2012年5月7日月曜日

戦国南越後国人名辞典

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【あ】

秋山定綱【あきやまさだつな(15??~1615)】

落水城主。長尾景虎家臣。官途は式部丞。1582年、越中国に織田信長勢が襲来すると、長尾景勝に報じた。1594年、糸魚川衆として490石を領した。1598年、長尾景勝の会津城転封に伴い二本松城代を下条忠親と共に務め2,000石を領した。1609年、大滝土佐守と共に常陸国海上船入普請で総監に命じられた。

鯵坂長実【あじさかながざね(15??~1578)】

長尾景虎家臣。官途は備中守。1572年、越中国新庄城を守り一向一揆勢と椎名康胤が反乱を起こしたとき、援将の直江景綱とこれを討伐した。「手取川の戦い」で織田勢を撃破した。1577年、長尾景虎が能登七尾城を占領すると鯵坂長実に守備を命じた。1579年、織田信長と組んだ畠山家の旧臣温井家や遊佐家のために城を追われた。1578年、長尾景虎死後の「御館の乱」の際には長尾景勝の属して活躍した。

甘粕景持【あまかすかげもち(15??~1604)】

三島郡灰毛城主。官途は近江守。室は黒金景信の妹。柿崎景家と並ぶ武勇を誇った。1561年「第四次川中島の戦い」で本隊が敗走した際には殿軍をまとめ、高坂弾正の追撃をかわしながら小荷駄を無事に後方に移送し帰国した。1578年、長尾景虎死後の「御館の乱」では長尾景勝に属した。その後の「新発田重家の乱」では長尾方の三条城に入り木場城の補佐や新潟城、沼垂城を攻略した。

甘粕重政【あまかすしげまさ(1567~1630)】

甘粕景持の男。

甘粕景継【あまかすかげつぐ(1550~1611)】

長尾景虎家臣。上田長尾家臣登坂加賀守清高の男。官途は備前守。1561年「第四次川中島の戦い」では甘粕景持と共に退却時の殿軍を勤め、武田側の追撃を抑えて味方の越後退却を支えた。実戦はもとより、戦略眼、戦術構築等、武勇全般に優れた。1577年、長尾景虎の指示により討死した甘糟継義の名跡を継ぎ甘糟家の家督を相続した。1583年、長尾景勝により五泉城主に任じられ、1589年、出羽国庄内地方が長尾家に与えられると東禅寺城の城代となり家老の志田修理をして阿部家の磐井出館を攻め落した。1598年、長尾家の移封に従い会津へ移り白石城代を勤め20,000石を領した。1600年、松平元康による「会津征伐」に対して守りを固めていたが留守の隙を突かれて、伊達政宗に白石城を奪われた。1601年、米沢城移封後は6,600石を領した。

甘粕家臣団【あまかすけかしんだん】
青木清右衛門、小幡喜兵衛、小池半助、山田弥左衛門、福崎彦七郎、丸山平左衛門、片桐助平衛、石黒孫次郎、鈴木勘助、平賀総次郎、吉益縫殿助、竹俣次郎右衛門。

安部政吉【あべまさよし(15??~1582)】

長尾景勝家臣。通称は右衛門尉。長尾景勝に仕えて各地を転戦した。1580年、嫡男安部吉真とともに栃尾城に入った。1581年、安部吉真や吉江宗信、中条景泰らと共に越中魚津城を守備した。1582年「魚津城の戦い」で織田信長の家臣柴田勝家の攻撃を受け城将とともに自刃した。

新居長重【あらいながしげ(15??~15??)】

山本寺景長家臣。通称与一。1561年、関東出兵した長尾景虎は上野国勢多郡女淵城を落とすと、新居長重を城代に任じた。その後、横瀬成繁に奪還された。1574年、長尾景虎は再びこれを攻略した。1576年、新居長重が再び城代となった。

石川景重【いしかわかげしげ(15??~15??)】

越後上杉定実家臣。通称新九郎。越後上杉家四家老のひとり。1513年、長尾為景が上杉定実を幽閉すると、長尾為景の越後国統治に協力した。

石川重次【いしかわしげつぐ(15??~15??)】

石川景重の男。

石口広宗【いしぐちひろむね(15??~1582)】

北条高広家臣。通称采女。「御館の乱」で北条城に籠城して奮戦した。1582年、降伏し長尾景勝に仕えた。その後長尾景勝に越中国魚津城に送られる。1582年「魚津城の戦い」の際には守将として奮戦した。1582年、柴田勝家に攻められ、弟石口内匠、石口兵部、石口大膳とともに自刃した。

越後上杉定実【うえすぎさだざね(1478~1550)】

上条上杉房実の男。越後上杉房能の養子。越後国守護職。室は上杉房能の娘。継室は長尾能景の娘。1503年、越後上杉房能の娘を室に迎えて婿養子となった。1507年、守護代長尾為景に担がれて越後上杉房能を倒すと越後国守護職に任じられた。その際に長尾為景の妹を娶った。1509年、関東管領上杉顕定の侵攻により越中国に落延びた。1510年、越後の諸将を掌握できていない上杉顕定勢の内情を見て、長尾為景と共に佐渡の軍勢を加えて勢力を盛り返し「長森原の戦い」で上杉顕定を敗死させた。1513年、長尾為景の傀儡であることに不満を抱いて、守護家家臣筋の宇佐美房忠、宇佐美定満父子や上条定憲、上田衆の長尾房長、平子房長、発智六郎、越後上杉家枝連衆、八条修理亮、栖吉の長尾房景、譜代の山吉孫次郎、桃井讃岐守、石川駿河守、揚北衆の本庄房長、色場昌長、竹俣清綱の諸家の勢力などを糾合して春日山城を占拠して断続的に抵抗を続けたが失敗し権威はますます失墜した。1530年、上条定憲が宇佐美定満、大熊朝秀、上田の長尾房長、揚北衆の中条藤資、黒川清実、色部清長、本庄房長、新発田綱貞、鮎川清長、竹俣清綱ら再度反長尾為景勢力を結集したため、長尾為景は隠居に追い込まれたが守護権力を取り戻すことはできなかった。上杉定実には嫡子がいなかったため、長尾為景の没後、縁戚である陸奥の伊達稙宗の三男伊達実元との養子縁組を中条藤資らと推進し、復権を図ったが、越後北部や出羽での上杉傘下の国人領主同士の対立を招いた。1542年、伊達家で「天文の乱」が起り縁組は中止された。1548年、長尾晴景と長尾景虎の争いが起こるとこれを仲介し、長尾景虎の擁立に尽力した。上杉定実の死後は跡継ぎがなく越後守護家は断絶した。

越後上杉家臣団【うえすぎけかしんだん(15??~15??)】

大熊新左衛門、大熊彦次郎、平子弥三郎、発智六郎左衛門尉、片倉壱岐守、計見四郎右衛門尉、穴沢新右兵衛尉、穴沢兵衛太郎、松郷与次郎、金子彦五郎、桃井弥次郎。

上野家成【うえのいえなり(15??~15??)】

中魚沼郡節黒城主。官途は中務大輔。1556年、下平修理亮と上田を巡る領地争いの最中、本庄実乃が上野家成に、大熊朝秀が下平修理亮に加担した。家中の執政を掌る本庄実乃と大熊朝秀はライバル関係にあり、家臣団の派閥対立が激化した。長尾景虎は家臣の領地問題に嫌気のさした高野山への出家騒動を起した。この混乱に乗じ大熊朝秀は武田晴信と内通、反乱を起こした。芦名盛氏もこれに呼応した。騒動の引き金となってしまった上野家成は庄田定賢らと共に参陣した。大熊朝秀を「駒返しの戦い」で敗走させた。1570年「越相同盟」では、後北条家との交渉役を河田重親らと共に務めた。1578年、長尾景虎の病没後の「御館の乱」では長尾景勝側に味方し、上野国利根郡沼田城にあって守りを固めた。1598年、長尾景勝が羽柴秀吉により会津城に移封された際は多くの将兵が越後を離れ会津に移ったが上野家成はそのまま越後にとどまった。1600年「関ヶ原の役」では越後国で一揆を扇動した。

宇佐美定満【うさみさだみつ(1489~1564)】

刈羽郡琵琶島城主。宇佐美房忠の男。官途は駿河守。長尾家四天王のひとり。1514年、父宇佐美房忠は越後守護上杉定実の復権を目指して長尾為景と戦い討死した。宇佐美定満は越後守護の上杉家枝連衆である上条上杉家に仕えた。1535年、上条定憲と共に上条上杉家の再興を目指して長尾為景と戦ったが、春日山城下で敗北すると、長尾為景に降伏した。長尾為景の死後は長尾晴景、長尾景虎に仕えた。1550年、長尾景虎に反抗した坂戸城主長尾政景を屈服させるのに戦功を挙げた。1564年、坂戸城近くの野尻池で長尾政景と共に溺死した。彼の死後に宇佐美家は没落して琵琶島城も廃城になった。

宇佐美実定【うさみさねさだ(15??~15??)】

宇佐美定満の男。官途は民部少輔。1561年「第四次川中島の戦い」に参陣した。

大井田義住【おおいだよしずみ(15??~15??)】

魚沼郡大井田城主。

大井田氏景【おおいだうじかげ(15??~15??)】

大井田義住の男。

大井田景能【おおいだかげたか(15??~15??)】

大井田氏景の男。長尾政景が死没後、残された長尾景勝を五歳まで養育した。1564年、長尾景虎の関東出兵にも参陣し「騎西城の戦い」で戦功を挙げた。

大井田房仲【おおいだふさなか(15??~15??)】

長尾家臣。官途は監物。大井田家枝連衆。長尾景虎に従って「川中島の戦い」に参陣した。1578年、長尾景虎の病没後は長尾景勝に仕えて忠勤を励み長尾景勝の佐渡国平定後、佐渡国新穂城代に抜擢され佐渡国の民政に関与した。長尾景勝の会津転封後も佐渡国は長尾家領として続いたため、房仲はそのまま佐渡国新穂城代を務めた。

大熊政秀【おおくままさひで(15??~15??)】

中頸城郡箕冠城主。官途は備前守。1513年、長尾為景が新守護として擁立した上杉定実と為景の抗争などといった戦乱が続いた。その結果、上杉定実を手中に抑えた長尾為景の覇権が確立した。1530年、守護家の公銭方奉行大熊政秀が、長尾為景と上条定憲の離反を謀った結果、上条定憲が拠地である刈羽郡鵜川荘の上条城にて叛旗を翻した。長尾為景は鎮圧のため上条城に侵攻し、大熊政秀をはじめとする反為景派を逐った。

大熊朝秀【おおくまともひで(15??~1582)】

大熊政秀の男。官途は備前守。室は小幡虎盛の娘(小宰相の局)。長尾景虎初期の家老職として活躍した。1556年、上野家成と下平修理亮との領地争いをきっかけに家中の本庄実乃と対立した。長尾景虎の出家騒動が起こると、大熊朝秀は武田晴信に内通して反旗を翻し、会津の蘆名盛氏と共に越後に進入するが西頸城郡「駒返の戦い」で上野家成に敗れ甲斐に落延びた。1563年、武田晴信に招聘され、山県昌景の寄騎衆となった。のちに武田晴信の直臣として足軽大将騎馬三十騎、足軽七十五人持となった。武田勝頼の時代になってもその地位は揺るがず、遠江国小山城代に任じられた。1582年「天目山の戦い」では多くの家臣が織田信長、松平元康へ寝返る中、最期まで武田勝頼と運命を共にした。

大熊常光【おおくまつねみつ(15??~15??)】

大熊朝秀の男。通称五郎左衛門。父大熊朝秀とともに武田晴信に仕えた。武田晴信家臣真田昌幸の麾下に属した。1582年、父大熊朝秀が「天目山の戦い」で討死した後、真田昌幸に仕えた。真田信之の代に筆頭家老となった。

大関親信【おおぜきちかのぶ(15??~15??)】

魚沼郡浦佐城主。官途は阿波守。

荻田備前守【おぎたびぜのかみ(15??~15??)】

長尾景虎家臣。通称孫十郎。1560年、荻田備前守は北条高広らと伊勢崎城を攻めた。1561年「小田原城の戦い」に参陣した。長尾景虎は小俣城主渋川義勝を攻め落とすよう配下の関東諸将に命じていた。1572年、渋川義勝が小田原へ出向いて留守となった隙を突いて、荻田備後守は膳城主膳宗次とともに小俣城を攻めた。小俣勢は兵150余りでだったが城代石井尊空の「われら守勢が天下無双の上杉勢を迎え討ち、華々しく討ち死にすれば渋川義勝の小田原での立場がよくなり、御家再興にも有利になる」という提言に奮い立った。膳宗次を先陣に攻めかかったが折りからの暴風雨で身動き出来なくなってしまう。そこへ小俣勢が丸太、大石を投げ落とし鉄砲を撃ちかけると膳宗次勢は敢え無く全滅、撤退の命令も届かぬ大雨の中で荻田勢は200余りの損害を出した。

荻田長繁【おぎたながしげ(1562~1641)】

荻田備前守の男。官途は主馬亮。別名荻田主馬。1578年、長尾景虎が病没すると、長尾景勝が春日山城実城を占拠すると長尾三郎景虎との間で後継者をめぐる内乱に発展した。「御館の乱」では荻田長繁は、長尾景勝に味方した。1579年、長尾三郎景虎派に属する北条景広を槍で刺殺。重鎮であり猛将であった北条景広が討ち取られた事により、長尾三郎景虎派は寝返り、離散が相次いだ。その事により組織だった戦略が取れなくなった長尾三郎景虎派の勢いは完全に消え、長尾景勝の勝利を早める事に貢献した。

荻田勝定【おぎたかつさだ(1598~1635)】

荻田長繁の男。通称孫市。

鬼小島貞興【おにこじまさだおき(1522~1582)】

長尾為景家臣。通称弥太郎。別名鬼小島弥太郎。室は河田長親の娘。強力無双の豪傑で「鬼小島」と恐れられた。山県昌景が「川中島の戦い」の際に弥太郎の事を「花も実もある勇士」と賞賛した。これは、武田義信が窮地に陥るのを見て、鬼小島貞興に「主君の御曹司の窮地を救いたい為、勝負を預けたい」と願い出たところ、鬼小島貞興が快諾した。

折下土佐守【おりしたとさのかみ(15??~15??)】

河田長親家臣。

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【か】

神余親綱【かなまりちかつな(1526~1580)】

長尾景虎家臣。神余実綱の男。通称小次郎。神余親綱の祖父神余昌綱の代から京都雑掌、外交官として重用されていた。神余親綱も父祖の跡を継ぎ、越後国主となった長尾景虎のもとで終始重用され続けた。代官として主に京都に駐在し、朝廷や幕府との折衝の傍ら、三条西家に接近して青苧などの越後特産品の売買に関する奉行職も勤めた。1552年、長尾景虎が従五位下弾正少弼に叙任されたことに対する謝儀の使者となり入洛。将軍家へ御礼の品々を献上し、その返礼として義藤印判の御内書並びに備前国宗の太刀を賜り京都より帰着した。青苧による取引は、長尾景虎の重要な資金源となり、長尾景虎の外征を資金面で支えた。1578年「御館の乱」では木場城の山吉景長らと共に長尾景勝方に付く動きを見せたが、栃尾城主本庄秀綱と共に長尾三郎景虎方として参陣した。その後も長尾景勝方の勧誘工作にも応じずに黒滝城を攻撃した。長尾三郎景虎が自刃した後も抵抗を続け、一旦は和議の調停を申し出るも決裂。山吉景長が三条城内の旧臣に内応を誘い謀殺された。

金津義旧【かなづよしもと(15??~15??)】

金津城主。長尾景虎家臣。室は長尾景虎の乳母。越後国金津城に土着した清和源家平賀家の流れを汲む一族で、長尾家以上の家柄だった。室が長尾景虎の乳母となったのが縁で、長尾景虎の養育係となった。長尾景虎は金津義旧を父のように慕った。長尾景虎の金津義旧に対する信頼は非常に厚いもので、長尾景虎の出兵時には居城春日山城の留守居役を任された。金津義旧は信頼に応えるべく、生涯にわたって長尾景虎の脇を固める働きをした。

狩野秀治【かのうひではる(15??~1584)】

長尾景勝家臣。神保家臣狩野秀基の男。官途は讃岐守。通称新介。1578年「御館の乱」で長尾景勝方に組して頭角を現した。1582年、長尾景勝の内政外交全般の取次ぎ役を担当するなど重用された。樋口兼続と二頭体制(執政)を築いたがまもなく病没した。

河田長親【かわだながちか(1545~1581)】

古志郡栖吉城主。河田元親の男。官途は豊前守。室は北条高広の娘。1559年、長尾景虎の二度目の上洛の際、長尾景虎にその美貌と才能を認められて側近として取り立てられ、奉行職を歴任した。智勇兼備の武将であったため重用され、山内上杉家を相続した長尾景虎にならい同様に改姓した長尾景信の跡を受けて古志長尾家の名跡も与えられたが、河田長親自身は長尾家を称することは辞退した。北条氏康との関東での戦いでは沼田城代を務めた。越中国一向一揆との戦いでは、越中魚津城を預かり、新庄城主鯵坂長実と共に越中方面の総指揮官として軍政に当たった。1571年、越中国での一向一揆との戦いは敗北を喫した。武田晴信の病没後に長尾景虎本隊が越中に投入されたことにより、椎名康胤を攻めて追放することに成功した。この戦功により松倉城主となり松倉金山の経営も行った。1577年、長尾景虎が織田信長勢の大軍を迎え撃った「手取川の戦い」では、鯵坂長実と共に落城した七尾城を受け取った。1578年「御館の乱」では長尾景信や一族の河田重親が長尾三郎景虎に味方したのに対し、長尾景勝を支援した。その後も柴田勝家、佐々成政らの越中侵攻を迎えて戦うが松倉城で病没した。

河田岩鶴丸【かわだいわつるまる(15??~1586)】

河田長親の男。1581年、父河田長親が病没すると1586年、十三歳の若さで夭折した。その後、枝連衆の河田親詮が河田家の家督を相続したが、長尾家中における河田家の軍権は大幅に縮小された。

河田重親【かわだしげちか(15??~15??)】

河田長親家臣。官途は伯耆守。河田長親の叔父。1561年、上野国沼田城に在番し関東方面の旗頭北城景広の寄騎衆となった。1569年、後北条家との同盟交渉の取次役を務めた。1578年「御館の乱」では長尾三郎景虎に属した。関東勢先鋒として援軍の後北条勢と共に越後国に侵攻し長尾三郎景虎を支援した。1578年、北条氏照の命により樺沢城を守った。1579年、後北条家から八崎城を与えられた。後に武田家に仕えた。

河田貞親【かわださだちか(15??~15??)】

折下土佐守の男。河田長親の養子。八左衛門。長親が松倉城に在った時、織田家から佐々成政が使者として派遣された。河田長親は実子が無かったため、河田貞親を養子として人質に出した。後に志賀清親の跡を継いだ。
河田源七郎【かわだげんしちろう(1561~15??)】

河田長親の従弟。河田長親の養子。1574年、戦功により河田長親から所領を得た。1597年、河田長親の後継として河田家の家督を相続した。
河田吉久【かわだよしひさ(15??~15??)】

河田長親家臣。官途は対馬守。1572年「越中国侵攻」では山吉豊守らと春日山城留守居役を勤めた。「能登国侵攻」では吉江景資らと石動城を守った。1578年「御館の乱」では長尾三郎景虎に属した。

北条高定【きたじょうたかさだ(15??~1578)】

刈羽郡北条城主。官途は下総守。1572年、越中出陣の際は春日山城留守将。1578年「御館の乱」では長尾景勝方に属した。

北条高広【きたじょうたかひろ(1517~1587)】

長尾家臣。北条高定の男。官途は丹後守。北条高広は長尾為景、長尾晴景、長尾景虎の三代に仕えた。1554年、長尾景虎に敵対する武田晴信と通じて北条城において長尾景虎に反乱を起こした、反攻を受けて降伏した。1563年、上野国厩橋城主に任命され、関東方面の政治や軍事を任された。1567年、北条氏康に通じて再び長尾景虎に背いた。1568年、長尾景虎と北条氏康との間で「越相同盟」が結ばれたため、北条高広は北条氏政の仲介で、長尾景虎に帰参した。1574年、隠居して家督を嫡男北条景広に譲った。1578年「御館の乱」では、北条景広と共に長尾三郎景虎を支持して長尾景勝と戦うが、北条城などを落とされ、北条景広は討死した。自身は武田勝頼のもとへ落延びた。1582年、武田勝頼の滅亡後、北条高広は滝川一益に仕え、没落後は後北条家に服属した。沼田城主真田昌幸の離反に対する出兵を拒否し、長尾景勝に帰順して、北条方である那波顕宗を攻めた。北条氏直と北条氏邦は厩橋城を攻めたてた為、北条高広は耐え切れず降伏した。

北条景広【きたじょうかげひろ(1548~1579)】

北条高広の男。官途は丹後守。通称鬼弥五郎。1563年、父北条高広と共に厩橋城に入り、長尾景虎の関東方面の政治や軍事を助けた。1574年、父北条高広の隠居により家督を相続した。1578年、長尾景虎の病没後に起こった「御館の乱」では上杉三郎景虎を支持して、越後に進軍し長尾景勝勢と各地で戦った。1579年、長尾景勝勢の荻田主馬の槍を受け負傷し、結局それが致命傷となり亡くなった。北条景広は長尾三郎景虎派の中心人物であったため、求心力を失った長尾三郎景虎派は離反者が続出し敗北した。

北条家臣団【きたじょうけかしんだん】

細越城主:小黒登之助(筆頭家老)、山村総八郎(家老)、小俣右近(家老)、北条居近(高広の甥)、山谷左京進。

黒金景信【くろがねかげのぶ(15??~15??)】

長尾景虎家臣。1578年「御館の乱」の際には長尾景勝側につき、以後河田長親らと越中方面の番将や春日山城の留守居役を務めた。織田方佐々成政らとの交戦時には越中松倉城将を務め、長尾景勝の出陣を要請した。 

黒金泰忠【くろがねやすただ(1564~1635)】

島倉泰明の男。黒金景信の養子。官途は上野守。1579年、長尾景勝の命で黒金家の家督を相続した。島倉家は弟が継いだ。土木関係の才能に優れていた。1597年、伏見総構堀普請と伏見舟入奉行を務めた。1615年「大坂冬の陣」で戦功を挙げた。1620年、江戸城石垣普請や江戸城堀浚の総監督を務めた。

黒金尚信【くらがねなおのぶ(15??~15??)】

府中長尾家臣。官途は安芸守。長尾景勝は佐渡国平定後、黒金尚信を佐渡国羽茂郡代に任じた。1598年、会津移封後も長尾家は佐渡国を領した。羽茂城代として2,500石を領した。

栗林頼忠【くりばやしよりただ(15??~15??)】

上田長尾家臣。上田衆の筆頭。

栗林政頼【くりばやしまさより(15??~1599)】

栗林頼忠の養子。官途は肥前守。通称次郎左衛門。室は栗林頼忠の娘。上田長尾家臣である上田衆の筆頭栗林頼忠の娘を娶って家督を相続した。1578年「御館の乱」では長尾景勝派に属し、義兄弟深沢利重とともに上田城を守備した。長尾三郎景虎に味方する北条景広勢が来襲すると、深沢利重、樋口兼一、登坂清忠、登坂与五郎らとともに北条勢を撃退した。1581年、荒砥城主に任じられた。外務を担当するなど、長尾景勝の重臣として仕えた。1584年、魚沼郡の郡司に任命された。1598年、会津移封にも従った。

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【さ】

斎藤昌信【さいとうまさのぶ(15??~15??)】

刈羽郡赤田城主。斎藤頼信の男。越後上杉家四家老のひとり。1506年、越中国において越後国守護代長尾能景が討死して嫡男長尾為景が家督を相続すると越後国の様相は一変した。長尾為景には、守護の検地などによって自己の権限を脅かされることを危惧した国人衆が同心した。1508年、色部昌長、本庄時長を攻めた。1509年、関東管領上杉顕定が越後に攻め込むと、長尾為景に属して上杉顕定勢と戦った。1513年、長尾為景が上杉定実を幽閉すると、長尾為景の越後統治に協力した。1527年、長尾為景は無碍光衆禁止令を出し一向宗を信仰することを禁止した。

斎藤定信【さいとうさだのぶ(15??~15??)】

斎藤昌信の男。官途は下野守。越後上杉定実が実家の上条定憲、琵琶島城主の宇佐美房忠を恃んで長尾為景に抵抗したものの一蹴され、上杉定実は守護の座を逐われ幽閉の身となった。斎藤昌信は北条高広らとともにその政権の中枢を構成した。長尾為景は越中国に兵を進めたが、長尾為景政権のもとで軍役を担わされる国人衆たちは財政を圧迫され、長尾為景に不満を抱くようになっていった。1530年、上条定憲は「上条の乱」を起こした。斎藤定信は同じ刈羽郡の領主である毛利、安田家、揚北衆の中条、本庄家らと連盟して長尾為景に対抗したが乱の途中で長尾為景方に転じた。1533年、上条定憲は再び反長尾為景の兵を挙げた。揚北衆、長尾家枝連衆が上条方に加担したため、長尾為景方の守勢となった。長尾為景は隠居して家督を長尾晴景に譲り乱の収束を図った。

斎藤朝信【さいとうとものぶ(1527~1592)】

斎藤定信の男。官途は下野守。武勇の誉れ高く「越後の鍾馗」と称された。長尾景虎に仕え「越中討伐」に従った。1559年、斎藤朝信は長尾藤景、柿崎景家、北条高広と共に長尾景虎政権下の政務奉行を務めた。1561年「第四次川中島の戦い」では武田晴信に扇動された一向一揆に備えるため山本寺定長とともに越中国に出陣して長尾景虎本隊の北信濃国侵入を支援した。1564年「佐野城の戦い」攻めなど各地を転戦して戦功を挙げる。1578年「御館の乱」では斎藤朝信をはじめ直江景綱、本庄繁長、上条宜順ら長尾家譜代の諸将が長尾景勝派に付き、本庄秀綱、河田長親、上杉景信、北条景広、柿崎一族らの諸将は長尾三郎景虎に加担した。戦いは、春日山城をいち早く押えた長尾景勝の勝利に終わったが、越後国内を二年間にわたって戦乱に巻き込んだ乱の影響は大きかった。斎藤朝信は、本庄秀綱が与板城に浸入すると与板に加勢として参陣した。長尾三郎景虎派を支援する武田勝頼と交渉し長尾景勝陣営に引き込んだ。織田信長の侵攻では北陸方面の柴田勝家らを魚津城などで迎え撃った。多くの武勲を挙げた以外にも奉行職を務め、内政においても活躍した。

斎藤景信【さいとうかげのぶ(15??~15??)】

斎藤朝信の男。1598年、長尾景勝は会津に転封されたが、斎藤景信はそれに従わずに越後国に残った。越後の領主となった堀家に仕えた。斎藤景信が越後国に残ったのは長尾景勝の越後復帰を図るための深慮遠謀であったとされている。斎藤景信の嫡男斎藤三郎兵衛は米沢城に移り上杉定勝に仕え300石を領した。 

斎藤家臣団【さいとうけかしんだん】 

斎藤加左衛門、野呂信満、井上正好、大島長家、小河主水、井上佐京、井上助兵衛、野呂一薄、岩野兵衛。

山本寺定景【さんぽんじさだかげ(15??~15??)】

西頸城郡不動山城主。山本寺定種の男。室は長尾能景の娘。山本寺上杉家は越後守護上杉家の庶流。父山本寺定種は上杉房能に殉じた。1507年、守護代長尾為景が守護上杉房能を討って春日山城に入った。長尾為景の横暴を見た不動山城主三本寺定種は、上杉房能のあとを継いだ上杉定実に味方しようとした。新守護上杉定実を傀儡化して実権を握ろうとしていた長尾為景は不動山城を攻撃し敗れた三本寺定種は越中に落延びた。不動山城が落城したとき、山本寺定景は、わずか六歳で、家来によって密かに養育され長尾景虎に仕えた。

桜井吉晴【さくらいよしはる(15??~1605)】

魚沼郡広瀬城主。長尾家臣。通称三介。1578年「御館の乱」では長尾景勝を支持し、佐藤平左衛門らとともに広瀬城を守備した。1578年「下倉城の戦い」で戦功を挙げた。以後も佐藤平左衛門らとともに下倉城や栃尾城を牽制した。1582年、越中国各地を転戦した。1584年、根知城の守備に付いた。1598年、会津移封後は檜原城に在城した。1601年、米沢城移封後は260石を領した。1605年、桜井家の家督は嫡男桜井勘左衛門の次男桜井義直が継いだ。

山本定長【さんぽんじさだなが(1519~15??)】

山本寺定景の男。官途は伊予守。長尾晴景と争っていたが、上杉定実を傀儡の守護として擁する長尾晴景に従った。1555年、長尾景虎の家臣として「第二次川中島の戦い」に参陣して戦功を挙げた。その後越中国に派遣された。1572年、一向一揆に包囲された越中火宮城救援のために参陣したが「神通川の戦い」で敗北した。長尾三郎景虎が長尾景虎の養子となるとその傅役に任じられた。1578年「御館の乱」では長尾三郎景虎方に付いて敗北、居城を捨て落延びた。

山本寺景長【さんぽんじかげなが(15??~1582)】

山本寺定長の男。父山本寺定長が「御館の乱」で長尾三郎景虎方について敗れて逐電すると、山本寺家の家督を相続した。1582年、長尾家の内乱につけこんだ柴田勝家率いる北陸平定軍が兵40,000余りで越中国に侵攻してくると、中条景泰、竹俣慶綱、吉江宗信らと共に越中国魚津城に籠城した。「御館の乱」で兵力を消耗し、信濃方面でも織田勢と対峙していた長尾景勝は魚津城へ援軍を送ることが出来なった。長尾景勝は魚津城の城兵に降伏を許可したが山本寺景長らは籠城した末に自刃した。「本能寺の変」の翌日のことであった。遺児は後に出家して林泉寺十八世渓厳曹雪和尚となった。

山本寺勝長【さんぽんじかつなが(15??~15??)】

山本寺定長の次男。通称藤三郎。1578年「御館の乱」で長尾景虎方に組した。敗北後は閑居していたが、後に長尾家に帰参した。1594年、直江兼続が伏見城の普請奉行をしていた頃に故あって改易された。

山本寺家臣団【さんぽんじけかしんだん】

調査中。

下平吉長【しただいらよしなが(15??~1564)】

長尾家臣。魚沼郡千手城主。1556年、上野家成と上田を巡る領地争いを起こし、これが発展し大熊朝秀と本庄実乃の争いになった。

志駄春義【しだはるよし(15??~1563)】

三島郡夏戸城。志駄景義の男。1533年、長尾為景は上条定憲を討つため柏崎に出陣した。志駄春義は上条方に組して秋山家らとともに刈羽郡北条城を攻撃したが長尾為景方の安田景元、北条光広らの軍勢に撃退された。乱は上条方の優勢に推移し、上条定憲勢と長尾為景勢は「三分一原の戦い」で戦い、長尾為景方が勝利したものの頽勢は変わらず、ついに長尾為景は嫡男長尾晴景に家督を譲って隠居した。その後、志駄春義は病かちとなり隠居し、志駄家の家督を嫡男志駄義時に譲った。1561年、志駄義時が「第四次川中島の戦い」で討死したため、孫志駄義秀の後見人となって志駄家を采配した。志駄春義は、長尾景虎に従い関東へも出陣した。1560年、後北条家の勢力拡大を抑え、古河公方、管領上杉家の支配復活を図るためで、後北条方の諸城を攻略した。1563年、長尾景虎は騎西城を攻略し、志駄春義が城代として城を預かったがまもなく病没した。

志駄義時【しだよしとき(1542~1561)】

志駄春義の男。通称源四郎。室は直江景綱の娘。1561年「第四次川中島の戦い」で、武田義信隊の攻撃を受け、激戦の末に大川忠秀、庄田定賢らとともに討死した。 

志駄義秀【しだよしひで(1559~1632)】

志駄義時の男。官途は修理。通称源四郎。1561年「第四次川中島の戦い」で父志駄義時が討死したため祖父志駄春義の後見を受け志駄家の家督を嗣ぎ夏戸城主となった。1578年「御館の乱」後、志駄義秀が与板城の在番として、篠井弥七郎と並んで筆頭を務めた。以後直江兼続付きの与板衆として活躍した。池田讃岐守らを破り大宝寺城より東禅寺城に移り5,500石を領した。最上家の攻撃に十四日間耐えるが、援軍到着の見込みが薄く、最上家臣志村光安の説得に応じ開城した。会津移封後は酒田城代と奉行職を務めた。池田讃岐守らを破り大宝寺城より東禅寺城に移り5,500石を領した。最上家の攻撃に十四日間耐えるが、援軍到着の見込みが薄く、最上家臣志村光安の説得に応じ開城した。 

上条定憲【じょうじょうさだのり(15??~15??)】

刈羽郡上条城主。上杉房実の男。官途は播磨守。通称弥五郎。別名上杉定憲。1509年、上杉顕定の越後侵攻に際しても長尾為景に敵対した。1513年、宇佐美房忠が小野城で挙兵し、上杉定実ら守護方と長尾為景のあいだで抗争が勃発すると上条定憲も上杉定実に応じて挙兵した。上杉定実は長尾為景によって幽閉されてしまった。「六日市の戦い」でも守護方が大敗した宇佐美房忠も岩手城で自刃に追い込まれ、上条定憲自身は目立った動きに出ることが出来ないまま抗争は終結した。1530年、上条定憲と長尾為景のあいだで抗争が勃発した。幕府を後楯にしていた長尾為景を前に、揚北衆といった国人や上杉一門にも定憲に加担する勢力は少なく、将軍家足利義晴の仲介により乱は収束した。1531年、長尾為景が後楯としていた幕府の有力者細川高国が「大物崩れ」に敗れ自刃した。1533年、両者間で「再乱」が生じた。このとき上条定憲は、上田長尾家や揚北衆など国内勢力に加え、会津蘆名家や出羽砂越家といった国外の勢力も味方につけることに成功し、長尾為景方への攻勢を強めた。1536年、長尾為景を隠居に追い込んだ。

上条頼房【じょうじょうよりふさ(15??~15??)】

上杉房実の次男。長尾為景と争った。1503年、枝連衆の上条定実が、越後守護上杉房能の婿養子となった家柄。1559年、披露太刀、入道之衆六人のひとり。

上条景義【じょうじょう(15??~1582)】

上条頼房の男。1559年、長尾景虎とともに上洛した。1561年「第四次川中島の戦い」では春日山城留守居役。1577年、能登国畠山義春を養子に迎えた。1582年、森長可と信濃国境で戦い撃退した。

庄田定賢【しょうださだかた(15??~1561)】

長尾景虎家臣。1552年、山内上杉憲政が長尾景虎を頼ると、庄田定賢、平子孫四郎らを沼田城に派遣した。1556年、大熊朝秀と武田家の同盟軍を「駒返しの戦い」で撃破った。1561年「第四次川中島の戦い」で長尾景虎本陣を強襲する武田義信勢と戦い討死。

庄田隼人【しょうだはやと(15??~15??)】

越中宮崎城在番。1573年、河隅三郎左衛門忠清とともに椎名家浪人衆の取り締まりを命じられた。浪人衆らは海賊行為をしていたため、海岸を警護し、浜へ上がったところを討つよう命じられた。

進藤家清【しんどういえきよ(15??~15??)】

長尾景虎家臣。広泰寺昌派とともに上杉家の外交を担当、特に後北条家との外交に活躍した。1570年、武蔵岩槻城を大田資正に渡すことを条件に、北条綱成の次男北条氏秀と柿崎景家の次男柿崎晴家を人質交換、信濃、西上野出兵を約す交渉を成立させた。 

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【た】

只見助頼【ただみすけより(15??~15??)】

上田長尾房長家臣。通称次郎左衛門尉。1510年、大熊政秀から段銭未納を咎める書状を送られた。に段銭を納めるはずであったが、未だに納められていないので納めるよう求められた。

千坂景長【ちさかかげなが(15??~15??)】

蒲原郡鉢盛城主。通称藤右衛門。越後上杉家四家老のひとり。1513年、長尾為景が上杉定実を幽閉すると、長尾為景の越後統治に協力した。

千坂景親【ちさかかげちか(1536~1606)】

千坂景長の男。官途は対馬守。長尾景虎が山名上杉家の名跡を相続したときに、長尾景虎に仕えた。千坂景親は長尾景虎の馬廻衆として仕えたため本営が敵襲により危機に陥らないかぎり、千坂景親には出動の機会はなく、戦場で活躍する機会は少なかった。長尾景虎の病没後は、長尾景勝に仕えた。外交、情報収集能力に優れており、長尾景勝政権下では長尾家の外交役として活躍した。1586年、長尾景勝の上洛に付き従い、大坂城で直江兼続と共に千利休の茶会に出席した。1595年、伏見城普請総奉行に任命され、伏見留守居役となった。1598年、会津移封で大沼郡で5,500石を領した。1600年「関ヶ原の役」後には松平元康との和睦を主張し本庄繁長と共に本多正信と和睦の交渉を行った。1603年、長尾家の初代江戸家老となった。

千坂長朝【ちさかながより(15??~15??)】

千坂景親の男。1602年、亀岡文殊堂の連歌会に出席した。
千坂高信【ちさかたかのぶ(15??~15??)】

千坂景親の次男。
千坂憲清【ちさかのりきよ(15??~15??)】

長尾家臣。1555年、佐竹義昭への使者となり同盟締結交渉を行った。

寺島長資【てらしまながすけ(15??~1582)】

長尾家臣。吉江景資の長男。寺島和泉守の養子。1582年「魚津城の戦い」では、祖父吉江宗信、父吉江景資、弟中条景泰と共に守将となって奮戦するも、織田方の柴田勝家に攻め落とされ、一族と共に自刃した。

外山茂右衛門【とやましげざえもん(15??~15??)】

越後国寺泊の商人。1542年、鶴子銀山は、外山茂右衛門によって発見された佐渡を代表する銀山のひとつ主に銀と銅が採掘されました。1594年、鶴子本口間歩に、石見銀山より「横相」と呼ばれる坑道掘りの技術が導入されると、多量の鉱石が採掘可能となった。

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【な】

直江景綱【なおえかげつな(1509~1577)】

三島郡与板城主。直江親綱の男。長尾家臣。官途は大和守。通称神五郎。室は山吉政久の姉娘(正国尼)。側室は北条輔広の娘。長尾為景、長尾晴景、長尾景虎の三代にわたって仕えた。奉行職を務め主に内政、外交面で活躍した。また七手組大将の一人として軍事面で活躍した。直江家は越後守護上杉家臣飯沼家の被官であった。1514年、守護代長尾為景によって飯沼家が滅ぼされると、城与板城主となった。1539年、守護職上杉定実の養子問題を巡る「天文の乱」では、中条藤資らと共に入嗣推進派を形成した。1542年、伊達家へ伊達実元の迎えの使者にあたった。1547年、長尾家中で兄長尾晴景と弟長尾景虎との間に抗争が起こった際には、中条藤資や本庄実乃らと共に長尾景虎を支援した。1556年、長尾景虎の出家騒動中に中条藤資らが守護譜代の大熊朝秀を追放したのを機に、本庄実乃らと共に奉行職として政務の多くを任されるようになった。1560年、北条氏康討伐のために長尾景虎が関東に出陣している間、春日山城の留守居を吉江景資と共に任された。1561年「第四次川中島の戦い」では、小荷駄奉行として出陣し武田義信勢を敗走させるなどの戦功を挙げた。

直江信綱【なおえのぶつな(15??~15??)】

総社長尾顕方の九男。通称与兵衛尉。直江景綱の娘於船と結婚し直江信綱と称した。1577年、養父直江景綱が病没すると、直江家の家督と奉行職を継いで長尾景虎に仕えた。1578年、長尾景虎の急死後、勃発した「御館の乱」では長尾景勝方に付いて春日山城に籠る一方、本拠地の与板城に残る直江家枝連衆や麾下の与板衆を動員して周辺の長尾三郎景虎派の討伐を進めた。1581年、河田長親の遺領を巡るトラブルにより春日山城内で会談中のところを毛利秀広によって山崎秀仙と共に謀殺された。大身の直江家を押さえようとした長尾景勝の命で、長尾景勝側近の樋口兼続(直江兼続)が直江信綱未亡人を娶り、直江家を相続した。

府内長尾為景【ながおためかげ(1489~1543)】

中頸城郡春日山城主。長尾能景の男。越後国守護代、越中国新川郡守護代。官途は信濃守。室は高梨政盛の娘。1506年「般若野の戦い」で父長尾能景が討死したため、長尾家の家督を継いで越後守護代となった。1507年、守護上杉房能を攻撃して自刃させ、上杉定実を傀儡として守護に擁立した。1509年、関東管領上杉顕定が長尾為景討伐の軍勢を起こすと、長尾為景は劣勢となって上杉定実とともに佐渡国に落延びた。1510年、反攻に転じ「長森原の戦い」で、高梨政盛の援軍もあり上杉顕定を敗死させた。長尾為景は、妹を上杉定実に娶らせ、嫡男長尾晴景を上杉定実の猶子とする約定を交わし守護上杉家の外戚として越後国の実権を握った。その後は越中や加賀に転戦して神保慶宗、椎名慶胤らを滅ぼし、越中の新河郡守護代を任されるなど勢力を拡大した。上条定憲など越後国内の国人領主の反乱に苦しめられた。1536年「三分一原の戦い」で勝利するも隠居に追い込まれた。

府内長尾景連【ながお かげのぶ(15??~1562)】

長尾能景の次男。官途は弾正忠。通称小平次。長尾家枝連衆。1559年、上野国長野家に従い武田晴信と戦う。1561年「第四次川中島の戦い」に参陣した。1561年、長尾勢が厩橋城を落とすと、城主に任じられた。1562年、北条氏康と通じ独立を謀った疑いで自刃させられた。

府内長尾晴景【ながおはるかげ(1509~1553)】

長尾為景の男。官途は左衛門尉。通称弥六郎。室は上杉定実の娘。1536年、父長尾為景の隠居により、家督を譲られて春日山城主となるとともに越後守護代を補任された。父長尾為景と異なり穏健な政策をとり、領内の国人との融和を図った。越後における争乱を鎮めることにはある程度成功した。越後国守護職上杉定実の養子縁組問題で越後国内が乱れた際に中条藤資らを抑えることはできなかった。伊達家の内紛「天文の乱」に助けられ守護上杉家の復権は阻止した。黒田秀忠などが反乱を起こし越後国内の情勢はますます不穏になった。そのような情勢の中、城下の寺院へ入門していた弟長尾景虎が還俗して栃尾城主となり、反乱を鎮め家中での名声を高めると、家臣の一部の間で長尾景虎の擁立を望むようになり、長尾家は家中分裂の危機を迎えた。1548年、上杉定実の仲介のもとに、長尾景虎に家督を譲って隠居した。

府内長尾景房【ながおかげふさ(1527~15??)】

長尾為景の次男。、父長尾為景の病没後に黒田秀忠が謀反を起こした際、兄弟の長尾景康と共に春日山城内で謀殺された。

府内長尾景康【ながおかげやす(15??~1545)】

長尾為景の三男。長尾為景の死後は長兄長尾晴景が跡を継いだが、信望が無く家中は混乱していた。1545年、長尾景康は越後守護上杉家臣黒田秀忠の謀反に遭い、春日山において謀殺された。長尾景房も謀殺された。弟長尾景虎はこの時床下に隠れ難を逃れ、金津新兵衛らの助けにより脱出する事ができた。

府内長尾景虎【ながおかげとら(1530~1578)】

長尾為景の四男。官途は弾正少弼。別名上杉謙信。元服後に長尾景虎を名乗り、国内の統制力に欠いていた兄長尾晴景の養子となって長尾家の家督を相続して越後国守護代となった。のちに関東管領上杉憲政から上杉家の家督を譲られ、上杉政虎と名を改め上杉家が世襲する室町幕府の重職関東管領に任じられた。後に将軍足利義輝より偏諱を受けて最終的には上杉輝虎と称した。五度の「川中島の戦い」をはじめ、長きにわたった武田晴信と戦った。1578年、日頃の大酒が災いしたか春日山城で急死した。

府内長尾景勝【ながおかげかつ(1555~1623)】 

長尾政景の男。長尾景虎の養子。官途は弾正少弼。通称喜平次。別名上杉景勝。室は武田晴信の娘(菊姫)。側室は四辻公遠の娘(桂岩院)。
子で謙信の養子となり、相続争いで北条家から来た養子の景虎を下し(御館の乱)家を継ぐ。1589年「小田原の役」後、会津城1,200,000石を領した。羽柴家五大老のひとり。1600年「関ヶ原の役」では西軍に加担し役後、減封を受け米沢城300,000石を領した。 

府内長尾上杉景虎【ながおかげとら(1544~1579)】

北条氏康の七男。長尾景虎の養子。別名上杉景虎。室は北条幻庵の娘。室は長尾政景の娘(清円院)。側室は遠山康光義の妹(妙徳院)。はじめ武田晴信の人質となるが「甲相駿三国同盟」が破れて帰国後に今度は「越相同盟締結」により越後国に送られた。長尾景虎の養子となり長尾三郎景虎を称した。1578年「御館の乱」で長尾景勝と争い敗れて自刃した。 

府内長尾定勝【ながおさだかつ(1604~1645)】

長尾景勝の男。通称喜平次。官途は弾正大弼。室は鍋島勝茂の娘(市姫)。側室は斎藤本盛の娘(生善院)。生母で長尾景勝の側室である桂岩院は西園寺家の枝連衆、公家の羽林家。桂岩院は長尾定勝を出産後に死んだため、直江兼続の室於船の方が養育に当たった。1610年、二代将軍松平秀忠に御目見した。1623年、父長尾景勝の病没により長尾家の家督を相続した。将軍の計らいで鍋島勝茂の娘と婚姻した。1643年、会津城主加藤明成の除封処理を行った。長尾家の菩提寺である林泉寺と直江家の菩提寺であった徳昌寺との僧録の地位をめぐっての争いの結果、徳昌寺を破却した。

上田長尾房長【ながおふさなが(1494~1552)】

魚沼郡坂戸城主。長尾景隆の男。魚沼郡惣領職。官途は越前守。1526年、父長尾景隆の病没後に上田長尾家の家督を相続した。上田長尾家の当主であったが、長尾為景とは仲が悪く、関東管領である上杉顕定が越後に侵攻してきたときには、上杉顕定勢に属して長尾為景を破った。長尾為景が勢力を盛り返すと、降伏してその麾下に属した。1537年、長尾為景の娘を長尾政景の室に迎え、越後長尾家との関係を強化した。

上田長尾政景【ながおまさかげ(1526~15??)】

長尾房長の男。官途は越前守。室は長尾為景の娘(仙桃院)。1547年、府中長尾家中で長尾晴景と長尾景虎との間で抗争が起こると、長尾政景は長尾晴景側に付いた。長尾政景と対立していた長尾景信が長尾景虎側だった。1548年、長尾晴景は長尾景虎に家督を譲って隠居した。1550年、長尾景虎が家督を継いだことに不満を持って謀反を起した。1551年、景虎の猛攻に遭って降伏した。以後は配下の上田衆を率いて景虎の重臣として活躍した。1556年、家督を捨てて出家しようとする景虎を説得して押し止め、復帰させた。1560年、春日山城の留守居役に任じられた。1564年、坂戸城近くの野尻池で溺死した。

上田長尾景国【おおいだかげくに(15??~15??)】

長尾房長の次男。別名大井田景国。室は大井田氏景の娘。上田長尾家と親密な関係にあった。大井田家に男子が居なかったため、氏景の婿養子として迎えられた。以後は長尾景虎、長尾景勝に仕えた。天正18年に突如として景勝に切腹を命じられた。

古志長尾房景【ながおふさかげ(15??~15??)】

古志郡栖吉城主。長尾孝景の男。古志郡惣領職。官途は豊前守。通称弥四郎。1495年、父長尾孝景から家督を譲られた。1507年、長尾為景が上杉房能を倒し上杉定実を新たな守護として擁立した時、長尾房景は府内長尾為景に属して戦功を挙げた。1509年、関東管領上杉顕定が関東軍を率いて越後へ攻め入ると長尾房景は上杉顕定に属した。1514年、上田庄での守護方との合戦では70人余りを討ち取った。1519年、長尾為景の越中進攻にも参陣したが「新庄の戦い」で一門の多く失う損害を受けた。郡内の領主の被官化を進め、栖吉の城下街の整備を行った。

古志長尾景信【かげのぶ(15??~1578)】

長尾房景の男。別名上杉景信。古志長尾家は越後長尾家枝連衆の筆頭。守護の上杉定実に長尾為景が反旗を翻すと、古志長尾家もこれに従った。長尾景虎の時代には上田長尾家の長尾政景や山本寺上杉家の山本寺定長らと共に長尾景虎の重臣として名を連ねた。1561年、長尾景虎が関東管領上杉家の名跡を継ぐと長尾景信も上杉姓を許された。長尾政景、長尾景勝父子の上田長尾家とは元来幾つかの小競り合いを演じた対立関係であり「御館の乱」では長尾景虎の養子であった長尾景勝が同じく養子である長尾三郎景虎と家督争いを始めると、その対抗上から長尾景虎を支持し「居多浜の戦い」で山浦国清と戦い討死した。

三条長尾長景【ながおながかげ(15??~15??)】

三条城主。官途は中務少輔。通称平六。1545年、黒滝城主黒田秀忠と共に長尾晴景に謀反を起こした。
三条長尾俊景【ながおとしかげ(15??~1545)】

長尾長景の男。1545年、黒滝城主黒田秀忠とともに越後守護代長尾晴景に対して謀叛するが、長尾景虎に敗れ討死した。

飯野長尾景久【ながおかげひさ(15??~15??)】

飯野城主の男。

飯野長尾景直【ながおかげなお(15??~1581)】

長尾景久の男。長尾藤景の養子。通称小四郎。別名椎名景直。後に椎名康胤の跡を継ぎ、椎名小四郎と称した。主に越中戦線で活躍した。1578年「月岡野の戦い」では織田勢に敗れた。長尾景虎の病没後の「御館の乱」で長尾三郎景虎派に属して所領を削減された。これに反発してか、後に織田家に寝返った。1581年、「越中小出城の戦い」で討死した。

下田長尾藤景【ながおふじかげ(15??~1575)】

高城主。官途は遠江守。長尾景虎の家老として、本庄慶秀、直江景綱、柿崎景家らとともに活躍した。1561年「際四次川中島の戦い」では、長尾景虎の戦術を批判した。1575年、長尾景虎は本庄繁長に長尾藤景、長尾景治兄弟の誅殺を命じた。本庄繁長は祝宴の名目で長尾兄弟を誘いだし謀殺した。
下田長尾景治【ながおかげはる(15??~1575)】

長尾藤景の弟。通称右衛門尉。1575年、長尾景虎は本庄繁長に長尾藤景、長尾景治兄弟の誅殺を命じた。本庄繁長は祝宴の名目で長尾兄弟を誘いだし謀殺した。
下田長尾興里【ながおおきさと(15??~1568)】

下田長尾家臣。官途は外記。山内上杉憲政と共に越後国に落延びた。長尾藤景に仕え、その姉を娶った。1568年、長尾藤景、景治兄弟は本庄繁長に誅殺された。長尾興里らは軍議を開き、高城の守りを固めるため堀の普請などを行った。長尾景虎はこれを謀反として、本庄実乃に高城攻めを命じた。長尾興里は敗れ、高城を落延びる途中で自刃した。

新津勝資【にいつかつすけ(15??~1600)】

長尾家臣。山吉政久の男。新津勝邦の養子。官途は丹波守。1561年「第四次川中島の戦い」では他の揚北衆と共に参陣し遊軍として活躍した。「は新発田重家の乱」「小田原の役」「文禄、慶長の役」などに参陣した。1593年、婿養子の新津秀祐に家督を譲った。1600年、転封先の会津でも戦いに明け暮れた。

登坂清高【のぼりざかきよたか(15??~15??)】

長尾景虎家臣。官途は加賀守。 
登坂式部【のぼりざかしきぶ(15??~15??)】

登坂清高の次男。兄甘粕景継は甘粕継義の跡を継いだため、登坂家当主となった。1600年、伊達政宗は上杉家の白石城を攻めさせた。白石城を守る登坂式部は開城を決意するが、城兵は助命されないと考え、徹底抗戦するよう求めた。登坂式部は石川昭光、片倉景綱に使者を派遣。城兵の助命を約束する起請文を求めた。石川昭光らは連署で起請文を作成。これにより城兵も開城に合意。白石城は落城した。

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【は】

樋口兼豊【ひぐちかねとよ(15??~1602)】

長尾政景家臣。樋口兼村の男。官途は伊予守。通称は惣右衛門。室は直江親綱の娘(藤姫)。継室は尾崎重歳の娘(蘭姫)。長尾政景の没後長尾景虎に仕えた。樋口兼続の実父で「御館の乱」では長尾景勝側につき戦功を挙げ、東頸城郡直峰城主となった。 

樋口兼続【ひぐちかねつぐ(1560~1619)】

樋口兼豊の男。官途は山城守。通称与六。室は直江景綱の娘(於船)。別名直江兼続。1564年、長尾政景が死去すると、長尾景虎の養子となった長尾景勝に従って春日山城に入った。1578年「御館の乱」では、父樋口兼豊と共に長尾景勝に属した。1581年、直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に謀殺されると、樋口兼続は長尾景勝の命により、直江景綱の娘で直江信綱の室であった於船の婿養子となり直江家を継いで与板城主となった。1584年、狩野秀治が病に倒れると、樋口兼続が内政、外交の取次を担った。1586年「新発田重家の乱」では新潟城と沼垂城から新発田勢を駆逐し、新潟湊の経済利権を失った新発田重家は急速に弱体化し乱は収束した。1590年「小田原の役」では、松山城を守備していた城代山田直安、金子家基、難波田憲次らを降した。1592年「文禄、慶長の役」では長尾景勝と共に参陣した。1598年、長尾家が春日山城から会津城1,200,000石に移封されると、樋口兼続には米沢城300,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、樋口兼続は山形城主最上義光領に兵30,000余りを率いて侵攻した。「関ヶ原の戦い」で西軍が敗れると、長尾勢は撤退を開始しが、最上勢と留守政景勢が追撃してきて激戦となった。水原親憲、前田利益らの諸将の奮戦もあって米沢城への撤退に成功した。1601年、長尾景勝とともに上洛して松平元康に謁見し、米沢城300,000石へ減移封となった。樋口兼続は治水、開墾、街整備し、殖産興業、鉱山の開発を推進した。

樋口実頼【ひぎちさねより(1562~15??)】

樋口兼豊の次男。別名大国実頼。長尾景虎の病没後の「御館の乱」では長尾景勝に属した。1582年、長尾景勝の命により天神山城主小国重頼の養子となり小国家の家督を相続した。1586年、新発田重家討伐戦に参加し、新潟城を焼打ちにした。1598年、長尾景勝の会津移封に付き従い、南山城代として21,000石を領した。1600年、長尾景勝が松平元康との戦に備えて会津に神指城を築城した。「関ヶ原の役」後、出羽高畠城7,000石の城代となった。1604年、兄樋口兼続と本多政重との養子縁組に反対し、本多政重を迎えるために上洛した使者、西山庄左エ門宗秀、飯田実相坊元貞を謀殺し、高野山に落延びた。

深沢利重【ふかざわとししげ(15??~15??)】

深沢尚重の男。上田長尾家臣。通称刑部少輔。室は栗林頼忠の娘。1578年、長尾景虎の病没後に発生した「御館の乱」では、長尾景勝の命で上田坂戸城を守備した。上杉景虎を支援する後北条家勢を上野国猿ヶ京で撃退した。その後も登坂安忠、樋口兼一らとともに越後国境を守った。栗林政頼と深沢利重を中心に樋口兼一、登坂清忠、登坂与五郎らと防戦に徹した。栗林政頼と深沢利重が前線に出て戦っていないと他の諸将から訴えられた。1579年、長尾景虎の敗死後も栗原政頼らとともに上田城を防備した。

福王寺孝重【ふくおうじたかしげ(15??~15??)】

魚沼郡下倉山城主。官途は兵部少輔。通称彦八郎。越後守護代長尾為景は守護上杉定実を傀儡化した。1533年、反抗する上杉一族の上条定憲が上条城に立て籠もり、上杉家の旧臣を結集して春日山城下の居多神社を焼き討ちするなど、長尾為景と戦った。福王寺孝重は長尾為景方に味方し籠城、上条定憲方であった坂戸城主長尾房長の猛攻を受けた。福王寺孝重は渇水期に破間川、魚野川を渡河し上田領に放火するなどの攪乱戦で上田勢を牽制した。1555年「第二次川中島の戦い」に参陣し戦功を挙げた。
福王寺重綱【ふくおうじしげつな(15??~1581)】

福王子孝重の男。官途は掃部介。1535年、父福王子孝重と共に長尾為景に属して「下倉山城の戦い」に参陣した。1578年「御館の乱」では長尾景勝に属した。北条家との合戦で負傷した。
福王子景重【ふくおうじかげしげ(15??~15??)】

福王子重綱の男。

平子右馬充【ひらこうまのじょう(15??~15??)】

長尾為景家臣。1536年、長尾為景から感状を賜った。
平子孫太郎【ひらこまごたろう(15??~15??)】

長尾景虎家臣。1549年、松本河内守と領地争いを起こした。1551年、長尾景虎から長尾政景との合戦への参陣を求められた。1552年、長尾景虎が弾正少弼に昇進すると祝賀の品を献上した。松本河内守との領地争いが長引いたため、長尾景虎から領地を安堵された。

堀江宗親【ほりえむねちか(15??~15??)】

鮫ヶ尾城主。長尾家臣。官途は駿河守。1577年、織田家との境となった加賀国津幡城主に任じられた。1578年、長尾景虎の病没後の「御館の乱」では長尾三郎景虎派に属した。軍勢を伴って御館に入り、長尾景勝勢と戦った。御館陥落後には長尾三郎景虎を鮫ヶ尾城に迎え入れ、相模への脱出を図ったが、長尾景勝勢に安田顕元に内通しており、長尾三郎景虎入城後に二の丸に火を放って城から退去した。

本庄実乃【ほんじょうさねより(1511~15??)】

古志郡栃尾城主。別名本庄慶秀。長尾景虎幼少期から補佐し奉行職を務めた。幼少期の長尾景虎の器量を見抜いて、早くから栃尾城に迎えてその側近となった。長尾景虎が兄長尾晴景に代わって越後における国人衆の反乱鎮圧に赴いた時は、その補佐役として戦功を挙げた。長尾景虎からの信任は厚く、直江景綱と共に側近のひとりとして絶大な権力を与えられた。1561年「第四次川中島の戦い」などに参陣した。

本庄秀綱【ほんじょうひでつな(15??~1582)】

本庄実乃の男。通称清七郎。1559年、長尾景虎が将軍足利義輝に謁見した際には太刀持ち役を務めた。1572年、越中進軍中の長尾景虎によって、城将として春日山城へ入城を命じられた。1575年、長尾景信や上条政繁らと共に、上野国沼田城城の守将を任せられるなど、関東方面での戦いでも活躍した。1578年、長尾景虎の病没後の「御館の乱」では長尾三郎景虎派についた。本庄秀綱は落城寸前に城から脱出した。三条城主神余親綱らと共に長尾景勝に抵抗した。1580年、栃尾城が落城すると会津方面へ落延びた。
本田長定【ほんだながさだ(15??~15??)】

長尾景虎家臣。通称右近允。1561年「第四次川中島の戦い」で戦功を挙げた。

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【ま】

松本景繁【まつもとかげしげ(15??~1574)】

三島郡小木城主。官途は石見守。1561年「第四次川中島の戦い」で戦功を挙げた。1565年、上野国沼田城の守将を務め、武田家、北条家勢の侵攻に対して備えた。1567年、北条高広の謀反により唐沢山城に入り対陣した。1569年、北条家から同盟の書状を携え、天用院という使僧が沼田を訪れる。天候悪化のため越山出来ずにいたため、松本景繁が先に越山し、長尾景虎に書状の内容を伝えた。

松本鶴松【まつもとつるまつ(15??~15??)】

松本景繁の男。

松本房繁【まつもとふさしげ(15??~15??)】

松本景繁家臣。官途は大学助。1561年「第四次川中島の戦い」に参陣した。

松本忠矩【まつもとただのり(15??~15??)】

松本忠繁の男。通称大炊介。年友城主。

丸田高俊【まるたたかとし(15??~15??)】

蔵王城主。官途は周防守。1578年「御館の乱」では長尾三郎景虎に属した。1579年、長尾景勝の攻撃を受けた。後に許され長尾家に仕えた。神戸城将登坂藤右衛門らと共に芦名家に備えた。
丸田右京之助【まるたうきょうのすけ(15??~15??)】

見附城主。1578年「御館の乱」では長尾三郎景虎に属した。1579年、長尾景勝の攻撃により落城した。
丸田伊豆守【まつたいずのかみ(15??~15??)】

大面城主。1578年「御館の乱」では長尾三郎景虎に属した。1579年、長尾景勝勢の攻撃により開場した。

村山義信【むらやまよしのぶ(15??~15??)】

長尾為景家臣。通称与七郎。1519年、椎名長常から長尾為景に越中出陣催促の取次を依頼された。
村山盛義【むらやまもりよし(15??~15??)】

長尾為景家臣。1526年、関東管領上杉顕定が越後に攻め込むと、長尾為景に属して戦功を挙げた。
村山直義【むらやまなおよし(15??~15??)】

長尾為景家臣。官途は中務丞。1531年、長尾為景から書状を送られた。「天文の乱」では戦功を挙げた。
村山與七郎【むらやまきょうしちろう(15??~15??)】

長尾晴景家臣。1545年、黒田秀忠が二度目の謀反を起こすと、長尾景虎は村山與七郎に「黒田征伐」に加わるよう命じた。

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【や】

安田広春【やすだひろはる(15??~15??)】

刈羽郡安田城主。安田清広の男。北条輔広の養子。官途は丹後守。通称弥九郎。1507年、守護代の長尾為景が、守護の上杉房能を討つという事件が起こと、安田広春は長尾為景に属した。側近を務め、越中神保氏攻めなどに従い、各地を転戦した。また奉行職を務め長尾為景の側近として各種の折衝にあたった。

安田景元【やすだかげもと(15??~15??)】

官途は越中守。安田広春の養子。室は安田広春の娘。1530年、父安田広春の病没により安田家の家督を相続した。上条定憲を中心とする長尾為景に対する「上条の乱」が起きると、安田景元は長尾為景に属して反乱勢と戦った。「上条の乱」は、長尾為景の隠居により沈静化した。その後、安田景元は長尾晴景、長尾景虎に属した。1555年、北条高広が謀反を起こすと直江景綱と共に知らせ、長尾景虎から賞賛を受けた。

安田顕元【やすだあきもと(15??~1580)】

安田景元の男。通称惣八郎。1561年「第四次川中島の戦い」に参陣して戦功を挙げ、信濃国飯山城に任じられた。1578年、長尾景虎の病没後の「御館の乱」では、長尾景勝の属して、新発田重家や堀江宗親などの、長尾景虎に属した国人衆を調略して長尾景勝勢に引き入れた。乱の終結後の論功行賞において、上田衆が恩賞を独占したため、新発田重家ら国人衆はこれに猛反発した。安田顕元は新発田重家と長尾景勝との仲裁に乗り出して両者の説得を試みたがうまくいかなかった。安田顕元は責任を感じ自刃した。

安田能元【やすだよしもと(1557~1622)】

安田景元の男。官途は上総介。通称弥九郎。1578年、長尾景虎の病没後に起こった「御館の乱」では、兄安田顕元と共に長尾景勝に属した。安田顕元は長尾景虎属した新発田重家、堀江宗親などを調略した。安田顕元が自刃すると、安田能元は家督を相続した。1580年、長尾景勝から本領を安堵された。 1582年「新発田重家の乱」に参陣した。「放生橋の戦い」において殿軍を務めた。1586年、長尾景勝が羽柴家の麾下に属すると、内政手腕に優れていたため、領国での政務を任せられた。1592年「文禄の役」では、藤田信吉と共に越後国春日山城の留守居役を務めた。1598年、長尾景勝が会津城1,200,000石を領すると、浅香城と二本松城の守備を命じられ、岩井信能、大石綱元と共に会津三奉行に任ぜられ、その筆頭となった。1600年、松平元康勢が「会津討伐」を行うと小峰城を守備した。1601年、長尾景虎が米沢300,000石に減封されると、安田能元も二本松城を退去した。 

山岸尚家【やまぎしなおいえ(15??~15??)】

深沢尚重の次男。官途は中務少輔。別名は深沢弥七郎。室は長尾景明の娘。1592年、黒滝城主山岸右衛門が「文録の役」で陣中で病没すると、山岸右衛門の嫡男山岸忠兵衛がまだ幼かったので山岸家の家督を相続した。1598年、長尾景勝の命により、岩井信能、広居忠家とともに長尾景虎の遺骸を会津に移葬した。1612年、樋口兼続、安田能元、岩井信能、水原親憲、平林正恒ら重臣たちとともに十七箇条の家中法度を制定した。1614年「大坂冬の陣」に参陣した。1623年、長尾景勝死後も長尾定勝に仕えた。

山崎秀仙【やまざきしゅうせん(15??~1581)】

長尾景虎家臣。長尾景虎へ仕官する前は佐竹義重に仕えていた。長尾景虎に四書五経を講じ、老荘諸子等の中国思想家、賢人についても教授した。その他には越中との連絡役や長尾景虎使者として織田信長などの諸将との接見、折衝を行った。長尾景虎の病没後の「御館の乱」では長尾景勝派に属した。安田顕元が長尾景勝公認の下で恩賞と引き換えに長尾景虎派の諸将を長尾景勝方に引き入れた。しかし論功行賞では、山崎秀仙は寝返り組への恩賞授与を反対し、長尾景勝を押し切った形となった。この事に怒った毛利秀広によって、春日山城内にて会談中の直江信綱共々謀殺された。

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【資料Ⅰ】

南越後国(5郡/246,000石)

頸城郡:春日山城、箕冠城、不動山城。
魚沼郡:
古志郡:栃尾城、栖吉城。
刈羽郡:安田城、北条城、琵琶島城。
三島郡:与板城。

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【資料Ⅱ】

越後長尾家四天王【ながおけしてんのう】

直江景綱、甘粕景持、宇佐美定満、柿崎景家。

越後十七将【えちごじゅうしちしょう】

荒川伊豆守、飯盛摂津守、宇佐美定行、鬼小島弥太郎、柿崎景家、甘糟景持、唐崎左馬之介、斎藤朝信、鴫山周防守、神藤出羽守、高梨政頼、直江兼続、直江景綱、永井丹波守、本庄繁長、毛利上総介、桃井讃岐守。

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【資料Ⅲ】

南越後国【みなみえちごのくに】

日本海に面して南北に長く伸びた北陸道の国。東北は出羽国、東は岩代国、東南は上野国、南は信濃国、西南は越中国と境を接する。西は広く日本海に面し、佐渡海峡を隔てて佐渡国と向かい合う。陸続きの各国との境には山岳地帯があり、これが国境防衛に大きな役割を果たしている。出羽との境の朝日山地、飯豊山地、岩代国、上野国との境の越後山脈、信濃国との境の妙高高原、越中国との境には急峻な親不知の険がある。日本海側には中部の越後平野と南部の高田平野があり、農業、漁業とおに盛んである。山岳地帯と日本海に囲まれた地形から冬期には豪雪地帯となり、部隊の移動はほとんど不可能になる。国土防衛には適した環境であるが、他国へ侵攻を行うには時季が重要となる。文化的には、国土が南北に長く、多数の国と国境を接しているため、国内は上越、中越、下越の三地域に分割され、それぞれ独立性を保っている。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※上杉謙信は、長尾景虎で統一しました。養子の上杉景勝と上杉景虎についてはもそれぞれ長尾景勝、長尾三郎景虎に統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「武田信玄」新潮社、「武田勝頼」講談社、「戦国最強上杉武将伝」PHP文庫、「上杉三郎景虎」光文社、「天と地と(全3巻)」文春社、「謀将直江兼継(全2巻)」角川文庫、「上杉謙信」PHP文庫。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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