2013年2月10日日曜日

戦国美濃国人名辞典

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饗庭国信【あいばくにのぶ(15??~15??)】

大野郡相場館主。通称掃部助。西美濃十八将。1556年、「長良川の戦い」では斎藤義龍に属した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

青木秀重【あおきひでしげ(15??~1582)】

森可成家臣。通称次郎左衛門。室は森可成の娘(如水院)。1582年、「本能寺の変」では、義弟の森成利とともに討死した。

青木重直【あおきしげなお(1529~1613)】

長井規秀家臣。通称加賀右衛門尉。長井規秀に仕え安八郡青木郷を領した。1559年、斎藤義龍の意向を受け織田信長の謀殺を図ったが失敗した。斎藤義龍が討死すると丹羽長秀に仕えた。1582年、「山崎の戦い」に参陣した。後に羽柴秀吉の御伽衆となり摂津国豊島郡内で1,400石を領した。

青木一重【あおきかずしげ(1551~1628)】

青木重直の男。官途は民部少輔。通称所右衛門。1570年、「姉川の戦い」では、松平元康勢に属して真柄直隆を討取る戦功を挙げた。1572年、「三方ヶ原の戦い」では、本多太郎左衛門に属して参陣して高天神城の城将を努めた。1573年、松平元康のもとを出奔し父青木重直を頼った。1582年、「本能寺の変」後、丹羽長秀に仕えた。丹羽長秀の病没後は羽柴秀吉に仕えた。1585年、摂津国豊島郡10,000石を領した。羽柴秀吉の病没後は羽柴秀頼に仕え、速水守久や伊東長実らとともに七手組の組頭を務めた。1614年、「大坂冬の陣」の後、隠居した。のちに松平元康に仕え、摂津国豊嶋郡内で12,000石を領した。1615年、「大坂夏の陣」では、青木一重の陣代として指揮を執っていた養子の青木正重を廃嫡し、代わりに弟青木可直の継嗣青木重兼を養子に迎えた。

青木重経【あおきしげつな(15??~15??)】

青木重直の次男。別名渥美重経。

青木重継【あおきしげつぐ(15??~15??)】

青木重直の三男。

青木可直【あおきよしなお(1561~1622)】

青木重直の四男。通称次郎左衛門。池田輝政に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後、池田輝政の転封とともに姫路城に移った。1610年、松平元康の直臣となり美濃国で3,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、永井直勝の寄騎衆として兄青木一重と戦った。青木一重より父青木重直の遺領を分知され5,000石を領した。

青木正重【あおき さしげ(1581~1664)】

小寺則頼の男(青木一重の養子)。官途は駿河守。青木一重の領地である伊予国周布郡の代官を務めていた。1614年、「大坂冬の陣」では、養父青木一重とともに羽柴秀頼勢に属して参陣した。1615年、「大坂夏の陣」では、青木一重の陣代として青木家勢の指揮した。陣後に青木一重が松平元康に仕えると、羽柴秀頼に仕えたことを問題にされ廃嫡となった。代わって従弟青木重兼が養子に迎えられ継嗣となった。

青木重兼【あおきしげかね(1607~1682)】

青木可直の男(青木一重の養子)。官途は甲斐守。室は酒井忠利の養女(酒井忠季の娘)。青木一重が養子に迎えていた青木正重が廃嫡されたため、その養嗣子となって青木家の家督を相続した。有能で、文武を奨励し、民政においても善政を第一とすることに尽力した。1641年、松平家光の上洛に随行し、京都御室の仁和寺の造営奉行を務めた。

赤座永兼【あかざながかね(15??~1582)】

長井規秀家臣。赤座筑後守の男。通称七郎右衛門。室は織田信安の娘。1556年、長井規秀が討死すると、斎藤義龍には仕えず弟桑原助六郎とともに織田信長に仕えた。1569年、「本圀寺の戦い」では、摂津国高槻城から駆けつけ足利義昭を守り三好三人衆、斎藤龍興らと戦った。1575年、織田信忠が織田家の家督を相続すると美濃衆とともに織田信忠に属した。1582年、「武田家討伐」では、織田信忠に属して参陣した。津田元嘉、長谷川嘉竹、関成重とともに恵林寺を焼討ちにした。1582年、「二条御所の戦い」で山崎長徳と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

明智光綱【あけちみつつな(1497~1535)】 

可児郡明智城主。明智光継の男。官途は遠江守。室は武田信豊の娘。父明智光継とともに長井規秀に属した。1535年、「明智城の戦い」で長井規秀勢の攻撃を受け討死した。

明智光安【あけちみつやす(1500~1556)】

明智光継の三男。官途は兵庫頭。別名柿田弥次郎。室は斎藤利胤の娘。1535年、「第一次明智城の戦い」で兄明智光綱が討死すると、明智光秀の後見役を務めた。1553年、長井規秀が美濃国を制圧すると、妹(小見の方)をその継室にした。1556年、「第二次明智城の戦い」では、弟の明智光久、溝尾庄左衛門、三宅弐部之助、藤田藤次郎、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由、妻木範広ら870余りとともに籠城したが、斎藤義龍勢の揖斐光就、長井道利ら3,700余りの攻撃を受け自刃した。明智光秀は明智光春に従って落延びた。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

明智光久【あけちみつひさ(1516~1556)】

明智光継の四男。1556年、「第二次明智城の戦い」では、兄明智光安、明智光久、溝尾庄左衛門、三宅弐部之助、藤田藤次郎、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由、妻木範広ら870余りとともに籠城したが斎藤義龍勢の揖斐光就、長井道利ら3,700余りの攻撃を受け討死した。

芦敷長正【あししきながまさ(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称右京亮。馬廻衆。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属して参陣した。

足立六兵衛【あだちろうべい(15??~1561)】

日比野清実家臣。「頸取り足立」と称された猛将。1561年、「森部の戦い」で織田信長の家臣前田利家と戦い討死した。

跡部良堅【あとべよしかた(15??~15??)】

長井規秀家臣。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属して参陣した。
参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

安藤定重【あんどうもりとし(15??~15??)】

本巣郡北方城主。土岐頼芸家臣。安東定就の男。

安藤守就【あんどうもりなり(1503~1582)】

安藤定重の男。官途は伊賀守。別名伊賀伊賀守。西美濃三人衆(稲葉良通、氏家直元)。1553年、長井規秀に仕えた。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属して参陣した。1564年、「稲葉山城の戦い」では、竹中重治を支援して斎藤龍興から稲葉山城を奪取したが、まもなく斎藤龍興に返還した。1567年、稲葉良通、氏家直元らとともに織田信長に降伏した1570年、「姉川の戦い」では、朝倉義景、浅井長政勢と戦って戦功を挙げた。1571年、「長島の戦い」では、氏家直元とともに殿を務め負傷した。1575年、織田信長が織田信忠に織田家の家督を譲り、美濃衆が織田信忠に属した後も、織田信長に直属した。1580年、武田勝頼と内通の疑いをかけられ追放処分に処された。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、継嗣の安藤尚就らとともに北方城を奪い再起を試みたが稲葉良通勢の反撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

安東頼郷【あんどうよりさと(15??~15??)】

安東定重の次男。通称出市。
 
安東郷重【あんどうさとしげ(15??~15??)】

安東定重の三男。通称十蔵。
 
安東郷氏【あんどうさとうじ(15??~1582)】

安東定重の四男。通称太郎左衛門。1571年、「長島城の戦い」に参陣した。1580年、兄安藤守就とともに追放処分に処された。1582年、「本能寺の変」で、織田信長が討死すると、安藤守就とともに挙兵して稲葉良通勢が守る北方城を攻略した。稲葉良通勢の奇襲を受け松田雁助、岡八兵衛らとともに戦った。安藤守就とともに奮戦したが、村瀬大隅守の弟吉田五郎兵衛と戦って討死した。

安藤郷良【あんどうさとよし(15??~1582)】

安藤守就の男。通称平左衛門尉。1567年、父安藤守就が織田信長勢に内応すると、それに従って織田信長に属した。1569年、「大河内城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1580年、武田勝頼と内通の疑いを受け、安藤守就とともに追放処分に処された。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、安藤守就とともに北方城を奪ったが、反撃を受け稲葉良通の家臣加納悦右衛門と戦って討死した。

安藤忠四郎【あんどうただしろう(15??~15??)】

安藤郷良の男。1582年、「北方城の戦い」で稲葉良勢と戦って通討死した。

安藤郷利【あんどうさととし(15??~1570)】

安藤守就の次男。通称右衛門佐。1567年、安藤守就が織田信長勢に内応すると、それに従って織田信長に属した。1570年、「姉川の戦い」では、安藤守就に従って参陣して戦功を挙げた。「志賀の陣」では、坂井政尚、桑原平兵衛とともに堅田衆の猪飼昇貞、居初又次郎、馬場孫次郎らの取次役を務め、堅田衆から人質を取って堅田城の守備した。「堅田城の戦い」では、朝倉景鏡、前波景当らの攻撃を受け、坂井政尚、桑原平兵衛とともに抵抗したが衆寡敵せず討死した。

安藤郷春【あんんどうさとはる(15??~1582)】

安藤守就の三男。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、父安藤守就とともに稲葉良通勢の北方城を攻略した。稲葉良通勢の反撃を受け安藤守就や兄安藤郷良とともに討死した。

安藤三郎兵衛【あんどうさぶろべえ(15??~15??)】

安藤守就家臣。1566年、井水の掟を定めた。

安藤定治【あんどうさだはる(15??~1582)】

長井規秀家臣。官途は伊賀守。通称平左衛門尉。1566年、日根野弘就、竹腰尚光、氏家直元らととも安藤守就の代理として武田晴信への書状に連署した。

安楽庵策伝【あんらくあんさくでん(1554~1642)】

浄土宗西山深草派の僧。金森定近の男。別名平林平太夫。美濃国浄音寺で出家し、策堂文叔に師事した。その後、京都禅林寺に転じ智空甫叔に学んだ。中国地方に赴き備前国大雲寺などを創建した。1596年、美濃浄音寺の住職となった。1613年、京都誓願寺の住職となった。1623年、紫衣の勅許を得た後、塔頭竹林院に隠居し、茶室安楽庵で余生を送った。

飯沼長就【いいぬまながのり(15??~1556)】

氏家直元家臣。安八郡池尻城主。飯沼長常の男。官途は対馬守。池尻城3,000貫を領した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

飯沼長継【いいぬまながつぐ(15??~1583)】

飯沼長就の男。通称勘平。1556年、父飯沼長就の病没により飯沼家の家督を相続した。1570年、「姉川の戦い」では、横山城を攻撃して戦功を挙げた。1573年、「堅田城の戦い」で戦功を挙げたが家臣の飯沼長宗らが討死した。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に属して織田信孝勢と戦った。1583年、織田信孝との内通の疑いを受け、氏家行広に謀殺された。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

飯沼長実【いいぬまながざね(15??~1600)】

飯沼長継の男。通称十郎左衛門。1583年、父飯沼長継が氏家行広に謀殺されると、前田利家に仕えた。金沢で人を殺めて出奔した。後に羽柴秀吉、織田秀信に仕え池尻城将を務めた。1600年、「岐阜城の戦い」では、織田秀信勢に属して奮戦するが討死した。 

飯沼長資【いいぬまながすけ(1580~1600)】 

飯沼長実の男。通称勘平。織田秀信に仕えた。岐阜四天王。父飯沼長実も勘平を称したため小勘平と称された。1600年、「米野の戦い」では、織田秀信勢の先陣を務めた。大塚権太夫と一騎討ちを演じこれを討取るが、池田輝政の弟池田長吉に討取られた。 

飯沼長宗【いいぬまながむね(15??~1573)】

飯沼長継家臣。1573年、「堅田城の戦い」で朝倉義景勢と戦い討死した。

飯沼知俊【いいぬまともとし(15??~1556)】

長井規秀家臣。通称杢之助。1541年、「村山砦の戦い」では、長井規秀勢に属して参陣した。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀勢に属して討死した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

伊木正久【いぎまさひさ(15??~15??)】

各務郡伊木城主。官途は長門守。武馬常旗の夜討を受け反撃に転じたところ、伏兵に伊木城を襲われ討死した。

伊木忠次【いぎただつぐ(15??~15??)】

伊木正久の男。通称清兵衛。別名香川長右衛門。武馬常旗に奪われた伊木城を奪還した。池田信輝に仕えた。

池田信政【いけだのぶまさ(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称又太郎。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従って参陣した。

池田輝家【いけだてるいえ(15??~1582)】

可児郡池田城主。通称織部正。1556年、「第二次明智城の戦い」では、長井規秀勢の攻撃受けた明智城の籠城した。1582年、「本能寺の変」では、伏見城を守備した。羽柴秀吉勢の攻撃を受け討死した。 

池戸若狭守【いけどわかさのかみ(15??~1583)】

遠藤慶隆家臣。通称与十郎。室は和良遠藤清左衛門の娘。1583年、遠藤慶隆とともに織田信孝勢に属した。羽柴秀吉勢に属する武儀郡の国人衆は立花山城に兵を入れ、郡上郡と岐阜城との連絡を断った。遠藤胤基は300余りを繰り出し立花山城を攻略した。羽柴秀吉は、森長可と佐藤秀方に立花山城を攻撃させた。立花山城に籠城する300余りは織田信孝に支援を求めたが、森長可勢の攻撃を受け、池戸若狭守、和良遠藤清左衛門、井上作右衛門らが討死した。兵糧が底をつき、遠藤慶隆と遠藤胤基は、家臣石神兵庫と遠藤利右衛門を人質に差し出し撤退した。

生駒親重【いこまちかしげ(15??~1570)】

織田信康家臣。土田政久の次男(生駒豊政の養子)。官途は出羽守。通称甚助。別名土田政久。後に織田信長に仕えた。

生駒親正【いこまちかまさ(1526~1603)】

生駒親重の男。官途は雅楽頭。1566年、織田信長に従った。その後、羽柴秀吉の寄騎衆として「長篠の戦い」「石山本願寺城の戦い」「紀伊国雑賀攻め」などに参陣した。1582年、「山崎の戦い」後、羽柴秀吉勢に属して各地を転戦した。1595年、讃岐国高松城171,800石を領した。1586年、「戸次川の戦い」で討死にした十河存保の継嗣十河千松丸を甥大塚采女に命じて謀殺して、その遺領20,000石を横領した。中村一氏や堀尾吉晴とともに三中老職に任じられた。1600年、「関ヶ原の戦い」では、継嗣の生駒一正が松平元康勢に属し、生駒親正は石田三成勢に属して丹後国田辺城攻めに陣代を派遣した。役後生駒親正は剃髪し、高野山に入った。

生駒一正【いこまかずまさ(1555~1610)】

生駒親正の男。官途は讃岐守。室は堀秀重の娘。1578年、「第一次紀州討伐」で戦功を挙げた。1582年、織田信長の討死後は羽柴秀吉に仕えて数々の戦いに参陣した。1592年、「蔚山城の戦い」で戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して参陣した。父生駒親正が石田三成勢に属したが、生駒一正の戦功により罪を問われず15,000石の加増を受けた。1601年、生駒家の家督を相続した。

生駒吉一【いこまよしかず(15??~15??)】

生駒親重の次男。通称市左衛門。羽柴秀吉の馬廻衆を務めた。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。

生駒修理亮【いこましゅりのすけ(15??~1600)】

生駒親重の三男。官途は修理大夫。羽柴秀吉の馬廻衆を務めた。1589年、「小田原の役」に参陣した。羽柴秀吉の遺物として国友の太刀を受領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して大坂備後橋を警備した。役後、石川頼明を匿ったため、自刃を命じられた。

生駒次右衛門【いこまつぐえもん(15??~15??)】

生駒親重の四男。羽柴秀吉の馬廻衆を務めた。

生駒源八郎【いこまげんぱちろう(15??~15??)】

生駒親重の五男。羽柴秀吉の馬廻衆を務めた。

生駒平蔵【いこまへいぞう(15??~15??)】

生駒家長の次男。室は生駒主殿頭の娘。
 
生駒善長【いこまよしなが(15??~1642)】

生駒家長の三男(山崎兵部少輔の養子)。生駒家に戻り、生駒家の家督を相続した。

生駒宗長【いこまむねなが(15??~15??)】

生駒家長の四男。蜂須賀家政に仕えた。
 
生駒利豊【いこまとしとよ(1575~1670)】

生駒家長の五男。官途は因幡守。室は津田藤右衛門娘。継室は遠山友政娘。兄生駒善長から生駒家の家督を譲られた。
 
生駒主殿頭【いこましゅでんのかみ(15??~15??)】

生駒親正家臣。娘は生駒平蔵に嫁いだ。

石谷光政【いしがいみつまさ(15??~15??)】

足利義輝家臣。石谷城主。官途は兵部大輔。室は長宗我部元親の娘。1565年、足利義輝が謀殺されると、京都に隠棲した。1573年、真靜寺の坪付について長宗我部元親が差図方になるよう蜷川親長に依頼した。1577年、紀伊根来寺に滞在した。

石谷頼辰【いしがいよりとき(15??~1586)】

斎藤利賢の男(石谷光政の養子)。通称孫九郎。室は石谷光政の娘。義父石谷光政とともに足利義輝に仕えた。1573年、足利義昭が織田信長に京都を追われると、明智光秀に仕えた。織田信長と長宗我部元親が対立すると、明智光秀の使者として長宗我部元親の説得に赴いた。1582年、「山崎の戦い」では敗走し、妹の嫁ぎ先である長宗我部元親に仕え44町を領した。娘が長宗我部信親に嫁いだ。1586年、「戸次川の戦い」で長宗我部信親とともに討死した。

石谷対馬守【いしがいつしまのかみ(15??~1556)】

土岐頼芸家臣。鷺山城留守居を務めた。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀勢に属した。斎藤義龍勢に居城を攻撃され自刃した。辞世の句は「命やは うき名にかえじ 世の中に ながらえはずる 習ありとも」。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

石谷光重【いしがいみつしげ(15??~15??)】

長井規秀家臣。官途は近江守。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に属して参陣した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

石川光信【いしかわみつのぶ(15??~15??)】

土岐頼芸家臣。鏡島城主。通称杢兵衛。

石川家光【いしかわいえみつ(15??~15??)】

石川光信の男。

石川光政【いしかわみつまさ(15??~15??)】

石川家光の男。羽柴秀吉に仕えた。

石川貞政【いしかわさだまさ(1557~1657)】

石川光政の男。羽柴秀吉の馬廻衆を務めた。1600年、「関ヶ原の戦い」では、松平元康勢に属して戦功を挙げた。役後、羽柴秀頼に仕え5,000石を領した。1614年、片桐且元とともに大坂城を離れ、高野山に入り剃髪した。1615年、「大坂夏の陣」では、松平元康勢に属して参陣した。

石川光重【いしかわみつしげ(15??~15??)】

石川家光の次男。

石川一光【いしかわかずみつ(15??~1583)】

石川家光の三男。通称兵助。羽柴秀吉家臣。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では先陣を切って柴田勝家勢に突入し討死した。「賤ヶ岳の七本槍」と同格の戦功をされ、弟石川頼明に1,000石が与えられた。

石川頼明【いしかわよりあき(15??~1600)】

石川家光の四男。通称掃部頭。室は宇多頼忠の娘。1583年、「賤ヶ岳の戦い」に参陣した兄石川一光は「賤ヶ岳の七本槍」に並ぶ戦功であったが討死した。兄石川一光の一番槍の戦功により1,000石を領した。1598年、播磨国、丹後国内において6,450石を加増された計12,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して参陣した。京極高次が大津城を退去すると、大津城を守備した。「関ヶ原の戦い」で石田三成勢が敗れると脇坂安治を通じて、井伊直政に降伏したが、許されず頸は京の三条河原に晒された。また、石川頼明を匿った罪により、同じく石田三成勢に属した生駒修理亮も自刃を命ぜられた。

石川光元【いしかわみつもと(15??~15??)】

石川光重の男。

石川貞清【いしかわさだきよ(15??~1626)】

石川光重の次男。官途は備前守。通称兵蔵。室は真田信繁の七女(おかね)。1589年、「小田原の役」で戦功を挙げ、尾張国犬山城120,000石と蔵入地100,000石の代官職を務めた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城の普請奉行を努めた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢の属して、犬山城に稲葉貞通、稲葉典通、稲葉方通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らとともに籠城したが、松平元康勢に内応した。役後、改易処分に処されたが、池田輝政の仲介で黄金千枚で助命され、剃髪して宗林と号した。1613年、松平元康に仕え500石を領した。

石川一光【いしかわかずみつ(15??~1583)】

石川光重の三男。通称兵助。別名石川貞友。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で一番槍の戦功を挙げたが討死した。戦後、賤ヶ岳七本鑓と同格の戦功とされ、弟石川頼明が1,000石を領した。実際は、賤ヶ岳七本槍も彼と桜井佐吉を加えた九人だった。

石川頼明【いしかわよりあき(15??~1600)】

石川光重の四男。官途は掃部頭。室は宇多頼忠の娘。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、兄石川一光が加藤清正、福島正則らに次ぐ戦功を挙げたが討死したため、石川頼明が1,000石を領した。1600年、播磨国内で12,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して参陣した。「大津城の戦い」に参陣したが、石田三成勢が大敗すると、脇坂安治を仲介で井伊直政に降伏するが許されず自刃を命じられ、頸は京の三条河原に晒された。

石丸利光【いしまるとしみつ(15??~15??)】

養老郡飯田城主。通称主殿助。1542年、石丸利光は土岐頼芸に従がって参陣したが敗退した。1543年、土岐頼芸の属して、長井規秀と戦い長井規秀勢を撃破った。

一色頼栄【いしきよりえい(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。別名土岐頼栄。官途は宮内少輔。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に属して参陣した。

伊集院藤兵衛【いじゅういんとうべえ(15??~15??)】 

森可成家臣。森成利(蘭丸)の傅役を務めた。森成利が織田信長の小姓になってからも側で補佐した。

市橋利尚【いちはしとしひさ(15??~15??)】

揖斐郡市橋城主。市橋利信の男。官途は壱岐守。通称九郎左衛門。長井規秀勢に属した。1560年、「市橋城の戦い」では、丸毛光兼らとともに織田信長勢を撃退した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

市橋長利【いちはしながとし(1513~1585)】

市橋利尚の男。斎藤義龍の病没後も斎藤龍興に仕え、織田信長勢と戦った。1563年、織田信長に内応して高木貞久や国枝古泰ら国衆を調略した。織田信長の側近として浅井長政との同盟の取次役を務めた。「伊勢討伐」「姉川の戦い」などで戦功を挙げた。織田信長が織田信忠に家督を譲ると織田信忠に従った。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉勢に属して明智光秀勢と戦った。

市橋長勝【いちはしながかつ(1557~1620)】

市橋長利の男。通称九郎左衛門。1589年、「小田原の役」に参陣して戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では肥前名護屋城に在城した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して、石田三成勢に属した丸毛兼利の福束城を攻落とす戦功を挙げた。役後、今尾城10,000石を領した。1609年、中村一忠が改易処分に処されると、伯耆国に転封され23,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康勢に属して戦功を挙げた。松平元康が病没する直前には堀直寄や松倉重政らとともに枕元に呼ばれ後事を託された。

市橋長政【いちはしながまさ(1575~1648)】

林右衛門左衛門の三男(市橋長勝の養子)。官途は伊豆守。通称左京。室は小山田茂誠の娘。1604年、松平元康に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で戦功を挙げ、下総国内で1,000石を領した。1620年、叔父市橋長勝が嗣子無くして病没したため市橋長政が家督を相続したが、所領を41,300石から20,000石に減封された。大坂城石垣普請や多賀神社造営などの奉行職を務めた。

伊藤祐重【いとうすけしげ(15??~15??)】

舟岡城主。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊藤盛景【いとうもりかげ(15??~1599)】

伊藤祐重の男。官途は長門守。通称彦兵衛。羽柴秀吉に仕えた。1589年、「小田原の役」で戦功を挙げた大垣城30,000石を領した。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して処罰されたが後に許され復帰した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊藤盛正【いとうもりまさ(15??~1623)】

伊藤盛景の男。官途は長門守。通称彦兵衛。1599年、父伊藤盛景の病没後、伊藤家の家督を相続して大垣城34,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属した。大垣城が石田三成勢の本営となったため、城を明け渡し今村城に退去した。「関ヶ原の戦い」では、松尾山城に布陣したが、小早川秀秋勢によって追い出された。役後、改易処分に処された。後に福島正則に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊藤頼母【いとうたのも(15??~16??)】

伊藤盛景家臣。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢が大垣城に進駐すると、石田三成に城を明け渡すことに反対を示したが、武威の押され明け渡しに同意した。参考文献:『群雲、関ヶ原へ(下)』by岳宏一郎。

伊藤伊予守【いとういよのかみ(15??~16??)】

伊藤盛景家臣。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢が大垣城に進駐すると、石田三成に城を明け渡すことに強硬に反対した。参考文献:『群雲、関ヶ原へ(下)』by岳宏一郎。

伊東治明【いとうはるあき(15??~1616)】

金森長近の男(伊東信直養子)。官途は掃部助。1608年、松平元康に仕え2,500石を領した。1610年、羽柴秀頼の名代として松平元康に年頭の挨拶を行った。1614年、「大坂冬の役」に参陣した。1616年、別所孫次郎宅で喧嘩となり、別所家の家人によって謀殺された。

井戸宇右衛門【いどうえもん(15??~1603)】

斎藤利治家臣。別名井戸傳三郎。室は林通安の娘。1582年、「本能寺の変」で斎藤利治が討死すると、斎藤家は斎藤利堯が相続した。斎藤利堯は織田信孝と結び東美濃の森長可の排斥を図ったが、森長可勢は東美濃諸城を攻略した。斎藤利堯が病没すると、加治田衆を率いて森長可に仕えた。1600年、森忠政が信濃国川中島城主に転封になると井戸宇右衛門は葛尾城代に任じられた。「第二次上田城の戦い」では、真田昌幸勢と戦い枝連衆の井戸傳三郎、井戸彦五郎らが戦功を挙げた。1603年、森忠政が美作国に転封なるとそれに従った。新城築城の方針を巡って森忠政と争うと、森忠政の意向を受けた名古屋山三郎勢の討伐を受け討死した。

井戸傳三郎【いどひろさぶろう(15??~1603)】

井戸宇右衛門家臣。1600年、「第二次上田城の戦い」では、井戸宇右衛門に従い真田昌幸勢と戦い戦功を挙げた。1603年、井戸宇右衛門が森忠政の意向を受けた名古屋山三郎勢の討伐を受けると、井戸宇右衛門とともに戦ったが討死した。

井戸彦五郎【いどひこごろう(15??~1603)】

井戸宇右衛門家臣。1600年、「第二次上田城の戦い」では、井戸宇右衛門に従い真田昌幸勢と戦い戦功を挙げた。1603年、井戸宇右衛門が森忠政の意向を受けた名古屋山三郎勢の討伐を受けると、井戸宇右衛門とともに戦ったが討死した。

井戸将元【いどまさもと(15??~1579)】

加茂郡麻生城主。通称斎助。別名井戸頼重。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属して戦功を挙げた。その後、織田信長の馬廻衆として仕えた。1570年、「野田、福島城の戦い」では、佐々成政、福富秀勝、野々村正成らとともに参勢して戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

井戸才八【いどさいはち(15??~15??)】

長井規秀家臣。1544年、長井規秀に仕えて春近で20俵を領した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

稲葉通貞【いなばみちさだ(15??~15??)】

揖斐郡小寺城主。通称刑部少輔。伊予国守護職河野通直の六男。美濃国守護土岐成頼に遇され、彼の妹を娶った。

稲葉通則【いなばみちのり(15??~1525)】

稲葉通貞の男。安八郡曽根城主。室は国枝正助の娘。1525年、「牧田の戦い」で稲葉通則は浅井亮政と戦い、父子六人全てが討死した。

稲葉良通【いなばよしみち(1515~1588)】

稲葉通則の六男。官途は伊予守。別名稲葉一鉄。室は三条西実枝の娘。土岐頼芸、長井規秀、織田信長、羽柴秀吉に仕えた。安藤守就、氏家直元と併せて「西美濃三人衆」と称された。1525年、「牧田の戦い」で父稲葉通則と兄稲葉通則が浅井亮政勢と戦って討死したため、稲葉家の家督を相続した。1567年、斎藤龍興を見限って織田信長勢に寝返った。1570年、「姉川の戦い」では松平元康とともに戦功を挙げた。その後も近江国、摂津国、伊勢国、越前国など各地に転戦して戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、安藤守就が稲葉良通勢の北方城を攻撃したがこれを討取った。1583年、娘婿である揖斐城主堀池半之丞と戦い、その領地を支配下に置いた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、羽柴秀吉に属して、柴田勝家勢に属した不破光治の西保城を攻撃した。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣し戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

稲葉重通【いなばしげみち(15??~1598)】

稲葉良通の男。官途は兵庫頭。通称勘右衛門。室は吉田浄忠の娘。織田信長に馬廻衆として仕えた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、父稲葉良通とともに一揆に囲まれた信濃国飯山城の救出に赴いた。以後、羽柴秀吉に仕え馬廻衆を務めた。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣し戦功を挙げた。1587年、「九州征伐」に参陣した。1588年、父稲葉良通が病没すると、異母弟の稲葉貞通が稲葉家の家督を相続した。稲葉重通は美濃国清水城12,000石を領した。1589年、「小田原の役」に参陣した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に在陣した。

稲葉通重【いなばみちしげ(15??~1618)】

稲葉重通の男。官途は甲斐守。通称は新左衛門。1598年、父稲葉重通が病没したため、家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、叔父稲葉貞通とともに石田三成勢に属したが、後に松平元康勢に寝返ったため、所領を安堵された。1607年、天野雄光、津田信成らとともに京都の祇園で商家の婦女に狼藉を働いたため、改易処分に処され常陸国筑波に流罪とされた。

稲葉貞通【いなばさだみち(1546~1603)】

稲葉良通の次男。官途は右京亮。室は長井規秀の娘。継室は織田信秀の娘。1567年、父稲葉良通とともに織田信長勢に属した。その後は父稲葉良通とともに畿内各地を転戦した。1579年、稲葉家の家督を相続した。1582年、「信濃飯山城の戦い」では、芋川親正が煽動した一揆によって包囲され窮地に陥るが、森長可が長沼城方面で一揆勢を破ったため窮地を脱した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、羽柴秀吉勢に属した。1590年、「伊豆韮山城の戦い」では、織田信雄勢に属して北条氏直勢と戦った。1592年、「文禄の役」に渡海して朝鮮半島各地を転戦した。1600年、「郡上八幡城の戦い」では、石田三成勢に属してに籠城したが、松平元康勢の遠藤慶隆、金森可重らに攻撃を受け降伏して松平元康勢に属した。本戦では加藤貞泰勢に属して戦功を挙げた。役後、豊後国大分郡臼杵城50,000石に転封した。

稲葉方通【いなばまさみち(1566~1640)】

稲葉良通の四男。官途は右近大夫。織田信長に仕え西保城主に任じられた。1582年、織田信長の討死後、羽柴秀吉に仕えた。1586年、「九州の役」に参陣した。1589年、「小田原の役」に参陣して戦功を挙げ和知城4,450石を領した。1598年、羽柴秀吉が病没すると松平元康に従った。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。後に尾張名古屋城主松平義直に仕えた。

稲葉正成【いなばまさなり(1571~1628)】

林政秀の男。通称八右衛門。官途は佐渡守。室は稲葉重通の娘。継室の斎藤利三の娘(春日局)。羽柴秀吉に仕えたが、後に小早川秀秋の附家老職を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、小早川秀秋を説得し松平元康勢に寝返らせた。役後、松平元康に仕えて尾張国羽栗郡内で10,000石を領した。

稲葉左近【いなばさこん(15??~1582)】

稲葉良通家臣。1582年、「北方城の戦い」で安東守就、安藤郷氏勢の攻撃を受け討死した。

井上作右衛門【いのうえさくざえもん(15??~1583)】

遠藤慶隆家臣。1583年、遠藤胤基が遠藤慶隆とともに織田信孝勢に属すると、羽柴秀吉勢の攻撃を受けた立花山城を奪われた。遠藤胤基は、300余りを繰り出し立花山城を奪還した。羽柴秀吉は、再度、森長可と佐藤秀勢らに立花山城を攻撃させた。和良遠藤清左衛門、池戸若狭守、井上作右衛門ら織田信孝に支援を求めたが、森長可勢の攻撃を受け討死した。

井上道勝【いのうえみちかつ(15??~15??)】

不破郡今須城主。長井長弘の次男。通称忠左衛門尉。別名長井道勝。兄長井道利とともに長井規秀に仕えた。1556年、「長良川の戦い」では、長井道利とともに斎藤義龍に属した。井上道勝は長井規秀を捕縛しようとしたが、小牧道家の横槍が入り、止む無く頸を切った。「第二明智城の戦い」では、長井道利とともに明智光安勢と戦った。斎藤義龍の病没後は斎藤龍興に仕えた。

井上頼次【いのうえよりつぐ(15??~1614)】

長井道利の三男。通称半右衛門。1567年、斎藤義興が伊勢国に落延びると、織田信長に仕えた。1582年、織田信長の討死後、羽柴秀吉に仕え、兄井上道勝とともに黄母衣衆に属した。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢に属し、鉄砲大将として2,000余りを率いた。松平元康勢の猛攻を受け討死した。

井上時利【いのうえときとし(1559~1615)】

長井長弘の四男。通称小左衛門。室は赤座永兼の娘。1582年、織田信長の討死後は、羽柴秀吉に仕えた。1599年、美濃国内なんで760石を知行した。1600年、「関ヶ原の役」では、織田秀信勢の属した。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢に属して松平元康勢と戦った。1615年、「大坂夏の陣」では、薄田兼相とともに秋山右近を討取るが、松平元康勢の反撃を受け討死した。

井上利中【いのうえとしなか(15??~15??)】

井上時利の男。

井上頼久【いのうえよりひさ(15??~1556)】

長井規秀家臣。別名加々右衛門。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀に従って参陣したが討死した。

猪俣五平治【いのまたごへいいじ(15??~1584)】

遠藤慶隆家臣。1584年、「小牧、長久手の戦い」で、羽柴秀吉勢に属して参陣した。遠藤慶隆に従い森長可勢に属して三河国に侵攻したが、松平元康勢の追撃を受け敗走、森長可は討死、遠藤慶隆は落延びたが遠藤弥九郎、餌取伝次郎、日置主計、和田仁兵衛らとともに討死した。

猪俣義綱【いのみたよしつな(15??~15??)】

東常慶家臣。郡上郡六ツ城主。通称五平次。1540年、「篠脇城の戦い」では、遠藤盛数とともに朝倉義景勢を撃退した。1559年、東常慶が滅亡すると、池田信輝に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、池田恒興勢に従って参陣したが討死した。 

猪子高就【いのこたかなり(15??~1582)】

長井規秀家臣。通称兵助。正徳寺の会見に同席して「何を見申し候ても、上総ノ介はたわけに候。」と名言を残した。織田信清を経て織田信長に仕え、矢部家定とともに側近として重用された。以後度々軍使を務めた。1577年、「第一次雑賀城の戦い」に参陣した。1578年、「播磨三木城の戦い」に参陣した。1582年、「二条御所の戦い」では、織田信忠とともに籠城して討死した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

揖斐基信【いびもとのぶ(15??~1547)】

大野郡揖斐城主。西美濃十八将。

揖斐光親【いびみつちか(15??~1556)】

土岐政房の男(揖斐基信の養子)。官途は周防守。通称五郎。1526年、後奈良天皇が費用が足りず即位の儀式を行えずにいたところ、献金を行いこれを実施させた。1547年、「大桑城の戦い」で土岐頼芸勢に属したため、長井規秀勢の攻撃を受け城から落延びた。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

揖斐光兼【いびみつかね(15??~15??)】

揖斐光親の男。通称与左衛門。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

揖斐宗誉【いびそうよ(15??~15??)】

東常慶家臣。別名丹石入道。念流を学び、後に丹石流を創始。丹石流は東軍流、新陰流、冨田流を組み合わせた流派。加藤清正、堀直政に兵法を教授した。

揖斐市左衛門尉【いびいちざえもんのじょう(15??~15??)】

長井規秀家臣。1562年、安藤守就、日根野弘就、竹腰尚光、氏家直元の意向を受けて竹林を伐採した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

今峰光次【いまみねひつつぐ(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称源八。1541年、「村山砦の戦い」に参陣した。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従って参陣した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

今枝弥八【いまえだやはち(15??~15??)】

長井規秀家臣。厚見郡日野郷内で60貫文を領した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

岩田光季【いわたみつよし(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。官途は民部丞。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属して参陣した。

岩手信久【いわでのびひさ(15??~1556)】

土岐頼芸家臣。不破郡菩提山城主。官途は遠江守。通称弾正忠。室は長井規秀の娘。西美濃十八将。菩提山城6,000石を領した。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀勢に属して討死した。

岩手長誠【いわでながのぶ(15??~1558)】

岩手信久の男。1558年、「菩提山城の戦い」で竹中重元勢の攻撃を受け討死した。

宇佐見左衛門【うさみさえもん(15??~15??)】

長井規秀家臣。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属した。戦後、斎藤龍義から重く用いられた。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

氏家行隆【うじいえゆきたか(14??~15??)】

安八郡楽田城主。土岐頼芸家臣。

氏家直元【うじいえなおもと(1512~1571)】

氏家行隆の男。官途は常陸介。別名氏家卜全。西美濃三人衆。美濃国の三分の一を領し、三人衆の中では最大の勢力を有していた。美濃国守護職の土岐頼芸に属した。1542年、土岐頼芸が長井規秀に追放されると、長井規秀に仕えた。1556年、「長良川の戦い」で長井規秀が討死すると斎藤義龍に仕えた。1567年、「稲葉山城の戦い」では、稲葉良通や安藤守就とともに織田信長に内応した。1569年、「大河内城の戦い」では、織田信長に従って戦功を挙げた。1571年、「長島城の戦い」では、本願寺勢の追撃を受け佐々木祐成に討取られた。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

氏家直昌【うじいえなおまさ(15??~1583)】

氏家直元の男。官途は左京亮。1571年、「伊勢長島城の戦い」で父氏家直元が討死すると、氏家家の家督を相続した。織田信長に仕えて大垣城主となった。その後も、織田信長に属して近畿各地を転戦した。1573年、「一乗谷城の戦い」では斎藤龍興を討取る戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉勢に属した。

氏家行広【うじいえゆきひろ(1546~1615)】

氏家直元の次男。官途は内膳正。別名は荻野道喜。1571年、「伊勢長島城の戦い」で父氏家直元が討死すると兄氏家直昌が家督を相続して、織田信長に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、氏家直昌は織田信孝に属したが、織田信孝が羽柴秀吉と対立すると羽柴秀吉勢に属した。以降は羽柴秀吉に仕えた。1583年、兄氏家直昌が病没すると、氏家行広が家督を相続したが三塚城15,000石に転封された。1590年、伊勢国桑名城22,000石に転封した。1600年、「伊勢桑名城の戦い」では、石田三成勢の攻撃を受け石田三成勢に従った。役後、改易処分に処された。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢に属して大坂城に籠城した。松平元康は氏家行広に離反を誘ったが応じなかった。1615年、「大坂夏の陣」では、大坂城落城とともに自刃した。

氏家行継【うじいえゆきつぐ(1551~1615)】

氏家直元の三男。官途は志摩守。通称源六。別名氏家元政。室は山岡景隆の娘。織田信長に仕えた。伊勢国で15,000石を領した。1582年、「武田家討伐」に参陣した。「本能寺の変」後、羽柴秀吉に属した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀吉勢として参陣した。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に在陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して兄氏家行広、寺西直次とともに桑名城に籠城した。役後、改易処分を受けた。細川忠興に仕えて6,000石を領した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

牛牧光久【うちまきみつひさ(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称右京亮。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属して参陣した。

梅村良澤【うめむらりょうたく(15??~15??)】

大沢基康家臣。別名岸良沢生。1565年、加治田城主佐藤忠能は梅村良澤を使者に犬山城へ遣わし、織田信長に内応した。「堂洞城の戦い」後、織田信長は加治田城を継いだ斎藤利治の領地を安堵した。織田信長は、佐藤忠能や加治田衆の戦功を評価し梅村良澤へ大迫間150貫文を与えた。岐阜城に滞在していた公家の山科言継を佐藤忠能とともに訪問し交流を行い、風雅、風流人、知恵者であった。

餌取伝次郎【えとりでんじろう(15??~1584)】

遠藤慶隆家臣。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、遠藤慶隆は、兵600余りを率いて森長可に属した。森長可勢が三河国に侵攻すると、松平元康勢の攻撃を受け敗走、森長可は討死、遠藤慶隆は落延びたが家臣の餌取伝次郎、遠藤弥九郎、日置主計、猪俣五平治、和田仁兵衛らが討死した。

餌取六右衛門【えとりろくうえもん(15??~15??)】

遠藤慶隆家臣。1564年、遠藤慶隆は弟遠藤慶胤とともに稲葉山城に居住していたが、竹中重治が稲葉山城を奪取したため、山県郡深瀬郷に避難した。その混乱に乗じて、遠藤胤俊が八幡城を攻略、遠藤慶隆兄弟の謀殺を企てた。遠藤慶隆は粥川甚右衛門と餌取六右衛門に救出され、鶴尾山城に入った。1564年、長井道利勢の援軍を得ると、遠藤胤俊が和議を申し出て、遠藤慶隆が八幡城に復帰した。

餌取広綱【えとりひろつな(15??~15??)】

鷲見貞保家臣。1541年、「阿千葉城の戦い」で東常慶勢の攻撃を受け鷲見貞保が討死すると、鷲見千代丸とともに落延びた。

遠藤胤縁【えんどうたねより(15??~1559)】

東常慶家臣。郡上郡木越城主。遠藤胤好の男。通称新兵衛。1540年、朝倉義景が郡上郡に侵攻すると、篠脇城主東常慶は籠城して頑強に抵抗した。弟の遠藤盛数ととも朝倉義景勢を撃退する戦功を挙げ、東常堯を凌ぐ程の勢力となった。1559年、赤谷山城で東常堯に謀殺された。

遠藤胤俊【えんどうたねとし(1546~1570)】

遠藤胤縁の男。官途は大隅守。通称新右衛門。1559年、父遠藤胤縁が東常慶に謀殺されると、祖父遠藤胤好の後見を受けた遠藤家の家督を相続した。遠藤盛数が東常堯を滅ぼして八幡城主となると、遠藤胤俊は郡上郡西北の地を領した。1564年、「八幡城の戦い」で遠藤慶隆を追落とした。1564年、遠藤慶隆と和議を結び八幡城から撤収した。1567年、遠藤慶隆とともに織田信長勢に属した。1570年、「姉川の戦い」で遠藤慶隆とともに織田信長勢に属して参陣して浅井長政、朝倉義景勢との戦った。「志賀の陣」では、坂井政尚勢に属して遠藤慶隆と堅田城を守備していたが浅井長政、朝倉義景勢に攻められで坂井政尚とともに討死した。

遠藤胤基【えんどうたねもと(1548~1594)】

遠藤胤縁の次男。通称新兵衛、官途は大隅守。室は遠藤盛数の娘。1570年、「志賀の陣」で兄遠藤胤俊が討死したため、遠藤家の家督を相続した。1571年、遠藤慶隆とともに比叡山焼き討ちに参陣した。1572年、武田晴信に内応した。1573年、武田晴信が病没すると織田信長勢の攻撃を受け降伏した。1574年、斎藤利治勢の攻撃を受けたが家臣の吉田左京進らの働きにより撃退した。1582年、「本能寺の変」の後、織田信孝勢に属した。羽柴秀吉と対立しても織田信孝に属し続けた。1583年、森長可勢の攻撃を受け降伏した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、池田恒興勢に属した。1588年、「立花山の戦い」などで羽柴秀吉に反抗したことを理由に、両遠藤家で20,000石の領地を没収された。遠藤慶隆は小原城7,500石、遠藤胤基は犬地城5,500石に減封された。1589年、「小田原の役」では、遠藤慶隆と兵900余りを率いて参陣した。1592年、「文禄の役」では、遠藤慶隆とともに織田秀信勢に属して朝鮮各地を転戦したがまもなく病没した。

遠藤胤直【えんどうたねなお(15??~15??)】

遠藤胤基の男。通称小八郎。室は遠藤慶隆の娘。1592年、「文禄の役」で父遠藤胤基が帰路途中長門国で病没したため、犬地城5,500石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、遠藤慶隆とともに松平元康の家臣榊原康政に属したが、遠藤胤直は石田三成勢に寝返り上ヶ根城に籠城した。岐阜城主織田秀信より鉄炮三十挺と弾薬を届られた。上ヶ根城を遠藤慶隆に攻められて降伏した。役後、女婿の金森可重は、遠藤胤直の赦免を松平元康に願い出たが改易となった。

遠藤盛数【えんどうもりかず(15??~1562)】

郡上郡刈安城主。遠藤胤好の次男(東常慶の養子)。通称六郎左衛門尉。室は東常慶の娘。1540年、和田館主和田五郎左衛門を東常慶、兄遠藤胤縁とともに謀殺した。「篠脇城の戦い」では、朝倉義景勢の背後を攻撃して戦功を挙げた。1552年、「福野城の戦い」では、東常慶の意向を受け城主河合七郎を討取る戦功を挙げ、福野城主に任じられた。東常慶は東常堯を遠藤胤縁の娘と縁組させようともしたが同意せず、娘を畑佐六郎右衛門に嫁がせた。1559年、遠藤胤縁が東殿山城を訪問すると、家臣長瀬内膳に命じて謀殺させた。「東殿山城の戦い」で遠藤常慶を滅ぼし、斎藤龍興勢に属した。1561年、関城主長井道利とともに織田信長勢と戦った。

遠藤慶隆【えんどうよしたか(1550~1632)】

遠藤盛数の男。官途は但馬守。室は安藤守就の娘。継室は三木良頼の娘。継々室は姉小路自綱の娘。1562年、父遠藤盛数が病没して、遠藤慶隆が十三で家督を相続した。岳父安藤守就、継父長井道利らとともに織田信長に抵抗した。稲葉山城から斎藤龍興が伊勢国へ落延びると織田信長に降伏した。1570年、「姉川の戦い」では、森可成の寄騎衆と参陣した。その後、日根野弘就らとともに金森長近の寄騎衆を務めた。1582年、「本能寺の変」後、織田信孝に従って羽柴秀吉勢に対抗した。1583年、織田信孝とともに再び挙兵し須原城、洞戸城、立花山城を侵攻したが、森長可、佐藤秀方勢の攻撃を受けて降伏した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、森長可勢に属して三河国に侵攻した。松平元康の反撃を受け森長可は討死、遠藤慶隆は敗走したが家臣遠藤弥九郎、餌取伝次郎、日置主計、猪俣五平治、和田仁兵衛らが討死した。羽柴秀吉から加茂郡小原城7,500石に減封された。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して、石田三成勢の郡上八幡城主稲葉貞通を攻撃した。役後、郡上郡八幡城27,000石を領した。

遠藤慶勝【えんどうよしかつ(1588~1615)】

遠藤慶隆の男。官途は長門守。室は本多康重の娘。1614年、「大坂冬の陣」に参陣したが病に倒れた。1615年、遠藤家の家督を継ぐことなく二八歳で早世した。遠藤慶隆は、遠藤慶利を養子に迎えた。

遠藤慶胤【えんどうよしたね(15??~15??)】

遠藤盛数の次男。通称助二郎。室は佐藤清信の娘。

遠藤慶重【えんどうよししげ(15??~15??)】

遠藤慶胤の男。通称長助。室は木越遠藤胤重の娘。遠藤内記の異母兄で400石を領した。遠藤内記と同様に「殿」という敬称がつけられる人物。二人の娘は、遠藤家臣の粥川小十郎と内ヶ島勘左衛門に嫁いだ。

遠藤内記【えんどうないき(15??~15??)】

遠藤慶胤の次男。別名右近。遠藤家中筆頭家老で1,000石を領した。異母兄に遠藤長助慶重がいたが、彼の母は武儀郡鉈尾山城主佐藤清信の娘であったため、遠藤惣領家の遠藤胤俊娘を母とする遠藤内記が遠藤慶胤の嫡男とされていた。

遠藤胤重【えんどうたねしげ(15??~15??)】

遠藤胤縁の男。通称彦右衛門。室は遠藤盛数の娘。

遠藤弥九郎【えんどうよくろう(15??~1584)】

遠藤慶隆家臣。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、遠藤慶隆に従って羽柴秀吉勢に参陣した。兵600余りを率いて森長可に属した。森長可勢が三河国に侵攻すると、松平元康勢の追撃を受け敗走、森長可は討死、遠藤慶隆は落延びたが家臣の遠藤弥九郎、餌取伝次郎、日置主計、猪俣五平治、和田仁兵衛らが討死した。

遠藤胤安【えんどうたねやす(15??~1587)】

遠藤胤縁の次男。通称吉左衛門。1587年、「九州討伐」では、兄遠藤胤基とともに羽柴秀吉勢に属して参陣した。「岩石城の戦い」で討死した。

遠藤加賀守【えんどうかがのかみ(15??~15??)】

遠藤胤縁家臣。1572年、遠藤胤基の意向を受けて武田晴信ともに赴いた。

和良遠藤清左衛門【えんどうきよえもん(15??~1583)】

遠藤慶隆家臣。1569年、姉小路自綱が畑佐信胤、佐藤秀方らとともに郡上郡に侵攻すると、遠藤胤俊は遠藤左近右衛門を遠藤慶隆は遠藤清左衛門を派遣して久須見で迎撃したが遠藤左近右衛門の弟遠藤五郎助が討死した。1583年、羽柴秀吉が岐阜城主織田信孝を攻撃すると、遠藤胤基は遠藤慶隆とともに織田信孝勢に属した。羽柴秀吉勢の武儀郡の国人衆は立花山城に兵を入れ、郡上郡と岐阜城との連絡を断った。遠藤胤基は300余りを率いて花山城を攻略した。羽柴秀吉は、森長可と佐藤秀方に立花山城を攻撃させた。立花山城に籠城する兵300余りは織田信孝に支援を求めたが、森長可勢の攻撃を受け、和良遠藤清左衛門、池戸若狭守、井上作右衛門らが討死した。兵糧が底を付き、遠藤慶隆と遠藤胤基は、家臣石神兵庫と遠藤利右衛門を人質に差し出し立花山城から撤退した。

和良遠藤六兵衛【えんどうろくべえい(15??~15??)】

遠藤慶隆家臣。

遠藤左近右衛門【えんどうさこんざえもん(15??~1569)】

遠藤胤俊家臣。1569年、姉小路自綱が畑佐信胤、佐藤秀方らとともに郡上郡に侵攻すると、遠藤胤俊は遠藤左近右衛門、遠藤慶隆は遠藤清左衛門を派遣して久須見で迎撃した。遠藤左近右衛門の弟遠藤五郎助が討死した。援将として参陣した郡上安養寺の住持安養寺乗了の門徒衆、円覚坊、正専坊、妙専坊ら僧兵も討死をした。後に姉小路自綱と和議を結び姉小路自綱の妹を室と迎えた。

鎌倉遠藤新左衛門【えんどうしんざえもん(15??~15??)】

遠藤慶隆家臣。

鈴原遠藤新三左衛門【えんどうしんざえもん(15??~15??)】

遠藤盛数家臣。家老職を務めた。

大垣長家【おおがきながいえ(15??~1535)】

安八郡大垣城主。通称彦五郎。1535年、「大垣城の戦い」で、娘婿の宮川安定に討取られた。

大桑定雄【おおくわさだお(15??~15??)】

山県郡大桑城主。通称治部兵衛。

大沢基康【おおさわもとやす(15??~15??)】

葉栗郡鵜沼城主。通称次郎左衛門。1561年、「森部の戦い」で織田信長勢が美濃国に侵攻すると、織田信清と結んで丹羽郡楽田城を攻落とした。織田信清を支援する、木曾川対岸の鵜沼城主大沢基康、猿啄城主多治見修理を攻略するため、羽柴秀吉は、蜂須賀正勝を頭目と仰ぐ川並衆や木曾山方衆を調略した。川並衆は、木曾川流域、長良川流域、揖斐川流域の川湊に勢力を巡らし、美濃国内で生産される和紙、刃物、陶磁器、材木、五穀等の運搬を独占した勢力であった。羽柴秀吉は、織田信長と蜂須賀正勝の関係を修復し、大沢基康と多治見修理、松倉の坪内党を調略を行った。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

大沢正秀【おおさわまさひで(15??~15??)】

大沢基康の男。通称次郎左衛門。織田信清に属した。羽柴秀吉の諜略により父大沢基康とともに鵜沼城は無血開城した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

大島光義【おおしまみつよし(1508~1604)】

長井道利家臣。大島光宗の男。室は蒔田広定の娘。加治田衆。1565年、「加治田城の戦い」では、長井道利勢に属して参陣した。1567年、斎藤義興が伊勢国に落延びると織田信長に仕え畿内各地を転戦して戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」では、安土城にいたが一揆勢を撃破った。その後は、丹羽長秀に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げて8,000石を領した。丹羽長秀の病没後は、羽柴秀吉に仕え弓頭となった。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属したが、次男大島光政や三男大島光俊は石田三成勢に属した。役後18,000石を領した。

大島光成【おおしまみつなり(1559~1608)】

大島光義の男。1567年、父大島光義とともに織田信長に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、丹羽長秀に仕えたが丹羽長重が減封処分に処されると、羽柴秀吉に仕えた。1589年、「小田原の役」に参陣して戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢属して参陣したが、弟大島光政、大島光俊が石田三成勢に属した。大島家の家督を相続すると、自身は7,500石余を領し、弟大島光政に4,710石、大島光俊に3,250石、大島光朝に2,550石と分知した。

大島光政【おおしまみつまさ(1563~1622)】

大島光義の次男。通称茂兵衛。1565年、「加治田城の戦い」では、湯銭新六勢に属して参陣した。斎藤利堯が病没すると、丹羽長秀に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、丹羽長秀の意向を受け津田信澄を討取った。1583年、「賤ヶ岳の戦い」でも、丹羽長秀に従って戦功を挙げた。丹羽長秀の病没後、羽柴秀吉に従って馬廻衆を務めた。1592年、「文禄の役」では、使番として戦功を挙げた。1595年、池田郡内で1,000石を加増された。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属すが、後に松平元康勢に属した。1604年、父大島光義が病没すると、池田郡、加茂郡、武儀郡内で5,710石を領した。

大島光俊【おおしまみつとし(1572~1618)】

大島光義の三男。父大島光義に従って兄大島光政とともに戦功を挙げた。織田信長、斎藤利治、丹羽長秀、羽柴秀吉、松平元康らに仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、次兄大島光政とともに石田三成勢に参陣したが、父大島光義、兄大島光成、弟大島光朝は松平元康勢に属した。役後、父大島光義と兄弟の戦功により、許され松平元康に仕えた。

大島光朝【おおしまみつとも(15??~15??)】

大島光義の四男。父大島光義に従って近畿各地を転戦した。織田信長、丹羽長秀、羽柴秀吉、松平元康らに仕えた。1604年、父大島光義が病没すると、美濃国内で2,550石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢に属して参陣した。1615年、「大坂夏の陣」で羽柴秀頼が滅亡すると、池田長吉に仕えた。

大島吉綱【おおしまよしつな(1588~1657)】

横江清元の男(大島光義の養子)。通称新八。室は大島光義の娘。槍術の達人、湯銭新六の弟子として教えを学んだ。槍の名手となり知られ、後諸国を廻って槍術を学び、加藤清正に仕えた。1592年、「文禄の役」では、加藤清正に従って参陣した。1614年、「大坂冬の陣」では、前田利長に従って戦功を挙げた。のちに柳生宗矩の推挙で松平頼宣の槍術指南役のを務めた。

大塚権太夫【おおつかごんだいふ(15??~1600)】

一柳直盛家臣。1600年、「米野の戦い」で、木曾川を越える松平元康勢18,000余りと、岐阜城からこれを迎え討つため米野付近で陣を張った織田秀信勢3,200余りとが戦った。大塚権太夫は、木曾川を渡り一番槍の戦功を挙げた。織田秀信勢の武市善兵衛を討取り、その頸を持って堤防を登るときに、飯沼長資と戦い討取られた。

大塚種長【おおつかたねなが(15??~15??)】

長井規秀家臣。通称藤三郎。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀に属した。

大西勝祐【おおにしかつすけ(15??~1556)】

長井規秀家臣。通称太郎左衛門。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀に属して討死した。

小柿助六【おがきすけろく(15??~15??)】

大野郡小柿城主。西美濃十八将。

小柿長秀【おがきながひで(15??~15??)】

小柿助六の男。通称四郎左衛門。

小川伊勢守【おがわいせのかみ(15??~15??)】

仙石秀久家臣。1585年、「四国討伐(天正の陣)」では、讃岐国に渡海して橋頭堡として法勲寺城を築城した。戦後、讃岐国内で350石を領した。

小川平左衛門【おがわへいざいもん(15??~15??)】

稲葉良通家臣。

小川弥兵衛門【おがわよへい(15??~15??)】

稲葉良通家臣。

荻原国繁【おぎわらくにしげ(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称孫次郎。馬廻衆。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に属して参陣した。

奥田秀種【おくだひでたね(1503~1557)】

斯波政敏の男(奥田直種の養子)。通称三右衛門。奥田秀種が養子となり奥田家の家督を相続した。美濃国茜部に移住し、土岐家臣となった。近江国へ度々合戦へ赴き戦功を挙げた。六角義治との合戦で、六角義治の「四つ目結び」の旗指物を奪い取り、四つ目のうちの一つをとり「釘貫き」の家紋とした。

奥田直純【おくだなおずみ(1523~1571)】

奥田秀種の男。通称七郎五郎。室は堀利房の娘。茜部に500貫文の地を領し、斎藤義龍に仕えた。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属して怪力無双を謳われた道家孫次郎を討取る戦功を挙げた。斎藤義龍が病没後は織田信長に仕えた。継嗣の奥田直政は従兄弟の堀秀政とともに織田信長に仕えた。

奥田直政【おくだなおまさ(1547~1608)】

奥田直純の男。通称三右衛門。別名堀直政。室は堀秀政の娘。堀秀政に属した「伊賀亀甲城の戦い」で戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」で、織田信長が討死すると、堀秀政に従い羽柴秀吉に仕えた。堀秀政が病没すると、羽柴秀吉のもとに奥田直寄を派遣して、堀秀治の家督相続を承認させた。1598年、堀秀治が越後春日山城450,000石を領して、蔵王堂城主堀親良、坂戸城主奥田直寄、三条城主奥田直政、新発田城主溝口秀勝、本庄城主村上義明の枝連衆と寄騎衆で統治した。1600年、「関ヶ原の役」では、越後国各地に長尾景勝の扇動された一揆が発生し奥田直政は鎮圧に奔走した。1605年、堀秀治の継嗣堀忠俊に、本多忠政の娘百合姫を松平秀忠の養女とし室とする工作を行った。1605年、堀親良と対立したが間もなく病没した。

奥村元信【おくむらもとのぶ(15??~15??)】

久々利頼興家臣。可児郡大森城主。

奥村元広【おくむらもとひろ(15??~15??)】

奥村元信の男。通称又八郎。1582年、「本能寺の変」後、金山城主森長可に謀反を企てた。森長可の家臣林長兵衛、各務勘由ら兵300余りの森長可勢が、大森城を攻撃した。伴藤右衛門ら200余りの攻撃を受け、前田利家のもとに落延びた。

小栗信濃守【おぐりしなののかみ(15??~1552)】

土岐郡御嵩城主。1552年、「高山城の戦い」に敗れると、土岐郡小里城主小里光忠と恵那郡明智城主遠山与助らの攻撃を受けた。「御嵩城の戦い」で籠城するが、敗れて自刃した。小栗信濃守の娘は、遠山与助勢と戦ったが、己の操を守り通すため城の北側の断崖絶壁より身を投じた。

小里頼長【おざとよりなが(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称出羽守。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に従って参陣した。

小塩良為【おしおよしため(15??~15??)】

斎藤利良家臣。官途は内膳亮。厚見郡本庄を領した。後に長井規秀に仕えた。

落合直治【おちあいなおはる(15??~15??)】

森可成家臣。通称藤右衛門。

落合家氏【おちあいいえうじ(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称掃部介。1556年、「長良川の戦い」で斎藤義龍に従って参陣した。

小寺掃部【おでらかもん(15??~15??)】

不破郡青柳城主。 

小里光忠【おりみつただ(14??~15??)】

土岐元頼家臣。恵那郡小里城主。官途は出羽守。 1496年、「城田寺城の戦い」で土岐元頼の討死後は諸国を放浪したが、朝倉義景の支援を受け土岐郡、恵那両郡の旧領3,600石余を取戻した。1534年、小里城を築城して明智遠山景行と結んだ。

小里光次【おりみつつぐ(15??~1572)】

小里光忠の男。室は遠山景行の娘。1555年、武田晴信が信濃国で勢力を拡大すると、それに属した。1572年、「上村の戦い」では、明智遠山景行、苗木遠山友勝、飯羽間遠山友信らとともに織田信長勢に属して武田晴信勢と戦ったが討死した。

小里光久【おりみつひさ(15??~1582)】

小里光次の男。1582年、「二条御所城の戦い」で織田信忠に従って明智光秀勢とたたったが討死した。

小里光明【おりみつあき(1536~1601)】

小里光忠の次男。通称助右衛門。別名和田光明。室は堀利房の娘。1582年、甥の小里光久が討死したため、小里家の家督を相続した。東美濃の国人衆が羽柴秀吉勢に属する中、織田信孝に従い羽柴秀吉勢に属した森長可と戦った。1583年、「小里城の戦い」で森長可勢の攻撃を受け三河国を落延び松平元康に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、遠山利景、遠山方景らととも東美濃に侵攻して、明知城、小里城、岩村城、神箆城を攻落とした。

小里光直【おりみつなお(15??~1584)】

小里光明の男。通称彦五郎。1583年、父小里光明とともに松平元康に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」で羽柴秀吉勢と戦い討死した。

小里光親【おりみつちか(15??~15??)】

小里光直の男。1600年、「関ヶ原の役」では、祖父小里光明らととも東美濃に侵攻して、明知城、小里城、岩村城、神箆城を攻落とした。役後旧領復帰し3,600石を領して松平元康の馬廻衆となった。

小里光重【おりみつしげ(15??~1623)】

小里光親の男。1623年、継嗣をもうけなぬまま病没したため、小里家は断絶した。

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【か】

加賀井重宗【かがのいしげむね(1532~1594)】

安八郡加賀野井城主。官途は駿河守。織田信長に仕え、その後織田信雄に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、織田信雄に従って戦功を挙げた。

加賀井重望【かがのいしげもち(1561~1600)】

加賀井重宗の男。通称弥八郎。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、父加賀井重宗とともに織田信雄勢として戦い戦功を挙げた。加賀野井城は羽柴秀吉勢によって落とされた。父加賀井重宗は、羽柴秀吉に仕えることを潔しとせずに隠棲した。加賀井重望は羽柴秀吉に使番として召しだされ8,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」の直前、三河国池鯉鮒において水野忠重、堀尾吉晴らと宴席を共にしていたとき、些細なことから口論となって水野忠重を謀殺し、堀尾吉晴を負傷させたが、自らも堀尾吉晴によって謀殺された。

鏡島光信【かがしまみつのぶ(15??~15??)】

厚見郡鏡島城主。別名石河光信。織田信長に仕えた。
 
鏡島光政【かがしまみつまさ(15??~15??)】

鏡島光信の男。通称杢兵衛。別名石河光政。

鏡島貞政【かがしまさだまさ(15??~15??)】

鏡島光政の男。別名石河貞政。羽柴秀吉に仕えて5.000石を領した。1615年、「大坂夏の陣」で羽柴秀頼が滅亡すると、松平元康に仕えた。

鏡島勝正【かがしまかつまさ(15??~15??)】

鏡島光政の男。別名石河勝正。

鏡島光元【かがしまみつもと(15??~15??)】

鏡島光重の男。別名石河光元。播磨龍野城10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したため、改易処分を受けた。

鏡島光忠【かがしまみつただ(15??~16??)】
 
鏡島光元の男。1615年、尾張松平義直に仕えて10,000石を領した。

各務盛正【かがみもりまさ(15??~15??)】

土岐頼芸家臣。室は土岐政房の娘(おおがみ殿)。土岐頼芸の没落により、長井規秀に仕えた。

各務元正【かがみもとまさ(1542~1600)】

各務盛正の男。通称清右衛門。1560年、領地問題で各務右京亮を謀殺して蟄居処分を受けた。1567年、斎藤義興が滅亡すると森可成に仕えた。1570年、「宇佐山城の戦い」では、森可成の討死後も宇佐山城に武藤兼友、肥田直勝、林通安らとともに籠城して浅井長政、朝倉義景勢する戦功を挙げた。1582年、「高遠城の戦い」では、森長可に従って参陣して一番槍の戦功を挙げた。森成利(蘭丸)が兼山城50,000石の領主となると、附家老職に任じられた。「本能寺の変」で森成利がが討死すると、兼山城代として森長可に従って東美濃を転戦して戦功を挙げた。1584年、「小牧、長久手の戦い」で森長可が討死すると、遠山友政、遠山利景らの攻撃を受けたが遠山半左衛門らを討取りこれを撃退した。森忠政が兼山城から信濃国川中島城136,500石へ転封すると長沼城代に任ぜられ8,000石を領した。

各務元峯【かがみもとみね(1572~1608)】

各務元正の男。通称は四郎兵衛。室は林為忠の娘。森忠政に仕え、筆頭家老職を務め、8,000石を領した。1603年、同僚の小沢彦八と喧嘩になり小沢彦八を謀殺、仲裁に入った細野左兵衛も各務元峯の家臣に謀殺される事件を起こし自刃した。森忠政は喧嘩両成敗で三家の家禄を没収した。

陰山一景【かげやまかずかげ(15??~15??)】

長井規秀家臣。山県郡伊自良館主。官途は掃部助。1544年、「大垣城の戦い」で長井規秀に従って織田寛継勢と戦い矢傷により失明した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

春日丹後守【かすやたんごのかみ(15??~15??)】

斎藤龍興家臣。家老職を務めた。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

加治田直繁【かじたなおしげ(15??~15??)】

加茂郡加治田館主。加治田政直の男。通称隼人佐。別名加治田直繁。1566年、加治田衆を筆頭に中濃攻略戦後、西美濃へ侵攻を開始した。墨俣砦を築き拠点ととするにあたり、川並衆として、稲田大炊介、蜂須賀小六、前野将右衛とともに参陣した。羽柴秀吉の鉄砲組頭を務めた。

加治田繁政【かじたしげまさ(15??~1628)】

梶田直繁の男。官途は出雲守。通称新助。父梶田直繁とともに羽柴秀吉に仕え、後に福島正則の家老職となった。1600年、福島正則が織田秀信の岐阜城を攻めたときに梶田繁政は戦功を挙げた。「関ヶ原の戦い」では可児才蔵とともに、大谷吉隆勢や宇喜多秀家勢と戦い大将頸を3つ上げる戦功を挙げた。役後は、備後国三原城代として尾関右衛門太郎、松田下総介、上月豊後守、間島美作守らとともに民政の統括にあたった。

樫原治定【かしはらはるさだ(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。官途は但馬守。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従って参陣した。

片桐為春【かたぎりためはる(15??~15??)】

長井規秀家臣。通称縫殿助。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀に従って参陣した。

加藤景泰【かとうかげやす(14??~15??)】

厚見郡橋爪館主。加藤光長の男。橋爪館70貫を領して長井規秀に仕えた。

加藤光泰【かとうみつやす(1537~1593)】

加藤景泰の男。室は一柳直秀の娘。1564年、斎藤龍興が滅亡すると美濃衆として羽柴秀吉に仕えた。1571年、近江国坂田郡において浅井長政と戦い戦功を挙げ700貫を領した。1580年、「播磨三木城の戦い」でも戦功を挙げ5,000石を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では犬山城代を務めた。1589年、「小田原の役」では、駿府城に在番した。大垣城主一柳直末が討死したため、羽柴秀勝が美濃国に転封に伴い甲府240,000万を領した。河内郡には、加藤貞泰と弟加藤光政、郡内地方には養子加藤光吉を任じた。1592年、「文禄の役」に参陣したが西生浦の陣中で病没した。

加藤貞泰【かとうさだやす(1580~1623)】

加藤光泰の男。室は小出吉政の娘。1593年、父加藤光泰の病没、家督を相続して羽柴秀吉に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して島津義弘勢と戦った。長束正家が守る水口城攻略でも戦功を挙げた。1610年、伯耆国二郡米子城主60,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」でも松平元康勢に属して戦功を挙げ、伊予国大洲城主60,000石を領した。

加藤光政【かとうみつまさ(15??~15??)】

加藤景泰の次男。1589年、「小田原の役」後、兄加藤光泰が甲府240,000石を領すと、河内郡内を領した。

加藤光吉【かとうみつよし(15??~15??)】

一柳直秀の男(加藤光泰の養子)。官途は信濃守。

鹿取三郎左衛門【かとりさぶろうざえもん(15??~15??)】

飯沼長継家臣。飯沼長常の次男。飯沼長継の叔父。1571年、「伊勢長島城の戦い」では、氏家ト全に従って飯沼長継とともに参陣した。反撃を受け敗走中の飯沼長継を救出した。

金森定近【かなもりさだちか(15??~15??)】

多治見城主。大畑定近が金森采女と称した。金森定近は土岐家の後継者争いで土岐頼武を支持したが、土岐頼武は土岐頼芸に敗れ、金森定近も程なくして美濃国を離れ近江国野洲郡金森へと落延びた。

金森政近【かなもりまさちか(15??~15??)】

金森定近の男。通称七右衛門。織田信長に仕えた。

金森長近【かなもりながちか(1524~1608)】

金森定近の次男。官途は飛騨守。通称五郎八。室はお福の方。近江国を離れて尾張国の織田信秀に仕え、後を継いだ織田信長にもそのまま仕えた。その後、美濃国攻略に属して戦功を挙げ、赤母衣衆となった。1575年、越前国大野郡を領した。その後は柴田勝家の寄騎衆となり北陸各地を転戦した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に討たれ際、嫡男金森長則は織田信忠と共におり討死した。金森長近は長屋景重を養子に迎えた。柴田勝家と羽柴秀吉が対立すると、柴田勝家に属した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家が羽柴秀吉に敗れて自刃すると、剃髪して降伏し、羽柴秀吉に仕えた。1585年、飛騨国の姉小路頼綱討伐で戦功を挙げ、羽柴秀吉から飛騨国を与えられた。1594年、羽柴秀吉の御伽衆を務めた。1600年、「関ヶ原の戦い」では金森可重とともに松平元康勢の属して、役後に20,000石を加増された。

金森政秀【かなもりまさひで(15??~15??)】

金森定近の三男。

金森長則【かなもりながのり(1564~1582)】

金森長近の男。通称忠二郎。織田信忠の近侍として仕えた。 1582年、「本能寺の変」で織田信忠とともに明智光秀勢に攻められ、防戦するも討死した。

金森長光【かなもりながみつ(1605~1611)】

金森長近の次男。1582年、「本能寺の変」で二条城において織田信忠とともに討死にしたため、金森家の家督と金森長近の養子金森可重が相続した。1608年、金森長近が病没すると金森長光は、上有知、関、河内国金田23,000石を領した。1611年、病没し継嗣は無く、上有知金森家は無嗣断絶で改易となった。家臣島三安、肥田忠親、池田政長は、遺領のより各1,000石宛がわれ松平元康に仕えた。

金森可重【かなもりありしげ(1558~1615)】

長屋景重の男(金森長近の養子)。官途は出雲守。室は遠藤慶隆の娘。継室は名護屋高久の娘、江馬輝盛の娘。1582年、「本能寺の変」で金森長近の嫡男が討死したため、その養子に迎えられた。1585年、養父金森長近とともに「飛騨国平定戦」に活躍し、飛騨国増島城10,000石を領した。羽柴秀吉に属して佐々成政、姉小路頼綱らを討つなど、金森長近の飛騨支配に貢献した。「九州征伐」や「小田原征伐」「文禄、慶長の役」「会津征伐」にも金森長近とともに参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では松平元康勢に属して、石田三成勢の稲葉貞通が籠城する郡上八幡城を岳父の遠藤慶隆とともに攻めた。養父金森長近が病没すると飛騨国高山城38,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣し、小出吉英の加勢となって「樫井の戦い」で羽柴家方を撃退し戦功を挙げたが、嫡男金森重近が松平元康勢に属すのを拒み廃嫡になった。金森家の家督は三男金森重頼が継いだ。

金山勝長【かなやまかつなが(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称治郎左衛門。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に属して参陣した。

可児秀行【かにひでゆき(15??~1584)】

室原城主。通称六郎左衛門。1565年、織田信長は、森可成を金山城主に封じて東美濃の旗頭とした際、可児秀行は森可成に属した。1584年、可児秀行は森長可に属して「小牧、長久手の戦い」に参陣して、楽田八幡林で森長可ととに討死にした。

可児勝行【かにかつゆき(15??~15??)】

可児秀行の男。1600年、森忠政が信濃川中島へ転封された時、可児勝行もこれに従って信濃国に移った。

可児吉長【かによしなが(1554~1613)】

斎藤龍興家臣。通称才蔵。別名「笹の才蔵」。宝蔵院流槍術の開祖、覚禅房胤栄に槍術を学んだ。1567年、斎藤龍興が伊勢国に落延びると柴田勝家、明智光秀、前田利家、織田信孝に仕えた。1583年、織田信孝が羽柴秀吉の攻撃を受けて自刃したため羽柴秀次に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」で、羽柴秀次が松平元康勢に敗れると、羽柴秀次と対立して浪人になった。その後、福島正則に仕え750石を領した。1590年、「小田原の役」では北条氏規が守備する韮山城を攻撃して一番槍の戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では、福島正則勢の先陣を務め、十七の頸を上げる戦功を挙げ500石を加増された。若い頃から愛宕権現を厚く信仰していたため、「我は愛宕権現の縁日に死ぬ」と予言していた。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

可児長景【かにながかげ(15??~15??)】

山岡景宗の男(可児吉長の養子)。

可児作兵衛【かにさくべい(15??~1684)】

可児政三の男。戸沢政盛に仕えた。

可児正栄【かにまさえい(15??~1684)】

可児才蔵の男。通称長右衛門。紀州松平頼宣に仕えた。

加納雅楽【かのううらく(15??~1582)】

稲葉良通家臣。1582年、「本能寺の変」後、稲葉良通に従って安東守就、安藤郷氏勢と戦ったが討死した。

加納江津右衛門【かのうえつえもん(15??~1565)】

揖斐郡清水城主。1565年、「清水城の戦い」で稲葉良通勢の攻撃を受け自刃した。

加納江右衛門【かのうえさえもん(15??~15??)】

加納江津右衛門の男。官途は武蔵守。1565年、「清水城の戦い」で稲葉良通勢の攻撃を受け父加納江右衛門が自刃すると、稲葉良通勢に降伏した。

神山義鑑【かみやまよしあき(15??~1556)】

長井規秀家臣。通称内記。方懸郡の豪族衆。1541年、「村山城の戦い」に参陣した。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀に従って討死した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

神山正長【かみやままさなが(15??~1556)】

長井規秀家臣。通称主馬。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀に従って参陣したが討死した。

神山定常【かみやまさだつね(15??~1556)】

長井規秀家臣。通称彦八郎。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀に従って参陣したが討死した。

河合七郎【かわいしちろう(15??~1552)】

東常慶家臣。郡上郡福野城主。1552年、「福野城の戦い」で東常慶の意向を受けた、遠藤盛数勢の急襲を受け討死した。

川村良秀【かわむらよしひで(15??~1556)】

長井規秀家臣。通称図書。1541年、「村山城の戦い」に参陣した。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀に従って参陣したが討死した。

河村孫兵衛【かわむらまごべい(15??~15??)】

氏家直元家臣。馬廻衆。1571年、「伊勢長島の戦い」で氏家直元に従って参陣したが一向一揆勢の追撃を受け討死した。

軽海光顕【かるうみみつあき(15??~15??)】

本巣郡軽海館主。通称五左衛門。西美濃十八将。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

粥川孫左衛門【かゆかわまござえもん(15??~15??)】

遠藤慶隆家臣。室は遠藤慶隆の娘。

粥川甚右衛門【かゆかわじんざえもん(15??~15??)】

遠藤慶隆家臣。1564年、遠藤慶隆は弟遠藤慶胤とともに稲葉山城に出仕していたが、竹中重治が稲葉山城を奪取したため、山県郡深瀬郷に避難した。木越城主遠藤胤俊が八幡城を奪取し、遠藤慶隆、遠藤慶胤の謀殺を企てた。遠藤慶隆は粥川甚右衛門と餌取六右衛門に救出された。1564年、長井道利の援軍を得ると、遠藤胤俊が和議を申し出て、遠藤慶隆は八幡城を返還され城主に復帰した。

川島唯重【かわしまゆいしげ(15??~1556)】

長井規秀家臣。官途は掃部助。1541年、「村山城の戦い」に参陣した。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀に従って参陣したが討死した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

川村元務【かわむらもとむ(15??~15??)】

長井規秀家臣。官途は図書。1541年、「山村砦の戦い」では、長井規秀に従って参陣した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

岸信周【きしのぶちか(15??~1565)】

加茂郡堂洞城主。佐藤信連の男。官途は佐渡守。通称勘解由左衛門。1542年、長井規秀が土岐頼芸を大桑城から追放した戦に参陣した。1547年、「加納口の戦い」で織田信秀の甥織田新十郎を討取る戦功を挙げた。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属して参陣した。1565年、「加治田城の戦い」では、関城主長井道利とともに織田信長に寝返った加治田城主佐藤忠能を攻撃したが、援軍に来た織田信長勢に敗れ自刃した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

岸信房【きしのぶふさ(1535~1565)】

岸信周の男。通称孫四郎。1556年、「長良川の戦い」では、父岸信周ととにも斎藤義龍に属して参陣した。1564年、岸信周の隠居により岸家の家督を相続した。加治田城の佐藤忠能、関城の長井道利らと結び織田信長勢に対抗した。佐藤忠能の娘八重緑を養女に迎えた。1565年、「加治田城の戦い」では、佐藤忠能が織田信長勢に内応したため、八重緑が磔に処された。加治田衆と援軍に来た織田信長勢に敗れ自刃した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

喜多村直吉【きたむらなおよし(1542~1614)】

竹中重元家臣。通称十助。別名不破矢足。室は安藤定重の娘。1558年、竹中重元に仕えて、岩手長誠攻めの手引きをした。1560年、竹中重元の稲葉山城乗っ取りでは、鐘の丸の荒法師を倒し、戦闘で失った左手首を持ち帰った。1570年、「姉川の戦い」に参陣して竹中重元の弟竹中久作の後見として、遠藤喜左衛門の頸を取った。1578年、黒田孝高が荒木村重の虜になった時、人質の黒田長政を匿った。

久々利頼興【くくりよりおき(15??~1583)】

可児郡久々利城主。別名土岐悪五郎。長井規秀の猶子である烏峰城主斎藤正義の麾下に属した。1548年、久々利頼興は斎藤正義を館に宴に招き斎藤正義を謀殺した。長井規秀には罰せられる事はなく久々利頼興は東美濃を勢力下に置いた。長井規秀と斎藤義龍の家督争いでは斎藤義龍に属した。斎藤義龍の病没後は引き続き斎藤龍興に仕えた。1565年、織田信長が美濃国侵攻すると織田信長に降伏した。以後、烏峰城に入った森可成に属した。1582年、森長可が信濃国川中島城に領替えとなった後は森成利に属した。1582年、「本能寺の変」で織田信長や森成利らが横死すると森長可が兼山城に帰城すると遠山友忠ら東美濃の諸家とともに反旗を翻した。森長可の攻勢で久々利城も落城の危機に陥るが久々利頼興は森長可と和議を図った。1583年、森長可の兼山城を訪れた久々利頼興は、夕刻まで接待を受けた後、帰路に着いたが金山城の杉が洞口で森家臣加木屋正則に襲われその場で謀殺された。

国枝重光【くにえだしげみつ(15??~1543)】

稲葉良通家臣。池田郡本郷城主。官途は三河守。室は稲葉良通の娘。西美濃十八将。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

国枝正則【くにえだまさのり(15??~15??)】

国枝重光の男。官途は大和守。通称八郎兵衛。別名国枝勝枝。玉井利次とともに立政寺への書状に連署した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

国枝政森【くにえだまさもり(15??~16??)】

国枝正則の男。官途は飛騨守。1600年、織田秀信に属して、松平元康勢に敗れて城を焼き払われた。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

国枝古泰【くにえだよしやす(15??~15??)】

国枝重光家臣。通称小助。

国枝佐渡守【くにえださどのかみ(15??~15??)】

国枝重光家臣。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

黒田長春【くろだながはる(15??~15??)】

長井規秀家臣。官途は監物。1541年、「村山砦の戦い」では、長井規秀に従って参陣した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

桑原資貞【くわはらすけさだ(15??~15??)】

石津郡市之瀬城主。土岐盛頼の次男。官途は兵庫。通称次右衛門。室は揖斐光親の娘。1545年、伊勢国の阿下喜城から86余りを従えて移り住んだ。織田信長、羽柴秀吉に仕えた。

桑原盛重【くわはらもりしげ(15??~1571)】

桑原資貞の男。通称右近右近衛門。羽生地頭職。1555年、斎藤義龍の意向を受けて斎藤義龍の実弟二人を謀殺した戦功により領家、西田原、今泉、下麻生に4,500貫の加増を受けた。1571年、「伊勢長島城の戦い」で一向一揆勢の追撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

桑原甚三【くわはらじんぞう(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。1556年、「土居口の戦い」で戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

桑原久明【くわはらひさあき(15??~1556)】

氏家直元家臣。通称十郎左衛門。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀勢に属して討死した。

郡家光春【ぐんけみつはる(15??~15??)】

大野郡郡家城主。通称七郎兵衛。西美濃十八将。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

小池家継【こいけいえつぐ(15??~15??)】

可児郡今城主。通称刑部。1582年、「本能寺の変」後、森長可が北信濃国四郡を放棄して兼山城に帰城すると、遠山友忠らとともに森長可に反旗を翻したがすぐに鎮圧された。

小柿長秀【こがきながひで(15??~15??)】

長井規秀家臣。本巣郡小柿館主。通称四郎左衛門。西美濃十八将。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

小塩良為【こしおよしため(15??~15??)】

斎藤利良家臣。厚見郡本庄館主。官途は内膳亮。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

小弾正国家【こだんじょうくにいえ(15??~15??)】

本巣郡小弾正館主。通称三郎。西美濃十八将。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属した。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

後藤高政【ごとうたかまさ(15??~15??)】

安八郡加賀野城主。後藤祐乗の男。官途は佐渡守。足利義植に仕えた。

後藤高次【ごとうたかつぐ(15??~1561)】

後藤高政の男。通称右京。斎藤義龍に仕えた。1556年、「長良川の戦い」で戦功を挙げ、本巣郡北方城を本領とすると、家臣の日比大三郎を加賀野城代に任じた。
1561年、「加賀野城の戦い」では、氏家元直、種田兼久らの攻撃を受け自刃した。

後藤直次【ごとうなおつぐ(15??~15??)】

後藤高次の男。1561年、「加賀野城の戦い」で氏家元直、種田兼久勢の攻撃を受け、父後藤高次が討死すると。織田信長を頼って落延びた。

後藤小兵衛【ごとうこひょうえ(15??~15??)】

竹中重元家臣。京都の竹中分家に転出した。参考文献:「竹中半兵衛資料館」by本山一城。

小牧道家【こまきみちいえ(15??~15??)】

長井規秀家臣。通称源太。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属して参陣した。長井規秀の頸級を盗み丁重に葬った。参考文献:『戦国大名家家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社。

小森半平【こもりはんぺい(15??~15??)】

佐藤忠能家臣。加治田衆。佐藤忠能、斎藤利治、斎藤利堯に属して、美濃国各地を転戦した。
 
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【さ】

持是院斎藤利良【さいとうとしなが(15??~1538)】

可児郡兼山城主。斎藤利親の男。美濃国守護代。通称新四郎。1497年、父斎藤利親の討死により幼少であっため、叔父斎藤又四郎、斎藤彦四郎が持是院家の家督を相続して土岐政房に仕えた。斎藤利良と土岐政房と争うと、土岐政房の継嗣の土岐頼武を擁立、土岐政房と長井長弘は次男土岐頼芸を擁立した。1517年、土岐頼芸は敗れ尾張国へ落延びた。1519年、土岐政房が病没し、朝倉孝景の家臣朝倉景高が兵3,000余りを率いて土岐頼武、斎藤利良とともに美濃国に侵攻し、土岐頼武を守護職に擁立した。土岐頼武のもとで守護代として権力を握った。

持是院斎藤正義【さいとうまさよし(1516~1548)】

近衛稙家の庶子(長井規秀の猶子)。比叡山横川専心院の修行僧であったが、武事を好み、長井規秀のもとで客将を務めた。1532年、土岐頼純勢との戦いに戦功を挙げた。1537年、長井規秀の意向を受け烏峰城を築城した。1548年、久々利頼興に館に酒宴に招かれて謀殺された。

斎藤義龍【さいとうよしたつ(1527~1561)】

長井規秀の男。官途は美濃守。通称新九郎。室は浅井亮政の娘。1554年、父長井規秀の隠居により、斎藤家の家督を相続して稲葉山城主となった。長井規秀は斎藤義龍を遠ざけ、次男の斎藤孫四郎や斎藤喜平次を重んじるようになった。やがて、斎藤義龍を廃嫡して、斎藤孫四郎に家督を継がせようと図った。1555年、斎藤義龍は叔父長井道利と共謀して、長井規秀を追放し斎藤孫四郎、斎藤喜平次らを日根野弘就に謀殺させた。1556年、「長良川の戦い」で長井規秀と戦い、長井規秀を討取った。1559年、幕府相伴衆に列せられ、六角義賢と結び浅井久政と戦った。1560年、「桶狭間の戦い」後、織田信長勢の攻勢を受けた。まもなく病没した。辞世の句は「三十餘歳 守護人天 刹那一句 佛祖不傳」。

斎藤龍興【さいとうたつおき(1548~1573)】

斎藤義龍の男。通称右兵衛大夫。1561年、父斎藤義龍の病没に斎藤家の家督を相続した。森可成、坂井政尚、堀秀重、斎藤利治、明智光秀らが織田信長に寝返った。1561年、「森部の戦い」では、日比野清実、長井衛安らが討死した。1562年、織田信長の侵攻に対処するため、浅井長政と同盟を結ぼうとしたが、織田信長に機先を制され、浅井長政は織田信長と同盟を結んだ。1563年、「新加納で戦い」では、織田信長の攻撃を撃退した。1564年、竹中重治と安藤守就によって稲葉山城を占拠され、斎藤龍興は鵜飼山城に落延びた。竹中重治と安藤守就は斎藤龍興に稲葉山城を返還した。1565年、織田信長に降った加治田城主佐藤忠能により、堂洞城主岸信周が討たれた。関城主長井道利も織田信長勢の斎藤利治に破れ、中濃地方も織田信長の勢力圏に入った。1567年、西美濃三人衆の稲葉良通、氏家直元、安藤守就らが織田信長に内応したため、稲葉山城を落とされ伊勢国長島城に落延びた。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景勢が織田信長勢に敗れ氏家直昌に討取られた。

斎藤龍元【さいとうたつもと(15??~1555)】

長井規秀の次男。通称孫四郎。1555年、長井規秀が、斎藤義龍を廃嫡にして、斎藤龍元に斎藤家の家督を継がせようとしたため、斎藤義龍に謀殺された。
 
斎藤龍之【さいとうたつゆき(15??~1555)】

長井規秀の三男。通称喜平次。1555年、長井規秀が、斎藤義龍を廃嫡にして、次兄の斎藤龍元に斎藤家の家督を継がせようとしたため、斎藤義龍に謀殺された。
 
斎藤利堯【さいとうとしたか(15??~15??)】

長井規秀の四男。通称玄蕃。1575年、織田信長から美濃国方県郡福光郷の所領安堵を受けた。織田信忠が織田家の家督を相続すると、それに従った。1582年、「本能寺の変」後、西美濃や東美濃の諸将の多くは羽柴秀吉勢に属したが織田信孝に従い美濃瑞龍寺、崇福寺、千手堂、西入寺に禁制を掲げた。1583年、「加治田城の戦い」では、森長可勢と戦った。程なくして斎藤利堯は病没、家臣団は森長可に仕えた。

斎藤利治【さいとうとしはる(1541~1582)】

長井規秀の六男。1565年、織田信長に属して、佐藤忠能らとともに岸信周の堂洞城、長井道利の関城をそれぞれ攻め落した。「堂洞城の戦い」で佐藤忠能の嫡男佐藤忠康が討死にしたため佐藤忠能の養子となった。1567年、佐藤忠能が隠居すると加治田城主となった。1569年、「伊勢国大河内城の戦い」に参陣した。1570年、「小谷城の戦い」に参陣し、森可成、坂井政尚らと支城の雲雀山城を攻撃して城下街を焼き払った。1572年、三好義継が松永久秀父子と共謀し畠山昭高に敵対すると、柴田勝家などとともに三好義継、松永秀久の交野城を包囲した。1573年、足利義昭が籠城する槇島城攻めに参陣した。1577年、柴田勝家の北国攻めに滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀などとともに参陣した。1578年、「月岡野の戦い」では、神保長住勢に属して長尾景虎の家臣河田長親勢を撃破した。1582年、「本能寺の変」では、織田信忠とともに、明智光秀勢と戦い討死した。

佐藤秀方【さとうひでかた(15??~1594)】

佐藤清信の男。官途は隠岐守。通称六左衛門尉。室は金森定近の娘。1570年、父佐藤清信が病没すると家督を継ぎ、織田信長に母衣衆として仕えた。「伊勢大河内城の戦い」「小谷城の戦い」「月岡野の戦い」「長島一向一揆鎮圧」などに参陣して戦功を挙げた。1575年、「長篠の戦い」では、松平元康の家臣酒井忠次に属して、鳶巣山城を攻撃した。その後織田信忠の寄騎衆となり東美濃衆の一員として近畿各地を転戦した。1582年、「本能寺の変」の後、羽柴秀吉に仕えた。羽柴秀吉の命で、森長可とともに織田信孝に属する立花山城主遠藤慶隆を攻撃した。その後「千石堀城の戦い」「小田原の役」「文禄の役」に参陣した。

佐藤方政【さとうかたまさ(15??1615)】

佐藤秀方の男。通称才次郎。別名佐藤重秀。父佐藤秀方は「賤ヶ岳の戦い」から羽柴秀吉に仕えた。父佐藤秀方の陣代として「九州征伐」「小田原の役」に参陣した。1593年、佐藤家の家督を相続して鉈尾山城20,000石を領した。領地は、美濃国武儀郡上有知、関18,000石、河内国金田2,000石。1600年、「関ヶ原の役」では、織田秀信とともに石田三成勢に属した。「米野の戦い」の遊軍として兵1,000余りとともに新加納村に参陣したが敗北を喫した。その後、自領の鉈尾山城に戻り城に火をつけて逐電し、改易となった。1614年、「大坂冬の陣」では羽柴秀頼勢として大坂城に入城した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で松平元康勢と戦い討死した。

佐藤忠能【さとうただよし(15??~1578)】

加茂郡加治田城主。官途は紀伊守。1554年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属して参陣した。家臣の梅村良澤を丹羽長秀のもとに派遣して、佐藤信氏とともに織田信長勢と結んだ。西美濃三人衆が織田信長勢に寝返ると、岸信周と長井道利に去就を問われ、織田信長への内通を悟られぬために娘を岸信周の継嗣岸信友に嫁がせた。1565年、織田信長勢に属したため、岸信友に嫁がせた娘は磔にされた。遺骸は家臣西村治郎兵衛が奪取し龍福寺に埋葬された。「加治田城の戦い」では、長井道利、岸信周勢の攻撃を受けた。斎藤利治勢の援軍とともに戦ったが、佐藤信氏が討死した。その後、織田信長の意向を受け斎藤利治を養子に迎え隠居した。

佐藤忠康【さとうただやす(15??~1565)】

佐藤忠能の男。通称右近右衛門。加治田衆。長沼三徳、西村治郎兵衛によって養育された。父佐藤忠能とともに美濃国各戦を転戦した。1565年、父佐藤忠能が織田信長勢に属すると、長井道利、岸信周勢の攻撃を受け討死した。

佐藤堅忠【さとうかたただ(1548~1612)】

佐藤信則の男。官途は駿河守。通称勘右衛門。織田信長の意向を受けて佐藤忠能の養子となり斎藤利治が城主になるとともに行動した。1582年、「本能寺の変」後、斎藤利堯に仕えた。「加治田城の戦い」では、湯銭新六、大島光政、井戸宇右衛門とともに森長可勢を撃退した。斎藤利堯が病没すると森長可に仕えた。森忠政の推挙により、羽柴秀吉に仕えた。羽柴秀吉がの病没後、松平元康に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。

沢右京【さわさきょう(15??~15??)】

竹中重元家臣。別名竹中河内守。室は竹中重元の娘。参考文献:「竹中半兵衛資料館」by本山一城。

柴田角内【したばすみうち(15??~1556)】

長井規秀家臣。尾張守護職斯波義統を襲撃した。1556年、「長良川の戦い」の前哨戦で、斎藤義龍勢の竹腰道塵の家臣長屋甚右衛門と一騎打ちを行って長屋甚右衛門を討取るも、本戦で敗退し討死した。

曾我屋家治【そがやいえはる(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称内蔵丞。馬廻衆。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従って参陣した。

白江護権左衛門【しろえごけんざえもん(15??~1584)】

佐藤忠能の男。通称白江庄右衛門。加治田衆。佐藤忠能、斎藤利治、斎藤利堯の家臣として仕えた。1582年、「加治田城、兼山城の戦い」では、森長可の家臣真屋新助を討取る戦功を挙げた。その後、斎藤利堯が病没すると、森長可に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣して松平元康の本陣に突入し討死した。

杉江勘兵衛【すぎえかんべえ(15??~1600)】

稲葉良通家臣。後に石田三成に仕えた。石田三成の家臣島清興、前野忠康と並んで勇猛さを謳われた。1600年、「関ヶ原の役」では、岐阜城に進軍中、藤堂高虎、黒田長政、田中吉政勢と戦ったが、田中吉政の家臣辻重勝に討取られた。辻重勝(勘兵衛)、羽柴秀勝の家臣渡辺了(勘兵衛)とならんで「三勘兵衛」と称された。

杉山内蔵助【すぎやまくらのすけ(15??~15??)】

竹中重元家臣。竹中半兵衛の叔父。参考文献:「竹中半兵衛資料館」by本山一城。

杉山正定【すぎやままさひで(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称刑部。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従って参陣した。

鈴木深右衛門【すずきしんざえもん(15??~1568)】

日野根弘就家臣。1567年、「稲葉山城の戦い」で斎藤龍興が伊勢長島に落延びると所領を失った。1568年、「掛川城の戦い」では、朝比奈泰朝に従った日野根弘就とともに石川数正勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

鷲見貞保【すみさだやす(15??~1541)】

郡上郡向鷲見城主。鷲見保照の男。東常慶と争って敗れ阿千葉城に移った。1541年、謀反の疑いを掛けられ、東常慶勢の攻撃を受け自刃した。継嗣の鷲見正保は家臣餌取広綱とともに武儀郡西牧谷の落延びた。

鷲見正保【すみまさやす(15??~15??)】

鷲見貞保の男。通称兵助。1541年、「向鷲見城の戦い」で東常慶勢の攻撃を受け父鷲見貞保が討死すると、家臣の餌取広綱とともに武儀郡西牧谷の落延びた。1559年、家臣餌取広綱とともに織田信長に家の再興を願い出た。織田信長は時の郡上八幡城主遠藤盛数に使者を立て、これを保護させた。遠藤盛数は鷲見正保と餌取広綱を郡上へ招き、大嶋村の所領を与えた。

鷲見保定【すみやすさだ(15??~1517)】

郡上郡北野城主。鷲見保重の男。土岐政房から北野城主に任じられた。1517年、斎藤利良が土岐政頼を擁立して土岐政房、土岐頼芸と争うと、土岐政房に属して戦って討死した。

鷲見直保【すみなおさだ(15??~1547)】

鷲見保重の次男。1517年、兄鷲見保定の討死により鷲見家の家督を相続した。鷲見直保は土岐政房、土岐頼芸に仕えた。1547年、長井規秀が大桑城主土岐頼芸を攻撃すると、大桑城に籠城して討死した。

鷲見忠直【すみただなお(15??~1556)】

鷲見保房の男。従兄弟の鷲見直保が討死したため、鷲見家の家督を相続した。長井規秀が斎藤義龍と争うと、長井規秀を北野城に迎え入れ籠城した。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀勢に属して討死した。

鷲見保光【みすやすみつ(15??~15??)】

鷲見保房の次男(鷲見保兼の養子)。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属した。鷲見保光は叔父鷲見保兼の養子になり、稲葉山城に在城した。斎藤義龍の病没後、斎藤龍興に仕えた。1567年、織田信長が稲葉山城を攻撃して斎藤龍興が伊勢国に落延びると、継嗣の鷲見定重とともに郡上郡に戻り遠藤慶隆に仕えた。1585年、「飛騨征伐」では、金森長近勢に属して白川郷で姉小路頼綱勢と戦い討死した。

鷲見保義【すみやすよし(15??~1600)】

鷲見保光家臣。通称忠左衛門。1600年、「八幡城の戦い」では、稲葉通孝勢の攻撃を受け遠藤慶重、鷲見保義、粥川五郎左衛門、粥川小十郎、餌取作助らとともに討死した。

鷲見基綱【すみもとつな(15??~1556)】

長井規秀家臣。通称新藤次。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀に従って参陣した。

関綱長【せきつななが(15??~1556)】

武儀郡関城主。土岐頼芸家臣。長井規秀の土岐頼芸との戦いでは、長井規秀に属した。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属したが討死した。

関成重【せきなりしげ(1528~1592)】

関綱長の次男。通称十郎右衛門。斎藤義龍に仕えていたが斎藤家から離反して織田信長に仕えた。1570年、「姉川の戦い」では、浅井長政勢と戦い戦功を挙げた。1582年、「武田家討伐」では、津田元嘉、長谷川与次、赤座永兼らとともに恵林寺を焼き討にして、快川紹喜ら150余りを焼き殺した。「本能寺の変」後、関成政とともに織田信雄に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、関成政が織田信雄から離反した。織田信雄のもとに残った次男関長尚は処刑された。

関長尚【せきながなお(15??~1584)】

関成重の次男。織田信忠家臣。1582年。「武田家征伐」では、武田勝頼の頸級を織田信忠の使者として織田信長に届ける役目を務め、その恩賞として馬と金百両を受領した。「本能寺の変」後は、織田信雄に甥関成政とともに仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、森長可の調略により羽柴秀吉に寝返った。関長尚は織田信雄の元に残るが、織田信雄は、関長尚は謀叛の疑いを掛けられ処刑された。
 
関成政【せきなりまさ(1552~1584)】

関成重の男。通称小十郎右衛門。室は森可成の娘(碧松院)。1570年、「姉川の戦い」では、父関成重とともに浅井長政勢と戦った。1572年、森長可の姉と縁組をし森家とは縁続きとなった。1574年、織田信長から蘭奢待を拝領した。その後、織田信忠の側近として仕え各地を転戦した。1578年、「三木城の戦い」では、別所長治の家臣宇野右衛門佐の襲撃を受けたが槍を交わし撃退した。1581年、「第二次天正伊賀の乱」では、堀秀政らの共に先鋒を務め戦功を挙げた。1582年、「武田家州征伐」では、織田信忠隊に属した。「本能寺の変」後、織田信雄に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、森長可の調略により羽柴秀吉勢に属した。池田恒興、森長可とともに三河国に侵攻したが討死した。

関武兵衛【せきたけべえ(15??~15??)】

関成政の男。室は森可政の娘(於鍋)。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、父関成政が松平元康勢と戦って討死した。後に森忠政に仕えたが領地の問題から不仲となって森家を出奔した。その後、森可政へと接近し森可政の娘を娶ると、森可政の推挙により榊原康政に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」では、戦功を挙げたが加増が無ったため、榊原康政のもとを出奔した。

関成次【せきなりつぐ(15??~1660)】

関成政の五男。官途は豊後守。通称九郎次郎。室は森忠政の三女(郷姫)。1584年、「小牧、長久手の戦い」で父森成政が討死したため、母とともに叔父森忠政に養育された。1633年、舅森忠政の男子がすべて早世したため、継嗣の関長継がその養子となって、森家の家督を相続した。1634年、関長継の家督相続の御礼言上の際に、森家老衆の大塚主膳三俊、森采女可春、各務主水正利、森左近正信とともに二条城で松平家光に拝謁した。

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【た】

高木盛兼【たかぎもりかね(1559~1610)】

石津郡高須城主。通称十郎左衛門。別名高木守之。羽柴秀吉に仕えた。1592年、美濃国高須城10,000石を領した。1600年、「高須城の戦い」では、石田三成勢に属したため、松平元康勢の徳永寿昌に包囲された。徳永寿昌と降伏協定を結んだが、欺かれ徳永寿昌、市橋長勝勢の攻撃を受け津屋城に落延びた。後に堀尾吉晴に仕えた。

高木正家【たかぎまさいえ(15??~15??)】

石津郡津屋城主。通称八郎兵衛。1600年、「津屋城の戦い」では、高須城から落延びてきた高木盛兼を匿ったが、徳永寿昌、市橋長勝勢の攻撃を受け高木盛兼とともに大垣城に落延びた。

高木貞政【たかぎさだまさ(15??~15??)】

石津郡駒野城主。通称彦左衛門。

高木貞次【たかぎさだつぐ(15??~15??)】

高木貞政の男。高木貞次が病弱であったため、樋口家より養子を迎え三代目となったのが高木貞久で、高木家は長井規秀に仕えていたが、高木貞久の代に斎藤龍興が滅亡し、織田信長に仕えた。

高木貞久【たかぎさだひさ(15??~15??)】

樋口直房の男(高木貞政の養子)。通称彦左衛門。駒野城を領して安藤守就に仕えた。1556年、斎藤義龍から庭田、西駒野等六カ所を安堵された。織田信長に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、織田信孝が自刃すると今尾城から駒野城に戻った。1590年、織田信雄が改易処分になると関東へ移った。

高木貞家【たかぎさだいえ(1545~1568)】

高木貞久の男。通称彦七郎。1568年、「今尾城の戦い」で討死した。

高木貞利【たかぎさだとし(1551~1603)】

高木貞久の次男。通称権右衛門。織田信長に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、松平元康勢に属したが、羽柴秀吉から人質堤出を促された。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、織田信雄勢に属して10,000貫を加増された。1590年、織田信雄が改易処分に処されると、加藤光泰に仕えた。その後、松平元康に仕え上総国天羽郡内1,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従い参陣して戦功を挙げ加増を受け2,000石を領した。交代寄合(西高木、東高木、北高木)の馬廻衆として松平元康に仕えた。

高木貞友【たかぎさだとも(1564~1659)】

高木貞久の五男。通称彦之助。1582年、「本能寺の変」後、織田信孝、織田信雄に仕えた。1597年、松平元康に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後、交代寄合(西高木、東高木、北高木)の馬廻衆として仕えた。参考文献:「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」。

高木貞俊【たかぎさだとし(1563~1645)】

高木貞家の男(高木貞久の養子)。通称四郎左衛門。織田信長に仕えた。1578年、「播磨神吉城の戦い」で織田信忠に従って参陣して戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、交代寄合(西高木、東高木、北高木)の馬廻衆として松平元康に仕えた。

高田薩摩守【たかださつまのかみ(15??~15??)】

養老郡高田城主。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して織田信高、織田長次、伊藤長実、中島種長、滝川忠継、服部土佐守、寺田播磨守、岸田伯耆守、高田薩摩守、秋田助右衛門、矢部豊後守、三渕大和守、大坂弓鉄砲衆らとともに北の山に陣を敷いた。

鷹司冬基【たかつかさふゆもと(15??~15??)】

大野郡長瀬城主。室は土岐頼忠の娘。公家であったが、鷹司冬基が美濃守護土岐頼忠の息女を室としたことで、美濃守護土岐頼芸の縁戚となり美濃国大野郡長瀬村を知行して長瀬城主となった。

鷹司冬明【たかつかさふゆあき(15??~15??)】

鷹司冬基の男。通称与十郎。美濃守護土岐頼芸と長井規秀の対立が始まると、鷹司冬明は土岐頼芸方に属した。1535年、長井規秀勢に加わった弟鷹司政光、鷹司光政らと戦って討死した。

鷹司政光【たかつかさまさみつ(15??~15??)】

長井新左衛門尉の次男(鷹司冬基の養子)。1535年、美濃守護土岐頼芸と長井規秀の対立が始まると、鷹司政光は長井規秀方に属した。兄鷹司冬明を討取り鷹司家の家督を相続した。1548年、織田信秀が侵攻して来ると、鷹司政光らは長瀬城に籠城して抵抗したが討死した。

高橋治平【たかはしはるひら(15??~15??)】

大野郡小津館主。通称修理。西美濃十八将。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀勢に属して参陣した。

高山光俊【たかやまみつとし(15??~1552)】

明智光安家臣。官途は伊賀守。1552年、跡継ぎを残さないで病没したため、御嵩城主小栗信濃守の攻撃を受けた。明知城主遠山景行と小里城主小里光忠は武田晴信に援軍を要請した。武田晴信は、平井光行を派遣した。平井光行勢の後藤庄助は討死するが遠山景行、小里光忠らの奮戦により小栗信濃守勢を撃退した。平井光行が戦功により高山城主となった。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に属して参陣した。

武井助直【たけいすけなお(15??~15??)】

長井規秀家臣。官途は肥後守。別名武井夕庵。1555年、長井規秀と斎藤義龍が争うと、日根野弘就とともに斎藤義龍勢に従った。1556年、「長良川の戦い」でも斎藤義龍に従い長井規秀勢と戦った。1567年、「稲葉山城の戦い」で斎藤義興が伊勢長島に落延びると、織田信長に仕え右筆及び奉行職を務めた。1574年、東大寺正倉院の蘭奢待を切りで奉行職を務めた。1580年、石山本願寺への勅命講和の使者を佐久間信盛とともに務めた。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕えた。

竹内久右衛門【たけうちきゅうえもん(15??~15??)】

可児吉長家臣。可児吉長に長年仕えて信任厚く、常に知行の半分を与えた。

竹腰守久【たけこしもりひさ(15??~15??)】

只越城主。官途は摂津守。西美濃十八将。

竹腰尚綱【たけこしなおつな(15??~15??)】

安八郡柳沢城主。

竹腰重直【たけこししげなお(15??~1556)】

竹腰尚綱の男。官途は山城守。別名竹腰道鎮。西美濃五人衆(安藤守就、氏家直元、日根野弘就、不破光治、竹腰尚光)。1554年、「大垣城の戦い」では、織田信長勢の攻撃を受けた。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従った参陣して先陣を務めたが長井規秀勢に討取られた。

竹腰尚光【たけこしなおみつ(15??~1559)】

竹腰重直の男。官途は摂津守。別名成吉尚光。1556年、「長良川の戦い」で父竹腰重直が討死したため竹腰家の家督を相続した。斎藤義龍が病没死して、斎藤龍興が斎藤家の家督を相続すると、斎藤龍興家臣団は次々と織田信長に属するようになったが、最後まで斎藤家に忠誠を尽くした。1567年、「稲葉山城の戦い」で斎藤龍興が伊勢長島に落延びると帰農した。

竹中重元【たけなかしげもと(1499~1562)】

揖斐郡大御堂城主。竹中重氏の男。官途は遠江守。室は杉山久左衛門の娘(妙海大姉)。西美濃十八将。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀勢に属して参陣したため、留守中の大御堂城が斎藤義龍勢の攻撃を受けた。内室の妙海大姉、竹中重治、竹中重矩が奮戦して撃退した。1558年、「菩提山城の戦い」では、継嗣の竹中重治とともに城主岩手忠誠を討取り、菩提山城を居城とし12,000石を領した。不破光治勢の攻撃を受けるが、家臣竹中善左衛門の活躍によってこれを撃退した。1560年、六角義治の求めに応じて近江国に参陣、浅井長政勢と戦った。

竹中重光【たけなかしげみつ(15??~15??)】

竹中重氏の三男。官途は出羽守。通称彦左衛門。

竹中重行【たけなかしげゆき(15??~15??)】

竹中重元の男。

竹中重治【たけなかしげはる(1544~1579)】

竹中重元の次男。通称半兵衛尉。別名竹中重虎。室は安藤守就の娘(得月院)。1560年、父竹中重元の隠居により竹中家の家督を相続した。1561年、織田信長勢の攻撃を受けたが、伏兵戦術で織田信長勢を撃退した。1564年、稲葉山城を安藤守就らの支援を受け少数の兵で奪取したが、稲葉山城を斎藤龍興に返還して隠棲した。1567年、斎藤龍興が伊勢長島に落延びると織田信長に仕え、牧村利貞、丸毛兼利らとともに羽柴秀吉の寄騎衆を務めた。1570年、浅井長政勢の長亭軒城や長比城を調略した。1578年、「有岡城の戦い」で荒木村重が謀反を起こすと、黒田孝高が有岡城へ赴き帰服を促したが、城内で監禁された。黒田長政を家臣の不破矢足の屋敷に匿った。1579年、「播磨三木城の戦い」の陣中で病に倒れた。京都で療養させたが、は羽柴秀吉に懇願して本陣に戻り、陣中で病没した。

竹中重矩【たけなかしげのり(1546~1582)】

竹中重元の三男。通称久作。室は織田刑部大輔の娘。1564年、竹中重治の稲葉山城奪取の協力した。1567年、斎藤龍興が伊勢国に落延びると、竹中重治とともに織田信長に仕えた。1570年、「姉川の戦い」では、浅井長政の家臣遠藤直経を討取る戦功を挙げた。1579年、兄竹中重治が病没すると羽柴秀吉の寄騎衆として播磨国に派遣された。1582年、「本能寺の変」後、美濃不破郡長佐村で起こった郷士一揆と戦って討死した。

竹中重門【たけなかしげかど(1573~1631)】

竹中重治の男。官途は丹後守。室は加藤光泰の娘。竹中重利の後見を受けて、羽柴秀吉に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀吉勢に従って参陣した。1592年、「文禄の役」では名護屋城に駐屯した。「慶長の役」では軍目付として朝鮮へ渡海した。役後、戦功によって河内国内に1,000石を加増された。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して犬山城主石川貞清を支援するが、井伊直政の仲介により松平元康勢に属した。本戦では、黒田長政勢に属して激戦地で奮戦し、伊吹山で小西行長を捕縛するなどの戦功を挙げた。交替寄合席として岩出山城6,000石を領した。

竹中重利【たけなかしげとし(1562~1615)】

竹中重光の男。官途は伊豆守。室は竹中重元の娘。1579年、竹中重治が病没した後に羽柴秀吉に仕え長松城3,000石を領した。娘が羽柴秀次の側室となって男子をもうけた。1589年、「小田原の役」には、馬廻衆として参陣した。1594年、豊後国東郡高田城で13,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、目付として参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、はじめ石田三成勢に属して近江国瀬田橋の守備や丹後国田辺城攻めに加わったが、後に隣国の黒田孝高に誘われ、松平元康勢に属して所領を安堵された。

竹中重義【たけなかしげよし(15??~1634)】

竹中重利の男。官途は采女正。室は松平康重の娘。1600年、「関ヶ原の役」の戦功によって父竹中重利が、豊後国高田城から府内城に転封になり20,000石を領した。松平秀忠に、長崎奉行に任じられた。過酷な切支丹の弾圧を実施し、穴吊りなど多くの拷問法を考案した。1634年、汚職を咎められ自刃した。

竹中重定【たけなかしげさだ(15??~15??)】

竹中家臣。官途は周防守。別名竹中五郎作。

竹中勘左衛門【たけなかかんざえもん(15??~15??)】

竹中家臣。安東守就の五男。

竹中文右衛門【たけなかぶんざえもん(15??~15??)】

杉山内蔵助の男。

竹中筑後守【たけなかちくぜんのかみ(15??~15??)】

竹中家臣。明泉寺住職了願の男。
 
竹中七郎左衛門【たけなかしちろうざえもん(15??~15??)】

竹中家臣。明泉寺了願の次男。

竹中氏泰【たけなかうじはる(15??~1556)】

長井規秀家臣。通称主水。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀に従って参陣したが討死した。

武光忠棟【たけみつただむね(15??~1647)】

揖斐郡長松城主。官途は式部少輔。羽柴秀吉に仕えて長松城5,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」で西軍に属したが城を捨てて逃走した。武光武光は西軍の丸毛兼利が籠城していた福束城を守るために、石田三成家臣の舞兵庫とともに援軍として赴くが、松平元康勢に敗れ福束城は陥落した。丸毛兼利は大垣城に落延びた。前田利常に仕えて8,000石を領した。武光忠棟は、桑名城主氏家行広のもとに落延び、桑名城に籠城した。

多治見国清【たじみくにきよ(15??~15??)】 

田原左衛門家臣。土岐郡多治見城主。官途は見修理進。1547年、多治国清は謀反を起こして、猿啄城主田原左衛門から奪い取った。多治見国清は、家臣の林甚左衛門を猿啄城入れて守らせた。1565年、織田信長は鵜沼城に羽柴秀吉入れ、丹羽長秀、河尻鎮吉に猿啄城の攻略させた。多治見国清は斎藤義龍に属する堂洞城主岸信周の元へ落ち延びた。

戸田基左衛門【とだもとざえもん(15??~15??)】

森可成家臣。1583年、久々利城主に任じられた。

谷衛好【たに もりよし(1529~1579)】

長井規秀家臣。福田正之の男(谷野綱衛の養子)。官途は大膳大夫。六角家に仕える伯父谷野綱衛の養子となった。1576年「石山本願寺の戦い」で戦功を挙げた。織田信長の命令で羽柴秀吉が中国方面総司令官になると羽柴秀吉の寄騎衆となった。1578年、播磨国平田城6,000石を領した。羽柴秀吉による「三木城の戦い」にも参陣した。三木城の糧道を断つために賀状坂の付城に嫡男谷衛友と籠城するが、別所長治ら三木城兵の抵抗にあって討死した。

谷衛成【たにもりなり(1582~1627)】

谷衛友の男。通称内蔵助。室は堀秀政の娘。谷衛友の嫡男として生まれるが、家督を相続することなく病没した。

谷衛政【たにもりまさ(15??~15??)】

谷衛好の四男。1627年、兄谷衛成の病没により、谷家の家督を相続した。谷衛成の三女は谷衛政の嫡男谷衛利の室となり、谷衛広の生母となった。

谷衛友【たにもりとも(1563~1628)】

谷衛好の五男。官途は出羽守。通称甚太郎。織田信長、次いで羽柴秀吉に仕えた。1579年、「三木城の戦い」では、父谷衛好の仇をその場で討取り、谷衛好の頸を取り返した。1582年、丹波国何鹿郡山家城16,000石を領した。「賤ヶ岳の戦い」「小牧、長久手の戦い」「小田原の役」「文禄の役」などに参陣した。1588年、「九州征伐」では豊前国巌城の戦いで一番乗りの戦功を挙げた。1594年、伏見城の普請工事に参加した。1600年、「関ヶ原の役」では、丹波国福知山城主小野木重次らと石田三成勢に属し、細川藤孝の丹後国田辺城を攻撃した。戦いでは、傍観的対応に終始した。役後は小野木重次を攻撃するなど松平元康勢に内応し、本多正純の仲介によって所領を安堵された。1615年、「大坂夏の陣」に参陣した。

種田兼久【たねだかねひさ(15??~1571)】

氏家直元家臣。安八郡三塚城主。官途は信濃守。1571年、「伊勢長島の戦い」に参陣した。一向一揆のために敗退し、弟種田正元とともに氏家直元を助けて殿を務め討死した。

種田正元【たねだまさもと(15??~1571)】

氏家直元家臣。安八郡今宿城主。通称助之丞。1571年、「伊勢長島の戦い」に参陣した。一向一揆のために敗退し、兄種田兼久とともに氏家直元を支援して殿を務め、討死した。

田野七郎右衛門【たのしちろうざえもん(15??~15??)】

佐藤忠能家臣。加治田衆。佐藤忠能、斎藤利治、斎藤利堯に属して、美濃国各地の戦いに参陣した。「堂洞城の戦い」では陣頭の佐藤忠能、佐藤忠康に続き、屈強諸将三十八騎の内のひとりとして戦功を挙げた。「加治田城、兼山城の戦い」では、加治田城の小屋洞、田洞、石拾いなどを守備した。

近松新五左衛門【ちかまつしんごろざえもん(15??~15??)】

森可成家臣。

土田秀久【つちだひでひさ(15??~15??)】

可児郡土田館主。土田秀定の男。室は生駒家広の娘。長女に土田御前(織田信秀の室)。1491年、尾張守護職斯波義寛に属して「六角家征伐」に、父土田秀久とともに参陣した。後に舅の生駒家広と対立し、内室と離縁した。

土田泰久【つちだやすひさ(15??~15??)】

土田秀久の男。

土田政久【つちだまさひさ(15??~1570)】

土田秀久の次男(生駒家広の養子)。官途は出羽守。通称甚助。別名生駒親重。土田嫡流家断絶後、土田城主となった。1565年、生駒親重は嫡男生駒親正と共に織田信長に仕え、本領を安堵された。生駒親正は戦功を重ねて讃岐一国を領した。

土田久通【つちだひさみち(15??~15??)】

土田秀久の三男。

坪内勝定【つぼうちかつさだ(15??~15??)】

葉栗郡松倉城主。室は坪内為定の娘。松倉城は尾張国と美濃国の境にあり、戦略上重要な地であった。木曾川沿いの川並衆(蜂須賀正勝、前野長康、大沢基康、松原内匠、日比野六太夫、青山新七)を纏め上げる役割を担っていた。

坪内利定【つぼうちとしさだ(1539~1610)】

坪内勝定の男。官途は玄蕃頭。通称喜太郎。室は生駒家長の妹。織田信長から羽柴秀吉の寄騎衆に任じられた。宇留間城主大沢基康の調略など、東美濃攻略の先導役を務めた。1566年、墨俣城の築城では、木曾山中より木材を流し、松倉にて陸揚げ、加工を施してから再び川に流し、墨俣に送るという重要な役割を果した。1578年、「播磨国高倉城の戦い」で、羽柴秀吉が坪内利定の戦功を他人の戦功と見誤った事で羽柴秀吉と不和となった。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、森長可勢に属して参陣した。森長可が討死後すると、松平元康に仕え3,400石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、鉄炮隊を率いて石田三成勢と戦い戦功を挙げた。

妻木広忠【つまきひろただ(1514~1582)】

土岐郡妻木城主。通称藤右衛門。室は水野信元の姪(貞徳生母)。明智光秀の室であった妻木煕子の父。元々は斎藤家臣だったが織田信長による美濃侵攻にあたって織田信長に仕えて、明智光秀の寄騎衆となり戦功を挙げた。1582年、「山崎の戦い」では、明智光秀勢に属した。明智光秀の敗戦後、近江坂本の西教寺で自刃した。

妻木貞徳【つまきさだのり(1544~1618)】

妻木広忠の男。通称伝兵衛。室は延友信光の娘。1582年、「山崎の戦い」後、父妻木広忠が自刃すると、妻木貞徳が隠居して継嗣の妻木頼忠に妻木家の家督を譲った。1600年、「関ヶ原の役」では、妻木頼忠が松平元康勢に属して、美濃国の石田三成勢と戦った。妻木領に侵攻した田丸直昌の家臣田丸具安勢を奇襲し、人質を奪い返すとともに田丸具安勢の大将二人の頸を取る戦功を挙げた。役後、戦功により土岐郡内7,500石を領した。

妻木頼忠【つまきよりただ(1565~1623)】

妻木貞徳の男。官途は長門守。通称雅楽助。1582年、父妻木貞徳の隠居により妻木家の家督を相続した。森長可が可児郡、加茂郡内の勢力を掃討し、土岐郡、恵那郡にも侵攻した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、森長可とともに羽柴秀吉勢に属した。森忠政の信濃国川中島転封には同行せず美濃国に残り、妻木城を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して父妻木貞徳とともに岩村城主田丸直昌と戦った。丹羽氏信、遠山利景、小里光親らとともに田丸直昌領に侵攻し、明知城と小里城を攻略した。1601年、戦功により土岐郡内7,500石を所領を領した。1615年、「大坂夏の陣」では、松平乗寿勢に属し戦功を挙げた。

妻木之徳【つまきゆきとく(15??~15??)】

妻木貞徳の次男。松平元康に馬廻衆として仕えた。

妻木重吉【つまきしげよし(15??~15??)】

妻木貞徳の三男。松平忠吉に800石で仕えていたが、松平忠吉が改易処分に処されると、可児郡内に1,000石を領して馬廻衆を務めた。

妻木重直【つまきしげなお(1604~1683)】

妻木重吉の男。通称彦右衛門。別名妻木頼能。室は真田昌幸の娘(清光院)。勘定奉行や長崎奉行を務め3,000石を領した。1667年、奈良奉行の大岡忠高とともに東大寺の二月堂の再建に尽力した。

妻木頼利【つまきよりとし(1585~1653)】  
 
妻木頼忠の男。通称主水,権左衛門。1613年、妻木家の家督を相続して土岐郡内7,500石を領し寄合衆となった。大坂加番,焼失した近江国多賀神社造営奉行などをつとめた。

妻木家頼【つまきいえより(15??~15??)】

妻木頼忠の男。父妻木頼忠とともに森長可の東濃侵攻時には森長可に属した。1600年、森家の転封後の「関ヶ原の役」では東濃では唯一の在地勢力の松平元康勢として石田三成勢の田丸家勢と戦い勝利を収めた。

土居光宣【どいみつのぶ(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称右京亮。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従って参陣した。

道化定重【どうけさだしげ(1519~1556)】

長井規秀家臣。通称六郎左衛門。別名道化道家。美濃一の怪力無双と恐れられた。1555年、斎藤義龍が剃髪して玄龍と号し、斎藤義龍を支持する家臣にも剃髪を命じたが、六郎左衛門は「所従定めがたし」として頭半分のみを剃って出仕し「道化者」の由来となった。1556年、「長良川の戦い」で長井規秀に従い、軍奉行として先陣を務め討死した。

道家清十郎【どうけきよじゅうろう(15??~1570)】

道家定重の男。森可成に仕えた。森可成の東美濃平定戦で戦功を挙げた。道家清十郎の旗指物に織田信長が自ら筆をとって「天下一の勇士なり」と書き加えた。1570年、「宇佐山城の戦い」で弟道家助十郎とともに浅井長政、朝倉義景勢と戦い討死した。

道家助十郎【どうけすけじゅうろう(15??~1570)】

道家定重の次男。1570年、「宇佐山城の戦い」で兄道家清十郎とともに浅井長政、朝倉義景勢と戦い討死した。

道化定常【どうけさだつね(15??~15??)】

長井規秀家臣。道化定重の弟。通称彦八郎。1556年、「長良川の戦い」では長井規秀勢に属した。

東常和【とうつねかず(1456~1544)】

郡上郡畑佐城主。東常縁の四男。1533年、東家代々の和歌を編纂した。

東常慶【とうつねよし(1510~1559)】

郡上郡篠脇城主。東元胤の男。官途は下野守。別名野田左近大夫。室は遠藤好任の娘。1540年、遠藤胤縁、遠藤盛数らとともに和田五郎左衛門を謀殺して一族を殲滅した。1541年、朝倉義景勢が郡上に侵入すると、安養寺信徒衆1,000余りとともに朝倉義景勢を撃退した。1541年、「阿千葉城の戦い」では、謀反を起こした鷲見貞保を攻め滅ぼした。1552年、「福野城の戦い」では、城主河合七郎を遠藤盛数に討伐させた。継嗣の東常堯を廃嫡にして、遠藤盛数を婿養子に迎え、東家の家督を譲った。東常堯にも遠藤胤縁の娘と縁組させようとしたが、遠藤胤縁は東常堯を好まず、娘を畑佐信国に嫁がせた。1559年、「東殿山の戦い」では、遠藤胤縁を家臣の長瀬内膳に謀殺させたため、遠藤盛数勢の攻撃をうけ討死した。

東常堯【とうつねたか(15??~15??)】

東常慶の男。通称七郎。室は内ヶ島氏理の娘。1559年、遠藤盛数の意向を受け東家の家督を相続出来ず赤谷城に逼塞させられた。

枝連衆の遠藤胤縁の娘を後室に迎えたいと遠藤胤縁に申し入れた。遠藤胤縁は東常堯の行状を快く思っておらず、畑佐信胤の嫡男の畑佐信国に嫁がせた。東常堯は、八朔の礼のために赤谷城に登城した遠藤胤縁を、家臣の長瀬内膳に謀殺させた。東胤縁の家臣庵原懸之助は遠藤胤縁の弟で東常慶の娘婿遠藤盛数に急使を派遣して、遠藤胤縁が東常堯に討たれたことを知らせた。遠藤盛数は激怒し、甥遠藤胤俊を伴って、八幡山に陣を張って赤谷城の東常堯と対峙した。東常慶も東常堯とともに籠城したが力尽き、東常慶は自刃、東常堯は内ヶ島氏理を頼って飛騨国白川郷に落延びた。東常堯は郡上郡北部に何度となく出兵して郡上郡の回復を目指すも果たなかった。1583年、「天正大地震」によって、内ヶ島氏理の帰雲城が崩壊。城の麓にあったといわれる内ヶ島家の館も山津波に襲われ、東常堯は内ヶ島家枝連衆など五百余りとともに命を落とした。

岩村遠山景前【とおやまかげまえ(15??~15??)】

恵那郡岩村城主。遠山景友の男。美濃遠山家の総領職である岩村遠山家の当主。東美濃では遠山景前が一定の勢力を保っていた。飛騨国三木直頼と東美濃の遠山景前とは、大円寺住職の明叔禅師を介して同盟を結んだ。明叔禅師は高僧として知られた人物で政治的な動きとは無縁ではあったが、三木直頼の実兄ということから、三木直頼と遠山景前との同盟を図った。南信濃国を勢力下に置いた武田晴信は、東美濃、三河方面への侵攻を図った。岩村城主遠山景前も武田晴信に誼を通じて勢力の安泰を図った。斎藤義龍が織田信長に稲葉山城を追われ、遠山景前が病没し、希菴禅師が京都に去ると、武田晴信の東美濃侵攻が開始された。 

岩村遠山景任【とおやまかげとう(1537~1573)】

遠山景前の男。官途は大和守。通称左衛門尉。室は織田信定の娘(おつやの方)。遠山景任は、織田信長と縁戚関係を結び、織田信長の叔母を娶るとともに、織田信長の五男織田勝長を養子に迎え継嗣とした。1572年、武田晴信が家臣秋山信友に兵を預けて東美濃の侵攻を図った。遠山景任は遠山景行、遠山友忠などを伴って松平元康に援軍を要請して対峙したが「上村の戦い」で敗れた。1573年、岩村城に籠城して秋山信友勢と戦ったが城中にて病没した。織田信広、河尻秀隆らを派遣したが、秋山信友の伏兵によって敗走した。城主の死と援軍の敗走が重なった城兵の士気は下がり、遠山景任の室は秋山信友の室となることで降伏した。美濃遠山家惣領家たる岩村遠山家の血統は断絶した。

岩村遠山直廉【とおやまなおかど(15??~15??)】

遠山景友の次男。通称勘太郎。別名苗木勘太郎。兄遠山景前が岩村城主となったので、遠山直廉は苗木城主となった。1554年、武田晴信が南信濃国を勢力下の置くと、遠山家は遠江国衆の天野景泰を通じて武田晴信方に帰属し、武田家、織田家の両家に属する両属状態となった。1560年「桶狭間の戦い」では、織田信長方として参陣した。武田晴信は、武田勝頼の室として遠山直廉の娘(遠山夫人)を織田信長養女として迎えた。遠山友勝と共に飛騨国益田郡に侵攻し「威徳寺の戦い」で三木家と戦った。その際に受けた矢傷により苗木城へ戻った後に没した。遠山直廉には嫡男なく苗木城主は、一族の遠山友勝が家督を相続した。

明智遠山景行【とおやまかげゆき(1509~1572)】

恵那郡明知城主。遠山景保の男。室は広瀬城主三宅高貞の娘。東美濃においては、土岐明智家が盟主であり、遠山家は被官的立場であった。1552年、土岐明智定明が弟明智定衡に謀殺される内紛があり、その混乱に乗じて、御嵩城主小栗信濃守が、土岐明智定衡の居城である高山城を攻略しようとした。遠山景行は武田晴信の支援を受けて小里光忠らとともにが反撃し、御嵩城を攻め落とした。遠山景行は、小里光忠 とともに武田晴信に属し、東美濃の主要な支配者となった。後に明知遠山家を含めた遠山家は、美濃に勢力を拡張する織田信長に接近する事になった。織田信長と武田晴信が対立すると、織田信長に属した。1572年、武田晴信がが西上を開始すると、秋山信友が遠山景任病没後の岩村城、明知城、苗木城、飯狭城、串原城などの遠山領を攻略した。遠山景行はほかの遠山諸家や小里光次、さらには松平元康勢の援軍を得て、秋山信友勢と「村上の戦い」では、小里光次などとともに討死した。

明智遠山利景【とおやまとしかげ(1540~1612)】

遠山景行の男。室は足助城主鈴木滋直の娘(慈正院)。1572年、「上村の戦い」で、父遠山景保と兄遠山景行が自刃すると万勝寺の住職から還俗し
遠山景行の嫡男遠藤一行を補佐した。1582年、「本能寺の変」の際には遠山一行とともに甲府に在番していた。甲斐を出て江尻城にいた本多重次を訪ね、松平元康方に属した。森長可に敗れ、明知城を追われた。1583年、「小牧、長久手の戦い」では井伊直政から兵の援助を受けて手薄な森長可の所領に侵攻し、明知城を奪還した。各務元正の守る岩村城も攻めるが失敗し、逆に遠山半左衛門などが討取られたため、それ以上の侵攻は頓挫した。戦後の羽柴秀吉と織田信雄との和議によって明知城を再び追われ、足助城主鈴木重時のもとに落延びた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属した岩村城主田丸具安を攻撃して、その戦功によって旧領に復した。

苗木遠山友勝【とおやまともかつ(15??~15??)】

恵那郡苗木城主。通称右衛門佐。初めは美濃飯羽間城主。苗木城主遠山直廉とともに、飛騨国益田郡に侵攻し「威徳寺の戦い」で三木家と戦った。。遠山直廉がそのとき受けた傷のため嗣子がないまま没したことに伴い、織田信長の命で苗木城主となった。飯羽間城は嫡男遠山友忠に譲った。苗木城主として、領内土豪の反抗に対応した。

苗木遠山友忠【とおやまともただ(1531~15??)】

遠山友勝の男。別名飯羽間久兵衛。室は織田信長の姪。織田信長に属した。1572年、武田晴信が西上を開始すると、その命令で東美濃に侵攻してきた秋山信友と戦った。惣領家の岩村遠山家が武田晴信に降伏したのちも織田信長方に留まり、のちに岩村遠山家が滅ぼされると、織田家臣の河尻秀隆の麾下に属して武田晴信に抵抗を続けた。1575年、武田勝頼が「長篠の戦い」で敗れ、秋山信友が自刃するまで、苗木城は武田家の勢力下に置かれた。1582年、木曾義昌の内応を織田信忠に取り次いだ遠山友忠とされ、以後も武田家攻めでは木曾家勢と共に武田勢と戦った。1583年、織田信長没後、羽柴秀吉と織田信孝が対立しはじめると、羽柴秀吉から森長可の麾下に入るよう命令されるが、これを拒絶し、松平元康の支援を受けながら美濃金山城主森長可と東美濃の覇権をめぐって争ったが、敗北し、嫡男遠山友政と共に松平元康を頼って落延びた。

苗木遠山友政【とおやまともまさ(1556~1620)】

遠山友忠の三男。通称三郎兵衛。父遠山友忠とともに織田信長に仕えた。1582年、織田信長の討死後、東美濃の覇権をめぐって森長可と争って敗れ、松平元康を頼って落延びた。その後は上野国館林の榊原康政のもとにあった。1600年、「関ヶ原の役」では松平元康勢に属して、石田三成勢の苗木城主河尻秀長を攻撃して奪取し、旧領復帰を遂げた。この戦功により、松平元康から15,000石の所領を与えられた。1614年、「大坂冬の陣」では桑名城を守備した。1615年、「大坂夏の陣」では松平忠明に属して戦功を挙げた。

阿照遠山友重【とおやまともしげ(15??~1574)】

阿照羅城主。1574年、武田勝頼は兵20,000余りを率いて木曾方面より東美濃に侵攻した。織田信長方であった遠山家は、十八子城の防備を固めていました。武田勝頼勢は、阿照羅城に向かった。遠山友重は、阿照羅城に退く前にせめて一戦だけでもと数十名の兵を率いて、中津川の左岸より川を渡ってくる敵兵に矢により攻撃を加えました。木曽義昌の将三尾五郎右衛門は、遠山友重勢の矢が命中、川を流されました。それを見た三尾五郎右衛門の三男三尾将監は水中に飛び込んで、父を背負って退いた。川を渡った武^田勝頼勢と遠山友重勢は戦ったが、多勢に無勢で敗走、阿照羅城に後退中に、遠山友重は討死した。

土岐頼武【ときよりたけ(1498~1547)】

土岐政房の男。美濃国守護職。官途は修理大夫。室は朝倉貞景の娘(三女)。土岐政房は土岐家の家督を次男土岐頼芸に継がせようと考え、小守護代長井長弘が土岐頼芸方に属した。守護代である斎藤利良は土岐頼武を推した。1517年、美濃国内は土岐頼武派と土岐頼芸派に分かれ、両派の戦いとなった。この戦いは土岐頼武勢が勝利したが、土岐頼芸勢は尾張国に亡命していた前守護代斎藤彦四郎と結んだ。1518年、再び両勢の間で戦いが起こり、土岐頼芸勢が勝利、土岐頼武は斎藤利良とともに朝倉孝景のもとへ落延びた。1519年、土岐政房が病没すると、朝倉孝景の弟朝倉景高が土岐頼武を擁して兵3,000余りで美濃国に侵入した。「正木の戦い」「池戸の戦い」で勝利して、土岐頼武は美濃国守護職に就任した。小守護代の長井長弘は没落、斎藤彦四郎は失脚した。1525年、土岐頼芸を擁した長井長弘が再挙兵した。「岐阜茜部の戦い」で斎藤利茂ほか土岐頼武政権の主だった人々は守護所福光館を脱出、館は長井長弘勢に占領された。長井長弘勢の浅井亮政が美濃国に侵攻、土岐頼武勢と戦いになった。土岐頼武は朝倉孝景の支援を受け、朝倉教景が北近江国に侵攻し浅井亮政勢を牽制した。1530年、朝倉孝景勢の援助で土岐頼武は、山県郡大桑城を本拠に土岐頼芸と対峙した。1535年、朝倉教景勢や六角定頼勢とともに、土岐頼武勢は攻勢を開始した。多芸郡、池田郡から稲葉山城城、関城に及ぶ美濃全域で戦いが行われた。

土岐頼純【ときよりずみ(15??~1547)】

土岐頼武の男。室は長井規秀の娘。父土岐頼武の病没後も大桑城に拠って叔父である守護土岐頼芸及び長井規秀と対峙した。1536年、六角定頼が土岐頼芸方に転じ、更に守護代斎藤利茂も六角定頼の仲介で土岐頼芸方になるなど次第に劣勢に立たされた。1539年、土岐頼芸との間で和議を結んだ。1543年、祐向城、別府城などの大桑城の支城は相次いで陥落、遂に大桑城も落ち、土岐頼純は母の実家である朝倉教景を頼って越前国へ落延びた。1544年、土岐頼純は朝倉孝景と織田信秀の支援を得て、美濃再入国を図った。朝倉家勢は朝倉教景が総大将となり、徳山谷を南下、赤坂で斎藤利茂勢と戦った。織田信秀は長井規秀の籠もる稲葉山城を攻撃、撤収にかかったところを攻撃され大敗した。1546年、土岐頼純と土岐頼芸、長井規秀との間で和議が成った。朝倉孝景、織田信秀の室町幕府への働きかけに加え、土岐頼芸の同盟者である六角定頼の仲介もあった。土岐頼純は菩提山城を経て大桑城へ入城した。和議の条件として、土岐頼芸の隠退と土岐頼純の美濃守護職就任が決まった。長井規秀の娘との婚姻も実現した。1547年、土岐頼純は長井規秀によって謀殺された。

土岐頼芸【ときよりのり(1502~1582)】

土岐政房の次男。官途は左京大夫。室は六角定頼の娘。兄土岐頼武とその嫡男土岐頼純の嫡流と対立、美濃国とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、美濃国守護職となった。後に家臣長井規秀に追放された。父土岐政房には継嗣の土岐頼武がいたが、次男の土岐頼芸を溺愛して土岐頼武の廃嫡を考えるようになった。土岐政房によって土岐頼芸は小守護代長井長弘、長井新左衛門尉らに擁立され、兄土岐頼武も守護代斎藤利良の支持を受けたことにより、両者は対立して家督争いが起った。1517年、土岐頼芸側は敗れたが、前守護代斎藤彦四郎の支援をうけて、再び戦いとなり、土岐頼芸側が勝利し土岐頼武を越前国に追放した、土岐頼武方の勢力を一掃した。1519年、朝倉孝景の支援を得た土岐頼武方が美濃国に侵攻し、土岐頼芸側は圧倒され土岐頼武側が勝利し、土岐頼武が美濃国守護職に就いた。1525年、土岐頼芸は再び挙兵し、美濃守護所の福光館を占拠した。1530年、兄土岐頼武を再び越前に追放し「濃州太守」と称された。その後、後ろ盾であった長井長弘、長井新左衛門尉らが相次いで病没したため、長井規秀を重用し勢力保持を図った。1539年、土岐頼純との間に和議が成立した。1541年、長井規秀が土岐頼芸の弟土岐頼満を謀殺すると、長井規秀とも対立した。1542年、土岐頼芸は次男土岐頼次と共も長井規秀により尾張国へ追放された。

土岐頼次【ときよりつぐ(1545~1614)】

土岐頼芸の次男。通称左馬助。室は湯島武房の娘。兄土岐頼栄が父土岐頼芸によって廃嫡されたため、土岐家の家督を相続した。父土岐頼芸と共に長井規秀によって美濃国を追われた後は大和の松永久秀を頼った。その後、羽柴秀吉に馬廻衆として仕えた。1587年、河内国古市郡内で500石を領した。さらに、松平元康に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では松平元康に属し本領を安堵された。

土岐頼重【ときよりしげ(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称小次郎。馬廻衆。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従って参陣した。

徳山貞孝【とくやまさだたか(15??~15??)】

大野郡徳山館主。通称少左衛門。

徳山則秀【とくのやまのりひで(1544~1606)】

徳山貞孝の男。通称孫三郎。官途は二位法印。織田信長に属して、柴田勝家の寄騎衆を務めた。一向一揆など北陸地方の平定に尽力し、加賀国松任城40,000石を領した。1582年、「本能寺の変」後も柴田勝家勢に属した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、佐久間盛政勢の先陣を務めた。丹羽長秀に仕えたが、丹羽長重が減封されると、前田利家に仕えた、1585年、「末森城の戦い」に参陣して佐々成政と戦った。早くから松平元康に内応して、「関ヶ原の役」直前に前田利長を出奔し、松平元康に仕えて5,000石を領した。

所信国【ところのぶくに(15??~15??)】

大野郡黒野館主。西美濃十八将。通称七郎。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に属した。

外山頼安【とやまよりやす(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称修理。馬廻衆。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に属して参陣した。

外山光之【とやまみつゆき(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称頼母。馬廻衆。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従って参陣した。

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【な】

長井新左衛門尉【ながいしんざえもんのじょう(15??~1533)】

池田郡稲葉山城主。通称勘九郎。別名西村正利。室は奈良屋又兵衛の娘。日護房が厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、還俗して松波庄五郎と称した。油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとった庄五郎は、油商人となり山崎屋を称した。庄五郎は油売りの行商として成功し評判になった。その後、武士を志し庄五郎は常在寺の日護房改め日運を頼み、小守護代長井長弘に仕え、西村正利と称した。1527年、「革手城の戦い」ぜ土岐政頼を急襲して越前国に追い落として土岐頼芸の守護補任に大きく貢献した。

長井規秀【ながいのりひで(1494~1556)】

長井新左衛門尉の男。官途は山城守。通称新九郎。別名斎藤利政(道三)。室は明智光継の娘(小見の方)。側室は深芳野。1533年、父長井新左衛門尉の病没により家督を相続した。惣領家長井長弘を謀殺して、長井規秀を称した。1538年、美濃守護代斎藤利良が病没すると、その名跡を継いで斎藤利政と称した。1541年、長井規秀による土岐頼満の謀殺が契機となって、土岐頼芸と長井規秀との対立が起った。一時は劣勢に陥ったが、土岐頼芸を大桑城を攻め、土岐頼芸と土岐頼次を尾張国へ追放して、美濃国主となった。1547年、「加納口の戦い」で織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けたが、長井規秀はこれを討ち破った。1548年、織田信秀と和議を結び、娘の帰蝶を織田信長に嫁がせた。羽城主長屋景興や揖斐城主揖斐光親らを滅ぼして美濃国を支配下に置いた。1554年、長井規秀は家督を斎藤義龍へ譲り、鷺山城に隠居した。斎藤義龍の廃嫡を図ったが失敗した。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍が兵17,500余りを集めたが、長井規秀は兵2,500余りで戦い討死した。辞世の句は「捨ててだにこの世のほかはなきものを いづくか終のすみかなりけん」。

長井長弘【ながいながひろ(15??~1530)】

白樫城主。長井秀弘の男。美濃国小守護代。官途は越中守。通称藤左衛門。別名斎藤利安。室は稲葉通以の娘(越智姫)。油商人であった長井新左衛門尉(松波庄五郎)を家臣として、西村家の名跡を相続させ、西村正利と称させた。美濃守護土岐政房の後継を巡り、家督争いが起こった。土岐政房が継嗣の土岐頼武を差し置いて、次男頼芸を後継者に推した。守護代斎藤利良は土岐頼武を、小守護代長井長弘は土岐頼芸を支持した。1517年、土岐頼武勢が勝利した1520年、長井長弘ら土岐頼芸勢が巻き返し、土岐頼武は越前国へ落延びた。1519年、土岐政房が病没すると、朝倉家は美濃国に派兵して、土岐芸方は圧倒し、土岐頼武を守護の座に就けた。長井長弘は政権奪取を画策した。1525年、長井新左衛門尉とともに挙兵し、新守護代斎藤利茂ら土岐頼武方と戦い、主家の斎藤利良の稲葉山城を攻め取り、美濃守護所の福光館も占拠し、土岐頼芸を守護とした。長井長弘は土岐頼芸を奉じて守護代斎藤利良に替わって、美濃国の実権を握った。1530年、土岐頼武を再び越前へ追放し、土岐頼武方の勢力も一掃した。長井新左衛門尉に謀殺された。

長井道利【ながいみちとし(15??~1571)】

長井長弘の男。通称隼人佐。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に属した。東美濃明智城攻略の総大将。1561年、斎藤義龍の病没により斎藤龍興の後見役を務めた。1565年、「堂洞の戦い」では、岸勘解由左衛門に加勢した。織田信長が美濃国を制圧すると浪人となった。足利義昭に仕え、荒木村重らと戦った。1571年、「摂津白井河原の戦い」では、和田惟政と戦い討死した。

長井衛安【ながいりあん(15??~1561)】

長井規秀家臣。結村城主。官途は甲斐守。六奉行衆。1561年、「森部の戦い」で織田信長勢と戦い服部平左衛門に討取られた。

長井正利【ながいまさとし(15??~15??)】

武儀郡鉈尾山城主。佐藤道信の男。通称六左衛門尉。1540年、鉈尾山城を築城した。織田信長の美濃侵攻の時に降伏し、以後織田信長勢に属した。

永井小右衛門【ながいこざえもん(15??~15??)】

竹中元重家臣。安東守就の四男(永井雅楽頭の養子)。

中島重長【なかじましげなが(15??~15??)】

長井規秀家臣。今尾城主。通称三郎大夫。

中島重直【なかじましげなお(15??~15??)】

中島重長の男。通称藤三郎。

中島重元【なかじましげもと(15??~15??)】

中島重直の男。通称出羽守。

中島重行【なかなじましげゆき(15??~15??)】

中島重元の男。通称内蔵助。織田信長勢の攻撃を受けて滅ぼされた。

中島信幸【なかじまのぶゆき(15??~15??)】

石畑城主。官途は豊後守。織田信長に仕えた。

中島氏種【なかじまうじたね(1556~1615)】

中島信幸の男。大坂七手組。1590年、「上野館林城の戦い」では、石田三成、長束正家らとともに館林城を攻撃した。1615年、「大坂夏の陣」で松平元康勢の攻撃を受け自刃した。

長瀬内膳【ながせないぜん(15??~15??)】

東常堯家臣。1559年、東常堯は赤谷山城へ参賀にやってきた遠藤胤縁を、長瀬内膳に命じてその帰路を待ち伏せさせ、鉄砲で謀殺させた。

中村秋益【なかむらあきます(15??~1556)】

長井規秀家臣。通称宗助。1556年、「長良川の戦い」で長井規秀に従って参陣したが討死した。

長沼三徳【ながぬまさんとく(15??~1600)】

佐藤忠能家臣。通称三徳斎。加治田衆の筆頭。佐藤忠能、斎藤利治、斎藤利堯らの家老衆を務めた。1565年、「堂洞城の戦い」では、西村治郎兵衛とともに参陣して戦功を挙げた。斎藤利治、斎藤義興、市郎左衛門らの男児を養育して織田秀信に仕えさせた。1600年、「岐阜城の戦い」では、織田秀信に従って松平元康勢と戦って討死した。

長沼藤治兵衛【なかぬまとうじざえもん(15??~1582)】

長沼三徳の男。1565年、「堂洞城の戦い」で父長沼三徳、佐藤忠能、佐藤忠康らととに織田信長勢に属して参陣して戦功を挙げた。1582年、「加治田城の戦い」では、村松藤松、野沢平治、村瀬又兵衛、森田九郎右衛門、林権右衛門、亀井喜平治とともに参陣したが、森可成勢の突撃を受け討死した。

長屋景興【ながやかげおき(15??~1548)】。

土岐頼芸家臣。揖斐郡相羽城主。長屋景教の男。土岐頼芸に属して20,000石を領した。1548年、「相羽城の戦い」では、長井規秀勢の攻撃を受け、継嗣の長屋景直とともに討死した。

長屋景直【ながやかげなお(15??~1548)】

長屋景興の男。通称与五右衛門。1548年、「相羽城の戦い」では、長井規秀勢の攻撃を受け、父長屋景興とともに討死した。

長屋道重【ながやみちしげ(15??~1594)】

長屋景教の次男。1594年、「坂取城の戦い」では、佐藤方政勢の土岐定正から攻撃受け継嗣の長屋景重とともに討死した。

長屋景重【ながやかげしげ(15??~1594)】

長屋道重の男。官途は信濃守。1547年、兄長屋景興が討死すると、大野郡更地城から武儀郡坂取城に転封された。1582年、織田信孝が美濃国を治めると遠藤胤基、遠藤慶隆らは織田信孝に属したが、長屋景重を中心としてた武儀郡国人衆は羽柴秀吉に属したが織田信孝勢の攻撃を受け降伏した。佐藤方政と和議を結ぶため家臣の長屋久内を派遣したが謀殺された。1594年、佐藤方政勢の土岐定正に坂取城を攻撃受け、父長屋道重とともに討死した。

長屋定重【ながやさだしげ(15??~15??)】 

長屋道重の次男。織田信長に仕えた。織田信長の怒りをかって和泉国に落延び、藤堂高虎に仕えた。 

長屋正重【ながやまさしげ(15??~15??)】

揖斐光親家臣。長屋景教の男。1547年、「奈礼坂の戦い」で、朝倉義景勢と戦いで戦功を挙げた。1556年、「長良川の戦い」では斎藤義龍勢に属した。

長屋正義【ながやまさよし(15??~1614)】

長屋正重の男。福島正則に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。1614年、「大坂冬の陣」で討死した。
 
長屋長政【ながやながまさ(15??~15??)】

長屋正重の男。斎藤義龍、斎藤龍興に仕えた。1567年、稲葉山城の落城後、木田郷に蟄居した。後に織田信長に仕えた。
 
長屋正隆【ながやまさたか(15??~15??)】

長屋長政の男。織田秀信に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で織田秀信が滅ぶと、帰農した。

那波正隆【なばまさたか(15??~15??)】

稲葉貞通家臣。不破郡福田城主。官途は和泉守。福田城8,000石を領した。

那波正信【なばまさのぶ(15??~15??)】

那波正隆の男。官途は和泉守。別名那波直治。後に明智光秀に仕えた。

那波久昌【なはひさまさ(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。官途は上野守。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従って参陣した。

成吉尚光【なりよしなおみつ(15??~1551)】

本巣郡唯腰城主。官途は摂津守。別名竹腰守久。西美濃十八将。甥の竹腰重直の討死後、柳沢城主を務めた。長井道利とともに織田信長との主戦論者。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属して長井規秀と戦い討死した。

西尾信光【にしおのぶみつ(15??~1533)】

氏家行隆家臣。安八郡曾根城主。1533年、「牧田の戦い」で討死した。

西尾光教【にしおみつのり(1544~1616)】

西尾信光の男。官途は豊後守。室は氏家行隆の娘。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、大谷吉継の勧誘を拒絶して松平元康勢に属したため、焼き討ちを受けた。その後、松平元康勢の先導役を務めるなどの戦功を挙げた。役後10,000石を加増、揖斐城30,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」でも松平元康勢に属して参陣して戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」後、駿府で病没した。

西尾教次【にしおのりつぐ(1588~1608)】

木下吉隆の男(西尾光教の養子)。1608年、西尾家の家督を相続することなく早世した。

西尾嘉教【にしおよしのり(1590~1623)】

木下吉隆の次男(西尾光教の養子)。官途は出雲守。通称小六。室は内藤政長の娘。1608年、兄西尾教次が早世したため、西尾光教の養嗣子となった。1614年、「大坂冬の陣」では、養父西尾光教とともに参陣した。1616年、西尾光教の病没後、揖斐25,000石を領した。1623年、嗣子が無く、西尾家は改易処分に処された。

西尾氏教【にしおうじのり(15??~15??)】

木下吉隆の三男(西尾光教の養子)。西尾光教より揖斐郡5,000石を分与された。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康に従って参陣した。

西堀勘兵衛【にしぼりかんべい(15??~15??)】

氏家直元家臣。馬廻衆。1571年、「伊勢長島の戦い」で氏家直元に従って参陣したが一向一揆勢の追撃を受け討死した。

西村治郎兵衛【にしむらじろうべえ(15??~15??)】

佐藤忠能家臣。別名天池治郎兵衛。加治田衆。佐藤忠能、斎藤利治、斎藤利堯の三代にわたって長沼三徳ともに仕えた。「堂洞の戦い」「加治田の戦い」「関城の戦い」「加治田、兼山の戦い」などに各合戦に参陣した。堂洞合戦前に佐藤忠能の娘八重緑が人質として岸信周に預けられていたが、盟約が破られたことに怒った岸方が八重緑を刺殺。竹の串に貫き加治田城に面した堂洞城長尾丸に立てた。その夜、西村治郎兵衛が岸方の堂洞城長尾丸に忍び、闇討ちより姫の亡骸を奪い取り、龍福寺に葬った。加治田城廃城後は、任官せず三徳と隠棲し斉藤利治の遺児を三徳と養育した。

延友信光【のべとものぶみつ(15??~15??)】

土岐郡神箆城主。官途は土佐守。別名遠山景延。室は妻木貞徳の娘。1565年、「高野口の戦い」では、武田晴信勢と戦った。1572年、「岩村城の戦い」で武田晴信の家臣秋山信友勢の攻撃を受け岩村城が落城した後も織田信長勢に属した。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉勢に属した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」後、森長可に従わず、松平元康を頼って神篦城を離れた。

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【は】

長谷川五郎衛門【はせがわごろうざえもん(15??~15??)】

可児郡上恵土城。1582年、「上恵土城の戦い」で森長可の攻撃を受け落城した。

畑佐信胤【はたさのぶたね(15??~1559)】

東常慶家臣。官途は備後守。東常堯は遠藤胤縁の娘を室に欲したが、遠藤胤縁は東常堯を信頼せず、密かに畑佐信胤の継嗣畑佐信国に娘を嫁がせた。1559年、東常堯により、遠藤胤縁は登城してきたところ家臣の長瀬内膳に謀殺された。

畑佐信国【はたさのぶくに(15??~15??)】

畑佐信胤の男。通称六右衛門。室は遠藤胤縁の娘。1571年、遠藤盛数の配下だった畑佐信国が飛騨の三木自綱と結び、気良の佐藤家とも連合して遠藤慶隆打倒を目論んだ。遠藤慶隆は大島村の安養寺に支援を要請して安養寺信徒の先陣によって畑佐信国を降した。

蜂屋頼隆【はちやよりたか(1534~1589)】

加茂郡蜂屋城主。官途は出羽守。室は丹羽長政の娘。長井規秀に仕えた。1564年、武田晴信が美濃国に侵攻すると、織田信長勢に属した。馬廻衆として黒母衣衆属した。1568年、「山城勝龍寺城の戦い」で柴田勝家、森可成、坂井政尚らとともに先陣を務め、岩成友通勢と戦った。1570年、「近江小谷城の戦い」では、柴田勝家、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀らとともに小谷の街を焼き払った。1574年、東大寺の蘭奢待切り取りでは、塙直政、菅屋長頼、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀らとともに奉行職を務めた。愛智郡肥田城主に任じられ畿内各地を転戦した。1580年、佐久間信盛、佐久間信栄親子の追放後、和泉国の支配権を任された。1582年、織田信長が討死すると、羽柴秀吉に属して越前国敦賀城40,000石を領した。

羽生長繁【はぶさなしげ(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称善助。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従って参陣した。

林通安【はやしみちやす(15??~15??)】

森可成家臣。長井規秀に仕えた。婿の森可成を頼りその家臣となった。娘のえい姫(妙向尼)は森可成に嫁ぎ、森長可、森成利(蘭丸)らの母となった。

林為忠【はやしためただ(1556~15??)】

林通安の男。通称長兵衛。1582年、「高遠城の戦い」では、一番槍を各務元正と激しく争い林為忠が先に敵を討ち戦功を挙げた。芋川親正の一揆鎮圧後は稲葉貞通に替わって飯山城代となった。「本能寺の変」後、森長可が信濃国から退去するときは、林通安らが先陣を駆けて森長可の護衛にあった。「東美濃討伐」では、大森城主奥村元広を兵500余りで陥落させると、高山城主平井光行をも降伏させるなど抜群の戦功を挙げた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、妻木城を守備した。森可成の討死後は各務元正、父林通安とともに三人で森忠政の家督相続に尽力した。森忠政の家督相続後は、各務元正とともに森忠政を補佐した。1586年、「九州討伐」では、病のため参陣を見送った森忠政に替わって、森家の総大将として伴惟利ら甲賀衆とともに参陣した。1600年、森家が信濃国川中島移封された後は再び飯山城代となり8,000石を領した。各務元正が病没すると森家筆頭家老となった。1603年、森家が美作国津山城に転封になると直後に井戸宇右衛門と名古屋山三郎が喧嘩の末に二人とも死亡し、これと時を同じくして井戸家枝連衆が森忠政に謀殺されると、林為忠ら林家枝連衆は、井戸家枝連衆の誅殺に激怒し森家を出奔した。

林常照【はやしつねてる(15??~15??)】

森可成家臣。通称新右衛門。
 
林為忠【はやしためただ(1556~15??)】

林新常照の男。通称長兵衛。1582年、各務兵庫、可児庄六らとともに大森城主奥村又八郎を攻めた。

林通政【はやしみちあさ(15??~1556)】

岩崎砦主。林通忠の男。官途は駿河守。通称道慶。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀に属して討死した。

林政秀【はやしまさひで(15??~15??)】

林通政の男。

林政長【はやしまさなが(15??~15??)】

本巣郡十七条城主。官途は佐渡守。別名軒林道政。西美濃十八将。斎藤義龍の侍大将を務めた。長井規秀の旗頭林通政(道慶)の甥。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀を討取った。

林長正【はやしながまさ(15??~1562)】

林政長の男。通称玄蕃。1562年、織田信長の侵攻を受けて討死した。

林政三【はやししょうぞう(15??~1573)】

林政長の次男。通称宗兵衛。室は稲葉良通の娘。別名林政秀。林長正の病没により林家の家督を相続した。織田信長家臣の林秀貞に仕えた。

林正成【はやしまさなり(1571~1628)】

林政三の男(稲葉重通の養子)官途は佐渡守。通称八右衛門。別名稲葉正成。室は稲葉重通の娘。継室は斎藤利三の娘(於福)。継々室は山内康豊の娘。はじめ羽柴秀吉に仕えるが、後小早川秀秋の家老職を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、小早川秀秋を説得し松平元康勢に属させた。役後、小早川秀秋に愛想を尽かし松平元康に仕えて羽栗郡で10,000石を領した。継室の於福は後の春日局。 

林通政【はやしみちまさ(15??~1573)】

織田信秀家臣。通称新次郎。別名林光時。
林 通政(はやし みちまさ、生年不詳 - 弘治2年(1556年)[1][出典無効])駿河守。美濃斎藤氏家臣[1][出典無効]。父親は林通忠。子に政秀など。織田氏に仕えた林秀貞(通勝)は従兄弟。

田原左衛門【はらださえもん(15??~15??)】 

加茂郡猿啄城主。1530年、猿啄城は、土岐家枝連衆の田原左衛門が築城した。1547年、原田左衛門が祖母のいる犬山大泉寺へ赴いた際、一族の多治見修理が謀叛を起こして城を乗っ取った。

田原安久【はらだやすひさ(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称式部。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に従って参陣した。

原頼龍【はらよりたつ(15??~15??)】

身延城主。通称掃部介。

原頼行【はらよりゆき(15??~15??)】

原頼龍の男。通称中務丞。

原光広【はらみつひろ(15??~15??)】

恵那郡原城主。(原頼広の養子)。官途は紀伊守。通称忠左衛門。1556年、「長良川の戦い」で斎藤義龍勢に属して参陣した。

原頼房【はらよりふさ(15??~15??)】

本巣郡中野城主。

原長頼【はらながより(1544~1600)】

原頼房の男。官途は隠岐守。通称彦二郎。1575年、柴田勝家の寄騎衆に任じられ、越前国大野郡勝山城20,000石を領した。1578年、荒木村重が謀反を起こすと、荒木村重勢と戦い戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」後、織田信長が討死すると柴田勝家勢に属した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、先陣を務めたが前田利家勢が戦線を離脱すると徳山秀現とともに羽柴秀吉勢に寝返った。1584年、「能登末森城の戦い」では、前田利家勢に属して戦功を挙げた。1585年、羽柴秀吉に仕え伊勢国内で30,000石を領した。1589年、「小田原の役」後、三河国に転封した。1600年、「伊勢長島城の戦い」では、石田三成勢に属して福島高晴勢と戦った。「関ヶ原の戦い」で石田三成勢が壊滅すると、自刃した。

原長政【はらながまさく(15??~1614)】

原長頼の男。通称彦作。1575年、父原長頼とともに柴田勝家の寄騎衆に任じられた。1590年、三河国に転封した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して改易処分に処され、稲葉典通に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼に参陣じようとしたため、処刑された。

原可永【はらかななが(15??~15??)】

原頼房の次男。通称勘兵衛。1575年、父原長頼とともに柴田勝家の寄騎衆に任じられた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、柴田勝家勢の先陣を務めた。

日置主計【ひおきしゅけい(15??~1584)】

遠藤慶隆家臣。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、遠藤慶隆に従って羽柴秀吉勢の森長可に属した。森長可勢が三河国に侵攻すると、松平元康勢の追撃を受け敗走、森長可は討死、遠藤慶隆は落延びたが家臣の遠藤弥九郎、餌取伝次郎、日置主計、猪俣五平治、和田仁兵衛らが討死した。

肥田忠政【ひだただまさ(15??~15??)】

加茂郡米田城主。官途は玄蕃允。別名肥田軌休。室は金森長近の娘。1565年、織田信長に従い、森可成の寄騎衆に配され畿内各地を転戦した。1570年、「宇佐山城の戦い」で朝倉義景、浅井長政勢の攻撃を受け森可成、織田信治が討死したが、肥田忠政、武藤五郎右衛門、肥田彦右衛門とともに宇佐山城を守りきった。森長可が兼山城主になると、肥田家領の前野、小山の両砦を占拠した。1582年、「本能寺の変」後、肥田忠政は諸将と謀って森長可の謀殺を図ったが失敗に終った。「米田城の戦い」では、森長可勢の奇襲攻撃を受け加治田城に落延びた。

肥田家澄【ひだいえずみ(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称玄蕃頭。1556年、斎藤義龍が伊勢長島に落延びると、織田信長や明智光秀に仕えた。その後、松平元康に仕えた。

肥田光寿【ひだみつとし(15??~15??)】

明智光安家臣。肥田城主。通称十郎兵衛尉。

肥田孫左衛門【ひだまござえもん(15??~1556)】

可児郡長山城主。1556年、「明智城の戦い」で斎藤義龍勢の攻撃を受けると、生駒親正とともに織田信清に支援を要請するが失敗に終わった。1558年、羽柴秀吉とともに織田信長に仕えた。1560年、「桶狭間の戦い」で戦功を挙げた。

一柳直高【ひとつやなぎなおたか(1529~1580)】

氏家直元家臣。厚見郡西野城主。一柳宣高の男。通称又右衛門。斎藤義龍の時に織田信長に仕え、羽柴秀吉の寄騎衆となった。

一柳直末【ひとつやなぎなおすえ(1546~1590)】

一柳直高の男。官途は伊豆守。通称市助。室は黒田職隆の娘(心誉)。羽柴秀吉に仕え、各地を転戦して戦功を挙げ黄母衣衆となった。1585年、田中吉政、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊らとともに羽柴秀次の宿老職に任命され、美濃国で30,000石を領した。1589年、軽海西城に転封となり60,000石に加増された。1590年、「小田原の役」に参陣したが「山中城の戦い」で間宮康俊勢の銃撃より討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一柳直盛【ひとつやなぎなおもり(1563~1636)】

一柳直高の次男。官途は監物。通称四郎右衛門。兄一柳直末に属して戦功を挙げた。1589年、「小田原の役」で、兄一柳直末が討死したため、その後を継いで羽柴秀吉に仕えた。尾張国黒田城主30,000石を領して、羽柴秀次に属した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康に属して「岐阜城の戦い」で戦功を挙げた。役後、伊勢国神戸城50,000石の所領を領した。1614年、「大坂冬の陣」でも、戦功を挙げ、転封になり伊予国西条城58,600石と播磨国加東郡10,000石を加え68,600石を領したが、まもなく病没した。男一柳直重が30,000石、次男一柳直家が23,000石、三男一柳直頼が10,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一柳直家【ひとつやなぎなおいえ(1599~1642)】

一柳直盛の次男。官途は美作守。室は高倉永慶の娘。1605年、松平元康、松平秀忠に拝謁した。1615年、「大坂夏の陣」で父一柳直盛が戦功を挙げた。1636年、一柳直盛が伊予国西条城に転封して68,000石を領した。一柳直盛が病没すると、播磨国加東郡、伊予国宇摩郡、周敷郡で28,600石を領した。

一柳直秀【ひとつやなぎ(15??~1595)】

長井規秀家臣。官途は右近将監。通称弥三右衛門。別名一柳可遊。後に羽柴秀吉に仕えた。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉に従って参陣した。1591年、伊勢国桑名城に任じられた。1592年、「文禄の役」に参陣した。1595年、「羽柴秀次事件に連座して自刃した。

日根野九郎左衛門尉【ひのねくろざえもんのじょう(15??~15??)】

長井規秀家臣。中島城主。泉佐野の日根野の豪族の日根野家から出た、日根野九郎左衛門尉が、美濃国南部に移住して、長井規秀に仕えた。

日野根弘就【ひのね ひろなり(1518~1602)】

日根野九郎左衛門尉の男。通称五郎左衛門。1555年、弟日根野盛就とともに、斎藤義龍の弟二人を討取る戦功を挙げた。斎藤義龍は、日野根弘就、氏家直元、安藤守就、竹腰尚光、日比野清実、長井衛安ら六人衆を中心に美濃国を治めた。1562年、「十九条城の戦い」では、長井道利とともに城主織田広良を追い落とした。1567年、「稲葉山城の戦い」で斎藤龍興が伊勢長島に落延びると所領を失った。1568年、「掛川城の戦い」では、朝比奈泰朝に従って松平元康の家臣石川数正勢と戦い、家臣の日根野源太、鈴木深右衛門が討死した。1571年、浅井長政に仕えた。1573年、石山本願寺の支援を受け挙兵したが織田信長勢の攻撃を受け敗れた。1580年、日根野盛就、日根野六郎左衛門、日根野半左衛門、日根野勘右衛門、日根野五右衛門らとともに織田信長の馬廻衆に取り立てられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

日根野盛就【ひねのもりなり(15??~1585)】

日根野九郎左衛門尉の次男。通称弥次右衛門。別名日根野重之。1561年、「森部の戦い」では、織田信長勢を撃退する戦功を挙げた。1563年、「新加納の戦い」では、兄日根野弘就とともに織田信長勢を迎え撃ち、池田恒興、坂井政尚らを撃破った。1567年、「稲葉山城の戦い」で斎藤龍興が伊勢長島に落延びると、日野根弘就とともに所領を失った。1569年、「金丸山砦の戦い」では、松平元康勢の金丸山砦を攻撃して久野宗信、小笠原氏興を敗走させた。その後、浅井長政、長島一向一揆、織田信長、羽柴秀吉らに仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、日根野弘就とともに羽柴秀吉勢に属して二重堀砦を守って松平元康勢を撃退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

日根野高吉【ひねのたかよし(1539~1600)】

日根野弘就の男。五丁城主。通称左京亮。室は戸田忠成の娘。1567年、斎藤龍興が滅亡すると、織田信長に仕えた。1589年、「山中城の戦い」で戦功を挙げ、信濃国高島城38,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属したが、まもなく病没した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

日根野吉明【ひねのよしあき(1587~1656)】

日根野高吉の男。官途は織部正。室は松平一生の娘。1600年、父日野根高吉が病死したため、信濃国高島城27,000石を相続した。「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属した。1601年、祖父日野根弘就が石田三成勢に属したため、下野国壬生城12,000石に減封された。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康勢に属して戦功を挙げた。その後、日光東照宮の造営などで功を上げ豊後国府内城20,000石に転封した。1638年、「島原の乱」に参陣した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

日根野源太【ひねのげんた(15??~1568)】

日野根弘就家臣。1567年、「稲葉山城の戦い」で斎藤龍興が伊勢長島に落延びると所領を失った。1568年、「掛川城の戦い」では、朝比奈泰朝に従った日野根弘就とともに石川数正勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

日比大三郎【ひびだいさぶろう(15??~15??)】

後藤高次家臣。1556年、「長良川の戦い」後、斎藤義龍に仕え、加賀野城を守備した。1561年、氏家直元の家臣種田信濃守の攻撃を受け、後藤高次が討死した。後藤高次の継嗣後藤直次は織田信長のもとに落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

日比野清実【ひびのきよざね(15??~1561)】

斎藤義龍家臣。結村城主。官途は下野守。斎藤義龍六奉行。1561年、「森部の戦い」で織田信長勢と戦い恒河久蔵に討取られた。

平井信正【ひらいのぶまさ(1491~1585)】

長井規秀家臣。通称宮内。1547年、長井規秀が土岐頼芸を攻撃すると、土岐頼芸勢に属した。長井規秀に斎藤義龍との不仲を解消するように諫めたが、受け入れられず所領を失った。1555年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に属した。加治田城主斎藤利治ぬ仕えた。1582年、「本能寺の変」後、斎藤利治が討死すると、斎藤利堯に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

平井綱正【ひらいつなまさ(15??~1583)】

平井信正の男。別名梶田甚五郎。父平井信正とともに白華山清水寺で客分として住居し、斎藤利治の薦めで織田信長に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、池田恒興に仕えた。1583年、「小牧長久手の戦い」に参陣した。戦いの最中、戦の不利をさとって池田恒興は、平井綱正に猿投神社へ先勝を祈願せよと命を受け神社へ急いだが、途中菱野で松平元康勢に襲撃され討死した。

平井光行【ひらいみちゆき(15??~15??)】

可児郡高山城主。1552年、高山城主高山光俊が継嗣をもうけず病没すると御嵩城主小栗信濃守の攻撃を受けた。明知城主遠山景行と小里城主小里光忠らの要請を受け武田晴信は、平井光行を援軍に派遣した。平井光行勢の後藤庄助は討死するが遠山景行、小里光忠らの奮戦により小栗信濃守勢を撃退した。この戦功により高山城主に任じられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

平井光村【ひらいみつむら(15??~1600)】

平井光行の男。通称頼母。1568年、織田信長に従い森長可の寄騎衆に任じられた、1574年、「高山城の戦い」で武田勝頼勢の攻撃を受け落城した。その後、岩村城主田丸直昌に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したため、松平元康勢の妻木頼忠の攻撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

広田藤吾【ひろたとうご(15??~15??)】

仙石秀久家臣。1579年、「淡路州本城の戦い」で戦功を挙げた。

平子貞詮【ひらこさだあき(15??~1614)】

稲葉貞通家臣。通称主膳。平子家は主膳の五代前の先祖から討死を続け。1614年、「伯楽淵砦の戦い」で池田輝政の家臣箕浦右近に討取られた。松平元康の頸実検を受け、三度まで刃向かったと言わしめた。

平子茂兵衛【ひらこもへい(15??~1614)】

平子貞詮の男。1614年、「大坂冬の陣」で父平子貞詮とともに松平元康勢と戦い討死した。

深尾重利【ふかおしげとし(15??~1565)】

太郎丸城主。官途は和泉守。1542年、土岐頼芸と長井規秀が争ったときは、土岐頼芸に属した。1556年、長井規秀と斎藤義龍との「長良川の戦い」では、斎藤義龍の属した。

深尾重政【ふかおしげまさ(15??~15??)】

深尾重利の男。1567年、斎藤義興が稲葉山城から落延びると織田信長に属した。深尾重政に四人の男子がおり、嫡男深尾古右衛門(岐阜深尾の祖)は病弱のため世に出なかった。次男、深尾次郎兵衛は討死、三男、深尾重良が佐川家初代、四男深尾重次は南深尾(馬廻衆600石)。

深尾宗平【ふかおむねひら(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。官途は下野守。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従って参陣した。

深沢定政【ふかざわさだまさ(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称三郎左衛門。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従って参陣した。

福光頼直【ふくみつよりなお(15??~15??)】

不破郡福光城主。通称左衛門尉。

福光頼国【ふくみつよりくに(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称蔵人。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従って参陣した。

船木義久【ふなきよしひさ(15??~15??)】

本巣郡船木館主。通称大学頭。西美濃十八将。1556年、「長良川の戦い」では斎藤義龍勢に属して参陣した。

舟木範賢【ふなきのりかた(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。官途は大学頭。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属して参陣した。

古田重則【ふるたしげのり(1529~1579)】

長井規秀家臣。通称吉左衛門。室は稲葉通則の娘。1579年、「三木城の戦い」で討死した。

古田重勝【ふるたしげかつ(1560~1606)】

古田重則の男。官途は兵部少輔。室は石川光政の娘。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢に属して参陣した。1595年、伊勢国松坂城35,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、木食応其より石田三成勢への参陣を説かれるがこれを拒否した。松坂城に籠城して鍋島勝茂勢の攻撃を受けたが、安濃津城主富田信高、分部光嘉らに援兵50人を送るなどした。役後、石田三成勢を引き止めた戦功により20,000石を加増され55,000石を領した。

古田重治【ふるたしげはる(1578~1625)】

古田重則の三男。官途は大膳大夫。室は丹羽長秀の娘。父古田重則の討死後、家督は兄古田重勝が古田家の家督を相続した。1606年、兄古田重勝が病没したさい古田重勝の嫡男古田重恒が四歳と幼かったことから、古田重治が古田家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」で戦功を挙げた。1619年、松坂城から石見国浜田城へ転封された。浜田川、浅井川の治水工事に務めた。1623年、古田家の家督を古田重恒に譲って江戸で隠居した。

古田長宗【ふるたながむね(15??~1580)】

山口城主。通称吉右衛門。羽柴秀吉に仕えた。1580年、「播磨三木城の戦い」で討死した。

不破道広【ふわみちひろ(15??~15??)】

安八郡西保城主。官途は河内守。通称左衛門。1525年、「牧田の戦い」では、土岐頼芸勢に属して浅井亮政が美濃勢と戦った。1541年、長井規秀と土岐頼芸が戦い
土岐頼芸として戦い、頼芸の没落にも随従した。

不破光治【ふわみつはる(15??~1581)】

不破道広の男。官途は河内守。通称太郎左衛門尉。西美濃四人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)と称された。近江国小谷城へ赴き浅井長政家臣安養寺経世と内談して織田信長の妹お市の方と浅井長政との婚約をまとめ、輿入では、内藤勝介とともに於市の方に供奉した。1568年、和田惟政、村井貞勝、島田秀満とともに足利義昭を越前国まで迎えに赴いた。1574年、前波吉継が謀殺されると、羽柴秀吉、丹羽長秀らとともに敦賀城へ参陣した。1575年、「越前一向一揆平定戦」に参陣した。柴田勝家が越前国八郡を領すると、不破光治は佐々成政、前田利家とともに柴田勝家の寄騎衆を務め、龍門寺城33,000石を領した。

不破直光【ふわなおみつ(15??~1598)】

不破光治の男。通称彦三。室は北畠具教の娘。別名不破勝光。父不破光治とともに織田信長に仕えて畿内各地を転戦した。1581年、父不破光治が病没すると、不破家の家督を相続して府中三人衆のひとりとして政務をこなした。1582年、「賤ヶ岳の戦い」では、佐久間盛政勢に属して戦功を挙げた。後に前田利家に仕えた。1584年、「末森城の戦い」では、前田利家勢の先陣を務め、佐々成政勢と戦った。

不破光昌【ふわみつまさ(15??~1582)】

不破直光の男。

不破広綱【ふわひろつな(15??~15??)】

羽栗郡竹ヶ鼻城主。通称源六。織田信雄に属して竹ヶ鼻城の整備を行い城下街形成にも力を入れた。1584年、「小牧、長久手の戦い」で羽柴秀吉勢の攻撃を受け伊勢国長島に落延びた。

別府弾正忠【べっぷだんじょうちゅう(15??~1577)】

遠藤慶隆家臣。郡上郡栗栖郷を領した。1577年、鷲見弥平治と遠藤慶隆に謀反を起し最勝寺に兵を集めたが遠藤慶隆勢の反撃を受け飛騨国に落延びた。

堀田道空【ほったくうどう(15??~1615)】

長井規秀家臣。1553年、長井規秀と織田信長が尾張国正徳寺で会見すると、春日丹後守、猪子兵助とともに長井規秀に随行した。1556年、長井規秀が討死すると、斎藤義龍、斎藤龍興に仕えた。1567年、斎藤龍興が美濃稲葉山城を追われると織田信長に仕えた。後に羽柴秀吉に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」で羽柴秀頼が滅亡すると、これに殉じた。

堀池定治【ほりいけさだはる(15??~15??)】

揖斐光親家臣。官途は備中守。1556年、揖斐光親の跡職を継ぎ、揖斐城主となった。

堀池元盛【ほりいけもともり(15??~15??)】

堀池定治の男。官途は筑後守。1564年、斎藤義龍のもとで稲葉良通とともに奉行人を務めた。

本庄光元【ほんじょうみつもと(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。官途は民部少輔。馬廻衆のひとり。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に属して参陣した。

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【ま】

牧村政倫【まきむらまさみち(15??~15??)】

斎藤龍興家臣。別名真木村牛介。室は稲葉良通の娘。1561年、「軽海の戦い」では、斎藤龍興勢の先陣となり織田信長勢と戦った。1567年、稲葉良通とともに織田信長勢に寝返った。

牧村利貞【まきむらとしさだ(1546~1593)】

稲葉重通の男(牧村政倫の養子)。官途は兵部大輔。通称長兵衛。1582年、織田信長が討死すると、羽柴秀吉に仕え馬廻衆となった。1584年、高山長房の勧めを受けてキリシタンとなった。「小牧、長久手の戦い」「四国征伐」「九州討伐」に参陣した。伊勢国内で2,650石を領した。1592年、「文禄の役」では、舟奉行として参陣したがまもなく病没した。牧村利貞は利休七哲に数えられる茶人で利休弟子七人衆の中では、一番蒲生氏郷、二番高山右近、三番細川藤孝、四番芝山監物、五番瀬田掃部、六番牧村利貞、七番古田織部と称された。 

猿子国基【ましこくにもと(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称主計。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従って参陣した。

松下五左衛門【まつしたござえもん(15??~15??)】

鷲見保義家臣。向鷲見城代。

松田雁助【まつだがんすけ(15??~15??)】

安藤守就家臣。安藤家老職を務めた。1582年、「本能寺の変」で、織田信長が明智光秀により討たれると、安藤守就は挙兵して稲葉良通の北方城を奪い再起を試みた。稲葉良通が北方城を攻撃すると、安藤守就は家臣の松田雁助、岡八兵衛らとともに戦ったが討死した。織田信長の馬廻衆を務めていた、養子の松野一忠は、京都で斎藤利三の誘いを断り自刃した。

松原義保【まつだいらよしやす(15??~1556)】 

長井規秀家臣。通称治郎左衛門。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀に属して討死した。

松野一忠【まつのかずただ(15??~1582)】

安藤守就家臣。松田雁助の養子。通称平助。1567年、安藤守就が織田信長勢に属すると、それに従がった。その後、安藤守就の寄騎衆として各地を転戦した。1569年、「本圀寺の戦い」では、三好三人衆と戦って戦功を挙げた。1580年、安藤守就が改易処分に処されると、織田信長の馬廻衆となった。1582年、「本能寺の変」で織田信長、織田信忠らが討死すると、斎藤利三から降伏を勧められるが自刃した。

松山正定【まつやままささだ(15??~15??)】

大野郡松山館主。通称刑部。西美濃十八将。

松山主水【まつやまもんど(15??~1635)】

松山正定家臣。通称源之丞。二階堂平法の道統者。竹中重治の馬廻衆を務め数々の戦功を挙げた。1579年、竹中重治が病没すると木村重茲に仕えたが、主従不和により浪人した。1592年、「文禄の役」では、加藤清正に属して戦功を挙げたが、再び浪人して鎌倉に隠棲した。

丸毛長照【まるもながてる(15??~1589)】

多芸郡大塚城主。官途は河内守。通称三郎兵衛。別名丸毛光兼。1560年、長井衛安とともに織田信長勢を撃退した。1567年、「大塚城の戦い」では、謀反を起こした美濃三人衆(安藤守就、稲葉良通、氏家直元)の攻撃を受けたがこれを撃退した。1567年、織田信長に降伏した。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に属した。

丸毛兼利【まるもかねとし(15??~1647)】  
 
丸毛長照の男。通称三郎兵衛。室は稲葉良通の娘。父丸毛長照とともに長井規秀に仕え、後に織田信長、羽柴秀吉に属した。1589年、福束城主に任じられ20,000石を領した。1600年、「福束城の戦い」では、石田三成勢に属したため、松平元康勢の市橋長勝、徳永寿昌らの攻撃を受け大垣城に落延びた。

丸毛利勝【まるもとしかず(15??~15??)】

丸毛長照の次男。通称五郎兵衛。松平元康の馬廻衆を務め800石余りを領した。

丸毛不心斎【まるもふしんさい(15??~1595)】

丸毛長照家臣。室は東殿。1567年、織田信長に降伏して三ヶ条の禁制を受けた。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して、相国寺で自刃した。

宮川安定【みやかわやすさだ(15??~15??)】

土岐頼芸家臣。不破郡若森城主。通称吉佐衛門尉。室は大垣長家の娘。長井規秀勢に属して3,000貫を領した。1535年、内室の父大垣長家を討って牛屋砦を整備拡張し、割田城の空き城から門や石垣石を運んで、大垣城を築城した。長井規秀が西美濃の一向一揆衆の目頭草道島西円寺と和議を結ぶとその取次役を務めた。

宮川但馬守【みやかわたじまのかみ(15??~15??)】

氏家直元家臣。不破郡今須城主。宮川安定の弟。室は氏家行隆の娘。1570年、「伊勢長島城の戦い」で氏家直元が討死すると、織田信長に仕え馬廻衆となった。1573年、「刀禰坂の戦い」では、朝倉義景の追撃戦に加わり、斎藤龍興を討取る戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」後、前田利家に仕えた。

三宅信朝【みやけのぶとも(15??~15??)】

長井規秀家臣。通称式部。1556年、「長良川の戦い」では、長井規秀に従って参陣した。

村山芸重【むらやまのりしげ(15??~15??)】

土岐頼芸家臣。方懸郡村山城主。官途は越後守。土岐頼芸の継嗣土岐法師丸の傅役を務めた。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属して参陣した。

毛利広包【もうりひろかね(15??~1563)】

織田信秀家臣。羽島郡八神城主。通称掃部助。1537年、織田信秀に仕えた。1563年、「長良川の戦い」では、長井規秀勢に属して討死した。

毛利広盛【もうりひろもり(1533~1616)】

毛利広包の男。1563年、父毛利広包の討死により毛利家の家督を相続した。1584年、羽柴秀吉に属して2,660貫文を領した。1589年、伊藤秀盛とともに3,000石を知行した。1600年、「竹ヶ鼻城の戦い」では、織田秀信に従って杉浦重勝の竹ヶ鼻城の二の丸の守備したが福島正則勢の降伏勧告を受け開城した。その後、松平義直に仕えた。

毛利広之【もうりひろゆき(15??~15??)】

毛利広盛の男。

毛利広義【もううりひろよし(15??~1619)】

毛利広盛の次男。通称金右衛門。1615年、名古屋城主松平義直に仕えた。作事奉行として八神街道や八神渡船を開いた。この渡船は、八神渡船場として発達し、付近には、人力帳場や荷役を業とする商業が栄えた。安八郡で3,000石の領した。

毛利広重【もうりひろしげ(15??~15??)】

毛利広盛の三男。

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【や】

八居国清【やいくにきよ(15??~15??)】

本巣郡八居館主。官途は修理亮。西美濃十八将。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属して参陣した。

柳生宗左衛門【やぎゅうむねざえもん(15??~15??)】

遠藤慶隆家臣。

屋代次郎左衛門【やしろじろうざえもん(15??~15??)】

石川貞清家臣。室は石川貞清の叔母。別名石川左近。家老職を務めた。1600年、「関ヶ原の役」後、池田長吉に仕えた。

安田国利【やすだくにとし(15??~15??)】

石津郡安田館主。通称主税之介。

安田国継【やすだくにつぐ(1556~1597)】

安田国利の男。通称作兵衛。別名天野源右衛門。明智光秀四天王。斎藤利三に仕えた。1582年、「本能寺の変」では、明智光秀勢の先陣を務め、森成利を討取る戦功を挙げた。「山崎の戦い」で敗れると、羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷、森長可らに仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」で森長可が討死すると、森家を出奔し再び浪人した。1586年、「九州征伐」では、立花宗茂勢に属して戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、羽柴秀吉との取次役を務めた。寺沢広高に仕え8,000石を領した。著書に『立花朝鮮記』。

山蔵宗次【やまくらむねつぐ(15??~1615)】

金森長近家臣。通称縫殿助。1585年、「松倉城の戦い」では、金森長近に従って参陣して三木自綱の家臣畑安高との一騎打ちで討取る戦功を挙げた。戦功により300石を領した。1615年、金森可重が病没すると殉死した。

山岸光信【やまぎしみつのぶ(15??~15??)】

揖斐郡桂館主。通称勘解由左衛門。西美濃十八将。

山岸光連【やまぎしみつとも(15??~15??)】

明智光継の次男(山岸光信の養子)。1556年、「第二次明智城の戦い」で、明智光継が討死すると明智光秀と明智光春を保護した。「長良川の戦い」では、斎藤義龍勢に属して参陣した。

山田正康【やまだまさやす(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。官途は兵庫頭。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従って参陣した。

山田紀伊守【やまだきいのかみ(15??~1558)】

郡上郡山田城。1558年、「山田城の戦い」で三木自綱、広瀬山城守勢の攻撃を受け討死した。

山本六右衛門【やまもとろうえもん(15??~1582)】

稲葉良通家臣。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、美濃国内の混乱に乗じて安東守就、安藤郷氏らが旧領の復帰を図り、稲葉良通勢の北方城を攻撃した。山本六右衛門はこれを迎え撃ったが、安東守就勢と戦い討死した。

湯銭新六【ゆあさしんろく(15??~15??)】

佐藤忠能家臣。官途は讃岐守。別名湯浅新六。加治田衆の智将であり槍豪。1570年、「加治田城の戦い」では、長井道利勢の攻撃を受け、佐藤忠能の継嗣佐藤信氏が討死し苦戦を強いられた。湯銭新六は単騎で長井道利勢に駆け入り、突き崩す戦功を挙げた。1582年、「加治田、兼山城の戦い」では、佐藤堅忠、大島光政、井戸宇右衛門、西村治郎兵衛、田野七郎右衛門、小森半平ら精鋭を率いて森可成勢を攻撃して撃破する戦功を挙げた。

湯銭安右衛門【ゆあさあんざえもん(15??~15??)】

湯銭新六の男。

横幕信兼【よこまくのぶかね(15??~15??)】

氏家直元家臣。安八郡小野城主。通称帯刀。

吉田弥三郎【よしだよさぶろう(15??~15??)】

佐藤忠能家臣。加治田衆。佐藤忠能、斎藤利治、斎藤利堯、長沼三徳らに仕え猛将と恐れられた。

古田長宗【よしだながむね(15??~1587)】

本巣郡山口城主。通称吉左衛門。1587年、「播磨三木城の戦い」で羽柴秀吉勢に属して討死した。

吉村信実【よしむらのみざね(15??~15??)】

海西郡松の木城主。通称兵庫頭。織田信長に仕えた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると織田信雄に仕えた。織田信雄が改易処分に処されると、松平元康に従って関東に移った。

吉村安実【よしむらやすざね(15??~15??)】

吉村信実の男。通称又吉郎。

吉村次郎左衛門【よしむらじろうざえもん(15??~15??)】

吉村安実家臣。海西郡西島城主。1595年、織田信雄が改易処分に処されると領地を没収され、後に松平元康に仕えたが後に改易された。

吉村氏吉【よしむらうじよし(15??~15??)】

市橋長利家臣。1573年、美濃の一揆を撃退する戦功を挙げた。織田信長から領内で鉄砲を使って鶴、雁を追い立てるよう命じられた。

龍峯寺湖叔【りゅうほうじこしょう(15??~15??)】

本巣郡龍峯寺住職。安東定重の五男。安藤守就、安藤尚就父子は龍峯寺に葬られた。

若尾甚正【わかおじんしょう(15??~15??)】

土岐郡根本館主。1582年、「本能寺の変」後、森長可勢に降伏して所領を安堵された。

鷲巣光敦【わしずみつあつ(15??~15??)】

本巣郡鷲ノ巣館主。通称六郎。

鷲巣光龍【わしずみつたつ(15??~15??)】

斎藤義龍家臣。通称六郎。馬廻衆。1556年、「長良川の戦い」では、斎藤義龍に従い参陣した。

和田仁兵衛【わだじんべい(15??~1584)】

遠藤胤基家臣。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、遠藤慶隆に従って森長可勢に属した。森長可勢とともに三河国に侵攻するが、松平元康勢の追撃を受け敗走、森長可は討死、遠藤慶隆は落延びたが家臣の遠藤弥九郎、餌取伝次郎、日置主計、猪俣五平治、和田仁兵衛らが討死した。

和田五郎左衛門【わだごろうざえもん(15??~1540)】

東常慶家臣。郡上郡和田館主。遠藤胤重の男。和田五郎左衛門が和田城を中心に勢力を拡大し、宗家にも抵抗するようになった。1540年、東常慶は、木腰城主遠藤胤縁と遠藤盛数と謀り、和田五郎左衛門を篠脇城を呼び出しれ謀殺された。

和田高行【わだたかゆき(15??~15??)】

土岐頼芸家臣。本巣郡美江寺館主。官途は将監。長井規秀と土岐頼芸が争うと、土岐頼芸勢に従った。1542年、「美江寺城の戦い」で長井規秀勢の攻撃を受け落城した。

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【資料Ⅰ】

美濃国【18郡/586,000石】

多藝郡:
石津郡:牧田城。
不破郡:垂井城、不破街、多芸城、石津街、養老城、松尾城、駒野城、牧田城。
安八郡:曾根城、大垣城、西保城、墨俣城、宇波刀寺、長友城、呂久街、小泉城。
池田郡:
大野郡:
本巣郡:北方城、軽海城、山口城、船木城、生津城、岡本城、席田城、美江寺城。
席田郡:
方県郡:
厚見郡:長森城。
各務郡:稲葉山城、井口街、鵜沼城、加納城、黒野城、村国寺、長良街、福光街。
山県郡:大桑城、跡部城、岩利城、奥村城。
武儀郡:関街、小倉山城、梅原城、山県城、富野城、徳永城。
郡上郡:篠脇城、木越城、東城、鷲見城、山田城、松尾城、気良城、吉田城。
加茂郡:跡部城、米田城、関城、川辺城、八百津街、馬串城、坂祝寺、白川城。
可児郡:妻木城、大森城、久々利城、明智城、多治見街、小里城。
土岐郡:
恵那郡:岩村城、苗木城、大井城、釜屋城、松本城、中西城、漆原城、久須見城。

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【資料Ⅱ】

西美濃十八将【にしみのじゅうはっしょう】

相場国信、衣斐光兼、揖斐光親、岩手道高、軽海光顕、国枝正則、郡家光春、小柿長秀、小弾正国家、高橋治平、竹越守久、竹中重治、所信国 、林道政、船木義久、松山正定、八居国清、山岸光信。※西美濃地域における国人領主。

美濃三人衆【みのさんにんしゅう】

安藤守就、稲葉良通、氏家直元。

西美濃四人衆【にしみのよにんしゅう】

安藤守就、稲葉良通、氏家直元、不破光治。

斎藤家六奉行【さいとうけろくぶびょう】

安藤守就、氏家直元、竹越尚光、長井衛安、日根野弘就、日比野清美。

遠山三人衆【とうやまさんにんしゅう】

明知城主:遠山景行、岩村城主:遠山景任(遠山家惣領)、苗木城主:遠山友勝。

遠山七頭【とうやまななとう】

岩村遠山景任。明照遠山友忠、明智遠山景行、飯羽間遠山友信、原遠山景男、苗木遠山友勝、安木遠山三郎左衛門。

加治田衆【かじたしゅう】

佐藤忠康、佐藤昌信、長沼三徳、長沼藤治兵衛、西村治郎兵衛、湯浅新六、大島光政、佐藤堅忠、白江権左衛門、梅村良澤、井戸宇右衛門、大島光俊。

岐阜四天王【ぎふしてんのう】

飯沼長実、飯沼長資、他二人(織田秀信の家臣団)。

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【資料Ⅲ】

美濃国【みののくに】

三方を山に囲まれた東山道の国。東は木曾山脈の南部で信濃国との国境を作り、西は伊吹山地で近江国と境を接する。北は平家岳、能郷白山の山系が越前国との境界となり、鷲ヶ丘の陵線で飛騨国に通じる。南は濃尾平野とそこを南流する木曾川で、尾張国と境を隔ている。国内は北部は山岳地帯、南部は木曾三川が作る広い平野部に大きく二分されている。畿内から近江国を経て東国へ向かう古代の三本の幹線におかれた律令三関のひとつ、不破関を管理する関国で、律令制時代から重要な位置を占める国。平安中期以降は、清和源家の受領が多く、ここに土着した源家一統から美濃源家の系統が生まれた。南北朝以降は美濃源家の土岐家が長く守護を務めた。1552年、長井規秀が守護家を滅ぼして美濃国を支配した。これに反発する国人衆も多く、国内情勢は不安定であった。地理的には不破関を通れば近江国から琵琶湖を経て京への進出も容易であり、内陸国ではあるが、木曾三川の河口近くまでを領土としているため、伊勢湾方面への進出も容易で伊勢国、三河国への水上交通を要所となった。

木曾三川【きそさんせん】

濃尾平野を流れる木曾川、長良川、揖斐川の三つの川の総称。この三つの川は、下流部で合流、分流を繰り返し、たびたび水害を起こしていたため、何度となく改修が行われてきた。

濃尾平野【のうびへいや】

美濃国南西部から尾張国北西部にかけて広がる平野である。地質学的には木曾三川(木曾川、長良川、揖斐川)により形成された沖積平野であり、その土壌は肥沃である。西は伊吹山地と養老山地、東は尾張丘陵、北は両白山地に囲まれ、南は伊勢湾に面する。南西部は伊勢平野とつながっている。木曾三川下流では後背湿地が広がる。有史以来、水害がしばしば起こったため、集落全体を堤防で囲った輪中が鎌倉時代以降作られた。この地方にだけ見られる独特の構造物であったが、木曾川、長良川及び揖斐川の三川の大規模な治水事業により水害は激減したため輪中の必要性は薄くなり逆に道路交通に支障をきたすとして多くが削り取られたり取り壊されたりした。津島、名古屋、熱田等は小高い台地の上にあり水害に遭いにくいが水運に恵まれた場所が古来より栄えていた。

兼山湊【かねやまみなと】

斎藤正義が河川交通運材の要所として設備した。1568年、織田信長上洛に伴う御所修理用材を木曾から運びこの湊で船積みしたとの記録等、政治的、軍事的な要衝。また森長可による六斎市の許可などの商業振興による物資の集散地として栄えた。森長可が転封した後も、兼山商人たちの叡智により塩の専売権を守りながら、茶、酒、陶器類から海魚、海草等の物資がここで荷揚げ船積みされ、街筋には宿屋、飯屋、馬宿などの店や船問屋の蔵などが軒を連ねた。

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戦国人名辞典は1500~1630年の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献には歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康、氏家ト全は氏家直元に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、『武田信玄(全4巻)』by新田次郎、『武田信玄(全2巻)』by津本陽、『武田勝頼(全3巻)』by、『国盗り物語(全4巻)』by新潮文庫、『兵は詭道なり 斎藤道三』by学研M文庫、『ふたり道三(全3巻)』by徳間文庫、『斎藤道三(戦国史記)』by光文社文庫、『甲州武田家臣団』by新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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