2012年6月26日火曜日

戦国南尾張国人名辞典


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【あ】

荒尾空善【あらおくうぜん(15??~15??)】

知多郡木田城主。通称小太郎。空善は今川氏の尾張侵入によって戦死、知多郡大野城主佐治為貞の次男荒尾善次が荒尾空善の婿となって荒尾家を継承した。荒尾善次は荒尾村を領して織田信長に属し、今川勢を木田城に拠って防衛した。

荒尾善次【あらおよしつぐ(1508~1572)】

知多郡大野城主佐治為貞の次男。官途は美作守。通称作右衛門。室は荒尾空善の娘。継室は水野信元の娘。今川義元の尾張国への侵攻により討死した荒尾空善の後を継いで荒尾家を称した。織田信長に仕えて荒尾村を領し、今川家勢と対峙して木田城を守った。1555年、今川義元の尾張国進攻によって、知多郡の諸勢の多くが今川家方に投降した。1560年「桶狭間の戦い」の後、隠居し娘の嫁ぎ先である池田恒興から池田輝政を迎え荒尾家を存続させた。その後、池田輝政は実家に帰り、荒尾善次の男荒尾善久が荒尾家の当主となった。1572年「三方ヶ原の戦い」で討死したため、次男の荒尾成房が家督を相続した。

荒尾善久【あらおよしひさ(15??~15??)】

荒尾善次の男。1560年、実家の荒尾家は池田恒興から池田輝政を迎え荒尾家の当主しとしたが、のちに池田輝政は実家に帰り、荒尾善久が荒尾家の当主となった。1572年「三方ヶ原の戦い」で討死した。

荒尾成房【あらおなりふさ(1556~1630)】

荒尾善次の次男。官途は遠江守。通称平左衛門。室は水野清忠の娘。継室は織田信直の娘。1572年、兄荒尾善久が「三方ヶ原の戦い」で討死したため、荒尾家の家督を相続した。1575年「長篠の戦い」に参陣した、その後も各地を転戦した。のちに、池田恒興に仕え若森城3,000貫の領した。池田恒興が「小牧、長久手の戦い」で討死すると、池田輝政に仕えた。1590年、池田輝政が三河国吉田城主となると、牛久保城代となった。1600年「関ヶ原の役」後、池田輝政が播磨国姫路城520,000石を領すると、龍野城代となり10,000石を領した。1625年、 隠居して家督を嫡男荒尾成利に譲り、隠居料として3,000石を領した。荒尾成房の弟荒尾隆重も池田輝政に仕え、兄弟揃って池田輝政の家老として活躍した。荒尾成房は但馬守を称し、荒尾隆重は志摩守を称した。子孫は藩主池田家の外戚として代々米子領主、鳥取藩家老を務めた。次男荒尾嵩就は叔父荒尾隆重の養子となり、子孫は倉吉領主、鳥取藩家老を務めた。三男荒尾三正は和田家を相続した。四男荒尾久成は幕府に仕え旗本となった。四男荒尾久成は水戸藩家老藤井紋太夫。

荒川重詮【あらかわしげふさ(15??~15??)】

佐久間家臣。通称小右衛門。別名荒川義時。佐久間信盛の家老職。五器所城代。

荒川重世【あらかわしげただ(15??~15??)】

荒川重詮の男。織田信雄に仕え、後に松平元康に仕えた。
                                             
稲垣重宗【いながきしげむね(15??~15??)】

知多郡追分城主。通称平右衛門。永禄年間の初期には、今川家の麾下に属して、松平家と戦った。

稲垣長茂【いながきながしげ(1537~1612)】

稲垣重宗の男。通称平右衛門。1558年、牧野成定の麾下に属して、牧野康成の寄騎衆となった。1560年「桶狭間の戦い」後も今川家に属して松平元康勢と交戦した。1562年、松平元康に恭順した牧野康成に従って各地を転戦して戦功を挙げ、駿河興国寺、長久保、上野国大胡城の守備などを任された。1590年、松平元康が関東に移ると、牧野家を離れて、松平元康直参組となった。このとき上野国山田郡、勢多郡など三郡で3,000石を領した。1600年「越後長尾景勝征伐」では、牧野康成の上野国大胡城を守備した。1601年、佐位郡で加増されて10,000石を領した。

稲垣重綱【いながきしげつな(1583~1654)】

稲垣長茂の男。官途は摂津守。室は森川氏俊の娘。1600年「関ヶ原の役」では松平秀忠勢に属して真田昌幸の上田城攻めに参陣した。1612年、父稲垣長茂の病没により稲垣家の家督を相続した。1614年「大坂の冬の陣」では酒井家次隊に属して参陣し戦功を挙げた。

一色詮勝【いしきあきかつ(15??~15??)】

久松俊勝家臣。一色範直の次男。官途は帯刀。室は久松俊勝の娘。

石橋義忠【いしばしよしただ(15??~15??)】

海部郡戸田庄の豪族衆。斯波家枝連衆。1561年、織田信長への反逆が発覚し、服部友定 を頼って伊勢国へ落延びた。その後は服部友定の 「服部党」 と共に伊勢の 「長島一向一揆」 に参陣し、織田家勢と戦った。

伊東弥三郎【いとうよさぶろう(15??~1552)】

深田織田家臣。1552年「清洲内乱」で討死した。

上田平六【うえだへいろく(15??~15??)】

水野信元家臣。1575年、水野信元が追放されると、佐久間信盛の寄騎衆に任じられた。

大橋重長【おおはししげなが(15??~15??)】

海東郡奴野屋城主。室は織田信秀の娘(お蔵)。津島南朝十五党の首領。織田信長の代になり、織田家を強烈に支持するようになった。後に津島南朝十五党は、織田家の初期の中核を担う勢力になった。

大橋重国【おおはししげくに(15??~15??)】

大橋重長の男。

大橋重賢【おおはししげかた(15??~15??)】

大橋重長の次男。通称与三衛門。のちに松平出羽守の家老職。1572年「三方ヶ原の戦い」に参陣した。

大屋秋重【おおやあきしげ(15??~1532)】

押切城主。今川氏豊家臣。通称右京亮。1532年、織田信秀により那古屋城が攻略されると、押切城を攻略された。

岡田重善【おかだしげよし(1527~1583)】

星崎城主。岡田重頼の男。官途は長門守。織田信秀の家臣となり今川家との戦いで戦功を挙げた。「小豆坂七本槍」のひとり。その後、織田信長に仕え活躍し、織田信長の次男織田信雄の家老となった。

岡田重孝【おかだしげたか(15??~1584)】

岡田重善の男。官途は長門守。別名岡田直景。はじめ織田信長に仕えたが、織田信長が死去するとその次男織田信雄の家臣として仕えた。1583年、父岡田重膳の病没により岡田家の家督を相続した。浅井長時、津川義冬らと共に三家老として織田信雄をよく補佐し、羽柴秀吉からもその器量を認められていた。1584年、羽柴秀吉との内通を織田信雄から疑われ、浅井長時や津川義冬らと共に織田信雄によって伊勢長島城に呼び出されて謀殺された。

末森織田信行【おだのぶゆき(1536~1557)】

末森城主。織田信秀の三男。通称勘十郎。室は春日刑部の娘。側室は和田備前守の娘。1551年、父織田信秀の葬儀の際、織田信長は仏前で抹香を投げつけるという愚行を行ったのに対し、織田信行は折目正しい対応し、織田信長とは対照的な性格を持っていた。1555年、弟織田秀孝が叔父織田信次の家臣洲賀才蔵に謀殺されると、織田信行は織田信次の居城守山城の城下を焼き払った。1556年、織田信長の支援者であった長井規秀が斎藤義龍との戦い討死すると、織田信行は林秀貞、林通具、柴田勝家らと共に謀反を起こした。「稲生の戦い」で柴田勝家が敗れ、次いで林通具が討死した。織田信行は母土田御前の取りなしにより林秀貞、柴田勝家共々赦免された。1557年、織田信行は岩倉城主織田信安と図り、再度謀反を企てたが、柴田勝家は同調せず織田信長に通報した。和睦の為、清洲城に赴くと、河尻秀隆、池田恒興らによって謀殺された。

末森織田信澄【つだのぶすみ(1555~1582)】

織田信行の男。通称七兵衛。別名津田信澄。室は明智光秀の娘。1557年、織田信行が織田信長によって謀殺された後、柴田勝家の許で養育された。織田信長が近江国を平定すると、浅井長政の旧臣で高島郡一職を任されていた磯野員昌の養子となった。織田信澄は智勇に優れており、果断な性格で織田信長に大変気に入られていた。1574年、蘭奢待切り取りの奉行を務めた。1575年「越前一向一揆討伐戦」で柴田勝家らとともに鳥羽城を攻略し、一揆の弾圧を指揮した。1578年、養父磯野員昌が織田家から出奔したため、近江国高島郡大溝城を領した。1582年「四国征伐」では、織田信澄は織田信孝勢の副将として参陣した。「本能寺の変」で、義父明智光秀によって織田信長が横死されると、明智光秀との内通を疑われて織田信孝と丹羽長秀勢に襲撃された。野田城で織田信孝家臣峰竹右衛門、山路段左衛門、上田主水によって謀殺された。

末森織田信糺【おだのぶただ(1555~1633)】

織田信行の次男。通称勝三郎。別名津田信糺。室は春田與右衛門の娘。織田信雄に仕えた。1583年、井塞郷200貫文、益田郷に465貫文を領した。後に蜂須賀家政に仕えた。1593年、1,000石を領した。弟津田信直も蜂須賀家に仕えた。

末森織田信兼【おだのぶかね(15??~1583)】

織田信行の三男。通称新八郎。織田信孝に仕えた。1582年「本能寺の変」後、織田信孝が兄津田信澄を謀殺したが、織田信孝に仕え続けた。最期は信孝に殉じた。

末森織田昌澄【おだまさずみ(1579~1641)】

織田信澄の男。通称三左衛門。藤堂高虎に仕えた。1592年「文禄の役」に参陣した。のちに羽柴秀吉に仕えた。1614年「大坂冬の陣」で藤堂高虎の部隊などと戦って活躍し、羽柴秀頼から褒賞を受けた。1615年「大坂の夏陣」では、嫡男織田勘七郎が討死した。大坂城落城後、松平元康方に出頭したが、藤堂高虎のとりなしで助命された。1618年、松平秀忠の馬廻衆となり、近江国甲賀郡内2,000石を領した。

深田織田信次【おだのぶつぐ(15??~1575)】

海部郡深田城主。織田信定の男。官途は右衛門尉。通称孫十郎。1552年、織田信秀が病没すると織田信友の家臣坂井大膳らは、織田伊賀守の松葉城と、深田城を攻撃した。織田伊賀守と織田信次は人質となった。織田信長と織田信光が援軍に駆けつけ織田信友方の坂井大膳との間で「萱津の戦い」が発生した。坂井大膳は敗走した。織田伊賀守と織田信次も開放された。1555年、織田信友が織田信長によって滅ぼされ、兄織田信光が守山城から那古野城へ移ると、守山城主となった。1555年、織田信次が家臣を連れて龍泉寺 の下の松川渡しで川狩りをしていたところ、馬から下りないという無礼な態度だったため、織田信次の家臣洲賀才蔵は怒って弓で射殺した。近づいて見てみると、若者は織田信長の弟織田秀孝であり、遺体を見て驚愕した織田信次はそのまま逃亡した。守山城下は、弟織田秀孝の死に激怒した織田信勝勢により焼き払われた。放浪中の織田信次は織田信長に罪を許され守山城主に戻った。1574年「長島一向一揆攻め」に参陣した。兵糧攻めを受けた一揆勢は降伏しようとするが織田信長は、受け入れず退城して海から逃げようとする一揆方の人々を鉄砲で射殺させた。追い詰められた一揆勢は捨て身の斬り込みをかけ、この時織田信次は討死した。

深田織田信時【おだのぶとき(15??~1556)】

織田信秀の六男。織田信康の養子。官途はは玄蕃允。通称喜蔵。1555年、織田信長は清須城の奪取に成功し、大功を挙げた叔父の守山城主織田信光に那古野城を与えた。織田信光のあとに守山城主となったのが織田信光の弟織田信次であった。守山城下龍泉寺近くの庄内川ほとりにおいて、織田信次の家臣洲賀才蔵が馬の遠乗りをしていた織田秀孝を射殺し、それを知った信次はそのまま逐電した。守山城は攻め寄せて来た織田信行の軍に取り囲まれたが、佐久間信盛の計略により、城内に残った家臣角田新五、坂井喜左衛門が寝返って織田信時勢を引き入れた。織田信時はそのまま守山城主となった。織田信時が坂井喜左衛門と坂井孫平次を重用したため、織田信時は角田新五に謀殺された。

松葉織田伊賀守【おだいがのかみ(15??~15??)】

海部郡松葉城主。1555年、坂井大膳に攻められ深田城主織田信次とともに人質となった。

岩田安広【おわたやすひろ(15??~15??)】

知多郡長尾城主。別名岩田果貞。知多郡豪族衆。岩田安広は今川家の麾下に属した。1543年、緒川城主水野信元が南下を開始、長尾城を包囲した、城主岩田安広は今川家に援軍を求めるが水野勢に対抗できず降伏した。

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【か】

梶川宗玄【かじかわそうげん(15??~15??)】

丹羽郡楽田城主。通称平九郎。

梶川高秀【かじかわたかひで(15??~1568)】

梶川宗玄の男。通称平左衛門尉。1560年「桶狭間の戦い」の時、中島砦を守備した。1568年、摂津国池田城攻めの際、討死した。

梶川一秀【かじかわかずひで(15??~15??)】

梶川宗玄の次男。1559年、織田信長は、今川方の鳴海城を包囲するために築いた三砦(善照寺砦、丹下砦、中島砦)の一つの中島砦を守将した。織田信長と今川義元と戦った「桶狭間の戦い」の際には、織田信長本隊が中島砦に集結した。

梶川秀盛【かじかわひでもり(15??~15??)】

梶川の三男。通称五左衛門。水野信家臣。水野信元が追放後されると、佐久間信盛の寄騎衆となった。1580年、佐久間信盛が追放されると、甥の梶川高盛ととに織田信長の馬廻衆となった。1582年「本能寺の変」後は織田信雄に仕え1,180貫を領した。「文録の役」では、池田輝政に属して「湯川城の戦い」で戦功を挙げたがまもなく病没した。

梶川高盛【かじかわたかもり(15??~1596)】

梶川高秀の男。水野信元家臣。通称弥三郎。坂井政尚の討死に後に楽田城主となった。1573年「槙島城の戦い」では宇治川の先陣を果たした。1575年、水野信元が追放されると佐久間信盛の寄騎衆に配された。1576年、天王寺城を佐久間信栄とともに一揆から城を死守した。1580年、佐久間信盛が追放されると織田信長の馬廻衆となった。1582年「本能寺の変」後、織田信雄に仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」にも参陣した。「蟹江城の戦い」で戦功を挙げた。その後は織田秀信に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では「岐阜城の戦い」で戦功を挙げた。

賀島長重【かしまながしげ(15??~15??)】

織田信長家臣。通称帯刀。賀島長重は駿河今川義元の家臣だったが今川義元と争い駿河を退去した。その後、織田信長に仕えた。

賀島長昌【かしまながまさ(15??~1588)】

賀島長重の男。通称弥右衛門。室は蜂須賀正勝の娘。賀島長昌は、織田信長に仕えて、数々の戦功を挙げた。1582年「本能寺の変」で織田信長が横死すると、蜂須賀家政に仕えた。

賀島政慶【かしままさよし(1572~1628)】

賀島長昌の男。赤松則房の養子。通称細山帯刀。室は稲田植元の娘。継室は稲田植元の養女。1585年、牛岐城10,000石を領した。1587年「九州征伐」に参陣した。1588年、赤松則房の養子となった。1592年「文禄、慶長の役」に参陣した。1600年「関ヶ原の役」に参陣した。1614年「大坂冬の陣」では、徳島城留守居を務めた。1615年「大坂夏の陣」で蜂須賀家勢の先鋒を務めた。1619年、福島正則改易の際に、広島城受け取りの先手を務めた。

熱田加藤順盛【かとうよりもり(1514~1588)】

加藤順光の男。官途は図書助。通称又八郎。父加藤順光の築いた豪族として、また商人としての勢力の保持に努めた。織田家の人質となった松平元康を自邸で養育した。この時、家臣山口孫八郎の松平元康に対する処置が織田信秀の怒りに触れ、山口一族は追放された。1554年、山口孫八郎の赦免の依頼を、織田信長に受け入れられた。1576年、織田信忠の命を受けて、熱田社は14貫文の地を千秋季信に還付した。

熱田加藤順政【かとうよりまさ(1535~1599)】

加藤順盛の男。官途は図書助。通称又八郎。祖父加藤順光より継いだ尾張における様々な利権を保持し、商人として活躍した。その半面、織田信長、織田信忠、織田信雄と代々の尾張領主に仕えた。

熱田加藤弥三郎【かとうやさぶろう(15??~1573)】

熱田加藤順盛の次男。岩室長門守の養子。室は岩室長門守の娘。別名岩室勘右衛門。織田信長に赤母衣衆として仕えた。1560年「桶狭間の戦い」では、織田信長に岩室重休、長谷川橋介、佐脇良之、山口飛騨守の五人で従った。1569年「大河内城の戦い」では、佐脇良之らと共に尺限廻番衆となった。加藤弥三郎は長谷川橋介、佐脇良之、山口飛騨守と共に織田信長の勘気をこうむり松平元康に仕えた。1573年「三方ヶ原の戦い」に参陣し長谷川橋介、佐脇良之、山口飛騨守と共に討死にした。

神谷新七郎【かみやしんしちろう(15??~15??)】

水野信元家臣。1575年、水野信元が追放されると、佐久間信盛の寄騎衆に任じられた。

河口宗吉【かわぐちむねよし(15??~15??)】

水野信元家臣。室は小島信房の娘。のちに織田信長に仕えた。

河口宗勝【かわぐちむねかつ(1548~1612)】

河口宗吉の男。通称久助。室は福富秀勝の娘。水野信元に仕えた。1563年、柴田勝家の家臣となり弓大将となった。1566年、羽柴秀吉が墨俣に一夜城を築いた際には参陣した。1582年「本能寺の変」の後は織田信雄に仕えた。のちに羽柴秀吉に仕え、伊勢、尾張国内で18,000石を領した。1600年、河口宗勝と中江直澄は大坂城におり東軍に味方するつもりで出立したが、増田長盛、長束正家に留められ西軍に属し、安濃津城攻めなどに「関ヶ原の役」では西軍に属して「伏見城の戦い」に参陣した。役後は高野山に蟄居し所領は没収された。

河口盛祐【かわぐちもりすけ(15??~15??)】

河口宗吉の次男。枝連衆の川口雅楽助宗持の養子。大河内左衛門佐元綱の養女於富の方(華陽院)。於富の方は以前水野忠政に嫁いでおり、松平元康の生母である於大の方を産んだ。

河口宗重【かわぐちむねしげ(1587~1654)】

河口宗勝の三男。1612年、父川口宗勝が没すると遺領のうち葛飾郡臼井500石を相続した。その後、甲斐国内に加増され2,000石を領した。家督は嫡男河口宗徳が相続した。

日下部定好【くさかべさだよし(1542~1616)】

日下部定金の男。通称兵右衛門。室は西村久吉の娘。織田信長に仕えていたが羽柴秀吉と諍いをおこし出奔した。後に松平元康に仕えた。成瀬正一と共に「長篠の戦い」「高天神城の戦い」で戦功を挙げた。松平元康が甲斐国を支配すると奉行に任ぜられた。関東討入後は武蔵国鉢形城の代官に任ぜられた。「関ヶ原の役」では、松平秀忠の旗奉行として参陣した。そのまま伏見城留守居役に任ぜられた。

幸田彦右衛門尉【こうだひこえもんのじょう(15??~1583)】

織田信孝家臣。織田信孝の乳兄弟で、織田信孝に仕えた。織田信孝が神戸具盛の養子になったときに随従し、織田信孝の補佐役を務めた。1582年「本能寺の変」で織田信長が横死すると、羽柴秀吉と織田信孝が対立した。1583年、柴田勝家に呼応して織田信孝が挙兵すると、織田信孝に従ったが、西美濃の羽柴秀吉方の武将である稲葉良通や氏家行広らと戦い、敗れて討死した。

小坂正氏【こさかまさうじ(15??~1552)】

深田織田家臣。通称久蔵。柏井衆。織田信光に従い出陣。1552年「清洲内乱」で討死した。

沓掛近藤伊景【こんどういかげ(15??~15??)】

知多郡沓掛城主。近藤伊景は松平広忠の麾下に属したが、後に尾張国で勢力を拡大していた織田信秀に属した。

沓掛近藤景春【こんどうかげはる(15??~1560)】

近藤伊景の男。通称九十郎。1559年、今川義元に寝返っていた鳴海城主山口教継の調略によって今川義元に降った。1560年、沓掛城を今川家臣の浅井政敏に預け、支城の高圃城に移って織田勢に備えた。1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が討死して今川勢が駿河国へ退いたため沓掛城に戻るが、直後に織田信長勢に攻められて討死した。

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【さ】

坂井喜左衛門【さかいきちざむろう(15??~15??)】

深田織田信次家臣。織田信次の家臣が織田信長の弟織田秀孝を誤殺してしまうという事件がおきたのだ。織田信次は抗弁する間もなく出奔した。織田信長と織田信勝が織田信次の居城である守山城を囲んだ。坂井喜左衛門、坂井孫平次父子、角田新五、高橋与四郎、喜多野下野守、坂井七郎左衛門と岩崎丹羽氏勝らが守山城に籠城した。織田信長が飯尾定宗、飯尾尚清父子、織田信行が柴田勝家、津々木蔵人らの軍勢を派遣したが、守山城を攻略できなかった。織田信長は、織田信時を守山城主にすることで、坂井喜左衛門らの旧織田信次らと和睦した。

坂井孫平次【さかいまごへいじ(15??~15??)】

坂井喜左衛門の男。通称孫平次。父坂井喜左衛門とともに織田信次に仕えた。織田信時が守山城主になると、坂井孫平次を重用し、角田新五派との対立が高まった。角田新五は、危機感を覚え織田信次に謀反を起こし、織田信時を自刃させた。のちに織田信次を復帰させることで和睦した。

佐久間信晴【さくまのぶはる(15??~15??)】

愛知郡山崎城主。織田家臣。

佐久間信盛【さくまのぶもり(1528~1582)】

佐久間信晴の男。通称右衛門尉。室は前田種利の娘。織田信秀の病没後の家督争いでは、織田信長に組した。守山城主織田信次の家臣角田新五らを寝返らせた。織田信行の謀反の際も「稲生の戦い」で織田信長方の武将として戦った。その後も織田信長に属して各地を転戦した。1560年「桶狭間の戦い」では善照寺砦を守備、戦後に鳴海城を領した。1568年、六角義賢、、六角義治父子との「観音寺城の戦い」では箕作城を落とすなどの戦功を挙げた。1572年「三方ヶ原の戦い」では、滝川一益、平手汎秀、水野信元と共に兵3,000余りを率い、松平元康勢8,000余りの援軍に赴いた。武田晴信勢27,000余りとは、戦わず退却した。1576年「天王寺の戦い」で石山本願寺戦を担当していた塙直政が討死すると、後任として対本願寺戦の指揮にあったた。佐久間信盛は、三河国、尾張国、近江国、大和国、河内国、和泉国、紀伊国、畿内7ヶ国の寄騎衆を麾下に入れ織田家中で最大の動員数兵力を持っていたが、対本願寺戦では積極的な攻勢を取らなかった。1577年「紀州征伐」と「松永久秀討伐」に参陣した。1580年、織田信長と本願寺家が和睦すると、織田信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられた佐久間信盛は、嫡男佐久間信栄と共に高野山へと蟄居させられた。

佐久間信辰【さくまのぶとき(1538~1600)】

佐久間信晴の次男。官途は左京亮。織田信長に仕えた。1560年「桶狭間の戦い」では善照寺砦で戦功を挙げた。1584年、羽柴秀吉が織田信雄を伊勢に攻めたとき、織田信雄方に付き、前田与十郎とともに蟹江城を守った。前田与十郎が謀反を起こして滝川一益と九鬼嘉隆を城に入れた。佐久間信辰は城を焼き払って自刃しようとした。滝川一益は城を焼かれてしまっては意味がないと判断し、前田与十郎の子を人質に差し出して、安全に退去させた。その後、松平元康が織田信雄とともにこの城を攻め、滝川一益は支えきれずに前田与十郎を斬って降伏した。

佐久間信直【さくまのぶなお(15??~15??)】

佐久間信晴の三男。官途は左京。室は加藤順盛の娘。永禄年間初期、善照寺取出を守備した。

佐久間信重【さくまのぶしげ(15??~15??)】

佐久間信辰の次男。佐久間信栄の養子。

佐久間信栄【さくまのぶひで(1556~1623)】

佐久間信盛の男。官途は駿河守。通称甚九郎。別名佐久間正勝。父佐久間信盛と共に畿内各地を転戦した。1576年、石山本願寺との戦いでは天王寺城の守備を任された。塙直政の討死によって父佐久間信盛が石山本願寺攻めを担当するととこれを補佐した。1580年、織田信長が本願寺家と和睦すると19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ、父佐久間信盛共々高野山に蟄居した。1582年、赦免されて織田信忠に仕え「本能寺の変」後は織田信雄に仕えた。「小牧、長久手の戦い」では大野城を築いて滝川一益と戦ったが、守備していた蟹江城を留守中に織田一益に攻略された。1615年「大坂夏の陣」後は、松平元秀忠に御咄衆として武蔵国児玉郡、横見郡に3,000石を領した。

佐久間信実【さくまのぶざね(1573~1620)】

佐久間信盛の三男。佐久間信栄の養子。通称新十郎。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康方で参陣した。1604年、上総国茨葉村の内に1,000石を領した。

佐久間家臣団【さくまけかしんだん】

調査中。

佐治為景【さじためかげ(15??~15??)】

知多郡大野城主。佐治宗貞の男。官途は上野守。佐治家は緒川城の水野家と知多半島を二分するほどの勢力を持ち、大野衆と呼ばれる佐治海賊衆の将として伊勢湾全域の海上交通を掌握した。尾張の織田信長が台頭してくると佐治家は織田信長の麾下に属した。

佐治信方【さじのぶかた(1553~1574)】

佐治為景の男。通称八郎。室は織田信秀の娘(お犬の方)。1560年「桶狭間の戦い」の後に織田信長に臣従した。織田信長の妹を室に与えられ、織田信長の字を拝領されて「信方」と称した。佐治信方は織田信忠に従って「伊勢長島城の戦い」に参陣したが討死した。

佐治一成【さじかずなり(1569~1634)】

佐治信方の男。通称與九郎。室は浅井長政の三女(於江)。継室は織田信長の娘(於振)。1584年、佐治一成が大野城を追放され、於江と離縁させられた。1584年、羽柴秀吉と松平元康、織田信雄の敵対から発生した「小牧、長久手の戦い」では、佐治一成は戦後に松平元康が三河国へ帰陣する途中の佐屋街道の渡しにおいて松平元康に船を提供し、羽柴秀吉の怒りを買い大野を退去した。その後の一佐治成は、織田信包の領する伊勢国へ逃れてその家中にあり、後に織田信長と側室於鍋の方の娘(於振姫)を室に迎えた。

佐治家臣団【さじけかしんだん】

鵜飼福元、宮崎久左衛門。

榊原主殿【さかきばらしでん(15??~15??)】

知多郡岩滑城主。新海家臣。

島信重【しまのぶしげ(15??~15??)】

織田信正の男。通称勘右衛門。簗田広正の寄騎衆。簗田広正が加賀平定戦に失敗して尾張国に蟄居した後は、佐久間信盛の寄騎衆となった。1578年、佐久間信栄らを招き、茶会を催した。佐久間父子追放直後、弟島一正と共に織田信長の馬廻衆になった。1582年「本能寺の変」後は、羽柴秀吉に仕えた。1593年「文禄の役」では、長谷川秀一の家臣として参陣した。

島一正【しまかずまさ(1548~1626)】

織田信正の次男。通称弥左衛門。簗田広正の寄騎衆。1570年、小谷より退却の時、簗田広正に属して殿軍にあって戦功を挙げた。1575年、簗田広正に属して加賀国に侵攻した。大聖寺城の守備についた。簗田広正は、加賀国平定戦に失敗して尾張国に蟄居した。その後は佐久間信盛の寄騎衆となった。佐久間父子追放の直後、島信重とともに織田信長の馬廻衆となった。1582年「本能寺の変」後、長谷川秀一に仕えた。1593年「文禄の役」では、長谷川秀一の家臣として参陣した。1603年、松平元康につかえて1,560石を領した。

新海淳尚【しんかいあつひさ(15??~1543)】

知多郡宮津城主。緒川水野信元が織田信秀と同盟を結び、知多半島の制圧を開始した。1543年、緒川水野信元の降伏勧告を断り、宮津城は攻撃を受け新海は討死した。

洲賀才蔵【すがさいぞう(15??~15??)】

織田信次家臣。1555年、織田信次が自領の庄内川の松川の渡しで川狩り中、騎乗のまま通り過ぎようとした武士を無礼であると、才蔵は威嚇の矢を放つが誤って射殺してしまった。織田信次が見ると武士は甥織田秀孝であり、織田信長の弟であったため、織田信次は織田信長の報復を恐れ出奔した。

千秋季光【せんしゅうすえみつ(15??~1544)】

知多郡羽豆城主。熱田神宮大宮司。熱田神宮の大宮司で、武士として織田信秀に仕えていた。1544年「加納口の戦い」で討死した。

千秋季忠【せんしゅうすえただ(1534~1560)】

千秋季光の男。官途は加賀守。室は熱田浅井家の娘(たあ)。千秋季忠も大宮司職を継ぎ、織田信長に仕えた。1560年「桶狭間の戦い」に参陣した。佐々政次と共に鷲津砦、丸根砦を落とした今川義元勢と対峙していたが、織田信長が善照寺砦に到着したのを見て今川義元本隊に攻撃を仕掛け、佐々政次ともに討死にした。

千秋季信【せんしゅうすえのぶ(1560~15??)】

千秋季忠の男。1560年、父千秋季忠が討死したとき千秋季信は、母胎内にいた。母は実家の浅井家に戻って、千秋季信を産み養育した。1575年、千秋季信は織田信長に謁した。その後、千秋季信は軍事行動には参加せず熱田神宮の大宮司職に専念した。

祖父江秀時【そふえひでとき(15??~15??)】

大橋家の枝連衆。通称九八郎。室は祖父江大膳亮秀治の娘。津島神社神官であり、津島の実力者の国人衆のひとり。

祖父江秀重【そぶえひでしげ(1524~1585)】

祖父江秀時の男。通称五郎右衛門尉。祖父江氏は代々津島社の神職。後に姓を氷室に改め後代に継いだ。

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【た】

高木清秀【たかぎきよひで(1526~1610)】

知多郡豪族衆。高木宣光の男。通称主水助。室は水野元氏の娘。織田信長に仕え、水野信元の寄騎衆となった。1575年、水野信元が武田勝頼に内通した罪により織田信長によって謀殺されると、佐久間信盛の寄騎衆となる。1580年、佐久間信盛も織田信長によって追放されたため、織田信長直属の家臣として仕えるようになった。1582年、織田信長が横死すると、松平元康の麾下に属して「小牧、長久手の戦い」「小田原の役」に参陣した。1594年、三男の高木正次に家督を譲って相模国海老名に隠居した。

高木光秀【たかぎみつひで(15??~1574)】

高木清秀の男。1574年「伊勢長島城の戦い」で討死した。

高木正次【たかぎまさつぐ(1563~1631)】

高木清秀の三男。官途は主水正。通称善次郎。室は大久保忠佐の養女。1582年、松平元康に仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」「小田原の役」に参陣して戦功を挙げた。「文禄、慶長の役」にも参陣した。1594年、高木家の家督を相続して5,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では「信濃上田城の戦い」でも戦功を挙げた。1614年「大坂冬の陣」では江戸城の守備を務めた。「大坂夏の陣」では大坂に出陣して戦功を挙げた。

滝見弥平次【たきみよへじろう(15??~15??)】

水野信元家臣。1575年、水野信元が追放されると、佐久間信盛の寄騎衆に任じられた。

津田清幽【つだせいゆう(15??~15??)】

織田信氏の次男。官途は和泉守。織田信長に仕えた。まもなく浪人となり、阿部正勝を介して松平元康に仕えた。のちに堺奉行の石田正澄に政所職として松平元康の口添えにより仕えた。1600年「関ヶ原の役」の「佐和山城の戦い」では、水の手口を守備し津田清幽は嫡男津田重氏とともに奮戦し小早川秀秋隊と戦い城より討って出てこれを退けた。松平元康が和議を申し入れ、城を出て東軍方の使者舟越景直とその交渉の任にあたった。城兵の助命の条件に石田正澄は父石田正継以下の自刃する条件で開城する手筈だったが、城内の内通者が本丸に放火、小早川秀秋、小川祐忠父子、脇坂安治父子が追手を、田中吉政が搦め手を攻撃し、佐和山城は落城した。津田清幽、脇坂隊の旗奉行村越忠兵衛を捕らえ、敵中の真っ只中を押し通った。これを見た松平元康は、津田清幽を助命した。

津々木蔵人【つづきくらんど(15??~15??)】

織田信行家臣。別名都築蔵人。1555年、守山城主織田信次の家臣洲賀才蔵が織田秀孝を謀殺し、織田信次は逐電した。織田信行は守山城下を焼き払い、その後守山城攻囲のため大将として派遣したのが柴田勝家と津々木蔵人であった。1556年「稲生の戦い」は、織田信行が織田信長側に敗北すると、織田信行は柴田勝家。津々木蔵人と墨衣を着用し、土田御前を同道の上、織田信長に降伏した。津々木蔵人は織田信行家中で、柴田勝家と並ぶ地位を占めていた。津々木蔵人が家中で勢力を持つと、柴田勝家と対立した。織田信行が再び織田信長に対して謀反を計画すると、そのことを織田信長に密告した。その結果、織田信行は織田信長の使った仮病により清洲城へ見舞いに訪れて謀殺された。

角田新五【つのだしんご(15??~1556)】

深田織田信次家臣。1555年、織田信次の家臣洲賀才蔵が、守山城下で誤って織田信長の弟織田秀孝を無礼討ちする事件が起こり、織田信次はそのまま逐電し、家老衆である角田新五、坂井喜左衛門、丹羽氏勝らが城に守山城に籠城した。守山城下は攻め寄せて来た織田信行の兵に焼き払われ、守山城は織田信行方は柴田勝家、津々木蔵人、信長方は飯尾定宗父子らに包囲された。この時、織田信長家臣佐久間信盛が織田信時を守山城主にすることを進言。これに角田新五と坂井喜左衛門が承諾し事態は収束した。深田織田信時が深田織田家を相続すると、坂井喜左衛門と坂井孫平次が家政を専横した。角田新五は、織田信時を自刃に追い込むと、丹羽氏勝らと共に織田信次を城主に迎い入れた。1556年「稲生の戦い」では、角田新五は織田信行方で参陣し、織田信長方の松倉亀介に討取られた。

戸田孫右衛門【とだまござえもん(15??~15??)】

知多郡河和城主。河和城は知多半島東南部にある湊街で、三河湾を隔てて渥美半島に対峙する位置にあたる。水野信元の麾下に属する海賊衆のひとり。

戸田守光【とだもりみつ(15??~1590)】

戸田孫右衛門の男。通称孫八郎。室は水野信元の娘。1590年「小田原の役」で討死した。

戸部政直【とべまさなお(15??~15??)】

戸部城主。通称新左衛門。はじめ織田信秀に属した。「安祥城の戦い」で、織田信広が今川義元に降伏した際、織田信広助命の仲介をした。織田信秀が病没すると今川義元の妹婿になり今川家に寝返った。その後、織田方の寺部城主山口重俊に攻められるが、これを撃退し敗死させた。織田信長は、戸部政直が織田信長に内通したという調略を行い、それを信じた今川義元に三河国吉田城で謀殺された。

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【な】

中川秀休【なかがわひでやす(15??~1627)】

佐治信方の男。通称久右衛門。別名織田熊之丞。1583年、羽柴秀吉に仕えて100石を領した。その後、羽柴秀次に仕えた。1586年、織田信秀と共に大坂で洗礼を受け、キリスト教に入信した。1596年、羽柴秀次が自刃すると、羽柴秀保に仕えた。羽柴秀保の没後は前田利家に仕えた。

中村重友【なかむらしげとも(15??~15??)】 

中村郷出身。通称右近太夫。織田信長に仕え、羽柴秀吉の寄騎衆となり蜂須賀家正勝に属した。阿波国海部城代5,254石を領した。益田一政が海部城番となり、中村重友は池田城番となった。

中山重時【なかやましげとき(15??~15??)】

緒川水野家臣。

中山勝時【なかやまかつとき(15??~1582)】

中山重時の男。官途は刑部大輔。通称五郎左衛門。室は水野忠政の娘。1543年、水野信元が新海家臣の榊原主殿が守る岩滑城を攻略、中山勝時が岩滑城の城主となった。水野信元、水野重忠の二代に仕えた。1582年「本能寺の変」の際に討死した。

中山光勝【なかやまみつかつ(15??~15??)】

中山勝時の男。

中山盛信【なかやまもりのぶ(15??~1645)】

中山勝時の次男。水野忠重に仕えた。

岩崎丹羽氏識【にわうじさと(1497~1565)】

愛知郡岩崎城主。丹羽氏清の男。官途は右近大夫。織田家臣の丹羽長秀の児玉丹羽氏とは血縁関係はない。藤島城主丹羽氏秀と対立し度々争った。1551年、丹羽氏秀は織田信長に援軍を求め、愛知郡横山で丹羽氏清、丹羽氏識、丹羽氏勝と対決した。丹羽氏識はこれを破り、藤島城も領することとなった。その後、松平元康に属して、三河国の乙尾、一色、赤羽根の所領を得た。織田信長と松平元康が和睦すると織田信長に属した。

岩崎丹羽氏勝【にわうじかつ(1523~1597)】

丹羽氏識の男。通称源六。官途は右近。継室は織田信秀の娘。1555年、守山城主織田信次の家臣洲賀才蔵が織田秀孝を謀殺する事件が起こと。織田信次は信長の報復を恐れ逃亡した。丹羽氏勝は他の臣団とともに守山城に籠城した。織田信次の家老角田新五の謀反を起こした際にも、角田新五に属した。1569年「伊勢大河内城の戦い」に参陣した。その後も、織田信長に属して畿内各地を転戦した。1580年、織田信長が鷹狩のために岩崎城を訪れたとき、丹羽氏勝の家臣が織田信長の怒りに触れ手討にされる事件、丹羽氏勝は林秀貞、安藤守就と共に、織田信長より追放された。

岩崎丹羽氏次【にわうじつぐ(1550~1601)】

丹羽氏勝の男。室は鈴木重信の娘。継室は加藤忠景の娘。1580年、父丹羽氏勝が織田信長の勘気を被って追放されているが、丹羽氏次はそのまま織田信忠に仕えた。1582年「武田家征伐」では、木曾義昌、織田長益らとともに織田信忠の麾下に属して武田家領内へ侵攻した。1582年「本能寺の変」によって織田信長が横死すると、織田信雄に仕えて数々の戦功を挙げた。織田信雄と対立して、松平元康に仕えるようになった。1584年「小牧、長久手の戦い」では岩崎城を弟丹羽氏重に守らせ、自身は松平元康に属して小牧で戦功を挙げた。丹羽氏重は「岩崎城の戦い」で、池田恒興と森長可の猛攻を受けて討死した。1600年「関ヶ原の役」では、東軍に属して戦功を挙げた。

岩崎丹羽氏重【にわうじしげ(1569~1584)】

丹羽氏勝の次男。通称次郎三郎。1584年「小牧、長久手の戦い」では、兄丹羽氏次が松平元康に属して出陣すると、岩崎城を守備した。羽柴秀吉勢の池田恒興らが率いる三河国奇襲部隊が城の前を通過すると、「見過ごすは末代までの恥」と兵200余りで出撃し、池田勢の攻城隊を三度に渡り撃退するなどよく戦ったが、新手として現れた森長可勢の銃撃に怯んだ隙に討取られた。

岩崎丹羽氏資【にわうじすけ(15??~1599)】

丹羽氏次の男。通称勘六郎。上総国武射郡において所領を領した。家督を相続することなく伏見城において早世した。

岩崎丹羽氏信【にわうじのぶ(1590~1634)】

丹羽氏次の次男。1601年、父丹羽氏次の病没により丹羽家の家督を相続した。1638年、美濃国岩村城に転封された。1644年、大坂加番に任じられた

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【は】

蜂須賀正利【はちすかまさとし(1504~1553)】

海東郡蜂須賀館主。蜂須賀正則の男。通称小六。室は安井弥兵衛尉重幸の娘。尾張国に力を持つ国人領主であった。蜂須賀村に本拠をおいた。最初は尾張守護の斯波家に従ったが、後に美濃国の斎藤家に従った。

蜂須賀正勝【はちすかまさかつ(1526~1586)】

蜂須賀正利の男。官途は修理大夫。通称小六。川並衆を率いて木曽川の水運業を行うことで利益を得ていた。斎藤道三、岩倉城主織田信賢、犬山城主織田信清等に仕えたが、あくまで独立勢力として存在した。1566年、美濃国において羽柴秀吉の墨俣城の築城に川並衆の前野長康らと協力し、羽柴秀吉がその守備頭となった際には寄騎衆としてともに行動し、斎藤方を調略する案内役として活動した。その後は「越前天筒山城、金ヶ崎城の戦い」「近江横山城の戦い」「長島一向一揆攻め」で、羽柴秀吉勢の属して戦功を挙げた。1573年、浅井家の滅亡後に羽柴秀吉が近江長浜城主となると、長浜領内に所領を与えられた。1577年「中国討伐」にも参陣し「播磨三木城の戦い」「因幡鳥取城の戦い」等で戦功を挙げ播磨龍野530,000石を領した。1582年「本能寺の変」の際には備中高松城攻略の最中で、黒田孝高と共に高松城開城に尽力し「中国大返し」を成功に導いた。1584年「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1585年「四国討伐」では阿波木津城を降し四国取次として戦役前後の交渉や領土引き渡しなどの処理にあたった。長宗我部元親への押さえとして羽柴秀吉から阿波一国を与えられるが、蜂須賀正勝は羽柴秀吉の側近として仕えることを望んでこれを辞退し、嫡男の蜂須賀家政に譲り渡された。

蜂須賀家政【はちすかいえまさ(1558~1639)】

蜂須賀正勝の男。官途は阿波守。通称彦右衛門。室は生駒家長の娘。織田信長、次いで羽柴秀吉に仕え、羽柴秀吉が織田信長の命令で行った「中国討伐」では黄母衣衆として父蜂須賀正勝と共に参陣した。1582年「本能寺の変」では、羽柴秀吉に従って「山崎の戦い」「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げ播磨佐用郡内に3,000石を領した。羽柴秀吉の「雑賀討伐」の後に行なわれた「四国討伐」では「阿波木津城の戦い」「一宮城の戦い」などで戦功を挙げた。四国攻め後、その戦功により羽柴秀吉は蜂須賀正勝に阿波国を与えようとしたが、蜂須賀正勝は羽柴秀吉の側近として仕える道を選んで辞退した。阿波国180,000石は嫡男蜂須賀家政が領した。1592年「文禄の役、慶長の役」の二度の役にも参陣した。1598年、羽柴秀吉が病没すると、福島正則や加藤清正、浅野幸長らとともに石田三成を襲撃しようとした。嫡男蜂須賀至鎮に松平元康の養女の縁組を結ぶなど、親松平派の武将として活動した。1600年「関ヶ原の役」では、西軍から親松平家の姿勢を糾弾され高野山へ追放された。「越後長尾景勝征伐」に同行させていた蜂須賀至鎮は「関ヶ原の戦い」で東軍として戦功を挙げたため、役後に松平元康から所領を安堵されたが蜂須賀家の家督を蜂須賀至鎮に譲って隠居した。1620年、嫡男蜂須賀至鎮が病没した後は、嫡孫蜂須賀忠英の後見した。

蜂須賀至鎮【はちすかよししげ(1586~1620)】

蜂須賀家政の男。官途は阿波守。室は松平元康の養女で小笠原秀政の娘(氏姫)。羽柴秀吉の家臣として仕えた。1598年、羽柴秀吉の病没後、松平元康の養女を娶った。1600年「関ヶ原の役」では、蜂須賀至鎮は東軍に与して「関ヶ原の戦い」に参陣した。秀吉の股肱の臣であった父蜂須賀家政は病を理由に在国した。戦後、その戦功により松平元康から所領を安堵されると共に、剃髪した父から家督を譲られ、阿波国を領した。大坂の陣では徳川方として参戦し、武功を立てている。1615年、淡路国が加増され併せて257,000石を領した。内政においては、塩田の開発や非常時の食料の確保に努めた。1620年、父蜂須賀家政に先立って病没した。

服部友貞【はっとりともさだ(15??~1568)】

荷ノ上豪族衆で服部党の当主。通称左京亮。別名服部友定。今川義元に組すなど、織田信長に対し抵抗した。服部友貞の死後、服部党は長島一向一揆に参陣した。1560年「桶狭間の戦い」では、今川義元として参陣した。熱田湊に侵攻するが撃退された。今川義元の討死すると荷ノ上へ引き返した。1556年、守山城主織田信次の攻撃を撃退した。1561年、長島城代になった。1565年、織田信興の侵攻を受けた。1568年、織田信長の謀略にかかり伊勢国で自刃した。

花井平次【はないひらつぐ(15??~15??)】

知多郡寺本城主。官途は播磨守。

花井勘八郎【はないかんぱちろ(15??~15??)】

花井平次の男。1600年「関ヶ原の役」では西知多郡一帯も戦火に巻き込まれ、志摩国鳥羽城主九鬼嘉隆(西軍)勢の攻撃を受け、花井勘八郎のいる堀之内城も落城した。花井勘八郎は嫡男花井清捨と共に信濃国に落延びた。

花井清捨【はないきよしゃ(15??~15??)】

花井勘八郎の男。のちに花井清捨は尾張国に帰還できた。

林能勝【はやしよしかつ(1534~1616)】

蜂須賀家臣。官途は図書助。通称五郎兵衛。今倉左馬助に仕え、のちに織田信長に仕えた。武勇、築城に優れ、蜂須賀正勝の参謀格となった。織田信長、羽柴秀吉、松平元康、松平秀忠からも武勇を賞された。1586年、阿波国川島城を改修を行い川島城5,540石を領した。武市常三と共に徳島城の縄張りを担当した。1588年「九州征伐」に参陣した。剛勇で知られる草野十郎を討取り、羽柴秀吉から「蘭奢待」の一部「鬼の褌」の鍔を賜った。大坂両陣では軍監。「阿波七感状」のひとり。1614年「大坂冬の陣」でも戦功を挙げた。
 
林実吉【はやしさねよし(15??~15??)】

林能勝の男。
 
林勝行【はやしかつゆき(15??~15??)】

林能勝の養子。「大坂夏の陣」で乱心を起こし林家は改易された。

久松定義【ひらまつさだよし(15??~15??)】

知多郡阿久比城主。尾張国守護斯波家に仕える国人領主であった久松定義は、大野城を本拠とする佐治家と争った。

久松俊勝【ひさまつとしかつ(1526~1587)】

久松定義の男。官途は佐渡守。室は水野忠政の娘(於大)。1546年、久松俊勝は松平広忠の仲介で佐治家より久松信俊の室を迎えることで佐治家と和睦した。1560年「桶狭間の戦い」後に松平元康の麾下に属した。1562年、鵜殿長照が守る三河国宝飯郡西郡の上ノ郷城を攻略した。西郡の領主となった久松俊勝は、久松信俊に知多郡阿久比城に譲り、上ノ郷城には於大との間に生まれた久松康元を置いた。久松俊勝は西郡城に隠退した。のちに三河一向一揆で追放された一向宗寺院の三河復帰に尽力した。

久松信俊【ひさまつのぶとし(15??~1577)】

久松俊勝の男。通称弥九郎。別名久松定員。室は佐治対馬守の娘。1560年「桶狭間の戦い」後、父久松俊勝は松平元康の麾下に属した。於大らを連れて三河国に入国した。織田信長と松平元康が清洲同盟を結ぶと、阿久比の地は織田信長の支配地となった。松平元康と血縁のない久松信俊が阿久比城と尾張国内の久松家の所領をもって織田信長に仕えた。石山本願寺との戦いでは佐久間信盛の麾下に属して「石山本願寺城の戦い」で、佐久間信盛の讒言によって織田信長から謀反の疑いをかけられ、憤慨して大坂四天王寺で自刃した。久松信俊の自刃後、佐久間信盛勢は阿久比城を攻め落とし、久松信俊の子供達のうち二人を謀殺した。

久松康元【ひさまつやすもと(1552~1603)】

久松俊勝の次男。別名松平康元。1560年、異父兄松平元康と会見して松平康元と称した。1562年、上ノ郷城主となった。1590年「小田原城の役」で戦功を挙げ総国関宿城20,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康の代理として江戸城の留守居役を務めた。

久松康俊【ひさまつやすとし(1552~1586)】

久松俊勝の三男。別名松平康俊。1563年、松平元康の命により今川氏真の人質として駿河国に赴いた。武田晴信の侵攻を受けて甲斐国に送られた。1570年、松平元康の手配で甲斐国から逃れたが戦傷を負った。1583年、駿河国久能城を領した。1586年、病没死後、娘婿として水野忠分の男松平勝政が迎えられ8,000石を領した。

久松定勝【ひさまつさだかつ(1560~1624)】

久松俊勝の四男。官途は左近衛権少将。別名松平定勝。室は奥平貞友の娘(たつ姫)。松平元康の麾下に属して「長篠の戦い」「武田家討伐」に参陣した。1587年、松平元康の尾張国蟹江城攻撃に際し、二番乗りを挙げた。1590年、松平元康が関東に転封になると下総国小南城3,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、戦功を挙げ伊勢国長島城主となり27,000石を領した。1605年、娘の阿姫(くまひめ)が松平元康の養女となり、山内忠義と婚約した。松平元康より化粧料として豊後国山田郷1,000石を阿姫に賜った。

福富秀勝【ふくずみひでかつ(15??~1582)】

知多郡豪族衆。織田信長に馬廻衆として仕えた。1562年「軽海の戦い」に参陣した。のち、赤母衣衆に選抜された。1575年「長篠の戦い」では佐々成政、前田利家、野々村正成と共に鉄砲隊を指揮した。以後、福富秀勝の立場は馬廻衆として戦に出る事よりも中央で官僚的な仕事に従事した。1582年「武田家征伐」では菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一、矢部家定、福富秀勝の五人が織田信長の馬廻衆と小姓衆を統率した。明智光秀が織田信長に謀反を起こした「本能寺の変」では、西国への出兵に備えて京に宿をとっていた。織田信長の宿泊していた本能寺に参じることは叶わず、転じて織田信忠の寄る二条御所に駆けつけ明智勢を相手に奮戦し、村井貞勝らとともに討死した。

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【ま】

緒川水野忠政【みずのただまさ(1493~1543)】

知多郡緒川城。水野清忠の次男。官途は下野守。通称右衛門大夫。室は松平昌安の娘。継室は大河内元綱の養女(於富)。はじめ緒川城を中心として知多半島北部をその支配下においた。1533年、三河国刈谷に刈谷城を築いた。織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城主松平広忠、形原城主松平家広などに娘を嫁がせて、領土の保全を図った。

緒川水野近守【みずのちかもり(15??~1556)】

水野忠政の男。通称十郎左衛門。三河国刈谷城を守った。水野家総領職。

緒川水野信元【みずののぶもと(15??~1576)】

水野忠政の次男。官途は下野守。通称藤四郎。室は松平信定の娘。1543年、父水野忠政の病没を受け水野宗家の家督を継ぎ、尾張国知多郡東部および三河国碧海郡西部を領した。父水野忠政は松平家と共に今川家についていたが、水野信元は織田信秀の麾下に属したため、今川家の麾下に属したいた松平家広、松平広忠に嫁いだ水野信元の姉妹が離縁された。織田信長とも良好な同盟関係を築き、織田信長の「村木砦戦い」にも参陣した。1560年「桶狭間の戦い」では今川勢によって、弟水野信近が討死した。1570年「姉川の戦い」後の「佐和山城の戦い」では戦功を挙げた。1572年「三方ヶ原の戦い」では援軍として参陣した。「三方ヶ原の戦い」では、水野信元は籠城戦を主張し野戦にこだわる松平元康と対立したが、結果として野戦で敗走し憔悴した松平元康に代わり指揮した。

緒川水野忠守【みずのただもり(1525~1600)】

水野忠政の四男。通称清六郎。水野信元が家督を相続すると、緒川城主となり兄水野元信の麾下に属し各地を転戦した。1576年、水野信元が謀叛の嫌疑によって織田信長に殺害された後も緒川城に在城した。1581年、織田信長は高天神城攻めの援軍を子の織田信忠に命じ、松平元康に属していた刈谷城主水野忠重、常滑城主水野守隆が出陣した。のち松平元康に仕えた。1590年、相模国玉縄城主に任じられた。

緒川水野近信【みずのちかのぶ(15??~1602)】

水野忠政の五男。1560年「桶狭間の戦い」後に退却する今川家勢と刈屋表で戦い負傷した。

緒川水野忠分【(1537~1578)】

水野忠政の八男。官途は備後守。通称藤次郎。室は佐治信方の妹。1578年「摂津有岡城の戦い」に参陣して討死した。

緒川水野信政【みずののぶまさ(15??~1575)】

水野信元の男。通称十郎左衛門。水野家惣領刈谷城水野信近の跡職を継承した。1575年、父水野信元に連座し自刃した。

緒川水野忠重【みずのただしげ(1541~1600)】

水野忠政の九男。兄水野信元とともに織田信長に属した。1558年「尾張緒川、石瀬での戦い」「刈屋十八丁畷の戦い」に戦功を挙げた。その後、水野信元と不和になり、そのもとを去って松平元康の麾下に属した。1575年、吉田城にて武田勢の攻撃を防ぐが戦傷を負った。「長篠の戦い」には参陣できず、家臣水野清久を陣代として参陣させた。1575年、水野信元が武田勝頼との内通の嫌疑をかけられ織田信長に謀殺され、佐久間信盛が追放されて三河国刈屋城が空くと、水野忠重は織田信長より刈屋城主に任じられた。織田信忠の命により、水野守隆とともに横須賀城に派遣された。1582年、織田信忠に属して、家臣の小栗吉忠、浅井道忠と共に「武田家征伐」に参陣した。1582年「本能寺の変」では、織田信忠と共に二条城にあったが、三河国刈谷城に落延びた。その後は織田信雄に属し「小牧、長久手の戦い」では本治城、常滑城を攻略した。水野忠重は刈屋城、緒川城のほか13,000貫を領した。1598年、羽柴秀吉が病没すると松平元康の属した。1600年「関ヶ原の役」では東軍に組したが、三河池鯉鮒において酒宴を催した際、加賀井重望に謀殺された。

緒川水野家臣団【みずのけかしんだん】

梶川五左衛門、細見家盛。

常滑城水野守隆【みずのもりたか(15??~1598)】

知多郡常滑城主。官途は監物。常滑城の水野家は、緒川城、刈谷屋の水野家の分家。織田信長に仕えた。1570年「野田、福島城の戦い」に参陣した。平手監物らとともに川口砦に置かれた。1574年「長島城の戦い」参陣した。佐久間信盛の寄騎衆。1576年、天王寺城に在番した。河内国住吉城の普請奉行を勤めた。1580年、佐久間信盛追放のち織田信忠の寄騎馬与力。1582年「本能寺の変」後、明智光秀に属して「山崎の戦い」に参陣した。

毛利良勝【もうりよしかつ(15??~1582)】

織田家臣。通称新左衛門。織田信長に仕えた。1560年「桶狭間の戦い」では負傷した服部一忠を助け、今川義元を討取った。その功により、のちに黒母衣衆のひとりとなった。織田信長上洛後は「大河内城の戦い」「武田家討伐」などに参陣したが「桶狭間の戦い」以後は、大きな戦功を挙げることはなく、織田信長の側近として馬廻衆に属した。1582年「本能寺の変」の際は京都に随行しており、織田信忠を守って二条城に籠城し、織田信忠とともに討死した。

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【や】

矢田伝市郎【やだでんいちろう(15??~15??)】

水野信元家臣。1575年、水野信元が追放されると、佐久間信盛の寄騎衆に任じられた。

山口教房【やまぐちのりふさ(15??~15??)】

愛知郡鳴海城主。織田信秀家臣。

山口教継【やまぐちのりつぐ(15??~1560)】

山口教房の男。通称左馬助。織田信秀に属した。「小豆坂の戦い」では、今川義元勢と戦って戦功を挙げた。織田信秀と今川義元を仲介して一時的に和睦を図った。織田信秀に重用され、三河との国境の要地である鳴海城を任され尾張の南東部の備えとなっていた。織田信秀が病没すると、織田信長から離反して今川義元に寝返った。鳴海城を嫡男山口教吉に守らせ、笠寺に砦を構えて岡部元信などの今川勢を引き入れて、中村城に籠もった。鳴海城を奪回しようと攻め寄せた織田信長を、山口教吉が「赤塚の戦い」で撃退した。山口教継は織田家方の大高城、沓掛城を調略を用い奪取した。1560年、織田信長の調略により、今川義元に駿河へ呼び寄せられ親子共ども自刃させられた。

山口教吉【やまぐちのりよし(15??~1560)】

山口教継の男。通称九郎次郎。織田信秀が病没して織田信長が織田家の家督を相続すると、鳴海城主であった父山口教継とともに今川義元に寝返った。山口教継は鳴海城を山口教吉にまかせ、自らは桜中村城に入った。1553年、織田信長は兵800余りを率いて鳴海城に攻め込むが、鳴海の北にある小鳴海の「三の山」で、そこより東の赤塚に山口教吉が兵1,500余りを進めているのを発見する。これに気付いた織田信長は赤塚に向かって攻撃を開始、戦闘となった。しかし勝敗はつかず結局、互いの捕虜や捕らえた馬を交換して双方は引き上げた。その後、山口教継が調略をもって大高城、沓掛城を乗っ取り、鳴海城には今川義元家臣の岡部元信が城代として入った。山口教吉は父山口教継と供に駿河へ呼び出され、今川義元により自刃をさせられた。

山口盛政【やまぐちもりまさ(15??~15??)】

山口盛重の男。別名大内盛政。室は岡部正房の娘。家系は室町から戦国時代初期にかけて西国の有力大名として名を馳せた大内家より分流した家柄で、尾張に住し織田家の家臣となった。

山口重俊【やまぐちしげとし(15??~15??)】

山口盛重の次男。寺辺城主。

山口重勝【やまぐちしげかつ(1547~1595)】

山口重俊の男。通称半左衛門。織田信雄に仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」に参陣した。その後は羽柴秀吉に仕えた。1586年、養子の山口重政に家督を譲って隠居した。羽柴秀次の家臣となった。1594年、伏見城普請工事を行った。1595年「羽柴秀次事件」で連座により羽柴秀吉から自刃命じられた。

山口重政【やまぐちしげまさ(1564~1635)】

山口盛政の男。山口重勝の養子。官途は但馬守。室は春日井郡上条城主小坂雄吉の娘(於奈)。はじめ織田信雄家臣佐久間正勝に仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」では織田信雄、松平元康連合軍の一員として尾張国大野城を守備して羽柴家勢と戦った。1586年、山口重勝の隠居により家督を相続した。1590年、織田信雄が羽柴秀吉の駿河国転封を拒否して改易となったため、織田信雄に従った。その後、松平秀忠に仕え5,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、松平秀忠勢に属して上田城主真田昌幸と戦った。役後、戦功により常陸国牛久城10,000石を領した。1613年、大久保忠隣の養女(石川康通の娘)と嫡男山口重信が勝手に縁組したことを咎められて改易された。1615年「大坂夏の陣」では、井伊直孝勢に属して「若江の戦い」で奮戦するが、嫡男山口重信は木村重成に討取られ、弟山口重克も討死した。1628年、常陸国牛久城15,000石を領した。

山田宗重【やまだむねしげ(15??~15??)】

蜂須賀正勝家臣。官途は織部正。蜂須賀正勝に仕え、朱柄の槍を許された剛の者。1586年、仁宇伊豆守の一揆を鎮圧した。この戦功により1,300石を領した。「小田原の役」「慶長の役」「関ヶ原の役」に参陣した。

山田宗登【やまだむねのり(15??~15??)】

山田宗重の男。官途は織部正。1615年「大坂夏の陣」で戦功を挙げた。「阿波七感状」のひとり。

横井時延【よこいときのべ(15??~15??)】

海西郡赤目城主。

横井時泰【よこいときやす(15??~15??)】

横井時延の男。通称伊織。1574年、岐阜城に忍んで侵入した敵を退けたことにより織田信長に賞された。1600年「本能寺の変」後は、織田信雄に仕えた。「小牧、長久手の戦い」では松平元康に属した。1600年「関ヶ原の役」では、東軍に組し福島正則の麾下に属した。福束城の丸毛兼利の家老丸毛六兵衛に東軍につくように促したが拒否され、徳永寿昌、市橋長勝らと福束城を攻略した。「関ヶ原の戦い」では長宗我部盛親隊を福島正則の別働隊として弟横井時家、横井時安、徳永寿昌、市橋長勝とともに監視した。南宮山を退いた西軍の長束や安国寺勢を追撃した。後に尾張松平家に仕え5,800石を領した。弟横井時朝(藤ヶ瀬横井家1,200石)、横井時久(祖父江横井家1,900石)も尾張家に仕えた。

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【資料Ⅰ】

海東郡:勝幡城。
海西郡
愛知郡:那古野城、古渡城、末盛城、御器所城、鳥栖城、岩崎城、鳴海城。
知多郡:緒川城、大野城、沓掛城。

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【資料Ⅱ】

佐治海賊衆【さじかいぞくしゅう】

伊勢湾での海上通運は盛んであり、比較的強力な海賊衆を率いていたが、志摩海賊衆や熊野海賊衆と比較すると弱体な海賊衆であった。漁業や通商を主とした商人や漁民が海賊行為も行なっていた。

津島南朝十五党【つしまなんちょうじゅうごとう】

尾張国津島には「四家、七名字、四姓」の土豪よりなる南朝方「十五党」があった。四家の長は大橋重一であった。大橋重長は織田信秀と領地を争った。織田信秀と抗争を続けたが、ついには織田信秀の女蔵を嫁として迎え、織田信秀に属するようになった。1560年、津島十五党は平野長治、恆川信景、鷲巣光康、秋山信縄、林長正、林正三、稲葉正成らである。

津島街【つしまのまち】

熱田神宮【あつたじんぐう】

景行天皇が、日本武尊が東国平定の帰路に尾張へ滞在した際に、尾張国造乎止与命の娘宮簀媛命と結婚し、草薙剣を妃の手許へ留め置いた。日本武尊が伊勢国能褒野で亡くなると、宮簀媛命は熱田に社地を定め、剣を奉斎鎮守したのが始まりと言われる。そのため、三種の神器のうち草薙剣は熱田に置かれ、伊勢神宮に次いで権威ある神社として栄えることとなった。大宮司職は代々尾張国造の子孫である尾張氏が務めていたが、平安時代後期に尾張員職の外孫で藤原南家の藤原季範にその職が譲られた。以降は子孫の千秋家が大宮司、尾張家は権宮司を務める。なお、この季範の娘は源頼朝の母(由良御前)である。

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【資料Ⅲ】

尾張国【おわりのくに】

調査中。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「新陰流小笠原長治」新潮文庫、「(新今川記)戦国幻野」講談社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2012年6月10日日曜日

戦国加賀国人名辞典


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【あ】

内田四郎左衛門【うちだしろうざえもん(15??~15??)】

能美郡御幸塚城主。一向一揆の大将のひとり。1576年、内田四郎左衛門、林七介らが大聖寺城にあった織田信長の家臣戸次広正を攻撃した。

宇津呂丹波守【うつろたんばのかみ(15??~1580)】

能美郡波佐谷城主。宇津呂備前守の男。別名慶西。1580年、嫡男宇津呂藤六と共に柴田勝家に討たれ、頸は安土城に送られた。

宇津呂藤六郎【うつろとうろくろう(15??~15??)】

宇津呂丹波守の男。1580年、父宇津呂丹波守と共に柴田勝家に討たれ、頸は安土城に送られた。

奥政堯【おくまさたか(15??~15??)】

河北郡梨木城主。本願寺家臣。官途は近江守。一向一揆の大将のひとり。1578年、七里頼周と争ったが長尾景虎、下間頼純の仲介で赦免された。

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【か】

笠間家次【かさまいえつぐ(15??~15??)】

石川郡笠間館主。通称兵衛。一向一揆の大将のひとり。

鏑木頼信【かぶらぎよりのぶ(15??~1580)】

石川郡松任城主。通称右衛門尉。加賀国一向一揆の将。父篠田七郎は本誓寺宗誓の婿養子となり、鏑木常専と称した。1567年、謙信の加賀出兵を求めた連署状に署名した。下間頼廉に七里頼周を訴えた。七里頼周は山内衆を率いて松任城を攻めた。一揆衆は七里頼周の行為に激怒し、加賀一向一揆は内乱状態となった。そのため、本願寺顕如は下間頼純を金沢御堂に派遣し一揆衆の采配を命じた。1576年、七里頼周と争うが長尾景虎、下間頼純の仲介で赦免された。1577年、松任城は長尾景虎に攻められ落城した。1580年、柴田勢に攻められた。

鏑木勘解由【かぶらぎかげゆ(15??~15??)】
 
鏑木頼信の男。

河合宣久【かわいのぶひさ(15??~1531)】

加賀一向一揆の大将。通称は藤左衛門。別名多田政晴。はじめ朝倉家に仕えたが後に、能美郡河合村に移住して河合宣久と称して加賀一向一揆の指導者のひとりなった。1488年、本願寺門徒らが加賀国守護富樫政親を高尾城に攻め滅ぼした「長享の一揆」では、洲崎慶覚や石黒孫右衛門らとともに一揆方の大将を務め、河合宣久麾下の部隊が富樫勢の大将本郷春親を討取り、富樫政親を自刃に追い込んだ。1506年、加賀、能登、越中の門徒衆と甲斐家の牢人らが加わり越前国に侵攻した「九頭竜川の戦い」では、朝倉宗滴勢に敗北し退却した。その後、本願寺の実権を握る蓮淳が派遣した下間頼秀、下間頼盛兄弟が加賀国に入り門徒衆と軋轢を起こして内紛状態となった。本泉寺蓮悟や洲崎慶覚らと共に畠山家を頼って能登国に落延びた。1531年、小一揆(賀州三ヶ寺側)に越前から朝倉宗滴勢が援軍として加わり合戦となると、これに呼応して畠山家俊の軍勢と共に加賀国に侵攻したが、下間頼秀ら大一揆の軍勢に敗れ討取られた。

河合虎春【かわいとらはる(15??~15??)】

河合宣久の男。

岸田常徳【きしだつねとく(15??~1580)】

一向一揆の大将のひとり。金沢御坊陥落後も織田家との戦いを継続した。1580年、柴田勝家は謀略を用い、門徒の指導者である若林長門守、若林雅楽助、若林甚八郎、鈴木義明、鈴木右京進、鈴木次郎衛門、鈴木太郎やその他岸田常徳、窪田経忠ら総勢十九人を捕らえことごとく、一揆の大将と共に安土城下に頸を晒された。

窪田経忠【くぼたつねただ(15??~1580)】

安吉家長筆頭家老職。官途は大炊充。1550年、安吉家長の出家により安吉城を領して河原組8,000余りを統率した。1580年、柴田勝家の攻撃を受け安吉城落城。柴田勝家は織田信長に一揆の大将首を献じ、安土城下に頸が晒された。他に得田小次郎、荒川市介、長山九兵衛らの頸が晒された。

駒井与三郎【こまいよさぶろう(15??~15??)】

冨樫晴貞家臣。1557年、禅昌寺が売却した土地を冨樫晴貞が駒井与三郎に知行を安堵した。

光教寺蓮誓【こうきょうじれんせい(1455~1521)】

江沼郡光教寺住持。本願寺第八世法主蓮如の四男。本願寺蓮如が延暦寺の迫害を受け越前国で布教を行った時、越前国門徒衆への証人として吉崎へ送られた。1576年、父本願寺蓮如と富樫政親が対立した時には、父本願寺蓮如を落延びたさせた後、越中国に落延びた。1481年、越中一向一揆では病気がちであった光善寺順如に代わって指揮を執った後に加賀国に入って光教寺を建立した。1488年、本願寺家による加賀支配確立後には光教寺蓮誓は松岡寺蓮綱、本泉寺蓮悟と並んで「賀州三ヶ寺」と称された。賀州三ヶ寺は加賀国における本願寺の代行統治機関となった。光教寺蓮誓は越中国門徒衆の指揮も取っていたため、松岡寺蓮綱、本泉寺蓮悟が加賀国門徒衆の指揮を取った。

光教寺顕誓【こうきょうじけんせい(15??~15??)】

光教寺蓮誓の三男。1521年、光教寺蓮誓が病没後は光教寺顕誓が光教寺を相続した。光教寺顕誓は本泉寺蓮悟と並んで宗派を代表する碩学のひとりと称られた。1531年、越前国の藤島超勝寺が加賀国へ進出して賀州三ヶ寺と対立すると、超勝寺方に光教寺顕誓は攻められ敗れた光教寺顕誓は越前国へ落延びたが捕まり、播磨国本徳寺に蟄居させられ山田光教寺は廃寺となった。

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【さ】

下間頼秀【しもつまらいしゅう(15??~1539)】

下間頼玄の男。官途は筑前守。本願寺蓮淳の麾下に属した。1528年、加賀に赴き超勝寺実顕と共に所領の横領で加賀の賀州三ヶ寺(松岡寺、光教寺、本泉寺)と対立した。1531年「大小一揆」では「大一揆」に属して賀州三ヶ寺らの「小一揆」を壊滅させた。畿内で本願寺と細川晴元が衝突「天文の錯乱」で山科本願寺が焼け落ち、証如が石山本願寺に移ると畿内へ戻り一揆を率いて細川勢と戦った。1535年、本願寺証如が細川晴元と和平を結ぶと主戦派として失脚した。1539年、近江国で本願寺証如のよって謀殺された。

下間頼盛【しもつまらいせい(15??~1539)】

本願寺家の坊官。下間頼玄の五男。官途は備中守。兄下間頼秀と共に本願寺第十世法主本願寺証如及び後見人の蓮淳に接近し。1528年、加賀国の大小一揆で大一揆に属して超勝寺実顕(蓮淳の婿)を助け、小一揆を壊滅させた。「天文の錯乱」で畿内へ戻り、河内国、摂津国で一揆勢を率いて転戦した。1535年、本願寺証如と細川晴元との和睦で主戦派として失脚、兄下間頼秀と共に本願寺を退去した。1536年、摂津中嶋城で一揆の部将として参戦したが、木沢長政に打ち破られて逐電、堺で本願寺証如に謀殺された。

七里頼周【しちりよりちか(1517~1576)】

本願寺家臣。官途は三河守。本願寺顕如に見込まれて坊官となった。織田信長との石山戦争が始まると、本願寺顕如の命で加賀国の一向門徒をs指揮し織田勢と争った。1574年、越前国では、織田信長の麾下に属した桂田長俊が暴政を行い国人や民衆の不満は頂点に達していた。桂田長俊に敵対していた富田長繁は民衆に働きかけて土一揆を起こし、自ら大将となって桂田長俊が籠もる一乗谷を攻め、桂田長俊を討取った。富田長繁は続けて魚住景固も謀殺した。富田長繁と対立した一揆衆は七里頼周を大将として富田長繁とその与党、そして土橋信鏡、平泉寺と敵対するものを次々に滅ぼした。その後、七里頼周は下間頼照の麾下に属して加賀国と越前国を本願寺家の勢力下に置いた。七里頼周と下間頼照は門徒衆と対立し、一向門徒は分裂状態に陥った。1575年、織田信長勢が越前国に侵入すると、下間頼照や七里頼周は門徒衆を纏められず、各個撃破された。下間頼照は落延びる途中討死した。七里頼周は加賀国まで落延び、本願寺方の松任城主鏑木頼信を叛意ありとして討取った。

杉浦玄任【すぎうらげんとう(15??~15??)】

本願寺家の坊官。僧位は法橋。一向一揆の大将のひとり。1572年、越中国で長尾景虎と対陣すると金沢御坊へ援軍派遣を要請した。1574年、杉浦玄任は一向一揆勢を率いて介入し、派遣されてきた本願寺家臣下間頼照と共に織田家臣溝江長逸、富樫泰俊、朝倉景鏡を討取った。越前国は一向宗の国 となった。越前全域を門徒が支配すると、本願寺から大野郡司に任命された。他に下間頼照は越前国守護職、下間和泉守は足羽郡司、七里頼周は上郡、府中辺を支配した。

杉谷四郎左衛門【すぎやしろうざえもん(15??~15??)】

石川郡杉谷館主。一向一揆の大将のひとり。

洲崎慶覚【すさききょうかく(15??~1531)】

河北郡松根城主。官途は兵庫。一向一揆の大将のひとり。洲崎慶覚は近江国の生まれで本願寺蓮如の弟子として加賀国に下向した。1475年、冨樫方に一揆方が敗れた時、一揆方の代表として本願寺蓮如に仲介を求めた。一揆の大将松田次郎左衛門を謀殺した。1550年、遊佐続光に応じて畠山義続と戦ったが、遊佐続光は敗走した。1576年、長尾景虎の「加賀国討伐」を倶利伽藍で防戦したが敗走した。温井景隆は洲崎兵庫、下間寿法、黒瀬覚道、鏑木右衛門の支援により長尾方の七尾城を攻めようとした。

州崎景勝【すさきかげかつ(15??~15??)】

洲崎慶覚の男。1576年、長尾景虎に援軍を求めるよう七里頼周に伝えた。

鈴木重泰【すずきしげやす(15??~1580)】

石川郡鳥越城主。官途は出羽守。本願寺顕如の命で加賀国に赴き一向一揆を指揮した。1580年、本願寺家が降伏した後、柴田勝家率いる織田勢に攻められて山内衆の主領鈴木一族は滅ぼされた。

鈴木右京進【すずきさきょうのしん(15??~1580)】

鈴木重泰の男。二曲城主二曲右京進の跡を継いだ。1580年、柴田勝家によって攻められ二曲城とともに落城、鈴木家一族は滅亡した。柴田勝家は鳥越城に吉原次郎兵衛、二曲城に毛利九郎兵衛を置き固めたが、一向一揆の抵抗は続いた。1582年、織田信長によって一向一揆の掃討作戦が行われ、佐久間盛政によって鎮圧、門徒ら300余りが磔に処せられた。

青天小五郎【せいてんこごろう(15??~15??)】

洲崎兵庫家臣。通称五郎。1550年、遊佐続光に応じて「能登国攻め」に参陣した。

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【た】

坪坂包明【つぼさかかねあき(15??~15??)】

本願寺家臣。官途は伯耆守。通称空性。本願寺から加賀国に派遣された坊官。枝連衆の坪坂新五郎は柴田勝家勢に討たれ、他の一揆の大将と共に安土城下に頸を晒された。

坪坂新五郎【つぼさかしんごろう(15??~1580)】

一向一揆の大将のひとり。金沢御坊陥落後も織田家との戦闘を続けた。1580年、柴田勢に攻められ討死した。

寺内織部【てらうちおりべ(15??~15??)】

本願寺家臣。本願寺教如の使者として加賀国門徒衆に徹底抗戦を呼びかた。1580年、本願寺顕如が加賀門徒へ宛てた書状に、本願寺教如の使者である寺内織部らを成敗せよと記される。その後、長尾景勝と共に柴田勝家と対立していた加賀国j門徒衆は羽柴秀吉と結んだ。羽柴秀吉が柴田勝家を破ると、挟撃しなかった長尾景勝に不快感を示し、再び羽柴秀吉と結ぶよう命じるが、このとき羽柴秀吉の使者となったのは寺内織部であった。

田屋大炊【でんやおおいのすけ(15??~15??)】

一向一揆の大将のひとり。1580年、柴田勝家勢に攻められた。

富樫稙泰【とがしたねやす(1474~1535)】

富樫泰成の男。加賀国守護職。父富樫泰成が早世した為、祖父富樫泰高の跡を継ぐ。1531年「享禄の錯乱」にて小一揆方の味方をした為、大一揆方に敗れて加賀守護の地位を追われた。これにより富樫家の権威は完全に失墜し、本願寺が本格的に領国内調停者の地位を確立した。嫡男富樫泰俊は小一揆に味方した為逃亡、家督は次男富樫晴貞が家督を相続した。

富樫晴貞【とがしはるさだ(15??~1570)】

富樫稙泰の次男。1531年、父と兄が加賀一向一揆の内乱(大小一揆)に巻き込まれて捕らえられ、家督を継ぐ。ある程度勢力を持ち直した。1570年、織田信長に呼応して本願寺勢力と敵対するが、野々市城に拠り一向一揆勢に敗れ自刃した。

富樫泰俊【とがしやすとし(15??~1574)】

富樫稙泰の男。1531年「大小一揆」に「小一揆方」として参陣したが、捕らえられた。後に逃亡して、弟富樫晴貞の死後、富樫家の家督を相続した。一度加賀へ戻り野々市城主となるが、本願寺方に攻められ、越前国に落延びた。1574年、越前国金津にて親子三人共々討死し富樫家は滅亡した。

富樫稙春【とがしたねはる(15??~1574)】

富樫泰俊の男。1574年、越前国金津にて親子三人共々討死した。

富樫家俊【とがしいえとし(15??~15??)】

富樫泰俊の二男。1574年、越前国金津にて、父富樫泰俊と嫡男富樫稙春は討死したが、富樫家俊だけは落延びた。1581年、佐久間盛政に仕えて戦功を挙げ300石を領した。

富樫豊弘【とがしとよひろ(15??~1570)】

富樫晴貞の三男。1570年、織田信長に呼応して本願寺勢力と敵対するが、野々市城に拠り父富樫晴貞らと共に一向一揆勢に敗れ討死した。

富樫蔵人【とがしくらうど(15??~15??)】

一向一揆の大将のひとり。1580年、柴田勝家勢に攻められた。

徳田重清【とくだしげきよ(1516~1580)】

岩倉城主。官途は志摩守。別名得田小次郎。加賀国一向一揆の将のひとり。織田信長の加賀国侵攻勢に抵抗した。金沢御坊陥落後も織田家との戦闘を続けた。1580年、柴田勝家に討たれ、頸は安土城に送られた。

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【な】

長屋三郎左衛門【ながやさぶろうざえもん(15??~15??)】

長屋館主。一向一揆の大将のひとり。

長山九郎兵衛【ながやまくろうびょうえ(15??~15??)】

一向一揆の大将のひとり。1580年、柴田勝家は和議締結の祝いとして一向衆側を松任城を招き、金沢御堂の御蔵方衆、一揆の旗本衆、山内衆など十九人を謀殺した。若林長門守、若林雅楽助、若林甚八郎、宇津呂丹波守、宇津呂藤六郎、岸田常徳、岸田新四郎、鈴木出羽守、鈴木右京進、鈴木次郎右衛門、鈴木太郎、鈴木采女、窪田経忠、坪坂新五郎、長山九郎兵衛、荒川市介、徳田小次郎、三林善四郎、黒瀬左近。

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【は】

広瀬貞清【ひろせさだきよ(15??~15??)】

山田四郎左衛門の男。官途は伊賀守。1554年、加賀門徒広瀬梅千代は父山田四郎左衛門の法事のために本願寺を訪れたさい本願寺証如から四郎二郎の名を与えられた。1580年、本願寺敗北後、越中国に逃れた。1582年、織田信長が討たれると長尾景勝は広瀬貞清らに書状を送り、参陣の旨を伝えた。

蛭川重親【ひるかわしげちか(15??~15??)】

能美郡蛭川館主。通称新七郎。一向一揆の大将となる。

二曲右京進【ふとうげうきょうのしん(15??~15??)】

石川郡二曲城主。1506年、越前国から敗走してきた藤島超勝寺と和田本覚寺が加賀国の門徒衆、土豪と結び勢力の拡大を図っていったが、加賀国の三山(本泉寺、松岡寺、光教寺)は対抗した。本願寺は加賀三山の強大化は教団の統制を乱すものとして超勝寺に下間備中守を派遣し加賀三山の勢力を駆逐した。加賀国一向一揆の支配は国人から本願寺支配と変わっていった。本願寺方についた二曲右京進は、この戦いの中で勢力を伸ばし白山麓だけでなく、発言権は加賀全体に及ぶようになった。1570年、本願寺から派遣された鈴木出羽守が鳥越城を築き、白山麗の要害化が図られ、二曲城は鳥越城の支城として三坂峠を押さえる役割を担った。

本泉寺蓮悟【ほんせんじれんご(1486~1543)】

石川郡本泉寺住持。本願寺蓮如の七男。室は瑞泉寺蓮乗の娘。近在門徒衆の勧進で本泉寺蓮悟が清沢坊を建立、蓮悟の弟実悟が養子として住持になった。石川郡の門徒衆、河原寺、西縁寺、六ヶ寺が清沢坊の寄騎衆として与えられた。1483年、父本願寺蓮如の名代として加賀国を訪れた長兄順如の手によって得度した。養父となった次兄蓮乗は加賀門徒衆のまとめ役になる事を期待されていたが、病気がちであり、本泉寺蓮悟の得度の際にあわせて本泉寺を継承した。本泉寺蓮悟は松岡寺蓮綱、光教寺蓮誓と共に加賀国門徒衆のまとめ役となった。1487年、本泉寺を河北郡若松荘に移転した。1505年、異母弟の実悟を養子に迎えるが、河内国門徒衆が実悟の同母兄実賢を法主に擁立しようとする陰謀が発覚した。1508年、実子の実教が生まれると実悟は末寺の住職に移された。本泉寺蓮悟が、朝倉家との「九頭竜川の戦い」で敗れると、本覚寺蓮恵が本泉寺蓮悟の責任を追及したが、本願寺実如に本覚寺蓮恵の破門を進言して屈服させた。本泉寺蓮悟が超勝寺実顕と対立すると、本願寺証如は本泉寺蓮悟の追討令を出すと加賀国門徒衆は分裂した。1531年、本泉寺蓮悟は能登国に落延びた。1532年、本泉寺蓮悟の嫡男本泉寺実教が謀殺されると、本泉寺蓮悟は和泉堺に落延びた。

本泉寺実教【ほんせんじ(15??~1532)】

本泉寺蓮悟の男。

小松本覚寺蓮恵【ほんかくじれんえ(15??~15??)】

小松本覚寺住持。和田本覚寺蓮光の男。本覚寺は越前国に拠点を持っており(和田本覚寺)、加賀国にも勢力を持ち小松に本覚寺を建立、超勝寺と並んで北陸の有力寺院として発展した。本覚寺蓮光は延暦寺から追われた本願寺第八世法主本願寺蓮如を保護した。本願寺蓮如の男、松岡寺蓮綱、光教寺蓮誓、本泉寺蓮悟が北陸の本願寺代行の役目を担った時も有力寺院の地位は変わらなかった。1506年、本覚寺蓮恵は一揆勢を率いて越前国に攻め入ったが、朝倉宗滴が率いる朝倉勢に「九頭竜川の戦い」で敗れて下間照賢が討死、超勝寺と共に加賀国に落延びて、和田本覚寺を失った。1518年、本願寺実如が門徒衆に他国への攻撃を禁止したため、越前国への復帰も不可能となった。本覚寺蓮恵は朝倉攻めの責任者の本泉寺蓮悟に抗議をしたが逆に破門された。1525年、本願寺証如の後見人である蓮淳の意を受けた蓮淳の婿で超勝寺実顕が代官に任命され、下間頼秀、下間頼盛兄弟と共に荘園の横領と本願寺代行寺院を無視する態度を取ると、本泉寺蓮悟と松岡寺蓮慶、光教寺顕誓は反発した。1531年「大小一揆」が起こった。本覚寺蓮恵は実顕ら大一揆に与して本泉寺蓮悟ら小一揆と戦い、松岡寺を占領して、蓮綱、蓮慶、実慶らを捕らえた。程なくして蓮綱は病没し、蓮慶、実慶も自刃した。小一揆に朝倉宗滴、畠山家俊らが加勢、大一揆方は勝利して小一揆方を追い落とした。これにより加賀国は本願寺の直接支配を受け、超勝寺と本覚寺は加賀国一向一揆の麾下に置いた。1546年、尾山御坊が建立した。

堀才之助【ほりさいのすけ(15??~1580)】

一向一揆の大将のひとり。1580年、柴田勝家勢に攻められた。

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【ま】

松永丹波守【まつながたんばのかみ(15??~1580)】

松永隼人の男。一向一揆の大将のひとり。1580年、柴田勢に攻められ討死した。この時、佐久間盛政に背面を突かれ、一向一揆勢は総崩れになった。金沢御坊は落城した。

三林善四郎【みばやしぜんしろう(15??~1580)】

石川郡三林館主。1580年、柴田勝家の攻撃を受けて滅亡した。

本折治部少輔【もとおりじぶのしょう(15??~15??)】

富樫晴貞家臣。

三浦守治【みうらもりはる(15??~15??)】

三浦館主。富樫政親家臣。通称弥兵衛。

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【や】

安吉家長【やすよしいえなが(15??~15??)】

石川郡安吉城主。通称源左衛門尉。1487年、大窪源右衛門蔚家長が源兵衛島城より安吉城に移り40,000石を領した。1488年、一向一揆に加わり、加賀守護職富樫政親が籠城する高尾城を攻撃した。加賀一向一揆勢は富樫政親を自刃に追い込む。1550年、家宰の窪田経忠に居城を譲り出家した。

安吉家臣【やすよしかしんだん】

斎藤摂津守、窪田大炊允経忠。

山川高藤【やまごうたかふじ(15??~15??)】

富樫泰高家臣。官途は三河守。富樫泰高の家督移譲後の富樫政親と富樫幸千代との対決では富樫政親に属した。富樫政親政権で南加賀半国守護代となり、守護代として荘園の横領に対処した。1489年、幕府の六角征討に政親が参加した際には、留守の加賀を守護代として切り盛りした。その際、富樫政親の命で軍費調達の為、兵糧米、人夫などを課された。「長亨の一揆」では一貫して富樫政親派として一向一揆と戦った。

山川高次【やまごうたかつぐ(15??~15??)】

石川郡山川館主。富樫家臣。官途は三河守。

山田四郎左衛門【(15??~15??)】

加賀笠野村代官職。領内の争いごとの調停役となる。

若林長門守【わかばやしながとのとのかみ(15??~1580)】

能美郡小松城主。本願寺家臣。1574年、下間和泉らと共に越前に派遣された。1575年、織田勢の攻撃により加賀国に落延びた。1580年、織田勢の加賀攻めに抵抗した。柴田勝家は和議のためと称して若林長門守、若林甚七郎、若林雅楽助を誘い出し謀殺した。若林長門守の頸は若林雅楽助、若林甚八郎と共に一揆の大将として安土城下に頸を晒された。

若林甚七郎【わかばやしじんしちろう(15??~1580)】

若林長門守の男。

若林雅楽助【わかばやしうたのすけ(15??~1580)】

若林長門守の次男。

若林家臣団【わかばやしけかしんだん】

若林家吉、檜垣平太。

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【資料Ⅰ】

加賀国(4郡/石高460,000石)

河北郡:津幡城、弘願寺、倶利伽羅峠(石高80,000石)
石川郡:尾山御坊(金沢)城、松任城、安吉城(石高180,000石)。
能美郡:小松城、鳥越城(石高120,000石)
江沼郡:大聖寺城、松岡寺(石高80,000石)

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【資料Ⅱ】

加賀一向一揆衆【かがいっこういっきしゅう】

応仁の乱で、北加賀国は富樫政親が治めていましたが、弟富樫幸千代と対立しており、北加賀統一を目指し、兄弟が戦った。弟富樫幸千代守護幸千代が、法敵であった高田専修寺門徒と結んだのに対して、富樫政親は越前国の朝倉孝景らと手を結び、本願寺の加賀門徒衆の援助を受けた。1467年、富樫幸千代との戦いで勝利し、富樫政親は北加賀国守護職を得た。この戦いで本願寺門徒農民が勢力を持ち、加賀国一向一揆衆と称されるようになった。一向一揆は、加賀国内での宗勢を強め、守護や寺社への年貢を納めず、富樫政親と対立、争うことになりました。しかし一向一揆方は破れ、本願寺門徒の指導者達は越中国へ落延びた。

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【資料Ⅲ】

加賀国【かがのくに】

能登半島の南に位置する北陸道の国。北は金沢平野の狭い部分で能登国に接し、南は大日山の山系から日本海に続く線が越前国との国境となる。東は両白山地の北の低地で越中国、南の高地で飛騨国との国境を分けるが、かずかに倶利伽羅峠で越中国方面へ抜ける以外は、両国との交通はほとんどない。西の日本海に面した長い海岸線には長大な砂丘地帯が続き、その内側に柴山潟、木場潟、今江潟、河北潟を抱く。砂丘地帯と東南の加賀山地の間には、大聖寺川、梯川、手取川、犀川などの河川が流れ、西南から東北に帯状に加賀平野が広がる。平野部を中心に農業が発達し、日本海沿岸では漁業が盛んである。越中国、能登国から越前国を経て京へ向かう北陸道の要衝にあり、古代から安宅関などの拠点が築かれた。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城砦などの名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2012年6月1日金曜日

戦国伊豆国人名辞典


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【あ】

朝倉平次郎【あさくらへいじろう(15??~15??)】

梅縄城主。伊豆衆二十一家のひとり。

安藤清広【あんどうきよひろ(15??~15??)】

後北条家臣。通称源左衛門。伊豆衆二十一家のひとり。

板部岡康雄【いたべおか(15??~15??)】

田方郡狩野荘田領主。官途は能登守。通称右衛門。北条氏康の馬廻衆のひとり。のちに田中融成を養子とした。

板部岡融成【いたべおか(1537~1609)】

田中泰行の男。板部岡康雄の養子。官途は越中守。通称江雪斎。別名田中融成。北条氏政の命により板部岡康雄の後を継ぎ、右筆、評定衆として活躍した。寺社奉行として寺社の管理を安藤良整と行った。1571年、北条氏康が病に倒れたとき、鶴岡八幡宮にて病平癒の祈願を行なった。1573年、武田晴信が病没したとき、北条氏政の命で病気見舞いの使者として甲斐国に赴いたが、武田信廉が武田晴信の影武者となって対応した。北条氏政が武田勝頼と同盟が破綻すると、北条氏政は織田信長と同盟を結ぶため使者として赴いた。1582年、織田信長の横後で信濃国、甲斐国の支配権を巡って松平元康と北条氏直が対立したときは和睦交渉を行い、松平元康の娘督姫を北条氏直の室に迎えることで和睦を取り纏めた。太田氏房の補佐として岩槻城に在城した。1589年、北条氏政と羽柴秀吉が対立すると、北条氏規とともにその関係修復に尽力した。1590年「小田原の役」後は羽柴秀吉の御伽衆となった。

板部岡於百合【いたおかおゆり(15??~15??)】

北条氏直の室。板部岡融成の娘。1588年、北条氏直の側室として嫁ぐ。1589年、長子咲丸を出産するが、北条氏直の室に図り、板部岡融成の元にで養育される。板部岡於百合は産褥のため急死した。1589年「小田原の役」で小田原城の落城が迫ると、北条氏直は板部融成と図り、小田原城から落延びさせた。※神出鬼没!戦国忍者伝「猿飛佐助の死」。

伊東祐貞【いとうすけさだ(15??~15??)】

後北条家臣。伊東祐実の男。北条氏綱から縫殿助に任じられた。

伊東祐尚【いとうすけなお(15??~15??)】

伊東祐貞の男。通称九郎三郎。「第二次国府台の戦い」に参陣して戦功を挙げた。

伊東政世【いとうまさよ(1557~1628)】

伊東祐尚の男。官途は右馬允。通称九郎三郎。室は小笠原康広の娘。1582年、武田勝頼が東海地方に侵攻してくると、伊東政世は松田家らとともに伊豆国の三島天神山城に籠城した。1589年、羽柴秀吉の「小田原の役」では小田原城に籠城した西北の曲輪を守って羽柴勢と戦った。 小田原城開城後は松平元康の家臣となり「関ヶ原の役」「大坂の役」に槍奉行として参陣した。父の没後、嫡男伊東時吉は松平秀忠の馬廻衆となり300石を領した。

上村玄蕃【うえむらげんま(15??~15??)】

大見の三人衆のひとり。伊豆衆二十一家のひとり。

梅原杢左衛門【うめはらもくえもん(15??~15??)】

大見の三人衆のひとり。伊豆衆二十一家のひとり。

江川英景【えがわひでかげ(15??~15??)】

江川砦主。通称彦左衛門。後北条家臣。伊勢盛時、北条氏綱に仕え酒を造った。伊勢盛時はこの酒を好み「江川酒」と称させた。伊豆衆のひとりとして伊豆立野で30貫文を領した。

江川英元【えがわひでもと(1513~1561)】

江川英景の男。江川英元の孫江川英長が松平元康に仕えて本領を安堵され、蔭山氏広の養女お万の入輿にあたっては仮親を務めた。

江川英吉【えがわひでよし(15??~1625)】

江川英元の男。北条氏康から北条氏直まで仕えた。1590年「小田原の役」では韮山城を守り、攻め手の小笠原安次父子を討取った。北条家の滅亡後は松平元康に仕えた。羽柴秀吉の「朝鮮出兵」のさいに肥前名護屋まで松平元康に従った。

江川英長【えがわひでなが(15??~1632)】

江川英吉の男。通称太郎左衛門。1596年、松平家康の家臣となり、伊豆代官に就任した。松平元康が伊豆国にきたとき江川英長は江川酒と白餅を献上した。松平元康は「ご賞味あそばれ 井水清く 軽く 酒に叶い 養老酒ともいうべし」と称賛され、自ら河原の野菊を祈って、これから「井の内に菊を家紋とせよ」と言われた。1614年、江川英長は嫡男江川英政とともに「大坂両の陣」に参陣した。

大川兵庫【おおかわひょうご(15??~15??)】

長浜城主。長浜城は後北条家の海賊衆の根拠地として機能した。1590年「小田原の役」でも大川兵庫が守備していた。

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【か】

笠原信為【かさはらのぶため(15??~1557)】

後北条家臣。笠原信隆の男。武蔵国橘樹郡小机城城代。官途は越前守。伊豆衆二十一家のひとり。文化的教養もあり、和歌、漢詩に精通して造詣が深かった。北条早雲、北条氏綱、北条氏康の三代にわたって仕えた宿老職。伊豆衆二十一家の筆頭格であり北条氏綱の時代には五家老を務め麾下の小机衆を率いて重用された。里見義豊によって鶴岡八幡宮が焼き討ちを受けたため、その再建のために造営総奉行を命じられると、同じく奉行の大道寺盛昌とともに普請にあたった。

笠原康勝【かさはらやすかつ(15??~15??)】

笠原信為の男。官途は能登守。通称弥太郎。1546年、父笠原信為から所領の一部を譲られた。1557年、父笠原信為の病没により笠原家の家督を相続した。1546年「松山城の戦い」に参陣した。

笠原政尭【かさはらまさたか(15??~1590)】

松田憲秀の男 。笠原康勝の養子。通称新六郎。1579年、武田家と後北条家の同盟関係が解消されると、武田家と隣接する防衛線には重臣が配されたが、中でも要害とされた武田家の沼津城に隣接している戸倉城の守備を任された。武田家臣で沼津城主曾根昌長から内応を持ちかけられた。1581年、武田家に内応し、北条家を離反した。武田家の支援を受け、義弟笠原照重を攻めて討取った。1582年「武田家征伐」により武田家が滅亡した後は、後北条家に帰参を果たした。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」は父松田憲秀と共に羽柴秀吉方に降ろうとした事が露見、父松田憲秀は監禁され、笠原政尭は城内で謀殺された。

笠原照重【かさはらてるしげ(15??~1581)】

笠原康勝の男。1581年、武田家に内応し、後北条家を離反した義兄笠原政尭の攻撃を受け討死した。

笠原康明【かさはらやすあき(15??~15??)】

笠原康勝の次男。官途は越前守。通称藤左衛門。小田原城の御馬廻衆の一員で、奉行衆、評定衆を務める内務官吏として重きをなした。のち岩槻城代を務めた。

蔭山忠広【かげやまただひろ(15??~15??)】

河津城主。

蔭山氏広【かげやまうじひろ(15??~15??)】

蔭山忠広の男。1590年「小田原の役」では蔭山氏広は戦う事無く羽柴勢に降伏した。蔭山氏広の娘於万は松平元康の側室となり、松平頼宣、松平頼房の二児を出産した。

梶原景宗【かじわらかげむね(15??~15??)】

賀茂郡安良里城主。後北条家臣。官途は備前守。紀伊国の出身であったが、北条氏康に海賊衆として仕えた。里見家や武田家との戦いでは、北条家海賊衆を率いて活躍した。伊勢湾沿岸と関東地方を結ぶ交易商人としての活躍した。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」で北条家海賊衆を率いるも本多重次の麾下であった向井正綱率いる松平海賊衆に敗れた。北条氏直とともに高野山に赴き、北条氏直の病没後は紀伊国に土着した。

狩野道一【かのうどういつ(15??~1498)】

田方郡狩野城主。1493年、北条早雲の「伊豆国侵攻」で、狩野道一は足利方に付き戦ったが敗れて開城した。その後一族は小田原城に移り、後北条家の家臣として活躍した。

狩野一庵【かのういちあん(15??~1590)】

伊豆衆の狩野家の枝連衆。はじめ北条氏康に馬廻衆として仕えた。1569年、北条氏照の側近となり、奏者として北条氏照麾下の国人衆との連絡役を務めた。八王子城や滝山城の留守居役などを任された。1582年「本能寺の変」に際しては、北条氏直が深谷にいた狩野一庵経由で変を知ったと滝川一益に書状を出しているので、滝川勢の及ぶ最前線に配置されていた。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では八王子城を守備し、三の丸で討死にした。

川村秀重【かわむらひでしげ(15??~15??)】

遠山綱景の四男。1590年「小田原の役」の際は、川村秀重は江戸城を守備していたが、松平勢に降伏開城した。

桑原政則【くわはらまさのり(15??~15??)】

田方郡の豪族衆。伊豆衆二十一家のひとり。

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【さ】

笹本豊後守【ささもとぶんごのかみ(15??~15??)】

賀茂郡奥原砦主。

佐藤四郎兵衛【さとうしろべえ(15??~15??)】

大見の三人衆のひとり。伊豆衆二十一家のひとり。

清水綱吉【しみずつなよし(15??~15??)】

加茂郡下田城主。官途は上野守。本拠地は加茂郡加納城で、伊豆郡代の笠原家とともに伊豆奥郡代三島社奉行を務め、小田原北条家の伊豆支配の代行者であった。1532年、清水綱吉は、笠原綱信と連署している。 所領の一部を次男の清水淡路守英吉ら一族、被官に宛行い、さらに雲見の高橋、子浦の八木、妻良の村田、湯ケ野の西川、大沢の小針の諸家や、分家にあたる河津の清水家など、伊豆国在地の小領主らを寄子、同心などに組織した。

清水康英【しみずやすひで(1532~1591)】

清水綱吉の男。清水康英は伊豆衆二十九人衆の筆頭とされ、伊豆衆の中でも知行は最も多い829貫700文余。河越城主北条綱成、玉縄城主北条綱高、栗橋城主富永右衛門尉、下田城主清水康英、平井城主多目周防守を五家老とし、指物の色がそれぞれ黄備、赤備、青備、白備、黒備の「五色備」の体制になっていた。伊豆海賊衆を率いた。訴訟の裁決や政策立案を携る評定衆も務めており、氏康の参謀であったと思われる。評定衆として、北条家裁許印判状も発給している。1590年、羽柴秀吉の「小田原征伐」が始まると、秀吉方の水軍は長宗我部元親勢2,500、九鬼嘉隆勢1,500、脇坂安治勢1,300という大軍であった。下田城には清水康英、清水政勝らが籠もって50日余り防戦したが、脇坂安治や安国寺恵瓊らと起請文を交わし開城した。

清水新七郎【しみずしんしちろう(15??~15??)】

清水康英の男。1569年、掛川城の今川氏真は、武田晴信の攻撃を受け、松平元康に掛川城を明け渡して、北条家海賊衆を使って伊豆国へ落延びた。清水新七郎は、板部岡康雄とともに掛川城への補給の任務を行っていたが、今川氏真の救出に成果をあげた。

清水英吉【しみずひでよし(15??~15??)】

清水綱吉の次男。官途は淡路守。

清水政勝【しみずまさかつ(15??~1575)】

清水康英の次男。通称小太郎。別名清水吉政。

清水吉広【しみずよしひろ(15??~1584)】

清水政勝の男。通称は小太郎。

鈴木兵庫助【(15??~15??)】

江梨の豪族。伊豆衆二十一家のひとり。

須田対馬守【すだつしまのかみ(15??~15??)】

賀茂郡安城山城主。伊豆国海賊衆。

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【た】

高橋高種【たかはしたかたね(15??~1535)】

雲見上山城主。高橋統種の男。官途は将監。室は伊勢長氏の娘。伊豆衆二十一家のひとり。京都に上って室町将軍足利義尚に仕えた。1487年「長享、延徳の乱」に参陣した。1489年、足利義尚が病没すると、堀越公方足利政知に請われて伊豆国へと赴き、雲見城を与えられてその城主となった。1491年、足利政知が病没すると、堀越公方家は内紛を起こし、足利茶々丸が弟を謀殺するなど勢力は衰退した。その後は伊勢宗瑞に従い、その娘を室として後北条家枝連衆としての扱いを受けた。1535年、病没したが嫡男北条綱高が北条氏綱の養子となっていたため、次男高橋氏高が高橋家の家督を相続した。

高橋綱高【たかはしつなたか(1506~1585)】

高橋高種の男。北条氏綱の養子。官途は常陸介。別名北条綱高。武略に優れ、家中でも屈指の勇将であった。父高橋高種が伊勢宗瑞に仕えると、高橋綱高は伊勢宗瑞に養育され、多目元忠に師事し韮山城に居住した。1524年、江戸城を攻略の後、伯父の北条氏綱の養子となって北条綱高を称して相模国玉縄城代を務めた。扇谷上杉家との戦いでも多大な戦功を挙げた。1537年、扇谷上杉家臣難波田善銀が守る深大寺城を攻略した。その後、弟高橋氏高と共に、深大寺城奪回に押し寄せた難波田率いる扇谷上杉勢と対峙した。その間に北条氏綱が河越城へ進軍したため、難波田勢が撤退を始すると追撃、多くの敵兵を討取った。1564年「第二次国府台の戦い」に参陣した。

高橋氏高【たかはしうじたか(15??~15??)】

高橋高種次男。別名北条氏高。1537年、扇谷上杉家臣難波田広宗が籠城する深大寺城に対して、北条氏康は、牟礼砦に北条綱種、烏山砦に高橋氏高を入れて牽制した。

高橋家臣団【たかはしけかしんだん】

高橋和泉守六郎左衛門、高橋縫殿助、高橋三郎。

高橋丹後守【たかはしたんごのかみ(15??~15??)】

清水康英麾下の伊豆国海賊衆。1509年「小田原の役」では下田城に清水康英とともに籠城した。開城後、清水康英とともに林際寺に移った。

田中泰行【たなかやすゆき(15??~15??)】

田方郡田中館主。伊豆衆二十一家のひとり。

遠山直景【とおやまなおかげ(15??~1533)】

後北条家臣。遠山景保の男。官途は加賀守。通称四郎左衛門。伊豆衆二十家のひとり。伊勢盛時、北条氏綱の二代に仕えた。元々は幕府の奉公衆であった。幕府に申次衆として出仕していた伊勢盛時と親密になった。1521年、遠山直景は京都を離れて兵180余りを率いて伊勢盛時の麾下に属した。1524年、北条氏綱は、扇谷上杉家の拠点であった武蔵国江戸城を攻略し、遠山直景を城代に任じた。1530年、後北条家と敵対する川越城主上杉朝興の背後を衝こうと出陣し、迎撃に出た上杉方と野戦を行い敗北した。上杉方に小沢城と世田谷城を攻略され、江戸城に攻め寄せられ城下を焼払われた。

遠山綱景【とおやまつなかげ(1513~1564)】

遠山直景の男。官途は甲斐守。江戸衆筆頭、西郡約963貫を領した。1533年、父遠山直景の病没により、遠山家の家督を相続した。父遠山直景に引き続き江戸城代となった。江戸城代は三人置かれ、本丸には富永家、三の丸には江戸太田家が寄っており、遠山家は二の丸にあった。1544年、連歌師の宗牧を呼び、連歌の会を催した。1558年、古河公方足利義氏の小田原城訪問時には、後北条家の家老として松田盛秀、遠山綱景、笠原綱信、清水康英、石巻家貞が足利義氏に拝礼を行った。1564年、江戸太田康資が離反し、長尾景虎に救援を求めたことにより、里見家との間に「第二次国府台の戦い」が起った。遠山綱景は、富永直勝とともに、北条綱成が率いる本隊よりもかなり先行して江戸川を渡河するが、里見家の反撃にあい、嫡男遠山隼人佐とともに討死した。

遠山隼人佐【とおやまはやとのさ(15??~1564)】

遠山綱景の男。1564年、江戸太田康資が離反し、長尾景虎に救援を求めたことにより、里見家との間に「第二次国府台の戦い」が起った。遠山隼人佐は父遠山綱景、富永直勝とともに、北条綱成が率いる本隊よりもかなり先行して江戸川を渡河するが、里見家の反撃にあい、父遠山綱景とともに討死した。

遠山政景【とおやままさかげ(15??~1580)】

遠山綱景の三男。官途は甲斐守。通称右衛門大夫。1564年「第二次国府台の戦い」で、父遠山綱景と兄遠山隼人佐が討死した為、僧籍に入っていたが還俗し、遠山家の家督を相続した。1567年、足利義氏が遠山政景に相馬治胤の対応について江戸城からの援兵300余りを依頼した。後に、長尾景虎や反北条勢力の圧力が増したことにより、江戸城は重要防衛拠点の一つと見なされ、遠山政景より身分の高い北条家枝連衆の北条氏秀が起用された。その為、遠山政景は下総国方面の反北条勢力や里見家の押さえとして拠点を移した。

遠山直景【とおやまなおかげ(15??~1587)】

遠山政景の男。通称左衛門大夫。北条氏政、北条氏直の二代に仕えた。1580年、父遠山政景が病没により遠山家の家督を相続した。遠山直景が家督を相続した時期は、北条家と里見義頼との和睦により、遠山直景は大きな戦功を挙げることなく、葛西城主として江戸城主北条氏秀を補佐した。

富永政直【とみながまさなお(15??~15??)】

西土肥の豪族衆。富永実吉の男。通称四郎左衛門。伊豆衆二十一家のひとり。1491年、伊勢盛時の麾下に属した。1493年、興国寺城代。1524年、江戸城主。遠山直景とともに江戸在番した。

富永直勝【とみながなおかつ(1509~1564)】

富永政直の男。通称四郎左衛門。別名富永政辰。後北条家の北条五色備えの青備えを率いた。軍事的旗頭として江戸衆を率いた。1556年、相模国三浦三崎沖にて里見家海賊衆と海戦に参陣した。1564年、太田康資の離反により「第二次国府台の戦い」に参陣して討死した。

富永政家【とみながまさいえ(1554~1607)】

富永直勝の男。官途は山城守。通称孫四郎。1564年、父富永直勝の討死より富永家の家督を相続して江戸城主となった。1584年、韮山城主。嫡男富永直則は松平家に仕えた。

富永家政【とみながいえまさ(15??~15??)】

富永直勝の次男。

富永山随【とみながさんずい(15??~1590)】

丸山城主。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」でも海賊衆を率い奮戦したが、衆寡敵せず丸山城は落城した。

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【な】

南条重長【なんじょうしげなが(15??~15??)】

北条氏康家臣。通称右京亮。伊豆衆二十一家のひとり。1564年、北条氏康勢は、下総国府台に布陣する里見義弘勢と戦い勝利した。このとき南条重長は戦功を挙げ、武蔵国兎々呂城を領した。

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【は】

調査中。

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【ま】

松下三郎左衛門【まつしたさぶろうざえもん(15??~15??)】

北条家臣。通称三郎右衛門。伊豆衆二十一家のひとり。三津の豪族衆。

松田康長【まつだやすなが(15??~15??)】

田方郡山中城主。官途は右兵衛大夫。1590年「小田原の役」では羽柴秀次を総大将とする山中城攻撃勢に攻囲される。激戦となり、羽柴方の一柳直末は討死し、北条方も間宮康俊が討死した。激戦の末、松田康長は北条氏勝を脱出させた後、羽柴勢の攻撃を受けて討死した。

御簾三河守【みすみかわのかみ(15??~15??)】

賀茂郡白水城主。伊豆海賊衆として活躍した。後北条家の伊豆支配の中で後北条家海賊衆の組込まれた。1590年「小田原の役」に落城した。

村田市之助【むらたいちのすけ(15??~15??)】

妻良の豪族衆。伊豆衆二十一家のひとり。

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【や】

八木和泉守【やぎいずみのかみ(15??~15??)】

清水康英麾下の海賊衆。1589年「小田原の役」では下田城に籠城した。

八木三郎兵衛【やぎさぶろうべえ(15??~15??)】

八木和泉守の枝連衆。

山角定吉【やまかくさだよし(15??~15??)】

後北条家臣。伊豆衆二十一家のひとり。

山角康定【やまかくやすさだ(15??~1590)】

山角定吉の男。官途は上野守。通称四郎左衛門尉。虎朱印状の奉者を務め、評定衆としても活躍した。長尾景虎との「越相同盟」の交渉に関わった。小田原城の御馬廻衆の統括者であり、300騎の侍大将であった。1590年「小田原の役」では小田原城に籠城し、開城後まもなく病没した。

山角定次【やまかくさふぁつぐ(15??~15??)】

山角定吉の次男。

山角定勝【やまかどさだかつ(1529~1603)】

山角定吉の三男。通称刑部左衛門尉。官途は紀伊守。北条氏政の側近、北条氏直の代に奉行人、評定衆として活躍した。1571年、相模足柄城の普請奉行を務めた。1582年、松平元康と北条氏直が講和し、松平元康の娘督姫が北条氏直と婚姻する際に媒酌を務めた。1586年、松平元康への使者として派遣された。1590年「小田原の役」の役後は北条氏直と共に高野山に上った。1591年、北条氏直が没した後は松平元康に仕えて相模国で1,200石を領した。

山角政定【やまかどまささだ(15??~15??)】

山角定勝の男。

山本太郎左衛門尉【やまもとたろうざえもんじょう(15??~15??)】

賀茂郡田子城主。官途は飛騨守。伊豆国海賊衆。伊豆衆二十一家のひとり。田子城は山本太郎左衛門が領主として支配した地域で、後北条家の麾下に属した。1533年、山本太郎左衛門尉が安房妙本寺周辺にて里見義豊と交戦し勝利した。その際、山本太郎左衛門尉に先駆けの功を賞した感状を与えた。

山本常任【やまもとつねこれ(15??~1590)】

山本太郎左衛門尉の男。官途は信濃守。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、梶原景宗が率いる海賊衆に属して本多重次の麾下であった向井正綱率いる松平海賊衆と戦うも敗れ、居城である田子城が落城し山本常任は討死した。

横井越前守【よこいえちぜんのかみ(15??~15??)】

後北条家臣。伊豆衆二十一家のひとり。1516年、伊勢盛時の攻撃により三浦義同が籠城する新井城が落城し三浦義同、三浦義意父子が自刃して三浦家が滅亡すると、玉縄城主北条綱成の麾下として、横井越前守は新井城代に任じられた。横井越前守は船手大将の梶原備前守、出口五郎左衛門尉ら三崎十人衆を配して対岸の里見家海賊衆と対峙した。1556年、里見義堯の嫡男里見義弘を総大将として里見家海賊衆の兵船八十艘が城ヶ島に上陸、後北条勢は三崎城に清水上野介、梶原備前守、出口五郎左衛門尉らを配置、援軍に金子兵部少輔、富永三郎左衛門、遠山丹波守らが参陣して海戦となった。海戦は里見家海賊衆が優勢で、三崎城、新井城が里見家に占拠され、三浦四十郷を領有した。

横地長次【よこじながつぐ(15??~15??)】

後北条家臣。官途は監物。伊豆衆二十一家のひとり。

横地吉信【よこじよしのぶ(15??~1590)】

横地長次の男。官途は監物。老臣であったが北条氏照の信頼厚く 留守中の八王子城代として本丸を守った。1590年、八王子城は羽柴秀吉勢の総攻撃を受けた。北条氏照は兄北条氏政の要請を受け兵4,000余りを率いて小田原城に入城した。八王子城には重臣横地吉信、中山家範、狩野一庵、近藤綱秀ら兵1,000余で守備したため、前田利家、越後長尾景勝ら北国勢15,000余りの攻撃を受け1日で落城した。羽柴秀吉は主戦派北条氏照の居城だけに見せしめに徹底的な殺戮を命じた。八王子城の将兵の頸を船に並べ、捕虜にした者を城門近くに晒すなど落城の現実を小田原城守備兵に見せ付け、小田原城の早期開城を迫った。

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【資料Ⅰ】

伊豆国(4郡/48,000石)

那賀郡:田子城。
賀茂郡:下田城。
君沢郡:山中城、長浜城。
田方郡:韮山城。

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【資料Ⅱ】

伊豆国海賊衆【いずこくかいぞくしゅう】

伊豆半島では古くから海賊衆が跋扈したが、豪族規模の海賊衆が入江に根拠地を構えていた。1491年、伊勢盛時が堀越公方足利茶々丸を謀殺し伊豆国を占領し韮山城に拠点を置くとそれら伊豆半島の海賊衆は北条家の麾下に属した。

大見三人衆【おみさんにんしゅう】

佐藤四郎兵衛、梅原杢右衛門、上村玄藩。

伊豆国二十一家【いずこくにじゅういっけ】

桑原政則、横井越前守(二十将衆)、笠原信為(白備)、松下三郎左衛門、遠山直景(三家老)、富永政直(青備)、高橋高種(赤備)、鈴木兵庫助、山本太郎左衛門尉、佐藤四郎兵衛(二十将衆)、安藤清広、山角定吉(二十将衆)、狩野大膳亮、村田市之助、上村玄藩、梅原杢右衛門、朝倉平次郎(二十将衆)、横地長次、田中泰行、南条重長(二十将衆)、清水綱吉(二十将衆)。

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【資料Ⅲ】

伊豆国【いずのくに】

伊豆半島を主とする東海道の国。北東は相模国、北西は駿河国と境する。また半島という性格上、駿河湾を隔てて駿河国、遠江国、相模湾を隔てて相模国、安房国と海上交通で結ばれる。国土の大部分は伊豆半島であるが、駿河に接する三島付近と、相模国に接する、箱根峠付近、および大島
、利島、鵜渡根島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島の伊豆諸島を含む。伊豆半島の中央部を天城連山で通っているため、全体的に険阻な土地柄であるが、各地に温泉が湧出し、気候は温暖である。

土肥金山【どひきんざん】

12世紀後期平安時代にはすでに金鉱床が発見されていた。14世紀の室町時代には採掘が始された。1550年、戦国期になると北条家により積極的に開発された。1577年、いくつかの新鉱脈も発見され後北条家の軍資金になった。

韮山【にらやま】

伊豆国の大動脈、狩野川の平野部への入口に位置する韮山城の城下街。江浦湊に近い交通の要衝であり、後北条家の初期の政治、経済の中心となった。1493年、伊勢盛時は、堀越公方足利茶々丸を討ち、韮山城を改修して新たな本拠した。韮山城には「四日町御蔵」と称される後北条家の蔵が置かれ、伊豆国の年貢が集積された。また韮山では銘酒「江川酒」が江川家のもとで造られた。1590年、後北条家は千津島村に対し、韮山の「江川前」で「大樽」を受け取り、小田原に運ぶよう命じた。「江川酒」は関東一円はもとより全国的にも知られた銘酒であり、韮山における酒造業が盛んであった。
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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※北条早雲は伊勢盛時で統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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