2013年3月7日木曜日

戦国伊賀国人名辞典


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【あ】

青木信定【あおきのぶさだ(15??~15??)】

青蓮寺城主。通称民部尉。1581年、織田信長勢40,000余りが伊賀国の侵攻すると、青木信定は青蓮寺城に籠城した。上出城、雪岡城、愛宕山砦などがあり、伊賀の国人衆が緊密な連携作戦を取りながら織田信長勢に対抗したが次々と落城した。

阿波正高【あわまさたか(15??~15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。、伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、織田信長勢が別の方面から侵攻してきたため、彼の領地は直接戦場にはならなかった。

家喜吉近【いえよしよしちか(15??~15??)】

西ノ沢庄郷の豪族衆。官途は下総守。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、柘植口から滝川一益、滝川儀太夫、藤堂将監の隊が壬生野に侵入すると、付近の土豪衆は春日山城に籠城した。中林忠昭が指揮をとり、西之沢の家喜吉近が副将にして川東の清水岩城守、本城、川西の福西、谷村。外山の徳山や新堂の佐々木、金子らの猛者揃いであったため、滝川一益勢も攻め倦んだが、多勢に無勢で悉く討死した。

伊賀崎道順【いがさきどうじゅん(15??~15??)】

柘植郷楯岡館主。通称孫兵太兵衛。別名楯岡ノ道順。伊賀豪族十二人衆のひとり。伊賀四十九流の祖。六角義賢の要請で、謀反を起こした佐和山城主百々内蔵助を、伊賀衆、甲賀衆の忍び四十八人を率いて攻撃した。伊賀崎道順は、百々内蔵助の家紋の入った提灯を用意し、家臣になりすまして城中に忍び込んで放火して落城に追い込んだ。

井上新左衛門【いのうけしんざえもん(15??~15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

植田光次【うえだみつつぐ(15??~15??)】

阿波郷の豪族衆。官途は筑前守。伊賀豪族十二人衆のひとり。1582年「第二次天正伊賀の乱」では織田信雄方の柘植保重を討取って織田信雄勢を撃退した。織田信長勢の攻撃を受け、三河国に落ち延びた。1592年「本能寺の変」後は、羽柴秀吉に仕えた。

大井源兵衛【おおいげんべい(15??~15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

小沢智仙【おざわともひさ(15??~15??)】

伊賀豪族衆。1582年「第二次天正伊賀の乱」で、織田信長勢に徹底抗戦を主張し、比自山城に籠城した。筒井順慶、蒲生氏郷、堀秀政に攻撃され、夜襲を企てるが織田信長へ寝返っていた菊川清九郎に看破され、夜陰に紛れて落延びた。

音羽宗重【おとわむねしげ(15??~1581)】 

音羽郷の豪族衆。通称半六。伊賀十二人衆のひとり。1581年「第二次伊賀の乱」で討死した。

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【か】

柏原豪族衆【かしはらごうぞくしゅう】

滝野四郎五郎、滝野主水、滝野宮内、滝野八助、滝野小三郎、滝野寿屋、滝野源太、浅野左門、浅野尾太夫、横山彦九郎、福森四郎左衛門、福森四郎助、岡森市蔵、増森四郎、関増九左衛門、雲井新介、雲井五郎、山本喜左衛門、増井猪之助、増井太郎助、藤井九之助。

菊永右近太夫【きくながさこんだいふ(15??~15??)】

伊賀豪族衆。1581年、蒲生氏郷勢がこの地に攻め込んだ際、菊永右近太夫は雨請山に籠城して戦った。

城戸弥左衛門【きどやざえもん(15??~15??)】

伊賀豪族衆。伊賀豪族十二人衆のひとり。別名音羽ノ城戸。1579年、膳所の街道筋で織田信長狙撃した。1581年、織田信長が伊賀平定の視察の折に、伊賀一ノ宮敢国神社で休息中のところを、原田杢右衛門、服部甚右衛門と共に狙撃を試みるが失敗に終った。

久保源八郎【くぼげんぱちろう(15??~15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

小泉左京亮【こいずみさようのじょう(15??~15??)】

佐那具郷の豪族衆。

出後正高【こうしゅつまさたか(15??~15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。、伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

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【さ】

沢村重久【さわむらしげひさ(15??~15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

清水岩城守【しみずいわしろのかみ(15??~15??)】

壬生野城主。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、柘植口から滝川一益、滝川儀太夫、藤堂将監の隊が壬生野に侵入すると、付近の土豪衆(川東、川西、愛田)は春日山城に籠城した。中林忠昭が指揮をとり、西之沢の家喜吉近が副将にして川東の清水岩城守、本城、川西の福西、谷村。外山の徳山や新堂の佐々木、金子らの猛者揃いであったため、滝川一益勢も攻め倦んだが、多勢に無勢で悉く討死した。

下山甲斐守【しもやまかいのかみ(15??~1579)】

名張郡比奈知館主。奈垣郷に勢力を誇っていた下山家は、自領が神宮領だったため、北畠具教に仕えて勢力を拡大した。1576年、北畠具教が織田信雄に謀殺されると、下山甲斐守は織田信雄に属した。1578年、伊賀国守護職仁木義視が伊賀国を追われると、織田信雄に伊賀国出兵を促した。1579年、織田信雄勢8,000余りは、下山甲斐守の先導で伊賀国に侵攻したが、伊賀国豪族衆の反撃を受け敗走した、下山甲斐守は討死した。

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【た】

鷹山飛騨守【たかやまひだのかみ(15??~15??)】

伊賀豪族衆。1581年、蒲生氏郷勢がこの地に攻め込んだ際、山尾善兵衛と共に雨請山に籠城した。

高山保光【たかやまやすみつ(15??~15??)】

黒田の悪党のひとり。通称十郎。黒田の悪党共に活動した高山保光は、服部家長の子孫と称し惣領家を高山とした。1581年「第二次天正伊賀も乱」で高山家は滅亡した。

滝野貞清【たきのさだきよ(15??~1574)】

柏原城主。官途は上野介。1574年、滝野貞清は病没した。

滝野吉政【たきのよしまさ(15??~1602)】

滝野貞清の男。通称十郎。1574年、父滝野貞清の病没により家督を相続した。1581年「第二天正伊賀の乱」では、柏原城に近隣の豪族衆1600余りと共に総大将として籠城したが、織田信長勢の猛攻を受け降伏した。その後、織田信雄に仕えた。1582年、織田信長が討死すると、一揆勢に追われ伊勢国に落延びた。

竹島景雄【たけしまかげお(15??~15??)】

竹島城主。日置弾正の枝連衆。通称右衛門。1581年「天正伊賀乱」では、壬生野城の籠城して近郷の豪族衆と共に戦った。

田屋伊予守【たやいよのかみ(15??~1581)】

河合郷田矢城主。通称三郎左衛門。1581年、織田信長による「天正伊賀の乱」の際、玉滝口より攻め入った蒲生氏郷勢らに対し、田屋伊予守を中心に、河合郷の豪族衆が田矢城に籠城して戦った。田屋伊予守は、茶器の「山桜の真壺」「きんこうの茶壺」を差し出して降伏するが謀殺された。

千賀地則直【ちがちのりただ(15??~15??)】

千賀地城々主。服部保元の男。通称半蔵。室は保田長宗の娘。伊賀国の上忍 服部保長は、松平元康に仕えたので、服部家枝連衆は岡崎城に移り住んだが、嫡男に服部保元を伊賀の地に残して伊賀忍者を統率させていた。服部保長の家督を相続して千賀地則直を称した。

柘植保重【つげやすしげ(15??~1579)】

福地宗隆の男。木造具政家臣。通称三郎左衛門。1569年、織田信長の南伊勢国の侵攻の際、木造具政を調略して北畠具房から離反させた。滝川雄利らと共に織田信長に降ったが、柘植保重が北畠具房に人質に出していた妻子は磔とされた。織田信長勢が北畠家領に侵攻すると、共に大河内城主北畠具房を攻撃した。北畠具房は織田信長に降伏し、織田信雄を養子迎え和睦した。これ以降 柘植保重は茶筅丸付きの家老となった。1577年、織田信長の命をを受け、柘植保重は長野左京亮、藤方慶由の家臣加留左京らと共に、北畠具教の枝連衆を三瀬御所で謀殺した。1579年「第一次天正伊賀の乱」では、織田信雄に属して日置大膳亮らと共に伊賀国に侵攻するが、退却する殿軍の最中に植田光次に討たれた。

柘植宗能【つげむねよし(15??~15??)】

柘植宗家の男。

柘植清広【つげきよひろ(1540~1629)】

柘植宗家の次男。通称三之丞。1581年「第二次天正伊賀の乱」が勃発した時、兄柘植宗能の指示で松平元康の麾下に属することを申し出たが、松平元康が織田信長と同盟関係にあった事から、三河国に移住して来るなら召抱える旨の返事を受けた。1582年、松平元康の「伊賀越え」では、枝連衆を率いて、信楽から伊勢白子への道を嚮導した。「加太越え」に及んでは、柘植一族が鹿伏兎一族と仲が悪いので暇を賜り、面体が知られておらず道を良く知る米地九左衛門政次が代わりを務めた。1600年「関ヶ原の役」では、鉄砲足軽隊20人を率いて参陣した。凱旋の時には近江国永原に召され、甲賀郡300石を領した。1603年、伏見の番を勤めた。1614年「大坂冬の陣」では御供に加わっていなかったのだが、松平正綱より伝えられ鉄砲を用いて参戦した。

百々百右衛門【どどひゃくえもん(15??~1622)】

伊賀国豪族衆。1582年、松平元康の「伊賀越え」で警護に集まった伊賀者200余りのうちにひとり。服部正成に仕え、御切米16俵3人扶持を領した。1591年、松平元康の喰違での鷹狩に随行し永楽500文の領地を拝領した。1622年、近江国水口城の御殿番を勤めたがまもなく病没した。

富岡貞頼【とみおかさだより(15??~15??)】

島ヶ原郷豪族衆。通称忠兵衛。伊賀豪族十二人衆のひとり。1581年、織田信長勢の案内役となった。忠節を示すため、武道の師を討ち、同胞の館を焼き、その一族郎党、実弟新八郎を謀殺した。

富野重正【とみのしげまさ(15??~15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

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【な】

中林忠昭【なかばやしただあき(15??~15??)】

比土郷春日山城主。官途は丹後守。通称助左衛門。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、柘植口から滝川一益、滝川儀太夫、藤堂将監の隊が壬生野に侵入すると、付近の土豪衆(川東、川西、愛田)は春日山城に籠城した。中林忠昭が指揮をとり、西之沢の家喜吉近が副将にして川東の清水岩城守、本城、川西の福西、谷村、外山の徳山や新堂の佐々木、金子らの猛者揃いであったため、滝川一益勢も攻め倦んだが、多勢に無勢で悉く討死した。

名張豪族衆【なばりごうぞくしゅう】

新三郎兵衛、秋弘久八、沢野五郎七、勝山外右衛門、増井次郎八、大久保勘兵衛、猪尻四郎五郎、徳地丹後守、勝矢七郎大夫、山村惣五郎。

仁木義視【にきよしみ(15??~15??)】

阿拝郡仁木館主。室町幕府伊賀国守護職。別名仁木友梅。1571年、織田信長の支援を受け伊賀国に入国した。しかし、国内に割拠する土豪衆をまとめることができなかった。1578年、伊賀国人衆に追放され甲賀郡に落延びた。

沼田彦七【ぬまたひこしち(15??~15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

延木佐馬允【のぶきさまのかみ(15??~1581)】

黒田城主。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、筒井順慶の軍勢に攻められ落城し、延木佐馬允は討死した。

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【は】

服部保長【はっとりやすなが(15??~15??)】

阿拝郡服部城主。通称半蔵。別名千賀地半蔵。上忍三家のうち最大の勢力を誇った。伊賀国には、千賀地(服部)家、百地家、藤林家の三家があったがいずれも、伊賀国内をまとめることが出来る勢力が育たず、小豪族が乱立して、室町時代後期を迎えた。初め足利義晴に仕え北面武士に就任した。室町幕府に見切りをつけて、服部家を称して三河国に下った。後に松平清康、松平広忠、松平元康三代に仕えた。松平家も松平清康の代には大きく伸長したが「森山崩れ」を境に一気に衰退した。服部保長も松平家と共に今川義元の麾下に属した。

服部正成【はっとりまさなり(1542~1596)】

服部保長の男。官途は石見守。通称半蔵。1582年「本能寺の変」では、松平元康の「伊賀越え」を枝連衆を挙げて助けた戦功により松平元康の忍び頭となった。麾下に多数の忍び衆を抱えて諜報活動で活躍した。服部正成は忍者というより槍術に優れた侍大将として数々の戦功を挙げた。

比奈知豪族衆【ひなちごうぞくしゅう】

山本外兵衛、山本太郎、山本五郎、山本三之。

平松源八【ひらまつげんぱち(15??~15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

平野善八郎【ひらのぜんはちろう(15??~15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

福山出雲守【ふくやまいずものかみ(15??~1581)】

霧生城主。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、福山出雲守は、枝連衆の福山越後守、加番従騎の刈谷左衛門亮、刈谷伝五郎などと共に霧生城に籠城した。織田信長勢の攻撃を受け落城した。

福地宗隆【ふくちむねたか(15??~1582)】 

上柘植館主。官途は伊予守。別名福地定成。北伊賀柘植三方衆のひとり。伊賀四大将のひとり。柘植で1,000石を領した。1581年、福地宗隆は織田信長に内通して、河合村の耳須弥次郎と共に伊賀攻の先導役を務めた。1582年、織田信長が討死すると、伊賀豪族衆の攻撃を受けて加太へ落延びた。後に松平元康に仕えた。江戸時代の歌人松尾芭蕉は枝連衆。

福喜多将監【ふくきたしょうかん(15??~15??)】

朝屋郷の豪族衆。1581年「第二次伊賀天正の乱」では、比自山城の総大将として福喜多将監が籠城の指揮を執った。その際、百田藤兵衛と豪族衆2780余りと籠城したが、蒲生氏郷と筒井順慶勢の攻撃を受け落城した。

藤林保豊【ふじばやしやすとよ(15??~15??)】

東湯船郷藤林館主。官途は長門守。別名藤林正保。伊賀上忍三家のひとつ。伊賀国北部で甲賀に境を接する湯舟郷を領した。甲賀郡側にも多くの麾下の豪族衆がおり、伊賀国内、甲賀郡双方に影響力を持っていた。服部保長、百地泰光と並び伊賀国の三大上忍と称された。1581年「第二次天正伊賀の乱」では甲賀郡多羅尾氏と共に、織田信長に内通して、藤林家を家名を後世に残した。

藤山摂津守【ふじやませっつのかみ(15??~15??)】

藤山城主。1582年「第二次天正伊賀の乱」では、雨請山城に籠城した。

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【ま】

町井貞国【まちださだくに(15??~15??)】

木興城主。伊賀豪族十二人衆のひとり。室町幕府より伊賀木興荘の地頭職に任ぜられ木興城を本拠とした。

町井貞信【まちいさだのぶ(1514~1581)】

町井貞国の男。通称左馬允。1571年、織田信長の支援を受けた仁木義視を守護として迎えた。1579年「第一次天正伊賀の乱」では軍師を務め、織田信雄を敗走させた。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、木興城で籠城した。織田信長勢を迎え撃つが、衆寡敵せず、一族郎党三十七名と共に討死した。

町井貞直【まちいさだなお(15??~15??)】

町井貞信の男。

耳須具明【みみすともあき(15??~1581)】

伊賀地頭家。通称弥次郎。河合郷地頭。1581年「第二次天正伊賀の乱」で、織田の家に内通したことにより、他の伊賀衆の復讐の標的となる。反撃にあい討死。

三輪善之助【みのわぜんのすけ(15??~15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

百地泰光【ももちたんば(1512~1581)】

百地清右衛門の男。官途は丹波守。別名百地三太夫。名張郡を勢力下に置く豪族衆で、伊賀忍者衆を束ねる上忍三人衆のひとり。織田信長は、織田信雄に命じて伊賀攻めを行わせた。1579年「第一次天正伊賀の乱」では、単独で侵攻した織田信雄勢を撃退した。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、織田信長が指揮を執り兵50,000余りで侵攻した。百地泰光は、柏原城に籠城して抵抗したが、衆寡敵せず織田信長勢の攻撃を受け討死した。

百田藤兵衛【ももたとうべえ(15??~15??)】

長田郷の豪族。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。、伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、織田信長の侵攻軍に対して徹底抗戦を主張した。長田比自山城に籠る。戦況が悪く、個々に戦うを不利と見て、他の砦から一揆勢を比自山城に集めて交戦した。その際、一揆勢が織田方へ寝返った耳須弥次郎を見つけて討ち取っている。城の長田丸を守備し、筒井順慶軍を忍者隊で翻弄するが、織田軍本体との合流を恐れて柏原城に撤退した。

森田浄雲【もりたじょううん(1510~1582)】

猪田郷一宮城主。伊賀豪族十二人衆のひとり。1581年、織田信長に降伏した。1582年、一之宮城に籠城して、織田信長の伊賀征伐兵に対抗するが討死した。

森脇甚助【もりわきじんすけ(15??~15??)】

伊賀国豪族衆。1578年、織田信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を画策し、豪族衆の下山甲斐守が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄の家臣滝川雄利が丸山城を築城すると、付近の豪族衆(百田藤兵衛、町井貞信、阿波正高、富野重正、平松源八、平野善八郎、沼田彦七、森脇甚助、三輪善之助、出後正高、井上新左衛門、沢村重久、大井源兵衛、久保源八郎)が築城途中の丸山城を攻撃、不意を突かれた滝川雄利勢は伊勢国に敗走した。1579年「第一次天正伊賀の乱」で、織田信雄は兵8,000余りを率いて伊賀国に侵攻した。伊賀国豪族衆は各地で抗戦し織田信雄勢を敗走させた。

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【や】

保田則宗【やすだのりむね(1569~1614)】   

千賀地則直の男。通称甚兵衛。室は桜井和泉守の娘。 1595年、紀伊国有田郡保田繁宗の家督を相続した。1606年、松平元康に仕えた。1610年、能の観世太夫黒雪が松平元康に追放され、高野山へ逃れてきた際には、黒雪の世話をした。

保田元則【やすだもとのり(1582~1660)】    

千賀地則直の三男(保田栄西の養子)。官途は采女。通称左助。別名藤堂采女。室は佐伯惟定の娘。兄保田則宗と共に伯父保田繁宗に養育された。羽柴秀長、羽柴秀俊に仕えた。その後は増田長盛に仕えた。1600年「関ヶ原の役」の敗北により浪人した。後に、藤堂高虎に仕え、新参でありながらも藤堂姓を与えられ枝連衆並の扱いで遇された。藤堂高虎が伊賀国主となってからは、伊賀国上野城代家老となった。藤堂高虎は、伊賀忍者の棟梁筋に生まれである保田元則に、新領地である伊賀国の郷士たちの懐柔に当らせた。忍者を含む伊賀の郷士たちは、藩士や無足人として藤堂家に召抱えられた。

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【資料Ⅰ】

伊賀国(4郡/240,000石)

阿拝郡:伊賀上野城。
山田郡:平田城。
伊賀郡:掛田城。
名張郡:名張城。

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【資料Ⅱ】

伊賀十二家評定衆【いがじゅうにけひょうてんしゅう】

長田館主:百田籐兵衛、朝屋館主:福喜多将監、木興館主:町井左馬充貞信、河合館主:田屋掃部介、音羽館主:音羽半六、島ヶ原館主:富岡忠兵衛、依那具館主:小泉左京、比土館主:中林助左衛門、布生館主:布生大善、柏原館主:滝野十郎吉政、下阿波館主:植田豊前光信、西之沢館主: 家喜下総介。

比自山の七本槍【ひじやまのななほんやり】

百田藤兵衛、横山甚介師尚、町井清兵衛、新八右衛門、森四郎左衛門、福喜多将監、村田勘四郎。

北伊賀柘植三方衆【きたいがつげさんぽうしゅう】

柘植三方、日置大膳、北村。

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【資料Ⅲ】

伊賀国【いがのくに】

戦国期の伊賀では、北東部東湯舟郷に藤林長門守率いる藤林家が、南部大和との国境城山と東部友生村喰代郷に百地丹波守率いる百地家が、そして中央部予野に千賀地服部宗家がそれぞれ城塞や砦を構えていた。伊賀は鎌倉末期まで、その国土の九割近くを荘園として管理していた大和東大寺の支配下にあった。中央から任命された守護や地頭は残りわずか一割ほどの土地の支配権しか持たず、ために伊賀の地侍たちは中央の支配を受けなかったという特異な背景があった。そして東大寺の勢力衰退に乗じて各地侍はその荘園を思い思いに侵略、ために数十もの独立勢力として割拠するという異常事態になった。この状況下では、家を保つためにはそれぞれが情報網を持たなければならず、情報収集術に優れた忍者達の活躍の場が自然と出来上がっていったのである。中心となったのは千賀地服部家で、国の要地に前述の藤林、百地家を据えて近郷の地侍達を支配させていった。国主は持たずに一族で一党を形成すること、掟を定めた上で重要事案については党同士が回文を回し、必要に応じて連判状や起請文を認めることなどを決め、これを伊賀地侍の中から選出した十二人の代表によって運営した。

伊賀焼【いがやき】

始まった頃は水瓶や種壺、擂り鉢などの日用雑器が焼かれていたが、陶土産地が山一つ隔てた信楽と同じだったため、信楽焼とほとんど区別がつかなかった。だが桃山時代の天正年間後期に入ると、伊賀領主となった筒井定次が、阿山の槙山窯にて茶の湯に用いるための茶壺、茶入、花入、水指などを焼き始めた(筒井伊賀)。これらにはビードロ釉(ゆう)と呼ばれる緑色の自然釉が見られる。焼き締まった赤褐色の土肌に吹き出た無数の長石粒と折り重なり、質朴でありながら風流な焼き物となったのである。その後は小堀遠州によって「遠州伊賀」と呼ばれる伊賀焼が焼かれた。これは前者の「筒井伊賀」とは対照的に瀟洒な茶器である。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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