2013年4月4日木曜日

戦国忍衆人名辞典


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【あ】

青蛙の藤左【あおがえるのとうざ(15??~15??)】

武田家の忍衆。フランシスコ会宣教師ルイス・ソテーロの下で、情報収集や工作など手足となって働く。麻袋に入れた青蛙を常に持ち、それを常食とする事からこの名がついた。羽柴秀吉を謀殺しようとして捕まり、四肢の指を全て切り落された上追放され、しぶとく生残るも雇ってくれる者もなく、自殺しようとした所をソテーロに諭されキリシタンとなった。「影武者徳川家康」by隆慶一郎。

青地新左衛門【あおち しんざえもん(15??~15??)】
 
御所忍び頭領。木曾忍びの流れをくむ御所忍びは、帝の身辺警護を担った。「影武者徳川家康」by隆慶一郎。

青山虎之助【あおやまとらのすけ(15??~15??)】

甲賀流の忍者。松平元康に仕えた。1564年「三河一向一揆鎮圧」の際、松平元康の命により、一揆勢の籠城する碧海郡上宮寺に、同行した深津九八郎とともに忍び込んだ。放火して味方をひきいれる策だったが露見して斬首になった。

朝比奈正成【あさひなまさしげ(15??~15??)】

板倉勝重の忍衆。通称は兵右衛門。京都所司代の板倉勝重は、朝比奈正成を間者として羽柴家方の大坂城に潜入させた。朝比奈正成は、大坂城で伊東長実に属して、軍議の様子をひそかに板倉勝重に報告した。1615年「大坂夏の陣」では、樋口淡路守に属して逐一板倉勝重に報告した。

渥美源吾【あつみげんご(15??~15??)】

松平元康の忍衆。「徳川(松平)殿は良い人持ちよ 服部半蔵は鬼半蔵 渡辺半蔵は槍半蔵 渥美源吾は頸切り源吾」と称された。1600年「関ヶ原の役」では、先手の斥候に出た際に「今日の戦いには勝利する」と報告した。これに対し「第一、先方が見えないほどの深い霧なのに、何を根拠に必勝と申されるや」と反論されると、渥美源吾は「今日、もし敗軍となれば、一人も生きて帰ることはできません。目ききを咎める人もおりません」と答えた。

穴山安治【あなやまやすはる(1568~1615)】

真田信繁に仕えた架空の忍衆。真田十勇士のひとり。穴山信光の男。通称穴山小助。別名雲洞軒。1582年、武田家滅亡後、父穴山信光は、穴山安治と共に戦場を渡り歩いた。後に、真田信繁に仕えた。1600年「関ヶ原の役」後、真田信繁が紀州九度山に蟄居した時も共をした。後に九度山の真田家屋敷を出て姫路に行き、漢方医をしながら諸国の情勢を探った。1614年「大坂冬の陣」では、真田信繁の影武者として真田丸から出陣して六文銭の大旗を風にひるがえし、松平元康勢を撃ち破った。1615年「大坂夏の陣」では「我こそは真田左衛門佐信繁なるぞ」と、大音声を発し、松平元康勢の馬廻衆を討取った末に、松平元康の本陣に切り込み壮絶な討死を遂げた。

姉山甚八【あねやまじんぱち(1553~1600)】

真田昌幸の草の者。於江や奥村弥五兵衛とともに、甲賀の山中忍びの里に潜入。山中忍びの牛原の茂兵衛と戦うことになり、甲賀の飛苦無を肩に受け、大怪我を負う。甲賀からの撤退では、弥五兵衛と連携し、なんとか山中忍びを振り切った。1600年「関ヶ原の役」では、奥村弥五兵衛率いる、松平元康奇襲部隊十四名のひとり。七ヶ所の傷を負い、伊吹の忍び小屋で、息をひきとった。※「真田太平記」by池波正太郎。

安部重定【あべしげさだ(15??~15??)】

伊達政宗家臣。官途は対馬守。黒脛巾組の頭領。組頭の世瀬蔵人、柳原戸兵衛らを率いて伊達政宗の諜報活動を指揮した。

伊賀崎道順【いがさきどうじゅん(15??~15??)】

柘植郷楯岡館主。通称孫兵太兵衛。別名楯岡ノ道順。伊賀豪族十二人衆のひとり。伊賀四十九流の祖。六角義賢の要請で、謀反を起こした佐和山城主百々内蔵助を、伊賀衆、甲賀衆の忍び四十八人を率いて攻撃した。伊賀崎道順は、百々内蔵助の家紋の入った提灯を用意し、家臣になりすまして城中に忍び込んで放火して落城に追い込んだ。

石川五右衛門【いしかわごえもん(15??~1594)】

山城国の盗賊衆。伊賀流忍者で百地丹波守の麾下に属したが抜け忍となって盗賊頭になった。羽柴秀吉の治世になって、石川五右衛門は京の町中に徒党を組んで押入り強盗を繰り返していた。1594年、捕縛され三条河原にて一族郎党とも釜茹(釜煎り)での刑に処された。辞世の句は「石川や浜の真砂は尽きるとも」。

石川頼明【いしかわよりあき(15??~1600)】 

氷上城主波多野宗長に仕えた忍衆。石川頼明は、徹底的に十指を鍛え抜き、得意の壁登りで織田信長の謀殺を企てが失敗した。1577年、波多野宗長が自刃すると、その能力を買われて羽柴秀吉に仕えた。羽柴秀吉の麾下で、石川頼明は多くの諜報活動を行い、その戦功により12,000石を領した。1600年、石川頼明は石田三成に属して、松平元康と戦った。松平元康方の大津城主京極高次を攻撃、大津城を開城させる戦功を挙げえるが「関ヶ原の戦い」で、本隊が壊滅、石川頼明は自刃した。

出浦盛清【いでうらもりきよ(1546~1623)】

信濃国埴科郡坂城城主。官途は対馬守。横谷幸重と共に真田昌幸、真田信之に仕えた忍者集団の頭領の双璧として並び称された。最初武田晴信、次いで森長可を経て真田昌幸に仕えたとされる。吾妻奉行を拝命し、麾下の吾妻忍びたちを統率して活躍した。

魚住源吾【うおずみげんご(15??~15??)】

播磨国の忍衆。1578年、三木城主別所長治は織田信長から離反して、三木城に籠城した。羽柴秀吉は、三木城周辺に付け城を築いて三木城への兵糧供給を絶った。羽柴秀吉の頸を狙って何度も書写山の本陣を襲い、羽柴秀吉をして「城を落とすより魚住を殺せ!」と言わしめた毛利家方の忍衆。1580年、三木城の兵糧は底をつき、馬も食べ尽くされ、別所長治は降伏の条件として城兵の命を保証させ、枝連衆と共に自刃して果てた。

鵜飼孫六【うかいまごろく(15??~15??)】

松平元康の忍衆。1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が討死すると、松平元康は岡崎城を奪回し、三河国制圧に動いた。今川家に反感を持つ仁連木城主戸田重貞を通じて甲賀に援軍を要請した。鵜飼孫六は要請を受け、鵜殿長持の守る三河上ノ郷城に潜入。200人の甲賀忍者隊を指揮して城内を撹乱し、鵜殿長持は遁走し落城した。

海野利一【うんのとしかず(1571~1615)】

真田信繁に仕えた架空の忍衆。真田十勇士のひとり。海野輝幸の三男。通称六郎。別名海野六郎兵衛。信濃の名族滋野一族の宗家である海野家の出身。海野利一は、十勇士中、一番の古参であり参謀格として真田信繁に仕えた。根津貞盛とともに奥州をめぐって情勢を探った。1615年「大坂夏の陣」では、松平元康勢に流言飛語を流し大混乱に陥れた。大阪城の落城後は薩摩国に落延びた。

奥村弥五兵衛【おくむらやぼべえ(1552~1610)】

真田昌幸の草の者。於江、姉山甚八とともに、甲賀の山中忍びのもとに潜入したが、山中忍びと戦いつつ落延びることに成功した。向井佐平次が上田に戻っている間、真田信繁に仕えた。佐和山の城下はずれの長曽根村に、峰蔵の従兄の百姓として入り込み、新たに設けた忍び宿を守る。1600年「関ヶ原の役」では、姉山甚八ら十四名を率いて、福島正則隊を装い、重傷を負いながらも松平元康を討つことに成功するが、それは松平元康の影武者であった。壺谷又五郎没後の草の者たちを、於江とともにまとめあげた。1610年、上洛する松平元康を謀殺計画をたてたが、山中忍びの追跡を受け討死した。※「真田太平記」by池波正太郎。

於咲【おさき(15??~15??)】

風魔女忍び。おふうに替わって大御所(世良二郎三郎)の警護をした。「影武者徳川家康」by隆慶一郎。

於仙【おせん(15??~15??)】

おふう麾下の女忍び。「影武者徳川家康」by隆慶一郎。

小野銀八郎【おのぎんぱちろう(15??~1585)】

蜂須賀正勝に仕えた忍衆。別名野火ノ銀八。火薬を用いた「火遁の術」に優れ「野火の銀八」と称された忍衆。「中国討伐」では、三木城、鳥取城の兵糧攻め、高松城の水攻めで戦功を挙げた。1585年、羽柴秀吉の「四国討伐」で、羽柴秀長勢が一宮城を攻撃したが、城内に貯水池をもつ一宮城は容易に落ちなかった。蜂須賀正勝麾下の忍衆小野銀八郎は貯水池を破壊するべく、火遁の術を仕掛け落城に追い込んだが小野銀八郎は討死した。

おふう【おふう(15??~15??)】

松平元康の側妾於梶の方付の女忍。風魔小太郎の娘。甲斐の六郎の室。世良二郎三郎の命で風魔小太郎の下へ向かう甲斐六郎を案内し、その道中で契りを結び夫婦になった。二人の役目は陰ながら世良二郎三郎を守ること。おふうは六郎の背後を守って二人の息はまさにぴたりと合っていたが、妊娠で現場を離脱。七郎出産後、自ら養育するため甲斐六郎と別れ、里に残った。「影武者徳川家康」by隆慶一郎。

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【か】

甲斐の飛助【かいのとびすけ(15??~15??)】

武田家の忍衆。甲斐の六郎の大伯父。於梶の方麾下の忍衆で、大御所(世良二郎三郎)の警備を担当した。影武者徳川家康」by隆慶一郎。

甲斐の六郎【かいのろくろう(15??~15??)】

島勝猛に仕えた忍衆。元は武田家の忍衆。1600年、島勝猛の命をうけ「関ヶ原の役」での戦いで、松平元康の本陣に侵入して、松平元康を謀殺した。その後は、世良二郎三郎に仕えて忍びの指揮を任された。本物と影武者の違いを爪を噛む癖から見極め、風魔小太郎の正体を見破るなど明晰な頭脳も兼ね備えていた。左腕を失ってからは、金縛りの術も使うようになった。「影武者徳川家康」by隆慶一郎。

角都【かくず(15??~15??)】

毛利元就家臣。座頭衆の角都なる法師が尼子晴久に取り入って側から離れず、家臣を讒言したり、尼子晴久に酒や遊興を勧めたりした。1547年、角都が尼子国久(新宮党)の謀反の噂を尼子晴久に吹き込んだ。尼子国久は角都の排除を図るが角都は安芸国に落延びた。1554年、尼子晴久は尼子国久を謀反の疑いで謀殺した。

角田新右衛門【かくたしんうえもん(15??~15??)】

上野国吾妻郡の忍衆。岩櫃城主斎藤憲広に仕えた。真田幸隆による岩櫃城の攻略の際に、調略を行い斎藤憲広家臣の多くを寝返らした。斎藤憲広は、忍衆の角田新右衛門に家臣団の調査を命じた。角田新右衛門は、家臣団の多くが調略されていることを知ると自身も真田幸隆に寝返り、岩櫃城は落城し城主であった斎藤憲広は落ち延びた。

筧十蔵【かけいじゅうぞう(1573~1615)】

真田信繁に仕えた架空の忍衆。真田十勇士のひとり。筧虎秀の男。通称十兵衛。火縄銃の名手。父筧虎秀は真田昌幸の足軽だったが、丸太を使って敵軍の囲みを破った戦功により足軽大将になった。筧十蔵は種子島銃を使い、十勇士の中でも異色の存在で力も強く分別もあった。1615年「夏の陣」後、薩摩国に落延びた。

柏木吉兵衛【かしわぎきちべえ(15??~15??)】

山中俊房に仕えた山中忍衆。加賀の百姓「宅五郎」と称して、後北条家の小田原城に現れ、住吉慶春を訪ねた。後北条家の紋をうった文箱と北条氏直の偽の書状をを住吉慶春に託した。

果心居士【かしんこじ(15??~15??)】

山城国の幻術師。七宝行者とも称された。織田信長、明智光秀、松永久秀、羽柴秀吉らの前で幻術を披露した。大和の興福寺に僧籍を置きながら、外法による幻術に長じたために興福寺を破門された。織田信長に仕えるため、幻術を披露して織田信長から賞賛されたが、仕官は許されなかった。
1584年、果心居士の幻術に危険を感じた羽柴秀吉に謀殺された。

霞の佐平次【かすみのさへいじ】

小山田信有の忍び衆。富士山麓の上吉田に館を構え、富士導者として富士講中に集まってくる巡礼者を案内する仕事を生業としながら、富士導者を素っ破に仕立て、檀那を名目に諸国の情報を集めた。※「信玄狙撃」by新宮正春。

加藤段蔵【かとうだんぞう(1503~1569)】

長尾景虎の忍衆。別名「飛び加藤」。忍衆としての技術に優れた。長尾景虎から、敵対している武将から名剣を奪ってくるように命じられると、加藤段蔵は、武将の警戒の中名剣を奪い、さらには武将に仕えていた童女までを生け捕りにして長尾景虎に献上した。加藤段蔵の能力を恐れた、長尾景虎から謀殺されそうになるが、甲斐国に落延び武田晴信に仕えた。1569年、武田晴信から織田信長と内通したとう疑を受け土屋昌次に謀殺された。

金森小太郎【かなもりこたろう (15??~15??)】

伊賀国新堂郷の下忍。通称新堂ノ小太郎。その忍びの技術は各国の忍者たちの間でも高く評価され、怖れられた。

唐沢玄蕃【からさわべんば(15??~15??)】

信濃国伊那郡の忍衆。武田晴信に仕えた。父唐沢杢之助は斎藤家に仕えていたが武田晴信に寝返った。1561年、上野国嶽山城の攻防で杢之助は討死した。唐沢家の跡を継いだ玄蕃は、その身軽さを「飛び六法」と称され、1574年、上野国尻高城に割田新兵衛とともに侵入しこれを焼討ちした。1575年「長篠の戦い」にも参陣した。武田勝頼の討死後は真田昌幸に仕え「関ヶ原の役」後、真田信之に従った。

神戸ノ小南【かんべのこなん(15??~15??)】

伊賀国神戸郷の下忍。その忍びの技術は各国の忍者たちの間でも高く評価され怖れられた。

城戸弥左衛門【きどやざえもん(15??~15??)】

伊賀豪族衆。伊賀流忍衆の中忍。伊賀豪族十二人衆のひとり。別名音羽ノ城戸。火縄銃の名手で、他の忍者達の間でも恐れられた。1579年、膳所の街道筋で織田信長狙撃した。1581年、織田信長が伊賀平定の視察の折に、伊賀一ノ宮敢国神社で休息中に原田杢右衛門、服部甚右衛門と共に狙撃を試みるが失敗に終った。

霧隠宗連【きりがくれむねつら(15??~15??)】

真田信繁に仕えた架空の忍衆。真田十勇士のひとり。別名霧隠才蔵。霧隠才蔵は、江北の大名浅井家の侍大将霧隠弾正左衛門の遺児で、浅井家が滅亡すると郎党に守られ伊賀の名張にかくれ、伊賀流忍術の大家百地三太夫に師事し、忍術の極意を授けられた。姫路近くの山中で山賊となっていたところで猿飛佐助と遭遇。甲賀流の猿飛佐助と忍術比べのあげく真田信繁に仕えた。1615年「大坂夏の陣」には、電光の如き大活躍をして、松平元康勢の大軍を悩ませ、松平元康の本陣に忍び込み頸を掻こうとするが失敗した。

金悟洞【きんごとう(15??~15??)】

対馬国の宗家に雇われた倭冦崩れの明の忍衆。忍として、前田利益の命を狙うが失敗。逆に命を狙った相手に朝鮮の案内を依頼され、呆気に取られながらも前田利益の魅力に惹かれ案内人の役を引き受けた。以後、捨丸と共に前田利益に仕えた。「一夢庵風流記」by隆慶一郎。

熊若【くまわか(15??~15??)】

飯富虎昌に仕えた忍衆。熊若は俊足の忍衆。武田晴信は「三ッ者」と称される忍衆を多く召抱え、優秀な忍者六十人を三組に分け甘利虎泰、板垣信方、そして飯富虎昌に預けていた。熊若もそのひとり。1561年「第四次川中島の戦い」で、飯富虎昌が隊旗を甲斐府中の屋敷に忘れた時に、川中島から府中まで往復六十四里を一晩で往復して、飯富虎昌まで戻った。

鞍掛八郎【くらかけはちろう(15??~1600)】

真田昌幸の草の者。1600年「関ヶ原の戦い」では、壺谷又五郎に属して、島津義弘勢に突撃の混乱に乗じて松平元康本陣の襲撃をしたが、壺谷又五郎を援護し討死した。※「真田太平記」by池波正太郎。

高坂甚内【こうさかじんない(15??~1613)】

武田晴信の忍衆。甲州流透破の頭領。江戸の吉原を仕切った庄司甚内(甚右衛門)、古着市を仕切った鳶沢甚内と共に三甚内と称された。1600年「関ヶ原の役」後、松平元康は、旧勢力(後北条家、山内上杉家)が残存する関東の治安を安定されるため高坂甚内を召抱えた。高坂甚内は、後北条家の滅亡後は武蔵国を中心に盗賊勢力を持っていた風魔小太郎と勢力を争った。1603年、高坂甚内の陰謀により風魔小太郎は捕縛処刑された。高坂甚内は関東の盗賊勢力を糾合し、大勢力を持つようになった。松平元康は、高坂甚内の捕縛を命じたが10年間の捕縛されることはなかった。1613年、捕縛され市中引き回しの上浅草鳥越の刑場で磔にされた。

五瀬の太郎次【ごぜのたろうじ(15??~15??)】

真田昌幸の草の者。もとは、甲賀の山中忍衆。父馬杉市蔵などの麾下として働き、忍び宿の守備や連絡役をつとめるのが主な任務。旅僧、商人、絵師など、変装が巧みで、10種類以上の声を使いわけた。尾行を得意とし、体つきから雰囲気からまったく違う人物になりおおせてしまう。戦忍びには出ないし、その力もない。馬杉市蔵に心酔しており、馬杉市蔵が甲賀の引き上げ命令に背いて武田家に残る決意をしたときに共に武田家に残った。※「真田太平記」by池波正太郎。

権左【ごんざ(15??~15??)】

真田昌幸の草の者。壺谷又五郎の命で、京の都から二里ほど離れた下久我の百姓として住みつき、下久我の忍び宿を守った。上方の情報を壺谷又五郎に送る役目を果たした。※「真田太平記」by池波正太郎。

小助【こすけ(1549~15??)】

真田昌幸の草の者。地蔵峠の忍び小屋を守った。草の者の中では、足は遅い。※「真田太平記」by池波正太郎。

小竹万蔵【こたけまんぞう(15??~1600)】

真田昌幸の草の者。1600年「会津討伐」で松平秀忠の軍について進軍している真田昌幸のもとへ、壷谷又五郎によって遣わされ、真田昌幸へ口頭で「大谷吉継の西軍参陣」を告げた。真田昌幸のもとに留り、西軍に与することを決し、犬伏の陣を払って、沼田、上田へ引き返す真田昌幸に付き従った。「関ヶ原の役」で、奥村弥五兵衛率いる、松平元康奇襲部隊14名のひとりとして参陣するが討死した。※「真田太平記」by池波正太郎。

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【さ】

雑賀五郎兵衛【さいかごろべえ(15??~15??)】

氷上城主波多野宗長に仕えた忍衆。丹波忍衆を麾下に置いていた波多野宗長は、織田信長に属したが、毛利輝元に加担して織田信長と争った。龍野善太郎実道は表具師や笛師に化けて織田信長の情報を集めたが、雑賀五郎兵衛は奈良の墨売りに変装して安土城下に侵入した。雑賀五郎兵衛は、織田家臣と交わり家臣団か情報を集めた。それらの情報をつなぎの忍衆を介して波多野宗長に知らせ戦功により、雑賀五郎兵衛は恩賞として、名刀の脇差)や黄金五枚を与えられた。
 
酒巻才蔵【さかまきさいぞう(15??~15??)】

山中俊房に仕えた山中忍衆。別名住吉慶春。馬杉市蔵らの麾下と共に、武田晴信に仕えた。山中俊房の引き上げ命令に伴い甲賀に戻った。馬杉市蔵に、命を何度か助けられた。住吉慶春として北条氏直に御伽衆として仕えた。名胡桃城を巡る、後北条家へしかけた羽柴秀吉の謀略で、偽の手紙を運ぶ役割を果たした。「大坂夏の陣」の後、於江と再会し絵師住吉慶春として、上田城下に住み、真田家のために働いた。※「真田太平記」by池波正太郎。

篠山景直【ささやまかげなお(15??~15??)】

甲賀郡大原館主。通称勘兵衛。別名大原景直。甲賀五十三家のうち大原家庶流。代々足利公方に属し「鈎の陣」で戦功を挙げた。

篠山景元【ささやまかげもと(15??~15??)】

大原景直の男。通称蔵人。別名大原蔵人頭。鳥居野に小さい城を構え、領地も近隣にあった。その後、織田信長に仕えた。

篠山景春【ささやまかげはる(15??~1600)】

篠山景元の男。通称理兵衛。織田信長に仕えていたが、のち羽柴秀吉に属し「小牧長久手の戦い」、織田信雄と内通したと嫌疑を掛けられ、父篠山景元と共に浪人した。松平元康に仕えて500石を領した。1600年、松平元康が長尾景勝討伐に向かう時、五奉行の長束正家が甲賀郡水口城で出迎えていたが、長束正家に陰謀を企てがあると松平元康に報せた。嫡男篠山景尚と共に「伏見城の戦い」に参陣して甲賀衆三十一名と共に討死した。

篠山景尚【ささやまかげなお(15??~1600)】

篠山景春の男。1600年、父篠山景春と共に「伏見城の戦い」に参陣して甲賀衆三十一名と共に討死した。

篠山資盛【ささやますけもり(1576~1635)】

篠山景春の次男。通称理兵衛。別名篠山甚吉。室は三好因幡守一任の娘。1600年、父篠山景春の討死により篠山家の家督を相続した。1614「大阪両度の陣」に参陣して、甲賀郡480石を領した。

篠山景末【ささやまかげすえ(15??~1642)】

篠山景尚の男。通称弥次兵衛。父篠山景尚の討死後蟄居していた、まもなく召し出され、田堵野村で200石を領した。

佐田彦四郎【さだひこしろう(15??~15??)】

毛利元就家臣杉原盛重に仕えた忍衆。弟佐田甚五郎、末弟佐田子鼠とともに仕えた。その腕前は「狐狸の変化」と称されるほどであった。1578年、織田信長の部将である羽柴秀吉が毛利家方の播磨国上月城を攻撃した際、弟らと200人の下忍を率いて羽柴秀吉を撹乱した。

猿飛幸吉【さるとびゆきよし(15??~15??)】

真田信繁に仕えた架空の忍衆。別名猿飛佐助。真田十勇士のひとり。霧隠才蔵と共に、松平元康方の軍評定の内容を探ったり、地雷火を仕掛けて、敵方を混乱に陥れたりした。信濃国の鳥居峠の麓に住む鷲尾佐太夫という郷士の男。山中で猿の群れと遊び戯れているところを戸沢白雲斎という白髪の甲賀流忍術の名人に見込まれ、忍術の修行をしたあげく極意を授けられれた。鳥居峠にやってきた真田信繁に仕えた。真田信繁の命令で天下の情勢を窺うため、三好清海入道と連れだって諸国を旅した。松平元康、松平秀忠のの内情を探った。京都では南禅寺の山門に住む石川五右衛門と術比べをした。

下柘植ノ木猿【しもつげ の きざる(15??~15??)】

伊賀国下柘植郷の下忍。猿を使った特異な技術は忍者たちの間でも高く評価された。

下柘植ノ小猿【しもつげの こざる(15??~15??)】
 
下柘植ノ木猿の男。通称八郎。父下柘植ノ木猿と共に猿を使った特異な技術は忍者たちの間でも高く評価された。

庄司甚内【しょうじじんない(15??~15??)】

風魔小太郎に仕えた忍衆。別名庄司甚右衛門。風魔小太郎家臣。風魔小太郎に仕える忍衆だったが、後北条家が滅んだ後は盗賊の頭目となった。1605年、庄司甚内は開発途上の江戸市中にあふれる私娼たちを一堂に集めることを松平元康に願い出た。1617年、五カ条の制約づきで日本橋吉原に遊郭を作ることを許可された。その後、庄司は吉原町の総名主に任命された。

杉坂重五郎【すぎさかじゅうごろう(15??~15??)】 

山中俊房に仕えた山中忍衆。数多い山中忍びの中でも、瀬戸伴蔵と並ぶ使い手。山中俊房の密使として、山中長俊を甲賀にある山中俊房の屋敷へと誘った。杉坂重五郎は、真田の草の者五瀬の太郎次に尾行され山中長俊と山中俊房の密議が露見した。甲賀の里から脱出を図る於江を瀬戸伴蔵と共に追撃した。於江を匿った田子庄左衛門を討取るが、於江を取り逃がしてしまい責めを負って自刃しようとするが、山中俊房が止められ真田の草との戦いに身を投じた。真田太平記」by池波正太郎。

杉谷善住坊【すぎたにぜんじゅぼう(15??~1573)】

甲賀五十三家のひとつである杉谷家の忍衆。1570年、朝倉義景攻めの途中で浅井長政に挟撃され敗走した織田信長を千草越で狙撃した。十二間の距離から二発撃ったが、織田信長にすり傷を負わしたのみで終った。その後、近江高島郡堀川村の阿弥陀寺に隠れていたところを、磯野員昌に捕縛された。織田信長へ引き渡された後は、菅屋長頼、祝重正によって尋問された後に、生きたまま頸から下を土中に埋められ、竹製のノコギリで時間をかけて頸を切断する鋸挽きの刑に処された。

杉原盛重【すぎはらもりしげ(1532~1581)】

杉原理興家臣。杉原匡信の次男。官途は播磨守。室は毛利興元の娘。1557年、毛利元就の麾下に属した杉原理興が継嗣のないまま病没すると、杉原盛重はその勇猛ぶりが吉川元春に評価され、杉原理興の跡を継いで備後国神辺城主となり、備後忍衆の頭目として野武士、山賊、海賊、忍び崩れを召抱えた。忍衆では、徳岡久兵衛、安原神次郎、菊池肥前守、別所雅楽允の他に佐田彦四郎、佐田五郎、佐田小鼠の佐田三兄弟などを召抱えた。杉原盛重が出陣中、藤井皓玄が神辺城を攻略しが、すぐに鎮圧され藤井皓玄は自刃した。1564年、尼子家との戦いでは山中幸盛と戦い、伯耆国の行松正盛が病没するとその後家を娶らせ、西伯耆国の要衝である尾高城を領した。1569年、尼子家再興を目指す山中幸盛に尾高城を奪われることもあった。その後、杉原盛重は東伯耆の要衝八橋城を領した。1580年、南条宗勝の子で織田方に寝返った南条元続や、その弟小鴨元清の攻撃を受けるが撃退した。1581年、杉原盛重の病没後、家督を継いだ嫡男杉原元盛に次男杉原景盛が反発し、杉原景盛が杉原元盛を謀殺したが、毛利輝元は杉原景盛の相続を認めず所領は吉川元春によって没収された。

捨丸【すてまる(15??~15??)】

前田利益に仕えた忍衆。弟ともに捨てられていたのを、加賀忍びの頭領四井主馬の父に拾われ、下忍の下働きとして育てられた。捨丸の弟は、四井主馬の命令で松風を盗み出そうと数人の忍びと共に前田利益の屋敷に押込み、仲間は前田利益に斬られ弟は松風に蹴り殺された。そして再び、金沢を出奔した前田利益を襲うべく四井主馬は加賀忍衆を七里半越えの峠道で待伏せさせた。、捨丸は前田利益と松風を見張る役目についた。「一夢庵風流記」by隆慶一郎。

世鬼政親【せきまさちか(15??~15??)】

安芸国高田郡垣瀬郷の忍衆。毛利元就に仕えた。毛利元就は二十五人からなる世鬼家枝連衆を足軽衆として扶持し、領内の六カ所に分散させて住まわせていた。1523年、尼子経久が安芸国に侵入すると、毛利元就は尼子経久に属して、大内義興家臣蔵田房信が守る鏡山城を攻撃した。毛利元就は、世鬼政親を使って情報を集め、副将蔵田直信の謀略、策略、奸計を駆使して調略した。

世鬼政棟【せきまさむね(15??~15??)】

世鬼政親の男。織田信秀に仕えた。

世鬼政時【せきまさとき(15??~15??)】

世鬼政親の次男。1525年、毛利元就は、尼子政久と断絶し大内義興との旧盟に復した。1537年、尼子政久が討死して、尼子晴久が家督を相続すると、毛利元就は世鬼政時に仕える忍衆を使って、尼子家臣団の調略を開始した。尼子晴久と新宮党の尼子国久の対立すると、罪人を巡礼姿に変えさせ、偽の密書を忍ばせ尼子領内で殺させた。この密書が尼子晴久に渡り、それを信じて、尼子国久を謀殺した。これを指揮した世鬼政時が率いた忍衆だった。1563年、毛利元就は、戦いを繰り返しながら尼子方の将兵を寝返らせ、月山富田城を開城に追い込んだ。尼子晴久は毛利元就の策謀にのせられ、居城を失った。

世鬼政定【せきまささだ(15??~15??)】

世鬼政時の男。世鬼政定、世鬼政矩のふたりは毛利輝元に忍衆として300石を領した。その後、市来佐渡守に嫁した世鬼政親の末娘が実家で生んだ世鬼政任の家が続き幕末に至った。

世鬼政矩【せきまさのり(15??~15??)】

世鬼政時の次男。世鬼政定、世鬼政矩のふたりは毛利輝元に忍衆として300石を領した。その後、市来佐渡守に嫁した世鬼政親の末娘が実家で生んだ世鬼政任の家が続き幕末に至った。

瀬登八右衛門【せとはちえもん(15??~15??)】

伊賀国山田郷の下忍。別名山田ノ八右衛門。普段は伊賀一の宮敢国神社の世話人であった。双忍術など高度な変装術を使うことで知られた。

瀬戸伴蔵【せのとばんぞう(15??~15??)】 

山中俊房に仕えた山中忍衆。数多い山中忍びの中でも、杉坂重五郎と並ぶ使い手。甲賀の里に潜入した於江を追い、行方知れずになったお江が匿われているのではないか、ということで山中俊房の命令を受け、田子庄左衛門の小屋を杉坂重五郎とともに見張った。脱出をはかる庄左衛門と於江を追撃するさなか、庄左衛門の放った飛苦無を喉もとへ受け、即死した。※「真田太平記」by池波正太郎。

曾呂利新左衛門【そろりしんざえもん(15??~15??)】

羽柴秀吉に仕えた忍衆。堺の南荘目口町にある寺の境内に借地して鞘師を営んでいた。その鞘の細工が見事で、刀身が「ソロリ」と鞘口に納まる事より曾呂利新左衛門と称された。羽柴秀吉に鞘師として召抱えられたが、話術に優れていたので御伽衆に加えられた。

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【た】

大林坊俊海【だいりんぼうしゅんかい(1567~15??)】

出羽国三山のひとつ羽黒山の修験者。1585年、伊達政宗は諜報を担当する黒脛巾組を結成し首領に大林坊俊海に任じた。出羽三山は東北に大きな力を持ち、情報源として活用するには最適であった。1586年「人取橋の戦い」において、圧倒的な数的不利に立たされた伊達勢を救うため、敵の佐竹家や芦名家の陣営に潜入し、流言飛語を用いて撤退させることに成功した。1589年「摺上原の戦い」では、諜報活動に暗躍し、芦名家の備蓄状況や、戦場の天候などを伊達政宗へ進言することで戦況を有利に導いた。他にも最上義光の動向を伊達政宗に報告するなど優秀な間者であった。

高羽左兵衛【たかば さへえ(15??~15??)】

伊賀国上野郷の下忍。通称左四郎。別名上野ノ左。特に変装術に優れていたと言われ、忍者たちの間でもその存在が怖れられた。

高山ノ太郎四郎【たかのやまたろうしろう(15??~15??)】

伊賀国の忍衆。別名笹蟹(甲山)太郎四郎。「万川集海」の記載された十一人の忍術衆のひとり。その忍びの技術は各国の忍者たちの間でも高く評価され、怖れられた。

竹内虎之助【たけうちとらのすけ(15??~15??)】

長宗我部元親に仕えた忍衆。1585年、羽柴秀吉の「四国討伐」で、長宗我部元親は土佐国を安堵され、羽柴秀吉に仕えた。長宗我部元親は羽柴秀吉の属して「九州討伐」に参陣して、豊後国岡城主志賀親次を攻撃した。岡城は天然の要害で、なかなか攻め落すことが出来なかった。長宗我部元親は、忍衆の竹内虎之助、竹内弥藤次兄弟を岡城に送り込み城内から手引きを行い落城に追い込んだ。

竹内弥藤次【たけうちやとうじ(15??~15??)】

長宗我部元親に仕えた忍衆。竹内虎之助の男。1585年、羽柴秀吉の「四国討伐」で、長宗我部元親は土佐国を安堵され、羽柴秀吉に仕えた。長宗我部元親は羽柴秀吉の属して「九州討伐」に参陣して、豊後国岡城主志賀親次を攻撃した。岡城は天然の要害で、なかなか攻め落すことが出来なかった。長宗我部元親は、忍衆の竹内虎之助、竹内弥藤次兄弟を岡城に送り込み城内から手引きを行い落城に追い込んだ。 

武田の骨【たけだのほね(15??~15??)】

武田家の忍衆。前田利益に果し合いで殺された深見重太夫の弟深見重三郎に雇われた殺し屋。前田利益を尾けている内に、いつしか前田利益の魅力に惹かれた。前田利益の行く手にしばしば現れ、前田利益に助力したり情報をもたらした。「一夢庵風流記」by隆慶一郎。

田子庄左衛門【たごしょうざえもん(15??~15??)】

山中俊房に仕えた山中忍衆。老齢のため、甲賀の里の隠し小屋を守った。父母を幼い頃に亡くしたため、馬杉調兵衛に引き取られ、育てられた。馬杉市蔵と共に何度も忍び働きをつとめた。馬杉市蔵が武田家に派遣されたとき、甲賀忍びのひとりとして武田晴信に仕えた。山中俊房の命で武田晴信の元から離れ甲賀に帰還した。甲賀の里で負傷した於江を、忍び小屋にかくまい介抱した。甲賀からの脱出行において、於江を逃がすために盾となった。追っ手の杉坂重五郎と戦い、相手に傷を負わせるも、頸を切られて討死した。※「真田太平記」by池波正太郎。

太宰金助【だざいきんすけ(15??~15??)】 

安部重定下忍。伊達政宗が創設し、安部重定により作られたという忍者集団の黒脛巾組に属した。芦名家臣猪苗代盛国と猪苗代盛胤を不和させ、岩苗代盛国を伊達政宗に内応させた。

龍野実道【たつのさねみち(15??~15??)】
 
氷上城主波多野宗長に仕えた忍衆。通称善太郎。1566年、波多野宗長は八上城を三好長慶から奪還して、氷上城主となり、異母兄波多野秀治を八上城主に据えた。1575年、織田信長家臣、明智光秀が黒井城を攻撃すると、波多野秀治は背後から明智光秀勢を襲い山城国に追い落とした。波多野が織田信長と争うと、龍野実道は、笛師に化けて、雑賀五郎兵衛と共に安土城下に忍び込み、諜報活動を行った。1577年、明智光秀が八上城を包囲すると、波多野秀治は籠城戦に持ち込みその後一年半にもわたって攻撃に耐えたが、多数の餓死者を出して降伏した。氷上城主波多野宗長、波多野宗貞父子は自刃し、波多野秀治も処刑された。

多羅尾光吉【たらおみつよし(15??~15??)】

南近江国甲賀郡信楽小川城主。室は池田数正の娘。1487年、足利義尚は、六角高頼攻めた「長享の乱」で、観音寺城主六角高頼は甲賀郡に落延びた。六角高頼は、足利義尚の大軍を相手にはゲリラ戦を展開した。多羅尾光吉ら甲賀郡武士団は足利義尚の鈎の陣を夜襲する活躍をみせ、甲賀郡五十三士と称された。多羅尾光吉と並ぶ信楽の有力武士であった鶴見成俊は足利義尚方に属したため、多羅尾光吉は小川城を攻略、敗れた成俊は山城の椿井播磨守を頼って落延びた。1501年、近衛尚通は信楽郷を守護請として支配を放棄するにいたった。その後、多羅尾光吉は伊庭貞隆の代官職管掌のもとで庄官を務め、近衛家領を完全に掌握し、信楽随一の領主として7,000石を領した。

多羅尾光俊【たらおみつとし(1514~1609)】

多羅尾光吉の男。通称四郎右衛門。室は伊勢貞孝の養女。1568年、六角義賢が織田信長に観音寺城を追われると織田信長に属した。1582年「本能寺の変」では、長谷川秀一を先導として大和路より山川を経て伊賀から三河国へと向かう松平元康を、小川城に迎えた。宇治田原城主山口長政の養子になっていた五男山口光広からの報せを受けた多羅尾光俊は、自身は病で床に臥していた為、嫡男多羅尾光太、三男多羅尾光雅らを向かわせ山田村で松平元康一行を出迎えた。山口光広らに従者五十人、さらに甲賀の百五十余人をそへて松平元康を護衛、伊賀路を誘導する戦功を挙げた。 1582年、羽柴秀吉は浅野長政に山城国から信楽、伊賀に出て、柘植から加太越えに滝川一益の亀山城を攻めるよう命じた。織田信孝に属する多羅尾光俊は、四男多羅尾光量の拠る和束の別所城に攻め寄せた浅野長政勢を多羅尾光俊は夜襲で撃退した。浅野長政は、多羅尾光俊と和睦、多羅尾光俊は羽柴秀吉に属した。1586年、羽柴秀次に仕え、信楽を本領に、近江、伊賀、山城、大和で80,000石余を領した。

多羅尾光太【たらおみつもと(1552~1647)】

多羅尾光俊の男。官途は左京進。通称久右衛門。室は竹内下総守の娘。後室は北条家臣山角豊前守の娘。1582年「本能寺の変」では、松平元康の「伊賀越え」を甲賀衆を率いて成功させた。その後、父多羅尾光俊と共に羽柴秀吉に仕えた。娘の於万は羽柴秀次に嫁いだ。1596年「羽柴秀次の事件」に連座し、改易に処され、領地信楽に蟄居した。松平元康に仕え200石を領した。1600年「関ヶ原の役」で戦功を挙げ甲賀郡で1,500石を領した。

多羅尾光雅【たらおみつのり(1555~1636)】

多羅尾光俊の三男。通称久八郎。室は浅野長政の養女。

千賀地則直【ちがちのりただ(15??~15??)】

伊賀国千賀地城々主。服部保元の男。通称半蔵。室は保田長宗の娘。伊賀国の上忍 服部保長は、松平元康に仕えたので、服部家枝連衆は岡崎城に移り住んだが、嫡男に服部保元を伊賀の地に残して伊賀忍者を統率させた。服部保長の家督を相続して千賀地則直を称した。

柘植清広【つげきよひろ(1542~1631)】

柘植宗家の次男。通称三之丞。1581年「第二次天正伊賀の乱」が勃発した時、兄柘植宗能の指示で松平元康の麾下に属することを申し出たが、松平元康が織田信長と同盟関係にあった事から、三河国に移住して来るなら召抱える旨の返事を受けた。1582年、松平元康の「伊賀越え」では、枝連衆を率いて、信楽から伊勢白子への道を嚮導した。「加太越え」に及んでは、柘植一族が鹿伏兎一族と仲が悪いので暇を賜り、面体が知られておらず道を良く知る米地九左衛門政次が代わりを務めた。1600年「関ヶ原の役」では、鉄砲足軽隊20人を率いて参陣した。凱旋の時には近江国永原に召され、甲賀郡300石を領した。1603年、伏見の番を勤めた。1614年「大坂冬の陣」では御供に加わっていなかったのだが、松平正綱より伝えられ鉄砲を用いて参戦した。

壺谷又五郎【つぼやまたごろう(15??~15??)】

武田晴信家に仕えた伊那郡の忍衆。沼田城攻略のために、武田勝頼から真田昌幸が借り受けた忍びが壺谷又五郎。真田昌幸が沼田城を攻略した際に、褒美として武田勝頼から「甲斐の国のどの領地が欲しいか」と言われたときに、真田昌幸が領地ではなく人をひとり欲しい、と願い出て譲りうけた。真田忍びで「草の者」を束ねた。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康の頸を狙い、草の者を率い東軍の福島隊を装い、松平元康にの本陣に突入したが、甲賀忍びの山中長俊に看破され相討ちとなった。※「真田太平記」by池波正太郎。

伝林坊頼慶【でんりんぼうよりよし(15??~15??)】

南肥後国人吉城主相良義陽に仕えた忍衆。相良義陽は、唐人の伝林坊頼慶に相良家衆を組織させた。雑賀衆や根来衆の残党や各地の修験者であった。

富田郷左衛門【とだごうざえもん(15??~15??)】

甲州乱破の頭領。忍術名人で知られ、三ツ目衆と呼ばれる武田家お抱えの忍び衆200余りを率いた。戦国時代最大の山岳戦である後北条家との「三増峠の戦い」では、馬場信春の元で誤情報による撹乱を行った。その他敵の内応や撹乱などの裏の仕事に従事した。

百々百右衛門【どどひゃくえもん(15??~1622)】

伊賀国の忍衆。1582年、松平元康の伊賀越えで警護に集まった伊賀衆200人のひとり。その戦功より尾張国鳴海城に召し出され、御切米16俵3人扶持を領し、服部正成の麾下に属した。1591年、松平元康の喰違での鷹狩に随行し永楽500文の地を拝領した。1622年、近江国水口城の御殿番を勤めた。

鳶沢甚内【とびさわじんない(15??~15??)】

風魔小太郎に仕えた忍衆。風魔小太郎に仕える忍衆だったが、後北条家が滅んだ後は盗賊の頭目となった。松平元康にとらえられたが罪をゆるされ、古着売買の独占権と家屋敷をあたえられることを条件に、各地から江戸にあつまる盗賊の取り締まりにあたった。

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【な】

中原正勝【なかはらまさかつ(15??~15??)】

真壁氏幹家臣。真壁家忍衆の元締め。「小説真壁氏幹鬼の義」By高妻秀樹。

新田庄左衛門【にったしょうざえもん(15??~15??)】 

山中俊房に仕えた山中忍衆。京の室町に、扇師として「扇屋(忍び宿)」の居をかまえた。於江の父馬杉市蔵らとともに、甲賀から武田晴信へ派遣されたひとり。山中俊房からの引き上げ命令に従って、甲賀に戻った。※「真田太平記」by池波正太郎。

二曲輪猪助【にのくるわ いすけ(15??~15??)】

風魔忍者。二曲輪猪助は風魔五代目頭目風魔小太郎率いる忍衆のひとり。「河越城の戦い」では、足の速さを見込まれて、敵情偵察にあたった忍衆であった。1537年、北条氏綱が河越城主扇谷上杉朝定と入間郡で戦い、松山城に敗走させて河越城を攻略した。北条氏綱は三男北条為昌を入れて守らせた。北条氏綱が病没し、北条氏康が北条家の家督を相続すると、河越城主北条為昌も病没し養子北条綱成が城主となった。1545年、扇谷上杉朝定は、古河公方足利晴氏、関東管領の山内上杉憲政と結び、河越城を包囲したが、北条綱成は籠城して激しく抵抗した。北条氏康は兵8,000余りを率いて金窪に着陣したが、扇谷上杉朝定らに和睦を申し出た。その間、北条氏康は風魔一党に扇谷上杉朝定らの情勢を探らせた。風魔一党と北条氏康の繋ぎを務めのが二曲輪猪助だった。1546年、扇谷上杉朝定方の情報を把握した北条氏康は、十分の一の兵力で扇谷上杉朝定の陣営に夜襲をかけ連合軍を打ち破り河越城を守った。

猫田与助【ねこたよすけ(1541~15??)】 

山中俊房に仕えた山中忍衆。父猫田与兵衛も山中忍びであったが、馬杉市蔵を討つために田子庄左衛門らと赴き、逆に馬杉市蔵に討たれた。その馬杉市蔵の娘である於江に、猫田与助は男の機能を切り落とされるという目にあわされたため、於江を執拗に狙った。※「真田太平記」by池波正太郎。

禰津貞盛【ねづさだもり(1569~1615)】

真田信繁に仕えた架空の忍衆。真田十勇士のひとり。通称甚八。水上戦の指揮に長けた人物。父と共に旅に出て、死別ののち海賊衆に身を投じて、その海賊大将になった。真田信繁が羽柴秀吉の共にいた時、九鬼家海賊衆の情勢を探ることを命じられ熊野灘に赴いたときに巡り会い、十勇士に名を連れた。穴山安治と共に「関ヶ原の役」「大坂冬の陣「大坂夏の陣」で戦功を挙げた。「大坂夏の陣」では、影武者となり「真田信繁なるぞ」と名のって奮闘した結果、松平元康勢に討取られた。

禰津信政【ねづのぶまさ(15??~15??)】

真田幸隆家臣。通称神平。真田幸隆、真田昌幸に仕えた、忍衆の頭領。元は鷹匠だったが、禰津家は甲陽流忍術を統率した。

野村ノ大炊孫太夫【のむらのおおいまごだゆう(15??~15??)】

伊賀国野村郷の下忍。その忍びの技術は各国の忍者たちの間でも高く評価され怖れられた。

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【は】

服部保長【はっとりやすなが(15??~15??)】

阿拝郡服部城主。通称半蔵。別名千賀地半蔵。上忍三家のうち最大の勢力を誇った。伊賀国には、千賀地(服部)家、百地家、藤林家の三家があったがいずれも、伊賀国内をまとめることが出来る勢力が育たず、小豪族が乱立して、室町時代後期を迎えた。初め足利義晴に仕え北面武士に就任した。室町幕府に見切りをつけて、服部家を称して三河国に下った。後に松平清康、松平広忠、松平元康三代に仕えた。松平家も松平清康の代には大きく伸長したが「森山崩れ」を境に一気に衰退した。服部保長も松平家と共に今川義元の麾下に属した。

服部保俊【はっとりやすとし(15??~1560)】
 
服部保長の男。松平元康に仕えた。1560年「桶狭間の戦い」の後、三宅右衛門大夫の高橋城攻めに参陣して討死した

服部保正【はっとりやすまさ(15??~1573)】 

服部保長の次男。通称源兵衛。1573年「三方ヶ原の戦い」で討死した。

服部正成【はっとりまさなり(1542~1596)】

服部保長の六男。官途は石見守。通称半蔵。十六歳で初陣し、伊賀者六十余りを率いて、三河宇土城の夜討で戦功を挙げた。1579年、織田信長から松平信康が謀反の疑いにり自刃したさい介錯役として松平信康の許へ赴いたが、討つ事が出来ず、検死役の天方山城守通綱が代わって介錯した。1582年「本能寺の変」では、松平元康の「伊賀越え」を枝連衆を挙げて助けた戦功により松平元康の忍び頭となった。多数の忍び衆を抱えて諜報活動で活躍した。服部正成は忍者というより槍術に優れた侍大将として数々の戦功を挙げた。

服部正就【はっとりまさなり(1565~1615)】

服部正成の男。官途は石見守。通称半蔵。室は松平定勝の娘(松尾姫)。服部正成の遺領の内5,000石を領して、寄騎衆七騎、伊賀同心200人を預かった。1604年、服部正就は、伊賀同心と諍いを起した。松平元康は、伊賀同心を大久保忠直、久永重勝、服部保正、加藤正次の馬廻衆四名に分属され、首謀者は処罰された。服部正就は閉門となり松平定勝に預けられた。1615年「大阪夏の陣」では、松平忠輝の属して参陣するが討死した。

服部正重【はっとりまさしげ(1580~1652)】  

服部正成の次男。官途は伊豆守。室は大久保長安の娘。服部正成の遺領の内3,000石を領した。1600年「 関ヶ原の役」での抜駆けの罪に問われたが、結城秀康の口添えで許された。その後、松平元康の命で 服部半蔵家の家督を相続した。大久保長安と交互に佐渡金山を統制した。1613年、大久保長安の病没後に金銀の不正蓄財が発覚して一族が処罰されると、服部正重は佐渡に居たが処罰を恐れ佐渡国を離れ、処罰を受け、村上義明に預けられた。

服部正信【はっとりまさのぶ(15??~15??)】

服部家枝連衆。通称平蔵。室は青山忠教の娘。

服部正尚【はっとりまさなお(15??~15??)】

服部正信の男。通称平太夫。戸塚忠春が討死後その室娶り、於愛(松平元康の側室(西郷局))を育てた。1582年「本能寺の変」が起こった情報をいち早く松平元康に知らせ「伊賀越え」に同行した。

服部忠頼【はっとりただより(1549~1615)】  

服部正信の次男(青山忠重の養子)。通称七右衛門。別名青山成重。室は恒岡常自の娘。1571年、の養子となり、青山平八郎と称した。1584年 、兄服部正尚の推挙により松平秀忠に仕えた。老中職となり10,000石を領した。1613年、大久保長安の三男青山成国 を養子に迎えていた為、大久保長安の病没後、下総国香取郡に蟄居し7,000石に減封された。1614年「大坂冬の陣」では、本多正信に従って出陣したが、蟄居中のため参陣することが出来なかった。

早川鮎之助【はやかわあゆのすけ(15??~15??)】 

元鉢屋衆。山中幸盛に仕えた。尼子十助のひとり。

伴長信【ばんながのぶ(15??~1582)】

近江国甲賀郡の豪族衆。通称太郎左衛門。伴家は、甲賀五十三家中もっとも勢力があった上忍のひとつ。六角義賢や織田信長の下で甲賀忍者たちを指揮した。1582年「本能寺の変」の際に、織田信長の側にあって最後まで明智光秀勢と戦い討死した。

平野小助【ひらのこすけ(15??~15??)】

真田昌幸に仕えた忍衆。父平野伝蔵も優れた甲賀忍びであったが、すでに他界。甲賀で健在の母は、酒巻才兵衛(住吉慶春)の姉であり、才兵衛は叔父にあたる。父平野伝蔵と共に、伴長信に仕えていた。沼田へ赴く途中の酒巻才兵衛と出会い、羽柴秀吉の謀略を知ることになった。※「真田太平記」by池波正太郎。

琵琶法師勝一【びわほうししょういち(15??~15??)】

毛利元就に仕えた座頭衆。座頭とは、琵琶を演奏し『平家物語』を語る盲目の芸人「琵琶法師」の位のひとつ。四つに大別される琵琶法師の階級の中では、検校が最も高く、別当、勾当と続き、座頭は最も低い位となる。「元就常に座頭四人を召し抱え、諸国へ遣わし、国の剛弱、将の賢愚を探り聞き給う。中にも勝一は、心様健やかにして、弁舌人に抜きん出るのみか、平家(琵琶)も又勝れて上手なりけり」この「勝一」こそ、表向きは琵琶法師だが、毛利元就の忍者として暗躍した「座頭衆」のひとり、琵琶法師勝一である。琵琶法師は盲目ゆえに、内情など探ることはできないという先入観があった。元就はその油断をついて琵琶法師を放った。

風魔小太郎【ふうまこたろう(15??~15??)】

足柄下郡箱根山に勢力を持つ関東忍衆「風魔衆」の頭領。風魔一族は大陸から来た渡来人。風魔党の結束は固く容易に他所者を受け入れなかった。五代目風魔小太郎は、体躯は七尺(約2m)を超える大男で、手足の筋骨荒々しくそこかしこにむら瘤がり、眼は極端に吊り上がり、黒髭の口は両脇へ広く裂け、牙が四本出ていたという。さらに頭は福禄寿に似て鼻が高く、声を出せば五十町(約5キロ以上)四方に届き、低く出せば乾いた声が波のように響き渡り不気味だった。後北条家に仕えていた。羽柴秀吉の「小田原の役」により後北条家が滅亡し、松平元康を治めると、盗賊として江戸の街を騒がせた。松平元康は懸賞金をかけて盗賊の長である五代目風魔小太郎を捕らえ処刑した。

藤林保豊【ふじばやしやすとよ(15??~15??)】

東湯船郷藤林館主。官途は長門守。別名藤林正保。伊賀上忍三家のひとつ。伊賀国北部で甲賀に境を接する湯舟郷を領した。甲賀郡側にも多くの麾下の豪族衆がおり、伊賀国内、甲賀郡双方に影響力を持っていた。服部保長、百地泰光と並び伊賀国の三大上忍と称された。1581年「第二次天正伊賀の乱」では甲賀郡多羅尾氏と共に、織田信長に内通して、藤林家を家名を後世に残した。

伏屋太平【ふせやたへい(15??~15??)】

真田昌幸の草の者。1599年時で、25、6歳に見える若者。五瀬の太郎次の孫として、備前島の中洲でともに暮らし、情報収集に携わった。生え抜きの草の者で、甲賀や伊賀との因縁はない。佐和山城の島左近へ、大谷吉継の書状を届けに走ったり、佐助と組んで、尾行者をまく一芝居をうったことも。「関ヶ原の戦い」で、奥村弥五兵衛率いる、松平元康奇襲部隊十四名のひとりとして参陣。この奇襲では、伏屋太平は軽傷を負ったが十名余りが討死した。※「真田太平記」by池波正太郎。

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【ま】

馬杉市蔵【ますぎいちぞう(15??~15??)】

馬杉調兵衛の男。真田草の者於江の父。山中忍び衆。山中大和守の麾下にあったが命令で武田晴信のもとへ派遣されていたが、頭領である山中大和守が引き上げ命令を出しても、武田家に居残り、武田晴信のために忍び働きを続けた。そのため、甲賀の裏切り者として、山中忍びから命を狙われ続けた。武田忍びの壺谷又五郎の縁者である娘と夫婦になり、於江をもうけた。※「真田太平記」by池波正太郎

馬杉於江【ますぎおこう(15??~15??)】

真田昌幸の草の者。戦忍びとして働くことのできる、稀有の体力と腕力、智謀を有する女忍び。父馬杉市蔵は、武田晴信に仕えた、数少ない「甲賀忍び」のうちのひとり。武田勝頼の討死から、真田家の上田から松代への移封まで、すべてを見届けることになる。真田昌幸に忠節を誓い、その後は、真田幸村のもとで働く。1600年「関ヶ原の役」では松平元康の輿を襲撃するが失敗した。※「真田太平記」by池波正太郎。NHK大河ドラマ「真田太平記」では遥くららが演じた。

宮塚才蔵【みやのつかさいぞう(1560~15??)】

真田昌幸の草の者。「第一次上田の戦い」で、戦忍びに出て重傷を負った。角間の谷の草屋敷で、薬草の栽培や火薬の製造を行った。※「真田太平記」by池波正太郎。

宮塚くに【みやづかおくに(15??~15??)】

真田昌幸の草の者。宮塚才蔵の妹。真田の庄を出て、関東諸国を回りながら、情報を壺谷又五郎に届ける役目を果たしていた。白い肌に、濡れたような黒い瞳、すらりと背が高く、しなやかな体つきの、あかぬけた女忍。1600年「関ヶ原の役」では、草の者同士のつなぎ役を務めた。「関ヶ原の役」後は、兄宮塚才蔵と共に、京の夜泣峠の忍び小屋に入った。※「真田太平記」by池波正太郎。

三好清海入道【みよしせいかいにゅうどう(15??~1615)】

真田信繁に仕えた架空の忍衆。真田十勇士のひとり。十八貫もの樫の棒を軽々と振り回し、山賊を退治したり、剣士と渡り合ったりして縦横無尽の活躍をした。坊主頭の大男で、力は強いが、どこか抜けたところに、愛嬌があって、好ましい豪傑。1600年「関ヶ原の役」では、松平秀忠の率いる軍が、中山道を西上する途中、信州の上田城を攻めたときから、真田信繁に属して戦功を挙げた。役後、真田信繁に従って、弟三好伊三入道と共に紀州九度山に従った。真田信繁の大坂入城にも兄弟で従った。「大坂の両陣」にも他の勇士らと共に松平元康勢と戦い、壮絶な討死を遂げた。

三好伊三入道【みよし いさにゅうどう(15??~1615)】

真田信繁に仕えた架空の忍衆。真田十勇士のひとり。清海入道の弟で、兄と共に真田信繁に仕えて戦功を挙げた。1600年「上田城の戦い」でも、兄三好清海入道と共に戦功を挙げた。真田信繁の九度山行きに同行した。「大坂の両陣」にも松平元康勢と勇敢に戦った。大坂落城の時、兄三好清海入道は自刃して、自分の頸を刀で掻き落として見せたが、弟の伊三入道のほうは、自刃しながら、辞世の狂歌を高らかに詠じた。

向井佐助【むかいさすけ(15??~15??)】

真田昌幸の草の者。向井佐平次の男。真田昌幸から来国次が鍛えた銘刀を賜った。1600年「大坂夏の陣」で討死した。※「真田太平記」by池波正太郎。

百地泰光【ももちたんば(1512~1581)】

百地清右衛門の男。官途は丹波守。別名百地三太夫。名張郡を勢力下に置く豪族衆で、伊賀忍者衆を束ねる上忍三人衆のひとり。織田信長は、織田信雄に命じて伊賀攻めを行わせた。1579年「第一次天正伊賀の乱」では、単独で侵攻した織田信雄勢を撃退した。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、織田信長が指揮を執り兵50,000余りで侵攻した。百地泰光は、柏原城に籠城して抵抗したが、衆寡敵せず織田信長勢の攻撃を受け討死した。

望月幸忠【もちづきよしさだ(1572~1615)】

真田信繁に仕えた架空の忍衆。真田十勇士のひとり。別名望月六郎。信濃の名族滋野一族の宗家である海野家の出身。「大坂冬の陣」では、真田信繁の嫡男真田幸昌に仕えた。敵を情報でかく乱させ、さらに武力を行使して松平元康勢を尼ヶ崎に敗走させた。

望月千代【もちづきちよ(15??~15??)】

信濃国小県郡古御館主。佐久郡望月城主望月盛時の室。1561年「第四次川中島の戦」で、望月盛時が討死した後、武田晴信に仕えたという。甲斐、信濃の巫女の統帥を命じられた。孤児、捨て子などの少女を集め、彼女らに強い仲間意識と忠誠心、女であることを生かしての情報収集、色香で男を惑わす法を教えこんだ。そして諸国を往来できるよう巫女としての修行も積ませ、一人前になると各地に送り、知り得た情報を集め、有力な情報を武田晴信に伝えた。※「信玄狙撃」by新宮正春。

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【や】

弥助【やすけ(15??~15??)】

風魔小太郎に仕える下忍衆。変化の弥助と呼ばれる変装の達人。「影武者徳川家康」by隆慶一郎。

保田則宗【やすだのりむね(1569~1614)】   

千賀地則直の男。通称甚兵衛。室は桜井和泉守の娘。 1595年、紀伊国有田郡保田繁宗の家督を相続した。1606年、松平元康に仕えた。1610年、能の観世太夫黒雪が松平元康に追放され、高野山へ逃れてきた際には、黒雪の世話をした。

保田元則【やすだもとのり(1582~1660)】  

千賀地則直の三男(保田栄西の養子)。官途は采女。通称左助。別名藤堂采女。室は佐伯惟定の娘。兄保田則宗と共に伯父保田繁宗に養育された。羽柴秀長、羽柴秀俊に仕えた。その後は増田長盛に仕えた。1600年「関ヶ原の役」の敗北により浪人した。後に、藤堂高虎に仕え、新参でありながらも藤堂姓を与えられ枝連衆並の扱いで遇された。藤堂高虎が伊賀国主となってからは、伊賀国上野城代家老となった。藤堂高虎は、伊賀忍者の棟梁筋に生まれである保田元則に、新領地である伊賀国の郷士たちの懐柔に当らせた。忍者を含む伊賀の郷士たちは、藩士や無足人として藤堂家に召抱えられた。

柳原戸兵衛【やなぎはら とへえ(15??~15??)】

安部重定に仕えた忍衆。伊達政宗が安部重定に命じて編成した黒脛巾組の組頭となった。組頭は柳原戸兵衛と世瀬蔵人が勤めた。陸奥国南方の調略活動を担当していた安部重定の指揮下で、世瀬蔵人とともに下忍50人を率いて諜報、流言任務に携わった。

山口光弘【やまぐちみつひろ(1563~1647)】

多羅尾光俊の五男(山口長政の養子)。官途は主膳。通称藤左衛門。甲賀五十三家の多羅尾光俊の五男。三井寺観学院で修行中、織田信長の給仕に出たところを見出され、跡取の無い宇治田原山口城主山口長政の養子に入った。1582年、松平元康の「伊賀越え」では、山口城に迎え、多羅尾光俊のいる信楽小川城まで警護した。1583年、山口長政が伏見で病没後に起った「小牧、長久手の戦い」では、松平元康方に属した為、羽柴秀吉の怒りを買い山口城を没収され浪人した。山口城は、枝連衆の山口正弘が名跡を継ぎ入城したが、のち加賀国大聖寺城に移ったため廃城となった。

山中俊房【やまなかとしふさ(15??~16??)】 

甲賀郡柏木館主。官途は大和守。甲賀五十三家中もっとも勢力があった上忍の頭領で山中忍びを束ねた。最初は六角義賢、六角氏滅亡後は、織田信長に属して諜報活動に従事した。織田信長の討死後、松平元康の家臣本多正信に仕え間諜網を調えた。甲賀郡の柏木郷に屋敷を構え、伊勢大神宮の領地でもある柏木郷の代官をつとめ、鈴鹿山守護の役目も兼ねた。羽柴秀吉の余命わずかであり、ふたたび大きな戦の起きることを避けることの重要性を山中長俊に説き、羽柴秀吉に仕えていた従弟の山中長俊を調略した。1600年「関ヶ原の役」では、山中長俊が壷谷又五郎と相撃ちになったとき、怒りのあまり逆上し、壺谷又五郎から頸を脇差で掻き切った。

山中長俊【やまなかながとし(1541~1600)】

羽柴秀吉家臣。官途は山城守。通称内匠。甲賀二十七家のひとり。竹中重治から羽柴秀吉に引き合わされ、羽柴秀吉に仕えるようになった。表向きは、羽柴秀吉の御伽衆のち右筆。羽柴秀吉の間諜らを統べる頭領。古今の筆法に通じ、他人の筆跡を巧みに真似て、偽の書状を作成した。後北条家との開戦の口実を作りたい羽柴秀吉と謀り、名胡桃城を後北条家方に攻めさせた。無謀な朝鮮出兵に対し諫言したことで、羽柴秀吉の怒りをかった。天下平穏を説く山中俊房に応じ、羽柴秀吉の側にありながら、松平元康のために働いていくようになった。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康の頸を狙った壺谷又五郎を阻み、相撃ちして果てた。※「真田太平記」by池波正太郎。

由利基幸【ゆりもとゆき(1573~1615)】

真田信繁に仕えた架空の忍衆。真田十勇士のひとり。通称由利鎌之助。鎖鎌と槍の達人。三河国野田城主菅沼新八郎に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」で、羽柴秀吉方に参陣した真田信繁勢に戦いを挑み真田信繁勢を悩ませた。このとき穴山安治と一騎打ちした結果、負けそれ以来真田家臣となった。真田信繁が九度山へ流されてからは、江戸城下で槍の道場を開きながら松平元康の動きを探った。「大坂冬、夏の陣」では、穴山安治、三好兄弟らと共に戦功を挙げた。※「真田太平記」by池波正太郎。

横沢与七【よこざわよしち(15??~15??)】

真田昌幸の草の者。真田の庄の草屋敷を束ねた。向井佐助を、草の者として精魂こめて育てあげた。厳しい鍛錬と、優しい情愛とを、向井佐助に与えた。「危難に遭遇したときは、まず、笑うてみよ」と向井佐助に教えた。草の者として旅立つ向井佐助に、はなむけに大小の刀を贈った。※「真田太平記」by池波正太郎。

横谷幸重【よこたにゆきしげ(15??~15??)】

上野国吾妻郡の忍衆。横谷惣右衛門の男。通称横谷左近。弟に横谷惣左衛門幸秀、横谷庄八郎重氏がいた。横谷家は、元来信濃国上田と上野国沼田の中間辺りを拠点としていた豪族衆であった。真田家に仕えたのち、出浦盛清と吾妻忍び衆の棟梁を務め、雁ヶ沢城を守備した。真田昌幸が参陣した戦のほぼ全てで、真田昌幸を補佐した。1600年「関ヶ原の役」後は真田信之に仕えたが、弟横谷重氏は真田信繁に属した。

世瀬蔵人【よせくらんど(15??~15??)】

安部重定に仕えた忍衆。伊達政宗の諜報機関として安部重定により作られた黒脛巾組の組頭に就任。伊達政宗の諜報を取り仕切っていた世瀬重定に、柳原戸兵衛と共に仕えた。太宰金助、大林坊俊海ら下忍五十人を率いて伊達政宗の戦を裏で支えた。

四井主馬【よついしゅめ(15??~15??)】

前田利家に仕えた忍衆。はじめ甲斐国の武田晴信に仕えた。後に前田利家に仕え、加賀忍衆を率い前田利家の為に働いた。1600年「大聖寺城の戦い」に参陣っして城中に火を放った。

鷲塚佐太夫【わしづかさだゆう(15??~15??)】

真田昌幸に仕えた忍衆。

割田重勝【わりたしげかつ(15??~15??)】

出浦盛清に仕えた忍衆。割田与兵衛の男。官途は下総守。出浦盛清麾下の吾妻衆のひとり。勇猛かつ「第一忍の上手古今無双」と賞された。武田勝頼の沼田城攻めでは、小荷駄奉行として戦功を挙げた。1585年、北条氏直の沼田城攻撃の際、沼田城代矢沢頼綱の麾下で松田憲秀の名馬を奪う戦功を挙げた。

和田嘉兵衛【わだかへい(15??~15??)】

甲賀流の忍衆。1570年、松平元康が織田信長に属して、朝倉義景を攻撃したが、浅井長政が裏切り、織田家勢を狭撃した。織田信長は撤退、松平元康も羽柴秀吉ともに朝倉義景勢の追撃を防ぎながら撤退した。この時伊賀衆と共に和田嘉兵衛が道案内をし危機を脱し得した。1562年、松平元康は、三河国統一後伊賀、甲賀の忍びを多く使った。

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【資料Ⅰ】



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【資料Ⅱ】

江戸三甚内【えどさんじんない】

高坂甚内、鳶沢甚内、庄司甚内。

真田十勇士【さなだじゅうゆうし】

真田信繁に仕えた忍衆。伝承上の架空の人物。真田信繁に仕える忍衆として活躍をしたとされる十人の勇士の総称。「立川文庫」によって創作された。真田十勇士は、真田昌幸、真田信繁の九度山配流から「大坂の夏陣」「大坂冬の陣」までの間で、松平元康の動静を探りながら縦横無尽に活躍する痛快なおもしろさは大好評を博した。真田十勇士は猿飛(佐助)幸吉、霧隠(才蔵)宗連、三好清海入道、三好伊三入道、穴山(小助)安治、由利(鎌之助)基幸、海野(六郎)利一、禰津(甚八)貞盛、望月(六郎)幸忠、筧十蔵。

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【資料Ⅲ】

歩き巫女【あるきみこ】

特定の神社に所属せず、全国各地を遍歴し祈祷、託宣、勧進などを行うことによって生計を立てていた。旅芸人や遊女を兼ねていた歩き巫女も存在した。そのため、遊女の別名である白湯文字、旅女郎とも称された。 鳴弦によって託宣を行う梓巫女、熊野信仰を各地に広めた熊野比丘尼などが知られた。ワカ(若宮と呼ばれる神社に仕えていた巫女)、アガタ、シラヤマミコ、モリコ(山伏の妻)などもおり、総じて神を携帯し各地を渡り歩き竈拂ひや口寄せを行った。

伊賀衆【いがしゅう】

伊賀国の地侍の総称。伊賀国は古琵琶湖層に由来する粘土質の土壌のため、農耕に苦労する土地柄であった。特に、渇水になると深いひびが入り、水田は壊滅的打撃を受ける。そのため、伊賀の者は傭兵として各地に出稼ぎをするようになった。伊賀国守護仁木家の傘下に属しながらも、「伊賀惣国一揆」と称される合議制の強い自治共同体が形成されていた。しかし、実力者である上忍三家(服部、百地、藤林)の発言力が強く、合議を開いても彼らの意見に従うことが多かった。1582年、松平元康は「本能寺の変」の時、堺から岡崎に帰る途中、伊賀越えの際、 伊賀衆に助けられた。関東入国後かれらを江戸に招き、小普請方、明屋敷番、御広敷、山里、忍者などに取立てた。

甲賀衆【こうがしゅう】

近江国甲賀郡の地侍の総称。六角家に属したが、六角家が織田信長に滅ぼされてから織田信長、羽柴秀吉に仕えた。羽柴秀吉没後は松平元康に属した。石田三成の伏見城攻めに敵対するなど松平元康を助け、 これによって幕府の優遇を得た。幕府は関東への移住を勧めたが、 ついに移住せず、土着の郷士に終始した。山中、伴、美濃部、黒川、頓宮、 芥川、佐治、神保、鵜飼、望月、饗庭、多羅尾、高山、小泉、高野家など俗に 甲賀五十三家と称された。

虚無僧【こむそう】

多く有髪で深編笠をかぶり、尺八を奏して托鉢を受けた。禅宗の一派、普化宗の僧で、黒衣に袈裟を懸け、古くは草鞋履き だったが、高下駄を履き、もらい物を入れる偈箱、手甲、 脚絆を身に着け、だんだんと派手になった。普化宗は唐代中国の普化和尚に始り、日本には鎌倉時代に宋から伝わった。1254年、僧覚心(法燈国師)が宋から帰国後、紀伊国に興国寺を開創したのが その始めで、執権北条経時が帰依した下総、一月寺の金先和尚が 尺八を法器と定め、薦僧のスタイルを確立した。下って室町末期に 朗庵(風穴道者)という人が尺八をよくしたことから、弟子が各地に広まり、 時勢と相俟って勢いを得た。武蔵青梅の鈴法寺、下総小金の一月寺が 総本寺格とされ、京都明暗寺も有力寺院だった。

薩摩忍衆【さつましのびしゅう】

薩摩国の金峰衆。1521年、島津忠良は金峰山蔵王権現の神官や山伏等に修業を積ませ、霊術、武術、体術を身につけた薩摩忍衆(くぐり衆)に育て上げた。くぐり衆十人衆(社中)を形勢した。薩摩には開聞社中、霧島社中、新田社中、紫尾社中、冠社中が出来た。

静原冠者【しずはらかんじゃ】

静原冠者は、京北部の静原郷に住む忍者集団。彼らは後白河法皇以前までは朝廷の忍衆として活躍していた。静原冠者を束ねる竜王坊は、後醍醐天皇が八瀬童子へ与えた朝廷の忍衆だという綸旨を奪い、再び静原冠者が朝廷の忍衆に戻ろうと画策した。綸旨を巡り、静原冠者と八瀬童子による争奪戦が繰り広げられた。松平秀忠は、朝廷を武士の配下へ置こうと数々の難題を突きつけた。朝廷を守るはずの八瀬童子は松平秀忠に属して、竜王坊率いる静原冠者と争った。

透波【すっぱ】

乱波(らっぱ)、忍(しのび)、草(くさ)とも称された。戦国武将が用いた 隠密のひとつ。敵領に潜入し、偵察、後方攪乱、夜襲、奇襲に従事し、また その先導役をつとめた。郷士や野武士などから召出し、扶持した。

武田三ツ者【たけだみつもの】

三ッ者は、武田晴信が組織した隠密集団。情報収集を得意とし、この集団を巧みに操り、全国に広域な情報網を張り巡らせた。三ッ者は間見、見方、目付の三職に携わる者の総称で、僧侶や商人など様々に扮装して諸国で情報収集を行い、多くの情報を齎した。収集分野は多岐に渡り、他国の内情や家臣の動向、保有兵力などをはじめ、城主の能力や趣味嗜好、城や砦の造りなどであった。狼煙を主な通信手段として新鮮な情報が逐一、武田晴信の元へ届けられた。武田晴信はこれらの収集した情報を分析し、調略に用いる事で自国に有利な合戦を繰り広げ、常勝軍団を築き上げた。1548年「上田原の戦い」に敗れた武田晴信は三ッ者の諜報能力強化を図るため、地方より様々な職能を持つ者を三ッ者へ取り込んでいき、最盛期には200人を超える大規模な集団へと発展した。浅間神社に仕えた富士御師などもそのひとつ。首領:富田郷左衛門、出浦盛清、秋山十郎兵衛、西山十右衛門。

根来衆【ねごろしゅう(15??~15??)】

紀伊国那賀郡の根来寺の僧兵を中心とする軍事集団。雑賀地方の雑賀衆と共に織田信長、羽柴秀吉と敵対した。1585年、雑賀衆と共に羽柴秀吉に 敗れ去った。最盛期は2,700余の坊舎を数え、安定した領域支配によって 寺領数100,000石に達した。鉄砲伝来と共に製造と使用に習熟し、武装化を進めたが、羽柴秀吉勢に及ばなかった。一部は毛利元就に流れ、また羽柴秀吉没後は松平元康に属して、引続き幕府や紀州松平家に仕えた。

軒猿衆【のきざるしゅう】

長尾景虎に仕えた忍衆。担猿、軒猿(のきざる)。長尾景虎麾下の忍衆。軒猿の名は、中国の神話伝説上の皇帝である黄帝軒轅が由来。越後国、越中国では、郷導、郷談、間士、聞者役などと称された。他の忍者を狩るのを得意としており、武田晴信方の透破、北条氏康方の風魔などを幾度も謀殺した。

風魔衆【ふうましゅう】

風魔小太郎を頭目とする相州乱波であり、足柄山中を縄張りとする忍者集団。後北条家勃興時に姿を現し、各大名に雇われていた伊賀者、甲賀者と戦いを繰り広げ、早雲から北条氏直まで北条家五代の隆盛を影で支えたという。羽柴秀吉の「小田原の役」により後北条家が滅亡し、松平元康が天下を取った後は、盗賊として江戸の町を騒がせた。松平元康は懸賞金をかけて盗賊の長である五代目風魔小太郎を捕らえ処刑した。

八瀬童子【やせどうじ】

山城国愛宕郡八瀬郷に住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁を務めた村落共同体の人々。室町時代以降は天皇の臨時の駕輿丁も務めた。寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため童子と称された。比叡山の寺領に入会権を持ち洛中での薪炭、木工品の販売に特権を認められた。1569年、織田信長は八瀬郷の特権を保護する安堵状を与えた。1603年、江戸幕府の成立に際しても後陽成天皇が八瀬郷の特権は旧来どおりとする綸旨を下した。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

※忍衆に関しては、資料が少ないため著名な本で忍衆として扱われている架空の人物を多数織り交ぜました。

※武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康、真田幸村は真田信繁、山中大和守は山中俊房に統一しています。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「戦国関東名将列伝」隋想社、「(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧」秋田書院、「武田信玄(全4巻)」文春文庫、「武田信玄(全3巻)」講談社、「武田勝頼(全3巻)」講談社、「甲州武田家臣団」新人物往来社、「信濃須田一族」総合出版社歴研。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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