2012年9月4日火曜日

戦国播磨国人名辞典

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【あ】

明石長行【あかしながゆき(15??~15??)】

明石郡枝吉城主。明石則行の男。赤松晴政家臣。官途は備前守。別名明石正風、明石宗和。歌道に通じ、近衛家などと親交を持った。1531年「武庫河原の戦い」で浦上村宗を討取った。1538年、尼子晴久勢の播磨国侵攻では、御着城主小寺則職と共に尼子晴久勢に属して赤松政村と戦った。赤松政村とは敗れて、淡路国岩屋城に落延びた。赤松政村は、阿波細川持隆の援軍を得て船で明石に上陸した。赤松政村、細川持隆連合軍は、人丸塚付近に布陣し明石長行がいる枝吉城を攻囲した。明石長行は、大軍を見て戦意を失い和睦した。

明石祐行【あかしすけゆき(15??~15??)】

明石長行の男。1538年、父明石長行が赤松晴政に叛いた際、これに属して赤松晴政と戦った。1555年、赤松義祐、三好長慶、三好義賢と戦った。
その後、三好長慶に属して「河内高屋城の戦い」に参陣した。1566年、三好三人衆に属して「滝山城の戦い」に参陣した。

明石安正【あかしやすまさ(15??~15??)】

明石長行の次男。宇喜多秀家に仕えた。

明石安行【あかしやすゆき(15??~15??)】

明石安正の男。室は久野重誠の娘。黒田長政に仕えた。

明石貞行【あかしさだゆき(15??~15??)】

明石祐行の男。官途は越前守。「第一次枝吉城の戦い」では、祖父明石長行が赤松晴政に降伏した為、明石貞行も細川晴元に属していた。三好長慶は「江口の戦い」で、細川晴元に属する三好政長を討取り、細川晴元勢を畿内から追放した。阿波国に弟三好義賢、讃岐国十河一存、淡路国安宅冬康、摂津国と京都は、三好長慶が治めたが、阿波国から京都への補給路を確保するため、枝吉城が細川晴元方に属している枝吉城を攻撃した。1554年、三好義賢と篠原長房勢が枝吉城を攻撃すると、明石貞行は籠城した。1555年、三好長慶勢が援軍に現れると、軍勢の多さに明石貞行は降伏したその後三好長慶軍は依藤城主三木次郎を降した。播磨東国ニ郡を手に入れた三好長慶勢は芥川山城に帰城した。

明石則実【あかしのりざね(15??~1595)】

明石貞行の男。官途は左近将監。通称与四郎。1577年、羽柴秀吉が播磨国に侵攻すると播磨国人衆は毛利輝元か織田信長かの二者択一を迫られた。播磨国人衆は別所長治の拠る三木城に入り、反織田信長の旗色を鮮明にした。明石則実は三木入城には入らず、黒田孝高と共に、羽柴秀吉勢に属した。1583年「賤ヶ岳の戦い」に参陣した。1585年「紀州征伐」では、戦功を挙げ但馬国豊岡城22,000石を領した。1587年「九州征伐」では兵800余り率いて参陣した。1588年「聚楽第行幸」では、関白となった羽柴秀吉の牛車に供奉した。1589年「小田原征伐」では、羽柴秀吉の馬廻衆として参陣した。1592年「文禄の役」にも、兵800余り率いて朝鮮半島へ渡海し、大邱など釜山から漢城に向かう慶尚道内の要路の防衛を担当した。1595年「羽柴秀次事件」に連座して自刃した。

飾磨赤松晴政【あかまつはるまさ(1513~1565)】

飾磨郡置塩城。赤松義村の男。官途は左京大夫。播磨国、備前国、美作国守護職。通称次郎。置塩城30,000石を領した。1520年、父赤松義村は備前国守護代浦上村宗との対立し敗れ隠居を余儀なくされ、赤松晴政は八歳で飾磨赤松家の家督を相続した。1521年、父赤松義村は備前国守護代浦上村宗に謀殺された。赤松晴政は浦上村宗と再び争い、置塩城を追われ美作国新庄山城へ落延びた。1531年、浦上村宗は細川高国を擁して細川晴元と対立し、摂津国に侵攻した。赤松晴政は細川高国、浦上村宗の後詰めとして参陣していたが、堺公方足利義維へ密かに人質を送って裏切りを確約していた。赤松晴政は、細川晴元勢に内応して細川高国、浦上村宗勢を背後から攻撃した。細川高国、浦上村宗勢は細川晴元勢の前に大惨敗を喫し浦上村宗は討死、細川高国も自刃した。赤松晴政は、浦上村宗の男浦上政宗や浦上宗景との抗争を続けた。1538年、尼子晴久勢が播磨国に侵攻すると、赤松晴政は、三木城主別所就治を頼って落延びたが、別所就治も尼子晴久に内通した為、堺に落延びた。1540年「安芸吉田郡山城の戦い」で、尼子晴久、尼子久幸勢が毛利元就、大内義隆勢の連合軍に敗北し、尼子久幸が討死した。それにより、播磨国での尼子晴久の勢力は減退した。1552年、尼子晴久が備前国、美作守護職に任ぜられ、赤松晴政は守護としての二ヶ国の権限を失い、赤松家中の主導権も浦上政宗に握られた。1558年、浦上政宗が擁立する嫡男赤松義祐と対立し、娘婿の赤松政秀の居城龍野城に落延びた。赤松政秀の庇護の元で赤松義祐、浦上政宗と争った。

飾磨赤松義祐【あかまつよしすけ(1537~1576)】

赤松晴政の男。官途は左京大夫。通称次郎。室は細川晴元の娘。1554年、三好長慶に内応して安宅冬康と共に明石城の細川晴元を攻めた。1558年、浦上政宗に擁立され父赤松晴政を追い落として、赤松家の家督を相続した。赤松晴政は娘婿の赤松政秀を頼り龍野城に拠り、赤松義祐に対抗した。1564年、浦上政宗の嫡男浦上清宗と黒田職隆の娘との婚姻の義を赤松政秀が奇襲し、浦上政宗、浦上清宗親子が討取られるなど対立状態が続いた。1565年、赤松晴政が病没すると、赤松義祐は赤松政秀と和睦したが、赤松政秀の勢力は赤松義祐の勢力を凌いでいた。1568年、足利義昭が室町幕府第十五5代将軍に就任すると、赤松政秀は自分の娘を足利義昭の侍女として仕えさせようとした。赤松義祐は、赤松政秀の行動を抑制させるため、御着城主小寺政職に命じて京へと向かう政秀の娘を拉致させた。赤松義祐は、浦上宗景と結んで赤松政秀と戦った。劣勢に立たされた赤松政秀は足利義昭に救援を求めた。池田勝正を大将とする摂津衆に別所安治が加わった軍勢が赤松義祐領に侵攻した。浦上宗景も宇喜多直家の謀反によって備前国に撤退した。浦上宗景勢を失った赤松義祐は小寺政職と結んで池田勝正、別所安治に対抗したが庄山城、高砂城などを次々と攻略され窮地に立たされた。しかし、摂津衆は途中で織田信長によって呼び戻され畿内へと撤退し、別所安治も兵を退いた。赤松義祐は織田信長に接近し関係修復を行い、織田信長に臣従し龍野城を攻める浦上家勢と戦ったが、まもなく浦上宗景が降伏した。1570年、嫡男赤松則房に家督を譲り隠居した。

飾磨赤松則房【あかまつのりふさ(1559~1598)】

赤松義祐の男。衰退した赤松家であったが、赤松則房は旧守護としての権威を利用し、播磨国内において一定の影響力を保持していた。織田信長の命を受けた羽柴秀吉率いる中国方面軍が侵攻して来ると降伏し、羽柴秀吉の麾下に属した。1580年、宇野政頼の拠る長水城攻めに参陣した。1583年「賤ヶ岳の戦い」に参陣した。以後も「小牧、長久手の戦い」や「四国征伐」「文禄の役」に参陣した。1585年、阿波板野郡住吉城に転封になった。

飾磨赤松則英【あかまつのりひで(15??~1600)】

赤松則房の次男。官途は上総介。阿波国住吉城(板野郡23ヶ村)10,000石を領した。1598年、父赤松則房の病没により赤松家の家督を相続した。1600年「関ヶ原の役」では石田三成方に属して、大坂天王寺より平野口の警備を受け持った。決戦前に石田三成の居城である佐和山城本丸に籠城したが、東軍に寝返った小早川秀秋らの攻撃を受けて佐和山城は落城し、赤松則英は落城直前に佐和山城から落延びたが、赦されず京都の戒光寺で自刃した。

飾磨赤松則家【あかまつのりいえ(15??~15??)】

赤松晴政の次男。

上月赤松政元【あかまつまさもと(1500~15??)】

佐用郡上月城主。赤松義村の男(佐用則答の養子)。官途は右京大夫。1557年、武勇に優れていたと伝えられ上月城に入城し「西播磨殿」と称された。大内義隆、陶晴賢、毛利元就らの度重なる侵攻を撃退し、八年間にわたって上月城を死守した。その後浦上宗景を追放して備前国主となった宇喜多直家の攻撃に遭い、上月城を攻め落とされ、赤松政元は山中に落延びた。宇喜多直家は「三顧の礼」を持って、赤松政元を迎えた。

上月赤松正満【あかまつまさみつ(15??~15??)】

赤松政元の男。播磨鞍掛山城主。嫡男であったが、赤松家の家督は弟赤松政範に譲られていた。1577年、羽柴秀吉勢が上月城に攻め寄せた際、弟赤松政範に属した。 上月城が落城すると、赤松政範ら一族と共に自刃した。

上月赤松政範【あかまつまさのり(15??~1578)】

赤松政元の次男。官途は蔵人大輔。通称十郎。室は櫛橋伊定の娘。赤松政範は、佐用郡、赤穂郡、揖東郡、揖西郡、宍粟郡の五郡を領し「西播磨殿」と称された。1577年、羽柴秀吉勢が兵30,000余りで上月城を攻めた際、宇喜多直家の弟宇喜多広維勢3,000と赤松家本隊7,000余りの計10,000余りで迎え撃った。織田信長勢の猛攻凄まじく敗色濃厚となった。室が自刃した後し、家臣の赤松政直、赤松正満、高島正澄、早瀬正義、国府寺入道、中村伊勢入道と援将の宇喜多広維と共に自刀した。

上月赤松政直【あかまつまさなお(15??~1578)】

佐用郡早瀬城主。赤松政元の三男。通称次郎。1577年、羽柴秀吉勢が上月城に攻め寄せた際、兄赤松政範に属した。 評定の際「上月城で籠城し、たとえ勝利しても兵力の損害が大きく、不利になり我が家は滅亡してしまうのが明白である。姫路まで進軍し、羽柴秀吉勢と決戦を臨むべきであると思う。そうすれば、東播磨の諸友たちも加勢して局面は新たな方向に向かうだろう」と述べた。上月城が落城すると、赤松政範ら一族と共に自刃した。

上月赤松政茂【あかまつまさしげ(15??~1578)】

赤松政元の四男。通称三郎。別名佐用三郎。1577年、羽柴秀吉勢が上月城に攻め寄せた際、兄赤松政範に属した。上月城が落城すると、赤松政範ら一族と共に自刃した。

上月赤松政之【あかまつまさゆき(15??~1582)】

赤松政元の五男。1577年、羽柴秀吉勢が上月城に攻め寄せた際、兄赤松政範に属した。 落城寸前の時、密かに兄たちの遺児を引き連れて落延びた。隠棲し山下影五郎と称して宇喜多直家に仕えた。 1582年、羽柴秀吉勢に属して「山崎の戦い」に参陣したがまもなく病没した。

上月赤松政宗【あかまつまさむね(15??~15??)】

赤松政範の男。1577年「上月城の戦い」では、赤松政之と共に毛利輝元を頼って落延びた。1600年「関ヶ原の役」に参陣した。

上月赤松頼兼【あかまつよりかね(15??~15??)】

赤松政宗の男。

上月赤松頼尚【あかまつよりなお(15??~15??)】

赤松政宗の次男。

丸山赤松正澄【あかまつまさずみ(15??~1578)】

佐用郡丸山城主。赤松正満の男。通称右馬助。鞍掛山城の家督を受けず、丸山城主となった。1577年「上月城の戦い」では、叔父赤松政範、赤松政直らと共に織田信長勢と戦い討死した。

龍野赤松村秀【あかまつむらひで(1493~1540)】

揖保郡龍野城主。赤松政則の男。西播磨半国守護代。官途は下野守。赤松村秀は、赤松政則の庶子であったために、家臣団、枝連衆の支持を得られず家督相続することができなかった。赤松宗家の家督は娘婿赤松義村が相続した。赤松村秀は、塩屋城主宇野政秀の養子となり、龍野城を築城すると、その城主となった。赤松本家の補佐に努め、小寺則職や宇野村秀と協力し浦上村宗との抗争に貢献した。

龍野赤松政秀【あかまつまさひで(1510~1570)】

赤松村秀の男。官途は下野守。別名宇野下野守。室は赤松晴政の娘。1540年、父赤松村秀の病没により龍野赤松家の家督を相続した。1558年、赤松晴政が置塩城を赤松義祐に奪われると、赤松政秀は赤松晴政を庇護し、以後は赤松晴政の復権を目指して赤松義祐と争った。1562年、赤松義祐勢と戦いで毛利元就に援軍を要請した。1564年、赤松義祐勢の浦上政宗が備前国の浦上宗景と和睦して、小寺政職と同盟を結ぶなどして地盤を固め、勢力を伸長する動きに危機感を募らせた赤松政秀は、浦上清宗と黒田職隆の娘との婚礼当日に室津城に夜襲を仕掛け浦上親子を討取った。1565年、赤松晴政が病没すると、赤松義祐と和睦し赤松宗家と龍野赤松家の対立は一旦は収まった。1566年、赤松政秀は赤松義祐方の利神城主別所中務を攻撃するなど、赤松宗家の属した訳ではなかった。1568年、足利義昭が将軍となると、赤松政秀は足利義昭の元に娘を仕えさせる為に京へ上らせようとしたが、赤松義祐の指示により、赤松政秀の娘は小寺政職の兵に捕らわれてしまった。1569年、浦上宗景が率いる備作衆の攻撃を受け赤松政秀は織田信長に助けを求めた。織田信長は池田勝正ら摂津国衆を派遣し、これに別所安治、別所重棟、明石祐行らが加わり赤松義祐家領に攻め込んだ。宇喜多直家が浦上宗景に対抗する姿勢を見せた為、浦上宗景も備前国へと撤退した。1569年、赤松政秀は姫路城攻めの為に兵3,000余りを率いて姫路主黒田職隆勢は兵300余りという寡兵であった。黒田孝高は姫路城の西の青山に兵を伏せて赤松政秀を待ち伏せて突撃し、赤松政秀勢は敗走した。赤松政秀は兵3,000余りを率いて小丸山に布陣し、黒田職隆勢は土器山に陣を張った。赤松政秀は先手を取って土器山に夜襲を仕掛け、井出友氏を討取るなど黒田孝高勢を追い詰めたが、英賀城主三木通秋が救援に現れ、南から赤松政秀勢を攻撃すると姫路城の小寺職隆も参陣して赤松政秀勢を攻撃した。、黒田職隆勢が小丸山の赤松政秀本陣を奇襲、赤松政秀勢は龍野城まで撤退した。浦上宗景が再度備作衆を率いて赤松政秀領に侵攻してくると、軍事的な抵抗力を失った赤松政秀は浦上宗景に降伏した。1570年、赤松政秀は何者かに毒を盛られて失意のうちに世を去った。2014年、NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」では団時朗が演じた。

龍野赤松広貞【あかまつひろさだ(15??~1570)】

赤松政秀の男。1570年、父赤松政秀が謀殺後、赤松広貞が龍野赤松家の家督を相続するが、まもなく病没した。

龍野赤松政広【あかまつまさひろ(1562~1600)】

龍野赤松政秀の次男。別名斎村政広。官途は左兵衛佐。通称弥三郎。室は宇喜多直家の娘。1570年、父赤松政秀が謀殺され、兄赤松広貞も早逝したため龍野赤松家の家督を継承した。赤松政広の家系の龍野赤松家は、血統上は、本家とされた赤松義祐の家系(七条流)よりも、むしろ嫡流の家柄であった。織田信長の命を受けた羽柴秀吉による「中国討伐」では抵抗した。1577年、羽柴秀吉に降伏し、羽柴秀吉勢の麾下に属した。羽柴秀吉勢では蜂須賀正勝の麾下となった。「小牧、長久手の戦い」などに参陣して戦功を挙げ但馬国竹田城22,000石を領した。「九州討伐」や「小田原の役」「文禄の役」などにも参陣した。儒学者藤原惺窩に教えを受けるなど、文化人としての一面もあった。姜沆とも交友を持ち、彼の帰国も支援した。1600年「関ヶ原の役」では石田三成方に属して、田辺城主細川 藤孝を攻めた。石田三成が敗れると松平元康方に属して、石田三成方の宮部長房の因幡国鳥取城を攻めた。このときの城下焼き討ちが後に問題となり、役後、松平元康から自刃を命じられた。

龍野赤松祐高【あかまつすけたか(1559~1615)】

赤松政秀の三男。官途は伊豆守。通称太郎左衛門。1577年、中国地方に侵攻してきた羽柴秀吉に兄赤松政広と共に降伏した。後に半田山家鼻城10,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では兄赤松政広と共に石田三成方に参陣した。松平元康方に寝返った兄赤松政広の自刃後に流浪した。1614年「大坂冬の陣」では浪人衆として、羽柴秀頼に仕え大坂城に籠城した。「大坂夏の陣」の後、播磨国に落延び干大覚寺に入るが、池田利隆の兵に囲まれ、衆兵を救わんとして自刃した。

石野赤松氏貞【あかましうじさだ(15??~15??)】

別所長治家臣。石野城主。室は藤田新右衛門の妹。

石野赤松氏満【あかまつうじみつ(1553~1606)】

赤松氏貞の男。官途は和泉守。通称小六郎。室は有馬則頼の娘。1579年「三木城の戦い」で羽柴秀吉勢の古田重則を討取った。1580年、別所長治が自刃すると羽柴秀吉に仕えた。のち前田利家に仕えて3,000石を領した。1590年「小田原の役」では、戦功を挙げた。

石野赤松氏置【あかまつうじおき(1574~1612)】

赤松氏満の男。通称八兵衛。室は内藤家長の娘。幼少の頃は外祖父有馬則頼に養育された。松平元康の近習として仕えた。その後は名門の血筋と見識を買われて御伽衆となった。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して諜報活動を行った。役後、伊豆国で1,000石を領した。

在田村長【ありたむらなが(15??~15??)】

多可郡野間城主。在田忠長の男。赤松勝範家臣。官途は筑前守。丹波街道、但馬街道の交差する通る野間城は戦略上の拠点とされ度々他国から攻撃を受けた。1521年、浦上村宗は赤松義村を謀殺したが、在田村長は赤松晴政を推し、浦上村宗に対抗した。そのため、赤松勝範を推した浦上村宗と対立、野間城は攻撃を受けた。撃退したが、赤松勝範は討死した。それでも浦上村宗は攻城を諦めず、野間城を攻撃、在田村長は撤退した。1531年、浦上村宗が「天王寺に戦い」で討死すると、再び在田村長が野間城を奪還した。

在田元長【ありたもとなが(15??~15??)】

在田村長の男。1566年、嫡男在田国泰と共に連署して掟状を出し、多可荘内の普光寺の寺域を確定し、守護不入権を安堵した。1575年、別所重棟の攻撃を受け野間城は落城した。

在田国泰【ありたくにやす(15??~1575)】

在田元長の男。通称源八郎。1566年、父在田元長と共に連署して掟状を出し、多可荘内の普光寺の寺域を確定し、守護不入権を安堵した。1575年、別所重棟の攻撃を受け野間城は落城した。

伊王野土佐守【いおのとさのかみ(15??~15??)】

福原助就家臣。1577年、羽柴秀吉勢の黒田孝高の攻撃を受け、黒田孝高勢に討取られた。

井口時重【いぐちときしげ(15??~1555)】

古川城主。官途は備前守。1555年、脇田城主脇田小二郎と荒川城主藤田広興に宴会に招かれ、その帰途に謀殺された。

石川源吾【いしかわげんご(15??~15??)】

小寺政職家臣。龍野赤松政秀に内通した石川源吾は、小寺政職の家老小河良利と江田善兵衛に黒田職隆に謀反の噂を流した。小寺政職は、黒田職隆の謀反は、信じなかったが小河良利と江田善兵衛は信じようとしなかった。黒田孝高が、石川源吾の家臣吉田平蔵が野武士の頭目との密議とを行っているところを見つけられ、吉田平蔵が黒田職隆に謀殺されると、龍野赤松政秀の元に落延びた。

岩崎源兵衛【いわさきげんべい(15??~1580)】

野上館主。1577年、別所長治が織田信長から離反すると、別所長治に属して三木城に籠城したが討死した。

魚住吉長【うおずみよしなが(15??~15??)】
 
明石郡魚住城主。官途は右近大夫。室は小寺政職の娘。魚主城は播磨国五泊の一つ魚住泊の元に発展した地に魚住長範が築いた城。浦上則宗の台頭によりこれに属した。1565年、弟魚住治吉と共に小寺則職に属して戦功を挙げた。

魚住治吉【うおずみはるよし(15??~15??)】

明石郡天神山城主。1565年、兄魚住吉長と共に小寺則職に属して戦功を挙げた。

魚住頼治【うおずみよりはる(15??~15??)】

魚住吉長の男。官途は左近亮。1578年、別所長治、小寺政職らが織田信長離反すると呼応し、城下に毛利警固衆、雑賀衆を迎い入れた。魚住城は三木城への兵糧補給基地となり、湊には毛利警固衆の小船が多数停泊していた。1580年、三木城が落城すると、魚住頼治も没落した。

内海綱範【うつみつなのり(15??~15??)】

光明山城主。龍野赤松村秀家臣。通称弥四郎。龍野赤松家の年寄衆として揖東郡、揖西両郡の郡代も務めた。

内海範秀【うつみのりひで(15??~15??)】

内海弥四郎の男。通称勘解由。1566年、赤松政秀が室山城主浦上政宗を攻撃した時、内海範秀は先陣を務め戦功を挙げた。羽柴秀吉の攻撃を受けて光明山城は落城した。

宇野村頼【うのむらより(15??~15??)】

宍栗郡長水城主。西播磨守護代。通称蔵人。1548年、宇野村頼は宇野家の家督を嫡男宇野政頼に譲った後も、陣代として活躍した。1542年「広岡城の戦い」では、赤松晴政に属して家臣の安積平次郎が戦功を挙げた。

宇野政頼【うのまさより(15??~1580)】

宇野村頼の男。赤松家臣。西播磨守護代。官途は下総介。別名宇野祐重。1551年、尼子晴久の「播磨侵攻」が開始されると、備前国、美作国の国人衆が激しく動揺した。1552年、備前国、美作国の守護職が赤松晴政から取り上げられると尼子晴久に属した。宇野政頼は広瀬衆を率いて赤松晴政、赤松政祐と戦った。1556年、赤松晴政が美作国吉野郡で、尼子晴久、宇野政頼連合軍と戦った。1558年、赤松義祐が父赤松晴政を追放する内訌が発生すると西播磨が混乱した。但馬守護山名祐豊がこ播磨国に侵攻したが、宇野政頼家臣田路秀吉が奮戦し、これを阻止した。1562年、宇野政頼は家老職小林三河守と下村丹後守を作事奉行に任じて播磨国一宮伊和神社を造営した。1573年、宇野政頼は織田信長と手を結ぼうとしたが、毛利輝元の家臣安国寺恵瓊に阻まれ、毛利輝元勢の宇喜多直家から攻撃を受けた。1574年、宇野政頼は嫡男宇野満景を謀殺した。その後、隠居して宇野家の家督を次男宇野祐清に譲った。

宇野祐政【うのすけまさ(15??~15??)】

宇野村頼の次男。

宇野満景【うのみつかげ(15??~1574)】

宇野政頼の男。通称蔵人。1574年、父宇野政頼は、織田信長と結ぶ事に失敗した、宇野満景を疎んじ次男宇野祐清に宇野家の家督を相続させようと考えた。宇野満景を長水城に呼び出して謀殺した。

宇野祐清【うのすけきよ(15??~1580)】

宇野政頼の次男。通称民部大輔。1574年、兄宇野満景が父宇野政頼に謀殺されると宇野家の家督を相続した。1577年、織田信長勢の「中国討伐」が開始されると、織田信長に属した。1578年、宇野祐清は広瀬衆をを率いて大河内に参陣して、赤松則房勢と戦った。この戦では宇野祐清の家臣田路与介、赤松則房家臣の高屋正左衛門、高橋四郎大夫らが死傷した。毛利輝元勢が西播磨に侵攻して佐用郡上月城を陥落させると、毛利輝元に寝返った。1580年、毛利輝元に属して織田信長勢に抗した宇野祐清だったが、羽柴秀吉勢の攻撃により長水城は陥落した。宇野祐清は、美作国に落延びたが、羽柴秀吉勢の追撃を受けて宇野政頼、宇野祐清父子は播磨国宍粟郡千草自刃した。

赤鵜野弥太郎【うのよたろう(15??~15??)】

上月赤松政元家臣。侍大将を勤めた。

江田善兵衛【えだぜんべい(15??~15??)】

小寺政職家臣。通称善兵衛。西から延びる毛利輝元勢と畿内から播磨国に勢力を拡大する織田信長勢の狭間にある小寺政職は、毛利輝元に属するか、織田信長勢に属するか議論がなされた際、小河良利と共に毛利輝元勢に属することを主張し、織田信長勢に属するべきとする黒田孝高と対立した。2014年NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」では、上杉祥三が演じた。

淡河元範【おうごもとのり(15??~15??)】

美嚢郡淡河城主。赤松範行の次男(淡河則盛の養子)。室は淡河則盛の娘。1521年、浦上村宗が赤松義村を謀殺し、赤松家を傀儡化して播磨国、備前国、美作国の三ヶ国を収めた。1531年、浦上村宗は、細川晴元を擁する三好長慶勢と天王寺で戦い討死した。浦上村宗の討死後、守護赤松家は置塩城、龍野城とに分かれ、東播磨は別所安治の支配下となった。

淡河範之【おうごうのりゆき(15??~15??)】

淡河元範の男。1554年、三好長慶勢の有馬重則が摂津国衆を率いて播磨国に侵入すると、別所安治勢の城を次々と攻撃し、淡河元範の淡河城も攻撃され落城した。1558年、有馬重則が討死したため、淡河元範は別所家の支援を得て淡河城を奪還した。その後別所村治の支援を得て淡河城を回復、別所村治の麾下として淡河家に勢力を維持した。淡河範行は子をなさないまま病死した。

淡河範政【おうごのりまさ(15??~15??)】

淡河元範の次男。淡河範政は、丹波攻めで討死した為、兄淡河元範の養子淡河定範が淡河家の家督を相続した。

淡河定範【おうごさだのり(1539~1579)】

備前国江見城主江見祐春の次男(淡河範行の養子)。官途は弾正忠。室は別所村治の娘。家老職として、若年の別所長治を、別所安治の弟別所吉親、別所重棟と共に支えた。1578年、三木城主別所長治が織田信長から離反すると別所長治勢に属した。淡河城は毛利輝元勢からの補給基地として機能した。これに対し、羽柴秀吉は長松寺などに付城を築いて補給線の分断を図った。1579年、淡河定範は、近隣より牝馬を集め、淡河の城は守りが手薄であると噂を流し羽柴秀長勢をを引き寄せると、集めていた牝馬を羽柴秀長勢の中に解き放ち、混乱したところに攻め込んで多くの頸を挙げた。羽柴秀長勢の攻撃を撃退したが、羽柴秀吉勢に対抗する為に淡河城に火をかけ、三木城に退き別所長治勢に合流した。
毛利輝元勢が三木城に兵糧を運び込む作戦が行われた際、羽柴秀吉勢と木村坂で戦ったが、敗走途中で淡河定範は自刃した。

大谷正義【おおたによしまさ(15??~1569)】

上月赤松政元家臣。丸山城主。

大谷義房【おおたによしふさ(15??~1577)】

大谷正義の男。通称新左衛門。1569年、父大谷正義の病没後に丸山城主となった。1577年、上月城主赤松政範に属して「上月城の戦い」に参陣したが敗れて自刃した。

大谷義時【おおたによしとき(15??~15??)】

大谷義房の男。1577年、父大谷義房が上月城主赤松政範に属して「上月城の戦い」で自刃すると、羽柴秀吉勢に属したが間もなく帰農した。

太田則近【おおたのりちか(15??~15??)】

上月赤松政元家臣。通称新兵衛。七条赤松家三家老衆のひとり。

岡本光慶【おかもとこうけい(15??~15??)】

赤松家臣。別名祝融軒光慶。天文中頃までは難波泰興と共に書状に署名した。

岡本周登【おかもとしゅうとう(15??~15??)】

岡本光慶の男。別名祝融軒周登。赤松家老職。

小河秀春【おがわひではる(1567~1571)】

赤穂郡小鷹山城主。赤松秀光の三男。官途は丹後守。通称小太郎。1571年、三宅与三右衛門に攻撃を受けて敗北し自刃した。

小河良利【おごうよしとし(15??~15??)】

小寺政職家臣。赤穂郡小河城主。官途は三河守。西から延びる毛利輝元勢と畿内から播磨国に勢力を拡大する織田信長勢の狭間にある小寺政職は、毛利輝元に属するか、織田信長勢に属するか議論がなされた際、江田善兵衛と共に毛利輝元勢に属することを主張し、織田信長勢に属するべきとする黒田孝高と対立した。2014年NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」では、磯部勉が演じた。

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【か】

梶原景則【かじわらかげのり(15??~15??)】

加古郡高砂城主。官途は駿河守。通称平三兵衛。1538年、尼子晴久が播磨へ侵攻した際、赤松晴政は高砂城主梶原景則に落延びた。

梶原景行【かじわらかげゆき(15??~15??)】

梶原景則の男。通称平三郎衛。1578年、別所長治が織田信長から離反すると、播磨国海賊衆を率いて別所長治勢に属した。羽柴秀吉は高砂城から三木城への兵糧の補給を絶とうと高砂城を攻撃した。羽柴秀吉勢は1,000余りで攻撃したが、梶原景行は兵300余りを率いて、羽柴秀吉勢を撃退した。その後の羽柴秀吉勢の大軍の前にはなす術もなく落城し淡路国へ落延びた。

梶原景次【かじわらかげつぐ(15??~1578)】

加古郡中津城主。通称重右衛門。別名梶原冬庵。高砂城主梶原景秀の枝連衆。常楽寺の僧侶である千門院高理と親しく交際し、米や金を借りたが、長年の交誼に免じて病没後その借金を帳消しにするよう置文を残されてた。剛勇で知られ、別所長治が織田信長勢から離反して、羽柴秀吉勢の攻撃を受けると、梶原景次は神吉城に応援として赴き織田信忠勢と戦った。神吉頼定の討死後、梶原景次も織田信忠勢に突撃して討死した。

糟谷友政【かすやともまさ(15??~15??)】

加古郡加古川城主。1577年、羽柴秀吉は「中国討伐」の軍議を加古川城で開いた。1578年、別所長治が謀叛すると、嫡男糟谷朝正は別所長治への義理を守ってこれに三木城の籠城に参陣したが「平山の戦い」で討死した。

糟谷武則【かすやたけのり(15??~15??)】

糟谷友政の男。官途は内膳正。通称正之助。1577年、羽柴秀吉に小姓して仕えた。1582年「本能寺の変」後は羽柴秀吉に属し「賤ヶ岳の戦い」では「賤ヶ岳の七本槍」のひとりとして戦功を挙げ、加古郡で3,000石を領した。その後も「小牧、長久手の役」「九州征伐」「小田原の役」に参陣した。1586年、方広寺大仏の作事奉行を務めた。1592年「文禄の役」では、新庄直忠らと共に朝鮮人逃亡流民の帰郷を促す訓令を発布した。1593年「晋州城の戦い」に参陣し、加古郡12,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して「伏見城の戦い」及び「関ヶ原の戦い」に参陣した。役後改易処分を受けた。1602年、松平元康仕えて500石を領した。

川島頼村【かわしまよりむら(15??~1578)】

上月赤松家臣。赤松村秀の男。通称杢太夫。1578年、赤松政範に属して「上月城の戦い」で討死した。

川島義行【かわしまよしゆき(15??~15??)】

上月赤松家臣。赤松村秀の男。通称三郎四郎。1578年、赤松政範に属して「上月城の戦い」で討死した。

神吉頼氏【かんきよりうじ(15??~15??)】

印南郡神吉城主。官途は下野守。別所家枝連衆として10,000石を領した。

神吉頼定【かんきよりさだ(15??~1578)】

神吉頼氏の男。通称民部少輔。1578年、織田信長の「播磨征討」に際、端谷城主衣笠範景、淡河城主淡河定範、福中城主間島氏勝、野口城長井長重、志方城櫛橋伊定、高砂城主梶原景行らと共に三木城主別所長治に属した。神吉頼定は、別所長治が援軍として梶原景治、柏原治郎右衛門、黒田若狭守、中村壹岐守らと共に兵1,800余りで籠城した。織田信忠は、織田信孝、織田信包、明智光秀、荒木村重、筒井順慶ら30,000余りの軍勢で神吉城を包囲し対峙し善戦して半月近くをよく防戦に努めた。佐久間盛隆が神吉頼定の叔父神吉貞光を内応させ、神吉貞光の守る西の丸の城門を開かせた。羽柴秀長、蜂屋頼隆、佐久間信盛らの軍勢が侵入すると神吉頼定は神吉貞光によって謀殺された。

神吉貞光【かんきさだみつ(15??~15??)】

神吉頼定家臣。通称藤太夫。1578年、甥神吉頼定と共に神吉城に籠城するが、織田信長勢の佐久間盛隆に内応して、織田信長勢を城内に引き入れ甥神吉頼定を謀殺した。

神吉長右衛門【かんきよりさだ(15??~15??)】

神吉頼定の男。1578年、父神吉頼定の討死後、黒田孝高に仕えた。

喜多野柏阿【きたのはくあ(15??~15??)】

赤松晴政家臣。元亀年間頃に活躍した。

衣笠範弘【きぬがさのりひろ(15??~15??)】

明石郡端谷城主。赤松義村家臣。通称五郎左衛門。1520年、浦上村宗からの攻撃を受け置塩城主赤松義村は、衣笠範弘の元に落延びた。1521年、赤松義村勢の先鋒赤松村秀、弘岡左京らが室津まで侵攻し浦上村宗勢と対峙したが、弘岡左京が突然浦上村宗に寝返り赤松義村勢は崩壊した。

衣笠範景【きぬがさのりかげ(1517~1585)】

衣笠範弘の男。官途は豊前守。1554年、三好長慶と戦って敗れ、以後三好長慶勢に属して畿内各地を転戦したが、三好長慶が病没すると三木城主別所安治に属した。1578年、別所長治が織田信長に離反すると衣笠範景は淡河城主淡河定範、福中城主間島氏勝、野口城主長井長重、志方城主櫛橋伊定、高砂城主梶原景行らと共に別所長治に属した。1580年、羽柴秀吉勢の織田信澄、明石則実らの攻撃を受け衣笠範景、津村市助らが勇戦したが、再度にわたる猛攻に落城した。

衣笠景延【きぬがさかげのぶ(1552~1631)】

衣笠範景の男。官途は因幡守。通称久右衛門。黒田孝高に仕え「黒田家二十五騎」のひとり。小寺政職に仕えていたが寄騎衆として黒田孝高に属した。智謀、歌道に秀で、包囲された栗山利安を救い、旧主小寺家への使者を務めた。1587年「豊前国人衆一揆」では、姫隈城主日熊直次を降した。1592年「文禄の役」「慶長の役」では、後藤基次と先鋒についた。1600年「関ヶ原の役」では、松山城を守備した。黒田長政が筑前国に転封になると中老並みの3,000石を領した。

櫛橋伊家【くしはしきれいえ(15??~1542)】

印南郡志方城主。櫛橋則伊の男。別名櫛橋秀則。

櫛橋伊定【くしはしこれさだ(1527~1578)】

櫛橋伊家の男。官途は豊後守。通称左京亮。別名櫛橋伊則。室は小寺政職の娘。1542年、父櫛橋伊家の病没により櫛橋家の家督を相続した。1578年、別所長治が織田信長より離反すると別所長治に属して志方城に籠城した。別所長治も羽柴秀吉勢に三木城を包囲され、櫛橋伊定に援軍を送ることが出来なかった。櫛橋伊定は自身の命を城兵に引き換えることで自刃した。娘三人は、長女(力姫)は赤松正範の室。次女(光姫)は黒田孝高の室。三女は井上之房の室。2014年NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」では、益岡徹が演じた。

櫛橋政伊【くしはしまさこれ(15??~1578)】

櫛橋伊定の男。1578年、父櫛橋伊定が織田信長勢から離反すると、櫛橋伊定と共に志方城に籠城した。1587年、宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守る為に城の本丸跡に観音寺を建立した。

櫛橋弥五三【くちはしよごみ(15??~1579)】

櫛橋伊定家臣。1579年、別所吉親に属して、羽柴秀吉勢に突撃して討死した。

櫛田頼久【くしだよりひさ(15??~1577)】

佐用郡櫛田城主。上月赤松政範家臣。官途は左馬助。別名櫛田景則。1577年、羽柴秀吉勢の「中国討伐」で、柏原城主間島景綱を攻撃した際、救援のために柏原城に赴く途中、羽柴秀吉勢と戦い討死した。

上月恒織【こうづきつねおり(15??~1577)】

佐用郡浅瀬山城主。上月赤松政範家臣。1577年「上月城の戦い」後、羽柴秀吉勢が毛利輝元勢を追撃した際、側面より羽柴秀吉勢を攻撃したが討死した。

国府寺良義【こくふじよしまさ(15??~1578)】

上月赤松政範家臣。通称左近太郎。侍大将。

小寺則職【こでらのりもと(1495~1576)】

飾東郡御着城主。官途は加賀守。通称藤兵衛。1523年、小寺則職は浦上村国と共に浦上村宗打倒の兵を挙げたが、逆に浦上村宗の攻撃を受けて惨敗した。1530年、父小寺政隆は浦上村宗から攻撃を受け討死した。1531年「天王寺の戦い」で浦上村宗を討取り御着城へ戻り、庄山城は家臣長浜長秋をして守らせた。

小寺政職【こでらまさもと(1517~1582)】

小寺則職の男。通称藤兵衛。1521年、赤松義村が浦上村宗に謀殺されると、赤松義村の嫡男赤松晴政と共に細川晴元を頼って落延びた。1531年、浦上村宗と細川高国を討って赤松義村の再興に尽力した。小寺政職は、黒田重隆、黒田職隆など多くの家臣を登用した。1545年、黒田職隆を家老職に引き上げ、姫路城代を任した。1576年、播磨国は東からの織田信長、西からの毛利輝元と大勢力の衝突が迫っていた。黒田孝高の進言を聞き入れ小寺政職は織田信長に属した。1578年、荒木村重が摂津有岡城で織田信長に離反すると、織田信長を裏切り毛利輝元勢に属した。1580年、織田信忠によって討伐されて御着城は落城、小寺政職は毛利輝元の元へ落延びた。2014年NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」では、片岡鶴太郎が演じた。

小寺氏職【こでらうじもと(15??~15??)】

小寺政職の男。官途は加賀守。御着城落城後、小寺政職は毛利輝元の元に落延びた。黒田孝高は、羽柴秀吉に「小寺氏職には罪はありません。私にとっては、旧主の嫡男です」と訴え、客将として預かることを許された。黒田長政が筑前国に転封されると200石を領した。

小寺正則【こでらまさのり(15??~15??)】

小寺政職の次男。

小林満末【こばやしみつすえ(15??~15??)】

大日山城主。通称宇右衛門。上月赤松家三家老のひとり。

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【さ】

笹倉則賢【ささくらのりかた(15??~15??)】

笹倉城主。1578年、別所長治が織田信長から離反して三木城に籠城した。1580年、三木城が落城すると別所長治と共に自刃した。

笹倉則知【ささくらのりとも(15??~15??)】

笹倉則賢の男。1580年、父笹倉則賢が三木城で自刃すると、近江国長浜へ逃れて隠棲し没した。嫡男笹倉平左衛門が帰郷して笹倉城跡に屋敷を構え、長浜と姓を改めた。

播磨島津忠長【しまづただなが(1501~1534)】

赤松晴政家臣。島津忠持の男。官途は左近将監。1534年「朝日山の戦い」で、赤松晴政に属して浦上村宗と戦い討死した。

播磨島津忠之【しまづただゆき(15??~1569)】

島津忠長の男。室は山本村岡の妹。1534年、父島津忠長の討死後、播磨島津家の本領である播磨国布施郷、下揖保庄は、欠所となっていた。1554年、島津忠之は赤松晴政の奉行衆難波泰興から、布施郷、下揖保の地頭職を返付された。1569年、赤松政秀と小寺政職とが戦った「青山の戦い」に参陣して討死した。

播磨島津義弘【しまづよしひろ(1576~1636)】

島津忠之の男。通称彦兵衛尉。室は宇野政頼の娘。1569年、父島津忠之が「青山の戦い」で討死すると、母は二歳の島津義弘を連れて落延びた。元服して宇野家の娘を娶った。弟島津佐渡守忠之、嫡男島津忠遠、次男長井大膳太夫忠頼と共に羽柴秀頼に仕えた。1614年「大坂冬の陣」では、大坂城に籠城した。1615年「大坂夏の陣」で、大坂城が落城すると落延びて赤松祐高らと共に網干大覚寺に籠城した。池田輝政勢に包囲され、赤松祐高は衆兵を救わんとして自刃したが、島津義弘は再び下揖保に落延びたが池田輝政勢に包囲され、嫡男島津忠遠と次男島津忠頼は自刃した。

島村貴則【しまむらたかのり(15??~15??)】

島村城主。官途は弾正左衛門。島村貴則は、備前国三石城主浦上村宗に属して龍野赤松政秀と戦い戦功を挙げた。「播磨野里の戦い」では敗れ、淡路国へ落延びる途中に自刃した。

世良田則康【せたらのりやす(15??~15??)】

芥田城主。官途は肥前守。1575年、在田元長との「芥田表の戦い」では、在田元長勢の内藤藤次が戦功を挙げた。

曾根宗太郎【そねむねたろう(15??~15??)】

阿弥陀宿城主。1578年、羽柴秀吉勢の攻撃を受けて落城した。

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【た】

高島正澄【たかしままさずみ(15??~1577)】

佐用郡高野須城主。赤松義村の三男。官途は右馬介。上月赤松家の三家老のひとり。上月城主赤松政範と共に毛利輝元勢に属して籠城した。1577年、羽柴秀吉勢の攻撃を受け赤松政範が討死すると、枝連衆の早瀬正義らと共に殉死した。

高島政友【たかしままさとも(15??~15??)】

高島正澄の男。

高島正建【たかしままさたて(15??~15??)】

上月赤松家臣。通称七郎兵衛。

高田政光【(15??~15??)】

田原城主。官途は丹後守。

孝橋秀光【たかはしひでみつ(15??~1549)】

中道子山城主。孝橋政頼の男。1531年「天王寺の戦い」で浦上村宗を撃破した。1537年、尼子晴久の「播磨侵攻」では、赤松晴政に属して抵抗した。1549年、細川晴元に属して「三宅城の戦い」に参陣したが討死した。

孝橋秀時【たかはしひでとき(15??~15??)】

孝橋秀光の男。通称新五郎。1555年、三好長慶勢の攻撃を受け、佐用郡浅瀬山城に退去した。

高橋平左衛門【たかはしへいざえもん(15??~15??)】

神木館主。櫛橋伊定家臣。1577年、別所長治が織田信長から離反すると、櫛橋伊定に属して志方城に籠城した。1578年、櫛橋伊定は羽柴秀吉勢に降伏した。

田尻忠行【たじりただゆき(15??~1578)】

加東郡念仏寺城主。別所家臣。1578年、羽柴秀吉勢の攻撃を受けて討死した。

垂井雅治【たるいまさはる(15??~15??)】

垂井城主。官途は武蔵守。1578年、垂井雅治が三木城主別所長治に属して、三木城に籠城し戦功を挙げた。

津田家職【つだいえもと(15??~15??)】

室津城主。赤松家臣。官途は若狭守。

得平祐清【とくひらすけきよ(15??~15??)】

佐用郡米田城主。赤松家臣。官途は能登守。1538年、尼子晴久の攻撃を受けて降伏した。1567年「上月城の戦い」では、上月城落城間際に落延びた。

富田釆女【とみたうねめ(15??~15??)】

赤穂郡尼子山城主。1578年、羽柴秀吉の攻撃を受けて落城し、富田釆女は自刃した。

鳥居職種【とりいもとたね(15??~1579)】

赤松晴政家臣。岡本周登や難波泰興と共に連署状に署名した。

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【な】

内藤藤次【ないとうふじつぐ(15??~15??)】

多可郡満久城主。在田元長家臣。1575年、三木城主別所長治が野間城を襲撃した際、在田国泰から離反して別所長治に属した。また、別所長治が織田信長に離反した際、織田信長勢に属した。

長井長重【ながいながしげ(15??~15??)】

加古郡野口城主。通称四郎左衛門。別名長井政重。鉄砲の名手。1578年、羽柴秀吉の「三木城の戦い」では、別所長治に属して野口城に籠城した。野口城は、三木城の搦め手にあたり、最初の激しい戦いが行われた。野口城には長井長重の一族郎党380人余りの他、近くの教信寺の僧兵や農民も城方に加わり勇戦し、 怪力の僧兵不動坊や十輪坊等が奮戦した。羽柴秀吉勢3,000余りの猛攻を受けたが、三木城からの援軍も無く、多勢に無勢で孤立し遂に長井政重は降伏した。野口城を支援した教信寺も火を掛けられ全焼した。

長浜長秋【ながはまながあき(15??~15??)】

小寺則職家臣。庄山城主。官途は河内守。1530年、小寺政隆は浦上村宗に攻められ討死すると、小寺政隆の男小寺則職は浦上村宗を討取り御着城へ戻ると、長浜長秋は庄山城主となった。

中西正常【なかにしまさつね(15??~15??)】

西畑城主。通称兵助。1563年、三木城主別所長勝が箱木家氏を攻撃した際、箱木方に味方して別所長勝勢を撃退した。和睦の際、別所長勝に謀られて中西正常は居館を焼失。以後、中西正常は別所長勝に従属した。所領問題でもめて再び西畑城に戻った。

中村景利【なかむらかげとし(1551~1581)】

別所家臣。通称孫之進。主家滅亡後は羽柴秀吉に仕えた。1581年「鳥取城の戦い」で討死した。

中村重房【なかむらしげふさ(15??~15??)】

中村景利の男。官途は修理大夫。主家滅亡後父中村景利とともに秀吉に仕えた。

中村忠滋【なかむらただしげ(15??~15??)】

別所家臣。羽柴秀吉勢に娘を人質にして内応を約束するが実は計略で、羽柴秀吉勢を敗退させたため娘は殺された。落城後綾部に潜んでいるところを発見されて捕らえられたが、娘を犠牲にして主家に尽くしたことを認められて中村一氏の寄騎衆になった。

難波泰興【なんばやすおき(15??~15??)】

赤松晴政家臣。官途は備前守。飾磨赤松家三奉行衆のひとり。祝融軒光慶、野村職久と共に奉書に署名した。

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【は】

早瀬正義【はやせまさよし(15??~1578)】

佐用郡柏原城主。官途は帯刀。上月城主赤松政範と共に毛利輝元勢に属して籠城した。1577年、羽柴秀吉勢の攻撃を受け赤松政範が討死すると、高島正澄らと共に殉死した。

広峰長職【ひろみねながもと(1512~1577)】

小寺政隆の次男。広峰神社の神職。1538年、赤松晴政が堺に逃亡した際、これに同道した。

平井祐利【ひらいすけとし(15??~1564)】

赤松村秀の三男。通称次郎八。官途は備中守。1564年、赤松政秀の属して浦上政宗と戦った際に討死した。

平井貞利【ひらいさだとし(15??~15??)】

平井祐利の男。官途は備中守。1564年、父平井祐利が、赤松政秀の属して、浦上政宗と戦った際に討死した為、平井家の家督を相続した。1577年、羽柴秀吉の「中国討伐」では、龍野城を明け渡した赤松政広を領地の佐江村に匿った。後に赤松政広が但馬国竹田城を領すると赤松政広に仕えた。1600年「関ヶ原の役」で敗れて、赤松政広が自刃すると再び龍野に戻った。

平井利政【ひらいとしまさ(15??~1582)】 

平井祐利の次男。通称助之進。1564年、父平井祐利が討死すると、備前国に逃れ宇喜多直家に属して上道郡赤土山城主となった。1569年、妙実寺を再建した。1579年、美作国苫田郡西屋城主となった。1582年、小早川隆景勢の攻撃を受けて落城、自刃した。

福原則高【ふくはらのりたか(15??~1577)】

佐用郡福原城主。通称左京進。1577年、羽柴秀吉勢と戦って討死した。

福原則尚【ふくはらのりなお(15??~1577)】

福原則高の男。通称藤馬允。室は赤松政元の娘。1577年、羽柴秀吉勢の竹中重治と黒田孝高の攻撃を受けた。福原則高勢は野戦を行い多くの討死を出した。乱戦の中、福原則高は平塚為広に討取られた。助太刀に現れた福原助就も討死hした。敵の大将を討ち取った羽柴秀吉秀勢、城を攻め崩し城兵をことごとく討取った。

福原助就【ふくはらすけなり(15??~1577)】

佐用郡高倉山城主。通称主膳。室は福原則高の娘。1577年、羽柴秀吉勢の黒田孝高の攻撃を受け、黒田孝高勢に討取られた。

藤田広興【ふじたひろおき(15??~1578)】

美嚢郡毘沙門城主。官途は河内守。別名藤田幸綱。1578年、別所長治と羽柴秀吉勢との戦いが始まると、藤田広興は嫡男藤田右近と共に別所長治に属して三木城に籠城して、羽柴秀吉勢と戦った。1580年、三木城が落城すると、別所長治は領民や残る将兵の為、自刃した。藤田広興と藤田右近は自城に戻り自刃した。

藤田右近【ふじたうこん(15??~1578)】

藤田広興の男。1578年、別所長治と羽柴秀吉との戦いが始まると、藤田右近は父藤田広興と共に別所長治に属して羽柴秀吉勢と戦った。三木落城後に毘沙門城に戻り自刃した。

藤田家臣団【うじたけかしんだん】

鍛冶屋城主:藤田右馬大夫、奥谷城主:藤田山城守。

別所村治【べっしょむらはる(1502~1563)】

美嚢郡三木城主。別所則定の男。官途は加賀守。別名別所就治。東播磨200,000石余りを領した。1520年、赤松義村、浦上村宗が対立すると浦上村宗を支援した。1530年、柳本賢治と共に東播磨に勢力を持つ豊地城主依藤秀長を攻撃したが、攻城中に柳本賢治が謀殺された。別所村治は、依藤秀長勢の反撃を受け三木城に敗走するが、三木城も細川高国と浦上村宗からの攻撃を受け落城した。別所村治は、

摂津国に落延びた。1531年、三木城を奪還した。1539年、赤松義祐を三木城に保護した。1553年、尼子晴久の「播磨討伐」では籠城して戦った。続いて有馬重則に攻められるが、これは撃退した。1554年、有馬重則、赤松晴政、三好長慶の連合軍による攻撃を受けたが撃退した。細川晴元と結んで東播磨に勢威を広げ、三好長慶に属して畿内各地を転戦した。1556年、隠居して家督を別所長勝に譲った。

別所長勝【べっしょながかつ(1532~1570)】

別所村治の男。官途は大蔵大輔。通称小三郎。1556年、父別所村治より別所家の家督を相続した。はじめ細川晴元、三好長慶に属したがやがてこれと対立した。父別所村治に劣らず武勇に優れ、播磨東部に勢力を張り、三好長慶勢の侵攻を度々撃退した。1568年、織田信長に擁立された、足利義昭の上洛に際して弟別所重宗を京都に派遣した。1569年「本圀寺の戦い」では、弟別所重宗が白井河原で三好三人衆と戦いで、足利義昭より感状を得る戦功を挙げた。

別所重宗【べっしょしげむね(15??~1591)】

加東郡阿閉城主。別所村治の次男。官途は主水正。通称孫右衛門。1575年、加東郡豊地城主依藤太郎左衛門を討取り居城とした。1568年、足利義昭が織田信長に擁立されて上洛すると、別所重宗は別所家の使者として派遣された。織田信長が近畿地方まで勢力を伸ばすとこれに属した。1570年、兄別所長勝が病没すると、弟別所吉親と共に甥別所長治を補佐した。1575年、別所長治と共に上洛して織田信長に謁見した。1577年「紀州討伐」では、援将としてり別所長治と共に参陣した。別所重宗は織田信長勢に属して畿内を転戦したが、弟別所吉親は国元にあり政務、内政を取り仕切り、家臣団を掌握した。1578年、別所長治が織田信長から離反して毛利輝元に属すると、別所長治と袂を分かち、羽柴秀吉勢に属した。15
80年、三木城は落城別所長治は自刃した。

別所吉親【べっしょよしちか(15??~1580)】

別所村治の三男。官途は山城守。別名別所賀相。室は畠山昭高の娘(波姫)。若年の別所長治を後見した。毛利輝元勢に属するべきとする別所吉親に対し、兄別所重宗は織田信長勢に属するべきと説いた。家中を二分する争いになったが、別所重宗を失脚させ、別所長治と共に三木城に籠城した。1579年、羽柴秀吉の本陣を急襲したが失敗、甥の別所治定が討死するなど多くの犠牲者を出した。1580年、籠城は二十ヶ月に及び、城主の別所長治は降伏の道を選ぶが、別所吉親は最後まで抵抗した降伏を選ぶ家臣によって謀殺された。

別所長治【べっしょながはる(1556~1580)】

別所長勝の男。通称小三郎。室は波多野晴通の娘(照子)。西から毛利輝元、東から織田信長とゆう二大強国に挟まれた。1575年、小寺政職や赤松政広と共に上洛して、織田信長に属した1578年、織田信長勢から離反して毛利輝元勢に属すと、羽柴秀吉勢の攻撃を受けた。別所長治は三木城に籠城して戦ったが、麾下の城主である、野口城主長井政重、神吉城主神吉頼定、志方城主櫛橋伊定、高砂城主梶原景行が次々に降伏した。1579年「平井山の戦い」で弟別所治定が討死するなど苦境に立たされた。二十ヶ月の及ぶ籠城で兵糧は尽き、羽柴秀吉から出された別所長治と別所賀相の自刃による城兵救命を受け容れた。毛利輝元勢はこの間、荒木村重の内応、上月城の戦い、石山本願寺への支援など織田信長勢の侵攻を遅らせることはできたが、三木城救援など効果的な作戦を行うこたができなかった。辞世の句である「いまはただうらみもなしや諸人の命にかはる我が身と思へば」。

別所友之【べっしょともゆき(1560~1580)】

別所長勝の次男。通称彦之進。室は山名豊恒の娘(綾姫)。若年だったが、勇猛で近隣に勇名を轟かせた。1579年、兄別所長治に属して「三木城の戦い」に参陣した。鷹ノ尾城に拠って羽柴秀吉勢に抵抗したがまもなく落城。三木城に入って兄別所長治と共に籠城を続けた。1580年、兄別所長治と共に降伏したが、城兵の命を救う為、枝連衆のひとりとして、綾姫と共に別所長治の脇差で自刃した。辞世の句は「命をもおしまざりけり梓弓すゑの世までも名の残れとて」。綾姫の辞世の句は「たのめこし後の世までに翅をもらぶる鳥のちぎりなりけり」。

別所治定【べっしょはるさだ(1561~1578)】

美嚢郡正入寺城主。別所長勝の三男。通称小八郎。1578年、兄別所長治が織田信長から離反すると、別所長治と共に三木城に籠城した。1579年、別所賀相らと共に兵800余りの奇襲部隊を率いて、羽柴秀吉の本陣がある平井山襲撃したが失敗、羽柴秀吉の家臣樋口雅兼に討取られた。

別所吉治【べっしょよしはる(15??~1652)】

別所重宗の男。官途は豊後守。室は山崎家盛の妹。1591年、父別所重宗の病没により別所家の家督を相続した。1592年「文禄の役」に参陣した。1592年、渡海して京城に進出した。1594年、伏見城普請に参加した。1597年、丹波国園部城15,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成方に属して丹後国田辺城を攻撃したが、役後所領は安堵された。役後、丹波国由良城に転封となった。1615年「大坂夏の陣」では、戦功を挙げ、丹波国何鹿郡波綾城20,000石を領した。1628年、遊猟に耽り参勤交代を怠ったとして改易処分とされた。

利神別所清治【べっしょきよはる(15??~15??)】

佐用郡利神城主。赤松政元家臣。別所家の庶家。赤松政元に属して、播磨国内の転戦した。

利神別所定道【べっしょさだみち(15??~1577)】

別所清治の男。通称太郎左衛門。1577年、赤松政範、福原則尚らと共に、羽柴秀吉勢と戦った。釜須坂において人質を差し出して羽柴秀吉に降伏した。利神城は引き続き甥の別所林治が領した。

利神別所林治【べっしょしげはる(15??~1580)】

別所清治の次男。官途は日向守。通称左衛門。兄別所定道が病弱の為、利神別所家の家督を相続した。1578年、織田信長から離反すると、羽柴秀吉勢の尼子勝久らにより利神城は攻略された。別所林治は長水城主宇野政頼を頼って落延びた。1580年、長水城も落城、討死した。

本郷祐之【ほんごうすけゆき(15??~1580)】

赤松政広家臣。宇野政頼の四男(本郷信濃守の養子)。通称二郎兵衛。年貢を巡って京都祗園神社と連絡を取った。1575年、置塩城が敵の襲撃を受けた際、上月右衛門佐に見舞状を送った。1580年。羽柴秀吉勢の攻撃を受け滅亡した。

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【ま】

間島景綱【ましまかげつな(15??~15??)】

柏原城城主。

真嶋元治【ましまもとはる(15??~15??)】

飯山城主。通称新左衛門尉。上月赤松家で侍大将を勤めた。

三木通明【みちみちあき(15??~15??)】

飾磨郡英賀城主。

三木通秋【みちみちあき(15??~15??)】

三木通明の男。「石山本願寺城の戦い」では、本願寺方に属して織田信長に抵抗した。三木通明が治める英賀湊は毛利家海賊衆の前線基地の一つともなった。三木城主別所長治が織田信長に反抗すると別所長治に属して兵糧、武器、情報の中継点として重要な位置を占めた。1580年、三木城と共に英賀城も落城した。三木通秋は嫡男三木安明と共に毛利輝元に元に落延びた。

三宅治忠【みやけはるただ(1538~1580)】

別所安治家臣。官途は肥前守。通称祐五郎。幼少時に寺坊に入っていたが、別所安治に気に入れられ、三宅家の家督を相続した。1578年、別所賀相と共に羽柴秀吉に招かれて播磨国糟谷における軍議に参加したが、そのときの羽柴秀吉の態度が横柄であったため立腹し、別所長治に織田信長勢からの離反を勧めた。三木城が落城する際、別所長治、別所友之兄弟の介錯を行ったのち自刃した。辞世の句は「君なくばうき身の命何かせん残りて甲斐のある世なりとも」。

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【や】

八代道慶【やしろどうけい(15??~15??)】

八代山城主。小寺則職家臣。小寺則職は御着城を本城として、姫路城を支城し家老の八代道慶を城代に任じた。

八代長利【やしろながとし(1547~1627)】

八代道慶の男。黒田孝高家臣。「黒田家二十四騎衆」のひとり。数多くの戦いで戦功を挙げ1,500石を領した。生涯通じて挙げた頸級は母里友信 、栗山利安に次ぐ。

山脇六郎左衛門【やまわきろくろうざえもん(15??~1568)】

飾東郡山脇城主。小寺則職家臣。黒田孝高より先に親織田信長派を打ち出し、小寺政職に疎まれた。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛しすると、諸侯に上洛要請を行った。東播磨で勢力を持つ三木城主別所長治は、三好三人衆の三好長逸、三好政康、岩成友通に対抗するため、織田信長と友好関係を結んでいた。西播磨で勢力を誇る龍野城主赤松政秀は、織田信長が擁する足利義昭と友好関係を結び、播磨国守護職を狙っていた。別所長治と赤松政秀の二人が織田信長と親交を深めたため、赤松政秀と対立関係にあった小寺政職は、黒田孝高に命じて、山脇六郎左衛門を謀殺して、足利義昭の上洛要請を無視した。

横山義祐【よこやまよしすけ(15??~1577)】

佐用郡室山城主。赤松政元の三男。通称藤左衛門。「亀甲の中に、右文字を付けたる茜の旗」を旗指物にした。1577年「上月城の戦い」により、室山城も落城、美作国英田郡に落延びた。

吉田伊賀守【よしだかがのかみ(15??~15??)】

屋口城主。別所重宗家臣。1578年、別所長治が羽柴秀吉によって滅ぼされると、帰農した。

吉田平蔵【よしだへいぞう(15??~15??)】

石川源吾家臣。密かに龍野赤松政秀に寝返った石川源吾の命を受けて、小寺政職領の村々を野武士に襲わせた。石川源吾は、黒田職隆の謀反の噂を流し、黒田職隆の離反を誘うが、企みが露見し吉田平蔵は黒田職隆の闇討ちに遭い討死、石川源吾は赤松政秀の元に落延びた。2014年NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」では、山本芳郎が演じた。

依藤秀長【よりふじひでなが(15??~15??)】

加東郡豊地城主。播磨国守護赤松家の勢力が衰えると、細川高国方の浦上村宗の援助を得て別所就治と東播の覇権を争った。1530年、柳本賢治との戦いである。別所則治以降三木城を拠点に東播磨支配をすすめてきた別所家との対立が顕在化した。依藤秀長は柳本賢治勢を相手に一ヵ月半にわたって戦い、柳本賢治が謀殺されると、柳本賢治勢の混乱に乗じて撃ち破って敗走させた。細川高国に属する党浦上村宗が三木城別所村治を攻めたため、別所村治は東条谷進出の好機を逸しただけでなく、しばらく三木城を没落して逃亡生活を余儀なくされた。

依藤太郎左衛門【よりふじたろうざえもん(15??~1578)】

依藤秀長の男。1578年、別所長治が細川荘の冷泉為純、冷泉為勝を攻めた際、冷泉家救援に駆けつけたが敗れ、依藤太郎左衛門は自刃した。

冷泉為純【れいぜいためずみ(1530~1578)】

美嚢郡嬉野城主。下冷泉為豊の男。1578年、羽柴秀吉勢に協力して嬉野城に籠城したが、羽柴秀吉から援軍が送られなかった為、別所長治勢の攻撃を受けて自刃した。

冷泉為勝【れいぜんためかつ(15??~1578)】

冷泉為純の男。1578年、別所長治の攻撃を受け父冷泉為純と共に戦ったが討死した。

冷泉為将【れいせん(15??~15??)】

冷泉為純の三男。

藤原惺窩【ふじわらせいか(1561~1619)】

冷泉為純の次男。別名。山城国相国寺に入って禅僧となり朱子学を学んだ。中国で儒学を学ぼうと明に渡ろうとするが失敗に終わった。その後朝鮮儒者姜沆との交流を経て、それまで五山僧の間での教養の一部であった儒学を体系化して京学派として独立させた。朱子学を基調とするが、陽明学にも共感を得た。近世儒学の祖として門弟に林羅山、那波活所、松永尺五、堀杏庵の四人が惺門四天王と称された。和歌や日本の古典にも通じていた。羽柴秀吉、松平元康にも儒学を講じた。松平元康には仕官することを要請されたが辞退し、門弟の林羅山を推挙した。

藤原為景【ふじわらためかげ(1612~1654)】

藤原惺窩の男。別名冷泉為景。後水尾天皇の勅命で,叔父冷泉為将の跡をつぎ下冷泉家の歌学を継承した。木下勝俊と深く交際し、父没後、その遺産を編集するに当たり、漢文は林羅山に、和文は長嘯子に編纂を依頼した。後光明天皇の侍講となるが、その崩御すると冷泉為景は殉死した。

渡瀬好光【わたせよしみつ(15??~15??)】

美嚢郡渡瀬城主。別名佐々木好光。1576年、羽柴秀吉が「加古川の評定」後、別所長治が毛利輝元に通じて籠城を決したため、渡瀬好光もそれに属して渡瀬城の防護を固めた。佐々木好光はめに羽柴秀吉の攻撃を受けたが守りきれず城に火をかけ、伊丹城主荒木村重を頼り落延びた。

脇田小二郎【わきたこじろう(15??~15??)】

美嚢郡脇田城主。1555年、古川城主井口時重を荒川城主藤田広興と共に宴会に招きその帰路に謀殺した。そのため井口時重の遺臣たちによる報復を受け、脇田小二郎の枝連衆は謀殺され、脇田小二郎は丹波国へ落延びた。

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【資料Ⅰ】

播磨国(12郡/546,000石)

明石郡:明石城、加古川城、高砂城、魚住城、端谷城、船上城、太山寺。
美嚢郡:三木城、淡河城、豊地城、河合城。
多可郡:野間城、比延城、黒田城、野中城。
加古郡:
印南郡:
賀茂郡:
飾磨郡:英賀城、姫路城、御着城、志方城、神吉城、中道子城。
神崎郡:置塩城、広峯神社、書写山城、坂本城、垣屋城、山田城。
揖保郡:龍野城、城山城、林田城、塩谷城、香山城。
宍粟郡:
佐用郡:上月城、広瀬城、佐用城。
赤穂郡:赤穂城、赤松城、室山城、白旗城。

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【資料Ⅱ】

上月赤松家三家老衆【あかまつけさんかろうしゅう】

高島正澄、太田則近、小林満末。

飾磨赤松家三奉行衆【あかまつけさんぶぎょうしゅう】

難波泰興、祝融軒光慶、野村職久。

惺門四天王【せいかしてんのう(15??~15??)】

林羅山、那波活所、松永尺五、堀杏庵。

播磨国五泊【はりまこくごはく】

船泊、住泊、室津泊、飾磨泊、高砂泊。

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【資料Ⅲ】

播磨国【はりまのくに】

山陽道の東端に位置する国。東は摂津、丹波、国、西は備前、美作国、北は但馬、因幡国に接し、各方面とも山地を国境とし、三方を山に囲まれた国。南側は播磨灘に接し、淡路、讃岐、阿波国を臨む。東西に伸びる中国山地を北に控え、西播磨の山地、東播磨の低平な丘陵地が国土の多くを占めるが、播磨灘沿岸に播磨平野が広がる。加古川、市川、揖保川の流域に形成された平野は肥沃であり、農耕に適している。このため古くから開発が進み生産性が高い地域になっている。また播磨灘での漁業も盛んで、山海の産物に恵まれている。地勢的には播磨平野東部の明石の南方に明石海峡があって淡路国に近く、また摂津国とも平野伝いに交通が盛んである。陸路では中国地方を結ぶ要所であり、海路では瀬戸内海をはさんで淡路、四国地方と結ぶ重要な拠点である。

那波【なば】

相生湾最奥の矢野川の河口部に位置した湊街。中世、東寺領となった矢野荘の倉敷地として物資の集散地を担った。鎌倉期、地頭として矢野荘に入部した海老名家の拠点でもあり、南北朝期から室町期にかけて那波浦の支配をめぐり、東寺と海老名家との間で激しい争論が展開された。湊街として荘園の内外から物資が集まる那波には那波市と呼ばれる市場があり、矢野荘における東寺の年貢も、那波市での相場に基づいて銭に換貨されて納められた。矢野荘では、市場で農作物を換貨し、安い時期の和市で年貢を納めてその差額を得ようとする農民側と、高い時期の和市で年貢を納めさせようとする東寺側が度々対立した。那波に市場が立つ背景には、水運による物資や銭の流通があった。1375年、東寺は関料のかさむ「海道」ではなく、陸路で京都に運ばせようとしているが、その途上で群盗に遭い、結局海路で輸送させており、那波市で換貨された年貢が那波から海路で京都に送られていた。那波には水運に携わる業者も多くいた。『兵庫北関入舩納帳』によれば、那波船籍の船は九回、兵庫北関に入港しており、米、豆、雑穀類をはじめ、英賀や小豆島の塩、山崎胡麻などを運んだ。

兵庫【ひょうご】

畿内外縁における水陸交通の要所にあり、中世、京都への物資陸揚港として瀬戸内海屈指の重要湊として栄えた湊街。平清盛のもとで経ヶ島が築かれるなど日宋貿易、瀬戸内海航路の基点として大規模な整備事業が展開された。この兵庫の国際湊としての性格は、15世紀も変わることはなかった。遣明船派遣の基地港として大型船が発着し、幕府による湊湾整備事業が行われるなどしており、兵庫が「応仁、文明の乱」で衰退し、堺にその地位を譲るまで、畿内最大の国際湊として重要な機能を果たした。兵庫は瀬戸内海流通において、一大消費地、京都への物資陸揚港として機能していた。兵庫には東大寺管轄の北関、興福寺管轄の南関が置かれていた。「兵庫北関入舩納帳」には、瀬戸内海全域、四国各地から計二千余艘にものぼる船が、兵庫に多くの物資を運び込んでいたことが記載されている。その中でも兵庫船籍の「地下」船は最も多く記録され、米や塩など周辺、淡路、阿波などの産品を積載して入湊した。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「播磨戦国史 群雄たちの興亡」神戸新聞総合出版センター、「播磨灘物語(1)~(4)」講談社文庫、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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