2012年8月19日日曜日

黒田孝高家臣団辞典

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【あ】

明石岩姫【あかしいわひめ(1531~1559)】

黒田職隆の室。播磨国明石郡枝吉城主明石宗和の娘(御着城主小寺政職の養女)。京都に産まれ、和歌に長じていた。黒田孝高を産んだ日「姫路山の山頂に雲がかかって雲が降り、英勇誕生の証」と人々が噂した。1546年、黒田孝高を産んだ。1554年、次男の黒田利高を産んだ。1555年、長女香山妙春(英賀の地侍三木清閑室)を産んだ。1556年、虎姫(次女/秋山妙円)は尾上武則に嫁いだ。尾上武則が病没すると、兄黒田孝高から毛利家臣との縁談を薦められたが拒否した。2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では戸田菜穂が演じた。

麻田甚内【あさだじんない(15??~1600)】

久野重勝家臣。久野家の六神のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い討死した。

生田重勝【いくたしげかつ(15??~1615)】

黒田孝高家臣。父は隅田式部。通称木屋之助。別名隅田小助。父は大友義鎮の隅田式部家臣であったが、生田重勝が同輩と口論となり大友義鎮の元を出奔して、井上之房の仲介で黒田孝高に仕えた。黒田孝高が荒木村重の説得で摂津国有岡城へ向かう途次、生田を経て外郭の木屋野で敵の兜武者二人を討取る戦功を挙げた。黒田孝高は、この活躍を称賛し「生田の森」に因んで生田重勝と称させた。1592年、黒田長政勢の先鋒を務め「第二次晋州城の戦い」では、負傷しながらも敵将を討取る戦功を挙げた。1600年、黒田長政が筑前国に転封になると600石を領した。

井口吉次【いぐちよしつぐ(1565~1621)】

黒田孝高家臣。栄城主井口与次右衛門の男。官途は出羽守。通称兵助。別名村田出羽守。「黒田家二十四騎」のひとり。父井口与次右衛門は、龍野城主赤松政秀との戦いに敗れ御着で帰農した。井口猪之助、井口六太夫、井口甚十郎、井口吉次の四兄弟が姫路城主黒田孝高に仕えた。1580年、兄達は全員討死した。井口吉次は織田信長への人質として長浜城に送られていた黒田長政の近侍をした。1584年「岸和田の戦い」では敵の武具や馬を奪い戦いに臨んだ。豊前入国後、井口家が途絶えてしまうと考えた黒田孝高は宇佐神宮に養子入りさせようとしたが井口吉次はそれを拒み「文禄の役」に参陣した。加藤清正、浅井幸長を救う「蔚山城の戦い」では、頸七つを取り、朱具足を許された。1600年、黒田長政が筑前国に転封なると2,000石を領した。

井出友氏【いでともうじ(1538~1569)】

黒田重隆の三男。井手左近将監の養子。通称勘右衛門。1569年、龍野赤松政秀は兵3,000余りを率いて龍野城を出陣すると、置塩赤松義祐と小寺政職は、置塩城に籠城した。黒田孝高は兵300余りを率いて、青山に布陣する赤松政秀勢に奇襲攻撃をかけ撃退するも、赤松政秀は再び兵3,000余りを率いて来襲、土器山に布陣する黒田孝高勢150余りに夜襲を行った。兄黒田職隆が反撃しようとするのを制止。母里小兵衛らと共に出撃して身代わりに討死した。

井上之房【いのうえゆきふさ(1554~1634)】

黒田職隆家臣。井上之正の男。官途は周防守。通称九郎右衛門。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」「黒田家三家老」「石垣原の五本槍」のひとり。勇猛で文武に秀でて人望に厚く、黒田職隆、黒田孝高、黒田長政、黒田忠之の四代に仕えたが、黒田職隆が黒田家の家督を黒田孝高に譲った後も、引き続き黒田職隆に仕えた。黒田職隆は、黒田孝高に井上之房を用いるようにに命じたが、黒田孝高は井上之房を用いることはなかった。黒田孝高が有岡城荒木村重に捕らわれ幽閉された際は、有岡城に侵入し黒田孝高を助け出した。この戦功により、井上之房を黒田家弐番家老として6,000石を領した。「小田原の役」「文禄の役」に参陣して戦功を挙げた。1600年「石垣原の戦い」では、大友義統勢の吉弘統幸と一騎打ちとなりこれを討取った。黒田長政が筑前国に転封になると黒崎城16,000石を領した。1632年「黒田家騒動」が起こると、井上之房は栗山利章と対立して、倉八正俊を排斥し黒田家を守るため尽力したが、黒田忠之は栗山利章と姻戚関係にあった井上之房も追放処分とした。嫡男井上庸名は、松平秀忠に仕え6,000石の馬廻衆となった。

井上家臣団【いのうえけかしんだん】

富田仁左衛門、波賀新兵衛、原田市蔵、堀尾久左衛門、吉村孫七郎、清田何右衛門。

浦野勝宗【うらのむねかつ(15??~15??)】

黒田孝高家臣。官途は若狭守。浦野勝宗は始め長井規秀に仕え、後に浅井長政に仕えた。黒田長政が愛用した水牛の兜はを名物兜として献上した。

大塩喜平次【おおしおきちえいじ(15??~15??)】

野村祐勝家臣。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢の武田作之進を討取る戦功を挙げた。

大野勘右衛門【おおのかんざえもん(15??~15??)】

井上之房家臣。「石垣原の五本槍」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い戦功を挙げた。

大野久弥【おおのひさよし(15??~15??)】

井上之房家臣。通称久太夫。「石垣原の五本槍」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い戦功を挙げた。

大村六太夫【おおむらろうだいふ(15??~15??)】

井上之房家臣。「石垣原の五本槍」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦いで吉良伝右衛門を討取る戦功を挙げた。

尾上武則【おがみたけのり(15??~1588)】

黒田職隆家臣。通称安右衛門。室は黒田職隆の娘。尾上家は代々加古郡尾上城を領した豪族衆。次男尾上武則は黒田職隆の娘を娶り黒田姓を称して、播磨国、北九州各地を転戦して多くの戦功を挙げた。1588年「豊前一揆」で討死した。紀伊国岸和田出身の岸則虎の嫡男尾上可親を養子にした。尾上可親は黒田長政に従い筑前入国後には1,700石を領した。

小河伸章【おがわのぶあき(1554~1593)】

黒田孝高家臣。通称伝右衛門。「黒田家二十四騎」のひとり。小河伸章は、御着城主小寺政職の宿老職を務めた。小寺政職の没落後に黒田孝高に仕えた。1589年「九州討伐」に参陣した。1592年「文禄の役」では、明国勢に敗れた敗走する小西行長勢を援護して助けた。羽柴秀吉は10,000石の加増を約束したが、帰国途中の対馬国で病没した。

小栗次右衛門【おぐりつぐざえもん(15??~15??)】

後藤基次家臣。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦いで吉弘加兵衛を討取る戦功を挙げた。

鬼木秋姫【おにきあきひめ(15??~15??)】

毛屋武久の室。豊前国上毛郡鬼木城主鬼木宗正の長女。1586年、黒田孝高が豊前国六郡を領すると鬼木秋姫は妹鬼木於長と共に人質として中津城に送られた。1587年、父鬼木宗正は一旦黒田孝高に属したが、長岩城主野中鎮兼、上毛郡日隈城主日熊直次、宇佐郡高家城主中島房直らと共に黒田孝高に謀反を起こした。黒田長政は馬ヶ岳城を出陣して、広津城主広津鎮種と共に南下すると、山内城主如法寺孫治郎輝則、川底城主城井弥七朗信次、鬼木城主鬼木宗正、山田城主山田大膳、八屋城主八屋刑部、東友枝叶松城主内尾主水、西友枝雁股城主友枝大膳らの国人衆も手勢を率いて出陣した。黒田長政勢は「観音原の戦い」で、豊前国人一揆衆は敗れ鬼木宗正は討死した。国人衆はそれぞれの居城に逃げ帰った。人質になっていた鬼木秋姫は処刑されることなく、毛屋武久に嫁いだ。

鬼木於長【おにきおなが(15??~15??)】

豊前国上毛郡鬼木城主鬼木宗正の次女。1586年、黒田孝高が豊前国六郡を領すると鬼木於長は姉鬼木秋姫と共に人質として中津城に送られた。1587年、父鬼木宗正は一旦黒田孝高に属したが、長岩城主野中鎮兼、上毛郡日隈城主日熊直次、宇佐郡高家城主中島房直らと共に黒田孝高に謀反を起こした。黒田長政は馬ヶ岳城を出陣して、広津城主広津鎮種と共に南下すると、鬼木城主鬼木宗正、山内城主如法寺孫治郎輝則、川底城主城井弥七朗信次、山田城主山田大膳、八屋城主八屋刑部、東友枝叶松城主内尾主水、西友枝雁股城主友枝大膳らの国人衆も手勢を率いて出陣した。黒田長政勢は「観音原の戦い」で、豊前国人一揆衆は敗れ鬼木宗正は討死した。国人衆はそれぞれの居城に逃げ帰った。人質になっていた鬼木秋姫は処刑されることなく、黒田孝高の室光姫の腰元となった。

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【か】

貝原信盛【かいばらのぶもり(1550~1626)】

備前国吉備津宮神主の身出。通称市兵衛。武田晴信に仕えた後、織田信長、毛利輝元に仕えようとしたが叶わず、黒田孝高に仕えた。「豊前国人一揆」「文禄の役」で戦功を挙げた。孫が有名な農学者の貝原益軒。

岸本五郎兵衛【きしもとごろびょうえ(15??~15??)】

井上之房家臣。「石垣原の五本槍」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い戦功を挙げた。

衣笠景延【きぬがさかげのぶ(1552~1631)】

播磨国明石郡端谷城主。小寺政職家臣。官途は因幡守。通称久右衛門。黒田家二十四騎のひとり。小寺家から寄騎衆として黒田家に移った。智謀、歌道に秀で、包囲された栗山利安を救い、旧主小寺家への使者を務めた。1587年「豊前国人衆一揆」では、姫隈城の日熊直次を降した。「文禄、慶長の役」では後藤基次と共に先鋒を務めた。1600年「関ヶ原の役」では松山城を守備した。役後3,000石を領した。

桐山信行【きりやまのぶゆき(1554~1623)】

黒田孝高家臣。官途は丹波守。通称孫兵衛。「黒田家二十四騎」のひとり。井上之房と同じく黒田職隆に仕えた。1592年「文禄の役」小河信章が殿を勤め小西行長の撤退をさせた。羽柴秀吉は小河信章の代わりに報告をした桐山信行に兜と具足を与えた。母里友信とは仲が悪く「文楽の役」のさいに母里友信隊が敗色と誤報した。1600年、黒田長政が筑前国に転封になると、冷水峠の開拓を行った。

櫛橋光姫【くしはしてるひめ(1553~1627)】

黒田孝高の室。櫛橋伊定の娘。別名「照福院」。1567年、黒田孝高は、父黒田職隆から家督を相続すると小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光姫を室に迎えた。政略結婚ではあるが、黒田孝高は側室はもたず生涯両者は生涯互いを慕い続けた。1578年、別所長治が播磨国の豪族衆を引き込んで織田信長に反旗を翻すと、父櫛橋伊則も追随して志方城に籠城した。志方城は織田信雄の兵で包囲され、出撃を数度繰り返すが撃退された。隣接する神吉城が織田信忠に落とされると、櫛橋伊定は城兵の命と引き換えに自刃した。1600年「関ヶ原の役」では、大坂屋敷で石田三成勢に人質として軟禁されるが、栗山利安、母里友信、宮崎重昌らが光姫を黒田長政の室(栄姫)と共に豊前国に落延びさせた。2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では中谷美紀が演じた。

久保庄助【くぼしょうすけ(15??~1600)】

久野重勝家臣。「久野家の六神」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い討死した。

栗山利安【くりやまとしやす(1550~1631)】

黒田孝高家臣。官途は備後守。通称四郎右衛門。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」のひとりとして数えられた。1569年「青山、土器山の戦い」では、初陣で頸級を二つ挙げる戦功を立てた。1578年、黒田孝高が織田信長に反逆した荒木村重の説得に当たるために有岡城に向かってそのまま捕らえられたとき、黒田孝高を救出した。1591年、豊前国白米城60,000石を領した。1593年、黒田孝高が隠居すると、黒田長政に仕えて「文禄の役」にも参陣し「晋州城の戦い」で戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、母里友信と協力し、大坂の屋敷から黒田孝高婦人と黒田長政婦人を救出し共に豊後中津城に戻った。その後黒田孝高と共に豊後国に出陣し、石田三成方の大友義統との「石垣原の戦い」で戦功を挙げた。役後、黒田長政が筑前国に転封されると左右良城15,000石を領した。1617年、嫡男栗山利章に家督を譲って隠居した。

栗山利章【くりやまとしあきら(1591~1652)】

栗山利安の男。通称大膳。黒田忠之は倉八正俊や大音重成らを取り立てたが、黒田孝高や黒田長政に仕えた家臣はこれに強い不満を抱いた。黒田忠之と対立し、幕府に「黒田忠之に謀反の疑いがある」と訴えた。幕府による裁決の結果「栗山利章は乱心した」ということで栗山利章を陸奥国盛岡南部家にお預けとし、黒田家は改易を免れた。この一連のお家騒動は「黒田家騒動」と称された。実質流罪ではあったが、百五十人扶持であり、盛岡南部家も手厚く待遇した。

黒田重隆【くろだしげたか(1508~1564)】

飾磨郡姫路城主。黒田高政の男。小寺則職家臣。官途は下野守。山陽地方随一の商業都市として繁栄していた備前の福岡に在住した。その後姫路城下の広峯神社の神官と目薬を売ることで財を成し、播磨国の国人領主になった。はじめ龍野城主赤松政秀に仕えたが、ほどなく御着城主小寺政職に主を替え、重用され、姫路城の城代となった。2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、竜雷太が演じた。

黒田職隆【くろだ もとたか(1524~1585)】

黒田重隆の男。室は明石宗和の娘(小寺政職の養女)。1543年、小寺政職の敵であった香山重道を討取った。1545年、小寺政職の養女を娶って家老に列せられると共に、小寺の姓を与えられ、播磨国姫路城の城代になった。1564年、浦上政宗の嫡男浦上清宗と自身の娘の婚姻を実現させるが、その宴席中に赤松政秀の奇襲で浦上親子ともども娘を謀殺され、黒田職隆は赤松政秀と対立した。1567年、黒田孝高に家督を譲った。1569年、赤松政秀が、池田勝正と別所安治の支援を受け、姫路城に3,000余りを率いて攻め込んで来た際、迎撃に出ていたが危機に陥っていた、黒田孝高救援の為に出馬して勝利に貢献した。1578年、黒田孝高が摂津有岡城主荒木村重に捕縛され幽閉されと、黒田職隆が黒田家を統率した。1580年、有岡城の謀反に呼応して織田信長に謀反を起こした小寺政職が毛利輝元の元に落延びた後は小寺政職の嫡男小寺氏職を引き取って養育した。2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、柴田恭平が演じた。

黒田高友【くろだたかとも(1525~1592)】

黒田重隆の次男。通称千太夫。別名小寺休夢斎。黒田高友は僧になり、増位山の地蔵院に住んだ。黒田孝高の母(明石宗和の娘)と共に、黒田孝高に影響を与えた。増位山は、別所長治との間で度々戦場になった。小寺則職は、弟広峰長職が広峰神社別当職を務める広峰神社を守るため、播磨国有明山主恒屋光氏を滅ぼし、黒田高友に恒屋家を継承させた。1573年、別所長治勢は、黒田高友が守備する有明城を落城させ、地蔵院を焼き払った。1584年、羽柴秀吉秀吉の茶会に招かれ御伽衆となった。1587年「九州討伐」に参陣した。

黒田孝高【くろだよしたか(1546~1604)】

黒田職隆の男。官途は勘解由次官。通称官兵衛。別名如水軒円清。洗礼名「ドンシメオン」。室は櫛橋伊定の娘(光姫)。1562年、父黒田職隆と共に周辺豪族衆の討伐を行った。1564年、浦上清宗に嫁いだ妹が、婚礼当日に赤松政秀に攻められ夫らと共に討取られた。1567年、父黒田職隆の隠居により黒田家の家督と相続し、櫛橋伊定の娘を室に迎え、姫路城代となった。1569年、赤松政秀が、足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正、別所安治、宇喜多直家らの支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、奇襲攻撃を仕掛けるなど兵300余りで二度にわたり撃退する戦功を挙げた。赤松政秀は浦上宗景に攻められ降伏した。小寺政職を織田信長に属させ、播磨国内の調略活動に奔走した。黒田孝高は竹中重治と共に「二兵衛」と称されるほどの智才を発揮した。1578年、三木城主別所長治が毛利輝元勢に寝返ると、小寺政職を含めて播磨国豪族衆は毛利輝元に属した。摂津国有岡城主荒木村重が毛利輝元勢に転じると、黒田孝高は荒木村重を説得するため有岡城に向かうが、逆に捕われて城内に監禁された。1579年「有岡城の戦い」後、救出されるが監禁により脚の病を患った。以後、羽柴秀吉に属して中国地方各地を転戦した。1580年、三木城主別所長治が降伏すると、黒田孝高は姫路城を羽柴秀吉に譲り、飾東郡国府山城10,000石を領した。1582年「備中国高松城の戦い」では清水宗治が守る高松城を巨大な堤防を築いて水攻めにした。1582年、「山崎の戦い」でも戦功を挙げた。1587年「九州討伐」後には、豊前国中津城六郡120,000石(京都郡、築城郡、仲津郡、上毛郡、下毛郡、宇佐郡)を領した。国人領主城井鎮房らが叛乱を起こしたが、謀略をもって謀殺した。1589年、黒田家の家督を黒田長政に譲った。1600年「関ヶ原の役」では豊前国にあったが、旧領回復を目論む大友義統に対して、百姓や浪人を集めた傭兵集団を組織、これを率いて大友義統勢と戦った。その後も九州の西軍諸将の城を次々と陥落させる領地を拡大したが石田三成勢の敗北により、黒田孝高の天下取りの夢は終わった。2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、岡田准一が演じた。

黒田利高【くろだとしたか(1554~1596)】

黒田職隆の次男。通称兵庫助。別名黒田利隆。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」の筆頭。黒田長政の後見役を務め黒田孝高に従って播磨国各地を転戦して戦功を挙げた。織田信長による「中国討伐」が開始されると、兄黒田孝高と共に羽柴秀吉に属して参陣した。織田信長没後は羽柴秀吉に仕えた。1586年「九州討伐」に参陣した。その後、兄黒田孝高が豊前国中津城六郡180,000石を領すると高森城10,000石を領した。1592年「文禄の役」に参陣したが帰国後、和泉国堺で療養中に没した。

黒田利則【くろだとしのり(1561~1612)】

黒田職隆の三男。官途は修理亮。通称甚吉。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」のひとり。羽柴秀吉に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」に参陣して戦功を挙げた。その後は羽柴秀長に仕えた。1587年、黒田孝高が豊前国を領すると、黒田家臣に帰参し2,000石を領した。1593年「文禄の役」が休戦になると出家して養心と称した。1600年「関ヶ原の役」では、豊前国中津城を守備した。役後に黒田長政が筑前国を領すると12,000石を領した。

黒田直之【くろだなおゆき(1564~1609)】

黒田職隆の四男。官途は図書助。通称惣右衛門。洗礼名は「ミゲル」。室は北条家臣由良新六郎の娘。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」のひとり。兄黒田孝高が有岡城に囚われると、黒田職隆、黒田高友、黒田利高を指導者とすることを誓った。羽柴秀吉に馬廻衆として仕えたが、その後羽柴秀長に仕えた。黒田孝高が豊前国を領すると、中津城下の教会で夫婦で受洗を受けミゲルマリアと称し4,556石を領した。1592年「文禄の役」では渡海して戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では黒田孝高に属して九州を転戦した。役後、筑後久留米城の城受け取り役を務めた。黒田長政が筑前国に転封になると秋月城12,000石を領した。

黒田長政【くろだながまさ(1568~1623)】

黒田孝高の男。官途は甲斐守。通称吉兵衛。室は蜂須賀正勝の娘。継室は保科正直の娘(栄姫)。1577年、父黒田孝高が織田信長に属したため、人質として近江国長浜の羽柴秀吉に預けられた。1588年、黒田孝高が荒木村重に監禁されると、織田信長によって殺されれるところを竹中重治に匿われた。1583年「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げた。1584年「小牧、長久手の戦い」では「根来、雑賀の一揆」を鎮定する戦功を挙げ2,000石を領した。
1587年「九州征伐」の「日向国財部城の戦い」の戦功により豊前国中津城120,000石を父黒田長政と共に領した。その後、黒田家の入部に反抗する城井鎮房らを討取った。1589年、父黒田孝高の隠居により黒田家の家督を相続した。1592年「文禄の役」では先鋒として渡海、金原、昌原を抜いて南海道を進み、小西行長の危機を救った。小早川隆景らと共に臨んだ「碧蹄館の戦い」において、苦戦の末に明国勢を撃破した。1597年「慶長の役」においても渡海し、戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では松平元康に属して戦った。その戦功により筑前国名島城523,000石を領した。1614年「大坂冬の陣」では江戸城の留守を務めた。1615年「大坂夏の陣」では、松平秀忠勢に属した。蜂須賀正勝の息女と離婚して松平元康の養女との再婚、度々の普請、鎖国令の順守など、外様大名として松平元康へ徹底した恭順の姿勢を崩さなかった。

黒田一成【くろだかずなり(1571~1656)】

加藤重徳の次男。黒田孝高の養子。官途は美作守。通称三左衛門。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」のひとり。父加藤重徳は有岡城主荒木村重に仕える番兵であった。黒田孝高が捕らえられた際、それを手厚く遇した。「有岡城の戦い」後、加藤重徳の嫡男加藤一成に黒田孝高は黒田姓を授けて黒田長政の弟のように育てた。1584年「根来衆、雑賀衆の一揆の戦い」が初陣。「四国討伐」「九州討伐」にも参陣し「耳川の戦い」では頸を二つ討取る戦功を挙げた。黒田孝高が豊前国を領すると5,000石を領した。「城井城の戦い」では城井鎮房を討取る戦功を挙げた。1592年「文禄、慶長の役」では黒田長政の先鋒隊を務め、金海城に一番乗りをし「晋州城の戦い」「白川、西生浦城の戦い」「稷山の戦い」などでも戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成の家臣蒲生将監の頸を挙げた。筑前国三奈木館16,205石を領した。1637年「島原の乱」にも参陣した。

黒田一成家臣団【くろだかずなりけかしんだん】

粕屋茂平衛、近藤加衛門、関勘六、江見彦右衛門。

黒田忠之【くろだただゆき(15??~15??)】

黒田長政の男。1614年「大坂冬の陣」に出陣した。1615年「大坂夏の陣」では、上洛途中で羽柴家滅亡の報を受けて帰国した。1623年、父黒田長政の病没により黒田家の家督を相続した。新たに倉八正俊や大音重成らを取り立てたが、祖父黒田孝高や父黒田長政に仕えた家臣はこれに強い不満を抱いた。耐えかねた栗山利章は幕府に対し、黒田忠之が謀反を企んでいると訴えた「黒田家騒動」が勃発した。井上之房と黒田一成は幕府に対して必死の弁明を行っている。幕府は黒田忠之をお咎め無しとして、栗山利章を南部藩に預けさせた。また、倉八正俊は黒田家から追放された。

黒田政冬【くろだまさふゆ(1606~15??)】

黒田長政の次男。
 
黒田孝政【くろだたかなさ(15??~15??)】

黒田長政の三男。室は佐竹義隆の娘。
 
黒田高政【くろだたかまさ(15??~15??)】

黒田長政の四男。室は本多政勝の養妹。

毛屋武久【けやたけひさ(1554~1628)】

黒田孝高家臣。通称主水。「黒田家二十四騎」のひとり。近江国の出自で、はじめ六角義賢に属し、後に柴田勝家家臣となり、柴田勝家の討死後は前田利家、佐々成政に仕えた。佐々成政が改易されると、蒲生氏郷から高禄での誘いがあったが、これを断り黒田孝高に300石で仕えた。黒田家仕官後は、黒田長政に仕え旗奉行を務めた。1600年「関ヶ原の役」の際には、物見として正確に敵情を探り、過大に宣伝されていた敵兵の数が、実際には少ないことを報告し味方の士気をあげたため、松平元康よりその機知を褒められ饅頭を褒美として受け取った。

後藤新左衛門【ごとうしんざえもん(15??~15??)】

別所家臣。後に小寺政職に属した。

後藤基次【ごとうもとつぐ(1560~1615)】

後藤新左衛門の次男。官途は隠岐守。通称又兵衞。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」「大坂城五人衆」「大坂城七将星」のひとり。父後藤新左衛門の仕える播磨国神崎郡春日山城主○○は、羽柴秀吉と戦い討死した。枝連衆の後藤新左衛門は伯父藤岡九兵衛と共に黒田孝高に仕えた。1586年「九州征伐」の「宇留津城の戦い」で初陣した。「戸次川の戦い」では島津家久に大敗し、領国の讃岐国に逃げ帰った後、黒田家臣栗山利安の元に100石で仕えた。領地替えを巡って徹底抗戦を行った城井鎮房と戦った。1592年「第二次晋州城の戦い」で亀甲車なる装甲車を作って城壁を突き崩し、加藤清正配下の森本一久らと一番乗りを競った。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成家臣の剛槍使い、大橋掃部を一騎討ちで討取る戦功を挙げた。筑前国益富城16,000石の所領を領した。1606年、後藤基次は一族揃って黒田長政の元を出奔した。智勇を惜しんで細川忠興、福島正則、前田利長、池田輝政、結城秀康、池田忠継らが召抱えようとするが黒田長政の干渉により仕えることが出来なかった。1614年「大坂冬の役」では、大野治長、大野治房らを補佐した。1615年「大坂冬の陣」では6,000余りを率いて、木村重成と協力して守備し、長尾及び佐竹義宣勢と対峙た。「道明寺の戦い」では兵2,800余りを率いて、水野勝成が率いる部隊の奥田忠次らを討取るなど、孤軍でおよそ八時間も奮戦し賞賛されたが、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁勢が霧より到着が遅れ、伊達政宗家臣片倉重長が率いる鉄砲隊の攻撃を受け討死した。

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【さ】

下田作右衛門【しもださくざえもん(15??~1600)】

久野重勝家臣。「久野家の六神」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い討死した。

篠倉喜兵衛【しのくらきちべい(15??~15??)】

野村祐勝家臣。1600年「石垣原の戦い」では、大友義統勢と戦いで岐部山城守を討取る戦功を挙げた。

菅忠利【すがただとし(1567~1625)】

黒田孝高家臣。菅七郎兵衛の男。官途は和泉守。通称六之介。別名松隠宗泉。「黒田家二十四騎」のひとり。黒田長政の鉄炮頭。剣の達人で新免無二流と疋田新陰流を極めた。菅忠利は一度の戦いで七つ以上の頸級を挙げ、赤具足を許された。「黒田家二十四騎」でも赤具足を許されたのは、菅忠利と井口吉次だけであった。1583年、柴秀吉と柴田勝家が争った「賤ヶ岳の戦い」では、敵将二人を討取る戦功を挙げた。1584年「岸和田の戦い」では、黒田長政に属して戦功を挙げた。1597年「日向国の耳川の戦い」では、黒田一成と共に島津義久勢と戦い戦功を挙げた。1592年「文禄の役」では、虎を斬り殺した。1598年「慶長の役」では、負傷するも無事豊後に帰還した。1600年「関ヶ原の役」では、黒田長政は、小早川秀秋を寝返らせるため菅忠利を使者として派遣した。「関ヶ原の戦い」では、鉄砲足軽隊50余りを率いて、島清興勢を側面から射撃して島清興勢が敗走するきっかけを作った。役後、黒田長政が筑前国に転封になると父菅七郎兵衛1,300石とは別に怡土郡で6,000石を領した。

元和元年3月2日、父菅七郎兵衛が病没すると、菅七郎兵衛の家督は次男菅孫市右衛門正周が相続した。元和7年10月24日、菅忠利は菅家の家督を嫡男菅主水重俊に譲って隠居した。

曽我一信【そがかずのぶ(1516~1577)】

黒田職隆家臣。曽我祐道の男。官途は大隅守。室は佐々木久連の娘。黒田職隆の元で宿老職を務めた。別所安治に領地を追われて小寺政職に仕え、黒田職隆の寄騎衆として活躍した。姫路城の西城戸に屋敷を構え、黒田重隆弟佐々木久連の娘を娶った。嫡男が母里友信、次男が野村祐勝。

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【た】

竹森次貞【たけもりつぐさだ(1550~1621)】

黒田孝高家臣。清原俊久の男。官途は石見守。通称新右衛門。別名竹森次真。「黒田家二十四騎」のひとり。1576年、父清原俊久の病没による竹森家の家督を相続した。1577年「佐用城の戦い」では、羽柴秀吉の勘気に触れ、浪人となっていた平塚為広と共に佐用城主福原則尚、弟福原伊王野と、家老祖父江左衛門の三人の頸を挙げる戦功を挙げた。これにより平塚為広は、再び羽柴秀吉に仕えることができた。1579年「別府城の戦い」では、毛利輝元勢の攻撃を受け負傷するも、一番槍の戦功を挙げた。1580年、竹森次貞は甲冑付きの頸を十八も討取る豪傑だったが、負傷して槍働きができなくなったため旗奉行に任じられた。1582年「山崎の戦い」では、旗奉行を務め、以降は敵将を討つようなことな無くなった。黒田長政が城井谷城主城井鎮房を攻めた際、敗走する黒田長政勢をまとめ全滅の危機を救った。

竹森貞幸【たけもりさだよし(15??~15??)】

竹森次貞の男。1592年「文禄の役」で、初陣を果たし、頸五つを討取る戦功を挙げた。同僚と口論に成り、刀を抜いたため、黒田孝高によって追放された、1600年「関ヶ原の役」では、黒田長政の元に駆けつけ、参陣を許され、黒田家に復帰した。父竹森次貞の隠居により竹森家の家督を相続したがその際、旗奉行職も引き継いだ。

手塚光重【てづかみつしげ(15??~15??)】

黒田孝高家臣。通称孫大夫。1606年、豊後国鷹取山城主。

戸波次郎左衛門【となみじろうざえもん(15??~15??)】

黒田孝高家臣。穴太衆。黒田家に300石で仕えた。

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【な】

中間統種【なかまむねたね(15??~15??)】

黒田孝高家臣。豊前国下毛郡一戸城主中間山城守の男。通称六郎右衛門。別名黒田六郎右衛門。中間統種は豊前国の豪族衆で、黒田孝高が豊前国六郡を領するとそれに仕えた。1587年、羽柴秀吉の「九州討伐」後、黒田孝高は豊前国六郡120,000石を領した。豊前国には城井谷城主城井鎮房のほか地、豊前国人衆が黒田孝高に抵抗して一揆を起した。城井谷城主:城井鎮房、上毛郡山田城主:山田隆朝、下毛郡長岩城主:野仲鎮兼、下毛郡田丸城主:福島佐渡守鎮充、障子ヶ岳城主:添田雅楽介、光明寺城主:友枝忠兵衛、角田砦主:八屋隠岐守、岩石城主:佐々木雅楽頭、広田城主:爪田右衛門尉、海老名城主:末松加賀守、篠瀬城主渡辺右京進、九十九谷城主:九十九玄蕃、西郷城主西郷刑部、日吉城主:原田伊予守、求菩提城主:塩田内記、日隅城主:日隅直次、池永城主:池永重則、長岩城主:野中重兼、宇佐郡大畑城主:加来統直らが一揆に参陣した。その際、豊前国人衆で黒田孝高勢に属したのは下毛郡一ツ戸城主:中間統種、宇佐郡時枝城主:時枝鎮継、宮成吉右衛門、広津鎮種の四名だけだった。城井鎮房からは再三、国人衆一揆に参陣を求められるが中間統種は、黒田孝高への忠義を貫き、誘いを断った。中間統種、頑強に籠城を続ける山田城主山田隆朝を討取る戦功を挙げ500石を領し、黒田六郎右衛門と称した。1592年「文禄の役」では、黒田長政に属して戦功を挙げた。1600年、黒田長政が筑前国に転封になると上座郡内で3,700石を領した。

二宮右馬助【にのみやうまのすけ(15??~15??)】

後藤基次家臣。1600年「石垣原の戦い」に参陣した。

野口一成【のぐちかずなり(1559~1643)】

黒田孝高家臣。通称佐助。「黒田家二十四騎」のひとり。母里友信の義弟。野口左助は播磨国野口の生まれ。豊前国中津城で黒田長政が城井鎮房を謀殺した際、、家来七人を討取った。1600年、黒田長政が筑前国に転封になると2,500石を領した。石垣普請に長けていた。大坂城普請、福岡城普請に活躍した。

野村祐勝【のむらすけかつ(1560~1597)】

黒田孝高家臣。曽我一信の次男。通称太郎兵衛。室は野村伊予守の娘。「黒田家二十四騎」のひとり。野村祐勝は母里友信の異母弟で、室の実家である野村家の家督を相続した。1573年、異母兄母里友信と共に初陣を果たして以降、播磨国での戦いで度々の戦功を挙げた。1584年、紀伊国根来衆が岸和田城に攻入ると羽柴秀吉は、黒田長政、黒田利高、蜂須賀正勝、明石則実、生駒親正らを援将に差向けた。野村祐勝は明石則実の家臣明石与太郎と共に根来衆の将を討取った。1586年「日向耳川の戦い」では、野村祐勝は足軽20余りを率いて戦功を挙げた。1587年、黒田孝高が豊前国六郡に転封になると2,900石を領した。1587年「豊前国人一揆」が起こると、黒田長政に属して豊前国内を転戦して戦功を挙げた。豊前国人衆の大将、城井谷城主城井鎮房は黒田孝高に降伏するも所領は安堵された。1592年「文禄の役」に参陣し、野村祐勝勢だけで平壌攻めで百七十五級、晋州城攻めで五十七級の頸を挙げたが、、帰国後に病没した。

野村祐直【のむらすけなお(1581~1531)】

野村祐勝の男。通称市右衛門。別名野村大学。1597年、父野村祐勝が病没すると、野村家の家督を相続した。1597年「慶長の役」で、負傷して歩行出来なくなった。1600年「関ヶ原の役」では、黒田孝高に属して、豊後国に侵攻した。「石垣原の戦い」では、井上之房勢は吉広統幸勢と戦ったが兵力に劣る広統幸勢も崩れず互角の戦いを繰り広げた。野村祐直は輿に乗り、手勢を率いて、左側から吉広統幸勢に突撃し、吉広統幸勢を崩壊させた。総崩れとなった吉広統幸は、井上之房に討取られた。野村祐直勢はこの戦いで、百八十八の頸級を挙げ、そのうち冑頸が五十八だった。野村祐直家臣、大塩喜平次、篠倉喜兵衛、志戸地喜右衛門、酒井弥次郎、爪田清右衛門、林四郎兵衛なども戦功を挙げた。黒田長政が筑前国に転封になると、野村祐直は鯰田城6,000石を領した。

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【は】

秦桐若丸【はたのきりわかまる(1542~1583)】

黒田孝高家臣。播磨国の人で十人力。神がかり的な強さで戦に出る度に敵を退けること、塵を筆で払うが如くで、播磨国の人は秦桐若の旗指物である唐団扇を見ると避けて通るほどの武勇を誇った。黒田孝高に仕えて戦功を挙げ、黒田孝高家臣団の中で初めて頸三十三個を取ったので八宗の僧を呼び、頸供養を行った。1583年「山崎の戦い」で負傷して、有馬温泉で湯治を行ったがまもなく病没した。秦桐若には四人の子が居が、長女は竹森若松と結婚し、嫡男は早死にしており、次男秦孫右衛門と三男秦喜右衛門が居たが、黒田孝高には仕えず、次男秦孫右衛門は漆職人に、三男秦喜右衛門に筆職人になった。

原種良【はらたねよし(1557~1639)】

黒田孝高家臣。宝珠山隆信の男。官途は伊予守。通称弥左衛門。「黒田家二十四騎」のひとり。「豊前国人一揆」の際、黒田長政が城井鎮房を攻めたが、地利を持つ城井鎮房に敗北した。黒田長政は、城井谷城の近くに付け城の神楽城を築城、兵糧を押えるため城井谷城を封鎖した。黒田長政は神楽城に兵350余りをいれ、原種良、桐山信行、黒田忠兵衛の三人を守備に付かせた。神楽城兵は350余りであったが、原種良は攻めてきた城井鎮房勢を撃退する戦功を挙げた。1592年「文禄の役」でも、黒田長政に属して参陣し、多くの戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、黒田孝高勢に属して「安岐城の戦い」で、一番槍の戦功を挙げた。黒田長政が筑前国に転封になると2,000石を領した。「黒田騒動」の後、栗山善助の後任として左右良城の城主を務めた。

原種盛【はらたねもり(15??~1600)】

原種良の男。通称良蔵。1600年「関ヶ原の役」では、父原種良と共に黒田孝高勢に属して「安岐城の戦い」で、戦功を挙げたがまもなく病没した。

原吉三郎【はらよしさぶろう(15??~1637)】

原種良の次男。1637年「島原の乱」がおこったとき、原原種良は左右良城留守居役を命じられたため「島原の乱」には参陣できず、次男原吉三郎を陣代として島原へ派遣した。「島原の乱」の鎮圧に加わった嫡男原吉三郎は、夜討ちに出て強く戦ったが討死した。

林直利【はやしなおとし(1569~1629)】

黒田孝高家臣。官途は掃部亮。通称太郎右衛門。「黒田家二十四騎」のひとり。林直利は信濃国佐久郡の産まれ。伊勢国船商角屋と親類で播磨国姫路を通過した際、黒田孝高の小姓として仕えた「賤ヶ岳の戦い」「関ヶ原の役」「大坂夏の陣」で戦功を挙げた。築城技術にも優れ、名古屋城、福岡城などの造営にたずさわった。1592年「文禄の役」の際は、黒田長政に属して朝鮮に渡った際、猛虎を退治した。1600年、黒田長政が筑前国に転封になると嘉穂郡で3,000石を領した。

卑田九蔵【ひえだきゅうぞう(15??~1600)】

久野重勝家臣。「久野家の六神」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い討死した。

久野重勝【ひさのしげかつ(1545~1592)】

黒田孝高家臣。通称四郎兵衛。「黒田家二十四騎」のひとり。播磨国加東郡の地侍。黒田孝高に仕えて宿老職となった。毛利元就と大友義鎮との戦いで荒廃した博多などの街割り行い以前のような大都市を復興させた。名護屋の諸軍陣小屋も久野重勝が地割りを担当した。1592年「文禄の役」で、平壌攻めで物見に出て討死した。

堀正勝【ほりまさかつ(1557~1636)】

黒田孝高家臣。通称平右衛門。「黒田家二十四騎」のひとり。身分の低い陪臣であったが、黒田孝高によって士分に取立てられ100石を領した。1592年「普州城の戦い」では一番槍の戦功を挙げた。1600年、黒田長政の筑前国への転封後は、秋月城主黒田長興50,000石に仕えた。秋月黒田家では筆頭家老職なり5,000石を領した。

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【ま】

益田宗清【ますだむねきよ(1542~1611)】

黒田孝高家臣。通称与助。別名益田正親。「黒田家二十四騎」のひとり。台所の水汲役みだったが、黒田孝高が83石の士分に取りたてた。1592年「文禄の役」では足軽大将を務め戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では益田宗清ひとりで敵三人を討取った。 

松井重孝【まついしげたか(1548~1600)】

黒田重隆の四男。松井宗元の養子。通称惣八郎。母は近江国長浜の住人渡辺玄番一綱の娘。母方の伯父松井宗元の養子となった。しかし、妻子が先に病没したため姫路に戻った。黒田孝高の豊前国入封後に病没した。

光留立右衛門【みつとめたつざえもん(15??~1600)】

久野重勝家臣。「久野家の六神」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い討死した。

三宅家義【みやけいえよし(1552~1623)】

黒田孝高家臣。官途は若狭守。通称山太夫。「黒田家二十四騎」のひとり。1562年、三宅城主三宅国政は、六角義賢勢に属して三好長慶勢の攻撃を受け落城、枝連衆は四散した。枝連衆の三宅家義は黒田孝高に仕えた。城井鎮房の降伏まで四回も使者を務めた。豊前国帆柱山城1,500石を領した。船手衆の筆頭で黒田家警固衆を統括した。

宮崎重利【みやざきしげとし(15??~1580)】

黒田孝高家臣。通称与三兵衛。黒田孝高が織田信長に会うために岐阜城へ向かった際、小寺政職が同行するように遣した付人。黒田長政の傳役も勤めた。

宮崎安尚【みやざきやすなお(15??~15??)】

宮崎重利の男。1600年「関ヶ原の役」では、大坂留守居を務めていたが、母里友信らと共に黒田孝高の室の大坂脱出に貢献した。

毛利武久【もうりたけひさ(1554~1628)】

黒田孝高家臣。官途は武蔵守。「黒田家二十四騎」のひとり。 

母里友信【もりとものぶ(1556~1615)】

黒田孝高家臣。曽我一信の男。官途は但馬守。通称太兵衛。室は大友義鎮の娘。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」のひとり。黒田長政の命で伏見城下の福島正則邸へ使者に赴いた際、福島正則に大盃に注がれた酒を勧められ、飲む条件として黒田節」に謡われる名槍「日本号」を所望した。結果、見事に一献飲み干して、その槍を持ち帰った。槍術に優れた剛力の勇将で、栗山利安と共に黒田職隆勢の先手両翼の大将を務めた。1573年「印南野の戦い」に初陣して以来、常に先鋒を務めて活躍した。1578年、織田信長に叛旗を翻した荒木村重によって黒田孝高が捕らえられた際に忠誠を誓った留守中連著起請文にも名を連ねた。中国地方、四国地方を転戦した。1587年「九州征伐」では、豊前国宇留津城攻めで一番乗りの戦功を挙げ6,000石を領して黒田家三家老衆のひとり。中津城下で頸供養を行なった。もっとも、生涯で取った頸数は七十六級に及んだ。「文禄、慶長の役」に参陣した。1600年「関ヶ原の役」では、黒田孝高に属して大友義統と戦った。筑前国鷹取城18,000石を領した。

母里左近【もりさこん(15??~15??)】

母里友信の男。1638年、黒田忠之から追放処分を受けた。

母里義時【もりよしとき(1550~1626)】

黒田職隆家臣。通称雅楽助。1569年「青山の戦い」で、母里義時は力戦して母里家枝連衆二十四騎を失った。黒田孝高の再三の参陣依頼に応えた結果であり、勇猛な母里義時も怒って武士をやめて京都へ移住した。

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【や】

八代道慶【やしろみちよし(15??~1564)】

黒田職隆家臣。柴崎山城主。通称六郎左衛門。飾東郡八代で400貫を領した。小寺則職に属して娘を側室にした。1564年「室津城の戦い」で龍野赤松勢に左目を射られたが、矢を抜き捨てて敵を倒して人々を驚嘆させた。

山本勝蔵【やまもとかつぞう(15??~1600)】

久野重勝家臣。「久野家の六神」のひとり。1600年「石垣原の戦い」で大友義統勢と戦い討死した。

吉田重生【よしだしげお(15??~15??)】

黒田孝高家臣。通称喜三右衛門。吉田家は代々播磨守護赤松家に仕えた。赤松義村が没落すると、黒田孝高に仕えた。1600年、嫡男吉田生季は「関ヶ原の役」合戦裏切り工作で小早川秀秋の人質を務めた。

吉田長利【よしだながとし(1547~1623)】

八代道慶の男。官途は壱岐守。通称六郎太夫。「黒田家二十四騎」のひとり。父八代道慶、譲りの豪傑で二間半の槍を常に持ち歩き、一度の戦いで頸二~三を討取った。姫路において頸供養を行った。取った頸数は生涯で五十級。豊前国城攻めの時、左頬に受けた鉄砲傷一ヶ所のみという剛勇の士であった。1600年「関ヶ原の役」では、黒田高孝に属して九州各地を転戦した。

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【資料Ⅰ】

広峯神社【ひろみねじんじゃ】

広峯神社は、全国にある牛頭天王の総本宮。広峯神社の周辺には大勢の御師が居住しており、その屋敷を御師屋敷と称した。備前国福岡城から姫路城に流浪してきた黒田重隆は、御師屋敷に寄宿し広峯神社の御師が配る神符と共に黒田家秘伝の目薬を売って財を蓄え、黒田家発展の基礎を築いた。

峰相山鶏足寺【みねあいざんけいそくじ】

鶏足寺は、金堂、講堂、法華堂、常行堂、鐘楼、五重塔など、僧坊300余を誇る堂宇は、播磨国第一の名刹を誇った。1578年、羽柴秀吉が尼子勝久、山中幸盛ら尼子衆に守らせていた上月城が落城すると、峰相山鶏足寺の衆徒が蜂起した。羽柴秀吉の命を受けた黒田孝高が寺を焼き討ちにした。鶏足寺の僧兵300余人は、太市館主桐野勝条に加勢を頼み、防戦したが黒田孝高勢の攻撃を受け降参した。

松原八幡神社【まつばらはちまんじんじゃ】

松原八幡神社は、妻鹿の漁師が「八幡大菩薩」と書かれた霊木を拾い上げ、その霊木を祀ったことに始まる。原荘は、石清水八幡宮の社領となり、その別宮となった。羽柴秀吉が播磨国を平定したとき、この神社を城南の芝原に遷すように命じた。黒田孝高、羽柴秀吉に松原は由緒ある地だと諭し、この地での存続を懇願した。その際、1,000石の寺社領を60石に減封された。1584年、黒田孝高は松原八幡宮を復興する際に、拝殿を寄進した。

播磨国総社【はりまこくそうじゃ】

播磨国総社(射楯兵主神社)は、総社伊和大明神とも称された。播磨国守護職赤松家からの信仰を集めた。本殿後ろに播磨国内の神様がすべて祭ってあるため、総社と称され、釣鐘は室町時代に赤松家から寄進された。1567年、黒田職隆は、総社の拝殿や表門を再建した。

播磨国三名城【はりまこくさんめいじょう】

御着城、三木城、英賀城。

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【資料Ⅱ】

黒田八虎衆【くろだはっこしゅう】

井上之房、栗山利安、黒田一成、黒田利高、黒田利則、黒田直之、後藤基次、母里友信。

黒田二十四騎衆【くろたにじゅうよんきしゅう】

井上之房、小河伸章、菅忠利、衣笠景延、桐山信行、久野重勝、黒田一成、栗山利安、黒田利高、黒田利則、黒田直之、毛屋武久、後藤基次、竹森次真、野口一成、野村祐勝、林直利、原種良、堀正勝、益田宗清、三宅家儔、村田吉次、母里友信、吉田長利。

久野家六神【ひさのけろくしん】

久保庄助、麻田甚内、下田作右衛門、山本勝蔵、光留立右衛門、卑田九蔵。

両兵衛【りょうべえ】

羽柴秀吉に仕えた二人の軍師竹中重治(半兵衛)と黒田孝高(官兵衛)を両兵衛と称した。竹中重治と黒田孝高が同一期に羽柴秀吉に仕えたのは「播磨討伐」の短い期間でしかなかった。竹中重治は美濃国豪族衆の出身で、羽柴秀吉の「美濃攻め」「浅井家討伐」で活躍した。黒田孝高は播磨国豪族衆の出身で、地元の有力豪族小寺政職の家臣で羽柴秀吉の「播磨討伐」「九州討伐」等で活躍した。竹中重治は「播磨討伐」の陣中で病没するも、黒田孝高はその後も羽柴秀吉に仕え、豊前国六郡120,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、九州地方をひとりで平定する勢いを示した。1578年、荒木村重が謀反を起こした際には、説得を試みるが捕縛され監禁された。その際、織田信長に寝返りを疑われ人質の黒田長政(松寿丸)が処刑される寸前に匿ったのが竹中重治だった。

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【資料Ⅲ】

軍師【ぐんし】

軍師は、軍中において、軍を指揮する大名は武将の戦略指揮を助ける職務を務める者。このような職務を務める者は東アジアにおいては古代から軍中にみられたが、近代的な軍制において参謀制度が確立するまで制度としては存在しなかった。

御師【おし】

御師とは、御祈師とか御祈祷師とか呼ばれた人々の総称。神社の神符を持って播磨国を初め周辺諸国の村々に頒布して歩き、広峯信仰の普及に努めた一種の布教者。鎌倉時代から室町時代にかけての最盛期には、神社を取り巻くように広峯三十四坊と呼ばれる御師屋敷があり、神社に参拝に訪れる客たちの宿坊という役目も担っていた。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

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※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2012年8月10日金曜日

羽柴秀吉家臣団辞典(賤ヶ岳の七本槍編)


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【あ】

相田権六【あいだごんろく(15??~1646)】

加藤清正家臣。通称内匠頭。加藤清正公が「賤ヶ岳の戦い」の戦功で3,000石を領したとき、加藤清正に仕えた。1592年「文禄の役」では二王子や捕虜役人の監視にあった。1600年「宇土城の戦い」では、小西行景の援軍を撃退する戦功を挙げた。加藤清正の病没後、加藤忠広に仕えた。

足立重信【あだちしげのぶ(15??~1625)】

加藤嘉明家臣。通称半右衛門。美濃国の生まれで、若年の頃より加藤嘉明に小姓として仕えた。加藤嘉明の転封に伴い伊予国松前城主に任じられた。「文禄、慶長の役」に参陣して戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、佃十成らと共に加藤嘉明の留守居として、毛利輝元らの支援を受けて蜂起した河野家の旧臣らの軍勢を撃退する。これら戦功によって家老に任ぜられ5,000石を領した。その後は領内開発に作事奉行として従事した。伊予川の灌漑工事は下流に新たな流路を開削し堤防を築いて大改修を行い、流域に広大な耕作地を生み出した。さらに松山城の南麓を流れる湯山川の流路を変更して伊予川と合流させ、城の堀として活用する等、堅固な築堤と水制工事、城下開発に卓越した手腕を見せた。足立重信の工事により、領内では水害がなくなり、収穫も潤った。

飯田直景【いいだなおかげ(1562~1632)】

加藤清正家臣。飯田直澄の男。別名飯田覚兵衛。若年の頃から加藤清正に仕え、森本一久、庄林一心と並んで加藤家三傑と呼ばれる重臣となった。武勇に優れ、中でも槍術は特筆すべきものであった。1583年「賤ヶ岳の戦い」においても加藤清正の先鋒として活躍した。1592年「文禄の役」の際には森本一久と共に亀甲車なる装甲車を作り「普州城の戦い」の際に一番乗りを果たした。「第二次晋州城の戦い」の戦功によって羽柴秀吉から「覚」の字を与えられた。土木普請も得意とし、加藤清正の居城となった隈本城の築城には才を発揮した。名古屋城普請や江戸城普請にも奉行として参加した。加藤清正が没すると、加藤忠広に仕えたが改易後、京都にて隠棲した。

斑鳩平次【いかるがへいじ(15??~15??)】

加藤清正家臣。別名鵤平次。加藤家十六将のひとり。はじめ長尾景虎に仕え、のち諸国を流浪し荘林隼人にその武勇を認められ、加藤清正家臣となった。「文禄、慶長の役」で武功を挙げ3,000石を領した。

井上弥一郎【いのうえよいちろう(15??~15??)】

加藤清正家臣。佐敷城留守居役。梅北国兼が佐敷城を占拠すると、饗応の席を設けるとして梅北国兼を誘い出し謀殺した。

岩越昭国【いわこしあきくに(15??~1638)】  

加藤清正家臣。通称惣右衛門。馬廻衆一二組の組頭のひとり。加藤忠広の改易後は浪人した。1633年、老中酒井忠勝の推挙により細川家に仕えた。1638年「島原の乱」では、原城落城時に鉄砲傷を受け討死した。

江村宗具【えむらむねもと(15??~1664)】 

江村既在の男。通称甚太郎。和学、儒学を修める一方、医学を真直瀬道三の弟子、真直瀬宗巴に学んだ。後加藤清正公の侍医となり500石を領した。加藤清正の病没後は加藤家を辞して京都に帰り、歌人、文人として名を高めた。

大木兼能【おおきかねのり(1552~1611)】   

加藤清正家臣。大木道玄の男。官途は土佐守。通称弥介。父大木道玄は尾張斯波家に属していた。1571年「伊勢長島の一向一揆」に参陣した。織田信長の庶兄津田信広らを討取る戦功を挙げた。長島の一向一揆が滅びた後、佐々成政に属して3,000石を領し先鋒の隊長となった。佐々成政に肥後が与えられたさい佐々成政にしたがって肥後国に入国した。佐々成政没後、加藤清正に仕えた3,000石を領した。また理財の能力にもたけていて蔵元奉行を担当し、加藤家の大阪屋敷留守居兼倉米販売を取り仕切った。1611年、加藤清正が病没すると殉死した。

大木兼憲【おおきなねのり(15??~15??)】  

大木兼能の男。父大木兼能が殉死後、大木家を家督を相続した。

大崎長行【おおさきながゆき(1560~1623)】

福島正則家臣。通称玄蕃充。木村重茲に仕え、木村重茲が羽柴秀次に連座して自刃した後に福島正則に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では清洲城に詰めて、西軍が開城を迫ったが福島正則の許しがないと開城できないと頑なに城を守った。福島正則が備後国広島の太守となると鞆城を任されたが主に三原城主に留まった。福島正則が改易になったのちに松平秀忠の取り持ちにより徳川頼宣に寄合衆として仕えた。

尾関吉次【おぜきよしつぐ(15??~15??)】

福島正則家臣。官途は隠岐守。尾張国葉栗郡小日比野村出身。初めは滝川一益に仕えたがのち福島正則の家臣となった。1600年、福島家が芸備入部の際には三原城に配された福島正則養子の福島正之の後見となった。尾関正勝が独立していたため、尾関吉次の跡は正勝弟の尾関兵庫が継いだ。

尾関正勝【おぜきまさかつ(1571~1620)】

尾関吉次の男。官途は石見守。1589年「小田原の役」では、尾関正勝は父尾関吉次とともに韮山城攻めに加わり、一番乗りの戦功を挙げたが左目に銃弾を受け隻眼となった。福島正則に従い「朝鮮出兵」「関ヶ原の役」などで勇名を轟かせた広島入封後は山陰と山陽とを結ぶ交通の要地である三次地方の積山に築城し寄騎衆分も含め21,017石を領した。1616年、福島家が幕府から名古屋城造営を命じられたときには、福島正則の名代として現地に赴きその任を果たした。福島家改易のときに尾関正勝はいち早く広島城に人質を出して兵を送った。福島丹波ら重臣が広島城に集まり対策を協議したとき、正勝は欠席して日々町人と煎茶を楽しんでいたのでいぶかって理由を尋ねたところ、もはや評定の必要はない、城の明渡しを拒否して戦うのみであると答えたと言う逸話が残る。

尾関兵庫【おぜきひょうご(15??~15??)】

尾関吉次の次男。兄尾関正勝が別家を建てたので、三原城代の父尾関吉次の家督を相続した。福島家改易後は池田光政に仕え1,000石を領した。

尾関右衛門太郎【おぜきうえもんたろう(15??~15??)】

尾関正勝の男。官途は隠岐守。尾関正勝が存命中別家を建て5,500石を領した。その知行所は六郡七箇村に分散していて統治に苦慮した。父尾関正勝が病没後に福島家老となった。小姓時代にその利発さを認めた寺沢広高が自分の家中に所望したという逸話が残る。福島家改易後は池田光政に仕えた。

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【か】

梶原景俊【かじわらかげとし(15??~1600)】

加藤清正家臣。船手奉行。通称助兵衛。別名梶川才兵衛。1600年「関ヶ原の役」では、大阪屋敷より清浄院を大木兼能とともに救出した。「宇土城の戦い」では、瓢箪淵に船を乗り入れも、籠城側の銃撃により討死した。

梶原三郎【かじわらさぶろう(15??~15??)】

梶原景俊の男。通称三左衛門。別名梶川右門。梶原景俊の討死により、梶原家1,500石の家督を相続した。

梶原喜平次【かじわらきちじろう(15??~15??)】

梶原景俊の次男。

梶原藤六【かじわらとうろく(15??~15??)】

梶原景俊の三男。

糟屋武則【かすやたけのり(1562~1607)】

別所家臣糟屋忠安の次男。官途は内膳正。1577年、羽柴秀吉の「播磨討伐」では、兄糟屋朝正は別所長治について三木城に入って討死した。糟屋武則は黒田孝高の推挙により織田方につき羽柴秀吉の小姓頭となった。1583年「賤ヶ岳の戦い」で糟屋武則は佐久間盛政麾下の宿屋七左衛門を討取る戦功を挙げ福島正則や加藤清正らと共に賤ヶ岳の七本槍のひおりに数えられ播磨国加古郡で3,000石を領した。その後も「小牧、長久手の戦い」「九州の役」「小田原の役」などに参陣した。1586年、方広寺大仏の作事奉行を務めた。1591年、近江国検地奉行となって増田長盛らと共に検地を行った。1593年、播磨国三木郡の羽柴秀吉の蔵入地10,000石の代官に任じられるなど、行政面でも事績を残した。後陽成天皇の聚楽第行幸の際にも天皇の行列に供奉した。1593年「第二次晋州城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1595年、播磨国加古川城12,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では七本槍の中で唯一西軍に加わり兵360余りを率いて「伏見城の戦い」に参陣した。「関ヶ原の戦い」本戦では宇喜多秀家隊に属して奮戦した。戦後改易されるが後に許され松平元康麾下で500石を領した。

糟屋家臣団【かすやけかしんだん】

調査中。

片岡吉方【かたおかよしかた(15??~1612)】

加藤可重の三男。通称内膳。1612年、片野川で鷹狩を行っていたが、佐敷城から訪れた四人の士卒と口論となり謀殺された。

片桐且元【かたぎりかつもと(1556~1615)】

浅井家臣片桐直貞の男。室は片桐半右衛門の娘。1570年、織田信長による浅井長政への攻撃に際して、片桐直貞は小谷城の落城まで一貫して浅井方として戦った。1579年、石田三成らと共に長浜城主羽柴秀吉に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」で福島正則や加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳の七本槍のひとりに数えられ、この戦功で3,000石を領した。その後は前線で活躍することはなく、後方支援などの活動が中心となり、奉行としての街道整備や「九州征伐」では軍船の調達「小田原の役」では小田原城の接収に立会い、奥州仕置では浅利事件の調査を行う。各地の検地や境界争論の調停、鎌倉の鶴岡八幡宮の修復造営などに携わる。1592年「文禄の役」では、釜山に駐在し「晋州城の戦い」などに参陣した。1598年、大坂城番となり、城詰めとなる播磨国内に10,000石を領した。羽柴秀頼の傅役を任され、羽柴秀吉死後は秀頼を補佐した。1600年「関ヶ原の役」では西軍につき「大津城の戦い」に兵を派遣した。役後は羽柴秀頼と松平元康の調整に奔走し、松平元康から大和国に28,000石の所領を与えられた。その後も羽柴秀頼を補佐し、羽柴家と松平家の対立を避けることに尽力した。1614年「方広寺鐘銘事件」が起こって対立が激化すると、片桐且元は戦争を避けるために松平元康との和平交渉に奔走したが、松平元康と交渉している間に大野治長や羽柴秀頼生母の淀殿から松平元康との内通を疑われるようになり、大坂城を退去した。「大坂の役」には松平元康に従属するも役後突如の死を遂げた。

片桐孝利【かたぎりたかとし(1601~1638)】

片桐且元の次男。室は伊奈忠政の娘。官途は出雲守。1615年、父片桐且元の死去により片桐家の家督を相続した。高野山の造営奉行など、奉行職を良く務めた。弟の片桐為元を末期養子として、40,000石から10,000石へ減封されたが家督相続が認められた。

片桐貞隆【かたぎりさだたか(1560~1627)】

片桐直貞の次男。官途は主膳正。兄片桐且元と共に羽柴秀吉に仕え150石を領した。その後「小田原の役」「文禄の役」などに参陣して戦功を挙げ10,000石余を領した。羽柴秀吉没後は兄片桐且元と共に羽柴秀頼に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では西軍に就いて「大津城の戦い」に参陣するが、所領は安堵された。1614年「方広寺鐘銘事件」を契機に松平元康との内通を疑われ、兄片桐且元と共に松平元康に仕えた。「大坂夏の陣」の後、大和国小泉で16,000石を領した。

片桐家臣団【かたぎりけかしんだん】

調査中。

加藤清信【かとうきよのぶ(15??~1547)】

長井規秀家臣。官途は因幡守。美濃の長井規秀に仕えた。1547年、織田家との戦で討死した。

加藤清忠【かとうきよただ(1526~1564)】

加藤清信の男。通称正左衛門。父加藤清信の死後、長井規秀に仕え美濃今須城代。負傷により武士をやめ、遠縁にあたる関兼員のもとで鍛冶としての修行した。関弥五郎兼員六人の娘は、杉原家利室、大政所、青木秀以生母、加藤清正生母、小出秀政生母、福島正則生母。羽柴秀吉の母方の祖父は刀鍛冶であった。加藤清正が三歳の時に病没した。

加藤清重【かとうきよしげ(1544~1598)】

加藤清信の次男。通称喜左衛門。

加藤清正【かとうきよまさ(1562~1611)】

羽柴秀吉家臣。加藤清忠の二男。官途は主計頭。通称虎之助。室は菊池武宗の娘本覚院(川尻殿)。身の丈は六尺を超え、腰には三尺五寸の大刀を佩いていた。幼時に父を亡くし、福島正則らと共に羽柴秀吉子飼いの武将として育てられた。1576年、長浜で170石を領した。1581年「因幡鳥取城の戦い」で初陣した。1583年「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げ「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられ3,000石を領した。1587年「九州征伐」では後備えとして肥後国宇土城に在城した。1588年、佐々成政の後を受けて北肥後国隈本城195,000石を領した。1592年「文禄の役」では小西行長と共に先鋒として、咸鏡道を破竹の勢いで進んで朝鮮の二王子を捕獲。「第一次蔚山城の戦い」で戦功を挙げた。講和推進派の小西行長や石田三成と対立朝鮮の陣から召還された。1598年「慶長の役」において再び渡海し「第二次蔚山城の戦い」で籠城戦を耐え抜いた。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康方として肥後国にあって、西軍についた小西行長の宇土城、立花宗茂の柳河城を攻め落とした。役後、肥後国の515,000石を領した。1611年、羽柴秀頼と松平元康の会見では、浅野幸長と共に羽柴秀頼を護り、会見を無事に終わらせたが、隈本に帰る途中に病没した。

加藤忠正【かとうただまさ(1599~15607)】

加藤清正の次男。幼名熊之助。加藤清正のには山崎片家の娘との間に嫡男虎熊がいたが「文禄の役」中に病没した。1603年、松平元康によって江戸幕府が開かれ加藤家江戸屋敷が設けられると、熊之助は将軍家への人質として江戸に置かれた。1607年、疱瘡を患い、将軍松平秀忠より名医を遣わされるがその甲斐なく、江戸屋敷で病没した。

加藤忠広【かとう ただひろ(1601~15??)】

加藤清正の三男。官途は肥後守。室は蒲生秀行の娘(琴姫)で松平秀忠の養女。兄加藤忠正が病没したため世子となった。1611年、父j加藤清正の病没により加藤家の家督を相続した。若年のため藤堂高虎が後見人となり家臣による合議体制で家政を行った。統率力に欠け、家臣団を完全に掌握することができず、牛方馬方騒動など重臣の対立が発生し、政治は混乱した。1632年、江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて上使稲葉正勝より改易の沙汰があり、出羽庄内藩主酒井忠勝にお預けとなった。

加藤光広【かとうみつひろ(15??~1633)】

加藤忠広の男。飛騨国高山に流され病没した。

加藤安政【かとうやすまさ(15??~15??)】

加藤清正家臣。智勇兼備の武将。「慶長の役」では、蔚山倭城に押し寄せた明の大軍を鉄砲で撃退した。

加藤重次【かとうしげつぐ(15??~15??)】

六角家臣。六角家の滅亡後、富山城主佐々成政に仕えた。佐々成政が隈本城主として肥後国に入封すると、実弟井上吉弘と共に肥後に入る。佐々成政が肥後国人一揆への不手際により自刃されると、加藤清正に仕えた。「文録の役」でも戦功を挙げた。「慶長の役」では講和破談後の加藤清正は、加藤重次、飯田直景、森本一久、井上吉弘等側近500余りで蔚山城にろ籠城。乏しい食料の中、明軍の大軍を撃破した。加藤清正の病没後は、加藤忠広を支える大老五人衆のひとりとなった。

加藤可重【かとうよししげ(15??~1604)】

片岡清左衛門の男。通称右馬允。加藤清正の遠縁である片岡清左衛門の嫡男で、その縁で加藤清正に仕えた。加藤清正の肥後国入封後は肥後内牧城代を務めた。1592年「文録の役」で嫡男加藤重正が討死した。次男加藤正方が幼いため、甥を養子にした。 

加藤正方【かとうまさかた(1580~1648)】

加藤可重の次男。通称右馬充。加藤家十六将のひとり。兄が討死したため、家督は従兄が継ぐが、のちにその養子となり家督を相続した。肥後内牧城代。百八騎持。加藤清正の病没後、加藤忠広の家督相続を嘆願した。枝連衆の加藤正次との御家騒動を引起した。家臣西山宗因は俳句の祖として知られる。治水、干拓などで城下を発展させたが、加藤忠広改易により失領した。

加藤正直【かとうまさなお(15??~1643)】

加藤正方の男。室は加藤清正の娘。長尾善政没後、岩尾城代。1612年、幕命により内牧城代。幕府旗本として700石を領した。

加藤正次【かとうまさつぐ(15??~15??)】

加藤清正家臣。官途は美作守。肥後筒ヶ嶽城代。加藤忠広の五家老のひとり。1611年、加藤清正が病没して次男加藤忠広が家督を相続すると、加藤正次が家中で発言力を持つようになった。1618年、加藤正方派の下津宗秀が、加藤忠広の舅であった玉目丹波守や加藤正次らを幕府に訴えた。加藤家の内訌が幕府に露見。幕閣は関係者と藩主の忠広を江戸で吟味。松平秀忠みずからの裁決によって加藤忠広の責任は不問としたうえで、加藤正方らには勝訴を申し渡した。一方で敗訴した正次派の多くは配流処分を受けた。

加藤教明【かとうよしあき(15??~15??)】

松平家臣。通称三之丞。松平家臣であったが「三河一向一揆」の際に三河国を離れた。嫡男加藤嘉明は羽柴秀勝に仕えた。1578年、羽柴秀吉の播磨攻めに無断で参陣した。羽柴秀勝は激怒し、羽柴秀吉の母を通じて加藤嘉明の処罰を求めた。しかし、羽柴秀吉は加藤嘉明の覇気が気に入り、朝明に息子は見所のある男だと誉めた。

加藤嘉明【かとうよしあき(1563~1631)】

羽柴秀吉家臣。加藤教明の男。官途は左馬助。通称は孫六。室は堀部市右衛門の娘。父加藤(岸)教明と共に近江国に移って羽柴秀吉に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げ「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられ3,000石を領した。1585年「四国征伐」では、羽柴家海賊衆を率いて活躍した。1586年、淡路国志智城主15,000石を領した。1587年「豊後戸次川の戦い」で、敗走する羽柴家勢の殿軍を務め30,000石を加増された。1595年、伊予国松前城60,0000石を領した。「文禄、慶長の役」では羽柴家海賊衆を率いて参陣し、巨済島で李氏朝鮮警固衆を撃破する戦功を挙げ100,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では松平元康方に属し「岐阜城の戦い」「大垣城の戦い」で戦功を挙げ200,000石を領した。1614年「大坂冬の陣」では、松平元康方に属したが、江戸城留守居役に任じられ、嫡男加藤明成を参陣させた。1627年、会津若松城400,000石を領した。戦場では剛毅な武将であったが領主としても優れた民政家であり、とくに治水、鉱山開発、交通網整備などの土木事業に非凡な才能を示した。蝋、漆器などの産業育成にも努めて内政の充実を図った。

加藤忠明【かとうただあき(15??~15??)】

加藤教明の次男。通称は内記。1600年「関ヶ原の役」では、伊予国松前城を守備した。城を攻めてきた毛利輝元勢と戦い撃退した。

可児吉長【かによしなが(1554~1613)】

福島正則家臣。通称可児才蔵。宝蔵院流槍術の開祖、覚禅房胤栄に槍術を学んだ。討取った頸に笹を噛ませ目印にしたことから「笹の才蔵」と称された。斎藤龍興に仕えたが滅亡したため、織田信長家臣であった柴田勝家、明智光秀、前田利家、森可成らに仕えた。1583年、織田信孝に仕えるも織田信孝が羽柴秀吉の攻撃を受けて自刃したため羽柴秀次に仕えた。「小牧、長久手の戦い」で羽柴秀次が松平元康に大敗を喫すると、羽柴秀次と対立して浪人になった。その後は佐々成政に仕えたが長続きしなかった。その後、伊予国110,000石の領主となった福島正則に仕え750石を領した。1590年「小田原の役」では北条氏規が守備する「韮山城の戦い」に参陣し、このとき先頭に自ら立って攻撃した。1600年「関ヶ原の役」では福島勢の先鋒隊長として参陣し、この戦いでも敵兵の頸を十七も取り松平元康からも賞賛された。この戦功により1,250石を領した。福島正則が「関ヶ原の役」の戦功により安芸国広島城480,000石に転封されるとそれに従った。

河村権七【かわむらごんしち(15??~15??)】

加藤嘉明家臣。1600年「関ヶ原の役」で戦功を挙げた。生来頑固であり、あるとき、加藤嘉明と行き違いで口論となり加藤家を出奔した。1614年「大阪の冬の陣」が起こると江戸城に留守居役となった加藤嘉明に帰参を願い出ると、加藤嘉明は河村権七を再び800石で召抱えた。

並河宗照【かわなみむねてる(15??~15??)】

加藤清正。官途は志摩守。通称金右衛門。加藤家五家老のひとり。加藤清正の病没後、国政を委ねられる。1618年、加藤正方一派は対立する加藤正次一派の行状を幕府に訴えた。酒井忠世邸にて裁きが行われた。並河宗房は加藤正方に属した。ここで加藤正方派は加藤正次派が「大坂の陣」に際し、大船二艘で大坂城に援軍を送ろうとしたと述べた。加藤正方派の言い分が認められ、加藤正次一派は処罰された。加藤家改易によって浪人ったが、土佐山内家に2,000石で仕えた。のちに、山内忠義の次男山内安豊を養子に迎え家老職3,000石を領した。山内忠義の三男山内一安が病没すると、山内安豊が末期養子として山内一安の跡を継ぐことになった。山内忠義は並河家を絶やさぬよう考え、深尾重昌の次男深男主税助を並河宗照の養子にした。

貴田統治【きだむねはる(15??~15??)】

加藤清正家臣。佐竹勘兵衛の男。通称孫兵衛。別名毛谷村六助。「加藤家十六将」のひとりで900石を領した。怪力と俊足の持ち主。「文禄、慶長の役」では鉄炮衆40名余りを率いて参陣した。足の速さを見込まれ、漢城陥落の報を名護屋に届けるための使者となり、わずか二週間で名護屋まで達した。貴田孫兵衛の一族は、加藤家改易後は細川家に仕えた。

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【さ】

坂川忠兵衛門【さかがわちゅうざえもん(15??~15??)】

加藤清正家臣。加藤家母衣衆のひとり。1600年「宇土城の戦い」で戦功を挙げた。宇土城攻めの時は二番槍をつける等勇猛の士であった。

下川兵太夫【しもかわへいだいふ(15??~15??)】

加藤清正家臣。1592年「文禄の役」に参陣した。著書に「清正高麗陣覚書」。

下津宗秀【しもつむねひで(15??~1613)】

加藤清正家臣。公家久我晴通の三男。官途は将監。別名久我棒庵。幼少で出家し相国寺、鹿苑寺の僧となった。加藤清正が京都所司代の勧めていたとき、還俗し清正に仕えて下津将監宗秀と称した。上方情勢に詳しく清正の政治顧問、折衝方的役割を担った。

下津宗政【しもつむねまさ(15??~15??)】  

下津宗秀の男。官途は将監。通称内記。加藤家取り潰し後は細川家に仕えた。

下川元宣【しもかわもとのぶ(15??~1612)】
  
加藤清正家臣。下川元綱の次男。通称又左衛門。羽柴秀吉の馬廻り衆であったが後に加藤清正に仕えて勘定役の仕事をした。戦場の武者活躍は少ないが肥後入国後は隈本城留守居として領内統治の責任者として内政を司った。加藤清正の病没後は五大老のひとりとして加藤忠広を支えた。

庄林一心【しょうばやしかずただ(15??~1631)】

加藤清正家臣。官途は豊後守。別名庄林隼人。飯田直景、森本一久と並んで加藤家三傑と呼ばれる重臣。はじめ摂津国高槻の国人領主で荒木村重の家臣。荒木村重の没落後に仙石秀久に仕えた。のちに加藤清正に仕えた。飯田直景、森本一久に比べ家臣となったのは遅かったが加藤清正の信頼は厚く、先手の大将として朝鮮出兵の「第二次晋州城の戦い」では晋州城への一番乗りの戦功を挙げた。「天草一揆討伐」などでも活躍し朱槍を与えられた。加藤家改易後、細川家に仕え1,380石を領した。

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【た】

佃十成【つくだかずなり(1553~1634)】

加藤嘉明家臣。岩松玄蕃丞の男。通称は次郎兵衛尉。岩松玄蕃丞は三河国加茂郡猿投の豪族衆。初め織田信長麾下のちに松平元康に仕えた。1585年、些細なことから松平元康と争いを起こして国を追われ、摂津国西成郡佃に蟄居した。その後加藤嘉明に仕え「九州の役」「小田原の役」「文禄、慶長の役」に参陣して戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」の際には、本戦に出陣した加藤嘉明の留守居として領地の伊予松前城に残り、毛利輝元らの支援を受けて蜂起した河野家の旧臣らの軍勢を策をもって撃退した。この戦功によって伊予国浮穴郡久万山城6,000石を領した。

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【な】

長尾一勝【ながおかずかつ(1550~1619)】

福島正則家臣。山路正幽の次男。官途は久之丞。通称は勘兵衛。別名山路種常。神戸信孝の家老小島兵部の家臣。のちに福島家に仕え福島家三家老と称された。1590年「小田原の役」では、福島正則の家臣として出陣し、北条氏規が籠もる韮山城攻めでは、城壁に三度よじ登り、城内から三度突き落とされて負傷した。1600年「関ヶ原の役」後、福島正則が安芸国に入ると、備後国東城五品嶽城主となった。1614年「大坂冬の陣」でも戦功を挙げた。

中川寿林斎【なかがわじゅうりんさい(15??~1622)】

加藤清正家臣。枝連衆として加藤姓を与えられ、熊本城留守居役を勤めた。1618年、御家騒動では、加藤正次に属し、嫡男加藤正辰とともに流罪となった。

中村将監【なかむらしょうげん(15??~15??)】

加藤清正家臣。水俣城代。水俣城破却後は隈本城で家老職を務めた。1618年、御家騒動では加藤正方に属した。

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【は】

塙直之【ばんなおゆき(1567~1615)】

加藤嘉明家臣。別名塙団右衛門。はじめは織田信長に仕えたが、普段はおとなしい性格なのが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖があり重用さなかった。羽柴秀吉にも仕えたが羽柴家でも重用されなかった。後に加藤嘉明の家臣として仕え、鉄砲大将として活躍した。加藤嘉明に従って「朝鮮出兵」にも参加して活躍し、その戦功により350石を領した。1600年「関ヶ原の役」の際、鉄砲大将を任されながら、隊を置いて槍を持って突撃するという軍令違反により嘉明と対立し、そのもとを去った。その後、小早川秀秋や松平忠吉に仕えたが、どちらも数年で断絶。そして福島正則らに仕えたが、加藤嘉明によって仕えることができなくなった。1614年「大坂冬の陣」に羽柴方として参加し、大野治房の元で本町橋の夜襲戦で戦功を挙げる。1615年「大坂夏の陣」では大将に任じられたが、緒戦における浅野長晟攻めでの「樫井の戦い」において一番槍の功名を狙い、先陣の岡部則綱と競い合って突出し、大野治房本隊や和泉国の一揆勢との連携が取れないまま、奮戦はしたものの矢を受けて落馬し、背後から槍を突かれて討死にした。

平野長泰【ひらのながやす(1559~1628)】

平野長治の男。官途は遠江守。「賤ヶ岳の七本槍」のひとり。若くして羽柴秀吉に仕えた。1583年、羽柴秀吉と柴田勝家の「賤ヶ岳の戦い」で、福島正則、片桐且元らと共に格別の働きをして「賤ヶ岳の七本槍」と称えられた。その後、戦功を重ねて大和国で5,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では東軍に付き、松平秀忠の麾下に属した。1614年「大坂冬の陣」では羽柴方に合流しようとしたが、江戸留守居役を命じられ留め置かれた。七本槍の中で唯一大名とならなかったが、松平秀忠麾下の馬廻衆として仕えた。

平野家臣団【ひらのけかしんだん】

調査中。

福島正信【ふくしままさのぶ(1525~1597)】

尾張国海東郡で桶屋。通称は市兵衛。尾張国海東郡で桶屋をしていた。室が羽柴秀吉の叔母に当たったことから羽柴秀吉に召し出されて家臣として仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」に参陣した。

福島正則【ふくしままさの(1561~1624)】

福島正信の男。羽柴秀吉家臣。官途は左衛門尉。室は津田長義の(照雲院)娘。賤ヶ岳の七本槍のひとり。1578年「播磨三木城の戦い」で初陣を飾る。1582年「山崎の戦い」では、勝龍寺を攻撃するなどして戦功を挙げた。1583年「賤ヶ岳の戦い」のときは一番槍として敵将拝郷家嘉を討取る選考を挙げ「賤ヶ岳の七本槍」のひとりと称され5,000石を領した。1584年「小牧、長久手の戦い」では、父福島正信とともに、後備えとして兵300を率いて参陣した。1587年「九州征伐」の後、伊予国今治城110,000石を領した。「小田原の役」では、織田信雄勢に属して、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生氏郷などとともに韮山城を攻撃した。1592年「文禄の役」では五番隊の主将として戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総などを率いて京畿道の攻略にあたった。 講和交渉の進展により南部布陣が決まったため、福島正則は巨済島の松真浦城や場門浦城の守備、補給などの兵站活動を担当した。「場門浦海戦」では李氏朝鮮警固衆を率いる李舜臣と戦い撃退した。1595年、尾張国清洲城240,000石を領した。武勇に優れた福島正則は文治派の石田三成ら対立した。1599年、前田利家が病没すると、加藤清正と共に石田三成を襲撃した。養子の福島正之と松平元康の養女満天姫との婚姻を実現させた。1600年「会津征伐」では6,000人余りを率いて参陣した。「関ヶ原の役」では「岐阜城の戦い」では、池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させた。「関ヶ原の戦い」では、宇喜多秀家勢17,000余りと激闘を繰り広げた。役後安芸国広島城498,200石を領した。1619年、水害で破壊された広島城の石垣等を幕府に無断で修理したことが武家諸法度違反に問われ改易された。

福島高晴【ふくしまたかはる(1573~1633)】

福島正信の次男。通称助六郎。室は村井貞勝の娘。継室は村上通康の娘。兄福島正則と共に羽柴秀吉に仕えた。1594年、伊勢国長島城10,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、兄福島正則と共に松平元康方に属して「会津征伐」に参陣した。西軍が挙兵すると本国に戻って石田三成方の桑名城主氏家行広を攻めた。その戦功により役後、大和国宇陀郡松山城30,000石を領した。移封後は、松山城の改修や城下街の整備に取り組んだ。1615年「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼方に内通密かに兵糧を大坂城に入れていた。のちに改易された。

福島正晴【ふくしままさはる(15??~1640)】

福島高晴の男。通称岩松修理。1600年「関ヶ原の役」後、父福島高晴は戦功を賞されて大和国宇陀郡松山城30,000石を領した。1615年、父福島高晴が「大坂夏の陣」において羽柴秀頼に内通していた嫌疑をかけられて改易された。父福島高晴に連座して伊勢国山田に移り住んだ。

福島正之【ふくしままさゆき(1585~1608)】

別所重宗の七男。福島正則の養子。官途は刑部少輔。室は満天姫(松平康元の娘)。福島正則の嫡男福島正友が夭折したため、福島正則の養嗣子となる。1599年、松平元康の養女満天姫を娶った。1600年「関ヶ原の役」に参陣し、「竹ヶ鼻城の戦い」「岐阜城の戦い」で戦功を挙げた。1607年、福島正則から「近頃は乱行を行なうなどして狂疾である」と幕府に訴えられ、幽閉処分に処される。この訴えは福島正則が実子の福島忠勝に後を継がせるために行なった虚偽であった。室の満天姫との間に男子があったが、満天姫が実家へ戻る際にともに連れて行った。満天姫は後に津軽信枚に再嫁した。福島正之の子は津軽信枚の弟分となった後、津軽家臣の大道寺直英の婿養子となり大道寺直秀と称した。

福島忠勝【ふくしまただかつ(1598~1620)】

福島正則の次男。義兄福島正之が没した後嫡子となった。1614年「大坂冬の陣」では父福島正則は江戸城留守居役として江戸に留めおかれたが、福島忠勝は大坂に出陣した。1615年「大坂夏の陣」は遅参したため、破壊された道や堤の修復をした。1619年、父福島正則が幕命によって改易された時、将軍松平秀忠の上洛に随行していたが、父福島正則と共に信濃高井野藩に移った。この際、福島正則から家督を譲られた。1620年、父福島正則に先立って病没した。

福島治重【ふくしまはるしげ (15??~15??)】

福島正則家臣。福島正則の叔父。官途は丹波守。1600年「関ヶ原の役」では奮戦して片足を負傷し、その後は不自由となった。福島正則からの信頼篤く、広島入封後は三原城を任された。1619年、福島正則が改易となったとき,江戸から福島正則の書状がとどくまで城の明け渡しを拒否し籠城した。書状の到着後、城の糧器,家臣の俸禄などの記録をのこして城をさった。藤堂家に仕えた福島治重の嫡男福島長門守は大坂に入城を試みるも途中で藤堂勢が発見され討死した。

文英清韓【ぶんえいせいかん(15??~1615)】

南泉寺住職。別名中尾重忠。加藤清正の右筆。1592年「文禄の役」では加藤清正に属して朝鮮半島に渡った。1600年、京都東福寺の長老となり、その後南禅寺の長老となった。羽柴秀頼にも重用され、方広寺大仏殿再建に際しては鐘に銘を刻んだ。これが有名な「前征夷大将軍従一位右僕射源朝臣家康公」、「国家安康 君臣豊楽 子孫殷昌」の文字である。片桐且元と共に釈明をするも訴えが認められることはなかった。清韓は己の刻んだ文字が羽柴家討伐に利用されたことを悔やみ、羽柴秀頼と運命を共にした。

堀主水【ほりもんど(1584~1641)】

加藤嘉明家臣。多賀井家に生まれた。多賀井家は和泉淡輪の土豪で織田信長に属して紀伊の根来雑賀衆と戦った。堀主水は加藤嘉明に仕え「大坂夏の陣」で敵と組み合いながら堀に落ちたが討取ったので堀という姓と采配が与えられ3,000石を領した。加藤明成と不和になり、遂に出奔した。妻子を鎌倉東慶寺に預け、高野山に身を寄せた。加藤明成は高野山に主水の身柄引き渡しを要求。身の危険を感じた堀主水は幕府に明成の行状を二十一箇条にまとめ、幕府に直訴した。幕府は会津城銃撃の罪により主水を死罪にした。明成は主水だけでなく、東慶寺にいた主水の妻子も処刑した。

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【ま】

三宅角左衛門【みやけかくざえもん(15??~15??)】

加藤清正家臣。三宅角左衛門の麾下の足軽は、明の正使である李宗城の私物を奪い逃亡した。この一件は大問題となり、加藤清正は帰国を命じられ伏見屋敷に蟄居することとなった。

森本一久【もりもとかずひさ(1560~1612)】

加藤清正家臣。森本一慶の男。別名森本儀太夫。若年の頃より加藤清正に仕え、飯田直景、庄林一心と並んで加藤家三傑と呼ばれる重臣であった。朝鮮出兵の際、「第二次晋州城の戦い」において飯田直景と共に亀甲車なる装甲車で城の石垣を破壊し、黒田長政の配下で黒田八虎に挙げられる後藤基次と争いながらも一番乗りの戦功を挙げ羽柴秀吉から「義」の字を与えられた。土木普請も得意で、隈本城築城、江戸城築城にも才をなした。1611年、加藤清正が没すると、その後を追うように翌年病没した。

森本一友【もりもとかずとも(15??~15??)】

森本一久の男。森本一友も武勇に優れ、加藤家二十四将に数えられるほか「天草一揆鎮圧」にも活躍した。加藤家改易後、細川家に仕え5,100石を領した。

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【や】

吉村橘右衛門【よしむらきちざえもん(15??~15??)】

加藤清正家臣。1600年「宇土城の戦い」で三番備頭。堤権右衛門と共に麦島城の接収を行い、守将として城に残った。

脇坂安治【わきざかやすはる(1554~1626)】

脇坂安明の男。官途は中務少輔。室は西洞院時当の娘。はじめ浅井長政に仕えた。1573年、浅井家滅亡以後は、織田家に属し明智光秀の寄騎衆として「黒井城の戦い」で戦功を挙げる。後に、羽柴秀吉の家臣となり「三木城の戦い」「神吉城の戦い」などで、羽柴秀吉の諸戦に参陣して戦功を重ねた。1583年「賤ヶ岳の戦い」では、福島正則や加藤清正らと共に活躍し賤ヶ岳の七本槍のひとりに数えられその戦功により山城国に3,000石を領した。「小牧、長久手の戦い」では伊勢、伊賀方面で滝川雄利の伊賀上野城を攻略するなどの戦功を挙げ、淡路国30,000石を領した。その後は加藤嘉明や九鬼嘉隆らと共に海賊衆の指揮官を務め「九州征伐」「小田原征伐」や「朝鮮出兵」などに参陣した。「九州征伐」では、豊前国に到着後、臼杵城の大友義鎮の元に兵糧米を輸送している。以後、羽柴秀吉の命で黒田孝高の麾下に入った。薩摩国の平佐城を小西行長らとともに攻撃開城させた。「小田原の役」では海上から伊豆国下田城を攻め落とし、小田原城受け取りの検使を務めた。1592年「文禄の役」では、漢城近郊の龍仁を守備中に全羅道観察使の李洸などが率いる朝鮮勢約50,000余りの攻撃を受けるが機先を制して夜襲を行い朝鮮勢潰走させた。李舜臣による水軍の活動を抑えるために加藤嘉明、九鬼嘉隆と共に海賊衆を編成するが、功を逸って単独で抜け駆けした脇坂安治は閑山島海戦で李舜臣に大敗した。1600年「会津征伐」では、松平元康の元に嫡男脇坂安元を参陣させようとしたが、石田三成らに妨害され引き返させた。脇坂安治は山岡景友を松平元康に通じた。「関ヶ原の戦い」では、東軍と内通の風聞があった小早川秀秋に備えて朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと共に配置されていたが、小早川が黒田長政と通じていたのと同様に、脇坂もまた藤堂高虎より工作を受けており、小早川隊が大谷隊を攻撃するとそれに乗じて他の三将と共に寝返り、平塚為広、戸田重政の両隊を壊滅させた。石田三成の佐和山城攻略にも参加している。同じく寝返った他の三将と異なり、戦前に通款を明らかにしていた為、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に家康から所領を安堵された。

脇坂安元【わきざかやすもと(1584~1653)】

脇坂安治の次男。通称甚太郎。兄脇坂安忠がいたが、若くして病没したために嫡子となった。室は石河光元の娘。1600年「会津征伐」が起こると、父脇坂安治の命で松平元康方に参陣しようとしたが、石田三成らに阻まれた。石田三成らが挙兵すると、大坂に滞在していた脇坂安治、脇坂安元は西軍方に従って関ヶ原ぼ左翼に布陣した。小早川秀秋の裏切りを機に東軍に寝返り大谷吉継隊を壊滅させ、石田三成の居城佐和山城攻めに加わるなど東軍の勝利に貢献した。1606年、江戸城の普請を行っている。1615年「大坂冬の陣」が勃発すると、藤堂高虎麾下で「生玉の戦い」で戦功を挙げた。「大坂夏の陣」においては土井利勝とともに「天王寺の戦い」で戦功を挙げた。父脇坂安元の隠居に伴い大洲城53,500石を領した。1617年、信濃国飯田城55,000石を領した。飯田城の城下街を整備し、飯田城の掘割を完成させ、街道の流通と伝馬を確立し、飯田十八町を完成させ、文化産業振興にも力を注ぐなど、飯田の発展に尽くした。

脇坂家臣団【わきさかけかしんだん】

脇坂一盛、脇坂一長、脇坂安盛、脇坂景直、田中安義。

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【資料Ⅰ】

調査中。

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【資料Ⅱ】

賤ヶ岳の七本槍【しずがたけのしちほんやり】

「賤ヶ岳の戦い」において活躍した、七人の羽柴秀吉の馬廻衆。福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元。

福島家三家老【ふくしまけさんかろう】

長尾一勝、尾関正勝、大崎長行。

加藤家三傑【かとうけさんけつ】

飯田覚兵衛 庄林隼人 森本儀太夫。

加藤家五家老【かとうけごかろう】

加藤家十六将【かとうけじゅうろくしょう】

加藤与左右衛門、本山安政、鵤平次、龍造寺又八、吉村吉左衛門、九鬼四郎兵衛、山内甚三郎、木村又蔵、天野助左衛門、斎藤立本、赤星太郎兵衛。

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【資料Ⅲ】

調査中。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※主な引用参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東、西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東、西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「歴史読本(戦国豪商列伝)」新人物往来社、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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