2012年12月30日日曜日

戦国南肥後国人名辞典

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【あ】

赤池長任【あかいけながとう(1529~1568)】

相良晴広家臣。球磨郡赤池城主。官途は伊豆守。薩摩国との境を守備して、島津義久勢を撃退し続けた猛将。大口城の在番は赤池長任、東長兄、丸目頼美の三人で半年毎の輪番で行なわれた。1556年、「大口城の戦い」では、人吉衆を率いて島津貴久勢を撃退した。1564年、「大隅大口城の戦い」では、相良義陽が伊東義祐と結ぶと、島津貴久勢の攻撃を受けた。桑幡新六、岩崎六郎兵衛らを率いて島津義弘勢と戦ったが敗れて大口城に退却した。殿を務めた赤池長任、岡本頼氏らは手傷を負い、桑幡新六、岩崎岩崎六郎兵衛などは討死にした。1568年、「堂ヶ崎の戦い」では、上村弥九郎、的場五藤左衛門らを率いて島津義弘勢を撃破し川上久朗を討取る戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤坂弥次兵衛【あかさかよじろべい(15??~15??)】

相良晴広家臣。小俣川の普請奉行職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

阿蘇惟豊【あそこれとよ(1493~1559)】

上益城郡岩尾城主。阿蘇惟憲の次男。阿蘇神社大宮司職。1505年、兄阿蘇惟長が肥後国守護職と菊池家惣領職を相続したため、甲斐親宣、甲斐親宣らの後見を受け、阿蘇惣領家の家督を相続した。1513年、「第一次岩尾城の戦い」で菊池家を追われた阿蘇惟長勢の攻撃を受け日向国に落延びた。1517年、「第二次岩尾城の戦い」では、甲斐親宣の支援を受け、再び阿蘇大宮司職を奪還した。1540年、禁裏修理料に万疋を送り、奈良天皇宸筆の般若心経を送られた。その後も、阿蘇惟長、阿蘇惟前と抗争を繰り広げた。1543年、「堅志田城の戦い」で阿蘇惟前を追い落し阿蘇家の分裂に終止符を打った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿蘇惟将【あそこれまさ(15??~1583)】

阿蘇惟豊の男。1541年、「木倉原の戦い」で島津貴久勢に内応した御船房行を討取った。1559年、父阿蘇惟豊の病没後、阿蘇家の家督と阿蘇大宮司職を相続した。1560年、阿蘇惟前が島津貴久を支援を受け再び肥後国に侵攻すると、大友義鎮と結びこれに抵抗した。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮が大敗すると、劣勢にたたされるが、甲斐宗運の活躍により龍造寺隆信、島津義久勢に対抗し領国を維持した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿蘇惟種【あそこれたね(15??~1584)】

阿蘇惟豊の次男。1583年、兄阿蘇惟将が病没したため、阿蘇家の家督を相続したが、まもなく病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

阿蘇惟光【あそこれみつ(1582~1593)】

阿蘇惟種の男。1584年、父阿蘇惟種が病没したため、阿蘇家の家督を相続した。1585年、「岩尾城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け落延びた。1587年、「九州征伐」後、羽柴秀吉の家臣佐々成政に従い、その改易後は加藤清正に従った。1593年、「梅北一揆」では、梅北国兼に連座させられて花岡山にて自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿蘇惟善【あそこれよし(1583~1654)】

阿蘇惟種の次男。通称又次郎。1593年、兄阿蘇惟光が自刃したため、阿蘇神社大宮司職を相続した。1600年、「関ヶ原の役」後、加藤清正に仕え宮路、坂梨、竹原の三ヶ村(358石)を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

矢部阿蘇惟長【あそこれなが(1480~1537)】

上益城郡矢部城主。阿蘇惟憲の男。別名菊池武経。1505年、菊池家老衆と謀って菊池政隆を追放し、菊池惣領職を相続した。1511年、肥後国人衆や菊池家老衆と不和になると隈府城を追われた。1513年、「第一次岩尾城の戦い」では、弟の阿蘇惟豊を追い落し、阿蘇神社大宮司職を継嗣の阿蘇惟前に相続させた。1517年、「第二次岩尾城の戦い」で阿蘇惟豊の反撃を受けて八代郡に落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

矢部阿蘇惟前【あそこれさき(15??~15??)】

阿蘇惟長の男。1513年、「第一次岩尾城の戦い」で父阿蘇惟長とともに阿蘇惟豊を追い落し、阿蘇惟長の後見を受け阿蘇神社大宮司職を相続した。1517年、「第二次岩尾城の戦い」で阿蘇惟豊勢の反撃を受けて八代に落延びた。1523年、「第一次堅志田城の戦い」で、阿蘇惟豊勢の堅志田城を攻落として甲佐、砥用、中山を領した。1543年、「第二次堅志田城の戦い」で阿蘇惟豊勢の攻撃を受け、再び八代郡へ落延びた。1560年、島津貴久を支援を受け再び肥後国に侵攻したが敗れた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

矢部阿蘇惟賢【あそこれかた(15??~15??)】

阿蘇惟前の男。通称内記。父阿蘇惟前ともに薩摩国にあった。1585年、島津義久勢とともに肥後国に侵入して、阿蘇神宮大宮司職を称した。1587年、「九州征伐」後、阿蘇惟光が阿蘇家惣領職として認められたため、阿蘇神宮大宮司職の奪還をすることが出来なかった。1590年、阿蘇惟光に起請文を差し出して臣下の礼を取った。勅勘を得て薩摩国に流罪されていた近衛信尹が赦免されて上洛したときこれと同道した。京での生活を記した『言與日記』を著した。和歌、俳諧に堪能で、古典にも造詣の深い知識人であった。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

矢部阿蘇惟興【あそうこれおき(15??~15??)】

阿蘇惟賢の養子。島津義久家臣。

天草尚種【あまくさなおたね(15??~1589)】

天草郡河内浦城主。官途は尾張守。洗礼名「ドン・ミゲル」。別名天草鎮尚。室は天草尚種の娘。天草五人衆の筆頭(志岐重弘、大矢野種光、上津浦種直、栖本鎮通)。1572年、島津義久勢の攻勢を受け和議を結んだ。1575年、「河内浦城の戦い」では、天草久武勢の攻撃を受けた。1587年、「九州征伐」後、肥後国を領した羽柴秀吉の家臣佐々成政に従った。「肥後国人一揆」では、小西行長に従って一揆勢と戦い本領安堵を受けた。1589年、「天正天草の乱」では、小西行長と対立して小西行長、加藤清正勢の攻撃を受けた。志岐鎮経、大矢野種基、上津浦種貞、栖本親高らとともに籠城して戦うが討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

天草久種【あまくさひさたね(15??~1601)】

天草鎮尚の男。官途は伊豆守。通称太郎左衛門。洗礼名「ドン・ジョアン」。別名天草鎮種。室は栖本鎮通娘。1581年、父天草尚種の隠居により家督を相続した。1587年、「豊後鳥尾城の戦い」では、島津義久に従って大友義鎮勢と戦ったが敗れた。1587年、「九州征伐」後、羽柴秀吉から本領を安堵された。1589年、「天正天草の乱」では、志岐鎮経、大矢野種基、上津浦種直、栖本親高らとともに謀反を起こしたが敗退した。河内浦に切支丹修練院(天草学林)を建設した。1592年、「文禄の役」では、小西行長に従って参陣して戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では、小西行長に従って参陣したが敗退した。役後は、小早川秀秋に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

天草種倫【あまくさたねつね(15??~15??)】

天草鎮尚の次男。

天草種真【あまくさたねざね(15??~15??)】

天草鎮尚の三男。洗礼名「バルトロメウ」。

天草種方【あまくさたねかた(15??~15??)】

天草久種の男。通称弥十郎。

天草種長【あまくさたねねが(15??~15??)】

天草久種の次男。通称新介。

天草種方【あまくさたねかた(15??~15??)】

天草種元家臣。通称主水之助。1589年、「天正天草の乱」では、天草種元に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

本渡天草久武【あまくさひさたけ(15??~15??)】

天草尚種家臣。天草郡本渡城主。

本渡天草種元【あまくさたねもと(15??~1589)】

天草久武の男。官途は伊豆守。洗礼名「ドン・アンデレ」。別名「瀬戸種元」。室は天草尚種の娘。1582年、本渡天草家の家督を相続した。1587年、「九州征伐」では、羽柴秀吉勢に参陣して本領を安堵された。1589年、「天正天草の乱」では、本渡城に籠城して戦うが小西行長、加藤清正勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

有瀬蔵人【ありせくらうど(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡年行衆職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

伊賀野三郎【いがのさぶろう(15??~1575)】

伊賀野次郎の男。1575年、「草場城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け討死した。

井口右衛門【いぐちうえもん(15??~15??)】

相良義陽家臣。人吉城普請奉行衆。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

伊豆野山城守【いずのやましろのかみ(15??~15??)】

上益城郡豊内城主。1581年、「響ヶ原の戦い」では、甲斐親直に従って島津義久勢の相良義陽の家臣東掃部助と戦った。相良義陽が討死したため、島津義久勢は撤退した。1583年、甲斐親直が病没すると島津義久勢の攻勢を受け降伏した。伊豆野山城守は囲碁の名手で、降伏後上井覚兼らと碁を打った。

伊豆野四郎衛門【いずのしろうえいへい(15??~15??)】

伊豆野山城守家臣。1581年、「響ヶ原の戦い」では、伊豆野山城守に従って参陣して戦功を挙げた。

井芹加賀守【いせりかがのかみ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。1580年、島津義久に内応したが、甲斐親直勢の攻撃を受け討死した。

市下大和守【いちしたやまとのかみ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡市下城主。1586年、「市下城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け落城した。

稲留長蔵【いなどめながくら(1522~1567)】

上村頼興の四男。官途は左近大夫。別名上村長蔵。1550年、岡本頼春が父上村頼興に謀殺されると、その領地を受け継ぎ岡本城主に任じられた。1557年、「久木野城の戦い」では、兄上村頼孝、上村頼堅とともに相良義陽に謀反を起こした。「岡本城の戦い」で相良義陽勢の攻撃を受け日向国飯野に落延びた。1567年、相良義陽に許され帰還したが、家臣の東源兵衛、東主馬らが謀殺され、稲留長蔵も高橋駿河守、東尾張守らにより謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩崎加賀守【いわさきかがのかみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。多良木庄地頭職を務めた。1582年、相良頼貞の家督相続に賛同し、球麿郡帰郷に貢献した。

岩崎忠久【いわさきただひさ(15??~15??)】

相良伊勢守家臣。上土城主。通称主馬。1505年、熊本畳表の原料であるい草を植えて育てることを、村人に教えた。1516年、作物が実らず大飢饉になると、畳表の生産により餓死者を出すことはなかった。

岩屋高正【いわやたかまさ(15??~15??)】

大矢野種光家臣。通称五郎。1589年、「天正島原の乱」では、大矢野種基に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

犬童長広【いんどうながひろ(15??~1530)】

相良長定家臣。通称刑部左衛門。人吉奉行職を務めた。1524年、相良長定を支持して相良長祗勢と戦った。1525年、犬童匡政とともに相良長祗を謀殺して相良長定を擁立した。1526年、「相良瑞堅の乱」では、相良長隆是勢の攻撃を受け相良長定とともに八代城に落延びた。1530年、「津奈木城の戦い」では、上村長種勢勢の攻撃を受け相良長定、犬童重良らとともに戦ったが敗れ犬童忠匡、犬童左近らとともに捕縛され斬頸に処された

犬童重安【いんどうしげやす(15??~1530?)】

球磨郡岩城主。官途は美作守。1530年、相良長定が相良長祗を人吉から追放し、相良長祗の庶兄である相良義滋に討たれる事件の際、相良長定に協力した犬童家枝連衆はほとんど謀殺され、犬童重安も自刃した。

犬童頼安【いんどうよりやす(1521~1606)】

犬童重安の男。官途は美作守。通称軍七。1530年、「相良長定の乱」では、犬童長広が相良長定勢に属したため、枝連衆とともに謀殺された。犬童頼安は幼少であったため、助命され出家した。1545年、「相良治頼の乱」では、相良治頼勢に属して相良義滋勢と戦った。1559年、「獺野原の戦い」では、相良義陽に従って参陣して戦功を挙げた。1581年、「水俣城の戦い」では、島津義久の家臣新納忠元と連歌を交わした。相良義陽が島津義久に降伏後も相良家に忠誠を尽くした。相良義陽の病没後は相良忠房、相良長毎を補佐した。1587年、「九州征伐」では、相良忠房が改易の危機に瀕したが、深水宗芳とともに相良家の存続に尽力した。人望篤く、病没後七人が殉死した。

犬童頼兄【いんどうよりもり(1568~1655)】

犬童頼安の男。通称清兵衛。1581年、「水俣城の戦い」に参陣して島津義久勢と戦った。父犬童頼安の隠居により家督を継ぎ、相良長毎の家老職を務めた。深水宗芳が筆頭家老職の職席を犬童頼兄に譲ろうとしたが家中の反発を受けた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属した相良長毎を松平元康勢に内応させ、大垣城に籠城していた垣見一直、木村由信、熊谷直陳らを謀殺した。役後、岡本城の修築、城下街の整備などを行いながら、高利貸しなどで財を築いた。文芸も好み、書物収集にも励んだ。1640年、相良頼寛から専横を理由に罷免され津軽国に配流となった。肥後国に残された犬童家枝連衆は相良頼寛に謀殺された。

犬童丹波守【いんどうたんばのかみ(15??~1581)】

相良義陽家臣。葦北郡野角城主。1581年、「野角城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け討死した。
 
犬童源兵衛【いんどうげんべい(15??~15??)】

相良義陽家臣。1600年、相良城の普請場で刃傷沙汰が起こると、その責を負い勝又新兵衛とともに自刃した。窪田徳之助は永国寺山で自刃した。
 
犬童重照【いんどうしげてる(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡老者職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
犬童帯刀充【いんどうたてわきいん(15??~15??)】

相良陽家家臣。球磨郡老者職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

上田杢之丞【うえだじょのじょう(15??~15??)】

岡本頼春家臣。1550年、岡本頼春が上村頼興に招かれると、行かないように諌めた。岡本頼春は上村頼興のもとに赴き謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上村長国【うえむらながくに(1468~1546)】

相良為続家臣。上村高頼の次男。官途は修理亮。岡本庄地頭職。兄相良直頼は相良為続の継嗣相良頼廉を養子に迎えた。1538年、上村頼興の懇請を受けて外孫相良晴広のために『洞然居士状』を著し、相良家正統史や主君の心構えなどを説いた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上村頼興【うえむらよりおき(1490~1557)】

球磨郡上村城主。上村頼廉の男。官途は上総介。室は上村長国の娘。稀代の謀略家。1526年、「相良瑞堅の乱」で相良義滋と相良長隆が争うと、相良義滋勢に属して継嗣の相良晴広を相良義滋の養子に送り込んだ。1535年、弟の上村長種を謀殺した。1546年、相良義滋が病没すると相良晴広を擁立して後見役を務めた。1552年、義兄相良頼春を謀殺した。その領地を四男の稲留長蔵に相続させた。1555年、相良晴広が病没すると、孫相良義陽を擁立して後見役を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上村長種【うえむらながたね(1495~1535)】

上村頼廉の四男。通称兵庫允。兄上村頼興の補佐役を務めた。1529年、「湯浦城の戦い」では、犬童重良が守る湯浦城を攻落とした。犬童重良は津奈木城に落延びた。1530年、「津奈木城の戦い」では、相良長定、犬童長広、犬童重良勢と戦いこれを攻落とし、犬童忠匡、犬童左近を捕縛するとこれを斬頸に処した。1535年、上村頼興、相良長兄、丸目頼美、東直政らに謀反に疑いを受け謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上村頼孝【うえむらよりたか(15??~1567)】

上村頼興の次男。官途は右衛門大夫。父上村頼興の計略で兄上村晴広が相良義滋の継嗣となったため、次男であったが上村家の家督を相続した。1557年、兄相良晴広の病没後はその男相良義陽が相良家の家督を相続することとなったが、これに不満を持って上村頼堅、上村頼定の両弟らを語らって叛乱を起こすも失敗、敗れて薩摩飯野へ逃れた。1567年、水俣城主への復帰を条件に相良義陽と和議を結んだ。「水俣城の戦い」で相良義陽の家臣深水長則勢の攻撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上村頼堅【うえむらよりかた(15??~1557)】

上村頼興の三男。官途は右馬守。1557年、「上村頼堅の乱」では、上村頼孝、稲留長蔵と結び相良義陽に謀反を起こした。相良義陽の意向を受けた東山城守勢の攻撃を受け薩摩国に落延びた。上村頼堅は八代鏡の内田という処に潜んでいたところを捕えられ、福善寺にて謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上村長陸【うえむらながみち(15??~15??)】

上村頼孝の次男。通称新左衛門。室は相良晴広の娘(亀徳姫)。1567年、父上村頼孝は相良義陽に対して謀反を起こし後に謀殺されたが、上村長陸は幼少であったため許された。島津義弘と離縁していた相良義陽の別腹の妹(亀徳姫)を貰い受けた。1581年、相良義陽の病没後、相良頼貞が謀反を企むとそれに従った。1592年、「文禄の役」に相良頼房が参陣すると謀反を企てたが、原城の柳江院門の前で討取られた。内室の亀徳は出家しが、犬童頼兄に粗略に扱われ、貧しい生活を送った挙句に餓死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇土為光【うとためみつ(15??~1503)】

宇土郡宇土城主。菊池持朝の四男(宇土忠豊の養子)。官途は弾正大弼。1484年、「古麓城の戦い」では、相良為続と結んで菊池重朝と菊池家惣領家の家督を巡り戦ったが、まもなく和議を結んだ。1499年、「豊福城の戦い」では、菊池能運、有馬晴純勢の攻撃受け降伏した。1501年、「玉祥寺原の戦い」では、菊池能運勢と戦い菊池重安、千田重英、西牟田重家、東重棟、溝口資清らを討取る戦功を挙げ菊池惣領家の家督を相続した。1503年、「高瀬の戦い」では、有馬晴純、相良長毎らの支援を受けた菊池能運勢の反撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇土重光【うとしげみつ(15??~1503)】

宇土為光の男。1503年、有馬家の援兵や相良家の協力を得て菊池能運が肥後国へ戻り、その報に接した父宇土為光は「高瀬の戦い」にて迎撃するも敗北して筑後国へと逃亡した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宇土宮満丸【うとみやみつまる(15??~15??)】

宇土重光の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

内河忠真【うちかわただざね(15??~15??)】

名和行興家臣。官途は備後守。1562年、名和行興が病没すると、名和家の家督は名和行憲が継ぐが、七歳であったため、豊福城主名和行興の弟名和行直が名和家の実権をにぎろうとした。名和行憲の後見役には内河忠真がいて、名和行直の望みは達せられなかった。内河忠真は名和行憲後見は名和行興の遺言であると主張した。1564年、「宇土城の戦い」では、名和行憲が病没すると名和行直勢の攻撃を受け宇土城を落延びた。

内田甚五左衛門【うちだじんござえもん(15??~1600)】

相良義陽家臣。人吉城普請奉行衆。亀山瀬兵衛らも普請奉行を務めた。1600年、亀山瀬兵衛と口論となり討取られた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

大浦重常【おおうらしげつね(15??~15??)】

上津浦種直家臣。通称彦太郎。1589年、「天正天草の乱」では、上津浦種直に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

大矢野種光【おおやのたねみつ(15??~15??)】

天草郡大矢野城主。天草五人衆。別名大矢野鎮通。1532年、「上津浦城の戦い」で、天草国衆とともに上津浦城を攻撃するが、相良義滋の支援を受けた上津浦鎮貞勢に撃退された。1551年、「栖本城の戦い」では、上津浦鎮貞と結び栖本鎮通を攻撃した。1553年、「大矢野城の戦い」では、天草国人衆から攻撃を受けた。1556年、名和顕孝、志岐重弘の攻撃を受けた。

大矢野種基【おおやのたねもと(15??~1598)】

大矢野種光の男。官途は民部少輔。室は名和顕孝の娘。丸目長恵から剣術の指南を受けた。1582年、島津義久に降伏した。1587年、「九州征伐」では、羽柴秀吉に従って本領を安堵された。1589年、「天正天草の乱」では、天草種元、上津浦種直、栖本親高、志岐鎮経らとともに小西行長、加藤清正勢と戦って降伏した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大矢野種量【おおやの(15??~1598)】

大矢野種基の男。通称弥太郎。洗礼名「ドン・ジョアン」。1596年、「慶長の役」では、父大矢野種基にに従って参陣した。1598年、「順天倭城の戦い」で李氏朝鮮勢と戦って討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大矢野直重【おおやのなおしげ(15??~15??)】

大矢野種基の次男。通称喜兵衛。1598年、「順天倭城の戦い」で兄大矢野種量が討死したため、大矢野惣領家の家督を相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大矢作左衛門【おおやさくざえもん(15??~1615)】

大矢野種基家臣。1598年、「天正天草の乱」で大矢野種基が所領を失なうと、本多忠勝に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」では、本多忠朝に従って参陣したが羽柴秀頼の家臣御宿政友と戦い討死した。

大矢作左衛門【おおやのさくざえもん(15??~1638)】

大矢作左衛門の男。1615年、「大坂夏の役」で父大矢作左衛門が討死すると、本多忠朝のもとを退去して天草で帰農した。1638年、「島原の乱」では、一揆勢の指揮を取った。「原城の戦い」で長尾帯刀と戦い討死した。

岡本頼春【おかもとよりはる(15??~1550)】

球磨郡岡本城。上村長国の男。官途は相模守。1550年、上村頼興から上村城へ招かれ峯山讃岐守、栗幡六郎左衛門らに謀殺された。1556年、相良義陽は、岡本頼春の霊を弔うため岡本大炊神山に正八幡を創建した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岡本頼氏【おかもとよりうじ(1537~1606)】

相良義陽家臣。岩本隆吉の男。官途は主馬允。通称源次兵衛。別名深水主馬。槍の名手で教養も高かった。1559年、「獺野原の戦い」では、相良義陽に従って参陣して戦功を挙げた。1567年、「薩摩大口城の戦い」では、島津義弘の家臣川上久朗を討取る戦功を挙げた。1581年、相良義陽が島津義久に降伏すると、菱刈源兵衛、内田伝右衛門らとともに島津義弘勢に属して参陣した。1587年、「九州征伐」では、羽柴秀吉勢に追撃を受ける島津義久勢の殿を務め戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

男成家継【おなりいえつぐ(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。官途は通称右衛門兵衛尉。1517年、甲斐親宣、村山惟民、西惟宗、北里義重、室原鑑知、小陣惟住らとともに阿蘇惟豊の矢部城への復帰に尽力した。

男成友竹【おなりともたけ(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。小野城主。通称監物。1536年、「木倉原の戦い」で御船房行、天野雲仙を討取る戦功を挙げた。

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【か】

甲斐敦昌【かいあつまさ(15??~1538)】

益城郡隈庄城主。官途は上総介。1523年、「筒ヶ嶽城の戦い」では、大友義鑑、菊地重治勢に属して、託麻武包勢と戦った。1534年、「隈本城の戦い」で菊池義武が大友義鑑に謀反を起こすと、大友義鑑勢が肥後国に侵攻した。「隈庄城の戦い」では、菊池義武勢に属して名和武顕勢と戦った。菊池義宗は大友義鑑勢を支えきれず、肥前国高来城に落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

甲斐親昌【かいちかまさ(1507~15??)】

甲斐敦昌の次男。官途は上総介。1539年、「隈庄城の戦い」では、目方能登守勢の攻撃を受け落城した。1540年、「隈庄城の戦い」では、阿蘇惟豊勢の攻撃を受けたが撃退した。1542年、「隈庄城の戦い」では、名和武顕の家臣内河忠真の支援を受けた阿蘇惟豊勢の攻撃を受けた。1543年、「堅志田城の戦い」で阿蘇惟前を八代に追落とした。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

甲斐守昌【かいもりまさ(15??~15??)】

甲斐敦昌の次男。官途は織部佐。室は甲斐宗運の娘。1562年、「隈庄城の戦い」で甲斐宗運勢の攻撃を受け、甲斐下野守とともに甲斐親直勢と戦ったが、内応して甲斐下野守を追落として隈圧城主となった。1580年、「隈圧城の戦い」では、甲斐宗運勢の攻撃を受けたが撃退した。阿蘇惟将は、早川吉秀、渡辺吉久、伊津野正俊らを援軍として派遣したが、甲斐守昌を支援する名和顕孝勢の攻撃を受け早川吉秀、渡辺吉久勢が壊滅した。阿蘇惟将は、さらに甲斐正運を派遣して隈圧城を攻めとした。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

甲斐親宣【かいちかのぶ(14??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。甲斐重綱の男。筆頭家老職を務めた。1514年、阿蘇惟豊が菊池武経との争いに敗れ落延びてくると、これを支援して復権させた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

甲斐親直【かいちかなお(1508~1583)】

甲斐親宣の男。官途は民部太輔。別名甲斐宗運。1523年、「筒ヶ嶽城の戦い」で菊池武包が筒ヶ嶽城に籠城すると、阿蘇惟豊の意向を受けた甲斐親宣に従って参陣した。1541年、「木倉原の戦い」では、阿蘇惟将を補佐して島津貴久に内応した御船房行勢と戦い御船房行を討取る戦功を挙げた。1546年、「隈之庄の戦い」で島津貴久に内応した隈庄守昌勢と戦いこれを撃破った。1549年、「隈庄城の戦い」では、阿蘇惟将の意向を受け隈庄守昌を討取る戦功を挙げた。1551年、大友義鎮の家臣佐伯惟教勢が肥後国に侵攻すると先導役を務めた。「竹迫城の戦い」では、菊池義武の家臣合志隆重が籠城する竹迫城を攻撃したが撃退された。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗した後も大友義鎮を支援した。1580年、「且過瀬の戦い」では、龍造寺隆信勢の隈部親永、合志親為、鹿子木鎮有、島津義久勢の名和顕孝、城親賢らと戦いこれを撃破した。1581年、人質を送り龍造寺隆信勢に属した。「響野原の戦い」では、島津義久勢に属した相良義陽勢の攻撃を受けたが相良義陽を討取る戦功を挙げた。1582年、島津義久との和議を模索するが交渉中に病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

甲斐親英【かいちかひで(15??~1587)】

甲斐親直の男。官途は相模守。別名甲斐宗立。室は木山惟久室の娘。弟の甲斐親正、甲斐宣成、甲斐直武とともに伊東義祐に内応した疑いを受け甲斐親正、甲斐宣成、甲斐直武らは謀殺されたが、合志伊勢守の助命嘆願により助命された。1583年、父甲斐親直が病没すると、筆頭家老職を務めた。1585年、「堅志田城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け、御船城、隈庄城を開城して降伏、阿蘇惟光は落延びた。1586年、「九州討伐」では、羽柴秀吉勢に従い旧領の御船城を回復した。1587年、「肥後国衆一揆」では、隈部親永、隈部親泰、和仁親実、和仁親範、和仁親宗、菊池武国、辺春親行、有働兼元、名和顕輝らとともに一揆勢を率いて羽柴秀吉勢と戦ったが敗れて自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

甲斐親正【かいちかまさ(15??~15??)】

甲斐親直の次男。通称蔵人。

甲斐宣成【かいのぶなり(15??~15??)】

甲斐親直の三男。通称三郎四郎。

甲斐直武【かいなおたけ(15??~15??)】

甲斐親直の四男。通称四郎兵衛。
 
甲斐重当【かいしげあき(15??~15??)】

阿蘇惟前家臣。1582年、阿蘇惟光が島津義久と結びと大友義鎮勢の支援を受け島津義久勢と戦った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

甲斐親房【かいちかふさ(15??~15??)】

阿蘇惟前家臣。上益城郡南田代城主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

加悦素心【かえつそしん(15??~15??)】

名和武顕家臣。田平城主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

加悦三浦【かえつみうら(15??~15??)】

加悦素心の男。1580年、「矢崎城の戦い」で島津義久の家臣新納忠之、鎌田行幸勢の攻撃を受け城主の中村惟冬が討死すると、城主に任じられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

亀井光総【かめいみつふさ(15??~1550)】

亀井城主。官途は若狭守。1550年、「隈本城の戦い」で菊池義武と大友義鎮が争うと、大友義鎮勢に属した。菊池義武勢の攻撃を受け討死した。

北里永義【きたざとながよし(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。阿蘇郡岩櫃城主。通称大蔵太夫。

北里政義【きたざとまさよし(1553~1592)】

北里永義の男。官途は三河守。1583年、大友義鎮勢に従って豊前国に参陣した。1585年、島津義久勢の攻撃を受けると、島津義久に従ったが継嗣の北里重義は大友義鎮勢に属した。1588年、「肥後国人一揆」では、加藤清正に従い、継嗣の北里重義とともに肥後国人一揆勢と戦った。

北里重義【きたざとしげよし(15??~15??)】

北里政義の男。通称左馬。1585年、島津義久勢の攻撃を受けると父北里政義は島津義久勢に内応したが、北里重義は大友義鎮勢に属した。

北里惟政【きたざとこれまさ(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。上益城郡津志田城主。通称左衛門尉。別名北里惟昌。

木山惟貞【きやまこれさだ(15??~15??)】

上益城郡木山城主。

木山惟久【きやまこれひさ(15??~1593)】

木山惟貞の男。官途は弾正忠。室は甲斐親英の娘。別名木山紹宅。どもり癖があったので「どもり弾正」と比喩されたが剛勇無双で三十人力。1538年、木山家の家督を継嗣の木山信連に譲り、赤井城に隠居した。1584年、「木山城の戦い」では、島津義久勢の奇襲攻撃を受け天草種元のもとに落延びた。1583年、「仏木坂の戦い」では、天草種元に従って参陣したが加藤清正に討取られた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

木山信連【きやまのぶつら(15??~1587)】

木山惟久の男。別名木山紹印。1585年、「木山城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け落城した。1587年、「九州討伐」後、黒田孝高に仕えた。1597年、「慶長の役」でで、黒田熊之助に従って渡海するが暴風雨に遭い遭難した。

木山信正【きやまのぶまさ(15??~15??)】

木山信連の男。

草壁文右衛門【くさかべぶんえもん(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。田川内城主に任じられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

久保田越後守【くぼたえちごのかみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。1559年、「獺野原の戦い」で東長兄と丸目頼実が争うと、東長兄を支援して丸目頼実勢を撃退する戦功を挙げた。

桑原常陸介【くわばらひたちのすけ(15??~15??)】

相良義陽家臣。矢黒城主。八代郡四奉行衆。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

久留又八郎【くるまたはちろう(15??~15??)】

相良頼房家臣。豊後国の石工職人。1607年、人吉城普請のため招かれた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

黒仁田豊後守【くろにだぶんごのかみ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。1580年、伊東義祐に内応したが、甲斐親直勢の攻撃を受け討死した。

上津浦鎮貞【こうつうらかねさだ(15??~15??)】

天草郡上津浦城主。天草五人衆。1532年、「上津浦城の戦い」で、天草国衆の攻撃を受けるが、相良義滋の支援を受け撃退した。

上津浦種貞【こうつうらたねさだ(15??~15??)】

上津浦鎮貞の男。1582年、上津浦種貞は島津家が肥後に侵攻するとこれに従属した。1585年、熊庄城攻撃戦では自ら一軍を率いて島津家に協力した。羽柴秀吉の「九州征伐」後は、佐々成政の支配下に入り、その後小西行長の管理下に収まった。

上津浦種直【こうつうらたねなお(15??~15??)】

上津浦種貞の男。通称上総介。洗礼名「ドンホクロン」。室は栖本鎮通の娘。1589年、「天正天草の乱」では、志岐鎮経、天草種元らとともに小西行長、加藤清正勢と戦ったが敗れた。

上津浦六左衛門【こううらろくざえもん(15??~15??)】

上津浦種直の男。

上津浦種貞【こううらたねさだ(15??~15??)】

上津浦種直家臣。通称四郎。1589年、「天正天草の乱」では、上津浦種直に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

小浦太郎【こうらたろう(15??~15??)】

天草郡大島城主。

合津山城守【ごうつやましろうのかみ(15??~15??)】

大矢野種光家臣。洗礼名「ペイトロ」。家老衆を務めた。

小島遠江守【こじまおうみのかみ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。1586年、「湯浦城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け討死した。

小陣惟住【こじんこれずみ(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。1517年、甲斐親宣、村山惟民、西惟宗、北里義重、室原鑑知、男成家継らとともに阿蘇惟豊の矢部城への復帰に尽力した。

小陣惟富【こじんこれとみ(15??~15??)】

小陣惟住の男。官途は治部太輔。1560年、文書に署名した。

後醍院良任【ごだいいよしさだ(1524~1597)】 

相良義陽家臣。後醍院宗能の男。1581年、継嗣の後醍院宗重が大友義鎮の使者を射殺してしまったため、相良義陽のもとから出奔して島津義弘に仕えた。1582年、「八代城の戦い」では、島津義弘に従って参陣した。

後醍院宗重【ごだいいんむねしげ(1551~1624)】

後醍院良任の男。通称喜兵衛。官途は淡路守。1556年、「佐敷量石の戦い」で島津義久の家臣大磯平内左衛門を討取る戦功を挙げた。1581年、大友義鎮の使者を射殺してしまったため、父後醍院良任とともに相良義陽のもとから出奔して島津義弘に仕えた。1584年、「肥後沖田畷の戦い」では、島津義久の家臣平田光宗に従って参陣して戦功を挙げた。1587年、「九州征伐」では、島津義弘勢の殿を務め、長束正家勢に捕縛された。その後、佐々成政、小西行長、島津忠恒らに仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、木脇祐秀とともに殿を務めて戦功を挙げた。参考資料:フ
リー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

後醍院義信【ごだいいんよしのぶ(15??~16??)】

後醍院宗重の次男。

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【さ】

税所継恵【さいしょつぐよし(14??~15??)】

相良長毎家臣。税所好継の男。通称新兵衛尉。1487年、「相良頼泰の乱」で相良頼泰が継嗣の相良長泰の擁立して謀反を起こすと、相良長毎とともにこれを討伐した。書著に『洞然居士状』。

相良長定【さがらながさだ(15??~1531)】

相良頼金の男。官途は民部大輔。1524年、犬童長広と謀って相良長祗を人吉城から水俣城に追い落とした。1525年、「水俣城の戦い」で相良長祇を自刃に追い込み相良惣領家の家督を相続した。1526年、「人吉城の戦い」で相良長隆が率いる僧兵に攻められて人吉城から落延びた。八代、津奈木を経て筑前国へ逃れた。のち相良義滋に謀られ帰国後に謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

相良治頼【さがらはるより(1548~1546)】

八代郡岡城主。相良長弘の男。官途は治部少輔。兵法、武道に優れて衆望厚く、相良義滋と不仲となって謀反を疑いを受けた。1545年、「多良木城の戦い」では、犬童頼安、宮原玄蕃らとともに籠城した。「耳取原の戦い」で相良義滋勢の攻撃を受け豊後国に落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

相良長隆【さがらながたか(1492~1526)】

相良長毎の次男。別名相良瑞堅。京都の東福寺で学び帰国後、観音寺の住職を務めた。1525年、相良長祗が相良長定に謀殺されると、兄相良義滋とともに相良長定に対抗した。1526年、「相良瑞堅の乱」では、僧兵や門徒衆らとともに人吉城の相良長定を追落した。相良家臣団は従わず、僧兵や門徒衆も離反したため、上村に落延びた。「永里城の戦い」では、相良長唯勢の攻撃を受け討死した。

相良義滋【さがらよししげ(1491~1546)】

相良長毎の三男。官途は近江守。通称六郎。別名相良長為。1524年、父相良長定によって相良長祗が自刃に追いやられた。1526年、相良長隆が相良長定を追放して相良家の家督を相続した。上村頼興は、継嗣相良晴広(上村頼重)を養子に入れる条件で相良長唯と結び、その擁立に尽力した。北九州の勢力を持つ大内義隆と結んで対明貿易に参加した。1534年、古麓鷹ヶ峰城を築城した。1535年、菊池義武の肥後国復帰を支援、また堅志田城にある阿蘇惟前を援助するなど勢力を拡大させた。天草五人衆にも影響を持つようになった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

相良長祗【さがらながまさ(1501~1525)】

相良長毎の三男。官途は左兵衛尉。通称太郎。1512年、父相良長毎の隠居により、相良家の家督を相続した。1524年、相良長定、犬童長広のために人吉城を追われ、水俣城に落延びたが追い詰められ自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

相良晴広【さがらはるひろ(1513~1555)】

上村頼興の男。官途は右兵衛佐。通称藤五郎。別名上村頼重。室は名和武顕の娘。継室は上田織部允の娘。父上村頼興の政略によって相良義滋に入嗣し、その死後家督を相続した。1536年、上村長国より「洞然居士状」を授けられた。菊池義武の復帰戦を援助し豊後大友家と対抗した。南隣の薩摩島津家とは謀叛人が逃亡したこともあって険悪であった。1554年、大内家と結び、市木丸を造って対明貿易を進めた。1555年「相良氏法度二十箇条」の制定など、法令を多く発しているので領内統制に腐心した。

相良義陽【さがらよしひ(1544~1581)】

相良晴広の男。官途は遠江守。通称四郎太郎。別名相良頼房。室は相良義滋の娘(千代菊)。1555年、祖父上村頼興の後見を受け相良家の家督を相続した。1556年、「大隅大口城の戦い」では、菱刈重任とともに大口城を攻落とした。1557年、「上村頼孝の乱」では、謀反を起こした上村頼孝、上村頼堅、稲留長蔵らを鎮圧した。1559年、「獺野原の戦い」で相良頼房勢を撃破り球磨郡、八代郡、芦北郡の支配権を確立した。1562年、「日向真幸院の戦い」では、伊東義祐と結んで島津貴久勢と戦った。1567年。「初栗の戦い」で島津義久勢を撃退した。1569年、「砥上の戦い」で島津義久勢と戦い大口城を失った。1579年、「水俣城の戦い」後、芦北郡を割譲して島津義久と和議を結んだ。1581年、「響原の戦い」で甲斐宗運勢と戦って討死した。

相良頼貞【さがらよりさだ(1544~15??)】

相良晴広の次男。1556年、父相良晴広の意向を受け永国寺の泰雲和尚のもとで出家した。1581年、「水俣城の戦い」後、相良義陽と対立して出奔した。「響野原の戦い」で相良義陽が討死すると、相良惣領家の家督を狙って岩崎加賀守らとともに常秀寺で兵を上げた。「人吉城の戦い」では、岡本頼氏が負傷した。深水長智の調停により岩崎加賀守とともに日向国に落延びた。

相良長毎【さがらながつね(1574~1636)】

相良義陽の男。官途は宮内大輔。通称四郎次郎。室は秋月種長の妹(龍子)。1585年、兄相良忠房が病没したため、相良惣領家の家督を相続した。1587年、「九州征伐」では、島津義久に従って参陣して羽柴秀吉勢と戦った。役後、深水宗芳の働きにより球磨郡の所領を安堵された。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して美濃大垣城に籠城したが石田三成勢が壊滅すると、松平元康勢に内応した。秋月種長、高橋元種らとともに城内の熊谷直盛、垣見一直、木村由信、木村豊統を謀殺した功により所領を安堵した。1619年、「椎葉山騒動」では、反御朱印派を鎮圧した。
 
相良長皓【さがらながあきら(15??~15??)】

相良為続の五男。興善寺関城主。官途は伊勢守。
 
相良尾張守【さがらおわりのかみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡四奉行。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
相良長城【さがらながしろ(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡老者。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
相良長住【さがらながずみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡老者。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
相良長観【さがらちょうかん(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡老者。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
相良長通【さがらながみち(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡老者。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
相良民部大輔【さがらみんぶだいふ(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡老者。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

相良伊勢守【さがらいせのかみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡上土城。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

佐々木吉広【ささきよしひろ(15??~15??)】

名和顕孝家臣。岡城主。

佐々木吉重【ささきよししげ(15??~15??)】

佐々木吉広の男。

佐牟田頼秀【さむたよりひで(15??~15??)】

相良晴広家臣。大畑城主。

佐牟田長堅【さむたながかた(1546~1579)】

佐牟田頼秀の男。通称城之助。勇将。常に犬を連れて狩りに出掛けたが論語や六韜三略を携えた。島津義弘は佐牟田長堅の調略を図ったが失敗に終わった。1579年、「日向耳川の戦い」では、相良義陽勢が大口城を攻撃するために兵を集めると、島津義弘の刺客により謀殺された。

佐牟田長治【さむたながはる(15??~15??)】

佐牟田長堅の男。

佐牟田忠興【さむたただおき(15??~15??)】

佐牟田頼秀の次男。

塩山浅之助【しおやまあさのすけ(15??~15??)】

吉尾大学の男。

志岐重弘【しきしげひろ(14??~15??)】

天草郡志岐城主。志岐重遠の男。官途は弾正少弼。通称又次郎。別名志岐武遠。1501年、菊池能運勢に従って宇土為光勢と戦い戦功を挙げた。1525年、菊池重治から「藤原重経」の名字と刀一振を与えられた。1532年、「上津浦城の戦い」では、天草国衆とともに上津浦治種を攻撃した。1559年、「栖本城の戦い」では、天草尚種、上津浦種教らとともに栖本鎮通を攻撃した。

志岐鎮経【しきしげつね(15??~1589)】

志岐重弘の男。官途は豊前守。通称又次郎。洗礼名「ドンジョアン」。別名志岐麟泉。1566年、イエズス会士ルイス・デ・アルメイダを招き布教を許した。1578年、「日向耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると、龍造寺信隆勢に従った。有馬晴信が島津義久勢に寝返ると、それに従って島津義久勢に属した。1587年、「九州征伐」では、島津義久が羽柴秀吉に降伏すると、志岐鎮経もそれに従った。1589年、「天正天草の乱」では、小西行長の賦役に反発して天草五人衆とともに反乱を起こした。「志岐城の戦い」では、小西行長勢3,000余りを夜襲で撃退したが、再び小西行長、加藤清正、有馬晴信、大村喜前ら10,000余りの攻撃を受け薩摩国に落延びた。

志岐親重【しきちかしげ(15??~1607)】

有馬晴純の五男(志岐鎮経の養子)。通称藤右衛門尉。室は島津義虎の娘。

志岐親昌【しきちかまさ(15??~1647)】

志岐親重の男。通称小左衛門。

志岐経弘【しきつねひろ(15??~15??)】

志岐重弘の次男。

下田能続【しもだよしつぐ(15??~1586)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡下田城主。通称左衛エ門尉。1586年、「下田城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受けう討死した。

下津浦景春【しもつうらかげはる(15??~15??)】

上津浦種直家臣。通称六兵衛。1589年、「天正天草の乱」では、上津浦種直に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

栖本鎮通【すもとしずみち(15??~15??)】

天草郡栖本城主。官途は民部少輔。洗礼名「ドン・バウトロメウ」。天草五人衆。相良晴広と結び他の天草五人衆(志岐鎮経、天草種元、大矢野種基、上津浦種直、栖本親高)と争った。

栖本親高【すもとちかたか(1566~1592)】

栖本鎮通の男。官途は上野守。洗礼名「ジョアン」。別名栖本八郎。室は上津浦鎮貞の娘。1589年、「天正天草の乱」では、志岐鎮経勢に属して小西行長、加藤清正勢と戦い降伏した。1592年、「文禄の役」では、小西行長に従って参陣した。「梅北一揆」で梅北国兼勢と戦い討死した。

栖本通隆【すもともちたか(15??~1592)】

栖本鎮通の次男。1592年、「文禄の役」では、栖本親高に従って参陣したが、李氏朝鮮勢と戦い討死した。

栖本武経【すもとたけつね(15??~15??)】

栖本親高家臣。通称六之助。1589年、「天正天草の乱」では、栖本親高に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

千束善右衛門【せんぞくぜんえもん(15??~1638)】

小西行長家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、小西行長が斬頸に処されると天草で帰農した。1638年、「島原の乱」では、徒士大将、評定衆として原城三の丸を守った。「原城の戦い」では、大矢野作左衛門、田崎刑部らとともに戦うが細川忠興の家臣佐藤十兵衛に討取られた。

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【た】

高塚上野介【たかつかうえののすけ(15??~15??)】

相良義陽家臣。1581年、「響野原の戦い」では、相良義陽の響野原へ布陣に箕田三浦介とともに反対した。甲斐親直勢の攻撃を受け相良義陽が討死した。

高塚掃部助【たかつかかもんのすけ(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡年行職を務めた。

高橋駿河守【たかはしするがのかみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代十三人衆。1567年、相良義陽の意向を受け高橋駿河守、東尾張守らとともに稲留長蔵を謀殺した。

高橋頼演【たかはしよりひろ(15??~1584)】

後醍院良任の次男。1584年、「沖田畷の戦い」では、兄後醍院宗重に従って参陣したが、龍造寺隆信勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

高森惟直【たかもりこれなお(15??~1586)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡高森城主。官途は伊予守。南郷七家の筆頭。1585年、阿蘇惟光が島津義久に降伏すると、大友義鎮と結び島津義久勢との戦いを継続した。1586年、仁田水左衛門大夫を謀殺して、村上丹波守を捕縛した。「高森城の戦い」では、島津義久勢の攻撃を受け討死した。高森惟直の娘(柏姫)が島津義久勢に斬られた。

田口弾正【たぐちだんじょう(15??~1550)】

大友義鑑家臣。上益城郡飯田城主。肥後国内で大友義鑑勢の目付役を務めた。1550年、豊後国で謀殺された。

竹崎惟満【たけさきこれみつ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。官途は筑前守。村山惟貞とともに阿蘇家の筆頭家老職を務めた。

竹崎筑後守【たけさきちくごのかみ(15??~15??)】

木山惟貞家臣。家老職を務めた。1547年、木山惟貞から赤井城代に任じられた。

竹下内匠充【たけしたくないのすけ(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡年行衆を務めた。

竹下監物【たけしたけんもつ(15??~1593)】

深水長智家臣。1590年、犬童頼兄の筆頭家老職就任に反対して深水頼蔵を擁立した。1592年、「文禄の役」では、山田城に引きこもった深水頼蔵を説得して渡海させた。1593年、「湯前城の戦い」で知行地を召し上がれたことをきっかけに湯前城に籠城するが深水頼蔵の支持を得られず自刃した。

武田元実【たけだもとざね(15??~1586)】

高森惟直家臣。官途は大和守。1586年、「高森城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け討死した。

田代乗珍【たしろじょうちん(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。上益城郡戸上城主。

田代快尊【たしろかいそん(15??~15??)】

甲斐親直家臣。上益城郡南田代城主。家老職を務めた。1581年、「響野原の戦い」では、相良義陽勢が響野原へ布陣すると、甲斐親直の意向を受け継嗣の田代宗伝とともに響野原の背後に兵を進め、東左京進勢と戦った。甲斐親直の攻撃により、相良義陽の家臣高塚上野介、箕田三浦介、淵上刑部、相良籐八郎、園田教音、東刑部、高橋内膳、桑原紀伊守、柏木壱岐守、東越後守、高橋志摩、豊永備前守、緒方藤左衛門、犬童喜兵衛、犬童五兵衛、原口佐左衛門、桑原喜兵衛らを討取った。相良義陽も野本太郎右衛門に討取られた。

田代宗伝【たしろそうでん(15??~15??)】

田代快尊の男。

玉目秀左衛門【たまめゆうざえもん(15??~16??)】

阿蘇惟将家臣。上益城郡高畠城主。通称秀左衛門。1600年、「関ヶ原の役」後、加藤清正が南肥後国を領すると、これに仕えた。娘が加藤清正の側室(正應院)となり、娘の生んだ三男加藤忠広が加藤家の家督を相続すると、外戚として権力を振るった。

湛渕甚吉【たんふじじんきち(15??~15??)】

村山丹後守家臣。1581年、「豊田城の戦い」で相良義陽勢の攻撃を受けたが、城主村山丹後守が不在のなか城兵をまとめ相良義陽勢と戦った。参考文献:「宇城市」by教育部文化課。

鈞野民部少輔【つりのみんぶしょうゆ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。益城郡曲野城主。弓術に長けたという辻姫が城主になった。

田崎出羽守【たざきでわのかみ(15??~15??)】

宗市正家家臣。家老職を務めた。1584年、「曲野城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け討死した。

恒松貞棟【つねまつさだむね(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡年行。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

伝林坊頼慶【でんりんぼうよりのぶ(15??~1535)】

丸目長恵家臣。明国の出身。丸目長恵に師事し、タイ捨流と大陸の武術を組み合わせや兵法を創始した。1635年、丸目蔵人の墓前で自刃した。

東藤左衛門【とうどうさえもん(15??~15??)】

相良義陽家臣。芦北郡佐敷東城主。

富永土佐守【とみながとさのかみ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。下益城郡萱野城主。

砥用丹後守【ともちたんごのかみ(1551~1582)】

阿蘇惟将家臣。下益城郡馬入城主。別名佐々原惟義。阿蘇惟将のもとで篠原後藤兵衛、佐々原後藤兵衛、笹原後藤兵衛らとともに剛の武者と称された。1571年、馬入城に城を移し300町を領した。1581年、「響野原の戦い」で相良義陽勢勢の先陣を撃退する戦功を挙げた。

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【な】

永池筑後守【ながいけちくごのかみ(15??~15??)】

相良治頼家臣。永池筑後守(父子同通称)の男。官途は刑部少輔。別名永池刑部。1545年、「相良治頼の乱」では、父永池筑後守とともに加担したが敗北して日向国に落延び伊東義祐に仕えた。1551年、「目井城の戦い」で上別府宮内少輔等とともに戦功を挙げたた。

長島鎮真【ながしまかねまさ(15??~15??)】

天草郡堂崎城主。天草八家。官途は但馬守。1554年、相良晴広勢の圧力に耐えかねた長島鎮真は当城を放棄、島津忠兼を頼って落延びた。

長野惟久【ながのこれひさ(15??~1584)】

阿蘇郡長野城主。1584年、「南郷城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受けると、援軍として南郷城して島津義久勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中村惟冬【なかむらこれふゆ(15??~1580)】

阿蘇惟将家臣。官途は伯耆守。1580年、「矢崎城の戦い」で島津義久の家臣新納忠之、鎌田行幸勢の攻撃を受け討死した。

名和顕忠【なわあきただ(1452~15??)】

球磨郡古麓城主。名和教長の次男。室は相良為続の娘。1459年、兄名和義興が謀殺されたると、内河式部少輔とともに相良長続のもとに落延びた。相良長続の支援を受け古麓城に復帰した。1465年、名和惣領家の家督を相続したが、支援を受けた見返りに球磨郡高田郷を割譲した。1484年、「古麓城の戦い」で相良為続勢の攻撃を受け八代郡に落延びた。1499年、「豊福の戦い」で相良為続が大敗すると、古麓城を奪還した。1504年、「古麓城の戦い」で菊池能運、相良長毎勢の攻撃を受け、木原城に落延びた。菊池能運が病没すると、宇土城に入城した。1511年、「豊福城の戦い」で相良長毎勢の豊福城を攻落とした。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

名和重年【なわしげとし(14??~1517)】

名和顕忠の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

名和武顕【なわたけあき(15??~1546)】

名和顕忠の次男。官途は伯耆守。1517年、兄名和重年の病没により名和家の家督を相続した。1517年、相良長毎と和議を結んだが豊福城を巡って対立と和議を繰り返した。1537年。相良晴広に娘を嫁がせ、相良晴広とともに菊池義武の復帰に尽力した。1542年、豊福城、小田城を巡って相良晴広と抗争を続けた。1545年、小田城を譲り相良晴広と和議を結んだ。

名和行興【なわゆきおき(15??~1562)】

名和武顕の次男。官途は伯耆守。別名宇土行興。1546年、父名和武顕の病没後、名和家の家督を相続した。1550年、菊池義武に協力して隈庄城を攻めたが、皆吉武真に宇土城を奪われた。後に奪回したが、菊池義武は滅亡した。1553年、修理大夫に任官した。

名和行憲【なわゆきのり(15??~1564)】

名和行興の男。1562年、父名和行興が病没すると幼少で、名和家の家督を相続した。1564年、家督を相続したがまもなく病没した。

名和行直【なわゆきなお(15??~1571)】

名和武顕の三男。官途は伯耆守。1562年、兄名和行興が病没すると、甥和名行憲が幼少であったため、内河忠真とともにこれを後見した。1564年、名和行憲が病没すると内河忠真を追落として、名和家の家督を相続した。1566年、家臣の加悦素心と対立した。

名和顕孝【なわあきたか(1560~1608)】

名和行直の男。官途は左兵衛尉。1571年、父名和行直の病没により名和家の家督を相続した。1579年、「日向耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると、島津義久勢に降伏した。1581年、「水俣城の戦い」では、島津義久と相良義陽が和議を結ぶ仲介を行った。龍造寺隆信勢の攻撃を受け降伏した。1587年、「九州征伐」では、島津義久に従って 羽柴秀吉勢と戦ったが降伏した。小代親泰、城久基らとともに佐々成政勢に属した。1592年、「文禄の役」では、羽柴秀次や福島正則などに従った。
 
名和顕輝【なわあきてる(15??~1587)】

名和行直の次男。別名名和行良。1587年、「肥後一揆」に参陣して討死した。

名和長興【なわながおき(15??~15??)】

名和顕孝の男。

名和顕武【なわあきたけ(15??~15??)】

名和顕孝の次男。

名和顕貞【なわあきさだ(15??~15??)】

名和顕孝の三男。

西長皓【にしながあきら(15??~15??)】

相良長毎家臣。八代郡関城主。通称伊勢守。1510年、「関城の戦い」では、名和顕忠勢の攻撃を受けると、相良長毎は援軍を派兵して名和顕忠勢を撃退した。

西惟充【にしだだみち(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。官途は弾正忠。1544年、書状に署名した。

西惟玄【にしありとら(15??~15??)】

西惟充の男。官途は弾正忠。1560年、書状に連署した。

西惟延【にしこれのべ(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。官途は越前守。

西惟栄【にしこれえい(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。官途は三河守。通称主計允。取次役を務めた。

西惟宗【にしこれむね(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。1517年、甲斐親宣、村山惟民、北里義重、室原鑑知、小陣惟住、男成家継らとともに阿蘇惟豊の矢部城への復帰に尽力した。

西惟安【にしこれやす(15??~15??)】

上益城郡市の原城主。官途は金吾。通称左衛門尉。

西村金吾【にしむらきんご(15??~1581)】

阿蘇惟将家臣。1581年、「堅志田城の戦い」で相良義陽の家臣東左京進勢の攻撃を受け討死した。

仁田水惟久【にたみずこれひさ (15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。官途は出雲守。1544年、文章に連署した。

仁田水惟栄【にたみず(15??~1586)】

仁田水惟久の男。官途は左衛門大夫。奉行衆を務めた。1582年、連署状に署名した。1586年、島津義久と結ぶことに反対する高森惟直を説得しようとするが、逆に討たれた。

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【は】

沛下直貞【はいがなおさだ(15??~15??)】

大矢野種光家臣。通称源八郎。1589年、「天正天草の乱」では、大矢野種基に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

橋本九郎左衛門【はしもとくろうざえもん(15??~15??)】

阿蘇惟種家臣。上益城郡葛羅原城主。

馬塲重友【ばばしげとも(15??~15??)】

栖本親高家臣。通称藤九郎。1589年、「天正天草の乱」では、栖本親高に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

早川秀吉【はやかわひでよし(15??~1580)】

渡辺邦秀の男(渡辺吉盛の養子)。官途は越前守。別名秀吉。室は甲斐宗運の娘。叔父渡辺吉盛から渡辺家の家督を相続して南早川城を領した。1580年、「隈圧城の戦い」では、甲斐守昌勢と戦い渡辺吉久とともに討死した。

原田種清【はらだたねきよ(15??~15??)】

大矢野種光家臣。通称六郎。1589年、「天正天草の乱」では、大矢野種基に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

東長兄【ひがしながとし(15??~15??)】

相良義滋家臣。通称弾正。丸目頼美とともに人吉奉行衆を務めた。1535年、上村頼興の意向を受けて上村長種を謀殺した。1559年、丸目頼美は対立すると、相良義陽の支持を取り付け丸目頼美を追落とした。「獺野原の戦い」では、犬童頼安とともに那須祐貞の支援を受けた丸目頼美勢を撃破った。

東直政【ひがしなおまさ(15??~1559)】

相良晴広家臣。球磨郡湯前城主。官途は三河守。1559年、相良義陽の意向を受け丸目頼美と東長兄の仲裁を行った。相良義陽と東長兄が結び丸目頼美を攻撃したため、丸目頼美は湯前城に落延びた。「湯前城の戦い」では、上田兵部とともに湯前城に籠城した。「獺野原の戦い」では、犬童頼安とともに那須祐貞の支援を受けた丸目頼美勢と戦ったが討死した。

東頼兼【ひがしよりかね(1536~15??)】

相良晴広家臣。宝河内城主。岡本頼春の男。官途は駿河守。1552年、父岡本頼春が上村頼興に謀殺されたが、幼年のため助命された。1579年、「宝河内城の戦い」では、島津義久の家臣新納忠元勢の攻撃を受けると、城兵を残したまま東頼乙とともに湯浦まで落ち延びた。八代衆の援軍により宝河内城は落城を免れた。1580年、「宝河内城の戦い」で新納忠元勢の奇襲攻撃を受け落城した。

東頼乙【ひがしよりいつ(15??~1627)】

東頼兼の男。通称喜兵衛。室は上村頼孝の娘。別名東頼一。父東頼兼とともに宝河内城の城番を務めた。1579年、「宝河内城の戦い」では、島津義久の家臣新納忠元勢の攻撃を受けると、城兵を残したまま父東頼兼とともに湯浦まで落ち延びた。1592年、「文禄の役」では、法寿寺の前住亮哲とともに祐筆役として朝鮮へ渡海した。出家すると、女犯肉食を断って常楽寺山に庵を開いた。

東源兵衛【ひがしげんべい(15??~1567)】

稲留長蔵家臣。家老職を務めた。1557年、「岡本城の戦い」で相良義陽勢の攻撃を受け稲留長蔵ともに飯野に落延びた。1567年、相良義陽に許され稲留長蔵ともに帰還したが東主馬とともに謀殺された。

東主馬【ひがししゅめい(15??~1567)】

稲留長蔵家臣。家老職を務めた。1557年、「岡本城の戦い」で相良義陽勢の攻撃を受け稲留長蔵ともに飯野に落延びた。1567年、相良義陽に許され稲留長蔵ともに帰還したが東源兵衛とともに謀殺された。

東加賀守【ひがしかがのかみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。久米城主。久米庄地頭職。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

東左京進【ひがしさきょのしん(15??~15??)】

相良義陽家臣。1581年、「堅志田城の戦い」では、相良義陽勢の先陣を務め、城主の西村金吾を討取る戦功を挙げた。

東大蔵【ひがしおおくら(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡年行。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
東源兵衛尉【ひがしげんへいえいのじょう(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡年行。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

東弾正忠【ひがしだんじょうちゅう(15??~15??)】

相良義陽家臣。人吉三奉行衆。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

久木野備前守【ひきのびぜんのかみ(15??~15??)】

阿蘇惟種家臣。駒返城主。1573年、「駒返城の戦い」では、島津義久勢の攻撃を受け落城した。

菱苅平駄【ひしかりへいた(15??~15??)】

相良義陽家臣。中尾城主。通称左兵衛。人吉城普請総奉行職を務めた。

深水頼金【ふかみよりかね(15??~15??)】

相良晴広家臣。

深水長智【ふかみながとも(1532~1590)】

深水頼金の男。官途は三河守。別名深水頼方。犬童頼安とともに相良家の両輪として主家のために尽力した。外交に長じていた。1581年、相良義陽の討死後、相良忠房の後継を島津家に認めさせた。1587年、「九州征伐」では、羽柴秀吉に従って島津義久勢攻撃への先導役を務めた。1587年、「肥後国衆一揆」では、佐々成政の意向を受け相良頼房が、島津義弘、伊集院忠棟勢の入国を阻む失態を犯したが、深水長智の弁明により事なきを得た。

深水宗満【ふかみむねみつ(15??~15??)】

深水長智の男。官途は摂津守。
 
深水織部【ふかみおりべ(15??~15??)】

深水頼金の次男。兄深水長智の継嗣深水宗満が討死したため、深水織部の継嗣深水頼蔵が深水惣領家の家督を相続した。

深水頼蔵【ふかみよりくら(15??~1598)】

 深水織部の男(深水長智の養子)。通称左馬介。別名相良頼蔵。深水長智の養子に迎えられ、犬童頼兄とともに相良頼房の家老職を務めた。1592年、「文禄の役」では、犬童頼兄の不仲を理由に相良頼房の意向に従わず山田城に引きこもった。竹下監物の説得を受け渡海した。1593年、「湯前城の戦い」で竹下監物が謀反を起こすが、失敗に終わり自刃した。1596年、相良頼房のもとから出奔して加藤清正のもとに落延びた。1598年、「蔚山の戦い」で加藤清正に従い参陣したが討死した。

深水玄蕃【ふかみげんば(15??~15??)】

相良義陽家臣。人吉城普請手木奉行。豊永右衛門、窪田佐平次も普請手木奉行として普請を指揮した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
深水長命【ふかみちょうめい(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡老者。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

普門寺盛誉【ふもんじせいよ(15??~1582)】

球磨郡普門寺の住職。湯山宗豊の次男。別名「奝然坊盛誉」。普門寺の阿闍梨真盛に教えを受けた。その後、願成寺真誉に教えを受け、日向国佐土原の黒貫寺で修学後、普門寺朝弁に教えを受けた後、院主に任じられた。1581年、相良頼貞が相良義陽の病没後、謀反を起したが深水長智の説得を受け日向国に退去した。1582年、「相良頼貞の乱」では、普門寺盛誉と宗昌が相良頼貞勢に加担したとして相良忠房に討取られた。宗昌は日向国に落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

古江安守【ふるえやすもり(15??~15??)】

栖本親高家臣。通称四郎右衛門。1589年、「天正天草の乱」では、栖本親高に従って参陣して加藤清正、小西行長勢と戦った。

辺春盛道【へばるもりみち(15??~1584)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡内牧城主。官途は丹波守。1584年、「内牧城の戦い」で島津義久勢の攻撃を受け自刀した。

本郷能登守【ほんごうのとのかみ(15??~15??)】

島津義久家臣。八代郡比丘尼ヶ城主。1600年、「宇土城の戦い」で加藤清正勢の攻撃を受けた宇土城を支援するため、小西貞長勢に属して参陣した。加藤清正勢の反撃を受け討死した。本郷能登守の母(妙珍比丘尼)が比丘尼ヶ城を守備した。

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【ま】

松岡丹後守【まつおかたんごのかみ(15??~15??)】

阿蘇郡守護神城主。

松浦筑後守【まつうらちくごのきみ(15??~15??)】

宇土郡紫尾城主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI。

松岡長平【まつおかながひら(15??~15??)】

八代郡平山城主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI。

松平内蔵助【まつだいらくらのすけ(15??~15??)】

天草郡上野原城主。

的場自休【まとばじきゅう(15??~15??)】

相良義陽家臣。1584年、「肥前森岳の戦い」では、島津家久勢に従って龍造寺信隆勢と戦い戦功を挙げた。連歌師や女歌舞伎を批判して奢侈を諌めたが、自身も文に通じた教養人だった。

丸目長恵【まるめながよし(1540~1629)】

相良晴広家臣。丸目与三右衛門の男。官途は石見守。文武両道の武将。天草伊豆守から中条流の剣術を学び、上泉信綱から新陰流の印可を得た。上泉信綱が足利義輝に招かれてその技を披露したとき、打太刀を務めた。1569年、「大口城の戦い」後、相良義陽の意向を受け敗戦の責を負いに蟄居した。1581年、「響ヶ原の戦い」で相良義陽が討死すると、赦免され相良頼房の兵法師範を務めた。後に「タイ捨流」を編み出した。武芸に長じるほか、和歌、笛などにも優れ、また肥後球磨郡一武霧の原の開拓に功を上げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

万江兵太夫【まんえへいだいふ(15??~15??)】

相良義陽家臣。人吉城普請の横目付役を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

三浦義国【みうらよしくに(15??~15??)】

下益城郡岩尾野城主。1584年、「御船城の戦い」で甲斐親直勢の攻撃を受け討死した。

三谷刑部左衛門【みたにぎょうぶざえもん(15??~15??)】

名和武顕家臣。阿高城主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI。

光永惟宗【みつながこれむね(15??~1551)】

阿蘇惟豊家臣。上益城郡津森城主。1551年、「津森城の戦い」で大友義鎮勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI。

光永惟純【みつながこれずみ(15??~1551)】 

光永惟宗の弟。1551年、「津森城の戦い」では、兄光永惟宗とともに津森城に籠城したが、大友義鎮勢の攻撃を受け討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

南下野守【みなみしもつけのか(15??~15??)】

八代郡二見南城主。

皆吉武真【みなよしたけざね(15??~1550)】

名和武顕家臣。八代郡豊福城主。官途は伊予守。1527年、「第一次豊福城の戦い」で名和武顕が相良晴広勢から豊福城を奪い城代に任じられた。1535年、「第二次豊福城の戦」では、相良晴広勢の攻撃を受け落城した。1550年、「隈庄城の戦い」で名和行興、菊池義武らの攻撃を受け隈庄城が落城すると、宇土城を攻落とした。「宇土城の戦い」で名和行興、菊池義武勢の反撃を受け相良義陽を頼って落延びた。その後、相良義陽の支援を受け宇土城を攻撃したが討死した。

蓑田長親【みのだながちか(15??~15??)】

上村頼興家臣。1535年、上村頼興の意向を受け上村長種を謀殺した。

蓑田善兵衛【みのだぜんべん(15??~15??)】

相良義陽家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

蓑田筑後守【みのだちくごのかみ(15??~15??)】

蓑田善兵衛の弟。八代郡四奉行衆。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

箕田三浦介【みのだみうらのすけ(15??~15??)】

相良義陽家臣。1581年、「響野原の戦い」では、相良義陽の響野原へ布陣に高塚上野介とともに反対した。甲斐親直勢の攻撃を受け相良義陽が討死した。

御船房行【みふねふさゆき(15??~1541)】

阿蘇惟豊家臣。益城郡御船城主。1541年、「御船城の戦い」では、阿蘇惟豊に謀反を起こしたが、阿蘇惟豊、阿蘇千寿丸、甲斐親直勢の攻撃を受け討死した。

三森能因【みもりのういん(15??~1586)】

高森惟直家臣。通称兵庫。1586年、「高森城の戦い」では、島津義久勢の攻撃を受け高森惟直とともに討死した。

宮原公忠【みやはらきみただ(15??~15??)】

相良義陽家臣。八代郡宮原城主。官途は筑前守。通称左衛門尉。八代郡四奉行衆。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

村山惟忠【むらやまたんごのかみ(15??~1591)】

阿蘇惟種家臣。下益城郡豊田城主。官途は丹後守。1581年、「豊田城の戦い」で相良義陽勢の攻撃を受けたが浜の館に月番に赴いていたため、城代の湛渕甚吉が籠城した。1586年、高森惟直の説得に赴いたが捕縛された。

村山惟民【むらやまこれたみ(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。阿蘇郡村山城主。官途は宮内少輔。

村山惟広【むらやまこれひろ(15??~15??)】

村山惟民の男。官途は能登守。

村山家久【むらやまいえひさ(15??~15??)】

村山惟広の男。

村山惟貞【みらやまこれさだ(15??~15??)】

村山家久の男。官途は美濃守。別名村山惟尚。竹崎惟満とともに阿蘇惟長、阿蘇惟豊に仕え外交、政務を担当した。1571年、男成家継との取次役を務めた。北里和泉守との取次役を務めた。

村山飛騨守【むらやまひだのかみ(15??~1581)】

相良義陽家臣。1543年、球磨郡上土城代を務めた。1581年、「響ヶ原の戦い」では、相良義陽に従って島津義久勢とともに甲斐宗運勢と戦ったが敗れて相良義陽とともに討死した。

室原鑑知【むろはらちかとも(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。1517年、甲斐親宣、村山惟民、西惟宗、北里義重、小陣惟住、男成家継らとともに阿蘇惟豊の矢部城への復帰に尽力した。

米良三左衛門【めらさんざえもん(15??~15??)】

相良義陽家臣。人吉城普請総奉行。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【や】

簗瀬源左衛門【やなせげんざえもんn(15??~15??)】

相良義陽家臣。人吉三奉行衆を務めた。

簗瀬忠将【やなせただまさ(15??~15??)】

相良義陽家臣。球磨郡年行衆を務めた。

矢野信濃守【やのしなののかみ(15??~15??)】

相良義陽家臣。芦北郡伏木氏城主。

山井五郎【やまいごろう(15??~15??)】

深水頼蔵家臣。1596年、犬童頼兄の意向を受け、深水頼蔵の謀殺を図った刺客を討取る功を挙げた。

山善左衛門【やまぜんざえもん(15??~1638)】

小西行長家臣。1600年、「関ヶ原の役」で小西行長が敗れ改易処分に処されると帰農した。1638年、「島原の乱」では、天草五人衆のひとりとして一揆勢を指導した。「原城の戦い」では、浮武者頭として大矢野松右衛門とともに2,000余りを率いて二ノ丸を守備したが松平家光勢の攻撃を受け討死した。

湯山宗豊【ゆやまむねとよ(15??~15??)】

相良晴広家臣。室は玖月善女。

湯山宗昌【ゆやまむねまさ(1542~1594)】

湯山宗豊の男。官途は佐渡守。1581年、「相良頼貞の乱」後、相良頼貞に盛誉法院が謀反を企てたとして讒言された。相良忠房から謀反の疑いで受け盛誉法院は謀殺されたため、日向国に落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

吉尾大学【よしおだいがく(15??~15??)】

相良晴広家臣。吉尾城主。

吉田主水頭【よしだもんどのかしら(15??~15??)】

阿蘇惟豊家臣。阿蘇郡吉田城主。

吉牟田重宗【よしむろたしげむね(15??~15??)】

相良晴広家臣。球磨郡老者。

亮海【りょうかい(15??~15??)】

相良長隆家臣。僧兵。1526年、「相良瑞堅の乱」では、相良長隆から相良長定への使者に任じられたが辞退した。

渡辺吉盛【わたなべよしもり(14??~1523)】

阿蘇惟長家臣。渡辺正秀の男。上益城郡南早川城主。官途は石見守。1523年、「筒ヶ嶽城の戦い」で菊池武包勢との夜戦に敗れ、責めを負い自刃した。

渡辺吉久【わたなべよしひさ(15??~15??)】

渡辺吉盛の男。通称右衛門太輔。室は渡辺邦秀の娘。1580年、「隈庄城の戦い」で甲斐親直、早川吉秀とともに、甲斐守昌勢を攻撃した。

渡辺吉行【わたなべよしゆき(15??~15??)】

渡辺吉久の男。官途は石見守。通称又太郎。

渡辺孫四郎【わたなべまごしろう(15??~15??)】

渡辺吉久の次男。

渡辺邦秀【わたなべくにひで(15??~15??)】

渡辺吉貞の次男。

渡辺伝兵衛【わたなべでんべえ(1586~1638)】

大矢野種基家臣。通称伝右衛門。洗礼名「ロレンソ」。1538年、「島原の乱」では、評定衆を務め天草時貞の軍配者を務めた。「原城の戦い」で松平家光勢の攻撃を受け討死した。

渡辺小左衛門【わたなべこざえもん(15??~1638)】

渡辺伝兵衛の男。1538年、「島原の乱」では、松平家光勢に捕縛され斬頸に処された。

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【資料Ⅰ】

南肥後国(7郡/240,000石)

阿蘇郡:矢部城、高森城、小国(寺社)、野尻城、波野城、錦野城、馬見原城。
上益城郡:御船城、甲佐城、松橋寺社、小川城、御岳城、杉上城、砥用城。
下益城郡:那須城。
宇土郡:宇土城。
八代郡:古麓城。
天草郡:本渡城、牛深城、富岡城、姫戸城、深海城、栖本城、登立城、志岐城。
芦北郡:八代城、水俣城、津奈木城、日奈久城、佐敷城、二見城、湯浦城。
球磨郡人吉城、多良木城、水上(寺社)、湯前城、久米城、免田城、五木城、岡原城

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【資料Ⅱ】

天草五人衆【あまくさごにんしゅう】

天草諸島の国人衆。天草種元、大矢野種基、上津浦種直、栖本親高、志岐鎮経。1587年、「九州征伐」で羽柴秀吉勢の降伏して小西行長に従った。小西行長の宇土城の城普請の負担を拒否した。1589年、「天草国人一揆」では、天草種元、大矢野種基、上津浦種直、栖本親高らが謀反を起こしたが、小西行長、加藤清正勢の攻撃を受け滅亡、降伏した。

阿蘇家七家老【あそけななかろう】

甲斐親宣、村山惟民、西惟宗、北里義重、室原鑑知、小陣惟住、男成家継。

八代十三人衆【やつしろじゅうさんにんしゅう】

奥野越前守、高橋駿河守、東織部、東主馬、東四郎左衛門尉、東縫殿助、松木左馬頭、蓑田出雲守、蓑田紀伊助、蓑田信濃入道、宮原内記、宮原縫殿助、村山越前守。八代郡の有力在地領主(地頭)。

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【資料Ⅲ】

南肥後国【みなみひごのくに】

九州中央部に位置する西海道の国。北は筑肥山地を境に筑後国に接し、東北は阿蘇山の外輪山の山系で豊後国、東南は九州山地で日向国との国境を作る。南は国見山地の山々が薩摩国、大隅国と境を隔て、西は南北に有明海、島原湾、不知火海が続き、島原湾と不知火海を分ける宇土半島の先には、大矢野島、天草諸島など数多くの島々が浮かぶ。三方が山に囲まれ、一方が海に面した地形で、豊後国、日向国との境界の山岳地帯から流れる球磨川、菊池川、緑川などの河川は、中流域の小国、阿蘇、矢部、甲佐などの盆地地帯を通って、下流域の八代、菊池、熊本などの平野部を潤し、有明海、不知火海に注ぐ。古代から中国大陸との関係が深く、海外との交易も盛んに行われ、水運や港湾の整備が進み、文化、経済が発達した。

八代【やつしろ】

南肥後国南部の球磨川の最下流部に位置し南肥後国の中心。1533年、相良義滋により八代本城が改修が開始され、八代城下街として発展した。八代が河口の外港徳淵と水路で結ばれ、かつ惣構に囲まれていた。惣構内には公の施設である陣内(御内)を中心に武家屋敷が計画的に配置されていた。他に杭瀬三街や宮地街などの街家があった。

徳淵【とくぶち】

徳淵は、八代城の外湊として栄えた湊街。名和武顕は十八度もの朝鮮への使節派遣を行い対外貿易の拠点としても繁栄した。1542年、相良義滋は自ら徳淵で新造した「市来丸」で商人の「かさ屋」や「森」らを介して渡唐船を仕立てた。1555年、「八代船(16船)」が渡唐船として出帆するなど、琉球国を中継地とする対中国貿易も活発に行われた。

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戦国人名辞典は1500~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は文献を表示していますが、架空歴史小説も含まれるため、記載されている人物が史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

陶隆房は陶晴賢、尼子詮久は尼子晴久、大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、立花道雪は戸次鑑連、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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