2013年1月11日金曜日

戦国西肥前国人名辞典

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【あ】

相川藤左衛門【あいかわとうざえもん(15??~15??)】

有馬晴信家臣。福田の守備を行なった。

芦塚忠右衛門【あしづかちゅうえもん(1583~1638)】

芦塚忠右衛門の男。父芦塚忠右衛門は小西行長に家老職として仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、父芦塚忠右衛門とともに小西行長勢の先鋒となったが敗走した。その後は天草に隠れ住み、後に有馬晴信の家臣となって有家村に移住した。有馬晴信の病没後、浪人となった。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢に属して、真田信繁勢として弟芦塚忠太夫らとともに戦った。1638年、「島原の乱」の原城落城時には、手勢40余り率いて松平信綱の本陣に突撃し討死した。

荒川小伝次【あらかわこでんじ(15??~15??)】

有馬晴純家臣。吉川城主。

有馬晴純【ありまはるずみ(1483~1566)】

高来郡日之江城主。有馬尚鑑の男。官途は修理大夫。肥前守護職。室は大村純伊の娘。祖父有馬貴純の代に成長した勢力をさらに拡大し、高来郡を中心に島原半島一帯を支配下に治め、南蛮貿易を独占して有馬家の最盛期を創出した。1546年、龍造寺家兼の水ヶ江城を攻落すが、二ヵ月後に龍造寺家兼に奪還された。その後、有馬晴純は次男大村純忠を大村家へ養子に出したのをはじめ、千々石家に三男千々石直員、松浦家に、四男松浦盛を養子として送り、西肥前国支配の強化を図った。1550年、葡萄牙船が支配地に入港するようになる。これによる南蛮貿易の利益で有馬家はさらに発展したが、キリスト教も広まるようになった。有馬晴純はキリスト教を嫌い激しく弾圧した。1552年、嫡男有馬義貞に家督を譲った。

有馬義貞【ありまよしさだ(1521~1577)】

有馬晴純の男。官位は修理大夫。洗礼名「ドン・アンデレ」。室は安富越中守の娘。1552年、父有馬晴純の隠居により有馬家の家督を相続した。キリスト教に対する姿勢の違いから来る父有馬晴純との確執や大友義鎮や龍造寺隆信の圧迫、父有馬晴純の時代には服従していた西郷純堯等の台頭を受けて次第に勢力を失い、高来郡一郡を支配する小勢力にまで転落した。南蛮貿易で大きな利益を築き上げキリスト教に入信した。家臣団の中にも有馬義貞の影響を受けてキリシタンになった者が多かった。1570年、嫡男有馬義純に家督を譲ったが、まもなく病没したため次男有馬晴信が有馬家の家督を相続した。

有馬義純【ありまよしずみ(1550~1571)】

有馬義貞の男。官途は修理大夫。有馬家の家督を継ぐ前に足利義昭の相伴衆となった。1570年、父有馬義貞の隠居により有馬家の家督をを相続した。龍造寺隆信の圧迫を受けて領土を奪われ、有馬家は衰退してゆく中、嗣子の無いまま父有馬義貞に先立って病没した。

有馬晴信【ありまはるのぶ(1567~1612)】

有馬義貞の次男。官途は修理大夫。洗礼名は「ドン・プロタジオ」。1571年、兄有馬義純が病没したため有馬家の家督を相続した。有馬家は、龍造寺隆信やその支援を受けた西郷純堯、深堀純賢兄弟の圧迫を受けて、龍造寺隆信に臣従した。1580年、アレッサンドロ・ヴァリニャーノによる鉛、硝石などの軍事物資の提供によって敵勢を斥けた事によりキリスト教徒となった。1582年、大友義鎮や叔父大村純忠とともに「天正遣欧少年使節」を派遣した。1584年、島津義久勢の支援を受けた「沖田畷の戦い」では龍造寺隆信を討取った。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」では、羽柴秀吉勢に属した。羽柴秀吉のキリスト教の禁令が出されるまで、数万を超えるキリスト教徒を保護していた。1592年、「文禄、慶長の役」では小西行長勢に属して七年間朝鮮に在陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したが、敗退の報を聞くなり松平元康勢に寝返り、小西行長の宇土城を攻撃、その戦功により旧領を安堵された。1609年、松平元康の許可を受けて高砂国へ派兵するが、明国との貿易拠点を築くことは出来なかった。1609年、「岡本大八事件」により、有馬晴信は贈賄の罪をとわれて甲斐国初鹿野に追放された後で、死罪となった。

有馬純貞【ありますみさだ(15??~15??)】

有馬晴信次男。官途は右京亮。別名高麗曹司。有馬晴信が朝鮮出兵中に誕生した。

有馬純忠【ありますみただ(15??~15??)】

有馬義貞の末子。官途は備中守。大村家に養子に入った有馬純忠とは別人。

有馬鎮貴【ありましげたか(15??~15??)】

有馬義貞家臣。1577年、龍造寺隆信の高来郡侵攻を防ぐ。1578年、再び龍造寺隆信に攻められる。安富家、安徳家らが離反したため、有馬鎮貴も龍造寺家に降伏した。1582年、島津義久と結び、龍造寺隆信から離反した。深江城を攻めるも落とすことは出来なかった。
 
有馬直純【ありまなおずみ(1586~1641)】

有馬晴信の男。官途は左衛門佐。洗礼名「ミゲル」。室は小西如清の娘(マルタ)。継室は国姫(本多忠政の娘)。駿府城で松平元康に側近として仕えた。1610年、室のマルタを離縁して松平元康の養女国姫を室に迎えた。1612年、父有馬晴信は「岡本大八事件」の責任を問われて、改易された上で後に死罪となったが、有馬直純は松平元康との縁が深かったために連座を免れた。1613年、有馬晴信と流罪になった継室ジュスタの間に生まれた異母弟フランシスコ(富蘭)とマティアス(於松)を謀殺した。1614年、松平秀忠に転封を願い、日向国延岡城53,000石の転封し。

一瀬栄正【いちのせひでまさ(15??~15??)】

大村家臣。別名田中栄正。田中栄正が、深堀家の攻撃を受けた長崎純景を後援し、一瀬口で戦功を挙げたために大村純忠より「一瀬」を称するように命ぜられた。朝長純利と共に「老臣」といい多くの戦功を挙げた。

一瀬半左衛門【いちのせはんざえもん(15??~1577)】

菅無田砦守将。1577年、龍造寺隆信勢に攻撃を受け庄善助とともに攻められたため籠城した。

今道純周【いまみちすみちか(15??~15??)】

大村純忠家臣。官途は遠江守。三城七騎籠のひとり。1572年、三城籠城では、今道越後守ら十六名とともに搦手を守備した。塚崎城主後藤貴明、平戸城主松浦隆信、高城城主西郷純堯の連合軍が三城城を急襲すると、他の家臣が入城する間もなく完全包囲を完了した。城主大村純忠は、七騎衆(大村純辰、朝長純盛、朝長純基、今道純周、宮原純房、藤崎純久、渡辺純綱)の他は総勢80名程の家人や婦女子がいただけであったが、この兵力で籠城した。対する連合軍は兵1,500余り兵力で攻撃したが七騎衆の奮戦により落城させることが出来なかった。大村純忠の家臣富永忠重は、西郷家勢に味方すると見せて総大将尾和谷軍兵衛の陣を襲い、そのまま三城に入城する事に成功した。まもなく後藤貴明は軍勢を引いた。この戦いを大村家では後に「三城七騎籠」と称した。

岩永杢右衛門【いわながじょうざえもん(15??~15??)】

風南城主。三根角右衛門、三根常陸、一瀬善助とともに風南城を守備した。

和泉左京【いずみうきょう(15??~1584)】

島原純豊家臣。寺中城主。1584年、「沖田畷の戦い」後、島原純豊と和泉左京は島津義久に捕らえられて自刃した。

内海政通【うちのみまさみち(15??~15??)】

東彼杵郡内海城主。後藤貴明の侵攻を受け内海政通は討死した。
 
内海政広【うちのみまさひろ(15??~15??)】

内海政通の男。妹内海照日とともに後藤貴明勢と所領争いを繰り返した。
 
内海照日【うちのみてるよし(15??~15??)】

内海政通の娘。兄内海政広とともに後藤貴明勢と戦った。呪術によって後藤貴明勢 を惑わし、撤退に追い込んだ。1575年、後藤貴明が三条城を攻めると、大村純忠の命で呪詛を行った。

恵美須丸五郎右衛門【えびすまるごろうざえもん(15??~15??)】

大村純忠家臣。東彼杵郡重城主。1533年、大内義隆、原田興種の連合軍が肥前国に侵攻した際、大村豊前守尚純、朝永伊勢守純兵、庄式部少輔らで守備した。大内義隆勢に夜襲を仕掛け勝利した。後藤貴明の攻撃を受けるが大黒丸五郎兵衛、中尾喜之助らとともに奇襲を仕掛けて撃退した。

遠藤守護【えんどうしゅご(15??~15??)】

松浦諫の男。井出平城主。官途は但馬守。通称専右衛門。佐世保城主赤崎伊予守、日宇城主八並舎人、早岐城主佐々清右衛門を治めた。1563年、「飯盛山城の戦い」に参陣した。飯盛山城は、二年にわたる籠城戦の末に宗家の、松浦親は平戸松浦隆信、松浦鎮信父子に敗れ降伏、松浦親は出家し宗家松浦家は平戸松浦家に従属することとなった。武雄城主後藤貴明の佐世保地方の進出に伴い降伏するが、その後、佐世保、日宇、早岐地方は、松浦惟明の後藤家への養子、松浦親の後藤家の娘を嫁にしたため、その化粧料及び、同盟の証として平戸松浦家領になった。

遠藤胤盛【えんどうたねもり(15??~1572)】
 
遠藤守護の男。官途は但馬守。相神浦家が平戸家に降伏する際、両者の実務的な周旋役に指名され、平戸家、相神浦家にも信頼があった。1572年、龍造寺隆信に内通しているとして、松浦九郎親に討たれた。佐々清左衛門が遠藤胤盛の嫡男遠藤右近を討った。遠藤胤盛の亡き後、婿の赤崎伊予守が代わって治めた。

遠藤白縫姫【えんどうしらぬいひめ(15??~1572)】

遠藤盛胤の娘。遠藤盛胤の娘(白縫姫)は赤崎伊予守と許婚となっていたが、飯盛城主松浦九郎親が、烏帽子岳の狩りの帰りに、但馬館を訪れた。但馬館では、宴席を設け、白縫姫に舞いを舞わせてもてなした。松浦九郎親は、姫の舞いの姿をみて、一目で恋をしてしまった。松浦九郎親は姫を諦めることができず、松浦九郎親は「但馬謀叛」に事よせて但馬館を急襲し、姫を奪おうとした。但馬館は炎に包まれ、落城した。姫は但馬館を抜け出し、追っ手を逃れ将冠岳の岩穴に身をひそめた、夜が明け追っ手が岩穴に近づいたところ白い煙と共に真っ白い大蛇が現れ驚く兵たちを尻目に赤崎の方へ向かっていき途中の小島でふっつりと消え二度と現れることはなかった。

大串正俊【おおぐしまさとし(15??~1566)】

大村純忠家臣。神浦城主。別名神浦正俊。1566年、大村純忠に背き、後藤貴明に属したため大村純忠に討たれ、神浦城は破却された。

大串正信【おおぐしまさのぶ(15??~15??)】

大串正俊の男。1580年、長崎純景が深堀純賢に攻められるとこれを支援した。大串正信は、大村家臣となり、神浦の地頭となった。1592年、神浦正房は「朝鮮出兵」に従わなかったため、領地を没収され平戸に蟄居した。弟大串正高は「朝鮮出兵」に参陣し、音琴村にて采地200石を受けた。1615年、神浦正通は、再び神浦村を領した。

大野定屋【おおのさだいえ(15??~15??)】

大野定久の男。1563年、相神浦松浦家攻めでは嫡男大野定晨とともに参陣して総大将を勤めた。

大野定晨【おおのていしん(15??~15??)】

大野定屋の男。通称次郎右衛門。1563年、相神浦松浦家攻めでは父大野定屋と共に総大将として東光寺城に陣を構えた。度重なる相神浦松浦家攻めにおいて中核を担い、数々の戦いにも参陣した。「半坂の戦い」では、蜂の久保砦を攻めを行うが東秀勝らの反撃により大敗した。相神浦松浦家が飯盛山城退去後は佐々を治めた。 

大野山城守【おおのやましろのかみ(15??~15??)】

大野城主。1584年、龍造寺隆信は大野城を補給に活用し、多くの物資を搬入した。龍造寺隆信が討死すると、大野山城守は大量の兵糧を有馬晴信に献上し、討伐を免れた。

大村良純【おおむらよしずみ(15??~15??)】

大村純伊の男。官途は紀伊守。長男であったが病により家督を相続できなかった。大村純忠の家督相続後、家臣団が分裂したが、その一部はこの大村良純派を形成した。

大村純前【おおむらすみさき(15??~1551)】

彼杵郡今富城主。大村純伊の男。室は有馬尚鑑の娘。官途は丹後守。兄大村良純がいたが、病弱であったため、大村純前が当主となった。有馬家と結んで松浦家に対抗。大村純前は男子がなかったために有馬晴純の次男大村(有馬)純忠を養子に迎え入れて同盟を強化した。その後、大村純前には側室との間に実子又八郎(後藤貴明)が居たが、この養子縁組のために後藤貴明は、後藤家に養子に出された。1550年、大村家の家督を大村純忠へ譲った。

大村純忠【おおむらすみただ(1533~1587)】

有馬晴純の次男(大村純前の養子)。官途は民部大輔。室は西郷純久の娘。1550年、大村家の家督を相続した。1562年、大村純忠はポルトガル人の寄湊地として横瀬湊を提供、イエズス会に対して住居の提供を行った。1563年、キリスト教について学んだ後、大村純忠は家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励した。領民にもキリスト教の信仰を強いたため家臣や領民の反発を招いた。後藤貴明は、大村純忠に不満を持つ大村家の家臣団と呼応し反乱を起こして横瀬湊を焼き払った。1570年、大村純忠は葡萄牙人のために長崎湊を提供した。1572年、塚崎城主後藤貴明、平戸城主松浦隆信、高城城主西郷純堯の連合軍1,500余りが三城城を急襲すると、城内には女子供も含めて約80名しかいなかったが、援軍が来るまで持ち堪え撤退に追い込んだ。1578年、長崎湊が龍造寺隆信勢らによって攻撃されると大村純忠は葡萄牙人の支援によってこれを撃退した。その後は、龍造寺隆信の圧迫を受け、嫡男大村喜前を除く大村純宣、大村純直、大村純栄の三人を人質に取られるなど、従属状態にあった。1584年、「沖田畷の戦い」では龍造寺隆信方として参陣した。1586年、羽柴秀吉の「九州征伐」においては羽柴秀吉に従って本領を安堵された。

大村喜前【おおむらよしあき(1569~1616)】

大村純忠の男。官途は丹後守。室は有馬義純の娘。洗礼名「ドン・サンチョ」。1586年、羽柴秀吉の「九州征伐」で所領を安堵された。1592年「朝鮮出兵」にも参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属したために所領を安堵された。1602年、熱狂的な日蓮宗徒であった加藤清正の薦めもあってキリスト教を捨てて日蓮宗に改宗し、領内におけるキリシタンを弾圧した。

大村純宣【おおむらすみのぶ(15??~15??)】

大村純忠の次男。室は西郷純久の娘。1578年、大村家は、龍造寺隆信の圧迫を受け嫡男大村喜前を除く大村純宣、大村純直、大村純栄の三人を人質に取られるなど、従属状態にあった。1592年、「文禄の役」に参陣した。1596年、休戦して諸将が帰国する中、大村喜前の代わりとして朝鮮に留まった。

大村純直【おおむらすみなお(15??~1618)】

大村純忠の三男。官途は右馬助。1578年、大村家は、龍造寺隆信の圧迫を受け嫡男大村喜前を除く大村純宣、大村純直、大村純栄の三人を人質に取られるなど、従属状態にあった。1592年、「文禄の役」では兄大村喜前に従って参陣した。その後、伏見城でしばしば松平元康に拝謁し、髭が美しかったので「右馬助」と称すべし、との命を受けて右馬助と改めた。1614年「大坂冬の陣」に参陣した。

大村純栄【おおむらすみえい(15??~15??)】

大村純忠の四男。1578年、大村家は、龍造寺隆信の圧迫を受け嫡男大村喜前を除く大村純宣、大村純直、大村純栄の三人を人質に取られるなど、従属状態にあった。

大村純頼【おおむらすみより(1592~1619)】

大村喜前の男。官途は民部大輔。通称新八郎。室は大村頼直の娘。早くから父大村喜前と共に共同政治を行なった。1607年、松平元康の許しを得て、財源確保と藩主権力強化のために「御一門払い」と呼ばれる枝連衆からの領地没収を強制的に実行した。1614年「大坂冬の役」では松平元康方として参陣して、長崎の警備や羽柴家残党の追捕を務めた。1616年、父大村喜前が病没したため大村家の家督を相続した。父大村喜前と同じようにキリシタンを弾圧した。1619年、玖島城で急死した。

大村純辰【おおむらすみたつ(15??~15??)】

大村純忠家臣。三城七騎籠のひとり。1572年、塚崎城主後藤貴明、平戸城主松浦隆信、高城城主西郷純堯の連合軍が三城城を急襲すると、他の家臣が入城する間もなく完全包囲を完了した。城主大村純忠は、七騎衆(大村純辰、朝長純盛、朝長純基、今道純周、宮原純房、藤崎純久、渡辺純綱)の他は総勢80名程の家人や婦女子で籠城した。対する連合軍は兵1,500余り兵力で攻撃したが七騎衆の奮戦により落城させることが出来なかった。大村純忠の家臣富永忠重は、西郷家勢に味方すると見せて総大将尾和谷軍兵衛の陣を襲い、そのまま三城に入城する事に成功した。まもなく後藤貴明は軍勢を引いた。この戦いを大村家では後に「三城七騎籠」と称した。

大村純定【おおむらすみさだ(15??~1569)】

大村純辰の男。通称源次郎。1569年、大村純種が後藤貴明らと結んで大村純忠に背いたとき、小佐々純俊らとともに「葛ノ峠の戦い」で、大村純種、後藤貴明、松浦鎮信らと戦い討死した。

大村純勝【おおむらすみまさ(1565~1659)】

大村純定の男。官途は刑部大輔。1569年、父大村純定が討死したため、祖父大村純辰に養育された。1586年、謀叛した長純一攻めにおいて先鋒を務めた。1592年、「文禄の両役」に参陣した。1619年、大村純頼が急死した際は、同僚の大村頼直と協力して大村純信の家督後継に尽力した。大村純信が幼少の間は、大村純勝と富永忠清が名代として江戸に詰めた。室とした女性が短命であったらしく、朝長純基の娘、大村純安の娘、今村勝高の娘の計三名を迎えた。

大村純淳【おおむらすみあつ(15??~15??)】

大村純伊の四男(大村純次の養子)。小峰城主。大村純次は大村純尹の従兄弟にあたり、大村純尹治世下の家老職であった。

大村純種【おおむらすみたね(15??~15??)】

大村純淳の男。官途は三河守。父大村純淳は大村純前の弟なので、後藤貴明とは従兄弟の関係にあった。1569年、後藤貴明や松浦鎮信と結んで大村純忠を攻めるが「葛ノ峠の戦い」で勝利するものの大村純忠打倒には至らなかった。後に本家側に属すこととなった。

大村純晴【おおむらすみはる(15??~15??)】

大村家枝連衆。1574年、松浦家に内通した遠藤某が謀反したときに討伐に派遣された。

大村頼直【おおしまよりなお(15??~1625)】

相神浦松浦盛の男(長崎純景の養子)。別名松浦頼直。室は長崎純景の娘。父松浦盛が死去した際、大村頼直は幼少だったために母と共に大村家に移った。養父長崎純景が久留米藩士となった後も大村家に属し大村姓を与えられて老臣となった。1619年、大村純頼が急死したとき、大村純勝と共に大村純信の家督相続に奔走した。娘は大村喜前の嫡男、大村純頼の室となった。

大村純景【おおむらすみかげ(15??~15??)】

大村家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成が九州の大名を勧誘したときに大村喜前はそれに応じず、家臣大村純景を松平元康のもとに遣わし、二心のないことを示した。
 
大村尚純【おおむらなおずみ(15??~15??)】


大村家臣。1533年、大内家に攻められるも夜襲によって撃退した。
 
大村彦右衛門【おおむひこざえもん(15??~15??)】

大村家臣。1619年、大村純頼が没すると、大村家は御家断絶の危機に瀕する。大村彦右衛門は幕府と交渉し、大村家の存続を認めさせた。

大村筑前守【おおむらちくぜんのかみ(15??~15??)】

歌舞多城主。後藤貴明に攻められ城籠した。家臣の込屋玄蕃は籠城中ながら、双六のため後藤家側の小峰城に赴いた。後藤家勢はこれを知ると込屋玄蕃と通じ、歌舞多城内に火を放つことを約束させた。大村筑前守はこの事を知ると、城に戻ろうとする込屋玄蕃を討取った。後藤家勢は火攻めの刻限に城を囲むが、火は放たれなかった。後藤家勢は、門を開き突撃をかけた大村家勢に敗れた。

信が戦死すると、龍造寺家に属していた神代家は有馬家勢の攻撃を受ける事になり、この城も襲撃を受けて岡一族は皆自刃して果てた。
 
尾和谷軍兵衛【おわたにくんべい(15??~1572)】

尾和谷城主。西郷純尭家臣。姓は大渡野とも。1572年、西郷純堯は後藤貴明の要請を受け、大村純忠を攻撃した。尾和軍兵衛は三城攻めに兵300余名を率いて参陣した。大村家臣富永又助に謀られ、腿に重傷を負う。西郷家勢は大将の深手を理由に撤退した。大村勢の追撃により尾和軍兵衛は討死した。
 
尾和谷弥三郎【おわたによさぶろう(15??~1574)】

尾和谷軍兵衛の次男。1574年、「萱瀬城の戦い」で先鋒となるが討死した。

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【か】

吉川素庵【きっかわすあん(15??~15??)】

周防浪人衆。官途は近江守。1573年、三城籠城に参陣した。他に極楽寺住職阿金法印も城にいたため、籠城戦に参陣した。

加藤源之助【かとうげんのすけ(15??~15??)】

加藤景明の男。生月において籠手田家領、一部家領以外の所領を領した。仏教徒であり、キリシタンの籠手田家と一部家と激しく対立し、キリシタン教徒を迫害した。対キリシタン派の家臣の対立では仏教派の中心人物になった。合戦ではあまり活躍しておらず、家中での勢力的には大きくなかった。相神浦松浦家との戦いでは、海賊衆を率い海上封鎖等を行った。葡萄牙船を襲った「平戸沖の戦い」に参陣した。

釜之内新兵衛【かまのうちしんべい(15??~15??)】

重ノ城守将。後藤貴明に攻められると、重ノ城守将衆は新兵衛を囮として城に残し、他の者は付近に身を潜めた。後藤貴明が城の付近まで攻め込んでくると、守将らは挟撃を行い撃退した。他に守将として後藤菅牟田新次兵衛、坂本次郎左衛門がいた。

草野浄仙【くさのじょうせん(15??~15??)】

有馬義貞家臣。高田城主。

久能賢治【くのうかたはる(15??~15??)】

有馬義貞家臣。官途は武蔵守。家老職。国老中、数少ない新参で、有馬貴純時代に先祖である久能与八郎が家臣となった。

久能純能【くのうすみたか(15??~15??)】

久能賢治の男。

木戸万九郎【くどまんくろう(15??~1577)】

千々石直員家臣。千々石直員、千々石澄員の二代に仕えた。1577年、龍造寺勢に攻められ、千々石澄員とともに自刃した。

神代貴茂【くましろたかしげ(15??~1584)】

高来郡神代城主。1584年、有馬・島津連合軍と肥前龍造寺軍の沖田畷の戦いにおいて、龍造寺方の武将として従軍。総大将の龍造寺隆信が戦死後、龍造寺軍は総崩れし、有馬に反旗を翻していた各所の武将たちも有馬に降伏する中で、ただ一人最後まで抵抗した。神代氏の守る鶴亀城は難攻不落の城であり、有馬晴信はまともに城を攻めることをやめ、謀略を画策。近くの多比良城にて講和会議の場を設けたその帰り、神代貴茂は現在の国見町犬馬場において、有馬の兵士により、暗殺される。その直後、鶴亀本城と数基の支城は次々と陥落し、鎌倉時代より続いたとされる神代一族は滅亡した。

神代貴茂【こうしろたかしげ(15??~1584)】

神代城主。1584年、龍造寺隆信は、諫早城主西郷純堯を討ち、島原日之江城主有馬晴信を攻めるべく神代城を本陣として「沖田畷の戦い」が行われた。龍造寺家勢の敗退後は有馬家勢の猛攻を受けた。有馬家に反旗を翻していた各所の武将たちも有馬家に降伏する中で、最後まで抵抗した。神代貴茂の守る神代城は難攻不落の城であり、有馬晴信はまともに城を攻めることをやめ、謀略を画策。近くの多比良城にて講和会議の場を設けたその帰り、神代貴茂は謀殺された。


神代勝利【こうしろかつとし(1511~1565)】

神代利久の男。通称新次郎。官途は大和守。神代氏は筑後高良山玉垂宮の宮司であったとゆうが、父の代に1504年に神代の地を追われ、肥前千布城主陣内大和守の女婿に迎えられて零落した神代氏の復興に努めたとゆう。その子勝利は初め千葉興常に仕えて頭角を表わし、1557年には金敷峠で龍造寺隆信をを撃破。1558年の春日山合戦では龍造寺の将小河信安を討つ。1562年龍造寺氏と縁戚を以って和議を結び、1565年、享年55歳にて死去。1545年に豊姫神社に対し灯油料を免除し、1548年には肥前佐嘉郡内の所領を寄進している。また室は千葉胤頼の女であったので、のち千葉胤誠は勝利を頼ったといわれる。ただし勝利は1511年生、胤頼は1532年生なので、室は興常又は喜胤の娘のほうが実際に則していると思われる。対龍造寺の先鋒であったが、死に際して息子長良に龍造寺隆信ではなく鍋島直茂の麾下につくよう遺言したとゆう。現在佐賀県に残る「ノーヤ節」のモデルとなった人物ともいわれる。剛勇だが懐も大きく、あるとき龍造寺氏臣小河筑後守信安が勝利を暗殺しにやってきたが、そのときちょうど酒宴の最中で、侍女の報告で何者かが潜んでいると聞いた勝利は「小河筑後に違いないから宴に招け」とこともなげに命じ、信安もバレてはしかたがないとして勝利のもとを訪ね、ともに楽しんだとゆう逸話がある。

神代長良【こうしろながよし(15??~15??)】

神代勝利の男。官途は刑部大輔。1564年父の隠居を受けて家督を相続した。翌1565年に父勝利が死去すると、1562年の和議があったため油断していた長良は納富信景ら龍造寺勢の急襲にあって土生島城を落去し、筑前の大都留宗秀を頼った。しかし同年肥前神埼郡三瀬城に拠って龍造寺氏に対抗する。1566年納富信純(信景の男)を敗死させ、信景にも追撃を加えてこれを逐い、佐嘉郡に侵攻した。その後1570年に龍造寺氏と和睦。1579年長良は鍋島直茂の弟小河信俊(本当に弟かどうかは不明)の息子家良を養子に迎えた。子孫は鍋島姓を許され、川久保鍋島氏となる。

大坪太郎【おおつぼたろう(15??~15??)】

大坪城主。神代貴茂家臣。

岡貴明【おかたかあき(15??~15??)】。

岡城主。神代貴茂の弟。通称刑部。1584年「沖田畷の戦い」で龍造寺隆


小佐々弾正忠【こざさだんじょうちゅう(15??~15??)】

多比良(小佐々)城主。大村純伊家臣。西彼杵半島の突端部とその周辺に移住して、多比良に城を築き、江島等諸島飛石伝いに五島と海路をつなぎ、そこを通過する船の水先案内につとめ、関税をとり、豊富な財力をたくわえた。小佐々海賊衆独特の石垣囲い山城を多比良、中浦、松島、神浦、雪浦、日並、子々川等に築き、大村純忠と結んで、外浦辺の豪族となった。

小佐々純俊【こざさすみとし(15??~1569)】

小佐々弾正忠の男。官途は弾正忠。弟の甚五郎を中浦城に入れ、やはり弟の次郎左衛門を松島城に入れて防備を固め、小佐々海賊衆を率いて五島列島周辺に活躍した。1563年、大村純忠とともに横瀬浦において受洗した。1569年、宮村城主大村純種が後藤貴明、松浦鎮信に属して大村純忠に叛したとき、「葛ノ峠の戦い」で、平戸の松浦鎮信勢の来援で形勢が逆転退くことになった。軍の殿をつとめ、大村純定と共に小佐々純俊、中浦純吉、松島純定が討死した。

小佐々純正【こざさすみまさ(15??~15??)】

小佐々純俊の男。官途は弾正忠。1570年、崎戸浦に来寇した平戸の軍船二艘を迎え討った。敵将の荒木内蔵充、末次隼人を他敵兵ことごとく、あるいは射殺、あるいは捕らえて完勝した。小佐々家はその後、多比良、中浦、松島の三家にわかれた。1587年、羽柴秀吉による「九州討伐」に際して小佐々純正は積極的には協力しなかった事で 多比良城も廃却となった。1592年、「文禄の役」では、小西行長勢に供出したが、消極的で小佐々家の領地は、大村家の領地となり家臣になった。

小佐々兵部【こざさひょうぶ(15??~15??)】

小佐々純正の男。1572年、三城籠城に参陣した。武雄、諌早、平戸連合軍1,500余りを迎え撃った。大村純勝は後に小佐々兵部の未亡人を後室に迎え、その連れ子小佐々純正と娘をめあわせて大村家の家督を譲った。

後藤純明【ごとうすみあきら(15??~1553)】

武雄郡塚崎城主。渋江公勢の男。後藤職明の養子。潮見城主渋江公勢と後藤職明の娘の間に生また。後藤職明に嫡子がなかったため、後藤職明の養子となった。1527年、父渋江公勢を謀殺して、渋江家領を攻略し自己の領地とした。1530年、有馬晴純が武雄の塚崎城を攻め、山内の住吉城にまで迫った。後藤純明は、勝利を黒髪山に祈り「白水原の戦い」で有馬勢を奇襲して勝利した。その後、後藤純明と有馬晴純は和睦し、後藤純明は有馬晴純の妹を室とした。1535年、後藤純明は有馬晴純を助け龍造寺家兼と戦い勝利した。1540年、千葉喜胤が杵島郡に進出してきたため、後藤純明は有馬勢に加わって千葉勢に勝利した。1542年、渋江公勢の三男渋江公親が旧領を回復すべく岸岳城主波多隠岐守と平戸城主松浦肥前守とともに攻め入ってきたため防戦するも失敗し、住吉城に退却する。渋江公親は日皷山城に入るも、後藤純明はその三ヵ月後、日皷山城を攻略し、渋江公親を敗走させた。1545年、大村純前の後藤貴明を養子とした。

後藤貴明【ごとうたかあき(1534~1583)】

大村純前の男(後藤純明の養子)。官途は伯耆守。通称又八郎。1545年、後藤純明のもとに養子に出され、大村家は有馬晴純の息子大村(有馬)純忠が相続することになった。このため後藤貴明は大村領に度々侵攻し、家督簒奪者である大村純忠を悩ませた。1560年、長島庄の旧主である渋江公親の子、渋江公師(貴明の従兄弟)が守っていた潮見城が有馬晴純の軍勢に奪取されると、後藤貴明は直ちに出陣、奪還した。この際、渋江公師は後藤貴明の怒りに触れることを恐れ肥後に逃亡した。1561年、塩田を攻め、原直景を降伏させた。1562年、大友宗麟と同盟を結んだ。1566年、波佐見に侵入し、内海城主内海政通を「萱地ヶ原の戦い」で討取る。平戸松浦隆信の息子後藤(松浦)惟明を養子に迎えたが対立して廃嫡し、のち対大村、有馬家への関係から龍造寺家との連携を深めるため養子後藤家信を迎えた。

後藤惟明【ごとうこれあき(1545~15??)】

松浦隆信の次男。後藤貴明の養子。通称弥二郎。室は平井経治の娘。1560年、武雄の領主であった、後藤貴明の養子に迎えられた。後藤貴明に実子がいなかったことと、松浦隆信が宗家の相神浦松浦氏と対立する中で後藤家の支援を求めた政略的事情が、養子になった理由であった。1562年、養父後藤貴明に実子後藤晴明が誕生した。1563年、相神浦松浦家が平戸松浦家に降参した。このため惟明が養子になった理由は失われ、後藤家中での立場を弱くしていった。1574年、後藤惟明は養父後藤貴明に対して反逆する。一時は養父を居城から追放するまでに至るも、後藤貴明が龍造寺隆信に支援を求めたため、後藤惟明勢は龍造寺隆信勢に攻撃され降伏した。後藤惟明は平戸松浦家を頼って落延びた。

肥前後藤純明【ごとうすみあきら(15??~1553)】

潮見城主渋江公勢の男(後藤職明の養子)。後藤職明に嫡男がなかったため、後藤職明の養子となった。1519年、円応寺を創建した。1527年、渋江公勢を謀殺して、塩見城を攻略して領地とした。1530年、有馬晴純が塚崎城を攻撃すると、後藤純明は、白水原に陣取っていた有馬晴純勢を奇襲して勝利した。その後、有馬晴純と和議を結び、後藤純明は有馬晴純の妹を室として迎えた。1535年、後藤純明は有馬晴純を支援して龍造寺家兼と戦い勝利した。1540年、千葉喜胤が杵島郡に侵攻すると、有馬晴純勢に参陣して千葉喜胤勢を撃破した。1542年、渋江公親、岸岳城主波多隠岐守、平戸城主松浦肥前守らの攻撃を受け敗走するも、三ヵ月後日皷山城を攻略し渋江公親を敗走させた。

1543年)、馬場頼周から龍造寺氏を計略にかけるための協力を求められた。頼周は、純明のほかにも有馬晴純や多久氏、波多氏、鶴田氏、馬渡氏など西肥前の豪族に対し協力を求め、龍造寺家兼の主君少弐冬尚に叛旗を翻して兵を挙げたふりをさせた。他方で少弐冬尚には、龍造寺家兼が謀反を企んでいると信じさせ、龍造寺氏を計略にかけるために家兼に西肥前の豪族の討伐を命じるよう働きかけた。天文13年(1544年)、龍造寺家兼は、少弐冬尚が命ずるままに一族を西肥前に攻め入らせたが、天文14年(1545年)、龍造寺軍は敗走、家兼が居住する水ヶ江城は逆に包囲された。馬場頼周は、龍造寺一族の一部を少弐冬尚に謝罪に来させ、残りは筑前に一時退避させることが良いだろうと家兼に提案、しかし、馬場頼周により、謝罪に来た側も筑前に退避しようとした側も途中で待ち伏せされて殺され、龍造寺一族は滅亡の危機に陥った。天文14年(1545年)、大村純前の実子(庶子)であった又八郎(後の貴明)を養子として武雄に引き取った。

肥前後藤貴明【ごとうたかあきら(15??~15??)】

大村純前の男。大村氏から養子として後藤氏へ [編集]
貴明は大村純前の庶子であったが、有馬晴純の子(大村純忠)が大村氏の跡継ぎになるに及び、天文14年(1545年)、後藤氏に養子に出された。大村氏家臣団の中には、もともと跡継ぎであった貴明を追い出す原因となった純忠に反発する動きがあり、また純忠がキリシタンに入信したこともあって、貴明によしみを通じる者が続出したため、貴明は純忠としばしば対立することとなる。このため、ルイス・フロイスの『フロイス日本史』にも、「後藤殿」として大村氏と敵対する立場でしばしば登場する。
なお永禄3年(1560年)、貴明は当時実子がなかったことから、平戸城主の松浦隆信から惟明を養子に迎えている。
大村氏、有馬氏、龍造寺氏との戦い [編集]
永禄3年9月、長島庄の旧主一族である渋江公師(貴明の従兄弟)に守らせていた潮見城(武雄市橘町永島)が有馬晴純の軍勢に攻められ奪取されると、貴明は直ちに出陣しこれを奪い返した。このとき、渋江公師は貴明の怒りに触れることを恐れて肥後国に逃亡したという。同年12月、今度は須古城(白石町堤)を攻めるが敗退する。
永禄4年(1561年)、塩田(嬉野市塩田町)を攻め、領主・原直景を降伏させる。永禄5年(1562年)、貴明は大友宗麟に秘かに書簡を送り、翌年、同盟を結ぶこととなった。
永禄6年(1563年)7月、貴明は大村家臣団と呼応してクーデターを起こさせ、自らも出陣して大村氏の平定を試みるが敗退する(野岳の戦い)。また、針尾島に兵を出して佐志方城を攻め落とし、かつ、佐世保、日宇、早岐、針尾島の四ヶ村を自らの領土としたという。なお、このとき、貴明に呼応した横瀬浦奉行・針尾伊賀守とともに、大村純忠が前年ポルトガルに提供した横瀬浦港も焼討ちした(『フロイス日本史』によれば8月15日(7月27日 (旧暦))の出来事とされている)。
同年7月、龍造寺隆信が武雄の手前の北方に迫ったため、貴明は隆信と和議を結ぶ。同年8月には和議に従って龍造寺氏の先鋒として須古城の平井経治を攻めるが失敗。貴明は逆に経治の娘を嗣子・惟明の妻に迎えて同盟を結んだ。永禄7年(1564年)2月、隆信は再度須古城を攻めるが、貴明は経治との同盟に従い龍造寺軍を攻撃、結局この戦の勝敗はつかなかった。
同年3月、今度は、平戸の松浦氏や諫早の西郷氏と呼応して大村方の彼杵城を攻め落とした。これに対し、同年8月、有馬・大村の連合軍が彼杵城に迫るも撃退、有明海側の鹿島方面からは有馬軍が塩田に迫ったが、これも撃退した。永禄9年(1566年)7月、貴明は大村に出陣し大村純忠を攻めるが失敗する。
元亀元年(1570年)4月、大友宗麟による佐嘉城(別名、佐嘉龍造寺城・村中城)の龍造寺隆信攻めに協力して包囲網の西方向から参陣する。なお、このときは大友氏に服属していた諸氏のほか、有馬氏、大村氏、西郷氏、平井氏も包囲網に参加し、龍造寺方5千に対し、大友方は6万とも8万といわれた戦いであり、龍造寺方の敗北は必至と思われたが、鍋島直茂(当時の名は鍋島信生)による奇襲により大友方は敗退している(今山の戦い)。
さらに元亀3年(1572年)7月には、平戸の松浦氏や諫早の西郷氏と呼応して、大村純忠の居城である三城を兵1500を率いて包囲した。三城にはわずか七騎(士官クラスの武将が7人。非戦闘員を含めて約80人程の籠城要員は存在)しかいなかったにもかかわらず、純忠は何とか防ぎきり、貴明は三城を陥とすことができなかった。
龍造寺氏の支配下へ [編集]
今山の戦いの後も、元亀2年(1571年)、天正元年(1573年)、天正2年(1574年)と数度にわたり、多久や北方方面で貴明は龍造寺氏と戦っている。ところが、同年6月に養子・惟明が叛旗を翻したため、やむを得ず貴明は龍造寺隆信に救援を求め、惟明に勝利した。そして、貴明は龍造寺隆信に実子・晴明を人質に差し出している。
しかしながら、明くる天正3年(1575年)8月には早くも隆信との和議は破綻した。天正4年(1576年)3月には隆信が貴明の居城である塚崎城まで迫り、城に放火している。結局、天正5年(1577年)2月に再度貴明と隆信の和議が成立するが、これは貴明の実子・晴明(後の龍造寺家均)を隆信に養子に出す代わりに、隆信の三男である家信を貴明の娘・槌市と結婚させ貴明の養子とするというものであった。すなわち、隆信の勢力が拡大するに及び、その支配下に入らざるを得なくなったのである[1]。
同年及び天正6年(1578年)に隆信に従って貴明と家信は大村に出陣し、大村純忠は天正6年(1578年)7月、ついに隆信に降伏した。天正11年死去。沖田畷の戦いで隆信が戦死する1年前のことであった。

後藤貴明【(15??~15??)】


後藤家信【ごとういえのぶ(1563~1622)】

武雄城主。龍造寺隆信の三男(後藤貴明の養子)。通称善次郎。室は後藤貴明の娘(槌市)。1577年、後藤貴明の嫡男後藤晴明(龍造寺家均)を龍造寺家へ養子に出す代わりに、龍造寺隆信の三男龍造寺家信が後藤貴明の娘(槌市)と結婚して養子とした。以後、龍造寺隆信に属して北九州各地を転戦した。1579年、後藤家信は筑後国、肥後国に侵攻して相良、米良、宇土、麻生といった肥後衆と戦い数々の戦功を挙げた。1580年、龍造寺政家に属して柳川の蒲池鎮漣攻め参陣した。1581年、兄龍造寺政家、江上家種とともに肥後国に攻め入り、隈府城主赤星統家、御船城主甲斐親直、隈本城主城親賢らを降した。1582年、田尻鑑種が龍造寺隆信から離反したため、龍造寺政家を大将に後藤家信と鍋島直茂が副将を務めこれを攻撃した。1584年、島津義久、有馬連合軍との「沖田畷の戦い」では、父龍造寺隆信が討死し、後藤家信も敗走した。1587年、羽柴秀吉の「九州討伐」に参陣し、薩摩国の湯浦まで攻め入った。1590年、杵島郡のうち長島方3,379石、杵島郡塚崎庄9,364石、下松浦郡のうち有田3,659石、小城郡のうち東郷330石の計19,703,9石を領した。1592年、「文禄の役」では加藤清正勢に属して、朝鮮の二王子(臨海君、順和君)を捕らえるべく兀良哈まで攻め入った。1598年、蔚山城に籠城中の加藤清正を救出するという戦功を挙げた。

その代理として嫡子茂綱が朝鮮に出陣している。
慶長6年(1601年)、佐賀藩鍋島氏の他、龍造寺4家(諫早、武雄、多久、須古)にも江戸に人質を差し出すことが求められる江戸証人の制度が導入され、翌年、家信は三男茂延を江戸に送っている。

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【さ】

西郷純久【さいごうすみひさ(15??~15??)】

有馬尚鑑の男(西郷尚善の養子)。船越城主。官途は対馬守。西郷家を継ぐ。武雄城主後藤純明と戦うなど、兄有馬晴純を助けて各地で活躍した。西郷純久は内政に尽くした。西郷純久には三人の男子があり嫡男西郷純堯は西郷家惣領となり、次男西郷純門は宇木城主に、三男深堀(西郷)純賢は深堀善時のあとを継いだ。娘は大村純忠の室となった。

西郷純堯【さいごうすみあき(15??~15??)】

西郷純久の男。有馬家城下に出仕はせず、半独立的家臣であった。1572年、西郷純堯は深堀純賢と図って大村純忠を攻撃、深堀純賢は長崎家を攻撃した。深堀純賢は長崎家の館や村、教会を焼きはらったが、キリシタン武士や村落民の抵抗を潰し得なかった。西郷純堯は大村純忠を攻め立てたが、大村純忠の反撃によって兵を引いた。1577年、龍造寺隆信が西郷純堯を討とうとして諌早に出陣してくることを知った西郷純堯は、有馬晴信に救援を求めた。神代、島原、安富家が龍造寺隆信方に付いたため、有馬晴信は西郷純堯に援兵を送ることができなかった。西郷純堯はひとり龍造寺家勢を迎撃することになったが、弟深堀純賢が仲介の労をとって和議が成立した。

西郷信尚【さいごうのぶなお(15??~1587)】

西郷純堯の男。官途は肥前守。有馬晴信も龍造寺隆信に降ったが、有馬晴信は島津家に通じて龍造寺隆信から離反した。1580年、大村、長崎連合軍によって西郷家勢は敗戦を被った。このとき、深堀の兵400余りは森崎に砦を構えて迎撃の態勢をとったが、長崎純景が自ら兵300余りを指揮し桜馬場城を出て森崎に向かい、それに大村家の援軍も加わったため深堀の兵も破られた。1584年、龍造寺隆信は有馬晴信を討つため兵30,000余りを率いて出陣、有馬、島津家の連合軍と「沖田畷の戦い」で討死した。1587年、「九州征伐時」に参陣しなかったため、羽柴秀吉の命を受けた龍造寺家晴の討伐を受け、西郷信尚は室の実家である平戸に逃れ、嫡男西郷純久は松浦家に仕え500石を領した。

佐川守純【さがわもりずみ(1580~1624)】

志佐純意の男(桃井兵庫助の養子)。通称主馬。佐川純昌の養子となっていた佐川守純は、志佐純高の討死を聞いて、朝鮮に渡ろうとするが十三歳のため周囲から阻止されるも輸送船に潜伏し朝鮮に上陸。朝鮮では戦功を挙げた。佐川守純はその後福島正則に仕え、その改易後、松浦鎮信に仕え国家老となった。 

佐志方杢兵衛【(15??~15??)】

佐志方城主。松浦家臣。佐志方家は針尾島の北部を支配した一族で南部を支配していた針尾家と度々争った。何度か針尾家によって島を追い落とされたが、佐志方杢兵衛は松浦家に属し、針尾島での領地を奪還した。後藤家が松浦家と同盟を結んだ際、早岐、針尾地方が後藤家から松浦家に渡された為、佐志方家も松浦家に属した。1564年、大村家の侵攻を受けるが佐志方杢兵衛と牛ノ岳城主針尾伊賀守はこれを迎撃し戦功を挙げた。

佐志方善芳【さしかたぜんぽう(15??~15??)】

佐志方杢兵衛の男。1586年、広田城は大村嘉前、有馬晴信、波多鎮の連合軍の攻撃を受けた。城主佐々清左右衛門と城兵350余りと共に籠城を続け、松浦鎮信の援軍が到着するまで持ちこたえた。松浦鎮信は続いて大村嘉前方の彼杵城を攻撃したが、逆襲に遭い敗退、佐々清左右衛門は討死した。佐志方善芳は嫡男佐志方庄左衛門によって救出された。

佐志方庄左衛門【さしかたじょうざえもん(15??~15??)】

佐志方善芳の男。

佐世保諫【させぼいさむ(15??~1528)】

佐世保城主。松浦定の次男。官途は丹後守。通称源三郎。室は志佐純元の娘。兄の大智庵城主松浦政がに攻められた際は、中立を維持した。佐世保諫が病没すると、佐世保城は、遠藤専右衛門が受け継ついだ。

佐々元喜【さっさもとよし(15??~1563)】 

鳥屋城城主佐々頼の男。官途は刑部少輔。1563年、松浦隆信に属して「半坂の戦い」で討死した。

佐々清左右衛門【さっさきよざえもん(15??~1586)】 

佐々元喜の男。通称可雲。1572年、松浦九朗親が遠藤但馬守を討取った際、指方杢兵衛と共に遠藤但馬守の嫡男遠藤右近を討取った。その後、広田城に在番した。1586年、広田城は、大村嘉前、有馬晴信、波多鎮の連合軍の攻撃を受けた。佐々清左右衛門は、松浦鎮信の援軍が到着するまで、城兵350余りと共に籠城を続けた。連合軍を打ち破った松浦鎮信は、大村嘉前方の彼杵城を攻撃したが、佐々清左右衛門と佐志方善芳は敗退した。佐々清左右衛門は大村与一によって討取られた。頸は松浦家方の北川長介によって奪還された。佐志方善芳は、嫡男佐志方庄左衛門によって救出された。

佐々伝右衛門【さっさでんざえもん(15??~15??)】

佐々清左右衛門の男。父佐々清左右衛門とともに広田城に在番した。1592年、「文禄の役」では、居留守役を務めた。

紫加田定相【しかたじょうそう(15??~15??)】

紫加田始。官途は兵部少輔。別名志方定相。父紫加田美濃守始は松浦豊久の六番目の弟。1563年、嫡男紫加田市之丞とともに「半坂の戦いで討死した。

紫加田市之丞【しかたいちのじょう(15??~1563)】

紫加田定相の男。別名志方市之丞。1563年、父紫加田定相とともに「半坂の戦い」で討死した。

紫加田鷲之丞【しかたわしのじょう(15??~1592)】
 
別名志方鷲之丞。1586年、「井出平の戦い」に参陣した。1592年、「文禄の役」に参陣後、早岐木原で病没した。

志佐純元【しさすみもと(15??~15??)】 
 
直谷城主。通称源四郎。室は有馬隆信の娘。田平峰家より家を継ぐ。峯家の長男であり、平戸家を継いだ次男松浦弘定と不仲になった。田平の志佐純元が平戸城主松浦弘定と争い、不利となり有馬隆信に支援を依頼し、大村純忠、佐々清左右衛門、相神浦松浦親と連合し松浦弘定を攻めた。後に和睦し、志佐純元の嫡男松浦(志佐)興信を平戸松浦家の養子にする事で決着した。この後、志佐純元は城を次男志佐純次に譲り三男志佐純忠と共に、江迎に深江城を築き移り住んだ。

志佐純昌【しさすみまさ(15??~15??)】
 
志佐純次の男。官途は壱岐守。通称源四郎。志佐純次の嫡子志佐純昌が早世し、次男志佐純元が志佐家の家督を相続した。

志佐純次【しさすみつぐ(15??~15??)】 
 
志佐純元の次男。官途は壱岐守。通称源二郎。次男志佐純次に家督を譲って深江に隠退しその没後は三男志佐純忠に深江城を与えた。深江城主志佐純忠は兄達に比べて領地が狭く、松浦興信からの圧力が強かった為に松浦興信に属した。志佐純次によって急襲を受け、深江城を捨て平戸へと逃れた。平戸松浦家勢は急ぎ追討し、直谷城と攻め寄せ、志佐純次は降伏した。

志佐純意【しさすみおき(15??~15??)】 
 
志佐純次の男。官途は壱岐守。通称源七郎。志佐純量出奔後、直谷城主となった。平戸、西郷、後藤による大村三城攻めの総大将と参陣するも敗退した。

志佐純高【しさすみたか(15??~1592)】 
 
志佐純意の男。通称源六。1592年、「文禄の役」で討死した。 

志佐純量【しさすみます(15??~15??)】 
 
志佐純昌の男。父志佐純昌が早世し、叔父志佐純元が志佐家の家督を相続した。1581年、志佐純量は、母方の有馬家の後援を得て直谷城を奪回しようとした。松浦隆信の娘が室であった志佐純元は、松浦隆信の支援で志佐純量を殲滅し、これをきっかけに志佐家も松浦家の麾下に属した。

渋江公勢【しぶえきみせ(15??~1527)】

潮見城主。官途は薩摩守。1507年、有馬尚鑑と大村純伊が戦い、敗れた大村純伊は落延びていた。渋江公勢は大村純伊とともに有馬尚鑑を攻撃、激戦のすえに有馬尚鑑勢は敗退し大村純伊は本領を回復した。渋江公勢は潮見城を本拠としていたが、渋江公勢は枝連衆の井手家の日鼓山を新たな居城とした。渋江公勢の嫡男渋江澄明は後藤家を継承した。渋江公勢は次男渋江公政、三男渋江公親とともに日鼓城に住した。1527年、渋江公勢は渋江公政、渋江公親と鞠遊びに興じている時に、三男渋江公親によって謀殺された。

渋江公政【しぶえきみまさ(15??~1527)】

渋江公勢の次男。1527年、渋江公政は父渋江公勢と弟の渋江公親と鞠遊びに興じている時に渋江公親によって謀殺された。

渋江公親【しぶえきみちか(15??~15??)】

渋江公勢の三男。官途は下野守。1527年、父渋江公勢、兄渋江公政を謀殺し家督を相続した。これを聞き渋江公勢の長男後藤澄明兵は、実家渋江家の内訌に付け込み、渋江家に侵攻し日鼓岳城を攻めた。渋江公親の一族郎党は後藤澄明に通じていたため防御の術を失い、松浦郡波多家を頼み、貴志長城に落延びた。1542年、波多隠岐守、松浦肥前守の援兵3,000を率いて、後藤純明勢と戦い、激戦のすえに後藤家勢を破り日鼓城に復帰することができた。後藤純明は軍勢を整え日鼓城に攻め寄せてきた。渋江勢は固く城を守って後藤勢を迎え撃ったが、後藤勢は大軍でありつぎつぎと城兵は討たれ、渋江公親は、嫡男渋江公師と共に落延びた。

渋江公師【しぶえきみまろ(15??~15??)】

渋江公親の男。官途は豊後守。1559年、有馬義貞と大村純忠が、武雄方面に侵入すると、後藤貴明は、渋江公師と渋江公重を長島庄に「帰参」させ、有馬義貞の侵出に備えさせた。有馬義貞は、潮見城を攻め、渋江公重は討死し渋江公師は室のいる菊池へと落ちて行った。後藤純明はすぐに急襲して有馬義貞勢を討ち果たして潮見城を奪還した。1562年、渋江公師を再び帰参させた。1564年、有馬家勢は渋江公師を攻撃した。渋江公師は後藤貴明に急を報じると有馬家勢を迎かえ撃った。そして、後藤家勢と連携して有馬家勢を挟撃すると散々に打ち破った。1574年、後藤貴明と養子後藤惟明との間で内訌が起こり、後藤貴明は龍造寺隆信に支援を求め、以後、後藤家は龍造寺家の麾下に属した。1577年、龍造寺隆信は後藤貴明と語らって大村純忠を攻め、大村純忠は渋江公師を通じて龍造寺家方に降った。渋江公師は、波多親、松浦鎮信、大村純忠をたのみ、再起を図ろうとしたが、大村純忠らも龍造寺隆信の麾下に属よになり、渋江公師も次男渋江公茂を人質に送り、龍造寺隆信に帰服した。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」では、渋江公師は旧領回復はならず、嫡男渋江公種を大村純忠にゆだねると波多親のもとに赴いた。

渋江公重【しぶえきみしげ(15??~15??)】

渋江公師の男。別名大村公重。室は大村純友の娘。大村喜前から大村家を賜った。子孫は代々大村家の重臣として続いた。

渋江公茂【しぶえきみもり(15??~15??)】

渋江守公師の次男。松浦鎮信に仕え、平戸に留まった。

島原純茂【しまばらすみしげ(15??~15??)】

浜ノ城主。有馬家臣。室は安富徳円の娘。キリスト教と距離を置き、有馬義貞も妥協せざる得ない程勢力を持っていた。龍造寺家の侵攻に際しては西郷家と共に平戸に逃れた。

島原純豊【しまばらすみとよ(15??~1584)】

島原純茂の男。キリスト教で対立していた古賀越中守を謀殺した。1584年、「沖田畷の戦い」で、島原純豊は、龍造寺家に属した。龍造寺隆信が討死して龍造寺家勢が敗走すると浜ノ城は有馬晴信、島津家久勢に囲まれ落城した。島原純豊は薩摩国に送られ謀殺された。

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【た】

多比良重純【たいらしげずみ(15??~15??)】

南高来郡多比良城主。戦国時代、多比良重純は有馬家に属した。1584年、「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信が討死した後、神代城主神代貴茂は最後まで日之江城主有馬晴信に抵抗するが、神代貴茂は有馬晴信とこの城で和睦した。有馬晴信は多比良城で酒宴を設け、その帰路に神代貴茂は、有馬家臣に謀殺された。

田川隆重【たがわたかしげ(15??~15??)】

鳥越城主。官途は弾正忠。1480年、大村純伊が有馬家から旧領を奪還する際、田川隆重が大村純伊を援けた。

田川隆通【がたわたかみち(15??~15??)】

田川隆重の男。官途は上野守。1563年、後藤貴明との戦いで戦功を挙げた。

田川隆武【たがわたけよし(15??~15??)】

田川隆通の男。畝刈に転封となった。

鷹屋純次【たかやすみつぐ(15??~15??)】

有馬晴信時家臣。久能純能と同様、有馬家枝連衆ではない家臣。

田崎藤之助【たざきとうのすけ(15??~15??)】

風南城主。枝連衆の田崎新右衛門、田崎平右衛門、田崎志摩守、田崎越中守、田崎近江守、田崎与左衛門と共に城を守った。

谷川弾正左衛門【たにがわだんじょうざえもん(15??~15??)】

有馬義貞家臣。

谷川純之【たにがわすみゆき(15??~15??)】

谷川弾正左衛門の男。罪を犯し弟谷川純奔とともに断絶した。

千々石淡路守【ちぢわあわじのかみ(15??~15??)】

釜蓋城主。有馬家臣。1563年、守山城は有馬勢に攻められ落城、討死した。他に田中監物、守山宮内も西郷家に寝返った。

千々石直員【ちぢわなおかず(1545~1570)】

有馬晴純の三男。官途は淡路守。1563年、後藤貴明に属して兄大村純忠と争った。1570年、藤津郡での龍造寺家勢の攻撃に対し、千々石直員に援兵を与え現地に向かわせたが「横造城の戦い」で、龍造寺家勢に攻められ家老の木戸高九郎とともに自刃した。

千々石澄員【ちぢわますずみ(15??~1577)】

千々石直員の男。官途は大和守。1571年、龍造寺家勢は杵島郡の有馬勢の勢力を抑えた。1572年、有馬家勢は、藤津郡でも勢力を失った。1576年、龍造寺隆信は、藤津郡の深町家を追放し、援軍の有馬家勢も撤退した。1577年、龍造寺家勢に攻められ自刃した。
 
千々石清左衛門【ちぢわきよざえもん(15??~15??)】

千々石澄員の男。別名千々石ミゲル。1578年、龍造寺隆信は、神代に侵攻した。有馬晴信の母の里方である深江や安徳、三会の和泉式部らが相次いで龍造寺隆信に降りた。有馬晴信の主力の降服は痛手であった。有馬晴信が、人質を出す事で和議が成り立った。この時、釜蓋城には、龍造寺家盛を配した。1580年、千々石ミゲルは、ポルトガル船司令官ドン・ミゲル・ダ・ガマを代父として受洗後、有馬セミナリヨ入学 した。1582年、ヴァリニャーノによって立案された「天正少年使節」は、正使伊東マンショ、千々石ミゲル、副使中浦ジュリアン、原マルチーニュは、長崎を出港した。1601年、伊東マンショと中浦ジュリアンはマカオに留学。ミゲルはイエズス会に脱会を求めるも除名された。ミゲルは大村喜前に対して「キリシタンは日本の国を奪うために、まず宣教師を送り教化活動をさせている」と述べキリスト教からの離脱を進言した。

長純一【ちょうすみかず(15??~15??)】

西彼杵郡唾飲城主。通称与太郎左衛門。天文年間、長与権之助が築城した。1586年、長純一は大村純忠から離反して唾飲城に籠城した。大村家臣大村純常によって攻略され、深堀純賢の元へ落ち延びた。

長家臣団【ちょうけかしんだん】

平古場の館主:長与隼人(長与内記の弟)、丸田の館主:長与内記(長与軍助の弟)、三根の館主:長与軍助。

鶴田遠江守【つるたおうみのかみ(15??~15??)】

権現岳城主。1582年、鶴田遠江守は竹崎の豪族北島藤左右衛門の攻撃を受け、権現岳城に立て籠って防戦したが討死した。

手光宗作【てびかそうさく(15??~15??)】

相神浦松浦家臣。1574年、松浦隆信は、強固な飯盛山城を攻略するため、力攻めだけではなく、兵糧攻めも行った。野武士を使っての夜討ち、強盗、刈田や乱暴など行い松浦九郎親を徐々に締め付けていた。兵糧の不足は危機的状況となり、不落の飯盛山城もさすがに耐えきれなくなり、松浦九郎親は開城を決意した。連歌師でもあった手光宗作は「人は皆 四月五月に田を植える 宗作ばかりは 春植えをする」「春過ぎて 夏季の麦も城絶えに 腹をほすてふ 事をかく山」と詠み苦境を残した。

東光寺坊伝育【とうこうじでんいく(15??~1564)】

東光寺の豪僧。松浦家臣。丈は七尺もあり、目は三角で全身毛むくじゃらで、八寸竹を片手で潰したといわれる怪力持ち主。1564年「半坂の戦い」では、松浦家勢に属して数多くの敵兵を、樫の木棒で殴り倒すが、矢で眉間を打ち抜かれて討死した。

遠竹堯運【とうたけぎょううん(15??~1587)】

権現岳城主。官途は治部少輔。1577年、龍造寺家に提出された西郷家の起請文に西郷純堯とともに署名した。1587年、西郷純堯とともに滅んだ。

富永佐渡守【とみながさどのかみ(15??~15??)】

大村家臣。1533年、大内家に攻められるも夜襲によって撃退した。他に樋口越前守らも参陣した。

富永忠重【とみながただしげ(15??~15??)】

大村家臣。通称又助。1572年、大村純忠の居城三城は塚崎城主後藤貴明、平戸城主松浦隆信、高城城主西郷純堯の三家に攻められた。富永忠重は讒言により浪人したと偽り、西郷家臣尾和谷軍兵衛の陣に向った。三城攻めの軍勢に加えて欲しいと訴え、尾和軍兵衛と戦い戦功を挙げた。西郷家勢は大混乱に陥り撤退した。富永忠重は三城まで逃れた。大村家の援軍も着陣したため、松浦勢は撤退。後藤貴明も撤退を余儀なくされた。

富永忠清【とみながたがきよ(1561~15??)】

大村家臣。通称四郎左衛門尉。1572年、三城籠城に参陣した。

朝長純兵【ともながすみたけ(15??~15??)】

大村純前家臣。1533年、大内家に攻められるも夜襲によって撃退した。

朝長純利【ともながすみとし(1519~1573)】

朝長純兵の男。官途は伊勢守。大村家の筆頭家老職。フロイスの書簡にも名が見える。葡萄牙人による横瀬湊を貿易港とする願いを大村純忠に伝えるなど、大村純忠と家臣との間に介在した。朝長家は大村家譜代の臣で、弟朝長純安は横瀬の宗門奉行を務めるなど、大村家を助けて活躍した。

朝長純安【ともながすみやす(15??~1563)】

朝長純兵の次男。洗礼名「ドン・ルイス」。針生貞治とともに横瀬浦の奉行。1563年、横瀬湊をポルトガルとの貿易港とした大村純忠に対して反感をもつ後藤貴明、針尾貞治に謀殺された。

朝長純基【ともながすみもと(15??~15??)】

朝長純利の男。三城七騎籠のひとり。1572年、塚崎城主後藤貴明、平戸城主松浦隆信、高城城主西郷純堯の連合軍が三城城を急襲すると、他の家臣が入城する間もなく完全包囲を完了した。城主大村純忠は、七騎衆(大村純辰、朝長純盛、朝長純基、今道純近、宮原純房、藤崎純久、渡辺純綱)の他は総勢80名程の家人や婦女子がいただけであったが、この兵力で籠城した。朝長純盛ら十四名と共に大手を守備した。対する連合軍は兵1,500余り兵力で攻撃したが七騎衆の奮戦により落城させることが出来なかった。大村純忠の家臣富永忠重は、西郷家勢に味方すると見せて総大将尾和谷軍兵衛陣を襲い、そのまま三城に入城する事に成功した。まもなく後藤貴明は軍勢を引いた。この戦いを大村家では後に「三城七騎籠」と称した。

朝長純盛【ともながすみもり(15??~15??)】

大村家臣。官途は大学。三城七騎籠のひとり。1572年、塚崎城主後藤貴明、平戸城主松浦隆信、高城城主西郷純堯の連合軍が三城城を急襲すると、他の家臣が入城する間もなく完全包囲を完了した。城主大村純忠は、七騎衆(大村純辰、朝長純盛、朝長純基、今道純近、宮原純房、藤崎純久、渡辺純綱)の他は総勢80名程の家人や婦女子がいただけであったが、この兵力で籠城した。朝長純基ら十四名と共に大手を守備した。対する連合軍は兵1,500余り兵力で攻撃したが七騎衆の奮戦により落城させることが出来なかった。大村純忠の家臣富永忠重は、西郷家勢に味方すると見せて総大将尾和谷軍兵衛陣を襲い、そのまま三城に入城する事に成功した。まもなく後藤貴明は軍勢を引いた。この戦いを大村家では後に「三城七騎籠」と称した。
 
朝長能登守【ともながのとのかみ(15??~15??)】

朝長枝連衆。後藤貴明が歌舞多城を攻めると、歌舞多城籠城に参陣した。

朝長重則【ともながしげのり(15??~15??)】

朝長枝連衆。1614年、「大坂冬の陣」のさい、むやみに領知を動かないように、との命を受けていたが、大村喜前の代わりとして大村純直と共に出陣した。

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【な】

中浦純吉【なかうらすみよし(15??~1569)】

中浦城主。大村純忠家臣。官途は兵部少輔。通称甚五郎。小佐々海賊衆のひとり。中浦城を守備したため中浦家を称した。兄小佐々純俊(多比良城主)、弟に次郎左衛門(松島城主)がいる。1559年「久津峠の戦い」で大村純忠を守り兄小佐々純俊と共に討死した。

中浦ジュリアン【なかうらじゅりあん(1568~1633)】

中浦純吉の男。天正遣欧使節の副使。洗礼名「ジュリアン」。アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、財政難に陥っていた日本の布教事業を立て直すため、また次代を担う邦人司祭育成のため、セミナリヨで学んでいた四人の少年を選びローマに派遣した。1591年、日本に戻ってきた彼らは聚楽第で羽柴秀吉と謁見した。秀吉は彼らを気に入り、仕官を勧めたが、彼らはみなそれを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。1601年、神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った。1608年、伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階された。司祭叙階後は博多で活動した。1613年、黒田長政がキリシタン弾圧に乗り出したため、そこを追われ長崎に移った。キリシタン追放令の発布時は、殉教覚悟で地下に潜伏することを選んだ。1632年、小倉で捕縛され、長崎へ送られ、ジョアン・アダミ神父、アントニオ・デ・スーザ神父、クリストファン・フェレイラ神父、ドミニコ会員のルカス・デ・スピリト・サント神父と三人の修道士と共に処刑された。

中倉甲右衛門【なかくらこうえもん(15??~15??)】

松浦家臣。1563年、松浦家勢の相神浦飯盛城攻撃に松浦家に属して参陣した。1572年、佐世保城主遠藤但馬守が龍造寺家に内通した際、 佐々清右衛門、佐志方杢兵衛、悪太左市、中倉甲右衛門が遠藤但馬守、遠藤右近の親子を討取った。針尾三郎左衛門が大村家に属すと、中倉甲右衛門は、悪太左市らと討取った。1568年、有馬、大村、波多、有田の連合軍が井手平城を包囲攻撃した際、籠城し奮戦した。1598年、朝鮮からの撤退中に明兵30,000余りと海陸で激突し勝利するも、この時の戦い松浦家勢は、大曲主水、中倉甲右衛門、山田四郎左衛門と雑兵十三名が討死した。

長崎康純【ながさきやすずみ(15??~15??)】

有馬貴純の三男(長崎純俊の養子)。西彼杵郡桜馬場城主。有馬貴純の三男長崎康純が養子として入り、長崎家は有馬家と縁戚関係となった。

長崎純方【ながさきすみかた(15??~15??)】

長崎康純の男。通称左馬大夫。大村家の麾下に属した。
 
長崎純景【ながさきすみかげ(1548~1621)】

長崎純方の男。通称甚左衛門。室は大村純忠の娘。洗礼名「ベルナルド」。大村家に仕えて970石を領した。長崎の開港に尽力した。1570年、反キリスト教の西郷純堯、深堀純賢兄弟による襲撃に悩まされ、そのたびに岳父大村純忠の援助を受けて撃退した。1580年、大村純忠の薦めによって長崎をイエズス会に寄進した為、所領のほとんどを失った。その後も大村家に仕えて、西郷純堯、深堀純賢の海賊衆による侵攻を幾度も撃退している。「九州征伐」後、長崎は羽柴家の直轄領となる。1605年、村山等安による長崎の区画整備により長崎家の所領は大村家に入れられ、長崎純景は知行700石の申し出を断って大村領を去り、久留米の田中吉政に仕えた。1620年、田中家が改易されると、大村家に再び仕えて100石を領した。

長崎重方【ながさきしげかた(15??~15??)】

長崎純方の次男。通称惣兵衛。玖島城築城奉行。1598年、玖島城の作事奉行を務めた。養父長崎純景の退去に従わず大村家に仕えた。

中尾喜之助【なかおきちのすけ(15??~15??)】

有馬家臣。重ノ城守将。後藤貴明勢の攻撃を受けたが撃退した。他に守将として坂本土佐守、幸吉弥七兵衛がいた。

中野清明【なかのきよあき(15??~15??)】

後藤栄明の男。後藤惟明家臣。官途は式部少輔。通称神右衛門。肥前杵島郡中野に住したの中野家と称した。初め後藤惟明に仕えた。1574年、龍造寺家に属した。

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【は】

原直勝【はらなおかつ(15??~15??)】

塩吹城主。官途は監物。
 
原直景【はらなおかげ(15??~15??)】

原直勝の男。1561年、後藤貴明が侵攻すると城主原直景は戦わずに降服した。籾岳城を築く。後に後藤貴明とともに龍造寺家に属した。

針尾貞治【はりおさだはる(15??~1572)】

針尾城主。大村家臣。官途は伊賀守。横瀬浦奉行。朝長純安とともに横瀬浦の奉行。1563年、大村家領内で貿易湊として栄えていた横瀬浦で朝長純安と共に奉行を務めていた針尾貞治は大村純忠に対して反感をもつ後藤貴明と共謀して朝長純安を謀殺して横瀬浦を横領した。1564年、大村家に備えるため牛ノ岳城を築城した。1566年、軍船百艘で松浦家を攻めるが、針尾貞治は佐志方杢兵衛と協力し撃退した。

針尾三郎左衛門【はりおさぶろうざえもん(15??~1564)】

針尾貞治の男。1564年、「皆瀬山の戦い」で討死した。

針尾長納【はりおながはる(15??~1573)】

針尾貞治の次男。通称三郎左衛門。松浦家に仕えた。1572年、父針尾貞治が病没すると、佐志方城で弟針尾九左衛門と共に針尾島の統治を行った。針尾城には嫡男子針尾太郎兵衛昌冶をおいた。その後、松浦隆信は家臣中倉甲右衛門、悪多田佐市の両名を佐志方城に送り込み針尾島の直接支配に乗り出した針尾島の完全統治を自任する針尾長納はこれを不服とし遂に両名を平戸に追放し大村純忠に寝返った。松浦隆信は佐志方城を攻めたが城の守りは固く松浦家勢は退却した。針尾長納は追撃戦を行ったが、家臣とはぐれた所を中倉甲右衛門と悪多田佐市に討たれた。

平井経則【ひらいつねのり(15??~15??)】

杵島郡須古城主。有馬家臣。

平井経治【ひらいつねはる(15??~1574)】

平井経則の男。官途は武蔵守。通称小左衛門。室は有馬晴純の娘。1563年、龍造寺隆信は杵島郡に侵攻した。龍造寺隆信勢が攻めよせると川津経忠、平井刑部大輔、本田純秀、本田純親、白石純通らの奮戦により龍造寺隆信勢を撃退した。1564年、龍造寺隆信は再び兵6,000余を率いて須古城を攻撃した。平井経治は須古城に籠城して長期戦になった。平井経治は、弟平井直秀に龍造寺隆信の娘(龍造寺親純の養女)を迎え和議を結んだ。1574年、龍造寺隆信は杵島郡に侵入した。佐留志の前田家、山口の井本家、芦カ里の鴨打家、徳島の諸家を従え、納富信景を先鋒にして攻撃を加えた。武雄城主後藤貴明の後藤惟明勢と杵島郡横辺田で戦ったが、平井経治は兵6,000余りを持って後藤惟明を支援したが鍋島直茂、龍造寺信周らの奮戦により後藤貴明、平井経治勢は敗走した。龍造寺隆信は武雄城主後藤貴明と須古城主平井経治を攻める為に白仁田山に布陣し、千葉勢を加え8,000余となり、弟龍造寺長信、鍋島直茂らを先鋒にして落城した。平井経治は伯父新宗吟入道と兵300余りで須古城にいた平井直秀は自刃した。再び龍造寺家勢が押しよせると川津近江守、平井刑部少輔、多久宗利、新入道宗吟を中心に守りを固めた。龍造寺家勢は広橋信了、鍋島直茂、龍造寺信周、納富信景、納富信理、副島式部少輔、木下四郎兵衛、龍造寺長信と松浦家勢2,000余りで攻撃した。城方では、新入道宗吟が討死し、平井経治は自刃した。

平井直秀【ひらいなおひで(15??~1574)】

平井経則の次男。

平井家臣団【ひらいけかしんだん】

川津経忠、平井刑部大輔、平井兵庫頭、本田純秀、本田純親、白石純通、多久宗利。

深江純忠【ふかえすみただ(15??~15??)】

江迎城主。峯昌(志佐純元)の三男。官途は阿波守。深江城主になり地名を姓として「深江」を称した。深江忠昌とともに、長坂、猪調、鹿町の三ヶ村を所領した。兄松浦興信と次男志佐純次が争うと、松浦興信方に属した。志佐純次は、深江純忠が松浦興信方についたことに立腹して、軍勢を率いて深江城に攻め寄せた。深江純忠、深江忠昌父子は、難を逃れて平戸城は落延びた。松浦興信は直ちに250騎を出して志佐純次を追討した。

深江忠昌【ふかえただあき(15??~1614)】

深江純忠の男。通称将監。松浦隆信の長女青葉姫と許嫁の仲であったが、青葉姫が志佐純意に輿入れしたため、松浦隆信と不仲になった。
「飯盛山城の戦い」にも参陣せず、志佐純量に属した。後に深江忠昌は1,000石を領して松浦家の家老職となった。1592年、松浦鎮信が羽柴秀吉に従って「文禄の役」に参陣すると留守居役を務めた。

深堀善時【ふかぼりよしとき(15??~15??)】

西彼杵郡俵石城主。西郷純久の三男純賢を養子に迎えた。西郷家と共に大村家、長崎家と戦った。その後も龍造寺隆信に属して大村家と戦った。

深堀純賢【ふかぼりすみかた(15??~15??)】

西郷純久の男。深堀善時の養子。父深堀善時と共に、龍造寺隆信に属して、大村家と争った。深堀家は長崎湊を利用する貿易船から関税を徴収し、拒まれれば船を襲い、積荷を接収した。1573年、大村領長崎を攻める。満潮を利用し、六十艘の船で夜襲を仕掛けた。妹は大村純忠に嫁ぐ。龍造寺隆信が討死した後は、龍造寺家の実権を握った鍋島直茂に属した。1592年、「文禄の役」では鍋島直茂勢に属した。鍋島家に家臣として仕えた。

福田兼次【ふくだかねつぐ(15??~15??)】

福田城主。大村純忠家臣。洗礼名「ジョーチ」。

福田忠兼【ふくだただかね(15??~15??)】

福田兼次の男。官途は大和守。1563年、横瀬湊が焼き討ちに遭うと葡萄牙貿易のための湊として福田湊が開かれた。松浦家の襲撃を受けたが、福田忠兼らはこれを撃退した。1568年、福田城下には1,000人を超える切支丹が居住した。福田城を築城し、福田支配をより強化した。1570年、長崎湊が開港すると、徐々に福田港は衰退することとなった。

福田兼親【ふくだかねちか(15??~15??)】

福田忠兼の男。通称半兵衛。室は大村純忠の娘。1586年、大村純忠の娘を室とし、大村家の重臣として活動した。嫡男福田兼則に大村喜前の娘を逢わせ、大村家との関係を深めた。この後も福田家は大村家との血縁関係を深め、大村家中では同族として扱われた。

福田丹波守【ふくだたんばのかみ(15??~15??)】

松山城主。後藤貴明は福田丹波守が松山城を留守中に松山城を攻めるが、福田丹波守の娘が城兵を指揮し、自らも投石を行い後藤勢を撃退した。彼女は「金谷の石打御子」と呼ばれた。大村純忠は福田薩摩守に松山城攻めを命じ、福田丹波守は武雄に落延びた。
 
福田薩摩守【ふくださつまのかみ(15??~15??)】

福田丹波守の弟。兄福田丹波守が後藤家に属すと、大村純忠の命で松山城を攻撃した。

福田次郎右衛門【ふくだじろうざえもん(15??~15??)】

風南城守将。後藤勢の城攻め案内役となった杢尾八右衛門を味方にし、小峰城内に火を放った。城兵はこれを機に小峰城を攻め、後藤勢を打ち破った。弟の福田清左衛門も守将となった。

福田右京亮【ふくだうきょうのじょう(15??~15??)】

大村家臣。1566年、後藤家臣大串正俊を討つと、大村純忠は福田右京亮に命じて大串正俊の居城神浦城を破却した。

藤崎純久【ふじさきすみひさ(15??~15??)】

大村純忠家臣。三城七騎籠のひとり。1572年、塚崎城主後藤貴明、平戸城主松浦隆信、高城城主西郷純堯の連合軍が三城城を急襲すると、他の家臣が入城する間もなく完全包囲を完了した。城主大村純忠は、七騎衆(大村純辰、朝長純盛、朝長純基、今道純近、宮原純房、藤崎純久、渡辺純綱)の他は総勢80名程の家人や婦女子がいただけであったが、この兵力で籠城した。対する連合軍は兵1,500余り兵力で攻撃したが七騎衆の奮戦により落城させることが出来なかった。大村純忠の家臣富永忠重は、西郷家勢に味方すると見せて総大将尾和谷軍兵衛陣を襲い、そのまま三城に入城する事に成功した。まもなく後藤貴明は軍勢を引いた。この戦いを大村家では後に「三城七騎籠」と称した。

堀池壱岐守【ほりいけいきのかみ(15??~15??)】

有馬家臣。後藤貴明が歌舞多城を攻めると、歌舞多城籠城に参陣した。他に南孫右衛門、矢次右馬大夫、福田織部、田崎出雲守らも歌舞多城に籠もった。

堀純政【ほりすみまさ(15??~15??)】

有馬義貞家臣。家老職。久能賢治と同じく、国老。

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【ま】

町田兵七郎【まちだへいしちろう(15??~1577)】

千々石家臣。家老職。1577年、龍造寺家勢に攻められると迎撃のため参陣した。千々石澄員の自刃したのを知ると、自刃した。

峰弾正忠【みねだんじょうちゅう(15??~1575)】

菅無田砦主。大村純忠家臣。1575年、龍造寺隆信は兵8,000余りを率いて大村純忠領を攻めた。菅無田砦は龍造寺家勢に囲まれた。大村純忠は今宮城に引くよう命じたが、峰弾正、峰将監庄善助、一瀬半左衛門らがは兵300余りで砦を守ったが城兵は総じて討死した。

宮原純房【みやはらすみふさ(15??~15??)】

大村家臣。宮原前勝の男。官途は常陸介。鑓の達人で三城七騎籠のひとり。祖父宮原貴房は有馬家臣で、父宮原前勝が有馬家の娘(大村純前の室)の大村家の輿入れに従い大村家臣となった。1572年、塚崎城主後藤貴明、平戸城主松浦隆信、高城城主西郷純尭の連合軍が三城城を急襲すると、他の家臣が入城する間もなく完全包囲を完了した。城主大村純忠は、七騎衆(大村純辰、朝長純盛、朝長純基、今道純近、宮原純房、藤崎純久、渡辺純綱)の他は総勢80名程の家人や婦女子がいただけであったが、この兵力で籠城した。城将は落城間近と考え、酒宴を開く。「二人静」が唄われると、宮原純房は自ら舞を舞った。対する連合軍は兵1,500余り兵力で攻撃したが七騎衆の奮戦により落城させることが出来なかった。大村純忠の家臣富永忠重は、西郷家勢に味方すると見せて総大将尾和谷軍兵衛陣を襲い、そのまま三城に入城する事に成功した。まもなく後藤貴明は軍勢を引いた。この戦いを大村家では後に「三城七騎籠」と称した。

武藤敏武【むとうとしたけ(15??~15??)】

大村家臣。官途は右馬助。大村喜村の娘を後室として娶った。

杢尾八右衛門【もくおはちえもん(15??~15??)】

後藤家臣。後藤貴明が風南城を攻めると、案内役となった。この時、福田次郎右衛門らと顔を合わせ、所領と与えることを条件に風南城側と通じる。杢尾八右衛門は小峰城に火を放ち、城外に逃れた後藤家勢は風南城兵に攻められ敗れた。

百枝純重【ももえだすみしげ(15??~15??)】

世知原定治の次男。

守山宮内【もりやまくない(15??~1563)】

守山城主。有馬家臣。1563年、千々石淡路守、田口監物らと共に、西郷家に寝返った。そのため有馬家勢に攻められ、籠城の末に討死した。

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【や】

安富貞治【やすとみさだはる(15??~15??)】

高来郡深江城主。有馬晴信家臣。鎌倉時代、文永年間に九州に下向した安富頼泰がこの地に居住し深江家を称した。戦国時代にはここを本拠とし有馬家に対抗したが天正年間にその傘下に入り枝連衆となった。

安富純治【やすとみすみはる(1540~1584)】

安富貞治の男。官途は伯耆守。枝連衆の安富新七郎と共に浜城を守備した。1577年、龍造寺隆信の侵入を受けたが撃退した。1578年、再度の侵入では和議の成立に尽力した。1584年、有馬家侵攻では初めから龍造寺隆信に属して戦った。「沖田畷の戦い」後、島津家に捕らえられて自刃した。

安富純泰【やすとみはるやす(15??~15??)】

安富純治の男。官途は下野守。通称与三兵衛。1577年、安富家は有馬家麾下の将として龍造寺隆信と戦った。1578年、龍造寺隆信の「有馬侵攻」では安徳純俊と共に龍造寺隆信に通じた。1582年、有馬晴信が龍造寺隆信と断交すると龍造寺家に属して深江城に籠って戦った。龍造寺隆信の援軍もあり、有馬晴信勢をを撃退した。1584年「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信が討死すると、龍造寺家を離れ、深江下野守と称した。

安富純清【やすとみすみきよ(15??~15??)】

安富純俊の兄。有馬家臣。官途は越中守。別名安富徳円。洗礼名は「ジョアン」。姉妹が有馬義貞の室。初め僧籍にあったが、のち還俗して有馬晴純以降代々の家老を務めた。有馬家直轄地の有家の代官も兼任した。1584年、龍造寺隆信による「島原侵攻」では頑強に抵抗し、島津家久に援軍を要請した。

安徳純俊【やすとくすみとし(15??~15??)】

安徳城主。有馬家臣。1582年、龍造寺家方の千々石城を攻め落とした龍造寺隆信が勢力圏を拡大すると、有馬晴信は島津義弘と島津家久に援軍を要請依頼した。安徳城主安徳純俊は、龍造寺家から離反すると、島津家臣新納忠堯と川上忠堅の1,000余りが援軍として安徳城に入り深江城を攻撃した。1584年、島津義久は島津家久を総大将として島原に派遣し自らは肥後まで参陣した。島津家久は島原湾を渡海し安徳城に入った。「沖田畷の戦い」では龍造寺隆信に属した。

山口杢之助【やまぐちじょうのすけ(15??~15??)】

後藤家臣。後藤貴明は大村領松岳城を攻め落した。彼杵村の住人杢之助は近隣の者と共に策を練り、降伏するとして松岳城にて人質を差し出した。後藤勢は喜ぶが、山口杢之助は松岳城内に火を放った。後藤家勢は混乱し、大村勢に攻められ敗走した。山口杢之助は恩賞として彼杵村に二町を賜った。

山崎教清【やまざきのりきよ(15??~15??)】

西郷家臣。山崎丹後守の男。「九州征伐」の際、西郷信尚に羽柴秀吉への加勢を勧めるが、不興を買ったため役職を辞した。のち龍造寺家晴が諫早を治めた際、干拓事業を建策しこれが容れられて工事が進められた。龍造寺家晴は教清を召抱えようとしたが、山崎教清は二君に仕えることをよしとしなかったのでこれを固辞した。

山田純規【やまだすみのり(15??~15??)】

有馬家臣。通称兵部。父山田主計頭は有馬貴純、有馬尚鑑の時代に老職であった。娘が有馬晴信の室となった。

渡辺純綱【わたなべすみつな(15??~15??)】

大村純忠家臣。三城七騎籠のひとり。1572年、塚崎城主後藤貴明、平戸城主松浦隆信、高城城主西郷純尭の連合軍が三城城を急襲すると、他の家臣が入城する間もなく完全包囲を完了した。城主大村純忠は、七騎衆(大村純辰、朝長純盛、朝長純基、今道純近、宮原純房、藤崎純久、渡辺純綱)の他は総勢80名程の家人や婦女子がいただけであったが、この兵力で籠城した。対する連合軍は兵1,500余り兵力で攻撃したが七騎衆の奮戦により落城させることが出来なかった。大村純忠の家臣富永忠重は、西郷家勢に味方すると見せて総大将尾和谷軍兵衛陣を襲い、そのまま三城に入城する事に成功した。まもなく後藤貴明は軍勢を引いた。この戦いを大村家では後に「三城七騎籠」と称した。

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【資料Ⅰ】

南肥前国(4郡/242,000石)

北彼杵郡:飯盛城、佐志方城、大村城。
南彼杵郡:小佐々城、福田城、俵石城、長崎湊。
藤津郡:松岡城。
高来郡:高城、深江城、日之江城。

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【資料Ⅱ】

南肥前国【みなみひぜんのくに】

九州の北西部に位置する西海の国。北東部は背振山地で筑前国で境を接し、東南部では筑後川沿いに筑後国との国境を作り、筑後川から西に有明海を臨む。西は西海に面し、平戸島、五島列島など多くの島嶼を抱える。南は西彼杵、長崎、島原などの半島が天草灘に突き出し、遠く東シナ海へと続いている。北方の玄界灘には壱岐水道を隔てて壱岐国、さらにその北の対馬国を臨む。三方を海に囲まれた半島の多い国で、数多くの島嶼と半島を持ち、複雑に入り組んだ長い海岸線のために海産物に恵まれている。湊に適した場所も多く、大陸に近い国であることから、大陸への交通路として重視され、沿岸は遣唐使船の寄湊地となり、大陸、朝鮮半島との交易が盛んに行われた。地理的条件により、北松浦半島の松浦党らの海賊衆が発達し、鎌倉時代から倭寇の根拠地になった。

平戸【ひらど】

五島灘の平戸瀬戸の湊街。平戸松浦家の本拠地。天然の良湊。中世から中国大陸との航路の重要な寄湊地であり、国際貿易の拠点であった。戦国期には葡萄牙船の入湊もあり繁栄した。平戸湊にも会合衆的な組織があり、軍事的危機が平戸湊に及ぶと、経済力を使って諸将の動きを牽制した。1561年、綿布取引でのトラブルをきっかけにカピタン・モールと十三名の南蛮船の乗員が松浦家臣らによって謀殺された。平戸湊は5,000人程度の人口を持っていた。平戸の家並みは松浦隆信の時代には萱家であったが、松浦鎮信の時代に板家になった。松浦隆信の時代には大唐から倭寇の頭目五峯(王直)が来航して、平戸の館(唐様の屋形)を拠点に中国との貿易を行った。葡萄牙船の往来も行われるようになり、平戸には中国や南蛮の珍物が集まり、京、堺の商人や諸国の人々も集ってきた。平戸に来住した王直以外の倭寇の頭目としては、顔思斉や李旦、鄭芝龍等が来航した。中国人大工の古道という人物も平戸に在住した。1564年、平戸が大火にみまわれ街の大半が焼失した、これにより大村家領の長崎が南蛮船の入湊地として台頭した。

長崎【ながさき】

長崎半島の付根にある天然の良湊。戦国後期から近世にかけて葡萄牙船による南蛮貿易の中心拠点として栄えた湊街。1570年、大村純忠に属す長崎家の城下街に六つの町(大村町、平戸町、島原町、横瀬浦町、外浦町、分知町)を建設して南蛮貿易湊とした。長崎には毎年のように葡萄牙船が入湊し、長崎家を麾下におく大村純忠に大きな利益をもたらした。大村純忠は長崎をイエズス会に寄進したことにより、長崎はイエズス会のもとで自治を行う街となった。1585年、長崎には中国からの船が絹、緞子、麝香、金などを積んで来航して毎年50万クルサードの銀を運び出した。そのため長崎には日本各地から多くの商人が集まり、他地域からの流民も移住し人口が増加した。

奈留【なる】

平安期以来、日本の対中国貿易を担った五島列島の奈留島の湊街で造船機能も備えていた。室町期の日明貿易においても、奈留は日本側の最初の寄湊地として遣明船の多くが入湊した。第十一次遣明船では、硫黄四万斤が島津家、大友家によって調達さた。この内の三千斤は奈留の海安寺で積み込まれており、奈留が日本商品の集積、積込湊であった。1539年、遣明船では、それぞれ奈留大明神で航海安全の祈祷や能の奉納が行われた。幕府は遣明船の警護を各地の勢力に命じているが、奈留島の領主奈留家にも命じられた。奈留家は朝鮮との貿易も行い、李氏朝鮮から図書(毎年一、二船を公式に派遣できる)を獲得していた。

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【資料Ⅲ】

三城七騎籠【さんじょうひちきごもり】

大村純辰、朝永純盛、大村経基、今道純近、宮原純房、藤崎純久、渡辺純綱。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、豊臣秀吉は羽柴秀吉の名前で統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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