2013年12月22日日曜日

戦国豊後国人名事典

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【あ】

合沢市助【あいざわいちすけ(15??~15??)】

若林鎮興家臣。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘勢は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的には「大内輝弘の乱」は成功を収めた。

一万田親実【いちまんだちかざね(15??~1553)】

大野郡小牟礼城主。一万田親泰の男。官途は弾正忠。一万田家惣領職として大友義鎮の重臣に名を連ねていた。大友義鎮が一万田親実の室に懸想して、室を奪われたうえに死に追いやられた。兄一万田親実の討死を知った高橋鑑種は大友義鎮の非道を恨んで、ついには叛意を抱くようになった。次男高橋鑑種、三男宗像鑑久。

一万田鑑実【いちまんだあきざね(15??~1588)】

一万田親実の男。官途は美濃守。別名宗慶。通称兵部大輔。嫡男一万田鎮実に一万田家の家督を譲って後は鳥ヶ鼻城主橋爪鑑種の跡を継承して橋爪鑑実と称した。大友義鑑死後はその子大友義鎮に仕えた。1553年、大友義鎮の命により父一万田親実や叔父宗像鑑久らが滅ぼされてしまい、これを受けて一万田鑑実が一万田家の家督を相続した。1550年「菊池義武討伐」「秋月文種討伐」では戦功を挙げた。1568年、叔父高橋鑑種が謀反を起こしたときも、大友義鎮に属して高橋鑑種を討伐した。1569年、毛利元就と戦った「多々良浜の戦い」では嫡男の一萬田鎮実、そして朽網鑑康と共に、乃美宗勝、桂元重を撃退した。1578年「耳川の戦い」では、殿軍を務めた。1586年、島津義久との戦いでも、諸将の寝返りが続出する中で、大友義鎮に属して戦功を挙げた。1588年、大友義統により自害を命じられて自刃した。

一万田鑑景【いちまんだあきかげ(15??~15??)】

一万田親実の次男。

一万田鑑通【いちまんだあきみち(15??~15??)】

一万田親実の三男。

一万田鎮之【いちまんだしげゆき(15??~15??)】

一万田親実の四男。1588年、突如として大友義統により兄一万田鑑実と共に自害を命じられて自刃した。

一万田鎮実【いちまだしげざね(15??~1587)】

一万田鑑実の男。室は大友義鎮の娘。1568年、叔父高橋鑑種の謀反鎮圧に参陣した。父一万田鑑実の橋爪家継承により一万田家の家督を相続した。1569年、立花山城番を命じられたが、毛利元就勢に阻まれ入城かなわず、城外で龍造寺隆信勢勢力を牽制した。「立花城の戦い」で毛利元就勢を破るが負傷した。大友義鎮の病没後は、大友義統に引き続き仕えた。1587年、突如として大友義統により自害を命じられて自刃した。

一万田統政【いちまんだ(15??~1588)】

一万田鑑実の男。1588年、突如として大友義統により父一万田鎮実と共に自害を命じられて自刃した。
 
一万田勘解由【いちまんだかげゆ(15??~15??)】

一万田家枝連衆。1600年「石垣原の戦い」で敗れると、講和のための使者となった。

臼杵長景【うすきながかげ(15??~1528)】

海部郡水ヶ谷城主。臼杵義直の男。官途は近江守。臼杵家は、元は大神姓であったが、後に大友家から養子を送り込まれて大友家枝連衆となった。臼杵長景は臼杵家出身者としては初の加判衆を務め、大友義長、大友義鑑の二代に仕えた。1516年「朽網親満の乱」で戦功を挙げた。1527年「佐伯惟治の反」でも戦功を挙げた。佐伯家との戦いの後に病を得て病没した。

臼杵鑑続【うすきあきつぐ(15??~1561)】

臼杵長景の男。官途は安房守。1528年、父臼杵長景の病没後に臼杵家の家督を相続した。加判衆として大友義鑑、大友義鎮の二代にわたって仕えた。外交方面で活躍し、たびたび幕府への使者となり、大内義隆との関係を修復するため和睦交渉や実子の無い大内義隆に大友義鑑の次男大友晴英(大内義長)を猶子として養子縁組させた。大友義鎮と一色義清の娘との婚礼交渉などで多大な功績を挙げた。さらに志摩郡代、好士岳城代を勤め、周辺の在地領主層との間に与力被官契約を結び、筑前国西部地域において大友義鎮の安定勢力構築や南蛮貿易にも多大な功績を挙げた。跡取りに恵まれず家督を弟臼杵鑑速に譲った。

臼杵鑑速【うすきあきすみ(1520~1575)】

臼杵長景の次男。官途は越中守。通称四郎左衛門尉。大友義鑑、大友義鎮の二代に仕え加判衆を務めた。吉岡長増と共に豊州家二家老と称されて内政面で大いに活躍した。軍事面、内政面を支える大友家三家老とも称された。兄臼杵鑑続と同じく外交面で活躍した。弘治年間より兄臼杵鑑続の後を受けて加判衆を務め、臼杵鑑続の職であった豊前国、筑前国守護職の継承などといった幕府との交渉を担当した。さらに毛利元就を始めとした近隣諸国、さらに影響下にある国人衆たちとの交渉などは、吉岡長増とこの臼杵鑑速が行なった。吉岡長増没後は島津義久と単独交渉を続けた。

臼杵鎮続【うすきしげつぐ(15??~1578)】

臼杵長景の三男。官途は安房守。通称新介。別名紹冊。筑前国志摩郡柑士岳城代。戸次鑑連や吉弘鑑理と共に大友家三家老と称された。1561年、兄臼杵鑑続の病没後、筑前国に入り、志摩郡の国人達を統率していた。大友義鎮はこの臼杵鎮続に命じて、博多の町の南東を流れ那珂川に注ぐ比恵川の氾濫を防ぐため大規模な治水工事を行わせた。博多湾に直接流れ込むよう作った川が現在の石堂川。比恵川の跡を堀として敵の来襲に備えたが、臼杵鎮続が安房守であったことから房州堀と称された。1568年、毛利元就との戦いでは博多を良く防衛したが、高橋鑑種の守る宝満城攻撃の隙を突かれ原田隆種に柑士岳城を奪われるも、激戦のすえ奪還した。勢いに乗じて原田隆種勢を高祖城付近まで追い立てたものの反撃されて敗走した。この責任を取り柑士岳城代を降り豊後国に帰国した。臼杵鎮氏は原田隆種との「池田川原の戦い」で敗れ自刃した。その後、臼杵鎮続が城代に再任した。1578年、甥臼杵統景の後見人となり日向国高城を攻めるが「耳川の戦い」において島津義弘勢の釣り野伏せに遭って隊は壊滅、臼杵統景と共に討死した。臼杵家の家督は弟臼杵鎮順の男臼杵鎮尚が継いだ。

臼杵統景【うすきむねかげ(15??~15??)】

臼杵鑑速の男。1575年、臼杵鑑速の病没により臼杵家の家督を相続した。文武の道に通じ、田原親虎とともに大友義鎮からその才を愛された。特に能は金春八郎の指導を受け、鼓をよくした。1578年、臼杵統景は叔父臼杵鎮続が後見人となり日向国高城攻めに参陣するが「耳川の戦い」において島津義弘勢の釣り野伏せに遭って隊は壊滅、臼杵鎮続と共に討死した。臼杵家の家督は従弟臼杵鎮尚が継いだ。

臼杵鎮尚【うすきしげなお(15??~15??)】

臼杵鎮順の男。1586年、島津家久勢は、府内城を包囲すると、別働隊を組織して白浜重政、野村文綱に兵2,000余り任せ臼杵城も包囲した。臼杵城(丹生島城)の大友義鎮は、武宮親実に「国崩し」の発砲をさせ、臼杵鎮尚、柴田礼能、吉岡甚吉、利光彦兵衛、吉田一祐に島津家勢を急襲さでた。これにより、島津家久勢に大打撃を与えた。島津家久は津久見を島津家海賊衆で固める動きを見せるが、これも大友家海賊衆により撃破され、臼杵城攻略を断念、島津家久勢は撤退した。
  
臼杵鑑連【(15??~15??)】

官途は安芸守。天文七年、柑子ヶ岳城番。
 
臼杵鑑続【(15??~15??)】

臼杵鑑連の男。官途は安芸守。柑子ヶ岳城番。
 
臼杵新助【(15??~15??)】

柑子ヶ岳城主。永禄十一年七月、原田隆種を攻めるも敗れる。元亀二年、豊後に戻る。
 
臼杵鎮氏【(15??~1572)】

進士兵衛。元亀二年、柑子ヶ岳城主。元亀三年正月、原田隆種との池田下河原合戦で討死。

内田新十郎【うちだしんじゅうろう(15??~15??)】

若林鎮興家臣。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。

内田仁兵衛【うちだにへい(15??~15??)】

若林鎮興家臣。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。

瓜生貞延【うりうさだのぶ(1525~1611)】

大友義鎮家臣。官途は左近大夫。1546年、大友義鎮の筑前国侵攻で「麻生隆盛討伐」の命を受け、岡城を落城させた。 以後、岡城主となり遠賀郡一帯を統治した。1562年、大友義鎮が出家したのにならい禅宗の普門寺を建立した。1586年、羽柴秀吉の「九州征伐」の際、岡城は宗像氏貞の攻撃を受け廃城となった。

瓜生勝忠【うりうかつただ(15??~15??)】

瓜生貞延の男。官途は長門守。

大友義鑑【おおとも しあき(1502~1550)】

大友義長の男。豊後国守護職。室は大内義興の娘。継室は阿蘇惟憲の娘。1515年、父大友義長の隠居により大友家の家督を相続した。大友家は大友義長の時代に内紛を収拾していたため、大友義鑑は積極的な領土拡大政策に乗り出した。肥後国には菊池家がいたが内紛のために弱体化していた。大友義鑑は、弟大友重治(菊池義武)を養子として送り込むことによって、肥後国の支配を目論んだ。大友義武は、大友義鑑と折り合いが悪く、大友家からの独立を画策したため、大友義鑑は弟と骨肉の争いを繰り広げた。さらに大内義隆の侵攻も受けた。1534年「勢場ヶ原の戦い」後、劣勢に立たされていた。1538年、足利義晴の仲介で大内義隆と和睦した。1550年、大友義鑑は後継者で問題を起こし、嫡男大友義鎮より、溺愛している三男大友塩市丸に家督を譲ろうとした。そのため寵臣の入田親誠と共謀して大友義鎮派の家臣を次々と謀殺した。大友義鎮派家臣の津久見美作らが「二階崩れの変」起こし、大友義鑑の居館を襲撃、大友義鑑、大友塩市丸とその母を謀殺した。

大友重治【おおともしげはる(1505~1554)】

大友義長の次男(菊池武包の養子)。肥後国守護職。官途は左兵衛佐。室は名和武顕の娘。別名菊池義武。大友義鑑は肥後国に勢力を拡大するため、肥後国に大きな影響力を持つ菊池家の乗っ取りを目論み、武経の跡をまずは詫摩家出身の菊池武包に継がせ、弟大友重治の成長後に菊池家の家督を継がせる密約を結んだ。1520年、菊地武包から菊池家の家督を譲られて当主となった。しかし菊池義武と改名した重治は大内義隆や相良氏と同盟を結んで兄に反抗した。大友義鑑との争いに敗れ、相良家を頼って落ち延びた。1550年、大友義鑑が「二階崩れの変」で討死すると再び領地を奪還した。1554年、大友義鎮の帰国の誘いに乗り、豊後国へ向かう途上で大友義鎮勢に包囲され自刃した。

大友義鎮【おおともよししげ(1530~1587)】

大友義鑑の男。官途は左衛門督。室は一色義清の娘。継室は奈多鑑基の娘。側室は一万田親実の娘。別名大友宗麟。1550年、大友義鎮派の派家臣が「二階崩れの変」を起こし、大友義鑑、大友塩市丸とその母を謀殺した。父大友義鑑の横死により、大友義鎮が大友家の家督を相続した。1551年、周防国の大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反により自刃すると、陶晴賢の要請で弟大友晴英(大内義長)を大内家の養子に送り込み和睦した。1554年「菊池義武の乱」を鎮圧し、肥後国も勢力下に置いた。1557年、大内義長が自刃すると、北九州における旧大内家領を占領した。1567年、毛利元就は、尼子義久を滅ぼすと北九州に侵攻した。豊前国や筑前国で大友義鎮方の国人衆が毛利元就と内通して蜂起し、高橋鑑種もそれに加わるが大友義鎮は戸次鑑連を派遣してこれを鎮圧した。1569年、毛利元就が再び北九州に侵攻すると、大内輝弘に海賊衆の若林鎮興を付け周防国に上陸させ、毛利元就の後方を脅かし撤退へと追い込んだ。1570年、肥前国に侵攻するが「今山の戦い」で龍造寺隆信に弟大友親貞を討たれるという大敗を喫し、龍造寺隆信と和睦した。1576年、家督を嫡男大友義統に譲って臼杵城へ隠居した。1578年、島津義久が日向国侵攻を開始すると、日向国に出陣したが「耳川の戦い」で、島津義久勢に大敗し、多くの家臣を失った。1579年、蒲池鎮並、草野親永、黒木家永などの筑後の諸勢力が大友義鎮の影響下から離れ、家督を譲った大友義統とも、二元政治の確執から対立が深まり大友家は衰退の一途をたどった。1584年「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信が島津義久の弟島津家久に大敗北を喫し討死すると、戸次鑑連に命じて筑後国侵攻を行い、筑後国の大半を奪回した。1585年、島津義久の北上が始り、高橋紹運、立花宗茂の奮戦で島津義久勢の侵攻を遅らせたが大友家単独では、島津義久に対抗することは出来なくなった。1586年、大友義鎮は羽柴秀吉に属して、島津義久に対抗した。1586年、島津義久勢が「戸次川の戦い」で、大友家救援に赴いた羽柴秀吉勢を壊滅させ、島津義久により滅亡寸前にまで追い詰められた。1587年、大友家滅亡寸前、羽柴秀長勢100,000余りが九州に到着して滅亡を免れた。

大友義長【おおともよしなが(1532~1557)】

大友義鑑の次男(大内義隆の養子)。官途は左京大夫。別名大内義長。1544年、叔父大内義隆の猶子として迎えられた。1545年、大内義隆に嫡男大内義尊が誕生したため、猶子関係を解消され、帰国した。1551年、陶晴賢が大内義隆を謀殺すると、陶晴賢は大友義長を大内家に迎えた。1556年、勘合貿易の再開を求めて明に使者を派遣したが、明からは正統な大内家惣領職としての承認を拒まれた。1555年、陶晴賢が毛利元就との「厳島の戦い」で討死すると、大内義長の求心力は急激に低下、大内家臣団は崩壊した。1557年、毛利元就の「防長経略」では、大内義長は寡兵をもってよく防戦したが、高嶺城を放棄して重臣内藤隆世の長門且山城へ敗走する。しかしすぐに福原貞俊により且山城を包囲され、内藤隆世は大内義長の助命を条件に開城し自刃した。辞世の句は「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」。

大友塩市丸【おおともしおいちまる(15??~1550)】

大友義鑑の三男。父大友義鑑は嫡男大友義鎮と疎遠になる一方でこの塩市丸を溺愛し、入田親誠と計り大友義鎮を廃嫡して塩市丸を世子に立てようとした。大友家臣団の中には大友義鎮を支持する一派も多く、大友義鑑はそれらを粛清して強引に塩市丸を立てようとした。1550年、大友義鎮支持派は、府内館の塩市丸らを襲撃、塩市丸とその生母、妹は謀殺された。大友義鑑もこのときの傷が原因で死去した。これにより、塩市丸の異母兄である大友義鎮が大友家の家督を相続した。

大友親貞【おおともちかさだ(15??~1570)】

大友義鑑の四男。1570年、大友親貞は大友義鎮の命により、兵60,000余りを率いて佐嘉城主龍造寺隆信を攻撃した。龍造寺隆信勢は兵5,000余りを集めて佐嘉城に籠城した。大友親貞勢の攻撃は進まず、大友義鎮は援軍を送って大友親貞に総攻撃を命じた。大友親貞勢の総攻撃を察知した、鍋島直茂は、大友親貞本陣への夜襲を画策したが、龍造寺隆信から反対された。だが、龍造寺隆信の母慶誾尼が叱咤し、龍造寺隆信も奇襲を容認した。大友親貞は、鍋島直茂勢の成松信勝に討取られた。大友親貞勢は兵2,000余りを失い佐嘉城から撤退した。

大友義統【おおともよしむね(1558~1610)】

大友義鎮の男。官途は左兵衛督。別名大友吉統。室は吉弘鑑理の娘(菊姫)。1576年、父大友義鎮の隠居により、大友家の家督を相続した。1578年、日向国に侵攻するも「耳川の戦い」で大敗を喫した。父大友義鎮との二頭政治により大友家臣団の弱体化を招いた。戸次鑑連が病没すると、肥後国方面を担当していた志賀親次とも確執を起こし指揮権を失った。大友家の版図であった肥後、筑後、筑前は龍造寺隆信や島津義久に侵食された。1586年、島津義久による豊後侵攻が始まると、大友義鎮や大友義統への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反した。羽柴秀吉より派遣された長宗我部元親や仙石秀久らと共に島津義久勢と戦うが「戸次川の戦い」で大敗し、家臣利光宗魚、戸次統常を失った。大友義統は大友義鎮や家臣志賀親次、佐伯惟定が交戦中に府内を退去した。1587年「九州討伐」で島津義久が降伏すると、豊後国を安堵された。1590年「小田原の役」に参陣した。1592年「文禄の役」に第三軍の黒田長政勢5,000余りと共に兵6,000を率いて参陣した。嫡男大友義乗に大友家の家督を譲った。1593年、明軍に包囲された小西行長の敗戦の誤報により、鳳山城を放棄して撤退した。これにより羽柴秀吉から改易処分を受けた。1600年「関ヶ原の役」では、毛利輝元の支援を受け、御家再興を目指して西軍の将として豊後国に侵攻した。「石垣原の戦い」で黒田孝高勢に敗れ、剃髪し黒田家臣母里友信の陣に出頭して降伏した。

大友親家【おおともちかいえ(1561~1641)】

大友義鎮の次男(田原親貫の養子)。官途は常陸介。別名田原親家、利根川道孝。洗礼名「ドン・セバスチャン」。田原家宗家の家督を相続した。気性が激しく、大友義鎮は僧籍に置いたが還俗した。1575年、洗礼を受けキリシタンとなった。1579年、反乱を起こした田原親貫に代わり田原家の家督を相続した。1581年、加判衆として、北九州各地を転戦した。1586年、兄大友義統が大友家の家督を相続すると、島津義久に通じた。「九州討伐」後、羽柴秀吉からその不忠を咎められたが、父大友義鎮の取り成しで助命されたが所領は失った。1591年、再び加判衆に再任された。1592年「文禄の役」に参陣した。大友家が改易された後は、立花宗茂勢に属した。1609年、細川忠興に仕え客分として130人扶持を領した。

大友親盛【おおともちかもり(1567~1643)】

大友義鎮の三男(田原親賢の養子)。官途は民部少輔。別名田原親盛、松野半斎。洗礼名「パンタレアン」。田原家の庶家武蔵田原家を相続した。1580年、洗礼を受けキリシタンとなった。1581年、大友親盛の叔父田原親賢が養子の田原親虎を廃嫡し武蔵田原家の後継者が不在となったため、田原親賢の養子となり、妙見岳城に入った。父大友義鎮は田原親盛を最も信頼していた。島津義久との戦いでは主に豊前国方面で戦功を挙げた。「戸次川の戦い」では先陣を務めた。1592年「文禄の役」にも参陣した。1593年、大友家が改易されたために細川忠興に2000石で仕えた。

大友義乗【おおともよしのり(1577~1612)】

大友義統の男。1593年、父大友義統が「文禄の役」において敵前逃亡をしたとされる失態で大友家は羽柴秀吉の逆鱗に触れ改易されると、大友義乗は加藤清正にお預けの処分となった。1594年、お預け先が松平元康へと変わり、江戸城下牛込に屋敷を与えられ蟄居させられた。1600年、大友義統が「石垣原の戦い」に敗れ常陸国宍戸に幽閉された。大友家の家督を相続し、高家として松平元康に仕えた。

雄城治景【おぎはるかげ(15??~15??)】

大友義鎮家臣。官途は若狭守。加判衆。「二階崩れの変」で重傷を負った大友義鑑は、死の間際に嫡男大友義鎮に「義鑑条々」を送った。雄城治景は吉岡長増、田北鑑生、臼杵鑑続らと共に連署した。1551年、小原鑑元が加判衆から解任された時に、加判衆として他姓衆を代表して就任した。加判衆は同紋衆(一門、譜代)が四人、他姓衆が一人で、その他姓衆が雄城治景。1553年、雄城治景は大友義鎮がキリシタン布教を許可した際に反対したため、大友義鎮の不興を買い加判衆を解任された。

小原鑑元【おばらあきもと(15??~1556)】

小原右並の男。通称四郎左衛門尉。官途は遠江守。阿南家の庶流で阿南荘小原を本貫とした。1550年「二階崩れの変」の際、大友義鑑の遺書に雄城治景、吉岡長増、田北鑑生、臼杵鑑続、志賀親守とともに連署した。大友義鎮の加判衆となった。大友家の混乱に乗じて隈本城に入った菊池義武を佐伯惟教らと共に攻撃、肥後国を平定した。1556年、他紋衆を糾合し、大友庶家である同紋衆の重用政策に反対して挙兵した。同紋衆と他紋衆の反目は大友家中に以前から有り、あえて大友義鑑は加判衆の半数を他紋衆から選ぶように遺言していた。大友義鎮は同紋衆を重用し、小原鑑元は肥後国平定後加判衆から外されていた。他紋衆の挙兵は大友家館のある府内でも発生し、大友義鎮も要害の丹生島城へ避難する事態となった。同紋衆の働きにより、ともに挙兵した本庄新左衛門尉、中村長直らは豊後国で討ち取られ、佐伯惟教は伊予国に逃亡した。勇将である小原鑑元は南関城に籠城し城兵を叱咤して奮戦したが、城に火をかけられるにおよんで妻子を手に掛け、城兵とともに城外に打って出て討死した。

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【か】

木田主殿助【きだもんどのすけ(15??~15??)】

若林鎮興家臣。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。

朽綱親満【くたみちかみつ(15??~1544)】

山ノ城主。田原親述、永弘氏輔らと結び、大友義鑑と対立した。永正十三年八月、挙兵。この時、田原親述は朽綱親満を支持しなかった。永正十六年、筑前に落ち延びた。天文十三年、讒言によって大友義鑑に討たれる。
 
朽綱親定【くたみちかさだ(15??~1544)】

朽綱親満の弟。官途は能登守。兄朽綱親満が讒言によって討たれると、これに激怒し籠城。しかし、大友義鑑勢に敗れ、上嵯峨にて自刃した。

朽網鑑康【くたみあきやす(1502~1586)】

入田親廉の次男。官途は三河守。別名朽綱宗暦。朽網親満の謀反により絶えていた朽網家を継いで朽網鑑康と称した。1550年「二階崩れの変」の際に、大友義鑑や兄入田親誠が亡くなったが、朽網鑑康は大友義鑑の跡を継いだ大友義鎮に引き続き仕えた。1569年、加判衆を務めた。「門司城の戦い」「菊池義武討伐」「秋月文種討伐」「土持親成討伐」「立花鑑載討伐」等の討伐に参陣した。毛利元就勢と戦った「多々良浜の戦い」では一万田鑑実親子と共に乃美宗勝、桂元重を撃退した。1572年「耳川の戦い」では、志賀親守と共に肥後国方面の総大将を勤めた。1586年、島津義久勢との戦いでは、隠居の身で病床にあった。居城山野城の支城三船城を固めはじめたものの、兵が降伏しようとしたことに激怒、病をおして戦いに臨んだ。しかし三船城を守っていた嫡男朽網鎮則は山野城へ撤収。共に籠城したものの、まもなく病没した。

朽網鎮則【くたみしげのり(15??~1587)】

朽網鑑康の男。官途は左近大夫。室は田北鑑重の娘。1578年、大友義鎮の日向攻めに参陣せず、父朽網鑑康と肥後国に駐留した。1586年、島津義久勢の豊後国侵攻では「三船城の戦い」で敗れ、山野城へ撤退した。山野城に籠城するが、父朽網鑑康の病没により、城兵の士気は低下した。1587年、島津義久と和睦して開城した。羽柴秀吉の「九州征伐」後、大友義統は島津義久に降った者を許さず討伐を決定した。朽網鎮則は、岳麓寺住職の進言で佐賀関経由で落延びようとしたが、徳丸筑前守の追手に包囲され、自刃した。嫡男朽網統直は国東郡都甲で討死、他の枝連衆は肥後国方面へ落延びた。

朽網鎮房【くたみしげふさ(15??~15??)】

朽網鑑康の次男。官途は内蔵丞。室は蒲池鎮漣の娘(徳子)。兄朽網鎮則と共に大友義鎮から偏諱を賜って朽網鎮房と称した。父朽網鑑康は島津義久勢の攻撃を受け籠城中に病没した。兄朽網鎮則は島津義久に内通したとして謀殺され、朽網鑑房も浪々のまま玖珠で病没した。
 
朽綱式部大輔【くたみしきぶだいふ(15??~15??)】

朽綱鑑康の三男。1586年、島津家久に備えるため三船城の守りを固めた。
 
朽綱統直【くたみむねなお(15??~1587)】

朽綱鎮則の男。1587年、島津義久と結んだことを咎められ、国東郡都甲にて森左内に討たれた。
 
朽綱内記【くたみないき(15??~15??)】

朽網鑑康枝連衆。1586年、三船城の南方に200余りで布陣した。島津家久勢が三船城を攻めると、これを撃退した。

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【さ】

佐伯惟治【さえきこれはる(1495~1527)】

海部郡栂牟礼城主。佐伯惟世の男。官途は薩摩守。1527年、菊池義武に通じて大友義鑑に対し謀叛を企てていると讒言する者があり、大友義鑑は臼杵長景に佐伯惟治の討伐を命じた。釈明を行った佐伯惟治からの使者を謀殺した。大友義鑑は臼杵長景に「佐伯惟治征伐」を命じた。「栂牟礼城の戦い」で、栂牟礼城は落城。二十余名の家臣と共に落ち延びた。日向国高尾産で新名党に討たれた。

佐伯惟勝【さえきこれかつ(15??~15??)】

佐伯惟安の男。海部郡木戸城主。1527年、佐伯惟治没後、栂牟礼城に入城。弟佐伯惟常が佐伯家の家督を相続した後も、城主として居座った。

佐伯惟常【さえきこれつね(15??~15??)】

佐伯惟安の次男。

佐伯惟教【さえきこれのり(15??~1578)】

佐伯惟常の男。官途は紀伊守。1550年「二階崩れの変」の際に大友義鎮を奉じて府内城を制圧し、以来大友義鎮の重臣として信任された。菊池義武や肥後国の国人衆との戦いで先陣を務め、戦功を挙げた。1556年、他紋衆小原鑑元が中村長直らと共に叛旗を翻すと、佐伯惟教も大友義鎮から討伐を受けたが、佐伯惟教は枝連衆と共に伊予国の西園寺実充の元に落延びた。1569年、佐伯惟教は臼杵鑑速らのとりなしによって帰参した。1572年、一条兼定が西園寺公広と争うと、大友義鎮の命により一条兼定救援のため伊予国に参陣し、飯森城などを攻略して西園寺公広を降した。1577年、嫡男佐伯惟真に家督を譲った。1578年、佐伯惟教の妹婿松尾城主土持親成が離反して島津義久に属すると、大友義鎮は佐伯惟教に討伐を命じた。佐伯惟教は松尾城を攻略、土持親成を自刃させた。島津義久勢が日向国に侵攻すると、山田有信の籠もる高城を救援に来た島津家久勢を撃破したが追撃に失敗、島津家久は高城に入城を許した。島津義久との戦いでは、家臣団の対立により各部隊の連携が取れず苦戦しているところに高城から出撃した島津家久らの急襲を受け大友義鎮勢は壊滅した。乱戦の中、佐伯惟教は嫡男佐伯惟真、佐伯惟忠らと共に討死した。

佐伯惟真【さえきこれまさ(15??~1578)】

佐伯惟教の男。1578年、父佐伯惟教と共に「耳川の戦い」で討死した。

佐伯惟忠【さえきこれただ(15??~1578)】

佐伯惟教の次男。1578年、父佐伯惟教と共に「耳川の戦い」で討死した。

佐伯惟定【さえきこれさだ(1569~1618)】

佐伯惟真の男。1578年、父佐伯惟真と祖父佐伯惟教が「耳川の戦い」で討死しため、佐伯家の家督を相続した。1586年、島津義久の豊後国侵攻では、栂牟礼城に母と共に籠城して、島津家久勢を「堅田の戦い」で撃退した。星河城を攻め落とし、島津義久に寝返っていた柴田紹安の妻子を捕らえ佐伯西正寺に連行し処刑した。因尾谷を通る島津義久勢の輜重隊を率いる戸高将監を伏兵で討取った。1587年、1578年、佐伯惟定は土持親信が守備する朝日嶽城を奪回した。羽柴秀吉勢が九州に上陸すると、府内から撤退する島津義弘と島津家久を日豊国境の梓峠で撃破した。羽柴秀長勢を先導して日向国に攻め入り戦功を挙げた。1592年「文禄の役」に参陣したが、大友義統が敵前逃亡をしたとされる失態で改易されると、藤堂高虎に仕え2,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、宇和島城留守居役を務めた。1601年、藤堂高虎の手掛けた普請に従事し、津城下には佐伯町を開いた。1614年「大坂冬の陣」では、士隊10騎、卒隊40人を率いて参陣し、藤堂高刑の寄騎衆となった。1615年「大坂夏の陣」では、先鋒が壊滅した為、藤堂高吉と共に左先鋒を務めた。役後4,500石に加増された。

佐伯惟重【さえきこれしげ(15??~15??)】

佐伯惟定の男。
 
斎藤長実【さいとうながざね(15??~1550)】

海部郡丹生城主。官途は播磨守。1550年「二階崩れの変」が起こるまで加判衆を務めた。1550年、大友義鑑は家督相続を巡る諸問題を解決すべく、この斎藤長実をはじめとする家臣団に大友義鎮の廃嫡について相談した。家臣団の激しい反対にあうと、斎藤長実と小佐井大和守を呼びだして謀殺した。この後に津久見美作守、田口蔵人らによって、大友義鑑は謀殺された。

斎藤鎮実【さいとうしげざね(15??~15??)】

斎藤長実の男。官途は兵部少輔。1550年、父斎藤長実が「二階崩れの変」で謀殺されたため、斎藤家の家督を相続した。大友義鎮は斎藤鎮実を側近とした。「入田親誠討伐」では、戸次鑑連らと共に参陣した。この後も国内外の幾度の戦で戦功を挙げた。1567年、筑紫惟門との戦いでは総大将として遠征し、初戦では敗れたものの、攻撃の手を緩めることなく十数日間に渡って攻撃を続け、降伏させた。1578年「耳川の戦い」では、大友家臣団たちが積極論と慎重論に分かれ、戦い方について激しく言い争っていた。斎藤鎮実は田北鎮周らと共に積極策を献じ、吉弘鎮信と共に耳川の強行渡河を試みたが、島津義久勢の迎撃に遭って討死した。

斎藤統実【さいとうむねざね(15??~15??)】

斎藤鎮実の男。

北志賀親守【しがちかもり(15??~15??)】

直入郡岡城主。志賀親益の男。官途は民部少輔。志賀家は大友三家(志賀親守、田原、詫摩)のひとつで北志賀家は南郡衆の筆頭。1550年「二階崩れの変」の後、大友義鎮の家督相続に尽力した。1552年、嫡男志賀親度に家督を譲って早々に隠居した。志賀親度が大友義統と対立し失脚すると、志賀親度共々謀殺されそうになるが、大友義鎮の仲介により免れた。1578年「耳川の戦い」では肥後国に参陣したが、この戦に反対していたため軍勢を積極的に動かそうとしなかった。1586年、島津義久勢が侵攻すると、大友義鎮と共に丹生島城に籠城したが、入田義実を通して島津義久と内通していた。志賀親度は入田義実や南志賀家と共に島津義久に属して、孫志賀親次が守備する岡城を攻撃した。「九州討伐」で、島津義久が敗北すると志賀親度は処罰されたが、志賀親守は咎められず、孫志賀親次の後見役となった。その後も大友義統の側近として仕えた。1592年「文禄の役」の際は、豊後国において留守を守った。

北志賀親度【しがちかのり(15??~1587)】

志賀親守の男。官途は民部大輔。室は大友義鎮の娘。1550年「二階崩れの変」後、父志賀親守と共に大友義鎮の家督相続に尽力した。その後、父志賀親守の隠居により志賀家の家督を相続して、加判衆を務めた。1577年、大友義鎮の後を継いだ大友義統と不仲になって対立し、父志賀親守と共に謀殺されそうになったが、大友義鎮の仲介で免れた。1586年、志賀親度は、島津義久と密かに通じた入田義実の誘いに乗り、島津義久勢が日向国に侵攻すると、南志賀家(志賀鑑隆、志賀鎮隆親子)と共に島津義久勢に属した。北志賀家の惣領家の嫡男志賀親次はただひとり、大友義統に誠忠を尽くし岡城を守り抜いた。1587年「九州討伐」が始まると、南志賀家は滅ぼされ、志賀親度も大友義統によって謀殺された。

北志賀親次【しがちかつぐ(1566~15??)】

志賀親度の男。通称少左衛門尉。洗礼名「ドン・パウロ」。志賀親次は武勇に優れていた。1584年、黒木家永の守る猫尾城攻めに参陣した。父志賀親度が大友義統と不和になって失脚すると、志賀家の家督を相続した。1586年、島津義久勢が豊後国に侵攻して来ると、父志賀親度や南郡衆が島津義久に属するなか志賀親次は岡城に籠城して徹底抗戦し、島津義弘や新納忠元を何度も撃退した。羽柴秀長の援軍が豊後国に上陸すると、反乱した南郡衆を滅ぼし、父志賀親度を自刃さた。この戦いでの戦功の大きさから、大友吉統から疎外されるようになった。大友義鎮の病没後にキリスト教は禁教とされ、志賀親次は棄教を拒否し豊後国内におけるキリシタンの事実上の保護者となった。1592年「文禄の役」に参陣した際、誤報を信じ撤退を図り、羽柴秀吉により大友家は改易処分となった。

南志賀鑑隆【しがあきたか(1530~1588)】

直入郡南山城主。官途は兵庫頭。志賀鑑隆も大友義統の加判衆となった。1578年「耳川の戦い」で、大友義鎮勢が島津義久勢に大敗すると、大友家の支配下にあった国人武将が反乱を起こした。志賀鑑隆は、この反乱軍を各個撃破すべく各地を転戦し、国人衆討伐に戦功を挙げた。大友家に属していた肥前国の龍造寺隆信が挙兵し、筑前国、筑後国を攻撃し始めると志賀鑑隆は、筑前国、筑後国に参陣して龍造寺隆信と戦った。1585年、島津義久が豊後国に侵攻すると志賀鑑隆は、大友義統を助け、南山城に籠城して島津義久勢と戦った。大友義統が島津家久勢に大敗すると事態回復の見込みが立たず、遂に島津義久勢に降伏した。羽柴秀吉の「九州討伐」により、島津義久が降伏すると、再び大友義統に仕えた。1588年、島津義久に降伏した不忠を責められ、自刃して果てた。

南志賀鎮隆【しがしげたか(1563~1586)】

志賀鑑隆の男。田原親貫や島津義久との戦いで戦功を挙げた。1586年、島津義久勢との戦いで討死した。

柴田紹安【しばたしょうあん(15??~1586)】

大野郡朝日嶽城主。官途は遠江守。野津院衆を率いて日向国、豊後国境を守った。1578年「耳川の戦い」で、島津義久勢に大敗を喫した大友義鎮は勢力を後退させた。1586年、島津家久勢が迫ると家臣帆足市弥太の諫言を無視して島津義久に寝返った。島津家久は寝返ってきた柴田紹安を信用せず、妻子は人質として星河城、柴田紹安は監視を付けて天面山城に留め置いた。星河城は芦別大膳に内応によって佐伯惟定に攻略され、妻子は捕らわれ謀殺された。これにより、柴田紹安は、島津義久を裏切って大友義鎮に属したが、島津義久勢によって取り囲まれ討死した。

柴田礼能【しばたれいのう(15??~1586)】

柴田紹安の弟。洗礼名「リイノ」。槍の名手で「豊後のヘラクレス」と称された。1580年「田原親貫の乱」の「安岐城の戦い」で戦功を挙げた。後に田原家を継いだ大友義鎮の次男大友親家の補佐として、田原家旧臣を味方に引き入れる交渉などで活躍した。1582年、府内の万寿寺の寺社領を大友義義統が没収すると、その旧領に武家屋敷を与えられ、大友家の諸公事のほぼ全てを任され、府内奉行に任じられた。1586年、島津義久が豊後国に侵攻すると、嫡男柴田統勝は羽柴秀吉に救援要請のため上阪する大友義鎮に従った。島津義久勢が丹生島城を包囲した際は大友義鎮と共に籠城し、島津義久勢を一度は撃退したものの、兄柴田紹安が島津義久に寝返ったため、背信を疑われ、島津義久勢に突撃を行い討死した。

柴田統勝【しばたむねかつ(15??~1586)】 

柴田紹安の男。通称左京進。1586年、大友義鎮の上阪の際には同行した。弟柴田次郎らと共に大友義統に捕らえられ、正西寺で誅殺された。

寒田親将【そうだちかまさ(14??~1534)】

大友義鑑家臣。官途は三河守。1534年、大内義隆は豊後国を狙い、豊前国宇佐郡糸口原に布陣した。大友義鑑は寒田親将と吉弘氏直を大将に、豊前国大村山の頂上に兵を集結させた。大村山の大友義鑑勢に対し、大内義隆勢は勢場ヶ原から奇襲をかけた。寒田親将は杉長門守を討取ったが、数で勝る大内義隆勢は鶴翼の陣に切り替えた。吉弘氏直は矢疵を受け討死、吉弘氏直を助けようとした寒田親将も討死した。

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【た】

田北親員【たぎたちかかず(15??~1538)】

速見郡熊牟礼城主。大友義長家臣。官途は駿河守。加判衆のひとりで大友義長、大友義鑑の二代に仕えた。1516年「朽網親満の乱」に際して、朽網親満を討つため宇佐郡豪族衆を調略した。1517年「高崎城の戦い」で、朽網親満を攻撃した。「佐伯惟治の乱」においても、田北親員は嫡男田北鑑生とともに東西一揆を率いて参陣し乱の鎮圧した。1534年「勢場ヶ原の戦い」では三男田北鑑生が戦功を挙げた。その後田北親員は筑後国を転戦したが枝連衆の城後親興を失った。1538年、山下長就、臼杵鑑続と共に、大友義鑑の使節として大内義隆との和睦交渉に当たった。

田北鑑生【たきたあきなり(15??~1561)】

日差城主。田北親員の男。官途は大和守。田北鑑生は初め大友義鑑の側近として仕えた。1527年、父田北親員に属して栂牟礼城主佐伯惟治の討伐に参陣して戦功を挙げた。1534年、大内義隆との「勢場ヶ原の戦い」では、劣勢の大友義鑑勢だったが、田北鑑生が大内義隆勢に突撃して杉重信を討取り、さらに陶興房に傷を負わせる戦功を挙げ、勝利に貢献した。大友義鎮が大友家の家督を相続すると加判衆となった。「小原鑑元の乱」や「秋月文種討伐」にも参陣して戦功を挙げた。1561年、毛利元就との「門司城の戦い」では、補給線を断たれて撤退するところを、乃美宗勝らの待ち伏せに遭って重傷を負い、その傷がもとで死亡した。

田北鎮述【たきたしげのぶ(15??~15??)】

田北鑑生の男。
 
田北鎮生【たきたしげなり(15??~15??)】

田北鎮述の男。刑部大輔。田北鎮周討死後、蛟ノ尾城の城主に任じられた。
 
田北統生【たきたむねなり(15??~15??)】 

田北鎮生の男。1593年、大友家が改易になると、日差村に帰農した。

田北鑑富【たきたあきとみ(15??~1580)】

田北親員の次男。官途は大和守。別名田北紹鉄。1556年「小原鑑元の乱」に参陣して戦功を挙げた。1561年、毛利元就勢が北九州に侵攻するとこれと戦った。1565年、長野種信と規矩郡で戦い戦功を挙げた。しかしこれらの戦功に対して大友義鎮が報いることは少なかった。策略家で有力国人だったことを大友義鎮が恐れており、大友家の年寄役などにも任命されず中枢から排除された。大友義鎮からは実弟で養子の田北鎮周のほうが信任されて重用された。1578年「耳川の戦い」では、弟田北鎮周が参陣して討死した。1580年、田原親貫、秋月種実らと共謀して謀反を起こした。他の南群衆(一萬田鑑実、志賀親度等)は田北鑑富に同情的で、討伐に積極的ではなかった。直入郡阿曾野で大友義統勢の攻撃を受け、秋月種実を頼って落延びる途中、日田郡五馬荘松原で80名の部下と共に大友義統勢に討取られた。

田北鎮周【たきたしげかね(1543~1578)】

田北親員の三男(田北鑑重の養子)。蛟ノ尾城主。官途は相模守。通称弥十郎。武勇に優れ大友義鎮からの信任を厚かった。1568年「立花鑑載の乱」の鎮圧や、小早川隆景率いる毛利元就勢との戦いで戦功を挙げた。1578年「耳川の戦い」の前哨戦である土持親成攻めなので戦功を挙げた。その後も大友義鎮勢の先鋒として山田有信が守る日向高城に攻め寄せたがた。田北鎮周は戦意の低い味方を励ますために敵軍に突撃し、最初は敵勢を圧倒したものの力尽き、討死した。

多田和泉守【ただいずみのかみ(15??~15??)】

鶴ヶ城主。1586年、島津義久勢の攻撃を受け落城した。

角隈石宗【つのくませきそう(15??~1578)】

大友義鎮家臣。官途は越前守。大友義鑑、大友義鎮の二代に仕えた。軍配者として武田流、小笠原流などの兵法をはじめ、占術、気象予測に優れたことから大友家の軍師的存在であった。1550年「菊池義武の乱」による肥後征伐や豊前平定勢に参陣した。1578年、島津義久との戦いを進める大友義鎮を諌めたが、大友義鎮は角隈石宗の諫言を聞かずに出陣した。角隈石宗は、死の覚悟を決めて自身の書いた兵法書を全て焼き払って参陣した。角隈石宗は北郷忠左衛門を討つが重傷を負い遂に討死した。

利光鑑教【としみつとしのり(15??~1587)】

大分郡鶴賀城主。別名利光宗魚。大友義鎮、大友義統父子に仕えた。1586年、島津家久の豊後侵攻により豊後国の各地が島津家勢に侵略される中で、利光宗魚は島津家勢、相手に籠城戦で対抗した。利光宗魚は善戦したが、城外で島津家勢と戦っていたときに流れ弾に当たって討死した。城兵は利光宗魚が討死した後も、その遺志を継いで島津家勢と戦ったが、直後の「戸次川の戦い」で大友義鎮勢が島津家久勢に大敗したため、やむなく降伏した。

利光統久【としみつむねひさ(15??~15??)】

利光鑑教の男。1587年、父利光鑑教の出陣中に島津家久勢の攻撃を受けた。兵力の差が大きいため、家臣牧宇之助を人質に出して和睦。父利光鑑教の帰城後、油断した島津家久勢に夜襲を行い島津家勢を撃退した。

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【な】

奈多鑑基【なだあきもと(15??~1569)】

豊後国安岐郷八幡奈多宮の大宮司家。娘は大友義鎮の室。大友義鎮に属して寺社奉行に任じられた。奈多鑑基は、数々の戦いに参陣し、戦功を挙げた。1569年「立花鑑載討伐」に参戦して陣没した。寺社奉行としての権限を私的に利用したとして奈多鎮基と共に悪名高い。

奈多鎮基【なだしげもと(15??~15??)】

奈多鑑基の男。通称左衛門大夫。室は大友義鎮の娘。宇佐神宮と度々争い「到津公澄誅殺事件」「宇佐宮末社司宅放火事件」「 安心院公糺領押領事件」などを次々と引き起こし、宇佐神宮から無道の張行 、天下希代の悪逆と訴えられた。1578年「土持親成討伐」では、寄騎衆の糸永家、屋方家らを伴って参陣した。「耳川の戦い」にも参陣した。1580年「田原親貫の乱」で、戦功を挙げた。1584年「黒木実久の乱」でも参陣し戦功を挙げた。1586年、秋月種実の日田郡侵入に対して大友義鎮勢の先鋒として迎撃し、秋月種実勢を撃破する戦功を挙げた。「戸次川の戦い」にも参戦したが大友義統勢が大敗した。1587年、奈多鎮基は病没すると、養子万福丸が奈多家を相続した。養子の万福丸は公家久我晴通から迎えたものだが、のちに京都に帰ったため奈多家は断絶した。

入田親誠【にゅうたちかざね(15??~1550)】

直入郡津賀牟礼城主。入田親廉の男。官途は丹後守。室は阿蘇惟豊の娘。大友義鑑に信任を受け加判衆のひとりとなり、大友義鑑から嫡男大友義鎮の傅役を任された。大友義鎮とは不仲で、また大友義鑑も大友義鎮より三男大友塩市丸を後継者にすることを望んでいたため、入田親誠は大友義鑑と共謀して大友義鎮の廃嫡を目論んだ。大友義鑑は大友義鎮派の家臣を次々と謀殺して、強引に大友塩市丸を後継者にしようとした。1550年、大友義鎮派の家臣により「二階崩れの変」が起きると大友塩市丸は謀殺され、大友義鑑も重傷い間もなく病没した。大友義鎮が大友家の家督を相続すると、入田親誠は戸次鑑連らの攻撃を受け岳父である阿蘇惟豊に庇護を求めたが、阿蘇惟豊は入田親誠の行為を嫌悪したため、入田親誠は謀殺された。

入田義実【にゅうたよしざね(1533~1601)】

入田親誠の男。1550年「る二階崩れの変」で、父入田親誠が謀殺され入田家は没落した。1580年、大友義鎮から筑前国鞍手郡若宮荘350町などを所領安堵されて入田家の家督を相続した。1585年、島津義久の侵攻を受けるようになると志賀親度と共に新納忠元を介して島津義久と内通した。1586年、島津義弘による豊後国侵攻が始まると、入田義実は島津義久勢の先鋒を務めた。1587年、大友義鎮の援軍要請に応じた羽柴秀吉による「九州征伐」が開始されると、島津義久勢は豊後国を放棄して薩摩国に撤退し、入田義実もこれに従った。以後は島津義久に仕え、日向国内に30町の所領を領した。その後、所領を失い没落した。

入田親利【にゅうたちかとし(15??~15??)】

入田親誠の次男。

入田鎮氏【にゅうたしげうじ(15??~15??)】

入田親誠の三男。

入田氏虎【にゅうたうじとら(15??~15??)】

入田義実の男。1600年、島津義弘に属して「関ヶ原の役」に参陣した。以後は高岡衆中となった。

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【は】

樋口左馬助【ひぐちさまのすけ(15??~15??)】

若林鎮興家臣。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。

戸次親家【べっきちかいえ(1478~1526)】

鎧ヶ岳城主。戸次親宣の男。室は由布惟常の娘。大友家枝連衆であったが、家運は大きく衰えており、本貫地の戸次庄も失って没落していた。戸次親家もその衰運を覆すことはできなかった。1526年、大内義興が佐野親基、問田重安を豊前国に侵入させ、豊前国の馬ヶ岳城を攻落した。病に臥せっていたが、嫡男戸次鑑連を参陣させた。戸次鑑連は戦功を挙げた。

戸次鑑連【べっきあきつら(1513~1585)】

戸次親家の男。官途は伯耆守。別名立花道雪。室は入田親誠の娘。継室は問註所鑑豊の娘(仁志姫)、側室は宗像正氏の娘(色姫)。

戸次鑑方【べっきあきかた(15??~1567)】

戸次親家の次男。1567年、毛利元就と同盟を結び勢力拡大を図る秋月種実を討伐するため兄戸次鑑連と共に筑前国に参陣した。秋月種実は大友義鎮勢と戦ったが、戦況が不利になり撤退した。その夜、警戒を解いた大友義鎮勢に対し秋月種実は夜襲を仕掛けた。「休松の戦い」では、秋月種実勢の夜襲を受けた大友義鎮勢は、同士討ち等で壊乱し、乱戦の中、枝連衆の戸次親繁、戸次親宗らと共に討死した。

戸次親行【べっきちかゆき(15??~15??)】

戸次親家の三男。

戸次鎮連【べっきしげつら(15??~1586)】

鎧ヶ岳城主。戸次鑑方の男。1553年、伯父戸次鑑連の猶子となった。戸次鑑連に属して筑前国、豊前国を転戦した。1567年、秋月種実との戦い「休松の戦い」では、父戸次鑑方ら多くの枝連衆や家臣が討死するも、戸次鎮連は奮戦して戦功を挙げた。1578年、日向国北部に侵攻し、土持親成らを討って、土持家を滅亡に追い込んだ。「耳川の戦い」にも参陣したが、大友義統勢は大敗した。猶父戸次鑑連らは大友家の衰勢を挽回すべく筑前国、筑後国を転戦したが大友家領は次第に縮小した。1580年、戸次鎮連、志賀親度、一万田鎮実らと連署で大友義統を諌める書状を提出した。1585年、猶父戸次鑑連が病没すると、大友家の衰運は決定的となった。1586年、島津義久勢が北進して豊後国まで侵攻すると、戸次鎮連は島津義久に内応したとされ、大友義統によって謀殺された。

戸次鎮林【べっきしげとき(15??~1592)】

戸次鑑方の次男。1592年「文禄の役」で討死した。

戸次鎮利【べっきしげとし(15??~15??)】

戸次鑑方の三男。

戸次統常【べっきむねつね(1565~1587)】

戸次鎮連の男。別名戸次統連。1586年、父戸次鎮連は島津義久勢に内応したとされ、大友義統によって謀殺された。これにより戸次統常が戸次家の家督を相続した。戸次統常は、伝来の書物や家宝を焼き「戸次川の戦い」に参陣した。戸次統常を見送った母の志賀夫人は幼い子供たちを殺した後に自らも自刃した。1587年、枝連衆と郎党100余りを率いて、島津義久勢の新納大膳正隊と戦い、嫡男戸次述常、戸次鎮時、戸次統昌父子、戸次鎮直ら枝連衆と共に討死した。

帆足鑑直【ほあしあきなお(15??~15??)】

日出生城城主。室に古後摂津守の娘(鬼御前)。1586年、島津義久との戦いで、角牟礼城攻略がなかなか進まない島津義久勢は、新納忠元に兵を率いさせ、日出生城を攻撃させた。日出生城主帆足鑑直は室の鬼御前と共に僅か数百の兵を率いて、新納忠元を待ち伏せ、休憩中の島津義久勢を急襲、壊滅させ新納忠元を負傷させた。

帆足鎮直【ほあししげなお(15??~15??)】

帆足鑑直の男。弟は帆足鎮次。三弟帆足統通は日出帆足家を興し、四弟帆足統実は戸次帆足家を興した。1586年、兄弟四人は「日出生城の戦い」に参陣した。

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【ま】

真玉親房【またまちかふさ(15??~1534)】

真玉城主。1534年、大内義隆は陶興房、杉隆連らを豊前国に侵攻させた。大友義鑑は、吉弘氏直を大将に命じ、寒田親将を副将とした。大友義鎮勢は宇佐郡方面から侵入を予想して立石峠、地蔵峠に兵を配し、大群山に本陣をおいた。大内義隆勢は宇佐の糸口原に集結していたが、大友義鎮勢の布陣をみて勢場ヶ原に移動した。吉弘氏直は、敵を殲滅として大内義隆勢めがけて突進した。「勢場ヶ原の戦い」では、吉弘氏直と寒田親将は討死した。立石峠、地蔵峠の大友義鎮勢はただちに兵を動かし、大内義隆勢のまっただ中に攻め込んだ。大内義隆勢は敗退し、杉興連は討死し、陶興房は敗走した。この戦いに真玉親房も参陣していたが、大将吉弘氏直と共に討死した。

真玉治房【またまはるふさ(15??~15??)】

真玉親房の男。1534年「勢場ヶ原の戦い」で、父真玉親房が討死すると、真玉家の家督を相続した。大友義鎮に仕えて度々戦功を挙げた。
1564年、大友義鎮の命により家督を真玉鎮持に譲った

真玉鎮持【またましげもち(15??~1579)】

真玉親房の次男。官途は掃部頭。通称次郎。真玉家の家督を継いだ真玉鎮持は、大友義鎮に従って筑後国に参陣、さらに筑前国にも参陣した。
1572年、伊予国の西園寺公広を攻め、真玉鎮持は海賊衆の「北浦部衆」を指揮して戦功を挙げた。1578年、大友義鎮は日向国に侵攻した。「耳川の戦い」で潰滅的敗北を喫し、大友家は大きく勢力を失墜したのである。真玉鎮持も参陣したが家臣井口秀虎を失い負傷した。

真玉統寛【またまつねとも(15??~15??)】

真玉鎮持の男。1586年、島津義久勢が豊後国に侵攻した際は、真玉統寛は宗家木付鎮直らと共に島津義久勢と戦い、国東郡への侵攻を防いだ。1590年、真玉統寛は羽柴秀吉による「小田原の役」に参陣するため竹田津に向かう途中で家臣山田兼佐の謀反により落命した。

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【や】

山下長就【やましたながのり(15??~15??)】

大友義鑑家臣。官途は治部少輔。加判衆を務め、大内義隆との戦いで戦功を挙げた。1538年、田北親員、臼杵鑑続と共に、大友義鑑の使節として大内義隆との和睦交渉に当たった。

吉岡長増【よしおかながます(1502~1573)】

大分郡鶴崎城主。官途は越前守。通称左衛門大夫。大友能直の孫野津頼宗を祖とする野津家の庶家。大友義鑑、大友義鎮の二代にわたって仕え臼杵鑑速、吉弘鑑理と共に大友家三家老と称された。加判衆として高田衆を率いて参陣して多くの戦功を挙げた。1533年「勢場ケ原の戦い」では、吉岡長増が総大将となり、佐田朝景率いる宇佐郡衆らを撃退した。1550年「二階崩れの変」で、大友義鎮が実権を握ると加判衆へ復帰、豊前国、筑前国、肥前国方分として三ヶ国の政務を担当し、日向国の土持親佐の取次役を務めた。毛利元就との戦いでは総責任者として戦功を挙げた。内応、後方撹乱などの戦争外交に長け、強力な毛利元就勢と渡り合ったのは吉岡長増の度重なる献策の力が大きい。1569年、毛利元就に軍事力の前に劣勢に立たされていた大友義鎮勢であった。吉岡長増は、周防国において大内輝弘に兵を挙げさせることにより、毛利元就勢を北九州から撤退せしめた。奈多鑑基は宇佐宮で悪行を重ねた際、宮司らは吉岡長増に助力を求め、吉岡長増は宇佐宮に陳謝し、奈多鑑基を激しく叱咤した。1562年、大友義鎮と共に出家、吉岡宗歓と称して筆頭家老に就任した。晩年は毛利輝元、龍造寺隆信、島津義弘との外交に奔走し、和睦交渉をことごとく成功させた。そのやり方は実に柔軟で臨機応変。特に領内安定のために、秋月種実、宗像氏貞、筑紫惟門などに立て続けに婚姻を結ばせるなどして懐柔策をとる事で豊後国周辺を安定させた功績は大きかった。

吉岡鑑興【よしおかあきおき(15??~1578)】

吉岡長増の男。官途は河内守。室は妙林尼。1573年、父吉岡長増の病没により吉岡家の家督を相続した。1576年、加判衆として名を連ねた。1578年「耳川の戦い」で討死した。

吉岡統増【よしおかむねます(15??~15??)】

吉岡鑑興の男。別名吉岡甚橘。1573年「耳川の戦い」で討死した父吉岡鑑興の後を継ぎ吉岡家の家督を相続した。1586年「丹生島城の戦い」では、大友義鎮に属して丹生島城に籠城した。鶴崎城には伊集院久宣、野村文綱、白浜重政率いる島津家勢が攻め寄せた。この時、城主吉岡統増は、大友義鎮に属して臼杵城に籠城していたため、代わりに吉岡統増の母妙林尼が城兵の指揮をとり、島津家勢と対峙した。妙林尼は、守りに不安のあった当城を早急に整備した上で籠城。羽柴秀吉の軍勢が来援するまで見事に城を守り抜いた。羽柴秀吉勢接近のため島津家軍が退却を始めると妙林尼はすぐさま攻勢に転じ、予め用意しておいた伏兵を用いて奇襲を仕掛け、伊集院久宣、白浜の重政二将を討取り、野村文綱も重傷を負い、撤退中に死去してしまった。

若林越後守【わかばやしえちごのかみ(15??~15??)】

一尺屋城主。浦部衆のひとり。若林家は、大友親治から豊後国佐賀郷一尺屋を賜って、大友家海賊衆の中核を担った。

若林鎮興【わかばやししげおき(1547~1594)】

若林越後守の男。官途は中務少輔。室は浦上宗鉄の娘。1569年、毛利元就が北九州への侵攻を開始すると、大友義鎮の支配に反発する国人衆(秋月種実、高橋元種等)が、毛利元就の調略に離反した。豊前国、筑前国の大友家の戦線は崩壊した。大友義鎮は、大内輝弘に兵を与え、若林鎮興に命じて周防国山口へと海路輸送した。毛利家海賊衆を排除して、周防国秋穂浦に大内輝弘勢を上陸させた。毛利家勢が、北九州から吉川元春勢、毛利元就勢が引き返して来ると大内輝弘勢は劣勢に立たされた。若林鎮興が撤退すると、大内輝弘勢は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させることには成功した。1572年、土佐国一条兼定を支援するため、伊予国へ侵攻した。1574年、一条兼定が豊後国へ落延びる際は、それを警固した。1575年、一条兼定の土佐国侵攻を支援したが、一条兼定は「四万十川の戦い」で大敗した。1578年、日向国への侵攻では戦功を挙げたが「耳川の戦い」で大友家勢が島津義弘勢に大敗した。1580年、田原親貫が謀反を起こすと、若林鎮興は国東半島沖を封鎖し、援軍の毛利家海賊衆を撃退した。1586年、島津義弘勢が豊後国へ侵攻すると、若林鎮興は、嫡男若林統昌と共に臼杵城へ籠城した。1592年「文禄、慶長の役」でも、大友家海賊衆を率いて参陣した。1593年、大友義統が朝鮮での不手際で改易されると、速吸瀬戸通過のための寄港地である二間津で病没した。

若林統昌【わかばやしむねまさ(1568~1637)】

若林鎮興の男。武勇の士であり、強弓の使い手として知られ、剣術も柳生流の免許皆伝を得ていた。1586年、島津家久勢が北上し、豊後国へ侵入した際は、海辺郡丸尾砦にて防戦した。1593年「文禄の役」の際、において大友義統が「明軍の来襲を前に退去した」とされて、羽柴秀吉の命により改易されると、大友義統に従って周防国に蟄居した。後に大友家を辞し、松平定勝に仕えて200石を領した。

若林弾正忠【わかばやしだんじょうちゅう(15??~15??)】

若林鎮興の枝連衆。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。
 
若林九郎【わかばやしくろう(15??~15??)】

若林鎮興の枝連衆。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。

若林藤兵衛尉【わかばやしとうべいのふ(15??~15??)】

若林鎮興の枝連衆。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。

若林大炊助【わかばやしだいのすけ(15??~15??)】

若林鎮興の枝連衆。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。
 
若林上総介【わかばやしかずさのすけ(15??~15??)】

若林鎮興の枝連衆。

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【資料Ⅰ】

豊後国(8郡/460,000石)

日田郡:日隈城。
玖珠郡:角牟礼城。
国東郡:高田城。
速見郡:杵築城。
大分郡:戸次城。
直入郡:岡城。
大野郡:筒井城。
海部郡:拇牟礼城。

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【資料Ⅱ】

立花家四天王【】

戸次鑑連家臣団。由布惟信、十時連貞、安東家忠、高野大膳(安東家忠が隱居した後は安東家忠の代わりに小野鎮幸を加える)。

日田郡八奉行衆【ひたぐんはちぶぎょうしゅう】

蕪城主:石松肥前守鑑正、藤山城主:財津長門守永満、坂本城主:坂本伯耆守鑑次、安禅寺砦主:佐藤出雲守永信、西池部城主:世戸口大和守永益、西池部城主:高瀬山城守鑑俊、堤城主:堤越前守鑑智、羽野城主:羽野遠江守鑑房。※大友義鑑は、日田郡奉行に財津鑑永、坂本鑑次、羽野鑑房、石松鑑正、堤鑑智、高瀬鑑俊らを任じて、のちに佐藤永信。瀬戸口永益の二家を目代に命じ、八家は総称して「日田八奉行」と称した。

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【資料Ⅲ】

豊後国【ぶんごのくに】

調査中。

大野川【おおのがわ】

大野川は、日向国高千穂地方、豊後国と日向国境をなす祖母、傾山の祖母山に源流を発し北流。阿蘇山を中心としたカルデラの一部も源流となる。これらが豊後国を流れ、別府湾に注ぐ。大野川はかつて、その下流では戸次川と称された。1587年、島津家久勢と長宗我部元親、長宗我部信親親子、仙石秀久、大友義統らが率いる羽柴秀吉勢の間で「戸次川の戦い」が起きた。

岐部【きべ】

国東半島北岸の入江に向かう湊街。中世、大友家に属し、海上活動に従事した岐部家の本拠地。1513年、岐部家は、富来家らと、大友家に渡唐船の日向国外浦への抑留を命じられ、他にも渡唐船の水先案内や警固を担当し、豊後国周辺海域を支配した。岐部家は岐部を根拠地として大友家の朝鮮貿易の一翼を担った。岐部とその周辺が鉄とその製品の産地であったことがわかる。豊後国では「豊後刀」として知られる刀剣の生産が盛んであり、岐部は、府内近辺の高田など、鍛冶場に供給される鉄の積出しでも栄えた。

府内【ふない】

大分川河口西岸に位置し、鎌倉期から「府内」と称され、大友家のもとで国際交易都市として繁栄を極めた城下街。大友家は室町、戦国期の遣明船派遣に関わり、対朝鮮貿易や対琉球貿易、対明貿易を行った。16世紀、大友家は室町幕府に白砂糖や猩々皮など輸入品を恒常的に贈り、府内の市場には中国、朝鮮産陶磁に加えてタイやベトナム、ミャンマー産の陶磁器が売られていた。府内には渡来系の商人や職人が「唐人街」などを形成し、京、堺、博多からも商人が来住して取引を行った。大友義鎮が交易のためにキリスト教を受け入れ後はポルトガル船の来航と宣教師の逗留により、キリシタン文化の拠点ともなった。

佐賀関【さがのせき】

伊予国佐田岬と速吸瀬戸を挟んで対峙する佐賀関半島先端部のくびれ部分に位置し、豊後水道の航路の要衝として栄えた港町。大友氏は貞治三年(1364)の段階で佐賀関を直轄領としており、以後も代々受け継いでいる。近世の『武家万代記』では、天文二十年(1551)以降に、大友氏が富来や靏崎とともに佐賀関に海関を設けたとしており、名の通りの「関」でもあったとみられる。弘治元年(1555)から二年間日本に滞在した鄭舜功は『日本一鑑』で、豊後の明船寄港地として蒲江や臼杵、府内とともに佐賀関を挙げており、佐賀関が明国と貿易を行う大友氏の海外貿易拠点でもあったことがうかがえる。戦国期の佐賀関の状況、及び大友氏の佐賀関への政策は、天正十六年(1588)六月に大友義統が若林越後入道に宛てて発給した計十一か条の袖判条々から推測できる。第一条は「関両浦」(佐賀関は上浦と下浦から構成されている)の町立(都市計画)についてであり、第二条では「計屋」を両浦に三軒ずつ設置することを命じている。「計屋」は交易の拠点で銀の秤量を担った商人であり、第二条付則に「府内・臼杵可為同前」とあることから、府内、臼杵、佐賀関という領国経済の中心三都市で衡量制の統一が図られたものとみられている。

臼杵【うすき】

豊後国臼杵湾の最奥部に位置する湊街。1562年、大友義鎮によって丹生島城が築かれて以降、大友家領国の政治、経済の中心として発展した。豊後国の明船寄港地として佐賀関や府内などとともに臼杵も挙げられており、国際性も持つ重要な港湾であった。臼杵には唐人街、畳屋街、唐人懸ノ街、海添中街、横浜街、吉水小路片街、浜街、菊屋街、横街の九街と祇園洲から構成され、田畠屋敷総数四〇四筆のうち、実に三七五筆が屋敷であるなど、戦国末期には大規模な都市となっていた。臼杵は大友家の計画的な都市建設プランのもとで、府内の町人を誘致して新たに町立てされた。南蛮、中国貿易を行う大友家のもとで、臼杵は国際貿易港として発展した。唐人町などには陳元明など明国からの渡来系技術者など外国人が居住、営業しており、イエズス会も司祭や修道士を臼杵に常駐させた。また唐人懸ノ街に居住した豪商仲屋宗悦は堺、京都や明人との貿易に従事して莫大な富を得ており、屋敷地が唐人懸ノ街の過半を占た。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、豊臣秀吉は羽柴秀吉、立花 道雪は戸次 鑑連の名前で統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2013年11月2日土曜日

戦国大和国人名事典

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【あ】

逢坂内記【あふさかないき(15??~15??)】

逢坂山城主。岡政行家臣。

赤埴満近【あかはにみつちか(15??~15??)】

宇陀郡赤埴城主。「大和国宇陀七人衆」のひとり。宇陀郡は、地勢的に伊勢国司北畠具教の強い影響を受け、北畠具教の政治的な動向に左右された。赤埴満近も他の諸士同様、北畠具房に仕える一方で、宇陀郡三人衆のひとりである沢房満にも属し郡内各地に勢力を伸ばした。1528年、赤埴満近は、諸木野弥三郎と戦うなど小勢力ながら領土拡大には余念がなかった。

赤埴信安【あかはにのぶやす(15??~15??)】

赤埴満近の男。1576年、赤埴信安に北畠具房が滅亡すると、筒井順慶に属した。1584年、筒井順慶が病没すると筒井家は伊賀国に転封され、大和国は羽柴秀長が支配するところとなった。

赤埴安忠【あかはにやすただ(15??~15??)】

赤埴信安の男。1600年、宇陀郡は、福島正則の弟福島孝治が松山城主として領した。赤埴安忠は、福島孝治に仕えた。のちに赤埴に帰って医術を修め赤埴流金瘡外医の開祖となった。

赤部友春【あかべともはる(15??~15??)】

北葛城郡赤部城主。通称笠衛門。箸尾高春の娘婿となって箸尾家枝連衆に加わった。

秋篠藤賀【あきしのふじが(15??~15??)】

秋篠城主。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。南山城衆とも婚姻関係を結ぶなど勢力の確保に務めた。1545年、秋篠春藤が興福寺から「上鳥見二名庄外護職」に補任された。

秋津守政【あきつもりまさ(15??~15??)】

吉野郡秋津城主。1559年、秋津守政は庶家の秋津守信に攻められ、秋津城は落城、討死した。

秋津守信【あきつもりのぶ(15??~15??)】

秋津守政家臣。1559年、秋津城主秋津守政を攻撃、秋津守政を討取った。1578年、織田信長が一向一揆衆の願行寺を攻撃した際、秋津城も落城した。

秋山宗丹【あきやまそうたん(15??~15??)】

宇陀郡秋山(神楽岡)城主。「大和宇陀三人衆」のひとり。秋山家は沢、芳野家と並んで「宇陀三将」と称され、興福寺領宇陀郡秋山荘を領したことから始まり、南北朝時代に南朝方となり、隣接する北畠家と密接な関係を築き「応仁の乱」以降は北畠家に属して地盤を築いた。1532年、宇陀三人衆と吉野郡小川弘茂は、宇太水分神社の神前で一揆盟約を結んで一定の自立を保ちながら北畠家の軍役を担い各地を転戦した。1536年、北畠家と対立する木造家と結んで、宇陀郡内における勢力拡大を図っている。 1542年、秋山家と芳野家の対立が起こり、1548年、秋山家と沢家の対立も激化した。1558年、秋山宗丹は北畠家との抗争に破れ人質として北畠家に赴いたが大河内城で病没した。

秋山教家【あきやまのりいえ(15??~1563)】

秋山宗丹の男。官途は遠江守。通称藤次郎。室は三好長慶の娘。1558年、北畠具教の命に従わなかったため、秋山城を攻められ落城、父秋山宗丹を北畠具教に人質して差し出して降伏した。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻した。1562年「教興寺の戦い」で、畠山高政方に属して、三好長慶方と戦うが敗戦、この戦いを境に秋山教家は三好長慶方になる。秋山教家は、三好長慶の婿として権勢を奮った。

秋山直国【あきやまなおくに(15??~1615)】

秋山宗丹の次男。官途は右近将監。通称次郎。室は滝川一益の娘。秋山直国は、沢房満と争うが、沢房満が松永久秀との戦いで敗れると、興福寺領を巡って十市家と争った。十市家が三好三人衆と同盟を結ぶと秋山直国は、松永久秀と結んで対抗する。1568年、十市遠勝に森屋城を攻められるが松永久秀の後援を得て反撃し、十市家の龍王山城を攻略した。1571年、筒井順慶に属して、松永久秀による「辰市城の戦い」では、松永久秀勢を撃退する戦功を挙げた。1582年、筒井順慶が「山崎の戦い」に参陣した際は、筒井城の留守を任された。1584年、蒲生氏郷が南伊勢を治めると秋山直国は沢房満らと共に蒲生氏郷の寄騎衆となって、織田信雄を攻撃した。1590年、蒲生氏郷が奥州会津に転封となるがこれに従わずに大和国に残った。1600年、松平元康に属して「越後長尾(上杉)景勝討伐」に参陣して戦功を挙げた。本戦の「関ヶ原の戦い」では、石田三成に属して改易、没落した。1615年「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼勢に属して大坂城で討死した。

秋山萬助【あきやままんすけ(15??~15??)】

秋山宗丹家臣。1569年「大河内城の戦い」では、大河内城に籠城した。北畠具房は、頑強に二ヶ月も抵抗を続けた。鳥尾屋石見守も兵糧を十分に準備して籠城した。織田信長は、城兵に向かって「北畠具教は分をわきまえず、不毛な戦を起こして兵の命を失わせるは笑止千万、緒戦は大将の器にあらず、北畠具房は文弱の徒にして、槍もまともに振るえぬ、これまた大将の器にあらず餅食いである」などと大声で挑発した。鳥尾屋石見守は、大木に登って叫んでいる人を射落とすように命じました。射手には秋山直国家臣、諸木野弥三郎、秋山萬助、秋山志摩守が選ばれた。諸木野弥三郎は大弓を持って敵味方の見物する中、弓を射て4~5町先にいる大木の上の男の喉もとを射抜きました。これを見ていた織田信長は「見事な腕である」と大いに驚き、て諸木野の射た矢に引出物を添えて城中に返還した。

秋山志摩守【あきやましまのかみ(15??~15??)】

秋山宗丹家臣。通称島之助。1569年「大河内城の戦い」では、大河内城に籠城した。

秋山辰巳【あきやまたつみ(15??~15??)】

秋山宗丹家臣。山辺西城主。秋山家枝連衆。1532年「宇陀郡内一揆」に連署した。秋山辰巳は井足上荘と西山辺荘を知行地とした。

秋山家臣団【あきやまけかしんだん】

調査中。

浅井忠行【あざいただゆき(1520~15??)】

広瀬郡細井戸城主。官途は右近。室は箸尾城主為重の娘。1533年、浅井忠行は近江国より転封した。

新木丹後守【あらきたんごのかみ(15??~15??)】

新木城主。筒井家の被官。

安堵甚五郎【あんどじんごろう(15??~1569)】

東安堵館主。嫡男安堵甚三郎と共に筒井順慶に属して、大和国内を転戦した。1569年、松永久秀との戦いで揃って討死した。

安堵甚三郎【あんどじんさぶろう(15??~1569)】

安堵甚五郎の男。父安堵甚五郎と共に筒井順慶に属して、大和国内を転戦した。1569年、松永久秀との戦いで揃って討死した。

飯貝左吉【いいかいさきち(15??~15??)】

吉野郡飯貝城主。本善寺の徒衆のひとり。吉野真宗教団における在地の有力者として本善寺を支援した。1578年、筒井順慶の飯貝本善寺攻撃で飯貝城を焼かれた。

飯高永祐【いいだかえいすけ(15??~15??)】

飯高城主。興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。はじめは越智家広に属したが没落すると、十市家の被官となった。

井足実栄【いだにさねえい(15??~15??)】

井足城主。秋山直国家臣。

磯壁則定【いそかべのりさだ(15??~15??)】

磯壁城主。岡政行家臣。

礒野十郎【いそのじゅろう(15??~15??)】

葛下郡礒野城主。当麻高田為重家臣。

一乗院尊政【いちじょういんたかまさ(15??~1616)】

興福寺一乗院門跡。近衛前久の男。大僧正。法務。興福寺別当。准三宮に叙せられた。連歌、和歌を能くした。

櫟原勝三郎【いちはらかつさぶろう(15??~15??)】

高市郡椿木城主。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。

井足実栄【いどあしみえ(15??~15??)】

宇陀郡井足城主。秋山宗丹家臣。「大和国宇陀七人衆」のひとり。井足上荘の秋山宗丹に対して、井足下荘を根拠地としたのが井足実栄。1539年「宇陀郡内一揆」に連署した。井足実栄は、秋山宗丹と対立し、秋山宗丹、沢房満、芳野宮内少輔、赤埴満近の諸家によって城を攻め落とされた。のちに秋山家の同名衆に連なった。

井戸良弘【いどよしひろ(1533~1612)】 

添上郡井戸城主。井戸覚弘の男。官途は若狭守。通称才助。室は筒井順慶の姉。兄井戸小殿之助良弘(才助良弘と同名)が早世したため井戸家の家督を相続した。1560年、畠山高政に属したため松永久秀の攻撃を辰市城に受け、筒井順慶の援軍を得たが開城した。1568年、足利義昭を擁する織田信長の上洛によりこれに従い、筒井順慶を離れて松永久秀に属したがやがて対立した。このため再び筒井順慶と和睦して松永久秀方に抗戦した。1575年、大和国に織田信長の家臣塙直政が入部してくるとこれに属した。1576年、塙直政の討死後塙家枝連衆の追放令が発せら、井戸良弘は戦功を挙げ、山城国槙島城を与えられた。1581年「第二次伊賀攻め」にも参陣した。1582年「本能寺の変」では、明智光秀に属した。羽柴秀吉勢に槙島城を攻められて降伏した。井戸良弘は吉野郡に逃れ、奈良に隠棲した。

井戸覚弘【いどさとひろ(1556~1638)】

井戸良弘の男。官途は若狭守。通称十郎。祖父と同名。筒井順慶に仕えた。井戸良弘が筒井家を去って槙島城主となったあとは、井戸覚弘が井戸城主を継いで20,000石を領した。1582年、父井戸良弘が明智光秀に属して没落した後も、井戸覚弘は引き続き筒井順慶に仕え、筒井順慶の病没後も筒井定次に仕えた。のち羽柴秀吉に仕え、織田秀信に属して「文禄の役」に従軍した。「井戸茶碗」は、井戸覚弘が「朝鮮の役」のとき入手したことより起った。1608年、筒井家定次が改易されると蟄居うした。1610年、松平元康に属して、常陸国真壁郡3,040石余を領した。1615年「大坂夏の陣」では、安藤重信の麾下に属して参陣した。安藤家勢は「天王寺、岡山の戦い」で大野治房勢と戦い、大野家勢の先鋒をつとめたのは、覚弘と共に順慶に仕えた布施春行率いる布施家勢であった。布施家勢は家老吉川主馬のもと突撃、安藤家勢はあえなく敗退し、大野家勢は松平秀忠の本陣をも脅かした。
  
井戸治秀【いどはるひで(15??~15??)】

井戸良弘の次男。通称忠右衛門尉。室は明智光秀の娘。松平秀忠、松平家光に仕えた。
 
井戸直弘【いどなおひろ(15??~15??)】

井戸良弘の三男。新右衛門尉。松平秀忠に仕えた。

井戸良弘【いどよしひろ(15??~15??)】

井戸覚弘の男。祖父と同じ名を称す。左馬助。1610年、松平秀忠に拝謁して仕えた。1614年「大坂冬の陣」に参陣した。1615年「大坂夏の陣」では、頸をひとつを挙げる戦功を挙げた。その後、寄騎衆十騎、鉄炮同心三十人を預かった。

稲屋戸景光【いねやとかげみつ(15??~15??)】

戸毛城主。越智家広家臣。

今市四郎【いまいちしろう(15??~15??)】

今市城主。筒井順興家臣。興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。1504年、越智家臣岸田がこの城を維持していたが、筒井順興の攻撃を受けは、攻撃を受け落城した。その後、この城に今市四郎が復帰した。

今里与八郎【いまざとよはちろう(15??~15??)】

葛下郡今里城主。当麻高田為重家臣。

今中行宜【いまなかぎょうせん(15??~15??)】

布施行盛家臣。 

石見太兵衛【いわみたへい(15??~15??)】

城下郡石見城主。箸尾高春家臣。

内牧内記【うちのまきないき(15??~15??)】

沢房満家臣。内牧家は古代の「肥伊牧」から発した内牧地域の在地土豪衆。1527年、宇太水分神社祭礼の頭役勤仕に際して樽を進上した。

宇野有治【うのありはる(15??~15??)】

宇智郡宇野城。宇智郡国人衆の宇野家は、大和守源頼親を祖とする大和源家の庶家である。もとは摂関家の侍臣として京都に在住したが、やがて宇智郡に所領を得て土着した。

宇野知治【うのともはる(15??~15??)】

宇野有治の男。1558年「郡内一揆」においては、宇野知治が国人衆のひとりとして連判状に署名した。

梅本正武【うめもとまさたけ(15??~15??)】

吉野郡上山(大林)城主。1578年、筒井順慶の飯貝本善寺攻撃において守備側に参陣し弟梅本正質が討死した。

梅本正弘【うめもとまさひろ(15??~1615)】

梅本正武の男。通称与一朗。羽柴秀吉は「文禄検地」を行い、小路村の石高159石を領した。梅本正氏は羽柴秀長に仕え。1615年「大坂夏の陣」で討死した。

梅本正継【うめもとまさつぐ(15??~15??)】

梅本正弘の男。通称与一。1595年、羽柴秀吉は吉野山金峯山寺蔵王領として、吉野山853石を寄進した。梅本正継はその代官に任じられた。

栄山実【えいざんみのる(15??~15??)】

宇智郡栄山城主。通称弥三郎。栄山寺を領主とする栄山荘を本拠とし、栄山寺別当職を壟断するなど勢力をふるい、二見光重の配下として河内国に出陣した。1558年「郡内一揆」においては、栄山実が国人衆の一員として連判状に署名した。

大岡頼尹【おおかよりのり(15??~15??)】

宇智郡大岡山城主。1558年「郡内一揆」においては、大岡頼尹が国人衆の一員として連判状に署名した。

大木重介【おおきじゅうすけ(15??~15??)】

十市遠勝家臣。1562年、畠山高政に属して三好義賢を「久米田の戦い」で破って、高屋城を奪取した。続く「教興寺の戦い」にも参陣するが敗れて湯川直光らが討死した。十市遠勝は、大木重介の嫡男と娘のおなへ(御料)を人質として、松永久秀に降伏した。

小夫実空【おおぶさねそら(15??~15??)】

城上郡小夫城主。1560年、越智家広に属して反筒井順昭の立場をとった。1565年、松永久秀に離反したため、攻められ城は落城し滅亡した。

岡政行【おかまさゆき(15??~15??)】

岡城主。越智家広家臣。官途は周防守。別名岡国高。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。1505年、赤沢朝経勢の侵入に対して結成された大和国国人一揆に参加して国判衆十二家に連なった。近隣の布施行盛や万歳則盛らと戦いを繰り返した。松永久秀が大和国に侵攻するとこれに属した。1571年「辰市の戦い」で、筒井順慶が大和国内で優勢を拡大すると、筒井順慶の攻撃をうけ落城した。このとき枝連衆岡弥二郎が筒井順慶に帰順し、筒井順慶と共に上洛して織田信長に謁した。1577年、松永久秀と共に討死した。のちに岡弥二郎も織田信長の勘気にふれて自刃した。

岡崎則遠【おかざきのりとう(15??~15??)】

鈴山城主。岡政行家臣。

岡野因幡守【おかのいなばのかみ(15??~15??)】

狐井館主。岡政行家臣。家老職を務めた。

小川弘光【おがわひろみつ(15??~15??)】

吉野郡小川城主。小川家は、藤原弘重を祖とする在地土豪であった。吉野丹生神社の神職を務め、後に興福寺大乗院門跡で衆徒のひとりで、代官職などを請け負った。龍門庄の所有を巡って多武峰勢力と争った。龍門庄と引き換えに宇陀郡四郷(大熊、平尾、片岡、下片岡)を獲得した。

小川弘茂【おがわひろしげ(15??~15??)】

小川弘光の男。1532年、秋山国堅らの呼びかけに応じて「宇陀郡内一揆」の盟約に参陣した。一揆は宇太水分神社の神前で神誓が行われ、領主間の利害調整、農民支配の協同を図り、宇陀郡内における秩序を守ろうとした。宇陀郡の国人たちは北畠家の支配を受けながら、それぞれ自立した領主として家中を構成し、領地を支配する体制づくりを目指した。1576年、宇陀郡を支配下においた伊勢北畠家が織田信長によって滅ぼされ、松永久秀も織田信長に謀反を起こして滅亡した。1578年、筒井順慶が、大和国を支配して吉野郡を制圧すると小川弘茂は勢力を失った。1582年「本能寺の変」で、織田信長が滅びると、羽柴秀吉が覇権を握ると、筒井順慶は伊賀国に転封になった。大和国は羽柴秀長が領した。大和国の旧勢力は一掃され、宇陀郡の沢家、秋山家、芳野家ら三人衆も勢力を失っていった。1587年、小川次郎が当地を捨てて流浪し没落した。

小川家臣団【おがわけかしんだん】

北室弘覚、鷲賀弘元。

興留出雲守【おきどめいずものかみ(15??~15??)】

興留城主。法隆寺散郷で興福寺一乗院門跡領の興留荘の荘官を管理する地侍。

奥田忠高【おくだただたか(1521~1602)】

吉野郡高畑城主。小山八郎右衛門の男。奥田兼重の養子。官途は主税助。通称八郎右衛門。小豪族の習いで、松永久秀、筒井順慶、羽柴秀長といった歴代の大和国主に仕えて勢力を維持した。羽柴秀長の病没後、一度は致仕して大和国へ隠棲した。1600年、山岡景友を仲介者として松平元康に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康に属して戦功を挙げた。戦功により紀伊国名草郡で2,800石を領した。

奥田忠次【おくだだだつぐ(15??~1615)】

奥田忠高の男。1615年「大坂夏の陣」で後藤基次と激闘の末に討死した。

興ヶ原助豊【おくがはらすけとよ(15??~15??)】

興ヶ原城主。柳生宗厳家臣。官途は遠江守。娘は柳生宗厳に嫁いで、柳生宗矩を生み、後に春桃御前と称された。

興ヶ原助秀【おくがはらすけひで(15??~15??)】

興ヶ原助豊の男。官途は若狭守。羽柴秀長に仕えた。

興ヶ原助勝【おくがはらすけかつ(15??~15??)】

興ヶ原助秀の男。通称次郎四郎。1615年「大坂夏の陣」で、羽柴秀頼に属して戦った。役後浪人となるが柳生家に仕えた。

小倉政実【おぐらまさざね(15??~15??)】

小倉北城主。1581年、春日若宮願主人を巡って柳生宗厳と争った。

越智家教【おちいえのり(1489~1517)】

高市郡高取城主。越智家令の男。官途は弾正忠。1507年、父越智家令が赤沢朝経の大和侵攻の最中に病没した。「永正の錯乱」で、細川政元が謀殺、赤沢朝経も丹後国で討死した。1508年、足利義稙が大内義興の後ろ盾で上洛し、それに伴い大和国に影響力を持つ細川高国と畠山尚順も再び二派に分かれ、大和国人一揆も崩壊、越智家教と古市澄胤は足利義澄、細川澄元、畠山義英に、筒井順賢、十市遠治らは足利義稙、細川高国、畠山尚順についた。1516年、筒井順賢に勝利するもまもなく病没した。

越智家栄【おちいえひで(15??~15??)】

越智家教の男。

越智家頼【おちえいより(15??~15??)】

越智家教の次男。

越智家広【おちえいひろ(15??~15??)】

越智家栄の男。1532年「天文一揆」が起こり、一向宗門徒の一揆の余波は河内国から大和国におよび、南都を焼き払い、南下して高取城に押し寄せた。このとき、筒井順昭、十市遠忠らの救援もあって一揆勢は壊滅した。この一揆との戦いにおいて叔父貝吹城主越智家頼も戦功を挙げた。越智家広には子がなく、細川晴元の男を養子としたが、夭折した。1569年、越智家広の弟越智家増の子越智家高が家督を相続した。

越智家増【おちいえます(15??~1577)】

越智家栄の次男。官途は伊予守。別名楢原家益。1569年、嫡男越智家高が越智家惣領職を相続した。1571年、嫡男越智家増が兄越智家広に謀殺された。

越智家高【おちいたかた(1544~1571)】

越智家増の男。越智家広の養子。官途は民部少輔。別名楢原家高。1569年、越智家惣領職を相続した。1571年、叔父越智家広の家臣市尾深介に謀殺された。

越智家秀【おちいえひで(15??~15??)】

越智家増の次男。筒井順慶に仕えた。1582年「本能寺の変」で、織田信長が討死すると、筒井順慶は羽柴秀吉と手を結んだ。1583年、内衆の手によって、越智家秀は自刃させられた。

乙木徳兵衛【おとぎとくべい(15??~15??)】

山辺郡乙木城主。衆徒福智堂家の縁戚であり、布留郷神人衆のひとり。

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【か】

戒場勘右衛門【かいばかんざえもん(15??~15??)】

宇陀郡戒場城主。榛原地域の北部の大乗院門跡領の戒場に在った豪族衆。

戒重範宗【かいじゅう(15??~15??)】

戒場勘右衛門の男。官途は遠江守。1506年、赤沢朝経の大和国侵攻では、連合軍側で参陣した。戒重城は、赤沢朝経勢の攻撃を受け落城、多武峰に退却した。1559年、松永久秀が大和国侵攻すると、それに属して、越智広家や多武峰と戦った。1568年「貝吹山城の戦い」では、松永久秀の先陣を務めたが撃退されて多数の討死をだした。1577年、松永久秀の討死後は、筒井順慶に属したが、反筒井家の姿勢は崩さなかった。1580年、織田信長の命を受けた筒井順慶に検地の不正を理由に金蔵院において岡政行、大仏供政忠、高田為政と共に謀殺された。

片岡春利【かたおかはるとし(15??~15??)】

北葛城郡片岡城主。通称新介。室は筒井順興の娘。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。筒井家の枝連衆として、筒井家党の一翼を担った。1569年、松永久秀の侵攻には徹底抗戦した。

片岡春之【かたおかはるゆき(15??~15??)】

片岡春利の男。通称弥太郎。1571年「辰市の戦い」に参陣した。1577年「片岡城の戦い」では、先陣をつとめて城の奪回、松永家臣海老名弾正忠を討取った。その後の片岡春之は筒井家臣となったが、筒井定次の伊賀国転封には従わずに大和国に残り、羽柴秀長に仕えた。

勝原宗秀【かつはらむねひで(15??~15??)】

山辺郡勝原城主。都祁方面に進出して小山戸春俊と戦った。長谷寺衆徒の介入を受けたりするなど紛争をしばしば起こした。のちに奥田忠高の寄騎衆となった。

鎌田藤兵衛【かまたとうべい(15??~15??)】

鎌田館主。岡政行家臣。

河合清長【かわいきのなが(15??~15??)】

十市遠勝家臣。官途は権兵衛尉。別名川合長左衞門正冬。1568年、今井館で十市遠勝と三好三人衆の三好長逸、篠原長房と誓紙を取り交わした。1569年、十市遠勝病死し、親松永久秀派(十市後室、おなへ、河合清長、伊丹源二郎、田中源一郎、川嶋藤五郎、上田源八郎、森本喜三) と親筒井順慶派(一族の十市常陸介遠長)に分裂し、河合清長以下六名は十市後室を奉じて十市城を出て今井館へ退去した。1576年、河合清長と十市後室、織田信長への礼問のため上洛した。1615年「大坂夏の陣」の戦功により松平忠明から改名を勧められて今西姓と改めた。

岸田忠氏【きしだただうじ(15??~1615)】

筒井家臣。官途は伯耆守。筒井順慶に仕えて2,000石を領した。1585年、筒井定次が伊賀国に転封になったとき、筒井家を離れて大和郡山城主羽柴秀長に仕えた。1594年、羽柴秀長を継嗣した羽柴秀保が病没すると、羽柴秀吉に仕えて山辺郡岸田城10,000石を領した。1600年「関ヶ原役」では、石田三成勢に属したため所領は没収、南部利直預かりとなった。

岸田遠近【きしだとおちか(15??~1618)】

岸田遠国の男。通称勝右衛門。筒井定次の移封の際、父岸田遠国は在国して羽柴秀長に仕えたが、岸田遠正、岸田遠近、岸田遠武の三兄弟は筒井定次に従った。兄岸田遠正と不和になり、弟岸田遠武とともに筒井家を辞して藤堂高虎に仕えた。藤堂高虎のもとでは伊予国、伊賀国で街奉行を務めた。1614年「大坂冬の役」では、伊賀国上野城を守備した。

北角善三郎【きたずみぜんざぶろう(15??~15??)】

乾城主。北角家は万歳戌亥家とも称され万歳則盛の枝連衆であった。万歳城の北西に位置していたために北角家と称した。

喜多興能【きたこうのう(15??~15??)】

北村城主。官途は石見守。筒井家に奉行衆として仕えた。

喜多信濃守【きたしなののかみ(15??~15??)】

喜多興能の男。

吉川喜蔵【きっかわぜんぞう(15??~15??)】

生駒郡吉川館主。十市忠之家臣。1582年、吉川善兵衛が松平元康の「伊賀越え」の案内に役に立った。

木原弥九郎【きはらよくろう(15??~15??)】

木原城主。十市遠勝家枝連衆。

吉備市助【きびいちすけ(15??~15??)】

吉備城主。大乗院門跡坊人で国民のひとり。春日若宮祭礼では長谷川党に属して願主人を勤めた。松永久秀に属して筒井順慶の大和国統一に抵抗した。1580年、織田信長の命によって自刃させられた。

木村盛秀【きむらもりひで(15??~15??)】

箸尾為政家臣。

百済将監【くだらしょうげん(15??~15??)】

広瀬郡百済城主。箸尾高春家臣。

窪城順貞【くぼしろじゅんさだ(15??~1576)】

窪之庄城主。興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。1559年、松永久秀の大和国侵入時には、筒井順慶に属して松永久秀勢に抵抗した。1568年、窪之庄城が松永久秀勢の攻撃を受け落城した。1570年、窪城順貞は窪之庄城を奪還、その後も筒井順慶に属して畿内各地を転戦した。1576年「石山本願寺城の戦い」で、討死した。

窪田内記【くぼたないき(15??~15??)】

上窪田城主。筒井党に属し、筒井順慶のもとで多くの戦功を挙げた。筒井定次の伊賀国転封には同行しなかった。

窪美作守【くぼみさくのかみ(15??~15??)】

水涌城主。染田天神講に参加した山内衆のひとりで国津神社の神官を務めた。筒井順興と古市澄胤および越智家広の抗争期には、はじめは筒井順興方につき、後に越智家広方に転ずるなど、両勢力のはざまで揺れ動いてたが、和睦が成ると再び来迎寺檀家衆の盟約に参加した。

倶尸羅俊種【くしらとしたね(15??~15??)】

倶尸羅城主、興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。1505年、赤沢朝経勢の侵入に対して結成された大和国国人一揆に参加して国判衆十二家に連なった。

黒木藤五郎【くろきとうごろう(15??~15??)】

秋山宗丹家臣。秋山宗丹の本拠地であった秋山荘の神戸地域には地侍として黒木藤五郎がいたことが「国民郷士記」などにみえるが、詳細は不明である。黒木城は、宇陀郡を南方からの進出を抑える位置にあった。

小泉秀元【こいずみひでもと(15??~15??)】

小泉城主。興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとりで、枝連衆が他国の興福寺荘園の荘官などに任じられた。天文年間、筒井順昭に降り、小泉秀元は筒井順昭の姪婿となった。

小泉重順【こいずみしげじゅん(1544~1561)】

小泉秀元の男。通称四郎左衛門。筒井家麾下十七人衆組頭を勤め、小泉、鳥見、三碓の三個所2,000石を領した。1561年、小泉城は、筒井順慶が織田信長に従って越前国へ参陣中に、松永久秀の攻撃を受け落城、城主小泉重順をはじめ市原正弘、丹後庄舜英房、龍田道春、小南政祐、目安祐弘、幸前慶尊房、丹後庄舜英房、中原盛祐、西之庄了円房、富道敬、法隆寺の盛阿房、矢田実雲房、杉原実円、龍ノ市定敬、目安祐弘、生駒懐円房など十七人が自刃した。家老職河本宗円の弟河本宗左衛門も自刃した。

小泉重元【こいずみしげもと(15??~15??)】

小泉重順の養子。筒井順慶の命により小泉尾崎家の小泉重元が跡をつぎ、大和国十六人衆につらなった。

小泉四郎【こいずみしろう(15??~15??)】

小泉重元の男。小泉四郎は筒井順慶に重用され、筒井順慶の没後にその名代を務めた。

小林春賀【こばやししゅんが(15??~15??)】

小林城主。筒井家枝連衆の山田順春の縁戚。

小南政祐【こみなみまさすけ(15??~15??)】

小泉秀元家臣。官途は甲斐守。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。1561年、小泉城は、筒井順慶が織田信長に従って越前国へ参陣中に、松永久秀の攻撃を受け落城、城主小泉重順をはじめ市、小南政祐、原正弘、丹後庄舜英房、龍田道春、目安祐弘、幸前慶尊房、丹後庄舜英房、中原盛祐、西之庄了円房、富道敬、法隆寺の盛阿房、矢田実雲房、杉原実円、龍ノ市定敬、目安祐弘、生駒懐円房など十七人が自刃した。

小南甲斐守【こみなみかいのかみ(15??~1571)】

小南政祐の男。1571年、郡山衆と共に「辰市城の戦い」に参陣して討死した。

小柳源助【こやなぎげんすけ(15??~15??)】

磯城郡小柳城主。東大寺の僧兵。

小山戸春俊【こやまどはるとし(15??~15??)】

小山戸城主。

金剛寺覚淳【こんごうじえいじゅん(15??~15??)】

広瀬郡金剛寺城主。箸尾為政家臣。近隣の富本家、佐味家、唐院家らと共に箸尾為政家枝連衆に数えられた。興福寺一乗院門跡坊人で国民に列した。永禄年間、箸尾為政が松永久秀の属した際は、金剛寺覚淳は苦悩の果てに病に倒れ、その一党は士気を大いに落とした。

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【さ】

坂合部頼家【さかあいべよりいえ(15??~15??)】

宇智郡坂合部山城。紀伊国隅田党の一員であったが織田信長に属した。1580年、高野山勢力と対峙したため、城を高野山に奪われた。

坂合部頼重【さかあいべよりしげ(15??~15??)】

布袋山城主。1571年、坂合部頼重が布袋山城を築城した。

坂上尊忠【さかがみただたか(15??~15??)】

北田原城主。鷹山藤政の叔父。1615年「大阪夏の陣」の「道明寺の戦い」で討死した。

指柳浄光【さしやなぎじょうこう(15??~15??)】

山辺郡指柳城主。布留郷神人衆のひとり。

佐羅気三郎【さらげさぶろう(15??~15??)】

蛇穴館主。楢原家臣。

沢源五郎【さわげんごろう(15??~1554)】

宇陀郡沢城主。1484年、秋山宗丹、沢源五郎両家の間に諸木野の所領問題をめぐって「諸木野の戦い」が起こった。この合戦に筒井順興、越智家栄が介入、北大和国の有力国人古市澄胤も秋山家に協力して、伊勢国司北畠晴具、古市澄胤も参陣した。1487年、和議が成立するまで諸勢力入り乱れて戦いが続いた。宇陀郡においては秋山宗丹との対立を続けたが「諸木野の戦い」の後始末として北畠晴具によって沢源五郎が自刃させられ、幼い沢房満が家督を相続した。

沢房満【さわふさみつ(15??~15??)】

沢源五郎の男。官途は兵部大輔。1559年、松永久秀が大和国に侵入し宇陀郡へ勢力圏を拡大すると、宇陀郡の諸城は松永久秀勢によって攻略された。沢城には松永久秀の家臣高山友照が入った。1567年、沢房満は沢城を奪還をすると、北畠具教との関係を強化して東方に侵攻した。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻した。1562年「教興寺の戦い」では、畠山高政方に属して三好長慶方と戦うが敗北した。1567年、伊賀国に潜伏していた沢房満は北畠具教の支援によって沢城を回復した。1576年、北畠具教が滅亡したあとも、沢城に在城。1582年、織田信雄に属して「伊賀一揆鎮圧」に参陣した。

沢親満【さわちかみつ(15??~15??)】

沢房満の男。通称源六郎。1581年、沢親満は春日神社に灯篭を寄進した。1582年、羽柴秀吉に仕えた。

沢満兼【さわみつかね(15??~1615)】

沢親満の男。通称隼人正。藤堂家に仕え、伊勢国一志郡において1,000石を領した。1615年「大坂夏の陣」で討死した。

沢満清【さわみつきよ(15??~15??)】

沢親満の次男。通称次郎九郎。

慈恩寺左衛門【じおんじさえもん(15??~15??)】

城上郡慈恩寺城主。上通道(上ツ道)衆のひとり。1517年、初瀬街道筋の長谷寺領諸郷への侵犯による勢力拡大を図って伊勢国司北畠家や長谷寺と争いを繰り返した。

島信勝【しまのぶかつ(15??~15??)】

生駒郡椿井城主。

島清興【しまきよおき(1540~1600)】

筒井家臣。官途は左近。松倉右近重信とともに「筒井の右近左近」と称された。1585年、筒井定次と不仲になり筒井家を辞し、羽柴秀長に仕えた。
1594年、羽柴秀保が病没すると、石田三成に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では、島清興は、前哨戦の「杭瀬川の戦い」で中村一栄隊を撃破し、本戦では石田三成隊の先鋒として黒田長政隊と戦ったが、銃撃を受けて討死した。

島政勝【しままさかつ(15??~1600)】

島清興の男。通称新吉。1600年、父島清興と共に「関ヶ原の役」に参陣して、藤堂高虎隊と対戦し一騎討ちの末討死した。

島友勝【しまともかつ(15??~15??)】

島清興の次男。通称吉次郎。1600年「関ヶ原の役」には参陣せず敗報を聞き逃亡した、後に「白牡丹酒造」を興した。

島清正【しまきよまさ(15??~1600)】

島清興の四男。1600年「関ヶ原の役」では、大谷吉継隊に属して戦い討死した。

島野市兵衛【しまのいちべい(15??~15??)】

宇智郡島野城主。1532年、二見光重の配下として河内国に出陣した。1558年「郡内一揆」においては、島野市兵衛が国人衆の一員として連判状に署名した。1560年、三好康長の属して河内国で戦った。

慈明寺左門【じみょうじさもん(15??~15??)】

慈明寺城主。筒井家臣筆頭格である慈明寺家は高市郡興福寺別院慈明寺を任された興福寺六方衆辰巳方の堂衆であり、興福寺六方衆の上位職である「北面」に任じられた有力僧兵のひとり。慈明寺の住持は代々が左門を名乗って高市郡における筒井家派の中心的存在であった。筒井順興は三男筒井順国を慈明寺家に養子入りさせて連携を強め、ここに筒井党の有力枝連衆慈明寺家が誕生した。

慈明寺順国【じみょうじとしくに(1531~1580)】

筒井順興の三男。慈明寺左門の養子。別名筒井順国。室は筒井順昭の娘。興福寺六方衆の有力者だった僧官の慈明寺左門に弟子入りし養子となって慈明寺家の家督を相続した。畝傍山の西麓に壮大な伽藍を構えた興福寺子院の慈明寺の住持ともなり、寺を城館となした。筒井順慶を支え、幾度の没落にも見捨てずに護り通した。兄筒井順昭の娘を娶り、後に筒井順慶の養嗣子となった筒井定次が生まれた。筒井順昭の病没後は、枝連衆とともに影武者黙阿弥を立てて筒井順昭の死を秘した。1582年「本能寺の変」後、明智光秀に加勢するかを筒井順慶と軍議を行った。

下田友夏【しもだともか(15??~15??)】

下田城主。下田の鋳物業の発展を背景にして成長した豪族衆。

上総甚助【じょうそうじんすけ(15??~15??)】

山辺郡上総城主。興福寺大乗院門跡領であったが一乗院門跡寄人のひとり。布留郷神人衆に属しつつも井戸家に仕えて、段銭賦課などを行った。

秦楽寺伊斎【じんらくじいさい(15??~15??)】

城下郡秦楽寺城主。秦楽寺八郎の男。神楽寺の僧兵を出自とする地侍で、春日若宮祭礼流鏑馬頭役を勤める願主人のひとり。永禄年間は、松永久秀に属した。1570年、秦楽寺城には、松永久秀勢が入城して十市郷を攻撃した。 

秦楽寺左衛門【じんらくじさえもん(15??~15??)】

秦楽寺伊斎の男。

菅生平助【すがおへいすけ(15??~15??)】

山辺郡菅生城主。畑城主奥田忠高に仕えた。

簀川藤八【すがわとうはち(15??~1543)】

上簀川(鷹塚)城主。官途は兵庫助。興福寺大乗院で衆徒のひとり。福智庄、大柳生庄をめぐり、下狭川城簀川助宣とは度々対立した。1524年、柳生家厳と狭川助貞の抗争に介入して笠置城を攻撃、伊賀国仁木民部少輔と共同作戦を取ったが、筒井順昭の支援を受けた狭川助貞は簀川藤八を撃破した。1541年、木沢長政に従ったが、柳生家厳と共に裏切って笠置城を襲撃。木沢長政が討死すると筒井順昭と対立した。1543年、筒井順昭は神人衆と六方衆を動員して兵6,000余りを率いて簀川城を攻撃した。簀川藤八親子四人は討取られた。筒井順昭は、簀川城の落城後、簀川藤八を支援する古市城主古市胤重を攻撃した。

簀川助貞【すがわすけさだ(15??~1571)】

簀川藤八の三男。通称兵庫助。1546年「貝吹山城の戦い」「観学寺の戦い」では、簀川兵庫助の弟が討死した。その後、簀川兵庫助は松永久秀に属し、柳生宗厳や狭川福岡助宣らと山内四箇郷衆の共同戦線を組み、筒井順昭と戦い続けた。1567年、柳生宗厳らと結んで春日社神人を謀殺して寺門の山内入部を阻止した。1571年、松永久秀が対立関係にあった三好三人衆と結ぶと、これを不服として箸尾為綱は松永久秀勢から離脱、松永久秀勢の十市家を磯城の南柿森に攻略した。これより筒井順慶の反攻作戦が開始され、これに動揺した吐山光政は、郡山の松永久秀方付城にて離反、共に詰めていた簀川助貞が討取られた。

福岡簀川助宣【(すがわすけのぶ15??~15??)】

下簀川城主。1524年、筒井順昭に転じて古市家方の柳生宗厳や簀川藤八らと対立した。1568年、春日社神人を謀殺して興福寺衆徒の発向をこうむるべきところを告文を捧げて宥免された。狭川福岡助宣は松永久秀に属したが、惣領家簀川助貞は松永久秀にも筒井順慶にも通じて不安定な動向をみせたる。1577年、松永久秀が討死すると、筒井順慶に属したが伊賀国転封には従わなった。

菅田助隆【すがたすけたか(15??~15??)】

山辺郡小城城主。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒に連なって菅田下荘下司職などを請負った。枝連衆には菅田戌亥家、菅田南家があり、揃って筒井党に属した。

助命宗政【ぜんみょうむねまさ(15??~15??)】

山辺郡助命城主。興福寺の国民にひとり。

蔵堂長兵衛【ぞうどうちょうべい(15??~15??)】

城下郡蔵堂城主。浄福寺住持を勤めてもとは遊行上人空也光勝の門人のひとり。興福寺大乗院門跡の被官。

曽歩々々清繁【そぶそぶきよしげ(15??~15??)】

生駒郡上庄南城主。興福寺一乗院門跡坊人で国民のひとり。

曾爾播磨守【そねはりまのかみ(15??~15??)】

宇陀郡今井城主。秋山宗丹の勢力圏は、今井城まで及ぶようになり、曾爾播磨守も秋山宗丹に属した。

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【た】

大仏供政忠【だいぶくまさただ(15??~1580)】

大福城主。十市家臣。松永久秀に属して筒井順慶の大和国統一に抵抗した。1580年、織田信長の命によって自刃させられた。

大乗院尋憲【だいじょういんじんけん(1529~1586)】

二条尹房の男。法相宗。興福寺大乗院門跡、興福寺別当、大僧正。著書に「尋憲記」。

鷹山弘頼【たかやまひろより(15??~1553)】

添下郡高山城主。官途は主殿助。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。はじめは筒井順昭に属したが、のち畠山義就方越智家栄に属し、また筒井家に帰属するなど動向は転変した。1542年「河内太平寺の戦い」では、細川晴元のに属して木沢長政と戦った。1544年、筒井順昭と柳生家厳の戦いに参陣した。柳生城の守りは固く、筒井順昭勢は多くの死傷者を出した。筒井順昭は柳生城の水路を断ち、近隣の須川城を落とすことで柳生城を孤立させた。1546年、鷹山弘頼は畠山高政から上山城三郡守護代に任ぜられた。1553年、鷹山弘頼は、畠山高政内衆の安見宗房や遊佐教らとの確執を生じて河内国高屋城で謀殺された。

鷹山藤政【たかやまふじまさ(15??~15??)】

鷹山弘頼の男。松永久秀の大和国侵入で、柳生家厳と同じく松永久秀方となり、松永久秀の没落後は筒井順慶に属した。三好家の内紛では、枝連衆が三好三人衆方と松永久秀方に分裂した。

竹田周防守【たけいすぼうのかみ(15??~15??)】

城下郡竹田城主。地域的には長谷川党のなかに組み込まれていたため、法貴寺家や八田家の寄騎衆として戦功を挙げた。

竹村八郎【たけむらはちろう(15??~15??)】

万歳則盛家臣。家老職。

多田延実【ただのぶみ(15??~15??)】

貝那木山城主。通称次郎。1540年、東山で筒井家党の山田民部、福住宗職らが勢力を得ると、多田延実は白石庄を押え、貝那木山城を築城して統治、軍事の拠点とした。1550年、伊賀国名張郡へ侵攻した。1559年、松永久秀が大和国に侵攻してくると筒井順慶は劣勢に追い込まれるが、多田延実らは筒井順慶を支援して松永久秀勢に対抗した。1577年、松永久秀は織田信長に叛して滅亡、筒井順慶が大和の守護職に任じられた。1580年、織田信長の破城令と差出命が出されると、大和武士たちは城塞を破却し。1581年、織田信長の「伊賀征伐」が開始されると、筒井順慶は大和国勢10,000余りを率いて参陣した。筒井家勢は笠間峠、波多郷口に分かれて進撃、東山内の諸家もその陣に従った。織田信長勢は徹底的に伊賀国を蹂躙し、老若男女の悉くを殺戮した。多田延実も筒井家勢と共に、伊賀国に攻め入ったが、黒田川原で討死した。

多田常胤【ただつねたね(15??~15??)】

多田延実の男。通称四郎。1582年、織田信長が「本能寺の変」で討死すると、政権は羽柴秀吉が引き継いだ。1584年、筒井順慶が病没すると筒井定次は伊賀国に移封され、大和国武士団の多くがそれに従った。1590年「小田原の役」では、筒井家勢に属して、多田常胤も参陣した。「伊豆山中城の戦い」では、多田常胤も奮戦したが枝連衆共々討死した。

辰市宮内【たついちくない(15??~15??)】

辰市城主。辰市神社の神官を勤めた。辰市宮内は筒井家の被官ではなかったが親筒井家だった。1571年、筒井順慶による辰市城築城にさいしては土地や労働力を提供して全面協力し、反松永久秀作戦を支援した。

龍田為定【たつたためさだ(15??~15??)】

生駒郡龍田城主。筒井順慶家臣。興福寺一乗院跡坊人で衆徒のひとり。筒井順慶に属して、松永久秀と戦った。1584年、筒井順慶が病没するとその葬儀に加わった。

龍田道春【たつたみちはる(15??~1561)】

筒井順慶家臣。松永久秀との戦いでは、筒井家に属して戦功を挙げた。1561年、松永久秀が小泉城を落城させた際、城主小泉重順と共に自刃した。

立野信久【たてののぶひさ(15??~15??)】

平群郡立野城主。興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。

立野良信【たてのよしのぶ(15??~15??)】

山田順貞の次男。通称弥太郎 。天正年中、立野良信が、郡山城主羽柴秀長に仕えた。立野良信は山辺郡山田城主山田順貞の次男で、安村之安の婿養子になった。1600年、立野良信の孫立野信安は「 関ヶ原の役」では、大津において松平元康に拝謁がかない、大和川の「漁梁船(剣先船)」に関する御朱印の 制札を頂戴した。

田中善助【たなかぜんすけ(15??~15??)】

田中城主。筒井家臣。

多聞院英俊【たもんいんえいしゅん(1518~1596)】

興福寺多聞院主。十市盛眼の男。1528年、興福寺妙徳院へ入った。1533年、妙徳院長蓮房英繁を師として得度した。学問を修めて多聞院主となり、法印権大僧都に昇進。大乗院門主の大乗院尋憲の後見となった。英俊は、発心院祐算のもとで唯識の研鑽を積み、大乗院尋円、大乗院尋憲の御同学となり、大乗院尋円、大乗院尋憲が対立したときには、その関係修復に奔走した。一乗院尊政からも師匠として尊敬され、多聞院英俊のもとにあった書籍が一乗院へゆずられた。著書に『多聞院日記』。

田原本春覚【たわらもとはるえい(15??~15??)】

田原本城主。十市家臣。大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。

丹後庄舜英房【たんごのしょうしゅんえいぼう(15??~15??)】

筒井順慶家臣。丹後庄家は筒井家枝連衆で、興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。筒井家党の中堅勢力として活躍した。松永久秀の侵攻にともなって各地で抵抗戦に加わり、近隣の小泉家にも枝連衆を派遣した。1561年、小泉城は、筒井順慶が織田信長に従って越前国へ参陣中に、松永久秀の攻撃を受け落城、城主小泉重順をはじめ市原正弘、丹後庄舜英房、龍田道春、小南政祐、目安祐弘、幸前慶尊房、丹後庄舜英房、中原盛祐、西之庄了円房、富道敬、法隆寺の盛阿房、矢田実雲房、杉原実円、龍ノ市定敬、目安祐弘、生駒懐円房など十七人が自刃した。家老職河本宗円の弟河本宗左衛門も自刃した。

近内善右衛門【ちかうちぜんざえもん(15??~15??)】

宇智郡居伝城主。宇野家の庶家。1558年「郡内一揆」においては、近内善右衛門が国人衆の一員として連判状に署名した。

苣原英秀【ちしゃわらえいしゅう(15??~15??)】

苣原城主。興福寺官符衆徒衆のひとり。官途は伊賀守。筒井順慶の馬廻衆として、常に城を空けて各地で転戦していた。「大西城の戦い」では、苣原英秀の弟二人が討死した。

苣原英順【ちしゃわらえいじゅん(15??~15??)】

苣原英秀の家臣。官途は伊賀守。「長谷川の戦い」では、松永久秀家臣の強者二人を討取った。

超昇寺信次【ちょうしょうじのぶつぐ(15??~15??)】

超昇寺城主。超昇寺の僧。興福寺大乗院の衆徒ひとり。1559年、松永久秀の大和国侵攻時には、超昇寺城も攻撃を受け松永久秀に降伏した。降伏後、松永久秀に属すると、度々筒井順慶勢から攻撃を受けた。1569年、筒井順慶が織田信長の支援を受けて復帰すると、再び、筒井順慶に属したが、今度は松永久秀の攻撃にさらされた。

筒井順興【つついじゅんこう(1484~1535)】

添下郡筒井城主。筒井順尊の男。室は越智家令の娘。1521年。筒井家の家督を相続した。筒井順興は河内国守護職畠山家の影響力は大きく、畠山家の内争は大和国衆の対立も招いた。畠山家の内紛が収まると、大和国衆も和睦してた。筒井順興と越智家広の娘を娶って再び越智党と和睦した。一向宗徒による「天文一揆」の際、越智氏居城の高取城に一揆勢が迫ったが、筒井順興は援軍を派遣してこれを撃退した。

筒井順昭【つついじゅんしょう(1523~1550)】

筒井順興の男。官途は官符衆徒。別名栄舜坊順昭。室は山田道安の娘。1538年、得度した。1542年、筒井順昭は信貴山城主木沢長政方に属したが、木沢長政が畠山稙長を攻めて討死すると、畠山稙長に属した。1546年、越智家広を攻めて貝吹山城を攻略するなど勢力を拡大した。1549年、病を得て隠居し、比叡山に籠った。1550年、筒井城に戻るも病没した。病没後筒井順慶が幼かったため筒井順昭と声色の似ていた木阿弥という人物を身代わりに立てて喪を秘し、用が済んだところで身代わり役を解いたので「元の木阿弥」とゆう俗語が生まれた。

筒井順政【つついじゅんせい(15??~1564)】

筒井順興の次男。1550年、兄筒井順昭が急死すると、その息子である筒井順慶が幼少であったため、後見人として政務を見た。1562年「教興寺の戦い」では、配下の島清興と共に畠山高政の援軍に駆けつけるが三好家勢に敗退している。後に松永久秀率いる三好家勢が大和国に侵攻すると、領国を追われて逃亡先の堺で病死した。

筒井順吉【つついじゅんよし(15??~15??)】

筒井順昭の男。

筒井順慶【つついじゅんけい(1549~1584)】

筒井順昭の次男。官途は官符衆徒。別名筒井藤政、陽舜房順慶。室は妻木広忠の娘。1550年、興福寺官符衆徒、大和国守護代の病没により筒井家の家督を相続した。1559年、松永久秀が大和国に侵入すると、大和国から落延びた。その後、三好家の内紛を利用して、三好三人衆と結ぶなどして松永久秀に対抗した。興福寺成身院において出家得度し、官符衆徒に列した。1571年、織田信長に背いた松永久秀の討伐に参陣した。松永久秀は、足利義昭を奉じた織田信長に降伏して大和守護職に任ぜられていた。筒井順慶は松永久秀に対立する勢力として起用され、明智光秀の寄騎衆となって戦功を挙げた。1576年、織田信長によって、大和国守護職に任じられ、郡山城を築城した。1582年「山崎の戦い」では、明智光秀に属さず、郡山城を動かなかった。明智光秀に属さなかったことにより「洞ケ峠」と嘲笑されることとなったが、羽柴秀吉から大和国を安堵された。1584年「小牧、長久手の戦い」で、陣中で発病し郡山帰城後没した。教学に励み、謡曲、茶の湯にも秀でており、刀剣、能面、謡本、茶器などの遺品も多く残された。

筒井城之介【つついじょうのすけ(15??~15??)】

筒井順昭の三男。

筒井定次【つついさだつぐ(1562~1615)】

慈明寺順国の男。筒井順慶の養子。官途は伊賀守。通称藤四郎。室は織田信長の娘(秀子)。1584年、人質として大坂城にあり、羽柴秀吉に仕えて「小牧、長久手の役」に参陣した。筒井順慶の病没後、筒井家の家督を相続して郡山城主となった。1585年「四国征伐」に参陣して伊賀国上野城200,000石に転封になった。1590年「小田原の役」に参陣した。1592年「文禄の役」では肥前名護屋に在陣した。1592年、ヴァリニャーノを通じてキリスト教に受洗を受けた。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属したが、上野城は石田三成勢により落城した。役後、大坂方の大野治長と誼を通じるなどしていた。1608年、キリシタン信仰や家臣の内紛もあり、中坊秀祐の讒によって改易され、陸奥岩城の鳥居忠政に預けられた。1615年「大坂夏の陣」後に嫡男筒井順定と共に自刃した。
 
筒井順定【つついじゅんてい(1601~1615)】

筒井定次の男。通称は藤太郎。1608年、父筒井定次が改易されると、父筒井定次と共に磐城平城主鳥居忠政のもとに預けられた。1615年「大坂冬の陣」において、羽柴秀頼と内通したという罪により、父筒井定次と共に自刃させられた。

筒井紀伊守【つついきいのかみ(15??~1610)】

筒井城之介の男。松平元康に仕えた。

筒井新兵衛【つついしんべい(15??~15??)】

筒井順慶の男。母は南石蛸助の娘。

唐院秀満【とういんひでみつ(15??~15??)】

広瀬郡唐院城主。箸尾高春家臣。松永久秀に属した。1577年。松永久秀と共に討死した。

唐古与三郎【とうこよさぶろう(15??~15??)】

広瀬郡唐古城主。箸尾高春家臣。枝連衆の唐古東家および唐古南家は長谷川党に属した。

十市遠治【とおいちとおはる(15??~1534)】

十市郡十市城主。十市遠相の次男。通称新次郎。興福寺大乗院領の荘官として国判衆のひとり。1491年、父十市遠相が病没後、十市家の家督を相続した。1497年、越智家栄、越智家令父子と「壺阪寺で戦い」撃破して大和国に復帰した。1505年、春日社頭で大和国人衆が和睦、筒井順賢、布施、箸尾為国と共に越智家令らと和睦して国人一揆を結成した。1506年、細川政元の家臣赤沢朝経が古市澄胤の協力のもと大和国へ侵攻、十市遠治は敗北して他の国人衆と共に没落した。1507年「永正の錯乱」で、細川政元が謀殺され、赤沢朝経も丹後国で討死すると、大和国の細川家勢を
駆逐して本拠地へ戻った。細川澄元の家臣赤沢長経が再び大和国に侵攻した。大和国人衆は、畠山尚順、畠山義英らと連繋をとって細川澄元勢と戦ったが、国人衆はことごとく没落した。1508年、足利義稙の上洛で細川澄元と畠山尚順、畠山義英らが再度分裂、足利義稙と足利義澄、細川澄元、畠山義英との内乱が勃発。十市遠治は筒井順賢らと共に足利義稙、細川高国、畠山尚順方となって戦った。赤沢長経と古市澄胤が畠山尚順に敗れて自刃した。

十市遠忠【とおちとおただ(15??~1546)】

十市遠治の男。室は筒井順興の娘。1533年、十市遠治の病没により十市家の家督を相続した。大和国十市郡、城上郡、山辺郡に勢力を持ち、馬上六十騎を率いた。木沢長政と結ぶ筒井順昭と連年抗争を続けた。1540年、筒井順昭と和睦し、有力な家臣となった。1542年、木沢長政が討死すると筒井順昭に属して勢力をさらに拡大し、十市遠忠は木沢長政領に侵攻、楊本城や福智城などを攻め落とした。1544年、筒井順昭の柳生攻めに協力するため兵300余りを派遣した。和歌、書に長じ、公家衆とも親交が深かった。

十市遠勝【とおちとおかつ(15??~1569)】
 
十市遠忠の男。1545年、父十市遠忠の病没により十市家の家督を相続して十市城主となった。1559年、松永久秀が大和国に侵攻すると、松永久秀に降った。1565年、筒井順慶は三好三人衆と結んで松永久秀と敵対した。1562年、畠山高政に属して三好義賢を「久米田の戦い」で破って、高屋城を奪取した。続く「教興寺の戦い」にも参陣するが敗れて湯川直光らが討死した。松永久秀に降り、娘のおなへ(御料)と家臣大木重介の子息を人質として降伏した。1567年、東大寺大仏殿の戦いを切っ掛けに三好三人衆と松永久秀が対立し、十市遠勝は三好家に属したため、家中が内部分裂した。1568年、森屋城の秋山直国を攻略した。今井の河合清長の居宅で三好三人衆の三好長逸、篠原長房と誓紙を取り交わした。松永久秀に通じた秋山直国の攻撃を受け龍王山城から十市城へ退去した。箸尾高春も松永久秀に鞍替えして、秋山直国と共に筒井順慶と十市遠勝を攻撃した。十市衆が守備に入っていた大西城落城、森本主水介、中井才三郎などが討死した。十市遠勝も遂にその勢いに対抗し切れず、再度松永久秀に内応することにいたった。1569年、十市遠勝が病没すると、親松永派(十市後室、おなへ、河合清長、伊丹源二郎、田中源一郎、川嶋藤五郎、上田源八郎、森本喜三) と親筒井派(一族の十市常陸介遠長)に分裂した。

十市遠長【とおちとおなが(15??~1593)】

十市遠忠の次男。官途は常陸介。1569年、兄十市遠勝の病没後、十市家の家督を相続した。筒井順慶と同盟を結び、織田信長に仕えた。1572年、河合清長の館に居た十市後室、おなへ(御料)は、松永久秀方の柳本城に移った。柳本城では、森本左京は自刃し、伊丹源二郎、森本喜三は捕縛された。1574年、九条城を攻撃、次いで内膳城を攻撃して城主藤田左近を討取った。森屋家と筒井順慶との三家同盟を成立させた。1575年、織田信長から離反すると、松永久通から攻撃を受け十市城を失い、筒井順慶に仕えた。1577年、織田信長に謀反した松永久秀、松永久通が討死しすると、嫁いでいた姪のおなへが実家に戻ってくると、おなへは十市家の家督を主張して、筒井家の縁戚布施家より婿養子十市藤政を迎え、十市宗家の家督を相続させた。十市遠長との家督争いに発展した。1584年、筒井順慶が病没して、筒井定次が家督を継ぐと役を辞して帰農した。

十市藤政【とおちふじまさ(15??~15??)】

十市遠勝の婿養子。通称は次郎。室は十市遠勝の娘(おなへ)。布施家の出身で十市遠長が筒井順慶との密接な関係を結んだことで十市遠勝の娘との婚姻を成立させたが、この事が十市家の督騒動に発展し、家中は分裂して争った。1584年、筒井順慶が病没して、筒井定次が筒井家の家督を相続するとこれに仕えるが伯父十市遠長は辞して筒井家を去った。1592年「文禄、慶長の役」では、筒井定次が参陣し、十市藤政は留守居役を務めた。1608年、筒井定次が改易されると十市藤政も職を辞して帰農した。

十市藤満【とおちふじみつ(1582~15??)】

十市藤政の男。

十市忠之【とおちただゆき(15??~15??)】

十市遠益の男。十市遠長の養子。官途は縫殿助。十市遠長の養子となり、十市城主となった。1585年、筒井定次は伊賀国転封となるが、十市忠之は大和国に残って羽柴秀長に仕えて3,000石を領した。1594年、羽柴秀保の死により主家が断絶すると浪人した。1615年「大坂夏の陣」では、弟十市忠次は討死したが十市忠之は落延びた。

十市忠次【とおちただつぐ(15??~1615)】

十市遠益の次男。十市遠長の養子。1614年「大坂冬の陣」が起こると、兄十市忠之と共に大坂城に入城した。1615年、兄十市忠之と共に長宗我部盛親の組に属し、八尾で藤堂高虎勢と戦い痛撃を与えるが、撤退中に壊滅的打撃を被った。その際、十市忠次は討死した。

鞆田重順【ともたしげじゅん(15??~15??)】

鞆田城主。古市家臣。都祁水分神社の神主職にあった在地土豪で、大乗院門跡坊人で国民であった。山内七庄(鞆田、無山、小山戸、藺生、水涌、南殿、向淵、針)の代官を務めた。1563年、鞆田重順が立願し年預を勤めて鞆田の邸宅で千句連歌会を開催した。

鞆田重純【ともたしげずみ(15??~1615)】

鞆田重順の男。1615年「大坂夏の陣」に参陣して平野表で討死した。

豊井権助【とよいごんすけ(15??~1570)】

山辺郡豊井城主。興福寺一乗院門跡坊人のひとり。1506年、筒井順賢の属して、赤沢朝経勢と戦ったが「豊井の戦い」で、豊井藤鶴をはじめ豊井辰巳ら枝連衆の多数が討死した。松永久秀が大和国に侵攻すると筒井順慶に属して戦った。1570年「郡山の戦い」では、豊井権助が討死した。

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【な】

中井正吉【なかいまさよし(1533~1609)】

法隆寺番匠(宮大工)。通称孫太夫。1583年、片桐且元に請われ大坂城の築城に協力した。1598年、方広寺大仏殿の作事で大和の大工を束ねる司を務めた。

中井正清【なかいまさきよ(1565~1619)】

中井正吉の男。官途は大和守。通称藤右衛門。法隆寺番匠で、法隆寺の屋根に上がるため殿上人でなければならず代々官位を得た。1588年、松平元康に仕えた。1600年「関ヶ原の役」に参陣した。1614年「大坂の両陣」にも参陣した。中井正清は土木に優れ、禁裏造営、駿府城天守普請、京都方広寺大仏殿再建、名古屋城普請、江戸城普請、二条城普請、知恩院、江戸の町割り、増上寺、内裏、日光東照宮、久能山東照宮などを手がけた。

長柄休斎【ながえきゅうさい(15??~15??)】

山辺郡長柄城主。興福寺大乗院門跡坊人、衆徒に列した。1568年、松永久秀勢の箸尾為綱の攻撃を受け、長柄城は落城、枝連衆の多数が討死した。1575年、織田信長勢の柴田勝家が十市家に命じて長柄城を接収した後は、十市郷侍衆に追われて逐電、滅亡した。

永原与次郎【ながはらよじろう(15??~15??)】

永原城主。大和武士団においては散在党に属した。八條藤政に布留神領七町を売却した。

中坊盛祐【なかのぼうもりすけ(15??~15??)】

筒井家臣。中坊秀友の男。官途は讃岐守。中坊家は菅原道真の後裔柳生永珍の弟が山城国笠置寺の宗徒となって中坊家を称したことに始まる一族。奈良家と称した。1527年、父中坊秀友は足利義晴に仕え、春日大社造営の奉行を務めた。1547年、奈良の奉行を務めた。

中坊秀国【なかのぼうひでくに(1542~1560)】

中坊盛祐の男。1560年「京都本国寺の戦い」で、和田惟政を討取る寸前で和田惟政の家臣恩地小太郎に討たれた。

中坊秀祐【なかのぼう ひですけ(1551~1609)】

中坊盛祐の次男。官途は飛騨守。吉野郡で3,500石を領した。1580年、春日大社造営の奉行を務めた。筒井定次に仕えたが寵愛され、専横を振るようになった。さらに島清興と常に対立し、筒井定次に対して島清興を讒言し、筒井家から追放に追い込んだ。1608年、駿府城の松平元康に対して筒井定次の不行状を訴えたが、これが原因で筒井定次は改易に追い込まれた。筒井家改易後に幕臣として取り立てられ、奈良奉行に任じられ、大和国、近江国の直轄領を支配した。1609年、筒井家の旧臣が雇い入れた忍び衆に謀殺された。

中坊秀政【なかぼうひでまさ(15??~15??)】

中坊秀祐の男。官途は飛騨守。松平元康に見出されて弓持旗本から累進し、父中坊秀祐の没後に同じく奈良奉行を勤めた。

楢原遠治【ならはらとうはる(15??~15??)】

楢原城主。興福寺大乗院方の国民。楢原城30,000石を領した。1505年、赤沢朝経、赤沢長経らの大和国侵入に対しては大和国国人一揆に連判して抵抗した。

楢原光之【ならはらみつ(15??~15??)】

楢原遠治の男。筒井順昭に仕えた。

楢原俊久【ならはらとしひさ(15??~15??)】

楢原光之の男。官途は周防守。筒井順昭、筒井順慶の二代に仕えた。筒井定次の伊賀国転封には同行せず、伊賀国で帰農した。

仁興英勝【にごうえいかつ(15??~15??)】

山辺郡仁興城主。1505年、赤沢朝経の大和国侵攻に際しては筒井順賢に属した。

西田井則秀【にしたいのりひで(15??~15??)】

西田井城主。万歳家枝連衆。万歳郷における所領は万歳家に次いで二番目であった。

丹生谷金兵衛【にぶやきんべい(15??~15??)】

芳野清兼家臣。宇陀郡七人衆のひとり。

野原頼勢【のはららいせい(15??~15??)】

宇智郡野原城主。1558年「郡内一揆」においては、野原頼勢が国人衆の一員として連判状に署名した。

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【は】

箸尾為政【はしおためまさ(15??~1546)】
 
北葛城郡箸尾城主。箸尾為高の男。通称次郎。1546年、大和国の支配権を巡って、筒井順昭と争ったが、薪能に参加したところを筒井順昭の宿坊で謀殺された。箸尾為政を謀殺した筒井順昭は、越智家広の貝吹城を攻め、さらに十市遠忠の城をせめ陥落させ、大和国の覇者たる威勢を示した。1547年、箸尾城も破却された。

箸尾高春【はしおたかはる(1546~1615)】

箸尾為高の次男。官途は宮内少輔。別名箸尾為綱。室は筒井順昭の娘。継室に筒井順慶の養女(布施の娘)。筒井順慶と戦ったが、後に筒井順昭の娘を室として迎えて和睦した。筒井順慶に仕えて25,000石を領し、寄騎衆(布施、万財、南郷、東院、寺田、唐院)を含めて40,000石を収めた。1580年、織田信長が筒井順慶に大和国を任せるとそれに従った。筒井定次が伊賀国に転封されると、それに従わず、大和国に入ってきた羽柴秀長に仕えた。羽柴秀長が病没すると羽柴秀保にも仕えたが、羽柴秀保が病没すると羽柴秀吉に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、筒井定次の高取城を攻撃したが役後に改易された。1614年「大坂冬の陣」直前に大野治房の誘いを受けて筒井家の旧臣を糾合して、大坂城に入城し、大野治長配下として奮戦した。1615年「大坂夏の陣」で討死した。

八条藤政【はちじょうふじまさ(15??~15??)】

筒井順昭家臣。筒井家老職。福住宗職と共に筒井順昭に仕えた。

八田遠勝【はったとうかつ(15??~15??)】

八田城主。大乗院門跡坊人で国民ひとり。春日若宮祭礼には長谷川党の一員として参列していた。十市遠清の弟十市遠勝を養子に迎えて枝連衆に加わったが、十市家が国民であったために八田家も国民に転じた。

花内式部【はなうちしきぶ(15??~15??)】

北花内城主。布施行政家臣。

丹生文右衛門【はにゅうぶんざえもん(15??~15??)】

丹生城主。丹生神社の神主職を務めた。

吐山光政【はやまみつまさ(15??~15??)】

都祁城主。興福寺衆徒筆頭にして水分宮神職の鞆田家、来迎寺大檀乙として多田荘より進出を目論む多田家、そして吐山家の三大勢力が鼎立した。1559年、松永久秀が大和国に侵攻すると、吐山光政は松永久秀に属した。1571年、松永久秀が没落しはじめると、松永家に属していた郡山城付城にて離反、共に詰めていた簀川助貞を討ちとるかたちで松永久秀を裏切った。

吐山七郎【はやましちろう(15??~1576)】

吐山光政家臣。1576年「石山本願寺城の戦い」では、枝連衆の中で剛の者とされた吐山七郎が討死した。 

飯田基直【はんだもとなお(1494~1561)】

筒井順興家臣。

飯田頼直【はんだよりなお(15??~15??)】

飯田基直の男。官途は出羽守。室は筒井順興の娘。松永久秀の筒井家乗っ取りの提案を拒否したため筒井順昭の信頼を獲得した。

飯田直宗【はんだなおむね(15??~15??)】

飯田頼直の男。室は飯田基次の娘。父の弟飯田基次の婿となり、寄騎衆と合わせて20,000石を領した。

吐田遠光【はんだとおみつ(15??~15??)】

吐田城主。興福寺一乗院門跡坊人で国民のひとり。大和武士団では葛上党に属した。1505年、赤沢朝経勢の侵入に対して結成された大和国国人一揆に吐田遠光も参加し国判衆十二氏に連なった。

吐田遠隆【はんだとうたか(15??~15??)】

吐田遠光の男。1567年、吐田郷に侵入した河内畠山家を撃退した。しかし筒井順慶の代になるとこれから離反した。1581年、筒井順慶によって郡山城で自刃されられ、その所領は島清興に与えられた。弟吐田栄順房も放火の罪で追われて自刃、吐田家は滅亡した。



番條懐盛【ばんじょうちかもり(15??~15??)】

高市郡北ノ(番條)城主。興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。越智広長に属したが、筒井順昭が大和国の北部を勢力下に治める頃には、興福寺六方衆の大方が筒井順昭に属するようになった。1559年、松永久秀の大和国侵入時には、筒井順慶に属して松永久秀勢に抵抗したが北ノ城は落城した。番条懐盛は近隣の丹後庄家、小泉家、横田家らと連携しながら東山内に後退して抵抗を続け、福住宗職、山田順貞ら筒井家内衆に従って幼い筒井順慶を護り続けた。1571年、筒井順慶の反攻作戦に参陣して番條懐盛は城を奪還した。

番條懐慶【ばんじょうちかよし(15??~15??)】
 
番條懐盛の男。通称五郎。1571年、番條懐盛が忠義を尽くした筒井順慶が大和国に復帰すると、番條懐盛も北ノ城を回復した。筒井順慶は、後継者として番条懐慶を指名したが、番条懐慶が辞退したため、筒井順慶の叔父慈明寺順国の嫡男、筒井定次が後継者となった。

稗田兵蔵【ひえたひょうへい(15??~15??)】

稗田城主。筒井順慶家臣。

檜牧静秀【ひのまきしゅんしゅう(15??~15??)】

宇陀郡檜牧城主。沢房満の枝連衆。「宇陀七人衆」のひとり。式内御井神社の神官を務めた。1554年、沢房満の陣代を務めた。1560年、松永久秀の侵攻により檜牧城を開城させられた。

広瀬左近【ひろせさこん(15??~15??)】

広瀬郡広瀬館主。広瀬神社の神官職。

平等坊休可【びょうどうぼうきゅうか(15??~1506)】

山辺郡平等坊城主。興福寺一乗院門跡坊人、衆徒に列した。1506年、筒井順賢の属して、赤沢朝経勢との「豊井の戦い」で討死した。

笛堂善五郎【ふえどうぜんごろう(15??~15??)】

笛堂城主。布施行政の枝連衆。

深川宗重【ふかがわむねしげ(15??~15??)】

下深川城主。興福寺大乗院領上深川荘の代官を務めた。

福智堂宗閑【ふくちどうそうかん(15??~15??)】

山辺郡福智堂城主。興福寺大乗院門跡坊人、衆徒のひとり。1568年、松永久秀に降伏した。

福住宗職【ふくずみむねもと(15??~15??)】

福住城主。筒井家老職。官途は紀伊守。別名福須美宗職。筒井順昭時代から家政に携わった。

福住順弘【ふくずみとしひろ(15??~15??)】

筒井順興の次男。福住宗職の養子。室は筒井順昭の娘。1582年「本能寺の変」後、明智光秀に加勢するかを筒井順慶と共に話し合った。

福住慶之【ふくずみじょうけい(1556~1615)】

福住順弘の次男。筒井順慶の養子。別名筒井定慶。筒井順慶死後、後継した筒井定次は伊賀国上野城へ転封され、福住定慶は大和国に残って新たに郡山城主となった羽柴秀長に仕えた。羽柴秀長が病没すると、松平元康に仕えた。1608年、筒井定次が改易されると筒井家の家督を相続して、郡山城の城番として10,000石を領した。1615年「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼勢の大野治房が来襲、郡山城を包囲し城下街に放火した。大野勢が2,000余だったのに対し福住定慶の手勢は僅か36騎余りで、福住定慶は城を放棄した。戦後それを恥じて自刃した。

福住順斎【ふくずみじゅんさい(15??~15??)】

福住順弘の三男。筒井順慶の養子。官途は紀伊守。兄福住定慶や弟福住慶之と同じく従兄に当たる筒井順慶の養子になるが、跡を継ぐことはなかった。1608年、後継の従兄筒井定次が改易されると、兄福住定慶が筒井家の家督を相続して、郡山城の城番として10,000石を領した。1615年「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼勢の大野治房が来襲、郡山城を包囲し城下街に放火した。大野勢が2,000余だったのに対し福住定慶の手勢は僅か36騎余りで、兄福住定慶は城を放棄した。戦後それを恥じて兄福住定慶と弟福住慶之は自刃した。福住順斎は松平元康の馬廻衆として筒井家を存続させた。

福住慶之【ふくずみよしゆき(15??~1615)】

福住順弘の三男。筒井順慶の養子。官途は紀伊守。筒井順慶の養子となるが、筒井順慶死後の跡は同じく養子で従兄の筒井定次が継いだ。1608年、筒井定次が改易されると筒井家の家督を相続して、郡山城の城番として10,000石を領した。1615年「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼勢の大野治房が来襲、郡山城を包囲し城下街に放火した。大野勢が2,000余だったのに対し福住定慶の手勢は僅か36騎余りで、福住定慶は城を放棄した。戦後それを恥じて兄福住慶之と共に自刃した。

藤井広英【ふじいひろひで(15??~15??)】

城上郡藤井城主。十市家臣。

藤原道順【ふじわらみちじゅん(15??~15??)】

藤原城主。古市党の寄騎衆として筒井家との対立を続けた。古市澄胤の活躍期には縁戚関係もあったが、古市澄胤の衰退にともなって、筒井順興に属した。

布施行政【ふせゆきまさ(15??~15??)】

葛下郡布施城主。官途は安芸守。興福寺一乗院国民のひとりで布施城22,000石を領した。布施家は、平田荘の荘官より成長した有力国人で、西山内においては楢原家と並ぶ筒井家党の雄で勢力を伸張した。1505年、赤沢朝経勢の侵入に対して結成された大和国国人一揆に布施国行も参加し国判衆十二氏に連なった。筒井家の大和統一に少なからぬ力を尽くした。

布施行盛【ふせゆきもり(15??~1577)】

布施国行の男。通称左京進。室は筒井順昭の娘。筒井順慶が最も愛したと思われる側室松姫は布施家の出身で、筒井順慶の病没後は出家剃髪した。1565年、松永久秀に急襲を受けて筒井城を失陥した筒井順慶を布施城に迎えた。その後、松永久秀に属した高田当次郎を攻撃した。このため、松永久秀が布施行盛から取っていた人質は串刺しになった。筒井順慶は三好三人衆と結び、筒井城を奪還した。布施行盛はこの間、高田城を包囲してその活動を封じ込めた。1568年、織田信長に属した松永久秀によって、筒井順慶はまたも筒井城を追われ、福住城に落延びた。1571年、筒井順慶が辰市城で松永久秀を破ると、布施行盛は松永久秀に属した高田当次郎の出城を攻略した。この戦いを境に高田氏は没落の一途をたどっていった。1577年、孫布施行国により自刃に追い込まれた。

布施行忠【ふせゆきただ(15??~15??)】

布施行盛の男。

布施行国【ふせゆきくに(15??~15??)】

布施行忠の男。通称弥七。1577年、祖父布施行盛を謀殺した。

二見左衛門大夫【ふたみさもんだいぐ(15??~15??)】

宇智郡合部山城主。宇智郡豊井荘の二見郷を本拠とした豪族衆。1532年、河内国守護代木沢長政に属し、宇智郡の豪族衆を率いて参陣した。木沢長政は、畠山義英を謀殺すると、大和国に侵攻して信貴山城を築城した。二見左衛門大夫は、木沢長政に属して、宇智郡の豪族衆を率いて参陣した。1542年、木沢長政が討死すると、畠山尚順に転じて本領安堵を受けた。

二見光重【ふたみみつしげ(15??~15??)】

二見左衛門大夫の男。官途は左京亮。1557年、宇智郡では打ち続く戦乱のなかで困窮した農民層を代表する地侍衆が連判して、 国衆宛に要求書を出した。対する二見光重ら国人衆たちも抗争をやめ大同団結して「宇智郡惣一揆」を結んだ。1568年、足利義昭を奉じて織田信長が上洛すると、大和国は松永久秀は与えらえれると二見光重は、三好康長に属して、高野山勢力と結んで織田信長方の坂合部城を攻略した。

古市公胤【ふるいちきみたね(15??~15??)】

古市城主。古市澄胤の次男。1508年、細川澄元は家臣赤沢長経と共にに河内国高屋城主の畠山尚順を攻めたが敗れ自刃、その際、父古市澄胤、兄古市胤盛が討死した。1520年、筒井順興の攻撃を受け古市公胤方の油山城が落城すると、古市家内衆の井上九郎らが筒井順興に寝返った。その後も、古市公胤は勢力を挽回できず、鉢伏城を本拠とした。筒井順昭に属したのち、松永久秀に従った。松永久秀が滅亡すると古市家も滅亡した。

別所宗久【べっそむねひさ(15??~15??)】

山辺郡別所城主。官途は対馬守。山田家の庶家。

法貴寺丹波守【ほうきじたんばのかみ(15??~15??)】

城下郡法貴寺城主。法貴寺党。興福寺大乗院門跡寄所荘園を管轄して法貴寺の住職を兼ねた。

宝来春竹【ほうらいはるたけ(15??~15??)】

宝来ノ城主。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。1559年、松永久秀の大和国侵攻にも宝来春竹が抗戦し、城に攻め寄せられて落城している。

細井戸左近【ほそいどさこん(15??~15??)】

北葛城郡細井戸城。通称三郎。一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。筒井家党として戦功を挙げ、越智家広や松永久秀らと度々戦を繰り広げた。1543年、越智家広方の万歳則盛の攻撃を撃退した。万歳則盛が和議を申し入れ、唐物茶碗「大海」を進物としましたが細井戸左近は万歳則盛の下心を疑い「大海」のみ受け取って和議を拒否、再びた戦に発展した。この事態を世間では「あさましや 世はさかさまに なりにけり ほそ井の中ゐ おつる大海」と嘲笑った。松永久秀の大和国侵攻により、箸尾高春が松永久秀に属したため、細井戸左近は箸尾高春との対立抗争にも入り、箸尾高春からの攻撃を何度も受けた。1561年、箸尾高春は細井戸城に攻め寄せましたが撃退した。1565年「高田川の戦い」では、箸尾師長を撃退した。1570年、箸尾高春によって細井戸城は落城、細井戸家の精鋭はこのとき多くが討死した。筒井順慶方は反攻に出て布施行盛の家臣高階高久が万歳則盛の応援を得てこれを奪回、これに箸尾高惟が攻め寄せましたが討死した。続いて箸尾高春が攻め寄せるといった戦いを繰りげた。

堀内市之助【ほりうちいちのすけ(15??~15??)】

吉野郡龍王城主。秋津家とは縁戚関係にあった。秋津守政が枝連衆の秋津守信に攻められて討死した際は、その所領を受け継いだ。1578年、筒井順慶の下市攻撃に際して籠城防戦したが落城した。

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【ま】

松倉政秀【まつくらまさひで(15??~15??)】

添上郡横田館主。通称弥七郎。島清興、森好之と共に筒井家の三家老と称された。筒井順昭、筒井順慶の二代に仕えた。1553年、春日大社に灯籠を寄進した。

松倉重信【まつくらしげのぶ(1538~1593)】

松倉政秀の次男。通称権左衛門。官途は右近大夫。島清興と並んで筒井家の両翼と目され、「右近左近」と称された。また森好之も加えて「筒井家の三家老」とも称された。筒井順慶に仕えて2,500石を領した。主に内政、外交を担した。1582年「本能寺の変」では、筒井順慶へ有名な「洞ヶ峠の日和見」の献策をした。1585年、筒井定次が伊賀国上野城に転封されるとこれに従い、伊賀国名張城8,300石を領した。

松倉重政【まつくらしげまさ(15??~1630)】

松倉重信の男。官途は豊後守。通称九十郎。室は筒井定慶の娘。筒井定次に仕えて伊賀梁瀬城主。1600年「関ヶ原役」では、松平元康勢に属して大和国五条城10,000石を領した。1614年「大坂両の陣」に参陣して、肥前国島原城40,000石を領した。松平秀康に従って切支丹弾圧を推し進めた。幕閣に接近を図って領民に重税を課して献金、島原城を築城し、領内に圧政を敷いた。千々石村の和田四郎左衛門義長の訴えにより、海風による塩害を防ぐために千々石海岸に堤防を築き松を植えさせた。1630年「呂宋征伐」を進言するが、実行に至らず病没した。

松倉勝家【まつくらかついえ(1597~1638)】

松倉重政の男。官途は長門守。1630年、松倉家の家督を継ぎ島原城主となった。父同様領民に重税を強い、苛政を行い、切支丹弾圧に傾注したため切支丹一揆を誘発した。1637年「島原の乱」を引き起こした。江戸にあった松倉勝家は急遽島原に戻って鎮圧勢に加わり、原城を落とすものの改易され、美作国に配流されて森長継預かりとなり、のち領内の一揆を招いた罪を問われて斬首された。

松蔵弥八郎【まつくらよはちろう(15??~15??)】

筒井順慶家臣。1581年「第二次天正伊賀の乱」に枝連衆の松蔵弥二郎と共に参陣しがた、負傷した。他に中村九郎三郎らも負傷した。

万歳則盛【まんざいのりもり(15??~15??)】

葛下郡万歳平城。興福寺一乗院門跡坊人で国民のひとり。枝連衆には、万歳南、万歳北、万歳西らがおり、家臣として岡崎、奥、田中らがいた。1505年、大和国判衆十二氏に万歳則定が加わり、赤沢朝経および赤沢長経の侵攻を万歳城にて迎え撃った。1518年、河内遊佐長教から攻撃を受けた。

万歳則定【まんざいのりさだ(15??~15??)】

万歳則盛の男。1562年、松永久秀が大和国に侵攻すると一度は降るが、まもなく筒井順慶に帰属して松永久秀に対抗、三度まで万歳城に攻め寄せられたが死守した。1568年、松永久秀に万歳郷を焼かれた。その後は筒井順慶の家臣として織田信長に仕えた。1582年「武田家征伐」に参陣した。大和国八人衆の一人に連なり、名物茶器「万歳大海」を所持したことでも知られた。

三ヶ谷肥後守【みかたにひごのかみ(15??~15??)】

山辺郡三ヶ谷城主。三ヶ谷家は大乗院門跡坊人で国民であり、筒井家に属して越智家と戦った。都祁地域の小倉家寄騎衆。

森野図書【もりのずしょ(15??~15??)】

小川弘茂家臣。小川家の家臣として宇陀郡の小川家領を任された。

森好之【もりよしゆき(1518~1581)】

筒井順興家臣。官途は志摩守。室は筒井順興の娘。島清興、松倉重信と並んで「筒井家の三家老」と称された。 森本城に7,000石を領した。

森好高【もりよしたか(15??~15??)】

森好之の男。官途は縫殿助。通称九兵衛。室は松倉重信の娘。1581年、父森好之の病没により森家の家督を相続した。筒井定次の移封により伊賀国に従った。1587年、伊賀国を去り南都傳香寺に遊居と伝える。

森好久【もりよしひさ(1538~1582)】

森好高の従兄弟。官途は隼人佐。通称傳助。室は小泉四郎左衛門秀元の妹。2,000石を領した。1577年、織田信長による「信貴山城の戦い」の際、松永久秀勢に潜入して筒井家の軍勢を城内に手引きした。

森家臣団【もりけかしんだん】

森好武、森好頼。

諸木野弥三郎【もろぎのよさぶろう(15??~15??)】

秋山直国家臣。1569年「大河内城の戦い」では、大河内城に籠城した。諸木野弥三郎は大弓を持って敵味方の見物する中、弓を射て4~5町先にいる大木の上の男の喉もとを射抜きました。これを見ていた織田信長は「見事な腕である」と大いに驚き、て諸木野の射た矢に引出物を添えて城中に返還した。

桃谷与次郎【ももたによじろう(15??~15??)】

筒井定次家臣。1600年、伊賀国の忍び衆服部平七郎を雇い、中坊秀祐を謀殺した。
 
木阿弥【もくあみ(15??~15??)】

盲目の僧侶。別名黙阿弥。1551年、筒井順昭が没すると風貌が良く似ていたため、筒井順昭の影武者を務めた。筒井家が体勢を立て直し筒井順昭の病没を公表。筒井順慶を正式に当主とした。木阿弥は任を解かれ奈良に帰り「元の木阿弥」に戻った。

目安祐弘【めやすすけひろ(15??~15??)】

生駒郡目安館主。片岡重順家臣。1561年、松永久秀の攻撃を受け小泉城は落城、城主小泉重順をはじめ市原正弘、丹後庄舜英房、龍田道春、小南政祐、目安祐弘など十七人が自刃した。

道穂五郎【みちほごろう(15??~15??)】

北道穂館主。布施家臣。

持田藤七郎【もちだとうしちろう(15??~15??)】

小殿城主。吐田家臣。

室遠光【むろとおみつ(15??~15??)】

室城主。吐田家枝連衆。

邑地藤五郎【むらちとうごろう(15??~15??)】

邑地城主。古市家臣。

箕輪宗慶【みのわむね(15??~15??)】

山辺郡箕輪城主。

水間春澄【みずまはるずみ(15??~15??)】

山辺郡水間城主。山田家寄騎衆のひとりで、春日若宮祭礼にも戌亥脇党の一員として参陣した。

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【や】

柳生家厳【やぎゅういえよし(1497~1585)】

添上郡柳生城主。柳生重永の男。柳生家は、平安期に摂関家領の神戸四ヶ郷(大柳生、小柳生、阪原、邑地)のうちの小柳生荘の荘官となった大膳永家の庶流。1536年、畠山家臣木沢長政が信貴山に城を構え、大和国に侵攻した。柳生家厳は木沢長政に属して、筒井順興や二木民部少輔らと戦った。1542年、木沢長政は管領細川晴元、三好長慶と対立し「河内太平寺の戦い」で討死すると、筒井順昭は木沢残党を次々と攻略し、柳生家厳の居城である柳生城も攻撃を受けた。柳生家厳は筒井順昭に降伏、臣従し家名の存続を図った。その後大和国に松永久秀が侵攻すると松永久秀に寝返り「大和国攻略戦」に戦功を挙げた。その後、三好長慶が病没すると松永久秀と対立した三好家三人衆や筒井順昭らが戦うと、柳生家厳は松永久秀方に属した。松永久秀が織田信長に属して大和国に攻めこんだときにも松永久秀に属して筒井順慶を攻めた。

柳生宗厳【やぎゅうむねとし(1529~1606)】

柳生家厳の男。通称新左衛門。室は奥原助豊の娘(鍋姫)。別名石舟斎。

柳生家は14世紀ごろから代々大和の柳生の庄一帯を治める小領主であったが,宗厳はそのなかで戦国期の辛酸を最も多くなめている。36歳で上泉信綱に邂逅する以前の宗厳は,新当流その他の武芸を完全に修め,すでに兵法者としての名声は五畿内に高かったという。永禄6(1563)年,奈良宝蔵院で回遊中の信綱と立ち会い,その神技に感動して直ちに入門した。信綱から新陰流の印可状を与えられたのは,それからわずか2年後の永禄8年,翌9年には公案の「無刀取り」を師に示して,あまたいる門弟中ただひとり影目録3巻を授けられている。文禄3(1594)年,京都で5男宗矩と共に徳川家康に刀法を披露し,宗矩はこれをきっかけに徳川家に仕えることになる。晩年は石舟斎と号して柳生谷に隠棲した。

柳生厳勝【やぎゅうとしかず(1551~1616)】

柳生宗厳の男。1571年「辰市の戦い」で松永久秀に属して戦ったが、鉄砲で撃たれて半身不随となり隠退した。

柳生久斎【やぎゅうきゅうさい(15??~1605)】

柳生宗厳の次男。幼少時に出家した。

柳生徳斎【やぎゅうとくさい(15??~1624)】

柳生宗厳の三男。幼少時に出家した。

柳生宗章【やぎゅうむねあき(1566~1603)】

柳生宗厳の四男。通称五郎右衛門。1594年、弟柳生宗矩と共に松平元康に召されたが仕官せず、武者修行の末に小早川秀秋に召抱えられた。1600年「関ヶ原の役」では、小早川秀秋に近侍して警護の任にあたった。その後小早川家が改易されると、中村一忠の執政家老横田村詮に乞われて米子藩に客将として仕えた。1603年、横田村詮の才覚を妬み出世を目論む中村一忠の側近の安井清一郎、天野宗杷らの陰謀により、城内で催された慶事において謀殺された。これに対し横田家枝連衆を支持する家臣は憤りを感じ飯山に立て篭もると、柳生宗章も横田村詮への恩義から加勢した。隣国の堀尾吉晴の助勢を得た中村一忠により鎮圧され、その際に柳生宗章は吹雪の中で数本の刀を差して敵兵十八名を討取るなど奮戦するが、最後は刀折れて壮絶な討死を遂げた。

柳生宗矩【やぎゅうむねのり(1571~1646)】

柳生宗厳の五男。官途は但馬守。通称新左衛門。室は松下之綱の娘(おりん)。松平秀忠、松平家光の兵法師範を勤めた。父柳生宗厳の推挙によって松平元康の側近となった。1600年「関ヶ原の役」に参陣して戦功を挙げた。1601年、松平秀忠、松平家光の兵法師範に任ぜられた。1615年「大坂夏の陣」で、松平秀忠を急襲した木村重成の城兵七人を切り伏せる戦功を挙げた。1632年、惣目付として10,000石を領した。父柳生宗厳が上泉信綱から相伝し,改良した柳生家の新陰流は、柳生宗矩に至って将軍家の「御流儀」となりその公開を禁じられた。著書『兵法家伝書』。

柳生利厳【やぎゅうとしよし(1579~1650)】

柳生厳勝の次男。室は島清興の娘(珠姫)。通称兵庫助。祖父柳生宗厳のもとで剣術を学んだ。また、阿多棒庵より新当流長太刀(穴沢流薙刀術)を学んで皆伝を授った。1603年、加藤清正に仕えた。肥後加藤家領内で一揆が発生し、その鎮圧にあたった際、指示に従わない古参の伊藤長門守光兼を斬り捨て、一揆を鎮圧した後に、古参の将を斬った責を取って、加藤家から逐電した。1615年、成瀬正成の推挙で松平義直に仕えた。柳生利厳は松平義直に新陰流を直伝した。その後、三十年に渡って、柳生利厳は松平義直の兵法指南役として仕えた。

 矢田伊豆守【やだいずのかみ(15??~15??)】

矢田城主。興福寺一乗院門跡で衆徒のひとり。

楊本範遠【やなぎもとのりとお(15??~15??)】

式上郡楊本城主。1546年、木沢長政の属していたが、木沢長政が討死すると、楊本城は攻撃を受け落城した。

楊本範尭【やなぎもとのりたか(15??~15??)】

楊本範遠の男。1553年、楊本範尭が公卿三条西実条を吉野詣の途中に迎えて接待した。永禄年間には十市藤政に属して反松永久秀の立場をとった。1575年、十市家の内部分裂によって松永久秀勢力に楊本城を追われた。楊本範尭は筒井順慶の支援を受けて、楊本城を奪還を図ったが失敗した。

山糟林与【やまそうりんよ(15??~15??)】

沢房満家臣。宇陀郡山糟荘に在った豪族衆で、沢房満の勢力下にあった。

山田順貞【やまだじゅんてい(15??~1573)】

添下郡山田城主。別名山田道安。武将画家。筒井家枝連衆。山田順貞の妹は筒井順昭に嫁して大方殿と呼ばれ、後の筒井順慶を生んだ。兵火に焼損した東大寺大仏の修理を成し遂げたほか、自身も絵画や彫刻をよくし、当時の大和国を代表する文化人でもあった。「鍾馗図」「臨済裁松図」は、豪放かつ枯淡な画風を示す代表作。武人画家による作画は十六世紀以降盛んにおこなわれた。

山田順清【やまだじゅんせい(15??~1569)】

山田順貞の男。室は筒井順昭の娘(筒井大方殿)。父山田順貞は筒井順慶の母方の親類。筒井順慶の妹を室とし10,000石を領した。筒井順慶の与力衆として各地を転戦した。1569年「辰市の戦い」で討死した。

山田順智【やまだじゅんとも(15??~15??)】

山田順清の男。1569年、父山田順清の討死により、山田家の家督を相続した。1582年「本能寺の変」後、明智光秀に加勢するかを筒井順慶と共に話し合った。

山田宗意【やまだそうい(15??~15??)】

山田家枝連衆。分家筋として本家をよく補佐した。

山本外記【やまもとげき(15??~15??)】

宇陀郡深野城主。北畠晴具家臣。1581年「天正伊賀の乱」に、織田信長勢に攻められ落城。落城後、山本外記の弟山本刑部は地侍となり藤堂家に仕えた。

山村清胤【やまむらきよたね(15??~15??)】

山村城主。古市澄胤家臣。官途は筑後守。興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。1497年、筒井順盛との戦いでは古市澄胤を支えたが「白毫寺の戦い」で討死した。

山陵春興【やまりょうはるおき(15??~15??)】

山陵城主。興福寺一乗院門跡坊人で国民のひとり。

結崎半蔵【ゆいざきはんぞう(15??~15??)】

磯城郡西結崎城主。延喜式内社糸井神社の神人。

横井則定【よこいのりさだ(15??~15??)】

横井城主。長井家臣。筒井家の攻勢をたびたび受けて長井家と共に早くから筒井家に属した。

横田治部【よこたじぶ(15??~15??)】

横田平城主。横田和爾下神社の神官として春日神人のひとり。筒井家の寄騎衆。

吉井常弘【よしいつねひろ(15??~15??)】

生駒郡立野城。吉井家、松岡家、上田家、東家、戌亥家等の庶家を輩出した。河内国畠山家の抗争では枝連衆が分裂して敵味方に分かれた。惣領家が畠山義就方であったのに対して分家筋の吉井常弘は畠山尚順方についた。

吉田義辰【よしだよしたつ(15??~15??)】

北葛城郡川合城主。松永久秀勢と戦った。

芳野堯円【よしのぎょうえん(15??~15??)】

宇陀郡芳野城主。官途は芳野民部大輔。1532年、宇陀郡の芳野堯円、秋山宗丹、沢房満と吉野郡小川弘茂は、宇太水分神社の神前で一揆盟約を結んだ。芳野堯円はこれを契機に東吉野地域の地侍の被官化はかり吉野郡地域への侵攻を図った。1537年、沢家麾下の守道家と合戦を行った。

芳野清兼【よしのきよかね(15??~15??)】

芳野堯円の男。官途は宮内少輔。芳野清兼は、筒井家の寄騎衆として大和国内を転戦していくことになる。「和州十五郡衆徒神人郷士」では筒井家の麾下に名を連ねて筒井家中の重臣たちと並んでいるので、芳野家が早い段階から筒井家の麾下に入っていたと考える。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻。三好軍と「教興寺の戦い」で戦功をあげた。

米谷宗慶【よねたにそうけい(15??~15??)】

米谷城主。1581年、長谷寺の「人はいさ」の梅として知られる紅梅を接ぎ木して、若宮社前に献木した。

和田喜右衛門【わだきちざえもん(15??~15??)】

松倉重政家臣。松倉重政の時に和田家に跡継ぎがなく、松倉重政の弟が養子入りして家督を継ぎ、和田喜右衛門を称した。

若槻讃岐守【わかきさぬき(15??~15??)】

若槻館主。筒井家臣。

林堂山樹【りんどうさんき(15??~1520)】

忍海郡林堂城主。永正年間に河内畠山尚順の内衆に連なって室町幕府将軍の奉書を受けた。畠山尚順の領国である紀伊国をはじめ大和国にも守護代権力を行使して畠山尚順の活動を支えた。1520年、反畠山尚順の勢力の紀伊国人衆によって紀伊広城で謀殺された。林堂山樹が没した事によって畠山尚順の大和国への影響力は後退、筒井順興、越智家広は和睦した。

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【資料Ⅰ】

大和国(9郡/480,000石)

添上郡(添上郡、山辺郡/2郡):多聞山城、柳生城、今市城、椿尾城、古市城、窪之庄城、三ヶ谷城、桐山城、奈良街、興福寺、東大寺、超昇寺、薬師寺、西大寺、元興寺、大安寺。
添下郡:大和郡山城、筒井城、片桐城、若槻城、番條城、稗田城、小泉城、矢田城。
平群郡:信貴山城、生駒城、高山城、菜畑城、吉田城、土田城、目安城、笠目城、河原城。
葛下郡:(葛下郡、広瀬郡/2郡)高田城、新庄城、河合城、王寺城、上牧城、片岡城、箸尾城、下田城。
葛上郡:(葛上郡、忍海郡、宇智郡/3郡):佐味城、御所城、松本城、葛城城、忍海城、新庄城、五條城、二見城。
吉野郡:小川城、十津川城、上市城、下市城、北山城、大淀城、秋野城、白銀城。
宇陀郡:秋山城、沢城、松山城、多田城、山辺城、平井城、曾爾城、御杖城。
磯城郡(式上郡、式下郡、十市郡/3郡):山辺城、龍王山城、藤井城、福住城、別所城、柳本城、豊田城、三輪城。
高市郡:越智城、高取城、桜井城、田原城、今井城、八木城、野口城、芝村城。

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【資料Ⅱ】

宇陀郡三人衆【うだぐんさんにんしゅう】

秋山宗丹(三人衆筆頭)、芳野清兼、沢房満。

宇陀郡七人衆【うだぐんななにんしゅう】

秋山宗丹(七人衆筆頭)、赤埴満近、井足実栄、檜牧静秀、沢房満、芳野清兼、山辺康綱。

東山内衆【ひがしやましゅう】

大和国の「東山内衆」とは、興福寺および春日神社の支配領域で、「国中衆」とは地域称であった。興福寺や春日神社の被官となって衆徒、国民に列していた武士たちの身分称。

西山内衆【にしやましゅう】

矢田丘陵の西地域。

大和国四家【やまとよんけ】

筒井順昭、越智家栄、箸尾高春、十市遠勝の四家。

興福寺六方衆【ろっぽうしゅう】

奈良興福寺の僧兵。

興福寺門徒衆【こうふくじもんとしゅう】

南都六宗、法相宗の大本山の寺院で、南都七大寺のひとつ。藤原鎌足と藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原家の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。奈良法師と称された多数の僧兵を抱え大和一国を治める実力を持つに至った。戦国時代は織田信長と同盟を結びながら、勢力を維持し続けた。宝蔵院流槍術の宝蔵院胤栄なども有名。

妙楽寺門徒衆【みようらくじもんとしゅう】

多武峰勢力。藤原家の寺院でありながら宗派の違う興福寺とは争いが絶えず、鎌倉時代から室町時代にかけて度々領地などを巡り争論を繰り広げ、多武峯妙楽寺側の十市遠勝、越智家栄は興福寺側の楢原遠治、布施行政らの軍勢と小競り合いを繰り返していた。1506年、赤沢朝経軍に対する大和国人一揆(十市遠勝、箸尾高春、越智家栄)の抵抗戦した。1559年、松永久秀に対する十市家の抵抗戦といった「多武峰の戦い」と戦乱は絶えることがなかった。1585年、羽柴秀吉により郡山城下に移すことを厳命され破却、遷座。1590年、帰山を許された。

金峯山寺門徒衆【もんとしゅう】

金峯山寺の僧兵衆。修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の二つに分かれ、本山派は天台宗系で、園城寺の円珍を開祖とした。この派は主に熊野で活動し、総本山は天台宗寺門派の聖護院。当山派は真言宗系で、聖宝を開祖とする。吉野を主な活動地とし、総本山は醍醐寺三宝院であった。金峯山寺は中興の祖である聖宝との関係で、当山派との繋がりが強かった。中世の金峯山寺は山上、山下に多くの子院をもち、多くの僧兵、その勢力は南都北嶺にも劣らないといわれた。1585年、大和国に入った羽柴秀長の武装解除要求に応じ、武具を供出した。

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【資料Ⅲ】

大和国【やまとのくに】

調査中。

奈良街【ならのまち】

奈良の町は、古代の都、平城京の外京とよばれる地域を中心に形成されました。都が京都へうつると平城京はまたたくまに荒廃してしまいましたが、京内にあった東大寺、興福寺、元興寺などの諸寺院はそのまま奈良にのこされました。のちに奈良は南都と称された。東大寺、興福寺の門前には、寺の仕事に従事するさまざまな人々が集まった。このような「街」を「郷」とよび、奈良の街は寺社の門前郷として発達した。平安時代末期、平家が勢力を強めると南都寺院と対立した。1180年、平重衡が南都を攻め、その兵火により東大寺、興福寺とともに奈良の町も大半が大きな被害をうけました。これら東大寺、興福寺などの復興は公家、武家の援助によっておこなわれ、門前の各郷も活気をとりもどしました。「南都七郷」の名がおこり、興福寺の一乗院、大乗院の両門跡郷、東大寺の転害郷なども加わり、やがて一乗院門跡郷に北市が、大乗院門跡郷に南市が開設されるようになり、商工業がますます発展していきました。戦国の争乱がおさまり、豊臣氏が政権をとると大和は豊臣秀吉の弟、秀長が領主となります。羽柴秀長は大和郡山を本拠地に井上源五高清を奈良代官に任命し、奈良椿井町の中坊屋敷を代官所として奈良の支配にあたりました。羽柴秀吉の奈良支配は、井上代官のもとに選ばれた十二の街を櫃本とし、そこから六人の街年寄が選ばれて奈良惣中を形成した。

興福寺【こうふくじ】

興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。定昭の創立した一乗院と隆禅が創立した大乗院は皇族、摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。鎌倉、室町時代の武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、鎌倉、室町幕府は大和国に守護を設置できなかった。大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。1595年、織田政権に屈した。1595年「太閤検地」では、春日社興福寺合体の知行として寺領を21,000余石と認定された。

興福寺一乗院【いちじょういん】

摂家あるいは皇族が門主を務める門跡寺院。その後、五摂家分立以降は近衛家の管領するところとなり、近衛家流(近衛家、鷹司家)の子弟が門主となることが多かった。京都御所の隣にも御里房(邸宅)があり、こちらは南都一乗院宮御里房とよばれた。中世に一乗院の属する南都の興福寺は、僧兵や衆徒も従え大和国の守護をつとめた一大武装勢力であり、比叡山の延暦寺と並び称され「南都北嶺」として恐れられた。足利義昭は、もともと近衛稙家の猶子として法名覚慶を名乗り一乗院の門跡となっていたが、兄足利義輝の謀殺にともない還俗し、織田信長の援助を得て将軍職を継いだ。大和国衆の筒井家は一乗院の衆徒の筆頭。

興福寺大乗院【だいじょういん】

九条家の管領に属し、九条流(九条家、二条家、一条家)の子弟が門主を務めることが多かった。『大乗院寺社雑事記』で著名な門主尋尊(一条兼良の子息)が出ている。また、足利義昭が将軍の地位を追われたあと、足利義昭の男が出家して法名を義尋と名乗り大乗院の門主となった。一乗院が筒井家を衆徒としたように、大乗院も古市家を衆徒とした。諸大夫以下の家司や里坊を有し、摂家、親王家と同様の格式を誇ったことは一乗院と同様であるが、親王が門主となったことはない。

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2013年10月7日月曜日

戦国南伊勢国人名事典

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【あ】

浅井石見守【あさいいわみのかみ(15??~15??)】

多気郡大杉谷館主。北畠具教家臣。  

潮田長助【あさだながすけ(15??~15??)】

四五日森(松坂)城主。潮田角助の男。北畠具教家臣。1564年、大河内城は、織田信長の家臣滝川一益と蒲生氏郷の攻撃を受けた。蒲生氏郷勢は搦手(魔虫谷)から攻撃した。手薄だった搦手から攻撃を受けた大河内城勢は、女子、子供を動員して蒲生氏郷勢の攻撃を防いだ。総崩れとなった蒲生氏郷勢は、潮田長助勢100余りの追撃を受け撤退を余儀なくされた。1569年、北畠具房は織田信長と和睦するが、潮田長助は、岸江又三郎、星合左衛門尉と共に四五日森城を築城して、織田信長勢に反旗を翻した。四五百の森は名山であり古歌にも「伊勢の国 四五百の森の時鳥 名乗り捨てたる去年の古声」と詠まれていた。これにより織田信長は伊勢南方の城をひとつも破壊することができなかった。

阿曽弾正少弼【あそだんじょうしょうゆ(15??~15??)】

一志郡丹生俣館主。波瀬家臣。1564年、大河内城は、織田信長の家臣滝川一益と蒲生氏郷の攻撃を受けた。蒲生氏郷勢は搦手(魔虫谷)から攻撃した。手薄だった搦手から攻撃を受けた大河内城勢は、女子、子供を動員して蒲生氏郷勢の攻撃を防いだ。総崩れとなった蒲生氏郷勢は、潮田長助勢100余りの追撃を受け撤退を余儀なくされた。

安保大蔵大夫【あほおおくらだいふ(15??~15??)】

北畠具教家臣。五箇篠山城主野呂越前守、野呂伊予守が討死した後、安保式部少輔、安保大蔵大夫が城主となった。1564年、織田信長勢と戦った。

天川下総守【あまかわしもつけのかみ(15??~15??)】

一志郡波瀬宇呂館主。波瀬家臣。

石丸有次【いしまるありつぐ(15??~15??)】

北畠具教家臣。中村の豪族衆。

石丸有定【いしまるありさだ(1547~1631)】

石丸有次の男。通称孫次郎。別名斎号半斎。北畠具教に従い、長野家との争い戦功を挙げた。織田信雄が北畠家に入ってからは、それに属した。1591年、織田信雄が所領を没収されて、秋田へ転住を命じられた時、これに従った。1592年、松平元康に仕えて500石を領した。

家城之清【いえきゆききよ(15??~1577)】

一志郡家城城主。北畠具教家臣。官途は主水頭。槍の名手。長野藤定が北畠家領を侵した「垂水鷺山の戦い」では、豊田五郎左衛門、垂水釈迦坊らと共に奮戦し勇名を轟かせた。1543年「垂水鷲山の戦い」に参陣した。長野藤定との戦いでも戦功を挙げた1569年、織田信長勢が大河内城主北畠具房を囲んだ際は、織田家勢の池田恒興が攻め寄せると、日置大膳亮らと共こ迎え撃ち、家城之清は槍働きで戦功を挙げた。池田恒興、丹羽長秀、稲葉良通らの夜襲を受けた際も日置大膳亮、長野左京亮らと共に撃退した。その後、北畠具房は織田信長の次男織田信雄を養子に迎え和睦した。1570年、曽原城主天花寺広高が反旗を翻すと、家城之清も加勢すべく曽原城内に入城した。1571年、北畠具房が参陣し曽原城を囲むと、家城之清は城を出て北畠具房家勢に合流し曽原城を攻略した。1577年、北畠具親が挙兵すると家城之清も参陣しするが、日置大膳亮や船江衆らに攻められ討死した。

池山伊賀守【いけやまいがのかみ(15??~15??)】

度会郡山岡砦主。田丸顕晴家臣。官途は修理亮。田丸顕晴に謀反し、山岡党を率いて反乱を起こし田丸城を制圧し自刃に追い込んだ。北畠晴具の侍大将舟木兵部少輔によって討たれた。

磯田彦右衛門【いそだひこえもん(15??~15??)】

北畠具教家臣。安保大蔵太夫と共に「秋山宗丹討伐戦」に参陣した。宇陀郡の沢房満、秋山宗丹は北畠具教に従わず三好家と誼を結んだ。秋山宗丹の嫡男秋山直国は、三好長慶の娘を娶った。北畠具教は神楽岡城を攻撃した際、安保大蔵少輔、磯田彦右衛門尉が討死した。その後秋山宗丹は降伏し、秋山宗丹を人質とした。北畠具教はこ秋山宗丹を大内山但馬守に預けたが間もなく病没した。

井上専正【いのうえせんしょう(15??~15??)】

北畠具教家臣。通称味兵衛。織田信長との戦いでは、数々の戦功をあげるが北畠家の劣勢を覆すことは出来なかった。鳥屋尾満栄と共に、田丸城の鶴女救出した。その後吉田家に逗留して北畠昌教誕生を見届けた。鳥屋尾満栄から北畠家の家老の地位を譲り受けて北畠家家老に就いた。織田信長から北畠昌教の行方を追及されると芝山秀時、大宮吉守ら近臣と共に大和飯貝門跡に落延びた。その後、本願寺顕如から「教順」という法名を賜った。石山本願寺城が陥落すると羽後国鹿角にうつり専正寺を建立、住持となり北畠昌教をかくまいつつ自らの娘を北畠昌教の室とし、北畠家再興のための武士をあつめた。北畠昌教らが大湯折戸館に移ると、隠居して家老職を芝山秀時に譲った。その後北畠昌教の次男折戸昌近の側近として住持をしながら折戸家の家老格となった。1600年、津軽家の客将となった北畠昌教に従って「関ヶ原の役」に参陣した。その後は完全隠居して専正寺住持として過ごした。

岩内鎮慶【いわうちかねよし(15??~15??)】

多気郡岩内城主。北畠材親の男。北畠家枝連衆。岩内家を再興した。木造俊茂から白粉代官職を奪った。久我家木造庄の年貢未納に対し大御所具教とともに対応した。

岩内国茂【いわうちこくしげ(15??~15??)】

岩内鎮慶の男。

岩内具俊【いわうちよしとし(15??~1576)】

岩内国茂の男。官途は主膳正。別名岩内光安。1569年、織田信長勢の侵攻に備えた。1576年、織田信長の伊勢攻めのときに田丸城に拘禁され謀殺された。その子の岩内光吉は北畠具親に養われ、度会郡山田に移り住んだ。

遠藤五郎左衛門【えんどうごろうざえもん(15??~15??)】

大宮含忍斎家臣。1569年、阿坂城にて織田信長勢の侵攻に備えた。羽柴秀吉の調略に呼応し、阿坂落城した。

大久保清左衛門【おおくぼきよざえもん(15??~1576)】

北畠具親家臣。

大河内親忠【おおこうちちかただ(15??~15??)】

多気郡大河内城主。北畠材親の男。官途は相模守。別名大河内御所。木造御所は北畠家庶流の筆頭であったが、木造御所は度々幕府側に付き、宗家と対立した。その為、田丸御所(田丸城)、坂内御所(坂内城)、大河内御所、(大河内城)の三家が北畠家三御所となり、なかでも大河内御所は代々筆頭とされ、宗家が絶えたときは、これを継ぐ立場であった。

大河内頼房【おおこうちよりふさ(1510~1557)】

北畠材親の三男。官途は権中納言。室は北畠晴具の娘。星合館を築いて星合家を称した。父北畠材親の命を受けて伊勢国各地を転戦した。1526年、兄大河内親忠の跡をついで大河内城主となった。

大河内具良【おおこうちもとよし(15??~1576)】

大淀城主。大河内頼房の次男。官途は左少将。別名大河内教通。剣の達人。1576年、病で田丸城に滞在していた大河内具良は、見舞いと偽って訪れた柘植保重、小川久兵衛尉に謀殺された。

大嶋讃岐守【おおしまさぬきのかみ(15??~15??)】

北畠具教家臣。武勇の人物。北畠家が織田信雄に乗っ取られた後、伊勢長島一向一揆に加担した。枝連衆の大嶋豊後守と共に伊勢長島城で一向一揆と共に織田信長勢と戦った。伊勢長島の一向一揆では、織田信広、織田信次、織田信成、織田秀成ら大将五人を討取り、雑兵700人を討取る戦功を挙げた。その後、枝連衆の大嶋内蔵頭が北畠の家臣帳を残した。

大多和兵部少輔【おおたわひょうぶしょうぶ(15??~15??)】

一志郡八田城主。北畠具教家臣。1569年、北畠具教は、麾下の諸将を八つの城に配置した、安濃郡今徳山には奥山常陸介、一志郡小森上野には藤方入道慶由、八田城には大多和兵部少輔、阿坂城には大宮入道含忍斎、曾原城には天花寺広高、飯高郡岩内城には岩内主膳光安、船江には本多親康、木造城には木造具政が拠っていた。織田信長は、今徳山城の奥山常陸介、岩内城の岩内主膳、阿坂城の大宮入道含忍斎を降し、北畠具教父子の籠城する大河内城を目指した。大河内城を包囲された北畠具教は、織田信長次男織田信雄を養子にすることで織田信長と和睦した。

大宮含忍斎【おおみやがんにんさい(15??~1569)】

阿坂城主。北畠具教家臣。北畠家四家老のひとり。大宮家も北畠家に代々仕えた枝連衆で、南北朝時代の北畠顕能の「長野家討伐」などにも大宮枝連衆が参陣した。織田信長勢を迎え撃つ最前線である阿坂の城を守り、徹底的に抗戦した。1569年、羽柴秀吉の攻撃を受け、謀略により内応者が続出、ついに阿坂城は陥落させられ、捕らえられて羽柴秀吉に謀殺された。

大宮景連【おおみやかげつら(15??~1576)】

大宮含忍斎の男。通称大之丞。剛勇無双の猛者で弓の名手。1576年、父大宮含忍斎や弟大宮吉守たちと共に織田信長勢から阿坂城を守り、攻撃大将の羽柴秀吉を狙撃し、羽柴秀吉に傷を負わせた。これは羽柴秀吉生涯においてたったひとつの戦傷であった。そして得意の弓をもって織田信長勢の兵士を多数討ち取るが、謀略の前に屈して城は落城し、父大宮含忍斎と共に捕らえられて羽柴秀吉により謀殺された。

大宮吉守【おおみやよしもり(15??~15??)】

大宮含忍斎の次男。通称主膳。1576年、北畠具教が謀殺されると、芝山秀時と共に三瀬館に、北畠具教の頸をもった加留左京の家臣の伊藤重内を斬り捨てて頸を奪還、北畠政成の家老芝山秀定に頸を預け、北畠具親に急変を伝え、共に落延びた。井上専正と共伊勢国を脱して大和国から本願寺そして羽後国鹿角郡に至った。1600年、津軽家に仕えた北畠具親に従った。芝山秀時が病没すると北畠家老職に就任した。

大内山但馬守【おおうちやまたじまのかみ(15??~15??)】

度会郡阿曽城主。北畠具親家臣。1582年、北畠具親の挙兵に呼応した。

岡村修理亮【おかむらしゅりのすけ(15??~15??)】

一志郡福田山城。

萩原隠岐守【おぎわらいきのかみ(15??~15??)】

多気郡萩原館主。北畠具教家臣。

奥山知忠【おくやまともただ(15??~1576)】

安芸郡今徳城主。北畠具教家臣。官途は常陸介。本田美作守と並ぶ軍奉行。今徳城は、中伊勢国に覇を唱えた長野家と国司家の勢力圏との中間にあったが、長野家が北畠家と和睦し北畠具教の次男長野具藤を養子に迎え入れてからは長野家領も北畠家の馬打ち同然となっていた。この状況が変わったのが、長野家の家臣団が長野具藤を放逐し、織田信長の弟織田信包を養子に入ると再び今徳城が最前線になった。織田信長勢の織田信昌に城を攻められるが撃退した。その後、織田信長から北畠具教を討つことを命じられるが拒否した。領地加増の朱印などを受け取るが仮病を使って離脱して織田信長に朱印を返還後、出家した。

奥山信濃守【おくやましなののかみ(15??~15??)】

小森上野城主。北畠具教家臣。

小倉帯刀将監【おぐらたてわきしょうげん(15??~15??)】

度会郡曽野館主。園家家臣。

小原冷泉【おばられいせん(15??~15??)】

北畠具教家臣。船江城に籠城する本田美作守を助けるべく小原冷泉、北村仁蔵、西岡団之助などの手勢が応援に駆けつけていた。京の関白近衛公の枝連衆に連なる冷泉家の一族。北村仁蔵と西岡団之助は伊賀の国名張の地侍であり彼らとともに近隣の百姓らも一揆を組んで船江城に入り織田信長勢の襲来に備えた。織田信長の先鋒に夜襲を掛けこれを散々撃ち破った。

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【か】

海津喜三【かいずよしぞう(15??~15??)】

木造具政家臣。鉄砲衆。1568年、秋山直国、沢房満の攻撃を撃退した。

方穂民部少輔【かたほみんぶしょうゆ(15??~15??)】

北畠具教家臣。一志郡多気館主。方穂家は枝連衆というよりも親族家臣で、御所とは称されなかった。八下御所と森本俊信と共に軍役500人を課せられた。方穂民部少輔は織田信長の伊勢攻めのときに国司と共に大河内城に入った。

方穂久長【かたほひさなが(15??~15??)】

方穂民部少輔の男。官途は采女正。

加藤民部少輔【かとうみんぶしょうゆ(15??~15??)】

北畠具教家臣。公事奉行。

川方隼人佐【かわかたやなとのさ(15??~15??)】

川方城主。北畠具教家臣。1584年「小牧、長久手の戦い」に参陣した。

河村新左衛門【かわむらしんざえもん(15??~15??)】

度会郡慥柄浦館主。

加留左京【かるさきょう(15??~15??)】

藤方朝成家臣。1576年、織田信長の働きかけで織田家に寝返った滝川雄利、柘植保重と旧臣の長野左京進と藤方刑部の家臣の加留左京が三瀬館を訪れ、北畠具教の謀殺を図った。北畠具教は武道の達人、とっさに槍を避け太刀を抜こうとしたが、織田家に寝返った家臣佐々木四郎左衛門により太刀がさやから抜けないように細工がしてあり、北畠具教は四男徳松丸と五男亀松丸の子と共に謀殺された。また北畠具教の室(北の方)と娘で織田信雄の室(千代御前)まで謀殺された。他に北畠家臣十四人の武将が殺害され、三十人余りの家人もそれに殉じた。

岸江又三郎【きしえまたさぶろう(15??~15??)】

北畠具教家臣。1569年、大河内城は、織田信長の家臣滝川一益と蒲生氏郷の攻撃を受けた。蒲生氏郷勢は搦手(魔虫谷)から攻撃した。手薄だった搦手から攻撃を受けた大河内城勢は、女子、子供を動員して蒲生氏郷勢の攻撃を防いだ。総崩れとなった蒲生氏郷勢は、潮田長助勢100余りの追撃を受け撤退を余儀なくされた。その後、北畠は織田信長と和睦するが、岸江又三郎は、潮田長助、星合左衛門尉と共に四五日森城を築城して、織田信長勢に反旗を翻した。四五百の森は名山であり古歌にも「伊勢の国 四五百の森の時鳥 名乗り捨てたる去年の古声」と詠まれていた。これにより織田信長は伊勢南方の城をひとつも破壊することはできませんでした。

北岡右衛門督【きたおかうえもんのじょう(15??~15??)】

多気郡笠木館主。笠木家臣。

北畠晴具【きたばたけはるとも(1503~1563)】

大河内城主。北畠材親の男。伊勢国司。官途は左近衛中将。室は細川高国の娘。文武両道の名将で、弓馬の達人で和歌をよくし能書家でもあった。1511年、父北畠材親の隠居により北畠家の家督を相続した。1521年、細川高国らと共に歌合せを多気御所で行った。1531年、北畠晴具の支援を受けた細川高国は摂津国まで侵攻し、細川晴元や三好元長と「天王寺の戦い」で敗北し、大物浦で討死した。志摩国鳥羽城を攻撃し、支配下に収めた。そして小浜景忠ら国人衆を掌握して志摩国をほぼ制圧した。その後、大和国に侵攻して吉野郡を制圧し、支配下に収めた。この侵攻により、大和諸国人衆と対立し、筒井順賢、越智家教、十市遠忠、久世遠治らと戦った。紀伊国へも侵攻し、熊野地方から尾鷲、新宮方面までを領有化、十津川まで支配領域を広げた。1543年、伊勢国南部の領有をめぐり、長野藤定との対立した。1543年「垂水鷺山の戦い」では、長野藤定の主力細野藤光、分部光嘉と戦いうが、決着はつかずに双方退却した。1553年、隠居して北畠家の家督を嫡男北畠具教に譲った。

北畠具教【きたたけ とものり(1528~1576)】

北畠晴具の男。官途は左近衛中将。室は六角定頼の娘。「剣聖」塚原卜伝の弟子。1553年、父北畠晴具の隠居により北畠家の家督を相続した。1558年、北伊勢の豪族、安濃郡を支配していた長野藤定の養子に長野具藤を送った。1560年、三好長慶家臣、松永久秀、松山新介の侵攻を受けた。1563年、嫡男北畠具房に北畠家の家督を譲って隠居したが、北畠家の実権は依然として北畠具教が握っていた。1568年、織田信長が北伊勢国に侵攻し、神戸具盛、長野具藤など豪族衆を支配下に置いた。1569年、織田信雄を嫡男北畠具房の養子に迎え織田家と和睦した。1572年、多気郡三瀬館に隠居した。1576年、織田信雄の命を受けた、長野左京亮、加留左京進(藤方刑部小輔の名代)らの襲撃を受けて、四男徳松丸、五男亀松丸、および家臣大橋長時、松田之信、上杉頼義らと共に謀殺された。北畠具教の頸級は加留左京進の家臣伊藤重内らにより運び出されたが、駆け付けた芝山秀時、大宮多気丸らに奪い返され、芝山秀定により御所尾山に埋葬された。

北畠具親【きたばたけともちか(15??~1586)】

飯南郡川俣谷館主。北畠晴具の三男。官途は宮内少輔。室は六角義賢の娘。1576年、はじめ僧侶となって奈良興福寺東門院院主の地位にあったが、兄北畠具教が織田信雄によって謀殺されると、伊賀国に潜入し、還俗して伊勢国に戻り、伊勢南部の北畠家の旧臣をかき集めた。1577年、三瀬谷、河俣谷、多気、小倭衆らの在地武士と飯高郡森城で挙兵に及んだが、織田信雄勢の日置大膳によって鎮圧された。伊賀国豪族衆の吉原家が北畠具親を後援したことにより、織田信雄の「伊賀国侵攻」の原因を作った。1582年「本能寺の変」後に、安保直親と共に五箇篠山城に蜂起。津川義冬の率いる織田信雄勢敗北した。1584年、蒲生氏郷の伊勢入封後は蒲生家に客将として仕えた。

北畠具房【きたばたけともふさ(1547~1580)】

北畠具教の男。官途は右近大夫将監。別名中の御所。室は鈴木家重の娘。1563年、父北畠具教の隠居により北畠家の家督を相続した。1569年、父北畠具教と共に織田信長に降伏し、織田信長の次男織田信雄を養嗣子として迎えた。1572年、織田信雄に北畠家の家督を奪われ隠居した。1576年「三瀬の変」後、北畠具房は幽閉の身となり、その身柄を滝川一益に預けられて安濃郡河内に幽閉された。

北畠昌教【きたばたけまさのり(1577~1616)】

北畠具房の男。祖父北畠具教ら枝連衆が謀殺され、父北畠具房が滝川一益に預けられて幽閉されたとき、家臣に連れられて脱出し、織田信長の追及から逃れた。その後、本願寺を頼り、その降伏後は津軽為信の客分となった。井上専正は都に隠れ住んでいた北畠昌教を保護し、北畠昌教は折戸と改姓し、死に臨んで代々折戸姓を名乗ること、他家に仕えないことを遺言して亡くなった。

北畠親成【きたばたけちかなり(1560~1576)】

北畠具教の三男。通称式部少輔。興福寺東門院の僧から還俗した。北畠具教が織田信長の侵攻に屈伏し、織田信長の次男織田信雄を養子に迎えることになった際、強硬に反対した。このため、反織田勢力のひとりと見なされた。1576年、父北畠具教が織田信雄らの命令で旧臣によって「三瀬の変」で謀殺された際、北畠親成も兄長野具藤と共に田丸城において謀殺された。

北畠政成【きたばたけまさなり(15??~1576)】

一志郡美杉館主。北畠政郷(政勝)の男。通称左衛門督。別名東御所。室は松永久秀の養女。妹は北畠具房の室(鶴女)。1569年、織田信長勢の襲撃を受けるが多気御所の霧山城に城代として籠城して抗戦した。1576年「三瀬の変」で北畠具教はじめ北畠家枝連衆が織田信雄勢に討たれた後、多気御所に攻め込んできた織田信雄勢に対し、霧山城に籠城したが敗れて自刃した。

北畠具就【きたばたけともなり(15??~15??)】

北畠具教の男。別名小原具就。1569年、織田信長勢の侵攻に備えた。藤方朝成と共に小森上野城を守備した。

吉川平吉【きっかわへいきち(15??~1580)】

伊勢神宮の門前湊として栄えた大湊の船奉行。1580年「鳥取城の戦い」で活躍した。「防己尾城の戦い」で討死した。

吉川平助【きっかわへいすけ(15??~15??)】

吉川平吉の弟。1580年、鳥取城攻囲に一軍の将。1582年「本能寺の変」に際しては松平元康を三河国へ落延びる手助けを行った。

吉川三蔵【きっかわさんぞう(15??~15??)】

吉川平助の弟。紀伊国新宮北山の代官。1588年、一揆に攻撃された堀内氏善を救援した。

久世因幡守【くぜいなばのかみ(15??~15??)】

飯南郡上仁柿館主。園家臣。

蔵田行俊【くらたゆきとし(15??~15??)】

北畠具教家臣。通称喜右衛門。1569年「大河内城の戦い」に参陣した。織田信長勢を撃退する戦功を挙げた。和議に反対する抗戦派。

小坂兵部少輔【こさかひょうぶしょうゆ(15??~15??)】

飯南郡上仁柿館主。  

木造俊茂【こづくりとしげ(1495~1548)】

木造城主。木造政宗の男。北畠家臣。官途は左中将。1526年、正四位下参議に任じられた。1533年、出家した。

木造康親【こづくりやすちか(15??~15??)】

木造政宗の次男。川方城主。1495年、木造政宗が木造城の支城として築城し、次男木造康親を居城させた。1584年「戸木城の戦い」では、蒲生氏郷の来攻を受けて落城した。

木造具政【こづくりともまさ(1530~15??)】

北畠晴具の三男。木造俊茂の養子。官途は左少将。別名戸木御所。父北畠晴具の命で木造家の家督を相続した。1554年、戸木城を築城した。1568年、多気御所の馬揃えにて田丸具忠、坂内、大河内の下位に席次を置かれ、叛心した。1569年、織田信長が南伊勢国に侵攻して来ると、北畠具教に背いて織田信長に属した。北畠家の養嗣子となった織田信長の次男織田信雄の家老となった。織田信長没後も織田信雄に仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」では戸木城に籠城して羽柴秀吉方の蒲生氏郷率いる軍勢と奮戦したが、織田信雄が羽柴と和議を結ぶと、城から退去した。
 
木造長政【こづくりながまさ(15??~1604)】

木造具政の男。官途は左衛門尉。通称大膳。織田信雄に仕えた。1574年、織田信雄の侍大将として、伊勢国海賊衆を率いて伊勢長島城攻めに参陣した。1584年、津川義冬が織田信雄に疑われ、謀殺されると、その家臣が籠城した松ヶ島城を攻撃した。羽柴秀吉と織田信雄が和睦し「小牧、長久手の戦い」が終結すると、織田信雄と共に尾張国へ退いた。1590年、織田信雄が転封を拒んで失領すると、羽柴秀吉に召しだされて、織田秀信の家老として25,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、織田秀信に松平元康勢につくように進言するが容れられず、織田秀信は岐阜城にて石田三成勢に属して、松平元康勢の福島正則や池田輝政と戦い、降伏した。木造長政はその後、福島正則に20,000石で仕えた。

小牧薩摩守【こまきささつまのかみ(15??~15??)】

一志郡小川城主。矢下家臣。

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【さ】

榊原氏経【さかきばらうじつね(15??~15??)】

榊原城主。永禄年間に大和国で討死した。

榊原刑部少輔【さかきばらぎょうぶしょうゆ(15??~15??)】

榊原氏経の男。北畠具教家臣。1576年、北畠家の滅亡後は織田信長に属した。

榊原三左衛門【さかきばらさんざえもん(15??~15??)】

榊原刑部少輔の男。長野信包寄騎衆。

坂内房郷【さかないふささと(15??~15??)】

北畠教具の三男。度会郡坂内御所主。別名坂内御所。次兄北畠親忠は大河内家を相続し、北畠房郷が坂内家を継承した。伊勢神宮と所領問題を起こした。大和国宇陀郡の豪族衆沢房満沢と抗争した。

坂内具種【ふさないともたね(15??~15??)】

大河内親忠の男。坂内房郷の養子。別名星合親能。

坂内教房【さかないよしふさ(15??~15??)】

坂内具種の男。

坂内教賢【さかないよしかた(15??~15??)】

坂内具種の次男。

坂内具泰【さかないともやす(15??~15??)】

坂内具種の三男。

坂内具房【さかないともふさ(15??~15??)】

坂内具種の四男。官途は右近将監。

坂内具義【さかないともよし(1558~1576)】

坂内具房の男。官途は兵庫頭。室は北畠具教の娘。1574年、北畠信雄に属して、北畠家警固衆の大将として「長島城の戦い」に参陣した。1576年、織田信長が北畠家枝連衆を粛清した際、田丸城で謀殺された。遺児北畠亀寿(亀千代)は大叔父北畠具親を頼って落延びた。

芝山秀定【しばやまひでさだ(15??~1576)】

一志郡多気館主。官途は出羽守。北畠政成家老職。北畠家四家老のひとり。大宮と並び政務奉行。1569年、北畠政成の命をうけて急変の起こった三瀬に急行中に野々口で子の芝山秀時と大宮吉守に出会って、北畠具教の謀殺を知り、両人から北畠具教の頸を受取った。両人に興福寺東門院の北畠具親に急変を報告するように命じた。北畠具教の頸を葬って単身織田信長勢に突入、敵を蹴散らすが力つき、太刀をくわえたまま滝壺に馬もろとも飛び込んで壮絶な討死を遂げた。

芝山秀時【しばやまひでとき(15??~15??)】

芝山秀定の男。通称小次郎。大宮吉守と共に北畠具教の謀殺の報を聞いて三瀬に急行、途中で北畠具教の頸をもった加留左京の家臣伊藤重内を討取り頸を奪還、北畠政成の家老芝山秀定に頸を渡し、柴山秀定より北畠具教の弟北畠具親に急変の報告を命じられた。北畠具親に急変を伝えたあと、北畠具親と共に伊勢国に入り、芝山秀時と鳥屋尾石見守への使者になり、井上専正と共に北畠昌教の護衛を命じられた。織田信長が北畠昌教の探索を始めると伊勢国を脱して和泉国に渡り、羽後国鹿角郡で津軽為信に客将として仕えた。

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【た】

高嶋次郎左衛門【たかしまじろうざえもん(15??~15??)】

北畠具教家臣。本田家寄騎馬衆。1555年、飯高郡の豊田五郎右衛門尉、多気郡の野呂三郎の一揆鎮圧に参陣した。

滝川雄利【たきがわかつとし(1543~1610)】

木造具康の三男。通称星合三郎兵衛。別名源浄院主玄。室は滝川一益の娘。僧侶として木造家に仕えていた。織田信長と北畠具教の戦いでは、滝川一益に属して、木造具政を寝返らせ、織田信長勢の勝利に貢献した。この時、還俗し滝川一益の娘婿として迎えられ滝川雄利と称した。北畠家に養子入りした織田信雄の付家老となった。1576年、北畠具教を謀殺する際は、小姓を買収し、刀を鞘から抜けないようにして謀殺した。1581年「天正伊賀の乱」の際には伊賀の豪族を調略して結束力を弱め、伊賀上野城を築城した。1582年「本能寺の変」後に北畠具親が一揆を起こした際は、これを鎮圧し「大剛之者也」と評価された。1583年「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀吉の内応勧誘を断って松ヶ島城に籠城したが、織田信雄が羽柴秀吉との和睦を図ると、滝川一益を仲介として羽柴秀吉と織田信雄の和睦を実現させた。滝川雄利は羽柴秀吉秀吉から北伊勢国を任された。「九州討伐」では、石田三成、長束正家。小西行長らとともに荒廃した博多の復興事業を奉行に任じられた。織田信雄改易後もそのまま領国を安堵、神戸城20,000石を領した。1595円「羽柴秀次事件」に連座したが処分は受けなかった。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して400名余りで神戸城に籠城した。このため、役後に改易されたが、後に松平元康に仕えて、常陸国片野城20,000石を領した。

滝川正利【たきがわまさとし(1590~1625)】

滝川雄利の男。官途は壱岐守。室は青山忠俊の娘。1610年、父滝川雄利の病没により滝川家の家督を相続した。1614年「大坂冬の陣」では、松平元康勢に属して戦功を挙げた。1625年、病弱で嗣子がなく、幕府の公務に耐えられないという理由から所領20,000石のうち、18,000石の所領を幕府に返還して2,000石の旗本となった。滝川家の家督は、摂津国高槻藩主土岐定義の次男で娘婿の土岐利貞が末期養子として継ぎ、その子の土岐利錦は御側衆に昇進、加増され4,000石の馬廻衆として存続した。

田上玄番正【たのうえげんばのじょう(15??~15??)】

木造具政家臣。木造家老職。

玉井定義【たまいさだよし(15??~15??)】

野呂実高の四男。官途は兵部。

玉井清秀【たまいきよひで(15??~15??)】

玉井定義の男。通称新次郎。

玉井是義【たまいこれよし(15??~15??)】

玉井定義の三男。通称新三郎。

田丸顕晴【たまるあきはる(15??~15??)】

度会郡田丸城。北畠政郷の四男。官途は左中将。別名田丸御所、北畠顕晴。池山伊賀守の謀反よって討死した。

田丸具忠【たまるともただ(15??~15??)】

渡会郡田丸城主。北畠家枝連衆。のち織田信雄の直臣。北畠信雄の命で北畠具教の弟北畠具親を討取った。蒲生家に仕えて55,000石を領した。

田丸直昌【たまるなおまさ(15??~1609)】

田丸具忠の男。室は蒲生賢秀の娘。父田丸具忠の隠居により田丸家の家督を相続した。1574年、織田信雄に属して、伊勢国海賊衆を率いて「長島城の戦い」に参戦した。1576年、織田信雄の命により、長野具藤、北畠親成ら北畠家枝連衆を謀殺した。1582年「本能寺の変」後も織田信雄に属したが、織田信雄と羽柴秀吉が対立すると羽柴秀吉に属した」。1584年「小牧、長久手の戦い」には、蒲生氏郷の寄騎衆として参陣した。蒲生氏郷が会津城に転封になると、田丸直昌は須賀川城30,000石を領した。蒲生秀行が宇都宮城に転封されると、田丸直昌は信濃国海津城主に封ぜられた。
1600年「関ヶ原の役」の「小山会議」で、諸将が松平元康に属すことを約束したのに対し、この後ただ独り羽柴秀吉の恩顧を思い石田三成に属した。田丸直昌は大坂城の守備に就き、役後は助命された。

垂水釈迦坊【たるみしゃかぼう(15??~15??)】

北畠晴具家臣。1543年、長野藤定が北畠家領を侵した「垂水鷺山の戦い」において、垂水釈迦坊、家城之清、豊田五郎左衛門らと共に奮戦し勇名を轟かせた。  

柘植保重【つげやすしげ(15??~1579)】

福地宗隆の男。木造具政家臣。通称三郎左衛門。室は木造俊茂の娘。1569年、織田信長の南伊勢国の侵攻の際、木造具政を調略して北畠具房から離反させた。滝川雄利らと共に織田信長に降ったが、柘植保重が北畠具房に人質に出していた妻子は磔とされた。織田信長勢が北畠家領に侵攻すると、共に大河内城主北畠具房を攻撃した。北畠具房は織田信長に降伏し、織田信雄を養子迎え和睦した。これ以降 柘植保重は茶筅丸付きの家老となった。1577年、織田信長の命をを受け、柘植保重は長野左京亮、藤方慶由の家臣加留左京らと共に、北畠具教の枝連衆を三瀬御所で謀殺した。1579年「第一次天正伊賀の乱」では、織田信雄に属して日置大膳亮らと共に伊賀国に侵攻するが、退却する殿軍の最中に植田光次に討たれた。

柘植宗能【つげむねよし(15??~15??)】

柘植宗家の男。

柘植清広【つげきよひろ(1540~1629)】

柘植宗家の次男。通称三之丞。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、兄柘植宗能の指示で、松平元康に属することを申し出たが、松平元康が織田信長と同盟関係にあった事から、三河国に移住して来るなら召抱える旨の返事を受けた。1582年、松平元康の「伊賀越え」では、枝連衆を率いて、信楽から伊勢白子への道を嚮導した。「加太越え」に及んでは、柘植一族が鹿伏兎一族と仲が悪いので暇を賜り、面体が知られておらず道を良く知る米地九左衛門政次が代わりを務めた。1600年「関ヶ原の役」では、鉄砲足軽隊20人を率いて参陣した。甲賀郡300石を領した。1603年、伏見の番を勤めた。1614年「大坂冬の陣」では、松平正綱に属して鉄砲足軽隊を率いて参陣した。

天花寺小次郎【てんげんじこじろう(15??~1569)】

曽原城主。北畠具教家臣。1569年、織田信長の攻撃を受け、防戦し撃退しました。「大河内城の戦い」で戦功を挙げた。その後も織田信長に抵抗し、枝連衆の天花寺蔵人佐と共に伊賀侍に下知もした。織田信長の圧力により北畠具房が参陣したが、敗退、討死した。

鳥屋尾満栄【とりやみつひで(1508~1577)】

飯南郡富永城主。官途は石見守。北畠家四家老のひとりで筆頭家老。智勇兼備の名将で軍事会計などにもつ通じた。1569年、織田信長との戦では大河内城の兵糧攻めを予測しての糧食備蓄などを行った。伊勢国大湊の代官職を務めた。北畠家が織田信長に降伏すると、北畠具豊の家臣として付けられた。1574年「伊勢長島城の戦い」では織田信長勢に属して北畠家警固(海賊)衆を率いて戦った。北畠家には最後まで忠誠を尽くし、北畠家一族が田丸城に監禁されると井上味兵衛専正と共に北畠具房の室の鶴姫と嫡男北畠昌教を救出し茂原城主吉田大悪才兵庫頭もとで保護した。1577年、北畠具教の弟北畠具親が伊勢国で挙兵すると、それに従って北畠家遺臣を集め挙兵するが「川俣の戦い」で討死した。

鳥屋尾右近将監【とりやおうこんしょうげん(15??~15??)】

鳥屋尾満栄の男。1572年、上洛する武田晴信勢と呼応し、田丸城から北畠具房の男北畠昌教を救出した。1577年「川俣谷の戦い」では、織田信雄の家臣日置大膳亮らによって、赤桶城、九曲城がまず落とされ、続いて峯城が攻め取られ、鳥屋尾右近将監が守る富永城も落ちて、ついに森城に拠った北畠具親は毛利輝元を頼って落延びた。

豊田五郎右衛門尉【とよたごろうえのんのじょう(15??~1555)】

北畠晴具家臣。飯高郡の豪族衆。1543年「垂水鷲山の戦い」に参陣した。垂水釈迦房とともに長野藤定との戦いで戦功を挙げた。1555年、斎宮城、智積寺城を奪取した。本田美作守勢に敗北、討死にした。

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【な】

長野左京大夫【ながのさきょうだいふ(15??~1584)】

北畠具教家臣。小倭の豪族衆。日置と並び寺社奉行。長野家枝連衆から北畠家に仕えた。織田信雄に仕えた。1579年「第一次伊賀乱」では、侍大将を務めた。1583年「小牧、長久手の戦い」では、家所氏に討たれる。山田野城主。

中西清右衛門【なかにしきよえもん(15??~15??)】

北畠具教の家臣。本田家寄騎馬衆。1555年、飯高郡の豊田五郎右衛門尉。多気郡の野呂三郎の一揆鎮圧に参陣した。

中西甚太夫【なかにしじんだいふ(15??~15??)】

北畠具教家臣。本田家寄騎馬衆。1568年、北畠具教の命で、織田信長に通じた柘植三郎左衛門の娘を処刑した。

中西図書頭【なかにしずしょのかみ(15??~15??)】

多気郡西山城主。一之瀬家臣。

波瀬具之【なみせともゆき(15??~15??)】

一志郡波瀬城主。一志郡惣領職。官途は蔵人。北畠家枝連衆。1559年、神戸利盛と抗争する長野具藤と結び赤堀具之を攻撃したが敗退した。だが長野具藤から援軍を受けて赤堀具之を再度攻めて滅ぼした。

波瀬具祐【なみせともすけ(15??~1576)】

波瀬具之の男。官途は蔵人。別名波瀬具之。1576年、三瀬御所に隠居していた北畠具教が織田信雄の放った刺客により館を急襲され謀殺された。次男長野具藤、三男北畠親成は田丸御所にて、大河内教通、波瀬具祐、岩内光安、坂内具義と共に謀殺され、坂内御所においては坂内具房、霧山御所においては城代北畠政成、及び波瀬具通が謀殺された。北畠具房はその身柄を滝川一益に預けられ、安濃郡河内に三年間幽閉された。

波瀬具通【なみせともみち(15??~1576)】

波瀬具之の次男。通称内膳正。

波瀬雅通【なみせまさみち(15??~1576)】

波瀬具通の男。波瀬城にこもって織田信雄の攻撃を受けて落城、波瀬雅通は嫡男波瀬康親と共に討死した。

波瀬康親【なみせやすちか(15??~1576)】

波瀬雅通の男。

野呂左近将監【のろさこんのしょうげん(15??~1569)】

北畠具教家臣。1562年、織田家との和議に応じるよう北畠具教に説得を行った。1569年「大河内城の戦い」に参陣した。織田信長に呼応し誅殺された。

野呂三郎【のろさぶろう(15??~1555)】

多気郡の豪族衆。1555年、斎宮城、智積寺城を豊田五郎右衛門尉と共に奪うが、本田美作守勢に敗北、討死した。

野呂実高【のろさねたか(15??~1568)】

多気郡五箇篠山城主。北畠家海賊衆。官途は越前守。北畠家から離反した志摩海賊衆を討伐勢を指揮大将。1568年、志摩国海賊衆との戦で討死した。

野呂伊予守【のろいよのかみ(15??~1568)】

野呂実高の男。1568年、志摩国海賊衆との戦で討死した。

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【は】

長谷川藤直【はせがわ(15??~15??)】

一志郡豪族衆。北畠家臣。通称三十郎。娘の於夏(清雲院)は松平元康に嫁いだ。

長谷川重吉【はせがわ(15??~15??)】

長谷川藤直の男。通称波右衛門。

長谷川藤広【(1566~1617)】

長谷川藤直の三男。通称左兵衛。北畠家臣。のち長崎奉行、堺奉行。

長谷川藤継【はせがわ(15??~1665)】

長谷川藤直の次男。通称忠兵衛。1599年、兄長谷川門重吉が佐渡国金山鉱山に派遣されたとき同行した。その後、松平元康より長崎奉行に任じられ、外交および外国貿易の管理、キリシタンの動静調査などを担当した。茶屋又四郎と共に,長崎の役所に派遣され、ポルトガル船「マードレ・デ・デウス号爆沈事件」を担当した。1614年「大坂の両陣」では、松平元康勢の軍需物資の調達を担当した。多田銀山を奉行も担当した。

波多瀬実高【はたせさねたか(15??~15??)】

多気郡波多瀬城主。野呂実高の男。北畠具親家臣。官途は伊予守。

波多瀬実徳【はたせしげとき(15??~15??)】

波多瀬実高の男。通称三郎。1582年、北畠具親は、織田信長が「本能寺の変」で討死すると、伊勢国に戻って安保直親らと共に伊勢五箇篠山城で再挙した。波多瀬実徳は十五歳だったが叔父山副実有、六呂木実忠兄弟と共に五箇篠山城に参陣した。しかし、北畠具親は、津川義冬率いる織田信雄勢に敗れ、伊賀国に落延びた。波多瀬実徳は捕えられ、船江城で磔にされた。

波多瀬光竹【はたせみつたけ(15??~15??)】

波多瀬実高の次男。

服部民部少輔【はっとりみんぶしょうぶ(15??~15??)】

七栗一色城主。北畠具教家臣。勇士と称された。1569年、大河内城は、織田信長の家臣滝川一益と蒲生氏郷の攻撃を受けた。蒲生氏郷勢は搦手(魔虫谷)から攻撃した。手薄だった搦手から攻撃を受けた大河内城勢は、女子、子供を動員して蒲生氏郷勢の攻撃を防いだ。総崩れとなった蒲生氏郷勢は、潮田長助勢100余りの追撃を受け撤退を余儀なくされた。

馬場土佐守【ばばとさのかみ(15??~15??)】

波瀬家臣。

田原元綱【はらだもとつな(15??~1569)】

浜田城主。北畠具教家臣。1569年、織田信長勢の滝川一益の攻撃を受け討死した。

原田重綱【はらだしげつな(15??~1584)】

田原元綱の男。1569年、織田信長勢の滝川一益の攻撃を受け父田原元綱が討死、原田重綱も奮戦するが敗れて城を脱出して美濃国に落延びた。のちに織田信雄に属して「小牧、長久手の戦い」で、羽柴秀吉勢と戦ったが、美濃国加賀野井城で討死した。

林備後守【はやしびんごのかみ(15??~15??)】

北畠具教家臣。宇陀郡の豪族衆。1569年、船江城一揆に参陣した。

日置大膳亮【ひおきだいぜんのじょ(15??~15??)】

松ヶ島細首城主。官途は大膳亮。北畠具教家臣。北伊賀国柘植三方衆。長野と並び寺社奉行。兄高松左兵衛督は大河内城旗頭。1569年、織田信長の攻撃には細首城を焼き捨てて大河内城に入り家城主水らと共に戦功を挙げた。織田信雄が養子として入ると織田信長の家臣となり、田丸城内で、長野具藤、北畠房兼、坂内兵庫を討取った。北畠具親の挙兵には鎮圧軍として二回も退けた。その後も織田信雄の家臣として「第一次伊賀攻め」などに参陣した。のちに松平元康に属するが、まもなく病没した。

藤方慶由【ふじかたよしゆき(15??~1576)】

藤方城主。北畠具教家臣。別名藤方御所。藤方慶由は家中でも剛の者として知られていましたが大河内開城後、人質として織田信雄の元に監禁されていた。1576年、織田信長の命を受けて男藤方朝成が家臣加留左京進を名代として参陣させ、北畠具教の謀殺した。この知らせを聞いた藤方慶由は不忠を詰って自刃した。

藤方朝成【ふじかたともなり(1530~1597)】

藤方慶由の男。通称は刑部少輔。1569年、織田信長が侵攻して来ると、北畠具教を裏切って織田信長に属した。1576年、織田信長の命を受けて家臣である加留左京進を名代として参陣させ、北畠具教の謀殺した。この知らせを聞いた父藤方慶由は不忠を詰って自刃した。織田信長の討ちに後は織田信雄、羽柴秀吉に仕え鈴鹿郡庄野で1,000石を領した。

藤方安正【ふじかたやすまさ(1571~1622)】

藤方朝成の男。織田信包に仕え、次いで羽柴秀次に仕えた。1595年、羽柴秀次が自刃すると浪人となるが、後に松平元康に仕えて馬廻衆となった。 1597年、下総国に500石を領して、松平秀忠に属した。

舟木光経【ふなきみつつね(15??~15??)】

北畠具教家臣。1569年「大河内城に戦い」では、織田信長勢を撃退する戦功を挙げた。

舟木光教【ふなきみつよし(15??~15??)】

舟木光経の男。

舟木光春【ふなきみつはる(15??~15??)】

一志郡久米城主。北畠具教家臣。

舟木光長【ふなきみつなが(15??~15??)】

舟木光春の男。通称仁右衛門。別名中村光長。室は本田左京亮の娘。

朴木隼人正【ほうのきまさとのじょう(15??~15??)】

北畠具教家臣。1569年、織田信長勢は大挙して南勢の北畠家領への侵攻した。北畠具教は枝連衆精鋭を集め、迎撃の態勢を整えた。北畠具教は16,000余りを動員できたが、八城に分散してしてしまったため、各城に配置された兵力は2,000余りになってしまった。対する織田信長は、畿内、尾張美濃の兵70,000余りを動員した。北畠具教は大河内城に籠城、今徳城に奥山常陸介、小森上野城には藤方朝成と枝連衆の北畠小原具就、八田城に大多和兵部少輔を、阿坂城には大宮入道含忍斎、船江城に本田美作守、曽原城には天花寺小次郎、岩内城には岩内具俊、木造城には木造具政をおき、織田信長の侵攻に対抗した。北畠具教は、北畠政成、森本飛騨守、林備後守ら枝連衆、家老の鳥屋尾石見守、水谷刑部少輔、侍大将の朴木隼人正、下村仁助、潮田長助らを手勢とした。

星合親泰【ほしあいちかやす(15??~15??)】

星合城主。官途は式部大輔。別名北畠親泰。北畠政郷の三男北畠親泰が、永正年間、星合城を構えて星合家を称した。星合親泰は北畠材親に属して、国司家伝の天蓋の馬印を授けられた。伊賀国の諸士を寄騎衆として戦功を挙げた。矢野、星合、村松、生津、伊沢らの地を領した。1526年、大河内城に移り、北畠家の政務を執行した。

星合具種【ほしあいともかず(15??~1572)】

星合具種の男。官途は長門守。別名北畠具祐。父星合具種が大河内城に移ったあとの星合城を守備した。北畠晴具より遍諱を与えられ、数々の戦功を挙げた。1539年、従五位上に叙し、参議に任じられた。

星合教房【ほしあいよりふさ(15??~1562)】

星合具種の男。星合教房は星合城主となった。1562年、病没した。

星合教賢【ほしあいよりかた(15??~15??)】

星合具種の次男。別名堀江教賢。北畠具教の遍諱を受けて星合教賢と称した。北畠具忠に従って度々戦功を挙げた。

星合具泰【ほしあいともやす(15??~15??)】

星合具種の次男。星合具泰が父星合具種に養われて、星合家の家督を継いだが、幼少により星合賢教が代わって軍役を勤めた。

星合直藤【ほしあいなおふじ(15??~15??)】

北畠具教家臣。通称左衛門尉。1564年、大河内城は、織田信長の家臣滝川一益と蒲生氏郷の攻撃を受けた。蒲生氏郷勢は搦手(魔虫谷)から攻撃した。手薄だった搦手から攻撃を受けた大河内城勢は、女子、子供を動員して蒲生氏郷勢の攻撃を防いだ。総崩れとなった蒲生氏郷勢は、潮田長助勢100余りの追撃を受け撤退を余儀なくされた。その後、北畠は織田信長と和睦するが、星合左衛門尉は、潮田長助、岸江又三郎と共に四五日森城を築城して、織田信長勢に反旗を翻した。四五百の森は名山であり古歌にも「伊勢の国 四五百の森の時鳥 名乗り捨てたる去年の古声」と詠まれていた。これにより織田信長は伊勢南方の城をひとつも破壊することはできませんでした。

本田美作守【ほんだみさくのかみ(15??~15??)】

船江城主。北畠具教家臣。奥山知忠と並ぶ軍奉行。1555年、飯高郡の豊田五郎右衛門尉、多気郡の野呂三郎の一揆を鎮圧した。1569年「船江城の戦い」では、織田信長勢との戦いで戦功を挙げた。北畠具教の命を受け柘植三郎左衛門の娘みえを雲津川の堤で処刑した。

本田康親【ほんだやすちか(15??~15??)】

本田美作守の男。官途は左京亮。別名本田親泰。父本田美作守の後を継ぎ軍奉行家。織田信長の属して、大宮家と対立した。

本田右衛門尉【ほんだうえもんのじょう(15??~15??)】

北畠具教家臣。本田美作の叔父。1569年、船江城にて織田信長勢の侵攻に備えた。1569年「船江城一揆」に参陣した。討伐勢の稲生勘解由を討取った。

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【ま】

牧野豊後守【まきのぶぜんのかみ(15??~15??)】

度会郡。田丸家臣。

牧康信【まきやすのぶ(15??~15??)】

木造具政家臣。伊勢牧城主。1584年、蒲生氏郷が松ヶ島城に入ると攻撃した。

松井新九郎【まついしんくろう(15??~1576)】

北畠具教家臣。1576年、弟松井新次郎と共に討死した。

三浦兵部少輔【みうらひょうぶしょうゆ(15??~15??)】

一志郡八田城主。

水谷俊之【みずたにとしゆき(15??~15??)】

立野城主。官途は刑部少輔。北畠家四家老のひとり。織田信長勢が大河地城を攻撃した際、織田信長の次男織田信雄を北畠具房の養子とすることで、北畠親成らの和議反対派の抗議を退けて、織田信長からの人質をとったものと説明し、北畠具教、北畠具房を説得して同意させ、織田信雄を国司の養子に迎えた。

三瀬蔵人【みせくらうど(15??~15??)】

北畠具教家臣。1564年、大河内城は、織田信長の家臣滝川一益と蒲生氏郷の攻撃を受けた。蒲生氏郷勢は搦手(魔虫谷)から攻撃した。手薄だった搦手から攻撃を受けた大河内城勢は、女子、子供を動員して蒲生氏郷勢の攻撃を防いだ。総崩れとなった蒲生氏郷勢は、潮田長助勢100余りの追撃を受け撤退を余儀なくされた。

森本俊信【もりもととしのぶ(15??~15??)】

森本城主。木造具政家臣。官途は飛騨守。木造顕俊の次男木造俊重が多気城の支城として築城し、森本飛騨守と称した。その後、代々飛騨守を世襲した。1569年、織田信長による「大河内城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1569年「船江城一揆」に参陣した。織田信長に寝返る北畠家臣が多い中、最後まで北畠家を守った。

森本具俊【もりもとともとし(15??~1584)】

森本俊信の男。官途は飛騨守。叔父の森本俊成の跡職を継承した。1584年「小牧、長久手の戦い」の「松ヶ島城の戦い」で、討死した。

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【や】

矢川下野守【やがわしもつけかみ(15??~15??)】

波瀬家臣。1559年、赤堀景治の攻撃に参陣した。

山崎大炊亮【やまざきだいぜんのじょう(15??~15??)】

北畠具教家臣。1564年、大河内城は、織田信長の家臣滝川一益と蒲生氏郷の攻撃を受けた。蒲生氏郷勢は搦手(魔虫谷)から攻撃した。手薄だった搦手から攻撃を受けた大河内城勢は、女子、子供を動員して蒲生氏郷勢の攻撃を防いだ。総崩れとなった蒲生氏郷勢は、潮田長助勢100余りの追撃を受け撤退を余儀なくされた。

山崎左馬助【やまざきさうまのすけ(15??~1563)】

北畠具教家臣。長野家との抗争に大将として派遣された。分部与三衛門、分部光高を討取るが、細野藤敦に討たれた。

山副実有【やまふくしげあり(15??~15??)】

野呂実高の次男。波多瀬家臣。通称十六兵衛。波多瀬実徳の叔父。1582年、北畠具親の挙兵に呼応した。

山本右京【やまもとうきょう(15??~15??)】

一之瀬家臣。

渡辺守信【わたなべもりのぶ(15??~15??)】

一志郡須ヶ瀬城主。木造具政家臣。官途は筑後守。

吉田兼房【よしだかねふさ(15??~1595)】

茂ヶ原城主。笠木御所家臣。官途は兵庫頭。通称大悪才。勇猛な武将。吉田兼房は、茂原城に籠城して、鳥屋尾石見守、井上専正によって田丸城から脱出した鶴女を匿い、北畠昌教らを大和国飯貝門跡のところまで落延びさせた。その後は北畠具親の挙兵にも参陣した。

吉田兼宗【よしだかねむね(15??~15??)】

吉田兼房の男。通称兵庫頭。通称小悪才。北畠具教から剣術の手ほどきを受け、伊勢新刀流の創始に尽力した。北畠具教が謀殺され、三瀬御所が攻撃されると善戦したが、落城落延びた。1582年「本能寺の変」で、織田信長が討死した際は、明智光秀勢に属していた。その後は全国各地を放浪した。1600年「関ヶ原の役」では、九鬼嘉隆の客将として戦功を挙げた。

六呂木実忠【ろくろぎさねただ(15??~15??)】

野呂実高の三男。波多瀬家臣。通称十之右衛門。山副実有の弟。1582年、北畠具親の挙兵に呼応した。

六呂木義時【ろくろぎよしとき(15??~15??)】

六呂木実忠の男。

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【資料Ⅰ】

南伊勢国(5郡/32万石)

一志郡:
飯高郡:
飯野郡:
多気郡:
度会郡:

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【資料Ⅱ】

北畠家四家老家【きたばたけよんけかろう】

飯南郡福本城主:鳥屋尾石見守、松尾立野城主水谷刑部少輔、宇陀郡松山城主:秋山右近将監、宇陀郡沢城主:沢隼人正。

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【資料Ⅲ】

南伊勢国【みなみいせのくに】

調査中。

安濃津【あのつ】

伊勢湾に注ぐ安濃川や潟湖に囲まれた砂堆上に展開した湊街。南の「藤潟」に面する湊を核に形成され、外部とはいくつかの橋によって結ばれていた。中世、伊勢海および東太平洋における海運の要湊として繁栄し、「日本三津」の一つとして国内外にその名を知られた。安濃津は伊勢街道と伊勢別街道が合流して伊勢へ至る交通の要衝にあった。特に京都とは東海道ー伊勢別街道によって約90kmの距離にあり、京都の東国への玄関口としての機能も担った。この安濃津に中世を通じて影響力を行使したのが伊勢神宮だった。安濃津御厨の神人たちは活発な商業活動を展開した。安濃津神人たちは諸国を遍歴して交易を行っていた。安濃津における物資集散地の機能としては「安乃津市」が存在したことが確認される。また安濃津の遺跡からは、中世前期において尾張産の瀬戸や常滑、山茶碗が安濃津に集積され、ここで選別、商品化された後に全国に流通した。津は江戸期を通じて伊勢神宮参拝の宿場町として栄え「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と伊勢音頭に謡われた。

伊勢神宮【いせじんぐう】

御神体を別の本殿に移す「遷宮」が二十年に一度行われることになっている。記録上最初の遷宮は690年で、伊勢神宮で最も重要な伝統行事。
「応仁の乱」に端を発した戦国時代の訪れによって、伊勢神宮も荒廃。その影響で遷宮も途絶えてしまった。戦国時代の影響で荒廃した伊勢神宮。この状況を憂えたのが慶光院守悦という女性でした。守悦は遷宮復活のために、伊勢神宮を復興させようと自ら資金活動に奔走。その後も彼女の志に共感した女性たちが、朝廷の許しを得て全国を渡り歩いて資金活動を行った。

伊勢神宮御師【いせじんぐうおんし】

平安時代の御師には、石清水、賀茂、日吉などのものがあるが、代表的なのは熊野三山の熊野御師であった。熊野詣では平安時代末期に貴族の間で流行したが、その際の祈祷や宿泊の世話をしたのが熊野御師であった。当初は参詣のつど契約していたが、次第に御師を「師」とし参詣者を「檀那」とする恒常的な関係(師檀関係)を形成していった。鎌倉時代には武家にも広まり、室町時代には農民まで檀那とするようになった。鎌倉時代から室町時代初期にかけては、特に有名な伊勢神宮や富士講の御師が活躍したほか、松尾、三嶋、白山、大山の御師も活躍した。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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