中幸盛ら尼子家残党の出没に悩まされた。1569年、法美郡甑山城を攻略し、山中幸盛を敗走させた。1571年、「芦屋城の戦い」で、塩冶高清勢と戦い大敗し、継嗣武田又太郎と次男武田与十郎を失った。1572年、甑山城に侵攻した山中幸盛勢と戦い敗北した。鳥取城を山名豊国に明け渡した武田高信は鵯尾城に退いた。山名豊国が毛利輝元と和議を結び、毛利輝元勢の後ろ盾を失うと鵯尾城の維持も困難になった。1575年、武田高信は但馬国に落延び、芦屋城主塩冶高清を仲介に毛利輝元に助命を願ったがまもなく病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

因幡武田又三郎【たけだまたさぶろう(15??~1571)】

武田国信の次男。高草郡鵯尾城主。1563年、山名豊国との抗争に備え、兄武田高信から鵯尾城主に任じられた。因幡守護職山名豊数を布勢天神山城から追い落とした。1565年、山名豊国、山中幸盛勢の攻撃を受けた。1571年、「芦屋城の戦い」で甥の武田又太郎と次男武田与十郎ともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

因幡武田源五郎【たけだげんごろう(15??~1563)】

武田国信の三男。道竹城主。1563年、武田高信は二上山城主三上豊範のもとに武田源五郎を送って盟約を結び、天神山城主山名誠通と争った。山名豊数勢の攻撃を受け落城した。

因幡武田又太郎【たけだまたたろう(15??~1571)】

武田高信の男。1571年、武田高信の意向を受け、弟武田与重郎、叔父武田又三郎、家臣西郷与五郎、半柵城主伊田下野守、小畑城主小畑出羽守、岩常城主三上三郎右衛門、高山、高野、吉見など兵800余りで、但馬国芦屋城主塩冶肥前守を攻撃した。塩冶肥前守勢の栃谷城主塩冶左衛門尉、七釜城主田公筑前守、指杭城主屋谷伯耆守、井戸城主河越大和守、黒阪城主黒阪因幡守らの反撃を受け武田高信勢は総崩れとなり、武田与十郎ととも討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

因幡武田与重郎【たけだよじゅうろう(15??~1571)】

武田高信の次男。1571年、「但馬芦屋城の戦い」に兄武田又太郎とともに参陣するも敗北、落延びる途中、土民に発見されて竹槍で突き殺された。

因幡武田助信【たけだすけのぶ(1561~1646)】

武田高信の三男。通称源三郎。1574年、「」では、亀井茲矩とともに小松原に、八東郡大坪城主大坪一之を攻め敗北した。1576年、山名豊国によって父武田高信が謀殺されると西郷因幡守によって、高草郡松上村の松上社神主大畠平左衛門の屋敷に匿われた。のちに南条元続に引き取られた。1580年、「長和田、長瀬川の戦い」に兵500余りを率いて参陣して、南条元続を支援した。鹿野城番であった亀井茲矩に疎まれたため、計略を以って鹿野城より追放された。再び流浪の身となるも、まもなくして毛利秀包に仕えた。1601年、但馬国村岡城主山名豊国に仕え200石を領した。

田公綱典【たこうつなのり(15??~15??)】

八上郡日下部城主。別名秋庭綱豊。1577年、「第一次但馬国侵攻」では、羽柴秀吉勢の攻撃を受け落城、気多郡宮吉城主田公高家を頼って落延びた。その後、山名豊国勢に属して羽柴秀吉と戦った。1581年、「第二次鳥取城の戦い」では、羽柴秀吉勢に属して山名豊国とともに参陣した。山名豊国が七美郡村岡城主になると執事として仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田公澄典【たこうすみのり(15??~15??)】

田公綱典の男。山名豊国の用人を務めた。

田公宗彰【たこうむねあき(1573~1646)】

田公綱豊の次男。別名「沢庵和尚」。臨済宗の僧。1583年、出石城下の唱念寺で出家した。宗鏡寺に入り、希先西堂に師事。1591年、希先西堂が病没後、出石城主前野長康から春屋宗園の弟子薫甫宗忠とともに宗鏡寺に招いた。1594年、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵和尚もこれに従い大徳寺に入った。薫甫の病没後、和泉国堺で南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事した。1607年、大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持した。1609年、大徳寺の住持に任じられた。田公宗彰は大徳寺を去り堺へ戻った。1620年、郷里出石に帰り、出石城主小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結んだ。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田公高家【たこうたかいえ(15??~15??)】

山名豊国家臣。気多郡宮吉城主。通称新助。田公流銃術の名手。1578年、羽柴秀吉が因幡国に侵入すると、羽柴秀吉に内応した。1580年、吉川元春の攻撃を受け落城した。毛利輝元勢に属した。1579年、「第一次鳥取城の戦い」では、多気郡の重要拠点宮吉城を守って羽柴秀吉勢と戦った。1581年、織田信長勢の鹿野城主亀井茲矩に内応したが、発覚杉原盛重によって鎮圧された。妻子とともに宮吉城から亀井茲矩のもとに落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田公豊高【たこうとよたか(15??~15??)】

山名豊国家臣。官途は土佐守。

田尻大膳【たじりだいぜん(15??~1581)】

荒山城主。1581年、「第二次鳥取城の戦い」で羽柴秀吉勢と戦い討死した。

丹比孫之丞【たんぴまごのじょう(15??~1581)】

八頭郡鷹山城主。1559年、隆平城主波多野民部大輔を討取った。1581年、「第二次鳥取城の戦い」で、羽柴秀吉に敗れ、敗走中に一揆勢に謀殺された。参考文献:『鳥取県郷土人物文献データベース』by鳥取図書館。

徳吉将監【とくいししょうげん(15??~15??)】

山名豊国家臣。徳吉城主。1563年、鳥取城主武田高信が山名誠通に謀反を起こすと、武田高信勢に属した。武田高信が滅亡後すると、毛利輝元税に属した。1581年、「第二次鳥取城の戦い」では、鳥取城に籠城したが敗れた。

----------------------------

【な】

中島正義【なかじままさよし(15??~1590)】

巨濃郡中島城主。通称与七郎。別名山名正義。武田高信と結び山名誠通勢と戦い勢力を拡大した。

中島正時【なかしままさとき(15??~1612)】

中島正義の男。通称四郎左衛門。別名山名正義。道竹城主山名豊弘に属した。1580年、巨濃郡内陸上、宇治、大野の三ヵ所を領した。1581年、「第二次鳥取城の戦い」後、所領を失い流浪の身となった。

長砂伊賀守【ながさないがのかみ(15??~15??)】

毛利豊元家臣。八頭郡長砂城主。

長砂与五郎【ながすなよごろう(15??~15??)】

長砂伊賀守の男。山名豊国が羽柴秀吉に内応すると、毛利豊元は、その使者を長砂与五郎、西村孫三郎らに命じて謀殺させた。

中原木工允【なかはらもくのじょう(15??~1546)】

武田国信家臣。1546年、「橋津川の戦い」に参陣して、矢を受け落馬した尼子豊久を討取る戦功を挙げた。尼子豊久勢は総崩れとなったが、尼子国久が兵を立て直し、武田国信勢に猛攻を加えたために、武田国信勢は壊滅し中原木工允は討死した。

中村政重【なかむらまさしげ(15??~15??)】

高草郡新山城主。山名誠通家臣。通称新三郎。1560年、「私部表の戦い」に参陣した。「布勢仙林寺の戦い」で戦功を挙げた。1545年、新山城主に任じられた。1546年、山名誠通と対立する山名祐豊に寝返って山名祐豊に仕え、後に山名豊数に仕えた。1561年、「若桜の戦い」で継嗣を失った。1563年、「湯所口の戦い」で中村豊重らが相次いで討死する事態に見舞われた。

中村豊重【なかむらとよしげ(15??~1563)】

中村政重の次男。官途は伊豆守。通称十兵衛尉。1560年、「私部の戦い」に父中村政重とともに参陣した。1561年、「若桜の戦い」で父中村政重が討死すると中村家の家督を相続した。1562年、「家之山の戦い」では、山名豊数勢に属して参陣して戦功を挙げた。1563年、「湯所口の戦い」では、大将に任じられ、山名誠通勢を率いて武田高信を攻撃したが、反撃を受け討死した。

中村国重【なかむら にしげ(15??~15??)】

中村豊重の次男。通称源八郎。1563年、「湯所口の戦い」で父中村豊重が討死後、中村家の枝連衆が中村国重の家督相続に反対し、中村家中が混乱した。山名豊数が仲裁に入り、家中の争いを収めた。その後は山名豊数に重用された。1564年、八東郡、高草郡、気多郡、法美郡内で所領を与えられた。山名豊数の病没後は山名豊国に仕えた。1573年、「鳥取城の戦い」では、山名豊国勢に属して参陣した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

----------------------------

【は】

風坂頼武【はいさかよりたけ(15??~1560)】

伊田下野守家臣。八頭郡栃谷城主。通称左衛門尉。1560年、小倉茲政に滅ぼされた。

橋本正恒【はしもとまさつね(15??~15??)】

邑美郡橋本城主。山名豊国家臣。橋本正頼の男。通称将監。1563年、鳥取城主武田高信が山名誠通に謀反を起こした際、その謀反を憎み猪子山城主別所弾正忠とともに武田高信を攻撃したが、武田高信勢の反撃を受け降伏した。

橋本宗継【はしもとむねつぐ(1528~1580)】

橋本正恒の男。兵通称庫頭。父橋本正恒は武田高信に敗れ但馬国養父郡へ逃れ坂本城を築城した。1580年、羽柴秀吉勢が八木城を降して、坂本城も落城自刃した。

橋本宗信【はしもとむねのぶ(15??~15??)】

橋本宗継の男。通称六郎右衛門。1580年、坂本城が落城して父橋本宗継が自刃すると帰農した。

波多野民部大輔【はたのみんぶさいふ(15??~1559)】

八頭郡隆平城主。1559年、鷹ノ山城主丹比孫之丞川狩りに事寄せて、丹比孫之丞を謀殺しようとしたが、逆に丹比孫之丞の策略にはまり伏兵を受け、討死した。

林玄朴【はやしげんぼく(15??~15??)】

八頭郡岩神城主。1544年、尼子晴久の侵攻を受け降伏した。

樋土佐右衛門【ひどすけえもん(15??~1616)】

山名豊国家臣。高草郡大崎城。通称孫左衛門。1581年、「第二次鳥取城の戦い」では、毛利輝元勢に属して羽柴秀吉勢と戦った。羽柴秀吉が鳥取城を攻略すると、宮部継潤の仲介で羽柴秀吉勢に降り、宮部継潤に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で、宮部長房は松平元康勢に属したが途中で石田三成勢に寝返った。役後改易処分に処されると、懸樋孫左衛門と称して帰農した。

姫地玄蕃允【ひめじげんばのじょう(15??~15??)】

毛利豊元家臣。1573年、「私都城の戦い」では、牛尾大蔵とともに私都城に籠城。尼子勝久の家臣山中盛勢を攻撃を撃退した。

兵主源六【ひょうずげんろく(15??~15??)】

気高郡金剛城主。毛利輝元に属したため、鹿野城主亀井茲矩の攻撃を受けた。1580年、亀井茲矩は金剛城の城下で踊りを催して、兵主源六を呼び寄せ、城を留守にした隙に金剛城を攻め落とした。

広岡国宣【ひろおかくにのぶ(15??~15??)】

武田高信家臣。官途は甲斐守。武田高信は橋本城を攻略すると家臣広岡国宣を城主に任じた。1576年、武田高信が山名豊国に謀殺されたため、広岡国宣は後ろ盾を失い流浪した。

広田良利【ひろたよしとし(15??~15??)】

八頭郡鴉ヶ城主。民部大輔。

広田良膳【ひろたりょうぜん(15??~15??)】

広田良利の男。通称民部。1581年、羽柴秀吉勢による攻撃を受け落城した。後に商人となった。

福田光信【ふくだみつのぶ(15??~15??)】

武田高信家臣。八頭郡中山城主。通称新三郎。武田高信勢に属して山名豊定を攻撃した。1581年、「第二次鳥取城の戦い」では、羽柴秀吉勢と戦った。

別所弾正忠【べっしょだんじょうちゅう(15??~15??)】

山名豊定家臣。猪子山城主。1563年、鳥取城主武田高信が山名誠通に謀反を起こした際、その謀反を憎み橋本正恒とともに武田高信を攻撃したが、武田高信勢の反撃を受け降伏した。

----------------------------

【ま】

三上経実【みかみつねざね(15??~1541)】

巨濃郡道竹城主。官途は兵庫頭。1538年、山名誠通による岩井庄の押領を大館常興そ介して足利幕府に行ったが不調に終わった。1541年、道竹城下で山名誠通勢の攻撃を受け討取られた。三上経実の討死後、残された内室の再婚や姉妹の継嗣争いの干渉など多くの問題を起こった。大館常興や幕府奉行人衆の飯尾貞広、治部貞兼の助言などにより、伯耆山名家枝連衆の三上不二郎を養子として三上家を相続させた。

三上輝房【みかみてるふさ(15??~15??)】

山名摂津守の男(三上経実の養子)。通称不二郎。1541年、「道竹城の戦い」で養父三上経実が討死したため、大舘尚氏らの仲介により婿養子となり、三上家の家督を相続した。

三上豊範【みかみとよのり(15??~15??)】

巨濃郡二上山城主。官途は兵庫頭。1563年、武田高信と同盟を結び山名豊国と戦った。

目黒伝之助【めぐろでんのすけ(15??~15??)】

八頭郡水尾城主。武田高信の鵯尾城を攻撃したが反撃を受け自滅した。懐妊中の内室は家臣の大熊治郎右衛門、佐藤十介とともに水根村に落延びた。

私部毛利信濃守【もうりしなののかみ(15??~15??)】

八頭郡市場城主。1546年、山崎城主毛利中将を撃ち滅ぼした。1569年、尼子勝久勢と結び、若桜鬼ヶ城主矢部山城守、丹比城主丹比孫之丞、用瀬城主用瀬備前守などとともに鳥取城の武田高信を攻撃した。

私部毛利豊元【もうりとよもと(15??~1581)】

毛利信濃守の男。官途は豊前守。1581年、山名豊国が羽柴秀吉勢に属した後も毛利豊元は毛利輝元勢に残った。山名豊国が羽柴秀吉に状況報告するため派遣した使者の北河監物と西村孫右衛門が討取った。毛利豊元は鳥取城に籠城し、羽柴秀吉と戦ったが、吉川経家の自刃により開城、行方不明となった。

山崎毛利中将【もうりちゅうじょう(15??~1555)】

法美郡山崎城主。1555年、「山崎の戦い」で毛利豊元勢の攻撃を受け家臣とともに但馬国に落延びた。

毛利左近丞【もうりさこんのじょう(15??~1560)】

毛利豊元家臣。1560年、「私部城の戦い」で討死した。

用瀬備前守【もちがせぜんのかみ(15??~1580)】

山名豊国家臣。古用瀬城主。1580年、用瀬備前守は磯部康氏の攻撃により滅ぼされた。

井村素安【むらいもとやす(15??~15??)】

尼子晴久家臣。気多郡山宮村館主。通称角兵衛。毛利元就勢の攻撃を受け、亀井茲矩のもとに落延びた。後に亀井茲矩に仕え山宮村を領した。

----------------------------

【や】

矢田幸佐【やだゆきさ(15??~15??)】

荒神山城主。通称七郎左衛門。武田高信に属した。1576年、武田高信が山名豊国に謀殺されると毛利元就勢に属した。1580年、羽柴秀吉は因幡国の諸城を攻略した。羽柴秀吉に属する鹿野城主亀井茲矩が、荒神山城を攻撃したが、矢田幸佐は島崎家と連携しこれに対抗した。しかし島崎家は謀略により亀井茲矩についた城は陥落、矢田幸佐は倉吉城に落延びた。

矢部吉茂【やべよししげ(15??~1575)】

八頭郡若桜鬼ヶ城主。通称太良左衛門。室町幕府奉公衆。1575年、尼子勝久の家臣山中幸盛勢の攻撃を受け討死した。

矢部三郎次郎【やべさぶろうじろう(15??~15??)】

矢部吉茂の男。1575年、尼子勝久の家臣山中幸盛勢の攻撃を受け若桜鬼ヶ城が落城すると、但馬国に落延びた。

矢部小次郎【やべこじろう(15??~15??)】

山名誠通家臣。水無之城主。

山田家治【やまだいえはる(15??~15??)】

大野城主。官途は安芸守。1580年、羽柴秀吉勢による鳥取城攻撃の際に落城した。

因幡山名豊治【やまなとよはる(15??~1527)】

高草郡天神山城主。山名豊重の男。官途は治部少輔。通称小次郎。1510年、足利義材に太刀、馬、銭二千疋を義材に献上した。1512年、父山名豊重が叔父山名豊頼に謀殺され、山名豊頼が守護職を強奪すると守護職を回復するため、山名誠豊の支援を受ける山名豊頼と戦った。1513年、布勢天神山城に山名豊頼を追い詰めた。1515年、山名豊頼を追放処分として、因幡国守護職を回復した。足利義材の側室に妹の阿茶局を嫁がせた。但馬国守護職山名誠豊と抗争を繰り返した。1523年、「布施仙林寺の戦い」では、山名誠豊の支援を受けた山名豊頼勢の攻撃を受けた。

因幡山名誠通【やまなのぶみち(15??~1548)】

山名豊頼の男。因幡国守護職。官途は左馬助。1527年、父山名豊治の病没により因幡山名家の家督を相続した。山名誠豊が没し、山名祐豊が山名総領家の家督を相続すると、山名祐豊と対立した。1545年、鳥取城を築城し、山名祐豊の侵攻に備えた。1548年、山名祐豊勢の攻撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

因幡山名豊成【やまなとよなり(15??~15??)】

山名誠通の男。山名祐豊の弟山名豊定が因幡国守護職に

但馬山名家を後ろ盾として因幡国へ勢力を扶植し、因幡守護的な地位におさまった。尼子晴久は山名豊成を支援して度々争った。

山名豊成は鹿野城に拠り毛利元就勢と山名

家に対抗した。1562年、山名豊成は鹿野城にあって因幡国の要所を押さえながらも尼子晴久の病没により尼子家の支援は無くなり、因幡国の掌握を目指す武田高信によって謀殺された。

因幡山名豊次【やまなとよつぐ(15??~15??)】

山名誠通の次男。通称弥次郎。高草郡立見峠で武田高信勢に討たれ、因幡山名家は絶家した。

山名豊定【やまなとよさだ(1512~1560)】

山名致豊の男。官途は中務少輔。室は細川高国の娘。1528年、叔父但馬守護山名誠豊が病没すると、その養子となって家督と但馬守護職を継承した兄山名祐豊の命令で因幡国に入って、毛利方となっていた山名誠通を抑えて鳥取城、岩井城を中心にして因幡の支配を務めた。1548年、山名誠通を討って、因幡支配を確立している。山名豊定自身は山名誠通没落後に下向し、守護職に就任した。1552年、因幡国守護職には尼子晴久が正式に幕府から任命された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山名豊弘【やまなとよひろ(15??~15??)】

山名致豊の三男。1563年、反守護家を掲げて挙兵した武田高信によって新守護に擁立された。山名豊弘は、道竹城を拠点として「岩井屋形」と称したが、実権は武田高信が握り、守護権力は制限を受けた。毛利元就の支援を受けた山名豊弘、武田高信らは山名豊数を攻撃した。布施衆を鹿野城に退却させるなど因幡国において優位な立場を得るも、地元の国人掌握に苦慮した上に但馬の山名祐豊の介入を招くなど、その優位は絶対的なものではなかった。1569年、但馬衆の攻撃により本拠地の岩井城から退却を余儀なくされた。1570年、但馬衆の支援を受けた山名豊国が侵入した。1572年、尼子勝久、山中幸盛が侵入した。1573年、山名豊弘の後ろ盾となっていた武田高信は「甑山城での戦い」で山中幸盛に敗れ、山名豊国に鳥取城を明け渡すなど勢力圏を縮小させた。山名豊国が毛利輝元と和議を結ぶと、山名豊弘、武田高信陣営は劣勢に立たされた。1576年、武田高信が山名豊国の計略で自刃すると、山名豊弘は但馬国に落延びた。

山名豊数【やまなとよかず(15??~1564)】

山名豊定の男。通称源十郎。1561年、病没した山名棟豊に代わって因幡国守護職の座に就いた。因幡国内は但馬山名家の支配からの自立を目指す国人勢力が八上郡、八東郡を中心に根強く、家中掌握もままならないうえに、山名豊数はこれらの勢力との争いに苦慮することになった。1563年、反守護を掲げた武田高信が新守護山名豊弘を擁立して挙兵した。山名豊数は武田高信との「湯所口の戦い」で敗退し、重臣中村伊豆守が討死にした。武田高信の攻撃により、守護所のある布勢天神山城から鹿野城に後退した。山名豊数らの守護勢は但馬の山名宗詮の支援を受けるなどしたが、毛利元就やその傘下の伯耆国人衆の支援を受けた武田高信勢の前に劣勢は続いた。1564年、鹿野城も攻撃を受けた。山名豊数は失意の内に病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山名豊国【やまなとよくに(1548~1626)】

山名豊定の次男。官途は中務大輔。1560年、父山名豊定が病没後、兄山名豊数が山名家の家督を相続したため、岩井城を領した。山名豊数や武田高信の攻撃を受け但馬国八束郡に落延び、伯父山名祐豊を頼った。1564年、山名豊数が病没すると、尼子勝久、山中幸盛らの支援を得て因幡山名家の家督を相続した。1573年、毛利輝元の家臣吉川元春勢の攻撃を受け降伏した。1578年、織田信長勢に属した。1581年、「第二次鳥取城の戦い」では、家臣の中村春続、森下道誉らが徹底抗戦を主張したが羽柴秀吉勢に降伏した。1581年、「第二次鳥取城の戦い」では、羽柴秀吉勢に参陣して吉川経家が籠城する鳥取城を攻撃した。1592年、「文禄の役」に参陣して肥前名護屋城を守備した。1598年、羽柴秀吉が病没すると松平元康に属した。1600年、「関ヶ原の役」では、戦功を挙げ、但馬国七美郡村岡城6,700石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山名豊政【やまなとよまさ(1571~1630)】

山名豊国の男。通称平右衛門。室は大沢基宿の娘。下総国葛飾郡1,000石を領した。1617年、山名家の家督を相続し、但馬国福岡領主となった。

山名弾正忠【やまなだんじょうちゅう(15??~15??)】

狗屍那城主。高尾城主島崎家と争っていた所を、鹿野城主亀井茲矩野攻撃を受け討死した。

吉岡春斎【よしおかしゅんさい(15??~15??)】

高草郡防己尾城主。山名豊定家臣。湖山池西岸を本拠とした国人領主で、代々因幡山名家に仕えた。

吉岡定勝【よしおかさだかつ(1532~1606)】

吉岡春斎の男。官途は安芸守。1573年、吉岡定勝は因幡国に侵攻した吉川元春に降って本領を安堵された。1581年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉による鳥取城攻撃の際には毛利輝元に属して、防己尾城に籠城して羽柴秀吉勢を迎え撃った。羽柴秀吉勢の防己尾城攻撃は合計三回行われたが、吉岡定勝は湖水が入り組んだ地形を巧みに生かしたゲリラ戦法を展開して羽柴秀吉勢を撃退した。特に二度目の攻撃の際は、羽柴秀吉自慢の千成瓢箪の馬印を奪取するほどの大勝だった。その後、羽柴秀吉勢の長囲による兵糧攻めにあって落城した。

吉岡右近【よしおかうこん(15??~15??)】

吉岡春斎の次男。

吉川太郎兵衛【よしかわたろべえ(15??~15??)】

八東郡吉川村の庄屋。別名小椋太郎兵衛。1579年、羽紫秀吉が因幡国に侵攻した際、川の音で安眠を妨げられていた羽柴秀吉のために、川の音を止めて安眠を助けた。参考文献:『鳥取県郷土人物文献データベース』by鳥取県立図書館。

因幡吉見範隆【よしみのりたか(15??~15??)】

巨濃郡姥ヶ谷城主。通称兵部少輔。

因幡吉見範仲【よしみのりなか(15??~1579)】

吉見範隆の男。通称兵部大輔。1579年、羽柴秀吉の因幡攻めの際、姥ヶ谷城も攻略され討死した。

和田祐興【わだすけおき(15??~15??)】

草苅重継家臣。八頭郡乗雲ヶ出城主。通称乗雲。

----------------------------

【資料Ⅰ】

因幡国(八郡/98,000石)

巨濃郡:姥ヶ谷城、道竹城。
法美郡:山崎城。
八上郡:日下部城。
八頭郡:市場城。
智頭郡:淀山城。
邑美郡:橋本城、鳥取城。
高草郡:天神山城、防己尾城。
気多郡:鹿野城、宮吉城。

----------------------------

【資料Ⅱ】

調査中。

----------------------------

【資料Ⅲ】

因幡国【いなばのくに】

山陰道の国。東は但馬、西は伯耆、南は美作、播磨の各国に境を接し、北は日本海に面する。東から南にかけての国境地帯には、氷の山、三室山、那岐山といった中国山地の山々が連なる。このため、他国の侵攻に際して蒲生、戸倉、志戸坂などの峠を重点的に防備を行えば守備を行い易い。京都ににも近いため、開発も早くから行われたが、千代川の氾濫が度々起こった。日本海には長い海岸線で接するが、海岸線には砂丘と砂浜が多く、大型船舶の寄航に適した良湊がない。

賀露湊【かろみなと】

鳥取平野の中央部を南北に流れる千代川河口部の湊街。古代以来、因幡国の海上交通、流通の要衝。内陸と河口付近の賀露を結ぶ河川水運を背景にしての参拝道。堅田商人ら畿内の商人にとって因幡国の海と陸の結節点に位置する賀露の湊。1581年、羽柴秀吉勢の侵攻に備えるため、石見国より毛利輝元の家臣吉川経家が賀露湊に上陸して鳥取城に入城した。その後、賀露は鳥取城を包囲する羽柴秀吉勢に占領された。毛利輝元勢は日本海を通じて鳥取城に兵糧を搬入しようとしたが、賀露の沖合に停泊していた羽柴秀吉勢の海賊衆に阻止された。この攻防で賀露の地は兵火に包まれ、人民は離散し、神社も破滅に及んだ。

----------------------------

戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

----------------------------