2012年6月10日日曜日

戦国加賀国人名辞典


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【あ】

内田四郎左衛門【うちだしろうざえもん(15??~15??)】

能美郡御幸塚城主。一向一揆の大将のひとり。1576年、内田四郎左衛門、林七介らが大聖寺城にあった織田信長の家臣戸次広正を攻撃した。

宇津呂丹波守【うつろたんばのかみ(15??~1580)】

能美郡波佐谷城主。宇津呂備前守の男。別名慶西。1580年、嫡男宇津呂藤六と共に柴田勝家に討たれ、頸は安土城に送られた。

宇津呂藤六郎【うつろとうろくろう(15??~15??)】

宇津呂丹波守の男。1580年、父宇津呂丹波守と共に柴田勝家に討たれ、頸は安土城に送られた。

奥政堯【おくまさたか(15??~15??)】

河北郡梨木城主。本願寺家臣。官途は近江守。一向一揆の大将のひとり。1578年、七里頼周と争ったが長尾景虎、下間頼純の仲介で赦免された。

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【か】

笠間家次【かさまいえつぐ(15??~15??)】

石川郡笠間館主。通称兵衛。一向一揆の大将のひとり。

鏑木頼信【かぶらぎよりのぶ(15??~1580)】

石川郡松任城主。通称右衛門尉。加賀国一向一揆の将。父篠田七郎は本誓寺宗誓の婿養子となり、鏑木常専と称した。1567年、謙信の加賀出兵を求めた連署状に署名した。下間頼廉に七里頼周を訴えた。七里頼周は山内衆を率いて松任城を攻めた。一揆衆は七里頼周の行為に激怒し、加賀一向一揆は内乱状態となった。そのため、本願寺顕如は下間頼純を金沢御堂に派遣し一揆衆の采配を命じた。1576年、七里頼周と争うが長尾景虎、下間頼純の仲介で赦免された。1577年、松任城は長尾景虎に攻められ落城した。1580年、柴田勢に攻められた。

鏑木勘解由【かぶらぎかげゆ(15??~15??)】
 
鏑木頼信の男。

河合宣久【かわいのぶひさ(15??~1531)】

加賀一向一揆の大将。通称は藤左衛門。別名多田政晴。はじめ朝倉家に仕えたが後に、能美郡河合村に移住して河合宣久と称して加賀一向一揆の指導者のひとりなった。1488年、本願寺門徒らが加賀国守護富樫政親を高尾城に攻め滅ぼした「長享の一揆」では、洲崎慶覚や石黒孫右衛門らとともに一揆方の大将を務め、河合宣久麾下の部隊が富樫勢の大将本郷春親を討取り、富樫政親を自刃に追い込んだ。1506年、加賀、能登、越中の門徒衆と甲斐家の牢人らが加わり越前国に侵攻した「九頭竜川の戦い」では、朝倉宗滴勢に敗北し退却した。その後、本願寺の実権を握る蓮淳が派遣した下間頼秀、下間頼盛兄弟が加賀国に入り門徒衆と軋轢を起こして内紛状態となった。本泉寺蓮悟や洲崎慶覚らと共に畠山家を頼って能登国に落延びた。1531年、小一揆(賀州三ヶ寺側)に越前から朝倉宗滴勢が援軍として加わり合戦となると、これに呼応して畠山家俊の軍勢と共に加賀国に侵攻したが、下間頼秀ら大一揆の軍勢に敗れ討取られた。

河合虎春【かわいとらはる(15??~15??)】

河合宣久の男。

岸田常徳【きしだつねとく(15??~1580)】

一向一揆の大将のひとり。金沢御坊陥落後も織田家との戦いを継続した。1580年、柴田勝家は謀略を用い、門徒の指導者である若林長門守、若林雅楽助、若林甚八郎、鈴木義明、鈴木右京進、鈴木次郎衛門、鈴木太郎やその他岸田常徳、窪田経忠ら総勢十九人を捕らえことごとく、一揆の大将と共に安土城下に頸を晒された。

窪田経忠【くぼたつねただ(15??~1580)】

安吉家長筆頭家老職。官途は大炊充。1550年、安吉家長の出家により安吉城を領して河原組8,000余りを統率した。1580年、柴田勝家の攻撃を受け安吉城落城。柴田勝家は織田信長に一揆の大将首を献じ、安土城下に頸が晒された。他に得田小次郎、荒川市介、長山九兵衛らの頸が晒された。

駒井与三郎【こまいよさぶろう(15??~15??)】

冨樫晴貞家臣。1557年、禅昌寺が売却した土地を冨樫晴貞が駒井与三郎に知行を安堵した。

光教寺蓮誓【こうきょうじれんせい(1455~1521)】

江沼郡光教寺住持。本願寺第八世法主蓮如の四男。本願寺蓮如が延暦寺の迫害を受け越前国で布教を行った時、越前国門徒衆への証人として吉崎へ送られた。1576年、父本願寺蓮如と富樫政親が対立した時には、父本願寺蓮如を落延びたさせた後、越中国に落延びた。1481年、越中一向一揆では病気がちであった光善寺順如に代わって指揮を執った後に加賀国に入って光教寺を建立した。1488年、本願寺家による加賀支配確立後には光教寺蓮誓は松岡寺蓮綱、本泉寺蓮悟と並んで「賀州三ヶ寺」と称された。賀州三ヶ寺は加賀国における本願寺の代行統治機関となった。光教寺蓮誓は越中国門徒衆の指揮も取っていたため、松岡寺蓮綱、本泉寺蓮悟が加賀国門徒衆の指揮を取った。

光教寺顕誓【こうきょうじけんせい(15??~15??)】

光教寺蓮誓の三男。1521年、光教寺蓮誓が病没後は光教寺顕誓が光教寺を相続した。光教寺顕誓は本泉寺蓮悟と並んで宗派を代表する碩学のひとりと称られた。1531年、越前国の藤島超勝寺が加賀国へ進出して賀州三ヶ寺と対立すると、超勝寺方に光教寺顕誓は攻められ敗れた光教寺顕誓は越前国へ落延びたが捕まり、播磨国本徳寺に蟄居させられ山田光教寺は廃寺となった。

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【さ】

下間頼秀【しもつまらいしゅう(15??~1539)】

下間頼玄の男。官途は筑前守。本願寺蓮淳の麾下に属した。1528年、加賀に赴き超勝寺実顕と共に所領の横領で加賀の賀州三ヶ寺(松岡寺、光教寺、本泉寺)と対立した。1531年「大小一揆」では「大一揆」に属して賀州三ヶ寺らの「小一揆」を壊滅させた。畿内で本願寺と細川晴元が衝突「天文の錯乱」で山科本願寺が焼け落ち、証如が石山本願寺に移ると畿内へ戻り一揆を率いて細川勢と戦った。1535年、本願寺証如が細川晴元と和平を結ぶと主戦派として失脚した。1539年、近江国で本願寺証如のよって謀殺された。

下間頼盛【しもつまらいせい(15??~1539)】

本願寺家の坊官。下間頼玄の五男。官途は備中守。兄下間頼秀と共に本願寺第十世法主本願寺証如及び後見人の蓮淳に接近し。1528年、加賀国の大小一揆で大一揆に属して超勝寺実顕(蓮淳の婿)を助け、小一揆を壊滅させた。「天文の錯乱」で畿内へ戻り、河内国、摂津国で一揆勢を率いて転戦した。1535年、本願寺証如と細川晴元との和睦で主戦派として失脚、兄下間頼秀と共に本願寺を退去した。1536年、摂津中嶋城で一揆の部将として参戦したが、木沢長政に打ち破られて逐電、堺で本願寺証如に謀殺された。

七里頼周【しちりよりちか(1517~1576)】

本願寺家臣。官途は三河守。本願寺顕如に見込まれて坊官となった。織田信長との石山戦争が始まると、本願寺顕如の命で加賀国の一向門徒をs指揮し織田勢と争った。1574年、越前国では、織田信長の麾下に属した桂田長俊が暴政を行い国人や民衆の不満は頂点に達していた。桂田長俊に敵対していた富田長繁は民衆に働きかけて土一揆を起こし、自ら大将となって桂田長俊が籠もる一乗谷を攻め、桂田長俊を討取った。富田長繁は続けて魚住景固も謀殺した。富田長繁と対立した一揆衆は七里頼周を大将として富田長繁とその与党、そして土橋信鏡、平泉寺と敵対するものを次々に滅ぼした。その後、七里頼周は下間頼照の麾下に属して加賀国と越前国を本願寺家の勢力下に置いた。七里頼周と下間頼照は門徒衆と対立し、一向門徒は分裂状態に陥った。1575年、織田信長勢が越前国に侵入すると、下間頼照や七里頼周は門徒衆を纏められず、各個撃破された。下間頼照は落延びる途中討死した。七里頼周は加賀国まで落延び、本願寺方の松任城主鏑木頼信を叛意ありとして討取った。

杉浦玄任【すぎうらげんとう(15??~15??)】

本願寺家の坊官。僧位は法橋。一向一揆の大将のひとり。1572年、越中国で長尾景虎と対陣すると金沢御坊へ援軍派遣を要請した。1574年、杉浦玄任は一向一揆勢を率いて介入し、派遣されてきた本願寺家臣下間頼照と共に織田家臣溝江長逸、富樫泰俊、朝倉景鏡を討取った。越前国は一向宗の国 となった。越前全域を門徒が支配すると、本願寺から大野郡司に任命された。他に下間頼照は越前国守護職、下間和泉守は足羽郡司、七里頼周は上郡、府中辺を支配した。

杉谷四郎左衛門【すぎやしろうざえもん(15??~15??)】

石川郡杉谷館主。一向一揆の大将のひとり。

洲崎慶覚【すさききょうかく(15??~1531)】

河北郡松根城主。官途は兵庫。一向一揆の大将のひとり。洲崎慶覚は近江国の生まれで本願寺蓮如の弟子として加賀国に下向した。1475年、冨樫方に一揆方が敗れた時、一揆方の代表として本願寺蓮如に仲介を求めた。一揆の大将松田次郎左衛門を謀殺した。1550年、遊佐続光に応じて畠山義続と戦ったが、遊佐続光は敗走した。1576年、長尾景虎の「加賀国討伐」を倶利伽藍で防戦したが敗走した。温井景隆は洲崎兵庫、下間寿法、黒瀬覚道、鏑木右衛門の支援により長尾方の七尾城を攻めようとした。

州崎景勝【すさきかげかつ(15??~15??)】

洲崎慶覚の男。1576年、長尾景虎に援軍を求めるよう七里頼周に伝えた。

鈴木重泰【すずきしげやす(15??~1580)】

石川郡鳥越城主。官途は出羽守。本願寺顕如の命で加賀国に赴き一向一揆を指揮した。1580年、本願寺家が降伏した後、柴田勝家率いる織田勢に攻められて山内衆の主領鈴木一族は滅ぼされた。

鈴木右京進【すずきさきょうのしん(15??~1580)】

鈴木重泰の男。二曲城主二曲右京進の跡を継いだ。1580年、柴田勝家によって攻められ二曲城とともに落城、鈴木家一族は滅亡した。柴田勝家は鳥越城に吉原次郎兵衛、二曲城に毛利九郎兵衛を置き固めたが、一向一揆の抵抗は続いた。1582年、織田信長によって一向一揆の掃討作戦が行われ、佐久間盛政によって鎮圧、門徒ら300余りが磔に処せられた。

青天小五郎【せいてんこごろう(15??~15??)】

洲崎兵庫家臣。通称五郎。1550年、遊佐続光に応じて「能登国攻め」に参陣した。

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【た】

坪坂包明【つぼさかかねあき(15??~15??)】

本願寺家臣。官途は伯耆守。通称空性。本願寺から加賀国に派遣された坊官。枝連衆の坪坂新五郎は柴田勝家勢に討たれ、他の一揆の大将と共に安土城下に頸を晒された。

坪坂新五郎【つぼさかしんごろう(15??~1580)】

一向一揆の大将のひとり。金沢御坊陥落後も織田家との戦闘を続けた。1580年、柴田勢に攻められ討死した。

寺内織部【てらうちおりべ(15??~15??)】

本願寺家臣。本願寺教如の使者として加賀国門徒衆に徹底抗戦を呼びかた。1580年、本願寺顕如が加賀門徒へ宛てた書状に、本願寺教如の使者である寺内織部らを成敗せよと記される。その後、長尾景勝と共に柴田勝家と対立していた加賀国j門徒衆は羽柴秀吉と結んだ。羽柴秀吉が柴田勝家を破ると、挟撃しなかった長尾景勝に不快感を示し、再び羽柴秀吉と結ぶよう命じるが、このとき羽柴秀吉の使者となったのは寺内織部であった。

田屋大炊【でんやおおいのすけ(15??~15??)】

一向一揆の大将のひとり。1580年、柴田勝家勢に攻められた。

富樫稙泰【とがしたねやす(1474~1535)】

富樫泰成の男。加賀国守護職。父富樫泰成が早世した為、祖父富樫泰高の跡を継ぐ。1531年「享禄の錯乱」にて小一揆方の味方をした為、大一揆方に敗れて加賀守護の地位を追われた。これにより富樫家の権威は完全に失墜し、本願寺が本格的に領国内調停者の地位を確立した。嫡男富樫泰俊は小一揆に味方した為逃亡、家督は次男富樫晴貞が家督を相続した。

富樫晴貞【とがしはるさだ(15??~1570)】

富樫稙泰の次男。1531年、父と兄が加賀一向一揆の内乱(大小一揆)に巻き込まれて捕らえられ、家督を継ぐ。ある程度勢力を持ち直した。1570年、織田信長に呼応して本願寺勢力と敵対するが、野々市城に拠り一向一揆勢に敗れ自刃した。

富樫泰俊【とがしやすとし(15??~1574)】

富樫稙泰の男。1531年「大小一揆」に「小一揆方」として参陣したが、捕らえられた。後に逃亡して、弟富樫晴貞の死後、富樫家の家督を相続した。一度加賀へ戻り野々市城主となるが、本願寺方に攻められ、越前国に落延びた。1574年、越前国金津にて親子三人共々討死し富樫家は滅亡した。

富樫稙春【とがしたねはる(15??~1574)】

富樫泰俊の男。1574年、越前国金津にて親子三人共々討死した。

富樫家俊【とがしいえとし(15??~15??)】

富樫泰俊の二男。1574年、越前国金津にて、父富樫泰俊と嫡男富樫稙春は討死したが、富樫家俊だけは落延びた。1581年、佐久間盛政に仕えて戦功を挙げ300石を領した。

富樫豊弘【とがしとよひろ(15??~1570)】

富樫晴貞の三男。1570年、織田信長に呼応して本願寺勢力と敵対するが、野々市城に拠り父富樫晴貞らと共に一向一揆勢に敗れ討死した。

富樫蔵人【とがしくらうど(15??~15??)】

一向一揆の大将のひとり。1580年、柴田勝家勢に攻められた。

徳田重清【とくだしげきよ(1516~1580)】

岩倉城主。官途は志摩守。別名得田小次郎。加賀国一向一揆の将のひとり。織田信長の加賀国侵攻勢に抵抗した。金沢御坊陥落後も織田家との戦闘を続けた。1580年、柴田勝家に討たれ、頸は安土城に送られた。

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【な】

長屋三郎左衛門【ながやさぶろうざえもん(15??~15??)】

長屋館主。一向一揆の大将のひとり。

長山九郎兵衛【ながやまくろうびょうえ(15??~15??)】

一向一揆の大将のひとり。1580年、柴田勝家は和議締結の祝いとして一向衆側を松任城を招き、金沢御堂の御蔵方衆、一揆の旗本衆、山内衆など十九人を謀殺した。若林長門守、若林雅楽助、若林甚八郎、宇津呂丹波守、宇津呂藤六郎、岸田常徳、岸田新四郎、鈴木出羽守、鈴木右京進、鈴木次郎右衛門、鈴木太郎、鈴木采女、窪田経忠、坪坂新五郎、長山九郎兵衛、荒川市介、徳田小次郎、三林善四郎、黒瀬左近。

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【は】

広瀬貞清【ひろせさだきよ(15??~15??)】

山田四郎左衛門の男。官途は伊賀守。1554年、加賀門徒広瀬梅千代は父山田四郎左衛門の法事のために本願寺を訪れたさい本願寺証如から四郎二郎の名を与えられた。1580年、本願寺敗北後、越中国に逃れた。1582年、織田信長が討たれると長尾景勝は広瀬貞清らに書状を送り、参陣の旨を伝えた。

蛭川重親【ひるかわしげちか(15??~15??)】

能美郡蛭川館主。通称新七郎。一向一揆の大将となる。

二曲右京進【ふとうげうきょうのしん(15??~15??)】

石川郡二曲城主。1506年、越前国から敗走してきた藤島超勝寺と和田本覚寺が加賀国の門徒衆、土豪と結び勢力の拡大を図っていったが、加賀国の三山(本泉寺、松岡寺、光教寺)は対抗した。本願寺は加賀三山の強大化は教団の統制を乱すものとして超勝寺に下間備中守を派遣し加賀三山の勢力を駆逐した。加賀国一向一揆の支配は国人から本願寺支配と変わっていった。本願寺方についた二曲右京進は、この戦いの中で勢力を伸ばし白山麓だけでなく、発言権は加賀全体に及ぶようになった。1570年、本願寺から派遣された鈴木出羽守が鳥越城を築き、白山麗の要害化が図られ、二曲城は鳥越城の支城として三坂峠を押さえる役割を担った。

本泉寺蓮悟【ほんせんじれんご(1486~1543)】

石川郡本泉寺住持。本願寺蓮如の七男。室は瑞泉寺蓮乗の娘。近在門徒衆の勧進で本泉寺蓮悟が清沢坊を建立、蓮悟の弟実悟が養子として住持になった。石川郡の門徒衆、河原寺、西縁寺、六ヶ寺が清沢坊の寄騎衆として与えられた。1483年、父本願寺蓮如の名代として加賀国を訪れた長兄順如の手によって得度した。養父となった次兄蓮乗は加賀門徒衆のまとめ役になる事を期待されていたが、病気がちであり、本泉寺蓮悟の得度の際にあわせて本泉寺を継承した。本泉寺蓮悟は松岡寺蓮綱、光教寺蓮誓と共に加賀国門徒衆のまとめ役となった。1487年、本泉寺を河北郡若松荘に移転した。1505年、異母弟の実悟を養子に迎えるが、河内国門徒衆が実悟の同母兄実賢を法主に擁立しようとする陰謀が発覚した。1508年、実子の実教が生まれると実悟は末寺の住職に移された。本泉寺蓮悟が、朝倉家との「九頭竜川の戦い」で敗れると、本覚寺蓮恵が本泉寺蓮悟の責任を追及したが、本願寺実如に本覚寺蓮恵の破門を進言して屈服させた。本泉寺蓮悟が超勝寺実顕と対立すると、本願寺証如は本泉寺蓮悟の追討令を出すと加賀国門徒衆は分裂した。1531年、本泉寺蓮悟は能登国に落延びた。1532年、本泉寺蓮悟の嫡男本泉寺実教が謀殺されると、本泉寺蓮悟は和泉堺に落延びた。

本泉寺実教【ほんせんじ(15??~1532)】

本泉寺蓮悟の男。

小松本覚寺蓮恵【ほんかくじれんえ(15??~15??)】

小松本覚寺住持。和田本覚寺蓮光の男。本覚寺は越前国に拠点を持っており(和田本覚寺)、加賀国にも勢力を持ち小松に本覚寺を建立、超勝寺と並んで北陸の有力寺院として発展した。本覚寺蓮光は延暦寺から追われた本願寺第八世法主本願寺蓮如を保護した。本願寺蓮如の男、松岡寺蓮綱、光教寺蓮誓、本泉寺蓮悟が北陸の本願寺代行の役目を担った時も有力寺院の地位は変わらなかった。1506年、本覚寺蓮恵は一揆勢を率いて越前国に攻め入ったが、朝倉宗滴が率いる朝倉勢に「九頭竜川の戦い」で敗れて下間照賢が討死、超勝寺と共に加賀国に落延びて、和田本覚寺を失った。1518年、本願寺実如が門徒衆に他国への攻撃を禁止したため、越前国への復帰も不可能となった。本覚寺蓮恵は朝倉攻めの責任者の本泉寺蓮悟に抗議をしたが逆に破門された。1525年、本願寺証如の後見人である蓮淳の意を受けた蓮淳の婿で超勝寺実顕が代官に任命され、下間頼秀、下間頼盛兄弟と共に荘園の横領と本願寺代行寺院を無視する態度を取ると、本泉寺蓮悟と松岡寺蓮慶、光教寺顕誓は反発した。1531年「大小一揆」が起こった。本覚寺蓮恵は実顕ら大一揆に与して本泉寺蓮悟ら小一揆と戦い、松岡寺を占領して、蓮綱、蓮慶、実慶らを捕らえた。程なくして蓮綱は病没し、蓮慶、実慶も自刃した。小一揆に朝倉宗滴、畠山家俊らが加勢、大一揆方は勝利して小一揆方を追い落とした。これにより加賀国は本願寺の直接支配を受け、超勝寺と本覚寺は加賀国一向一揆の麾下に置いた。1546年、尾山御坊が建立した。

堀才之助【ほりさいのすけ(15??~1580)】

一向一揆の大将のひとり。1580年、柴田勝家勢に攻められた。

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【ま】

松永丹波守【まつながたんばのかみ(15??~1580)】

松永隼人の男。一向一揆の大将のひとり。1580年、柴田勢に攻められ討死した。この時、佐久間盛政に背面を突かれ、一向一揆勢は総崩れになった。金沢御坊は落城した。

三林善四郎【みばやしぜんしろう(15??~1580)】

石川郡三林館主。1580年、柴田勝家の攻撃を受けて滅亡した。

本折治部少輔【もとおりじぶのしょう(15??~15??)】

富樫晴貞家臣。

三浦守治【みうらもりはる(15??~15??)】

三浦館主。富樫政親家臣。通称弥兵衛。

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【や】

安吉家長【やすよしいえなが(15??~15??)】

石川郡安吉城主。通称源左衛門尉。1487年、大窪源右衛門蔚家長が源兵衛島城より安吉城に移り40,000石を領した。1488年、一向一揆に加わり、加賀守護職富樫政親が籠城する高尾城を攻撃した。加賀一向一揆勢は富樫政親を自刃に追い込む。1550年、家宰の窪田経忠に居城を譲り出家した。

安吉家臣【やすよしかしんだん】

斎藤摂津守、窪田大炊允経忠。

山川高藤【やまごうたかふじ(15??~15??)】

富樫泰高家臣。官途は三河守。富樫泰高の家督移譲後の富樫政親と富樫幸千代との対決では富樫政親に属した。富樫政親政権で南加賀半国守護代となり、守護代として荘園の横領に対処した。1489年、幕府の六角征討に政親が参加した際には、留守の加賀を守護代として切り盛りした。その際、富樫政親の命で軍費調達の為、兵糧米、人夫などを課された。「長亨の一揆」では一貫して富樫政親派として一向一揆と戦った。

山川高次【やまごうたかつぐ(15??~15??)】

石川郡山川館主。富樫家臣。官途は三河守。

山田四郎左衛門【(15??~15??)】

加賀笠野村代官職。領内の争いごとの調停役となる。

若林長門守【わかばやしながとのとのかみ(15??~1580)】

能美郡小松城主。本願寺家臣。1574年、下間和泉らと共に越前に派遣された。1575年、織田勢の攻撃により加賀国に落延びた。1580年、織田勢の加賀攻めに抵抗した。柴田勝家は和議のためと称して若林長門守、若林甚七郎、若林雅楽助を誘い出し謀殺した。若林長門守の頸は若林雅楽助、若林甚八郎と共に一揆の大将として安土城下に頸を晒された。

若林甚七郎【わかばやしじんしちろう(15??~1580)】

若林長門守の男。

若林雅楽助【わかばやしうたのすけ(15??~1580)】

若林長門守の次男。

若林家臣団【わかばやしけかしんだん】

若林家吉、檜垣平太。

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【資料Ⅰ】

加賀国(4郡/石高460,000石)

河北郡:津幡城、弘願寺、倶利伽羅峠(石高80,000石)
石川郡:尾山御坊(金沢)城、松任城、安吉城(石高180,000石)。
能美郡:小松城、鳥越城(石高120,000石)
江沼郡:大聖寺城、松岡寺(石高80,000石)

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【資料Ⅱ】

加賀一向一揆衆【かがいっこういっきしゅう】

応仁の乱で、北加賀国は富樫政親が治めていましたが、弟富樫幸千代と対立しており、北加賀統一を目指し、兄弟が戦った。弟富樫幸千代守護幸千代が、法敵であった高田専修寺門徒と結んだのに対して、富樫政親は越前国の朝倉孝景らと手を結び、本願寺の加賀門徒衆の援助を受けた。1467年、富樫幸千代との戦いで勝利し、富樫政親は北加賀国守護職を得た。この戦いで本願寺門徒農民が勢力を持ち、加賀国一向一揆衆と称されるようになった。一向一揆は、加賀国内での宗勢を強め、守護や寺社への年貢を納めず、富樫政親と対立、争うことになりました。しかし一向一揆方は破れ、本願寺門徒の指導者達は越中国へ落延びた。

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【資料Ⅲ】

加賀国【かがのくに】

能登半島の南に位置する北陸道の国。北は金沢平野の狭い部分で能登国に接し、南は大日山の山系から日本海に続く線が越前国との国境となる。東は両白山地の北の低地で越中国、南の高地で飛騨国との国境を分けるが、かずかに倶利伽羅峠で越中国方面へ抜ける以外は、両国との交通はほとんどない。西の日本海に面した長い海岸線には長大な砂丘地帯が続き、その内側に柴山潟、木場潟、今江潟、河北潟を抱く。砂丘地帯と東南の加賀山地の間には、大聖寺川、梯川、手取川、犀川などの河川が流れ、西南から東北に帯状に加賀平野が広がる。平野部を中心に農業が発達し、日本海沿岸では漁業が盛んである。越中国、能登国から越前国を経て京へ向かう北陸道の要衝にあり、古代から安宅関などの拠点が築かれた。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城砦などの名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

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※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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