2012年5月11日金曜日

戦国安房国人名辞典


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【あ】

安西実元【あんざいさねもと(15??~1564)】

里見義弘家臣。官途は伊予守。1564年「第二次国府台の戦い」で乗馬を失った里見義弘に自分の馬を渡し落延びさせた。自らは敵勢に討入り討死した。

安西又助【あんざいまたすけ(15??~15??)】

勝山城主。通称勝右衛門。里見義堯の麾下に属した。里見家海賊衆の主力として岡本随縁斎とともに「三崎城の戦い」など、江戸湾の制海権を巡って北条家海賊衆と争った。船手頭として300石を領した。

安西遠江守【あんざいとおとうみのかみ(15??~15??)】

里見家臣。1587年、正木頼忠が里見家に背くと、軍船数十艘を率いて参陣した。正木頼忠が籠城する勝浦城を攻めるも、落城させることは出来なかった。

板倉昌察【いたくらまさあき(15??~1622)】

里見家臣。別名板倉牛洗斎。里見義康の死後、里見忠義を補佐した。里見左京亮、堀江頼忠と共に里見家三人衆と称され、里見家の政務を取り仕切った。

市川玄東斎【いちかわげんとうさい(15??~15??)】

里見義堯家臣。甲斐武田家との交渉役を務めた。「房甲同盟」の成立にも活躍した。

上野助国【うえのすけくに(15??~1533)】

里見家臣。官途は筑後守。1533年「稲村城の戦い」において里見実堯側について討死した。

長南七郎【おさなみしちろう(15??~15??)】

里見家臣。1564年「第二次国府台の戦い」で討死した。 

小野忠明【おのただあき(15??~1628)】

里見義康家臣。通称次郎右衛門。別名御子神典膳。のち諸国を遍歴し、伊東一刀斎に師事した。1593年、松平元康に仕え200石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、松平秀忠の「上田城の戦い」の参陣したが、軍律違反に問われて改易された。

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【か】

角田一明【かくたかずあき(15??~15??)】

葛ヶ崎城主。官途は丹後守。1580年、正木憲時と里見義頼の「正木憲時の乱」では、城主角田一明が岡本城に出仕している隙を衝いて正木憲時が攻め落とした。角田一明の弟角田丹波守一元は奮戦の末討死にし、葛ヶ崎城は落城した。

勝山豊前守【かつやまぶぜんのかみ(15??~1564)】

里見家臣。1564年「第二次国府台の戦い」で討死した。

勝行遠【かつゆきとう(15??~15??)】

里美家臣。官途は長門守。里見百人衆のひとり。館山城の城下街の建設を行った。

加藤信景【かとうのぶかげ(15??~15??)】

里見義弘家臣。官途は伊賀守。通称弥五郎。馬上八騎を率いる組頭。里見義弘の没後、嫡男里見義重の後見役を務めた。里見義弘の弟里見義頼と家督争いが生じた際、里見義頼に鞍替えした為、里見義重は敗れて幽閉された。以後、里見義重の後の佐貫城代を務めた。

加藤弘景【かとうひろかげ(15??~15??)】

加藤信景の男。通称太郎左衛門。伝奏役を務めた。1590年「小田原の役」に参陣した。

鎌田孫六【かまたまごろく(15??~1534)】

里見義豊家臣。1575年「犬掛の戦い」に参戦したが敗れ狐塚で自刃した。

菅野甚五郎【かんのじんごろう(15??~1564)】

里見家臣。1564年「第二次国府台の戦い」で討死した。

木曾左馬介【きそうまのすけ(15??~15??)】

里見家臣。椎津城代。1564年「第二次国府台の戦い」での勝利により北条家は追撃を開始。椎津城も攻められ落城した。

楠六左衛門【くすのきろくざえもん(15??~15??)】

里見家臣。百人衆のひとり。
 
楠市兵衛【くすのきいちざえもん(15??~15??)】

楠六左衛門の男。里見家の伯耆国移封後、内藤家に仕えた。

薦野時盛【こものときもり(15??~15??)】

明星山城主。通称神五郎。薦野時盛の娘が里見義弘の側室となって薦野頼俊を生み、薦野頼俊は薦野家を相続した。

薦野頼俊【こものよりとし(15??~15??)】

里見義弘の男。薦野時盛の養子。通称神五郎。別名里見頼俊。薦野時盛の跡を継ぎ、明星山城2,500石を領した。1614年、里見家改易後は水戸家徳川頼房に仕えた。

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【さ】

里見義豊【さとみよしとよ(1513~1534)】

宮本城主。里見義通の男。1518年、父里見義通が病没すると、里見義豊が幼少であったため叔父里見実堯が後見して国政を預かった。1533年、里見実堯が家督を譲らないと思った里見義豊を謀殺して里見家の家督を相続した。以後、真里谷家の援助を受けて安房国の統治を行うが、復仇を狙う里見実堯の次男里見義堯は北条氏綱や安房国人衆の支援を受けて反攻により稲村城に籠城したが自刃した。

里見義豊家臣団【さとみよしとよけあしんだん】

木曾修理介、中里源左衛門、本間八右衛門、真田三河守、宮本宮内、鎌田孫六、大野宇兵衛、勝山隼人、龍崎外記、楠六左衛門。

里見実堯【さとみさねたか(1483~1533)】

金谷城主。里見成義の次男。官途は左衛門大夫。通称権七郎。小弓御所足利義明に属した。兄里見義通の命を受けて上総国へ進出して正木家のはじめとする房総半島の海賊衆を手中に収めた。1518年、兄里見義通の死後、幼少である甥里見義豊を後見した。1526年、鎌倉や武蔵品川を攻撃して後北条氏綱と戦った。次第に家中における発言力を増して里見義豊の地位を脅かす存在となった。1533年、里見義豊は機先を制する形で里見実堯とその腹心の正木通綱を稲村城を呼び寄せ謀殺した。

里見義堯【さとみよしたか(1512~1574)】

里見実堯の男。官途は安房守。通称権七郎。室は長野憲業の娘。継室は土岐為頼の娘。1533年、父里見実堯が謀殺されたとき金谷城にあったが、百首城に移って籠城した。1534年、北条氏綱の援助を得て里見義豊勢を安房犬掛に破り、稲村城において自刃させ、里見家の家督を相続した。1537年、上総国方面に進出した後北条氏綱と敵対関係となって断交した。1538年、小弓御所足利義明らと結んで「第一次国府台の戦い」で敗北した。小弓御所足利義明は討死し、下総国をめぐる戦いは北条氏綱の優位となった。里見義堯は久留里城を攻略して、後北条家と対抗した。「越相同盟」で長尾景虎と結ぶと甲斐武田家と結ぶなど、外交力もあった。1552年、土岐頼定をして椎葉城主武田信政を自刃に追いやった。1554年「浮渡川の戦い」で北条氏康と戦いこれを撃破した。1556年、相模国三浦郡を侵し、順調に北進する北条氏康も東の里見家には苦戦を強いられた。1562年、隠居して家督を嫡男里見義弘に譲った。1564年「第二次国府台の戦い」で再び北条氏康と戦って破れた。1567年「三船台の戦い」で、後北条家勢に大勝して大打撃を与え、房総半島に君臨した。

里見義弘【さとみよしひろ(1530~1578)】

里見義堯の男。官途は左馬頭。通称太郎。室は小弓公方足利義明の娘(青岳尼)。継室は足利晴氏の娘。1561年、長尾景虎の北条氏康攻めに参陣した。1564年「第二次国府台の戦い」で北条綱成と戦うなど、父里見義堯と同様に後北条家と徹底して対立した。「第二次国府台の戦い」で大敗すると正木時忠、土岐為頼、酒井敏房ら上総国の有力領主の離反によって上総国の大半を喪失した。1567年、里見義弘は「三船山の戦い」で後北条勢を撃破して勢力を挽回し、佐貫城を本拠地として安房国から上総国、下総国にかけての領国を築いた。1577年、後北条家と和睦し「房相一和」を結んだ。1578年、長尾景虎の後を追うように久留里城にて急死した。遺言に弟里見義頼と嫡男里見義重への領土分割を命じた事から、死後に里見家の分裂を招いた。

里見義重【さとみよししげ(1570~1622)】

里見義弘の男。別名梅王丸。父里見義弘は、叔父里見義頼を次期当主としていたが、里見義重の誕生により廃嫡される事となった。里見義弘は里見家の家督を里見義重に継承させる代わりに安房国を里見義頼に与えるという妥協案を出した。1578年、里見義弘が久留里城で病没すると、里見義弘側近や正木憲時、加藤信景らによって里見家の家督を相続した。1580年、里見義頼は、正木憲時を討つ事を大義名分として挙兵して上総国に侵攻を始めた。里見義頼は里見義重の対応が整う前に上総国内の主要拠点を制圧して、正木憲時を小多喜城に里見義重と加藤信景を佐貫城に囲んだ。正木憲時は正木頼忠を破って勝浦城を逆に制圧するなどの奮戦を見せたものの、佐貫城の加藤信景は里見義重の助命を条件に無血開城した。里見義重は出家させられ淳泰と称した。

里見義頼【さとみよしより(1543~1587)】

里見義堯の次男。官途は刑部大輔。通称太郎。室は北条氏政の娘(鶴姫)。継室は北条氏康の娘(菊姫)。側室は正木時茂の娘(龍雲院)。1578年、兄里見義弘の病没後、その里見義重との間に家督争い起きた。1580年、里見義頼は久留里城を攻めて里見義重を出家させて、里見家の家督を相続した。1581年、小多喜城主正木憲時を謀殺して領国を固めた。里見義頼は武田勝頼と同盟を結び後北条家と対立した。北条氏政との争いが再燃するが、里見義頼はこれを撃退する一方で、羽柴秀吉らと手を結んで連携をとるなど、卓越した外交手腕を見せた。

里見義康【さとみよしやす(1578~1603)】

里見義頼の男。官途は安房守。1587年、父里見義頼の病没により里見家の家督を相続した。1588年、羽柴秀吉と結び、安房国、上総国両国および下総国の一部を安堵された。1590年「小田原の役」では遅参して、上総国、下総国の領地を没収され、安房国98,000石に減封された。里見義康は松平元康と親交を結び、館山城を居城を移した。1592年「文禄の役」では、松平元康に随行して肥前名護屋城に滞陣した。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康とともに「会津討伐」に向かうが、関ヶ原へ向かう軍には組織されず結城秀康勢とともに宇都宮城の守備を担当した。役後、常陸国鹿島郡30,000石を加増されて計120,000石を領した。

里見忠義【さとみただよし(1594~1622)】

里見義康の男。官途は安房守。1603年、父里見義康の病没により里見家の家督を相続した。幼少のため一族の補佐を受けた。1606年、元服し、松平秀忠の偏諱を受けて里見忠義と称した。1611年、大久保忠隣の孫娘を娶ったが、このため大久保忠隣事件に連座して改易になった。伯耆倉吉に配流となる。若くして病没し里見家は断絶した。

里見義高【さとみよしたか(15??~15??)】

里見義頼の次男。官途は讃岐守。上野国板鼻城10,000石を領した。1613年、職務怠慢の罪に問われて改易となり、岳父である酒井家次に預けられ、のち酒井家で400石を領した。

佐貫伊賀守【さぬきいがのかみ(15??~15??)】

里見家臣。1564年「第二次国府台の戦い」で討死した。

忍丹波守【しのたんばのかみ(15??~15??)】

市原城主。1554年、北条家に攻められ落城した。
 
忍民部少輔【しのみんぶしょうゆ(15??~15??)】

忍丹波守の弟。1564年「第二次国府台の戦い」に参陣した。

請西善右衛門【じょうざいぜんうえもん(15??~15??)】

里見家臣。足軽隊小頭。1614年、新井浦から塩年貢を受け取った。

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【た】

高石山城守【たかいしやましろのかみ(15??~15??)】

里見家臣。1591年、羽柴秀吉により里見家が上総国を没収されると本領上総亀山郷内の所領を失い、その代替地として山下郷に30貫文の知行と、山下郷代官職を与えられた。

竹田権兵衛【たけだごんべい(15??~15??)】

里見家臣。竹田権兵衛は百石船二艘を建造するため、和泉村から材木を調達した。和泉村には里見家の御林があり、板倉昌察が管理を命じられていた。

鳥居信濃守【とりいしなののかみ(15??~1564)】

里見家臣。1564年「第二次国府台の戦い」で討死した。

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【な】

中里実次【なかざとさねつぐ(15??~1534)】

里見家臣。里見義実の男。中里家の家督を相続した。里見成義、里見義通、里見義豊の三代に仕えた。里見実堯攻めに反対した。1534年、逆襲を受けた里見義豊を守って討死した。

長田義房【ながたよしふさ(15??~15??)】

千田城主。官途は河内守。里見義豊の弟長田義房は、里見家滅亡後も千田城に在城した。

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【は】

長谷川隼人【はせがわはやと(1508~15??)】

里見家臣。1533年、里見義豊に里見実堯が稲村城に呼出され里見義豊に謀殺されると、長谷川隼人は稲村城から落延び里見義堯に知らせた。

細野修理【ほそのしゅり(15??~15??)】

里美家臣。里見百人衆のひとり。館山城の城下間街の建設を行った。商人石崎与次右衛門を通じて各地の商人に貸し付けた蔵米の返金を受け取った。枝連衆に細野彦兵衛がいた。

堀江頼忠【ほりえよりただ(15??~1617)】

里見家臣。官途は能登守。家老職で1,350石を領した。里見義康の病没後、里見忠義を補佐した。里見左京亮、板倉昌察と共に里見家三人衆と称されれ、里見家の政務を取り仕切った。1614年、里見忠義に従って伯耆国倉吉に同道し、倉吉にて病没した。

堀江四郎左衛門【ほりえしろうざえもん(15??~15??)】

里見家臣。地方奉行。

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【ま】

三浦成良【みうらなりよし(15??~15??)】

佐貫城主。官途は下野守。1575年、蟻木城攻めで大将となり嫡男三浦良俊は副将となった。蟻木城主椎津中務少輔、弟椎津帯刀を討取った。

御子神大蔵丞【みこがみおおくらじょう(15??~15??)】

里見家臣。十人衆のひとり。1606年、里見家臣や寺社の所領目録を作成した。

宮本宮内【みやもとくない(15??~15??)】

里見家臣。1533年、宮本城守将。1534年、里見義堯勢と戦い討死した。

妙本寺日我【みょうほんじにちが(1508~1586)】

妙本寺の住職。1532年、妙本寺を継承した。1535年「天文の乱」に勝利した里見義堯の知遇を得て、以後深い崇敬を受けた。日隆の八品主義に反対して、日要の奉じた文底寿量説を発展させて富士門流の発展に尽力して京都要法寺の日辰とともに「東我西辰」と並称された。

久留里村上信濃守【むらかみしなののかみ(15??~1554)】

足利成氏家臣。久留里城主。足利成氏の病没後、小弓御所足利義明に仕えた。1538年、「第一次国府台の戦い」で足利義明が討死すると里見義康の麾下に属した。1554年、北条氏康の攻撃により討死した

久留里村上信清【むらかみのぶきよ(15??~15??)】

村上信濃守の男。官途は長門守。

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【や】

山本弾正忠【やまもとだんじょうちゅう(15??~15??)】

久留里城代。1575年、蟻木城攻めに参陣した。1579年、里見家に背いた本吉三郎を攻めた。

横小路将監【よここうじしょうげん(15??~15??)】

里見家臣。里見義弘は横小路将監を岡本城の築城奉行に命じ、数十名の工夫の夜に日をついた突貫工事により、二ヶ月余りで城を完成させました。

本吉三郎【よしもとさぶろう(15??~1579)】

亀山城主。里見家臣。1579年、北条家に通じたため、岡本頼元に討たれた。

和田駿河守【わだするがのかみ(15??~15??)】

里見家臣。検地役人。

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【資料Ⅰ】

安房国(4郡/98,000石)

安房郡:館山城、白浜城。
平群郡:岡本城、稲村城。
朝夷郡:三原城。
長狭郡:金山城、安房小湊城。

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【資料Ⅱ】

里見家三人衆【さとみけさんにんしゅう】

堀江頼忠、里見左京亮、板倉昌察。

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【資料Ⅲ】

安房国【あわのくに】

房総半島の南端に位置する東海道の国。古くは上総国の一部であったが、後に安房郡、平群郡、朝夷郡、長狭郡の四郡をもって安房国となった。隣接する国は北側に東西に走る房総丘陵で隔てられた上総国だけだが、浦賀水道を隔てて三浦半島に対しているため、戦国期に里見家と北条家が対立するようになると、双方の海賊衆の襲撃によって沿岸地域が略奪の被害を受けた。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

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※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「房総戦国土豪の終焉」崙書房、「戦国大名里見氏」崙書房、「里見義堯」PHP文庫。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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