2012年6月1日金曜日

戦国伊豆国人名辞典


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【あ】

朝倉平次郎【あさくらへいじろう(15??~15??)】

梅縄城主。伊豆衆二十一家のひとり。

安藤清広【あんどうきよひろ(15??~15??)】

後北条家臣。通称源左衛門。伊豆衆二十一家のひとり。

板部岡康雄【いたべおか(15??~15??)】

田方郡狩野荘田領主。官途は能登守。通称右衛門。北条氏康の馬廻衆のひとり。のちに田中融成を養子とした。

板部岡融成【いたべおか(1537~1609)】

田中泰行の男。板部岡康雄の養子。官途は越中守。通称江雪斎。別名田中融成。北条氏政の命により板部岡康雄の後を継ぎ、右筆、評定衆として活躍した。寺社奉行として寺社の管理を安藤良整と行った。1571年、北条氏康が病に倒れたとき、鶴岡八幡宮にて病平癒の祈願を行なった。1573年、武田晴信が病没したとき、北条氏政の命で病気見舞いの使者として甲斐国に赴いたが、武田信廉が武田晴信の影武者となって対応した。北条氏政が武田勝頼と同盟が破綻すると、北条氏政は織田信長と同盟を結ぶため使者として赴いた。1582年、織田信長の横後で信濃国、甲斐国の支配権を巡って松平元康と北条氏直が対立したときは和睦交渉を行い、松平元康の娘督姫を北条氏直の室に迎えることで和睦を取り纏めた。太田氏房の補佐として岩槻城に在城した。1589年、北条氏政と羽柴秀吉が対立すると、北条氏規とともにその関係修復に尽力した。1590年「小田原の役」後は羽柴秀吉の御伽衆となった。

板部岡於百合【いたおかおゆり(15??~15??)】

北条氏直の室。板部岡融成の娘。1588年、北条氏直の側室として嫁ぐ。1589年、長子咲丸を出産するが、北条氏直の室に図り、板部岡融成の元にで養育される。板部岡於百合は産褥のため急死した。1589年「小田原の役」で小田原城の落城が迫ると、北条氏直は板部融成と図り、小田原城から落延びさせた。※神出鬼没!戦国忍者伝「猿飛佐助の死」。

伊東祐貞【いとうすけさだ(15??~15??)】

後北条家臣。伊東祐実の男。北条氏綱から縫殿助に任じられた。

伊東祐尚【いとうすけなお(15??~15??)】

伊東祐貞の男。通称九郎三郎。「第二次国府台の戦い」に参陣して戦功を挙げた。

伊東政世【いとうまさよ(1557~1628)】

伊東祐尚の男。官途は右馬允。通称九郎三郎。室は小笠原康広の娘。1582年、武田勝頼が東海地方に侵攻してくると、伊東政世は松田家らとともに伊豆国の三島天神山城に籠城した。1589年、羽柴秀吉の「小田原の役」では小田原城に籠城した西北の曲輪を守って羽柴勢と戦った。 小田原城開城後は松平元康の家臣となり「関ヶ原の役」「大坂の役」に槍奉行として参陣した。父の没後、嫡男伊東時吉は松平秀忠の馬廻衆となり300石を領した。

上村玄蕃【うえむらげんま(15??~15??)】

大見の三人衆のひとり。伊豆衆二十一家のひとり。

梅原杢左衛門【うめはらもくえもん(15??~15??)】

大見の三人衆のひとり。伊豆衆二十一家のひとり。

江川英景【えがわひでかげ(15??~15??)】

江川砦主。通称彦左衛門。後北条家臣。伊勢盛時、北条氏綱に仕え酒を造った。伊勢盛時はこの酒を好み「江川酒」と称させた。伊豆衆のひとりとして伊豆立野で30貫文を領した。

江川英元【えがわひでもと(1513~1561)】

江川英景の男。江川英元の孫江川英長が松平元康に仕えて本領を安堵され、蔭山氏広の養女お万の入輿にあたっては仮親を務めた。

江川英吉【えがわひでよし(15??~1625)】

江川英元の男。北条氏康から北条氏直まで仕えた。1590年「小田原の役」では韮山城を守り、攻め手の小笠原安次父子を討取った。北条家の滅亡後は松平元康に仕えた。羽柴秀吉の「朝鮮出兵」のさいに肥前名護屋まで松平元康に従った。

江川英長【えがわひでなが(15??~1632)】

江川英吉の男。通称太郎左衛門。1596年、松平家康の家臣となり、伊豆代官に就任した。松平元康が伊豆国にきたとき江川英長は江川酒と白餅を献上した。松平元康は「ご賞味あそばれ 井水清く 軽く 酒に叶い 養老酒ともいうべし」と称賛され、自ら河原の野菊を祈って、これから「井の内に菊を家紋とせよ」と言われた。1614年、江川英長は嫡男江川英政とともに「大坂両の陣」に参陣した。

大川兵庫【おおかわひょうご(15??~15??)】

長浜城主。長浜城は後北条家の海賊衆の根拠地として機能した。1590年「小田原の役」でも大川兵庫が守備していた。

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【か】

笠原信為【かさはらのぶため(15??~1557)】

後北条家臣。笠原信隆の男。武蔵国橘樹郡小机城城代。官途は越前守。伊豆衆二十一家のひとり。文化的教養もあり、和歌、漢詩に精通して造詣が深かった。北条早雲、北条氏綱、北条氏康の三代にわたって仕えた宿老職。伊豆衆二十一家の筆頭格であり北条氏綱の時代には五家老を務め麾下の小机衆を率いて重用された。里見義豊によって鶴岡八幡宮が焼き討ちを受けたため、その再建のために造営総奉行を命じられると、同じく奉行の大道寺盛昌とともに普請にあたった。

笠原康勝【かさはらやすかつ(15??~15??)】

笠原信為の男。官途は能登守。通称弥太郎。1546年、父笠原信為から所領の一部を譲られた。1557年、父笠原信為の病没により笠原家の家督を相続した。1546年「松山城の戦い」に参陣した。

笠原政尭【かさはらまさたか(15??~1590)】

松田憲秀の男 。笠原康勝の養子。通称新六郎。1579年、武田家と後北条家の同盟関係が解消されると、武田家と隣接する防衛線には重臣が配されたが、中でも要害とされた武田家の沼津城に隣接している戸倉城の守備を任された。武田家臣で沼津城主曾根昌長から内応を持ちかけられた。1581年、武田家に内応し、北条家を離反した。武田家の支援を受け、義弟笠原照重を攻めて討取った。1582年「武田家征伐」により武田家が滅亡した後は、後北条家に帰参を果たした。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」は父松田憲秀と共に羽柴秀吉方に降ろうとした事が露見、父松田憲秀は監禁され、笠原政尭は城内で謀殺された。

笠原照重【かさはらてるしげ(15??~1581)】

笠原康勝の男。1581年、武田家に内応し、後北条家を離反した義兄笠原政尭の攻撃を受け討死した。

笠原康明【かさはらやすあき(15??~15??)】

笠原康勝の次男。官途は越前守。通称藤左衛門。小田原城の御馬廻衆の一員で、奉行衆、評定衆を務める内務官吏として重きをなした。のち岩槻城代を務めた。

蔭山忠広【かげやまただひろ(15??~15??)】

河津城主。

蔭山氏広【かげやまうじひろ(15??~15??)】

蔭山忠広の男。1590年「小田原の役」では蔭山氏広は戦う事無く羽柴勢に降伏した。蔭山氏広の娘於万は松平元康の側室となり、松平頼宣、松平頼房の二児を出産した。

梶原景宗【かじわらかげむね(15??~15??)】

賀茂郡安良里城主。後北条家臣。官途は備前守。紀伊国の出身であったが、北条氏康に海賊衆として仕えた。里見家や武田家との戦いでは、北条家海賊衆を率いて活躍した。伊勢湾沿岸と関東地方を結ぶ交易商人としての活躍した。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」で北条家海賊衆を率いるも本多重次の麾下であった向井正綱率いる松平海賊衆に敗れた。北条氏直とともに高野山に赴き、北条氏直の病没後は紀伊国に土着した。

狩野道一【かのうどういつ(15??~1498)】

田方郡狩野城主。1493年、北条早雲の「伊豆国侵攻」で、狩野道一は足利方に付き戦ったが敗れて開城した。その後一族は小田原城に移り、後北条家の家臣として活躍した。

狩野一庵【かのういちあん(15??~1590)】

伊豆衆の狩野家の枝連衆。はじめ北条氏康に馬廻衆として仕えた。1569年、北条氏照の側近となり、奏者として北条氏照麾下の国人衆との連絡役を務めた。八王子城や滝山城の留守居役などを任された。1582年「本能寺の変」に際しては、北条氏直が深谷にいた狩野一庵経由で変を知ったと滝川一益に書状を出しているので、滝川勢の及ぶ最前線に配置されていた。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では八王子城を守備し、三の丸で討死にした。

川村秀重【かわむらひでしげ(15??~15??)】

遠山綱景の四男。1590年「小田原の役」の際は、川村秀重は江戸城を守備していたが、松平勢に降伏開城した。

桑原政則【くわはらまさのり(15??~15??)】

田方郡の豪族衆。伊豆衆二十一家のひとり。

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【さ】

笹本豊後守【ささもとぶんごのかみ(15??~15??)】

賀茂郡奥原砦主。

佐藤四郎兵衛【さとうしろべえ(15??~15??)】

大見の三人衆のひとり。伊豆衆二十一家のひとり。

清水綱吉【しみずつなよし(15??~15??)】

加茂郡下田城主。官途は上野守。本拠地は加茂郡加納城で、伊豆郡代の笠原家とともに伊豆奥郡代三島社奉行を務め、小田原北条家の伊豆支配の代行者であった。1532年、清水綱吉は、笠原綱信と連署している。 所領の一部を次男の清水淡路守英吉ら一族、被官に宛行い、さらに雲見の高橋、子浦の八木、妻良の村田、湯ケ野の西川、大沢の小針の諸家や、分家にあたる河津の清水家など、伊豆国在地の小領主らを寄子、同心などに組織した。

清水康英【しみずやすひで(1532~1591)】

清水綱吉の男。清水康英は伊豆衆二十九人衆の筆頭とされ、伊豆衆の中でも知行は最も多い829貫700文余。河越城主北条綱成、玉縄城主北条綱高、栗橋城主富永右衛門尉、下田城主清水康英、平井城主多目周防守を五家老とし、指物の色がそれぞれ黄備、赤備、青備、白備、黒備の「五色備」の体制になっていた。伊豆海賊衆を率いた。訴訟の裁決や政策立案を携る評定衆も務めており、氏康の参謀であったと思われる。評定衆として、北条家裁許印判状も発給している。1590年、羽柴秀吉の「小田原征伐」が始まると、秀吉方の水軍は長宗我部元親勢2,500、九鬼嘉隆勢1,500、脇坂安治勢1,300という大軍であった。下田城には清水康英、清水政勝らが籠もって50日余り防戦したが、脇坂安治や安国寺恵瓊らと起請文を交わし開城した。

清水新七郎【しみずしんしちろう(15??~15??)】

清水康英の男。1569年、掛川城の今川氏真は、武田晴信の攻撃を受け、松平元康に掛川城を明け渡して、北条家海賊衆を使って伊豆国へ落延びた。清水新七郎は、板部岡康雄とともに掛川城への補給の任務を行っていたが、今川氏真の救出に成果をあげた。

清水英吉【しみずひでよし(15??~15??)】

清水綱吉の次男。官途は淡路守。

清水政勝【しみずまさかつ(15??~1575)】

清水康英の次男。通称小太郎。別名清水吉政。

清水吉広【しみずよしひろ(15??~1584)】

清水政勝の男。通称は小太郎。

鈴木兵庫助【(15??~15??)】

江梨の豪族。伊豆衆二十一家のひとり。

須田対馬守【すだつしまのかみ(15??~15??)】

賀茂郡安城山城主。伊豆国海賊衆。

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【た】

高橋高種【たかはしたかたね(15??~1535)】

雲見上山城主。高橋統種の男。官途は将監。室は伊勢長氏の娘。伊豆衆二十一家のひとり。京都に上って室町将軍足利義尚に仕えた。1487年「長享、延徳の乱」に参陣した。1489年、足利義尚が病没すると、堀越公方足利政知に請われて伊豆国へと赴き、雲見城を与えられてその城主となった。1491年、足利政知が病没すると、堀越公方家は内紛を起こし、足利茶々丸が弟を謀殺するなど勢力は衰退した。その後は伊勢宗瑞に従い、その娘を室として後北条家枝連衆としての扱いを受けた。1535年、病没したが嫡男北条綱高が北条氏綱の養子となっていたため、次男高橋氏高が高橋家の家督を相続した。

高橋綱高【たかはしつなたか(1506~1585)】

高橋高種の男。北条氏綱の養子。官途は常陸介。別名北条綱高。武略に優れ、家中でも屈指の勇将であった。父高橋高種が伊勢宗瑞に仕えると、高橋綱高は伊勢宗瑞に養育され、多目元忠に師事し韮山城に居住した。1524年、江戸城を攻略の後、伯父の北条氏綱の養子となって北条綱高を称して相模国玉縄城代を務めた。扇谷上杉家との戦いでも多大な戦功を挙げた。1537年、扇谷上杉家臣難波田善銀が守る深大寺城を攻略した。その後、弟高橋氏高と共に、深大寺城奪回に押し寄せた難波田率いる扇谷上杉勢と対峙した。その間に北条氏綱が河越城へ進軍したため、難波田勢が撤退を始すると追撃、多くの敵兵を討取った。1564年「第二次国府台の戦い」に参陣した。

高橋氏高【たかはしうじたか(15??~15??)】

高橋高種次男。別名北条氏高。1537年、扇谷上杉家臣難波田広宗が籠城する深大寺城に対して、北条氏康は、牟礼砦に北条綱種、烏山砦に高橋氏高を入れて牽制した。

高橋家臣団【たかはしけかしんだん】

高橋和泉守六郎左衛門、高橋縫殿助、高橋三郎。

高橋丹後守【たかはしたんごのかみ(15??~15??)】

清水康英麾下の伊豆国海賊衆。1509年「小田原の役」では下田城に清水康英とともに籠城した。開城後、清水康英とともに林際寺に移った。

田中泰行【たなかやすゆき(15??~15??)】

田方郡田中館主。伊豆衆二十一家のひとり。

遠山直景【とおやまなおかげ(15??~1533)】

後北条家臣。遠山景保の男。官途は加賀守。通称四郎左衛門。伊豆衆二十家のひとり。伊勢盛時、北条氏綱の二代に仕えた。元々は幕府の奉公衆であった。幕府に申次衆として出仕していた伊勢盛時と親密になった。1521年、遠山直景は京都を離れて兵180余りを率いて伊勢盛時の麾下に属した。1524年、北条氏綱は、扇谷上杉家の拠点であった武蔵国江戸城を攻略し、遠山直景を城代に任じた。1530年、後北条家と敵対する川越城主上杉朝興の背後を衝こうと出陣し、迎撃に出た上杉方と野戦を行い敗北した。上杉方に小沢城と世田谷城を攻略され、江戸城に攻め寄せられ城下を焼払われた。

遠山綱景【とおやまつなかげ(1513~1564)】

遠山直景の男。官途は甲斐守。江戸衆筆頭、西郡約963貫を領した。1533年、父遠山直景の病没により、遠山家の家督を相続した。父遠山直景に引き続き江戸城代となった。江戸城代は三人置かれ、本丸には富永家、三の丸には江戸太田家が寄っており、遠山家は二の丸にあった。1544年、連歌師の宗牧を呼び、連歌の会を催した。1558年、古河公方足利義氏の小田原城訪問時には、後北条家の家老として松田盛秀、遠山綱景、笠原綱信、清水康英、石巻家貞が足利義氏に拝礼を行った。1564年、江戸太田康資が離反し、長尾景虎に救援を求めたことにより、里見家との間に「第二次国府台の戦い」が起った。遠山綱景は、富永直勝とともに、北条綱成が率いる本隊よりもかなり先行して江戸川を渡河するが、里見家の反撃にあい、嫡男遠山隼人佐とともに討死した。

遠山隼人佐【とおやまはやとのさ(15??~1564)】

遠山綱景の男。1564年、江戸太田康資が離反し、長尾景虎に救援を求めたことにより、里見家との間に「第二次国府台の戦い」が起った。遠山隼人佐は父遠山綱景、富永直勝とともに、北条綱成が率いる本隊よりもかなり先行して江戸川を渡河するが、里見家の反撃にあい、父遠山綱景とともに討死した。

遠山政景【とおやままさかげ(15??~1580)】

遠山綱景の三男。官途は甲斐守。通称右衛門大夫。1564年「第二次国府台の戦い」で、父遠山綱景と兄遠山隼人佐が討死した為、僧籍に入っていたが還俗し、遠山家の家督を相続した。1567年、足利義氏が遠山政景に相馬治胤の対応について江戸城からの援兵300余りを依頼した。後に、長尾景虎や反北条勢力の圧力が増したことにより、江戸城は重要防衛拠点の一つと見なされ、遠山政景より身分の高い北条家枝連衆の北条氏秀が起用された。その為、遠山政景は下総国方面の反北条勢力や里見家の押さえとして拠点を移した。

遠山直景【とおやまなおかげ(15??~1587)】

遠山政景の男。通称左衛門大夫。北条氏政、北条氏直の二代に仕えた。1580年、父遠山政景が病没により遠山家の家督を相続した。遠山直景が家督を相続した時期は、北条家と里見義頼との和睦により、遠山直景は大きな戦功を挙げることなく、葛西城主として江戸城主北条氏秀を補佐した。

富永政直【とみながまさなお(15??~15??)】

西土肥の豪族衆。富永実吉の男。通称四郎左衛門。伊豆衆二十一家のひとり。1491年、伊勢盛時の麾下に属した。1493年、興国寺城代。1524年、江戸城主。遠山直景とともに江戸在番した。

富永直勝【とみながなおかつ(1509~1564)】

富永政直の男。通称四郎左衛門。別名富永政辰。後北条家の北条五色備えの青備えを率いた。軍事的旗頭として江戸衆を率いた。1556年、相模国三浦三崎沖にて里見家海賊衆と海戦に参陣した。1564年、太田康資の離反により「第二次国府台の戦い」に参陣して討死した。

富永政家【とみながまさいえ(1554~1607)】

富永直勝の男。官途は山城守。通称孫四郎。1564年、父富永直勝の討死より富永家の家督を相続して江戸城主となった。1584年、韮山城主。嫡男富永直則は松平家に仕えた。

富永家政【とみながいえまさ(15??~15??)】

富永直勝の次男。

富永山随【とみながさんずい(15??~1590)】

丸山城主。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」でも海賊衆を率い奮戦したが、衆寡敵せず丸山城は落城した。

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【な】

南条重長【なんじょうしげなが(15??~15??)】

北条氏康家臣。通称右京亮。伊豆衆二十一家のひとり。1564年、北条氏康勢は、下総国府台に布陣する里見義弘勢と戦い勝利した。このとき南条重長は戦功を挙げ、武蔵国兎々呂城を領した。

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【は】

調査中。

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【ま】

松下三郎左衛門【まつしたさぶろうざえもん(15??~15??)】

北条家臣。通称三郎右衛門。伊豆衆二十一家のひとり。三津の豪族衆。

松田康長【まつだやすなが(15??~15??)】

田方郡山中城主。官途は右兵衛大夫。1590年「小田原の役」では羽柴秀次を総大将とする山中城攻撃勢に攻囲される。激戦となり、羽柴方の一柳直末は討死し、北条方も間宮康俊が討死した。激戦の末、松田康長は北条氏勝を脱出させた後、羽柴勢の攻撃を受けて討死した。

御簾三河守【みすみかわのかみ(15??~15??)】

賀茂郡白水城主。伊豆海賊衆として活躍した。後北条家の伊豆支配の中で後北条家海賊衆の組込まれた。1590年「小田原の役」に落城した。

村田市之助【むらたいちのすけ(15??~15??)】

妻良の豪族衆。伊豆衆二十一家のひとり。

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【や】

八木和泉守【やぎいずみのかみ(15??~15??)】

清水康英麾下の海賊衆。1589年「小田原の役」では下田城に籠城した。

八木三郎兵衛【やぎさぶろうべえ(15??~15??)】

八木和泉守の枝連衆。

山角定吉【やまかくさだよし(15??~15??)】

後北条家臣。伊豆衆二十一家のひとり。

山角康定【やまかくやすさだ(15??~1590)】

山角定吉の男。官途は上野守。通称四郎左衛門尉。虎朱印状の奉者を務め、評定衆としても活躍した。長尾景虎との「越相同盟」の交渉に関わった。小田原城の御馬廻衆の統括者であり、300騎の侍大将であった。1590年「小田原の役」では小田原城に籠城し、開城後まもなく病没した。

山角定次【やまかくさふぁつぐ(15??~15??)】

山角定吉の次男。

山角定勝【やまかどさだかつ(1529~1603)】

山角定吉の三男。通称刑部左衛門尉。官途は紀伊守。北条氏政の側近、北条氏直の代に奉行人、評定衆として活躍した。1571年、相模足柄城の普請奉行を務めた。1582年、松平元康と北条氏直が講和し、松平元康の娘督姫が北条氏直と婚姻する際に媒酌を務めた。1586年、松平元康への使者として派遣された。1590年「小田原の役」の役後は北条氏直と共に高野山に上った。1591年、北条氏直が没した後は松平元康に仕えて相模国で1,200石を領した。

山角政定【やまかどまささだ(15??~15??)】

山角定勝の男。

山本太郎左衛門尉【やまもとたろうざえもんじょう(15??~15??)】

賀茂郡田子城主。官途は飛騨守。伊豆国海賊衆。伊豆衆二十一家のひとり。田子城は山本太郎左衛門が領主として支配した地域で、後北条家の麾下に属した。1533年、山本太郎左衛門尉が安房妙本寺周辺にて里見義豊と交戦し勝利した。その際、山本太郎左衛門尉に先駆けの功を賞した感状を与えた。

山本常任【やまもとつねこれ(15??~1590)】

山本太郎左衛門尉の男。官途は信濃守。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、梶原景宗が率いる海賊衆に属して本多重次の麾下であった向井正綱率いる松平海賊衆と戦うも敗れ、居城である田子城が落城し山本常任は討死した。

横井越前守【よこいえちぜんのかみ(15??~15??)】

後北条家臣。伊豆衆二十一家のひとり。1516年、伊勢盛時の攻撃により三浦義同が籠城する新井城が落城し三浦義同、三浦義意父子が自刃して三浦家が滅亡すると、玉縄城主北条綱成の麾下として、横井越前守は新井城代に任じられた。横井越前守は船手大将の梶原備前守、出口五郎左衛門尉ら三崎十人衆を配して対岸の里見家海賊衆と対峙した。1556年、里見義堯の嫡男里見義弘を総大将として里見家海賊衆の兵船八十艘が城ヶ島に上陸、後北条勢は三崎城に清水上野介、梶原備前守、出口五郎左衛門尉らを配置、援軍に金子兵部少輔、富永三郎左衛門、遠山丹波守らが参陣して海戦となった。海戦は里見家海賊衆が優勢で、三崎城、新井城が里見家に占拠され、三浦四十郷を領有した。

横地長次【よこじながつぐ(15??~15??)】

後北条家臣。官途は監物。伊豆衆二十一家のひとり。

横地吉信【よこじよしのぶ(15??~1590)】

横地長次の男。官途は監物。老臣であったが北条氏照の信頼厚く 留守中の八王子城代として本丸を守った。1590年、八王子城は羽柴秀吉勢の総攻撃を受けた。北条氏照は兄北条氏政の要請を受け兵4,000余りを率いて小田原城に入城した。八王子城には重臣横地吉信、中山家範、狩野一庵、近藤綱秀ら兵1,000余で守備したため、前田利家、越後長尾景勝ら北国勢15,000余りの攻撃を受け1日で落城した。羽柴秀吉は主戦派北条氏照の居城だけに見せしめに徹底的な殺戮を命じた。八王子城の将兵の頸を船に並べ、捕虜にした者を城門近くに晒すなど落城の現実を小田原城守備兵に見せ付け、小田原城の早期開城を迫った。

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【資料Ⅰ】

伊豆国(4郡/48,000石)

那賀郡:田子城。
賀茂郡:下田城。
君沢郡:山中城、長浜城。
田方郡:韮山城。

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【資料Ⅱ】

伊豆国海賊衆【いずこくかいぞくしゅう】

伊豆半島では古くから海賊衆が跋扈したが、豪族規模の海賊衆が入江に根拠地を構えていた。1491年、伊勢盛時が堀越公方足利茶々丸を謀殺し伊豆国を占領し韮山城に拠点を置くとそれら伊豆半島の海賊衆は北条家の麾下に属した。

大見三人衆【おみさんにんしゅう】

佐藤四郎兵衛、梅原杢右衛門、上村玄藩。

伊豆国二十一家【いずこくにじゅういっけ】

桑原政則、横井越前守(二十将衆)、笠原信為(白備)、松下三郎左衛門、遠山直景(三家老)、富永政直(青備)、高橋高種(赤備)、鈴木兵庫助、山本太郎左衛門尉、佐藤四郎兵衛(二十将衆)、安藤清広、山角定吉(二十将衆)、狩野大膳亮、村田市之助、上村玄藩、梅原杢右衛門、朝倉平次郎(二十将衆)、横地長次、田中泰行、南条重長(二十将衆)、清水綱吉(二十将衆)。

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【資料Ⅲ】

伊豆国【いずのくに】

伊豆半島を主とする東海道の国。北東は相模国、北西は駿河国と境する。また半島という性格上、駿河湾を隔てて駿河国、遠江国、相模湾を隔てて相模国、安房国と海上交通で結ばれる。国土の大部分は伊豆半島であるが、駿河に接する三島付近と、相模国に接する、箱根峠付近、および大島
、利島、鵜渡根島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島の伊豆諸島を含む。伊豆半島の中央部を天城連山で通っているため、全体的に険阻な土地柄であるが、各地に温泉が湧出し、気候は温暖である。

土肥金山【どひきんざん】

12世紀後期平安時代にはすでに金鉱床が発見されていた。14世紀の室町時代には採掘が始された。1550年、戦国期になると北条家により積極的に開発された。1577年、いくつかの新鉱脈も発見され後北条家の軍資金になった。

韮山【にらやま】

伊豆国の大動脈、狩野川の平野部への入口に位置する韮山城の城下街。江浦湊に近い交通の要衝であり、後北条家の初期の政治、経済の中心となった。1493年、伊勢盛時は、堀越公方足利茶々丸を討ち、韮山城を改修して新たな本拠した。韮山城には「四日町御蔵」と称される後北条家の蔵が置かれ、伊豆国の年貢が集積された。また韮山では銘酒「江川酒」が江川家のもとで造られた。1590年、後北条家は千津島村に対し、韮山の「江川前」で「大樽」を受け取り、小田原に運ぶよう命じた。「江川酒」は関東一円はもとより全国的にも知られた銘酒であり、韮山における酒造業が盛んであった。
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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※北条早雲は伊勢盛時で統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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