2013年5月18日土曜日

戦国安芸国人名辞典

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【あ】

相合元綱【あいおうもとつな(15??~1524)】

高田郡船山城主。毛利弘元の三男。通称少輔三郎。1522年、毛利元就が毛利惣領家の家督を相続すると、亀井秀綱は尼子経久の意向を受け毛利元就の弟相合元綱を諜略して謀反を起こさせた。1524年、「船山城の戦い」では、相合元綱は渡辺勝、坂広秀らの支援を受けて毛利元就勢と戦ったが討死した。

相嶋光久【あいじまみつひさ(15??~1582)】

毛利元就家臣。通称孫左衛門。1553年、「備後寄国城の戦い」で戦功を挙げた。1582年、「因幡鳥取城の戦い」で敵数名を討取る戦功を挙げたが、組頭の河野元政らととに討死した。

相嶋光宣【あいじまみつのぶ(15??~16??)】

相嶋光久の男。通称仁右衛門尉。1600年、「関ヶ原の役」後、弟相嶋元光、岩倉五郎左衛門尉とともに松平元康勢に引き渡す広島城の荷物の搬出を行った。

相嶋元光【あいじまもとみつ(15??~16??)】

相嶋光久の次男。通称仁右衛門尉。1600年、「関ヶ原の役」後、兄相嶋光宣、岩倉五郎左衛門尉とともに松平元康勢に引き渡す広島城の荷物の搬出を行った。

赤川房信【あかがわふさのぶ(15??~15??)】

毛利弘元家臣。

赤川房景【あかがわふさかげ(15??~15??)】

赤川房信の男。

赤川元光【あかがわもとみつ(15??~15??)】

赤川房信の次男。

赤川就秀【あかがわなりひで(15??~15??)】

赤川房信の三男。官途は筑前守。通称十郎左衛門。室は井上元兼の娘。兄赤川元光の討死により、赤川家の家督を相続した。1523年、毛利幸松丸が病没すると、毛利元就に毛利惣領家の家督相続を要請した。1524年、毛利元就が尼子経久に内応すると、人質として月山富田城に送られた。1525年、毛利元就が再び尼子経久から離反すると、赤川就秀、井上元貞、光永秀時らとともに月山富田城から逃亡を謀るも、尼子経久勢の追撃を受け、赤川就秀以外は討死した。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、毛利元就に従って参陣して先導役を務めた。1555年、「須々万沼城の戦い」で大内義長勢と戦い戦功を挙げた。

赤川元保【あかがわもとやす(15??~1567)】

赤川房信の四男。官途は左京亮。1523年、毛利幸松丸が病没すると、毛利元就に毛利惣領家の家督相続を要請した。兄の赤川就秀とともに毛利元就を支えた。1550年、五奉行制度では毛利隆元の奉行人筆頭に任じられた。毛利元就派の児玉就忠や桂元忠達と対立した。1563年、毛利隆元が和智誠春の饗応を受けた直後、安芸国佐々部で病没すると、、毛利元就の追及を受け自刃させられた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤川元久【あかがわもとひさ(15??~1567)】

赤川房信の五男。通称源左衛門。1550年、福原貞俊以下家臣連署起請文で136番目に連署した。1555年、榊山神社に神田を寄進した。1567年、毛利元就の意向を受け兄赤川元保が自刃すると、謀殺された。

赤川元秀【あかがわもとひで(15??~15??)】

赤川就秀の男。1540年、「吉田郡山城の戦い」に参陣して尼子晴久勢と戦い戦功を挙げた。1568年、「筑前立花城の戦い」では、陣奉行を務めた。1572年、年寄衆に任じられた。1580年、備後福山城代に任じられた。

赤川元徳【あかがわもとのり(15??~1562)】

毛利元就家臣。通称又右衛門。、別名赤川元吉。1550年、福原貞俊以下家臣連署起請文で135番目に連署した。冷泉元豊、桂元親とともに門司城の在番を務めた。1562年、「豊前門司城の戦い」で戸次鑑連勢の攻撃を受け冷泉元豊らとともに討死した。

赤川元秀【あかがわ(15??~15??)】

赤川就秀の男。

赤川安近【あかがわ(15??~15??)】

赤川就秀の次男。

赤川元通【あかがわ(15??~15??)】

赤川就秀の三男。

赤川忠近【あかがわただちか(15??~15??)】

赤川吉忠の男。通称七郎左衛門。1550年、福原貞俊以下家臣連署起請文で137番目に連署した。

赤川元忠【あかがわもとただ(15??~15??)】

赤川吉忠の次男。通称又六。

赤川吉次【あかがわ(15??~15??)】

赤川元忠の次男(赤川忠近の養子)。

赤川又次郎【あかがわまたじろう(15??~15??)】

毛利元就家臣。1550年、福原貞俊以下家臣連署起請文で210番目に連署した。

赤川又七郎【あかがわまたしちろう(15??~15??)】

毛利元就家臣。1550年、福原貞俊以下家臣連署起請文で209番目に連署した。

秋山親吉【あきやまちかよし(15??~15??)】

毛利元就家臣。官途は信濃守。1543年、「第一次月山富田城の戦い」では、南方親定とともに兵300余りで月山富田城を攻撃したが、富田川の増水で取り残された。尼子晴久勢の反撃を受け危機に陥るも、毛利元就勢の支援により窮地を脱した。

秋山元継【あきやまもとつぐ(15??~15??)】

毛利元就家臣。官途は掃部助。1543年、「第一次月山富田城の戦い」では、南方親定とともに兵300余りで月山富田城を攻撃したが、富田川の増水で取り残された。尼子晴久勢の反撃を受け危機に陥るも、毛利元就勢の支援により窮地を脱した。
1550年、三田元親とともに毛利元就に連署起請文を提出した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、毛利元就に従って参陣した。

秋広就正【あきひろなりまさ(15??~15??)】

毛利元就家臣。官途は式部少輔。1550年、福原貞俊以下家臣連署起請文で5番目に連署した。

朝枝久種【あさえだひさたね(15??~15??)】

吉川元春家臣。官途は加賀守。別名朝枝春元。1580年、「第一次鳥取城の戦い」で羽柴秀吉勢の攻撃を受け、山名豊国が降伏に反対する中村春続と森下道誉に追放されると、吉川元春の意向を受けて牛尾元貞、市川雅楽充らとともに鳥取城を守備した。

芥川就記【あくたがわなりのり(15??~15??)】

毛利元就家臣。官途は雅楽丞。1553年、「備後江田城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。

浅原与二郎【あしはらよじろう(15??~15??)】

毛利元就家臣。1550年、福原貞俊以下家臣連署起請文で60番目に連署した。

阿曾沼弘秀【あそぬまひろひで(15??~15??)】

安芸郡鳥籠山城主。官途は近江守。1527年、「鳥籠山城の戦い」で大内義隆、毛利元就勢の攻撃を受けた。

阿曾沼隆郷【あそぬまたかさと(15??~1551)】

阿曾沼弘秀の男。大内義隆に人質として預けられた時期、大内義隆の寵愛を受けた。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢に謀殺されると毛利元就、久芳賢直らに居城を攻撃された。この時既に家中は分裂しており、阿曾沼隆郷の弟阿曾沼広秀を擁立した宿老達に隠居を強制され、その後謀殺された。

阿曾沼広秀【あそぬまひろひで(15??~15??)】

阿曾沼弘秀の次男。室は田総元里の娘。1523年、阿曽沼広秀は大内義興を離反して尼子経久に属した。1527年、「鳥籠山城の戦い」で陶晴賢勢に攻撃を受け降伏した。1551年、「鳥籠山城の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受けると、兄阿曾沼隆郷を廃嫡にして、阿曾沼家の家督を相続した。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢に謀殺されると毛利元就に属した。1555年、「厳島の戦い」では、毛利元就勢に属して戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿曾沼元秀【あそぬまもとひで(15??~1597)】

阿曾沼広秀の男。官途は豊後守。1592年、「文禄の役」で周布元盛、市川元直、都野家頼、天野元信、吉見元頼らとともに末次元康勢に従った。1597年、「蔚山城の戦い」で冷泉元満、都野家頼らとともに討死した。

阿曾沼興郷【あそぬまおきさと(15??~15??)】

阿曾沼弘秀家臣。檜木城主。官途は豊後守。1537年、切幡神社の神殿を再造した。

天野隆重【あまのたかしげ(1503~1584)】

賀茂郡志和堀城主。天野元貞の男。官途は紀伊守。室は福原広俊の娘。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢に謀殺されると毛利元就勢に属した。1555年、「厳島の戦い」でも毛利元就に従って参陣して戦功を挙げた。1567年、月山富田城代に任じられた。1569年、「月山富田城の戦い」では、毛利元就が北九州で大友義鎮勢との対陣中に尼子勝久勢の攻撃を受けた。天野隆重は毛利元秋とともに奇襲をかけ尼子勝久の家臣秋上久家勢を撃破した。山中幸盛、立原久綱らの攻撃も撃破した。これにより、尼子勝久勢の戦意は失われ、城攻めは膠着状態に陥った。毛利元就勢が出雲国に侵攻すると、尼子勝久勢は四散した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

天野隆良【あまのたかよし(15??~1551)】

天野元貞の次男。大内義隆の近習として仕えた。1551年、「大寧寺の変」では、陶晴賢勢の攻撃を受け大内義隆とともに山口から落延びた。大寧寺で陶晴賢勢に包囲され冷泉隆豊、黒川隆像、岡部隆景、大田隆通、岡屋隆秀、祢宜右延、小幡義実らとともに奮戦し討死した。辞世の句は「不来不去 無死無生 今日雲晴れて 峰頭月明らかなり」。

天野元明【あまのもとあき(15??~15??)】

天野隆重の男。室は熊谷信直の娘。父天野隆重とともに尼子勝久勢との戦いで戦功を挙げた。1578年、「播磨上月城の戦い」では、吉川元春に従って参陣して羽柴秀吉勢と戦った。降伏した山中幸盛の身柄を安芸国へ護送する途中、家臣の河村新左衛門、福間彦右衛門に命じてこれを謀殺した。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元の防長移封に従ったが、まもなく病没した。

天野元友【あまのもととも(15??~15??)】

天野隆重の四男。官途は雅楽允。毛利隆元の馬廻衆を務めた。1558年、「月山富田城の戦い」では、尼子勝久勢の攻撃を受け父天野隆重とともにこれを撃退した。この戦功により、出雲国内で100貫の加増を受けた。

天野元信【あまのもとのぶ(15??~1605)】

天野隆重の六男(天野元明の養子)。天野家の家督を相続した。岳父熊谷元直の影響を受け切支丹に改宗した。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元の防長移封に従った。萩城築城で益田元祥の家臣が工事用の石材を盗んだとして争った。1605年、毛利輝元から基督教の棄教を命じられたが応じなかった、萩城築城の遅れを口実に岳父熊谷元直他10名とともに処罰され、天野元信も自刃した。この粛清で天野元信の継嗣天野与吉、娘の於快、くまら四人の幼子も謀殺された。

天野興定【あまのおきさだ(1476~1541)】

安芸郡生城山城主。天野興次の男。1523年、大内義興から離反し尼子経久勢に属した。大内義興の家臣陶興房勢の攻撃を受け、滅亡寸前にまで追い込まれた。1525年、毛利元就の仲介で和議を結び、以後毛利元就に属した。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、毛利元就勢に属して尼子晴久勢と戦った。1541年、「佐東銀山城の戦い」では、武田信重勢と戦ったが、まもなく病没した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

天野隆綱【あまのたかつな(15??~1555)】

天野興定の男(天野元貞の養子)。毛利隆元と兄弟の契りを交わした。1541年、父天野興定が病没したため、天野家の家督を相続した。1553年、毛利元就に従い石見赤城山城を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

天野元定【あまのもとさだ(15??~1569)】

天野興定の次男。1555年、兄天野隆綱が病死したため、天野家の家督を相続したすると、毛利元就に緑井、舟木、中山の地を返還した。1557年、毛利元就から内村を与えられた。

天野元政【あまのもとまさ(1559~1609)】

毛利元就の七男(天野元定、右田隆量の養子)。官途は讃岐守。別名毛利元政。室は阿曾沼元秀の娘。1569年、天野元定が病没後、天野家の家督争いが起ると、毛利元就が七男の天野元政を天野元定の婿養嗣子として家督を継がせ争いを収拾した。1578年、「播磨上月城の戦い」で毛利輝元に従って参陣して戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元の防長二ヶ国に減封になるとそれに従った。1603年、周防国佐波郡右田城13,000石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

天野元倶【あまのもととも(1585~1645)】

天野元政の男。官途は山城守。通称忠三郎。別名毛利元倶。室は宍戸元続の娘。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。父天野元政の遺命として天野元重を謀殺した。毛利秀就に仕え加判役、御国留守居を務めた。1628年、領内に郷校時観園を設立して学問を振興した。

天野元雅【あまのもとまさ(15??~15??)】

天野元政の次男。

天野元嘉【あまのもとかね(15??~15??)】

天野元政の三男。

天野元勝【あまのもとかつ(15??~15??)】

小早川秀包家臣。官途は兵部少輔。通称九郎左衛門。小早川秀包に仕えて1,000石を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、小早川秀包に従って参陣した。

天野元重【あまのもとしげ(15??~15??)】

毛利輝元家臣。通称彦左衛門尉。1597年、「蔚山城の戦い」では、桂元綱、祖式元勝、祖式友兼、井上元辰、八幡原元直とともに明国勢と戦った。

有田弥七郎【ありたよしちろう(15??~15??)】

毛利輝元家臣。海賊衆。1600年、「関ヶ原の役」では、村上武吉に従って参陣して、松平元康勢の九鬼嘉隆の海賊勢と戦った。

粟屋元秀【あわやもとひで(15??~15??)】

毛利元就家臣。官途は縫殿允。別名粟屋元国。1507年、大内義興に属して参陣した毛利興元に従い上洛した。1517年、「有田の戦い」では、毛利元就に従って参陣して戦功を挙げた。1523年、毛利幸松丸が夭折すると、毛利元就と相合元綱との間に、後継者争いが勃発した。志道広良の意向を受けて、上洛して足利義晴の支持を取り付け、毛利元就に家督を相続させた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

粟屋元宗【あわやもとむね(15??~15??)】

粟屋元秀の男。

粟屋元通【あわやもとみち(15??~15??)】

粟屋元宗の男。官途は備前守。通称弥三郎。1548年、「備後神辺城の戦い」では、大内義隆に従って山名理興勢と戦った。1555年、「周防須々万沼城の戦い」で毛利元就に従って山崎興盛、江良賢宣らと戦い戦功を挙げた。周防国岩国の代官職も務めた。桂就宣らとともに備中飯山城の守将を務め、宇喜多直家勢に備えた。

粟屋元親【あわやもとちか(15??~1561)】

粟屋元宗の三男。官途は備前守。通称弥三郎。1540年、「頭崎城の戦い」で平賀隆保勢と戦った。「吉田郡山城の戦い」で大内義隆勢に従って参陣して戦功を挙げた。1555年、「厳島の戦い」で毛利元就に従って参陣して戦功を挙げた。毛利隆元の側近として内政面にも優れ、毛利家の五奉行制度が成立すると、赤川元保、国司元相、桂元忠、児玉就忠らとともに活躍した。

粟屋元豊【あわやもととよ(15??~1615)】

内藤元盛の次男(粟屋孝春の養子)。叔父粟屋孝春から家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」で父内藤元盛(佐野道可)が羽柴秀頼勢に属して参陣して討死したため、役後兄内藤元珍とともに京都に召還された。大坂城に入城しなかったため、許されて長門国に帰国した。吉川広家、福原広俊らの進言を受けた毛利輝元の意向により自刃した。

粟屋就幸【あわやなりゆき(15??~15??)】

粟屋元好の男。官途は伯耆守。吉川元春の附家老職を務めた。

粟屋盛忠【あわやもりただ(15??~15??)】

粟屋元方の男。1544年、毛利元就の意向を受け小早川隆景の附家老職を務めた。

粟屋元貞【あわやもとさだ(15??~15??)】

粟屋盛忠の次男(粟屋元種の養子)。摂津国木津城の城将に任じられた・。

新見景行【あわやかげゆき(15??~15??)】

粟屋盛忠の次男。

粟屋景雄【あわやかげたか(15??~15??)】

粟屋盛忠の三男。粟屋元貞の弟。小早川軍の先陣大将。隆景の死後、毛利家に復帰するが外様扱いにより出奔。

粟屋元利【あわやもととし(15??~15??)】

小早川隆景家臣。1582年、三原城代官職を務めた。

粟屋元宣【あわやもとのぶ(15??~15??)】

毛利元就家臣。別名粟屋元種。市川経好の附家老職を務めた。1568年、「周防高嶺城の戦い」で大内輝弘勢を撃退する戦功を挙げた。

粟屋元信【あわやもとのぶ(15??~1579)】

粟屋元宣の男。1575年、「播磨上月城の戦い」では、小早川隆景に従って参陣した。1579年、「備中賀茂城の戦い」で宇喜多直家勢と戦い討死した。

粟屋元如【あわやもとにょう(15??~15??)】

粟屋元親の三男(正覚寺守恩の養子)。通称右近允。1576年、「第一次木津川河口の戦い」で参陣して織田信長勢と戦い戦功を挙げた。1578年、讃岐元吉城の在番を務めた。

安国寺恵瓊【あんこくじえけい(1537~1600)】

武田信重の男。臨済宗の僧。別名「黒衣の宰相」。1541年、「佐東銀山城の戦い」で武田信重が滅亡すると、安国寺に入り竺雲恵心の子弟となった。毛利隆元の信任を得て、安芸国安国寺、備後国鞆の安国寺の住持を兼ね、外交僧として活躍した。1582年、「備中高松城の戦い」では、毛利輝元と羽柴秀吉の和議を進め、羽柴秀吉の信任を得た。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉の外交僧としても活躍して伊予国和気郡内23,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、毛利輝元を石田三成勢の総大将に担ぎ上げた。「関ヶ原の戦い」では、松平元康に内応した吉川広家に行く手をふさがれ戦うことなく敗北した。役後松平元康勢に捕縛され石田三成、小西行長らとともに京都三条河原で斬頸に処された。辞世の句は「清風は明月を払い 明月は清風を払う」。

飯田義武【いいだよしたけ(15??~1592)】

佐東郡草津城主。官途は越中守。通称七郎右衛門。1541年、「佐東銀山城の戦い」で毛利元就が武田信重を滅ぼすと、大内義隆から佐東川下流域を加増された。毛利元就は、児玉就方とともに川之内警固衆を統率させ、福井元信と山県就相を寄騎衆とした。1554年、毛利元就と陶晴賢との対立すると、川之内警固衆を率いて、陶晴賢勢の警固衆と戦った。1555年、「厳島の戦い」では、毛利元就勢を厳島の裏側の包ヶ浦に上陸させた。大友義鎮と北九州の利権を巡って争うと、飯田義武も参陣し、北九州各地で大友家海賊衆と戦った。1576年、「第一次木津川口の戦い」にも参陣し、石山本願寺への兵糧運び入れを成功させた。

飯田元親【いいだもとちか(15??~15??)】

児玉元良の次男(飯田義武の養子)。通称四郎次郎。1516年、「有田の戦い」で武田信繁勢と戦いで戦功を挙げた。1535年、兄飯田元親が病没したため、飯田家の家督を相続した。1540年、「吉田郡山城の戦い」で毛利元就に従って参陣して尼子晴久勢と戦った。1554年、「折敷畑の戦い」では、毛利元就に従い陶晴賢の家臣宮川房長勢と戦い戦功を挙げた。

飯田元重【いいだもとしげ(15??~1535)】

児玉元良の三男(飯田元親の養子)。1516年、「有田の戦い」で武田信繁勢と戦いで戦功を挙げた。後に他の一四人の家老衆とともに毛利元就に毛利家惣領職の相続を要請した。

飯田尊継【いいだたかつぐ(15??~1590)】

小早川隆景家臣。官途は讃岐守。京都公卿衆。安芸国に下向した。1582年、三原城下の整備に携わった。小早川隆景の意向を受け磯兼景道や粟屋元利とともに交代で城下を巡回した。安芸沼田新庄、本郷、小坂郷、長門国舟木、周防国大崎等33貫900文余りを領した。

飯田景利【いいだかげとし(15??~15??)】

飯田尊継の男。1597年、小早川隆景が病没すると、毛利輝元に仕えた。
 
生口景宗【いくちかげむね(15??~15??)】

小早川隆景家臣。豊田郡茶臼山城主。通称孫三郎。生口島の海賊衆。瀬戸田城は瀬戸内海屈指の水運拠点であり、商人と結びついて水運に関わっていた。毛利家出身の小早川隆景が沼田、竹原の両小早川を継承するころから、海賊衆としての自立傾向を強めた。1555年、「厳島の戦い」では、毛利元就を支援するため海賊衆を率いて参陣した。

生口景守【いくちかげもり(15??~15??)】

生口景宗の男。官途は刑部丞。通称孫三郎。1555年、「厳島の戦い」では、村上武吉、村上通康、村上吉充らとともに、毛利元就勢に属して陶晴賢と戦った。以後、村上武吉、村上吉充、乃美宗勝らとともに毛利元就勢の海賊衆の中核になった。1561年、「豊前蓑島の戦い」でも、毛利元就勢に属して大友義鎮勢と戦った。1576年、「第一次木津川口の戦い」では、織田信長勢が攻囲する石山本願寺への兵糧を運搬して、織田信長勢の海賊衆を撃破った。

生口加賀守【いくちかがのかみ(1560~1596)】

生口景守家臣。

生口三河守【いぐちみかわのかみ(1575~1598)】

生口景守家臣。

生口孫九郎【いぐちまごくろう(1601~1617)】

生口景守家臣。

石田喜右衛門【いしだきざえもん(15??~15??)】

毛利輝元家臣。1600年、大久保長安に石見銀山の産出状況について報告書を出した。

石井就世【いしだなりせ(15??~1603)】

毛利元就家臣。石井城主。1562年、「第二次月山富田城の戦い」に参陣したが、毛利輝元から勘気を受け府中に戻った。

伊志春盛【いしはるもり(15??~15??)】

吉川広家家臣。官途は美作守。1590年、吉川広家の意向を受け広島城築城を支援した。

板垣繁任【いたがきしげこれ(15??~15??)】

武田元繁家臣。1533年、「三入高松城の戦い」で武田光和に従って品川信定、伴繁清、香川光景、己斐直之、山田重任、温科家行、飯田義武らとともに熊谷信直勢と戦ったが大敗した。

市川経好【いちかわつねよし(1520~1584)】

吉川経世の男。官途は式部少輔。室は宮庄基友の娘(市川局)。1547年、毛利元就の次男吉川元春を吉川興経の養子にすることに尽力し、毛利元就の信頼を得た。1557年、周防高嶺城を領して山口奉行職を務めた。1569年、「高嶺城の戦い」では、大友義鎮の支援を受けた大内輝弘勢の攻撃を受けた。北九州に参陣中の市川経好に変わり内室の市川局は少数の城兵を指揮して大内輝弘勢を撃退した。1578年、継嗣の市川元教が大友義鎮に内通したため、これを謀殺した。

市川元教【いちかわもとのり(15??~1578)】

市川経好の男。通称七郎。1578年、大友義鎮に内応したため、父市川経好の意向を受けた雑賀隆利に謀殺された。
 
市川元好【いちかわもとよし(15??~15??)】

市川経好の次男。兄市川元教が誅殺されたため、市川家の家督を相続した。

市川隆久【いちかわたかひさ(15??~1581)】

市川経好の三男。官途は兵部少輔。別名吉川隆久。1581年、「第二次鳥取城の戦い」で羽柴秀吉勢の攻撃を受け自刃した。

市川雅楽充【いちかわうたのじょう(15??~15??)】

吉川元春家臣。1580年、「第一次鳥取城の戦い」で羽柴秀吉勢の攻撃を受けると、降伏を望む山名豊国を追放して中村春続、森下道誉らが抵抗を続けた。吉川元春の意向を受け吉川経家、朝枝春元らとともに鳥取城に籠城した。1581年、「第二次鳥取城の戦い」で羽柴秀吉勢の攻撃を受け降伏した。

市川孫五郎【いちかわまごごろう(15??~15??)】

毛利元就家臣。鉄炮衆。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で尼子義久勢の二人の敵将を鉄炮で討取った。

糸賀藤棟【いとがふじむね(15??~15??)】

友田興藤家臣。官途は中務丞。新堤築造などの開発事業にも携わった。1524年、「桜尾城の戦い」では、弟糸賀宣棟とともに友田興藤に従って大内義隆勢と戦い戦功を挙げた。1545年、「桜尾城の戦い」で友田興藤が滅亡すると大内義隆から厳島神主職に任じられた佐伯景教(杉隆真)から佐西郡平良庄内に所領を与えられた。

糸賀宣棟【いとがのりむね(15??~15??)】

糸賀藤棟の弟。廿日市の流通課税を徴収し、神主家の財政を支える重要な立場であった。1524年、「桜尾城の戦い」では、兄糸賀藤棟とともに友田興藤に従って大内義隆勢と戦い戦功を挙げた。1554年、毛利元就が大内義長勢と戦うと、毛利元就勢に属した。

井上光兼【いのうえみつかね(1463~1550)】

高田郡天神山城主。毛利弘元家臣。官途は河内守。通称新三郎。武勇の誉れたかく、毛利の家紋着用を許された。1507年、毛利元就が大方殿に連れられて井上光兼の屋敷に行き、訪れていた僧侶から念仏の伝授を受けた。1550年、毛利元就の意向を受けた小早川隆景に継嗣の井上元兼が謀殺された。

井上元兼【いのうえもとかね(1486~1550)】

井上光兼の男。通称弥坂兵衛。毛利弘元に仕え勘定奉行職を務めた。1523年、毛利元就の毛利家惣領家の家督を相続を井上就在、井上元盛、井上元貞、井上元吉らともに支持した。1550年、毛利元就の意向を受けた小早川隆景に継嗣の井上就兼とともに謀殺された。

井上元盛【いのうえもともり(15??~1550)】

井上光兼の次男。官途は中務丞。毛利元就領の猿掛城300貫を横領した。1523年、毛利元就に毛利家惣領職の家督相続を要請した。1550年、井上元兼とともに
毛利元就の意向を受けた小早川隆景に謀殺された。

井上元光【いのうえもとみつ(15??~15??)】

井上光兼の三男。室は毛利弘元の娘。1550年、井上元兼が謀殺後、毛利元就から井上家の家督相続を許された。

井上就重【いのうえなりしげ(15??~15??)】

井上光兼の五男。1550年、井上元兼が謀殺後、毛利元就に仕え奉行衆として功を挙げた。

井上就正【いのうえなりまさ(15??~15??)】

井上元兼の六男。官途は和泉守。通称源右衛門。室は三吉広隆の娘。1550年、父井上元兼が謀殺されると、毛利元就に忠誠を誓い討伐を免れた。叔父の井上元盛の旧領を相続した。1551年、「平賀城の戦い」で戦功を挙げた。豊前小倉津の検使、出雲新山城の普請奉行などを務めた。

井上元勝【いのうえもとかつ(15??~1580)】

井上就正の男。1580年、「備中加茂城の戦い」で宇喜多直家勢と戦い討死した。

井上就貞【いのうえなりさだ(15??~1569)】

毛利元就家臣。通称善兵衛。1557年、大内義長が滅亡すると、山口奉行職に任じられた。1569年、「周防梅ノ木峠の戦い」で大内輝弘勢と戦い討死した。

井上就兼【いのうえなりかね(15??~1550)】

井上元兼の男。通称源五郎。1550年、吉田郡山城内で桂就延に謀殺された。

井上就澄【いのうえなりずみ(15??~1550)】

井上元兼の次男。1550年、「井上館の戦い」で福原貞俊、桂元澄勢300余りの攻撃を受け自刃した。

井上俊久【いのうえとしひさ(15??~15??)】

井上元盛の男。官途は肥後守。1550年、父井上元兼が謀殺されると、旧毛利元就領だった猿掛城300貫を返還した。

井上有景【いのうえありかげ(15??~15??)】

井上元兼家臣。1523年、志道広良の意向を受け国司有相とともに猿掛城に入り、毛利元就に毛利惣領家の家督相続を願い出た。
 
井上光政【いのうえみつまさ(15??~15??)】

井上元兼家臣。通称左衛門尉。1517年、「有田の戦い」では、毛利元就に従って参陣して武田元繁勢と戦い武田元繁を討取る戦功を挙げた。
 
井上元有【いのうえもとあり(15??~1550)】

井上元兼家臣。別名井上元景。1550年、弟の井上元重、継嗣の井上与四郎とともに毛利元就の意向を受けた小早川隆景に謀殺された。

井上光俊【いのうえみつとし(15??~15??)】

井上元兼家臣。1550年、井上元兼の謀殺後も毛利元就に仕えた。1549年、毛利元就が家督を毛利隆元に譲るため報告に山口の大内義隆のもとに赴く毛利元就に粟屋元信とともに従った。
 
井上春忠【いのうえはるただ(15??~15??)】

小早川隆景家臣。井上資明の男(井上秀俊の養子)。官途は伯耆守。通称又右衛門尉。1550年、井上元兼が謀殺されたあとも毛利元就に仕えた。小早川隆景の附家老職を務めた。1573年、安国寺恵瓊が足利義昭の処遇についての報告書を提出した。1597年、小早川 隆景が病没すると、毛利輝元に仕えたが外様衆の扱いを受け出奔した。1601年、継嗣の井上景資とともに毛利輝元のもとを出奔した。

井上景資【いのうえかげすけ(15??~15??)】

井上春忠の男。通称五郎兵衛。1597年、小早川隆景が病没すると、毛利輝元に仕えるが外様衆の扱いを受けた。1601年、毛利輝元のもとを父井上春忠とともに出奔した。

井上利宅【いのうえとしたく(15??~1576)】

毛利元就家臣。1544年、毛利元就の意向を受け小早川隆景の附家老職を務めた。

井上景家【いのうえかげいえ(1568~1636)】

井上利宅の男。御旗奉行を務めた。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で小早川隆景に従って参陣した。1592年、「文禄の役」で小早川隆景に従って参陣した。

井上俊秀【いのうえとしひで(15??~15??)】

井上元兼家臣。1550年、井上元兼が謀殺されると、旧毛利元就領だった猿掛城300貫の返還を行った。

井上長門守【いのうえながとのかみ(15??~15??)】

毛利元就家臣。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、中原善右衛門とともに風越山の尼子晴久の本陣を攻撃して兵糧を焼き払う戦功を挙げた。

今井越中守【いまいえっちゅうのかみ(15??~16??)】

毛利元就家臣。代官職を務めた。1599年、佐世石見守の意向を受け銀30,000枚を採掘した。1600年、石見銀山の採掘状況を大久保長安に報告した。

今田経高【いまだつねたか(1525~1604)】

吉川経世の次男(山県光頼の養子)。別名山県孫四郎。室は山県光頼の娘。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久勢に属した吉川興経に従って参陣したが、敗走する吉川興経勢の殿を務め戦功を挙げた。1547年、吉川元春の吉川家の家督相続を父の吉川経世とともに支持した。1575年、「備中兵乱」で三村元親の家臣三村元範が守る楪城を攻落とし、その城代を務めた。1586年、吉川元春が病没すると吉川元長に仕えた。1587年、吉川元長が病没すると吉川広家に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」後、吉川広家が岩国城に転封に従った。

今田宗与【いまだむねよ(15??~15??)】

吉川経家家臣。1581年、「第二次鳥取城の戦い」では、吉川経家に従って野田晴実らとともに鳥取城に籠城した。

岩倉五郎左衛門尉【いわくらごろうえもんのじょう(15??~16??)】

毛利輝元家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、相嶋光宣、相嶋光宣とともに松平元康勢に引き渡す広島城の荷物の搬出を行った。

石見源之丞【いわみげんのじょう(15??~15??)】

大内義隆家臣。岩山城主。1554年、「岩山城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け落城した。

植木五郎兵衛尉【うえきごろうびょうぶのじょう(15??~15??)】

安国寺恵瓊家臣。

鵜飼元辰【うがいもととき(15??~1599)】

小早川隆景家臣。岩内長明の男。通称新右衛門尉。室は田坂義詮の娘。近江国の猿楽師出身、井上春忠、桂景種らとともに小早川隆景の奉行職を務めた。1597年、小早川隆景が病没すると毛利輝元に仕えた。1599年、外様扱いを受けるのを嫌い出奔を図ったが発覚、毛利輝元の意向を受け自刃した。

宇多田藤右衛門尉【うただとうえもんのじょう(15??~15??)】

毛利元就家臣。別名飛落小次郎。弓や鉄炮に優れ、飛ぶ鳥を落とすほどの名人。後に戦功によって士分に取り立てられ鉄炮組頭に任じられた。永禄六年、鉄炮衆200余りを率いて尼子勝久勢の補給船を警戒した。

牛尾春重【うしおはるしげ(15??~15??)】

吉川元春家臣。通称大蔵左衛門。1570年、平田城代を務め、高瀬城主米原綱寛と対峙した。因幡若桜鬼ヶ城主に任じられた。1580年、「第一次鳥取城の戦い」で山名豊国が追放されると、鳥取城主に任じられるが負傷して本国に帰還した。

上山元忠【うやまもとただ(15??~15??)】

吉川元春家臣。官途は兵庫介。1562年、平佐藤左衛門、吉川経安、山県左京、平佐就之(銀山奉行)らとともに本城常光を謀殺後、山吹城を接収し、山吹城に城番した。1582年、「備中高松城の戦い」では、高松城を支援のため、桂広繁とともにて加茂城に籠城した。

江田因幡守【えだいなばのかみ(15??~15??)】

吉川興経家臣。小倉山城留守居役。吉川興経の隠居に反対し、小倉山城引き渡しが迫ると自刃した。

江田智次【えだともつぐ(15??~15??)】

吉川元春家臣。官途は宮内大輔。繁沢元氏の附家老職に任じられた。

襟懸福寿【えりがけふくじゅ(15??~15??)】

安国寺恵瓊家臣。

大朝家経【おおあさいえつね(15??~1542)】

山県郡平家村館主。吉川元経の男。官途は播磨守。別名吉川家経。1542年、謀反を起こし討死した。

大塩右衛門尉【おおしおうえもんのじょう(15??~1546)】

吉川興経家臣。吉川興経から吉川家の家政を任されるも、悪政を行ったため吉川経世らに討取られた。

大塚経長【おおつかつねなが(15??~1518)】

吉川国経家臣。吉川国経の男。官途は大蔵大輔。別名吉川経長。1518年、「備後赤屋の戦い」で討死した。

大塚義満【おおつかよしみつ(15??~15??)】

武田元繁家臣。岸城主。通称四郎兵衛。

大野弾正少弼【おおのだんじょうしょうひつ(15??~15??)】

藤原興親家臣。佐西郡大野河内城主。厳島神領衆。1508年、藤原興親が病没後、厳島神領衆が東方衆と西方衆に分かれて争った。1515年、「大野河内城の戦い」では、東方衆に加勢した武田元繁勢の攻撃を受け降伏した。1518年、京都から帰国した大内義興は、桜尾城、己斐城を攻略して厳島神領を支配下に置いた。1523年、「桜尾城の戦い」で友田興藤が桜尾城で挙兵すると、友田興藤に従って大野河内城に籠城した。1524年、「大野河内城の戦い」で大内義興の家臣陶興房、弘中下野守らに内応したため、友田興藤、武田光和勢は総崩れとなり大敗した。

大林隆廉【おおばやしたかかど(15??~15??)】

大内義隆家臣。安芸郡槌山城主。官途は和泉守。1554年、「槌山城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け降伏した。

小方元康【おがたもとやす(15??~15??)】

大内義隆家臣。佐伯郡瀬田城山城主。官途は兵部少輔。1555年、「周防鞍掛山城の戦い」で杉隆泰を討取る戦功を挙げた。

小方加賀守【おがたかがのかみ(15??~15??)】

藤原興親家臣。藤掛尾城主。1512年、大内義興に従って上洛した藤原興親が京都で病没すると、友田興藤と厳島神主家の家督を巡って争った。「藤懸ノ城の戦い」では、小方加賀守勢が籠城して友田興藤勢と戦った。

小方隆忠【おがたたかただ(15??~15??)】

小方加賀守の男。大内義隆に仕えた。のちに毛利元就に仕えた。

小方與康【おがたおきやす(15??~15??)】

小方加賀守家臣。官途は対馬守。大内義隆に仕えて厳島神領の代官職を務めた。

小倉元悦【おぐらもとえつ(15??~15??)】

毛利元就家臣。1583年、「賤ヶ岳の戦い」後、羽柴秀吉と毛利輝元の取次役を務めた。 因幡国、伯耆国の代官職に任じられた井上就重を林就長とともに補佐を行った。

小田信忠【おだのぶただ(15??~15??)】

山県郡有田城主。1515年 「第一次有田城の戦い」で毛利元就、吉川国経らの攻撃を受け落城した。1517年、「有田の戦い」では、武田元繁勢の攻撃を受けるが、毛利元就の支援を受け撃退した。

小田景範【おだかげのり(15??~1572)】

沼田小早川繁平家臣。小田真光の男。

小野山十郎【おのやまじゅうろう(15??~15??)】

大内義隆家臣。屋代島衆。1523年、「桜尾城の戦い」で武田光和勢の攻撃を受けた大藤加賀守を支援するため、沓屋通種とともに五枚帆の関船で参陣した。

温科国親【おんかくにちか(14??~1499)】

武田元信家臣。1499年、「永町山城の戦い」で武田元信に謀反を企てたが、武田元信の攻撃を受け討死した。

温科家行【おんかいえゆき(15??~15??)】

武田元繁家臣。永町山城主。通称左衛門。1533年、「三入高松城の戦い」で武田光和に従って品川信定、伴繁清、香川光景、己斐直之、山田重任、飯田義武、板垣繁任らとともに熊谷信直勢と戦ったが大敗した。

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【か】

安芸香川吉景【かがわよしかげ(14??~15??)】

佐伯郡八木城主。武田元繁家臣。川之内海賊衆。1524年、「佐東銀山城の戦い」で武田光和が大内義興勢の攻撃を受けると熊谷信直らとともに大内義興勢を撃退した。

安芸香川行景【かがわゆきかげ(14??~1517)】

香川吉景の男。通称兵庫介。父香川吉景の隠居により、香川家の家督を相続した。1517年、「有田城の戦い」で武田元繁に従い参陣して小田信忠勢と戦った。「有田の戦い」では、小田信忠を支援する毛利元就勢と戦った。熊谷元直、武田元繁が討死すると、己斐宗瑞とともに毛利元就勢に突撃して討死した

安芸香川元景【かがわもとかげ(15??~15??)】

香川吉景の次男。室は平賀興貞の娘。1517年、「有田の戦い」で兄香川行景が武田元繁ともに討死したため、香川家の家督を相続した。1524年、「佐東銀山城の戦い」で武田光和が大内義興勢の攻撃を受けると父香川吉景、熊谷信直らとともに大内義興勢を撃退した。

安芸香川光景【かがわみつかげ(1502~1605)】

香川元景の男。官途は左衛門尉。通称五郎左衛門尉。室は伴繁清の娘。1531年、「三入高松城の戦い」では、武田光和に従って己斐直之らとともに熊谷信直、熊谷直続勢と戦ったが大敗した。武田光和が病没したため、若狭武田家から武田信実を養子として迎えた。1533年、「八木城の戦い」で品川信定勢の攻撃を受けたが熊谷信直、福島親長、己斐直之らの支援を受け撃退した。1540年、「吉田郡山城の戦い」で尼子晴久勢が大敗すると、武田信実が出雲国へ落延び佐東銀山城は落城した。熊谷信直らとともに旧武田家中をまとめ毛利元就勢に属した。1554年、「仁保島城の戦い」では、陶晴賢の家臣三浦房清勢の攻撃を受けたが撃退した。1555年、「厳島の戦い」では、毛利元就に従って参陣して陶晴賢勢と戦った。

安芸香川元正【かがわもとまさ(15??~15??)】

香川元景の次男。官途は淡路守。別名井上元正。1555年、「厳島の戦い」に弟香川就親とともに参陣した。

安芸香川就親【かがわなりちか(15??~15??)】

香川元景の三男。通称左馬助。1555年、「厳島の戦い」に兄香川元正とともに参陣した。

安芸香川政俊【かがわまさとし(15??~15??)】

香川元景の四男。

安芸香川勝雄【かがわかつたか(1515~1569)】

香川元景の五男。通称右衛門。十五人力の剛勇。1569年、「美作高田城の戦い」では、香川光景、香川広景、香川春継らとともに籠城して尼子勝久勢と戦った。尼子勝久、宇喜多直家、三浦貞広勢の攻撃を受け討死した。

安芸香川広景【かがわひろかげ(15??~15??)】

香川光景の男。官途は左衛門尉。室は熊谷信直娘。1562年、「第二次月山富田城の戦い」に毛利元就に従って参陣し戦功を挙げた。1569年、「美作高田城の戦い」で安達信泰が守る高田城が、三浦貞広、宇喜多直家勢の攻撃を受けると、毛利元就は香川光景、香川広景、香川春継、香川勝雄ら援軍として派遣した。1576年、「第一次木津川口の戦い」では、児玉就英らとともに、織田信長の海賊衆を壊滅にさせ、石山本願寺への兵糧搬入を成功させた。

安芸香川春継【かがわはるつぐ(1545~1619)】

香川光景の次男。官途は兵部少輔。日野山城内で吉川元長とともに養育され、その家老職を務めた。1569年、「美作高田城の戦い」では、尼子勝久、三浦貞広勢の攻撃を受けた城主安達信泰を支援した。1586年、「九州征伐」では、吉川元春勢として九州に参陣した。「豊前香春嶽城の戦い」では、高橋元種が籠城する香春嶽城を攻撃、粟屋就光らとともに戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、吉川広家に従って家老職として今田経高らとともに仕えた。

堅田元慶【かただもとよし(1568~1622)】

粟屋元通の次男。行政手腕に優れていたため、毛利輝元や小早川隆景に信任を受けた。小早川隆景の養子に望まれたが、堅田元慶はそれを辞退した。1585年、小早川隆景が伊予国に転封されると、三原城代に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」では、四国方面軍の陣代を務めた。役後は毛利輝元の防長二ヶ国への転封に従った。

堅田就政【かただなりまさ(15??~16??)】

堅田元慶の男。1622年、父堅田元慶が病没すると減封された。1651年、毛利秀就が病没し、継嗣の毛利綱広が家督を相続すると、椙杜就幸、榎本就時らとともに財政再建に務めた。1660年、減知されていた所領を戻し、その上で収入の25%を上納させて負担の軽減を図った。諸士法度三十三ヶ条を始め、寺社、町方、郡中の法230条を含む万治制法を制定した。

桂広澄【かつらひろずみ(15??~1524)】

高田郡桂中山城主。坂広明の男。官途は左衛門尉。1523年、毛利元就が毛利家の家督相続したときは、桂元澄に家督を譲っていた。1524年、坂広秀が毛利元就の弟相合元綱を擁して毛利元就に謀反を起こした、責を負って自刃した。

桂元澄【かつらもとずみ(1499~1569)】

桂広澄の男。官途は左衛門尉。1524年、父桂広澄が坂広秀の謀反に連座して自刃すると、弟桂元忠とともに桂中山城に籠城したが、毛利元就の説得を受け帰順した。1555年、「厳島の戦い」では、陶晴賢に偽の内応状を提出して陶晴賢を厳島に招き入れ毛利元就の勝利に貢献した。

桂広繁【かつらひろしげ(15??~15??)】

桂元澄の男。官途は民部大輔。1582年、「備中加茂城の戦い」では、援軍として加茂城を守った。城主の生石治家が羽柴秀吉勢に内応すると、これを討取る戦功を挙げた。羽柴秀吉にのもとに人質として赴く小早川秀包に従った。1600年、「関ヶ原の役」では、白井景俊らとともに筑前久留米城代を務めた。石田三成勢が大敗すると、黒田孝高に降伏した。

桂繁次【かつらしげつぐ(15??~15??)】

小早川秀包家臣。桂広繁の次男。官途は紀伊守。1582年、「備中加茂城の戦い」では、父桂広繁とともにに籠城して羽柴秀吉勢と戦った。羽柴秀吉勢に内応した生石治家らを討取る戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、小早川秀包に従って参陣して戦功を挙げた。

桂景信【かつらかげのぶ(15??~15??)】

桂元澄の四男。通称右衛門太夫。小早川隆景が附家老職を務めた。1580年、「備中祝山城の戦い」では、備中衆の湯浅将宗、長井親房、粟屋右衛門らを率い宇喜多直家勢と戦った。「備前幸川口の戦い」で宇喜多直家勢と戦い敗走した。

桂元忠【かつらもとただ(1499~1569)】

桂広澄の次男。官途は左衛門太夫。1524年、「相合元綱の乱」で毛利元就に敗れ、桂広澄が自刃すると、兄桂元澄とともに桂中山城に籠城した。1550年、五奉行衆のひとりとして活躍した。毛利元就と毛利隆元の取次役を務めた。

桂元信【かつらもとのぶ(15??~15??)】

桂広澄の三男。官途は紀伊守。通称源右衛門尉。別名桂就延。室は阿曾沼元秀の娘。1550年、毛利元就の意向を受け吉田郡山城内で井上就兼を謀殺した。家臣238名が毛利元就に忠誠を尽くす起諸文で九番目に連署した。1570年、「出雲布部山の戦い」で尼子勝久勢と戦った。1572年、出雲鴟ノ巣城を守備した。
 
桂元重【かつらもとしげ(15??~15??)】

桂元延の男。官途は能登守。通称左衛門。1569年、「筑前立花城の戦い」では、毛利隆元に従って立花城を攻落とした。乃美宗勝、坂元祐らとともに立花城を守備した。

桂景種【かつらかげたね(15??~15??)】

小早川隆景家臣。官途は宮内少輔。奉行職を務めた。

桂広信【かつらひろのぶ(15??~15??)】

毛利元就家臣。1583年、「四国討伐(天正の乱)}では、小早川隆景勢に属して参陣して伊予中野城の在番を務めた。

門田元賀【かどたもとが(15??~15??)】

毛利元就家臣。江木滑城主。通称甚左衛門。1582年、堀越城に転封した。

兼重元鎮【かねしげおとかね(15??~1540)】

毛利豊元の三男(笠間刑部少輔の養子)。別名笠間元鎮。大通院に預けられたが、仏門に進むことを拒否して吉川元春の家臣笠間刑部少輔の養子となった。1540年、「軍山の戦い」で深手を負うとそれがもとで病没した。
 
兼重元宣【かねしげもとのぶ(15??~15??)】

兼重元鎮の男。官途は下総守。

兼重元続【かねしげもとつぐ(15??~15??)】

兼重元宣の男。兼重元宣より所領を譲与された。

上山元忠【かみやまひょうごのすけ(15??~15??)】

毛利元就家臣。通称兵庫介。植民部大輔とともに備前撫川城代を務めた。

河内長義【かわちながよし(15??~15??)】

小早川隆景家臣。佐伯郡土井岡城主。

河内義信【かわちよしのぶ(15??~15??)】

河内長義の男。官途は筑後守。

河内煕資【かわちひろすけ(15??~15??)】

小早川隆景家臣。官途は備後守。

河村新左衛門【かわむらしんざえもん(15??~15??)】

天野元明家臣。1578年、「播磨上月城の戦い」後、天野元明の意向を受け降伏した山中幸盛を謀殺した。

岸添直清【きそぞえなおきよ(15??~15??)】

熊谷信直家臣。1530年、熊谷直続、岸添直清らと謀って山中成祐兄弟を討取った。1533年、「船山城の戦い」で武田光和勢を末田直道、末田直久とともに撃退した。

北就勝【きたなりかつ(15??~1557)】

高田郡北城主。毛利弘元の四男。官途は式部少輔。生まれつき足が不自由であったため、仏門に入り常楽寺の住職となった。後に還俗し、北家遺領を相続して毛利元就に仕えた。1517年、「有田の戦い」では、毛利元就に従って参陣して武田元繁繁勢と戦い戦功を挙げた。毛利元就の次男吉川元春を養子に迎えるはずだったが、吉川元春が吉川家の家督を相続したため、北家は北就勝の代で断絶した。

北村五郎左衛門【きたむらごろうざえもん(15??~15??)】

安国寺恵瓊家臣。辺春親実の男。別名辺春義行。

吉川国経【きっかわくにつね(1443~1531)】

山県郡小倉山城主。吉川経基の男。官途は治部少輔。1509年、吉川家の家督を相続した。1511年、「山城船岡山の戦い」では、大内義興に従い参陣した。1522年、継嗣の吉川元経が病没したため、孫の吉川興経に吉川家の家督を相続させ、これを後見した。

吉川元経【きっかわもとつね(1459~1522)】

吉川国経の男。官途は治部少輔。通称次郎三郎。室は毛利弘元の娘。1511年、「山城船岡山の戦い」に父吉川国経とともに大内義興に従い参陣した。1517年、「有田の戦い」では、毛利元就を支援するため、弟の宮庄経友を派遣した。尼子経久勢に属すると、毛利元就の内応を誘った。

吉川経世【きっかわつねよ(15??~15??)】

吉川国経の次男。官途は伊豆守。1522年、吉川興経が吉川家の家督を相続すると、森脇祐有とともに補佐した。吉川興経も大内義隆、尼子経久の間で離反を繰り返し、大塩右衛門尉が専横を極めると、家中にも動揺と不満が広がった。1547年、森脇祐有とともに大塩右衛門尉を謀殺した。毛利元就、森脇祐有とともに吉川興経を隠居させ、毛利元就の次男吉川元春に吉川家の家督を相続させた。

吉川興経【きっかわおきつね(1508~1550)】

吉川元経の男。官途は治部少輔。室は宍戸元源の娘。1522年、父吉川元経の病没により家督を相続した。祖父吉川国経の後見け家政は森脇祐有や吉川経世が中心となり運営した。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久勢の先陣を務め、毛利元就、陶晴賢らを苦しめた。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢に属して参戦したが大内義隆が劣勢に陥ると尼子晴久勢に寝返った。その後、毛利元就の仲介により大内義隆に属した。大塩右衛門尉が対立した。1547年、毛利元就と結んだ、吉川経世、森脇祐有らによって隠居を余儀なくされ吉川元春を養子に迎えた。1550年、「深川館の戦い」で吉川元春に継嗣の吉川千法師とともに謀殺された。

吉川経久【きっかわつねひさ(15??~15??)】

吉川経世の次男。官途は河内守。吉川家の家老職を務めた。

吉川千法師【きっかわせんぽうし(15??~1550)】

吉川興経の男。1550年、「深川館の戦い」で吉川元春の意向を受けた熊谷信直、天野隆重らの攻撃を受け討死した。

吉川元春【きっかわもとはる(1530~1586)】

毛利元就の次男。官途は駿河守。室は熊谷信直の娘(新庄局)。1547年、熊谷信直の娘を娶った。父毛利元就の意向を受け吉川興経の養子となった。1550年、吉川興経と吉川千法師を謀殺した。1555年、「厳島の戦い」後、山陰地方侵攻の基盤を作った。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で尼子義久が滅亡すると、山陰地方の軍事、統治などの権利を任された。1582年、「備中高松城の戦い」では、撤退する羽柴秀吉勢の追撃を出張したが、小早川隆景、安国寺恵瓊らによって却下された。1586年、「九州征伐」では、羽柴秀吉に従って参陣したが病没した。

吉川元長【きっかわもとなが(1548~1587)】

吉川元春の男。官途は通称少輔次郎。別名毛利元資。室は宍戸隆家の娘。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、毛利元就に従って毛利輝元とともに参陣した。その後も父吉川元春に従い、山陰各地で尼子勝久勢と戦った。1578年、「播磨上月城の戦い」後、尼子勝久、山中幸盛らを謀殺した。1581年、「第二次鳥取城の戦い」で羽柴秀吉勢に包囲された鳥取城の救援に赴いたが寡兵のため、有効な支援を行えず吉川経家が降伏した。1582年、「備中高松城の戦い」後、羽柴秀吉と毛利輝元が和議を結んだ。1586年、「九州征伐」では、羽柴秀吉に属した毛利輝元に従って参陣したが、日向都於郡の陣中で病没した。

吉川広家【きっかわひろいえ(1561~1625)】

吉川元春の三男(吉川経家の養子)。官途は民部少輔。通称次郎五郎。別名吉川経言。室は宇喜多直家の娘(容光院)。1570年、兄吉川元長とともに山陰地方を転戦した。1582年、「備中高松城の戦い」後、毛利輝元と羽柴秀吉とが和議を結ぶと、人質として羽柴秀吉のもとに赴いた。1586年、吉川元春、吉川元長が相次いで病没すると、吉川家の家督を相続した。1592年、「文禄の役」では、毛利輝元に従って参陣して戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では、毛利輝元は石田三成勢に属したが、自身は松平元康に内応して毛利輝元が戦陣に立つことを阻止した。1601年、毛利輝元が防長二ヶ国に減封処分に処されると周防国玖珂郡岩国城30,000石を領した。

石見吉川経典【きっかわつねのり(15??~15??)】

吉川興経家臣。吉川経佑の男。官途は左近将監。通称小太郎。1511年、「山城船岡山の戦い」では、大内義興に従い問田弘胤とともに戦功を挙げた。吉川国経が帰国後も大内義興に従い在京を続けた。1538年、邇摩郡大家庄西郷津淵村の加増を受けた。

石見吉川経安【きっかわつねやす(15??~1600)】

久利淡路守の男(吉川経典の養子)。官途は和泉守。1559年、「三本温湯城の戦い」では、吉川元春に従って小笠原長雄勢と戦い戦功を挙げ石見国邇摩郡福光城主に任じられ石見銀山の管理した。1561年、「石見本明城の戦い」では、継嗣の吉川経家とともに福屋隆兼勢と戦った。1574年、石見吉川経家に家督を譲って隠居した。1561年、「福光城の戦い」で尼子勝久、福屋隆兼勢5,000余りの攻撃を受けたが撃退した。1581年、「第二次鳥取城の戦い」で吉川経家が羽柴秀吉勢の攻撃を受け自刃すると、吉川経実を引きとって養育した。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元の防長二ヶ国への転封に従った。石工の棟梁坪内弥惣兵衛を招き、石見国内での石材の技術を向上させるなど産業の育成にも力を注いだ。

石見吉川経家【きっかわつねいえ(1547~1581)】

吉川経安の男。官途は式部少輔。通称小太郎。1561年、「石見福光城の戦い」で福屋隆兼勢の攻撃を受けるとこれを撃退する戦功を挙げた。1581年、因幡鳥取城主山名豊国が織田信長勢に降伏しようとしたため、家臣森下道誉、中村春続に追放されると、鳥取城主として迎えられた。1581年、「第二次鳥取城の戦い」では、羽柴秀吉の策略により兵糧が買い集められ、三ヵ月分の備蓄しかない状態で籠城を余儀なくされた。羽柴秀吉勢20,000余りに包囲された鳥取城は糧道を断たれ、吉川元春の陸路および海路を使った兵糧搬入作戦も失敗に終わった。森下道誉、中村春続とともに城兵の助命を条件とし自刃した。辞世の句は「武士の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖なるらん」。

石見吉川経実【きっかわつねざね(15??~16??)】

吉川経家の男。1593年、吉川広家の家老職を務めた。

木梨元恒【きなしもとつね(15??~15??)】

小早川隆景家臣。1576年、「第一次木津川河口の戦い」では、村上武吉勢に属して参陣した。

木梨平左衛門【きなしへいざえもん(15??~15??)】

毛利元就家臣。1600年、「伊予刈屋口の戦い」では、宍戸善左衛門、村上元吉、曾根兵庫、東右近、都築谷主水、都築谷四郎五郎、村上吉忠、桂三郎兵衛らともに
勢に属して参陣して加藤嘉明勢と戦った。

玉仲宗琇【ぎょくちゅうそうしゅう (1522~1605)】

臨済宗の僧。別名「仏機大雄禅師」。1572年、野州足利学校で易学を学び、春林宗俶の後を継ぎ京都大徳寺の住職を務めた。小早川隆景、今井宗久らと親交を結んだ。小早川隆景に招かれ、師となった。著作『玉仲遺文(いもん)』、『「禅林肯訣(こうけつ)』など。

口羽通平【くちばみちひら(15??~1592)】

吉川経典家臣。官途は刑部大輔。通称善九郎。1592年、「文禄の役」では、吉川経安に従って参陣したが病没した。

国貞景氏【くにさだかげうじ(15??~15??)】

小早川隆景家臣。通称助九郎。別名神左衛門尉。瀬戸内海賊衆。1577年、備中国八田部郷にて六貫文を領した。1591年、筑前国糟屋郡、穂波郡内で200石を領した。1597年、包久景相とともに備中国連島において橋の普請奉行を務めた。三原城改築や佛通寺再建の作事奉行を務めた。

国重信恒【くにしげのぶつな(15??~15??)】

武田信賢の次男。佐東郡国重城主。通称右衛門大夫。別名武田信恒。

国重信正【くにしげのぶまさ(15??~1550)】

国重信恒の男。1514年、「有田の戦い」で武田元繁が討死すると、毛利元就に内応した。1541年、「佐東銀山城の戦い」で武田信重が滅亡すると、毛利元就に従って山陽地方を転戦した。

国重就正【くにしげなりまさ(15??~15??)】
 
国重信正の男。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に減封となって萩へ移るとこれに従った。

国司有相【くにしありすけ(15??~1542)】

毛利豊元家臣。国司有純の男。官途は飛騨守。室は毛利豊元の娘。実務能力が高く、井上元景らとともに奉行職を務めた。1499年、「永町山城の戦い」で温科国親勢と戦い戦功を挙げた。1511年、「山城船岡山の戦い」では、大内義興の属した毛利興元に従って参陣して功を挙げた。1522年、毛利元就に毛利家惣領職を相続するように家臣15人とともに要請した。

国司元相【くにしもとすけ(1492~1591)】

国司有相の男。官途は飛騨守。通称助六。室は渡辺勝の娘。継室は桂広澄の娘。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、毛利元就に従い渡辺通らとともに籠城して尼子晴久勢と戦い戦功を挙げた。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢に属した毛利元就に従って参陣したが、尼子晴久勢の反撃を受け大敗、自らも負傷した。1550年、赤川元保、粟屋元親、桂元忠、児玉就忠らとともに五奉行職に任じられた。1555年、「厳島の戦い」では、毛利元就に従い参陣して陶晴賢勢と戦い戦功を挙げた。1560年、正親町天皇の即位料を調進する使者として上洛した。1561年、「石見松山城での戦い」では、児玉就忠とともに福屋隆任勢と戦い戦功を挙げた。

国司元武【くにしもとたけ(15??~1600)】

国司元相の男。官途は備後守。1567年、父国司元相の隠居により国司家の家督を相続した。国司元相と同じく五奉行職、毛利輝元の守役を務めた。1592年、「文禄の役」では、毛利輝元に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。

国司元蔵【くにしもとぞう(1531~1608)】

国司元相の次男。通称隼人佐。室は赤川元秀の娘。継室は井原元良の娘。1587年、兄国司元武の隠居より、国司家の家督を相続した。毛利秀就の守役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に減封されると、それに従った。1601年、毛利秀就に従い江戸城で松平元康に謁見した。

国司就信【くにしもなりのぶ(15??~1592)】

毛利隆元家臣。官途は雅楽允。通称四郎三郎。1537年、人質として大内義隆のもとに送られる毛利隆元に従って山口に赴いた。1570年、防長二ヶ国の段銭奉行職を務めた。1571年、長門国且山城の普請奉行職を務めた。1583年、大内義隆33周忌の奉行職を務めた。

国司元信【くにしももとのぶ(15??~15??)】

国司就信の男。

久芳賢重【くばたしげ(15??~15??)】

賀茂郡久芳城主。官途は対馬守。別名久芳兼重。1554年、「石見三本松城の戦い」では、大内義長に従い、陶晴賢、江良房栄、内藤隆世、白井賢胤、乃美賢勝、勝間田盛治、脇兼親、伊香賀家朋らとともに吉見正頼勢と戦ったが敗れ負傷した。「折敷畑の戦い」で陶晴賢勢が大敗すると、毛利与三とともに毛利元就に降伏した。

久芳賢直【くばかたなお(15??~15??)】

久芳賢重の男。1554年、「折敷畑の戦い」で陶晴賢勢が大敗すると、父久芳賢重とともに毛利元就に降伏した。1573年、「因幡鳥取城の戦い」で武田高信を支援するため参陣した。

熊谷膳直【くばかたなお(1452~1515)】

武田元信家臣。熊谷宗直の男。官途は民部大輔。1499年、「永町山城の戦い」で温科国親に謀反を起こすと武田元信の意向を受けこれを討伐した。戦後、恩賞として温科家領を領した。

熊谷元直【くまがいもとなお(15??~1517)】

熊谷膳直の男。通称二郎三郎。1506年、武田元繁から所領の安堵を受けた。1511年、「山城船岡山の戦い」では、大内義興勢に属した武田元繁に従って参陣した。1517年、「有田の戦い」では、武田元繁に従って参陣して毛利元就、吉川元経勢と戦って先陣を務め、討死した。

熊谷信直【くまがいのぶなお(1507~1594)】

熊谷元直の男。官途は伊豆守。1527年、山中成祐から刺客を受けたが返討ちにした。1530年、「船山城の戦い」で熊谷直続、岸添直清、末田直道らとともに山中成祐を討取る戦功を挙げた。1533年、「三入高松城の戦い」で武田光和、品川信定、伴繁清、香川光景、己斐直之、山田重任、温科家行、飯田義武、板垣繁任らの攻撃を受けたが、熊谷信直、熊谷直続、末田直忠、末田直久、岸添清直、水落直政らとともに迎い撃ち、伴繁清を負傷させ武田家勢を撤退に追い込んだ。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆に属した毛利元就に従って参陣したが、尼子晴久勢の反撃を受け大敗、熊谷直続が討死した。1547年、吉川元春の寄騎衆を務め、数々の戦功を挙げ16,000石を領した。1550年、毛利元就の意向を受け天野隆重とともに吉川興経を謀殺した。

熊谷直続【くまがいなおつぐ(1510~1542)】

熊谷元直の次男。1517年、父熊谷元直が討死したため、兄熊谷信直に従って、中国地方各地を転戦した。1533年、「三入高松城の戦い」では、武田光和勢の攻撃を受けたが、水落直政らとともに武田光和勢を撃退する戦功を挙げた。1542年、「瀬戸山城の戦い」で毛利元就に従って参陣したが赤穴光清勢と戦い討死した。

熊谷高直【くまがいたかなお(1527~1579)】

熊谷信直の男。1555年、「須々万沼城の戦い」では、大内義長勢と戦い戦功を挙げた。内政面で秀でた才能を発揮した。

熊谷直清【くまがいなおきよ(1530~1597)】

熊谷信直の次男(熊谷直続の養子)。室は熊谷直続の娘。1540年、「吉田郡山城の戦い」で毛利元就に従い尼子晴久勢と戦い戦功を挙げた。1542年、「瀬戸山城の戦い」で養父熊谷直続が赤穴光清勢と戦い討死したため、熊谷家の家督を相続した。毛利元就に従って中国各地を転戦した。

熊谷広真【くまがいひろざね(1537~1570)】

熊谷信直の三男。官途は右近大夫。1555年、「厳島の戦い」では、父熊谷信直、兄熊谷高直とともに宮尾城に籠城して戦功を挙げた。石見高矢倉城主に任じられ須佐500貫、乙立350貫、古志100貫を領した。1562年、出雲高櫓城主に任じられた。久光寺の創建や須佐大宮、多部神社の修復に尽力した。1569年、「出雲高櫓城の戦い」で尼子勝久勢の攻撃を受けたがこれを撃退する戦功を挙げた。

熊谷元直【くまがいもとなお(1555~1605)】

熊谷信直の男。官途は民部少輔。通称次郎四郎。洗礼名「メルチョル」。室は佐波隆秀の娘。1589年、「小田原の役」にも参陣した。1587年、黒田孝高の影響を受けて切支丹となった。その後も禁制に応じず、広島に教会などを設立した。1600年、毛利輝元が防長二ヶ国に転封になると、萩城普請奉行職を務めた。1605年、萩築城遅延の罪に問われ一族もろとも処刑された。

熊谷直貞【くまがいなおさだ(1575~1596)】

熊谷元直の男。官途は伊豆守。通称小才治。室は穂井田元清の娘。

蔵田房信【くらたふさのぶ(15??~1523)】

賀茂郡鏡山城主。1523年、「鏡山城の戦い」で尼子経久、毛利元就、吉川国経勢の攻撃を受けると、叔父の蔵田直信が尼子経久に内応したため討死した。

蔵田直信【くらたなおのぶ(15??~1523)】

蔵田房信家臣。1523年、「鏡山城の戦い」で尼子経久、毛利元就、吉川国経勢の攻撃を受けると、尼子経久に内応したたが謀殺された。

栗栖親忠【くりすちかただ(15??~1552)】

山県郡発坂城主。通称権頭。厳島神領衆。1541年、「佐東銀山城の戦い」で大内義隆勢の攻撃を受け武田信重、友田興藤らとともに佐東銀山城に籠城した。1522年、「発坂城の戦い」で福屋隆次勢の攻撃を受け討死した。

久利淡路守【くりあわじにかみ(15??~15??)】

吉川経典家臣。久利館主。室は吉川経佑の娘。

桑原雅楽助【くわはらうたのすけ(15??~15??)】

大内義隆家臣。屋代島衆。1561年、「豊前門司沖の戦い」に参陣して大友義鎮勢と戦い戦功を挙げた。
 
桑原惣左衛門尉【くわはらさえもんのじょう(15??~15??)】

大内義隆家臣。屋代島衆。1561年、「豊前門司沖の戦い」に参陣して大友義鎮勢と戦い戦功を挙げた。

桑原元勝【くわはらもとかつ(15??~15??)】

椙杜房康の男。通称右衛門大夫。1576年、「第一次木津川河口の戦い」で織田信長勢の海賊衆を撃破した。

桑原与四郎【くわはらよしろう(15??~15??)】

友田広就家臣。1540年、「藤懸城の戦い」で大内義隆勢が籠城する城を攻撃して戦功を挙げた。

警固屋忠秀【けごやただひで(14??~15??)】

大内政弘家臣。堀城主。通称掃部助。呉警固衆。1478年、「筑前花尾城の戦い」で大内義興の家臣内藤弘矩勢に従って参陣して麻生家延勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「戦国日本の津々浦々」

警固屋小次郎【けごやただひで(15??~15??)】

大内義興家臣。三ヶ島警固衆。

警固屋市介【けごやただひで(15??~15??)】

大内義興家臣。三ヶ島警固衆。 

己斐宗端【こいそうずい(15??~1517)】

武田元繁家臣。佐西郡己斐城主。官途は豊後守。厳島神領衆。勇猛と義に厚い武将。1515年、「己斐城の戦い」で武田元繁勢の攻撃を受けたが撃退した。1517年、「有田の戦い」では、武田元繁に従って参陣したが、毛利元就勢と戦い武田元繁、熊谷元直、香川行景らとともに討死した。辞世の句は「残る名に かなえば何か 惜しむべき 風の木葉の 軽き命を」。

己斐直之【こいなおゆき(1488~1560)】

己斐宗端の男。官途は豊後守。1541年、「佐東銀山城の戦い」で武田信重が滅亡すると、香川光景とともに毛利元就勢に属した。1555年、「宮尾城の戦い」では、城代の新里式部とともに籠城して陶晴賢勢と戦って戦功を挙げた。

己斐興員【こいおきかず(15??~15??)】

己斐直之の男。通称利右衛門。広島城二の丸御番を務めた。

己斐隆次【こいたかつぐ(15??~1552)】

己斐宗端家臣。1552年、「己斐城の戦い」で、吉見正頼の家臣下瀬頼定に討取られた。

河野元通【こうのもとみち(15??~15??)】

児玉就英家臣。官途は但馬守。寄騎衆を務めた。1570年、出雲沖で尼子残党の水軍を撃破。

河野元政【こうのもとまさ(15??~1582)】

河野元通の男。吉川経家家臣。別名渡元政。1582年、「第二次鳥取城の戦い」で羽柴秀吉勢と戦い討死した。

河野通良【こうのみちよし(15??~15??)】

河野元通の次男。

小坂春信【こさかはるのぶ(15??~15??)】

吉川広家家臣。官途は左衛門大夫。吉川広家が羽柴秀吉のもとに人質として送られると、従者として従った。

児玉元実【こだまもとざね(15??~15??)】

佐東郡草津城主。

児玉就兼【こだまなりかね(15??~1560)】

児玉元実の男。官途は豊前守。通称四郎兵衛。1507年、「高田原の戦い」で毛利興元に従い参陣して戦功を挙げた。後に毛利元就の奉行職を務めた。

児玉就光【こだまなりみつ(15??~1590)】

児玉就兼の男。官途は豊前守。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、毛利元就に従って参陣して戦功を挙げた。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢に属した毛利元就に従って参陣した。1554年、「矢野城の戦い」で陶晴賢勢の野間隆実が籠城する矢野城を攻落とす戦功を挙げた。1569年、「周防一揆」を鎮圧する戦功を挙げた。

児玉元村【こだまもとむら(15??~1584)】

児玉就光の男。通称四郎兵衛。1568年、毛利元就の意向を受け和智誠春、湯谷久豊を厳島に監禁した。1569年、和智誠春、湯谷久豊が脱走して、厳島神社の本殿に籠城すると、熊谷就政とともにこれを謀殺した。

児玉元光【こだまもとみつ(15??~15??)】

児玉元村の男。

児玉元房【こだまもとふさ(15??~15??)】

児玉就光の次男。

児玉就安【こだまなりやす(15??~15??)】

児玉就兼の次男。

児玉就忠【こだまなりただ(1506~1562)】

児玉元実の次男(児玉家行の養子)。通称三郎右衛門。室は久芳賢直の娘。五奉行職を務めた。行政手腕が高く、毛利元就からも深い信頼を得た。毛利元就と毛利隆元の取次役を務めたが、毛利隆元の家臣赤川元保、国司元相とは不仲であった。

児玉就方【こだまなりかた(1512~1586)】

児玉元実の三男。官途は内蔵丞。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、毛利元就に従って尼子晴久勢と戦った。1541年、「佐東銀山城の戦い」で武田信重が滅亡すると、飯田義武とともに、川之内警固衆の頭領に任じられた。1555年、「厳島の戦い」では、川之内警固衆を率いて戦功を挙げた。1561年、「豊前門司城の戦い」では、大友義鎮勢の海賊衆と戦い戦功を挙げた。1568年、「伊予高島城の戦い」では、河野通宣を支援して一条兼定勢と戦い戦功を挙げた。1569年、「出雲布部城の戦い」では、尼子勝久、山中幸盛勢を撃退する戦功を挙げた。

児玉就英【こだまなりひで(1543~15??)】

児玉就方の男。官途は周防守。1569年、「出雲布部城の戦い」では、父児玉就方とともに尼子勝久、山中幸盛勢を撃退する戦功を挙げた。1570年、「出雲沖の戦い」で尼子勝久山中幸盛らを支援する海賊衆を撃破した。1576年、「第一次木津川口の戦い」では、乃美宗勝、井上春忠、村上吉充、香川広景らとともに焙烙玉を駆使して、九鬼嘉隆が率いる織田信長勢海賊衆を撃破した。1578年、淡路国岩屋城から淡路国周辺の瀬戸内海の守備を担当した。

児玉景栄【こだまかげひで(1557~1579)】

児玉就方の次男。小早川隆景に仕えた。1579年、「美作宮山城の戦い」で討死した。

児玉就光【こだまなりみつ(15??~1590)】

児玉就兼の男。官途は豊前守。1540年、「吉田郡山城の戦い」で毛利元就に従って参陣して戦功を挙げた。

児玉元方【こだまもとかた(15??~15??)】

児玉就英の男。軍役を負担できず廃嫡された。小早川隆景の配慮で桑原元勝の遺領を継承することになった。

児玉元茂【こだまもとしげ(15??~1594)】

児玉元保の男。官途は越前守。通称十郎右衛門。1553年、「三若城の戦い」で戦功を挙げた。1554年、「折敷畑の戦い」で陶晴賢勢と戦い戦功を挙げた。

児玉元保【こだまもとやす(15??~1543)】

児玉広家の次男。官途は越前守。通称四郎右衛門。1543年、「第一次月山富田城の戦い」で尼子晴久勢の追撃を受け討死した。

児玉就秋【こだまなりあき(15??~15??)】

児玉広家の五男(児玉元為の養子)。官途は若狭守。通称弥七郎。1535年、「上里城の戦い」に参陣した。1540年、「頭崎城の戦い」では、毛利元就に従って平賀興貞勢と戦った。1555年、吉川元春に従って山陽地方を転戦して戦功を挙げた。安芸国飯山城の普請奉行職、吉川元春と毛利元就との取次役を務めた。

児玉元良【こだまもとよし(15??~15??)】

児玉就忠の男。通称三郎右衛門。別名児玉元実。継室は湯原春綱の娘。1562年、父児玉就忠の病没により児玉家の家督を相続した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、毛利輝元に従って参陣した。1570年、「布部山の戦い」に参陣して尼子勝久の家臣山中幸盛勢と戦った。1578年、「播磨上月城の戦い」に参陣して羽柴秀吉勢と戦った。

児玉元兼【こだまもとかね(15??~15??)】

児玉元良の男。

児玉景唯【(15??~15??)】

児玉元良の次男。

児玉元次【こだまもとつぐ(15??~15??)】

児玉元良の三男。

児玉春種【こだまはるたね(15??~15??)】

児玉就忠の次男。

児玉元輔【こだまもとすけ(15??~15??)】

児玉就忠の三男。

児玉将元【こだまよしもと(15??~1569)】

毛利元就家臣。光清城主。1569年、「光清城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け討死した。

児玉与三郎【こだまよさぶろう(15??~15??)】

毛利元就家臣。1591年、備後蔀山城主山内通続が毛利輝元に改易処分に処されると、蔀山城代に任じられた。

沼田小早川正平【こばやかわまさひら(1523~1543)】

豊田郡高山城主。小早川興平の男。官途は備後守。1527年、父小早川興平が病没したため、小早川家の家督を相続した。1538年、「高山城の戦い」では、尼子経久に内応したが大内義隆勢の攻撃を受け降伏した。1543年、「第一次月山富田城の戦い」で大内義隆に従って参陣したが、尼子晴久勢の反撃を受け討死した。

沼田小早川繁平【こばやかわしげひら(1542~1574)】

小早川正平の男。1543年、「第一次月山富田城の戦い」で父小早川正平に従って参陣したが、尼子晴久勢の反撃を受け小早川正平が討死した。小早川家の家督を相続した。1543年、「高山城の戦い」では、尼子晴久勢の攻撃を受けたが撃退した。尼子晴久の内通嫌疑を受けて本拠高山城外に拘束された。叔父小早川常平も自刃させられた。1551年、剃髪して教真寺に入った。

沼田小早川常平【こばやかわつねひら(15??~1541)】

小早川興平の次男。1543年、「高山城の戦い」後、尼子晴久との内通嫌疑を受けて自刃した。

竹原小早川弘平【こばやかわひろひら(15??~15??)】

小早川弘景の男。官途は中務少輔。通称又四郎。1511年、「船岡山の戦い」に参陣した。小早川宗家の沼田小早川家の家督は小早川扶平の病没により四歳の小早川興平が相続したが、足利義稙が室町幕府将軍職に復帰すると大内義興らがこれを善しとせず、沼田小早川興平に所領の安堵を与えず大内義興派の小早川弘平に相続させようとした。小早川弘平は、小早川興平の後見役をよく務め、所領も要求せず、両小早川家の融和を図った。1512年、安芸国の近隣有力国人天野興次、天野元貞、毛利興元、平賀弘保、阿曽沼弘定、阿曽沼弘秀、高橋元光、野間興勝、吉川元経らと互いの権益確保を図って一揆盟約を結んだ時も、沼田、竹原両小早川家を代表して小早川弘平が署名した。

竹原小早川興景【こばやかわおきかげ(1519~1541)】

小早川弘平の男。官途は中務少輔。通称四郎。室は毛利興元の娘。1541年、毛利元就が尼子詮久の侵攻に対し吉田郡山城で籠城した際、援軍として毛利元就の救援に赴いた。大内家の命令に従って毛利元就らと共に安芸武田家の居城である銀山城の攻略に向かったが、陣中にて病を発し、病没した。

小早川隆景【こばやかわたかかげ(1533~1597)】

毛利元就の三男。官途は中務大輔。通称又四郎。室は小早川正平の娘(問田の大方)。1541年、竹原小早川興景が病没すると、竹原小早川家の家督を相続した。1550年、小早川惣領家の沼田小早川繁平が盲目となっていたため、大内義隆、毛利元就、乃美隆興、乃美景興らが竹原小早川隆景に沼田小早川正平の娘(問田大方)を嫁がせ沼田小早川家の家督を相続させた。毛利元就のもとで山陽地方の統治を担当、三原城を中心に瀬戸内海に強力な海賊衆を編成した。1582年、「備中高松城の戦い」では、外交の責任者として羽柴秀吉と和議の交渉を進めた。1586年、「九州征伐」では、羽柴秀吉に従って参陣して戦功を挙げ筑前国371,300石を領した。1592年、「文禄の役」では、六番隊の率いて参陣した。1593年、「碧蹄館の戦い」で立花宗茂とともに明勢を撃退した。1594年、羽柴秀吉の甥小早川秀秋を養子に迎え、小早川家の家督を譲って隠居した。

小早川秀包【こばやかわひでかね(1567~1601)】

毛利元就の九男(小早川隆景の養子)。官途は筑後守。通称藤四郎。洗礼名「シマオ」。別名大田元綱。室は大友義鎮の次女(桂姫)。1571年、備後国の大田英綱が病没したため、大田家の家督を相続した。1579年、兄小早川隆景の養子となった。1585年、「金子城の戦い」では、金子元春を討取る戦功を挙げ、伊予国宇和郡大津城35,000石を領した。1586年、「豊前香春嶽城の戦い」では、小早川隆景に従って香春嶽城を攻落とす戦功を挙げ、筑後国三池郡久留米城75,000石を領した。1591年、高良山座主麟圭、了巴父子を謀殺した。1594年、小早川秀秋が小早川隆景の養子に迎えられたため、廃嫡とされ別家を創設した。1600年、「近江大津城の戦い」では、石田三成勢に属して京極高次が籠城する大津城を攻略した。本戦で石田三成勢が大敗したため、大坂城に撤退した。「筑後久留米城の戦い」で黒田孝高、鍋島直茂勢の攻撃を受けると、城を守る桂広繁、白井景俊は桂姫、小早川元鎮、桂黒寿丸を人質に降伏した。役後、改易処分に処されると、毛利輝元に仕え長門国内で7,000石を領した。

小早川元鎮【こばやかわもとしげ(1591~1672)】

小早川秀包の男。通称市正。室は穂井田元清の娘。1600年、「関ヶ原の役」後、父小早川秀包が改易処分に処されると毛利輝元に仕え7,000石を領した。1625年、加増を受け19,000石を領した吉敷毛利家と祖となった。

小早川元包【こばやかわもとかね(1607~1676)】

小早川元鎮の男。官途は石見守。通称喜太郎。別名吉敷毛利元包。室は堅田元慶の娘。継室は福原元俊の娘。1613年、父小早川元鎮とともに阿川八幡宮を修築した。1625年、小早川元鎮の隠居により家督を相続した。吉敷郡吉敷に転封した。

小梨式部少輔【こなししきぶしょうゆ(15??~15??)】

小早川隆景家臣。小梨城主。次席家老職を務めた。

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【さ】

境経俊【さかいつねとし(15??~15??)】

吉川元春家臣。通称孫右衛門尉。1564年、「伯耆河岡城の戦い」では、山田満重とともに河岡城に籠城して尼子義久勢と戦った。1562年、「江美城の戦い」では、杉原盛重、三村家親とともに伯耆国日野郡の郷民一揆を鎮圧する戦功を挙げた。

境春時【さかいはるとき(15??~15??)】

吉川興経家臣。1563年、「出雲熊野城の戦い」では、毛利元就勢を追撃する熊野久忠勢を鉄炮で撃退した。1568年、「大内輝弘の乱」では、周防国富海は自刃した大内輝弘の頸を毛利元就のもとに届けた。

境春通【さかいはるみち(15??~15??)】

吉川興経家臣。官途は雅楽助。吉川興経を隠居させる。吉川元春の養子縁組に尽力した。1547年、吉川経世、森脇祐有とともに吉田郡山城へ赴き、吉川興経と吉川元春の養子契約を祝し、祝儀を届けた。

境春頼【さかいはるより(15??~15??)】

吉川興経家臣。通称孫六。1563年、出雲熊野城から一旦撤収しようとした際、敵から攻撃を受けるも、森脇弥四郎らとともに奮戦しこれを防いだ。

境経貫【さかいつねつら(15??~15??)】

吉川興経家臣。1561年、「石見本明城の戦い」で尼子義久勢に内応した福屋隆兼と戦った。

坂広明【さかひろあき(15??~15??)】

毛利弘元家臣。高田郡日下津城主。坂広秋の男。官途は下総守。通称新五郎。足利義稙擁、大内義興との関係を重視したため、毛利弘元と対立した。毛利弘元は隠居して、継嗣の毛利興元に譲ると、坂広明の継嗣桂広澄は、分家した。坂家の家督は弟坂広時が相続した。

坂広時【さかころとき(15??~1522)】

坂広秋の男。通称兵部大輔。1522年、毛利幸松丸の後見役であった毛利元就が、大内家から尼子家への鞍替えを図ると、坂広時は強く反対した。家中の意見対立を知った尼子経久は毛利家に圧力をかけ、毛利元就は坂広時の粛清を図った。執権職は坂家傍流で、親毛利元就派の志道広良が務めた。

坂広澄【さかひろずみ(15??~1524)】

坂広明の男。1524年、従兄弟坂広秀が謀反の罪で自刃した。坂広澄はその責任を取るため自刃した。
 
坂広秀【さかひろひで(15??~1524)】

坂広時の男(坂広時の養子)。官途は能登守。1523年、相合元綱の謀反に荷担した。1524年、毛利元就は相合元綱を討ち、坂広秀を自刃させた。1522年、毛利幸松丸の後見人であった毛利元就が、坂家枝連衆の坂広時を粛清すると、坂広秀が坂家の家督を相続した。1523年、毛利幸松丸が病没すると、毛利元就の家督相続を要請する起請文した家臣のひとり。1524年、坂広秀は毛利元就の弟相合元綱を担いだ謀反を起すが失敗し、毛利元就に誅殺された。坂家は志道広良の男志道元貞が、坂家の名跡を継いで存続した。
 
坂光永【さかみつなが(15??~15??)】

坂広澄家臣。1522年、毛利元就が尼子経久勢に属すると、人質として尼子経久のとに送られた。

桜井就綱【さくらいなりつな(15??~15??)】

毛利元就家臣。高田郡竹長城主。奉行職を務めた。1563年、「出雲白鹿城の戦い」では、平佐就之とともに尼子義久勢を撃退する戦功を挙げた。

桜井元政【さくらいもとまさ(15??~1592)】

桜井就綱の男。通称小左衛門。毛利輝元の御側衆を務めた。1592年、「文禄の役」で毛利輝元に従って参陣したが討死した。

佐々部美作守【ささべみさくのかみ(15??~15??)】
 
宍戸隆家家臣。1576年、備中鬼身城代に任じられた。

佐々部承世【ささべしょうyせい(15??~1527)】

高橋統種家臣。高田郡面山城主。別名高階兵部丞。室は高橋統種の娘。1525年、「猪掛城の戦い」では、宍戸元源、三田谷元忠らと結び高橋統種を猪掛城から追い落とした。

佐世石見守【させいわみのかみ(15??~15??)】

毛利輝元家臣。1598年、毛利輝元の意向を受け銀22,000枚を上納した。1599年、石見銀山代官職の今井越中守らに銀30,000枚の採掘を依頼した。

椎野道季【しいのどうき(15??~16??)】

安国寺恵瓊家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」で南宮山に布陣する、毛利秀元、吉川広家勢に使者として派遣された。

鹿足元忠【しかあしもとただ(15??~1581)】

毛利元就家臣。石見海賊衆。1581年、「第二次鳥取城の戦い」で吉川元春の意向を受け海路から城内に兵糧を運びこむが、羽柴秀吉勢に阻まれ失敗に終わり、細川藤孝の家臣松井康之に討取られた。

敷名元範【しきなもとのり(15??~15??)】

相合元綱の男。官途は兵部太夫。別名相合元範。1524年、父の相合元綱が毛利元就に謀反を起こし謀殺されたが、敷名元範は連座を免れた。1533年、「大笹山城の戦い」で毛利元就が敷名民部大輔を討取ると敷名元範を大笹山城主任じられた。1553年、「備後旗返城の戦い」で江田隆連が滅亡すると、江田家の跡を継いで旗返城主に任じられた。

繁沢元氏【しげさわもとうじ(1556~1631)】

吉川元春の次男(仁保隆在、繁沢氏康の養子)。官途は伊勢守。別名毛利元棟。室は仁保隆在の娘。1566年、仁保隆在が継嗣をもうけないまま病没したため、仁保隆在の娘と婚姻し、婿養子として仁保家の所領と家督を相続した。1570年、「石見三隅城の戦い」では、尼子勝久、大内輝弘らと結んで三隅城の籠城する三隅国定を吉川元春とともに討取る戦功を挙げ三隅城3,000貫を領した。肥中湊や瀬戸崎湊の奉行職を務め、山陰地方の海運を担った。1587年、仁保家の家督を神田元忠に譲った。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に減封されると、周防高森城を領した。

繁沢元景【しげさわもとかげ(1575~1631)】

繁沢元氏の男。官途は志摩守。通称少輔三郎。別名毛利元景。室は小早川秀包の娘。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康の意向を受け吉川広家とともに摂津江口に堰を作る普請を行った。1619年、毛利輝元の次男毛利就隆と毛利秀元の娘松菊子の婚約の媒酌人を務めた。1625年、父繁沢元氏の隠居により繁沢家の家督を相続した。

繁沢元貞【しげさわもとさだ(15??~15??)】

繁沢元氏の次男。

繁沢就眞【しげさわなりざね(15??~15??)】

繁沢元氏の三男。

宍戸元源【ししどもとよし(15??~1538)】

高田郡五龍城主。宍戸元家(安芸守)の男。1504年、父宍戸元家の隠居により、宍戸家の家督を相続した。1511年、「山城船岡山の戦い」では、大内義興に従って参陣した。毛利興元とは対立して度々小競り合いを起こした。1534年、和議を結び宍戸隆家の内室に毛利元就の娘を迎えた。1538年、隠居したため、宍戸家の家督は宍戸隆家が相続した。

宍戸元家【ししどもといえ(1498~1518)】

宍戸元源の男。官途は左衛門尉。通称弥三郎。室は山内直通の娘。1518年、討死した。

宍戸隆家【ししどたかいえ(1518~1592)】

宍戸元家の男(弥三郎)。官途は左衛門尉。室は毛利元就の次女(五龍局)。継室は石見繁継の姉。1518年、父宍戸元家の討死後、母の実家山内直通のもとで養育された。家臣の進言を受け叔父宍戸隆忠を謀殺した。1533年、毛利元就の次女(五龍局)を内室として迎えた。宍戸隆家は伊予国の河野通宣に娘を嫁がせるなど海賊衆と連携を図った。毛利元就のもとで忠節を尽くしたことから宍戸隆家は枝連衆筆頭を務めた。毛利元就と山内直通との取次役を務め。備後北部の国衆を寄騎衆として国衆支配を担った。

宍戸元秀【ししどもとひで(1547~1597)】

宍戸隆家の男。官途は雅楽頭。通称左衛門佐。室は内藤興盛の娘。病弱であった事などから廃嫡にされた。1592年、父宍戸隆家が病没すると、継嗣の宍戸元続が宍戸家の家督を相続した。

宍戸元続【ししどもとつぐ(1563~1631)】

宍戸元秀の男。官途は備前守。室は織田信長の娘、継室は口羽通良の娘。1592年、祖父宍戸隆家が病没すると、宍戸家の家督を相続した。1597年、「蔚山城の戦い」では、加藤清正に従って参陣して明国勢を撃退する戦功を挙げた。1600年、「伊勢安濃津城の戦い」では、吉川広家、毛利秀元らとともに参陣して戦功を挙げた。役後、毛利輝元が防長2ヶ国に移封すると、父祖伝来の地である五龍城から萩城に転封して、周防国右田城11,000石を領した。

宍戸広匡【ししどひろまさ(15??~1626)】

宍戸元続の男。通称弥三郎。室は穂井田元清の娘。1615年「佐野道可事件」の処理後、父宍戸元続が隠居したため家督相続し、佐波郡右田領主となり、藩主毛利秀就に仕えた。1624年、隠居して家督を長男の就尚に家督を譲った。

宍戸隆忠【ししどたかただ(15??~1534)】

宍戸元源の次男。通称弥四郎。室は長和家俊の娘。別名末兼隆忠。領内の農業、たたら製鉄振興、領内統治に尽力して父宍戸元源を補佐した。1534年、讒言に惑わされた宍戸隆家に謀殺された。

宍戸元親【ししどもとちか(15??~15??)】

毛利元就家臣。川之内警固衆。1551年、飯田義武、児玉就方、飯田元著、浦元信らとともに川之内警固衆を率いた。

宍戸元行【ししどもとゆき(15??~15??)】

毛利元就家臣。1588年、石川種吉の後任として長門大津郡司に任じられた。

宍戸治部少輔【ししどじぶしょうゆ(15??~15??)】

藤原興親家臣。厳島神領衆。1508年、藤原興親の病没後、厳島神領衆が東西に分かれて抗争を繰り広げると、友田興藤を擁立して戦いを進めた。1523年、「桜尾城の戦い」では、友田興藤、羽仁有繁、大聖院座主、大聖院上卿、児玉治部丞らとともに桜尾城に籠城して西方衆と戦った。

宍戸元孝【ししどもとたか(15??~15??)】

小早川隆景家臣。1584年、「四国討伐(天正の乱)」では、小早川隆景に従って参陣して伊予温泉郡恵良城で後詰を務めた。

宍戸元純【ししどもとずみ(15??~15??)】

藤原興親家臣。五日市城主。通称弥七郎。厳島神領衆。1540年、「桜尾城の戦い」に敗れて落延びてきた友田広就を匿った。「五日市城の戦い」で五日市城が大内義隆勢に包囲されると、友田広就の頸を差し出し降伏した。

志道広良【しじひろよし(1467~1557)】

高田郡志道館主。志道元良の男。官途は上野守。1523年、毛利幸松丸が病没すると、毛利元就を擁立して他の家臣とともに署名した起請文を提出した。1524年、相合元綱を擁立した坂広秀、渡辺勝らが謀反に起こしたがこれを鎮圧した。次男の志道広昌に途絶えた坂広秀の名跡を相続させた。毛利隆元の後見役を務めた。

志道広長【しじひろよし(15??~1539)】

志道広良の男。

志道元保【しじもとやす(1536~1582)】

志道広長の男。1539年、父志道広長が病没したため、祖父志道広良の後見を受け志道家を相続した。1555年、「矢野城の戦い」で陶晴賢勢に属した野間隆実を攻撃した。1557年、「長門且山城の戦い」では、阿曾沼広秀、福原貞俊らとともに内藤隆世を自刃に追い込み、大内義長を包囲して自刃させた。 1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、毛利元就に従い参陣して戦功を挙げた。

志道元規【ししどもとのり(15??~15??)】

志道元保の男。

志道良泰【ししどよしやす(15??~15??)】

志道広長の次男。
 
志道元章【ししどもとあき(15??~16??)】

毛利輝元家臣。1600年、毛利輝元の意向を受け伊予国に渡海した。

品川信定【しながわのぶさだ(15??~15??)】

武田元繁家臣。1517年、「有田の戦い」で武田元繁に従って参陣したが大敗した。
1540年、「吉田郡山城の戦い」で尼子晴久勢が大敗すると、武田信実は尼子晴久を頼って出雲国に落延びた。1541年、「佐東銀山城の戦い」では、武田信重を擁立して大内義隆勢と戦ったが敗れて討死した。

品川員永【しながわかずなが(1514~1567)】

品川信定の男。1541年、「佐東銀山城の戦い」では、父品川信定が大内義隆勢の攻撃を受け討死すると、品川将員の仲介で益田藤兼に仕えた。1567年、益田藤兼から山道郷八幡宮の神主に任じられた。

品川将員【しながわまさかず(1544~1565)】

品川員永の男。官途は大膳。通称狼之介。別名棫木狼之介。弓の名手。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、益田藤兼に従って参陣して、尼子義久の家臣山中幸盛に討取られた。

品川勝貞【しながわかつさだ(15??~15??)】

品川将員の男。

白井光胤【しらいみつたね(15??~15??)】

武田元信家臣。安芸郡出張城主。仁保島城主。1524年、「仁保島城の戦い」で大内義興勢の攻撃を受けた。

白井膳胤【しらいよしたね(15??~15??)】

白井光胤の男。大内義興に内応して周防熊毛郡小周防内、安芸佐東郡北庄、山本、箱島の所々を加増された。

白井房胤【しらいふさたね(15??~15??)】

白井膳胤の男。官途は縫殿助。通称弥四郎。室は熊谷元直の娘。1540年、「仁保島城の戦い」では、椙杜善兵衛尉、宇野修理亮と結び安芸武田光和勢と戦った。1541年、「大三島の戦い」で河野通直、来島通康、大祝安房らと戦い、家臣や中間、水夫の多くを負傷させながらも、大祝安房を討取る戦功を挙げた。1551年、「大寧寺の変」で、大内義隆が陶晴賢に謀殺されると、陶晴賢勢に属した。1554年、「仁保島城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受けると府中出張城に落延びた。

白井賢胤【しらいかたたね(15??~15??)】

白井房胤の男。官途は越中守。通称助四郎。室は乃美賢勝の娘。1554年、「仁保島城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受けると父白井房胤とともに府中出張城に落延びた。1555年、「厳島の戦い」では、陶晴賢に従い参陣して毛利元就勢と戦い大敗したが大内義長に仕えた。1557年、「長門且山城の戦い」で大内義長が討死すると、小早川隆景に従って乃美宗勝らとともに海賊衆を率いて戦功を挙げた。

白井晴胤【しらいはるたね(15??~15??)】

白井賢胤の男。官途は縫殿允。室は江良房栄の娘。1587年、「日向高城の戦い」で小早川隆景に従って参陣したが島津義久勢の反撃を受け討死した。

末田直道【すえたなおみち(15??~15??)】

熊谷信直家臣。1530年、熊谷直続、岸添直清らと謀って山中成祐兄弟を討取った。1533年、「船山城の戦い」で武田光和勢を末田直久、岸添直清とともに撃退した。

末田直久【すえたなおひさ(15??~15??)】

熊谷信直家臣。末田直道の弟。

末近信賀【すえちかのぶよし(15??~1581)】

小早川隆景家臣。羽倉城主。通称左衛門尉。1579年、宇喜多直家が織田信長に内応したため、備中国が対織田信長戦の最前線となった。小早川隆景は、備前国境沿いに高松城を中心に七城(宮路山城主乃美元信(400)、冠山城主林重真(300)、高松城主清水宗治(5,000)、鴨庄城主桂広繁(1,000)、日幡城主日幡景親、上原元祐(1,000)、庭瀬城主井上有景、桂景信(1,000)、松島城主梨羽景連(800))の守備を固め援軍を派遣した。1581年、「備中高松城の戦い」では、清水宗治に従って羽柴秀吉勢と戦ったが敗れ、清水宗治とともに自刃した。

末永彌六左衛門【すえながよろくざえもん(15??~15??)】

野間隆実家臣。1555年、「矢野城の戦い」では、野間隆実に従って毛利元就勢と戦ったが敗れて降伏した。野間隆実が毛利元就に謀殺されると、吉川元春に仕えた。

杉長相【すぎながそう(15??~15??)】

毛利元就家臣。毛利元就家臣。1583年、「四国討伐(天正の乱)}では、小早川隆景に属して参陣して伊予中野城の在番を務めた。

杉原就良【すぎはらなりよし(15??~15??)】

小早川景隆家臣。1584年、「伊予御代島の戦い」では、小早川隆景に従って参陣して長宗我部元親勢と戦い戦功を挙げた。

菅田豊後守【すがたぶんごのかみ(15??~1550)】

安芸郡嵩山城主。1550年、「嵩山城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け討死した。

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【た】

高木信光【たかぎのぶみつ(15??~15??)】

毛利元就家臣。須弥館主。

高木信安【たかぎのぶやす(15??~15??)】

高木信光の男。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で尼子義久勢と戦い戦功を挙げ池田城主に任じられた。

高木信清【たかぎのぶきよ(15??~15??)】

高木信安の男。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封に従った。
 
高木信行【たかぎのぶゆき(15??~1615)】

高木信安の次男。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封になると、それには従わず池田城に残留した。1615年、「池田城の戦い」で福島正則勢の攻撃を受け討死した。

高橋統種【たかはしむねたね(15??~1525)】

高田郡猪掛城主。通称大九郎。1525年、「猪掛城の戦い」で佐々部承世、宍戸元源、三田谷元忠勢の攻撃を受け落城した。

蒲刈多賀谷武重【たがやたけしげ(15??~15??)】

安芸郡蒲刈城主。官途は宮内少輔。通称兵衛。別名多賀谷景時。三ヶ島警固衆。1499年、「豊前小倉沖の戦い」で大内義興の家臣杉弘固勢に従って大友親治勢と戦い戦功を挙げた。1511年、「山城船岡山の戦い」では、大内義興に従って参陣して堺を堅守する戦功を挙げた。1524年、「蒲刈城の戦い」で尼子経久勢の攻撃を受けた。1527年、警固衆を率いて厳島を襲撃した。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢に討取られると、毛利元就に仕えた。

蒲刈多賀谷春貞【たがやはるさだ(15??~1524)】

多賀谷武重の男。官途は宮内大輔。別名多賀谷興景。1524年、「蒲刈城の戦い」で尼子経久勢の攻撃を受け討死した。

蒲刈多賀谷元重【たがやもとしげ(15??~15??)】

多賀谷春貞の男。通称久兵衛。1592年、「文禄の役」で毛利秀元に従って参陣した。

多賀谷彦四郎【たがやひこしろう(15??~15??)】

多賀谷武重家臣。

多賀谷孫四郎【たがやまごしろう(15??~15??)】

多賀谷武重家臣。1524年、「桜尾城の戦い」で大内義興の家臣仁保興奉勢に属した多賀谷武重に従って参陣して負傷した。

多賀谷兵部少輔【たがやひょうぶしょうゆ(15??~1527)】

多賀谷武重家臣。1527年、蒲刈多賀谷武重が警固船とともに厳島を襲撃した。風雨になったため、蒲刈多賀谷武重勢は撤退したが、礼拝して乗船した多賀谷兵部少輔は暴風雨に巻き込まれ海没した。

倉橋多賀谷興頼【たがやこきより(15??~1555)】

大内義興家臣。安芸郡丸子山城主。三ヶ島警固衆。1533年、春日神社の本殿を造営した。1555年、「丸子山の戦い」で毛利元就勢の夜襲を受け討死した。

倉橋多賀谷興基【たがやおきもと(15??~1555)】

多賀谷興頼の男。1555年、「丸子山の戦い」で毛利元就勢の夜襲を受け父多賀谷興頼とともに防戦したが討死した。

高屋小三郎【たかやこさぶろう(15??~15??)】

毛利元就家臣。砲術家。毛利元就の意向を受け堀立壱岐守の寄騎衆を務めた。

竹井惣兵衛【たけいそうべい(15??~15??)】

安国寺恵瓊家臣。

安芸武田元繁【たけだもとしげ(1467~1517)】

佐東郡銀山城主。武田元綱の男。安芸国分郡(安芸郡、佐東郡、佐西郡、山県郡)守護職。官途は安芸守。通称太郎左衛門。室は飛鳥井雅俊の娘(大内義興の養女)。1505年、父武田元綱の病没により武田家の家督を相続して佐東郡、山県郡、安芸郡を支配した。1508年、大内義興が足利義材を擁して京都に上ると、これに従って上洛した。1515年、安芸国に帰国すると、大内義興から離反して尼子経久と結び、厳島神主家の内訌に介入して勢力を拡大した。「己斐城の戦い」では、大内義興の意向を受けた毛利興元、吉川元経勢の反撃を受け膠着状態に陥った。1517年、「有田城の戦い」では、毛利元就勢の奇襲により熊谷元直勢が壊滅、熊谷元直も討死した。寡兵の毛利元就勢と戦い流れ矢を受けて討取られた。

安芸武田光和【たけだみつかず(1503~1540)】

武田元繁の男。官途は刑部少輔。通称太郎。室は熊谷元直の娘。武勇に優れた人物。1517年、「有田の戦い」の父武田元繁が討死したため、安芸武田家の家督を相続した。1524年、「佐東銀山城の戦い」で大内義興勢30,000余の攻撃を受けると、尼子経久の支援を受けこれを撃退した。厳島神主家の後継者争いにも介入し、大内義興と対立した友田興藤を支援するなど積極的に行動したが、安芸武田家の衰退を食い止めることはできなかった。1540年、「三入高松城の戦い」では、離反した熊谷信直を攻撃したが敗退した。まもなく病没した。

安芸武田信実【たけだのぶざね(1524~1555)】

武田元光の男(武田元光の養子)。官途は刑部少輔。1540年、武田光和が病没したため、若狭武田家から養子に迎えられ安芸武田家の家督を相続したが、品川信定と香川光景が対立して家中の統率が取れなかった。1540年、「吉田郡山城の戦い」で尼子晴久が毛利元就に敗れて出雲国に撤退すると、佐東銀山城は孤立無援となり、国重信正、国重就正らが離反すると、武田信実は援将の牛尾幸清とともに出雲国へ落延びた。

安芸武田信重【たけだのぶしげ(15??~1541)】

武田下野守の男。1540年、「吉田郡山城の戦い」で尼子晴久が毛利元就に敗れて出雲国に撤退すると、佐東銀山城は孤立無援となり、武田信実は城を捨てて出雲国に落延びた。1541年、「佐東銀山城の戦い」で籠城して毛利元就勢と戦ったが敗れて自刃した。

安芸武田宗慶【たけだそうけい(15??~15??)】

武田光和の次男。通称小三郎。1535年、武田光和の病没後、武田信重の代わりに武田宗慶を擁立しようとした香川光景の工作により養母(毛利元就夫人の姪)とともに周防玖珂郡欽明路峠に匿われた。その後毛利元就に仕えの影武者を務めた。

田坂義詮【たさかよしあき(1502~1547)】

沼田小早川扶平家臣。豊田郡稲村山城主。官途は摂津守。別名田坂善慶。1541年、毛利元就の三男小早川隆景を養子に貰い受けた竹原小早川家は、惣領家を凌ぐ勢力を持った。沼田小早川家は小早川扶平、小早川興平、小早川正平の三代続けて早逝し、小早川繁平も失明するなど惣領家の地位を脅かされた。小早川繁平に従って小早川隆景に対抗するが、毛利元就の工作により小早川隆景が沼田小早川家の家督を相続した。1547年、高山城内で日名内玄心に謀殺された。

田坂頼賀【たさかよりが(15??~1547)】

田坂義詮の男。1547年、「稲村山城の戦い」で小早川隆景の家臣乃美宗勝勢の攻撃を受け討死した。

玉木吉保【たまきよしやす(1552~1633)】

毛利元就家臣。玉木忠吉の男。官途は土佐守。通称太郎左衛門尉。1564年、真言宗勝楽寺に入り修行した。1569年、「大内輝弘の乱」で毛利元就勢に従って参陣した。1578年、「播磨上月城の戦い」で毛利輝元勢に従って参陣した。1580年、上方に赴き曲直瀬道三流の医術を修行した。修得後に帰国後、検地奉行職を務め、毛利輝元領の検地を実施した。1592年、「文禄の役」で毛利輝元に従って参陣して朝鮮の地で代官職を務めた。1600年、「関ヶ原の役」後、医術の道に専念した。生薬とその効能を歌にまとめた『歌薬性』、診脈の方法を歌にまとめた『歌脈書』、さらには病を敵兵に、薬を将兵に見立て、発病から治療、投薬などの流れを軍記物風にまとめた『医文車輪書』を記した。

棚守房顕【たなもりふさあき(1495~15??)】

藤原興親家臣。厳島神社神官。官途は左近将監。室は小方加賀守の娘。厳島神社の神職を代表して神事を行い、自らも舞楽を舞った。大内義隆や毛利元就の御師を務め、僧兵を率い弥山を管理した大聖院や社殿の修理造営権を握り、厳島神社の再興に尽力した。大願寺とともに安芸国内の神社の諸事を統轄した。1540年、「吉田郡山城の戦い」後、陶晴賢から戦果報告の書状を受け取った。

坪井元政【つぼいもとまさ(15??~15??)】

新里因幡守の男。官途は宮内少輔。別名新里宮内少輔。怪力を持つ武将。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢に謀殺されると、毛利元就に従った。1554年、「折敷畑の戦い」では、毛利元就の家臣坂保良とともに宮川房長と甲田丹後守勢と戦い宮川房長を討取る戦功を挙げた。1555年、「宮尾城の戦い」では、己斐直之とともに籠城して陶晴賢勢を厳島に誘い込み作戦を展開した。1570年、「石山本願寺の戦い」では、石山本願寺に籠城して織田信長勢と戦った。

手嶋景繁【てしまかげしげ(15??~15??)】

小早川隆景家臣。通称孫十郎。別名東市助。井上春忠、堅田元慶らとともに小早川隆景の奉行人を務めた。1592年、「文禄の役」では、筑前国名島城の留守居役を務めた。

桐原義房【どうはらよしふさ(15??~15??)】

熊谷信直家臣。

桐原忠宗【どうばらただむね(15??~1592)】

桐原義房の男。1592年、「文禄の役」では、熊谷元直に従って参陣したが討死した。

桐原信忠【どうばらのぶただ(15??~15??)】

熊谷元直家臣。1592年、「文禄の役」に参陣した。日本へ帰還後、剣一振りを須佐神社へ寄進した。1600年、「関ヶ原の役」後、熊谷元直とともに長州に転封した。

戸坂道海【とさかどうかい(15??~15??)】

武田元繁家臣。1541年、「佐東銀山城の戦い」で武田信重が毛利元就勢の攻撃を受けると、安国寺恵瓊を守って落延びた。

豊島興信【としまおきのぶ(15??~1550)】

吉川興経家臣。別名手嶋内蔵丞。1547年、吉川興経が布川館に隠居すると二宮経方、村竹宗蔵らとともに従った。1550年、「布川館の戦い」では、毛利元就勢の攻撃を受け討死した。

伴繁清【ともしげきよ(15??~1542)】

武田元繁の男。官途は下野守。1517年、「有田の戦い」では、武田元繁に従って参陣して毛利元就勢と戦った。毛利元就勢の反撃を受け武田元繁が討死すると、香川光景、己斐直之、熊谷信直らとともに退却した。武田光和を補佐して大内義隆や毛利元就と対抗した。1533年、「三入高松城の戦い」では、毛利元就に内応した熊谷信直を討取るため、香川光景、己斐直之、山田重任、温科家行らとともに参陣したが熊谷信直勢の反撃を受け敗退した。1540年、「吉田郡山城の戦い」で尼子晴久が大内義隆勢に敗れて撤退すると、武田信実らが佐東銀山城から逃亡してしまった。「伴城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け討死した。

友田興藤【ともたおきふじ(15??~1540)】

藤原興親家臣。1508年、藤原興親の病没により厳島神主家が断絶したため、厳島神主家の友田興藤と小方加賀守が厳島神主家の家督を巡って争った。1523年、武田光和らの支援を受け厳島神主家の家督を相続した。1524年、「桜尾城の戦い」で大内義興勢の攻撃を受け隠居に追い込まれ、藤原兼藤が厳島神主家の家督を相続した。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、尼子晴久と結んで桜尾城に籠城したが、尼子晴久が大内義隆勢に大敗したため、桜尾城は包囲され自刃を余儀なくされた。

友田兼藤【ともたかねふじ(15??~15??)】

友田興藤の兄の子。1524年、大内義隆の支援を受け、友田興藤に代わり厳島神主職に任じられた。

友田広就【ともだひろなり(15??~15??)】

友田興藤の弟。官途は掃部頭。精彪で強弓を引いた。1528年、友田兼藤の跡を受けて厳島神主職を相続した。1540年、「藤懸城の戦い」では、兄友田興藤とともに大内義隆勢が籠城する藤懸城を攻撃した。「桜尾城の戦い」で大内義隆勢の攻撃を受け友田興藤が自刃すると、宍戸元純が守る五日市城に落延びた。「五日市城の戦い」で大内義隆勢に包囲されると、宍戸元純の内応により、矢を三本放ち、弓を切り折って自刃した。

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【な】

内藤就藤【ないとうなりとう(15??~15??)】

毛利元就家臣。官途は越後守。市川経好の附家老職を務めた。1568年、「周防高嶺城の戦い」で大内輝弘勢を撃退する戦功を挙げた。後に刈田松山城主杉重良の附家老職を務めた。

永井一虎【ながいかずとら(15??~15??)】

毛利元就家臣。官途は越前守。1574年、「備中鶴首城の戦い」で法行之勝を撃破る戦功を挙げた。安芸国から備中国に移され、備中国下道郡市場古城主となった。

永井重虎【ながいしげとら(15??~1600)】

永井一虎の男。通称四郎兵衛。1600年、「関ヶ原の役」では、毛利輝元に従って参陣したが松平元康勢と戦い討死した。

長坂長七郎【ながさかちょうししろう(15??~15??)】

安国寺恵瓊家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、本願寺端坊から落延びる安国寺恵瓊を守り奮戦した。

中原善右衛門【なかはらぜんえもん(15??~15??)】

毛利元就家臣。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、井上長門守とともに風越山の尼子晴久の本陣を攻撃して兵糧を焼き払い尼子久幸を射抜く戦功を挙げた。

中村繁勝【なかむらしげかつ(15??~15??)】

安芸武田元繁家臣。

中村元明【なかむらもとあき(15??~15??)】

中村繁勝の弟。官途は宮内少輔。武田元繁に仕えていたが、毛利弘元に内応して兄中村繁勝を謀殺して毛利弘元に従った。 毛利興元の上洛時には側近として追従した。1523年、毛利元就に宗家相続を依頼した。

中村元信【なかむらもとのぶ(15??~15??)】

中村元明の男。

中村弥次郎【なかむらよじろう(15??~15??)】

中村元明の次男。1540年、「吉田郡山城の戦い」で毛利元就に従って参陣して尼子晴久勢と戦い戦功を挙げた。

中村元誠【なかむらもとなり(15??~15??)】

中村元信の男。田屋城主。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元に従って防長移封に従った。

奈古屋元堯【なごやもとたか(15??~15??)】

毛利元勝の男。官途は加賀守。通称左近助。別名毛利元堯。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢に謀殺されると、大内義長、陶晴賢勢に属した。1554年、「桜尾城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け、久芳賢重、久芳賢直、己斐直之、坪井元政とともに降伏して山口に落延びた。1557年、「長門且山城の戦い」で大内義長が討死すると、毛利元就に仕えた。

奈古屋元賀【なごやもとが(15??~1580)】

奈古屋元堯の男。1580年、「備中賀茂城の戦い」で宇喜多直家勢と戦い討死した。

奈古屋元忠【なごやもとただ(15??~15??)】

奈古屋元堯の次男。1580年、「備中賀茂城の戦い」で宇喜多直家勢と戦い兄奈古屋元賀が討死したため、奈古屋家の家督を相続した。

梨子羽宣平【なしわのぶひら(15??~15??)】

沼田小早川正平家臣。筆頭家老職を務めた。小早川隆景の沼田小早川家入りに積極的に貢献した。1561年、新高山城の歓宴で毛利元就、毛利隆元の饗応役を務めた。

梨子羽景行【なしかわかげゆき(15??~15??)】

平賀興貞の三男(梨子羽宣平の養子)。

新里若狭守【にいざとわかさのかみ(15??~15??)】

藤原興親家臣。佐西郡坪井館主。厳島神領衆。1508年、藤原興親が京都で病没すると、神領衆が徒党を組み東西に分かれ争った。東方衆の宍戸治部少輔勢は桜尾城に籠城、西方衆の新里若狭守は藤懸城に籠城した。1516年、西方衆の羽仁有繁が厳島を奪回すると、西方衆は厳島に勝山城を築いた。1517年、新里若狭守は東方衆の小方加賀守による攻撃を撃退した。

新里隆溢【にいざとたかいつ(15??~15??)】

新里若狭守の男。官途は因幡守。室は温科家親の娘。1524年、「桜尾城の戦い」で友田興藤が討死すると、大内義隆に従い佐西郡を支配した。1539年、遣明使副使策彦周良の遣明船が赤間関に寄航すると、矢田増重とともに護送担当した。1548年、大内義隆の安芸国佐西郡代として家臣ぼ脇弥左衛門とともに厳島社家への納銭の勘渡を行った。1555年、「桜尾城の戦い」では、己斐直之、新里宮内少輔らとともに桜尾城に籠城したが毛利元就に降った。

二階堂氏行【にかいどううじゆき(15??~15??)】

小早川景隆家臣。官途は近江守。経山城代を務めた。

二階堂輝行【にかいどうてるいき(15??~15??)】

二階堂氏行の男。

二宮俊実【にのみやとしざね(1522~1603)】

吉川元春家臣。官途は木工助。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢に謀殺されると、毛利元就は陶晴賢と結んで大内義隆勢と戦った。1555年、「厳島の戦い」では、吉川元春勢の主力を率い陶晴賢の家臣三浦房清を討取る戦功を挙げた。1558年、「忍原崩れ」では、毛利元就に従って本城常光勢と戦った。1561年、「山吹城の戦い」では、吉川元春の意向を受け、刺賀長信、高畠遠言が籠城する山吹城に山県春勝とともに兵糧を運び入れた。1562年、吉川元春の意向を受け粟屋源三、森脇春方らとともに本城常光を謀殺した。1600年、「関ヶ原の役」後、吉川広家の岩国への転封に従った。

二宮春久【にのみやはるひさ(1510~1593)】

二宮経政の男。官途は土佐守。毛利元就に仕えた。1540年、「吉田郡山城の戦い」で毛利元就に従って参陣して尼子晴久勢と戦い戦功を挙げた。

二宮就辰【にのみやなりたつ(1546~1607)】

毛利元就の四男(二宮春久の養子)。官途は信濃守。毛利元就は、妊娠七ヶ月の矢田元通の娘を二宮春久に預け出産させた。誕生後は二宮春久の子として養育された。数々の戦功を挙げた。毛利輝元が吉田郡山城から広島城に移すと、穂井田元清とともに普請奉行職を務めた、1600年、「関ヶ原の役」後、防長移封に従い毛利輝元の側近として活躍した。

野田春実【のだはるざね(15??~15??)】

吉川経家家臣。1582年、「第二次鳥取城の戦い」で吉川経家に従って因幡鳥取城に籠城して羽柴秀吉勢と戦った。鳥取城の兵糧が尽きると、吉川経家の意向を受け、羽柴秀吉のもとに赴き、吉川経家の自刃と引き替えに城兵の助命を求めた。

信常元実【のぶつねもとざね(15??~15??)】

毛利元就家臣。通称太郎兵衛。別名信常就行。山口奉行を務めた。市川経好の附家老職を務めた。1568年、「周防高嶺城の戦い」で大内輝弘勢を撃退する戦功を挙げた。

野間興勝【のまおきかつ(14??~15??)】

安芸郡矢野城主。官途は掃部頭。呉警固衆。1493年、「瀬戸城の戦い」では、小早川弘平の家臣乃美家氏勢の攻撃を受けた。大内義興の調停を受け小早川弘平と和議が結ばれ波多見島から小早川弘平勢は瀬戸城から撤退した。1512年、毛利興元が中心となり安芸国衆一揆が結ばれると、小早川弘平、阿曾沼弘秀らとともに連署した。

野間隆実【のまたかざね(15??~1555)】

野間興勝の男。官途は刑部大輔。室は熊谷信直の娘。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が討死すると、陶晴賢勢に属した。1555年、「仁保島城の戦い」で陶晴賢の家臣白井房胤勢に従って参陣した。「矢野城の戦い」では、陶晴賢勢の羽仁源七の支援を受けるが降伏した。毛利元就により一族とともに謀殺された。

野間則全【のまのりぜん(15??~15??)】

野間興勝の次男。1555年、「矢野城の戦い」で兄野間興勝が毛利元就に謀殺されると、落延びた。 

野間彦太郎【のまひこたろう(15??~15??)】

野間隆実家臣。1523年、東西条の下見村に所領100貫を領した。

野間刑部大輔【のまぎょうぶだいふ(15??~15??)】

野間隆実家臣。吉浦を拠点として、大内家方の警固衆として戦った。

乃美家氏【のみいえうじ(15??~15??)】

沼田小早川弘平家臣。賀茂郡茶臼山城主。

乃美弘平【のみはろひら(15??~15??)】

乃美家氏の男。官途は弾正忠。

乃美隆興【のみたかおき(1513~1598)】

乃美弘平の男。官途は弾正忠。通称又十郎。室は宍戸元源の娘。1543年、「高山城の戦い」で山名理興勢の攻撃を受けたが毛利元就の支援を受け撃退した。小早川隆景の沼田小早川家相続に尽力した。

乃美景興【のみかげおき(1513~1598)】

乃美隆興の男。官途は掃部頭。父乃美隆興、小早川弘平、乃美宗勝らとともに、沼田、竹原小早川家の統合に力を注ぎ、小早川隆景を擁立すると、田坂義詮と対立した。

乃実賢勝【のみすえかつ(15??~15??)】

乃美家氏の次男(浦元安の養子)。別名浦賢勝。

乃美宗勝【のみむねかつ(1527~1592)】

乃美賢勝の男。官途は備前守。通称新四郎。別名浦宗勝。1555年、「厳島の戦い」では、小早川隆景の意向を受け能島村上武吉、来島村上通康を調略して毛利元就の勝利に貢献した。1560年、「豊前門司城の戦い」では、小早川隆景に従って参陣して大友義鎮の家臣伊美弾正忠を討取る戦功を挙げた。1561年、「豊前門司城の戦い」で大友義鎮の警固衆を撃破した。1575年、「播磨上月城の戦い」で小早川隆景に従って尼子勝久勢と戦った。1576年、「第一次木津川河口の戦い」では、織田信長勢の海賊衆を撃破った。
 
乃実盛勝【のみもりかつ(15??~1582)】

乃実宗勝の男。通称少輔四郎。別名浦盛勝。山本宗玄の後見を受け備中国宮地山城主を務めた。1582年、家臣の山本宗玄が羽柴秀吉勢に内応したため、小早川隆景から内応の嫌疑を受け謀殺された。

乃実景継【のびかがつぐ(15??~15??)】

乃実盛勝の次男。

乃実景勝【のびかげかつ(15??~15??)】

乃実盛勝の三男。

乃実景嘉【のびかげか(15??~15??)】

乃実盛勝の四男。

乃実景尚【のびかげなお(15??~15??)】

乃実盛勝の五男。

乃美元信【のびもとのぶ(15??~15??)】

乃美宗勝の弟。1557年、小早川隆景の意向を受け鉄炮の鉛玉の調達を行った。1582年、「備中宮路山城の戦い」では、兵400余りを率いて羽柴秀吉勢と戦った。宇喜多秀家の家臣信原内蔵充の交渉により和議が結ばれ宮路山城から退去した。

能美政忠【のびまさただ(15??~15??)】

大内義興家臣。能美島警固衆。1522年、「佐東銀山城の戦い」で大内義興勢に従って武田光和を攻撃して倉橋多賀谷興重とともに戦功を挙げた。

野村木工允【のむらもくのじょう(15??~1527)】

阿曾沼弘秀家臣。1527年、「鳥籠山城の戦い」で大内義隆、毛利元就勢の攻撃を受け自刃した。 

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【は】

林武長【はやしたけなが(15??~15??)】

毛利元就家臣。別名菊池武長。菊池能運の家臣だった。1504年、菊池能運が滅亡すると安芸国に落延びた毛利元就に仕えた。石見銀山で採掘の奉行職を務めた。
 
林足早【はやしそくはや(15??~15??)】

林武長の男。小早川隆景に仕えた。

林就長【はやしなりなが(1517~1605)】

林武長の次男。官途は山城守。通称木工允。兄林足早が小早川隆景に仕えたため、林家の家督を相続して毛利元就に仕えた。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、毛利元就に従い参陣した。備後国世羅郡松岡城主を務めた。1581年、柳沢元政とともに石見銀山奉行職を務めた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」後、羽柴秀吉との取次役を務めた。惣国検地を担当した。1586年、「豊前香春岳城の戦い」では、継嗣の林元善、渡辺石見守、二保右衛門太夫、井上伯耆守らとともに参陣して戦功を挙げた。1587年、惣国検地では、検地奉行、打渡奉行職を務めた。備後聖神社を再建し、鎧等を奉納した。因幡国、伯耆国の統治を任された井上就重を小倉元悦ととも補佐した。

檜垣肥前守【ひがきひぜんのかみ(15??~15??)】

賀茂郡龍王山城主。1554年、呉衆(山本賢勝、山本義長、警固屋小次郎、警固屋市介、檜垣淡路守、檜垣藤左衛門、檜垣新太郎、檜垣大四郎、檜垣神兵衛ら)とともに小早川隆景に従った。1554年、毛利元就が大内義長、陶晴賢と戦うと、呉衆は毛利元就に属したが、山本賢勝が大内義長勢に内応した。

日名内玄心【ひなうちげんしん(15??~15??)】

沼田小早川扶平家臣。1547年、小早川隆景の意向を受け高山城内で田坂義詮を謀殺した。

平井藤九郎【ひらいとうくろう(15??~15??)】

安国寺恵瓊家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、本願寺端坊から落延びる安国寺恵瓊を守り奮戦した。

平賀弘保【ひらがひろやす(14??~15??)】

賀茂郡頭崎城主。1523年、「鏡山城の戦い」で大内義興勢の攻撃を受け鏡山城が落城すると、頭崎城を築き平賀興貞を城主に任じた。

平賀興貞【ひらがおきさだ(15??~15??)】

平賀弘保の男。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、父平賀興貞が尼子晴久勢に属して祖父平賀弘保、平賀隆宗、平賀広相らが大内義隆勢に属した。「頭崎城の戦い」では、大内義隆の意向を受けた毛利元就勢の攻撃を受け降伏、家督を継嗣の平賀隆宗に譲り出家した。

平賀隆宗【ひらがたかむね(1525~1549)】

平賀興貞の男。通称太郎左衛門。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、父平賀興貞が尼子晴久勢に属して祖父平賀弘保、平賀隆宗、平賀広相らが大内義隆勢に属した。尼子晴久が大敗すると、父平賀興貞が隠居したため、平賀家の家督を相続した。1549年、「備後神辺城の戦い」で、山内理興勢と対陣中の病没すると、大内義隆の家臣平賀隆保が養子として送り込まれた。

平賀広相【ひらがひろすけ(1528~1567)】

平賀興貞の次男。官途は蔵人大夫。通称新九郎。1540年、「吉田郡山城の戦い」で尼子晴久が大敗すると、父平賀興貞が隠居、兄平賀隆宗が平賀家の家督を相続した。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢に討取られると、毛利元就の支援を祖父平賀弘保ととも平賀隆保を討取り平賀家の家督を奪還した。1555年、「厳島の戦い」では、陶晴賢の使者を捕縛して毛利元就に注進した。

平賀元相【ひらがもとすけ(1547~1645)】

平賀広相の男。官途は兵庫頭。通称新四郎。室は福原貞俊の娘。1567年、父平賀広相の病死により平賀家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に減封となると、それに従い4,000石を領した。後に家臣団を維持できずに家禄を返上して隠棲した。

平賀元忠【ひらがもとただ(15??~15??)】

平賀元相の男。毛利輝元に仕え300石を領した。

平賀隆保【ひらがたかやす(15??~1551)】

小早川常平の次男(平賀隆宗の養子)。1541年、父小早川常平が尼子晴久に内通した疑いを受け自刃しため、大内義隆の人質として山口に送られたが、大内義隆の寵童となった。1549年、「備後神辺城の戦い」の陣中で平賀隆宗が病没すると、平賀弘保は平賀元相への家督相続を願出でたが、大内義隆の意向を受け平賀隆保が平賀家の家督を相続した。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢に謀殺されると、毛利元就勢の攻撃を受け討死した。

平川新蔵【ひらかわしんぞう(15??~16??)】

安国寺恵瓊家臣。

平佐就之【ひらさなりゆき(1530~1612)】

毛利元就家臣。平佐就有の男。官途は伊豆守。通称源七郎。毛利元就側近。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、他の諸将とともに尼子晴久の家臣三沢為幸勢を撃退する戦功を挙げた。1563年、「出雲白鹿城の戦い」では、松田満久、松田誠保勢と戦い戦功を挙げた。毛利隆元に仕えた。毛利元就が毛利隆元、吉川元春、小早川隆景に宛てた有名な「三子教訓状」への返書の宛先も、平佐就之宛。

平佐元貞【ひらさもとさだ(15??~15??)】

粟屋就貞の男(平佐就之の養子)。

深瀬隆兼【ふかせたかかね(15??~15??)】

宍戸元家の次男。高田郡祝屋城主。官途は弾正忠。別名宍戸隆兼。1504年、父深瀬元家が隠居したため、祝屋城主に任じられた。弟の深瀬家俊(司箭院興仙)を養子に迎えたが、深瀬家俊は山伏のように修験道の修行に明け暮れ、出奔の後に細川政元に仕えた。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、毛利元就に従って祝屋城に籠城した。尼子晴久の家臣尼子久幸、尼子国久、尼子誠久らの攻撃を受けたがこれを撃退した。

深瀬家兼【ふかせいえかね(15??~15??)】

深瀬隆兼の男。

深瀬直良【ふかせなおよし(15??~15??)】

深瀬隆兼の次男。

福井元信【ふくいもとのぶ(15??~1578)】

武田元繁家臣。官途は出雲守。通称十郎兵衛尉。1541年、「佐東銀山城の戦い」で
が滅亡すると毛利元就勢に属した。山県就相らとともに、川之内警固衆として瀬戸内で活躍した。1578年、出雲国で討死した。

福島親長【ふくしまちかなが(15??~15??)】

武田元繁家臣。官途は右京進。太田川河口五ヶ村の領主。1517年、「有田の戦い」で武田元繁が討死すると、白井賢胤、香川行景らとともに大内義隆勢に属した。1520年、皆木勝重、野原有祐とともに山口高嶺大神宮の社壇建立の普請奉行職を務めた。

福島隆弘【ふくしまたかひろ(15??~1543)】

福島親長の男。1543年、「第一次月山富田城の戦い」で大内義隆に従って参陣して討死した。

福島元長【ふくしまもとなが(15??~1597)】

福島親長の養子。官途は大和守。通称源三郎。室は福島親長の娘(宮福)。1525年、武田光和が衰退すると大内義隆に内応した。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢に討取られると、毛利元就勢に属した。

福原広俊【ふくばらひろとし(15??~1557)】

高田郡鈴尾城主。官途は式部大輔。筆頭家老職を務めた。1522年、毛利元就の家督相続の起請文に、家老職(桂元澄、坂広秀、渡辺勝、井上元兼、井上元盛、赤川元保、粟屋元秀、飯田元親ら)の筆頭として署名した。娘達を桂元澄、口羽通良、和智誠春、天野隆重、杉重良に嫁がせ勢力を拡大した。1540年、「吉田郡山城の戦い」で尼子晴久勢の攻撃を受けると、継嗣の福原貞俊を郡山城に派遣し、自身は鈴尾城に籠城し奮戦した。
 
福原貞俊【ふくばらさだとし(1511~1593)】

福原広俊の男。官途は出羽守。1550年、毛利元就から家老職筆頭に任じられた。1555年、「長門且山城の戦い」では、大内義長、内藤隆世勢と戦い自刃に追込んだ。その後、小早川隆景らとともに山陰道方面の計略を担当した。1569年、「大内輝弘の乱」でも主力を率いて戦功を挙げた。吉川元春、小早川隆景、口羽通良とともに毛利輝元を補佐した。

福原元俊【ふくばらもととし(1541~1591)】

福原貞俊の男。官途は式部少輔。通称弥五郎。1563年、毛利隆元が病没すると、毛利輝元に仕えた。

福原広俊【ふくばら ひろとし(1567~1623)】

福原元俊の男。1591年、父福原元俊の病没により福原家の家督を相続した。1592年、「文禄の役」では、吉川広家とともに参陣して戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢の優勢を確信して吉川広家とともに松平元康に内応したが、総大将だった毛利輝元は減封された。1614年、「大坂冬の陣」で佐野道可が羽柴秀頼勢に属したため、役後その処理に奔走した。

福原元正【ふくはらもとまさ(15??~15??)】

吉川元春家臣。1550年、吉川元春の小倉山城入城に従った。

福間彦右衛門【ふくまひこえもん(15??~15??)】

天野元明家臣。1578年、「播磨上月城の戦い」後、天野元明に意向を受け降伏した山中幸盛を謀殺した。

藤井淡路守【ふじいあわじのかみ(15??~1568)】

毛利元就家臣。1557年、「長門且山城の戦い」で大内義長が滅亡すると、山口奉行に任じられた。1568年、「周防梅ノ木峠の戦い」で大内輝弘勢と戦い討死した。

藤原教親【ふじわらのりちか(15??~1504)】

厳島神主家。長屋忠親の男(藤原親藤の養子)。官途は下野守。1450年、武田元綱、毛利豊元、宍戸元家らの安芸国衆に押領され社領の返還を足利義稙に訴えた。1457年、大内教弘と結び、武田元綱、毛利豊元 、吉川らと戦い社領回復に務めた。1467年、「応仁の乱」で西方衆に属したため、東方衆の足利義政に山県郡の厳島社領が没収された。1472年、厳島社大御前棚守職の長家久を討取り、大御前棚守職を兼任した。

藤原宗親【ふじわらむねちか(15??~15??)】

藤原教親の男(長屋泰親の養子)。1473年、父藤原教親の後見を受け厳島神主職に就任した。1475年、藤原教親とともに刀一腰を厳島社に奉納した。1479年、一時的に藤原教親が厳島神主職に復帰したが、後に厳島神主職に復帰した。厳島神主職を弟の藤原興親に譲り、叔父長屋泰親の家督を相続した。

藤原興親【ふじわらおきちか(15??~1508)】

藤原教親の次男。1493年、兄藤原宗親が長屋泰親の家督を相続したため、藤原家惣領家の家督を相続した。1508年、足利義稙、大内義興に従って上洛したが、京都で病没した。

藤原兼藤【ふじわらかねとう(15??~15??)】

藤田興藤の男。別名友田兼藤。1508年、藤原興藤が京都で病没すると、厳島神主職を相続した。

藤原広就【ふじわらひろなり(15??~1540)】

友田興藤の弟。厳島神主家の家督を相続した。1540年、「桜尾城の戦い」で大内義隆勢の攻撃を受け兄友田興藤が討死すると、大内義隆勢に包囲され五日市で自刃した。

掘立直正【ほだてなおまさ(15??~15??)】

安芸国佐東の商人。屋号は「下関屋」。官途は壱岐守。通称九郎左衛門。毛利元就の御用商人と赤間関の代官職を20年間にわたり務めた。1541年、「佐東銀山城の戦い」で武田信重が滅亡すると毛利元就に仕えた。1551年、「大寧寺の変」で大内義隆が陶晴賢に討取られると、三田尻、赤間関の諜報、調略、制圧に成果を挙げた。鉄炮名人の高屋小三郎を附けられた。また多くの兵糧や武具などを調達して毛利元就に提供するなど日常的に物資の調達、運送から職人の編成といった幅広い経済活動を行った。

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【ま】

三浦房清【みうらふさきよ(15??~1555)】

陶晴賢家臣。官途は越中守。大内家警固衆。1554年、「仁保島城の戦い」では、香川光景を攻撃したが撃退された。1555年、「厳島の戦い」では、海路から宮島への上陸を主張した。陶晴賢勢が壊滅すると、敗走する軍勢をまとめ、殿を務めた。吉川元春の家臣二宮俊実に討取られた。

三浦元忠【みうらもとただ(1555~1596)】

毛利元就家臣。官途は兵庫頭。通称惣四郎。別名神田元忠。室は繁沢元氏の娘。毛利輝元の寵愛を受けて重用され、周防三浦家の家督を相続した。1555年、「厳島の戦い」で毛利元就に従って参陣して戦功を挙げ仁保城主に任じられた。1585年、豊前国門司城主仁保元豊とともに関門海峡を閉鎖した。1586年、「九州の役」では、羽柴秀吉に従った毛利輝元の意向を受け、毛利輝元の陣代として兵3,000余りを率いて北九州に上陸した。島津義久勢は立花山城の包囲を解いて撤退した。

三上新三郎【みかみしんざぶろう(15??~1568)】

井上元兼家臣。釜ヶ城主。官途は民部丞。別名井上信三郎。1550年、井上元兼が毛利元就に謀殺されると、毛利元就に仕えた。1568年、「播磨明石浦の戦い」で海賊衆と戦い討死した。

三上元安【みかみもとやす(15??~15??)】

三上新三郎の男。官途は豊後守。1561年、備後鞆浦の代官職を務めた。1576年、「第一次木津川口の戦い」にも参陣し、石山本願寺への兵糧運び入れを成功させた。

水落直政【みずおちなおまさ(15??~15??)】

熊谷信直家臣。1533年、「三入高松城の戦い」で武田光和、品川信定、伴繁清、香川光景、己斐直之、山田重任、温科家行、飯田義武、板垣繁任らの攻撃を受けたが熊谷信直、熊谷直続、末田直忠、末田直久、岸添清直らとともに撃退する戦功を挙げた。

三須房清【みすふさきよ(15??~15??)】

熊谷信直家臣。土居城主。官途は筑前守。室は熊谷元直の娘。1527年、「船山城の戦い」で毛利元就に属した熊谷信直に従って香川光景らとともに大内義隆勢を撃破った。1555年、「厳島の戦い」では、熊谷元直に従って参陣して陶晴賢勢と戦った。

三須隆経【みすたかつね(15??~15??)】

熊谷信直の四男(三須房清の養子)。通称兵部。別名熊谷隆経。1580年、美作医王山城の城将に任じられた。1581年、「美作医王山城の戦い」では、宇喜多直家勢の攻撃を撃退した。

三田谷元忠【みたにもとただ(15??~15??)】

宍戸時宗の五男。官途は玄蕃允。1525年、「猪掛城の戦い」では、宍戸元源、佐々部承世らと結び高橋統種を猪掛城から追い落とした。

三田元盛【みたもともり(1504~15??)】

古川城主。官途は周防守。通称少輔七郎。1508年、大内義興が足利義材を擁して上洛すると、それに従った。

三田元吉【みたもとよし(15??~15??)】

三田元盛の男。官途は能登守。1540年、「吉田郡山城の戦い」で毛利元就に従って籠城して尼子晴久勢と戦い戦功を挙げた。1556年、佐東銀山の在番を務めた。

三田元秀【みたもとひで(15??~15??)】

三田元吉の男。官途は備前守。

三田実正【みたさねまさ(15??~15??)】

三田元秀の男。通称六郎兵衛。別名長井実正。三田村で帰農した。

三田元親【みたもとちか(15??~15??)】

三田元盛の次男。通称右衛門太夫。別名永井元親。1555年、「厳島の戦い」で毛利元就に従って参陣した。

三田元実【みたもとざね(15??~15??)】

三田元親の男。通称少輔七郎。1591年、『八ヵ国御時代分限帳』では、1,220石を領した。

三田吉秀【みたよしひで(15??~1598)】

三田元実の男。通称五郎右衛門。1592年、「文禄の役」で毛利輝元に従って参陣した。

三田元辰【みたもおとあつ(15??~15??)】

三田吉秀の男。通称久七郎。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封すると、萩に従った。

壬生元泰【みぶもとやす(15??~15??)】

武田元繁家臣。山県郡有田城主。1515年、「有田城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け落城した。毛利元就に降伏した。

宮庄経友【みやのしょうつねとも(15??~15??)】

吉川国経の三男。官途は下野守。猛将。1517年、「有田の戦い」では、毛利元就とともに吉川興経の陣代として参陣して武田元繁の家臣熊谷元直を討取る戦功を挙げた。娘は兄吉川元経の継嗣吉川興経に嫁ぎ、吉川千法師をもうけた。吉川元春の入嗣に二宮右京亮、朝枝加賀守とともに反対して改易処分に処された。

宮荘元正【みやそうもとまさ(15??~15??)】

福原広俊の次男(宮荘経友の養子)。別名福原元正。

宮荘家正【みやそういえまさ(15??~16??)】

宮荘元正の男。官途は雅楽允。今田春賀、今田家成、吉川経実とともに家老職を務めた。

宮原勝実【みやはらかつざね(15??~15??)】

安芸郡堀城主。通称隼人佐。呉衆。音戸、瀬戸の両方に拠点を持ち、大きな経済力を保持した。1554年、陶晴賢に属して毛利元就勢の攻撃を受け壊滅したが、檜垣新太郎らとともに小早川景隆勢に属して勢力を維持した。

三輪元祐【みわもとすけ(15??~1605)】

毛利輝元家臣。1605年、毛利輝元から基督教の棄教を命じられたが応じなかったため、熊谷元信、天野元信、中原善兵衛とともに毛利輝元に謀殺された。

椋梨盛平【むくなしもりひら(1509~1548)】

沼田小早川繁平家臣。小早川隆景の沼田小早川家への入養に協力した。1543年、「備後神辺の戦い」で毛利元就、乃美隆興らとともに山名理興勢と戦った。

椋梨弘平【むくなしひろひら(15??~15??)】

椋梨盛平の男。官途は治部少輔。通称藤次郎。別名椋梨張平。室は香川春景の娘。小早川隆景の筆頭家老職を務めた。1554年、「備後高杉城の戦い」では、小早川隆景に従い家臣末包又十郎ととも戦功を挙げた。

椋梨景良【むくなしかげよし(15??~15??)】

椋梨弘平の男。1597年、小早川隆景の病没後、毛利輝元に仕えた。

椋梨景家【むくなしかげいえ(15??~1586)】

小早川隆景家臣。官途は越前守。1579年、小早川隆景から小早川秀包の附家老職に任じられた。1586年、「豊前香春嶽城の戦い」で小早川秀包に従って参陣したが、高橋元種勢の攻撃を受け討取られた。

椋梨包祐【むくなしかねすけ(15??~15??)】

椋梨景家の男。官途は越前守。1585年、「伊予高尾山城の戦い」では、小早川隆景に従い参陣して白井包俊らとともに戦功を挙げた。1586年、「豊前宇留津城の戦い」で父椋梨景家が討死したため、椋梨家の家督を相続した。1592年、「文禄の役」では、小早川隆景に従って参陣して戦功を挙げた。

椋梨就次【むくなしなりつぐ(15??~15??)】

毛利輝元家臣。小早川隆景の夫人の支援を受け毛利輝元のもとに帰参した。

宗岡弥右衛門尉【むねおかよざえもんのじょう(15??~15??)】

毛利輝元家臣。別名吉岡佐渡守。石見銀山の代官職を務めた。1599年、佐世石見守から銀30,000枚の上納を命じられた。内28,000枚は代官職(吉岡隼人助、宗岡弥右衛門尉、今井越中守)が立て替えて上納した。1600年、大久保長安に石見銀山の産出状況について報告書を出した。1604年、大久保長安の意向を受け佐渡金山の調査を行った。

毛利弘元【もうりひろもと(1466~1506)】

高田郡吉田郡山城主。毛利豊元の男。官途は治部少輔。室は福原広俊の娘。1476年、父毛利豊元の病没により毛利家の家督を相続して大内政弘に従った。1499年、「明応の政変」で失脚した足利義稙を保護した大内義興と細川政元との対立に巻き込まれ隠居した。1506年、心労と酒毒により病没した。

毛利興元【もうりおきもと(1492~1516)】

毛利弘元の男。官途は治部少輔。室は高橋久光の娘。1499年、父毛利弘元の隠居により毛利家の家督を相続した。1511年、「船岡山の戦い」では、大内義興に従い参陣した。尼子経久が出雲国で勢力を拡大すると、他の有力国衆(高橋久光、平賀弘保、天野興次ら)と一揆を結んで対抗したしたが、宍戸元源との争いは続いた。

毛利久元【もうりひさもと(1515~1523)】

毛利興元の男。通称幸松丸。1516年、父毛利興元が病没したため、毛利元就と高橋久光の後見を受け毛利家の家督を相続した。1522年、「鏡山城の戦い」では、毛利元就、吉川国経らとともに尼子経久に従って蔵田房信、蔵田直信勢と戦った。帰国後、病没した。

毛利元就【もうりもとなり(1499~1571)】

毛利弘元の次男。官途は治部少輔。1516年、兄毛利興元が病没すると、毛利久元の後見役を務めた。1523年、毛利久元が病没すると、毛利惣領家の家督を相続した。大内義興、尼子経久の大勢力に挟まれた中で、高橋興光、武田光和らを滅ぼして勢力を拡大した。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、大内義隆勢の支援を受け尼子晴久勢を撃破した。吉川興経、小早川興景に養子として送り込むなど、政略、知略、謀略を駆使し、安芸国、備後国の大勢力となった。1551年、「大寧寺の変」では、陶晴賢勢を支援して大内義隆勢の安芸国諸城を攻略した。1553年、尼子新宮党を謀略により壊滅させた。1554年、「三本松城の戦い」で陶晴賢が吉見正頼と戦うと、安芸国沿岸の陶晴賢勢を攻撃した。「折敷畑の戦い」で陶晴賢の家臣宮川房長勢を撃破した。1555年、「厳島の戦い」で陶晴賢勢を撃破した。1557年、大内義長を滅亡させ防長両国を制圧した。1562年、「第二次月山富田城の戦い」後、尼子義久を降伏に追込み出雲国、隠岐国、伯耆国を制圧した。1567年、「筑前立花城の戦い」で北九州に侵攻して博多を巡って大友義鎮と激しく争った。

毛利隆元【もうりたかもと(1523~1563)】

毛利元就の男。官途は大膳太夫。室は内藤興盛の娘(大内義隆の養女)。志道広良の薫陶を受け育った。1537年、父毛利元就が大内義隆に属すると、人質として山口に送られた。1546年、毛利元就の隠居により毛利惣領家の家督を相続した。戦略面などは引き続き毛利元就が担当、内政面で実績を上げた。九州から出雲国に移動する途中立ち寄った備後国南天山城で病没した。

毛利輝元【もうりてるもと(1553~1625)】

毛利隆元の男。官途は少輔太郎。室は宍戸隆家の娘(南の方)。1562年、「第二次月山富田城の戦い」では、祖父毛利元就の後見を受け尼子義久勢と戦った。1563年、父毛利隆元の病没により毛利惣領家の家督を相続した。1571年、毛利元就の病没後は父吉川元春、小早川隆景、福原貞俊、口羽通良らの輔佐を受け、中国地方を統治した。1576年、反織田信長の足利義昭、石山本願寺らを支援したが、羽柴秀吉の攻勢を受け、機動力と兵站力で劣る毛利輝元勢は山陰、山陽の両戦線で後退を余儀なくされた。1581年、「備中高松城の戦い」で籠城する清水宗治を効果的な支援を与えることができず、羽柴秀吉と和議を結んだ。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉と結び中国地方九ヶ国を治める国内最大の大名となった。1588年、領内総検地と広島築城を開始、家臣知行地の大幅な移動を実施するなど領国支配体制の確立を進めた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢の総大将として大坂城で指揮を取った。石田三成勢が大敗したため、減封処分に処された。

毛利秀就【もうりひでなり(1595~1651)】

毛利輝元の男。官途は長門守。通称藤七郎。室は結城秀康の娘(喜佐姫)。1599年、父毛利輝元の養子だった毛利秀元が、別家を立てたので惣領職の地位が確定した。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元から毛利惣領家の家督を相続した。1601年、人質として江戸城に送られた。毛利輝元、毛利秀元、吉川広正、福原広俊、益田元祥らの補佐を受け役後の難局に対応した。

毛利就隆【もうりなりたか(1602~1679)】

毛利輝元の次男。通称三次郎。室は毛利秀元の娘(松菊姫)、継室は中川重政の娘(禅海院)。1617年、周防国都濃郡内で30,000石を領した。毛利秀元の娘と離別したことで、毛利秀元と険悪な関係になった。領内の経営では殖産興業や新田開発による税収増加に務めた。兄毛利秀就からの普請協力要請を財政難を理由に拒否した。

毛利秀元【もうりひでもと(1579~1650)】

穂井田元清の次男(毛利輝元の養子)。官途は右京大夫。1593年、小早川秀秋の毛利家入嗣騒動が起こると、毛利輝元の養子に迎えられた。1599年、毛利輝元に継嗣毛利秀就が生まれたため、お家騒動を避けるため別家を立てた。1600年、「関ヶ原の戦い」では、毛利輝元の陣代として参陣したが、松平元康勢に属した吉川広家の妨害を受け、傍観に徹した。役後、毛利輝元が防長二ヶ国に転封されると、長門国豊浦郡櫛崎城を領して、毛利秀就のもとで執政を務めた。

毛利房継【もうりふさつぐ(15??~15??)】

陶晴賢家臣。官途は掃部允。陶晴賢のもとで徳地代官職を務めた。1557年、「長門且山城」で大内義長が滅亡すると、毛利元就に降伏して所領を安堵された。

森脇春方【もりわきはるひさ(15??~15??)】

吉川興経家臣。官途は飛騨守。通称一郎右衛門。別名森脇春尚。石見国方面担当した。1562年、二宮俊実、山県康政らとともに本城常光を討取る戦功を挙げた。「第二次月山富田城の戦い」に吉川元春に従って参陣した。

森脇祐有【もりわきすけあり(1498~1552)】

吉川興経家臣。寺原与谷城主。吉川家筆頭家老職を務めた。吉川興経が重用した大塩右衛門尉が圧政を敷いていたため、吉川経世とともに大塩右衛門尉を討取り、吉川興経を隠居させて毛利元就の次男吉川元春を吉川家の養子に迎えた。

森脇弥四郎【もりわきよしろう(15??~15??)】

吉川元春家臣。1563年、「出雲熊野城の戦い」で、熊野久忠勢から攻撃を受けるも、佐々部祐賢らとともに奮戦しこれを撃退する戦功を挙げた。

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【や】

八木景光【やぎかげみつ(15??~15??)】

毛利元就家臣。佐東郡八木城主。1534年、毛利元就に従った。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

山県重秋【やまがたしげあき(14??~15??)】

山県郡壬生城主。1508年、大内義興勢に属した武田元繁が上洛すると、それに従って参陣した。1511年、「船岡山の戦い」では、武田元繁に従って細川澄元勢と戦い戦功を挙げた。1514年、隠居して山県家の家督を継嗣の山県重房に譲った。1517年、「有田の戦い」で武田元繁に従って参陣したが、毛利元就勢の反撃を受け大敗した。

山県重房【やまがたしげふさ(15??~15??)】

山県重秋の男。1517年、「有田の戦い」で父山県重秋とともに武田元繁に従って参陣したが、毛利元就勢の反撃を受け大敗した。

山県政芳【やまがたまさよし(1543~1558)】

吉川元春家臣。通称小七郎。石見銀山城主に任られた。1558年、「銀山城の戦い」で尼子晴久勢の攻撃を銀山城に籠城した。吉川元春の支援が失敗に終わり、尼子晴久の家臣湯惟宗勢に突撃し討死した。

山県春勝【やまがたはるかつ(15??~15??)】

吉川元春家臣。1558年、「忍原の戦い」で二宮俊実とともに本城常光勢と戦い戦功を挙げた。1565年、「月山富田城の戦い」では、吉川元春に従って参陣した。

山県春直【やまがたはるまお(15??~15??)】

吉川元春家臣。通称左京亮。1569年、「湯田縄手の戦い」で大内輝弘勢を撃破する戦功を挙げた。

山県康政【やまがたやすまさ(15??~15??)】

吉川元春家臣。官途は越前守。1561年、「山吹城の戦い」で本城常光が降伏すると、その取次役を務めた。1562年、毛利元就の意向を受け森脇春尚とともに本城常光を謀殺した。小早川景隆の家臣井上春忠とともに安国寺恵瓊の上洛報告の取次ぎを行った。

山田重任【やまだしげとう(15??~15??)】

武田元繁家臣。山田城主。1533年、「三入高松城の戦い」で武田光和に従って品川信定、伴繁清、香川光景、己斐直之、温科家行、飯田義武、板垣繁任らとともに熊谷信直勢と戦ったが大敗した。

山中成祐【やまなかなりすけ(15??~1530)】

武田元繁家臣。安芸郡船山城主。官途は佐渡守。所領の可部郷300貫を熊谷信直に横領された。1527年、熊谷信直の謀殺を図ったが失敗に終わった。1530年、「船山城の戦い」で熊谷信直、熊谷直続、岸添直清、末田直道らの攻撃を受け討死した。

山中成盛【やまなかなりもり(15??~1530)】

山中成祐の男。1530年、「船山城の戦い」で熊谷信直勢の攻撃を受け父山中成祐とともに討死した。

山本房勝【やまもとふさかつ(15??~15??)】

安芸郡杉迫城主。官途は弾正忠。呉を本拠とする呉海賊衆。1543年、伊予国沖で敵船一艘を切り取って大将の頸を討取る戦功を挙げた。1548年、岡入兼長とともに亀山神社を再建した。

山本賢勝【やまもとかたかつ(15??~15??)】

山本房勝の男。官途は左近将監。1555年、父山本房勝から山本家の家督を相続した。1554年、「安芸湾の戦い」では、大内義長勢に属して呉海賊衆を率いて小早川景隆の家臣乃美宗勝勢と戦った。1555年、「厳島の戦い」で陶晴賢が討死後も大内義長勢として毛利元就勢と戦った。1557年、大内義長が討死すると、小早川景隆の家臣乃美宗勝に仕えた。

山本泰久【やまもとやすひさ(15??~15??)】

藤原興親家臣。佐西郡山里館主。官途は和泉守。厳島神領衆。1541年、「桜尾城の戦い」で大内義隆勢の攻撃を受け友田興藤が討死すると、大内義隆の家臣鷲頭興盛もとで佐西郡を領した。1544年、社家衆拘分押領地の返還を命じる奉行人奉書を厳島社家の棚守房顕に取次いだ。

山本宗玄【やまもとそうげん(15??~1582)】

乃実宗勝家臣。家老職を務めた。乃美盛勝の後見役を務めた。1582年、羽柴秀吉に内応したため、小早川隆景に謀殺された。

湯原春綱【ゆはらはるつな(15??~15??)】

小早川景隆家臣。1562年、「第二次月山富田城の戦い」で尼子義久勢と戦い戦功を挙げた。1580年、「美作医王山城の戦い」で宇喜多直家勢の攻撃を受けたが、小川元政、塩谷元貞らとともに城を守りきった。

湯原元綱【ゆはらもとつな(15??~15??)】

湯原春綱の男。

横見政綱【よこみまさつな(15??~15??)】

小早川景隆家臣。官途は和泉守。1574年、「備中兵乱」では、備中手之城を守備した。

横山景義【よこやまかげよし(15??~1593)】

小早川秀包家臣。官途は肥前守。1579年、椋梨景家、亀門景信らとともに小早川秀包の附家老職を務めた。1593年、「碧蹄館の戦い」で小早川秀包勢の先陣を務めたが、奇襲攻撃を受け討死した。

吉岡隼人助【よしおかはやとのすけ(15??~15??)】

代官職を務めた。官途は出雲守。1599年、佐世石見守の意向を受け銀30,000枚を採掘した。1600年、見銀山の採掘状況について大久保長安に報告した。1604年、大久保長安の意向を受け佐渡国に派遣された。
 
吉岡右近【よしおかさこん(15??~15??)】

吉岡隼人助の男。

吉原元親【よしわらもとちか(15??~15??)】

毛利元就家臣。官途は豊後守。杉城を築城し居城とした。

吉原元種【よしわらもとたね(15??~15??)】

吉原元親の男。1600年、「関ヶ原の役」後、毛利輝元の防長移封に従った。

吉原親俊【よしわらちかとし(15??~15??)】

吉原元親の次男。世羅郡で帰農した。

吉原元忠【よしわらもとただ(15??~15??)】

吉原元親の三男。龍王山城を領した。

渡辺次郎左衛門【わたなべじろうざえもん(15??~1524)】

毛利元就家臣。1524年、渡辺勝が毛利元就に謀殺誅殺されると、それに連座して討たれた。
 
渡辺勝【わたなべすぐる(15??~1524)】

渡辺次郎左衛門の男。官途は長門守。通称太郎左衛門。1523年、毛利元就家督相続の起請文に署名した。1524年、尼子経久の支援を受け坂広秀、桂広澄らとともに相合元綱を擁立して毛利元就と戦ったが敗れて討死した。

渡辺通【わたなべかよう(1511~1543)】

渡辺勝の男。通称太郎左衛門。1524年、父渡辺勝が相合元綱を擁立して反乱を起こそうとしたため謀殺されると、山内直通のもとに落延びた。のちに許されて毛利元就に仕えた。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、伏兵を率いて尼子誠久勢を撃破する戦功を挙げた。1542年、「第一次月山富田城の戦い」では、大内義隆勢に属した毛利元就に従って参陣した。大内義隆勢は尼子晴久勢の反撃を受け大敗、毛利元就勢の殿を務め討死した。

渡辺長【わたなべはじめ(1534~1612)】

渡辺通の男。1543年、「第一次月山富田城の戦い」で父渡辺通が討死したため、渡辺家の家督を相続した。1555年、「厳島の戦い」で毛利元就に従って陶晴賢勢と戦い戦功を挙げた。1588年、毛利輝元に従って上洛した。

渡辺就国【わたなべなりくに(15??~1593)】

粟屋元国の三男。官途は肥後守。通称新右衛門尉。別名粟屋元。1560年、周防国山代地方の検地奉行職を務めた。宇佐、大原郷の代官職に任じられた。

渡辺平蔵【わたなべへいぞう(15??~1543)】

毛利元就家臣。1543年、「第一月山富田城の戦い」で毛利元就勢が出雲国より撤退の途中、大江坂七曲で討死した。

渡辺兼【わたなべかね(15??~15??)】

毛利元就家臣。一乗山城主。官途は越中守。1534年、「亀寿山城の戦い」に毛利元就に従って参陣した。

渡辺房【わたなべふさ(15??~15??)】

渡辺兼の男。官途は出雲守。1552年、「志川滝山城の戦い」に毛利元就に従って参陣した。
 
渡辺高【わたなべたか(15??~15??)】

渡辺房の男。通称源三。1569年、「神辺城の戦い」に毛利元就に従って参陣した。
 
渡辺元【わたなべはじめ(15??~15??)】

渡辺高の男。官途は民部少輔。

惡景政【わるかげまさ(15??~15??)】

毛利元就家臣。通称小次郎。1582年、「備前八浜の戦い」に参陣して宇喜多秀家勢と戦い戦功を挙げた。

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【資料Ⅰ】

安芸国(7郡/480,000石)

豊田郡:高山城。
賀茂郡:鏡山城。
安芸郡:江田島
高田郡:吉田郡山城、多治比猿掛城、五龍城。
佐東郡:広島城、銀山城
山縣郡:日野山城
佐西郡:己斐城

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【資料Ⅱ】

毛利家二十一将【もうりけにじゅういっしょう】

毛利元就、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景、毛利輝元、宍戸隆家、児玉就忠、福原貞俊、志道広良、口羽通良、桂元澄、渡辺長、赤川元保、粟屋元秀、熊谷信直、飯田元親、国司元相、栗屋元親、井上元兼、天野隆重、吉見正頼。
 
呉衆【くれ しゅう】

安芸国呉浦を中心とした地域に形成された警固衆(山本義長、警固屋小次郎、警固屋市介、檜垣藤左衛門、檜垣淡路守、檜垣新太郎、桧垣大四郎、桧垣神兵衛ら)と、大内義隆に従う三ヶ島警固衆(山本房勝、警固屋忠秀、檜垣肥前守、宮原勝実)らで構成された。1554年、「周防高嶺城の戦い」で大内義長勢に属したため、毛利元就に改易処分に処された。

川之内警固衆【かわのうちけいごしゅう】

大田川下流域を拠点とする海賊衆(佐東衆)。瀬戸内海を航行する商船を護衛して警固料を徴収するのを業とした。主水と上乗衆と構成された。福島親長、福井元信、山県重房、飯田義武など。

大内家警固衆【おおうちけけいごしゅう】

白井賢胤。

武田家警固衆【たけだけけいごしゅう】

福井元信、山県重房、福島親長、熊野貞氏。

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【資料Ⅲ】

安芸国【あきのくに】

中国西部に位置する山陽道の国。東は備後国、西は周防国、北は石見国に境を接し、南は瀬戸内海を隔てて伊予国に臨む。国内の大部分は山地で起伏に富み、そのために水系が複雑に走る独特の風土を持つ。三原湾に注ぐ沼田川、周防国との国境を作る小瀬川、広島湾に注ぐ太田川があり、太田川系の七河川が作るデルタ地帯をはじめとする河川流域に都市が形勢された。また国の中央部を東北から西南に谷地が縦断しており、これが国内を東安芸国と西安芸国のふたつの文化圏を形成して、山陰、山陽を結ぶ重要な交通路を形成した。

厳島神社【いくつしまじんじゃ】

神仏習合の社として信仰を集め、その菅理、運営は棚守、座主、大願寺によって行われていた。

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戦国人名辞典は1500~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は文献を表示していますが、架空歴史小説も含まれるため、記載されている人物が史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

陶隆房は陶晴賢、尼子詮久は尼子晴久、大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、立花道雪は戸次鑑連、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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